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共 感 覚 の芸 術 表 現 への応 用 Sho KUWABARA, Application of SYNESTHESIA to ART 2006/4~2007/1 桑原 翔 私は法政大学国際文化学部国際文化学科に在籍中、所属する文 化情報演習(ゼミ)にて、「共感覚(Synesthesia)」を芸術表現に応 用するアプローチを制作研究として続けてきました。 このポートフォリオでは、「共感覚」という現象を簡単に説明し、私の これまでのアプローチを紹介したいと思います。

Sho KUWABARA

―― 1



「共 感 覚 」とは何 か こ共感覚の概念と研究内容について Synesthesia and concept of my project

・共感覚とは何か ・共感覚の事例

共 感 覚 = Synesthesia (Synaesthesia) ※ ギリシャ語 源 → syn (共 に、同 時 に)+aisthesis(感 覚 )

マイケル・ワトソン氏 ⇒ 食べ物の味に対して、形という触覚を持っ ている。ワトソン氏自身が述べたことを引用す ると、「強い味のものを食べると、感覚が腕を

共感覚とは、「一つの感覚の刺激によって別の近くが不随意的に引き起こされること」である。文字に色 が見える、音に手ざわりを感じる、痛みから不思議な映像が浮かぶなど、五感(視覚、聴覚、味覚、触 覚、嗅覚)のうちの二つ(あるいは複数)が同時に働く、知覚様式のことである。

つたって指先までいく。そして重さとか、質感 とか、温かいとか冷たいとか、そういうことを みんな感じる。実際に何かをつかんでいるよ うな感じがするんだ」とのこと。

たとえば、「ある単語を聞くと、色が見える。」「図形を見ると、明確な触覚を感じる」「音楽が視覚化され

ドロシー・レイサム氏

て見える。」「人の名前を耳にする度に、味が口の中に広がる。」といったように、一つの感覚が別の感覚

⇒ 耳で聞いた言葉や、ピアノの旋律に対し

を喚起すること。

て色を感じる。

ジェームズ・ワナートン氏 ⇒ 単語や名前聞く、目にすると口の中に味を 感じる。味は彼の意図を問わず勝手に沸いてく

・共感覚をテーマに掲げたきっかけ

るのだという。

共感覚を研究テーマにしたきっかけはシンプルに、私自身が一種の共感覚を持っているということであ る。私は「文字を見ると色を感じる」というタイプの共感覚を少なからず持っていて、例えばアルファベット

・共感覚の種類

「A」という字を見ると赤色を感じたり、また数字の「3」が空色に見えたり、といった知覚現象を持ってる。

1. “文字→色”のタイプ

68.8%

この共感覚は色覚以上や幻視ではなく、例えば黒色で印字された「A」という文字に対して、私はその「A」

2. “時間(単位)→色”のタイプ

23.3%

3. “音楽の音→色”のタイプ

19.2%

という字が黒で書かれていることは勿論視認できるが、脳内ではそれとは別に「赤色」という感覚が喚起さ れている。この感覚は、脳内で起こっている結合であって、連想や幻覚では決してない。

4. “一般的な音→色”のタイプ

14.0%

5. “音色・音調→色”のタイプ

10.6%

6. “音・単音→色”のタイプ

10.6%

7. “味覚→色”のタイプ

7.1%

8. “匂い→色”のタイプ

6.9%

・600 人中、51%が複数のタイプを持ってい る。 ・男女比は、<女性 71%、男性 29%>と女性 が多い。


左項の図は私の持っている文字と色彩との結合である。このような結合はアルファベットや数字が特に強いが、仮名文字 (ひらがな、カタカナ)や一部の漢字、ハングル文字にも同様に存在する。 それぞれの文字と色との関係は常に不変な「対」として成立しており、山吹色に感じられる「D」という文字が、明日には緑 色に感じられる、ということはまず考えられない。(ただし文字のなかには、隣に配置された文字の影響を受けてその色を 変化させるものもある。) 私はこれらの文字を見るという直接的な、あるいはこれらの文字を頭に想起させる言葉や音調(わたしは完全な「色聴」は 持たないが、「Am7」や「D」など、文字という形態に持つコードなど)に対して、色覚的な刺激を感じている、ということであ る。

・表現にどう応用するのか

私の持つ共感覚が「文字と色の結合」あるので、その共感覚に基づいた “文字という記号を色という感覚刺激に変換する”というプロセスが、私のこれまでの制作研究の主軸となっている。

<文字> 極めて記号論的、そして言語的なものであり、文字にはアルファベット、数字など、さまざまな種類があるが、任意のル ールに従って相互に変換(翻訳)することは容易である。 そして、この文字という記号(特に数字)は“デジタル”な情報処理においては基本概念であり、コンピュータ・アプリケー ションを用いた制作が基本であるメディア・アートにおいて、この文字が表裏を問わず登場しないことは、少ないだろう。

<色> 対して、色というものは我々がより感覚的に知覚している情報であると言える。色彩という概念そのものは形態や言語 的意味を持たないため、我々は常時この色彩という感覚情報を無意識的に捉えている。 それでいて、視覚芸術においてこの色彩という要素の重要性は非常に高い。

私の制作研究は、<共感覚>という現象を利用し、独自のアルゴリズムを制作の過程に組み込んでいき、この<文字 >と<色彩>とのリンクを作ることを基本としている。



『美しき神秘―森・海・宇宙』 <絵画3部作の制作と展示>(2006 年 12 月) 文化情報演習4 2006 年度後期個人研究制作

“The Beautiful Mysteries -Forest, Ocean, and Galaxy”


・作品概略 共感覚によって得られる<文字→色彩>の結合をもっ とも直接的な方法でキャンバスの上に乗せていくという 手法で描かれた3部の絵画、すなわち、 『森(Forest)』 『海(Ocean)』 『宇宙(Galaxy)』 から構成される作品を、総体として 『美しき神秘(The Beautiful Mysteries)』 と名付けた。

・手法とコンセプト = 「文字の概念から色を認識する」という共感覚の働 きを利用した逆算によって、平面芸術の構成要素であ る<色彩>を<文字記号>にエンコードすること。 つまり、私自身が共感覚で想起される色を使用して、 その文字をキャンバスの上に“書き込んで”いったのだ。 自分の共感覚の翻訳に忠実に、彩色された文字の密 集状態が、総体的に再現なき抽象絵画を形成してい る。

・モティーフとしての「神秘」 「共感覚を着色のプロセスに取り込む」という私の制作に

▲ 絵画作品のディーテイル (キャンバスの一部のトリミング)

おけるコンセプトに上乗せするかたちで、私はこれらの作

この拡大図からも見て取れるように、キャンバス上の彩色は、オールオ

品のモティーフを、<森><海><宇宙>という自然

ーヴァーな背面の上に、書き記された<文字>によるものである。<文字

界の事象に設定している。このモティーフに関しては、私 自身の考えであり、表現である。そしてこれらのモティー フを総じて、<美しき神秘>という位置づけを設けた。こ こでいう神秘とは、人類の文化的活動(科学や芸術に 代表される)において常に追求の対象とされてきた<自 然>であり、つまり、この作品は<自然>の美的価値を 讃えたものである。

>という記号が<色彩>にデコードされ、最終的に色の対比やグラデーシ ョンを形成している。なお使用した文字記号は、アルファベットと数字に限 定した。


『 美 しき神 秘 ( The Beautiful Mysteries) 』 左 から順 に、 『森 ( Forest )』 『海 ( Ocean )』 『宇 宙 ( Galaxy )』 ( 2006 年 530×455mm キャンバス、アクリル・グァッシュ)



・モティーフと、再現性の放棄について <美しき神秘>をモティーフとしたのだが、私の試みは再現(Representation)ではない、ということを強く主張し たい。ただし<森>は緑色、<海>は青色、<宇宙>は暗黒色という、具体的な対象から想起される「色のイメ ージ」は採用しているが、その形態を写実的に再現するということは寧ろ放棄している。つまり、これらの絵画にお いて「どこがどう森なのか」「木はどれなのか」などと言った疑問は受け付けられない。 しかし再現性の放棄は脆弱な部分ではなく、私の意図である。敢えて再現しないこと、具象ではなく抽象に向かう ことこそが、モティーフの美をもっとも普遍的な形で讃えうるものであると考えるからだ。 言ってみれば、これらのモティーフに対する私の表現は、「大いなる美しき神秘を目の前にして、それに対して何 の働きかけもできない時の人類の無力感から生じる自己の中の爆発」である。

・アナログ/デジタルという枠をこえて アート作品において、しばしばアナログ/デジタルという議論がされるが、私はこのような二項対立的な枠を超え て、アナログな側面が持つ美的価値(「アウラ」と呼ばれうるかも知れない)と、デジタルの技術とを迎合させて、よ り新しいアート作品の方法論を作りたいと考えている。 この『美しき神秘―森、海、宇宙』という作品は絵画という極めてアナログな媒体ではあるが、これはデジタル批 判では全くない。デジタル処理の基本であるコード、つまり文字記号が、バイナリ化されることのないアナログな絵 画の上に構成させることは、アイロニカルな方法論ではあるが、これはアナログ/デジタルという枠を超えて新しい 方向へと進みたい私の考えの現れに他ならない。



『感覚と記憶』 <メディア・インスタレーション>(2006 年 12 月) 2006 年度 国際文化情報学会 出展作品 Media Installation “Memory and Sensation”


・作品概略 2006 年度法政大学国際文化情報学会への出展作品。 映像、音響、触知物などが複合的に組み込まれた空間 を、観者に実際に歩いてもらう、「体験型」のメディア・イン スタレーションである。

・コンセプト 私たちの日常は、ありとあらゆる感覚刺激に取り囲まれて いる。私たちが何気なく見ているもの、聞いているもの、触 っているもの。それらの感覚情報は膨大なものであり、そし て私たちの脳はそれらの感覚情報を意識的/無意識的に 格納し続けている。 この『感覚と記憶(Memory and Sensation)』というメディ ア・インスタレーションでは、これらの感覚刺激というものに 着眼している。日常のなかで見慣れている/聞き慣れて いる、あるいは触知しているそれらの情報を、より<抽象的 な>(言い換えれば、より分かりにくい)状態へと変換し、そ れを観者に感覚刺激として知覚させたとき、その無意識的 領域にあるであろう<感覚>と、各々の経験に基づいて脳 内に格納されている<記憶>とが、いかなるリンクをするの かという主題に迫ったものである。

・手法と形態

▲ インスタレーションの全体図のスケッチ

インスタレーションに組み込まれた感覚要素は、2面の映 像と、2箇所からの音響、そして足元に設置された触知物 である。骨格と黒布で形成された通路と空間これらの素材 が配置され、そこを観者(体験者)に一人ずつ、実際に歩 行してもらう。ただし、プロジェクターによって投影されてい る映像の光以外の照明は設けておらず、全体としては非 常に暗い空間の中を進むことになる。 インスタレーション空間の中央に四角い空間を設けたが、 この空間の壁4面のうち、2面に対して映像の投射がされ た。映像は透過性のある黒い布の裏から、プロジェクターに よって投影されている。 この映像が投影されている四角い空間と、そこにたどり着 くまでの通路、そしてそこから出口へと繋がるもうひとつの 通路。これら通路にて得られる視覚情報はほぼ皆無であ り、この3部分でインスタレーションが構成されている。音響 は部屋に設置された4箇所のスピーカーから出力されてお り、全体を通して聞こえているものと、映像に動機して流れ ているものとの2種類がある。

▲ インスタレーションの俯瞰図のスケッチ

このメディア・インスタレーションに使用した映像資料が巻末に 添付したDVDに収録されています。


・映像について<視覚と記憶> 私がこの『感覚と記憶』というメディア・インスタレーショ ンのために制作した映像は、“身の回りの「ありふれた」 風景や現象を、より抽象的なものへ変換し、無意識的 な知覚をさせること”を目的としている。 具体的には、木々や水、煙などといった普段見慣れて いる風景を、よりズームアップした視点で捉えたり、フォ ーカスや色味をあらかじめ加工して撮影することによっ て、それが何か分からない、つまり<再現性>を消失し た状態に変換し、観者に対して、<無意識のレベル> でそれらの映像を知覚させた。 これらの映像が、コンピュータでゼロから生み出された 映像ではなく、現実に、そして物理的に我々の周りを取 り囲む事象を素材としていることは、強調したい。 インスタレーションにおいて、映像は左右2面での投影 となった。体験者はひとりずつこの2面映像を知覚するこ とになるのだが、一人当たりに約 45 秒間の映像知覚を 設けた。映像は合計で 27 種類を用意し、これらの映像 をランダムに左右に投射するように設定した。体験者 各々について、すべて異なる映像を、異なる組み合わ せで見せるためだ。この試みは偶然性の迎合と、連続 性を持ったシークェンスのあり方の否定でもある。 実際の映像は、添付した DVD を参照されたい。

・音響について<聴覚と記憶> 音響も、映像と同じく身の回りにあるサウンドを、加工 し、またコラージュした。最終的にはノイズ色の強いサウ ンドにまでその脱形象化を図り、インスタレーション全体 を覆う<環境音>として出力した。

・触知物について<触覚と記憶> 足元には黒い布が敷かれたのだが、その下に駅のタイ ルを想起させるような凸凹素材や、半流動系のジェル を敷き詰めるなど、暗闇で視覚が遮断された状況下 で、足で踏んで<触知>させることを目的とした。 体験者には、靴を脱いでもらって、インスタレーションに 参加してもらった。より感覚に集中させるためだ。





『.html』 『E=mc 2 』 『π』 <共感覚のグラフィックへの応用・習作群>(2007 年 6 月) 文化情報演習4 2007 年度個人研究制作・習作

Studies of Graphic Art using Synesthesia “.html” “E=mc2” “π”


・作品概略 4年次の前期の中間報告として発表した、

『.html』 『E=mc2』 『π』 の3作品は、3年次における『共感覚を視覚イメージに応 用する』アプローチを、より多角的に追及することをこころ みた習作群に属する。

① 『.html』 習作群の一つ目は『.html』というタイトルのグラフィックで ある。これは文字通り、HTML 文書のソースとしての文字レ イヤーをそのまま色変換し、トリミングしたというものであり、 もちろん文字の色は、自分の<共感覚>によるものであ る。 3年次における制作が、絵画という極めて古典的、かつ アナログな媒体を起用していたのに対し、今作品ではコン ピュータにおけるプログラミング言語としての文字、つまり <コード>に<色彩>を加え作品化したところに、比較が ある。WEB ページというものには常にデザインや、色彩とい った配慮、そしてパフォーマンスが用意されているもので ある。一方で、そのソースである HTML 文章は、表舞台に 立っている WEB ページをささえる裏の存在でしかないが、

▲ 彩色に実際に使用した「文字の色見本」

その<ソース>に視覚的パフォーマンスを与えたことはシ ニカルな着眼から来るものである。

数字や文字の着色は上の「色見本」を見ながら行われた。見て分かる ように、この「色見本」には着色がされておらず、また共感覚に基づいた 「カラーチャート」のようなものについても用意しなかった。共感覚とは本

2

② 『E=mc 』

人の意図にかかわらず、不随意的に文字と色とを結合させるため、黒 字で印字された文字を見ればどの文字がどの色なのかは参照を必要と

二つ目の作品は、<文字>に<色彩>を加えるという 共感覚的な加算を前提とした上で、そこから文字記号と しての<形態>を除去する、という減算を試みたものであ る。 今作品で素材となったのは、物理学者アルベルト・アイ ンシュタイン(Albert Einstein、1879-1955)による特殊相 対性理論の有名な最終式である。この式が選出されたコ ンセプトは、極めてミニマルな式で、より規模の大きな事象 を取り扱っている式であるところへの着眼に拠るものであ る。 この「E=mc2 』という理論式に、色彩という感覚情報を 与え、そしてそれぞれの文字の形態は除去され、極めてミ ニマルな形態としてデコードされている。ただし、主観的な 共感覚においては「=」(イコール)に色が結合していない ため、変換されず残っている。

しない。つまり結合のノーテーションは必要ないのだ。


『.html』


『E=mc2』


『π』


③ 『π』 習作群の最後に発表した『π』は、<文字>を形態のな い<色面>に変換した『E=mc2』の発展形である。 「π」とは円周率を示す無理数の記号であるが、この作 品では、この<円周率>が<色面>にデコードされたもの となっている。 制作プロセスとしては、まず円周率を小数第 1027 位ま で数値として用意し、そして 3 と小数点を合わせた 1029 の文字記号を、コンピュータ上で横 49 個、縦 21 個に配 列させ、<共感覚>によってそれぞれの数字に結合され ている色のタイル、すなわち色面にすり替えた。右図は平 面の上に円周率 1029 桁が配置された状態である。この 極めてディジタルとも言えるコードとしての<数字>から、 色彩を取り出す(デコードする)ことは私の方法論の要であ る。 初期段階では色面と色面の境界には黒線を設けていた が、形態をよりミニマルにするためと、面と面における色彩 の同時対比としての鮮やかさを確保するためにこのセパレ ーターは除去された。

▲ 色彩への変換がされる前の数字配列


共感覚を応用した映像のコンセプト案 『.html』 『E=mc2』 『π』の発表と同時に、共 感覚による変換を映像にも応用するためのコ ンセプトを発表した。 左の図はその映像のアイデアの断片として作 成した「コンテ」の一部であるが、この映像で表 現されている世界では、私たちの身の回りにあ る木々や葉、空に浮かぶ雲、そしてコーヒーや 建物など、環境として気に止めないような対象 を、すべて文字に置き換えて3次元空間を形 成させるというものだ。 これは我々の日常が、バイナリ変換に溢れて いることへの着眼であり、<実空間>と<情報 空間>の教会を曖昧に表現するための試み である。

上は別のコンセプト図版であるが、これらのコン セプト案に共通していることは、これまで平面の 上で<記号>から<色彩>へのデコードをし て、構成していたのに対し、立体的な実体とし てこれらの文字というものを捉えようとしたもの である。実空間の描写の中に、記号を組み込 んでく、シュールレアリスティック映像には、む しろ<再現性>が重要視されるだろう。 しかしながらこれらのコンセプトデザインは未完 のままであるため、今後の制作の一部としてい きたい。



ノンタイムベースド・インスタレーション 『SYNAESTHESIA』 <インスタレーション>(2008 年 1 月) 文化情報演習4 2007 年度 卒業制作

Non-time-based Installation “SYNAESTHESIA”


・作品概略 2007 年度文化情報演習4(所属ゼミ)における卒業制 作。コンポジション(平面構成)を含む空間を、ノンタイムベ ースド・インスタレーションという位置づけで発表した。体験 者はこの空間の中に自ら入り、体験する形式である。

・コンセプト <文字(単語)>からの情報を色彩に変換するという< 共感覚>の現象を、平面の上に呼び起こし、それをコンポ ジションとして成立させ、これを観者に、より<主観的な> 領域で知覚させる。 ▲ コンポジション制作のコンセプト・スケッチ

・手法と形態 色面で構成されたコンポジション(平面絵画)の設置され た暗闇に観者に実際に入ってもらう。明るい場所からその 暗所へと突入するため、観者は最初は暗闇に目が慣れて おらず、奥にぼんやりとコンポジションを見るだけなのだが、 視覚が暗順応するに応じて、徐々にコンポジションの明るさ や色彩が姿を現す。暗闇のなかで自由に動き、観者とコン ポジションの多様な距離感から生じる、各々の主観的な見 え方を楽しむためのインスタレーションだ。 手法としては、全く光源を排除した部屋を作り、その奥側 にコンポジションを設置する。ここで四角くトリミングした微弱 な照明を、コンポジションにのみ施して、暗闇の中で、コン ポジションだけが僅かにぼんやりと浮かんでいるように見え る状態を作った。(インスタレーションの全体図は次項を参 照されたい。)

▲ コンポジションの着色の際に実際に使われた「下書き」

インスタレーションには、同時に1人~5人まで体験をさせ

これまでの<共感覚>の色変換のプロセスと同様に、あらかじ

た。観者各々には、10分という時間を目安にはしたが、時

めカラーチャートを作成し見本にする、ということはせず、あくまで

間を意識させず、自分の好きなタイミングで退出させた。

黒で印字された<文字>の構成図のみを参照しながら、脳内 で<共感覚>として起こっている色知覚を忠実に再現した。


▼ インスタレーションの全体図のスケッチ


・コンポジションについて

・ノンタイムベースドであるとは

インスタレーションに組み込む要素として、私はコンポジションを用

私は今作品を「ノンタイムベースド・インスタレーション」と位置づ

いた。縦 70cm×横 200cm の横に長い比率の木製のキャンバス

けたと先述したが、「ノンタイムベースド(non-time-based)」と

に、アクリル・グァッシュで色面を構成した、いわゆる平面幾何学的

は、“時間軸にかならずしも沿っていない”という間逆の意味で

な抽象絵画である。

ある。つまり作品に、時間軸に沿った変化というものが含まれて

この平面の上では「文字という記号を色面に変換する」試みがな

いない。即ち、予めタイムラインに沿った構成がされていない、

されている。置き換える色は、私自身の共感覚、すなわち「文字か

というものである。私の作品の核は、種も仕掛けも無い、平面絵

ら感じられる色」を忠実に可視化するかたちで選出された。具体的

画であるから、この平面絵画は時間と共なる変化をするはずが

には、<共感覚>を意味する『SYNAESTHESIA』という単語を色面

ない。決められたストーリーや連続体がこの作品の中には用意

に変換してコンポジションとしている。ただし、共感覚の書物や文献

されていない。観者が足を踏み入れてから、この空間を後にす

などに広く使われている『SYNESTHESIA』ではなく、敢えてイギリス

るまでの間、このインスタレーションに組み込まれているものは

英語の『SYNAESTHESIA』を選んだのは、赤い色の「A」を含むそち

何一つ変容していかないのだ。つまり時間軸に沿って変化をし

らの方が鮮やかだから、である。

ない「絵画」という表象に対して、「展示」ではなく「インスタレー

この作品に再現性や言語的な意味を付加するつもりはなかった

ション」としたのは、観者が空間内をどう動くか、どれくらいの間

ため、この単語の選出は無意図的であり、観者たちにもその語であ

そのコンポジションを見るか、どの距離で対象を捉えるか、など

ることは伝えていない。

の多様な条件による、視覚効果の変化をも、その作品性の中

コンポジションはすべて色面で構成されており、色面以外のいかな

に組み込むという目的に依拠する。具体的な視覚効果につい

る形態や、図と地の区別を排除した。コンポジション上における再現

ての解説は次節にて行いたいのだが、このような効果は、用意

性(つまり何が描かれているのかを観者に考えさせてしまうこと)や、

された変化ではなく、「時間軸に対して横断的に、自由に変容

三次元的イリュージョン(平面上において奥行きや立体感などを認

する」ものでなければ、より人間の感覚の普遍的なレベルまで

識させてしまうこと)を排除し、幾何学的抽象としての平面性を徹底

届かないと私は解釈している。

したのだ。形態を排除し、単純に「色彩」という要素のみを感覚刺激 として観者に与えようと試みたからである。

インスタレーション内部の様子 写真からも分かるように、インスタレー ション内ではコンポジションのみが唯 一の視覚情報であり、暗闇の中にこの 平面が浮かんでいるように見える。観 者はこの空間に入ってすぐでは、暗闇 に目が慣れておらずコンポジションを ぼんやりとしか捉えることもできない。


・視覚効果について インスタレーションでは、<暗順応>という効果を利用して いる。暗順応とは、人間が明るいところから暗い場所に移動 したときに、視細胞を回復させて、その暗さで視覚が機能す るように順応することである。 観者は明るい照明光が施された通常の室内から“演出さ れた”暗闇へと入ることになる。この時、明るい照明の下に いた観者はいわゆる「明所視」の状態であり、インスタレーシ ョンに入ったばかりでは、正面のコンポジションをしっかりと見 ることが不可能である。しかしながら観者の目が次第に暗順 応をしていくにつれて、徐々にコンポジションの色面はその 色彩を取り戻し始める。時間が経過するにつれて、曖昧だ った色味やその境界が明確なものへと変化し、その空間に 入った段階から観者の目の前にあるはずのコンポジション は、徐々にその姿を変えながら現れてくるのだ。この変化は 言うまでもなく“見え方の変化”であり、組み込まれた装置そ のものの変化ではないから、観者の主観的心理状態の変 化であり、それはノンタイムベースドなものなのである。

・表現と享受における<主観> 共感覚に代表されるところの主観的な心理状態は、我々 を取り囲む外界に由来するものではなく、それを客観的なも のとして他者から認識されうる形にすることは非常に困難で ある。しかし私が「表現する」というプロセスによって試みてい ることは、「伝達」や「論証」ではないことも同時に強調してお きたい。もちろん、インスタレーションとして、他者が知覚でき る形へとエンコードしたことは、私の主観的心理状態の客体 化であるが、そのインスタレーションの享受については、観者 各々の主観に依拠している。そして私がエンコードした主観 と、観者各々が知覚し、脳内で再構築(デコード)されたもの とが、等しい必要がないと考えている。 今インスタレーションにおいて、観者それぞれがどこに立っ ているか、どの角度からコンポジションを知覚するか、という 物理的な条件もそうであるが、最終的には「観者が誰である か」というレベルの多様化によって、その主観性が保たれる と言っても良い。



『美しき神秘――森・海・宇宙』 法政大学国際文化学部文化情報演習4 2006 年度ゼミ論文(制作意図)

桑原

“The Beautiful Mysteries -Forest, Ocean, Galaxy”, Sho Kuwabara, 2006

2006 年度後期個人発表に際して私は、3 部の絵画から構成される作品を

種の美学を用いて制作したものが、果たして0と1というバイナリ数に置き換

制作し、その一連の制作物に対しては「美しき神秘――森・海・宇宙」(The

えられることが出来るのであろうか、というところである。私たちは未来のあ

Beautiful Mysteries -Forest, Ocean, Galaxy)という題名を付した。本文

る一点を境に、0と1というたった2種類の文字記号の配列パターンからデコ

章は、上述の作品を見たことを前提とし、その制作意図の説明というところ

ードされた情報からしか、芸術的な美や感動を味わうことができなくなってし

に第一の重点をおいて書かれるものである。作品の複製写真については、

まうのであろうか。私たちは多くの芸術作品に心を魅了され、感動を味わい、

末項、あるいは付属の CD-R に記録された画像データを参照してもらいた

そしてその美しさにため息をもらす。しかし近年では、そうした芸術作品のほ

い。

とんどの裏側に0と1という数字が潜んでいるのだとすれば、私たちの感性は 数字によって操作されているとも解釈されうるだろう。テレビで映像を見て

まず、作品の形式的なところから話を始めたいと思う。今作品は、F10 号

いて、そこから情報や感動を受け取りながらも、それが赤と緑と青の小さな

型のキャンバスの上に絵筆を用いてアクリル・グァッシュを乗せて描かれた

光の集合体である、ということに無頓着すぎてはいけない。メディアを通じて

いわゆる「絵画」3点を一連の展示物として展示したものである。すなわち、

認知することと、そのメディアによって再現されたものを知ることとは、必ずし

形式は非常に古典的・伝統的な絵の描き方に従っている。私が今回、この

もイコールにはならないだろう。つまり、我々の見ているものと知っているもの

ように古典的な「絵画」という手法をとった理由としては、「『デジタル』への

との間の関係はいつも不安定なのである。(ジョン・バージャー『イメージ‐

疑心」という意図がまず挙げられるだろう。『デジタル』とはデジタル処理さ

Ways of Seeing 視覚とメディア』PARCO 出版,1968 年,8 ページ) だから

れて制作された物を総じて呼んだ時の名であり、もちろんのこと、『アナロ

こそ、その事実にアンチテーゼにも成りきれない疑問を抱いた私は、今回

グ』と区別されたい。私は制作にあたって現代のメディア表現の殆どがデジ

の作品では、バイナリ数に決して変換されることのない、純アナログな存在

タル・コンテンツ化されてきているという現状に目を向けた。かつてシネマト

としての「絵画」をその手法に用いたのである。但し、この文章の末項に印

グラフから 16mm フィルム、35mm フィルム映画へと発展を遂げた映画のメ

刷されているものと、CD に記録された画像は、元の作品をデジタル変換し

ディアはいまやデジタル・ヴィデオ(DV)に取って代わられてしまったと言って

た『複製』であることを意識的に留意して欲しい。

も、もはや過言ではない。映像制作において、撮影から編集、そして映写に

また、展示方法については、極めてシンプルな形をとった。これは、今回の

いたるまで終始フィルム作業のないノンリニア編集が今や主流となっている。

作品が「絵画作品」であり、展示方法をその表現とする「インスタレーション

そして写真表現においてはそれまでアナログフィルムカメラのみが使用され

作品」でないことの強調である。具体的には、3つの作品をそれぞれ独立さ

ていたが、同等に現代ではデジタル・フォト・カメラでの撮影や制作が顕著

せて木造のイーゼルの上に設置し、それらを横に並べるだけというものであ

に現われているところである。音楽の分野においては、1980 年代以降コン

る。展示場所となった法政大学市ヶ谷キャンパスボアソナードタワー内の

パクトディスク(CD)の出現により、早い時期にレコードというアナログメディア

マルチメディア教室を、最低限の照明効果を除いて殆ど改造することはな

は終焉への第一歩を踏むことになるのだが、それを複製する媒体としての

かった。しかし、絵画作品の裏側に関しては、自分のなかで「作品の一部で

カセットテープはミニディスク(MD)へとシフトしていき、やがてはオンライン

はない」つまり「見せるべき側面ではない」という認識があったため、3つ並べ

上で「データ」として交換されるようになるのだ。そして絵画に関しても、DTP

たイーゼルの前にビニールテープで境界線を設け、暗にその線より観者が

(コンピュータ上でグラフィックを描画、構成し、プリンターで出力する方式)

近づけないようにした。

があまりに主流になっているために、グラフィックデザインの分野で、極端に 考えるならば、その手でレタリングして雑誌の題字を描く者は消えてしまった

形式的なところの解説を終えて、その絵画の中に私が描こうとしたものを

のだ。かつてのファインアートは、コンピュータ・グラフィック(CG)へと姿を変

説明したいと思う。先にも触れた通り、今作品の題名は「美しき神秘」である。

えてきている。

私が言うところの、この「美しき神秘」とは、主に私たち人間を取り囲む自然

私はこのような芸術表現のデジタル化に対して不満や否定の念があるわ

界の存在物であったり、あるいはそのさらに外側に潜む宇宙であったりする。

けでは決してない。むしろ私はこれらのデジタル化された、あるいはデジタ

これらに共通する特徴として確かに私が強調したいのは、それらが皆、人

ル処理されたコンテンツを大いに自分の価値観の中に取り込んで行きたい

間から美的な価値を認められてかつ、文化的営みの対象となっている、と

姿勢を持っている。なぜなら『デジタル』は現代に見合った、合理的な方法

いうことである。自然界に存在する森、海、川、空、雲などのいずれをとって

論によって必然的に必要に迫れ、生まれたものだと考えるからだ。フィルム

も、人間は感覚的にその美しさを感じる。森の深緑や海の青に惹かれなが

を使った写真や映像の制作に比べると、デジタルメディアを使用した方法

ら、人間はそれらを対象として何らかの活動をするのだ。これは、その美や

であればそのコストを大幅に下げることが可能であるし、その編集や加工に

感動を表現しようとする芸術の営みであったり、その仕組みや根本を知り探

おける利便性は格段優れたものであろう。一部の映画や音楽といった、あ

ろうとする科学の営みであったりする。これらの営みは皆、それらの対象物

る種の娯楽的要素を踏まえた芸術作品に関してはその配給ということを第

への何らかのアプローチを意味している。自然界はもちろんのこと、人間の

一の目的としているので複製されやすい形状、すなわち『デジタル』である

創造物では決してない。ゆえに人間はそれを知ることはできても、潜在的に

ことが望ましく、現にそうなのである。このように現代のアーティストがデジタ

理解している状態でいることは不可能なのである。すなわち、完全に人間

ルな手法を取り入れていることに異議を唱えるつもりは、重ねるが、ない。け

の営みの外側の事象で存在しているそれらの物体や現象は人間の前では

れども私は、情報の「デジタル化」ということの根本的な概念に、わずかな疑

謎に包まれてしまうのだ。この謎こそが、これらを神秘たらしめているもので

心を隠しきれないのである。「デジタル化」するとは、そもそも、ある情報を2

あると私は考える。すなわち、この「神秘」が人間に知的好奇心や探究心、

進数化することを基本としている。デジタル化された芸術は、その色も、形

そしてそれらに、より迫ろうとする表現の欲求を与えるのだ。人間の文化・創

も、音も、光もすべてが文字記号に変換され、さらには0と1の2進数(バイナ

造的な営みはここに原点があるということが私の考えである。生い茂る木々

リ数)へとエンコードされてしまう。0と1という単純なパターンに変換された芸

が緑色をしているのも、海があんなにも広く深い青をしているのも、空に雲

術は、その瞬間に複製・交換が可能となり何時、何処、誰の前を問題とせ

が浮かんでいるのも、人間にはなにひとつとして身に覚えのないことだ。し

ずに再現されるのだ。エンコードされた0と1の記号は、On と Off の2種類の

かしながら人間はそれらを知ることになる。この瞬間から、人間は自然界へ

信号によってインターネットなどを通じて世界中に広がる。はるか遠くから発

語りかけてそれを理解しようと試みるのである。その極端な例が、今回私が

信されたこのバイナリの信号は、自分の手元に届いた時にコンピュータ上

大きなモチーフの一つとした「宇宙」である。人間は宇宙に対してごくわず

でデコードされ、もとの作品が復元され、現前する。

かなことしか理解していないだろう。これは人間のもつ天文学が力不足で

私が首を傾げたくなってしまうのは、芸術という、それぞれの作者が、ある一

ある、ということでは決してない。人類は自然を、さらには宇宙を解釈するた

Kuwabara, The Beautiful Mysteries ―Forest, Ocean, Galaxy”

―― 1


めに素晴らしい完成度をもつ理論体系を作り上げてきた上、今日もその発

色、3は空色、6は青みの緑色…などという組み合わせが対となって私の中

展の足を止める気配はまるでないのだけれども、相対的に、宇宙が余りに

に存在するため、ある色で塗り分けられる箇所にはそのルールに従って、同

巨大で、謎に満ち溢れているため、そのような表現となる。そういったものを

一のアルファベットを絵筆で描いていった。細部では文字の集合であり、全

私は「神秘」と呼びたい。

体としては抽象絵画になる、という作品に仕上げた。その輪郭を文字に代

「神秘」という概念をモチーフにしていたルネ・マグリット(René Magritte,

用する時点で、完全に形状における再現性はなくなってしまうが、私はモチ

1898~1967)という画家がいる。「世界の神秘を見えるものにする」というのが、

ーフの持つ固有色を唯一作品のなかで表現している要素として残した。す

ルネ・マグリット氏の絵を描く口実なのである。(巖谷國士『シュルレアリスト

なわち、「緑の森」「青の海」「黒の宇宙」である。基本色をそれぞれのモチ

たち ―眼と不可思議―』青士社,1986 年出版,122 ページ)物事には、日

ーフに設け、それぞれを区別した。全体的に色の系統を揃え、各絵画の内

常の中で万人の目にさらされている外観よりももっと大きく広がった、魅力的

部では、文字の配列が微妙に濃淡やグラデーションを生み出しているのだ

な裏面があるはずなのだ。事物のごく自然な現象の中に、重要な秘密が潜

が、それが「遠くから見ると何かに見える」などの再現をすることを意識して

んでいる。マグリットは、絵画という手法を通じてそんな見えない隠れた面を

はまったくないため、その濃淡の散らばり方は、見る人によって何らかの形に

巧みに捕まえ、既成の論理を無視して見えるものに変えてしまう。物事の基

伝わったはずではあるが、そのシェイプは固定しない。特に「黒の宇宙」の

礎を掘り深め、それが持つ謎に包まれた、現実の生活の中では隠れて見え

作品に関しては、ややグラデーションを考え、徐々に色味や明るさが変わ

ないような超現実的な面を見つけ出し、それを絵に表現することで私たち

るように文字を配置したために黒い宇宙の上に明るい天体が集合しており、

にそれを疑問として呈示するのだ。このようにして日常生活の中にある平凡

それが何かを形成している、ようにも見えたはずだが、特に私としては意識

な物が謎めいた、神秘的な物に変わり、私たちはそれを新しい視点から照

的に何かを再現した、わけでは決してない。

らし出すことが可能になるのだ。

今回、「共感覚」をきっかけにアイデアを得て、絵画というバイナリ変換さ

それでは私が表現しようとしたものはこの「神秘」そのものであったかというと、

れることのない形態を用いて、あえてそこにまた「文字」という記号をマテリ

それを否定しなければいけない。私が表現しようとしたものとは、厳密には

アルとして用いたことには、デジタルに対するアイロニーをこめた、という意

「大いなる美しき神秘を目の前にしてそれに対して何の働きかけもできない

図も関係がある。しかしながら、そこに新たな意図を話に持ち出すことは混

時の無力感から生じる自己の中の爆発」であり、つまり私は直接的にこれら

乱を招き、またこの作品のメインコンセプトとは何だったのだろう、という議

の神秘を表象することが極めて困難であり、表象することがかえってその神

論に立ち戻ってしまう。「神秘」を表現したかったのか、デジタル表現に対す

秘性を低めてしまうのではないかという危惧に至った。分かりやすく換言した

るアンチテーゼをしたかったのか、共感覚的な発想を元に文字で抽象画

ならば、私の今作品は表象し得ないことの肯定であり、表現をすることを放

を構成したかったのか、というただでさえ混在して、絡まったコンセプトをさら

棄することが、いかにそれらの具象が神秘に満ちた偉大なものなのかを表

に分かりにくくしてしまったことを大きく反省している。「共感覚の概念を表現

現することに繋がると考える。森も、海も、そして宇宙も、文字通り「絵にもい

に引用すること」「非デジタルなメディアでの表現」という二つの大きなコン

われないほど」美しく、神秘的なのである。表象という手段を用いてそれら

セプトが互いに干渉しあってしまい、互いに効果や説得力を希薄なものへと

の神秘に立ち向かうことを放棄して、降伏してみる、というところの考えであ

変えてしまった気がする。そして且つそれらが、モチーフとしての「自然界の

り、現代のデジタルに埋もれた社会の中で私がアナログを使ってできること

神秘」とどう関わってくるのか、という点で、それらを貫く一本の線が存在しな

は、その降伏なのであった。我々人間が自然や宇宙に対して興味を示し、

かったために、今回の作品の狙いがどこにあるのかを特定することができな

その偉大さを讃え、あるいはその美しさに感動し、ありとあらゆる芸術表現で

かった。これは非常に大きな反省点である。また今回の作品を解説するに

それを表象しようとし、あるいは独自に科学を生み出し、その謎に迫ろうと

際しても、やはり自分の主観的な考えでしかそれが通用しないことを痛感し

夢中になっているのだが、それら自然は我々人間に語りかけてくることは決

ている。これは制作に移る前の段階でのコンセプトがしっかり練られていな

してない。自然は、芸術や科学で立ち向かおうとする人間に対して寡黙で

いままに制作に移ってしまったからである。

あり、人間はそれらの神秘を前に独り相撲をせざるを得ないのだ。

今後の展望としては、今回の反省点を大きく考えて、今一度自分の表現 スタイルというものを改めて見つめなおしてみたいと思う。今回は前期に「共

今回私は、キャンバスの上に絵の具を乗せていく最終的な表現方法とし

感覚」という概念を研究発表したことから、そこから上手にアプローチできな

ては、複製画像を参照していただけたら理解は容易であるが、抽象表現で

いか、ということにややこだわりすぎてしまった気もする反面、もっとそれを題

あり、モチーフとして用いられた「森」や「海」そして「宇宙」への再現性という

材として作品に使っていく時にいい方法がアイデアとしてあるのだろうという

ことを私は放棄した。上述の通り、森や海、宇宙、これらの美や神秘性を忠

考えから、「共感覚」というテーマを続けるか否かも自分のなかでは大きな

実に再現することのあきらめこそが、その美と神秘性の肯定につながると信

問題になっている。また、そのスタイルとして今回「絵画」という形をとったの

じているからであり、よって絵画という、極めてその表象技術を要する媒体

だが、これは今後このスタイルでやっていく、ということではなく、試作の1つ

でもって、その表象を放棄してしまうことを選んだ。(もし再現性を求めた作

と捉えて欲しい。これまで学んできたことを有効的に自分の表現活動の中

品を作るのであれば、私は写真や映像などデジタルなものを選んだ。)そし

に取り入れていきながら、来年度中に自分のスタイルというものが確立され

て葉や枝、あるいは波、そして星々を形象する輪郭線の代わりにキャンバ

ていなければならないのだろうと考えている。今年度扱った「共感覚」という

スの上に台頭してきたのは無数の「文字記号」なのである。つまりアルファ

概念に関しても、それにこだわりすぎることなく、外側にもアイデアのよりどこ

ベットやアラビア数字などの文字をキャンバス上に敷き詰めていって、それ

ろを向けて行きたい。制作にはまずそれ相応のしっかりと固められたコンセ

を作品とした。

プトを用意しなければならない。ゆるぎないコンセプトにのっとった、自分の

私が『文字を描く』というプロセスに至ったのは「共感覚」という概念が大きく

スタイルの確立ということが今後の課題となるだろう。

関わってくる。「共感覚」とは、“一つの感覚の刺激によって別の近くが不随 意的に引き起こされる”という定義を広義的に持っており、その例えば物を 食べると指先に形を感じたり、音を聴くだけで色が見えたり、という感覚のこ とである。現象の中の一つである、「文字の概念から色を認識する」働きを 私自身が体験するために、抽象絵画の「色」という要素を、主観的な共感 覚の逆算を利用して「文字記号」にエンコードしてしまおうと考えたのだ。そ の文字が何色で描かれていようが、Aは渋い赤、Bは深い緑、Dはオレンジ

Kuwabara, The Beautiful Mysteries ―Forest, Ocean, Galaxy”

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ノンタイムベースド・インスタレーション 『SYNAESTHESIA』 法政大学国際文化学部国際文化学科文化情報演習4 2007年度卒業論文

桑原

Non-time-based Installation “SYNAESTHESIA”, Sho Kuwabara, Graduation thesis, 2007

る。」といった風に、一つの感覚が別の感覚を喚起することなのである。シト

序章 ―― はじめに

ーウィク博士が出会ったマイケル・ワトソン氏は、食べ物の味に対して、形と いう触覚を持っている。ワトソン氏自身が述べたことを引用すると、「強い味

まず断っておかなければならないのは、この論文は作品の解説を基本と しているということである。ノンタイムベースド・インスタレーションという位置 づけにおいて私が発表した『SYNAESTHESIA』という作品を中心に論題は 展開し、その各々の節においても、上記の作品の解説とその意義の提言を

のものを食べると、感覚が腕をつたって指先までいく。そして重さとか、質感 とか、温かいとか冷たいとか、そういうことをみんな感じる。実際に何かをつ かんでいるような感じがするんだ」ということである。また別の例では、ドロシ ー・レイサム氏は耳で聞いた言葉や、ピアノの旋律に対して色を感じる。

基本軸とするということを念頭においていただきたい。ただし、このインスタレ ーションは事前にその意図や理論を知ることを必要としない。(寧ろ、インス タレーションの純粋な体験の為に、先見すべき概念は敢えて設けてはいな

・つまり何が起こっているのか

い。)このことについては、後に触れたいと思うのだが、この論文では、そのイ

そうした共感覚者(Synesthete,共感覚を持つ人)にとって、このような現象

ンスタレーションを体験しており、その形態や手法がいかなるものであった

が彼らの脳内で起こっているということを留意しておかなければならないだ

かを読者が把握していることをある程度前提に、その解説を進めていきた

ろう。人間の知覚は、すべて脳で処理されたものである。つまり目で見たもの、

い。

視覚から受けた刺激は、視神経を通り、脳へと運ばれ、脳内の視覚をつか

その際、ここで先に述べておかなくてはならないのは、このインスタレーシ

さどる部位にて処理が施され、最終的に感覚とされている。耳で聞いたもの

ョンの制作プロセスの中に存在する「共感覚(Synesthesia)」という概念につ

は脳内の聴覚からの刺激を処理する場所、味は味覚をつかさどる場所、と

いてである。私自身がひとりの共感覚者(Synesthete)であることを原点に、

いったように、人間が五感それぞれを通じて知覚したものは、脳内において、

そこから導き出される採色方を以って、この作品を制作している。本論文で

それぞれ処理されるべき場所に送られて感覚される。このように別離された

は、まず共感覚というものについての概念的な説明を第1章で行いたいと思

(あるいは分担された)各々の脳部位で、外界の情報を処理しているために、

う。ここでは共感覚というものがそもそも何であるのかを解説した上で、本作

我々は見たものと聴いたものを区別することができるのである。ところが共感

品の作者(即ち私)の共感覚を述べ、現在の共感覚研究のあり方について

覚を持つ人間においては、そのゾーニングがしばしば曖昧であることが多く、

触れてみたいと思う。(しかしながら共感覚に対する科学的な論述を私は目

例えば、視覚から受けた刺激が脳に伝達されたときに脳の視覚野だけでな

的としていない。実際の共感覚研究における専門的な医学用語や、脳医

く聴覚を担う場所も何らかの刺激を感じてしまう、というように、感覚器からの

学に関する知識を必要としない次元で、簡単にそれがいかなるものかにつ

情報が複数の脳部位で感覚として取り出されるために、上記に挙げた例の

いて触れたいと思う。)共感覚についての概念を把握した上で、第2章では、

ような、感覚の混線、すなわち共感覚という現象として起こるのである。(こ

形態的な側面における作品解説を施したいと思う。ここでは、今回私が採っ

れら共感覚の図式例は、図1-1,2,3 を参照されたい。)

図 1-1. 共感覚の図例① 共感覚者パトリシア・リン・ダフィーに見えている色アルファベット (パトリシア・リン・ダフィー「ねこは青、子ねこは黄緑」より転載)

た形式と、その意味合いについての解説と、その中での各々の要素が持つ であろう意義についての検証をその主たる目的とする。つまり、私がこの作

・「不随意的である」とはどういうことか

品において採った手法と形式を要点毎に説明し、その理由を論じていきた

シトーウィク博士の定義に沿って共感覚に対する理解を進めようとする上

い。続いて第3章では、第2章で触れるそれぞれの形態を総体的に捉え、こ

で、もう一つ留意しなければならないのは、共感覚が「不随意的に」引き起こ

の作品を通しての私自身の試みを解説していきたいと思う。ここでは論題は

されている、ということである。不随意的に起こる、ということは、つまり、共感

形態的なものから、より概念的なところへと展開する。

覚者は、自分の共感覚を自在にコントロールすることができないのだ。「はじ

図 1-2. 共感覚の図例② 作曲家マイケル・トーキーが見る色付きの一年間 (パトリシア・リン・ダフィー、同書より転載)

めに」の箇所で、私がひとりの共感覚者であることをほのめかしているが、私

第1章 ―― 共感覚(Synesthesia)について

自身が厳密に共感覚を持っているのかどうかは確証がないものの、私には “文字”というものに対する“色”の不随意的な応答がある。つまり文字に色を

私の作品の原点であり、また制作のプロセスに大きく関わってくる、「共感

感じるということであり、例えばアルファベットの「A」は濃い赤色、数字の「7」

覚」という概念を先にまとめておきたいと思う。共感覚という言葉は日常に溢

はオレンジ色、ひらがなの「す」は淡い紺色といったように、文字を目にしたと

れかえって聴きなれている言葉でも、また教育の過程で皆が直面する学術

きに、明確に色を感じるのだ。したがって、文字によって形成される単語や

の用語でも決してない。共感覚という言葉だけを見ると、おそらく「共感

文章についても同様である。この文字と色の呼応について、非常に特徴的

(Sympathy)」をイメージする者が多いのかもしれない。しかしながら共感覚

であるのは、当該刺激によって引き起こされる別の刺激が、常に一定である、

とは、その文字通り、「共に感覚すること」なのである。共感することと何が違

ということである。即ち、私にとっては、「A」という文字から呼び起こされる

うのか、と疑問を抱くかもしれないが、共感(Sympathy)の様に人と人が感

「赤」という色が一定であって、「A」という文字を見る度に、それが「黄」や

覚を共にすることではない。“ひとりの人間の中において、彼または彼女の複

「青」に変わったりすることはないのである。これは共感覚という現象に普遍

数の感覚が同時に働くこと”なのである。以下では、共感覚研究で名高い、

的に該当することであって、刺激と共感覚の対は常に一定であり、これをコ

リチャード・E・シトーウィク博士の定義を引用しながら、さらに詳しく、具体的

ントロールすることはできない。またシトーウィク博士は、共感覚は当該刺激

に説明していきたい。

があればその発生は抑制できないし、また自分の意思で発生させることは できない、としている。私の場合であっても、気にしようとしなければ、意識の 妨げになるようなことはないが、「A」という文字から喚起される「赤」という感

・共感覚の定義とその実例 共感覚という言葉は本来、心理学や神経科学、脳科学において登場する ものである。ワシントン DC の神経科医であるリチャード・E・シトーウィク博士 の、自書の中での共感覚に対する定義をここに拝借すると、共感覚とは、 『一つの感覚の刺激によって別の知覚が不随意的に引き起こされること』な

覚を完全に消し去ることはできないし、その「赤」という共感覚を明日から 「黄」に変更しようとしても、それは不可能なのである。

・共感覚という理論を科学的に証明するには

のである。簡単に言うならば、例えば耳で聞いたものに対して視覚が反応す

私の上記のような記述を「本当だろうか」と疑う声が出てきても不思議で

る、あるいは目で見たものに対して、味覚が反応するといったものである。

はないのだろうと思う。共感覚と呼ばれるこの現象を人に伝達し理解してもら

「ある単語を聞くと、色が見える。」「図形を見ると、明確な触覚を感じる」「音

うのは、非常に困難なことなのである。何故なら先にも触れたように、共感覚

楽が視覚化されて見える。」「人の名前を耳にする度に、味が口の中に広が

は共感覚者の内面、さらに厳密に言えばその人の脳内で起こっている出来 事なのであり、すなわちその現象は、外界に実在するものではないのだ。例

1 ―― Kuwabara, Non-time-based Installation

SYNAESTHESIA”

図 1-3. 共感覚の図例③ 物理学者ジェフェリー・チェスター教授が見る方程式 (パトリシア・リン・ダフィー、同書より転載)


えば白黒の新聞紙の上に黒で印字された「A」を見て、「赤」を感じる共感覚

験者の中で繰り広げられていると仮定し、「共感覚が起こっていなければこう

者も、実際にその「A」という文字が黒で書かれているということは勿論知って

はならない」「共感覚者にしかなしえない」、といった行動を取り出し、そのデ

いる。しかしながら「A」という文字から感じられる赤という感覚は、幻想でも、

ータを科学的な根拠としていた。これは共感覚に起因する行動をその裏づ

ただの連想でもないのだ。共感覚者は、そこに色が無いと知りつつも、その

けとする方法だ。「共感覚がなければ、この行動は取ることが不可能」という

無い色を確かに見ているのだ。という断言が出来たとしても、その根拠たる

主題から起こる背理法的なアプローチと位置づけてもよいかも知れない。対

ものは必ず必要になるものであろう。実際に脳医学や心理学など、科学の

して、被験者の脳の中で起こっていることを直接調べることができ、脳の中

世界においては、被験者の訴える共感覚というものが彼らの作り話やただの

に共感覚が起こっている証拠を見出すことができたらば、さらに力強い。脳

想像や連想なのではないか、という多くの疑いを晴らすべく、科学的な論証

医学では、“脳の働きを画像化”をすることで、脳内にある確かな証拠を追

に徹する学者も多い。その科学的根拠の追求には、しばしば独自の実験や

っている。前者がより心理学的なアプローチであって、後者はより神経科学

調査が行われる。以下ではそのような、科学的に共感覚という論理を実証し

的なアプローチだとも言えるだろう。シトーウィク博士の自書『共感覚者の驚

ようとするこれまでの学術的な試みを紹介したい。

くべき日常――形を味わう人、色を聴く人』、並びに、ジョン・ハリソン博士の 自書『共感覚――もっとも奇妙な知覚体験』に記述されている、脳の画像化

①統計学的な実験 大人数の被験者群に対して行う統計学的なアプローチの例として、もっと

の方法とその検証をいくつか引用する形で紹介したいと思う。 味や風味に対する触覚、という共感覚を持つマイケル・ワトソン氏の脳機

もオーソドックスなものは、文字と色の結合についてのアンケート調査である。

能を画像化するためにシトーウィク博士が用いた方法が、「単光子放出コン

英国の心理学者であるジョン・ハリソン博士の実験を例に挙げてみよう。ジョ

ピューター断層撮影法(SPECT)」と呼ばれるものである。簡単に、どんなも

ン・ハリソン博士の研究チームは、任意に集められた一般の統制群と、共感

のであるのかを述べたいと思うが、これは、ゼノン133と呼ばれるガスを被験

覚を持つとされている人々からなるグループの両方に対し、それぞれの文

者に吸引あるいは注射して、脳内に行き渡ったあと、ゼノンガスの分子が放

字(あるいは単語)に対し連合する色を書き記す検査を二回に渡って施した。

出する光子を検出し、脳の断面図としてマッピングする、といったものである。

初回検査における回答と、再検査におけるそれがいかに一致しているかを

脳のある部位で顕著に活動が見られたとき、脳内にあるゼノンガスが顕著

調べるためだ。そして実際の成績の平均を二つのグループで比較したとこ

に光子を放出するのだ。つまり光子が脳内のどこでより多く放出されるのか

ろ、統制群はその正解率(即ち二回の検査の回答の一致率)の平均が

を画像化し、脳のどの部位が刺激にたいして反応を示すのかを探るのだ。

37%であったのに対して、共感覚者のグループは実に 92%以上という正解

ワトソン氏の場合では、彼にとって共感覚があるという匂いを嗅がせて、嗅

率を収めた。さらに驚くべきことには、この実験に際して、統制群に対しては

覚をつかさどる部位以外に顕著な活動を示す脳部位があるかどうかを調べ

同等内容の再検査を行うことを予め告知しておいた上で、初回検査の一週

たのだ。

間後に再検査を実際にとり行っているが、共感覚者のグループには、再検

SPECT と似た方法として、「陽電子放射断層撮影法(PET)」と呼ばれる方

査を行うということを黙秘にしたまま、約1年後に唐突に同等内容の再検査

法がある。こちらも、SPECT と基本的な仕組みは同様で、陽電子を放出す

を行ったのだ。以上の事実を踏まえると、この数字の差が統計学的に有意

る性質のある水を脳内に投与し、その陽電子と脳細胞の電子とが衝突する

であるものと思えて仕方がないだろう。共感覚者たちは各々の文字に色を

ことで発生するガンマ波を検出する、といった具合だ。脳内で、活動が顕著

連想しているわけでもなければ、意図的に記憶しているわけでもない。彼ら

であるほどこのガンマ波を多く捉えることができるため、この方法でも脳機能

は確かに色を不随意的に感じているのだ。

を画像化することが出来る上、SPECT よりも比較的その精度は高いとされて

また、カリフォルニア大学サンディエゴ校のラマチャンドラン博士は、文字

いる。ジョン・ハリソン博士の PET 研究では、音や単語を聞くと色を感じる、

図 1-4. PET 研究によって得られる脳マッピングの例

に色を感じると訴える人々に対し、「POP-OUT テスト」というものを考案し、

という共感覚者に目隠しの状態で単語や純音を聞き取らせ、その際の脳機

(ジョン・ハリソン「共感覚」より転載)

被験者が本当に文字に色を見ているのか、あるいはただの連想で作り話を

能を画像化し、実際に色の処理に関係していることが知られている脳部位

しているのかを探った。この「POP-OUT テスト」は、白い背景に黒い文字が

での活動の増加が認められた。(図 1-4)

散りばめられた画面をモニターで被験者に見せる極めてシンプルなものだ

これらの脳機能画像法は、共通的に「部分脳血流」の計測を基盤にしてい

が、例えば数字の「5」が散りばめられている平面の中に同じ色で数字の「2」

る。これは「脳の各部位は活動が増加するほど、多くの酸素を必要とする。し

を規則正しく配列し、被験者がこの配列をすぐに見つけ出すか否かを調べ

たがって酸素供給のために否応無しにその部位の血流は増加するのだ。」

たのだ。ラマチャンドラン博士の予想では、「5」が点在する画面の中に並べ

という仮説に基づいている。この仮説は現代の脳活動を調べる技術すべて

られた数字の「2」が三角形を作っていたとすれば、共感覚者はこの三角形

に共通して用いられているものなのだ。したがって、血流がどこで増加してい

をいち早く見つけ出すはずなのだ。なぜなら共感覚者にとって数字の「5」と

るのかを調べるために、上記のような画像法があると捉えてもらいたい。さら

「2」は異なる色を感じさせるために、その違いが明瞭なのだ。実際に共感覚

に近年の技術では、MRI(つまり磁気共鳴機能画像法)が発達している。活

を持たない人々はこの図形を発見するのが困難であったのに対し、共感覚

動中の脳細胞は、血流による酸素補給の次の段階で、磁性体としての性質

者たちは驚くほど早く、この“周囲と違う色の”図形を言い当てたのだという。

を持つことが明らかになっている。この性質を利用して、脳部位から発せら れる磁気共鳴信号と呼ばれるものを観測することで、各脳部位の血流の増 加を画像化して見ることが可能になっている。この方法では、特別な気体や

②脳医学的な実証 統計学的な側面を後にし、続いて現在の医学的なアプローチを紹介した い。断っておくが、ここでも医学の専門的な領域にまで話を深めていくつもり はない。共感覚に対して、脳医学的、または神経科学的にどういった研究が 施されているのか、という現状を知るのみを目的とし、それらの研究が科学 的にどういったメカニズムで成り立っているのか、などを追求することは、しな いつもりだ。重ねるが、私の主題は心理学や神経科学の範疇ではない。 さきほど「共感覚がひとりの人間の脳内で起こること」と述べたが、それなら ば脳の中を調べることが有意なのだ、という考えが、現代の神経科学のアプ ローチを要約したものになろう。先述の統計学的な調査では、共感覚が被

2 ―― Kuwabara, Non-time-based Installation

SYNAESTHESIA”

液体を被験者に投与する必要がないことと、その計測時間が比較的短縮さ れていることにおいて、上記2つの方法よりも優れているといえる。

・科学的な論証の意味するところとは さて、これまで科学の領域で、共感覚という現象がいかにして物理的なも のとして証明されうるか、という問いに迫る研究を紹介してきた。これらの観 測によって得られる脳画像は、極めて「客観的な」証拠といえるだろう。共感 覚という現象は外界に起こっている出来事ではない。すべて個人の中で起 こっていて、その外に抜け出しえないものなのだ。共感覚という極めて主観 的な心理現象を、客観性を以ってして示すことは非常に困難なのである。


これは、例えば、ある者が「頭が痛い」と訴えるのに対して、回りの人間が「本

中に共感覚という概念を用いた。作品の形態を概説した上で、具体的にど

当に彼は頭が痛いのか」を厳密に知ることが容易でない(日常的には不可

のような形で共感覚という概念を制作に利用したのか、という箇所から作品

能)のと同様に、「A」という文字が赤く見えるのだという主観的な認知現象が、

の、形態的な解説をしていきたいと思う。

果たして事実なのか、あるいはデタラメなのかを客観的に決定することは大

今回私が発表した『Synaestesia』という作品は、平面絵画をその核たる部

抵、不可能なのである。この困難の理由が、重ねるが、共感覚が外界に存

分としている。真っ暗な空間の一番奥の壁に、横に長い比率に作られたキ

在しないことに拠る、ということを私は強調しておきたい。そうでありながら、

ャンバスの上の平面構成(コンポジション)を設置し、そのコンポジションに

共感覚が、幻想や作り話などではなく、実在するものであることを、客観的

のみ、微弱な照明が当てられる。暗闇の中で、わずかに照らされたそのコン

な証拠を以ってして証明する、というのが科学の役割なのだと私は解釈して

ポジションだけが観者からは目視できる唯一の情報となる。このコンポジショ

いる。

ンを包括した、全体としての空間をひとつの作品とし、私はこれを“ノンタイ ムベースド・インスタレーション”と位置づけた。インスタレーションであるから、

・科学以外の物が共感覚に対してできることはなんだろうか

必然的に観者はこの空間の中に入り、自ら体験する形式となる。

正直なところ、私自身が「文字に対して色の感覚をおぼえる」ことが、共感 覚であるかについては客観的な確証が何一つあるわけではないし、ひょっと

②共感覚を用いた彩色

したらただ似ている感覚を持っているだけであって厳密には違うのかも知れ

この作品の核である平面絵画の構成は、前章で大きく扱った「共感覚」を

ない。もちろん私が共感覚を持っているとは断言できない反面で、そうでな

使用した。この平面の上では「文字という記号を色面に変換する」試みがな

いとも決して言い切れないのだ。何故なら私は「文字に色を感じない」世界

されている。具体的に説明していきたい。

を体験したことがないからだ。これは、共感覚にのみ言及できることではなく、

置き換える色は、私自身の共感覚、すなわち「文字から感じられる色」を

人はみな、自分以外の人間になったことがないし、それは不可能なのであ

忠実に可視化するかたちで選出された。すなわち、この

る。であるから故に、ここで共感覚を例にとったような外界に存在しないもの

『SYNAESTHESIA』という単語を形成する文字について、「S」は“鮮やかな

を比較し、あるいは共有することは厳密に言うならば、科学的な数値化で顕

空色”、「Y」は“わずかに黄色に近い黄緑色”、「N」は“淡くやさしい、かつ柔

在化すること以外は、不可能なのである。

らかなニュアンスを持つクリーム色”、「A」は“濃く強い赤色”、「E」は“鮮や

しかしながら、私が実際に共感覚を持っているのか否かを明確にすること

かな青緑”、「T」は“白に極めて近い木版のような色”、「H」は“やや黄みを

図 2-1. 着色の際に実際に使用した「下書き」

を私は目的としていないし、もちろん論点でもない、ということをここに主張し

帯びているが、極めて淡く明るいクリーム色”、「I」は“時に無色であり、時に

着色は完全にグレーに印字された「SYNAESTHESIA」という単 語を見ながら行われた。

ておきたい。もちろん、前節で触れたような脳画像などによって、物理的客

淡いパステルレッド(口の中のような色)”にそれぞれ感じ取られるのだ。それ

観性を有した実証を科学的に行うことは不可能ではない。しかし、私の関心

ぞれの文字を色に置き換え、文字という形態を排除して、色面の連なる平

はそこにはないと断言していいのかも知れない。私は神経科学者ではない

面構成へと変換した。単語というものが、アルファベットを横に連結させる形

し、科学の範疇である客観的論証を行ないたいとは考えていないのだ。私

で成立しているために、このコンポジションが横に長いものになったのは、私

の個人的な意見を述べるならば、私は共感覚というものは(少なくとも私が保

にとっては自然な流れであった。また、『SYNAESTHESIA』という単語の選

有する次元のものにおいては)、人間という生命体が普遍的に有するものに

出は特に意図が無い。故に、作品を体験させるにあたって観者にはそのコ

繋がると考えている。共感覚があるのか、ないのか、という差異が現われてく

ンポジションが何と言う単語を変換したものであるのかを告げなかった。さら

るけれども、「人間の感覚に基づいている」、という次元で、根本的には普遍

には、その平面が“単語を変換したもの”であるという告知も敢えて行わなか

性があることを強調したい。「何を当たり前のことを言っているのか」という声

った。ここに意図を設けなかったということは意図的なのであり、事実上、選

が今にも聞こえてきそうなのだが、敢えて続けたいと思う。共感覚というある

ぶ単語は“何でも良かった”のだが、任意に選んだ単語には、どうしても意図

意味では特殊な心理現象について深く追求していきその謎を解明するだけ

が付随して見出されてしまうものだと考える。例えば『APPLE』という単語を

ではなく、共感覚というものを一つのきっかけにして、人間の普遍的に有する

選んだとしよう。もちろんこの『APPLE』という単語も、鮮やかな色面に変換

ところの感覚の可能性を追求しうるのではないか、という考えを私は持って

することは出来る。しかしながら次の瞬間、「なぜ APPLE でなくてはならなか

いる。であるから故に、共感覚者である者と、そうでない者との違いには私は

ったのか」と問われてしまうのだ。これは単語というものが、概念的に意味を

あまり着眼したくはない。言い換えるならば、共感覚者でない時点で、共感

持つから故の思考なのだと思う。とはいえ、意味を持たない文字の配列を作

覚者の感じている世界が理解不可能、という割り切りが簡単にできるほど、

り出すということも私はしたくもなかった。変換されるものは、外界に存在する

共感覚という現象が「異常な」ものであるとは考えていない、ということだ。

ものでありたかったからだ。従って、この色変換の題材であり、作品のタイト

以上が、「共感覚」という概念に対する私の意見であり、主張である。見て

ルとしても差し支えの無い、「共感覚」という単語を“敢えて無意図的に”使

判るように、非常に抽象的で、その根拠も薄いのだが、客観的な論証をしよ

用した。共感覚の書物や文献などに広く使われている『SYNESTHESIA』で

うと試みても、やはり科学の領域に渡ってしまうことが否めない。重ねるが、

はなく、敢えてイギリス英語の『SYNAESTHESIA』を選んだのは、そちらの

以上に述べたことは私の考えであり、事実を裏付けようとする試みではない。

方が鮮やかだから、である。このコンポジションの、彩色以外の側面につい

では、科学的に客観性を見出さないのであれば、どうすればいいのだろうか。

ては次で触れたい。

私は「表現」という方法でこれまで述べてきたような、人間における極めて主 観的な出来事を普遍的な形にできるのではないかと考える。

③コンポジションについて インスタレーションに組み込む要素として、私はコンポジションを用いた。 具体的には、縦 70cm×横 200cm の横に長い比率の木製のキャンバスに、 アクリル・グァッシュで色面を構成した、いわゆる平面幾何学的な抽象絵画

第2章 ―― 作品解説(形態的側面)

である。この節ではこのコンポジションについての説明をしていきたいのだが、 コンポジションという語の整理から始めたいと思う。コンポジション (composition)とは、「構成」を意味する単語であるが、作品内における要素

①作品の概略 さて、共感覚についての論議をここで終えて、作品の解説に移りたいと思う。 もう一度繰り返すようになってしまうが、私は今回、作品の制作のプロセスの

の構成としてのコンポジションという語は、本来的には音楽の用語だ。コンポ ジション(=作曲)は、音の高さや長さ、強さ、そして音色などといった各々 の要素を組み合わせることで、全体としての作品を作る。ということである。

3 ―― Kuwabara, Non-time-based Installation

SYNAESTHESIA”


音楽において、部分的な要素ごとには捉えられず、常に作品は全体として

には必ず編集画面に、シークェンスと呼ばれる時間軸上の連続体が設けら

“調和”していなくてはならなかった。このコンポジションという考え方を絵画

れていて、製作者はこのシークェンスに、フッテージ(即ち映像としての素

の領域に用いたのが、ロシアの画家、ワシリー・カンディンスキー(Wassily

材)をはめこんでいく。アプリケーションを使って音楽を作る際も同様だ。ま

Kandinsky 1866~1944)である。彼は音楽作品の持つ“全体性”を絵画に

たコンテンツという枠を超えて言及するならば、時間軸に沿ってその振り付

応用し、ひとつの平面の上に形態や色彩といった要素を構成し、その全体

けが決められているダンス・パフォーマンスなどについても、タイムベースな

を作品とし、自らの絵画を「コンポジション」と位置づけた。従来は「何が描

芸術と呼んでいいだろう。(もっともこれらパフォーマンスについては、タイム

かれているのか」が重要視された、いわゆる具象芸術が絵画の主流たるも

ベースドな音楽というコンテンツに沿って構成されているものが多いだろ

のであったが、カンディンスキーは色や線状フォルムなどの構成を用いて具

う。)

象世界を抽象的に再構築する試みを重ねていた。カンディンスキーによる、 図 2-2. ワシリー・カンディンスキー<コンポジションⅦ> (1913年、トレチャコフ美術館蔵)

図 2-3. ピエト・モンドリアン<コンポジション> (1922年、グッゲンハイム美術館蔵)

それと比較して、「ノンタイムベースド(non-time-based)」は、“時間軸に沿

絵画におけるコンポジションという考え方は後の画家に多大な影響を与え

っていない”という間逆の意味である。こちらの作品では、時間軸に沿った変

たが、その中でもピエト・モンドリアン(Piet Mondrian1872~1944)はコンポ

化というものが含まれていない。即ち、予めタイムラインに沿った構成がされ

ジションを更なる芸術の形式として確立させたもっとも特筆すべき人物なの

ていない、というものである。私の作品の核は、種も仕掛けも無い、平面絵

かも知れない。オランダの画家、モンドリアンはその画家としての生涯の初

画であるから、この平面絵画は時間と共なる変化をするはずがない。決めら

期にパリでキュビズムを学ぶが、モンドリアンが自分の作品を「絵画」ではな

れたストーリーや連続体がこの作品の中には用意されていない。

く「コンポジション」と呼ぶようになったのはこの頃からである。以後、垂直線と

そして、「インスタレーション」という語についても整理しておきたい。「イン

水平線に囲まれた三原色の色面による独自のコンポジションを確立した。

スタレーション」とは、「インスタレーション・アート(Installation art)」のことで

モンドリアンのコンポジションは、カンディンスキーのものよりもさらに抽象を

あり、1960 年代末、あるいは 1970 年代から普及し一般化した表現手法のこ

追及し、かつ幾何学的に再構築したものである。カンディンスキーが色彩や

とである。オブジェや装置を組み込んだ状況を設定し、その展示空間全体

直線、曲線そして形態を自由に用いて構成をしたのに対して、モンドリアン

を作品するものであり、観者にその空間を体験させるものである。私の作品

は形態というものをも排除し、その構成要素を平面、直線(黒の水平線と垂

では、最も奥にわずかに照らされたコンポジションを設置し、そのコンポジシ

直線)、厳密に決定された色彩(赤・青・黄の三原色と白・黒)に限定してい

ョンと、それを取り囲む暗闇を全体として一つの空間として作品化したため

た。これは紛れもなく抽象の追及と再現性の一切の排除を徹底した顕れな

に、インスタレーションという位置づけにしている。したがって、この作品は、

のであり、そこから世界の普遍たるものを一枚の平面という限られたフィール

「絵画作品」でもなければ、単なる「展示」でもない。観者に上記の空間を体

ドの中に集約し、調和させようとした。(モンドリアンはこの理論に基づく独自

験させることを主目的とした、いわゆる“体験型の”インスタレーションなので

の芸術を、『新造形』と名づけた。)

ある。それでいながら、このインスタレーションには動的な装置が何一つ含

彼らのコンポジションは「抽象」でなくてはならなかった。つまり、キャンバス

まれてはいない。観者が足を踏み入れてから、この空間を後にするまでの

の上に何かを再現するという目的を拒否し、非対象、無対象なものであった。

間、このインスタレーションに組み込まれているものは何一つ変容していか

具体的な対象を用いない故に、普遍的・絶対的なものを造形することがで

ないのだ。つまり時間軸に沿って変化をしない「絵画」という表象に対して、

きるのではないか、という考え方がそこにあるからだ。

展示のみではなくインスタレーションとしたのは、観者が空間内をどう動くか、

ここで私のインスタレーションにおけるコンポジションについて述べたいの

どれくらいの間そのコンポジションを見るか、どの距離で対象を捉えるか、な

だが、私のコンポジションも原則的にはモンドリアンの形体のみを受け継い

どの多様な条件による、視覚効果の変化をも、その作品性の中に組み込む

だ幾何学的抽象なのだが、色彩の使用については新造形主義の理論では

という目的に依拠する。具体的な視覚効果についての解説は次節にて行い

なく、共感覚による独自の方法論を取っていることについては、前節で述べ

たいのだが、このような効果は、用意された変化ではなく、「時間軸に対して

た通りである。コンポジションはすべて色面で構成されており、色面以外の

横断的に、自由に変容する」ものでなければ、より人間の感覚の普遍的なレ

いかなる形態や、図と地の区別を排除した。これはコンポジション上におけ

ベルまで届かないと私は解釈している。

る再現性(つまり何が描かれているのかを観者に考えさせてしまうこと)や、 三次元的イリュージョン(平面上において奥行きや立体感などを認識させて

⑤インスタレーションの方法と意図について

しまうこと)を排除し、幾何学的抽象としての平面性を徹底した。形態を排除

インスタレーション全体の概略については既に述べてきた通りである。ここ

し、単純に「色彩」という要素のみを感覚刺激として観者に与えようと試みた

ではその各々の要素について、さらに具体的な解説と、その意図を記述し

からである。このインスタレーションにおいては、コンポジションは一つの要

たいと思う。今インスタレーションの空間設置に関して、私が意識的に組み

素であったが、本来的にコンポジションは“全体”でありそのフィールドに表

込み狙っていた効果として、「暗順応」と、「色順応」という二つの概念が挙げ

現の全てを構成し完結させる、というシュプレマティスム(絶対主義)には反

られる。まず、暗順応から説明していきたい。暗順応とは簡単に言ってしまえ

したものである。この考えに沿うならば、厳密には私のインスタレーションに

ば、“明るいところから暗いところに移動した際の目の順応”のことである。人

組み込んだ平面はコンポジションと呼べないかもしれないが、私が抽象表

がものを見るとき、外界からの光はまず角膜によって屈折し、水晶体水晶体

現に徹底することによる普遍の抽出という概念において、彼らの思考に同意

で焦点が決められ、硝子体を経て網膜へと到達する。この網膜にある視神

しているという前提の基に敢えてこの語を選択している。

経細胞(視細胞)によって外界から入ってきた光の刺激は電気信号へと変 換され、視神経を通り大脳の視覚中枢へと伝達される。この網膜にある視

④「ノンタイムベースド・インスターレーション」という位置づけについて

細胞には、明暗にのみ反応する約 1 億 2000 万個の杆体と、色彩や形態を 識別する約 600 万個の錐体細胞がある。明るい場所では主に錐体が機能

私は今作品を「ノンタイムベースド・インスタレーション」と位置づけたと先

4 ―― Kuwabara, Non-time-based Installation

し、 暗い場所では杆体のみが働く。非常に暗い場所で、色の識別が困難

述したが、その意味を説明したい。まず「タイムベースド(time-based)」とは、

になり明暗のみが見えるのは、反応する杆体の特性である。明るいところで、

“時間軸に沿った”という意味であるということを押さえておきたい。つまりタイ

錐体が機能している状態のことを「明所視」というが、この状態から、急に暗

ムベースドな作品とは、映像や音楽などに代表されるように、時間軸に基づ

い場所に移動すると、人は暗くてものが何も見えなくなるだろう。しかしなが

いて制作され、かつ進行・展開していくコンテンツ、あるいはそれを含む作

らしばらくの時間を経て、徐々にそのくらいところに目が慣れて、ものが識別

品のことを指す。これはコンピューターを使ってこれらのコンテンツを制作す

できるようになる。この順応のことを「暗順応」と呼ぶのだ。(対して、暗所から

る時のことを考えてみると用意にイメージがつかめるだろう。映像を作るとき

明所に移ったときの順応を「明順応」と呼ぶ。)暗順応が起こるとき、先述し

SYNAESTHESIA”


た明所視の状態から、「暗所視」の状態へと視細胞がシフトするのだ。明所

た者が複数いたのだ。もちろん黒と認識したことはその観者の主観的な見

視と反対に、「暗所視」とは暗い場所で杆体が機能している状態のことであ

え方であり、それに対して私が制約を付けてしまうのは本来の意図とは違う

るが、もっともここで重要視したい点は、暗順応が起こる際に、明所視から暗

のだが、これはやはり照明の照度設定を私が誤ったといえるのだろう。人間

所視に“時間をかけて徐々に”切り替わる、ということである。人が明るい場

が見ることのできる可視光はさまざまな波長を含む光なのだが、明所視にお

所から暗所に入った時に、その暗さに目が慣れて完全に順応するまでには、

いて人は波長(より赤みの光)の方が良く見え、逆に暗所視においては短波

約 30 分の時間を要すると言われているが、これは錐体から杆体へとその機

長(より青みの光)の方が良く見えることが明らかになっている。つまり、暗順

能がシフトする時に、杆体が働くために必要な、ロドプシンと呼ばれる視物

応が起こる際に、人がよく見える波長域が長波長から短波長にシフトするた

質が再生するために要する時間のことなのだ。ドイツの生理学者であるアウ

めに、暗い場所に移動すると、赤みを帯びた色は薄れて、捉えにくくなり、対

ベルトは横軸に暗い場所に入ってからの経過時間、そして縦軸に光覚閾

照的に青みをおびた色は明るく目だって見えるのだ。この現象は「プルキン

(光を感じるために必要な最低限の明るさ)を記した「暗順応曲線」というも

エ現象」と呼ばれているが、このためにインスタレーションにおいて、同条件

のを紹介している。右上に載せた[図 2-4]は、ヘクト=マンデルバウム図とも

下においても、観者は赤い色をよく認知することができなかったのである。そ

呼ばれる暗順応曲線であるが、この図が二つの曲線で成り立っていることが

の上に、赤い色面の照度が足りなかったのは言うまでもない。つまり、観者の

分かるだろう。これは錐体と杆体とで暗順応に違いがあるからである。暗所

視覚がその色を捉えるのに最低限必要な明るさを下回っていたのではない

に入ってから、まず錐体(赤点で記されている。)が機能を回復しだし、すぐ

か、という懸念である。上の案順応曲線において、錐体による暗順応のピー

に光覚閾値が減少(つまり感度が増加)していくのが分かるだろう。10 分ほど

ク値、すなわち錐体が捉えることのできる最小限の光覚閾値に、色面の明

経過すると、錐体の機能による光覚閾が最小値のピークを迎え、その減少

るさが達して意なったということだ。それ以上も順応が進んだとしても、それ

が滞ってしまう。つまり、錐体だけではこれよりも暗い光を認識できない、とい

は杆体によるものであるために、色彩を認知できる領域にはならないだろう。

うことだ。それ以降は、杆体(青点)が徐々に機能しだし、さらに小さな値まで

よって、色面の照度は錐体による暗順応の最小の光覚閾値を上回っている

光覚閾を減少させている。杆体による暗順応も約 30 分でピークを見せ、そ

必要があったのだ。

れ以降は光覚閾値の減少は見られない。

暗順応についての話を終え、色についての順応に移りたいと思う。これは暗

私のインスタレーションでは、この暗順応という効果を利用している。上述

順応と同じく、“見え方の変化”であり、例えば同一の色を長時間見続けると

の通り、インスタレーションに使用した空間は極めて暗闇に近く、使用した光

き、その色の見かけ上の彩度は数分をかけて低下していく。また、これは照

源は、インスタレーションに組み込んだコンポジションを照らすわずかな照

明光による色味の違いにも働く順応である。いわゆる電球のフィラメントは長

明のみである。すなわち、ぼんやりと四角い形状をもってして光るコンポジシ

波を帯びた光を多く含んでおり、他の光に対してこの光に照らされた物は本

ョンを除いて、一切の情報を視認できなくする、という目的があったからだ。

来的には比較的に“赤み”を帯びたものである。しかしながら、見かけ上では

いうまでもなくこのインスタレーションの主役はコンポジション、さらに言えば

人はこの“赤み”を意識することは無く、つまり照明条件の変化に関わらず、

コンポジションの上にある色面であり、それ以外の感覚情報を排除する必

物体の色の見え方は変わることはない。これは「色の恒常性」と呼ばれる視

要があった。インスタレーションでは、音源を全く用いなかっただけでなく、

覚の性質である。8色に塗り分けられた 12 の色面からなるコンポジションに

空調などの雑音も除いた他、観者の発声をも極力させなかったのだが、こ

は、赤や緑、空色、淡い黄色など、さまざまな色が含まれている。そのコンポ

れは聴覚に訴える刺激を同様に排除し、インスタレーションにおいて色面の

ジションは非常に暗い条件の下にあり、いわゆる本来の絵の具の色とは遥

みが存在する空間を作り出し、その世界に観者を没入させるためである。

かに暗く、色彩は淡いものになっているのだが、観者はそれらの色面が“何

観者は明るい照明光が施された通常の室内から“演出された”暗闇へと入

色であるか”を判別することが出来る。さらには、このコンポジションに施され

ることになる。この時、明るい照明の下にいた観者はいわゆる明所視の状態

た照明はかなり長波長成分を含むものであり、実際の色味よりも赤み(正確

であり、インスタレーションに入ったばかりでは、正面のコンポジションをしっ

にはオレンジ色)を帯びたものだった。それにも関わらず、青は青、緑は緑、

かりと見ることが不可能である。しかしながら観者の目が次第に暗順応をし

と判断することが観者には出来る。これも、観者による色順応のためである。

ていくにつれて、徐々にコンポジションの色面はその色彩を取り戻し始める。

また、このコンポジションの上には補色関係を成立させている色面がある。

時間が経過するにつれて、曖昧だった色味やその境界が明確なものへと変

例えばコンポジションの中央やや左の箇所においては、濃い赤色と、鮮や

化し、その空間に入った段階から観者の目の前にあるはずのコンポジション

かな青緑の色面が並置されている。この二つの色は概ね補色の関係にある。

は、徐々にその姿を変えながら現れてくるのだ。この変化は言うまでもなく

[図 2-5]は(財)日本色彩研究所が 1964 年に開発した PCCS 色相環と呼ばれ

“見え方の変化”であり、組み込まれた装置そのものの変化ではないから、

るものである。補色とは、その両方の色を混色すると互いに色味を打ち消し

観者の主観的心理状態の変化であり、それはノンタイムベースドなものなの

あい、無彩色を作り出す2つの色の関係のことであり、左の色相環では、そ

である。

の円のちょうど反対側に位置している色同士のことである。この色相環を見

実際に一人あたりのインスタレーションに設けた時間は 10 分である。これは

ても、赤と青緑が対称に位置していることがわかるが、二つは補色の関係に

暗順応の際の、観者の錐体による光覚閾が最小限値に達するまでに要す

あり、これによる効果がインスタレーションにおいて見受けられる。赤色の色

る約 10 分を考慮したものである。先述の通り、このインスタレーションの主役

面を見ているとき、観者の目は先述の「色順応」を起こす。赤という色に目が

は“色”に他ならないので、色彩を認識する錐体による光覚閾が臨界点に達

順応しているとき、その隣にある青緑の色面はその色味を消失し、灰色のよ

してからの暗順応は、効果的ではないと判断したからである。杆体による暗

うに見えてしまう。逆に、青緑という色に目が順応しているときは赤の色面の

順応が進み過ぎてしまうと、コンポジションを照らしている照明によって、ある

色味が奪われ、黒に近い色に見えてしまう。これらの同時対比は両色が補

いはその反射光によってわずかに照らされていた壁や、天井などの部分が

色の関係にあるからに他ならない。

必要以上に視認されてしまう恐れがあったからだ。しかしながら、30 分という

恒常性という現象は明るさや色味についてのみ働くものでは、もちろんなく。

完全な暗順応を経た状態で、このインスタレーションが他に予期せぬ効果

もっとも日常的な現象として「大きさの恒常性」があることを述べておかなく

を生む可能性については、(意図を問わなければ)、否定は出来ない。

てはならない。我々の視覚に広がる世界では、遠くに位置しているものほど

先に触れたインスタレーションの時間設定もそうであるが、一つ顧みなけれ

小さく、そして近くにあるものほど大きく見える。例えば遠くにいる友人が、あ

ばならないことは、コンポジションを照らす照度の設定について、である。こ

なたに近づいてくるに連れて、その友人の姿が大きくなってみえるが、もちろ

れはインスタレーションを実施した後に浮き彫りとなったことなのだが、観者

ん、その友人があなたの目前で親指ほどの大きさからあなたと等身大ほど

の中にコンポジションに含まれる赤の色面を“黒”であると思い込んでしまっ

の大きさへと巨大化したと思うことはない。線路は遠くになるにつれて細くな

5 ―― Kuwabara, Non-time-based Installation

SYNAESTHESIA”

図 2-4. 暗順応曲線

図 2-5.

PCCS 色相環


っていくが、それは見かけ上の現象なのであって、実際には線路の幅はどこ

の追求によるアプローチとがあるのではないかと考える。即ち前者は科学と

まで行っても等しい。このように、対象の見かけ上の大きさと、その対象との

いう人類の文化に代表されるように、自分たちの周りにある神秘(ここでは

距離を考慮に入れ、脳は「大きさの恒常性」を保っているのだが、ここで留

「神秘」という言葉を、人類がその文化的活動の対象、あるいは目的として

意しておきたいのは、そのような恒常性は、“周囲に見えているものとの比

いるものを総体的に呼んで使っている。謎という語に置き換えても障りはな

較”によって成立している部分が非常に大きい、ということである。私のイン

い。)に対して、絶対的な法則を見出し、そのメカニズムを明らかなものとし

スタレーションにおいて、唯一視覚に入ってくるコンポジションを比較する周

てかつ万人に普遍的なものとして共有する活動である。人類が普遍的に共

囲のものは存在しないのだ。もちろん、空間に入って、コンポジションに向か

有するためには、これらの事象は客観的なものとして存在しなければならな

って歩み寄っていけばその見かけ上の大きさは大きくなっていくし、遠ざか

い。しかしながら、世に遍く全てのものは我々の感覚というものを通して我々

れば必然的に小さくなる。しかしながら観者が見ているコンポジションの周

の脳内に入ってきていることを意識して欲しい。言い換えれば、私たちが認

囲に広がるのは形態なき暗闇に他ならず、観者は比較対象としての視覚情

識している総てのものは、私たちの感覚によって脳内に起こっている主観的

報を得ることができない。暗闇の中で近づいては遠ざかり、という行動を繰り

心理状態なのであり、つまりは、この主観というものに依拠している総ての事

返すと、最終的に観者はその距離感を失ってしまう。距離感をつかめなくな

象の答えは、私たちの内部に存在するということである。そして、この普遍へ

ってしまうと、コンポジションの大きさを把握することがたちまち困難になって

のアプローチは、客観的な根拠を必要としない「表現」という領域において

しまうだろう。これは必ずしも起こることが予測された効果ではないが、視覚

可能となるものでると認識している。そして表現による普遍へのアプローチは、

の恒常性に依拠していることは確かだ。

客観的で、かつ論理的な思考というものを取り除く必要があり、人間の感覚

この節では私のインスタレーションにおける形式と、それによって予測される

という究極のレベルにのみ訴える表現を追求することができれば、大きな神

効果についての説明をさせていただいた。ただし、である。もっとも重要な点

秘に対する前進をすることが可能となるであろう。共感覚という心理現象は、

は、私がどのような視覚効果を意図していたか、あるいは厳密にどの色に見

我々の主観的な感覚から普遍的なものを見出すための数ある(であろう)ヒ

せたかったのか、ということではなく、観者各々がどのように見えたか、という

ントの中のひとつに他ならない。共感覚という主観的な現象を、敢えて表象

“見かけ上”の多様な変化であり、それらは作者によるコントロールや時間と

という形で客体化し、それを主観的に認知させることは、客観性を追及しそ

いう軸の束縛から逃れた、完全に主観的な心理状態のことである。目の前

のフォーカスを外界に向けすぎてしまっているあまりに気付くことが困難にな

にあるものを楽しむというよりは寧ろ頭の中で起こっていることを楽しむインス

ってしまっている、我々人間の感覚に内在する普遍的な事象を意識させる

タレーションである、と言っても過言ではない。

ための示唆なのであり、このインスタレーションは、その実践である。

第3章 ―― 考察 最終章では、このインスタレーション作品を通しての私の試みを述べて結 びとしたいと思う。私の制作のキーとなったポイントは、「いかに主観的なもの の、客観的な表現をするか」という部分にある。先述したように、共感覚に代 表されるところの主観的な心理状態は、我々を取り囲む外界に由来するも のではなく、それを客観的なものとして他者から認識されうる形にすることは 非常に困難である。しかしながら私の目的は、自分の脳内に広がる主観的 心理状態をいかに他者に伝えるか、あるいはその存在を立証するか、という 領域にはないことをここに再度強く主張したい。即ち、私の「表現する」という プロセスによってなされることは、「伝達」や「論証」ではない。つまり、私は自 図 3. ノンタイムベースド・インスタレーション『SYNAESTHESIA』

分の主観的心理状態を機軸に制作を行ったが、これは主観的心理状態と

(桑原 翔、2008 年1月)

いう、形而上学的なものから、対象として感覚できるものへとエンコードする ことと言っても良い。エンコードされたものは、前章で解説してきたように、形 態を持たない色刺激としてのコンポジションと、その相対的な多様性である が、そのデコード(つまり観者がインスタレーションを感覚し、脳内で認識とし て再構築すること)においては、完全に観者各々の主観に依拠している。こ れは観者それぞれがどこに立っているか、どの角度からコンポジションを知

参考資料・文献

覚するか、という物理的な条件もそうであるが、最終的には「観者が誰であ るか」というレベルの多様化によって、その主観性が保たれると言っても良い。 私の作品は、客観的に捉えられるものとして外界に現前させるだけではなく、 それが観者の脳内で、それぞれの主観的な心理状態として現れることがで きて初めて、成立する。先に私がこのインスタレーションが「伝達」ではない

ジョン・ハリソン『共感覚―もっとも奇妙な知覚世界』松尾香弥子 訳、新曜社、2006 年

リチャード・E・シトーウィク『共感覚者の驚くべき日常―形を味わう人、色を聴く人』山下篤 子 訳、草思社、2002 年

パトリシア・リン・ダフィー『ねこは青、子ねこは黄緑―共感覚者が自ら語る不思議な世界』石

ロバート・L・ソルソ『脳は絵をどのように理解するか―絵画の認知科学』鈴木光太郎・小林哲

田理恵 訳、早川書房、2002 年

と述べたが、これは、私がエンコードした脳内の主観的心理状態と、観者が 作品をみることで生まれる彼らの主観的な感覚とが、等しい必要性がない からである。

生 共訳、新曜社、1997 年 ・

長谷井康子・野瀬明子『わかりやすい色彩と配色の基礎知識』永岡書店、2005 年

『文部科学省認定ファッションコーディネート色彩能力検定対策テキスト1級編』㈱A・F・T 企

「普遍への追求」こそ、人類の目標なのではないかと個人的に考えている。 普遍を追求するということは、我々を取り囲む全てのものとの関係を明らか

6 ―― Kuwabara, Non-time-based Installation

岡崎乾二郎『芸術の設計―見る/作ることのアプリケーション』フィルムアート社、2007 年

画、2005 年 ・

ピエト・モンドリアン『新しい造形―新造形主義』宮島久雄 訳、中央公論出版、1991 年

にし、人間が未だに到達できていない世界のより神秘的な境地へ近づくこと

ワシリー・カンディンスキー『点と線から面へ』宮島久雄 訳、中央公論出版、1995 年

ヨハネス・イッテン『色彩論』大智浩 訳、美術出版社、1971 年

である。しかしながらこの方法には、客観性の徹底によるアプローチと、主観

江藤光紀『カンディンスキーの色彩理論とその実践』論叢現代文化・公共政策、2007 年

SYNAESTHESIA”



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