ノンタイムベースド・インスタレーション『SYNAESTHESIA』について

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草 稿

ノンタイムベースド・インスタレーション『SYNAESTHESIA』 について

文化情報演習4(森村・川村ゼミ) 卒業論文(卒業制作意図) 国際文化学部4年 D 組 (第6期) 04G0311 桑 原

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索引

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序章 ―― はじめに

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第1章 ―― 共感覚(Synesthesia)について

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・共感覚の定義とその実例 ・つまり何が起こっているのか ・「不随意的である」とはどういうことか ・共感覚という理論を科学的に証明するには ①統計学的な実験 ②脳医学的な実証 ・科学的な論証の意味するところとは ・科学以外の物が共感覚に対してできることはなんだろうか

第2章 ―― 作品解説(形態的側面) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p.8 ①作品の概略 ②共感覚を用いた彩色 ③コンポジションについて ④「ノンタイムベースド・インスターレーション」という位置づけについて ⑤インスタレーションの方法と意図について

第3章 ―― 考察

参考資料

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序章 ―― はじめに

まず断っておかなければならないのは、この論文は作品の解説を基本としているということである。ノンタイムベース ド・インスタレーションという位置づけにおいて私が発表した『SYNAESTHESIA』という作品を中心に論題は展開し、そ の各々の節においても、上記の作品の解説とその意義の提言を基本軸とするということを念頭においていただきたい。 ただし、このインスタレーションは事前にその意図や理論を知ることを必要としない。(寧ろ、インスタレーションの純粋 な体験の為に、先見すべき概念は敢えて設けてはいない。)このことについては、後に触れたいと思うのだが、この論 文では、そのインスタレーションを体験しており、その形態や手法がいかなるものであったかを読者が把握していること をある程度前提に、その解説を進めていきたい。 その際、ここで先に述べておかなくてはならないのは、このインスタレーションの制作プロセスの中に存在する「共感 覚(Synesthesia)」という概念についてである。私自身がひとりの共感覚者(Synesthete)であることを原点に、そこか ら導き出される採色方を以って、この作品を制作している。本論文では、まず共感覚というものについての概念的な 説明を第1章で行いたいと思う。ここでは共感覚というものがそもそも何であるのかを解説した上で、本作品の作者 (即ち私)の共感覚を述べ、現在の共感覚研究のあり方について触れてみたいと思う。(しかしながら共感覚に対する 科学的な論述を私は目的としていない。実際の共感覚研究における専門的な医学用語や、脳医学に関する知識を 必要としない次元で、簡単にそれがいかなるものかについて触れたいと思う。)共感覚についての概念を把握した上 で、第2章では、形態的な側面における作品解説を施したいと思う。ここでは、今回私が採った形式と、その意味合い についての解説と、その中での各々の要素が持つであろう意義についての検証をその主たる目的とする。つまり、私 がこの作品において採った手法と形式を要点毎に説明し、その理由を論じていきたい。続いて第3章では、第2章で 触れるそれぞれの形態を総体的に捉え、この作品を通しての私自身の試みを解説していきたいと思う。ここでは論題 は形態的なものから、より概念的なところへと展開する。

第1章 ―― 共感覚(Synesthesia)について

私の作品の原点であり、また制作のプロセスに大きく関わってくる、「共感覚」という概念を先にまとめておきたいと思 う。共感覚という言葉は日常に溢れかえって聴きなれている言葉でも、また教育の過程で皆が直面する学術の用語 でも決してない。共感覚という言葉だけを見ると、おそらく「共感(Sympathy)」をイメージする者が多いのかもしれない。 しかしながら共感覚とは、その文字通り、「共に感覚すること」なのである。共感することと何が違うのか、と疑問を抱く かもしれないが、共感(Sympathy)の様に人と人が感覚を共にすることではない。“ひとりの人間の中において、彼また は彼女の複数の感覚が同時に働くこと”なのである。以下では、共感覚研究で名高い、リチャード・E・シトーウィク博士 の定義を引用しながら、さらに詳しく、具体的に説明していきたい。

・共感覚の定義とその実例

共感覚という言葉は本来、心理学や神経科学、脳科学において登場するものである。ワシントン DC の神経科医で あるリチャード・E・シトーウィク博士の、自書の中での共感覚に対する定義をここに拝借すると、共感覚とは、『一つの

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感覚の刺激によって別の知覚が不随意的に引き起こされること』なのである。簡単に言うならば、例えば耳で聞いた ものに対して視覚が反応する、あるいは目で見たものに対して、味覚が反応するといったものである。「ある単語を聞く と、色が見える。」「図形を見ると、明確な触覚を感じる」「音楽が視覚化されて見える。」「人の名前を耳にする度に、 味が口の中に広がる。」といった風に、一つの感覚が別の感覚を喚起することなのである。シトーウィク博士が出会っ たマイケル・ワトソン氏は、食べ物の味に対して、形という触覚を持っている。ワトソン氏自身が述べたことを引用すると、 「強い味のものを食べると、感覚が腕をつたって指先までいく。そして重さとか、質感とか、温かいとか冷たいとか、そう いうことをみんな感じる。実際に何かをつかんでいるような感じがするんだ」ということである。また別の例では、ドロシ ー・レイサム氏は耳で聞いた言葉や、ピアノの旋律に対して色を感じる。

・つまり何が起こっているのか

そうした共感覚者(Synesthete,共感覚を持つ人)にとって、このような現象が彼らの脳内で起こっているということを 留意しておかなければならないだろう。人間の知覚は、すべて脳で処理されたものである。つまり目で見たもの、視覚 から受けた刺激は、視神経を通り、脳へと運ばれ、脳内の視覚をつかさどる部位にて処理が施され、最終的に感覚と されている。耳で聞いたものは脳内の聴覚からの刺激を処理する場所、味は味覚をつかさどる場所、といったように、 人間が五感それぞれを通じて知覚したものは、脳内において、それぞれ処理されるべき場所に送られて感覚される。 このように別離された(あるいは分担された)各々の脳部位で、外界の情報を処理しているために、我々は見たものと 聴いたものを区別することができるのである。ところが共感覚を持つ人間においては、そのゾーニングがしばしば曖昧 であることが多く、例えば、視覚から受けた刺激が脳に伝達されたときに脳の視覚野だけでなく聴覚を担う場所も何ら かの刺激を感じてしまう、というように、感覚器からの情報が複数の脳部位で感覚として取り出されるために、上記に 挙げた例のような、感覚の混線、すなわち共感覚という現象として起こるのである。

・「不随意的である」とはどういうことか

シトーウィク博士の定義に沿って共感覚に対する理解を進めようとする上で、もう一つ留意しなければならないのは、 共感覚が「不随意的に」引き起こされている、ということである。不随意的に起こる、ということは、つまり、共感覚者は、 自分の共感覚を自在にコントロールすることができないのだ。「はじめに」の箇所で、私がひとりの共感覚者であること をほのめかしているが、私自身が厳密に共感覚を持っているのかどうかは確証がないものの、私には“文字”というも のに対する“色”の不随意的な応答がある。つまり文字に色を感じるということであり、例えばアルファベットの「A」は濃 い赤色、数字の「7」はオレンジ色、ひらがなの「す」は淡い紺色といったように、文字を目にしたときに、明確に色を感 じるのだ。したがって、文字によって形成される単語や文章についても同様である。この文字と色の呼応について、非 常に特徴的であるのは、当該刺激によって引き起こされる別の刺激が、常に一定である、ということである。即ち、私 にとっては、「A」という文字から呼び起こされる「赤」という色が一定であって、「A」という文字を見る度に、それが「黄」 や「青」に変わったりすることはないのである。これは共感覚という現象に普遍的に該当することであって、刺激と共感 覚の対は常に一定であり、これをコントロールすることはできない。またシトーウィク博士は、共感覚は当該刺激があれ ばその発生は抑制できないし、また自分の意思で発生させることはできない、としている。私の場合であっても、気にし ようとしなければ、意識の妨げになるようなことはないが、「A」という文字から喚起される「赤」という感覚を完全に消し

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去ることはできないし、その「赤」という共感覚を明日から「黄」に変更しようとしても、それは不可能なのである。

・共感覚という理論を科学的に証明するには

私の上記のような記述を「本当だろうか」と疑う声が出てきても不思議ではないのだろうと思う。共感覚と呼ばれる この現象を人に伝達し理解してもらうのは、非常に困難なことなのである。何故なら先にも触れたように、共感覚は共 感覚者の内面、さらに厳密に言えばその人の脳内で起こっている出来事なのであり、すなわちその現象は、外界に実 在するものではないのだ。例えば白黒の新聞紙の上に黒で印字された「A」を見て、「赤」を感じる共感覚者も、実際 にその「A」という文字が黒で書かれているということは勿論知っている。しかしながら「A」という文字から感じられる赤 という感覚は、幻想でも、ただの連想でもないのだ。共感覚者は、そこに色が無いと知りつつも、その無い色を確かに 見ているのだ。という断言が出来たとしても、その根拠たるものは必ず必要になるものであろう。実際に脳医学や心理 学など、科学の世界においては、被験者の訴える共感覚というものが彼らの作り話やただの想像や連想なのではない か、という多くの疑いを晴らすべく、科学的な論証に徹する学者も多い。その科学的根拠の追求には、しばしば独自 の実験や調査が行われる。以下ではそのような、科学的に共感覚という論理を実証しようとするこれまでの学術的な 試みを紹介したい。

①統計学的な実験

大人数の被験者群に対して行う統計学的なアプローチの例として、もっともオーソドックスなものは、文字と色の結 合についてのアンケート調査である。英国の心理学者であるジョン・ハリソン博士の実験を例に挙げてみよう。ジョン・ ハリソン博士の研究チームは、任意に集められた一般の統制群と、共感覚を持つとされている人々からなるグループ の両方に対し、それぞれの文字(あるいは単語)に対し連合する色を書き記す検査を二回に渡って施した。初回検査 における回答と、再検査におけるそれがいかに一致しているかを調べるためだ。そして実際の成績の平均を二つのグ ループで比較したところ、統制群はその正解率(即ち二回の検査の回答の一致率)の平均が 37%であったのに対し て、共感覚者のグループは実に 92%以上という正解率を収めた。さらに驚くべきことには、この実験に際して、統制 群に対しては同等内容の再検査を行うことを予め告知しておいた上で、初回検査の一週間後に再検査を実際にとり 行っているが、共感覚者のグループには、再検査を行うということを黙秘にしたまま、約1年後に唐突に同等内容の 再検査を行ったのだ。以上の事実を踏まえると、この数字の差が統計学的に有意であるものと思えて仕方がないだ ろう。共感覚者たちは各々の文字に色を連想しているわけでもなければ、意図的に記憶しているわけでもない。彼ら は確かに色を不随意的に感じているのだ。 また、カリフォルニア大学サンディエゴ校のラマチャンドラン博士は、文字に色を感じると訴える人々に対し、 「POP-OUT テスト」というものを考案し、被験者が本当に文字に色を見ているのか、あるいはただの連想で作り話をし ているのかを探った。この「POP-OUT テスト」は、白い背景に黒い文字が散りばめられた画面をモニターで被験者に 見せる極めてシンプルなものだが、例えば数字の「5」が散りばめられている平面の中に同じ色で数字の「2」を規則正 しく配列し、被験者がこの配列をすぐに見つけ出すか否かを調べたのだ。ラマチャンドラン博士の予想では、「5」が点 在する画面の中に並べられた数字の「2」が三角形を作っていたとすれば、共感覚者はこの三角形をいち早く見つけ 出すはずなのだ。なぜなら共感覚者にとって数字の「5」と「2」は異なる色を感じさせるために、その違いが明瞭なの

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だ。実際に共感覚を持たない人々はこの図形を発見するのが困難であったのに対し、共感覚者たちは驚くほど早く、 この“周囲と違う色の”図形を言い当てたのだという。

②脳医学的な実証

統計学的な側面を後にし、続いて現在の医学的なアプローチを紹介したい。断っておくが、ここでも医学の専門的 な領域にまで話を深めていくつもりはない。共感覚に対して、脳医学的、または神経科学的にどういった研究が施さ れているのか、という現状を知るのみを目的とし、それらの研究が科学的にどういったメカニズムで成り立っているの か、などを追求することは、しないつもりだ。重ねるが、私の主題は心理学や神経科学の範疇ではない。 さきほど「共感覚がひとりの人間の脳内で起こること」と述べたが、それならば脳の中を調べることが有意なのだ、と いう考えが、現代の神経科学のアプローチを要約したものになろう。先述の統計学的な調査では、共感覚が被験者 の中で繰り広げられていると仮定し、「共感覚が起こっていなければこうはならない」「共感覚者にしかなしえない」、と いった行動を取り出し、そのデータを科学的な根拠としていた。これは共感覚に起因する行動をその裏づけとする方 法だ。「共感覚がなければ、この行動は取ることが不可能」という主題から起こる背理法的なアプローチと位置づけて もよいかも知れない。対して、被験者の脳の中で起こっていることを直接調べることができ、脳の中に共感覚が起こっ ている証拠を見出すことができたらば、さらに力強い。脳医学では、“脳の働きを画像化”をすることで、脳内にある確 かな証拠を追っている。前者がより心理学的なアプローチであって、後者はより神経科学的なアプローチだとも言える だろう。シトーウィク博士の自書『共感覚者の驚くべき日常――形を味わう人、色を聴く人』、並びに、ジョン・ハリソン 博士の自書『共感覚――もっとも奇妙な知覚体験』に記述されている、脳の画像化の方法とその検証をいくつか引 用する形で紹介したいと思う。 味や風味に対する触覚、という共感覚を持つマイケル・ワトソン氏の脳機能を画像化するためにシトーウィク博士が 用いた方法が、「単光子放出コンピューター断層撮影法(SPECT)」と呼ばれるものである。簡単に、どんなものである のかを述べたいと思うが、これは、ゼノン133と呼ばれるガスを被験者に吸引あるいは注射して、脳内に行き渡ったあ と、ゼノンガスの分子が放出する光子を検出し、脳の断面図としてマッピングする、といったものである。脳のある部位 で顕著に活動が見られたとき、脳内にあるゼノンガスが顕著に光子を放出するのだ。つまり光子が脳内のどこでより多 く放出されるのかを画像化し、脳のどの部位が刺激にたいして反応を示すのかを探るのだ。ワトソン氏の場合では、彼 にとって共感覚があるという匂いを嗅がせて、嗅覚をつかさどる部位以外に顕著な活動を示す脳部位があるかどうか を調べたのだ。 SPECT と似た方法として、「陽電子放射断層撮影法(PET)」と呼ばれる方法がある。こちらも、SPECT と基本的な 仕組みは同様で、陽電子を放出する性質のある水を脳内に投与し、その陽電子と脳細胞の電子とが衝突することで 発生するガンマ波を検出する、といった具合だ。脳内で、活動が顕著であるほどこのガンマ波を多く捉えることができ るため、この方法でも脳機能を画像化することが出来る上、SPECT よりも比較的その精度は高いとされている。ジョ ン・ハリソン博士の PET 研究では、音や単語を聞くと色を感じる、という共感覚者に目隠しの状態で単語や純音を聞 き取らせ、その際の脳機能を画像化し、実際に色の処理に関係していることが知られている脳部位での活動の増加 が認められた。 これらの脳機能画像法は、共通的に「部分脳血流」の計測を基盤にしている。これは「脳の各部位は活動が増加 するほど、多くの酸素を必要とする。したがって酸素供給のために否応無しにその部位の血流は増加するのだ。」とい う仮説に基づいている。この仮説は現代の脳活動を調べる技術すべてに共通して用いられているものなのだ。したが

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って、血流がどこで増加しているのかを調べるために、上記のような画像法があると捉えてもらいたい。さらに近年の 技術では、MRI(つまり磁気共鳴機能画像法)が発達している。活動中の脳細胞は、血流による酸素補給の次の段 階で、磁性体としての性質を持つことが明らかになっている。この性質を利用して、脳部位から発せられる磁気共鳴 信号と呼ばれるものを観測することで、各脳部位の血流の増加を画像化して見ることが可能になっている。この方法 では、特別な気体や液体を被験者に投与する必要がないことと、その計測時間が比較的短縮されていることにおい て、上記2つの方法よりも優れているといえる。

・科学的な論証の意味するところとは

さて、これまで科学の領域で、共感覚という現象がいかにして物理的なものとして証明されうるか、という問いに迫 る研究を紹介してきた。これらの観測によって得られる脳画像は、極めて「客観的な」証拠といえるだろう。共感覚と いう現象は外界に起こっている出来事ではない。すべて個人の中で起こっていて、その外に抜け出しえないものなの だ。共感覚という極めて主観的な心理現象を、客観性を以ってして示すことは非常に困難なのである。これは、例え ば、ある者が「頭が痛い」と訴えるのに対して、回りの人間が「本当に彼は頭が痛いのか」を厳密に知ることが容易でな い(日常的には不可能)のと同様に、「A」という文字が赤く見えるのだという主観的な認知現象が、果たして事実なの か、あるいはデタラメなのかを客観的に決定することは大抵、不可能なのである。この困難の理由が、重ねるが、共 感覚が外界に存在しないことに拠る、ということを私は強調しておきたい。そうでありながら、共感覚が、幻想や作り話 などではなく、実在するものであることを、客観的な証拠を以ってして証明する、というのが科学の役割なのだと私は 解釈している。

・科学以外の物が共感覚に対してできることはなんだろうか

正直なところ、私自身が「文字に対して色の感覚をおぼえる」ことが、共感覚であるかについては客観的な確証が何 一つあるわけではないし、ひょっとしたらただ似ている感覚を持っているだけであって厳密には違うのかも知れない。も ちろん私が共感覚を持っているとは断言できない反面で、そうでないとも決して言い切れないのだ。何故なら私は「文 字に色を感じない」世界を体験したことがないからだ。これは、共感覚にのみ言及できることではなく、人はみな、自分 以外の人間になったことがないし、それは不可能なのである。であるから故に、ここで共感覚を例にとったような外界 に存在しないものを比較し、あるいは共有することは厳密に言うならば、科学的な数値化で顕在化すること以外は、 不可能なのである。 しかしながら、私が実際に共感覚を持っているのか否かを明確にすることを私は目的としていないし、もちろん論点 でもない、ということをここに主張しておきたい。もちろん、前節で触れたような脳画像などによって、物理的客観性を 有した実証を科学的に行うことは不可能ではない。しかし、私の関心はそこにはないと断言していいのかも知れない。 私は神経科学者ではないし、科学の範疇である客観的論証を行ないたいとは考えていないのだ。私の個人的な意 見を述べるならば、私は共感覚というものは(少なくとも私が保有する次元のものにおいては)、人間という生命体が 普遍的に有するものに繋がると考えている。共感覚があるのか、ないのか、という差異が現われてくるけれども、「人 間の感覚に基づいている」、という次元で、根本的には普遍性があることを強調したい。「何を当たり前のことを言って いるのか」という声が今にも聞こえてきそうなのだが、敢えて続けたいと思う。共感覚というある意味では特殊な心理

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現象について深く追求していきその謎を解明するだけではなく、共感覚というものを一つのきっかけにして、人間の普 遍的に有するところの感覚の可能性を追求しうるのではないか、という考えを私は持っている。であるから故に、共感 覚者である者と、そうでない者との違いには私はあまり着眼したくはない。言い換えるならば、共感覚者でない時点で、 共感覚者の感じている世界が理解不可能、という割り切りが簡単にできるほど、共感覚という現象が「異常な」もので あるとは考えていない、ということだ。 以上が、「共感覚」という概念に対する私の意見であり、主張である。見て判るように、非常に抽象的で、その根拠 も薄いのだが、客観的な論証をしようと試みても、やはり科学の領域に渡ってしまうことが否めない。重ねるが、以上 に述べたことは私の考えであり、事実を裏付けようとする試みではない。では、科学的に客観性を見出さないのであ れば、どうすればいいのだろうか。私は「表現」という方法でこれまで述べてきたような、人間における極めて主観的な 出来事を普遍的な形にできるのではないかと考える。

第2章 ―― 作品解説(形態的側面)

①作品の概略

さて、共感覚についての論議をここで終えて、作品の解説に移りたいと思う。もう一度繰り返すようになってしまうが、 私は今回、作品の制作のプロセスの中に共感覚という概念を用いた。作品の形態を概説した上で、具体的にどのよう な形で共感覚という概念を制作に利用したのか、という箇所から作品の、形態的な解説をしていきたいと思う。 今回私が発表した『Synaestesia』という作品は、平面絵画をその核たる部分としている。真っ暗な空間の一番奥の 壁に、横に長い比率に作られたキャンバスの上の平面構成(コンポジション)を設置し、そのコンポジションにのみ、微 弱な照明が当てられる。暗闇の中で、わずかに照らされたそのコンポジションだけが観者からは目視できる唯一の情 報となる。このコンポジションを包括した、全体としての空間をひとつの作品とし、私はこれを“ノンタイムベースド・イン スタレーション”と位置づけた。インスタレーションであるから、必然的に観者はこの空間の中に入り、自ら体験する形 式となる。

②共感覚を用いた彩色

この作品の核である平面絵画の構成は、前章で大きく扱った「共感覚」を使用した。この平面の上では「文字という 記号を色面に変換する」試みがなされている。具体的に説明していきたい。 置き換える色は、私自身の共感覚、すなわち「文字から感じられる色」を忠実に可視化するかたちで選出された。 すなわち、この『SYNAESTHESIA』という単語を形成する文字について、「S」は“鮮やかな空色”、「Y」は“わずかに黄 色に近い黄緑色”、「N」は“淡くやさしい、かつ柔らかなニュアンスを持つクリーム色”、「A」は“濃く強い赤色”、「E」は “鮮やかな青緑”、「T」は“白に極めて近い木版のような色”、「H」は“やや黄みを帯びているが、極めて淡く明るいクリ ーム色”、「I」は“時に無色であり、時に淡いパステルレッド(口の中のような色)”にそれぞれ感じ取られるのだ。それぞ れの文字を色に置き換え、文字という形態を排除して、色面の連なる平面構成へと変換した。単語というものが、ア ルファベットを横に連結させる形で成立しているために、このコンポジションが横に長いものになったのは、私にとって

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は自然な流れであった。また、『SYNAESTHESIA』という単語の選出については特に意図が無い。故に、作品を体験 させるにあたって観者にはそのコンポジションが何と言う単語を変換したものであるのかを告げなかった。さらには、そ の平面が“単語を変換したもの”であるという告知も敢えて行わなかった。ここに意図を設けなかったということは意図 的なのであり、事実上、選ぶ単語は“何でも良かった”のだが、任意に選んだ単語には、どうしても意図が付随して見 出されてしまうものだと考える。例えば『APPLE』という単語を選んだとしよう。もちろんこの『APPLE』という単語も、鮮や かな色面に変換することは出来る。しかしながら次の瞬間、「なぜ APPLE でなくてはならなかったのか」と問われてし まうのだ。これは単語というものが、概念的に意味を持つから故の思考なのだと思う。とはいえ、意味を持たない文字 の配列を作り出すということも私はしたくもなかった。変換されるものは、外界に存在するものでありたかったからだ。従 って、この色変換の題材であり、作品のタイトルとしても差し支えの無い、「共感覚」という単語を“敢えて無意図的に” 使 用 し た 。 共 感 覚 の 書 物 や 文 献 な ど に 広 く 使 わ れ て い る 『 SYNESTHESIA 』 で は な く 、 敢 え て イ ギ リ ス 英 語 の 『SYNAESTHESIA』を選んだのは、そちらの方が鮮やかだから、である。このコンポジションの、彩色以外の側面につい ては次で触れたい。

③コンポジションについて

インスタレーションに組み込む要素として、私はコンポジションを用いた。具体的には、縦 70cm×横 200cm の横に 長い比率の木製のキャンバスに、アクリル・グァッシュで色面を構成した、いわゆる平面幾何学的な抽象絵画である。 この節ではこのコンポジションについての説明をしていきたいのだが、コンポジションという語の整理から始めたいと思う。 コンポジション(composition)とは、「構成」を意味する単語であるが、作品内における要素の構成としてのコンポジショ ンという語は、本来的には音楽の用語だ。コンポジション(=作曲)は、音の高さや長さ、強さ、そして音色などといった 各々の要素を組み合わせることで、全体としての作品を作る。ということである。音楽において、部分的な要素ごとに は捉えられず、常に作品は全体として“調和”していなくてはならなかった。このコンポジションという考え方を絵画の領 域に用いたのが、ロシアの画家、ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky 1866~1944)である。彼は音楽作 品の持つ“全体性”を絵画に応用し、ひとつの平面の上に形態や色彩といった要素を構成し、その全体を作品とし、 自らの絵画を「コンポジション」と位置づけた。従来は「何が描かれているのか」が重要視された、いわゆる具象芸術 が絵画の主流たるものであったが、カンディンスキーは色や線状フォルムなどの構成を用いて具象世界を抽象的に 再構築する試みを重ねていた。カンディンスキーによる、絵画におけるコンポジションという考え方は後の画家に多大 な影響を与えたが、その中でもピエト・モンドリアン(Piet Mondrian1872~1944)はコンポジションを更なる芸術の形式 として確立させたもっとも特筆すべき人物なのかも知れない。オランダの画家、モンドリアンはその画家としての生涯の 初期にパリでキュビズムを学ぶが、モンドリアンが自分の作品を「絵画」ではなく「コンポジション」と呼ぶようになったの はこの頃からである。以後、垂直線と水平線に囲まれた三原色の色面による独自のコンポジションを確立した。モンド リアンのコンポジションは、カンディンスキーのものよりもさらに抽象を追及し、かつ幾何学的に再構築したものである。 カンディンスキーが色彩や直線、曲線そして形態を自由に用いて構成をしたのに対して、モンドリアンは形態というも のをも排除し、その構成要素を平面、直線(黒の水平線と垂直線)、厳密に決定された色彩(赤・青・黄の三原色と 白・黒)に限定していた。これは紛れもなく抽象の追及と再現性の一切の排除を徹底した顕れなのであり、そこから世 界の普遍たるものを一枚の平面という限られたフィールドの中に集約し、調和させようとした。(モンドリアンはこの理論 に基づく独自の芸術を、『新造形』と名づけた。) 彼らのコンポジションは「抽象」でなくてはならなかった。つまり、キャンバスの上に何かを再現するという目的を拒否 し、非対象、無対象なものであった。具体的な対象を用いない故に、普遍的・絶対的なものを造形することができる

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のではないか、という考え方がそこにあるからだ。 ここで私のインスタレーションにおけるコンポジションについて述べたいのだが、私のコンポジションも原則的にはモン ドリアンの形体のみを受け継いだ幾何学的抽象なのだが、色彩の使用については新造形主義の理論ではなく、共感 覚による独自の方法論を取っていることについては、前節で述べた通りである。コンポジションはすべて色面で構成さ れており、色面以外のいかなる形態や、図と地の区別を排除した。これはコンポジション上における再現性(つまり何 が描かれているのかを観者に考えさせてしまうこと)や、三次元的イリュージョン(平面上において奥行きや立体感な どを認識させてしまうこと)を排除し、幾何学的抽象としての平面性を徹底した。形態を排除し、単純に「色彩」という 要素のみを感覚刺激として観者に与えようと試みたからである。このインスタレーションにおいては、コンポジションは 一つの要素であったが、本来的にコンポジションは“全体”でありそのフィールドに表現の全てを構成し完結させる、と いうシュプレマティスム(絶対主義)には反したものである。この考えに沿うならば、厳密には私のインスタレーションに 組み込んだ平面はコンポジションと呼べないかもしれないが、私が抽象表現に徹底することによる普遍の抽出という 概念において、彼らの思考に同意しているという前提の基に敢えてこの語を選択している。

④「ノンタイムベースド・インスターレーション」という位置づけについて

私は今作品を「ノンタイムベースド・インスタレーション」と位置づけたと先述したが、その意味を説明したい。まず「タ イムベースド(time-based)」とは、“時間軸に沿った”という意味であるということを押さえておきたい。つまりタイムベー スドな作品とは、映像や音楽などに代表されるように、時間軸に基づいて制作され、かつ進行・展開していくコンテン ツ、あるいはそれを含む作品のことを指す。これはコンピューターを使ってこれらのコンテンツを制作する時のことを考 えてみると用意にイメージがつかめるだろう。映像を作るときには必ず編集画面に、シークェンスと呼ばれる時間軸上 の連続体が設けられていて、製作者はこのシークェンスに、フッテージ(即ち映像としての素材)をはめこんでいく。ア プリケーションを使って音楽を作る際も同様だ。またコンテンツという枠を超えて言及するならば、時間軸に沿ってそ の振り付けが決められているダンス・パフォーマンスなどについても、タイムベースな芸術と呼んでいいだろう。(もっと もこれらパフォーマンスについては、タイムベースドな音楽というコンテンツに沿って構成されているものが多いだろ う。) それと比較して、「ノンタイムベースド(non-time-based)」は、“時間軸に沿っていない”という間逆の意味である。こ ちらの作品では、時間軸に沿った変化というものが含まれていない。即ち、予めタイムラインに沿った構成がされてい ない、というものである。私の作品の核は、種も仕掛けも無い、平面絵画であるから、この平面絵画は時間と共なる変 化をするはずがない。決められたストーリーや連続体がこの作品の中には用意されていない。 そして、「インスタレーション」という語についても整理しておきたい。「インスタレーション」とは、「インスタレーション・ア ート(Installation art)」のことであり、1960 年代末、あるいは 1970 年代から普及し一般化した表現手法のことである。 オブジェや装置を組み込んだ状況を設定し、その展示空間全体を作品するものであり、観者にその空間を体験させ るものである。私の作品では、最も奥にわずかに照らされたコンポジションを設置し、そのコンポジションと、それを取り 囲む暗闇を全体として一つの空間として作品化したために、インスタレーションという位置づけにしている。したがって、 この作品は、「絵画作品」でもなければ、単なる「展示」でもない。観者に上記の空間を体験させることを主目的とした、 いわゆる“体験型の”インスタレーションなのである。それでいながら、このインスタレーションには動的な装置が何一つ 含まれてはいない。観者が足を踏み入れてから、この空間を後にするまでの間、このインスタレーションに組み込まれ ているものは何一つ変容していかないのだ。つまり時間軸に沿って変化をしない「絵画」という表象に対して、展示の

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みではなくインスタレーションとしたのは、観者が空間内をどう動くか、どれくらいの間そのコンポジションを見るか、どの 距離で対象を捉えるか、などの多様な条件による、視覚効果の変化をも、その作品性の中に組み込むという目的に 依拠する。具体的な視覚効果についての解説は次節にて行いたいのだが、このような効果は、用意された変化では なく、「時間軸に対して横断的に、自由に変容する」ものでなければ、より人間の感覚の普遍的なレベルまで届かない と私は解釈している。

⑤インスタレーションの方法と意図について

インスタレーション全体の概略については既に述べてきた通りである。ここではその各々の要素について、さらに具体 的な解説と、その意図を記述したいと思う。今インスタレーションの空間設置に関して、私が意識的に組み込み狙っ ていた効果として、「暗順応」と、「色順応」という二つの概念が挙げられる。まず、暗順応から説明していきたい。暗順 応とは簡単に言ってしまえば、“明るいところから暗いところに移動した際の目の順応”のことである。人がものを見ると き、外界からの光はまず角膜によって屈折し、水晶体水晶体で焦点が決められ、硝子体を経て網膜へと到達する。 この網膜にある視神経細胞(視細胞)によって外界から入ってきた光の刺激は電気信号へと変換され、視神経を通 り大脳の視覚中枢へと伝達される。この網膜にある視細胞には、明暗にのみ反応する約 1 億 2000 万個の杆体と、 色彩や形態を識別する約 600 万個の錐体細胞がある。明るい場所では主に錐体が機能し、 暗い場所では杆体の みが働く。非常に暗い場所で、色の識別が困難になり明暗のみが見えるのは、反応する杆体の特性である。明るいと ころで、錐体が機能している状態のことを「明所視」というが、この状態から、急に暗い場所に移動すると、人は暗くて ものが何も見えなくなるだろう。しかしながらしばらくの時間を経て、徐々にそのくらいところに目が慣れて、ものが識別 できるようになる。この順応のことを「暗順応」と呼ぶのだ。(対して、暗所から明所に移ったときの順応を「明順応」と 呼ぶ。)暗順応が起こるとき、先述した明所視の状態から、「暗所視」の状態へと視細胞がシフトするのだ。明所視と 反対に、「暗所視」とは暗い場所で杆体が機能している状態のことであるが、もっともここで重要視したい点は、暗順 応が起こる際に、明所視から暗所視に“時間 をかけて徐々に”切り替わる、ということである。 人が明るい場所から暗所に入った時に、その 暗さに目が慣れて完全に順応するまでには、 約 30 分の時間を要すると言われているが、 これは錐体から杆体へとその機能がシフトす る時に、杆体が働くために必要な、ロドプシン と呼ばれる視物質が再生するために要する 時間のことなのだ。ドイツの生理学者である アウベルトは横軸に暗い場所に入ってからの 経過時間、そして縦軸に光覚閾(光を感じる ために必要な最低限の明るさ)を記した「暗 順応曲線」というものを紹介している。左に載 せた図は、ヘクト=マンデルバウム図とも呼ば れる暗順応曲線であるが、この図が二つの 曲線で成り立っていることが分かるだろう。こ

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れは錐体と杆体とで暗順応に違いがあるからである。暗所に入ってから、まず錐体(赤点で記されている。)が機能を 回復しだし、すぐに光覚閾値が減少(つまり感度が増加)していくのが分かるだろう。10 分ほど経過すると、錐体の機 能による光覚閾が最小値のピークを迎え、その減少が滞ってしまう。つまり、錐体だけではこれよりも暗い光を認識で きない、ということだ。それ以降は、杆体(青点)が徐々に機能しだし、さらに小さな値まで光覚閾を減少させている。 杆体による暗順応も約 30 分でピークを見せ、それ以降は光覚閾値の減少は見られない。 私のインスタレーションでは、この暗順応という効果を利用している。上述の通り、インスタレーションに使用した空間 は極めて暗闇に近く、使用した光源は、インスタレーションに組み込んだコンポジションを照らすわずかな照明のみで ある。すなわち、ぼんやりと四角い形状をもってして光るコンポジションを除いて、一切の情報を視認できなくする、と いう目的があったからだ。いうまでもなくこのインスタレーションの主役はコンポジション、さらに言えばコンポジションの 上にある色面であり、それ以外の感覚情報を排除する必要があった。インスタレーションでは、音源を全く用いなかっ ただけでなく、空調などの雑音も除いた他、観者の発声をも極力させなかったのだが、これは聴覚に訴える刺激を同 様に排除し、インスタレーションにおいて色面のみが存在する空間を作り出し、その世界に観者を没入させるためであ る。 観者は明るい照明光が施された通常の室内から“演出された”暗闇へと入ることになる。この時、明るい照明の下 にいた観者はいわゆる明所視の状態であり、インスタレーションに入ったばかりでは、正面のコンポジションをしっかりと 見ることが不可能である。しかしながら観者の目が次第に暗順応をしていくにつれて、徐々にコンポジションの色面は その色彩を取り戻し始める。時間が経過するにつれて、曖昧だった色味やその境界が明確なものへと変化し、その空 間に入った段階から観者の目の前にあるはずのコンポジションは、徐々にその姿を変えながら現れてくるのだ。この変 化は言うまでもなく“見え方の変化”であり、組み込まれた装置そのものの変化ではないから、観者の主観的心理状 態の変化であり、それはノンタイムベースドなものなのである。 実際に一人あたりのインスタレーションに設けた時間は 10 分である。これは暗順応の際の、観者の錐体による光 覚閾が最小限値に達するまでに要する約 10 分を考慮したものである。先述の通り、このインスタレーションの主役は “色”に他ならないので、色彩を認識する錐体による光覚閾が臨界点に達してからの暗順応は、効果的ではないと判 断したからである。杆体による暗順応が進み過ぎてしまうと、コンポジションを照らしている照明によって、あるいはその 反射光によってわずかに照らされていた壁や、天井などの部分が必要以上に視認されてしまう恐れがあったからだ。 しかしながら、30 分という完全な暗順応を経た状態で、このインスタレーションが他に予期せぬ効果を生む可能性に ついては、(意図を問わなければ)、否定は出来ない。 先に触れたインスタレーションの時間設定もそうであるが、一つ顧みなければならないことは、コンポジションを照ら す照度の設定について、である。これはインスタレーションを実施した後に浮き彫りとなったことなのだが、観者の中に コンポジションに含まれる赤の色面を“黒”であると思い込んでしまった者が複数いたのだ。もちろん黒と認識したこと はその観者の主観的な見え方であり、それに対して私が制約を付けてしまうのは本来の意図とは違うのだが、これは やはり照明の照度設定を私が誤ったといえるのだろう。人間が見ることのできる可視光はさまざまな波長を含む光な のだが、明所視において人は波長(より赤みの光)の方が良く見え、逆に暗所視においては短波長(より青みの光)の 方が良く見えることが明らかになっている。つまり、暗順応が起こる際に、人がよく見える波長域が長波長から短波長 にシフトするために、暗い場所に移動すると、赤みを帯びた色は薄れて、捉えにくくなり、対照的に青みをおびた色は 明るく目だって見えるのだ。この現象は「プルキンエ現象」と呼ばれているが、このためにインスタレーションにおいて、 同条件下においても、観者は赤い色をよく認知することができなかったのである。その上に、赤い色面の照度が足りな かったのは言うまでもない。つまり、観者の視覚がその色を捉えるのに最低限必要な明るさを下回っていたのではな いか、という懸念である。上の案順応曲線において、錐体による暗順応のピーク値、すなわち錐体が捉えることのでき

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る最小限の光覚閾値に、色面の明るさが達して意なったということだ。それ以上も順応が進んだとしても、それは杆体 によるものであるために、色彩を認知できる領域にはならないだろう。よって、色面の照度は錐体による暗順応の最 小の光覚閾値を上回っている必要があったのだ。 暗順応についての話を終え、色についての順応に移りたいと思う。これは暗順応と同じく、“見え方の変化”であり、 例えば同一の色を長時間見続けるとき、その色の見かけ上の彩度は数分をかけて低下していく。また、これは照明 光による色味の違いにも働く順応である。いわゆる電球のフィラメントは長波を帯びた光を多く含んでおり、他の光に対 してこの光に照らされた物は本来的には比較的に“赤み”を帯びたものである。しかしながら、見かけ上では人はこの “赤み”を意識することは無く、つまり照明条件の変化に関わらず、物体の色の見え方は変わることはない。これは「色 の恒常性」と呼ばれる視覚の性質である。8色に塗り分けられた 12 の色面からなるコンポジションには、赤や緑、空色、 淡い黄色など、さまざまな色が含まれている。そのコンポジションは非常に暗い条件の下にあり、いわゆる本来の絵の 具の色とは遥かに暗く、色彩は淡いものになっているのだが、観者はそれらの色面が“何色であるか”を判別すること が出来る。さらには、このコンポジションに施された照明はかなり長波長成分を含むものであり、実際の色味よりも赤み (正確にはオレンジ色)を帯びたものだった。それにも関わらず、青は青、緑は緑、と判断することが観者には出来る。 これも、観者による色順応のためである。また、このコンポジションの上には補色関係を成立させている色面がある。 例えばコンポジションの中央やや左の箇所においては、濃い赤色と、鮮やかな青緑の色面が並置されている。この二 つの色は概ね補色の関係にある。 左の図は(財)日本色彩研究所が 1964 年に開発した PCCS 色相環と 呼ばれるものである。補色とは、そ の両方の色を混色すると互いに色 味を打ち消しあい、無彩色を作り出 す2つの色の関係のことであり、左 の色相環では、その円のちょうど反 対側に位置している色同士のこと である。この色相環を見ても、赤と 青緑が対称に位置していることが わかるが、二つは補色の関係にあ り、これによる効果がインスタレーシ ョンにおいて見受けられる。赤色の 色面を見ているとき、観者の目は 先述の「色順応」を起こす。赤とい う色に目が順応しているとき、その 隣にある青緑の色面はその色味を 消失し、灰色のように見えてしまう。 逆に、青緑という色に目が順応しているときは赤の色面の色味が奪われ、黒に近い色に見えてしまう。これらの同時 対比は両色が補色の関係にあるからに他ならない。 恒常性という現象は明るさや色味についてのみ働くものでは、もちろんなく。もっとも日常的な現象として「大きさの 恒常性」があることを述べておかなくてはならない。我々の視覚に広がる世界では、遠くに位置しているものほど小さく、 そして近くにあるものほど大きく見える。例えば遠くにいる友人が、あなたに近づいてくるに連れて、その友人の姿が大

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きくなってみえるが、もちろん、その友人があなたの目前で親指ほどの大きさからあなたと等身大ほどの大きさへと巨 大化したと思うことはない。線路は遠くになるにつれて細くなっていくが、それは見かけ上の現象なのであって、実際に は線路の幅はどこまで行っても等しい。このように、対象の見かけ上の大きさと、その対象との距離を考慮に入れ、脳 は「大きさの恒常性」を保っているのだが、ここで留意しておきたいのは、そのような恒常性は、“周囲に見えているも のとの比較”によって成立している部分が非常に大きい、ということである。私のインスタレーションにおいて、唯一視 覚に入ってくるコンポジションを比較する周囲のものは存在しないのだ。もちろん、空間に入って、コンポジションに向 かって歩み寄っていけばその見かけ上の大きさは大きくなっていくし、遠ざかれば必然的に小さくなる。しかしながら観 者が見ているコンポジションの周囲に広がるのは形態なき暗闇に他ならず、観者は比較対象としての視覚情報を得 ることができない。暗闇の中で近づいては遠ざかり、という行動を繰り返すと、最終的に観者はその距離感を失ってし まう。距離感をつかめなくなってしまうと、コンポジションの大きさを把握することがたちまち困難になってしまうだろう。 これは必ずしも起こることが予測された効果ではないが、視覚の恒常性に依拠していることは確かだ。 この節では私のインスタレーションにおける形式と、それによって予測される効果についての説明をさせていただい た。ただし、である。もっとも重要な点は、私がどのような視覚効果を意図していたか、あるいは厳密にどの色に見せた かったのか、ということではなく、観者各々がどのように見えたか、という“見かけ上”の多様な変化であり、それらは作 者によるコントロールや時間という軸の束縛から逃れた、完全に主観的な心理状態のことである。目の前にあるものを 楽しむというよりは寧ろ頭の中で起こっていることを楽しむインスタレーションである、と言っても過言ではない。

第3章 ―― 考察

最終章では、このインスタレーション作品を通しての私の試みを述べて結びとしたいと思う。私の制作のキーとなった ポイントは、「いかに主観的なものの、客観的な表現をするか」という部分にある。先述したように、共感覚に代表され るところの主観的な心理状態は、我々を取り囲む外界に由来するものではなく、それを客観的なものとして他者から 認識されうる形にすることは非常に困難である。しかしながら私の目的は、自分の脳内に広がる主観的心理状態をい かに他者に伝えるか、あるいはその存在を立証するか、という領域にはないことをここに再度強く主張したい。即ち、 私の「表現する」というプロセスによってなされることは、「伝達」や「論証」ではない。つまり、私は自分の主観的心理 状態を機軸に制作を行ったが、これは主観的心理状態という、形而上学的なものから、対象として感覚できるものへ とエンコードすることと言っても良い。エンコードされたものは、前章で解説してきたように、形態を持たない色刺激とし てのコンポジションと、その相対的な多様性であるが、そのデコード(つまり観者がインスタレーションを感覚し、脳内で 認識として再構築すること)においては、完全に観者各々の主観に依拠している。これは観者それぞれがどこに立っ ているか、どの角度からコンポジションを知覚するか、という物理的な条件もそうであるが、最終的には「観者が誰であ るか」というレベルの多様化によって、その主観性が保たれると言っても良い。私の作品は、客観的に捉えられるもの として外界に現前させるだけではなく、それが観者の脳内で、それぞれの主観的な心理状態として現れることができ て初めて、成立する。先に私がこのインスタレーションが「伝達」ではないと述べたが、これは、私がエンコードした脳内 の主観的心理状態と、観者が作品をみることで生まれる彼らの主観的な感覚とが、等しい必要性がないからである。 「普遍への追求」こそ、人類の目標なのではないかと個人的に考えている。普遍を追求するということは、我々を取 り囲む全てのものとの関係を明らかにし、人間が未だに到達できていない世界のより神秘的な境地へ近づくことである。 しかしながらこの方法には、客観性の徹底によるアプローチと、主観の追求によるアプローチとがあるのではないかと

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考える。即ち前者は科学という人類の文化に代表されるように、自分たちの周りにある神秘(ここでは「神秘」という言 葉を、人類がその文化的活動の対象、あるいは目的としているものを総体的に呼んで使っている。謎という語に置き 換えても障りはない。)に対して、絶対的な法則を見出し、そのメカニズムを明らかなものとしてかつ万人に普遍的な ものとして共有する活動である。人類が普遍的に共有するためには、これらの事象は客観的なものとして存在しなけ ればならない。しかしながら、世に遍く全てのものは我々の感覚というものを通して我々の脳内に入ってきていることを 意識して欲しい。言い換えれば、私たちが認識している総てのものは、私たちの感覚によって脳内に起こっている主 観的心理状態なのであり、つまりは、この主観というものに依拠している総ての事象の答えは、私たちの内部に存在 するということである。そして、この普遍へのアプローチは、客観的な根拠を必要としない「表現」という領域において可 能となるものでると認識している。そして表現による普遍へのアプローチは、客観的で、かつ論理的な思考というもの を取り除く必要があり、人間の感覚という究極のレベルにのみ訴える表現を追求することができれば、大きな神秘に 対する前進をすることが可能となるであろう。共感覚という心理現象は、我々の主観的な感覚から普遍的なものを見 出すための数ある(であろう)ヒントの中のひとつに他ならない。共感覚という主観的な現象を、敢えて表象という形で 客体化し、それを主観的に認知させることは、客観性を追及しそのフォーカスを外界に向けすぎてしまっているあまり に気付くことが困難になってしまっている、我々人間の感覚に内在する普遍的な事象を意識させるための示唆なの であり、このインスタレーションは、その実践である。

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参考資料・文献

・ ジョン・ハリソン『共感覚―もっとも奇妙な知覚世界』松尾香弥子 訳、新曜社、2006 年 ・ リチャード・E・シトーウィク『共感覚者の驚くべき日常―形を味わう人、色を聴く人』山下篤子 訳、草思社、2002 年 ・ パトリシア・リン・ダフィー『ねこは青、子ねこは黄緑―共感覚者が自ら語る不思議な世界』石田理恵 訳、早川書房、2002 年 ・ ロバート・L・ソルソ『脳は絵をどのように理解するか―絵画の認知科学』鈴木光太郎・小林哲生 共訳、新曜社、1997 年 ・ 岡崎乾二郎『芸術の設計―見る/作ることのアプリケーション』フィルムアート社、2007 年 ・ 長谷井康子・野瀬明子『わかりやすい色彩と配色の基礎知識』永岡書店、2005 年 ・ 『文部科学省認定ファッションコーディネート色彩能力検定対策テキスト1級編』㈱A・F・T 企画、2005 年 ・ ピエト・モンドリアン『新しい造形―新造形主義』宮島久雄 訳、中央公論出版、1991 年 ・ ワシリー・カンディンスキー『点と線から面へ』宮島久雄 訳、中央公論出版、1995 年 ・ ヨハネス・イッテン『色彩論』大智浩 訳、美術出版社、1971 年 ・ 江藤光紀『カンディンスキーの色彩理論とその実践』論叢現代文化・公共政策、2007 年

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