「氏子かり帳」に記録される木地師の時空間 江戸時代における木地師の所在地とその変遷の空間的分析
東京芸術大学大学院 美術研究科 建築専攻 建築理論 光井研究室 原田栞
0 序章 0-1 研究背景・目的 0-2 既往研究のまとめ 0-3 本研究の構成
1 記録される木地師 1-1 木地師とは 1) 木地師の定義 2) 移動生活者としての木地師 3) 斐太後風土記に残される木地師の姿 4) 玄人と素人 1-2 「氏子かり帳」とは 1) 根源地としての蛭谷・君ヶ畑(小椋谷) 2) 氏子かり制度 3) 氏子かり帳 1-3 研究手法 1-4 氏子駈帳に記録される木地師の生活空間
2 木地師の移動 2-1 氏子駆帳以前の木地師の移動 1) 制度 ⅰ) 氏子駈 ⅱ) 交代神主制 2) 記録 3) 蛭谷と交流のあった地域 ⅰ) 麻生山 ⅱ) 京都 ⅲ) 中国山地 安芸国 ⅳ) 濃州
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4) 木地師ネットワークの拡大に向けて 氏子駆制度の整備 ⅰ) 氏子駆の制度と同時期に始まる常神主制 ⅱ) 庶流との里帰り的交流を超えていく新氏子駆制度 2-2 全国へ展開する氏子駆 1) 氏子駆制度の展開と縮小の流れ ⅰ) 若狭以西を中心とした古くから蛭谷に縁のある土地 ⅱ) 新たな廻国先を迎えながら広域化する氏子駆 ⅲ) 津具村事件と幕府からの裁許を経て変化する廻国先 ⅳ) 天保の飢饉と急激に縮小する氏子駆の規模 ⅴ) 明治維新に伴う戸籍制度の始まりと氏子駆の終焉 2) 氏子駆に要する時間 ⅰ) 廻国範囲拡大に伴う長期化と氏子駈の重複 ⅱ) 天災・事件による廻国の滞り 2-3 木地師の移動と地域 中国山地と紀伊半島の比較 1) 木地師の移住パターンと地域性 2) 廻国人のルートと藩領の境界 ⅰ) 中国山地 ⅱ) 紀伊半島 2-4 個々の木地師の生涯と移住 1) 中国山地 八頭郡の木地師 ⅰ) 吉川一円の木地師の人員構成の変化 ⅱ) 吉川一円内に居住した経歴のある木地師たちのそれぞれの移住歴と土地の循環 ⅲ) 智頭宿の忠三郎 山中定住の木地師(八頭郡智頭町智頭) 2) 信州 伊那谷の木地師 ⅰ) 源六とその家族 伊那谷を一周するような移住 ⅱ) 源六一家と時々の居住地で集団を形成・解体する木地師たち
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3 木地師の領域 3-1 色別標高地図から読み取る木地師の領域 1) 全国に共通する特徴的な高度への分布 2) 層としての木地師の領域 3) 断面方向で見る木地師の領域 ⅰ) グラフで比較する木地師の所在地の垂直分布と主要都市・主要街道の高度 ⅱ) 行政の区分で定義することのできない木地師の領域 3-2 使用された貨幣の種類から明らかになる木地師のネットワーク 1) 都市型の木地師による少額貨幣の使用 2) 西日本の木地師による金の使用 3) 奥州の木地師の銭のみでの支払い・東北地方での銀と銭の使い分け 4) 奥州の木地師の銀と銭の使い分け 3-3 絵図に描かれる二種類の木地師
4 結び
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0 序章 0-1 研究背景・目的 0-2 既往研究のまとめ 0-3 本研究の構成
0-1 研究背景・目的
移動の制限があった江戸時代において木工品の製作を生業とし、材料である原木を求め て山中で移住を繰り返す生活を送っていた「木地師」と、その所在地の移り変わりの記録 である「氏子かり帳」に興味をひかれた。資料を集めて行くと、奥深い山中こそを生活領 域とした木地師たちは所有する由緒書により、「山七号目より上の自由な木々の伐採」を 許されていると語り、また山岳民として平地の街道とは別の独自の交通網も持っていたよ うであった。 実際のところは、明治以後の調査によってそうした木地師の縁起や由緒に関連した古文 書の多くは偽文書であり、創作が多く含まれていると判断され、また木々の伐採に関して も17世紀の中頃には自由ではなく、山村や藩領などの行政区分との契約に基づいたもので あったことが指摘されているのであるが、「七号目より上」が指す平地の社会とは別の、 あるもう一つの空間といえるものがあったこと自体は確かであるのではないだろうか。 ただこの確信に対して、木地師が全国各地の山奥深くに分散して居住していたためか、 その空間についての総合的かつ直接的な記録は残されておらず、また明治維新以後木地師 の定住化が進んだことから移住生活そのものも既に失われしまっているのである。 すでに失われ、直接的な記録もないとなると永遠に失われてしまったかのように思われ るが、江戸時代の木地師には職能集団としての全国的なネットワークがあったため、各地 の木地師の所在地がおよそ250年に渡って約10年ごとに記録された「氏子かり帳」が残さ れているのである。これは木地師という生業を共通にした人々の移住生活が定点観測によっ て保存されているということである。 そうであるならば、平地の社会とは別の木地師の「あるもう一つの生活空間」も、その 一つ一つの所在地の分布と、その分布の変遷を追って行くことで見えてくるのではないだ ろうかと考え、本研究では「氏子かり帳」を主な資料として、そこに記録された所在地の 変容について考察し、木地師の移動経路・生活空間を明らかにすることを目的とした。 また、稲作を経済の中心とする圧倒的多数派としての定住者の集落、住居などの生活空 間は建築の分野でも当然に研究されてきているのに対し、山岳民や漂泊民などの少数派の 生活空間がこれまで建築的な視点から分析されてきていないことにも違和感を感じている。 少数派である木地師やその他山岳民、漂流民などは民俗学的視点からその習俗に重きを置 いた研究・資料は残されるものの、その空間は実態として扱われてきていないのである。 この点も踏まえ、明治以後普遍化された日本の原風景であり多数派としての農村に対し、 忘れられてしまった数多くの生活空間の一つとして木地師の空間を研究対象とする。
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0-2 既往研究のまとめ
木地師研究は明治以後始まり、最初に取り上げたのは柳田国男であった。著書「史料と しての伝説」(1925)の中で木地師を例にあげ、伝承や伝説を史料として扱う方法論を展 開した。次に柳田の影響を受けて歴史学者である牧野信之助が木地師研究を行い、免許状、 宗門手形、往来手形、印鑑、木札、木地師の祖先とされた惟喬親王の御縁起、綸旨などの 「木地屋文書」と総称される資料を発見し、その評価を行った。牧野はこの木地師文書の 多くを偽文書であると判断し、これは現在でも多くの研究者に承認されている。しかし、 当時部分的に発見されていた「氏子かり帳」に関してはその信憑性を認めている。 その後さらに多くの「木地屋文書」が発見されるが、「蛭谷氏子かり帳」を杉本壽 (1972)が、「君ヶ畑氏子かり帳」を橋下鉄男(1970)が翻刻し、それぞれ「木地師支 配制度の研究」(杉本、1971)、「木地師の移住史 第一分冊君ヶ畑氏子狩帳」(橋本、 1970)として出版されている。なお、「蛭谷氏子かり帳」と「君ヶ畑氏子かり帳」の違い については第1章で説明する。杉本は全国的な規模で木地師を研究した最初の研究者であ り、専門である農業経済学の視点から独自の分析を数多く残している。また橋本は滋賀県 と東北地方の木地師についての論文を民俗学関係の雑誌に投稿している。 こうして発見された「氏子かり帳」とフィールドワークをもとに、但馬木地師のムラの 位置比定(1973)、中国山地での「氏子かり」のルートを一部特定したのが歴史地理学者 である渡辺久雄である。それまでに発見された資料をもとに、木地師の空間の明らかにす る最初の研究であったと言える。しかし、木地師の生活空間に関する研究は渡辺の中国山 地の木地師についての研究に限られ、木地師研究においてはごく一部である。 本研究では、渡辺の研究に近い形で木地師の移動経路や職能集団としての領域を明らか にすることを目的とするが、渡辺がフィールドワークで得た情報を主とし、それを補う資 料として「氏子かり帳」を用いていたのに対し、文献史学の視点から「氏子かり帳」を主 な資料として、その中に記録された木地師ネットワークの規模の変化や、地域ごとの木地 師の所在地の変遷の特性、個々の木地師の移住歴などを読み取り、木地師の生活空間の実 態を明らかにしていく。
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0-3 本研究の構成
本研究では諸国の木地師の所在地を長期的かつ定期的に記録した「氏子かり帳」をもと に、木地師の生活空間と移動の実態を明らかにしようというものである。まず第1章「記 録される木地師」では木地師がいかに記録されてきているかについて説明した後に、その 記録を本研究でどのように用いるかについて提示する。また、本研究における木地師の定 義、江戸時代の木地師ネットワークを支えた制度である「氏子かり」についても確認する。
次に、第2章「木地師の移動」では全国・地域・個人の三つのスケールに分けて分析を 行い、「氏子かり帳」に記された木地師の所在地の変化、すなわち木地師の移動範囲の変 遷や、移動のパターンと地域性、全国の木地師のもとを巡った「廻国人」(第1章にて説 明)の移動経路、そして個々の木地師の移住歴などを明らかにする。 最後に、第3章「木地師の領域」では「氏子かり帳」に記録された一つ一つの所在地と、 第2章で明らかになった木地師の移動経路から構成される木地師の領域を色別標高地図や 木地師の所在地の垂直分布図を用いて可視化する。また、全国各地の木地師が寄進に使用 した貨幣の種類にも着目し、江戸時代における貨幣の地域性や特性から、各地域における 木地師の居住する地域との距離感や、遠方の地域とのつながりを示していく。
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1 記録される木地師 1-1 木地師とは 1) 木地師の定義 2) 移動生活者としての木地師 3) 斐太後風土記に残される木地師の姿 4) 玄人と素人 1-2「氏子かり帳」とは 1) 根源地としての蛭谷・君ヶ畑(小椋谷) 2) 氏子かり制度 3) 氏子かり帳 1-3 研究手法 1-4 氏子駈帳に記録される木地師の生活空間
1 記録される木地師
木地師以外にも山の民は存在し、また他の漂泊の生活を特徴とした生業もあったが、そ の中で長期に渡って自身の居住地の移り変わりを記録していたのは木地師だけである。 その木地師の記録である「氏子かり帳」は本来移動の記録を目的としたものではなく、 諸国散在の木地師が氏神であり東近江の山中にある筒井八幡宮や大皇器地祖神社へ遠方か ら寄進したことを記録するものであったが、寄進した木地師の名前、家族の人数、寄進に 用いた貨幣、所在地なども詳細に記されていたために結果としておよそ250年分もの木地 師の所在地の記録をともなった。寄進の記録でありながら、木地師の生活空間の記録でも あるのである。 木地師の生活空間の記録としての「氏子かり帳」を本研究で主な資料とし、本章はその 内容についての説明を目的としているが、前提としての木地師研究または本研究における 木地師の定義、江戸時代における木地師の他者・自己による認識、木地師の根源地として の小椋谷の存在と氏子かり制度、本研究における氏子かり帳を用いた研究手法についても 合わせて説明する。
1-1 木地師とは
1) 木地師の定義 木地師の「木地」とは漆器を製作する際の漆を塗る前の素地のことであるが、木地師に 関してはその定義に幅がある。杉本寿は「木地師支配制度の研究(1967)」の中で「山中 の樹木を伐って、轆轤その他の工作器具で、椀・盆・杓子などの木地を製作した人々のこ とをいい、轆轤師ともいう」とし、また成田寿一郎は「木地とはなにも轆轤挽物に限った ものではなく、広くいえば刳り物、曲物、指物までも木地といえよう。ただし木地挽とい えば轆轤による加工およびその人をさしている。現在轆轤師のことを木地師と呼んでいる のは木地挽からの転訛であろう。」(成田, 1990)としているように、轆轤を使うことを アイデンティティとした狭義の木地師と、轆轤の使用に限らない木工従事者、例えば杓子 を制作することを生業とした杓子師なども含める広義の木地師との大きく分けて二つの定 義が存在する。
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この制度は、制度の中心であった現在の滋賀県東近江市の山中にある蛭谷・君ヶ畑両村 の人物が諸国に散在する木地師の元を巡って金銭を徴収する代わりにその身分を保証し、 問題が生じた際にはサポートしていたというのがその概要であり、遠方の氏子の元を巡る という意味で氏子かりと呼んでいたようである。 17世紀ごろまでは轆轤を使用する工人が主な加入者であったと考えられるが、時代が下 るにつれて杓子師や傘師などもその制度の加入者として多数存在したことが氏子かりにつ いての記録である氏子かり帳に記されており、この制度上ではこれらの木工従事者が木地 師として総称されていた。 狭義・広義の木地師の定義は、木地師研究において研究内容を轆轤を使う生業そのもの、 もしくは制度のもとに存在した職能集団のどちらに重点を置いているかの違いによって使 い分けられているが、本研究ではこの職能集団の記録としての氏子かり帳を主な資料とし、 そこに記録された木地師の各時代における所在地の分布から空間的分析を行うことを目的 とするため「轆轤その他の特殊工具を用いて木地稼業を営んでいた、もしくは氏子かりの 対象者であった」ことを木地師の定義とする。
図1「和漢三才図会」所載のろくろ
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2) 移動生活者としての木地師 木地師はその多くが木地の材料であるトチ・ブナなどの原木を求めて山中に暮らし、周 囲の原木の枯渇とともに移住を繰り返す生活をしていたが、完全に全ての木地師が山中に て移住生活をしていた訳ではない。山中で荒型を削り出すもの、そして都市に住まい山中 から運ばれてきた荒型の仕上げを担当し塗師に引き継いでいたものなどその制作工程の違 いによって移住生活か定住生活かが異なり、柳田国男も「木材工芸に従事することと諸国 山地の移動とは必ずしも相伴わねばならぬ理由はない」(柳田,1925)としているように、 移動の有無は木地師の定義に加えるべきではない。 また、渡辺久雄が著書『木地師の世界-個人と集団の谷間』(1977)で『日本の「ある き筋」の大きな流れは、まず里近くを流浪する者と、里を離れて山中を漂白する一団に区 別することができよう。もちろん両者に跨る仲間もある。芸能・遊芸を生業とする者が里 近くを流浪し、手工芸で暮らす一団が山中へ入りこみ、宗教に類する行為で生活する仲間 が山と里とに跨って移動を続けたようである』として移住生活を送るものの中にも里との 関わりの頻度、程度に差があり、それらを分類できることを指摘し、さらに『同じく「あ るき筋」でも、山中に入った仲間の方は、素質の上で特殊な技能者であり、山に入ること によって、人々と接触する機会はまれとなる。むしろ自然との対応の中でその日の糧を得 なければならなかった』と加えている。 このように移動生活と一括りに言ってもこのように里への依存性が高いもの、里との接 触が極めて少ないもの、に分けられたが、木地師は山中で移住生活を送り木地の荒型を制 作するものもいれば、都市に定住して仕上げを担当するものもいたというように、里への 依存性と生活形態には幅があった。よって本研究ではその特徴的な移動生活に重点は置く ものの、移動の有無はその定義に含めないこととする。
3) 斐太後風土記に残される木地師の姿 明治6年(1873)に富田礼彦によって編纂された『斐太後風土記』には木地師に関する 記事があり、以下に引用する。
−木地師[三郡村々の深山に住み、住所は不定] 橡(とち)・橅(ぶな)・欅(けやき)な どの木を伐り倒し、椀形をおこし、小屋にて椀木地を挽て、山に住む人を俗に木地師とも いえり。…中略… 村々の荒山中に住みて、用材のあらん限りは、年々に椀木地師をひきて、 高山・吉川その他、元方仕入れの商人へその木地を送り [商人はその木地を紀伊国海士郡
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日方へ売捌きぬ。日方は若山より一里ばかり南、黒江と並べり。名所図会に黒江椀の図あ り] 米塩を得て生業す。五、六年を経て山内の用木を伐り尽くせば、又他山の山に移り住 みて、生涯その山には住み果がたし。故に俗に、度々住所を換える者を木地屋の宿替とい う。国中山々仮住の木地師、小屋敷… 先祖は、惟喬親王の臣、小椋大臣の末葉なりとて、 皆小椋何某という。惣管は近江国犬山郡か、愛知郡の深山に在るとぞ。昔は木地師、親の 継目に一度惣録所へ出て、烏帽子・直垂着用の免許を受けたりとぞ。来由と系図、今は詳 に知る人世になかるべし。木地師は、男女とも深山の小屋にのみ住みぬれば、日々日光に 照らされず、世にでても深山ゆえ、疱瘡にも犯されず、自然男女とも顔色白く、尻腰大な り。故に顔色白く腰太き女を、俗に木地屋の娘なるべしという。−
おそらく当時まだ山間部に存在していた木地師への調査をもとに書かれたものだと考え られるが、里から離れた生活を送っているために伝染病である疱瘡にかからず顔に跡が見 られないこと、田畑という開けた土地に出ることがなく、木々に覆われた山奥深くにて日 に当たらない生活をしていたことから、比較的色白であったこと、足腰がしっかりとして いる見た目をしていたことなどは、木地師ではない他者からの客観的な視点によるものな らではである。また、付属する絵には木地師が作業する様子が描かれており、文章と合わ せて木地師の姿を知ることができる。
図2木地師の生活 「斐太後風土記」
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4) 玄人と素人 木地師は椀や盆を作るもの、杓子を作るもの、氏子かりに応じるもの、氏子かりに応じ ず独自に稼業を営むものなど様々ではあったが、自らを「くろうと」、農民などその他を 「しろうと」と呼んで区別するなど強い同族意識を持っていた。婚姻も同業者間で行われ、 農民との関わりがあったとしても「くろうと」間以外の婚姻はなかったと言われる。 「しろうと」は「くろうと」の存在を一部知っていたとしてもその世界について実態を 詳細に把握することはなかったが、「くろうと」は「しろうと」の世界を俯瞰するように 把握していたはずである。自らの特異性を意識する中で形成されたであろう領域や社会に ついて、その形を明らかにすることが本研究の目的である。
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1-2 「氏子かり帳」とは
1-1でも触れたが、木地師はその多くが氏子かりという全国的な制度によって管理されて いた。本節ではその制度の中心である小椋谷や制度、そして氏子かりの記録である氏子か り帳の内容についてあらかじめ述べる。
1) 根源地としての蛭谷・君ヶ畑(小椋谷) 氏子かりは近江国小椋庄(現在の滋賀県東近江市永源寺町)にあった蛭谷・君ヶ畑の二 つの集落にそれぞれ鎮座する筒井公文所・高松御所という支配所によって管理されていた。 少々複雑ではあるが、距離にして4キロほどの距離にある両集落がどちらも木地師の根源 地として諸国の木地師を氏子とする権利を主張し、常にライバルとしてそれぞれが別々に 氏子かりを行なっていた。蛭谷と君ヶ畑は木地師の源流とされたことから合わせて「水上」 と呼ばれることもあったが、本研究では両集落の総称を「小椋谷」に統一する。 小椋谷には、文徳天皇の第一皇子でありながら母親の後ろ盾が弱かったことで立太子が 叶わず、出家、隠棲したとされる惟喬親王を木地師の開祖とする伝承が残る。これは惟喬 親王が京都から逃れて近江の山中で暮らすうちに巻物の軸を見て轆轤を考案し、近隣の杣 人たちに伝えたことこそが木地師の始まりであり、また全ての木地師は惟喬親王の家臣の 末裔であって小椋谷からさらなる木材を求めて移住していった(木地師の近江一元説)と いうものである。 小椋谷から木地師が東西へ移住していったことは確かであるものの、轆轤の技術は弥生 時代には存在したとされ、正倉院文書の「造仏所作物帳」には天平年間(729-749)にも 轆轤工が存在していたことが記されているなど、惟喬親王の伝説を伝える御縁起や由緒書 には創作がふくまれていることが明らかである。この伝承が元である諸国の木地師による 惟喬親王信仰は木地師のふるさと、水上としての小椋谷を中心とした木地師の強力な同族 意識につながっている。
2) 氏子かり制度 氏子かりは小椋谷の村人が二人1組の廻国人となり、廻国のための往来手形や筒井公文 所あるいは高松御所の絵府、提灯などを携えて約10年に一度諸国に散在する木地師の元を 巡って金銭の徴収を行なうものであり、蛭谷・君ヶ畑の双方によって行われていた。
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混同を防ぐために、本研究文では「永源寺町史木地師編」(永源寺町発行, 2013)にな らい蛭谷によるものを「氏子駈」、君ヶ畑によるものを「氏子狩」、そして両者を総称す る場合には「氏子かり」と書き分けるものとする。 次ページの表1は、蛭谷によって行われた氏子駈32回についての概要を記載したもので ある。氏子駈帳は合計34冊が残されているが、そのうちの第三十三号、第三十四号は廻国 の記録ではなく、京都と黒江の木地師が記録された台帳であり、第二十七号木地師戸籍取 調費集帳に関しては廻国を伴う記録であるものの第二十六号寄進帳の廻国と同時に作成さ れたものである。第二十六号寄進帳のようにいくつかの記録は氏子駈帳以外の表題がつけ られているが、本研究では他の既往研究と同様にこれらを総じて氏子駈帳と呼ぶこととす る。 多くの場合、氏子駈は琵琶湖の西側にある朽木村麻生(現在の高島市朽木村麻生)より 廻国を始め、京都で終了した。朽木村麻生は小椋谷からの最初の分派によって作られた村 であるといわれ、氏子駈帳始の村と定められ氏子駈の開始時には署名と押印をするなど制 度上重要な拠点であり、また京都には蛭谷の氏子駈制度を支える神道家の吉田家の存在が あったため、報告もかねて氏子駈の終いの地とされていた。 氏子かりの開始時期についてであるが、17世紀以前より行われていたとされるものの、 正保4年(1647)まで廻国は不定期であり、また記録も詳細に残されていなかった。対し て、正保4年以降の江戸時代の氏子駈は蛭谷の氏子惣代のような存在であった大岩家の第 三十三代頭首大岩重綱によって整備されたもので、廻国は完全ではないものの定期的であ り、記録も詳細に残されている。重綱は様々な改革をもたらし、不定期に行われてきた氏 子駈を定期的な事業として軌道に乗せることに成功したが、氏子駈専用の記録である氏子 駈帳もその一つであった。
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表紙に記載された日時
開始地点
最終地点
巡回箇所数
和暦
西暦
干支
第1号氏子駆帳
正保乙(丁)亥四天今月吉日良辰
1647 丁亥 滋賀県高島郡朽木村麻生
京都北桑田郡美山町豊郷
150
第2号氏子駆帳
明暦三年丁酉七月吉日分
1657 丁酉 滋賀県高島郡朽木村麻生
京都
151
第3号氏子駆帳
寛文五暦六月吉日
1665 乙巳 滋賀県高島郡朽木村麻生
京都
159
第4号氏子駆帳
寛文十庚戌年二月吉日
1670 庚戌 滋賀県高島郡朽木村麻生
滋賀県神崎郡永源寺町蛭谷
194
第5号氏子駆帳
延宝七年未九月七日
1679 己未 滋賀県高島郡朽木村麻生
東京都中央区京橋二丁目・八重洲二丁目
155
第6号氏子駆帳
四年丁卯九月五日分
1687 丁卯 滋賀県高島郡朽木村麻生
京都
169
第7号氏子駆帳
元禄七年戌二月吉祥日
1694 甲戌 滋賀県高島郡朽木村麻生
東京都中央区京橋二丁目・八重洲二丁目
210
第8号氏子駆帳
宝永四年丁亥二月吉日
1707 丁亥 滋賀県高島郡朽木村麻生
静岡県磐田郡佐久間町奥領家
411
第9号氏子駆帳
享保五年九月吉祥日
1720 庚子 滋賀県高島郡朽木村麻生
京都
282
第10号氏子駆帳
享保十二年巳(未)二月吉祥日
1727 丁未 滋賀県高島郡朽木村麻生
京都
308
第11号氏子駆帳
享保二十丁(乙)卯九月吉祥日
1735 乙卯 滋賀県高島郡朽木村麻生
京都
285
第12号氏子駆帳
元文四年己未五月吉祥日(サイン)
1739 己未 滋賀県高島郡朽木村麻生
奈良県吉野郡下市町
291
第13号氏子駆帳
延享元甲子六月吉祥日
1744 甲子 滋賀県高島郡朽木村麻生
京都
338
第14号氏子駆帳
寛延弐己巳八月吉祥日
1749 己巳 京都市左京区久多
奈良県吉野郡野迫川村北今西
117
第15号氏子駆帳
寛延四年
1751 甲子 滋賀県高島郡朽木村麻生
京都
322
第16号氏子駆帳
宝暦八年寅ノ三月
1758 戊寅 三重県一志郡美杉村川上
奈良県吉野郡下市町
第17号勧進帳
安永三午正月
1774 甲午 大阪
吉野郡川上村大滝
第18号氏子駆帳
安永九年庚子四月吉日
1780 庚子 滋賀県高島郡朽木村麻生
京都
第19号氏子駆帳
寛政九年閏七月日
1797 丁巳 徳島県美馬郡半田町
愛媛県上浮穴郡小田町
第20号氏子駆帳
寛政十一年巳(乙)未四月吉日
1799 己未 滋賀県高島郡朽木村麻生
鳥取県日野郡江府町下蚊屋
309
第21号氏子駆帳
文政十三年庚寅十二月吉日
1830 庚寅 滋賀県高島郡朽木村麻生
京都
308
第22号氏子駆帳
天保十四年
1843 癸卯 滋賀県伊香郡余呉町尾羽梨 愛知県北設楽郡稲武町大野瀬
45
第23号寄進帳
弘化三年丙午八月
1846 丙午 滋賀県高島郡朽木村麻生
67
第24号氏子駆帳
安政四年四月廿一日
1857 丁巳 滋賀県坂田郡山東町長久寺 兵庫県朝来郡生野町
第25号氏子駆帳
慶応三年丁卯八月吉日 紀州黒江
1867 丁卯 三重県津市
和歌山県海南市日方
31
第26号寄附帳
明治十一年四月
1878 戊寅 岐阜県揖斐郡藤橋村鶴見
三重県桑名市東矢田町・西矢田町
40
第27号木地師戸籍取調費集帳 明治十一年四月
1878 戊寅 岐阜県揖斐郡藤橋村鶴見
徳島県三好郡穴吹町古宮
50
第28号寄附帳
明治十三年四月
1880 庚辰 蛭谷
徳島県美馬郡一宇村
61
第29回寄進帳
明治十三年
1880 庚辰 岐阜県本巣郡根尾村越卒
滋賀県朽木村麻生
31
第30号初穂帳
明治十六年十一月
1883 癸未 長野県木曽郡南木曽町読書 岐阜郡郡上郡明宝村寒水
10
第31号寄進帳
明治二十六年五月
1893 癸巳 福島県岩瀬郡天栄村湯本
長野県木曽郡南木曽町吾妻
31
第32号人別帳
安永四年
1775 乙申 岐阜県郡上郡美並村池田
下伊那郡阿智村阿智
99
第33号京都木地職印鑑帳
天保元年
1830 庚寅
第34号紀州黒江木地職名前帳 安政三年
1856 丙辰
岐阜県恵那郡上矢作町小笹原
42 65 238 39
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表1 氏子駈各号概要
3)氏子かり帳 氏子かり帳は諸国に散在する木地師の人別帳、奉加帳としての機能を併せもったような、 氏子かり専用の記録である。蛭谷側では正保4年(1647)から、君ヶ畑は遅れて元禄7年 (1694)からそれぞれ三十二冊、五十一冊が残されているが、本研究ではより長期間に渡っ て記録が残り、廻国の規模も大きい蛭谷側の氏子駈帳を主な研究対象とする。 氏子かり帳の本来の目的は全国の廻国に応じた木地師の名前と受け取った寄進について 詳細の記録を残すことであったが、結果として氏子かり各号での廻国範囲、廻国の経路、 または全国各地の山々で木地師が数家族で構成していた集団の規模、家族の人数、廻国時 の位置情報など、木地師ネットワークや木地師の生活について有益な情報が豊富に記録さ れている。さらに、各号を比較していくことで氏子かり制度の変遷や個々の木地師の移住 歴を追っていくことも可能である。
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与州松山久万畑野川山木地や
一 壱匁五分 御初尾 庄左衛門 一 壱匁四分 氏子 同人 庄左衛門子 一 弐匁五分 くわんとう 平左衛門 一 壱匁 御初尾 六左衛門 一 壱匁弐分 氏子 同人 一 壱匁弐分 御初尾 加左衛門 一 六分 氏子 同人 一 壱匁 御初尾 六郎左衛門 一 八分 うち子 同人 六郎左衛門子 一 三匁五分 ゑぼしき 彦三郎 一 五分 御はつお 安兵衛 一 壱匁 氏子 同人 右之安兵衛 一 弐匁五分 くわんとう 安左衛門 一 壱匁弐分 御初尾 忠左衛門 一 六分 うち子 同人 一 壱匁弐分 御はつお 勘左衛門 一 壱匁 氏子 同人
これは第七号氏子駈(元禄7,1694)より一つの集団に関する記録を抜粋したものである。 集団ごとにまずその集団の居住した土地または山の名前があり、続いて寄進された金額、 項目、人物名の順に記されている。また親子関係についての補足がある場合も多い。この 集団には合計10名の木地師ががそれぞれ御初尾・氏子・くわんとう・えぼしぎという種類 の寄進をしたことが記録されているが、氏子かりの主な寄進の項目としては次のものがあっ た。
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氏子かり料 … 一家の人数分支払う一種の住民税のようなもの(一人二分) 初穂(はつほ) … 筒井八幡宮への志(任意の額) 官途成(くわんと ) … 名目上の宮の官職に着くための寄進 (三匁五分) 直途(なおしど) … 筒井八幡宮の宮人の席に着く際の寄進(二匁) 烏帽子着(くわんと) … 木地師の子が成人の儀を行う際の寄進(二匁五分)
氏子かり料と初穂は氏子駈ごとに毎回支払われたが、官途成・直途・烏帽子着は一生に 一度限りの寄進であり、また比較的裕福な木地師によってのみ支払われていたものである。 なお初穂・官途成・直途・烏帽子着の寄進からは支払った木地師の名前のみまたは親子関 係を知るところに限られるが、氏子かり料からはその木地師が代表している家族の人数を 想定することができる。 例えば与州松山久万畑野川山木地やの庄左衛門は一匁四分を氏子かり料として納めてい るが、氏子かり料は一人当たり二分であるので庄左衛門一家は7名家族であることになり、 この集団全体としては33名によって構成されていることがわかる。
以上のように氏子駈帳は金銭のやりとりの記録に限らず、木地師の生活に関する情報を 多く含み、木地師の生活空間を明らかにする手がかりとしての可能性を持っている。次節 では氏子駈帳を資料として用いる方法について説明する。
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1-3 研究手法
基本的な手法として『永源寺町史木地師編上巻』所収の各号氏子駈帳に記載されたそれ ぞれの集団の位置情報ををマッピングし、比較・考察する。例えば次ページの図3は第十 三号氏子駈での廻国地を地図上に表したものであり、この氏子駈では九州から東北地方ま で広く廻国があったことがマッピングにより可視化される。このような地図で各時代の氏 子駈を比較していくことで、廻国範囲の変遷を確認することができる。
図3 第十三号氏子駈(延享1,1744)の廻国先
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また氏子駈帳には各集団が廻国順に記録されているため、各地点に廻国順に番号をふり、 氏子駈の廻国経路を推測することができる。(図4)なお基本的には地形図にマッピング を行うが、江戸時代の藩領の配置を示す地図などを使用する場合(図5)もある。
図4 第七号氏子駈(元禄7,1694)の廻国先・廻国順と地形図 中国山地
図5 第七号氏子駈(元禄7,1694)の廻国先・廻国順と藩領の境界 中国山地
位置情報の他には寄進に使われた貨幣の種類のマッピングも研究に用いる。(図6)氏 子駈は一人当たりの氏子駈料、官途成、直途、烏帽子着の寄進額は銀を単位として定めら れているなど、当時西日本で主な高額貨幣として使用されていた銀が制度上の中心的な貨 幣であったが、西日本でも例外的に金が寄進に使われたり、また廻国範囲の拡大や時代の 変化とともに銭が多用される地域もあり、それらは必ず「金○両」、「銭○文」などと貨 幣の種類を明記して記録されていた。使用された貨幣の種類は地域経済との距離感を表す 指標となるため、木地師の社会を知るための重要な手がかりとなる。
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図6 第七号氏子駈(元禄7年,1694) 木地師の使用した貨幣の種類 (青:銀貨, 黄色:金貨,ピンク:銭貨)
以上のように本研究では各号氏子駈の廻国地を地図上に落とし込み、氏子駈ごとに記録 された木地師の所在地を可視化するという基本的な作業を繰り返しつつ比較・応用し、地 形図、主要な街道、藩領の境界、標高などと照らし合わせることで制度そのものの拡大や 縮小、地域ごとの移住のパターン、廻国ルート、生活領域、交通路、個人の移住歴などを 明らかにしていく。
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1-4 氏子駈帳に記録される木地師の生活空間
すでに本章の冒頭で述べたように、氏子駈帳は寄進の記録でありながら動的な職能集団 の人別帳として、木地師の移住史の記録として木地師の生活にまつわる時間・空間を内包 している。木地師一人一人が集団を構成し、家族を何人持ち、世代交代をし、またその中 でどのような移住生活を送っていたのか。地域ごとの木地師の移住の頻度や山林の利用に ついて持っていた認識は同じであったのか。または廻国人はどのような順序でそれぞれの 地方を、どの程度の時間をかけて巡っていたのか。廻国範囲はどのように変化して行くの か。移動する点、または点群としての木地師の各時代における所在地からは何を読み取る ことができるのであろうか。 各号氏子駈での廻国地を地図上で可視化し、時間軸に沿って比較する中でその「移動」 に重点を置いて考察していくと、その移動範囲の縮小・拡大の変遷や移動・移住経路にの みならず、木地師による山林の空間利用、生活領域、木地師同士の人間関係、社会構造ま でもが明らかになるのである。本章では移動の記録としての「氏子駈帳」にフォーカスし たが、次章では氏子駈帳に記録された「移動」をテーマとし、記録に内包された木地師の 生活空間を明らかにしていく。
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2 木地師の移動 2-1 氏子駆帳以前の木地師の移動 1) 制度 2) 記録 3)蛭谷と交流のあった地域 4) 木地師ネットワークの拡大に向けて 氏子駆制度の整備 2-2 全国へ展開する氏子駆 1) 氏子駆制度の展開と縮小の流れ 2) 氏子駆に要する時間 2-3 木地師の移動と地域 中国山地と紀伊半島の比較 1) 木地師の移住パターンと地域性 2) 廻国人のルートと藩領の境界 2-4 個々の木地師の生涯と移住 1) 中国山地 八頭郡の木地師 2) 信州 伊那谷の木地師
2 木地師の移動
3世紀に渡る位置情報の記録を基に、本章では木地師の移動、その動線や範囲に注目す る。 本章の構成としてはまず2-1で氏子駈制度の確立経緯を踏まえてから、2-2では全国的な スケールでの廻国対象地域すなわち廻国人の移動範囲の変遷について、2-3では各地域ごと に俯瞰するスケールでみる木地師の移住パターンとその地域性について、また地域ごとの 廻国人のルートについて、2-4ではさらにスケールをシフトしてある一人の木地師とその家 族の生涯の移住過程について、というように節ごとに縮尺を上げ、全国的な集団としての 木地師から個人としての木地師までその移動の実態を明らかにしていく。
2-1 氏子駈帳以前の木地師の移動
第1章にて氏子駈と正保4年(1647)より記録が始まる氏子駈帳について説明したが、 第一号氏子駈帳以前にも木地師は存在し、また蛭谷はその管理者としての役割をすでに持っ ていたようである。ただ記録は断片的で、また第一号氏子駈帳以後とは異なる方法での諸 国の木地師との関係保持が試みられていた。 より丁寧な記録としての氏子駈帳が残されるようになる前にはどのような木地師の移動 があったのか、制度・記録・交流のあった地域について触れながら17世紀後半の氏子駈制 度発展に至る経緯についての本研究での認識を共有する。 1) 制度 氏子駈帳以後の木地師のネットワーク形成はその全てが氏子駈の寄与するところといっ てもいいほどだが、氏子駈帳以前はそうではなかった。慶安2年(1649)まで存在したも う一つの制度とともに説明する。
ⅰ) 氏子駈 氏子駈帳こそ正保4年まで制作されていないが、氏子駈自体はそれ以前より存在した。 しかし、あくまで蛭谷の氏子惣代のような存在であった大岩氏の庶流とされる木地師たち
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の元を廻国していたようであり、廻国は氏子駈帳以後に比べて小規模であったことが推測 される。
ⅱ) 交代神主制 専用の記録もなく、氏子駈も小規模であったと考えられる氏子駈帳以前の蛭谷には、交 代神主制と呼ばれる制度が慶安2年(1649)まで存在した。これは諸国に散在していた大 岩氏庶流の木地師が蛭谷に出戻り、筒井八幡宮の神主を1年間を勤めるというもので、蛭 谷から過去に諸国へ移住していった木地師とその子孫に交代神主としての任務を課すこと で、蛭谷への帰属意識を維持させようと試みたものと考えられる。蛭谷にで向かう必要が なく、数年おきにやってくる廻国人に金銭を支払えばよい氏子駈に比べて負担が重いもの であった。寛永4年(1627)の記録に「三月五日より当国麻生山轆轤師新左衛門筒井の神 主を勤ける古来ハかやうに国
の木地屋中間より神主を望てつとめける」とあり、この時
点ではすでに諸国散在の木地師が交代神主を勤めにくることは稀になっていたということ が確認できる。
2) 記録 氏子駈専用の記録である氏子駈帳が残されるようになるまで、氏子駈や諸国よりやって きた交代神主については、大岩氏の当主である代々の大岩助左衛門の日記である「大岩助 左衛門日記」に蛭谷や木地師の諸々の出来事の一つとして記録されていた。しかし記録と はいっても、氏子駈であれば、
同四丙年(1576) 四月十九日筒井八幡宮修復のための諸国轆轤師等へ廻国し氏子駈を 仕始ける大岩助左衛門願人にて土産にあいすとふくろ薬を神酒にて粘り筒井根源丹と銘を 書是を持参しける此丹ハ東白庵の調合也後代に持参したるハ大覚寺乗坊の制方なり今日当 国麻生山木地屋にて帳始
というように年・日付・廻国を開始した場所などに情報は限られる。 氏子駈帳のように尋ねた木地師一人一人の名前、家族関係やそれぞれの廻国時点での所 在地、支払われた額などの被廻国者としての木地師たちの情報は一切記録されず、廻国を
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行なった側の立場についての簡易な記録にすぎなかった。ただ、土産物として配るために オリジナルの薬を持参していたというような記述は興味深い。
同様に交代神主制に関しても、
同十八癸丑年(1613) 三月五日濃州本巣郡板屋谷木地屋助左衛門今日より筒井の神主 を勤ける此者ハ大岩氏の庶流なり
と簡潔に記録してある。あくまで出来事としての記録であり、この時点では木地師のネッ トワークそのものを記録するという発想はまだみられない。しかし大岩助左衛門日記から も蛭谷と氏子駈や交代神主制を通して関わりがあったいくつかの地名は確認できた。
3) 蛭谷と交流のあった地域
和暦
西暦
日付
天正4
1576 4/19
四月十九日筒井八幡宮修復のための諸国轆轤師等へ 国 し氏子駈を仕始ける大岩助左衛門願人にて…今日当国麻 生山木地屋にて帳始弐拾壱軒也
氏子駈
文禄3
1594 2/13
二月十三日筒井の氏子駈に今日より
氏子駈
慶長8
1603 5/14
五月十四日より八幡宮の氏子駈の 国に出る此時京都へ 始て行ける所洛中に木地屋…十四軒有
氏子駈
慶長18 1613 3/5
三月五日濃州本巣郡板屋谷木地屋助左衛門今日より筒井 の神主を勤ける此者ハ大岩氏の庶流なり
交代神主
元和6
1620 5/13
五月十三日門出にて助左衛門尉重成筒井本社うハふきの ため木地屋中へ氏子駈に 国するなり (『言伝草』に 「安芸乃広嶋より大坂へ船に乗ケるが…と同年の記録が ある)
氏子駈
寛永4
1627
三月五日より当国麻生山轆轤師新左衛門筒井の神主を勤 ける古来ハかやうに国 の木地屋中間より神主を望てつ とめける
交代神主
五月十四日八幡宮氏子駈に今日より 国する今度奉加の ために縁起を木地師中へ始てまハしける
氏子駈
寛永16 1639 5/14
国する
表1 「大岩助左衛門日記」より氏子駈と交代神主に関する抜粋(『永源寺町史木地師編』)
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大岩助左衛門日記からは氏子駈に関して5件、交代神主制に関して2件の記録があり、抜 粋して表1にまとめた。それらの記録で言及された地方は大岩氏の庶流であることが多く、 すなわち過去に蛭谷より諸国へ移住して行ったとされる木地師である。 以下、大岩助左衛門日記に言及された土地と蛭谷との間に合った往来や関係ついて触れ ていく。
ⅰ) 麻生山 現在の高島市朽木村麻生に当たる土地であり、氏子駈帳以降も32回のうち18回の氏子駈 での出発地として記録されている。平均的な廻国先の一つというよりは蛭谷・京都と並ぶ 氏子駈をとりおこなう側に近い存在の木地師の村であり、移住を繰り返す数多の木地師の 記録のなかでは少数派である、木地師常在の山村であったと考えられる。
ⅱ) 京都 慶長8年に記録のある京都も氏子駈に密接に関わる土地である。氏子駈の出発地として の朽木村麻生に対して、京都は氏子駈における最終地点であることが非常に多い。氏子駈 帳以前より管理側としても蛭谷と関わっていた京都の吉田家の存在については2-1-4で常任 神主制とともに説明する。
ⅲ) 中国山地 安芸国 元和6年の廻国の後に広島から大阪へ船で帰路についた、という内容が蛭谷に残る記録 の一つである「言伝草」に大岩助左衛門日記と並行して残されている。中国山地は最も古 くから氏子駈などを通して蛭谷との交流があった地域であると考えられる。
ⅳ) 濃州 慶長8年(1630)の交代神主についての記録から、濃州本巣郡には大岩氏庶流の木地師 がいたことが確認できる。氏子駈帳上に濃州への廻国の記録があるのは初回の第一号氏子 駈での一箇所への廻国を除いて宝永4年(1707)の第八号氏子駈以後であるが、蛭谷との 古くから関係のある土地であるといえる。
以上のように、大岩助左衛門日記に言及された氏子駈・交代神主制に関する地名は僅か であるが、中国山地方面への氏子駈の記録、濃州の木地師が交代神主をつとめに来た記録
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は重要であり、これにより蛭谷の庶流とされる木地師が氏子駈帳以前より東西両方面へ移 住していたことが確認できた。
4) 木地師ネットワークの拡大に向けて -氏子駈制度の整備 交代神主制が寛永4年(1627)には「古来ハかやうに国
の木地屋中間より神主を望て
つとめける」と綴られるほどには過去のものとなり、木地師は制度の刷新を試みたのか慶 安2年より新たな制度として常神主制が定められる。 常任神主制は第一号氏子駈帳よりと同時期の慶安2年(1649)に京都の吉田家によって 認証されることで始まり、これによって専業の神主が置かれるようになったことで毎年次 の神主を選ぶ必要がなくなった(吉田家は京都に住まい神社を管理していた神道家の一族 で、その後も新たに筒井八幡宮の神主となる人物に神道裁許状を出したり、問題が生じた ときには対応するなど蛭谷の背後に常にいた存在である。)。 また専業の神主が置かれたことで、氏子駈を管理する立場にある人物が毎年変わるとい うこともなくなり、諸国の木地師を管理する団体としてもより安定したことが推測できる。 常任神主制の認定の二年前には、現在存在する限り初めての氏子駈専用の記録である第一 号氏子駈帳が制作されており、木地師ネットワークの意識的な改革があったことが窺え る。 改革前、といえる大岩助左衛門日記にのみ記録された氏子駈と交代神主の時分には、木 地師の交流というのも蛭谷と元蛭谷住人である大岩氏庶流の木地師たちとの内輪の往来に 限られていたが、この改革を経て蛭谷から出て諸国へ尋ねていくという外交的な手法の氏 子駈に重きが置かれることで、初めは大岩氏庶流の木地師のいた地域中心であった蛭谷も 積極的にそれまで往来のなかった地域への廻国に積極的な姿勢をみせるようにる。 氏子駈による木地師ネットワークに新たに加わるのは、大岩氏庶流という血縁関係に限 らない同業者としての木地師、もしくは杓子師などの木工に携わる人々であったが、蛭谷 は全ての木地師は轆轤の発明者である惟喬親王に所以するものであるという伝説をどの木 地師にも広めていくことで、明確な血縁関係がなくとも職能集団としてのネットワークの 確立を試みていくと同時に、木地師の根元地としての小椋谷の立場を固めていった。
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2-2 全国へ展開する氏子駈
制度専用の記録である氏子駈帳が残されるようになると、氏子駈は新規廻国先を獲得と ともに廻国範囲を拡大していくが、氏子駈帳第一号から第三十一号までの約250年の間に は木地師にとって苦境ともいえるような時期もあった。本節では氏子駈帳の記録が始まり から終焉までの氏子駈制度の廻国対象地域の変遷過程と、氏子駈にかかった時間について 整理する。なお氏子駈の廻国対象地域の変遷とは、すなわち廻国人の移動範囲の変遷であ る。本節は蛭谷の人物が一度の廻国にどこまで足を伸ばしていたのか、というテーマとし て捉えることもできる。
1) 氏子駈の展開と縮小の流れ 氏子駈帳記録開始直後の氏子駈から、その発展、衰退、終焉と4段階に分けて氏子駈の 廻国範囲の変遷についてみていく。
ⅰ)氏子駈帳記録開始直後 若狭以西を中心とした古くから蛭谷に縁のある土地への廻国
図1 第三号氏子駈(寛文5,1665)の廻国先
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第一号氏子駈(正保4,1647)から第三号氏子駈(寛文5,1665)にかけては図1の例のよ うに若狭以西と四国へ廻国している。例外的に第一号氏子駈で美濃で一箇所廻国している が、これらは2-1で説明したように大岩氏庶流であったりするなど、氏子駈帳初期にはも とより蛭谷と縁の深かった地を主に廻国していたといえる。
2) 新たな廻国先を迎えながら広域化する氏子駈
図2 第十三号氏子駈(延享1,1744)の廻国先
第四号氏子駈のあった寛文10年(1670)から、氏子駈はこれまで廻国してこなかった 紀伊半島・中部・九州・東北へとその範囲を広げて行く。 まず初めに廻国先に加わった地域は紀伊半島であり、第四号氏子駈(寛文10,1670)の 際の数カ所の廻国から始まり、氏子駈を重ねるごとに廻国箇所も増えていった。紀伊半島 の木地師は轆轤を使用しない杓子の制作を職業とする杓子木地の土地として有名であり、 彼らはもとより縁のある木地師たちではなく後天的に蛭谷の管理下に入った者たちであっ たと考えられる。
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続いて第八号氏子駈(宝永4,1707)より中部、九州へも廻国するようになり、一度の氏 子駈としての廻国箇所数は第八号で最大となる。中部は第一号での廻国を除くとそれまで 廻国がないが、僅か数カ所の廻国から始まった紀伊半島への廻国とは異なり、中部での廻 国は継続的な廻国が始まったといえる第八号の時点ですでに地域内での廻国箇所の数が多 いことが特徴である。これは新規参入と推測する紀伊半島への廻国とは異なり、もとより 関わりがある地方ではあったものの改めて氏子駈の対象地となった、というような廻国の 方法ではないかと考える。美濃は近江と隣あっていることもあり、「氏子駈以外の交流を 続けていたが第八号氏子駈の時分より氏子駈での交流に切り替えた」というような可能性 もなくはない。 同時に廻国が始まる九州での廻国箇所は氏子駈全体を通して、他の地域より少なく、密 度が低いことが特徴である。廻国人は本州・四国の西端から九州へ渡ることが多かったが、 九州の国東半島から直接日野に向かう場合もあり、積極的に海路も利用していた。 廻国先の広域化の最終的な段階として、東北地方への廻国が第十二号氏子駈(元文 4,1739)より始まる。奥州・羽州への廻国は連続的とはいかないものの計6回の廻国が氏 子駈帳に記録されている。 氏子駈帳記録開始時よりすでに90年以上たってからの廻国であるが、奥州へは天正18年 (1590)に蒲生氏郷が豊臣秀吉より出羽の守護を命じられ会津に移住した際、城下町の設 営のために多くの商工業者が招致され、愛知・蒲生両郡の木地屋たちも会津へと随従した ことがあったので蛭谷とも無関係ではない。しかし奥州での初めての廻国先は白川領で蒲 生氏の築いた鶴ヶ城の城下町からは離れており、木地師であるので移住を続けた結果とも 考えられなくもないが、蒲生氏が会津に来た時より150年の間氏子駈もなかったことを考 えると、これは別流派の木地師の新規参入ではないかと考える。 以上のように、氏子駈の廻国範囲は第四号から第十三号にかけて広がりをみせた。この 過程で蛭谷の廻国人は旧来の縁のある木地師たちの土地のみならず、今まで関わりのなかっ た地域に足を伸ばして行くことになったが、どのような情報をもとに九州や東北などの遠 方の木地師とコンタクトを取り、廻国に至ったのかは定かではない。しかし、蛭谷は確実 に同族としての同業者という認識とネットワークを広げて行くことに成功した。
3) 変化する廻国先と氏子駈の規模の縮小 氏子駈の規模は広域化の後に時代が下るとともに単純に縮小して行ったのではなく、今 まで通りの廻国が立ち行かなくなるような多重の要因に苛まれながら、最終的に縮小する に至っている。
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ⅰ) 津具村事件後と裁判 通常の廻国が滞った一つ目の要因は文化元年(1804)の津具村事件で、度々君ヶ畑に傘 下に入るよう要求していた京都の白川家が彦根藩や君ヶ畑の承諾なく氏子かりに出たこと が発端である。本研究では蛭谷による氏子かりを氏子駈、君ヶ畑によるものを氏子狩とし て区別しているが、これはそのどちらでもない白川氏子かりとでもいうようなものであっ た。蛭谷はこの異例な廻国に関する情報を事前に得ており、氏子らに白川家には取り合わ ないようにとの廻状を出していた。 白川氏子かりは穏便には立ち行かず、白川家の廻国人は金銭の徴収を拒否した三河の津 具村の木地師から轆轤を取り上げるという暴挙を起こし、信州へ廻国を続けるも宿泊先に 大挙してきた津具村の木地師と百姓らによって「白川様御家来と相名乗り盗賊同様」と白 川家の幕・掛札などを奪い取られてしまう。取り囲まれた廻国人たちは木地師たちの要求 に従わざるを得ず、絵符・紋付提灯・帳面などを差し出し、ようやく京都へ帰ることとなっ た。 この事件は白川家と津具村の木地師・百姓との間の事件であって蛭谷・君ヶ畑は直接関 わっていないが、白川家が裁判に持ち込んだために蛭谷・君ヶ畑双方にが江戸へ出頭を命 じられ、木地師支配権がどこにあるのかという点について3年間争うことになった。なお、 この裁判のために彦根藩や吉田家も江戸へ人を出している。 次第に「木地師の始祖惟喬親王の子孫としての由緒」以外の木地師支配の根拠を提示で きなかった白川家は、彦根藩・吉田家(通常君ヶ畑にとってはライバルにあたるが、この 事件では蛭谷・君ヶ畑両村を支援した)による後援があり、蓄積した氏子かり帳という木 地師支配の資料を持っていた蛭谷・君ヶ畑に対して不利となった。そしてようやく文化三 年になり幕府による裁許が出され、寺社奉行は蛭谷・君ヶ畑両村への木地師支配を古来の ものとして認め、白川家の木地師支配は否定されることとなった。 裁許は降りたものの、長期の裁判は両村にとって金銭的に多大な負担となり、また裁判 の間は氏子かりに出ることができなかった。さらに、彦根藩によって両村が今後争うこと なく一村同様とする姿勢を示すように命じられたことでさらなる廻国の滞りが起こる。
ⅱ) 合同廻国 彦根藩は蛭谷・君ヶ畑両村に友好的な姿勢を示すよう求めたが、それだけにとどまらず 具体的な案として、両村に合同で廻国に出るように命じた。
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君ヶ畑側の資料によると「合同廻国」は3回行われたことがわかっているが、これもま た白川氏子かりとは別の異例さをもつ廻国となり、諸国の木地師にも不審がられたため結 果として通常の廻国よりも徴収できた金額は低く、両村にとって不利益であった。 しかも第一回目の合同氏子かりがあったのが文化5年(1808)、蛭谷が合同廻国の廃止 を訴えたのが文政5年(1822)、蛭谷・君ヶ畑がそれぞれの氏子駈・氏子狩に出ることが できたのが文政9年(1826)であるので、双方ともに18年もの間満足に氏子駈・氏子狩に 出ることができなかったことになり、直接は関係のない事件である津具村事件がきっかけ となった合同廻国の影響は長期間に及んだ。一旦は落ち着きを取り戻し廻国は再開された ものの、木地師は自身たちではどうにもならない事象である、自然災害によって苛まれる こととなる。
ⅲ) 天保の大飢饉 木地を売って得た現金収入によって生活を維持していた木地師たちは飢饉が起こると食 料を買うことができなくなるため、甚大な被害を受けることになる。あくまで表現である が、木曽には「木地師は、小判を口にくわえて死んでいた」という言葉が残されている。 (松山義雄「深山秘録」) 天明の大飢饉(1782-1787)も天保の飢饉(1833-1839)も特に東北地方に被害が大き かったとされる飢饉であるが、木曽には農民から食料を打ってもらえなくなったことから 全員が死に絶えてしまい消滅した木地師集落についての逸話が残っている。(「深山秘 録」)飢饉の被害が小さかったとされる地域であっても木地師には大きい被害が及んだよ うである。 合同廻国停止後蛭谷は廻国を再開するものの、天保の飢饉の前後の廻国範囲は近畿・四 国・中国に限られ、その後も第十三号氏子駈(寛文5,1665)のように4年間で九州から東 北まで廻国するというような規模の氏子駈は行われず、廻国は地域を限定し、ペースを落 として続けられることとなった。
ⅳ) 明治維新にともなう戸籍制度の始まりと氏子駈の終焉 すでに津具村事件と合同廻国、天保の飢饉などによって縮小・変容した氏子駈は明治維 新後の戸籍制度の制定にともなって終焉へと向かう。氏子駈の最中に大政奉還が起ころう とも廻国を中断しない木地師であったが、戸籍制度には対応せざるを得なかったようであ る。
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居住する地域の宗門人別改帳に記載がないことを役人に問われた木地師たちは、蛭谷・ 君ヶ畑の人別帳に自身についての記載があることの証明を迫られるようになり、その確認 作業と手紙のやりとりに追われた蛭谷は明治十一年(1878)に木地師戸籍を取り調べる際 の費用を徴収する氏子駈も行っている。その後も廻国に加え郵便局を通しての金銭のやり とりという新しく現代的な方法での氏子駈が続くが、明治26年(1893)の第三十一号氏 子駈での東北・中部への廻国を最後に記録されなくなってしまう。 戸籍制度への対応の完了とほぼ同時に氏子駈帳は途絶えるが、その後数回は記録のない 氏子駈があったという証言が残っている。これは氏子駈自体というよりもその丁寧なアー カイブとしての氏子駈帳こそが木地師の立場と生活を保証する際に大きな意味をなしてい たことを明らかにしているのではないだろうか。 寺請制度下において蛭谷は氏子駈を通じて諸国散在の木地師たちのを人別帳に記録し、 その身分を遠方の檀家として保証してきたが、トラブルが生じた際には身分を証明するに も、税の支払いを証明するにも、その記録がなければ遡って証明することができない。 しかし居住する地域に戸籍を移してしまえば氏子駈も形骸化してしまい、氏子駈帳もま た身分保障としての機能を失ってしまうため、戸籍制度以後の氏子駈には記録が残らなかっ たのではないだろうか。そしてその間には世の中の劇的な変化とともに定住し木地業をや めて他の職につく者も増え、素人と玄人の差も曖昧になり、氏子駈帳をともなう氏子駈だ けでなく記録外の氏子駈も終焉することとなってしまった。
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図3 第二十九号氏子駈(明治13,1880)の廻国先
2) 氏子駈に要する時間 正保4年(1647)から明治26年(1893)まで続いた氏子駈であるが、一度の氏子駈に はどの程度の時間をかけていたのだろうか。氏子駈の開始時、終了時、要した年数、廻国 先を表2にまとめた。
ⅰ) 廻国範囲拡大に伴う長期化と氏子駈の重複 初めこそ西日本の中で数ヶ月間廻国する規模であった氏子駈だが、その廻国先の拡大と ともに一度の氏子駈にかかる時間も長くなり、第一号から第七号氏子駈までは最長でも一 年半の間に各地方を回って終了していたのが、第八号氏子駈では7年以上という長期間に なる。 これは一組の廻国人が7年間ずっと氏子駈を行っていたというわけではなく、地域ごと に分けて行った氏子駈を5∼13年ほどの区切りで氏子駈一号分としていたことが実情であ
36
り、実際に廻国人が一度に諸国を出歩く期間としては1ヶ月から1年と数ヶ月までであった と考えられる。 第八号(1707-1714)から第十三号(1745-1749)にかけて廻国の頻度は高まり、第十 号(1727-1735)と第十一号(1735-1737)の間は一年もあいていない。そしてついに第 十五号(1752-1765)では廻国中に次の氏子駈である第十六号(1760)を途中に挟んで いることになり、この辺りから一号分の氏子駈としての区切りが複雑になっていく。 第二十号(1799-1846)は氏子駈帳上47年以上にわたって行われたことになるが、もは や一号分としての区切りは初期とは完全に異なるものになっている。
ⅱ) 天災・事件による廻国の滞り 47年間かかったとされる第二十号氏子駈であるが、これも含めて他の異常に長期化した 氏子駈が行われている間、前後には天災・事件が起こっていたという共通点がある。第十 号の最後の廻国(1735)の3年前には享保の飢饉(1732)が、同じく長期化した第十八 号(1781-1800)の途中には天明の飢饉(1782-1787)、さらに第二十号の廻国開始後に は津具村事件(1804)を発端とした解決までの3年間とその後の合同開国(1808、1802、 1815)という負担の大きい出来事があり、第二十一号(1832-1867)の開始直後には天 保の飢饉(1833-39)が起こっている。 第二十号や第二十一号では開始直後から事件が起こったために長期間をかけて全国各地 から少しずつ徴収していったところ、途中でさらなる異常事態が起こり、さらにその傷跡 も大きかったことから結果何十年にも渡ってしまったという状態が想像される。 第二十三号(1846-1852)では第十三号以前と同じような期間での氏子駈が行われてい るが、その後の氏子駈は1ヶ月程度の短期間であったり期間が不明である回が続く。そし て明治維新を経て明治4年(1871)の戸籍法が制定とともに世の中が大きく変化すると、 それに伴った対応を兼ねた氏子駈が活発化し、終焉となる。
氏子駈n号というひとまとまりはあったが、一つから数個の地域を数ヶ月かけて回ると いう行為をどれだけ頻繁に行っていたかに注目した方が、氏子駈の管理を行う蛭谷に流れ ていた時間を想像しやすいのではないかと考える。 隣り合う地域を数ヶ月かけて巡っただけでも故郷とは異なる点を多く発見し、新鮮さを 感じることが多かったに違いないが、一年かけて江戸や陸奥・出羽まで廻国した際にはそ の期間の長さも相まって衝撃的な時間となったのではないだろうか。
37
氏子駈の中の小さな一区切りに注目すると、見たことのない土地へ赴く特別さに加え、 諸国の廻国を終えて蛭谷に戻る頃には体力も消耗しきった廻国人の様子が想像される。
表1 開始
終了
詳細
国先
国にかかったおお
よその年数
1号(1647)
正保4
1647 正保5.1
1648
近畿*1/伊予/中国/美濃
?
2号(1657)
明暦3
1657 ?
1657
近畿/伊予/中国
?
3号(1665)
寛文5
1665 寛文6.6
1666
近畿/中国/伊予
?
4号(1670)
寛文10
1670 寛文12.2
1670
近畿/中国/伊予
1年以上
5号(1679)
延宝7.9
1679 ?
6号(1687)
貞享4.9
1687 元禄1.10
7号(1694)
元禄7.3
1694 (元禄8.2以降)
8号(1707)
宝永4.2
1707 ?
9号(1720)
10号(1727)
11号(1735)
享保5.10
享保12
享保20
1735 元文2.閏11
13号(1744)
延享2.7
14号(1749)*2 宝暦2.6 15号(1751)
1740 延享1.6
1745 寛延2.9
1752 明和3.2
16号(1758)
宝暦10
1760 宝暦10.2
17号(1774)
安永3
1774 (安永4.1以降)
1712 中部/大阪/四国/九州 1714 中国/中部
享保5.10-6.2
1720 近畿/因幡
4ヶ月
享保6.8-6.12
1721 近畿/中国
4ヶ月
享保7.9-
1722 中部/京都
1735 享保12.?-12.7
1727 近畿/九州/中部
2ヶ月
1735 大阪/四国/九州/中国/京都
6ヶ月
7年以上
1年未満
2年以上
1737 享保20-21.2
1735 近畿 1736 中部 1737 近畿/中国/九州/四国
1744 元文5.4-5.9
1740 近畿/中国/九州 1740 近畿
3ヶ月
寛保2.4-2.12
1742 中部/大阪/四国
8ヶ月
寛保3.7-延享1.6
1743 陸奥/中部/江戸/京都
1749 延享2.7-2.11
4ヶ月
延享3.5-4.2
1746 陸奥/出羽/四国/近畿
9ヶ月
延享4.5-5.1
1747 中部/中国/九州
寛延2.8-2.9
1749 陸奥
1766 宝暦2.6-3.2
8ヶ月
宝暦13-13.12
1763 越前/中部
1年未満
明和2.7-3.2
1765 大阪/四国/九州/中国/京都
1760
1774 近畿
1ヶ月
安永3.7-3.9
1774 四国
2ヶ月
安永4.1-
1775 近畿
1800 安永10.2-10.4
1776 中部
安永5.7-5.8
天保3.6
22号(1843)*4
天保14
1843 ?
23号(1846)
弘化3.8
1846 嘉永5.11
24号(1857)
安静4.4
1857 ?
25号(1867)
慶応3.10
1867 慶応3.11
26号(1878)
明治11.4
1878 ?
27号(1878)*5
明治11.4
1878 明治11.5
28号(1880)
明治13.4
1880 ?
安永10.8-
1781 中国
天明2.11-2.12
1782 近畿
寛政5.3-5.6以降
1793 近江/越前/中部
寛政12-12.8
1800 中国/九州
1797
1799 近江
? 1ヶ月
1ヶ月 3ヶ月以上 1年未満
4ヶ月
1801 近江/中部
2ヶ月
1804 美濃/越前
1ヶ月
文政9.4-9.11
1826 関東/中部
7ヶ月
天保3.5-
1832 近畿
天保4.4-
1833 近畿/中国
弘化3.10
1846 九州/美濃/伯耆
天保3.6-3.6
1832 近畿
5ヶ月
天保3.9-3.11
1832 四国
2ヶ月
天保6.4-6.閏7
1835 近畿/中国
3ヶ月
天保13.8-
1842 近江
天保14.6-
1843 近江/北陸/中部/日向
弘化2.4-
1845 近江/中国
弘化3.4-
1846 近畿/美作
弘化4.1-
1847 美作
嘉永2.4-
1849 中部/陸奥/出羽/越後/関東
万延1.10-
1860 美濃・江戸
慶応3-
1867 京都
47年以上
35年以上 ?
近江/北陸/中部/日向 嘉永5.8-5.11
1852 中部/北陸/甲斐/中部
3ヶ月
近畿/中部/北陸/陸奥/下野/出
1867
38
1878 明治13.4-13.8
19年4ヶ月
1ヶ月未満
文化1.10-1.11
1846 近畿/中国
1年
6ヶ月以上
享和1.3-1.5
弘化3.8-
13年8ヶ月
3ヶ月
四国 寛政11.9-11.9
1832 ?
1781 近畿/因幡
4年2ヶ月
2ヶ月未満
安永3.2-3.3
1781 寛政12.8
21号(1830)
7ヶ月
近畿
1775 中部/越前
4年2ヶ月
8ヶ月 1年1ヶ月
1753 近畿/中国
安永10.2
1799 ?
1年
1745 近畿/中国
18号(1780)
寛政11.9
10ヶ月
元文5.11-6.2
1776 安永4.8-4.11
20号(1799)
7年以上
1727 近畿/中国
享保20.閏3-20.9
1775 安永5.8
17971寛政9.11
7年以上
享保12.10-12.10
安永4.8
寛政9.閏7
(5ヶ月以上)
正徳4.4-
32号(1775)*3
19号(1797)
1707 近畿・美濃
正徳2-
元文2-2.閏11
元文5.4
1年以上
近畿/伊予/中国
元文1.8-
12号(1739)
1年1ヶ月
近畿/中国
1714 宝永4.2-4.7以降
1720 ?
1727 享保20.9
?
近畿/中国/伊予
1688
6年3ヶ月 ?
羽/
1ヶ月
近畿 中部/越前/関東/伊勢
?
中部/関東/近畿/四国
1ヶ月
1880 近江/中部/越前/陸奥
4ヶ月
22号(1843)*4
天保14
1843 ?
23号(1846)
弘化3.8
1846 嘉永5.11
24号(1857)
安静4.4
1857 ?
25号(1867)
慶応3.10
1867 慶応3.11
26号(1878)
明治11.4
1878 ?
27号(1878)*5
明治11.4
1878 明治11.5
28号(1880)
明治13.4
1880 ?
嘉永2.4-
1849 中部/陸奥/出羽/越後/関東
万延1.10-
1860 美濃・江戸
慶応3-
1867 京都
35年以上 ?
近江/北陸/中部/日向 弘化3.8-
1846 近畿/中国
嘉永5.8-5.11
1852 中部/北陸/甲斐/中部
3ヶ月
近畿/中部/北陸/陸奥/下野/出
?
羽/
1867
1ヶ月
近畿
1878
6年3ヶ月
中部/越前/関東/伊勢
?
中部/関東/近畿/四国
1ヶ月
明治13.4-13.8
1880 近江/中部/越前/陸奥
明治14.11-
1881 近畿/四国
4ヶ月
1年半以上
29号(1880)
明治13
1880 明治15.6
30号(1883)
明治16
1883 ?
中部
?
31号(1893)
明治26.旧暦4
1893 ?
陸奥/信濃
?
1882
中部/北陸/近畿/四国
↑()内の年号は表 *1 若狭は近畿に含める 紙・前文に記載され *2 14号は15号の冒頭とほぼ一致する たもの *3 人別帳 *4 22号は21号と同時に記録された寄進帳 *5 木地師戸籍取調費集帳
表2 氏子かりに所要する時間(参考「永源寺町史通史編」)
39
1年半以上
2-3 木地師の移動と地域
前節では本州・四国・九州の廻国範囲全体を俯瞰できる縮尺で氏子駈の展開、廻国人の 移動範囲の変化をみてきたが、本節では地域ごとの木地師の所在地の変容、または各地域 内での廻国人のルートに注目する。
1) 木地師の移住パターンと地域性 中国山地と紀伊半島の比較 氏子駈というのはあくまで制度であるため、蛭谷もしくは君ヶ畑の管理下にない、また は氏子かりに応じない木地師たちは氏子かり帳に記録されることがない。そのため氏子駈 帳上の廻国先の変化は木地師の移住史そのものであるとはいうことができないが、継続し て廻国があり、廻国箇所も多い完全な氏子駈管理下の地域に限定していえば、廻国先の変 化を木地師の移住史として捉えることができる。 しかし氏子駈の対象地域であっても、東北や九州などの連続した廻国が少ない地域や、 四国のように山地によって蛭谷の管理下である場所とそうでない場所がある場合は本節で は調査対象に入れることができない。 連続した廻国があり、山地全体が氏子駈管理下にあるという条件を満たしているのは但 馬・播磨・因幡・伯耆・美作の中国山地の東側一帯と紀伊・大和・伊勢の紀伊半島であり、 本節ではこの二つの地域内での木地師の移住パターンと、その特色について明らかにして いく。
まずは各地域の廻国先の移り変わりを比較するために、中国山地と紀伊半島それぞれの 第5,7,9,11,13,15号氏子駈での廻国地を点で示した地図(p41,42)を制作した。
40


41
図4 木地師の移住パターンと地域性 中国山地と紀伊半島の比較
42
蛭谷や君ヶ畑の主張によれば、木地師は皆さかのぼれば惟喬親王の従者の子孫であるか ら、木地師は先祖の地である小椋谷の筒井八幡宮(蛭谷)や高松御所(君ヶ畑)の氏子で あるのだ、ということになるが、果たして全国の氏子かりに応じる木地師たちはそのよう に一枚岩であり、均質だったのだろうか。 二つの地域の各氏子駈の廻国先を順にみていくと、基本的に廻国先が大きくは変わらな い中国山地に対し、紀伊半島では氏子駈毎に廻国先が大きく変化している。木地師は木地 の材料となる木材を求めて山中に居住し、また木材の枯渇とともに移住していたと考えら れているが、それならば過去に木地師が住んでいた土地でも、木々が再び成長するほどに 十分な時間を空ければ再び居住することが可能になるはずである。 それは中国山地・紀伊半島どちらの地域でも同じ条件のはずであるので、木地師が過去 に居たことのある土地に再び住まうことがどの程度あるのか、氏子駈帳上でいえば以前廻 国した土地に再び廻国することがどの程度あるのかを比較して調べるために、中国山地・ 紀伊半島それぞれでの第5,7,9,11,13,15号氏子駈における廻国の重複について図5,6(p44) にまとめた。
第五号氏子駈(延宝7,1679)から第十三号氏子駈(寛延4,1751)にかけて、廻国先を 示す円をを用いて計6度の氏子駈の廻国先を同時した。一重の円は6度の氏子駈の間に一度 のみ、二重の円は2度、三重の円は3度、というように円の数はその場所に廻国があった回 数を示している。 中国地方での一重の円の割合、すなわち6度の廻国の間に再廻国がなかった場所の割合 はおよそ30%であったが、紀伊半島の場合は倍以上のおよそ63%であった。これは中国山 地では2/3の場所に再廻国があるが、紀伊半島での再廻国は1/3に過ぎないということで、 次なる居住地として新天地を求め続ける傾向が強い紀伊半島に対して、中国山地では一つ の山に長期間に渡って、または繰り返して木地師が暮らしている傾向が強かった。木地師 は木地の材料となる原木の枯渇とともに移住するはずであるが、一つの山に50年以上も廻 国があるということは、木材を継続的に利用していけるような工夫がなされていた可能性 が高い。
43
↑図5 氏子かり各回における廻国先の重複 中国山地 ↓図6 氏子かり各回における廻国先の重複 紀伊半島
44
実際に鳥取県の八頭郡智頭町智頭には江戸時代に植林された杉が現在も残っており、そ の林業景観は平成30年に重要文化的景観として文化庁に登録されている。中国山地の木地 師の地域性は現代にも影響しているようである。 その智頭町智頭への廻国もまた中国山地らしく、第八号氏子駈(宝永4,1707)から第十 五号氏子駈(寛延4,1751)まで7回の連続した氏子駈で廻国があったことが氏子駈帳より わかっている。 表1 6
1-4号
5号
-
因州之内知頭町
-
-
10 因州知頭郡知頭宿
7
11 因州智頭郡知頭町
8 因州知頭宿町人
12 因州智頭郡知頭町
9 因州智頭郡知頭宿
13 因州智頭郡知頭町
14 因州知頭郡知頭宿
16 17 18 表3 第一号氏子駈(正保4,1647)から第十五号氏子駈(寛延4,1751)までの智頭町智頭への廻国 -
-
-
-
15 因州知頭郡知頭宿
19
20
しかし、中国山地においてもそれぞれの廻国先となった山々の中で木地師が全く移住し ていなかったわけではない。智頭町智頭の場合は廻国先が智頭宿という街道に面した宿場 町であるためどちらかというと山中というよりは街中であり、定住して仕上げを担当して いる木地師への廻国であった可能性があるが、山中であれば中国山地でも木々の成長速度 に影響を受けた廻国先の移り変わりがあったようである。 表1 1号(1647)
2号(1657)
吉川 いなは吉川
3号(1665)
4号(1670)
5号(1679)
八頭郡吉川若桜町吉川
いなは吉川木地や
いなは八第(東)郡吉川や
吉川木地や
金丸
吉川金丸木地屋
若杉
因州八東郡吉川若杉木地や 因州八東郡吉川若杉木地山
かね丸木地や
沖の山
因州八東郡沖の山木地や
その他
吉川ノ内たゝ見石 6号(1687)
7号(1694)
8号(1707)
9号(1720)
10号(1727)
因幡八東郡おきノ山
因州八東郡おきの山
13号(1744)
14号(1749)
15号(1751)
吉川山木地屋
吉川山木地屋
同吉川木地屋
因州八東郡吉川村山木地屋
吉川 吉川山 同八東郡おきの山吉川之内かねまる三軒
金丸 若杉
吉川わかすき木地や
沖の山 沖之山木地屋 吉川木地や大たわ
その他
11号(1735)
12号(1739)
吉川
同吉川木地屋 金丸 若杉 沖の山 因州八東郡おきの山木地屋 因州八東郡おきの山木地屋
沖山木地屋
その他 16号(1758)
17号(1774)
吉川
18号(1780)
19号(1797)
20号(1799)
21号(1830)
同国吉川山
同国八東郡吉川邑山
金丸 若杉 沖の山 その他
表4 第一号氏子駈(正保4,1647)から第二十一号氏子駈(文政13,1830)までの八頭郡若桜町吉川への廻国
45
21 22
因州知頭郡り上市場 因州智頭郡上市場村
-
表4は八頭郡若桜町吉川一帯への廻国の歴史であるが、吉川という行政区分全体でみて いくと第一号氏子駈(正保4,1647)から第十五号氏子駈(寛延4,1751)までの間104年間 に渡って連続した廻国があったことになる。 しかし実際は吉川内に金丸・若杉・沖の山など大字レベルでのさらなる区分があり、そ の中で廻国先は変化していたようで、ひとつひとつの地名に注目して廻国の有無をみてい くと、第二号氏子駈(明暦3,1657)から第四号氏子駈(寛文10,1670)までの間は金丸・ 若杉へ、第五号氏子駈(延宝7,1679)から第十五号氏子駈(寛延4,1751)までの間は主 に沖の山へ廻国、というように吉川一帯の中で廻国のあるエリアが変化している。 一見廻国地が氏子駈ごとにあまり変化しないようにみえる中国山地でも他の地域同様に 木地師の移住があったが、その移住は元の居住地であった山々も再び利用することを前提 としていた、循環のようなものであったのではないかと考える。また対照的な例として、 紀伊半島のように新天地を目指すたびにこれまでの居住地から完全に撤退にする、という 移住パターンの場合は木々の育成への意識があった可能性は低い。自らや子供、もしくは 他の木地師が将来その土地へ戻ってくることを意識していないならば、木々を取り尽くし ても構わないからである。それでも木地師を続けていけるほどの山々と木々が地域内にあ るなら、問題がなかったと思われる。
以上のように、同時代の二つの地域内での廻国先の変化についてそれぞれ調べていくと、 同じ氏子駈、木地師という同業であってもその移住パターンは異なり、強い地域性がある ことが確認できた。蛭谷や君ヶ畑は惟喬親王の縁起を広めることで木地師を管理し、支配 したと表現されることも多いが、氏子駈制度はそれぞれの地域性には深入りせず、庶流の 木地師の多い地域でも、新規に氏子駈の対象となった地域でも、特性をそのまま受け止め ていたことでそれぞれの地域をまとめ上げることができていたのではないだろうか。 中国山地と紀伊半島の木地師の移住パターンの比較からは、氏子駈という一つの制度の 管理下にあっても木地師たちはあくまでそれぞれの地域性のもとに自立した判断を持ちつ づけていたことを読み取ることができた。
2) 廻国人のルートと藩領の境界 木地師には地域性があり、中国山地と紀伊半島の木地師はことなる移住の仕方をしてい たことがわかったが、廻国人はどのようにそれぞれの地域内を移動していたのだろうか。 全国各地の山中へ赴き氏子駈を執り行った廻国人が具体的にどのような道を使っていたの かについては、本来金銭のやりとりの記録である氏子駈帳に残されてはいないが、廻国人
46
は集団ごとの細かな位置情報の記録を残しているためその足取りを大まかに想像すること が可能である。 街道が整備され、他の地域に行くには許可を得た上で関所を通ることが義務付けられて いた江戸時代であるが、廻国人は平地の主要な都市ではなく山中奥深くの各地点を回る必 要があった。2-2-1でも調査対象とした中国山地と紀伊半島の二つの地域での氏子駈の廻国 先とその順序を示す図を制作し、それぞれの地域での廻国人の移動について検討していく。
ⅰ) 中国山地
図7 第七号氏子駈(元禄7,1694)の廻国先・廻国順と藩領の境界 中国山地
地図上で廻国順序を幕領、審判・普代大名領、外様大名領の境界とを重ねた。廻国人は 山々を大きな流れとしては西から東へと向かって進んで行くが、明らかにそこがどこの藩 領であるかに関係なく藩領の境界を何度も超えて廻国を行なっている。 七号目より上方での自由な木地稼業というのは実際には、少なくとも中国山地では認め られておらず、木地師は山村と結んだ契約の範囲内でののみ活動することになっていた (『移動職能集団木地師の活動とそれを支えるメカニズム』松尾容孝 )が、廻国人は山々 を自由に移動していようである。 平坦な土地を中心とした社会では、彼らにとって暮らしにくい山地が自動的に隣合う藩 領との境となっているが、木地師にとってはその境こそが暮らしの中心であり、平地に対 してネガティブとポジティブが反転したような空間を築き上げていた。廻国人の足取りは
47
その木地師のフィールドと呼べるような空間内での移動において、平地の社会の人々によっ て引かれた線は関係ない、とでもいうようなものである。
図8 第七号氏子駈(元禄7,1694)の廻国先・廻国順と地形図 中国山地
また、廻国人は谷筋も利用しているが、中国山地の稜線を跨ぐような「山を越える」移 動も行なっていた。遠方からはるばるやって来た蛭谷の廻国人には地元の木地師たちが代 わる代わる案内人としてついていたと考えられるが、尾根を利用しての移動は戦国時代を 除くと平地の住人にとっては異例のことであるため、これは木地師に特徴的な移動のルー トの取り方であるといえる。
2)紀伊半島(図9,10 p50,51) 第七号氏子駈(元禄7,1694)での紀伊半島への廻国でもっとも特徴的なのは、紀伊・大 和の山々を廻国していた廻国人が北上し、近江の日野へ廻国し、また南下して伊勢・紀伊 へ廻国を続けている部分である。 現代の人間の感覚としても奈良県と三重県の県境と、滋賀県の日野町とは交通の使が良 い地域だという印象は全くないが、それは江戸時代も同様で、決して旧街道で直接繋がっ ているような位置関係にはなくむしろ不便な間柄に感じられる。しかし、地形図と廻国ルー トとを重ねて見てみると、紀伊半島と日野は一筋の尾根(布引山脈)によって繋がってい るのである。標高の高すぎないこの尾根は、紀伊半島の木地師にとって近江方面へ出る際 に非常に便利な「山民往来の道」であったのではないか。
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平地に暮らし主要な交通網を利用している人間にとっては不自然に見える場所のつなが りも、山中に暮らし独自の交通網を持っていた木地師の視点に立ってみるとかえって自然 にみえてくる。廻国人は京都や、近江に暮らした人間であったのでこの道をもともと知っ ていたのか、それとも紀伊半島の木地師がこの南北に連なる山脈を案内したのかはわから ない。しかし、行政区分とは全く異なる木地師の生活圏と、道があったことをこの氏子駈 に記録された一往復の道筋が確実に示している。
中国山地での藩領の境界を縫うような廻国ルートや、紀伊半島での一見わざわざ遠く離 れているようにみえる場所への廻国を地形図や藩領の境界と照らし合わせていくと、平地 の住人にとっては僻地といえるような境界の地こそが木地師の生活空間であったこと、一 見交通を妨げる壁のような存在である山脈がむしろ木地師にとっては近道となり得たこと が明らかになった。氏子駈帳に事務的に記録され続けた位置情報には、建物も残らず既に 失われた木地師としての山中の生活空間を、部分的にアーカイブするような二次的な価値 があるといえる。 本節では一つの地域内での木地師の移住パターンや、廻国人の足取りに注目することで、 その強い地域性、地域ごとの地形の特色があってこその空間利用が存在したことを知るこ ととなった。ここまでは全ての木地師を区別することなく、とある集団、とある木地師と して扱ってきたが、氏子駈には場所ごとに金銭を支払った一人一人の木地師の名前が記さ れている。彼らを一人一人認識し、移住の過程を調べることが可能であるので、次節では 個人の木地師の移動をテーマとする。
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図9 第七号氏子駈(元禄7,1694)の廻国先・廻国順と地形図図 紀伊半島
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図10 第七号氏子駈(元禄7,1694)の廻 国先・廻国順と地形図図 紀伊半島
189,208:吉野郡上北山村白川 190,191吉野郡川上村中奥 192:吉野郡吉野大又 193:宇陀郡御杖村神末 194:一志郡美杉村川上 195:蒲生郡日野町大窪 196,198:多気郡宮川村大杉
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2-4 個々の木地師の生涯と移住
木地師の移動についてそれぞれ全国区での展開、地域別ごとの木地師の分布の変化につ いて考察していくと、氏子駈は全国的な制度でありながらも地域によって移住する頻度や 次なる居住地の選び方にも違いがあり、強い地域性があることが明らかになった。本節で はさらに解像度をあげて、木地師一人一人を識別しながら氏子駈帳に記録された個人的な 移住史を明らかにする。 木地師はこの時代としては当たり前のことではあるものの、生涯の間に名前を変えるこ とがあったり、苗字がない、またはあってもほぼ全ての場合に小椋と名乗っていて個人個 人を特定していくことは容易ではないが、二つの地域で一部の木地師を特定し、その移住 の過程を知ることができた。およそ100年の間氏子駈によって記録された一人一人の木地 師の位置情報の変遷を、表と地図に整理することで個人の生涯と移住を可視化し、考察す る。 1) 中国山地 八頭郡の木地師(図・表 p56,57)
ⅰ) 吉川一円の木地師の人員構成の変化 一つ目には第二節でも調査対象とした中国山地にある若桜町吉川一円の山々に居住した 木地師たちの、第一号氏子駈(正保4,1647)から第十五号氏子駈(寛延4,1751)までの およそ100年間の移住史に注目する。 まず初めに、吉川・沖の山・若杉・金丸・たたみ石という吉川内のそれぞれのエリアで 廻国を受けた木地師たちについて別紙の表5にまとめた。氏子駈帳上で特定することがで きて、また移動を確認することができた木地師は表の中で色をつけ、その他の存在したこ とはわかっているものの移動が確認出るほどの特定に至っていない木地師についてはモノ トーンで表している。 第一号氏子駈では吉川へ、第二-四号氏子駈では若杉・金丸へ、第五,六号氏子駈では吉 川・沖の山、第八号氏子駈以降は主に沖の山へ、というように廻国先は吉川一円の中でも 変化していたことは第二節でも説明したが、一人一人を名前で識別すると第一号から第六 号氏子駈にかけてと、第八号から第十五号にかけてとでは吉川内の木地師の人員構成が完 全に変わっている。 吉川・若杉、金丸・たたみ石で特定できた6名の木地師はそれぞれほぼ氏子駈毎に吉川 内で移住しており、10年未満から最長でも20年ほどの間の短期的な集団の形成・解体を繰 り返している。しかし、沖の山に居住した木地師たちは長期的にほぼ同じ木地師で構成さ
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れた集団を保っており、また氏子駈張上の補足よりこの木地師たちが親子・兄弟などの家 族関係にあったことがわかっている 利左衛門一家は第八号氏子駈から第十三号氏子駈にかけてと、第十五号氏子駈の時点で 吉川内に居住していたことはわかるが、第七号氏子駈以前や第十四号氏子駈の時点での生 活については吉川一円に限定した情報からは知ることはできない。そこで、可能な限り利 左衛門一家の歴代の居住地について特定し、さらに表6を制作した。
ⅱ) 吉川一円内に居住した経歴のある木地師たちのそれぞれの移住歴と土地の循環 氏子駈帳を遡って利左衛門一家の名前を探し出していくと、吉川一円以外に明辺(八頭 郡八頭町明辺)、尾出見(八頭郡若桜町茗荷谷-
米周辺)、落折・坂根・はさり(ともに
八頭郡若桜町落折)、かいこめ(八頭郡若桜町岩屋堂)への居住歴があった。吉川・金丸・ たたみ石に居住していた木地師たちの移住歴についても特定を試みたが、当時木地師によ くみられた名前を名乗っている木地師が多く、また家族構成などの補足もないなど十分な 手がかりを得られず、吉川への居住以前、以後の移住歴については明らかにすることがで きなかった。 特的できる範囲では利左衛門(理左衛門)一家は明辺→尾出見→かいこめ、を経て吉川 沖の山へ移住し、第十四号氏子駈の間には吉川沖の山から以前居住したかいこめへ、そし て第十五号氏子駈の時点では再び吉川沖の山へと、八頭町より入った若桜町を南下した後、 かいこめと沖の山の間を一往復半するような移住が確認できた。 なお氏子駈帳上では利左衛門が1655年から1751年まで記録されており、極めて長命で あったかのようにもみえるが、これは新しい世代の家族による同名継承によるものではな いかと推測する。利左衛門は沖の山での最初の氏子駈で四郎右衛門の父とされていたが、 第十一号氏子駈の時点では集団の記録が利左衛門ではなく、四郎兵衞を先頭にして記述さ れている。 第九号氏子駈までの利左衛門(Sr.)と第十号氏子駈以降の利左衛門(Jr.)の少なくとも 二人の利左衛門がいた可能性があり、四郎兵衞・勘兵衛・彦兵衛が沖の山に氏子駈5回分 もの間暮らしている間にはさり(八頭郡若桜町落折)へ単独で移住していた利左衛門につ いては、利左衛門(Jr.)であると考えている。
第三節では氏子駈のあった吉川一円内の吉川・沖の山・金丸・若杉・たたみ石という土 地を焦点を置いて観察したことで、木地師の分布が吉川→若杉・たたみ石→若杉・金丸→ 吉川・沖の山→沖の山→吉川・沖の山と一円の中で変化し、木地師が居住している、すな
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わち木々が伐採されている土地と、そうでない土地が常にあったことが明らかになり、森 林の保護期間の存在が感じられた。一方本節では一人一人の人物に焦点をおいて移住歴を みていくと、一円の土地を常に同じ集団が巡っていたとは限らず、それぞれの木事業に利 用するエリアが変化する段階で居住する木地師の人員構成は大きく入れ替わることがあっ たことが明らかになった。その時々の伐採可能な山林を木地師が巡り、元いたことのある 山へ回帰的な移住をすることもあれば、新たな土地を選ぶこともある、という具合である。 木地師が決まった土地を循環するとは限らないが、そこにいる木地師が誰であれ土地は循 環していたということができる。 ここまで八頭郡若桜町吉川に居住したことのある木地師の移住歴の特定を試みてきたが、 同地域内であり第三節でも若桜町吉川と同様に研究対象とした八頭郡智頭町智頭に関して も居住した歴代の木地師について氏子駈ごとに調べ、表6内に合わせてプロットした。
ⅲ) 智頭宿の忠三郎 山中定住の木地師(八頭郡智頭町智頭) 端的にいうと、智頭宿では木地師の循環がない。沖の山に吉川一円内での木地稼業の比 重が移った段階で移住してきた利左衛門一家は他の地域より移住を繰り返してきていたこ とが表より明らかであるが、智頭宿への廻国の際に記録される木地師は必ず一人、初期は 忠右衛門、後期は忠三郎(一部三郎右衛門)という 舛屋 と補足のある人物であり、名前 が襲名され続けていた。そこへ新たに移住してくる木地師も、そこから移住していく木地 師も存在しない。 街道に面した智頭宿は他の多くの廻国先とは性質が異なる、定住の木地師がいる土地で あり、常に複雑に移動し続ける木地師たちと廻国人にとってハブとなるような役割があっ たのではないかと推測する。補足の通り枡を作っていたのだとしたら、山中で轆轤を使用 してあら型を削り出す木地師とは必要な作業も異なっていたであろうし、周囲を囲む山林 より木材の提供を受け続けることで定住生活を続けられたのではないだろうか。 八頭郡若桜町吉川への木地師たちの移住歴と、智頭宿への廻国歴とを比較すると移住生 活と定住生活という相反する性質を持っていたと一見されるが、吉川に関連する土地の循 環と移住歴も、智頭宿の木地師の循環のない廻国歴も、どちらも木材の安定した供給なし にはありえないことであった。 土地自体の利用と保護の管理がなければ同じ土地へ移住を繰り返すことは不可能である し、また智頭町智頭に関しても、森林が管理されていた可能性の高い中国山地であるから
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こそ、山中にすみながらも自らは原木を切らずに周辺の木地稼業稼働中の山林より安定し て木材を得る、ということが可能であったのではないかと推測する。 中国山地での木地師の一人一人の移住史を明らかにすると、それが全体に対してわずか 一部であったとしても、その豊かな森林資源の循環と原木を求める木地師の移住過程の交 差や、他の木地師からの供給を前提とした定住の制作環境など、同じ木地師とはいえど荒 型の制作やより仕上げに近い行程などのそれぞれの生業の差によって生じる異なる生活慣 習が認められた。
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2) 信州 伊那谷の木地師 木地師の氏子かりの記録は蛭谷の氏子駈帳の方が古く長期にわたるものであるため本研 究では主に蛭谷のものを研究対象としているが、君ヶ畑も同じく氏子狩帳を残しており、 蛭谷のものに比べてのその規模は小さいものの木地師集団ごとの構成人員をより詳細に記 録してるという特徴がある。そのため、本節の二つ目の例では君ヶ畑氏子狩帳を元により 多くの個人の木地師を特定し、その移住史をたどることにした。 地域として選んだ信州は、源六とその家族についての1745年から1845年間までの100 年間にわたる世代交代と移住歴に加え、移住過程で関わった5名の木地師の移住歴につい ても特定することが可能である。 中国山地の例と同様に、その移住過程を表にまとめ、信州の木地師の人間関係について 考察していく。
ⅰ) 源六とその家族 伊那谷を一周するような移住(図16, p65) 蛭谷とは異なり君ヶ畑の氏子狩では一方面への氏子狩を一冊の氏子狩帳として記録する という特色があり、第六号から第三十九号にかけて信州を含む中部地方への廻国があるの はうち12回である。君ヶ畑の氏子狩帳に第六号氏子狩(延享2年,1745)から第三十九号 (弘化2年,1845)までの間に12回記録された信州の木地師、源六とその家族の氏子狩帳 上計6回に渡る移住に注目し、一人の木地師とその家族たちが生涯の間に具体的にどのよ うな移住をしていたのかについて明らかにする。以下6度の移住それぞれ場所、時期、世 代について説明する
①信州大島山から信州漆平野山へ 源六は第九号氏子狩帳(宝暦6年,1756)に信州漆平野山在住(現下伊那郡泰阜村)の 「(源次郎子)源六」としてもう一人の源次郎子「鶴太郎」とともに一度目となる記録が ある。源六の父である源次郎は第六号氏子狩(延享2年,1745)に信州大島山(現下伊那郡 高森町)在住として記録されているので、信州大島山から信州漆平野山への移住は氏子狩 上での源六一家の一度めの移住となる。
②信州漆平野山から信州押出山へ 二度目の移住は信州漆平野山から信州押出山(現下伊那郡南信濃村和田)への移住であ る。移住の時期は氏子狩第十三号(宝暦十一年,1761)から氏子狩第十七号(明和二
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年,1765)の間で、氏子狩第十七号の時点で源次郎の名はなく、源六の家族として記載が あるのは源六の家内のみである。
③信州押出山からは八重河内山へ 氏子狩第十九号(明和七年,1770)から氏子狩第二十四号(安永四年,1775)の間に信州 押出山からは八重河内山(現下伊那郡南信濃村八重河内)に三度目となる移住をする。押 出山と同じく八重河内山でも源六の他、家族としては家内のみが記録されている。
④八重河内山から小□川山へ 源六一家の四度目の居住先は資料に欠損があり地名が定かではないが、伊那地方の中で 近い地名として小横川山があり、これは5度目の移住先である横川山にも近いこととから 小□川山は小横川山である可能性が高いと考える。 移住の時期は氏子狩第二十四号(安永四年,1775)から氏子狩第三十号(寛政十二 年,1800)の間で、第三十号の記録には「(源六こと)五郎左衛門」と銀右衛門の二人の 名があるが、これは源次郎の子である源六(Sr)が名前を五郎左衛門と改めた可能性と、 源六の息子が源六(Jr)として存在し名前を改めた可能性の二つの可能性がある。銀右衛門 については、5度目の移住先の横川山にて「源六子」と追記がある人物として記録がある ため、二人は親子か兄弟である。
⑤小□川山から上伊那郡横川山へ 五度目の移住は小□川山から上伊那郡横川山(上伊那郡辰野町横川)への、6回の移住 のうち最も距離の離れた場所への移住となる。時期は第三十号(寛政十二年,1800)から 第三十三号(文化九年,1812)の間で、小□川山同様横川山でも氏子狩帳上に源六の名前 はなく、代わって「源六子」と追記のある五郎左衛門と銀右衛門の兄弟が記録されるよう になる。二人は第三十三号(文化九年,1812)より大蔵性を名乗るようになる。
⑤横川山から中田切山へ 第三十五号(文政九年,1826)から第三十七号(天保三年,1832)の間の横川山から中田 切山への移住が氏子狩帳上の源六一家の最後の移住となる。第三十五号の時点では五郎左 衛門、銀右衛門の両名の名前があるが第三十七号(天保三年,1832)では五郎左衛門の名 は見られない。しかし銀右衛門の名のすぐ隣に記された源作という名は家族関係を示す追 記はないものの源六一家に関係のある人物である可能性が浮かばれる。
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以上の源六とその家族の6回の移住をみていくと源次郎、源六、五郎左衛門・銀右衛門 らは生涯のうちそれぞれ2回程度移住し、三世代かけて伊那谷をほぼ一周するような足取 りを君ヶ畑氏子狩帳に残していた。 木地師たちは木地職人としての技術・道具だけでなく両親や祖父母から地縁を受け継い でいたと考えられるが、五郎左衛門や銀右衛門が移住を繰り返すうちに祖父のいた山の近 くへ戻ってきていたという結果が興味深い。また五郎左衛門・銀右衛門兄弟は行動を共に し続けるが、漆平野山で源六の兄弟として記録のある鶴太郎はそれ以降氏子狩帳からは消 えてしまう。源六とは行動を別にすることにして遠方へ移住していったことも考えられる が、亡くなってしまった可能性もある。 まずは源六とその家族のみに注目してその三世代にわたる移住の経歴についてまとめた が、その過程で源六一家とそれぞれの居住先で行動をともにしていた様々の木地師の名前 が確認できた。彼らはどのように源六たちと集団を形成し、また離れて行ったのか、源六 たちと集団を形成する前後には誰とどこに暮らしていたのだろうか。次に、源六一家が居 住した各地の山でともに氏子狩帳に記録された木地師たちの移住について読み解いていく。
ⅱ) 源六一家と時々の居住地で集団を形成・解体する木地師たち(表7, p66) 源六一家と各氏子狩帳上で同集団として記録されてきた他の木地師たちについて注目し ていくと、源六らがある木地師と集団を形成しては離れ、また後に集団を形成する、とい うような行動をとっていたことが判明した。血縁と婚姻関係のみで永続的な集団を形成す る平地の人間に対し、木地師は血族に加えて「同族としての同業者たち」との一時的な集 団形成・解体をその時々の居住先で繰り返して行たのではないかという仮説に基づいて考 察していく。
集団の形成・解体の例として、第二十四号氏子狩(図12, p61)では源六たちは太兵衛・ 藤右衛門・忠次郎と集団を形成しているが、第三十号氏子狩(図13)ではその集団は解体 され、藤右衛門・太兵衛共に源六とは別の地に居住している。(藤右衛門は八重河内山に、 太兵衛は居住地不明)しかし第三十三号氏子狩帳(図14)を見てみると源六(この時点で は五郎左衛門・銀右衛門の世代)・藤右衛門・太兵衛は再び共に集団を形成している。
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『永源寺町史木地師編』より抜粋
図12 第二十四号氏子狩
図13 第三十号氏子狩
図14 第三十三号氏子狩
源六たちの延享2年(1745)の第六号氏子狩帳から弘化2年(1845)の第三十九号氏子 狩帳までの12回の氏子狩の記録をみていくと6度の移住、7箇所の居住地で藤右衛門や太兵 衛以外にも様々な木地師との合流・離散・再合流をしていることが君ヶ畑氏子狩帳から読 み取ることができた。源六と一時的な集団を形成したことのあるそれぞれの木地師の移住 の過程を色別に表にまとめ、限定的ではあるが信州の木地師がどのような集団形成と解体 を繰り返していたのかについて可視化した。(表7)
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①善右衛門 善右衛門は君ヶ畑による信州への初めての廻国が記録される第六号氏子狩帳で源六の父、 源次郎と共にいたとされる木地師である。その後漆平野山でも源次郎、源六と共に善右衛 門とその子、五郎兵衞・太五郎は記録されるが、第十七号氏子狩の源六一家が押出山に居 住していたとされる時点では同集団の中に善右衛門やその子らの名前はない。 しかし、後の第三十七号、第三十九号氏子狩帳には源六の子である五郎右衛門と銀右衛 門と共に、善右衛門の名が中田切山に居住していた同集団として記録されている。(表7, C)中田切山の善右衛門が源次郎や源六と大島山・漆平野山で過ごした善右衛門の直系で あるとは言い切れないが、親や祖父世代に関わりのあった家系の木地師との関係が続いて いた結果とも考えられる。
②平右衛門と久右衛門 平右衛門も善右衛門と同じく第六号氏子狩帳に源六と共に大島山にいたと記録される木 地師である。しかし、その後も信州内に居続けた源六や善右衛門とは異なり、濃州南部の 恵那郡(現在の恵那市)へ移住し、江戸時代の諸藩の城の中で最も標高の高い(海抜 717m)城であった岩村城を中心とした地域の山々のなかで生活を続けていく。 平右衛門という氏子狩帳の中でもよくみられる名前の木地師をどう判別して行くのかと いう課題があるが、この平右衛門の場合は必ず久右衛門という木地師と共に移住を繰り返 しているため判別が難しくない。平右衛門と久右衛門は兄弟や親子などの関係の記述が一 切ないため関係は不明であるが、集合と離散を繰り返す木地師でも常に行動を共にする二 人組という関係を保持する場合もあったことがこの二人から推測される。
③新兵衛 源六一家の氏子狩帳上三ヶ所目の居住地である押出山で新兵衛は少なくとも5年間源六 一家と共に集団を形成した。第十七号氏子狩以前の生活は不明であるが、その後は「遠山」 とされる地域内で移住と生活を続ける。
④太兵衛 第二十四号氏子狩帳に源六一家と共に八重河内山に居たと記録される太兵衛であるが、 続く第二十八号、第三十号の間は源六一家とは別行動をとり、第三十三号の時分に横川山 にて再び源六と合流し(表7, B)、中田切山へも共に移住している。(表7, C)
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再合流までの足取りをみていくとさらに興味深いことに、③の新兵衛と第二十八号氏子 狩で同集団として記録されている。(表7, A)木地師たちが合流と離散を繰り返していけ ば、過去に同じ木地師(この場合源六)と同集団内に居たことのある木地師同士が他の土 地で合流する、という新兵衛と太兵衛のような例も珍しくなかったことが想像される。
④藤右衛門 藤右衛門は第十九号氏子狩のみ記録がないものの、第九号氏子狩から第三十号氏子狩ま で八重河内山居住として記録された木地師であり、第二十四号、第二十八号氏子狩では源 六や④の太兵衛が藤右衛門一家(藤右衛門、家内、子)に加わる形で同集団を形成してい た。 ①-④の木地師に比べて移住せず、八重河内山に定住しているかのような(または八重河 内山内で小さな移住を繰り返す)生活を送っていた藤右衛門であるが、第三十号から第三 十三号にかけて上伊那郡横川山へ長距離の移住をし、以前集団を形成・解体したことのあ る源六一家と太兵衛と再合流する。(表7, B) 横川山以後の足取りは不明だが、ある時集団をともに形成した木地師がきっかけとなる 移住というものもありうるのではないだろうか。木地師は山中で孤独に木地を轢くことを 生業としているといえど大きな原木を倒す際には人手も必要になることから、二人きりで 新天地へ移住した五郎左衛門と銀右衛門は藤右衛門や太兵衛のような知り合いの木地師の 存在を必要としていた可能性がある。
以上のように、源六一家のみならず、彼らと移住過程で関わりのあった木地師たちの移 住歴を観察し、表にまとめていくと各地・各時代で木地師たちが定住度合いの低い生活を 送りながら合流と離散を繰り返し、小さな集団が形成されては解体されていたことが明ら かになった。 今回移住の過程を調べた木地師たちは源六と接触のあった人物に限り、また源六と同集 団として記録されたことがあってもそれ以上の移住に関する痕跡が不明の木地師たちに関 しては触れることができなかったが、善右衛門・平右衛門と久右衛門、新兵衛、太兵衛、 藤右衛門のような伊那谷を中心とした信州・濃州の木地師たちの移住の過程を一つ一つ表 に時系列にまとめていくと、それぞれの移住歴の複雑な交差を確認することができた。 また、この集団というのは血縁に限らず過去の移住歴から生まれた複雑な地縁に基づい て構成されており、木地師は土地の所有から解放されているためか個々が強調され、家の 存在が平地の社会に比べて薄い。
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家族関係に関しても土地を相続するために子孫に序列をつける必要もなかったことから か、氏子駈帳上に祖父・祖母・父・母・子・孫・という補足があることはあっても、長男・ 次男という表現は一切なく、土地と異なり平等に継承することのできる資産としての技術 を次の世代に伝えていっていたと考えられる。 これは中国山地でも同様であり、土地を所有して血縁・または擬似血縁のみによって家 という集団を構成し、主たる相続者としての長男に比重をおいた相続を繰り返す平地の社 会とは大きく異なる点であった。木地師は諸国に散在し、小椋谷を根源として意識した大 きな同族としての同業者意識を持っていたが、家という小さな同族関係については平地の それに比べて重要視していなかったのではないだろうか。
第三章では木地師の移動をテーマとしたが、廻国先の分布の変化、廻国人の山中を巡る 足取り、個々の木地師の移住歴などからは地域ごとの移住パターンから見えてくる山林の 再利用への意識の違い、僻地として扱われる藩領の境界付近こそを生活の中心とする様、 谷ではなく尾根を移動経路として利用することで多くの人にとって交通の妨げである山脈 を近道として認識する独自の価値観に基づいた感覚、そして複雑な地縁に基づく自由度の 高い集団形成など、単純な連続する位置情報からは交通事情のみならず、木地師の空間利 用・領域・個の意識などが明らかにされた。 しかし、領域に関しては一部を垣間見たにすぎない。強い地域性・個性を持ち自立した 判断のもとに生活を送る木地師たちが選択した土地とは、またその選択の積み重ねによっ て作られたであろう領域とはどのようなものであったのだろうか。次章では木地師の領域 をテーマとしていくこととする。
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3 木地師の領域 3-1 色別標高地図から読み取る木地師の領域 1) 全国に共通する特徴的な高度への分布 2) 層としての木地師の領域 3) 断面方向で見る木地師の領域 3-2 使用された貨幣の種類から明らかになる木地師のネットワーク 1) 都市型の木地師による少額貨幣の使用 2) 西日本の木地師による金の使用 3) 奥州の木地師の銭のみでの支払い・東北地方での銀と銭の使い分け 4) 奥州の木地師の銀と銭の使い分け 3-3 絵図に描かれる二種類の木地師
3 木地師の領域
前章では木地師の所在地としての点の動きとしての「移動」に注目し、その群としての 分布の変化・動き方のパターン・ルートとしての連なり・交差などについての考察を行っ たが、本章ではそれらの点によって形作られる「層」としての木地師の領域を可視化し、 明らかにする。
3-1木地師の所在地と標高
1)全国に共通する特徴的な高度への分布 木地師の所在地がどのような高度に分布しているのか把握するために、色別標高図を作 成し、そこへ氏子駈第一号(正保4,1647)から第三十一号(明治26,1893)までの氏子駈 で廻国のあった場所を重ねた。よってこれは一度の氏子駈での廻国先を示すものではなく、 過去に廻国があったことがある、すなわち木地師の居住歴のある土地を示している。 前章では木地師の所在地の移動自体に注目するために地形表現を最小限とした地図を使 用したが、改めてその高度を強調した色別標高地図と木地師の所在地とを合わせてみると 標高400-1000mの一帯に特徴的に分布していることが確認できた。これは木地の材料であ る原木を得ることができる、という条件に基づいた地理的要因としての植生に影響を受け た分布である。主要都市や主要街道が低地に集中していることを考えると、木地師の領域 とはそれより少し高いところに垂直に分布し、平地の社会にかかるレイヤーまたは層のよ うなをものであった可能性が見えてくる。 この分布の特性は全ての地域の木地師に共通しているが、考察と合わせて次ページ以降 に奥州・中部・紀伊半島・中国・四国・九州の各地域ごとのの木地師の所在地を白い点と して重ねた色別標高図を掲載した。
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図1 奥州 (全て地理院地図を 元に作成)
図の中央の標高200m ほどの地点にあり比 較的標高の高い町で ある会津の城下町(転 線枠内)を囲む山々 に木地師が居住して いた土地がある。木 地師の商品は流通に よって遠方へ運ばれ ていくことが多いが、 会津周辺で制作され た木地は会津内で消 費されることが多かっ たようである。
図2 中部
名古屋の北-北東-東 にかけて、標高差の 激しい地域内で険し い山々の谷を縫うよ うに木地師の居住地 がある。
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図3 紀伊半島
半島南部中央にある 小さな背骨のような 山々に木地師の居住 地が沿って存在して いる。図の左端には 漆器で有名であった 黒江・日方の町があ り、山中で制作され た木地が運ばれてい た。 この山地では熊野な どの宗教勢力の存在 も大きかったと考え られるが、全体的な 分布からは住み分け がなかったことが推 測される。
図4 中国
脊梁山脈の両側に木 地師の居住地がある。
標高が高く木地師で あっても谷を領域と していた中部地方と は異なり、中国山地 は標高が木地師にとっ て高すぎる地点が少 なく、尾根を越えて 移動することも可能 であった。
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図5 四国
中部地方ほど標高が 高いわけではないが、 四国地方の分水嶺と なる尾根は険しく、 氏子駈の廻国人であっ ても超えることはせ ずに東西を移動し、 瀬戸内海側あるいは 太平洋側へ回り込む ような巡回経路がと られていた。
図6 九州
筑紫山地の南側から 阿蘇山、そして五ヶ 瀬方面まで過去に廻 国があった。廻国箇 所数・回数ともに少 なく、地域性を明ら かにすることはでき ないが、他の地域と 同様に標高4001000mの間に木地師 は多く分布している。
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図7 全国の木地師の分布
東北地方から九州地方まで存在した木地師は、どの地方においてもこの色別標高地図で 見る所の緑色からオレンジ色の地点にいたようであり、この特徴的な高度は木地師の領域 を定義する際の一つの指標であるといえる。山中で暮らす、とはいえども地図上で真っ赤 に表示されているような標高1200m以上の高地には、木地に使用する木材が得られない、 物資・商品の運搬への負担がより高い、生活するためには気候が寒冷すぎるといった理由 から居住しなかったようである。またいくつかの地域では地図上の青い部分にあたる低地 にも木地師がいたことを示す点があるが、この都市型の木地師に関しては本章の最終節に て名所図会を参照しながら説明する。
移動の観点から考察した際には地域ごとに木地師の移住のパターンは異なりそれぞれ特 徴があることが明らかになったが、木地師の選ぶ土地に関しては色別標高地図で確認する
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限り目だった地域性はなく、植物の垂直分布と商品の運搬、気候などの条件に基づいた特 定の高度の層への分布が共通しているとなると、その高度のみを表示した地図を制作する ことで日本列島における木地師の生活領域としての層を可視化することが可能であるので はないだろうか。 次の段階として、木地師の分布した高度に限定した地図を作成した。
2)層としての木地師の領域
図8 日本列島における標高350-1250m地帯
改めて色別標高地図を操作し、標高350m-1250mまでを表示した図8を制作した。 宮 本常一が『山に生きる人々』において木地師や他の山民による「山民往来の道」について 書いており、その中に秋田のマタギが山伝いに歩いていけば里を通らずに大和山中まで行 けると証言したとあったが、まさにこの木地師が居住した「層」を可視化してみると紀伊
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半島から東北地方まで山岳民の領域としての山々が続いていることが明らかになるのであ る。各地域を横断した氏子駈の廻国人もこの領域を利用して地域間の移動をしていたので はないだろうか。 木地師あるいは山民は明らかに層としての領域を持っていたことを確認することができ たが、次に断面方向で木地師の所在地の分布について考察する。
3) 断面方向で見る木地師の領域
図9 木地師の所在地の標高別の分布と主要都市・主要街道の高度変化の比較
ⅰ) グラフで比較する木地師の所在地の垂直分布と主要都市・主要街道の高度 制作した図9では第十三号氏子駈(延享元年,1744)における廻国地、主要都市の垂直分 布と街道の高度変化を表示しているが、主要都市が低地に集中し街道もまた可能な限り低
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い場所を縫うように存在しているのに対し、木地師はその平地の社会よりも常に少し高い ところに居住していたことが可視化されている。 また、多くの地方において標高350-1250m付近一帯への分布と、0-100m地点の里への 分布の両方があり、これは本章最終節で説明するが、都市に住まう木地師と山中の木地師 の両極的な住み分けによるものである。 九州・四国・紀伊半島はそれぞれ地域内に山中の木地師と都市型の木地師の両方がいた が、中国地方には低地の木地師はほぼみられず、直接海路や陸路を通じて近畿地方の都市、 京都や大阪へ商品を出荷していたのではないかと考える。中部地方に関しても第十三号氏 子駈での廻国はなかったものの名古屋には都市型の木地師が居住していたことがわかって いるため、地域内に両方の木地師がいたと考えて良い。 そして東北地方であるが、これは中国地方を除くと唯一全ての木地師の所在地が標高 300m以上の土地にある地域である。中国地方に都市型の木地師がいなかったのは比較的 近隣にある近畿の都市の存在を前提としていたからであるが、会津の木地師は他の地域の 都市への特徴的なつながりがみられるわけではない。これは推測ではあるが、会津周辺で 制作された木地は若松城城下に運ばれ、主に地域の中で流通していたのではないかと考え る。 ⅱ) 行政の区分で定義することのできない木地師の領域 色別標高地図とグラフから木地師の所在地が全国的にある特定の高度に集中しているこ とが確認できたが、その領域は区画や地域に限定されるものではないという点が最も特徴 的であった。 中国などでは現代でも定住生活を送る人々と移住生活を送る人々の両者が存在するが、 その領域は伝統的にも混在せず、広い国土の中で分かれている。しかし日本は環太平洋造 山帯にあり、国土のほぼ全体に山脈がつらなる地理的環境下にあるため木地稼業に適した 土地もまた全国に広がっている。このことから、主に海側にある定住生活の領域と日本の 列島の背骨にあたる部分での移住生活の領域とが、細く連なる日本列島に併存しているの である。その中で木地師は国土の約7割を占める山地を利用することで結果的にその層と しての領域を形成し、さらに山々を伝ってネットワークも作り上げ、平地と山地、「くろ うと」と「しろうと」という領域と意識に境界線を引いていたといえるのではないだろう か。
以上のように、木地師の所在地についてその標高に注目し、その分布を垂直方向に主要 都市や街道の高度と比較することで、平地の社会にかかるある「層」としての木地師の領 域を発見することができた。この領域は行政区画で定義することが不可能であることから
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その具体的な形が記録されることがなかったのであろうが、現代においてその輪郭を可視 化することができるのも完全に氏子駈帳の存在によるところである。 氏子駈帳からは点の移動、点によって作られる層としての領域をこれまで明らかにして きたが、次節では点のもつ性質としての、各地点で使用された貨幣の種類に着目する。江 戸時代において貨幣には地域性があり、使用した種類によって地域経済との距離感を測る ことができるのである。
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3-2 使用された貨幣の種類から明らかになる木地師のネットワーク
本節では木地師が氏子駈の際の金銭の支払いに使用した貨幣を調べることで、木地師が 地元経済に根ざしていたのか、そうでないのかについて明らかにする。江戸時代には三貨 制度といって金・銀・銭の三つの貨幣がそれぞれ独立した相場を持って同時に流通してお り、東国の金遣い、西国の銀遣いと表現されるようにそれぞれの貨幣の使用には地域差が あった。また氏子駈帳には一人一人の木地師がどの貨幣を支払いに使用したのかが細かく 記録されているため、使われた貨幣の特色・地域性を鑑みれば木地師の経済的領域の特性 や地域経済との距離感について把握することができる。 木地師の使用した貨幣について一目で理解できるよう、第一号氏子駈(1647)、第七号 氏子駈(1694)、第十三号氏子駈(1744)の三回の氏子駈において木地師たちが使用し た貨幣の種類を分類し、マッピングしてそれぞれ図9,10,11を制作した。氏子かり制度は現 在の滋賀県東近江市の山奥を中心として管理された制度であったため、氏子駈の際に支払 われる主な項目は以下のように西日本での主要高額貨幣であった銀を単位として定められ、 木地師も主に銀で支払っていたが、一部金や銭の使用もみられた。 銀のみでの支払い・金を含む支払い・銭を含む支払い・銭のみで支払いの四種類に分類 し、それぞれの貨幣のもつ地域性に対しての特異な例、また木地師の使用する貨幣の地域 別の特色を確かめることで木地師の周辺地域との関係や思いがけない場所とのつながりを 調べていく。
うじこかり料:氏子一人当たり二匁 くわんと :二匁五分 なおしと :二匁 えぼしぎ :三匁五分 はつほ :任意
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1) 都市型の木地師による少額貨幣の使用
図9 第一号氏子駈(正保4,1647) 木地師の使用した貨幣の種類
青 :銀のみでの支払い ピンク :銀の他に銭を含む支払い オレンジ:銀の他に金を含む支払い 赤 :銭のみでの支払い
第一号氏子駈の廻国先は濃州本巣郡を除いて西日本にあり、ほぼ全ての木地師が銀を使っ ていることは平地の貨幣経済の地域性と完全に一致しているが、京都の木地師が部分的に 銭を使っている。金、銀は使用に東西に地域性はあるもののどちらも高額貨幣であり年に 数度の勘定の際などに限定的に使用されていたが、少額貨幣である銭は全国で日常的に使 用されおり、その使用からは地域経済との密接さが垣間見える。木地師の中には少数派で はあるものの都市に住まい最終的な仕上げを担当していたものがいたが、第一号氏子駈の 廻国時に銭を使った京都の木地師はその内の一人であり、日頃から少額の買い物などで銭 を使う機会があったのだろう。反対に山中の木地師たちは総じて西日本の高額貨幣である 銀で「うじこかり」、「はつほ」などの全ての支払いをしており、平地の社会と接する機 会の少なかったことが想像できる。
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2) 西日本の木地師による金の使用
図10 第七号氏子駈(元禄7年,1694) 木地師の使用した貨幣の種類
滋賀の山中にある蛭谷の筒井神社・帰雲庵、そして京都の吉田家によって管理された氏 子駈が主に銀での支払いを想定した制度となっていることは既に説明したが、その中で第 七号氏子駈において西日本の木地師による金の使用があったことは極めて重要である。金 の使用が見られたのは以下の四箇所の集団で
・与州松山浮穴郡久万大味川之内若山木(現 愛媛県上浮穴郡久万高原町若山) ・与州松山之内笠方木地屋(現 愛媛県上浮穴郡久万高原町笠方) ・伯州河村郡神蔵木地屋(現 鳥取県東伯郡三朝町神倉) ・江戸日本橋南大工町(現 中央区京橋二丁目,八重洲二丁目)
江戸の木地師は「うじこかり」・「はつほ」共に金で、その他は「はつほ」または「奉加」 という金額が任意の項目を金で支払っている。17世紀の西日本における金の使用は異例な ことである中、伊予や伯耆の山中奥深くにいる木地師が遠く離れた東日本の主要な貨幣で ある金で支払いをしていたということは、木地師が山中に住みながらも木地ものの売買を 通じて、周辺地域のみならず遠方の都市とも関わりを持っていたということであると解釈 できる。江戸中期の鳥取藩士による『勝見名跡志』に「山中にて挽きたる木地を多く倉吉 に売出し、倉吉より船に積みて鳥取に廻し、是より江州日野などにつかわし日野より京都 へ出し、漆工の手にかけて、後に日野椀と名づけて諸国に売買せり」とあるが、伯耆の神 倉の木地師も倉吉などに商品を卸す過程で遠方の商人と接する機会があったのだろう。山 奥に住まい平地と距離をとりながらも遠方の都市とはつながっている、というのは木地師 の領域らしいと言える。
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3) 中部・奥州の木地師の銭のみでの支払い
図11 第十三号氏子駈(延享元年,1744) 木地師の使用した貨幣の種類
第十三号氏子駈では全国的に部分的な銭の使用がみられるが、中部・奥州では特に多く、 中でも図11の中で赤色で示した箇所の木地師は全額を銭で支払っておりその傾向が顕著で ある。銀・金の高額貨幣を用いず、日常的に使われた銭で廻国に応じているということか らは、猪苗代湖を囲む会津の木地師たちが山中に住みながらも都市型の木地師のように地 域経済に根ざしていた可能性が考えられる。蛭谷・君ヶ畑のある小椋谷とは別系統だとも 指摘される奥州・羽州の木地師たちだが、経済的にも西日本とは異なる生き方をしていた ことが図にも表れている。 また、中部・奥州ともに諏訪や会津など高地に町があったことも特徴の一つである。町 がより高い位置にあることで木地師の生活空間との距離感も他の地域に比べて近かった可 能性がある。
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4) 奥州の木地師の銀と銭の使い分け 奥州会津南山針生村木地屋
木地師 名
うじこかり 匁
(南会津郡南会津町針生) 喜四郎
くわんと
(人)
文
4
(2)
30
2
(6)
50
4
(2)
30
4
(2)
8
(9)
30
4
(2)
30
6
(8)
30
善左衛門
4
(2)
20
助三郎
4
(2)
30
仁右衛門
1
(推定氏子人数) はつほ 分
仙太郎(御宿) 仙右衛門 吉之丞
1
庄五郎 伝兵衛
1
えほしぎ
なおしと
匁
分
匁
分
匁
2
5
3
5
2
分
表1 第十三号氏子駈(延享元年,1744) 木地師の使用した貨幣の種類
銭を主な貨幣としていた木地師の多い奥州であるが、銀と銭を同時に使う際の使い分け の仕方が特徴的であった。例として示した表1の針生村のように、蛭谷によって金額を定 められている「うじこかり」・「くわんと」・「えぼしぎ」・「なおし」とは相場の換算 をする必要のないよう銀で支払われているが、金額が任意である「はつほ」は全て銭で支 払われている。 小椋谷からも遠く木地師としての文化も相当異なっていたことが推測される奥州の木地 師たちであるが、西日本で金を使用した木地師の例とは逆に、東日本にありながら金額の 定められた項目には銀を使用し、そうでない「はつほ」には自らがよく使う銭を使用した、 ということからは地元の経済に根ざしながらも西日本発祥の氏子駈制度への歩み寄る姿勢 や、配慮が読み取れた。
木地師の使用した貨幣の種類に注目していくと、地域性の強い高額貨幣、地域経済との 関係性を示す少額貨幣としての銭などのどの貨幣に偏って使用しているか、または併用し ている際はそのバランスから、それぞれの地方の木地師の実際に居住する地域との距離感、 遠方の都市とのつながり、居住地に根ざしつつも保たれる木地師ネットワークへの帰属意 識などを明らかにすることができた。
1
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3-3 絵図に描かれる二種類の木地師
図12『紀伊国名所図会』所収「黒江椀器挽」
前章や本章でもその存在について少し触れてきたが、木地師には山奥で原木を求めて移 住生活をする多数派としての所謂「山中の木地師」と、少数派である「都市型の木地師」 が存在する。山中の木地師は原木から木地の荒型を削り出し、都市型の木地師は山中より 運ばれてきたその荒型を仕上げ、塗師に引き渡していたとされるが、この「黒江椀器挽」 (『紀伊国名所図会』所収)にはその流れが表現されている。 千森督子,谷 直樹にによる「黒江塗の製造家屋にみる住まい方の特性と変容」(2005) の文中での解説は木地制作の工程のみならず漆器としての完成までの作業手順や作業空間 についてより詳しいものであったため、以下に引用する。
「黒江椀器挽」には、街区の一角に木地、下地塗り、上塗と分業化された作業風景が描か れ、黒江塗の製造工程と職人の居住形態との関係、町における分業体制を1枚の絵の中に 凝縮して表現している。素地である椀木地は、産地で製材して荒型を作り、黒江に移送し て仕上げる方法がとられていたが、図をみると、椀素地を籠に入れて密集した町中を木地 屋と思われる家に向かって運ぶ人がいる。黒江では、木地の外側を削る、小尻を削る、内 側を削る過程を経て、木地が椀として完成されるが、道を挟んで2軒の木地屋が描かれ、
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木地師は塵埃処理に都合が良く、工作に便利な1階で作業している。そのうちの1軒は、銑 などを使って木地の外側を削り、鉋をかけている。もう1軒は手回しの轆轤による二人挽 きが行われ。内側を削っている。 隣家の塗師屋では1階で下地塗りをし、庇で乾燥させているさらに、道を挟んだ手前の 家の2階では塗師が上塗りをし、棚で椀を乾燥させている。棚は「風呂と」呼ばれ、椀用 の風呂は小型で中に何段もの桟があり、それが綿密に描かれている。各家に分かれた分業 体制を示すかの様に、道行人々の中には塗師屋から出来上がった漆器を運ぶ人もいる。 以上の知見を整理すると、渋地椀の製造は1軒の家の中で作業工程が分化するのではな く。各家単位で木地と塗りに分かれ、木地師の段階では1階の表の間を仕事場に使い、塗 師では下地は1階の表の間、上塗りは2階で作業が行われている。製造場が町家の主屋であ ることと、江戸時代後期に、すでに2階屋が発達し、塗問が2階にあることに注目したい。
このように、『紀伊国名所図会』には山中の木地稼業に関する場面は一切描かれたもの がないものの「黒江椀器挽」には山から町へ木地の荒型が到着してからの分業体制が細か に描かれ、その中に一部山から荒型を運んできた山中の木地師も登場している。黒江は背 後に木地師が多数暮らしていた山地が迫る地理的環境にあるため、他の流通拠点としての 都市や海運を介さずに直接山中より木地が運ばれていたようである。 都市と山間部という両極と一見される居住環境であるが、一つのことが共通している。 それは水田がないということである。農作物の中でも特に米は日本社会にとって最も重要 かつ象徴的なものであり、同時に水田の広がる風景は一般的に原風景として語られるが、 木地師にとってそのような風景は最も縁遠いものなのである。 そのように水田の広がる土地とは距離をおき、都市型・山中の両木地師が木地稼業に特 化した生活環境を追求したことで生じた木地師による木地師のためのネットワーク、領域、 空間を本節では具体的に提示できたと考える。
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4 結び
4 結び
木地師は自らと祖先が古来より生活と稼業の場とした空間を「山七号目より上」と木地 師文書の中で表現したが、多くの木地文書には創作的な面があったことから「山七号目よ り上」という表現自体も伝説の一部であるかのように捉えられ、木地師の生活領域・空間 は実体として明らかにされてこなかった。しかし、本研究で「氏子かり帳」に記録された 各時代・各地の木地師の所在地の分布の変遷や、移動経路などの考察を経て、その空間自 体が単純に行政区分では定義することのできないものであることが確かめられると、「山 七号目より上」は表現としてむしろ妥当であると感じられた。特定の地域を指定せずに、 ある特定の高度以上の領域を示しているのである。 とはいえ、それがいくら優れた例えであったとしても移住生活自体が終わってしまった 後には伝承として曖昧にその空間の存在をほのめかす以上のことはできないわけであるが、 木地師の場合それを実体として証明することができる「氏子かり帳」に記録されたおよそ 250年分のデータが残されているのである。特にその記録から読み取れる廻国人や地域ご と、または個々の木地師の移動について分析すると、その移動範囲や移動の足取りが判明 するだけでなく、制度そのものの広がりや縮小、管理に基づいた、あるいは自然の成長に 任せた循環的な山林の利用、木地師が平地の社会が利用していない藩領の境界こそをフィー ルドとしていたこと、その独自の価値観に基づいた地形利用など、木地師の時空間に関す る多くの事が明らかになった。また、木地師が血縁関係に留まらず、過去の居住地で得た であろう複雑な地縁によって他の木地師たちと短期的に集団を形成しては解体していたこ となど、その平地とは異なる社会性についても知るところとなった。「氏子かり帳」は諸 国散在の木地師による寄進の記録であるが、建物や集落を残していない木地師の、既に失 われた生活空間を間接的に保存しているといえるのではないだろうか。 また、氏子かり帳に記録された全ての土地の垂直分布に着目し、平地の主要都市や主要 街道の高度と比較してみると、まさに「山七号目より上」が示した木地師の領域が可視化 された。少数派としての移住生活を継続するために制度と木地師ネットワークについての より丁寧な記録としての「氏子かり帳」を残すなど工夫をこらし、時代の法とも折り合い をつけていた木地師であるが、行政区分を超えたある一つの領域を確かに形成していたの である。 以上のように、本研究では既に失われた山中での木地師による移住生活とその空間を明 らかにし、その特質を提示できたのではないかと考える。日本の原風景というと水田の広 がる農村を思い浮かべる人が多いことが予想され、実際にそのような農村はいつの時代で
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も日本社会において圧倒的な面積を占めていたことに違いはないのであるが、明治以前に は木地師のような存在も多くいたことを考えると、この「原風景」は時代の流れの中で普 遍化され作り上げられたものであるともいえる。しかし、定住に限らず生活様式が多様化 している現代において、木地師のように独自の価値観に基づいたネットワーク・領域を形 成した職能集団の空間を無視せずに取り上げていくことは非常に重要なのではないだろう か。江戸時代における多様な生活空間の一つとして木地師の「山七号より上」についての 空間的分析を行った本研究が、今後普遍化された原風景の外側に置かれている空間を発見 していく上での一助となることを期待する。
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