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とらえ方の問題

とらえ方の問題

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A Question of Perspective

デービッド・ボリック

先日、ユダヤ教のラビであるエバン・モフィックによる記事を読み、深くうなずかされました。最後の段落に、こう書かれています。

「哲学者セーレン・キルケゴールはかつて、『人生とは、前を向いて生き、後ろを向いて理解するものだ』と言いました。私たちには、後ろに過ぎ去った部分の人生を判断する力が備わっています。すでに起きたことは変えられないけれど、それがどんな意味をなすかは変えられます。何を心に留めておくかを選ぶことで、自分がなろうと決めた人間になれるのです。」

その良い例が、旧約聖書に登場するヨセフです。自分に対してとんでもなくひどいことをした兄弟たちに、ヨセフはこう言いました。「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。」*1

私は、モフィックが勧めているような過去の書き換えを自然に行なっています。写真ソフトのように「不快体験フィルター」とでもいうようなものを使って、嫌なものの多くを消し去ったり、たとえ残しておくとしても、以前ほど目立たないところに追いやったりしています。

けれども、自分が記憶の暗い部分に向かっていると気づいた時には、別のとらえ方で物事を見ようと意識的に努力しなければならないこともあります。嫌な思い出になっている相手や状況について、わざと好意的に解釈するか、あるいは、今現在はそこに何の良いこともないように思えても、だからといって、神の子である私にとって万事を共に働かせて益としてくださるという神の約束が無効になるわけではないと自分に言い聞かせて、思考回路を切り替えるのです。*2

私にとって非常に効果的だと判明した方法は、「誰々さんは本当に気にさわることをしてきたけれど、自分だって、相手の気にさわることをしたことがきっとあるに違いない。あの人とうまくやるのは難しかったけれど、おそらく相手にとっても、私とうまくやるのは同じくらい難しかったことだろう」と言うことです。

人生というのは、ニュアンスに富んで複雑なものです。私はこれまでに幾度も、自分の判断が短絡的であったことを認め、大概の事柄については、真に正しい判断を下せるほど十分な知識を備えていないという現実を受け入れなければなりませんでした。自分の限られた理解力で人々や状況を判断するのではなく、神の言葉に書かれていて真実だと分かっていることに頼るなら、もっと多くを理解できることでしょう。

――――――

1. 創世記 50:20

2. ローマ 8:28

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