MoNTUE序曲展

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Still the Vanguard of Education, the Forefront of Art




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文=林曼麗

Still the Vanguard of Education, the Forefront of Art


1895─1945 3

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▶Taipei│國語學校課程變動。其中以日籍學生為主的小學師範部將「習字圖畫科」改為

「圖畫手工科」。每週上課時數為4小時;公學師範部甲科加列「圖畫手工科」,時數為 第一學期每週3小時,第二學期每週4小時;以臺籍學生為主的公學師範部乙科則將圖畫手 工單獨成科,共4個學年,每週上課1小時。

▶ Taipei│日清戰爭後簽訂馬關條約,日本政府來臺成立總督

▶Taipei│李澤藩出生。石川欽一郎來臺任總督府翻譯官,兼臺北中學

▶ Taipei│石川欽一郎於國語學校演講〈色彩に就て〉、〈趣味性教

▶Taipei│石川欽一郎離職返日。

府,下設學務部掌管島內教育事務,由伊澤修二擔任首任學務部

與國語學校美術教師,引進英式風格水彩畫。

育〉。同年國語學校舉辦建校17周年紀念會,並舉辦圖畫展。

▶Tokyo│劉錦堂入東京美術學校西洋畫科(師事於藤島武二、岡田三郎助,1921年畢

長●學務部於芝山巖設立國語傳習所,為本校起源●黃土水、陳

▶Tokyo│東京美術學校設置圖畫師範科,白濱徵任第一屆系主任(畢

▶Tokyo│岡田三郎助與藤島武二合創「本鄉繪畫研究所」,與川端玉章

業),為臺灣第一位進入東美西洋畫科的畫家。

澄波出生,劉錦堂、倪蔣懷1歲。

業於美國麻塞諸塞州高等美術師範學校)。

創立的「川端畫學校」齊名。兩校均為投考東京美術學校的預備畫塾,前 者教授西洋畫,後者以日本畫為主。

▶ Tokyo│小林萬吾自東京美術

▶Taipei│郭柏川出生。

▶Taipei│彭瑞麟出生。

學校西洋畫科畢業。

▶Taipei│劉錦堂自國語學校畢業。

▶ Tokyo│東京美術學校西洋畫科的導師制度變更為教室

▶Tokyo│小林萬吾前往歐洲留學。

制,升上三、四年級的學生可以自由選擇地岡田三郎助、 和田英作、藤島武二三個老師的教室。

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▶Taipei│張秋海出生。

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▶Taipei│陳植棋、楊啟東出生。

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▶Taipei│蘇秋東出生。

▶Taipei│臺灣總督府成立第二年,設立臺灣第一所新式學

▶ Taipei│國語學校課程增設「習字圖畫科」,為

▶ Taipei│李石樵、葉火城出生 ● 石川欽一郎主持

校──臺灣總督府國語學校,以培養臺灣菁英、師範教育

臺灣美術教育起源●廖繼春、李梅樹出生。

西洋畫研究所「紫瀾會」第一回展。

為主。

▶Tokyo│日本政府設立「圖畫教育調查委員

▶Tokyo│東京美術學校(1887年)設置西洋畫科,黑田清

會」,調查歐美各國之美術教育●岡田三郎助法國

輝任首位系主任,並樹立日後西洋畫科學生以「自畫像」

留學歸國(1897-1902),任東京美術學校的西洋

作為畢業製作之一的規定●藤島武二因黑田清輝推薦,受聘

畫科教授。

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▶Taipei│黃土水獲總督府民政長官內田嘉吉

▶Taipei│倪蔣懷自國語學校畢業,任暖暖公學校訓導。

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▶ Taipei│張秋海自國語學校畢。

賞識,推薦入東京美術學校雕塑科木雕部,為

臺灣總督府國語學校改制為「臺灣

臺灣第一位進入東京美術學校的藝術家。鄭世

總督府臺北師範學校」,同年「圖

璠出生。

畫」成為臺北師範學校的獨立科

▶Tokyo│劉錦堂進入日本川端畫學校修習。

目,每週教授一小時。岡田三郎助

▶Tokyo│「川端畫學校」開設西洋畫部,聘請藤島武二主持。

來臺寫生。 ▶Tokyo│小原整自東京美術學校西

洋畫科畢業,進入研究科就讀,後 於1932年來臺任教,接下石川欽一

為東京美術學校西洋畫科助教授。

▶Taipei│陳澄波自國語學校畢業,任教於嘉義第一公學校●倪蔣懷

辭去暖暖公學校訓導教職,遷居瑞芳礦山經營木炭生意。

郎在臺北第二師範學校的教職 ● 黃 土水製作《甘露水》。

▶Tokyo│張秋海進入東京高等師範圖畫手工科就讀,1922年考入東京

美術學校西洋畫科。

1.1896年,南門校舍興建,臺灣總督府國語

學校自芝山巖惠濟宮暫遷於艋舺祖師廟。 2.教生通勤。 3.教學─手工實習。 4.石川欽一郎帶領學生於校園內寫生 。 5.李石樵(前排左二)參加臺北師範學校校

友會繪畫部,中間著西裝者為石川欽一郎。 6.石川欽一郎在臺北師範學校授課情形。

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▶Taipei│葉火城自臺北第二師範學校畢業●臺北第二師範學校

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▶ Taipei│李石樵自臺北第二師範學校畢業,赴日入川端畫學校●「七

▶Taipei│岡田三郎助來臺,為臺灣總督府

▶Taipei│石川欽一郎受志保田鉎吉校長邀請,第二

繪製壁畫《北白川宮殿下之澳底登陸》,後

次來臺任臺北師範學校美術教師。●陳植棋因11月18

芳蘭繪畫部展於博物館 ● 東京美術學校西洋畫科教授小林万吾

畫評審●倪蔣懷出資成立「臺灣繪畫研究所」,培育臺灣美術人才,聘

來分次來臺完成。

日北師學潮事件遭退學,石川欽一郎鼓勵他到日本報

來臺擔任臺展西洋畫評審。

石川欽一郎指導。●倪蔣懷、陳澄波、陳植棋、廖繼春、張秋海、郭柏

星畫壇」解散●東京美術學校西洋畫科教授小林万吾來臺擔任臺展西洋

▶Tokyo│黃土水自東京美術學校雕刻科木

考東京美術學校。

▶Tokyo│郭柏川進入東京美術學校西洋畫科就讀,師事藤島武

川、陳英聲、陳承潘、范洪甲、陳清汾、楊三郎、何德來、陳慧坤、藍

雕部畢業並直升研究科(1922年畢業),並

▶ Tokyo│陳澄波、廖繼春進入東京美術學校圖畫師

二、岡田三郎助 ● 彭瑞麟就學於東京寫真專門學校,為臺灣第

蔭鼎等人成立「赤島社」。

以《蕃童》一座入選日本第二屆帝展,為臺

範科就讀,師事田邊至●黑田清輝去世,岡田三郎助

一位攝影學士●田邊至任東京美術學校教授。

灣首位獲得帝展殊榮的藝術家。

任西洋畫科主任。

▶Taipei│小原整在廣播節目「美術講座」中演講〈西洋畫在我國

的興起〉(我國に於ける西洋畫の發達),後來刊於《臺灣日日新

▶Tokyo│陳澄波自東京美術學校研究科畢,赴上海新華藝專任教●李梅

報》●藤島武二來臺擔任臺展第七回審查委員●「赤島社」解散。

樹入東京美術學校西洋畫科,師事藤島武二、小林万吾、岡田三郎助。

▶Tokyo│郭柏川自東京美術學校西洋畫科畢業。

▶ Taipei│李澤藩自臺北師範學校畢業 ● 倪蔣懷、陳澄波、陳植

棋、陳承潘、陳英聲、陳銀用、藍蔭鼎等人創立「七星畫壇」●黃

▶Taipei│陳植棋病歿●彭瑞麟於新竹開設APOLLO亞

土水攜木雕作品《釋迦出山》返臺,供奉於艋舺龍山寺(原作後因 1945年太平洋戰爭空襲而遭焚毀)。

▶Taipei│李梅樹、廖繼春自臺北師範學校畢業。

▶Tokyo│陳澄波《嘉義街外》入選日本第七回帝展,為臺灣首位

獲得帝展西洋畫入選殊榮的畫家●郭柏川進入川端畫學校就讀。

Tokyo│東京:張秋海入東京美術學校西洋畫科,師事藤島武二。

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▶Taipei│彭瑞麟自臺北師範學校畢業。

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▶ Taipei│臺灣總督府設臺北第一師範學校

於南門校區,臺北第二師範學校於芳蘭校區 (即本校現址)●廖繼春、陳澄波、顏水龍、 ▶Taipei│郭柏川自臺北師範學校畢業。岡田三郎

張舜卿、范洪甲、何德來等組成「赤陽洋畫

▶Taipei│楊啟東自臺北師範學校畢業。

助來臺,修正壁畫《北白川宮殿下之澳底登陸》。

▶Tokyo│吉村芳松獲日本帝展「免審查」資格●2月,陳植棋進

▶Tokyo│黃土水《甘露水》入選第三回帝展 ●劉

入「瀧野川町畫塾」接受吉村芳松的指導。(後陳澄波、廖繼

錦堂自東京美術學校西洋畫科畢業。

春、李梅樹、李石樵皆受教於此)●3月,陳植棋進入東京美術 學校西洋畫科就讀,師事於岡田三郎助。

會」●倪蔣懷、李石樵、李澤藩、陳英聲、藍

1929

圃廬寫真館●彭瑞麟寫真展於《臺灣日日新報》。

▶Taipei│停辦一年的台展於本年度再次開

▶Tokyo│李石樵進入東京美術學校西洋畫科就讀,師

展,並改由總督府文教局主辦,名稱改為

事於藤島武二、岡田三郎助 ● 彭瑞麟自東京寫真專門

▶Taipei│藤島武二來台擔任台展第九回審查委員。

第一回「臺灣總督府美術展覽會」(簡稱府

學校第一名畢業●田邊至轉任西洋畫科主任。

▶Tokyo│小林万吾成為帝展審查委員。

展,到1944年共開六回)。

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▶Taipei│「一廬會」成立,並主辦石川欽一郎送別畫

▶Taipei│鄭世璠自臺北第二師範學校畢業●李澤藩任日本

展於臺灣總督府舊廳舍●石川欽一郎返日,小原整接替

昭和水彩畫會臺灣總幹事●臺展因戰爭的關係而中止。

來臺任教(至1946)●陳澄波自上海返臺●廖繼春任第

▶Tokyo│李石樵自東京美術學校西洋畫科畢業。

1945

六回臺展審查員,臺展始有臺籍審查員。 ▶Tokyo│小林萬吾任東京美術學校西洋畫科教授。

蔭鼎、張萬傳、洪瑞麟等人組成「臺灣水彩 ▶二次大戰結束,日本戰敗。

畫會」,由石川欽一郎指導,倪蔣懷為資金 ▶ Taipei│蘇秋東自臺北師範學校畢業 ● 黃土水完成

▶Taipei│陳澄波、廖繼春、李梅樹、李石樵等人籌

小原整結束教職,1946年返回東京●石川

《水牛群像》(現存臺北中山堂),病歿 ● 「臺灣繪

組「臺陽美術協會」●石川欽一郎來臺,2月受小原整

欽一郎去世。

展,到1936年止共舉辦十回)。

畫研究所」改名「臺灣美術研究所」。

與藍蔭鼎之邀於臺北鐵道旅館舉辦座談討論臺灣畫壇

▶Tokyo│陳澄波、廖繼春自東京美術學校圖

▶Tokyo│陳植棋自東京美術學校西洋畫科畢業。

近況●藤島武二來臺擔任臺展第八回審查委員。

贊助人●10月,第一回「臺灣美術展覽會」開 展,由半官方的臺灣教育會主辦。(簡稱臺

▶Tokyo│李梅樹自東京美術學校西洋畫科畢。

畫師範科畢業,張秋海自西洋畫科畢業 ● 同 年,陳澄波進入研究科就讀,師事於藤島武 二、岡田三郎助。

7.石川欽一郎(左)與彭瑞麟(右)合影。

12.1927年,臺灣水彩畫會成立大會於鐵道旅館。

8.石川欽一郎(中坐椅者)與學生合影,左三為李澤藩。

13.陳澄波於上海時期之家庭全員合影。(財團法人陳澄

9.1927年,台灣總督府台北第二師範學校設於芳蘭校區(現

波文化基金會提供)。

本校校址)。

14.李梅樹(第一排右二)與李石樵(後排中)於東京美

10.1927年,台灣繪畫研究所成立,由倪蔣懷贊助籌辦,並聘

術學校留學期間與同學之合影。

請石川欽一郎為指導。參與成員右起:藍蔭鼎、陳植棋、陳

15.1932年,石川欽一郎離臺前與一廬會成員合影。

英聲(站立者)、石川欽一郎、倪蔣懷、洪瑞麟、陳德旺。

16.臺陽美術協會成立,右一陳澄波、右二李梅樹、右五

11.石川欽一郎 (左立者)在台灣繪畫研究所指導學生情形。

陳植棋遺孀,左二李石樵。(財團法人陳澄波文化基金

右三為陳植棋。

會提供)。

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蔡明亮

龔卓軍

林曼麗

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白適銘

林志明

何重誼

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Still the Vanguard of Education, the Forefront of Art

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Essay─01

近現代日本における「美術」の展開 文=佐藤道信 日本東京藝術大學美術學部藝術科教授

▶註:2012.12.8於MONTUE北師美術館演講全文

ただ今ご紹介いただきました、東京芸術大学の佐藤道信と申します。初めに、今回このよう

な講演の機会をいただきました、国立臺北教育大学の林曼麗先生とスタッフの皆様に、お礼申 し上げたいと存じます。

私は近代日本美術史、とくに日本画が本来の専門ですが、最近はしばらく「美術」の制度的

な研究をしてきました。今日のタイトルで美術に「」(カッコ)をつけているのも、「美術」

が近代に生まれた新しい概念用語で、そこから美術館や美術学校もつくられた、まさに「美 術」という社会制度だったからです。

まず初めに、この制度研究を始めたきっかけを、少しお話ししたいと思います。 1985年から翌年にかけて、私は文部省の在外研究員としてアメリカに行かせてもらい、ア

メリカにある近代日本美術のコレクション調査を行ないました。近代美術といっても、あちら では近代とそれ以前を、あまり区別しないで収集しています。ところがそこには、仏教美術や 水墨画など、私たちが日本で普通に抱いている日本美術史のイメージとは全く違う、浮世絵と 工芸品を中心とするもう一つの日本美術観がありました。これは、ヨーロッパの日本美術コレ クションにもほぼ共通する傾向です。

基本的には好みの違いの問題ですから、その点では何も問題はありません。ただ一方で、

それが好みの問題では済まないかもしれないという不安を感じたのは、近代以降の日本の「美 術」や「美術史」が、西洋をめざしてきたからです。それが、当の西洋では全く評価されてい ないとしたら、これは一体、どうすればいいのか。どちらが正しいか、間違っているかという ことより、そもそもなぜそうした違いが生じているのかを整合しなければ、近代化は誤りだっ たのかという極端な議論さえ出かねない状況のように思えました。

ここから、それが作品自体の問題なのか、それとも評価の問題なのかと考え始め、後者の評

価の問題ではないかと考えました。たとえば、作品は作家さんがつくるわけですが、作品の評 価は、作家さん自身では作れない。それは周囲の人が決めます。周囲の社会や後世がそれを決 めるのなら、むしろ社会的なシステムの方を考えなければいけないのではないか。そこから、 関係する要因として、「美術」のことばや概念、機構制度、社会環境などを考えてきたのが、 「美術」の制度研究でした。

ではさっそく順に見ていきたいと思いますが、お話しの中での日本の「近代」は、1868年

の明治維新から、1945年の第2次大戦の敗戦まで、「現代」はそれ以降をさすことといたしま す。

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美術の概念用語の生成

「美術」

: 1873年 ウィーン万博出品区分名(第22区)

「西洋にて音楽、画学、像を作る術、詩学等を美術と云ふ」

「絵画」

: 1882年 内国絵画共進

「彫刻」

: 1876年 工部美術学校 彫刻科

「美術」という語の言語的生成

「美術工芸」 : 1889年 東京美術学校 美術工芸科 「建築」

: 1897年 建築学会

表一

表二

Ⅰ「美術」の近代 1. 美術の概念用語の生成(表一) まず美術の概念用語、今も使っている「美術」「絵画」「彫刻」「美術工芸」「建築」とい

ったことばは、19世紀後半にほぼ出そろいます。つまりほとんどが近代用語であり、そこから 美術学校、絵画科・彫刻科といった学科名など、機構制度もつくられていくことになります。 2.「美術」概念の成立の特徴 次に、「美術」概念の特徴として、5つを挙げたいと思います。 1. 「美術」は西洋移植の翻訳概念だったこと。

2. それが官立の学校や博覧会で、機構組織名称としてあらわれた、官製用語だったこと。

3. しかし実際の内容規定はあいまいだったこと。つまり「美術」とは何か、「絵画」と「書 画」はどう違うのか、といったことはよくわからなかった。

4. 内容規定はあいまいだっただけに、逆に概念や存在と、機構組織の相互依存、保証関係が生 じたこと。つまり、美術学校で扱われたものが、「美術」となるといった状況です。

5. 本質的に「美術」は、アカデミズムとして機能したこと。つまり官立の制度が中心となった からです。そのため、以後の新たな美術運動は、つねにアカデミズムに対する挑戦、といっ た立場を余儀なくされることになります。

3.「美術」という語の言語的生成(表二) 表二は、あくまで概念と用語、ことばの成立経緯の話です。今でも「藝術」という語が使わ

れていますが、これは本来、中国では六芸(礼楽射書御数)や、時には占いや農業なども含む ものでした。そこから、今いう「美術」に当たるものを、西洋に対応させる形で抜き出して、 「美術」とした。その結果、今でも「芸」の字が使われている「演芸」や「芸能」、「武芸」 「工芸」「園芸」などが残った。今ではそれらは別々のものですが、本来は「藝術」の中に含 まれるものでした。

また当初、「美術」には、今でいう「絵画」「彫刻」のほか、音楽や詩学(文学)も含まれ

ていました。今ではそれが逆に「芸術」として総括されているわけですが、これも「芸術」の

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「美術」の人、モノ(制作)、機構の生成

c 1890年 表三

語が本来もっていた幅広い内容の性格ゆえだったと思われます。そしてこれが、「武芸」など が抜けたあとの、現在の意味での「芸術」ということになります。 4.「美術」の人、モノ(制作)、機構の生成(表三) 表三は、「美術」に関する人やモノ(制作、作品)、機構が、どのような関係になっている

かを示したものです。そもそも「美術」が近代にできたものだとすれば、それ以前はどう呼ん でいたのか。

左の楕円の中の、一番左側に、書画、調度、道具、彫物、置物、細工、と書いてあります。

これが、今いう「作品」の、モノ単位での言い方です。その右側の列にある、画工、彫工、陶 工、漆工、金工、木工、石工、織工。これが、それを人や技術のジャンルで呼ぶときの言い方 です。ここでの「工」という字は、人も指したし、技術も指しました。しかもここには、今い

う「絵画」の画工、「彫刻」の彫工も含まれていますから、“工(こう)の芸”、あるいは“たく み(工)の芸”としての「工芸」が、じつは今いう「美術」に最も近いと言えるのかもしれま せん。

またこの「工」という職能は、江戸時代の身分制度でいいますと、士農工商(武士・農民・

職人・商人)の「工」、つまり職人に属すものでした。士が支配階級の武士で、それ以外が庶 民ですから、「工」の職人は、基本的に庶民です。ところが中には、幕府の御用絵師だった狩 野派のように、武士身分をもつ画家たちもいました。こうした人々が、じつは四民平等となっ た近代の「美術」でも、中心的な存在となります。彼らは、戸籍上「士族」とされましたが、

新時代の西洋画の画家たちも、多くがじつは士族の人々でした。つまり近代日本の「美術」 は、西洋から移植した「美術」の制度を表に、前代の階級性を裏の実態として、形成されたと 言うことができます。

そしてその「工芸」の中から、西洋の制度に対応させる形で、「美術」がつくられ、その

中に「絵画」「彫刻」「美術工芸」がつくられました。ここでの「美術工芸」は、「美術と工 芸」ではなく、「美術としての工芸」という意味です。残った部分が、産業としての「工芸」

になり、さらにそこから機械生産が「工業」として分かれていった。つまり前代の「工芸」 は、美術としての「美術工芸」、産業としての「工芸」「工業」に、分かれていったのでし た。それによって、教える学校も、美術学校、工芸学校、工業学校に、それぞれ分かれたわけ です。

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日本美術の海外移動(19C) 欧米

日本

当代工芸 (殖産興業)

美術政策の基軸転換

対国内

振興 輸出

(古美術保護)

帝国美術院 1919年

Japonisme

ジャポニスム 古美術

文展 1907年

c 1910年 終焉 流出

『東洋美術大観』 17冊 1908~18年 対東洋

朝鮮美術展覧 1922~44年 台湾美術展覧会 1927~36年

防止 表四

表五

5.「美術」の国際環境 ① 対ジャポニスムの基軸設定 ではなぜ近代に、こうした「美術」のことばや制度がつくられたのか。ここには日本側、西

洋側の二つの要因がありました。

まず西洋側の要因が、19世紀後半の西洋にわきおこった熱狂的な日本美術ブーム、ジャポ

ニスムです。ジャポニスムは、1860年代から1910年頃まで半世紀も続いた、日本にとって予 想外の幸運でした。このジャポニスムに対して、日本は全国の美術工芸品を輸出して、外貨獲 得、つまり富国に美術を利用しました。それを担ったのが殖産興業政策。担当省としては農商 務省、事業としては博覧会でした。この産業振興の事業の中で、「美術」の概念用語も成立し ます。そしてこのジャポニスムが、冒頭で触れた西洋側の日本美術観をつくったものでした。 したがって、ジャポニスムの日本美術観を日本側で支えたのは、殖産興業政策だったことにな ります。

一方、日本国内では、1868年の明治維新後、廃仏毀釈や文明開化によって、大規模な古美

術品の破壊と海外流出が起こりました。その買い手となったのも、ジャポニスムです。(表四) つまり、欧米の日本美術コレクションは、日本からの当代の輸出工芸と、流出古美術から成

っていることがわかります。ここで、日本政府にとっては、当代工芸の“輸出”は“振興”すべき もの、しかし古美術の“流出”は、“防止”すべきものでした。ここから、政府は1890年頃以降、

帝国憲法、帝国議会など、近代国家体制の確立とともに、古美術を“帝国日本の歴史”と位置づ

け、積極的な保護にのり出します。古社寺の宝物調査を行ない、1897年の古社寺保存法から 「国宝」の指定も始まりました。担当省は、宮内省と宗教行政を担った内務省です。そうして

編纂されたのが、1900年の『稿本日本帝国美術略史』であり、古美術を展示したのが帝国博 物館でした。

また同じ1890年代、帝国日本の当代美術をつくる役割を担ったのが、東京美術学校でした

(1889年開校)。担当省は、文部省です。

しかし、国威発揚の使命を負った、こうした「日本美術史」や当代美術は、ジャポニスム

の好みには合わなかったため、西洋の日本美術観には影響しませんでした。一方、日本ではこ れが、私たちが知る「日本美術史」となりました。冒頭で触れた、欧米・日本で異なる二つの 「日本美術観」は、こうして生まれたのでした。

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② 対国内、対東洋への基軸転換 (表五)永遠に続くかに思われたジャポニスムは、1910年頃に終息しました。フォービス

ムやキュビスムなど、新たな美術が次々に起こったことで、西洋での美術の関心は、アフリカ 美術や中国美術に移っていきます。

こうした状況を受けて、日本の美術政策は、対ジャポニスムから対国内、対東洋へと、大き

く転回していきました。

対国内としては、この時期、現在の日展へと続く官展・文部省美術展覧会(文展)が、

1907年に、現在の日本芸術院へと続く帝国美術院が、1919年に、それぞれ設立されます。

対東洋としては、『東洋美術大観』全17冊の編纂(1908-18年)。また官展の植民地版とし

て、朝鮮美術展覧会(1922-44年)、台湾美術展覧会(1927-36年)が、それぞれ開催されま した。

そして、ジャポニスム終息後のこの対国内、対東洋へという基軸転換が、そのままファシ

ズム期の国内、および日本が唱えた“大東亜共栄圏”での美術政策へと、そのままスライドして

いったのでした。対東洋の美術政策は、1945年の日本の敗戦、それによる東洋からの撤退に よって、消滅します。また対国内の政策は、戦後、国家主義から民主主義へとソフト転換しつ つ、機構は続くことになりました。

Ⅱ「美術」の戦後現代 1.時代論理の転換 戦後の「美術」の動向に大きく影響したのが、二つの大きな時代論理の転換でした。一つ

が、aの国家主義から民主主義への転換。これが、日展や日本美術院などの美術団体展、い わゆる画壇系美術を生みます。二つ目が、bの近代の切り離しによる、現代化と国際化。これ が、いわゆる現代美術を生みます。この団体展と現代美術が、戦後の美術の二大潮流になりま す。

2.美術団体展(a)と現代美術(b) 戦後の美術団体展を代表したのが、日展でした。戦前の文部省主催の官展から、民営化され

た戦後の日展は、国民の美術の祭典として、多くの入場者、出品を集めました。主題は、戦前 の歴史画や戦争画から、女性や子供、芸事、ヌードといった主題が、前面化します。こうした 主題は、自由や平和、豊かさという、戦後の美術が担った時代表象の役割を、端的に示すもの でした。美術市場も、こうした団体系の美術を中心に形成されます。

一方、現代美術は、現代性と世界性を志向し、リアルタイムで変化しました。つねに世代論

化したことや、非美術的な方法で、既存の美術の権威性や制度性を暴き出したため、一般の人 にはわかりづらい、難解なものになりました。

そのため、時代を鋭くえぐり出したのは、現代美術の方でしたが、国民や大衆の需要をより

反映したのは、美術団体系の美術、ということになりました。 3.戦後の「美術」の社会構造(表六)

また、戦前の美術は、国家が主導したのに対して、戦後の美術は、国民や大衆の文化消費 28

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戦後の「美術」の社会構造

「近代日本美術史」の形成 歴史化の作業 次代による歴史化 次代の時代論理 歴史化のプロセス

高度経済成長

公私立美術館、展覧会

美術全集ブーム

ジャーナリズム、マスメディア 表六

表七

が先導しました。それを支えたのが、戦後、長く続いた高度経済成長でした。戦前までの日本 が、政治・軍事大国をめざしたのに対して、戦後の日本は経済大国をめざしました。それを背 景に、文化消費のシステムが次々につくられました。公私立美術館の相次ぐ開館、美術館・博 物館・デパート展の急増、美術全集ブーム、美術ジャーナリズムの隆盛、新聞社などマスメデ ィアによる展覧会の主催、などです。そうしたシステムが、この図のような大きな連環構図を 形成し、それによって、「美術」は国民、大衆の中に、広く普及、浸透していったのでした。 4.「近代日本美術史」の形成(表七) 注目されるのは、この戦後の文化消費の中で、「近代日本美術史」という歴史観も形成され

たことです。展覧会や美術全集で、くり返しとりあげられた作家や作品が、あっという間に、 巨匠、名作として定着します。

ところがこの歴史化の作業では、驚くべき史実の取捨選択が起こっていました。歴史化とい

う作業は、その時代ではなく、大きな区切れ目を経た次の時代に行なわれます。同時代でのそ れは、歴史化というより、回顧です。「近代日本美術史」が戦後に形成されたのは、まさにこ のケースでした。ところが、歴史化の論理は、対象とする時代のそれではなく、歴史化する側 の時代論理によって歴史化されます。近代日本美術の場合、国家主義を軸につくられた近代の 美術を、戦後の民主主義と国際化の論理で読み解くという、ねじれた作業が、ここで行なわれ たのでした。

その結果、史実の取捨選択に、大きな偏りが生れました。とりあげられたのが、早くから西

洋化を進めてきた、東京美術学校や文展など、文部省系の美術です。とりあげられなかったの が、宮内省が支えた保守系の美術、ジャポニスムに輸出された農商務省系の輸出美術、植民地

美術、戦争美術などです。つまり、全体の3分の2以上が、とりあげられなかったのでした。歴 史化とは、形成と同時に削除でもあり、そうしてつくられた結果が、いま日本で私たちが知っ ている「近代日本美術史」ということになります。

こうした形成と削除の実態が明らかになったのは、1990年代以降の、「美術」の制度研究

によってでした。同時に、台湾や韓国で盛んに行なわれている近年の近代美術研究は、改めて 日本での「近代日本美術史」の偏りと、それに対する実態像を、明らかにしているのだと思わ れます。

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「美術」の社会構造―変化と模索

新たな「美術」の社会構造へ 表八

Ⅲ 「美術」の現在 1.「現代」の転換点 次に、日本での「美術」の「現在」について、見てみたいと思います。 戦後の高度経済成長と文化消費が支えた、日本の「現代」は、1990年前後、大きな区切れ

目を迎えました。1989年の昭和という時代の終わり、1991年のバブル崩壊、そこから現在ま で続く不況、少子高齢化による人口分布の変化、などです。この時代はまた、ベルリンの壁の 崩壊、高度情報化という、世界的な新時代の到来とも重なりました。

ここから、まず世界的な動向として、新たな世界観と世界体制の模索、日本では、そこに

「日本」をどう再定位していくのかという模索が、始まりました。 2.「美術」の近現代―パラダイム検証

その一環として行なわれたのが、私も行なってきた「美術」の制度研究でした。未来を考

えるために、現在まで歩んできた「美術」の道筋の検証、つまり近現代の「美術」の総括と、 「現在」の史的位置を確認しようとしたのです。

ここでは、作家論や作品論、様式論などより、美術を生み出し、それを評価、歴史化し

た、時代的パラダイムの検証に、重点が置かれました。それによって、歴史の実態と、歴史化 での形成と削除も、明らかになったのでした。制度研究として行なわれたのは、具体的には、 「美術」の概念や用語、機構や組織の検証、日本画とは何か、工芸とは何かといった議論、博 覧会や戦争美術の研究、美術史学史、などです。 3.「美術」の社会構造の変化と模索(表八)

その中で、先ほどご覧いただいたこの「美術」の社会構造じたい、戦後日本という時代の、

一つのあり方だったことがわかってきました。高度経済成長が支えたこの構造では、お金が構 造をめぐる循環液、つまり血液として作用していたのですが、それがなくなったいま、構造全 体が虚血状態に陥っているのが、現在の状況といえます。しかし高度成長が再び見込めない以 上、来たるべき時代と社会に対応した、「美術」の新たな役割と機能、そして社会構造が模索 されているのが、現在の日本での状況といえます。 32

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Ⅳ グローバル時代の国際間の他者理解 最後に、少し話が変わるかもしれませんが、いまや一国の状況が、その国自体では成り立た

ないグローバル時代を迎えた現在、国際間でのコミュニケーションと他者理解が、どのように 行なわれているのかについて、少し私見を述べたいと思います。これには、高度情報システム が大きく影響していますが、そこで文化の果たす役割も、大きく変わってきているように見え ます。

ハイカルチャーとポピュラーカルチャー 韓国のテレビドラマ“冬のソナタ”以来の日本での韓流ブームは、政治・外交面での難題にも

かかわらず、一向に衰えを見せていません。海外で日本文化の理解に貢献しているのも、ハイ カルチャー以上に、マンガやアニメーションといったポピュラーカルチャーです。こうした流 行に、情報化とグローバル化が関係しているのは確かですが、なぜ自国文化の体面をかけてい るはずのハイカルチャー以上に、ポピュラーカルチャーの方が、いとも簡単に文化や国境のハ ードルをこえていくのでしょうか。これは、ハイカルチャーとしての「美術」「美術史」にと っても、無視できない問題といえます。

多くの場合、ハイカルチャーとしての「美術」や「美術史」は、政治、宗教、哲学、思想、

歴史、文学、音楽などに深く連動し、ポピュラーカルチャーは生活や娯楽につながっていま

す。異文化間での“わかりやすさ”という点では、明らかにハイカルチャーより、喜怒哀楽の基 本的感情によるポピュラーカルチャーの方が上でしょう。 Newsの優先順 一方、日常のニュースの報道では、国内外のニュースともに、大まかにいえば政治、外交、

軍事、経済、産業が優先し、それから文化、生活といった順序で報道されることが多い状況に あります。その際、政治や外交、軍事、経済は、あくまで国家の枠組と国益を基本とし、外国 のニュースは、自国の国益との関係を軸に報道されます。そのため多くの場合、友好国のニュ ースは友好ベース、対立国のニュースは対立ベースの立場から報道が行なわれます。文化や生 活に関する海外ニュースは、ほかの重要なニュースがなかった場合が多いでしょう。これが毎 日くり返されるため、人々の他国へのイメージも、もっとも多く報道されるその国の政治・軍 事・経済体制のイメージに強く影響され、さらにそれが、その国の人や生活のイメージにもか ぶっていくのだと思われます。

しかし、実際の人々の生活は、おそらく体制やイデオロギーの違いほどは違いません。これ

は私自身、多くの国で実感したことですが、そこには決して理解しづらくはない、人々の同じ ような生活がありました。それゆえに、その生活や感情の本音を映したポピュラーカルチャー が紹介されると、報道による先入観とのイメージギャップが大きいほど、意外さと新鮮な驚き をもたらすのでしょう。

そしてここで重要なのは、ポピュラーカルチャーは生活に密接するのに対して、ハイカル

チャーがより強くつながっているのは、政治や外交、歴史、思想、宗教などの方であることで す。国家の枠組や国益を反映するそうした要因に深くつながるハイカルチャーが、国境をこえ にくいのも、おそらくこのためと思われます。

そしてこれは、まさにハイカルチャーとしての「美術史」にも通じる問題といえます。 広域美術史の可能性 では終わりに、今日、ここでは詳しく述べなかった東アジアでの「美術史」展示の現状と、

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「広域美術史」のもつ意義と可能性について、触れておきたいと思います。

広域美術史の可能性

よく見なれた風景として、欧米の国立レベルの大規模な美術館では、時代順に展示された

「美術史」の内容は、中世ならドイツやフランス、ルネサンスはイタリア、17世紀はオラン

ダ、18-19世紀はフランス美術を中心としながら、実質「ヨーロッパ美術史」を展示していま す。

「美術史」の枠組みと identity

一方、東アジアでは、台湾、中国、韓国、日本いずれの国立美術館でも、基本的に自国美術

史を中心に展示しています。

East Asia

Europe England

Germany

France

Greece

北朝鮮

ッパが、「ヨーロッパ美術史」を共有しているのは、結論だけいえば、キリスト教美術をその 中心として共有しているためです。一方、東アジアが各国ごとの一国美術史に分かれているの

日本

中国

Italy

(表九)広域美術史を共有するヨーロッパと、自国美術史を中心とする東アジア。ヨーロ

韓国

は、そもそも「美術史」がつくられた20世紀の東アジアが、華夷秩序の崩壊後、各国がそれぞ れバラバラに、ナショナリズムを軸に自国の歴史観をつくってきたからです。

台湾

しかし実際の東アジアの美術の歴史は、仏教・儒教・道教の美術、水墨画、漢字など、多く

・広域美術史 ・宗教 Christianity

を共有し、密接な交流のもとで展開してきました。したがって、実態を反映した広域美術史と

・一国美術史

しての「東アジア美術史」の構築が可能かどうかは、東アジアが近現代を超克できるかどうか

・国家

の、一つの重要な試金石となるのではないかと思われます。

・仏教、儒教、道教美術

いますぐは難しいかもしれませんが、ポピュラーカルチャーの相互紹介と同時に、グローバ

・水墨画、漢字

ル化の時代のいま、より長い歴史をもつハイカルチャーとしての「東アジア美術史」も、考え ていいテーマなのではないかと思っています。

「東アジア美術史」は可能か

ありがとうございました。 表九

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Essay─02

黒田清輝の素描と絵画 文=佐藤一郎 日本東京藝術大學美術學部繪畫科教授

▶1.隈本謙次郎,《近代日本美術研究》,東京國

▶1.﹃近代日本美術の研究﹄隈本謙次郎、東京国立文化

立文化財研究所,昭和39年(1964)。

財研究所、昭和39年(1964)

▶ 2. 小山正太郎於明治 5 年( 1872 )進入川上冬

▶2.小山正太郎は明治5年川上冬崖の聴香読画館に入

崖的聽香讀畫館學習,於明治 9 年( 1876 )進入 工部美術學校就讀,師事於馮塔內奇。明治20 年 (1887)設立不同舎,指導眾多門徒。門下有藤島 武二、長原孝太郎、青木繁、中村不折、滿谷國四 郎、石川寅治、鹿子木孟郎、中川八郎、吉田博、 小杉未醒等人。 ▶ 3.山本芳翠進入初代五姓田芳柳之門,於明治9

年(1876)進入工部美術學校就讀。於明治11年 ( 1878 )舉辦巴黎萬國博覽會時前往法國,進入 法國美術學院就讀,師事於傑洛姆( Jean-Léon Gérôme)。留學中結識黑田清輝,認出他的繪畫

才能,鼓勵他成為畫家。明治20年(1887)歸國, 隔年創立生巧館畫學校,指導後進。門下有藤島武 二、湯淺一郎、白瀧幾之助、北蓮藏、廣瀨勝平、 丹羽林平等人。後讓予黑田清輝、久米桂一郎,成 為天真道場。 ▶4.曾山幸彥於明治11年(1878)進入工部美術學

校就讀,明治16年(1883)畢業後,成為工部美術 學校及帝國大學工學部助教授,於建築科教授繪畫 學。現在的東京大學工學部內,有收藏在工部美術 學校使用的石膏像,以及有關馮塔內奇透視法的書 籍。於芝山內設立私塾,其後松室重剛、堀江正章 所指導的門徒中,有藤島武二、岡田三郎助、和田 英作、中澤弘光、矢崎千代二等人。 ▶5.原田直次郎於明治16年(1883)進入高橋由一

的天繪學舎就讀,隔年進入德國的慕尼黑美術學 院就讀,接受加布里艾爾•馮•馬克思( Gabriel Cornelius Ritter von Max)指導。明治20年(1887)

歸國,隔年於故鄉設立畫塾鐘美館,指導後進。門 下有長原孝太郎、伊藤快彥、大下籐次郎、和田英

門し、明治9年工部美術学校に入学しフォンタネージに

師事する。明治20年不同舎を設立、多くの門弟を指導し た。藤島武二、長原孝太郎、青木繁、中村不折、満谷國四

郎、石川寅治、鹿子木孟郎、中川八郎、吉田博、小杉未醒

らがいる。

▶3.山本芳翠は初代五姓田芳柳の門に入り、明治9年 工部美術学校に入学した。明治11年パリ万国博覧会の 開催に際しフランスに行き、エコールドボザールに入 学し、 レオン・ジェロームに師事する。留学中に出会った 黒田清輝の画才を認め、画家になるよう勧めた。明治 20年帰国し、翌年生巧館画学校を創立し、後進を指導

した。藤島武二、湯浅一郎、白滝幾之助、北蓮蔵、広瀬勝 平、丹羽林平らがいる。黒田清輝、久米桂一郎に譲り、天 真道場となる。

▶4.曽山幸彦は明治11年工部美術学校に入学、明治16 年卒業後、工部美術学校および帝国大学工学部助教授

となり建築科において画学を教える。現在の東京大学

工学部には、工部美術学校で用いた石膏像やフォンタ

ネージの遠近法に関する著書が保存されている。芝山

内に私塾を設け、その後松室重剛、堀江正章が指導し た門弟には、藤島武二、岡田三郎助、和田英作、中沢弘 光、矢崎千代二らがいる。

▶5.原田直次郎は明治16年(1883)高橋由一の天絵学 舎に入学し、翌年ドイツのミュンヘン美術大学に入学

し、ガブリエル・マックスの指導を受けた。明治20年帰

国し、翌年本郷に画塾鐘美館を設け、後進の指導にあた

った。長原孝太郎、伊藤快彦、大下籐次郎、和田英作、三 宅克己などがいる。

一 脂派と紫派とは 明治27年(1894)の明治美術会第六回展に、黒田清輝、久米桂一郎は滞欧作あるいは帰

国後の多数の作品を発表した。それまでの明治美術会とは著しく異なり、これら新傾向の画風 に注目が集まった。﹁紫派﹂という名称は、正岡子規が『日本新聞』において使い、﹁脂派﹂ は雑誌『白百合』が明治美術会派に使ったのが最初であるという1。

明治美術会は、明治22年(1889)に発足し、浅井忠、小山正太郎 2 、松岡寿、松井

昇、柳(高橋)源吉、本多錦吉郎、長沼守敬の七名によって趣意書が書かれ、ほかに山本芳 翠3、川村清雄、曽山幸彦4、原田直次郎5、五姓田芳柳(二代)五姓田義松などが参加した。明

治美術会のもとをたどれば、工部美術学校に行き着く。五姓田義松、山本芳翠、小山正太郎、 松岡寿、印藤真楯、中丸精十郎、高橋源吉、浅井忠、藤雅三らが、フォンタネージ帰国以前に 在籍している。なお、五姓田義松、山本芳翠は五姓田芳柳の「五姓田塾」、小山正太郎、松岡 寿、印藤真楯、中丸精十郎は川上冬崖の「聴香読画館」、原田直次郎、高橋源吉は高橋由一の 「天絵楼(天絵社、天絵学舎)」、浅井忠は、国沢新九郎、本多錦吉郎の「彰技堂」という具 合に、明治美術会の主要会員は、明治初期に油画を学び始めており、これら個人塾出身者であ った。

黒田清輝は、明治27年(1895)山本芳翠の「生巧館」を譲り受け、久米桂一郎とともに

画塾「天真道場」を開き、独自に後進を指導することになった。山本芳翠門下の、藤島武二、 白滝幾之助、湯浅一郎、北連蔵、山本森之助、丹羽林平は当然のこと、曽山幸彦門下だった岡 田三郎助、藤島武二、三宅克己、矢崎千代治、中澤弘光、さらに原田直次郎の「鐘美館」出身 の長原孝太郎、和田英作、小林萬吾らが集まっていた。

明治29年(1896)5月、黒田清輝は明治美術会を離れ、白馬会を結成し、同年秋第一回

白馬会展覧会を開催して大成功をおさめた。黒田清輝、藤島武二、安藤仲太郎、小林萬吾、小 代為重、久米桂一郎、和田英作、白滝幾之助、岡田三郎助、湯浅一郎、中村勝治郎、佐野昭、

合田清、今泉秀太郎、長原孝太郎、菊池鋳太郎、山本芳翠の17名が出品している。17名中、 10名以上がなんらかのかたちで東京美術学校と関係することになる。

作、三宅克己等人。

黒田清輝は、明治29年(1896)東京美術学校西洋画科の授業を嘱託され、9月より授業

を開始した。久米桂一郎は美術解剖学、考古学の授業を嘱託され、助教授には藤島武二、岡田

三郎助、和田英作が起用された。しかし、和田は翌年四学年に入学し、同年7月第一回卒業生

となり、10月教場助手となる。中村勝治郎は明治30年五月に東京美術学校雇となっている。

長原孝太郎は、開設時に助教授という話もあったが、岡倉天心校長辞任後の明治31年10月に 助教授となっている。天真道場出身者の学生としては、撰科一学年に、山本森之助、広瀬勝 平、城勉一郎、田中寅三、二学年に丹羽禮介、大内鉄也、三学年に白滝幾之助、小林萬吾、湯 浅一郎、丹羽林平が数えられる。その後、引き続き赤松麟作、中澤弘光、矢崎千代二も入学し 38

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▶ 6. 〈美術學校與西洋畫〉,《京都美術協會雑

▶6.﹁美術学校と西洋画﹂『京都美術協会雑誌』第49号

誌》第49號,明治29年(1896)6月刊。

明治29年(1896)6月刊

▶ 7. 黑田清輝著、陰里鐵郎編,〈洋畫問答〉,

▶7.﹁洋画問答﹂﹃絵画の将来﹄黒田清輝著、陰里鉄郎編

《繪畫的將來》,昭和58年(1983)。

昭和58年(1983)

ている。 単純に言ってしまえば、工部美術学校でフォンタネージの指導を受けた画家たちが﹁脂派﹂

の中核を担い、この脂派のもとで油画を学んだ一世代若い画家たちが、黒田清輝、久米桂一郎 の天真道場に集い、白馬会が結成され、東京美術学校西洋画科開設時に、黒田、久米両名のも

とで学生、教師になったグループが﹁紫派﹂を形成していたといえよう。いわば、旧派(脂派) 絵画における基本を身につけた人々が、黒田清輝、久米桂一郎の絵画に対する考え方をも含め て、新派(紫派)絵画を習得し、展開させていった結果であろう。東京藝術大学美術館所蔵の 明治後期油画作品群は、新派(紫派)絵画の求める姿を如実に現代に伝えている。

二 黒田清輝における素描 授業が開始される数ヶ月前に、京都滞在中の黒田清輝は求めに応じて﹁美術学校と西洋画﹂

(明治29年)で次のような抱負を述べている。

美術学校が洋画科を置きて余が之を担任することになりしに就ては、余は出来る限り自由

即ち規則などに束縛せられない様な工合にして学生の習学に便ずる考え……渾べて自分が此学 校に入いろうと思ったり、生徒に為って勉強して居ると仮定めた時は何ふであろうと、自分を 其境遇に置いて考えを立てゝ往く積もりです、いくら入学試験なればとて数学などは余り厳し く為たくない、画を習ほうといふのに数学で入学出来ぬのも愚な訳、画を習はせやうという精 神にも違ふ訳、彼学校に入いるのに中学校以上の学力を有って居る証明を要するといふので普 通の教育がゐることは極って居ればそれで沢山である……6

学生が本来持っているだろう創造力が現実のものとなって絵画作品として結実するには、

教師は学生の立場に降り立ち、学生がなにものにも妨げられず自由自在に自己表現ができるよ うに、サポートに徹するという藝術教育の基本が述べられている。天真道場での規定の一つに

﹁当道場に於いて絵画を学ぶ者は天真を主とす可き事﹂が掲げられていたことからも、学生の個 としての創造性、自律性を尊重していたといえよう。もう一つの規定は﹁稽古は塑像活人臨写 に限ること﹂であり、石膏像素描(デッサン)あるいは実際のモデルを描く人物素描(デッサン)が 重要であり、ある素描の印刷物や写真を見て素描(デッサン)することを認めないということで あろう。﹁洋画問答﹂(明治32年)で次のように語る。

……石膏だの裸体に依って書かせるものだから、一年や二年書いたつて出来たもので一面の

画の形を成したものは、チッツト少ない、其形を成したものが出来ないと云ふのは、其処が新 派の得意な処で、始めつから画をこしらえる事は無用です、只物を見る目の寸法を拵える、其 内に手は独りで慣れて来る、それで先づ目の寸法というと云ふ側をしっかり固めて置いて、そ

れから油絵をやらせる時には、人の形はスツカリ書けると云ふ工合にさせるのである、……自 然と首つ引きでそれだから大変始めは這入り悪い、けれども研究すると云ふ側から行くと大変 面白いのです、何も規則が無いのだから面白い、手にも目にもくせが付かない自由に発達する 事が出来る、……7

絵画は、基本的に「見る」という感覚と「描く」という行為の連関によって成立する。こ

の「見る」という「視覚」の仕組みがどのようになっているのかという根本的な疑問に答えて いるギリシアの哲学者アリストテレスは、『形而上学』の冒頭で次のように述べている。

すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。その証拠としては感官知覚[感覚]へ

の愛好があげられる。というのは、感覚は、その効用抜きにしても、すでに感覚することそれ 自らのゆえにさえ愛好されるものだからである。しかし、ことのそのうちで最も愛好されるの は、目によるそれ[すなわち視覚]である。けだしわれわれは、ただたんに行為しようしてだ けでなく全くなにごとを行為しようともしていない場合にも、見ることを、いわば他のすべて の感覚にまさって選び好むものである。その理由は、この見ることが、他のいずれの感覚より 40

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▶8.《亞里士多德全集12 形而上學》,出隆譯,岩

波書店。 ▶9.瓦薩里,《瓦薩里的藝術論》,,平凡社。 ▶ 10. Paul Valéry,《les livres lus au clair de la

lune 》,日文譯本為《ドガに就て》,吉田健一

譯,筑摩書房,昭和52年(1977)。 ▶ 11.在畫布上畫草圖時,舊派常使用墨汁,至於

新派,大多使用木炭。東京美術學校西畫科設立不 久的明治31年(1898),東京美術學校類似機關 團體雜誌「美術評論」12號、13號連載了「西畫入 門」、「西畫入門(續)」,之後又整理成「西畫 入門」作為繪畫材料、繪畫技術相關著作刊行。關 於木炭,「柳炭以法國製最佳。」、「油畫的草圖 除柳炭外,沒有堪用的,……這是最適合的。」推 薦用於畫草圖。事實上,包含黑田清輝的「婦人像 (廚房)」、藤島武二的「池畔納涼」、和田英作 的「渡口夕暮」、小林萬吾的「農夫晚歸」、湯淺 一郎的「漁夫晚歸」、中澤弘光的「少婦」、赤松 麟作的「夜間火車」等,藉由紅外線照片及紅外線 攝影及紅外線光導攝象管攝影,可清楚地觀察到不 只木炭畫出的輪廓線,包含明暗的程度,草圖畫得

▶8.『アリストテレス全集12 形而上学』出隆訳 岩波 書店

▶9.『ヴァザーリの芸術論』 ヴァザーリ 平凡社 ▶10.『ドガに就て』ヴァレリィ 吉田健一訳 筑摩書房 昭和五二年(一九七七)

▶11.画布(カンヴァス)に下素描(アンダードローイン

グ)を描くに、旧派においては墨汁の使用が多いが、新 派においては、木炭が圧倒的に使用されている。東京 美術学校西洋画科発足まもない明治31年(1898)、東

京美術学校の機関誌的性格の「美術評論」の12号、13

号に「洋畫手引草」 「洋畫手引草(續)」 と連載され、さら にまとめられて「洋畫手引草」 として、絵画材料、絵画技

術に関する著書として刊行されている。木炭については、

「柳炭は仏蘭西製のもの最も佳し。」 「油繪の下畫には

柳炭の外、用ゐるべきものなく、……最も適せり。」 と、下 素描に用いることを推奨している。事実、黒田清輝「婦 人像(厨房)」をはじめ、藤島武二「池畔納涼」、和田英作

「渡頭の夕暮」、小林萬吾「農夫晩帰」、湯浅一郎「漁夫

晩帰」、中澤弘光「少婦」、赤松麟作「夜汽車」など、赤外

線写真および赤外線ビジコンカメラ写真によって木炭

による輪郭線のみならず明暗の調子をも含めたかなり 描き込んだ下素描が明瞭に観察される。

も最もよくわれわれに物事を認知させ、その種々の差別を明らかにしてくれるからである。8 眼、鼻、舌、耳、肌、それぞれの感覚器官によって外界のさまざまな情報が得られる。そ

のうちでも、アリストテレスは眼によるそれ、すなわち視覚の優位性を語り、見ることそのも のを選び好むものが人間であるといっている。そして、その理由をさまざまな物事の差別を明 らかにしてくれるからであるとしている。すなわち、物と物とを見比べてその違いを見いだす ことの喜びを述べている。このような視覚の優位性が見直され、イタリアルネッサンス絵画の 一筋の道が強力に押し進められたのではないだろうか。たとえばその当時の画家・建築家・美 術史家ヴァザーリは、﹁素描とはなにか﹂を「比例」というキーワードを使って次のように語 る。

三つの芸術(建築、彫刻、絵画)の父である素描は、知性に導かれて、多くの物から一つ

の普遍的判断を汲み取る。いわば、自然はそれ自体非常に規則的なので、素描は、自然のすべ ての物の一つの形、あるいは一つの観念を汲み取るのである。素描は、人体や動物にとどまら ず、植物、建築、彫刻、絵画においても、その部分への全体、部分相互、全体への部分の比例

を認識しはじめる。そして、この認識から、一つの確かな判断が生まれ、この心の中の判断 は、手によって後ほど作られる。すなわち、「素描」といわれるものをかたちづくる。この素 描は、もくろみ、心に思い浮かび、観念の中に現れるようなそのような考えを、目に見えるよ うに作り、明らかにすることに他ならない。9

相當精細。

自然の中の形(フォルム)、あるいは観念(イデア)を汲み取り、その対象物の部分と全体の相

互関係を「比例」(プロポーション)として認識し、さらにそこから人間の心に浮かぶ観念を目 に見える形に作り上げるのが、素描であると語っている。印象派の画家ドガはデッサンについ て次のように語る。

デッサンは形ではない。デッサンは物の形の見方である。10 ﹁どのように対象物を見るのか﹂ということそのものが、デッサンであるというのがドガで

あり、この考え方は、アリストテレス以来、ルネッサンスに再発見され、それ以降脈々と西洋 に受け継がれ、伝統として存在する「素描(デッサン)」の本義であろう。

おそらく黒田清輝は、アリストテレスの「差別(差異)」、ヴァザーリの「比例」に支

えられた素描、すなわち﹁見る﹂という感覚することそのものの結果が素描であるとした素描 の本義を、フランス留学中体全体で感じ取ったのであろう。彼は、それゆえデッサンの本義を 「物を見る寸法を拵える」と言い、「見る」という視覚そのものの鍛え方を主張し、かつ東京 美術学校西洋画科の藝術教育の主柱とした。素描を鍛えるための絵画材料は、木炭であった。

木炭は木炭紙上での素描のみならず、絵画制作の際の画布(カンヴァス)への下素描に(アンダー ペインティング)ももっぱら使用された11。

私は東京藝術大学絵画科油画専攻に昭和40年代前半在籍したが、﹁稽古は塑像活人臨写に

限ること﹂という天真道場のスローガンは受け継がれ、学部一、二年次は、木炭による石膏素 描、人物素描、油絵具による人物油画の実技授業でほとんどが占められていたといってよい。

三 黒田清輝における絵画(タブロー) 明治17年(1884)、黒田清輝は、18歳でパリに留学し、ほぼ10年間滞在した。最初の三

年間は法科大学入学準備のために費やし、その間山本芳翠の日本料理を賞味したり、藤雄三の

通訳としてラファエロ・コランを知るにおよんで徐々に西洋画に打ち込むようになる。この二 人の画家が黒田清輝の画才を認めるようになり、その後三、四年は、法科大学の講義がないと

き、コランの教室に通い、木炭素描(デッサン)を学んだ。明治22年(1888)コランのもとで油

画の習練を開始し、パリ美術学校(エコール・ド・ボザール)で美術解剖学の講義を聴講してい 42

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る。そして、明治23年パリ近郊のグレーに定住する頃から、本格的に絵画制作に取り組んでい

る。黒田にとって、最初は四季折々の風景に魅せられたのであろうが、「婦人像( 厨房 )」のモ

デルとなったマリア・ビョーに出会ったことが、三年間ものグレー定住の理由の一端でもあっ たろう。

黒田清輝のこの作品は、画面全体いくぶん淡青色で覆われているが、張りつめた空間が感じ

られる作品である。黒田の借りていたビョー家の小さな二階家一階の土間と厨房の通路に立ち はだかるように座るマリア。後方の厨房の向かって左の小窓から差し込む強い光と、土間入口 すなわち正面から入る柔らかな光。この異なる性格の二光線が交差する中に浮かび上がるマリ ア。両手をしっかりと握り、黒田の上着を羽織り、視線を黒田に厳しく向けているマリア。

「婦人像( 厨房 )」は、グレー滞在の最後に描かれた大作であり、明治25年(1892)の3月

に完成し、ソレエテ・デザルティスト・フランスのサロンに出品したが落選している。8月

には日本に搬送された。明治27、28年の明治美術会に黒田清輝の滞欧作品が出品されている が、この作品は発表されていない。明治30年(1897)10月、東京美術学校西洋画科開設一年 後に黒田自身によって納入されている。帰国後、パリに渡っても、黒田は二度とグレーを訪れ ることはなかったという。

「婦人像( 厨房 )」は、唯一東京美術学校に存在する黒田清輝の大作であり、西洋画科開設時

の学生たちにとって、鑑賞する機会もあっただろうし、計り知れない影響を及ぼしている作品 であろう。矩形の中に矩形が重なり、その中央に斜めに座るマリアの形姿が構図をかたちづく り、北向きの一定光線のもとでの対象物を観察したような陰影の秩序ではなく、二重の光線の 存在を利用することで、対象物を空間から浮かび上がらせる方法がである。すなわち、北向き の光線のみで描かれるアトリエの空間ではなく、画面後方厨房の左方小窓から鋭く差し込む黄 色がかった斜光線と、土間の入口から穏やかに照らす順光線で生み出される、複合化された光 による空間は、ごく普通に日常生活が営まれる空間の常態でもあった。このような構図法と明

暗法による舞台設定が学生たちを魅了しただろうし、事実、黒田は﹁洋画問答﹂(明治32年)で 次のように語っている。

新派と云ふ方は先づ其景色を見て起こる感じを書く、或る景色を見る時には雨の降る時も

あり、天気の極く宜い時もあり色々ある。其変化を写すのです、総ての絵が其通りで、人間の 顔色でも色合いでも、皆さう云ふ所を写す、先づ色合いで言えばですねえ、人の顔と云ふもの は頬の処が、桃色のやうに紅くて、唇も紅くして居る、額や鼻の先は抔は白茶けて居る、さう 云ふ規則に依って、其通り書き上げてしまう仕舞うのが旧派なんです、又其人の面の内で一番 明るくなって居なければならない筈の、鼻の頭の所が黒くなって居る、それから耳の端が真赤 にして居ると云ふというやうな所を描くのが新派なんで、それは大変奇を好んだやうで可笑し い、併し奇を好んでやった訳ではない、さう云ふ空気の中にある特別な場合があって、其処の チョッとした感じを写した、同じ人の顔に就ても光線を前から受けたのと、後ろから受けたの と、外とに置いた時と内に置いた時とは大変色の具合が違ふ、其奴共区別しないで、同じよう に只顔なら顔と云ふ様に見える丈に書くのが旧派、外に置いた奴は、外に置いた通りに、頭の 紙の上にも蒼い空の反射があって脇にあった草や花の反射が鼻の下や唇の脇に付いたりする、 ことによると、反面真赤で反面黄色な場合も有る、夫を遠慮なくかけば新派です。

刻々変化する光の現象が醸し出す対象物の見え方の瞬間の美しさを、的確に追い求め、対象

物である肌色あるいは器物が黄色がかっていたり、青色がかっていたり、それらがどのように

組み合っているのか、「婦人像( 厨房 )」ではよく観察されている。肌色そのもがもつ固有色

(ローカル・トーン)を絶対化して描くのではなく、弱い光のもとでの見え方と強い光のもとで の見え方を相互に比較し、その相対化をはかり、それぞれの肌の描出が行われている。このよ うな相対関係は人物の各部分と背景の各部分とが、全体の中で寒色と暖色にアトランダムに散

りながらも、画面全体として眺めると一つの均衡(バランス)を形成している。いわば、明暗の 諧調のヴァルールがしっかりと基底にありながら、色彩のヴァルールも印象派ほど前面に出て はいないが、形成されているといえないだろうか。 44

45


▶12.《馬蒂斯 畫家筆記》,二見史郎譯,みすず

書房、昭和53年(1978)。 ▶ 13.本多金吉郎於《油繪山水訣》中,將油畫顏

料分為不透明顏料、半透明顏料、透明顏料三種, 顏料名舉例如下:不透明顏料,有成層白(Flake White 鉛白)、拿普勒斯黃( Naples Yellow )、

鉻黃( C h ro m e Ye l l o w )、鎘黃( C a d m i u m u Yellow )、土黃( Yellow Ochre )、羅馬土黃

(Roman Ochre)、威尼斯紅(Venezian Red)、 淺紅色( L i g h t R e d 鐵紅)、印度紅( I n d i a n Red)、原蠟(Raw Amber生赭)、焦褐色(Burnt Sienna岱赭)、深藍色(Blue Black 青黑)、象牙

黑(Ivory Black)、朱紅色(Vermilion 朱砂)、法 式紺青(Frebch Ultramarin湛藍)、鈷藍(Cobalt Blue)、永久藍(Permanent Blue)等17色。

半透明顏料,有黃赭( Raw Sienna )、焦褐色 (Burnt Sienna岱赭)、黃銅(Cappah Broun)、 土綠(Teree Verte 綠土)等4色。 透明顏料,有洋紅( Carmin )、深紅( Crimson Lake)、紅紫(Purple Lak)、安特衛普藍

(Antwerp Blue)、普魯士藍(Prussian Blue)、 瀝青(Bitumen)、粉褐(Brown Pink)、透明黃 (Yellow Lak)、褐紅(Madder Brown)等9色顏料 名稱。 在《油畫山水訣》中,本多金吉郎以實際的描畫體 驗為基本開示,這合計30色的油畫顏料,幾乎網羅 了明治前期的油畫所使用的顏料。說起來,就是屬 於舊派(脂派)畫家調色盤的標準形式。

▶12.﹃マティス 画家のノート﹄二見史郎訳 みすず 書房、昭和53年(1978)

▶13.本多金吉郎は、 『油繪山水訣』において、油絵具を

不透明絵具、半透明絵具、透明絵具と三種類に分類し、 次のように絵具名を挙げている。

不透明絵具として、フレーキホワイト (Flake White 鉛

白)、子ープルスエロー(Naples Yellow ナポリ黄)、コ

ロームエロー(Chrome Yellow クロム黄)、カドミユ

ームエロー(Cadmiumu Yellow カドミウム黄)、エロ

透 同撰,《洋畫手引草》,畫報社,明治 31 年 (1898)。《鷗外全集第21巻》,岩波書店,昭和 48年(1973)。

以隨性方式編譯過編述原本(K, Raupp : Katechismus der Malerei, 2,Aufl, Leipzig Verlagsbuchhandlung von J,J, Weber, 1894 )的

文稿。大村西崖記下森鷗外口述的內容,法國 留學組的久米桂一郎、岩村透,利用威貝爾( J. G. Vibert)的《繪畫的科學》(La Science De La Peinture )等,補充了包含法國標籤的顏料部分

等。每一位撰者,當時都在東京美術學校從事教 育,對於西畫科的繪畫材料、繪畫技術的立場,藉 由《洋畫手引草》明確地揭示。 ▶ 15.新派(紫派)的調色盤又是如何呢?雖然在

《西畫入門》中,舉出了眾多顏料名稱,但除了舉出 推薦的顏料名稱,也同時舉出了不推薦的顏料名稱,

クル(Roman Ochre ローマ黄土)、ベ子シアンレット

(Venezian Red ベネツィア赤)、ライトレッド(Light

Red 弁柄)、インジアンレッド(Indian Red インド赤)、

ローアムバア(Raw Amber 生アンバー土)、ボルント

アムバア(Burnt Sienna 焼アンバー土)、ブリューブラ

ッキ( Blue Black 青色黒)、アイボリーブラッキ(Ivory

Black 象牙黒)、ベルミリヲン(Vermilion 朱)、 フレンチ

ヲルテマリン(Frebch Ultramarin 群青)、 コバルトブリ

ュー(Cobalt Blue コバルト青)、ペルマ子ントブリュー

(Permanent Blue パーマネント青)の17色。

半透明絵具としてローシーンナ(Raw Sienna 生シエナ 土)、ボルトシーンナ(Burnt Sienna 焼シエナ土)、カパ

ブラウン(Cappah Broun)、テルレベルテ(Teree Verte 緑土)の4色。

透明絵具としてカルミン(Carmin)、 クリムソンレーキ (Crimson Lake)、ポルプルレーキ(Purple Lake パープ

ルレーキ)、アントエルプブリュー( Antwerp Blue ア

ントワープ青)、 プロシアンブリュー( Prussian Blue プ

ロイセン青)、ビチューメン(Bitumen 瀝青)、ブラヲ

ンピンク(Brown Pink ブラウンピンク)、エルローレ

ーキ(Yellow Lake イエローレーキ)、マダルブラオン げている。

『油繪山水訣』において、本多金吉郎は実際の描画体験

をもとに説示しているといわれ、 これら計30色の油絵具

は、明治前期の油画に使用されている絵具をほとんど

を網羅していると思われる。いわば、旧派(脂派)に属す

る画家のパレットの標準形をなすものであろう。

▶14.「洋畫手引草」森林太郎、大村西崖、久米桂一郎、 岩村透 同撰 畫報社 明治31年(1898) 鴎外全集 ar 第21巻 岩波書店 昭和48年(1973)

編述原本( K, Raupp : Katechismus der Malerei, 2,Aufl,

Leipzig Verlagsbuchhandlung von J,J, Weber, 1894 )

をかなり自由に編訳したものである。森鴎外が口述し たものを大村西崖が筆記し、フランス留学組の久米桂

一郎、岩村透が、 ヴィベールの「絵画の科学」などを利用

し、 フランス表記をも含めて顔料部分など、補充したも のであろう。いずれの撰者も、その当時東京美術学校で

教育に携わり、西洋画科の絵画材料、絵画技術に対する

立場を、 「洋画手引草」によって明確にしていると考えら れる。

不是只藉著從軟管擠出的色調,單純地選擇顏料。 土性顏料,即氧化鐵類的黃色、紅色顏料,建議 從土黃色(Ocre jaune / Yellow Ochre)、土褐色 (Ocre brune / Brown Ochre)、金黃色(Ocre d'or / Gold Ochre)、黃赭(Terre de Sienne naturelle / Raw Sienna)、岱赭(Terre de Sienne brùlèe / Burnt Sienna)、波佐利褐(Rouge de Pozzuoles / Terra rosa)、黑褐(Brun Van Dyck / Van Dyck brown)、瑪爾絲紫(Violet de Mars / Mars Violet)

等八色中選擇。 礦物類黃色顏料中,僅推薦鎘黃(Jaune de Cadmium / Cadmiumu Yellow)、礦物類紅色顏

料中,僅推薦朱砂( Vermilion )、色淀類紅色顏 料中,僅推薦玫瑰紅(Laque de Garance / Rose Madder)。當然,同一種顏料也會依照它們的色調

濃淡或色澤風味等差異而有數種。藍色顏料中,只 有鈷藍和群青兩種,不推薦普魯士藍、靛藍。綠色 顏料中,只有鉻綠、鈷綠兩種,應會排斥祖母綠等

46

物を表現する二つのやり方がある。一つはありのままに示し、もう一つは物を喚起する仕方

です。うまくそれをものにするため、私は、物に近づき、それらの個々の特性とか、それらを 構成し、位置づけている要素間の関係などを通して、正確に表現するように努めています。こ れらの関係は色彩の組合せのなかにも存在しています。

ーヲークル(Yellow Ochre 黄色黄土)、ローマンヲー

(Madder Brown 茜褐色レーキ)の9色の絵具名を挙 ▶ 14. 森林太郎、大村西崖、久米桂一郎、岩村

黒田清輝が旧派と新派の色彩に対する見方の違いについて語っているのと、ちょうど対応

することを、マティスは次のように述べている。

▶15.新派(紫派)のパレットはどのようになっていたの

であろう。 「洋画手引草」においては、多数の絵具名が挙 げられているが、推奨する絵具名を挙げると同時に推

奨しない絵具名も挙げ、単にチューヴから出した色調

で単純に絵具を選択しないことを求めている。

土性顔料、すなわち酸化鉄系の黄色、赤色顔料では、黄 色黄土(Ocre jaune / Yellow Ochre)、褐色黄土(Ocre

brune/Brown Ochre)、金色黄土(Ocre d'or / Gold Ochre)、生シエナ土(Terre de Sienne naturelle / Raw

Sienna)、焼シエナ土(Terre de Sienne brùlèe / Burnt Sienna)、ポッツォリ土(Rouge de Pozzuoles / Terra rosa )、 ヴァンダイク褐色土( Brun Van Dyck / Van Dyck brown) 、マルス紫(Violet de Mars / Mars Violet)の八色 から選ぶことを薦めている。

鉱 物 系 黄 色 顔 料で は 、カドミウム 黄( J a u n e d e

Cadmium / Cadmiumu Yellow)、鉱物系赤色顔料で

は、朱(Vermilion)、 レーキ系赤色顔料では、茜レーキ

(Laque de Garance / Rose Madder)のみを奨めてい

モデルとあなたの絵との間に色彩の関係は存在しえないのです。考慮すべきはただあなたの

絵の色彩関係とモデルの色彩関係との間の等価ということだけです。12

すなわち、モデルの着ている服の近くへ、画家自らのパレットをもっていき、絵具を混色

して、服の色と同じ色調をつくりだして画布(カンヴァス)に塗ることではない。そうではなく

て、モデルの肌の色と服の色との関係が、すなわち調和(ハーモニー)あるいは対照(コントラス ト)がどのようになっているのかをみずからの目で眺め見極め、画布上での絵具の色同士の関 係そのものが等しく対応しているかが重要であると、マティスは主張している。この彼の「 等

価(ヴァルール) 」に対する態度は、アリストテレス、ヴァザーリ、ドガ、黒田清輝が、それぞ れ述べている「差別(差異)」「比例」「物の形の見方」「物を見る寸法を拵える」に連な り、見ることを描くことへと相対化する、いわば構造化するのが絵画であると主張している。 まさにこのような見方が一本の筋となって、ルネッサンス以降の西洋画を支えてきている。

そして、黒田清輝率いる新派は、紫派と称されることからも、「赤、橙、黄、緑、青、紫の

色光(スペクトル)が集まると光(白色光)になる」というニュートンの光学理論を理解し始め ていたように思われる。外光のもとでの対象物をその物自体というよりもそれを取り囲む空間

をも視野に入れ、その相対的な色彩関係を、おそらく20色に満たない油絵具で表現している。 その際、褐色や黒色の使用は控えられる。

19世紀半ばにはほぼ現在使用されている油絵具が欧州にて製造されるようになっていた。

明治前期の絵画材料、絵画技術の理論的支柱であった本多錦吉郎の著書『油繪道志留辺』『山

水畫訣』では、もうすでに欧州のほぼ同時代の絵画材料、絵画技術の情報がもたらされ、コ

バルト青(ブルー)やカドミウム黄(イエロー)もすでに掲載されている13。久米桂一郎が編者の一 人である『洋畫手引艸』14を参照すると、新派では、むしろ、旧派における多数の油絵具の使

用を放任せず、油絵具の耐久性、退色性を考慮して、極力制限した中でのスペクトル色、す なわち混色されていない原色の油絵具の使用を奨めている15。中間色はみずからのパレットで 混色するわけである。少ない色数で色彩豊かな明るい画面を形づくるには、白色の存在が欠か せない。旧派では鉛白のみであったが、新派における特徴は、二種類の白色顔料を併用してい

るところにある。直射光線が当たる明部には鉛白、陰影部における反射など、暗さの中の明 るさと色調をデリケートに描出するには亜鉛華を混色するというという具合に使い分けてい

た16。すなわち、下層における明暗を鉛白が担い、上層における色調の変化には亜鉛華が使用 されていた。

一方、フランスから帰国した当時の黒田清輝は、「日本という風土に根ざした絵画」を制作

する必要性を感じていた。旧派(脂派)の油画は、日本の気候、風土を無視しており、欧州の 風土における西洋画の明暗法、色彩法をそのまま直接的に日本に移入しているにすぎないと判 断し、次のように語っている。

「私共帰(わたくしどもかへ)りたてに日本(にほん)でやつてる油画(あぶらゑ)といふのハ一二

の外国(ぐわいこく)などで学(まな)んで来(き)た人(ひと)の巧(うま)い画(ゑ)もありましたけれど

も其外(そのほか)の画(ゑ)ハ大抵何(たいていなん)です非常(ひじやう)に何(ど)うも古(ふる)い 時代(じだい)の油画(あぶらゑ)を真似(まね)てやつて居(ゐ)るやうに感(かん)じたんです、それ

で実(じつ)に不思議(ふしぎ)な感(かん)が起(おこ)つたのは日本(にほん)の空気(くうき)の総(す

べ)て鮮(あざ)やかな明(あきら)かに物(もの)が見(み)えるやうな所(ところ)であつて其出来(そ 47


其他綠色顏料,這一點書內有記載。黑色則是象牙 黑等動物性黑色。 ▶16.在《洋畫手引草》白色顏料的項目中,有如下

列氧化鋅的記述:「以氧化鋅製造。不會像鉛白一 樣變色,其質感脆弱有可能產生龜裂。且比鉛白透 明,不會蓋掉其他顏色。不過,與朱紅色或《鎘》 混合效果較佳的只限於這種顏料。在不需堆疊的明 亮處,使用的效果很好。」 《明治期美校油畫作品中之兩種白──黑田清輝與 法國》,作間美智子(文化財保存學保存修復油畫 ・博士論文)詳述明治後期油畫作品中,與鉛白相 較下,氧化鋅是如何使用。 ▶17.黑田清輝(談),〈白馬會之回顧(二)〉,

《都新聞》,明治38年(1905)10月31日 ▶18.明治前期的舊派,畫布使用外國成品,其中大

多是英國製,而新派當然大多使用法國製畫布。另

る。もちろん、それらの色調の濃淡、あるいは色味の違

いによって同一顔料でも数種類ある。青色顔料では、 コ

バルト青とウルトラマリンの二種類だけであり、 プロイ

セン青、インジゴは奨めていない。緑色顔料では、ヴィ

リジャン、 コバルト緑の二種だけであり、エメラルド緑な

ど他の緑色絵具は排斥すべきであると述べている。黒 色は、象牙黒などの動物性黒色である。

▶16.『洋畫手引草』の白色畫具の項に、以下のような亜

鉛華の記述がある。 「酸化亞鉛を以て製す。鉛白の如く 變色することなけれど、其質脆くして亀裂を生じる慮あ

り。且鉛白に比すれば透明にして掩覆せず。但し朱又は

『カドミウム』 と混ずるに宜きことはこの顔料に限る。も りあげを要せざる陽所にはこれを用いて大に利あり」

「明治期美校油画作品にみるふたつの白 - 黒田清 輝とフランス」 作間美智子(文化財保存学保存修復油 画・博士論文)明治後期油画作品に、鉛白と比較して、亜

鉛華がどのように使用されているかが詳述されている。 ▶17.「白馬会の回顧(二)」黒田清輝(談) 都新聞 明 治38年(1905)10月31日

一方面,不太可能是油性質料,有些或許是自製的 水性質料或乳濁液質料。久米桂一郎留學時,在法 國是威爾貝勒的「繪畫的科學」這種繪畫材料、以 及繪畫技術的研究書出版等,自製畫布也很盛行。 另外,稱為吸水性的高吸收性乳濁液質料在市面上 販售,久米桂一郎將它用於「貝爾迪諾路易《小孩 與葡萄》摹寫」中。 久米對於自製畫布的抹底,以及酪蛋白這種高吸 收性的吸水性質料,說明了處理方法。(久米桂 一郎〈路易二(附錄、自製畫布之話)《摹寫之 話》〉、《美術新論》,昭和4年(1929)、《方 眼美術論》,中央公論美術出版, 1984 年、 241 頁):「提起當時頗不容易的畫布製法,首先要撐 開麻布塗上揮發油再將油除去,然後將如起司磨成 粉般的酪蛋白用水浸泡一晚,再加上阿摩尼亞,將 這糊狀的東西用水稀釋,塗在麻布上。由淡到濃塗 個三次到五、六次。塗抹時先晾乾再用浮石磨,一 邊填滿網眼一邊塗。如此,就能完成高吸水性的 畫布。 一般的畫布是使用膠來製作,很容易沾上濕氣,在 日本這樣濕氣多的地方尤其容易長霉菌,不過,含 酪蛋白的畫布則不用擔心,感覺很不錯。(談)」 久米的作品之外,黑田清輝的《菊園》、藤島武二 的《逍遙》與《河濱的早晨》、小林萬吾的《黃 昏》與《農夫晩歸》等,都是水性膠質,或者乳濁 液質料,而且是自製畫布的可能性很高。 ▶ 19.「美術意見種種(八)」,報知新聞,明治

29年(1896)10月30日。 ▶20.《「洋畫問答」名流談海》,大橋乙羽編,明

▶18.明治前期旧派において、画布は外国製既製品それ

もイギリス製が多いが、新派においては当然のことフラ

ンス製画布が多くなる。一方、油性地とは考えにくい、お そらく自家製の水性地もしくは乳濁液地の例もある。久

米桂一郎の留学当時、フランスでは、ヴィベールの「絵

画の科学」 という絵画材料。絵画技術の研究書が出版さ れるなど、自家製画布も盛んに行われていた。 またアブ

ソルヴァントと称する吸収性が高い乳濁液(エマルショ

ン)地が市販され、久米桂一郎はそれを「ベルディーノ・ ルイ 「小児と葡萄」模写」に使用している。

久米は、自家製画布の地塗りについて、カゼインによる 吸収性の高いアブソルヴァント地についてその処方を 語っている。 (久米桂一郎「ルイ二(附、自製カンヴスの

話) 〈模写の話〉」、 美術新論 昭和4年(1929)、 『方眼 美術論』、中央公論美術出版、1984年、241頁)

「その頃苦々がやったカンヴスの製法を云ふと、 まづ麻

布を張ってこれをベンジン油でふいて油を抜いておく、

そしてチーズを粉にしたものゝ様なカゼインといふも

のを一晩水で練ってをいて、それにアンモニヤを加へ、 糊の様になったものを水でうすめて、麻布に塗るので

ある。薄いものから段々濃くしていって三回から五六回

血塗る。塗る場合は乾かしてそれを軽石で磨って目をつ ぶし乍ら次々と塗って行くのである。斯うすると、立派な

アブソルヴンのカンヴスが出来上る。

普通のカンヴスはニカワを使って製造するので、非常 に湿気を吸ひ易く、日本の様な湿気の多いところでは

わけてカビが生べることが多いのであるが、 カゼインを

生ゐたるものはそのおそれがなく非常に佳いと思ふ。 (談)」

久米の作品の他、黒田清輝「菊園」、藤島武二「逍遙」 「浜

のでき)たものハ是(これ)の反対(はんたい)の如何(いか)にも欧羅巴(ようろつぱ)の北(きた)の方 (はう)の暗(くら)い光線(くわうせん)の所(ところ)で画(か)いたやうな感(かん)じがあります、 欧羅巴(ようろつぱ)の北(きた)の方(はう)の空気(くうき)の暗(くら)いといふのハ幾(いく)らか 奥(おく)深(ふか)い感(かん)じがあります、靄(もや)のかゝつた空気(くうき)に富(と)んで居(ゐ)

るんですね、それで何(ど)うも先(ま)づ画(ゑ)の巧拙(こうせつ)は別(べつ)として欧羅巴(ようろ つぱ)の如其(さう)いふ所(ところ)で出来(でき)た画(ゑ)を見(み)て而(さう)して其(その)彼(む)地 (かう)で出来(でき)たのハ佳(い)いものハ自然(しぜん)の土(と)地(ち)柄(がら)に依(よ)つて中々

(なかなか)能(よ)く自然(しぜん)を写(うつ)してあるのですけれども是(これ)は自然(しぜん)を知

(し)らずして上部(うはべ)丈(だけ)を拙(まづ)く真似(まね)たのではないかといふ気持(きもち) がしたのです17」

黒田清輝は、精力的に実際日本各地へ旅行し、現場での風景写生を通して、日本の気候、

風土に準拠した、外光のもとでの空気や空間、さらに時間そのものを取り入れ、その人なり現 場で感じた感情(フィーリング)を描出する油画を目指した。そのような油画粗描(スケッチ)に

は、油絵具の乾燥を高めると同時に、油絵具の彩度を明るく保つ、吸収性の良い画地が必要 であった18。

「黒田清輝氏曰(くろだきよてるしいは)く世(よ)に云(い)ふ旧派(きふは)と新派(しんは)との

区別(くべつ)をザツト申(まを)せば旧派(きふは)では景色(けいしよく)でも和田(わだ)ノ岬(みさ き)なら和田(わだ)ノ岬(みさき)を只(ただ)写生(しやせい)して顕はす迄ですが我々(われわれ)の 画く方では其(その)和田(わだ)ノ岬(みさき)の晩景(ばんけい)をかくとか月夜(つきや)をかくとか 雨中をかくとか其景(そのけい)に応(おう)じた感情(かんじやう)を写(うつ)すので只(ただ)景色

(けいしよく)の写真(しやしん)を写(うつ)すのとは少(すこ)しく異(こと)なる所(ところ)があり升 (ます)」19

「 ……日本では本式に稽古する処は、今までは一つも無かつた、本式の稽古でないので

すからクロモ石版や何かを手本にして、それを写してまづ一寸云はゞ、筆の使ひ方を覚へる、 木の葉はこうかくもの雲はこうかくものと云ふ形を知る、この覚へた形が癖に為つて自然のも のに向つて、さてかくとなると先づ自分の御手本にした画が、目の先に出て来て、それから其 手本の筆法でやらかす、こう云ふのが旧派の稽古の仕方と、旧派のかき方だと考られます、夕

日なら夕日の半分山の後ろに隠れて、光線を僅かに余して、木の上の方がチヨイチヨイ、明 かるくなつて居ると云ふやうな所ですね、さう云ふ場合を写して、どう云ふ天気具合の時どの 位日が入りかゝつた時と云ふのを、書くのが之が新派なんで、それが又さうでなくつて安芸の 宮島とか、それから天の橋立とか云ふ名高い景色を、似た様に習た様に書くのが、旧派です、 景色なら景色の形を記するのが旧派、新派と云ふ方は先づ其景色を見て起る感じを書く、或る

景色を見る時には雨の降る時もあり、天気の極く宜い時もあり方々ある、其変化を写すので す、……」20

辺の朝」小林萬吾「夕暮」 「農夫晩帰」などは、水性膠地

あるいは、乳濁液(エマルション)地であり、 しかも自家製 画布であった可能性が高い。

治32年(1899)。 ▶19.「美術意見とりどり (八)」 報知新聞 明治29年

(1896)10月30日

▶20.「洋画問答」 名流談海』大橋乙羽編 明治32年

(1899)

▶21.久米桂一郎「寒林枯葉」、藤島武二「浜辺の朝」 「池 畔納涼」、岡田三郎助「矢口村の朝」 「浜の夕暮れ」、和田

英作「春雨」 「田圃夕陽」 「公園の夕暮」、小林萬吾「夕暮」

「冬野」、中村勝治郎「農家の雨」 「夕暮」 「川辺の夕暮」、 湯浅一郎「風雲」、中沢弘光「秋の朝」 「浜の夕映」 「残

春」、白滝幾之助「冬の浜辺」 「みぞれ」 「晩景」 「雨中」 「雨

後」 「春雨」 「晩春」、山本森之助「夕暮」 「雨後の海」など が挙げられる。

このようなコンセプトによる新派(紫派)の風景画は、多数白馬会展覧会に出品され、それ

ら作品の一部が東京藝術大学美術館に所蔵されており、しかも季節、天候、時間帯を示す画題 が多い21。

ともかく、黒田清輝は、今目前にある自然と首っ引きになり、﹁物を見る寸法を拵える﹂と

いう自らの物を見る眼を養うことと、もう一つは画家同士の友情を目指し、その際忌憚なく作

品について仲間同士批評しあう双方向性(インタラクティヴ)なコミュニケーションを重要視し ていた。その結果、白馬会が生まれたと、事実黒田清輝は語っている。

「それで如何(どう)してもマア色(いろ)の薄(うす)い濃(こ)いと云(い)ふ事(こと)は其(その)国

柄(くにがら)にも拠(よ)るし其(その)人(ひと)にも拠(よ)るし何処(どこ)が佳(い)いと云(い)ふ事(こ

と)はない話(はなし)なんです、其(その)人(ひと)の好(この)みと云(い)ふ点(てん)があるんですか

ら、それですけれども何(ど)うしても少(すこ)し自然(しぜん)の研究(けんきゅう)と云(い)ふもの

が足(た)りないと云(い)ふ事(こと)を非常(ひじょう)に感(かん)じたんですね、それで私共(わた 48

49


▶ 21.可舉出久米桂一郎《寒林枯葉》、藤島武二

《河濱的早晨》、《池畔納涼》、岡田三郎助《矢 口村早晨》、《河濱黃昏》、和田英作《春雨》、 《田圃夕陽》、《公園黃昏》、小林万吾《黃 昏》、《冬野》、中村勝治郎《農家雨》、《黃 昏》、《〈川邊黃昏》、湯淺一郎《風雲》、中澤 弘光《秋之早晨》、《海濱夕映》、《殘春》、白 瀧幾之助《冬之濱邊》、《霙》、《晩景》、《雨 中》、《雨後》、《春雨》、《晩春》、山本森之 助《黃昏》、《雨後之海》等作品。 ▶22.黑田清輝(談),〈白馬會之回顧(三)〉,

《都新聞》,明治38年(1905)11月1日 ▶23.「繪畫當初的目的在於寫實」,《美術教育方

針》二六新報,明治33年(1900)3月31日。

▶22.「白馬会の回顧(三)」黒田清輝(談) 都新聞 明 治38年(1905)11月1日

▶23.「繪畫当初の目的は寫實にあり」﹃美術教育の方 針﹄二六新報 明治33年(1900)3月31日付け

くしども)は先(ま)づ人(ひと)の事(こと)は兎(と)も角(かく)も自分丈(じぶんだ)けハ絵(ゑ)を画(か)

くと云(い)ふ事(こと)に就(つ)いてハ境遇(きやうぐう)が面白(おもしろ)くなくてハ可(い)けな い、それで研究(けんきゅう)すると云(い)ふ事(こと)に就(つ)いてハ第(だい)一に自然(しぜん)と

首(くび)つ引(ぴ)きでなくてハ可(い)けない、是(これ)から幾(いく)らか技術(ぎじゆつ)の発達(は

つたつ)を計(はか)るのにハ友達(ともだち)の間(あひだ)に遠慮(えんりよ)があつては可(い)けな い、それ丈(だ)けを必要(ひつえう)と心得(こゝろえ)たのです、それで此時機(このじき)にあつ て共(とも)にやらうと云(い)ふ人(ひと)が集(あつま)つたのが即(すなは)ち白馬会(はくばくわい)

の因(もと)となつたので白馬会(はくばくわい)の展覧会(てんらんくわい)と云(い)ふのハ即(すな は)ち其(その)結果(けつくわ)であるのです……」22

白馬会と東京美術学校西洋画科は、黒田清輝にとり油画という芸術教育活動を進めていく

上での両輪であった。美術学校での西洋画研究の成果は白馬会展覧会を通して広く社会に公表 され、その当時のジャーナリズムに盛んに取り上げられた。と同時に、白馬会での優秀な作品 は、東京美術学校が買い上げ収集し、学生が油画を習得する上での参考作品となった。

「婦人像( 厨房 )」に魅了され、西洋における素描と絵画に対する黒田清輝の考え方に共鳴し

つつ、旧派の絵画技術をしっかりと身につけていた白馬会展覧会出品者は、旧派の絵画観とは コペルニクス的転換を余儀なくされた。しかしながら黒田の﹁物を見る寸法を拵える﹂を明暗

法にも色彩法にも、すなわち素描(デッサン)にも絵画(タブロー)にも素直に実践しえた。その背 景には、旧派(脂派)において基本となる絵画技術が十分に培われていた事実がある。そのよ うなグループが新派(紫派)を形成したといえるだろう。

明治30年(1897)には、和田英作﹁渡頭の夕暮﹂﹁少女新聞を読む﹂、白滝幾之助﹁稽古﹂が生

み出され、翌年には藤島武二﹁池畔納涼﹂、小林萬吾﹁農夫晩帰﹂、湯浅一郎﹁漁夫晩帰﹂。明治33

年(1900)には中沢弘光﹁少婦﹂。明治34年には、藤島武二﹁造花﹂、赤松麟作﹁夜汽車﹂。いず れも、強い逆光と穏やかな順光という相反する光が交差する位置に人物を配置し、日常性のな かでの少女の美しさや、当時の日本の働く男性の形姿を、室内外を問わない現実の風景の中で 描写している。風俗画であり、黒田のいうところの「歴史画」あるいは高階秀而がいうところ の「構想画」とはいえないであろう。ともかく、明治維新後の国際化、グローバル化の波を敏

感に感じ取り、題材(モティーフ)にも明治という近代化の始まりとともに育ってきた若者の清 新な感情の起伏が初々しく現れているといえないだろうか。

最後に、黒田清輝﹃美術教育の方針﹄から﹁繪畫当初の目的は寫實にあり﹂を抜粋してみる。 絵畫の技術は天然の眞を寫すを當初の目的とするは、何れの國何れの時代と雖も異なること

なし、而して絵畫を作り、趣味を与え思想を發揮するには技芸の能力にして個人の資性に待つ 所大なりと雖、抑之を發揮するの手段に熟せずしては如何なる思想の美ありとも、之を用ゆる の法なからん、寫生は実に絵畫の根本的用件なり23

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White Like heaven Like hell Like terror Like no terror Like overturned dreams, Like away from overturned dreams. Like there is nothing Like nothing lost and nothing gained. Like memory

emerging.

Kang’s and Mei’s close-ups Unmoving long shot. Makeup

Makeup

Little Kang plays Chen Cheng-Po, Gui-Mei plays the woman Chen paints. He died, She came to see him. Was it a dream? He did not close his eyes. She seemed to be looking at his self-portrait. The last one

- Dedicated to the Taiwanese artists of past generations September 5, 2012 Tsai Ming-liang (Venice)

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▶3.有關臺灣近代美術公共機制之形成,請參考拙

著,〈公共機制與臺灣近代美術社會之成立─臺灣 百年美術發展史〉《人文百年、化成天下─中華民 國百年人文傳承大展文集》(共著,收入楊儒賓等 主編)(新竹市:國立清華大學,2011 )(新竹 市:國立清華大學,2011),頁239-259。 ▶4.石川欽一郎,〈水彩畫與臺灣風光〉,《臺灣

日日新報》,1908年1月23日4版。收入顏娟英譯 著,前引書,上冊,頁30。 ▶5.參考拙著,〈「寫生」與現代風景之形構─陳

澄波早年(1913-1924)水彩創作及其現代繪畫意 識探析〉,收入國立臺灣師範大學美術系編,《繫 絆鄉情─陳澄波與臺灣近代美術國際學術研討會論 文集》(臺北市:臺灣創價學會,2012),頁5560。

▶1.翻譯語詞「美術」概念的出現,源自於1873年

日本明治政府參加維也納萬國博覽會而起。有關其 歷史,請參閱北澤憲昭,〈序章「美術」概念の形 成とリアリズムの転位〉,《境界の美術史─「美 術」形成史ノート》(東京:株式会社ブリュッケ,

2005年新装版),頁7-13;佐藤道信,《〈日本

美術〉誕生─近代日本の「ことば」と戦略》(東 京:講談社,1996),頁35。 ▶2.黃土水,〈出生於臺灣〉,《東洋》,25-2/3

(1922年3月)。收入顏娟英譯著,《風景心境─ 臺灣近代美術文獻導讀》(臺北市:雄獅圖書公 司,2005),上冊,頁126-130。

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1.柳德裕 《自畫像素描》 1928年 下落不明

2.黑田清輝 《土耳其帽的自畫像》 1889年

3.杜勒 《一四九八年的自畫像》 西班牙•馬德 里 普拉多(Prado)美術館

▶6.林育淳,〈發現自我─ 日治時期的自畫

像〉,收入施梅珠編,《何謂臺灣?──近代臺灣

▶12.高階秀爾,〈第8章 自己主張と信条告

白〉,《肖像画論―モーツァルトの肖像をめぐる

美術與文化認同論文集》(臺北市:行政院文建

15章―》,(東京都:青土社,2010年新版),頁

會,1997),頁74-75。

139-141。

▶ 7. 根據林育淳女士前引文的統計,可以知道在

▶13.三浦篤,〈西洋絵画と自画像─そのタイプと

臺、府展長達16年期間,僅出現了9件自畫像。同

歷史について─〉,《自画像の美術史》,(東京

上註,頁 78 。其中,臺籍畫家共計更僅有 3 幅而

都:東京大学出版社,2003),頁2。

已。參見顏娟英,〈自畫像、家族像與文化認同 問題─試析日治時期三位畫家〉,《藝術學研

▶14.有關西洋自畫像之發展史及類型研究,請參考

究》,第七期(2010),頁42註3。

三浦篤,前引文,頁1-34。

▶8.有關臺灣近代自畫像問題之研究,以顏娟英教

▶15.三浦篤,前引文,頁10-14。

授的討論為最早。不過,當時並非由自畫像的歷史 切入,而是就西洋畫畫科分類之方法,與人物、人 體畫一起被討論的。參考氏著,〈寫生與自畫像 ─現代美術的萌芽〉,《雄獅美術》,第227期 (1990),頁92-94。 ▶9.有關東京美術學校臺灣留學生的研究,請參考

吉田千鶴子,《近代東アジア美術留学生の研究― 東京美術学校留学生史料―》(東京:ゆまに書

房,2009),頁109-126。 ▶10.河邑厚德, 〈1 黒田清輝と最初の二枚〉 , 《自画

像の証言―東京藝術大学創立一二〇周年記念企 画―》 , (東京:東京藝術大学,2007),頁4。

▶11.有關近代日本洋畫中自畫像歷史之研究,請參

考日比嘉高,〈〈自画像の時代〉への行程―東京美

術学校『校友会月報』 と卒業製作制度から―〉,收入

筑波大学近代文学研究会編, 《明治期雑誌メディア

にみる 〈文学〉 》 (茨城県:筑波大学近代文学研究会, ,頁207-210。 2000)

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4.高更 《悲慘世界》 1888年 荷蘭•阿姆斯特丹 梵谷博物館

5.高更 《有黃色基督的自畫像》 1889年 莫理斯•德尼(Maurice Denis)家族收藏

6.黑田清輝 《花野》 1907-1915年

7.藤島武二 《婦人像》 1907年

8.藤島武二 《東洋振り(東洋情趣)》1924年 個人藏

石橋財團美術館藏

▶16.三浦篤,前引文,頁20-23;高階秀爾,前引

文,頁149-152。 ▶17.有關西方近代自畫像之研究,請參考Vojt ch

Jirat-Wasiutyński, “Paul Gauguin’s ‘Self-Portrait with

Halo and Snake’: The Artist as Initiate and Magus, ” Art Journal, Vol.46, Issue1(1987),pp.22-28; Joyce

Brodsky, “Cézanne paints: ‘whole body’ practices

and the genre of self-portrayal,” Visual Studies, Vol.20, Issue1(2005),pp.37-55.

▶18.野口玲一, 〈カリキュラムとしての自画像とそ

の変貌〉 ,收入野口玲一等編, 《 〈洋画〉の青春群像― 油画の卒業制作と自画像―》(東京都:東京藝術 大学大学美術館協力会,2002),頁6-7。

▶19.山梨絵美子,〈黒田清輝の風景表現とその

影響〉,收入明治美術会編,《日本近代美術と西 洋》(東京都:中央公論美術出版,1992 ),頁 123-125;同氏,〈黒田清輝 日本の裸婦をどう

描くか〉,收入東京文化財研究所美術部編,《日 本における外来美術の受容に関する調査・研究報 告書》(東京:東京文化財研究所,2006 ),頁 267-277。 ▶20.黑田在構想畫《花野》一作中,參考其師柯

蘭(Raphael Collin, 1850-1916)之《綠野三美人 圖》之構圖及主題,被認為藉以表現平和或自然調 和等象徵概念,參考山梨絵美子,〈陳澄波の裸体 画の一特色─日本のアカデミズム絵画との比較か ら─〉,收入國立臺灣師範大學美術系編,《繫絆 鄉情─陳澄波與臺灣近代美術國際學術研討會論 文集》(前引書),頁11。 ▶21.白適銘,〈紀行•集古•支那趣味─梅原龍

三郎與大正昭和畫壇的東方主義視線〉,收入國立 臺中教育大學美術系編,《視覺•記憶•收藏─ 藝術史跨領域學術研討會大會論文集》(臺中市﹕ 國立臺中教育大學,2006),頁157-161。 ▶22.有關以藤島武二為代表的大正時期洋畫「東洋

化傾向」的研究,參考山梨絵美子,〈日本近代洋 画におけるオリエンタリズム〉,收入東京国立文 化財研究所編,《語る現在・語られる過去―日本

の美術史学100年―》(東京都:平凡社,1999), 頁81-94;同氏,〈大正後期の洋画壇における東 洋的傾向についての一考察─〉,收入東京国立 文化財研究所編,《日本における美術史学の成 立と展開─》(東京:東京国立文化財研究所, 2001),頁323-334。 ▶ 23. 犀水,〈現代の大家(十五)─藤島武二

氏〉,《美術新報》,1911年7月,頁4。

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9.岡田三郎助 《支那絹の前》1920年

10.藤田嗣治 《自畫像》 1910年

11.小出楢重 《自畫像》 1914年

高島屋史料館藏

東京藝術大學藏

東京藝術大學藏

12.李梅樹 《自畫像素描》 1929年

▶24.藤島武二, 〈現代の装飾画を論ず〉,《美術写

▶29.根據林育淳女士的研究可知,繪製於1920-30

真画報》,1920年5月,頁78。

年代的自畫像,目前被保存下來的亦僅約15 人左

13.張秋海 《自畫像》 1927年 東京藝術大學藏

14.劉錦堂 《自畫像》 1921年 東京藝術大學藏

右。參考林育淳,前引文,頁77。 ▶25.有關藤島武二「裝飾畫」的討論,請參考金

正善,〈藤島武二の朝鮮表象―「装飾画」の観点か

▶30.有關東京美校臺灣留學生之畢業製作及自畫

薫, 〈藤島武二の〈東洋〉〉,收入東京文化財研究所

生の研究―東京美術学校留学生史料―》(東京:

ら―〉 , 《美術史》 ,第159号(2005) ,頁160-174;児島 美術部編,《日本における外来美術の受容に関する

像,請參考吉田千鶴子,《近代東アジア美術留学 ゆまに書房,2009),頁209-218、245-247。

(前引書),頁109-118。 調査・研究報告書》

▶31.劉錦堂此幅自畫像完成於1921年,為當時年 ▶26.金正善,前引文,頁171-172。

代最早的自畫像。參考賴貞儀,〈臺灣日治時期西 畫家的自我形塑與文化認同:以劉錦堂、陳植棋、

▶27.有關岡田三郎助人物肖像「裝飾畫」的討論,

請參考松本誠一,《岡田三郎助》(佐賀市:佐賀

洪瑞麟的自畫像及其留日期間之家人畫像為例〉, 《史物論壇》,第12期(2011),頁77-79。

立佐賀城本丸歴史館,2011),頁57-79。

▶28. 野口玲一,前引文,頁6-8。

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15.廖繼春 《自畫像》 1926年 畫家家屬藏

16.陳澄波 《自畫像》 1928年 陳澄波文化基金會藏

17.陳澄波(後排站立者左一)與友人合照 1928年4月5日 陳澄波文化基金會藏

18.梵谷 《自畫像》 (陳澄波收藏資料) 陳澄波文化基金會藏

19.塞尚 《自畫像》 (陳澄波收藏資料) 陳澄波文化基金會藏

20.陳澄波 《自畫像》 1930年 個人藏

▶32. 顏娟英,〈勇者的畫像─陳澄波〉,《臺

灣美術全集 1 陳澄波》(臺北市:藝術家出版社, 1992),頁35;林育淳,前引文,頁79。 ▶33.過去對陳澄波前幅自畫像背景物件的理解,

多傾向於梵谷的向日葵,象徵其對藝術生命的認 知。不過,透過筆者仔細觀察,可知此圓狀物中 間孔洞明確畫出側面厚度,正中間並填以與背景 顏色相同的深棕色,並非在描寫花蕊,而應理解 為鳳梨切片較為正確。其目的,不外乎是用來象 徵嘉義(日治時期以生產鳳梨罐頭聞名全臺) 故鄉。

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▶1.國語學校1920年改稱臺北師範學校,本文為行

文統一,全部簡稱「北師」。

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1.黃土水《李鐵拐》1915

2.黃土水《牡丹花》1915

3.黃土水《山豬》1916

4.高村光雲《老猿》1892

▶2.參見陳昭明輯〈黃土水年譜〉1912年條,《黃

毛的質感,表現得相當生動。

土水雕塑展》,頁78,(1989.12,臺北:國立歷

▶8. 參見李欽賢〈迥異文化交會的火花─黃土

史博物館)。

水、朝倉文夫、北村西望的成長遍歷〉,前揭《黃

5.黃土水《蕃童》1920

土水百年誕辰紀念特展》,頁28-37。 ▶ 3. 參見王秀雄〈臺灣第一位近代雕塑家─ 黃

土水的生涯與藝術〉,《臺灣美術全集 19 :黃

▶ 9. 此座右銘上書「勿自欺」三字,後銘「為黃

土水》,頁 17 ,( 1996.10 ,臺北:藝術家出版

君、西望寫」,現藏臺北陳毓卿先生處,參見前揭

社)。

國立歷史博物館《黃土水雕塑展》,頁80。

▶4.同上註。

▶10.此說法未具體見於文獻,但陳昭明曾指出:

▶5.參陳昭明〈黃土水小傳〉,《黃土水百年誕辰

落選,曾懷疑與自己拒絕加入朝倉門派而遭排斥有

紀念特展》,頁56,(1995.12,高雄:高雄市立

關;因此憤而表示:在朝倉攬權之日,他不再參加

1925 年,黃土水所塑《小孩子》一作自「帝展」

美術館)。

帝展(參見前揭陳昭明輯〈黃土水年譜〉 1925 年 條)。

▶6.《牡丹花》的創作時間,最早在1989年國立歷

史博物館《黃土水雕塑展》畫冊專輯的陳昭明所撰

▶11. 詳參註3,頁27-28。

的〈年譜〉中,係作於1916年,但專輯圖版則作於 1915年,且以正方矩形方式排版;後在1995年及 1996 年,高美館百年紀念展專輯及藝術家出版的

《臺灣美術全集 19》中,均標寫於1915年,且以 菱形方式排版。假若1916年為正確,則為黃氏赴日 之後的作品;假若 1915 年為正確,則正是黃氏赴 日之年,到底是赴日前或赴日後所作?將涉及此作 有無學院訓練的影響。此件作品目前由黃土水夫人 廖秋桂女士轉贈其胞弟廖漢臣先生之子廖志祥先生 收藏;筆者未見作品後方是否有黃土水本人之簽名 及年代標記?又方向為何?不過從作品的題材選定 及構圖形式而論,筆者認為:(1)《牡丹花》取 材臺灣民間傳統藝術經常採用的牡丹花題材,卻賦 予代表生命勃發的主題表現,脫離富貴象徵的傳統 命題,和之後的《山豬》,乃至各種牛、羊等題材 一致,應為入學東美後之創作思維。(2)《牡丹 花》以正方形表現,為難度較高的構圖,依學院訓 練的習慣,應採左下右上的斜向對角線構成,形成 視覺上的動感也較能顯現作品花瓣飄動、柔美的意 象,不應是如花瓶插花式的將花梗朝下,如此便失 去了應有的動感。唯確切答案,尚留待研究者進一 步查考。 ▶7.參註3。高村光雲雖以佛雕出身,但1888年因

開始負責日本皇宮木雕裝飾工程,表現優異,在 1890年被東美創校校長岡倉天心(1862-1913)聘

為雕刻教諭; 1891 年再任命為教授兼雕刻科科主 任。1893年,日本政府委託東美製作《楠公像》、 《西鄉隆盛像》等歷史人物紀念像,高村開發出以 木雕為模,再翻成銅像的技術,相當成功。高村任 教東美之後,佛雕作品頓減,動物雕像成為大宗。 1892年曾以《老猿》一作,代表日本參加芝加哥萬

國博覽會,獲得妙技二等獎,以木雕技術將猿猴身

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6.黃土水《甘露水》1919

7.黃土水《釋迦立像》1927

▶12.同上註,頁27。 ▶13.參註3,〈臺灣第一位代雕塑家─黃土水的

生涯與藝術〉,頁25。本科時期係依據《東京藝術 大學100周年,同窗生名籍》「歷屆教官名單」, 昭和63年,頁16-27;研究科時期依據磯畸康彥等 《東京美術學校の歷史》,東京:日本文教出版 社,1977,頁41-48。 ▶14. 黃春秀文刊前揭國立歷史博物館《黃土水雕

塑展》,頁61-63。 ▶15.參黃土水〈出生於臺灣〉,成稿於 1922.3,

1935 年刊於《東洋》 25 卷 2-3 期;顏娟英中譯,

收入《風景心境─ 臺灣近代美術文獻導讀 (上)》,頁126-130,(2001.3,臺北:雄獅圖 書公司)。

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▶24.據目前可得資料,包括謝里法(〈劉錦堂─臺

灣最早的留日油畫家〉原刊1984.7《臺灣文藝》, 收入《出土人物誌》, 1984.10 ,臺北:臺灣文 藝雜誌社。)及其子劉藝(〈劉錦堂的生平與藝 術〉,《劉錦堂百年紀念展》,1994.8,臺北:臺 北市立美術館),均謂劉錦堂為北師(國語學校) 1914年畢業,但《北師四十年》畢業生名錄,並無

劉錦堂一名。原因為何?尚待查考。 ▶25.詳參蕭瓊瑞〈王悅之與中國美術現代化運動

──從「融合中西」角度所作的觀察〉,《臺灣美 石川欽一郎(1871-1945)

術》46期,頁10-22,(1999.10,臺中:國立臺灣 美術館),收入蕭瓊瑞《激盪、迴游─臺灣近現代 藝術11家》(2004.4,臺北:藝術家出版社)。

▶16. 參註3。

▶26.參謝里法〈張秋海─遙遠的秋海棠(旅居北

平的工藝家)〉,原刊1984.1.14《中國時報》,及

▶17. 參顏娟英〈勇者的畫像──陳澄波〉,《臺

1984.2《雄獅美術》156期,後收入前揭《出土人

灣美術全集Ⅰ:陳澄波》,頁 39 ,( 1992.2 ,臺

物誌》,頁117-131。

北:藝術家出版社)。 ▶18.關於石川之二度任教北師,可參白雪蘭〈由

▶27.文刊《臺北文物》3卷4期,頁14-64,(1955.

3,臺北:臺北市文獻委員會)。

倪蔣懷與葉火城學生時代作品淺說國語學校與臺北 師範之圖畫教育〉(1996.5《藝術家》252期,頁 294-299)。 ▶ 19. 參葉思芬〈英雄出少年─ 天才畫家陳植

棋〉,《臺灣美術全集 14 :陳植棋》,頁 23 , (1995.1,臺北:藝術家出版社)。 ▶20. 同上註,頁43。 ▶21.同上註。 ▶22.參方林〈日據時期臺北師範學校的美術教育

1900’s-1920 ’s(上)(1995.5 ,《美育月刊》59

期,臺北:國立臺灣藝術教育館),頁38。 ▶23.參見黃冬富〈學校美術教育與臺灣美術發展〉

(1994.10《美育月刊》52期,臺北:國立臺灣藝 術教育館);方林〈日據時期臺北師範學校的美術 教育1900’s-1920’s(上)〉(1995.5-7,《美育月 刊》59、61期,臺北:國立臺灣藝術教育館);林 曼麗〈戰前北師五十年──北師美術教育與臺灣美 術近代化之研究〉(1996.11《北師世紀大展》, 臺北:國立臺灣藝術教育館。黃冬富〈學校美術 教育與臺灣美術發展〉(1994.10《美育月刊》52 期,臺北:國立臺灣藝術教育館 )。

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▶28.詳參註19。

▶30.參王德育〈高彩度的追逐者─ 李石

樵〉,《臺灣美術全集 8 :李石樵》,頁 17-43 , ▶29.詳參黃才郎〈精煉而美麗的感情─論郭柏

(1993.1,臺北:藝術家出版社)。

川的生平與繪畫藝術〉,《臺灣美術全集10 :郭 柏川》,頁 17-37 ,( 1993.4 ,臺北:藝術家出 版社)。

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▶31.主要參考《臺灣美術全集》各文及其他相關資

料。 ▶32.參《臺灣早期西洋美術回顧展》(1990.2,臺

北:臺北市立美術館)。

8.岡田三郎助《婦人像》1907

12.岡田三郎助《默冬的夕暮》1899

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9.岡田三郎助《林布蘭特自畫像》

13.藤島武二《逍遙》1879

10.岡田三郎助《西洋婦人像》1898

14.藤島武二《池畔納涼》1879

11.岡田三郎助《塞納河流上游風景》1899

15.藤島武二《造花》1901

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▶33.林惺嶽〈跨越時代鴻溝的彩虹─論廖繼春

的生涯及藝術〉,《臺灣美術全集4:廖繼春》, (1992.7,臺北:藝術家出版社),頁20。 ▶34.〈廖繼春訪問記〉,《雄獅美術》29期,頁

64-73,(1973.7,臺北)。 ▶35.前揭顏娟英文,頁34。

16.藤島武二《佩魯吉諾像》

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17.小林萬吾《カルタの城》

18.小林萬吾《農夫晚歸》1898

19.小林萬吾《物思ぃ》1902

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▶36.參見註17,頁34。 ▶37.李石樵〈我的美術回顧:酸苦甜〉,《臺北文

物》3卷4期,頁86。

20.劉錦堂《自畫像》1921

24.李石樵《自畫像》1936

21.張秋海《自畫像》1927

25.陳澄波《自畫像》1928

22.郭柏川《自畫像》1933

26.陳植棋《自畫像》1930

23.李梅樹《自畫像》1934

27.廖繼春《自畫像》1926

▶38.謝里法《日時代臺灣美術運動史》,頁54,

(1978初版,臺北:藝術家出版社)。

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32.陳澄波《戴面具的裸女》1932

28.劉錦堂《芭蕉圖》1928-29

29.劉錦堂《台灣遺民圖》1934

30.陳澄波《清流》1929

33.陳澄波《岡 (淡水中學)》1936

34.梅原龍三郎《紫禁城》1940

35.郭柏川《故宮》1939

31.陳澄波《我的家庭》1931

▶39.參見註19,頁43。 ▶40.詳參前揭蕭瓊瑞〈王悅之與中國美術現代化運

動─從「融合中西」角度所作的觀察〉。 ▶41.目前陸續曝光的陳氏資料中,顯示他和決瀾

36.陳植棋《野薑花》1925-30

社之間的密切關聯,多次參與籌備會;唯他未參加 決瀾社之首展,或許和「128上海事件」之爆發有 關,尚待研考。

▶42.參見註17,附錄〈資料二〉,頁44。 ▶ 43. 參見蕭瓊瑞〈臺灣第一代油畫家的文化思

考〉,《東亞油畫的誕生與開展》,頁224-231, (2006.6,臺北:臺北市立美術館) ▶44.同上註。 ▶45.詳參前揭林惺嶽〈越時代鴻溝的彩虹─論廖

繼春的生涯及藝術〉。 ▶46.詳參蕭瓊瑞〈「自我的覺醒」與「自我的隱

退」─李梅樹晚期人物畫的一種解釋〉,《婦 女之美─李梅樹逝世十周年紀念畫集》,頁1225,(1992.12,臺北市立美術館)。 ▶47.同上註。 ▶48.詳參蕭瓊瑞〈李梅樹作品中的中國意識〉,

《李梅樹教授百年紀念國際學術研討會論文集》, 頁 58-73 ,( 2001.5 ,臺北:國立臺北大學人文 學院)。 ▶ 49. 詳參前揭王德育〈高彩度的追逐者─ 李

石樵〉。

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37.陳植棋《夫人像》1927

38.陳植棋《淡水風景》1925-30

39.廖繼春《有芭蕉樹的庭院》1928


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