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KSA TPM·EAM センター 革新、人あってこそ Ja p a nes e

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革新、人あってこそ (혁신, 사람이 첫째다) Korean Standards Association Publishing corp. / 2013 / 29 p. / ISBN 9788992264570 93320 For further information, please visit: http://library.klti.or.kr/node/772 This sample translation was produced with support from LTI Korea. Please contact the LTI Korea Library for further information. library@klti.or.kr


革新、人あってこそ 作者 KSA TPM•EAM センター

サムスン・トータル

TPM革新ストーリー

韓国標準協会メディア

Chapter1 革新の火をともす

潰れそうな会社を持ちこたえさせよ / 「どんなに大変でもわれわれには底力があります。力を合わせて危機を克服し、わ たしたちの手で西海岸時代1を開拓しましょう」 その瞬間、社員全員がひとつになれたと思えた。入社以来、久しぶりに味わった感 情だった。ひょっとしたら何か変わるかもしれない、という希望も芽生えていた。

相次ぐ赤字、事故だらけの工場

赤字になるのは当然?

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(訳注)1980 年代後半、対中貿易の拡大にともない中国と地理的に近い西海(黄

海)が貿易に有利だとされ、韓国国内の南東圏における産業過密化による国土の不 均衡を解消することを目的に均衡開発政策が推進され、西海岸が経済開発の中心と して重要な役割をになう時代が来たこと謳われた。

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「工場が動き出して間もないんだから、これくらいの苦労は当たり前なんじゃな いのか?」 「もっと危なくなったらグループがなんとかしてくれるさ、今から心配してどう する」 サムスン・トータルの前身であるサムスン総合化学は、1988年サムスングループ の第2創業宣言 2とともに設立された会社だ。意気揚々とスタートを切り、対内外か ら多くの注目も集めた。装置産業という性質上、会社設立から経営が正常な軌道に 乗るまで一定期間が必要なのも事実だった。だが、その時間があまりに長引いてい た。 工場建設以来、1995年に一度だけ黒字を記録したことをのぞけば、ずっと赤字の 一途をたどっていた。だが、内部の雰囲気は違った。会社の状況が芳しくないと感 じている社員はほとんどいなかった。むしろ、工場建設からまだ間もない時期なの だから赤字になるのは当然だという安易な認識をしている社員も多かった。悪夢の ような危機が足音を立てずに近づいてきていたが、不幸なことにその不吉な前兆に 誰も気づくことができなかった。 会社の会計帳簿が赤色に染まっていくよりも深刻な問題は、目に見えない工場の 負債だった。二十四時間休みなしに稼働する装置産業において、予期せぬ工場の稼 働中断は致命的な結果を招くことになる。金銭的な損失は言うまでもないが、やや もすれば人的被害につながることもあるからだ。

日常茶飯事のごとくストップする工場 きちんとした工場であれば、工場が稼働中に停止する大事故は年に一回あるかな いかのことだ。ところが、サムスン総合化学では一年のうちに三、四回工場が稼働 2

(訳注)創業 50 周年となる 1988 年に発表した宣言。量より質を重視し、変化と

改革を求める新しい経営理念をスタートさせた。

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停止する事故が発生していた。だが、社員らはその深刻さをろくに認識できていな かった。石油化学工場はしょっちゅう故障しては中断するもの、という根拠のない 思い込みが事実のように広まっていた。 現場の安全に対する意識の低さは結果的に大きな事故へとつながった。単純に工 場の稼働がストップする事故だけに終わらず、同僚社員が命を失う人的被害が発生 するまでにいたったのだ。すでに慢性的な赤字を出していた工場に大小の事故が繰 り返し起こったことで経営実績はさらに悪化した。悪いことがまた次の悪い出来事 を生むという悪循環の連続だった。 遅ればせながら危機を察知して革新活動を推し進めたが、一部の工場に限られて いた。現場革新のために韓国国内にちょうど紹介されはじめていたTPMを試験的に 導入したものの、かなり初歩的な段階にとどまっていた。 現場の雰囲気は最悪だった。新生企業という特徴柄、中途採用の社員の割合が高 かったため、組織はまるでバラバラだった。先輩、後輩間における連帯感もなく、 組織の力をひとつに結集させるだけの求心力もなかった。社員たちは時間さえあれ ば三々五々集まって不平不満を並べた。一部の社員のあいだでは「このままじゃ会 社がつぶれるかもしれない」という自嘲交じりの話が出るほどであった。

LIFT21、 潰れかかった会社を救え

‘LIFT’唱え、‘21’で和合 「今後、ビジョンという言葉を使うのはやめましょう。われわれにビジョンは贅 沢な単語です。今は生き残ることを真剣に考えるときです。生き残りこそがわれわ れにとってのビジョンです」 1996年12月、サムスン総合化学の四代目代表取締役に就任したユ・ヒョンシク社

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長の覚悟に満ちた就任あいさつに社員たちは緊張した。この時はじめて社員たちは 自分たちの前に立ちはだかった危機を実感することとなった。 ユ社長は全社を挙げての経営革新ドライブでもって目の前に立ちはだかった危機 を脱しようと訴えた。彼はエンジニア出身らしく、現場革新の重要性を誰よりも熟 知していた。現場中心の変革が行われていなければ、危機に瀕した会社を救うのは 困難だと判断した。階層ごと、部署ごとのリレー懇談会や討論会などを何度も開催 して全社を挙げての革新活動についてのアイデアを具体化させ、また雰囲気づくり にも取り組んだ。 ようやく現場に活気が生まれたように見えた。こうした熱気を社内全体に広めて コンセンサスを形成していくために、全社員を対象に経営革新活動に関するスロー ガンの公募も行った。 公募に集まった数多くの候補作の中から‘LIFT21’が最終的に選ばれた。技術およ び市場を導くという「リーディング Leading」、生産および開発革新の「イノベー ション Innovation」、経営資源を集中させる「フォーカス Focus」、超一流企業を 目指すという「テイクオフ Take-off」の英単語からそれぞれの頭文字をとった。こ こに2000年に1,000億ウォンの損益改善を果たすという意味から21という数字を加え て命名された。 全社の革新活動のスローガンとして‘LIFT21’の推進が発表されるや、‘LIFT21’はほ どなくサムスン総合化学の革新を象徴する概念であると同時に、ひとつのキャッチ フレーズとして定着した。会社のあちこちから‘革新’あるいは‘LIFT21’という言葉が 自然と聞かれるようになった。さらには会社の飲み会の席でも乾杯の時に誰かが 「LIFT」と発声すれば「21」と合いの手を打つほどであった。

現場の革新はTPMで LIFT21の核心は自主革新だった。革新を通してコストを削減し、プロセスを改善

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していくことで会社が陥った危機から抜け出せるようにするという大きな枠組みを 作り、部署別、工場別にそれぞれの現場の状況に合わせて革新活動を推進していく ことにした。 社を挙げての革新の合言葉はLIFT21だったが、各部署のキャッチフレーズはみな 違った。結果的には部署ごとにそれぞれ個別の‘スモール’LIFT21が集まり、会社と してのLIFT21が出来上がった。 現場革新の活動にもっとも適したツールとしてTPMが候補に上がった。当時、TP Mは韓国国内に導入されてまだ間もなかったが、産業界からかなりの注目を集めて いた。サムスン総合化学でもすでに一部の工場を対象に試験運営が行われていた。 1997年9月1日、TPM推進を公式に宣言し、9月5日に全社レベルで‘LIFT21発進大会’ を開いた。チームごとの登山大会が終了した後、近所の小学校の運動場を借りてLIF T21の推進を宣言する意義のある行事を開いた。ステージ上には厳かな音楽ととも にナレーションを担当した女性社員の覚悟に満ちた声が聞こえた。 「どんなに大変でもわたしたちには底力があります。力を合わせて危機を克服し、 わたしたちの手で西海岸時代を開拓していきましょう」 その瞬間、社員全員がひとつになれたと思えた。入社以来、久しぶりに味わった 感情だった。ひょっとしたら何か変わるかもしれないという希望も芽生えていた。

トータル‘ペンキ’マネージメント?

どこの金物屋もペンキが売れ切れに 「TPMを導入するだって?

トータル‘ペンキ’マネージメントだと?」

「じゃあ、ひたすらペンキを塗りたくれって話か?」 TPMを導入して真っ先に取りかかるステップが早期清掃だ。作業場の周辺をきれ

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いに清掃し、設備本体を中心にほこりや汚れを取り除く作業をおもに行うことにな る。その過程には装置についたさびを除去してペンキを塗る過程も含まれている。 ペンキを塗りなおすと改善した点が目につきやすい。そのためTPMをするという と、現場ではただ設備を磨いてペンキを塗ることだと思われていた。実際、TPM導 入当初、産業団地内で色々な企業が一斉にTPMを導入したために近所のペンキ屋で ペンキが売れ切れになり、慌てた経験もした。 この一件以来、現場の人間は笑い話でTPMのことをトータル・プロダクティブ・ マネージメント Total Productive Managementではなく、トータル・ペイント・マネ ージメント、またはトータル・‘ペンキ’マネージメントと呼んだりした。‘TPM=ペ ンキ塗り’という単純な等式が出来てしまった。 当時は国内にTPMが本格的に導入されて間もなかったため、TPMがきちんと行え ている企業はごく少数に過ぎなかった。 TPMの導入効果を視覚的に表現することのできる一種のアピール型‘ショーイング Showing効果’に集中してしまう結果、TPMを導入したといっても企業がTPMの精神 や本質を十分に把握できないまま‘見栄えだけTPM’という状態に陥っているケース が多かった。 そのため、LIFT21を行うための現場革新の方法論としてTPM導入を宣言したとき、 現場の反応は冷め切っていた。それまでやってきたQC Quality ControlやTQC Total Quality Controlといった活動の名前だけを変えたものだと思われていた。パッケージ を新しい名前に変え、あれこれプロセスだけつけ加えて意味もなく仕事だけが増え ていくんだろうという不安が広まっていた。

TPM派と非TPM派の衝突 TPMを導いていくべき管理職のあいだでもTPMに関する明確な概念規定がなされ ていない状態だった。TPMが何なのかよく分かっていない管理職も多かったが、中

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途半端に知っているというのも問題だった。 新生企業という組織の特徴上、中途採用の社員も多かったのだが、以前の職場で TPMを一度も経験したことがない、という人間はいなかった。そのため、それぞれ の頭の中に入っているTPMに対する概念や定義がみな違った。 「装置産業ではTPMの効果を期待するのは難しいはずです」 「TPMは8本柱が核心です。8本柱ができなければTPMをしたとは言えませんよ」 しばらくのあいだ社内でTPMの定義や進め方について賛否両論が繰り広げられた。 TPMを実行することにしたものの、きちんと理解できている人間もおらず、またそ のせいでTPMそのものに十分な確信も持てなかった。 TPMが現場革新にもっとも適しているというTPM派と、装置産業にTPMは合わな いという非TPM派に分かれていた。また、TPM派の中にもTPMの進め方やプロセス に関してそれぞれ異なる意見を持っていた。 そうした論争のなか、管理者たちはもちろんのこと、現場の社員らでさえもTPM が果たして沈みかけた会社を救う命綱になるのか訝しそうにしていた。だが、期待 半分、心配半分の心情で見守るよりほかなかった。

装置産業のTPM 成功事例を探せ

TPMは組立加工工場用? 1950年代以前まで、装置産業の設備管理は全面的に事後に行われていた。すなわ ち、故障が起こってはじめて設備を止めて修理をしていたのだ。自動車のタイヤが パンクしたり、タイミングベルトが切れてからカーセンターに出向くという風だっ た。これを事後保全Breakdown Maintenanceという。

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だが、問題が起こってから解決する、いわゆる後の祭り式の処方では設備の効率 的な活用や管理を期待するのに無理があった。そこで、1950年代のアメリカではこ うした事後保全方式の設備管理の限界を克服するための方法として、予防保全 Prev entive Maintenanceというものを導入した。これは、定期的な設備点検や早期修理に よって設備に故障が起こる前にあらかじめ措置を講じておくやり方だ。問題が発生 する前に事前に措置をとることができるので機会損失をなくすことができ、はるか に経済的であるだけのみならず、事故も減らせる。 予防保全は進化を遂げ、アップグレードした形に発展する。単純に設備のメンテ ナンスに限ってのことではなく、設備の設計から製作、保全にいたるまで、設備の 全ライフサイクルにまたがる管理を通じて損失を減らし、企業の生産性を高められ るようにする。それがまさしく生産保全 Productive Maintenance、すなわちPMであ る。 アメリカ式の設備管理方法であるPMは1960年代に日本に上陸して花を咲かせた。 日本企業はアメリカから学んだPMを生産現場にだけ適用させるのではなく、会社全 体の概念として拡大させた。どんなにきちんと設備を管理するといっても、企業の 体質が変わらなければ意味がないことを知っていたからだ。 設備にとどまらず、企業のあらゆる分野に関する保全活動という意味で‘トータル Total’という修飾語がもうひとつつけ加えられたのが、TPMである。名前は似てい るが、概念は少し異なる。アメリカ式PMが設備に焦点を当てているのに対し、日本 のTPMは人間の変化に焦点を当てており、それを通じて企業全体の体質を改善する ことを目標にしている。アメリカ式のPMが装置産業から出発したのとは異なり、日 本のTPMはおもに自動車産業を中心に普及した。トヨタ、日産、マツダといった自 動車メーカーがこぞってTPMを導入して大きな成果を収めたのに続き、家電、電子 部品、機械産業でも導入ブームが巻き起こった。成功事例の大半が組立加工工場に 集中していたため、草創期にはTPMに‘組立加工工場用’革新方法論というレッテル

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が貼られていたのも事実だ。 装置産業、とりわけ石油化学産業でTPMを導入し成功を収めた事例が多くなかっ たため、導入決定が下されたあとも、その概念や推進の方向性をめぐって連日討論 が行われるなどの話し合いが続いた。うまくやっていけるのか一抹の不安も覚えた。

出光のTPMを読む こうした雰囲気を打ち破って草創期のTPM導入に大きな力となってくれた一冊の 本がある。それは、1995年に韓国語翻訳版が出版された『装置産業のTPM成功事例』 という本だった。この本は日本を代表する精油および石油化学会社である出光興産 Idemitsu Kosan Co., Ltd.のTPM成功事例を取り上げたもので、サムスン総合化学がT PM導入を決定し、草創期の方向性を検討するのに大きな力となってくれた。 出光の出光裕二社長は著書の中で“1984年に千葉製油所の所長をしていたとき、機 会組立工業でさかんに展開されていたTPMを石油精製という大型装置産業に初めて 導入した”と振り返り、“当時、石油精製のような装置産業用のTPMのテキストはな かったので、製油所に合った活動方法を自分で考えださなくてはならず苦労した”と 述べていた。 出光もまたTPM導入当初にこれといって参考になるようなテキストがなく苦労し た経験を思い起こし、同じような状況に直面している他の企業のためにこの本を発 刊したという。社内に本の評判が広まり、関心のある者には一読させるようにした。 本を読んだ者たちは石油化学工場でもTPMは十分成功できるはずだ、という慎重 ながらも確信を抱くようになり、導入初期においてサムスン総合化学式のTPMの方 向性を見出すのに大きな手助けとなった。本から得た情報をより深く学ぼうと考え、 出光ベンチマーキング研修を実施することにした。

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出光から三菱まで 3泊4日の強行スケジュール

‘社長さん’が来るですって? 「本当ですか?」 「本当ですか?」 日本の出光千葉工場の社員は到底信じられないとでもいうように、二回、三回と 同じことを訊き返した。ベンチマーキング研修団に社長が含まれていると話したか らだった。 それまで数多くの会社がベンチマーキングに訪れたが、社長本人が来たのは一度 もなかったので驚かれても無理はなかった。サムスン総合化学の経営陣の変革に対 する意志がそれだけ固く、状況もまた切迫していた。 1997年10月、社長を含む経営陣とおもな部署長、現場監督らを含めた23名のベン チマーキング研修団が日本の精油および石油化学会社である出光興産を訪問した。 成田空港に到着し、出光の千葉工場へと向かうバスの車内は重い空気に包まれて いた。大幅な赤字により会社が厳しい状況に置かれていることを社員も十分知って いた。社内事情がそのようななか、これほど大規模な研修団を海外に送り込むこと について訝しがっているようにも見えた。自分たちの前に立ちはだかるあまりに大 きな業務負担を思ってか、あるいは見慣れない環境に対するぎこちなさのためか、 研修団に参加した社員らは会話もほとんどなく、みな目を閉じているか、無表情の まま窓の外ばかり見つめていた。 研修団を乗せたバスが出光千葉工場の正門をくぐると、静かだったバスの中が突 然騒がしくなった。バスの窓の外には驚くような光景が広がっていた。多くの社員 が会社の正門で整列をし、研修団の乗ったバスに向かって拍手をしながら出迎えて くれていたのだ。時間の許す社員はほぼ全員出てきているように見えた。見知らぬ

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国から見学しに訪れた人間に対するもてなしとは思えないほどだった。 「出光は終身雇用と無労組を基盤とする典型的な日本型企業です。人間を尊重し、 礼儀を大変重んじる企業文化を持っているので、自分たちのところを訪ねてきたお 客さまに最大限の礼を尽くしたのです。予想だにしなかった盛大なもてなしに、わ れわれ社員みないたく感動しました」 当時、日本駐在員として勤務し、ベンチマーキングのためのコーディネーターや 通訳など、一人三役をこなしていたカン・ヒマン常務の回顧だ。 簡単な歓迎式を終えて会議室に集まり、TPMの歴史や導入プロセスなど、TPM理 論について紹介する時間へと続くときも、研修団の雰囲気は依然、重苦しいものだ った。TPMについて否定的な見方がまだあり、TPM導入が今後、人員削減などの形 で自分たちに跳ね返ってくるかもしれないという不安がまだ残っていたからだった。 「TPMは業務時間にしてはいけないんですか?」 「業務のあとにすれば、残業手当はもらえますか?」 「TPM活動をすることになったら、業務の負担はどのくらい増えるんですか?」 質問もTPMの問題点やもしかしたら起こりうるネガティブな影響面に集中してい た。

目視による管理、一目で工場に惚れこむ TPM理論についての紹介がすべて終わり、現場を見学するために事務所の外に出 たころには雰囲気が少しずつ変わり始めていた。 まず、あまりにきれいな工場にみな驚いた。当時、第1次ベンチマーキング研修団 の一員として出光工場を訪れていたソン・グァンイル技術長(定年退職)は落ち葉 がひとつも落ちていないことに深く感銘を受けた。 「見学に行ったのは秋だったのですが、工場に落ち葉が一枚もないんです。よく 見てみると、工場の敷地内に植えられた木はすべて常緑樹でした。とても些細なこ

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とひとつひとつにまで気を配っているのを見て、感じさせられるところが少なくあ りませんでした」 研修団のメンバーらの目に一番に飛び込んできたのは目視による管理、すなわち 肉眼で行う管理だった。パイプラインの用途に合わせて色別にペンキが塗られてい て、バルブごとに内容物の進行方向に沿って矢印がつけられていた。パイプの中を のぞくことなく現場の状況がどうなっているのか一目瞭然になっていた。とりたて て難しいとか特別なものではなかったが、その効果は驚くべきものだった。 「わあ、すごいな」 「石油化学工場もこんなふうに管理できるとはなぁ」 「ああいうのはうちの工場でも今すぐできそうだよね?」 交流会というよりは一方的に教えてもらう立場だったが、出光の社員は熱心かつ 献身的に接してくれた。ベンチマーキングに必要な資料を頼むたびに惜しみなく提 供してくれるのはもちろん、自分たちの活動の状況を少しも包み隠すことなく、あ りのままを見せてくれた。 参加者の数名がおそるおそるカメラを取り出し、重要ポイントを写真に撮った。 出光側も写真や動画の撮影について一切問題視せず、すべて撮影できるよう配慮し てくれた。 TPM導入の草創期にTPM推進リーダーとして大活躍したソン・グァンイル技術長 はこの日のベンチマーキング後、韓国に戻って自費でビデオカメラを揃え、次のベ ンチマーキングからは工場の隅々を撮影して持ち帰るようになった。 「あ、カメラマンさん、また来られたんですね」 出光の社員は工場に来るたびにビデオカメラを手に現場を動き回る彼を見て、‘カ メラマン’というあだ名をつけて親しみを持って接してくれた。また、撮影を制止す るどころか、汗を流しながら撮影している彼を助けてあげようと代わりにカバンを 持ってくれたりもした。

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研修団メンバーの目つきが変わる 出光での第1回目の交流会を終えた研修団一行は、列車で一時間ほど走って東京駅 に着くと、今度は新幹線に乗り換えた。日本に到着して一日が経ち、緊張が少しほ ぐれたのか、あるいは出光でもてなしを受けて驚くべき光景をたくさん目にしたか らか、社員たちの表情は多少明るくなっていた。一貫して沈黙だった初日とは違う 雰囲気だった。 「直接見てみてどうだった?」 「いやあ、思ってたより良かったんじゃないか?」 「自分たちが持っていた固定観念とは違うようだし」 隣の席に座った同僚と出光で見聞きした内容について話を交わす様子が目に入っ た。最初に日本に到着したときとは違って、否定的だった表情が肯定的に変わって いるようだった。 東京駅から新幹線に乗ってさらに5時間走り、三菱石油化学のある岡山県倉敷市に 到着した。ソウルから釜山までの距離よりもさらに長距離を移動する強行軍だった。 時間に追われ、移動距離が長かったため、3泊4日の研修期間中、昼食はバスか電車 の中で弁当で済ませた。三菱ではより体系的かつ理論的な高水準のTPMに関する話 を聞くことができた。三菱のTPM担当者は研修団のどんな質問にも論理的かつ理論 的によどみなく説明してくれた。 現場で少しの隙やあら探しをしようにも見つからなかった。すべてが完璧に見え た。TPMを実施するための社内制度や運営方法、そして現場の様子などを見学しな がら感嘆の言葉が出た。研修団のメンバーらの目つきが変わっていくのが分かった。 結果として、二社に対して行ったベンチマーキングは理論と実際という絶妙な結合 によって大きなシナジー効果をもたらしてくれた。

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一夜にして誕生した‘TPM伝道師’たち 3泊4日の日程で行われたベンチマーキング研修の最終日の夜。すべての交流会を 終え、打ち上げをするために訪れた居酒屋で社員らは上気した顔で酒をくみ交わし た。 いつにもまして声のトーンが高かったが、空気は180度変わっていた。TPMをする かしないかという話はすでにもう消えてなくなっていた。 「われわれも十分できます。いっぺん、やってみましょう」 「わたしは残りの会社員生活をTPMにすべて捧げます」 こうして始まった日本ベンチマーキング研修は20~30名ずつ、1年に数回ずつ行わ れ、600名を超す社員がベンチマーキングに参加した。その結果、ほぼ大半の現場ス タッフが日本研修を経験することができた。会社の財政状況が芳しくなく、破産直 前までいっていた社内事情を思うと、破格ともいえる決定以外のなにものでもなか った。 限られた条件の中でコストを削減するために日本駐在員らが通訳、コーディネー ター役、弁当の手配まで買って出てくれ、彼らには本当に苦労をかけた。 「3泊4日のハードな日程を終え、成田空港で社員の見送りを終えると、全身の力 が一気に抜けてその場にしゃがみ込んだほどでした。飛行機が飛び立ったあとも、 しばらくのあいだ空港で休んで、それから家に帰ったものです」 当時、東京駐在員だったカン・ヒマン常務の回顧だ。そんな熱意のおかげでTPM の活性化も早々に達成された。ベンチマーキングを行う直前までは、みなTPMにつ いてとりたてて何も考えていなかったが、研修を終えて帰る頃には一同みな熱心な ‘TPM伝道師’に変わっていた。

5S?

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わたしたちは清掃員ではありません

現場管理の五つの基本活動 「どういうことだよ?

ただでさえTQCで手一杯だっていうのに」

「こんな大量のボルトとナットをいつ全部ばらしてサビ磨きしろっていうんだ」 「これを磨いたからって工場の安全安定稼働にプラスになるんですか?」 「工務チームがどうしてここまでしなきゃいけないんですか?」 「自分たちがどうして設備の清掃までしなきゃならないんですか?

設備の清掃

が必要なら掃除する人を雇ってください。われわれは運転員であって清掃員ではあ りません」 TPMの第1ステップは清掃と整理整頓から始まる。これが5Sである。5Sは現場管 理の基礎となる五つの活動で、‘S’で始まる五つの日本語、すなわち整理Seiri、整頓 Seiton、清掃 Seisou、清潔 Seiketsu、しつけ Shitsukeの頭文字からとったものだ。 その当時、現場の運転員が設備を清掃することはなかった。運転員の業務は設備を 運転することであって、清掃ではなかったからだ。 整理や整頓、清掃、清潔、しつけ、この五つの単語すべてが運転員には聞き慣れ ない単語だった。こんな状況で5S活動をしようとしたので現場からは不満が一斉に 噴き出した。 それまで真面目に運転をしていたバスの運転手に今日からはバスの運転が全部終 わったら、整備までしてから家に帰れというのと同じだった。 現場の社員らはTPMを推し進めようとする会社側の意図に冷たい視線を送ってい た。TPMを口実に社員を減らして人件費削減を図ろうとしているのではないかと考 えたのだった。

イラスト吹き出し「整理、整頓、清掃、清潔、しつけ、五つの活動をしましょう」

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ともかく、彼らにとってはTPMはまた一つ増えた仕事に過ぎなかった。給料を上 乗せしてくれるわけでもないのに不必要な仕事をさせるための新しい方法と受け止 められたとしても決して無理はなかった。 当時の装置産業は生産部門と工務部門の役割が徹底して分かれていた。運転員は 運転だけしていればよく、設備に関する問題は工務部門の役目だった。 運転中に設備が故障したり問題が発生すれば、工務部署に‘ワークオーダー work order’を一枚送るだけで済んだ。その次は工務部のほうで勝手に処理をしてくれた。 それが、これからは設備が故障しないように普段から徹底して保全活動を行い、ひ いては設備故障の原因まで把握できるようにしろというのだから、到底納得できな かったわけだ。

機械を直接磨かなければいけない理由 TPMを上手く定着させるためには、TPM活動が決して会社のためのものではなく、 社員自らのものだということを説得しなければならなかった。そのためには時間が 必要だった。機会を見ては、運転員がなぜ機械を直接磨かなければならないのか納 得できるように説明した。 「オイルのような汚染物質が現場に残っていたら、滑って安全事故が発生しかね ません。清掃してきれいにオイルを取り除いておけば、なにより安全にプラスにな ります。それに、オイルの臭いをずっと嗅いでいたら、みなさんの健康に相当な害 がありますよ。オイルをふき取ることは、そのままみなさんの健康にもプラスにな ることなのです。現場から有害物質がみな消えれば環境が良くなるので、運転員全 員の健康はもちろん、作業能力も向上します。機械を磨いていれば機械の音を聞く ことができるし、そうするうちに関心も生まれて、設備についても知識が増えてい きます。工務や清掃部署が受け持っていればこんな効果は得られなかったはずです」

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こうした内容を現場の社員が集まるあらゆる場で繰り返し説明した。教育を何度 も行い、TPM推進者らの熱のこもった説得作業が続くや、次第にその内容を理解し 受け入れてくれた社員がひとりふたりと機械を磨きはじめた。 そうして設備がきれいになって周辺が清潔になっていくと、現場の雰囲気が良く なり、安全事故のリスクも大きく減った。ささいな活動ではあったが、少しずつTP Mの効果を実感できるようになった。

運転手になるのではなく、運転員になれ 現場の運転員らに設備の清掃や点検、教育をさせる際に何度も言及していた例え のひとつが‘オペレーター’と‘ドライバー’の違いだった。あえて説明するならば、オ ペレーターが運転員、ドライバーが運転手になる。 運転手はハンドルを左右にどれだけ切れば方向を変えられるのかと、前後に動か す方法さえ知っていればよい。だが、運転員は基本的な運転だけでなく、設備の原 理や構造をすべて理解していなければならない。それでこそ緊急事態が発生したと きに措置をとることができるのだと説明した。 設備のことを分かっていない運転員はワイパーひとつを磨くにもカーセンターに 行かなければならず、エンジンオイルの交換時期が分からずに車を傷めてしまう初 歩の‘おばさん’ドライバーにすぎないという比喩もしながら説得した。 自動車の知識が多ければ多いほど慎重に車を管理することができるのと同じよう に、設備のことを正確に理解して運転すれば運転員の能率も大いに向上するに決ま っている。こうした知識や技能があればこそ、本物の運転員になれるのだというこ とを職員たちも少しずつ受け入れはじめた。

イラスト Tip1 5Sとは何か?

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現場管理の基礎となる5つの活動 5Sとは、働く空間をきれいかつ効率的に、また安全にすることで生産性を高めるた めの活動である。‘S’の音で始まる5つの日本語の頭文字の発音からとったものだ。 (上段中央から時計回りに) Seiri(整理) Seiton(整頓) Seisou(清掃) Seiketsu(清潔) Shitsuke(しつけ)

5Sは場合によって日本式の表現ではなく、英語式の表現で5Sまたは5Cと言われるこ ともあり、最近では5Sに安全を意味するSafetyを加えて6Sと呼ぶこともある。5Sや5 C、6Sなど、名前は違えど働く空間をきれいに清掃し、整理して生産性を高めよう という基本的な解釈においては相通じるといえる。

英語版5S ・Sort(分類) ・Straighten(整頓) ・Sweep(掃く) ・Standardize(標準化) ・Sustain(維持)

英語版5C ・Clearing(片付け) ・Configuration(配置)

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・Clean and Check(清掃および点検) ・Conformity(規則遵守) ・Custom and practice(習慣と実践)

‘ワニドリ分任組’の大逆転

赤恥をかいた幹部モデル活動 日本ベンチマーキング研修の実施後、社内でTPMの推進方法をめぐる議論はある 程度収束した。装置産業でも十分にTPMが適用できるということをみなその目で確 認したのでそれ以上不満や疑問を投げかけることができなかったようだ。もちろん、 まだ不満を抱いている幹部や社員もいたが、表立って反対したり不満をあらわにす ることはなかった。 方向が決まれば、つぎはTPMを組織全体に広めて活性化させる段階に入らなけれ ばならなかった。TPMを活性化させるためにまず役員と幹部が中心となったモデル 分任組3を編成し、自主保全1~3ステップを実施した。 役員、幹部が中心のモデル分任組活動を通じて率先するという管理者の姿を見て もらうことで、TPM活動を早期に根付かせて活性化させるのが狙いだった。役員や 幹部など、管理者が直接TPMモデル活動を通じて実体験することで技術習得や進め 方、推進の要領などを身につけ、これにもとづいて部署のメンバーにできるという 雰囲気や意欲、動機を与えることを目指した。 また、TPMが本格化すれば、役員や幹部が直接現場の社員を対象に分任組を指導 しなければならない。指導するにはTPMについて知っていなければならないので、 優先的に役員や幹部がTPM活動を体験してみる必要があると考えた。華城(ファソ 3

(訳注)現場組織の基礎単位となる小集団グループ、作業班

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ン)生産部門の‘Eagles分任組’、生産支援部の‘Leading 分任組’、PTA生産部の‘Clean 分任組’、原料生産部の‘ワニドリ分任組’、HD/PP生産部の‘旗分任組’、動力2課の‘In novator分任組’、アロマ生産チームの‘Top Gun分任組’などが相次いで結成され、モ デル活動に入った。 翌年3月までの五ヶ月間にわたって第1~3ステップまでモデル設備を管理したあと、 4月にステップ診断を受けることにした。 秋も次第に深まりつつあった10月末のことだった。日も短くなり、勤務時間が終 わって現場に出てみると、すでにあたりは薄暗くなっていた。率先している態度を 見せなければという責任感はあったが、役員や幹部らが夜遅くまで会社に残って作 業服姿で設備のオイルをふき取るのは容易なことではなかった。 どうせ象徴的な意味合いが大きいのだから、ある程度それらしいマネをしていれ ばいいというのが現場の雰囲気だった。また、一部の役員や幹部の中には依然とし てTPM活動に反対の立場をとるものもいた。 役員と幹部からなるモデル分任組の名前は‘ワニドリ’だった。危険を顧みず、ワ ニの口の中に入って食べカスを取り除くワニドリのようにリスクを甘受して設備保 全活動を推し進めていこうという意味からついた名前だった。幹部モデル分任組に ふさわしく、深い意味を持ったいい名前だった。ワニドリ分任組は水素圧縮機でさ びを取り除き、ペンキも新しく塗り直してそれなりに任務を遂行した。 いよいよモデル分任組活動期間が終了し、外部の専門コンサルタントの診断を待 つことになった。分任組ごとの活動の内訳を把握したのち、コンサルタントが合格 か不合格かの判定を下す時間だった。ワニドリ分任組の番だった。 「幹部らで構成された分任組であることから水素圧縮機の機能点検や設備保全に もっと徹底を期するべきなのに、本質を無視して見た目だけを気にしているように 見えますね。ワニドリ分任組、不合格です」

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役員、幹部も例外ではない コンサルタントの判定にみなが驚いた。当事者であるワニドリ分任組のメンバー はもちろん、その様子を見守っていた一般社員たちも同様だった。TPMを社全体で 推進する業務を担当していた経営革新チーム関係者は顔面蒼白になった。 あらかじめシナリオが描かれていたわけではないが、幹部モデル分任組はどうせ 象徴的な意味合いを持っているはずだから、適当に評価して合格させるのだろうと 予想していた。そうすることで役員や幹部のやる気が出て、現場の社員を引っ張っ ていけるというのがみなの考えだった。 だが、生真面目で原則主義者のコンサルタントは会社の事情を知ってか知らずか、 はっきりと不合格の判定を下してしまった。みなが驚いたが、時すでに遅し、だっ た。 社員たちに手本を見せるために幹部らによる分任組を作って試験的に実施した設 備保全活動が、手本どころか‘ワースト・プラクティス Worst Practice’になってしま った。不合格の判定で当事者のメンツが台無しになってしまったのは言うまでもな かった。さらに最も懸念されたのは、この一件によってTPM活動の推進のエンジン を失ってしまうのではないかということだった。 どうしようもなかった。ワニドリ分任組はモデル活動を再開した。活動だけを見 るならば、不合格の判定を下されたのは至極当然だった。最初から誤った部分を探 し出して補完作業を続けていった。 ワニドリ分任組の不合格がTPMの活性化に致命的な打撃を与えるかもしれないと いう思いに、経営革新チーム関係者らは戦々恐々としていた。だが、思いがけない ことに、社内の雰囲気は多くの人間が予想していたものとは正反対の方向へと流れ ていった。 「適当にしてたらダメだぞ。役員や幹部でもあんなふうに冷たく不合格させるん だから、おれたちはなおさらだぞ」

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ワニドリ分任組の不合格が逆に現場の社員の分任組活動に刺激として働いたのだ った。幹部らで構成された分任組も評価で不合格の判定を受けたのだから、今後は TPM活動を徹底して行わなければいけない、という認識を社員たちに植えつけさせ た。 そして、こうした前向きな思考は時間が経つにつれ、次第にTPM活動の成果とし てあらわれはじめた。そして社員らが率先してTPM活動をリードするきっかけにな った。

TPMの火種を熾した/ 一篇の小説『上杉鷹山―韓国語翻訳版タイトル“火種(ひだね)”』

改革は意識を変えることである “改革は反対者や腐敗した敵対者を追い出すことだけではない。それは構成員の意 識を変えることであり、同時に彼らを富ませるものでなければならない。” まるで政治か社会の教科書で目にするような文章だが、この文章は日本の歴史小 説家、童門冬二の小説『上杉鷹山』に出てくるフレーズだ。『上杉鷹山』は二百年 ほど前の江戸時代を背景にした小説で、中国の春秋時代のように260の藩からなる幕 藩体制にまつわる物語だ。 小説に登場する藩とは、江戸時代にそれぞれの領主が治めていた領地を意味し、 藩を治めていた領主のことを藩主、藩の領主に仕えていた武士を藩士と呼んだ。 小説は、ひどい困窮と負債により財政破綻寸前になり、藩民が慢性的な無気力と 敗北意識に陥っていた米沢という藩の物語から始まる。米沢藩は慣習や手続き、形 式にとらわれて危機に陥った状況を克服することができず、自分の地位だけを守ろ うとする保身主義的な重臣らと、そうした重臣らを憎みつつもあきらめの境地に陥

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ってしまった藩民からなる、没落寸前の藩だった。だが、この米沢藩に一七歳の若 き青年が養子入りして藩主になったことから状況が一変する。 藩主が現状を打破し、藩民に希望を与えるような改革の火をつけるようになった ことから人々の心にその火種がうつり、あらゆる難関を克服しながらついには藩全 体を改革の中心地へと変貌させる話だ。 23 “改革というのは、ただ経費だけを切り詰めればいいというのではないぞ。事と次 第によっては、逆に思い切って使うことが必要だ。それが生きた金の使い方だ”

藩主体制は今日生存をかけて熾烈な競争を繰り広げている企業経営の世界にも通 じる部分がある。だからだろうか、この本は歴史小説でありながら企業小説として も広く読まれている。小説に登場する藩主を企業のCEO、藩士を幹部、藩民を一般 社員に置き換えても読むことができる。なにより、改革について心を揺さぶられる 話が多く登場するのだが、それを企業の革新にあてはめてもさほど無理がなさそう にみえる。

“他人に何かをやってもらうのには、まず、頼む人間が自分でやってみせなければ 駄目だ。してみせて、いってきかせて、させてみる、ということばがある。私もそ れで行く”

“みんなご改革には賛成だという。思い切ってやってくれ、と誰もがいう。しかし、 それが自分のところの仕事をなくしたり、人を減らしたりすることになると、今度 は顔色をかえて反対だという。そこをどう突破するかがいつもむずかしい……”

ひとりひとりが革新の火種になる


TPM導入初期、この本を推薦図書に選定し、幹部たちはもちろん一般社員らにも 読むようすすめた。その結果、一時、社内で『上杉鷹山』ブームが巻き起こり、多 くの社員に自分たちがしている革新の意義について考え直すきっかけを与えること となった。

“遅い。その気をそろえてきたということが、いつのまにか何か狎(な)れを生んだ のではないのか、と。私たちは、もういちど、川上にもどらなければならぬ。それ が、初心というものだ”

“改革は、つねに清流に泳ぐ魚の気がまえでおこなえ、という治憲にとって、川を にごらせ、その水を溜めて汚れた沼のような溜りをつくることは、何としても耐え がたいことになる”

“政治はすべて人である。それも沢山いればいるほどよい。全家臣を敵にまわして もおそれるな。しかし領民を必ず味方にせよ。民を愛せ。民のための藩政をおこな え。そうすれば、たとえ国もとの重臣が反対しようとも、領民が必ず私たちをささ えてくれる”

革新は上から強制して無理矢理に従わせてなるものではない。心が先に動かなけ ればならない。自分自身の心を燃やしてなにか起こしてやろうという気持ちがなけ れば、革新は成功しない。

“藩士のひとりひとりが火種になってほしい。まず自分の胸にその火をつけてほし い。そして他人の胸にもその火を移してほしい。そのためにはわたしも自分自身を 燃やしていこう”

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この小説は革新をこれからまさに始めようとしていた状況の中で幹部たちはもち ろん、社員たちにも心持ちを新たにする良い刺激となってくれた。TPMで工場をワ ールドベスト工場に作ってみせようという意欲が少しずつ芽生えはじめた。社員の ひとりひとりの胸に革新の‘火種’が静かに次々とついていった。 25

Tip2 サムスン・トータルはどんな会社か?

完全黒字構造の超優良企業

サムスン・トータルは1988年サムスン総合化学としてスタート、13の工場が集合体 となった石油化学コンビナートである。1998年のアジア通貨危機の際に第一号ビッ クディール4企業に選定されるなど、大変な危機に見舞われた。危機克服のための大 規模なリストラにより5億ドル相当の重要資産を売却し、希望退職やリストラなどを 断行した。

グラフ 縦軸上から: サムスン総合化学時代 サムスン・トータル時代 チャレンジ2030

横軸矢印: 4

(訳注)政府の強い関与のもとに行われた産業の大集約化


設立および建設の時期

主要プラント竣工 1988~1997

・サムスン総合化学設立 ・団地起工/団地総合竣工 ・アロマ工場完成

桎梏と生存の時期 ビックディールの危機および大規模リストラ

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1998~2002

・重要資産の売却(5億ドル相当) ・希望退職および大規模リストラ/2,045億増資断行 ・3事業所を大山(テサン)5事業所に統合

グローバル基盤の構築

第2飛躍期

グローバル志向、世界一流価値を目指す

2003

~2010 ・株主関係の変化(合弁によるサムスン・アトピナ発足、サムスン・トータル(株) に社名変更) ・財務構造の改善/Global Project 成功遂行

グローバル企業への仲間入り時期

100年企業になるための基礎固め

2011~2020

・#2 アロマ工場稼働/新事業進出 ・M&Aを通じた投資の拡大 ・2020年売り上げ30兆達成

膨大な負債により資金難にあえいできたサムスン総合化学は2003年8月にフランスT FE(トタルフィナエルフ)6グループの化学系列会社であるアトフィナと合弁契約を 5

(訳注)忠清南道瑞山(ソサン)市

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(訳注)現トタル。TOTAL FINA elf


結んだのにともない、社名を‘サムスン・アトフィナ’に変更し、1年後の2004年にTF Eグループが精密化学と武器化学など一部の化学産業を分離したことを受けてサム スン・トータルに変更、現在に至っている。

サムスン・トータル発足以降、画期的な財務構造の改善とグローバルプロジェクト の成功により第2の飛躍期を迎えている。2011年からは‘チャレンジ2030’というスロ ーガンのもと、グローバル企業の仲間入りとともに100年企業となるための基礎固め を行っている。 あわせて、持続的な生産能力増大によって会社設立当初には670千トンにすぎなかっ た生産能力が2012年には6,054千トンに増加した。

グラフ □エネルギー □収支

□アロマ/化成

□オレフィン

持続的な生産能力増大により規模の競争力を確保(1991年670千トン→2012年6,054 千トン)

経営実績面においても、2001年1千5百億ウォンの赤字を出していた不良企業から200 4年と2009年には年間5千億ウォン以上の黒字を出すまでになり、2012年に2千5百億 ウォンあまりの黒字を達成、完全黒字構造の超優良企業へと変身を遂げた。売上高 も1992年4千億ウォンから2012年7兆2千4百億ウォンへと大幅に増えた。 また、1997年には不良債権比率780%と年間3千億ウォン以上の利子を支払わなけれ ばならなかった最悪の財務構造から、現在は負債比率100%未満の安定かつ健全な財 務構造へと変わった。

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Chapter2 誰のためのTPMなのか

重要なのはシステムではなく人 / ソン・ソクウォン社長は「システムを‘人’に合わせろ。‘人’をシステムに合わせるこ とは決してできない」という言葉でTPM導入初期の状況を説明した。重要なのはシ ステムではなく人、ということだ。 サムスン・トータルは社員の能力が向上するのに合わせて少しずつ活動の範囲を広 げてきた。社員の能力や会社の状況に合わせてTPMを弾力的かつ柔軟に推進したこ とは、サムスン・トータルが16年間TPM活動を続けてこられた下支えとなった。

‘人’をシステムに合わせるのではなく システムを‘人’に合わせよ

複雑な8本柱は忘れろ 「8本柱はみな忘れてください。わたしたちには二つだけあれば十分です。生産部 は自主保全、工務部は計画保全、この二つだけをしっかりやってください。ほかの 活動は各部署に任せて結構です。したければするし、したくなければしなくて結構 です」 TPMのテキストを開くと真っ先に出てくるのが、この8本柱活動だ。8本柱とはTP Mで柱となる8つの重要活動で、自主保全、改革保全、個別改善、初期管理、品質保 全、教育訓練、事務間接、環境安全などを意味する。TPM活動をカテゴリー別に細 分化したものである。はじめての人間にはその用語だけでも相当な威圧感とプレッ

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シャーを与える。 何事も新しいシステムや方法が導入されるときというのは、意欲が先走りする傾 向がある。サムスン・トータルの場合も社全体の革新活動の計画が立てられ、TPM の元祖ともいえる日本にベンチマーキングにまで出向いたあとだったので、役員や 幹部らは完璧なマニュアル通りのTPMを実行しようと意欲的になっていた。 だが、TPM導入初期に経営革新の担当役員としてサムスン・トータルTPMのコン セプト作りに大きな役割を果たしたソン・ソクウォン社長の考えは違った。日本と 韓国は企業文化も異なり、置かれている水準も異なれば、社員の考え方や能力も異 なる。そのためTPMもあえて日本と同じやり方にこだわる必要はないと考えた。 ソン社長は複雑な理論で埋め尽くされているTPMのテキストをいったん閉じ、サ ムスン・トータルに合うオーダーメイド型の新しいTPMを実行することにした。当 時、サムスン・トータルの運転員の水準はというと、8本柱はおろか、ひとつですら まともに行うことができなさそうに見えた。そこで、その中から会社の実情に合い、 社員たちができるものだけをするようにした。それがまさしくサムスン・トータル TPMの草創期におけるコンセプトとなった。

重要なのはシステムではなく人 ソン社長は「システムを‘人’に合わさなければならず、‘人’をシステムに合わせる ことは決してできない」という言葉で当時の状況を説明した。重要なのは、システ ムではなく人、ということだ。制度に人間を合わせようとすると、‘プロクルステス の寝台’になってしまいがちだ。プロクルステスとは、ギリシャ神話に登場する強盗 のことで、通りすがりの旅人に寝床を提供してやるものの、ベッドの長さよりも背 が小さければ足を引っ張って伸ばし、長ければ足を切ってしまうという悪名高き存 在である。 今日、プロクルステスの寝台は、自分の考え方をものさしにして他人の考えを改

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めさせようとする行為、他人に迷惑をかけてまで自分の主張を曲げない横暴を意味 する言葉として用いられている。いくら優れた制度や方法だとしても、それがすべ ての人や企業の状況に合致するとは限らないというわけだ。 サムスン・トータルはその後、社員の能力が向上するのに合わせて少しずつ活動 の範囲を広げていった。社員の能力や会社の状況に合わせてTPMを弾力的かつ柔軟 に推進したことは、サムスン・トータルが16年間TPM活動を続けてこられた下支え となった。 最初からTPMの原理原則にがんじがらめになって活動をしていたならば、おそら く16年ものあいだTPMを続けるのは無理だったかもしれない。

強要はしない! 希望者だけがやればいい

3年後の姿を思い描け 「それぞれの工場ごとに事情がみな違うのに、それを会社は分かってるんです か?」 「うちの工場はほかの工場と状況が違うんです」 サムスン・トータルは13の異なる化学工場が集まるコンビナートである。同じ会 社といってもそれぞれの工場で生産物が異なり、運転方法が異なれば、特性も異な る。とりわけ、会社設立当初は中途採用の社員の割合が高く、各工場はもちろん、 同じ工場内の作業班ごとでも仕事のやり方がみな違うほどだった。そのためTPM導 入初期に推進の方法をめぐって意見の対立が多かったのも事実だった。 そんな綱渡りのような状況を見事にまとめることができたのは、‘自主革新’の原 則のおかげだった。会社ではTPMによって革新を行うという原則だけを定めておい

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て、具体的な目標や方法に関しては各工場や部署の自主性に任せた。 自主革新を打ちたてたことで「自分の部署や工場にTPMは合わない」という風な 不満の声も打ち消すことができた。会社がさせるのではなく、自分たちが望んでい ることをすれば良いからだ。事故率を何パーセント下げるだとか、生産効率を何パ ーセント上げるといった目標はそもそも現場に存在していなかった。そうした目標 は会社の立場で考える‘希望事項’にすぎなかった。 サムスン・トータルでは‘自分自身のためのTPM’をスローガンに掲げていたので、 各部署別に必要なことを目標に定めてそれを達成するようにした。だが、はっきり とした目標もなく過ごしてきた人間にとっては目標を設定することは容易なことで なかった。 「部署長自身と部署のメンバーらの3年後の姿を一度想像してみてください」 当時、経営革新担当の役員だったソン・ソクウォン社長は各部署長の目標設定を 手助けするために自分の将来図を考えさせた。3年後に成長した姿を描けば今との明 らかな違いが見えてくる。その差を埋めるための努力がつまり目標になるからだ。

オーバータイムはサービス残業? 草創期における自主革新でネックになったことのひとつは‘オーバータイム’手当 の支払い問題だった。交代勤務を終えてから会社に残ってTPM活動を行う場合が多 かったのだが、勤務時間後に発生することから現場は当然のことながら‘オーバータ イム’手当を要求した。 だが会社側の立場は違った。当時、会社が財政的に厳しかったということもある が、それよりも、TPMは仕事ではなく自主的に行われる自己啓発活動だという点で ‘オーバータイム’手当を支給しないことにしたのだ。 社員たちにとっては、ただでさえ厳しい状況なのに追加の手当ももらえずやるべ

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きことだけが増えたことになる。そのため不満が多く、TPMになかなか賛同してく れなかった。 「今日はまたS-OTして帰らなきゃいけないのか?」 現場ではTPMをS-OTという別名で読んでいた。S-OTとは、‘サービス・オーバー タイム’という意味で、オーバータイム手当をもらえずにサービス残業するという不 満混じりの表現だった。 TPMの火種的な役割をしていた現場のTPM推進リーダーたちは、TPMの必要性を 力説し、同僚社員たちを説得して回った。仕事上がりにビアホールでビールを飲み 交わすときにもTPMが‘酒の肴’に登場する日が多くなった。 「TPMは絶対しなければいけないのか?」 「どういうものなのか、とりあえず一回やってみろよ」 そうした努力が通じたのか、時間が経つにつれてTPM活動に参加する人数が増え ていった。 自主革新の原則は社員個々人についても同じだった。全員参加型の革新ではあっ たが、決して強制ではなかった。やりたい人間だけがするようにした。 会社側でしたくない人間に無理矢理しろと言ったり強制させたりはしなかった。 業務を終えてTPMを行う人間は残り、したくない人間はすぐに帰宅した。 「今日からはおれもTPMでもやってから帰るか」 月日が過ぎ、TPM活動に参加するメンバーが増えると、TPMをしない人間のほう がむしろ孤立するような現象があらわれた。 周りがみなTPMをするために残っているのに、一人早々に退社しても一緒に酒を 飲み交わす同僚がいなかったからだ。TPMが大きな流れになるや、小さな波は自然 と大きな波に吸収された。

自主の力は偉大

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開始当初は大変だったが、いったん弾みがつくと怖いものしらずだった。一方的 かつ強制的にさせていたときよりも自らがしたいことを理解してするようにしたの で、社員たちは以前より積極的に動いた。 型にはまった活動ではなく、自分で目標を立てて自分たちがやりたい活動をする ので達成感もさらに高まった。自主の力は大きかった。TPMをしない、または上手 にできない社員に決して不利益を与えることはしなかった。代わりに上手な社員に は十分な見返りを与えた。社員たちの心をすっぽり覆っていた偏見というコートを 脱がせたのは、冷たい‘北風’ではなく昼下がりの暖かい‘太陽’だった。

褒められて悪い気のする人間はいない

100%全員合格 「診断結果が良かった分任組にはわたしがサムギョプサルと焼酎を一杯ずつごち そうしましょう」 サムスン・トータルは1年を上・下半期に分けて六ヵ月単位で動いている。六ヵ月 間でTPMの第1ステップから第3ステップまでを実施したのち、診断と評価によって 合格と不合格の判定を下すようにしたわけだ。当時、経営革新担当の役員だったソ ン・ソクウォン社長は診断結果で合格判定をもらった分任組にはごちそうする、と 大々的に公言していた。 六ヵ月後に実施された最初の診断。結果は100%全員合格だった。不合格の判定を 受けた分任組はたったのひとつもなかった。もちろん、すべての分任組の実力が卓 越していたとか、ひとつの隙もないほど完璧だったわけではなかった。未熟でぎこ ちない部分も多かったが、不合格は最初から想定もしていなかった。診断と評価を 行う目的そのものが決して叱責するためのものではなかったからだった。

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診断の最も大きな目的は激励だった。いくら個人のための活動とはいえ、初めて 経験するTPMが容易であるはずがなかった。寒い日に手に息を吹きかけながら設備 にオイルを差し、熱い夏の日に汗をたらたら流しながらペンキを塗る作業は決して 簡単なことではなかった。 経営陣の側もそうした事実を十分理解していた。上手下手は関係なく、自分から 心を動かしてTPM活動に飛び込んだすべての社員に賞賛と激励をしてやりたいとい う気持ちが一番大きかった。 TPMに参加する分任組が増えるにつれ、経営革新チームも忙しくなった。分任組 の数は一番多い時で100以上になったのだが、当時、経営革新担当の役員だったソ ン・ソクウォン社長はすべての分任組と順番に食事をする機会をもうけるために、 年中飲み会の席から抜けられないほどだった。

診断を通して教える 診断の二つ目の目的は教育だった。診断と評価のプロセスを通じて現場の運転員 たちがあまり知らずにいた設備に関する知識を教育することも可能になり、新しい アイデアを伝えることもできた。 それまでの革新活動の診断や評価を見ると、合格よりも不合格が多く、賞賛より は叱責が多かったのは事実だった。 また、会社が決めた目標値を達成するためにむりやり実績を上げようとした結果、 ストレスもかなり受けていた。革新活動それ自体よりも、診断や評価からくるスト レスのほうが大きかった。 だが、TPMはそれまでの会社主導型の革新活動とは一線を画すものだった。間違 った部分があれば新しい方法を一緒に考え出し、上手くできた部分についてはさら に上手くいくよう教えてやり、手助けをしてやった。よくできたという賞賛や激励 があふれだすと、社員たちはますますやる気になった。

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最後は現場への直接的な支援だった。診断と評価を通じて現場でどういったもの が必要で、会社としてどういった部分を集中的にサポートしていかなければならな いのか、確認するきっかけになった。会社状況は厳しかったが、TPMを行うのに必 要な内容だと判断されれば支援は惜しまなかった。会社の全面的な支援と関心、そ して賞賛に現場が少しずつ動きはじめた。 「どうせやらなきゃいけないなら、先にやって褒められるほうがいいじゃないで すか?」 「自分たちの分任組も一度TPMをやってみましょう」 「おれたちなら他の分任組よりは絶対上手くできますよ」 褒め作戦が功を奏したのか?

先にTPMを行った分任組が会社から高く評価され、

経営陣と食事までしているという噂が広まるや、TPMをやると立候補する分任組が 一つ、二つと現れはじめた。

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