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私を自由にしてくれたもの、それは・・・

私を自由にしてくれたもの、それは・・・

若かった頃、私は聖書にある次の言葉が好きでした。

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「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。」--ヨハネによる福音書8章32節

これは、イエスが自分を信じた人たちに語られた言葉ですが、十代の頃の私はそれを読んで、「やったー! 私たちは自由なんだ!」と単純に喜んでいました。でも今は、同じ言葉を読んで、もっとその自由の意味をかみしめることができます。

自由と聞くと、最初に思い浮かぶのは、いろいろな規制から解放されることや、自分のしたいことを自由にできる状態のことだと思います。でも、聖書に書かれている自由は、そのような表面的な自由を遥かに超えた、もっと深く大きなものです。

人を縛るのは、ルールや規制だけではありません。周りを見渡せば、立場は自由の身であるのに、ぜんぜん自由でない人が大勢います。その国や土地の伝統、家族の習慣、それまで教わってきたことなどに縛られている場合もありますが、そういうものがなくても、自分自身の固定観念や先入観、あるいは、何かに対する強いこだわりによって、自分で自分を縛っている場合もあります。自分を、自分の築いた檻に閉じ込めてしまうなんて、とても残念なことです。

伝統や習慣やこだわりなどのすべてが悪いというわけではありませんし、人生にとって有益で大切なものもたくさんあります。人が誤った方向に行くのを制限し、正しい方向に行くのを導くようなものであれば、それはプラスに働きます。でも、心や思考が束縛されることで、身体や精神にマイナスの影響が出ることもあります。

誰でも、何となく心が不自由で苦しい、という感覚を味わったことがあるのではないでしょうか。たとえば、何かに対する恐れに捕らわれ、いつも気持ちが怯えているとか、どうしても人と比べて、人の目が気になってしまう、何かに固執してしまって決断に影響が出ている、手放せない願いや欲求があって自分ではどうにもできない、というようなものです。こういう場合、自分では気づいてさえいませんが、実際、魂はそれらのものによって抑圧され、束縛されているのです。

でも聖書の真理を知るなら、心や頭の中にできてしまった檻が壊され、私たちはそれらの抑圧から解放されます。なぜなら、神様は私たちを解放するためにイエス・キリストを送ってくださったからです。それは、とても大きな解放ですが、いっきに檻が壊される場合もあれば、ぐるぐるに巻き付けられていた鎖が、一つ一つ断ち切られていくような段階的解放もあります。どちらであっても、そういった心の自由を経験する時、人生は一変します。

私の場合は、子どもの頃から心の奥に死への恐怖があって、それは日々の生活にも表れていました。小さかった時には、「パパやママが死んでしまったらどうしよう」と心配で夜眠れなくなり、時々、親が寝ている部屋に行って、息をしていることを確かめたりしたことさえありました。

また、走っている車のそばにいることや、崖のような山道を歩くのが、本当に嫌いでした。怖くて仕方なかったのです。私は、どんな危険にも近づくのが好きではありませんでした。危険に対する恐れは、身を守るためには大切でもあるのですが、私の場合、異常なほどの恐れだったので、それが体調にも影響を及ぼすほどでした。

でも十代の頃、聖書の言葉とキリストに出会い、イエス様を救い主として心に受け入れて以来、様々な恐れから少しずつ解放されていきました。天国がどんなところかを学び、信じる者たちは皆、そこに確実に行けることを知って、死に対する私の考え方は大きく変わりました。「真理はあなたがたに自由を得させる」という約束にあるように、確かに聖書にある真理の言葉が、魂を縛っていた鎖を断ち切ってくれたのです。

私たちの心を真に満足させ、人生を豊かにしてくれるのは、表面的な自由ではなく、内面的な自由だということが、今はよく分かります。身体が衰えてくれば、好きな運動や活動ができなくなることもあるし、行動範囲も狭まります。それでも、キリストにあって私たちの魂は常に自由で、わしのように翼をもって大空を羽ばたくことができるのです。それは、年齢や環境には左右されない自由であり、天からの恵みです。

「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。 年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」--イザヤ40章28-31節

せっかく、こんなに素晴らしい神様からの約束があるのですから、もし自分の魂にどんな束縛でも感じているなら、ぜひ、聖書の言葉を読んで解放されてください。自分ではどうにもならないと思っている事柄でも、真理の言葉には鎖を断ち切る力があります。イエス様は、あらゆる罪や誘惑、束縛から私たちを解放するために来てくださったのですから、謙遜になってその恩恵にあずかりましょう。

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「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」--ヘブル4章12節(新改訳第3版)

「主(神)がわたし(イエス)を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」--ルカ4章18-19節(新共同訳)

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」--ガラテヤ5章1節

祈り: イエス様、私にはどうにもできない問題があります。自分でもはっきり分からないのですが、私の心は自由ではありません。どうぞ今、私の心の中に入り、私の心を縛っている鎖を断ち切り、私に新しい人生を与えてください。そして、あなたの愛と自由と喜びの中に生きることができるよう導いてください。イエス様の名前で祈ります。アーメン。

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