Koreana Winter 2016 (Japanese)

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冬号 2016

21世紀の韓国映画 韓国の映画祭で体験する豊かな「映画文化」 21世紀の韓国映画-その光と影 強い監督の時代

DMZ, Where Dreams of Unification Bloom; Peace of Mind Relished on the DMZ Forest Trail; The Uncertain Serenity of the DMZ Ecosystem; Gyodong: A Lonely Island Across from North Korea; Real DMZ Project: Art Casts New Light on Cold War Legacy

The Forbidden Land Glimpsed through Barbed ire Fences vol. 30 no. 3

ISSN 1016-0744

ISSN 1225-4592

vol. 23 no. 4

DMZ

DMZ

特集 冬号 2016

autumn 2016

Special Feature

21世紀の韓国映画 その躍動性と夢 Korean ulture & rt

韓国の文化と芸術


韓国のイメージ


韓服の光と影 キム・ファヨン 金華榮、文学評論家、大韓民国芸術院会員

くで祭りでもやっているのだろうか。友達の結婚式への道すがらなの か、北村や景福宮のあるソウルの旧都心部では韓服姿の若者をよく目に

する。韓服は韓国の古くからの伝統衣装だ。しかし、19世紀末の開港

で押し寄せてきた西洋文化によって、伝統韓服はだんだんとその立ち位置が失わ れていった。それでも1960年代ごろまではソウル市内でも韓服姿の市民をよく見

かけた。やがて1980年代から織物の大量生産、普及とともにファッション産業が 発達し、西洋式のスーツやカジュアル服が大勢となっていった。もはや韓服は旧

正月、秋夕のような年中行事や結婚式のときに着る特別な衣装となってしまった。 時流とともに人々からそっぽを向かれていた韓服が、今なぜ流行しているの

だろう。はじまりは1996年に文化観光部(当時の文化体育部)が先頭に立って定 めた 「韓服を着る日」 のイベントにある。しかし最近の韓服人気の火付け役となっ たのは古宮無料入場プログラムだ。文化財庁が2013年10月から韓服を着ていれ

ば、ソウルの4大古宮、宗廟、朝鮮王陵などの入場を無料にしたからだ。さらに

文化財庁が一年に数回実施している景福宮と昌慶宮の夜間入場が追い打ちをかけ

た。夜間には入場者数に制限があり、入場券の予約が必要なほど非常に人気が高 い。しかし韓服姿であればフリーパスで入場できるとあって、予約の煩わしさと

競争を避けて、夜間入場を楽に楽しむ秘策として韓服着用が脚光を浴びるように なった。一方、外国人観光客の間でも古宮で韓服姿で民俗遊びをする観光プログ ラムが人気を集めている。

このような需要に応えるかのように、古宮付近には韓服のレンタルショップ

が大挙して登場し好況を呈している。製作工程が複雑な高価な伝統韓服には手

の出なかった若者たちが、あまり負担にならない費用で、数時間あるいは一日、 レンタルショップの貸衣装を身につけ、付近を散策できるようになった。友達 どうしで、カップルで韓服を着て韓屋マウルや古宮を歩き回り、楽しい一日を 過ごし「自撮り写真」をSNSに多数アップする。彼らは韓服を着て俳優と化した

自分の姿をインターネットの姿見に映して楽しんでいるのだ。つかの間、日常 が舞台となり韓服は遊戯の小道具に変わる。

彼らは気づいているのだろうか。レンタルショップに流入する工場で作られ

た偽りの輸入韓服によって、いつしか韓服の伝統産業は廃れて、伝統的な本来 の美しさがけばけばしい代物に変わってしまうということに。


編集長からの手紙

映画祭の再跳躍と発展を祈る

映画祭開幕の前日、海辺では強力な台風に見舞われ数人の命が奪われた。 かくして、海辺の地区に甚大な被害を及ぼしたのは台風だけではなかった。 開幕式のレッドカーペットに漂う雰囲気も例年と比べて、スターたちの参加 者が減り、映画祭のきらびやかで華やかさは目に見えて減少した。賑わいを みせていた昨年までの祭りの雰囲気はなかった。 このような条件下でも釜山国際映画祭は、アジア最大の国際映画祭という 評判を維持し成果を挙げて幕を閉じた。映画祭が中止に追い込まれるとこ ろだったことを考えると、69カ国を代表する299本の映画が上映されたのは 大きな成果といえよう。単に数字だけで「奇跡」を説明にするには不十分だ。 BIFFと呼ばれる釜山国際映画祭は、アジアと世界の映画制作者だけでなく、 熱狂的なファンの変わらぬ愛情をはっきりと見せてくれた。 今季号の特集 『21世紀の韓国映画:その躍動性と夢』 で映画評論家ダルシー ・パケットは、2016年10月6日から15日まで開催された「第21回釜山国際映 画祭」の雰囲気と問題点について慎重に述べている。行事の主催者である釜 山市の反対にもかかわらず、2014年の映画祭で政治的な問題が絡んだドキ ュメンタリーが上映されたことから始まった。このために予算が削減され執 行委員と役人が追い出され、表現の自由と企画の独立性を要求する一部の映 画団体は参加しなかった。 BIFFがここ20余年間、映画関係者のメッカとして発展し、新たな人材を 育てる場として有名になったのは、今日急成長する韓国映画の躍動性と関 わりがあると思う。他の芸術ジャンルと同様に、映画における表現の自由も 必須要件である。もっとも大衆的な映画こそそれが不可欠であるかも知れな い。そこでわれわれはこれからBIFFの名誉が取り戻されることを切に希う。 日本語版編集長 金鍾徳

発行人 李是衡 編集理事 尹錦鎭 編集長 金鍾徳 編集諮問委員 裵炳雨 那秀昊 崔寧仁 韓敬九 金華榮 金英那 高美錫 宋惠眞 宋永萬 Werner Sasse 監修者 嘉原和代 翻訳者 坂野慎治 金明順 朴美貞 クリエイティブディレクター 金三 編集 林善根、盧倫永、朴信恵 アートディレクター 李栄馥 デザイナー 金智賢、金南亨、葉蘭敬 編集 金熒允編集会社 04035 韓国ソウル特別市麻浦区楊花路7-44. 秋思軒ビル3階 Tel : 82-2-335-4741 Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 印刷 三星文化印刷 04796 韓国ソウル特別市城東区阿且山路11-10. Tel : 82-2-468-0361〜5 Koreana ホームページ http://www.koreana.or.kr 価格 韓国内:6000ウォン 韓国外:9USドル 定期購読料:詳しくは『Koreana』84ページをご参照ください。 韓国国際交流財団 04539 韓国ソウル特別市中区乙支路5-26. Mirae Asset CENTER1 Bldg. West Tower 19F © 韓国国際交流財団2016 『 Koreana』に掲載されているすべての記事の著作権は韓国 国際交流財団に帰属し、著作権法により保護されています。 『Koreana』の記事を転載する場合には、事前に『 Koreana』 編集室に電子メール(koreana@kf.or.kr)かFAX ( 82-2-21516592)で転載許可を申請してください。 『 Koreana』の記事を引用したり、非営利目的で使用する場 合にも『 Koreana』からの転載であることが分かるようにク レジットを明示してください。

韓国の文化と芸術 冬号 2016

Published quarterly by the Korea Foundation 韓国国際交流財団 06750 韓国ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル

21世紀の韓国映画を主導する 男女俳優のイメージ、 モンタージュ

掲載された記事は筆者の個人的な意見であり、『 Koreana』 や韓国国際交流財団の公式見解ではありません。 1987年8月8日 文 化 観 光 部-1033で 登 録 さ れ た 季 刊 誌 『Koreana』はアラビア語、インドネシア語、英語、スペイ ン語、中国語、ドイツ語、フランス語、ロシア語でも発刊 されています。


フォーカス

04

ペク・ナムジュンの 見直し

38

63

安卿華

二つの韓国

「チョンガーオンマ」 とその子供たち

44

金学淳

オン・ザ・ロード

陽が昇る方向へ 向かって歩く

48

郭在九

14 特集

料理物語

21世紀の韓国映画 その躍動性と夢 特集 1

韓国の映画祭で 体験する豊かな「映画文化」

豆 地球を蘇らせる健康食品 金臻榮

04

ダルシー・パケット

特集 2

21世紀の韓国映画 その光と影

10

強い監督の時代

18

成功する大衆映画の 五つの理由

日常茶飯事

カラオケハウスの主人 キム・ジョンウォンさんの 愉快な人生 遠くの目

石の思い出 松本真輔

姜聲律

特集 4

38

24

韓東源

特集 5

韓国人が愛する俳優

28

李和貞

特集 6

昔の映画館の かすかな思い出 李昌起

56

34

54

ライフスタイル

チャットルームと 顔文字の時代

60

66

金東桓

韓国文学の旅

小説 平和と愛を呼ぶ魔術 崔在鳳

金瑞鈴

ホ・ムニョン

特集 3

62

『街の魔術士』 金鍾沃

70


特集 1 21世紀の韓国映画、その躍動性と夢

韓国の映画祭で 体験する豊かな 「映画文化」

韓国の映画人は、ストーリーとテーマを通して観客に出会い、 時には不都合な議論を投げかける。おそらく、そうした力こそ

韓国映画にダイナミズムをもたらした主な理由だろう。観客は 情熱的・献身的にこれに応じる。映画祭は、映画人と観客が活発

に交流する場であり、そこから良い映画に対する評判が広がり、 人々を熱狂させる。

4 KOREANA 冬号 2016

ダルシー・パケット 映画評論家 安洪范 写真


釜山市海雲台区の「映画の殿堂」で10月6日に行われた第21回 釜山国際映画祭の開会式。映画『The NET 網に囚われた男』の キム・ギドク監督、俳優のアン・ジヘ、チェ・グィファ、ファン・ ゴンがレッドカーペットを歩いている。

韓国の文化と芸術 5


には、全く期待していなかったことが、最

なったのは、舞台のスターと同じくらい観客の顔を観察するのが面白かっ

国際映画祭に関する鮮烈な思い出がある。

で、囲炉りでも囲んでいるかのように、観客の顔は赤くほてっていた。観客

も記憶に残ることもある。私には、釜山

2007年、釜山の海雲台での出来事だ。

二人の女性俳優をゲストに招き、屋外でオープン

たからだ。敬愛、映画への愛情、二人の女優が勝ち取ったものに対する誇り は、俳優の一語一句に耳を傾け、温もりと情熱でそれに応えた。

私がその瞬間、目にしたものは、釜山国際映画祭をアジアの主要な映画

トークが行われていた。イ・チャンドン監督の『シー

祭にしたエネルギーの源泉といっても過言ではないだろう。もう少し大きな

カンヌ国際映画祭で女優賞を受賞したチョン・ドヨ

した主な要素だともいえる。

クレット・サンシャイン』で主演を務め、同年の春に ン、そして1987年にベネチア国際映画祭でイム・グ

観点でいえば、観客が見せた関心と情熱が、韓国の映画産業の成功をもたら 一部では、韓国映画がこの20年間、爆発的な成長をする上で、韓国の

ォンテク監督の 『シバジ』 で女優賞を受賞したカン・ス

大企業や政府の財政的な支援など、経済的な要素が大きく作用したと見て

最高の受賞歴を誇る二人の対話に興味津々だったが、

い「映画文化」があると考えている。映画文化は抽象的な概念だが、韓国に

ヨンが参加するトークだった。韓国の俳優としては 会場の砂浜にあまりにも遅く到着し、すでに観客で 埋め尽くされていた。俳優を見るために何分か人波 を必死にかき分けたものの、結局あきらめてスピー カーで話を聞くしかなかった。私が立っている所か らは、舞台の隅すら見えなかった。しかし、最前列 に座っている観客の顔は、はっきりと見えた。

舞台を見られず、がっかりしたが、すぐに楽しく

1

6 KOREANA 冬号 2016

いる。しかし私は、それと同様に重要な要素として、1990年代以降の力強 住んだり韓国の主な映画祭に参加したりすると、常に身近に感じられるもの だ。映画文化とは、一般の人たちの映画への知識や情熱、そして人々が映画 に対して表現・発言する方式など、すべてのものを含んでいる。

2016年の釜山国際映画祭は、2007年とはかなり違っていた。その一例と

して、女優のカン・スヨンは執行委員長になっていた。彼女は、映画祭の独 立と未来に関する激しい議論の渦中にいる。しかし、これまでと同様に、釜 山国際映画祭は依然として韓国の映画文化を直に体験できる場だ。


自分の映画を作りたいという夢

クションが進められた。

メガボックス劇場のロビーに立っていた。監督としてのデビュー作『扮装』

の中に電気が走ったようだった。映画のどのシーン

わたる準備、撮影、編集などポストプロダクションが終わり、ようやく観客

監督・俳優との質疑応答では多くの観客が称賛を送

私は、ナム・ヨヌの緊張した姿を目にした。俳優から監督に転身した彼は、

の俳優や知人に囲まれていた。彼の映画が初公開される直前だった。2年に

『扮装』が、釜山で初公開された時、まるで映画館

が観客の視線を釘付けにするのか分かった。上映後、 り、熱く感想を伝えた。観客の中には、カンヌなど

の評価を受けることになったのだ。

世界各地の映画祭のプログラマーもいた。その後も、

今回デビューする監督ではあるが、そのような状況は彼にとって全く目

多くの人が個人的に監督に激励を送っていた。その

新しいことではない。彼は2012年に300万ウォン(2800米ドル)という驚く

間、サインをもらうため、あるいはナム・ヨヌ監督や

べき低予算映画『とげのある花』 ( 2012)で主演を務めた。この映画も釜山国

俳優と写真を撮るために、ファンがロビーで長い列

際映画祭で初めて公開され、アジアの若手新人監督に贈られるニューカレン

を作っていた。少なくともこの日だけは、俳優から

ツ賞を受賞した。登場人物が記憶に残るユニークな映画で、世界各地の映画

転身したばかりでまだ無名のナム・ヨヌ監督が、スタ

祭で上映され、さらに多くの賞を受賞した。映画はその後、韓国の映画館で

ーだった。

も上映されたが、ハリウッドのブロックバスターと韓国の高予算商業映画の

韓国には、第二のナム・ヨヌを夢見る多くの若手監

ため、あまり注目されなかった。

督がいる。映画賞を受賞した『ムサン日記〜白い犬』

『扮装』は、トランスジェンダー役を演じる演劇俳優の物語だ。彼は自分

が非常に開放的だと信じているが、後に自分の内面にある偏見と向き合うこ

(2010)と『生きる』 ( 2013)によって、今ではよく知

督は知人の俳優でチームを作り、自ら主演を務めて超低予算で撮影した。撮

督は、若い頃に釜山国際映画祭を訪れていた。そこ

られたインディペンデント映画のパク・ジョンボム監

とになる。登場人物が記憶に残るユニークな物語を描くため、ナム・ヨヌ監

で彼は、映画への深い愛情を抱き、いつかは自分の

影後、釜山国際映画祭のアジア映画ファンドの支援金を得て、ポストプロダ

映画を撮って釜山の観客に見せたいという夢を見始

めた。ハリウッドは「夢の都」とも呼ばれるが、韓国 の若い映画人は釜山、全州、富川で夢をかなえる。

2

実際に釜山国際映画祭は、映画への情熱を駆り立

てる映画祭として、韓国で唯一というわけではない。 毎年5月の初めに開かれる全州国際映画祭は、チケ ットが売り切れるほど、情熱的な観客が集まるとい う点で、釜山国際映画祭に引けを取らない。全州国

際映画祭は、マイナーな映画とインディペンデント 映画に焦点を合わせているにもかかわらず、毎年多 くの観客が押し寄せる(全州の有名な食文化が、映画

祭をいっそう魅力的なものにしている) 。富川国際フ

ァンタスティック映画祭には、ジャンル映画のファ ンが結集する。低予算のジャンル映画を作る韓国の ©釜山国際映画祭

若手監督は多くないが、富川国際ファンタスティッ

ク映画祭は、そうした作品と作品を応援する観客に 出会いの場を設け、映画界が維持されるように支え てきた。

1 今年の釜山国際映画祭で「今年のアジア映画人」に選ばれたイランの故アッバス・キアロスタミ 監督(今年7月他界)に代わり、息子のアフマド・キアロスタミ氏が、開会式で受賞に感謝を述 べている。 2 釜山国際映画祭のカン・スヨン執行委員長(映画俳優)が、ニューカレンツ賞の審査委員長でマ リの映画監督スレイマン・シセ氏 (写真中央) の妻で映画俳優のアミナタ・シセ氏と、閉会式であ いさつを交わしている。写真の左端は、釜山国際映画祭のキム・ドンホ理事長

韓国の文化と芸術 7


ハリウッドは 「夢の都」 とも呼ばれるが、韓国の若い映画人は釜山、全州、富川で夢をかなえる。

長く無名時代を過ごし、厳しい環境で映画を作る映画人にとって、夢を

持つのは大切なことだ。夢だけではない。今のような時代には、映画を観客 に見せることが決定的な要素だ。釜山国際映画祭や全州国際映画祭に参加す

る観客は、平凡な観客ではない。映画に特別な関心を持っており、毎年新 しい映画を見るために訪れる。気に入った映画を見つけると、口コミで広げ

1 釜山市中区南浦洞のBIFF(釜山国際映画祭)広場は、釜山国際 映画祭の前夜祭を楽しむため、多くの人が集まる名所。写真は 2014年10月1日、第19回釜山国際映画祭の前夜祭の様子 2 2015年の釜山国際映画祭で釜山市海雲台のBIFFビレッジにおい て開催された 『王の運命-歴史を変えた八日間』 の野外舞台イベン ト。イ・ジュニク監督と出演者が観客にあいさつしている。

て、コメントや短いレビューをインターネットに載せる。監督が初めて名声 を得るのは、そうした瞬間だ。映画が、まず映画館での上映から始まるもの と仮定してみよう。低予算映画にはどうしても不利であり、厳しい競争や流

通過程で、 『扮装』のような映画は注目を浴びることなく、すぐに消えてし まうだろう。そのため、映画祭とこれを支援する映画文化が、映画人には非 常に重要なのだ。 対話としての映画

ナム・ヨヌが、自作の長編映画を上映している間、そこから歩いて10分ほ

ど離れた海雲台の砂浜では、他のイベントが行われていた。主要な映画投資

配給会社であるネクスト・エンターテインメント・ワールドが、ヒット作『釜 山行き』の版権を買い取った世界各地の配給会社のためにパーティーを開い

ていたのだ。超高速鉄道KTXの中で、好き勝手に暴れ狂う原因不明のゾ

ンビウイルスを扱った映画 『釜山行き』 は、韓国で1100万人の観客を動員し、 今年最高のヒット作となった。しかし、さらに印象的なのはシンガポール、 オーストラリア、香港、台湾、フランスなど外国での前例のない成功だ。釜 山で開かれたパーティーは、大変盛り上がった。パーティーに参加した多く の配給会社が、この映画で大きな収益を得たのだから、当然のことだ。

ヨン・サンホ監督は、釜山国際映画祭と縁がある。学校でのいじめを扱っ

た初の長編映画『豚の王』は、低予算アニメーション映画として、2011年に 釜山国際映画祭で三つの賞を受賞した。その翌年、カンヌ国際映画祭の監督

週間部門で上映された。暗く哲学的な二つ目の長編アニメーション映画『サ イビ』は、2012年の釜山国際映画祭で最も注目された映画の一つだ。これら の初期作品は、メジャー映画のスタイルとは遠くかけ離れていたが、ネクス

ト・エンターテインメント・ワールドは彼の才能を信じ、高予算映画『釜山行

き』に投資した。ゾンビ映画は韓国で決して成功しないという映画界のジン クスにもかかわらず、この大博打は誰も予想できない成功をもたらした。

しかし『釜山行き』が今年の釜山国際映画祭のプログラムに含まれていな

いのは、皮肉なことだ。政治的な圧力から映画祭の独立を守り抜くと宣言し た映画人の一部が、映画祭への参加を拒否したからだ。セウォル号沈没事件

を扱った 『ダイビング・ベル〜セウォル号の真実』 ( 2014) などのドキュメンタ リー映画の上映をめぐって、2年間続いた釜山市との対立によって、映画祭

のイ・ヨングァン執行委員長が解任された。特に昨年は、議論の余地があっ たり露骨に問題を提起する映画、あるいは不都合な映画を支えてきた釜山国 8 KOREANA 冬号 2016

1


2

際映画祭のアイデンティティーについて、熱い論争

の文化談論において重要な役割を果たしていることが明らかになった。この

映画祭は、映画人が応援してくれる観客に出会う

的で、自国の映画が市場のごく一部を占めるところでは、なかなか見られな

が交わされた。

理想的な空間であり、社会意識の高い映画が提起す る様々な問題について議論・論争する場でもある。こ

ような現象がすべての国で現れるわけではない。特にハリウッド映画が支配 いだろう。

れもまた映画文化の要素の一つだ。そうして今の時

個人的な話

評家によって拡大し絶え間なく進化する。

た。到着して数週間も経たないうちに第2回釜山国際映画祭に参加したが、

・チャン(陳可辛)監督(『ウォーロード/男たちの誓

祭に毎回参加し、映画に関する文を書き、韓国映画について講義しながら経

代の主な論争は、映画監督、観客、評論家、文化批 およそ10年前、私は成功を収めた香港のピーター

い』 、 『ラヴソング』など)にインタビューする機会が あった。そのとき、彼は韓国の映画の観客が非常に

うらやましいと言った。 「韓国の観客はとても賢明で す。映画を見る目が非常に高く斬新で、よくできた 映画を応援します」 。

それ以降、韓国の観客はさらに細分化された。年

配の観客は、以前より頻繁に映画館を訪れるように なった。 『釜山行き』のヒットや『扮装』のような低予

算のインディペンデント映画によって、映画が韓国

韓国を初めて訪れた1997年、私は韓国映画についてほとんど知らなかっ

映画への観客の情熱に圧倒され、ぞくぞくするほどだった。それ以来、映画 験を積んできた。韓国映画に惹きつけられた契機、そのインスピレーション を与えた映画は何かと質問する人もいる。実のところ、最初に私の心を奪っ たのは、釜山で体験した映画文化だった。ある特定の映画というより、周り の活発な映画論議だった。

現在の韓国映画が、どうやってこれほどのダイナミズムを得たのかと疑

問に思う人にとっても、答えは同じだ。私は、映画と映画人を超えて、その 先を見通す必要があると考える。そうした背景には、すべて韓国の力強い映

画文化がある。力強い映画文化は結局、力強い自国映画を作り出すものだ。 これこそ映画文化が重要な理由であり、守るべき理由でもある。

韓国の文化と芸術 9


特集 2 21世紀の韓国映画、その躍動性と夢

その光と影 21世紀の韓国映画

今日の韓国映画が置かれている状況から振り返ってみると、前世期の末はわ

ずか20年ほどの過去にすぎないが、はるか昔のように感じられる。それほど 21世紀の韓国映画産業の変化は激しかった。しかし、同時代の世界映画地図 において、韓国映画は未だ明確に位置付けられていない。 10 KOREANA 冬号 2016

ホ・ムニョン 映画評論家 Cine21 写真


1

980年代まで韓国映画を見に行くことは「トレンデ ィ」でなかった。韓国人の韓国映画に対する昔から

のイメージは、レベルの低い 「新派 (お涙頂戴もの) 」

だった。1960年代の韓国映画は、それなりに華やかで豊 富だったが、1970年代初めから本格化した権威主義的な

政府の検閲と規制、そしてテレビの広範な普及が、20年 近く韓国映画の進展を妨げた。1990年代半ばから韓国映

画においてルネサンスともいえる変化が始まった。知的 でチャレンジ精神あふれる若いプロデューサー、芸術的 才能と野心を持った新人監督が、新たな流れを生み出し

たのだ。その後、韓国映画は芸術的・商業的に目まぐるし い発展を遂げてきた。

海外からの評価も変わった。1990年代半ばにフラン

スのパリで映画を学んだ韓国の留学生は、他国の学生か ら「韓国でも映画が作られているのか」と質問された。そ

の当時はごく一部の専門家を除いて、外国映画のファン であっても韓国映画を見た人はほとんどいなかった。そ のような状況は、21世紀に入って急激に変わった。今や

世界有数の国際映画祭で韓国映画が紹介されたり受賞し たりするのも、珍しいことではない。ホン・サンス(洪尚

秀) 、キム・ギドク (金基德) 、パク・チャヌク (朴贊郁) 、ポ ン・ジュノ(奉俊昊)など1990年代後半にデビューした新 世代の韓国の監督は、今や海外のファンも多い。 映画産業の急激な成長

韓国は、21世紀の映画産業において最も著しい成長を

遂げた国の一つだ。2000年に6169万人だった観客数は、 2015年に2億1729万人に増加した。その間、韓国映画 の制作本数(57→232)とスクリーン数(720→2424)は共

に3倍以上に増えた。2015年の総売上高は2兆1131億 ウォンを記録した(2005年の総売上高は1兆5246億ウォ

ンで、それ以前の正確な統計資料はない) 。むろん成長 の速度において中国に比べることはできない。2010年に 64.3%という驚異的な成長率を記録した中国の映画産業

は、2000年代半ば以降、毎年30%ほどの爆発的な成長を

©NEW

ソウルの永登浦タイムズスクエアで7月18日に行われた映画『釜山行き』 のVIP試写会。レッドカーペットイベントには、およそ1700人のファ ンが押し寄せた。超大型パニック・ブロックバスターの封切りを知らせる この大規模イベントが、21世紀の韓国映画産業の一面を物語っている。

韓国の文化と芸術 11


続けている。まだ一人当たりの映画鑑賞回数

(映画館)が0.92回(2015年)にすぎない中国 の映画産業は当面、急成長を続けると予想さ

れる。しかし中国を除けば、21世紀に韓国ほ

ど映画産業が急成長した国はなかなか見当た らない。

韓国の映画産業の成長において、最も注目

すべき点は、一人当たりの映画鑑賞回数の変

化だ。韓国人の年平均映画鑑賞回数は2000

年、1.3回にすぎなった。しかし2005年には 2.95回と、わずか5年で2倍以上に増加し

た。2013年には4.17回と初めて4回を超えて、 2015年には4.22回を記録した。これは、他国

と比べても非常に多い。2013年基準で一人当 たりの年平均鑑賞回数はアメリカが4.0回、フ

1 韓国映画としては初め てカンヌ国際映画祭 のコンペティション部 門にノミネートされた イム・グォンテク監督 の 『春香伝』 ( 2000) 2 社会不適応者と脳性麻 痺の障害者の愛を描い たイ・チャンドン監督 の 『オアシス』 ( 2002) 3 朝鮮末期の天才画家チ ャン・スンオプ( 張承 業)の一代記を基にし たイム・グォンテク監 督の 98作目『酔画仙』 (2002) 。イム監督は 2002年、 こ の 映 画 で カンヌ国際映画祭の監 督賞を受賞した。

政策を実施している中国を除けば、韓国は世

界最高レベルの自国映画振興策を行っている。 これらの政策のおかげで、韓国映画が映画

館の売上において優位を占めるようになった。 韓国映画のシェアは2013年に59.7%、2014 年に50.1%、2015年に52.0%を記録し、過半

数を占め続けている。2013年基準でアメリカ

(94.6%) 、インド(94.0%)など例外的な国を

除けば、中国 (58.6%) 、日本 (60.6%) と共に、 韓国は自国映画が市場でアメリカ映画と対等 か優位に立っている数少ない国だ(自国映画

のシェアは2013年、フランスで33.8%、イギ リスでは合作映画を含めて22.1%) 。

その他にも検閲制度の撤廃、多くの若い人

材の映画界への進出などが、韓国映画の成長 の要因として挙げられる。もちろん今や韓国

ランスが3.14回、イギリスが2.61回、ドイツ

映画産業が新たなステージに入ったのは確か

が1.59回、日本が1.22回だった。世界で最も

だ。上限に近い一人当たりの鑑賞回数とスク

多く映画が作られるインド (2013年、1602本)

リーン数、活用できる映画振興政策の限界な

も、一人当たりの映画鑑賞回数は1.55回にす

ど、これからは韓国の映画産業の成長パター

ぎない。

ンが異なってくると考えられる。

このように高い成長率と鑑賞回数を記録し

た理由は、何なのだろうか。その答えの一つ は、韓国政府の映画政策に見出すことができ

韓国映画の位置付け

ータ制度によって年間73日以上、韓国映画を

2000年にカンヌ国際映画祭のコンペティショ

韓国映画振興委員会、各地域の映像委員会、

まったこの映画祭の同部門にはたった一本の

イム・グォンテク(林權澤)の『春香伝』が

る。韓国の映画館は、厳しいスクリーンクォ

ン部門にノミネートされるまで、1946年に始

上映することになっている。また映画人は、

韓国映画もノミネートされなかった。カンヌ

地方自治体、国際映画祭などから様々な財政

国際映画祭でのノミネートが絶対的な基準で

支援を受けてきた。厳しい海外映画輸入制限

1 2

12 KOREANA 冬号 2016


3

韓国の文化と芸術 13


1

一つの地域(国)の映画には、ある種の「地域性(お国柄) 」が程度の差はあれ(時には深く)刻み込ま れる。それでは、韓国映画はどのような映画なのか。つまり、ホン・サンス、ポン・ジュノ、イ・チ ャンドン、あるいはパク・チャヌク、キム・ギドクの映画に刻まれた地域性とは何なのだろうか。

2

14 KOREANA 冬号 2016


はないが、この事実から見て、西欧の映画専門家や評論家によって作られた20

10年ごとに全世界の映画評論家と監督へのア

出版された『Oxford History of World Cinema』 (オックスフォード大学出版局)に

ている。2012年12月に発表されたこのリスト

世紀の世界の映画地図に、韓国映画は存在していなかったといえる。1996年に は韓国映画が全く紹介されておらず、その他の世界映画史の書籍も同様だ。

しかし、2000年から事情が変わったようだ。カンヌ国際映画祭では、イム・

グォンテクが2002年に『酔画仙』で監督賞、パク・チャヌクが『オールド・ボーイ』

(2004) と 『コウモリ』 (2009) で審査員賞を受賞した。イ・チャンドン (李滄東) は 『シ

ークレット・サンシャイン』 ( 2007)でチョン・ドヨンに女優賞をもたらし、 『ポエ

ンケートによって「史上最高の映画」を発表し のトップ100に、韓国映画はない。これは十

分予想できたことだ。しかし、年度別のトッ プ10のリストを見ても、2000年代以降に名を 連ねる6本のアジア映画に韓国映画はない。

むろん、このリストをあまりにも真摯に受

トリー アグネスの詩』 ( 2010)で脚本賞を受賞した。受賞には至らなかったもの

け止める必要はない。リストはこれからも手

ティション部門にノミネートされた。ベネチア国際映画祭では 『オアシス』 (2002)

当代よりも後代に評価されるだろう。しかし、

の、ホン・サンスの3作品とイム・サンスの2作品も、カンヌ国際映画祭のコンペ

がイ・チャンドンに銀獅子賞 (監督賞) 、女優のムン・ソリにマルチェロ・マストロ ヤンニ賞 (新人俳優賞) をもたらした。キム・ギドクは 『サマリア』 ( 2004) でベルリ ン国際映画祭の銀熊賞(監督賞) 、 『うつせみ』 ( 2004)でベネチア国際映画祭の銀

獅子賞 (監督賞) 、 『嘆きのピエタ』 ( 2012) でベネチア国際映画祭の金獅子賞 (最高 賞)を受賞した。こうした点を考えると、21世紀の韓国映画は、国際映画祭にお いて前世期には想像もできなかった好評を得ているといえる。

ここ10年ほどの主な国際映画祭での成果によって、韓国映画が果たして世界

の映画地図において明確に位置付けられたのだろうか。この問いには、まだ肯定

的に答えることができない。イギリスの映画雑誌『サイト・アンド・サウンド』は、

直しされ、これまでと同様にかなりの映画が、 このリストによって、世界の多くの映画専門 家が、同時代における映画芸術の最前線に韓

国映画は含まれていないと判断していること

が分かる。要するに、同時代の世界の映画地 図において、韓国映画はまだ明確に位置付け られていないのだ。

ここで韓国映画という表現について、改め

て考えてみる必要がある。 「韓国映画」 、 「イ

ンド映画」 、 「イギリス映画」のような表現に

は、微妙な二重性がある。それは韓国、イン ド、イギリスが単純な国籍の表記以上に、意 味ある共通性を表現しているのかという問い に、即答できないからだ。一つの地域(国)で

作られた映画の性格についての性急な一般化

は、ある種の先入観になり、個別の作品の長

所を見逃すことになる。それにもかかわらず、 一つの地域の映画には、ある種の「地域性(お 3

4

5

6

国柄) 」が程度の差はあれ(時には深く)刻み込

まれる。それでは、韓国映画はどのような映 画なのか。つまり、ホン・サンス、ポン・ジュ

©釜山国際映画祭, 富川国際ファンタスティック映画祭

ノ、イ・チャンドン、あるいはパク・チャヌク、 キム・ギドクの映画に刻まれた地域性とは何な のだろうか。 1 映画『観相師』 ( 2013、監督:ハン・ジェリム) 。妓 生(芸妓)ヨノン役のキム・ヘスは、新感覚の衣装 で話題を集めた。 2 一つのダイヤモンドを追う『10人の泥棒たち』 (監 督:チェ・ドンフン) の象徴的なシーン。2012年の 最高の話題作となった。 3 連続殺人犯、それを追う元刑事の風俗経営者、そ して犠牲者(写真)によるスリラー映画『チェイサ ー』 ( 2008、監督:ナ・ホンジン) 4 傍若無人な財閥3世の裏社会を描いた『ベテラ ン』 ( 2015、監督:リュ・スンワン) 5 2016年の話題作 『お嬢さん』 (監督:パク・チャヌク) 6 朝鮮時代の道士を主人公にした韓国型ヒーロー 映画 『チョン・ウチ 時空道士』 ( 2009、監督:チェ・ ドンフン)

この問いに、すぐに答えることはできな

い。むしろ共通点が全くないようにも見える。 そのため、ホン・サンスとキム・ギドクの映画

はヨーロッパのモダニズム映画の流れであり、 パク・チャヌクとポン・ジュノの映画は (時には キム・ギドクの映画まで)いわゆる「アジア・エ クストリーム・ムービー」の芸術的変容と受け

止められることもある。要するに韓国映画は、 地域性に還元できない多彩な映画の集合体で

あり、そうした特性が世界の映画地図におい て韓国映画の位置付けを曖昧にする一因にも なっている。

韓国の文化と芸術 15


1

1 バンパイアになった 神父を描いた『 渇き 』 (2009、監督:パク・チ ャヌク) 2 田舎の小さな村で起こ った謎の連続殺人事件 を扱ったミステリー・ スリラー 『哭声』 (2016、 監督:ナ・ホンジン ) 。 俳優ファン・ジョンミ ンは、シャーマンのイ ルグァン役で神がかっ た演技を見せた。 3 プロの賭博師の世界を 描いた『タチャ イカサ マ師』 ( 2006、監督:チ ェ・ドンフン) 4 朝鮮初の宮廷仮面劇 を標榜した『 王の男 』 (2005、監督:イ・ジュ ニク) 5 日本の統治下での独立 運動の中心に、初めて 女性キャラクターを用 いたと評価される『暗 殺』 ( 2015、監督:チェ ・ドンフン) 。主演女優 はチョン・ジヒョン

3

4

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©釜山国際映画祭

2


・ギドクがここに含まれる。しかし、二人の相

違点は、共通点よりもはるかに多い。ホン・サ

ンスは形式の刷新によって新たな現実感覚に 至ろうとする反面、キム・ギドクは肉体的な苦 痛を通じた救援に取り組んでいる。若手監督 の一部が、この系列に当たる映画を作ってい るが、広く知られた監督はほとんどいない。

三つ目は、ジャンルの革新系列といえるも

ので、パク・チャヌク、ポン・ジュノ、キム・ジ

ウン、リュ・スンワンなど、大衆的にも批評 的にも支持されてきた監督だ。彼らはかつて

映画マニアで、B級ジャンル映画に魅了され

た経験を共有している。彼らの映画は、スリ ラーやアクションを中心にして、ホラーやコ

メディーなどを結び付けた混成ジャンル映画

で、大衆に受け入れられやすいが、時にはこ だわりのあるスタイリストのような一面もの

ぞかせる。しかし、彼らもそれぞれ違う点が 多い。パク・チャヌクは古典的悲劇をジャンル

映画として再解釈し、ポン・ジュノは地域政治

学をジャンルのダイナミズムに結び付けてい る。リュ・スンワンとキム・ジウンは、現実の 問題を素材にする場合も、映画マニア的な遊

戯を見せ続ける。これらの映画の中でポン・ジ ュノの 『グエムル〜漢江の怪物』 ( 2006) 、リュ

・スンワンの『ベテラン』 ( 2015)は1千万映画

5

(観客数が1千万人を超えた映画)だ。韓国の 多くの監督の卵は、そうした映画を手本にす

る。若手としては『チェイサー』 ( 2008) 、 『哀 多彩な傾向の監督

今日の韓国映画には、いくつかの特徴に要約できないほど、様々な系列が共

存している。極端な単純化の危険を顧みず図式化すれば、四つのグループに分

しき獣』 ( 2010年) 、 『哭声』 ( 2016) で注目を浴

びたナ・ホンジン(羅泓軫)が、この系列に含 まれる。

四つ目は、主流ジャンル系列といえ、最も

けられる。

多い監督がこれに当たる。この系列を長くリ

でもなくイム・グォンテクだ。長く韓国映画を代表してきた巨匠は、若いときに

代半ばから1千万映画を2本も作ったチェ・ド

一つ目は、民族的リアリズム系列といえる。この系列のリーダーは、言うま

は主流ジャンルに取り組んでいたが、1970年代半ばから民族映画の芸術的開花 のために孤軍奮闘しており、2014年に102作目 『ファジャン』 (化粧・火葬の意) を

公開した。イ・チャンドンは、おそらくこの系列の嫡子といえるだろう。映画マ ニア的な遊戯の反対側に立つモラリストのイ・チャンドンは『ポエトリー アグネ

スの詩』 (2010) 以降に沈黙を守っている。 『ハウスメイド』 (2010) と 『蜜の味〜テ イスト・オブ・マネー〜』 ( 2012) のイム・サンスは、はるかに自由奔放だが、この

ードしてきたのはカン・ウソクだが、2000年 ンフン、ユン・ジェギュンなどが、この系列の リーダーになった。特にチェ・ドンフンは、デ

ビュー作の『ビッグ・スウィンドル』 ( 2004)か

ら 『暗殺』 ( 2015) まで5作品をすべて商業的に 成功させ、韓国最高の主流監督になった。

これらの系列の中で、どれか一つが韓国映

系列に含まれる。こうした映画は、すべて韓国の地域性に注目し、歴史的な事

画を代表しているとはいえない。このような

いう共通点もある。この系列を受け継いでいく若手監督は、まだ見当たらない。

いて複雑ではあるがダイナミックなスタイル

件や現実の不条理を扱ってきた。テーマが形式やスタイルよりも優先されると 二つ目は、暫定的にモダニズム系列といえるグループだ。ホン・サンスとキム

多彩な傾向が、韓国映画という地域映画にお を形作っている。

韓国の文化と芸術 17


特集 3 21世紀の韓国映画、その躍動性と夢

強い 監督の時代 大ヒットと作家主義という二兎を得る「奇跡」を起こ す監督が少なくない。海外の権威ある映画祭が、大

ヒットとは程遠い作家主義監督に、韓国での足掛か りを与えることもある。韓国の映画界は今、強い監 督の時代だ。

カン・ソンニュル 姜聲律、映画評論家、光云大学校教授 Cine21 写真

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国の映画監督は、現場の誰よりも力が

ある。むろん、すべての監督に当ては まるわけではないため、一般化するの

は危険だ。それでも、大企業が運営する会社が投

資・配給・上映の垂直系列化を果たした現在も、依

然として監督は強い。観客数1千万人以上の映画 を演出した監督は、自ら映画会社を立ち上げて映 画を作る。妻に映画制作会社の代表取締役を任

せ、自らシナリオを書き、キャスティングから編

集などポストプロダクションまで、力を発揮する ことも少なくない。つまり、映画のすべての過程

に監督が存在するのだ。映画業界で働きたい人を 見ても、監督志望が絶対的に多い。

そうした意味で、作家主義は、現在活躍して

いる韓国のほとんどの監督を修飾する言葉だとい っても過言ではない。

キム・ギドクとホン・サンス

キム・ギドクとホン・サンスは共に1960年に生

まれ、1996年にデビューした。キム・ギドクのデ

ビュー作『鰐〜ワニ〜』とホン・サンスのデビュー

作『豚が井戸に落ちた日』は、共に映画界で話題に

なり、その後も両監督はほぼ毎年映画を演出し、 海外にも進出して国際映画祭で良い評価を受けた。 何よりも両監督は、確固たる映画的世界観を持つ 作家として評価されており、韓国では大ヒットし なくても、海外での支持によって地位と名声を簡 単に失うことはないという共通点を持っている。

キム・ギドクの映画の前提は「病んだ資本主義」

だ。主に疲弊した資本主義の中で動物的な暮ら しを続ける下層の男の人生を赤裸々に描いてき

た。 『嘆きのピエタ』 ( 2012)はその過去の創作を 集約し、一歩進んだ映画といえる。かつては産業

化の象徴だったが、今は撤去の危機に瀕している

ソウル清渓川の世運商店街を背景に、悪徳なヤミ 金業者が債務者から暴力的に取り立てる現場にカ メラを向けた。他人を脅迫して暴力を加え、金を

奪って生きていく資本主義が生んだ悪魔であり、 怪物ともいえる一人の男。キム・ギドクは、その

男が自分の人生を顧みて反省するように仕向ける

が、さらに映画のエンディングでは男にイエスの 犠牲的なイメージも与える。資本主義のどん底に 目を向けるだけでなく、ひいては野性的な一人の 男の犠牲と死を通じて、慈悲と救援という問題に

同じテーマで違う映画を作り続けている二人の監督。デビュー20年 になる同い年の中堅映画監督ホン・サンス (18頁) とキム・ギドク

韓国の文化と芸術 19


展開させたのだ。

第1部と第2部の二つの物語として併置している。この構成

た。完璧な作家主義の実現あるいはマンネリズムの持続だ。

考えさせる。

ホン・サンスは、徹底的といえるほど似た映画を作ってき

彼の映画では、男性と女性の恋愛が、ロマンや華やかな想像

の絶妙な対句と韻律によって、見る者に人生と芸術について

を取り除いた状態で表現される。飲み屋から飲み屋に、そし

パク・チャヌクとポン・ジュノ

の噴出と充足だ。ホン・サンスは、この欲望の多様な表情を

画を韓国特有の状況に持ち込み、それを土着化させて、言い

祭で金豹賞(グランプリ)を受賞した『今は正しくあの時は間

ギドクとホン・サンスよりも大衆的で広く知られている。パ

て安宿に続く極めて世俗的な恋愛で、愛情に先立つのは欲望 スタイル的な実験で再現する。2015年にロカルノ国際映画

違い』 ( 2015)を見てみよう。映画監督である主人公が偶然、 水原に行って、ある女性に出会って酒を交わすまでの過程を 20 KOREANA 冬号 2016

パク・チャヌクとポン・ジュノは、ハリウッドのジャンル映

たいことを鋭く表現する監督だ。そのため両監督は、キム・ ク・チャヌクが、スリラーとミステリーというジャンルで罪

の意識と復讐について語り続けるとすれば、ポン・ジュノは、


何かを追いかける物語の中で、韓国社会の構造的 な矛盾を鋭く捉える。見た目にはジャンル映画の 類型をなぞっているようだが、もう少し中に入っ

てみると独創的な物語が展開されるのも、両監督 の映画の共通点だ。

パク・チャヌクは、韓国のどの監督よりも倫理

的で理知的なイメージを持っているが、面白いこ

とにB級映画の情緒に大いに頼っている。彼から

見てB級映画とは、完成度の低い映画ではなく、 A級映画にはできない斬新な想像力を発揮した

り、足りない時間と予算を作家の芸術的な想像力 で補ったりするジャンルだ。パク・チャヌクの代 表作といえる 『オールド・ボーイ』 ( 2003) には、彼

の映画世界が集約されている。姉を守ることがで

きなかったという罪の意識が復讐を呼ぶが、その 復讐は結局成功しないまま、別の復讐を呼ぶ。そ

うしたストーリー構造の中に、近親相姦の要素を 絶妙に溶かし込んだ。

映画に奇怪なユーモアを取り入れるポン・ジュ

ノは、未熟な人物がとうてい耐えられない状況 に落ち陥った物語をよく描く。そうした物語が 面白いのは、事件の展開において韓国社会の現 実があらわになるからだ。例えば、ポン・ジュノ は『殺人の追憶』 (2003)という奇妙なタイトルの

映画で、女性が連続殺人に遭っても犯人を捕ま えることができなかった1980年代の異常な時代 の治安システムについて緻密なディテールで表 現した。

イム・グォンテクとイ・チャンドン

イム・グォンテクとイ・チャンドンは、誰よりも

真摯に映画を作る監督だ。1960年代初めにデビュ ーし今でも現役として活躍しているイム・グォンテ

クは、演出した映画が100本を超えている。1993 年に公開され、彼のそれまでの興行記録を塗り替 えた『風の丘を越えて〜西便制』は、映画という西

洋の枠に、民俗芸能のパンソリという伝統的なテ ーマを本格的に収めた作品として注目を浴びた。

イ・チャンドンは、小説家から映画監督に転身

した特異な経歴の持ち主だ。リアリズム小説の作 家らしく、現代史の不幸な事件や現在を生きる

人々の苦悩について描く。ポン・ジュノの映画が 社会の構造的な矛盾に直接迫るとしたら、イ・チ ャンドンは一歩引いて静かに観照するかのように

再現する。 『ポエトリー アグネスの詩』 (2010) は、 イ・チャンドンの代表作だ。映画は、子供たちが

民族的リアリズム系列映画のリーダー、イム・グォンテク (20頁) とその系列の嫡子イ・チャンドン

韓国の文化と芸術 21


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大企業が運営する会社が、投資・配給・上映の 垂直系列化を果たした現在も、依然として監 督は強い。観客数1千万人以上の映画を演出 した監督は、自ら映画会社を立ち上げて映画 を作る。作家主義は、現在活躍している韓国 のほとんどの監督を修飾する言葉だといって も過言ではない。


遊んでいる河原に女子中学生の遺体が流れてくる 場面から始まる。少女がなぜ死んだのか、その死

の原因を究明し処理する過程を追いながら、映画 は少女の死と関わりのある祖母の死を詩という文

学的技法に結び付け、より高いレベルに昇華させ ている。

ナ・ホンジンとヨン・サンホ

最後に、韓国映画の未来を想像させるニュー

ウェーブとインディペンデント映画において、フ ロントランナーといえる監督はナ・ホンジンとヨ ン・サンホ (延尚昊) だ。過酷な映画を作るナ・ホン

ジン監督は、自分の映画世界をしっかりと構築し

ていながら大衆的にも愛されている。極限状態に 置かれた人間が、どのようにして動物のように残 酷になれるのかを見せるなど、暴力と殺害が飛び 交う映画だ。 『哭聲』 ( 2016)では、それが極端に

前面に押し出されている。閉鎖された田舎の共同 体に広がる原因不明の死の影、正体不明の存在の 登場、飛び交う怪しい噂、とうてい逃れられない

オカルト的な要素とシャーマニズムの並行構造な ど、随所に象徴と伏線を配して、ナ・ホンジンは 観客との頭脳戦を愉快に繰り広げる。

ヨン・サンホは『釜山行き』 ( 2016)で1千万の

観客を動員して大ヒット監督になったが、アニメ

ーションでは依然としてヒットは難しい。ヨン・

サンホは『釜山行き』の直後に『ソウル駅』 ( 2016) というアニメーションで、本来のフィールドに戻 ってきたが、もともと子供ではなく大人向けアニ メーションの問題作を作り続けてきた。学校、軍

隊、宗教などの組織を背景にしたアニメーション で、韓国社会が生んだ怪物を描写してきた。そん

な監督が 『釜山行き』 でゾンビの国を作って大ヒッ トを収め、話題を呼んだのだ。

面白いことに、この両監督が最近演出した作

品は、共にゾンビ映画だ。韓国ではほとんど作ら れなかったゾンビ映画で両監督が大きな成功を

収めたことは、何を意味するのだろうか。新たな

流れを生み出すニューウェーブ、マイナーな感性 で独創的な作品を作るインディペンデント映画

界。そこで、殺しても生き返って執拗に追いかけ てくるゾンビ映画が作られ、大ヒットした。これ は、今の時代のどんな兆候を物語っているのだろ うか。

パク・チャヌク(22頁)とポン・ジュノ(23頁)は、ハリウッ ドのジャンル映画を韓国特有の状況に持ち込み、それを土 着化させて、言いたいことを鋭く表現する監督

韓国の文化と芸術 23


特集 4 21世紀の韓国映画、その躍動性と夢

成功する大衆映画の 五つの理由

ハン・ドンウォン 韓東源、映画コラムニスト Cine21 写真

成功した映画には、必ず理由がある。しかし、これから作られる映画が、これまでに成功した映画のヒット の公式に従うだけなら、その自己複製と画一化の被害は結局、観客に返ってくる。

©釜山国際映画祭

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国映画業界には「1千万映画は、神が授けた幸運」とい

(2014) 、 『釜山行き』 ( 2016) 、 『バトル・オーシャン/海上決戦』

にも分からない。予測が難しい代わりに、大ヒットの

理由が納得できる。それぞれの観客の評価に個人差はあるだろ

う言葉がある。どの映画がその幸運をつかむのかは誰

後、その作品の分析が数多く行われる。 国民情緒に頼る

一つ目の要因は 「民族・国家主義的な情緒への便乗」 だ。韓国人

の強い民族・国家主義的情緒を刺激することで、大ヒットを収め

(2014)などの作品も、口うるさく言わなければ、大ヒットした

うが、18本の「1千万映画」のうち7割くらいは、平均以上の完 成度といえる。

有名人の存在感に頼る

そして当然なことだが、監督と俳優の力・知名度・信頼性

た映画としては『バトル・オーシャン/海上決戦』 ( 2014) 、 『国際

も「1千万映画」を作る五つ目の要因だ。チェ・ドンフン、ポン・

られる。ひょっとすると、これといった劇的な脈絡なしに、あ

自らの関心と色を(少なくとも見た目には)失うことなく、観客

市場で逢いましょう』 ( 2014) 、 『ブラザーフッド』 ( 2004)が挙げ

えてソウルをアクションシーンの背景にして大々的にロケを行 い、相当な利益を上げたアメリカ映画『アベンジャーズ/エイジ

・オブ・ウルトロン』 ( 2015) も、これに当たるかもしれない。

二つ目の要因は、主流への批判だ。このヒットの公式によっ

て『暗殺』 ( 2015)では、帝国主義の日本から解放されて70年経っ

た今も、社会的・経済的特権を持ち続けている親日派への国民の 潜在的な怒りを、 『ベテラン』 ( 2015)では、財閥3世のあらゆる

横暴に対する国民の憤慨を、 『王になった男』 ( 2012)では、庶民

の現実の生活とは何の関係もない消耗的な政争に熱を上げる政界 への嫌悪感を、 『弁護人』 ( 2013)では、当時の大統領に対する失 望と反感を、 『グエムル〜漢江の怪物』 ( 2006)では、在韓米軍基

地で生じた汚染問題と在韓米軍の特権的な地位に対する反感、さ

らに災害対応に無力な韓国政府への失望と不安を成功的に描いた

ジュノ、イ・ジュニク、クリストファー・ノーランなどの監督は、 のニーズを満たしている。つまり、作品性と商業性を調和させ

る力で、韓国の観客から信頼を得ているのだ。ハリウッドの大

作のベンチマーキングというレッテルを張られたユン・ジェギュ ン監督は、個別の作品に対する嗜好はともかく、大ヒットさせ

るための演出感覚と制作者としての才能を併せ持っていること

は間違いない。俳優としては「1千万妖精」と呼ばれる助演のオ・

ダルスが最初に思い浮かぶ。だが、 「野球は投手、映画は主演」 というように、演技力と存在感だけで映画を引っ張っていく力

があるソン・ガンホ、チェ・ミンシク、ファン・ジョンミン、イ・ ビョンホンなどが 「1千万」 の重要な要因の一つといえる。

さらに、猛暑からの避難的な需要を大幅に増加させた地球温

暖化も、今年は大ヒットの要因に含められるだろう。

(最新作 『釜山行き』 も 『グエムル〜漢江の怪物』 と同じ系列だ) 。

過剰に親切な映画音楽

(2014) はクリスマスシーズン、 『弁護人』 ( 2013) は当時の政権に

期的であれ長期的であれ、このような要素が今後の大ヒットの

は光復節(日本からの解放記念日)封切りと、親日派悪役のモチ

らの要素は無視できない重要性を帯びる。映画は、典型的な高

三つ目の要因は、絶妙なタイミングだ。 『アナと雪の女王』

悲観する雰囲気と、それに伴う元大統領への郷愁、 『暗殺』 (2015) ーフとなった現実世界の企業家のお家騒動、 『ベテラン』は、当

時話題になっていた財閥3世の様々な不正・不道徳と絶妙に重な った。

品質で勝負する

さらに、話題性と大ヒットを同時に狙えるほど完成度の高い

ともかく、こうした分析はあくまでも後付けにすぎない。短

鍵になるという保証はない。しかし資本の側から見ると、これ 費用・高リスク・高収益の分野だ。ますます上昇する制作費とマ

ーケティング費用によって、リスクも高まっている。映画投資

家は不確実性とリスクを最小限に抑えようとする。従って、前

述した「1千万人につながる要因」 、特に最近の「1千万映画」の 特徴は、無視できない影響力を持つのだ。

投資・配給・上映を垂直系列化しているメジャー映画会社が、

映画の場合、韓国の観客の声援という四つ目の要因が加わる。

観客数において90%を上回るシェアを誇り、VOD(ビデオ・オ

外れなものはない。少なくとも韓国ではそうだ。これは空事で

メディア・プラットホームにまで支配力を及ぼしている。こうし

大ヒットした映画は基本的に陳腐だという予想ほど、陳腐で的 もお世辞でも陶酔でもない。今まで18本ある「1千万映画」だけ を見ても、韓国の観客の水準を確認できる。世界の映画史に永

遠に記録されるような画期的な傑作ではないかもしれないが『王

の男』 ( 2005) 、 『インターステラー』 ( 2014) 、 『10人の泥棒たち』

(2012) 、 『暗殺』 (2015) 、 『王になった男』 (2005) 、 『グエムル〜漢

江の怪物』 ( 2006)などは、1千万の観客を動員したことがうな

ずけるほど完成度の高い作品だ。 『アバター』 (2009) 、 『ベテラン』

(2015) 、 『弁護人』 (2013) 、 『シルミド』 (2003) 、 『アナと雪の女王』

ン・デマンド) 、IPTV、DMB(モバイル放送)などのニュー た独寡占が事実上放置されている現在の韓国映画において、先 に言及した成功要因が今後、商業映画の完成度と構成に現実的 な影響を与えるとしても驚くことはない。その兆候は「韓国型ブ ロックバスター」を標榜する映画(表には出さなくても、そうし

た映画の究極的な目標は1千万クラブへの加入だ)に現れるいく つかの共通の特徴によって、確認することができる。

最も目立つのは、音楽の使用方法だ。この1年間に公開され

た映画の中で、比較的多くの投資を受け、いわゆる主演級のス

韓国の文化と芸術 25


©釜山国際映画祭

もし、出来上がったパイのおよそ90%を購入する人が3人ほどに決まっているなら、 相当なこだわりや職人気質、あるいは余裕がない限り、パイを作る料理人としては、 あえて残りの10%の好みに合わせる手間と冒険をすることはないだろう。当然、3人 の大口顧客の好みに合わせることが、料理人の主な目標になる。

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ターが二人以上起用された「韓国型ブロックバスター」の音楽を

的な格差、政治的なコミュニケーションの不在が、韓国映画特

はずの感情を非常に具体的・明示的に説明している。つらかった

からも、韓国の観客は映画の語る批判に深く共感し、映画鑑賞

聴いてみよう。ほとんどの場合、特定のシーンで観客が感じる

り悲しかったりする場面では、全世界のすべてのオーケストラ

のストリング・セクションを一堂に集めて演奏しているようなア ダジオが流れる。そして、映画が一息つくようにコミカルなシ

有のジャンルを作り育てているのだ。それらの映画の興行成績 を通じて現実へのいら立ちを解消すると共に、ある種の消極的 な発言にふけっていることが分かる。

ここで見逃がしている要因が一つある。そうした社会批判映

ーンが出てくると、直ちにコントラバスと木管楽器が、散らば

画が、むしろ自らの映画的・芸術的な同語反復と自己複製につい

フィング」音楽が、その状況が始まる前に、これから観客が感じ

だ。もちろん複製は、ジャンルの基本的な属性だ。しかし、最

ったポーズの合間を跳びはねる。時には、そうした「感情ブリー

る感情を前もって説明する「先行音楽」にまでなっている。実際 に、そうした過剰に親切な音楽の根は深く、ハリウッドでは「ミ

ッキーマウシング」という用語まである。観客の集中力や理解

度をミッキーマウスのアニメ映画の児童観客と同等に見なして

挿入した音楽なので、観客としては非常に侮辱的で不愉快だが、 この用語は実に適切だ。

「そのような音楽が挿入された映画は、ほとんどの場合、音楽

のせいで失敗するわけではない。その映画には、おそらく別の

ては、何の批判もせず、また批判する気もないように見える点

近「社会批判的な犯罪ノワール」を標榜する韓国映画を見ると、 まるで検察、警察、政治家、ジャーナリスト、ヤクザなどの文

字が書かれたカードをテーブルに広げ、その中からいくつかを 適当に選んで組み合わせた後、そうした役で有名な俳優の以前 のキャラクターをいい加減に変えて、名前と服だけが違う双子 を生み出しているようにしか思えない。違うのは、その暴力性 や描写のレベルくらいだ。

このように以前の成功をなぞった安易な企画と、次第に似通

クリシェ(陳腐な手法)なども多いはずだから」 。ハリウッドの巨

っていく構成は、単に創作者の資質や心構えの問題ではないだ

てはまり、中でもお涙頂戴もののエンディングで最もはっきり

いる「ロバート・マッキー・マニュアル」のせいだけでもないはず

匠シドニー・ルメット監督のこの指摘は今、韓国でもそのまま当 と現れる。

韓国の観客は、笑いであれ、怒りであれ、悲しみであれ「強烈

で確実な」感情的カタルシス体験という要求が強い。そんな観客 の情緒的・気質的な特性に合わせて「9回の爆笑と1回の号泣」と いう公式が、韓国のほとんどの商業映画において、産業標準と

もいえるほど適応されてきた。重要なのは、多くの韓国映画が

最近、この「1回の号泣」のために、とんでもない設定や必然性

のない突発的な展開も辞さないという点だ。主人公が観客より 先に号泣して涙を誘うのは、今や一般化している。その号泣の

時間はどんどん長くなり、その時間に比例して演技と演出のス

タイルも過剰になっていく。そこで流れる悲しい弦楽オーケス

トラが、鼓膜に響く。観客が映画館を離れる前に、確実に泣か せたいという意図が、スクリーンとスピーカーからはっきりと 感じられる。

似通った社会批判の変奏

問題は一時期、韓国のテレビドラマを支配していた泥沼ドラ

マと同様に、刺激はより強い刺激を呼び、結局その結末は決ま

っている点にある。残るのは、焼き畑にされた森のような焼け

ろう。あるいは、近頃の監督志望者がバイブルように信奉して

だ。そうした自己複製と画一化の根本には、前述したように映

画の企画から配給まですべての過程を掌握している巨大な資本 の要求、つまり「1千万映画」というキーワードに集約される要 求がある。 、もし、出来上がったパイのおよそ90%を購入する

人が3人ほどに決まっているなら、相当なこだわりや職人気質、 あるいは余裕がない限り、パイを作る料理人としては、あえて 残りの10%の好みに合わせる手間と冒険をすることはないだろ

う。当然、3人の大口顧客の好みに合わせることが、料理人の 主な目標になる。大口顧客には、パイを作る材料を供給し、料 理人を雇用し、オーブンを提供し、トラックを貸し、店の陳列

棚を使わせて1千万個のパイが売れる販売網を敷く力がある。 その力から簡単に目を背けたり無視できる料理人が、いったい 何人いるだろうか。

結局、損するのは観客だ。売れる映画一色のスクリーン。し

かもそれらの映画は、少し前に公開された映画とほとんど変わ らない。低予算映画には一瞬開かれるだけで、限りなく狭いス クリーン。さらに大口顧客は、アート・シアターにまで手を出し ている。

韓国の映画が、今のような劇的な成長を遂げるのに、わずか

野原だ。

15年しかかからなかった。韓国の観客は、規模だけでなく質的

きり見られる映画は「現実批判型アクション・ノワール」と呼ばれ

かわらず、自分の色をしっかりと表そうとする創作者の孤軍奮

「より強烈なもの」の罠に陥っているという兆候が、最もはっ

る一連の映画だ。そうした映画は、主に検事、政治家、ジャー

ナリスト、財閥、警察など権力のある人物を登場させ、その裏 の取引や暗闘をできる限りリアルなトーンで描こうとする。競 争ばかりが強調される社会的な雰囲気、制度的な不合理、経済

にも大きく成長した。その成長は、商業的な制約と圧迫にもか

闘があったからこそ可能だった。韓国が成長を遂げてきた間、 当時は映画先進国だった香港と日本の映画業界が経験したこと、 そして両国の現状を見ると、今まさに韓国映画に現れ始めた同 様の兆候は、ある種の警告といえよう。

韓国の文化と芸術 27


特集 5 21世紀の韓国映画、その躍動性と夢

韓国人が 愛する俳優 映画俳優は時代の鏡だ。韓国の観客は今、

どんな俳優に各自の嗜好と熱望を投影しているのだろうか。

3人を選んでみた。ファンからの強い支持によってスクリーンを掌握し続け、 当面は揺らぐことのない俳優だ。 イ・ファジョン 李和貞、Cine21記者 Cine21 写真

ン・ガンホが先日、最新作『密偵』

殻変動を起こしていたのだ。

ンル映画からスタートしたものの、その

数1億人を突破した。これは韓国

な逸材では全くなかった。当時、スクリ

ホの真価は、まさにそこにあると思う」 。

に換算して、俳優としての成果を褒め称

俳優とは違い、彫刻のような容姿ではな

(2016)で、主演作での累積観客

の映画史上、初めての記録だ。数値だけ

えようというわけではない。それでも、 デビューから20年間、合わせて22本の映 画に主演したソン・ガンホの影響力を表し ているのは間違いない。

ソン・ガンホ

20年前に起こした地殻変動

ソン・ガンホは、変化の時代が作り上

げた 「時代の顔」 だ。1997年 『ナンバー・ス

リー』の三流ヤクザとして登場したとき、 映画における比重は、まだあまり大きく なかった。釜山の方言を使った狭い安宿

でのコミカル演技は、十二分に観客を魅 了した。だが当時は、コミカル・アクショ ンの韓国型ヤクザ映画が数多く企画され

て大ヒットした時期で、ソン・ガンホもそ

彼は当時の基準で「スター」になりそう

ーンで主演俳優として活躍していた他の

も積極的だった。2作目の『優雅な世界』

(2007) でソン・ガンホを起用したハン・ジ

(2006) 、 『弁護人』 ( 2013)で1千万人の

してきたソン・ガンホが、シナリオも読ま

遠かった。映画『グエムル〜漢江の怪物』 観客を動員し、 『スノーピアサー』 ( 2013) でハリウッドに進出するとは、誰も予想 していなかった。

しかし、演劇の舞台で身に付けた確か

な演技力に加え、あえて残した特有の口 振りと身振りなど、劇化されていない自 然な姿は、従来の俳優とは全く違ってい た。北朝鮮軍オ・ギョンピル中士役のペー ソスあふれる演技によって大衆的な人気

をものにした 『JSA』 (2000) 、そして 『復

讐者に憐れみを』 ( 2002) 、 『渇き』 ( 2009) でメガホンを取ったパク・チャヌク監督 は、ソン・ガンホの演技を次のように定義 している。

「この20年の韓国映画を通して、俳優

としてのソン・ガンホの意味を見出すとし

は、すでにその時から韓国の映画界に地

演技においての現代性というか…。ジャ

28 KOREANA 冬号 2016

ソン・ガンホは、新人監督との撮影に

く、方言混じりの口調もおしゃれとは程

うした映画の助演俳優として多少頭角を 現した程度だった。しかしソン・ガンホ

範疇を韓国映画全体に広げた。ソン・ガン

たら、モダニティーではないだろうか。

ェリム監督は、そうそうたる監督と撮影 ずに承諾したことを覚えている。ソン・ガ ンホが作品を選ぶ基準は、ただ一つ。繰

り返され消耗されるイメージから脱しよ

うという一点だ。そんな彼の演技を貫く キーワードは「小市民」 。 「自分にできる

キャラクター、そっちの方からたくさん

入ってくるような気がします。別の方は、 あまり似合わないでしょう?(笑)ラグジ ュアリーでインテリでメランコリーな方

は似合わないから、やっぱり…(笑) 」とユ

ーモアを交えて話すが、常に大衆の立場

を代弁する演技で観客の心を打ってきた。 ヤクザのナンバーツーを演じた『優雅な

世界』では、その裏に隠された中年の夫・

親としての苦悩が染み出る演技を見せた。 田舎の刑事を演じた『殺人の追憶』 ( 2003) では、連続殺人事件の容疑者に向けた「飯 は、ちゃんと食ってるか」という即興的な


「自分にできる キャラクター、 そっちの方から たくさん入ってくる ような気がします。 別の方は、 あまり似合わないで しょう? (笑) ラグジュアリーで インテリで メランコリーな方は 似合わないから、 やっぱり… (笑) 」

韓国の文化と芸術 29


「前作と違う何かを 見せるという 目標や計画など、 考えたことも ありません。 思った通りに 現実が動かない ことは、早くから 分かっていました。 ただ、その時 その時、最善の 機会に最善の選択を するだけです」

30 KOREANA 冬号 2016


セリフで、刑事も同じ人間であることを表

共にソン・ガンホを含めた。チョン・ドヨン

店を営んでいた父親が、怪物に娘を奪われ、

ー」 になった。

現した。ソウルの漢江の河川敷で家族と売 孤軍奮闘する姿を描いた 『グエムル〜漢江の

を修飾する言葉は、それ以来 「ワールドスタ

高校時代、雑誌のモデルとして芸能界に

怪物』 では、父親役として小市民的な演技を

入った彼女は、映画に出る前にドラマで名

ピークに達したのは『弁護人』だろう。人権

べ、あどけなく地味で 「安定した演技の助演

最大限に発揮した。民衆を代弁する演技が 派弁護士だった故ノ・ムヒョン元大統領がモ デルといわれる映画で、ソン・ウソク弁護士

が 「大韓民国の主権は国民にあり、すべての

権力は国民に由来する。国家は国民そのも のです」 と叫ぶシーンは、スクリーンに納ま

り切らないソン・ガンホの演技の生命力を見 せつけた代表例だ。

映画評論家のキム・ヨンジンは『殺人の追

憶』 のラストシーンでクローズアップされた ソン・ガンホの表情を「一時代を要約する表

情」 だとし、ソン・ガンホについて 「どんな役 でも自分のものにして、ソン・ガンホならで

を広めた。しかし、華やかな他の女優に比 俳優」 くらいに認識されていた。明フィルム

が制作した 『接続 ザ・コンタクト』 (1997) は、 彼女の秘められた可能性を見せつけた作品

だ。スタイリングから違っていた。きれい

に見せたいという気持ちを抑え、ナチュラ ルなメイクに、髪型はカジュアルなショー トウェーブ。これは当時、どの女優も試み

たことがないほど異例だった。モダンな演 出スタイルで韓国型恋愛映画の新たな類型 を示したこの映画で、チョン・ドヨンはその 新しさの最も重要な要素だった。

チョン・ドヨンの今までの演技歴は、一

はのキャラクターを作り上げる。それによ

言では言い表せない。 『約束』 ( 1998) 、 『我

さわしい雰囲気を絶対的に創造する。そう

ド』 ( 1999) 、 『私にも妻がいたらいいのに』

って、その職業・階層・性格を持つ人物にふ

が心のオルガン』 ( 1999) 、 『ハッピーエン

した点で、些細で日常的なものから感性を

(2000) 、 『血も涙もなく』 ( 2002) 、 『スキャ

ソン・ガンホは、撮影中の次回作『タクシ

のいた島』 ( 2004) 、 『ユア・マイ・サンシャイ

創造する芸術家」 と評している。

ー運転手』で1980年の光州民主化運動当時、 命をかけて現場の状況を記録したドイツ記

者を偶然タクシーに乗せ、光州に向かうソ ウルのタクシー運転手マンソプ役を演じ、も

う一度韓国の小市民の活躍を見せる予定だ。

チョン・ドヨン

俳優から信頼されるワールドスター

2007年5月27日、第60回カンヌ国際映

画祭の閉会式。その日チョン・ドヨンは、イ

・チャンドン監督の『シークレット・サンシ

ンダル』 ( 2003) 、 『初恋のアルバム〜人魚姫 ン』 (2005) 、 『素晴らしい一日』 (2008) 、 『ハ

ウスメイド』 ( 2010) 、 『メモリーズ 追憶の 剣』 ( 2015)などの代表作を見ると、次の作

品を決定する上で、特定のパターンや緻密 な計算があったとは思えない。初めて過激

な露出に挑み、異例の演技を見せた作品で、 自ら俳優人生において転機になったとい う『ハッピーエンド』に出演した際、 「そん

な映画に出たらお嫁に行けない」 と心配する

両親に 「良いところに嫁入りさせたくて、俳 優にしたわけじゃないでしょ?」と説得した のは、よく知られたエピソードだ。

イ・チャンドン監督とソン・ガンホと一緒

ャイン』 ( 2007)で、韓国の俳優として初め

に撮影できるという理由で迷わず選んだ 『シ

裂けそうな悲しみを抱えて生きていく女性、

が作品を選ぶ基準は 「良いシナリオ」 だけだ。

て女優賞を受賞した。子供を亡くして張り シネの苦痛を巧みに表現し、評論家から称 賛を受けたのだ。アラン・ドロンからトロフ ィーを手渡されたチョン・ドヨンは、満面の

笑みを浮かべた。カンヌ国際映画祭は 「カン

ヌの未来を背負う俳優」にチョン・ドヨンと

ークレット・サンシャイン』を除いて、彼女

シナリオだけに集中し、シナリオに共感さ えすれば、どんな苦労もいとわない。

「特にシナリオのどこが気に入って選ぶ

という基準はありません。その時その時、 私の感性にぴったり合う作品を選んできま 韓国の文化と芸術 31


した。前作と違う何かを見せるという目標

や計画など、考えたこともありません。思 った通りに現実が動かないことは、早くか ら分かっていました。ただ、その都度、最 善の機会に最善の選択をするだけです」 。

『接続 ザ・コンタクト』以来、彼女の演技

には、うまく見せよう、あるいはきれいに 見せようという不自然な演技が一つもな い。 『血も涙もなく』でラウンドガールのサ

ングラス役を演じた彼女は、アクションを 見せるため、毎日腕立て伏せを3000回行っ た。 『初恋のアルバム〜人魚姫のいた島』で

は、済州島の海女を演じるため、泳げもし ないのに素潜りに挑んだ。

チョン・ドヨンは、俳優から信頼される

俳優でもある。最近 『男と女』 ( 2015) でチョ

ン・ドヨンと共演した俳優コン・ユは「繊細

で、一緒に呼吸しながら、相手の俳優に大 きなエネルギーを与えてくれる俳優だ」 と絶 対的な支持を送った。昨年の夏、彼女は 『グ

ッド・ワイフ』で11年間離れていたテレビド

ラマに復帰し、話題を呼んだ。次はどこに

向かうのだろうか。ドラマが終わった後、 長い休みに入った彼女の活躍が期待される。

ハ・ジョンウ

猪突猛進の大ヒット俳優

昨年の夏、1270万人の観客を動員した映

画『暗殺』で、自らのブランド価値をしっか りと証明したハ・ジョンウは、パク・チャヌ ク監督の今年最高の話題作『お嬢さん』 、キ

ム・ソンフン監督の『トンネル』で、もう一 度「信じて見に行く大ヒット俳優」としての

力を発揮した。ユン・ジョンビン監督の『許 されざる者』 ( 2005)で映画デビューし、キ

ム・ギドク監督の『絶対の愛』 ( 2006)と『ブ レス』 ( 2007) 、ホン・サンス監督の『よく知

32 KOREANA 冬号 2016

「何もやらずに 後悔するより、 やって後悔した 方がいいと 思うんです」


りもしないくせに』 ( 2008) で変貌を繰り返し、 俳優としての基盤を固めてきた。彼は、ユン

・ジョンビン監督のストーリーを生き生きと

伝えるペルソナ(『許されざるもの』 、 『犯罪と

の戦争:悪い奴らの全盛時代』2011、 『群盗』 2014)であり、ナ・ホンジン監督のバイオレ

スジャンル(『チェイサー』2008、 『哀しき獣』 2010) を体現したアイコンであり、リュ・スン

ワン監督の 『ベルリンファイル』 ( 2012) やチェ

・ドンフン監督の『暗殺』 ( 2015)など大型プロ ジェクトでも旺盛に活躍した。 『テロ、ライ ブ』 ( 2013) で新人監督キム・ビョンウの支援者 を買って出たことからも分かるように、彼は

スケールの大きな映画と低予算映画を区分せ ず、新人監督との撮影にも積極的だ。

『チェイサー』の残虐な連続殺人犯、 『犯罪

との戦争:悪い奴らの全盛時代』のカリスマあ

ふれる暴力団のボス、 『ラブフィクション』

(2012)の恋愛初心者の小説家など、そのギャ

ップは想像以上だ。その根底には、ハ・ジョン ならではの折れないチャレンジ精神、図々し

いほどの自信、ユーモアがある。観客は、劇 をリードするハ・ジョンウの強烈なスタイルに 反応する。

ユン・ジョンビン監督の大学の卒業作品 『許

されざるもの』は、2000万ウォンという低予

算で韓国の軍隊の矛盾を描いた秀作であり、 その年のカンヌ国際映画祭の「ある視点」部 門に正式招待され注目を浴びた。この特別な

縁で結ばれた二人は『ビースティ・ボーイズ』

(2008) 、 『犯罪との戦争:悪い奴らの全盛時代』 を撮影し、パートナーとなっている。

しかし 「ハデセ」 (ハ・ジョンウの 「ハ」 とブレ

ークを意味する「大勢=デセ」の造語)と呼ば

れるほど莫大な影響力を持つこの俳優の計画

は、大げさでも派手でもない。彼は、その度 ごとに物事を決め、最善を尽くす自称「生活 型俳優」だ。 「何もやらずに後悔するより、や

って後悔したほうがいいと思うんです」との 持論を持つ彼は、レンガを積むよりも積み終

わったレンガを突き崩して挑戦する猪突猛進

タイプだ。演技だけでなく 『577プロジェクト』

(2012)の企画者として、さらに『ローラーコ

ースター』 ( 2013) 、 『許三観』 ( 2014)の演出家 としても活動の幅を広げており、絵を描くこ とにも夢中になっている。

韓国の文化と芸術 33


特集 6 21世紀の韓国映画、その躍動性と夢

昔の映画館の かすかな思い出

イ・チャンギ 李昌起、詩人、文学評論家 安洪范 写真

社会の変化に伴って、映画館も急激に変わってきた。町の市場の入口で住民の文化空間となっていた

同時上映館の代わりに、大資本の投資によってシネマコンプレックス (複合型映画館) が造られる。ロ ードショー館の時代から、どの映画館に行っても、一つの空間で多彩な作品を見ることができる時代 になったのだ。

34 KOREANA 冬号 2016


憶には、長く地中に埋もれていた古代ギリシャの石像や中国の甲骨片のように、 いったん発見されれば悲しかった過去を忘れ、自ら良い場所を選んで安住しよう

とする属性がある。そして、個人であれ集団であれ、平凡な人生の一片をためら

うことなく最高のシーンへと飾り立て編集する。この驚くべき記憶の力のおかげで、私たち

はそれぞれに幼年時代を胸に抱き、またある人は自分だけの聖なる神話を持つようになる。 ヴァルター・ベンヤミンは、手紙以外では決して「私」という単語を使わない文を書こうとし たという。このエピソードは、厳格ながらも気の小さな文芸家が、記憶の魔術から脱しよう とした、そんなかなわぬ願いを物語っている。だが私は、これから特別でもなく脈略もない

記憶の中を何の気なしに通っていくつもりだ。私の意図は、核心に到達することにはなく、 雰囲気自体にある。 光と闇

私は、母と二人で初めて映画館に行ったことを覚えている。母はいつもと違って水色の

韓服を着込み、小さな日傘をさしていた。私たちは、役所のある小さな丘を越え、日差しが 降り注ぐ水仁線の狭軌鉄道に沿って歩いた。私は浮かれた気持ちを隠して、何だかすまない 気持ちになって、背の高い39歳の母をチラチラ見ながら後を追った。1967年、小学校2年

生の夏休みが終わる頃だった。その日に見た映画は『ホン・ギルドン(洪吉童) 』 (韓国ではロ

ビン・フッドのような存在) というアニメーション映画だった。資料を探してみると、その年

の1月に封切られ、3日で10万人の観客が押し寄せたという。おそらく旧暦の正月の連休 だったのだろう。8月は再上映の期間だった。この目的を果たすため、母にどれほどせがん だのかは、ここでは言うまい。その頃『少年朝鮮日報』の愛読者だった私は、新聞に連載さ

れていたシン・ドンウの 『風雲児ホン・ギルドン』 がアニメ化されたというニュースをとっくに 知っていた。

映画の内容は、ほとんど覚えていない。しかし、映画館の記憶だけは、今でも残ってい

る。映画館の扉を開くと、いきなり顔を覆う厚くて柔らかい幕、深い闇の中で感じる汗とカ ビの臭い、そして人々の温みが入り混じったぬるい空気。私は手探りで壁に手をつき、足を 引きずるように、一歩一歩ゆっくりと暗闇の深淵に入っていった。その暗闇の空間は、床が 階段になっている。階段ごとに並んだ長いイスの列が、かすかに見え、そこに人の頭があっ た。安全を担保するようなものは何一つなかったが、母は自然に私の手を引いて、空いた席 に座らせた。頭の上を一本の光が通り、その青い光の中で粉塵が舞っていた。

私は、今でも映画が終わって映画館の外に出ると、母の子宮から荒々しい光の射す町に

放り出されたような感じを受ける。私の暗くて不規則な心臓が、静かで見知らぬ町に同化す るまで、いつもかなりの時間そぞろ歩きをする。 ジミー・ウォング (王羽) とリー・チン (李菁)

この華やかな外出を皮切りに、私は友達と町の映画館に出入りするようになった。映画

館は、たいてい市場通りのそばにあった。映画館は、最も人が集まる場所であり、密室でも ある。そこでは、いつも大胆に各種の犯罪が起き、男女の愛と裏切り、そして復讐の新派が

絶え間なく繰り広げられた。クズ(葛)堀りや汽車の見物などをしていた少年にとって、映

画は圧倒的で危険な楽しみだった。体の大きな門番の目はどうにかくぐり抜けるとしても、

映画館の両側にある臨検席 (日本の統治時代に映画の検閲を行う警察の指定席として作られ、 解放後も館内善導という名目で長く残っていた) はそれ自体が恐ろしく、疑問の対象だった。 空いていることが多かったその席は「この興味深いものの解放区が、一方では誰かの監視と 1962年9月の光化門国際劇場。秋夕(旧暦 8月15日) の連休を迎え、あふれる人波

統制を受ける不穏なところ」 という認識を植え付けた。

私たちは、ジミー・ウォング(王羽)の『片腕必殺剣』 ( 1967)に熱狂し、リー・チン(李菁)

の『珊珊』 ( 1967)に涙した。衝撃的な出来事で右腕を失い、左利きの剣法を身につけ名人と 韓国の文化と芸術 35


なった主人公が、父の仇を討って師匠に恩返しするという内容も印象的だった。何より、主人公の

ジミー・ウォングの憂いに満ちた瞳が、暗闇に不安げに光った瞬間、私は胸を撫で下ろした。この 映画を見た少年なら、帰り道に右腕を服の中に入れて、左手で剣を持ってジミー・ウォングの剣術 を真似し、敵をなぎ倒した経験があるはずだ。

ジミー・ウォングは、2013年に釜山国際映画祭のアジアスターアワードで男性俳優賞を受賞した。

70歳になったベテラン俳優は、受賞のあいさつで「私のことを覚えていてくださって、ありがとう ございます」と述べた。すると、続いて登場した釜山国際映画祭の首席プログラマー、キム・ジソク が「あなたのことを忘れられるわけがないでしょう? 韓国の中年男性は、誰もがあなたのことを 覚えていますし、感謝しているはずです」 と語ったという。決して誇張ではない。

夕暮れ時には海が見える裏山に登って 「太陽は西の山に沈み、冷たい風が吹く」 という歌詞で始ま

る 『珊珊』 の主題歌をハーモニカで何度も吹き、リー・チンの温かく可憐な瞳を思い出したものだ。 ザ・ベンチャーズとザ・スプートニクス

大ヒットした素晴らしい洋画ばかり見たわけではない。安っぽいアクション映画や低俗な喜劇映

画を見て笑ったり、大人に連れられて健全な啓蒙映画を適当に拍手しながら見たりもした。その中

で一番記憶に残っているのは『八道江山』 ( 1967)だ。ソウルに住む老夫婦が、全国各地に嫁に行っ た娘を訪ね歩くという内容だった。戦争と貧困を乗り越え、産業化に拍車をかけていた韓国経済の 発展を伝えることが、映画の目的だった。

1970年に入って思春期の中学生になった少年にとって、そんな政府の広報映画やありきたりな

エピソードの青春映画が主流となった映画館は、興味深い空間ではなくなった。さらに、その頃テ レビが各家庭に置かれるようになり、週 末になると洋画を放送する「名画劇場」と

いう番組が登場し「見る価値のある映画」 への渇きを癒してくれた。

みすぼらしかったものの、それなりに

市場通りのランドマークとしての役割を

していた町の映画館も、徐々に姿を消し 始めた。同時に、上映中にフィルムが頻

繁に切れ、そのたびに暗闇の中で大人と 一緒に口笛を吹いたり声を上げる少年も

消えた。それでも私は、ザ・ベンチャーズ やザ・スプートニクスの演奏を聴くと、ブ タの貯金箱を開けてでも映画館に駆け込

んだ、憂いを帯びた目のやせた少年が目 に浮かぶ。映画が1本終わり、同時上映

のために映写技師が慌ただしく他のフィ

ルムを準備する。その間に流れるザ・スプ ートニクスの『空の終列車』や『ジャニー

・ギター』 、鮮烈で軽快な演奏が持ち味の

ザ・ベンチャーズの 『ウォーク・ドント・ラ ン』 。どれも良いが、北欧の凍えた空のよ

うに透明で哀愁あるザ・スプートニクスの

エレキギターの音は、今でも私を地球の 外のどこかへ連れていってくれる。もう 一度聞きたい 『霧のカレリア』 。

考えてみると、私は映画よりも音楽の

36 KOREANA 冬号 2016

国都&カラム芸術館は、釜山市南区 大淵洞の住宅街にある座席数143ほ どの小さな映画館。シネマコンプレ ックスでの上映が難しい芸術映画と インディペンデント映画の静かな最 前線だ。


みすぼらしかったものの、それなりに市場通りのランドマークとしての役割をしていた町の映画館 も、徐々に姿を消し始めた。同時に、上映中にフィルムが頻繁に切れ、そのたびに暗闇の中で大人 と一緒に口笛を吹いたり声を上げる少年も消えた。

方に興味があったようだ。訳もなく無力感にさいなまれていた学生時代に見た映画も、私に

はストーリーやシーンより音楽として残っている。ハ・ギルジョン監督の『馬鹿たちの行進』

(1975) を思い浮かべると、キム・ジョンホの低くかすれた声が、イ・ジャンホ監督の 『星たち の故郷』 ( 1974)を思い浮かべると、カン・グンシクのロマンチックでシニカルなギターの演

奏が、 『昨日降った雨』 ( 1975) を思い浮かべると、笑顔が素敵な主演女優よりチョン・ソンジ ョのフルートの演奏が脳裏をよぎるからだ。

そうした映画は、描き方は少しずつ違うが、開発独裁に要約される陰鬱な1970年代半ば

に、ジーンズとアコースティックギターを持った青春の煩悶・抵抗について、彷徨と悲痛を

通して描写している。そんな韓国映画の新たな流れが、いわゆる 「ホステス (通俗) 文学映画」 に傾いていった頃、私は映画から遠ざかった。好奇心を掻き立てる新たな楽しみは、映画だ けではなくなった。そして何より、私は大人になっていたのだ。だからといって、映画館に 全く行かなかったわけではないが、それ以降、映画はただの娯楽や文化の一つのジャンルに すぎなかった。

その頃から、私の関心は詩に向かっていた。私が「人が生きていく瞬間にも、テレビやド

ラマのように/音楽が流れたらいいな」という詩句を初の詩集に入れることができたのは、 私が映画からひっそりと受け継いだ遺産の一つといえる。チケットを買うために、影が差し た団成社(韓国初の常設映画館)の前で肩をすくめ、わくわくした気持ちで長い列に並んで 見た映画は、おそらくイム・グォンテク監督の 『風の丘を越えて〜西便制』 が最後だ。 映画館の中の息子と私

私は最近、息子と一緒によく映画を見に行く。映画館は、1998年から大資本の投資を受

け、シネマコンプレックスに変わってきた。あつらえの洋服のように上品だったロードショ ー館の時代から、出来合いの服のようにどの映画館に行っても、一つの空間で多彩な作品を 見ることができる時代になったのだ。これによって、上映館から再上映館に、また同時上映 館に移っていったフィルムの一生に、大きな変化が起こった。だからといって、すべての映 画が公正な待遇を受け、競争するという意味ではない。大ヒット作品は、上映回数を増やす ために多くの映画館が割り当てられるが、そうでない映画は1日2〜3回、しかも曖昧な時 間に上映され、こっそりと消えていく。そのおかげで、広い映画館で息子と二人で鑑賞する という贅沢もした。問題は、その映画が息子の選んだ日本のホラー映画だったことだが…。

あるクレジットカード会社の研究所の調査によると、2015年に映画館でチケットを1枚

だけ買ったのは4人に一人だった。つまり「一人映画族」だ。偶然かもしれないが、2015年 に統計庁が発表した一人世帯の比率27.2%に近い。社会の変化に伴って映画館も急変してい るが、本質的に変わらないものが一つある。一人であれ二人であれ、いかなる理由でも映画

館に行く人には、少なくとも家でじっとしていられないという共通点がある。その意志が、 暗い映画館に向かわせ、見知らぬ人と並んで座り、正面を凝視させる。世の中がつまらなく て、その向こう側が気になるのだ。彼らが幻影と欺瞞の世界をさまよい、意気消沈したまま 息苦しい世界にまた放り出されないように願うばかりだ。

韓国の文化と芸術 37


フォーカス

ペク・ナムジュンの 見直し 1984年の新年、ニューヨークとパリを人工衛

星でつないだ中継番組『グッド モーニング・ミ スター・オーウェルグット』 で世界を震撼させた

ビデオ・アーティストのペク・ナムジュン(白南 準) 。彼の10周期を迎えた2016年の1年間に

わたって行われた様々な追悼イベントは、哲学 的な思弁をハイテックに応用して大衆に伝える

のを楽しんだ脱境界的なアーティスト、ペク・ ナムジュンの仕事の現在性を立証している。 アン・ギョンファ 安卿華、白南準アートセンター学芸室長

東大門デザイン・プラザで2016年7月20日から10月30日まで 開かれた白南準(ペクナムジュン)10周期記念特別展示「白南準 ショー」 に白南準の1993年作 『カメ』 が3次元のメディアウォー ル・パフォーマンスに取り囲まれて展示されている。モニター 166個が横6m、縦10m、高さ1.5m規模の大型カメの形状を している。

38 KOREANA 冬号 2016


韓国の文化と芸術 39


「私

の実験TVはいつも興味深いものであるわけではない。

ーTV局」というコラムを書いた。このコラムで彼は、レーザーの

自然が美しい理由は、美しく変わるためではなく、単

で、誰でも自由に放送をおこなえるとし、フルクサス・アーティ

かといっていつも興味深くないものでもない。まるで

に変わるためであるように」 (ペク・ナムジュン、 「実験TV展示会 の終奏曲」 、1963)

高周波振動を利用すれば、何千もの放送局を作ることができるの ストのパフォーマンスで構成されたレーザー局の番組表を提示し た。未来のインターネット・マルチチャンネル放送局を予見した

かのようなこのコラムには、数多くの大小のテレビ局の登場が、

10周年追悼行事

ペク・ナムジュン10周年にあたる2016年の1年間にわたって

て、韓国では彼を称える様々なイベントが行われているところ

巨大な商業放送局による情報通信分野の独占を防ぐことができる だろうという彼のユートピア的な見方が盛り込まれている。

三日間にわたって行われた上記の追悼行事の期間中、アート

である。韓国内のコレクターたちが持っている彼の作品を中心

センターは彼の芸術を発信する放送局に変身した。奉恩寺(ポン

紹介した 『ペク・ナムジュン∞フルクサス』 (ソウル市立美術館) を

ーを事前に録画したり、生放送で伝えたオンライン追悼式、世

に、彼と一緒に活動していたフルクサスのアーティストたちを 始め、一連の展示はそれぞれ

ウンサ)での追悼式とペク・ナムジュンの知人らのインタービュ

界2,500万人が視聴した衛星

放送プロジェクト『グッド モ

違う視点でペク・ナムジュンの

ーニング・ミスター・オーウェ

芸術世界を振り返っている。

ルグット』 ( 1984)を含む、主

彼が青年時代を送った日本で

要映像作業のスクリーニング、

も、2006年ペク・ナムジュン

ペク・ナムジュンに捧げるアー

を追悼し、 『バイ・バイ、ペク

ティストとDJたちのパフォー

・ナムジュン』の展示を企画し

マンスなど、それぞれの番組

た東京のワタリウム美術館で

は、彼の表現を借りると、そ

は、 『ロボットK-456』 、 『ヨー

れぞれれっきとした一つの 「放

ゼフ・ボイス』などのコレクシ

送局」 としての意味を持つもの

ョンと、彼に関連した出版物・

である。

資料を集めた10周年追慕展示 が開催された。このようなイ ベントは、追悼の意味を超え

て、ペク・ナムジュンというア ーティストが、そして彼が構 築した芸術世界が、没十年が

過ぎた今なお、依然として変

化し続ける「興味深い何か」で あることを立証している。

予言していたTVユートピアの

国際協業プロジェクト 「マルチ

1 1 ビデオアーティスト・白南準が1989年7日、201個のモニターで構成された4チ ャンネルのビデオ造形物『世紀末II(Fin de Siecle II) 』(1989. 1220x327x152 cm) を背景にポーズをとっている。 2『グッド モーニング・ミスター・オーウェルグット』30周年を向かえ、2014年7 月17日から11月16日まで白南準アートセンターで開かれた『グッド モーニング ・ミスター・オーウェルグット2014』 展示場で、来場客は30年前の革新的な人工 衛星生放送プロジェクトの主な場面を大型プロジェクションを通して遭遇して いる。 3 白南準、 『TV庭園』 、1974 ( 2002)

到来

タイム」

科学技術の発展とこれに

よるメディアの発展が、人類

のコミュニケーションに肯定 的な影響をもたらすだろうと

いう未来に対するペク・ナム ジュンのユートピア的な想像 は、 『グッド モーニング・ミス ター・オーウェルグット』 、 『バ

ペク・ナムジュンが、この世を去る5年前の2001年に自分の

イ・バイ・キプリング』 ( 1986) 、 『ハンド・イン・ハンド』 ( 1988) な

と話し合い、これを「ペク・ナムジュンが長く住んできた家」と呼

ェクトを思い切って推し進めた原動力でもあった。1984年1月

名前をつけたアートセンターの建設を京畿道 (キョンギド) 自治体

んでほしいと言った。2008年オープンしたペク・ナムジュン・ア ートセンターは、 「ペク・ナムジュンが長く住んできた家」という

ミッションの下で、彼の思惟と芸術を見直し、大衆化するという ビジョンを持って様々な研究と行事、 「脱境界的」 展示のある求心

点として機能してきた。アートセンターが主管した初の追悼行事 は、彼の命日である1月29日から31日までの三日間続いた。

かつてペク・ナムジュンは、情報通信を通じた自由の増大が強

者の勝利につながる可能性を憂慮し、1965年「ユートピアレーザ 40 KOREANA 冬号 2016

ど、 「衛星3部作」と呼ばれた当時、無謀にも見えた衛星プロジ

1日、ニューヨークとパリで同時進行の『グッド モーニング・ミ スター・オーウェルグット』には、普段なかなか一同に会するこ

との難しい大衆的なアーティストとアバンギャルドなアーティ スト100人余りが参加しており、ペク・ナムジュンはパリのポン

ピドーセンターで放送を総括した。彼はテレビと衛星技術を用 いた50人余りの公演が「しがない私たちの生活を他人との出会い

から得られる神秘さを増幅」させるだけでなく、このような予期 せぬ出会いが新しい内容を生み、新しい内容が再び新しい出会


©NJP Art Center

2

人間と世界が肯定的に変化するだろうと評価した楽観主義者ペク・ナムジュン…。常識を覆し、 既存の価値に挑戦したペク・ナムジュンの作品。その前で私たちは世の中を違った視線で眺める ことができるようになる。あなたは彼を振り返ってみて、どんなノスタルジアを感じるのか。 3

韓国の文化と芸術 41


いにつながるフィードバックを開発すると説明した。

と要素をインターフェースする複雑な問題に取り組むことだ」と

て具現した『ハンド・イン・ハンド』も、水平的なネットワークが

フェース」という用語は、芸術間の関係、芸術と人間、芸術と技

衛星3部作の最後の作品であり、1988年ソウル五輪に合わせ

可能な共生の未来を表現したプロジェクトである。中国とロシ アをはじめ、東洋と西洋の多様な国々が参画した同プロジェク

トは、冷戦時代の終焉を告げ、お互い異なるジャンル、お互い 異なる文化間の境界を解体させた試みだった。

『ユートピアンレーザー TVステーション』とともに、アート

語ったことがある。ここでペク・ナムジュンが使った「インター

術、芸術と自然間の関係についての彼の多様な考え方を改めて

解釈できる可能性を開く。また、彼のこのような考えが、同時

代のデジタルアートと文化の主要な特性に与えた影響について、 改めて再検討を試みる。

センターが彼の命日に合わせて企画した追悼特別展『マルチタイ

ノスタルジアの力

中国、韓国のキュレーター、批評家、有識者たちがアートセン

ナムジュンのプレゼント」の8番目のシリーズである『NJPを再

同時代作家の作品を選んだり、自分が推薦したアーティストに

同シンポジウムは、ペク・ナムジュンの作業とエッセイ、つまり

ム』は、 『ハンド・イン・ハンド』の延長線上にある。日本、米国、 ターの所蔵品を選び、それについて研究し、その研究と関わる

新作を依頼したりする方式で構成された『マルチタイム』展は、 展示を具現化するに先立って、ペク・ナムジュンの作品に対する 新たな解釈を導き出した協業プロジェクトだった。 アーティスト、ペク・ナムジュンの出発点

テレビを基盤に放送と衛星プロジェクトを企画し、テレビモ

ニターに映る映像を制作していたペク・ナムジュンを多くの人々 は、 「ビデオアーティスト」または「ビデオアートの父」として記 憶する。ところが、アーティストとしてのペク・ナムジュンの出

発は、音楽に対する関心から始まった。1932年ソウルで生まれ

アートセンターでは、今年9月国際学術シンポジウム「ペク・

び動かすこと:ペク・ナムジュンのインターフェース』を開いた。 彼が私たちに残したプレゼントに仄めかされている「インターフ ェース」と照らし合わせ、それらがメディアアートと文化の歴史 的・現在的な経路とどのようにかかわりを持つのかを探るために 企画された。ペク・ナムジュンの作品の中で比較的広く知られて

いる 『白―アベビデオシンセサイザー』 と 『グローバル・グルブ』 は

もちろん、相対的に研究があまり進んでいないベール研究所で

の実験に対する新しい研究が発表されたシンポジウムは、ペク・ ナムジュンの作業に新しいイメージと「運動」を付与する、彼を 再び動かすための席だった。

これまでの8年の間、アートセンターでは過去のペク・ナムジ

1950年日本に渡った、彼は1956年現代音楽家のシェーンベル

ュンを現在に蘇らせ、彼の見方で未来を思惟するため努力して

でドイツのWDR放送局で電子音楽の作業に携わった。この時期

ころが、ペク・ナムジュンを、彼の芸術を記念するということは

クについての論文で東京大学を卒業し、1958年から1963年ま にペク・ナムジュンは放送装備とテレビに接しながら、テレビの

機械的属性をいかに利用し、これを芸術的な媒体に変化させる かに関心を持つようになったと推測される。彼にとってテレビ

は、 「そこにある何かを捕捉する媒体」ではなく、 「常に何かにな るための状態にある媒体」であった。その当時の科学技術の新し

い創造物であるテレビの魅力に取りつかれていた大多数のアー ティストたちは、ブラウン管が伝えるイメージを自在にコント

ロールしたり、固定したりしようとした。それに対し、ペク・ナ ムジュンはテレビ受像機の回路に介入することで、または観覧 客に参加してもらうことで、テレビを双方向媒体に転換させる のに関心を注いでいた。

音楽、パフォーマンス、映画、ビデオアート、彫刻、レーザ

ーといったお互い異なる芸術の間を自由に行き来し、イメージ とサウンド、停止したイメージと動くイメージ、抽象的なイメ

ージと具象的なイメージのように相反するものとして捉えられ

きた。これからも一年一年が彼を称える時間になるだろう。と

どのような意味合いを持つのだろうか。ペク・ナムジュン生誕80 周年である2012年にも国内外で今年のように彼をテーマにした

イベントが開かれた。アートセンターでは「ノスタルジアはフィ

ードバックの二乗」 (1992) という彼の文言からタイトルを借りた

特別展を準備し、この展示について次のように説明した。 「… ペ ク・ナムジュン80周年の生誕日である2012年7月20日に開幕し た本展示は、彼の生涯や特定時期の作品を展示する回顧展では なく、サイバネテックスという未来のビジョンを示したペク・ナ

ムジュンの思想から出発した作品のテーマ展となっている…」 。 ペク・ナムジュンは、過去を振り返って抱くことになるノスタ ルジアは、単に記憶を引き出す行為ではなく、他人が私たちに

与えるフィードバックに匹敵するようなものか、それともその

フィードバックよりずっと大きい悟りを与えるものと信じてい た。人間と世界が肯定的に変化するだろうと評価した楽観主義

者、ペク・ナムジュン。常識を覆し、既存の価値に挑戦したペク

る形態を具現したペク・ナムジュンを、単に 「ビデオ・アーティス

・ナムジュンの作品。その前で私たちは世の中を違う視線で眺め

めに書いた短いエッセイで 「1958年以降、私の主な課題は多様な

10年が経った今、彼を振り返ってみてどのようなノスタルジア

ト」として限定するわけにはいかない。現に、彼は1970年代初 領域の間の境界地帯、そして音楽と視覚芸術、ハードウェアと ソフトウェア、電子機器と人文学など、お互い異なるメディア 42 KOREANA 冬号 2016

ることができるようになる。あなたはペク・ナムジュンが逝って を感じるのか。


1 3

1 ソウル市立美術館で6月14日から7月31日まで開かれた白南準10周期追悼展「白南準∞フルクサス」 に展示された白南準の1995年作 『イージーライダー』 (164x148x180cm)が子供たちの目を奪っている。 2 白南準アートセンターで1月29日から7月3日まで開かれた白南準10周期追悼展「Wrap Around the Time」に展示されたジョイス・ヒンターディングの観客参加型グラフィティドローイング『単調 な直線の音 (超長波周波数アンテナ) ( 』2016) に観客が参加している。 3 白南準、マリ・バウアマイスタ、 『ピアノと手紙』 、1960年代 2

©NJP Art Center

韓国の文化と芸術 43


二つの韓国

「チョンガーオンマ」 とその子供たち

脱北してきた青少年のグループホーム「家族」は、頼れる家族のいない脱北青少年た

ちが集まって暮らす代案家庭だ。独身を通して10年間、今年40歳になるこの家庭

の母親代わりをつとめているキム・テフン(金泰勲)さんを周囲の人々は「チョンガー

オンマ」と呼んでいる。 「一足早くやって来た統一世代」の子供たち10人が彼と一緒 に未来を開こうとしている。

キム・ハクスン 金学淳、ジャーナリスト、高麗大学校メディア学部招聘教授 安洪范 写真

1

44 KOREANA 冬号 2016


ム・テフンさんは毎朝6時に起きて朝食の支

親は仕事を求めて地方に行っていたからだ。冷蔵庫を開けてみると中は空っ

事をさせ学校に送りだす。まさに目が回るほ

てご飯を炊き、その男の子と一緒に夕飯を食べた。男の子は尋ねもしないの

度をしたあと、朝寝坊の子供たちを起こし食

どに忙しい一日の始まりだ。子供たちを登校させる 慌しい朝の時間が過ぎると彼は、毎日家の中を隅々

まできれいに掃除し、洗濯をすることも忘れない。

ぽで食物は何もなかった。胸が締め付けられた。料理上手な彼は買い物をし に、自分の故郷の話しをしだした。そして一晩、泊っていかないかと言っ た。彼はいいよと返事をした。

彼は次の日も、その次の日も、その家を後にすることが出来なかった。

男11人が一つ屋根の下で寝起きしているので、家の

数日後、男の子の母親は仕事を見つけ、そのまま地方に移り住むことにな

台を毎日まわしています。男の子なので洗濯物の量

供たちが一人、二人とやって来て今日に至っている。彼は脱北青少年10人

中が“男臭く”ならないようにするためだ。 「洗濯機2 も半端じゃないんです」 。彼はトイレ掃除には何より

も気を使っている。アンモニアの臭いを消すために 便器を歯磨き粉で磨くというノウハウまで身につけ

り、彼はその男の子と一緒に暮らすことにした。その後、ハナ院を通じて子 と暮らす住居をあちこち転々とした挙句、現在はソウル市城北区北岳山の下 の一戸建て住宅に落ち着いた。

新しい子が来れば彼はまず垢から落としてあげる。着てきた服と所持品

たほどだ。

は本人の同意を得て大部分捨ててしまう。そして美容室に連れて行きカット

子供たちの中には韓国社会に適応できない子も多い

学校で無難にやっていくには脱北者と見られないようにすることが大切なの

子供たちは彼をサムチョン(オジサン)と呼ぶ。

のだろうという事前の憶測は先入観に過ぎなかっ た。 「うちの子供たちの自慢をちょっとさせてくださ

い。画家、作家、ミュージカル俳優、生徒会の会長、

をしてあげ、東大門市場に行きそれぞれの個性に合わせた服を選んでやる。 で、子供たちは服装には特に敏感だ。

子供たちは韓国に血縁が全くないか、北から一緒に来た父母が生計のた めに働くのに必死で自分で子

全国ボランティア王もいるんです。凄いでしょう」 。

供を養育できないときに、こ

彼は 「『生徒会長』 の 『オンマ』 になったおかげで父母会

こに引き取られてくる。だい

の会長としても大奮闘しました」と冗談のように笑い

たいは平壌から遠く離れた咸

飛ばした。脱北青少年が一般の学校で他の候補たち

鏡北道、咸鏡南道、両江道出

と熾烈に競い、全校生徒会長に選出されたのは初め

身の子供たちだ。小学校3年

てのことだという。その主人公ハン・ジンボム君は会

生のチョン・ジュヨン君は祖母

長となった後、さらに責任感の強い子になり、ジン

と暮らしていて宣教師の助け

ボム君のこのような成長を見守りながらキムさんは

で6歳のときに脱北した。こ

さらに奮起しようと誓った。

の家の末っ子である彼は父母 の顔も良く覚えていない。

子供たちはここに来て生ま

偶然の機会に訪れた運命の道

れて初めて学校の制服を着て、

キムさんは自分がこんな風に暮らすことになると

海を見て、クリスマスを迎え

は想像もしていなかった。出版社に勤めていた彼が

た。少年というより青年に近

偶然出会った脱北少年と数日間一緒に過ごしたこと

い子達もサンタクロースを待

が運命の道に足を踏み入れる契機となった。2006年

っているという。誕生日も生

ボランティア活動で、北朝鮮離脱住民の定着支援機

まれて初めて祝ってもらう。

関である「ハナ院」を訪れ、そこで聞いた退所予定者

家族となってから最初の誕生

の暮らすソウル市陽川区のアパートを訪問したとき

日にはびっくりパーティーを

のことだ。真っ暗な部屋に小学校4年生の男の子が

開いてあげる。また新しい家

一人でテレビをつけて横になっていた。ハナ院から

族が来る直前には必ず家族会

提供されたこの賃貸アパートに子供だけ残して、母

議を開き、満場一致で意見が まとまるまで説得をする。

1 脱北してきた青少年のグループホーム 「家族」 のメンバーが週末の 夜にリビングのテーブルを囲んで座っている。 2 今年の秋、彼らは「家族」の誕生10周年を記念するコンサートの 準備で歌の練習に忙しかった。11月18日から20日までの三日間 ソウルのアリランシネセンターで無事に公演を終えた。

持続可能な基盤づくり

10代の青少年を食べさせ、

2

世話をすることは並大抵のこ とではない。その間、貯めた 韓国の文化と芸術 45


りがひどいので南の子たちからよく『アカ』と呼ばれ

てからかわれました。でも僕は南にそんな言葉がある

ことさえ知りませんでした」 。 キム・テフンさんがこ

の道に入るきっかけとなったヨム・ハリョン君の話だ。 ここのホームで育ち釜慶大学校看護学科に進学した

イ・オクチョル君は、今も 「北から来たと、かわいそう だという目で見られるのが嫌だ」 という。

キムさんにとって父母の強い反対は大きな障害だ

った。長男が赤の他人の子供たちの世話をしながら、 結婚もしないで暮らしているのだから悦ぶ親がいるは ずも無く、考えてみれば当然のことだ。最初の2年間 は家族とは一切連絡をとらずに暮らしたほどだ。 「う

ちの母が訪ねてきて、この子供たちにひどいことを言 って傷つけるのではないかと非常に心配しました」 。

1

貯金もすぐに底をついた。子供たちが増えるたびに 何度も引越し、金銭的な苦労をした挙句、代案家庭

の一種である「グループホーム」という制度に行き着 いた。これは家を失った幼い子供たちの社会適応を 助ける制度で、家庭の形態で保育教師が一緒に暮ら して子供たちの面倒をみるというものだ。この支援 プログラムでは政府、民間団体、福祉財団、企業の

社会貢献チームから支援を受けられる。彼は2009年

に脱北青少年のグループホーム「家族」の代表という 公式名称を得て、いろいろな機関と企業に地域公募 事業の形で支援を要請し、財政的な援助を受けられ るようになった。

北朝鮮離脱住民というと、あからさまな偏見と特

1 大学で美術を専攻し たキム・テフンさん は、絵に素質のある 子供たちは直接指導 し、2年ごとに家族 美術展を開いている。 2014年には「 僕たち の話を聞いてくれま すか」という題名の油 絵展を開き、子供た ちが作文と絵で世の 中と疎通するように した。 2 キム・テフンさんが勉 強部屋で子供たちと 話をしている。

そんな父と母が今では心強い援軍となっている。

2013年の旧正月、これからは子供たちを孫と思うこ

とにすると言ってくれたからだ。それからは正月の 挨拶や祭礼も一緒に行い、子供たちと一緒に両親の 家を自由に行き来している。

何より幸いなのは、ほとんどの子供たちが挫折せ

ずに着実に成長していることだ。最初に出会った男の 子のハリョン君は全国中高生ボランティア大会で大

賞をとり、韓国代表としてアメリカのワシントンで開 かれた世界大会に参加し、今や慶北大学校で社会学を 専攻する立派な大学生になった。全校生徒会長の役割 を無事に終え、高3になったジンボム君は、今年の推 薦募集で光云大学校の生活体育学科に合格した。

「脱北者の青少年は一般の学校に10人入学しても卒業するのは1人か2人

別視する社会の雰囲気に打ち勝つことは大変な努力

というのが現実です。大部分が中退して大学入学資格検定試験を受けたり、

らしているのを色眼鏡で見る隣人の視線が気になる

して成長しているうちの子供たちは、だから尚更自慢なんです」 。

を要する。未婚の中年男が数人もの男の子と一緒に暮 ことも多かった。物乞いの浮浪児が集まって暮らして

脱北青少年のための代案学校に転校したりします。一般の学校にうまく適応

いるという誤った噂が流れ、警察が尋ねてきて家の中

新しい跳躍を夢見て

餓にあえいでいる」という否定的な話に怒ったり、仲

い、タイの奥地アカ部族の村に3度、奉仕活動に連れて行った。財政支援は

を慰めることも彼の大切な役目だ。 「僕は北朝鮮の訛

供たちが韓国に入国する前に経由してきた国だ。慶北大学校農業経済学科に

を調べていったこともあった。 「北朝鮮では裸で、飢

間はずれにされたりして、傷ついて帰宅する子供たち

彼は子供たちに困っている隣人を助けるボランティア精神を育みたい思

大部分コスコム(koscom)がしてくれた。タイは北朝鮮を脱出した多くの子

ここにいる子供たちの中には韓国社会に適応できない子も多いのだろうという憶測は、先入観に過 ぎなかった。 「うちの子供たちの自慢をちょっとさせてください。画家、作家、ミュージカル俳優、 生徒会の会長、全国ボランティア王もいるんです。凄いでしょう? 」 46 KOREANA 冬号 2016


進学したイ・ジンチョル君は 「タイに行くというのは最初は恐かったです。僕 は船に8時間も乗りメコン川を渡ってタイにたどり着き、そこから韓国に来 ました」 と回想する。

ジンチョル君は高校生だった2012年に地球の村再生国際ボランティア活

動団に参加してアカ村に水タンク、駐車場、図書館の敷地を作る作業を手伝

った。一生懸命仕事をする姿に村の長老が惚れ込み、自分の娘と結婚しない

かと頼んだほどだという。2013年の夏にも再び、この村を訪れ外国人ボラン

ティアの宿舎クレイハウスを建てる作業に参加した。村の塀には絵も描いた。 「まだまだ子供だと考えていましたが、子供たちは辛い仕事も嫌がらずに

よくしてくれました。それに単純に奉仕だけして来たのではありません。子

衝突や失敗もあるが、その結果手にする共同作業に対 する自負心は彼らを精神的に一段階、成長させる。

この家族の話はミュージカル『僕たちも家族だろ

うか』 、子供たちの作文と挿絵を集めた文集『ベリナ

ンダ(イライラすると言う意味の北の方言) 』などで世

の中に知られ、 『うちの家族』 (監督:キム・ドヒョン)

というタイトルのドキュメンタリー映画も制作され、 2013年第5回DMZ国際ドキュメンタリー映画祭の招 待作となり上映された。

キムさんはさらなる跳躍を準備中だ。社会的な企

供たちも私もみんな、その経験を通じて精神的に非常に成長したと感じてい

業の設立を計画している。北朝鮮と国境を接する江

そんな彼に対して子供たちはこれまでとは違う感じを抱くようになった

ける一方、地域経済を再生するための事業を計画し

ます」 。

という。 「アカ村でみたサムチョンはこれまで韓国で見てきたサムチョンよ

りも、もっと大きく見えました」 。子供たちはボランティア活動から帰って 来てからは、それまでしたことのなかった家の中の大掃除までしたという。

子供たちは江原道元通の修道院でカトリックの神父の手伝いをすること

もある。秋の収穫、豆の脱穀、耕運機の操作のような奉仕活動の合間に、自

原道の鉄原を拠点として北朝鮮離脱住民の自立を助

ている。一旦、5年を準備期間としてゆっくりと夢

を実現させようと思う。事業で得た収益の3分の1

で他のグループホームを支援するなど、安定した運 営を模索している。

「僕たちはいつか独立しますが、生涯、一緒に人

然を友として遊ぶ体験もする。東海では生まれて初めて海水浴もした。

生を歩む家族だと思います」と子供たちは皆口を揃え

きめ細かく行い、2年ごとに美術展示会も開いている。準備の過程で意見の

していることは統一準備の一つだと考えている。

彼が美大を出ているので、子供たちへの美術の指導だけは素養にあわせて

る。 「チョンガーオンマ」 のキム・テフンさんは自分の

2

韓国の文化と芸術 47


オン・ザ・ロード

48 KOREANA 冬号 2016


陽が昇る方向へ 向かって歩く

クァク・ジェグ 郭在九、詩人 安洪范 写真

日本海に面している浦項(ポハン)の虎尾串(ホミゴッ)は、韓半島で一番最初 に朝日が昇る場所である。毎年お正月になると全国から集まってきた参拝客 は、ご来光を拝み、海を眺めながら虎尾半島を歩く。

虎尾串 (ホミゴッ)日の出広場に立つと、日 本海のうねりを突き進んで高くそびえ立つ 青銅モニュメント (共生の手) が目を引く。

韓国の文化と芸術 49


日本海へ向かう道に日が昇る

顔にたっぷり冬の陽差しを浴びると、ふと生きてる実感がした。冷たい感触があり、柔らかい感触

もあり、物寂しい感じもする。たまに聞かれる質問。今まで生きてきた中で一番嬉しかったことは何 か。質問を受けた途端に記憶のページを一枚ずつめくる。大小の幸せ。私は簡単にそのうちどれか一つ を選んで答えられない。記憶さえできないある刹那の瞬間は、魂を揺さぶる力があるからである。その とき、私は逆に訊き返す。世の中で一番悲しいことは何ですか。人々が悲しいと感じるその瞬間に私は

美しさを感じる。その多くの痛みの中で一番悲しいことは何なのかについても言いようがない。だから このように答える。朝日が昇らないこと。経験したことはないが、私たちにとってこれより悲しいこと はないだろう。生と死、神秘的な美しさ、霊魂と運命。人間は日の出と日の入りのその時間の中に自分 のすべての思い出を刻み込む。

ペテログリフ (岩絵) の前での礼拝

日本海へ向かう道沿いに決まって私が立ち寄ったところがある。 浦項市興海邑七浦里(ポハンシ・フ

ンヘウプ・チルポリ)のペテログリフ。国道7号線から日本海に抜ける閑寂な田舎道に位置した同ペテロ

グリフは、3千年前の青銅器時代に刻まれたものである。初めてこのペテログリフを目にした瞬間、心

の中が明るくなった。天の川で特定の星が輝く感じがした。先史時代の人々が夜空を見上げながら抱い た夢。ペテログリフが刻まれた岩の周りを何回か回った。そして、再びペテログリフを見たとき、大き

な花瓶一つが目に入った。花でいっぱいの花瓶。3千年前ある岩に花瓶と花を刻んだ人間がいたのだ。 私はそれが彼が見た宇宙の形状であり、彼が宇宙に捧げた賛美の歌だと考えた。そのとき、雲間から太 陽が顔を出した。陽差しがペテログリフの表面を柔らかくなでた。私は頭をさげて、ペテログリフに向 かって両手を合わせて合掌した。

インドのコナーラクにサン・テンプル(Sun Temple)がある。ユネスコ世界文化遺産である同寺院は、 太陽神が乗っていた馬車を形状化したもので

ある。24の馬車の車輪は、二十四節季を表

しており、車輪一つの直径が3mを越える。 2010年1月1日、サン・テンプルを訪れた。50

mにもなる高さの馬車に刻まれた神と王のレ リーフが神秘的な美しさを放つ。寺院は、イ

ンド各地からやって来た巡礼者で込み合って いたが、彼らが身にまとったオレンジ色の服

が陽光の中で明るく輝いた。数千人なのか、 数万人なのかわからない、オレンジ色の人波

が寺院を埋め尽くしたその光景が、灼熱の太 陽のように見える。人込みに紛れて歩いてい たら、胸の中から太陽のエネルギーが湧き出 るような気がした。その年の雨季に改めてサ

ン・テンプルに出向いた。プリーに着いた際、

洪水が発生してコナーラクへの道が途切れた。 運転手もいずれも首を振った。そのとき、オレ

ンジ色の服を着たある男が近づいてきた。 「な ぜコナーラクに行くのか」 。 「サン・テンプルに

行きたいのです」 。 「道路が水浸しになってい るし、行けるとしても寺院の門は閉まってい

るだろう」 。 「外から覗くだけでもいいんです」 。 1

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なぜそのように意地を張ったのかわからない。 男はオートリキシャー(三輪タクシー)の運


2

©浦項市

1 空から見下ろした九龍浦 2 虎尾串の元旦の初日の出を見るため集まってきた 人々で日の出広場が賑わっている。左に韓国の航路 標識の起源と歴史が一目でわかる国立灯台博物館 が見える。 3 浦項市興海邑七浦里 (ポハンシ・フンヘウプ・チルポリ) のペテログリフは、3千年前の青銅器時代に刻まれ たものである。

3

韓国の文化と芸術 51


転手だった。古いオートリキシャーが水浸しになった道路を走った。途中で雨が止んだ。道路から水が

引き始め、3時間後サン・テンプルに着くと太陽が顔を出した。私は一握りの巡礼者と一緒にサン・テン プルを巡礼する喜びを味わった。心が暗く沈むと、私はそのときを思い出す。誰かに人生で一番よかっ たと思うことを聞かれたら、そのときの話をするかもしれない。 ペテログリフの巡礼を終えた私は虎尾串 (ホミゴッ) に出発。

日の出スポットの虎尾串

虎尾串という名前は、虎の尾の形状の小さい半島を意味する。20世紀初め、韓国の代表的な作家で

あり、有識者だった崔南善(チェ・ナムソン)は、韓半島の形状を、前足に満州地域を抱きしめている虎 の姿に描写したが、その尾に当たる部分が虎尾串である。ここは韓半島で一番早く陽が昇る。日本植民

地時代、大勢の韓国人がここを訪れて、昇る朝日を見ながら祖国の解放を祈願した。虎尾串の日の出 は、韓国人にとって単なる日の出ではない。虎尾串の日の出は、朝鮮10景の醍醐味とされた。

冬に韓国を旅するあなたが外国人ならば、虎尾串の日の出の鑑賞は意義深い思い出になるだろう。

それが初日の出であれば、あなたは特別な幸運にめぐり合える。韓国のお正月の伝統料理「トックク(お

雑煮) 」が、参拝者全員に提供される。この海に集ってきたすべての人々が元旦の朝、一緒にトッククを

食べながら、初日の出を迎えるのである。海から赤い太陽が昇るのを眺める韓国人の心は一つだった。

52 KOREANA 冬号 2016


海壁に激しくぶつかって砕けながら一気に立ち上がる波。そのうねりの中を突き進む波しぶきに反 射する眩しい陽差し。まるで九頭の龍のうねりのようである。吹雪く埠頭をとぼとぼ歩けば、過ぎ し日の失われた一頭の龍の形状を、心の中に刻むだけでも九龍浦 (クリョンポ) を訪れた意味がある だろう。 より良い世の中が訪れることを!傷つけず、お互い慈しむことを!赤い太陽 に向かい両手を合わせる人々の姿を見て、私も祈りを捧げる。美しく温かい 統一の時間が私たち世代に展開することを!

「共生の手」は、虎尾串に建てられた青銅モニュメントである。海に一つ、

陸に一つ。両手がお互い向かい合っている。人々の心は海の方の手に偏って いるようだ。日本海のうねりを突き進んでそびえ立つ手から、より強靭な生 命力を感じるからだ。その手の上に太陽が留まる瞬間がある。人々がその様 子をカメラに収める。自分の人生の中に太陽のエネルギーを取り込みたいと

いう願望があるのだ。虎尾串の物静かな埠頭道に沿って歩いて行くと、李陸 史 (イ・ユクサ) の詩碑に出会う。碑石には詩 『青葡萄』 が刻まれている。

浦項市松島洞 (ソンドドン)と 竹島洞 (チュクトドン)一帯を 流 れる長さ1.3kmの浦 項 運 河は、クルーズ客船に乗って 遊覧したり、ボートを楽しめ るロマンチックな観光スポッ トである。

私の故郷の七月は

青い葡萄が熟する季節

ふるさとの伝説がふさふさと実を結び 遠い空の夢が一粒一粒に宿る

空の下の青い海原が胸を開いて 白い帆船が静かに訪れると

待ちわびるお客は船旅に疲れはて

チョンポ (青色の袍) をまとって訪れるという 待ち人を出迎えて葡萄を摘んで食べれば 両手はびしょびしょに濡れてもかまわぬ わらべよ、食卓に銀の皿を

白いからむしの手ふきの支度を

ソウル

365km

香炉峰 浦項

浦項

七浦里のペテログリフ

浦項駅

迎日台と海辺 竹島市場 POSCO

李陸史詩碑 虎尾串

©浦項市

浦項の観光スポット 韓国の文化と芸術 53


日本植民地時代に独立運動をして逮捕された彼は、1944年1月刑務所でこの世を去った。投獄から

1年も経っていなかったので、彼がどれほど甚大な苦痛を強いられたかがわかる。李陸史の世界から1

年後、もう一人の青年詩人が日本の監獄で息を引き取った。28歳の尹東柱(ユン・ドンジュ) 。同時代に

韓国を代表する二人の詩人を失ったことは、これは韓国文学史における大きな損失であるに違いない。 あなたが日の昇る日本海を訪れる際に、カバンの中に本を入れて行きたいと思うなら、李陸史や尹東柱 の詩集が良いだろう。元旦の初日の出を拝む韓国人の心が彼らの詩集の中に投影しているのだから。 浦口町を通り過ぎて

925号線の地方道路で囲まれた虎尾串を人々は「虎尾半島」と呼ぶ。この道路沿いで韓国人の生活の匂

いが滲んだ 浦口 (川の入り口) 町に出会える。9頭の龍が飛び立つ形状をした浦口に九龍浦 (クリョンポ) はある。海壁に激しくぶつかって砕けながら一気に立ち上がる波。そのうねりの中を突き進む波しぶき

1 日本海で獲ったサンマを海 風にさらし乾燥させている。 氷点下で凍ったり溶けたり を繰り返すことで、サンマ は柔らかくなり、干しクァ メギになる。クァメギは九 龍浦の特産品 2 浦項運河が海に接している ところに位置した竹島市場、 活魚と干魚、農産物を売る 2,500個余りの店が立ち並 んでおり、200カ所の刺身 屋がある日本海岸最大の魚 市場である。

に反射する眩しい陽差し。まるで九頭の龍のうねりのようである。吹雪く埠頭をとぼとぼ歩きながら、 心の中に過ぎし日の失われた一頭の龍の形状を刻むだけでも、九龍浦を訪れた意味があるだろう。九龍

浦に立ち寄った旅行者たちが必ず買い求める食べ物がある。クァメギ(干しサンマ)と呼ばれる干魚であ る。日本海で獲ったサンマを海風にさらして乾燥させたものだが、氷点下で凍ったり、溶けたりの繰り

返しで、脂が抜けて柔らかくなった干しクァメギからは深い海の香りがただよう。九龍浦の船乗りが埠

頭の周辺でクァメギを焼いて焼酎を飲む姿は、愚直でやや神秘的な魅力がある。彼らはみな厳しい人生

を生き抜き、胸の内に龍の気運を宿してきた生活の主人だと考えればなおさらである。 「どこから来た のですか」 。 「一杯どうです」 。大笑いしながら龍たちが焼酎の杯を差し伸べてくれる。

夜の虎尾半島のトゥルレギル(遊歩道)から眺めるポスコの工場の明かりは実に壮観であった。迎日

湾(ヨンイルマン)の真っ只中に位置した同製鉄所は、単一の事業場規模としては世界一で、自動車と家 電製品の元になる鋼鈑を生産する。ポスコの鋼鈑は、今日韓国が世界11位の経済大国になる基礎を築 いたので、浦項の住民人々のこの工場に対する自負と誇りは高い。

ポスコの明かりが見えないところに、浦項の住民たちが誇るロマンチックな観光スポットができた。

2014年1月に出来上がった浦項運河である。浦項市松島洞(ソンドドン)と竹島洞(チュクトドン)一帯 を流れるこの運河の長さは1.3 km。この一帯は、古くて非衛生的な住宅と工場から出る汚排水と悪臭で

悪名高い地域だったが、そこに新しい水路を人工的に作ったのである。運河周囲の展示場と遊具広場、

1

54 KOREANA 冬号 2016

2


公園、カフェの間をゆっくり歩く楽しさもある。秋にはここで

空(KAL)が就航することになり、就航先を紹介する文を書くた

大会である。バンティは、ゴム盥(たらい)の浦項訛りで、直径

った。色とりどりの魚と珊瑚礁を見た。魚が海草の間を遊泳す

運河祭典が開かれる。運河祭典のハイライトは「バンティ乗り」 1m弱のバンティの中に人が乗って、両手で漕いで進むもので ある。都心の運河を搔き分けて行く同祭典は、ここを訪れる人々 の子供時代の幸せな思い出を呼び起こす。 市場の思い出

運河の端に位置した竹島市場と出会うのは、旅行者にとって

は大きな喜びである。日本海岸最大の魚市場では、活け魚や干

めだった。そこの観光庁が手配した潜水艇に乗って海の中に入 るのを見て、次の人生には魚に生まれてここの海で生きるのも 良いだろうと思った。翌日、スケジュールに沿って早朝に魚市

場を訪れた。活き活きとした魚が店頭に並んでおり、魚屋たち

が力強い声で話かけてくる。闊達で活気あるこの魚市場に対し て、私は始めて居心地の悪さを感じた。昨日出会った海中の魚 たちのせいだった。

旧ソ連が崩壊した直後のモスクワに行ったとき、韓国人留学

魚の海産物を売る2,500件余りの店があり、200カ所の刺身屋が

生の家族を訪れる途中で魚市場に立ち寄った。真冬の魚市場に

間を歩く内に、魚市場の騒音と魚の生臭いにおいが体に染み込

を何にしようか悩んでいた私はズワイガニとタラを買った。4

ある。色とりどりの魚と貝、蛸と海老、テナガダコを売る店の む。旅の疲れを癒すのに、魚市場の騒音と魚の生ぐさい匂いほ

どいいものはないだろう。ふと昔の魚市場の風景が思い浮かぶ。 この島のプネーに立ち寄ったことがある。この都市に大韓航

はズワイガニとタラが山のように積み上げられていた。贈り物 人家族でも十分な量なのに、たった10ドルで済んだ。氷点下20 度。マンションは暖房が効かなかったが、ズワイガニとタラ料 理を食べる夕食の時間だけは寒く感じなかった。

韓国の文化と芸術 55


日常茶飯事

彼はこよなく大切に思っている。

カラオケハウスの主人 キム・ジョンウォンさんの 愉快な人生

を歌うというのは強烈な自己表現だ。

ケハウスはある。屋号は「ソチョン歌練習場」 。歌を歌いたい人だけでなく、

いないだろう。それで家の近くにカラ

さんの思いが込められた看板なのか。かといって歌のレッスンコーチがいる

サラリーマンだったキム・ジョンウォンさんは

一年前に会社を辞め、ソウルの都心にある自宅 の近くにカラオケハウスを開業し、午後出勤し 深夜まで働くという新しいライフスタイルをス タートした。カウンターに座り町内の高校生か

ら老夫婦までさまざまなお客と過ごす日常を、

韓国人ほどこの表現欲求が強い民族も

オケの、一つや二つは必ずあるものだ。私たちは

悲しいときも、嬉しいときもカラオケに行く。噴

キム・ソリョン 金瑞鈴、Old & Deep Story研究所代表 安洪范 写真

歌の練習が必要な人も来て欲しいという主人のキム・ジョンウォン(金正院) わけではない。

ここを訪れる客層は、サラリーマン、学生、家族連れ、友達同士に分類

出しそうになる感情をカラオケに行って解消する

されるが、最近それにもう一つの客層が加わったことを強調した。一人で来

公開オーディション番組に登場する人々の歌の

人カラオケ」の客がずいぶん増えたという。特に雨の降る日には一人で来て

のは自然なことだ。

うまさも驚きだが、それと同じくらいに、そんな 舞台に登場しない普通の人々の歌唱力に驚かされ

る客だ。 「一人飯」や「一人酒」が人気なように、カラオケにも一人で来る「一 哀しい歌を思いっきり歌っていく客が多いそうだ。

「開業して間もない頃のことでした。雨の降る日に来たお客さんが延長に

る。マイクさえ握れば誰でも歌手顔負けの持ち歌

延長を重ねて、一人で3時間ほど歌っていかれました。そのお客さんの気分

おかげなのか、歌を歌いたいという欲求がそれほ

ますよね』と話しかけました。好意で言った一言でしたが、そのお客さんは

の一つ二つは持っているもの。それがカラオケの ど強くて、カラオケが増えたのかは分からないが。 雨の日に一人でやって来る客

ソウルの地下鉄3号線景福宮駅近くにある事務

所兼住居のオフィステルの地下に、彼のカラオ 56 KOREANA 冬号 2016

が私にまで伝わってきて、精算するときに『雨が降ると気分もブルーになり 自分の気持ちをカラオケの主人に知られたのが嫌だったらしくて、その後は 二度と来ませんでした。通りがかりにちょっと寄っただけなのかもしれませ んが…とにかくその記憶のせいで、お客さんの気持ちに踏み込むような話は 絶対にしないという哲学を持つようになりました」 。

大勢でやって来る客はやはり一杯飲んでから来ることが多い。もちろん礼


儀正しい客も多いが、酒の勢いで翌日目が覚めたら 全く覚えていないという軽率な行動をとる客もいな いことはない。キム・ジョンウォンさんは一人一人の

客にどんな時にも親切でなければならない。 「ストレ

スを解消しに来たお客さんです。普段よりも乱暴な

言葉使いにもなり、要求も多くなります。そんなこ

とを何ごともなく、やり過ごせなくてはなりません。

会社を辞めてカラオケハ ウスを開業してから1年 ほどたったキム・ジョンウ ォンさんは、お客さんの 喜びが自分の喜びだと いう気持ちで働いている と、心が温かくなる瞬間 が多く、それで幸せだと いう。

私のような快活な性格がカラオケハウスの仕事には合っているようです」 午後3時から午前2時まで

キムさんの日課は比較的単純だ。午後3時に店を開け、午前2時に閉める。

土曜日と日曜日は午後10時に早めに店を閉める。今年41歳の彼は「若いと きに一生懸命稼がなくては」という覚悟で 従業員を雇わずに、たまに妻や義

母の助けを借りて、一人で店を切り盛りしている。旧正月や秋夕、子供の 日、クリスマス、大晦日と元旦だけは「特別に」休むと言い、 「一般的にカラ

オケハウスはほとんど年中無休なので、私は多く休むほう」だと言う。自宅 も近いので出勤も車で10分あれば十分だ。午後2時に店に出て1時間かけて

6つの部屋と事務所の掃除をして店を開ける、10月初・中旬、11月末から12

月中旬までは店を開けると同時に最初の客がやっ て来る日が続く。

「3時に来るお客さんはだいたい試験期間中の

このあたりの高校生です。友達同士でやってきま す。よく子供たちの行儀が悪いと言いますが、こ の町の子供たちは端正で礼儀正しい子ばかりで す。1、2時間思いっきり歌ったあと必ず挨拶し

て帰っていきます。そのまま家に帰って翌日の試 験の勉強をする子供もいるでしょう」 。

記者が取材に行った日も、1.5坪(およそ5㎡)

ほどの3、4カ所の部屋から高校生たちの賑やか な歌声が聞こえてきた。そしてその中の一つのド アが開くと子供たちの愛嬌あふれる声が聞こえ

てきた。 「オジサン、サービス10分だけお願い」 。 キムさんは 「30分サービスだ」 と愛想よく答えた。

「おかしなことに大学生はほとんど来ません。

最近の大学生は就職準備で忙しくて時間がないの

でしょう。まあ高校生のように親から小遣いもら 韓国の文化と芸術 57


「お客さんからストレスが解消できたよと言われると、私もストレスが消えていきます。カラオケ ハウスの経営は力を必要とする肉体労働でも、頭を使う精神労働でもありません。それでも心が温 かくなることが多いんです。実に素晴らしい仕事だと思いませんか」

って好きなように使うこともできないでしょうか

部屋を無理をして買い、設備を整えて店を開いた。最初は一人で空いた部屋

小ルームは1時間 1万5千ウォン、団体客用の

わり家族4人が「うちのカラオケ、うちの機械」で飽きるほど歌を歌う日も多

ら、カラオケに金を使う理由もないのでしょう」 。 大ルームは3万ウォンだ。それでも学生たちには

割引をしてあげ、先ほどのように延長時間のサー

でよく歌っていたものだ。妻と小学校5年生になる息子、1年生の娘まで加 かった。

「1年が過ぎ店が忙しくなったこともありますが、もう歌はあまり歌わな

ビスも十分してあげる。

くなりました。ワハハハ」 。

が過ぎると夕食を終えたサラリーマンたちが登場

りが遅くなるという点。店を閉めて家に帰り、洗顔をして布団に入ると午前

クタイムだ。注文も多く、要求も多く、多忙を極

ラリーマン時代に比べたら生活には余裕ができた。

学生たちが帰る6時以降は少し暇になり、8時

してくる。この時間がカラオケハウス営業のピー

める。この部屋、あの部屋、気持ちよく駆け回る。 「職場の上司と一緒に来るチームには面白い共

通点があります。上司はサービス時間をもっと多 くくれと言いますが、部下たちはサービスはもう 十分だと目で合図してきます。上司と一緒だと歌 を歌うのも仕事の延長なんでしょう」 。

そんな風にこの部屋あの部屋と飛びまわって

いると、あっという間に11時になる。遅いとき には11時半頃にサラリーマンの客が引き潮のよ

うに帰っていく。それからは一人カラオケの人た ちがやって来る時間だ。だいたいアップテンポの 明るい曲よりは静かな曲を好む人々だ。主人の気 分もそれと共に沈んでいく。真夜中を過ぎると遅 い2次会を終えた客たちが怒涛のように大騒ぎし

ながらやって来る。そんな彼らの相手をしている といつの間にか閉店の時間がやって来る。

サラリーマンからカラオケハウスの主人となる

キム・ジョンウォンさんはサラリーマンをして

いた。勤めていた会社が事故で倒産し、商売をす るならどんな業種が良いかと悩んだ。

「20年前に父が京畿道驪州でカラオケハウスを

していました。店は繁盛しお金も儲けました。当

時を懐かしむ気持ちがあったのか、ふとカラオケ ハウスを思いつきました。歌が好きなこともあ

り、お客さんに親切に接する自信もありました」 。 改修工事を終えたオフィステルの地下の空き

58 KOREANA 冬号 2016

上司の顔色を伺うこともないので日常は自由だ。問題があるとすれば帰

3時を過ぎる。遅く寝床にはいるので、起きるのも遅くなるが、それでもサ 「出勤時間に追われていた昔よりも妻と多くの時間を一緒に過ごせるよう

になりました。妻は私が帰るまで寝ないで待っています。申し訳なくて、と 1


1 キム・ジョンウォンさんは午後2時に店に出勤し、1時間かけて6つの部屋を清掃する。夜の間中、 多くの客が使ったマイクも念入りに丁寧に拭いている。 2 キム・ジョンウォンさんは、憂鬱な人も少しの間、気分転換のできるこのような空間を人々に提供 する自分の仕事に自負心を感じている。

ても先に寝られないんだそうです」 。

彼はそんな話のあと、毎週水曜になると必ず手をつないでやってくると

いう80代の老夫婦の話をした。 「ご主人は歯科医師だったそうです。近く に住んでおられ、毎週同じ時間に来て1時間ずつ歌っていかれます。顔の

表情もとても明るくて、健康そうです。老後はあのご夫婦のように暮らし たいと妻と固く約束しました」 。

忘れられない客もいる。いつも一人で来て母に関する歌だけ選んで歌っ

ていた中年の男性。実は病気で余命宣告されていた患者だった。

「10カ月以上、ほとんど一日も欠かさずにやって来ました。歌を歌って

いる途中に倒れて、家まで送っていったこともありました。この何カ月か 2

来てません。心配です」 。

カラオケは単純に歌だけ歌うところではない。疎通の空間であり、癒し

の空間だ。カウンターに座ってお客を迎え、そして送り出すキムさんにと ってもそうだ。だから客たちの軽い無礼くらいは笑い流せるのだ 実に素晴らしい職業

客は一日に平均何人くらい来るのか。100人、200人。

「部屋単位で貸しているので、全体の人数は重要ではありません。季節

によって景気によって売上も違います。収入は…言わなきゃいけません か。サラリーマンよりは良いです。でも最近はキム・ヨンラン法のせいで お客が目に見えて減っています」 。

公職者などの不正を規制するための請託禁止法がカラオケにも影響を

及ぼすのか。 「食事の集まりが減りましたから。政府の総合庁舎周辺なの

で有名な韓定食の店も多く、食後に自然とカラオケに寄って行くのがコー スでしたから」 。

顔の知れた有名なお客が来る日はキムさんも浮き浮きする。有名な女性

アンカーが恋人と一緒に来た日。小さい頃熱狂したボクシング選手、ファ

ンとして追い掛け回した歌手が来た日もそうだった。 「うちはそんな方々 も来るんです。いいでしょう?私の仕事は楽しみながら、お客さんが気分 良く遊んでいかれるようにすることしかありません。お客さんからストレ

スが解消できたと言われると、私もストレスが消えていきます。カラオケ ハウスの経営は力を必要とする肉体労働でも、頭を使う精神労働でもあり

ません。それでも心が温かくなることが多いんです。 、実に素晴らしい仕 事だと思いませんか」 。

彼は実に肯定的なマインドの持ち主だ。

韓国の文化と芸術 59


遠くの目

石の思い出 筆者は、2000年から2015年まで韓国で生活していた日本人である。その間、趣味と実益を 兼ねて韓国の寺院や仏教遺跡をしばしば訪問していた。以下、石と仏像をテーマにその思い 出を素描してみたい。

松本真輔 まつもと しんすけ、長崎外国語大学准教授

仏教東漸

およそ紀元前5世紀に釈尊を祖として誕生した仏教は、主として南方と東方へ広まっていっ

た。釈尊が活動していた地域ではすたれてしまったが、東南アジアや東アジアでは今も広く信 仰されている。この仏教の広まりを表す言葉に「仏教東漸」がある。仏教が、ネパール・インドか

ら中央アジア、中国、韓国、日本へと、東方に伝わってきたことを示す表現だ。中国への仏教 伝来は様々な説があるが、最も有名な明帝と洛陽白馬寺にまつわる求法説話では1世紀の出来 事とされている。ついで、高句麗へ前秦王の苻堅から僧順道が派遣され、百済へ東晋から摩羅

難陀がやってきたとされるのが4世紀後半。新羅で異次頓が仏教受け入れのために命を捧げた とされるのが6世紀はじめで、日本には、6世紀中頃に百済から伝わったとされる。

仏教は、その伝播の過程で様々な変容を遂げていった。信仰者が独自の体系を構築しようと

意図していたわけではあるまいが、思想的な側面はもちろんのこと、儀式・作法・施設等々、総

体としての仏教信仰の様相は、地域によって大小さまざまな差異を見せている。むろんそれは、 各地域の文化的な背景や地理条件、更には時代の制約を受けた結果であろう。それでも、筆者

は、日本仏教の一段階前にあたる高句麗・百済・新羅仏教を受け継ぐ韓国の仏教は、当然ながら

日本に近いという先入観を持っていた。おそらく韓国を訪れる多くの日本人も、日本仏教の源

流として韓国仏教を見ているはずである。ただ、そうした期待を持って韓国の古刹を訪れると、 若干の違和感を覚えるのも確かだ。果たしてそれはどこから来るのか。むろん理由は様々だろ うが、違和感をもたらす要因の一つは、 「石」 の存在感の大きさである。 石と韓国仏教

たとえば慶州の仏国寺。本殿である大雄殿の前に築かれた紫霞門とそこに掛かる石橋が描く

美しいアーチは見る者を魅了する。大雄殿の前には二基の宝塔がそびえ、荘厳さを演出する。 石塔は韓国の寺院に欠かせないものだ。そして、仏国寺のほど近くにある石窟庵。巨大な石の

ドームに包まれた石像如来座像の格調高い表情は、心の奥底に響く威厳を感じさせる。同じく 慶州の南山に登れば、数多くの石仏・磨崖仏が私たちを迎えてくれる。まるで山全体が石仏に占 拠されたかのようだ。こうした巨石の構造物は見る物を圧倒するが、同時に、地震の国からや ってきた日本人にとっては、危うさを伴った不思議な感覚を与えもする。 60 KOREANA 冬号 2016


石仏は韓国の至る所にあるが、筆者のお気に入りの一つが、大邱八公山冠峰(海抜850m)の

頂上にある石造如来座像である。正確な彫像年代は不明だが、新羅時代のものと見て大過ない

だろう。麓にある冠岩寺から急な山道とがけを登った岩山の頂に鎮座しているが、そこに至る 行程は、運動不足の人間にとっていささかハードである。それでも、現在は薬師如来として信

仰を集めており、仏像の前には祈祷する人々の姿が絶えることはない。苦労して登り詰めた先 に現れるそのおだやかな表情は、ひたすら美しい。山道すら整備されていなかった時代に、道 具を抱えて岩山に登り、岩を削り続けた新羅人の信仰心には感嘆するばかりだ。

一方、その独特の表情で忘れられないのが、忠清南道論山の潅燭寺石造弥勒菩薩立像である。

おむすびのようなふくよかな輪郭に大きく見開いた眼、開いた鼻に分厚い唇、頭から生え出た

ような巨大な宝冠、胴体部分が省略された不均衡な姿。そして何よりその大きさに圧倒される。 クレーンなどない高麗時代の製作であるから、当然ながら周囲に土を盛って上に運んだのであ

ろう。一方で、地震が来たらどうなるのだろうと、いらぬ心配をしてしまうのは日本人の性か。 最後に紹介したいのが、風光明媚な農村の中に位置する全羅南道和順郡の雲住寺である。こ

こはまさに石の王国だ。山門を通過して大雄殿に至るまでの道には、韓国の道祖神であるジャ ンスンにも似た石仏が所狭しと並ぶ。大雄殿の前にも石塔が列をなし、寺の周囲をめぐる山稜 には数多くの石塔と石仏が林立している。そうした石仏の中で特に目をひくのが、大雄殿を見 下ろす山腹の中に寝転がっている全長約13mと10mの二つの臥形石像如来仏(臥仏)である。寝

た石像というのも珍しいが、細長い顔に分厚い唇に穏やかな微笑をうかべる表情も、独特の雰 囲気を持っている。

そもそも、高敞・和順・江華の支石墓群が世界遺産に登録されていることからもわかるように、

韓国の石文化は非常に古くまでさかのぼる。韓国各地に数多く存在する石仏は、その文化の流 れの中にあるのであろう。

1

1 大邱八公山冠峰の石造如来座像 2 忠清南道論山の潅燭寺石造弥勒菩薩立像 3 全羅南道和順郡の雲住寺

2

3

韓国の文化と芸術 61


料理物語

地球を蘇らせる健康食品

18世紀の実学者イ・イク (李瀷) は 「もしも、我が国に豆が育たなかったら貧しい人々が生きていくことは難しかったであろう」 と

言った。このように長い間、私たちにとって救荒作物であり、安価な蛋白質の供給源だった豆は、今や世界的なグルメの食材、 スーパーフードとして脚光を浴びている。

キム・ジニョン 金臻榮、トラベラーズ・キッチン代表 安洪范 写真

味噌・醤油

は古くから「畑でできる牛肉」と呼ば

豆は韓国をはじめとする北東アジアでは特別な食

れている。国際連合は2016年を「豆の

年」に指定し、持続可能な未来のための

栄養価の高い穀物として豆の重要性を強調した。日 照りに強く、化学肥料への依存度も低いので、人類 の食料を解決し環境にもやさしい最適な作物が豆だ ということだ。

豆の原産地は満州と沿海州だと言われている。古

朝鮮と高句麗の昔の領土だ。沿海州と韓半島の間に は豆満江がある。豆満江の意味は、まさに豆で一杯

の川ということだ。豆の収穫が終わる秋になると、 豆の入った袋を積んだ船でこの川が一杯になったと

ころからついた名前だという説もあるほど、我が国 の豆の栽培の歴史は古く、これまで実に様々な方法

1 1 韓国料理の基本とな る発酵ソースの味噌と 唐辛子味噌は大豆を 主材料として作られる。 2 上からカキ氷に使わ れる小豆。ビンデト クの主材料となる緑 豆、豆腐を作る大豆、 惣菜のコンジャバンに 使われるソリテ、ご飯 を華麗に変身させるカ ンナンコンだ。

材だ。それは醤文化に因る。韓国の伝統料理は味噌、

醤油、唐辛子味噌という三つの発酵ソースをベース

にして作られる。中でも味噌・醤油は大豆、塩、ワラ や日差しと風に時間が加わり誕生する。

味噌・醤油の主原料である味噌玉麹を作るには、霜

が降りる晩秋に大豆を一日中、水に浸したあと蒸し器

で蒸してから冷ます。蒸したばかりの湯気がもくも くと立ち上がる黄色い大豆は香ばしく、子供たちに

とっては味噌玉麹を作る日だけ食べることができた、 懐かしいおやつだ。冷ました大豆を臼で搗き、各家

ごとに伝わる丸型や四角の形に整え味噌玉麹を作る。 大豆を搗くときや丸めるときの手加減は長い経験

で豆を取り入れてきた。最近の統計によれば韓国人

と手の触覚に頼るものだ。細かく搗きすぎたり密度

米と小麦に次ぐ量だという。

味噌玉内部が腐ってしまう。韓国料理で正確なレシ

一人当たりの一年間の豆の消費量は8kgで、これは 62 KOREANA 冬号 2016

が濃くなってしまうと、丸めたとき空気を通さず、


2

韓国の文化と芸術 63


1 イン ジョルミの 味は 香 ばしくて 甘いきな粉の味 に左右される。 2 厚く切った 豆 腐 に炒めたキムチ をそえた 「豆腐キ ムチ」

させる。2、3ヶ月が経ち発酵が進みで きた水分が醤油、その残りが味噌だ。

各家ごとにこのような方法で主婦が毎

年、自家製の味噌をつけてきた伝統は、 今ではほとんど無くなり、たいてい市販 のものを使っている。販売されている味 噌の種類は、地方の名家による昔ながら の自家製の物から、食品メーカーが生産 する工場製品まで価格も品質もさまざま

だ。選択は消費者の価値観と経済力にた くされている。 手軽な豆腐料理

豆の物語に欠かせないもう一つの食品

が豆腐だ。豆腐は水に浸しておいた大豆 を粉砕してから煮込み、ざるで漉してで きた豆乳を無機塩類で凝固させた結晶体

だ。そのまま包丁で食べやすい大きさに

切って、調味醤油をかけて食べてもよし、 キムチや肉、魚介類などを出汁で煮込ん

だチゲなどの鍋料理に入れるのもよい。

熱したフライパンでごま油などで焼いて、 塩だけふって食べる豆腐プッチムは立派

なご飯のおかずだ。筆者が食べた中で独 特で味も良かった豆腐料理に山椒油で焼

1

いた豆腐がある。山椒のぴりっとした味

ピなしで「お袋の味、手の味」という表現

ば人情も篤く、福も来る」ということわざ

本である味噌玉を丸める際の出来不出来

心を込めて丸めた味噌玉は微生物の活

をよく使うのも、もしかすると料理の基

もあるくらいだ。

が豆腐の淡白な味によく合っていた。江 原道原州や忠清北道堤川の豆腐料理の専 門店で味わえる。

ソウルで美味しい豆腐料理の店に行き

が、手の味、腕に関わっているためなの

動が活発になるように温かい部屋に数日

たければ、麻浦区阿峴洞にあるファング

でその年の味噌の味が良くなり、味噌の

通しのよいところにワラで結んで吊るし

産の豆だけを使い、当日店内で作った豆

かもしれない。味噌玉をうまく作ること 味が良ければその家の料理の味がすべて

良くなるのだ。さらに「味噌の味が良けれ

間広げて干しておき、その後、明るく風 ておく。春が来る前、しっかり乾燥した

味噌玉を塩、水と一緒に甕に入れて熟成

ムコンパッ(黄金の豆畑)を推薦する。国

腐を使った豆腐料理ということで、グル メの間で有名だ。豆腐プッチム、豆腐キ

我が国の豆の物語は、味噌・醤油からご飯、惣菜、デザートへと縦横無尽に広がっていく。 一年間の豆消費量が米と小麦の次に多い理由もそこにある。 64 KOREANA 冬号 2016


ノコ鍋の絶品料理に舌鼓を打ちながら、 この店で醸造したマッコリも堪能できる。 豆ご飯から氷小豆まで

秋になり初霜(ソリ)がおりた後に収穫

することで「ソリテ」と呼ばれる黒い豆は 抗酸化物質のアントシアニンが豊富なス

ーパーフードだ。外皮は黒いが中は明る い緑色の豆だ。最近は大豆よりもソリテ のほうが栄養が豊富だといって、このソ リテで豆腐を作ったりもする。ソリテを

いのが、まぶすきな粉だ。蒸した豆をお

盆に広げてほくほくになるように乾燥さ

せ、フライパンで弱火で炒めて粉にした ものに塩と砂糖を適当に混ぜ合わせて味

つける。豆の香ばしさを最大限に引き出 した良い香りのきな粉ができる。もちろ ん最近は家でこのようにインジョルミを

直接作るケースはまれで、街の餅屋では 毎朝つきたての香ばしいインジョルミを 朝食の代用食として売っている。

小豆粥はソウルの代表的な観光地・仁

水につけておいて、米と一緒に炊くとほ

寺洞の伝統茶の店で食べることのできる

る。水に浸しておいたソリテを茹でてか

ューに冷たい氷小豆が加わる。両方とも

のかな紫色を帯びた艶のある豆ご飯にな

ら、ごま油とオリゴ糖で味をつけた醤油 で煮込み、最後に煎ったゴマをたくさん 振りかけて作るコンジャバンは韓国の家 庭の定番のお惣菜の一つだ。

韓国の伝統餅の中には最近でも人気の

高いインジョルミ(きな粉餅)がある。良 質のもち米を水に浸し蒸したあと餅用の

代表的な冬のおやつだ。夏にはこのメニ 赤い小豆を主材料とした甘いデザートだ。 仁寺洞から路地でつながっている楽園洞 にはソウルで最も有名な餅屋が集まって

おり、先述のインジョルミだけでなく、 いろいろな種類の豆がいっぱい入った蒸 餅などが買える。

このように我が国の豆の物語は味噌・醤

杵でつき、よく伸ばしてから、適当な大

油からご飯、惣菜、デザートへと縦横無尽

このインジョルミを作るときに欠かせな

小麦の次に多い理由もそこにある。

きさに切ってきな粉などをまぶした餅だ。

に広がっていく。一年間の豆消費量が米と

2

韓国の文化と芸術 65


ライフスタイル

チャットルームと 顔文字の時代 오전 10.06

< 그룹채팅 15

여자친구랑 헤어졌다. ㅠ.ㅠ 오후 6:30

“진짜?” @@ 오후 6:31

“왜?” 네가 잘못한 거 아니냐? 오후 6:32

얼른 가서 빌어 --;; 오후 6:34

数十人の人々がスマートフォンの画面を通じて近況や意見、感想を 互いに交し合うチャットの世界。ラインやカカオなどのチャット

アプリのユーザーにとってチャットは今や日常となっている。韓

国のカカオトークが提供するスマートフォンのグループトークルー ム、 「ダントクバン」 も今や普通名詞となっている。

キム・ドンファン 金東桓、世界日報デジタルニュース部記者

66 KOREANA 冬号 2016


「み

んな。今日はなんだか憂鬱。ガールフレンド と別れたんだ」

普段は静かだったグループトークルーム

が突然活気を帯びる。 「ほんとかよ」 「なぜ?」

「お前が何かしたんだろ。さっさと行ってあやまれ」 友達たちの反応が上がってくるたびにスマートフ

ォンは「カトク! カトク!」とビープ音を発する。 僕の近況に対して6人の友人の診断と忠告が続く。 今や韓国人に無くてはならないチャットの世界

スマートフォンを使う韓国人なら誰でもグループ

トークルームの一つくらいには必ず属していると見

ても構わないだろう。メンバーが友人なのか、職場

の同僚なのか、あるいは家族なのかの違いがあるだ けだ。

「仕事で家族と離れて暮らしているのでなかなか顔

を見ることもできません。ときどき週末には電話で 話をしますが、そんな時に交わす会話なんてたかが 知れています。もっと自然にきちんと疎通したくて

えていた。家族のグループトークルームを通じて子 供たちの日常のこまごまとした話を聞いてあげ、一

緒に考えることは話の通じる父母となる、第一歩、 早道だと言える。

ダントクバン・ストレス

職場ではどうだろう。

ソウルのある企業のマーケティング関連部署で働

くBさんは会社から帰宅した後でも会社のグループ トークルームに書き込まれる上司のメッセージに気

を使わなければならない。取引先との接待を終えて 家に帰るBさんに上司が「話はうまくいったのか」 「問 題はないか」 「次はいつ会うのか」といった質問を矢継

ぎ早に浴びせてくるからだ。仕事を終えて帰宅した というのに「カトク!カトク!」というビープ音を聞

くと、まだ会社にいるような気がしてくる。かとい

って確認だけで返事を書き込まなければ、上司の質 問を無視するのと同じことになってしまう。それで

会社員の間ではダントクバンは「監獄」だと呼ばれて いる。

とはいえ脱退するわけにもいかない。そんな行動

家族用のグループトークルームを作りました」 。

をとれば、オフラインで苛めにつながるかもしれな

上京してソウルで働き始めて3年目になるAさんは、

情報に接しようとすれば、他に特別な手段がないの

取材で会った30代の女性Aさんの話だ。地方から

早くて便利で、気軽に話ができる点がチャットの長 所だと言い、 「電話では恥ずかしくてなかなか言えな

いという恐れがあるからだ。職場のこまごまとした も事実だ。

Bさんはしばらく前にトークルームからの「カト

いような、会いたい、愛してるなどの言葉もチャッ

ク!カトク!」という通知音を切るという手段をとっ

法で連絡しているので離れて暮らしていてもいつも

てすぐに反応しなくてもいいメッセージが多すぎる

トだと気安く口にだせます。ほとんど毎日、この方 一緒にいるようです」 と満足げだ。

チャットは一つ屋根の下にすむ家族同士の心理的

な距離をも縮めている。社会生活では日常的に使っ ているものの、家族にはなかなか面と向かっては言 えない「ありがとう」や「すみません」などの言葉がチ

た。効果は今のところは満足しているという。 「あえ ことに気付きました。1、2時間に一度確認するだ けで十分、大きな問題も起きません。通知音を切っ た後からは仕事でも日常生活でも能率があがったの を実感しています」 。

会社の部長のCさんは最近、 「退勤後のトークルー

ャットの世界では様々な表情の顔文字や絵文字、ス

ムでの上司の指示が社員のストレスを高め能率を落

OECD(経済協力開発機構)の2015年の「暮らしの

は退勤後には社員とのチャットはしないようにして

タンプで簡単に伝えることができる。

質報告書」によれば、韓国の父母は子供と過ごす時間 が24時間中48分に過ぎなかった。OECD 加盟国の平 均151分の3分の1の水準で最も短かった。このよ

うな状況の中でチャットが親と子の間の緊要な対話 の窓口として機能していることは実に喜ばしいこと

だ。今年6月、女性家族部が5大広域市の父母千人

とす原因となっている」という記事を読み、それから いる。立場を変えて考えてみれば、自分が軽い気持 ちで書き込んだ一言が部下には業務の延長に思える

という状況が理解できたからだ。 「別にたいしたこと

ではありません。賢明な上司なら社員の退勤後の余 裕を保証すべきです」 と彼は言う。

と小学生 (4~ 6年生) の子供635人を対象に行った 「子

記号の魔法、顔文字

調査で、子供たちは「話の通じる父母」が最高だと考

情を表す「emotion」と類似記号を意味する 「 icon」

供が望む、父母が語る良い父母」に関するアンケート

韓国で使われているイモティコンという言葉は感

韓国の文化と芸術 67


の合成語で、文字では伝わらない気持ちや感情を表

よりストレートに表現してくれる。動きのある絵文

み合わせから、今では急速に進化を遂げて喜怒哀楽

ような顔文字・絵文字の人気は各種キャラクター商品

現するときに使われる顔文字だが、単純な記号の組 を表す際の必須グッズとなった。

記者が最初に接した顔文字はサーカムフレックス、

字はさらに生き生きとした表情を極大化した。この の製作へとつながっていく。

ソウル江南区にあるカカオフレンズのフラッグシ

一般的にハット記号と呼ばれている記号二つで笑う

ップショップ。カカオトークのキャラクター商品を

パソコンのチャットサイトに入るとチャットの相手

ン(Ryan)を初めとするカカオフレンズのキャラクタ

ときの目の形を現した 「^^」 だった。1999年のある日、 がこの模様をつけた挨拶を送ってきた。その意味が 分からず「これ何?」と尋ね返したことを今でも覚え ている。

携帯電話になると、この顔文字が本格的に活躍し

始める。移動中に、なかなか進まない対話を終えるの に「別に気分を害しているわけじゃないよ」と文字に

するよりは、 「^^」と送るのがはるかに簡単でスマー トな方法だということを実感し、ハングルの母音を利

用して泣いている表情を描写するのにも 「ㅠㅠ」 「ㅜㅜ」

「ㅠㅡ」などいろいろな方法があることを知り、人々は

販売しているショップだ。女性に一番人気のライア ーグッズを買おうという人々で売り場の前には行列

ができている。入口に立っている店員たちは内部の 混雑を緩和するために人数制限をして客を入店させ

ている。この売り場は7月2日のオープン初日だけ で3000人を越える人々が押し寄せた。爆発的な関心

を集めて開店1ヶ月の訪問客数が45万人を突破した。 業界1、2位を争っているラインフレンズも中国、 日本、台湾、香港など11カ国で22個のキャラクター ショップを運営中だ。

カカオトーク社にこの数年間の有料絵文字スタン

新たな顔文字の世界に目を向けるようになった。

プの売上げをたずねたところ、正確な金額を明らか

を圧縮した一コマ漫画に進化し、ユーザーの感情を

わり昨年11月に絵文字スタンプ4周年を記念してカ

スマートフォン時代、顔文字は多様な感情と状況

68 KOREANA 冬号 2016

にするのは難しいという答えが返って来た。その代


スマートフォン時代、顔文字は多様な感情と状況を圧縮した一コマ漫画 に進化し、ユーザーの感情をよりストレートに表現してくれる。動きの ある絵文字はさらに生き生きとした表情を極大化した。このような顔文 字・絵文字の人気は各種キャラクター商品の製作へとつながっている。

カオトークが公表した資料を得ることができた。資

薦めてきたことがあった。そのようにして手に入れ

スタンプの累積購入者は2013年には500万人、2014

寄付できると強調した。仕方なく数日間、イベント

料によれば、2012年280万人規模だった有料絵文字 年には720万人を越えたのに続き、昨年は1000万人 を突破したという。

絵文字スタンプの発信件数は想像を絶する水準だ。

2012年4億件に過ぎなかった絵文字スタンプの月間

たポイントを自分に寄付して欲しいと言い、何度も で得たポイントを続けて友人に送ってあげたところ、 友人はそのポイントを集めて新種の絵文字スタンプ を購入した。

もちろん新種の絵文字スタンプに誰もが関心を抱

発信数は2013年には12億件、2014年18億件に増加し、

くわけではない。記者はただの一度も有料の絵文字

6700万件を記録したことになる(カカオトークの絵

基本の絵文字、顔文字だけでも意志の疎通には十分

昨年は20億件を越えた。昨年度を基準として毎日約 文字スタンプの発信件数の統計はユーザーの文字メ ッセージ伝送データベースから対話内容とは関係無 しに絵文字スタンプのコードを集計する方式で行わ れている) 。

今日も多くのトークルームで新種の絵文字スタン

プが飛び交っていることだろう。販売価格が数千ウ ォンと安いので、新しいものが出るたびに思わず購 入したくなる未成年者の衝動買いが父母の負担とな っている。

賢く手に入れる方法も無いことはない。前にある

友人が熱心にチャットアプリのイベントへの参加を

スタンプを購入したことはない。無料で提供される だと思うからだ。ただ無料のものだけ使っていると 時には物足りなく感じ、対話の相手に申し訳ない気 持ちになる。いちいち文字を打つのが面倒なときに 絵文字の一つで解決してしまうからだ。何となく加 入したあるグループトークルームで文字を書き込ま

ず絵文字だけ飛ばしていた時があった。そのとき友 人に、 「お前は俺たちと話すのが嫌みたいだな」と皮

肉を言われたことがあった。ここにその答えを書い ておきたい、お前の言うとおりだよ。俺はお前たち とあまり親しくないじゃないか。

韓国の文化と芸術 69


韓国文学の旅

小説 小説 平和と愛を 平和と愛を 呼ぶ魔術 呼ぶ魔術 作家評

チェ・ジェボン 崔在鳳、ハンギョレ新聞記者

2

012年の文化日報新春文芸の当選作である『街の魔術士』は、キム・ジョンオク(金鍾沃)の文壇デビュー

作であり、翌年の 「若い作家賞」 の受賞作でもある。 「若い作家賞」 とは出版社文学トンネが主催する、デ

ビュー10年以内の作家がその一年間に発表した中・短編小説を対象とする賞だ。つまり経歴10年近い先

輩作家たちを抑えて、新人のデビュー作が受賞したことになる。この作品のどんなところが、そんな「魔術」を 引き起こしたのだろう。

この小説は学校内の集団いじめ問題を扱っている。ナムという生徒が苛められ、耐え切れずに学校の窓から

飛び降り亡くなるという事件を、彼のクラスメートの女子生徒ヒスの視点から再構成するというのが、この小

説の骨組みだ。ヒスは、ナムを苛めてついには自殺に追い込んだと言われるクラスメート、テヨンの母の友人 である弁護士と対話を交わしながら、事件を説明する一方、死に至るまでのナムの学校生活を記憶の中から蘇 らせる。

被害者の死で帰結した集団いじめ事件ながら、加害者と被害者、善と悪の区分が単純で事件の前後関係もま

た簡単明瞭なものだが、 『街の魔術士』はそんなありふれた接近方法をとってはいない。作家は加害者や被害者 ではなく、第3者のヒスの視点を選んだことで倫理的な断罪から抜け出し、事件を多層的・複合的に見つめる ことのできる距離と余裕を確保した。

だからと言って、それを罪の無い幼い生徒が死に至る緊迫した事態に対する無責任な傍観を擁護する態度

だと誤解してはならない。ナムが窓から飛び降り地面に落ちた瞬間、 「それは世界が一瞬、平和になったよう だった」とか「この世が余りに美しく見えた」というヒスの記憶を、道徳的な弛緩や倫理感覚の麻痺だと罵倒す

るのではない。その後に続く「ナムが彼らすべての代わりに地面に落ちたからだろう」という文章には、ナムを スケープゴートないし代贖者としてみるヒスの視点が表れている。

作家もまたナムをスケープゴートないし代贖者として見ているのか。小説の焦点、話し手ヒスの視点と作家

のそれが同一かどうかは多様な解釈と論理の対象となるだろう。ヒスがナムの死に対する間接的な責任を免れる

ために「ナムは仲間はずれではなかった。ただ友たちがいなかっただけ」とか「私たちがナムを仲間はずれにした

んじゃなくて、ナムが私たちを仲間はずれにしていたと見ることもできるでしょう」 という言葉で事態を美化し、

誤魔化そうとしていると言うこともできるだろう。しかしヒスは登場人物の中では最もナムに友好的な人物だ。 彼女がナムに対する理解と愛情をもう少し積極的に表現し、行動に移せなかった点を批難することはできるだろ うが、未必の故意による殺人犯、もしくは殺人幇助者としてヒスを 「起訴」 するのは適切ではないと思う。 70 KOREANA 冬号 2016


「何が魔術で、何が魔術でないのか。今起きていることが、 どうしようもなく、決して変えることのできない頑強な 現実だと信じる、その心は騙されていないと言えるのか」

小説のタイトル『街の魔術士』はナムが街で目撃した魔術士を指している。

ナムに魔術士は「 起きるはずのないことを起こして」くれる人物として映る。 ヒスにその魔術士を目撃した話をした後にナムは「 僕が魔術を見せてあげ

る」と言うが、彼が見せた一連の行動が、彼の言っていた「魔術」だったこと を読者は小説の最後に知ることになる。

小説の最後はヒス自身が街の魔術士と会い、彼を通じて自分の秘めてき

たナムという名前と彼に対する哀しい記憶を、魔術的に再確認する場面とし て描かれる。しかしこの最後の場面さえも現実なのか、それともただの想像 に過ぎないのか読者は分からない。

ヒスは加害者でもなく、傍観者でもないと前述したが、それにもかかわ

らず彼女がある種の倫理的な尺度の役割をしていることは明らかだ。弁護士

との対話でヒスは「ちょうど奇跡のように平和に満ちたそんな世界がどこか にあるでしょう。皮肉っているのじゃない。誰かが、ある力が、善の力がそ

んな場所を作り守ることができると思う」と言う。ここまでは子どもらしい 純真な空想、あるいは願望の次元だと言えるだろうが、続く発言は哲学的な 作家キム・ジョンオク

深さをもち読者に迫ってくる。 「 善は悪を眺める目が無くては見る事ができ

ない。悪を通してでなければ見る事ができない」 。テヨンという具体的な加 害者よりは集団いじめという現実とその本質、すなわち悪を直視し、どんな

形であれそれに立ち向かうのが善と確認し、しかも確保する道だという考え、子どもらしくないこんな冷徹な 判断と小説の最後の場面で見せる温かな涙はヒスを信頼できる話し手に仕上げている。

「若い作家賞」 の受賞を契機に書かれた短い散文でキム・ジョンオクはこんな風に言っている。 「本当に魔術が

必要なのかもしれない。世の中が一瞬で平和になる魔術、誰もが互いを愛するようになる、互いの名前を最も 愛情に満ちた声で呼ぶようになる魔術」 。

ナムが行いヒスが見た魔術は、実は作家キム・ジョンオクが小説を通して読者に見せた魔術なのではないか。

小説という魔術に対する彼の魅惑と信念は、この作品を含めた短編12編を集めて2015年に出された彼の処女 小説集、 『果川、私たちがしないこと』 でもう一度確かめることができる。

韓国の文化と芸術 71


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autumn 2016

Korean culture & artS

Special Feature

DMZ

The Forbidden Land Glimpsed through Barbed Wire Fences DMZ, Where Dreams of Unification Bloom; Peace of Mind Relished on the DMZ Forest Trail; The Uncertain Serenity of the DMZ Ecosystem; Gyodong: A Lonely Island Across from North Korea; Real DMZ Project: Art Casts New Light on Cold War Legacy

DMZ

koreana@kf.or.kr vol. 30 no. 3

ISSN 1016-0744

ISSN 1738-8252


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