Wax Poetics Japan No.32

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10

patten

12

Al Johnson

14

TEEBS

16

Tim Deluxe

18

The Baker Brothers

20

Maker’s Mark

22

Toshihiro Hayase

28

Donald Byrd

44

Janelle Monáe

52

Teddy Riley

60

George Duke

72

Deniece Williams

74

Todd Rundgren

84

Quadron

92

Takuya Kuroda

96

The New Mastersounds

100 Free Moral Agents 102 Mocean Worker 104 Playwright 106 Kan Sano 108 8ronix 110 Funk Archaeology

Wax Poetics Japan FEB/MAR 2014 Issue 32 Photo by Erin Patrice O’Brien.



WAX POETICS JAPAN 発行人 / 編集長 Publisher/ Editor-in-Chief

WAX POETICS, INC. 写真 Contributing Photo Editor

舟津政志 Masashi Funatsu

鈴木啓太 Keita Suzuki (PLOT. lv04)

編集 Editor

Contributing Photographers

河野貴仁 Takahito Kohno 翻訳 & 編集 Translator & Editor

早川将雄 Danny Masao Winston 広告 Advertising

河合典彦 Norihiko Kawai 椎葉健介 Kensuke Shiiba ウェブ・デザイナー Web Designers

高津史晃 Fumiaki Takatsu 佐藤祐司 Yuji Sato ライター Contributing Writers

バルーチャ・ハシム Hashim Bharoocha 小川充 Mitsuru Ogawa 若杉実 Minoru Wakasugi 林剛 Tsuyoshi Hayashi Eothen “Egon” Alapatt

佐藤拓央 Takuo Sato Suzu (fresco) Hiroyuki Seo Patrick Miller Dan Bolling Larry Mizell Fonce Mizell Yvonne Mizell Gabi Porter Simon Allen Dan Reid Jesse Gullion Theo Jemison Bruce W. Talamon GLOWZ

Editor-in-Chief Andre Torres Editor Brian DiGenti Marketing Director Dennis Coxen Creative Director Freddy Allen Anzures Associate Editor Tom McClure Account Executive Paul Alexander Contributing Editors Travis Atria Ericka Blount Danois Georgia Lan Andrew Mason

Contributing Writers Jon Kirby Chris Williams A. D. Amorosi Contributing Photographers Andrew Putler Jon Sievert Todd Gray Gijsbert Hanekroot Marc Baptiste Erin Patrice O’Brien Interns Francis Devin Rimer Anne Caroline WAX POETICS, INC. 597 Grand Ave. #3G Brooklyn, NY 11238 info@waxpoetics.com waxpoetics.com

Wax Poetics Japan / ワックス・ポエティックス・ジャパン No.32 2014 年 2月28日発行 定価 1300 円 (本体 1238 円) 編集・発行: GruntStyle Co.,Ltd. 〒153-0061 東京都目黒区中目黒 5-18-2-202 Tel 03-6451-0360 GruntStyle Co.,Ltd. 202, 5-18-2, Nakameguro, Meguro-Ku, Tokyo, 153-0061, Japan Tel +81-3-6451-0360 info@waxpoetics.jp

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Donald Byrd

George Duke

ドナルド・バード Photo courtesy of Universal Music Japan

ジョージ・デューク Photo courtesy of Sony Music Entertainment



SKY HIGH ドナルド・バードはハードバップ・ジャズの革新的な トランペット奏 者として知られていたが、1973 年に リリースされた『Black Byrd』あたりから本格 的に R&B やファンクの要素をジャズに取り入れるようにな り、ジャズ・フュージョンやソウル・ジャズの新たな流れ を切り開いた。このアルバムは保守的なジャズ評論家 からは批判されたが、結果的に Blue Note のベスト セラーにもなった。この改革は、現在までも語り継が れ、ジャズの大きなターニングポイントとなっている。 『Black Byrd』を始めとしたフュージョン作品をプロ デュースした、ミゼル・ブラザーズの弟ラリー・ミゼル に、当時のバードとの制作秘話を語ってもらった。一 昨年就任したばかりの Blue Note 社長ドン・ウォズに は、バードの功績と今後の Blue Note、ジャズ・シーン に関しての貴重な証言をもらった。

Donald Byrd 制約なき創造力 by Hashim Bharoocha



Larry Mizell ミゼル・ブラザーズ:弟ラリー・ミゼルと兄アルフォンソ(フォンス) ・ ミゼルは、ドナルド・バード、ジャクソン 5、ボビー・ハンフリー、ゲ イリー・バーツ、ア・テイスト・オブ・ハニーなど、ヒップホップ・シー ンにも深く愛されてきたソウル、ジャズ、レアグルーヴを手がけたソ ングライター兼プロデューサー・チーム。70 年代、特に LA に移っ てからの Blue Note にて活躍した。 トランペット奏者ドナルド・バードを語るうえで、ミゼル・ブラザー ズは欠かせない存在だ。彼らの名前が幅広く知られるようになった のは、1972 年にリリースされたドナルド・バードのタイムレスなク ラシック『Black Byrd』である。 『Black Byrd』を含め、ミゼル・ ブラザーズがバードのためにプロデュースした 5 枚のアルバムは、 彼ら特有のグルーヴィーでソウルフルなヴァイブスがサウンドの特 徴となっており、パブリック・エネミー、グールー、ブラック・ムーン、 メイン・ソース、ナズなどがサンプリングしたことで、ヒップホップ の DJ やプロデューサーたちがジャズをより深く掘り下げるきっか けにもなった。 『Black Byrd』をレコーディングしたのと同時に、 ミゼル兄弟はプロダクション会社 Sky High Productions を立ち 上げたわけだが、ディガーたちがこの名がクレジットされたレコー ドを血眼になって探すようになったことは言うまでもない。兄のフォ ンスは 2011年に亡くなったが、ラリー・ミゼルは70 歳になった今 も精力的に活動している。 あなたと兄のフォンスは、70 年代初期にハワード大学でドナルド・

だわけではない。私はバードの授業は受けていないが、バードが当

バードと出会ったと聞いていますが、彼の生徒だったのでしょうか?

時教えていたのは、人生経験についてだった。ミュージシャンとし

フォンスと私は一緒にハワード大学に入ったが、フォンスの専攻

て仕事をすることがどういうものなのか実体験を教えていて、彼の

は音楽だった。私と彼は、高校生の頃、ヴォーカル・グループやバ

クラスはとても人気があったそうだ。

ンドをやっていたんだ。私は大学で電気工学を専攻していた。4 年 間のプログラムに入ったが、フォンスは 5 年間のプログラムに入っ たから、彼は私の1年後に卒業した。フォンスの大学生活最後の1

その頃に Sky High Productions を立ち上げたのですか?

私もロサンゼルスに移住し、Motownでソングライターやセッショ

年のときに、ドナルド・バードがハワード大学で教鞭をとることに

ンのキーボード奏者として仕事をするようになった。数年ほど経過し

なったんだ。バードとフォンスは大学で知り合ったが、私はすでに

てから Sky High Productions をフォンスと立ち上げたんだ。Sky

卒業していて、航空宇宙産業で働いていた。フォンスは卒業後、ロ

High を作ったのは、1972 年にバードがロサンゼルスにきて彼と再

サンゼルスに移住し、ハワード大学時代にルームメイトだったフレ

会したからだよ。私はフォンスとハリウッドに住んでいたが、バード

ディー・ペレンと新しいレコード会社を立ち上げた。フォンスがバー

が私たちの家に遊びにきて、 「新しい作品をレコーディングするけど、

ドの授業を受けたのは1967年頃だが、彼はバードから音楽を学ん

なにかいい曲はないか?」と訊いてきたんだ。私たちは、すでに作っ

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(前ページ見開き)ドナルド・バード Photo courtesy of Universal Music Japan. (左)右が弟ラリー・ミゼル、左が兄フォンス・ミゼル Photo by Dan Bolling. (上から下に)Berkeley Jazz Festivalでリハーサルを行うドナルド・バード、1973年。 アラン・バーンズ(フルート)バーニー・ペリー(ギター)ジョー・ブロッカー(ドラムス) デヴィッド・フランクリン(ベース & コンガ)Photos by Larry Mizell. (下)スイスの山奥でバードとフォンスとテニスを楽しむラリー、1973年 Photo by Fonce Mizell.

てあった曲を聴かせた。 「Flight Time」や 「Mr. Thomas」のデモを聴かせたんだ。彼 はすぐに「いい曲だな。明日レコーディング しよう」と言ったよ(笑) 。

イクでレコーディングするスタイルだった。 私たちのレコーディング方法は、ジャズ以 外の世界では一般的なもので、まずリズ ム・トラックをレコーディングしていたん だ。その後、アーティストに歌ってもらって、

『Black Byrd』は Blue Note の歴史上

歌を引き立たせるように “甘味料” と呼ば

ひとつになりましたが、バードが意識的に

Byrd』も同じような方法でレコーディング

言ったのでしょうか?

ングし、バードに演奏してもらった。バード

は私たちに電話して「私のアルバムを手が

High Productions を 立 ち 上 げ て 意 気

もっともセールスが多かったアルバムの

れる他のオーバーダブを施した。 『Black

ジャズ、ファンク、R&B を融合させようと

したよ。まずリズム・トラックをレコーディ

そういう会話はいっさいなかったね。彼

とレコーディングしたときは、すでに Sky

けてもらいたい。曲も全部作ってほしい」 と言っただけだ。楽曲を作り、バードがロ サンゼルスにきてから聴かせた。8 ヵ月間

揚々としていたから、セッション・ミュージ シャンも全員ブッキングしておいた。セッ ション当日の朝、ドラマーが 間 違 えてダ

そうだね。他の楽器を全部レコーディン グしてから、バードにトランペットのメロ ディーを吹いてもらった。私の学生時代か らの友人のロジャー・グレンがフルート奏 者として参加した。彼はまだ若いミュージ シャンだったが、彼の父親はデューク・エ リントンやカウント・ベイシーなどと共演 したことがあるタイリー・グレンという有 名なジャズ・ミュージシャンだった。バード はロジャーのことを知らなかったけど、ロ ジャーはあらゆるタイプのフルートを演奏 できたし、ヴィブラフォンも得意だった。 バードとロジャー・グレンだけが『Black Byrd』のソロ奏 者だ。トランペットとフ ルートを重ねたことは、ジャズ・アルバム

もバードと Blue Note から連絡がなかっ

では珍しかったし、独特のテクスチャーを

たんだが、その理由は何年も後になってわ

生み出したけど、バードもそれを気に入っ

かったんだ。私たちとバードがレコーディ

たようだ。私たちはさらにバック・ヴォーカ

ングした曲を聴いた Blue Note の内 部

ルをアルバムに入れた。結果的に『Black

で、バードの新しい方向性について議論が

Byrd』は高いセールスを記録し、その年の

巻き起こったそうだ。聞いた話によると、

ビルボードのベスト・ジャズ・アルバム賞も

Blue Note はバードにストレートなジャズ

獲得した。ジャズ・チャートに1年半以上も

を続けてほしかったらしい。当時、音楽シー

ランクインし、Blue Note にとってのベス

ンは変化していたし、ジャズ・シーンも変化

トセラー・アルバムにもなった。

していた。リー・モーガンは R&B 風の「The Sidewinder」というヒット曲を Blue Note

しかし、ストレートなジャズからファンク

からリリースした。フュージョンらしきもの はすでに誕生していたんだ。マイルス・デイ ヴィスは『Jack Johnson』を発表し、エレ クトリック・マイルスの時代に突入していた。 バードの方向性についてなかなか意見が一 致せず、私たちを起用する許可を出すこと を Blue Note がためらったんだ。

を取り入れたサウンドに方向転換したこと ブル・ブッキングをしたからこられないと いう電話が入ったんだ。レコーディングに 入る直前だったが、突然ドラマーがいなく なって困ったよ。友人がたまたまロサンゼ ルスにきたばかりのドラマーの連絡先を教 えてくれたが、彼はまだハリウッド界隈の

『Black Byrd』制作時のレコーディング・

仕事をあまりしていなかった。キャロル・

素晴らしい体 験だったね。私たちはま

がなかったんだ。だが他にドラマーがいな

プロセスについて教えてください。

キングのツアー・ドラマーしかやったこと

ずリズム・トラックをレコーディングし、そ

かったから、彼に連絡してもらった。その

れから他のパーツをレコーディングした。 バードにとって、それは新しいレコーディ ング方法だった。ストレートなジャズ作品 をレコーディングするとき、バードはバン ドと同時に演奏して、ソロの演奏をしてい たんだ。ストレートなジャズでは、ワンテ

ときの彼がハーヴィー・メイソンで、そう やって彼と知り合ったんだ。 最初にドラムやベースなどの楽器をレコー

ディングしてから、バードにトランペット を吹いてもらった、ということですね。

でバードは批判されたと思います。

私たちが直接批判されることはなかっ た。私たちはインストのファンクを作ってい ただけだ。バードが批判されたという話を 聞いて、とても驚いたね。私たちが意図的 に、バードをファンキーな方向に変えよう としたり、彼を新しい方向性に連れていこ うとしたりしていたわけではない。 『Black Byrd』をレコーディングする前に、バード が私たちと会って、私たちの新曲を聴いてレ コーディングしようと言っただけなんだ。あ のアルバムが大成功したから、Blue Note のプレイヤーは私たちと仕事をしたがって いた。ストレートなジャズの評論家は、たし かにバードが方向転換したことで怒り心頭 だったが、それは誰も想定していなかった からだ。

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Don Was

ドン・ウォズ:1952 年アメリカ、デトロイト生まれ、音楽家・プロデューサー。1979 年に結成したバンド Was(Not Was)でベーシストとして 80 ~ 90 年代にかけて活動する傍ら、プロデューサーとしてザ・ローリング・ストーンズ、ボブ・ ディランほか数多くの大物ミュージシャンの作品を手がけてきた。2012 年1月に Blue Note Records の社長に就任。

2011年に Blue Note の社長に就任したドン・ウォズは、ローリ

シーンがあったけど、デトロイトに移住したもっとも偉大なブルー

ング・ストーンズ、ボブ・ディラン、エルトン・ジョンなどを手がけ、

ス・マンはジョン・リー・フッカーだ。彼はデトロイトから生まれた

グラミーも受賞したプロデューサーとして知られる。彼のような人

音楽を象徴していた。生々しくて、磨かれていないサウンドで、と

物が Blue Note の社長になったことは意外かもしれないが、デ

ても奥深いソウルフルさがあった。デトロイトには、ミッチ・ライ

トロイト出身の彼は、60 年代に地元で、ブルース、ジャズ、そして

ダー、MC5、イギー・ポップといった素晴らしいロックンロールも

Motown の洗礼を受け、ジョン・コルトレーンやドナルド・バードの

あった。ストゥージズは私の高校でもライブをやっていたよ(笑)。

ライブを目撃し、ジャズの造詣も極めて深い。彼はドナルド・バード

そして、素晴らしいジャズ・シーンもデトロイトにあった。ロン・カー

と実際に仕事をしたことはないが、同じデトロイト出身ということ

ター、エルヴィン・ジョーンズ、ユセフ・ラティーフ、ケニー・バレル、

で、バードへの愛情は誰にも負けない。Blue Note の創立 75 周年

ポール・チェンバース、カーティス・フラー、ジョー・ヘンダーソン

を記念して、Blue Note のタイムレスな作品がヴァイナル用にリマ

など、数えきれないほど多くの偉大なジャズ・ミュージシャンをデ

スターされているが、その膨大な作業の合間に、このインタビュー

トロイトは輩出したんだ。そのうちのひとりが、ドナルド・バード

のために時間を割いてくれた彼は、ドナルド・バードと Blue Note

だった。彼は独特なサウンドの持ち主で、とても洗練されたミュー

について饒舌に語ってくれた。

ジシャンだった。優れたテクニックとクリアなトーンの持ち主であ り、デトロイト・ミュージックにありがちな生々しさとは裏腹に、

あなたはドナルド・バードと同じデトロイトの出身ですが、あなた

美しいメロディーを得意としていた。

私は 60 年代のデトロイトで育ったが、素晴らしい時代だった。

一般的にもっとも愛されるドナルド・バードのレコードは、彼がミ

のバックグラウンドについて教えてください。

自動車産業の黄金時代で、アメリカ中から人が集まり、彼らはさ まざまなカルチャーを持ち込んだ。その結果、デトロイトで素晴 らしい音楽が生まれたんだ。デトロイトには目覚ましいブルース・

ゼル・ブラザーズと作り上げた作品だと思いますが、それらの作品

は Motown の影響が強いです。当時からデトロイトには、ジャズ と R&B が相互作用しそうな兆候があったのでしょうか?

ドン・ウォズ Photo by Gabi Porter.

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バードがソウル・ミュージックに傾倒し始めたのは、フィラデルフィアの 音楽の影響が強かったと思うね。彼のソウルの楽曲からは デトロイトよりもフィラデルフィアの要素を感じる

私は Motown を聴いて育ったが、当時

個人的には、バードがソウルの要素を

たのを憶えている。たしかそのクラブで、

はレコード店で働いていて、よくスティー

取り入れ た 作 品 のな かで は『Ethiopian

ジョン・コルトレーンはアリス・コルトレー

ヴィー・ワンダーやマーヴィン・ゲイなどが

Nights』が一番好きだ。あのアルバムの

ンと出会ったんだ。ドナルド・バードもそ

遊びにきたよ。8トラックのテープをテン

サウンドは、より生々しい。バードは間違

こでよくライブをやっていた。私たちは入

プテーションズに売ったこともある(笑)。

いなくマイルス・デイヴィスをチェックして

れなかったけど、ドアの外から演奏を聴い

Motown の音楽は、地元で生まれ、地元

いたし、マイルスが若いオーディエンスに

ていたんだ。ニューポート・ジャズ・フェス

の人に愛されるものだった。ドナルド・バー

もアピールしていたことを知っていた。どの

ティバルの主催者だったジョージ・ウィー

ドは、もっと後の時代に R&B を取り入れ

アーティストだって、そのときの時代性や、

ンが、ジャズのパッケージ・ライブを主催

るようになったんだ。私は初期 Motown

身のまわりで起きていることを反映した

していて、そこで私はマイルス・デイヴィス・

を聴いていたのと同時に、ドナルド・バー

いものなんだ。25 年前の音楽を繰り返し

クインテットのライブを観た。ハービー・

ドの『Free Form』を聴いていた。 『Free

たいアーティストはいないはずだよ。だか

ハンコック、ウェイン・ショーター、ロン・

Form』がドナルド・バードの作品のなかで

ら、ドナルド・バードがリズム&ブルースを

カーター、トニー・ウィリアムスがメンバー

一番好きなアルバムで、とくに「Nai Nai」

取り入れたことに対して、私が嫌だと思っ

だったね。このパッケージ・ライブで、セ

が大好きだね。デトロイトにエド・ラヴと

たことはない。ただ個人的には、生々しい

ロニアス・モンクがコルトレーンと共演し

いうジャズのラジオ DJ がいたけど、いつ

サウンドのものが好きだった。 『Places &

たのも観たし、ドナルド・バードを観たこ

も番組のエンディングでバードの『A New

Spaces』も好きだし、 「Change (Makes

ともあった。

Perspective』の「Cristo Redentor」が

You Want to Hustle)」 や「Just My

流れていたのが印象的だった。デトロイ

Imagination」もお気に入りの曲だ。

トでは Motown だけでなく Stax も重要 だったし、フィラデルフィアのソウル・ミュー

社長になってからドナルド・バードと実際

どういうきっかけであなたは Blue Note の社長になったのですか?

私はニューヨークであるバンドのプロ

に会うことはできたのでしょうか?

デュースをしていて、レコーディングの最中

Blue Note で働くようになってから、会

にひと晩だけ休みがあった。グレゴリー・

デルフィアの音楽の影響が強かったと思う

えることを期待していたけど、残念ながら

ポーターのファースト・アルバムのファン

ね。彼のソウルの楽曲からは、デトロイト

会うチャンスはなかった。同郷の人という

だったが、彼がアップタウンでライブをや

よりもフィラデルフィアの要素を感じる。長

ことで仲よくなりたかったけどね(笑)。で

ると聞いて観に行ったんだ。彼はライブ

年未発表になっていたけど、今年ドナルド・

も若い頃にデトロイトで彼のライブを観

を3 回やったけど、本当に素晴らしかった

バードのモントルー・ジャズ・フェスティバ

たよ。十 代の頃は、年齢 制限があってデ

ね。純粋に音楽ファンとして、あのときほ

ルの音源を Blue Note のウェブサイト上

トロイトのジャズ・クラブに入れなかった

どライブを楽しめたのは10 年ぶりのこと

で発表したんだ。それを聴くと、デトロイ

けど、ジャズを聴く方法はあった。デトロ

だった。翌日、私は旧友であり、その当時

トらしいファンクの要素を感じることがで

イトでトップのジャズ・クラブは、Drome

の Capitol Records の社長でもあったダ

きるよ。スタジオの作品よりも、あのライ

Lounge という場所だった。会 場には入

ン・マキャロルと朝食をとっていた。朝食の

ブ音源のほうが生々しくて、デトロイトの

れなかったが、14 歳のときにクラブの外

途中で、Blue Note が Capitol の一部かど

ファンクを感じるんだ。

からジョン・コルトレーンのライブを聴い

うか訊いたんだ。前の晩にグレゴリー・ポー

ジックの影響も強かった。バードがソウル・ ミュージックに傾倒し始めたのは、フィラ

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THE PROTOTYPE ミステリアスな歌姫ジャネール・モネイは、自身のことより、アンドロイド の別人格のことについて雄弁だ。そして、知的に、丁寧に作り込まれたその 音楽は、どんな言葉よりも、彼女の発想を的確に形にしている。モネイの異 色の R&B は、過去を手本にしながらも未来を見据える強力なプロデュー サーたちの功績によって、近未来的でありつつも古典的な音楽である。この 才能豊かなシンガー・ソングライターは、壮大な空想科学の世界観と、人間 であることを確信させるディープでパーソナルなリリックを融合させて、独創 性に富むオリジナル・スタイルを編み出した。

Janelle Monáe 神秘の才媛 by Travis Atria from issue 57 Winter 2013




NEW JACK KING ニューヨーク出身の神童テディ・ライリーは、十代の頃に、クール・モー・ ディーやダグ E フレッシュといったヒップホップ・パイオニアのプロデュース を手がけた。当時のストリートの過酷な状況に巻き込まれることなく育った ライリーは、のちにアンドレ・ハレルの Uptown Records のグラウンド・ ゼロとなる、叔父が営むスケート場に入り浸り、その音楽的なスキルを磨い た。多種多様な要素を融合させた斬新なサウンド・スタイル、ニュー・ジャッ ク・スウィングを創作した彼は、ボビー・ブラウン、ガイ、ジャネット・ジャク ソン、マイケル・ジャクソンなどの作品を手がけて 90 年代の R&B シーンを 支配した。自分が受けた恩恵を次の世代にもたらすため、ライリーはまだ 高校生だったザ・ネプチューンズを発掘、彼らの面倒を見ることで 2000 年 代以降のポップ・ミュージックにも大きな影響を及ぼしたのである。

Teddy Riley ニュー・ジャック・スウィングの王者 by Chris Williams photos by Todd Gray from issue 55 Summer 2013


THE ROYAL ROAD George Duke

キーボーディストのジョージ・デュークは、フランク・ザッパのバンド

栄光の足跡

のレーベルである MPS からファンキーなジャズ作品を続々とリリース

by Jon Kirby from issue 46 Mar/Apr 2011

で注目され、ジャンルにとらわれない演奏者として名声を得た。ドイツ した後、ビリー・コブハムとの伝説的な邂逅を経て、エキセントリック なファンク・サウンドを創出し、R&B チャートを独占したのである。




21世紀初頭のノースカロライナ州チャペルヒルは、ジョージ・デュークのビデオテープを保管するには 最悪の場所だった。その VHS テープに録画されていたのは、70 年代にスイスのテレビ番組で放送 されたジョージ・デュークとビリー・コブハムのバンドのライブ映像で、繰り返しダビングされたものだ。 この忘れられがちな幻のバンドには、デュークとマハヴィシュヌ・オーケストラの巨漢ドラマー以外に も、ウェザー・リポートのベーシスト、アルフォンソ・ジョンソンや、当時はまだ比較的無名だったギタ リスト、ジョン・スコフィールドも在籍していた。

テープの劣化によって鮮明ではないが、たしかにそこには、組み

クに惹き付けられて購入した。それは Garbage Pail Kids(註:

合わせはどことなくぎこちないが活気のあるセッションが映ってい

80 年代に流行ったトレーディングカード)を思わせる絵柄で、首

た。長い首や腕がやたら目立つ、ひょろりとした若きアルフォンソは、

より下が大きな手になっているバンドリーダーのふたりが、ビーチ

ときおり指を舐めながらフレットレス・ベースを弾いている。少し前

をちょこちょこ歩いている奇天烈なデザインだ。私はデュークの

にメデスキ・マーティン&ウッドとのコラボレーション・アルバム『A

Moog ソロを観たいがために、このときの映像を探したわけだが、

Go Go』で再評価されたジョン・スコフィールドは、立派な髭をた

プラスティック製のサメなどに隠れ、デュークの指使いがはっきり

くわえ、後退する毛髪と戦いながら、ソリッドな形の Gibson を操っ

見えないのがもどかしい。

ている。目を見開いたビリー・コブハムは “アリゾナ” とプリントさ

このときのデュークは、フランク・ザッパのバンド・メンバーとして

れた T シャツを汗でぐしょぐしょにしながらドラムを叩き、そして

しばらく活動した直後だった。 『Chunga’s Revenge』 (1970 年)

ジョージ・デュークは、多くのキーボードと、マネキンの頭などの小

から『One Size Fits All』 (1975 年)までの期間、デュークはキー

道具のデコレーションに囲まれながら演奏している。これまで聴い

ボードを演奏し、リードを歌った。この期間にデュークが培ったフ

たことのないようなサウンドと映像に衝撃を受ける人も少なくない

リーキーなセンスは、このライブの奇妙な舞台装飾として表現さ

だろう。

れているだけでなく、 『Live on Tour in Europe』に収録されたフ

1976 年のヨーロッパ・ツアーにおけるこのライブ模様は、その

リージャズ・コメディ名曲「Space Lady」にも見受けられる。ライ

後ザ・ビリー・コブハム/ジョージ・デューク・バンドの『Live on

ブ中において、ただ義務的にピアノ・ソロを行うのではなく、デュー

Tour in Europe』というアルバムになった。私はこの LP を古本屋

クは “音楽で交信するセクシーな宇宙人” と遭遇するストーリーを

の1ドル・レコード箱のなかで見付け、そのジャケットのアートワー

コミカルに、キーボードを演奏しながら話している。奇想天外な 話を熱弁する最中に、デュークは「私が言っていることがわかるか い?」と、ヨーロッパ人ばかりの客席に問いかけたが、 「いいや、意 味不明に違いないね」と笑った。 このライブ・アルバムはその後、私たちの人生を変えるほどの影 響力を持つ作品になったが、その当時、デュークもコブハムもこの 作品にそれほど思い入れがなかった。コブハムにおいてはその後も 愛着が湧くことがなかったらしく、 「なんとなく作っただけだ」と、 その後のインタビューで私に言っている。 「このときのセッションで なにか印象に残っていることはありますか?」という質問に対して は、 「なにもない。まったくね」と返答している。同じくデュークもこ の作品をあまり高く評価しておらず、ファンや同業者に与えた影響 が大きかったという点においてのみ評価している。 「当時はそれほ ど気に入っていなかった」と、ロサンゼルスの自宅にいるデューク が率直に話す。 「でも、何人ものミュージシャンから “あのアルバム を聴いて人生が変わった” と言われたよ」。その後、参加したミュー ジシャンの作品を聴き込んだ私は、たしかに『Live on Tour in Europe』は雑多な感じが強く、メンバーそれぞれの魅力が部分的 にしか伝わらない内容だと感じた。

(前ページ見開き)Photo by Andrew Putler. (左)Photo courtesy of Sony BMG Music Entertainment.

63


ECCENTRIC SOUL フィラデルフィア出身のトッド・ラングレンは、この都市の豊潤な R&B シーンに刺激されながら育ったが、ポップ・ミュージック界で頭 角を現したとき、彼はガレージ・ロック・バンド、ナッズの一員だった。 バンドの方向性に束縛され、自分が抱いていた多様なアイディアを試 せなかった彼は、ほどなくしてソロ作品をリリースし、そこでは想像力 豊かな彼の非凡な才能がいかんなく発揮された。ラングレンのステー ジ・パフォーマンスは型破りなものだったが、作品においてもそれは同 じであり、さまざまなコンセプトやジャンルに挑戦し、ソングライティ ング、プロデューシング、エンジニアリングのあらゆる面で冒険を繰り 返して、世界中のアーティストに影響を与え続けるような名盤を幾つも 生み落としたのである。

Todd Rundgren ソウルの変異体 by A. D. Amorosi from issue 57 Winter 2013



トッド・ラングレンはブルー・アイド・ソウル界の オリジネイター(創始者)のひとりであり イノヴェイター(革新者)のひとりでもある

60 年代半ばにニュージャージーのリズム&ブルース・バンドでギ

そう伝えると、彼は笑った。 「それは光栄だけど、いろいろな音楽

ターを演奏していたときも、フィラデルフィアを拠点にするブルー

スタイルを取り入れて進化していたあの時期に、そういうレッテル

ス・ロック・バンド、ウッディーズ・トラック・ストップに在籍していた

を貼られて、私は誤解されてしまったんだ」。マッチを擦ったら火が

ときも、ガレージ・ロック・グループ、ナッズにいたときも(このとき に彼のモンスター・バラード「Hello It’s Me」のプロトタイプが作

つくのではないかと思えるほどドライなトーンで、彼はそう言った。 『A Wizard, a True Star』であれほどソウルフルな歌声を披露し

られた)、揺らめくような歌い方や R&B らしいコード・チェンジな

たことは、当の本人にとってはたいした出来事ではなかったようだ。

どに満ちたファースト・ソロ・アルバム『Runt』 (1970 年)を発表

しかしその前作、大きなヒットを記録した1972 年の 2 枚組アルバ

したときも、そしてそれ以降も、彼は常にブルー・アイド・ソウルを

ム『Something/Anything?』のことも忘れてはいけない。この作

体現してきた。

品にはブルー・アイド・ソウルと言えるスマッシュ・ヒット「Hello It’s

ところがラングレン自身(そして同郷の友人であり、彼がプロ

Me」や「Wolfman Jack」、 「Dust in the Wind」など、ソウルフ

デュースしたアーティストでもあるダリル・ホール)は、ブルー・アイ

ルな楽曲が幾つも収録されていた。この 2 枚の名盤を生みだした

ド・ソウルというカテゴリーに容易に入れられることを拒んだ。ラン

後、ラングレンの音楽はよりロック調になり、プログレッシヴで荒々

グレンのノイジーなサイケデリック作品や、実験的なプログレッシ

しいものになっていった。 「でも “それ” がなくなることはなかった

ヴ・ロック、シンセサイザーを主体にする独白劇、そしてソウル・シー

けどね」と、ラングレンはソウル・ミュージックから受けた影響が消

ンから(もちろんポップ・スターというステータスからも)距離を置

えることはなかったことを、静かに認めた。

こうとする姿勢などが、彼が自身の R&B とブルースのルーツを否

その後も、ソウル・ミュージックの情熱的な音楽性は彼の楽曲

認していたことを証明している(本人がどれだけ否定しようとも、彼

に散見され、たとえば「Real Man」 (1975 年)、 「The Verb ‘To

のバンド、ユートピアの楽曲にはファンクやソウルのまぎれもない 影響が見受けられるが) 。

Love’ 」 (1976 年)、 「Can We Still Be Friends?」 (1978 年)、 「The Want of a Nail」 (1989 年)などで顕著だったが、それだ

しかし、彼が最近リリースした『State』は、1973 年にリリースし

けではなく、ラングレンは楽曲にソウルを注入することで自分らし

た独創的で壮大なスタジオ・アルバム『A Wizard, a True Star』

さを加えることができたとも話す。 「面白いことに、自分の曲にあえ

のエッジーなソウルを意図的に踏襲したものだ。これは、彼の “青

て少しだけ R&B っぽさを加えることがよくあったんだ。それが私

い眼” の焦点が定まり、視界がまたクリアになってきた証拠なのか

らしい刻印になると思ってね」。

もしれない。 「ジャンルとしては大好きだったが、自分が属している

それは間違いなく、彼にとってひとつの基準になっていたのだ。

とは感じられなかったね」と、ブルー・アイド・ソウルについて訊か

「なにしろ、私はブルー・アイド・ソウルの先駆者らしいからね」と、

れたトッド・ラングレンは、ハワイの自宅でそう答えた。

彼は皮肉っぽく笑う。R&B が持つ気迫と甘さを活用することで、ど

そして、 『A Wizard, a True Star』の B 面に収録された素晴ら

ういう音楽をやっていようが、そこに彼の指紋をつけることができ

しいソウル・クラシック・メドレー「I’m So Proud / Ooh Baby

たのである。 「そのときレコーディングしているものがなんであろ

Baby / La La Means I Love You / Cool Jerk」の話になった。

うと、少し R&B の要素を加えることはすごく効果的だった。さま

ときに甘くささやくように、ときに心の底から叫ぶように、ラングレ

ざまなサウンドや、関連性のないジャンルを詰め込んだアルバムを

ンがソウル・スタンダードを次々と歌い上げていくその様子は、そ

作っていたとしても、ソウルを入れることで、すべてをひとつに繋げ

の青い瞳が情熱の赤色に変わってもおかしくないと思えるほどだ。

ることができたんだ」。

(前ページ見開き)トッド・ラングレン、1974年、ニューヨークにて Photo by Gijsbert Hanekroot/Redferns.

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(右)アルバム『Hermit of Mink Hollow』のプロモ写真、1978年




ABUNDANT VIBE 生音とエレクトロニクスのブレンドによって紡ぎ出さ れる軽やかなリズムとエレガントな旋律をバックに、人 懐っこく情熱的な女性ヴォーカルが切ない思いを歌い上 げる。作曲/アレンジ/プロデュースを手掛けるロビン・ ハンニバルと作詞/ヴォーカルのココ・O のふたりから なるクァドロンは、憧れの US ソウルをベースとしながら 欧州や中南米風味の音をまじえて多面体のポップ・ミュー ジックを描き出す、デンマークはコペンハーゲン出身の モダンでクールな男女ユニットだ。

Quadron 芳しき相互作用

by Tsuyoshi Hayashi


RISING SON Takuya Kuroda

和製ジャズの夜明け by Mitsuru Ogawa photos by Hiroyuki Seo




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