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モモ ナチュラルが生まれた場所 岡山県の東を滔々と流れる吉井川、その流域にある久米郡・美咲町が、モモ ナチュラルのふ るさとです。空を見上げると鳥がさえずり、風がどこまでも続く木々をやさしくゆらしている。 そんな豊かな自然に囲まれたこの場所で、ある一家の家業として、家具づくりはスタートし ました。家具が、長い年月をかけて育った木からつくられるように、ものづくりに込めたメッ セージも、時間をかけ、年輪を重ねていくことで、太くしっかりと育っていくようです。今で は工場も大きくなり、全国にお店も増えていきましたが、はじまりは、幸せの箱を届けたいと いう、純粋な想いでした。そしてその思いは今もモモ ナチュラルスタッフ全員のスピリット として、大切に受け継がれています。 モモ ナチュラルがどのように生まれ、育ち、そしてこれからの家具づくりをしていくのか。 本誌にてご紹介します。



たくさんの人たちに『幸せの箱』を届けたくて 「もともとうちは、おじいちゃんとおばあちゃんの代からスタートした、岡山の小さな小さな 家具屋さんだったんです。 」子どもの頃の思い出をなつかしそうに語るのは、現在モモ ナチュ ラルの専務をしている、脇容子さん。 「モモの生みの親」として、お客さまの元に旅立つ家具 たちを、大切に見守っている人です。 モモの家具を生み出している「脇木工」を起こしたのは、かつて国鉄マンだった太郎おじ いちゃん。妻の智慧おばあちゃんが始めた日用雑貨店が、その前身なのだそう。創業当時の 昭和28年は、まだ戦後間もなくモノが不足している時代。昨日より今日、今日より明日が少し でも豊かになることを信じ、人々が希望に満ちて、一生懸命働き、モノを買い揃えていた時 代でした。手元にお給料が入るたび、家族のために新しいものをあつらえる。モノが飛ぶよ うに売れていた時代です。その中でもタンスは、それまで使っていた柳行李 (持ち運びので きるふたつきの四角いかご)にかわって、 「新しい暮らし」や「家族の喜び」を象徴する 、 「幸 せの箱」でもあったのです。

「幸せの箱をもっともっとたくさんの人々の手元に届けたい。 」ふたりは、職人さん達を集 めて整理ダンスなど収納家具の製作をスタートしました。われ先にと人々は競争のように店 先に並び、お店と工場はいつでもフル回転の忙しさでした。「朝8時には職人さんたちが出 勤してくるから、2時か3時には起きて準備して、まかないをつくって。3人の娘を育てなが ら働いていた。 」と、当時を思い返す智慧おばあちゃん。

左/「脇木工」を育てた智慧おばあちゃん 中/「脇木工」の最初の工場。昭和 30 年代

右/2番目の工場。当時使用していたヒノキの材木たちが建物のまわりにたくさん並べられている。


娘の容子さんは、 「当時、母さんが寝ている姿を見たことがない」と話すほど。誰よりも早く 起き、誰よりも遅くまで仕事をする。そんなおばあちゃんを支えていたのは、 「誠心誠意、も のづくりをする」という強い思いでした。いくらたくさんつくっても、そこに心が入っていな ければ、価値がない。お客さまの気持ちを自分のことのように想像し、どうしたらうれしいか、 どうしたら役に立つかを考えて、真心のこもったものづくりをしていくこと。そして「家族が 力を合わせれば、 どんな困難も乗り越えられる」ということ。その後、 時代は流れ、 「脇木工」は、 工場の火災、吉井川の大洪水、安価な輸入家具の普及による売り上げの下落など、苦しい時 代を経験しますが、そのたびに心の支えになったのは、 「家族と仲間は宝物」という信念でし た。モモの家具があたたかく、暮らしに寄り添うやさしい空気をまとっているのは、家族が 手を取り合っていくことの大切さ、そして素晴らしさを信じるおばあちゃんの想いが、今も どこかに息づいているからなのかもしれません。 昭和が終わりを告げる頃、社長であり、事業を引き継いだ容子さんの夫・利幸さんが、ひ とつの決断を下します。大手の下請け会社に転向する家具メーカーが多い当時、その道に背 を向けました。 「会社は小さくても、自分たちが誇りを持てる家具をつくりたい。そして自分 たちの手でお客さまの元に届けたい」 。その決意はやがて、 「モモ ナチュラル」というブラン ドの誕生に結びついていくのです。

左/昭和 50 年代に製作していたタンス。無垢の杉材で、どこかヨーロッパのアンティーク家具のような風情。

中/前社長の利幸さん。 「木の温もりを大切にした家具づくりを続けていきたい」 。右/モモ ナチュラルの生みの親・容子さん。


モモ ナチュラルブランドの誕生 1990年代に入り、子育てがひと段落した容子さんが、本格的に仕事に参加することに。 今までにない、何か新しい家具をつくっていきたい…。折りしも世の中は、雑貨ブーム。若 いカップルやひとり暮らしの女性たちが、お気に入りのアイテムを雑貨屋、インテリアショッ プで探し求め、部屋の中を自分らしくレイアウトすることが一般化してきました。容子さん の頭に思い浮かんだのは、そんなお客さまたちに喜んでもらえるような、小さくても部屋に すっとなじむ、機能的な家具でした。凝ったつくりや目新しいデザインよりも、自然素材で ある木の風合いが感じられる、素朴で素直なものを。それはオフィスと工場を囲む山や森や 川など、豊かな自然とのふれあいの中から、ごく自然に生まれてきた想いでした。その後、 モモ ナチュラルとして発展していく自社ブランド「モモハウス」を立ち上げ、東京・晴海で 開催されている生活雑貨の国際見本市「ギフト・ショー」に出展したのが、1994年9月の こと。その場所で、大きな運命の出会いがあったのです。

「こんなに品質の高い家具が、どうしてこんな手頃な価格で作ることができるの?」ブース に立つ容子さんに声をかけたのは、雑貨スタイリストの第一人者、岩立通子さん。岩立さん は『anan』 『雑貨カタログ』 『FIGARO JAPON』など、数々の女性誌でインテリアや雑貨のス タイリングを担当してきた女性。その芯の通った選択眼に、読者や出版社、インテリア業界 からの信頼も厚く、ときにショップの立ち上げや商品の開発にも関わっていました。生まれ たてのモモの家具は、そんな岩立さんの目に留まったのです。

左/はじめてギフト・ショーに出展したモモハウスのブース。

右/自由が丘にオープンしたモモ ナチュラル1号店。多くのインテリア好きの女性たちが訪れた。


岩立さんのスタイリングによって初めて雑誌に登場したモモの家具は、 キッチンカウンター でした。小ぶりでありながら収納力もあり、気軽なひとり用のテーブルとしても活用できる キッチンカウンターは掲載誌の発売と同時に読者からの問い合わせが殺到。立派な対面キッ チンやアイランドキッチンには手が届かなくても、台所を自分らしい楽しい空間にしたい。 モモの家具はそんな考えを持つ多くの女性の心をしっかりととらえたのでした。 その後も商品が次々と、雑誌を通じて全国に紹介されていきます。お気に入りの家具があ ることで、家で過ごす時間が、より豊かで楽しくなる。そんなワクワクした気持ちを感じるの は岩立さんの「魅せる力」の大きさがあってこそでした。それは単なるモノの紹介ではなく、 新しいライフスタイルの提案でもあったのです。 「新しくつくった商品を、できるだけ早く、 岩立さんに見てもらいたい。 」こうして容子さんは東京への出店を決意したのでした。 大学を卒業した長男の淳朗さんが、東京の街をひたすら歩いて探しまわり、ここなら、と決 めたのが「自由が丘」でした。1997年9月、 モモ ナチュラルの直営店がオープンしました。 ほんの 10 数坪という小さなスペースに収納家具をいくつか並べただけでしたが、モモが家 具に込める想いのエッセンスがぎっしりと詰まった空間でした。 1号店のオープンから 20 年以上。ひとり暮らしだった女性がパートナーと訪れ、そして子 どもを抱きかかえ、お店に足を運ぶようになってきました。モモの家具も、そんなお客さまた ちの暮らしに寄り添いながら、少しずつ成長していったのです。

左/『anan』で岩立さんによって初めて紹介されたモモの家具。中/ 1990 年代後半の雑誌。この頃から、雑誌のインテリア

特集の常連になっていく。右/ 90 年代後半に爆発的にヒットしたモモナチュラルの「ラブ」シリーズの家具。


長い時間をかけ育った天然木を人の手で家具に モモの家具に対してよく言われるのは、 「国産家具でありながら、この品質で、この価格は 奇跡だ」という言葉です。高い価格でいい家具をつくれるのは、当たり前のこと。ごく一般 的な暮らしをしているお客さまが出せる範囲の金額で、最高品質のものを届ける。それがで きるのは、いくつもの努力と工夫があってこそなのでした。

かつて「脇木工」でよく使っていた素材はヒノキでした。これは戦後、住宅を供給するた めに大量に植林された木たちの、間伐材を利用したもの。日本の森林環境を守っていくため のひとつの方法として、 「自分たちでできることは何か?」を考えての選択でした。針葉樹で あるヒノキはやわらかくて油分が多く、ソリが出ることも多いので、避けたがるメーカーがほ とんど。しかし「脇木工」は難しい素材からいかにいい家具をつくり上げていくか、試行錯 誤を繰り返し、少しずつノウハウを蓄積していきました。 やがてモモ ナチュラルがスタートするとき、メインの素材として選ばれたのはパイン材。 木目の表情が美しく、やさしい風合いを持っているものの、同じく油分や水分量が多く、キ ズもつきやすい。しかしヒノキで培った素材への理解があったからこそ、最初から品質の高 い製品を生み出すことができたのです。 岡山にある工場を訪れると、大きな特徴が目に入ります。ひとつ目は細やかな手作業。そ してふたつ目は、驚くほどきめ細かな検品作業です。

左/過去すべての家具の数値をコンピューターで管理。中・右/機械と手作業を適材適所で使い分けている工場。ほとんど

が直線でできているが、モモの家具が冷たい印象にならないのは、随所に「人の手」が加えられているから。


モモの家具の多くは、極力クギやビスを使わずに、 「ダボ継ぎ」という方法で組み立てら れています。これはダボと呼ばれる小さな丸棒を板材にあけた穴に差し込んで板同士を接合 するやり方です。釘やビスには強度がありますが、温度や湿度に応じて収縮と弛緩を繰り返 している天然木に対しては、ひび割れの原因にもなってしまいます。 「ダボ接ぎ」は「ダボ」 自体も木でできていて、見た目もやさしい印象に仕上がります。 かつてはこの「ダボ穴」を開ける作業も、熟練された職人の仕事とされていましたが、そ れを手技で行おうとすると、人件費がとてつもなく高くなり、時間もかかってしまいます。現 在この工程や、木を家具のサイズに合わせてカットする工程、テーブルの天板の裏に、乾燥 によるソリやゆがみを防ぐために「背割り」という溝を掘る作業なども、最新の機械で行い、 大幅なコストダウンを実現しているのです。しかし板材の角部分を削り、見た目と手ざわり をやさしく整える「面取り」や、木目をかすかに残す独自の塗装作業など感性が必要な部分 には、どんなに手間がかかろうとも、ひとつひとつ人の手で行っています。

家具ができ上がり、お客さまの元に届けられる前に、キズはないか、部品はしっかりと組 み合わさっているか、品質の確認を行うのが検品作業です。目で見て、手でさわって。愛お しいものをなでるように、五感を総動員して行われます。現在、岡山で家具づくりの指揮を 行っている容子さんの次男優太さんは、 「ここがモモの良心」という表現をしました。モモ ナチュラルの家具はすべて、この場所から旅立っていくのです。

左/ベテランのスタッフがすみずみまでチェックを行う検品作業。中/積み上げられた検品後の家具たち。

右/「モザイク」シリーズのタイルもすべて、スタッフの手作業で仕上げられている。


永遠のスタンダードを追い求めて モモ ナチュラルは、多くのリピーターに支えられています。ひとり暮らし用のチェストを 購入したら、次は椅子、次はダイニングテーブル…。ひとつの家具を気に入ったときに、同 じシリーズで家具が揃うのも理由のひとつです。初めはひとり暮らしで、あまりお金に余裕 がないけれど、それでも自分の好きな家具を置きたいとモモを選んでくれた女性が、やがて 結婚して、パートナーとともに一生使う家具を、やはりモモで選んでいってくれる。そんな 人生に寄り添うブランドとして、モモを訪れてくれるお客さまたちが増えています。 お客さまと一緒にブランドも育っていきます。お客さまの要望に添えるよう、クオリティや 価格帯も上のラインも、少しずつ増えていきました。2011年の春には、フィンランドで生 産された家具を中心とした、キッズ家具ライン「ピエニ・コティ」をスタート。また、家のリ フォーム・リノベーションを行う内装事業部「リバーゲイト」も始動しました。岡山の小さ な家具店がまいた小さな種が、さまざまなかたちでその枝葉を伸ばしています。

現在、新しい家具は、社長の淳朗さんがラフスケッチを描き、岡山にいる優太さんが試作 を重ね、商品化されていきます。でき上がった家具は、自社スタッフが作り上げたカタログ で紹介されます。 「家族の力を合わせ、家族を幸せにするための家具を届けていきたい。 」智 慧おばあちゃんが願ったその想いは、今もモモ ナチュラルの大切なスピリットとして、受け 継がれているのです。

左/現在 9 号目まで制作しているモモナチュラルのカタログのバックナンバー。中/現在のモモ ナチュラルを牽引している

淳朗さん、優太さん、リエさんの三姉弟。右/淳朗さんが描いたラフデザインをもとに、優太さんが試作を製作する。



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