戦後ドイツパフォーマンスアート小史訳

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Fragments and an approximation towards a German Performance Art Context ドイツのパフォーマンスアートのコンテキストのための断片と概略 E.P.I.Zentrum and Boris Nieslony 我々は、資料を基本的な見方としての ドイツにおけるパ フ ォ ー マ ン ス Performance のコ ンテキストを、時系列的に紹介する。これらは、パ フ ォ ー マ ン ス ア ー テ ィ ス ト Performance Artists に つ い て デ ー タ バ ン ク 、 百 科 事 典 、 あ る い は パ フ ォ ー マ ン ス Performance の中でアーティストが使う、あるいは使った題材についての百科事典を作り上げ るための材料である。 我々は、パフォーマンス Performance のコンテキストの研究を通して、この 50 年間にアー トのフィールドの中で使われてきた、その活動を定義するおよそ 170 のターム term(言葉)を 見つけた。たとえば、アクション Action、フルクサス Fluxus,、ハプニング Happening、 パフォーマンスアート Performance Art、パフォーミングアート Performing Art、パフ ォーマティビティ performativity、ウイーン・アクティビズム Vienna Actionism*1、な どなど。 訳注*1 オーストリア、ウイーンのヘルマン・ニッチ、オットー・ミール、ギュンター・ブルスら が、1962 年末頃から始めた演劇的なアクションの数々のムーブメントを言う。しばしば、生け贄的、 マゾヒスティックな血なまぐさい、劇的な儀礼の形を取る。彼等のヒロイックな行為は、オブジェ、 ち密な写真など、の痕跡、記録が残されている。

(玉石混交の資料の中から)足跡やその方法を見つけることは、大変むづかしい。しかし、ほ とんどものは、ポリティカルな経験や原理主義的なムーブメントとしてのシ チ ュ エ ー シ ョ ニ スト Situationists*2 からの影響、シュールリアリズム、ダダイストのパフォーマンスや、マ ルセル・デュシャン Marcel Duchamp の系列からの影響であることはわかっている。 もうひとつの流れは、文学、音楽、ダンス、演劇の方法によるものがある。たとえば、1950 年代のウィーングループ Die Wiener Gruppe *3(ピアノを壊すアクションの初期のもの)か らの流れは強い。 訳註*2 1950 年から 1970 年代初頭にかけて、社会・政治・文化・芸術にまたがる社会改革的実践 をめざした国際的集団。シチュエーショニスト・インターナショナルといい、フランス、イタリア、 ドイツなどにまたがってメンバーがいた。資本主義社会、大量消費、スペクタルな都市計画を批判し た。 訳註*3 1952 年頃に生まれたオーストリアのウイーンの前衛文学、美術の集団。芸術を社会、政治 的な現実の象徴であると解釈。「文学」キャバレーにおける演劇的イベントでは、再現性は徹底的に 批判され、意味・観念は、身ぶりを通したコミュニケーションの次元のもとにあるとされた。アクシ ョン主義という言葉は、すでにここにあった。1959 年頃まで。

1960 年 代 は、ドイツでは、たとえばカ ー ル ハ イ ン ツ ・ シ ュ ト ッ ク ハ ウ ゼ ン Karlheinz Stockhausen、マウリシオ・カーゲル Mauricio Kagel などの現代音楽のベーシックなムー ブメントがあり、それは幾つかの可能性をもたらした。 フルクサス Fluxus はヴィスバーデン Wiesbaden で 1962 年9月に最初のフルクサスコンサ ートを行い、祝った。(中心メンバーの)ジョージ・マチューナス Gerge Maciunas とエメ ット・ウイリアムス Emmett Williams はこの時に、ドイツへやって来た。 フルクサス Fluxus の神話は今も多い。それには 1970 年代にコペンハーゲン Copenhagens の日刊紙ポリティケン Politiken のレビュー記者が、フルクサス Fluxus は、ヨゼフ・ボイス Joseph Beuys によって設立されたものであると書いたことから来る、大きなまちがいも、広 まっている。ヨゼフ・ボイス Joseph Beuys は、1963 年にフルクサス Fluxus がデュッセ ルドルフ Duesseldorf に来たことをきっかけに、彼等から強い影響を受けたが、彼自身はいつ もネットワークの周辺にいただけなのだ。一方、それらの神話のうちちょっと面白いのは、フ ルクサス Fluxus はジョン・ケージ John Cage を父として生まれた反芸術のネオダダ派であ り、マルセル・デュシャン Marcel Duchamp はその祖父だと言う意見だろう。 一方、フルクサス Fluxus のアーティストらによる、何がフルクサス Fluxus で、何がそうで はないのか、誰がそうで誰がそうでないか、といった定義づけや議論は馬鹿げていた。そうし


て、彼等は、いくつかの分派に分かれていった。 1964 年−アクション Action の新しい方法(場所を意識したもの、ストリートアクション、パ ブリック空間でのもの)は、学生運動との関係して、ビートニクス Beatnicks*4、ギャムラ ー Gammler*5 のセンスのポリティカルな活動が始まった。このアクションの形式は、自然発 生的なもので、新しい、ダイレクトな形式のアクションと社会やパブリックに関係する様々な 可能性を試すたくさんの経験を生み出した。(幾つかのベーシックなアイデアは、民主主義の仮 面 を 引 き 剥 が し 、 日 常 的 な フ ァ シ ズ ム の 姿 を 見 せ よ う と す る も の だ っ た 。) ミ ュ ン ヘ ン München では、シュヴァーベン地方で暴動。 ベルリン Berlin、フランクフルト Frankfurt では、参加した学生が反乱を起こした。 訳註*4 1950 年代末から 1960 年代にかけて、アメリカの小説家ジャック・ケルアック、詩人アレ ン・ギンズバーグらの影響を受けた若者たちのカウンターカルチャーのムーブメントで、ヒッピーの先 駆け。ビート・ジェネレーションとも言う。物質文明を嫌悪、拒否して、精神的、肉体的リズムから新 しい次元の世界に到達する理想を持ち、原始主義、実存主義、東洋神秘主義、禅的瞑想、麻薬、性の解 放、ジャズ、スピードなどを指向した。それは、また破滅的な人生を送ったケルアックが彼等のヒーロ ーとなるような、通俗的な流行でもあった。 訳註*5 ドイツ語でのビートニクス。

ボブ・ディラン Bob Dylan、ザ・フ−The Who、ビートルズ Beatles、ストーンズ Stones、 トン-ステイン-スケルベン Ton-Steine-Scherben などのロックミュージシャンからの強い影 響を受ける。 ヨゼフ・ボイス Joseph Beuys による政治的アクションも形而上学的アクションもこの頃 である。彼は自由大学 the Free University で社会彫刻 the Social Sculpture、学生集会 the Student-Party などを生み出した。 1966 年、グスタフ・メツガーGustav Metzger とジョン・ラタム John Latham は反芸術 会議 Anti Art Meetings を企画し、例えばロンドン London の芸術における破壊シンポジウ ム(DIAS: Destruction in Art Simposium) *6 に、ドイツと、オーストリアのアーティスト たち、ヘルマン・ニッチ Hermann Nietsch、オット−・ミール Otto Muehl とともに参加し た。 訳註*6 東西ヨーロッパ、南北アメリカ、日本など 15 カ国からの 100 人近いアーティストと詩人 が集められた最初の国際イベントで、それはまる1ヶ月行われた。彼等は、芸術における破壊という 主題への興味を共有して、集まり、様々な破壊的な表現が行われたが、なかでもヘルマン・ニッチの おどろおどろしいアクションが、「好色、不謹慎」であるということになり、企画者のメツガーは裁 判にかけられ、訴訟沙汰のうちに、イベントの幕が引かれた。女性のアーティストも積極的に招待さ れ、この時、オノ・ヨウコも参加した。

1964 ~ 68 年 ア ー ヘ ン Aachen で の ア ジ ッ ト ポ ッ プ Agit Pop * 7 は 、 ハ プ ニ ン グ Happenning という新たに定義の、政治的なアクティズムとなった。 訳注*7 この言葉は、ソビエトの共産主義のアジテーションと、プロパガンダという言葉から来て いる。労働者に、政治や社会問題をわかりやすく面白く説明する演劇のことで、エルウイン・ピスカ ートア Erwin Piscator がその先駆者。ドイツでは1930年代に 200 余りの劇団があった。ブレヒト Bertolt Brecht はこの方法を取り入れ、「教育劇」を生み出した。日本では、アジプロ演劇と言った。

1969~75 年までハプニング Happening は続いた。ヴォルフ・ヴォステル Wolf Vostell と フルクサス Fluxus によって、強化され、それはアートディーラーシステムに受け容れられる までに成長した。 ベルリン Berlin では”聞こえない音楽 Never heard music”というアクション Action が行わ れ、ウイーンのアクショニスト Vienna actionists、ディータ−・ロト Dieter Rot たちによ って祝われた。 そして、このころ、コンセプチュアル・アート Conceptual Art がドイツにやってきた。 1969 年 はベルン Bern(スイス)で”態度が形になる時 When Attetudes becomes Form” という展覧会がキュレーターのハラルド・ゼーマン Harald Szeemann(彼についての註は後述


の訳註*8 参照)によって開かれた。

ア メ リ カ 人 で あ る テ リ ー ・ フ ォ ッ ク ス Terry Fox が ド イ ツ に 来 て 、 ヨ ゼ フ ・ ボ イ ス J.Beuys とともに一度だけのパフォーマンスをした。それはボイスにとって、デュッセルドル フアカデミーでの数少ないコラボレーションのアクション Action である。

編 集 者 の ガ ブ レ ダ ー ・ ケ ニ ン グ Gebrueder Koenig は 、 ジ ョ ー ジ ・ ブ レ ク ト Georg Brecht とロベルと・フィローRobert Filliou(この二人はフルクサス Fluxus の中心的アー ティスト)のテキストの影響の元に、”パ フ ォ ー マ ン ス と し て の ラ イ フ と テ ィ ー チ ン グ Life and Teaching as performance”という本を、編集した。 1970 年 ゲッティンゲン Goettingen での”新しいアートのコンセプト Concepts of New Art”という展覧会は、展示されたオブジェクトが壊され、ゴミにほおり込まれるといったよう なデストラクションアート Destruction Art のセンスの最後の時期ものだった。 1971 年 ニ ュ ー メ デ ィ ア 、 ビ デ オ 、 ボ デ ィ ア ー ト 、 コ ン セ プ チ ュ ア ル ア ー ト と 写 真 の ”Prospect( 展 望 )71” と 呼 ば れ る 最 初 の シ ョ ー は 、 デ ュ ッ セ ル ド ル フ の ク ン ス ト ハ ー レ Kunsthalle Duesseldorf で行われた。 1972 年 には、特記すべきドクメンタ Documenta 5*8 が開かれた。 訳註*8 ハラルド・ゼーマン Harald Szeemann がディレクターをつとめたこの年、ドクメンタ Documenta では、実に多くのハプニングが紹介された。ヨゼフ・ボイスの伝説的な『直接民主主 義をめぐる 100 日間の討論』は、ここで行われた。しかし、一般客の評判がひどく悪く、イベント が大赤字となったため、ゼーマンは、カッセル市に告訴された。ゼーマンは、歴史家として、しば らく研究に専念した後、1999 年と 2001 年にベネチア・ビエンナーレのディレクターとなり、旧共 産国のアーティストの紹介に力を注いだ。

1974 年にはアートシーンの強力さの表明として、ケルン Cologne で“アートはアートであり 続ける”Kunst bleibt Kunst”というショーがあった。 そして、ドイツにおける活動の新しい傾向は 1975 年に偶然開く。 実験 Experimental に関心を持っていたエリザベス・ヤッフェ Elisabeth Jappe と、フィジ カルシアターPhysical Theatre は、すでに名が知られていたアムステルダム Amsterdam(オ ランダ)のデ ・ ア ペ ル De Appel と良い関係を持ちはじめた。彼女は、1975 年にケルン Cologne、そして 1976 年にデュッセルドルフ Duesseldorf のアートマーケットを企画する機会 を手にした。そして、それに附随する一種のプログラムを導入した。そして、この時彼女は、 初めてアメリカとイギリスのパ フ ォ ー マ ン ス ア ー テ ィ ス ト Performance Artists をケルン Cologne に招待した。(ニューヨークのザ ・ キ ッ チ ン the Kitchen*9 に行き、情報を得たの だ。)たとえば、キ ッ パ ー ズ キ ッ ド Kippers Kid もひとつ。その後、彼女はブレーメン Bremen とハンブルグ Hamburg でシアターフェスティバルを続けて企画し、そこにはパ フ ォ ー マ ン ス ア ー ト Performance Art も含めた。例えば 1980 年にはロンドンからス チ ュ ア ー ト・ブリスレイ Stuart Brisley の作品を紹介した。 訳註*9 当時、ニューヨークにあったアートスペース。ビデオとフィルム、パフォーマンスアー ト、パフォーミングアーツ、ダンス、音楽の、優秀なアーティストを多く排出した。フィリップ・ グラス、ローリー・アンダーソン、メレディス・モンク、ロバート・ウィルソンら。

Aktion? Handlung? Or Action? Performance Art? 著名な記事とインタビュウで、ゲオルグ・ヤッフェ Georg Jappe とドイツのアクショニス ト Actionist たちは、技術的な言葉としてのパフォーマンスアート Performance Art、政治 的な言葉としてのア ク シ ョ ニ ズ ム Actionism、そして、ドイツ語としてのハ ン ド ラ ン グ Handlung(行為)とさらに、アクション Aktion について語った。そこから少し抜粋。 「……………シアターTheatre は、それらと比較し区別する要素ではないように思う。そのた めには、もっと明解にシアターtheatre から独立しているものが、必要だと思う。ボディ・ア ート Body Art やパフォーマンス Performance という言葉は、シアターtheatre から充分に


独立した言葉だとは言えない−-例えば、オ ッ ペ ン ハ イ ム Oppenheim の作品の例や、ハ プ ニ ング Happening としてなされたカプローKaprow の初期の作品は、シアターtheatre の属性 とはまるで違ったものだ。それらは、より詳細な形態学的、あるいはイデオロギカルな分析を 試みている。」 こうしたことの解明の試みは今も続けられている。前述の”ア ー ト は ア ー ト で あ り 続 け る Kunst bleibt Kunst”というショーについての、最近の発表されたエッセイでも、批評家はこの 問題を問いている。 「なぜパ フ ォ ー マ ン ス Performance という言葉なんだろう-----このアメリカ人の技術的な用 語は、凝縮型のボイス主義の(ドイツの)アートにそれは、なじむわけがない。…….」 たしかに! というのも、実は、ドイツ人は、アメリカ人が造りだしたアートの専門用語に、 なかなか受け入れられなかったのだ。 アーティストのク ラ ウ ス ・ リ ン ケ Klaus Rinke と批評家のゲ オ ル グ ・ ヤ ッ フ ェ George Jappe の、最近出版されたインタビュウで(インタビュウは 1976 年7月)、「ドイツにはパフ ォーマンスアート Performance Art といえるようなものはなかった」とふたりそろって断言 している。当時はアクション Aktion、デモンストレーション Demonstration という言葉を 使っていた。あるいは、アーティストのフ ラ ン ツ ・ ヴ ァ ル タ ー Franz Walther のは、作品に、 もっと違った言葉をあてている。フ ル ク サ ス Fluxus のアーティストのヴ ォ ル フ ・ ヴ ォ ス テ ル Wolf Vostel の著書”アクショネン:ハプニング Aktionen:Happenings”には、カプロ ー Kaprow の用語であったイ ベ ン ト Event のドイツ語訳として、ハ ン ド ル ン グ Handlung (行為)とアクション Aktion をあてている。 とはいえ、ドイツ語のハンドルング Handlung とアクション Aktion は、英語の Perform、 Performance と意味にかなり近い。ここにコンサイス・オックスフォード辞典がある。 Perform(他動詞) まさに遂行する、履行する、実質的に遂行する、生ぜせしめる、尽力す る、まさに経験する、行う、ある形にする Performance(名詞)遂行する行為、何かをすること、作品、注目に値する技、仕事上の成 功する方法、展示やエンターテイメントの実践、行為、アクション 他の特殊な意味としては、法律上で言う合法な手段や訴訟、遊びの行い、 信仰上の鍛練、など。 次にハンドルング Handlung とアクション Aktion をカッセル独英辞典で比較すると、 Handlung(女性名詞)アクション、行い、パフォーマンス、行動、処理、仕事、商売、店鋪、 会社 Dramatische Handlung 演劇上の行為----行為の方法のプロット(女性名詞)進行や 行為の型、行い、態度、しぐさ、など。 Aktion (女性名詞)「これは最近とても一般的になったが、大変あいまいで、含みのある言葉で ある」と編集者のただし書きの上で (1)活動、プロセス(2)事業、手続き Handlung は、このように英語の動詞である Perform にかなり近い意味を持ち、どちらかと言 うと、やや演劇的要素を強調されているようだ。Aktion は、ほとんど英語の Action に近い。 Action は、最近、ドイツ語の中にずいぶん浸透してきている。これらの違いを客観的に見ると、 英語やドイツ語の言葉にも、意味としてさほど明確に演劇的要素を持たず、Handlung, Aktion にも、他の人、観客のために何かをしなければならないといったような意味はない。 G.J「君はパ フ ォ ー マ ン ス Performance の概念をどう思う?その支持者なのかな?君の仕事 について、どの言葉を使うのかい?」 K.R「パ フ ォ ー マ ン ス Performance のコンセプトはニューヨークのアートシーンから来た言 葉だ。僕達には、特に僕の世代には、ハプニング Happening 時代の後、その足跡を歩くこと を避けるのに、随分時間が必要だった。僕達はア ク シ ョ ン Aktion とデ モ ン ス ト レ ー シ ョ ン Demonstration の概念を使った。アクション Aktion は、ハプニング Happening の演劇的 で物質的な運用性に比べて、基本的にまったく短いジェスチャーだった。また、ミニマル・ア ートはアメリカではとても重要だったが、アメリカでは物質に関心を持つものだった。しかし 僕達は、物質を取り除いた。そして最後に、私は私自身とともにすることをしたいだけだと言 ったのだ。個人的には、僕はそれをデモンストレーション Demonstration と呼ぶか、”私、 まさに今ここ”とかなんとかと呼びたい、それがうまくいいあてられるならね。」


フランツ・ヴァルターFranz Walther に、ヤッフェ Jappe は同じ質問をした。 G.J「君はこの包括的なパ フ ォ ー マ ン ス Performance と言う言葉をどう思う?君はそれを受 け入れているのかね、そして、君は君自身の作品に、どう適応したいと考えているのかね。」 F.W「パフォーマンス Performance という言葉を最初に僕の作品に使った時、それは僕には 難しいと思った。なぜなら、それはあまりにも演劇的な意味を連想してしまうんだ。たしかに、 いろいろな言葉が使われて来たけど、僕にはそれがうまく言いあてていると思えなかった。た しかに、僕の仕事はアクション Action する何かだ。ドイツ語で言うハンドラング Handlung にあたる。それはだんだん成長する何かだった。だから、僕は僕の作品をプ ロ セ ス ・ ア ー ト Process art とカテゴライズしてきたし、ビヘィビァーアート Behaviour Art とも、時々呼 ぶ。あるいは、やはりハ ン ド ラ ン グ Handlung という言葉を使いたくもある。もし、君のよ うな立場の人がそれをアートの言葉と言ってくれるならね。とにかく僕は、パ フ ォ ー マ ン ス Performance というより、アクションアート Aktion Art と言う方が好きだ。その方がニュー トラルな気がする。英語のアクション Action は、僕には、なんだかプログラムしている感じ がして、いまいちだ。それは、内容の定義みたいだ。僕はアクション Action している、とい う感じがしない。英語で言うなら、単にドゥ−イング doing と言う方がいい。シンプルに動い ているという感じだから。」 1976 年 ケルン Cologne をベースにしたアーティストの連合ができた。ボディアート Body Art、アクション Action、写真とビデオ、パフォーマンスアート Performance Art と呼ばれ るようになったもの、それからもっとさまざまなア ク シ ョ ン Action、ビデオを使ったパ フ ォ ーマンス Performance、写真、マルチメディアのアーティストたち。ここではウルリケ・ロ ー ゼ ン バ ッ ハ Ulrike Rosenbach ( フ ェ ミ ニ ズ ム 指 向 )、 ユ ル ゲ ン ・ ク ラ ウ ケ Jürgen Klauke、ハインリヒ・ジッカンバーガーHeinrich Sickenberger ら(パロディやユーモアの 指向)、マルセル・オーデンバッハ Marcel Odenbach、クラウス・ボン・ブルッフ Klaus von Bruch(社会的なジェスチュアーの指向)らのようなアーティストたちが活動を始めた。 別の町では、別の活動があった。 Ulay ウ ラ イ はベルリン Berlin でポリティカルなアクションを行った。たとえば、ナショナ ル・ギャラリーから一枚の絵を盗んで、トルコ系の住民の家族の住むアパートに飾った。 デュッセルドルフ Duesseldorf では、ク ラ ウ ス ・ リ ン ケ Klaus Rinke によってア ク シ ョ ン Action とプ ラ イ マ リ ー デ モ ン ス ト レ ー シ ョ ン Primärdemonstrationen がなされた。コン セプチュアルアート、そしてパ フ ォ ー マ ン ス ア ー ト Performance Art を始めたヨ ヘ ン ・ ゲ ルツ Jochen Gerz、は後に、パリに引っ越した。 フランツ−エアハルド・バルターFranz-Erhard Walter は、ハンブルグ Hamburg で制作して いた(芸術作品や彫刻を扱った作品に観客が関わるといったもの)。 ティム・ウルリケ Timm Ulrichs は、ハノーバーHannover に住んでいた(トータルアート Total Art、リビング・スカルプチュアーLiving Sculpture といった作品)。 1979 年には、ハンブルグ Hamburg では、”隠者?科学者?社会事業家?Eremit? Scientist? Social worker?”という展覧会があった。

Artist Run Space の繁栄時代 1979 年 11 月と 12 月には、”実験芸術の 2 ヶ月 Two months of experimental arts”が、ボ リス・ニーズロニーBoris Nieslony によって、企画された。 ここで 企画されたのは、ビジュアル・アートとポリティカルかつ社会的なムーブメントのパフ ォーマンス Performance であり、文学、ニューミュージック、シアター、ダンスの中に発展 したものは、除いた。このフィールドの設定は、彼のやり方、彼のネットワークの方法に関わ り、よりインターメディア的になっている。 アメリカ北部では、主にカナダで、アートやギャラリーのシステムにはない方法で、ア ー テ ィ ストランスペース Artist run space が生まれた。このムーブメントは、政府がサポートして いる。 ヨーロッパでは、特にドイツでは、こうしたムーブメントには2つの精神があった。


1 —アートマーケットのための方法を準備し、アートシステムや他のインスティテュートや美 術館でのグループのアートの方法を開く、自身による企画力を養成すること。 2 —ドイツのいわゆる「文化」と、パラレルなアートシステムとその文化を作ること。ほとん どのそういうスペースやプロジェクトはパフォーマンス Performance の、政治的な、コンセ プチュアルなアーティストたちによって作られた。ここでは、ライブアート Live Art をベー スとし、生活とアートを結合することが、その問題であった。このムーブメントは、パ フ ォ ー マ ン ス Performance、ニューメディア、ビデオ、インスタレーション、生活とアートのプロ ジェクトを取り扱う、他のヨーロッパのアーティスト達と、連絡を持った。 ハンブルグでは、24 人のアーティストがク ン ス ト ラ ー ハ ウ ス (「アーティスト・ハウス」の 意味)・ ハ ン ブ ル グ Das Künstlerhaus Hamburg を作り、ボ リ ス ・ ニ ー ズ ロ ニ −Boris Nieslony とヘイコー・ホフマン Heiko Hofmann と カローラ・リース Carola Riess がそ の同じ建物の中に クライナー・アウステルングスラウム Kleiner Ausstellungsraum(「小 さな展覧会場」といった意味)を作った。 このスペースはパフォーマンスアート Performance Art とインスタレーション、それから連 携された企画ライフ-アート-プロジェクト Life-Art-Projects のためのスペースとして 5 年間、 続いた。それは、明確に、ポリティカル、社会的で哲学的な思想、たとえば“ Service “といっ たような思想。それはカローラ・ライズ Carola Riess による Service(奉仕)プロジェクト が関係している。 その思想をベースにして、ASA(Art Service Association)は 1985 年に設立された。同時に パフォーマンスアートネットワークプロジェクト Performance Art Network Project を も始めた。そして、そのプロジェクトで経験した、出会い Begegunug の哲学的思想は、その 後、同年に設立されたブラックマーケットインターナショナル Black Market international に続いている。これは、次の2つの方法のスペースワークである。まず一つは、アーティスト と、マテリアルと、ネットワーク、思想の間の進行を成長させること。もうひとつは、観客に いくつかの結果を見せるために、アーティストの連合にプラットフォームを与えること。 1979 年の2ヶ月実験ワーク Two months experimental work、1981 年と 1982 年のカウン シル the council。この 3 つのプロジェクトこの 5 年間に終了した。ハンブルグ Hamburg での スペースを閉じ、その Service(奉仕)は、パフォーマンスと同じく、ある種のソフトウエアとし て、再スタートした。 1978 年シュトットガルト Stuttgart では、インターメディア Inter-media のアーティストのグ ル ー プ が ク ン ス ト ラ − ハ ウ ス Das Künstlerhaus を 作 っ た 。 ウ リ ・ バ ー ン ハ ル ド Uli Bernhard がそのアーティストディレクターであった。このハウスはク ン ス ト ラ −ハ ウ ス ・ ハ ンブルグ the Künstlerhaus Hamburg と何年もの間、協力関係にあった。 ベルリン Berlin では、ビューロー・ベルリン Büro Berlin が、作られた。 1981 年 エリザベス・ヤッフェ Elisabeth Jappe によってモルトケライ・バークスタッ ト Moltkerei Werkstatt が、ケルン Cologne に設立された。このスペースは 1995 年までのパ フォーマンスア−ト、インスタレーション、日常生活の実践において企画を創り出すために、 大変重要であった。 エリザベス・ヤッフェ Elisabeth Jappe はドクメンタ 8 にパフォーマンスのプログラムを 企 画 し た 。 そ の 後 、 彼 女 は 1993 年 に 『 パ フ ォ ー マ ン ス 、 リ チ ュ ア ル 、 プ ロ セ ス Performance, Ritual, Prozeß』を出版した。 1978~83 年 はパフォーマンスアート Performance Art の隆盛期で、ドイツやヨーロッパ 各地でフェスティバルが開催された。ベルリン Berlin – クンストラーハウス・ベタニニエン Künstlerhaus Bethanien (1983, 1986)、ダルムシュタット Darmstadt 、 ミュンヘン München –レンバッハハウス Lenbachhaus 、 ハンブルグ Hamburg – クンストラ-ハウス・ヴィーダ ナレ-Künstlerhaus Weidenallee など。 1983~ 1985 年 公認の「文化」もオルタナティブカルチャーもともに、衰退してきた。ビ ュ ー ロ ー ・ ベ ル リ ン Büro Berlin 、 ク ラ イ ナ ー ・ ア ウ ス テ ル ン グ ス ラ ウ ム Kleiner Ausstellungsraum、ブッスハンドルング・ヴェルト Buchhandlung Welt らは、活動を停 止した。 幾つかのオーガナイゼイションやアソシエイションやアーティストのグループ、他の方法を探 した。彼等はシステムと活動領域を変えた。


ドクメンタ8以後のパフォーマンスアート 1987 年のドクメンタ Documenta 8 ではたくさんのパフォーマンス Performance の企画が あったが、そうでなくても、その時期を境に、ドイツでは、幾つかのパ フ ォ ー マ ン ス ア ー ト Performance Art のグループがリゾームのように増えて来た。 ミュンヘン München では、新しいパフォーマンスアート Performance Art のシーンが育っ ていた。フェレナ・クラフト Verena Kraft とクルト・ペッツ Kurt Petz が、1987 年とその 次の年にパフォーマンスアートフェスティバル Performance Art Festival を企画した。 フランクフルト Frankfurt では、フォルラド・クッシャーVollrad Kutscher が、新しくでき た「フランクフルトアートフェア」周辺で、いくつかの(パフォーマンンスアートの)フェス ティバルを行った。伝統的なイベント「フランクフルトブックフェア」の時期まで、それは彼 のスタジオで続いた。 1987 年 ケルン Cologne では、アルティメイト・アカデミーThe Ultimate Akademie が、 アル・ハンセン Al Hansen(訳注・フルクサスのアーティスト、アメリカ人)とリサ・シ-ス リック Lisa Cieslik と何人かの若いアーティストらが始めた。アルティメイト・アカデミー The Ultimate Akademie は、ポスト・フルクサス post-Fluxus のパフォーマンスアート Performance Art、インスタレーション、Slam Poetry*10 の、重要な活動の拠点を切り開い た。 訳注*10 パフォーマンスとしてのリーディングポエトリーの形式。National Poetry Slam は、 1984 年、土建業者で詩人である、シカゴのマーク・ケリー・スミス Marc Kelly Smith によって創 始され、キャバレー、ライブハウス、図書館などで、朗読の大会を催し、審査員が点をつけるなど、 コンペティションの形式をもつ。主に、北米各地にて発達した。

1988 年 クンストフォーラム誌(訳注:ドイツの代表的アートマガジン)はパ フ ォ ー マ ン ス Peformance とパフォーマンスアート Performance Art についての特集をした。

1990 年まで 東ドイツでは、パフォーマンスアート Performance Art は、サブカルチャー とアートスクールの中での一種の活動が、一種ののアイロニックなアクション Action と成長 していた。 ザ・オートパ-フォーレイションステン The Autoperforationsartisten は、ブレンデル・ ミ シ ャ Brendel Micha、 ガ ブ リ エ ル ・ エ リ ス Gabriel Else 、 ゲ ル ス ・ ラ イ ナ ー Görß Rainer、 レバンドウスキー・フィア Lewandowsky Via らのグループ。 グループ・マイヤーGruppe Meier (「農場」の意味)はマテアス・ジャキッシュ Matthias Jakisch , Späte Christian, Stengel Tobias らによって、作られた。 ク リ ス チ ャ ン ・ シ ュ ミ ッ ト -シ ェ ミ ニ ツ ァ ー Christian Schmidt-Chemnitzer は、音楽家と して始めていたが、1990 年の東西統合の後に、本格的なボディアート Body Art に転向した。 1980 年 代 は 、 パ フ ォ ー マ ン ス ア ー ト Performance Art と シ ア タ ー パ フ ォ ー マ ン ス Theater Performance、ダンスパフォーマンス Dance Performance、イクスパンデット・ パ フ ォ ー マ ン ス Expended Performance * 11 を も 含 む パ フ ォ ー ミ ン グ ・ ア ー ツ Performing Arts(ピナ・バウシェ Pina Bausch、ホフマン Hoffmann ら)、そして大きな 領域となったサ ウ ン ド パ フ ォ ー マ ン ス Sound Performance と文 学 の パ フ ォ ー マ ン ス Literature Performance。パフォーマンス Perfoormance の大きなフィールドはそのように、 それぞれ分裂した。 訳註*11 1960 年代末から Expanded theater、Expanded cunema、Expanded literature など が続々と生まれたアイデアを、総称して、エリザベス・ヤッフェ Elisabeth Jappe らが 1986 年 に作った言葉。「Expand=拡張された」はそれぞれのジャンルで、ぞれぞれに枠組みをはずそう とする前衛的な試み。勿論、ヨゼフ・ボイスによる「拡張された芸術概念」をも意識した言い 方であろう。


1960 年代と 1970 年代は、パフォーマンスアート Performance Art はほとんどビジュアル アート Visual Art のことであったが、1980 年代にはインターメディア Inter-media の元の 分類された。 1987 年から 1990 年代のはじめにかけて、パフォーマンスアート Performance Art は、新 しく実験的でモダン(前衛)であるための嗅覚を失い、アートとメディアの一つのジャンルと して、定着しはじめた。そしてパフォーマンスアート Performance Art は、パフォーマン スアーティスト Performance Artsts らによって、批評的な反省がなされるようになった。 アーティストの一部は、クラシックなアートのジャンルに戻ってゆく(ほとんどの理由は生活 していくためである)か、あるいはパフォーマンス Performance をニューメディアの他の領 域のつなぎの方法に利用した。 しかし、次の2つの事実は、パフォーマンスアート Performance Art の成長を意味する。 まず、1990 年代初期の、パフォーマンスアートフェスティバル Performance Art Festival の国際的なネットワーク(これは大きな問題を含む)、もう一つは、あまりプロフェッショナル ではないが、アイデンティティやプレゼンテーション(提出)、レプレゼンテーション(表現) の知識はあり、実験、ポリティカルアイデンティティやライフスタイル(フェミニズム、ゲイ、 ジェンダー)に興味のある若いアーティストの世代が育ってきた。 他にも大きな影響となる、次のような事柄がある。 a. 高 校 や 大 学 で の 理 論 上 の 講 義 ( パ フ ォ ー マ ン ス 研 究 Performance Research 、 Performance Study など) b.1993 年以降の様々なパフォーマンス Performance についての印刷物の氾濫 c.アーティストや講師らの実践的な研究。 (ハンブルグ Humberg やブラウンシュベイグ Braunschweig のアブラモビッチ Abramovic、 サーブリッケンでのウ ル リ ケ ・ロ ー ゼ ン バ ー グ U.Rosenbach、カールスルーへのウ ラ イ Ulay、シュトットガルドのジョアン・ジョナス Joan Jones、ベルリンのヨハン・ローバー Johan Lorbeer、デュッセルドルフのシ ュ ベ グ ナ ー Schwegler。それ以外にも、モ ニ カ ・ ギ ュンターMonika Günther、マイク・ヘンツ Mike Hentz, ノーベルト・クラッセン Norbert Klassen,、ボリス・ニーズロニーBoris Nieslony らのゼミナールが続いた 。

2001 年

the E.P.I.Zentrum(European Performance Institution)Centre NRW”がボリス・ ニ ー ズ ロ ニ ー Boris Nieslony によって設立され、理論的、実践的なパ フ ォ ー マ ン ス ア ー ト Performance Art の文脈が研究されている。

1990 年 代には、すべてが完全に違った状況になった。ベルリン Berlin が新しい拠点として 活発になり、ケルン Cologne はドイツの中での首位的な立場を失った。ベルリン Berlin に新し い世代にギャラリーや美術館が出来、パフォーマンスアート Performance Art の場合も同様 である。様々な活動やパフォーマンスアート Performance Art が生まれ、1995 年以降は、 そのすべての人たち、状況、活動を把握するのはむづかしくなった。アートとパ フ ォ ー マ ン ス Performance は、実にパワフルな様相を帯びて来た。


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