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金祥根 マキャベリ Ja p a nes e
Book Information
マキャベリ (마키아벨리) Book21 Publishing corp. / 2013 / 40 p. / ISBN 9788950946890 03320 For further information, please visit: http://library.klti.or.kr/node/772
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マキャベリ Written by 金祥根
『この世でもっとも危険な賢者 マキャベリ』
キム・サングン
著
CHAPTER 1 500年にわたって覆い隠されたマキャベリの人生哲学
○マキャベリに関する不都合な真実
マキャベリは天下の悪人として知られてきた。多くの人々が彼のことを権謀術の 大家、二重戦略の美徳を賛美した‘悪の教師’だと決めつけ、また、彼のことを‘独裁 者のための指針書を記した邪悪な政治理論家’と評するものもいる。1527年にこの 世を去ったマキャベリは、死後40年あまり経ったとき、すでに‘公共の敵’だと決め つけられていた。1569年にすでに彼の名はイギリスで発刊された英語辞典に‘マキ ャベリアン
Machiavellian’という形容詞として登場する。英語の辞書に登場した
この新造語には、‘統治術全般において権謀術を行使する
Practicing duplicity in
statecraft in general conduct ’という意味がつけられていた。すでに16世紀には 彼は邪悪の代名詞だった。実のところ、マキャベリに向けられたこうした否定的な 評価は現在とさして変わらない。韓国最大のポー タルサイト、ネイバー の英語辞典 でMachiavellianを検索してみると、‘権謀術に長けた’というハングル表記の説明が 表示される。自分の名前にこんな否定的な意味がついていることを知ったら、マキ ャベリ本人はどんな気持ちがするだろうか?
ダンテやミケランジェロなら烈火の
ごとく怒るのだろうが、マキャベリはただにやりと笑い、何のことかととぼけるこ
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とだろう。マキャベリが‘元祖悪党’だというこうした否定的な評価は、はたして正当 なものなのだろうか? ≪ワシントンポスト≫の2011年8月特別号に興味深い連載記事が掲載された。心 理学者フロイト、中国の革命家である毛沢東、イギリスの歴史の黄金期を築いたビ クトリア女王、現代資本主義経済理論の大家であるケインズ、そしてフィレンツェ の政治家であり思想家であったマキャベリを新しい角度から分析した記事だった。 彼らの共通点は、名前自体がすべて形容詞として用いられているほどにそれぞれの 分野を代表したり、偉大な業績を残したものの(それぞれFreudian、Maoist、Vict orian、Keynesian、Machiavellian)、実際には彼らは自分の名前が意味するとこ ろとは全く違う人生を送ったり、異なる思想を持っていたという点だ。その代表的 な人物がマキャベリだった。つまり、マキャベリという名前は‘権謀術に長けた’とい う形容詞として使われているが、実際の彼の人生はまったく‘マキャベリアン的’では なかったというのだ。1 マキャベリはむしろ純真すぎるくらいに国を愛し、友人にいい奴だと思われたく て、むしろ友人たちから頻繁に金を踏み倒されたりするような人間で、身内の幼い 子どもが孤児になったときは、自分の普段の生活もままならないくせにその子ども を養子に迎えて糊口をしのいでやった。外交をつかさどるフィレンツェ第二書記長 という高い職にありながらも、彼は公金を倹約したことで有名であり、その地位を 追われたときには“祖国にたいする我が忠誠心と公職者としての誠実さは、この貧し さでもって十分に証明してもまだ残っている”と言い切ったほどに私欲のない人物だ った。 それならば、なぜこんな誤解が生じたのか?
まったく‘マキャベリアン的’でなか
ったマキャベリが、どういう訳で権謀術に長けた人物、権力を掌握するためなら手 段や方法をいとうなと教えた悪の教師として後世まで糾弾されることになったのだ 1
The Washington Post, “What’s In a Name and What Isn’t?” 、2011 年 8 月連載記事。
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ろうか? それは、『君主論』などで論じられたマキャベリの政治理論が強者らの目にあま りに危険なものとして映ったからだ。一見、マキャベリが強者のための権力の助言 者のように見えるのは事実だ。特別な人間だけが選ばれたフィレンツェ共和政府の 第二書記長をつとめ、メディチ
Medici家のために書いた『君主論』は富と権力を 3
持った人々のための処世術のようでもある。 マキャベリに向けられたこうした否定的な評価はすでに16世紀に始まっていた。 1569年イギリスで出版された英語辞典にMachiavellianという形容詞が新造語とし て登場して以来、彼の名前はイギリスの戯曲家、クリストファー ・マー ロー
Christ
opher Marloweによって作品中にはじめて引用された。シェイクスピアの「ベニス の商人」に直接的な影響を与えたとされる「マルタ島のユダヤ人」(1589年)とい う作品の中で、マキャベリはこのように表現されている。
わたしの名はマキャベリ、 わたしは他人を信じない!
当然、他人の言うことなど信用していない。
わたしを一番憎んでいる人間というのが、じつはわたしのことを一番尊敬している らしい。 わたしのことを憎んでいる人間は、他人の前ではわたしの本を批判する。 ところが、ひとりになると、こっそりわたしの本を読んでいるという。 他人に隠れてわたしの本を読んだ者は教皇の地位までのぼりつめ、 わたしの本を投げ捨てた者は政敵にひそかに盛られた毒薬を聖なる杯の如く飲むこ とになるだろう。
1589年の作品中にはじめて登場したマキャベリは、この先、その名が歩むことに なる不運の運命を如実に示している。マキャベリの著書はもともと徹底した弱者の
立場から弱者のために執筆されたものだったが、この本の絶大なる価値を見抜いた その時代の強者らが、ほかの人間が読めないようにするためにマキャベリを‘悪の教 師’に作りたてたのだ。強者らの目に映ったマキャベリの著書は不穏きわまりないも のだった。まるで天機を告げるかのように権力の属性を赤裸々に暴き、時代が移ろ いでも変わることのない人間の本性のありのままをさらけ出す、マキャベリの知恵 と洞察力を恐れていたのだ。「モルタ島のユダヤ人」に描写されているように、権 力を握った強者らはマキャベリの本を人目のつかないところで読みたがった。彼の 本は自分の敵の知るところになってはいけない。自分のライバルにマキャベリの本 を読まれたら、自分はそのライバルに勝つことができない。こうしてマキャベリを 読めないようにするため、彼の驚くべき洞察力を独占するため、マキャベリを邪悪 の代名詞に陥れたのだ。
<図>マキャベリははたして権謀術を教示した悪の教師だったのか?
フィレンツ
ェ都心のベッキオ宮廷に所蔵されているマキャベリの胸像。
○弱者がマキャベリを読むべき理由
マキャベリは彼特有の大らかさを持ち備えていて、荒々しいところが一切なく、 自由を生きた人物だ。したがって、彼の名前が‘権謀術にたけた’という悪意の感じら れる形容詞として用いられているからといって、ひどく傷つくような人物ではない。 だが、生涯を権力という脅威に戦々恐々とする弱者として生活を送りながら、同じ 仲間である弱者に強者の横暴に飲み込まれずに生きろと彼らを励ましていたマキャ ベリからすれば、自分の著書と思想が‘強者のための指針書’として誤って認識されて いることを知ったら、おそらく慟哭するだろう。 マキャベリはつねに弱者だった。弱者が彼の仲間だった。権力を持った強者が、
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皇帝の王冠をかぶった権力の怪物たちが富と名誉、領土と民衆をめぐって無限競争 を昼夜繰り返しているあいだ、徹底した弱者の暮らしを送っていた人物だ。彼はつ ねに貧困にあえぎ、公職を解かれるのではないかと怯え、派閥闘争に巻き込まれて 公職を罷免されてからは失業者として15年ものあいだ、職のない状態に置かれた可 哀相な人物だった。 彼が公職者だったフィレンツェも頼りない弱体国家だった。都市国家に分裂して いたイタリアは、1494年、中央集権国家のもとに強力な軍隊を有するフランス侵攻 を前に国の運命が危機にさらされるほどの状態にまで陥っていた。暴風で今にも消 え入りそうなろうそくの灯りのように、フィレンツェはフランスを飲み込むかのご とく近づいてくるスペインや神聖ロー マ帝国(ドイツ)の浮上をただただ見守るこ としかできなかった。イタリア内においても、フィレンツェは自前の軍隊を持たな い脆弱国家だった。フランスが攻め入ったときも真っ先に降伏を宣言し、みずから 城門を開いたフィレンツェは、チェー ザレ・ボルジア 7年)や教皇ユリウス2世
Cesare Borgia(1475~150
Julius Ⅱ(1443~1513年)がイタリアを征服戦争の大
混乱へと巻き込んでいる最中、打つ手もなくただ苦しみに耐え抜くしかないような 状態だった。フィレンツェの外交と国防を担っていたマキャベリにとって、弱者と しての危機を感じる瞬間の連続だった。ヨー ロッパ情勢の青写真を描けず、権力掌 握のために泥沼の闘いを繰り広げるフィレンツェの政治家らの情けない姿を目にし ながら、本当に恐るべきことを恐れない弱者たちの情けない現実の受け止め方に不 満を覚えたのだ。 われわれがマキャベリをこれまでと違った角度から読まなければならない理由が まさにここにある。わたしたちはみな、マキャベリの助言に耳を傾けるべき弱者だ。 弱者としてこの世を生きているわたしたちは、マキャベリを再読しなければならな い読者なのだ。マキャベリは強者に虐げられることなく生きる術を弱者であるわた したちにこっそりささやいてくれるのだ。
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わたしたちが毎日を生きていかなければならない日常というのは、実に弱く、苦 しい弱者の生きざまである。強者はこれまでもつねにわたしたちの身近にいた。自 分より力の強い路地裏の大将から、いつも遊んでばかりいるようなのに、自分より も勉強ができて名門大学にあっさり受かった友達、自分は何十社と願書を送っても 一社からも連絡がこないのに、一流の大企業に簡単に就職を決めて自分の年収並み のボー ナスをもらっている大学時代の同級生、残業や週末出勤を一切の良心の呵責 もなく指示する部長、この世のすべての利益を独占しているかのような大企業、権 力をふるう人間。彼らはわたしたちが到底持つことのできない力でもってわたした ちを抑圧しつづけてきた。彼らがこの世界の主人のようで、わたしたちは彼らが作 ろうとしている世界の小さな消耗品のような気がする。‘一等だけが記憶してもらえ る薄汚れた世界’からわたしたちは順位に入れなかった弱者の痛みを胸に抱いて生き ていかなければならない。われわれの時代にける弱者はバリケー ドを組んで投石を はじめるその前に、マキャベリの本を手にとらなければならない。彼の教えは純粋 にわれわれのような弱者のためのものだからだ。マキャベリはわたしたちに強者に 虐げられることなく生きていく方法を提示してくれるはずだ。
○人文学者としてのマキャベリ
マキャベリが権謀術の大家と誤解されている二つ目の理由は、彼の著作の真髄を 理解するのが難しいからである。一般にマキャベリといえば『君主論』を思い起こ すが、これで彼の政治思想の全てを明らかにするには限界がある。『君主論』は一 般的に考えられているように権謀術を用いて権力を維持する方法を教えているもの ではなく、公職を追われたマキャベリがフィレンツェの政治実勢に復権したメディ チ家から仕事を得るための、一種の自己推薦書のような性格を有している。このよ うな特別な目的で書いたゆえに『君主論』は権力の集中を強調し、君主の処世が極
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端でなければならないとことさら強調している。 君主に権力が集中すればするほど、その君主はより有能な参謀を横に置かなけれ ばならず、君主の統治が極端な場合にそれを賢明に調整することのできる策士が必 要となる。マキャベリはこうした参謀や策士の重要性を強調するため、『君主論』 の内容を極端に書き進めた。このような執筆の一次的な目的を慎重に識別して『君 主論』を読みすすめたとしても、ほどなく二つ目の壁にぶちあたることとなる。そ れは、マキャベリが絢爛たる人文学的な知識を執筆に活用しているからだ。マキャ ベリの古事や人物の引用の多様さは、普通の人間にはマネできない驚くべき人文学 的素養をつまびらかにしている。彼は複雑多端な16世紀イタリア情勢を生き抜く君 主としての徳を明らかにするため、古代ギリシャやロー マの歴史を自由自在に引用 しながら自身の人文学の見識をいかんなく発揮している。当時、人文学に異常なほ どに関心が高まっていたこともあるが、芸術や人文学を積極的に後押ししていたメ ディチ家の関心を引くために、彼は過度なまでに人文学的な情報を執筆に活用した。 その時々の状況に臨機応変に対応できる君主のリー ダー シップを追い求めていた マキャベリは、突然、古代ギリシャやロー マに立ち帰って意味深長なギリシャ神話 を引用したり、ロー マ皇帝の政治的判断力を引用したりしている。こうした人文学 的情報に慣れていない現代の読者はその箇所について正確に理解することをあきら めるようになり、結局、読みたいところだけを選んで読むようになる。こうした選 択的な読書方法は‘マキャベリは権謀術を教えた’という一般的な先入観と合わさって、 『君主論』を各自が読みたいように読ませることとなる。だが、『君主論』をはじ めとするマキャベリの様々な著作は権謀術を教えているわけではない。彼の一次的 な目的は、現実の問題を打開するために古典の教えに回帰しようというものであっ た。ギリシャ神話で隠喩的に説明されている、古代ロー マの政治家や哲学家らによ って行われた人間の本性にたいする省察を反芻しながら、今日の難題を解いていこ うというものなのだ。マキャベリは『戦争の技術』という著書の中で、古典の重要
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性をこのように強調した。
あなたは、わたしがどれだけ長いあいだ、ロー マ人の置かれている状況について例 えを挙げてきたのか記憶していることでしょう。そして、あなたは、わたしがロー マ人から影響を受けなければならないとどれだけ切に願ってきたのか、想像するこ 8
とができるでしょう。2
マキャベリのこうした古典への回帰欲求は、現代を生きる読者が彼の思想を理解 するのを難しくした。マキャベリの本が読みづらい理由は、彼の文章が人文学の古 典を縦横無尽に引用しているからだ。頻繁に登場するエジプト、ギリシャ、ペルシ ャ、ロー マの歴史的事実に関する事前知識なしにマキャベリの思想の全貌を理解す ることは、それこそ木を見て森を見ず、である。したがって本書では、マキャベリ の人文学的な素養の深さを垣間見ることのできる、興味深い人文学的な省察の機会 を読者に提供することとする。
○貧しい父からの偉大な遺産
それでは、マキャベリが持っていた驚くべき人文学的な知識はどのようにして習 得したものなのだろうか?
彼が現実を理解し、難局を克服するために指針として
いた古典に向けられた洞察力はどのようにして得られたものなのか?
マキャベリ
のように世の中の純理を見抜くための洞察力はどのようにして身につくものなの か? マキャベリ家はトスカー ナ地方の貴族
popolani grassiの出身で、フィレンツェ
の他の貴族と同様、教皇を支持するゲルフ 2
マキャベリ『戦争の技術』第 7 章。
Guelph党に属していた。しかし、マキ
ャベリの父、ベルナルド
Bernardoは極貧生活を送る貧しい三流の法律家だった。
‘メセル’という法律家の呼称で呼ばれていたことからして、法律に関するある種の資 格を取得していたのは確かだと思われるが、実際に弁護士や公証人として活動して いたという記録はどこにも残っていない。マキャベリはこうした父のもとで成長す る過程で厳しい貧困を経験した。彼は幼い頃に味わった経済的な苦労を、ある友人 にこう告白している。“わたしは貧しさの中で生まれ、子どもの頃から豊かさではな く、窮乏の中で生き抜く方法をさきに学んだんだ。”3 マキャベリ家の唯一の財産は、フィレンツェの南部にある山奥の村、サンカシア ーノ
San Cascianoのサンタンドレア
Sant’Andreaにある小さな農場だった。マ
キャベリは1512年に公職を解かれた以降、この田舎の村の小さな農場で大半を過ご した。マキャベリの父、ベルナルドは主にフィレンツェで生活していたが、唯一の 収入源はこの田舎の農場であったと推測される。なんとか糊口のしのげる程度の収 入に依存して暮らしていたベルナルドにとって、長男ニッコロ・マキャベリの誕生は 人生の新たな転換点になったことだろう。息子にたいする格別の愛情や誇りが感じ られる日記の一節を見ると、マキャベリは幼い頃からとても利発で穏やかな性格の 子どもだったらしい。
<図>サンタンドレアの農場は現在、マキャベリの遠い子孫が所有している。
長男ニッコロ・マキャベリは1469年5月3日、フィレンツェの中心部で生まれた。 フィレンツェを南北に走るアルノ川を渡すベッキオ橋からわずか30メー トルほど離 れたところにあるヴィア・ロマー ナ
Via Romanaの古びた家が彼の生家だ。肩書き
は法律家の資格を持っていた父親ベルナルドは、当時、‘スペッキオ
3
specchio’と
Machiavelli and His Friends, Their Personal Correspondence (De Kalb: Northern Illinois
University Press,1996)、1513 年 3 月 18 日、マキャベリがフランチェスコ・ベトリー に宛てた手紙。
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いう汚名を着せられていた。スペッキオとは、‘税金未納者リストに載っている人物’ という不名誉な名称のことである。 各ギルド(訳者注:中世ヨー ロッパ都市において商工業者の間で発達した各種の職 業別組合)を中心に徹底した商業都市としての性格を維持していたフィレンツェで、 税金を納めることができない人間は屈辱的な待遇を受けざるをえなかった。フィレ ンツェ政府からいったんスペッキオとして召喚された人間は一切の公職につくこと も許されず、その子女にも同様の懲罰的な規制が課せられた。のちにフィレンツェ の第二書記長という高位に上りつめたマキャベリは、自分の父親がかつてスペッキ オだった事実に大きな負担を感じるようになる。法律の博士だったベルナルドがな ぜこれといった職業もなく貧しい生活を送り、スペッキオという不名誉を受けるこ とになったのかは明らかになっていない。おそらく若い頃に法律に関する仕事に従 事していて、税金を納められないほどの大きな財政的困難にぶつかったのだろう。 貧しかった父ベルナルドはスペッキオという汚名を息子に残したが、息子は父親 から長所だけを受け継いだ。世のすべての父親が抱くロマンは、子どもが自分の良 い所だけを似てくれることだ。マキャベリは父ベルナルドから古典を熱心に読むと いう良い習慣を学んだ。 貧しかった法律家、ベルナルドの唯一の楽しみは、古典を読むことだった。彼の 書斎にはロー マの歴史家リビウスの全集、ロー マの文法学者であり新プラトン主義 の哲学者だったマクロビウス
Macrobiusの本、地質学者であり天文学者だったプ
トレマイオスの本、そしてロー マ時代を代表する自然科学者である大プリニウス Pliny the Elderの本が並べられていた。当代きっての人文学者が書いたアリストテ レスの注釈書などが所蔵リストに含まれていることからして、ベルナルドの知的レ ベルが相当なものであったことが分かる。 ベルナルドが所蔵していた本の中でもっとも重要かつ値打ちのあるものは、リビ ウスの『ロー マ建国史』だった。多読家で蔵書家でもあったベルナルドは、リビウ
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スの有名な古典が欲しかったのだが、あまりに高値で売られていたため、手を出す ことすらできなかった。ドイツのマインツにいたグー テンベルクが西洋ではじめて 『聖書』を活版印刷したのが1455年のことだ。グー テンベルクの印刷術がフィレン ツェに伝わったのが1471年だったが、その当時はまだリビウスの『ロー マ建国史』 がベルナルドのような貧しい市民の手に渡るほど大衆化されていなかった。 この本を手にしたいベルナルドは、フィレンツェで印刷業を営んでいたニッコロ・ デッラ・マー ニャに近づく。金で買えない代わりに出版関連の仕事を手伝ってやり、 代金の代わりに印刷本を一部分けてくれるよう頼んだのだ。ニッコロ・デッラ・マー ニャはベルナルドに『ロー マ建国史』の地名索引の作業を任せた。リビウスの膨大 な歴史書の索引作業を行うというのは並大抵の仕事ではない。ベルナルドは一巻の 本のために九ヶ月間この単純作業に集中し、ついに十二巻もの紙にぎっしりと文字 が埋めつくされている『ロー マ建国史』の地名索引の作業をやりとげた。 印刷術が発明された初期のころは、現在のように出版社で印刷や製本は一度に行 われなかった。印刷所は一枚一枚、紙に印刷し、これを購入した蔵書家がまた製本 所に頼んでそれを一巻きの本に作った。ベルナルドは九ヶ月にわたった並々ならぬ 苦労の末に手にしたリビウスの『ロー マ建国史』を、それから数年が経った1486年 にようやくフィレンツェの製本所に頼むことができた。 経済的に裕福でなかったベルナルドは、非常に貧しい支払い方法を選択した。リ ビウスの歴史書を製本してもらう見返りにベルナルドが支払ったのは、フィアスコ のボトルに入ったキャンティの赤ワイン三本とビネガー 一本だった。彼は当時フィ レンツェにいなかったため、17歳の少年に成長していた長男ニッコロ・マキャベリ にこのおつかいをさせた。幼い息子は父親のおつかいを果たすためにワイン三本と ビネガー 一本をたずさえて製本所を訪ねた。そしてきれいに製本された本を手にし て家に帰ってきた。
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<図>少年マキャベリが製本を終えた『ロー マ建国史』を受け取るために渡ったで あろうフィレンツェのベッキオ橋。マキャベリの家はここから30メー トルほど離れ たところにある。(撮影キム・ヒジュン)
貧しかった父親の涙ぐましい努力で手にしたこの本を、利発な息子は何度も何度 も読み返した。そしてその息子は、のちに『ロー マ史論考』という本を著して近代 政治学の鼻祖と呼ばれるまでになる。リビウスの書いた『ロー マ建国史』を読みな がら、彼は世の中の理知や権力の属性を見抜いていったのだ。マキャベリの洞察力 は、本人が回顧している通り、‘たゆまず古代史を読みつづけた’ゆえに可能だった。 そして、その読書習慣は貧しかった父親の献身的な努力によって身についたものだ った。
○弱者のための人文学
マキャベリの本は弱者の視点で読まなければならない。彼は、強者が権力を勝ち 取ってそれを維持できるように助言したのではなく、強者に抑圧されている弱者に 向かって“これ以上、虐げられたまま生きてはならない”と助言したのである。マキ ャベリはこの世のすべての弱者の守護聖者である。マキャベリはまた、人文学の古 典として読まれなければならない。時代を超越した洞察力に満ちた彼の思想の根源 は、古典や人文学的な省察と深く関わっている。われわれが人文学の勉強の一環と してマキャベリを読まなければならない所以がここにある。マキャベリを社会科学 や政治学のしがらみから解き放してやる作業を通じて、われわれは弱者が備えてお くべき世の中を見る視点を手に入れることになるだろう。 貧しかった父ベルナルドはマキャベリにとてつもない財産を二つ残してくれた。 ひとつは裕福ではなかった経済的な暮らしであり、もうひとつは人文学と古典にた
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いする計り知れない情熱だった。フィレンツェを悠々と流れるアルノ川の土手をワ イン三本とビネガー 一本を持って歩いていった少年マキャベリは、颯爽と製本を終 えたリビウスの古典『ロー マ建国史』を手にたずさえて家に帰ってきた。‘ワイン三 本とビネガー 一本’が裕福ではなかった彼の経済的困窮を象徴しているとすれば、彼 が家に持ち帰ったリビウスの古典には世の中を見通す驚くべき洞察力がぎっしりと 13
含まれていた。
<図>マキャベリが一時住んでいた、サンタンドレアの田舎の家。絶望に打ちひし がれていたマキャベリはこの家の二階にある書斎で『君主論』を執筆した。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------CHAPTER 3 運命を愛し、試練を愚弄する
○冷笑の視線を向ける賢者
トスカー ナ地方の都市国家フィレンツェは、シニョー リア政庁
Signoria(‘ベッ
キオ宮殿’とも呼ばれる)を中心に国の業務を遂行していた。シニョー リア政庁はソ クァンファムン
ウル市の光化門にある韓国の政府総合庁舎ほどに該当する官公署である。フィレン ツェの行政府がそこにあったため、われわれの友であるマキャベリもこの建物で働 いていた。フィレンツェの外交と国防を任されていた第二書記長マキャベリは、こ の建物の二階にある執務室を使用していたのだが、今もこの場所にはマキャベリの 痕跡が残されている。浮き彫りされたマキャベリの胸像とサンティ・ディ・ティー ト Santi di Tito(1536~1603年)が描いた有名なマキャベリの肖像画が展示され
ている。 はじめてマキャベリの伝記を出版(1877年)したパスクアー レ・ヴィッラリ
Pas
quale Villariは、彼の容姿についてこのような記録を残した。
<図>シニョー リア政庁二階の執務室に飾られているマキャベリの肖像画 14 彼は一般的な背の高さで、体はやせ形だった。いつも目がきらきらしていて髪は黒 く、それから頭が小さく、鼻はわし鼻、唇はいつも固く閉じられていた。容貌から も彼が鋭い観察者で、思索する人間だという印象を与えるに十分だった。いつも何 か話したそうに唇を軽く震わせていて、瞳からは冷笑な雰囲気が読みとれた。冷た く重たい空気が支配的だったのだが、その深刻な表情がいつまで経っても頭から離 れないような人物だった。空想に耽ったりしていたときがあったのだが、その様子 があまりにひどくて奇異な印象すら与えていた。
‘瞳からは冷笑な雰囲気が読みとれた’というヴィッラリの表現は、マキャベリにた いする一般的な通念の影響を受けたものとみられる。鋭い観察者に加え、絶えず思 索している人間という賢者のイメー ジに、冷めたようにみえる外見が加わったのは、 彼の人生があまり平凡なものではなかったということと、彼が経験してきた苦難が 並大抵のものではなかったことを物語っている。
<図>フィレンツェ、シニョー リア政庁内部に保存されているマキャベリの執務室 の入口
○バルジェッロ監獄で受けた最悪な拷問
『君主論』末尾に以下のような表現が登場する。
今のような時代に及んで、人間の考えをまったく超越した大激変を昼夜目の当たり にしている。4
マキャベリはなぜこのような表現をしたのだろうか? まったく超越した大激変’と映ったのだろうか?
なにが彼に‘人間の考えを
ナポリの軍隊が自分の故郷の村を
襲い、フランスの大砲が怪音を出しながらフィレンツェ市内で武力行為を繰り広げ ているとき、チェー ザレ・ボルジアやユリウス2世のような‘王冠をかぶった怪物’た ちがイタリアを蹂躙しているとき、マキャベリはそれを大激変だと感じたのうだろ うか?
人生と歴史と政治の現場において徹底した現実主義的思考を貫いていたマ
キャベリにとっての最大の激変は、おそらく自分の人生にふりかかった無残な不幸 だったことだろう。 マキャベリは自身が勤務するシニョー リア政庁から100メー トルも離れていない バルジェッロ監獄で無慈悲な拷問を受ける身にまで転落する。1512年、ピエー ロ・ ソデリニ率いるフィレンツェ共和制が崩壊してメディチ家が復権したのち、前の政 府で高位官吏だったマキャベリには耐えがたい苦難と試練が待っていた。マキャベ リはバルジェッロ監獄で悪名高い‘吊るし
Strappado’の拷問に処された。メディチ
家を転覆させようとした陰謀に加担したという噂が広まっていたためだ。彼が逮捕 された日は、フィレンツェで寒さ厳しい2月8日だった。極度の拷問による苦痛と地 下の監獄の寒さに震えながら、マキャベリは自分自身にふりかかった‘最大の大激変’ と対峙する。
4
マキャベリ、『君主論』第 25 章。“運命は人間史にどれだけ影響力を及ぼし、またどのように対
処すべきか”
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<図>ドメニコ・ベッカフー ミがスケッチで描いた吊るしの刑の実際の様子。マキャ ベリはバルジェッロ監獄でこのような拷問を六回受けた。
マキャベリは吊るしの刑にあわせて六回かけられた。マキャベリが反メディチ暗 殺の企てに加わっていたと証言した二人の陰謀者、ボスコリ ッポー ニ
Pietro Boscoliとカ
Agostino Capponiは拷問がはじまって二週間で刑場の露と消えた。だが、
マキャベリは歯を食いしばって六回にもわたる吊るしの刑に耐えて、最後まで無罪 を主張した。人間の考えをまったく超越した大激変を昼夜目の当たりにしたマキャ ベリの目に、憤りはあっただろうか?
拷問の執行者らに暴言を浴びせ、自分自身
の運命を呪っていたのだろうか? そうではなかった。われわれの友、マキャベリは拷問を受けている最中もおどけ ていた。大激変の波が押し寄せても、彼は余裕を忘れることなくその運命のいたず らに身をまかせてユー モアを楽しむという、驚くべき勇気を見せたのだった。マキ ャベリは仲間たちが命を落としていく監獄から、こんな詩を詠んだ。忠誠を誓った 祖国が自分を裏切り者だと罵り、その背後でこのすべての大激変を操っているメデ ィチ家に向かって、次のような愉快な詩を送りつけたのだ。
ジュリアー ノ(メディチ家の首長)、あなたはご存知だろうか? わたしの足に鉄の鎖がつながれていることを! 後ろに腕をつながれたまま、六回も吊るし上げられ、 地面に投げ飛ばされたことを! それ以外にわたしが受けた苦しみについて、これ以上言うのはよしておきましょう。 なぜなら、それこそが詩人であるわたしが耐えるべき苦痛だからです。 バルジェッロ監獄の壁を、シラミが整然と這っていきます。 吐きそうなほどにおぞましさを覚えさせる、この気味悪い動物が、
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蝶のようにふっくらした肉づきをしていたとは。 ロンセスバー リェス
Roncesvalles虐殺事件の後の悪臭のように、酷い臭いがここ
に充満しています。
<図>マキャベリが拷問を受けていたバルジェッロ監獄の全景。今はドナテッロや ミケランジェロの彫刻が展示されている国立の彫刻美術館として使用されている。
ああ、わたしが今いるこの場所は、家畜の牛をつかまえる男たちのいるサルデー ニ ャ
Sardiniaの小さな森、わたしの愛しい小屋のある場所、
ここから聞こえる呻き声、それはまるで地上の果てから聞こえるようです。 ジュピター は雷鳴をとどろかせ、エトナ
Etna山を鳴り響かせます。
ある者は鉄の鎖に縛られ、またある者は手錠をかけられてどこかへ連行されていき ます。 鉄鎖に手錠、そして門扉のがちゃんという音、 ある者は後ろに腕をつながれたまま吊るしあげられる拷問に耐えきれず 悲鳴をあげます。 こんちくしょう、てめえ、こんな高く吊りあげるんじゃねえよ!
ひどすぎるじゃ
ねえか!
この瞬間、わたしの心がいちばん痛むのは 深夜未明ごろ、やっとのことで眠りにつこうとするその時間に聞こえてくる 修道者たちの祈りの声です。 ‘あなたがたのために祈ります
Pervois’ora。’
どうか、あなたがその慈悲深い恵みをわたしに与えてくれますように! そして、あなたの祖先たちがほどこした恩恵よりも、あなたのそれがさらに大きい
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ものでありますように!5
○絶望の淵に立つ
1512年はマキャベリにとって悲劇の年だった。公職を罷免されて反逆の疑いで逮 捕、そしてバルジェッロ監獄で受けた拷問は、彼の人生を破滅へと追いやった。マ キャベリは1512年に関する記録をまとめながら、次のような題名をつけた。 ‘1512年、あらゆることが見事に粉々に砕け散った年’ バルジェッロ監獄でなんとか命拾いをしたマキャベリは、サンタンドレアの田舎 の家で隠遁生活をはじめる。言葉は隠遁だが、実際は流刑と変わりない悲惨な生活 だった。彼は田舎で隠遁生活を送りながら、“親しくしていた誰にも二度と会わない” と自分自身に言い聞かせるほど絶望に打ちひしがれていた。6あらゆることが見事に 粉々に砕け散ったのだ。 1513年4月6日に流刑地で書かれた手紙には、マキャベリが自身の状況をどのよう に受け止めていたのかが表れている。ペトラルカの文章を風刺して書いた詩を通し て、彼はみずからの涙を隠すために笑い、歌うのだと告白している。
もし、わたしが笑ったり、歌っているとしたら、 そうする理由があるからなのだ。 もし、わたしがそれすらできないとしたら、 わたしのこの悲しい涙を隠すことができないからだ。
1514年6月10日付の手紙は、マキャベリが自分自身に抱いていた自嘲の感情が増
5
Michael White, Machiavelli : A Man Misunderstood,177.
6
1513 年 3 月 30 日にベトリー に宛てた手紙の内容。
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しているような印象を与える。前述の手紙と同じように、ロー マにいた友人、ベト リー に宛てた手紙の中で、マキャベリは自身の近況を次のように知らせた。
わたしは今日もこの田舎の村の男どもと一緒に過ごしている。わたしが往年、フィ レンツェの公職者だったことなどだれも知るよしもなければ、わたしがなにかすご いことをやってのける能力があることをしる奴はひとりもいない。(中略)だが、 こんな生活も長くは続けられないだろう。この家を出て、世間から見捨てられたよ うな、どこでもいいから遠くへ行って、家庭教師でもしながら糊口をしのごうか、 そんなことを考えているんだ。家族にはわたしのことは死んだとでも思ってほしい。 まったくの役立たずのくせに生活費ばかり催促している有り様だから、家族には自 分などいないほうがましだと思う。
これは家長の口から出る言葉ではない。家庭を任されている父親、妻の面倒を見 る責任のある夫、子どもを養育する責任のある父親が“家族には自分などいないほう がましだと思う”というのは、その絶望がすでに極限に達していることを意味してい る。マキャベリはいっそのこと家族から遠くはなれて死んでしまいたいという絶望 感に打ちひしがれていた。その後の1514年12月20日付の手紙は、マキャベリの最 後の嘆きのように聞こえる。
わたしは正直なところ、もうこれ以上、自信がないんだ。周囲の人間や自分自身の 役になど立てるのだろうか?
わたしは何の役にも立たない必要のない人間だ。
マキャベリのことを無慈悲な悪の教師だと思っている人々には衝撃的な内容だろ う。マキャベリが徹底して弱者として生き、強者らの横暴に立ち向かって生き抜く 方法を模索していた、という本書の論旨がようやく少しは理解いただけるだろうか。
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‘陰謀術の教科書’と言われている『君主論』は、実はマキャベリが絶望の淵で書いた 本だ。世の中の無関心や排斥、そして深刻な経済難にあえいでいたマキャベリが 『君主論』の序文を書いたのは1516年のことだ。この本はすでに広く知れ渡ってい るように、メディチ家の首長だったロレンツォ・デ・メディチに献呈された。マキャ ベリは『君主論』の序文の末尾でこのように述べている。(メディチ)君主の恩恵 を受けようとする者は、君主が受け取って喜ぶ贈り物を持っていくのが慣習であり、 自分も“ささやかながらも殿下にたいする忠誠の心の証を持って”伺いたいと哀願し ている。そして、その哀切な『君主論』の献呈の辞はこのような言葉で結ばれてい る。
殿下におかれまして、その高い地位におられながらも、時折(わたくしのおります) このような日陰にも関心を向けていただけるのであれば、このわたくしがどれほど 不当な虐待に耐えているのか、お分かりいただけるものと信じております。
かつてフィレンツェを代表する外交官として名声を得ていたマキャベリは、ある 日突然、悲劇の果てへと追いやられた。人間の考えをまったく超越した大激変を昼 夜目の当たりにすることとなり、吊るしの拷問に処され、不当な虐待に耐え抜くし かほかなかった。そうした厳しい試練のさなかにあってもマキャベリはこう詠んだ。
それ以外にわたしが受けた苦しみについて、これ以上言うのはよしましょう。なぜ なら、それこそが詩人である自分が耐えるべき苦痛だからです。
この奇怪な論理たるや!
心臓に毛の生えた人間でなければ監獄でこんな詩を詠
むことなどできるはずがない。
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○ユー モアは我が力!
試練が極度に達したとき、わたしたちは失意に伏したり、他人に責任転嫁をして しまいがちだ。苦労を他人のせいにして、自分以外のものに指をさすのがわれわれ 一般人のすることだ。だが、マキャベリは極限に達した苦難の沼にあっても、ユー モアを飛ばすという驚異的な余裕を見せた。彼は仲間が命を落としていくバルジェ ッロ監獄で、‘詩人であるわたしが耐えるべき苦痛’云々といって、自分自身に訪れた 運命を受け返す。避けられないのであれば、いっそ楽しもうではないかという態度、 これがわれらの友、マキャベリが苦難を克服した方法だった。笑うときはもう一度 思い切り笑って、涙を吹き飛ばしてしまおう。そう、雨が降ったらその雨に濡れ、 雪が降ったら空を見上げて両手を広げよう! マキャベリは陰謀ばかり企んでいた人物ではなかった。彼は実にウイットに富ん だ、言葉のセンス抜群の人物だった。1509年末、ヴェロー ナへ出張に出かけた際、 マキャベリは友人のグイチャルディー ニにひょうきんな手紙を一通送った。ロミオ とジュリエットの故郷である美しいイタリアの都市ヴェロー ナで、マキャベリは親 しい友人に娼婦と過ごした一夜の様子を語っている。1509年12月8日付の手紙だ。
中に入ると、暗くうっとうしい場所に、貞淑なふりをして、布のせいで顔と髪はよ く見えなかったんだが、部屋の隅の方に身体をすくめている女が見えたんだ。(中 略)話をかいつまむと、暗闇の中でその女と二人きりになったわたしは、そのまま 勢いでしてしまったんだな。その女の太ももはしまりがなくて、あそこも濡れてい るし、口の臭いもひどかった。それなのに、女に飢えていたわたしは勢いに任せて してしまったんだ。事を終えてから、どれどれ、品物をもう一度確かめようという 気になった。暖炉から木くずに火をうつしてそれをつまみ、その上にあったランプ に火をつけた。ぎゃぁ!
わたしはその場に倒れこんであやうく死ぬところだった
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よ。その不細工なことといったら!
最初に目についたのは白黒交った髪の毛、つ
まり、その女の髪は白髪交じりだったというわけだ。つむじは禿げていて、おかげ でシラミが何匹かお散歩している様子まで見えたさ。両側の眉尻から目の真ん中に かけてはシラミの卵がひとたば見えたし、片方の目は上に、もう片方の目は下にく っついていて、大きさもバラバラ。涙腺には目ヤニがぎっしりで、まつげなんて、 ないも同然の有り様。空を見上げるように穴が天井を向いている鼻は顔の下の方に なんとかしがみついている様子で、大きな鼻の穴には、鼻水がこれまたぎっしり。 (中略)わたしがこの化け物に度肝を抜かれて身動きが取れないでいると、女がそ れに気付いて‘あら旦那、どうなさったんです?’と話しかけようとするんだが、言葉 がどもっていてよく聞き取れない。口を開けると同時にものすごい悪臭がたちこめ てくるもんだから、気持ち悪くなってもうどうにも我慢できなくなった。結局、ぜ んぶ外に出してしまったよ。女に全部吐いちまったってわけだ。
マキャベリはこんなお調子者だった。愛欲をおさえることができないということ を友人の前で大袈裟に騒ぎたてて、自分の人間味をアピー ルするような人物だった。 いくら私的な内容を書いた手紙だと言っても、これはもうコメディに近いおどけた 文章である。快活な性格で悪ガキのようにいつもほくそ笑んでいたマキャベリにと って、試練はほんの一瞬通りすぎていく風のようなものだった。耐えがたい苦難に ぶち当たろうと、マキャベリのユー モアと人生にたいする肯定的な態度は変わるこ とがなかった。 歳月が流れ、1521年5月のことだ。マキャベリが失業者になって、いつしか十年 をむかえるころになっていた。十年近くも今でいうフリー ター 状態で過ごしていれ ば生きる意欲も失せてしましそうなものだが、マキャベリはそうではなかった。人 生をユー モアで対処していく彼の態度は変わらなかった。ひょうきん者のマキャベ リは、ある日、久々にちょっとした仕事の依頼を受けて出かけることになった。フ
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ィレンツェの紡織組合から依頼されたものとは言っても、カルピ
Carpiという町に
行って、復活祭のミサのときにフィレンツェのドゥオモで説教してくれる神父を探 してきてくれというものだった。紡織組合で定職もなくぶらぶらしていたマキャベ リにとってさほど満足のいくような依頼ではなかったが、マキャベリはそんな瞬間 でも快活さとひょうきんさを忘れることはなかった。 彼はカルピへ向かう途中にモデナ
Modenaにしばらく立ち寄った。そこにはフ
ランチェスコ・グイチャルディー ニというフィレンツェの貴族の家門出身である地方 の長官が駐在していた。彼はマキャベリと親しい間柄だった。このふたりのフィレ ンツェの友はカルピのフランチェスコ修道院でちょっとした悪戯をすることにする。 小さな任務を任されての出張だったが、偽善的なフランチェスコ修道会の院長と修 道士らを存分にからかってやることにしたのだ。まず、モデナにいたグイチャルデ ィー ニがカルピに到着したマキャベリに手紙を送った。カルピを出来るだけ早く発 つようにという助言が書かれていた。‘サンダルを履いた奴たち’、すなわち、フラン チェスコ修道会の修道士たちは偽善的であるゆえ気をつけるようにというニュアン スにも読める。1521年5月17日、その手紙を受け取ったマキャベリの返信は、次の ような文章で始まっている。
貴殿からの手紙を持った使いの者がここに到着したとき、わたしはちょうど便所で 用を足しておりました。それだけでなく、貴殿の手紙に記されていた内容と同じこ とを、頭を絞って、そしてしゃがんだ姿勢で考えておりました。(中略)今日、送 って下さった手紙を届けるために使いの者がここにきて、顔が地面につきそうなく らい丁寧なお辞儀をしたところ、ここにいる者たちのあいだで一大騒動が起こった といいます。もちろん、わたしのような人間がそのような機会を見逃すわけがあり ません。皇帝は今、トレントに待機中だとか、スイスの傭兵がどうだとか、フラン スの王が戦争を始めようとしているのだが、参謀たちがそれを邪魔しているのだと
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か、ずいぶん長いあいだぺちゃくちゃ話をしているなあと思ったら、彼らは口をし まりなく開け、帽子を手に持ったまま間抜けな顔をして立っていました。わたしは 彼らをもっとからかってやろうと、ときどきペンを持つ手を休めては、考えを整理 するように深く深呼吸をしてみたのです。すると、彼らはずっと口をぽかんと開け たまま驚いていたそうです。けれど、もし彼らにわたしが今、こんな内容を記して いると知れたら、彼らはその場で気絶してしまうでしょうけどね。
<図>カルピの現在の様子。マキャベリは説教をする神父を見つけてくるようにと いう任務を受け、カルピにあるフランチェスコ修道院に派遣された。フランチェス コ修道院は現在もある。
マキャベリはかつて、ヨー ロッパ各国を渡り歩き、人並みならぬ洞察力でフィレ ンツェの政局を導いてきた有能な外交官だった。彼はフランスの王や大臣、チェー ザレ・ボルジア、教皇ユリウス2世らと個別に会談を行うほどに華々しい経験のある 外交のベテランだった。そんな華やかな経歴を持った外交官にたいして、説教を行 う神父を探してこいという紡織組合の指示がマキャベリのプライドを傷つけたとし ても無理はない。だが、彼はこんな些細な任務にも躊躇することなく出向き、楽し い思い出を残すために友達とユー モアあふれる手紙をやりとりするほど楽天的で快 活な人間だった。 いくらいま‘人間の考えをまったく超越した大激変を昼夜目の当たりにしている’と いっても、わたしたちは人生の希望や悦び、肯定的なエネルギー や将来にたいする 楽観を捨ててはならない。不運の中にあってもつねにユー モアを忘れなかったマキ ャベリが、人生をもう一度見直す機会を与えてくれたからだ。彼は『君主論』のお わりでこのように述べている。
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人間の自由な意欲は、どんなことがあっても失くしてはならない。たとえ運命が人 間の活動の半分を占めるとしても、少なくとも、残りの半分はわたしたちの支配に かかっているからだ。7
絶望の淵にあっても、マキャベリは希望や笑いを手ばなさなかった。悲劇の最中 に放り込まれはしたが、彼はユー モアを持ち続け、冗談や余裕でもって困苦に満ち た時代を生き抜いた。彼は苦難で点綴された自分の運命を愛したのだ。“汝の運命を 愛せよ!”これを古代ロー マの哲学者たちは‘アモル・ファティ た。絶望よ、来るがいい!
試練よ、わたしにかかってこい!
Amor fati’と表現し これこそ、マキャ
ベリが試練に打ち克った方法だった。 マキャベリはロー マのフィレンツェ大使であり、親しい友人でもあったフランチ ェスコ・ベトリー に以下のような手紙を送っている。君もわたしと同じように愛の神、 アモー レ
Amoreとともに生きるのだ、と!
1514年2月4日、サンタンドレアの
流刑地で、絶望の淵からマキャベリが友人に宛てた手紙だ。8
ジャー ネン・アモー レ(愛の神)が放った矢がわたしに語ってくれ話を思い出して、 わたしと同じようになるのではないかと恐れている君に、わたしが彼をどのように 扱ってきたのか、どうしても一言いいたくなったのだ。実は、わたしは彼を彼の好 き勝手に放っておいたのだ。それから、彼のあとを追って、渓谷なり、森なり、崖 なり、平原なり、どこへでもついて行った。こうすることのほうが、彼を苛めるよ りも自分を慰めてくれるものだと分かったからだ。だから、鞍も放り投げ、鎖も脱 ぎ捨て、目を閉じてこう言ってみるといい。‘お前のしたいようにしろ、アモー レ。 わたしをしっかり導いてくれ。上手く行けばお前が褒められ、上手くいかなくとも
7
『君主論』第 25 章。
8
クァク・ チャソプ編訳、『マキャベリとエロス』190~191 ペー ジ・
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お前が責められるだけだ。おれはお前の奴隷だ’(中略)だから、わが友よ、楽しみ ながら日々を過ごすのだ。恐れることなく運命に堂々と立ち向かい、天体の回転や 時間、そして君の前にもたらされる状況、そのすべてに身を任せるのだ!
-------------------------------------------------------------CHAPTER 14 『ロー マ史論考』執筆、新しい時代の英雄を待ちわびる
○犬以下の扱いを受けた『君主論』
現存する記録と手紙の内容から察するに、マキャベリの『君主論』は1513年8月 から1514年1月にかけて執筆されたものと推測される。サンタンドレアの田舎の農 場に幽閉されていたマキャベリは、この本の出版を通じて自分の存在がもう一度世 の中に知ら渡るようになることを願った。だが、『君主論』の初稿に目を通したフ ィレンツェの出版会社の反応はマキャベリに大きな失望感を与えた。フィレンツェ 共和政における前職の高職官僚、すなわち前政権での中心的な参謀であり、メディ チ家にたいする反乱の疑いで投獄された経歴の持ち主である人物の本を出版するこ とは、政治的に危険なことであった。すべからく出版社たるもの、世の流れに敏感 であって当然だ。『君主論』の出版がとうとう拒絶されるや、マキャベリの喪失感 はさらに深まった。
<図>マキャベリが『君主論』を執筆していたサンタンドレアの書斎
それでもマキャベリは夢をあきらめなかった。出版は断られてしまったが、メデ
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ィチ家の首長に直接『君主論』を献上し、自分の存在感を見せつけようとした。メ ディチ家の腹心に『君主論』を献上する機会を与えてくれるようせがんだマキャベ リに、ついにそのチャンスが巡ってくる。1571年、つまり『君主論』を脱稿してい から二年あまりが経過したころ、マキャベリはメディチ家から呼ばれた。ついに待 ち焦がれていた『君主論』の献上式の日取りが決まったのだった。 もともとマキャベリは『君主論』を‘ヌムー ル公’ジュリアー ノ・デ・メディチ(教皇 レオ10世の弟、1479~1516年)に献上するつもりでいた。ところが彼が1516年3 月に臨終したため、予定を変更してジュリアー ノの甥である‘ウルビー ノ公’ロレンツ ォ・デ・メディチ(1492~1519年)に献上することにした。一番下の叔父であるジ ュリアー ノが病気がちだったため、実質的には甥のロレンツォがフィレンツェの君 主の役割を果たしていた。彼は、二番目の叔父であり教皇だったレオ10世の命令に したがい、フィレンツェの軍司令官としてウルビー ノを征伐するなど功績を挙げた (1516年6月)。その武功を受けてロレンツォは‘ウルビー ノ公’という公の肩書きを 手にする。マキャベリは病弱だったジュリアー ノよりも卓越した武功とリー ダー シ ップを兼ね備えた‘ウルビー ノ公’ロレンツォ・デ・メディチに謁見し、直接『君主論』 を献上することに決めた。マキャベリの親友だったベトリー が献上式の手配をして くれた。 マキャベリは自筆でていねいに筆写した『君主論』一冊を携えてメディチ宮廷へ 出向き、ひざまずいてロレンツォを待った。だが、メディチ家の指導者は『君主論』 に一切目もくれなかった。ちょうどその献上式に参列していた別の人間が一匹の狩 猟犬を贈り物として捧げたのだが、ロレンツォはその狩猟犬にだけ手を触れたとい う。マキャベリにとって、それは侮辱だった。彼の『君主論』は犬以下の待遇を受 けたのだった。 メディチ宮廷の一件のあと、マキャベリは自分自身を振り返ることとなる。『君 主論』を一ペー ジだけでも読んでもらえたなら、すぐさまメディチ家が自分をもう
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一度呼びよせてくれるものと固く信じていたのに、犬同然の存在になってしまった。 マキャベリは潔く夢をあきらめることにした。いや、強力な英雄の到来を夢見てい た『君主論』の希望そのものを完全に棄てることにした。もともと英雄などは存在 せず、英雄は現れるものではなくて、つくりあげられるものだと考え自体を改めた のだ。メディチ家から侮辱を受けたマキャベリは、生涯の目標を修正する。メディ チのような英雄の到来を漠然と待つのではなく、自分の手で時代の英雄をつくって みせるという決心に。マキャベリによる、この英雄誕生プロジェクトが始まった場 所こそが‘ルチェラー イ家の庭園
Orti Oricellari’の集いだった。
○新たな英雄のための秘密プロジェクト
フィレンツェ駅を降りると、正面に大きな建物が見える。その建物こそがサンタ マリアノベラ聖堂だ。ドゥオモ(フィレンツェ大聖堂)やウフィッツィ美術館など、 フィレンツェの主要な観光地がこの聖堂の左手に集まっている。この聖堂から右に1 00メー トルほど歩いていくと、突然フィレンツェの住宅街の一角に小さな森が現れ る。ルネサンス様式で建てられた住宅街のど真ん中に、フィレンツェの名門、ルチ ェラー イ
Rucellaiによってつくられた森が存在する。ここがまさにマキャベリが
人生の後半を捧げたルチェラー イ庭園だ。マキャベリはこの庭園のひと気のないベ ンチや草むらの日陰に座って、フィレンツェの将来を担う青年らとともにロー マ史 の勉強をはじめた。 ルチェラー イ家の庭園の集いは15世紀フィレンツェの賢者、コジモ・デ・メディチ Cosimo de Medici(1389~1464年)によって設立され、‘偉大な者’ロレンツ ォ・デ・メディチ(1449~1492年)がその命脈を保っていたもので、プラトンアカ デミー
Academia Platonicaの精神を受け継ぐフィレンツェの知識人らによる学
術・親睦団体だった。ここはフィレンツェの少壮派の若者らが集い、古典を学んで人
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文学的な素養を積んでいた勉強会からはじまった。
<図>フィレンツェ都心の北西部にあるルチェラー イ庭園の南出入口
もともとベルナルド・ルチェラー イが1490年代にはじめて作ったものだが、彼が1 514年に臨終し、その甥であるコジモ・ルチェラー イ
Cosimo Rucellai(1495~1
519年)が勉強会の座長を任されるようになった。この集いに参加していた若者ら はいつしかフィレンツェを率いる棟梁へと成長する。政治思想家のツァノー ビ・ブオ ンデルモンティー 、歴史学者ヤコボ・ナルディ、政治家ロレンツォ・ストロッチ、文 学家アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィ、それからルイー ジ・アラマンニ、 フィリッポ・デ・ネルリー 、バチスタ・デッラ・パッラなどがこの集いの正式メンバー であった。1518年からマキャベリはこの集いから招聘されて彼らの精神的な支えと なった。失業者だったマキャベリの境遇を不憫に思った貴族の若者たちが協力して 金を出しあい、わずかな報酬を渡すこともあった。
<図>フィレンツェ都心の北西部にあるルチェラー イ家の庭園の北側の建物。この 建物の講堂で『ロー マ史論考』の朗読がはじめて行われた。
マキャベリはフィレンツェの未来を担っていくこの青年たちを前に『ロー マ史論 考』をはじめて発表した。彼は『君主論』を執筆していた当時、『ロー マ史論考』 という新たな執筆プロジェクトの構想を練っていたのだった。1514年初めから作品 の構想を開始し、空き時間をみつけては作業を続け、1517年から本格的に『ロー マ 史論考』にとりかかった。『君主論』がメディチ家から冷たくあしらわれた直後か ら、マキャベリは『ロー マ史論考』に自身のあらゆるエネルギー を集中させていた のだ。メディチ家に抱いていた期待や夢を捨て、かわりにルチェラー イ家の庭園に
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集う若者たちに希望を見いだしたというわけだ。マキャベリの『ロー マ史論考』が、 フィレンツェの未来の指導者たちを時代の英雄へとつくりあげるための、彼なりの 秘密プロジェクトであったことが序文に如実にあらわれている。
わたしのこの文章を読んでいる若者に幸運をつかむチャンスが訪れたとするならば、 いつでも今のこの世の中の過ちから遠ざかり、古き世界の前例を見倣ってもらいた いのです。わたしの言っていることを理解できる人の中から、ひとりでも多く神の 恩恵に十二分にあずかってこれを実行する力を持った人材が輩出されることを切に 願います。9
マキャベリは、このフィレンツェの若者たちが自身に羞恥心や侮辱を味あわせた メディチ家とは異なる人間であることを心から願った。『君主論』がある日突然、 君主の座にのぼりつめたロレンツォ・デ・メディチに捧げた本であったとするならば、 『ロー マ史論考』は“(いま)君主の座にある人間ではなく、真の君主にふさわしい 徳の高い”未来の若者たちに捧げられたものである。マキャベリの期待はその後もつ づく。
<図>ルチェラー イ家の庭園内部の様子(2011年夏現在、補修工事が行われてい る)。マキャベリは“ルチェラー イ家の庭園の中でもっとも暗く秘密めいた場所”に 集まり、若者たちと議論を交わしたと記録している。
(わたしは)この本を今実際に君主の座にある人々ではなく、真の君主にふさわし い徳の高い方、わたしに高い地位や官職、あるいは富を与えてくれる人物ではなく、 そのような能力はなくとも、それが許される状況ならば惜しむことなく与えたいと 9
『ロー マ史論考』、第 2 巻序文。
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いう心を持っている方に捧げます。おおよそ、人間が正しい判断を下すためには、 実際に寛大に他人に施しを与える者なのか、あるいは寛大に施すことのできる能力 だけを備えた者なのかを、また、国を統治する能力を持った者なのか、あるいは国 を統治する能力はないのに図々しくも国を統治している者なのかを明白に判断でき なければなりません。10 31 実際、ルチェラー イ家の庭園の勉強会に参加していたフィレンツェの若者たちは、 新たな時代の到来を夢見ていた人々であった。この集まりは、メディチ家の僭主政 治に反対し、すべての市民が主となる共和政治の回復を最大目標とする、一種の政 治団体へと発展していた。マキャベリは共和主義の理想を渇望していたこの若者た ちのために、真の勝利の秘密を教えてやった。すなわち、メディチのような強者の 横暴を駆逐する方法を伝授したのである。マキャベリはこの若者たちのために『ロ ー マ史論考』のみならず、『戦争の技術』という実務的な戦争の指針書も執筆した。 この本は未来の指導者たちに‘戦争の技術’を教え、フィレンツェを強国にするのだと いうマキャベリの意志が反映された本である。マキャベリの生前に唯一『戦争の技 術』が発刊されたのも、こうした若者たちの声援と財政的な支援があったからこそ であった。
○人生は泣き虫を記憶しない
フィレンツェ第二書記長という最高職を歴任したマキャベリは、時の英雄らに直 接会うことができた。フィレンツェを神政政治へと導き、一世を風靡したものの火 刑に処された修道士サボナロー ラ、『君主論』の実際のモデルとなったチェー ザレ・ ボルジア、第二のカエサルを夢見てイタリア統一のためには戦争も辞さなかった教 10
『ロー マ史論考』、序文‘ツァノー ビ・ ブオンデルモンティー とルチェラー イに捧げる文。
皇ユリウス2世、フィレンツェ共和政の元老だったピエトロ・ソデリー ニ、神聖ロー マ帝国のマクシミリアン皇帝、名門としての栄光をもたらしたメディチ家初の教皇 レオ10世、『君主論』の献上の対象だった‘ウルビー ノ公’ロレンツォ・デ・メディチ などなど。だが、マキャベリの目に映った彼らは本物の英雄ではなかった。マキャ ベリが見た彼らはみな偽物の英雄で、ごまかしの君主にすぎなかった。マキャベリ はこれら偽物やデタラメの君主らに非難を浴びせている。
これまで、君主は玉石や金で身を着飾ること、一般人よりもはるかに贅沢な装いを したり寝食を行ったりすること、そばに妾をおくこと、臣下を貪欲かつ傲慢な態度 で支配すること、無為徒食な日々を送ること、武勲によって兵士たちに階級を下賜 すること、国策にたいして異見を唱える者がいれば、それが誰であれ罵倒すること、 自らの言葉が神託の宣告であることを望むこと、それこそが君主が身につけるべき 事柄だと誤解していました。11
メディチという夢をあきらめたマキャベリは、ルチェラー イ家の庭園の集いでは じめて正直な人間になれた。『君主論』に登場する狐のように、他人を欺いてだま すことで完結するのではなく、自分の心中をありのままに吐露しだした。なにより も、自分自身に素直になろうと決心したマキャベリは、若者たちに弱者が強者によ る横暴に生き抜く術を教えた。かつて、彼は強者の僕だった。そしていま、その強 者の請負人だったマキャベリが弱者の守護聖者として変身を遂げたのだ。これは驚 くべき変身だった。マキャベリ本人も“わたしはためらうことなく、これまでその誰 も歩まなかった道を開拓していくことに決めた”と述べ、『ロー マ史論考』の執筆を はじめた。12
11
『戦争の技術』、389~390 ペー ジ。
12
『ロー マ史論考』、第 1 巻導入部。
32
ルチェラー イ家の庭園に集う若者らを見守っていたマキャベリは、彼らに英雄に なる方法ではなく、強者による横暴に左右されない方法を教えようと決心した。な ぜ、われわれはつねに虐げられてばかりいるのか? に踏みにじられる惰弱な弱者として生きているのか?
なぜ、われわれはつねに強者 なぜ、われわれはメディチ
家の僭主政治がもたらした独裁をそのまま受け入れなければならないのか?
なぜ、
われわれはバルジェッロ監獄に閉じ込められて吊るしの拷問を黙って受けなければ ならないのか?
なぜ、われわれの祖国フィレンツェは強大国の意のままにされ、
大声で呻き声さえ出すことが許されない立場になってしまったのか? マキャベリはこのとき、ルネサンス的な人間へと変化する。ルネサンスとは、‘再 び’という意味の‘ル
Re’と‘誕生’を意味する‘ネサンス
Naissance’が組み合わさっ
た言葉だ。イタリアとフィレンツェがふたたび強大国として生まれ変わるためには、 古代ロー マの精神に立ち返らなければならない。われわれがもし強者による横暴に 抑圧されていた日々を清算し、本当の意味での自由な人間になりたいと願うのであ れば、偉大だったロー マの精神へ立ち返る教育を受けなければならない。弱者が強 者による横暴と圧政から抜け出す道は、真の教育以外に存在しない。
都合のいいことが巡ってくると傲慢になり、悪いことが起こると意気消沈するのは、 みなさんの生活やみなさんが受けてきた教育に問題があるからです。教育の方法が 軟弱でうわべだけのものになれば、みなさんはそのような人間になってしまうので あり、これとは異なる教育を受ければ、みなさんもまた、別の類の人間になって世 の中について多少豊富な知識を得ることとなり、幸運に酔いしれたり、逆境に失望 するようなことも少なくなることでしょう。13
そうなのだ。これこそがマキャベリの真の叫びだった。弱者が強者の手中から脱 13
『ロー マ史論考』、第 3 巻・第 31 節。
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する道は、真の教育を通じて自分自身を変革することより他ない、というものだっ た。強者による横暴に悩まされるわたしたちが、何かを少し達成しただけで思い上 がったり、小さな試練や微々たる逆境に遭遇するとすぐに挫折して落胆してしまう のは、われわれの学び方が誤っているからだ。わたしたちはこれまで、強者の論理 にそって書かれた歴史書を普遍の歴史の真理だと誤って理解してきたのである。権 力を掌握している人間が作り上げた社会システムから少しでも抜け出せばむしろそ れを不安に感じ、明け方から深夜まで懸命に働いても生活は少しも楽にならなかっ た。これらすべて、いままでわたしたちが誤った教育を受け、真剣に学ぶことなし に生きてきたせいなのだ。自ら思考する習慣を身につけるかわり、他人の意見をそ つなく要約してまとめることが優れたことだと考える薄っぺらな勉強が、わたした ちをこんな軟弱な人間に作ってしまったのだ。わたしたちを永遠なる弱者に、社会 における‘乙’にしたのは強者の力ではなく、わたしたちが誤った学習をしてきたせい なのだ。強者の意志に従い、このまま一生流されて生きていくつもりなのか?
彼
らに殴られれば身動きひとつできずにすすり泣きながら殴られつづけ、残りの人生 を強者に礼を述べながら生きていかなければならないのか?
このままこんなふう
に御主人様のテー ブルから落ちたパンくずだけを拾って生きていくつもりなのか? マキャベリは叫んだ。人生は泣き虫を記憶してはくれないと!
歯をぎゅっと食
いしばって、怒りに任せてこぶしを握るのではなく、本を開けろと。古典の知恵に 耳を傾けろと!
偉大だった真の英雄の時代、ロー マ時代に戻ろうではないかと!
真の教育を通じてすべての人間が自由を手にすることができるのだから、フィレ ンツェの若者たちよ、どうか!
リビウスの『ロー マ建国史』を読んでくれ!
そ
うすれば、きみたちはこれ以上メディチのような強者の横暴に虐げられることなく、 自由を手にすることができるだろう!
小さな幸運にうぬぼれることなく、試練や
逆境にぶち当たっても挫折してはならない! たらしてくれるのだから!
真の学びこそがきみたちに自由をも
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○目的のための沈黙とカムフラー ジュ
『ロー マ史論考』は強者の論理をくつがえす本であるため、革命の指針書とも言 えるだろう。マキャベリは『ロー マ史論考』第1章で、この本の目的を正確に明かし ている。強者による横暴に打ち克ち、共和政の理想をこの地上で実現していたロー マの歴史を通じて“それを模範とみなし、その前例にしたがうこと”を目標とかかげ るというのだ。マキャベリは第1巻の第1章の末尾に意味深長な言葉をつけ加えてい る。
本書を手に取った読者が歴史を学ぶことを通じて得られる利益をかならず手にして くれることを願う。こうした目的を達成するため、わたしはただただ苦難の道を歩 んでゆくことだろう。だが、わたしがこの重荷を背負っていけるように惜しみない 激励を送ってくれた人々のおかげで、少しでも目的地に近いところに到達できるも のと信じている。だからこそ、これから先、果たそうとしている目的を成し遂げよ うとしている人々が長すぎる旅に出なくてすむように期待している。14
マキャベリが『ロー マ史論考』を書いた目的は、ルチェラー イ家の庭園の集った 若者らが‘これから先、果たそうとしている目的’を成し遂げられるよう、その具体的 な方法を教えることだった。彼らが果たそうとしている目的とは、メディチ家を転 覆させてふたたび共和政に戻ることだった。強者の専横と横暴がフィレンツェには 通用しないということを見せつけようというものだ。この志を達成するために、マ キャベリはルチェラー イ家の庭園の若者たちに『ロー マ建国史』の講義を行う。リ ビウスの『ロー マ建国史』の最初の十巻についての解説書形式で、彼らが果たそう 14
『ロー マ史論考』、第 1 巻序文。
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とする目的を達成するための方法を教示したのだ。 なぜ、われわれはロー マ史を学ばねばならないのか? ロー マは偉大なのか?
なぜ、われわれにとって
ロー マが偉大だった理由は“その都市の起源が、どこにも属
さない自由な行動によって生まれたから”なのだ。15ロー マは理想的な国家体系を維 持することができた。なぜなら、王政、貴族政、そして民主政がそれぞれ調和をな していたからである。三つの勢力が調和をなしたときに完全なる共和国が誕生する。 16
しかし、“すべての真理の父である時間により”こうした完全なる共和政はしだい
に力の均衡を失い、ある個人や集団に権力が集中する副作用が生み出される。強者 の横暴のはじまりである。ロー マ共和国の場合、十人委員会
Decemviri legibus
scribundisがまさにそうした強者集団であった。もともとは市民の代表として10名 を選んで立法府としての役割を任せてきた制度だったが(紀元前452年に設置)、 彼らは“瞬く間に暴君へと変貌し、目に余るほどのあらゆる専横を敷いた。” 17いつ の時代にも“法の制約を受けない権力が長きにわたって続くと、かならず災いがもた らされるもの”である。この十人委員会で実質上、代表を務めていたアッピウス・ク ラウディウス・クラッスス
Appius Claudius Crassus(紀元前451~449年にかけ
て活動)は自身の権力を利用して執政官や護民官制度を廃止し、集団独裁体制へと ロー マ社会を葛藤の渦に追い込んでいく。 マキャベリはリビウスの『ロー マ建国史』においてアッピウスの業績を記録した 箇所の再分析を行いながら、弱者だったロー マの民衆がどのようにしてアッピウス の専横と独裁に立ち向かったのかを明らかにする。強者による横暴が極度に達した とき、弱者はどのようにして強者に抵抗することができるのか? アッピウスと十人委員会の専横が頂点に達した事件が、かの有名な‘ウェルギニア 15
『ロー マ史論考』、第 1 巻、第 1 節‘ロー マはどうしてはじまったのか?’。
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『ロー マ史論考』、第 1 巻、第 2 節‘ロー マはどのような国家に属するのか?’。
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『ロー マ史論考』、第 1 巻、第 35 節‘ロー マ十人委員会はなぜ共和国の自由を侵すようになった
のか?’
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事件
Verginia Affair’だ。18ロー マの権力をほしいままにしていた十人委員会の首
長アッピウスが、ウェルギニアという美しい女性を自分のものにするためにその権 力を乱用した。自分の家の奴隷をそそのかしてウェルギニアをその奴隷の娘だと主 張させたのだ。ウェルギニアが奴隷の娘となれば、アッピウスがその奴隷の娘を所 有することはなんの問題にもならない。ロー マ法上、奴隷は主人の所有物であるか らだ。これに対し、ウェルギニアの実父は娘のこの無念極まりない状況を裁判庁に 訴えるが、ここには正義が存在しないと泣き叫び、ついには娘を殺害してしまう。 娘の貞操を守るという信念で犯した尊属名誉殺人だった。
<図>父親の手によって殺害されるウェルギニアの様子。貴族階級と平民階級間の 対立が激しかったロー マにおける、歴史上有名な事件である。
ロー マの平民たちはアッピウスの専横と十人委員会の独断に反発し、一斉に‘神々 しい山’と呼ばれていたベチリウス山
Mount Veciliusへと向かい、集団ストライキ
を起こした。前代未聞の国家ストライキが発生したのだ。ロー マの平民は山に上り、 農作業をふくむあらゆる生産活動と軍の服務を拒否した。事態の鎮静化をはかるた めに十人委員会の代表がベチリウス山に登り、平民代表と妥協策について話し合っ た。ロー マの平民たちは三つの事項を要求した。護民官制度を復活させること、公 職者を任命する際には平民代表(護民官)の諮問を置くことだった。十人委員会の 代表はこの二つの提案を受け入れた。だが、最後の三つ目の要求が十人委員会の代 表たちを困惑させた。十人委員会の構成員全員を公開火刑に処せよというものだっ た。結局、十人委員会の代表はロー マの平民らを前にして“きみたちは残酷な行為を 非難しておきながら、自分たちもみずからそんな残酷な行為をするというのか?”と 言って提案を拒否する。 18
『ロー マ史論考』、第 1 巻、第 40 節から第 44 節までの内容。
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マキャベリはアッピウスと十人委員会の事件を通して、弱者が強者に虐げられず に生きていく術を間接的に説明している。まず、すべての人間が潜在的に悪党であ る可能性を秘めているという事実を直視せよ、と教える。アッピウスがそんな悪党 の代表格だ。
十人委員会事件は、ひとが善良な人間に生まれたとしても、あるいは教育を通じて 教養を兼ね備えたとしても、どれだけいとも簡単に堕落してしまうのか、またどれ ほど瞬く間に人格が変わってしまうものなのかを教えてくれる。19
このような悪党の欲望を統制することは不可能であるため、欲望にまかせて無分 別な行動をとっていればかならず処罰される、という牽制意識を植え付けなければ ならない。強者は積極的に監視されなければならず、その権限が度を越した場合に は、それを牽制する制度が必ず導入されなければならないということだ。マキャベ リはベチリウス山でストライキを起こして十人委員会に対抗したロー マの平民たち を批判した。十人委員会の代表に自分たちが本当に望んでいることを言葉で要求す るのは愚かな行動であった。弱者は強者にたいして自ら置かれた理不尽な状況を言 葉で訴えるのではなく、“かれらの勢力や権威を圧倒できるだけの手段を講じなけれ ば”ならない。20 弱者の立場にあるロー マの平民らが強者の立場にある十人委員会の代表らに“十人 委員会の構成員全員を死刑に処せよ”と要求したことは、愚かさの極みだった。自分 自身にこのような被害が飛んでくることを望む人間などこの世に存在しない。マキ ャベリは次のように批判した。
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『ロー マ史論考』、第 1 巻、第 42 節‘ひとはどれほどいとも簡単に堕落してしまう存在なのか?’
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『ロー マ史論考』、第 1 巻、第 44 節‘リー ダー 不在の民衆には力がない’。
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この事件を振り返ると、何かを要求しようとするときに‘われわれがこれを要求する と、あなたがたはこのような被害をこうむることになる’と告げるのは、軽率で愚か なことである。こんなふうに自らの心の内を表に出してはならない。いかなる犠牲 を払ってでも、要求が実現するように努力しなければならない。誰かから武器を奪 うときでも、それであなたを殺すつもりだと口にしてはならない。いったん自分の 手に武器が回ってきたら、そのときは一切ためらうことなく行動しなければならな い。21
弱者の守護聖者であるマキャベリからこの意表をついた提案を聞かされたとき、 ルチェラー イ家の庭園に集っていた青年たちは衝撃を受けたことだろう。今、マキ ャベリは強者の横暴に正面から対抗するのではなく、まずは自分の正体を隠せとい っている。強者打倒という意図は口に漏らさず、時をうかがったのち、“いったん自 分の手に武器が回ってきたら、そのときは一切ためらうことなく行動”しろというの だ。 このような勇気ある行動をとるために、かならず必要なことがある。それは、弱 者たちの‘中心人物’である。マキャベリは『ロー マ史論考』第1巻第44節の題名を ‘リー ダー 不在の民衆には力がない’とした。弱者に中心人物(指導者)が存在しなけ れば、彼らはただの烏合の衆にすぎない。マキャベリはルチェラー イ家の庭園に集 っていた若者たちに向かって、‘果たそうとする目的’を成し遂げるために中心人物に なれと訴える。強者の横暴に奮然と立ち向かうことのできる勇気を持った中心人物 にならなければならない。なぜ、弱者は強者の横暴に苦しめられなければならない のか?
なぜ、弱者は強者が自分の論理で自らの利益や権力をほしいままにしてい
るそばで何も言えないのか?
マキャベリはその理由を次のように説明した。“彼ら
に答えられる言葉がなかったわけではなく、答える勇気を持つ者が存在しなかった 21
同上。
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からである。”22答える勇気のある者だけが強者の横暴から脱することができる。 弱者が強者の横暴から脱するためには、本物の勇気を持たなければならない。こ こで、マキャベリはヴィルトゥスの話にふたたび戻る。ヴィルトゥス、つまり勇気 を出せという意味だ。この世の弱者たちよ、みずから運命に立ち向かい、勇気と気 概を失うな。自分の本音を強者には明かさず、いったん自分の手に武器が回ってき たら、そのときは一切ためらうことなく行動せよ。これこそが生きる道だ。勝利の 女神は泣き虫を記憶してはくれない。
22
同上。
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