Architecture in the Post COVID Society Takehiko Iseki
Architecture in the Post COVID Society /漣 井関武彦
2021 年 8 月 22 日 発行 カバーイメージ 吉川勉
編集 西尾圭悟(hoka books) ©Takehiko Iseki
2021 Printed in Japan
Architecture in the Post COVID Society 井関武彦
CONTENTS
コロナ後の社会と建築 幻影の建築
東京オリンピックと新国立競技場にまつわるひとつながりの問題
2 15
コロナ後の社会と建築
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1.コロナウィルスが可視化したもの
コロナ禍が生活を一変するまで、私たちの社会は全てが「過剰」 に向かっていた。東京オリンピックに向けた海外からの観光客の誘 致、新規 IR 事業の開拓や、都心の交通拠点の再開発。30 年後この国
の人口が 3 分の 2 まで減る事は統計的にも明らかであったため、こ
の 50 年に一度しか来ないと言われる、世界最大のスポーツイベント は日本経済に残された最後の起爆剤だった。それがもたらす利益を
最後の一滴まで絞り取ろうと、政府と民間が一体となって、この国 に付加価値をつけようと躍起になっていた。
少ないよりも多い方が良いという価値観を、私たちはいつ植え付
けられたのだろうか。人口が一極集中する東京ですら、これだけの 建物が必要であるとは思えない。皆がどこかで分かっていたが、そ の活動を止めようとは誰も言い出さなかった。毎朝満員の通勤電車
に揺られ、一本のレールの上を目的地に向かって、皆でまっすぐ進 んでいた。
私たち設計を生業とするものですら(逆に、そのせいもあり)、 減少していくもの、また無くなってしまう事を前提とした建築や都
市の計画を想像する事は難しかった。しかし、実際には日本から、 そして世界からも毎日のように大切なものが姿を消している。北極
海の氷、東南アジアの森林、海や陸の生態系、また山合いの限界集 落や伝統技術など数え上げるとキリがない。私たちは日々失われて
いくものたちから、目を逸らし続けていた。環境の維持や伝統の保 存には最大源の努力を尽くすが、残念ながら、それでも無くなって しまったものはしょうがない。それ一つの運命であり、地球の大き な新陳代謝の一部であり、また新しい何かに取って代わるだろうと
いう希望的観測を持って、日々、目の前の「過剰」な要求に時間を 3
費やしていた。それが幸福への唯一の方法だと言い聞かせながら。 コロナ禍で、いくつかの物事が私たちの前から姿を消した。それ
は行きつけのお店や、楽しみにしたイベントであり、また会社に毎 日通勤をしなければいけないという古びた慣習でもあった。このコ
ロナ禍が与えてくれた契機を、私たちはどのように生かすのだろう
か。一時的に速度を緩め、リズムを変えた生活の中で、「当たり前 のものがなくなった」社会を想像する事はできないだろうか。それ を巷ではスペキュラティブな思考と言うらしい。
この目に見えないウィルスがもたらしたパンデミックは、何事も 可能だということをはっきりと示してくれた。世界の大都市をほぼ
1 年ロックダウンさせ、東京の通勤ラッシュを緩和させる事など、 誰が想像しただろうか。不可能だと思っていたことが現実に起こっ
た。パンデミック以前、私は駅舎や空港、スタジアムなど都市の機 能に欠かせない「人の集まる場所」を設計していた。ロックダウン になったロンドンの街と通いなれた駅を訪れて、まるで人のいない
その様子に愕然としたことを覚えている。人が集い、賑わい、交流 するといった、自分が思い描いた都市の姿は、そこから完全に消え ていた。すべての店がシャッターを下ろし、数台のタクシーと宅配 便が往来するだけの、閑散とした大通り。人気のない駅のコンコー
スは、そのがらんどうさに目眩のする思いであった。そして、コロ ナ禍のあとも、もとの人通りがこの街に戻ってくることはないだろ
うという確信めいた予感があった。私たちは、あらゆるスペキュラ ティブな思考が実現する予感と可能性をはらむ、新時代の新しい波
に直面しているのだろう。しかし同時に、誰も未来を予測する事の できない危機的状況だからこそ、そこには世代や地域を超えた新し い社会のストーリーを生み出す大きな可能性が潜んでいるのかもし れない。
都市を思考し続けるものとして、また都市を形作る一端を担うも 4
のとして、コロナ禍の示唆する未来の社会と建築について再考して みたいと思う。
2.「精神」の表出としての都市
西洋の都市を訪れるときに気がつく特徴の一つに、広場と公園の
存在がある。どんな小さな街にも一つは印象的な広場があり、普段 は住人の憩いや交流の場として使われ、また年に数度は、祭りや儀
式を執り行う舞台として、街の「顔」となる一面も持っている。シ エナのカンポ広場、ブリュッセルのグランプラス広場、そしてロン ドンのトラファルガースクエア。元々は教会や市場に付随して作ら れた集会の場所であったと言われる広場は、いまもシンボリックな 街の中心として機能している。
広場や公園は現在の都市計画の区分では公共空地と呼ばれる都市
における非建築空間のことであるが、そもそもの概念は古代ギリシ
アの都市国家(ポリス)の中心に作られた広場「アゴラ」に起因する。 アゴラ(Agora)とは「アゴラゾ(集まる)」を語源としたもので市
民活動の重要な拠点として、また時には政治的集会の場ともなった。 古代ローマ時代、広場は「フォーラム」と呼ばれたが、その都市の 中での役割はさらに重要度を増し、経済活動、文化活動、政治活動 の中心として計画されるようになる。その後中世になると、広場は その都市の隆盛や文化水準を計る象徴としてその市民のためだけで
なく、対外的な役割も付随するようになり、その周囲には王宮、役所、 裁判所などが建てられるようになった。特に 17 世紀以降は建築技術 や、庭園技術が導入され広場は都市の顔としてますますその存在を 顕在化させた。[1] そして、現在に至るまで、広場や公園に代表され
5
る都市の公共空間は、その都市の豊かさを反映する一つの指標とな り、居住者の満足度を映し出す「鏡」となった。
例えば、その広場が軍隊の行進や、国家行事のパレードのみに利 用されているのであれば、その社会の統治構造を想像する事はたや
すい。また、その広場にゴミが散在し、枯葉が吹き溜まっていたら どうだろう。おそらくその都市にはその広場を整備するための、公 共の資金が十分に行き届いていないと察することができる。また広 場が常にデモと暴動の人々で埋め尽くされているとすれば、それは その社会に不安と不満が募っていることの証となるだろう。
ゾーニングが張り巡らされた近代の都市計画の中で、「何も建て
られない場所」としての公共空間が持つ意味は大きい。共同体(国家、 都市)に属するその場所は、共同体の思想が反映される都市空間で
あり、市民一人一人が所有する場所でもある。中世西洋社会において、 広場の存在が議会という政治制度を形作り、その後、政治や経済の 民主化を形成する一助となった、とまで言うと少し議論は飛躍しす
ぎるかもしれない。しかし、都市の一部に市民の「精神」が反映さ れ、それが表出しているという点で、その共同体の持つアイデンティ
ティーと広場の作られ方に、そしてその社会の統治構造とその広場 の使われ方には関係性があると言ってよいだろう。
大学卒業後から現在に至るまで私が活動の拠点としているロンド
ンには、ボーダーレスで自由なエネルギーと緊張感が入り混じった
空気が流れている。様々な歴史と文化が交錯するこの街では、ある 時はテロや暴動といった混乱が通りを封鎖し、また別の日には調和 と団結を求めるデモ運動が広場を埋め尽くす。日々移り変わる街の
光景を目の当たりにすると、現代のロンドンですら 16 世紀のシェイ クスピアの戯曲と何ら変わらないように思える。そして同時に、そ こから「街は自分たち一人一人のものである」という英国人の確固 6
とした所有意識が伝わってくるのだ。 それは、英国の社会体制が個の自由と社会制度の関係性を問う、 西洋の近代哲学や思想と共に発展したことに起因する。特にトマス・ ホッブスやジョン・ロックが展開した道徳哲学や契約を基礎とする
社会思想はこの国の社会形成に大きな影響を与えた。そこには、個 の自由を社会が契約によって遵守し、その政治システムの中で遂行
する責任が求められる。同時に、政府が公共の利益から外れ権力を 乱用するようになれば、政府はその由来と権限を失い解体されたと
みなされる。その政府に抗する「抵抗権」を持つことで、人間の生 命や財産の所有は保障される。[2]
英国で長く暮らすうちに、私は個の自由と集団の秩序は互いを抑
制するだけでなく、お互いに補完し合い、大きな物語を生む存在に なり得るのだと前向きに考えるようになった。そのような社会と個 人の関係性を意識する事は、私の設計に少なからず影響している。
3. 「仮説」としての建築
設計における自己の外部化 建築を設計する行為は、最終的に何かに形態を与えることから逃
れられない。つまり、空間的な構想を、スケッチや製図、模型や3 次元モデルの製作を通じて、幾何学的な寸法体系に置き換える作業 が必要となる。
この作業は自己のアイディアを一旦外部化することで、その妥当
性を客観的に考察する側面があり、またアイディアを検証し、実際 7
に遂行する他者(技術者や施工者)と共有する目的がある。また建 築家はこの意思疎通過程において、図面という媒体の縮尺を操作す
る。時に全体を俯瞰し、時に局所に近接する。それは建築が、最終 成果物を立ち上げるまで全体を原寸で検証する事ができないという
本質的な制限に起因する。古代のピラミッドから、現在の超高層建 築まで、出来上がった建物の全ての状態を事前に検証する事はでき
ず、そこには過去からの経験則と未来への推測が重ね合わせられ、 一つの「仮説」として社会の中で実体を持つ事になる。
私は過去 15 年以上に渡り、ロンドンを拠点に欧米とアジアにおけ る建築プロジェクトに従事し、建築もしくは建築設計が社会性を持 つとはどういうことなのかという疑問に直面してきた。西洋におけ
る建築デザインのプロセスは、論理的で明確なものが常に成功を収
めている。それは、長期にわたる設計プロセスの中で、建築家は幾 度となくコンセプトの説明を求められ、交渉の中で妥協と落胆を繰 り返しながら根気のいるプロセスを一つずつ明確にしていく道のり
の長さから来るものだ。その間に建築家は強い信念とコミュニケー ション能力を試される。
情報化社会の本格的な到来により、新しいビジネスや経済の仕組
みが生まれ、それとともに社会は複雑化し、施主となる個人や企業 からの要求は非常に多様化した。もはや、内部のプログラムと建物 は1対1の関係を求められることは少なくなった。美術館のようで
ありながら広場のようでもあり、図書館のようでありながら学校の
ようでもある。または、建物が使われる時間によって、時には公会 堂や、体育館、または避難所にもなる。そのような、一つの建物で 複数のプログラム、またはアクティビティーを許容するような柔軟 性のある使われ方を可能にするような建築空間を求められることが 多くなった。
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また、様々な情報に精通し、極めて成熟し洗練された戦略を持っ
て建築家の前に現れる施主も多くなった。そこで生まれる建築デザ インはコミュニケーションのプロセスそのものであり、施主やデザ
インチーム、技術コンサルタントなど案件に関わる全ての人々の関
係がその成果に大きく影響を与える。彼らは、デザインを担当する 建築家とお金を払う施主という受動的な関係から、プロジェクトを 通じてお互いが一つのビジネスパートナーとなり、目標に向かって 最大限の成果を発揮し合うことが出来る関係を求めている。そのよ うな案件では設計プロセスは徹底して透明化され、能動的なやり取 りを求められるようになる。
透明化とは情報化社会の一つのキーワードでもある。建物の表層 についての議論はプレゼンテーションの議題から徐々に姿を消しは
じめ、その設計プロセスや具体的な問題解決の検証を通じて建築の
総合的な価値を議論し、評価することに時間が費やされる。案件ご とに与えられる固有の条件をどのように整理し、方向付けていくか という問題は以前にも増して専門化し、それに対する建築家からの 応答の精度やスピードも経験の豊富な施主を満足させるものが必要 になってきていると言えるだろう。
そのような専門技術を持った集団で行う設計プロセスを通じて、 建築家の職能の幅はかつてなく広範囲で各分野の示唆に富んだもの
が必要となってきたと体感する機会が増えた。そして同時に、オー
プンで能動的なプロセスを統合する能力こそが、自己を外部化し、 最良の設計に到達するために求められる新しい建築家の職能である 事を実感した。そのような設計における具体的なツールとして、チー ムで共有するデジタルプラットフォームや、幾何学変数の操作によっ
てプログラムやコンテクストといった建築の与件を最終的な建築形
態に反映させるパラメトリックデザインの手法について、実践と考 察を重ねてきた。
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デジタルプラットフォームとパラメトリックデザイン デジタルプラットフォームとは案件に関する敷地条件や建物のデ
ザイン、構造、設備などの技術的な情報を一箇所に集約した、一つ
の3次元モデルのことを指す。設計に携わるそれぞれのチームは、 プロジェクトの進行とともにそれぞれの担当情報をプラットフォー
ム上に定期的にアップデートし、その他のチームと共有を図る。デ ジタルプラットフォームは共同で働く行為を設計の中に促し、各チー
ムの作業状況を可視化する。また、様々な角度からの意見を統合し 反映させる多様性を持ったアプローチを設計の中に包含する。ここ でも建築家という一人のマスターを頂点をする20世紀型のモデル
ではなく、多様で多角的な意見を統合してプロジェクトを推進して いくよりフラットな現代社会の有り様に似ている。
パラメトリックデザインはこのような多様な設計要求を、数学的 もしくは物理的な変数に置き換えたデザインの手法である。敷地に
おける法規上の高さ制限や、床面積の上限などは、コンストレイン ツと呼ばれる閾値を設定することで設計情報と照らし合わす事がで
きる。それらの設計与件に応じた建築デザインに対して、構造や、 設備、環境シミュレーションを通じてその性能の最適化を計る。また、 設計上のデジタル情報は、CNC フライス加工や熱形成技術を用いた
特殊部品の製作や加工に直接利用され、寸分の狂いもなく建築物に
転写される。このように様々な分野の「知」を統合させながら最終 的な形態の妥当性、機能性、施工性をデジタルプラットフォーム上 で検証する。
そこでは、建築設計は特定の形を作るためにあるのではない。そ の目的は現状で想定し得るあらゆる与件と、未来の不確実性を包含
した「可能性としての形態」を創造することにある。設計は自己表 現の手段というだけではなく、社会とつながる重要なコミニケーショ 10
ンの媒体として機能する。 このように複雑に絡み合った専門家チームの共同作業により現れ
る建築形態は、単純な箱型や幾何学ではなく、それ自体が複雑性と 多様性を内包した空間として表現される。そのような多種の変数を 同時に取り扱いながら、建築プロジェクト全体としての調和と整合 性を保つため、建築家にはローカルな変数とグローバルな秩序を一
つの造形として統合する能力が求められる。20 年前であれば、あら ゆる部材の大きさが異なる図面を書き上げ、またそれが数週間ごと に新たな要件によって変更しなければならないというような、連鎖 的な複雑性を持つプロジェクトを手書きの図面で一つ一つ追いかけ
る事は不可能であっただろう。しかし現在では設計過程自体を全て デジタル化し、BIM に代表されるようなプラットフォームに連結す
ることで、それぞれのデザイン過程の情報は設計の下層部まで伝わ
り、最終的な施工図面にまでほぼ自動的に反映される。そのような 現代の技術革新がこの設計プロセスを支えている。10 年ほど前から
欧米ではそのような動きを取り入れる取り組みが本格化し、初期段
階の設計コンペでも BIM モデルを提出することが義務付けらる案件 が増えている。
新しい建築の美学 専門家が共同し施主とともに作り上げるデザインプロセスは、現 代の巨大で複雑で密集した都市に秩序をもたらす一つの有効な手立
てとなる。自由に入れ替えが可能な細部と、シームレスに整えられ
た全体の秩序。個々の複雑性は増加しながらも、全体として規律が 保たれた状態を作り出す。まさに現代が規範とする自由と調和が両 立する社会モデルを、設計プロセスに反映したものである。
そこで生まれる建築形態(ジオメトリー)はより可塑的で、予定調 11
和を拒絶する。空間と与条件は密に対応しながらも、その空間体験
は不均質な場の生み出す発見と、予感を裏切る可能性に満ちている。 複雑な空間同士はただぶつかり合うのではなく、融合し、バラバラ
の点と点を、分断されたフラグメントをもう一度つなぎ合わせる。 いつかの記憶に現れた、優雅な曲線を描いて。
それは自然の中に生まれる様々な幾何学形態ともどこか似ている。 魚の体を包む複雑な鱗の肌理を私たちは醜いと思わない。貝殻の模
様、生命の細胞体、植物繊維組織の断面、それらの幾何学は単純に 形の連続ではなく何らかの力の法則や必然の理由、そのような物と 力の関係の中で生まれる複雑性を持ちながら一貫性を持った形態で
あるからだ。また、ヴァナキュラーな建築群や集落に見られる、そ の地域の気候や建材、慣習から生まれたオーガニックな形態や集合
の理論にも類似点が見られる。そこには複雑性と秩序のバランスが
保たれている。豊かさに溢れながらも、ゴミだめの中を覗いたとき のような混沌は無い。
建築は「記号」を乗り越えなくてはならない。それは最終的に身 体的なものに訴えかけ、五感を刺激し、記憶を想起させるような実 体でなくてはならない。デジタル上のシミュレーションだけでは決
してたどり着けないそのような建築を、私はいつも探し求めている。 自らの過去の記憶をたどりながらも、そこには未来の建築と社会へ
の想像力が加味される。新しさを保ちながら、変化し続ける社会に コンテクスチュアルであるモデルを提示することは十分に可能であ
る。そうして生まれた建築の形態には一つの美学と、深い身体の記 憶に働きかける力が宿っている。
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4.自由と秩序 その共存する場所で
私が現在所属するザハ・ハディド事務所で作る建築はロンドンの
街を反映するかのように、個の多様性が磨かれ合って秩序となり、 自由な建築を生み出している。小さなうねりが大きな波になるよう
に、アイデアが次々と形を変えながら成長していく。この事務所の
最大の強みは、建築を解放しようとするザハ・ハディドの意思と、 それを秩序だてようとするパトリック・シューマッハの理性、この 二つの力の相互作用にあった。
様々な価値観や思想を受け入れながらも、常に自由な個人でいる
こと。柔軟性と寛容の中にも揺らぐことのないビジョンを持つこと。 社会を動かし変えるためには、個の自由が、そして精神の自由のみ が原動力となる。その個の持ち寄った可能性が共鳴しあい、共同体 の中でその力が集約された時、一人ではたどり着けない輝きを発し
始める。ザハとパトリックの教え、彼らの生き方に共感する人々が 集まって、現在も当事務所は約 400 人のスタッフを抱え、世界中で 新しい建築の可能性に挑戦し続けている。
設計の現場で、終わりのないようにも思える混沌とした物づくり の中から、ひとすじの光のようなアイデアがふと生まれる瞬間があ
る。霧が晴れたように頭の中がクリアになり、当たり前だと思って いた考えが覆され、その場に居合わせた人が言葉を超えて一つにな
る。建築を作るプロセスの途中で時折訪れるこの瞬間に、私にとっ ての建築の自由が全て集約されているように感じる。
自由を纏った建築は、場所に根ざし、感情に働きかけ、人々の記 憶の中に深く根を張る。そのような建築は、硬直した社会の触媒と
なり自由と多様性を育むだろう。また、人々が集い、新しい交流の
場を生み、あらゆる既成の枠を超えて、その精神を解き放つだろう。 13
そして、そこに訪れた人々に瑞々しさと感動を伝え、その記憶の内 側にひっそりと留まるだろう。
バラバラに分断された社会の中で、そのような記憶に気づくこと が人々をつなぎとめる小さなきっかけになるのかもしれない。どこ
までも続く均質な世界の中に、浮遊した自律体として輝き、行き着 く先を照らしてくれるかもしれない。人類の身体と共に連綿と残さ れてきた建築という最古のメディアには、その忘れかけていた人間 と空間の原初の関係を呼び覚まし、来たるべき社会に欠けていたも のを想起させるような力があると信じたい。
その微かなきっかけを見逃してはならない。大規模な災いが小さ なほころびから生まれるように、大きな変化はわずかな気づきから
生まれる。絶え間なく動き続ける世界に目を凝らそう。それに反応 する自らの身体に耳を澄まそう。来たるべき社会の片鱗は、もうど こかで生まれているはずだから。
[1]
[2]
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日本大百科全書 ( ニッポニカ ) https://kotobank.jp/word/ 広場 -171359 統治二論 : ジョン・ロック [ 著 ] , 加藤節
幻影の建築 東京オリンピックと新国立競技場に まつわるひとつながりの問題
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人はイリュージョンに思いを馳せ、フィクションに支えられなけれ ば生きていけない存在なのかもしれない。
それは、未知のものへの想像力が人類をここまで繁栄させ、また幻 想への盲信が時に私たちを破滅に導いてきたように。
1.熱狂と空転
2013 年 9 月 7 日、日本はある熱狂の頂点を迎えた。アルゼンチン
のブエノスアイレスで開かれた IOC 総会で、東京が 2020 年の夏季オ
リンピック開催地として選ばれたのだ。その招致のスピーチの中で、 当時の安倍晋三総理は「他のどんな競技場とも似ていない真新しい
スタジアムから、確かな財政措置に至るまで、2020 年東京大会は、 その確実な実行が確証されたものとなります。 」[1] と日本の最先端の 技術と、革新性を世界にアピールした。そして、東京の夜景を背に紫 色に鈍く光るスタジアムのデザインを世界に公開した。
それは、その約1年前に、明治神宮外苑にある国立競技場を建替え る国際コンペで選ばれた、英国の女性建築家、ザハ・ハディド氏の提
案する新国立競技場の外観であった。計 46 の応募作品から選ばれた その建築案は力強く未来的なメッセージを発し、屋根を支えて天に弧 を描くシンボリックなアーチは、2019 年のラグビーワールドカップ
で世界から注目を集め、また 2020 年のオリンピック招致に向けて奮 闘する東京都が期待する未来像をはっきりと映し出していた。
50 年に一度といわれるオリンピックは、高齢化する社会と、硬直 した都市のカンフル剤となり、経済を後押しする原動力になる。特に 人口減少により国内需要が減ると予想される日本では、外国人旅行客
によるインバウンド収入に特化し、オリンピックまでにその知名度と 16
価値をあげようと、国と民間が一体となって様々な振興策が取られ
た。国家の野心と、 国民の期待を背負い、 斬新な新国立競技場のイメー
ジはオリンピック招致に成功した東京の7年後の未来のシンボルと して日本中のメディアに紹介され、建築プロジェクトとしては珍しく 世間からも多くの注目を集めた。
しかし、その国家の野心は空転する。
オリンピックに熱狂する政府と期待を膨らませる日本経済。しか
し、それは興奮だけでなく、多くの不安を呼んだ。未来が約束された 大都市の一方で、東日本大震災の傷もまだ癒えぬ現状に憂う多くの国 民は、その気持ちが過去に置き去りにされたと感じたことだろう。
加速する熱狂と、募る不満。高騰し続ける建設費と、不平等な富の 再分配。オリンピックという政府の国際的な取り決めと、後回しに
される復興という国民との約束。政府の掲げた「復興五輪」のキャッ
チフレーズとは裏腹に、都心のインフラ整備と、外国人観光客のため のホテルや商業施設の建設に資材と労力は割かれ、東北の復興は日を
追うごとに遅れた。そして、オリンピック開催までに残された時間が 刻一刻と失われていく中、招致からわずか2年足らずで国民の不満は また別の頂点を迎える。
2015 年 7 月 17 日、同じ安倍総理によってザハ氏の新国立競技場案 は白紙撤回を告げられた。そして、その理由は奇しくも五輪招致のと きと同じ、屋根を支える 2 本の巨大なアーチ構造だった。
2.すり替えられる物語
東京オリンピックの予算は 2015 年 10 月時点でも当初の約 2.5 倍、 17
2021 年7月時点では約4倍強の3兆円にのぼり、ロンドン大会を超 えて史上最高額のオリンピックになる予定だ。[2]
首相はザハ案を見直す理由を「コストが当初予定よりも大幅に膨
らみ、国民やアスリートから大きな批判があった」[3] と説明した。予 算を超過しているのは五輪に関わる他のすべての他の施設に関して も同様であるにもかかわらず、新国立競技場はその失態の「象徴」と して葬られた。
新国立競技場の白紙撤回について、その問題の大きさから文科省は 第三者組織を設立し、その検証を行った。その「新国立競技場整備計
画経緯検証委員会 検証報告書」[4] によると、IOC, IAAF, FIFA, WR な
どの様々な国際基準を満たさなければならないスタジアムの設計に 関して「JSC 及び文部科学省にも、これだけ大規模で複雑な建設工事
を経験した者はいなかった。 」と施主の経験不足を指摘し、「責任の 一面は、結果として、本プロジェクトの難度に求められる適切な組織 体制を整備することができなかった JSC、ひいてはその組織の長たる 理事長にあると言わざるを得ない」と結論づけている。
しかしながら、その後も政府の管理能力不足という根本的な問題は 解決しないまま、東京五輪のテーマは「復興五輪」から「アスリート ファースト」そして最終的には「コロナに打ち勝つ五輪」とその目標 を次々とすり替わり、最終的には何一つ成し遂げることができなかっ
た。また、新国立競技場、ラグビーワールドカップ、オリンピックと
いう三つの国際的な枠組みに関わる案件において政府はことごとく その公約とビジョンを達成する事に失敗し、その代償として巨額な税 金が国内外の民間企業に支払われた。
何度も繰り返される問題のすり替えと、拠り所のない不確かな言
動。国際的な舞台に曝された時に日本政府の発信力と競争力の低さは
明らかだった。世界のワクチンは日本国民にいつまでも回って来ず、 18
開催地である東京都と日本政府の意見は何一つ IOC に受け入れられ なかった。新型コロナウィルスへの対策と東京オリンピックの開催に まつわる数々の失敗は、政府の信用を地に落とした。
しかし、政府だけを責める事で問題は解決するのだろうか。国民の 誰もが当事者であったはずだ。オリンピックやコロナ禍は、一つの
きっかけではあったが、その失敗の構造は昭和の大戦、平成の大震災、 そして令和の大疫病まで何一つ変わっていない。そこには国家を形作 る個人と社会の信頼関係の欠落、そして想定外の事態に直面した際
に、問題の解決と新たなビジョンの提言ができる専門家集団の不在が ある。
3.個の「精神」と国家の暴走
18 世紀のドイツの哲学者、G.W.F. ヘーゲルは社会とそれに属する 市民との関係を、「社会的機関」は市民によって産み出された「普遍 的な資産(vermogen) 」の総体である、と説明する。
人間の労働は、個々人が自分の欲求のために行う労働であり ながら、同時に普遍的な、観念的な労働でもある。[5]
産業革命後に近代社会に新しく産まれ、現在も続く資本と労働の概 念。個の労働が社会の原動力となり、そうして作られる社会は市民 の欲求を満たすための器となる。その社会の最終形態として、国家
は「法律(Gesetz 掟) 」という権限をもつ最高権力として規定された。 個の自由と国家の権力、この二つの力関係を常に問い続ける形で近代 社会はそのあり方を模索した。絶対君主制から共和制へ、また権威主 19
義から社会主義や資本主義へと変遷する過程で、国家の枠組みが個の 力によって大きく揺れ動いた。国家の持つ権力の肥大化を、抑制する 必要があると考えられたからだ。
欲求と労働とが、こうした普遍性にまで高められると、大規
模な国民においては、共同性と相互的依存症の巨大なシステ ムがひとりでに出来上がってしまう。[5]
国家は (…) 激情、利害関心、目的、才知才能、暴力、不正、 悪徳といった内面的な特殊性が、外面的な偶然性とともに、 甚だ目まぐるしい戯れを演じ(...)そこでは人倫的全体その もの、国家の自律性が偶然性に曝される。[6]
個の「自由」が孕む、社会的な平等と不平等、また善と悪の両面も 了解した上で、もう一度、社会および国家のシステムに正当に還元す
るためには何が必要か。一つは、「財産」が「他者の福祉を同時に充 たす」事によって、社会機能としての富の再分配が行われ、平等を担 保すること。そして、もう一つその「根源的な調和」を保つために必 要となるのは、個の持つ「精神」であると結論づける。
諸国家は国家そのものとしては相互に独立であり、それ故、 国家間の関係は外面的なものでしかありえない。
そこで、第三の結合者が諸国家の上に存在しなければならない。 この第三者こそ、世界史というかたちで自己に現実性を賦与 し、諸国家に対する絶対的な審判者となる精神である。[6]
この「精神」は、 各人が「自分のうちに中心点」持ち、 「徳義(Sitte) 」 であることによって培われる。その「精神」が主観的及び客観的に反 映されたものが社会であり、 「人倫」とよばれる「自由の理念」を持っ て、その秩序を保つのである。 20
確固たる個の確立は、西洋哲学及び西洋社会における大きな特徴で
あろう。それによって、 法的拘束力を持つ国家と均衡な力関係を保ち、 相互に抑止力を有することができる。個による信頼と同意によって政 府が設立され、逆に市民が抵抗権を持つことによりその不信任を表明
する。国家の暴走を抑制するためには、そのような自由な精神を持っ
た個の確立、もしくは違う形の社会の仕組みづくりが必要であろう。
4.失速する専門家集団
建築家の職能とは、都市計画や建物単体の建設を通じて、社会的資
産の形成に貢献することにある。建築家が不在のままでも社会に寄与
する構造物を建設する事は、建築士によっても可能である。しかし、 建築士と建築家の最も大きな違いは、建物を通じて自由を表現し、社 会に問うことができるビジョンを持てるか否かにかかっている。建築 とは様々な人を巻き込み、共にビジョンを社会に構築する営みなの
だ。それは確かな経験と技術そして倫理観に支えられていなければな らない。
新国立競技場問題において特殊だったのは、日本国内の建築家がコ
ンペによって正式に選ばれた海外の建築家の作品を一方的に批判し、 一般市民を巻き込んだ反対運動を行ったことにある。
日本の建築メディアではザハ氏が「アンビルドの女王」であると世 間に触れ込み、その創造的なプロジェクトの実現可能性が低いと言う 印象を社会に与えた。
また、突如として現れた旧競技場の改修案は、正確さと実行性に欠 け、技術的にもでたらめなプロポーザルであり、どれも国際基準に満 たない非常に稚拙なものであった。新国立競技場プロジェクトが「非 21
常に複雑で、建設工事の素人には分かりづらい領域」[4] であるにも関 わらずその問題は単純化され、まるでその改修が理にかなっているよ うな錯覚を市民に与え、多くの混乱を招いた。反対運動の本来の目的 であった、外苑の景観を守るために競技場プログラムの見直しを呼び
かけるという出発点は徐々に姿を消し、最終的にはアーチ構造を変更 するべきだというザハ案への批判が繰り返された。槇文彦氏を筆頭と
する日本人建築家によって「ザハ案をいかにしてつぶすかというデー
タがプレゼンテーションされ」[7] 、議論はその本来の意義と目的を失
い、自ら失速してゆく。
これら日本の建築家による情報とザハ案への批判の多くが間違い であることは、白紙撤回後ザハ事務所から発表された「ビデオプレゼ
ンテーションとレポート―新国立競技場 東京」[8] を見るとよく分か る。ザハ事務所の設計は敷地を精緻に分析し、与えられた複雑な設計 与件を高度なレベルで融合している。また、コストの調整や、オリン
ピック期間中座席の一部を仮設にし、大会後に客席数を減らすことま で提案に含まれている。これはザハ事務所がロンドンオリンピックの 水泳競技場の計画でも取り入れた手法で実現性が高い。
ザハ案が実施設計を終了していたにもかかわらず、最後まで「実現
が不可能」[9] と一方的に結論づけた建築家諸氏は、その根拠が自らの
狭量な経験と国内市場を独占する日本のゼネコンによる一方的な価 格決定に由来するものであることを最後まで認めなかった。
第三者委員会は「ECI 方式 :(Early Contractor Involvement) による 競争原理の後退、東日本大震災の復興工事の影響等による建築資材と
建設労務費の高騰、オリンピック・パラリンピック競技大会目当ての ホテル・マンションの建設工事の増加による建設関連専門業者の競争 意欲の減退、建設工事の屋根工区とスタンド工区の2分割発注による
調整プロセスの追加等」[4]、様々な社会的要因が加わったことにより 見積価格が高騰したと結論づけている。
22
また、同委員会は「我が国最大規模のスタジアムを、独創的なザハ 氏のデザインで、都心の狭い敷地に、2019 年ラグビーワールドカッ
プに間に合うように建設することができたかという点のみを捉える と、2015 年 7 月の時点で、コストは当初の想定よりも大きくなって
いたが、関係者の努力によって実現の目途が見えてきた状況であった ということができる。そのような状況で本プロジェクトが白紙撤回さ れた。 」[4] と報告する。
実際に、ザハ事務所は新国立競技場と同時期に進行していた数々の
案件を世界中に建設しており、その中には単体で世界最大規模の建築
である 103 万平米の北京大興国際空港も含まれている。そのエント ランスホールでは 100 mを超えるスパンの無柱空間が重力を解き放 ち、頭上の屋根を支えている。 日本社会の4つの喪失
東京オリンピックと新国立競技場問題が顕在化させた社会問題は
数多くある。その中でも建築家個人およびその専門家団体である JIA
(日本建築家協会)の社会的立場と、それのかかわる建設業界全体が 失った4つの資質について挙げておきたい。 1. 社会的倫理の喪失
一部の専門家個人が不確かな情報で印象を操作し、他の専門家の利 益を侵害し、市民と世論を混乱に陥れた。明らかに倫理と社会に対す
る公平性に欠くその活動に対し、その職業団体は提言を行わず、また
建設業界が抱える低い競争力と閉鎖的な価格操作が及ぼす社会的な 悪影響に関しても正そうとする活動はなかった。建築家を含む建設業 界の社会的倫理に対する意識の低さが明らかになった。 2. 職業的信用の喪失
専門家個人やその職業団体は、建築家が建築家を否定した一連の
運動に歯止めをかけることができず、国内社会での職業的信用を失っ 23
た。実際にこの度の東京オリンピックで建築家の名を冠し、社会的な
レガシーとなる建物は一つも建てられておらず、今後も社会的に重要
度の高い案件は公開コンペで選ぶよりも政治家とゼネコンが粛々と 進めたほうが良いという印象を社会に強く残した。 3. 国際的競争力の喪失
専門家個人やその職業団体は、国際的なルールや技術に対する理解 が低く、堂々巡りの責任の転嫁と、いわゆる「ガラパゴス」的な議論 に終止した。新国立競技場やオリンピックを通じて取り入れられるは ずだった最新の技術や、国際的にも通用するオープンな競争力を蓄え る機会を日本の建築家やゼネコンは失った。 4. 創造的ビジョンの喪失
専門家個人やその職業団体は、デザインにおける未知の技術や斬
新なアイデアが社会的な反発をもたらすという印象を与えた。それ
は、建築家という創造的な職業の未来に、暗く閉塞感のある影を落 とす。上の世代の先導する排他的な運動に、若い世代の建築家は萎 縮した。「社会を変えることはできない」「誰からも共感を得られる ような建物を建てなければならない」という印象がそこに植え付け られた。
その後、最終的に日本人建築家とゼネコン一社がすべての計画を請
け負う形で問題は収束し、新国立競技場の建設は粛々と行われた。オ
リンピックに向けて突貫工事で進められた建物は国立競技場として の合理性や将来へのビジョンに欠け、すでにレガシーとしての役割に 大きな課題が残されている。しかし、その問題を精査する能力は施主 である JSC にも職能集団である建築家にも存在しなかった。政治の
中枢にいるものだけが計画を主導し、その周囲の利権に絡んだものだ けが利益を得るような構造が変わることはなかった。
これら一連の問題は、ザハ氏からプロジェクトを奪っただけではな 24
く、日本の建設 / 建築業界からもその未来を奪った。そしてそれは日 本の都市から未来を奪った事と同義でもある。
5.幻影の建築
真実は突き詰めれば突き詰めるほどに遠ざかっていく。世界の始ま
りは何があったのか、宇宙の果てはどこにあるのか。生命とは何か、 進化とは何か。
幻影を追いかけ、人類は物語を紡ぐことを「発明」した。また、そ の物語を人々と共有し、伝えることに喜びを覚え、そのための術を磨 き続けた。言葉を覚え、音楽を奏で、文字を記し、架空の物語は時
空を超えて繋がり合う。文明とは物語を伝える歴史そのものなのだろ う。
そして、そこにはいつも空間があった。アルタミラの壁画からシス
ティーナ礼拝堂の天井画まで、空間はそこに生まれる新しい体験と、 揺さぶられる感情を人類に与えた。それは単体の建物から、集落、そ して都市へと、人々が集まり交流を繰り返すことで次第に加速され た。文明とはまた、都市の歴史そのものでもある。
建築とはその終わりのない物語に添えられた、一つの逸話のような ものだ。時に物語を支える挿話のように、時にそのプロットを大きく 転換させる伏線のように静かにその場所に佇む。しかし、寡黙なその
存在は、都市にその姿を晒しながら、その時代と人々の営みを伝える 語り部となり、時を経て大きな歴史の物語の一部となる。高揚も、研 鑽も、欺瞞も、妥協も全てが時に洗い流され、その時代の精神だけが 建築に現れる。
ザハ・ハディドの新国立競技場は日本社会に対する 21 世紀の「黒 25
船」であった。それは、日本と世界との距離を知らせ、また自らの社
会を写す鏡であった。しかし、議論はその幻影に惑わされ、建物自
体の形態や、それが必要かどうかの是非を問うものばかりであった。 その背景にある、なぜその船が、どこから、どうしてここに来たのか、 そしてそれが未来の社会に向けて意味することは何か、という事に付
いて考察する者はいなかった。国民も建築家もスタジアムの見慣れな いデザインに、アナフラキシ反応を起こし、思考を停止した。
半世紀に一度、硬直した都市にインフラレベルの再編成を実現し、 日本の文化を世界に発信するきっかけを与えるはずだったオリン ピックのチャンスは過ぎ去った。時間とともに、人々はその後に残
された「虚しさ」に気づくだろう。未来に何も遺すことのできなかっ
た建築家としての虚しさ、本来の目的を見失った反対運動の虚しさ、 そしてその場しのぎで建設されたスタジアムの虚しさに。そして、こ
のスタジアムは 2020 年を象徴する時代のモニュメントとして次のオ リンピックが日本に訪れる日まで墓標のようにその時を刻み続ける だろう。
もう一度建築家は職能集団としての技術と倫理を取り戻すことが 出来るのだろうか。社会とのつながり方を再構築することが出来るの
であろうか。個の精神を解き放ち、社会倫理を築き上げるための方法 は思考しかないとヘーゲルは説く。この閉塞感に満ちた社会に新たな 突破口を開くにはそこから始めなければならないだろう。
しかし我々は哲学者ではない。建築家である我々はものづくりを通 じて人と触れ合い、建物を通じて社会に問いかける。その思考は他者
と交流し共有されることで、さらなる深みと、広がりを持つだろう。
我々建築家はその創作活動の渦中で、思考し続けなければならない。 また作られた建築に触れ、その体験を通じて再び思考をしなければな らない。思考を止めてはならない。なぜならその時こそが、未来への 想像を絶ち、自由への扉が固く閉ざされることを意味するからだ。 26
[1]
廣谷徹「ザハ氏事務所がJSC批判 『建設費高騰はデザインが原因でない』 」
[2]
廣谷徹「五輪関連支出、1 兆 600 億円 会計検査院指摘 開催経費 3 兆円超」
[3]
[4]
https://blog.goo.ne.jp/imssr_media_2015/e/0a97901167ca7305dd6664bdb0a7856a https://blog.goo.ne.jp/imssr_media_2015/e/ceea14a83d08a6952f6df079f94e77c2 < 日本経済新聞 > 新国立競技場「白紙に」 、首相表明 今秋に新整備計画 2015 年 7 月 17 日
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDE17H0H_X10C15A7MM8000/
「新国立競技場整備計画経緯検証委員会 検証報告書」平成 27 年 9 月 24 日 新国立競技場整備計画経緯検証委員会
https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfi le/2015/09/24/1361944_1_1.pdf [5]
イェーナ体系構想 : 精神哲学草稿 I (1803-04 年 ) : 精神哲学草稿 II (1805-06 年 ) / G.W.F. ヘー
[6]
法の哲学 自然法と国家学の要綱 : G.W.F. ヘーゲル [ 著 ] , 上妻精 , 佐藤康邦 , 山田忠彰
[7]
青井哲人「新国立競技場問題をめぐる議論はなぜ空転したか」
[8]
[9]
ゲル [ 著 ] ; 座小田豊 [ ほか ]
https://www.10plus1.jp/monthly/2015/10/issue-02.php
Zaha Hadid Architets「ビデオプレゼンテーションとレポート―新国立競技場 東京」
https://www.youtube.com/watch?v=bRMcOdIS7Ts
「新国立競技場の議論から東京を考える」建築文化週間 2014 建築夜楽校主催 https://www.10plus1.jp/monthly/2014/11/pickup-01.php
27
井関武彦 いせき たけひこ 1978 年 愛媛県生まれ。
京都大学大学院工学研究科建築学修了後、渡英 ロンドン大学バートレット校でディプロマ取得 2006 年より Foster + Partners
2013 年より Zaha Hadid Architects に勤務 RIBA(英国建築家協会)正規会員 英国登録建築家、一級建築士 主要作品
新国立競技場 ザハ案 ( 日本 )
Hermitage Tower(フランス)
Navi Mumbai International Airport ( インド ) South Beach ( シンガポール ) IBT Tower ( マレーシア )
CECEP 本社ビル(中国)
Takehiko Iseki (Dip. Arch, ARB, RIBA, 1st Class Architect in Japan) Born in Ehime, Japan in 1978,
Takehiko is a cross-disciplinar y architect working at Zaha Hadid Architects in London.
He studied architecture at Kyoto University and University College
London’ s Bartlett School of Architecture before joining at Foster + Partners in 2006 and Zaha Hadid Architects in 2013. Recent works includes;
New National Stadium - ZHA Proposal (Japan) Hermitage Tower (France)
Navi Mumbai International Airport (India) South Beach (Singapore) IBT Tower (Malaysia) CECEP HQ (China)
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解放の空間 -Levitatingその瞬間は瑞々しく、そして儚い
内部に燃えたぎる情熱が蒸気を発し 空中に飛散する
シルエットが風景と摩擦を起こし
火花を散らして見るものを眩ませる 目的も意味をも超えて
全てを突き破り浮かび上がる
Port House (Antwerp, Belgium)
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予感の空間 -Unforeseen視線の先に
微かに光と影をたたえて心を離さない 瞬く間に過去の記憶に連れ戻され また未来の物語を予感させる
それは人の気持ちを不安と期待の間で揺さぶり 不均一な地面の感触を足もとに伝える
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Landesgartenschau (Weil am Rhein, Germany) © Hélène Binet
巡り合いの空間 -Serendipity僕たちはつながっている
という事を信じるられるのだろうか 世界は一つなのか、バラバラなのか 会えなくても
触れられなくても
そのつながりを感じられるような空間は あらゆる希望につながる
Phaeno Science Centre (Wolfsburg, Germany)
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あとがき
この本は、 「Architecture in the Post COVID Society」という論考と「漣」 という小説で構成されている。前者はロンドンに住む私の設計現場の体験か ら綴られたもの、後者は東京に住む、1 人の女性を主人公とした架空のストー リーである。 この二つは論考と小説と言う全く異なる語りの体裁をとりな がらも、東日本大震災、新国立競技場問題、コロナ禍、そして東京オリンピッ クという、この 10 年で私の身の回りに起こった象徴的な出来事を軸にして、 レコードの A 面と B 面のように一対になっている。両端から読み進めるそ の物語は、本の中央で一つになる。一つの出逢いの物語でもあるのだ。
2020 年 3 月 23 日の夜、イギリスは全国的なロックダウンに入った。都市 は封鎖され、人の集まりや不要な外出者は警察によって取り調べや罰金の対 象となるほど厳しいものだった。10 日ほどして仕事場に荷物を取りに行く ため訪れた市街地は人気がなく、全く鼓動が感じられなかった。そして建物 は静かに佇み、私を見下ろしていた。 コロナ禍が過ぎ去っても、過剰な集 まりは喜ばれなくなるだろう。もしも、都市の未来がこのような風景だとす れば、自分はこれからどのような設計をすれば良いのだろうという思いが頭 を離れなかった。また、自然災害とは異なり、この新型ウィルスが「目に見 えない」ことの恐ろしさを肌で感じた瞬間でもあった。
その 1 年数カ月後の 2021 年 7 月、私はコロナウィルスに感染し、イギリ ス国営病院の緊急治療室に運ばれた。頭痛と全身の筋肉の痛み、そして高熱 に 9 日間ほど苦しみ、退院後も後遺症で、2 時間おきに横にならなければい けない病状が 1 月以上続いた。眠りのたびに、過去の出来事がときに夢のよ うに、またときに強烈な現実味を帯びて私のなかで交錯し、この二つの物語 が生まれた。それはちょうど、日本が東京オリンピックを迎える時期とシン クロしていた。私は 2013 年から 2015 年までザハ・ハディド事務所で新国立 競技場の設計を担当していた。
32
新国立競技場のプロジェクトにおいて、私は複雑な立場にいた。それは、 日本で教育を受けてイギリスで実務経験を積み、その後日本の国家プロジェ クトにイギリスの設計事務所からの一員として従事するようになった、私 自身の入れ子状の経歴に由来する。私は日本で育ったが、私の見る現在の 日本は、私の体験した日本ではない。私に知覚される日本は、かつてそこ で過ごした自分の身体感覚と現在イギリスで過ごす自分の脳内感覚を通じ て再構築されている。その存在はいつまでも現在進行系のイリュージョン であり、フィクションであった。小説の主人公の「真波」が体験する東京 の街は、ロックダウン中のロンドンでの体験にかつて訪れた東京の風景が 重ね合わせられている。そうした分裂状態の自分の体験が病床で肥大化し、 そのまま小説を書く「伊勢喜多 圭吾」という別人格を生みだした。そのお ぼつかない文章力を支えたのは、湧いてくる物語からのイメージであり、 過去の様々な体験だった。
このように特別な期間に記されたこの二つの物語が、最終的に一つの物 理的な媒体となって完結することに安堵しながらも、なにか必然性のよう なものを感じている。それが意味するものが何なのか、今ははっきりとわ からない。 ただ、この本は2つの物語を完結させるためではなく、何かの始まりを予 感させるものとして記録されたように感じている。 この夏の一ヶ月は、その予感に向けての助走であり、ここから始まる新し い物語を示唆する濃密な時間であった。
2021 年 8 月 ロンドンにて
33 ©Zaha Hadid Architects
こちらは小説「漣(さざなみ)」の最後のページ になります。 引き続き小説を読まれる方は、 この本の最後のページまで一旦お進みください。
こちらは小説「漣(さざなみ)」の最後のページ になります。引き続き小説を読まれる方は、 この本の最後のページまで一旦お進みください。
しばらく落ち着くまでゆっくりしていなさい
34
明日、この病室から出ても また何も変わらない毎日に戻るだけだ
さっきよりも視力が戻ったせいか、 天井のタイル割が余計にはっき りと見えた
ぼんやりとその 商店街の崩れた リボンのような形 をした舗装タイル を眺めていた
白と灰色のシャッターが、商店街の終わりまでの距離をより長く感じさせる
「キットダイジョウブデス」
“TOKYO 2020”
35
東京って白いんだなぁ
私はそこにあの流線形のスタジアムが建てられている姿を想像した。
午後の低い光が建物に影を落とし始めていたせいか、
36
スタジアムはそこに浮かぶ小さな巣に戻り、羽を休める白鳥の姿のように感じられた。
眼下の街 は白波が どこまでも 続く穏やか な水面
いせきた けいご
伊勢喜多 圭吾
月に、イギリスでコロナウィルスに感染し、
1978年生まれ 建築家、夢想家 英国在住
2021年
病床で生死をさまよう
7
Keigo Isekita Born in 1978. Architect, Utopian based in London, UK. He contracted COVID-19 in July 2021 and hover between life and death in the hospital.
28
27
そしてもう一度、何も無いところから始めよう。
私はリクライニングを水平な位置まで倒し、ゆっくりと瞼を閉じた。港につづく浜辺の潮の香り、そこから 見える山の深い緑、どこまでも広がる海の青と群青。私には、全てがあの時に戻ったかのようにはっきりと感
じられた。父と母と弟と暮らした、その故郷の美しい風景。私は、それが記憶から消えてなくならないように、
そしてどこまでも続く白いコンクリートの壁に二度と遮られてしまわないように、頭の中で幾度も願った。 漣の音は、優しく私の頭の中に響き続けた。 溶けていくような心地で身体をマットレスに沈め、私はそのまま、再び深い眠りについた。
26
た気仙沼の漁港に続く、穏やかな浜辺。右手に見えるくすんだ青色と群青のグラデーションをたたえた水面は、
午後の光を受けて眩しくきらめいていた。そして左手には気仙沼の街とせり上がる山々の姿があった。
震災の後、気仙沼の住民は揺れていた。市と国の行政が復興事業の一部として海抜 mの防波堤を海岸沿い に建設する計画を発表したのだ。将来の津波の被害を最小限にするため、住居は高台に移築するという。その 提案は、住民の生活と海を完全に切り離し、街の風景を一変するものだった。
最終的に市内全
箇所の防潮堤計画が見直されるまで、7年もの時間と労力が費やされた。 様々な検討を重
たいという共通の想いにたどり着いた。
意見交換の場が設けられ、情報を共有しながら一緒に解決策を模索した。そして両者は「海の見える街」にし
何年にも及ぶ粘り強い交渉は、残された住民と行政の関係を少しずつ変えていった。街の将来のためには、 互いが対峙するのではなく、同じ未来に向かって前を向かなければならない。そのような反省から忌憚のない
いった。私もその一人だった。
しかし、防波堤計画の存在は徐々に市民を賛成派と反対派に分断し始め、多数の住民が傷つき、街から離れて
望や署名活動を始めた。また、防波堤に代わる新しい街のあり方を広くから募り、粘り強く行政を説得した。
「合意が得られた」とする行政に対し、街の将来に不安を覚えた住民は、計画の見直しを訴え、国や県への要
9.8
ねながら市民と行政は復興の形にこだわり続け、気仙沼は少しずつかつての風景を取り戻しつつある。 海と共に生きる。 この場所にはまだ、父の遺した海への想いは生きている。 故郷の風景を守るための市民の結束がある。 私も生き続けよう。
25
78
「すみません。何か食べるものはありますか。私、朝から何も食べていなくて」
そう言いながら、また胸の奥に申し訳なさがつっかえた。 「食欲があるのなら大丈夫ね。夕飯にはまだ少し間があるけど、何か軽食を用意できないか聞いてきてあげる わ」
看護婦さんは明るい声で言うと、水の入ったジャーをベッドのサイドテーブルに置き病室を出ていった。
また部屋が急にシンと静けさに包まれた。私は背中のリクライニングをゆっくりと半分倒し、天井を見上げ た。さっきよりも意識が落ち着いたせいか、病室の天井のタイル割がはっきり浮かび上がって見えた。 セン チ角の白い石膏ボードのシーリングタイル。つなぎ目には で規則的に並んでいる。私の一番嫌いな天井の仕様だ。
ミリ幅のアルミのスペーサー。これが部屋の隅ま
60
しかし、今度の波は優しく砂浜を打ち、繰り返し、寄せては返す静かな漣の音だった。それは春に母と歩い
また波の音が遠くから聞こえてきた。
明日この病室から出ても、また何も変わらない日常に戻るだけだ。この白くて四角い世界の一部となって、 いつまでも、波の上に漂う小舟のように。
た気がした。
が続いていた。天井の石膏ボードの白さと、スカイツリーの上から眺めた東京の白い街並みがひとつに重なっ
窓のほうに視線をやると、半分開いたカーテンの隙間から外の景色が見えた。この病室はかなり高い階にあ るようで、向かいの雑居ビルの屋根に乗った不動産屋の看板が間近に迫り、その横は遠くまで単調な白い建物
20
24
「あなた、駅前の商店街のところで倒れてしまったのよ」 「分かっています。すみませんでした」 私にはそうとしか言えなかった。 「ひとり暮らし? 今晩は入院になるからここでしっかり休むといいわ」 「はい、ありがとうございます。まだ体が、思うように動かなくて」 私は情けなさを押し殺してそう答えた。 「そう、無理しちゃだめよ」 とそのベテランらしい看護婦さんは、口に小さく笑みをたたえて私に言った。 「それにしても、あなた運がよかったわね」 彼女は続けた。
「今、超緊急事態宣言が出されているでしょう? だから外に人がほとんど出ていなくて、商店街であなたが 倒れていても誰も気づかなかったかもしれないのよ」 「そうですよね。私、昔から運だけはいいんです」 また小さな声で私は答えた。 「この病院に外国人の男の人があなたを背負って入ってきたのよ。私もびっくりしちゃった」 きっと、あの人だ。と私は思った。また迷惑をかけたんだ。ズキリと胸が痛んだ。 「まぁ、しばらく落ち着くまで、ゆっくりしていなさい」
そう看護婦さんが言い終わったとき、扉からノックの音が聞こえ、水が運ばれてきた。 私はベッドの電動リクライニングの動かし方を教わり、上半身を起こして渡されたコップの水を飲んだ。
食道を通って、胃の中まで冷水が流れ込むのが分かった。まだ朝から何も食べてなかったんだ。そう思うと 急にお腹が空いてきた。
23
6
私はゆっくりと目を開いた。 背中には柔らかいマットレスの感触。そして上には白い天井が見える。 私はやはり気を失い、病院に運ばれたようだった。
コロナ禍で医療機関が逼迫しているこの時期に、病院にお世話になってしまう事に申し訳なさを感じた。し かも私は明らかに、この超緊急事態宣言下の中で、不要不急でない外出をしていた。 歳にもなって、まだ人様に迷惑をかけ続けている自分が情けなかった。
秒ほどで扉のノックの音が聞こえ、白い制服を着た年配の看護婦が部屋に入ってきた。 「目が覚めましたか。気分はどうですか?」
喉が渇いていたが、周りに水は見当たらず、身体はほとんど動かすことができなかった。左手の先に、直径 3センチの丸いオレンジ色のボタンが見えた。私はゆっくりと手を伸ばし、そのボタンを押した。
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その人は部屋の扉から顔を廊下に出し、手の空いていそうな職員を見つけると水を持ってきてと頼んだ。 そしてゆっくりと私のベッドの横まで戻ってきた。
私は力なく答えた。 「わかりました。すぐに持ってきますね」
その人は優しいはっきりとした声で私に質問をした。 「大丈夫です。喉が渇いていて。お水をもらえませんか」
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息を切らし、制服を着たままの私は少し目立っていた。 「どごの高校さ通ってんの?」 と年配の女性に声をかけられた。 「潮梅北です」 と短く答え、それ以上の質問を避けるように私は人混みを離れた。
灰色の雲が垂れ込め、遠くに見える海は真っ黒な泥のような色をしていた。その黒い海面の先に一列の真っ 白な線がゆっくりと近づいてくるように見えた。その輪郭に次第と焦点が合うにつれ、それがはっきりと大き
な波の塊であることが分かった。私は目の前の光景を理解できず、ただ茫然とその様子を眺めていた。父のこと、
私の高校よりも海に近い小学校に通う弟の顔が浮かんだ。母の携帯には何度掛けても繋がらなかった。友達に 送ったLINEのメッセージも、いつまでも既読にならない。
私の不安を掻き消すように、何処かから、ゴーッという地鳴りのような音が聞こえた。その音は徐々に大き くなり、私の周りの空気を震わせた。目の前の景色が薄暗くなり、人だかりから聞こえていた驚きの声が、徐々 に悲鳴に変わったのが分かった。そして気を失う直前に、誰かが大声で叫ぶ声が聞こえた。 「津波が来るぞ!」
21
メートルほどだ。その時、後ろから大声で体育教師の河合が呼び止める声が聞こえた。
メートルがとても遠くに感じた。河合のもたつく足音が後ろから近づいてくるのが分かった。
して買ってもらった、深いエンジ色のローファーがまだ足に馴染んでいなかった事にその時気が付いた。あと
しくなった。足が思うように動かない。先日、珍しく「何か欲しいものはないのか」と聞いてきた父にお願い
反射的にフェンスに向かって走った。脚力には自信がある。私は短距離走の選手だ。バレー 私は振り返らずに、 部で名目だけの顧問をしている河合に追いつかれるわけはない。しかし、走り出した途端、胸の動悸が急に激
「おいまで! おめ、どこさ行くんだ!」
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頂上に着くと、そこにはもう小さな人だかりが出来ていた。みな不安そうな顔で、海の方を見つめている。
その先の海も、この風景は全部、私の一部だ。
はキツいけど、私はこの風景が好きだ。ここからは「私の街」が見える。友達の家の屋根、市街地のビルや、
この高台は陸上部の練習で毎日登らされている。舗装された歩道の脇には数年前に市民公園が作られ、綺麗 に整備された。頂上まで登ると、高校のグラウンドが足下に見え、その先に気仙沼の海が見える。部活の練習
すんでのところで、フェンスの間をすり抜けると、私は裏手の道路に飛び出し、そのまま高台に向かって走っ た。河合の足音はもう聞こえてこなかった。
携帯電話から聞こえる、母の叫び声が、まだ耳にこびりついている。ゴメン。私一人だけしか避難できそう にないよ。と心の中で母に謝った。
「真波、いますぐに学校のみんなを連れて、高台に避難しなさい!」
15
20
5
漁協に勤めていた父は、あの日、早朝から船で沖合に漁に出ていた。大きな揺れの直後、海面の異変を察知し、 自宅にいた母に無線から連絡をした。海辺から1キロほど離れた市内の高校に通っていた私は、母から携帯電
話に連絡を受け、クラスの友人と担任にその旨を伝えて、早く学校から離れ、裏手の高台に避難する事を提案
した。しかし担任は、生徒は皆校庭に避難しなさい、と繰り返すばかりで、あくせくと廊下を駆け回ってそれ
ぞれの教室を確認していた。友人たちもそれを見て、仕方がないよねという雰囲気で、混雑しないよう列をな して校庭に向かった。
私は焦った。父のことは誰よりもよく知っている。今までどれだけ悪天候で、海が荒れていても、父は何事 もなかったように家に帰って来た。母は居間にある漁協から支給された不恰好な無線機を見て、 「こっちは心配してるんだから、一言ぐらい連絡してよ」 といつも父に向かって文句を言っていた。父は 「ああ、沖は大したことなかったよ」
と言うだけで、家にあるその無線機が鳴る事は私の記憶では一度もなかった。その父が母に連絡をしたのだ。
私は仲の良い友人に何度も逃げるように説得したが、この高校は海から離れているし、地震の後はバラバラ になったら危ないみたいだよ、と逆に諭され、相手にされなかった。私は生徒がごった返す校庭を見渡し、こ
こから逃げ出す方法を考えた。教員も生徒もまだ状況を把握出来ず、まとまりがない。今なら陸上部の部室の
裏にあるフェンスに空いた穴から、裏手の山に続く道に出られるはずだ。私はそっと列から離れ、気付かれな
いように、生徒の流れに逆らって部室の方へと向かった。部室と校舎の隙間からフェンスの穴が見えた。あと
19
迫ってくる。私は今まで傷つきながら、それでも力づくでそこから逃れようともがいてきた。あの日から、私 の心は一度も立ち止まることを許されなかった。 出口まであと2メートル。 私は歯を食いしばりながら歩いた。まるで自分の身体ではないみたいだ。 あと、1メートル。
地鳴りと波音は混ざり合い、共鳴し、私の身体全体を包み込むように広がった。目の前が薄暗くなり、何故 か自分がもうすぐ気を失うのが分かった。最後に聞こえたのは、またしてもあの声だった。 ――ツナミガクルゾ!
思い出したくないあの記憶が、脳内にフラッシュバックする。そして、これは絶対に頭から離れないことを 私は知っている。私の育った気仙沼の海、浜辺と防波堤、大切な思い出が詰まった街と学校の友達、そして私 の父と弟。私の全てを奪い去ったあの日の記憶だ。
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元は揺れる水面のように不確かなのに、それに気付かず、小さな船の上で携帯電話の画面に流れる世界中の悲 惨なニュースを眺めながら、今日も自分は幸せだったと安心していたのではないか。
最初かすかに聞こえた波音は、私がゴールラインに近づくにつれて次第に頭の中でその音量を増し始めた。
あと メートル。私は必死に歩みを進めた。足が思うように動かない。おろしたてのロー 商店街の出口まで、 ファーがまだ足に馴染んでいなかった事にその時初めて気が付いた。 「またか」
私はつぶやいた。自分に対する情けなさに押しつぶされそうになりながら、再び湧いてきた怒りが、私の身 体を支えた。 出口まであと5メートル。私は足を引きずりながら、そこに近づいた。
ゴーッという地鳴りのような音が、波音に混じって聞こえてくる。その音は何処から聞こえるのか分からな いけれど、徐々に自分に近づいてくる。 「くそっ。やっぱり」 小さく声が漏れた。 私はその音の正体を知っている。 もう戻らないと決めた、あの場所。 もう戻ってこないと覚悟した、あの景色。 そこから逃げようと離れても、いつまでも追いかけてくる。 それは過去からの声。
そこから逃れるために、今までどれだけの力を振り絞ったかわからない。それでも、その記憶は執拗に私に
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私たちはこだわりを捨て、間に合わせの安くて便利な生活に小さな幸せを感じていなかったか。その生活の足
年で新しいものに入れ替わってしまう。さっきの潰れたイタリアンレストランのように。気がつかないうちに、
そんな建物はこの街には一つもない。いつもゆらゆらと揺れ、壊しては次の新しい建物を建てる。全てがマッ チ箱のように真っ白で安普請だ。私には東京の街並みの記憶がない。好きな場所や、お店はあるが、それも数
長い時間を経た威厳と風格に満ちていた。その旅行から私はイタリア料理にはまった。
500年も経っていると観光案内の女性が教えてくれた。触るとひんやりして、堂々とした石造りの建物は、
こんなところから来ているのではないか。学生時代に旅したローマの街では、市内の建物が平気で400年も
に水が溜まったらそれを掻き出し、風が強くなれば帆を下げる。全てが場当たり的で、間に合わせの国民性は、
そういえば、地震にはP波、S波という呼び方があるみたいだし、津波にも第一波、第二波という呼び方が ある。この国はいろんな波に晒されている。大海に浮かぶ小船のように、いつもゆらゆらと揺れている。船底
その時ふと頭の中に、漣のような音が響いた。 今のコロナって第何波だっけ。
る自分を想像した。
んだ、と自嘲しながら。それでもオリンピックのトップアスリートたちと同じように、ゴールを駆け抜けてい
気がつくともう商店街の終わりに近づいていた、出口のゴールまで残り メートルくらいだ。あと少しでこ のシャッター街から抜けられるという思いで、自分を奮い立たせる。100メートル進むのに何分かかってる 15
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のかよく分からない。個人的には、お金があるのであれば最初のデザインを建てて欲しかった。
一度、スカイツリーの展望台から東京の街を眺めた事がある。白くて四角い大小の建物が並ぶ風景が、視線 の果てまで延々と続いていた。
東京って白いんだなぁと、上から見て初めて気がついた。その白い風景の中に深緑の大きな塊がポコポコと 点在している。それは皇居から外苑をつなぐ神宮の森のようだ。そこに新国立競技場が建つらしい、とテレビ で知った。すごい街のど真ん中だなと思った。
私はそこにあの流線形のスタジアムが建てられている姿を想像した。午後の低い光が建物に影を落とし始め、 街は白波がどこまでも続く穏やかな水面のように変化する。スタジアムは、まるでそこに浮かぶ小さな巣で、 白鳥が羽を休めている姿のように感じられた。
結局、そのスタジアムは建てられることなく、今の競技場はオリンピックに間に合わせるために突貫工事で 仕上げられた。間に合わせたはずのオリンピックも、結局コロナのせいでそこから1年遅れた。 この国は、全部が間に合わせだな、と思った。 政府も建物も全てが間に合わせだ。
今回の超緊急事態宣言も、オリンピックまでの間に合わせだ。 そのせいで、私の大好きなレストランは閉店し、駅前から人が消え、商店街はシャッター街になった。
今朝、少し早起きをして午前 時までに仕事を片付け、お気に入りのレストランに行くために部屋を出るま で私は幸せだった。この厳しい制限下でも、私の生活にそこまで変化はなく、むしろ前よりも時間的な自由を
楽しんでいた。それなのに、数時間後の今の自分は絶望的な気分になっている。私は自分が幸せなのか不幸な のか分からない。そして誰もはっきりとその答えを教えてはくれない。
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白と灰色のシャッターが商店街の終わりまでの距離をより長く感じさせる。いつもと変わらないのは、電柱 にかけられた季節の花飾りと、商店街の終わりに道をまたいで掛けられた大きなサインだ。そこを100メー
トル走のゴールだと思うようにして、なるべく両サイドのシャッター見ないようにまっすぐ視線を上げ、商店 街を抜けることにした。
すると、今まで何度も通っていたのに気がつかなかった、紺色の丸くて大きなロゴマークが目に入った。そ の下には整った書体とカラフルな五つの輪っかが見えた。
“TOKYO 2020”
そうか、もうすぐオリンピックが始まるんだった。ただ、こんな緊急事態宣言、いや超緊急事態宣言の中、 周りはみんな中止しようと言っているし、本当にやるのかどうかも分からない。政府としては6月末のギリギ
リまで東京都内のコロナ感染者数を完全に抑え、なんとしてでもオリンピックを開催したいという意向のよう
だった。政府関係者はなぜ4ヶ月も超緊急事態宣言が必要なのか明言しないけれど、理由は誰から見ても明ら
かだった。政府関係者は、オリンピックは安心・安全と繰り返し、医療関係者はその開催は危険だと訴える。
矛盾しているとしか言いようがなかった。私たちは安心な街に住んでいるのか危険な街に住んでいるのか、誰 もはっきりとその答えを教えてはくれない。
オリンピックと言えば、新国立競技場問題というのがあったなと思い出した。あの時も、イラク人の女性建 築家がデザインした斬新な建物が、建設費が高すぎると批判を受けて計画は白紙になった。しかし、その後も
東京オリンピックの開催にかかる費用は何倍にも膨れ上がっている。この国にはお金があるのか、お金がない
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くて、そのまま顔を上げてぼんやりとその商店街の崩れたリボンのような形をした舗装タイルを眺めていた。 「キットダイジョウブデス」 その男性は続けた。それまでの言葉よりも力強く、はっきりと発音したように聞こえた。 「アナタモ ムリヲシナイヨウニ ガンバッテクダサイ」 「ワタシモガンバリマスカラ」
その人の顔はまっすぐ前を向いたままだった。それは私に向けられた言葉なのか、彼自身に言い聞かせてい る言葉なのか判断しづらかった。 「ありがとうございました。もう大丈夫です」 私はなるべくその人に聞こえるように、はっきりとした発音で返事をした。 「ワカリマシタ クレグレモオダイジニ」 そう言うと彼はすっと立ち上がり、私の前を横切って商店街を先へと歩いていった。
私はまだしばらく、ぼんやりと商店街の舗装を眺めていたが、ふとランチを食べそびれたことを思い出した。 何か惣菜を買ってもう今日は部屋で食べよう、と私は力を振り絞って立ち上がった。商店街はまだ100メー
トルほど続いている。さっきのインド人の男性の後ろ姿を探したが、もうそこには誰もいなかった。
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「ありがとう ござい ます」 ようやく絞り出すように声が出た。
男性は座ったまま、まっすぐ前を見つめていた。私の声が届いているのかどうか分からなかった。 そこからまた 秒ほど沈黙が続き、その間私は自分の呼吸の数を数えた。
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ミリの下地の白色を挟んで、また同様の2本の紺ストライプ 40
その服装から、彼が外国から来た労働者である事は、私にはなんとなく推測できた。もしかしたらこの人も このコロナ禍で仕事をなくしたのかもしれない。私は少し気まずくなり、どう声をかければいいのかわからな
た。足元は白い厚手のソックス。白いスニーカーの表面は所々が擦れ、 淡いグレーの下地があらわになっていた。
のか、もともと黒いズボン洗っているうちに色が取れてこのような濃い灰色になっているのかよくわからなかっ
覗いている。目がまだ少し霞んでいるせいか、そのグレーが本来のズボンの生地の色なのか、埃によるものな
バックルが付いていた。ズボンはチャコールグレーのくたびれたコットンの生地、ポケットからは白い裏地が
が続いており、そのポロシャツはズボンの中に入れられていた。黒い革のベルトは光沢を失い、銀色の金属の
を空けて、また5ミリの紺のストライプ、また
私はぼんやりと目を横に移しながら、まだまっすぐ前に顔を向けたままの男性の服装を確認した。所々に小 さなシミがある、薄くくすんだ白地のポロシャツに5ミリの細い紺のストライプ、その下に ミリの白い隙間
「アナタノキモチハヨクワカリマス コノコロナ、ホントウニタイヘンダッタ」
また男性が声を発した。今度はさっきよりもそのなまった日本語がすんなりと耳に入った気がした。
「タイヘンデシタネ」
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――タカダイニヒナンシナサイ
その時、さっき駅で見た電車の後ろ姿が私の脳裏にオーバーラップした。車輪と線路が擦れる金属音が、コ ンコースの不規則なタイルの目地が、視界を薄く曇らせるプラスチック製のパーティションが、次々と現れて
は私の脳裏に張り付いた。私は発狂しそうになり、その場で頭を抱えて地面にうずくまった。視界が暗くなり、 周囲の音が遠くに消えていく。身体が動かない。 もう倒れてしまいそうだと思った時、どこかから声が聞こえてきた。 「ダイジョウブデスカ?」
一瞬その声が聞き取れなかった。声のする方に顔向け、うっすらと目を開けると、そこには浅黒い肌をした 目の大きなインド人と思われる男性が、腰をかがめ、私の顔を覗き込んでいた。片言の日本語だった。 私は反射的に 「大丈夫です」 と返事をし、膝を曲げたまま、地面に向かってまたうつむいた。 しかし、その男性は動かず、その視線は私の背中をじっと見つめていることを感じていた。 「ムリ シナイホウガイイデス」
男性は私の右脇を抱え、体を支えながら、ゆっくりと近くのベンチまで歩き、一緒に腰を下ろしてくれた。 私はしばらく呼吸を整え、大きく息を吸った。
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人の乗客が相変わらずバスを待っているが、タクシー乗り場では、光沢のある黒い車体の運転席側の扉を開け、 運転手が屋根に肘をついて暇そうにタバコを吸っている。
駅前広場を横目に、線路と平行するように延びる商店街に向かった。この駅から帰宅する通り道にあるその 商店街。まさか、あの八百屋や、あのカフェ、あの本屋、あの美容院も?
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いくつかの携帯ショップとコンビニを除いて、商店街に面するお店はすべてシャッターを閉じていた。その 白く塗装された金属製の蛇腹の表面には、さっきから何度も見たA4のコピー用紙が貼られ、手書きや印刷さ れた文字とともに、四隅は乱暴に透明のセロテープでとめられていた。 またクラクラと目眩がしてきた。
あの映画館は大丈夫だろうか。初めて好きなバンドを見たあのライブハウスは、ちょっと背伸びをして見つ けたあの雑居ビルのバーは。
確かに、毎日のように報道されていた。飲食店や様々なエンターテイメント業界がこのコロナ禍で窮地に立 たされていることを。誰もがよく知るミュージシャンや、イベントに関わる人たち、また飲食店のオーナーが
声を上げていた事も知っていた。でもまさか、こんなに身近な風景が、もうすでに変わってしまっていたなんて。
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静かなコンコースにある電光掲示板には、次の電車の時刻表示が点滅していた。この駅の改札の先には空中
は携帯のアプリに 回廊があり、そこから下のプラットホームを見ることができる場所があったはずだ。 Suica 入っている。改札を抜けようと携帯を機械にかざしたのだが、何の音もすることなく改札は開いたまま、私は
すんなりと改札を通り抜けることができた。私は不安に思い、両側を見回し駅員を探したが誰も見当たらなかっ た。
4メートルほどの幅の空中回廊の両側は、手すりの上の部分がプラスチック製のパーティションで作られて おり、 そこから下を見ることができる。通勤をしていた頃、乗る予定の電車がプラットホームに近づいてくると、 慌てて回廊から急ぎ足で階段を降りたものだった。その一帯は、いつも乗客で混雑していた。
厚さ7ミリのプラスチックのパーティションは所々に傷がついて曇っていた。それ越しに、電車の線路とプ ラットホームが見えた。ひと気がないプラットホームには7両編成の電車が止まっていた。方側の扉は乗車方
秒ほどそ
向に向けて開け放たれ、車内からは蛍光灯の光が漏れていた。さらに歩を進めて、横側からもう少し車内が見
えるように移動した。しかし、私のいる位置からは電車に一人の乗客も見つけることができない。
の異様な光景を上からじっと眺めていた。そうか、この電車は回送電車なのかもしれない。そう思った時、電
車は静かにその扉を閉め、プラットホームを発車した。構内に車輪と線路の擦れるかすかな金属音が反響する。
真っ暗なトンネルへ向かう電車の後ろ姿を、その形が見えなくなるまでパーティション越しにじっと見送った。
空中回廊からあたりを見渡しても駅には誰もいないし、見るべきものは確認した。もうここに用はない。来 た道を戻り、改札を出た。出る時にも一応携帯を同じ機械にかざしたが、入る時と同様に改札機から音は聞こ えず、私はそのままコンコースに戻ることができた。
コンコースの先には駅前広場があり、タクシー乗り場やいくつかのバス停が見える。先ほど見かけた2ー3
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私は慌てて駅のほうに駆け出した。複数の路線が交差し、数年先にはさらに新しい路線が加わると聞くその 駅には、もう半年近くも訪れていなかった。付随したバスターミナル、便利でおしゃれな商業施設。それらが
駅ビルを賑わしていた。通勤していたときには毎日通った見慣れた風景だったけれど、もしかして、あの駅ビ ルや駅前のテナントも窮地に立たされているのだろうか。そんな不安が背中から襲ってくる。
駅ビルは変わらずそこにあった。しかし、思った通り人影はまばらだ。以前のような活気はなく、駅前のター ミナルには数台のタクシーとバスを待つ乗客が数名いるだけで、不気味に静まり返っていた。駅前広場の路面
の飲食店や商業施設は8割方が一時休業の貼り紙を出し、シャッターを閉めていた。駅ビルの中も確認してみ
る。まだ半分以上のお店は開いているけれど、お客よりも従業員の数の方が断然に多い。店員の表情は暗く、 その目は濁った、虚ろな陰をたたえていた。
メートルほどの幅があるがらんどうの空間が目の前に広がっていた。まる
駅そのものはどうだろう。それはたどり着くまでも無く、駅ビルからコンコースコースに向かう通路ですれ 違う人影の少なさから伝わってきた。 こんなに大きかったっけ。 メートルを超える高い天井に、
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ずらわしく感じられた。
以前は人混みで見えなかったが、コンコースの人工大理石で出来た床が、今は白く目に映り込む。そして、 それらのタイルをつなぐ灰色の目地に、4ミリのものと8ミリの2種類の幅があることに気が付き、とてもわ
こに人影はない。
で巨大な海洋生物の腔内にいるような風景。そうだ、ここは都内でも有数の大きさを誇る駅だった。でも今そ
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一抹の寂しさを感じた後、何だか急に、胸の奥に青白い炎のような負の感情が湧いてきて自分でも驚いた。
これは何に対する苛立ちだろう? 閉店をするのに素っ気ない常套句しか残さなかった土田さんへの不満なの か。それとも、もっと私がこの店に頻繁に通っていればお店は潰れなかったかもしれない、という自分自身へ の後悔なのか。
ああそうか。これはコロナウイルスに対する怒りだ。そして、緊急事態宣言を繰り返すにも関わらず補償を 充分に行わず、飲食店の経営を圧迫し続けた政府への怒りだ。アイツらが生活をめちゃくちゃにした。自分に
とって大切なものをいくつも奪った事に私は憤っていた。そして、亡くなった人は帰ってこないように、無く なったレストランももう帰ってこない。その事を、私はようやく理解した。
そういえば、と、あたりを見回した。この路地の先には小さな雑貨屋があったはずだ。角を曲がると蕎麦屋 があり、その向こうにはヨガスタジオ、その隣は居酒屋だ。私は早足に進んでいった。両手がじっとりと汗ば
んで、 鼓動が早くなる。そして、その全ての店に同じような張り紙がされている事を確認したのだ。気が遠くなっ た。 コレ、ホントウナノ? 何度も頭の中で、その質問を繰り返した。
身体の血管を流れる血のように、私たちは一人一人がこの街の中を巡りながら暮らしている。その流れが減 り、滞ると、身体と同じように街の一部は壊死してしまう。指がもがれ、四肢が動かなくなり、そして最後は 心臓が動きを止める。
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胸がドキドキするのが自分でも分かった。近づきたくない。でも引き返すことも出来ない。 お店の前に立つと、入り口の扉に白い張り紙があった。
「当店は3月31日をもちまして、閉店する事に致しました。皆様には今まで長らくご愛顧いただきありがと うございました。土田」
私はその短い文章を何度も読み返した。移転したのだろうか。けれども連絡先は書かれていない。何か他の 情報はないのか。何度見ても、目の前の白い紙にはそれ以上の手がかりはなかった。窓ガラス越しに中を覗くと、 お店の中はがらんどうで、たまった埃が内側からガラスを曇らせていた。
何秒くらいお店の前に立っていたのだろう。そんなに長くはなかったはずだが、不意に、買い物袋を下げた 代半ばの婦人に背後から声をかけられた。
い出せないし、彼の名前でさえ今この紙を読んで知ったぐらいだ。向こうも私の事など知る由もない。
私の好きなレストランが、突然消えてしまった。ただ、その事実をどう受け止めたら良いのか分からなかった。 私は大勢いるお客の一人であり、その土田さんと別段懇意だったわけでもない。正直言って土田さんの顔は思
通りがかったそのおばさんは、レストランの閉店に私がひどくショックを受けていると思い、慰めようとし てくれたのだろう。でも、その言葉は私にはあまり響かなかった。勝手に同情してもらいたくなかった。
「残念だったねぇ。私も好きないいお店だったのに」
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その代わり、私の部屋には何でもある。パソコンで仕事も出来るし、欲しい本や服は何だって通販で届く。 映画や音楽ライブの配信が楽しめるように、二画面のすこし高価なモニターを買い揃えた。欲しかったスピー
カーにまでは手が届かなかったけれど、Web会議が少しでもストレスにならないように、性能の良いマイク
の付いたヘッドフォンを中古で手に入れた。上司や離れた場所に住む母にも、声が聞き取りやすくなったと好 評だ。
街に全く行かなくなったわけではない。今日みたいに外食したい時、エクササイズを兼ねて、お気に入りの イタリアンレストランへ足を伸ばすこともある。深いエンジ色のローファーを足に馴染ませないと、と思って いた。その靴は3月に実家に帰省した折に新しく買ったきり、まだ履いていなかった。
人通りが少なくなったので、歩いて出かける分には前よりも快適だ。車が減って空気が少しはきれいになっ にアッ たのか、街路樹の緑も心なしかいつもより鮮やかに目に映る。すぐに街の風景と自分の写真を取り、 SNS プした。 私はそこそこ楽しくやってるよ。
レストランの周辺には、予定していたとおり、ちょうど 時半に到着した。昼時になると近くのオフィスの ランチタイムと重なって、並ばなくてはいけなくなるからだ。ところが、お店が見える角を曲がってはっと違 和感に気が付いた。
路地を入って奥まったところにあるそのレストランは、まだ地元の人にしか知られていない。近くのオフィ スワーカー達がリモートワークを始めると、もちろんお客は少なくなってしまう。胸騒ぎがした。前に来たの は2ヶ月以上前だったかな。あの日はまだ肌寒かったから、3ヶ月くらい前だったかも。
お店に徐々に近づくにつれ、足取りが重くなった。もう メートルほどの距離しかない。お店の前に置かれ たオリーブの植木鉢と小さな木製の窓枠が見える。でも、そのガラスの奥は薄暗く、中の様子はうかがえない。
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その超緊急事態宣言とやらの影響で、6月末まで飲食店の営業は午後3時まで、医療従事者や学校の先生な どのエッセンシャルワーカー以外は、リモートワークをするよう政府から通達があった。記者会見に現れた首
相は目を糸のように細くし、安直な印象の宣言名とは裏腹に沈痛な面持ちで原稿を読み上げた。 そして、記 者からの質問には一切答えなかった。 このコロナ禍で、私たちが得たものはとても大きい。
通勤にとってかわったリモートワーク、都会と田舎のいいとこ取りができる多拠点生活、家庭と仕事のバラ ンスを取るためのフレキシブルアワーなど。画一的だったライフスタイルに多様性が生まれ、それが社会全体
として認められつつあるのは喜ばしいことだ。私は、学生の頃はチームプレーをしなくてよいという理由で陸
上部の短距離走を選んだくらい、人付き合いが苦手だ。あの満員電車のストレスから逃れ、自宅で好きな時間 に好きなように働いている今の方が性に合っている。 しかし、同時に失ったものも数多くある。
楽しんでいた海外へのひとり旅、好きな劇団の公演などだ。もう1年以上も国民は行動制限をかけられ、夜 の街の営業は全て停止するよう要請が出ているので、とりわけ若者のフラストレーションは積もりに積もって、 昨夜のような騒動をニュースでも見かけるようになった。
私もふらりと街に出かける事はもうなくなった。日課だったランニングからは、しばらく遠ざかっている。
人の集まる場所にはウイルスがいる。目的地に向かうまでの交通機関、不特定多数の他人との接触、大声で はしゃぎ、時にハメを外して騒ぐ人間からは飛沫が飛び散る。この世界中に蔓延する恐ろしいウイルスに感染
しないように、そんな場所にはなるべく近づかないようにしなければならない。そう自分に言い聞かせている。
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築士で、イギリスのヴィクトリア時代の邸宅をもとにこの離れを建てたのだそうだ。
私は休日の午後、ベッドに横になって見上げるこの部屋がとても好きだ。窓から差し込む太陽の光が足元の ブルーの壁を照らして、その色が白い天井に淡く反射する。貝殻を砕いた成分の入った塗料は確かに砂浜のよ
うな僅かな光沢があり、私の育った海辺の街を思い起こさせる。長女の私に「真波」という名前をつけたのは、 海の大好きな父だった。
そんなことを考えながらぼんやりと天井見上げていると、赤い光が点滅しながら近づいてきた。どうやら誰 かが通報をして警官が出動したらしい。そのうちに若者の声は静まり、ベース音は遠くに消えていった。
2
私は明日のために少しでも睡眠を取ろうと目を閉じて、また眠りについた。
ネットニュースによると、今年の2月の終わりに新たな法律が国会で可決され、超緊急事態宣言なるものが 発令された。これまでの緊急事態宣言よりも、 さらに厳しい国民の行動規制を政府が行えるようになったようだ。 「 『超』って、スーパーサイヤ人かよ」 と私は布団から起き上がり、ぼそっと独りごとを言った。
子どものころ、実家で弟が読んでいた『ドラゴンボール』という漫画は、登場する敵キャラが無限に強くなっ ていく設定だった。そこに弟はスリルを感じているようだったが、私は半ば呆れた顔でその様子を眺めていた
のだ。もう、私は政治家たちが真剣な顔で訴える緊急事態宣言には飽き飽きしていたし、今現在がコロナの第 何波なのかも途中から数えなくなっていた。
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特段、生活の何かが変わったわけではなかった。 昨晩、近隣で起こった小さな問題を除いては。
大学の建築学科を卒業し、都内の建築事務所に就職して4年。前のアパートの契約が切れると同時に移り住 んだこの部屋は、築年数は古いが天井の高さが メートルあり、好きに改装してもいいということだったので
私は心の中でつぶやいた。
「こいなご時世に、元気だこど」
ス音は正確にビートを刻み続け、4ー5名の若者が外で歓声を上げているのが聞こえる。
薄目で見上げた天井には、ガラス窓につけた白い木製のブラインドを通して薄いオレンジ色の街灯の明かり がうっすらと差し込んでいる。爆音を鳴らしているのは、どうも路上に停まっている車のようだ。重低音のベー
就寝したのだが、 携帯電話に手を伸ばして見ると時刻はまだ午前3時半だった。さすがにまだベッドで寝ていたい。
窓の外から地響きのようなベースサウンドと若者の騒ぎ声が聞こえ、私は眼を覚ました。駅から徒歩 分の住 宅街。ここは、普段は騒がしい音とは無縁の場所だ。私は翌朝少し早起きをするため、昨夜はいつもより早めに
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のペンキで塗った。 壁と天井が当たる四辺には、コーヴとよばれる洋風の縁取りがされていて趣がある。
歳を過ぎた大家は建
装することにした。そして、ベッドの足元にあたる壁一面だけを「ヴィンテージブルー」というくすんだ青色
不動産屋で即決した。私は、内装は壁紙ではなく貝殻を砕いた細かい粒子が入っている白いエマルジョンで塗
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漣 さ ざ な み
伊勢喜多 圭吾
漣 さ ざ な み
伊勢喜多 圭吾