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ザレパテのやもめ
from 893:ザレパテのやもめ
ザレパテのやもめ
The Widow of Zarephath
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マリー・アルベロ
聖書には、惜しみなく与えることについて、多くが記されています。それはクリスチャンの生き方の重要な特徴のひとつであり、イエスに従う者として、私たちは喜んで惜しみなく与えるよう求められています。でも、私は時々疲れ果てて気が乗らず、精神的にも物質的にも、霊的にも経済的にも、与えられるものがほとんどないように感じることがあります。与えたい気持ちはあっても、自分にあるのは「かめの底のわずかな小麦粉」だけだし、ただ一日をやり過ごすだけでも精一杯だと感じるのです。
そういった状況について、聖書にある話が書かれています。それは、イスラエル国内や周辺の地域が、干ばつと飢饉のただ中にあった時のことです。何年も雨が降らず、人々は文字通り飢えていました。預言者エリヤは、小川のほとりで奇跡的に生き延びていましたが、その内に小川がかれたので、神はエリヤに、国外のシドンという地にある小さな町ザレパテへ行くよう言われました。エリヤは町の門に着いた時、たき木を拾っていたやもめがいたので、水を飲ませてくれるよう頼みました。話は次のように展開します:
彼女が行って、それを持ってこようとした時、彼[エリヤ]は彼女を呼んで言った、「手に一口のパンを持ってきてください。」 彼女は言った、「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」
エリヤは彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです。」(列王紀上17:11-14)
飢えに瀕したこのやもめは、私以上に疲れ果てて感じていたと思います。それなのに、預言者エリヤが神の約束について語る前でさえ、彼女が彼に水を飲ませようという気持ちになったのはなぜなのでしょう。どうせ、これ以上ひどくなり得ないと思ったのでしょうか。彼女は別の国の人なので、イスラエルの神を知ることも信じることもなかったかもしれませんが、それでも、自分の手元にある最後のものを、神の預言者に与えようとしました。
私たちはよく、惜しみなく与えるというのは、あり余る中から与えることだと考えますが、あまりない中から与える時にも言えるのではないでしょうか。時間や体力、恵み、知恵、物が不足している状態で与える時、すべてにおいて充分あると感じる状態で与える時には見られない方法で、神に働いていただくことができるのではないでしょうか。
この出来事の後、やもめの食料棚がいっぱいになったことがあるかどうか分かりませんが、きっと彼女は何年もの間、びんから油を注ぎ、かめから小麦粉をすくい上げる度に、神が彼女の手元にあった最後のものを受け取り、それに報いて、継続的に与え返してくださったことを思い出したに違いありません。
こうして見ると、(おそらく、私より持っているものが少ない人だって、たくさんいるとは思いますが)与えられるものがあり余っている時だけ惜しみなく与える、ということではないのでしょう。そうではなく、神を信頼しているから、そして、私の持っているものはそもそも神のものであって、神の栄光のためにあるからという理由で、与えるべきなのだと思います。