金本太中の私の中の歴史

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業は、国際基準を意識しないわけにはいきません。

国際基準を目指すべきカナモトの社長として、私は、あまりにも古いタイプの   経営者であると自認しています。

私の時代は終わりました。新しい酒は新しい革袋に入れなければなりません。 カナモトは、常に終わりのない旅をしなければならないのですから。

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今、経済のグローバル化にあって、好むと好まざるにかかわらず、すべての企

考えたからです。

人材の薄いわが社の場合、同族を理由として、排除の論理をとるべきではないと

後任には、金本寛中副社長を選び、私は、これはベターではなくベストの選択 だと言い切りました。脱同族を言いながら、実弟を登用したことへの答えです。

そのためには変革が重要であると語ってきました

くれたことに、感謝しています。かねてから、企業は永続的に存在すべきであり、

私は、万感の憶︵おも︶いをこめて、頑迷一徹で、皆さんの掬︵きく︶すべ   き建設的な意見を十分に採り入れず、わがままであった私の指導に忠実に従って

て、私は、あらまし、次のようなメッセージを社員に発信しました。

祝賀会に先立ち、プレス発表を行い、祝賀会のあいさつの最後でも、社長辞任 についてふれました。すべては、淡々と行われました。社長を辞任するに当たっ

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つながります。

元来、株式を公開するということは、該当企業の透明度を高めることだと、私   は愚直に理解していました。事実、東証二部から一部への昇格にあたっても、審

査の基準は、株主責任を果たすための、より高い透明度を要求されたように思い ます。

同時に私は、当然の願望として、札証上場のあとは、東証二部そして東証一部 への上場を、明らかな目標としていました。しかし、東証一部が最終駅ではない という考えは、すでに述べた通りです。

東証一部への昇格を果たし、今年四月二十三日には、一部昇格の祝賀会を札幌 グランドホテルで催しました。これに先立つ五時間前、かねて招集していた取締

役会で、私は、十七年続けてきた社長を辞任し、会長になりたいとの意思表示を しました。ほとんどの取締役にとっては初耳でした。 39


新たな旅 立 ち   ∼十七年続けた社長に終止符∼

た。ハードルが高いということは、より高い透明度を要求されるということにも

私は、株式を公開するのは、知名度は二義的なことであり、まして、より審査 基準が緩やかだからというのは、株式公開の本旨とは外れていると考えていまし

いわれのないことですが、当時は、一般に店頭よりは地方上場であれ、取引所 への上場の方が審査は厳しいと考えられていました。

は高いほうが良いのです と。

この時、 多くの人から、取引が活溌で、知名度も高い店頭市場をなぜ選ばなかっ   たのですか と、よく聞かれました。私は、その都度、答えました。 ハードル

カナモトは、一九九一年札幌証券取引所への上場を果たしました。

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される機材は同業者を通じて地域に送り込む

卸レンタル

共生 。当社に、新しいキーワードが加わりました。

の手法を採用するこ

とにしました。震災を契機に築いた信頼関係は、今も強固に機能しています。

現在は、東日本を中心に、西は大阪地区にまでしか出ていませんが、これから は、全国土を視野に入れなければならないでしょう。今では、西日本への展望が ひらけてきたと自負しています。

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との申し

そこで当社はそれ以降、関西への直接進出を最小限にとどめ、それでも必要と

復興を優先させたい業界としての使命感。そのジレンマがよくわかりました。

入れを受けました。自らの領域に、北海道の企業に入り込まれるつらさと、災害

震災後、関西の業界団体から 緊急事態なので、ぜひ協力してほしい

関西地区には中小の建機レンタル業者が多数あります。彼らは当時、当社のよ うな大規模企業がこの地域に進出することを、大変警戒していました。しかし、

ことは目に見えていたのですが、災害復興ですから、採算は二の次でした。

半数程度は新車でした。この時期にこれほどの追加設備投資は経営の負担となる

約五百台、油圧ショベルとそのアタッチメントが各二百台。ダンプとトラックの

私どもの会社の建機やトラックが、崩壊した建築物の除去、廃材運搬から、復   興 ま で 神 戸 で 活 躍 し ま し た。 投 入 し た 機 材 は 二 四 ト ン の ダ ン プ と ト ラ ッ ク が

まない人はいないのではないでしょうか。

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会社は当初、父親が鉄鋼の販売業を興した室蘭を中心に営まれてきましたが、 次第に北海道全域に及んできました。脱室蘭です。

それは同時に、脱鉄鋼を意味します。オリックスの資本参加を得て、急速かつ 積極的に本州に進出しました。脱北海道です。北海道はとりわけ、公共事業依存

度が高いのですが   過度の公共事業依存を改めようというのが本州進出の狙いで した。

東北、関東と営業所を増やし、関西で初めての大阪営業所を開設した一九九四   年の翌年一月、衝撃的な阪神大震災が起きました。

災害の発生を知るや否や、全社の営業所で使われていない機材で、復旧に必要   な機械をすべて関西に投入できるよう指示、私も兵庫に飛びました。無残にも倒

壊したビル、燃え尽きた家屋⋮。およそ人の痛みを知る者なら、この光景を悲し 35


関西への 第 一 歩   ∼震災復興を機に信頼得る∼

現在、カナモトはレンタル部門が総売上の %を占め、収益の大半を占めるよ うになりました。社員も一千名を超えました。

そこから脱せよ と私は社員に言ってきました。

体面にかかわっていては前進はない。現状を冷静にながめ、否定すべきは否定し、

私は 変革こそが、企業の永続的な存在を担保するものだ との考えを久しく 抱いています。 変革は自己否定なしに成就しない。自らの成功体験に執したり、

います。それに対処できるのは、変革でしょう。

なりました。現代を象徴するキーワード〝変化〟という怪物が、世界を支配して

人間は、いつかは死を迎えねばなりませんが、企業は対応のよろしきを得れば、 永続的に存在することが可能です。しかし、時間は加速の度を速め、地球が狭く

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この方針に従い、当時のオリエント・リース︵現オリックス︶と業務・資本提携

し、オリエント側が当社の株式を %取得することで合意をみました。

蛇足ながら、同族時代の私は、長男をいずれ後継者に、と期待していました。 長男の死が、非同族化の契機となったと言えなくもありません。

八〇年三月末のことです。カナモト側は私、オリエント側は宮内義彦現社長が、   交渉推進の当事者でした。当時、二人はともに専務から副社長になっていました。

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八一年、私は社長に就任しました。

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当然のことながら、すべての役員が、非同族への道を選ぶことに賛成しました。

泰が保証される と。

いばらの道だ。逆に同族会社を続ければ、成長は望めない代わりに、一族には安

に外部資本の導入を図らねばならない。ただし、この道は、同族の者にとっては

には無理がある。もし会社をもっと成長させようとするのなら、同族脱皮、さら

百億円企業入りを契機に、会社の今後の在り方について相談したい。同族企 業のままだと、資金調達の制約と人材不足から、百億円以上の飛躍を期待するの

長男の死の翌年の決算は、 売上高が百億円近くになりました。立ち直った私は、   全役員︵といっても当時はすべて兄弟でしたが︶に次のような提案をしました。

すると、山頂の霧がはれるように、心のもやもやとしたものが、次第に消えて いきました。

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とばではありませんが︶ 運命のいたずらな仕打ちに、 自失する昨今であります。が、

私には、まだ、なさねばならぬことが数多く残っておりますので、悲しみにめげ ず生きて行かねばと心にむちうっております。

悲しみは長くつづきました。死の直後から、般若心経を読み始めました。今で も、毎朝、この経をかみしめるように誦︵じゅ︶しています。

ある日、あまりにもいえない心の傷に、どうしてだろうかと自問しました。も   しかしたら、心のどこかで、時の流れが悲しみを忘れさせるのではあるまいかと、 ひそかに期待しているのではないかと、気づいたのです。

がく然としました。そして、すぐ、亡き子のことを一生忘れてはなるまい。そ のためには、亡き子と、常にともに在る、食べている時も、街を歩いている時も、

思索にふけっている時も、常に一緒なのだと考えることにしたのです。 31


長男の不 慮 の 死   ∼悲しみ乗り越え業務拡大∼

亡くなった子への想︵おも︶いは時を経るに従い、ますますつのり︵すきなこ

東明は最初の子でもあり、たんせいして育て、彼もよく私どもの意を体して成 長して来ました。 それだけに子の死はいっそういとおしく、また、無念であります。

当時を語るのはつらいので、その年の十二月に新年の欠礼を知らせるために出 した手紙の一部を紹介します。

しかし、災いが突然、降りかかってきました。七八年四月三十日。あれほど期   待をかけ、丹精して育ててきた長男、東明が東京で不慮の死を遂げたのです。

一九七二年に金本商店から現社名のカナモトに改めました。事業は順調で、ま さに順風満帆でした。

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道路や新幹線、東京五輪、大阪万博と、大型工事が相次ぎ、呼応するように徐々 に活発になってきたのです。

当社も、六五年を一としますと、七〇年に十三倍、七五年に七十九倍と急伸し、 八〇年には全社の売り上げのうち %を占めるまでになりました。 32

これは目的意識的に建機レンタルの事業化を促進させた結果であることは、い うまでもありません。

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案の定、六〇年代になると民間事業としてのレンタルが増え始めました。高速

てくるものです。

ます。それが経済原則です。原則を重んじれば、将来は、おぼろげながらも見え

た。ピーク時に対応して設備投資すれば、固定費の増大を招き、経営が硬直化し

し か し、 私 は、 当 時 は ま だ 補 完 的 な 役 割 に 甘 ん じ て い た 建 機 レ ン タ ル 事 業 が 、 いずれは建設業界全体の施工能力を高めるための主流になると確信していまし

加速させました。

した。自社保有は公共事業を受注するのに有利な条件でもあったことが、それを

その後、国土開発のためのダム工事、治山治水、道路・港湾などの社会資本充   実のための工事が増大し、請負業者側は機械化、つまり建機の自社保有を進めま

ありませんので、最初は国が大量に機械を保有し、業者に貸与していました。

に、輸入機械や占領軍の払い下げ機械が使われました。当時、民間に保有機械が

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きょうだいは七男三女で、私は二男。長男と三男、長女の夫が家業を手伝って いました。申し出の同意を得たあと、今度は同族集団を円満に運営するため、同

一、おのおのの妻が、それぞれの立場で経営に口を出さない。

一、金銭を争わない。

一、地位を争わない。

族として事業に携わる者は、次のことを守ってもらいたいと提案しました。

正論でいわれれば、だれも反対はしません。これを私は、金本家の三戒として、 同族経営を進めるうえでの基本としました。

株式会社金本商店を発足させました。長男が社長、二男の私が専務、   六四年十月、 三男が常務です。発足当初は、鉄鋼の取り扱いが主で、建設機械のレンタルは一・

八%にすぎませんでした。 日本での、建設機械のレンタルの歴史に若干触れましょ

う。戦後の食糧増産のための開墾、被災地の復興、占領軍の関連工事などのため 27


兄弟と企 業 経 営   ∼建設機械レンタルに着目∼

対等の立場に立つことを認めてもらいたい

と。

そこで一計を案じ、 ある申し出をしました。私を家業に従事している一族の者と、

しばらく様子を見ていましたが、組織の実体をなしていないことが分かり、ま ず組織づくりから手を染めようと決めました。とはいえ、私はしょせん新参者。

着のみ着のままに近い状態で、室蘭での生活を再開しました。父が在世中の最 後の期の売上高は、一億六千四百万円。従業員は、ほぼ三十人でした。

ず一年間、手伝ってみようと室蘭に戻りました。

がありました。生前、父が私の事業参加を強く望んでいた事情もあり、取りあえ

一九六三年二月、父が旅先で急逝しました。葬儀の後、父を助けて鉄鋼を扱う 事業に携わっていた兄や弟から 一緒に事業に参加してもらえまいか との要請

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品です。

先生には、姜舜氏を通じて近づきを得ました。まさに大人物で、若いわれわれ   には輝いて見えました。ダンディーで、博覧強記、抜群の記憶力と言語能力。私 は祖国の文化のすべてを先生から学びました。

コリアン・ライブラリーという名で、子供たちのための韓国民話集を小冊子の シリーズで出しておられました。先生からは、コリアン・ライブラリーの編さん・

出版を引き継いでくれないかとのお言葉がありましたが、固辞しました。当時の 私には荷が重すぎたからです。

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五賊

という作品で知られる金芝河の詩

同時代のすぐれた詩人の作品を流麗、的確に翻訳し、世に問うたことで知られ て い ま す。 岩 波 文 庫 の 朝 鮮 詩 集 朝鮮童謡選 は今でも名著の誉れが高い作

いころ勉学にいそしんだ東京での滞在を、余儀なくされた人です。

もうひとりは、金素雲︵キム・ソウン︶先生です。ペンクラブの韓国代表でパ リに行きましが、朴正煕政権に批判的な発言をしたことで帰国できなくなり、若

集や、先鋭的な若い詩人の翻訳でも知られています。

いました。韓国の軍事政権を風刺した

もっとも詩以外のことは、まるで駄目な、大の飲んべえで、 赤貧洗うがごと く という言葉は、彼のためにあるのではないかと思われるほどの貧困のなかに

を最も理解してくれた一人でもありました。

らにも習熟し、それぞれのことばですぐれた詩集を出しています。そして私の詩

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を担当したり、 世界大衆文学全集

に分担してかかわったりしました。

小山書店を辞めたのは、まだ見ぬ故国への思いが募ったからです。その後六年   間、民族系の学校の教壇に立つことになりました。この間に私は閔泳福︵ミン・

ヨンボク︶と結婚し、二男一女をもうけました。あとで触れますが、心魂を注い

で育てた長男が二十歳前に不慮の死をとげ、それが私の人生、経営観を変えるこ

とになります。教師時代はマルクス・レーニン主義に接し、少なからぬ影響を受

けました。文学青年としての感性と、このころに培われた論理を重視する態度は、 経営者としての私の〝車の両輪〟となっています。

教師時代の限られた交友の中からは、二人のことだけお話ししておきます。

ひとりは、姜舜︵カン・スン︶という詩人です。   私より、ひと回りほどではありませんが、年上の人で、母国語と日本語のどち 23


教師時代 の 交 友   ∼祖国の文化のすべて学ぶ∼

と、妙に感心しました。それでも、若干の作品を書き、同人誌

最初に勤めた小山書店には、それほど長くいたわけではありません。それでも、 当時ベストセラーとなった藤村幸三郎氏の 推理パズル という今でいう新書判

や 現代詩 という詩誌に発表しました。

です。 さすが

のない表現や、ことば以外の要素に振り回されていたのを、彼は鋭く指摘したの

このような書き方をしていたら書けなくなるんじゃないか と、   大岡は 君は、 心配してくれました。事実、そうなりました。張りつめてあまりにも余裕や遊び

私の詩集の出版では、飯島耕一︵詩人︶や大岡信︵詩人・評論家︶が記念会を 開くために奔走してくれました。

東京では、青春時代を含め十七年間生活しました。

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囚われの街

酒と女には気をつけた

を書肆︵しょし︶ユリイカから

入社時の保証人は、恩師の渡辺一夫教授。教授は 君、悪いことだけはしてく れるな、生活に窮したら、ボクがコメでも何でもできることをするから と言っ てくれました。この年、私は詩集

自費出版しました。渡辺教授に贈呈すると、詩集の箱に まえ と仏語で書き、戻してくれました。

私は恩師の言葉に大変感激し勇気づけられたのですが、今思えば、私の放とう   ぶりを心配なさっていたのかもしれません。

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た。

チャタレー夫人の恋人 ︵ロレン

チャタレー裁

判 などのため一度倒産し、私が入社したころは新会社として運営されていまし

ス作︶の版元で、内容をめぐり、わいせつ論争が繰り広げられた

和期の詩人西条八十の愛嬢です。小山書店は

卒業した年、私は中学時代以来の親友である斎藤寛躬の知り合いだった三井嫩   子︵ふたばこ︶女史の口利きで、小山書店に入社しました。三井女子は大正・昭

た。特に飯島は一日おきのように私のアパートに来て、二人で出かけたものです。

このころ私は文学仲間とよく酒を飲み、遊興にふけっていました。新宿や神楽 坂で深夜まで文学や人生を談じ、一週間、一度も太陽を見なかった時もありまし

静かで、求道者の集まりみたいでしたね。

どちらかというと奔放だったのに対し、現代文学グループは酒を飲むこともなく

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長詩 ターツンの歌︱荒涼の季節︱ を発表しました。   カイエ の三号に私は、 構想が出来上がると、講義中も含め、一気に書きました。だれより飯島が褒めて

くれたのが、うれしかったですね。私の人生で、一番充実していた時代ではない

でしょうか。私の前半生はまさに文学青年で、経営者となった今もその気概を持 ち続けています。

当時、 現代文学 という同人誌にも参加しました。昨年、文化功労者となっ た詩人・評論家の大岡信、芥川賞作家の日野啓三、推理作家として著名な佐野洋、

朝日新聞社社長を務めた中江利忠、東大教授から東久留米市長となった稲葉三千

の仲間が

男、女性では 橋のない川 の作者住井すゑの娘でエッセイストの増田れい子女

現代文学 は、詩だけではなく文学全般の同人誌でした。 カイエ

史らがいました。   19


友人らと 同 人 誌   ∼酒を飲み談じた文学、人生∼

評論家、村松剛もいました。彼らとの交流で多くのことを学びました。

ランド文学者として著名な工藤幸雄や美術評論家の東野芳明、亡くなった剛腕の

彼らとは文学を論じ、詩を語り合い、酒を飲みました。三人を中心に カイエ ︵ 手帳 の意︶というガリ版刷りの同人誌を四号まで出しました。同人にはポー

彼らは一級上ですが、今も交流が続いています。

栗田を通じ、シュールレアリスムに造けいが深い詩人で持論、小説と幅広く活 躍している飯島耕一とも知り合いました。飯島は私が最も評価する詩人の一人。

している栗田勇です。

大学に入学した年、高校時代からの友人に 君は詩をやるそうだが、ぼくの友 人にも詩人がいる と、ある男を紹介されました。現在、文芸評論家として活動

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そんなわけですから、講義に出席することに必ずしも喜びを感じていたわけで はありません。でもこの時代は、多くの友人に恵まれ、友人に会うためだけに登 校した時もありました。

また当時は、学生運動が盛んでした。文学部には学友会という組織があって、   何度も運動に入るよう勧誘されましたが、かたくなに断りました。といって、ノ

の体験談をあち

ンポリだったわけではありません。先に述べたように、もともと権力嫌いのとこ ろがあって、デモにはよく参加をしましたし、 血のメーデー こちでしゃべらされたこともあります。

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りを受講したのです。

というきついお話。学問を甘くみていた私にとって、

て卒業するだけでよいと腹を固めました。単位を消化するため、安易な科目ばか

私は、お二人の姿を見て、仏文にきて良かったと思う半面、学問の厳しさを知 りました。そして恥ずかしい話ですが、手っとり早く言えば、要領よく単位をとっ

二時間近くを費やしておられました。

ていましたし、中世末期の詩人フランソワ・ヴィヨンの講読では、数行の詩句に

上ってこられました。 鈴木教授のフランス詩法講座は、まさに微に入り細をうがっ

渡辺教授は、フランス人文主義の発生という講義では、中世特有の言葉の説明 のため、細身のからだに分厚い辞書を抱えて、階段をあえぎあえぎ息をきらして

痛撃でした。

になったらいかがですか

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学科は仏文科。十六世紀のフランスの人文学者フランソワ・ラブレーの研究で 世界的権威だった渡辺一夫教授を尊敬していた事情もありました。なにより当時

は、 仏文が輝いていた時代でした。もっとも私は高校でドイツ語専修でしたので、

最初からボタンを掛け違ったみたいで、仏文出身でありながら、いまだにフラン ス語は不得手です。

大学では、熱心に受講したわけではありませんが、それでも多くの事を学びま した。

とも。 大学は体系的な学問、い

最初の授業の日、渡辺教授だったか、フランス詩法を講じていた鈴木信太郎教 授 だ っ た か は 忘 れ ま し た が、 皆 さ ん 何 を 目 的 に 仏 文 に 入 ら れ た の で す か と 言 われました。 文学という学問はありませんよ

わゆる科学としての学問を学ぶところであって、単に文芸作品が好きだから文学

者、あるいは芸術家になりたいという了見で入学なさったのなら、大学をおやめ 15


東大仏文 に 入 学   ∼情操刺激した恩師と友人∼

なくもありません。

員にはほとんどなれません。そのことが、文学部を選んだ動機になったと、言え

どうしても文学部でなければ、という強い意志があったわけではありません。 ただ、今でもそうですが、われわれは 在日 は、公権力を行使する立場の公務

東 大 文 学 部 を 選 び ま し た。 祖 国 で は、 血 で 血 を 洗 う 朝 鮮 戦 争 が 始 ま っ た 一九五〇年のことです。

得ましたが、人生の転機となる出会いは、やはり大学に入ってからです。

旧制第一高等学校を卒業するころには、鋼材を扱う父親の事業が順調になり始 め、私はさらに学業を続けることが可能となりました。高校でも数多くの友人を

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中学生時代にも心に残る友人がいないわけではありません。当時、二人だけで 詩の回覧雑誌をつくっていた斎藤寛躬さんがその人です。後に早稲田大学に学ん

だ彼とは、今でも交際を続けています。室蘭に戻り、中央詩壇とは縁遠いところ にいながら、いい詩を書いています。

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あまり

人間形成に一番大切なこの時期を、無為にすごしたことは、時の流れとはいえ ひどい話です。

いまだに英会話が下手、ダンスができないということで揶揄︵やゆ︶されます。

員に明け暮れました。また戦後の授業は荒廃し、この時代に育ったわれわれは、

彼の指導の下で勉強したのは入学後の二年間だけ。あとは敗戦まで援農と勤労動

旧制中学の校長は極めつきの体制派の人で、 宣戦の詔書を拝し、恐懼︵きょ   うく︶感激に絶えず という文言を、開戦記念日の度に生徒に斉唱させました。

出会いなくして今日の私がなかったことも事実です。

楽しい思い出はなかった とは申しましたが、このころのすばらしい人びととの

いからかなえてやってくれ とまで言って、説得してくれました。冒頭

また、六年生の担任の児玉彬先生にも、大変感謝しています。児玉先生は、私 が中学受験の際、経済的負担ゆえにためらう父親を 自らが学資を援助してもよ

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るもとになり、また、私の体内に流れる民族の血を自覚させるに十分でした。

小学生時代の六年間は毎年担任が代わる不運が続き ま し た が、 五年 生の 担 任   だった木造博先生は強く印象に残っています。昼休み時間に 巌窟王 の話をし

てくれました。ある時は、師範時代に哲学に凝った青年が、寄宿舎の階段を数を

かぞえながら真夜中行きつ戻りつし、ついに自らの命を絶った話をされました。

迫真の話しぶりに、以来、私はいまだに夜中の階段の上り下りを不得手としてい 朝の食卓

で、 幻 の 恩 師

るほどです。優しく、また分け隔てなく児童に接し、その博学さは、私の基礎的 な 情 操 を 刺 激 し ま し た。 十 二 年 前 に 道 新 の コ ラ ム

という一文を草したのがきっかけで、木造先生と会うことができました。

木造先生は私のことを 目立たなかった と話していました。小学校時代の私 は、おとなしかったのでしょう、自分でもそう思います。私が変わったのは、日 本の敗戦が決まった一九四五年八月十五日以降です。 11


小、中学 校 時 代   ∼情操刺激した恩師と友人∼

しれません。しかし、以後の私に、この種の悪意には必要以上の嫌悪感を抱かせ

この小さな個人的な出来事は、今、社会問題となっている いじめ というほ どのことではないのかもしれないし、あるいは単なる いじわる だったのかも

きりとわかりました。

行かない少年の日の出来事ですが、それが何を意味することかは、 幼い身にもはっ

ずつ、私にビンタを食らわせてきたのです。近所の上級生の命令でした。年端の

小学校初年のころ、ある事件が起きました。下校の途中、日ごろの遊び仲間た   ち が 示 し 合 わ せ た か の よ う に、 チ ョ ウ セ ン ジ ン と 口 汚 く の の し り な が ら 一 人

旧制の小、中学校と室蘭で過ごしましたが、正直に申しまして、あまり楽しい 思い出はありません。

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これをきっかけに、両親はその鉄道員に、自らの境遇を話したそうです。通常 では考えられないことですが、鉄道員は私たち一家を自分の家に泊め、世話をし

てくれることになりました。その地が、カナモト創業の地である室蘭でした。

異郷の地で、貧しさと心細さから途方に暮れた家族は、生活の基盤を得ること   ができました。その鉄道員の名は勝谷喜勢太郎さんといって、ご子息は今も室蘭

に住んでいます。私はこの名前を涙なしには語れませんし、終生脳裏に刻みつけ ることでしょう。

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筆舌につくせない辛苦を重ね、父が先に海峡を渡り、まもなく母を日本へ呼び 寄せたのです。

じゃくったそうです。余程ひもじかったのでしょう。

座った若い鉄道員が、握り飯を食べ始めました。幼児の私は

食べたい

と泣き

符を買って旅に出たのです。車中、文無しのまま異郷を旅する私たち一家の前に

私が生まれてまもなく、両親は故郷の知人を頼って北海道に渡りました。昭和   大恐慌のさなか。日本という新天地にかけた夢はついえ、所持金の許す限りの切

することにします。

せん。そのころを克明に語る勇気もありません。でも、小さなエピソードを紹介

幼年時代から少年時代まで、屈辱的な貧困が続きました。このことを、不幸な 関係が続いた日韓の国家、もしくは民族問題ととらえ、慰めにしようとは思いま

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あり、東証一部上場は、それを成就するための通過地点にすぎない

と、力説し

てきました。とはいえ、これが大きな節目となったことは否めません。

人間は喜びであれ、悲しみであれ、感動の極みでは沈黙するものです。おそら く、私の心の奥で、過ぎた日の哀歓がないまぜになっていたのでしょう。

当時の神奈川県小田原町︵現小田原市︶で私は生まれました。   二九年八月十九日、 父・容旭︵ヨング︶二十一歳、母・又壬︵ウーイム︶は十九歳。その若さながら、

この時すでに私には三歳上の兄がいました。私は韓国籍を持つ在日二世です。

母 は、 い わ ゆ る 日 韓 併 合 ︵ 一 九 一 〇 年 ︶ の 二 ヵ 月 前、 父 は そ の 二 年 前 に、   韓国では久しく中央の権力から疎んぜられていた全羅南道の片田舎に生まれまし

た。両親は隣村どうしです。私の権力嫌い、反骨精神は、この出自によっている のかもしれません。 7


東証一部 に 上 場   ∼心の奥に過ぎた日の哀∼

ひと

私 は 機 会 あ る ご と に、 企 業 と は 永 続 的 な 存 在 を め ざ す こ と に 根 源 的 な 意 義 が

区切りついたな と自分に言いきかせていました。

ルの群れの飛翔︵ひしょう︶を描いた加山又造画伯の大作を見つめ、私は

定通知書の受け渡しの儀式。数多くのセレモニーが行われてきた広い部屋の、ツ

翌二日、私は東京証券取引所にいました。日本の資本主義のシンボルの一つで ある重厚な建物の、展望の良い最上階で、無表情に分刻みで進められる第一部指

社を持つ企業の一部上場は九社目、業界では全国で初めてのことでした。

カナモト︵本社・札幌︶が、東証二部から一部昇格を果たしたのです。道内に本

人にはそれぞれ 忘れられない日 があるものですが、一九九八年四月一日は 私にとって記念すべき日となりました。私が社長を務めていた建機レンタル業の

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◆ 金本太中の私の中の歴史 /目次 ◆

⋮   東証一部に上場   ∼心の奥に過ぎた日の哀∼   ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮     小、中学校時代   ∼情操刺激した恩師と友人∼   ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮

東大仏文に入学   ∼情操刺激した恩師と友人∼   ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮     友人らと同人誌   ∼酒を飲み談じた文学、人生∼   ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮     教師時代の交友   ∼祖国の文化のすべて学ぶ∼   ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮

兄弟と企業経営   ∼建設機械レンタルに着目∼   ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮     長男の不慮の死   ∼悲しみ乗り越え業務拡大∼   ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮   関西への第一歩 ∼震災復興を機に信頼得る∼ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮           新たな旅立ち   ∼十七年続けた社長に終止符∼   ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮

38 34 30 26 22 18 14 10 6


北海道新聞社発刊の北海道新聞夕刊︹私のなかの歴史︺に、室蘭 発 全 国 行 き・ 金 本 太 中 の タ イ ト ル で 一 九 九 八 年 八 月 四 日 ∼ 八 月 十 四 日にかけ九回に渡り連載されたものです。 。 ︶               ︵取材は鈴木徹記者が担当されました




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