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心にある穴
from 869:心にある穴
心にある穴
それを満たすことができるのは・・・
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今、夢も希望も持てない若者が増えていると聞きます。就職したくても、希望の職種に就くのは以前より難しく、世の中の状況を見ても、明るい未来は思い描けず、夢やゴールを持つような気持ちになれないのです。そんな中で、生きている意味もわからないまま、ただ何となく毎日を生きていく・・・。もしかしたら、それは大人も同じかもしれません。
私も学生の頃、将来に希望が持てず悩んでいた時期がありました。懸命に勉強して志望校に入ったものの、学校も友人関係も、自分が夢に描いていたものとはだいぶ違い、失望していました。また、世の中の実情を知れば知るほど、自分の理想と現実のギャップに苦しみました。
もちろん、楽しかったことも沢山ありましたが、いつも心の奥にどうしようもないむなしさがあったのです。その上、自分が生まれ育った幸せな家庭も壊れかけていて、愛を信じることができなくなり、友情にも、結婚にも、積極的な気持ちを持てなくなっていました。
でも、そんなふうに、むなしさと闘いながらの日々を送っていた時に、私はキリストに出会いました。友人に連れられて宣教師さんの家に行ったのがきっかけでした。子どもの頃に教会の日曜学校に通っていたことがあり、ある程度は聖書について知っていましたが、宣教師さんから説明を受けて、イエス・キリストを個人的に自分の心の中に受け入れる祈りをした時、人生が大きく変わり始めたのです。
その説明も祈りもとてもシンプルでしたが、確かにその時から、聖霊が私の心に溢れ始めました。宣教師さんは、神様の愛は決して途中でなくなることも、変わってしまうこともなく、いつまでも続く本物の愛だと話してくれました。そして、イエス様は私たちの良い部分だけではなく、悪い部分もすべてご存知なのに、それでも私たちのことを愛し、いつまでも心の友となってくれる「真の親友」だと言うのです。
それこそ、私が心からほしいと願っていたものでした。でも、現実にはそんな人はいないと感じていたので、その話を聞いてすぐに、心の中にイエス様を受け入れる祈りをしました。
その時、宣教師さんは、永遠のイエス様の愛は私たちを決して離すことなく、たとえ私たちがイエス様の手を放してしまうことがあっても、イエス様は決して私たちを見捨てないと言って、実際に私の手をとり、私が手を放しても、もう一方の手が固く握って離さない様子を見せてくれました。その時のことは今も鮮明に覚えています。
私が心の奥底で求めていたのは、そんな愛でした。裏切ることも消えてしまうこともなく、あるがままの自分をまるごと受け入れてくれる愛です。この世にそんな愛はあるはずないとわかり、私は生きていくことに希望が持てなくなっていたのですが、神の愛こそ、私が求めていたものであり、とうとうキリストの中に、それを見つけたのです。その日、帰りの電車の中で涙が止まりませんでした。嬉しくて仕方なかったからです。
その時から私は、真剣に聖書を学ぶようになりました。聖書は、ずっと疑問に思っていたことや、知りたいと思っていたことを、次から次へと教えてくれました。イエス様の愛を知れば知るほど、それこそが長年に渡って探し求めてきたものだったのだと痛感しました。
私が探し求めていたのは、『完全な愛』だったのです。それが見つけられなくて心の葛藤があったのでした。でも、不完全な人間の集まりであるこの社会で完璧なものを求めても、失望して当然です。このことについて、私の尊敬する牧師が次のように話してくれたのですが、それはまさに、人生の奥義を知った瞬間でした。
「誰の心にも、小さな穴があります。人は、その穴を埋めようと、いろいろなものを試します。欲しい物を買ったら満足できるだろうとお金を貯め、恋人ができたら幸せになれるだろうと自分を幸せにしてくれる人を探し、良い成績をおさめたら成功できるだろうと仕事や勉強を頑張り、人気者になったら楽しい人生になるだろうと人の顔色をうかがう毎日を過ごす・・・。でも、そのどれも、人を幸せにはしないし、心に満足をもたらすことはありません。なぜなら、その穴は最初から、神様にしか満たすことができないように造られているからです。その穴は、神様が人間とつながるためにわざわざ造ったものなので、地上のもので満たすことはできないのです。それは、間違った鍵で扉をこじ開けようとするようなものです。でも、神様の愛という鍵を心に差し込む時、あなたの人生は開花していきます。」
この話に、私は心から納得し、それ以来、心が空っぽに感じると、聖書を読んだり祈ったりして、神様との時間を過ごすようになりました。神様との時間を過ごすと、むなしさが消えてゆくだけではなく、心の内から力が湧いてきます。そして、その時に自分が必要としていることが起こるのです。
たとえば、何か心配事があるなら、心の内の恐れが信頼へと変わっていき、気がくじけそうになったり、自分自身が弱く感じたりしている時には、勇気や力が流れ込んできます。まるで、空っぽになった心に、天から必要なものが流れ込んでくるようなものです。
私たちの心は、空っぽになったり、むなしく感じたりするだけではなく、傷ついたり苦しくなったり、病んだ状態になることもあります。そんな時に必要なのが魂のお医者さんです。聖書にこんな言葉があります。
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたし(イエス)がきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」-- マルコによる福音書2章17節
これは、イエス様が世間から軽蔑されている人たちと一緒に食事をしている様子を見て、当時の宗教指導者たちが、「あんな不道徳な連中と平気でつき合うとは何事か」と批判したことに対して、イエス様ご自身が答えた言葉です。
イエス様は、罪人を病人になぞらえ、ご自分を医者にたとえて話されたのですが、これは不道徳な人たちだけが罪人だという意味ではありません。聖書には、すべての人が罪人であると書かれており、誰の心にも汚れた部分や、病んでいる部分があるものです。
魂の医者であるイエス様には、そんな心を癒し、清める力があります。地上のカウンセラーやお医者さんにとって、魂の問題は難解です。もちろん、良いアドバイスをくれて、癒しの助けになることはしてくれるでしょうが、一番いいのは、魂の創造主である神様にケアしてもらうことです。イエス様は、世界最高の名医であり、どんな魂の痛みや不調も癒してくだいますから、気兼ねすることなく、遠慮せずにイエス様のもとに行きましょう。
イエス様は、人間の悩みを理解できないような方ではありません。むしろ、人の気持ちをよく理解できるようになるために、神であられたにも関わらず、人間の体をまとって地上に降りて来て、33年の間、人の世で生活されたのです。そのことは、聖書でこう説明されています。
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。」-- ピリピ人への手紙2章6-7節
「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」-- ヘブル人への手紙4章14-16節
神様の愛の現われであるイエス様こそ、真に私たちの心を満足させることができる方です。もしまだ心にある穴が空っぽのままであるなら、ぜひ次の祈りで、イエス様を心に受け入れてください。
祈り: 「イエス様、私の心は弱く、いやしを必要としています。どうぞ今、私の心に入り、私を清め、いやして、愛と喜びで満たしてください。人にはできないことも、あなたにはできると信じます。私に新しいスタートを与え、これからの人生を導いてください。イエス様の名前で祈ります。アーメン。」
「見よ、わたし(イエス)は戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」-- ヨハネの黙示録3章20節