NIHON ART JOURNAL January/February, 2012

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日 本 美 術 随 想

モノの心・形 の心

銅造鶺鴒

かすかに鍍金を残した鍛銅製の鶺鴒の一羽が

岩 に と ま っ て、 長 い 尾 羽 を 上 に む け、 首 を ね

じって視線をなげる。

精緻な工作が今にも岩を離れて飛び立ちそう

ないきいきした気配を強く訴え、神性をも感じ

させる。この国を産んだイザナギ・イザナミの

二神に、交情︵とつぎのみち︶を、尾羽を上下

に振って示して、トツギオシエドリとも呼ばれ

る鶺鴒のことだから当然ともいえる。 ︵ ﹃日本書

紀﹄巻第一︶

﹃ 日 本 書 紀 ﹄ に は じ ま り、 稲 の 収 穫 期 に 大

挙 し て あ ら わ れ て、 豊 穣 や 子 孫 繁 栄 を 象 徴 し

て、 近 世 の 婚 礼 を 寿 ぐ 鶺 鴒 台 の 主 役 に も つ な

がった。

一対が本義の、州浜形の鶺鴒台の主役の可能

性も否定しがたいが、神前の熨斗押と見るのは

いかがであろう。干しアワビ︵熨斗アワビ︶を

神前に供える歴史は古く、秦の始皇帝が除福を

遣わしてもとめた不老長寿の妙薬には、本朝の

鮑が含まれていたという。大神の神威が横溢し

ていた江戸前期を下限に作期を設定したいが許

されようか。

オークションハウス古裂會提供

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花座敷・花舞台

妙心 寺 大 心 院

[表紙]

正月の花

[裏表紙]

二月の花

白玉椿と鶯かぐらの掛花

すぐしん

竹直真の立華

花材……白玉椿・鶯かぐら

立春のころの明るい日ざしを感じさせる掛花。ほころび

花器……服部章作 箙 形掛花生け(高さ三六㎝ 、巾一五・四㎝ 、奥行五㎝ )

えびら

花材……竹・木瓜・五葉松・黒松・水仙・枇杷・伊吹・しゃが・ 白玉椿・曙椿・つつじ 花器……銅造龍耳大立華瓶 (高さ三三㎝ 、巾三四・五㎝ )

新春を祝う立華。清清として格調も高い。一瓶の中心と

冊形に切り取ってつくったもの。

の。花生けを掛けるための掛板は、味のある古い板戸を短

色の新芽がわずかに伸び 出した鶯かぐらを生け合わせたも

はじめたばかりのふっくらした白い花をつけた椿と、鮮緑

た。この三種は、冬の寒風にも凛としていることから﹁歳

竹 の ほ か、 松 や 梅 も 古 く か ら 真 と し て 好 ん で 用 い ら れ

なる竹の真は、神の依り代として拵えている。

寒の三友﹂といわれる。そのうち、松の直真の立華は最も

この作品のように壁に掛けて飾る場合を﹁向こう掛﹂の

なか

格調の高いものと定められている。ちなみに立華とは、花

掛 花 と い う。 花 生 け は 床 の 間 の 壁 の 中 央 に 直 接 打 つ﹁ 中

すいはつ

釘﹂に掛けることもあるが、無い場合は、掛板や垂撥など、

器は床の間だけでなく、どこにでも掛けることができ、便

花を掛ける折り釘が固定されている掛器に掛けて飾る。掛

くぎ

立てて花形を構成することによる名称。

器に花留として込み藁を固定し、それに花材の根元を指し ・見 立華の骨組となる枝は、はじめ﹁真・正真 ︵真隠し︶

利に使える。向こう掛に対し、床柱の﹁柱釘﹂に掛けて飾

・流枝・前置﹂で﹁七つ道具﹂といった 越・副・請 ︵副請︶ が、後には二つ加わる﹁七九の道具﹂で構成する立華もつ

掛花の花材には、柳や山吹など、枝がなびくものや枝垂

る場合は﹁横掛﹂の掛花という。

まっていて花器口に収まりやすい姿のものもよく用いる。

れるものを用いることが多いが、椿のように花も葉もかた

立華には、正月の花などの晴の日に餝る式正の花と、常

くられている。 の 日 に 餝 る 楽 し み の 花 が あ る。 式 正 の 花 は 厳 格 な 定 め に

掛花に用いる椿は、花が美しいだけのものや、葉の大きい

よってつくられ、格調高く立てられる。楽しみの花は定め もゆるやかで、花材そのものの持ち味を存分に生かして立

が 望 ま し い。 椿 の 種 類 は 多 く、 一 重 や 八 重 で、 白 や 淡 桃、

ものなどはだめで、花も葉も整っていて凛とした姿のもの

いられる。

紅、しぼりなど、色も形もさまざまなものが花材として用

辰年にちなんで選んだ立華瓶は一尺一寸の大形で、躍動

てることもできる。

を経て使いこまれた深い味わいのある稀にみる逸品であ

花器は、箙 ︵矢具︶を模した古備前の掛花生けを、信楽

的で精緻につくられた龍耳をもち、蝋型特有の色艶は年月 る。作者は西村左近宗春。江戸中期から後期にかけて活躍

十一年生まれ。昭和四十四年に友人である杉本貞光の紫香

在住の陶芸作家である服部章が写したもの。服部章は昭和

微妙な焦げ﹂への挑戦が続いている。

︵花・岩井 陽子︶ ︵文・山根  緑︶

修 得。 平 成 四 年 に 独 立 し て 太 峰 窯 を 開 い た 後 も、﹁ 信 楽 の

窯に参加して以来、長年窯焚きにいそしみ、独自の陶技を

した鋳造匠で、仏具を中心に少なからぬ作品を残した。箱

回・1月開催出品)

書に﹁享保三年﹂の書入がある。高台には﹁京大仏住、西 村左近宗春﹂の名が刻まれている。 華瓶・オークションハウス古裂會提供(

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日本 美 術 随 想

モノの心・形の心

動力は熱気だった。今、熱気の時代への回帰を 願い、遍在する美に人々の視線の集まることを

この絵は何。何が描かれているのだろう。

よく分からぬのに魅力的。賢者ならば﹁好いも

掲出が無傷だったとしても﹁白磁面取り壺﹂に

伝説の磁祖・李三平ではないが、朝鮮系の陶工

渇望する。 蕎 麦 猪 口 に は じ ま る 伊 万 里 の 魅 力 は 底 が 深 い。

勝るとは限らない。しかし、大破しても魅力を喪

が、手慣れた朝鮮の絵でなく、時代の流行に添っ

やっぱり伊万里は魅力的

白磁、染付、色絵と趣を自在に変えて魅力を放ち、

失していない。否、破れたために現れた凄さも見

のは好い﹂とだけ口にするところか。

昭和三十年代に始発する古陶磁ブームを牽引し

て、中国の古染付を手本にした結果の不可解を想

定してみるのはどうだろう。

捨てがたいと強がっておきたい。

瀬良石苔堂主人。阪急百貨店内に店舗を構え、

た。 そ れ ら の な か で 草 創 期 の 伊 万 里 に 注 目 が 集 ま る の は、 一 九 六 三︵ 昭 和 三 八 ︶ 年 の 永 竹 威 の ﹃ 九 州古陶磁﹄あたりからだろう。

■ 瀬良陽介

初期伊万里の値段を一夜で十倍にしたという伝説の古美 年︶等。

術商。編著に﹃古伊万里染付図譜﹄︵平安堂書店・昭和三四 パ ・ ッ カ ー ド ア メ リ カ 人。 メ ト ロ ポ リ タ ン 美 術 館のジャパンギャラリーは氏のコレクションを核とする。

■ ハリー

平成五年︶ 。

日 本 美 術 の 蒐 集 家。 著 書 に﹃ 日 本 美 術 蒐 集 記 ﹄︵ 新 潮 社・ ■ 安宅修二 ﹃初期伊万里﹄ ︵水町和三郎著・平凡社・昭和四一年︶

大阪の医者。初期をはじめ伊万里の大愛好家に

で協力者として紹介される。経歴不明。 ■ 山下朔郎

初期伊万里 染付皿

瀬良陽介、ハリー・パッカード、安宅修二ら によって端緒をひらき、山下朔郎の参加によっ て 大 人 気 を 博 し た。 彼 ら に よ る 啓 蒙 と 敷 衍 が、 人々の数寄心を刺激した。そして忘れてならな いのは、本格的に伊万里が熱気をおびる寸前ま で、初期の優品の多くが李朝磁器に包摂されて いた事実である。初期白磁の名品とされる﹁白 磁 面 取 り の 壺 ﹂︵﹃ 初 期 伊 万 里 ﹄ 図 版 2 参 照 ︶ に

し て 研 究 家。 古 九 谷 伊 万 里 説 を 提 唱。 伊 万 里 に 関 す る 著 作多数。

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しても﹁李朝白磁﹂として京都国立博物館に寄 託されていた。歴史的な事実を明らかにする原

オークションハウス古裂會提供 (65回・3月開催出品)


初期伊万里 白磁 しのぎ文壺 16×16×19cm オークションハウス古裂會提供 (64回・1月開催出品)

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日本 美 術 随 想

モノの心・形の心

頭山満翁記念室蔵

書流史の視点に立って、 ﹁頭山満の書﹂と対峙した痕跡も見いだす

ことはできない。書道家を自認しても文人と呼べる書家があまり に少ない現代なのに、である。

﹁いろは屏風﹂には多くの人達が挑んできた。作風もいろいろで

ある。頭山の﹁いろは屏風﹂は、その激しい生き様とは別の、頭

山の静かな心のありようを伝えるかのようで、まさに静けさに満 ちている。さて、いろはのいの字は⋮⋮。

︵主筆・森川潤一︶

盛の決起 ︵西南戦争︶を獄中で知る。

萩の乱に連座し投獄される。翌年、尊敬していた西郷隆

ぎ、頭山満と改名。

として生まれる。幼名は乙次郎。後に母方の頭山家を継

五月二七日、福岡県福岡市に、福岡藩士筒井亀作の三男

頭山満︵とうやま みつる︶ 略歴     一八五五 ︵安政二︶年

一八七六 ︵明治九︶年

盛らと交流する。向陽社を設立。

一八七八 ︵明治一一︶年 土佐に板垣退助を訪ねて自由民権運動に目覚め、植木枝 一八七九 ︵明治一二︶年 向陽社を玄洋社と改称。

一八八五 ︵明治一八︶年 亡命中の金玉均と出会い支援する。

一八八七 ︵明治二〇︶年 全国有志懇談会で中江兆民らと交流する。﹃福陵新報﹄の 対し反対運動を展開。

社長に就任する。不平等条約改正における政府の弱腰に 一八九七 ︵明治三〇︶年 亡命中の孫文と出会い支援する。

一九〇四 ︵明治三七︶年 日露戦争勃発を受け、玄洋社は満州義軍を結成。

亡命中のラス・ビハリ・ボースと出会い支援する。

会見する。後、再亡命した孫文を支援する。

一九一二 ︵明治四五︶年 犬養毅と共に中国に渡り、辛亥革命を成功させた孫文と 一九一五 ︵大正四︶年

一九二六 ︵大正一五︶年 亡命中の蒋介石と出会い支援する。

一九四一 ︵昭和一六︶年 東久邇宮の依頼で蒋介石との和平会談を模索するが実現 せず。 一九四四 ︵昭和一九︶年 一〇月五日死去。享年九〇歳。

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頭山満の書

﹁いろは屏風﹂ 本間 六曲一双

日 本 が 大 日 本 帝 国 を 標 榜 し て い た 時 代、 そ の 時 代 の 終 末 期 を、

国士として、巨魁と呼ばれて頭山満は生きた。そして戦後をみる ことなく生涯を閉じた。

頭山満の生涯は何期に画期されようか。また、頭山の真に評価

されるべきは何であろうか。頭山の思想のなかに今日性はあるの

か。頭山満翁記念室の﹁書﹂を通して片々をさぐってみたい。

頭山満翁記念室で驚かされるのは、記念室が収集した﹁山のよ

うな頭山満の書﹂である。膨大な数量が、頭山の凄みすら肌に感

じさせる。質の評価は諸兄に委ね、生命を懸けて国事に奔走した 男の叫びに耳を傾けるしかない。

結果、文人としての頭山をみることになる。ここでいう文人は、

清所にあって仙人のごとく暮らす隠遁者のことではない。言葉を

変えれば、唐土の四絶、書・絵・詩・落款が自在であることを条

件とした市井にもいた文人の系譜である。政治は文人が成すもの

であって、軍人も 文人の下位にすぎない。ただし、文人たる軍人

はその限りでない。文人が減った、めったにいないなどと現代を 嘆き憤るのはよそう。

繰り返す。夥しい頭山の﹁書﹂から学ぶのは、 ﹁書﹂を通してな

された政治である。これほどの数量を残した人は少ない。真贋を

問 わ ず に 言 え ば、 頼 山 陽 や 西 郷 隆 盛 に 匹 敵 す る だ ろ う。 し か し、

戦 後 の 書 道 ブ ー ム も、 書 家・ 頭 山 満 を 検 証 す る こ と は な か っ た。

右傾に対するいわれなき拒否反応か。思想への偏見を離れ、日本

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マ ー ト な の で あ る。 そ れ で は﹁ 掘 り 出 し ﹂ の 現

で も ら え れ ば 理 解 い た だ け よ う。 き わ め て、 ス

﹁ 掘 り 出 し ﹂ の 構 図 で は な い。 レ ポ ー ト を 読 ん

倍 の﹁ 掘 り 出 し ﹂ だ と し て も、 金 額 だ け を 誇 る

に し て い る。 少 な く と も、 結 果 と し て 百 倍 か 千

に 戻 れ ば、 昭 和 末 年 の 実 話 と は い さ さ か 趣 を 異

は 疑 問 も 残 る。 だ が、 今 回 の﹁ 掘 り 出 し 物 語 ﹂

球儀に注目したのは女史だけだった。落札した

市 場 に は 数 十 人 の 業 者 が 集 ま っ て い た が、 地

になるのを飲み込み、会釈してその場を離れた。

州人のもともとの土地ではないの﹂と言いそう

満州国と理解していた。 ﹁満州は清国を築いた満

満州の地名を、日本が画策して建国した昭和の

な⋮⋮﹂ 。知人の業者は、中国東北部に記された

女史には意外な意見だった。 ﹁満州が載ってるが

感性、集中力、蓄えられた知識、それらが女史

雑感を振り返ってみれば、このあたりのようだ。

強いた作業﹂であると気づかせた。女史の瞬間の

とだろう、一字の書き間違えも許されない緊張を

像させ、 ﹁これを作るのには何ヶ月もかかったこ

に﹁気が遠くなるような難儀な作業の産物﹂を想

のごとく正確に書かれている。その精密さが女史

リに満たず、とにかくびっくりした。しかも活字

場を、実景をまじえて報告しよう。

題の地球儀は、京都の骨董商だけが集まる道具

記事が新聞を賑わすおよそ半年前の六月、問

ら、 一 種 の 尋 常 で な い も の が 発 す る、 一 種 の

いかにも微細に几帳面に書き込まれた状態か

女のアンテナが、微細な書入れの多さに反応した。

せられた。学校教材の古い地球儀に見えるが、彼

前日の下見のとき、女史の目は地球儀に吸い寄

敵があらわれて苦戦する場面はなかったと既述し

当 日 の 市 場 で、 女 史 が 危 惧 し た よ う な、 強 い

る必要はない。女史にしても、母乳を吸う以外に

であり、条件でいえば何人も劣等感にさいなまれ

きるが、それらはすべて彼女の日々の努力の結果

の高感度のアンテナを構成していることは理解で

市場の競台の上にあった。発句、つまり最初に

オーラと呼ぶべきかに心が残り、さらに、文字

た。いわば拍子抜けの、あっけない結末だった。

のち冷ややかな視線を浴びたぐらいだから。

進行のために発する価格が幾らであったかは知

情報がすべて手書きによると視認した瞬間、予

女史は地球儀を抱いて、用意したタクシーで

発見の経緯

女史

算 を 考 え ず、 誰 に も 競 り 負 け る わ け に は い か な

平面図の地図に比べると地球儀の情報は極端に

は店舗を構えていない美術品商であり、キャリ

女史のマンションの一室に運び込まれた。彼女

市内の自宅に凱旋した。一抱えもある地球儀が、

は知恵をもたず、裸で生まれてきている。

が簡単に競り落とした。知人の業者が﹁昭和時

いと密かに決心したらしい。

た。 ﹁なんで昭和時代なの﹂と女史は聞き返し

少ないのが常識。執拗に墨書きされた文字は一ミ

ら な い。 が、 競 り は 加 熱 す る こ と な く

代の地球儀を買うて何すんの﹂と声をかけてき

た。少なくとも明治前期に作期を想定していた

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T


◉特集

逸品発見 北川嘉七模造 地球儀

明する。 ﹁買った値段 ︵仕入原価︶の百倍が掘り

出しだ﹂と聞いたことがある。滅多にないから

掘り出しなのだが、単純に言えば、千円で買っ

た物を十万円で売ったら掘り出したことになる

ニズムに迫ろうとするものである。言葉を換えれ

﹁売り掘り出し﹂と﹁買い⋮⋮﹂で、百倍の金を

掘 り 出 し は 二 種 に 大 別 さ れ る と も 耳 に し た。

らしい。原価が一万円ならば百万円、十万円で

ば、今も、新聞の社会面の記事になる奇跡的な発

手にすることでいえば、結果は同じだが、 ﹁売り

儀がどのようにして再発見され、いかなる軌跡を

見、 ﹁掘り出しもの﹂が世間に転がっている事実

⋮⋮﹂ は 作 品 の 良 否 に 関 係 な く、 単 純 に 百 倍 に

は一千万円、百万円ならば一億円⋮⋮。

平 成 二 十 三 年 十 一 月 二 十 四 日、 読 売 新 聞 夕 刊

女史が眼前で証明してみせたわけで、まさ

たどって晴れ舞台に立ったかを追跡し、そのメカ

︵ 四 版 十 一 面 ︶の カ ラ ー ペ ー ジ の 右 肩 上 に、 ﹁超

を、

﹁掘り出し﹂の現場からの緊急報告

精 細 手 書 き 地 球 儀 ﹂ の 見 出 し が 踊 っ た。 現 在 の

持 ち か な ﹂ と 高 揚 感 を 隠 さ な か っ た。 新 聞 記 事

分の娘を晴れ舞台に立たせたステージママの気

地球儀の所有者であるT女史は記事を前に、 ﹁自

いる。このレポートを読んで、皆が﹁目利き﹂に

あなたも掘り出しをするチャンスを等しくもって

に、現実の掘り出し物語がここにある。同時に、

円で買うケースである。売手が値打ちを知らない

い⋮⋮﹂は、一千万円の値打ちのあるものを十万

く売りつける詐欺的要素も含まれる。対して﹁買

売ったという剛腕形のケース。無価値のものを高

を豊富にもつ必要がある。以上は昭和末年頃に大

ことが必須の条件になる。当然、相手よりも情報

変身して、骨董を楽しもうではありませんか。

史の本音を記事から読み取ることはできない。 本 題 の 地 球 儀 に 関 す る 説 明 は、 調 査 を 依 頼 さ

本 論 に 入 る ま え に、 ﹁掘り出し﹂とは何かに

は千倍かな﹂と呟いたのも聞き逃してはいない。

が視線を遠くに向けながら﹁ほんとうの掘り出し

活躍していた斯界のモサの遺言だ。同じときに彼

言及せず、地球儀の学術的な評価を詳しく解説し

言及しておかねばならないだろう。業者︵玄人︶

四半世紀前の耳情報が、今日も通用するかに

れた神戸市立博物館が対応した。発見の経緯には

て、これを新聞が紹介する必然を能弁に示した。

の言葉から紹介したい。玄人は成果を金額で説

北川嘉七模造 地球儀

弊社のレポートは、この新聞記事となった地球

﹁掘り出し﹂ とは?

の 大 概 に は こ こ で は 触 れ な い。 当 然 な が ら、 女

T

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患って官吏を辞し、明治十年に没した。地球儀は

ていたことになる。佐藤は、明治九年に肺結核を

北川嘉七は、地球儀を軸にほぼ同じ時を、共有し

︵京都︶の鉄道敷設に邁進していた。佐藤政養と

内に在勤し、鉄道助を拝命してのちも敦賀・西京

の手書きの地球儀が日本で発見された。そんな

にとりかかるという。世界一精細な、十九世紀

界で最も精細な地球儀ではないのか。その検証

地球儀は、十九世紀以前に手書きで作られた世

い﹂ 。 女 史 は 次 の 目 標 を 口 に し た。 北 川 嘉 七 の

るのだろうか。その瞬間を待ちながら、私たち

見出しをニューヨークタイムズに見ることにな

これらの状況証拠をもとに女史が出した推論

佐藤政養の最晩年の仕事に該当する。

は、﹁ 佐 藤 が 近 畿 に 在 勤 し て い た と き、 北 川 嘉

もこの事件を良き参考として 逸 「 品発掘 」に励 んで、発掘品を晴れ舞台に立つスターに育てた

今 回 の 地 球 儀 騒 動 の 顛 末 を 総 括 す る な ら ば、

七 に﹃ 輿 地 全 図 ﹄ を 原 図 と し た 地 球 儀 の 製 作 を

の相手こそが佐藤政養その人ではないか﹂と膨

日本の近世末から近代初期の地理学や、佐藤政

いものだ。

らんだのである。明治前期の実相を通観し、状

養の再評価に端緒を開くものである。博物学に

依頼したのであり、北川が大字で記した〝應需〟

況証拠を手繰りよせ、消去法的に推論をすすめ

寄与することができた美術商のプライドはもと

﹁地球儀は平面の地図より大まかにつくるのが普

に つ い て 女 史 に 迫 っ た ら、 ﹁大きなご褒美を心

し よ う。 外 野 席 が 注 目 す る﹁ 掘 り 出 し の 結 果 ﹂

より、学問の発展を通した社会貢献も評価に値

れば佐藤政養に到達するしかない。   神戸市立博物館の三好唯義学芸員は読売新聞に、

通で、これだけ精巧な地球儀を作るには、佐藤が

︵編集部︶

待ちしています﹂と微笑んだ。

1

制作に立ち会い、指示を出したことも考えられる。

2

地球儀には、スエズ運河など﹃輿地全図﹄にない

3

情報も加えられており、佐藤の地図への愛着や特

三重県は、明治五 ︵一八七二︶年三月一日に、度会

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﹃維新創世坂本龍馬﹄︵学研・二〇〇六年︶

︵一八六九︶年に開通した。

地 中 海 と 紅 海 を 水 路 で 結 ぶ ス エ ズ 運 河 は、 明 治 二

約の締結に因る。

︵ 一 八 七 五 ︶年 五 月 の ロ シ ア と の 樺 太・ 千 島 交 換 条

カ ラ フ ト が ロ シ ア 領 に 確 定 す る の は、 明 治 八

治前期の状況を踏襲しているとみて大過ないだろう。

阪﹂に徐々に変更されていく。地球儀の大坂表記は明

旧来からの﹁大坂﹂の表記は、明治時代になると﹁大

県と安濃津県が合併して立県。

5

別な思い入れも感じられ、興味深い﹂と解説した。 また、蛇足ながら、佐藤は勝海舟の蘭学塾の塾頭 をつとめており、あの坂本龍馬の兄弟子にあたる。 ﹁日本の将来を海 ﹁坂本龍馬人物相関図﹂︵註 ︶は、 軍から支えようとした同志﹂と佐藤を紹介している。

十九世紀以前に手書きで作られた 世界で最も精細な地球儀? ﹁娘をブロードウェイの舞台に立たせてみた

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5


ア は 半 世 紀 に 及 ぶ。 地 球 儀 は、 市 場 の 広 い 場 所 加工するための専門的な計算が必要であり、素人に

﹁ 大 坂 ﹂︵ 註 ︶の 表 記 か ら 明 治 前 期、 カ ラ フ ト

︶から明治八 ︵一八七五︶年、明治

どうしても写真を確認できないものは、各地球

出し、部分的であっても正確に照合をすすめた。

び、 先 の 三 十 一 点 が 掲 載 さ れ て い る 写 真 を 探 し

た。京都・大阪・兵庫・滋賀の図書館に足を運

まず書き込まれた地図情報の検証からはじめ

るのに永い時間は不要だった。女史は地図 ︵地球

儀のなかで、最も精細な地球儀﹂の確信が固ま

﹁十九世紀以前に日本で手書きで作られた地球

の間に作られた可能性が極めて高いと結論した。

の情報をもとに勘案して、明治五年から同八年

の領有 ︵註

れ は 非 日 常 的 な サ イ ズ の た め で、 た だ な ら ぬ 地

儀 の 原 図 に 遡 っ て、 そ れ と 対 照 し て 処 理 し た。

儀︶の研究家に積極的に接触して仮説の不備を補

精密な地球儀を作ることは困難だと学習した。

球 儀 だ と い う 確 信 を 彼 女 は 深 め た。 地 球 儀 の 研

結 果、 三 十 一 点 の ど れ よ り も 北 川 嘉 七 の 書 入 れ

い、平行して地球儀を﹁スポットライトに照ら

十九世紀以前に手 書 き で 作 ら れ た 日本で最も精細な 地 球 儀

究 が は じ ま っ た。 い く つ も の 謎 や 疑 問 が 彼 女 の

が精細だと結論された。間違いなく詳しく書い

された舞台﹂にあげる準備に取り掛かった。媒

二︵ 一 八 六 九 ︶年 に 開 通 し た ス エ ズ 運 河 ︵ 註

頭 に 浮 か ん だ。 5 W 1 H に 通 じ る あ れ で あ る。

ているという確認が完了したのは夏の終わり頃

体に読売新聞を選んだ理由は知らない。

詳細に進む前に、地球儀の実際を記録しておこ

だった。女史の言葉を借りれば﹁三十一戦して

一 方、 北 川 嘉 七 が 模 し た 原 図 ︵﹃ 輿 地 全 図 ﹄︶

との関係から佐藤政養 ︵一八二一∼一八七七︶の

事績に調べが進み、これが結果的に、思わぬ副

図に詳しい知人から土浦市立博物館が平成六年

女 史 は 地 球 儀 の 作 期 年 代 の 特 定 を 急 い だ。 地

﹃輿地全図﹄を原図とす 全図﹄ ︶と 判 別 で き た。

養が版行した﹃官許新刊輿地全図﹄︵以下﹃輿地

の確定であるが、文久二︵一八六二︶年に佐藤政

併行してすすめていた北川嘉七が模した原図

江戸湾実測図を作成した。文久元 ︵一八六一︶年

フルベッキ ︵アメリカ人︶に就いて測量学を深め、

を習得し、長崎で軍艦操練の教育を受け、さらに

のち勝海舟の蘭学塾に入門し、西洋砲術と測量学

封事件を契機に出府し、砲術を広木貫助に学び、

十九世紀以前に日本で手書きで作られた地球

に開催した﹃地球儀の世界﹄の図録を拝借した。

る地球儀は、北川嘉七のそれが初見のものだと

の﹃輿地全図﹄の上梓も一連の活動と連携したも

嘉七が求めに応じて模造した。構造は張子製。和

産物を生むことになった。

図 録 は、 日 本 に 伝 存 す る 十 九 世 紀 以 前 の

判明した。そして﹃輿地全図﹄と北川嘉七の地

のである。御一新後も砲術、測量の知識を活かし

儀 の な か で、 す で に 世 間 に 公 開 さ れ て い る 遺 品

四十三点の地球儀の情報を登載しており、手書

球儀の書入れの間に微妙な差異があることも明

て、新政府の実務派として辣腕を振るった。明治

紙 で 球 形に 形 成 し て胡 粉 で塗 固 め、 墨で 地 図 情

佐藤政養については、諸本に詳しい。佐藤は文

き の 地 球 儀 は 三 十 一 点 を 数 え た。 こ れ ら と の 比

らかになった。版行後に新しい情報の付加が地

四年には﹁鉄道助﹂を拝命し、明治五年の大阪・

のなかでは、北川嘉七のそれが﹁最も精細な地

較 作 業 は 絶 対 に 必 要 だ し、 根 気 を と も な う が、

球儀の作成時に行われたようである。それにつ

・敦賀の鉄道敷設に奔走している。北 西京 ︵京都︶

報を書き込み、海陸などを淡彩で着彩する。直径

ともあれ地球儀の知識も深めた。

いては後述するとして、書入れられた地図情報

川嘉七の地球儀が作成されたとみられる明治五年

政四 ︵一八二一︶年に出羽に生まれ、庄内藩の転

地球儀は、いずれかの平面地図を原図として作成

からの作期をさぐる作業は、北川嘉七の﹁三重

球儀﹂と確信された。

されている常識を知った。平面の原図から球形のそ

から 八年の期間は、大坂府兵局御用掛として畿

ころ皆無。偶然の発見を待つしかない。

4

縣﹂︵註 ︶を参考に明治五 ︵一八七二︶年以降、

三十三糎。北川嘉七に関する個人情報は現在のと

はもてない量に肥大したとも聞いた。

三 十 一 勝、 完 勝 し た わ ﹂ 。資料コピーは一度に

う。地球儀の余白に作者の﹁應需 三重縣下勢州   庄野驛 北川嘉七模造﹂の書入れが確認される。   東海道五十三次の庄野驛 ︵宿︶の住人である北川

で 見 た と き よ り、 う ん と 大 き く 感 じ ら れ た。 そ

2

3

れに写し取るわけだが、そのためには、均等に縮小

1

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古美術を年五回∼六回、ジュエリー&ウォッチを年五回∼六回開催し、今日では年間落札

絵画、版画、彫刻を年十一回∼十二回、西洋装飾美術を年四回∼五回、日本陶芸、茶道具、

手造りの陶磁器や遺印の類まで入れると、竹田が四十五点、山陽が四十一点にもなる。ま

これをさらに角度を替えて作家別にみると、田能村竹田と頼山陽の書画が圧倒的に多く

文明十年︵一四七八年︶に弟子の祥啓に修行の証として与えたもので、現存する藝阿彌の

藝阿彌の﹁瀧山水﹂は、父の能阿彌同様、足利将軍の同朋衆の一人であった藝阿彌が、

青木木米の﹁兎道朝暾﹂である。

定の藝阿彌の﹁瀧山水﹂と、いま一つは、これも現在は東京国立博物館にある重文指定の

次ぎに個々の内容だが、一見して、まず目につくのが、現在、根津美術館にある重文指

多きに達する。

た、工芸品には中国よりの渡来品が五十四点もあり、この三つを合計すると、百四十点の

シンワアートオークションは、近代の、洋画、日本画、版画、彫刻、陶磁器、茶道具、

総額が五十六億円に達している。

総額は四十五億にも達している。

西洋美術、時計、宝石、ワインなどのオークションを年三十回ほど開催し、その年間落札 現代美術の作品の価格は原則として作家本人が決め、これを管理するが、古美術品の価 美術を専門とする画廊で催される個展やグループ展で売られ、古美術品は美術商の店頭や

り、郷男爵家伝来で知られる名品である。これが第一頁に収録されていて、高値表には、

唯一確実な作品といわれ、端正な筆致の夏珪流山水の図上には南禅寺三長老の賛があ

格は、美術商が業者間の交換会や市の相場をもとに決める。また、現代美術は、百貨店や

大きく変わりつつある。

楽畫冊﹂の十一万円、最も低い金額で表示されていたのが、軸装のものでは、 ﹁渓邨尋梅七

されていたのが、軸装のものでは﹁松巒古寺﹂が九万三千円、軸装もの以外では﹁亦復一

問題の田能村竹田と頼山陽の書画だが、まず竹田の書画で高値表に最も高い金額で表示

したことになる。通算するとわずか八年間で二万一千九十円も値上りしたわけである。

わずか四年間で一万三千九十円も値上りし、さらに四年後のこの売立では八千円も値上り

は五万一千九百十円で落札され、中村陶庵の売立のときは六万五千円で落札されている。

実に転々としていたことがわかるが、これらの時の記録を見ると、野村家の売立のとき

の中村陶庵の売立目録に顔を出している。

ただけでも、このほかに二回、大正十四年の大阪の野村家の売立目録と、昭和四年の須磨

ところで、この青木木米の﹁兎道朝暾﹂だが、手許の十冊ばかりしかない売立目録を見

これは百十八番目に収録されていて、これには七万三千円の金額が表示されている。

青木木米の﹁兎道朝暾﹂は、朝日に輝く宇治の景観を淡彩で描いた浅絳山水の小品で、

十六万九千八百円の金額が表示されている。

美術倶楽部などの会で売られる。しかし、こういった構図がオークションの普及とともに もともとオークション会社は、毎日を除いて、そのほとんどが美術商によって売るため の手段として創られたものだから、当然、売り手の大方は美術商である。 だが、美術倶楽部の交換会や業者だけの市で売買している分には、業者間の仲間値が変 動するだけだが、オークションが一般を対象とした公開型だけに、そこでの落札価格が、 オークションの普及とその成長が、美術界にどの様な変革をもたらすのか、考えなけれ

美術市場の末端価格に影響をもたらすことになる。 ばならない時期に来ているのではなかろうか。

美術品の値段 明治から昭和の初頭にかけて、名家やコレクターが旧蔵の名品類を一斉に入札売立した ことがある。このときの売立目録が数多く残されているが、その中に少し特異だが話題に 表紙に﹃雙軒庵美術集成図録﹄とあり、これからもわかるように、売立目録の内容は当

なった昭和八年の九州電気軌道会社の売立目録がある。

山陽の書画で、高値表に最も高い金額で表示されていたのが、軸装のものでは﹁天草洋

絶﹂の千三百九十八円である。

も低い金額で表示されていたのが、軸装ものでは﹁大和遊僊詞﹂の三百五十九円である。

詩﹂の二万七千九百円、軸装もの以外では﹁月ヶ瀬真景扇子﹂の一万二千九百六十円、最

この売立目録には入札高値表がついている。これは入札の一応の目安となる金額を表示

時、美術品の蒐集家として有名だった松本雙軒庵のコレクションである。

で、この売立目録を見ていると、かつての美術品の値段と動きを具体的に知ることが出来

︵工芸評論家・青山 清︶

の指定を受けたもので、これは高値表に十八万円で表示されている。 ︵つづく︶

これは現在、熱海のMOA美術館に収蔵されているが、松本雙軒庵がその所蔵中に国宝

書画に次いで工芸品で特に目を引くのが、国宝の﹁仁清色絵藤花文様壺﹂である。

したもので、落札された時のものではないが、普通はこれに近い金額で落札されているの

まず、収録点数だが、総計は二百七十点で、内訳は軸装されている書画が百四十六点、

る。そして、それがいかに不確かなものかがよくわかる。 画冊、巻物、扇子類が二十二点、額装の書画が十点、屏風、衝立が八点、陶磁器などの工 芸品が八十四点となっている。

13


●連載

│ 美術業界の行方︵

業種業態の変革

商う茶道具店を廻ったのだが、そこで目にしたのは、売行不振と、値段の暴落という凄ま

その時、美術業界はいま、まさに大きく変革しようとしていると感じた。

じい現実であった。とりわけ酷かったのが、茶道具だった。

バブル経済の崩壊とリーマンショックによる長期大不況や、東北大震災の影響を指摘す

インターネットの普及や、オークション会社の出現とその台頭は、美術業界を大きく変

る人が多かったが、美術業界の大きな変革のうねりを口にする人はいなかった。

一緒に講師の口をついて出て来たのが、スーパーマーケットとか、ショッピングセンター

その時、会場に飛び交っていたのが、 ﹁業種業態の変革﹂という言葉だった。その言葉と

大手スーパーのオーナーなど、爽々たる方々がいて、それはそれは盛大なものであった。

講師には、著名な経営コンサルタントや、大学の教授が顔をそろえ、参加者の代表には

なって、それが地方にも波及し、名古屋のカーム、京都の古裂会、大阪のアートマスター

エストウエストやマレットジャパン、ISEなどのオークションが次々と開かれるように

これを皮切りに、一九九〇年の九月にシンワアートオークションがスタートし、つづいて

一般のコレクターや美術愛好家を対象に欧米タイプの公開型のオークションが開催され、

わが国では、一九八九年︵平成元年︶の二月に、毎日新聞社の系列会社によって、東京で

世界のオークション会社で、広く知られているのがサザビーズとクリスティーズだが、

が、売上は年々確実に伸びているし、会社の数も増えつづけている。

えようとしているのである。それぞれのオークション会社の数字は、今はそれ程ではない

だった。スーパーマーケットは、すでに都会の各地に出現していたので一般にも知られてい

これらのオークションは、従来の各地の美術倶楽部の交換会や、鑑札を持つ特定の業者

ズ、神戸の日興堂のサコダアートオークションなどが開かれるようになった。

を対象とした俗に市と呼ばれるものとは大きく異なり、一般のコレクターや美術愛好家、

いち

それからほぼ四十五年近くが過ぎた。四十五年といえば明治に匹敵する。ちなみに今年

たもので、発足当初は、参加者の大方が業者だったが、二十余年を経過した今日では大き

すなわちエンドユーザーを対象に、図録を発行し落札結果を公表するという極めて開かれ

古裂会は、百%エンドユーザーを目指して図録を一万冊配っているという。まさに驚くべ

それは、それだけの数の客がいるということでもある。京都において珍品骨董を主に扱う

毎日オークションでは、開催のつど配られる図録が三千五百冊に及ぶということだが、

く様変わりしている。

スーパーが繁盛するにつれて魚屋や乾物屋や八百屋がなくなり、ホームセンターが出来

やクリスティーズの現在を見ればおおよその見当がつく。

き数字である。これらのことが将来どの様な結果をもたらすかということは、サザビーズ

サザビーズは、一七四四年にロンドンで創業し、現在は米国のニューヨークに本社を置

き、ニューヨーク、ロンドン、パリ、香港など世界の九カ所で多品目にわたるオークショ

ンを年間百五十回ほど開催している。一九七九年には同社の日本法人が設立されている。

香港などで多品目にわたるオークションを年間四百五十回ほど開催している。一九七三年

また、一七六六年にロンドンで創業したクリスティーズは、ロンドン、ニューヨーク、

昨年︵平成二十三年︶の秋に、仕事で東京、名古屋、大阪、京都の美術商を廻った。

毎日オークションは、当初は西洋版画の輸入と販売を主としたが、次第に範囲を広げ、

には同社の日本法人が設立されている。

術店を主に、歴代の千家十職の作品や、茶道家元の箱書のある時代のものや現代のものを

美術商といっても色々あるが、伝来する時代の古書画、古陶磁、茶道具などを商う古美

それでは、美術業界はこの四十五年間に、どう変革しただろうか。

オークション会社の出現と台頭

方都市で特に顕著だった。まさに小売業の業種業態が大変革していたのである。

とりわけコンビニエンスストアの出現は、これに拍車をかけた。こういった現象は、地

の数が激減し、チェーン店が繁盛するにつれて、多くの商店街はシャッター通と化した。

て荒物屋が消え、ビッグストアーの台頭とともに家電店や家具店、紳士服店、洋品雑貨店

ンチャイズチェーンなどの店が軒を連ねるようになった。

地に出現し、大型量販店と呼ばれるビッグストアーが現れ、ボランタリーチェーンやフラ

四十五年を経た今日では、大型のスーパーを核とした巨大なショッピングセンターが各

を経て、昭和八年に当る。短いようで長いのが時間だ。

は第二次大戦の終決から六十六年目に当たるが、これは明治元年から数えて、明治、大正

たが、他の言葉は耳慣れないものだった。

とか、ビッグストアー、ボランタリーチェーン、フランチャイズチェーンといった言葉

講師の部屋にお邪魔して、個人指導も受けられるという熱の入ったものだった。

幾つもに別れて各旅館の広間で午前と午後に分けて開かれたが、夕食後には、それぞれの

熱心な商店主などが大勢集まって活気に満ちていた。テーマや業種ごとにコースがあり、

ゼミは箱根の湯本温泉の旅館をいくつか借り切って、二泊三日にわたるものだったが、

とがある。

昭和四十年代の初めの頃だった。雑誌社の﹃商業界﹄が主催する合宿ゼミに参加したこ

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また、マシュー・ウォードは、 ﹃英国の事物、あるいは英国と英国人の小宇宙的見解﹄

では、事物は遠景にあるほどゆっくり動くのに対し、近景に近付くほど素早く飛び去

︵一八五三年︶で、車窓風景を次のように愛している。ここでは、蒸気鉄道の車窓風景

ることが語られている。

英国の美しさは、夢のような美しさなので、同じく儚いものであるかのようだ。 ︹⋮︺そうした美しさは、時速四〇マイル ︹約六四キロメートル︺で蒸気機関車が 疾走する時ほど魅力的に見えることはない。熟考や瞑想を要求するものは、何も ない。そして、手近にある事物は、すぐに荒々しく引き裂かれて行くように見え るけれども、遠方にある野原やまばらな木立は、観察から逃れようと必死になっ たりせずに、不滅の印象を残すのに十分なほど目に長く留まり続ける。あらゆる ものが、とても静かで、とても爽やかで、とても寛ぎに満ち、目を煩わせたり、

はまるで、竜巻に乗ったかのように高速で空中を航走しつつ、これらの穏やかな

魅力的な全体から注意を逸らせたりする目障 りなものは何もない。そのため、私

美しさを夢見るように愛するのである。︵註 ︶

時代的・世代的に、セザンヌもこうした鉄道乗車視覚を美的に感受する最初の世代

の変容が反映していると推定される。現に、セザンヌの多くの作品では、筆触が横方

の一人であり、意識的であれ無意識的であれ、彼の造形表現には蒸気鉄道による視覚

向に繰り返され、陵線が左右方向に強調されると共に、遠景から近景に近付くほど事 。 物が点描化する傾向が見出される︵図 ・図 ︶ 何よりも興味深いことは、セザンヌもまた、一八七八年四月一四日付エミール・ゾ ラ宛書簡で、蒸気鉄道の車窓風景を非常に賛美している事実である。

マルセイユへ行く時、ジベール氏と一緒だった。この手の人達は見ることに長 ︶でアレクシ邸の傍を けているが、その眼は教師的だ。蒸気鉄道︵ le chemin de fer

通過する時、東の方角に目の眩むようなモティーフが展開する。サント・ヴィク トワール山と、ボールクイユにそびえる岩山だ。僕は、 ﹁何と美しいモティーフだ ︶ ﹂と言った。すると、彼は﹁線が揺れ動き過ぎている﹂と ろう︵ quel beau motif

答えた。︱︱そのくせ、 ﹃居酒屋﹄については、それについて一番最初に僕に話

図2:ポール・セザンヌ《サント ・ヴィクトワール山と大松》1887年頃

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したのは彼なのだが、彼は非常に物分かりの良い誉め言葉を並べていた。しかし、 いつも技量の観点からなのだ!︵註 ︶

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3


●連載

─ セザンヌと蒸気鉄道︵

美術への新視点

ポール セ ・ ザンヌ ︵一八三九∼一九〇六︶は、一体何を描いたのだろうか? この問題については、これまで様々な解釈が提出されてきた。しかし、これまで誰 からも指摘されなかった観点がある。それは、蒸気鉄道による視覚の変容である。 事実、セザンヌの人生とフランスの蒸気鉄道の発達は並行している。フランスで旅客用 の蒸気鉄道が初めて本格的に運行されたのは、セザンヌが生まれる二年前の一八三七年で

に、首都パリと主要な地方都市を結ぶほぼ全ての幹線路線が整備されている。

ある。以後、一八四〇年代に鉄道建設は本格化し、第二帝政期︵一八五二∼一八七〇︶の間

一方、セザンヌが最初に蒸気鉄道で長距離旅行したのは、二二歳で故郷エクス・ア ン・プロヴァンスからパリに初上京した一八六一年である。以後、晩年までセザンヌ は蒸気鉄道で、エクスとパリの往復を中心にフランス各地を頻繁に転住する生活を 送っている。つまり、一般には自然愛好の画家として知られるセザンヌも、実際には 近代生活の画家でもあったのである。 従来、馬車の速度は、どんなに馬を酷使しても平均時速約一六キロメートルが限界 であった。これに対し、一八四五年頃の蒸気鉄道の最高速度は約六四キロメートルで、 四倍の速力である。こうした高速度での移動は、車窓風景を眺める際にめまいを起こ

われた。これに対し、次第に蒸気鉄道による視覚の変容に順応し、車窓風景を美しい

すように感じられたので、古い自然な知覚になじんだ世代からは風景を醜くすると嫌

と感じる新しい世代が台頭する。ヴォルフガング・シヴェルブシュの﹃鉄道旅行の歴 ︵一九七七年︶から二例引こう。 史﹄

まず、ヴィクトル・ユゴーは、一八三七年八月二二日付妻宛書簡で、車窓風景を次

化し、横縞化することが述べられている。

のように好んでいる。ここでは、蒸気鉄道の高速度が、車窓の事物を歪曲化し、斑点

私は、蒸気鉄道と和解した。蒸気鉄道は、断然非常に美しい。 ︹⋮︺素晴らし い動きだ。それを分かるためには、体感する必要があった。速力は、前代未聞だ。 沿線の花々は、もはや花ではない。それは、赤や白の斑点、あるいはむしろ横縞だ。 もはや、どんな斑点も存在せず、全てが横縞と化している。麦畑は豪華な金髪で、 牧草は長い緑色の三つ編みだ。︵註 ︶

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図1:ポール・セザンヌ《オーヴェール・シュル・ ロワーズ近郊の小さな家並》1873-74年

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図5

図6

図7

人物紹介

青山 清

新 聞 社 を 経 て 文 筆 家 と し て 独 立。 婦 人 雑 誌 な

ど に 執 筆 し、 書 籍 を 手 が け る う ち、 工 芸 の 研

究に手を染め、多くの工芸美術書を世に出す。

そ の か た わ ら、 評 論 活 動 の 一 環 と し て、 工 芸

へ の 理 解 を 広 め、 そ の 健 全 な 普 及 発 展 を 目 的

に、 取 材 を 通 じ て 親 交 す る 工 芸 作 家 の 協 力 を

えて、各地の百貨店の要請による各種総合展の企画構成なども担当。

昭和六三年、工芸の一層の普及と発展を願って本格的な活動を展開するた

め、﹁せいざん会﹂を設立。各地の百貨店において、わが国工芸の最高峰を ループ展﹂の開催をはじめる。

紹介する﹁工芸巨匠展﹂や、気鋭の作家の作家活動を支援するための﹁グ

平成二年、工芸普及の新しい在り方として、各地の百貨店における﹁美術

工 芸 懇 話 会 ﹂ の 開 設 を 提 唱 し、 各 方 面 の 要 請 を 受 け て 各 地 に 発 足 さ せ る。

﹄︵鎌倉書房・一九八一年︶等がある。 具作家作品集 ︵上・下巻︶

、﹃現代茶道 代表的な著述編集作品に﹃千家十職﹄︵毎日新聞社・一九八〇年︶

岩井 陽子/山根 緑

成十八・二〇〇六︶の弟子である。

岩井陽子は、岡田幸三 ︵大正十五・一九二六∼平

岡田は、花道の資料収集に励み、精査集成し、

、﹃ 続 花 ﹃ 花 道 古 書 集 成 ﹄︵ 思 文 閣・ 一 九 七 〇 年 ︶

刻につとめ、池坊立華の研究に一生を捧げた。

道古書集成﹄︵思文閣・一九七二年︶等の古典復

研究は花道文化の周辺に及び、﹃池坊立華入門﹄︵講談社・一九七三年︶など 著作は数多い。

山根緑は、門弟として岡田の著作活動を手伝い、岩井は同じ時間を直弟子 た格好である。

として体験した。今回は、彼岸の師匠を前に、嘗てのチームが再編成され

岩井は花を挿すたびに﹁先生は何と言うかな﹂と自問を続けた。

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図4

筆者撮影 アルク渓谷の鉄道橋 2006年8月26日


現実に、マルセイユ行の鉄道路線に乗車すると、ここでセザンヌが言及しているの は、エクス・アン・プロヴァンス駅から二、 三分の地点に展開する眺望であることが

の画面右中央に描き込まれたアルク渓谷の鉄

。より正確に言えば、ここでセザンヌが﹁何と美しいモティーフだ 判明する︵図 ︶

∼図

︶を通過する時に、疾走する汽車の車窓から見晴らせるサント・ヴィ

ろう﹂と賛嘆しているのは、正に図 道橋︵図 クトワール山なのである。 ここで注目すべきは、この発言が、この鉄道橋を含むエクス=マルセイユ鉄道路 線の開通 ︵一八七七年一〇月一五日︶からわずか半年後である符合である。また、セ ザンヌが﹁モティーフ﹂としてのサント・ヴィクトワール山に触れたのも、実に 四〇歳を目前にしたこの手紙が初めてであり、さらにセザンヌがサント・ヴィクト ワール山を中心に描く連作も、ちょうどこの一八七八年以後に始まっている。 すなわち、セザンヌのサント・ヴィクトワール山連作は、このアルク渓谷の鉄道 橋通過時における鉄道乗車視覚に触発されて開始された可能性が高いのである。少 なくとも、確かにセザンヌ自身が疾駆する汽車の車窓風景を﹁美しい﹂と証言して いる以上、そうした美的体験がセザンヌの造形表現に反映している可能性を否定す ることは誰にもできないだろう。 もちろん、セザンヌは鉄道乗車中の車窓風景をそのまま描写したのではない。そ うではなく、鉄道降車後の自然風景に蒸気鉄道による視覚の変容を適用して描出し た点こそが、近代的視覚の内面化とその創造的昇華において芸術的重要性を持つの

一九世紀に蒸気鉄道が登場し、現実に人々の日常生活において視覚の変容を発生さ

である。

せたことは歴史的事実である。現在では、あまりにも自明過ぎて改めて意識すらされ ないこの画期的変化を、ある種の感覚として具体化・実現化した点で、セザンヌを人

︵美術史家・秋丸知貴︶

類史的な視覚の変容の美的記録者として再評価できる。︵つづく︶

大学出版局、一九八二年、七七︲七八頁に引用。︶

︵註 ︶ Paul Cézanne, Correspondance, recueillie, annotée et préfacée par John Rewald, Paris, ︵邦訳、 ﹃セザンヌの 1937; nouvelle édition révisée et augmentée, Paris, 1978, p. 165.

本 連 載 記 事 は、 二 〇 〇 七 年 五 月 二 十 五 日 に 九 州 大 学 で 開 催 さ れ た 美 術 史 学 会 第

形 の 文 化 会 の﹃ 形 の 文 化 研 究 ﹄ 第 六 号 で 論 文 発 表 し た﹁ セ ザ ン ヌ と 蒸 気 鉄 道

六十回全国大会で﹁セザンヌと蒸気鉄道﹂と題して口頭発表し、二〇一一年三月に

また本連載記事は、筆者が研究代表を務める、二〇一〇年度∼二〇一一年度京都

一九世紀における近代技術による視覚の変容﹂の要約である。

大学こころの未来研究センター連携研究プロジェクト﹁近代技術的環境における心

性の変容の図像解釈学的研究﹂の研究成果の一部である。同研究プロジェクトの概

図像解釈学的研究﹂﹃こころの未来﹄第五号、京都大学こころの未来研究センター、

要については、次の拙稿を参照。秋丸知貴﹁近代技術的環境における心性の変容の

︶ Kokoro_no_mirai_5_02_02.pdf

二 〇 一 〇 年、 一 四 │一 五 頁 。︵ http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/kokoronomirai/pdf/vol5/

http://www.youtube.com/watch?v=BAAAuOoEKPI

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手紙﹄ジョン・リウォルド編、池上忠治訳、美術公論社、一九八二年、一二二 一 │ 二三頁。 ︶

図3:筆者撮影 アルク渓谷の鉄道橋通過時の車窓風景 2006年8月26日

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︵註 ︶ Victor Hugo, Correspondance familiale et écrits intimes, II (1828-1839), Paris, 1991, p. 421. ︵註 ︶ Cited in Wolfgang Schivelbusch, Geschichte der Eisenbahnreise: Zur Industrialisierung von Raum und Zeit im 19. Jahrhundert, München, 1977; Frankfurt am Main, 2004, ︵邦訳、ヴォルフガング・シヴェルブシュ﹃鉄道旅行の歴史﹄加藤二郎訳、法政 pp. 58-59.

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New Viewpoint on Art

Cézanne and Steam Railway (1) What did Paul Cézanne (1839–1906) try to“realize”in his paintings? The above question has many possible answers. However, one perspective that has not yet been explored is the transformation of visual perception caused by the introduction of the steam railway. In fact, the life of Cézanne and the development of the French railway are contemporaneous. In 1837, the steam railway for passengers was introduced in France; Cézanne was born two years later. Railways developed rapidly in the 1840s, and all the main railway lines that now connect Fig.1: Paul Cézanne Small Houses at Auvers-sur-Oise 1873-74 Paris to France’ s principal cities were constructed during the Second French Empire (1852–1870). On the other hand, in 1861, when Cézanne was 22 years old, he took a long-distance train trip for the first time―his first journey to Paris from his hometown, Aix-en-Provence. Thereafter, Cézanne frequently traveled to various areas of France using the railway network. As a railway traveler, Cézanne is a modern traveler, and although he is generally known as a painter who loves nature, he is also a painter of modern life. Dependent on the power and stamina of horses, the carriage was usually able to run at only about 16 km/h on average. Compared to this, the maximum speed of the steam locomotives operating in 1845 was about 64 km/h, that is, quadruple the speed of the carriage. Such movement at high speeds caused giddiness when looking at the scenery through the window of the wagon. This was disliked by the older generation, which was used to the natural perception of the landscape, as they thought that the view from the trains made the scenery look ugly. On the contrary, the new generation adapted to the mechanized perception induced by the speed of the train, and the feeling that such train-window views were beautiful gradually appeared. Wolfgang Schivelbusch ’ s Railway Journey (1977) notes the following two examples. First, in a letter dated August 22, 1837, Victor Hugo wrote to his wife that he liked the passing scenery viewed from a running train. Further, he mentioned that the speeding train made the scenery appear distorted, spotted, and striped. I am reconciled with the railway; it is decidedly very beautiful. (...) The movement is magnificent, and it is necessary to experience it in order to feel so. The speed is extraordinary. The flowers by the side of the road are no longer flowers but flecks, or rather streaks, of red or white; there are no longer any points, everything becomes a streak; the grainfields are great shocks of yellow hair; fields of alfalfa, long green tresses. (1) In English Items; or, Microcosmic Views of England and Englishmen (1853), Matthew E. Ward also expressed his love for the fleeting scenery viewed from a running railcar. He also explained that when seen from an accelerating train, things that are near appear to move quickly and things that are at a distance appear to move slowly. The beauties of England being those of a dream, should be as fleeting. (...) They never appear so charming as when dashing on after a locomotive at forty miles (about 64km) an hour. Nothing by the way requires study, or demands meditation, and though objects immediately at hand seem tearing wildly by, yet the distant fields and scattered trees, are not so bent on eluding observation, but dwell long enough in the eye to leave their undying impression. Every thing is so quiet, so fresh, so full of home, and destitute of prominent objects to detain the eye, or distract the attention from the charming whole, that I love to dream through these placid beauties whilst sailing in the air, quick, as if astride a tornado. (2) Cézanne belongs to the first generation to perceive such a new form of visual perception as lovely, and it can be seem that he created new painting expressions influenced by the perception of the moving scenery induced by the steam railway, whether consciously or unconsciously. Actually, in many of Cézanne’ s works, his strokes are repeated in the transverse direction, while the ridgelines are emphasized in a horizontal direction, and the images of things that are nearer appear rougher (Fig. 1, Fig. 2).

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The most interesting point is that in a letter to Émile Zola, written on April 14, 1878, Cézanne also praises the scenery seen through the window of a running train. When I went to Marseille I was in the company of Monsieur Gibert. These people see correctly, but they have the eyes of Professors. Where the train passes close to Alexis’ s country house, a stunning motif appears on the East side: Sainte-Victoire and the rocks that dominate Beaurecueil. I said:“What a beautiful motif”; he replied: “ The lines shake too much. ”― With regard to the ‘Assommoir’about which, by the way, he spoke to me first, he said some very sensible and laudatory things, but always from the point of view of the technique! (3) A few minutes from Aix-en-Provence Station, the view from the train going from Aix to Marseille is similar to the one described by Cézanne (Fig. 3). More precisely, what Cézanne admires here as a“ beautiful motif ”is the Mont Sainte-Victoire, which can be seen from the train when it runs through the railway bridge at the Arc valley, painted in the center on the right side of the picture (Fig. 2, Fig. 4–Fig. 7). It is noteworthy that Cézanne’ s letter was written only half a year after the opening of the railway line from Aix to Marseille, including this railway bridge, on October 15, 1877. Moreover, this letter is the first document wherein 39-yearold Cézanne refers to the Mont Sainte-Victoire as a“motif,” and Cézanne began painting the series of the Mont SainteVictoire in 1878. In short, it is highly possible that Cézanne’ s Mont SainteVictoire sequences were influenced by the visual perception caused by the train passing over this railway bridge at the Arc valley. At a minimum, Cézanne himself declared that the scenery viewed from a speeding train is beautiful so that nobody could deny the possibility that such esthetic experiences are reflected in Cézanne’ s formative expressions. Of course, Cézanne did not sketch the exact scenery through the window of a speeding train. Here, from the perspective of the assimilation of the modernized vision into the products of artistic creativity, it is very important for us to know that Cézanne painted natural landscapes by applying the mechanized perception induced by the steam railway. It is a historical truth that the steam railway was popular in the 19th century and generated a visual revolution in people’ s daily life. We would like to reappraise Cézanne, who reacted to an epoch-making change in seeing too obvious now for us to be conscious of and realized it in his art, based on the new sensation induced by the steam railway, making this artist a great aesthetic recorder of the transformation of vision in human history. (AKIMARU Tomoki / Art Historian)

Fig.2: Paul Cézanne The Mont Sainte-Victoire and Big Pine C. 1887

Fig.3: See the Mont Sainte-Victoire, which can be seen from the train when it runs through the railway bridge at the Arc valley. http://www.youtube.com/watch?v=BAAAuOoEKPI (filmed by the present author on August 26, 2006)

Fig.4

Fig.5

Fig.6

Fig.7

The railway bridge at the Arc valley photographed by the present author on August 22, 2006. (1) Victor Hugo, Correspondance familiale et écrits intimes, II (1828-1839), Paris, 1991, p. 421. (2) Cited in Wolfgang Schivelbusch, The Railway Journey: The Industrialization of Time and Space in the 19th Century, Berkeley and Los Angeles: The University of California Press, 1986, p. 60. (3) Paul Cézanne, Correspondance, recueillie, annotée et préfacée par John Rewald, Paris, 1937; nouvelle édition révisée et augmentée, Paris, 1978, p. 165. (English edition, New York, 1995, pp. 158-159.)

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美意識は日本人にしか分からないということ

えられたところが大きかったように、日本的

団法人永青文庫の所蔵品を紹介する、﹁細

一六代当主細川護立により設立された財

の創造へと繋がる可能性を示唆している

財 と な り、 ま た そ こ で 培 わ れ た 有 形 無 形

も の が、 時 を 経 て 郷 土 や 日 本 全 体 の 文 化

ン タ ー︶ の﹁ 武 家 と 茶 ﹂ 展 が 茶 道 具 を 中

道 具 を 中 心 と し、 茶 道 資 料 館︵ 裏 千 家 セ

関する展覧会が京都で同時開催されたこ

井 家 と も に 京 都 に ル ー ツ が あ り、 両 家 に

り伝えてきたことがはっきりと伝わる内

茶道資料館

﹁武家と茶﹂ 展

承天閣美術館

二〇一一年一〇月一日~ 二〇一一年一二月四日

二〇一一年一〇月一日~ 二〇一一年一二月四日

肥後松井家の名品 ﹁武家と能﹂ 展

東京国立博物館 二〇一〇年四月二〇日~ 二〇一〇年六月六日 京都国立博物館 二〇一一年一〇月八日~ 二〇一一年一一月二三日 九州国立博物館 二〇一二年一月一日~ 二〇一二年三月四日

細川家の至宝

の 美 意 識 が、 新 し い 文 化 的・ 美 術 的 伝 統

帰ってきた江 戸 絵 画 は決してないのである。むしろ、外国人の眼

する武家道具、文書、書画、工芸品等で、

ニューオリンズ ギッター・コレクション展   絵画作品には、学術的な調査研究がもち

後半が自身希代のコレクターであった護

ように思われた。

ろん必要である。しかし、時には難しく考

等 で 構 成 さ れ て い る。 八 万 点 を 超 え る 所

立 の 収 集 し た 刀 剣、 中 国 美 術、 近 代 絵 画

あ る。 展 示 内 容 は、 前 半 が 細 川 家 に 伝 来

えずに、見たままに画家の想像力や技量の

川 家 の 至 宝  珠 玉 の 永 青 文 庫 コ レ ク シ ョ ン ﹂ 展 が、 東 京、 京 都、 福 岡 を 巡 回 中 で

冴えを楽しむ喜びも求められている。そこ

蔵 品 の う ち、 国 宝・ 重 要 文 化 財 を 含 む 厳

できるところもあるのかもしれない。

が約四〇年にわたり収集した江戸絵画を紹

にこそ、収集家の美意識が前面に出る個人

選された名品が多数出品されている。

を通すことで、日本的美意識の普遍性を確認

介する、 ﹁帰ってきた江戸絵画 ニューオリ   ンズ ギッター・コレクション展﹂が、名   古屋、千葉、静岡、京都、福島を巡回した。

コレクションの展覧会の醍醐味もある。作

アメリカ人眼科医カート・ギッター博士

同コレクションは、禅画を中心に、文人 品を見て回る観覧者に笑顔の多かったこと

開 催 さ れ た。 展 示 内 容 は、 相 国 寺 承 天 閣

す る﹁ 肥 後 松 井 家 の 名 品 ﹂ 展 も 二 会 場 で

れ て い た、 松 井 家 に 伝 来 す る 名 品 を 紹 介

代替わりには将軍御目見えも特別に許さ

家 の 筆 頭 家 老 で あ り、 将 軍 家 及 び 自 家 の

ま た、 京 都 で は こ れ に 合 わ せ て、 細 川

家、近代絵画等で構成され、白隠、円山応

画、円山四条派、琳派、浮世絵、奇想の画

二〇一〇年九月一一日~一〇月一七日 二〇一〇年一二月一四日~

が、それを示していよう。 松坂屋美術館 千葉市美術館

挙、伊藤若冲、曽我蕭白、長澤蘆雪、俵屋 宗達、酒井抱一、神坂雪佳、中原南天棒等 の良品を多く含むことで知られる。 展示は、アメリカ人の見た日本美術という 視点から、 ﹁若冲と奇想の画家たち﹂ ﹁琳派の ﹁理想の山水﹂ ﹁楽しげな人生﹂という六つの

心としていた。﹁武家と能﹂展では、松井

美 術 館 の﹁ 武 家 と 能 ﹂ 展 が 武 家 道 具 や 能

セクションからなり、選りすぐりの一〇七点

家とゆかりの深い宮本武蔵の書画の展示

二〇一一年一月二三日 静岡県立美術館 二〇一一年二月五日~三月二七日 京都文化博物館 二〇一一年九月三日~一〇月一六日 福島県立美術館 二〇一一年一〇月二九日~一二月四日

が出品されていた。会場では、まず民間の一

多彩﹂ ﹁白隠と禅の書画﹂ ﹁自然との親しみ﹂

個人のコレクターがこれほど数多くの名品を

等も注目を集めていた。

好みなコレクションが想像されるかもしれ

と は、 展 示 品 同 士 の 歴 史 的 奥 行 き を 一 層

熊 本 の 名 家 と し て 知 ら れ る 細 川 家・ 松

バランス良く収集できたことに驚かされた。

ない。確かに陳列品には、若冲の︽白象図︾

増 す よ う に 感 じ ら れ た。 こ う し た 展 覧 会

アメリカ人収集家と聞くと、大味で派手

目で笑いを誘われる明快な優品も多かった。

り、 今 後 も 積 極 的 に 試 み ら れ る こ と が 期

的・ 美 的 好 奇 心 を 強 く 刺 激 す る も の で あ

及 び 展 示 施 設 の 相 互 連 携 は、 鑑 賞 者 の 知

や南天棒の︽托鉢僧行列図︾等、誰もが一

細 川 家の至 宝

い ず れ の 展 示 も、 両 家 が 文 武 両 道 を 重

待される。 ん じ、 激 動 の 乱 世 を 生 き 抜 く と 共 に、 和

容 で あ っ た。 一 つ の 家 系 が 伝 承 し て き た

歌、 能、 茶 の 湯 等 の 日 本 の 伝 統 文 化 を 守 旧熊本藩主細川家の七〇〇年に及ぶ歴

﹁ 武 家と能 ﹂ ﹁ 武 家と茶 ﹂展

肥 後 松 井 家の名 品

珠 玉の永 青 文 庫コレクション展

しかし、特筆すべきは、蘆雪の︽月に竹図︾ や山本梅逸の︽四季草加図︾等のように、 ほぼ全ての作品の筆遣いや構図には、紛れ もなく繊細で瀟洒な日本的美意識が強く感 じられたことである。ギッター博士自身は、 日本美術の持つ﹁純粋で、シンプルで、素

史 資 料 や 美 術 品 を 後 世 に 伝 え る た め に、

朴な﹂美しさに惹かれたと表現している。 近年の若冲評価が、同じくアメリカ人収集

Exhibition Review

家のジョー・プライス氏のコレクションに支

展覧会評 ◉

21


時評 ◉ Review on current events

百貨店美術画廊と 現代アート アートを取り上げようとする試みは単発

こ れ ま で、 百 貨 店 美 術 画 廊 で も、 現 代 追求する作品の居場所が確保されること

通 に 適 さ な く て も、 誠 実 に 本 格 的 に 美 を

は 決 し て 健 全 で は な い だ ろ う。 た と え 流

り こ ぼ さ れ る も の が 生 じ る な ら ば、 そ れ

モ ニ ュ メ ン ト 財 団 が、 緊 急 に 保 護 が 必 要

米ニューヨークに本部を置くワールド

輪が広がっている。

機 関 等 に も 広 が っ て お り、 海 外 に も そ の

フェア﹂を開催し好評を博している。

的 に は 存 在 し た。 し か し、 一 九 九 〇 年 代 が大切なのではないだろうか ?

援の必要性を訴える、二〇一二年版﹁ワー

な世界中の文化遺産について国際的に支

ル ド・ モ ニ ュ メ ン ト 財 団 と 文 化 財 保 護・

例 え ば、 二 〇 一 一 年 一 〇 月 五 日 に は、

前 半 の バ ブ ル 崩 壊 後 は 低 調 化 し、 現 代 ア ー ト を 扱 う ど こ ろ か、 母 体 で あ る 百 貨

百貨店の美術画廊が変わり始めている。 従 来 は、 富 裕 層 を 対 象 と し て、 既 に 評 価

し、 東 北 や 関 東 の 被 災 地 域 の 文 化 財 を 広

ル ド・ モ ニ ュ メ ン ト・ ウ ォ ッ チ ﹂ を 発 表

く 選 定 し た。 こ こ で は、 有 形 文 化 財 の み

東日本大震災と文化財 二〇一一年三月一一日に発生した東日

な ら ず、 神 事 や 祭 事 等 の 伝 統 行 事 と し て

店自体が閉店に追い込まれる事例も多 こ れ に 対 し、 近 年 の 百 貨 店 の 現 代 ア ー

本大震災では、国の文化財保護法に定めら

継承されてきた無形文化財も対象として

の定まった大家の高額な日本画や洋画等

ト へ の 接 近 は、 全 体 的 な 傾 向 で あ り 逆 戻

た。現在、そうした被災文化財の救援事業

れた文化財だけでも七〇〇件以上が被災し

かった。

り し そ う に な い。 こ の 背 景 に は、 長 引 く

が 主 に 扱 わ れ て き た が、 最 近 で は、 若 手 の現代アートへの積極的な取り組みが目 立つようになっている。 不況により大家の高額な作品が売れにく

芸 術 研 究 助 成 財 団 が 連 携 し、 文 化 庁 や 東

ま ず 二 〇 〇 七 年 に、 高 島 屋 東 京 店 が 現

被 害 を 受 け た 文 化 財 等 を 緊 急 保 全 し、 損

京 芸 術 大 学 等 の 協 力 も 得 て、﹁ 東 日 本 大

代 ア ー ト を 専 門 と す る﹁ 美 術 画 廊X ﹂ を

いる点が特筆される。

の 画 壇 の 序 列 的 権 威 が 通 用 し な く な り、

壊 建 物 の 撤 去 作 業 等 に よ る 廃 棄・ 散 逸 を

また、二〇一一年一一月二日には、ワー

が官民一体となって進められている。

現代アートの方が人気が高いという現状

被災文化財等救援事業﹂を実施している。

防止するために、﹁東北地方太平洋沖地震

く な っ た 事 情 が あ る。 ま た、 作 家 も 購 入

ま た、 高 島 屋 が 二 〇 一 一 年 六 月 か ら が あ る。 さ ら に、 百 貨 店 が 海 外 市 場 を 狙

開 設 し、 他 の 百 貨 店 も そ れ に 続 く 傾 向 を

一 〇 月 に か け て 東 京・ 大 阪・ 京 都 で 開 い う た め に も、 国 際 言 語 と し て の 現 代 ア ー

文 化 庁 は、 二 〇 一 一 年 四 月 一 日 か ら、

た﹁Z I P AN GU ﹂ 展 は、 同 店 初 の 本

震 災 被 災 文 化 財 復 旧 支 援 事 業 Save Our ︵ 略 称 S O C ︶﹂ を 立 ち 上 げ て い Culture

者 も 世 代 交 代 が 進 み、 若 い 世 代 に は 従 来

格的な若手作家による現代アート展であ トが求められている理由もある。

古 屋 店 も、 二 〇 一 一 年 九 月 に 国 内 外 の 現

え る な ど 大 き な 反 響 を 呼 ん だ。 松 坂 屋 名

上、 現 代 ア ー ト を 扱 う よ う に な る の は 必

要と供給に敏感に反応する存在である以

百 貨 店 が、 時 代 の 空 気 を 読 み 取 り、 需

の 関 係 団 体 が 参 加 し、 各 都 道 府 県 の 教 育

国 美 術 館 会 議 や、 文 化 財 保 存 修 復 学 会 等

れ、 独 立 行 政 法 人 国 立 文 化 財 機 構 や、 全

は、﹁被災文化財等救援委員会﹂が設置さ

と し て お り、 広 く 国 内 外 に 支 援 を 呼 び か

した地域社会の復興に資することを目的

活動と芸術文化の創造力を活用して被災

る。この事業は、文化財保護︵保存修理︶

芸 品、 書 跡、 典 籍、 古 文 書、 考 古 資 料、

生 活 の 再 建 で あ る。 し か し、 美 的・ 歴 史

ま ず 優 先 さ れ る の は 人 命 の 救 助 で あ り、

今 回 の よ う な 未 曾 有 の 大 災 害 の 場 合、

ける募金キャンペーンを行っている。

然 的 で あ り、 時 代 の 趨 勢 で あ る。 そ れ に

委員会等と協力して活動を行っている。

歴 史 資 料、 有 形 民 俗 文 化 財 等 の 動 産 文 化

そ の 内 容 は、 被 災 し た 絵 画、 彫 刻、 工

財 及 び 美 術 品 に 関 す る、 学 芸 員 等 の 専 門

個人や地域社会のアイデンティティの復

的伝統に基づく文化財の保護継承もまた、

点は評価すべきだろう。

職 員 の 派 遣 や、 被 災 状 況 の 調 査・ 応 急 処

し か し、 二 〇 一 一 年 二 月 に は、 西 部 渋

置・ 保 存 機 能 の あ る 施 設 で の 一 時 保 管 等

谷 店 で 開 催 さ れ て い た﹁ SHIBU Culture deサ ブ カ ル ﹂ 展 が、 展 示 内 容

東日本大震災と文化財レスキュー展 代官山ヒルサイドフォーラム会場 パンフレット

興のためには重視されるべきであろう。 が﹁ 百 貨 店 に ふ さ わ し く な い ﹂ と い う ク

デパート

である。 ず 急 遽 中 止 さ れ て い る。 こ の こ と は、 百

らよみがえった東北の文化財展実行委員

本大震災と文化財レスキュー展﹂︵震災か

や 経 済 支 援 は、 数 多 く の 民 間 団 体 や 教 育

こうした被災文化財に対する救出保護

関心を一般に喚起した。

し、 被 災 文 化 財 と そ の 救 援 活 動 に 対 す る

会 等 が 主 催 ︶ が 岩 手・ 東 京・ 新 潟 を 巡 回

貨 店 の 関 心 が、 現 代 ア ー ト の 全 て に で は

し 経 済 原 理 が 全 て を 支 配 し、 そ こ か ら 取

然 で あ り 正 当 な こ と で あ る。 し か し、 も

た 現 代 ア ー ト を 享 受 す る の は、 非 常 に 自

現 在 に 生 き る 人 間 が、 同 時 代 に 生 ま れ

いることを示唆している。

な く、 流 通 に 適 し た も の だ け に 限 ら れ て

また、二〇一一年一〇月からは、﹁東日

レ ー ム を 受 け て、 会 期 途 中 に も か か わ ら

た現代アートが身近で親しい存在になる

よ り、 こ れ ま で 多 く の 人 々 と 無 縁 で あ っ

代 ア ー ト を 展 示 即 売 す る﹁ ナ ゴ ヤ ア ー ト

こ の 通 称﹁ 文 化 財 レ ス キ ュ ー﹂ 事 業 で

り、 三 会 場 併 せ て 入 場 者 数 が 六 万 人 を 超

見せている。

ZIPANGU展会場風景 (撮影:宮島径)

20


美 人 画

再 見

黒 田 清 輝 ︵ 慶 応 二・一 八 六 六 ∼ 大 正 十 三・一 九 二 四 ︶ は 、 明 治 ・ 大 正 期 の 日 本 洋 画 界 の 重 鎮 。 法 律 を 学 ぶ ためにフランスに渡り、当地で画家に転向した異色の経歴を持つ。明治二十六︵一八九三︶年に、約十年 間のフランス留学から帰国した後、新しい美術団体白馬会を結成し、西洋美術の紹介定着のために精力的 に活動した。 特 に 黒 田 は 、 当 時 は ま だ タ ブ ー 視 さ れ て い た 裸 体 画 の 普 及 に 努 め 、︽ 智 ・ 感 ・ 情 ︾ 等 の 意 欲 的 な 大 作 を 積極的に発表した。この︽智・感・情︾は、明治三十三︵一九〇〇︶年のパリ万国博覧会にも出品され、 日 本 人 最 高 の 銀 賞 を 受 賞 し て い る 。 一 方 、︽ 湖 畔 ︾ は 、 黒 田 が 明 治 三 十 ︵ 一 八 九 七 ︶ 年 夏 に 、 同 じ モ デ ル である金子種子︵照子︶を伴って箱根の芦ノ湖に避暑のため滞在していた時に、制作を見に来た彼女に突

黒田清輝《智・感・情》 明治32(1899)年

然着想を得て描いたものである。このとき、照子二十三歳。家柄の違いから周囲に結婚を反対されていた 二人は、後に黒田の晩年に結婚している。

黒田清輝《湖畔》 明治30(1897)年

編集後記

日本美術新聞は、﹁美の用﹂を世に問う新聞を志向

日本美術新聞は、社是に﹁美の用の敷衍﹂を掲げ、

し、芸術する心の敷衍につとめます。

美や芸 術 こそが 絶 対的 な 価値 を持 ち、こ れ を大切 に

する心こそが未来への展望を示して重大な意味を持

編集方針として、﹁いま﹂を感じられる美術に関する

つ と 確 信 し、 そ の 真 を 皆 様 と 追 求 し ま す。 本 紙 は、

話題を、古きも新しきも等しく扱うことを掲げます。

現在、日本は、長引く不況と政治の混迷に加えて、

未 曾 有の大 災 害も 重な り、息 苦 しい 閉塞 的な 状 況が

続 い て い ま す。 今、 私 た ち に と っ て 大 切 な こ と は、

か。 本 紙 が、 皆 様 の そ う し た 一 時 の 安 ら ぎ の 場 と な

日々の生活を充実して生きることではないでしょう

る こ と を 強 く 願 っ て お り ま す。 ど う ぞ、 末 永 く ご 支

援を賜わりますよう宜しくお願い申し上げます。  ︵編集部一同︶

私が学生時代に属した同好会のテキスト本は、﹃仏

像︱心とかたち﹄︵NHKブックス︶だった。その輪

読を通じて 仏像の魅力に触れたときの新鮮な感動が

﹁形と心﹂に 懐かしい。以来、四十五年が経過した。

こ だ わ る﹁ モ ノ の 心・ 形 の 心 ﹂ を 担 当 す る が、 古 美

術 の現場 か ら見 えて くる﹁ 魅力 ﹂を ま っすぐ に 紹介

︵M︶

してみたい。

日 本 美 術 新 聞 創 刊 に 当 た り、 数 多 く の 方 々 の お 世

話になりました。取材にご協力頂いた方々をはじめ、

︵A︶

方 々 に 心 よ り 感 謝 申 し 上 げ ま す。 今 後 と も、 ど う ぞ

色 々 な か た ち で ご 声 援・ お 力 添 え を 頂 い た 全 て の

宜しくお願い致します。


書評 ◉ Book Review

北澤憲昭 ﹃ 眼の神 殿 ﹄ ブリュッケ 二〇一〇 年

うした考え方を持たなかった日本がそれ を 移 植 す る 際 に は 様 々 な 混 乱 が 生 じ た。 博 覧 会・ 展 覧 会、 博 物 館・ 美 術 館、 美 術

山田 芳 裕 ﹃へう げ もの ﹄ 講 談 社 二〇 〇五年∼

オーバーな感情表現やパースの効いた奇

抜 で 大 胆 な 構 図 が 面 白 い。 時 代 考 証 も、

フィクションを交えつつなかなか本格的

で、 本 能 寺 の 変 の 背 景 を 大 胆 に 解 釈 す る

駄 を 極 力 省 き つ つ、 写 実 と 戯 画 の バ ラン

歴 史 ス ペ ク タ ク ル と し て も 楽 し め る。 無

学 校 等 の 設 立 を 通 じ て、 何 が﹁ 美 術 ﹂ で 何がそうでないかが取捨選択され制度と

調 和 し て お り、 著 者 自 身 の 確 か な 美 意 識

ス の 取 れ た 画 風 は、 物 語 の 世 界 観 と よ く

し て 確 立 さ れ る 過 程 で、 次 第 に﹁ 美 術 ﹂ と い う 観 念 も 人 々 の 心 に 定 着 し て ゆ く。

笑 い を 誘 う。 左 介 が 弟 子 入 り す る 千 利 休

描 か れ る、 数 寄 者 の 宿 業 と 心 意 気 が 快 い

内 容 で は、 左 介 の ド タ バ タ 劇 を 通 じ て

も感じさせる。

しかし、西洋と日本では、人工と自然や、 美術と工芸についての価値観が根本的に

の﹁ ア ー ト ﹂ 概 念 と は 変 質 し つ つ 独 自 の

異 な る の で、 日 本 の﹁ 美 術 ﹂ 概 念 は 西 洋

歴史と構造を形成することになる。

版。 一 九 九 〇 年 度 サ ン ト リ ー 学 芸 賞︵ 芸

長らく絶版になっていた名著の復刊定本

ンギャルド以後の工芸﹄ ︵美学出版︶も興

画﹂の転位﹄ ︵共にブリュッケ︶ 、 ﹃アヴァ

ド﹄ ︵岩波書店︶ 、 ﹃境界の美術史﹄ 、 ﹃ ﹁日本

もいえる﹃岸田劉生と大正アヴァンギャル

置を詳論していて貴重。同じ著者の続編と

︵織部︶を主人公に取り上げた異色の歴

部 焼 の 創 始 者 と し て 知 ら れ る、 古 田 左 介

期 に か け て 活 躍 し た 武 将 茶 人 で あ り、 織

の ﹄ が 好 評 だ。 戦 国 時 代 か ら 江 戸 時 代 初

二 〇 〇 五 年 か ら 隔 号 連 載 中 の﹃ へ う げ も

週 間 漫 画 誌﹃ モ ー ニ ン グ ﹄ で、

写も秀逸である。

者として成長した左介が示した友情の描

き さ せ な い。 秀 吉 の 臨 終 に 際 し て、 数 寄

の 必 然 性 も 鋭 く 洞 察 し て お り、 読 者 を 飽

川家康等のそれぞれの美意識とその対立

す る 織 田 信 長、 明 智 光 秀、 豊 臣 秀 吉、 徳

の﹁ わび 数 寄 ﹂ の 解 釈 は も ち ろ ん、 関 係

術・ 文 学 部 門 ︶ 受 賞 作。 初 版 か ら 二 〇 年

味深い。同様の問題意識で精力的に制度史

巻末の解説が、本書の美術史学史上の位

以 上 経 て い る が、 そ の ア ク チ ュ ア リ テ ィ

一九八九年に美術出版社から出版され、

は今日においてもなお失われていない。

し か し、 何 よ り も こ の 作 品 の 魅 力 は、

よ う に 思 わ れ る の だ が、 不 思 議 な こ と に

パ ァ﹂﹁ ミ ュ キ ン ﹂ 等 は、 最 初 は 冗 談 の

左介が名品を形容するときに発する独特

突然その名品の魅力を生き生きと立ち現

現 在、 単 行 本 は 一 三 巻 ま で 出 版 さ れ、

史漫画である。

秀賞を、二〇一〇年には第一四回手塚治虫

一三回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優

わせてくれるように感じられる。

研究を進める、佐藤道信﹃ ︿日本美術﹀誕

た だ し、 制 度 史 研 究 は 手 垢 の 付 い た 観

も し、 自 分 が 古 美 術 品 を 鑑 賞 す る と き

生﹄ ︵講談社︶ 、 ﹃明治国家と近代美術﹄ ︵吉

念を相対化し客観化させてくれる点では

﹁へうげる﹂とは﹁剽げる︵ひょうげる︶ ﹂

文化賞マンガ大賞を受賞している。

に、いつの間にか左介の目で最もふさわし

近年、﹁美術﹂という言葉が、明治以後

な っ た 研 究 書 で あ る。 概 念 や 制 度 を 自 明

新 鮮 で 痛 快 で あ る が、 そ れ に よ り 見 落 と

の別読みで、タイトルは﹁ひょうきん者・

い形容詞を模索していることに気付けば、

に 西 洋 の﹁ ア ー ト ﹂ 概 念 を 輸 入 し て 作 ら

視 す る の で は な く、 批 判 的 に 検 証 し よ う

されてはならないこともあるのではない

おどけ者﹂の意。その名の通り、茶道具等

あなたももはや﹁へうげもの﹂である。

の 擬 音 に あ る。 例 え ば、﹁ が に っ﹂﹁ の

とする脱構築的観点を近代日本美術史研

の名器名物への物欲を、時に戦国武将とし

ぺ え っ﹂﹁ は に ゃ あ ﹂﹁ ミ グ ッ﹂﹁ ヌ シ ュ

究 に 導 入 し た 点 で 名 高 い。 著 者 は、 現 代

だろうか? それは、﹁美術﹂という言葉 自体は確かに明治以後に造語されたとし

ての武功よりも優先させ、殺伐とした戦乱

メ版も放映されている。二〇〇九年には第

美 術 の 批 評 活 動 か ら 出 発 し、 一 九 六 〇 年

の時代に、数寄の世界でもう一つの天下取

二〇一一年四月からはNHKでテレビアニ

代 の 反 芸 術 の 考 察 か ら、 元 々 の 起 源 で あ

前 か ら 制 作 さ れ て い た 事 実 で あ る。 こ の

ても、﹁美術﹂と呼ばれうる作品はそれ以

りを目指す男の姿を描く。

川弘文館︶や、木下直之﹃美術という見世

る明治美術に着目することになったとい

こ と は、 何 度 で も 想 起 さ れ る べ き で あ ろ

物﹄ ︵講談社︶等も併せて読みたい。

う。

う。 明 治 以 前 の 人 々 に も 美 意 識 が 存 在 し

れた新しい官製翻訳語であったことが広

著 者 に よ れ ば、 近 代 と は 視 覚 優 位 の 時

く 知 ら れ る よ う に な っ た が、 そ の 端 緒 と

代 で あ り、 西 洋 で は 諸 芸 術 の う ち 視 覚 芸

ていたことは間違いないのだから。

著 者 の 代 名 詞 と も い え る、 登 場 人 物 の

術 だ け が﹁ 美 術 ﹂ と 呼 ば れ る が、 従 来 そ

22



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