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荒波の中の平安
from 887:荒波の中の平安
荒波の中の平安
Rough Seas
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マリー・アルベロ
私には平安がある
心と身が弱っても
魂には錨があるので
「私は平気です」と言える*1
私はこの歌詞を何度も繰り返して歌い、平安が得られるようにと願いましたが、安らかな気持ちにはなれませんでした。私の魂は乱れ、それどころかひどく恐れて、こう言い続けていたのです。「この混乱の中に、神はいるのかしら。こんな不安な状況の中にも、神はいるの。」
それはきっと、海上で嵐に襲われたイエスの弟子たちが言っていたことと変わりないと思います。イエスは強風を気にすることなく、枕をして眠っておられました。そこで、弟子たちはイエスを起こして、「先生、私たちが溺れ死んでも、おかまいにならないのですか」と言いました。イエスが起き上がって、海に対して「静まれ、黙れ」 と言うと、風はやみ、大なぎになりました。そして、イエスは弟子たちにこう言われたのです。「なぜ、そんなに怖がるのか。どうして信仰がないのか。」 イエスがそう言われたのは、彼らが嵐を怖がったからではなく、「あなたはおかまいにならないのですか」と言ったからです。*2
私もまったく同じような恐れを抱いて、「神様、あなたはおかまいにならないのですか」と考えていました。私の平安や、時には信仰も、自分の思い通りに事が運んでいるかどうかで揺れ動いてしまいがちです。
私から平安を奪い去るものには、次のようなものがあります。
・ 喪失感。これは複合的に大きくなるモンスターです。私は、新たに何かや誰かを失う時、過去に失った数々のものを思い出して、現在の痛みとともに過去の痛みまで感じてしまいがちなのです。
・ 御心に委ねたくない気持ち。神の御心が私たちの思いとは反対のものだった時、私たちはどれほどあがくことでしょう。
・ 欠乏。必要なのに(あるいは欲しいのに)それがない時、平安な気持ちでいるのは難しく感じます。
共感できる人もいることでしょう。いやむしろ、こういった状況にある時、誰も心安らかでいられないのが当然のことだと思います。嵐の中で揺り動かされる小舟に乗っているなら、怖がって当然であるように。私たちが怖がったとしても、神は気にされません。嵐は怖いものだとご存知ですから。ただ、神はイエスが私たちと共に小舟に乗っているとおっしゃいます。ですから、「あなたはおかまいにならないのですか」と尋ねる必要などないのです。
荒波に揉まれていた私の魂に話を戻しましょう。その少し前、突然に、家族が一人亡くなったことで、私は辛い思いをしていました。その上、子どもの一人は深刻な健康問題を抱え、別の子は人生の重大で困難な岐路に立っていたのです。そんな時には、もう耐えられなく感じ、心の平安が徐々になくなってしまうことがあります。私もあの弟子たちがしたように、神は私のことを気にかけておられないのだろうかと疑問に思ってしまうのです。
でも、もちろん、イエスは私と一緒に小舟に乗っておられるし、私のことを気にかけておられます。私はその話を読み返してみました。そしてあの美しい歌の歌詞を何度も繰り返して歌い、平安が私の魂に戻るよう祈りました。そして、平安が訪れたのです。
―――――
1. 『I Will Rise』(クリス・トムリン)
2. 参照:マルコ4:35-40