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824:人生の剪定
from 824:人生の剪定
人生の剪定
今年は見事なバラの花がたくさん咲きました。何年も前に小さな鉢植えで買ったこのバラは、どんどん大きくなるので、庭に地植えにし、毎年、春と秋にきれいな花を咲かせるのを楽しみにしていたのですが、ここ数年、だんだんつぼみが小さくなり、あまり良い花が咲かず、その上、小枝が密集し、病気になる葉っぱや枝が増えてきました。
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そこで去年、思い切って、木の大きさが半分ぐらいになるほど、枝を剪定したのです。冬の間、すっかり葉を落とし、小さくなってしまったバラの木を見て、今年はあまり花は楽しめないだろうなあ・・・と思っていました。
ところが、春になると突然、新しい枝がぐんぐん伸びてきて、みるみるうちに、きれいな葉っぱを茂らせた大きな株になったのです。見ると、つぼみもかなりたくさんついています。病気の葉っぱもありません。それは、驚くほどの急成長でした。
そして、たくさんの美しい花を咲かせてくれたのです。このバラの木が、こんなに大きな花を咲かせたのは初めてで、色も前より鮮やかです。肥料はずっと同じものを使っており、何か特別な世話をしたわけでもありません。思いあたるのは、去年思い切った剪定をしたことだけです。剪定が、こんなにバラの木を元気にしたのだろうか・・・。その効果に興味を持った私は、ちょっと調べてみました。
庭木の手入れは色々ありますが、枝を切り落として形を整え、風通しをよくする作業が剪定です。枝葉が密集すると蒸れて、病気や虫が発生しやすくなるので、剪定は、植物の生育環境を整える上で大切な作業だということがわかりました。また、不必要な枝葉を取り除くと、吸い上げた栄養を適切な箇所に集中して送れるので、植物の抵抗力が強まり、病気にかかりづらくなるそうです。
さらに剪定には、樹木の成長を促す効果もあります。伸び放題にしておくと、栄養が分散し、ひょろっとした細い枝が伸びてきて、花も実も小さくなりますが、古い枝を切ると、新しい枝を作る細胞を活性化させることになるそうです。だから、剪定すると、新しい枝葉が育ち、より美しい花を咲かせるというわけです。
確かに私の庭のバラもそうなりました。このような剪定の効用を知って、私は聖書にある次の言葉を思い出しました。
「わたし(イエス)はまことのぶどうの木、わたしの父(神)は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。」- ヨハネの福音書15章1-2節
これは、ブドウ園を管理している良き農夫である天の神様と、ブドウの木であるイエス様と、枝である信者たちとの関係についてのたとえ話ですが、農夫である神様もやはり、手入れのために時に剪定をされるわけです。
農夫が木を剪定するのは木の健康や成長のためですが、もし枝がそのことを理解していないならば、突然枝を切られて、びっくりしてしまうことでしょう。そして、どうしてせっかく伸ばした部分を切られてしまったんだろうと悩み、もしかして農夫は自分に対して何か怒っているのだろうか・・・、もう役に立たないと思っているのではないか・・・と心配になるかもしれません。
でも、さっきの聖書箇所にもこうあります。「もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。」 手入れとは、剪定のことです。枝が病気になっていたり、細い枝葉が出すぎてしまっているなら、元気にするために何かをしなければなりません。農夫が剪定するのは、木をもっと健康にし、更に良い実を結ばせるためなのです。
同じことが、私たち人間にも当てはまります。神様が私たちの生活の中で伸び過ぎてしまった部分や病んでいる部分を剪定されるのは、その剪定によって、私たちの人生がより良く、元気なものになるためです。
私たちは日常生活で常に雑多なものに囲まれており、多くの事に手を出し過ぎて、不必要な事柄に時間や関心を奪われ、大切なことに集中できなくなったりします。そのまま放っておくならば、私たちの生活も、風通しが悪くなって体調不良や問題が発生し、お日様の光がゆき届かない毎日になってしまうのではないでしょうか。また、忙しくなり過ぎると神様との時間が希薄になり、幹であるイエス様からの養分を十分に受け取れなくなってしまいます。まるで、長らく剪定していなかった樹木のような状態です。
考えてみると、去年大病で入院する前の私の生活もそんな感じでした。突然の入院は、急に強剪定(強めの思い切った剪定)をされたような感じで、一気に多くのことができなくなり、様々な活動も停止してしまいました。私は葉をすべて失い、短く刈り込まれた植物のような気分で、最初の内は、これから先、再び葉を茂らせ、花を咲かせることなどできるのだろうかと落胆しました。
でも、強剪定を受けた翌年にこんなにも立派に復活したバラを見て、私は神様の愛と知恵にもっと信頼したいと思えるようになりました。私たちの人生に起こる様々な試練や困難は、それが起こった時には痛みを感じ、辛いことです。でも、そこには必ず、神様からの愛と支えがあることが聖書では約束されています。最後に、そんな約束の言葉をいくつか紹介しましょう。
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また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、
「わたしの子よ、主(神)の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。
あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。
肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。- へブル12章5-7, 10-11節
すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。- 黙示録3章19節
あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。- 第一ペテロ5章10節
見よ、神に戒められる人はさいわいだ。それゆえ全能者の懲らしめを軽んじてはならない。彼は傷つけ、また包み、撃ち、またその手をもっていやされる。彼はあなたを六つの悩みから救い、七つのうちでも、災はあなたに触れることがない。- ヨブ記5章17-19節
わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない、その戒めをきらってはならない。主は、愛する者を、戒められるからである、あたかも父がその愛する子を戒めるように。- 箴言3章11-12節