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Akitaka Yoshimura Works 2016-2017 No.001 発行者・編集長 吉村亮毅
特集:修士設計 角力の都、鯵ヶ沢 青森鯵ヶ沢における角力文化の再考と都市・建築の提案 トウキョウ建築コレクション 2017 倉方俊輔賞 受賞作品
吉村 亮毅 (よしむら あきたか) 1991 年 宮城県生まれ. 2012 年に仙台高等専門学校電気システム工学科を卒業後,東北大学工学部建築・ 社会環境工学科に編入学.2015 年には同大学大学院工学研究科都市・建築学専 攻に進学.石田壽一研究室(都市デザイン学)にて多数のプロジェクトに参加. 主な作品として,「孤独死倉庫」(2015),「440|Not Found」(2015) , 「守の森 スタジアム」 (2016)など多数.主な受賞は,ヒューリック学生アイデアコンペ(佳 作/ 2014),日本建築学会設計競技(入選/ 2015,2016),総合資格修士学生 プロポーザルコンペ(奨励賞/ 2015)など.
吉村亮毅作品集 web サイト https://issuu.com/akitakayoshimura/docs/akitakayoshimura 3
Essay:
Urbanism of entertainment エッセイ:娯楽の都市論 吉村亮毅
娯楽と都市と空間.
ケヤキは根をおこし,別の土地に移植すると相当な高確率で根を張ることはなく枯れて
これは私が卒業論文よりテーマにしていることである.
しまうという.これは建築においても同じではないだろうか.固有の文化から発生した建
卒業論文では,アメリカの野球場を都市的な視点で調査・分析し類型化することにより
築の型(根)は,その民族固有の空間を持ち,それを形而上学的な理論でもって移植して
「都市的ビルディングタイプ論」の体系化に試みた.ローマの円形競技場より続く「スタ
も,それは「生きた建築」にはなり得ない.
ジアム」としてのビルディングタイプは,近代五輪の成功とともに世界中に浸透していく.
このような思考過程を背景とし,修士設計のテーマを選定するに当たって,私は日本古
しかし野球場はその系譜とは独立して,19 世紀中盤にニューヨーク郊外の空き地にて発
来の娯楽文化に着目して調査を行うこととした.理論(形而上学)と都市(形而下学)が
祥して以降,アメリカ・オリジナルのビルディングタイプとして発展していった.その中
きちんと根をはるようにするためだ.
でもボストンに現存するフェンウェイ・パークは,当時の野球場の特徴を色濃く現代に伝
私がその末に選定したテーマが相撲だ.相撲は,日本書紀の時代から,日本人に愛され
える建築だ.しかし,20 世紀になりアメリカにおいても近代五輪が開催されるようにな
てきた民族文化だ.しかしそれは, 近代に至る過程で 「国技」 という名の下に歪曲され,人々
ると,アメリカ国内においても「円形競技場」型のスタジアムが主流となっていった.オー
の街からは消え去っていく.これは奇しくも, 初代国技館の誕生と深く関わりあっている.
クランドに現存するアスレチックスの本拠地球場がその典型例だろう.
当時の文献に設計者である辰野金吾の言説が記録されているが,彼はこの国技館を「羅馬
この考察より娯楽建築には,その成熟過程において,その文化固有の空間が存在する
の円形競技場」に影響を受けて設計していると語っている.辰野といえば日本の近代建築
のではないかという仮説を立てることができる.そしてそれは,20 世紀であれば競技の
史において最重要人物の一人であることは既知だが,大の相撲好きだったことでも知られ
近代化,現代であれば競技のグローバル化によって一般化し,やがて均一化されていく.
ている.相撲が好きすぎて,子息を相撲部屋に入門させたことももちろんご存知のことと
20 世紀中盤のメジャーリーグ・ベースボール(MLB)が一時,深刻な人気低迷に陥った
思う.さらに東京駅の設計では,そのプロポーションに相撲の土俵入りの要素を取り入れ
ように,「固有の空間」の喪失はその娯楽文化自体を衰退させる引き金になるのではない
たとも言われているほどだ.しかし,辰野が国技館にコロッセオのイメージを持ち込んだ
だろうか.
ことについては評価し難い.
この仮説の元,私は修士課程のスタジオにおいて仙台を敷地に地元球団の二軍球場の計
この相撲をめぐる空間の歴史は,野球のそれに相似している.我々が知る相撲の空間は
画を行った.この中で娯楽建築はグローバルなものではなくローカルなものだということ
なぜか宙吊りなった神明造りの屋根と,その四隅にカラフルな四色の房が取り付く大相撲
を重要なテーマとして扱った.敷地ひいては,その都市の空間性を引き継ぐようなデザイ
のそれだろう.だが,その空間にもプリミティブな「祖型」があるのではないだろうか.
ンを行わなくてはならない.これはボストンとオークランドの比較において顕著だろう.
現在の大相撲のようにプロ組織として画一化された空間にはない,1/1 の都市にプラグイ
敷地選定については,仙台がその都市構造や規模などの点において,ボストンのそれに比
ンされた文化ならではのタイポロジーがあるのではないだろうか.私は,この疑問の解答
較的近いことも好条件だった.実際,このビルディングタイプ論からデザインに展開する
を求め, 青森県西津軽に赴いた.ここは, 多くの関取を輩出してきた「相撲の故郷」と言っ
手法は,私の中である程度消化できたと感じている.しかし,このプロセスにおいて最大
てもいいような地域だ.中でも, 鰺ヶ沢町と深浦町はその特徴を体現したような町である.
の矛盾は,野球が発祥したのが日本ではなくアメリカであるということ.つまり,論文の
そこには,厳しい自然環境と崩壊寸前の地域社会の中で,人々が相撲を中心に文化を継
舞台はアメリカ(ボストン)なのに対し,設計の舞台が日本(仙台)では,不都合な与条
承する姿があった.
件を排除した形而上学のデザインとしては一定の価値があるものの,実際にアクティビ
これは,青森鯵ヶ沢を舞台とした相撲文化の持続的な継承を目的とした建築群の提案で
ティを伴う建築としては空虚なものにも思える.例えば,アメリカでは観戦中に鳴り物や
ある.そして同時に,現在の相撲空間に対する一つの批判である.
メガホンを使った応援はしないし,数万人もの観衆がいながら試合中の重要な局面におい てはフィールドに静寂が訪れる.その光景は,日本の大相撲に近いのかもしれない.
修士課程のスタジオ作品「守の森スタジアム」(2016) 4
中村川と川沿いに並ぶ民家.その背後の丘が今回の敷地だ. (青森県鰺ヶ沢町)
丘から岩木山を望む. (青森県鰺ヶ沢町) 5
青森県西津軽地方は,角界に多くの名力士を輩出してきた「角力の都」である. 特に鰺ヶ沢町は,小学校や集会所,神社の境内など町じゅうの至るところに土俵があり, 地域の暮らしと相撲が密接に関わりあっている.しかし近年,施設の老朽化や競技者の減 少などにより地域の相撲文化は衰退の一途をたどっている. これは鰺ヶ沢町を対象に,地域の相撲文化の復興と継承を目的とした提案だ.既存の相 撲場や道場のほかに,町の玄関である駅舎を含めた都市的な提案を行っている.古来から 相撲空間と関連の深い「四神相応」の思想を手がかりに,現地調査により顕在化した様々 な都市的問題に対して回答を示している. 地域の住民や相撲競技者,そして観光客などの来訪者それぞれが,この町の都市空間を 経験することで,鯵ヶ沢が「角力の都」になっていく.
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Investigation:
Consideration of SUMO space
貴族の時代の相撲 『日本書紀』(720)によると,雄略天皇時代(469)に,力自慢で傲慢な木工を懲らし めるために女性と相撲を取らせたのが始まりと言われている.やがて奈良時代(734)に は天覧相撲が始まる.これが現在の大相撲の原型となる.宮中には帝をはじめ,有力な貴 族が多く相撲見物をしている.よって次第に相撲は「芸能性」を帯びていくようになる.
武家の時代の相撲 鎌倉時代になると,相撲は「儀式」から「武術」へと変化した.やがて室町時代末期に なると,寺院や神社などの建立,修理などに充てる資金集めのために興行を行う勧進相撲 が始まる.この時代では,信長や秀吉をはじめ相撲好きの武将が数多くおり,強い相撲取 りは大名に召し抱えられた.いわば実業団選手のようなもので,この力士たちは,日々, 相撲の鍛錬を積むのである.
江戸時代以降の空間の成熟 四本柱 17 世紀の後半に生まれたとされている.しかしこの当時の柱には彩色が施されていない 宮中相撲の舞は現在の弓取のルーツだ.
ため,四神相応や春夏秋冬の意味はないものと推測できる. 土俵 「方屋」とは相撲を行う場所を指し, 「人方屋」とは,文字どおり群衆によって取り囲まれ た相撲競技空間のことである.この人方屋(見物人が作る輪)が土俵へと発展していった とされる. 屋根 ①切妻期(小屋・前近代) 風雨をしのぐという至って機能的な利用によりシンプルで合理的な切妻が採用されたと思 われる. ②入母屋期(法隆寺・国技館〜 1931) 私見ではあるが,武家とりわけ幕府に寄り添うことで地位を得てきた大相撲の名残だと推 察する. ③神明期(伊勢神宮・1931 〜現在) 皇室色の強い神明造を用い始めたのは 1931 年の夏場所前の天長節に開催された宮中相撲 だと言われている.当時の相撲を国技化しようとする戦略の一環と思われる.
「国技」と「国技館」 明治 42 年(1909 年)に辰野金吾設計による常設相撲場が完成.当時,板垣退助によ り名称は「尚武館」となる予定であったが,作家の江見水蔭の「相撲は日本の国技なり」 織田信長の上覧相撲の様子
という一行に触発された尾車親方が「国技館」という名称を提案.そして現在にいたる. この出来事が,相撲の現在に至る国技としての存在を決定的にした.
辰野金吾と国技館 辰野は「相撲常設」 (辰野 金吾・葛西 萬司,建築雑誌 271(1901) )において旧両国国 技館の設計者として,その設計思想などをまとめている.その中で,従来の相撲場に関し てこのように述べている. 「演行に使用すべき小屋は, (中略)改良を加へず,依然として杉丸太を荒縄もて結びたる 假設にして. . . 」 このことから,辰野が設計した旧国技館以前は,常設の相撲場はなく,仮設のサーカス小 屋のようなものであったと断定できる.また,自身の設計に関して「羅馬人の圓形劇場の 如く」という記述も見られ,辰野が「コロッセオ型」の競技場を強く意識していたことが 伺える.さらに,本文には一切「国技館」という言葉は使用されず「相撲演技場」などの 辰野金吾設計の初代国技館 8
表現を多用している.
神明造の細部意匠に見る「謙遜」と「男社会」 神明造は,細部の構成要素にそれぞれ意味を持っている. ここで,国技館の屋根を観察してみる. ①鰹木 一般的に,奇数個は男性,偶数個は女性を表すとされている. また,伊勢神宮において,もっとも格式の高い正宮の本殿の鰹木は 10 本あり,社殿の 格が下がると 9,8,7,6,5 本と数を減らしていく. この神明造りの一般的な見解を,国技館の屋根に関して当てはめて考えてみる. まず国技館のそれは五本あり,男性を意味していると言える. 同時に,個数の観点で考えると,国技館の格式は伊勢神宮より格下になるように配慮さ れており,ここに「謙遜の現れ」があると内館氏は考察している. ②千木 国技館の千木は男性を意味する外切り(または外削ぎ)である. 千木には「崇高性」を象徴しているという考えがあり,この点から,相撲文化における 男性優位の思想が反映されている. 不遇の時代を経て,現在の地位にいたるまで,その全ては男性の尽力だという,相撲の 歴史を物語っている.
形態や意匠に見る相撲文化 江戸時代中期まで全国の城下町において勧進相撲が旺盛し,相撲は庶民にとって身近な 娯楽だった.しかし,現在の相撲協会の前身組織が誕生すると,娯楽としての相撲は江戸 (東 京)に集中していく.さらに,土俵の柱や屋根はやがて形骸化し,表層的な意味を上書き していくこととなる. 一方,地方の相撲文化は東京のそれとは独立して成熟していった.例えば「入母屋か神 明造か」とか「千木が鰹木が」というテーマが語られることはない.しかし,地方の土俵 においても柱の着色は存在し,この点から,四神相応の概念は総体としての相撲文化の源 流にあるのだと理解できる. 二分化されるまでの相撲において屋根は,風雨をしのぐ目的だったり,観戦上の快適さ を求めた結果だったりと,ローカルな条件を解いた結果出現した要素だと言える.
(左上から右下へ)①江戸時代前期は相撲 とりを群衆が取り囲む「人方屋」が見られ た.これが土俵の原型である.②土俵の空 間性を規定するために最初に登場した構成
要素は四隅の柱である.③江戸末期になる と両国回向院が相撲興行の聖地となってい
く.この当時の屋根は切妻だ.④初代国技 館の完成により土俵上の屋根は機能を失い
意味性のみが形がい化していく(入母屋). ⑤ 1931 年以降,相撲=国技という図式を
求めた相撲協会は天皇家を連想させる神明
造りの屋根を使用しだす.⑥現在の国技館 の屋根は柱が取り除かれ房に四神が宿る.
相撲空間の変遷 9
field survey:
SUMO Community
深浦町にある公営相撲場.坂道を登った先に現れる木造の切妻屋根.周囲に張り付く鉄骨には催事の際にシートをかけ土俵をテントのように囲うようだ.
鰺ヶ沢町の丹代道場は農業用ビニールハウスをリノベーションしたもの.天井にはブドウの実がなっている. 10
鯵ヶ沢町営相撲場
深浦町営相撲場
S57.7 に竣工.鯵ヶ沢高校に隣接している
平常時はシートがかけられ使用不可.土俵
が普段の使用はない.塩害の影響で腐敗が
には木造の屋根がある.周辺には骨組み取
進む.毎年 9 月上旬に開催される相撲大
り付けられ,相撲大会時にシートなどをか
会で使用.30 年前には高校総体の相撲の
けて屋根代わりにする.毎年,小学校の全
会場として使用されていた.
校相撲大会が開催される.
正八幡神社
春日神社
正八幡神社.鰺ケ沢駅や港に近く町のメイ
本殿と崖の間に土俵が設けられている.普
ンストリート沿い.過去は屋根付き土俵が
段はシートがかかり使用不可.毎年小学生
あり神楽相撲(7 月上旬)が恒例行事とし
の神楽相撲が行われる.だが今年は土俵背
て行われていた.舞戸小学校の全校相撲大
面の岩山の崩落があり中止.過去に取り組
会に受け継がれている.
み中に廻しが取れる珍事あり.
丹代道場
鯵ヶ沢中学校相撲道場
町議会議員・齋藤孝夫さんが指導,地元の
竣工は平成 8-9 年.校舎と離れており相撲
青果店の出資で運営.農業用ビニルハウス
部の生徒は放課後にバスで移動.部員は 4
を改修して道場にした.道場出身の関取多
人.指導員は埒見恒さん.大相撲経験者が
数.毎日 16:00-18:00 で稽古.現在の門
指導をしているケースは珍しい.冬季は丹
下生は小学生 8 人.
代道場の生徒と合同稽古.
天心館道場
舞戸小学校土俵
S54 年に竣工.山﨑峰雄さんが指導.稽古
校庭の端に屋根付きの土俵がある.常時土
は平日毎日 1-2 時間.現在の門下生は 2 人.
俵はビニールシートがかけられ使用不可.
安美錦などの OB も帰省時には立ち寄る.
年に一度,全校相撲大会が行われるのが恒
地元出身の相撲関係者が帰省の際に立ち
例行事で,その際に使用される.
相撲 × 祭り 西津軽では古くから,地域の祭事の中で相撲をとる習わしがある. 特に,「神楽相撲」と呼ばれる奉納相撲が神社で行われる際には,子供から年配者まで多 くの地域住民が集い,交流する. かつて鯵ヶ沢の公営相撲場では,インターハイの決勝やアマチュア相撲の全国大会が行わ れるなど,全国的に著名な「聖地」として相撲文化の中心にあった. しかし現在,屋外相撲場は老朽化が深刻で,このような大規模な大会の誘致はできなくなっ てしまった.同時に,地域の青少年の相撲競技者も減少し,文化の継承が危機的状況に立 たされている.
典型的な相撲道場の平面(鯵ヶ沢中学校相撲道場) 相撲 × 学び 「子供達が使っているまわしは安美錦関が寄贈してくれたんだよ」 鯵ヶ沢中学校の相撲部指導員の埒見さんは嬉しそうに,地元出身の名関取の名を挙げ語っ た. 西津軽出身の関取は数知れず,そしてその多くは少年の頃,左に示した道場の門下生だっ た. 埒見さんも元九重部屋に所属していた大相撲経験者である. 丹代道場では,学校の通知表の成績が下がったら道場を破門になるそうだ. 外国人力士が旺盛し,相撲は強ければいいという風潮も見られる中,西津軽では「文武両 道」の精神を相撲を通して子供達が学んでいる.
寄る「集いの場」のような存在. 11
field survey:
History of Ajigasawa
埋立 本町
1970 年代までには現在の役場周辺まで埋め立てが進んだ.しかしこの当時においても, 田中町から本町に至る西浜街道北側は明治期の古地図と同様な都市空間が残っていた. やがて 2000 年代になるとさらに埋め立てが進み,西浜街道の南北両側に住居や施設が配 置されている.現在の漁港や海の駅が存在する場所は,この間に干拓されたものと断定で きる.
本町
田中町
日本海
舞戸
明治 22 年当時の古地図
現在の地図(国土地理院)
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旧街道
鉄道開発
この地区は古地図と現状の道路線形がほぼ一致しており,明治期からその姿をほぼ変える
ヒアリングより, 明治期の現在の駅周辺は東側や西側を問わず, そのほぼ全域が水田であっ
ことなく現在に至ることがわかる.また間口の狭い特徴的な地割りに関してもほぼ変わる
たと言われており,鉄道の開通によって発展した地区であることがわかった.また,駅西
ことなく現在に至っている.ヒアリングから,図中の太い線で描かれた道路は街道として
側は昭和 50 年頃に区画整備されており,東側については特に区画整備等が行われた記録
近世から存在するものと言われており,独特の地割りは宿場町としての特徴として当ては
はないという証言を得た.さらに今後もこの区画を整備する計画は存在しないこともわ
まる.
かった.
田中町
舞戸
明治 22 年当時の古地図
明治 26 年当時の古地図
現在の地図(国土地理院)
現在の地図(国土地理院)
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Theory:
SUMO Urbanism
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日本海
中村川
前近代は上方へ向かう貿易港,近代以降は漁港として地域の
川沿いをなぞる西浜街道を歩くと,江戸時代から続く宿場町
人々の生活とともに歩んできた.
特有のスケール感を持った都市空間を経験できる.
五能線・鯵ヶ沢駅
岩木山
弘前や五所川原といった市街地と鯵ヶ沢をつなぐ鉄道.単線
津軽地方では「津軽富士」と呼ばれ信仰の対象となってきた
気動車特有の圧倒的な車窓を経験できる.
名峰.町内の至る所から見ることができる.
田中町の丘の上から南東方向を見る.右に日本海,中央に鯵ヶ沢駅,右奥に岩木山が見える.
四神相応 × 相撲 相撲空間における四本柱は土俵が登場する以前から存在したといわれている.黎明期は 競技空間の境界を規定する意味が強かったと言われているが,やがて東西南北に相当する 着色が施されていく.これが「四神相応」である.それぞれに「海」「山」 「川」 「道」と いう意味が存在し,この思想の導入により土俵空間の「聖域化」が進んでゆく.
屋根なし四本柱(『書證録』より)
四神相応 × 都市
「景観の中でも,背後に山を負い,左右は丘陵に限られ,前方にのみ開いているというタ イプの景観 ...これは,深層心理学的にいえば,実在しえないにもかかわらず人間にとっ てもっとも快適だと想像される眺め=子宮からの眺めに似ているのではないだろうか」 これは樋口忠彦「日本の景観」において「四神相応」について述べた一節である.彼は 日本の古来から継承される景観のタイポロジーを分析し,都市的な解釈に関して論述して いる.本提案では鯵ヶ沢の都市空間で仮想の方位を定義し,集落の景観学の観点から形態 を導出する.
樋口忠彦式・鯵ヶ沢の景観図 15
Design:
Master Plan
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観光 相撲資料館 産直市場や郷土料理
鯵ヶ沢駅舎・道の駅 谷の並木街道
アマチュア相撲の大会の誘致 展望台 地域 町内相撲大会 住民の集会所 相撲関係者の拠点
相撲場 まちの象徴
災害時の避難施設 農産物・海産物の朝市 教育 相撲の稽古による社会教育 角界を担う人材の育成 小学校の全校相撲大会
道場 山辺の集いの場
Site plan (Scale: 1/1600)
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Essay:
Urban experience
鯵ヶ沢バイパス
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鯵ヶ沢駅・道の駅
駅前通り
中村川
相撲場
道場
歩いて体験する「角力の都」 来訪者は鯵ヶ沢駅の「並木街道」を通り抜け,海口から町へ降り立つ.駅前通りの先には 地形の特異点のような丘がある.そして丘の輪郭を描く相撲場に目を奪われ,自然とそち らへと歩きだす.中村川の橋に差し掛かると,今度は旧街道に立ち並ぶ町屋のスカイライ ンから少し顔を出す道場の大屋根を見つける.そこで相撲の稽古をする子供達に目をやり ながら丘を登っていくと,相撲場へとたどり着く.ここは地域のみならず全国から力士が 集う「相撲の聖地」になる.そしてここから,町を見渡すと,岩木山や日本海など鯵ヶ沢 の都市景観を生み出している多様な風景が広がる.
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Proposal 1:
STATION of Ajigasawa
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三つの屋根はそれぞれ既存の都市空間に接続され,固有のプログラムを生み出す.
都市軸を意識させる大断面架構の屋根が空間を包み込む.
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PARK
ING
これまで駅(海)とバイパス(山)は都市空間的に分断され続けてきた.この二つをつ なぐような鉄道駅と道の駅,二つの駅を提案する.既存の生活道路の線形を引き継ぐよう にかけられた屋根を持つここは,地域の人が日常的に集う場であり,観光客にとっての町 の玄関になる. また,巨視的な地勢的解釈では岩木山と田中町の丘という二つの山に挟まれた谷に位置 する当該敷地において,「川−道軸」に沿った古い道路線形に対峙するように「海−山軸」 上に比喩としての並木街道を作ることをめざす.
屋根形態 線路,既存の道路など,「川−道軸」に並行した動線要素上に切妻屋根を設ける.それ らの軒先を延長し,道同士で挟まれた空間を屋根でつなぐ.その間において接地させるよ うな断面形態をとる曲線の屋根を架けることで,鉄道やバイパスを利用する観光客や既存 道路を利用する住民,など様々な人の動きを引き込むことをねらう.
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全長約 150 メートルの駅舎の長手方向に架けられた集成材による大断面架構は,来訪 者に対し「海−山軸」方向への意識を与え,空間に「流れ」を生み出している.また,そ の屋根を支える丸太柱は等間隔に置かれ,これが「海−山軸」方向における並木街道とし ての空間性を暗示している. その軸の原点にあたるプラットホーム上からは,駅舎の海側,山側それぞれの端部まで 見渡せるように平面,断面構成を配慮し,視線の抜けを獲得している.これにより,「川 −道軸」に並行した既存道路を往来する人々と,駅舎内でのアクティビティが重なり合い 空間に重層性を生み出している.またホーム上からは岩木山を望めるよう配慮されている.
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大階段を進む.谷から徐々に地上へのぼる空間体験.
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海 – 山方向の視線の通り抜けを意識させるため,Y1-Y3 軸上には壁面を設けず,階段に ついても目線の高さである 1,500mm 程度の高さにおいて踊り場を設けるなど配慮してい る.また天井高についても,連続的に変化させ人と木の距離感に多様性を生み出している.
C-C' Section (Scale: 1/200)
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プラットホーム上の二枚の屋根面が衝突する部分は,相撲の立ち合いの瞬間を思わせる力強い造形.
土俵広場では近隣の小学校の相撲大会が開催される.
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A-A' Section (Scale: 1/500)
B-B' Section (Scale: 1/500)
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C'
B
A
C
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B'
A'
Plan (Scale: 1/500)
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Proposal 2-3:
Hall and Dojo
駅を出て港方面に歩くと,突き当たりの丘に相撲場,その麓に道場が見える.
海
駅海口を出ると,大通りの先に相撲場と道場が見える. 人々はそれに引き寄せられるように,「丘」へ向かって歩き出す. 相撲場及び道場は,駅から延長する仮想の軸線「海−山軸」が丘と交わる点において,
川
相撲場
ヴォイド
直角に交わる「川−道軸」上に計画している. また本計画では,「海−山軸」の延長上をヴォイドとし,その「道」側,「川」側にマッ スを配置している.これにより,丘が壁となり都市空間的に不連続となっている「海」の
鯵ヶ沢駅
存在を暗示する.
山
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道場
道
港方向から見る.駅,相撲場,道場それぞれに異なった屋根形態が与えられていることがわかる.
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Proposal 2:
Hall
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「海−山軸」の特異点としての丘には,人々の心の拠り所になる相撲場を設ける.ここ では毎年,神楽相撲として町民が一丸となり相撲大会を行ってきた町の歴史を引き継ぎ, 相撲文化の精神を体現した場となることをめざす. この丘は「川−道軸」に対面すると緩やかで,「海−山軸」に対面するとお椀型の急勾配 な輪郭を持っている.この特徴を建築形態に反映させている.基本的には,方行屋根の頂 部を切り欠いたような屋根形態とし,平面を「海−山軸」方向に長い矩形の輪郭とするこ とで,丘の輪郭線に対話するような屋根とする.
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鯵ヶ沢の海山川道が,土俵から四方に伸びる花道の先に見える.これが「虚の柱」として空間の正面性を規定する.
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海方向を見る.
屋根と水平面で反転させたような形態を合わせた「お椀とふた」で空間を構成している. これにより,内部では相撲場としての競技−観戦空間,逆三角形の断面形状を持つ半屋 外空間を創出している. 内部においては,土俵を中心に置き,そこから放射状に伸びる「花道」により外部に通 ずる.そのうち「山」側の二本の花道は,この敷地の既存の山道に接続する.一方,「海」 側の二つの花道は,大会時の控え室となる大部屋などに通ずる. 一方,半屋外空間からは岩木山をはじめ, 「山」方向の鯵ヶ沢駅, 「道」側の道場や日本 海を望める展望台となる.ここでからの眺望は,本計画の全貌をみることが出来るととも に,四神相応に基づいた日本の景観の思想を暗示的に理解できる.
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Elevation of Sea (Scale: 1/400)
Elevation of River (Scale: 1/400) 偶数の列柱は女性を象徴している. 中央の柱間のみ広くなっていて「海」に開いている. これは女性の器官を暗示させるためである. 男の空間としての伝統を受け継いでいる相撲の世界. たとえば,大相撲の土俵上の神明屋根に乗る鰹木は五本だが,奇数は男性を意味する数で ある.また,千木は先端を地面に対して垂直に削る「外削ぎ」の意匠が用いられており, これも男の神を意味している.このようにして,相撲の空間は男の世界を主張している. しかし,相撲の歴史を紐解いていくと,女性禁制になったのは近代以降であり,日本書紀 に記載のある初めて相撲を取った人物は女性であったことからも,相撲空間が男を象徴す るべきだという考えは,再考されるべきものだ. この相撲場は海立面に現れる柱は九本で,川立面に現れる柱は十本.それぞれ奇数,偶数 の組み合わせになっている.これは,男女が共存する相撲のあり方を暗示している.この 地域のアマチュア相撲では,男女が入り混じり一つの土俵場で稽古をしている.男女双方 を受け入れる相撲空間をここに提案している. 40
支度部屋は階段状の観客席のスリットから光が差し込む.
Section (Scale: 1/400)
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1F plan (Scale: 1/450)
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2F plan (Scale: 1/450)
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Proposal 3:
Dojo
海と山をつなぐ路地.近代の駅前開発によって生まれた駅前通りと,近世からの西浜街道をつなぎ,相撲のアクティビティと住民の暮らしが交差する.
海へと誘う山辺の道場 駅や相撲場が「ハレ」の空間であるなら,この道場は「ケ」の空間である.ここは,相 撲の稽古に日々精進する青少年のための道場である.同時に,鯵ヶ沢を巣立った OB 力士 たちが集い,交流する場所となる. 古代から,日本人は山辺の地を住処として文明を築いてきた歴史がある.この鯵ヶ沢に おいても,前近代の弘前藩の時代から,当該敷地の地域は宿場町として賑わってきた. また,この敷地は役所や市場,鯵ヶ沢高校などがある「海」エリアと,鯵ヶ沢駅を結ぶ 動線上にあり,毎日通勤や通学で人の往来が盛んな場所である. 毎日,夕方には稽古に汗を流す子供達とそれを見守る町の人々の姿をみることができる だろう. 44
外観
稽古場の様子
屋根形態 上記の往来する人の流れを考慮し, 矩形平面の対角線に棟を設けた切妻屋根を設計した. この棟を見上げるかたちで,地上にはヴォイドを設け,人の流れを引き込む.この形態を 採用することで,終点としての相撲場との対比が鮮明となり,アイレベルにおいて「暗示 的な軸の存在」に対峙する存在になる. 空間 マッスを対角線で分割しているため,二つの大空間が生まれている.これを道場と集会 所として割り当てている.外周部は壁がちな立面とし,内側のヴォイドに対して開くこと により,このヴィオドがより都市的な「街路」になる.
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1F plan (Scale: 1/300)
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2F plan (Scale: 1/300)
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子供達が日常的に土俵に触れる環境を作ることがもっとも重要だ. これは,相撲の宗教学に精通する内館牧子(元横綱審議委員)が自身の講演会において, 日本の相撲文化の再興をテーマに語った言葉だ. 今回の対象敷地である鯵ヶ沢は,国内有数の相撲都市でありながら,それらのコミュニ ティーは分散,孤立しており,鯵ヶ沢の都市空間にうまく接続できずにいた.中学校の本 校舎から遠く離れたところにある道場へは部員たちがバスに乗って通うという. 本提案では,鯵ヶ沢駅と港を結ぶ「海山軸」を町の中心線と位置づけ,前近代(街道)と 近代以降(駅前開発)の文化の結節点とも言える場所に道場を計画した. ここは,地元の学生や住民,観光客など多様な人々が駅と港の行き来のために通る場所. この可能性を最大限に道場に引き込むために,ボリュームを対角線に貫通するようなヴォ イドをもうけ,ここを路地空間としている.そしてこの対角線を大棟とするように大屋根 をかけることで,駅からも,相撲場のある丘からも,港からも見える「門」として都市に 構える道場となる.
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Section (Scale: 1/300)
Elevaton of Sea (Scale: 1/400)
Elevaton of Sea-River (Scale: 1/400)
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Essay:
Afterword
あとがき 本提案では,相撲と建築に関する多面的な調査に基づき,青森県鯵ヶ沢町を対 象敷地とし,地方における相撲文化の持続的な継承を目的とした建築群を計画し たものである. 大相撲ではなく,あえて地方のアマチュア相撲に対象をおいた背景としては, その根拠となる考察が二つ存在する. 最初は,相撲空間の変遷の歴史を分析する中で,純粋な相撲空間は前近代まで に成熟していおり,興行団体としての大相撲が確立されてからはむしろ「国技と してのブランディング」に空間や細部意匠が支配されていったという事実が分 かったからだ.前近代まで,相撲興行は全国の城下町でローカルに行われいたこ とは先述の通りだが,それが初代国技館などに代表されるように大相撲=両国と いう図式が確立されたことによって,地方における相撲文化は衰退をたどること となった.空間形式の変化と,総体としての相撲文化の移り変わりには少なから ず相関性があると考えられる. 二つ目として,現地調査を敢行した結果 – 青森西津軽地方が全国的に見ても相 撲の盛んな地域であるにもかかわらず,その現状は深刻で,相撲文化の継承が危 ぶまれていることが判明したからだ.さらに,当該地域において,その住民や行 政が「角力の都」としての価値を意識しておらず,発信力に欠ける点もこの問題 を深刻なものにしているのではないだろうか. 大相撲は常設相撲場(国技館)の設置により,その「国技」としての価値を確 立した.これに習い,この鯵ヶ沢においても地域における相撲の殿堂となるよう な建築提案を行うことにより,「角力の都」としての価値を創出することができ るのではないかという着想が,提案の原点となっている. 実際に設計を行う際に参照したのた「四神相応」の思想である.これは先述の 通り,日本の古来からの都市景観を「海」 「山」 「川」 「道」という要素に還元し 都市を構築していこうとする考えである.この思想は相撲においても柱が出現し たことにより導入され現在に至る.本提案においてこの思想は,土俵を囲む柱に のみ持たせるのではなく,鯵ヶ沢の都市全体にマクロな座標系を定義し,都市空 間や景観そのものが土俵の方位を決定づける要素として振る舞う. これにより,それぞれの建築提案に全体性を持たせるとともに,これまでのミ クロな表層的な意味性とは異なる相撲空間の概念を獲得できる提案となった.
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References
参考文献 【書籍】 [1]「女はなぜ土俵にあがれないのか」内館牧子,幻冬舎新書,2006 [2]「大相撲の経済学」中島隆信,東洋経済新報社,2003 [3]「相撲社会の研究」生沼芳弘,不昧堂出版,1994 [4]「相撲,国技となる」大修館書店,風見明,2002 [5]「相撲が楽しくなる本」もりたなるお,梧桐書院,1992 [6]「相撲の歴史」新田一郎,山川出版社,1994 [7]「相撲の歴史」日本相撲協会 [8]「国宝大崎八幡宮/仙台江戸学叢書 18 /仙台城下の芸能事情」,水野沙織, 大崎八幡宮,2013 [9]「日本の景観」樋口忠彦,ちくま学芸文庫,1993 【雑誌】 [10]「芸術新潮 1993.7 /日本文化を支えてきた相撲の美学」新潮社,1993 [11]「SD 別冊/ No.17」鹿島出版会,1981 [12]「新建築 198503」新建築社,1985 [13]「新建築 201611」新建築社,2016 [14]「建築雑誌/第 271 号 ” 相撲常設館 ”」辰野金吾,日本建築学会,1909 【論文・リサーチ】 [15] 青森県都市計画マスタープラン,青森県,2010 [16] 青森県都市計画基本方針(概要版),青森県,2010 [17] 鯵ヶ沢都市計画区域の整備,開発及び保全の方針(鯵ヶ沢都市計画区域マ スタープラン) ,青森県,2011
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Special Thanks
機材・施設
指導教員
鎌田 恵子
石田 壽一
(東北大学技術職員) FLAT SENDAI
(東北大学大学院 教授) 井上 宗則 (東北大学大学院 助教)
データ制作 谷津 健志
企画助言
佐々木 遼
内館 牧子
小山内祥多
(作家)
(東北大学) 現地調査 作品展示 トウキョウ建築コレクション 2017 実行委員会 代官山ヒルサイドテラス
千田 秀人 (鯵ヶ沢町教育委員会教育課) 山﨑 裕介 (深浦町消防本部)
模型制作 小原 慶史 岡本 有輝 岩渕 風太
齋藤 孝夫 (鰺ヶ沢町議会議員/丹代道場) 埒見 恒 (鯵ヶ沢中学校相撲部指導員)
大場 優作
山﨑 峰雄
松田健太郎
七戸 達也
神谷 将大
(天心館)
尾瀬優香理
鰺ヶ沢町のみなさん
本田 圭
深浦町のみなさん
(東北大学) 佐藤 詩菜 (仙台育英高校)
資料提供 松山 茂樹 (鰺ヶ沢町建設課・建築班)
松島宏治郎 (東北大学大学院)
藤山真美子 (東北大学大学院 助手)
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ARCHITECTURE PORTFOLIO 2012-2016 吉村亮毅 作品集 440 | Not Found
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