JP_japanswiss150

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日本・スイス交流の歴史 日本・スイスの150年(一部抜粋) 1864 1867 1873 1902 1906 1910 1916 1919 1921 1926 1957 1974 2014

日本・スイス通商条約締結 徳川昭武使節団がスイス訪問 岩倉使節団の欧米視察旅行でスイス訪問 岩崎彌之助が欧米旅行の途中スイス訪問 東京に在日スイス公使館設置(1957年、 大使館へ昇格) 加賀正太郎がスイス来訪中、 日本人としてユングフラウ初登頂に成功 ベルンに在スイス日本公使館設置(1955年、大使館へ昇格) ベルニナ鉄道(現・レーティッシュ鉄道ベルニナ線) をモデルとして箱根登山鉄道が誕生 槇有恒がアイガーの東山稜の初登攀に成功 秩父宮殿下一行のアルプス登山旅行 スイス航空(現・スイスインターナショナルエアラインズ) が日本=スイス定期便を初就航 ヨハンナ・シュピーリの物語を原作につくられたアニメ 「アルプスの少女ハイジ」放映 日本・スイス国交樹立150周年

条約締結前のスイスと日本 日本・スイス通商条約が締結された1864年より前から多くのスイス 人が日本を紹介しています。 スイスの文献で日本の名が最初に登場 1522年、 ザンクト・ガレン市長で宗教改革指導者だったヴ したのは、 ァディアン Vadianが古い世界地図に記したものと考えられています。 そして、1586年にフリブールで発行されたヨーロッパ初の日本につ いての記述があり、 日本地図が掲載された印刷本を執筆したのはル ツェルンの文書官レンヴァルト・ツィザート Renward Cysat。 イエズ ス会から集めた日本に関する情報をまとめたものでした。1804年に はヨハン・カスパー・ホルナーJohann Kaspar Hornerが船で来日。 1859年には、英国から派遣されたカメラマンとしてフリブール出身 のピエール・ジョゼフ・ロシエ Pierre Joseph Rossierが日本に来航 し、 さまざまな写真を撮影しました。

初めて日本の地を踏んだスイス人

アンベール使節団が来日する約60年前。皇帝アレクサンドル1世の命を受け、世界一周旅行に出たロシア探検 隊の一員として、1804年9月、長崎の出島に来航したヨハン・カスパー・ホルナーが初めて日本に来たスイス人 といわれています。 チューリヒ生まれの天文学者・数学者で、地図の作成を担当していた彼は旅行中に精緻な水 彩画を描いていました。長い間、 この実物が見つからず とされていましたが、2004年にロシア探検隊の蒐集し た品々が保管されていたチューリヒ州立大学付属民族博物館の倉庫から、水彩画119枚が発見されました。 そ の中で日本を描いたものは20枚。船が行き交う長崎港やオランダ商館付近の風景など200年経っているとは思 えないほど、鮮やかな色のまま残されています。同年、 スイス大統領が来日し、天皇皇后両陛下と小泉首相に 会見した際にも、 この絵の複製が贈られました。

アンベール遣日使節団と日瑞修好通商条約 ペリー来航後、1858年に締結された日米修好通商条約のニュースはすぐにスイスに届き、 当時すでにヨーロッパで成功 をおさめていた繊維産業と時計産業を中心に、 日本市場開拓を目的とした使節団が計画されました。 ラ・ショードフォン とザンクト・ガレンにある両産業組合がスポンサーとなり、 プロイセン出身のルドルフ・リンダウ Rudolf Lindauに調査を 依頼。 その後、 オランダ支援の元で幕府との交渉の場が了承され、 スイス政府が公式に使節団を派遣することが決定し ました。代表として選任されたのは時計生産者組合長を務めていたエメ・アンベール Aimé Humbert-Droz。使節団は オランダ船で1863年4月に来航し、 1864年2月6日、 オランダ公使館だった長応寺で日瑞修好通商条約を締結しました。

同行した使節団メンバー達はすぐに横浜外国人居留地でビジネスを開始しました。 条約締結の翌日にはイヴァン・カイ エドアール・バヴィエ Edouard Bavierが設立した生糸貿易会社ととも ザー Iwan Kaiserが建築土木事務所を開設。 に日本の生糸貿易を牽引したのはカスパー・ブレンヴァルト Caspar Brennwaldがパートナーと共同設立した総合商 社シイベル・ブレンワルド商会(現・DKSHジャパン株式会社)。横浜や銀座に初めて導入されたガス燈に供給するプラ ント設置や工業機械を輸入するなど近代日本の発展に貢献しました。 ジェームズ・ファヴル=ブラント James FavreBrandtは時計輸入商会を設立。 東京、 横浜、 山形、 仙台、 福島など各地に時計塔を輸入したり、 有名時計店の子息を故 郷ル・ロックルの時計学校へ留学させたり、 日本での時計の普及に大きな役割を果たしました。 武器も商っており射撃 の趣味があった彼はペルゴなど他の時計商人と一緒に 「スイス・ライフルクラブ」 を結成。 クラブの会員となり親交も深 を持っていたそうです。 かった西郷隆盛は、藩主の島津忠義から贈られたというスイス時計(ロンジンの懐中時計) 使節団に先立って来日したリンダウの一行に加わり日本を目指した時計職人がいました。 ル・ロックルに生まれ、有 名な高級時計ブランド 「ジラール・ペルゴ Girard-Perregaux」創業者の弟として同社で働いていたフランソワ・ペルゴ François Perregaux です。 自社の時計を持ってリンダウと来航したものの当時まだ国交がなかったためスイス人とし て入国できず、 シンガポールに一時滞在した後、1860年にフランス人として来日。 すでに横浜で時計商を始めていた 彼は、隣村出身で同じ時計職人の家に生まれたアンベールにとって日本滞在を支えてくれる強い味方となりました。

徳川昭武使節団のスイス訪問 1867年のパリ万国博覧会に参加するため、幕府は将軍徳川慶喜の名代として、 当 時まだ14歳だった弟の徳川昭武を代表とする使節団を派遣。駐仏公使の向山隼 人や後に日本経済を支える渋沢栄一が会計係として名を連ねるほか、英公使館附 通訳シーボルトと留学生も同行。博覧会に参加した後、欧州各国を歴訪。9月3日 にパリを出発して最初の訪問国となったスイスにはバーゼルから入国。翌日ベルン に入り、5日に大統領と謁見した後、武器庫、電信機工場などを視察。8日にヴヴェ イまで汽車で移動し、蒸気船でジュネーヴへ。 「ホテル・メトロポール」 に宿泊し、時 計工場などを見学。 ベルンに戻って数日滞在した後、13日オランダへ出国。 その後、 一行はパリに戻り、大政奉還の知らせが届き、翌年12月に帰国となりました。 パリ滞在中の1868年1月、昭武の傅役(教育係) として使節団に随行した山髙信離が スイスの使者から受け取り、昭武に渡したという懐中時計が遺されています。 肖像画と 葵の御紋が入った特注品で内蓋には仏語で 「徳川民部大輔殿下家へ/スイス遣日使節 エメ・アンベールより心からの敬意を込めて」 という意の刻印があります。彼の故郷ラ・ ショードフォンにある時計工房 「アンベール・ラミュ社 Humbert-Ramuz」 のものでした。 写真:金側葵紋付徳川昭武肖像入懐中時計/松戸市戸定歴史館所蔵

※日本では、明治5年(1872年)まで旧暦を用いているため和暦と西暦の日付とは一致しません。 ここでは西暦に換算して記載しています。 また文中の人名は敬称略で記載させていただいております。


岩倉使節団のスイス周遊旅行

スイス旅行日程

1871年から1年10ヶ月かけて欧米各国を歴訪した岩倉使節団の旅。 最後の公式訪問地となったスイスではベルンとジュネーヴを拠点とし て各地をめぐっています。効率よく周遊できるのはコンパクトで交通機 関が充実しているスイスならでは。鉄道や湖船に乗って、大自然の美し い絶景やのどかな田園風景などヨーロッパで桃源郷のようだと絶賛 されたスイスの魅力を満喫しました。 その旅の軌跡は、140年以上たっ た今も変わらないスイス旅のハイライトです。

1873年6月19日∼7月15日

6月19日 リンダウ港(独領) =  = ロマンスホルン=  =フラウエンフェルト =  =チューリヒ着 (泊) ロマンスホルン

6月21日 午前、議事堂にて大統領と謁見。 リギ登山鉄道山頂駅の開通式典に招 かれる/夕方、 旧市街観光(熊公園など)

1 チューリヒ

6 8 ルツェルン ベルン

2 サルネン

9

5 フリブール

トゥーン

ブリエンツ

3 4

ルンゲルン ブリュニック峠

ギースバッハ

インターラーケン

10

コペ

ヴヴェイ

エヴィアン

リギ・クルム

7

フィッツナウ

6月22日 ベルン=  =トゥーン=  =インターラーケン=  = ウンターゼーン=  =ブリエンツ (トラフト港) =  = ブリュニック峠=  =ルンゲルン=  =サルネン (泊) ミュンジンゲンでシュヴィンゲン (スイス相撲) 大会に遭遇/トゥーン訪問 /蒸気船でトゥーン湖クルーズ/インターラーケンで昼食/ブリエンツ 湖クルーズ。 途中、 ギースバッハ滝を見物/ブリエンツ横トラフト港で下 船。 馬車に乗り換えブリュニック峠へ/ルンゲルン湖畔のホテルで休憩 6月23日 サルネン=  =アルプナッハ=  =ルツェルン=  =フィッツナウ =  =リギ・カルトバート=  =リギ・クルム (泊) 6月24日 リギ・クルム=  =フィッツナウ=  =ルツェルン=  =ベルン (泊) ルツェルンに戻りホテルで昼食後、市内観光 6月29日 ベルン=  =フリブール=  =ヴヴェイ=  =ローザンヌ =  =エヴィアン (仏領) =  =ニヨン=  =コペ =  =ジュネーヴ (泊) フリブール訪問/ラヴォー地区の葡萄畑を汽車で走る/ローザンヌ駅 から馬車で湖岸へ。 ホテルで昼食/ローザンヌ・ウーシー港から蒸気船 で対岸のエヴィアンへ/レマン湖クルーズを満喫してジュネーヴへ 6月30日 ジュネーヴ旧市街散策(サン・ピエール大聖堂など訪問)

ローザンヌ

ニヨン

6月20日 チューリヒ=  =バーデン=  =アーラウ=  =オルテン =  =ベルン (泊) チューリヒ工科大学(ETH) や小学校などを視察/夜、 ホテルで大統領 主催の響宴

ヴィルヌーヴ

7月1日  パテック・フィリップ社の工房見学 7月2日 レマン湖南岸の村をめぐる 7月3日 近郊の山に (おそらくサレーヴ山)上る 7月9日 日本政府より緊急帰国の命が電信で届く

11 ジュネーヴ

岩倉使節団の旅 開国して新しい国の在り方を模索していた明治政府が、独立国家として欧米諸国と対等な国際関係を築き、各国の優れた制度や技術、 文化などを学び近代的な国づくりに活かすため膨大な予算と時間をかけておこなった大プロジェクトでした。特命全権大使に選ばれた公 家出身で右大臣の岩倉具視、維新の三傑 の木戸孝允と大久保利通、伊藤博文と山口尚芳の使節に書記官、理事官らが随行。津田梅子 ら女性5名を含む留学生たちも加わり全108名となった一行は1871年12月23日 (明治4年11月12日) に横浜を出航。アメリカに半年以上 滞在した後、大西洋を渡りヨーロッパ各国を巡り、 オーストリアでウィーン万国博覧会に参加した後、 スイスに到着。 その後、 スペイン、 ポル トガルを訪問する予定でしたが緊急帰国の命を受け中止。最終訪問地となるスイスからマルセイユへ行き同港から出航し、 インド洋を渡り 1873年9月13日に帰国。10ヶ月半という当初の予定を大幅に延長して約1年10ヶ月の旅となりました。

7月10日 ジュネーヴ=  =ニヨン=  =ローザンヌ=  =ヴヴェイ =  =シヨン城=  =ヴィルヌーヴ港=  =ジュネーヴ レマン湖クルーズを満喫後、 ヴィルヌーヴのホテルで 宴。蒸気船にて ジュネーヴへ戻ると湖岸で花火と楽団にて歓迎される 7月12日 ジュネーヴ=  =ローザンヌ=  =ジュネーヴ ローザンヌから招宴 7月14日 ジュネーヴ州、 ヴォー州、 ヌーシャテル州から要人が集まりホテルにて 響宴。食後に湖上の小島で花火をあげ、宴は夜12時に終了 7月15日 ジュネーヴ=  =リヨン (仏領) ジュネーヴから汽車でフランスへ出国


湖水は美しい緑色で白い雪を頂く峰が多い。剣の ように聳える山、 あざやかな色を映す湖、緑豊かな 森、幾重に連なる山々、飛沫をあげて落ちる名瀑、 谷間に景勝地の村々があり欧州各国はこの国を 桃源郷のようだと賞賛している。夏季には妻子を連 れて友人たちと集まり、名勝地をめぐり清浄な空気 に癒される。観光業が盛んで山里や湖畔の村には 宿があり絶景を楽しむ観光客を受け入れている。 「雨時の歩行に便利」 と街の回廊を賞賛

1 チューリヒのリマット河畔(左)一行は1838年創業のホテル「バウアー・アン・ヴィル」に宿泊

と蒸気船でのトゥーン湖遊覧に感動 3 「冠雪した山々を映す鏡のような湖上を翼で飛行するようだ」

深い青緑色の湖水が印象的なブリエンツ湖を蒸気船で遊覧。途中、 ギースバッハ滝を見物

・シュヴァイツァーホフ」 で朝食。大統領たちと合流して蒸気船で出発

2 ベルンで連邦議事堂横のホテルに宿泊。アーレ川沿いの眺望を楽しむ

4 山間に真珠のように輝く名峰を望む優雅な白亜の館「ホテル・ヴィクトリア・ユングフラウ」で昼食

5 秋の絶景を想像しつつブリュニック峠を越える。ルンゲルン湖畔の宿で休憩

9 フリブール訪問。古城のような大聖堂と街の美しさに感嘆

ローザンヌの湖畔にあるホテルで昼食。 ニヨンから見たモンブランや刻々と変化する日没の美しさに感動しつつ数回のレマン湖遊覧を満喫

使節に同行した理事官(専門調査官)や視察官が調査した成果は、 1877年、大使事務局により部門ごとに調査報告書『理事功程』 『 視察 功程』 として編纂され、政府に提出され、 その翌年には、佐賀藩出身の 漢学者であった久米邦武の編修により公式報告書『特命全権大使米 欧回覧実記』 が太政官から刊行されました。旅での出来事を感想を交 えて記した日記と訪問国の地理や歴史、政治経済、産業、教育など広 範囲にわたる考察がまとめられています。全100巻、5 (冊)に300点 以上の銅版画があり、当時の各国の状況が記録された貴重な資料で あるとともに、約140年前の欧米旅行記としても素晴らしい文献です。

6 美しい古都ルツェルンに到着。ピラトゥス山を望む湖畔の「ホテル

7 山頂まで結ぶ最終区間の開通式典に参加するためフィッツナウから欧州初の登山鉄道に乗車。山々が連なる絶景とご来光で有名な伝説のホテル「リギ・クルム」に宿泊

8 リギ山頂から鉄道と湖船を乗り継ぎルツェルンへ戻る。ホテルで昼食後、ライオン碑など市内観光

使節団の記録『米欧回覧実記』

10 レマン湖を望む傾斜地にあるラヴォーの葡萄畑を汽車が走る

11 ジュネーヴでは伝統の「オテル・デ・ベルグ」に宿泊。歓待の花火が二度レマン湖に打ち上げられた

スイス旅行の記録は 『第84巻 瑞士國ノ記』 『第85巻 瑞士蘭山水ノ記』 『第86巻「ベロン」及ヒ 「ゼ子ーヴァ府ノ記』 にあります。旅の記録や感 想を綴った部分と見聞したことや集めた資料からまとめたスイス概論 です。 冒頭には、 スイス来訪前に訪問したヨーロッパ諸国でスイスが美 しい憧れの地として評判になっており、大自然の絶景を求めて多くの観 光客が集まり登山鉄道や湖船、 ホテルが整備されていることを述べて います。 そのほか、小国でありながら独立を保っている点や軍隊の制度、 男女平等、教育水準の高さ、資源は乏しいが水力、風力、木材、草原で の牧畜など、恵まれた大自然の力を巧みに使っている点などに注目。最 後の日々は、期せずして突然の命で帰国することになった一行にとって 長かった旅の終幕という感慨もあり、 レマン湖地方の絶景と人々の温 かい気持ちと歓待に感激もひとしおだったようです。心から湖船クルー ズや最終日のパーティを楽しんでいた様子が伺えます。 そしてスイス の最後には、その宴に参加するためヌーシャテルから来たかつての遣 日使節団代表アンベール氏が一緒のホテルに泊まり、翌日夕方の出発 「真 な親愛の情と厚い礼敬、誠意と人 の見送りに来たことに感動し 情の気持ちが伝わってきた」 と綴っています。 本書は漢文ではなく、明治初期には公文書でも使われるようになった 漢字と片仮名まじりの文体で書かれています。主要地名は佛蘭西(フ ランス)、英吉利(イギリス)、 白耳義(ベルギー)、馬耳塞(マルセイユ) な どの当て字になっています。ちなみにスイスは仏名〈Suisse〉 と英名 〈Switzerland〉の当て字で 「瑞士」 「瑞士蘭」。普通の地名や人名はカタ カナで記していますが、 シヨングヒル (ユングフラウ Jungfrau)、 ボルド ール (ブルグドルフ Burgdorf) など発音を聞き間違ったものやズリッキ (チューリヒ Zürich)、 シャッホーセン (シャフハウゼン Schaffhausen)、 ルゼルン (ルツェルン Luzern)、 チュン (トゥーン Thun) など綴りを英語 風に読んだものも多数。同一地点を異なる地名で書いている場合もあ ります。例えばリギ山 Rigi は発音から記したと思わ れる 「エルイッキ」、鉄道の 麓駅であるフィッツナウと 勘違いして「ウイツナウ山 頂」、湖の名前フィアヴァル トシュテッターゼーと勘違 いして 「ウィルウァルトスダ ー山」 とバラバラの表記に なっています。


日本・スイスの姉妹・友好提携 年度

年度

1964

サン・モリッツ

北海道倶知安町

1996 イヴェルドン・レ・バン

岡山県鏡野町

1972

グリンデルワルト

長野県松本市

1997 ツェルマット

新潟県妙高市

1976

ダヴォス

長野県上田市

2005 ヌーシャテル

愛知県新城市

1978

インターラーケン

滋賀県大津市

(締結予定) 2014 サン・モリッツ

神奈川県箱根町

1986

ロマンモティエ・アンヴィー

新潟県長岡市

1989

ヴェンゲン

長野県小海町

1977 ブリエンツ・ロートホルン鉄道

大井川鉄道

1991

アローザ

富山県南砺市

1979 レーティッシュ鉄道

箱根登山鉄道

1991

ジュネーヴ

東京都品川区

1996

モントルー

千葉県千葉市

1993 ユングフラウヨッホ郵便局

1996

ブリエンツ

静岡県島田市

2008 シーニゲプラッテ高山植物園 六甲高山植物園

1991 マッターホルン・ゴッタルド鉄道 富士急行

富士山5合目 簡易郵便局

世界の名峰を結ぶ鉄道

マッターホルン・ゴッタルド鉄道

富士急行

世界の名峰といわれるマッターホルン。 アルプスの中心地にあり山々が連なるスイスでは珍しい独立峰で、 その 威風堂々とした雄姿は多くの人々を魅了しています。 アルピニズム黄金期といわれる19世紀末、 1891年にマッタ ーホルン山麓の村ツェルマットへと結ぶフィスプ・ツェルマット鉄道(現・マッターホルン・ゴッタルド鉄道) が開 通。一方、 日本では1926年に富士山麓一帯を世界的観光地として開発するべく富士山麓電気鉄道(現・富士急 行) が誕生。国際的な観光地で、世界的に有名な名峰へ走る鉄道を運行するという共通点から、富士急行65周 年、 マッターホルン・ゴッタルド鉄道100周年を迎えた1991年に両社は姉妹鉄道提携しました。 マッターホルン・ ゴッタルド鉄道は標高約3100mの絶景展望台ゴルナーグラート山頂まで走る登山鉄道も運営しており、 夢の富 士山への登山鉄道計画に向けての研究など多方面で交流を深めています。 ツェルマットへは姉妹提携を記念し て 「マウント富士号」 と名付けられた機関車が毎日運行しています。 また富士急行でも2006年から 「マッターホ ルン号」 を運行。 マッターホルンと富士山がデザインされた両社のロゴが車体にデザインされています。

※市町村合併後の更新年ではなく合併前の最初の締結年を記載しています。

日本とスイスのアルプスを結ぶ山村

グリンデルワルト

長野県安曇村(現・松本市)

アルプスの名峰を有するユングフラウ地方にあり山岳観 光の中心地として発展してきたグリンデルワルトと、乗鞍 高原や上高地など日本アルプス屈指の名所を有する長 野県安曇村。札幌オリンピックの時にノルディックチー ム監督として来日したフィルストバーンの取締役ルーデ ィン氏と、 日本交通公社(現JTB)の兼松学氏の仲介で、 1972年4月20日に姉妹提携の調印がおこなわれました。

山々に囲まれた美しい湖畔の町

インターラーケン

滋賀県大津市

比叡山から続く比良山地が広がる琵琶湖を抱く大津 市と、 美しいブリエンツ湖とトゥーン湖の間にあり名峰 ユングフラウを望むインターラーケン。 地理的に共通点 が多く見られる両市は、大津市制80周年の1978年に 姉妹提携しました。 その後、 インターラーケンに日本庭 園「友好の庭」 がつくられたほか、 ユングフラウ鉄道に 〈大津〉 というプレートが付いた車両が運行されています。

世界に誇るウィンターリゾート

サン・モリッツ

北海道倶知安町

スイス冬季観光発祥の地で、二度の冬季オリンピック が開催されたサン・モリッツ。スイスに縁の深い秩父 宮が冬のニセコを訪れた際、新聞に 『極東のサンモリ ッツ』 と書かれたことが始まり。折しも日本が初参加 した冬季オリンピックがサン・モリッツで話題を集め ていたこともあり、降雪量が多く雪質の良さでで知ら れるニセコ周辺が「東洋のサン・モリッツ」 と呼ばれる ようになりました。1964年に倶知安町長がサン・モリ ッツを訪れて姉妹提携が実現しました。

富士急行が結ぶ富士五湖エリアは、河口湖をはじめ 本栖湖、 西湖など美しい湖があり、 四季折々に美しい 逆さ富士の風景が楽しめるのが魅力です。精進湖が 〈東洋のスイス〉 として古くから海外に紹介されてい たように、 氷河からとけだした宝石のような湖や水面 に名峰を映しとる美しい山上湖はスイスを代表する 絶景のひとつ。 姉妹鉄道が走るツェルマットにも逆さ マッターホルンで有名な山上湖があります。

日本&ヨーロッパ最高所からの便り

ユングフラウヨッホ郵便局

富士山五合目郵便局

標高3454m。 ユングフラウ鉄道が全線開通した1912年、 ヨーロッパ最高地点の鉄道駅となるユングフラウヨッ ホへそれまでの終点アイスメーア駅にあった郵便局が移されました。約80年後の1991年に日本最高地点とな る標高2305mに開局した 「富士山五合目簡易郵便局」 が欧州最高地点にある 「ユングフラウヨッホ郵便局」 に 申し入れ、1993年に姉妹提携が実現。友好関係の証としてそれぞれの国のポストが贈られました。年間約200 万通が投函されるユングフラウヨッホ郵便局では日本の赤ポストが公式の郵便箱として使われています。 ユン グフラウヨッホを含む一帯は、2001年に世界遺産に認定されており、姉妹提携20周年を迎えた2013年に富士 山が世界遺産に登録されたことで、 ともに世界遺産にある郵便局となりました。


スイス帰りの鐘をめぐる物語

ジュネーヴ

東京都品川区

1657年に る品川寺の由緒ある大梵鐘は長く行方知れずとなっていました。 パリ万博の展示用に搬出されて紛 失したと考えられていましたが、明治政府が大砲にするためスイスの鋳造所に依頼したという説も。実際、14世 紀からの伝統を誇るアーラウのリュエッチ鋳造所で、 あわや消滅の危機にあった鐘を救ったのがアリアナ美術館 創立者のルビリオ氏でした。美術蒐集家であった彼は鋳造所を訪れた時、一目でこの鐘に惹かれ買い取りまし た。 その後、 美術館の庭に設置されていた鐘のことが日本側に伝わり返還を希望。 美術館の所有者となっていた ジュネーヴ市の理解と好意により、数奇な運命をたどった鐘は1930年に故郷の品川寺へ帰還することとなった のです。 そんな鐘が結んだ縁から品川区とジュネーヴ市は1991年9月9日に友好都市提携を交わしました。

高山植物が咲き誇る山上の植物園

シーニゲプラッテ高山植物園

ブリエンツ・ロートホルン鉄道

レーティッシュ鉄道

箱根登山鉄道

1907年、海外から帰国した名士からスイスの登山鉄道の評判が小田急電気会社に伝えられ、箱根に登山鉄道を通 す計画が動き出しました。最初は碓氷峠と同じアプト式歯軌条鉄道で申請しましたがさらに研究の必要があるとし て1912年に主任技師長の半田貢氏が欧米へ派遣されました。各国の鉄道を視察した結果、高低差1824メートルで 最大勾配70パーミルの路線でありながら通常のレールを使った粘着式鉄道というベルニナ鉄道(現・レーティッシ ュ鉄道ベルニナ線)に注目。同じ景勝地を走る鉄道として山肌をぬうように曲線を多用した設計方針を取り入れる ことを決断。帰国後、 すぐに変更計画で再認可をとり1915年に着工。大小31カ所の橋梁や12カ所のトンネルなどの 難工事を経て1919年、箱根登山鉄道が誕生しました。 そして開通から60周年を迎えた1979年、 モデルとなったベル ニナ鉄道を受け継いだレーティッシュ鉄道と姉妹鉄道提携を結び、現在まで相互交流を続けています。

六甲高山植物園

標高1967m、 アイガー・メンヒ・ユングフラウの三名山を正面に望むシーニゲプラッテ山上の広大な敷地で約600 種類の植物を栽培しているスイスを代表する高山植物園と、 標高865mの六甲山で約1500種類の植物を栽培し ている日本初の高山植物園は、 長い歴史や自然の環境をいかした造園方針、 登山鉄道などで結ぶ有名観光地の 山上にあることなど共通点が多く、 2008年6月28日に姉妹提携を結びました。

守り続ける蒸気機関車の灯

日本とスイスを代表する観光地と絶景鉄道

今や日本屈指の観光地となった箱根。明治から大正にかけて瀟酒な別荘がたち本格的なリゾートへ変貌するな かに三菱財閥の岩崎家との歴史がありました。1902年の欧米旅行でスイスを訪問した三菱第二代社長・岩崎彌 之助氏がスイスに感銘を受け、帰国後に 「箱根を日本のスイスにしよう」 といったという記録が残っています。 そし て1904年には箱根湯本の1万坪におよぶ敷地にゲストハウスを兼ねた別荘を建築。英国人建築家コンドルによ る洋館は大震災で消失しましたが和館と庭園は 「吉池旅館」 として残されています。 また大涌谷から温泉がひか れた強羅には1915年、三菱創始者・彌太郎氏の三男にあたる康彌氏の別荘(現・強羅環翠楼) が建てられました。

大井川鉄道

1892年開通の伝統を誇り、 スイスで唯一、 蒸気機関車の定期運行を続けているブリエンツ・ロートホルン鉄道と 1976年7月から大井川本線で日本初の蒸気機関車の動態保存運転を始めた大井川鉄道は、 ともに蒸気機関車 の灯を守り続けているということから1977年12月に姉妹提携を結びました。 1990年に同社の井川線がダム建設 のため 回線を新設する際には姉妹鉄道にならってアプト式を導入。 現在では日本唯一のアプト式歯軌条鉄道 となりました。 また、姉妹鉄道の縁から、麓の町であるブリエンツと大井川鉄道本社のある静岡県金谷町(現・島 田市) も1996年8月10日に姉妹提携しました。 ブリエンツ・ロートホルン鉄道では同年に製造された蒸気機関車 15号に 〈Stadt Kanaya〉 というプレートを付け、 運行しています。

父・彌之助氏の思いを受け継いだ三菱第四代社長・岩崎小彌太氏は、葉山や大磯など海辺の別荘地が主流だった 時代、山々に囲まれたスイスの湖畔に王侯貴族が好んで別荘を建てたように、富士山を望む ノ湖畔の約10万坪の 敷地に別荘をたてました。戦争が終わり、小彌太男爵の別荘は買い取られ『山のホテル』 として1948年にオープン。 そ の後、建物が老朽化したためスイスの山小屋をイメージした赤い三角屋根のホテルに改築。東京オリンピックを期 に海外からの観光客が大勢訪れるようになった時代には箱根では珍しい本格的な西洋式のホテルとして重宝され ました。 その頃、和食に慣れていない外国のお客様に喜んでいただけるようにと、魚介類と野菜を使いスイスの名物 料理オイルフォンデュをアレンジして提供したところ大変好評を博したというエピソードも残っています。


TOPICS スイスの物語から誕生した日本の名作アニメ スイスのイメージとして多くの人々が思い出すアニメ 『アルプス の少女ハイジ』。 スイスで生まれた物語を原作として、演出の高 畑勲さん、場面設定・画面構成の宮崎駿さん、 キャラクターデ ザインと作画監督の小田部羊一さんという、現在ではアニメ界 の巨匠といわれるドリームチームが手がけた作品で、後の日本 のアニメ界に多大な影響を与えた金字塔といわれています。不 朽の名作アニメとして世代を越えて愛されて いますが初放送は1974年のこと。 日本・スイ ス国交樹立150周年となる2014年に、放映40 周年という記念年を迎えます。

スイス山岳観光の黄金期と日本人 © ZUIYO

アニメの原作となるのは、 スイスの女流作家ヨハンナ・シュピーリ Johanna Spyri (1827-1901) が、ハイディ Heidi と いう少女を主人公に、 山の美しく厳しい大自然に育まれ、子供たちが成長していく姿を描いた物語です。 のどかな田園 風景が広がるヒルツェル村で、医師の父と牧師の娘で詩人の母のもとに生まれ、本が大好きだった文学少女は、結婚 してチューリヒに暮らすようになり、文才を認められて作家の道を歩みます。多忙な夫と慣れない都会暮らしに孤独感 を抱いていた彼女が、友人の住む山里で休暇を過ごすなかこの物語を着想しました。都会フランクフルトから 「アルプ スへ帰りたい」 と戻ってくる少女は、 彼女自身の姿だったのかもしれません。 1880年に 『Heidis Lehr-und Wanderjahre (ハイディの修業時代と遍歴時代)』、翌年には続編となる 『Heidi kann brauchen, was es gelernt hat.(ハイディは 習ったことを使うことができる)』 を刊行。後に挿絵が異なる本が発刊されていくとともに、 ドイツ語で書かれた作品 は国語であるフランス語、 イタリア語、 ロマンシュ語のほか、英語、 スペイン語、 ポルトガル語、 日本語、 中国語、 アラビ ア語など約50ケ国語に翻訳され、 世界中の子供たちに愛されることとなりました。

『アルプスの少女ハイジ』 は、 テレビアニメとして日本で初めて海外ロケをして制作された作品でした。 「本物のスイス を肌で感じ、世界に通じるアニメを制作したい」 という強い思いで、1973年の夏にスイス取材を敢行。 「単にスイスの と高橋 風景を書くだけなら写真でも良いが、空気や人々の仕草などを、知識ではなく肌で感じ取って欲しかった」 プロデューサーが語るように、実際にスイスで見たもの、聞いたもの、感じたものすべてが作品に反映されています。 予定では原作の舞台といわれるマイエンフェルトを訪ねることが目的でしたが「本物のアルプス地方を見ておいたほ うがよいだろう」 と一行はユングフラウ地方へ向かうことを決定。実は、作品のタイトルに アルプスの少女 とついて いるのは日本のアニメのオリジナルで、原作はもちろん、各国で発行された翻訳本や映画、 テレビシリーズなどのタイ トルにも アルプス という表現は見られません。 日本で制作されたこのアニメは 『アルプスの少女ハイジ』 という名の 通り、 スイスアルプスのイメージを強く打ち出した作品になっているのです。 白く輝く雪山、雄大な氷河、霧のようなし アニメの中であざやかに描かれ ぶきをたてて岩壁を滑り落ちる滝、一面に広がる花畑、森の木々、流れる小川など、 ていた世界は、今もそのままスイスのアルプス地方に息づいています。

絵画や文学の世界で自然礼賛の作品が多く登場してきた18世紀。 ルソーやワーズワース、 ターナーなど人気作家や画 家の影響で、 英国を中心としたヨーロッパの上流階級にアルプスの魅力が広まり、 19世紀後半にはアルピニズム・登山 がブームとなりました。 そして1811年に標高4158mユングフラウ、 1850年に標高4049mのピッツ・ベルニナ、 1855年に 標高4634mのモンテ・ローザ、1865年に標高4478mのマッターホルンなど次々と名峰の初登頂に成功していきます。

世界中から訪れる登山客たちのため、風光明媚な山間の村々に続々と山岳交通が誕生し、 ホテルが建設され、現在の スイスを支える山岳観光の基盤が築かれていきました。その中心となったのが、アイガー、メンヒ、ユングフラウ 三名山、 アレッチ氷河からヴァレーアルプスへと連なるユングフラウ地方と名峰マッターホルンとスイス最高峰モンテ・ ローザを有するツェルマット地方。 1890年にベルナーオーバーラント鉄道、 1893年にシーニゲプラッテ鉄道とヴェンゲ ルンアルプ鉄道、 1898年にゴルナーグラート鉄道、 1912年にユングフラウ鉄道が開通しました。

19世紀末、 ヨーロッパは万国博覧会の時代。開国し西洋の文化を取り入れようと視察、遊学のための欧州訪問が 盛んになっていた日本からも多くの人々がスイスを訪れ、雄大な山々に挑んでいます。1910年8月にはニッカウヰスキ ー創設に参加した実業家の加賀正太郎氏がユングフラウの日本人初登頂を果たしました。1921年9月には登山家の 槇有恒氏が名峰アイガー東山稜の世界初登攀に成功。1926年8∼9月には今上天皇の叔父にあたる秩父宮雍仁親 王が、 グリンデルワルトとツェルマットを拠点に数々の名峰に登攀しました。彼らが日本に持ち帰った登山道具や記し 伝えた経験は日本のアルピニズムに多大な影響と足跡を残したといわれています。

難攻不落といわれたアイガー北壁にも日本人は挑みました。 1963年に芳野満彦氏らが挑戦するも失敗。 その隊の一員 だった渡部恒明氏が再び挑んだ1965年8月、 あと少しのところで彼は命を落としてしまいますが、 同行の高田光政氏が 日本人初登攀を果たしました。 (この実話を元に 『アイガー北壁』 という小説を執筆し、 この地を愛した作家・新田次郎 ) 1969年7月にはモンベル社創業者で現 氏の墓碑は、 北壁を眼前に望むクライネ・シャイデックの丘に遺されています。 会長の辰野勇氏が若干21歳にして日本人2番目のアイガー北壁制覇。 同年の8月15日、 女性初登頂となる今井通子さん を含む登山隊が世界初の直登ルートで成功。1977年には長谷川恒男氏が冬季の単独初登攀を成し遂げました。


TOPICS 遣日使節アンベールが紹介した日本

使節団が来日した時は生麦事件、 英戦争が起こ るなど情勢不安のため条約締結まで約10ヶ月の時を 要しました。 その間を利用して日本の風俗を観察して まわったアンベールは、1866年∼69年にパリの雑誌 『Le Tour du Monde / 世界一周』 で日本特集を連載。 1870年には2冊組の本 『Le Japon Illustré/描かれ た日本』 を刊行。特筆すべきは当時の有名な画家た ちによる約450枚の銅版 画。 日本で蒐集した絵やア ンベール自身のスケッチ、 彼に同行して撮影していた フェリーチェ・ベアトの写 真を元に描かれました。 パリ万博前に日本を詳細 に紹介した作品でジャポ ニズムの先駆けとして高く 評価されています。

スイス時計の歴史とジュネーヴ

昭和天皇のスイス訪問

スイスで生まれた奇跡の発明

産業革命に成功していたスイス人は条約締結後、 西洋式製糸技術を伝えるなど多方面で日本の産業 を支えていました。数学者オイラーや錬金術師・医 師パラケルススの時代から現在まで革新的な研究 者が多く、 アルミホイル、セロファン、DNAからミル クチョコやホワイトチョコ、 プロセスチーズまで発 明品もいろいろ。WEBの概念もスイスの研究所セ ルンで誕生しました。 そんな発明の国を代表するの がアインシュタイン。 1年で 『特殊相対性理論』 を含 む3つの大発見を発表したベルンには彼の家を残 した記念館やミュージアムもあります。

16世紀にジュネーヴで宗教革命が始まり、 フランスから逃げてきたユ グノーの時計技術が宝飾技術と結びつき時計産業が華開きます。風 光明媚なアルプスの国スイスの玄関口で流行の先端をいく自由都市、 世界の富裕層が集うジュネーヴは生産だけでなく時計売買でも栄え 「ヨーロッパ中の時計が集まる場所」 といわれていました。 そんな時計 の町に1839年創業したパテック・フィリップには徳川・岩倉使節団と もに視察に訪れています。顧客には各国の王侯貴族や有名人が名を 連ねており、 日本人で初めて台帳に名前が記されたのは使節団の旅 で訪れた昭武で三点の懐中時計を購入。大正天皇、昭和天皇、今上 天皇の名前もあります。 同社が誇るスイス時計の歴史を伝える貴重な コレクションは 「パテック・フィリップ・ミュージアム」 で見ることができます。

スイスで誕生した赤十字の精神

世界初のノーベル平和賞を受賞したスイス人 アンリ・デュナンの提唱により創立された人道 活動団体「赤十字」。救急車や救急箱でおなじ みのマークはスイス国旗を反転したものです が、イスラム圏では十字の代わりに月の形にな っています。 デュナンの出身地ジュネーヴにあ る赤十字国際委員会本部は赤十字の活動を 伝えるミュージアムを併設。彼のお墓はチュー リヒ、 記念館はハイデンにあります。

© 2013 KEYSTONE

外国訪問がほとんどなかった昭和天皇ですが、1971年(昭和46 年)9月27日から10月14日にかけて香淳皇后と一緒にヨーロッパ 諸国を歴訪された時、 スイスにもお立ち寄りになりました。季節は ちょうど秋、収穫期を迎えた葡萄畑が黄金色に染まる最も美しい 時にレマン湖地方へ。 モンペルラン (ペルラン山) にあるホテル 「ル・ ミラドール」 で休憩され、 テラスから見下ろすレマン湖の眺望に感 嘆されたそうです。 そして2007年に世界遺産認定されたラヴォー 地区グランヴォーの葡萄畑を10月11日にご訪問されています。葡 萄の収穫を体験され、 地ワインを楽しまれたそうです。 葡萄畑の石 塀にはその時の記念プレートが残っています。 そして、 ココ・シャネ ルやチャップリンの常宿で、 古くから王侯貴族たちに利用されてき たローザンヌの 「ボーリヴァージュ・ホテル」 に宿泊されました。

オリンピックの総本山となったローザンヌ

東京開催決定でオリンピックブームに沸く日本。現代 のオリンピックは、 スポーツでの国際交流や平和を理 想として古代オリンピックの復活を思い描いたクーベ ルタン男爵の熱意に始まりました。 その構想の中心と してスイスのレマン湖地方に興味を抱き、 当時パリに いたローザンヌ出身のブロネイ男爵と親交を深め、創 設した国際オリンピック委員会(IOC) に勧誘。後に帰 国した彼の暮らすグランソン城を何度も訪ねてロー ザンヌに 留するようになります。1915年にはローザ ンヌにIOC本部を移転。1993年にオリンピックの歴史 を網羅する膨大なコレクションを公開する博物館が オープンしました。 ローザンヌの名誉市民となったク ーベルタン男爵はシャネルと同じ墓地に眠っています。

スイスの山岳救助犬セント・バーナード

勇敢で鋭い嗅覚を持ち遭難者を助けてきたセント・バ ーナード犬。 かつてシーザーやナポレオンも越えたグ ラン・サン・ベルナール峠の修道院(ホスピス) で、雪中 で体を暖める酒 を首にぶらさげ、 アルプス越えの旅 人を救ってきました。峠の名前が犬種名となりました が、 日本では英語読みの名前で知られています。峠の 入口となるマルティニには博物館もあります。東京消 防庁では人命救助のために災害に立ち向かうシンボ ルとして救助隊の腕章に犬のマークを用いています。

スイスに習った木彫りの熊

北海道土産の定番といわれた木彫り熊はスイスに 由来しています。 尾張徳川家の義親侯が1921∼1922 年の欧州視察旅行でスイスを訪問。 1835年に工房 「ジ ョバン」 が創業した木彫りの里ブリエンツで盛んにつ くられていた木彫りの熊を見かけ、徳川牧場のある 八雲町で農閑期の産業になると思い購入。 その熊を 見本につくった木彫りが評判になり全道に広まったと いわれています。 ちなみに義親が帰国する際、来日 するアインシュタインと船で同行することとなりました。


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