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死ぬ時の恵み
from 895:死ぬ時の恵み
死ぬ時の恵み
Dying Grace
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ガブリエル・ガルシア・バルディビエソ
この年齢になると、以前よりも死について話題にすることが多くなりましたが、それはいつも楽しい気分になれるようなものではありません。クリスチャンとして、私たちは死が旅の終わりでないことを知っていますが、人間ですから、死にゆく過程について心配したり恐れたりするのは普通でしょう。
私自身も、この世を去ることについて恐れや疑いはずっとあったし、天国の栄光に関する信仰を保つのが難しかったこともあります。でも、そんな時には、使徒たちのことや、死後の命に関して聖書にある約束をしっかりとらえて離さず、平安をもって死んでいった、神を信じる歴史上の偉大な人たちのことを考えるのです。
そして、何世紀にも渡り、数え切れない人たちによって試され、証明されてきた聖書に記された真実に、私は答えを求めました。そのような言葉を吸収し、それについて瞑想することで、心に平安が訪れたのです。そこで私は、死に臨む時のよりどころとなる聖書の言葉への信仰を築くことによって、しっかりとした心構えをしておいたほうがいいのだという結論に達しました。
どんな場合にも言えることですが、何か疑いがあるなら、それを解決し、消し去るには、神の言葉に答えを求めるのが一番です。私はさまざまな聖句、特に新約聖書に書かれた言葉によって、大いに慰められました。たとえば、イエスがマルタに言われた次の言葉です。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」*1 イエスはさらに、マルタに(また、私たち一人ひとりに)こう質問されました。「あなたはこれを信じるか。」 イエスが穏やかにこの質問をされるのを聞いて、私は気持ちが楽になりました。私はと言えば、もちろんこう答えます。「主よ、信じます。私はそう信じております。」*2
いつか死に近づく時、私はイエスに目を留めるようにします。イエスは「道であり、真理であり、命である」、*3 また、「よみがえりであり、命である」*4 と知っているのですから、何を心配する必要があるでしょうか。
使徒パウロの言葉や、死に対する考え方もまた、私を大いに励ましてくれます。パウロは死を恐れることなく、むしろ楽しみにしていました。「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか。」*5
何年か前になりますが、母はこの世を去る前の数ヶ月間、そのことをかなりポジティブに捉えており、大きな平安を抱いていました。母は自分がたくさんの間違いを犯してきたことを知っていたけれど、すでに神と和解し、その身を神に委ねていたので、心配はしていませんでした。言うなれば、その時すでに主の御腕の中にいたわけです。天国へ行くのが楽しみで、心待ちにしていました。母のそんな手本のおかげで、私の恐れも和らいだようです。
ドワイト・L・ムーディーは、死について多くを語っています。誰かから、彼には「死ぬ時の恵み」があるかと聞かれた際、賢くもこのように答えました。「ありません。あるわけがないでしょう。まだ死にかかっていないんですから。」 私にとって、死ぬ時の恵みがあると言い難いのも、おそらく同じ理由なのでしょう。神は、私たちが必要とする時にそれを与えてくださいます。もしあなたが、その日が来る前に何か片付けておくべきことがあると思うなら、それを神に打ち明け、イエスを心に受け入れることによって、神と和解しましょう。そうすれば、神があなたを天に召される時、神の腕の中に飛び込んでいくことができます。
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1. ヨハネ11:25-26
2. 参照:ヨハネ11:27
3. ヨハネ14:6
4. ヨハネ11:25
5. 1コリント15:55
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最終的な勝利
ドワイト・L・ムーディーの言葉
多くのクリスチャンは、将来を心配しがちのようだ。死ぬ時に充分な恵みがないように感じている。それよりも、生きるために充分な恵みがあるほうがずっと大切だというのに。今のところ、私にとって、死はさほど重要ではないように思える。死の間際になれば、その時には死ぬ時の恵みが与えられるが、生きるためには、死ぬ時の恵みを必要としないのだから。
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いつの日か、あなたは新聞で、イーストノースフィールドのD・L・ムーディーが死亡したという記事を読むことだろう。そんな言葉を信じてはいけない。その時、私は今よりもずっと生き生きとしているのだから。 ただ、もっと高いところに移っただけだ。この古い土くれの住まいを出て、朽ちることのない家に引っ越し、死が触れることも、罪が汚すこともできない体を持つようになる。主の栄光の体と同じような体を。
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私の肉体は、1837年に生まれた。私の霊は、1856年に生まれた。肉によって生まれたものは死ぬが、霊によって生まれたものは永遠に生きる。
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地は遠ざかり、天国が目の前に広がる。これが死だと言うのなら、何と素晴らしいことか。ここに谷間はないのだ。神が私を呼んでおられる。そろそろ行かなければ。
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死は恐れの王かもしれないが、イエスは王の王である。