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キム・ ヒョンオ スルタンと皇帝 Ja p a nes e
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スルタンと皇帝 (술탄과 황제) ブック21世紀ブックス Publishing corp. / 2012 / 58 p. / ISBN 9788950943974 For further information, please visit: http://library.klti.or.kr/node/772
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スルタンと皇帝 著者 キム・ヒョンオ
著者の言葉 「船頭多くして船山に上る?」
意見があちこちから出てきて統一されないと、ことは台無しになるか見当違いの 方向へ突っ走りかねないということを意味することわざである。 しかし、実際に多くの船を率いて山を(丘)を超えた男がいる。1453年5月29日、 コンスタンティノープル(Constantinople)を征服して世界史の流れを変えた二十一 歳の青年でオスマン帝国のスルタン、メフメト(Mefmed)2世がその主人公だ。 4年前にトルコを訪れた際、わたしはイスタンブール軍事博物館で、艦隊を率いて 険しいガンタの丘を越えたこの男の話を聞いて衝撃と戦慄を覚えた。その時からだ った、わたしがこの事件に本格的に魅了され始めたのは。 それからもう一人、勝算の見込みのない戦いで最後まで降伏を拒否したまま滅び ゆく帝国と共に華々しく散ったビザンティン最後の皇帝、コンスタンティヌス(Co nstantinus)11世がわたしを捉えて離さなかった。彼は本当に、おろかで無責任で 無能な君主だったのだろうか。 この4年間、わたしはトルコを4度訪れ、そのうち一度は長期滞在(47日間)した。 その過程で、数百冊の書籍や史料、数十人の専門家、学者とのインタビューを通じ てこの戦争の実体を掘り下げていった。二十年にわたる政治家としてのこれまでの 人生とは全く異なる、人文学的な世界に没頭した時間だった。 そうなのだ、2009年1月から今日まで、わたしの世界は1453年の4月と5月で止ま っていた。体はソウルにあっても、私の頭は、私の精神は、559年前のコンスタン
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ティノープルに飛んでいた。 生半可な気持ちで扱ってはならならいこの大事件を、どうすればやさしく、かつ おもしろく伝えられるだろうかと苦心したが、まずは史実と事実のみを追及する覚 悟で臨んだ(唯一つを除いては)。苦労した瞬間やさまざまな紆余曲折は、耽溺し 没頭することで乗り越えた。本書はその結果物である。至らない点も多々あるかと 2
思うが、読者の方々から忌憚のないご意見をいただければ幸いである。
2012年、日差しのまぶしいある秋の日の朝に 著者
Ⅰ 1453年5月29日~6月1日、 コンスタンティノープル
1453年5月29日(火)
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千年よりも長く感じられる一日だった。 午前二時。天気は晴れでさわやかな風が吹いていた。西の空に月が動いていき、 流星が斜線を描きながら矢のごとく流れ落ちた。夜が明けるまでは四時間ほど待た ないとならなかったが、その時刻、城郭の中であろうと、外であろうと、眠りにつ いている者は一人もいなかった。誰もがこの日、自分の運命を決定づける最後の大 一番が繰り広げられるであろうことを予感していた。 ついに、大砲と軍楽隊の楽器の音、八万の大軍がいっせいに張り上げる力強い歓 声が早朝の空気を切り裂いた。総攻撃だ!
轟音と破裂音、奇声と大声がまじりあ
い、城郭に暮らす人々の鼓膜をつんざいた。それに合わせて、ソフィアを始めとす るコンスタンティノープルの大小の教会の鐘塔の鐘という鐘がいっせいに鳴り始め た。カーンコーン、カーンコーン・・・・・・。切実な祈りのこめられた音色だった。し かし、鐘の音はすぐに天地を揺るがすオスマン軍の大砲の音と軍楽隊のにぎやかな 楽器の音にもみ消されてしまった。城を守っていた兵士たちと城郭内の市民たちは 威圧感に圧倒されて震えた。 八万を越すオスマン軍隊に比べて、ビザンティン軍は正規軍・非正規軍・市民 軍・外国人部隊すべてを合わせても七千人になるかならないかだった。(「両軍兵 力配置図が描かれたコンスタンティノープル平面図」参照)防衛にも選択と集中が 求められた。なかでも、標的攻撃を受けている聖ロマヌス(St.Romanus)軍門と、 メソテイキオン(Mesoteichion:「城壁の中間 Middle of the Walls」という意 味を持つ)城壁を死守するため、防衛軍は交代もなしにひたすら攻めてくる敵に立
ち向かって総力戦を繰り広げた。息つく暇もなかった。 女子供や一部の修道女たちも急いで城壁にかけつけて石を運び、兵士たちの喉を 潤す水を汲みあげた。大きな釜に薪をくべて城壁を這い上がってくる敵軍に浴びせ るための熱湯も沸かし始めた。 オスマン帝国のスルタン、メフメト2世は陸地城壁の全体に総攻撃をしかけながら、 同時に重要地点については波状攻撃を行った。防衛軍に一瞬たりとも息をつく暇を 与えないようにするためだった。前線に部隊を送る前に、いったん非正規軍人アザ プとバッシボジュ-ク1を先頭に立たせた。 バッシボジュークは、トルコ人よりもスラブ人・ハンガリー人・ゲルマン人・イ タリア人、ひいてはギリシャ人と、キリスト教国家出身の傭兵のほうが多かった。 彼らは、スルタンから支払われる給料と彼が略奪を約束した戦利品に目がくらんで 同じ宗教を信じる者達に刀と槍を向けたのだった。槍と剣以外にも彼らはそれぞれ 偃月刀(三日月の形をしたアラビアの剣)・投石器・火縄銃(火縄に火をつけて弾 丸を発射させる初期の小銃)・縄・梯子・こん棒・斧など気奇妙妙の武器でもって 武装していた。彼らが挙げる高らかな歓声、奇妙な服装、さまざまな武器、矢のよ うなすばやい動きは、集団となって圧倒的な恐怖感を与えるのに十分だった。 大砲は強力な火力を誇示し、巨大な砲弾を吐き出した。矢と銃弾も激しく降り注 ぐように先発隊の頭上を過ぎ城壁に向かって流れていった。 バッシボジュークは、必死になって防柵にしがみついて城壁に上った。イノシシ 1
Azaps.戦利品を狙って正規軍よりも先に投入された一種の警護兵遊撃隊。傭兵というよりも支援兵
で、不規則な形態の地方民兵隊だった。戦時に税金を免除され、土木工兵としての役割も担った。イ ェニチェリたちとは良好な関係だった。 Bashi-bazouks. 「頭を叩き壊す人(Head-Breakers)という意味をもつ非正規軍歩兵隊。最先 峰に立って敵陣にむかって突撃し、百兵戦の状況になると盾と剣を捨てて大理石のこん棒で敵軍の頭 を攻撃した。彼らは敵を脅かすために後頭部だけ残して頭を押さえ前歯だけを抜いた。鎧の代わりに 獣の皮を羽織っていた。体にできた傷や傷跡をそのまま見せることで相手に恐怖心を与え、また迅速 に動くためでもあった。
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のごとく突進し、山犬のごとく粘り強かった。防御軍が梯子を押しのけたり、切断 すると、他の兵士の肩に脚をかけてでも防柵を越えようとした。髪型はそれぞれだ った。ぼさぼさに乱れた頭髪の者がいたかとおもえば、後頭部の一部だけ尻尾のよ うに残したまま前髪は散髪してある兵士も多かった。剣で首を切られるときに敵軍 が自分の顔を触ることを羞恥とし、髪の毛を掴んで持ち上げられるようにするため だという、ぞっとするような噂がビザンティン兵士たちの間に広まっていた。 バッシボジュークの後ろには、皮のベルトとかなづちを手にした憲兵部隊、それ からその後ろには、スルタン近衛隊の最精鋭であるイェニチェリ2が布陣していた。 オスマン軍には前進あるのみ、後退はない。退却命令が出るまでは何があっても前 進しなければならないというスルタンの鉄則に従って、非正規軍を追い込みつつ相 手に後退したり逃げる気配が見えると容赦なく処断した。 バッシボジュークはその莫大な数のせいで右往左往してまごつくあまり、仲間内 でぶつかり倒れる者もいた。守備兵たちが城壁の下で石を投げたり、ギリシャ火弾3 2
Yeniceri.「新しい軍隊」と言う意味を持つスルタンの選りすぐりの近衛歩兵部隊。「オスマン軍
の脊髄」と呼ばれるほど厳格な規律の中で一心不乱に訓練を受けており、白いフェルト帽子を象徴の ようにかぶっていた。初期には、捕虜として捕らえられたキリスト教の奴隷少年たちで構成されてい たが、ムラト2世が正規制度に改編し、クリスチャンの家庭は、軍隊が長男を捧げるように要求する と無条件にその命令に従った。バルカン地域で始まり、アニトリア地方まで広がった。こうして差し 出された少年たちは、イスタンブールに送られてから敬虔なムスリムに改宗・訓育され、帝国を祖国、 軍隊を家族、スルタンを主君であり父と考えるようになった。容姿が秀でていたり、特別な才能があ ると「デブシルメ(Devshirme)」という制度によってスルタンの侍童あるいは政府の技術者や文官 に起用されることもあり、最高位職まで昇進することもできた。しかし、その大部分はスルタンの親 衛隊で編成、イスラム戦士として育成された。彼らには領内に個別の幕舎が支給されたが、結婚と飲 酒は禁じられており、禁欲的な生活を送りながらスルタンに服従と忠誠を誓わねばならなかった。イ ェニチェリは17世紀頃から正統オスマン官僚らを制圧し、スルタンを廃位したり、殺害する際に前 面に出るなど、反乱を起こすことが多く、政治権力の向背を左右する危険勢力として台頭した。132 6年オルハン・スルタンによって創設され、1826年マフメト2世時代に廃止された。 3
Greek Fire.別名「ギリシャの花火火薬」とも呼ばれていた火炎放射器方式の半液体爆弾。ナパー
ム弾の原理に似ている。7世紀中頃、シリア出身のギリシャ人建築家カリニコス(Kallinikos)が発
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を投げ込むと一度に数人が死んだり負傷することもあった。 休息時間はなかった。アザプとバッシボジュークの攻撃が一瞬弱まったかのよう に思われたその瞬間、すぐにイスハク(Ishak)パシャ(Pasha:オスマン帝国で文 武考官につけられる称号)の率いるアナトリア(Anatolia)軍と、カラジャパシャ (Karadja Pasha)が指揮する欧州軍が、順に、まるで波が押し寄せるようにして 集まってくる。スルタンの指揮棒が上がり、軍楽隊の音色が緊迫してくる。今度は 非正規軍ではなく正規軍だ。戦場はまるで、スルタンが指揮するオーケストラの演 奏に合わせて一糸乱れずに動く巨大な舞台を彷彿とさせた。 精巧な脚本に沿うように、攻撃は体系的かつ立体的だった。非正規軍から正規軍、 騎兵隊とイェニチェリにつながるオスマンの三段階波状攻撃は、そうやって息つく 暇もなくリズミカルに繰り返された。水を飲むどころか矢を準備したり、銃弾を装 填する時間すらなかった。守備軍は徐々にくたびれていき、城壁にしがみつく兵士 の数は増える一方だった。 ビザンティンの兵士たちは、その前に最後の戦闘を控え、ジェノバの名家出身の 傭兵大将ジョバンニ・ジュスティニアニ・ロンゴ(Giovanni Giustiniani Longo) の提案にしたがって背水の陣を敷いた。内城壁から市内に通じるあらゆる門を封鎖 し、鍵を皇帝のコンスタンティヌス11世パライオログスに預けた。内城壁を最終阻 明したとされている。チューブを通って発射させたり、時には土とこねて円形の固体爆弾にして手榴 弾のように投げたりもした。標的物に届いた瞬間すぐに発火し、水でも炎を消せないほど火力が強か った。発火材料は硫黄、樹脂、ナフタ、硝酸カリウムなどを混ぜて使われていたと推定されるが、記 録上には残っていない超特級国家機密のため、正確な成分の配合比率などは現在もベールに包まれ、 謎として残っている。陸上、海上、地下、穴蔵戦などで威力をみせ、中でもコンスタンティノープル 防衛で卓越した真価を発揮した。初めて使われたのは、673年から677年まで4年間続いたアラブと コンスタンティノープルの海上攻防戦。アラブ遠征軍は海軍力を強みにボスフォラス海峡を封鎖して ビザンティン帝国の血管を塞ごうとしたが、ビザンティン海軍が発射したこのギリシャ火弾による被 害が手に負えない水準にまで広がるや撤退した。941年、ロシア海軍がコンスタンティノープルを攻 撃したときも、ギリシャ火弾で殲滅させた。驚いたロシア人たちはこの初めて目にする兵器を「天の 稲妻」と呼んで恐れたという。
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止線とした。出口は無くなった。命を賭けた決死の抗戦を覚悟した。その日その場 所では、あんなにもいがみあっていたギリシャ人も、ベネチア人も、ジェノバ人も いなかった。やられたら終わりだということがわかっていたからこそ、誰もが渾然 一体となって必死でコンスタンティノープルを死守しようとした。けたたましい轟 音にまざって時折聞こえてくるかすかな鐘の音と祈りの声が、彼らの疲弊しきった 心身を労わってくれるだけだった。 火炎と砲煙がコンスタンティノープルの夜空を埋め尽くした。砲弾と火矢、そし て火弾が空中で互いにぶつかりあうほど炸裂した。四方が真昼のごとく明るくなっ た。火矢や火棒に当たった馬たちは、巨大な炎に巻き込まれたまま火あぶりになっ た。人肉の焼ける臭い、馬肉の焼ける臭いが生臭さと一緒に鼻をつき、城郭の内外 に充満した。 防衛軍の矢と石をくぐりぬけて城の堀(Moat:城の周囲を囲む用水路)の入り口 まで進出したオスマン軍は、堀の土手を盾代わりに打ち手と石弓兵を配置し、その すぐ後ろに投石器を設置した。石と矢が頭上に降り注いでいるにもかかわらず、堀 を越えた欧州の正規歩兵たちは城壁にはしごをかけた。大砲と何本もの矢がいちど きに城の内外を問わず飛んでいった。城壁破片も味方・敵なく飛び散った。一団の オスマン軍が、長い武器でもって防柵の上に積んでおいた木の樽をひきずりおろし た。破壊された胸壁の代わりにするために土をつめておいた樽だった。防衛軍は彼 らの頭上に石と矢を浴びせながら、婦女子が沸かした熱湯を注ぎ込んだ。 そうやってまた一時間が過ぎた。大砲と矢は容赦なく城壁を攻撃し、力強い軍楽 隊の音はひとときも止むことはなかった。欧州軍が疲れを見せ始めた頃、スルタン はアジア機甲部隊を出動させた。彼らは城の堀を一度きにつっきり、再びはしごを 設置してから、盾で頭を保護しながら城壁によじ登った。一部は斧をふりかざして 城門前につくられた塹壕を壊そうとした。城壁を前にした熾烈な接戦が繰り広げら れた。オスマン軍300名はけなげにも塹壕を突破したが、まだ暗く混戦中だったた
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め、同僚に気がつかずに防衛軍の反撃で再び劣勢となった。 互いのことすら見分けられない苦しい状況、敵と味方がもつれにもつれたすさま じい白兵戦が繰り広げられた。多くの命が花びらのごとく風に舞い散った。直撃砲 弾にあたって倒れる城壁の山と、二つの帝国の兵士たちがいっしょくたになって城 の下に墜落していった。立ち込める土埃と煙たい火薬の煙で目も開けられないほど 8
だった。城の堀はたちまち死体で埋め尽くされた。 再び一時間ほどが過ぎただろうか。スルタンの指揮棒が天を突いた。旗が力強く はためいていた。軍楽隊はもっとも高く、力強く、早いテンポで兵士たちの士気を 高めた。ついにイェニチェリの番がやってきた。防衛軍の最精鋭部隊に攻撃命令が 下された。メフメト2世は内心、自分の約束した最高額の補償と栄誉をイェニチェリ が手にすることを願った。 突進、総攻撃だ!
イェニチェリが先頭に立ち、正規軍、非正規軍、アジア軍、
欧州軍があとに続いた。押されてはならない。だからといってイェニチェリを先頭 に立ててもならない。少しでも立ち止まろうものなら、後ろから押し寄せる兵士た ちと馬の踵に踏み潰されて死んでしまいかねなかった。砲弾が城壁と城門に狙いを 定めてオスマン軍の頭上を飛んでいった。四方八方に破片が飛んだ。 メソテイキオン城壁の中でも最も脆弱な、リクス川が都市に流れ入っていくとこ ろのバタティニアン(Bachatatinian)城塔(119~120,393頁参照)付近に司令部 を置いて軍隊を統率してきた皇帝も、この日ばかりは決められた位置というものが なかった。敵の火力が皇帝の防衛区域に集中するや、ジュスティニアニの指揮下、4 00名のジェノバ軍がリクス川を越えて皇帝が受け持つ地域を補強しに来た。ジュス ティニアニ担当の区域は、カリシオス門(エディルネ
カフ)からテクフール宮殿
を防衛していたボッキアルド(Bocchiardo)三兄弟に降りてきて補強するよう指示 した。彼らは後に本来の位置に戻って決死の抗戦をする。 皇帝は、内城壁と外城壁の間の通路(ペリボロス)を縦横無尽に戦闘指揮し、兵
士たちを督励した。皇帝が引き抜いた剣も血に染まった。 テオドシウスの三重城壁に面し、ブラヘナエ(Blachenae)城壁のモソリエン塔 に半分ほどかくれた「ケルコポルタ(Kerko Porta)」という名の小さな非常門が あった。数年前にすでに閉鎖されていたその門のことを覚えていたビザンティン老 兵たちは、突撃隊がオスマン軍の側面を奇襲するときに利用できるよう包囲戦がは じまる直前にその非常門を再び開けておいたのだ。ジェノバからやってきたボッキ アルド三兄弟とその部下たちもこの扉を通って抜け出した。ところが、いざ奇襲攻 撃を終えると、突撃隊員が城の中に慌てて入ってこようとしたばかりに非常門を閉 める隙を逃してしまったのだ。追いかけてくる50名のオスマン兵士たちが、この城 門を発見し、いっせいに非常門後方の中庭に押し寄せてくると、城壁のてっぺんに 続く階段を上りはじめた。状況を把握したビザンティン兵士たちは、敵軍がこれ以 上侵入できないように門を閉めて階段を上っていくオスマン兵士たちと激戦を続け た。オスマン軍は衆寡敵せず、殲滅してしまった。日の出直前の夜明けの空が東か ら上ってきていた。 一息つこうとしたとたんに、ビザンティン軍としては最悪の事態が起こった。前 線の最先鋒に立って大活躍していたジュスティニアニが、近距離から飛んできた火 矢(銃弾あるいは大きな砲弾という見解もあるが、火矢説を採択。また、フランチ ェスは右足に矢が刺さったといい、ある本には手と記述してあるなど諸説ある。) に当たって致命傷を負ってしまった。穴の開いた銀色の鎧から血が噴水のように噴 き出した。二日前にもジュスティニアニは城壁を強打した砲弾の破片に当たって負 傷していたが、応急処置を終えるやいなや、管轄区域に飛び出していき周囲を感動 させた。皇帝とジュスティニアニ、二人のうちの一人をいつも配置し、メソティキ オン城壁を守った。それほどまでに強健でたくましかった彼が、それなのに一瞬に して倒れてしまった。激痛に耐えかねて悲鳴を上げた。慌てて駆けつけた部下に口 の中いっぱいの血を吐き出しながら、身振り手振りで自分をすぐにつれていってく
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れと頼んだ。しかし、内城壁から市内に通じるあらゆる門が閉まっていることを知 る兵士は、ケルコポルタ非常門のほうから戦闘中だった皇帝に駆け寄って緊急事態 であることをつげ、扉の鍵を渡してほしいと懇願した。皇帝は慌てふためいてジュ スティニアニのところに駆けつけ、倒れこんでいる傭兵大将の手を握り、膝をつい て、この場を守り続けてほしいと訴えた。 「あぁ、なんと数奇な運命なのであろうか。そなたが死んでしまえば希望が消え てしまう。コンスタンティノープルを失ってしまうのだ。勇敢無双の指揮官よ、忠 誠心と愛国心に満ちた名将よ!
頼むからここに残ってくれ。どうか再び立ち上が
って戦うのだ。この場だけでも守るのだ。そなたの離脱は他の兵士たちの脱営を煽 ることになるだろう。そなたの怪我は命に差し障るほどではないではないか。なん とかこらえて立ちあがり、これまでのように男らしく帝国のために闘争するのだ」 しかし、ジュスティニアニはすでに気力体力を使い果たした状況だった。死の影 が彼から覇気をそぎとっていった。赤々と燃えたぎっていた瞳は冷たく冷め、表情 は痛ましいほどだった。口の中からはいまだに血が流れ出ていた。そして、こんな 意気地のない言葉で皇帝を落胆させたのだった。 「もはや戦勢は引き返せない状況のようでございます。陛下におかれましてはわ たくしと同じ船にのって安全な場所へ移動されてから、日を改めてまた動かれ・・・」 皇帝は一瞬気が遠くなりそうだった。あぁ、この男がわたしがあれほどまでに信 じ、寵愛してきたジュスティニアニなのだろうか。すると最後の決戦を控えた数日 前、皇帝に降伏を受け入れるよう勧めてきたジュスティニアニの姿が思い出された。 そうだったのか、そもそも最初から彼はビザンティン帝国の常備軍ではなかったの だ、はるか遠い西ヨーロッパから対価を求めてやってきた傭兵大将だったのだ。結 局皇帝は叱責することすら忘れて鍵を差し出すしかなかった。 脇門が開いた。この血気盛んで威風堂々としていた筋肉質のジェノバ傭兵大将は、 部下たちに両脇を支えられながら敗走する敗将の後姿を見せ付けたまま、脇門から
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抜け出ていった。彼は城郭の中の港口から船に乗ってゴールデン・ホーンの反対側 に逃げた。 一部では、ジュスティニアニの逃走を内城壁防備のための作戦上の後退とみてい た。しかし、大多数の兵士たちはその実情に感づき、この事件を敗戦の条件として 受け入れた。心理的動揺がまたたくまにビザンティン陣営の間に広がった。脱出を 考えたり、敢行する傭兵たちが現れ始めた。内城壁の出入口の門をめぐって逃走し ようとする傭兵たちと、阻止しようとするビザンティン兵士たちの間で争いが起き る始末だった。外城壁と内城壁の狭間で起きたこの騒動を、お堀の付近にいたスル タンも報告を受けて把握したようで、会心の笑みを浮かべた。 戦闘は終盤にさしかかっていた。殺すか、殺されるか、やられるか、守りぬくか。 お堀はすでに埋められ、城壁は破壊していた。倒れた城塔もいくつかあった。二つ の帝国の兵士たちは城壁と城壁の間で死にもの狂いの血戦が繰り広げられた。大砲 弾がこぶのごとく突き刺さっている城壁も目立った。鉄塔すらもぽっかりと穴があ いてしまった。ギリシャ火弾を浴びた攻城塔は炎につつまれ、空は一面に立ち込め る砲煙に覆われた。 ブリヘニア地域もおなじように激しい交戦が行われた。カラジャパシャが高い丘 の上から攻撃してくる隙を見て、浮橋(Pontoon Bridge)を渡って来たザアノスパ シャ(Zaganos Pasha)部隊は、ゴールデン・ホーン港の隣の土台の低い場所から 激しい攻撃を浴びせた。しかし、カラジャ部隊はボッキアルド三兄弟が、ザアノス 部隊はジロラーモ・ミノット(Girolamo Minotto)と彼のヴェネチア兵士たちが、 それぞれ命がけで食い止めた。 コンスタンティノープルに亡命したオスマンの王子オルハン4と、彼の率いるトル 4
Sehzade Orhan.ムラト2世とメフメト2世の王権承継過程で、自分に危害が加えられることを恐れ、
ビザンティン帝国に亡命したオスマン帝国の王子。父親が誰なのか、血縁上メフメトとはどのような 関係なのかは明らかにされていない。エミール・シュレイマン(Emir Suleyman:第5代スルタン。 在位1402~1409年)の孫でありムラト2世(メフメド2世の父)の遠い従兄弟という説もあり、メフ
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コ兵士たちも、修道士らと一緒に海上城壁の中間地点にあるテオドシウス港(エレ ウテリウス港)付近でビザンティン帝国のために猛烈に戦った。スルタンに捕まれ ば首が飛ぶのは明らかだったため、決死の覚悟で戦うしかなかった。オルハンと彼 の兵士たちは、やっとのことで上陸したオスマン兵士たちが戦列を整えようとする 前にすばやく先制攻撃をしかけて一気に攻め込んだ。 スルタンは、兵士たちを大きな声で励ましたり、叱咤しながら、直接戦闘の総指 揮をとった。防柵や城壁を一番先に突破した兵士には賞金を与えることを重ねて約 束した。 スルタンは「もはや都市は我々のものだ!」と叫びながら、イェニチェリにもう 何度目になるかわからない突撃命令を下した。ウフバトゥル・ハサン(Ulubatlu H asan)という巨大なイェニチェリが陣頭指揮をとる30名の決死隊が、一番前に立っ た。ハサンは倒れた防柵を掻き分けて中に入り、スルタンが約束した賞金を自分の ものにしようと考えた。「キリスト教たちの首都に一番最初に突破して入っていっ た兵士には、預言者自らが天国に特別な場所を用意してくださる」という昔の人の 言葉も思い浮かんだ。 ハサンはいちどきに外城壁の城塔まで突き進んだ。オスマン旗を外城塔に挿そう とした途端、それよりももっと高い内城塔から、まるで夕立のようにふりそそぐ矢 に打たれて倒れこんだ。ハサンは旗ざおを握り締めたまま城壁の下に墜落した。旗 が地面に落ちた巨人の背中を覆い、その上に石や矢が降り注いだ。17名の兵士が彼 と共に戦死した。 打撃は大きかった。この、オスマンの英雄と戦士たちの壮絶な死は、城壁陥落の 決定的な分かれ目となった。せき止めておいた土手の井戸があふれ出すかのように メト2世の甥、つまり兄の息子という主張もある。コンスタンティノープル陥落当時、オルハンの死 については自決あるいは殺害の二つの説がある。しかし、多くの文献は、彼が陥落以後、正教会の修 道服を借りて変装したまま脱出を試みたところで捕まり、身分がばれてその場で斬首されたと証言し ている。
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外城壁は崩れ、城門は同時多発的に開いた。その始まり5はおそらくトプカプ(Top kapi、大砲の門:ロマノス市民の門)側だった。アジア側の稜線と港(カルケドン 港)の上の雲が太陽の光を受けて金色に反射し、マルマラ海の波は輝いていた。ち ょうど日が昇ろうとしていたところだった。 破壊された城門と城壁の間でイェニチェリが旗を手に進撃した。そこにティジル セラ・アニトリアと欧州正規軍が爆風のごとく走り出した。アザブとバッシ・ボジ ュークたちも、奇声を上げながらその後ろに続いた。ビザンティン兵士はまたたく まに内城壁と外城壁の間の通路に閉じ込められた状況になってしまった。外城壁の 上からオスマン軍の槍と矢、銃弾が彼らの頭上に降り注いだ。流星雨が再びひとし きり長い線を描きながら夜空の向こうに消えていった。 皇宮の守備状況も同様だった。崩壊した城門にオスマンの旗がまず最初に入場し た。 皇帝は四方八方に手を尽くし、東奔西走したが、なす術はなかった。事態はすで に手がつけられないほど劣勢に傾いていた。ジェノバとベネチアの傭兵、及び支援 軍たちは、恐怖におののいた表情で慌てふためき、おろおろしながらなんとか抜け 道を探そうと必死だった。 「城が倒れた! 城門が開いた!」 あちこちから合唱のようにオスマン軍の歓声が響き渡った。防衛軍は悲鳴のよう に「都市を奪われた!」と泣き喚いた。軍楽隊の音、馬の蹄の音、大砲の音がいり まじって地軸を揺るがし、天を八つ裂きにした。主君が保証した三日間の城郭略奪 権を誰よりも先に行使しようと、オスマン軍士たちは目の色を変えて我先にとばか 5
オスマン軍が一番最初に侵入した城門(あるいは城壁)については、いくつか異なる見解がある。
一瞬の出来事だったため目撃者の位置や観点によって見解に違いがでることも避けられないといえる。 本書ではその中でイスタンブール大学ベリドゥン教授の見解を採択した。彼は、メソテイキオン城壁 の中でトプカピに近い場所がまず最初に打ち抜かれたと見られる。倒れた城壁を越えてきた兵士たち はビザンティン軍を制圧し、城郭の中から城門を開けたというのがペリデゥン教授の主張だ。
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りに城の中に入っていった。 スルタンは、城塔の高さに合わせて掲揚され風にはためいている赤いオスマンの 旗を感慨ぶかく見つめていた。その日の早朝、コンスタンティノープルの空にはい くつかの三日月が浮かび上がった。満月が浮かんでから五日が過ぎ、半月よりもも う少し丸みを帯びた月が浮かんでいなければならないはずの空には、白い三日月の 描かれたオスマン軍旗の数々が明け方の空ではためいていたのだ。 片面に銀色の二羽のわしが刻まれた水色のビザンティン国旗は、羽をちぎられた まま城壁の下に放り投げられた。コンスタンティノープルを主要産業の基地とし、 同盟国ベネチアの象徴である黄金のサン・マルコの羽をつけた獅子が描かれた国旗 もまた、その瞬間同じ運命を迎えていた。海軍総司令官ガブリエレ・トレビザーノ (Gabriele Trevisano)は、すべてが終わったことを直感で感じ取り、ベネチア兵 士たちにゴールデン・ホーンの方に撤収するよう大声で司令を出した。 ケルコポルタ非常門の付近で敵と戦っていたボッキアルド三兄弟も、これ以上持 ちこたえる力は残っていなかった。兄弟のなかでパオロ(Paolo)は捕らえられて 殺害され、アントニオ(Antonio)とトゥロイロ(Troilo)はジェノバの船に乗ってゴ ールデン・ホーン港に逃げた。 ブラヘニア港を防衛していたミノトとベネチア人たちは、包囲されたまま捕まっ た。ミノトと高官たちは捕虜として受け渡され、残りの大部分は殺害された。 マルマラ海に近い陸地城壁を守っていた兵士たちは、開かれた城門を通って入っ てきたオスマン兵士たちによって後方から攻撃を受けた。多くの兵士たちは包囲網 を潜り抜けて逃げようとしたところを捕まって殺され、フィリッポ・コンタリーニ (Filippo Contarini)とデメトリオス・カンタクジェノウス(Demetrios Kantaku zenous)を含む指揮官たちの大部分もやはり捕らえられた。 その瞬間、皇帝もやはり城壁の高い塔の上ではためくオスマンの旗を見ていた。 非常門側に走り寄ってみたが、事態はすでに手の施しようのない状況になっていた。
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皇帝は、馬の方向を変えてリクス(Lycus)渓谷のほうに猛烈な勢いで疾走してい った。あの場所もやられてしまうのではないかと気が気ではなかったのだ。皇帝の そばには、従兄弟のテオフィロス・パライオロゴス(Theophilos Palaiologus)の 忠実な臣下ヨアネス・ダルマータ(Joannes Dalmata)、皇帝の従兄弟を自認する 勇猛なスペイン人ドン・フランシスコ(Don Francesco)の三人だけだった。 馬から下りた四人は、しばし門の入り口を守った。怪我をしたジュスティニアニ が抜け出していったあの門だった。防衛線は完全に崩れ、脱出しようとする兵士た ちが門のほうにどっと押し寄せた。皇帝は彼らを呼び集めようとしたが思うように はいかなかった。主君も、信徒も、帝国も眼中になかった。その瞬間はただ恐怖だ けが彼らを支配していた。 皇帝の従兄弟テオフィロスは、みじめに命だけはつなごうと敵の捕虜になるくら いなら、ギリシャの騎士らしく戦って死ぬ道を選ぶと、進軍してきたイェニチェリ の群れの中に飛び込んでいった。帝国の滅亡を思い知った皇帝は、これ以上生き延 びようという考えはなかった。敵によって死後の死体が冒涜されることまでもを考 慮し、自分の身元を分からないようにするためだったのだろうか?
あるいは皇帝
ではない一人のビザンティン兵士として壮烈な最期を迎えようという決意だったの だろうか? 皇帝は赤紫のマントを脱いで投げ捨てた。帝位を象徴する紋章も捨て た。王権を意味するあらゆるものを手放した。 「私の心臓に槍を突き刺してくれるキリスト教徒は一人もいないというのか」 嘆くように独り言をつぶやいた皇帝は、剣を抜き、雪崩のごとく押し寄せてくる 敵軍の群れのど真ん中にむかって馬を走らせた。それまで彼を守ってきたドン・フラ ンシスコとヨアネス・ダルマータが後に続いた。敵陣に飛び込んだ彼らは、しばら くして跡形もなく視界から消え去った。それがビザンティン帝国最後の皇帝、コン スタンティヌス11世の最後の姿だった。(皇帝の死についてのさまざまな記録は62 ~66ページを参照)
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一方、ベネチア艦隊司令官アルビソ・ディエド(Albiso Diedo)は、城郭が陥落 する気配がみえるや、帆掛け船でガラタ6に渡り、そこの行政官アンジェロ・ロメリ ーノ(Angelo Lomellino)にせきたてるようにして詰め寄った。 「時間がありません。ジェノバの居留民はどうするのですか?
ここに残って最
後まで戦うのですか、そうでなければみな放り投げて公海上に脱出するのですか? もしあなた方が一致団結して異教徒と戦うというのなら、我々も共に戦います」 「スルタンに使節を送って尋ねてみるのはどうでしょうか?
船をおとなしく送
ってくれるのか、でなければ、ジェノバ及びベネチアと一勝負戦うつもりなのかど うなのかということをです」 あきれるほど退屈かつ非現実的な提案だった。その間、ロメリーノが大規模脱出 を防止するためにガラタの城門をすべて閉めておいたため、ディエドは自分の艦隊 で戻る道すら塞いでしまった。いてもたってもいられなかった。寸刻を争う状況だ った。ゴールデン・ホーン船着場で自分を待っている数多くの避難民たちのことが 思い浮かんだ。ディエドは、ガラタ城壁の下に停泊していたジェノバ船の船員たち に頼み込んで、彼らの助けを借りて城門の外に抜け出すことができた。 周辺はみなオスマン領であるため、陸地の中の島のように孤立してしまったコン スタンティノープルから脱出できる唯一の非常口は海しかなかった。つまり、ちょ うど数多くの避難民たちが海にむかって押し寄せるところだった。 ディエドは帆掛け船に乗ってゴールデン・ホーンの入り口へ行った。鎖でふさが れた防材区域(399~401ページ参照)の革の綱を大きな斧で引きおろして開けてか
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Galata.ゴールデン・ホーンをはさんでコンスタンティノープルの向かいに位置するジェノバ人た
ちの独立地域。BC390年、北ヨーロッパ従属人ケルト族が地中海を経てやってきて初めて開拓した。 そのため地名も彼らのミルクのような白い肌を意味するギリシャ語「ガラクトス」、あるいはイタリ ア語で「階段」という意味の「カラタ」に由来したという。1267年からジェノバ人が自治権を持っ て居住し始めた。今もこの地域を「ペラ(Pera)」あるいは「ガラタ」と混用して呼んでいる。ペ ラはギリシャ語で「あの向こう」という意味だ。
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ら、そこに隙間をあけてマルマラ海にでていき、他の船舶にもついてくるように信 号を送った。ゴールデン・ホーン港に停泊中だったジェノバとベネチアの戦艦及び ガリー船がからついてきて、ボスフォラス海峡入り口で合流した。ディエドと行動 を共にしたニコロ・バルバーロ7が、このすべての状況を一つ一つ記憶しておき、後 に日誌に残した。 この船舶たちは危険を顧みずに泳いできた市民たちを乗船させた。残念なことに うまく泳げずに溺れてしまい、海中に沈んでいく人も少なくなかった。乗船人数を はるかに超えた小さな船に乗るために、目の色を変えて船の上に這い上がろうとす るあまり船が転覆することもあった。船舶はそうやって一時間ほど出航を遅らせて 脱出する船と避難民たちを救助した。 しかし、これ以上は待てなかった。ハムジャベイ(Hamza Bey)艦隊の海軍が船 着場に押し寄せてきた避難民たちを捕まえたり、殺害したためだ。 地団太を踏みながら、なんとか命だけは助けてくれと叫ぶ避難民たちを後にし、 ディエドは出航命令を下した。「どうかこの子だけは助けてください」と泣き叫ぶ ある女性の絶叫を必死で聞くまいと言い聞かせながら、船舶はディエドの指揮に従 ってちょうどタイミングよく吹いてきた強い北風を利用して、マルマラ海に乗り出 した。ダルダネルス(Dardanelles:昔の名前はヘルスフォント)海峡を抜け出すと、 やっと安全海域にたどり着いた。 艦隊の主をなすジェノバ船舶7隻のうちの一隻は、負傷したジュスティニアニ8が 7
Nicolo Barbaro.医学を専攻し、ベネチアの名家の子孫で、ドレビサノが艦長を務めるベネチア大
型ガリー船に軍医として乗船。1452年10月コンスタンティノープルにやってきた。観察力に優れ知 識人だった彼は、後日攻防戦の進行状況を日付別に整理した日誌を残している。西側資料の中で有用 な記録として評価されている。 8
ガリー船に乗って脱出したジュスティニアニは、キオス島に到着してから二日で息を引き取った。
彼に対する評価は極端に分かれる。一部ジェノバ人たちには悲運の英雄だったが、ギリシャ人とベネ チア人にとっては、倒れた防衛船の後ろに逃げた卑怯な逃亡者、敗戦の大きな原因を提供した人物に 過ぎない。レオナルド大主教も決定的な瞬間に自尊心を捨てたと非難した。
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乗っていた。そうやって相当数のジェノバ人とベネチア人、そしてビザンティン市 民と貴族がコンスタンティノープル脱出に成功した。この日は必ず城を倒すと決め ていたスルタンが陸・海上同時総攻撃命令を下し、オスマン海軍も海(マルマラ)及 び湾(ゴールデン・ホーン)から城壁攻撃に加担した。また、海軍は万が一にも陸 軍が先手をうって城郭内の戦利品を独占しかねないのではという老婆心が働き、心 ここにあらずだった。実際に略奪に加担するために船を捨てて艦隊から離脱した水 兵も少なくなかった。状況が状況なだけに、実際の海上統制は盲点だらけになるほ かなかった。 ディアド艦隊の逃走を防げなかったハムジャベイは、怒りも沸き、スルタンから の叱責も恐れた。彼は慌てて水兵たちを呼び集めて鎖の輪がほどけたゴールデン・ ホーン防材区域を徹底して警戒し、抜け出せなかった船舶の出航を遮断した。 その船は定員の数百倍にもなる避難民たちを乗せたまま身動きもできず、海の上の 牢獄と化してしまった。 その間、城郭は完全にスルタンの手に渡っていた。激戦地域の城門はもちろん、 かつて帝国が隆盛していたころ、ビザンティン皇帝たちが戦勝を重ね、堂々たる姿 で凱旋した黄金門(アルトンカフ)(389ページ参照)を通ってオスマン兵士たち が意気揚々と城郭の中になだれこんでいった。陥落と征服を知らせる喜びに満ちた 声が、通りのそこここに響きわたった。爆竹もまた空高く打ち上げられたが、いつ のまにか朝の日の光がさしこみ、炎の光はかすかに光るだけだった。 ハギアソフィアに集まって夜通し祈りを捧げた数多くの市民たちも、自分たちを 取り囲んでいる薄氷のような運命の瞬間を感じていた。オスマン軍の歓声と耳をつ んざくような軍楽隊の音が、夜通し建物の天井と内壁を揺るがしていた大砲の音よ りももっと大きく鳴り響き、神のご慈悲を請う切実な祈りの声は高まるばかりだっ た。 ハギアソフィアに集まった市民たちは、最後のわずかな望みを託して昔の予言を
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思い浮かべた。 「聖母マリア様に捧げられたこの都市は、聖母マリア様が守ってくださるのだ。 たとえ異教徒が城壁を突き抜けて、この神聖な聖堂の中まで乗り込んできたとして も、主の大天使ミカエルが点から降臨して光輝く剣をふりかざし、彼らを城郭の外 のボスフォラス海峡の東へと追い払ってくれるはずなのだから」 市民たちは天使を待ちながら、ひざまずいたまま徹夜で祈りを捧げた。しか し・・・・・・、朝が訪れても結局奇跡は起こらなかった。守護天使も現れなかった。城 壁は打ち壊され、オスマン軍は日の明るくなるまえにハギアソフィアの堅く閉ざさ れた青銅門を斧で叩き壊して入ってきた。 天高くそびえたドームのてっぺんからイエス・キリストが見下ろしていた。イエ スは祝福するために右手の二本指を上げて、左には福音書を手にしていた。この世 の光になられた主イエス・キリストは、ドーム真下の40個の窓を通して日の光を照 らしたが、その瞬間、祝福も望みも平和も聖堂の中から消え去った。真っ白な暗闇 が聖堂の中を覆った。 本堂の中に押し寄せた占領軍たちは、ムスリムの聖戦(ジハード)慣習にならっ て、スルタンが赦した三日間の略奪期間を意識したかのように、戦利品を確保する のに忙しかった。美しい少女と壮健な青年たち、高価な服を見にまとった貴族たち が一次標的だった。互いに自分が先に確保するんだと先を争うあまり士気が落ちる 有様だった。殊に美しさの際立った少女をめぐっては剣を抜いての争いまで起こっ た。 何人かの若い修道女たちは捕まるくらいならば殉教を選ぶといって、本堂の外の 井戸に身を投げた。賛美歌を歌っていた若い司祭9は、最後の句節を終えるまえに首 9
司祭たちの殉教は、後にまた別の伝説を生んだ。伝説によれば、兵士たちが祭壇に乱入するや司祭
たちは神聖な器を手に至聖所(Most Holy Place)に近づき、その瞬間彼らが入れるように壁が少 し開き、彼らの背後で再び閉められた。ギリシャ正教会の皇帝がハギアソフィアをモスクから再び聖 堂に戻すまで、司祭たちはそこで安全に過ごせるよう事前に約束されていた。この伝説は、もしかす
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を切られて祭壇の前に倒れた。奴隷としての商品価値の落ちる老人、病人、体の不 自由な人たちはその場で無残にも殺された。 占領軍は、女性信徒たちが使っていた聖餐礼拝用のベールをやぶって作った紐と 縄でもって捕虜たちをしばりつけた。そうしてから別途用意された場所につれてい き安全に「保管」しておいてから「戦利品」をつれてくるために、もう一度聖堂に 向かった。数多くの信徒たちが身元や男女の区別なく捕縛されたまま、おとなしい 羊のように、主の懐である教会の囲いから列をなして引きずり出され、奴隷の道を 歩いていった。彼らのくぼんで生気のない瞳は焦点を失い、虚空をさまよった。 占領軍たちはそうやって聖堂の中を一瞬にして武力でもって掌握し、占有してし まった。彼らは聖域に保管してあった聖物やありとあらゆる貴重品を手当たりしだ いに手に入れた。 燭台や蝋燭、聖画壁、祭壇やその装飾品、皇帝の玉座、宝石で彩 られた司祭たちの礼服、こまごまとした家財道具などなど・・・・・・。 エンリコ・ダンドーロ10の 石棺墓もまた、無事を免れることはできなかった。兵
ると、本堂と総大主教官邸をつなぐ古い通路を通じて脱出した司祭がいたという可能性に基づいてつ くられたものかもしれない。 10
Enrico Dandolo.ベネチア共和国の野望と繁栄を象徴する代表的な人物。1107年に生まれ1192年、
85歳でドジェ(Doge:終身総督)の地位まで上ったダンドーロは、すでに視力を失った(1172年コ ンスタンティノープル遠征当時、ベネチアの利権ばかりを確保しようとしたため、憤怒したマヌエル 1世コムネウス(Manuel Comnenus)皇帝によって盲目になったという説と、頭に負った怪我の後 遺症で極度の視力悪化を招いたという説がある。)老人なのにもかかわらず、第4次十字軍遠征を率 いて超人的な精神力でもって直接軍隊を陣頭指揮、コンスタンティノープル陥落、及びラテン帝国樹 立に決定的な役割を果たした。このことで教皇の怒りを買い、一時は破門までされたが、自国の利益 を何よりも優先するダンドーロは意に介さなかった。教皇はすぐに彼を赦免した。虐殺と破壊、略奪 を繰り返し、ビザンティン帝国領土の8分の3をベネチア領に帰属させたダンドーロは1205年、コン スタンティノープルで死亡した。1261年ビザンティン皇帝が復帰し、聖ソフィア聖堂にあったダン ドーロの墓を掘り起こし、すでにかけらしかのこっていない遺骨を犬に投げてやったが、犬すら食べ ようとしなかったという。アヤソフィア2階東南側のモザイクの向かいには、ダンドーロが埋められ ている場所であることを知らせるために、ラテン語の大文字で彼の名前が刻まれた板が今も貼ってあ る。
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士たちは陶製の帽子とサン・マルコの獅子文様がきざまれたダンドーロの大理石の 墓を破壊したが、以前十字軍から城郭を奪還したビザンティン群衆の手によってす でに断罪され、奪っていくような宝物はおろか、道端の野良犬に分けてやるような 遺骨一つ残っていなかった。 これらすべてがムスリムたちの視点からは、神聖を冒涜するものであり、偶像崇 拝とみなされる正当な戦利品に関する奪取行為であるため、罪悪感などというもの は一切なかった。249年前、すでに第4次十字軍が貴金属什器や聖物などかなりの財 産を略奪していってしまったが、それでもまだ威厳を失うことのないこの大聖堂で もっとも寛容を見せた人は、ほかでもないスルタン、メフメト2世だった。 神を讃え、征服戦争が終わったことを宣言したスルタンは、ある程度の混乱が収 まり秩序が戻ってきた遅い午後、イェニチェリ近衛隊所属の警護部隊ソラク(Sola k)に護衛され、勝利を象徴する白馬に乗ってムハマドの剣を差したまま城壁が破壊 した都市に入っていった。大臣やイスラム聖職者たちが歩いて彼の後をついていっ た。彼らの頭上には、イスラムの緑色の旗とスルタンの赤い旗が意気揚々とはため いていた。 「アラー、アクバル(アラーは偉大である)!」 このときからメフメトは「ファティーフ(征服王)」という敬称を与えられた。 カリシオス門を通じて入っていくスルタンを歓迎したのは、ビザンティン軍と市 民の死体の山だった。アーチ型の城門周辺のあちこちに死体が転がっていた。剣の 柄を握り締めたまま戦士した兵士、太陽の下で白い脚を出したまま息絶えた若い女、 矢に刺さって倒れた軍馬などが、スルタンを乗せた馬の蹄に触れた。 城門を通るや昔の栄華を象徴する教会と大きな建物に、おもわず感嘆がもれた。 しかし、それ以外は放置された空間が多く、住宅や建物は廃れ、それらを管理する ものもいないため、雑草などが生い茂って森と化しているぶどう園などを通り過ぎ ながら、スルタンの胸には期待と失望が交差した。その上、単なる略奪に終わらず、
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兵士たちによる放火や破壊によって焦土と化した都市を目にするや、複雑な心境に なった。 スルタンの最初の目的地は、ハギアソフィアだった。カリシオス城門から首都に むかって5キロほどのところにある。 大聖堂の前で立ち止まったスルタンは、馬から降りて神に感謝と敬意を示すため に地面の土を一握りターバンの上に振りまいた。そうしてから大聖堂に入っていき 祭壇に向かってどしどしと歩いていった。まるで至聖所の床で大理石のかけらをと んかちで叩きつぶしているような音がした。スルタンが兵士たちを怒鳴りつけた。 「なぜ大理石を壊したのだ?」 「信仰のためでございます。ここは異教徒たちの巣窟ではありませんか」 「お前たちは、奴隷として使えるような捕虜や、金になりそうな物を手に入れれ ばそれで十分なはずだ。教会は略奪や破壊の範囲には含まれていない。この都市の すべての建築物は君主のものだ。お前のようなものに、これほどまで素晴らしい聖 殿に煉瓦一枚つめるような能力があるとでも?
私の許可なしには取っ手一つ触れ
てはならない」 スルタンは兵士にむかって剣を突きつけ、その兵士はずるずる引きずられて聖堂 の外に連れ出された、と歴史学者デュカス(Dukas)は記録している。 まだ奴隷として捕まっていない信徒たちは、恐怖におののいた顔で聖堂の片隅に 丸くなって座ったまま、ぶるぶる体を震わせていた。スルタンは彼らをそのまま家 に帰らせた。すると、何人かの司祭が祭壇の後ろにある秘密通路から出てきて、ス ルタンにどうかお慈悲を恵んでほしいと哀願した。スルタンは彼らのことも解放し た。 壁面を埋め尽くしたモザイクがかもし出す荘厳な色彩の饗宴に、しばし讃嘆のま なざしをくべたスルタンは、この大聖堂をすぐにモザイクで改造するよう指示を出 した。待っていましたとばかりにウラマ(Ulama:イスラムの律法学者)が説教壇の
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上にあがって宣告した。 「アラーは偉大である。アラーは一人であり、ムハマドはアラーの使徒である!」 スルタンは衿をただして祭壇の石版にあがり、勝利をもたらしてくれた神に敬意 を示し、感謝の祈りを捧げた。 「聖金曜日(6月1日)、ここで公式礼拝を捧げられるよう準備したまえ」 ハギアソフィアから出てきたスルタンは、オベリスク(Obelisk)と何本かの柱が 荒涼と立っているヒポドゥロム(Hippodrome:競馬や演芸が行われた円形の競技場) 広場を横切って、かつての皇宮にむかった。ビザンティン皇帝たちによる放置とオ スマン兵士たちによる略奪で廃墟と化した広いホールや回廊を見回しながら、彼は あふれ出す感情に耐え切れなくなったかのように、しばし立ち止まってから13世紀 ペルシャの神、サディ(Sadi)が帝国の消滅を嘆きながら泣き伏せたという悲しみ に満ちた語調でつぶやくようにして二行詩を暗誦した。
皇帝たちの宮殿では、アリだけがきまじめにカーテンを引いていて/アフラシアブ (Afrasiab:イラン神話に出てくる遊牧民の王)の城塔では、ふくろうが一人悲し げに鳴きながら歩哨に立っていることよ。
至近距離で随行していた者たちは、スルタンの目元が潤んでいるのを見たと後述 している。 世界史の中でも最も長い期間、帝国の首都として君臨してきたこの首都の運命は、 こうして悲壮にも幕を閉じたのだった。その日の午後、この都市はもうビザンティ ン帝国の首都コンスタンティノープルではなかった。まもなくオスマン帝国の新た な首都となるイスタンブールだった。
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1453年5月30日(水) 24
城壁が陥落し帝国は征服されたが、その痛手は大きかった。降伏を拒否した代価 は惨憺たるもので非常に厳しかった。初日よりもずいぶん弱まったとはいえ、翌日 も殺戮と虐待と強姦と略奪が城郭のあちこちで起きていた。 悲劇はまた別の悲劇を生んだ。前日、家族を助けようとして城壁を抜け出して家 に駆けつけていたビザンティン兵士たちは、大部分がその途中でオスマン軍に出く わし、首切りを免れなかった。どの通りにも、路地にも、親を失って泣き続ける子 供たちがあふれかえっていた。オスマン兵士たちは、そんな子供たちまでもを奴隷 として売り渡すために捕まえた。新生児たちは広場に放り投げだされた。 時折、温情と慈悲から捕まえられた子供や女を逃してやる兵士もいたが、何の意 味もなかった。すぐにまた別の支配力が彼らを待っていたからだ。 生き残った人たちはみなパニック状態だった。これが夢なのか現実なのかすら区 別できない人々もいた。彼らは一晩にして狂人のようになり、うつろな目をしてあ ちこちをさまよい歩いていた。 当時その現場に居合わせたり、後日目撃者たちからの証言を聞いて、その惨状を 記録として残した者たちがいる。(参考文献に収録)彼らの話の中で後代の学者た ちによって客観性が認められた内容をまとめてみると次のようになる。これは、征 服初日と翌日にあった事件についてそれぞれの資料を集めて要約して整理した報告 書である。(5月29日の状況も一部含まれている)
城壁が陥落してからというもの、城郭に足を踏み入れた瞬間からオスマン兵士の 誰もが殺戮者兼略奪者になった。スルタンが約束した黄金と女と宝石のあふれるこ の都市で、戦利品を誰よりも先に手にいれようとした。長期間に及んだ戦争のせい で極限に達していた苦痛を、彼らは別の側面で埋め合わせしようとしていた。理性 は失われた。憎悪と敵対心が、崩壊した都市を支配した。 最初は、彼らは戦争が終わったことを実感できなかった。どこかのさびれた建物、 あるいは奥まった路地の片隅に身を隠していたビザンティン特攻隊や、敗残兵らが 突然襲ってくるかもしれないという警戒心と不安に囚われていた。だから、道で出 くわす城郭の市民たちを老若男女誰かれかまわず殺害した。傾斜の急なペトラ坂か らゴールデン・ホーンまで血の川ができるほどだった。 しかし、狂乱の殺人劇は徐々に鎮まりをみせはじめた。都市が完全に征服され、 平定されたことが知らされたからだ。残りの兵力もごく少数だったため、ビザンテ ィン軍の抵抗は非常に散発的で微々たる水準だった。都市は武装解除されていた。 それからというもの、彼ら占領軍の関心事は略奪のほうに移っていった。奴隷と して活用する捕虜や財物を我先に、少しでも多く独り占めにしようと血眼になった。 逃げた市民と隠れた財産を探して、占領軍たちは城郭のすみずみをくまなく探して まわりはじめた。すでに略奪が済んだ建物には、後で遅れてやってきた兵士たちが 混乱しないよう、玄関の前に小さな旗を標識として立てておく戦友愛(?)を見せ た。 防柵を越えたりケルコポルタ非常門を通じて入城したオスマン軍は、ブリヘニア 皇宮を守っていたベネチア守備隊を撃破して略奪に入っていった。金銀宝石、書籍 や遺物、室内装飾品や大理石などなど、何一つ残していくことはなかった。 バザール(Bazaar:市場)はもちろん、大きな建物や家々の大部分もほぼ廃墟と化 した。少し裕福に見えるそれらしい外観の家は、文字通り完全な廃墟になった。 図書館も同じだった。内容よりも表紙が本の運命を決めた。売れそうな本はみな
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一箇所にまとめられた。神格化されていたり、ふさわしくないとみなされたほとん どの本は真っ黒な煙をあげて燃やされた。墓石は破壊され、墓場は廃墟になった。 高価な聖物の多い教会もやはり、占領軍が優先的に目をつけていた場所だった。 ブラヘニア城壁周辺の落ち着いた教会、カリシオス門隣の聖ゲオルギオス教会、ペ トラの聖ヨアネス教会などが保有していた金と銀でできた聖餐用品もまた、絶好の 獲物だった。十字架さえも尖った屋根のてっぺんから引きずり下され、宝石だけが えぐりとられて道端に捨てられた。 陸地城壁と近接しているコラ聖堂(現在のカーリエ博物館。「コラChora」は中 世ギリシャ語で「教会」「田舎」という意味)では異例なことに、モザイクとフレ スコへ壁画には手を出さなかった。(後にハギアソフィアと同じように石灰で覆わ れてから復元された)その代わり金銀でできた聖餐用品や、城郭市民たちに奇跡を もたらす神聖な絵画として崇拝されていた聖母像ホジェゲトリア11をはずして、四 つに切り刻みその額を分け合った。もともとは昔の皇宮横の教会にあったが、戦争 で戦う兵士たちの士気を高めようと、城壁の近くに移されていた絵画だった。 占領軍たちは修道院や修道女院にまで乱入した。純潔を失うくらいならば殉教を 選ぶと自決した若い修道女たちもいたが、大部分の修道士たちと高齢の修道女たち は正教会の伝統である純真の美徳に従って、激しい抵抗は見せずに捕虜となった。
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Hodegetria.「道を引導する聖母」という意味をもつイコン(Icon:聖画像)。聖母マリアが右手
で、胸に抱いている赤ん坊イエスを指しているが、これはヨハネによる福音書2章5節(しかし、母 は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。)を絵画 で表現したものである。赤ん坊のイエスは「救いにいたる正しい道」を、イエスを指している聖母マ リアの手は「道を指差す行為」を象徴している。ビザンティンの言い伝えによれば、このイコンは 「使徒行伝」と「ルカ福音書」の著者である聖ルカ(Saint Luka)によって描かれたもので、聖母 が肖像画を見て「この絵と共にいつも私の祝福があるように」と言ったという。この聖画は5世紀中 頃コンスタンティノープルに移された。その後、数多くのホジェゲトリアが描かれ、東ローマ正教会 の代表的なイコンになった。
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城郭からハギアソフィアの次に大きな聖サド大聖堂12は、略奪を免れた。聖物も そのまま残った。大通りに位置し、略奪の標的になりやすかったが、スルタンが事 前にこの歴史的建築物の大規模な破損を防ぐために、聖堂の前に警備兵たちを配置 しておいたからだ。スルタンはおそらく、コンスタンティノープルで最も大きく、 帝国を代表する教会であるハギアソフィアをモスクに変える代わりに、城郭で二つ 目に大きいこの聖堂だけは、名目上信仰の自由を守る象徴的な存在として残すつも りだったようだ。実際に聖サド大聖堂はその後ギリシャ正教会の総本山として使わ れた。 ゴールデン・ホーンに駐屯していた海軍はプラテリア門に進入、城壁付近の倉庫 をすべて漁りつくした。すでに物資が底をついていた帝国の倉庫だったため、期待 には到底満たないものだった。 彼らの一部は街角で小走りでテオドシア(Theodosia)聖堂13にむかっていく女 12
Havariyyun kilisesi(トルコ語), Agioi Apostoloi(ギリシャ語)。カリシオス門(現エディル
ネカプ)からアヤソフィアと昔の皇宮につづく大通りに位置した教会。コンスタンティヌス大帝が自 身の墓をつくるために建てた。以降、歴代皇帝と皇后たちはここに埋葬された。コンスタンティノー プル陥落以降にも他の聖堂とは異なりほとんど破壊されないままギリシャ正教会大主教本館として使 用された。スルタン、メフメト2世によって正教会の総大主教に任命されたゲンナディオスは、聖堂 の前庭でオスマン軍人の死体が見つかると、そこに留まることを躊躇し、すぐに住まいを規模の小さ いファムマカリストス教会(現パティエ・ザミ:征服のモスク)に移し、その教会が一世紀以上にわ たってギリシャ正教会の総大主教本山になった。征服以前にもすでに地震などで一部が破損し、破壊 されていたこの聖サド大聖堂は、1461年の大地震で倒壊し、1463年から1471年までメフメト2世の 指示によってパティ・ザミ(征服者メフメト2世修道院)に改造された。ザミの中にはメフメト2世 とその夫人の墓がある。2012年5月、6年半をかけて復元工事が完了した。初のモスク建設工事なだ けに長時間をかけて原型に近い形に復元された。 13
726年聖堂破壊運動時代に、聖画を守ろうとして殉教したテオドシアを称えるために、ゴールデ
ン・ホーン沿岸、今のアヤ城門(ビザンティン時代にはテオドシア城門)付近に建てられた聖堂。ビ ザンティン建築様式はそのまま残っており、トルコ人らはこの聖堂を「クォルザミ」と呼ぶ。「クォ ル」は「薔薇」の意。聖女テオドシアの祝日5月29日を迎えて信者たちが薔薇を持って集まった日に ビザンティン帝国は崩壊した。征服後に、オスマ軍隊がこの聖堂に来て見ると、聖堂の内外に薔薇の 花があふれていたため「薔薇の聖堂」という名がつけられた。長い間、皇帝の遺体は薔薇の花で装飾
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たちの列と出くわした。火曜日のこの日は、ちょうど聖女テオドシアの祝日だった。 日が昇ってからだいぶたっていたのにもかかわらず、火を灯したろうそくが瞬いて いた。聖堂の内外には祝日を記念しようと、信徒たちが庭や垣根からつんできた新 鮮なバラの花で埋め尽くされていた。ここだけは火薬の臭いよりもバラの香りが色 濃く漂っていた。 しかし、バラの香りも長くは続かなかった。占領軍が荒々しく聖堂を襲った。彼 らは聖堂に足を踏み入れることすらできなかった女たちを一箇所にまとめて、それ ぞれひとりずつ男にあてがり、聖堂の門をこじ開けて礼拝中だった信徒たちを捕ま えて金目のものを奪い去った。 他の兵士たちは丘に上がって陸地城壁から上がってきた兵士たちと合流し、オア ントクラトール(Pantokrator:全能者、万物の支配者)三中(南側・中央・北側) 聖堂及び附属修道院、そして隣のパンテフォプテス教会を狙った。残りの海軍兵士 たちはホレア門を通って入り、市場を焦土化したあと、ヒポドロムとアクロポリス (Acropolis)の丘に向かって行った。 一方、マルマラ海を守っていた海軍らは、がらんとしたかつての皇宮に入り込ん で隅から隅までひっくり返して廃墟にした。5世紀、前バシレウス1世皇帝が建てた ネアバシリカ(Nea Basilica)のような美しい教会も、復旧は不可能なほど廃墟化 されてしまった。 征服当日、日が暮れるころになると、略奪するものはすっかりなくなった。スル タンが略奪中断を宣言したときも、それほど惜しがる必要はないほどだった。その 後の二日間は、強奪した物品の分配及び交換、そして捕虜たちの数を数えて取引に 奔走すした。千年の史跡、千年の文化が一晩にして崩壊し、焦土と化した瞬間だっ た。 そんな中、比較的被害のすくなかった地域もあった。早くから白旗を掲げ鍵を差 した棺に入れられ、この聖堂の右側の柱の下に埋められたという噂が広まりもした。
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し出した村々だった。プサマティヤ(Psamatya:砂地という意味)とステュディオ ンなど、セオドシウス港周辺にあった村の住民たちと防衛軍は、陸士城壁が打ち抜 かれたという悲報を聞いて、それ以上の抵抗を諦めた。彼らはマルマラ海のほうに ある小さな船着場二箇所を通じて上陸したオスマンのハムジャ・ベイ水兵たちに自 ら城門を開けてやることで、教会をはじめとした住民の命と財産を守ったのである。 ゴールデン・ホーン地域のイスピガス・プテイ(Ispigas Putei)城門(現在のジ バリ門)も住民たちによって自発的に開けられ、ジェベアリベイ(Cebeali Bey)部 隊は無血入城を果たした。(ジェベアリが入城したこの城門の名はジバリ(ジェベ アリ)門になった。民間団体の<征服者協会>は、2003年征服550周年記念として この門の上にその事実を記録した銅板を立てかけた。) ゴールデン・ホーン内側のペトリオンと、近隣のパナル地区教会もやはりそうや って信仰の基盤を守ることができた。後に彼らは、お金をかけて捕虜として捕まっ たほかの地域の住民たちを救い出し、奴隷になるのを免れるよう手助けするという 義理も見せたという。 最後まで降伏を拒否し抵抗したが、スルタンの慈悲によって安全な例もあった。 ゴールデン・ホーン城壁にある防衛塔のうちの三つ(Basil, Leo, Alexius)を守っ ていたクレタ(Creta)船員たちがそのケースだった。彼らは、城郭が占領された 事実すら知らずにいたようだった。誰かが彼らの抵抗をスルタンに報告した。スル タンは勇敢さを称えつつ、彼らが私有物をもったまま、制裁を受けることなく船に 乗って海に出られるよう善処した。しばらく躊躇していたクレタ人らは、事態をは っきりと把握したあと、その提案を受け入れ、城塔から降りて船首をクレタ方面に 向けたのだった。 ガラタ自治区も抵抗せずに門を開けて降伏したため、略奪を免れた。スルタンは、 法を守り税金を納付するという条件で、ビザンティン皇帝がジェノバ人たちに付与 していた既存特権は認めつつも、ガラタを別途の都市国家としては認めないという
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協定を締結した。また、城塔と城壁を解体し、カトリック教会をイスラム寺院に改 造するよう命令を出した。湾(ゴールデン・ホーン)進入を防いでいた鍵縄が設置さ れていたガラタの城塔はすぐに撤去命令が下された。スルタンは中立を標榜しつつ もビザンティンを助けるジェノバ人たちの二重性をいつまでも忘れなかった。オス マン軍が接収したガラタタワー14は、行政監督及びスルタン守備隊の建物に変わっ た。外部監視用から内部監視用に塔の用途が変更したのだ。 陥落後に殺害された城郭市民たちの数は、年代記の作家ごとに千差万別である。 しかし、クリストブロスをはじめ、この分野で信頼性を確保している歴史学者たち はおおむねその数を4,000名前後と見ている。全体住民数の十分の一の数であり、 歴史以上例を見ない大量虐殺とはいいがたい。占領軍が、ある瞬間から激しく抵抗 しない限り、剣を血で汚すよりも捕虜として捕まえて奴隷として売るほうがずっと 利益になると考えていたためである。
後日談。スルタン、メフメト2世はコンスタンティノープル征服以降、剣を内側
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Galata Tower.
528年ビザンティン皇帝ユスティニアヌスが一番最初に建設し、1348年ジェノ
バ自治領によって「クリステトゥリス」(キリストの塔)という名で再建築された。コンスタンティ ノープル征服以前の鎖の連結点だったゴールデン・ホーン入り口のガラタ大塔(Megalos Pyrpus) は、第4次十字軍遠征時(1203年)に破壊され、この大塔は別の塔である。ガラタタワーは、火災や 地震など数々の紆余曲折を経ながら再建築と補修工事を繰りかえした。現在の塔は、海抜35メート ルの地点に建てられたもので、高さ62.9メートル、てっぺんの装飾まで含めると66.9メートルであ る。1630年「ヘザルペン・アフメド・チェレビ」という人が自身の作った羽を体の両側につけて、 この塔の上からボスフォラス海峡を過ぎてアジア地域のウィスクダルの丘まで6キロメートル飛行し た。彼はトルコの歴史上初めてボスフォラス海峡を飛んで大陸を横断した人として記録された。展望 台は、360度が見渡せる構造でヨーロッパとアジアを横切るボスフォラス海峡をはじめとするマルマ ラ海とゴールデン・ホーンはもちろん、イスタンブール旧市街地と新市街地全体をぐるっと見渡すこ とができる。長い歳月の間、メフメトの上陸作戦をはじめとするコンスタンティノープルとイスタン ブールの歴史を黙々と見守ってきたこの都市の生き証人である。
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に向けた。朝廷の大臣たちを相手に政治的報復を断行した。この戦争に関連してこ とあるごとに反対と妨害工作、敵国との癒着行為をしてきたと判断した閣僚に対し て粛清に入ったのである。 最初の標的はいうまでもなく、ハリル・チャンダルリ・パシャ(Halil Chandarli Pasha)だった。1453年6月18日イスタンブールを発って三日後、エディルネ(E dirne:アドリアノープル)に到着したスルタンは、ハリル・パシャを緊急逮捕し、 官職を剥奪してから後任にジャアノス・パシャ(一部文献にはマフムド・パシャと 出ており、宰相職を一年以上空席にしておいたという異説もある)を任命した。そ れからは度重なる拷問で苦しめられ、その年の8月斬首刑15に処せられた。罪名は ビザンティンとの内通及び巨額の収賄罪、そこに反逆罪も加えられた。すべての財 産は国庫に環収され、弔問すら許されなかった。誰も予想できなかったスルタンの 電撃的な措置に、誰もが恐れを感じ朝廷全体は緊張感に包まれた。 ムラト2世時代の大臣たちの中で、ジャアノス・パシャとマフメド・パシャ、イ スハーク・パシャなどの何人かを除いては、その後大多数が没落の道を辿った。皮 肉なことに生き残ったり、要職に起用された大臣たちは、大部分が非トルコ出身の 改宗者(Proselyte)たちだった。
1453年5月31日(木)
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ハリル・パシャの逮捕、及び処刑日と場所は文献によって少しずつ異なる。例えば、征服500周年
を向かえ1953年に刊行されたフランツ・バーンビンガー(Franz Babinger)の本『Mehmed the C onqueror and His Time』には征服3日目になる日にハリルを逮捕、エディルネに押送し、7月10日 処刑したと出ている。逮捕日を征服翌日と記している文献もある。本書ではハリル・イナルジュク (Halil Inalcik)の学術論文「Mehmed the Conqueror(1432~1481)and His Time」(1961年)で 言及されている見解を採択した。
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城郭が陥落した5月29日以降、皇帝の姿を見たビザンティン市民は誰もいなかっ た。しかし、彼らはしばらくの間、皇帝の死を信じなかった。いや、信じたくなか ったのだ。しかし二日が過ぎると、皇帝が最期を迎え、もはやこの地上にはいない ということが定説として広まった。スルタンに占有された皇宮から流れ漏れてくる 話によれば、その状況は次のような内容だった。 スルタンは、征服初日から皇帝の生死を一番気にかけていた。兵士たちがオスマ ンの亡命王オルハンの頭を捧げたが、スルタンが一番この目で確かめたがったのは、 ビザンティン皇帝コンスタンティヌス11世の首をはねられた顔だった。もし皇帝が 生きているとすれば、西のキリスト教国家たちの同情心を煽り、報復攻撃をされた り、後の世界征服事業に支障が出るなど、災いの元になりかねないと信じていたた めだ。 ある者は彼が脱出したといい、ある者は身を隠しているといい、またある者は戦 死したと報告したが、どれも未確認の情報に過ぎなかった。因果関係そのものが不 透明だった。捕虜として捕らえられたビザンティン宰相ルカス・ノタラス(Lucas Notaras)にも訊いてみたが、彼も皇帝とは別の場所で戦っていたため、知らない ということだった。もどかしくなったスルタンは、全軍に皇帝の行方を調べさせ、 遺体を捜索するよう厳命を下した。 兵士たちは城郭やお堀、渓谷や原野などを歩きまわりながら数多くの死体の服を 調べ、血だらけの顔を水で洗って見比べてみるなど、皇帝を探し出すのに必死にな った。少しして皇帝を殺して首を切ったというスルタンの親衛歩兵二人が現れ、ス ルタンに謁見した。 「陛下、我々が皇帝を殺しました。その時は戦利品を手に入れようと急いでいた ため、遺体を倒れた城壁のがれきの山の間に置いてきたのですが、さきほどもう一
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度その場所へ行ってきて、ここに頭をお持ちしました」 スルタンの前に水できれいに洗われた頭が一つ捧げられた。スルタンは、ルカ ス・ノタラスをはじめとする捕虜としてつかまったビザンティン官僚たちを呼び集 めた。 「まっすぐに見て真実を話したまえ。この者が本当にお前たちの主君、ビザンテ ィン皇帝なのか?」 ノタラスが細かく調べてから震える声で言った。 「さようでございます。間違いなく皇帝の容顔でございます」 他のビザンティン官僚たちも互いに視線を交わしながらうなずいた。スルタンは 落とされた首を持ってきた兵士にもう一度尋ねた。 「着ているものや紋章に、特異な点はなかったか?」 兵士のうちの一人が待っていたかのように、遺体の脚から脱がせてきたという靴 下を一足差し出した。衣服や装飾物にはこれといった特色はなかったと言いなが ら・・・・・。兵士の差し出した靴下には、わしの紋章が刺繍してあった。靴下まではさ すがに脱ぎ捨てられるような状況ではなかったのだろうか。ノタラスと官僚たちは それを見て、皇帝の伝統的な文様に間違いないと確認した。 スルタンは非常に満足した面持ちで、二人の兵士に手厚い謝礼金を出した。それ から、首を落とされた皇帝の頭をアイグスティオン広場16の円柱の上に置いておい てから、中身をつめて剥製にした後、主要ムスリム国家の宮殿に送って巡回展示を するよう命じた。
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Augustation.コンスタンティノープル大帝が古代ビザンティウム広場を改造して作った大広場。
東の奥にハギアソフィアと元老院が位置していた。532年ユスティニアヌス皇帝は、ニカの反乱で大 きく破損したアウグステイオンを再建築した。広場に建てられたユスティニアヌスの黄銅柱は、高さ 50メートルでハギアソフィアドームの高さと似ており、柱のてっぺんには馬に乗った皇帝の彫刻像 があった。この柱は、オスマン征服以降にも残っていたが、彫刻像は16世紀初頭に壊され、その後 間もなく柱も崩壊した。
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しかし、ビザンティン帝国の百姓たちのうちの大部分は、スルタン陣営から聞こ えてくるその話を信じなかった。なぜなら、誰も広場の上の円柱の上に陳列してあ る皇帝の頭を見た人はいなかったからだ。いや、中には見たという人もいたが、皇 帝の容顔とは全く違ったという証言だった。そのため、その話は政治的目的によっ て創られ、脚色された作り話だと判断されているようだった。 むしろ百姓たちの間では、皇帝の死因をめぐってまた別のさまざまな、真意の計 り知れない噂が出回っていた。そこには「そうであったらいいのに」という類の希 望のこめられた想像もあったが、概ねこのような内容だったという。
・わしの紋章の刻まれた靴下を履いた死体が発見された。スルタンはそれでも秘 密の場所にビザンティン式で埋葬するように指示し、皇帝を礼遇した。 ・敵に捕らえられた羞恥から逃れようと、皇帝は戦闘中の何人にも満たない部下 に自分を殺してくれと頼んだ。しかし、誰もそれを果たすような勇気がなく、 皇帝は敵に身分がばれないようにするために、王権を象徴するあらゆるものを 放り投げ、剣を差したまま敵陣に飛び込んでいって壮烈な最期を遂げた。 ・皇帝は、都市が陥落したことを知って「これ以上生きている理由がなくなった」 という言葉を残したまま、敵陣に突進、壮烈に散った。最期まで勇敢に戦い、 帝国の皇帝らしく「死んでこそ生きる道」を選んだ。倒れた城壁を死に装束が わりに、この都市と共に高潔に殉教した。 ・皇帝は一人で蹄の白い馬に乗って戦った。スルタンの親衛歩兵六十人と十人の 指揮官を殺すと、彼の槍と剣は折れ、皇帝は天を仰いで泣いた。「全能の主 よ! あなたの百姓たちに憐れみを、コンスタンティノープルに哀れみを」そ の瞬間、敵兵の剣が虚空を刺し、皇帝の頭は天高く舞い上がった。 ・実は、誰も見つけることのできないどこかに皇帝は生きている。聖母マリアが
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天使を送り、死んでゆく皇帝に命を吹き込んでくださったのだ。
大半は悲歌や挽歌といった趣で、中には神話風に誇張された話まであったが、そ れは、見方によってはビザンティン市民たちが、生前いかに皇帝を尊敬し愛してい たかを物語っているともいえる。しかし、こうした仮説は皇帝の死後200~400年過 ぎてから出てきたものが多いため信憑性が低く、それだけ皇帝の死が歴史の不可思 議として残っているという反証ともいえる。 一方、ビザンティン市民たちは、アクロポリスの防衛責任を請け負ったイシドロ ス(Isidoros)枢機卿の行方についても知りたがった。信頼できそうな人が自分が 直接見たと言って伝えた目撃談は、以下のような内容だった。 「枢機卿は忠誠心の深い部下たちの助けを借りて、自分が着ていた紫のマントを 脱いで一般兵士の服に着替えた。枢機卿の代役をつとめたそのラテン兵士は、枢機 卿の服を着たまま道に横たわり、その後すぐに現れたオスマン軍に捕まって斬首さ れ、切られた首は勝戦の兆候として槍に通されて通りを行進させられた。枢機卿も その後捕虜として捕まった。このように身分を隠すために部下を犠牲にした人は、 どのような道17を辿ったのであろうか?
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一般兵士に仮装したイシドロスはすぐに捕虜として捕まったが、彼の身元をオスマン兵士たちは
見抜けなかった。彼はガラタのジェノバ商人たちに安価で奴隷として売られたが、のちに自由の身に なった。下層民に仮装したイシドロスは、自身の正体を隠すためにあらゆる紆余曲折を経験しながら さまざまな地域を回った。クレタに滞在していた際には、コンスタンティノープル陥落の様子を詳細 に綴った五通の書簡を作成してもいる。その後ローマに行き、オスマン退治のための十字軍結成のた めに東奔西走し、結局志を叶えることなく1463年にわびしい死を遂げた。 大多数の年代記作家は、イシドロス枢機卿が自身の祭衣を乞食のぼろきれと交換して着替え、駐屯 地を捨てて脱出したと記録しているが、筆者はミザトビチの「一般兵士」説の方が妥当性が高いと判 断し、その内容に従った。
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1453年6月1日(金)
36 混乱は早いスピードで落ち着きをみせ、制度は新たに整えられた。事前にこと細 かに計画された脚本に沿って動きでもするかのように、スルタンは征服以後、帝国 の秩序を整然と統治し再編していった。 スルタンは、城郭市民たちに生命の安全と信仰の自由、そして制限された範囲内 での財産権を保証すると公表した。都市は徐々に平穏と秩序を取り戻していった。 オスマン軍士たちの目を避けて、秘密の場所に隠れていた人たちが再び通りに出て きて、自分たちの暮らしていた家に帰っていった。コンスタンティノープルを脱出 していた人たちも、一部は家族のいる都市に戻り始めた。スルタンはそうした雰囲 気をつくりだし維持するために兵士たちの行きすぎた行動を禁じ、市街地の通行も 制限させた。 ハギアソフィアの運命はすっかり変わった。名前はアヤソフィアになり、ドーム 屋根の上の十字架が下されて、代わりにイスラム寺院を象徴するミナレット(Mina ret:モスクの外に建てられた尖塔)が瞬く間に建てられた。大急ぎで改造工事を終 わらせモスクに様変わりしたアヤソフィアでは、この日初めてミンバル(Minbar: ミフラーブの右側にある階段形式の説教壇)でイマム(Imam:ムスリム宗教指導者) が説教をするイスラム式聖金曜礼拝が開かれた。メッカの方向を指すミフラーブ (Mihrab:イスラム礼拝所に設置されたくぼみ状の設備)の丸い装飾も、その間に 急造されていた。 白と黒のまざった鶴の羽で飾られたターバンをかぶったスルタンは、演壇にあが って剣を高く振り上げ、力強い声で叫んだ。
「この世の主であるアラーを崇めよ!」 出席者たちは誰もが手を勢いよく挙げながら、歓呼の声を挙げた。 これでアヤソフィアはイスタンブールを代表するウルチャミ(Ulu Cami:
大寺
院)として生まれ変わった。賛美歌の代わりにムエジン(Muezzin:モスク尖塔の上 から肉声で礼拝時間を告げる人)が朗誦するアザン(Azan:礼拝時間を知らせる行 為)の音が一日五回ずつ鳴り響いた。 城郭市民たちは、何よりも自分たちの信仰をそのまま守れるのかどうかを心配し た。オスマン兵士が彼らの馬に聖堂から強奪してきた司祭の礼服を着せ、十字架に はトルコ族の帽子をかぶせ、天幕をまわりながら正教会振興を嘲弄したという噂を 聞いてからは、その悩みはさらに深まった。 しかし、先に約束した通り、スルタンは正教会信徒たちを認め、一部の教会をそ のまま存続させた。 後日談だが、スルタンは自分が構想していた征服後の統治政策の下絵に沿って、 教会連合反対派で学者風のギリシャ修道士ゲオルギオス・スコラリオス・ゲナディ オス18を、コンスタンティノープルの新たな銃隊司教に推薦した。ゲナディオスは 最初はためらっていたが、スルタンに説き伏せられて銃隊司教職を受け入れた。正 式な就任式は1454年1月6日、ビザンティン式で開かれた。スルタンは皇帝の役割を 代わりに担い、新任銃隊司教に帽子をかぶせてから任命状と十字架を授けて彼のた
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Georgios Scholarios Gennadios. 征服以降スルタンが祭り上げたギリシャ正教会の総大主教。
初期は当時の教会統合に穏健派の立場をとっていたが、ある瞬間から強硬派に変わった。そのため、 皇帝と対蹠点に立って「連合を強行すればギリシャ正教会は分裂を繰り返し消滅してしまうだろう。 かりにビザンティン帝国が滅亡したとしても、それは神の決めた運命であり、神がビザンティンの百 姓たちに下す懲罰」だと主張した。コンスタンティノープルが陥落した当時、ゲネディオスはパント クラトル修道院の自分の部屋に隠居していた。占領軍のうちの一部は建物を略奪し、その他の一群は 修道士を捕虜として捕らえ奴隷として売り払った。スルタンが連れてこようとしたゲナディオスも、 すでにイディルネの富裕なトルコ人の家に売られた後だった。スルタンは使節団を送って彼をコンス タンティノープルで護衛した。
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めの特別な勅令を読み上げた。 「彼に幸運が共にあるように・・・・・・。誰も彼を苦しめたり妨害したりはできない。 無理な要求や抑圧の対象にならず、税金は全額免除される。あらゆる司教たちを部 下として従え、以前の銃隊司教が教授していたすべての特権を享有できるよう に・・・・・・」 就任式を終えたゲナディオスは、スルタンが授けた駿馬に乗って、聖サド大聖堂 に向かった。その日以降、モスクに変身したハギアソフィアの代わりに、正教会の 総本山的役割をする大聖堂だった。よってゲナディオスは、象徴的な意味のほうが 色濃くなったとはいえ、ギリシャ世界全体を統括する精神的指導者になった。彼は 正教会信仰に関する本を書いてスルタンに献呈した。 話は変わり、スルタンは捕虜たちを一人一人見てまわり、その中から自分が使用 する者を選んだ。ビザンティンの名門出身や高位官僚たちが主にその対象だった。 スルタンは彼らには比較的寛大だった。大部分の貴婦人たちは、家族を取り戻せる だけの金を受け取りすぐに解放された。しかし、美少年と美しい女たちはハーレム
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のために残された。残りの青年たちには宗教を諦めるのであれば、自由を与えて
オスマン軍将校に任官してやると提案した。これを受け入れた若者はわずかに過ぎ なかった。 スルタンはしかし、イタリア人捕虜には非常に厳格だった。とくに城郭の城塔の 上にサン・マルコの獅子が刻まれた国旗を掲げて、ビザンティンのために積極的に 戦ったベネチア人を、スルタンは許さなかった。ベネチア居留民代表のミノトと彼 の息子は、七人の同僚指揮官たちと一緒に処刑された。カタルーニャ行政官ドン・ ペドロ・フリアーノ(Don Pedro Giuliano)もおなじく四、五人の同族と共に斬首 の刑に処せられた。キオス大司教レオナルドは、身元がばれないまま捕らえられオ スマン軍の海兵隊に囚われていたが、ジェノバ人の同胞を助けようと駆けつけたガ ラタ商人たちが支払ってくれた人質代のおかげで解放された。(レオナルドは陥落 以降6週間が過ぎたあと、キオス島で自分の激しい感情を綴った、厳格かつ独善的な 記録を残した。) スルタンはルカス・ノタラス大公と二、三人のビザンティン大臣たちも捕虜の身 19
Harem.「禁じられた場所や人」を意味するアラビア語「ハリム」がトルコ語風に変化した言葉。
普通、宮殿内の後宮や家庭の内室を指し、「禁男の区域」」である。イスラムはこの制度で男女間の 風紀を厳しく規制した。コーランに出てくる教え(「妻たちに何かを尋ねるときは天幕の外でしなけ ればならない。妻たちが素顔を見せても罪にならない相手は、彼女たちの親や子供、兄弟姉妹、親戚 および女性ムスリム、自身の奴隷だけである」)に根拠を置いているハーレムは、預言者の妻たちの みならず、イスラム社会一般にまで影響を与えた。中世のイスラム女性たちは、ハーレムに隔離され たまま生活をし、家庭や宗教行事に参加、ハマム(浴場)に行く以外は外出を控えた。ハーレムは王 家と貴族を保護する過程でさらに表面化し、去勢された宦官にハーレムの女性の世話をさせたり、取 り締りをさせた。宦官は主に黒人や白人奴隷で、男性は唯一皇帝だけが出入りできた。ハーレムの統 治者はスルタンの母(バリデスルタン)で、ハーレム内では女たちの妬みや嫉妬、陰謀による内紛が 絶えなかった。ハーレムの風習は、オスマン帝国を訪問したヨーロッパ人や『アラビアンナイト』な どを通じて世界に知られた。1909年、オスマン帝国のスルタン、アブドゥルハミト2世が退位すると、 ハーレムにいた女性たちは家庭に送り返され、ハーレムは事実上閉鎖された。イスタンブールトプカ ピ宮殿の三つ目の門(至福の門)を過ぎると、その当時のハーレムの構造や雰囲気をうかがい知るこ とができる。
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分を解いてやった後に礼儀を正して訪問した。しかし、ノタラスの末路は悲惨だっ た。しばし年代記の作家たちの言葉を借りて、後日談を手身近に紹介してみること にしよう。 捕虜たちの運命は千差万別だったが、ルカス・ノタラスこそ最も数奇な惨憺たる 悲運の主人公だった。征服以降、当初スルタンは、ノタラスをコンスタンティノー プル総督に任命しようとした。ところが、ジェノバとベネチアの市民権を二重で所 持しており、イタリア銀行に大金を預けてある彼を信じてはならないという周囲の 警告を聞いているうちに、スルタンは彼を試してみたい衝動に駆られた。ある宴会 の席で誰かからノタラス大公の十四歳になる息子の容貌が秀でているという話を聞 きつけたスルタンは、すぐに大公の家に宦官を送り、息子を自分に預けるよう命令 した。すでに二人の息子を戦場で失っていたノタラスは、再びわが子をそんな悲劇 に遭わせるわけにはいかなかった。だから断固として断った。スルタンは再度憲兵 隊を送ってノタラスと息子、そして婿まで捕まえてくるように言った。それでも最 後までノタラスがそむくと、スルタンは三人とも首を切るよう命令した。その瞬間、 ノタラスは自分の斬首を目撃することで息子がショックを受けないよう、息子と婿 を先に殺してくれと頼んだ。そのため二人の少年が死ぬと、彼はためらいなく自ら の首を首切り台の前に差し出した。二日後、また別のギリシャ人貴族9人が断頭台の 露と消えた。悲劇はそれで終わらなかった。突然、夫と息子、そして婿まで失った ノタラスの未亡人は再び奴隷として売られる捕虜の身となり、エディルネに連れて いかれる途中で病を患って異郷に骨を埋めることとなった・・・・・・。
疑わしいのは、城郭が陥落した日、捕虜として捕まったフランチェス20に対する 20
Georgios Phrantzes. 別名「スプランチェス(Sphrantzes)」とも呼ばれる彼は、先王マヌエル2
世パライオログス(Manuel Palailogus)の書記出身で、生涯をコンスタンティヌス11世のもとで自 分よりも三歳下の皇帝のために奉職した。皇帝は、彼を最も親しい友人であると同時に助言者として 信頼し、秘密裏に処理しなければならないことはすべて彼に任せた。個人的には東西教会統合に反対
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スルタンの態度だった。スルタンは、どういうわけか、他の捕虜とは異なり、皇帝 の最側近であるフランチェスだけはブラヘニア宮殿に留まるように命令した。未解 決の課題、未完成の宿題でもあるのだろうか。 征服4日目の6月1日、アヤソフィアでイスラム式金曜礼拝を終えたスルタンは、 城郭内のあちこちを調べて城郭や宮殿を見てまわった。千年の栄華も跡形もなく、 都市全体が抜け殻だ。戦争の爪痕は深い。倒れた城壁、破壊された広場、焼けた教 会、踏みにじられた宮殿、焦土と化した商店街・・・・・・その上、そうでなくとも広い 空き地を雑木や草むらが覆ってしまい、もはや都市というよりも、いくつかの小さ な村落が集まっただけの荒涼としてすさんだ姿だ。スルタンは破壊された建物と施 設などのすばやい修理ならびに復旧を指示した。 日の暮れる頃、スルタンは城の外の幕舎に向かった。食事を終えてから侍従すら 寄せ付けずにスルタンは懐から鍵を取り出した。そうすると金庫を開けて慎重に一 冊の本を取り出した。三日前、皇帝の腹心フランチェスの告白によって手に入れた 本だった。 フランチェスは、コンスタンティノープルが倒れた日、シリブリカピの近くで捕 まりスルタンの前に引っ張り出された。 「皇帝はどうなったのだ?」 「存じ上げません」 「お前が知らないでいったい誰が知っているというのか。お前は皇帝の最側近だ していたが、主君の政策を受け入れた。コンスタンティノープル陥落以降、捕虜として捕まったフラ ンチェスは、スルタンの調馬師の家で奴隷として働き、ギリシャ人から借りた金で18ヶ月ぶりに自 由の身を取り戻した。しかし、皇帝の代子、代女だった二人の子供はスルタンの宮殿に連れていかれ、 幼い娘はハーレムで病を患って死に、息子はスルタンの欲望に抵抗して殺された。フランチェスは、 その後修道院に入って修道士として暮らしながら回顧録を執筆し、1477年に死去した。帝国の滅亡 を現場で見守ってきた彼がしたためた『Chronicon Minus(小さな年代記)』はビザンティン最後 の日を伝える貴重な資料として評価されている。この回顧録は本物と拡張本が存在し、陥落当日の彼 の位置や逮捕場所についての具体的な記録はどちらにも載っていない。
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ったのだし、私の臣下ハリルとも親しい仲だった。首を飛ばされるのを今すぐ目の 前で見せてやらないとならないようだな。覚悟するがいい」 斬首を前にしてフランチェスは、皇帝の日記帳に考えが及んだ。秘密の金庫の中 に隠してあるというが、スルタンの部下たちが金庫を見つけ出すのは時間の問題だ った。いや、すでに見つけ出しているかもしれない。ならば金庫の中に入っている 日記帳も無事なはずはなかった。ややもすれば、スルタンにも報告しない状態でな くなったり、焼かれたりする危険もあった。それだけは防ぎたかった。イェニチェ リの偃月刀が背後からフランチェスの首に向かって振り下ろされる瞬間、彼が叫ん だ。 「待ってください、この鍵を受け取ってください。これは皇帝が今日、明け方に 私に残していった地下金庫の鍵です。私の首を刎ねるのはかまいませんが、その中 にある主君の日記帳だけは後世に伝えていただきたいのです」 「何だと、日記帳といったか?」 スルタンは死刑執行を中止させて、椅子から立ち上がった。そうしてフランチェ スを先頭に立たせて地下金庫に向かった。皇帝の日記帳と金庫の中が気になり、直 接この目で確かめないことには気がすまなかった。 宮殿はすでに荒地となっており、皇帝の仮住まいも同じくごったがえしていた。 陥落と同時に歩哨を立ててはおいたものの一足遅かった。占領軍が一番最初に押し 寄せた場所がこの皇宮だったためだ。さすがにどれもこれもがめちゃくちゃだった。 扉にせよ、テーブルにせよ、椅子にせよ、傷のないものなど何もなかった。乱雑に 散らかり、やぶれたカーテン、衣類、手すり、什器の隙間にまだ生々しい血の痕が あちこちに見えた。フランチェスは血の涙がこぼれそうだった。皇帝の体温や匂い が感じられるようなものは何一つ、跡形すら残っていなかった。 そうやってしばらくの間歩いた。実のところ、皇帝の寝台の真下に地下金庫に続 く秘密の通路が隠れていたのだが、あえて遠回りした理由は、最後に皇室の隅々を
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少しでも目に焼き付けて、皇帝の息遣いを感じたかったからだった。 「この男は、今わざとでたらめをいって時間を食っているのだな?」 ただならぬ気配を感じたスルタンは、フランチェスを追い詰めた。 「もう着きました」 フランチェスは、オスマン兵士たちが乱入して斧やかなづちですでにめちゃくち ゃにしていったある部屋に入っていった。一見したところでは、普通の宮殿の部屋 と変わりなかった。フランチェスは壁をなでた。破れたカーテンの裾を払い、そっ と手でなでて、壁面にわからないようについていた小さなタイルのかけらをどかす と、わずかな隙間が見えた。鍵穴だった。 スルタンはフランチェスの手から鍵を奪い取り、金庫の扉を開けた。護衛兵たち の視線が一斉に金庫の中に集中した。次の瞬間、好奇心と期待に満ちていた彼らの まなざしは、一瞬にして失望の色に変わった。スルタンも予想外といった驚きの表 情だった。これが、ビザンティン帝国の現実だというのか。 誰かが取り出した形跡はなかったが、小さな金庫の中はがらんとしていた。金銀 財宝はおろか銅貨一枚入っていなかった。紫朱色をした絹の布につつまれていた四 角い物体ひとつが、ぽつんと置いてあるだけだった。 布の中には羊皮で装丁された小さな本が入っていた。スルタンは周囲のものを遠 ざけてから表紙をめくった。一番最初のページに、ギリシャ語で次のような文章と 署名が書かれていた。
仮に、私がこれほどまでにも愛したビザンティン帝国が敵の侵攻によって消え 去ることがあったとしても、この記録は残し、帝国の偉大な精神と帝国市民の高潔 な魂を永遠に歴史において証言してもらえるよう望み、帝国の皇帝として日記を記 すことにする。
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―コンスタンティヌス11世
ドラガセス・パライオログス
スルタンは深呼吸してから表紙を閉じ、再び日記帳を金庫の中にいれた。金庫の 扉を閉めて鍵を懐のポケットにしまった。 「金庫を私の幕舎に移したまえ」 護衛兵たちは慎重に金庫を取り出した。スルタンは金庫を自分の幕舎に移動させ てから、扉を固く閉めておくよう命令した。 それから三日が過ぎた6月の初日、スルタンは一人で幕舎に座って日記帳を広げた。 幼少期にギリシャ語を習っていたスルタンには、読解になんの問題もなかった。皇 帝の日記の冒頭は次のような文で始まっていた。
復活祭翌日の月曜日、敵軍がやってきた……。
スルタンはその場に座り、皇帝の日記を読破しはじめた。彼はみじろぎもせずに 読むことに没頭した。夜10時になってやっと彼は日記帳を閉じた。皇帝の日記はこ うして終わっていた。
ヤハウェ、神よ!
敵の馬の蹄の音が聞こえますか。最後にこうして心よりお願
い申し上げます。聖母マリアよ、異教徒たちの槍と剣からあなたのこの偉大な帝国
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をお守りくださいますよう、主にお願いしていただけますように。すべてを主に預 け捧げます、どうか我々を哀れに思い、あなたの胸で受け止めてくださいますよう。 アーメン。
スルタンはしばらくの間微動だにしなかった。そうして真夜中の12時になったこ ろ、天幕の幕を上げて遠く星の光がまたたく夜空を眺めながら、独り言をつぶやい た。 「世界征服を夢見るオスマン帝国のスルタンとして、私も皇帝の日記に応え、彼 の誤判とおろかさを悟らせるための備忘録をつけることにしよう。二つの帝国の指 導者が、どのような哲学と信念でもって戦争に臨んだのかを後世にありのまま伝え るのだ」 スルタンは侍童を呼んで、近くの幕舎で待機しているフランチェスを連れてくる ように言った。それから次のように言った。 「フランチェス、お前という奴は!
結局お前のような臣下たちのなまぬるい忠
誠心が皇帝を死に追いやり、この都市を破壊させたのだ。私は我が市民たちがお前 のような愚鈍さと蒙昧さに陥らないよう、私の備忘録を書くことにする。なぜこの 都市が征服されなければならなかったのかを満天下に知らせるのだ。私の話が終わ るまでお前の首はつないでおく」 フランチェスを帰すと、スルタンは閉じておいた皇帝の日記帳を再び開いた。そ うして1453年4月2日、初日の日記にしばらく目を落としてから大きな声で侍童を呼 んだ。 「備忘録を書くための筆記用具を持ってこい」 少しして侍童がもってきた羊皮のノートの上に、スルタンは筆を下ろして最初の 一文を書いた。彼が書いた備忘録は次のように始まっていた。
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始まりは微々たるものだった。1299年、開国始祖でおられるオスマン(Osman) 1世が……。 46
1453年4月2日(月)
<皇帝の日記> 復活祭翌日の月曜日、敵軍がやってきた。 オスマン軍隊がいくつかの経路を通じてコンスタンティノープルに進軍中だとい う知らせは、すでに一ヶ月前から聞いていた。それでも幸いなことに、正教会の大 きな祝日である昨日は無事に儀式を終えることができた。しかし、私をはじめとす る我々市民たちは復活祭の特別礼拝の間中、気がきではなかった。 オスマン選抜隊が今日初めて城壁の前に姿を現した。私は機先を制しようと城門 の外に小規模部隊を送って先制攻撃をしかけた。敵軍の何人かを殺し、多くの負傷 兵を出させた。しかし、徐々にもっと大勢のオスマン軍が城壁の前に到着、選抜隊 と合流したため、私は我が軍をいそいで城郭内に呼び寄せた。お堀の上の端柱や跳 ね橋を破壊し、都市のすべての城門を固く閉めた。ジェノバ工兵バルトロメオ・ソ リゴ(Bartolomeo Soligo)にゴールデン・ホーンの入り口を横切って鉄の鎖を設 置するよう指示した。
アナドルヒサール(Anadolu Hisar:「アジアの城」の意)の向かい側に、ルメリ ヒサール21を建てるときから、敵のビザンティン侵攻は予想されていた。ありとあ らゆる口実や言い訳にもかかわらず、ルメリヒサールはコンスタンティノープル攻 撃を狙った明白な前哨基地だった。ハリル・チャンダルル・パシャのように年輪を 重ねた穏健でバランス感覚にすぐれた臣下たちも、世間知らずの主君の無謀な野心 を抑えることはできなかった。 ルメリヒサールが完工した後、私は時折り幻聴に苦しめられた。静かな明け方の 時間、わずか160キロメートルのところにあるアドリアノポル(Adrianople: エディルネ)からオスマン帝国のムエジンがアザンを朗誦する声が風に乗って聞こ えてくるような錯覚に陥って寝床から飛び起きたことも一度や二度ではなかった。 彼らは野蛮な種族だ。1446年のヘクサミリオン攻撃と、昨年のルメリヒサール築 城の過程で、私はそれをいやというほど経験した。彼らは何の罪もない生命を残忍 無道な杭刑罰で踏みにじった野獣よりもひどい奴らだ。コンスタンティノープルが、 彼ら異教徒たちの手中に渡った瞬間、悠久の歳月をかけて積み重ねてきたキリスト 教文明は一晩にしてむごたらしく踏みにじられてしまうだろう。玉砕を覚悟し、野 獣の足の爪からなんとしてでも帝国を守らねばならない。 誰がなんと言おうとも、私は神の代理人、ビザンティン帝国の皇帝である。神の 統治の象徴であり求心点である。私がボスフォラスに住んでいる以上、ビザンティ ン市民ならば誰もが、自分が今も変わることなくキリスト教国家の一員であるとい う自負を感じられるだろう。世俗の富貴栄華とは別の次元でである。 勇気を持とう。主は乗り越えられない試練はお与えにならないとおっしゃった。 21
Rumeli Hisar. 「ヨーロッパの城」という意味。ボスフォラス海峡のヨーロッパ側に建てられた。
ボスフォラスはトルコ語で「ボアズ」、「喉」という意味を持っている。黒海と地中海の間の狭い海 峡を喉に例えたものである。そのため、当時トルコ族はルメリヒサールをスルタンが初めて命名した 「ボアズ
ケセン」という別名でも呼ばれた。「海峡の刃」または「喉の刃」という殺伐とした意味
を持っていた。
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312年10月28日、ローマ皇帝マクセティウス(Maxentius:在位306~312年)の 斬首された頭を槍のてっぺんにくくりつけて凱旋したコンスタンティヌス大帝は、 ミルビアン(Milvian)橋の戦いで太陽の上に現れたまぶしく輝く十字架を見て勝利 を確信したという。その十字架にははっきりと「HocVince」(「征服せよ」とい う意味のラテン語)と刻まれていた。その後大帝は、帝国の首都をコンスタンティ ノープルに移し、「神の命令に従った」と宣言した。 聖母マリアよ、なぜ我々にこのような試練をお与えになるのですか。神が再び生 き返った日、異教徒たちは槍剣を手に馬を走らせてきました。お願いですから、 我々にも奇跡をお見せください。神の思し召しに従って建てられたこの都市と、主 に仕える百姓たちを、野獣の牙と爪からお守りください。永眠する前日に洗礼を受 けたコンスタンティヌス大帝が、皇帝の紫朱色の官服ではなく主の息子であること を表す純白の服を着て永遠に主の懐に抱かれたように、私も主にすべてを捧げ、預 けます。コンスタンティノープルという名前ですでに十人の皇帝が主から偉大な愛 を贈られました。主の幼い羊、コンスタンティノープルに哀れみを、聖母マリアよ、 主にお願いしてください。主よ、恩寵をお与えください。
1453年4月2日(月)(イスラム暦22857年3月22日) <スルタンの備忘録>
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Isram暦.
イスラム圏で使われている太陰暦。「ムハマド暦」ともいい、トルコ語ではヒズリ暦、
英語ではヘジラ(Hegira)暦という。先知者ムハマドが迫害を避けてメッカからメディナに移動し た日である622年7月16日(世紀)を元年1月1日としている。太陽暦の1年よりも10~11日短く、30 年に11回の閏年(1年の長さが355日)がある。本書では便宜上スルタンの備忘録も西暦に換算して 表記している。
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始まりは微々たるものだった。1299年、開国始祖でおられるオスマン1世がセル ジュクスルタンの支配から抜け、アナトリア西北部で勢力を確立、新たな政権を立 ち上げられた当時は、オスマン軍はセルジュク・トルコ帝国の十個の封建土候国の なかでももっとも規模の小さい、辺境のみすぼらしい部族国家に過ぎなかった。 コンスタンティノープルから近い国境地帯に場所を確保したオスマンは、最初は ビザンティンとも良好な関係を築いていた。我々は安定と平和を望んだ。春から秋 は野山や原野で遊牧生活をし、冬になると部落に下りてきてビザンティンの百姓た ちと商取引きもした。外部の勢力から我々がビザンティンを守ってあげたこともあ った。 それなのに、キリスト教徒たちは卑劣だった。信じられない輩である。十字軍は 絶えず戦いを仕掛けに来て、同じ神を信じるといいながら自分たちの宗教争いを繰 り返した。この戦争はそれによる罪業であり、このジハードは正当である。 皇帝よ、そなたは第4次十字軍をはっきりと覚えていることだろう。彼らは自分た ちが守るべきキリスト教徒を相手に剣を振りかざし、放蕩三昧だった。その祭物こ そがまさにお前たちではないのか。(1204~1261年まで第4次十字軍がラテン王国 を建ててコンスタンティノープルを支配)また、自分たちが望んで結んだはずの休 戦協定を自ら破棄したことだって一度や二度ではない。9年前、私が初めてスルタン に就任するやいなや、幼いという理由で(12歳)私を見下したお前は、アナトリア のカラマン(Karaman:トルコ中南部とタウルス山脈北側に位置する君候国)をそそ のかして我々を東から攻めさせた。そうして、インクが乾きもしないのに10年間の 休戦協定を破棄させて十字軍を結成、ダニューブ川を渡って侵攻してきた。それが ヴァルナの戦い23だ。戦争をしかけてきたのも、敗亡したのもみなお前たちキリス 23
Battle of Varna. 1444年11月、ブルガリア東部のヴァルナ近郊で起きた戦闘。教皇とビザンテ
ィン皇帝どちらもこれをオスマン帝国に一撃を加える絶好の機会だと考えていた。しかし、結果は正 反対だった。スルタン、ムラト2世の部下オスマン軍6万人は、ブラディスラブ(Wladislaw)3世と ヤヌス・フニャディ(Janos Hunyadi)が指揮していたハンガリー、及びポーランド連合軍(彼らを
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ト教徒たちだ。私が幼いころに母から聞いたキリスト教信仰とはあまりにもかけ離 れた卑劣な偽善者たちである。そこが、約束を守る我々と、そうでないお前たちと がはっきりと分かれる点である。 重ねて言うが、この戦争はお前たちが始めたのだ。お前たちは虎視眈々と我々を 攻撃する機会を狙って、周辺国家たちと十字軍をそそのかして我々の領土を侵した。 また、ビザンティンは我々帝国に反感を抱いたものの政治的亡命地だった。今後も お前たちが、我々オスマン帝国に大小とわず損失をこうむらせることは火を見るよ り明らかである。よって、この戦争は自衛権の正当な発動であり、ビザンティンの 欺瞞政策に対するオスマンの反撃である。二度と十字軍という名でもって我々を苦 しめるようなことは許さない。何よりも、我々を脅かす者は相手が誰であろうと徹 底して征伐して懲らしめる。 コンスタンティノープル征服は、世界を制覇しようという野望を抱いてきたオス マン帝国と先代スルタンの長い夢だった。帝国の始祖(オスマン・カジ:オスマン 帝国初代スルタン、在位1299~1326年)も創建元年から征服事業を手がけ、ビザ ンティン領土を蚕食した。曽祖父(バエジード1世:第4代スルタン、在位1389~1 402年)と亡き父(ムラト2世:第6代スルタン、在位1421~1451年)は特にその ことを強く望んでいた。私の父が幼い私を当代の政治家や学問の大家、武芸の専門 家に預けて厳しく教育し鍛錬したのも、こうした偉大な夢をかなえるための事前準 備だったといえるだろう。 ハディス24にもこう記録してある。 「コンスタンティニエ(konstantiniyye:以下「コンスタンティノープル」と通称) 既存の十字軍と区別し「ヴァルナ十字軍」と呼ぶこともある)2万名を皆殺しにする勢いで撃退し、 ブラディスラブは戦死した。事実上、イスラム圏から見た十字軍最後の戦闘であった。 24
Hadith.「話」または「談話」を意味する。イスラム創始者であるムハマドの人生を記録した伝説
がまとめられたもので、コーランの次に権威を認められているムスリム法と教義の根拠となる第二の 経典である。
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は必ず征服されるだろう。その都市を征服する司令官と軍人たちはどれほど立派で あろうか」 そうなのだ。天に太陽は一つで、神がただ一人しかおられないように、この地上 も唯一の君主が統治せねばならぬ。私がその仕事をやり遂げるのだ。 老いた皇帝よ、現実を直視せよ。コンスタンティノープルは夕暮れの都市だ。ビ ザンティン帝国の滅亡は時間の問題にすぎない。帝国は今死にゆく馬の匂いをかぎ、 集めた獣たちとからすの群れに取り囲まれている。弱肉強食だ。私でなくともこの 都市は、誰かが本格的に包囲し攻撃すれば一瞬にして息の根が止まる運命なのだ。 しかし、我々ではなくほかの誰かによって倒れるならば、ビザンティン帝国には 永遠に平和は訪れない。彼らは平和を維持する意志も能力もない奴らだからだ。 それは、唯一神の啓示を受けた私だけができる仕事なのだ。私のことを世間知ら ずだと言った者もいる。私は世界征服に立ち上がったアレキサンダー大王よりも朝 日をたくさん目にし、それよりもはるかにたくさんの兵士を持っている。私はいま すぐにでもそれを実行に移すことのできるスルタンなのだ。幼年期と少年期にすば らしい師のもとで世の中について学び、国政を経験し、戦争を経験してきた。 二十一歳ならば、学問に没頭し、世の道理に通じるのに十分な年齢だ。それぞれ の分野で当代最高の実力者であり、かつ多方面の学者や専門家たちが私の個人教授 についてくれた。科学や哲学、天文学や占星学、イスラムおよびギリシャ文学も例 外ではなかった。(351~356ページ参照) この世界全体も、私の野望の深さには満たない。私はこの都市を預言者の啓示に 従って、世界征服の中心に置くのだ。亡き父が私の名前を預言者ムハマドと同じ名 前にしてくれたことも、この盛典を実践せよという意味からに違いない。文明や文 化も、守るだけの能力のあるものが守れるのだ。皇帝よ、憂慮することなかれ。 我々は文明を破壊しにきたのではない。既存の文明の上により燦燦たる文明の花を 咲かせるために我々はここにやって来たのだ。よき主人にめぐり合わない限り、文
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明も花開かないというものだ。 さぁ、これからが始まりだ。彼の兵士たちは選抜隊として送り込んだ私の兵士た ちを殺した。許しはしない。百倍、千倍にして返してやる。 アラーよ、預言者ムハマドの課業を実現しようとしているこの若きスルタン、メ フメトに力と勇気をお与えください。神に栄光を捧げます。 52
4月6日(金) <皇帝の日記>
敵の攻撃が始まった。 大砲の発砲が開戦を告げる最初の信号弾だった。いったい何門になるのだろうか 25
。想像していたのよりももっと大きな轟音が地軸を揺るがした。しかし、我々に
は難攻不略の鉄甕城がある。兵士たちにも築城以来一度も穴をあけられたことのな い千年要塞の存在を強調した。それなのに、なぜこれほどまでに不吉な兆しと、た だごとではない予感がするのだろうか。 25
オスマン軍が動員した大砲の数は、記録者によって規模が異なる。フランチェスはそれぞれ4台
の大砲を保有した14個砲兵中隊、バルバーロは9つ砲兵中隊と把握した。モンタルドは合わせて200 門ほどとみている。ミザトビチは56門の重砲、12門の大砲、1門の巨砲(バシリカ)で合わせて69 門が配置されたと記述している。テタルディは、その他にも砲銃形態の小型大砲1万門について言及 したが、これは誇張された数値で、実際は約500門の砲銃が動員されたとペリドゥン教授は主張する。 フランチェス、ドゥカス、バルバーロなどはみな「ここまで強力な砲兵はかつてなかった」と証言し た。砲兵隊布陣は4月11日に完了した。
敵の主将スルタン、メフメト2世が到着したのは昨日、4月5日日の昇る一時間ほ ど前だった。そして今日、大砲を使った敵の初攻撃が始まった。 メフメト2世は1432年3月30日、アドリアノープル生まれだ。まだわずか二十一 歳。私とは二十七歳も年の離れたひよっこだ。 しかし、甘くみたり侮ってはなるまい。彼はすでに幼少期と少年期からアマシア (Amasya)をはじめとするマニサ(Manisa)総督職を遂行するなど、後継者教育を徹 底して受けてきている。オスマン歴史上初めて1444年8月に十二歳という幼い年で スルタンの座につき、二年で父ムラト2世の側近によって退位させられ、1451年2月 に父親が死ぬと再び最高権座についた。 最初、メフメト2世は私をはじめとするヨーロッパの君主たちにとっては、単なる 「世間知らずのスルタン」に過ぎなかった。ところが、その後彼が見せたありとあ らゆる非常に奇怪で理解不能な行動によって、彼の認識は急変し、今では「何をし でかすかわからない問題児」で落ち着いている。オスマン宮殿に送ってあるスパイ たちも、ときどきそうした危険信号と警告を送ってきている。 メフメト2世は、紳士としての品格を兼ね備えた君主だった彼の父スルタン、ムラ ト2世とはさまざまな面で徹底して比較される人物だ。ムラトもやはりコンスタンテ ィノープルを狙って侵攻してきたことがあったが、それでも彼は温和な気質で戦争 よりも平和を好む人だった。自分の国を守る必要があるときは手段と方法を選ばな かったが、名分のない攻撃はしなかった。キリスト教国家と結んだ条約を守ろうと する心意を見せた。キリスト教国家が条約に違反し、約束を破ったときは徹底して 報復したが、敗者が平和を望む使節を送ると、剣を置く術を知っている人だった。 属国やビザンティンの百姓たちの間でも、恨みをもつものは少なかった。比較的公 正で良心的だった。成熟した判断を下すことのできる人だった。キリスト教とキリ スト教徒に対しても。最小限合理的で友好的な態度をとった。ならずものの息子と
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は本質的に異なる人間26だったのだ。 メフメト2世はこれまで数回にわたって使節を送ってよこし、平和を装った降伏を 要求してきた。そかし、鷹とからすは決して友達にはなれないと決まっている。私 はあの人たちの醜悪な計略と野望を知り尽くしている。ほかの事は譲歩できるかし らないが、このコンスタンティノープルだけは譲れない。絶対に敵の手中、異教徒 54
の足元に置くわけにはいかないのだ。 敵の兵力は果たしていかほど規模なのだろうか27?
4月2日選抜部隊の馬の蹄の
音が聞こえてから、朝目覚めると、その数が幾何級数的に膨れ上がっていた。報告 によれば少なく見積もって7万、多くて30万までというのだから、見当がつかない。 敵の貼った天幕がこの数日の間に雨後の竹の子のごとく増えていった。地平線を悪 魔の角が覆っているようだった。夜には巨大な不夜城が形成された。天幕の数を見 る限り、城郭住民の数より多そうだった。 反面、我々ビザンティン兵力28はジェノバとベネチア連合軍まで合わせても、せ 26
皇帝が言及したムラト2世の人物評は、歴史学者ドゥカスの記録の大部分を参考にしたものだった。
実際にムラト2世はメフメト2世とは違いヒューマニストだったと思われる。オスマン帝国のある記 録は彼と関連し、次のような逸話を伝えている。「1450年極寒を控えてクルエ城の包囲を解いたと き、ある側近が彼に冬季軍事作戦を提案した。するとムラトは『私はそんな要塞を50個をくれると いわれても私の兵士一人とは換えられない』と答えたという。その当時、絶対的に部下たちの生死与 奪権を手にしていたスルタンとしては、異例なことであり意味深な発言といえるだろう。 27
英国の歴史学者スティーブン・ロンチマン(1965年)とエドウィン・ピアス(1903年)は、オスマ
ントルコの兵力規模を当代の作家たちの証言から引用、集約した。少ないもので8万以下、多いもの で40万以上とそれぞれである。ドゥカス(40万以上)、チャルココンディレス(40万)、クロトブ ロス(幕舎担当兵を除く30万)、レオナルド(イェニチェリ含む30万)、フランチェス(26万2 千)、テタルディ(騎兵3~4万を含む戦闘兵14万、総20万)、バルバーロ(15万)、チェイルルラ(8 万)モルトゥマン(8万)、バービンガー(最大8万:当時オスマン帝国人工の構造上8万以上の戦闘兵 選出は不可能だったと推定)。ただ最精鋭イェニチェリ部隊が1万2千名だったという点においては、 概ね意を同じくしている。しかし、現代のトルコ学者らは実際の兵力数をそれよりもかなり少なく見 ている。現在この分野の権威者であるペリドゥン教授は、正規軍を4万人水準と推定している。 28
1453年3月末、コンスタンティヌス皇帝はフランチェスに、修道士まで含む城郭内のすべての戦
いぜい7千から8千の水準ではないだろうか。城郭の外に住む百姓たちまで城の中に 呼び寄せたが、敵の頭数には遠く及ばない。女子供まで合わせても5万に至らないだ ろう。城郭人口を最大動員したとしても、全体城壁(20.8キロメートル)を取り囲 めない。兵士たちだけではやっと城壁(6.4キロメートル)を囲めるかどうかだった。 ああ、帝国の隆盛だったとき、あの恍惚と輝いていた領土はみなどこに消えてし まったのか。アナトリアの丘陵地の平穏をオスマントルコに奪われさえしなかった ら、ここまで劣悪な状況にはならなかったであろうに……。軍量の主要供給源であ り、新兵募集の根拠地だったアナトリアは、いまはもうオスマンの領土になった。 今、城壁の前に布陣した敵の中にも、この地出身の兵士たちがかなりるはずだ。 しかし、「衆寡敵せず」という言葉は決して使わない。「一騎当千」の覚悟で先 頭に臨めば神は我々を助けてくださるはずだ。生き残ろうとすれば死に、死ぬ覚悟 で挑めば生き残れるものだ。 「神に愛されている人よ、恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ」(ダニエ ル10章19節)
<スルタンの備忘録>
この瞬間をどれほど待ち続けたであろうか。積もり積もった熱望が私をこの都市 に導いた。ついに我々軍隊が都市を完全に包囲したのだ。おお、私の立派な勇士た ちよ、誇らしいガジ(Gazi:イスラム戦士)たちよ!
百戦百勝のキケロ・テオドシ
ウスの城壁に立ち向かったのだ。敵は彼らの威容に圧倒され、明りのともった野営 闘可能な人員数を集計するように指示した。その結果はギリシャ人4,983人、外国人2,000人を若干 下回る水準だった。驚いた皇帝は調査記録を秘密にするよう命じた。当時の目撃者たちもそれと似た ような数字を提示した。レオナルド大主教はギリシャ人6,000人、イタリア人3,000人と記録した。 テタルディは6,700人、ドルフィンは6,000~7,000人、ドゥカスは8,000人以下と見ている。20世紀 の歴史学者スティーブン・ロンチマンは7,000人程度と推算した。
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天幕を見て驚くことだろう。 何人かの父の側近たちの計略によって、スルタンの地位から二年で引き摺り下ろ された私が、マナサ総督として流刑ならぬ流刑生活を余儀なくされたときも、この 巨大な課業を一瞬たりとも忘れたことはなかった。亡き父とともに参戦した1448年 のコソボ戦闘と1450年のアルバニア遠征は、私の意思をさらに燃え滾らせた。 父ムラト2世の死去により、再び権座に上ったとき、私はいうまでもなくコンスタ ンティノープル陥落に焦点を定めていた。寝ても覚めてもそのことしか考えられな かった。オスマン帝国領土の中間に島のごとくいすわっているこの都市を手中にお さめてこそ、我々は安泰なのだ。世界帝国建設もそれでこそ可能になる。預言者が 予言したイスラムの平和と秩序を維持できるのだ。「喉の奥に刺さった小骨」のよ うなコンスタンティンノープルを取り除いてこそ、その後の食事が喉を通るという ものだ。喉の奥から必ず小骨を取り除いてみせる。 曽祖父のバエジッド(Bayezid)1世の別称は「ヨルドゥリム(Yildirim)」だった。 これは光、あるいは稲妻を意味する。それだけヨーロッパにぱっと現れたかと思う と、今度はアジアに彗星のごとく現われ、軍隊の移動は稲妻のごとく迅速で、戦闘 スピードもまた光のごとく早かったという意味である。私もまた曽祖父の尊称に恥 じぬよう、稲妻のごとく早い速度で世界を征服していくだろう。 徹底して準備をし、用意周到に計画を立てた。亡き父ムラト2世のときとは異なり、 陸地だけ封鎖するのではなく、海も塞いでおいた。ルメリ・ハサール(ヨーロッパ の城)がボスフォラス海峡に剣を突きつけている限り、黒海地域からの支援は到底 期待できないだろう。征服に障害になりそうな国家と親善条約を結び、外交的な措 置もすでにとってある。 この日のために新種平気を開発し、動員可能なあらゆる武器や軍事装備を集めさ せた。我が領土のあらゆる兵器工場はこの冬、一日も休まず稼動していた。槍、剣、 矢、火矢、斧、兜、鎧、軍靴、盾、弓などが次から次へと出来上がった。
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黒海と地中海沿岸の造船所では、経験豊富な造船工たちによってさまざまな戦闘 用船舶が建造されていた。ヨーロッパとアジアのあちこちから熟練した船員と船舶 の技術者、水兵たちを集めることも同時に進めた。 私は特に攻城用武器の開発に力を注いだ。先代のスルタンたちがコンスタンティ ノープル征服に失敗した最大の原因は、この城壁を打ち壊す武器が脆弱だったため と思われるからだ。既存の破城槌(Battering Ram:城門や城壁を叩き壊す際に使う 攻城用の槌)では不足だった。そのため私は難攻不略と称えられているテオドシウス の城壁を爆発させる莫大な火力を持つ巨砲を新に開発し完成させた。その名を「ウ ルバン(Urban)の巨砲」という。 数多くの人力と費用を投入して製作した巨大な巨砲は、エディルネからコンスタ ンティノープル城郭の前まで運搬するだけでも二ヶ月かかった。事前に50人の熟練 工と200人の人夫で構成した選抜隊員らが巨砲が移動する道路を整え、橋をかける 作業を完了させていた。その道の上にオスマンの新種平気である巨砲が、60頭の牛 が引く30台の押し車に載せられてここまで運ばれた。車が道の外に外れないように するために動員された人力だけでも二千人ほどになった。 私は3月23日、エディルネを出発して4月5日最後の分隊と共にコンスタンティノ ープル城壁の外郭に到着した。海軍基地のあるゲリボル(ガリポリGallopli)をはじ めとするオスマン全域と配下の属国から陸路と海路をへて、私の軍士たちが歩いて、 馬を走らせて、戦艦に乗って、コンスタンティノープルに続々と進軍、私が到着す る前にすでに集結していた。彼らの中には、軍隊の士気を高めるための学者やムス リムの指導者も含まれていた。その数は全部で8万余りに上ったと思われる。しかし 怯えたビザンティン皇帝と市民たちの目には、おそらく20万、30万を超える大軍に 映ったことだろう。 初攻撃を前に降伏をすすめる使節をビザンティン宮殿に送ったが、愚かな皇帝は 結局私の慈悲を無視した。血でもって、死でもってその代価をしっかりと払うこと
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になるだろう。 動くな、お前たちは完全に包囲されている。袋のねずみも同然だ。降伏しない限 り、海にも陸にも地下道にも生きて逃れられる道はどこにもない。 今日は我々イスラムの安息日である金曜日。驚天動地の大砲の抱合と共に我々は この神聖なる戦い、ジハードの第一歩を力強く踏み出した。 神に栄光を捧げよう。アラー以外に神は存在しない。
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