「カワイイ」の力学 ̶̶少女文化の変異とヘテロセクシズムの解体
@hatzka
2014年1月
目次 序 ............................................................................... 2 第一章 カワイイとは何か §1-1 「カワイイ」の定義 .............................................................. 16 §1-2 少女とは何者か ....................................................................... 24 §1-3 「カワイイ」の歴史 .............................................................. 32 §1-4 英語圏の少女文化研究史 .................................................... 41 §1-5 第一章の結論 ........................................................................... 51 第二章 少女と「カワイイ」の消費 §2-1 「モノ」と少女、あるいは「モノ」としての少女 .. 53 §2-2 消費社会の少女たち .............................................................. 58 §2-3 少女たちの抵抗 ....................................................................... 69 §2-4 第二章の結論 ........................................................................... 78 第三章 少女のセクシュアリティ §3-1 「カワイイ」の専有 .............................................................. 80 §3-2 まなざしとの対峙と「カワイイ」の変異 .................... 86 §3-3 少女たちの身体 ....................................................................... 97 §3-4 第三章の結論 ......................................................................... 103 第四章 生産者≒表現者としての少女 §4-1 なぜ「表現」か .................................................................... 105 §4-2 調査について ......................................................................... 108 §4-3 分析 ........................................................................................... 111 §4-4 第四章の結論 ......................................................................... 118 結論 ...................................................................... 120 補遺(図版・資料)
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序 本稿では、「カワイイ」という価値観と、その共有を基盤とする現代日本における少女 文化を分析し、そのなかにヘテロセクシズムの解体――すなわち、強制異性愛主義および 男女二分法の動揺・解体の契機を見出すことを試みる。そのために、市場原理の内側にあ りながらも抵抗を示し、皮相な身体性を肯定的に読解するカワイイ文化の実践の様式、さ らには表現活動という形で「カワイイ」の感性に動的な力能を与える少女たちのパフォー マティビティとクリエイティビティに注目する。
! 少女概念の誕生をめぐっては、本田和子を始めとする複数の論者によってすでに一定の 知見が示されている。日本において「少女」概念が創出されるのは1900年前後であるが、 その際重要な役割を果たしたのが①男女別学を推進する教育制度の整備、②少女雑誌の刊 行と隆盛の二点であり、さらにそれらの教育を少女に与えることを可能にするような日本 の経済的変容であった。 今田2007は少女をめぐる数々の先行研究をふまえた上で、少女雑誌の登場以前に刊行 されていた「子ども雑誌」の読者投稿の分析を通して、いかにして「少年」から「少女」 という新たなジェンダー・アイデンティティが分化してきたかを明らかにしている。また、 明治期から太平洋戦争期にかけての『少女の友』をはじめとする少女雑誌の記事や読者投 稿・編集の方針の変遷を分析することで、社会的文脈の変化に伴って「少女」表象の社会 的役割および少女規範がいかに変容してきたかを示している。 「少女」という表象が創出・定着したのは1890年から1910年にかけてであるが、それ 以前には女児も「少年」のカテゴリに含まれ 、学歴の獲得による立身出世をめざす存在と して位置づけられていた。しかし実際には女児に学問の修得による立身出世というライフ コースは用意されておらず、「少年」カテゴリの中に女児を含み込むことはあくまで暫定 的な措置であった。やがて1879年の教育令を皮切りに男女別学のカリキュラムが整備さ れ 、それとともに「少女」は「少年」から排除されてゆく。また、それまで男女児の両方
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を読者として設定していた子ども雑誌に代わり、「少年」には『少年園』などの少年雑誌 が、「少女」には『少女の友』などの少女雑誌が宛てがわれるようになる。 そのようにして確立した「少女」表象であるが、今田によればその社会的機能は時代と ともに変容するものであった。まず少女は学問に邁進し、西洋文化への理解を示す中以上 の階層に属するエリートとして語られた。ただし実際には先に述べた通り、少女の学歴の 獲得による立身出世のコースは存在しておらず、それゆえに「少女時代」はその後のライ フステージとは断絶した、特異な時代であるとされた。いずれにせよ、この時期の「少女」 は女子教育促進の一端を担う表象としての役割を担っていた。 しかし1930年代以降、関東大震災の復興事業とともに都市部の新中間層が増加する。 こうした社会環境の変化に伴い、「少女」は「少年」とともに慈愛と教育を与えられるべ き「子ども」として捉えられるようになる。この時代の少女たちに与えられた行為規範が 芸術主義と清純主義であったと今田は言う。前者は勉学への情熱を芸術に振り向けさせる ことによって少女を職業達成の失敗に誘導しながら、一方で少女に女らしさと都市新中間 層文化を身につけさせる役割を担った。また後者は、女子に慎みを与え、純潔を尊ばせる ものとして機能した。 このとき少女雑誌の読者たちに「少女」というアイデンティティへの同一化を促したの が、少女雑誌を通して形作られた少女ネットワークである。それは誌上での読者投稿を通 した少女同士の親密な関係をバーチャルに展開するのみならず、編集部主催の読者大会と いう形で現実社会へも進出していた。少女たちはこの内部で「少女らしさ」を相互に確認 しあい、少女どうしの紐帯を強めあっていたのである。 次に少女表象が大きな変化を余儀なくされるのが1937年以降のことであり、その背景 となっていたのは総力戦である。戦時下においては少女たちもまた、労働・戦闘に加わる べき人員とみなされ 、少女たちは将来的に教育者として知的な側面から男性をサポートす ることを期待された。また、「清らかさ」に代わって健康・科学的思考・労働・国家への 忠誠が要求され 、ここにおいて「少女」は少国民としての「日本の少女」へと変容する。
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今田は上述のように少女表象の変遷を分析しているが、今田はここで「少女」をジェン ダー・アイデンティティであると捉えている。今田の定義によれば「少女」とは、少女雑 誌が「創出し、それに独特の意味を与え、非常にポジティヴな語としてきらびやかに装飾 した」、「ファッション、言葉遣い、ふるまい、考え方、嗜好、センス、ライフスタイル な ど 、 実 に 様 々 な 事 象 」 1 を ま と め あ げ る 「 ジェ ン ダ ー ・ アイ デ ン ティ ティ 」 な の で あ
る。少女たちは少女雑誌の編集者との圧倒的な権力の不均衡 2 の中で、さらにはその背後
に控える経済的・政治的状況の変容に影響されながら、他者による意味付けを受容しなが ら自己を意味付けていった。 「少女」は「少年」とは異なる独自の言説空間を展開し、「女性」ひいては「母」と非 連続的に特異な価値付与をされてゆく新たなジェンダー・アイデンティティであった。そ の中では独自のネットワークが発達し、独自の価値観が流通していた。しかし、それはあ くまで良妻賢母規範に組み込まれる以前の女児が属する一時的なカテゴリーに過ぎなかっ たと今田は述べている。ここで「少女」は当時の女性に求められていた良妻賢母イデオロ ギーとは異なる、特異な規範にもとづ くアイデンティティとしてではあるものの、独自の 力能を認めるに至ってはいない。また、今田は少女独自の言説モードや創造性の交歓があっ たことは認めているが、それはきわめて限定的なものであったというように述べている。 今田と同じく「少女」概念の萌芽期における明治20年代∼30年代の少年・少女雑誌を 研究対象としているのが久米1997であるが、久米は当時の少年・少女雑誌における言説、 とりわけ少女小説を分析することにより、あるべき少女像や理想的な少女らしさといった 「少女」規範が時代とともに変容してきたことを示している。久米によれば、少女向け記 事が少年・少女向け雑誌『少年世界』の一誌面として掲載されていた明治20年代後半に おいては、少女は家父長制と良妻賢母主義のもとで制約・抑制されている「家の娘」であっ た。少女たちは近代的家族の中で、 娘 としての役割――具体的には、針仕事、父母の看
! 今田2007,pp.9-10。 1 ! 同上,p.136。 2
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取り、炊事などの家事を指す――を果たす存在であることを求められたのである。また同 時に外出をきびしく制限する言説(少女小説においては、家出の失敗譚の形をとる)も目 立ったが、これは親の管理下から逸脱することを戒めると同時に、異性との交遊を律する ものである。このように少女はまず、家庭内での役割に恭順な存在であるべしという規範 のもとにあったのである。 やがて明治40年代に入ると、「少女雑誌」が独立して発刊されるようになる。少女雑 誌の誌面上では「愛される少女」が理想的な少女像として少女雑誌編集者 3 によって提示
されるようになり、「愛らしさ」「少女らしさ」が重んじられるようになる 4 。少女たち
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には成長をいそがず、あどけなさを尊ぶことが求められ 、「務めを果たすべき者から愛さ れる者へと、少女の価値基準が変容した」 5 。
久米は、上述のような明治40年代初頭の少女規範を成人男性による(性的な)まなざ しの内在化と捉える。そして当時のメディアが、「古い規範から逸脱しようとする少女達 を厳しく抑圧するのではなく、新たな枠組みで捉え直そうとし」、少女雑誌が「〈少女〉 に対する価値観・価値基準を読者と共有化しようと図りつつ、少女に関する言説を流 布 」 6 さ せ て い っ た も の と して い る 。 そ して、 「 決 して 乗 り 越 え る こ と の で き な い 性 的
〈差異〉を強調する」 7 こうした規範のなかで少女文化が開花したのだと述べ 、田山花袋
の「少女病」に言及しながら少女に官能美を見出す視点が登場したことに触れて論考を締 めくくっている。 以上のように、久米は「少女」という特異な存在に対して特異な規範が存在し、またそ れが時代とともに変容し、両者のせめぎ合いの中で独特の少女文化が展開していったこと
! 『少女世界』の編集者であった沼田笠峰など。同誌における読者投稿とその指導の積極性は、沼田がもたらしたものであったという(嵯 3 峨2011,p.103)。 ! 特筆すべきは、ここで言われている理想的な少女像が外見上の愛らしさをも要件として含んでいた(久米1997,p.218)ことであるが、 4 この点については後に触れたい。 ! 今田2007,p.218。 5 ! 同上,p.219。 6 ! 同上,p.220。 7
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を示している。また、「少女」に独自の価値付与がなされていたという点を強調し、そこ に異性愛的まなざしが介在したことを明確に述べている点で、ジェンダー・セクシュアリ ティの権力関係における「少女」の布置という観点を示唆的に提示していると言える。た だし久米においては、「愛される少女」規範の受容は同時に異性愛的まなざしの内在化と して把握されており、「少女」は独自の分化様式を構築しながらも、結果的には社会規範 への追従・補強の機能を果たすものとみなされている。
! 上述のような「少女」概念の萌芽期における少女文化の諸研究はいずれも、少女という 新たなカテゴリの特異性と、それにともなう少女文化の独自性を認めている点で共通して いる。しかしまた、「少女」の持つ限定性と限界――今田の言うように「少女期」は暫定 的な時代であり、が認めている抵抗性は少女ネットワークの中でのみ作動するものであっ た――という事実も指摘している。ただし、家父長制が強力なコントロールを有していた 当時の社会的な背景に鑑みれば、女性や子どもが実際的な形で抵抗を示すことは極めて困 難だったと考えられる。よって、少女文化が実質的に何らかの形態で規範への抵抗として の有効性を持っていたとみなすことは現実的ではない。したがってここで重要なのは、限 定的とはいえ少女文化のうちに特異性と力能が見出されているという点であろう。
! ここまで見てきたように、明治期に誕生した少女文化は少女雑誌とそこから発展した少 女ネットワークという閉鎖的なコミュニティのうちで独自の発展を見せる。しかし今田が 指摘しているとおり、少女文化は1930年代以降の世界大戦という文脈の中で一旦の断絶 を経験せざるを得なかった。それは少国民としての少女という規範の強まりと同時に、総 力戦体勢下における国民の経済状況の変質のためと考えられる。詳しくは後述することに なるが、少女文化とはその創出から現在に至までつねに消費と不可分のものであり、一定 の消費の自由が得られない状況下では発展しえないものと言えるのである。
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それでは、戦後の少女文化はいかなるものであったのか。また、いかなる研究がなされ ているのだろうか。大塚1997によれば、戦後の少女文化 8 がとくに目覚ましく発展したの
は昭和40年代末から昭和50年代初頭であるという。この時期に少女文化が躍進した要因 について大塚は明言していないが、同時期の大きな動きとしてキャラクター商品をメイン に扱うファンシービジネスの誕生、そして少女漫画の世界における「24年組」 9 の登場
による少女漫画の改革 10 と少女漫画誌マーケットの拡大のふたつがあったことを挙げてい
る。 大塚は「「モノ」を流通させ消費し、(...)モノと戯れるだけの存在」 11 となった現代
日本人の共通感覚を〈少女〉と定義づけた。つまり、性的に使用可能でありながら規範に よってその使用を禁じられ 、生殖という再生産の場から疎外された存在である少女の非生 産性と、農耕民から象徴的価値を交換する存在へと変容した現代の日本人の非生産性を結 びつけたのである。そして生産からもっとも離れたもの、すなわち〈少女〉性の究極形と して実体としての〈少女〉を位置づけ、「それを追い続けるための方法論」 12 として「少
女民俗学」を展開する。 松谷2012は(少女というタームを独自の解釈で用いてはいるものの)、1980年代から 2012年までの約30年間の間に展開された若年女性の文化を「ギャル」と「不思議ちゃん」 という二つの系統に整理することで通観している。そして、少女達の「生存戦略であり、 その闘いの歴史」を示すことによって、「男性を中心として描かれがちな若者の歴史を、 女性を中心に描く試み」 13 を実践している。ここで言われている「闘い」とは、「自分た
! ここで大塚は「厳密な定義があるわけではない」としながらも、少女文化を「少女まんが、DCブランドなどのファッション、アイドル、 8 ファンシーグッズや少女雑貨、着せ替え人形といった少女を対象とした商品群」(大塚1997,p.48)としている。 ! 萩尾望都、竹宮恵子、大島弓子、山岸凉子らに代表される、昭和24年前後生まれの少女漫画家たちを指す。 9 ! 二十四年組によって「瞳の中に無数の星があって、スタイル画のような少女の背後にはバラの花が舞っている、という古典的少女まん 10 がの手法(同上,p.53)」が否定され、文学・哲学・大河ロマン・少年愛といったモチーフが少女漫画に持ち込まれたのがこの頃であ る。 ! 同上,pp.17-18。 11 ! 同上,p.12。 12 ! 松谷2012,p.8。 13
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ちの存在をアピールするために、社会で生き残るために」 14 なされた闘争である。松谷に
よれば、「戸川純、松本小雪、篠原ともえ、(...)きゃりーぱみゅぱみゅ」に代表される 「不思議ちゃん」たちは、「それぞれの時代が多数派との差異として副次的に産み出して きた」 15 存在であるとされる。
そして少女達の闘争とはまた、少女達に向けられてきた成人男性からの性的なまなざし ――先に触れたように、それは少女概念の萌芽期からすでに存在していた――にいかにし て対処するかという戦略の展開でもある。それはある時には、自らの性的魅力とその経済 的価値に自覚的な「メタ少女」として振る舞い、「 少女 的な抑圧、旧来的な物語(視線) をまんまと利用し」 16 、マスメディアや誌上と共犯関係を結ぶことであった。そしてある
時にはまた、肌を極端に黒く日焼けさせ、髪をパステルカラーに脱色し、白のアイライン で目を縁取った「ガングロ(≒ヤマンバ)」ギャルとなって自らを非-性的存在へと変容 させることであった。あるいは、男装ゴシックファッションやロリータファッションに身 を包む少女たちの被服選好による、従来のジェンダー規範の攪乱であった。 また 、馬場2012らは昨今の女性文化全般の興隆に注目し、現代を 「女子」の時代 と 呼称して考察を試みている。ここで「女子」は「年齢は不問とされ 、性差を前面に主張し ながらも性的な隠喩は希薄」なタームとして設定された上で「「少女」の代理である「女 子」ではない」 17 と明示され 、馬場らはその自称性に主体性を読み込んでいる。「女子」
は、「従来の概念では捉えきれない領域に」あるものであり、それは「「男子」に対する 「女子」という対概念」の枠組みに収まるものではなく、むしろ「そうした側面からこぼ れ 落 ち た も の 、 あ る い は 女 性 自 ら が 意 識 的 か つ 能 動 的 に 逸 脱 さ せ た 」 18 文 化 で あ る とす
る。そのような前提に立ちながら馬場らは、ファッション誌、「女子会」、「女子写真」 ! 同上,p.8。 14 ! 同上,p.105。 15 ! 同上,p.82。 16 ! 馬場2012①,p.11。 17 ! 同上,p.15。 18
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といった事象を分析している。 以上のように、戦後から現代に至るまでの少女文化(ここではさしあたり、若年女性を 中心的なアクターとした文化を概括してこのように呼ぶ)については、それぞれ異なる視 点を採用してはいるものの、ある程度網羅的に整理されている。とりわけ、〈少女〉をジェ ンダー・アイデンティティとは別に存在する消費者=現代日本人の「あり方」として再定 義する大塚の試みは注目に値する。繰り返すが、少女とはつねに消費者であるからだ。た だし大塚において、概念的・抽象的な〈少女〉は現代における「常民」 19 の非生産性を象
徴するタームとして抽出されているのみであり、実質的には昭和50年代以降の少女文化 を民俗学を参照しながら分析するにとどまっている(もっとも、「少女民俗学」という架 空の学問領域を設定していることからもわかるように、大塚は少女特有の力能の析出を問 題にしているわけではない)。よって大塚の議論については、その基本的な視座を汲みな がら、「少女とは何者か」という見地から再検討する必要があろう。 松谷による通時的な少女文化の検討は、そのなかに常に自らの性とそれに対するまなざ しの対峙があったという問題設定において本研究と軌を一にするものと言えよう。「ギャ ル」と「不思議ちゃん」の二項対立の設定の是非については再考の余地があるが、少女た ちによるある一定の振る舞いが、自らを非-性化しヘテロセクシュアルな眼差しを無効化 する企てとして意味付けられている点は参照項として極めて有効である。 また馬場らの「女子」研究は、昨今の女性文化の様態を通観することに成功している。 さらには(「女子」が「少女」とは異なる自称的なカテゴライズであることの重要性を明 確化しているという点には留意しなければならないものの)、「女子」を制度的・生物学 的分類から解き放っている点、女性達の文化実践を男性との二項対立から解放されたもの として捉えている点に新規性が認められ 、この二点において本稿と基本的な目標を共有し ていると言える。ただし馬場は、「女子」という語の内発性が開かれを担保している(つ まり、「女子」を自称するという手続きのみによって誰しもがこのカテゴリへの参与でき ! 柳田國男の用語で、大塚の整理によれば「「私たち」が共通項として持つ「私たち」の部分(大塚1997,p.13)」を言う。 19
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る)とする一方、「女子」が他者との関係性のネットワークを築く上での鍵概念であり、 「仲間意識」を涵養するものであるとも述べる 20 。すなわち、「女子的なるもの」の閉鎖
性をある意味では否定しながらも 21 、その自律性により重きを置いた考察を試みている。
このような観点の採用は、少女文化が排他的・自己愛的に成長してきたものであるという 単純化された認識のうちに滞留する危険性を孕んでいると言わざるをえない。すなわち、 二項対立的な性制度を無視した価値観の流通という少女文化の特徴が異性愛的構造の無効 化のために有効に作動していることは認めつつ、「ネットワーク」や「仲間意識」が自己 愛的性・閉鎖性に結着しないよう慎重を期す必要があると言えるだろう。本稿が目指すの は、単に少女文化の異性愛的まなざしからの独立を評価することのみならず、それを既存 の性制度そのものの動揺を図る契機となりうる可能性を有したものとして位置づけること である。 さて、日本国内においては上に示したような包括的な研究とともに、少女漫画やファッ ション等個々の事象を対象とした(ときには少女当事者の視点からの自己言及を含む)研 究が散見されるが、それらの文化実践の中に戦略性を読む試みは十分とはいえない。翻っ て欧米圏、とりわけ英国内ではフェミニズムの流れを汲んだ「ガール研究」において一定 の 成 果 が 上 が って い る 。 詳 し く は 後 述 する こ と に な る が 、 た と え ば M c R o b b i e 1 9 7 8 や Lincoln2004は、少女たちが自分の寝室の中で行う様々なアクティビティを「寝室文化(ま たは自室文化、bedroom culture)」と呼び、分析を行っている。「寝室文化」には気に 入りのポスターやフライヤーなどで自室を装飾すること、友人と会うこと、電話をしたり 手紙を書いたりすることなど多岐にわたる活動が含まれる。少年たちがストリートで反抗 を試みるのに対し、少女達は寝室という私的空間において文化を醸成させていると主張し たのである。また 、ZINEと呼ばれるミニコミ誌のなかで もとくに少女たちの手によって 編集・発行された「ガール・ジン」に注目したのはKearneyやPiepmemeierらであった。 ! 馬場2012①,p12。 20 ! この指摘は、戦前までの少女文化が少女雑誌および少女ネットワークという想像の共同体の中で閉鎖的に展開してきたこととの対称性 21 を浮き彫りにうるものと言えるだろう。
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こうした研究者らはZINEを少女たちによる創造性の発揮の場ととらえ、彼女たちがZINE 上で女性らしさのシンボルを利用しながらその意味を動揺させることに成功していると指 摘する。 当然のことながら、米国における「girl」たちと日本における「少女」たちは違った誕 生の経緯と変遷を経ており、彼女たちに課せられる規範や意味付与もそれぞれ異なってい る。だが、少なくとも現代社会において、日米の社会が新自由主義的消費社会という文脈 を共有していることを鑑みれば、これらのアプローチは十分に援用可能であると考えられ る。また、従来の若者文化の研究が「概して少年を主体とし少女を傍観者として位置づけ てきた」ことをあばき、「少女たちを単なる文化の消費者ではなく自ら文化を生み出す者 として位置づけ」 22 た点で少女研究における重要な貢献であると言えるだろう。
しかしながらこれらのガール研究は(それがフェミニズムの系譜に属することによって なおさらに)、「少女/ガール/女性」というジェンダー・アイデンティティを補強する 可能性を孕んだものである。彼女達の試みとは、少女(女性)文化の特異性とその力能を 評価することによって、それらの行使によっていかにしてマジョリティ(すなわちここで は、主として成人男性に主導される消費文化と性的まなざし)と戦いうるかという視点を 提示しているにすぎない。
! 上に挙げた諸研究はいずれも、ジェンダーの意味のずらしや読み替え、そして抵抗の契 機を示唆するものではある。だがいずれも、少女/女性という(性的なカテゴライズを含 意する)アイデンティティにその基礎を置いている限りにおいて、共同体の枠組みの再生 産と、それにともなうマジョリティ/マイノリティの対立軸の反復を喚起しかねない。 それではこの構図をいかにして打破しうるのであろうか。本稿ではここに、「カワイイ」 という感性を導入することを提起する。「カワイイ」は、本稿で追って述べていくように、 少女達がほぼ特権的に専有してきた世界に対する評価のモードであり、越境的・(脱)ヘ ! 上谷2013,p.2。 22
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ゲモニー的な力能を秘めた感性語である。少女文化はつねに「カワイイ」に特徴づけられ、 「カワイイ」ともに変容しながら存続してきたのである。 この「カワイイ」の導入によって可能になる視点とはいかなるものか。それは、「カワ イイ」の感性によって世界を評価する過程自体マジョリティの性制度の解体ではないか、 とみなす視座である。すなわち、「少女」という存在をジェンダー・アイデンティティか ら一旦解き放ち、「カワイイ」の行使者として再定義することによって、彼女たちが世界 をまなざすその様式自体にヘテロセクシズムの動揺/解体の契機を見出すということが、 本研究の最終的な目標である。少女たちはたしかに、「カワイイ」感性を共有する共同体 と言えるかもしれない。しかし彼女たちは、そのネットワークの紐帯を強化しようとして いるのでも、フェミニズムの新たな戦略を画策しているのでもない。「カワイイ」の使用 者になること=境界的存在たる「少女」となることそれ自体によって、ヘテロセクシズム の枠組み、すなわち強制異性愛主義とそれを支持する男女二分法という制度自体を揺るが そうとしているのではないだろうか。 本稿では「カワイイ」に関する先行研究を参照しながら「カワイイ」のエッセンスを抽 出し、これに貫かれたものとして現代日本における少女文化を再検討することを試みる。 またさらに、「カワイイ」文化=少女文化一般のみならず、その力能をとくに先鋭化させ たいわば変異種としての少女文化の具体例を挙げながら、それらがいかなる意味で典型的 な少女文化たりうるのか、いかなる形においてヘテロセクシズムの解体に挑戦しているの かを示す。
! 第一章では、「カワイイ」概念と「少女」概念を整理し、再定義していく。 第一に、「カワイイ」という新奇な価値観について、その本質的要素を抽出することを 試みる。四方田2008や斎藤2011・2012を参照しながら、「カワイイ」という語の使用 とそれが指す形象を見ることにより、「カワイイ」が単に審美的な形容詞ではなく、グロ テスク性・越境性・(脱)ヘゲモニー性・表層性をもつ包摂的な概念であることを確認す
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る。また、類似概念である「キャンプ」とその研究を参照し、「カワイイ」がそれらとど のように接近し、どのように逸脱しているかについて検討する。 さらに、「カワイイ」の主体である「少女」の誕生とそのあり方の特異性について検討 する。少女が歴史的に、いかに「カワイイ」と不可分な関係を結びながら存在してきたか を示し、年齢や制度的・生物学的性、また従来のジェンダー概念における社会的性といっ た枠組みを超越した(第三章で詳述)「カワイイ」の享受者・生産者として、マージナリ ティのなかにあらたに少女を定義づける。 また、「カワイイ(可愛い・かわいい)」の誕生と変遷を概観する。語としてのルーツ と用法の変容を追跡することにくわえ、その指示対象としての少女文化の形象がいかに変 化してきたかという歴史的な変遷を追っていく。 加えて、英語圏での少女文化(ないしは女性文化)研究の成果を検討する。前述した通 り英国を中心としたガール研究においてはすでに、McRobbieの提起した「寝室文化」や KearneyらのZINE研究などの蓄積がある。このような先行研究を整理し、本稿に援用可 能なアプローチを見出してゆく。 第二章では、少女たちによる「カワイイ」文化の実践がつねに消費を通して行われてき たことを示し、その問題点と、新自由主義的な資本主義社会の内部からの力能の行使がい かにしてなされうるかについて検討する。 まず、少女文化の成立がつねに「モノ」の消費と不可分であったという歴史的事実を提 示する。第一章第三節で示したような、「カワイイ」文化の変遷とはすなわち、どのよう な「カワイイ」アイテムを購入し保有するかという指向性の変遷に他ならない。政治的力 能をもつ主体としての少女が可能だとすれば、それはイデオロギーが先行し、そのパフォー マンスとして対外的な表面が形作られるようなものではない。「カワイイ」モノという外 観的・物質的要素から少女という内面が形成されるのである。少女文化のこうした「モノ」 性と外観優位性について確認する。 その上で、少女が消費社会に巻き込まれる脆弱な客体であるという危惧について検討す
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る。上述の通り、カワイイ文化の実践とはモノの消費であり、雑誌やテレビをはじめとす る メ ディ アの コ ン ト ロ ー ル の 影 響 を 強 く 受 け て い る 。 ま た 、 女 性 たち の 社 会 進 出 以 降 、 「美」が消費の対象として経済的価値を増しており、さらに「美」が女性に強制されてい るというフェミニズムからの指摘がある(ウルフ1994など)。あるいは、国家戦略とし ての「クール・ジャパ ン」のうちでセルフ・オリエンタリズム的表象として「カワイイ」 が輸出され 、それに伴って「カワイイ」の体現者たる少女たちもが搾取の対象となってい るという指摘もなされている(Miller2011)。さらに国内に向けても 、マーケティング の機会としての「カワイイマツリ」の開催など、少女たちはつねに性的・経済的搾取に曝 されていると言える。 上述のような指摘を踏まえ、ドゥルーズ=ガタリの「生成変化」の概念を導入しながら、 少女たちと「カワイイ文化」が「マイナー性」を保ちつづけることに注目する。そして、 マイナーでありつづけながらいかに消費を通して主体性を発揮しうるかについて検討して いく。 第三章では、一章で述べた「カワイイ」と「少女」概念の再定義を再確認しながら、少 女たちが「カワイイ」の専有によってある種の権力を行使していることを述べる。ここで は主として、「カワイイ」の越境性と転覆性に着目する。たとえば大塚1997は、少女た ちが昭和天皇の崩御の際、天皇を「カワイイ」の対象と見なしていたと述べている。「カ ワイイ」がこのような権力関係の転覆性を孕んでいることを検証し、この語の使用を通じ て少女たちがヘゲモニーを動揺させている可能性を検証する。 さらに、ヘテロセクシュアルなまなざしに曝される少女たちと、そのすり抜けの手法と しての「カワイイ」について検討する。そもそも少女文化の形成と発展の土壌となった少 女雑誌は修身の一環として良妻賢母イデオロギーを補強するものであり、「かわいい」の 語に内包される要素じたい元来は男性から女性に求められる要素と大きく重なっている。 だが少女たちは、「かわいい」を「カワイイ」に変異させたことでそうした視線をすり抜 けることに成功しているのではないだろうか。そのことを検討するため、「カワイイ」の
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本質を先鋭化させたある種の畸形性を帯びたカルチャーとして確立した少女文化の具体例 ( ロ リ ー タ フ ァ ッ ショ ン や イ ラ ス ト レ ーショ ン、 音 楽 グル ープ 「 アー バ ン ギ ャ ル ド 」 な ど)を見ていく。 また、第二章で述べたとおり、少女たちの文化実践は主としてモノの消費を通じてなさ れるものである。このことによって、少女たちは皮相な――換言すれば取り外し可能で、 自在に変化することができるような身体を手に入れているのではないだろうか。このよう な表層的な身体性の獲得についてJ.バトラーの「パフォーマティブ」の概念を参照しなが ら論じ、ジェンダー・パロディとしての少女というあり方を提示することでこの章をしめ くくりたい。 最後に第四章では、少女の主体性の「あやうさ」を補強し、異議を申し立てうる強度を もつための手法としてのアートに注目する。そうした戦略性の少女文化における応用とし て、「少女」たちによる創作の実践に焦点を当てる。具体的には、アート・イベント「デ ザインフェスタ」や展覧会「トランスエフュージョン」に出展し、現在進行形で作品の制 作と展示を行っている作家たちから聴取を行うなどし、その創作活動において作動してい る「カワイイ」の力学を分析したい。
15
第一章 カワイイとは何か §1-1 「カワイイ」の定義 本稿の議論の中核である「カワイイ」とは、そもそもどのような概念だろうか。『デジ タル大辞泉』の「かわいい」の項には、以下のような定義が示されている。
! 1 小さいもの、弱いものなどに心引かれる気持ちをいだくさま。愛情をもって大事にしてやりたい 気持ちを覚えるさま。愛すべきである。「―・い孫たち」「出来の悪い子ほど―・い」いかにも幼く、 邪気のないようすで、人の心をひきつけるさま。あどけなく愛らしい。「えくぼが―・い」「―・い 声」 2 物が小さくできていて、愛らしく見えるさま。「腰を掛けたら壊れてしまいそうな―・い椅子(い す)」 3 無邪気で、憎めない。すれてなく、子供っぽい。「生意気だが―・いところがある」 4 かわいそうだ。ふびんである。1
!
もちろん、このような辞書的な定義が、本稿で扱う「カワイイ」の射程を十全に捉えて いるとはいえない。「カワイイ」の使用の実態に、これらの説明が必ずしも沿っていると は言えないからである。翻ってその日常的な使用に注目して「カワイイ」を定義付けよう という試みとして、『現代用語の基礎知識』の「時代・流行」の「若者」カテゴリには以 下のような項目が掲載されている。
! カワイイ/KAWAII すてき。かっこいい。人にも物にも使う、ほめ言葉。2
!
だがこの定義もやはり、正鵠を射ているとは言いがたい。第一に 、「カワイイ」は 若 者 なら誰しもが用いている語ではない。後に示していくが、この語に親しみ 、よ り日常 的に使用しているのは圧倒的に女性である。また、賞賛の対象に無差別に「カワイイ」を 使っているのだという理解もおそらく正しくない。「カワイイ」ものにはそれが「すてき」 ! 『デジタル大辞泉』,小学館。 1 ! 『現代用語の基礎知識 2013年版』自由国民社,2012。 2
16
なのでも「かっこいい」のでもなく「カワイイ」と判断されるだけの理由が存在するので ある。もし「カワイイ」がポジティブな評価を代表する語であるかのような誤解を受ける までに氾濫しているのだとすれば、それは 若者 たちの語彙の貧困化やコミュニケーショ ンの軽薄化からくるものではなく、むしろ「カワイイ」の範疇の拡大のために起こってい る事態であると理解すべきだろう。そうした今日的な「カワイイ」の広がりを理解するた めに、ここではまず「カワイイ」の基本的な性質について確認しておきたい。 本稿ではカタカナ表記の「カワイイ」を、日本語として以前から存在している「かわい い」を拡張させた概念として扱っているが 3 、その意味内容が「かわいい」の諸性質を包
含していることは言うまでもない。「かわいい」の性質を特定しようとする試みはすでに しばしばなされているが、たとえば古賀2009は丸い(形)、明るい(色)、柔らかい(感 触)、温かい(温度)、小さい(大きさ)、弱々しい(構造)、なめらか(語感)を「か わいいの素」に挙げている 4 。これを受け會澤・大野2011は、「「かわいいモノ」は小さ
く、愛らしく、守ってあげたいという、非闘争性や非攻撃性、あるいは脆弱性を持 つ」 5 とまとめている。また、清水美知子2011は、「かわいい」ものの典型としてハロー
キティを挙げ、そこに「「丸さ」「あどけなさ」「親しみやすさ」」といった「「かわい い」要素のすべてが凝縮されている」 6 と述べる。中村2011は、「私が考える「可愛い」
とは「未成熟の魅力・美しさ」」であるといい、その属性として「「曲線的」「小さい」 「柔らかい」「明るい」「軽やか」等」を挙げる。そして、それらが「すべて攻撃には適 さない要素であり」、「「可愛い」ものは「安心できる親しみやすいものとして大衆に愛 されてきた」 7 と述べている。
! 沼田2009によれば、「かわいい」がもっぱら「カワイイ」と表記されるのは2006年以降であるが、この経緯については後に検討してい 3 く。なお、本稿ではその概念の新規性を強調するため原則としてカタカナ表記の「カワイイ」を用いる。ただし既存の論考を参照する際 には、当該論考において用いられている表記を優先する。 ! 古賀2009,p.12。 4 ! 會澤・大野2011,p.3。 5 ! 清水美知子2011,p.28。 6 7! 中村2011,P.67。
17
これらの考察から「かわいい」ものとは非攻撃的・無害であり、未成熟な・幼いもので あるという定義ができよう。しかし、「カワイイ」の理解の礎としては、この定義もまた 不十分である。それはこれらが、「カワイイ」以前の「かわいい」について述べたものに 過ぎないためというだけではない。これらの定義は「かわいい」形象がそれを見るものに 与える印象について述べたものであり、「かわいい/カワイイ」ということそれ自体が持 つ性質についての記述ではないからである。 では、「カワイイ」の性質をどのように把握すべきだろうか。四方田2006は単著『「か わいい」論』のなかで「かわいい/カワイイ」についてかなり詳細に考察しているが、そ の中で「かわいいもの」としてまず例示されているのが昭和天皇である。四方田は、ある 女性エッセイストが連載コラムのなかで当時崩御直前であった昭和天皇を指して「意外と かわいい」と評していることを取り上げ、その時期(つまり、昭和の終わり)までにはす でに「かわいい」の範疇が拡大していたと述べている 8 。このことが示すように 、「カワ
イイ」はその対象との間に設定されている既存の権力関係のコードから独立して下される 判断なのである。 さらに四方田は、大学生を対象として「かわいい」に関するアンケートを実施し、その うちの「きもかわ」(気持ち悪い+かわいいからなる造語)について問う設問に寄せられ た回答から次のような知見を得ている。すなわち、「気味が悪い、醜いということと、「か わいい」こととは、決して対立するイメージではなく、むしろ重なりあい、互いに牽引し 依存しあって成立して」おり、「あるものが「かわいい」と呼ばれるときには、そのどこ かにグロテスクが隠し味としてこっそり用いられている」 9 ということである。このこと
の根拠として四方田が取り上げるのが「畸形性」である。四方田はある事物が「かわいい」 と認められうる条件として、それらが「人間の保護をたえず必要とする存在であって、人
! 四方田2006,pp.10-11。 8 ! 同上,p.80。 9
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間社会にあって無防備にして無力であることが確認されている」 10 ということを挙げる。
ゆえに、「人間の身体からの逸脱として考案され 、本来的に畸形的な形状を有している」 と こ ろ の 「 か わ い い 」 架 空 生 物 た ち ( た と え ば ディ ズ ニ ー ア ニ メ 『 白 雪 姫 』 の 小 人 、 『E.T.』の宇宙人、『となりのトトロ』のトトロなど)は「同情を喚起する」 11 。こうし
て「カワイイ」と「グロテスク」が接続される。斎藤2008は四方田のこの指摘を受け、 それを敷衍させる形で「「かわいい」には「小さいこと」「幼いこと」「グロテスク」「残 さか
酷」「従順」「生意気」「愚かしさ」「賢しら[原文ママ]」「人工性」「エロス」「タ ナ ト ス 」 と い っ た 、 相 矛 盾 する 多 彩 な 要 素 が 含 ま れて い る 」 12 と 述 べ て い る 。 ま た 、 森
2007は、「かわいい」文化のひとつとして日本のアニメーションや漫画について言及し、 そこに登場するキャラクターたちの身体造形の各パーツの比率(たとえば頭身の低さや目 の大きさ)について、それらが「客観的にはグロテスクなほどに不均衡」 13 であると指摘
する。 このように「カワイイ」について再検討したとき、「カワイイ」のもっとも本質的な要 素が浮上してくる。すなわち「カワイイ」とは第一に、境界解体性を有するものなのであ る。「カワイイ」はその対象の地位や対象との既存の権力関係を無視して示される評価で ある。また、「カワイイ」は潜在的には畸形性やグロテスクさといった要素を胚胎してい る。そして時として、「カワイイもの」はそうした要素を隔てている境界を融解させた形 態で出来する。このように「カワイイ」は、ヒエラルキー(すなわち、権力の有/無ある いは強/弱の境界)や美的評価の体系の境界を無効化する。換言すれば、あらゆるものが 「カワイイ」という評価の前にひらかれているのであり、その意味では「カワイイ」とは 徹底的に恣意的な概念であると言える。「カワイイ」という感覚を喚起する契機が、ある 事物のもつ「無害さ」や「未成熟さ」であることは間違いない。しかし、あるものが「カ ! 同書,p.86。 10 ! 同書,pp.82-83。 11 ! 斎藤2008,P.53。 12 ! 森2007,P.16。 13
19
ワイイ」か否かという最終的な決定権はつねにその使用者の側にある。しかもそれは馬場 2012が指摘するとおり「瞬く間に峻別され」、「そこに準拠枠となるような規範は存在 しないし、伝統や歴史性などが参照されるわけでもない」 14 のである。
馬場はまた、「かわいい」という感覚を理解するための手がかりとして蜷川実花 15 の写
真作品を取り上げ、ソンタグ1976が「《キャンプ》についてのノート」において定義を 試 み た 「 キ ャ ン プ 」 を 手 が か り に そ の 理 解 を 図 って い る 16 。 馬 場 が 言 う よ う に 「 カ ワイ
イ」と「キャンプ」が何らかの感覚を共有しているとすれば、キャンプを分析することは カ ワイ イ を よ り 詳 細 に 理 解 する た め の 補 助 線 とな り う る だ ろう。 ソ ンタグ は キ ャ ン プ を 「名づけられてはいても説明されたことのない」感覚であるとしながら、まず次のように 定義する。
! キャンプは、感覚の自然なあり方̶̶そういうものがあるとすればだが̶̶ではない。それどころ か、キャンプの本質は、不自然なものを愛好するところに̶̶人工と誇張を好むところに̶̶ある。17
!
馬場も指摘するとおり、カワイイとキャンプはここで指摘されている「人工性(非-自 然であること)」とにおいて交差する。「カワイイ」の本質的要素がその「畸形性」や「逸 脱性」にあることはすでに述べたが、その逸脱性は人為的な加工がもたらすものである。 本物の子熊よりテディベアのほうがより「カワイ」く、仔猫よりハローキティのほうがよ り「カワイイ」。「カワイイ」は自然のもつフォルムを、「カワイイ」ものであるための 資格や法則に則って誇張し撓め曲げることから出来するのである。 ソンタグは「ノート」のなかで、このキャンプという「とらえどころのない感覚」 18 に
! 馬場2012②,p.65。 14 ! 写真家、映画監督。写真集の出版や個展の開催のみならず、さまざまなモデル・アーティスト・ブランドとのコラボレーションや映像 15 作品の演出も多く手がける。また、監督した映画作品としては『さくらん』(2007)、『ヘルタースケルター』(2012)がある。 16 ! 馬場のほか、斎藤2008、清水穣2011、松井2011、らがキャンプと蜷川実花と「カワイイ」の連関を指摘している。 ! ソンタグ1971,p.303。 17 ! 同上,p.304。 18
20
ついてさらなる定義を試みる。キャンプとは「内容を犠牲にして、見た目の肌合いや感覚 に訴える表面やスタイルなどを強調」する「装飾的芸術」 19 である。このように美学とし
てのキャンプを参照したときより明確になるのは、「カワイイ」をその他の審美的感性か ら区別する重要な特徴がその表面性にあるということ、すなわち、「カワイイ」の喚起は 徹底的にその外観的な表面によってなされるということである。キャンプはまた、「政治 化を斥け」 20 、「よいか悪いかを軸とした通常の審美的判断に背を向け」 21 、キャンプの
愛好者は「珍しいものと大量生産で作られたものとを区別しない」 22 し、「通俗性を好ん
で味わ」 23 う。キャンプのもつこうした性質は、前述した「カワイイ」の境界解体性・恣
意性と重なり合うものである。 このようにキャンプは、「カワイイ」と高い近接性をもった概念と言える。しかし「カ ワイイ」は単にキャンプの現代的なバージョンなのではない。キャンプと「カワイイ」を 決定的に隔てるのは、前者が「世界を芸術現象として見る一つのやり方[傍点筆者]」で あるのに対し、後者が日常生活に浸透した判断の様式であるという点である。キャンプが、 それが「審美主義」 24 であるがゆえにつねに「何か異常なことをしようとする試み」 25 に
対してなされる評価でなければならないことと対照的に、「カワイイ」の生産には特別な 企てやエネルギーを必要としない。そうではなくて、「カワイイ」か否かの判断は日常的 な思考モードの中に埋め込まれていると言うべきものである。換言すれば「カワイイ」と は、キャンプ的感性の特質を継承しながら、それをより全般的に拡張させた感性の様式で あるといえるだろう。
! ! 同書,p.306。 19 ! 同書,p.305。 20 ! 同書,p.316。 21 ! 同書,P.319。 22 ! 同書,P.320。 23 ! 同書,p.305。 24 ! 同書,p314。 25
21
それでは、ここまで見てきたような「カワイイ」とは、具体的にどのような姿をとって われわれの前に現れるのだろうか。その典型としてまず挙げられるのは、何と言っても「ハ ローキティ」だろう。1974年にサンリオのファンシーグッズのイラストとして生み出さ れたハローキティは現在では国外にも盛んに輸出され 、先に挙げた清水美知子2011の例 のように、しばしば「カワイイ」のシンボルとして語られる 26 。キティが「カワイイ」を
象徴しうるのだとすれば、それはその容貌の丸みやあどけなさからそう思われるというだ けではない。キティは、現デザイナーの山口裕子 27 自身が「進化し続けなくてはならない
運命」 28 と認める通り、変幻自在な存在である。たとえば、日本各地限定販売のグッズと
して「ご当地キティ」が広く展開されているが、その中にはかわいいというよりむしろ「奇 妙である」というような印象が先行するバージョンが少なくない。京都限定の「八つ橋キ ティ」の、原型から逸脱したフォルムはその例とひとつと言えよう(図1)。2011年夏 から2012年夏にかけては「ハローキティアート展」が全国巡回したが、アートディレク ションを務めたグラフィックデザイナーの佐藤卓はこの展覧会を「ファンシーな意味での かわいい をある意味で超えたもの」と位置づけ、「通常のかわいさの領域を越境してい るよ、と感じてもらえる」展覧会にしたいと語る 29 。
また、2014年にはバ ンダイのロボット玩具シリーズである「超合金シリーズ」 30 の40
周年とハローキティ生誕40周年を記念した「超合金ハローキティ」が発売予定であ る 31 が 、 い か に も ロ ボ ッ ト 玩 具 ら し い 可 動 ・ 変 形 ギ ミ ッ ク が ふ ん だ ん に 採 用 さ れて い る
26 ! 国外の例としては、たとえば本稿でも後に触れることになるYanoのPink Globalizationがある。これはカワイイ文化の輸出とグローバリゼー ションを主題としたものであり、そのフローの象徴として挙げられているのがハローキティである。サブタイトルがHello Kittyの名を冠し ているほか、巨大なハローキティのオブジェの写真が表紙を飾っている。 ! ハローキティの3代目デザイナー。1980年以降キティを手がけている。 27 ! 山口2011,p.22。 28 ! 佐藤2011,pp20-21。 29 ! “1974年発売の大ヒット商品「超合金 マジンガーZ」からスタートしたダイキャスト製ロボット玩具シリーズ。ダイキャスト素材による 30 重量感、光沢、存在感に加え、発射、合体、変形など数々のギミックを搭載。そのコンセプト、デザイン、アクション性は「超合金」と いうトイカテゴリーを生んだ。玩具のパイオニアシリーズ。”(http://www.tamashii.jp/item_brand/chogokintamashii_series/より引用。2013年 11月27日閲覧) ! http://tamashii.jp/special/chogokin/より。2013年11月27日閲覧。 31
22
(図2−1、2)。ここに取り上げたいくつかの例からも分かるとおり、ハローキティは ̶̶たとえば(女性向けの)ファンシーグッズ/(男性向けの)ロボット玩具、あるいは ファンシーグッズ/アートといった̶̶ジャンルの境界を容易に解体し、ときに旧来的な 「かわいさ」から逸脱した、グロテスクですらある外観を纏う、まさに「カワイイ」を象 徴する存在なのである(もちろん 原型 のハローキティ自体、四方田の指摘したような、 デフォルメ
畸形 化された逸脱的フォルムを有したキャラクターであることは言うまでもない)。
! 時代とともに変容しながら40年間「カワイイ」を提供しつづけたのがハローキティで あるとすれば、「カワイイ」の最新版を象徴する存在がきゃりーぱみゅぱみゅだろう。 フ ルネーム を「きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ」と名乗る彼女は 2011年にミニアルバム「もしもし原宿」でCDデビューし、以来雑誌モデル・CMタレン ト・歌手など多岐にわたる芸能活動を行っている 32 が、彼女のスタイルを特徴づけるのが
「カワイイ」をふんだんにとりいれたファッションやミュージックビデオである。たとえ ば、前述の「もしもし原宿」に収録の楽曲「PONPONPON」のミュージックビデオにで は人形や靴、回転木馬、羊の首の模型、菓子のパ ッケージなどうずたかく積み上げられた 「カワイイ」ものに囲まれた空間で歌い(図3−1)、口から色とりどりの眼球を吐き出 す(図3−2)。また、3rdシングル「CANDY CANDY」の初回限定版のジャケットでは 大量のぬいぐるみを繋ぎ合わせた帽子のようなものを被っている(図4)。こうした、か つての「かわいい」の範疇からはみ出すような猟奇的・畸形的なモチーフをも取り込んで 人気を博しているきゃりーのスタイルは、まさしく「カワイイ」のイコンの最新バージョ ンといえるだろう。
! http://kyary.asobisystem.com/profile/より。2013年11月29日閲覧。 32
23
§1-2 少女とは何者か ここまでその諸特性を分析してきた「カワイイ」であるが、これと特権的な関係を保ち 続けて来た存在が「少女」である。序章で述べた通り、少女とはそもそも明治期以降に「少 年」から女の子を隔離すべく創出されたアイデンティティであり、その範囲を定める外縁 の役割を果たしたのが学校と少女雑誌というふたつの領域であった。したがって、少女と いうカテゴリーは社会状況や制度̶̶ここではとくに、男女別学の学校教育制度の確立̶̶ と不可分なものなのである。つまり、少女概念はその人工性がゆえに、社会的背景の変容 を勘案して絶えず更新される必要があると言えよう。このことを踏まえ、本節では「カワ イイ」の受容を通して少女概念に新たな意味付与を行うことを試みたい。 大塚1990は『少女民俗学』において、少女文化の厳密な定義の困難さを確認しながら も 、 そ れ を 「 か わ い い カ ル チ ャ ー 」 と 名 付 け る1 。 少 女 た ち に よ る こ の 「 か わ い い カ ル
チャー」は巨大化し、「少女たちはあらゆるものを〈かわいい〉と呼び、その磁場に引き 込んだ 2 」と大塚は述べる。少女概念の萌芽期のみならず、昭和40年代末から現在に至る
カワイイ文化の興隆においても、少女文化を特徴付けるものは「カワイイ」であるという のである。 大塚は少女文化を支持する「かわいい」が具体的にいかなる形象的特徴を持つかについ ては述べていないが、この点を補うのが、少女という存在を特徴づける性質を「ひらひら」 という質感に集約させて論じた本田1982である。本田は少女文化を「少年もの」や「婦 人 も の 」 、 「 幼 児 も の 」 と 区 別 する 「 徴 」 が 特 有 の 「 色 と に お い と ひ び き 」 で あ る と 述 べ 3 、その「徴」の視覚世界への顕現として「翻る「リボンとフリル」」を挙げている 4 。
少女文化の独自性は、中原淳一 5 らの少女雑誌向けイラストレ ーションや『ベルサイユの
! 大塚1990,p.48。 1 ! 同上,p.68。 2 ! 本田1982,p.151。 3 ! 同上,p.152。 4 ! イラストレーター。1913年生、1983年没。『少女の友』などの雑誌に表紙画や挿画を提供。中原のイラストレーション作品については 5 次節で詳解する。
24
イユのばら』 6 などの少女マンガにおいて表現されるリボンとフリルという表象に凝集さ
れるのであり、これらが大塚のいう「かわいい」の内実であるのだと言えるだろう。 少女文化の根本を支持するのは「カワイイ」である。換言すれば、「カワイイ」と少女 文化、ひいてはそれを生産し享受する少女たちとの間には特権的な関係が取り結ばれてい る。この仮説を裏付けるのが、先述した四方田によるアンケートの回答である。四方田が 大学生を対象に「かわいい」についてのアンケートを行ったことはすでに述べたが、その 結果の分析の中で指摘されているのが、ジェンダーによる回答の質の差異である。当該ア ンケートの最初の設問である「あなたが今もっているもの、身のまわりにあるもので、「か わいい」と呼べるものをいくつかあげてください」 7 という問いに対する回答において、
女子学生のものは「一般的に一人で四つも五つも、あるいはそれ以上にたくさんの項目を あげ、それに細やかな描写や説明を施したり、イラス トを添えるものが目立った 8 」。そ
れに対し、男子学生の回答は「全体的に項目が少なく、簡潔な回答が目立」ち、たとえば 犬について語る場合には「女子のように犬の形状や愛称、品種、特徴を細かく記すという のではなく、単に「犬」とだけしか答えない者も多かった」 9 という。ここからわかるこ
とは、一般に男子より女子のほうがより「カワイイ」に親しんでおり、その扱いに精通し ているということである。 大塚らが述べたように、少女文化とは「カワイイ」の文化であり、少女たちは常に「カ ワイイ」とともにあった。彼女たちは「カワイイ」との長い触れ合いの歴史を通し、その 感性を洗練させながら継承してきた存在なのである。 ここまで、「カワイイ」がとくにその強度を保ちながら流通してきた場が少女たちの世 界であったということを確認してきた。しかし、「カワイイ」と少女の歴史的な結びつき
! 池田理代子による漫画作品。フランス革命期における、男装の騎士オスカルやフランス王妃マリー・アントワネットらの人生を描く長 6 編。 ! 四方田2006,p.47。 7 ! 同上,p.48。 8 ! 同上,p.51。 9
25
を示しただけでは少女の存在論を十全に語ることにはならない。また、少女たちが持つ「カ ワイイ」に対する感度の起源を「女性」というジェンダー・アイデンティティに回収し、 一種の還元主義を補強することになりかねない。たしかに、その概念の萌芽期において、 「少女」は社会的・制度的に「女性」でありながら 10 「母」でない存在を囲い込むための
新たなアイデンティティであった。しかし上述したとおり、少女とはその発生の経緯に鑑 みても 、社会状況の変容にしたがって更新されるべき概念である。この 変容 を捉えるた めの手がかりとして、以下では少女の「境界性」を取り上げてみたい。 少女はつねに境界的な存在である。既に何度か述べているように、少女とは第一に、男 児・女児を問わない子ども一般を指す「少年」から隔離された存在であった。だがそれと 同時に、少女とは「子ども」と「大人」、すなわち再生産の担い手としての「母」との間 に設定されたモラトリアム的なアイデンティティで もあった。近代化以前の日本における 民俗社会では、女性は初潮を迎えると同時に一人前の共同体構成員とみなされた。すなわ ち、労働力として、また子どもを産む「母」として認知されたのである。しかし明治期に 入 り 旧 民 法 が 制 定 さ れ る と 、 法 定 に よ り 女 性 は 二 十 五 歳 まで 結 婚 する こ と が で き な く な る 11 。結果として生まれた、「身体の性的使用が可能であるにもかかわらず、使用が禁止
された 12 」境界的存在が少女なのである。
加えて、少女が上述のような非生産性に特徴付けられるということによって、そこには さ ら に 別 の 境 界 性 が も た ら さ れ る 。 すな わ ち 、 ジェ ンダー に お け る 境 界 性 で あ る 。 中 村 2007は、現代の少女たちがしばしば用いるいわゆる「男ことば」と「ぼく(ないし俺)」 という一人称に注目し、この境界性について論じている。中村によると、少女による「女 ことば」規範からの逸脱は明治時代にはすでにみられるものであった。明治5年の学制に より女子も公式に学生となり、それを機に一部の女子が男子学生と同じ「書生ことば」を ! 付け加えるならば、制度的・社会的性を画定するのはもっぱら(外観から判断される)身体的・生物学的性のみであり、セクシュア 10 ル・アイデンティティを構成する要素の多元性が現代のようには認められていなかったと考えられる。セックスはすなわちジェンダーであ り、またジェンダー・ロールでもあった。 ! 大塚1990,pp.18-19。 11 ! 松谷2012,p38。 12
26
用い、人称としては「ぼく・きみ」を使用していたのである 13 。少女にみられるこのよう
な「男ことば」の採用について、中村は「〈大人の女性〉になる前の段階である「少女期」 という特別な期間」 14 の性質に焦点を当てて分析しているが、ここで問題となるのが男女
の成長過程の違いである。子どもが一人称として自分の名前を用いることはしばしばある が、それが成長に従って矯正されるとき、男児は一人称として「大人度の低い」 ぼく を 使用することを許される。それに対して、女児には「わたし」という大人の女性の人称し か用意されていない 15 。こうした過程の存在を踏まえ、中村は少女にとって「大人の女性
になること」がいかなる意味を持つかということを問うていく。思春期の少年少女は学校 という社会のなかで「異性愛市場」 16 に参入し、「〈女というジェンダー〉を、能動的な
欲望を持った〈男というジェンダー〉の性の対象物とみなす異性愛規範」 17 を受容するこ
とを要請される。少女にとって「大人になる」ことはそうした異性愛規範に従って行動す ることであり、同時に性の対象物としての女というジェンダーを引き受けなければならな いということなのである。こうしたジェンダーの引き受けを留保する役割を果たすのが、 男ことばの使用による「異性装」である。すなわち、性の対象物になることと(「異性愛 市場」への参入を果たした)同年代の交友関係からの疎外の両方を回避するのが「ぼく(お れ)」という一人称の選択なのである。中村は、少女たちは言語によって 男装 すること で̶̶「女」ではない者が扱うべきことばとして流通していることばを用いることによっ て̶̶〈子ども〉とも〈女〉とも異なる新たな〈少女性〉を創造しているのではないかと 結論づける 18 。
! 中村2009,p.277。 13 ! 同上,p.280。 14 ! 同上,p.281。 15 ! 社会言語学社P.エッカートが提起した概念であり、「少年と少女が異性愛のカップルとして「つき合う」ことが子ども同士の関係や地 16 位を秩序を秩序づける場(中村2009,p.282)」をいう。異性愛市場は可能な性的欲望を設定し、「子どもたちにジェンダーを異性愛規範 の枠組みでとらえることを要請する(同上,p.283)」。 ! 中村2009,p.284。 17 ! 同上,p.290。 18
27
中村が少女による男ことばの使用を「ジェンダーの越境」とは捉えていないという点は 重要である。つまり、少女は〈女〉でないとすれば〈男〉であるという二元論に基づ くも のではなく、あくまでもそのどちらであることも拒否する境界性のうちに位置づけられる のである。少女が「わたし」のオルタナティブとして「ぼく」と「男ことば」を選択する のはもう一つの性になることを指向するからではない。その理由は、言語が言語として通 用するために必要な普遍性を保ったまま「女ことば」の規範から脱出しようとしたときに 「男ことば」以外の選択肢が用意されていない、という消極的なものにすぎない。ここに、 少女を「女」から解き放つ契機を見出すことができる。すなわち、生産性からの疎外̶̶ 性的存在であることの留保̶̶は、少女にジェンダー・アイデンティティを超えた存在論 をも与えるのである。
! さて、再三述べた通り、少女とはそもそも性的機能の使用が可能になるまでの、つまり (再)生産者となるための猶予期間として存在した。そしてその期間を定めていたのは、 明治期においては旧民法という法制度と、当時の社会に浸透していた結婚・出産に関する イデオロギーであった。つまり、家の存続という枠組みと、大戦下∼戦後における労働力 需要からもたらされる「産めよ増やせよ」の思想である。しかし社会的背景が変容した現 在、「少女」を区画する時間的範囲は延長、あるいは曖昧化されていっていると言える。 中村2011は、日本人が経済的な余裕を持ち始め、少女が急いで大人になる必要がなくなっ たのが昭和30年ごろであると述べ 、「可愛い」の語が日常的に使用されはじめた時期も また同時期であったと回顧する。この頃になると、「カワイイ」のもつ未熟さが積極的に 評価されうる土壌ができあがってくるのである 19 。
少女として「カワイイ」への感度を保ち続けることが許容される期間はやがて、かつて 「少女」の語が指示した年齢的な範囲を大幅に越えることになる。80年代の女性雑誌に おいて「少女化」のトレンドが始まったとするのは落合1990である。具体的にはファッ ! 中村2011,p.73。 19
28
ノ
ン
ノ
ション誌『 non - no 』 20 におけるモデルの低年齢化にはじまる女性雑誌の「少女化」は、
85年以降さらに推進され 、モデルのさらなる低年齢化とともに「花柄、レ ース、フリル に、ソックスにヒールのない靴の組み合わせ」という「大人の女にはふさわしくないと思 われがちだった服装」 21 が20歳前後の女性の間でも流行した。やがてこの潮流は主婦層に
も波及する。85年には主婦向け雑誌『主婦の友』に登場するモデルたちのスタイルが「主 婦らしいスーツ」を離れ「まったくと言っていいほど独身者と区別がつかなくなる」よう なものへと変化し、中には「「主婦の少女化」と呼びたいほどにかわいらしい感じのもの」 もあらわれるようになった 22 。これらの「少女化」現象は当時の社会とその中で規範化さ
れた女性役割を忌避するという態度表明であると落合は分析する 23 。また、「カワイイ」
全般とファッションの関わりについて補足するならば、90年代半ばからはハローキティ をはじめ鉄腕アトムやセーラームーンといったキャラクターがTシャツにプリントされる などの形で大人のファッションに取り入れられはじめている。もともと子どもが身につけ ることが一般的だったこれらのキャラクターものアパレルが大人のファッションにも侵入 してきたということも、未成熟な「カワイイ」需要層の年齢的な広がりを物語る現象のひ とつであると言えよう 24 。
80年代半ばには若年主婦層にまで拡大した少女の世界は現在、「女子」というターム を借りて30代・40代まで広がっている。「AERA」2002年6月3日号の記事では、「女子」 を自称する30代女性当事者がこの語に「男/女のステロタイプやしがらみからの脱却」、 「少し中性的になって居場所を確保しやすい」、「成熟の拒否」といった意味あいをもた せているという分析がなされている 25 。米澤2012は、本来女の子/女子と呼ばれる年齢
! 1971年の創刊以来、現在も集英社より刊行されている月刊の女性向けファッション誌。主要ターゲットは二十代前後の女性。 20 ! 落合2009,p.60。 21 ! 同上,p.63。 22 ! 同上,p.68。 23 ! 蘆田2011,224-225。 24 ! 河原2012,pp.18-19。 25
29
を過ぎた女性たちが「女子」と呼ばれ(あるいは自称し)始めた時期を1999年ごろと推 定 し 、 そ の 端 緒 の ひ と つ と して 宝 島 社 か ら 刊 行 さ れて い る 月 刊 誌 「 s w e e t 」 を 挙 げ て い る 26 。メインターゲットをアラサー(アラウンド・サーティー、二十代後半から三十代前
半)に設定している同誌は、「一生、女のコ宣言!」をスローガンに掲げている。この「宣 言」は、かつては加齢とともに 大人の女性 としてそれに相応しいファッションを選択し なければならなかった女性たちに、何歳になってもカワイイファッションを着こなす「大 人女子」というあり方を提示した。さらに2010年には、「四十代女子のための雑誌」と して宝島社から「GLOW」が創刊される 27 。かくして現代の日本においては、十代から四
十代に至るまでの年齢の女性誰しもが「女子」となり、「時を止める少女 28 」となったの
である。 かつては「良妻賢母」になるまでの限定的な猶予期間としてのみ設定されていた少女期 は時代とともに延長し、その時間的区画がほとんど意味を持たないまでに拡大してきた。 女性たちが未熟さを肯定し、生涯にわたって「カワイイ」を愛でることが許される時代が 到来したのである。
! ここまで見てきたとおり、少女はその本質的な非生産性から、第一には大人/子どもと いう二項対立、そして第二には男/女という二項対立からはみ出す境界概念として存在し てきた。さらに、そのような境界的存在でありうる期間は、かつてのように年齢や未/既 婚によって切り出されるものではなくなった。こうした状況において、現代の「少女」を 資格づけるものは何か。それは制度的・社会的性や生物学的性でも年齢でもなく、本節冒 頭で述べた「カワイイ」とのかかわり方なのではないだろうか。昭和の少女たちは「リボ ンとフリル」に彩られた少女まんがの「カワイイ」世界を愛し、時を止めた少女たる現代
! 米澤2012,p.40。 26 ! 同上,p.44。 27 ! 同上,p.43。 28
30
の「大人女子」たちはカワイイファッションを好んで身に纏う。ここに、「カワイイ」に 基づ いた少女の再定義が成立する。すなわち少女とは、「カワイイ」を解し、それを愛す る感性の所有者なのである。
31
§1-3 「カワイイ」の歴史 本稿ではここまで、「カワイイ」という新たな感性の輪郭を描き出すことと、その感性 とともにあった「少女」の概念を現在的意義のもとで再定義することを試みてきた。「カ ワイイ」の新規性はこれまでも強調してきたとおりだが、これが古来から日本に存在する 「かわいい(可愛い)」と連続性を持ち、それを拡張した感覚であることもまた事実であ る。そこで本節ではまず、「カワイイ」の語源的ルーツをたどる。次いで「カワイイ」表 象の系譜を概観し、それが具体的にどのような形象をもって現れてきたかを俯瞰していく。
! すでに本稿で も何度か参照している四方田2006は、「かわいい」という語の語源をさ かのぼることによってこの感覚の本質に迫ろうとしている。「かわいい」は文語の「かは ゆし」が変化した語であるが、さらにその源流にあるのが「かほはゆし」という言葉であ る。これは 顔 と「ものごとがいっそう鮮やかに引き立って見える」ことを意味する 映ゆ し の結合語であり、直訳すれば「顔が以前にも増して明確に引き立ったり、興奮のあま りに赤く色づ いてしまうこと」となる。すなわち、「心がとがめて顔が赤らむ状態」を指 す。 さて、「かわいい」の直接の語源である「かはゆし」が最初に文献に登場するのは12 世紀に編纂された『今昔物語集』の第26巻6話であるが、当時のこの語の意味は現在の「か わいい」とは大きく異なり、「痛ましくて見るに忍びない。気の毒だ。不憫だ」というも のだった。代わって現代の「かわいい」に相当する言葉として用いられたのが「うつくし」 である(現代語の「美しい」に相当するのは「くたし」という語であった)。四方田がこ の「うつくし」の用例として清少納言の『枕草子』の百四十六段(「うつくしきもの」) を引用している。ここから、平安期の人々の「かわいい」に対する当世的感覚が抽出され る。すなわち、「無邪気で、純真で、大人の庇護を必要とする」ものの未成熟さを「美と して肯定しようとする姿勢」 1 である。
! 四方田2006,p.33。 1
32
一方、中世末期には「かはゆし」の意味が変容してきた。「痛ましい」「気の毒だ」と いった意味合いは徐々に薄れてゆき、1603年にイエズス会から刊行された日本語辞典に は「同情、憐憫の情を催させる(もの)、あるいは同情の念を抱く(こと)」という定義 で「cauaij」という項目が採録されている。この頃には、「かはゆらし」や「かはいがる」 といった派生語も登場する。さらに明治期には「かはゆい」が口語の「かはいい」へと変 化し、無邪気さ・子供っぽさ・無垢さ・小ささ・脆弱さを表す、ほぼ現代と同様の意味範 疇をもつ語になった 2 。
! 以上のような語形と語義の変遷を経て、「カワイイ」は現在のあり方を得た。それでは、 その「かわいい/カワイイ」は、具体的にはどのような姿で現れてきたのだろうか。映像 メディアはもとより、カラー写真が普及していなかった明治期から昭和期にかけて、視覚 的な側面から少女たちに訴求したのはもっぱら少女雑誌の表紙画や挿画だった。少女たち に理想的な少女像や「カワイイ」像を示すファッションリーダーは、イラストレ ーション の中に描かれた少女たちだったのである。 中村2011は少女雑誌の 抒情画 の歴史の中に「カワイイ」のルーツを見出しているが、 まず取り上げているのが「抒情画」の語の創案者でもある竹久夢二である(竹久がみずか らのイラストレ ーションを指してこう呼んだ)。竹久のイラストレ ーションに特徴的なの は、女性や少女の身体を描くときのS字型のフォルムである(図5−1)。この曲線は「柔 らかさ」、ひいては「カワイイ」に不可欠な非攻撃性を見る者に印象づけた。また、竹久 の描く女性像をそれまでの美人画と隔てるのが「目の大きさ」である。それ以前の日本の 美意識では、「切れ長の細い目」が美人の象徴とされてきた。しかし夢二は西洋から流入 した女性美に関する意識の変容にいち早く反応し、「丸い大きな目」の女性を描き始めた のである 3 (図5−2)。
! 同上,p.35。 2 ! 中村2011,p.67。 3
33
抒情画の歴史において、夢二の次に現れるビッグ・ネームが中原淳一である。中原が抒 情画において達成した成果は、主として以下の二点に要約することができる。すなわち、 「デフォルメ」の技法と「少女服」の提案である。 竹久が大きな目の女性を描きはじめて以降、高畠華宵や蕗谷虹児らの叙情画家もそれに 倣って部分的にデフォルメの技法を用いてはいたが、中原はそれをさらにドラスティック に押し進めてみせた。竹久らがあくまで現実の女性の姿を理想化するためにデフォルメを 用いたのに対し、中原は「現実に生きる少女とはかけ離れた大きさ」 4 の瞳をもつ少女を
描いた(図6)。中原の少女像は現実の少女から出発したのではなく、はじめから偶像 だったのである。夢二において萌芽し現在まで継承されている「カワイイ」の文法、すな デフォルム
わち「奇形化」は、ここで決定的なものとなったと言えるだろう。 中原の「カワイイ」に対する貢献の第二は、少女たちに少女独自の「カワイイ」ファッ ションを提案したことである。中原のイラストレ ーションが少女雑誌に掲載されはじめた のは昭和7年だが、当時は日本女性の日常着が和装から洋装へと急激に移行している時代 であった。そのため、大人の服を借用したのではない「少女らしい洋服」の概念は当時ま だ一般的なものにはなっていなかったのである。そこで中原は、イラストレ ーションの中 で少女たちに「少女服」をまとわせ、少女たちにスタイルの提案をしていった。これが前 節で述べた、本田のいう「翻る「リボンとフリル」」のスタイルだったのである。また、 ファッションデザイナー出身の中原は昭和12年、「少女の友」誌上に「女学生服装帖」 というコーナーを提案し、読者の少女たちのファッションアドバイザーともなった 5 。
中原は、「カワイイ」に特徴的な奇形的フォルムを少女像のなかに確立した。そしてそ れとともに、彼の少女像は少女に特有のスタイルの存在を強く承認し、その価値を肯定す るものだったのである。 また、松本かづちは日本初の長期連載少女漫画となった作品「くるくるクルミちゃん」
! 同上,p.70。 4 ! 同上。 5
34
(図7)を著した。同作品は昭和13年に連載を開始し、戦中の休載を経て昭和24年に連 載を再開し、その後昭和29年まで続く。中村は、少女漫画を「「可愛い」を進化・深化 させる広大な土壌」と位置づけた上で、「抒情画から少女漫画を派生させたかづちの存在 は「可愛い」の発展史上、大きい」と評している 6 。
太平洋戦争を経た昭和30年代には、内藤ルネが登場する(図8)。内藤のイラストレー ションに特徴的なのは、彼が描く少女の身体バランスである。内藤の描く少女はさながら 乳幼児のようなプロポーションを持っている。すなわち、「頭の大きな丸顔、目・鼻・口 は顔の下方に集中し、額は広く、身体は三頭身で、手足は華奢」という体型である。内藤 は中原が肯定した少女の「未成熟さ」をさらに徹底的に強調し、ここに「カワイイ」のさ らなる奇形化が進行していることがわかる。中村が「可愛い」が一般的に用いられるよう になったのがこの時代であったと証言するように、現在の「カワイイ」の原型は内藤にお いて完成したと言える 7 。
2000年代には中原淳一や内藤ルネ、蔦谷喜一 8 らのリバイバル・ブームがあり、彼
らのイラストレ ーションをモチーフにした文具などの雑貨が改めて発売された。このこと は昨今の「カワイイ」旋風とパラレルであり、彼らの描き出した少女像がいかに現代の「カ ワイイ」の感性と響きあうものかを物語る事例であると言えよう。 なお、序章でも少々触れているが、総力戦体制下において少女雑誌も方針の転換を余儀 なくされる。少女もまた、「少国民」として国家に奉仕すべき構成員と見なされ 、それに 従って少女雑誌に描かれる少女像も修正されてゆくのである。中原の少女像は「非国策的」 という非難にさらされ 9 、中原は昭和15年5月を最後に『少女の友』への表紙への提供を
やめた。こうして、かつて賛美された「少女的なるもの」は紙面から姿を消す。そして、
! 同上,p.71。 6 ! 同上,p.73。 7 ! 画家。少女の憧れや夢の世界を描き、また当時の風俗を活き活きと表現した「きいちのぬりえ」は昭和20∼30年代の大ヒット商品となっ 8 た。 ! 本田1991,p.21。 9
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中原の退場とともに『少女の友』は発行部数を急激に落とすことになる。一方、表紙を飾 る少女像を時代の要請に応じて変化させ生き延びたのが『少女倶楽部』であった。同誌は 健やかで逞しい少女のイメージを表紙に採用して視覚的に提供することで延命し、途中『少 女クラブ』と改名しながらも戦後に至るまで刊行されつづける数少ない少女雑誌となった のである 10 。
さて、戦後になると中原淳一はみずから主宰する「ひまわり社」から 、昭和21年に女 性向けの季刊誌『ソレイユ』(のちに『それいゆ』と改名)を創刊する。さらに、昭和22 年に少女向けの雑誌として『ひまわり』を創刊し、同誌は昭和27年の廃刊まで67号が発 行された 。昭和29年にはその後継誌にあたる季刊の少女雑誌『ジュニアそれいゆ』が、 『 そ れ い ゆ 』 の 姉 妹 誌 と して 創 刊 さ れ る 11 。 中 原 は 『 ひ ま わ り 』 か ら 『 ジュ ニ ア そ れ い
ゆ』に至る14年間みずから少女雑誌の刊行に携わり、かつて『少女の友』でそうしたの と同様、「カワイイ」の伝道師としての役割を担った。皆川1991は、この14年間におけ る『ひまわり』『ジュニアそれいゆ』の表紙絵の変遷に注目し、そこに描かれる少女像を 4つの期間に分けて検討している。すなわち、第1期:『ひまわり』創刊号∼中原淳一の 渡仏/第2期:中原淳一の滞仏・帰国∼『ひまわり』終刊号/第3期:『ジュニアそれい ゆ』創刊号∼28号/第4期『ジュニアそれいゆ』29号∼終刊号の4期である。 第1期において、例えば創刊号の表紙には「前髪は切りそろえられているが、長い黒髪 は タ テ ロ ー ル に し 、 肩 まで 垂 れ 」 、 「 大 き な 赤 い リ ボ ン 」 を 頭 に 飾 っ た 「 大 和 撫 子 の 少 女」 12 が描かれる。創刊号に限らず、この時期に描かれた少女はみな「二重瞼の大きな瞳
で彼方を見つめやって」おり、髪型としては「長い髪、短い髪とさまざまだが、ただ梳っ てあるだけでなく、パーマネントのウェイブがあり、さらにリボンで飾るか、帽子をかぶ るかして」 13 いる。
! 同上,p.8。 10 ! 皆川1991,pp.46-48。 11 ! 同上,p49。 12 ! 同上,p.50。 13
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第2期には、中原の渡仏の影響が表紙絵にも如実にあらわれ 、「青い瞳、金髪や栗色の 髪 の フ ラ ン ス 少 女 」 14 が あ ら わ れ る よ う に な る 。 第 3 期 、 す な わ ち 『 ひ ま わ り 』 か ら
『ジュニアそれいゆ』への転換期には、雑誌の方針の転換にともなって少女の描かれ方に も変化が表れる。『ジュニアそれいゆ』は『ひまわり』に比して少女向けのファッション 誌としての性格がより色濃く、したがって表紙絵の少女は「ファッションポーズをとって 立ち、スタイル画として描かれる」ようになる。また 、髪型については「セシルカッ ト 15 等のショートスタイルが多くなり、(…)華麗に渦巻く髪型など皆無である。快活な
モダン、カジュアルなモダン、庶民的なモダンに変容している」 16 。
第4期になると、心臓発作で倒れた中原に代わって内藤ルネが『ジュニアそれいゆ』の 表紙を手がけるようになる 17 が、内藤が独特の身体バランスをもった少女像において新た
な「カワイイ」像の旗手であったことは既に述べた通りである。
! ここまで見てきたのは少女雑誌というメディアの変遷と、それにともなう少女像の変容、 そしてその少女たちにみる「カワイイ」の形象の変化であった。やがて「少女雑誌」は衰 退し、代わって登場した少女向けメディアのひとつが「少女まんが誌」であるが、昭和40 年代以降少女漫画誌には ふろく がつくことが通例化していた 。大塚1991は、月刊の少 女まんが雑誌『りぼん』 18 について、この ふろく の変遷を指摘している。昭和40年代の
少女漫画雑誌の ふろく の主流は「スターもの」であり、たとえば昭和47年7月号のふろ くは「野口五郎卓上カレンダー」や「フォーリーブス・シール」など、ポスター・ブロマ
! 同上,p.51。 14 ! 1957年の映画『悲しみよこんにちは』に主演したジーン・セバーグのようなベリー・ショート。セバーグが演じたヒロイン、セシルの 15 名にちなむ。 ! 皆川1991,pp.52-53。 16 ! 同上,p.53。なお、内藤は当初「ヒマワリ社」専属のイラストレーターであり、同社から発売される雑貨のイラストも担当していた(中 17 村2011,p.73)。 ! 集英社刊。1955(昭和30)年創刊、現在も刊行中。著名な連載作品に『ちびまる子ちゃん』(さくらももこ著)など。 18
37
イド類、加えて一条ゆかり 19 の別冊漫画というラインナップである 20 。しかし昭和49年頃
から、ふろくの内容が急激に変化する。陸奥A子 21 ら、当時の『りぼん』作家によるイラ
ストレ ーションを用いたノートやティッシュケース、下敷きなどの雑貨が「スターもの」 に取って代わるのである。昭和49年は、今なお「カワイイ」のイコンであるハローキティ 生誕の年であり、そこから始まるサンリオ社のキャラクタービジネスの急成長の起点であ る。『りぼん』のふろくの変質は、同社による〈ファンシーグッズ〉の発明とパラレルな ものであったと大塚は言う 22 。この時代の少女たちの「カワイイ」を牽引したのは、ひと
つにはキャラクターのイラストをあしらった文具などのファンシーグッズの存在だったと 言えるだろう。 大塚1997はまた、昭和40年代後半から「かわいいカルチャー」としての少女文化が花 開いたことを同時代的な感性をもって報告している。当時の少女たちは「かわいい」もの を求めて渋谷の「ライフショップ・マニー」や代官山「GSコレット」のような少女雑貨 店に通い、白い出窓とアンティック調の家具に囲まれた 少女の部屋 仕立ての店内で「か わいい」商品̶̶たとえば、火にかける面に花模様の意匠が施されたミルクパ ン̶̶を買 い求めた 23 。大塚がこうした当時の少女文化の中心的存在として名指ししているのが「オ
リ ーブ 文 化 」 で あ る 24 が 、 こ れ は マ ガ ジ ン ハ ウス 刊 の 少 女 向 け フ ァ ッ ショ ン 誌 『 オ リ ー
ブ』 25 に由来する語である。少女雑誌は一方ではまんが誌に、もう一方ではファッション
誌へと分化し、少女たちに「カワイイ」のイメージを提供しつづけたと言えるだろう。『オ リーブ』の影響を受けたスタイルに身を包んだ少女たちは「オリーブ少女」と呼ばれた(図 ! 漫画家。1968年に『りぼん』でデビューしたのち、レディースコミックなどの分野でも活躍。代表作に『有閑倶楽部』など。 19 ! 大塚1991,p.87。 20 ! 漫画家。1972年『りぼん増刊号』でデビュー。「おとめちっく漫画」と呼ばれる作風を確立し、現在はレディースコミックスに活躍の 21 場を移している。 ! 大塚1991,pp.92-93。 22 ! 大塚1997,pp.78-79。 23 ! 同上,p.58。 24 ! 1982年創刊、1983年にリニューアル(脚注22を参照)。月2回刊。2000年に一旦休刊ののち月刊誌として復活するが、2003年には再び 25 休刊となった。
38
9 ) 26 。 『 オ リ ーブ 』 で 提 案 さ れ た イ メ ージ を 羅 列 する な ら ば 、 以 下 の よ う な も の に な
る。Gジャン、テディベア、ソバージュ、水玉プリント、自転車、ドールハウス、プロヴァ ンスの田舎、ジェラート、タンタン 27 、全寮制学校への留学 28 。田中康夫が「メルヘン大
好き女子高生路線」と定義した 29 これらの表象の源流は、フランスの女子学生、すなわち
リセエンヌの(ただし理想化された姿の)世界であった 30 。
次いで到来する1990年代の少女文化を象徴するのはコギャル文化だろう。1990年代半 ばに渋谷や池袋といったエリアに登場したコギャルたちのスタイルは、典型的には小麦色 の肌と茶色く染めた髪、短くした制服のスカート、ルーズソックスという組み合わせ、私 服ではミニスカートに厚底靴という出で立ちだった。このようなコギャル・スタイルはメ ディアによってステロタイプ化され 、さらにそれを少女たちが模倣するという形で拡大し てゆく 31 。また、彼女たちのファッション・リーダーとなったのが歌手の安室奈美恵だっ
た。ミニスカート、厚底ブーツ、茶に染めたロングヘア、小麦色の肌という安室ファッショ ン の フ ォ ロ ワ ー は 「 アム ラ ー 」 と 呼 ば れ 32 、 こ の 語 は 1 9 9 6 年 の 流 行 語 大 賞 に お い て
「 ル ー ズ ソ ッ ク ス 」 や 「 チ ョ ベ リ バ / チ ョ ベ リ グ 」 と 並 んで ト ッ プ テ ン 入 賞 を 果 た し た 33 。
! 本節では90年代ごろまでの「カワイイ」のあり方を駆け足で振り返ってきた 。その後
! 香山1991,p.105。 26 ! ベルギーの漫画家、エルジェ作のバンド・デシネ『タンタンの冒険 Les Avantures de Tintin』の主人公。 27 ! 香山1991,p.109。 28 ! 同上,p.108。 29 ! 同上,p.112。ただし、『オリーブ』はもともと、同社から刊行されていた男性向け雑誌『ポパイ』『ブルータス』の妹版としてつくら 30 れ、創刊当初には少女読者は『ポパイ』読者の少年のガールフレンドとして設定されていた。のちの『オリーブ』が「リセエンヌ」をイ メージモチーフに採用したのに対し、初期『オリーブ』は、当時の『ポパイ』同様サーフィンやスケートボードといった(理想化された) アメリカ西海岸文化への親近感を示すものだったのである。この大幅な方針転換を行ったのは、後に『an-an』の編集者となる淀川美代子 であった(香山1991,pp.106-109)。 ! 松谷2012,pp.52-53。 31 ! 同上,p.54。 32 !33 http://singo.jiyu.co.jp/nendo/1996.htmlより。2013年12月4日閲覧。
39
現在に至るまで少女文化は細分化を続け、「カワイイ」の裾野は拡大し続ける。2000年 ごろにはハローキティの再ブームがあり、さらには「たれぱんだ」や「こげぱん」、近年 では「リラックマ」などサンエックス社 34 のキャラクターとその関連ファンシーグッズの
流行があった。同時に、ファッションにもさまざまなサブカテゴリ̶̶「ゴスロリ」、「裏 原系」、「お姉ギャル」、「森ガール」、「青文字系/赤文字系」など枚挙にいとまがな い̶̶が生まれる。時勢を象徴する「カワイイ」の典型的なスタイルが抽出しづらくなる、 言わば「カワイイ」氾濫の時代が到来したのである。そんな中「カワイイ」が一種の文化 資源として注目され始めたのは、「カワイイ」の拡大に伴う力能の増大を反映してのこと と言えるかもしれない。
! 東京都に本社を置くオリジナル雑貨のデザイン・販売会社。昭和7年創業。“サンエックスはキャラクタービジネスを通じて、より幅広 34 いターゲットに生活提案できる企業を目指しています。”(http://www.san-x.co.jp/company/comp01.htmlより引用,2014年1月4日閲覧)
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§1-4 英語圏の少女文化研究史 日本国内においてはこれまで軽視されがちであり 1 、十分な研究がなされているとはい
えない少女文化だが、英語圏においては ガール研究 の名で少女文化の検討に関し一定の 成果があがっている。本節ではそうしたガール研究の発展を概観し、その主要な議論を取 り上げ、本稿の最終的な課題に援用可能なアプローチを抽出することを試みる。 当然のことながら、これらの研究で採用されている方法論をそのまま日本の状況に適用 すべきではない。まず、日本における「少女」は既に述べたような文脈上で発生した概念 であり、固有の歴史的/社会的/制度的背景から切り離して考えうるものではない。した がって、以下に提示する研究の言及する「ガール」と、本稿が研究対象としている「少女」 の範疇を̶̶おそらく大きく重なりあうものであるとはいえ̶̶単に同一視することには 問題が残る。また、少女を取り巻く文化背景の違いも考慮しなければならない。たとえば、 英語圏の若者文化研究でしばしば言及される「ストリート文化」̶̶グラフィティ、ラッ プ、スケートボード、ブレイクダ ンス、フリースタイル・サッカー、バ ンド演奏など 2 と
いった文化実践の様態は日本では英語圏と同程度に普及しているものではない。この例に 限らず、英語圏の若者文化研究で言及される事象の多くは日本国内においては「輸入品」 であり、翻案(しばしば商品化)を被った形でしか観察されず、これらに関する議論がそ のまま適用可能であるとは考えづらい。さらに、「女性」や「若者」を取り巻くイデオロ ギーのあり方や布置に差異があるとすれば、方法論を単純にスライドさせるのみではその 有効性が確保できない可能性がある。加えて、これらのガール研究はフェミニズムの文脈 から派生したものであり、最終的な到達地点をヘテロセクシズムの枠組み自体の解体に設 定する本稿の問題意識と矛盾が生じる場合もあろう。 だが昨今、日本を含め先進国を初めとする国際社会が社会的・経済的文脈̶̶すなわち、 グローバル資本主義と新自由主義に基づ いた消費社会という状況を共有していることも事
! 大塚1997,p.20。 1 ! 田中2012,p.49。 2
41
実である。ガール研究が前提としているのはこのような現代の消費社会であり、それらの 研究の目的とは消費社会の構成員としての「ガール」たちの文化実践を掬い上げ読解する ことによって、その中で実践されうる抵抗的な主体性について考察することなのである。 また、それまで焦点化されてこなかったマイノリティの文化に光をあて、支配的なものに 抗するための戦略として洗練化したガール研究の実績は、本稿との問題設定の差こそあれ、 十分に考察に値するものと考えられる。以上の立場を踏まえ、まずはガール研究という領 野の成立の経緯を確認し、次いでその議論のいくつかについて検討していく。
! 1964年、英国バーミンガム大でバーミンガム現代文化センターthe Birmingham Centre for Contemporary Cultural Studies(BCCS)が設立される。1970年代に最盛期 を迎えるBCCSは、戦後イギリスの大衆文化や労働者階級文化といった、それまで研究対 象とならなかった通俗性の高い諸事象をアカデミズムの俎上に上げることを試みた。当初 は労働者階級の若者文化を主要な対象としてきたBCCSであったが、やがてそうした「若 者文化」から女性が排除されているという指摘がなされる。その嚆矢が、1976年出版の 『 儀 礼 を 通 じ た 抵 抗 ̶ ̶ 戦 後 期 イ ギ リ ス に お け る 若 者 の サ ブ カ ル チ ャ ー R e s i s t a n c e through Rituals: Youth Subcultures in Post-War Britain』に初稿が掲載されたA,McRobbie とJ,Garberの「少女たちとサブカルチャーGirls and Subcultures」である。彼女らは従来 の研究において少女たちが不可視化されているとしたうえで、若者文化やサブカルチャー の領域の内部での女性たちの文化の様相を論じた 。彼女たちに限らずBCCSのフェミニス ト研究者たちの間で共有されていたのは、男性研究者たちのなかでは公的領域における抵 抗の主体としてもっぱら少年や若い男性たちが想定されているという事態に対する問題意 識であった 3 。
抵抗の公的領域において不可視化されてきた女性文化に光を当てる際のパースペクティ ブのひとつが、公的領域のみならず私的領域においても抵抗が実践されているとみなす立 ! 同上,pp.45-48。 3
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場である。そのような試みの一つが、既に名前を挙げたMcRobbieとGarberによる「寝室 文化Bedroom Culture」研究である。彼女らはこの概念をまず、少女たちがみずからの文 化的生を組織するオルタナティブな仕方に焦点を当て、ストリート中心・男性中心の若者 文化の実践の場での少女たちの不在を説明する手段として提起した。すなわち、少女たち はストリートとは別の領域̶̶たとえば家庭内のような場においては中心的存在になりう るのであり、従来の文化研究においてそのことが看過されているがゆえに少女たちが不可 視化されていると指摘したのである 4 。
McRobbie & Garberの寝室文化研究は、女性たちがストリートにおける性的な屈辱か ら身を守りうる排他的領域として寝室を位置づける 5 。その内部で少女たちは、「雑誌を
読み、音楽を聴き、電話での会話などを通じて活発に文化的な活動をし(…)好きな俳優 やアイドルのポスターや写真の切り抜きを部屋のいたるところに貼ったり、カラフルな落 書きを施した友達との写真を飾ったり、お気に入りの雑貨や装飾品で部屋をデコレ ーショ ンしたり」する。これらの実践のなかに文化的表現と、場合によっては文化を通じた抵抗 の一様式が表れていると、McRobbieらは主張した 6 。
McRobbieは寝室を、少女たちが性的な脅威に曝されることなく異性愛的なロマンスと ファンタジーにふけることが可能である場とみなした。すなわち少女たちのアクティヴィ ティは、最終的には「夫を得る」という異性愛的な物語の達成に結びつくものであり、寝 室 文 化 は こ の 目 的 に 関 連 づ け ら れ た 「 ロ マ ンス の コ ー ド 」 や 「 フ ァ ッ ショ ンと 美 の コ ー ド」、「個人的生活のコード」、「ポップ・ミュージックのコード」といった一連のイデ オロギー的コードに基づ いているというのである 7 。このように コード という抽象概念
で寝室文化を理解しようとしたMcRobbieに対し、 ゾーン という物質的な概念を用いて 寝室文化研究を更新しようと試みたのがLincoln2004である。 ゾーン とはその場を占有 ! Lincoln2004, p.94. 4 ! Ibid., p.96. 5 ! 田中2012,p.53。 6 ! Lincoln2004, p.96. 7
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するティーンエイジャーによって構築される領域であり、彼らは「取捨と混成pick and mix」の文化に則ってその場を構築する事物を選択する主体である。McRobbieが最初に 寝室文化という概念を提起したのは70年代であったが、90年代の少女たちはメディアの 変容などを通してより能動的になっているとLincolnは考える。寝室は、テレビやオーディ オ機器、さらには携帯電話やインターネットが持ち込まれることにより、より力動的で流 動 的 な 場 へ と 変 質 し た の で あ る 。 こ う し て、 M c R o b b i e に お け る 寝 室 が 『 ジ ャ ッ キ ー Jackie』 8 などの雑誌をはじめとするメディアによって構築される場であったのに対し、
Lincolnにおける寝室はメディアから引き出される場と捉えられることになる。このよう な視点のもとで、少女たちは単にメディアから異性愛的コードを習得するだけの客体では なくなる。さらに、この視点の導入によって個々の寝室の特異性を考察することが可能に なるとLincolnは主張したのである 9 。
またLincolnは、寝室が性的脅威から隔絶された閉鎖的な場であり、そこで異性愛的ファ ンタジーが育まれることが重要であるという主張にも異議を唱える。少女たちは寝室外の 社会的な場でのアクティビティ̶̶たとえばボーイフレンドとの夜間の外出̶̶の記録(撮 影した写真・ストリートやレコードショップで入手するフライヤーなど)を寝室に持ち込 み 、そうした自らの生活史で寝室を装飾する 10 。また 、90年代の少女たちはしばしば、
ボーイフレンドを自らの寝室に招き入れるが、このとき彼は寝室を構成する他の要素と同 様に、その寝室の社会-空間的配置に則って制御される客体となる 11 。Lincolnはこのよう
に、公的領域と私的領域は相互に流入しあい作用するものであると言い、私的領域への退 避による性的脅威の回避という観点を斥ける。 また、昨今のメディアの変質を鑑み、寝室文化研究をバーチャルな領域に敷衍させる試 みもある。たとえばJ.Sefton-GreenとD.Buckinghamは、少年少女のアクティビティの場 ! 1964年から1993年まで発行されていた少女向け週刊誌。英国D. C. Thomson社刊。 8 ! Lincoln2004, pp.97-98. 9 ! Ibid., pp,101-102. 10 ! Ibid., p.99. 11
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の移行を考慮に入れて「デジタル・ベッドルーム」という概念を提起した 12 。この視点を
継承したJ.Reid-WalshとC.Mitchellは、少女たちが(教育の一環としてなどではなく、自 発的に)構築するウェブサイトを大衆文化の形態のひとつとみなす。すなわち、少女たち の寝室が大衆的なアーティファクトの宝庫であるのと同様、少女たちのサイトは大衆文化 の イ メ ー ジ を 収 容 ・ 陳 列 す る 器 で あ る と い う の が 彼 ら の 見 解 で あ る 13 。 そ の 上 で R e i d
Walshらはそれぞれのサイトに設置されている「ゲストブック」の役割に注目し、「ある 特 定 の 条 件 下 に お いて 他 者 に 開 か れ る 個 人 的 な 部 屋 、 あ る い は 場 」 14 と み な し た 上 で、
フ ー コ ー の 言 う 「 ヘ テ ロ ト ピ ア 」 15 の ひ と つ と し て そ の 性 質 を 論 じ て い る 。 ま た 、
S.R.Mazzarellaは、「かつては寝室の壁に貼ってあった写真やイラストの切り抜きが、こ んにちではスキャンされて、ホームページというサイバー上の「個室」に展示され 、アー カイブ化されている」 16 と述べている。
これらの研究から理解されるのは、まず少女(ないしはガール)の文化実践がある種の 独自性と閉鎖性を保っており、その閉鎖性とは社会的文脈や社会規範に応じて程度が変化 する性質のものであるという点である。少女の文化実践は内的領域に独自の手法を持ちな がら、ストリート(⇔寝室)や外部からの訪問者(⇔個人のサイト)といった外的領域と 接触・相互浸入しながら展開してきたと言える。 理解されることの二点目は、そうした少女文化実践がメディアの性質との連関のなかで ! 田中2012,p.55。 12 ! Reid-Walsh & Mitchell2004, p.175. 13 ! Ibid., p.179. 14 !15「他のすべての場所に対置され、言わばそれらの場所を消去し、中性化し、あるいは純粋化する」ような、「絶対的に異なった場所」 と定義され、現実に存在するという点でユートピアとは区別される。フーコーはこのような空間を研究する学としての「ヘテロトピア学」 を想定し、この学の五つの原理を挙げながらヘテロトピアの性質を述べている。すなわち、①あらゆる社会が自らのために単数あるいは 複数のヘテロトピアを構成すること(あらゆる未開文明は「聖なる場所」をもつし、近代社会においては病院や養老院がある)、②あら ゆる社会が構成されたヘテロトピアを消滅させうるし、また新たに組織しうるということ(売春宿や墓地は排除されれば別の形態を得て 再組織される)、③ヘテロトピアは通常は相容れない複数の空間を一つの場所に並置するということ(映画館は二次元と三次元を同じ空 間に並置するし、庭園には世界中の異なる場所から集められた植物が植えられる)、④ヘテロトピアは時間の特異な切り取りに関係して いるということ(美術館や図書館は時間をアーカイヴする場であり、祝祭は一時的に日常とは隔離された特異な時間を提供する)、⑤ヘ テロトピアは常に、周囲の空間に対して自らを隔離するような開放と閉鎖のシステムを持つ(人は強制されて監獄に入り、祭式や浄めに 従う際にハマムやサウナに入るのであり、自然と足を踏み入れるような場ではない)という原理である(M.フーコー(著),佐藤嘉幸 (訳)「ヘテロトピア」『ユートピア的身体/ヘテロトピア』,水声社,2013を参照)。 ! 田中2012,p.55、 16
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変容してきたということである。McRobbieにおいて少女文化の枢軸となったメディアは 雑誌であり、その中での情報発信は作り手から受け手へという一方的なものであり、さら にそれは異性愛規範を読者たる少女たちに内在化させる役割を果たした。しかしLincoln が指摘しているように 、90年代に入るとテレビやオーディオ機器が個人化し、さらには 携帯電話やインターネットといった双方向的な情報の授受を可能にするメディアが寝室に 流入した 。さらに00年代には、個人によるウェブサイトの開設がよ り一般化する。少女 たちはこうした多様なメディアを活用し、文化実践の場を拡張することができたのである。
! 日本国内の研究においては、大塚1997が「かわいい」モノが集積される場としての部 屋という視点を示している。前節で取り上げた少女向けの雑貨店が「少女の部屋」をコン セプトに店舗設計をしているところからも分かるとおり、「部屋」は少女たちにとって特 権的な役割をもつ私的空間である。大塚は新聞に掲載された住宅広告のコピーを参照しな がら日本国内において「子供部屋」が一般に普及した時期を昭和40年代後半と特定し 17 、
これが〈かわいい〉カルチャーの誕生にやや先行しているという時間的関係を指摘してい る。そして、「「子供部屋」はその普及期のかなり早い段階で、すでに〈かわいい〉化の 方向に傾斜していた」 18 と結論づける。
少女の部屋に「カワイイ」モノが集い、こんにちの「カワイイ」文化が少女の部屋にお いて醸成されてきたということは事実だろう。そしてそれが、消費社会において発揮しう る主体性のひとつの様態でありうるということを示したMcRobbieの功績は大きい。しか し、Lincolnにおける少女たちがそうであったように、今や「カワイイ」は私的領域とし ての部屋にとどまってはいない。少女たちは「カワイイ」ファッションに身を包み、「カ ワイイ」キャラクターグッズを鞄や携帯電話に付け、「カワイイ」文房具を学校で使う。 テレビや都市の街頭ビジョンにもカワイイは溢れ(前述したきゃりーぱみゅぱみゅのプロ
! 大塚1997,p.81。 17 ! 同上,p.82。 18
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モーション映像などはその例である)、市場を席巻し、都市という公的空間に大幅に浸出 し自己主張するのである。このとき「カワイイ」は、単に閉鎖的空間からはみ出していく のではなく、その境界解体性によって外的領域にあるものを「カワイイ」化し、少女文化 の内部に吸収して形で拡大するようなプロセスとして作動する。現代日本の少女文化にとっ ての「カワイイ」の場としての寝室とは、物理的空間というよりもむしろ少女たちの身体 そのものと言えるのである。 メディア
また、少女たちのそうした「カワイイ」の拡張のプロセスの媒体として、携帯電話やス マートフォンが活用されていることにも注目したい。彼女たちは携帯電話・スマートフォ ンで「カワイイ」ものを写真に撮り、直接見せ合うことはもとより、TwitterやFacebook などのSNSを通じて共有・拡散する。このとき活用される「アプリ」もまた、独自の価値 観に彩られた「カワイイ」文化実践のツールのひとつである。たとえば、「カワイイ」写 真で評価されている蜷川実花監修の「cameran」は、撮影した写真にフレ ームを付けたり 色味を加工するフィルタを施したりすることで蜷川風の画像を作成・共有できるカメラア プリであるが、2013年10月時点で350万ダウンロードを突破するほどの人気を博してい る 19 。これらは現在も急速に発展しつつある分野であるため結論を急ぐことは避けるが、
少女たちのメディア活用による主体性の展開をここに見出すことは十分に可能だろう 20 。
一方、寝室文化が受動的なものであるとして批判する立場の第二が、少女たちのより創 造的な実践に注目しようとした「ガール・ジン」研究である。ジンzineとは、「作り手自 身が生産し、出版し、流通させる、商業的でも専門的でもなく、小規模で読まれる紙媒体 の雑誌(magazine)」 21 を指す。zineは「独立系の書店やミュージック・ストア、パ ンク
ロックのライブ、アクティビストの集会、(…)インターネット」を介して流通するが、 ! https://itunes.apple.com/jp/app/id568365176より。2013年12月7日閲覧。 19 ! 日本国内でのインターネット上の「女の子カルチャー」に関する資料としては同人サークルnetpoyoによる同人誌『ねとぽよ 女の子 20 ウェブ号』(2012年発行)がある。本書ではは少女たちの間でとくに流行した「ふみコミュ」「mixi」「前略プロフィール」等のウェブ サービスが整理されレビューされているほか、当事者による対談などが収録されており、英語圏でのweb活用とは異なった文化実践の様式 が形を変えながら存在してきたことが確認できる。http://www.netpoyo.jp/sample/onnanoko_web/topを参照,2014年1月5日閲覧。 ! 上谷2012,p.2。 21
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「主たる流通経路は個人対個人の郵便による物々交換である」 22 。そのなかでもガール・
ジンgirl zine/grrrl zineは、90年代初頭の米国において、10代後半から20代前半の若 い女性たちによるフェミニズム運動を通して生み出された参加型メディアを指す 23 。その
嚆矢となった中心的存在が「ライオット・ガール riot grrrl」であり、「暴動する女の子」 を指すこの語はジンのタイトルであると同時に運動そのものの名称でもあった。ライオッ ト・ガールは少女たちに、たとえばジェンダー・セクシュアリティに関わる問題̶̶レイ プや近親相姦、摂食障害、セクシュアル・ハラスメントなど̶̶についての語りを可能に する場を提供した。彼女たちはこのような形でマジョリティの文化や政治・制度のあり方 への抵抗を試みたのである 24 。
こうした性質をもったガール・ジン文化であるが、その研究者のひとりである M.C.Kearneyは、「寝室文化」はあくまで消費指向的であり、家庭内の消費としての少女 文化という視点を再生産してきたと指摘した 25 。そして、少女たちを消費者としてではな
く、DIY(Do It Yourself)の精神のもと消費主義社会に対抗する政治的自意識をもった 生産者として位置づけようとした。すなわち、ガール・ジンとは「[寝室文化を含めた] 大企業主導の消費文化における主流のガール・カルチャー(…)に異議を申し立てる」オ ルタナティブ・メディアなのである 26 。
また、A.Piepmeierは、ガール・ジンの主題が消費主義社会への抵抗のみならず支配的 なジェンダー規範への抵抗であるという視点を示し、紙上においていかにしてジェンダー 規範が揺さぶられているかを分析している。Pipemeierが注目するのは、ガール・ジンの 紙面に表現される「「女の子っぽさ」や「女性らしさ」の馴染みの形態を、遊び心をもっ て取り戻し加工する」ような視覚的スタイルである。一例として、Action Gril ! 同上,p.3。 22 ! 同上,p.1。 23 ! 同上,p.9。 24 ! 同上,p.4。 25 ! 同上,p.9。 26
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Newsletter 27 に毎号掲載され 、やがて90年代のガール・ジンに偏在するイメ ージとなった
「アナキスト・ハロー・キティ」が挙げられる。これはライオット・ガールの文字が入っ たドレスを着たハローキティが、アナーキストのシンボルが描かれたテディベアを持って いるという図像である。このようにガール・ジンにおいては、「女の子っぽいイメージは、 ひねりを与えられ、再文脈化され、タフで抵抗的になるようなやり方で意味を変えられて」 ゆく 28 。そしてこのことを通じて、「馴染みの文化的物語やイメージを不安定にし」、女
性らしさのアイコンを用いながらもそうしたジェンダー規範を揺るがせようとする。のみ ならずそうした実践を通じ、 女性であること や 少女であること というアイデンティティ 自体を分裂させ、様々な女性の主体的位置を開こうとするのである 29 。
ガール・ジンに関する諸研究は、以上のように少女によるメディア活用の場で作動して いるダイナミズムを明らかにしてきた。これらの研究成果の重要性は、少女文化のがもつ 表象の特異性̶̶本稿で言う「カワイイ」̶̶を損なうことなくジェンダー・セクシュア リティの諸規範への抵抗が可能であるということを示した点にある。「カワイイ」と少女 の特権的関係を強調することは、少女たちを「少女らしさ」という規範に幽閉することと 同値ではないのである。 一方でガール・ジンは、消費主義社会への抵抗という側面を強調する実践であるために、 アマチュアリズムやDIYの精神を称揚するものであり、また参加者は何らかの政治的自意 識をもつ主体として想定されている。しかしこんにちのカワイイ文化は、詳しくは次章で 述べる通り、消費社会と共犯的に繁栄してきたものである。そしてそこでのカワイイの担 い手には、たとえば蜷川実花やきゃりーぱみゅぱみゅのような(その活動や生産物によっ て企業が利益を得るという意味においての)プロフェッショナルも含まれる。また、少女 たちの多くは何らかのイデオロギーに基づ いて意識的に文化創造をしているのではない。
! Sarah Dyerによって米国で創刊されたニュースレター形式のジン。(http://www.houseoffun.com/action/zines/より。2013年12月7日閲覧) 27 ! 同上,p.6。 28 ! 同上,p.5。 29
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だが、プロセスとしての「カワイイ」とそれにもとづ く少女文化の拡大を、単に少女たち の消費主義への従順さに回収してしまえば、そこに介在する「カワイイ」の力学とその抵 抗の契機としての可能性を看過してしまうことになるのではないだろうか。
! いずれにせよ、こうした先行研究が従来アカデミックな場で論じられてこなかった少女 たちの、私的で、ときに抵抗的な文化実戦の様態を顕在化したことは間違いない。これら の先行研究は、消費主義社会の中で主体性を表明しようとする少女たちの存在を浮き彫り にしてきたのである。
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§1-5 第一章の結論 本章ではまず、本稿の主題である「カワイイ」の感性の性質を分析した。「カワイイ」 は無害さや未成熟性を肯定的に評価する感覚でありながら、つねにグロテスクや不気味さ といった要素を胚胎し、さらにはこの語のもとにあらゆる事物を取り込みうる境界解体的 な概念である。 そのような「カワイイ」と特権的な関係を結ぶ存在が「少女」であるが、その概念の成 立の過程̶̶すなわち、近代的家族における非(再)生産者として人工的に枠づけられる というプロセス̶̶に注目したとき浮上するのが少女の境界性であった。そうした少女の 境界性はこんにち、大人/子どもという年齢的境界の解体と男/女というジェンダーの境 界の解体をもたらしていると考えられ 、ここに「カワイイ」という感性によって少女を新 たに定義づける視点が可能になるのである。 次いで、そうした「カワイイ」の形象が時代とともに変化して来たことを確認した。明 治期から昭和期にかけて「カワイイ」は少女雑誌の 叙情画 によって少女たちに訴求した が、この変遷を見ると中原淳一や内藤ルネといったイラストレ ーター表現上の改革があっ たことが理解できる。少女雑誌の衰退ののちには少女向けのファッション誌が登場し、と くに『オリーブ』が提供するイメージは昭和40年代後半から50年代にかけての少女文 化の形成に大きく影響した。さらに時代が下ると少女文化の様態はさらに多様化し、こん にちの「カワイイ」の隆盛へと至っている。 国内ではこうした少女文化に関する体系化された研究があるとは言いがたいが、英国を 中心とした英語圏にはフェミニズム的な観点からなされた「ガール研究」の蓄積がある。 研究者たちは少女たちが少年たちとは別の仕方で何らかの抵抗を試みているという視座か ら、その文化実践に着目した。そのひとつが「寝室文化」であり、少女たちは自室を装飾 したり友人と会話するなどといった行為を通して抵抗の様式を表明していると考えられる。 この「寝室文化」はメディアとのかかわりの中で少しずつ形態を変えてゆくものであり、 インターネットの普及した昨今ではそれが仮想空間に拡張しているという見方もある。一
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方、より能動的・政治的な意図をもって試みられる抵抗のひとつが「ガール・ジン」とい うオルタナティブ・メディアである。少女たちはガール・ジンの紙上というアマチュアリ ズムの領域において批評の場を得ることができ、さらにそこに女性らしさのシンボルを変 形させた形で表現することで、既存のジェンダー規範や少女・女性といったアイデンティ ティを解体していると言えるのである。
! 以上のように、本章では本稿で用いていく概念的な枠組みの明確化を試みた。本章を通 して前景化したのは、少女たちが消費行動と不可分な存在であるということである。ここ に抵抗の契機を見出すためには、少女たちが単に消費主義社会に迎合しているという批判 を乗り越えるような何らかの読解が必要なものと考えられる。次章では少女文化の「消費」 としての側面に注目し、彼女たちが消費社会のただ中にありながら主体性を発揮しうる可 能性について検討する。
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第二章 少女と「カワイイ」の消費 §2-1 「モノ」と少女、あるいは「モノ」としての少女 第一章で確認した通り、少女概念の誕生した明治期から現代に至るまで少女文化を特徴 付けつづけてきたものが「カワイイ」である。それは中原淳一や内藤ルネといった 叙情 画家 、あるいはイラス トレ ーターたちの手になる視覚表象によって具体的な像を得、少 女雑誌というメディアを通じて少女たちのあいだに膾炙した。そして、そのようにして共 有された「カワイイ」が文化として花開くための具体的なプロセスこそが「消費」であっ た。少女たちは「カワイイ」をみずからが実践するために、つねに消費者でありつづけた。 前章の「少女」の再定義に即して換言するならば、少女であるためには消費者でありつづ けなければならないのである。本章ではそうした「消費」という側面から少女を再検討 し、この行為の内部で可能な抵抗の様式について考察する。そのために本節ではまず、少 女がつねに消費者であったという事実を、「消費」に注目して少女史を読み直すことで確 認していきたい。
! 明治期から戦前までの「少女」形成においてきわめて重要な役割を果たしてきた少女雑 誌であるが、そこに掲載されたコンテンツはどのようなものだったのだろうか。まず第一 に、独自の美文体で少女読者を魅了した「少女小説」が挙げられる。これは文学という形 で少女規範を教育する役割をも担っており、著名な執筆者としては吉屋信子らがいる。次 いで、編集者らによる「論説」があり、これは各誌の編集理念に則り少女たちにあるべき 少女像を説くものであった。さらに、「少女コミュニティ」とも呼ぶべき少女同士のネッ トワークをかたちづ くった「投書欄」も主要なコンテンツの一つであった。そして、それ らの教育的記事とともに掲載されていたのが少女向け商品の広告である。 たとえば『少女倶楽部』の昭和2年2月号に掲載されているのが、「「色白くなる良薬」 「頬のこけたのを直す器械」など、女子の容貌にかかわる薬品や器具」の広告である。本 田1991はこうした広告の掲載について、「女子に自学努力をすすめる啓蒙性・教育性と、
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怪しげな美容術とが同列に扱われるこの雑然性に、見事なまでの没思想性を見る」 1 のだ
が、言い換えれば、少女雑誌において目指すべき理想として掲げられる思弁的・視覚的少 女像とこれらの商品の消費とが読者のうちで結びつけられていたと考えられよう。すなわ ち、少女雑誌が推奨する少女表象は、少女雑誌上で広告されている商品の消費によって実 現するのである。あるいは少なくとも、そのような関係を想定して広告掲載が展開されて いたと考えられる。 また、前章で「カワイイ」表象普及の貢献者として名を挙げた中原淳一の「ひまわり社」 は、雑誌や単行本の出版のみならず、実店舗と美容室を展開してもいた。ひまわりの店舗 で販売されていたのは、淳一のデザインした文房具、装飾品、小物雑貨、たとえば「便箋、 封筒、日記帖、絵葉書、シオリ、状差、ハンカチーフ、ネッカチーフ、人形、令女バッグ、 ロケット、コンパクト、ブックエンド、オルゴール、電気スタンド」などである。また、 同社は店舗だけではなく通信販売係を設けており、地方の少女たちの商品購入の窓口となっ ていた 2 。
こうして高まった ひまわりブランド 人気はやがて、さらなる商品展開のきっかけとな る。百貨店の白木屋(現・東急百貨店)では中原デザインの通学服が売り出され 、化粧品 ブランド「レ ート」 3 からは中原がのイラストを用いたパ ッケージを使ったジュニア向け
化粧品が発売された。さらに昭和32年には西武デパートに「それいゆの店」が開店する。 また、中原自らデザインしたブラウスの特約店での販売、中原デザインの絵柄をプリント した布地の販売などを通し、 ひまわりブランド は少女たちの間に広がっていったのであ る 4。
一方のひまわり美容室は、パーマ・フェイシャル・着付けなどをおこなっていた。中原 は髪型について雑誌・単行の両方で取り上げており、そうした雑誌の表紙や口絵を持ち込 ! 本田1991,p.31。 1 ! 皆川1991,p.73。 2 ! 平尾賛平商店(現在は廃業)が展開していた化粧品ブランド。 3 ! 皆川1991,P.74。 4
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めばその通りの髪型に仕上げることが可能だったという 5 。こうして、中原が叙情画家と
しての仕事とひまわり社の事業を通して少女たちに提供した「カワイイ」の図像は、具体 的には少女たちによる財の消費という形で実現されていった。その消費には、文房具や化 粧品のような「モノ」も、美容室での施術のような「サービス」も含まれていたことがわ かる。 同様に、中原から「カワイイ」の系譜を継承したファンシーグッズや少女向け雑貨もま た、少女たちに消費されることではじめて文化の構成要素となりえた。少女たちの「カワ イイ」文化実践とは、「カワイイ」の発信者である雑誌を購入すること・および「カワイ イ」商品を購入することであり、「カワイイ」の感性は消費される財とともに少女たちの 間を流通したのである。 このように、少女文化の成立と拡大においては、メディアによってモデルとして示され る「カワイイ」のイメージ→それを具体像として実現するための消費というプロセスが成 立している。少女雑誌の全盛期においてはこの「モデル」に当たるのが少女「規範」であっ たのに対し、のちのファッション誌においては憧憬の対象としてのファッションやライフ スタイルであったという差はあるものの、基本的にはおそらく現代に至るまでこの構図が 踏襲されている。 ただしここで指摘しておかなければならないのが、少女雑誌という教育的メディアが少 女文化拡大の担い手であった時代から現代へと移行する過程で脱落したもの̶̶すなわち、 「規範」の存在である。序章において概観したとおり、明治期から大戦下に至るまでの少 女雑誌の繁栄期の間にも、それぞれの時代的要請に応じて「少女規範」は変化を被ってき た。いずれにせよ、少女雑誌がそれらの規範を少女たちのうちに内在化するという教育・ 啓蒙的役割を担うものであった以上、何らかのイデオロギーが先立って存在し、そうした 思想的枠組みを現実化するかたちで少女文化が実践されてきたといえる。しかし昭和40 年代末以降の、少女雑誌に牽引されるのではない形で発展してきた「カワイイ」文化≒少 ! 同上,p.73。 5
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女文化は、「規範」のようなイデオロギーを基盤としていない。つまり、少女たちが雑誌 のファッションやインテリア、ライフスタイルの提案に魅了されたのはその「カワイさ」 ゆえであり、それを思想的に正当化する根拠があるのではない。この思想的な無根拠性、 換言すれば脱政治性こそがこんにちの「カワイイ」文化を特徴付ける要素の一つであると 言えよう。 少女の存在論の固有性をその「非生産性」に求めた大塚1997は、アイドル雑誌におけ るアイドルの取り上げられ方を分析し、彼女たちが「アリスの絵本(洋書)、二十四色の カラーペンのセット、セサミストリートのマペット、木製の筆箱(…)」 6 などといった
持ち物、〈モノ〉の集積として扱われていることを指摘する。さらに大塚はこの視点が異 性愛的なものにとどまらず、「〈少女〉を「モノ」の集合と見なす視点は(…)当の少女 自身が内包しているもの」であり、少女たちに「自分たちが〈かわいいモノ〉の集合であ る 7 」という自意識があると分析している。少女とは「カワイイ」の感性の所有者である
が、その存在は「カワイイ」ものを購入し身につけるという形で具象化されるのである。 松谷2012は少女たちの「生存戦略」として「ギャル」と「不思議ちゃん」という2つ の系列に少女を類型化しているが、ここにおいても彼女たちの所属カテゴリの違いを生み 出しているのは彼女たちの消費選好の差異である。ギャルの系譜上に位置する「コギャル」 であることは、ルーズソックスを購入する・日焼けサロンに通う…といった一連の消費を 要請する。同様に「不思議ちゃん」の系譜に属する「ロリータ」であるためには、たとえ ばBABY, THE STARS SHINE BRIGHT 8 やmetamorphose temps de fille 9 のようなブラン
ドの洋服を購入して着用することを要請する、といったように、各々のカテゴリに帰属す ! 大塚1997,P.71。 6 ! 同上,P.72。 7 ! 東京に本社を置くファッションブランド。“幼い頃、フリルやレースのついた服を着て、お姫様になったような気分で「かわいい」「き 8 れい」と素直に喜べた。そんな心をもったロリータ少女の服。”(http://www.babyssb.co.jp/company.htmlより引用。2013年12月11日閲覧) ! 大阪に本社を置くファッションブランド。”もっともっと可愛く素敵になりたい。その時々にあわせて、ある時は可愛く、ある時は貴婦 9 人のように、様々に自分を表現したい。変身したい。ロリータファッションブランド「メタモルフォーゼ」は、ジャンルにとらわれない、 自分なりのロリータファッションを求めるロリータちゃんのためのロリータファッションブランドです。”(http://www.metamorphose.gr.jp/ company.htmlより引用。2013年12月11日閲覧)
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るためには然るべきモノやサービスの消費が要件となるのである。 少女が消費する財が「モノ」だけでなく「サービス」にも及ぶということは先に触れた 通りであるが、上述のような少女の「モノ」性を踏まえれば、それらが「モノ」に還元さ れうる財であることが理解できよう。少女たちが消費している無形財としての「カワイイ」 は、たとえばヘアメイクや日焼けサロンのような、自らの身体の表面的なあり方を変形さ せるためのサービスである。換言すれば、消費によって形作られる「モノ」としての身体 を獲得するのが、少女におけるサービスの消費であると言える。 よって、「カワイイ」を所有することと「カワイイ」であることは連続的なものと言え る。少女の身体は「カワイイ」という自律的な原理に基づ いて「モノ」化されており、そ の意味において、「カワイイ」であることは「カワイイ」「モノ」を持つということに還 元しうる。少女文化はこのように、消費の対象としての「モノ」が、あるいは「モノ」と しての少女が作り上げてきた文化であり、こんにちでは店舗に陳列される商品という形を とって街中に溢れている。
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§2-2 消費社会の少女たち 前節では、少女が「消費」を通して出来する存在であるということを確認した。しかし このように定式化することは、同時に少女たちが単に消費主義社会の構成員であり、国家 や企業といったさまざまなアクターに搾取される客体なのではないか、という批判に少女 たちを晒すことでもある。本節ではまず現代の消費社会一般の性格を確認し、それをふま えて少女たちの消費がどのように捉えられるか・あるいは批判しうるかを検討する。また、 少女文化が特異的に属する文脈として、女性たちがいかにメディアの広がりのもとで間断 のない消費を強いられてきたか、女性たちの外観の「美」が消費社会においていかに強迫 的 に 要 求 さ れてき た か を 概 観 する 。 さ ら に 、 昨 今 で は 「 カ ワイ イ / k a w a i i 」 が い わ ゆ る 「クール・ジャパ ン」戦略のスローガンとして用いられ 、国家による搾取の可能性も浮上 している。以上のように、今日的な問題も含め、消費社会における少女の位置にまつわる 批判を整理していきたい。
! J.ボードリヤールは『消費社会の神話と構造』において現代社会における消費の性質を 分析しているが、その中で挙げられているのが現代の消費の記号性である。「人びとはけっ してモノ自体を(その使用価値において)消費することはない」 1 。すなわち現代社会に
おいて、モノはそのモノが持つ機能性ではなく、それが持つ記号的価値がゆえに選択され 消費対象となるということである。 さらに大塚1991が指摘するとおり、現代の消費におけるこの傾向は「カワイイ」の消 費においてはよ り顕著であるといえる 2 。少女たちが好んで購入するモノの数々は表面的
な「カワイさ」を機能に優先するものであるからだ。機能上の差異がなくても(あるいは しばしば機能において劣る場合であっても)、少女たちは「カワイイ」ものをより好んで 消費する。このことはファッションにおいてもっとも象徴的に表れていると言えるだろう。
! Baudrillard1970, p.79(邦訳p.68). 1 ! 大塚1991,p.93。 2
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本田1982の言う「翻る「リボンとフリル」」、あるいは現代のロリータファッションや ゴシックファッションは、しばしば快適さや機能性を無視した意匠をもつ。ロリータ少女 たちがスカートの中に穿く硬いチュールのパニエは身体動作を制限するものであり、ヘッ ドドレスやボンネットは何らの実用的機能も果たさない。ゴシックファッションがしばし ば採用する編み上げのコルセットは身体を拘束し、衣服の上に張り巡らされたリボンは着 用の手続きを煩雑化する。それらの素材は必ずしも被服気候の調整に適しているとは言え ず、 着 心 地 や 管 理 の 簡 便 さ に 優 れて い る の で も な い。 に も か か わ らず、 少 女 たち は そ の ファッションを選択する。それは、それらの服飾アイテムがより「カワイイ」からであり、 「カワイイ」という記号的価値を担うものだからである。そこに使用価値の有無という判 断基準が介在する余地はほとんどないと言ってよい。少女たちは、「モノに宿った記号や サービスの消費を通じて「かわいい」とか「気分」といったふわふわしたイメージを購入 して」 3 いるのである。
さらにボードリヤールは、この記号の消費が他者との差異化を目指してなされるもので あると指摘する。人びとは「理想的な準拠としてとらえられた自己の集団への所属を示す ために、あるいはより高い地位の集団をめざして自己の集団から抜け出すために、(…) 自分と他者を区別する記号として(…)モノを常に操作している」 4 のであり、ある種の
言語活動のような形で流通するこの記号性とそのコードにのっとって各々を個性化しよう と試みる。消費者は各自が自由意志によって消費の対象を選択していると考えているが、 実際には個人を超えた差異の秩序への服従を強制されている。しかもこの差異の秩序は消 費によって再生産され 、またこの秩序の中では、個人はつねに他者との関係によって定位 される相対的な位置しか占めることができず、個性化の試みは常に挫折せざるをえない。 このことによって、消費を通した差異的登録は、必然的に不断に続けられるものになる。 こうして現代消費社会は消費者に、無限に増大する消費への欲望を強制するのである。
! 諸橋2009,p.29。 3 ! Baudrillard1970, p.79(邦訳p.68). 4
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現代の少女文化の核をなす消費は「カワイイ」という記号的価値が極端に優位を占める ような消費であり、したがって消費社会のこうした性質もまた極めて色濃く表れる。きゃ りーぱみゅぱみゅが高校生時代を回顧して言った「とにかく、人とかぶりたくない!誰も してないファッションがしたい!」 5 という言葉が象徴するように 、少女文化は差異化と
個性化の戦略の中で発展してきた文化なのである。少女たちは「カワイイ」の原理の作用 の内部にありながら、その範疇の中で絶えず他者との差異化を図るために、あるいはある カテゴリ̶̶たとえば、「コギャル」や「ロリータ」̶̶への所属を再確認するために、 絶えざる消費に駆り立てられてきた。松谷2012が言うように、「[ギャルと不思議ちゃ ん と い う ふ た つ の 系 統 は ] キ ャ ラ か ぶ り を 避 け た 結 果 と して、 現 象 して き た 側 面 も 強 い」 6 のであり、少女たちは「自分たちの存在をアピールするために 、(…)いつの時代
も闘ってきた」のである。差異化の論理に動機づけられた少女たちの、消費への際限のな い(のみならず、加速しつつもある)欲望なくして、今日の「カワイイ」文化の繁栄≒「カ ワイイ」市場の拡大はありえなかったと言える。
! 上述のような少女たちの欲望の生起をより促進する役割を果たすのがメディアである。 少女文化がつねにメディア、とりわけ少女雑誌から少女まんが誌・ファッション誌にいた る雑誌メディアとの相互作用の中で確立・発展してきたということは既に述べたとおりで あるが、ファッション誌が記号性と差異の論理に基づ く消費を読者に指向させる仕方を、 香山1991は雑誌『オリーブ』を例に以下のように分析している。
! まず何らかのモードがあって、それを伝播するためのメディアが追随して誕生するというのではな くて、逆にメディアがモードをリードしていく、あるいは新しい流行を生み出しさえする、という現 象は、なにもオリーブ少女が初めてではありません。もちろん、だからといって、あまりにも突飛な 提言をメディア側が行っても、世間に受け入れられるはずがないのは当たり前です。つまり、大衆の
! きゃりーぱみゅぱみゅ2011,p.125。 5 ! 松谷2012,pp.7-8。 6
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集合的な無意識の中に眠っていた欲望を上手に刺激して、 ああ、私たちが求めていたものってこれ だったのね と覚醒を促すことが、全国津々浦々にまで浸透する電波メディアや雑誌メディアの妥当 な役割だ、といえるのかもしれません。7[傍点引用者]
!
ここでまず香山が述べているのは、当時の少女文化の中心的存在であった「オリーブ少 女」(前章参照)は自然発生的なモードだったのではなく、雑誌『オリーブ』によっては じめてもたらされたイメージであったということである。このことから、メディアが少女 文化形成に及ぼす役割の大きさが改めてうかがえる。さらに香山は、それが単にメディア の側からの一方的な押しつけだったのではなく、メディアが少女たちの潜在的な欲望を刺 激して暴き出し、消費に向かわせるという過程を経ていたと指摘する。雑誌メディアは少 女たちとこのような関係を取り結びながら「消費すべきモノ」のイメ ージを提供し、 消 費者としての少女 をかたちづ くってきたのである。
! さらに、雑誌メディアの読解にあたって考えなくてはならないのが広告の存在である。 諸橋2009は女性向けファッション誌『non・no』の誌面構成を分析し、そのなかで広告 ページが23.9%、「商品名・店名が記載されカタログ的機能を果たしている広告記事」が 55.8%をそれぞれ占め、純粋な記事は20.3%に留まるという数字を挙げている。また、 広告ページのほとんどは美容やファッションに関する商品やサービスを宣伝するものであ り、このような構成比は「記号の消費によって若さと美しさが獲得できることを示唆して いる」と指摘する 8 。
ここで浮上するのが、女性たちがメディアを通して受け取っている「美しくあれ」とい う命令の存在である。少女向け雑誌を含めた女性向け雑誌はまず、読者を女性性というカ テゴリーの中に幽閉するが、もっとも典型的にその働きを担うのが広告である。構成比に 占める広告の割合の高さは前述したとおりだが、広告はとくにステロタイプ的なジェンダー ! 香山1991,p.106。 7 ! 諸橋2009,PP.44-46。 8
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描写が多く見られる領域であることはすでにしばしば指摘されている 9 。広告は「直感的
で簡潔なジェンダー表現が、反復的に提示される」場であり、そうした表現は「女性自身 の ジェ ン ダ ー 観 だ け で な く 、 自 己 イ メ ー ジ や 消 費 意 識 と 行 動 に 影 響 す る 」 と 考 え ら れ る 10 。さらに、雑誌は広告や広告的記事に代表されるコンテンツを通してジェンダーの枠
組みを補強するのみならず、 女性 というジェンダーに「美」を結びつけ、読者にそれを 積極的に獲得するよう促す。 ウルフ1994は、80年代以降のフェミニズム運動によって既存の権力構造が突き崩され てきたにもかかわらず、一方では摂食障害の患者数の加速度的増加や美容外科分野の急成 長 、 ポ ル ノ グ ラ フィ ー の 経 済 規 模 の 増 大 な ど の 事 象 が 起 き て い る と い う 事 実 を 指 摘 す る 11 。これらの事象が示唆するのは、現代の女性たちはますます「美の神話」にとりつか
れており、「美しくあらねばならない」という強迫観念を持たされているということであ る。たとえばウルフは、彼女がPBQ(Professional Beauty Qualification、美の職業資格) と名付けたもの̶̶すなわち、「精液提供者が男性であらねばならないのと同じように、 そ の 職 に つ く 女 性 は 「 美 し く 」 あ ら ね ば な ら な い 」 12 と い う よ う な 、 職 業 資 格 と しての
「美」の存在を指摘する。このことを象徴する例のひとつとしてウルフが挙げているのが 「バニーガールのイメージに合わなくなった」という理由でプレイボーイクラブのウェイ トレスの職を解雇されたマルガリータ・セントクロスのエピソードであるが 13 、事態はこ
のような特殊な事例にとどまらないとウルフは考える。彼女は、現代社会において女性た ち が 進 出 して い る 職 業 が 「 すべ て、 人 に 見 せる 職 業 と して 急 速 に 再 分 類 さ れつ つ あ る」 14 ものであり、そこに従事する女性が外観の「美」をあたかも職業資格であるかのよ
! 李2012,p.147。 9 ! 同上,p.148。 10 ! ウルフ1994,p.12。 11 ! 同上,p.40。 12 ! 同上,pp.45-46。 13 ! 同上,p.39。 14
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うに強制されていると主張するのである。 ウルフが報告しているのは90年代初頭のアメリカでの状況であり 15 、現代日本社会とは
文化的・時代的文脈を異にするということは指摘しておかなければならない。しかし、日 本においても女性たちが広告によって美の追求とそれを達成するための財の消費を動機づ けられているということは諸橋が指摘したとおりである。現代日本の女性たちの「痩せ願 望」は今や年代を問わず広がっているが、たとえば梶原ら2009の大学の女子大学生を対 象とした痩せ願望に関する報告によれば、回答者の97.8%が「やせたいと思ったことが あ る 」 と 回 答 して お り 、 8 0 % が 実 際 に や せる た め の 何 ら か の 行 動 を 起 こ して い る 16 。 ま
た、20代の女性の約半数がエステティックサロンに興味があると回答している 17 。こうし
た痩せ指向や美容指向の要因となっているのがメディアで表象される「めざすべき身体」 のイメージであり、そうしたイメージをとりわけ強烈に提示するのが広告というメディア である。多くの女性向け雑誌にはダイエットに関する記事が極めて頻繁に登場し、さらに 痩身・美容関連商品の広告も多く掲載される 18 。諸橋は広告の分析から、そこで提示され
る理想的な身体とは、若く(肌にしわやしみ・ソバカスがなく)、スリムかつバストが豊 かであり、滑らかで(毛深くなく、吹き出物がない)、色が白く、目蓋は二重であり、鼻 筋が通っている…といったものであることを示している 19 (ただし当然のことながら、美
の基準は文化や時代によって相対的なものである。たとえば李2011によれば、米国の広 告では「ボディー」の美が強調されるのに対し、日本においては「かわいさ」に力点がお かれる等の差異がある 20 )。また、広告上では「それを見る者に「自分が社会的に美しい
と評価される基準から外れている」といった欠如感を抱かせるような表現が採用され(た
! ウルフ1994の原著は1991年初版。 15 ! 梶原ら2009,p.97。 16 ! 諸橋2009,p.56。 17 !18同上,p.57-59。 ! 同上,pp.68-84。 19 ! 李2011,p.159。 20
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とえば、ある商品の使用前と使用後の写真を並置して比較するなど)、消費者に身体の検 閲を強制し、財の消費へと向かわせる。かくして女性雑誌は、「グルメ記事や料理記事な どで「食べろ」という一方で、ダイエット記事や痩身広告、ファッション記事で「食べる な」という、(…)マッチ・ポンプ的企画構成で雑誌や広告商品を購買させている」 21 。
女性たちがこうして獲得される女性の 美しい 外観は「資本」あるいは「財」であり、そ れ じ た い 消 費 さ れ る と 同 時 に さ ら な る 資 本 や 財 を 生 み 出 す 22 。 前 章 で 示 唆 し た と お り 、
「少女」は単にジェンダー・アイデンティティや年齢層を指示する概念にとどまらない。 しかし、少女概念および少女文化が性的規範を訓化するメディアと不可分に形成されてき たものである以上、女性とメディアを取り巻くこうした状況に巻き込まれざるをえないこ とも事実であろう。すなわち、少女たちもまた美の希求のために積極的に消費し続けるこ とを強制されているのである。
! さらに、こんにちの「カワイイ」文化が置かれている文脈として言及しなければならな いのが、いわゆる「クール・ジャパ ン」戦略のなかでソフト・パワー 23 の担い手として輸
出される「カワイイ」の側面についてであろう。 「クール・ジャパ ン」の語の初出はD.マクグレイの Japan s Gross National Cool であ る。マクグレイはGNP(Gloss National Product、国民総生産)を「GNC(Gloss National Cool、国民総クール)」と読み替え、日本が経済大国ではなく「クールな」文 化大国として新たに存在感を増していると述べた 24 。こうして国外の研究者によって 発
見 された「クール・ジャパ ン」は、今や国家規模で推進される日本のソフトパワー輸出 プロジェクトのキャッチコピーとなった。たとえば、政府は2010年にクールジャパ ン推 ! 同上,pp.58-59。 21 ! 同上,p.67。なお、このような経済関係を可能にしているのが男性の異性愛的なまなざしであることは諸橋も指摘するところであるが、 22 この点に関しては後の章で論じたい。 ! J.ナイによって提唱された概念で、その社会の価値観、文化的な存在感、政治体制などが他国に好感を持って迎えられ、外交に有利に 23 働くことを指す。軍事力や経済力といった「ハード・パワー」と対置される。 ! 沼田2008,p.44。 24
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進 に 関 する 関 係 府 省 連 絡 会 議 を 立 ち 上 げ、 「 ゲ ーム ・ マ ン ガ ・ アニ メ と い っ た コ ンテ ン ツ、ファッション、産品、日本食、伝統文化、デザイン、更にはロボットや環境技術など ハイテク製品 25 」など広範囲に及ぶモノや文化を「クール・ジャパ ン」とした上で、それ
らを「我が国の歴史・文化の中で培われた美意識や創意工夫に基づく(…)、 世界に通 用する知的資産」と位置づける 26 。これらのクールジャパ ン推進のために各府省にはそれ
ぞれの分野に応じた施策が割り当てられ 、この取り組みを通じて「クールジャパン関連産 業の市場規模を約4.5兆円(2009年)から17兆円(2020年)にすること」 27 が目標とされて
いる。 「カワイイ」に関する具体的な政策の例としては、外務省が2009年に任命した「ポッ プカルチャー発信使」、通称「カワイイ大使」の委嘱が挙げられる。これは「近年世界的 に若者の間で人気の高い日本のポップカルチャーをさらに積極的に活用する」ために「こ の分野で顕著な活動を行っている若手リーダーに「ポップカルチャー発信使」の名称を付 与して、広報関連業務等を委嘱するとともに、可能な範囲で、在外公館及び国際交流基金 が実施する文化事業への協力を求める 28 」ものであり、青木美沙子・木村優・藤岡静香の
三名が「カワイイ大使」に任命された。青木・木村の両名はファッション誌「KERA」の 読者モデルであり、青木はロリータファッション、木村は原宿系のストリートファッショ ンにおいてそれぞれ人気を博していた。また、藤岡はブランド制服ショップ「CONOMi」 (いわゆる「なんちゃって制服」、学校指定の制服ではないブレザーなどの制服風アイテ ムを取り扱うブランド)のアドバイザーであり、日本独自「女子高生ファッション」を象 徴する存在としてカワイイ大使の任を与えられている。 この「カワイイ大使」の委嘱を、「保守的なジェンダー規範への順応」とみて批判する
! 知的財産戦略本部企画委員会「クールジャパン推進に関するアクションプラン」,p.3。 25 ! 同上,p.1。 26 ! 同上,p.2。 27 ! 「ポップカルチャー発信使(ファッション分野)の委嘱」http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/culture/koryu/pop/kawaii/より引用。2013年12 28 月14日閲覧
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のがMiller2011である。Millerは「カワイイ大使」が「入念に訓練され 、パ ッケージ化 された」 29 プロのエンターテイナーであり、実際に東京のストリートから連れてこられた
のではないと指摘する。すなわち、実際の文化の様相を少数の表象に凝集させることで単 純化しているという点を問題視しているのである。さらに彼女は、そのプロモーションや 展開が中年男性エリートによって主導されているという点に注目する。外務省のエリート によって入念に選定・操作された彼女たちは、「女性および少女をパターナリスティック な統制と欲望の対象に同化させ」 30 、「保守的なジェンダー規範に順応し、無害な少女性
を補強している」 31 とMillerは主張する。つまり、女性性や少女性が担う「カワイイ」と
いう価値観は「カワイイ大使」という国家プロジェクト展開の過程において単純化を被っ ており、これは政府による搾取である。さらに、「カワイイ大使」は男性エリートによる 任命という権力関係の布置のもとで可愛らしい ユニフォーム に身を包んで大使としての 仕事をこなすことで、「従順で無害な女性/少女」というジェンダー規範を補強している ̶̶Millerの議論を整理すると以上のようなものになる。 上述したような「カワイイ」の搾取が国家によるものにとどまらず、様々な私企業もま た利益誘導のために「カワイイ」を利用しているという事実は指摘しておく必要があろう。 「カワイイ/kawaii」を標榜したウェブサイトやイベントはこんにち多数開設・開催され ているが 32 、その一例として2013年4月20日-21日の二日間に渡って代々木体育館で開催
されたのが「カワイイマツリ」である。同イベントは「最新のKAWAiiをテーマにして音 楽やファッションが融合した、日本発・KAWAii!!の祭典」 33 を掲げ、会場内に設置された
複数のステージを使用してコンサートを初めとする様々な演目が行われた。開催1日目は テーマを「MATSURi DA TOKYO!!」としてアイドルやいわゆるアキバ系に属するアーティ ! Miller2011, p.20. 29 ! Ibid., p.22. 30 ! Ibid., p.20. 31 ! たとえば、2013年に新潟で開催されたイベント「日本カワイイ博」ならびにその情報サイト(http://kawahaku.jp/,2013年12月14日閲 32 覧)など。 ! http://kawaii-matsuri.jp/about/より引用。2013年12月14日閲覧。 33
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ストのコンサートなどが上演され、2日目は「HARAJUKU KAWAii!!」をテーマにきゃりー ぱみゅぱみゅらのコンサートおよび若者向けブランド・雑誌のファッションショー等が行 われた。ファッションショーがブランドや雑誌のプロモーションのためのものであること は言うまでもないが、ここで指摘しておきたいのは、ステージイベントの中に少なからず モノやサービスの宣伝・広告プログラムが含まれていたということである。たとえば2日 目には富士フィルムによる「チェキ」 34 のPRステージがあり、これはファッションショー
に登場した人気読者モデルらが「チェキ」を使ってステージ上で互いを撮影するという趣 旨のものだった 。また 、同日には化粧品メ ーカー「コージー本舗」のつけまつげのPRス テージも行われ 、こちらにもやはり読者モデルらが出演し、つけまつげに関するクイズに 回答しながら同社製品の良さをアピールするという内容のものであった 。さらに 、PRプ ログラムを出展した企業のうちいくつかはステージに併設された物販スペースに販売ブー スを持ち、ステージイベントにおいて来場者をそちらに誘導する場面もあった。このよう な構成を鑑みると、「カワイイマツリ」は「カワイイ」をキャッチフレ ーズとして利用し たマーケティングの機会であったと言える。すなわち、ここでは「カワイイ」語義の曖昧 さを利用しながら多様な財を「カワイイ」と結びつけ、「カワイイ」感性の所有者=少女 たちを消費へと誘導するというストラテジーが実践されていたのである。
! 少女たちの消費は、モノの使用価値ではなく記号性とそれにもとづ く差異化の論理を基 盤になされる現代社会の消費の典型例である。その消費への欲望は構造的に自ずから無限 に湧出する性質のものであるが、これは雑誌などのメディアによってさらに加速・拡張さ れていく。また、こうした少女とメディアとの関係性は、広告等のメディアを通して女性 たちが巻き込まれ続けている「美」の強制という文脈へと接続されるものでもある。 さらに今日的な状況として、「クール・ジャパ ン」を対外的にプロモーションするため の戦略として「カワイイ」が用いられることがあり、ここにおいて「カワイイ」文化の多 ! 富士フィルムから発売されているインスタントカメラ。 34
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様性がパ ッケージ化される。さらにはそうしたパ ッケージ化された「カワイイ」の体現者 である「カワイイ大使」は男性エリートの統制下にあり、これは保守的なジェンダー秩序 の再生産に結びつくのではないかという指摘もある。また、「カワイイ」を利用したマー ケティングは国内外を問わず行われ 、たとえば「カワイイマツリ」のようなイベントでは 「カワイイ」の語のもとに多様な財が囲い込まれ 、来場者に宣伝されていた。 少女とはつねに消費者であり、消費者であるがゆえに常に種々の経済的アクターの利害 関係への参与を余儀なくされる。そしてしばしば、一方的に搾取される 脆弱な消費者 と みなされてしまう。だが果たして、彼女たちを単に搾取の客体としてのみ捉え批判するこ とは正当なのだろうか。彼女たちの消費行動を、能動的で積極的な文化創造や文化実践と して読解することはできないのだろうか。次節では、「カワイイ」市場の拡大それ自体の うちに少女たちの主体性の発揮を見出すことを試みる。
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§2-3 少女たちの抵抗 前章で見たように、フェミニズムはわれわれに支配的なものへの抵抗の方法論を提供し てきたが、こんにちではその運動の焦点が「政治的なもの」や「社会的なもの」から「ポッ プなもの」「個人的なもの」へと移行している傾向がある。先に見た寝室文化およびガー ル・ジン運動への注目もこの流れを汲んだ視座であると言えよう。本稿の中心的な関心で ある「カワイイ」への着目もまた、「ポップ」かつ「個人的」なもののうちに抵抗の契機 を見出すという立場を採用するものである(ただし、必ずしもフェミニズムという枠組み 自体に賛同するものではないことを再び強調しておく)。 さて、こうした焦点の移行に関しては賛否両方の立場があるが、懐疑的な解釈について は前節で確認した。すなわち、「ポップなものの称揚は、結局は女性たちの実践が消費文 化の餌食にされてしまった」にすぎず、ポップなもの・個人的なものの焦点化は「イデオ ロギーな後退」であり「抵抗的のための集合的なブロックを形成させないための、権力側 の戦略と共謀しているにすぎない」 1 とみなす考え方である。他方、この移行を評価する
論者の多くは、こんにちの若者が政治的な活動や文化的な批判を生み出すのが困難な時代 背景にあるという認識をもっている。その上で、消費権力の中で収入と自由を手に入れた 消費者としての女性という前提を想定し、消費社会に対する抵抗は消費的な実践を通して のみ可能であると考えるのである 2 。
本稿もまた、消費主義社会における支配的なものへの抵抗が消費を通してなし得るとい う後者の見地に与するものである。すなわち本節で試みるのは、こんにちの「カワイイ」 文化≒少女文化の繁栄を、消費者たる少女たちの抵抗の成功例として読み解くことである。
! ! 「カワイイ」の成功を確認するために、ここでは第一章で「カワイイ」を典型的に表象
! 田中2012,p.65。 1 ! 同上,p.64。 2
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するイコンとして例示したきゃりーぱみゅぱみゅを再び取り上げよう。彼女のCDデビュー 以降の活躍にはめざましいものがあり、10本以上のTVCMに出演、公式ブログ「きゃりー ぱみゅぱみゅのウェイウェイブログ(http://ameblo.jp/kyarypamyupamyu/,2013年12 月20日閲覧)」は一日200万アクセスを突破する 3 。楽曲がしばしばテレビCMとのタイ
アップであることからも(たとえば、2013年12月現在の最新シングルCD「もったいない とらんど」は携帯電話キャリアauのCMソングであり、彼女自身その「カワイイ」世界観 とともにCM出演している)、彼女の活躍の場が決して限定的なフィールドにとどまらな いことがわかる。 あるいは、政府公認の「カワイイ」文化であるところのロリータ・ファッションの認知 度の高まりを考えてみてもよいだろう。2004年公開の「下妻物語」は嶽本野ばらの同名 小説を映画化したものだが、ロリータファッションブランド「BABY, THE STARS SHINE BRIGHT」の お洋服 に深く傾倒する主人公桃子(演:深田恭子)のロリータスタイルを きっかけとして、ロリータスタイルが大衆文化の中に広く膾炙した。一部の少女たちの間 で密やかに愛好されていたロリータは、ファッションの一ジャンルとして(多くの誤解や 粗悪な模造品の氾濫を伴いながらも)広く知られることになったのである 4 。
また、前節で確認したとおり、「カワイイ」文化の受容は国内に留まらない。たとえば、 1999年からフランス・パリで開催されている「ジャパ ンエキスポ」 5 は日本の伝統文化や
ポップカルチャーを紹介するイベントだが、これは世界各国で開催されている日本文化関 連イベントの中で も最大規模のものである。2008年のジャパ ンエキスポを取材した櫻井
! 「きゃりーぱみゅぱみゅ 「当分彼氏はいらないです」宣言」http://news.ameba.jp/20110102-101/より。2013年12月20日閲覧。 3 ! ただし、パンク系ブランドSEXY DYNAMITE LONDONやゴシック・パンク系ブランドPEACE NOW、ストリート系のアイテムを扱う 4 BANANA FISHなどの破産が2000年代末∼2010年代初頭に相次いでおり、ゴシック・ロリータ・パンク系ブランド市場は2013年現在全体的 に縮小傾向にあると思われる。 ! JTS GROUP COMPANY社(仏)主催のイベント。アニメソングやアイドル、J-POPのコンサートが行われるほか、東映アニメーション 5 (アニメ制作)、バンダイ(玩具)、サンリオ(ファンシーグッズ)、かまわぬ(手ぬぐい)、「なんちゃって制服」や原宿系のファッショ ンブランド・ショップ等が出展する。2013年の第14回ジャパンエキスポの入場者は約23万人(http://www.japan-expo.com/fr/info/l-histoirede-japan-expo-2009-a-2013_475.htmを参照、2013年12月21日閲覧)。“ジャパンエキスポでは「学ぶ・楽しむ」をテーマに、漫画、J-Music、 コスプレショーや武道に至るまで、様々な日本の伝統文化そして現代のポップカルチャーを紹介します。”(http://nihongo.japan-expo.com/ art-918-en-presentation.htmlより引用、2013年12月21日閲覧)
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2009は、来場者にゴシックやロリータなどの「原宿ファッション」の少女が多く見られ ることを驚きとともに報告している。それらのファッションとともに、彼女たちのあいだ にはすでに「KAWAII」の語が浸透しており、櫻井のフランス人の友人は「本物の日本人 に『カワイイ』といってもらえると、彼女たちは最高に幸せな気持ちになるのさ」 6 と証
言する。前節で紹介した青木美沙子はパリで有志によって行われたロリータ少女たちの「お 茶会」に出席し、その体験について「私から見たら、うわ∼、なんてカワイイんだろうと 思えるフランス人のロリータが、私を見て『カワイイ!』っていってくださるんです。す ごく嬉しかったです」 7 と回顧する。他にも櫻井は、独デュッセルドルフ、南仏プロバ ン
ス、アジアでは韓国・仁川やタイ・バ ンコクなど諸外国での取材を通じ、ファッションを はじめとする日本のポップカルチャーが概念としての「カワイイ/Kawaii」とともに受容 されている事例を報告している。 あるいはYano2013は、昨今の日本から世界への「Kawaii」モノやイメ ージの拡張を Pink Globarisat ionと呼び、その諸性質を分析している 8 。Yanoはピンク・グローバリ
ゼーションと欧米的なグローバリゼーションとの差異について、前者が文化的な均質化を 要請しないという点を挙げる。たとえば、コカ・コーラを消費することは単にアメリカの 商品を購入しているということに留まらず、文化を縦断して消費者たちが共有している一 連 の 商 品 群 を 購 入 す る と い う こ と を も 示 し9 、 さ ら に は 「 現 代 の グ ロ ー バ ル な 消 費 者 」
̶̶すなわち、公式的・非公式的な財産配分や可処分所得、知識、嗜好を通してそれらの モノにアクセス可能な消費者̶̶の一員であることをも意味する 10 。一方で「カワイイ」
モノは、「無国籍(Mukokuseki)」なものであり、したがって、たとえばハローキティ を購入することは文化的均質化の脅威をもたらすことはないという。つまり、Yanoの分 ! 櫻井2009,p.21。 6 ! 同上,p.23。 7 ! Yano2013, p.6. 8 ! Ibid., p.13. 9 ! Ibid., p.12. 10
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析によれば、日本は支配的なモダニティとモノとの接合関係を強制することなく「カワイ イ」を輸出している。「カワイイ」は単なるモノ以上のものではあるが、ライフスタイル やナショナリティを運搬する(コカ・コーラやマクドナルドやスターバ ックスのような) ものには至らないのである 11 。
かくして「カワイイ」文化は、消費を喚起しみずからの市場を拡大するという形で、閉 鎖的な文化圏から進出し支配的な価値観への浸入を̶̶それを根本的に覆したり変質させ たりするのではない仕方で、そしてそれゆえに脅威として排除される危険をおかすことな く̶̶果たした。そしてそれは日本国内に限らず、いまやグローバル資本主義市場にまで 触手を伸ばしているのである。
! ここまで述べてきたように商業的成功を収めている「カワイイ」文化が、マイナーなも のの側にあるということは重要である。このように、「カワイイ」とは一見無害で未成熟 なものからの逸脱に特徴付けられる感性であり、それはたとえばファッション誌において コンサバティブ
は「赤文字系」と呼ばれるコンサバティブな̶̶ここでいう 保守 性には性的な規範も含 まれる(詳しくは次章で検討する)̶̶ファッション提案からの逸脱として登場したオル タナティブである「青文字系」においてより強く共有されるような感性である 12 。そして
そこでは、たとえば下着をアウターとして用いるような、価値転換的なファッションが生 み出されてきた 13 。松谷2012が戸川純や篠原ともえらの「不思議ちゃん」について語る
よ う に 、 「 カ ワ イ イ 」 文 化 は 「 多 数 派 と の 差 異 と し て 立 ち 現 れ る 」 14 も の な の で あ る
!11同上,p.14。 ! 「赤文字系(または赤文字雑誌)」は、雑誌の題字の色と扱われているファッションの傾向にちなんで命名されたファッション刺の分 12 類のひとつである。『ViVi』(講談社)、『CanCam』(小学館)、『Ray』(主婦の友社)、『JJ』(光文社)といった題字が赤または ピンクの、女子大生をメインターゲットとしたコンサバ系雑誌がここに該当する。それとの差異化を図るための名称として、アソビシス テム株式会社代表の中川悠介がいわゆる原宿系ファッションを指す「青文字系」ということばを提案した(よって、こちらは雑誌のカテ ゴライズではなくファッションや文化に対するカテゴライズである)。http://www.haracolle.jp/old09autumn/about.htmlを参照、2013年12月 20日閲覧。なお、青文字系の先駆としての『CUTiE』創刊の経緯については松谷2012に詳しい。 ! 宇野2013,p.34。 13 ! 松谷2012,p.103。 14
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(もっとも、だからこそ無限の差異化という強迫への危機につねにさらされているという ことは前節で確認したとおりである)。 きゃりーぱみゅぱみゅの出自もまた、こうした「青文字系」の文化圏である。「青文字 系」に属する雑誌(『CUTiE』(宝島社)、『KERA』(ジャックメディア)、『Zipper』 (祥伝社)など)の紙面構成の特徴のひとつに原宿を中心に撮影されるストリートスナッ プの掲載があるが、彼女の芸能界デビューのきっかけは高校2年生の時の『KERA』のス トリートスナップ撮影であった。スナップの常連となったきゃりーは同誌の読者モデルと な り 、 2 0 1 0 年 の 「 原 宿 ス タ イ ル コ レ ク シ ョ ン 」 15 で 出 会 っ た 中 田 ヤ ス タ カ に よ る プ ロ
デュースのもと2011年にCDデビューすることになる。彼女は著書の中で、「大好きな街、 個性あふれる街」原宿を「「そんなファッション着ちゃうの?」といわれそうな服でも堂々 と着られる。いろんなタイプの人がいて、みんないっしょじゃない」場所と評し、「原宿 を世界に広めたいな」と語る 16 。すなわち彼女の、そして「カワイイ」文化の原点のひと
つは、日本のストリート・カルチャーという、主流文化の多数性に抗して独自の美学を生 み出そうとする力動の場̶̶具体的には「原宿」という、文化交錯のトポス̶̶にあった のである(「人とかぶりたくない!」というきゃりーの発言を思い出してみればよい)。
! もともとマイノリティの文化であった「カワイイ」文化≒少女文化が商業的に成功した ということはしかし、マジョリティの側に、あるいは支配的なものとの共犯関係のうちに 取り込まれてしまったということを必ずしも意味しない。ドゥルーズ=ガタリは『千のプ ラトー』において、マジョリティという尺度とそれが生み出すマイナー性について以下の ように述べる。
! ! 2009年から2010年にかけて開催されたステージイベント。原宿から発信されたファッションやカルチャーを取り上げ、ファッション 15 ショーやライブなどが行われた。http://www.haracolle.jp/を参照、2013年12月20日閲覧。 ! きゃりーぱみゅぱみゅ2011,p.78。 16
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われわれにとってマジョリティとは、相対的により大きい量のことではなく、それに照らすなら、 より大きい量も、より小さい量も同じくマイナー性だといえるような一つの状態、または尺度の限定 である。たとえば人間‒白人‒大人‒男性がそうだ。マジョリティは支配の状態を前提にしているので あって、支配の状態がマジョリティを前提にするのではない。問題は、蚊や蝿は人間よりも数が多い のかどうかということではなく、「人間(男性)」17はいかにしてこの宇宙における尺度を構成しえ
たのか、ということだ。(…)市民社会におけるマジョリティは投票権を前提にするものだが、これ は投票権を持つ者のあいだにだけ成立するのではなく、投票権をもたない者にも、彼らの数とは無関 係なまま、その効力をおよぼしていく。同様にして、宇宙におけるマジョリティは、人間(男性)の 権利や権力があらかじめ所与として与えられていることを前提とする。18
!
すなわちマイナー性(マイナーであること、minoritaire) 19 とは、単に数量的な少数性
に依拠するのではない。権利や権力を持ち、支配者の位置を占め、尺度を提供する者がマ ジョリティであり、それに対して、権利や権力を持たず、被支配的な地位を占め、マジョ リティによって提供された尺度を当てはめられるものがマイナー性である。さらにドゥルー ズ=ガタリはまた 、「等質的、定常的システムとしてのマジョリティ」に従属する「下位 システムとしてのマイノリティ」と、「潜在的な、創造された、創造的なマイナー性」、 すなわち生成変化によって至るマイナー性との区別について以下のように述べる。
! たとえ新しい定数を作り出すにしても、問題は決してマジョリティに到達することではない。メ ジャー性への生成変化は存在しない。マジョリティは決して生成変化ではないのだ。マイナー性への 生成変化だけがある。女性たちは、数がいくらであれ、状態あるいは部分集合として定義可能なマイ ノリティである。しかし彼女らは、[マイナー性への]生成変化を可能にすることによってのみ創造 することができるのであり、その生成変化の所有権などもっていない。彼女たちは生成変化の中に入っ ていかなければならないのであって、女性になることは、男も女も含んだ人間全体にかかわっている のだ。20
! 原文ではl'homme、すなわち「人間」と「男性」を同時に意味する語が用いられている。 17 ! Deleuze & Guattari1980, p.356(邦訳pp.334-335). 18 ! 本稿ではDeleuze & Guattari1980の引用に際し原則として邦訳版をそのまま用いているが、原著のmajorité / minoritéには「マジョリティ/ 19 マイノリティ」を、majoritaire / minoritaire には「メジャー性/マイナー性」の語をそれぞれ充て一部改訳している。ドゥルーズ=ガタリは 本書において、マジョリティに規定される静的な「マイノリティ」と抵抗の契機である動的な「生成変化」としての「マイナー性」を区別 しており、その意図を反映させるためタームをこのように統一した。 ! Ibid., p.134(邦訳p.125). 20
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! マジョリティとマイナー性をこのように理解するならば、「カワイイ」文化が単に数の 上での多数派の支持を獲得したことがその潜勢力を減じたとは言えない。また、「カワイ イ」文化が支配的な価値観を転覆しヘゲモニーの奪取を目指す必要もない。「カワイイ」 文化はマジョリティの規範のオルタナティブとして出発した。そしてその独自の美意識を 醸成・発展させながらオルタナティブを提供しつづける限りにおいて、「カワイイ」は 創 造的なマイナー性 でありつづけることができるのである。
! ドゥルーズ=ガタリは「生成変化」の概念を通じて、マイナー性が単なる支配的なもの への不服従を超えた抵抗を実践する仕方について述べるが、中でも彼らがとくに取り上げ ている主題のひとつが「女性への生成変化」である。上述の引用に続いて、彼らは「尺度 としての人間(男性)に対して女性が特異的な位置を占めるからこそ、すべての生成変化 は、そのマイナー性によって、必ず女性への生成変化を経由する」 21 と述べる。
「生成変化(devenir、〈なる〉)」とは、「模倣することではないし、同一化するこ とでもない。また退行したり進歩したりすることでもない。照応し、照応関係を打ち立て るのとも違う。生産するのとも違う」と彼らは言う。また、生成変化とはつねにマイナー なものへの生成変化であるが、「女性」というタームはマジョリティに対するマイナー性 を言うために採用されている。ゆえに、この「女性」は「モル状の抽象的実体」と彼らが 呼ぶ、「女性と男性を対立させる二元的機械にとらえられ 、形態によって限定され 、器官 と機械を与えられた上で主体の位置を割り当てられた女性」 22 ̶̶すなわち、男女二元論
に基づ いて解剖学的/制度的/社会的/文化的に決定され付与されるアイデンティティと しての女性ではない。つまり生成変化とは、ステロタイプ的な実体としての、すなわち「モ ル状」の何かに、モノとしての現実の身体を作り替えることではない。身体の上で発揮さ
! Ibid., p.356(邦訳pp.334-335). 21 ! Ibid., p.337(邦訳p.317). 22
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れるパフォーマティビティによって、「モル的なもの」から逃れつづける運動への注意を 喚起する語なのである 23 。
! ここで特筆すべきは、「女性への生成変化」が「少女」と換言されているということで ある。
! 少女も、確かに器官的、モル的意味における女性になりはするだろう。しかし、逆の見方をすれば、 女性への生成変化や分子状女性は少女そのものだとも考えられるのだ。(…)少女は抽象線、あるい は逃走線なのだ。したがって少女たちは特定の年齢や性別に、あるいは特定の秩序や領界に帰属する ことがない。むしろあらゆる秩序や行為、あらゆる年齢や性別のはざまに滑り込むというべきだろ う。こうして少女たちは、あらゆる二元的機械を自在に横切り、またこの機械との関係において、逃 走線上にn個の分子状の性を産み出すのである。24[傍点引用者]
! このようにドゥル ーズ=ガタリが「少女」を定義するとき、実在する実体としての少女 が想定されているのではない。また当然のことながら、本稿で設定している「少女」の再 定義と一致するもので もない。重要なのは、ドゥルーズ=ガタリもまた、その「境界性」 という特異的な性質のもとに、そしてその性質のもとにおいてのみ「少女」を規定してい るということである。第一章で述べた通り、「少女」とは性別や年齢の閾を超える境界的 存在である。ドゥルーズ=ガタリはこの境界性にこそ生成変化があると考える。「生成変 化は常に〈中間〉にあり、これをとらえるには〈中間〉をおさえるしかない。生成変化は 一でも二でもなく、一と二の関係でもなく、二つの〈あいだ〉」 25 なのである。
ドゥルーズ=ガタリによれば、少女とは「中間」であり、マイナー性への生成変化その
! 千葉2013,pp.72-73。 23 ! Deleuze & Guattari1980, p.339(邦訳p,319). 24 ! Ibid., p.359(邦訳p.337). 25
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ものであり、モル的な力̶̶それは〈みんな〉であり 26 、国家・家族といった服従化を強
い 27 、 あ る い は ( 再 ) 領 土 化 を た く ら む 力 で あ る ̶ ̶ か ら 逃 れ 続 け る 分 子 状 の 存 在 で あ
る。すなわち、「支配と服従化を蝕むものへと生成変化を続け、自らを脱服従化し続ける」 存在である 28 。少女たちは「カワイイ」文化を築き上げ、それを更新し、自らの身体の上
で実践することによって、マイナー性への生成変化のただ中にありつづける。そしてその ことを通して、支配的なイデオロギーの撹乱を̶̶おそらくは非自覚的に̶̶試みている のである。 本章を通して確認してきたとおり、この過程は新自由主義的消費と不可分に進行してい る。「カワイイ」を更新し続けるという営みは、ともすればボードリヤールが指摘した無 限に増大する差異化のための消費への欲望に少女たちを駆り立てるものでもある。少女た ちはそうした強迫とつねに隣り合わせながら、消費を通してあやうい主体性を発揮し、抵 抗を実践しているのである。
! Ibid., p.343(邦訳p.322). 26 ! 佐藤2009,p.159。 27 ! 同上,p.167。 28
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§2-4 第二章の結論 本章ではまず、「カワイイ」感性の具体的な発露がつねに消費と不可分であるというこ とを、少女文化の歴史を概観することによって明らかにした。少女たちは少女雑誌に掲載 された広告や、叙情画・記事などにおいて表象された少女イメージを実現するための過程 として「消費」を必要としてきた。すなわち少女とは、市場に流通するアイテムの選好に よって成立するのである。 しかし、少女が消費によって成立するということは、同時に消費社会においてわれわれ が巻き込まれている様々な欲望の喚起や搾取の構造に巻き込まれているということをも意 味する。少女の「カワイイ」を価値基準とした消費は、ボードリヤールが現代消費社会の 特性を分析して述べた「記号性の消費」の典型的な例であり、そこで少女たちは差異化を めざした欲望を無限に増大させられつづける。また、少女たちの消費は雑誌をはじめとす るメディアと強く結びついたものであり、とくに広告においては女性は美しくあるべきと いう規範を補強するような表現が多く採用され 、少女たちを含めた女性向けメディアの消 費者に美的な理想の追求のための消費を促すような構造がある。さらには「カワイイ」が いわゆる「クールジャパ ン」戦略のために収奪されているという指摘もなされており、少 女たちはこうした多様な搾取の可能性につねに晒されている。 だが、こんにちの「カワイイ」の認知度の向上や広がりを、支配的なものへの抵抗の成 功例として捉えることはできないのだろうか。「カワイイ」文化圏出身のアーティストで あるきゃりーぱみゅぱみゅの活躍や、ヨーロッパ・アジアなど諸外国への国際語としての、 また概念としての「カワイイ/Kawaii」の浸透は、もともとコンサバティブに対するオル タナティブであった「カワイイ」の支配的なものへの侵入とみなすこともできる。このよ うな商業的な成功、数としての「カワイイ」のメジャー化は、必ずしも「カワイイ」の抵 抗 の 源 泉 で あ る マイ ナ ー 性 を 損 な わ な い 。 こ の こ と は 、 ド ゥ ル ーズ = ガ タ リ が 奇 し く も 「少女」というタームを通して示した「マイナー性への生成変化」の概念を参照すること で明らかになる。少女であることの境界性はモル的であること̶̶すなわち、固定的なア
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イデンティティへの同一化を蝕み、少女たちは支配的なものへの抵抗としてのマイナー性 を確保しながら生成変化をパフォーマティブに実践するのである。 次章では、本章で確認した少女の抵抗のありかたを踏まえ、その実際の様態を、少女の 身体性とそれがもたらすセクシュアリティに注目して考察する。すなわち、彼女たちが「カ ワイイ」を通してパフォーマティブに身体を構成し、ドゥルーズ=ガタリの言うように「逃 走線上にn個の分子状の性を産み出す」過程を検討してゆきたい。
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第三章 §3−1「カワイイ」の占有 「カワイイ」が境界解体的な概念であること、そして少女たちがこの「カワイイ」と特 権的な関係を取り結びながら少女文化を形成してきたことは一章で既に述べた。本章では そうした「カワイイ」のプロセスをさらに詳しく読解することを通じて、そこで少女たち がある種の権力を行使している可能性について述べてゆきたい。
! 現代少女文化における抵抗を検討する前に、まずは明治期以降の少女雑誌とそれに付随 する少女文化のうちに抵抗を見出す本田1982・1990の主張を再検討してみたい。本田は 少女たちが少女雑誌の投稿欄を通して独自の美意識や価値観でむすばれたネットワークを 形成し、それを通して抵抗を試行してきたと述べる。本田は、明治末期の女学生たちが「和 洋いずれの伝統にも依拠しない」装いと「正当性を認められたまともな女性文化を無化す る」人工的な「女学生ことば」をもちいることで、「「異化するもの」としてのありよう を誇示してきた」という。そして彼女たちはやがて、「みずからの装いでその世界を彩っ て、集団としての凝集力を高め始め」、少女文化という「彼女ら占有の治外法権文化圏」 をつくりあげたというのである 1 。この文化圏の形成におおきく寄与したのが少女雑誌の
投稿欄であったということは既述したとおりだが、本田はこれを「投稿という手段を通じ て、積極的に誌面に介入し、市場を私的なコミュニケーションの場に変貌させる」という 主権奪取の過程とみている。すなわち、公的教育の補完物として良妻賢母イデオロギーを 補強するという少女雑誌本来の役割を無視し、自律的にネットワークを展開していたとす るのが本田の立場である 2 。
ここで注目したいのは、「装い」̶̶つまり、「髪に揺れるリボン」や「海老茶袴」で
1! 本田1990,pp.178-179。 2! 同上,p.187。
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「自転車」に乗る女学生スタイルや、「心葉、春波、幽波、花陰」 3 などのきらびやかな
ペンネームといった少女独特の外観の諸様式が自律性を確立するための手段として活用さ れたということである。少女たちは都市のランドスケープにおいては袴にリボンという服 飾の「装い」、のちには少女雑誌の誌面上においては華美なペンネームという言語的な「装 い 」 との か か わ り の 中 で 自 ら を 加 工 して 異 化 性 を 高 め 、 独 自 の ネッ ト ワ ー ク を 展 開 し 、 「「父の力」に依拠する財力や社会階層を無化し」、「母の力」で整序された分相応の躾 からも自由に、彼女たちだけの塊」 4 をつくりあげたのである。
ただし、こうしたネットワーク形成による「秘めやかな「ノン」」 5 の限界についても
言及しておかなければならない。当時は作家や画家などごく一部の特殊な専門業を除き、 女性には実質的には専業主婦以外のキャリア選択が残されていないというのが実情だった。 つまり、少女という一時的な猶予期間を終えたあとには、良妻賢母イデオロギーに従って 「家の女」にならなければならなかった。また、少女たちから少女雑誌に寄せられる投稿 を取捨・選別して掲載する権限は当然のことながら編集者の側にあり、少女ネットワーク が自律性をもつという見方には疑念を差し挟む余地が残る。佐藤2009が指摘するように、 「体制に背を向けて自閉自足する「少女的なるもの」(…)が表明する「秘めやかな「ノ ン」」は、あくまでも体制によって少女期のみに限定された形で容認されたものであり、 それを安易に体制の生み出した良妻賢母像に対抗するオルタナティブとして捉えることは できない」 6 のである 7 。
だがいずれにせよ、その効力が限定的なものであるとはいえ、ここに「カワイイ」の力 学̶̶すなわち、独自の価値観のもとに既存の秩序から事物を解放して自分たちの領域に 吸収するというプロセスの力学の濫觴をみることができよう。少女たちは「袴」というそ 3! 同上,p.188。 4! 同上,pp.189-190。 5! 本田1982,p.199。 6! 佐藤2009,p.255。 7! ただし佐藤はここで同時に、「少女」が「発言しネットワーキングする「主体」として発見されたからこそ」、想像的なネットワークに囲い込まれな ければならなかったのではないかという視点を示している。
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もそもは男性のものであった「装い」をみずからのものにすることによってジェンダー秩 序に(部分的に)叛逆し、「装い」に関する固有の美意識が流通する「少女ネットワーク」 という領域を生成・補強してきたのである。 い
興味深いことに、「少女」を切り出す枠組みは異なる外観を収奪することとともに成立 してきた。「少女」の誕生の一端を担ったのは、既述したとおり(男女別学の)学校制度 であった。それはそこに通ってくる少女たちの服装をも規定したが、女子の制服(および それに準ずるもの)はその多くが男性の服装を基につくられている。明治期の女学生の袴 がもともと男性の服装だったことをはじめ、こんにち女子の制服として一般的なものとなっ ているセーラー服は男性の軍装を翻案したものであり、ブレザーもまた紳士服や軍服といっ た男性の装いをアレンジしたものである。つまり少女とは、「制服」という異性装的なも の̶̶換言すれば、本来は男性性に帰属させられるべきものを変形し、みずからのイコン として取り込むというプロセスとともに成立してきたのである。制服の制定は少女たちが 意図したものではないとしても、少女たちがそうしたスタイルをみずからのものとして受 容していったということは境界解体のプロセスとしての「カワイイ」を考察する上で象徴 的なものといえよう。 また、少女たちが制服の私物化を通して動揺させようとする秩序はジェンダー規範のみ にとどまらない。そもそも制服は管理機構としての校則、ひいては学校制度そのものを象 徴するものである。70年代初頭の大学紛争の影響を受けたいわゆる高校紛争において、 主要な具体的争点となったのが制服の是非であったことからも、制服=管理という発想が 根強いものであることがうかがえる 8 。ところが実際には、この図式は被-管理者であると
ころの少女たちに共有されてはいない。それどころか、彼女たちは制服や校則を我がもの とし、「カワイイ」の秩序に取り込んでしまうのである。たとえば、1985年の初版発行 以降1993年まで毎年改版をかさねてきた『東京女子校制服図鑑』(弓立社)は受験を控 えた女子中学生にひろく購読された。『図鑑』をカタログ的に利用し、より「カワイイ」 8! 大塚1990,pp28-29。
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制服の高校を進学先に選ぶためである 9 。女子高校生たちが制服に対して向けるのはそれ
が「カワイイ」否かを判断する審美の眼差しであり、管理や弾圧に対する反感のそれでは ないのである。仮に制服が「カワイイ」ものでなくとも、彼女たちは校則という統制と弾 圧の法とのネゴシエイトの中で、たとえばスカート丈を変える、ブラウスやリボンを替え る…といったような工夫をこらして「カワイイ」ものに変形してしまう。類似の構図は、 女子高校生の制服として今や一般化したブレザーの採用の経緯にもみられる。もともとセー ラー服が廃止された背景のひとつには、70年代に社会問題化した校内暴力の激化があっ た。つまり、男子では 短ランにボンタン 、女子ではロングスカートのセーラー服という 「ツッパリ/ヤンキースタイル」を成立させなくするためにブレザーが導入されたのであ る 10 。 し か し こ の モ デ ル チェ ン ジ は 結 果 と して、 ミ ニ ス カ ー ト に ル ーズ ソ ッ クス と い う
「コギャル」スタイルを成立せしめた 11 。すなわち、「ヤンキー」を排除することには成
功したものの、また別様の逸脱的スタイル成立のきっかけとなってしまったのである。 このように少女たちは、制服とのかかわりのなかで、規律のもとに彼女たちを均質化し 管理しようとする権力側の意図そのものをつねに乗り越えている。だからこそ彼女たちは いつの時代も、制服というポリティクスにおける主権を容易に奪還してしまうのである。 ジェンダー規範の動揺と管理機序の転回という二点において、「制服」は「カワイイ」の 政治的な力学を象徴する存在であると言える。
! こうした「カワイイ」の力能について、Miller2011は「カワイイ」の形態を加工する ことに着目して論じている。Millerは支配的な形態の「カワイイ(cute)」が国家や企業 (たとえば、サンリオ)に搾取されているとする一方で、そこからすり抜ける形態の「カ ワイイ」があることに注目する。それは、風刺や修正、パロディ(satirizing, modifying
9! 同上,pp.34-35。 ! 松谷2012,p.27。 10 ! 同上,p.28。 11
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or palo dy ing)に基づ いて再形成を被った「カワイイ」である 12 。Millerはその発現を
「グロカワイイ」の中に見出し、例として原宿系のファッションブランドh.NAOTO 13 の意
匠̶̶それは「スカルや海賊などのわずかに病的な(slightly morbid)モチーフと、フ リルに彩られた甘ったるい(frilly and sugary)要素が組み合わされた混合物」 14 である
̶̶のうちに見出している。こうした「超カワイイ(hypercute)」は、海外やあるいは 年長者にとっては愛らしさを獲得するための努力であると誤読されがちだが、実際には女 性性の規範にパロディ的な仕方で打撃を与えるものであるとMillerは主張する。そして、 一見無思慮な大量消費を支持することに奉仕しているかにみえる「カワイイ(kawaii)」 は、女性たちの発揮する主体性によって「キモカワイイ」や「グロカワイイ」へと形成・ 微調整(molding and tweaking)され 、少女文化の中に流通している憤慨や不安を可視 化する表象としての役割を担うものであると言うのである 15 。
少女たちの「カワイイ」という価値観の中に伝統的な「かわいい」と相反する要素を見 出し、そこに価値転倒の可能性を読み取ろうとする本稿の論旨は、基本的にMillerの主張 と軌を一にするものである。ただし、Millerが言うように、「キモカワイイ」や「グロカ ワイイ」への変形において少女の主体性が発揮されるとは必ずしも言えないのではないか と 思 わ れ る 。 な ぜ な ら ば 、 M i l l e r が そ う し た 主 体 性 を 覆 い 隠 し て し ま う と 考 えて い る 「kawaii」というタームは、実はそもそも逸脱性や畸形性を本質的に胚胎したものである。
! 繰り返すが、「カワイイ」はその語のまえにあらゆる対象を評価可能な、開かれた状態
! Miller2011, p.23. 12 !13 株式会社KINKSの運営するブランド。廣岡直人がクリエイティブデザイナーを務める。”h.NAOTOは世界的なムーブメントを巻き起こした、ゴスロリ
系ファッションブランド。ゴスロリ、パンク、ビジュアル系、コスプレ、アニメなど、クールジャパン・カルチャーを積極的にファッションに取り込み、 これまでの着飾るファッションから、演じるファッションへの変革をもたらした。ミュージシャンのGACKT、X-JAPANのYOSHIKI、SUGIZOや多くの
ヴィジュアル系バンドや声優、ドールや漫画家など数多くのアーティストとのコラボレーションにより独自の世界感を広げている。2010年から積極的に フランスのJAPAN EXPOやアメリカのANIME EXOPに参加し、日本を代表すべくクールジャパンカルチャーをパリ、アメリカのファンに啓蒙。”(http:// www.hnaoto.com/concept.htmlより引用,2013年12月17日閲覧)ブランド内にさらにジャンルごとに細分化された複数のライン(たとえば、モード系の SEVENやパンク系のh.ANARCHY,ロリータ系のFRILLなど)を持つ。 ! Miller2011, p.24. 14 ! Ibid., p.25. 15
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にあるものとして並列する。そして、その対象がそもそも置かれているカテゴリー・文脈・ 権力関係を解体あるいは無化し、「カワイイ」か否か(あるいはどの程度「カワイイ」か) という論理に基づ く秩序のうちに吸収する作用を持っている。たとえそれが「昭和天皇」 という、旧来的なヒエラルキーにおいて少女たちよりも圧倒的に上方に位置づけられるは ずの対象であっても、一旦「カワイイ」と評価されれば「カワイイ」という新たなヒエラ ルキーのうちに再定義されるのである。すなわち、「カワイイ」と主体性の関係をより正 確に記述するとすれば、 ある事物に対して「カワイイ」という評価が下される瞬間にす でに主体性は発揮されており、価値転倒的な権力の行使がなされている ということにな るのではないだろうか。つまり、少女たちはみずからに特権的な感性としての「カワイイ」 を専有すること、すなわち「カワイイ」の論理で世界を判断することそのものによって主 体的であると言えるのである。 「カワイイ」それ自体が脱政治性に特徴づけられるということには既に何度か言及して いる。そして逆説的なことに、境界解体のプロセスとしての「カワイイ」の政治的な力能 を裏付けているのは、「カワイイ」の̶̶既存のポリティクスから解放されているという 意味での̶̶徹底した非政治性なのである。
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§3-2 まなざしとの対峙と「カワイイ」の変異 「カワイイ」は少女たちが特権的に持つ脱政治的な尺度として世界をまなざす。しかし 同時に、「カワイイ/かわいい」は少女を囲い込む規範、とくに性的な規範や性的なまな ざしと不可分なものでもある。第一章で確認してきたとおり、「カワイイ」の源流は少女 雑誌を中心に織り上げられた少女文化にある。だがこの「少女雑誌」というメディアは公 的教育を補完する教材としての役割を担うものであり、当時の教育者や編集者たちが、ひ いては家制度にもとづ く家父長制の社会が、将来的には良妻賢母となるべき少女たちに要 求する規範(いわゆる「修身」の思想)に沿って少女たちを教化するものでもあった。 渡部2007は修身教科書や少女雑誌編集者による論説等の文献資料を参照しながら近代 日本における規範的な少女像について分析し、少女たちに課された規範が「愛情」規範/ 「純潔」規範/「美的」規範の三つであったと述べる。すなわち、「女性はその優しさに よって男性を励ましたり、男性が困っている時には助け、居心地のよい家庭を運営す る 」1 べ き で あ り ( 「 愛 情 」 規 範 ) 、 未 婚 の う ち は 処 女 で な け れ ば な ら ず ( 「 純 潔 」 規
範)、女性が特性として生得的に授かった「美」を尊び高めるべきである(「美的」規範) という規範が少女たちに与えられたのである。そしてこれらの規範は、明治政府が西洋諸 国との対等な国交を可能にするために主導した家父長制と異性愛主義のもとに集束する。 すなわち、結婚というほとんど唯一の望ましい進路において美と愛情によって男性をより よく慰安するという異性愛主義を推奨しながら、家父長制にとって脅威となる婚外子の出 生を避けるために婚前交渉を排除するという一見矛盾したロジックにおいて少女たちは囲 い込まれた。こうした規範は少女小説や(男性)編集者による論説記事を通して少女雑誌 にあらわれ 、結果として少女たちは「他者によって一方的に愛される「愛の客体」たるこ と」 2 を求められる存在になったと渡部は結論づける。少女雑誌を通して表象され 、少女
たちに課されると同時に彼女たち自身に愛好されもした「理想的な少女像」は、このよう
1! 渡部2007,p.56。 2! 同上,p.156。
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に少女たちを受動性のうちに拘束する異性愛的な要求を反映していた。 また、これらの規範は本稿第一章で抽出した「かわいい」の諸要素̶̶非攻撃性・無害 さ、未成熟さ・幼さ̶̶と重ね合わされるものでもある。「かわいい」はまず外観の美的 な優越性を評価する語であるという意味で「美的」規範と呼応する。さらに、「愛情」規 範が求める「優しさ」とはとりもなおさず無害さや非攻撃性を前提とするものであり、「純 潔」規範が求める処女性とは女性として未成熟であることと言い換えられるからだ。 このような、異性愛的なまなざしから少女(を含めた「女性」)たちに求められる「か わいさ」は現在で もなお有効である。たとえば板野ら1989は、日本とアメリカそれぞれ の女性誌のファッション記事を分析し、アメリカでは「セクシー志向」、日本では「かわ いさ志向」および「お嬢様志向」が強いことを析出している。そして、こうした表象が「性 的表象としての女性役割、従順な愛玩物的女性役割を価値として暗示している」 3 と指摘
する 。 第 一 章 で 少 女 概 念 の 拡 大 の 一 例 と して 示 し た 、 女 性 フ ァ ッ ショ ン 誌 で 用 い ら れ る キャッチフレ ーズとしての「かわいい」は、実際には異性からの愛情と庇護を獲得するた めの要素として称揚されている部分が大きいということが、実際のこの語の使用から容易 に理解される。たとえば、『anan』2007年12月5日号の特集名は「いま愛されるのは 大 人かわいい 女」 4 であり、「かわいい」を「愛される」ために必要な属性とみなし、その
獲得を促す意図があることがわかる。あるいは、同じく『anan』の2004年9月15日号の 特集「カッコイイ女vsかわいい女」に掲載された「座談会とアンケートで探る、男の本音 クールvsキュート、本当はどっちが好き?」 5 という記事名からは、前出の例では明示さ
れていなかった「女」を「愛する」主体のジェンダーが明確化されている。第一章で述べ たとおり、女性たちの文化が現在「女子文化」の名を借りて男/女の二項対立とそこに発 生する異性愛的な圧力を弱めながら流通しており、この文化圏においては異性からの愛情
3! 板野・伊佐治・武内1989,p.168。 4! 沼田2009,p,56。 5! 同上,p.58。
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の獲得よりも女性同士の紐帯の強化が優先されているというのも馬場2012①の指摘する 通りだろう。しかし実際に異性愛規範が根強く残っていることは、これらの用例から明ら かである。 また、少女たちは異性愛主義のもとに置かれるのみならず、その歴史のかなり初期から、 性的欲望の対象でありつづけてきた。たとえば田山花袋は、『少女病』で通勤中に見かけ る少女に性的魅力を感じる30代の男性を描いた。また、『少女世界』に連載の巻頭詩に おいても少女の官能美を賛美しており、「成人男性による少女への密かな賞翫が、他なら ぬ少女雑誌で当の少女達に披瀝された」 6 。あるいは、澁澤龍彦が『少女コレクション序
説』において「少女」を蒐集・愛玩の対象として想定したことや、L.キャロルやV.ナボコ フらによる少女性・少女美の賛美など、少女への欲望は文学表現の中でくり返し表明され てきた。 より今日的な話題としては、80∼90年代に社会問題化した「ブルセラ」や「援助交際」 における女子高校生の性的な商品化が挙げられる。女子高生たちから買い取った使用済み の制服や下着を売る「ブルセラ ショップ」の存在は90年代前半から雑誌やテレビドラマ で 取 り 上 げ ら れ 話 題 とな っ た 7 。 ま た 、 そ れ か ら や や 遅 れて 9 5 6 年 頃 に 最 盛 期 を 迎 え た
「援助交際」だが、当時の調査によれば、当時の女子高校生の約20人に一人程度が「援 交」を経験していたという 8 。これらが商業的に成立した背景には、当然のことながら 、
少女たちを性産業における商品とみなす成人男性の需要があった。すなわち、「性的身体 の使用をタテマエ的に禁止されていた 少女 に対する大人たちのまなざし」 9 、性的欲求
の存在である。 このように、少女たちはつねに(強制的な)異性愛規範、ひいては異性の性的欲望のも とにあり、また少女たちが独自の感性として専有している「カワイイ」と、家父長制的/ 6! 久米1997,p.219。 7! 松谷2012,pp.50-51。 8! 同上,p.79。 9! 同上,p.72。
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異性愛的な規範である「かわいい」は連続的なものである。だが少女たちは、つねのその まなざしを甘受してきたのではない。前節で述べた通り、少女たちは「カワイイ」の脱政 治的とも言える適用範囲の広さによってその範疇を拡張しながら、「カワイイ」に本質的 に内在している逸脱性を強調することでその意味をずらしつづけてきた。そしてそのこと によって、少女たちは規範から逃れつづけてきたのである。 前節で確認したとおり、少女たちはその萌芽期から、限定的な形ではありながらも、独 自の美意識を発展させることで既存の権力関係からの逸脱を図ってきた。そして、少女た ちが現在のようにより自由に「カワイイ」によって異性愛規範からの逃走を試みるように なった端緒は、おそらく90年代に注目を浴びた「ガングロギャル」であろう。 「流行の最先端をいく「今時」な若い女性たちを指す言葉」 10 として1970年代から若
者たちのあいだで用いられはじめたのが「ギャル」だが、90年代に入るとそうした「ギャ ル 」 の 前 駆 体 と しての 「 コ ギ ャ ル 」 11 と い う サ ブ カ テ ゴ リ が 誕 生 し た 。 そ して 彼 女 たち
は、その異色さ̶̶「ボディコン・ギャルと同じように露出の高い服を着て、ブリーチで とことん髪を脱色して、とても楽そうには見えない厚底靴を履」くような外観、「道端に 座 り 込 んで 「 チ ョ ベ リ バ 」 や 「 超 M M 」 な ど 独 自 の 用 語 で 騒 ぐ 」 12 態 度 ̶ ̶ で 注 目 を 集
め、マスメディアに(困惑とともに)取り上げられるようになった。そのようにして誕生 したコギャルブームを担ったメディアの一つが、ファッション雑誌『egg』(大洋図書) であり、「ガングロ」を仕掛けたのも同誌であった。同誌は編集長・副編集長をともに男 性が務めており、男性誌さながらのグラビアやアダルトビデオの紹介記事が掲載されるな どの女性向け雑誌としては珍しい誌面構成がとられた。このことは『egg』がコギャルた ちを「性的な存在」とみなしていたということを示し、小麦色の肌に金髪の「ガングロ」 も、そもそもは、このような異性愛主義/男性主義的な編集方針から仕掛けられたものだっ
! 吉田2013,p.72。 10 ! 「コギャル」の語源には「子+ギャル」、「高校生ギャル」など諸説ある。 11 ! 吉田2013,p.73。 12
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た 13 。ところが当のコギャルたちのファッション実践は、こうした性的なイメージの投影
を乗り越えてしまう。肌の黒さは「日本の男性たちがエロスを感じられる「小麦色」の域 をゆうに越え」、「健康的なイメージとも、性的に魅力的なイメージとも全く結びつかな い」 14 域に達する。さらに淡色のアイシャドウで目をふちどるメイクや、ほとんど白に近
づくまで脱色した髪色は、女性美を彩るという化粧やヘアメイクの本来の役割を逸脱する。 その目的は美的規範への従属ではなく、より黒く、より印象的なメイクを施すことによっ てひたすらより「目立つ」ことであった 15 。こうした美的規範からの逸脱と自足的な感性
の優先に本人たちも意識的であったということは、『egg』誌上で活躍しガングロブーム を牽引したカリスマ的ガングロギャル・ブリテリ(色の黒さをブリの照り焼きになぞらえ たニックネームである)の「男ウケを考えて女らしくするようじゃ、ヤマンバギャルには な れ な いよ → ! 」 16 と い う 発 言 か ら も わ か る だ ろう。 こ こ で ブ リ テ リ が 言 う 「 ヤ マ ン バ
ギャル」は「ガングロギャル」の異称だが、これはもともと『週刊SPA!』1999年9月1日 号に掲載された「[10代ヤマンバギャル]の恐るべき美意識」に由来する語である 17 。少
女を怪物に喩えるという揶揄的な表現が彼女たち自身によって受容され採用されていると いうことはまた、彼女たちが異性愛的な美的規範に照らして「異形である」ことの自覚と その肯定を示しているといえるだろう。こうしてコギャルたちは、もともと美的規範を達 成するためのものとして想定されていた「装う」という行為を通し、異性愛的なまなざし から逃れることに成功したのである。 また、同様の試みを「カワイイ」の専有によって達成した顕著な例がロリータ少女たち の実践であろう。近世ヨーロッパのロココやヴィクトリアンの服飾様式を原型とし、パス テルカラーやフリル、リボン、レ ースをふんだんに用いた彼女たちのスタイルは、一見す
! 同上,p.74。 13 ! 同上,p.75。 14 ! 同上,p.76。 15 ! 松谷2012,p.189。 16 ! 同上,p.186。 17
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ると旧来的な少女規範が要求する「少女らしい」愛らしさと呼応し、それを過剰に強調す るするものであるかに見える(図10)。しかし実際には、彼女たちの装いは性的な諸規 範から距離を置こうとするものであると水野2004は主張する。水野はロリータを着る少 女への聞き取り調査から、彼女たちのなかに「男の子」でも「女の子」でもない「中性」 になりたいという志向があることを発見する 18 。また同様に、「「女の子っぽい」と言わ
れると嬉しいからといって、「女の子らしくしなさい」という要請に敏感であるとは限ら ない」ことを見出す。このことから水野は、「「ロリィタ」の少女が非常にこだわる点で ある「かわいい」ということと、少女的であるということは別」 19 であるということに気
付く。すなわち、ロリータファッションの実践は、「カワイイ」はを社会規範としての「少 女らしさ」や「女の子らしさ」とは別の尺度に作り替えているというのである。これらの 気付きから水野は(少ないサンプルから導き出したものであることとステロタイプ化の危 険とに注意を促しながら)、「[ロリータ少女たちが]「女」であるという前提はそのま まに、(…)ジェンダーという制度からの逸脱やずらし、無効化を行っているように見え る」と結論づける。また、前出の中性への志向については、「性の制度からあっさりと距 離を置いた結果」 20 ではないかという仮説に至っている 21 。ロリータファッションを着る
という「装い」の実践は、ロリータ少女たちが「カワイイ」専有し社会規範としての少女 らしさ=「かわいさ」から乖離させて独自に作り替えるという、支配的なものへの抵抗の 過程と読み替えられる。ここでの「カワイイ」は、それが過剰であることによって逸脱性 を獲得していると言えるのではないだろうか。 すなわち、こんにちの「カワイイ」文化の隆盛とは、「ガングロ」や「ロリータ」の例 からわかるように、逸脱性を強調するという手続きを経てドラスティックな変容、あるい
! 水野2004,p.121。 18 ! 同上,p.126。 19 ! 同上,p.127。 20 ! なお、水野は同論考の中で「王子」系のゴシックファッションを着る少女たちについても分析を試みている。ここではとくに「カワイイ」を取り上 21 げたいという意図から省略しているが、ジェンダー・ロールのパフォーマティブなずらしという観点から興味深い考察を行っている。
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は変異を被った「カワイイ」が少女たちによって拡張・共有されている事態であると言い 換えることができる。こうした変異種としての「カワイイ」の具体像としては、たとえば 叙 情 画 か ら 少 女 マ ン ガ に 至 る 視 覚 表 象 の 系 譜 上 に お い て は 、 せ き や ゆ り え 22 や 水 野 純
子 23 のイラストレ ーション表現が挙げられる。彼女らの描くキャラクターは中川淳一に始
まる「大きな目」をもち、さらにせきやの作品においては少女マンガに特徴的な表現手法 であるキラキラのハイライトがひしめいている(図11−1、2)。彼女らの描く人物や 動物はまた、ファンシーグッズにおける「キャラクター」が典型的にそうであるような畸 形的な身体バランスを持つが、大きな頭、大きな目、太い手足というように、パーツの不 均整はより強調されている。とくに水野は、イラストレ ーションに猟奇的・暴力的であっ たり 、 エ ロ ティ ッ ク で あ っ たり する モ チ ーフ を 自 在 に 組 み 入 れて み せる ( 図 1 2 − 1 、 2)。基本的には「かわいい」の文法に則りながらも、それを過剰にしたり、あるいはそ もそも「かわいい」の埒外にあったものを取り込むことで、彼女たちの作品は「カワイイ」 ものたりえ、それが「カワイイ」ものに変異したがゆえの力強さや魅力を持ちうるのであ る。 あるいは別の領域では、たとえば「少女らしさ」をパロディ的にミュージックビデオや 楽曲中に取り入れている音楽グループ、「アーバ ンギャルド」 24 も変異系「カワイイ」の
担い手であろう。 「トラウマテクノポップ」バ ンド を標榜しする彼らの楽曲は多く病的 に「カワイイ」を追求する少女であり(「魔法少女と呼ばないで」や「女の子戦争」)、 彼女たちの闘争の場としての「都市」である(「東京生まれ」、「都会のアリス」)。ボー カルの浜崎はしばしば、公演やミュージックビデオに少女のシンボルとも言えるセーラー 服を着てあらわれる。セーラー服に加え、活動を通じてキーイメージとなっている赤字に ! イラストレーター。2010年に多摩美術大学を卒業後、本格的に活動を開始。(公式サイトHanamizz:http://www.hanamizz.org/) 22 ! 漫画家、イラストレーター。漫画やイラストのほか、株式会社GardenとのコラボレーションでコンドームなどのアダルトグッズブランドMizuno Garden 23 (公式サイト:http://www.mizunogarden.com/)をプロデュースするなど、活動は多岐にわたる。 ! “二十一世紀初頭、詩や演劇のフィールドで活動していた松永天馬の呼びかけにより結成。シャンソン歌手としてステージに立っていた浜崎容子をア 24 イコンとして、病的な現代を標榜する。”(http://urbangarde.net/urbanplan.htmより引用。2013年12月25日閲覧)インディーズレーベルで活動を開始し、 2011年にメジャーデビュー。"
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白 の 水 玉 は 「 アー バ ン ギ ャ ル 」 25 たち の フ ァ ッ ショ ン に 採 用 さ れ 、 ラ イ ブ 会 場 に は セ ー
ラー服や水玉模様の服に身を包んだ少女たちの姿が目立つ。視覚的な意匠や言語表現に取 り入れられているこれらの表象は、しかし一貫してパロディ的な仕方で取り上げられてい る。たとえば、アルバム「メンタルヘルズ」のキャッチコピーは「かわいいは、病気」で あるが、このコピー自体、花王のヘアケアライン「エッセンシャル」のキャッチコピーで ある「カワイイはつくれる!」 26 のパロディであり、紅白の水玉模様も草間弥生の作品か
ら着想を得たものである。処女性、月経、セックス、自傷といった一見生々しいモチーフ は、文学やサブカルチャーなど様々なソースからの引用のブリコラージュによって提示さ れ 、「カワイイ」の射程の広さを意識的に披瀝しながらひとつの作品が構成される(たと えば、アルバム「少女は二度死ぬ」に収録の楽曲「セーラー服を脱がないで」は、タイト ルがおニャン子クラブの「セーラー服を脱がさないで」をもじっているのを始めとして、 歌詞中には手塚治虫の漫画『やけっぱちのマリア』や今野緒雪のノベル『マリア様がみて る』、トリュフォーの映画『大人は判ってくれない』などがフレ ーズとして散りばめられ ている)。
! このように「カワイイ」の具体的な様態に注目したとき、「かわいい」から「カワイイ」 を剥離する条件が浮き彫りになるだろう。すなわち、「カワイイ」は「かわいい」につい て、その異性愛的な含意も含めた上で自覚的であり、その上で作動するメタ的な感受性な のである。 ガングロギャルが渋谷にあらわれる以前に、女子高校生は性的な商品として男性たちに 消費されていたということは既に述べた。そして、 女子高生市場 が成立するめに、男性 たちの少女に対する性的な欲望が不可欠だったことも指摘したとおりである。しかし「ブ ルセラ」や「援助交際」の成立にもう一つ不可欠だったのは、売り手である当時の女子高
! アーバンギャルドの女性ファンを指す。ちなみに男性ファンは「アーバンギャルソン」と呼ばれる。 25 ! http://www.kao.co.jp/essential/about/を参照。2013年12月25日閲覧。 26
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校生たちが自らの商品価値に自覚的だったという事実である 27 。松谷はこうした、「大人
やマスコミから向けられる 少女 的な抑圧、旧来的な物語(視線)をまんまと利用」する 「 少女 としての自分に自覚的な存在」を「メタ少女」と名付ける 28 。つまり、ガングロ
ギャルが現れる90年代後半には、少女たちはすでに「メタ少女」になっていた。 ガングロギャルのルーツは、少女たちを性的欲望の対象として扱う男性主義的なプロモー ションにあった。また、ロリータファッションにおける美意識は家父長制的/異性愛的規 範としての古典的な「少女らしさ」、「かわいさ」と通底するものである。にもかかわら ず、少女たちがその桎梏を乗り越えているかのように見えるとすれば、それは彼女たちが すでに「メタ少女」という位置を手に入れていたからであると言える。 メタ少女はたしかに、「少女」であるということについて̶̶その性的な価値も含めて ̶̶自覚的な存在である。しかしそれは、異性愛的なまなざしを内在化し、美的規範に則っ て自らを検閲するような、異性愛イデオロギーの再生産を担う「自覚性」ではない。彼女 たちはあくまで、一つ上の次元からその規範と権力関係を俯瞰する立場にある。そしてこ のことは「カワイイ」を、何らかのイデオロギーのパフォーマンスであることから解放す るものでもある。 こうしたメタ性は、海外の「カワイイ」ないし「クールジャパ ン」受容という事象を導 入して検討することによってより明確になる。沼田2009によれば「カワイイ」がしばし ばカタカナで表記されるようになるのは2006年以降だが 29 、そもそもそのような表記が
採用されたのは、「かわいい」という感性が日本文化に特有で「クール」であるという海 外からの評価が国内で評価されるときに国際語としての「Kawaii」が 逆輸入 されたため であった。つまり、「カワイイ」という語の成り立ち自体が、他者のまなざしに映る自己 像を意識すること̶̶それは、単に他者の視点を借りて自己をまなざすということではな
! 松谷2012,p.63。 27 ! 同上,p.82。 28 ! 沼田2009,p.61。 29
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い̶̶に起源をもつのである。 さらに、海外における「カワイイ」受容の別の側面に注目することで、性的なものの無 化を試みる「カワイイ」のあり方を見ることができるだろう。「クールジャパ ン」のコン テンツとして「カワイイ」が輸出される際に生まれる「誤解」のひとつとして、いわゆる オタクカルチャーと「カワイイ」の同一視が挙げられる。櫻井2011が「原宿と秋葉原が、 パリでは融合している!」 30 と驚きを隠さず報告しているように、日本国内では一般的に
(親和性がある、という漠然とした認識はあるものの)別の文化圏に属すると考えられて いる「カワイイ」文化とコスプレやアニメ・マンガ、アイドルといったオタクカルチャー は、海外では同じ「クールジャパ ン」ないし「カワイイ」として語られることがしばしば ある。そしてこの「オタクカルチャー」には、性的な含意をもつ「萌え」文化もが含まれ る。「萌え」の語義を定義することも「カワイイ」の定義と同様に困難だが、少なくとも 言えることは、「萌え」がかならず性的欲望をともなうということ、そして「かわいい」 が指示するものと「萌え」が指示するものが外形的な近似性をもつということだ。たとえ ばMiller2011がロリータファッションと「メイド喫茶」の制服の意匠的な類似性を指摘 しているほか 31 、男性向けの美少女コンテンツの少女像が、ポルノグラフィよりもむしろ
少 女 漫 画 の 少 女 像 に 近 い こ と か ら も わ か る 32 。 海 外 に 輸 出 さ れ た と き に こ の よ う な 「 誤
解」を招くほどの親和性をもつ「萌え」と「カワイイ」を峻別するものは何か。あるいは 「萌え」をも「カワイイ」に取り込むことができるのだとすれば̶̶すなわち、そこにあ る性的な含意を換骨奪胎し、「カワイイ」に吸収できるのだとすれば̶̶、それはどのよ うな力によるのか。一見すると矛盾するかにみえるこの2つの問いに応答するのが、「カ ワイイ」のメタ性である。つまり、ある表象が「萌え」であるのか「カワイイ」であるの かの決定権はその表象そのものではなくそれを見る側にあるが、そのとき「カワイイ」と
! 櫻井2011,p.18。 30 ! Miller2011, p.21. 31 ! 実際に、女性向け漫画と同時に成人男性向けの漫画を手がける女性漫画家も存在する。たとえば井ノ本リカ子は、ボーイズラブ作品と成人向け美少 32 女漫画の両方を執筆する作家である。
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言いうるのならば、そこにはメタ的な視点が存在すると言えるのである。
! 少女たちが「カワイイ」を専有すること、すなわち「かわいい」を「カワイイ」へと読 み替える時に作動しているのは、みずからの「かわいさ」に対する自覚というメタ的視点 であり、このとき少女たちは「メタ少女」になっていると言える。そしてその上で、メタ 少女たちは「カワイイ」の畸形性や逸脱性を先鋭化させ、「カワイイ」の変異系を生み出 してきた。このことから分かるように、「カワイイ」文化の発展を可能にするのは、時と して自らをもパロディ化するような上位次元のパースペクティブなのである。
96
§3-3 少女たちの身体 前章で見たとおり、少女であることとは実際には「カワイイ」ものを消費するという行 為と通して実現される状態であった。そしてそれは具体的には、身体を装飾するための化 粧品や服の消費、それに準じて身の回りに置いておくための雑貨等の消費、身体の外観を つくりかえるためのサービスの消費であり、「モノ」化された身体を手に入れるための消 費だった。換言すれば少女であるための消費とは、大塚1990が指摘している通り、身体 表面という場を「カワイイ」「モノ」の集積につくりかえる過程なのである。 そもそも、人間にとって身体とはつねに衣服=身体であり、「裸体という実質」が想定 されること自体が虚妄であることは鷲田清一も指摘するとおりである。身体は「充実した 実体として衣服の内部を形成するのでもなければ、衣服という記号表現の超越的な意味内 容を形づ くるものでもない」のであり、「意味する表面」としてのファッションのみがあ る 1 。少女の身体とは、そのような身体とファッションの関わりのもっとも典型的な例で
あると言えるだろう。 くり返すが、現代の「カワイイ」文化≒少女文化の諸実践を明治期のそれらから区別す るのは、「少女」というような何らかのアイデンティティ、もしくは「少女らしさ」とい うような規範やイデオロギーが先立って存在しているのではないという点である。「モノ」 による装いがあって、その表面的な「カワイさ」から遡行的に規定されるのが「少女」で ある。補足するならば、このことは「カワイイ」文化を実践する諸個人のうちにそういっ たイデオロギーやアイデンティティがあることを排除するものではない(むしろ、ロリー タファッションの愛好家の中に、ロリータ服をただ着用するだけではなく「ロリータ」と いう存在であるための 哲学 をもつ少女が少なくないことは、雑誌『KERA』の読者投稿 などからよく見て取れる)。そうではなくて、内的なものの有無やその内容がどうあれ 、 最終的に「カワイイ」表面がなければ「少女」は成立しないということである。すなわち、 「少女」の存在論は「装う」という行為によってもたらされる表層的な「カワイイ」外観 ! 鷲田1996,p.28。 1
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の優位性を絶対の要件とするのである。
! こうした身体表面における行為に注目し、ジェンダーに代表されるアイデンティティが 「パフォーマティブ」に構築されていると主張したのがJ.バトラーである。バトラーはま ず、「「身体」を受け身で言説に先立つものとみなすような、怪しげな普遍性をもつ構築 として「身体」を捉える考え方」 2 に異議を申し立てる。そして、身体を精神の器あるい
は文化の書き込みの場とみなす見地を排し、すべての「境界」の代表としての身体表面に 着目する 3 。すなわち、先立って存在する何らかのデンティティがあり、それを表出する
ものとして身体を把握するような考え方を斥け、パフォーマティビティの場として身体の 表面を捉え直そうとしたのである。アイデンティティと身体表面という場の関係について、 バトラーは以下のように述べる。
! アイデンティフィケーション
だがそもそも 同 一 化 は、演じられる幻想であり体内化であるという理解によれば、首尾一貫性 は欲望され、希求され、理想化されるものであって、この理想化は、身体的な意味づけの結果である ことは明らかである。換言すれば、行為や身ぶりや欲望によって内なる核とか実体という結果が生み だされるが、生み出される場所は、身体の表面のうえであり、しかもそれがなされるのは、アイデン ティティを原因とみなす組織化原理を暗示しつつも顕在化させない意味作用の非在の戯れをつうじて である。一般的に解釈すれば、そのような行為や身ぶりや演技は、それらが表出しているはずの本質 やアイデンティティが、じつは身体的記号といった言説手段によって捏造され保持されている偽造物 にすぎないという意味で、パフォーマティブなものである。4
!
こうして、自明なものであるかに思われているさまざまなアイデンティティが実際には 行為や身振りによって作り出された幻想であり、「様式的な反復行為によって外的空間に 設定される」 5 ものにすぎないことが明らかになる。そして、アイデンティティがそのよ
2! Butler1990, p.129(邦訳p.229). 3! Ibid., p.132(邦訳p.233). 4! Ibid., p.136(邦訳pp.239-240). 5! Ibid., p.140(邦訳p.247).
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うな過程によってしか成立しえないということはまた、反復行為の中で「ときおり起こる 不整合のために、この[アイデンティティという]基盤が暫定的で偶発的な〈基盤ナシ〉 であること」 6 が明らかになるということをも意味する。
少女たちは、「カワイイ」モノという 記号 を用いた「装い」というある種の言表行為 をつうじて、支配的な規範̶̶たとえば、異性愛という制度̶̶に要求されている「少女 性」なるものが存在するかのように見せかける。しかし彼女たち(あるいは、「メタ少女」 たち)がパフォーマティブに示す「カワイさ」は、それ自体つねにグロテスクを内包した ものであり、無害で愛らしく 女の子 らしい、「少女」という幻想的なアイデンティティ の閾を動揺させる。それは同時に、少女ひいては女性を囲い込んできた異性愛的な規範や 欲望の命令としての旧来的な「かわいい」を、変異形である「カワイイ」が解体する過程 でもある。こうして少女は、規範的なものとしての正当性を獲得し支配的なイデオロギー となっている異性愛の制度から逃れるのである。
! さらにバトラーは、「ジェンダー・パロディ」としての異装について言及し、それがジェ ンダーそのものの虚構性を暴く過程について述べる。
! 異装のパフォーマンスは、演じる人の解剖学的なセックスと、演じられているジェンダーの区分を またいでなされるものである。だが実際わたしたちは、身体性という意味をもつ偶発的な三つの次元 ̶̶つまり解剖学的なセックスと、ジェンダー・アイデンティティと、ジェンダー・パフォーマンス ̶̶のなかに存在している。もしも演じる人の解剖学的なセックスが、すでにはっきりとその人のジェ ンダーから区別できるなら、そしてこの両者がジェンダー・パフォーマンスからも区別できるなら、 パフォーマンスは、セックスとパフォーマンスの区別だけでなく、セックスとジェンダー、ジェンダー とパフォーマンスの区別にも不調和を起こしていることになる。異装が「女」という統一的なイメー ジを作るものであるにせよ(…)、それは同時に、異性愛の首尾一貫性という規則的な虚構をつうじ て統一性として誤って自然化されているジェンダー経験のさまざまな局面が、それぞれまったく別物
6! Ibid., p.141(邦訳pp.247-248).
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だということを明らかにするものでもある。ジェンダーを模倣することによって、異装はジェンダー の偶発性だけでなく、ジェンダーそれ自体が模倣の構造を持つことを、明らかにするのである。7
!
前節で見たように、少女たちは実際には「メタ少女」であり、それはジェンダーとして の「少女」をパロディしているのであると言い換えらる。その意味で少女たちの「装い」 は異装(原文ではドラァグdrag、すなわち男性による女性性のパロディとしての女装が参 照されている)であるとみなしうる。しかもこのパロディは、「ジェンダーがみずからを 形成するときに真似る元のアイデンティティが、起源なき模倣だということ」を明らかに するものである。少女たちは、その「装い」のパフォーマンスによって少女というジェン ダー・アイデンティティの無起源性をも暴き、「再意味付けや再文脈化に向かって開かれ る流動的なアイデンティティを構築」 8 しているのである。
! 少女たちは、規範的なものとみなされている異性愛という制度と、それを成立させてい る男女二元論が「偽造物」でしかないということを暴き出す。身体表面はあらゆる境界の 代表/表象であるとすれば、支配的な性制度から解放された「カワイイ」で身体を構築す るということは、 規範的 なヘテロセクシズム̶̶異性愛的で、男女二元論的な性制度̶̶ におけるジェンダーやセクシュアリティの境界を侵犯する営みであると換言できる。そも そも「少女」とは性別や年齢の区画を超越した存在であり、少女であることを画定するの はもはや「カワイイ」を用いるという行為のみである。その意味で少女はつねにすでに境 界的、あるいは境界侵犯的な存在であり、ヘテロセクシズムを解体する主体なのである。 少女たちの身体は、モノ化された表層的な身体である。それは換言すれば、取り外し可 能な身体ともいうべきあり方である。「カワイイ」の身体表面のうえでの表出がある種の ジェンダー・アイデンティティのパロディであり、バトラーのいう「不整合」であるとす れば、取り外し可能である程度が高ければ高いほど、つまりそれが不断に更新可能であり、 7! Ibid., p.137(邦訳p.242). 8! Ibid., p.138(邦訳p.243).
100
生成変化し続けることが可能であればあるほど、支配的な諸制度を撹乱しうる潜勢力を強 く秘めたものであるとも言えるのではないだろうか。 その表層性の強さを象徴する「カワイイ」の一例としてここで取り上げたいのが、「球 体関節ストッキング」というアイテムである。これはインディーズブランドTableauから 「着る絵画シリーズ」の第二弾と銘打って発売されているストッキングで、着用すること で球体関節人形の脚部のような外観を得ることができるものである(図13) 9 。前章で
取り上げたアーバ ンギャルドのボーカル・浜崎容子が衣装に採用したことも影響し、一部 の少女たちの間で熱烈に支持されている。言うまでもなく、人形と少女文化とは歴史的に も強い親和性を持つものであり、少女玩具の定番としてのフランス人形や着せ替え人形の 受 容 、 ま た こ ん に ち の 球 体 関 節 人 形 や ブ ラ イ ス 10 な ど の ド ー ル 人 気 か ら も 理 解 さ れ よ
う 11 。
人体を人形にするということは、「人間身体のモノ化」の究極的なモデルである。しか し球体関節ストッキングの発想は、このモデルの追体験を、ストッキングという物質的な 身体そのものに痕跡を残さないかたちで実現する。こうした仕方で出来する少女の身体は、 「取り外し可能な モノ としての身体」の最も極端な例のひとつと言えるだろう。また、 人間の模倣としての人形をさらに人間が模倣するという転回的な̶̶あるいはむしろ無限 後退的な̶̶プロセスは、バトラーの指摘したパロディの無起源性を思い起こさせる。こ れらの意味において球体関節ストッキングは、パフォーマティブな「カワイイ」の典型例 と言えるのである。
! 9! http://selfer.cart.fc2.com/ca10/18/を参照、2013年12月28日閲覧。 ! 1972年にアメリカで発売されたドール。幼児向けとして発売された当初は人気を得ることができずすぐに販売中止となったが、99年にブライスを写 10 したスナップがクロスワールドコネクションズ社代表のジュンコ・ウォングの目に留まり、2000年から日本でファッションドールとして復刻される。 “ネオブライスは、グレープフルーツサイズの頭に、華奢なボディが特徴のファッションドールです。後頭部のヒモを引くと瞳の向きと色が変わり、微 妙な表情の変化を見せます。"
様々なテイストのファッションを着こなし、メイクやヘアスタイルによっても全く別のドールのような印象を与えます。ファッション感度の高さに注目 されることも多く、雑誌や広告をはじめにプロモーション全般にわたって、多くのクライアントを持つファッションモデルとしても活動しています。” (http://www.blythedoll.com/whats/より引用、2013年12月28日閲覧) 11 ! 中原2001,増淵2011など。
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球体関節ス トッキングに限らず、2010年代以降、ファッションウィッグ、カラーコン タクトレンズ、タトゥーストッキングといったファッションアイテムが相次いで流行して いる。これらはすべて、本来身体を不可逆に加工しなければ達成されない外観を、身体そ のものを傷つけることなく獲得できるアイテムである 12 。こうした、より表層的な身体の
実現に奉仕するモノの流行は、ここまで述べて来たような境界解体的な「カワイイ」文化 の拡張と共鳴するものではないだろうか。 理想的な少女像の要件に「外見の愛らしさ」が入ってきたのは、久米1997によれば明 治40年代初頭のことであり 13 、少女たちはこの時期にいよいよ性的欲望のまなざしのもと
に晒されることになったと言える。しかし、結果として外見の優位が少女たちに表層的な 身体をもたらし、性の諸制度を動揺させる手段を与えたのだとすれば、それはメタ少女た ちの抵抗の黎明の瞬間であったとも言えるかもしれない。
! ただし、カラーコンタクトレンズによる失明等の健康被害など、実際にはファッションアイテムの着用にともなって身体に起こる固有の問題がわず 12 かながら存在することは指摘しておく必要があろう。 ! 久米1997,p.219。 13
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§3-4 第三章の結論 本章では、少女たちが「カワイイ」を専有し、さらにそれを変異させることで支配的な ジェンダー規範を無化する過程について論じてきた。 少女たちによる「カワイイ」の専有は少女概念の萌芽期からすでに始まっており、たと えば明治期の女学生たちはその独特の感性にもとづ いた「装い」の美で正統的なものから 自らを異化し、支配的なものへの抵抗を示してきた。より今日的な文脈においては「制服」 の私物化があり、「カワイイ」という価値体系のもとに管理機構としての制服を再配置す ることによって、少女たちは権力を乗り越えてきたのである。こうした転覆や撹乱の契機 は、境界解体のプロセスとしての「カワイイ」がつねに胚胎しているものである。つまり、 ヒエラルキー的な境界を意に介さないという意味での脱政治性が「カワイイ」に政治的な 力能を与えていると言える。 しかし少女たちはまた、異性愛的なまなざしにつねに晒されてきた。「かわいい」とは そもそも少女に期待され強制される規範に呼応する価値観であり、また少女たちは長らく 成人男性の性的な欲望の対象でありつづけてきたのである。だが少女たちは、上述のよう な「カワイイ」の専有によって世界を読み替え、さらには「カワイイ」の逸脱性を強調し て変異させる。さらにはそのような「カワイイ」を異性愛的な要求をはじめとする諸価値 に優先することによって、性的なまなざしから逃れることに成功している。こうした「カ ワイイ」の変異のプロセスを読解するとき明らかになるのが、「カワイイ」のメタ性であ る。すなわち「カワイイ」とは、少女規範としての「かわいい」を自覚した上でそれをパ ロディ化した尺度なのであり、その行使者たる現代の少女たちは「少女」であることを自 覚した「メタ少女」であると言うことができる。 メタ少女とは、換言すれば少女みずからがジェンダー・アイデンティティとしての少女 を模倣するジェンダー・パロディであり、「カワイイ」モノの集積としての表層的な身体 を「装い」という行為によってパフォーマティブに構築する存在である。少女たちのこの ようなパフォーマティビティのもとで、変異型としての「カワイイ」は支配的なジェンダー
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の体制にとっての不整合として立ち現れる。少女たちはこうして、自明視されている性の 諸制度̶̶異性愛主義と、それが前提としている男女二元論̶̶が虚構に過ぎないことを あばき出す。さらに、少女たちの身体は取り外しであることによって特徴付けられるもの であり、この表層性がもたらす流動的なアイデンティティは、少女たちを抵抗の手段とし ての絶えざる生成変化の中に置くのである。 以上のように、少女たちは「カワイイ」を専有・変異させることで支配的な性制度から 抜け出し、あるいは動揺させ、撹乱し、異性愛の強制と男女二元論の自明視から成るヘテ ロセクシズムの解体を実践しているのである。
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第四章 生産者≒表現者としての少女 §4-1 なぜ「表現」か ここまで本稿では、少女を消費者として位置づけ、消費という行為を通して実践される 主体性について論じてきた。しかし、消費することで「カワイイ」を展開するという身ぶ りは、少女たちを「カワイイ」の生産者である以上に、経済的・性的な搾取の客体の位置 に釘付けにすることと隣り合わせでもあった。そこで本章では、「少女による少女表現」 を見ることによって、少女たちのより能動的な生産者としての側面に焦点を当てることを 試みたい。すなわち、消費の対象としての「カワイイ」が、生産される「カワイイ」へと ̶̶少女の姿をとって̶̶転じる転回の場として創作活動を読解し、生産者として(さら には被生産者として)少女を位置づけなおすことを試みる。
! 表現活動やアートは、消費社会における抵抗、とくにジェンダー・ポリティクスにおけ る抵抗のあり方としてしばしば活用されてきた。たとえばバーバラ・クルーガーの作品「我 買う、ゆえに我あり」は、ショッピングバ ッグにテクストをプリントするという手法で制 作されている。同時代的な文化の中で支配的であるメディアを活用するしたこうしたアー ト手法は、とくに80年代のフェミニス ト・アートで実践されてきた 。このときの戦略を 端的に表すのが、〈42丁目アート・プロジェクト〉 1 で映画館の看板として 展示 された
ジェニー・ホルツァーのテクスト作品が言う「文化を速やかに変革しようと思うなら、文 化の中の支配的なものを利用せよ」というメッセージである 2 。ホルツァーは都市空間そ
のものを利用したアート表現を試み 、たとえば77年には、「父親というのは過剰な権力 をふるいすぎる」「遺産相続を廃止すべきである」「ロマンチックな恋は女を操るために 開発された」といった一行文を印刷したポスターをニューヨークの街中に貼り出す。「自 明の理(Truism)」と題されたこれらの作品は、「ゲリラのごとく都市空間に潜伏し、 1! ニューヨーク市の都市開発計画のため劇場や店舗が閉鎖された42丁目を「会場」とし、24人のアーティストが展示を行ったアート・プロジェクト。現 代美術の非営利団体「クリエイティブ・タイム」と、ニューヨーク市の「42丁目開発プロジェクト」の共催で93年7月から開催された。 2! 北原1999,p.45。
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ひとたび発見されるやいなや、あっけなく空間そのものを乗っ取ってしまう」 3 。これら
の手法は、フーコーのいう「ヘテロトピア」を日常の光景の中に突如として出現させ、そ の場を特異な時空間として切り出すことによって支配的な諸イデオロギーを無効化するも のとも言い換えられるだろう。 クルーガーやホルツァーの作品に見られるように、消費社会においては、それ自体を成 立させている支配的な媒介を活用することで批評行為に有効性を持たせようという戦略が 考えられた。そしてこれらのアートが批判の鉾先を向けたのは、家父長制と消費社会だっ たのである 4 。
このように、80年代以降のフェミニスト・アクティビズムにおいて目指されたのは、 支配的なものをゲリラ的に利用し、その権力を簒奪することによって抵抗を示すことだっ た。また、第一章で言及したような、支配的な女性性のイコンを暴力的・反抗的な(つま り、 反-女性的 な)モチーフと組み合わせて作り替えることによって抵抗を示す、ガール・ ジンのような実践も存在する。あるいはバービー人形やピンク色といった典型的に女性的 とされるイコンをあえて積極的に利用し、肯定的な女性性を打ち立てようとする第三波フェ ミニズムの活動もあった 5 。ここに列挙したジェンダー・ポリティクスの戦略はすべて、
支配的な価値観や文化形態を逆手にとることによって自らの存在を示し、意義を申し立て るという態度において共通している。 この、ジェンダー・ポリティクスにおける「支配的なものを利用する」という態度が、 何らかの形でこんにちの「少女アート」 6 にも継承されているのではないかと考えた 。イ
ンターネットの普及やメディアの多様化・細分化を経たことや、第二章で確認したような
3! 同上,p.44。 4! 同上,p.46。
! Baumgardner & Richards2003, p.136. 5 6! 「少女による、少女を直接的・間接的モチーフとして制作された視覚表現作品群」を便宜上このように呼ぶ。なお、ここで表現者として指示されてい
る「少女」が必ずしもジェンダーや年齢によって規定されるアイデンティティでないことは第一章で確認した通りである。ただし、今回取材したのは一
名を除いて全員(少なくとも取材を通して把握している限りは)女性ジェンダーを持つ作家であった。また男性作家は「少女アート」とは別の問題意識 から作品制作をしていることが取材を通して明らかになっているため(資料4を参照)、ここではあくまで「少女アート」のキュレーターとしてのみ取 り上げている。
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消費主義の亢進により、そうした戦略を可能にする土壌がより整備されたように思われた からである。 また、商業的なものとして流通している諸メディアにおける表現の影響を受けながらも それらから一歩距離を置いたアートやクリエイションは、揺らぎや文化的クリシェへの裏 切りを内包するものである。そしてそれゆえに、消費主義社会がもたらす「思考停止」状 態から、作る者・見る者の両者を覚醒させる作用をもつといえよう。本稿が目標とする性 の体制の揺らぎもまた、こうした開かれから出来するものではないだろうか。
! 以上のような動機から、「少女アート」実践の具体的な様相を明らかにするため、メー ルおよび直接の聞き取りによって作家への取材を試みた。本章ではその取材で得られた作 品制作についての発言と作品自体の分析を通し、消費者であると同時に生産者でもある少 女たちによって行使される「カワイイ」の力学と、その力学の場としてのアートを分析す ることを試みたい。
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§4-2 調査について 上述した通り、本稿での問題意識を検証するために、現在「少女」を表現の対象として 創作活動を行っている作家およびキュレ ーターを対象に、メールでのインタビューと直接 対話形式での聞き取り調査を行った。調査は2013年11月下旬から12月にかけて実施し、 概要は以下の通りである。
! ・メールインタビュー おがわみき氏にメールにて取材への協力をお願いした。 おがわ氏とは、イラストコミュニケーションサイト「pixiv」 1 でアニメのファンイラス
トを見たことをきっかけにTwitterで交流が始まり、後にデザインフェスタ 2 などの機会で
何度か直接お会いし対話したことがあった。後述する「トランスエフュージョン」も、足 を運んだきっかけは彼女のTwitter上での出展告知だった。少女文化を主題に修士論文を 執筆中である旨は取材の数ヶ月前から話してあり、メールでの取材依頼を快く承諾してく れた。 作品は水彩絵具で制作された平面造形が主である。また、デザインフェスタやクリエー ターズマーケット 3 にも出展し、作品展示・販売のほか作品を使用したアクセサリーなど
の制作・頒布も行っている。プロフィールや作品については資料1を参照されたい。 最初に、資料2の通りの質問をメールで投げかけた。回答の長さに制限は設けず、無回
!1 イラストおよび小説の投稿に特化したソーシャルネットワーキングサービス(http://www.pixiv.net/)。“pixiv(ピクシブ)は、イラストの投稿・閲覧が楽
しめる「イラストコミュニケーションサービス」です。あなたが投稿したイラストやブックマークしたイラストそのものがプロフィールを形成し、それ が中心となって、イラストによるコミュニケーションが行われています。”(http://www.pixiv.net/about.phpより引用、2013年12月31日閲覧。)
2! 東京ビックサイトで年2回開催されているアート・イベント。出展費を払えば誰でも参加でき、割り当てられたブース内で自由に展示や販売を行える (ただし2013年秋期のVol.38からは先着制から抽選制に切り替わっている)。“デザインフェスタは、オリジナルであれば審査無しで、誰でも参加する事 ができるアートイベントです。プロ・アマチュア問わず、「自由に表現出来る場」を提供するアートイベントとして1994年から始まりました。会場で は、年齢や国籍・ジャンル・スタイルを問わず、10,000人以上のアーティストのありとあらゆる表現に出会えます。デザインフェスタは、アーティスト と来場者を繋ぎ、誰にでもある「表現したい!」という気持ちを応援します。”(http://designfesta.com/about/より引用、2013年12月31日閲覧。) 3! ポートメッセなごやで年2回開催されているアート系マーケットイベント。“ファッション、インテリア、クラフト、ビジュアルデザイン…使って着て 楽しめるモノあり、見て感動のアートあり、あらゆるジャンルのオリジナル・ワークが大集合。プロもアマチュアも約3000人のつくる人が、その作品 を展示・販売・上演・コミュニケーションする、半年に1度だけのクリエーターのビッグイベント。”(http://www.creatorsmarket.com/about/より引用、 2013年12月31日閲覧。)
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答も可とした。一通目のメールでの質問表への返信を踏まえ、改めて二通目のメールを送 信し、さらに返答をいただいた。実際にやりとりしたメールの内容を、取材の目的にかか わる部分のみ抜粋したものが資料3である。
! ・聞き取り調査 東京都新宿区のギャラリー「新宿眼科画廊」で開催されたグループ展「トランスエフュー ジョン」を主催されているまつもとこうじろう氏と、同グループ展およびまつもと氏が主 催している別のグループ展「ポリノミアル」に作品を出展している作家4名(さこさん、 おおもりあめ、きりさき、金田涼子の各氏)を対象に行った。 当初はまつもと氏へのメールインタビューを予定していたが、取材をお願いした時期に 新宿眼科画廊で「ポリノミアル」が開催中だったこともあり、まつもと氏から画廊で直接 会って話してはどうかとご提案をいただいたため、聞き取り調査をお願いすることにした。 取材は2013年12月14日、新宿眼科画廊で約1時間半に渡って行われた。 聞き取りにあたっては、事前のやりとりで「トランスエフュージョン」のコンセプトな どについて取材したい旨を伝えている。また、まつもと氏からは出展者と直接話ができる ということは伝えられていたが、その時点で具体的な作家名や人数は決まっていなかった (よって事前調査ができず、一部作家と作品の照応ができていない状態で聞き取りを行っ ている)。質問に際しては事前に簡単なメモを用意したが、実際の聞き取りは主として会 話の流れに任せる形で進行している。 まつもと氏および作家4名の作品やプロフィールは資料1に掲載している。5名とは今 回が初対面だったが、おおもりあめ氏についてはデザインフェスタで作品を拝見し、漫画 同人誌を購入したことがあった。また、おおもり氏のみ「トランスエフュージョン」への 参加経験がなく、今回は「ポリノミアル」の出展者として来場していた。 調査にあたっては質問が誘導的にならないことを心がけたが、本稿の仮説ありきで質問 している部分や、意図が読みとりづらい質問をしている部分があり、その点では課題の残
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るものになってしまった。しかし、予想外の回答を引き出すこともでき、非常に興味深い 聞き取りになったと考えている。この聞き取りを書き起こしたものが資料4である。 「トランスエフュージョン」はすでに2012年8月と2013年3月の2回開催されており、 2014年には3度目の開催が決定している(開催の経緯等については資料4に詳しい)。
! 取材を依頼するにあたり彼女たちを選んだ理由としては、第一に筆者の主観で作品が「カ ワイイ」と思えたということ、第二にモチーフとして多く少女を選んでいることの二点が 挙げられる。上述の基準に照らし、すでに交流があり作風についても知っていたおがわ氏 に取材依頼をした経緯は先に述べた通りである。 また、彼女を経由して知った「トランスエフュージョン」を取材するに至った動機も、 やはり実際に「トランスエフュージョン2」を観覧したときの直感的な印象にもとづ いて いる。同展の作品群は、画風や表現手法はそれぞれ異なっていたものの、一貫してモチー フが「少女」であったこと、「少女」の「カワイさ」や「あやうさ」が様々な仕方で表現 デフォルム
されていながら(このとき、描かれている少女のフォルムの畸形性は大きく影響していた ように思われる)、少女をモチーフにしたアート作品からしばしば感じられるポルノグラ フィックな印象 4 を受けないことなどが興味深かった。
! 以上のような理由に基づ いて調査対象を絞り、少女アート作家たちの制作にかかる意識 や態度についての調査を行った。次節ではこの調査から析出した作品にかかわる諸側面を、 作品そのものと作家の発言に基づ いて考察していく。
!
4! たとえば、少女像をポルノグラフィックに用いながら批評的なアートを実践している作家に合田誠がいる。2013年1月、森美術館で開催された展示「天 才でごめんなさい」が性暴力的であるとして市民団体からの抗議を受けたことは記憶に新しい(参考URL:http://paps-jp.org/action/mori-art-museum/, 2013年12月30日閲覧)。
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§4-3 分析 まず、「少女アート」作品群の形象の全体的な印象から見ていきたい。資料1に各作家 の作品から何点かを掲載しているが、程度に差はあるものの、概して大きな頭部と目をも つ、中原淳一からはじまり、少女漫画、ハローキティなどのキャラクター、せきやゆりえ や水野純子のイラストレ ーションの系譜に連なる身体バランスの少女が描かれている。ま た、はっきりとした描線でオブジェクトの輪郭が描かれているのも特徴である。描画手法 としてはペインティングやドローイングなど、オーソドックスな絵画と同じものが採られ ているが、画風はどちらかといえばイラスト的である。いわゆる「イラストレ ーション」 と「アート」の垣根を設定すること自体が無化されているとも言える。
! 続いて、描かれる対象としての「少女」に注目したい。当初筆者は、描く対象が「少女」 であるということは、それが(単に自画像であるという意味に留まらず、心的なものも含 めて何らかの自己像が反映されているものとしての)ポートレイト的な役割を果たしてい るのではないかと考えていた。実際の調査でも、各人によって「生」や心象の表現、宗教 的背景など内容は様々であるが、何らかの意味における自己投影としての側面が語られた。 ただし、「描きたいものを描いていたら女の子になっていた(きりさき)」という発言が あったり、回答もスムーズでなかったりなど、必ずしも理由や動機がはっきりとしていな い印象を受けた。それよりも「少女」との関わりとしては、個人差はあるものの、むしろ 「カワイイ」ものの一つとして少女をまなざしているという部分が大きいようである。こ の点についてはメディアとの接触という観点から後ほど再度検討する。 また、作品制作そのものに関してもはっきりと名言できるような動機や目的意識がない という回答が目立った。「あんまり理由がないと描けないものでもなかった」「折角描い たからみてみてーっていう」「そこまで気負って描くぞ!ていうのはない(さこさん)」 「そもそも「見てもらいたい」っていう(金田)」「ちっちゃいころから漠然とある、「描 いた!見て見て!」ていう、子供が親に見せるようなのの延長(きりさき)」といった発
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言からわかるように、表現活動や作品展示は、「描いたから見せる」というような素朴な 動機にもとづ いて行われている場合が多いようである。中にはむしろ、「クリエイティブ という言葉になんとなくお高く止まっている印象があるのと、そうまとめてはいるけれど 結局それで済ませれば良いと思っているのではないか?みたいな気持ちになってしまうの で(おがわ)」と、安易な政治化を拒むような発言もあった。「カワイイ」や、審美の態 度としての「キャンプ」に通ずる脱政治的な態度がここにも見られた。 しかし、まつもと氏も指摘するとおり、彼女たちの多くがある意味では「見られること」 自体には自覚的であることも特徴的である。「トランスエフュージョン」の出展者募集が 主としてインターネット経由で行われていたという証言からもわかるとおり、SNSやウェ ブサイトを通して創作物を開示することは彼女たちにとって日常的な行為であるようだ。 さらに、まつもと氏の「「うちにこもって描いてます」って言ってるけど、ネットの中で は自分の作品を出してるんで、結構自分の立ち位置みたいなものをみんな分かってたりす る」という発言からも、作家たちが他者の視線について自覚的に振る舞っている部分があ ることが伺える。作家たちが必ずしもいわゆる「カワイイ」文化のうちに自らの創作活動 を含めているとは限らないが、こうした他者のまなざしとの対峙のあり方は、80年代後 半以降の少女たちと少女文化とが他者の視線を自覚した上でメタ的な位置をとってきたと いう構造と重なり合うものがある。このような「メタ自己」が生まれる過程を検討すると き、ネットというメディアとの接触が常態化しているという時代的な文脈が果たす役割の 重要性は疑いえないものと言えよう。
! では、「カワイイ」についてはどうか。まず、どういったものを「カワイイ」と思うか という問いについては、「絵の具、お洋服、キラキラしたおもちゃ(おがわ)」「ウォン バ ッ ト 、 ペ ン ギ ン ( お お も り ) 」 「 ふ わ ふ わ 、 丸 い、 や わ ら か い ( き り さ き ) 」 な ど 、 「かわいい/カワイイ」の一般的な性質である無害さや未熟さ、非攻撃性に特徴付けられ る回答群があった。また、聞き取りのなかで「カワイくない」ものとして名指しされたパ
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ンダの玩具について、それがかわいくない理由に「無骨さ」が挙げられる場面があるなど、 「カワイイ」を構成する最小限の要素については本稿第一章で検証したものとほぼ一致し ている。 一方で、こうした旧来的な「かわいい」からはみ出す回答もあった。「ゲンゴロウ(金 田)」「ガメラ・芋虫(おおもり)」などは一般的に言われる「かわいい」からは外れる が、回答者はそれぞれにそれが「カワイイ」とみなしうる理由をもっていた。こうした「カ ワイイ」の境界解体性と恣意性についての自覚は共有されているもののようである。「か わいいの中に「気持ち悪い」とか「醜い」とかってものも含まれてきてて(おおもり)」 「 「 か わ い い 」 って 要 する に ま あ 、 「 好 き 」 に 近 い と い う か、 自 分 が ど う 思 う か な んで (きりさき)」といった発言は、「カワイイ」に含まれうるものの範囲の広さ、およびそ の範囲設定の恣意性について一定の理解を示した上でこの語を使用していることを示して いる。 自分の制作する作品について「カワイイ」と思うかどうかという問いに対しては、他者 からもそう見えているかはわからない/そうは思われていないだろうといった譲歩を含み ながらも(これも前述の「カワイイ」の基準についての恣意性への気付きを反映してのこ とであると言える)、「カワイく」描くことをめざしているということでおおむね一致し ていた。 全体的な感覚としては以上のようなものがあったが、作家に個別の問題としておがわ氏 が持っていた視点が興味深かった。それは、自らの作品を「カワイイ」ものに仕上げる過 程で、「カワイイ」がもつ力能のひとつとしての「自足性」に注目する視点である。すな わち、「かわいいだけで誰も傷つけない世界」の実現をめざしてなされる作品制作である。 そもそも「カワイイ」は、「カワイイ」以外の価値を必要としない自律的な感性である。 さらに、「カワイイ」はあらゆる対象をその語の前にひらくという意味で境界解体的であ るが、同時にひとたび「カワイイ」と評価した対象を「カワイイ」の内に吸収して封印し、 「カワイイ」と判断されえないものを排除するという意味では境界制定的でもある。「カ
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ワイイ」のこうした自足性がもたらす強度を、「傷つき」や「不快感と痛みと悲しみ」か ら自らを守るシェルターとして利用していくという戦略も、アートにおける「カワイイ」 活用のあり方の一つといえよう。
! 何を「カワイイ」と思うかという問いに関してもう一つ指摘しておきたいのが、前述し たように描く対象でもある少女を挙げる回答があったことである。たとえば、「カワイイ」 ものとしてアイドルを挙げ、「かわいいをちゃんと、売り物にしていって、すごい(きり さき)」と補足している。これは、第3章で述べた「メタ少女」のメタ性を認識した上で それを肯定的に評価する視点である。(成人男性によって)性的欲望の標的となるべくプ ロデュースされ 、いわばその性を商品化されたアイドル̶̶「少女」を戦略的に自己演出 することによって財を生み出すという点で、アイドルたちは究極の「メタ少女」であると もいえる̶̶についてこのような評価を下すことは、家父長制とセクシズム、およびそれ らと共犯関係を築いている新自由主義を批判するフェミニズム・アートとは対照的な態度 であるといえる。なお、きりさき氏はとくにアイドルのビジュアルやスタイルに注目して いるが、「そのアイドルの頑張ってる姿がかわいい(金田)」「メンバー同士の仲の良さ がすごいかわいい(おおもり)」と言ったような、行動にあらわれる「カワイイ」注目に する視点もあった。これらは一見すると「カワイイ」という評価が精神性にまで及ぶこと を示すように思われるが、アイドルそのものが(きりさき氏の指摘したように)偶像性に よって支えられており、その「カワイイ」行動や関係性はメディアを通して 提示 された ものからしか判断されえないことを鑑みれば、「カワイイ」はやはり本質的には外観に対 してなされる評価であると考えてよいだろう。 また、この問いに対する直接の回答以外の部分でも、たとえばなぜ少女を描くのかとい う問いについて、「女の子のこの丸みというか、やわらかさとかが、個人的にただ好きで、 それが描きたい」という回答があったように、少女はとくにその身体的な外観が審美の対 象となってあらわれている。録音を終了したあとのやりとりだったため記録にはのこって
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いないが、さこさん氏は少女を描く理由についてはっきりと「おっぱいと尻が描きたい」 と発言していた。 このような傾向は、彼女たちの作風に直接的・間接的に影響を及ぼしていると思われる メディアやカルチャーとの関係の仕方を参照しながら検討する必要があるように思われる。 作品制作にあたって影響されたものは何かという問いに対して、「ふりふりした可愛らし いお洋服を着たアニメや漫画、ゲームの女の子、その中でも変身ヒロイン(おがわ)」と いう回答があったほか、「オタク文化のようなそっちの絵柄を描いているという認識がな くて、生まれたときにはもう、結構、その中に自分はいた(きりさき)」「アニメとかゲー ムとか好きだったんで、流れで絵描いてて、だんだん今の感じになった(金田)」「[セ ラピー効果を期待して絵を描き始めることになったが]そん時に描けた絵っていうのはも う漫画絵でしかない(おおもり)」「家族が持っていた『COMICペンギンクラブ』 1 を読
んでいた(さこさん/録音なし)」といった発言があった。つまり彼女たちの多くが、絵 を描き始めたときにはすでに漫画(ときに成人向けのものも含まれる)、アニメ、ゲーム などが身の回りに日常的に存在するようなメディア状況の中にあり、それらの表象を参照・ 吸収した上で現在の作風を確立しているということがわかる。彼女たちが少女たちを「カ ワイく」描こうとしていることを鑑みれば、こうしたメディアとの接触は「カワイイ」観 の形成にも影響していると考えられるだろう。 これらのメディアについて、たとえば変身ヒロインアニメについては、それらが男性の 性 的 欲 望 の 受 け 皿 と な って い る と い う 指 摘 ( 森 2 0 0 7 な ど ) 、 あ る い は 幼 児 期 の ジェ ン ダー ・ バ イ ア ス 形 成 に 影 響 して い る と い う 指 摘 が し ば し ば な さ れ ( 武 田 ・ 笹 原 ・ 松 葉 口 2005など)、その意味では支配的な性制度の再生産に寄与していると言うことも出来る かもしれない。また、成人向け漫画の受容やアイドルの「カワイさ」へのまなざしを、「男 性的な見方(きりさき)」であり、性差別的・性暴力的価値観の無批判的な正当化や内在 化と見なすことも可能だろう。しかしここにあるのは、むしろメディアのジャンルへのい 1! 富士美出版から発光されている、成人向けの漫画雑誌。
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い意味でのこだわりのなさであるように思われる。彼女たちはたしかに、生育環境の中に 「自然」に存在したこれらのメディアを無批判的に吸収したかもしれない。しかし、その とき彼女たちが同時に「カワイイ」に対するメタ的な視点を洗練させていったであろうと いうことが、前述したような「カワイイ」の諸性質への理解から推測される。また、「ネッ ト世代(まつもと)」という言葉が象徴するように、インターネットという装置は、それ との日常的な接触を通してメタ的な視点を自ずから養いうるための条件を整えた。このよ うにして個々人のうちで醸成された「カワイイ」への感度は、創作活動において最終的に は「カワイく」描くという脱政治的な目的への奉仕に凝集する。その結果、商業的(とも すればステロタイプ的)な「カワイイ」イラストレ ーションでも、異性愛的欲望を前景化 したフェティッシュな少女像でもなく、特有の潜勢力を秘めた「少女アート」が完成する のである。
! ここで補足的に 、「少女アート」における非当事者性 2 とキュレ ーションの役割につい
ても検討してみたい。まつもとこうじろう氏は、自らを「作家のチョイスで展覧会をうま く回せるように」する「コーディネーターみたいな、そういう役割」と位置づける。自ら も「トランスエフュージョン」に作品を展示しながら、作風じたい展覧会のキュレ ーショ ンを前提に研究して身につけられているものであり、本人はあくまで展覧会の全体を整え るためのバランサーとして参加していると述べている。 このような、出展者の選定から展覧会のディレクションまでを行う男性キュレ ーター⇔ 声を掛けられて参加する女性作家という構造を、ジェンダー間の不均衡な権力配分にもと づ いたパターナリズム的なものとみなすことも可能だが、それは狭量というべきだろう。 まつもと氏も述べている通り、ここでのキュレ ーターは、俯瞰的に権力を行使し作家や作 品群のアレンジメントを行う存在としてではなく、メディウムとして存在していると捉え るべきである。それは作品(およびその制作者)と来場者の間の、また作家同士のコミュ 2! もちろん、作品を見るのみではこの非当事者性が浮き彫りにならないことが、「カワイイ」の特質である外観優位性がもたらす結果といえる。
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ニケーションやネットワークの形成をとりもつという意味でのメディウムである。すなわ ち、展覧会を社会関係資本の生産の場にしていくためのひとつの極として、あるいは「少 女」という集合の成員として把握すべきではないだろうか。あるいはまた、ギャラリーを ヘテロトピアの一つとみなすならば、日常空間を統御する諸秩序の自明性を覆す場を作り 上げる契機として考えるべきではないだろうか。 そもそも「カワイイ」文化形成においてプロデュースやディレクションを行っているの は多く男性である。たとえば、きゃりーぱみゅぱみゅの楽曲は音楽プロデューサーの中田 ヤスタカが、ミュージックビデオは田向潤がそれぞれ担当している。ファンシーグッズの 展開で多くの少女の心を掴んだサンリオの代表は辻信太郎であり、少女漫画雑誌やファッ ション誌の編集長が男性であることも少なくない。 「カワイイ」の生産者は、他の諸分野と同様とくに社会的地位が高ければ高いほど、実 際には男性の割合が高くなるのである。だが、そうした構図のパターナリズムに警戒し、 批評的であるべきだということは確かであるにせよ、それをセクシズムの再生産としての み捉える見方もまた斥けなければならない。なぜならば、ここまでで検証してきたとおり、 「カワイイ」はその感性に基づ く表象の再構築と再生産において、既存の権力関係を解体 しを乗り越える力能を常に持つからである(前章で挙げたガングロは顕著な例だろう)。 あるいはそうした「カワイイ」の作り手たちを少女たちが「カワイイ」への賛美を展開す るための場をとりもつメディウムとして位置づけるならば、彼ら自身も一面では「少女」 の一員として「カワイイ」生産のプロセスに取り込まれているとすら言えるのではないだ ろうか。
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§4-4 第四章の結論 本章では、少女たちの創作活動を通して、少女を消費者としてのみならず文化の生産者 として位置づけたいと考え、そのため実際の作品と作家へのインタビューを分析すること を試みた。 分析にのまえに、まずは消費社会における支配的な体制̶̶特に性にまつわる諸制度̶̶ の 動 揺 の 戦 略 と して アー ト が 有 効 性 を 持 つ と い う こ と を 、 バ ー バ ラ ・ クル ー ガ ー や ジェ ニー・ホルツァーによるフェミニズム・アートの例を通して確認した。彼女たちの作品は 社会や文化に存在する支配的なものをゲリラ的に利用することによって展開され 、そのこ とによって支配的なものの意味をすみやかにずらすことを実現したのである。こんにちの 「少女アート」もそれらの消費主義社会という文脈を共有しているものであり、何らかの 形でこうした抵抗の様式が継承されていると考えられたからである。
! 以上のような前提から、アートイベント「デザインフェスタ」やグループ展「トランス エフュージョン」および「ポリノミアル」への出展経験をもつ作家5名およびキュレーター 1名の計6名に取材を依頼し、作品そのものや作品制作に関する発言を分析した。この結 果明らかになった論点をまとめると以下のようになる。 まず、作家たちの持っているカワイイの感覚は本稿で論じてきたものとほぼ一致する。 そのうえで、自分の作品を「カワイく」しようとしており、その中には自足性によって自 己/他者を傷つきから守るための方途として用いられる「カワイイ」の例が見られた。 また、第2章で確認したような「カワイイ」の脱政治性は、その運び手としての少女表 象をモチーフとして選択し描くことを通して作品に継承されているように見える。これが 「カワイイ」表現に特有のものなのか、作家の年齢や世代・時代の要求に応答してのこと なのか、本稿での調査のみから結論づけることはできない。しかし、「カワイイ」が(力 関係のせめぎ合いを可能にする、というようなことをも含めた広い意味での)政治性を持 ちうるのはその徹底した脱政治性によってであった。
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今回取材した作家たちの作品制作には、むしろ政治化や戦略性を拒むような態度すらあっ た。これはフェミニスト・アートやガール・ジンの活動が明示してきた抵抗性とは一見無 縁であるかに見え、一方的な性的搾取や不平等を表象する表現やそれを規定する価値観を 無批判に許容しているかのように捉えられうる姿勢でもある。しかしこのことは、作品そ のものや作品制作のプロセスが持つ抵抗性を減ずるものではない。むしろフェミニズム・ アートが行うような明示的な闘争よりも巧妙に、支配的なもののずらしを実現していると 考えるべきなのではないだろうか。 つまり、この脱政治性は、フェミニズム・アートが批判の対象としてきたような覇権的 なジェンダー秩序を再生産する態度であるというよりは、むしろメディアとのかかわりの 中で吸収したさまざまな「カワイイ」を創作活動の中を再構築する試みであると解釈しう るように思われる。彼女たちはその軽やかな価値判断の様式̶̶すなわち、境界解体的な 感性としての「カワイイ」̶̶を行使することで様々なイメージや表象を支配的なジェン ダー秩序のくびきから解き放つ。彼女たちがメディアとの関わりのなかで接触してきた成 人向け漫画やアイドル、変身少女アニメ等における一見性差別的とも思われる表象は、「カ ワイイ」のメタ的で脱政治的な視座のもとに統合される。そして、彼女たちの創作行為の 中で加工を被り、それぞれが独自の揺らぎをもった作品として出来するのである。それら の、徹底した反抗や異議申し立てではない、ゆるやかなすりぬけや不服従の徴候こそが、 われわれが彼女たちの作品のもつアウラから感じ取りうるものなのではないだろうか。 また、そうした「少女アート」のキュレ ーションを担うのが男性であるという事実も、 同様に「カワイイ」もののプロデュースやディレクションが男性の手によって主導されて いるというパターナリスティックな構図も、少女たちの力能を減ずることを意味しない。 なぜならば、「カワイイ」の感性に基づ いて行われる生産と消費はつねに価値観の解体と 再構築の試みなのであり、その意味において、少女たちは既存の権力関係をつねに乗り越 え続ける存在であるからだ。
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結論 (少女革命前夜、あるいは既に行われている静かなる革命について) 本稿では、「カワイイ」という感性の共有にもとづ いて規定される存在として「少女」 を再定義し、消費社会において実践されるプロセスとしての「カワイイ」の諸様相を検証 することによって、それらが支配的な諸制度̶̶とりわけ異性愛主義や男女二分法といっ た性の制度̶̶の解体の契機を有することを見てきた。
! 第一章では議論の前提として、「カワイイ」とは何か、「少女」とは何者かということ を再定義した。本稿でカタカナで示している「カワイイ」は、旧来的な「かわいい」を特 徴付ける無害さや非攻撃性、未成熟性をもちながらも、それとは相反するグロテスクさや 畸形性を併せ持つ。このことは、少女雑誌に掲載された叙情画やその後少女たちに支持さ れたファンシーグッズのキャラクター像を見ることで視覚的に理解することができる。さ らに「カワイイ」は、その語のもとにあらゆる対象を評価可能な状態に開くような、境界 解体的なプロセスである。そのような「カワイイ」の感性を共有することによって規定さ れるのが、本稿で論じる「少女」であり、これは年齢やジェンダーから解放された独自の 存在論として措定される。そもそも「少女」はその成立の経緯から人工的なものであり、 性的な成熟と婚姻の間に置かれるという期間的な境界性、さらには性的生産に対するポジ ションの未決性という意味でのジェンダー的な境界性のうちに位置づけられる存在であっ たことを確認した。ところで、ジェンダー・アイデンティティとしての少女たちによる文 化的実践に抵抗を読み取ろうとする試みは、主として英国のフェミニズム社会学の文脈で しばしば行われてきた。私的なものとして不可視化されてきた少女たちが寝室やガール・ ジンといった刊行物、あるいはインターネット等のメディアを通して抵抗を示してきたと いうのが論者たちの主張である。本稿で論じている少女と、それらの論考で考えられてい るgirlの範疇の相違には留意する必要があるものの、少女たち独自の価値観や感性におい て支配的なものの動揺や撹乱が可能であるということを示した点において、これらの先行 研究が提供する視座は大いに参考にするべきものと言えよう。
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! 続く第二章では、消費主義社会における少女、すなわち消費という形で「カワイイ」へ の感性を発揮する消費者としての少女の側面に焦点をあてた。少女は歴史上、その萌芽期 から「カワイイ」モノやサービスを消費することをとおして「少女」でありつづけたので ある。このような消費は、ボードリヤールが指摘した現代の消費、すなわちモノの有用性 ではなくそのものが持つ記号性を、他者との無限の差異化のために消費するという過程の 典型的な例である。そしてその意味において、少女たちは搾取の可能性につねにさらされ る脆弱な客体とみなされる。さらに、クールジャパン戦略のもとで「カワイイ」がパッケー ジ化され 、財を誘導するための宣材として少女たちが国家に収奪される可能性や、女性た ちがメディアとのかかわりの中で長らく曝されてきた美と若さを追求するための消費への 強迫という古典的な構図など、少女たちは消費主義社会のさまざまな側面に巻き込まれて いると言える。だが少女たちの消費はまた、消費主義社会においてその市場規模を拡大す ることに寄与するという形で、「カワイイ」というマイナーな価値観を支配的なもののう ちに侵入させ拡大することに成功しているとも考えられる。このとき、少女たちが認知度 を高め、数の上でのマジョリティを獲得しているということが、抵抗を可能にする条件と してのマイナー性を減じているとはいえない。ドゥルーズが指摘したように、マジョリティ /マイナー性とはつねに支配の体制を条件づけるものとして理解されるべきであり、少女 たちは「カワイイ」をその境界解体性をもって絶えず更新するという仕方でマイナー性へ の生成変化の中にみずからを置き続け、抵抗的なものでありつづけることができるのであ る。 第三章では、とくに「カワイイ」が既存のヒエラルキーを解体しながら作動する様子に 注目した。既に述べたように、「カワイイ」はその語のもとにあらゆる対象を評価し、独 自の価値判断にもとづ いて再配置する作用をもつ境界解体のプロセスである。このプロセ スによって、少女たちは彼女たち自身がつねに晒されている成人男性からの性的な欲望の まなざしをかわすという戦略を可能にしてきた。すなわち少女たちは、異性から期待され
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る規範的な少女らしさとしての「かわいい」を組み替え、「カワイイ」として̶̶たとえ ば、ガングロギャルのスタイルやロリータファッションのように̶̶身体の上に提示する ことで、異性愛的な視線から逃走することを試みてきたのである。このとき注目すべきは、 「カワイイ」を「かわいい」から(連続性をたもちながらも)剥離させる条件としてのメ タ性である。すなわち、少女たちは自ら「かわいい」を課されている状態を自覚した上で、 それを「カワイイ」にずらす身ぶりによって、異性愛的な制度の布置に対して俯瞰的な位 置に自らを定置することができる。このことは、「カワイイ」がそもそも諸外国から日本 文化をまなざして言った国際語としての「Kawaii」に由来することからも明らかである。 すなわち「カワイイ」は具体的には、自己をまなざす他者の視線の存在を自覚した上で、 身体の外観を「カワイイ」モノの集積に作り替えるというパフォーマティブな過程である と言える。バトラーが言ったように、ジェンダーとは身体の上でパロディとして演じられ ることによって遡行的に内的なものの存在を錯覚させるものであり、そこにある種の不整 合が起こったとき、ジェンダーの無起源性があばかれる。「カワイイ」はこの過程におけ る不整合として作動し、性の諸制度を撹乱する誘因として働くのである。 最後に第四章では、その脱政治性がゆえに単に脆弱な消費者、あるいは支配的なものに 統御される客体としてのみみなされがちな少女たちの存在論を補強するためのひとつの方 策としての表現活動や創作活動に注目した。消費社会において、当該の社会に流通してい る支配的な文化的クリシェを乗っ取りながら家父長制や性差別というような支配的なイデ オロギーへの抵抗を示したフェミニズム・アートの実例を参照しながら、「支配的なもの の利用」のより現代的なバーションとしてのアートのあり方を考察しようと考えたのであ る。これを検討するため、少女をモチーフとした創作活動を実践している作家や展覧会の キ ュレ ー タ ー へ の メ ー ル お よ び 口 頭 で の 聞 き 取 り 調 査 を 行 っ た 。 そ の 結 果 見 えてき た の が、現在活動している作家たちの多くが漫画やアニメ、ゲームといったメディアを通し、 性差別的と考えられうるものも含めた様々な表象と接触し、それらを作品の中に昇華して いるということである。ここにおいても「カワイイ」の境界解体性は発揮され、「少女アー
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ト」はその強度を生産へと転化しわれわれに示すものなのである。
! 本稿ではさまざまな事象を、「カワイイ」という一つのキータームに貫かれたものとし て検討してきた。それらの事物を、細かな文脈を参照せず「カワイイ」のもとに統合して 論じるのはいささか巨視的に過ぎるという批判もあろう。しかし、ファッションのジャン ルが現にそうであるように、無限の差異化・細分化とそれにともなうカテゴリーの増殖は また、対象を際限のない「くくりの暴力」へと追い立てる。多種多様な文化現象をある共 通項のもとにゆるやかにまとめあげるという視座は、むしろその自由な拡大を後押しする ことができるものではないだろうか。 繰り返すが、現代消費社会において、少女たちが獲得する身体は彼女たちが消費の対象 として選好した「カワイイ」モノの集積としての表層的な身体である。国内においては、 それらの文化実践はその皮相さゆえに、少女たちの文化は軽薄で取るに足らないものとし て軽んじられ 、少女たちは刹那的で稚拙な消費者として見なされてきたように思う。だが 実際には、少女たちはメディアやそれを通して提示される他者のまなざしとのネゴシエイ トを絶えず行い、密やかな抵抗を、「大人たち」に見とがめられないような̶̶そしてお そらくは、本人たちにすら気付かれないような̶̶巧妙な仕方で繰り広げてきたのではな いだろうか。諸外国から「カワイイ」がかくように注目されたことは、単なる新奇性や奇 抜さからではなく、そこに秘められているこうした力能がもつ求心力を、世界じゅうの少 女たちが嗅ぎ取ったからではないのか。 少女たちは「カワイイ」によって世界をまなざし、つくりかえ、既存の秩序や規範を軽 やかに換骨奪胎してみせる。 少女たちは「カワイイ」を行使することによって「少女」 たりうる と言ったとき、その「少女」とはもはや、性の諸制度や年齢といった種々のア イデンティティ的な桎梏から解き放たれた、いわば「少女」としか言い得ない何者かであ り、それは消費社会を駆け抜ける静かなる革命者に与えられる名なのである。
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■ 資料4 聞き取り調査 2013年12月14日、新宿眼科画廊にて
こ おがわさんは僕が、おがわさんが(デザインフェスタに)出て
(ゴシック体が質問者( )の発言。間投詞など、文脈上不要と
たときに、全部のブースを回って、彼女ひとりだけを僕はピックアッ
思われる表現は適宜削除している。)
プしたんですね。
メールでも少しお伺いしたんですけれども、まずトランスエフュー
ちなみにどのあたりが引っかかったというか…
ジョンのコンセプトと、なぜそのコンセプトで展覧会として成立す こ まあ、アナログであるということと、オリジナリティがあると
ると思われたのかというか、その辺りをお伺いしたいのですが。
いうのと。デザフェスって結構、上手い作家さんっていっぱいいる こうじろう(以下こ) コンセプト。コンセプトですかね。
んですね。で、上手い人って、ちょっとこう、絵が商業的だったり するので…どこかちょっとこう、作品のなかに商業的じゃなく、か
サイト見たときに、「自己と向き合う」というキーワードがあった
つうまい作家さんというので、ちょうど彼女がいちばん僕の中で
のがちょっと引っかかったと言うか。
フィットしたので。
こ ええと、結構作家さん自体が、自分の感情を作品に反映させる
商業的でない、っておっしゃいますと。
ことが結構多いので、まあそういう作家さんたちをあつめてやって いるので。エフュージョンって「吐露する」とかそういう意味あい
こ たとえばポスターとか、あるじゃないですか。…そういうのっ
があって、で、タイトルはこの…和製英語…日本的なものっていう
てこう、上手くて、みんなに見せるようなものだったりするので、
ことで、英語よりは、和製英語、造語をつくってやったほうがいい
すごく商業的に作られているというか、いい意味でのプロ意識とい
かなというのがひとつですね。あと、検索にひっかからないとか。
うか。見せ方は上手いんですけど、商業的な絵って、人の介入を許 さないというか、もう「これはこういうものです」っていうことに
ああ、なるほど。
なっちゃうじゃないですか。そういうところで、僕がチョイスする
それであの、さきほども仰ったように(注:録音を開始する前に、
人は、どこか自分の感情みたいなものが、作品のなかに多少なりと
出展者の経歴についての会話があった)、とくに美大卒ともかぎら
も反映されている。それが上手いか下手かっていうのはわかんない
ない方々が集まっているとのことですが。
ですけど。まあ、いい意味での下手さだったりするんですけど。好 みっていうか基準ですね。たとえば、僕がやってることを誰かがやっ
こ 基本的に、個々の人たちっていうのは、「自分はイラスト作品
てるんであれば、ていうか、たとえば「カオスラウンジ」っていう
を描いている」とか、「私はアートをやっている」とか、みんなが
アート集団がいたりするじゃないですか。村上隆さんていう人がい
同じ方向を向いている展覧会ではないので、こういうものをやるか
て、あの人たちがチョイスしてることと、ああいうこととまた別の
ら、その枠に嵌めますっていうようなことはできないんですね、基
選ぶ基準みたいなのが僕の中にあって、彼らがやっていることと僕
本的に。なのでまあ、個人がやりたいことの延長線上というか、そ
がやっていることがかぶらないようにっていうのも一つの理由だっ
れを僕が…こっちからはこういう風なテーマでやってくださいとい
たりはするんですけど。
うようなことは一切言わないんです、僕は基本的に。なるべく、作 家さん自体がバランスよく…たとえば展示した時に、作家さんが参
アマチュアリズムを大切にされている、
加してるのにその作家さんがよく見えなかったりとかすると、その 人にとってマイナスになったりするじゃないですか。だからそうい
アマチュアリズム…
う風にならないように、うまくバランスよく作家をチョイスするの が僕の仕事ですね。
とも限らない?
具体的にはどういう所で見つけてどういう風に声をかけるっていう
こ アマチュア…ていうか…。イラストレーターの人っていうのは、
風になさっているんですか。
…商業的なベースになっちゃっているので、自分の表現より、「見 せる」っていう、人に見せるっていうことを優先的に描いてるじゃ
こ 基本的にはネットなんですけど、僕は関東にいるので、行ける
ないですか。で、それは別に悪いことじゃないんですけど、そっち
人には直接行って、作品を見て、交渉しますね。一人一人に。関西
とこっちと同じことやってるんであれば、じゃあみんな上手い人集
のほうとかはなかなか行けないので、デザフェス(デザインフェス
めればいいじゃんっていうことになっちゃうので、そうすると原画
タの略称)とかで来る人もいるじゃないですか。デザフェスをばーっ
の良さだったりとか…上手いものが必ずしもいいというものじゃな
てまわって、おがわみきさんっていう作家さんがいるんですけど。
いじゃないですか。別に、奈良美智(画家。挑戦的なまなざしの子 供の絵を多く描いている)が、技術的に他の作家に勝っている訳で もないし、すごい上手い絵を描いてるかっていったらそうじゃない
あ、私その方経由でここを知りまして。
じゃないですか。まあその、アートの話とかにしちゃうとコンテク
xvi
ストとかがこうだってなっちゃうと、また話がずれていっちゃうん
うにこっちで誘導していくような作業を誰かがしなきゃいけないの
で、あれなんですけど。僕の中での基準みたいなのがそういう所に
かなあって。それがなくなったときに、例えば村上隆を批判する人
ありますね、人を選ぶっていう。
とか居なくなると思うんですよ。その、「アートっていうものが何
で、1、2、3…まだ3はやってないんですけど。絵をあんまり見
ぞや」っていうものが理解できたときに。その段階を踏む、います
ない人っていうのは、あまりヘタウマすぎる絵を、ただの下手な絵
ごい下にいるっていうことだと思う…ちょっと話が飛躍しすぎちゃっ
だっていう風に判断する人って結構いるじゃないですか。絵を沢山
てすいませんけど(笑い)。
! !
見てる人は、「ヘタウマでもいいよね」ていう、上手いとか下手と か判断できる人と。でもそうじゃない人っていうのは、たとえばヘ
いえいえ(笑い)。
タウマすぎてヘタよりすぎると、「ただの下手な絵だから私にも描 ける」とか、そういう風に思う人って結構いるんですよ。で、1を
こ あと僕自身が、オタクでもないし、アニメも漫画もほとんど見
やったときには、基本的にはヘタウマのヘタ寄りの人は入れないよ
ないんですよ。だから逆に、そういう人がそういう人たちをチョイ
うに…一発目をやるときに、いろんな人に見てもらいたかったんで、
スすることで、客観的に…ていうか、自分の好みに走らない。自分
知らない人でも「へたくそな絵があるぞ」って思って「わかんな
はこの作家さんが好きだからっていってばーっと集めるんじゃなく
い」ってなるよりは、一発目の紹介なんで、ある程度描ける人を並
て、外側から見て、この人とこの人をチョイスして展示させたほう
べることで、ある程度そういうものに興味を持ってもらえるかな、っ
がバランスがいいんじゃないかっていうのを、内側の人間じゃない
ていうチョイスが一発目にやったときの…バランスっていうか、作
からできたりするのかな、っていうのはあるんですよね。
!
家を集めるバランスはそこにあったりとかして。1に出た人が優秀 で、2に出た人がその次とかじゃなくて、本当は1で呼びたかった
それは参加者の方々が各々デザインフェスタなりネットなりで公開
人を2にわざと持ってきたりとか、そういう作家のチョイスで展覧
するっていうことと、展覧会というところに集めて公開するってい
会をうまく回せるように、っていうコーディネーターみたいな、そ
うこととはまた意義が違うとお考えだからこそ、こういうことを開
ういう役割ですね僕は。
!
催されているわけですよね。
見せるためにつくるのではない方向にあるエネルギーみたいなもの
こ そうですよね。まったく別ですよね。で、誰かが言ってたんで
を…
!
すけど、彼らって結局、「群れる場所」が必要なんですよね。作家っ
こ それもあるんですけど、でも、僕が選んでる人たちって、だけ
分で展示するときは誰かが来てくれなきゃいけないかもしれないけ
どそれを無意識に、人に見せるためって描いてなかったとしても、
ど。グループでやるとひとつのチームみたいになるんで、たとえば
ちゃんと人に見られる意識を持ってるんですよ。ネット世代の人た
展示の搬入のときにみんなと会って、一緒にこういう風に配置して
ちってみんなそうで。それを無意識に、外に発信できるっていうか。
展示しましょうとか、レセプションとかやったりとかして、みんな
「うちにこもって描いてます」って言ってるけど、ネットの中では
集まってきて、またそこでいろんなつながりができたりとかして。
自分の作品を出してるんで、結構自分の立ち位置みたいなものをみ
つながりができた同士でまた違うところで展示してもいいと思いま
んな分かってたりするんですよね。
すし。そういう輪をつくっていくっていうきっかけになればいいか
!
てみんな個人でやってるから、結構普段孤独だったりするけど。自
!
なっていうのもあるんですよね、ひとつ。
ネット世代であるということが関係しているという…さっき、 見せ
!
るため に商業的なほうに傾いでいる作品と、そうではない感情の吐
声をかけさせて頂いた動機というのが、トランスエフュージョンを
露みたいなものが多少なりとも湧出しているものと、って仰ったと
拝見したときに、みんな女の子を描いてるなっていうところでひっ
きに、でも結局こういう形で見せているよね、っていう矛盾じゃな
かかったんですよ。もちろんメールでも仰っていたように、とくに
いですけれど…そういう何かしらの視線を意識するっていう意識は、
描かれている対象と同じ性別や年齢の幅にとどまらない参加者の方
やっぱりネットで公開するっていうことと…
!
もいらっしゃると仰ったんですけど、結果としてできあがってくる
こ ネットっていうこともあるだろうし、人によっていろいろ考え
すごく印象的だったので、今回こうやってお声掛けさせて頂いたん
方があったりとかして。たとえば、ここの界隈では有名になりたい
ですけども。ですのでさっきの「感情の吐露」っていうところと結
けど、それ以上有名になりたくないとか。人によって全然目指して
びつけていくと、どうしても ポートレイト としてできてくるもの
るところが違かったりとかして。有名になりたくないけど、だけど
が「少女像」だっていう事態が、面白いなというか、そこにどうい
自分の好きな人と一緒に展示してみたいとか。本当に人によって考
うものがあるんだろうというのが今回、論文にしていけたらなと思っ
え方ってばらばらだったりとかするんですけど。で、見る側もみん
ているところでもあったので。
作品が「少女」っていうところに凝集されているな、っていうのが
!
なばらばらで、オタクの目線で見る人もいたりとか、アートの目線 で見る人もいたりとかして、みんなこうばらばらなんですよね見方っ
こ たぶん、そういう今、時代の流れっていうか、たとえば、Mr.さ
ていうのが。でも僕はそれを最終的に、たとえばアートっていうカ
ん(画家、村上隆に師事。アニメ風の絵柄をドローイングやペイン
テゴリーなんであれば、最終的にそこにちゃんとみんなが向かうよ
ティングに取り入れた先駆け)ってあの、カイカイキキ(現代アー
xvii
ティスト村上隆が代表を務める企業。ギャラリーの運営や展覧会の
ンティングとかで描いている作家さんは、割とその、さっき言って
開催などを行う)の作家さんがいるじゃないですか。あの人って、
たみたいな心情を吐露するみたいな表現のものを多く見ることがあっ
最近すごい注目されてますけど、結構前からもう活動されてますよ
たので、結構そういうところを、トランスエフュージョンとかの名
ね。だけど、全然注目されてなかったんですよね、何年も前から
前も含めて考えてたんですけど、私自身はべつに、そういうのあん
ずーっとやってるのに。だから、そういうもの自体が、そういう時
まなくて(笑い)。
! !
代としてちゃんと…たとえば、昔は「オタクって恥ずかしい」とか そういうものだったのが、だんだんそういうのが恥ずかしくないん
ああ、そうなんですか。
じゃないの、ていう時代になりつつあって、それがどんどん表に出 てきてるっていうのが、今…今の時代ってそういうぐらいの世代な
さ なんか、本当に、私自身の話なんですけど、単純にもう、ご飯
んじゃないかな、っていうのが、僕の考えてることです。だから、
食べたり、風呂はいったり、寝たり、ていう生活の中に組み込まれ
これからその対象物っていうものが、少女じゃないものに変わって
ている、もう同列のものでしかなくて、絵描いたりっていうのが。
! !
いく可能性もあるかもしれないですけど、今現在の若い世代の人た ちが、…なんだろう、世界的にもいわゆる「カワイイ」とかってい
こ あー、それはあるかもしれないよね。
う言葉が世界でも通用するようなことばになってきているように、 そういうものの、そういう文化自体がそういう流れにあるんじゃな
さ だから、作家さんとか、絵描きさんによって、「よし、描く
いかな、ていう風には思ってますけど。今後どういう風になってい
ぞ」って言って、いろいろ集中してそういう枠を設けてピッてやる
くかは分からないですけど、まあでも何か、参加者とかは、やっぱ
タイプの人もいれば、なんかとりあえず手が動いちゃって、紙があっ
今そういうものにしか興味がないというか、そういうものを描くの
てペンがあって、だったらとりあえず何か描いちゃうみたいな人と
が、彼女たちとか彼らにとっては、すごくこう…今を生きてるじゃ
か、いろいろ居ると思うんですけど、私どっちかというとその後者
ないですけど、なんかそういう感覚みたいですね。
!
のほうで、何かがないと描けないってことはないんですよ。ご飯も
そうやって表現することに一種の切実さみたいなものを感じたって
由ってないじゃないですか。でそんな感じでもう、べーって。
別に、お腹減るから食べたりはするんですけど、特にそれ以外の理
! !
いうのもあって、それがどこからくる…そうやって訴求しようと思
こ うん、そういう人って結構居るみたいで。
うその精神性がどこからくるのか、何かを訴えたいとか、そんなに あの…
!
さ だからそれも、その中に抑圧されたものを、たとえば感情が昂っ
こ ちょっと待って。それねえ、俺が話すより作家本人が話した方
て涙が出ちゃうみたいな感じで、感情の昂りを絵に出力するみたい
が…(笑い)
な人もいるかもしれないですけど、私もう、そういうのも全然なく
! ! ! ! !
て。単純に本当に、その辺に、仕事中とか、ちょっと保存で時間ずっ
あ、すみません(笑い)
と待ってるときとかにべーって描いちゃうとか、
(こうじろうさんが一旦退席、さこさんを連れて戻ってくる)
あー、なるほど。
! !
こ 彼女は、トランスの1から出てもらっていて、
さ もあれば、ちょっとキャンバスとかがうちに余ってて、絵の具 とかあって、ちょっと暇だしっつってぺとぺと、っていってやるっ
さこさん(以下さ) さこさんと申します。宜しくお願いします。
ていうくらいで、あんまり強い志とかないんですよね(笑い)。参 考にならなくてすみませんけど。
んですけれども、で、そこでキーになってるのが感情の吐露が作品
! !
から垣間見えることであるというお話を伺いまして、そうまでして、
こ 若い子とかは、たとえばちょっとグロテスクな表現する人とか
というとおかしいんですけど、作品にしてまで自分の感情を消化し
も結構いたりとか、
いま、トランスエフュージョンのコンセプトであったりとか、どう いう意図でこれが開催されてるかというお話を一通りお伺いしてた
いえいえ。
! !
なければならないっていう圧迫というか、切実さみたいなものが、
さ そうですね。
個人的なもので全然構わないんですけれども、どこからきてるのか なということをお伺いしたかったのですが。
!
こ 多分それはもう結局、感情的なものをとりあえず作品に反映さ
さ 作家さんそれぞれだとは思うんですけれども、絵を描いたりと
せたりする子も結構いたりするかな。
!
か作品を制作したりする理由みたいなものとか、どこからくるって いうのは。一概にはコレっていうのはないと思うんですけど。割か
さ その、自己表現のひとつとしてそういう感情を、普通に感情と
し私が一般的に見ていて、今こういうカワイイ感じの絵とかをペイ
してストレート泣いたり笑ったりで表すのと、同じ感覚でそれを絵
xviii
に起こしたりっていう感覚もあるのかもしれないですけどね、そう
に僕が何名かを、お金払って一緒に展示しませんか、って声を掛け
いう若い子とかは。その…要は、あまり言い方よくないかもしれな
たんですよ。それで展示したら、ここの、今日いないけど田中さんっ
いですけど、メンヘラ的な絵とか、リスカっぽい絵とか、そういう
ていうディレクターの方が、ちょっと面白そうだからってことで、
のって、ある一定の年齢層に非常に多くてかつ非常にウケがいいみ
僕に声掛けてくれて、じゃあ今度全部のグループ展をキュレーショ
たいなのあると思うんですけど、たぶんそれってその世代の共有し
ンしてみない?ていう話になって、それで1をやって、ていう感じ
てる、なんて言うか…「なんか」ですよね。多分。大人になって多
で今の流れなんですけど。それが何年前?
!
分、やんないというか、やってたらちょっとイタい人だと思うんで すけど、ある時期特有の何か、かなーみたいな。けどまあそれが、
さ それが2011…ん?12年の1月とか2月とかそういう、わ
そういう子たちが、そのまま年をとっていって、10年後20年後って
りと初旬のほう?
! ! !
なったときに、どういう理屈で絵を描いたりしてるかっていうのは、 ちょっと、どうなのかなあと思うんですけど。やっぱ絵描きさんと
こ 3年前?
か、作家活動をされている方って、絶対どっかで「何で絵を描いて るんですか」とか、「自分って何で絵を描いてるんだろう」みたい
さ あれ、もうちょっと前か。
な質問がきて、多分それの答えを用意してたりする人いると思うん ですけど、なんかその、私はそういうのに直面したときに思ったの
こ そんぐらいの時って、村上さんがもってる中野のギャラリーと
は、あんまり理由がないと描けないものでもなかったので…動機み
かで、若い作家さんとかが、結構展示したりとかして、そういうオ
たいな…
!
タク的な絵の展覧会とかが結構盛り上がってた時期があったんです
…その感覚はわからなくもないです。ただ決定的なのは、それを何
たりっていうのがあったりとかして。そこでいろんな人たちと知り
かしらの形で…仕事中に手元でちょっと描いたものだったり、ある
合ったりとかして、だけどその、カオスラウンジとか村上さんとか
いは家にキャンバスがあったから描いたみたいなものを、 公開す
がいろいろ揉めちゃったりとかして、まあなくなっちゃって、なく
る っていうところにやっぱり一段ジャンプするものがあるじゃない
なりつつあるところで、せっかくの流れみたいなものがあったのを、
ですか。それはご自分のなかでどういう風に消化されているってい
絶やしたらアレかなって思ったんで、で、誰かやらないかなって思っ
うか。
たけど、どうも誰もやらなそうだから…ってことで僕がちょっとやっ
けど、で、まあ僕もそういう流れに乗ってそこで展示させてもらっ
!
てみようかなっていうことがきっかけなんですけど。
!
さ 別に内々でやっていればいいものを、わざわざ表に、展覧会と かの機会に、出していったりするっていうことについて。
!
さ そうですね。なんでそもそも、まつもとさんに私を知るきっか
そうですね。それはそれで、それなりにエネルギーを要することだ
ところがあって。当然やる気がなければ出たりはしないとは思うん
とも思うんですけども。
!
ですけど、結局…やっぱりどっかしらで自分が作ったものを、本当
さ 何ですかね、単純に私呼んでもらえるから「やったー」みたい
も、全然知らない人でも、作ったものを見てもらいたいっていう気
な感じで。
!
持ちは無いって言ったら嘘になると思うんですよ。むしろ見てもら
こ そう、単純に多分僕が呼んでるからっていうのもあると思うん
とか言われたいみたいなものはあると思うんですね。なんで、結局
ですけど。
!
そういう展示とか、じゃなくてもpixivとか、Twitterで画像あげたり
もともとどちらで…公開されていたものを見られたから、っていう
ういうのって結局、オンライン上だけど、展覧会とかで絵を飾って
ことではなく?もともとどういうきっかけで…
!
ることと、もとは一緒っていうか、外に見せたいっていうところで
こ ああ、彼女は、村上(隆)さんとこのギャラリーでちょっと展
感じなんですかね。
けになってもらった展示とかも、結局呼ばれたから行ったみたいな
に内々だけで完結して…ていうところよりも、やっぱり身近な人で
いたいし、見てもらってなんか「かわいいね」とか、「きれいだね」
とか、Instagramでもドローイングをすごいのせてるんですけど、そ
は一緒だと思うんで。で、そういう気持ちがどっからくる?ていう
!
示したことがあって、それを僕がたまたま見てたんですよね。ネッ トか何かで。それでネットで知り合って、で、実は「トランス」の
まあ…そうですね。でもそれは本人が自覚的にやっていることじゃ
前にちっちゃいグループ展がここであったんですけど、そこに実は
ないことも含めて、それを読み取るのが研究者の仕事だったりもす
…6人くらいかな?当時。
! !
るので。もしお話いただけることがあればもちろん伺いたいんです
こ 6人くらいを、ここでやってるグループ展で、自分で申し込ん
すよね本当(笑い)。
けども。
!
さ うん、そうですね。1、2、3、4、5、6人か。
さ まあでも、折角描いたからみてみてーっていうなんか、それで
!
で参加させてもらうみたいなグループ展があったんですけど、それ
xix
!
それはありますよね。
!
宜しくお願いします。
こ ○○さん(聞き取れず)が言ってたんだけど、彼女GEISAIに毎
先ほどもちょっと申し上げましたように、今、少女文化ということ
回でてくるんだけど、結局「私は描いた後に、自分の作品を見た人
をテーマに修士論文を執筆中でして、その題材として、「表現」っ
と対話したい」って言うんですよ。どういう風に感じてるかってい
ていうところで、「少女による少女表現」っていう一応、枠でやっ
うのを。だからこういう所に出て…グループ展に参加するっていう
てるんですけども。
のもひとつの楽しみだったりするんだけど、デザフェスとかも出て
皆様、描く対象として、女の子っていうモチーフを選ばれてるなっ
いらっしゃるから分かると思うんですけど(注:録音開始前に、筆
ていうことで、トランスエフュージョンを見たときに、そういう作
者がデザインフェスタに出展経験があることを話してあった)、直
品が多いなというか、統一的なテーマじゃないですけど、コンセプ
接反応を貰えたりとか、知り合いの作家さんも遊びにきてくれたり
トとしてそれがあるなっていうことを感じて、その動機というか、
とか。ネットってやっぱり文字だけのやりとりなんで、直接本人と
そこに私は切実さみたいなものを感じてしまったんですけど、それ
いろいろできるっていうのが、求めてるっていうとこから、多分僕
がどこからくるのかというか。あまり深く考えていただかなくて大
がさっき話した、群れる場所をみんな求めてるって結局そういうと
丈夫なんですけれども、どうして女の子の絵を描くようになったん
ころで、やっぱみんなでこうどうにかっていうのが…何なんですか
ですか、っていうことです、要するに。すいません、順番にお伺い
ね、日本人的なところがあると思うんですよ、その「みんなで何か
しても…どなたでも大丈夫です。
! !
をやる」っていうの。「はじめまして」って会った人たちでも、展 示の作業っていうのをすごいみんなスムーズにやるんですね。やっ
き 名前言った順で、じゃあ。
ぱそういう協調性みたいなのって日本人の気質なのかなっていうの はあって…まあ、女の子が多いっていうのもあると思うんですけど。
! ! ! ! ! ! !
お 世間の若い女の子…10代、二十歳前後くらいの女の子だと、
描く対象として女の子の絵がすごく多かったというか、見た限りす
ああ、はい。
みんな多分自分の投影ってものが多いと思ってるんですが、私の場 合、うーん…自分の投影っていうよりかは、自分は「死ぬこと」っ
さ わりと調和とれてるっていうか。
ていうことを考えながら絵を描いていて、…それは死にたい願望が あるとかじゃなくて、むしろ生きたい願望なんですけど。死ぬこと
こ そうなんですよね。
の逆、生まれてくることとかってことを考えると、やっぱ女性を描 くしかなくなっちゃうっていう…ことがすごいあって。で、もうひ とつちょっと気持ち悪い話なんですけど、気持ち悪い話って(笑
(ここでさこさんの作品を一部見せていただく)
い)、うちの夫の実家が天理教なんですけど。天理教ってわかりま す?
べてそうだったと思うんですけれども、わたしがやっているのが少
! !
女文化研究の延長としていまお話を伺っているので、モチーフとし
お そこの、教祖が女性なんですね。そういう個人的な宗教的な背
てなぜ少女を選んでいるのかっていうことについてもちょっとお伺
景もありつつって感じですね。
! !
いしたいんですけども。
! ! !
なるほど。ありがとうございます。じゃあ、
こ ちょっと、もうちょっと呼んできますよ。
き はい。えー…。たまに考えたりもしてたんですけど、何で女の 子を描くんですか、ってよく訊かれることもあって。で、考えるん
(さこさんが一旦離席)
ですけど、本当に…なんでかって訊かれると答えられるものがなく
(おおもりあめさん、きりさきさん、金田涼子さんが入ってくる)
! !
て。…そうですね、絵を描き始めたころからわりと女の子のかわい
まず、記録に残したいということもありますので、お名前だけそれ
ら「こうしたい」っていうのはなくて。見た目。ビジュアル…とい
ぞれ順番にお伺いして…
! ! !
うか。描いていて女の子のこの丸みというか、やわらかさとかが、
金田(以下金) 金田涼子です。
き そうですね。
いイラストを描いていて。どちらかというと、そこに何かを込めて いるというよりは、自分の投影もしてないし、とくに考えが自分か
個人的にただ好きで、それが描きたいっていう。ただただ描きたい
おおもりあめ(以下お) はい。おおもりあめです。
ものを描いていたら女の子になっていたというか。
きりさき(以下き) きりさきです。
それは身体そのものが持つ曲線に惹かれるっていう。
! ! xx
!
あと、テーマが「カワイイ」ってことをキーワードにしてまして、
たとえば、女の子の絵だと、髪型のバリエーションが多かったりと
そんなに深く考えなくていいんですけど、これは四方田犬彦という
か、服装のバリエーションが多かったりとかって、そういうところ
人が『「かわいい」論』ていう本を書いていて、その中で彼が教え
で女の子を描くのが楽しい、て仰る方いらっしゃると思うんですけ
ている女子大生を対象に(注:質問者の誤り。実際には男子学生も
ど、そういうところではないんですかね。
!
対象にしている)「かわいい」についてのアンケートをしていると
き そう…ですね。そこも何かすごい、やっぱバリエーションあっ
きするんですけれども、「かわいい」の対義語は何だと思いますか。
ころがあって、その中にあった質問を借用させていただいて今お訊
! !
て楽しいなとは思うんですけど、私自分の描いた作品振り返ってみ ると、そんなに髪型のバリエーションもないし、洋服も着てないの
直感で全然かまわないので。思いついた順にだしていただければ。
が結構多かったりして、たぶんそこじゃないのかなていうのが今、 後々から気付いたというか…そうですねー…難しい。
金 ぽっと出、言葉的な意味でいうと「みにくい」になるのかなと
!
思うんですけど。自分の中での対義語だと…
なんでしょう、逆に女の子じゃないもの、たとえば少年だったりと
!
か、動物だったり自然だったり何でもいいんですけど、そういうも
お でも、「醜い」とか「気持ち悪い」っていうことを考えたんで
のを描くのが逆に不自然だっていう感覚はあります?
すけど、でも結局、かわいいの中に「気持ち悪い」とか「醜い」と
!
かってものも含まれてきてて、何だろう、「ブサカワ」とか…
! !
き うーん…不自然。…とくになんか、こう、難しく考えて「私は 女の子しか描かない」っていうのもないですし、まあ、多分気が向
ありますね。
いたら描くと思うんですけど、多分本当にただただ単純に「気が向 かない」というか(笑い)。そっちを描くっていう考えにならない
お だから、全部「かわいい」ですませられちゃうのがすごい、大
というか。描いてて楽しい方を描いてしまう。
! ! ! !
変だなと思って。
描いてて楽しい。
き 私は本当なんか、「かわいい」っていうのは自分が思うことで
金 うーん、何でしょう。私もでも、普段の落書きとかはどっちも
い」って要するにまあ、「好き」に近いというか、自分がどう思う
描いたりもするんですけど、「作品」ってなると女の子以外は多分、
かなんで。
!
あって、人によってそれぞれ「かわいい」って違うし、そうなると
き はい。そうですね。ただただ私の好みですかね。
さっき言ってた「醜い」も多分違うなーって思っちゃうし。私が本 当に思ったのは、「かわいい」/「かわいくない」。単純に言うと もう、自分の中で、それが「かわいい」か「かわいくない」か、「好
ありがとうございます。では。
き」か「嫌い」か、みたいな感じになってくるのかな。「かわい
あ、じゃあ、普段描くものと作品としてこういうところに持ってく
! !
るもの、っていうのがご自分の中で区別されてるっていう感じです
き そうじゃないのは「あ、かわいくない」。「これはかわいい」
か?
!
みたいな。
金 うーん…ふふふ。落書きはでも、本当に何も考えてないんで。
お あ、正しいかも。
ないです。
!
金&お うんうん。
! !
本当に、作品に使えなさそうなんで。手遊びみたいなものでいっぱ いです。
! !
なるほど。一応それの答えとして、あったのが何群かあって、「か
金 今最近よく描くのが、自分の夢のこと、ていうのをテーマにし
ちょっとそういうインフォメーションです。
てて、夢の中身とかじゃないんですけど、その夢を見てるっていう
で、それと関してもう一つだけお伺いしたいのは、自分で作品を制
のが自分で、出てくるのって全部自分の中から生まれてきたものな
作なさるときに「カワイイ」っていうことを意識してやられている
んで、女の子をいっぱい…描いたり。自己投影だと、男の子はわか
とか、あるいは自分の作品が「カワイイ」と思うかどうかっていう
んないんで。女の子…が一番身近で描きやすいし、表しやすいのか
ところをお伺いしたいんですけど、それに関してはいかがでしょう
なって。
か。
わいい」に「かわいくない」っていうパターンもありましたし、「か
じゃあ、考えて描くってなると女の子になってることが多い。
わいい」と「美しい」を対比する人もいて、あと「醜い」とか、 「かっこいい」とか、っていうような答えがありましたという、
!
!
ありがとうございます。
xxi
お 自分のなかで、描いてるときに、「カワイイ」と思って描いて
お で、かつちょっとメンヘラチックで、ふふふふ(笑い)
!
はいます。ただ、世間的には、「カワイイ」部類ではないと思って はいます。自分のなかで「カワイイ」かどうかで結構ジャッジはし
金 ぷにってして目が大きいとかも最近流行りだなって。自分もざっ
てます。うん。
! ! !
くりわけられたらその流行りに入るのかもしれないなって思います。
お うん。
制作している作家。2013年には個展も開催)とか。
き わたしも描いてるときは…その作品がうまく描けてるかどうか
一同 うんうん。
! !
意識としてはしてらっしゃる。
やすだゆうかさん(少女を描いた漫画作品やイラストレーションを
! !
を判断する時が、私が本当にその、描いている子を「カワイイ」っ て思えるか。結構作業してる場に弟とかがいるんですけど、弟に、
き そっちは好きだけど、別に考えてそこに嵌めてこうとは思って
私が「ねえ見て今描いてた子、すごいかわいくない?かわいいで
ないですね、作品を。
! !
しょ!」って言ってる時がすごく上手くいってる時だっていうのを 自分で思ってて。自分がカワイくかけてる…私の場合は結構バスト アップの絵が多いので、表情とかバランス、ぱっと見たときの造形
全体的に、こういうものと「ポップなもの」…の融合というか、ポッ
がちゃんと整ってて、カワイイかどうか、カワイく描けてるか、っ
プなものをコラージュ的に使うかたがいらっしゃったりとか、って
ていうので、自分で「あ、この子今すごいカワイく描けてる、良かっ
いうことを感じるんですけど、それをするときの、その技法を採用
た」て思いながら作業したり、「ちょっとカワイくならないな、こ
するのがどういうつもりでっていったらおかしいですけど、やって
こ直そう」とか、そうですね、かわいいかかわいくないかで結構判
るのかなみたいなことは個人的に気になってはいるんですね。
断してつくっていってますね。
!
言ってしまえば、ポップであるっていうことは、陳腐であるってい
金 私も描く女の子が、カワイイ女の子を描こうと思って、自分の
ところにもっていきたいんだろうな、ってこともまた分かるんです
中でですけど、カワイイ顔にできるように描いてるんですけど、画
よ。
面にすごいいっぱい人を描くんで、中心にひとりいて、周りにちっ
で、なんか、いわゆるポップなもの、大衆文化的なものと、ご自分
ちゃい子が何人もいるので、真ん中の子はすごい力を入れて描くん
の作品の距離感みたいなものを、どういう風に思ってらっしゃるの
ですけど、まわりは割とふわっと雰囲気カワイイくらいで描いて。
かなっていうのは、気になります。
全体的にはポップとかよりはちょっと不思議な感じにしたいと思っ
こういう展示会でも、いわゆる「オタク」的な文脈から出てきたよ
て描いています。
!
うな、美少女ゲームとか系の絵にちかい表現をされる方って、最近
最近いわゆる「カワイイ」文化とか、カタカナで言われる「カワイ
タク」に消費されるそういうものじゃなくて、「わたし」の表現で
イ」みたいなものがすごく、もてはやされるというとおかしいです
ある、という風に多分思ってらっしゃると思うんですよ。だからそ
けれども、ものすごく氾濫している時代だと思うんですけれども、
この、ラインみたいなものが、すごく個人的には気になっていて、
それに照らして、意識して…そういう流れみたいのがあるな、って
わかりづらい話になってしまったんですけれども、そのことについ
いうことは意識されますか。反映されているかはともかく。
!
て、こういうことじゃないかとか、あるいはご自分の作品制作に照
お あるなーっていうのも見てるし、そういう作家さんのことも好
ども。
うことと、すごくつながりやすいけれども、おそらくそうじゃない
割といらっしゃるように思うんですね。でもそれは、いわゆる「オ
らしてなにか、思うところがあれば仰っていただきたいんですけれ
!
きだし、そういう世界のことも好きなんですが、ただ自分の絵がそ うかっていうとそうじゃないと思っていて、自分の絵はどっちかと
き ようするに何か、オタク文化に近い美少女系の絵を何故描くの
いうと「気持ち悪い」側だとおもっていたので。なので、いま流行っ
かっていうこと、なんですかね。そうなると、私はどっち系なんだ
ている「カワイイ」世界はそんなに意識してないです。
ろう、どっち系だろう。結構オタク文化系っちゃあそう、ですかね。
!
どう、見た感じ。
「今流行っている「カワイイ」世界」っておっしゃったものって、
!
具体的にどういうものを想像されてます?
お 私から見ると「萌え」じゃないけど、買ってく人とかをみてる
!
と、なんかそう思って買ってるのかなあって…
! !
お あー、なんかちょっと、原宿系っていうか…ちょっとパステル カラーで、
金 フェチ的なので買う人多い…
! !
き もし…私はわかんないんですけど、その、今描く人たちがそう
あー、はいはい。
いう美少女系のを描くっていうのは、意識してる人もたぶん居ると
xxii
思うけど。私の絵がもしそうなんだとしたら、私はまったく意識し
たとえばカワイイって、男の人から女の子に言われる「かわいい」
てないんで。なんていうか、オタク文化のようなそっちの絵柄を描
があったり、あるいは雑誌とかで「モテカワ」とかいう意味の「か
いているという認識がなくて、生まれたときにはもう、結構、その
わいい」があったり、それと先ほど仰ったような、「自分の作品は
中に自分はいたし、そういうものを見て育ってきて。そういうもの
かわいいと思う」ていうのの「かわいい」の間に、違いみたいなも
…オタク文化があって、こっちにはこういう文化があって、ってい
のを意識されてますか。
!
うのを全然、特に知らずに、その中にいたので。だから、なんでそ れを描いてるの、って言われると、もう周りにそういうのがあって、
お かわいい。かわいいって、何に対しても結構かわいいって言っ
私はこういうのをもう描いていたからというか(笑い)。
! ! !
ちゃいますけど普段日常的に。でも、そこの差にかわいいはないか
金 私も割と、気がついたら今の絵柄になってた、ていう感じで。
自分がどう思ってるか、で…かわいいっていう言葉を、いろんなも
これ描こうっていうのが、ずーっとそういう、私も、アニメとかゲー
のに使っちゃう。かわいいって、一般的には女の子らしくて、なん
ムとか好きだったんで、流れで絵描いてて、だんだん今の感じになっ
つうかピンクで(一同笑い)、丸くて(一同笑い)みたいなものが
たっていう…
! !
かわいいのかもしれないんですけど。私って本当に、「カワイイ」
き そうですね。まあ絵描き始めてそこまで長くもないので、そん
とか言ったりするじゃないですか。それにちょっと近いのかな、っ
なに絵柄が変化してこっちに寄せていこうとか、オタク文化でこうっ
ていうのがあって…まあよくないのかなとは思うんですけども。ボ
ていうのは、考えてないですね。最初からこんな感じというか。
キャブラリーが少ないなって思っちゃうんですけど。何でも「かわ
も。でも何か、男の人から女の子に対するかわいいとか、行動がか
金&お ふふふふ(笑い)。
わいいねとかっていう場合はどっちかっていうと、オタクなんで「萌 える」とか言いますけど。
!
き その中にいたから気付かなかったというか。
き 難しいですね。かわいいって。本当にさっき言ったみたいに、
=「好き」みたいな図式が自分のなかにもうできちゃってて。今の
お そっかそっか。みんなそうなんだ。
人って、すごいの見たりすると「やばい」とか、なんでも「やば い」って言ったりするよね、いいものでも悪いものでも「やばい」
!
いい!」みたいな、「これかわいい!」みたいな、感じで…
プの人間です、ていう風に彼女はおっしゃったんですけども、その
! !
辺りに関してはどうですか。
その側面はありますね。ただ、私が感じてるのは、そうやってかわ
描くぞ、っていう多少なりとも意識があって描かれるタイプですか。
! !
いい、って言うときに、それでもかわいいっていうに値する理由が、
き いちおう私あのー、本職っていうのもアレなんですけど、今年
はありますかね。
ちなみにさっき、お話を伺ってた方(さこさん)は、生活の一環と
お 「いいと思う」っていうことの表現でしかない(笑い)
して絵を描くことがあって、なので特に意識しないでやってるタイ
かわいさみたいなものをそこに感じ取るから、他の言葉じゃなくて かわいいを使ってるんだ、ていう前提に立ちたいんですけど。それ
! !
卒業してフリーでイラストレーターをやってるんですね。なので展 示とは別に、結構商業的な、ニーズにあわせたイラストを描いてい
お うーん。確かに、そうですね。
て、だから、結構コンスタントにいろんな絵は描いてるので。そこ まで気負って描くぞ!ていうのはないですかね。流れで…むずかし
き 多分本当に「かわいさ」がない、けど好きなものには「かわい
いなあ…
!
い」とは言わない、
お 私の場合、普段絵描きになりたいとか画家になりたいとかそう
お うん。
! ! !
いうことじゃなくて、ちっちゃい頃は漫画家になりたかったし、あ いだブランクがありつつ、セラピー的に絵をかきはじめたのがすご
き 「かっこいい」とか使うと思うし、「すごい」って言う。
いあって、でもそん時に描けた絵っていうのはもう漫画絵でしかな いから、自分が覚えてたのが。もうそれ以上写実的な絵に行こうと
ちなみにざっくばらんでいいので、順不同でいいんですけど、「か
か、抽象的な絵に行こうとかっていうことは全く考えなかったのが
わいい」と思うものを、何でもいいので、思いつく限り挙げてみて
あって。で、ペインティングに入ろうとかって思う前に、デジタル
下さい。
! ! !
でイラストレーターとして活動を始めちゃったので、うーん。なん か、それ以上、○○イラスト(聞き取れず)から離れることはなかっ
き むずかしい…(笑い)
たなかったかなという気持ちはあります。写実的にする必要性もも う感じないので。そんなに、て感じですかね。話戻っちゃった。
金 いろんなジャンルでいい?
!
xxiii
!
お なんでもいいんですか?
! ! ! ! !
お あー。うーん。 「レトロ感」とか。
なんでもいいですよ。人でもモノでも…
ごちゃごちゃしてる感じ?何か、アクセサリー屋さんのディスプレ
お ウォンバットと、ペンギンと、
イがすごいごちゃごちゃしてる感じとかも、かわいいなと思います。
! !
ウォンバット!あ、動物系にくるんですね。
き 何かかわいいをこうやって言われて挙げていってると、自分の
き かわいいかー。なんだろう。
中でも、さっき言ったように「かわいい」=「好き」っていう、「か わいい」の定義のあやふやさがあるから、途中で言ってて、「あ
金 私あの、こういう所とかの、…(聞き取れず)点が2つあって
れっ、これ本当にかわいいのかな?」って、疑問が、自分の中で自
顔に見えるとかいうのを見つけるのがすごい好きで。そういうのを
問自答がされてきちゃうっていう。なかなか…深く、改めて言われ
かわいいと思う。
! ! ! ! !
て考えないと、なかなか気付かないですね。果たしてこれはほんと
(インタビューに使わせていただいた場所の周辺を示しながら)こ
そのこころは。
うにかわいいのか?て考え始めちゃう。
!
き …女子高生の履いてるゴツいスニーカーとか。
お これ私だけかなーと思う「かわいい」がひとつあって、ガメラ
一同 あー。
ですね。
き うん。かわいい。
ガメラ。
! ! ! !
お あとなんだろう。かわいい…
一同 (笑い)
の辺りにあるものではどうですか。
!
お すごい特撮ファンなんですけど。徳間時代の、平成ガメラ3部作
き (質問者の後ろの棚にあった「パンダだらけ」という玩具(小
と言われているものは(大映が徳間書店傘下だった時代に制作され
さいパンダのオブジェを崩れないように積み上げるゲーム)を指し
た映画、『ガメラ 大怪獣空中決戦』、『ガメラ2 レギオン襲
ながら)あのパンダかわいくないですよね(笑い)。
来』、『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』の三本の通称)、ガメラ
! !
の動きがほぼオッサンなんですよ。関西人のオッサンが、「ワレコ ラァ」って言って出てきてる感じがあって、それがちょっとかわい
それは、なにゆえ…
いなと思ってます。
! ! !
き なんか、あの、無骨というか(笑い)。 かわいい…ってなると、結構やっぱり女の子…アイドルとかに、結
き 確かに。カッコイイ、じゃない感じが。
構かわいい…かわいいをちゃんと、売り物にしていって、すごいなっ て思う。前にアイドルが出てる番組をぼーっと観てたことがあって、
なるほど、ガメラ。
「この子たちって、すごい」、偶像…アイドルって偶像っていう意 味で、みんなのかわいいの象徴としてがんばって仕事をしているん
金 でも…私、甲殻類(注:以下の会話から甲虫のことと思われる)
だ、それを維持して、て思って、「すごい!かわいい!」ってなっ
好きなんですけど。
! !
た。かわいいってすごい、ってなりました。
!
甲殻類。
お アイドルの話で言うと、私はBerryz工房(つんく♂プロデュー スの7人組女性アイドルグループ)とか、ももクロ(ももいろクロー
金 カメムシはちょっと触れないんですけど、そこら辺のゲンゴロ
バーZ。異色のコラボレーションやアクロバティックなステージで注
ウとかすごい、この表面のつるつるがカワイイ。
! !
! ! !
金 見た目でかわいいのもあるんですけど、そのアイドルの頑張っ
金 こうやって(指でなでるような仕草)たいんです。ずっと。こ
てる姿がかわいいとか。
すりたい。
目を集める5人組女性アイドルグループ)とかの、メンバー同士の 仲の良さがすごいかわいいなって思います。
お えっ!つるつる?
き すごいねー。
なるほど。
xxiv
! ! !
! ! ! ! ! ! ! ! !
お そういうのあるかなー。ないなー。
お かわいいものか…動物しか浮かばない。ブリのお腹とか。
金 カブトムシとか。
ブリ。
お 私虫だめだからなー。
き ブリ?
イモムシは好きですよ。プニプニしてる感じが。 まあ動物でいったら全部かわいくなっちゃうんですけど…あとかわ
ブリのお腹が思いつかない…(笑い)
いいものか…。
! ! !
お すごい、あのー…寒ブリだとパツパツしていて、
き ふわふわ、丸い、やわらかい。
あー。
お やわらかい。
お ぷっくりしていて。
き 女性の本能的に、何ですかね…赤ちゃんみたいな、ちっちゃい、 守りたくなるようなものって、結構みんなかわいいって思うんです
はいはい。
かね。
!
お 私「美味しそう」と「かわいい」ってかなり紙一重だと思って
お あと関係性がかわいいなあと思うものは結構あるかなあ。高校
るんですけど(笑い)。
! ! ! ! ! ! !
生カップルとか。
! !
き&金 おおー。
あー。
それ、面白いですね。「おいしそう」と「かわいい」。
き わたし結構その辺疎いというか、関係性とか、内面的なものっ て、あんまりかわいいって直感的には…あとあとからじわじわ、
お 「ブタかわいい」なら、「おいしそうだな」ていう(笑い)。
「あ、もしかしてそれ好きなのかも」みたいなのが、じんわりある けど、直感的に「かわいいー!」てなるのはやっぱり表面的な、ビ
一同 (笑い)
ジュアルというか。アイドルの、見た目というか。言い方悪いです けど(笑い)。
き なるほど、ちょっとわかりますね、それ。
! ! ! ! !
お なるほど。
お 食べ物見るとすぐ思いますね。
き スタイルとか。やっぱり表面的ですね。男性的な見方なのかな。
き なんか、近いんですかね。おいしいものの定義と、かわいいも の…たとえば、美味しいもの、もちもちしてて、やわらかくて…
! !
お あー、なるほどね。
お 雪見だいふくかわいいなー、みたいな
でも何か、私の知ってる範囲のすごい狭いところなんですけど、「ア
き かわいいものは丸くて、もちもちしてて…っていう。近いのか
イドル好き」っていう、しかも自分がわりとカワイイ寄りのものを
もしれないですね。
創作される方で、アイドルが好きっていう方って結構いる印象があ
!
ります。
なるほど。それはちょっと新しい視点が開けました。ありがとうご
! !
ざいます。
! !
! ! ! !
あれはいいものですよね。
一同 (笑い)
お うんうん。確かに。
お 「食べちゃいたいくらいかわいい」とか言いますもんね。
AKBの、全員お揃いのようでいて一人ずつ全部違う衣装とかすごい なーと思うんですけど。
ああ、そうですね。
お うん、いい。
金 食べるの込みでかわいいと思っちゃう。
xxv
! !
き テーマ…わたし全然本当に、何も考えてないというか。本当に、
原点に戻るんですけど、トランスエフュージョンに関して言えば、
したいっていう感じでずっと絵を描いてきて。で、その流れで展示
作品に何かが吐露されているっていうことがひとつ、あるって先ほ
とかも今年からやっているので。絵を表に出す理由っていうのは、
どお伺いしまして、そこに至る切実さみたいなものが自分の中にあ
「これ」っていうのがなくて、ちっちゃいころから漠然とある、「描
ると思いますか。
! !
いた!見て見て!」ていう、子供が親に見せるようなのの延長とい
お じゃあ、トランスに出たことがあるお二人から。
ぱり根本にある感じ、っていうのがあって。
具体的に何かその、懊悩・悩みとかがあったり、っていうことじゃ
お 最近の私の絵でいうと、人に見てもらわないと絵が成り立たな
なくても全然いいんですけども。
いので、やっぱり、自分で描いて、「あ、終わったよ」、ていうだ
何かそこに、自分を至らしめる動機みたいなものが…。それなりに
けではちょっと。人に見せて、やっと終わり、なので。そういう部
エネルギーを使うと多分思うんですよ、描くことも、それを展示す
分はみんなあると思うんだけど。
ちっちゃい頃から絵を描いていて、物心ついたくらいには絵の仕事
うか、「描いた!うまく描けた!見て見て!」みたいなのが、やっ
!
いか、と私は考えるんですね。だからそういうものが、もちろん言
! !
葉で説明できないものもあるかとは思うんですけども、どのあたり
お 金田さんの絵って、なんかテーマがすっごいあったりするんで
にあるとか、どのあたりからくるとかっていうのを、直感的に何か
すか。いっつも自然をすごい描いてるなって思って。
るためにこういう所にいらっしゃることもそうですし。だから、そ れをかけてもいいと思わせるだけのものが、おそらくあるんじゃな
なるほど。ありがとうございます。
!
…
! ! ! !
金 あー。一個一個、訊かれればこれはこれでって説明が出来るよ
き なぜ展示をするか、みたいな。
うにしてます。最近はとくにその、自分の夢のこと、見た内容じゃ なくて、夢見るっいうてことテーマでいろいろ描いたりしてるんで
お 思いつかなかったら喋っちゃいますよ。
すけど、そういう感じのテーマが多い。
き あっ、お願いします。
ありがとうございます。
! ! ! ! ! !
お えっと、私は、現状…現在進行形で鬱を持っていて、通院中な んですけど、若い頃は…若い頃って、いま26で、はたち前後くら
(取材と論文への掲載についての確認ののち、お三方が離席)
いの頃は、すっごいひどかったので…なんかもう、自分このまま生 きていけないんじゃないか、って不安がものすごいあって、それを
(さこさんとこうじろうさんが戻ってくる)
何か自分のなかでちょっと、どこかに吐き出したいっていう理由で 絵を描き始めてるんです。だからやっぱり今も、描いてる時に思っ てるのは「死にたくない!」って気持ちで、何か…でも、もうそろ
さきほどから、実際の年齢性別問わず、女の子を描くよね、ってい
そろ、自分が死にたくないっていう気持ちを吐き出すためだけじゃ
うようなところまでお話したかと思うんですけど、こうじろうさん
なくなってはきた、ので…人に何かを、与えたい…与えたいって言
は、何でモチーフとして女の子を選ばれてるんでしょうか。
!
うと上からですけど、人に何かを見てもらいたいっていう気持ちも あって、展示に至ってる気がする、というのもあると思います。
! ! !
こ その辺の話は…僕もともと、女の子描き始めたのが3年前4年
それはたとえば、単純に、折角描いたから見てほしい、っていうも
ろから研究して、自分でどういうものをやれば、っていう所から入っ
のなのか、それ以上のものがあるのか…
!
たんですよね。だから、…その目的は、絵を描くことが目的よりは、
金 うーん。描く前に、何が描きたいって決めてから描き出すタイ
の場合は。ちょっとその、絵を描くっていう行為そのものが、他の
プなので、形とかよりは、私今日の絵はこれ描こう、ってしてから、
人とはまったく別なところにあるんですね。なのでその…結局その
絵どうやって(聞き取れず)感じなので、そのテーマにしたいって
人たちのまず、中に入っていくためには、どういうものを描いたら
いうのを、展示してみて、感じ取ってもらいたいなっていうので。
いいのかっていうのを、彼らの周りのネットとかの情報から仕入れ
前…ぐらいまで描いたことなくて、僕はもう、…何でこういう絵を 描き始めたかっていうきっかけは、こういうことをやろうと思った
ありがとうございます。
から、そういう絵を描き始めたんですよ。だから僕は、参加してる
金 そもそも「見てもらいたい」っていう、ですよね。
作家さんとはもうまったく別のところからアプローチして絵を描い ていて、まず、この人たちがどういう絵を好きなのかっていうとこ
いまやってることをやるために描いたっていうことなんですね。僕
!
ていって、だんだん、そういうものを描いていくと、誰かに認めて
xxvi
もらうというか、作品がある程度描けるようになってくると、誰か
こ そうですね。だからあの、僕、自分が参加しないグループ展も
の目に留まったりすると、だんだん周りに集まってきたりするじゃ
あるんですよ。だからそれは僕がそこに必要ないと思ってるから参
ないですか。そっから僕は入っていって、だんだんそういう所から
加しないんで。僕はそこのグループ展に必要があるかないかってい
どんどんアプローチかけていって、展示とかをいっしょにする機会
うのは、僕が全体のバランスをみて、自分が必要がなければ参加し
ができたんで、そこでまたこう、いろんな人に、そういうことをや
ないし。僕はどっちかっていったら、この人たちと一緒にやってい
ろう、こういう色んな展示をやろうっていうのは何年も前から自分
く上で、もしかしたらもう、僕自身の作品が、彼ら彼女たちの作品
の頭のなかにあって、そのために色んな人にあうたんびに、「なん
に追いつかなくなるんじゃないかっていう危機感も持ってるんです
かあったら一緒に展示しませんか」っていうのを色んな人に声かけ
よ。年齢的にも彼らよりいくつも上なんで。なんで、もしかしたら
てたんです。今それで僕は、それと平行して、ああいう色んな若い
最終的に、僕はそこの自分で作ったグループ展に、自分が参加でき
人の絵を研究しながら、どういう風なものを描いたらいいかなーっ
なくなるんじゃないかなっていう風に思ってる部分もありますね。
ていうのとか、かわいいとかも全然わからないので、かわいいって
そういうところで。…できればそういう、僕みたいなこういうこと
思うのはどういうことなのかなーとか、絵を見たりとか、Twitterと
やってる人たちが、もっと沢山増えてきて、こういうもの自体が、
かで情報をあつめながら、やって、それを自分の絵に反映させるっ
もうちょっと色んなところでやってもらえるようなきっかけとして
ていう行為をずーっとやっていって、今があるみたいな感じですね。
僕はこういうことをやって、例えば僕と一緒にやってる若い子たち
なので全然、僕は絵に対して感情とかも特にないですし、いわゆる
が、僕とのやりとりとか、僕はこういう風に人を集めてますよって
設計図を描いた上で、作品を描くっていうので、全部に理由があっ
いうのを、近くにいればわかるじゃないですか。で、展示するとき
て、こういう理由だから今こういう風に描いてます、っていうやり
はこういうことをやるんだなーっていうのがわかれば、だんだん彼
方なんで。そうですね。全く…他の人とは違いますね。
!
女たちも、僕と同じようなことができるようになるかもしれないじゃ
それでも、構成する側っていうのみではなくて、トランスエフュー
たいな人たちがもっと沢山できれば、展示会もいろんなところで出
ジョンの中でご自身も参加者の一人として、作品群の中にご自分の
来るような…構図ができあがっていく、きっかけとして僕がいるっ
作品を収められてると思うんですけども、それはやはり先ほど仰っ
ていう感じですかね、っていう。
ないですか。だからいずれそういう風にやってくれ…やって、僕み
たようなバランスとか、ピースとして自分の作品がそこに存在する
!
意義があると思ってのことですよね。
ありがとうございます。
!
xxvii