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837:そんなとき・・・とりなしの祈りをしてみませんか?

そんなとき・・・とりなしの祈りをしてみませんか?

世界各地で紛争や貧困で苦しんでいる人々の様子をニュースで見ていると、そのような環境で生まれ育つ子どもたちや、一生の大半をそういう場所で過ごさねばならない人たちのことを考えて、やり切れない気持ちになります。

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問題があまりにも大きく広範囲に渡っているので、自分にできる事など何もないように感じてしまいますし、時には、気の毒に思うと同時に、そんな状況になっているのは、政治が悪いとか、指導者が良くないからだと批判したくもなります。

でも、よく考えれば、どんなに素晴らしい指導者であっても、すべての問題を解決できるわけではありません。その上、今は世界中に広まっている感染症もあり、長年続いている環境問題や経済問題など、世界は問題で満ちています。

そんなことを考えながら、悶々とした気持ちでいると、聖書には、指導者たちのために祈るようにと書かれていることを思い出しました。

「まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。」― 聖書 テモテへの第一の手紙2章1-3節

国の指導者はもちろん、職場や学校、地域のコミュニティ、スポーツチームなどの責任者であっても、上に立つ人には、他者には見えない苦労が沢山あります。立場ゆえに、様々な問題を解決することを要求されますが、その決断が大勢の人や地域に影響を及ぼし得るので、間違いだと思われる決断をするならば、途端に多くの人から非難が飛んでくることもあります。

人はどんなに努力しても、時には判断を誤ったり、最善ではない決断を下したりするものです。また、誰にでも強い面と弱い面があります。様々な立場の人たちを考慮しながら決断しても、結局は誰かからの批判を浴びる・・・責任ある立場の人の中には、相当疲労困憊している人もいるに違いありません。そういう人は、どれほど、とりなしの祈りを必要としていることでしょうか。

私は、何かの悲しい状況について知った時に、その中で苦労している人たちのために祈ることはあっても、その状況に関わる指導者や責任者のためには祈っていなかったことに気づいて、とても反省させられました。本当に世界が良くなることを望むのなら、責任ある立場の人、決断を下す立場の人のためにも、もっと祈らなければいけません。

また、自分のことや自分にとって大切な家族や友人のためにはよく祈るし、病気の人のための祈りのリクエストが届くなら、そのためにも祈ります。でも神様は、見ず知らずの人たちや、個人的に関りのない人たちのためにも祈ることを望んでいるのです。

たとえば、ニュースで取り上げられている問題について、責任ある立場の人たちのためにとりなしの祈りをするなら、神様は、その人たちが賢い判断をし、正しい決断を下すのを助けてくださることでしょう。

また、子どものいじめについて耳にするならば、いじめられている子どものために祈ると同時に、学校関係者や親、周りにいるすべての人たちの正しい対応のために、そして、いじめをしている子どもたちの心が変わるようにと祈ることができます。

神にとっては、大きすぎる問題も、小さすぎる問題もなく、何でもできないことはないので、もっともっと、とりなしの祈りをすることで、きっと私たちの生活は大きく変わっていくことでしょう。

ところで、状況や人のために祈るだけではなく、何か自分にできることはないか、主に尋ねることも大切です。主は、祈っただけで責任を果たしたと思ってほしくはなく、実際に何かしてほしい場合もあるからです。

たとえば、子どもの貧困のニュースを聞いたなら、主は貧困家庭の子どもたちを助けるボランティアに参加するよう示されるかもしれないし、ボランティアをしている団体に必要品を届けたり、寄付を送ったりするよう示されるかもしれません。聖書には、こうあります。

「わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、『安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい』と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」― 聖書 ヤコブの手紙2章14-17節

もちろん、私たちのできることには限りがありますが、小さなことでも、祈ると同時に行動に出るのは、神様から見て大切なことだと思います。イエスは、弟子たちに対してこんなたとえ話をされています。

「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。』 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。』」― 聖書 マタイによる福音書25章35-40節

つまり、私たちが誰かに小さな親切をする時、それはイエス様に対して行っているのと同じであり、その小さなことは重要なのです。だから、「どうせ大した助けにはならないだろうし・・・」などと思わず、主が示されたなら、できることをしていきましょう。「小さな鍵」一つで、「大きな扉」が開くように、一つの小さな親切、一回の小さな祈りで、誰かの人生や世界が変わっていくかもしれないのですから。

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祈りは、私たちにできる最低限のことではなく、最大限のこと。

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<著名人が祈りについて語った言葉>

私の発見は全て祈りに対する答えである。望遠鏡を使えば、この大宇宙の何万何億キロ彼方を見ることができるが、望遠鏡から離れて自室に行き、心から祈るなら、望遠鏡など地上のいかなる媒介物の助けを借りるよりも、もっと天を広く見ることができるし、神にずっと近くなることができる。― アイザック・ニュートン (イギリスの物理・天文学者)

心からの祈りによって、成し遂げられないものは、この世に無い。― マハトマ・ガンジー (インドの独立指導者)

祈りは信仰を生み、信仰は愛を生み、愛は貧しい人々のためへの奉仕を生みます。― マザー・テレサ (ノーベル平和賞を受賞した修道女、「神の愛の宣教者会」の創立者)

神の思いを心に注ぎ入れてもらおう。そうすれば、より幸せになる。世界最大の力は祈りの力であると、私は知った。それに疑いの余地はない。自分の経験から言っているのだ。― セシル・B・デミル (アメリカの映画監督)

祈りとは、人が起こすことのできる最も強力なエネルギー形態だ。祈りが人間の思考および体に及ぼす影響力は、セクレチン分泌液の影響力と同様に実証することができる。その成果は、順応性や知力の増加、道徳的なスタミナの増加、人間関係の理解の深まりという形で測定することができる。祈りは、完全なる人格の形成に絶対欠かせぬものである。祈りによってのみ、私たちの精神と体と霊とは完璧に組み立てられることができる。それによって、虚弱な人間的要求にその揺るがぬ力が与えられるのである。私たちは、祈る時、この宇宙を回転させている無尽蔵の原動力とつながるのだ。

医師としての私は、多数の人々があらゆる他の療法で失敗した後に、祈りという厳粛な努力によって疫病や憂鬱から救われた例を目撃している。祈りは人間が生み出しうる最も強力なエネルギーである。それは地球の引力と同じ現実的な力である。― アレクシス・カレル博士 (ノーベル生理医学賞を受賞したフランスの外科医)

一国全体が祈っている姿を見ることは、原子爆弾の爆発以上に畏敬の念を起こさせる。祈りの力は、人間によって作られた、またコントロールされた力のいかなる組み合わせにも勝る大いなるものだ。祈りとは、無尽蔵の源を開発する最高の手段なのだから。祈りによって神の憐れみと力を引き起こすことは、この地上にいる、悩み無力な人々に、平和と安全とを保証するもっとも有効な手段である。― J・エドガー・フーバー (アメリカFBIの初代長官)

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