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836:信仰の報い

信仰の報い

The Reward of Faith

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ミスティ・ケイ

「ああ、ご主人様、どうしたらよいのでしょう。」 そう尋ねたのは、エリシャの従者です。

アラム(現在のシリア)の王は、古代イスラエル王国と戦争状態にあり、預言者エリシャを捕らえようとして、ドタンという町に大軍を差し向けました。彼らは夜中に到着しており、エリシャの従者が朝早く起きて外に出た時には、すでに軍隊が馬と戦車で町を包囲しているのが見えたのです。

「恐れることはない。私たちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者よりも多いのだから」とエリシャは答え、こう祈りました。「主よ、どうか彼の目を開いて、見えるようにしてください。」

すると、主が従者の目を開かれたので、彼には火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちているのが見えました。(これは、聖書の列王記下6章8-17節に記録されている出来事です。この話の驚くべき結末を知りたい方は、6章の残りの部分を読んでください。)

この話では、天使の軍勢がすでにそこにいたのに、エリシャの従者にはそれが見えなかったため、恐れていたのです。どうして私たちは、いつも見てからでないと信じないのでしょうか。聖書には、神が「あなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられる」と約束されています。*1 神の言葉がそう言っているというだけで、信じるには充分なのではないでしょうか。

目に見えることは、信じたことへの報いであり、その反対ではありません。

なぜそうでなければいけないのでしょうか。なぜ神は、時に私たちの目から何かを隠されるのでしょうか。なぜ私たちは、すべてを信仰によって受けとめなければいけないのでしょうか。その答えは、まさにその「信仰」という言葉にあります。もし見えるのであれば、それは信仰とは言えません。イエスはトマスに言われました。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである。」*`2

この信仰の原則は、神がかなり重きを置いておられるものです。また、神から称賛されるものでもあります。*3 なぜなら、それは神への愛と信頼と信仰のしるしであり、私たちが神の霊的な力や、御言葉の中で述べられた原則を信じているというしるしだからです。

私たちは、この人生の暑苦しく険しくほこりっぽい道を、戦いに疲れ、傷だらけになりつつ歩いても、勝利者として天国に到着します。その時、天使は私たちの勝利を告げるラッパを鳴らします。私たちは、人生の嵐に船が揺り動かされた時も、踏みとどまって、沈んだりしませんでした。サタンがあらゆる方向から私たちを攻撃し、最も熾烈な戦いを仕掛けてきた時も、私たちはそれを切り抜けました。最後まで踏ん張り、最善を尽く、信じ続けました。そして、信仰の戦いに勝ったのです。今や、私たちのために義の栄冠が用意されています。*4

エリシャとその従者の話を読むと、何年も前、私がガンとの闘いから回復中に、かなり具合が悪くなった時のことを思い出します。その時イエスは、この辛い時期が過ぎるまでの間、私に「慰めの天使」を与えたと言われました。それを聞いた私は、柔らかく温かいオーラのような平安に包まれ、祝福された気持ちになりました。痛みはあったけれど、私の心は、その天からの特別の恵みのことで、驚きと感謝にあふれたのです。

聖書には、私たちが「多くの証人に雲のように囲まれている」と書かれています。*5 あの栄光に満ちた日が訪れる時、私の慰めの天使と会って、直接感謝を告げようと思っています。

(ミスティ・ケイは、過去にガンと線維筋痛症を克服しました。夫と4人の子どもと共に、アジア各地で何年もの間、活発にボランティア活動に携わっています。)

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1. 詩篇 91:11

2. ヨハネ 20:29

3. 参照:ヘブル 11:6

4. 参照:1テモテ 6:12; 2テモテ 4:7-8

5. ヘブル 12:1

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何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。― ピリピ 4:6-7

私たちの人生は仮定に満ちています。こういったことが起こるとしたら、ああいったことが起こるとしたら、自分にはいったい何ができるのだろう、耐えられるのだろうか、と考えるのです。しかし、神の住まいにある高きやぐらに私たちも住んでいるのであれば、このような仮定はすべて、私たちの人生から消えていきます。悪の脅しが神の高きやぐらに入り込むことはできないので、私たちは悪を恐れることなく、穏やかでいられるのです。― ハンナ・W・スミス(1832-1911)

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全き平安

真に神に信頼している時には、嵐のさなかでの平安、台風の目の中の穏やかさを持つことができます。平安をテーマにした、ある絵画コンクールでの話のように。参加者の大半が出展したのは、のどかで穏やかな牧歌的風景という、全くの静穏を描いたものでした。それも平安の一つの形ではあります。しかし、受賞した絵に描かれていたのは、最も得難い類の平安でした。嵐で水量が増したため、ごう音を立て、水しぶきを上げながら激しく流れ落ちる滝が描かれていて、その上に張り出した小枝に作られた巣では、小鳥が荒れ狂う流れをよそに、穏やかにさえずっています。あなたの信仰が試されるのは、そのような混乱のさなかにある時なのです。

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