TCHERNOBYL FOREVER (JAPONAIS)

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チ ェ ル ノ ブ イ リ フ ォ ー エ バ

地獄の旅カルネ

との貢献

Youri Bandajevski


著者

Photo: Patrick Chapuis - 2012

(・・・)「写真詩」― 先験的に不均質な 形体と実践方法とを組み合わせるこの多形 性的な活動 ― こそが、1968年のデビュー 以来、アラン=ジル・バスチードの創作動力 となってきた。”イマージュ作家”、彼は じぶんのことをそう呼び、写真家という呼 び名を敬遠する。彼は、アントニオーニの 映画『欲望(Blow up』に代表されるような 写真家、つまりスペクタクルを好む社会に 媚び、奉仕するカメラマンの神聖化された イメージを打破することに努め、ごく普通 の人々と同じ道具しか使わないことを決意 したのだ。 早くも七十年代初めから彼は、数々のフェ スティバルや写真界の催し物に参加するよ うになる。彼の初めての大がかりなルポル タージュ『海は喪服をまとっていた』(L a marée ét ait en noir, AMOCO-CADIZ, 1978 年)は、フォトシネマ/ 日本ペンタック ス・フォトグラフィー/ ユネスコ会報/ 等、 さまざまな重要な出版契約にサインするこ とになる…。つづいてメキシコで、1979年 メキシコ湾での原油掘削施設 IXTOC-ONE 爆発を取材した『IXTOC-ONE』は、『エ

ステバンの青い夢』というタイトルでパリ やフランス各地の展覧会で紹介された。批 評家はこれを「掘削施設を炎上させる本」 (ZOOM)と絶賛した。バスチードの写真 は、雑誌『パリ・マッチ』はじめ、数々の 国際プレスに取り上げられ、彼は意に反し て「偉大な報道写真家」と神聖視された。 彼の創作は数を増し、その作品はパリ、ア ムステルダム、リマ、ケルン、東京などで 展示されていく…。『血石・ブラッドスト ーン』は、写真月間中パリで展示され(カ タログ82)、写真誌『ズーム』は大反響を 得た。パリ現代美術館は初めてバスチード の作品を購入することになる。80年代、彼 の作品はパリのガンマ社、ニューヨークの ブラックスター社、そして東京のパシフィ ック・プレスサービス(PPS通信社・マグ ナム)といったエイジェントを通して配給 されていった。(中略) 2006年、バルセロナの現代美術文化センタ ー(CCCB)は、チェルノブイリ原発事故後 に地中に埋葬された七百カ所の村々のため にバスチードの制作した『メモリアル』を 取得し、この作品は、同センターが原発事 故二十周年を記念して開催したヨーロッパ 展示会「むかしむかし、チェルノブイリ… 」のオープニングを飾ることになった…。( 後略) ジャン=ピエール・デュピュイ 『フォトグラフィズム』協会 創設者、会長


共同翻訳 Tomoko Araï : 以前は東京の大学の講師。ドイツに10年間住んで います。自然保護に取り組む環境保護主義者。

Pr Simon Meguro : 小樽、岩手、東洋英和の各大学で教えられた中世フ ランス文学の学術専門家。A.G Bastide のテキスト を、A.Tomokoと日本語に同時翻訳しました。

• Alain-Gilles Bastide’s text “Chernobyl Forever” a travel log from hell has been translated into German, Japanese, English, Italian, Spanish, Norwegian, Esperanto and MAYA! • Adapted for the theatre by Stéphanie Loïk, Théâtre du Labrador for the National Theatre of Martinique, directed by Hassane Kassi Kouyaté. March 2016. * Jean-Pierre Dupuy Technical and educational advisor for public theatre education for the Ministry of Youth ans sports. Theatre actor and director, photography and fine arts are central to his life’s work as is the experimentation of new forms of managing and expressing life in society.

• Distributed by «Les Mutins de Pangée»

www.lesmutins.org



Such a beautiful day… Its a sunny day. The stone sleeps its stony sleep. The world maintains its habitual indifference. An ageing man meditates on his promised demise. He has just attained his fifties and he tells himself that, more than ever, there’s no time to lose: he smiles at the thought, because its so evident! An evidence since his birth that he’s needed fifty-five years to assimilate. Never too late to do a good job. Even to make a child or to allow a child to make him. In short, the happy ageing young man basks in the first rays of sun of the emerging summer. And then, suddenly, who knows why: Chernobyl … Yes, but no … death, the thought of his happy demise …Yes but no… Chernobyl, the flip side of his happy thought, therefore an unhappy thought! Death escapes him… He believed – enouraged by his delight in the sun – that he had come to terms with considering himself as a perishable product. He thought that he could play it solo, with an intimate and calm conviction, continuing in his ordinary and rather joyful way his passage on earth like a ride on a merry-go-round! His thoughts go spinning… Its no longer a question of him, of you, of the others… It’s the whole species that envelops him… The whole bloody

Village of Chernobyl - Ukraine

human race! He’s part of it! It smothers him, oppresses him, annihilates him: the human race that doesn’t realise that Chernobyl is the first act of HIS SUICIDE!

Jean-Pierre Dupuy 20 June 2014. CHERNOBYL FOREVER. Book review.


Still – Explosion simulation

原子力産業の「魔法使いの弟子たち」は、原子炉が緊急停止した場合に余剰エネルギーを 産み出す可能性をテストをしようとしてチェルノブイリの原子力プラントの原子炉4号を 爆発させた。 [訳注:魔法使いの弟子:図に乗って自分で引き起こした事故を収拾できな い人] 1時23分49秒, 実験は失敗,ドーン!!! チェルノブイリは人類のこれまでの経験や文化、哲学、表象体系、あらゆる認識能力を一 変させた。爆発による分子学的、物理的、心理的影響は、人類を別の世界へ投げ込んだ。 昔の世界はもはや存在しない。われわれは、全員、チェルノブイリ人となってしまった。


Overview of Exploded Reactor #4 - Anonymous

(…)私は同僚のレガソフと共にヘリコプターで 原子炉の上を飛んだ。そのとき私が最初に感じた ことはこうだ:「もし信心深い人たちの言うよう に地獄が存在するのならば、今、私の目の下にあ るのがそれだ」 (…) ヴァシリー・ネステレンコ



それはむかしむかしの話だった、人々はそう信じようとする。

Pripyat Cinema

だが違う。 この話は、いま始まったばかりなのだ。


チェルノブイリフォーエバー 放射能に汚染された地域を写真で巡るこの旅を通して、私は目に見えないものをみなさんにお見せすることを試みよう。物言わぬ写 真を通して、私はチェルノブイリの真実の物語を皆さんにお話しよう。 これは事故を収拾するために犠牲にされた、あるいは自ら承知の上で事故現場に身を投じたすべての人々の追憶の物語である。最 初に駆けつけた消防士たち、そして世の終わりを思わせる大惨事の瓦礫を集め、それを閉じ込めるための石棺を建設した「清算人( リクビダートル) 」 たちの追憶のための物語。 彼らは「人類の英雄」 である。 彼らの働きがなかったなら、 ヨーロッパの住民の三分の二は、 「死の三角地帯」 と呼ばれている 「地獄の実験室」の中で今なお生き延 びている900万人の人間モルモットと同じ運命をたどっていただろう。 それは確かだ。


この大惨事の収拾に動員された兵士たちの第一の使命は、爆発とそれ につづく出来事を撮影した写真あるいはフィルムをことごとく回収す ることであった。フィルム、カメラ、テレビカメラ、これらはすべて 没収され、そして/ または破壊された。これは決してささいと片付け られる出来事ではない。兵士たちはただ、将官やソ連の最高首脳の命 令に従っただけである。目的を定め、それを達成するたの戦略を決定 したのは彼らだ。

記憶の封殺

これは戦争の第一幕だったのだ。 そのときの人々の驚き、混乱、戸惑いを想像してみていただきたい。 いきなり目前に現われた、気のたった軍人たちに、思い出の写真を何 よりも真っ先に没収され、破り捨てられ、新たな写真を撮ることを禁 じられた。 … 軍は使命を成し遂げた。記憶はことごとく没収された。原発惨事を映 した写真はごく、ごく僅かしか残らないだろう。集団避難、何千台と いうバスやトラック、軍用車両、列車、船の延々とつづく行列の写真 は残らないことになる。住民の避難の写真も残らない。残ったとして もごくごく僅かだろう。何万人という労働者と兵士の輸送の写真も残 らない。世界最大の狂気の沙汰ともいえる石棺を建設するために運び こまれた何万トンの鉄、砂利、セメントの映像も残らない。 チェルノブイリを人々の視界から消さなければいけない。 この狂気の写真を残してはならない。そうした写真は、住民の精神衛 生にとって危険である。原子力を温存するためにも危険である。 そのとき私は思ったのだ。過去の映像がないのだったら、もしかした ら、未来の映像があったかもしれないと。


に残した言葉である。 (…)あの人たちはいつものように出かけて行きましたわ。ワイシャツ姿で、防水服も着ない で。とくに警告はなかったのですよ。普通の火事のときと同じように呼ばれました。(…) とエレーナは語った。 シチェノックと一緒に何人かの消防士が、発電所の、僅かに残されていた屋根らしきものの上 に登った。屋根を覆っていたアスファルトに引火するのを防ぐためだ。ひじょうに熱かった。 アスファルトが燃えはじめた。消防士たちは散らばっている黒鉛棒のかけらを爆発した原子炉 のぽっかり開いた穴の中へ足で蹴落とした。どれほど精巧な測定器も、ここでは放射能を測れ なかった。ここにとどまっていいのは一秒間だけ。一秒間のそのまたわずかな分だけ。人間が とどまってはならない、ただそういう場所なのである。 彼らは一晩中闘った。五時間のあいだ、生命が尽きるまで。朝7時、彼らはプリピャチ市の超 近代的な病院に運ばれた。体は真っ黒だ。燃えた炭のようだ。身体内部が炭化していた。体が 腫れ上がっていた。かろうじて目だけが見分けられた。彼らは疲れ切っていたが意識はあっ た。あらゆる測定器の針が、彼らの体から発する放射線にふり切れてしまう。彼らの体は原子 炉そのもの。あるいはむしろ放射性廃棄物。彼らはモスクワのシュチュスキンスカヤ街の第6 病院ヘ緊急搬送された。その病院で彼らは数時間、数日のうちに全員死亡した。もちろん秘密 裡に、かつ監視下で。 彼らは原子炉の火の中に投げ込まれた最初のモルモットである。彼らはチェルノブイリで犠牲 になった最初の兵士・消防士であり、世界の英雄である。彼らは火が他の原子炉に燃え広がる のを喰いとめたのである。それによって彼らは、確実に起こりえた超災害、途方もない結果を もたらしていたであろう原子力巨大災害を防いだのであった。 スヴェトラーナ・アレクシエヴィッチ『チェルノブイリの祈り』より

Monument to the first firemen. Erected by the inhabitants of the village, without any contribution from the authorities or the atomic lobby.

これは4月26日の夜1時30分に消防士シチェノックが火事場に呼ばれたとき妻のエレーナ

「 天 窓 を 閉 め ろ。 そし て 寝 床 に 戻 れ! 発 電 所 が 火 事 だ。 す ぐ 戻っ てく



キエフ 午前七時 チェルノブイリ公開講座の初回(キエフ、ウ クライナ、2005年8月22日~28日) に参加する学生、講演者、主催者たち約三〇 名が、事故現場の見学を管理する国営機関( キエフのChernoby Inter Inform )の貸切バス に乗り込む。 もちろん静けさは独特である。まさに写真が 示しているとおりである。見えないものを皆

Infographie: Javier Sicilia

が写真に収めようとしているのだからこれで いいのだと私は思う。 運転手が「世の果ての現場に向けてもなく出 発します」と乗客に知らせる。

Source: ONU

そして途中コーヒーブレイクがありますから と言って皆を安心させる。



まっすぐな道路と果てしない無人の静かな森が132キロメートルつづく。 エンジンの低いうなり声。時折、道路が少し賑やかになり、1986年初め の頃、どんな様子だったのかが想像される。百年前に整備された、自然と共 生していたかつての姿 時折、大きなタイヤをつけた木製の荷馬車とすれ違う。森のはずれでは農民 たちが採ってきたばかりのキノコを売っている。あらゆる種類のキノコがあ る。大きいのや、色がついたのや、光り輝いているのや。アンズダケは太陽 のかけらのようだ。道路ばたで子どもたちが手をふってくれる。みんな大き な微笑みを浮かべて。 すこし先には、1986年4月27日。トラックと戦車の大渋滞に巻き込ま れて、立ち往生する。彼らはみんな原発に行く途中だ。運転手たちは車両か ら降りて、いらいらした、せわしない、興奮した様子で行ったり来たりして いる。どうしたらいいのやらという風にわなないたり、棒立ちになったりし ている。宇宙服のような白い上下つづきの服に身を包みマスクをしている者 も見かける。宇宙戦争の登場人物のようだ。 ひじょうに長いバスの列を通すために停止した。バスは反対方向に、すなわ ちキエフの方へ向かっていた。何百台というバスである。初めのバスは子ど もを満載していた。その後にパニック状態の母親をのせたバスがつづく。母 親たちは自分の子どもを見失わないようにバスの窓に顔を押しつけている。 母親たちの顔には、だれも答えられない疑問が読み取れる。それに狼狽、困 惑…。彼女のたちの目が表しているのは恐怖ではない。それは驚愕だ。 その驚愕の表情に、私の幻想はこなごなに砕ける。われわれは50キロメー トルほど進んだ。道は相変わらずまっすぐ、そして無人だ。

* Flight distance (straight line) 93 km

Photogram - Reportage on Chernobyl - ARTE




コントロールゾ

現地人が説明してくれた:

禁止区域に入るためだ。ここはほぼ避難が敢行されている。乗

「ここでは危険地帯から出ていく車をみんな洗車していました。あそこの小屋

客たちは前夜、「遠足」にそなえてビールやウォッカを飲み過

の中では人間を洗いました。何度も洗わないと通せないことがしょっちゅうあ

ぎたために、バスを降りるのに少し苦労する。

りました。でも計測器がダメ出しをしても、結局は通しましたけどね。この施 設は今もまだ活動しています。ただし今は放射能測定だけです。除染はもうし

大きく呼吸をしよう...。

ていません。本当に必要な場合以外は。帰路にあなたもわかりますよ」…

静かだ。立ち入り禁止区域、すなわち爆発した原子炉の周囲半 径30キロメートルの大きな円に到達するまでには、まだ少し

われわれは、ここで人生初めての「アトミック・コーヒーブレーク」を終え、バスに

時間がかかる。

戻る。さあ! まずはソ連の原子力産業のショウウインドウ、誇りの象徴だった NPP (チェルノブイリ原子力プラント)の見学だ。

チェルノブイリについてわれわれが学んできたすべてのこと が、われわれの想像力と不安をかき立てる。ときどき線量計が 反応を示す。しかし長くその場にとどまらず、ただ通過するだ けなら大した危険はないという話だ。 爆発の翌日、プリピャチ市の住民は、それとは知らずに、許容 される最大の放射線量の数百倍を浴びてしまった。当局自身が パニック状態になり、住民がパニックに陥るのを避けるために 意図的に嘘を重ねた。はじめ住民を避難させるように決定され たのに、パニックを避けるために中止された。子どもたちを守 ろうと、地元の行政や住民が自分たちで思いついた措置は、最 高司令部によって阻止された。用心のため子どもたちを学校に 留め置くこと、子どもたちを外に出さないこと、子どもたちか ら目を離さないことだけが指示された。 それから、とくに窓を閉めること、土壌を洗浄すること。


左手に見えるチェルノブイリ2号基には立ち寄らない。運転手はバ スの速度を落としさえしない。あれは Duga 3 (旧ソ連ミサイル防 衛用のレーダーシステム)のアンテナだ。小さい方のアンテナ(高 さ90m 幅250m)は放射能汚染した鉄を売買する密売人がすで に取り壊してしまった(ギヨーム・エルボーの『汚染地帯』参照) 。大きい方のアンテナ(高さ150m 幅400m)はまだ立ってい て、もはや彼女には聞くことのできなくなったメッセージに聞き耳 を立てている。 森の中にアンテナが現われたことはその大きさを他と比較して示す 効果がある。その大きさをまだ疑っている人々のために言おう。わ れわれが足を踏み入れたのは、もはや尺度というものが意味をもた ない次元の世界である。 われわれは戦場の心臓部に足を踏み入れたところだ。未知の類の戦 争。目に見えない敵の目に見えない弾丸から身を守ることが不可能 な戦争。逃げ場はどこにもない。地上にも水上にも空中にも。 Duga 3 のアンテナが建設された時代(1960年)の戦争を司っ ていた世界の軍事ドクトリンは「冷戦」のドクトリン、M.A.D.(相 互確証破壊 Mutual Assured Destruction )であった。わかりやすく 言えば、最初に原爆を使用した国は、その報復として相手国からも 原爆を落とされるだろうということだ。私たちは、世界が意図的に 相互破壊することを抑止するためのドクトリンのなかに生きてい る。MAD とは英語で気違いの意味である。 チェルノブイリの事故から五年後、ソ連邦の崩壊は軍事ドクトリン の変化を招いた。新しい軍事ドクトリン、すなわち現在の世界を支 配しているドクトリンは N.U.T.S.(核使用目標戦略 Nuclear Utilisation

Target Strategic) である。核兵器を保有する国は、戦略上の標的

に対してそれを使用し得るという意味である。ドクトリンは攻撃的 になった。わかりやすく言えば、ある大国は自国が戦略上重要と見 なした標的に対して核兵器を使用する権利を得たのである。NUTS とは英語では気の触れたという意味である。




怪物はここにいる。世界の真ん中に。少しでもそいつを知っていれば、そっと近づかね ばならないことはわかっている。いつ何時目を覚ますかわからないからだ。向こう側に 隠された原子炉の足元に立つわれわれの鼻孔は乾燥し、金属の味が喉にこびりつく。怪 獣は傷を負っているが生きている。怪獣はいびきをかいている。あるいはあえいでいる のだ。怪獣は、彼の目から空を隠すコンクリートを喰う。何度も吠え声をあげる。そし て相変わらず放射を続ける。怪獣は墓石を内部から焼き尽くす。この怪獣は不滅であ る。死ぬことのない手負いの怪獣、これより悪いものはこの世に存在しない。 この建設の様子を映したイマージュ、この旅行を準備するにあたって私が繰り返し眺め たイマージュ、それらが頭の中に次々現われる。最初の消防士たちの後、80万人の男 たちがこの石棺の建設と、最も放射能で汚染された地域の除染をこころみるために、こ こで働くことになる。80万の兵士!

彼らは「小さな緑のロボットたち」という異名

で呼ばれた。彼らはソ連軍と国際原子力ロビーによって徴用され、故意に犠牲にされた のである。彼らはチェルノブイリの清算をこころみるために、ここに集められたのだ。 彼らは「リクビダートル(清掃人)」と呼ばれる。彼らはソ連邦の四隅から連れてこら れた。建築労働者、技師、ヘリコプターのパイロット、船員、トラックの運転手、列車 の運転手、炭鉱夫、軍の酒保係…。 彼らは割り当てられた仕事を果たすために、場所 に応じて、数分間、数時間、数日間、あるいは数か月、現場にとどまった。それから彼 らはソ連の田舎、奥地に送り返され、忘れ去られ、人知れず死んでいった。何百人も が、阿鼻叫喚の場で働いた数か月後に、死んでいった。その数年後には何万人かが後を 追う。事故から二十年後には、少なくとも35万人が他界していた。そして残った人々 も、死につづけている。 われわれは石棺が何を隠しているのか知っているが、石棺の隠しているものが何を含ん でいるのかは知らない。だれも正確には探査できない高濃度の放射能を帯びたがれきの 中に残っている核燃料の量については、二つの相反する説がある。おおよそ100ト ン、すなわちあの運命的な爆発が起こったときに原子炉内にあった192トンの大半が 残っているのか。あるいは爆発のさいに核燃料はすべて気化しまい、せいぜい数トン、 または数キロなのか? 石棺:語源的には古代人が火葬することを望まなかった遺骸を納めた墓のことであり、 それは遺骸を焼き尽くす特性があると信じられていた一個の石でつくられた。 ここ、チェルノブイリでは 起こっていることは逆である。遺骸、死者が墓を焼き尽く すのである。


60万人から100万人の「リクビダートル」がチェルノブイリを埋葬するために働いた。彼 らの存在したことは否定されている。追跡調査の対象からも、統計からも外されている。地元 の権力者によって、また国連、WHO、IAEAによって。リクビダートルは存在しない。リクビ ダートルが存在したことを認めることは、彼らが犠牲になったことを認めることになるからで ある。兵士を犠牲にする決定は上層部で行なわれた。除染のための機械設備が存在しなかった からである。ロボットは故障してしまった。そこで彼らは人間ロボットを発明したのだ。 彼らは爆発した原子炉の残骸を素手で片づけた。彼らは埋めなければならない土地の塵を肺い っぱいに吸い込んだ。読んでの通りだ。誤読ではない。彼らは「土地」を埋めたのだ!途方も ない面積の田園地帯の汚染された表土がむき取られていった。スコップで、つるはしで、トラ クターで、土が巨大なロール状に巻かれていった。庭に植える芝生のロール、カーペットのロ ールみたいに。同じことだ。ここでは土のロールが、その中に生きるすべての命もろとも、2 0センチメートルの厚さでむき取られた。それからロールはトラックに積み込まれ、大きな穴 に運ばれ、そこに埋められたのであった。まるでシュールレアリズムの世界ではないか。リク ビダートルたちはまた、放射能の熱で焼かれた樹木をのこぎりで切り、その幹を、あればポリ 袋に包み、これもまた地中に埋めた。できる限り深い所へ。 彼らは放射能で汚染された家屋を、家屋よりもさらに汚染されている水で洗った。リクビダー The Sarcophagus is complete. The last Liquidators sign their work.

トルの師団は、すでに住めなくなっていた土地の上に設けられた軍用のテント村で野営をし た。道路に散水した。死の灰が飛散しないように、「小さな緑のロボット」の隊列が通れるよ うに。 彼らは村やコルホーズをまるまる埋めた。何百も、何百も。ブルドーザに改装された戦車で家 々の前に穴を掘り、住民の家具調度や思い出の品もろとも家屋を穴の中に押し込んだ。彼らは 住民と家畜を移動させた。避難民13万人。家畜を殺処分し、また、驚きと不信に駆られて逃 亡の道を選んだものにとどめをさすための山狩りを実行させられた。彼らは爆発した原子炉の 石棺を建設した。防護手段はなにひとつなかった。肉体的にも精神的にも。話にならぬ、無益 だと訴える者、犯罪だと叫ぶ者もあった。サッカーとウオッカが支えだった。 阿鼻叫喚の地に動員されてから二十五年後、リクビダートルたちの生き残りとその家族は、名 も知られない奥地、原子炉が爆発したロシアという帝国のどこか奥深い僻地に散り散りに捨 てされられた。彼らは世界を救い、世界は彼らを忘れ去った。かくも無慈悲に彼らが死んでゆ くままにしているのはだれか。周到に組織された忘却と記憶の抹消という破廉恥な仕組みの中 で、彼らの存在したことを頑なに否定する人々、それはだれなのか。リクビダートル(清算 人)とその子孫を清算することを当初から決定していた連中である。



200平方メートル :

これはこのコンクリート製建造物の老化がもたらした亀裂の総面積である。

巨大な穴に等しい。石棺を入れる石棺を作る計画は確かにある。しかしこの計画に割り当てられる費 用は、汚職の泥沼のなかで、次々自動的に消えてしまう。さらに建設工事のためにリクビダートル、 または「志願者」を見つけることはもっと困難である。それでは? チェルノブイリは?過去の問題 か? 未来にとっての本当の悪夢か?

科学上の責任者アナトリー・アレクサンドロフはかつて、こ

の型の原子炉ほど安全なものが建設されたことはない宣言した。「赤の広場に建設しても大丈夫だ」 と。そして、ここで起こったような事故が起こる確率は200万分の1でしかないと予言していたの だ。いったいどんな高度な計算、秘密データを使用したのか。(宝くじで1等に当たる確率は1億3 000万分の1である。それでも1等当選者は毎週出ているのだ。しかしソ連には宝くじはない。だ から彼には分からなかったのだろう)。 われわれは病人の枕元に十五分とどまった…。彼が焼き尽くしたすべての人々と同じように、彼は自 分自身を焼き尽くしている。彼を建設した何万人もの人々と同じように、彼は「早すぎる老化」に苦 しんでいる。放射線の過大な被ばくによって起こる古典的な障害だ(それは広島と長崎に投下された 爆弾が被ばく者に与えた影響の中にすでに観察されている)。人々は被ばくによっておぞましい苦し みの中で死んでゆく。その苦しみは数時間から数年と多少長さは違うが、シナリオは同じだ。 (…)「彼の骨は剥き出しでした。肉体全部が剥離していくのでした。背中全体が… 腰の骨は手で 触ることができました。私は消毒するために手袋をした手を差し込み、そこから…、剥がれていく骨 の残りを抜き取りました。それは分解し、腐敗した骨でした。彼は意識があって、すべてわかってい ました。そしてただ早く死ぬことを願っていました(…)。」*

*『サクリフィス』エマヌエラ・アンドレオリ、ウラディミール・チェルトコフ監督 – サラガヴェッツ夫人が、夫、リクビダ ートルのアナトリー・サラガヴェッツの最期を語った証言…。

何百人もの炭鉱夫がソ連の炭鉱地域から徴用され緊急動員された。それは爆発した原子炉の下に地下道 網を作るためであった。そこに液体窒素で土壌を凍らせるための冷却装置を設置し、原子炉の火災を決 定的に消し止めようというわけである。溶解した核燃料が原子炉の下のコンクリートの床を貫通し、水 で満たされた下側の容器に入り込むのを絶対にくい止めなければならなかった。大至急やらねばならな かった。作業には非人間的なテンポが要求された。熱と放射能もすさまじかった。上半身はだかでマス クもしていない鉱夫たちは、理論的には、数分間しか作業をしてはならなかった。彼らは広大なロシア の奥深い田舎に戻っても、ここで見たことをだれにもしゃべらないという誓約をして、新しいパスポー トの代わりとなる健康手帳をもらって故郷に帰された。

来たときにはロシア人であった。帰るときはチェルノブイリ人である。




爆発のとき、第4原子炉の傍らで第5原子 炉の建設がすでに順調に進んでいた。私 は第5原子炉の規模を他と比較して示す 言葉が見つからないし、空間的な比喩表 現も見つからない。 それは世界最大・最強 の原子炉となるはずであった。 さらにはお そらく世界で最も安全な、最も美しい、最 も頑丈な原子炉となるはずであった。 第5原子炉の不幸は、爆発の中心に最も 近いところにあったことだ。 この原子炉の上 に最高濃度の放射性物質が降り注いだの である。今ではこの原子炉は世界最大の 見捨てられた建設工事現場に過ぎない。 そして最も放射能汚染された。

高度に放射能に汚染された貯水池のすぐ近くで、第5原子炉の煙突は今後決して天に届くことはない。水は放射線を放 ち、線量計が鳴り響く。 これは魔術師の呪われた水である。飲めない、濾過できない、水浴禁止の水である。 死の水である。


ベラルーシ、 スラフゴロド地方の避難され、立ち入り 禁止に指定された区域で、私は一人の男に出会っ た。 この男は田園の真っただ中にある自分の家でた った一人で暮らしていた。彼はそこから出てゆくこと を拒否したのであった。見渡すかぎり生い茂る雑草、 森、壊れた電柱、見捨てられたコルホーズに埋もれ て、暮らしていた。 彼は庭の入口に腰を下ろして、 われわれが近づいて くるのを見ていた。微動だにしない。彼の目はブルー グレーに光っていた。本当に光っているのだ。 日中に 点灯されて白く光るヘッドライトのように。 もうだれも 彼に会いに来る者はいない。 ときどき民兵隊員がや って来る。 それから外国人。彼の健康状態を訊ね、放 射能を測定して、 そそくさと立ち去っていく。 この数週 間、彼はだれにも会っていなかった。人々はここには 来ない。怖いからだ。 いちばん辛いのは、話し相手が だれもいないことだと、彼は言う。 よく眠れない。 だか

Entrance of the Kuybycheva kolkoz - Belarus

ら夜は、 オオカミの声に耳を傾け、夜空の星に話しか ける。原発事故の後、空はもう以前と同じではない。 以前よりもずっとたくさんの星が見える。 「砂漠の空み たいだ」 そうだ。天の川はかくも美しく、 かくも濃厚だ。 彼はもうほとんど村へは行かない。村へ行くとペスト 患者のように扱われるから。 「 村人たちは、わしが悪 魔の国から来たと言う。」彼の生活の糧は、庭で採れ るものと、霞と、密猟少々。井戸の水は今でも澄んで いる。体に疲れを感じる。疲れはますますひどくなる。 彼は自分がまもなく死ぬことを知っている。


クイビシュヴァのコルホーズ

埋められた村々のための記念碑

「科学技術が試されていた。 ブルドーザ (ブルドーザに改装 された戦車) が先ず家の前に巨大な穴を掘った。 それから 家をその穴の中へ押し込めた。 このようにしていくつもの村 がまるまる埋められた。食器が割れる音、鏡や窓ガラスが破 裂する音、家具が砕ける音が聞こえた…。 なにもかもがアッ という間だった。現実離れして見えた。 あり得ないものの光 景だった…」

イゴール・コスティンによって引用された証言、 『チェルノブイリ ― ある現 地報道記者の告白』 (レザレーヌ出版社) より


UKRAINE: Bazar / Boroutyno / Bouda-Varovytchi / Bouliv Chakhy / Chevtchenkove / Denysovytchi / Dibrova / Fabrykivka / Gannivka / Goloubievytchi / Grezlia / Mali Klischi / Mali Min’ki / Malynka / Martynovytchi / Megyliska / Narodytchi / Nova / Markivka / Noviy / Myr / Nozdrysche / Olexandry / Osyka / Pereizd / / Selets’ / Severivka / Sloboda / Solotyne / Stanovysche / Stare / Charne / Stebli / Sydory / Tarasy / Vas’kivtsi / Velyki Klischi / Velyki Min’ky / Vel Varovytchi / Boudymlia / Bouliv / Bouryakivka / Bovysche / Bytchky / Chakhy / Chevtchenkove / Chychelivka / Deleta / Denyssovytchi / Derkatchi / Dibrova / Do Jouravlynka / Jourba / Jovtneve / Kalynivka / Kamianka / Karpylivka / Khoutir / Zolotniiv / Khryplia / Khrystynivka / Khutir / Zolotniiv / Klyvyny / Kocharivka Krasne Machivka / Krasne Machivka / Krasne Tovstolis / Krasne Tovstolissia / Kryva / Gora / Ladyjytchi / Leliv / Lisnytstvo / Yakovetske / Liubarka / Liudvynivka Martynovytchi / Mejyliska / Mlyny / Moschanytsia / Motyli / Narodytchi / Nova Krasnytsia / Nova / Markivka / Nove / Charne / Noviy / Myr / Novochepelytchi / Plutovysche / Polis’ke / Poukhove / Prylisne / Red’kivka / Ritchytsia / Rizky / Rogy / Roud’ky / Roudnia / Roudnia Bazars’ka / Roudnia Gerevtsi / Roudnia G / Roudnia Veresnia / Rozijdje / Rozsokha / Rozsokhivs’ke / Rozsoxa / Selets’ / Severivka / Sloboda / Solotyne / Sosnivka / Stanovysche / Stara / Krasnytsia / Tchernobyl-2 / Tchervonossilka / Tchystogalivka / Terekhiv / Teremtsi / Tovstiy / Lis / Ussiv / Varovytchi / Vas’kivtsi / Velyki Klischi / Velyki Min’ky Zamochnia / Zapilia / Zavodne / Zvizdal / Zymovysche / RUSSIE: Alexandrovka / Alexandrovski / Andreevka / Petchevaya / Antonovka / Azaritchi / Babaki / Borok Maniukovo / Borok Novomestovo / Borozenschina / Borschevka / Boukovets / Bouldynka / Bourossovka / Bouyan / Chamry / Chelovy / Chyriaevka / Chytikov / Drobnitsa / Droujba / Ermaki / Fanzovschina / Fedorovka / Fedorovka Ounochevo / Gassanova / Sloboda / Gatka / Glinnoe / Glybotchka / Golota / Gordeevka / Gore / Kalinine / Kalinovka / Kamen’ / Kamenka / Karna / Katitchi / Khaleevitchi / Kharmynka / Kipen’Ouscherpskiy / Kipen’Rojnovskiy / Kliukov Mokh Sinekolodets Starovychkovo / Kourganovka / Koustovka / Kouznets / Kovali / Kozlovka / Krasnaya / Krinitsa / Krasnaya / Zaria / Krasniy / Kamen’ / Krasniy / Loutch / Kra Liubin / Liubine / Lysye / Machkinskiy / Makaritchi / Makhanovka / Makoussy-1 / Malev / Malinovka / Malooudebnoe / Mamay / Maniuki / Maniuki / Medvedi / Me

/ Nijnyaya / Melnitsa / Nikolaevka / Nikolsk / Nivy / Novaya / Alexeevka / Novaya / Derevnia / Novaya / Jizn’ / Novaya / Komarovka / Noviy / Mir / Noviy Bor / Novozybkov / Novye / Bobovitchi / Novye / Fayki / Novye / Katitchi / Orel / Ossov / Oucherpie / Ouletovka / Ounetcha / Ounochevo / Ouvetchie / Pal vouchka / Pokon’ / Pokrovka / Polek / Poliany / Poplavy / Popovka / Progress / Prokhorenko Barsoukovo / Prokhorovka / Proudovka / Rassadniki / Razdolie / Rev / Selets / Sennoe / Siniavka / Siniavka-2 / Siniy / Kolodets / Smeliy / Smialtch / Snovskoe / Sofievka / Sougrodovka / Soukrin Polon / Spiridonova / Bouda Svistok Tchakhov / Tchekhov / Tcheretovka / Tchigray / Tchikhovka / Teremochka / Tislenki / Tougany / Trigolov / Trostan’ (Trostan’) Usine d’extraction de la / Roscha / Viajnovka / Vikholka (Katitche) / Vladimirovka / Vnoukovitchi / Voronova / Gouta / Vychkov / Yagodka / Yagodnoe / Yalovka / Yamische / Yasnaya / niy / Klin / Zlotnitskiy / Khoutor / Zlynka / Znanie / BELARUS: Akchinka / Amelnoe / Andreïevka / Antonovka / Babtchine / Bahan’ / Bartolomeïevka / Beloberej Doubetskoé / Doubrova / Doubrovka / Dovliady / Dragotyn’ / Dron’ki / Dvoriché / Garousty / Glouhovitchi / Gorbovitchi / Gorochkov / Gouta / Gridni / Grouchevka Kolyban’ / Kolyban’ Kositskaïa / Koul’chitchi / Koulajine / Koulikovka / Krasnoeznamia / Krasnoselié / Kriouki / Liady / Lioudvinov / Lipa / Lomatchi / Lomyc Molotchki Néjihov / Nouditchi / Novaïa / Elnia / Novye / Gromyki / Novyi maïdn / Novyi stepanov / Okopy / Omel’kovchtchina / Omel’kovchtchina / Orovitchi / vka / Posoudovo / Potiosy / Pouguine / Pristanskoé / Proletarskï / Rachev / Radine / Retchki / Rojava / Romanovka / Roudenka / Roudnia / Chliaguina / Roudnia legovskaïa / Roudnia / Sperijie / Staraïa / Bouda / Staroé / Zakroujié / Starye / Gromyki / Staryi / Stepanov / Stroumen’ / Tarasovka / Tchapaevka / Tchika Vorobiobka / Vorotets / Vydevo / Vygrebnaïa / Sloboda / Zagorié / Zakopytie / Zalesié / Zaretchie / Zartchie / Zavodok / Zolotnino / ...................

«KOLKOZE KUYBYCHEVA» • SLAVGOROD

region•

Bélarus • MEMORIAL

to the

700

villages burried after

Chernobyl

catastrophe.

Opening

of theEuropean


Jouravlynka / Jovtneve / Kalynivka / Karpylivka / Khryplia / Kolesnyky / Kolosivka / Korolivka / Kotovs’ke / Loznytsia / Lubarka / Lystvynivka / Malenivka / Peremoga / Polis’ke / Poukhove / Red’kivka / Rizky Rogy / Roudnia Bazars’ka / Roudnia Grezlians’ka / Roudnia Ossochnia / Roudnie / Radovels’ka / Rozsokhivs’ke lyki Ozera / Velykiy Tcheremel’ / Viltcha / Vystoupovytchi / Yassen / Zavodne / Zvizdal’ / Andriivka / Bazar / Benivka / Bober / Boroutyne / Bouda / Bouda oumyns’ke / Dovgiy / Lis / Fabrykivka / Galouzia / Gannivka / Glynka / Goloubievytchi / Gorodtchan / Gorodysche / Grezlia / Ilintsi / Ilovnytsia / Ivanivka / arivka / Kochivka / Kolesnyky / Kolossivka / Kopatchi / Korogod / Korolivka / Koscharivka / Koschivka / Kotovs’ke / Kotsyubyns’ke / Koupouvate / Kovchylivka / nivka / Lokot’kiv / Loubianka / Loznytsia / Lyps’ki / Romany / Lystvynivka / Macheve / Malakhivka / Malenivka / Mali / Klischi / Mali / Min’ky / Malynka / / Novosilky / Nozdrysche / Obykhody / Olexandry / Omelnyky / Opatchytchi / Osyka / Otachiv / Oussiv / Parychiv / Pereizd / Peremoga / Pihots’ke / Prypiat / Grezlians’ka / Roudnia Ilinets’ka / Roudnia Jerevtsi / Roudnia Kalynivka / Roudnia Ossochnia / Roudnia Povtchans’ka / Roudnia Povtchans’ka / Roudnia Radovels’ka / Stare / Charne / Stari / Chepelytchi / Starovilia / Stebli / Stepky / Stetchanka / Stovpytchne / Sydory / Tarassy / Tchapaevka / Tcherevatch / Tchernobyl y / Velyki Ozera / Velykiy Tcheremel / Vesniane / Vilchanka / Viltcha / Volodymyrivka / Vozliakove / Vystoupovytchi / Yampil’ / Yaniv / Yassen / Zalissia / Baranovka / Barki / Barsouki / Barsouki / Batourovka / Baylouki / Bejkov / Belimovo / Beliy Kolodets / Berezovka / Bezbojnik / Borets / Borki Barsoukovo / Log / Dalniy / Klin / Dantchenkova / Sloboda / Dedovskiy / Deniskovitchi / Diagov / Dobrodeevka / Dobryn’ / Dobryn’ka / Doubenets / Doubovets / Doubrovka / relaya / Sossna / Gorka / Gorodetchnia / Gorodok / Gorovaya / Gouschi / Gouta / Gouta Koretskaya / Gremoutchka / Griva / Grivki / Grozniy / Jouravki / Jovnets / Kliukov Mokh Vnoukovitche / Kniazevschina / Kojany / Kojoukhovo / Kolodetskiy / Kolodezskiy Starovychkovo / Kolpiny / Komary / Kor’ma / Kortchi / Kourganie rasniy / Ostrov / Krasnye / Orly / Krichtopov / Routchey / Krinitchnoe / Krivoy / Sad / Kroutoberezka / Krylovka / Larnevsk / Lesnovka / Lesnoy / Ouvelskoe / edvedovka / Medvejie / Mikhalevka / Mikhaylovka / Mikhaylovka Katiche / Mirniy / Mochok / Morozovka / Moskovschina / Mouravinka / Mouravinka Nesvoevka / Netecha

/ Rassvet / Noviy / Svet / Novoalexandrovka / Novodrojensk / Novoe / Mesto / Novomikhaylovka / Novonovitskaya / Novoretchitsa / Novosergeevka / Novovelikiy / / Paloujskaya / Roudnia / Pavlovka / Pen’ki / Peretin / Perevoz / Petrova / Bouda / Petrovka / Pissarevka / Pissarki / Pobeda / Podproudnia / Podslaevoliutsionniy / Svet / Rogov / Rogovetch / Rojny / Roubany / Roudnia Demen’ / Roudnia Vorobievka / San’kovo / Savitchka / Savitskiy / Log / Savkin / Khoutor a / Staraya / Roudnia / Stariy / Vychkov / Staronovitskoe / Starye / Bobovitchi / Stepana / Rasina / Stolbounka / Stolpenko / Sviatsk / Sviderki / Svistok / tourbe «Rekta» / Vajytsa / Vassilievka / Velikie / Liady / Velikiy / Bor / Velikooudebnoe / Velitchka / Veprino / Verbovka / Vereschaki / Verteby / Vesselaya Poliana / Zaborie / Zaglodie / Zalipovie / Zamychevo / Zaozerie / Zaretchie / Zaretchie (Snov) / Zassetchniy / Zavercha / Zavodo-Koretskiy / Zaytsev / Zeleberejskaïa / Roudnia / Bereziaki1 / Bereziaki2 / Besed’ / Besedy / Bogouch / Bor’ba / Borchevka / Borovitchi / Bouda / Danileevka / Derajnia / Dernovitchi / evka / Hizy / Hlevno / Horochevka / Houtor / Sergueev / Hvochevka / Iakouchevka / Iaseni / Iasenok / Irinovka / Jarely / Jerdnoïe / Karpovitchi / Kojouchki / ch / Lozovitsa / Lozovitsa / Malinovka / Maly / Hotimsk / Mamnik / Manouily / Jeleznitsa / Masany / Melovka / Mhinitchi / Mikhaïlovka / Mikhalevka / Mokroe / Osipovka / Ostrogliady / Otcheso / Roudnia / Ouchaki / Ougly / Ouhovo / Oulasy / Pennoe / Perestinets / Petropolie / Pirki / Poboujié / Pogonnoe / Popsuïenia / Oudalevskaïa / Rovnisché / Salabouda / Saltanovka / Samotevitchi / Savinitchi / Savitchi / Sebrovitchi / Selitskaïa / Simonovka / Sivinka / Skaline / Smoikalovitchi / Tchoudiany / Techkov / Tihin / Titovka / Toul’govitchi / Vasilievka / Velikibor / Veprine / Vepry / Verhovaïa / Sloboda / Vetuhna [Vetougna] / ..............................................................................................................................

y

lomy

n exhibition for the

20

years anniversary of

Chernobyl,

organized by the

CCCB

of

Barcelona / AGB - 2006 - Format

exposition:

8m/0,80m


われわれはこの名前のない混沌の中心地を去って、港でピクニックをする ためにチェルノブイリ村に戻った。 われわれは食べ物を持参していた。 レ オ・フェレの言葉を借りれば「小さなバスケット」 である。 でも、 だれもお腹が 減っていない。 茫然自失の状態は起こらない。呼吸はゆっくりなままである。 ありそうもない 影が映像に混じる。 目に見えないはずのものが、写真に写る、写される。 そ れは光や鏡とたわむれる。原子力ピクニックだ。



これは静けさの中の静けさである。線量計だけが水に近づけると乾いた音を立てる。釣り人の舟を探すな。 そん なものは、 もうない。舟もなければ釣り人もいない。地元でとれた美味な魚やキノコの揚げ物をふるまってくる水上 レストランも、探してはならない。平和も探してはならない。 ここは敗戦によって立入り禁止となった港なのだ。 1986年4月27日に始まった戦闘がやっと終結したのは1988年12月であった。たくさんの 砂、鉄、 トラック、戦車、兵士、 ウオッカを運ぶ何百もの巨大な平底船がわれわれの前で大混雑を引き起こしてい た。 すさまじい騒音が四六時中やむことがなかった。空気はディーゼルエンジンの臭いがしていた。鳥たちはいな くなっていた。至る所に敵がいたが、 その敵は目には見えなかった。

そ し て 港 を 制 覇 し た の は 放 射 能 だ っ た。



ドニエプル河畔、森に数百のダーチャ(ロシアの木造小屋)が見え隠れする古い村。広大な森、豊穣な自然を 誇る国。リンゴ、キノコ、ブルーベリーを産する。狩りと釣りの宝庫。ソ連の高位高官たちが好んで休暇に訪 れた。しかしそれは昔のこと。それは、別の世界でのことだった。 1986年4月26日夜に起こった大爆発、現実のものとは思えないトルコブルーや青色の光が村を照らした 夜から数日後、ここでは時間が奪い取られた。村を放棄しなければならなかった。永久にである。すべてを残 してである。写真、歴史、思い出すべてを破り捨てなければならなかった。こうして村全体が消え去った。 「われわれの生活はもはや放射性廃棄物だけで成っていた。われわれ自身が放射性廃棄物となった。」 今ではチェルノブイリは「除染された」いくつかの小区画に縮まっている。そこには役人と原子力発電所の監 視および保全の巡邏隊が常駐している。公的にはだれも村で生活することは許されていない。しかし立退きを 拒否した何人かの老人、または戻ってきた人たちが森の中に隠れている。その数は四人だとか五人だとか言わ れている。魔女の国の謎と伝説 町からやってきた若い夫婦が、数か月前に定住したとさえ言われている。一人の子どもが夫婦の小屋で生まれ たそうだ。その子は人間の住むことが禁じられた場所で生まれた最初の子どもというわけだ。 異様だ。ゾッとする。絶対の秘密だ。



踏み込むのが容易ではないほどの草木。 われわれはゆっくりと進む。 ピョートルはトルストイの本を一冊持ってきている。彼 はトルストイがガンジーと交わした手紙について話してくれた。

「彼らを追放したり殺害したりする代わりに、彼らの言葉に耳を傾けるべきだったんだ」と私に言った。



原子力の魔術師たちは、噂の通り、光までも壊してしまったわけだ。確かに目は、喉と同じように渇いて、色の基準を 失う。 コントラストに、乳白ガラスのようなものが混じる。 目は、何かを見る以上に、何かがおかしいと感じているよう だ。 ビデオが録画を行なう。紫色、 トルコブルー、私の映像は青色系に占拠される。 もちろんカメラの調節は確認して いる。 ピョートルは私の動作を見守りながら微笑んだ。

「ほら…、言ったとおりだろ…。やつらは光さえ、壊してしまった!」



「田園のいたる所に色のついた斑点が見えた*。いくつかの斑点はたいへん大きい。 ほか の数十のはそれより小さい。斑点には黒、赤、青、 白がある。 どれも光り輝いている。記憶をたど っても、 同じようなものを見たことは一度もない。 われわれが見たものが原子(アトム) であるこ とが後になってわかった。運が良いと言われた。原子はふだんは、 目には見えないものだから だ。 われわれは民兵隊を呼んだが、 やって来たのは午後の初めであった。運悪く午前中はずっと 雨で、民兵隊が到着したときには、斑点は全部消えてしまっていた。民兵たちは、 この辺りでは 見たことのない計測器を取り出した。 そいつはまるで鳴りやもうとしなかった。 彼らはみんなおび えた様子で、“すぐにここを立ち退け!”と言った。 もうここでは決して生活はできないと。彼らの 言うことを信じる者はいなかった。 だからわれわれはこの地にとどまった。翌日、再び軍人ども はやって来た。彼らは住民を立ち退かせた。いったい彼らは何の敵を追い回しているのだ ろうと、 みんな思った。 ここでは何も変わったことはない。 すべては静かだ。確かに口の中は金 属の味がする、喉はひりひりする、鼻は乾燥する、 目は涙が出る、子どもたちは嘔吐を催す… しかしそれ以外は何も変わったことはない。 (…) 私は自分の家に残ると彼らに言った。彼らが望むなら私を一緒に埋めればいいさ。 それでも私 は立ち退かないよ。 すると彼らは私を放っておいてくれた。 私の家はそれほど汚染されていない、危険なのは家の周り一帯だと言われた。 しかし、 それでも 私は家の外に出かける。 キノコはたくさんできるし美味しい。私は人々が戻って来るのを長いあ いだ待った。私は自分に言い聞かせた:だれも永久に行ったきりにはならないだろう。 いつか必 ず戻ってくるさ。 しかしだれも戻って来なかった。

「今では私は知っている。もう二度とだれも戻って来ないことを。」 *土壌に拡散した放射線核種による汚染は 「豹の斑点の汚染」 と呼ばれる。豹の皮の色の濃い斑点は強く汚染され た地域(ホットスポット) である。他の部分は基準値内だと言う。 もうひとつこの汚染状態をよく表わしているのは、強いにわか雨が通過した後の麦畑の光景である。畑の麦はところ どころ、 ホットスポットに従ってランダムに、地面に倒れているのだ。



食人種となった森は、村を消化していく。森に捕われた家々は倒壊してゆく。森に吸収されてゆく。 いろいろな影がときどき家の壁の上 に動く。逃げ回るグノーム (大地の精) のように。 ここでは森の中にもう芳香はない。廃墟となった庭に残されたセイヨウネズの木、林檎の木、樹木の花は香気を放たなくなった…。



不幸がやって来たとき、人間は考えたり、 自分がもたらした恐怖の責任を認めたりすることを好まない。彼は立ち止まることも断念することも好まない。 たとえ万事が彼が破局 の途上にあることを証明していても。飽くことを知らない貪欲さのあまり、人間は次なる大災害が現実となるそのときまで、 それを真に受けようとはしない。 そういったことのどれに ついても、 だれも考えたがらない。 私は一条の陽の光を追った。 その光は私を一軒の小さな家の中に導いた。家の中には、地面に散らばっている紙しか残っていなかった。 ボール紙の箱から飛び出た手紙は破 れ朽ちていた。別の時代の手紙。 その時代には愛の言葉はまだ放射性廃棄物ではなかった。これらすべてを私はどのように語ったらいいんだろう?大惨事の記憶を未来 の犠牲者となる人々に伝えることは可能なのだろうかと私は自問する。 チェルノブイリは、あってはならない喪のメカニズムを誕生させた。それは、決して終わることのない服喪だ。





いくらなんでもこの家の一角を貪ったのは放射能ではない。 いくらなんでもこの家の一角を貪ったのは放射能ではない。頭が三つあるイノシシでもない。巨大なアリでもない。石のミミズでもない。 もしかしたら鬼になった天使のしわざか?

「放射性物質の密売人の仕業ですよ」 とピョートルは私に言った。 「奴らは回収できるものはすべて回収します。 そして地方や外国のマーケットで売りさばくんです。組織的な取 引で、 あらゆるところに蔓延しています。 ここでは公然の秘密です。家の一角を取りのけると、家はすぐさま崩壊します。取り壊しは簡単です。 あとは拾い集めるだけ。忘れないでくだ さい。 いま僕らがいるのは、長い時間とどまることができない場所です。 ここではなにも騒ぎになることもありません。 」



家の数と同じだけの悲劇がある。同じ数だけの奪われた夢、同じ数だけの破綻した生活がある。




原子炉が爆発したとき、 レーニン街のこの家にアンナは暮らしていた。夫アナトリーと三歳の娘カリ ーナと一緒に。 彼女はすべてを覚えていると私に言う。夜空に青い光が走った。 そして明け方に土や樹木の上に青白い 色の斑点が見えた。先ず驚き、 それから沈黙。不安、 それから恐怖。 その後に来たのがさすらいの生活。 それは人生の悪夢の始まりであった。彼女はすべてを覚えていると繰り返し言う。世界がひっくり返 ったときのことを。 「私たちの最初の子どもカリーナは1988年に生まれました。事故の二年後です。幸いなことに、 カリ ーナは正常だと医者たちは言いました。私たちは医者の言葉を信じて数か月を過ごしました。 でも残念 ながら、 まもなく事態はこじれ始めたのです。先ずアナトリーが病気になりました。 アナトリーはリクビダ ートルとして働いていた立入禁止区域から戻って来たときから調子が悪かったのです。彼は二十八歳 にして、 まるで四十歳のように見えました。 片方の脚を切断しなければなりませんでした。両足で歩くの さえ大変だったのに…。想像してみてください! それから彼は亡くなりました。彼の死はみんなにとって 苦痛の軽減になりました。 とくに彼自身にとって。 一方、 私は甲状腺とリンパ節の手術を三回受けました。 でもそんなこと、 たいしたことではありません。私は娘の世話をすることができていたのですから。 ( 」…) アンナは、 治療と薬を求めてウクライナ行政当局の汚職の迷宮をさまよい歩いた生活を思い出す。 田舎 とは基準の違う都会をさまよい歩いた生活を思い出す。村から避難した後に散りじりになってしまった 親族のこと、避難民をペスト患者のように扱う都会の住民のこと…。 「カリーナは八歳になる前の夏に病気になりました。 白血病でした。六年間生死の境をさまよいまし た。私は彼女を救うためにできることはすべてしました。 しかし一つの問題が解決しないうちから別の問 題が生じるのでした。終わったと安心しことが、再燃するのでした。」 (…) アンナは、いったいどうして私はまだ生きていられるのかしらと首を傾げる。 どうして彼女の肉 体と精神はこれらすべてに堪えられたのか。 「カリーナが私に力を与えてくれたのです」… 数々の病院 や診療センターで、 アンナは数十という病気の子どもたちに出会った。 たいてい孤児か捨て子であった。 どの子も想像を絶する、信じられないような恐ろしい未知の病気を抱えていた…。 そこでアンナはその 子たちの世話をはじめた。 カリーナと同じくらい、 この子たちを愛しているとアンナは私に言った。そして、どれほどこの子たち が私たちを必要としているかと。


Photos: Magdalena Caris - Novinki -

ノヴィンスキー

小児精神病院

「生まれたとき、 このものは、赤ん坊ではなかった。 まったく開口部のない四方八 方が閉じている袋であった。両目だけが開いていた (…)性器もない、尻もない。腎 臓は一個しかない (…)私は医者同士が話しているのを耳にした。 「もしこれをテレ ビで見せたらどんなお母さんも子どもを産みたくなくなるだろうな」 (…) この子に 尻が作られた。 いま膣を作っている最中である (…)半時間ごとに手で尿を搾る。 それは膣のなかの極細の穴を通して尿を出すためである。 これほどの複雑な病理 をもちながら生き延びているのはこの子だけだ。」 * (…) 今日、 こういった地方では、 墓地は小さな白い棺で溢れかえっている。 *スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ 『チェルノブイリの祈り』 (岩波現代文庫) に証言の全文が収められている


ベラルシー、 ミンスク市の周辺には、無限かと思われるく らいに広大な平野が広がっている。見渡す限りの野原、 入れば二度と出てこられないような森、無人の田園地帯 に置かれた巨大な鏡のようないくつもの湖沼。空が自ら の姿を映して見ることができるように。 ミンスクから12キロほどの所にあるノヴィンスキーに は、科学技術の進歩の被害者たちがたびたび足を運ぶ 「奇跡の庭」 がある。精神医療病院。収容されているの は、 ほとんどが生まれてすぐに捨てられた四歳から十七 歳の子どもたち。 それほど彼らの親は、生まれてきたわが 子の姿を見て戦慄したのだ。 そんなこと、想像することさ え難しいと思いませんか? (訳注:奇跡の庭とは、 アンシ ャンレジーム下のパリにあった無法地帯のことで、 身障 者の物乞いたちすみかとしていたが、夜になると彼らの 障害が奇跡のように消えるのでそう呼ばれた。実際には

Photos: Paul Fusco / Magnum Photos - Novinki -

見てはいけない。 目に入れてはいけない。 だが…。

彼らは身障者ではなかった。)

アンナは、子どもたちが、激昂を止めるために装着される 拘束着のなかで見せる深い悲しみに沈んだ沈黙と戸惑 いの眼差しについて語ってくれた。子どもたちのおおきな

ここには200人ちょっとの子どもたちがいる。収容能力

アンナはノヴィンスキーに初めて来たときのことを私に次

の限界なのだ。 どの階にも水道もガスもない。医学では

のように語る。 「私は小さな子ども、本当に小さな六か月

判らない病気と奇形の、治癒の望みのない子どもたち。

の赤ちゃんのような子を見ました。 ところがその子はほん

地面に固定され、 あるいは地面をはい回って暮らしてい

とうは三歳だったのです。真っ黒なごわごわした髪をし

る。 この子らは病人なのか?患者なのか?モルモットな

て、大きく目を見開いていました。 まるでなにかの絵を凝

のか? この世には、 ノヴィンスキーの子どもたちを想像

視しているようでした。 もしかしたら、 むかし見たことがあ

する助けとなるような参照例さえ存在しない。世界はこ

る絵、生まれたときからこの子を絶えざる恐怖に陥れて

の子たちを知りたがらないし、認知したがらない。 その理

いるある絵を見つめているのかもしれません。 その子は

由はたぶん、子どもたちの親が耐えられなかったのと同

腕の中に抱かれたときにだけ静かになるのでした。腕に

じ恐怖だろう。

しがみつき、体をちいさく丸くめて落ち着くのでした」…

微笑み、心そのもののように深い微笑について、 あるいは 鎮めることのできない苦痛の涙について、 そして時折、遊 戯やたくさんの愛撫によって誘われる喜びの笑い声につ いて、彼女は語ってくれる。 アンナは常勤看護婦と医療チームの極度の疲労、医師 たちの献身、医師たちの自由になる資金の欠乏を語って くれた。何か月もつづく、 ひじょうに長い冬のこと。冬は、 特に地面が冷たい。鉛のような空、風と雪とが、 ノヴィン スキーをガラスの静けさに投げ込む。 その静けさを引き 裂くのは泣き声と、 たまに、 オオカミの遠吠えだけ。




プリピャチ市 – ウクライナ – 人口5万人 プリピャチの町の生と死。 プリピャチ、 それはモデル都市、 ソビエト帝国の絶対的権力を象徴するショウウ

ィンドウ都市、未来都市、夢の都市、悪夢の都市、核の都市 (1974~1986)。 この町では1986年、 5万6千人の人々が特権的設備を享受し、全ソ連最高の給与をもらい、 これ以上 ない快適な暮らしを送っていた。 1986年4月26日の夜、 1時23分、巨大な爆発が町を揺り動かし、眠っている人々を目覚めさせた。 ト ルコブルーの青い光が夜空を包み、一条の光の束が天を衝いた。町から直線距離で2キロメートルの第 4原子炉は、 ただの大きく口を開いた巨大な穴となり、火に包まれた。 火災警報が発令され、 フィクションをも超える現実が今まさに始まったことを告げていた。 三十六時間が経つか経たないうちに全住民が町を去らねばならない、永久に去らねばならなくなると、 そ のとき、何人の人が想像できただろう。何人の人が意識しただろう。住民の生命が、 いな人類全体が、夢 から悪夢にひっくり返ったのだと。 光から闇に。



1986年4月27日の午前中…

ここ、 プリピャチ市の家々の屋根の上から、窓やバルコニー から住民は火事を眺めた。現実離れした明かりだった。鳴り 渡った警報は、通常の火災警報だったのだから、 このただな らぬ光景を眺めていても危険などあろうはずはなかった。夜 が明けると、朝霧の中、 たくさんの子どもたちが自転車にまた がって、 もっと近くから火事を見に行った。子どもたちは数百 メートルの所まで近づくことができた。 それから子どもたちは 学校へ行った。最小学年の子らは、 もう砂場で遊んでいた。 川岸には、釣り人たちがいつもの朝どおり陣取っていた。正 午ころ、魚がいっぱい入った籠をもって帰宅したとき、彼らの 体は真っ黒だった。放射線で焼かれたのだ。放射線量は通 常の20万倍を超えていた。 しかし、 だれもそのことを彼らに 注意する人はいなかった。 4月27日の午前中に軍隊が町を包囲した。 SF小説のよう な防護服にマスクを着け、見慣れない計測器をもった軍人 たちが町を占領した。何台もの戦車が町の四つ辻、発電所、 病院に配置された…。 緊張と不安が高まった。 このようなことは尋常なことではな い。 スピーカーからは 「安心するように」 という放送が流れて くる。 まだだれも放射能のことを話す人はない。 14時、町から即時退去せよとの命令が住民に対して出さ れたとき、人々はようやく、 これはただの火事などよりもよほ ど深刻な何かが起こっているのだと考えはじめた。

最小学年の子らは、 もう砂場で遊んでいた。

それから約三十分後、 プリピャチの町には住民がいなくなっ た。永久に。FOREVER.



「叫ばなくてもいい。普通に話してくれ。わかっただろう… 奴らは音まで破壊してしまったんだ!」

ピョートルは、町でいちばん高い建物の屋上へ私が登るのに付いてきたがらない。 「汚染が ひど過ぎるし、 もうエレベーターもないんだよ」 と冗談まがいに言う。 それから、私を一人にし てはいけないことになっている、 もし私に何かが起これば彼は失職してしまうと言った。私は 彼を安心させ納得させるための言い分を探した。結局、彼のひじょうに用心深い助言に耳を 傾け、絶対の秘密を彼に誓った後で、彼は私がひとりで建物に入ることを承知した。 16階まで登らなければならない。 そこはこの地域を見渡すのに絶好の場所であることは間 違いない。 1986年4月26日という夜とその翌日の住民の避難の様子を思い浮かべるのに これほど適した所はないだろう。人類の足元が揺れ動いた瞬間だ。 私を取り巻いている実存でいっぱいの空白に対する戦慄。現在という瞬間に絶対的に集中 する。私は静かに階段を上って行く。 ところどころで線量計が通常値の100倍を示す。狂っ てるんだ。 石棺が手の届きそうな所にある。 その周囲、半径30キロメートル以内の土地から人々は立 ち退かされ、立ち入り禁止になった。二十年間にわたって無人。 この世の終わりまで無人。 核砂漠の沈黙。 無事に着いたことをピョートルに知らせようと私は屋上の端に近づいた。建物の下で煙草を 吸いながらトルストイを読んでいる彼の姿が見えた。私は高いところから 「おーい」 と声をか けた。 わずかに出しただけのその声が、 まるで叫び声をあげたかのごとく響き渡る。 いくつも の金属的な鋭いこだまが返ってくる。面白いのでもう一度発声する。印象的だ!… 「叫ばなくてもいい。普通に話してくれ。 わかっただろう… 奴らは音まで破壊してしまった んだ!」 ピョートルが笑って言った。私の案内人はよく笑う。 ピョートルは少し狂ってるんだと、 私は思った。 線量計と同じように。

核の神々の宮殿 私はもしかして時間の吹き出しに閉じ込められてしまったのか!?私は 「 神々の宮殿」 に迷い込んでしまったのではないか!? (ゴシニー、 ユデルゾ 『アステリックス』Album Asterix ) 私は樹木がたった何秒間で芽を出して巨木に育っていく気がする。 ちょ うど、漫画『アステリックス』 のなかで、 ドルイド僧(古代ケルト人の祭司) のパノラミックスが、 ローマ人に占領、伐採された森を、魔法のどんぐりで たちまち大木で覆いつくしたみたいに。



住民が避難したわずか数日後に、村では略奪が始まった。二十年 の間に原子力産業のハゲタカどもが残したものは僅かだった。す べては盗まれ、リサイクルされ、売り払われ、転売された。放射 性物質にまみれたまま。 建物の各階に立ち止りながら私は適当にアパルトマンに入り込 む。ドアの閉じられているアパルトマンを選ぶ。呼び鈴を鳴らし たかった。招かれていないのに入って行くのは、この上なく不作 法に思われたから。 私はある少年の話を思い出す。その子はキエフの市場で帽子を買 った。ところがまもなく頭痛に襲われはじめた。彼自身も医師た ちもその原因がわからなかった。 数か月後、少年は急性がんで死んでしまった。脳のがんだった。

招 か れ て い な い の に 入 っ て 行 く の は、 こ の 上 な く 不 作 法 に 思 わ れ た か ら 。

呼 び 鈴 を 鳴 ら し た か っ た 。



建物の7階で、私は、かつてホテルだった 部屋のコンクリートの床からじかに生えて いる樹木とシダ(羊歯)を目にした…。 窓はなくなっているのに、暖房が残ってい る。重過ぎるのか、あるいは測定器があま りにあからさまに反応するからなのか。 知る由もない。



私はシネスコで、 この町を含む地域一帯が、 大量の放射性核種によって見渡す限りじゅ うたん爆撃される光景を思い浮かべるこ とができた。この新種の戦争に使われる ミサイル、破片爆弾、対人地雷、火炎放射 器、攻撃用戦車、悪魔的な新型武器は、 目 に見えず、音もたてず、 なんの抵抗も受ける ことはなかった。 自然からも、住民からも。 風に運ばれ、雨によって地上に落とされるこ の無敵艦隊は、 その来襲が目にも見えず耳 にも聞こえずして領土と住民を狡猾に攻撃 した。何千何万という人々に毒を盛り、 これ を殺した。放射能にいちばん傷つきやすい のは子どもたちである。 この目に見えない 軍隊の攻撃は苦痛を与えない。最初はあた かも何も起こらなかったかのようである。 そ のために敗北と損害がどれくらいの規模な のかを知覚することが困難になる。時間が すこし経過してはじめて人々は事情に気づ き、苦しみが始まるのだ。 原子炉が爆発した後の日々、核の黙示録の 無敵艦隊はロシア帝国の広大な領土を征 服し、 さらには前線から遠い、 ひじょうに遠 いたくさんの国々に、永遠の占領基地を打 ち立てた。 * (Norvège/Laponie/France/Italie/Afrique du Nord ...Etc ... Voir Atlas Criirad).




ピョートルは放射能汚染した無人地帯がどんなものであるかを 語ってくれた。石棺の周囲の半径30キロメートルと100キロ メートルの大きな同心円に含まれる地帯のことだ。 この地帯を 超えたところでも、多くの土地、集団農場(コルホーズ)、村が立 ち退かされ立ち入り禁止となった。 その面積は合わせてレバノ ンの国土に匹敵する。 あらゆる種類の泥棒と密売人にとっては 宝の山だ。 最初の略奪者たちは、避難が行なわれた直後の日々にはもうや って来て、立退き後に残された金目のものを探した。高値です ぐに転売できそうなものは片端から、 いち早く小さな市場の店 頭に並んだ。容易に持ち運びできる身の回り品、食器類、工具、 骨董品、子ども用玩具、衣類…。 ぬいぐるみはとくに放射性物質を留めやすいことを知っている と…「避難が行なわれた地域から持ってきた放射能を含んだ パジャマを着て、 ぬいぐるみのテディベアを抱きながら、 にっこ り眠りについた子どもたちのことを考えてしまう」 …最低だ、 と ピョートルは言う。 歳月が経つにつれて、略奪と密売は、 ソ連邦のマフィア的構造 に助けられて、着々と定着していった。容積が大きく重量のある 品物、 マットレス、家具、冷蔵庫、 レンジ、 ストーブなどが 「死の地 帯」 から持ち出され、 ロシア帝国内の近い市場、遠い市場に流

Cinematheque of Pripyat / Cultural Centre

れた。 それから使えるものはすべて、何から何まで回収された。 窓、 ドア、 ガラス、煉瓦、導管類… すべてが姿を消してゆき、 す べてが見えなくなっていった。 プリピャチから数キロメートルにあるラゾーカの廃兵器置き場 には、地球上で最大の汚染鉄鋼のストックが貯めこまれた。放 射能に汚染された鉄鋼800万トンと見積もられる巨大な宝 庫である:戦車、 トラック、 自動車、 ヘリコプター、救急車、 バスな ど。今ではその80%、 すなわち600万トンが消えてしまった。 汚染鉄鋼のマフィアは、飽くことなく死の商売をつづけているの である。 立ち入り禁止区域の無人の沈黙に守られて。


人類の歴史のなかでプリピャチ市は、放射能という敵の手 に落ち、数時間で全住民が立ち退かされた初めての大きな 町である。敵は目に見えず、武器は音を立てない新しいタイ プのこの戦争では、 人間はどこにも隠れ場がない。 残され た道は逃走だけである。潰走、敗走、不条理。

爆発後、数日そして数週間が過ぎたとき、 この地方一帯で 数千の村が同じ条件の下 で避難されることになる。 13 万人の人々が自分たちの家、土地、歴史そして彼らの時間 から永久に引き離されることになる。彼らは、 あちらこちら、 とにかく遠方に収容された。 だれも彼らを迎え入れたがら なかった。 みんなが彼らを恐れた。彼らは被ばく者、 「チェル ノブイリ人」、悪魔の国からやって来た人々だった。 つき合う わけにはいかない避難民である。

彼らは前線から持ち込んだ病気に、早々から直面すること になった。薬を見つけなければならなかった。外科手術に 立ち向かわなければならなかった。被ばく者として当局に認 めてもらうために休みなく戦わなければならなかった。仕事 くつか実施された。 田舎には分譲住宅、都会ではコンクリー トの高層住宅、 ニュータウンさえ建てられた。 そこに、彼らは 再び集められたのだ。 ゲットーに隔離されたわけだ。

それから当局は彼らを忘れた。彼らは存在せず、 チェルノブ イリでは何も深刻なことは起こらなかったことにする。 計画 的黙殺、大惨事の否定、記憶そのものを清算するという仕 組みが始動した。

Auditorium / Cultural Centre - Pripyat

Music Hall / Cultural Centre - Pripyat

もなく、金もなく、世間からは排斥される…。移住計画がい



1986年4月26日の朝、学校は開いており小学生たちは勉 強していた。彼らは、 もう一度言うが、 なんの痛みを感じることも ないまま、許容される線量の何千倍もの放射能を浴びた。子ど もにとっては10倍でもすでに多過ぎる。 だから…。

警告するには及ばないのだ 当局の最大関心事はパニックを避けることであった。 それは成 功した。 そうやって史上初の民間原子力による大量犯罪が犯 された。 今日はこの学校の最期の前々日の朝となるだろう。町の避難命 令はまだ発せられていない。 これは訓練ではない。緊急事態で ある。無慈悲な、非人間的な。 その翌日、子どもたちは市が彼らのためにつくった遊園地の落 成式には行けないことになるのだった。落成式は4月27日に 行われるはずであった。一日中、 お祭りが予定されていた。運 命か、偶然か、 それとも魔女たちが、別の決定をしたのだった。




カレンダーのめぐり合わせ:1986年4月27日はプリピャチ遊園地の開園式の日となるはずだった。子どもたちはこの日を首を長くして待っていた。爆発の 前夜、眠りについた子どもたちの夢の中では、 すでに大観覧車が回わり、子どもたちはゴーカートをぶつけ合っていた。 どの子どもも自分たちが眠っているあいだに原子力の魔法使いが彼らの夢を壊しに来るとは想像もしていなかった。巨大な爆音によって真夜中に目を覚まし た子どもたちは、夢というものがたちまちのうちに悪夢に、静けさが恐怖に変わりうることを学ばねばならなかった。 子どもたちの時間と夢は、 このとき奪われ たのだった。 4月27日14時、 ただならぬ輸送が始まった。子どもたちは何台ものバスに詰め込まれた。 マスコットもおもちゃも行って行くことを禁じられた。学校の宿題 も、何も。絶望した母親たちはバスにしがみついて発車を妨害した。兵士たちはバスから母親を引き離さなければならなかった。 バスがスピードを出し始める と、母親たちは両手を天にむかってふりかざしながら、 バスの後を追った。金属質の空気が漂っていた。



世界の心は 幸いなるかな 血めぐる噴水の その上で 手廻しオルガン弾きは 幸いなるか な 埃にまみれて ふりしぼる レモンの声で 繰り返すは 耳慣れたリフレイン でたらめな韻 でたらめな意味 ロシアの山々のいただきに立つ 恋人たちは 幸いなるかな 白馬にまたがった しあわせな赤毛の娘を 微笑んで待つ 褐色の髪した しあわせな青年 喪中の男は 幸いなるかな 小舟の中央に たたずんでいる 太った婦人は 幸いなるかな 凧を手にしている 愚かな老人は 幸いなるかな 食器を割ってばかりいる 幸いなるかな 四輪馬車に運ばれる 年ゆかぬ少年 不幸なるは 新兵たち 射撃の的を前にし 世界の心臓を狙う 自らの心臓を狙う 世界の心を狙う そして大笑いする ジャック・プレヴェールの詩 「急流をさかのぼるマスの幸せ」(詩集『パロール』)




2005年7月 – スクール#1 –

プリピャチで倒壊した最初の建物 スクール#1高校の建物はプリピャチで最初 に倒壊した建物である。避難の実施されたお よそ二十年後、 ひとりでに真っ二つに割れた のだ。町の近未来をしらせる痕跡。

「私は新しい都市の建築が好きではない。 美しい廃墟にならないから。」 と昔ジャッ ク・プレヴェールが私に言ったことがある。



ここでは休憩は不可能だ

今いる場所は、長くとどまってはいけないところだ。 だからひたすら、人間の生活することが 許されなくなった場所をめぐる道を進むほかない。 ピョートルは、 われわれが日の暮れる前 に、競技場や保育園を通ることができるだろうと告げた。 道すがらピョートルは、地域一帯の避難が敢行された後に出された家畜駆除の命令につ いて私に話してくれた。 白い防護服を着た軍隊が横一列に並んで進みながら、猫、犬、家 禽を追いたてて、放射性廃棄物を埋める穴の中にみな一緒に埋めていく姿を想像してほし い。 ピョートルはまた植物と動物の突然変異について話してくれる。 コウノトリは、二度と戻って 来なかった。松の木が枯れたその場所には、二度と木は生えてこなかった。 「彼らは、原子 炉が爆発してからというもの、 ここでは自然が繁栄し、 これまでにないほど健全になったと、 計画的な情報操作を駆使して私たちに信じさせようとしています。原子力が砂漠化の防止 に役立つというのです。 タチの悪い冗談です!」 朝から十五本目の煙草に火をつけながらピョートルは言った。 「こうした場所で君は、他の 人がまだ見たことのないものばかりを目にしているけれど、彼らだって、間もなくおなじもの に直面することになるさ。君は今、核の罠の心臓部に立っている。君の写真を見る人たち が、泣くことを早晩忘れなければいけないんだと理解できることを祈っているよ。」



途方もないピラミッド それがプリピャチの競技場だ。 まるでアンコールワット遺 跡、 メキシコ・マヤ文明のパレンケ遺跡、 あるいはチチェン・ イッツア遺跡の原子力版だ。 しかし、 ここに茂るジャングルに は湿度も芳香もなく、 もはや鳥の声もない。 この場所には、 他の遺跡と同じように、突如おとずれた無人化の印が刻ま れている。強制された放棄。強いられた集団移住。 カンボジアやメキシコの建造物は石でできている。 そして神 々は人々の崇敬を集めていた。 ここでは建造物は、砂とセメ ントと鉄でできている。 そして、人間は神々の地位を奪い取 ろうとした。 カンボジアやメキシコの神々には、崇拝が捧げられた。 ここ では神々は挑戦を受けていた。 あちらには消え失せし文明 の齢千年の遺跡が、 こちらには、落ちぶれた人類の真新し い足跡が残った。 チェルノブイリはまた、現実と非現実の境界をも破壊した。 その断絶は遺伝的なもの、心理遺伝的なものである。 それ はすべての信仰を引き裂き、 すべての哲学を無に帰した。

「そのとき人は、人間の痕跡を見て喜ぶだろう。人間はひとりも いない。痕跡だけが残っている。」 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ 『チェルノブイリの祈り』

The stadium - Pripyat

埋没した建造物




プリピャチ病院の最後の夜は修羅場であった。

戦場の騒ぎ

ここに最初の負傷者が夜中運ばれ、夜が明け るころには、手の施しようがないほどひどい火 傷を負った消防士が、 そしてしばらく後に釣り

人たちが運びこまれた。時間が経つにつれて、 激しい嘔吐に襲われた人々、 その人々に連れら れた鼻血を出している子どもたち、頭痛を訴え てやって来る人々がどんどん増えた。彼らは食 べたものを至る所に吐いた…



の爆発跡地で七時間を過ごした最初の二 人の消防士-

の被ばく量は、病室の壁の

線量に計測器が振りきれるほど凄まじかっ た。釣り人たちの被ばく量も同様だった。測 定不可能な放射線の量だった。 これまでだ れも見たことのないものだった。病院への 搬入には緊急が迫られたが、 さらに異例な ことに病院からの搬出も緊急に迫られた。

プリピャチ市のすべての医師、看護婦及び 介護要員は夜中に動員された。彼らは事故 の規模を実感した最初の人たちだ。 目が回 るほど忙しかった。 すべての人々を診ること は不可能であった。医薬品もまた危険な放 射性廃棄物と化していた。医療機器は故障 してしまった。

プリピャチの町の最後の三十時間の 間、想像を絶する光景がこの病院で繰り 広げられたのであった。 町の片側でたんなる火事が起こっただけな のに、 もう片側では時間に火が点いた。

Pripyat Hospital / Children’s Floor

ヴァーシア・シシェノケとチテノク - 原子炉

す べ て の 人 々 を 診 る こ と は 不 可 能 で あ っ た


気分を明るくするために、 ウクライナのラジオは面白い話を放送していました ヴェルホフナ・ラダ (ウクライナの最高議会) が開かれる。 議題はチェルノブイリ立ち入り禁止区域に隣接する土地 を耕作する可能性について。 ある議員がジャガイモを植え ることを提案する。 みんな憤慨した…。 とんでもない、 そん なことは不可能だ。別の議員はリンゴを提案したが、 それ も通らなかった。 三人目の議員が言った。 タバコを植えよう。 そうすれば煙 草の箱に 「保健省による危険の最終警告」 と表示できる…

チェルノブイリの事故が子どもたちの脳と代謝に与えた 影響はきわめて深刻であった。放射能は憂慮すべき障害 を引き起こした。 子どもたちは33まで数えるのに今どうしている知ってま すか…? 両手の指を使っている。 (別の笑い話)

Olympic swimming pool - Pripyat

(笑い話)



彼らはみんな逃げてしまった

第一書記、議会議長、彼らの補佐官、医師、 すべての責 任者、 すべての幹部、 すべての 「当局者」 が逃げてしまっ たのだ。彼らは住民をモルモットのように、 ネズミのよう に捨て去った。 もちろん逃げるときに、金庫は持って行っ た。転んでもただでは起きないのだ。 当局者にとって代 わった次の連中も、 自分のポケットをいっぱいにして、 や っぱり逃げた。

「たまにやって来る学者や専門家だってそうだ。連中は 自分たちの食べ物は持参して、僕らを観察し、 ペスト患 者のように扱い、大慌てで帰っていく。僕らは実験室の 動物だ。避難する? どこへ? 僕らはここでくたばる運 命なんだ。高官たちがそう決定したのさ。」



放射能汚染地帯を訪ねる旅行を準備していた二年間、 私がこの大惨事に

ついてや、 それにたいする処置、 それにその被害に関して読んだり知った りした事柄のすべてが、 この場所で再浮上してくる。 私はこの悲劇のたくさんの立役者(新聞記者、写真家、証人、大学教 授、映画監督、作家、哲学者、科学者、非営利団体活動家、非政府組織 (NGO)活動家、 リクビダートル、犠牲者…) に出会った。彼らは悲劇の 現実を暴き、 その被害を告発し、沈黙を破るために働いていた。 それは、 原子力ロビーと各国政府の狂った犯罪者、野蛮人、精神病質者たちが、 事故の翌日に課した沈黙である。 彼らの多くがまだ生きて、今なお責任ある立場に居座っている。 ソ連政 府の人間であろうと、国際原子力機関(IAEA)や、世界保健機関(WHO)のよう な国連の共犯機関に属している人間であろうと。WHOは法律的にIAEA に従属している。 そしてIAEAの規約上の主目的は 「全世界における平 和、健康と繁栄のための原子力利用の加速と発展」 である。

同じ連中が、事故後最初に決定したことはチェルノブイリを直ちに 「最高機 密」 に分類することであった。次いで大惨事に関する写真や映像を破棄 し、流布を妨げ、大惨事の立役者と証人を追い散らし、 さらにはリクビダ ートル (事故処理作業員) たちを処理し、何百万人の生活を犠牲にし、 チ ェルノブイリは大惨事などではない、 たいして重大ではないただのアクシ デントだと世界に信じ込ませるための情報操作を組織した。 この破廉恥な、忌まわしい嘘つきどもに全世界の軽蔑を。 たとえば、 わがフランスの

ペルラン† (安らかに眠らぬことを) は、事故後即座に、 マスコミの第一線 に足を運び、 チェルノブイリからやってきた放射能を含んだ雲はフランス

Chernobyl Museum / Kiev

の国境で止まったとフランス人に信じさせたのだ! 人々の命を救おうと した人々の口を封じた連中、 さらにひどいのは、彼らの救命努力を妨害 する画策に携わった連中の呪われんことを。 組織的に被害者を黙殺す る政策を考案し、実行・推進した者ども、何十億の人々の運命を今も着 々と決めてゆく一握りの連中、 そのような連中もまた共に罰せられんことを。 これほどまでに 「人類に対する犯罪」 という言葉がふさわしい事実はこれまでなかった。 この連中のために、 ニュルンベルク裁判を再開しなければならない。



リウシア・シシュノック (爆発した原子炉の屋根の上に最初 に登った消防士の妻) のアパルトマンには、彼女が夫シシュ ノックを追悼して守っている小聖堂がある。消防士シシュノ ックは、 その夜、 当直としてヴァシチュク、 キベノック、 チテノッ ク、 プラヴィク、 ティシチューラと共に、原子力の火に焼かれ て死んだのである。 全員が死後、 ソビエト社会主義共和国連邦の英雄勲章を授与された。

「しかしながら精神衛生の観点から言えば、 原子力の平和利用の将来にとって最も満足す べき回答は、無知と不確実性に満足することを 学んだ新しい世代が登場してくることである。 18世紀のイギリスの詩人ジョゼフ・アディソン の言葉を引用するなら、 ハリケーンに馬乗りに なって暴風雨を誘導することができる新しい 世代が登場することが望まれる。」 WHO『技術報告書』151号、59頁, ジュネーヴ、1958年

(...) 核時代の開始以来「3200万人の人が核産業戦争の犠牲となっ ロザリー・バーテル た。控えめな推計である。」(...)



終わ


わり


Dear Alain-Gilles,

Youri Bandajevski - 05/09/2005 - Minsk

I meet Youri Bandajevski at his home in Minsk. He has been out of prison for a few weeks. He is under house arrest. Yuri B. will be the first person to see the photo «The atomic doll» I took a few days earlier at Pripyat. He is moved. We talk about everything and maybe nothing, judging by the way the girl student who accompanies me as an interpreter is impressed. I take a few portrait shots of Yuri B. Very impatient to resume his research, he shows me on the balcony his secret stock of laboratory mice. On leaving I tell him I would obviously be very pleased if he sent me a letter, an article, a contribution for my «Chernobyl Forever» project. I received it three weeks later.

Voir: http://tchernobyl.verites.free.fr/ Photo: Alain-Gilles Bastide

For humanity, Chernobyl is a wound that doesn’t heal, even 20 years later. And it won’t heal for a very long time. It is a permanent reminder of the dangers of atomic energy for every living thing on Earth. Why is Chernobyl dangerous for humanity, still today? First, because of the importance of its influence on everything alive in the epicenter of the catastrophe. (...) One hundred and four thousand square kilometers of the surface of Belarus, the Ukraine and Russia, with an extremely dangerous density of radioactive contamination. More than 3.8 million people were living in these areas at the time of the accident. An immense number of people, living far away from the site of the explosion of Reactor No. 4 of the atomic power station in 1986, have been victims of the terrifying influence of the atomic energy that escaped. Second, because of the specifically negative influence on human organisms. A great many radioactive substances were projected into the biosphere (...), with differing periods of disintegration, from short-lived iodine whose half-life is eight days, to long-lived plutonium whose half-life is 24 390 years. The most prevalent element in quantity, however, is Cesium-137, whose half-life is 30 years. All these radioactive elements penetrate the human organism, not only in the first days of the catastrophe but also over the past 20 years, either directly or by radioactive irradiation as they disintegrate. In the first months after the accident it was the liquidators who were exposed to the strongest radiation, mainly because of external radioactive irradiation. Many of them were gravely ill and some, a short while later, died from post-irradiation syndrome.

of radioactivity, through consumption of contaminated food products. That is the main danger of the Chernobyl catastrophe. In the post-Chernobyl period there has been a very big increase in the number of ailments of the heart, the endocrine system and other systems, and an enormous number of children with inborn development defects. The increase in the number of malignant tumors has reached an extremely dangerous level. Third, Chernobyl is dangerous due to the fact that it did not cause a strong reaction among the population, of the sort that usually characterises such major tragedies. The people accepted Chernobyl, they are exposed to its terrible influence without demanding any safety precautions, for themselves, but specially for their children and grand-children. (...) Chernobyl paralysed the will of the people. Those in power have created a perception of this desolation that would lead one to believe that the problem is solved. Even today, Chernobyl doesn’t outrage people. Nowadays, intimidated by the powers that be, they even accept to die from illnesses caused by radioactivity. And even when in society voices are raised calling for protection of people victims of the effects of radioactivity, they are muzzled, so as not to expose the lies of States. (...) The duty of doctors and health professionals is to defend the lives and health of mankind. This defense is undertaken, not only through bringing relief, but also by studying the different environmental factors that impact on the human population, and on using the lessons learned to better protect and care for them.

Professor, Youri Bandajevski - Minsk - Oct.2005 The population that lives in the areas affected by the Chernobyl catastrophe is permanently exposed to the influence


High School School #1 - Pripyat

Youri Bandajevski


Svetlana Alexievitch Wladimir Tcherkoff Vassily Nesterenko Grigori Medvedev Youri Bandajevski Bella et Roger Belbéoch Michel Fernex Rosalie Bertell Jean-Pierre Dupuy Guillaume Herbaut Magdalena Caris Paul Fusko Adi Roche Danielle Mitterrand Igor Kostine Robert Polidori Lioussia Chichenok Tania Kibenok Criirad Acro Sortir du Nucléaire Greenpeace Université de Caen Kiev-Mohyla-Académie Musée de Tchernobyl - Kiev ARTE / A2 / FR3 Wikipedia Jean-Philippe Desbordes Peter Watkins

SPECIALS THANKS Olivier Azam Laure Guillot Boris Perrin Pascal Boucher Jean-Pierre Dupuy Claude Nori Patrick Chapuis Roland Desbordes Youri Bandajevski Dominique Charles Jean-Claude Zylberstein Aurore James Piotr, mon guide

To my little son Noé, without whom this book would have probably never existed. AGB

AUTORISATIONS: FATRAS / Jacques Prévert / Editions GALLIMARD / Magnum Photos - PHOTOGRAPHIES: (Pages 58/59) Paul Fusko Magnum Photo / Magdalena Caris

SOURCES


チ ェ ル ノ ブ イ リ フ ォ ー エ バ

• Chernobyl Forever is free-access as an e-book in English, Italian, Spanish, German, Esperanto, Langue Maya (Yucatan) and Japanese.

地獄の旅カルネ


About

について

チェルノブイリフォーエバー

Upon returning to France in 2000 after spending 20 years in Latin America, I started a photographic trilogy on the theme of “Traces.” I was living between Havana and Paris at the time. Every day, I saw the traces of the past and of the present in front of my eyes. Paris was the Present and the era of modernity in progress, concrete, asphalt and the graphic rules of order in black and white. Havana was the colors of the past, Time stood still, that of the return to sand in the anarchy of ruins. Wondering where I could find the traces of the future, I thought of Chernobyl. I imagined Time confiscated, stolen, the sudden emptiness, abandonment and the poisoned land. I had read Svetlana Alexievitch’s “Voices from Chernobyl: The Oral History of a Nuclear Disaster” and understood that it was there, in fact, that I would find the traces of the future. I spent two years preparing for the trip, reading and referring to several works already published on Chernobyl. I met many people working on the subject of Chernobyl, on its history and on its consequences. In 2004, the first voyage that was to bring me there was cancelled at the last minute. The next year, I was appointed by the University of Caen as head of the Photo department of the “First (summer) University of Chernobyl” to be held in Kiev. I asked my international students (French, Ukranian, Russian and Belarussian) to work on the themes of Memory and the Invisible. The workshop “Chernobyl Forever” finally got under way. When the University project was finished, I remained in the area. I looked for and found the abandoned doll that a Parisian professor had seen ten years earlier during a university mission in the ruins of Pripyat. In the region of Slavgorod*, I found a place, completely by chance, that I imagined in a nightmare, where I could create a Memorial for the Buried Villages. Of course, I met people who told me their stories and about

their daily lives before and after the disaster. I took hundreds of pictures of shadows and forced abandonment. Once back in Paris, I selected a series of twenty pictures for the third chapter of my “Traces” trilogy. I offered the Atomic Doll photo to the NGO C.R.I.I.R.A.D. to be sold as a postcard to help fund the CriiradBandajewski laboratory in Minsk. In 2006, the C.C.C.B. in Barcelona, organizer of the “Once upon a time in Chernobyl” European exhibition for the twentieth anniversary of the disaster, acquired the “Kolkoze Kuybicheva,” my memorial for the seven hundred towns and villages buried in the Ukraine, Belarus and Russia. Since then, “Chernobyl forever” has made its way from exhibitions to conferences and not-for-profit publications. And I said to myself, perhaps, one day, if I could find the words, I would write a travel log of my voyage and its hundreds of pictures that slept in my memory and in my computer. It wasn’t until 2012, seven years after my stay in “the zone”**, at a moment that the story of a confiscated childhood made my winter even colder that year, I started to write and work on the lay-out of this travel log, while listening to “Mister Tambourine Man”***. In 2013, the proofs barely finished, I received an offer to publish the book by a Parisian publisher. I explained that there was no point in publishing the book if it didn’t benefit the children of the area, in the region, in the cursed land, where they are Guinea pigs. In any case, this book must not be considered as just a photo album. Chernobyl Forever, became the concept of a crowdfunding campaign: A book-DVD in benefit for a humanitarian operation. Four hundred and fourteen subscribers have insu red the success of the project and helped


fund the publication of the collective work in relation with Chernobyl Forever. The participating authors, Jean-Pierre Dupuy, Vladimir Cherkov, Emanuela Andreoli, Michel Fernex, Jean Gaumy, Jacques Prévert, Patricia Jean-drouart and myself, have donated our royalties to the radiation-sick children in Belarus. In 2014, the text of the Chernobyl Forever travel log had the great luck to come to the attention of Stéphanie Loïk, who adapted it for the stage. In 2016, Chernobyl Forever was performed on stage At the Scène Nationale de Martinique (Martinique National Theatre) and the Théatre du Labrador. Also in 2016, Chernobyl Forever will be available in bookstores in French and available on E-Book sites in several other languages including English. Once again, I would like to thank all those who made this work and its distribution possible. Those who helped in the past, in the present, and of course, in the future. My royalties will continue to be my modest contribution for the benefit of the damned of the contaminated zones in and around Chernobyl… and of Fukushima… and tomorrow somewhere else, that in the present circumstances, and have no doubt about it, is not very far off. The pictures and text in this book are dedicated to them. Alain-Gilles Bastide Paris, October 2015


地獄の旅カルネ

チェルノブイリフォーエバー

This is the story of Chernobyl, from the reactor explosion on April 26th, 1986 up to now, as it’s never been told before. We’re dealing with the facts, with the testimony, with daily lives, plain and simple, with the Human, as individual and as Humanity. Everything told in this book is true. Hidden truths, obscured, when they haven’t been forbidden, or truths that no one wants to hear. Now, thirty years after the disaster, an Author/ Photographer portrays Chernobyl as it has never been portrayed. And it’s not fiction. It’s Chernobyl and it is indeed Forever.

Editor’s notes.

(…) We’ve just entered into the center of the warzone. A hitherto unknown type of war, in which it’s impossible to avoid invisible bullets fired by an invisible enemy. There is no escaping: neither on land, nor in the water, nor in the air.

(…) The schools were open during the morning of April 26th, 1986 and the schoolchildren at work in class. I’ll say it once again, they absorbed thousands of times the acceptable dose of radiation without feeling anything. For children, ten times the dose is already too much. So… It’s not even worth warning them.

(…) My colleague Legassov and I flew over the reactor in a helicopter. My first thought was: « if Hell exists, as some believers say, I can say that it’s here, right before my eyes.“ …

Vassili Nesterenko. April 27th, 1986

(…) Chernobyl also destroyed the frontier between the real and the unreal. The rupture is genetic, psychogenetic. It’ a rupture of beliefs and the renouncement of all philosophical schemas.

(…) All humankind’s age-old knowledge, its cultures, its philosophies, its systems of representation and all its senses, were completely unprepared for Chernobyl. The molecular, physical and psychological consequences of the explosion have precipitated mankind into another world.

Quotes from Chernobyl Forever. Text and Photos by Alain-Gilles Bastide

A TRAVEL-LOG FROM HELL

Published by Association Photographisme-Photomorphisme. Paris 2015.

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