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「教養各会の行事 盛大に」権大僧正列伝 加藤日識上人 }
本門佛立宗宗務本庁 海外弘通だより∼サンマリノ編
去る六月二十二日から二十四日までの二泊三日にわたり、本山・宥清寺 おいて本年第一回目︵通算二一六回目︶の本山奉仕が開催された。梅雨 に の最中での開催となったが﹁弘通担当者の部﹂として、全国各布教区から 二十八名の代表者が加行し、奉仕長を第五支庁・妙益寺の千葉一利氏、奉 仕長補佐を第十一支庁・香風寺の和田幸子姉が勤めた。
践 に 向 け て、 帰山後は本堂でお礼の 宗門発行のパ お看経をいただき、下種
や松本・地下
一家殺人事件
先 月 六 日、 坂本堤弁護士
ンフレットや 結縁運動の感想を発表し
鉄サリン事件
行
事
予
宗務本庁夏季休暇 宗門総回向料第2回奉納式 第6回青少年の一座 ︵第四支庁・第五支庁︶
第6回青少年の一座︵第二支庁︶
日本ジャンボリー 宗教儀礼
第6回青少年の一座︵第六支庁︶
の
初めて秋の気配が現れてくるころ。 夏至と秋分の中間で、昼夜の長短を基準に季節を区 分する場合、この日から立 冬 の 前 日 ま で が 秋 と な る。 暦の上ではこの日が暑さの 頂点となり、翌日からの暑 さを﹁残暑﹂と呼ぶ。
7日 立秋
昭和二十年八月六日午前八時十五分、米軍のB 爆 撃機エノラ・ゲイが、広島市上空で世界初の原子爆弾 リトルボーイを投下。約十四万人の死者を出した。残 った被爆者は今もなお苦しんでいる。以降、この日を 忘れてはならない日と刻むため、原爆記念日とした。
6日 広島原爆記念日
水の貴重さと、水資源開発の重要性について、国民 の関心を高め、理解を深めるため、昭和五十二年に設 けられた。この日を初日とする一週間は﹁水の週間﹂
1日 水の日
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
4∼5日 7 日 ∼ 日 ∼ 日 日 日
月
下種結縁の実 うになっていった。
結縁冊子にメ 合った。下種者を本山に
ッセージを書 連れてきた加行者もおり、 など、一連のオウム真理
き込む姿が見 本堂は大きな盛り上がり 教事件で死刑が確定した ︻一日目︼ 辞を賜った。その後、植 前に班ミーティングを行 す す め 方 ﹂ の 講 義 が あ り 、 ら れ た 。 を 見 せた。 午 後 一 時 半 に 本 山 法 悦 田 日 事 弘 通 局 長 の 挨 拶 、 教祖の麻原彰晃こと松本 い 、 加 行 者 が 意 見 交 換 で 弘通局長、各部長によ 閉行式はお看経の後、 智津夫死刑囚ら七人の刑 殿に集合した加行者は四 本山事務局長・奥順作氏 きる場を設けた。さすが ご奉公の取り組み方のお る講義は非常に胸を打ち、 開導聖人ご尊前にて講有 が執行された▼被害者遺 班に分かれ、役員紹介、 の挨拶、加行者を代表し は弘通の前線でご奉公を 話をいただいた。 続いて局良鳳指導部長 涙を流す加行者もいた。 上人より勤行証の下附を 族の方は﹁二十九人の死 奉仕規則の説明を受けた て奉仕長の千葉一利氏が されている加行者たちで 後、各班の班長を選出し 宣誓を行った。 ある。物怖じすることも による﹁私がお祖師さま 講有上人に親しくお話を いただき、植田弘通局長 者と六五〇〇人以上の負 た。その後、本堂に場所 引き続き夕看経に加行 なく、一日目を終えた感 を好きになった理由﹂の いただく感動、本山御宝 より講評をいただいた。 傷者を出したオウム真理 前にお給仕させていただ その後、本山事務局次長 教による一連の事件の首 を移して本山の沿革の説 して夕食をいただいた後 想や疑問点などを熱心に 講義があった。 昼食をはさみ、午後は く感動、弘通局員の講義 今達憲宏氏の挨拶、加行 謀者である松本智津夫死 明を弘通局嘱託・斉藤宥 は、講有上人の特別講演 話し合っていた。 佛立霊地参詣、宗務本庁 による信心の感動、本山 者を代表して奉仕長補佐 刑囚は具体的動機を語ら 孝師より受け、庫裡にて ﹁講有上人にナンデモ伺 ︻二日目︼ 行道の作法を習って開行 える一時間﹂として、前 午前五時半に起床。洗 舎見学が行われた。あい 奉仕には日常では経験で 和田幸子姉がお礼の言葉 なかった。事件が闇に葬 を述べ、この度の本山奉 られた﹂と語った▼上川 もって集めていた質問の 面後に本堂の清掃として にくの雨天だったが佛立 きない感動がある。 式に臨んだ。
奉公である。加行された は思想の妨げとなるもの
仕は終了した。 本堂への昇退堂、開行 中からお答えをいただい 畳の拭き掃除をし、その 聖地のお看経は熱のこも ︻三日目︼ 法相は﹁松本智津夫がオ 本山奉仕は一生に一度 ウム真理教を設立し、そ 式は緊張した面持ちなが た。加行者は親しくご教 後、行道にて朝参詣に加 ったものだった。本庁舎 昨日同様、本堂の清掃 見学は三階御宝前でのお と朝参詣に始まり、朝食 経験できるかどうかのご の勢力を拡大し、さらに ら凜とした空気の中で行 導を賜り、二度とない機 行した。
方々がご自坊や布教区に を身勝手な教義のもとに、
戻られ、つづれ織り運動 命を奪っても排斥しよう
の推進の力となる事を切 として殺人、殺人未遂に
及んだ﹂と記者会見で述
べた▼江川紹子さんは、
麻原は、生き方に迷う若
﹁最終解脱者と自称する
者や心の不安定さに悩む
人々に対し、修行によっ
て﹃すべてが思いのまま
になる﹄と説いた。 ﹃人
類救済活動﹄に加わる者
が必要だと、若者達の使
されました。このたびの 命感を駆り立てた﹂と語
岡村英寿 ﹁本山奉仕﹂のご奉公で った▼救済の名の下に日
毒強盛の凡夫・松本智津
夫に吸い込まれた死刑囚、
犠牲になられた方のご冥
福を祈るとともに、二度
とこのようなことが起ら
ないようご弘通に精進さ
定
29
9日 長崎原爆記念日
日 終戦記念日
昭和二十年八月九日午前 十一時二分、米軍のB 爆 撃機ボックスカーが、長崎 市に原子爆弾ファットマン を投下。約七万四千人の死 者を出した。広島原爆記念 日と同じくこの日を忘れて は な ら な い 日 と 刻 む た め、 原爆記念日とした。
日 第五世講有日風上人ご祥月命日
昭和二十年八月十五日に 第二次世界大戦︵太平洋戦争︶が終結したことを記念 する日。昭和五十七年には、この日を﹁戦没者を追悼 し平和を祈念する日﹂とした。
29
朝食後は植田弘通局長 看経、宗会議場や各会議 の後に二日目に講義を受 われた。開行式は講有上 会と大変随喜させていた に よ る﹁ ﹃ 教 化・ 法 灯 相 室などの見学を行った。 けた下種結縁運動を実践 人にお勤めをいただき、 だいた。 開導聖人ご尊前にてご訓 この度より入浴就寝の 続 つづれ織り運動﹄の 普段、一般信徒が入れな した。昨日の雨天が嘘の い場所という説明に、加 ような晴天のお計らいを
八代寺
のしきたりのすばらしさ、 ってか、本山に戻る最後 普段のご奉公
せていただかねばならな
16 12
ことが大事肝心だ。
奉公に励ませていただく
安政三年︵一八五六︶一月十八日、大津追分で誕生。 慶応四年︵一八六八︶十三歳で開導聖人の門下に入ら れる。学徒名は清衛。明治二十四年四月、三十八歳で 第二世日聞上人のもとで得度、現立と名乗られる。滋 賀、中京地方のご弘通に当たられ、大正九年、第三世 日随上人ご遷化後、第五世講有に就任される。昭和四 年、法寿七十四歳でご遷化。
日 第二世講有日聞上人ご祥月命日
嘉永六年︵一八五三︶元旦、大津追分で誕生。文久 元年︵一八六一︶九歳で入門。明治二年、十七歳で出 家得度、現喜と名乗られる。程なく開導聖人の命によ り宥清寺の住職に就任。明治二十三年、開導聖人御遷 化により第二世講有に就任される。明治三十六年六月、 鷲山寺第八十三世貫首に就かれる。翌三十七年、本門 法華宗管長となられる。明治四十四年、法寿五十九歳 でご遷化。
日 第十五世講有日晨上人ご祥月命日
文ヨリモ現証ニハスギズ﹂ 明治三十二年十月二十六日、東京で誕生。大正五年、 第八世日歓上人のもとで得度、俗称の清長を僧名とさ と仰せられているのだか れる。大正十一年、乗泉寺副導師に就任。翌年、結婚 ら、即聞即行を心がけ、 されて田中姓となり、乗泉寺第十九世住職に就任。昭 和二十五年、乗泉寺を東京麻布から現在地の鶯谷に移 現証のご利益でご弘通ご 転、開筵式を奉修。同三十八年、第十五世講有に就任 される。同四十一年、講有位を小山日幹上人に委ねら れる。同五十九年、法寿八十六歳でご遷化。
い▼日蓮聖人は﹁道理証
門
15
行者も大変喜んでいた。 いただき、加行者は緊張 に願う次第である。 本山に戻ってからは、 した面持ちな 伊藤隨隆海外部長による がら張り切っ
し夕食。その後、岡居日 者も弘通局員 実弘通部長の﹁下種結縁 の教務と回る
岡田直之
十支・南九州布教区
の進め方﹂の講義があり、 うちに笑顔で 最終日に予定されている 応対できるよ
妙現寺
のありがたさを感得する。 九支・中国布教区 植田弘通局長のお話でし
したが、行きかう人々に な心の中でさ
お訪ねさせていただきま ぜか自分の信心前が小さ ます。
終 日の下種 結縁運動 教 化の話や 法灯相続 学んだことを糧に、信心 本を支配し、自ら王とな 最 お この度の本山奉仕の感 分さえよかったらという 晴らしさ、ご弘通に向か たが、とても印象に残っ では、二人一組で近隣を のお話を聴くうちに、な 改良増進に努めてまいり ることまでも空想した三 想文が、それぞれ加行者 信心から脱却して、一人 える喜びを自坊の信者さ ております。
から提出されているが、 の人に法を説かせていた んに伝えていきたいと思
佐藤和美 五支・東京常磐布教区
本勝寺 藪ノ内貴志 も笑顔で、さっぱりとし せていただい 間を、ありがとうござい 庁弘通局 のご担当各 た気持ちでご挨拶できた ているような 合掌 本 ました。 師の講義や、行道の中で と思います。その甲斐あ 気がしました。
どれも加行の喜びが述べ だき、信心の友をつくり います。宝のような三日 六支・関越布教区
本行寺
二支・南大阪布教区
られており、ここに抜粋 たいと思います。 掲載させていただこう。 一支・宥清寺布教区
く三日間 が過ぎて 早 宥清寺 北村育夫 ﹁ 佛立寺 星 和義 お看経をさせていただい の信号を渡ったその時、 も、させてい 回 の研修で 学んだこ しまいますように﹂と願 ﹁ 山奉仕は 銭湯 に行 た後の気持ちの良さなど、 最後にバッタリとご挨拶 ただいている 今 本 とは、家での口唱、お寺 っ て い た 初 日。 そ の 最 くようなもの﹂︱自分が 本山本堂の荘厳な中で貴 できた方︵八十歳男性︶ というよりは、
参詣、御講参詣も大事な 終日を迎えた今、 ﹁え∼、 気づかないうちに溜まっ 重な時間に身を置かせて にお話ができ、一緒に回 してる、やっ
ことに気づか
がらせていただくことが 出てきていた
ご奉公ですが、一番大事 もう終わり? もう少し た信心の垢を落とす。本 いただけて、加行させて った方のご努力でその方 てるという驕 なことは、御法を弘めさ 居たいな﹂が現在の心境 山の御宝前でしっかりお いただいたことを随喜し と三人、一緒に本堂に上 りの心が少し せていただくというご奉 です。これからは、ご信 給仕をさせていただくこ ています。
できました。
宗
こよみ
全国から28名が加行 全国 全 国から2 国 から28名が から2 2 8名 名が が加行 加行
公だということです。自 心に一生懸命になれる素 とによって、初心の信心
今
8 月の 月の こよみ
奉仕長・千葉一利氏の宣誓
﹁海外弘通の紹介﹂の講 て本山を出発 義、そして夕看経に加行 した。未経験
下種結縁運動の準備も念入りに
本山奉仕を開催
第二一六回 植田弘通局長より講義をいただく
弘通担当者の部として
加行者の感想・喜びの声
質問にお答えくださる講有上人
購 読 冥 加 料 一部 50円
THE BUTSURYU SHIMBUN
橋口清遠 編集人
永江日盡 発行人
東京中央布教区 活発な活動報告、 6支 埼玉布の子どもお会式 9支 四国布 第21回壮年会研修会開催、 ニュース・アイ 「お祖師さまをお訪ねする物語」第8回、 取材での有難いお計らい
平成 30 年8月 1 日発行
8 月号他ページの主な記事 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 本門佛立宗機関紙
19 17 14 11
20
25
31
補佐・和田幸子姉のお礼の言葉
下種結縁運動もシッカリさせていただきました!
発 行 所 第218回臨時宗会を開催、 財務局だより、 青少年の一座だより 歴代講有上人の御忌法要 信廣寺・圓妙寺、第2支庁のロス団参 2面 3面 4面 5面 6面 7面 8面
平成 30 年8月1日 水曜日 (毎月 1 回 1 日発行)
聞 新 立 佛 (1) 第 7 0 4 号 (昭和 41 年 6 月 17 日第三種郵便物認可)
99.2%
運
費
144,061,062
94,116,941
65.3%
手
数
料
2,200,000
1,973,000
89.6%
海外布教活動費
25,705,700
18,170,569
70.6%
収
冥
加
料
3,200,000
2,596,950
81.1%
出版刊行費
17,780,000
15,919,290
89.5%
入
預 金 利 息
9,010,000
公室運用費
31,987,600
21,878,248
68.3%
営
手数料 0.3%(1,973千円) 義納金 2.9%(23,247千円)
収入・支出早見グラフ
出
部
事 業 収 入
25,040,000
21,145,950
積立金及び引当金 取 崩 収 入 特別会計より 繰 入 金 特別会計より 戻 入 金
321,303,159
前年度繰越金
繰
入
金
223,286,000
12,841,953
5.7%
84.4%
助
成
金
295,227,747
280,730,256
95.0%
81,277,904
25.2%
本山建物等引当金 取 崩 収 入
5,944,159
31,386,000
27,682,587
88.2%
資 産 支 出
55,503,891
49,427,775
89.0%
13,639,066
13,639,066 100.0%
予
19,407,868
0
0.0%
99,527,160
99,527,160 100.0%
合 計 1,037,978,339
689,606,349
66.4%
計 1,037,978,339
791,127,844
76.2%
部
合
810,005 316.4%
備
費
維持管理費 27.6% (190,577千円)
5,944,159 100.0%
差引剰余金 101,521,495円
運営費 13.6% (94,116千円) 助成金 40.7% (280,730千円)
繰入金 1.9%(12,841千円)
海外布教活動費 2.6% (18,170千円) 出版刊行費 2.3% (15,919千円) 公室運用費 3.2%(21,878千円)
さ れ ま し た。
256,000
ご信者の皆さ
入
収
歳出 689,606,349円 資産支出 7.2% (49,427千円) 本山建物等 引当金取崩収入 0.9%(5,944千円)
んには、一番
の
雑
の
10,238,968 113.6%
臨時宗会を開催
23,247,300
この度の臨時宗会では 刊行会、教務員福利厚生 関の決算案が上程され、 成二十九年度の宗務本 資金、百万霊会、青少年 慎重審議の末、全て承認 平
23,428,000
庁経常歳
金
支
納
入歳出決
冥加料 0.3%(2,596千円)
義
今期のお別れ宗会
預金利息 1.3%(10,238千円)
昨年度の本庁決算報告
本山交付金 64.3% (508,988千円)
雑収入 0.1%(810千円)
算を始め
86.9%
事業収入 2.6%(21,145千円)
として、佛立教育専門学 育英機関設立基金、教務 関係のある﹁本庁経常歳
歳入 791,127,844円 前年度繰越金 12.6%(99,527千円) 特別会計より戻入金1.7%(13,639千円)
校、佛立研究所、佛立事 員育英、佛立ミュージア 入歳出決算﹂を報告させ
190,577,158
主に昨平成二十九年度 宗務本庁経常費や宗門 の
219,074,312
第218回
新井議長の宣誓(右は谷信一副議長)
典刊行会、御真書等保存 ムの各特別会計等の諸機 ていただきます。
維持管理費
諸機関の決算案を審議す
29年度決算額 予算比
る第二一八回臨時宗会が、
去る七月五日・六日の二
日間を会期に開かれた。
講有上人は諭告で﹁宗 は今年度より高祖ご降 門
誕八百年に向けて新たな
一歩を踏み出しました。
全宗門人が慶讃ご奉公に 間も全力でご奉公させて
邁進し、各種誓願の成就 いただく所存です。本日
を果たすことを念願しま 参集の各位にも、精一杯
す。また、現宗会議員は ご奉公いただきたく存じ
続いて監査報告の後、
まもなく任期満了となり ます﹂と述べられた。
508,988,954 100.0%
名 29年度予算額
ます。今日までのご奉公
508,988,954
款
通審議会から出された に随喜の意を表します﹂ 弘
本山交付金
29年度決算額 予算比
﹃本門佛立宗 中・長期
名 29年度予算額
平成 30 年8月1日 水曜日 (毎月 1 回 1 日発行) (2)
特別会計より繰入金 3.5% (27,682千円) 積立金及び引当金取崩収入10.3% (81,277千円)
平成29年度 宗務本庁一般会計 収支計算書 款
聞
と述べられた。
去る7月5∼6日に開かれました第218回臨時宗会で承認されました 平成29年度の宗務本庁一般会計の収支計算書を報告いたします。
この御諭告をいただき 計画 第三次 答申﹄につ 会議長の新井日現師が いて 宗 木村総長より、概要
審議事項を全て承認
平成29年度収支計算書報告書
新
﹁議員一同は御意を体し、 説明が行われた。
高祖ご降誕八百年報恩ご
奉公の糧とさせていただ その後、本格的な議案 議に入り、一日目は宗 きます。また、上程議案 審
立
に対して十分審議を尽く 法・宗令・宗制関係諸規
し思い出に残る議会とな 約の一部改正案、佛立教
るよう、決算が弘通興隆 育専門学校等の宗門諸機
佛
に資するよう慎重審議を 関の決算案、二日目は昨
庁経常歳入歳出決算︵下
させていただきます﹂と 平成二十九年度の宗務本
財務局 だより
宣誓した。
木村総長の挨拶
木村日覚宗務総長の挨 段に報告を掲載︶案と財 では、高祖ご降誕八百 産目録、余剰金処分等、 拶
年慶讃ご奉公、第六回青 各種財務関係の案件が慎
少年の一座のご奉公推進 重審議され、全て可決承
を促され﹁現内局での宗 認された。
また、今宗会最後の議 会は今回で最後となりま として、宗務総局特別 す。当局としましては任 案
可決承認され、高祖日蓮
大士ご降誕八百年奉賛局
が十月十三日より設置さ
れることとなった。
諭告を発せられる講有上人
期満了までの残り三ヵ月 局・部等諸機構規約案が
第 7 0 4 号 (昭和 41 年 6 月 17 日第三種郵便物認可)
第10支庁 青少年の一座 私共、第10支庁第6回青少年の一座実行委員会は、9月15日から16日の2日間に渡って、九州 のど真ん中にある熊本長薫寺を舞台に、第6回青少年の一座を開催いたします。 1日目の15日(土)の前夜祭では、地元高校生によ る和太鼓のオープニングセレモニーから始まり、バーベ キューをしながら参加者同士の交流ができるよう、グル ープワークを企画しています。そして、第3回青少年の 一座から現在も継続されている、髙口法恵さん(小倉不 輕寺所属)のご利益現況報告も予定されています。 2日目の16日(日)には、第26世講有・髙須日良上 人より御親修を賜り、一座法要が奉修されます。 今回の青少年の一座は、管内寺院青少年が熊本長薫寺 に集い、この場所で得た様々な思い出をそれぞれが持ち 帰っていただく、一座が終わった後もその思い出が交流 のツールとなるよう、企画を組み立ててきました。
サブテーマは“九州から咲かそう笑顔の花” 。笑顔の 花に相応しい“ひまわりの花”をもとにして、一座のイ メージが造られています。 今回の参加者にはもれなく、笑顔の花をデザインした オリジナルTシャツやトートバッグ等、形に残る思い出 も持ち帰っていただけます。 青少年の一座で、たくさんの笑顔の花を咲かせるには、 たくさんの青少年の笑顔が必要です。各々が背中を押し 合いながら参加を勧めてください。 実行委員一同、たくさんのご参加を、心よりお待ちし ています。
世 日 養上人の御 回忌 講有 講有御親教として厳修
をいただける
間の対抗戦とに分けて教 教講異体同心で精進しま 善神の御守り 化運動を展開した。その す﹂と誓いを述べた。 結果、優勝したのは信廣 御講有猊下は、高祖日 よう、家族み 寺の藻岩教区︵十六戸成 蓮大士ご降誕八百年慶讃 んながご信心
八支庁管内寺院のご住職 就︶と、帯広寺の中央、 ご奉公の誓願成就に向け に励み、御題 お教務方のご出座をいた 東、西教区︵九戸成就︶ て﹁時代と共に日養上人 目をお唱えす
ロサンゼルス組親会場と正法教会へ 三祖御会式とお助行 名が団参
去る五月十八日から二 岡居日実師・正法教会担 だきました。田村泰明師 十五日まで、第二宗務支 任の田村泰明師・現地の 並びに、正法教会の局長
者宅は車で片道八時間以
庁主催で海外教区当番参 ご信者の方々にお迎えを ご夫妻から、所属のご信
上離れた場所に点在して
いるため、インターネッ
トを繋いで各お宅で同時
にお助行をしているなど、
教会のご奉公の現状を説
明いただき、遠隔地での
ご奉公のあり方を学ぶこ
通じて、米国佛立宗の更 有志をお渡しさせていた とができました。
キューのご供養を用意い 無事に帰山することがで
なるご弘通隆昌発展の一 だきました。 今回の団参では十七歳 助と米国ご信者との友好 三祖御会式終了後、親 からご高齢の方まで幅広 を計らせていただくこと 会場のご信者方がバーベ く参加いただきましたが、 ができました。
関西国際空港では多数 ただき、団参者一同、美 きました。末尾になりま の第二宗務支庁関係者の 味しく頂戴しました。 したが、団参を企画・運
お見送りをいただき、ロ ご供養後、引き続き正 営いただいた蔭山支庁長 サンゼルス空港に無事到 法教会へ専用バスで移動 並びに名鉄観光の小川様
ஜᧉ˹ᇌܪϋٶૠܱጚƝƟƍLJƢ
43
着。空港では、弘通局の し、お助行をさせていた に感謝御礼申しあげます。
Ƅ τࡉჄᙱܷࠊᰙ ݢɠႸ Ჿ ᳆ Ჴ ᳀ ᳒ Ჴ GDQMR NRXPXWHQ#ZRUN RGQ QH MS KWWS ZZZ RGQ QH MS aFLR
信廣寺
日勤上人にご縁の深い御 私共圓妙寺教講一同、 導師方や布教区内外の多 未だ至らぬ者ばかりでご くの御教務・ご信者方、 ざいますが、これを機会 遠方よりご親戚の方々等、 に信心改良させていただ なうことのないよう、ご
御忌法要を、淨行寺御住 多数のご参詣を賜りまし き、日勤上人のお徳を損 職・吉井日之師の奉修御 た。
奉公に精進させていただ く所存でございます。皆 様方におかれましては、 今後とも何卒宜しくご教
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第2支庁
去る六月十七日、札幌 第十七世講有日養上人御 彰状と日養上人ご染筆の なくなっていきます。教 であると諭さ 詣として、ロサンゼルス いただきました。 信廣寺において佛立第二 三十三回忌法要を、晴天 色紙が授与された。 組親会場と正法教会に四 ロサンゼルス組親会場 えを伝え残して行くよう れた。 十六世講有・髙須日良上 のもと厳修させていただ 十三名が団参に参加させ の三祖御会式は晴天のも 当住は挨拶の中で﹁恩 に﹂と叱咤激励された。 お参詣は地 人の御親教を賜り、御講 いた。 ていただきました。 と、第二宗務支庁長・安 師日養上人からご慈教を そして御法門では、御 元が一五八七 尊・小山日誠上人、宗務 今回の団参は米国本門 国寺住職・蔭山淳和師に 信廣寺門末では、恩師 受けたご信者方に恵まれ 教歌﹁御法味の絶ぬ家こ 名、他寺院が 総長・木村日覚師、並び 日養上人報恩ご奉公とし ています。姫井御導師や そたのしけれ 守護の諸 道内外合わせ 佛立宗ロサンゼルス組親 無事奉修いただき、支庁 に宗門要路の御導師方、 て、御本尊奉安教化︵法 古いお教務、ご信者から 天もはなれ給はず﹂と、 て四一三名、総合計二〇 は無事に円成した。 会場の三祖御会式の参詣 長から現地組長に第二宗 ︵文責・諸戸信持︶ と正法教会でのお助行を 務支庁からの弘通後援ご 大本寺・乗泉寺住職・永 灯相続含む︶に限って期 教えていただきながら、 悪鬼が入らぬよう、諸天 〇〇名で喜びの中、法要
世 日 勤上人の 回御忌 講有 梅雨のなか晴天のお計らい
圓妙寺
導師により奉修させてい 当日は梅雨の最中にも 去る六月十七日、圓妙 ただきました。 かかわらず、素晴らしい 寺に於いて、佛立開導日 吉井日之師は、日勤上 晴天のお計らいをいただ 扇聖人御正当会式、併せ 人の御講有時代、秘書部 き、無事奉修させていた
︵住職・御牧現要記︶
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だき、開導会併せて佛立 で、石岡正則住職より表 を知っているご信者が少 ることが大事
報恩教化運動の表彰も行われた 異体同心での精進を誓う石岡正則住職
江日盡師ほか、全国有縁 間は一年とし、信廣寺内
の御導師、お教務方、第 の教区対抗戦と門末寺院 小山御講尊にも出座・お焼香いただいた
歴代講有上人の御忌法要 厳粛かつ盛大に勤まる
教えを伝え残して行くよう激励される御講有
て佛立第二十一世講有・ 長のご奉公をいただき、 だくことができました。 導ご鞭撻を賜りますよう
電車などの交通機関はす
ロサンゼルス組親会場前で記念撮影 (旗を持つのが田村泰明師、左隣が蔭山支庁長)
現地ご信者がバーベキューのご供養を
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8支
2支
圓妙寺第六世住職・大僧 大変お世話になりました また、翌日の朝には、 お願い申し上げます。 合掌 正日勤上人の第二十三回 御導師であります。また 大阪北部地震が勃発し、 べてストップ、電気・水 道・ガス・電話等のイン フラも一部ダウンという 事態になり、多くの被害 が出ておりますが、一日 の違いで無事奉修のお計 らいをいただくことがで き、一同心より安堵いた しております。
奉修導師・吉井日之師
お焼香を捧げる御牧現要師 本堂右脇に荘厳された日勤上人の祭壇
日養上人の祭壇にお焼香を捧げる 佛立第21世講有・日勤上人
正法教会のお助行にも参詣させていただく
有名なグランドキャニオンも観光しました!
平成 30 年8月1日 水曜日 (毎月 1 回 1 日発行)
聞 新 立 佛 (3) 第 7 0 4 号 (昭和 41 年 6 月 17 日第三種郵便物認可)
よろしくお願い申しあげ ます。
宗務総長 木村日覚
本門佛立宗
平成三十年七月十日
し、被災された皆様や救
平成三十年七月十日
上温湯淳立師のご講演を 拝聴させていただきまし た。上温湯師は﹁一心に いのらば妙は顕れぬ 凡 夫考へ及ばざりけり﹂と
ます。
合掌
益々、ご奉公に精進さ せていただきたいと思い
間となりました。
と湧き起こるような二日
互いご弘通の思いが沸々
いると痛感させられ、お
々教務の信心にかかって
に、ご弘通の原動力は我
しさを改めて感じると共
ない東西の会員同士が親 に 説 かれました。 本物の佛立教務のこころ 睦を深め、普段のご奉公 朝食後、青教ご奉公成 を学ばせていただきまし の取り組みや情報交換を 就の祈願口唱会をさせて た。 しながら、楽しくも有意 いただき、続いて清風寺 今大会を通じて参加者 一同、佛立信心の素晴ら
ーベキューをいただきま 発見のご利益談を交えな 必ずお祖師さまに現証を した。普段交わることの がら、ユーモアたっぷり 顕 し て い た た だ け る と、
初日は夕方より本堂に 長・山岡清央師より、願 一心に御題目をお唱えし、 て開会式、そして夕看経 えば叶う御経力の素晴ら 御指南のとおり一心にご 後は境内地にて夕食のバ しさを、ご自坊の紛失物 奉公をさせていただけば、
もと開催されました。
ありがとうございます。 義な一夜を過ごしました。 いう御教歌を信条に、ご 去る六月二十六日∼二十 二日目は、朝参詣にて 自身の豊富なご奉公経験 七 日、 ﹁ 第 二 回 青 教 決 起 圓 妙 寺 の ご 信 者 と 共 に、 をもとに、熱くお話しく 大会﹂が大阪・圓妙寺に 参加者一同の熱烈な御題 ださいました。 て、計二十八名の参加の 目の声が堂内に響きわた 入信の時のこころに戻 り、御法門では青教副会 っ て 一 年 三 百 六 十 五 日、
弘通の原動力は我々の信心に
佛立教務のこころを学ぶ
ます。
心よりお見舞い申しあげ 協力くださいますよう、
被害を受けられた方々に まいります。どうか、ご
お祈りいたします。また、 を敷いて活動を展開して
もに、衷心よりご冥福を 復興のため、支援の体制
で哀悼の意を表するとと 災地の一日も早い復旧・
今般の豪雨により殉難 被災された方々が安心 された方々に対し、謹ん と希望を取り戻され、被
木村総長からのお見舞い文
本宗といたしましては、 本門佛立宗 本山宥清寺はじめ各寺院 第二十六世講有 において御宝前にご祈願 髙須日良
う願って止みません。
な日々を取り戻されるよ
し、謹んで哀悼の意を表 は、無事安全な場所を確 りの支援に努めてまいり するとともに、心よりご 保され、一日も早く平穏 ます。
援・支援の活動に従事さ この度、西日本豪雨災 冥福をお祈りいたします。 れる皆様のご要望にお応 害に殉難された方々に対 また、被災された方々に えするべく、でき得る限
講有上人からのお見舞い文
新シリーズ 第 161 回
﹃トランクの中の日本﹄を特別公開
世界遺産登録の国会議事堂で異例の開催
本堂一杯の婦人部会行事
ッキーセブンのあるお参
詣、ご奉公に励み、健康
寿命をのばしたいと思い
ます。ありがとうござい
修。この年は門祖日隆聖 成に努められ、毎年夏に 人五百回御遠諱の当年で 野外御講として有馬別院 あり、宗徒二十三戸︵当 で一泊研修をされていた。
福岡日雙師
海外弘通だより∼ サンマリノ編
松信塾婦人の部を開催
題に対する苦しみが軽減
し、少しでも高齢化諸問
米満淑恵先生の講演を聞く
南大阪布 されたらとの思いで開催
去る五月二十九日、第 させていただきました。 の準備を心掛けるように ました。 四ノ宮たかよ 宮本 ●本妙寺 二支庁・浄風寺︵住職・ 講演では、私たちの目 した。 ●信光寺 ○老老介護の身ですので 西村清信師︶において、 線でお話いただき、実際 南大阪布教区婦人部会行 に介護を経験されている ○義父の介護の時を思い 講演はとても有意義で参 事として、熊本・長薫寺 ご婦人方が多数を占めて 出しました。涙が出まし 考になりました。 徳田朱美 所属・米満淑恵先生より いますので﹁気持ちが楽 た。 ﹁いくつになっても笑顔 になりました﹂と、参加 ○今、父の介護中で、た ○介護する側、される側 のご奉公﹂というテーマ 者一同に感激されていま くさん学べることがあり、 の気持ちを持って笑顔で
本当に実感として参考に 八年前に見送りました主 なりました。ありがとう 人のものが、ながく片付
とは言わないようにする。 出は心の中に﹂と言われ 介護施設も利用すること。 たことが胸にしみます。
気持ちも楽になったよう 暮らしていきます。 で講演いただき、布教区 した。 に思います。 市原カウ 管内寺院から総勢一四六 最 後 に 元 気 で 長 生 き の ●妙唱寺 ○米満先生の講演会に参 名の参加をいただき、本 秘訣として﹁①歩く、② 堂一杯の賑やかな婦人部 食べる、③水分、④声を ○長年、介護のお仕事を 加させていただき、これ 会行事となりました。 出す、⑤仲間、⑥他世代 されている先生のお話は、 からの生き方に大変勉強 ﹁元気で 平均寿命が八十四歳と 交流、⑦役割﹂の七つが 実感が伴っていて、本当 になりました。 いわれる日本の現代社会、 あり、これらは全てお寺 によく理解でき感心しま 長生きラッキーセブン﹂ さらに少子高齢化問題が 参詣、ご信心に含まれて した。まず、適当な介護 は特に毎日実行したいと が必要。あまり余計なこ 思います。そして﹁思い 拍車をかけ、それに伴う いることなのですよ、と 介護の諸問題は、私たち 教えていただきました。 お互いの身近な問題であ 最後に当日の聴講者の り避けられません。 喜びの感想を抜粋して掲
けられなかったのですが 四ノ宮喜代子 思い切って片付けようと
ございます。
○先生のやさしい口調の 思います。そして私のも 中に所々、熊本弁が入っ のも子供たちに迷惑をか
佛立宗なんでもQ&A︵新連載︶
みはただ、血のにじんだ 特別開催は文化省・歴史 島や長崎の爆 突然、江ノ島の方角より巨大な 唇をかみしめるその身ぶ 省の絶大な協力のもと、 心地、彼の心 光り物が出現し、刑場の上を飛 りの中にのみ表現されて 世界遺産に登録されてい の変化につい び渡るという不思議な現象が起 二〇一八年六月二十九 いる国。カデロ大使はオ するよう指示を出したと いる﹂というキャプショ る国会議事堂︵政庁・プ て、同時に仏 き処刑場は大混乱に陥ってしま 日蓮大士ご降誕八百年 翌年の弘長元年︵一二六一︶ いました。聖人は現証のご利益 日より七月二十九日まで ダネル氏の写真に感銘を 報道されました。写真は ン、裏面には法王の署名 ブリコ宮︶を会場とする 教という視点 サンマリノ共和国で京都 受け、京都佛立ミュージ 死亡した弟を背負いなが と﹁戦争が生み出したも 異例の開催となりました。 から宗教を超 記念シリーズ その三 五月、幕府への反逆の罪という を蒙りご難を遁れられたのです。 名目で聖人は逮捕され、伊豆の ﹁竜の口のご法難﹂です。 佛立ミュージアム主催﹃ アムに平和のメッセージ ら火葬場で順番を待つ一 の﹂という言葉が添えら これは平和を希求し保持 えて他者の命 その後、聖人は佐渡が島に流 伊東に流罪されます。 ﹁伊豆伊 ト ラ ン ク の 中 の 日 本 ∼ を送ってくださいました。 人の少年の姿を捉えたも れていました。 に努める同国の強い意志 を慈しみ、平 罪となり、文永十一年三月まで 日蓮聖人のご法難とは 東のご流罪﹂です。 戦争、平和、そして仏教 また、この際、日本の のでした。第二次世界大 和を希求する 終戦七十年 特別展示 の表れでもあります。 二年後の弘長三年︵一二六三︶ の足掛け三ヵ年をかの地でお過 ∼﹄展を開催させていた 天正遣欧使節顕彰会が私 戦末期、長崎に原子力爆 ﹃トランクの中の日本 ∼ 六月二十六日、日本か というメッセ ﹁佐渡ご Q ﹁妙講一座﹂の中に﹁我等 二月、流罪を赦された聖人は再 ごしになられました。 だくことができました。 たちの展示に大変共感く 弾が投下された直後、米 戦争、平和、そして仏教 ら館長・長松清潤師と松 ージについて が為に、本門の肝心、上行所伝 び鎌倉において弘通活動を開始 流罪のご法難﹂です。 日蓮聖人はこうした数々の我 の要法を授与せしめ給わんとて、 されますが、翌年の文永元年 これは三年前、京都佛立 ださり、ローマ法王へ献 海兵隊の従軍カメラマン、 ∼﹄と題した佛立ミュー 本現薫師が展示写真三十 語り、さらに 大難四か度、小難数をしらずの ︵一二六四︶の十一月、久しぶ が身に降り掛かったご法難を左 ミュージアムで終戦七十 上品を送るにあたり、当 ジョー・オダネル氏が撮 ジアムの展示会は、オダ 三枚と仏教パート五枚を 最後のパネル 御弘通﹂とありますが、日蓮聖 りに故郷、安房へお戻りになり のように受けとめられたのでし 年の記念展示として同企 企画展のリーフレット、 影したものです。まさに ネル氏の日本上陸から様 含むパネル約四十点など では開導聖人 人はどのようなご法難に遭われ ました。その折、聖人は重病に た。 画展を開催した際、 ﹁サ 館長・長松清潤の名刺、 京都佛立ミュージアムの 々な日本人たちとの出会 を搬入、準備を開始しま の紹介や﹁俗 ﹁法華経の御故 たのでしょうか。 ンマリノ・ニッポンまつ 手紙、ジョー・オダネル 画さとし草﹂を紹介し、 マンリオ・カデロ大使、 に已前に伊豆の り﹂実行委員会・古堅裕 氏の写真集﹃トランクの 執政官からも感動の言葉 特別展の協賛に加わった 国に流され候い A 日 蓮 聖 人 が 鎌 子氏、駐日サンマリノ共 中の日本﹄ 蓑田秀作氏︵一般財団法 ︵小学館︶を を得ました。 しも、こう申せ 倉にお入りになっ ば謙ぬ口と人は て数年後の正嘉元 和国大使マンリオ・カデ 入れていただきました。 引き続き、国会議事堂 人 百万人のクラシック 年︵一二五七︶頃 おぼすべけれど 、そし ロ氏にご協力をいただい それから三年が経過し 前のリベルタ広場にて開 ライブ代表理事︶ より日本は大地震、 も、心ばかりは たことに起因しています。 た本年元旦、ローマ法王 写真展の中心、法王への い、広島や長崎の爆心地、 した。二十六日早々から 催を記念しテープカット て館長・長松清潤師がハ 台風、洪水などの 悦び候入って候 サンマリノ共和国は、 フランシスコが、長崎原 献上品の中に入れた写真 彼の心の変化を追体験し 現地関係者や作業員の献 が行われました。テープ サミを入れ、関係者や一 天災地変が続発し、 いき。一端はわ ていただくことを主目的 身的な作業のもとで二十 カットには文化教育大臣 般観覧者と共に開催を祝 世界最古の共和国であり 爆投下の被害者の姿をと でした。 それにともなって びしき様なれど いました。 ︵つづく︶ ながら軍隊を持たず平和 らえた一九四五年の写真 八日には展示が完成。サ バチカンが配布した写 としています。 マ ル コ ・ ポ デ ス キ 閣 下 、 生 じ た 飢 饉 、 疫 病 も、法華経の御 敵と味方を隔てる境界 ンマリノ共和国用に用意 の大切さを保持し続けて をカードに印刷して配布 真には﹁幼い少年の悲し によって人々は苦 為なれば嬉しと に気づくこと、その境界 したパネルは全てイタリ しみ、貧困のどん 思い候﹂ 底にあえいでいました。 陥っていた母君、妙蓮尼のため ︵呵責謗法滅罪鈔・佛立宗版 が実は妄想や幻想に過ぎ ア語、英語で日本語はあ このような事態、状況を憂い、 に当病平癒のご祈願助行をされ、 御遺文集三巻三二三頁︶ ないことに気づくこと。 りません。 憤りを感じられた日蓮聖人は文 母君の寿命を四カ年延ばすとい 開導日扇聖人は日蓮聖人の蒙 オダネル氏の心の変化は 六月二十九日午前中、 応元年︵一二六〇︶七月、 ﹃立 う現証ご利益を顕されました。 られたご難を次のように拝せよ 仏教の説く境界の曖昧さ 同国の執政官︵大統領に 正安国論﹄を著され、正しい仏 安房ご滞在中の十一月十一日、 とご教示されています。 に相通じるものがありま 相当︶二名が展示開館に 法の教えに背くが故に種々の災 聖人は地元のご信者の招きでお ﹁問うて云わく、高祖大難に す。敵と味方の境界、宗 先立ち展示を鑑賞し、長 いがもたらされるのであり、ま 講に赴かれる途中、かつて聖人 しばしばあわせ給うはいかに。 教や民族の壁を超えて、 松館長が説明を行いまし ずは為政者が正法に帰依し、政 を亡き者にしようとした地元の 答えて云わく、これ高祖の御願 治の姿勢を正すべきであると、 地頭東条景信とその配下の者に いなり。法華経の御為に難にも 平和を希求する企画展で た。館長は、オダネル氏 鎌倉幕府の権力者、北條時頼に よって襲撃され、刀傷を負われ あい、身もいのちも法華経へ奉 す。 の日本上陸から様々な日 これを差し出されました。 るというご難に遭われました。 りたしと思し召したる御願い也。 サンマリノ共和国での 本人たちとの出会い、広 同 じ 年 の 八 月 、 聖 人 は ご 弘 通 ﹁ 東 条小松原のご法難﹂です。 故に龍口の御くびの座の御時に の拠点とされていた松葉が谷の 文永八年︵一二七一︶九月十 のたまわく、日ごろとし頃願い いう言葉に身構えていた 草庵において浄土宗の暴徒によ 二日、聖人は諸宗の長老らの讒 しことこれなり。かかるうれし 気持ちが少し楽になりま って襲撃されるという難に遭 言によって再び逮捕され、処刑 きことはあらじと仰せられたる した。元気で長生きのラ わ れ ま す 。 ﹁ 松 葉 が 谷 の ご 法 難 ﹂ を 思 え 。 ﹂ 場 で あ る 鎌 倉 竜 の 口 で あ や う く です。 ︵扇全三巻一六六頁︶ 斬首の危機に瀕しました。が、
お祖師さまのご一生を学ぶ
いただきました。
清秀寺門末 ﹁日蓮﹂というお名前 の由来、小松原において 第五支庁・小松川清秀 襲撃のため眉間に傷を負 寺門末七ヵ寺で組織され われ、それが今日のお綿 る教養講座﹃松信塾婦人 掛けのご奉公に繋がるこ の部﹄も平成十八年六月 とをご教導いただき、ウ
に第一回を開催以来、通 ィットにとんだ話しぶり 算二十二回を数えます。 に時おり笑いもあり和や
今回は高祖日蓮大士ご かに学ぶことができまし 降誕八百年慶讃ご奉公を た。この講話をもとに十 目指し、三ヵ年計画を展 月末には千葉県小湊誕生 開させていただくことに 寺方面に研修バスハイク なりました。お祖師さま に行きます。 のご一生を学び、ゆかり 来年は鎌倉、再来年は の地を訪ねる予定です。 身延山へ。春にご講話、 紫陽花が日毎色づく五 秋に研修旅行。これらを 月晴れの五月二十九日、 糧に弘通のご奉公に励み 本寺・清秀寺に四十九名 ます。 が参集、御住職・岡本日 今回の参加者は清秀寺 苑上人ご唱導のもとお看 十九名、妙要寺六名、信 経。続いて荒木誠啓師よ 立寺二名、長福寺十四名、 り日蓮聖人略御一代︵御 信澄寺六名、佛立寺一名、
︵長福寺・松本凰子記︶
誕生∼小松原御法難︶を 尚立寺一名、合計四十九 用意いただいたレジュメ 名でした。
もとに、年代順にご講話
そこで約三十年間、社 載させていただきます。 会福祉に携わり﹁社会福 ●日乗寺 祉法人 寿量会﹂の理事 ○介護の現場での体験な 長の米満先生に、専門家 どを交えた話などでわか としてのご意見をお聞き りやすく良かった。終活
たお話、そして介護は公 けないように整理しよう 的なものを使いなさいと と思います。森下美智代
経王寺住職・当時五歳︶ 、 前の護持に努められ、中 十七年、信徒の石田熊吉 月、権大僧正に叙任。同 喜温師︵当時二歳︶のみ 西文子宅へ疎開。昭和二 氏が、広島市東区にある 二十二年七月、住職位を で、用心のため日識上人 十年八月十五日の終戦を 敷地三五八坪と御内陣荘 勇退し、十月には住職退
勤務することになる。
昭和二十七年、滑川家 石田家一統のご有志によ その後、広隆寺創立五 権大僧正日亮上人︵神戸 予科に入学、東京清雄寺 て同年末に神戸佛立寺に 鉄工所に労務主任として 護持の御本尊︵開導聖人 り、昭和三十七年十一月 十年を迎え、記念事業で
佛立寺第四世︶ 、母たつ で止宿。予科三年の昭和 帰寺される。
昭和十九年三月、姫路 お筆止めの金丸御本尊︶ に木造瓦葺二階建ての本 ある寺院の増改築ご奉公 女の次男として、神戸市 十三年、健康を害して一 太平洋戦争により、喜 中の平成二十五年五月二 荒田町にて出生、博と命 時休学し、神戸に戻り佛 奥師︵神戸佛立寺第五世 連隊に招集されるが、病 を譲渡され、日識上人が 堂を竣工。
広隆寺の初代住職としてご奉公
野球はタイガースファン 加藤日識上人の巻
上人を奉修導師に、参詣 日識上人は神戸佛立寺 者六〇〇名で開筵式を厳 所属時代には薫化会の育
気の為、即日召集は解除 お供をして佛立寺の本堂 翌三十八年四月二十八 十四日、法寿九十四歳を 名される。しかし、大正 立 寺 で ご 奉 公 に 努 め な が 権 大 僧 正 日 類 上 人 ︶ は 北 日、権大僧正・竹内日暢 以て御遷化される。
十一年二月五日、母たつ ら養生される。
れず、食料事情等により
が帰寂し、以後は音枝姉 昭和十六年に復学され ︵生母と従姉妹︶に養育 るも、その後も健康は勝
される。
昭和十一年三月、灘中 通学に便利な下宿先から 学を卒業。十六歳で日亮 の通学となる。同十八年 支にて負傷し入院中であ される。同二十年三月十 にご奉安された。
その後、有馬別院、淡 初は宗徒五戸より始まる︶ また、広隆寺では︵石田 上人を師僧に神戸佛立寺 九月一日、文学部社会学 り、従兄の現尚師︵大阪 三日、大阪大空襲により 経王寺第三世日康上人︶ 、 市岡親会場は焼失。家族 路島洲本でご奉公されな が所属する広隆寺と寺号 晴行さんの話による︶薫 り、薫化会の子供達を野
現聰師︵大阪本門寺第三 は尾張一宮に疎開、日識 がら、佛立寺信徒が居住 公称して、日識上人が初 化会御講で手品をされた 世日葉上人︶共に招集さ 上人は神戸に戻られる。 する福山、鞆、尾道、三 代住職に就任された。
木村総長からも
開館に先立ち執政官と関係者による記念撮影
には叔父の現智師︵大阪 を残し内部は焼失。喜奥 信者の面倒を見て欲しい 二月十九日には御内室・ イガースファンのため、
大木が押し流されてきて…
笑顔で講演の米満先生
経王寺第二世・権大僧正 師は警備招集のため不在 と申し出があり、広島で 則子様とご結婚。同六十 広島カープファンの子供
佛立青年教務会の活動を報告します 青 教
ローマ法王の指示を伝える1月3日付 の朝日新聞朝刊
権大僧正日識上人は、 で得度、僧名を喜証とい 科を繰り上げ卒業。その が止住することになり、 迎えると、復興のご奉公 厳費をご有志され、建営 任並びに住職在位二十五 費は他のご信者の坂本家、 年の褒賞を授与される。 大正九年三月四日、厳父 ただく。同年、立正大学 後、しばらく通院治療し 昼は海軍監督工場の仲本 に尽力される。
∼そのご奉公を学ぶ∼
各地で教養各会の行事 盛大に開催
日温上人︶と實子︵日識 であったが、日識上人は ご奉公されることになる。 一年に法臘五十年随喜状 達は、何時も阪神側での
講有上人からのお見舞い 第2回青教決起大会を圓妙寺で開催 28名が参加
豪雨災害に対する
羽ばたけ
2支
テープカット式(左から蓑田秀作氏、マ ンリオ・カデロ大使、マルコ・ポデスキ 文化教育大臣、長松清潤館長)
「もしもし、聞こえますか?」様々なグッズも紹介
5支
権大僧正列 伝
本堂一杯の参詣となった婦人部会の行事
道路も寸断されひどい状況 ご奉公成就の祈願口唱に励む
婦人会・青年会・薫化会・壮年会 婦 人 人会 会 青 青年 青年会 年 会 薫化 年会 薫化 化会 会 壮 壮年会 年会 年会
しかし、三月十七日の 原へ泊まりがけのご奉公 日識上人は、昭和四十 球観戦に連れて行ったり れて入隊。 第八事妙支部・市岡親 神戸大空襲により、佛立 を続けられる中、それな 八年、第九支庁の支庁長 されたこともあるという。 会場︵後の大阪経王寺︶ 寺は本堂一、二階の外郭 らば足をのばして広島の に就任。昭和五十一年十 因みに日識上人は阪神タ
権大僧正・加藤日識上人
広島広隆寺は、昭和三 を拝受され、平成九年十 観戦であったそうである。 上人の姉︶と淳真師︵現 不惜身命のご奉公で御宝
圓妙寺本堂で記念撮影(円内右は山岡清央師、左は上温湯淳立師)
荒木誠啓師より日蓮聖人略御一代を講話いただく
6面・7面にも行事報告を掲載しています 6面 面 7面 面にも 面にも も行事報 も行 行事報告を 報告を掲 を掲載し 掲載し していま してい います ます
平成 30 年8月1日 水曜日 (毎月 1 回 1 日発行) (4)
聞 新 立 佛 第 7 0 4 号 (昭和 41 年 6 月 17 日第三種郵便物認可)
平成 30 年8月1日 水曜日 (毎月 1 回 1 日発行)
聞 新 立 佛 (5) 第 7 0 4 号 (昭和 41 年 6 月 17 日第三種郵便物認可)
弘通促進大会を開催 福岡日雙師に講演いただく
だき、表彰状と記念品が なりました。 っているのではないか? されました。
授与されました。教化の 福岡御導師からご講演 との問いかけがありまし これからも東京中央布 表彰では﹁一年に十戸以 冒頭に、日扇聖人がご開 た。ご講演を通じて、佛 教区管内寺院、異体同心 上の教化成就者﹂の表彰 講されてから百六十年余 立信者として当宗の有難 で高祖ご降誕八百年慶讃
子どもお会式を無事に奉修
り鮮やかな紙芝居を作る
事ができ﹁第六回青少年
の一座﹂でのご披露が楽
しみとの声が参加者から
の一座﹂でご披露される 企画となりました。
支庁主催﹁第六回青少年 聞かれ、とても有意義な
青少年の一座での紙芝居作成
埼玉布 6支
百年慶讃ご奉公の初年度 に包まれました。
第一部は、開催寺院の られ、会場は驚きと賞賛 も弘通年度後半に入った この時期に、大会を通じ 妙泉寺御住職・柴田日賢 に包まれました。
その後、神戸・香風寺 て改めて弘通意欲を高め、 師にお看経を御唱導いた 布教区異体同心でご弘通 だき、また本年度のこれ の福岡日雙師より﹁佛立
ご自分の体験談や海外で
の詳細が飛び交い、積極
常住寺において青年会が アごとの開催となってい の下、青年会の交流が活 ハウを伝えるべく資料を 通して各布教区の青年会 ました。活動が盛んな遠 てディスカッションを計
再発足されました。その ます。これは一座奉修を 発に行われるようになり 作成したり、御講に合せ 様子を報告します。
いきました。 した。
て、顕妙寺門祖会と併修 の親御さんは門祖会後段 今回の参詣人数は、お し埼玉布教区薫化会﹁子 にお参詣させていただき、 教務方二師、薫化会十九
どもお会式﹂を、御住職 薫化会主事・滝山顕廣師 名、一般二十七名、総合
横田日顕師ご唱導のもと、 より﹁第六回青少年の一 計四十八名でした。
晴天のお計らいをいただ 座﹂参加への将引の後、︵布教区薫化会主事・ 佐藤洋記︶
聞させていた
き厳修させていただきま 奉修御導師の御法門を聴
した。
御宝前にて奉修御導師 だきました。 お会式終了 より、子どもお会式の言 上をいただき、子供たち 後、顕妙寺信
のお看経が本堂内に響き 徒手作りのご
渡りました。また今回の 供養を美味し
子供お会式では、奉修御 くいただいた
導師のお給仕係を薫化会 後、午前の続
員がご奉公させていただ きで再び紙芝
き、御宝前に向かう真剣 居の作成を行
な眼差しに、一同、心か い、各自が思
紙を使い、よ
ら随喜させていただきま い思いの折り した。 前段のお看経の後、奉 修御導師の御法門では、 無い時では、相手の心は
﹁ありがとうのある時と 大違い。お礼をしっかり また、ありがとうと言っ
言える人になりましょう。 てもらえる人になりまし
会活動の楽し 先輩方の教えを次世代に 贈られ、歓談は大変な盛 御法門終了後、薫化会 さ、ご奉公の 受け継ぐことを誓う、若 り上がりを見せました。 会員は会議室に移動し、 発足後、七月一日には 本年夏に奉修される第六 喜びを感じて さに溢れた力強いもので 常住寺青年会の初御講が
姿を目の当た よる誓いの言葉が述べら の言葉と、これからの活 りやすい言葉でお教えい りにし、青年 れました。常住寺の先師 動を励ます温かな言葉が ただきました。
青年会長から力強く誓いの言葉が述べられた
けてご奉公に励んできた 年会の活性化を呼び、こ 動報告をさせていただき
ここに至るには布教区 青年たちの信心がありま の度の常住寺青年会発足 ます。 足式が執り行 とのお言葉をかけられま
て青年会の発 立菩薩を目指してほしい ました。
ご住職は御法門で、青 盛大に奉修され、他布教 青年会の後押しも然るこ す。時を合わせるように の運びとなったのでした。 そして六月 以上、第六回青少年の 三日、常住寺 年会として困っている人 区からの応援も合せ四十 とながら、長年に亘るご 動きだした青少年の一座 開導会におい に手を差し伸べられる佛 名を超えるお参詣があり 住職の教導と、薫陶を受 エリア開催が、布教区青 一座に向け、布教区の活
完成した紙芝居を持って記念撮影(円内は御法門される横田日顕師) 紙芝居の作成中「ここはどんな色にしようかな?」
までの弘通成績を御 宗はここが有難い ∼こ 宝前に奉告言上して こが違う佛立宗と他教団
常住寺の青年会が再発足 です。
この宗門の方針を受け、 的な交流が行われるよう 第六回青少年の一座の 少年の一座は今までとは 東京中央布教区では布教 になっていきました。両 ご奉公の中で、第五支庁 形態を大きく変え、エリ 区長︵高野清純師︶指示 寺院の青年会は活動ノウ
青少年の一座ご奉公の中で
は全国の青年会が力をつ 布教区青年会のLIN けることが狙いのご奉公 Eでは、御講日程や参詣
東京中央布教区から届けられた活発な活動報告
の表彰をさせていた 下さり、会場は大盛況と
第二部では昨年度 のご利益談を踏まえ、ユ の弘通成績優秀者へ ーモアたっぷりにお話し
た。
の意識が高まりまし 義的な違い等だけでなく、
新たにしてご弘通へ 団を、御本尊の違いや教
加者一同、気持ちを 致しました。当宗と他教
いただきました。参 ∼﹂と題して講演を頂戴
ユーモアたっぷりに話される福岡日雙師
ご承知の通り第六回青 活動が活性化し、ひいて 妙寺と妙泉寺が中心とな 画し、青年会発足を促し
り、両寺院の御講を中心 ます。 ょう。そして大事な事は に管内寺院の青少年を将 この布教区の動きに常 うれしい事があった時は、 引、ご奉公の場を共有す 住寺の青年たちは積極的 御宝前に御題目をお唱え るという内容です。 に参加。交流を重ねる中 われたのです。式典では した。 して、お祖師さまにお礼 式典後のご供養席では を申し上げましょう﹂と で同世代が集 六名の会員がご住職より い励ましあう 辞令を下附され、会長に 布教区青年会からお祝い 薫化会の子供達に、わか 6月3日の開導会で執り行われた青年会発足式での記念撮影
当日は8月に開催される青少年の一座のご披露もあった
7月1日の初御講には40名を超える参詣があった
昨年度の弘通成績優秀者へ高野清純布教区長より表彰
高祖のご生涯を描いた紙 蒲田・妙泉寺にて開催さ 者は教講合わせ二百八十 また、助行部門では助行 なる一方、このご信心の 他の人にもお伝えしなく く所存です。 企画終了後、本堂にて ︵布教区広報部︶ 去る五月六日午前十一 芝居の作成︵切り絵︶を 記念撮影・御礼挨拶の後、 れました。高祖ご降誕八 八名を数え、会場は熱気 年六十回を遥かに上回る 有難さが分かりにくくな てはならないと強く思わ 三〇〇回以上達成者がお 時より、熊谷・顕妙寺に 致しました。また、引率 解散となりました。
去る六月十日、東京中 ご奉公に励ませていただ を、三年連続でさせてい の歳月が経ち、何代目の さ、他教団には真似でき ご奉公を推進し、ご弘通 央布教区弘通促進大会が、 くことが目的です。参加 ただくことができました。 信者と名乗ることが多く ない強さを、はっきりと 発展に寄与させていただ
平成 30 年8月1日 水曜日 (毎月 1 回 1 日発行) (6)
聞 新 立 佛 第 7 0 4 号 (昭和 41 年 6 月 17 日第三種郵便物認可)
た。何で世界中がこんなにW
私も観戦するようになりまし
流石に見事なもので、私も俄
球を蹴りこむスーパー美技は
弄しながらゴールを目指して
や相手チームの選手たちを翻
がセネガルよりも少なかった
第二戦までの累積警告数の差
西 野 朗 監 督 の 苦 渋 の 作 戦 で、
教 こ れ は、 何 と か 強 の 二次リーグに進みたいという
ょう。
回り、ゴールに球を蹴りこむ。
ボールを取り合いながら走り
﹁大の男たちがグラウンドを
メディアからも厳しい批判の
いブーイングが起こり、海外
戦法には会場の観客から激し
切れに持ち込みました。この
陣でパスを回しはじめ、時間
日本チームは試合終了まで自
手の選手育成でさらなる進化
た。善戦した日本チームは若
1点差で惜敗して終わりまし
日本のW 杯は強豪ベルギーに
解したようですね。とにかく
もあるということで大方は理
教 決勝トーナメントに進 むためには、こうした戦い方
http://www.hiratashoueidou.com E-mail butsuryu@hiratashoueidou.com
のビアホールで行いまし ているのだという気持ち に開催される四国布教区 繋がればと願いました。 その後、昼食御供養を た。壮年会の楽しみでも で聴聞しなければと思い 青少年の一座に向けての ﹁ 将 引 の 手 紙 を 書 こ う ﹂ いただき、閉会式、記念 ある懇親会は各自交流を ました。
寺ならびに同市内の別子 人の名刺と布教区特製名 くのマイントピア別子で 二日目は清扇寺に朝参 具沢山の愛情のこもった いに意見交換しながら仕 各寺院の役員の方、婦人 ハイツ学習館にて、四国 刺入れが贈呈されました。 鉱山観光を楽しみました。 詣させていただき、御住 朝食を美味しくいただき 上げました。それぞれ、 会の方、壮年会の皆様の
続いて、岩本日雪師よ 本当に使っていた鉱山鉄 職・藤本日唱師より御法 ました。 朝食後は、遠路 とても情のある思いの込 お陰です。ありがとうご 布教区第二十一回壮年会 合掌 研修会が行われました。 り講習をいただき、今回 道に乗車し江戸時代の別 門を聴聞させていただき はるばる特別参加された もった手紙を披露してく ざいました。
当日は梅雨入りしていた のテーマである﹁教化の 子銅山にタイムスリップ ました。自分の身に置き 東北南部布教区・石巻耀 ださいました。皆の思い ︵布教区壮年会
違ってくるという内容で、 今をご披露いただきまし
連絡協議会会長・ ため天候を心配していま 喜びを拡げる﹂実践につ し、リアルに当時の生活 換えて御法門を聴聞する 護寺の壮年会長・豊嶋功 が相手に伝わって青少年 ﹁皆さ から近代の作業内容まで としないとではご利益が 司郎氏から大震災復興の 一座の将引なり教化へと 顕本寺・木戸岡巧記︶ したが二日間共に晴天の いて学びました。
しい予想が囁かれていました
杯に熱中するのか、段々と分
ファンになりましたよ。
うな展開で、普通なら何とか
信 つまり日本はフェアプ レーポイントの差で 強入り
たのですが、残念ながら最後
こんな単純なゲームの何が楽
をとげ、次回四年後の大会で
清扇寺の本堂で御住職の藤本日唱師を囲み記念撮影
お計らいをいただき、三 んは教化のために、どの 学習できました。
その後ホテルに移動し 確かに人ごとのように聴 た。 十二人の参加者となりま ような活動をなされてい 二日 目 午 前の講 習 は、 ますか﹂の問いかけに、 て、しばし休憩の後、夕 聞しないで素直に、常に した。 一日目は別子ハイツ学 教化活動で各自が胸を張 食懇親会をホテルの近く 自分のためにおっしゃっ 七月二十八日・二十九日 習館にて、午前十時三十 ってできる話を披露して 分に担当主事・岩本日雪 いるところで終了。昼食 師の唱導のもと開会式が となり、別子ハイツ学習 始まりました。お看経の 館の職員の方に準備して あと各代表挨拶の他、表 いただいたカレーライス
彰式が行われました。今 をいただきました。
昼食後は、四つの班に 回の研修会は年初の案内 募集時より﹁教化を成就 分かれて清扇寺ご信者の
して新居浜へ行こう﹂を お宅にお助行に出向きま
合言葉に、研修会当日ま した。ご信者宅でのお助 での教化成就者増加を促 行後は各寺院の教化状況
が、実際は一勝︵対コロンビ
かってきました。観戦しだす
進しましたが、四名が見 の意見交換を交わしまし
ア︶一敗︵対ポーランド︶一
と、なるほど面白くて、いつ
偏見持っていたサッカー
勝とうと全力で戦うところを
に1 点 取 ら れ て 二 次 リ ー グ 敗
しいのか。面白くも何ともな
声が上がりました。日本のフ
は 、8 強 入 り 、 い や 優 勝 を 目
したわけですね。
信 私は、もともとサッカ ーには関心がなく、W 杯が始
い ﹂ と 思 っ て い た ん で す が、
ァンたちも何かモヤモヤした
ー に 偏 見 を 持 っ て い ま し た。
まっても興味を感じることが
今回のW 杯を観ていて世界の
退がきまりました。
なかったのですが、私も付和
ものを感じたようです。
指してもらいたいですね。
一流の選手たちの汗を吹き出
強入りで苦渋の作戦を
雷同型というのか、連日テレ
させながらの迫力ある走る姿
ビも新聞も大騒ぎをするので
かも!﹂と日本中が期待をし
から、敗退しても一次リーグ
引 き 分 け︵ 対 セ ネ ガ ル ︶ で、 に入り、ベ
見事一次リーグを突破。二次 リーグのベスト
教 私も同じです。サッカ
るようになっていました。
を突破できると考えたのでし
各寺院の教化状況の意見交換も活発に
信 ただ、第三戦の対ポー のまにか日本チームを応援す ラ ン ド 戦 で は0 ︱ 1 で 負 け そ
清扇寺ご信者をお助行させていただいた
若手の選手育てさらなる進化で次大会へ
を 展 開 し て、﹁ あ わ や、 勝 つ
ルギーと対戦し、互角の戦い
ス ト8 に 進 む べ く 四 戦 目 の ベ
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事成就しての参加となり た。
見事に一次リーグを突破 信者さん 去る六月十四日 に 開 幕 し た 第 回 サ ッ カ ー・ ワールドカップ︵W 杯︶ロシ
ア大会も、いよいよ終盤を迎
えていますが、今日︵七月五
日︶は大会開始以来四試合を
戦って善戦した日本チームが
帰国しました。
(本紙嘱託)
京都市上京区一条通御前通東入西町15 電話(075)461−5433 (代) FAX(075)461−9104
第 回壮年会研修会を行う 名が参加して
32
深め、ご奉公の情報交換 寺内清掃の後、婦人会 で す。 各 自、 孫 や 子 供、 写真となりました。今回 その後、別子ハイツ学 など活発に盛りあがって の方々に準備していただ 宗外の知人といった身近 の研修会を無事行うこと 六月二日∼三日の二日 ました。表彰式では随喜 間にわたり新居浜・清扇 状とあわせて、成就者各 習館に集合して、すぐ近 いました。 いた朝食を頂戴しました。 な方に宛てた手紙を、互 ができたのも御導師方、
2日間にわたり
21
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教務さん 開幕前の下馬評 では、日本は﹁三連敗で一次
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16
解説・朝 倉 日 励
W杯で日本善戦
「教化を成就して新居浜へ行こう」を合言 葉に、見事お教化を成就して岩本日雪師よ り表彰状をいただく
フリーダイヤル
9支 四国布
リーグで敗退﹂などという厳
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0120-111-753
平成 30 年8月1日 水曜日 (毎月 1 回 1 日発行)
聞 新 立 佛 (7) 第 7 0 4 号 (昭和 41 年 6 月 17 日第三種郵便物認可)
もと
じっ
そう
られたん だね。そ の 人 が、
も特にす
回
師さま︵高祖日蓮大士︶が三十六歳の時 お祖 の正嘉元 年︵一二五七︶ 。鎌 倉に頻 繁︵しきり ぐれた六
第 後の六老
におこる︶に天変地異︵地震や大雨など、自然 人の僧侶︶
僧︵お弟
がもたらす災害︶が起こり、多くの人々が苦し の一人で
源﹂と名前をいただかれたんだよ。
法印も後にお祖師さまのお弟子となり﹁日
興上人﹂なんだ。また、学頭であった智海
子の中で
められたんだ。お祖師さまは、その天変地異の ある﹁日
回は、 ﹁岩本実相寺﹂のお話をするね。
原因を見つけ出そうと駿河国︵静岡県︶へ。今
じ
岩 本 実 相 寺 で ﹁ 一 切 経 ﹂ を 閲 覧︵ 書 物 な どを調べたり読んだりすること︶されたお
浅沼 序説
取材でいただいた有難いお計らい
本誌編集員
三月二十八日 お許しをいただいた。そ に戻った。 当面上欄の︻お祖師さ お話を伺うと、この時 の上、経蔵の中まで案内 をお訪ねする物語︼に 期 は朝七時頃からもう渋 して下さった。 ま
掲載する写真を撮りに車 滞が始まると聞き驚いた。 この岩本実相寺の経蔵 一切経蔵︶の中は普段 四月二十日 で山梨県の身延山に向か ︵ 再度、身延山へ。この は入ることができない。 った。
は前回のような大渋滞 また写真撮影も禁止であ 何の下調べもなく出掛 日 ると﹁身延山久遠寺﹂ はなくスムーズに車を走 るが内部まで拝見させて け
は桜の名所とのことで、 らせ、先日お世話になっ いただき、撮影させてい
国道五十二号線を右に折 た清水屋さんに御礼にお ただけたのだ。
れ久遠寺総門へ、そこか 邪魔しご挨拶後、上の久 ご住職に清水屋さんの をすると﹁そうです! らの参道は大渋滞。普段 遠寺駐車場に車を駐め斜 話
なら五分位の道程が、一 行エレベーターで境内地 ウチの檀家です﹂と笑顔
時間経っても数珠繋ぎの に到着。山頂の﹁思親閣﹂ で教えていただいた。
寺・小松浄慎貫首のご厚
〒604-0847 京都市中京区烏丸通二条下ル秋野々町518番地
状態。上の駐車場が満杯 へはロープウェイで登り、 この度は清水屋・矢野 夫妻とのご縁で、実相 で出る車がないと進まな 最高のお天気でとても良 ご
株式会社 写真化学
いという混雑振りであっ い写真が撮れた。
喜んで承ります。
祖師さまは、鎌倉に戻られたんだ。 そして、文応 元年︵一二六〇︶七月十六 、お祖師さまは︽天変地異が何 度も起こ 日
ビデオ・ホームページ制作まで。
いわ
お 祖 師 さ ま は、 ﹁ 昔 か ら︽ 仏 教 の 弘 ま っ ている国は、平 和で、その国に住 む人々は
京都 大阪 東京 名古屋
帰りにまた清水屋さん 意に預かることもでき、 た。 立ち寄り、今から富士 また経蔵写真の掲載︵佛 車内でホトホト困り果 に ていると交通整理をさ の岩本実相寺に写真を撮 立新聞に︶の許可もいた て
れていた女性に声を掛け りに行くとお話すると、 だくことができた。
URL.http://www.shashin-kagaku.co.jp
るのは日本の国に間違った信仰が弘まって い る か ら で す 。 こ の ま ま で は 国 は 乱れ、よ
ら れ た。 ﹁ 今、 清 水 屋 さ ご住職は赴任されたばか これはまさしく、お祖 さまの﹁ご降誕八百年 んの駐車場から一台出た りで、しかも清水屋さん 師
以外の何ものでもない。
どういうわけかご縁が お祖師さまの御徳と、佛
れ桜の苗木﹂までいただ 材となった。
れ桜が出迎えてくれた。 住職にお取り次ぎ下さり、
ではあったが美しい枝垂 で取材の話をすると、ご
境内地にはまだ七分咲き 地に若い僧がおられたの
で本堂正面に辿り着くと、 寺に到着。ちょうど境内
身延山から一時間程で いて二八七段の菩提梯を 岡県富士市の岩本実相 迂回し、やっとのおもい 静
山門脇の駐車場から歩 いた。
とができた。
ようやく車から降りるこ ただき、帰りには﹁枝垂 実感させていただけた取
り本当に親切にしてい 立宗の有難さをつくづく ざ声を掛けていただき、 あ
から有難いことにわざわ
と。何十台と続く車の中 とのこと。
からそこに入りなさい﹂ はそのご住職の檀家さん 慶讃ご奉公﹂のお計らい
その国が攻めてきて、国が滅んでしまいます。 今 す ぐ 日 本 の 国 全 体 で﹁ 御 題 目 の ご 信 心 ﹂ をさせていただきましょう!︾と書かれた ︶を、鎌倉 書き物︵有名な︻立 正 安国論︼ 幕府の権 力 者の北 条 時頼に差し出された んだよ。 お祖師さまが﹁一切経﹂を閲覧され、二 の新たなお弟子が誕生するキッカケとな 人 ったこの﹁岩本実相寺﹂は、十四世紀の始 めに天台宗のお寺から日蓮宗のお寺に改 宗︵ 今 ま で 信 じ て い た 宗 教 や 宗 派 を 捨 て て 他の信仰に入ること︶されたんだよ。
本堂、祖師堂 などを写真に 収めていると 身延山頂上の
夕暮れとなり、 ﹁思親閣﹂の 撮影は断念し
TEL.075-254-7724(代表) FAX.075-251-0232
安穏︵心が落ち着き穏やか︶である︾とい われているのに、なぜ日本の国はこんなに
﹃天変地異﹄が起こり人々を苦しめるのか ?﹂と大変疑問に思われていたんだ。 そこで、なぜ﹁天変地異﹂が頻繁に起こ か を 調 べ る た め に、﹁ 一 切 経︵ 仏 様 の す る べての教えを集めたもの・仏教の百科事典 のようなもの︶ ﹂のある駿河国の岩本実相 うにこの岩本実相寺には、沢山の僧侶がや
寺 と い う 天 台 宗 の お 寺 に、 お 弟 子 の 吉 祥 麿︵日朗 上 人︶と向かわれたんだよ。
この頃、岩本実相寺で学頭︵学校長︶を していた智海法印︵天台宗の僧侶︶という
って来て勉強に励んでいたんだよ。
ったんだ。そのうちの一部を岩本実相寺が
人 は お 祖 師 さ ま が 、 比 叡 山 の 横 川︵ 平 成 三
昔、 円 珍︵ 智 証 大 師 ︶ と い う 僧 侶 が 唐 ︵ 中 国 ︶ か ら、 二 部 の﹁ 一 切 経 ﹂ を 持 ち 帰 護持︵大切に守って持つ︶していたんだね。
十年二月号を読んでね︶で学んでいた時の 学 友︵ 同 じ 学 校 で 一 緒 に 学 ん だ 友 だ ち ︶ だ ったんだ。 仏様の﹁一切経﹂があったことや、学友 いたことから、お祖師さまは、この岩本 が 実相寺にやって来られたんだね。
た。帰り道に 西谷に寄り と﹁ 御 廟 所 ﹂
﹁御草庵跡﹂ をカメラに収
デザイン印刷から
800年慶讃
岩 本実 相寺 経堂にこもって一切経を読まれるお祖師さま
岩本実相寺にいる間、お祖師さまは、多 の 僧 侶 た ち に 勉 強 を 教 え て い る ん だ よ。 く その時の僧侶の一人が、お祖師さまの学徳 ︵ 勉 強 が で き、 正 し い 行 い が で き る ︶ を 慕
め清水屋さん
パンフレット・機関紙・寺史・社史の
8
い︵ あ こ が れ る・ ひ か れ る ︶ 、お弟子にな
お世話になった清水屋の矢野孝司・加代子ご夫妻
高祖日蓮大士ご降誕 だ か ら 、 当 時 の 比 叡 山 ︵ 滋 賀 県・ 仏 様 の 教 え を 勉強 す る に は 一 番 の 学 校 ︶ と 同 じ よ
岩本実相寺の一切経蔵
一切経蔵の内部
日朗上人の「米とぎ井戸」 岩本実相寺には、お弟子の吉祥麿(日朗上人)も一 緒であったが、さすが「給仕第一」のお弟子だけに、 境内地には、お祖師さまにお給仕した吉祥麿が使っ たと伝えられている「米とぎ井戸」がある
平成 30 年8月1日 水曜日 (毎月 1 回 1 日発行) (8)
聞 新 立 佛 第 7 0 4 号 (昭和 41 年 6 月 17 日第三種郵便物認可)