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相手を理解しようとすること

相手を理解しようとすること

Seeking to Understand

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マリー・ストーリー

「フランシスコの祈り」には、「主よ、私に求めさせてください。・・理解されるよりも理解することを」とあります。他人を理解するのは、必ずしも容易ではありません。人の背景、経験、希望、夢はそれぞれ異なっており、私にとって当たり前のことでも、他の人にとってはそうでないことがあります。

私たちの思考回路も皆異なっているので、他人がなぜそのように考え、行動するのかを理解するのは、かなり難しいものです。誰もが自然と、他人も自分と同じだと思い込んだり、同じであることを期待したりするので、そのせいで早合点をすることもあります。そうやって結論を急ぐことの問題点は、正しい結論からよく外れてしまうということです。相手の動機や状況を理解していないために、その人の言動が愚かであるとか、傲慢だ、思いやりがない、などと決めつけてしまうことがあるのです。

人はいともたやすく思い込みをするものであり、時間をかけて、人の行動や態度の背後にある理由を考えるほうが、ずっと大変です。それは、自分の立場、つまり自分の理解や経験、好き嫌いをいったん忘れて、相手の立場でものを考えるということです。意図的に相手を理解しようと努め、自分の思い込みを乗り越えなくてはいけません。

聖書には、「人をさばくな」とあります。*1 しかし、誰かが間違っているように思える場合、あるいは単に自分とは異なっており、自分ならやらない方法で物事を扱っているように見える場合、他の点を考慮するのは難しいものです。相手を理解しようとする前に、こういう人だと決めつけ、レッテルを貼ってしまいがちになります。自分が完璧でないことを(一応は)分かっていても、他人の欠陥らしきものを目にすると、それをすぐに忘れてしまいやすいのです。

私も、他人の欠点が見えた時、「自分だって完璧じゃないから」と思うことは、あまりありません。しかし、たとえ私が完璧な人間だとしても、人をさばく立場にあるのでしょうか。聖書によれば、そうではありません。「正しくさばくことのできる方は、律法を定めた神おひとりです。神だけが、私たちを救ったり、滅ぼしたりすることができるのです。それなのに、あなたは何の権威によって人をさばいたり、批判したりするのですか。」*2

これまでに存在した、ただひとりの完璧な方、それはイエスです。人をさばける立場にある人がいるとすれば、イエスこそ、その方なのです。では、イエスは他の人たちとどう関わり、彼らのしくじりにどう対処されたのでしょうか。完璧とは言えない人たちとの関わり方について、イエスはどんな手本を示されたでしょうか。

イエスが井戸端でサマリヤ人の女性に会われた時、*3 それは彼女の人生について、いくつかの点を正す絶好のチャンスだったと言えます。けれども、主の目的はそこではありませんでした。イエスは彼女をさばいたり、外見や経歴に基づいて、額面通りに彼女は駄目な人間だと判断したりされなかったのです。時間をかけて、彼女の本当の姿に目を向けられました。

イエスは彼女の近くに座り、彼女の質問や疑問、不安に耳を傾け、それに答えるために時間を割かれました。イエスには、彼女がどんな人であり、どんな可能性を秘めているのか、すべてお見通しでした。彼女のレベルに合わせて話ができるほど、彼女のことをよく理解しておられたのは明らかです。なぜなら、彼女はその後、急いで出て行き、町中の人にイエスのことを伝えたほどだからです。出会ってから一日も経っていなかったのに、イエスは救い主であると告げるだけ、主のことを信頼したのでした。イエスが彼女に心からの理解を示されたことによって、彼女だけでなく、サマリヤ人の町にいる大勢の人々に手を差し伸べることができました。

私たちは、動機を理解しようともせず、まず人を外見や行動で判断してしまうことがよくあるのではないでしょうか。相手の話に一度も耳を傾けないまま、レッテルを貼ってしまい、そのレッテルに従って相手を扱うということを、よくしていませんか。

レッテルを貼ったり、決めつけたりするよりも、相手を愛し理解することを選んだなら、どれほど素晴らしい友情を築けるか、また、福音を伝えるためにどれほど素晴らしい機会を見いだせるかは、やってみるまで分からないものです。もしかすると、私たちがレッテルを貼って避けてきた人は、実は、人生において励ましの言葉や親切を切実に必要としていたのかもしれません。

相手のことを真に理解し、正しく評価するには、レッテルや思い込みを捨てなければなりません。その人は、神に似せて造られた同じ人間であり、イエスが十字架でそのために死なれた人、神の愛や私たちの理解を必要としている人なのです。

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1. マタイ7:1 口語訳聖書

2. ヤコブ4:11-12 リビングバイブル

3. 参照:ヨハネ4:4-42

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『フランシスコの祈り』

主よ、私をあなたの平和の道具としてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらせますように。

罪のあるところに、赦しをもたらせますように。

分裂のあるところに、和合をもたらせますように。

誤りのあるところに、真実をもたらせますように。

疑いのあるところに、信仰をもたらせますように。

絶望のあるところに、希望をもたらせますように。

暗闇のあるところに、光をもたらせますように。

悲しみのあるところに、喜びをもたらせますように。

ああ、主よ、私に求めさせてください。

慰められるよりも慰めることを、

理解されるよりも理解することを、

愛されるよりも愛することを。

なぜなら、人は与えることで受け取り、

自分を忘れることで見出し、

赦すことで赦され、

死ぬことで永遠の命に復活するからです。

(著者は不明であるけれど、アシジのフランシスコに由来するとされている祈り)

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