Wax Poetics Japan No.33

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Sean “Puff Daddy” Combs Mr. Scruff Marcus D Ashanti Nao Yoshioka YOSUKEKOTANI Captain Murphy John Frusciante Third Coast Kings Freedom Custom Guitar Research Maker’s Mark The Notorious B.I.G. De La Soul

Wax Poetics Japan APR/MAY 2014 Issue 33 Photo by Mo Daoud.

60 Break Beat Lou 68 Souls of Mischief 76 Kelis 84 Coke La Rock 88 El-P 94 Quantic 96 Taylor McFerrin 98 quasimode 100 Badbadnotgood 102 N’gaho Ta’quia 104 The Apples 106 Che Kothari



WAX POETICS JAPAN 発行人 / 編集長 Publisher/ Editor-in-Chief

WAX POETICS, INC. 写真 Contributing Photo Editor

舟津政志 Masashi Funatsu

鈴木啓太 Keita Suzuki (PLOT. lv04)

編集 Editor

Contributing Photographers

河野貴仁 Takahito Kohno 翻訳 & 編集 Translator & Editor

早川将雄 Danny Masao Winston 広告 Advertising

河合典彦 Norihiko Kawai 椎葉健介 Kensuke Shiiba ウェブ・デザイナー Web Designers

河野裕太朗 Yutaro Kohno 堀之内竜太 Ryuta Horinouchi ライター Contributing Writers

バルーチャ・ハシム Hashim Bharoocha 小川充 Mitsuru Ogawa 若杉実 Minoru Wakasugi 林剛 Tsuyoshi Hayashi 大石始 Hajime Oishi Jay Kogami

佐藤拓央 Takuo Sato 須田卓馬 Takuma Suda 古賀恒雄 Tsuneo Koga Suzu (fresco) Kouichi Nakazawa Yokoyama Rock Che Kothari Estevan Oriol Ryan Young Nick Walker Shaun Bloodworth Sawyer Purman Simon Benjamin Christina Jorro Chad Imes Lorraine Murphy Richard Smith DJ Clear Rich Smith Zoraida Flores DJ Center DJ Mell Starr Nabil

Editor-in-Chief Andre Torres Editor Brian DiGenti Marketing Director Dennis Coxen Creative Director Freddy Allen Anzures Associate Editor Tom McClure Account Executive Paul Alexander Contributing Editors Travis Atria Ericka Blount Danois Georgia Lan Andrew Mason

Contributing Writers Michael A. Gonzales David Ma Kyle Eustice Alice Price-Styles Contributing Photographers Timothy Saccenti Mo Daoud Michael Miller Interns Francis Devin Rimer Anne Caroline WAX POETICS, INC. 597 Grand Ave. #3G Brooklyn, NY 11238 info@waxpoetics.com waxpoetics.com

Wax Poetics Japan / ワックス・ポエティックス・ジャパン No.33 2014 年 4月30日発行 定価: 本体 1,111 円 + 税 編集・発行: GruntStyle Co.,Ltd. 〒153-0061 東京都目黒区中目黒 5-18-2-202 Tel 03-6451-0360 GruntStyle Co.,Ltd. 202, 5-18-2, Nakameguro, Meguro-Ku, Tokyo, 153-0061, Japan Tel +81-3-6451-0360 info@waxpoetics.jp

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広告: Tel 03-6451-0360 advertise@waxpoetics.jp 2014 Licensed from Wax Poetics, Inc. 発売・営業: 株式会社サンクチュアリ・パブリッシング(サンクチュアリ出版) 〒151-0051 東京都渋谷区千駄ヶ谷 2-38-1 Tel 03-5775-5192 / Fax 03-5775-5193 印刷: Shoei Printing Inc. 本誌掲載の写真、記事、イラストレーションなどの無断転載を禁じます。 © 2014 Wax Poetics Japan / GruntStyle Co.,Ltd. All Rights Reserved.

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The Notorious B.I.G.

Kelis

ザ・ノトーリアス B.I.G. Photo courtesy of Getty Images

ケリス Photo by Ryan Young



Life After B.I.G. Sean “Puff Daddy” Combs 現代の錬金術師 by Jay Kogami

なぜショーン・コムズは 成功者であり続けるのか? ショーン・コムズは音楽界の “Mogul(モーグル)” である。英語圏のメ ディアがよくビジネス・パーソンを紹介する時に使う言葉である Mogul と は、直訳すると “重要人物” や “大物” という単語である。しかし Mogul と称される人物の基準は、人気の度合いではない。Mogul と呼ばれる人 間には、成功経験や能力、そしてカリスマ性が備わっていることが必要条 件である。ショーン・コムズは 90 年代から現代まで、変わらずチャレンジ し続け成功を手にしている。彼は全ての条件をクリアしている人物のひとり であり、最もその称号がふさわしい人物でもある。 現在のショーン・コムズにとっての成功とは、音楽の世界にとどまらな

Cash Kings 2013 Hip-Hop's Top Earners 経済誌フォーブスはヒップホップ・アーティストの 推定資産ランキングのほかにも毎年、年間所得も 発表している。以下は 2013 年度の年間所得の一覧。

1. Diddy ($50 million)

い。彼の経歴には、音楽の世界での成功と同時に、ビジネスの世界での

2. Jay Z ($43 million)

成功が刻まれている。彼はこれまで巨額の富を得た。ショーン・コムズは

3. Dr. Dre ($40 million)

経済誌フォーブスが 2013 年に選んだヒップホップ・アーティスト推定資 産ランキングにおいて、推定資産 5 億 8000 万ドル(約 590 億円)で1位

4. Nicki Minaj ($29 million)

に輝いている。彼の財産の多くは音楽以外からの収入であることは、ビジ

5. Birdman ($21 million)

ネス界やメディアの中ではすでによく知られていることだ。ちなみにこの

6. Kanye West ($20 million)

番付で 2 位のジェイ Z(推定資産 4 億 7500 万ドル)、そして 3 位のドク ター・ドレー(推定資産 3 億 5000 万ドル)も同じように音楽以外のビジ ネスで大きな成功を収めている。

7. Lil Wayne ($16 million) 8. Wiz Khalifa ($14 million) 9. Ludacris ($12 million)

ショーン・コムズの成功の背景には、自身のレーベルである Bad Boy

10. Drake ($10.5 million)

Records の運営やプロデュース業の他に、ファッション・ブランドの Sean

11. Snoop Lion ($10 million, tie)

John の運営がある。そして近年の活動で最も大きな成功となったのが、

12. Eminem ($10 million, tie)

ウォッカ・ブランドの Ciroc(シロック)と2007年に交わしたブランド・パー

14. Kendrick Lamar ($9 million, tie)

トナーシップである。

14. Pharrell Williams ($9 million, tie) 14. Macklemore & Ryan Lewis ($9 million, tie) 17. Swizz Beatz ($8.5 million) 18. Tech N9ne ($7.5 million) 19. 50 Cent ($7 million) 20. Lil Jon ($6 million, tie) 20. Rick Ross ($6 million, tie) 20. Mac Miller ($6 million, tie) 20. Young Jeezy ($6 million, tie) 20. Questlove ($6 million, tie)

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ブランド・パートナーシップとは、ブランドのデザインやクリエイティヴ、販売戦略や マーケティングにアーティストが大きく関与していく、企業とアーティストによるコラボ レーションである。日本で見られるようなテレビ CM への出演やタイアップとは全く異 なる関係性だが、海外では多くのブランドとアーティストが同じようなパートナーシッ プ契約を結び、クリエイティヴなブランディング戦略を手がけて成功を収めている。 ショーン・コムズの大きな成功を引き起こしたのは、Ciroc を運営する Diageo との間 で、Ciroc からの収益を50:50 で分配する契約内容で合意したことである。これは、 非常にリスクの大きなチャレンジである。成功しなければ得るものもないのだ。 しかしショーン・コムズは賭けに勝った。契約当時は年間 5 万ケースほどしか売れな かった Ciroc を、200 万ケース以上を売り上げる人気ブランドへ成長させた。そして 300 以上のブランドが競争するウォッカ市場で、彼独自のマーケティング手法を用いて Ciroc のブランド価値を新しい若者層へ拡大することに成功した。2007年から2013 年の売り上げが 600%拡大したことを見れば、ショーン・コムズのビジネス・パーソンと しての資質が音楽の世界以外でも通用することがわかる。そしてこの契約で彼は巨額 の富を築くこととなった。 そのショーン・コムズが次に仕掛けるビジネス、それはテレビの革命である。ショー ン・コムズは 2012 年 2 月に音楽専門の新しいケーブル・チャンネルである Revolt TV の設立を発表した。

Revolt TV はコムズと、アメリカ最大のケーブル・ネットワーク企業である Comcast の共同ベンチャーである。 2013 年10 月に Comcast と Time Warner Cable のネットワークで放送が始まった。 ショーン・コムズはかつてノトーリアス BIG やメイス、そしてパフ・ダディー時代の Bad Boy Records を メインストリームに引き上げてくれた MTV に真っ向から勝負を挑むこととなった。

ショーン・コムズは Revolt TV の役割を “ESPN of Music” と 称している。ESPN とはアメリカで最大のスポーツ・ニュース・チャ ンネルで、毎日最新のスポーツ情報が常に入手できることで定評が ある。つまりはこういうことである。アメリカではメジャーリーグや NBA の試合の後にアメリカ人が必ず ESPN にチャンネルを合わ せ、試合のハイライトやスタッツをチェックする文化がスポーツに はある。同じように事件が起こればアメリカ人は CNN にチャンネ ルを合わせる。Revolt TV は音楽の領域でこの流れを作ろうと目 論んでいる。例えば Revolt TV はアウトキャストが今年のコーチェ

なぜ今テレビなのか?

ラ・フェスティバルで再結成することをスクープすることに成功し た。誰もが見たくなる音楽チャンネルの代名詞。これが Revolt TV が考えるブランド価値のひとつだ。

アメリカの大都市で放送されている Revolt TV がターゲットと する視聴者は18 ~ 25 歳のいわゆる若者層である。“ミレニアム世

そしてもうひとつ、他チャンネルと Revolt TV が違うのは、ソー

代” と呼ばれるこの視聴者は、Twitter や Facebook、Instagram

シャル・メディアを使った若者向けの情報発信である。Revolt TV

などでコミュニケーションしたり情報を収集することが日常茶飯事

では、前出の速報ニュースに加え、定期的な音楽ニュース、ヒップ

となっている。つまりテレビという選択肢に縛られることがないの

ホップやインディー・ミュージックのライブやイベント、フェスのレ

である。そんな彼らが最も熱狂的なのが音楽である。彼らは、これ

ポート、ドキュメンタリー番組など、音楽に関する幅広い情報を

までで最も音楽を視聴する年代と言われるが、SNS やモバイル機

展開している。これらの情報をカテゴリーに分けることなく、ひと

器を駆使し、従来とは全く違う消費形態で音楽を楽しんでいると言

つの大きなコンテンツとして配信している。Facebook のニュース

われている。ショーン・コムズは Revolt TV で、この “音楽” コン

フィードや Twitter のタイムラインに似ている考え方だ。そして、こ

テンツに人々の注目を集めようとしている。Revolt TV を通じて、

れらの情報はテレビだけでなく、PC やモバイル、タブレットからも

ファンが音楽とエモーショナルにつながり会話の中心となり、そし

見られるようになっている。つまりどのツールを使っても、最新情

て音楽の熱量を引き上げようとするのが大きな狙いである。そのた

報が手に入る。音楽チャンネルのマルチプラットフォーム戦略であ

めに求められるのが、Revolt TV のブランド力の強化であり、コム

る。若者が情報を得る方法に最も適した音楽チャンネルを目指して

ズのビジネス・センスである。

いる、ここがもうひとつの Revolt TV の価値である。

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1994 年にリリースされたザ・ノトーリアス B.I.G. の『Ready to Die』は、 ソウルフルなトラックにビギーのビビッドなストーリーテリングや巧み なワードプレイが評価され、ヒップホップ史上最高のマスターピースと 呼ばれるようになった。彗星のごとくヒップホップシーンで地位と名誉 を手に入れた巨漢 MC ビギー・スモールズは、死してもなお世界中で 崇められている。彼が生きた証となった、ファースト・アルバム『Ready to Die』の歴史を紐解いてみよう。

The Notorious B.I.G. オールタイム・ベスト・アルバム by Hashim Bharoocha



Key Players

The Notorious B.I.G.

Sean “Puff Daddy” Combs

Easy Mo Bee

1972 年 5月21日、ニューヨーク州ブルッ

1969 年、ニューヨーク州ハーレム出身の音

1965 年、ニューヨーク州ブルックリン出身

ディーなど多くの愛称を持つ。ヒップホップ誌

ジ ー・モ ー・ビー。1993 年 か ら、ショーン・

クリン出 身。1997年 3月9 日に死 去。本 名

はクリストファー・ジョージ・レイトア・ウォ レス。名前の B.I.G. は “Business Instead

of Games(ゲーム代わりのビジネス)”の略。 十代の頃はドラッグディーラーなどとして過 ごしたが、フリースタイル・ラップの名手でも あった。未解決ではあるものの、ヒップホップ の東西抗争の末に銃撃されて殺害されたとさ

れる。享年 24。死後17年が経過した今なお、 普遍的なカリスマ性を有する史上もっとも偉

楽家/実業家。パフ・ダディー、パフィー、P ディ The Source の人気コーナーのひとつで、新人

発掘を目的にする Unsigned Hype に登場し たビギーの姿を見たことをきっかけに、両者の

蜜月が始まった。ビギーのマネージャー/プロ

デューサーとして手腕を発揮し、自身のレーベ ルである Bad Boy Records を90 年代を代 表するヒップホップ・レーベルに育て上げた。

大なラッパーのひとりとして愛され続けてい

のヒップホップ/ R&B プロデューサー、イー コムズ主宰の Bad Boy Records との関 係 を 深 め、ビ ギ ー の デ ビュー 曲「Party and Bullshit」やクレイグ・マックの「Flava in Ya

Ear (Remix)」をプロデュース。ビギーのデ ビュー・アルバム『Ready to Die』に 6 曲を

提 供し、Bad Boy に欠 かせない人物となっ た。2 パック曲のプロデュースもしたほか、ビ ギーと2 パックの共演曲「Runnin' from tha Police」も手がけた。

る。代表作は生前にリリースした唯一のアル バムとなる『Ready to Die』 (1994 年) 。

2Pac 1971年、ニューヨーク州ハーレム出身のラッ

Suge Knight

はトゥパック・アマル・シャクールで、トゥパッ

1965 年、カリフォルニア州出身のレーベ

1971年、ニューヨーク州ロングアイランド

する。ブラック・パンサー党員の両親のもと、幼

年にドクター・ドレーとともに Death Row

ばかりの Bad Boy Records から1994 年に

ルニアに移住。1991年に MC ニューヨークと

グ、2 パックなどのヒットを量産、ウェッサイ・

Funk da World』収録)がヒットし、その後

員としてレコード・デビューし、1992 年にブラッ

に急激に台頭し始めた、ショーン・コムズが経

ミックスにはレーベルメイトのビギーのほか、

成功した。強姦罪で服役中の1995 年にシュグ・

その対立がいわゆる東西対立/東西抗争へと

参加し、ハイプ・ウィリアムスが監督した MV

出所後、次々とヒットを生み出す。1996 年 9月

が銃殺され、その報復としてか、約半年後の

の銃弾を受けて死去。享年 25。

れるという悲劇が起きた。現在捜査中で真相

パー/俳優。通称 2 パック、マキャヴェリ。本名

Craig Mack

ク・アマルは古代インカ語で “輝ける龍” を意味

ル・オーナー/実業家のシュグ・ナイト。1991

出身のラッパー、クレイグ・マック。誕生した

少期をブロンクスで過ごし、1988 年にカリフォ

Recordsを創設し、以降ドレー、スヌープ・ドッ

リリースした「Flava in Ya Ear」 (『Project:

いう名前でデジタル・アンダーグラウンドの一

ヒップホップの黄金時代を築いた。1994 年頃

の Bad Boy の隆盛に弾みをつけた。同曲のリ

ク・ムービー『Juice』に出演して俳優としても

営するBad Boy Recordsと犬猿の仲になり、

ランページ、LL クール J、バスタ・ライムスが

ナイト率いる Death Row Records と契約し、

繋がった。結果、Death Row の看板 2 パック

も含めてヒップホップ・クラシックと誉れ高い。

7日に、マイク・タイソンの試合を観戦後、4 発

1997年 3月に Bad Boy の看板ビギーも殺さ はわかっていないが、その銃撃事件の黒幕と

して常にシュグ・ナイトの名前が囁かれている。

Faith Evans フェイス・エヴァンス。1973 年 生 ま れ の

Junior M.A.F.I.A.

R&B シンガー/女優。メアリー J ブライジの

ビギーを “ゴッドファーザー” にするブルッ

Lil Kim

年 に Bad Boy Records か らリリースした

MAFIA は “Masters at Finding Intelligent

1973 年、ニューヨーク州ブルックリン出身の

記録する。1994 年にビギーと結婚。知り合っ

る 達 人 たち)” の 略。メンバー はリル・シ ー

の約 2 年後に産まれた息子クリストファー・

ン、ラーセニー、トライフ、MC クレプト、そし

ソングライティングなどを手がけた後、1995

クリンのラップ・クルー、ジュニア・マフィア。

1st アルバム『Faith』がミリオン・セールスを

Attitudes(知 的なアティテュードを模 索す

てから2 週間ほどのスピード結婚だった。そ

ズ、バグシー、カポーン、チコ、ニーノ・ブラウ

ウォレス Jr. は俳優として、ビギーの伝記映画

てリル・キムで1995 年にデビュー・アルバム

『Notorious』 (2009 年)にも出演している。

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『Conspiracy』を発表した。

ラッパー。グラミーを獲得するなど、女性ラッ

パーの筆頭格として知られる。ビギーが率いた

クルー=ジュニア・マフィアのメンバーであり、 ビギーの元愛人としても知られる。代表作はセ

クシュアルな面を存分に発揮したセカンド・アル バム『The Notorious K.I.M.』 (2000 年) 。


ノトーリアス B.I.G. の歴史的デビューアルバム 『Ready to Die』は3.3 million(330万枚)も の売上を誇る。1994 年にリリースされた CD は17曲収録で、LP アルバムは9曲収録。翌年 1995年にリリースされたリイシュー LP は 「Who Shot Ya?」を1曲追加し、2枚組18曲入りでリ リースされた。2004 年にリリースされた色を 反転させたブラック・ジャケットのリマスター 版では、さらに「Just Playing (Dreams)」を 追 加した19 曲 入りで、 「Juicy」 「Big Poppa」 「Warning」 「One More Chance」な ど4 曲 の PV とアトランタでのライブが収録された DVD 付きで発売された。それからも売れ続け、 アメリカやヨーロッパなどで、幾度も再発され ている。以下のリストは1994 年にリリースされ たファースト CD のクレジット。

The Notorious B.I.G. Ready to Die Label: Bad Boy Entertainment Released: 1994 1. Intro

11. Everyday Struggle

Producer – Sean “Puffy” Combs

Producer – The Bluez Brothers

2. Things Done Changed

12. Me & My Bitch

Producer – Darnell Scott

Producer – The Bluez Brothers, Chucky Thompson, Sean “Puffy” Combs

3. Gimme the Loot Producer – Easy Mo Bee

4. Machine Gun Funk Producer – Easy Mo Bee

5. Warning Producer – Easy Mo Bee

6. Ready to Die Producer – Easy Mo Bee

7. One More Chance Producer – The Bluez Brothers, Chucky Thompson, Sean “Puffy” Combs / Vocals – Total

8. Fuck Me (Interlude) Producer – Sean “Puffy” Combs

9. The What Producer – Easy Mo Bee / Rap – Method Man

10. Juicy Producer – Poke, Sean “Puffy” Combs / Vocals – Total

13. Big Poppa Producer – Chucky Thompson, Sean “Puffy” Combs

14. Respect Producer – Poke, Sean “Puffy” Combs / Vocals – Diana King

15. Friend of Mine Producer – Easy Mo Bee

16. Unbelievable Producer – DJ Premier

17. Suicidal Thoughts Producer – Lord Finesse Art Direction, Design – The Drawing Board Executive Producer – Sean “Puffy” Combs Executive Producer [Associate] – Mr. Cee Management – Mark Pitts Management A&R Coordinator – Gwendolyn Watts Photography by – Butch Bel Air Written by – The Notorious B.I.G.

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Easy Mo Bee

『Ready to Die』の作品の数多くのトラックをプロデュースし、本作のサウンドに大いに貢献したのがイージー・ モー・ビーだ。彼はビギーの最初のヒット曲である「Party and Bullshit」のオリジナル・バージョンも手がけたが、 それ以前はラッピン・イズ・ファンダメンタルというラップ・グループに在籍し、ビッグ・ダディ・ケインやジーニアス (GZA) をプロデュースしたのちに、マイルス・デイヴィスの最後のアルバムとなった1992 年の『Doo-Bop』を手 がけて注目されるようになった。ビギーと出会った頃はまだ新人だったイージー・モー・ビーは、 『Ready to Die』 を手がけたのと同時にクレイグ・マックの『Project: Funk da World』をプロデュースし、瞬く間に売れっ子のプ ロデューサーとなった。そんな彼が、ビギーとスタジオに入ったときの制作秘話や、ビギーのラップの書き方、トゥ パックとビギーの関係性などについて赤裸々に語ってくれた。

まずビギーの存在を知ったきっかけについて教えてください。

セカンド、そして GZA がまだジーニアス名義で活動していた頃の

俺は友人の DJ ミスター・シーと 同じラファイエット・ガーデン

『Words from the Genius』をプロデュースして Cold Chillin’ か

ズというプロジェクツ(低所得者住宅地)で育ったんだ。ミスター・

らリリースされた。当時、俺が手がけた作品の中で、一番知られて

シーがプロジェクツから少し離れたアパートに引っ越して、 「新人の

いたのはマイルス・デイヴィスの作品だった。あの頃は、“グラミーの

ラッパーの曲を聴かせたいから遊びに来なよ」と誘われた。デモを

呪い” というのがあったんだよ(笑) 。今は、グラミーを追い求めてる

聴いてみたら、誰かのインストの上でフリースタイルしている音源

アーティストが多いけど、当時のヒップホップ・シーンでは、グラミー

で、 「こいつはヤバイ」と思った。そのあとは、そのデモのことをすっ

を受賞するとキャリアの終わりだと言われていた。だから、あのタイ

かり忘れて、しばらく時が経過したんだ。ある日マネージャーから

ミングでビギーとクレイグ・マックをプロデュースできたことは素晴ら

連絡が入って、 「パフ・ダディが新人のラッパーについて君とミーティ

しかった。グラミーを受賞したから、俺のキャリアは終わったとヒッ

ングをしたがってる」と言われたんだ。パフ・ダディとミーティング

プホップ・シーンの同業者は思っていたけど、ビギーとクレイグ・マッ

したら、その新人のラッパーというのがビギーで、ミスター・シーが

クをプロデュースできたことで、呪いを覆すことができた。

聴かせてくれたのと同じ人物だということが分かった(笑)。そこか らビギーと仕事をすることになったんだ。ビギーはセント・ジェーム ズ・プレイス出身だったんだけど、俺とミスター・シーが育ったプロ

ビギーとクレイグ・マックの制作は同時期に行ったのでしょうか?

交互に作っていった感じだね。Bad Boy 周辺のシーンに関わる

ジェクツから5ブロックくらい離れたところで、同じくブルックリン

ことができて楽しかったよ。当時はマンハッタンのアップタウン・レ

のベッドフォード・スタイベサント地区なんだ。

コーズにオフィスがあったんだけど、そこにはメアリー・J・ブライジ、 ジョデシ、ファーザー MC、クリストファー・ウィリアムズが普通に

なぜパフィはあなたに声をかけたのでしょうか? あなたの過去の

いた。俺はまだ新人だったから、ファンのように彼らと会うことが

作品を評価したのでしょうか?

できて興奮してたよ。

ローという女性で、俺はラッセル・シモンズ(デフ・ジャム創立者)

あなたは『Ready to Die』に6曲と最多数のトラックを提供して

今振り返ると、当時の俺のマネージャーはフランチェスカ・スパ の会社だったラッシュ・プロデューサーズ・マネージメントに所属し ていた。ラッセル・シモンズは、業界のトップのプロデューサーを抱 えていて、俺はまだ新人のプロデューサーだった。ビギーはまだ新

いますが、なぜそうなったのでしょうか?

ビギーと最初に作った1、2曲を彼が気に入って、その流れでたく さんの曲を作ったんだ。

人のアーティストだったから、マネージャーが新人のプロデューサー である俺をビギーのところに送り込んだのは、よく考えてみれば適 切だった。もっと有名で忙しいプロデューサーのスケジュールを空

ビギーのために最初に作った曲は?

初めてビギーのために手がけた曲は『Who’s the Man』のサン

けるよりも、まだあまり仕事がない俺に新人のラッパーと組ませる

トラに収録された「Party and Bullshit」だった。ビギーは、“パー

ことのほうがマネージャーにとってやりやすかったんだよ。

ティー” という明るい言葉とは全く反対のコンセプトのリリックを書 いたから衝撃を受けたよ (笑)。この曲をレコーディングしたときは、

当時、あなたのキャリアはどのような状態だったのでしょうか?

事前にトラックのラフ・バージョンは渡してあって、そのあと一緒に

俺はまだプロジェクツから引っ越したばかりだったんだけど、

スタジオに入ったんだ。今でもレコーディング・セッションの様子を

引っ越した場所がクリントン・アベニューで、ビギーのエリアから2

はっきり覚えてるよ。Soundtrack Studio の一番大きな部屋でレ

ブロック先だった。1992 年だから、俺はマイルス・デイヴィスの最

コーディングしたんだ。スタジオの中でトラックを流して、ビギーが

後のアルバムとなったジャズ・ヒップホップ作品『Doo-Bop』をプ

カウチソファーに座って、トラックを聴きながら頭を振っている姿

ロデュースしたばかりだった。その前は、ビッグ・ダディ・ケインの

が忘れられない。そうやって彼はリリックを書いていたんだ。

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ビギーとイージー・モー・ビー Photos courtesy of Easy Mo Bee.

彼はトラックを聴きながら、リリックをノートに書いていたという

ビギーはどうやってトラックを選んでいたのですか?

いや、頭を上下に振りながら、頭の中でリリックを書いてた。で

ば、俺の車の中で曲を聴かせることもあった。当時、俺は Acura

も、チコ、リル C、ブレイクなどジュニア・マフィアの連中がスタジ

Legend の緑色の車に乗っていて、レザー・シート仕様だったんだ

オに遊びにくるから、作業を中断しないといけなかったんだ。ビ

けど、ビギーはあの車に乗るのが好きでね。彼を助手席に乗せて、

ギーはものすごくユーモア・センスがあって、ジュニア・マフィアと

よくドライブをしたもんだよ。当時はまだ CDプレイヤーが車に入っ

よく冗談を言い合ったり、ふざけあってたよ。しばらくすると、ジュ

てなくて、カセットプレイヤーは入っていたから、ドライブしながら

ニア・マフィアは部屋の反対側に行って、ビギーはまたひとりでカウ

俺が作ったビートテープを次々と聴かせたんだ。彼がアルバムで使

チソファーに座って、トラックを聴きながら頭を上下に振ってるん

用した曲の多くは、車の中で選んだんだ。車の中で、俺のビートを

だ。俺はこのクリエイティブ・プロセスが何なのか全く理解ができ

流しながらビギーはラップすることもあった。アルバムで使用され

なかった(笑)。しばらくするとビギーは突然立ち上がって、 「モー、

たフックやリリックも、車の中で思いついたものが結構あったよ。

準備できたぞ!」と言って、ブースに入った。どうなるんだろうと思っ

そのあとにスタジオに入って、すぐにレコーディングしたんだ。

ことですか?

トラックを作って、レーベルの事務所で彼に聴かせることもあれ

ていたら、彼は一発でヴァースをレコーディングしたんだ。凄いと 思ったよ。 ではノートに書いていなかったということですか?

『Ready to Die』で使用されたビートは、ビギーを意識して作っ たものでしょうか? それとも、既に作ってあったものでしょうか?

ビギーを意識して作ったトラックもあったけど、他のラッパーのた

彼がノートを持っていたと言う人もいるけど、俺は見たことがな

めに作ったのに、そのラッパーが使わなくなって、ビギーが使ったも

かったね。彼は言葉の天才だったよ。彼を見ていて、ビッグ・ダディ・

のもある。そういうことは音楽業界でよくあることなんだ。ロスト・

ケインを思い出した。ビギーにビッグ・ダディ・ケインについて話し

ボーイズの「Jeeps, Lex, Coups, Bimaz & Benz」はもともと俺

たときに、 「俺もケインを研究したよ」と言ったから、 「君とは仲良く

がクレイグ・マックのために作ったんだけど、彼はこのトラックを使

できそうだ」と俺は答えたんだ。

いたがらなかったんだ。そういうことはよくあるんだよ。

ビギーのラップを初めて見たとき、彼が偉大なラッパーになること

あなたからみて、ビギーはどのような人でしたか?

彼がここまで有名になるとは予想していなかったけど、ニュー

ら、普段は男らしいワルっぽい雰囲気を出していた。彼はストリー

ヨークと東海岸では注目されるとは思っていた。ただ、世界的に愛

トで育ったから、生計を立てるために色々なことをやらないといけ

されるラッパーにまでなるとは予想もしてなかった。俺はまだ新人

なかったけど、それは自然なことだよ。でも一緒にいるときに、色々

だったから、有名なラッパーとはまだ仕事をしたことがなかったか

な深い会話をしたことを覚えてる。彼は母親が病気になると、母親

らね。俺がそのときに仕事をした一番有名なラッパーは、ビッグ・

のことが心配だということをよく話していた。表面的にはとてもタ

ダディ・ケインで彼は当時、東海岸ではセンセーショナルなラッパー

フそうに見えたけど、その奥にはちゃんとハートが隠されていたん

と見なされていたんだ。

だ。いい人だったよ。

は予感していましたか?

実際はとても心優しい人だったよ。彼はストリート出身だったか

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ニューヨーク州ロングアイランドから登場した歴史的なヒップホップ・グループ、デ・ラ・ソウルは、 悠々自適な音楽性と、幾重ものサンプリングで成り立つ独特なサウンドを打ち出して、ヒップホップ の新しい可能性を提示した。ところが、不本意にも “ヒッピー” というレッテルを貼られてしまうと、彼 らは 2nd アルバムで自分たちのイメージをいったん “殺し” 、それ以降、25 年もの活動を通して新作 を発表するたびに、それまでの自分たちのイメージを覆してきた。これまでにリリースされたオリジナ ル・アルバムは 7 枚と少なめだが、どの作品もクオリティーは高く、彼らは常に等身大の自分たちを表 現しながら、結束力の高いグループとして活動を続けてきた。2014 年秋にはニュー・アルバムのリリー スも予定されており、徐々にシングルもメディアに浮上している。デ・ラ・ソウルは依然として、ヒップ ホップ・シーンで最も活動期間の長いユニットのひとつとして、堂々とトップに君臨し続けるつもりだ。

De La Soul ヒップホップの申し子たち by Kyle Eustice from issue 55 Summer 2013


ニューヨーク生まれのケルヴィン・マーサー、ヴィンセント・メイソン、デイヴ・ジョリコ ウの3人が、34丁目行きの地下鉄に乗って、ペン駅で降り、Calliope Studios まで歩 いて、ファースト・アルバムのレコーディングを始めた頃、彼らはまだティーンエイジャー だった。これから自分たちが作ろうとしているものが、のちにヒップホップの進化に 絶大なインパクトをもたらすことになろうとは、この時の彼らは想像もしていなかっ たに違いない。だが同時にこのアルバムは、その後数年かけて彼らがどうにかして振 り払おうとする“ヒッピー”というレッテルが貼られるきっかけにもなったのだ。

80 年 代 前 半、当 時 高 校 生

が人種的に多様だった。黒人、白人、ヒスパニックが、それぞれ街の

だった 3人はロング アイラン

違う場所に密集しているというよりは、みんなが同じ場所で一緒に

ドで知り合い、デ・ラ・ソウル

暮らしている感じだった。ロングアイランドにはいろいろなものが、

というグループを結成し、ヒッ

ひとつのコミュニティーの中に存在していたんだ。草原があって林が

プホップの栄光へと続く階段に足を踏み入れた。プロデューサーの

あって住宅があって、NBC、ABC、WBLS といったラジオも聴くこ

ポール・ハストンことプリンス・ポールの協力のもと、彼らはそれぞ

とができた。そのうち KISS FM も放送されるようになった」 。

れの個性を活かして、多様な音楽を生み出し始めたのである。

3人は出会い、ともにヒップホップ・カルチャーを吸収していった。

マーサー(別名プラグ・ワン、ポスドゥヌス、ポス、プラグ・ワンダー・

当時すでにプリンス・ポールは DJ ポールとしてイベントに出演して

ワイ、マーセナリー)はブロンクス出身だが、家族とともにロングア

おり、所属していたグループ、ステッツァソニックのアルバムも出て

イランドに引っ越してきた。ジョリコウ(別名プラグ・トゥー、トゥル

いたため、彼らの地域でアルバムをリリースした最初の人物のひと

ゴイ・ザ・ダヴ、デイヴ)とメイソン(別名プラグ・スリー、メイシオ、

りとして尊敬されていた。3人が作ったデモ「Plug Tunin’ 」でプリ

メイス)のふたりはブルックリン生まれだが、彼らもロングアイラン

ンス・ポールは彼らに興味を持ち、4人はすぐにスタジオに入った。

ドの、プリンス・ポールが住んでいた地域に移ってきた。言うまでも

「波長が合う者同士は互いに引き寄せ合う、とか言われるが、私

なく、80 年代のニューヨークと言えば “ヒップホップ黄金期” の中

たちはまさしくそういう感じだった」と、プリンス・ポールは言う。 「今

心地であり、この幸運な 4人は間近でこの新しいカルチャーに触れ

では彼らにはクールなイメージがあるかもしれないが、最初はただ

ることができたのである。

のオタクっぽいガキだったよ(笑)。メイシオはどちらかというとス

「兄貴がラップのカセットを持っていて、その話をしているのを聞

トリートな雰囲気だったが、ポスとトゥルゴイはオタクっぽかった。

いたことを憶えている」と、ポスが話し出す。 「その時はまだ知らな

私だってすごくクールな奴だったわけじゃないが、周りで商業的に

かったけど、コールド・クラッシュ・ブラザーズとか、ファンタスティッ

アルバム・リリースしていたのは私くらいだったんだ。私の曲はラジ

ク・ロマンティック5とかの話をしていたんだ。それが、俺が最初に

オでもプレイされていた。近所のキッズから “あの人はすごい” と思

知ったヒップホップだった。俺の兄貴たちが従兄弟とかとそういう

われていたよ」。

話をしていたんだ。俺はまだ若かったけど、ブロンクスには親族が

「高校時代は音楽にも興味があったけど、それよりもスニーカー

たくさん住んでいたから、ブロンクスも俺たちにとってホームタウン

とか流行のジャケットとか、そんなことに夢中だったね」と、トゥル

だった。俺が思い出せる最初のヒップホップとの繋がりは、それか

ゴイは話す。 「音楽よりもファッションに夢中だったんだ。それに、

な。親父が Motown を聴いている時は、一緒になって聴いていた

ラップよりも前にダンスをやっていた。パーティーに行ったり、クラ

けどね。シュガーヒル・ギャングが出てきた時、俺は兄貴たちの影

ブに行ったりしていたよ。最初はそういうことばかりやっていた。馬

響ですでにグランドマスター・フラッシュ&ザ・フュリアス・ファイヴ

鹿なことやって、遊んで、イケてる奴だと思われようとしていた。ご

とかのことを知っていた」。

く普通の高校生だったんだ。ポールが音楽をやっているのを見て、

メイシオのバックグラウンドは少し異なる。彼は1984 年にロン

俺たちにもできるかもしれない、と思うようになった」。

グアイランドに越してくるまで、ブルックリンに14 年間住んでおり、

ポールに憧れて、ポス、トゥルゴイ、メイシオの 3人は音楽制作に

都会のライフスタイルに慣れていたため、郊外地区であるロングア

興味を持ったのである。 「ラジオで彼のレコードがかかっていたし、

イランドの生活にはなかなか馴染めなかった。ブルックリンのスト

彼は本物のアーティストだった」とトゥルゴイは言う。 「ポールはア

リートで育った彼は、母親がシングル・マザーで、自身が長男という

ルバムを出す前から、DJ として近所では有名だったんだ。ポールと

こともあり、しっかりしなくてはいけないという責任感を背負ってい

いう DJ がたくさんいたから、彼は名前をプリンス・ポールにした」。

た。そんな彼にとって、ヒップホップは日々の悩みから解放される手

この時代、ラジオでヒップホップの曲がかかることは大ごとであ

段でもあったのである。 「子どもの頃、ヒップホップは生活の一部だっ

り、DJ レッド・アラートの昼間の番組で自分の楽曲をかけてもらう

た。よくブロック・パーティーに行って、DJ や MC のカルチャーに接

ことが、多くのキッズの夢だった。

しながら成長したんだ。ロングアイランドの郊外の文化は、また少し

「レッド・アラートが俺たちの曲をかけてくれた時」と、メイシオ

毛色が違っていたね」と、メイシオは話す。 「ロングアイランドのほう

が思い返す。 「ガキの頃から憧れていたヒップホップ・コミュニティー

Golden Era 黄金時代

(前ページ見開き) 2001年のアルバム『AOI: Bionix』から。 Photo by Mo Daoud.

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ポス Photo by Mo Daoud.

の仲間入りを果たした気分だったね。俺たちはこのカルチャーに貢 献できる存在として、彼らに認められたんだ。レッド・アラートの 家に遊びに行き、一緒にレコードを聴いたりした。最高だったね。 “Plug Tunin’ ” の出来にはみんな満足していたけど、まさかアルバ

Tommy Boy

1988 年、デ・ラ・ソウル は

トミー・ボーイ

ル バ ム『3 Feet High and

スタジオに入り、デビュー・ア Rising』の制 作を始めた。そ

ムを作ることになるとは、その時はまだ誰も考えていなかった。近

れぞれ18 歳、19 歳、20 歳だった 3人は、遊び半分でありながらも

所の人からいい反応をもらえただけで嬉しかったんだ」。

熱心で、野心的だった。プロ仕様のスタジオに初めて入り、右も左

「当時のヒップホップには、まだまだ壁が多かった」とプリンス・

もわからない状態だった彼らにとって、プロデューサーのプリンス・

ポールが話す。 「レッド・アラートやミスター・マジックといった DJ

ポールが頼りだった。彼らのレーベル Tommy Boy もまったくプ

がやるラジオ番組はあったが、昼間の番組でオンエアされるのはか

レッシャーをかけることはなく、悠々自適に自由に制作することが

なり厳しかった。昼間にかかるヒップホップは、ラン DMC、スリッ

できたのである。

ク・リック、ダグ E フレッシュくらいで、ヒップホップをかける枠は

「夢のような日々だった。プロ向けのレコーディング・スタジオに

あまりなかったんだ。だが、デ・ラ・ソウルはそれを必要としていた。

入ることさえ初めての経験だったんだ」とポスは言う。 「ついに念

昼間に曲がかかるということは、ニューヨーク中の人に聴いてもら

願が叶い、ずっとやりたかったことを本当に実行していた。Tommy

うのと同じ意味だ。夜10 時から始まる番組を地下室でひっそり聴

Boy というビッグなレーベルがバックにいて、プリンス・ポールも

いているようなラップ・マニアだけに聞かせるのはもったいないだろ

いた。とにかく俺たちは自分たちがやらなくてはいけないことに集

う。当時の私たちにとって、ニューヨークは世界そのものだった」。

中したよ。やるべきことのリストも作っていたが、遊びまくってもい

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Break Beat Lou ヒップホップの基盤 by Hashim Bharoocha photos courtesy of Break Beat Lou

ヒップホップの土台を築いたレコードは数多くあるが、ソウル、ファンク、ジャズ、ロックなどあらゆるジャンルのブレイクビー ツを収録した『Ultimate Breaks & Beats』 (以下 UBB)ほど伝説的なコンピレーション・シリーズはないかもしれない。ブ レイクビート・レニーことレニー・ロバーツと、ブレイクビート・ルーことルイス・フロレスが1986 年に立ち上げた Street Beat Records からリリースされたこのコンピレーションは、ブレイクビーツの基礎を DJ たちに教えただけではなく、ヒップホップ・ シーンの枠を超えてポップス、R&B、そしてドラムンベースにもサンプリングされ多大な影響を与えてきた。ブロンクスで育った ブレイクビート・ルーは、ヒップホップの誕生を目の当たりにし、1974 年から DJ として活動するようになったわけだが、UBB 以外にも、レニー・ロバーツと共にタコのアートワークで知られる「Octopus Break Beats」や初期の伝説的なポーズ・エディッ ト12インチである「Fusion Beats」シリーズもリリースしている。レニー・ロバーツが亡くなり、UBB シリーズが終了してから 一度は音楽業界を離れたブレイクビート・ルーは、DITC、ケニー・ドープ、DJ スピナ、ビート・ジャンキーズからの熱いサポー トを受けて再び音楽シーンに戻り、今は UBB レーベルを運営しながら T シャツなどのグッズも販売している。今も筋金入りの ディガーである彼に、UBB の歴史について大いに語ってもらった。

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当時サウス・ブロンクスは廃墟の建物だらけで、そこからヒップ ホップが誕生したというイメージは誤解なんだ。俺たちが住んで いたエリアは、そうじゃなかった。近所は人種的に統合されてい て、ユダヤ教、黒人、プエルトリコ人、イタリア人も住んでいた。グ ランドマスター・カズに聞けば分かるけど、俺たちのエリアは廃 墟なんかなかったんだ。クール・ハークが住んでいた建物の前に、 Cedar Park があったけど、ハークがやっていたパーティーの噂 を聞いて、俺たちは影響された。彼はハウス・パーティーを野外で やっていたわけだからね。ヒップホップの誕生について、みんなは ひとつの凝り固まったイメージを抱いているけど、振り返ってみる と、ハウス・パーティーやブロック・パーティーを次のレベルに進化 させたところから誕生したんだ。 そういうパーティーで初めて DJ がブレイクスを2枚使いするのを 目の当たりにしたのでしょうか?

ハークが最初に Cedar Park のパーティーでジェームス・ブラウ ンの「Give It Up And Turn It Loose」やインクレディブル・ボン ゴ・バンドの「Apache」を2枚使いし始めて話題になったんだ。そ のあとに、サウス・ブロンクスのグランドマスター・フラッシュがそ の2枚使いのプレイ・スタイルを更に進化させた。それ以前は、ファ ンクやディスコなどのダンス系のレコードがパーティーで主流だっ たけど、俺たち世代の連中は、当時流行っていたディスコから離れ ようとしていたんだよ。ハウス・パーティーでは、ジェームス・ブラウ ン、ウィリー・コロン、カーティス・メイフィールドだけじゃなくて、 ブラック・サバス、エアロスミスなんかをジャンルレスに聴いてい た。当時のニューヨークの WABC というラジオ局では、ブラック・ サバス、レッド・ツェッペリン、マイケル・ジャクソン、マーヴィン・ゲ イ、テンプテーションズなど垣根なくプレイしていた。 ブレイクスの2 枚使いを初めて見たときは、衝撃を受けましたか? 出身はどこですか?

俺は当時ダンサーだったんだ。DJ は74 年くらいに始めたけど、真

まれたんだけど、1970 年くらいにブロンクスに引っ越した。最初は

して引き延ばしてくれたことで、俺たちはもっと激しくダンスするこ

マンハッタンのスパニッシュ・ハーレムで1960 年代の初めに生 サウス・ブロンクスで育って、1972 年にノース・イースト・ブロンク スに引っ越したんだ。そこは、DJ クール・ハークがブロック・パー

剣にやりだしたのは78 年か79 年だった。DJ がブレイクを2 枚使い とができたんだ。ブレイクスが2枚使いされると、そこでダンス・バト ルが勃発して、もっと激しく踊れた。ブレイクは普通4小節から8小節

ティーをやっていた場所から歩いて 3 分くらいの場所だった。レ コードや DJ に関して最初に影響を受けたのが(コールド・クラッ シュ・ブラザーズの)グランドマスター・カズで、彼は俺の家から1 ブロックくらいのところに住んでいた。 当時のブロンクスとヒップホップ・シーンについて教えてください。

まだ “ヒップホップ” という単語が誕生する前から、俺はこのカル チャーの中にいた。“グラフィティ” という言葉が使われるようになる 前の1972 年からグラフィティをやってたし、1974 年から DJ をやっ てる。言葉の才能がないから MC だけはやってない(笑) 。俺にとっ てグラフィティが、ヒップホップと呼ばれているカルチャーへの入り 口だった。一番最初のクール・ハークのパーティーには行かなかった けど、2 回目のパーティーには行ったよ。マーズ・アベニューに住んで いたんだけど、グランドマスター・カズはクレストン・アベニューに近 いところに住んでいたから、彼から直接的な影響を受けた。グランド マスター・カズは、建物の一階に住んで、窓の外にスピーカーを置い て、色々なレコードをプレイをすることで知られていたんだ。 若くしてクール・ハークやグランドマスター・カズ、そして初期のヒッ プホップ・カルチャーを目の当たりにしてどう思いましたか? (上)ブレイクビート・ルー、2012年4月ニューヨーク。 Photo by DJ Mell Starr.

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Souls of Mischief 20 年の遊歴 by Alice Price-Styles from issue 57 Winter 2013

不朽のヒップホップ・クラシック「93 'til Infinity」を世に発表したオークランドのラップ四人衆ソ ウルズ・オブ・ミスチーフは、ピンプやギャングスターのイメージを打ち出すラッパーが跋扈するベイ エリア・シーンで、異彩を放つ存在だった。同曲のカルト的な人気により、彼らはヒップホップ史に残 る伝説のグループとなり、インディペンデント・レーベルでの地道な活動を通して、メジャーに頼らな くとも長いキャリアを築くことができることも証明した。活動開始から20 年以上が経過した今、彼 らはプロデューサーのエイドリアン・ヤングとタッグを組み、アナログ・サウンドが詰まったコンセプ ト・アルバムを発表。新しい時代が訪れようとも、創作の火が絶えることはないことを表明した。

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2013年のソウルズ・オブ・ミスチーフ。左からAプラス、タジャイ、オピオ、フェスト Photos by the Artform Studio.

崖、岩だらけのビーチ、ビルの屋上、薄暗いビリヤード場といっ

で知り合って、それ以来ずっと相棒だ」と A プラスは言う。一時期、

たさまざまなシーンを背景に、オークランド出身の 4人がなんとも

フェストとタジャイはライバル校にいたこともあったが、最終的に

言えない若さのあるラップを繰り広げ、サビでは喋るようなフレー

高校生の頃、オピオとフェストが加入して4人組になった。

ズを反復させる。これが、ソウルズ・オブ・ミスチーフの1993 年の

興味深いことに、彼らの作品の中でも非常に認知度が高く、最

デビュー・アルバム『93 'til Infinity』からの同名シングルのミュー

もレアな作品は、1992 年にメジャー・レーベルの気を引こうと彼

ジック・ビデオだ。多種多様な北カリフォルニアのヒップホップ・シー

らが制作した、正規リリースはされていない EP だ。この EP には、

ンの中でも特にユニークな存在だった彼らは、それぞれがオークラ

今では伝説と化している「Step to My Girl」と「Cab Fare」とい

ンドで培った観点により、とても若々しくて、時に異端的で、かつ

う楽曲が収録されており、後者ではボブ・ジェームスの「Angela

純粋な心で、自己表現を行った。トゥー・ショートやザ・クープといっ

(Theme from Taxi)」がサンプリングされているが、使用許可の

たイーストベイの他のアーティストほど、物議を醸すことも、社会的

都合によりリリースには至らなかった。しかしこれをきっかけにし

に問題になることもなかった彼らの音楽は、実に知的であり、同時

て、1992 年にソウルズ・オブ・ミスチーフと Jive Records との契

に遊び心に溢れるものだった。

約が成立した。そして、名盤として世界中で愛され続ける『93 'til

「俺たちの家庭では、教育が何よりも重要なことだと教えられた」

Infinity』が、1993 年 9月28 日にアメリカで発売された。

と、ソウルズ・オブ・ミスチーフとハイエログリフィックスのメンバー

このアルバムはすぐに人気が出たと思われがちだが、実際には

であるオピオ・リンジーは言う。そういった家族の教育熱心な姿勢

徐々に、タイトル・トラックがカルト的なヒットになっていったので

に加え、ベイエリアに存在する幅広いライフスタイルや考え方を吸

ある。アルバムの発表から20 年が経った今、改めて振り返ってみ

収することができるポジションにいた彼らは、イーストベイの他の

ると、ラップ・スタイル、プロダクション、全体の質感など、それら

十代の若者よりも広い視野と柔軟な姿勢で、さまざまな見解や哲

全てにおいてクオリティーが高く、まぎれもない名盤と呼べる内容

学に触れることができたのである。その結果、彼らの音楽は世界中

であることがわかる。

のどんな人でも共感する部分を見つけられるような、普遍性が宿る

過小評価されることも多いが、こちらも情熱的な名作品と言え

ものになった。 「俺たちのファン層は広いけど、それには俺たちがカ

る2nd アルバム『No Man's Land』を1995 年にリリースした後、

リフォルニアのオークランドで育ったことが深く関わっている」とオ

彼らは Jive を離れた。もちろん、ヒップホップの世界から消えてし

ピオは言った。

まったわけではなく、同志たちとサポートし合いながら、積極的に

ソウルズ・オブ・ミスチーフを構成する MC のオピオ・リンジー、

活動を続け、彼らはアンダーグラウンドのアイコンとなった。ソウル

タジャイ・マッシー、アダム “A プラス” カーター、ダマーニ “フェスト”

ズ・オブ・ミスチーフの 4人以外に、デル・ザ・ファンキー・ホモサピ

トンプソンの 4人は、学生の頃に知り合った。 「タジャイとは小学1

エン、カジュアル、ペップ・ラヴ、ドミノ、DJ トゥーレらが所属する

年の時に知り合ったんだ。フランスメンという名前の先生のクラス

ベイエリアのヒップホップ軍団ハイエログリフィックスは、1997年

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Kelis アートと日常生活の連環 by Tsuyoshi Hayashi

ケリスの 6 枚目となるオリジナル・アルバムはタイトルを『Food』という 名門料理学校ル・コルドン・ブルーに通い、調理師免許を取得した彼女らしい タイトルだ……と、そう考えたくなるところだが、しかし彼女は「う~ん、それ はどうかしら。初めから決めていたテーマではないわ。たまたまそういう作品に なっただけ」と、そのテの関連づけに簡単には同意しない。そうした一筋縄では いかないキャラクターに加えて、これまでヨーロッパ圏で高い人気を集め(思え ば、2001年のセカンド・アルバム『Wanderland』は欧州と日本のみでの発売だっ た)、多くの UK アーティスト(デュラン・デュラン、リチャード X、ベースメント・ ジャックス、スクリーム、カルヴィン・ハリスなど)とも共演してきた彼女だけに、 カッティングエッジな音楽を送り出している UK のインディ・レーベル= Ninja Tune との契約も頷けるところだ……と、もっともらしく分析してみれば、 「話すほ どのことでもないわ。新しい音楽を作って、彼らがそれを気に入ってくれて、私も 彼らが気に入っただけ。それに私は UK に限らず、いろいろな国のミュージシャ ンと共演してきたし」と、これまた、けんもほろろな回答。作品から何か意図を探 ろうとしたり、考察しようとしても、ケリスの前では何も意味をなさないことを改 めて思い知らされる。



なにしろ最初から怒っていたのだ。1999 年のソロ・デビュー曲

そのものが自分自身だ!” なんて言う人もいるけど、それは馬鹿げて

「Caught Out There」からして、男に中指を突き立てるかの如く

いると思う。私の音楽は私自身の全てじゃない。私がやる行為のひ

「アンタなんか大っ嫌い!」と、パンクの女性シンガーばりに絶叫。

とつであって、それ以外の時、私は女性であり母親であるのよ」

現在「Happy」の大ヒットで再び黄金期を迎えているファレル・ウィ

Ninja Tune のオフィシャル・インタビュー(聞き手はエイミー・

リアムス(一時は仲違いしていたが、 「ファレルは昔から超才能に溢

ザイード氏。本稿でも発言を一部引用)でケリスはそう話す。加え

れた人だから、今の成功も驚かない。彼は凄いもの」と絶賛)がチャ

て彼女をうんざりした気分にさせたのが、元夫ナズとの一連の騒

ド・ヒューゴと組んだプロデューサー・チーム=ネプチューンズとし

動に対するマスコミの反応だ。サード・アルバム『Tasty』 (2003

て躍進を遂げるキッカケのひとつにもなった同曲によって、ケリス

年)収録の「In Public」 (公共の場で愛し合うことも躊躇わない)

には鉄砲娘的なイメージがついてまわることになる。ファースト・ア

で共演したナズとは 2005 年に結婚。その 4 年後、第一子妊娠中

ルバム『Kaleidoscope』 (1999 年)発表後、どこかのジャーナリ

に泥沼の離婚裁判を繰り広げ、離婚後、ナズが膝上に元妻のウェ

ストが名づけた “サンダー・ビッチ” なる呼称に対しても「ハァ? 誰

ディング・ドレスを置いたジャケットが様々な憶測を呼んだ『Life

もそう呼んでないし」と一蹴。インタビューなどでの歯に衣を着せ

Is Good』 (2012 年)のクロージング・ナンバー「Bye Baby」で

ぬ物言いは、今やトレードマークと言ってもいい。

思いを断ち切るまで、周囲の雑音は消えなかった。 「実際のところ

「デビューした時は小娘みたいだったでしょうね。でも、私は自分

マスコミの人は私がどんな人間かなんて一切知らない。彼らが言

の弱さや欠点、誤りに対して謝ろうという気持ちはないわ。私が本

うことをいちいち気にして傷ついていたらダメ。息子を育てる母親

当はどんな人間なのかは、たとえ正直な気持ちを綴った作品を作っ

として情緒不安定になってはいけないのよ」。ケリスは腹立たしい

たとしても誰にも分からない。アーティストの中には “自分の音楽

気持ちを抑えながらそう語った。一方で、シングル・マザーとして

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(前ページ見開き、上)Photos by Estevan Oriol.

生活する今は、 「子供を授かるという経験は、自分を以前より穏や

前を付けたの。後になっても憶えていられるようにね」

かにしてくれたと思う」とも。 「前作(2010 年作『Flesh Tone』)

“結果的に” アルバム・タイトルは『Food』になったのだろう。け

をレコーディングしていた時は妊娠していたから、新作の幕開け

れど、料理学校に通った経験が、直接的ではないながらも彼女の

にはやっぱり彼がふさわしいんじゃないかと思って(笑)」。新作

音楽に対する創作意欲を掻き立てたことは間違いなさそうだ。

『Food』のオープニングを飾る「Breakfast」で第一声を発する

「子供の頃、母親がケータリング・ビジネスを営んでいたのよ。だ

のは息子のナイト(Knight)君だ。

から料理はずっと私の人生の大きな位置を占めてきたわ。料理学校

そ うして 和 や か に 幕 を 開 ける『Food』に は、 「Jerk Ribs」

に通い始めたのは 2008 年。全課程を終えるのに1年くらい通った

「Cobbler」 「Friday Fish Fly」 「Biscuits n' Gravy」といったソ

かしら。本当に充実した時間を過ごすことができたわ。通うために

ウルフードなどで親しまれるレシピの名前を冠した曲が並ぶ。

音楽活動を少し休んで、音楽以外のことに専念することもできた。

「特に深い理由はないわ。アルバムの制作中、曲ができてそれを

お陰で、復帰した時は、音楽に対して新たな敬意と愛情を持って曲

コンピュータに保存する際、エンジニアが面白半分で付けた仮タイ

作りに臨むことができた。それに学位も貰ったわけで、料理の分野

トルだったのよ。結局それを変える時間がなくて、そのまま使った

でのちゃんとした資格が得られたのもよかったわね」

だけ。タイトルの裏に重要な意味が隠されているとか、そういうの

彼女が取得したのは、ソース専門の調理師であるソーシエ。卒

は全然ない。ただ、私にとって食事というのは一日の中でとても大

業後に Feast というソース・ブランドも立ち上げた彼女は、 「ジン

切な時間。何を食べたかによって、その日の予定を立てるくらいな

ジャー・ソースやジャーク・ソースとか、いろんな種類があるわ。高

のよ。レコーディングをしている時も私たちは歌ったり曲を書いた

級料理なんだけどエスニック、いや、むしろエスニック風味のもの

りしながら食事をしていた。だから、その時に食べていた料理の名

を高級料理のスタイルで作ったものをやりたかった」と、料理の話

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Coke La Rock ラップの始祖 by Michael A. Gonzales illustrations by Freddy Anzures from issue 51 Summer 2012

“それは Twilight Zone と呼ばれる場所で始まった そこで俺とハークは一人前になった Exec という場所へ移り そこでリスペクトを集めるようになった それから公園に繰り出して勝利した 俺たちはブロンクスを手中に収めた” ― 1977年頃のコーク・ラ・ロックのラップより ― 1973 年 8月11日。コーク・ラ・ロックと呼ばれるブロンクス出身

のそばにいた。彼らは兄弟のようだったわ」と、シンディーは思い出

のひょろりとしたティーンエイジャーが、その晩催されるパーティー

す。パーティーにおいて、クール・ハークが次から次にレコードをス

のため、友人のクライヴ “クール・ハーク” キャンベルと機材をセッ

ピンしている最中に、コーク・ラ・ロックは何気なくマイクを掴み、

ティングしていた。五部分けのアフロヘア、分厚いメガネ、テカテカ

何かを喋り始めた。それはとくに内容のある言葉ではなかった。彼

の服装に身を包んだ、自称 “スタイリッシュなストリート男” のコー

が握ったマイクは、ハークが客を盛り上げるために用意したもので、

ク・ラ・ロックは、1967年にジャマイカからブロンクスに移ってき

その瞬間まで、他の誰も触っていなかった。

た巨漢のクール・ハークとその数年後に出会い、親しくなっていた。

コーク・ラ・ロックはこう証言する。 「最初に始めた頃、それがラッ

パーティーは、当時ハークが住んでいたセジウィック通り1520

プなのかどうなのかも理解していなかった。ただマイクに向かって

番のアパートのレクリエーション・ルームで午後 9 時から行われる

適当に喋っていただけだ。俺は普段は口数が少ないほうだが、音楽

予定で、ハークの母親が菓子類の準備をし、妹のシンディーが飾り

がかかっていると、何だか性格が変わったようになる。自然と言葉

付けをし、父親は飲みものを買いに行った。もともとシンディーが

が出てきたんだ」。彼は続ける。 「友人のプリティー・トニー、イー

企画したこの新学期記念パーティーには、女子は 25 セント、男子

ジー・アル、ヌキー・ヌックたちも会場にいた。最初は、ただ彼らの

は 50 セントで入場することができた。

名前を言っていただけだ。乾杯の音頭のような感じだったかもしれ

「私が招待状を書いて、みんなに配ったのよ。ハークはただ、当

ない。みんな、自分の名前が呼ばれると嬉しがるんだ。“ダチの○

日来ればいいだけだった」とシンディー・キャンベルは 40 年前

○もきてるぜ” とかいう具合にね。俺たちはまだ15、6 歳だったが、

のことを思い出す。パーティーの数日前、ハークはレコード店の

友人たちは車でこのパーティーに遊びに来たと、マイクで嘘を言っ

Sounds and Things でレコードを購入し、父親所有の Shure

た。女の子にモテるためだ」。

のスピーカーでソウルフルな音楽を流して、パーティーで行う DJ

グランドマスター・カズは、このパーティーに来て人生が変わっ

の練習をしていた。

た者のひとりだ。 「あれは間違いなく歴史的なパーティーだったね。

ヒップホップの歴史研究家トロイ・スミスに「赤ん坊の頃にココ

あの後、あのパーティーの雰囲気や熱気を再現しようとみんなが試

ア味のミルクを飲んでいたことがこのニックネームの由来だ」と話

みていたほどだ。あの晩に、全てが始まったんだ」。

したことがあるコークは、その晩、ピカピカの Puma のシューズと、

その夏の夜から始まり、その 4 年後にハークが事件に巻き込ま

ハーレムの高級紳士服店 A.J. Lester’s で購入したダブル・ニット

れて刺されるまで、クール・ハークとコーク・ラ・ロックはまだラップ

のズボンを身につけ、フェザーベッド通りの Dennis’ Barbershop

やヒップホップという名前がつけられていないそのまったく新しい

でカットしてもらったばかりのフレッシュなヘアスタイルで、パー

音楽を先導した。しかしながら、ハークの革新的な発明は幾度とな

ティーに颯爽と現れた。

くメディアで取り上げられてきたが、ラップの先駆者コーク・ラ・ロッ

「ハークにはいろいろな友達がいたけど、コークはいつだって彼

クの功績は無視されがちである。

84




ニューヨークのラップ・シーンが日増しに煌びやかなものなっていった時代に登場した、カンパニー・ フロウの「8 Steps to Perfection」は、反骨精神の生々しい宣言であり、アンダーグラウンドに投下され た爆弾であった。中心人物のラッパー/プロデューサーのエル P は、自身のグループがインディー・シー ンで高い評価受けるようになると、その勢いに乗ってレーベルを立ち上げ、メインストリームからも注 目されるインディペンデント・ヒップホップの新時代を牽引する存在になった。背後を振り返るのでは なく、自分の心の声を頼りにして、エル P はこれから進むべき道を見据えている。

El-P 地下の革命家 by David Ma photos by Timothy Saccenti from issue 51 Summer 2012



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