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827:神様からのいただきもの

神様からのいただきもの

朝、散歩をしていると、鳥のさえずりが聞こえてきます。チュンチュンというスズメの声に混じって、きれいで透き通るような声で鳴いている鳥がいるかと思えば、クークーポッポッと可愛い声を出しているキジバトもいます。普通の住宅地ですが、林も点在しているので、耳を傾けるといろいろな鳥の鳴き声が聞こえてくるのです。

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春には、空高く舞うヒバリのさえずりも耳にします。まるで何かのお祝いでもしているかのような嬉しそうな声です。そんな鳥たちの声を聞いていると、私の心にも小さな喜びと安らぎが流れこんできます。

このところ、朝のすがすがしい空気を感じながら鳥たちの声に耳を傾けるのは、私にとって楽しい日課となっています。わざわざ散歩にいくわけではないのですが、定期的に通っている治療院へ行く時間を朝の早い時間にしたり、近所のスーパーでの買い物を午後ではなく朝にしたりすることで、朝に外を歩けるようにスケジュールしているのです。その日を始めるにあたり、ゆっくり歩きながら瞑想するこのひとときは、心を調整し、良いスタートを切る助けとなっています。

そんなある朝、いつものように鳥の声を聞きながら歩いていると、こんな思いが心に浮かんできました。

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太陽、空気、風、水・・・

自然界にあるこれらのものはみな、神様が造ってくれた。

そして神様は、そのすべてを無料でくれている。

私たちの社会では、

たいていのものにはお金を支払わないといけないのに、

ただでもらっているものがこんなにたくさんある。

ただなのに、どれも価値あるものばかり。

何てすごいことなんだろう。

考えてみれば、

ただで受け取っているものは、他にもたくさんある。

自分の体、自分の命、親や兄弟姉妹、子どもは、神様がくれたもの。

そして、友人や同僚、私が知り合うすべての人は、 みんな神様が出会わせてくれたものだ。

世の中に、お金や努力で得られるものはいろいろあるが、

自分にとってかけがえのないものは、みな神様からの贈りものだ。

それなのに、私たちは神様に感謝することを忘れてしまう。

いつもそこにあるので、

それが尊い贈りものであることに気づかなくなってしまう。

当たり前にあったものがなくなってはじめて、

私たちはその価値に気づく。

ああ、もっとはやくに、そのことに気づいていたなら、

ありきたりの毎日が、どれほど喜びで溢れたことだろう。

でも、今からでも遅くない。

当たり前にあるものを感謝して、一瞬一瞬を楽しもう。

そうしたら、空を自由に翔ける鳥たちのように、

小さな感謝のさえずりが心を明るくしてくれるから。

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そんなことを考えながら、物思いにふけっていると、神様が無料でくださったもので、決して忘れてはならない大切なものをもう一つ思い出しました。それは、魂の救いです。多くの人は、魂が天国に行けるようになるためには、良い人にならなければならないとか、宗教的な決まりを守るとか、何かの修行をする必要があると考えがちです。でも聖書には、そうではないと、はっきり書かれています。

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」 (エペソ人への手紙 2章8-9節)

「しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。」 (ローマ人への手紙 11章6節)

神様は、すべての人の魂が救われて天国に戻ってくることを望んでおられるので、その恵みによって、ご自分の息子であるイエス・キリストを救い主としてこの地上に送り、誰でもイエスを信じて受け入れる人は救われるようにしてくださったのです。

「神はそのひとり子(イエス・キリスト)を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。」 (ヨハネの第一の手紙 4章9節)

神様の愛と恵みによって、魂は救われるのです。でも、それだけではありません。神様は別の助け手として聖霊も送ると約束されました。そして聖霊も、やはり、ただ求めるだけで受け取れるようにしてくださったのです。人によっては、いつも正しく歩んでいる人、または神様に選ばれた人だけが聖霊を受けることができると感じているようですが、聖書にはこうあります。

「そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」 (ルカによる福音書11章9-13節)

この聖霊を受け取ると、さまざまな素晴らしいことが起こると説明されています。たとえば・・・

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」 (ヨハネによる福音書 14章26節)

「真理の御霊(聖霊)が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」 (ヨハネによる福音書16章13節)

「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。」 (使徒行伝 1章8節)

つまり、聖霊を受けると、天からの知恵や洞察、そして力を受け取ることができるようになるのです。さらに・・・

「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」 (ガラテヤ人への手紙 5章22-23節)

「ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。」 (コリント人への第一の手紙 12章8-11節)

これらのものは、人の性格だとか、才能だとか思われるようなものですが、考えてみれば、性格も才能もその多くは天から与えられたものだと分かるでしょう。もちろん、イエス様が語ったタラントのたとえ話のように、与えられたものをどのように磨き、どのように成長させるかで人生は大きく左右されますし、与えられたものを活かすのは、本人と周りの人たちの責任です。でも、すべての人には何らかの良い性格や才能が埋め込まれており、それを見出して成長させることも、人生の醍醐味と言えるのではないでしょうか。

こうして考えてみると、私たちは、こんなにもたくさんのものを神様からいただいて生きています。自然界にあるすべて、持って生まれた特質や才能、かけがえのない人間関係、これらすべてが天からのプレゼントです。命でさえ、いただきものです。私たちはいただきものによって生かされているのです。この神様からのいただきものを大切にして、いつも感謝して生きましょう!

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「最も大切なものは みな ただ

太陽の光 野や山の緑

雨や川の水 朝夕のあいさつ

神への祈り そして母の愛」

- 河野進 (詩人、牧師)

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