春号 2018
韓国の文化と芸術 特集
韓国のフォトグラフィー
ビジュアル・ランゲージを自由に楽しむ 新しい文物、韓国人の日常へ 韓国の現代史と共に歩んだドキュメンタリー写真 ホモ・フォトクスとデジタル写真の二面性
韓国の フォトグラフィー
VOL. 25 NO.1
ISSN 1225-4592
韓国のイメージ
冬から春に芽吹く季節 入学式
キム・ファヨン 金華栄、文学評論家、大韓民国芸術院会員
垂
れ幕と風船で飾られた舞台。先生方と新入生た ち、付き添ってきた親たちもみんな忙しげだ。う ちのクラスはどこだろう、担任の先生はどの人だ
ろう。キョロキョロしながら…。さりとて、ママの側にぴったり と寄り添い、緊張した様子がありありと見える子供たち。その中 から不安そうな泣声さえ聞こえてくる。 韓国の3月はまだまだ寒い。冷たい風が吹く中で人々は春を 待ちわび、心はそわそわと落ち着かない。そんな春待ち人たちの 春は、3月の小学校の入学式と共に始まる。満6歳の学齢期にな った児童たちは、これから義務教育という集団生活を送ると同時 に、独り立ちを始める。毎日、朝早く起きなければならず、一人 で服も脱ぎ着しなくてはならず、ママの腕の中から飛び立つ。見 慣れぬトイレにも一人で行くだけでなく、書き方や数字などの不 思議な世界にも足を踏み入れる。 1894年ソウルに官立校洞小学校が始めて建てられてから1世紀 以上が過ぎたが、小学校の変遷とともに、入学式の風景もすっかり 変わった。胸に白いハンカチを勲章のようにつけて、おどおどした 顔で震えていた鼻たらしの「田舎もんのひよっこ達」、そんなガ チガチの入学式はすっかり昔の話だ。今では、やさしく親切な雰 囲気が演出されている。新入生は王冠をかぶらせてもらい、自分 の夢を書いた紙飛行機を空高く飛ばす。先生たちは新入生に学用 品セットをプレゼントし、高学年の6年生の先輩たちは、新入生 をハグしバラの花を手渡してくれる。美しい夢を思いっきり描く ようにという歌「僕は蝶」が、印象的なロックテンポの曲で演奏 されたりもする。 しかしながら、光があれば影もあるもの。産業化と目覚しい経 済発展は、都市への人口集中と農村人口の減少をもたらした。人 口増加率の鈍化により学齢人口が急速に減少し、小学校の統廃合 が進んでいる。2017年の時点で、全国の小学生の数は267万4227人 で、10年前の382万9998人に比べて30.2%が減少し、1980年の565万 8002人に比べると52.7%も減ってしまった。だが本当の心配は、王 冠をかぶり紙飛行機を飛ばすあの純真な子供たちが、自分が「教 育地獄」という無限競争のベルトコンベアの上にのせられたとい う事実をまだ知らないことだ。
<編集長の手紙>
彼女らはやっと声をあげ始めた。
発行人
李是衡
編集長
金鍾徳
編集理事
髪を短くすることで、独立した人間として生きる決意を宣言するしかない時 代があった。わずか1世紀前のことだ。今回の掲載記事「私たちは今、どれほ ど遠くまで来たのだろうか」は、現在ソウルで開かれている展覧会が、20世紀初 めに韓国の「新女性」が抱いた理想と、彼女らが経験した拘束と挫折をいかに 照射するかについて論じている。新女性は根深い家父長的な考え方と制度に挑 戦した先駆者であった。 数十年後、多くの韓国女性は日本軍の性奴隷になることを強要された。10 代の若い被害者の正確な数値についてはまだ議論があるが、その残酷な状況と 非人間的待遇を耐えなければならなかった生存者の証言は詳細に記録されてい る。ところで、犠牲者の一人が初めて自分の苦しい経験を証言したのは、第二 次世界大戦と日本の植民地占領が終わって46年が過ぎた1991年である。 また別の記事「アイ・キャン・スピーク-話すべきことと話せることの間」 は、帝国主義日本の従軍慰安婦の犠牲者をもとに作られた作品『アイ・キャン ・スピーク』(2017年公開)のレビューだ。俳優のキャスティングや製作費の調 達などの困難にもかかわらず、期待以上の興行と批評家の好評を博した。この ように有効なメッセージを投げかける映画は相変わらず注目に値する。 最近韓国でも長い間の強要と沈黙の壁を崩し、「MeToo」運動が広がり始め たのは驚くべきことではない。セクハラにあった女検事が上司を告発したこと がきっかけとなり、詩人や俳優、学生や研究者、秘書など多くの女性たちの告 白が相次いだ。因って、最高の名誉と権力を持った男性は、自分の名誉を回復 することができず、ただちに役職から追放されている。彼女らの勇気と連帯の おかげで私たちの社会は、より人間的で正義の通る世の中になるだろう。 日本語版編集長 金鍾徳
朴相培
編集諮問委員
韓敬九
Benjamin Joinau
鄭德賢
金華榮
金英那
高美錫
那秀昊
宋惠眞
宋永萬
尹世鈴
監修者
嘉原和代
翻訳者
坂野慎治
金明順
クリエイティブディレクター 編集
アートディレクター デザイナー
編集
朴美貞 金三
池根華、盧倫永、朴道根
朴相培
金智賢、金南亨、葉蘭敬
金熒允編集会社 04035
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韓国の文化と芸術 春号 2018
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「7歳-つつじご飯と菊のスープ」 ウォン・ソンウォン(元性媛) C-プリント、140×140cm、2010
『Koreana』の記事を引用したり、非営利目的で使用する場合にも 『Koreana』からの転載であることが分かるようにクレジットを明示 してください。
掲載された記事は筆者の個人的な意見であり、『Koreana』や韓国国 際交流財団の公式見解ではありません。
1987年8月8日文化観光部-1033で登録された季刊誌『Koreana』はア
ラビア語、インドネシア語、英語、スペイン語、中国語、ドイツ語、 フランス語、ロシア語でも発刊されています。
特集
韓国のフォトグラフィー ビジュアル・ランゲージを自由に楽しむ
04
特集
韓国のフォトグラフィー ビジュアル・ランゲージを自由に楽しむ
14
特集 1
新しい文物 韓国人の日常へ ユン・セリョン ユン・セリョン
38
フォーカス
北東アジア地域の秩序を内包する 朝鮮通信使の記録 ソ・ギョンホ
44
アートレビュー
私たちは今 どれほど遠くまで来たのだろうか チョン・ジェスク
50
オン・ザ・ロード
義州路 500年間世界へとつながる道 イ・チャンギ
26
特集 2
韓国の現代史と共に歩んだ ドキュメンタリー写真 イ・ギュサン イ・ギュサン
32
特集 3
ホモ・フォトクスと デジタル写真の二面性 チェ・ヒョンジュ チェ・ヒョンジュ
58
二つの韓国
祖父の国へ 希望を求めて キム・ハクスン
64
遠くの目
旅人 図書館に通う 鈴木 彰
66
日常茶飯事
愉快な人生が 味を左右する チョ・ウン
70
エンターテインメント
アイ・キャン・スピーク 話すべきことと話せることの間 ソン・ヒョングク
72
韓国文学の旅
隙間と余白 未完で完結する世界 チェ・ジェボン
『角』
ユン・ソンヒ
特集
『りんごの木』 キム・グァンス(金光洙)、ピグメントプリント、112×175㎝、2016年
韓国の フォトグラフィー
ビジュアル・ランゲージを自由に楽しむ © Kim Gwang-su
カン・ウング姜運求 私の創作活動
私は、生れてから今まで暮らし、これからも生きていく国、この
ように運命的に出会った地に多くの関心を寄せている。この地への 愛着と探求は、当然そこに生きる人、その生活の全てにつながって いる。私は常に、特別な物事よりも普遍的な物事を観察し、その中 に固有の美しさと意味を見出そうとしてきた。韓国ならではの風景 は、そこに住む人たちにとって平凡なものだ。しかし、ふと立ち寄 った外国人には見慣れぬものだろう。私にとって外国の多くの風景 が、そうであるように…。農耕社会が産業社会になり、時の流れが 急に速くなった。そうして、平凡な風景さえ見慣れぬものになって しまった。私は今、韓国の写真家としての義務を終えたと考えてい る。その結果、写真がもっと楽しくなった。
略歴
• 1941年、慶尚北道聞慶生まれ。慶北大学校英文学 科卒業
• 朝鮮日報社・東亜日報社にて写真部記者
• 『マウル(村)三部作』(ソウル錦湖美術館、
2001)、『古い風景:陵、三国遺事、慶州・南山』 (釜山・古隠写真美術館、2011)、『慶州・南山: モノクロ版』(ソウル流歌軒、2016)、『四角い
影』(ソウル韓美写真美術館、2017)などの個展を © Gwak Myeong-u
開催
• 『未明の暁』(ソウル・ハウアートギャラリー、
2001)、『韓国の文化遺産、今日の視点』(ソウル 省谷美術館、1997)、『写真、今日の意味』(慶州 ソンジェ美術館、1995)などの企画展に参加
• 著書として『カン・ウング写真論』(悅話堂、
2010)、『古い風景:陵、三国遺事、慶州・南山』 (悅話堂、2011)、『慶州・南山(モノクロ版)』 (悅話堂、2016)など。共著として『衝突と反動』 (ソウル・フォトネット、2010)、『融合人文学: 人文芸術と自然科学の融合的出会い』(ソウル而学 社、2016)など
6 KOREANA 春号 2018
『クヮンヤン』 姜運求、1983年 ⓒ 姜運求
韓国の文化と芸術 7
8 KOREANA 春号 2018
『慶州・南山:ヨンジャンゴル尾根と三層石塔』 姜運求、1987年 ⓒ 姜運求
韓国の文化と芸術 9
ウォン・ソンウォン元性媛 私の創作活動
私の創作活動を一言で言うと「フォト・インスタレーション」だろう。世界
各地で撮った数多くの写真をコンピューターで合成し、それぞれ違う場所や時間 から取ってきたイメージを一つの新しいイメージに作り変える。その過程は非常 に精巧で繊細だが、不連続的な空間と対象が重なり合い、幻想的な雰囲気を醸し 出す。現実と想像が入り混じった私の作品は、デジタル作業によるものだがアナ ログ的な感性を掻き立て、多彩な物語を生み出す。人間と社会という深くて重い テーマをウイットに富んだコラージュで表現している。
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1 『7歳-母の故郷の海』 ウォン・ソンウォン(元性媛)、Cプリント 125×195㎝、2010年
2 1.『7歳-花咲く梨の木とカモメ』 ウォン・ソンウォン(元性媛)、Cプリント、125×195㎝、2010年 2.『IT専門家の水草ネットワーク』 ウォン・ソンウォン(元性媛)、Cプリント、178×297㎝、2017年 © Won Seoung-won & ARARIO GALLERY
略歴
• 1972年、京畿道高陽生まれ • 中央大学校芸術学部彫塑科
• デュッセルドルフ美術アカデミー、ケルン・メディア芸術 大学を卒業
• 『1978年7歳』(ガナコンテンポラリー、ソウル、
2010)、『Character Episode I』(アートサイドギャラ
リー、ソウル、2013)、『Sceptical Orgy』(Podbielski
Contemporary、ドイツ、2014)、『他人の風景』(アラリ オギャラリー、ソウル、2017)などの個展を開催
• 国立現代美術館、ソウル市立美術館、森美術館(日本)、
オストハウス美術館(ドイツ)、サンタバーバラ美術館(ア メリカ)などに作品が所蔵されている。
韓国の文化と芸術 11
クォン・オサン権五祥 私の創作活動
私の創作活動は少し変わっている。例えば、一人のモデル
を頭から爪先までいくつかに分けて写真を撮る。そして、発泡 スチロールを人と同じくらいの大きさに彫刻した後、撮った写 真を貼っていく。1998年にこのような方法で制作した『デオド ラント・タイプ』を発表した際「写真彫刻」と呼ばれた。「彫 刻の材料が必ずしも重い石や青銅でなければならないのか」と いう疑問が沸いたとき、伝統的な彫刻から離れて軽い作品を作 ろうと考え、写真と彫刻を結びつけることにした。それ以来、 作家としてテーマは「彫刻とは何か。どのように進化した形を 見せるのか」にある。
略歴
• 1974年、ソウル生まれ
• 弘益大学校彫塑科と同大学院を卒業
• 『ペパーミント・キャンディー:韓国現
代美術中南米巡回展』(サンティアゴ現代 美術館、チリ、2007 / アルゼンチン国立 美術館、2008 / 国立現代美術館、果川、
2007)、『韓国の現代写真の眺望:1999~
2008』(国立台湾美術館、2010)、『Tech 4 Change』(ヴェストフォシン美術館、ノ ルウェー、2015)などの企画展に参加
• 『New Structure and Relief』(アラリ
オギャラリー、ソウル、2016)、『The
Sculpture』(アラリオギャラリー、中国上 海、2016)などの個展を開催
• サムスン美術館リウム、シンガポール美術 館、浅野研究所(日本)、ザブドウィッツ
・コレクション(イギリス)、ユニバーサル ・ミュージック(イギリス)などに作品が 所蔵されている。
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『Blouson & Albino』 クォン・オサン(権五祥)、Cプリント、ミクストメディア 195×47×125㎝、2016年
1
1.『Fender』 クォン・オサン(権五祥)、Cプリント ミクストメディア、207×194×110cm 2012年
2.『New Structure and Relief』 クォン・オサン(権五祥)、ソウル・アラリ オギャラリーにて展示、2016年
2
© Gwon O-sang & ARARIO GALLERY
韓国の文化と芸術 13
特集 1
韓国のフォトグラフィー:ビジュアル・ランゲージを自由に楽しむ
1
新しい文物 韓国人の日常へ 14 KOREANA 春号 2018
舶来品だった写真は、韓国に入ってきた当時、多く の人にとって恐怖の対象だったが、次第に日常に溶 け込んでいった。写真の大衆化は、経済発展と共に 関連産業・文化を成長させた。カメラの値段は一 時、家1軒分ほどだったが、今では誰もが持つよう になり、文字よりもイメージに慣れ親しんだ世代を 生み出した。 ユン・セリョン ı 尹世鈴、月刊写真芸術編集主幹
2
3
1. 『ノルティギ(板跳び)をする乙女たち』 フロリアン・ドマンズ、ガラス乾板 17.5×12.5cm、1910年代 ⓒ 鄭成吉
2. 『初めての食卓』 ノルベルト・ウェーバー ガラス乾板、1911年
4 5
ⓒ Benedict Press Waegwan 2012
3. 『景福宮建春門近くで訓練中の大韓帝国の兵隊』 ゼラチン・シルバー・プリント 9.8×13.8cm、作者年度未詳 ⓒ 独立記念館
4. 『舞踊するナバウィ聖堂の女子生徒』 Florian Demange、ガラス乾板 4 in×6 in、1900年代 ⓒ 鄭成吉
5. 『啓明学校』 ノルベルト・ウェーバー ガラス乾板、1911年 ⓒ Benedict Press Waegwan 2012
韓国の文化と芸術 15
真だけは鮮明に残り、その時点に連
時
リアリズム写真の主人公になった韓国人
れ戻してくれる。そのため「残るの
の値段はソウルの家1軒分にもなる高価なものだっ
は写真だけ」ともいわれる。残したいという思い、
た。そのため、写真は好事家の専有物で、庶民には
消えたり忘れられたりせず記録・記憶されたいとい
まだまだ遠い存在だった。しかし、1953年の朝鮮戦
う人間の願望は、写真の属性にぴったりと当てはま
争休戦によって、ようやく商業写真館が現れ、新聞
る。しかし、写真が今から100年ほど前に韓国に入っ
社の写真記者のような専門家、一部の富裕層の愛好
てきた当時、多くの人は今のように好意的ではなか
家を中心にカメラが普及し始めた。ちょうどその
った。
頃、写真ブームを巻き起こす大きな出来事があっ
間と共に記憶は薄れるとしても、写
韓国に初めて写真技術がもたらされた19世紀末、
1910年から1945年までの日本統治時代、カメラ
た。
当時は外国人宣教師などごく一部の人だけがカメラ
1957年に景福宮美術館で開かれた『ザ・ファミリ
を持っていた。生まれて初めてカメラに接した人に
ー・オブ・マン(人間家族)』展という大規模な世
とって、見慣れぬ西洋人から向けられるカメラは、
界巡回写真展におよそ30万人が押し寄せ、話題にな
ほとんどの場合、恐怖の対象だった。全く得体の知
ったのだ。企画したエドワード・スタイケン氏は、
れない黒い箱のようなものが、自分にそっくりな姿
ニューヨーク近代美術館の写真部門のディレクター
を作り出すという事実は、恐ろしくて気味が悪かっ
を務めていたアメリカの写真家だ。写真展では、世
た。そのため、当時は「写真を撮られると魂が抜け
界的に有名な写真家がヒューマニズムをテーマに撮
る」という噂が流れ、おびえた人は写真を撮られな
影した500あまりの作品が公開され、写真に接したこ
いようにしていた。
とのない韓国人に、写真の価値と役割について意識
一方、ごく少数の権力者にとって、写真は時代 に先んずる新しい文物であり、肖像画を残すことは
させるきっかけになった。また、写真が新生芸術で あることも自覚させた。
富の象徴とされた。それを裏付ける記録も残ってい
この写真展の影響で、東亜日報は1963年に一般人
る。韓国初の商業写真館「天然堂」が1907年にソウ
を対象にした「東亜写真コンテスト」という公募展
ルの中心にある現在の小公洞で開業すると、王室関
を創設した。さらに、その翌年の1964年には大韓民
係者、富裕層、外国人などであふれかえったとい
国美術展覧会に写真部門が新設されるなど、開花期
う。しかし、一般の人にとって写真が日常になるに
の新しい文物だった写真が、多くの人に広がってい
は、それから半世紀以上の時間が必要だった。
った。また1964年は、徐羅伐(ソラボル)芸術大学
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1
1
2
1.『解放を迎え出獄した独立闘士』 作者未詳、20.3×25.4cm、1945年 ⓒ 独立記念館
2.『釜山』 チェ・ミンシク(崔敏植)、1965年 ⓒ チェ・ユド(写真提供:ヌンビッ出版社)
3
3.『母親と面会するベトナム派兵兵士、汝矣島飛行場』 桑原史成、1965年 ⓒ 写真提供:ヌンビッ出版社
韓国の文化と芸術 17
1993年に長い軍事独裁から脱し、民間人の大統領が国民に よって選ばれ、政治に春が訪れてから、「写真を撮られて 良いことなど一つもない」という認識が少しずつ薄れてき た。民主化の春は「写真の春」をもたらしたともいえる。
趣味で写真を撮っていたアマチュアの写真家とは違
写真から派生した新しい生活像
うプロの写真家が育成され、写真の量的・質的成長
からだ。その当時、多くの大学で写真学科の開設ブ
を促した。
ームが起こり、毎年20あまりの大学から1000人以上
に韓国で初めて写真学科が開設された年でもある。
写真の大衆化が本格的に進んだのは、1980年代
1960年代から1970年代のリアリズム思潮は、庶民
の学生が卒業していった。1980年代の半ばから写真
を主人公にした印象的な作品を誕生させた。生涯、
留学の第一世代が帰国し始めた。それは韓国の経済
庶民の人生に焦点を当てたチェ・ミンシク(崔敏
成長と相まった結果でもある。1980年代から始まっ
植)の『人間』。混血孤児を撮ったチュ・ミョンド
た経済の高度成長によって、広告市場が爆発的に成
ク(朱明徳)の『ホルト氏孤児院』。ソウルの路地
長し、それに合わせて広告写真の需要が急増したた
裏の人々を30年にわたって記録したキム・ギチャン
め、ソウルの忠武路には広告写真のスタジオが相
(金基賛)の『路地裏の風景』。1971年にセマウル
次いで開業した。それがプロ写真家の需要をもたら
運動(地域開発運動)と農村の人々を記録したキム
し、写真学科の増設と一般人の高い関心へとつなが
・ニョンマン(金寧万)の『故郷』。娘のユンミが
った。
生まれてから結婚するまでの成長を収めたチョン・
経済成長は、企業の広告写真だけではなく、経済
モンガク(全夢角)の『ユンミの家』。こうした持
的に余裕のある個人にも写真の需要をもたらした。
続的な創作活動によって、それまで外国人の目線で
中でも代表的なのは、結婚写真だ。結婚写真のスタ
記録されていた韓国人が、ようやく異邦人の目では
ジオは、多彩なマーケティング戦略によって新たな
なく、韓国人写真家の見た姿として残されるように
ニーズを生み出した。それ以前は、結婚式場での撮
なった。
影に限られていたが、21世紀に入ると結婚式の前に
一方、その頃の一般家庭では、最も目に留まりや
スタジオや野外で結婚写真を撮影する習慣が定着し
すい居間に家族写真をかけることが流行っていた。
た。結婚式は、式場で1時間以内に終わるため、そ
親の還暦祝い、夫婦の結婚式、赤ちゃんの初めての
の名残惜しさをスタジオや野外撮影で埋め始めたの
誕生日、角帽を被った子供の卒業写真など。また、
だ。そこには、人生において最も重要な結婚式とい
客人にお茶やお菓子と一緒に写真のアルバムを出し
う儀式で、タキシードを着た新郎と純白のウェディ
てきて、誇らしげに見せることもあった。しかし、
ングドレスを着た新婦が童話の王子様とお姫様のよ
1970年代末までは、何かの記念でもない限りカメラ
うにロマンチックな雰囲気を満喫できるという満足
の前に立つことは滅多になかった。
感が大きく働いている。
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2
1.『手を取り合う南と北、板門店』 キム・ニョンマン(金寧万)、1992年 ⓒ キム・ニョンマン
2.『済州島の神クッ(シャーマニズムの祭儀)、済州島・東金寧里』 キム・スナム(金秀男)、1981年 ⓒ キム・スナム記念事業会
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3.『失われた風景135、松坡区蚕室洞』 キム・ギチャン(金基賛)、1983年 ⓒ チェ・ギョンジャ(写真提供:ヌンビッ出版社)
韓国の文化と芸術 19
KBS 이산가족찾기운동
“누가 이 사람을 모르시나요”
1
2
1.『再会する離散家族』 ホン・スンテ(洪淳泰)、1983年 © Hong Seong-hui
2.『Untitled』、『ユンミの家』 カン・ウング(姜運求)、1989年 ⓒ Kang Woon-gu
3.『Untitled』、『ユンミの家』 チョン・モンガク(全夢角)、1964年 ⓒ イ・ムンガン(李文江)
20 KOREANA 春号 2018
3
カメラの前で萎縮していた時代は過ぎ去り、堂々と自分を 表現してアピールする、自由なイメージを楽しむ時代が来 たのだ。言語と文字に次いで、映像言語の表現も自由に満 喫できるようになったと実感できるだろう。
面白いのは、ウェディングスタジオの増加が、赤
配し、今もある部分では続いている。軍事独裁政権
ちゃん専門写真スタジオのブームにつながったとい
は反共を掲げ、民主化を唱える人々を監視・弾圧し
う点だ。特別な結婚写真を撮った若い夫婦が、赤ち
逮捕もした。全てが恐ろしく、不安で抑圧された雰
ゃんの誕生によってもう一度ロマンチックな雰囲気
囲気に覆われていた。どんなことであれ前面に立て
を演出するのだ。今から30~40年前には100日や初誕
ば、一瞬で運命が変わるかもしれない。そんな状況
生日に、赤ちゃんを近くの写真館に連れていき、韓
の中、目立たず匿名を保つのが安全だという心理が
国の伝統衣装「韓服」を着せて記念写真を撮るだけ
広がっていた。写真が持っている証拠機能のため、
だった。しかし、最近は赤ちゃんを専門のスタジオ
見知らぬ人のカメラに収められることは、不安で嫌
に連れていって、まるで芸能人のポスターのように
なものだった。
撮影をするのが一般的だ。
1992年に長い軍事独裁から脱し、民間人の大統
さらに、そうした専門スタジオの営業戦略によっ
領が国民によって選ばれ、政治に春が訪れてから、
て、韓国の昔からの伝統だった100日祝いに先だって
「写真を撮られて良いことなど一つもない」という
「50日記念写真」まで流行っているという。母親の
認識が少しずつ薄れてきた。民主化の春は「写真の
おなかの中で撮られる超音波写真に始まって、こん
春」をもたらしたともいえる。もちろん、南北分断
なに早くからカメラの前で育った子供は、インター
が続いている状況で、写真への認識が完全に変わっ
ネットのイメージの洪水に自然に溶け込んでいくこ
たわけではないため、写真家は依然として「撮影禁
とになる。
止」の壁にぶつかることもある。
撮影禁止が氾濫していた時代
全国民が写真家
て「カメラ恐怖症」があった。しかし、写真への拒
に訪れた。かつて高価な贅沢品だったカメラが一家
否感は、実は20世紀の間ずっと続いていた。それは
に1台ずつ広がり、さらに一眼レフカメラのような
韓国の現代史と非常に密接な関係がある。朝鮮戦争
機能まで備えた携帯電話が普及するにつれて、全国
とその後の複雑な政治状況、独裁政権に立ち向かう
民がカメラを持つようになった。写真は、文字と言
民主化運動の中で身についた庶民の被害意識は、カ
語の代わりに、映像言語としてコミュニケーション
メラへの否定的な反応として現れた。
・ツールになっている。特に先端のインターネット
写真技術が入ってきた当初、写真への無知によっ
南北分断による対峙がもたらした反共イデオロ ギーは、半世紀以上にわたって韓国人の日常を支
それでも、全国民が写真家といえる時代が、つい
技術によって、文字よりもイメージに慣れ親しんだ 新しい世代が生まれている。
韓国の文化と芸術 21
こうした状況を反映した興味深い調査がある。 10年ほど前に読んだ「女性が結婚したい男性の1位
1
は、写真学科の卒業生」という記事だ。その理由 は、写真学科に入学するのは裕福な家庭の子供が多 い点、旅行の機会が多い点、格好いい職業で時間的 に余裕がある点などが挙げられていた。 その頃、ある写真学科の教授から面白い話を聞い た。写真を学ぶため1979年にアメリカに留学すると 話した時、「写真はシャッターさえ押せば撮れるの に、何を勉強するためにわざわざアメリカに留学す るんだ?」と怪訝な顔で言われたが、今となっては 「先見の明があった」と言われていると…。最近は 写真が趣味というアマチュアの写真家が数百万人に 上るといわれるほど、爆発的に増加している。 そうしたアマチュア向けの全国的な写真コンテス トが数百もある。韓国写真作家協会は、その受賞経 歴を点数にして一定の値に達すれば加入できるもの で、会員が1万人に迫っている。写真は、余裕のあ る高齢者にとって、山登りやゴルフと共に引退後に やってみたい人気の趣味でもある。
2
今この瞬間も、そこかしこで多くの人々が様々 な対象を撮影している。それは植民地支配や戦争・ 分断によって1世紀の間、抑えつけられていた韓国 国民の意識が、ようやく自由を求めて人生を満喫し ているという一つの証拠なのかもしれない。カメラ の前で萎縮していた時代は過ぎ去り、堂々と自分を 表現してアピールする、自由なイメージを楽しむ時 代が来たのだ。言語と文字に次いで、映像言語の表 現も自由に満喫できるようになったと実感できるだ ろう。
22 KOREANA 春号 2018
1. 結婚写真の撮影が始まった1990年代の初めは、新郎新婦が 結婚式の前に、野外で簡単に写真を撮るだけだった。その後、 1990年代末に専門のスタジオができると、ユニークなコンセプ トで演出された写真集のような結婚写真が流行し始めた。 ⓒ Vienna studio
2. 以前は100日や初誕生日に、赤ちゃんを近くの写真館に連れて いき、韓国の伝統衣装「韓服」を着せて1~2カット撮るだけ だった。最近は多くの若い親が、50日や200日にも赤ちゃん専門 のスタジオに行き、様々なポーズで育児雑誌のモデルのような写 真を撮っている。 ⓒ サランビスタジオ
『美女と野獣』 「VOGUE KOREA」2002年12月号 ク・ボンチャン(具本昌) ⓒ Koo Bohn-chang
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1.『DMZ』 パク・チョンウ(朴宗 祐)、2017年 ⓒ Park Jong-woo
2.『Red House I #007、 2005平壤』 ノ・スンテク(盧純 沢)、2005年 ⓒ Noh Sun-tag
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3. 2002年6月22日、韓 日ワールドカップ(サッ カー)にてソウル市庁前 広場で韓国代表チームを 応援するサポーター「レ ッドデビルズ」。5月31 日から6月30日まで、韓 国の10の開催都市だけ でなく全国各地でパブリ ックビューイングが行わ れ、熱い応援が続いた。 ⓒ 朝鮮日報社
4. ソウル光化門広場にて 2016年11月19日、パク・ クネ(朴槿恵)政権を批 判し、民主化を叫びなが ら、ろうそくを手にデモ をする市民。2017年10月 まで1年近く続いた週末 のろうそく集会は、延べ 1700万人が参加したとい われている。 ⓒ 聯合ニュース
韓国の文化と芸術 25
特集 2
韓国のフォトグラフィー:ビジュアル・ランゲージを自由に楽しむ
26 KOREANA 春号 2018
韓国の現代史と 共に歩んだ ドキュメンタリー写真 写真の本質は、何といっても臨場感と記録性にある。韓国のドキュメンタリー写真家も、 その本質を守りながら、激動する歴史の現場で目撃者になり証言者となってきた。 1枚の写真が歴史の流れさえ変えた韓国現代写真の起点は、 日本の植民地支配から解放された1945年にある。 イ・ギュサン ı 李圭相、ヌンビッ(Noonbit)出版社代表
放と正確に一致する。日本の弾圧や統制によ
韓
分断の荒波と朝鮮戦争
って風景写真しか撮れなかった写真家が、そ
当時は画家になりたいと思っていたが、中学校の入学祝いとし
の日から植民地支配下の統制された視線ではなく、自由を取り
てもらったミノルタ・ベストによって、写真家の道を歩むこと
戻した韓国人の視線で国と民族を捉えるようになったからだ。
になった。彼は、日本の植民地支配から解放されたその日、カ
そうした点で、韓国の写真における「独立記念日」でもある。
メラを持って街に出て、感激する群衆を写真に収めた。韓国の
頭で想像したものをキャンバスに描ける絵画とは違い、写
現代写真が始まった瞬間だ。その後1945年9月上旬、ソウルの
真は必ず現場にいなければ撮れない。多くの写真家が、歴史の
繁華街・明洞の入口で見慣れぬ光景を目にして、すぐにカメラ
現場で写真によって各自の主張をしてきた。その中には、韓
に収めた。それは日本軍の代わりにソウルに進駐していた米軍
国全羅南道光陽市出身で19歳の若き写真家イ・ギョンモ(李坰
が、デパートの前に座り込んでいる姿や人力車で走り去ってい
謨、1926~2001)もいた。
く姿だ。3年にわたるアメリカの軍政は解放なのか占領なのか
国の現代写真史の起点は、1945年8月15日の解
イ・ギョンモに初めてカメラを手渡したのは祖父だった。
という議論が起きるなど、分断の悲劇が始まった時代でもあ る。解放はされたものの、米軍の統治下に置かれていた当時の 状況は、若い写真家の目にも強く焼き付いたのだろう。写真家 イ・ギョンモは、左翼と右翼の対立から起きた麗水・順天事件 (1948)、朝鮮戦争(1950~1953)など激動期の韓国を多くの 『路地裏の人々-ソウル杏村洞』 キム・ギチャン(金基賛)、1972年
ⓒ チェ・ギョンジャ(写真提供:ヌンビッ出版社)
写真として残した。 解放の喜びも束の間、朝鮮半島は分断による苦痛にさいな まれていた。そのような現実を目にし、分断について掘り下げ
韓国の文化と芸術 27
る写真家が現れ始めた。軍の情報機関の将校だった写真家ハン
の故郷そのものだった。初めてその路地に立ち入った日、騒々
・チギュ(韓致奎、1929~2016)は、民間人の入れない非武装
しい路地の雰囲気は幼い頃の社稷洞(鍾路区)の路地を連想さ
地帯で南北が鋭く対峙する現場を写真に残した。
せた。私はその場で、自分の写真のテーマを路地裏の人々の苦
彼は、北朝鮮から漁船で南に向かい、韓国軍として朝鮮戦 争に臨んだ。仕事のために購入したカメラを常に持ち歩いて、
楽、タイトルを路地裏の風景にして、それらを一生のテーマに すると決めた」。
1979年に大領(大佐に相当)として予備役に編入されるまで非
写真家キム・ギチャンは「路地裏の風景」をテーマにした
武装地帯や指揮部隊でシャッターを切り、自宅があるソウルで
写真集を第6巻まで出版した。また、ソウル駅の前に陣取る農
は様変わりする街並みを撮影し、離れて暮らす子供を撮るなど
村から上京してきた人たち、彼らが離れた農村の様変わりする
して、亡くなる前に写真集を出した。そのようにして残された
風景などを記録した作品集も残している。彼の写真は、路地裏
写真は、分断の傷跡と当時の韓国人の生活に染みついていた軍
の人たちへの親近感を基に、路地という限られた空間での長期
事文化の一面を思い起こさせる。残念なのは、非武装地帯が横
にわたる記録として再評価されている。韓国人は、急激な経済
たわる不安な平和が、いまだに残っていることだ。
開発の代償として、故郷、家族、隣人を失った。貧しくても励
目まぐるしい産業化の裏に貧しい小市民
まし合い、慰め合っていた温かい路地。そこに生きた当時の小
韓国は、戦争と分断を経ながら、世界で類を見ない急速な
市民の姿は、彼の写真の中に生きている。
のような高度経済成長から取り残された人たちに温かい視線を
民主主義への熱望
向けた。チェ・ミンシク(崔敏植、1928~2013)は、貧しい人
政権を握っていたパク・チョンヒ(朴正煕、1917~1979)大統
々の日常を記録した代表的な写真家だ。東京の中央美術学園の
領の死去によって、民主化の気運が高まった。学生は、新軍部
デザイン科を1957年に卒業し、独学で写真を研究して、人を素
による独裁政権打倒を叫んで街に出て、沈黙を守っていた市民
材にした写真を撮り始めた。生涯をかけて写真集『Human』を
も加わった。しかし、マスコミが政府によって統制されていた
14冊にわたり出版し、社会の底辺で貧困と苦痛にさいなまれる
ため、市民は民主化運動の真相について正確に把握できず、軍
人たちを捉えて、人間の内面と本質を直観的に映し出した。
事独裁政権がどんな陰謀を企んでいるのかも全く知らなかっ
経済成長を成し遂げた。韓国のドキュメンタリー写真家は、そ
韓国社会は計画経済を押し進めていたが、長きにわたって
「私は、この地で虐げられた貧しい人たちに全ての愛情を
た。そうした限られた情報の中、特に光州で1980年5月に起き
注いできた50年ほどの間、暗く厳しい状況に置かれた人たちだ
た光州事件と独裁政権の闇を知った学生が、民主化運動の先頭
けをカメラに収めてきた。シャッターを切りながら、人間とし
に立った。
て彼らの真実を疑ったことはない」。
写真記者のクォン・ジュフン(権周勲、1943~)は、2015
彼も生涯貧しく、貧しい人をただの被写体だと思っていな
年にニューシス通信社を引退するまでの47年間、現場を駆け回
かった。誰よりも写真の中の恵まれない隣人を愛し、1960~
りながらその時代の証言として写真を残した。1986年5月20日
1970年代の高度経済開発から取り残された人たちをありのまま
午後2時頃、ソウル大のアクロポリス広場で五月祭を取材して
記録した。産業化と経済成長が、必ずしも人間に幸福をもた
いたときのことだ。その日のテーマは「光州抗争の民族史的再
らすわけではない。そうした事実を見抜いた写真家が、もう一
照明」で、当時有名な反体制運動家だったムン・イッカン(文
人いる。キム・ギチャン(金基賛、1938~2005)は、週末にな
益煥、1918~1994)牧師が演説していた。しかし突然、一人の
るとカメラを持って貧しい人たちが集まっているソウルのタル
学生が学生会館の4階の屋上でスローガンを叫びながら全身に
トンネ(貧民街)を訪れた。テレビ放送局に勤めていた彼は、
シンナーをかけて火を付けた後、7m下の2階に飛び降りた。
次のように回想している。「中林洞(中区)の路地は、私の心
近くにいた学生が駆け寄って火を消そうとしたが、なかなか消
28 KOREANA 春号 2018
『人力車で出かける米軍、 ソウル明洞の入口』 イ・ギョンモ(李坰謨)、1945年
ⓒ イ・スンジュン(写真提供:ヌンビッ出版社)
『軍事境界線を巡視する韓国軍』 ハン・チギュ(韓致奎)、1972年
ⓒ ハン・スンウォン(写真提供:ヌンビッ出版社)
韓国の文化と芸術 29
『倒れるイ・ハンヨル』 チョン・テウォン(鄭泰元)、1987年 ⓒ チョン・テウォン(写真提供:ヌンビッ出版社)
30 KOREANA 春号 2018
韓国現代史の現場には、常に写真家がいた。彼らはカメラで軍 事独裁に抵抗し、産業化から取り残された人々を温かい視線で 捉えた。ドキュメンタリー写真家は、統制によって公的な記録 と歴史から削除された記憶をそのように蘇らせたのだ。
えなかった。自動車用の消火器で何とか火を消したが、イ・ド
ォン記者は、デモのたびに学生側で間近に撮影した。光州事件
ンス(李東洙)君は病院に運ばれた直後に死亡した。
でも市民軍の側に立って、銃弾が飛び交う現場を撮影した。
当時は戒厳令下で、この衝撃的な焼身現場の写真を掲載す
このように韓国現代史の現場には、常に写真家がいた。彼
るほど、勇敢な報道機関は韓国内になかった。写真記者クォン
らはカメラで軍事独裁に抵抗し、産業化から取り残された人々
・ジュフンが働いていた新聞社も、2日後に新聞の片隅で小さ
を温かい視線で捉えた。ドキュメンタリー写真家は、統制によ
く報道しただけだった。結局この写真は海外で報道され、逆に
って公的な記録と歴史から削除された記憶をそのように蘇らせ
韓国内で知られるようになった。全身に火が付いたままダイビ
たのだ。彼らは必死に伝えてきた。「写真は常に強者より弱者
ングでもするかのように飛び降りる凄惨な写真は、民主化を求
を、加害者より被害者を、勝者より敗者を、権力より民主を求
める学生の熱望を物語っていた。ある青年は、この写真を見た
めてきた」と。
衝撃で、裁判官から真実を伝える記者へと進路を変えたと話し
写真の民主化、そしてろうそく革命
てくれた。 独裁政権と民主化陣営の激しい衝突を記録した写真家は、
1945年以降、政治・経済・社会的に前進し続けてきた韓国
クォン・ジュフン記者だけではない。ロイター通信の韓国支部
社会の激動の現代史は、現場を見つめる多くの写真家によって
で写真部長を務めたベテラン写真記者チョン・テウォン(鄭泰
記録された。それに対して、2016年10月から始まった「ろうそ
元、1939~)も、1980年の光州事件と1987年の6月民主抗争を
く革命」は、プロ中心から全ての市民が写真家になる時代へと
写真に収めて全世界に伝えた。特に、1987年6月9日に延世大
移り変わったことを実感させた。
の前でデモを行っている中、催涙弾に撃たれて倒れたイ・ハン
アナログ写真時代には、写真記者がカメラを持って事件・
ヨル(李韓烈)君の写真は、6月民主抗争の起爆剤になり、そ
事故の現場でシャッターを切ったが、デジタル写真時代には専
の後も長い間、民主化運動のアイコンとして注目を集めた。無
門的なスキルがなくても、その場にいる全ての人が各自の目線
慈悲な公権力によって血を流して倒れる写真が新聞で報じられ
で写真を撮れるようになった。携帯電話のカメラの機能が、ま
ると、市民の間に激しい怒りが渦巻いた。
すます進化しているからだ。写真の主体も、同様に民主化して
写真記者チョン・テウォンの回顧によると、催涙ガスが霧
いる。2014年4月16日にセウォル号が沈没した際、船内に閉じ
のように立ち込める中、一人の学生が手を後頭部の方に上げな
込められた多くの生徒が携帯電話で切迫した状況を写真や動画
がら倒れる姿を目撃し、すぐに駆けつけたという。その後、
に残し、多くの人の心を痛めた。
他の学生が駆け寄って両脇を抱え上げる様子を間近でカメラに
2016年の冬にソウルの光化門で行われたろうそくデモも
収めた。重要な写真だと直感し、病院に運ばれる学生を後にし
同じだ。当時その場にいた多くの市民が、家族や仲間と一緒
て会社に戻り、暗室で写真を焼き付けて全世界に送った。その
にポーズをとってシャッターを押す様子が見られた。つま
後、イ・ハンヨル君の救急処置を行った担当医を調べて、電
り、そのデモの現場で撮られた写真が数多くあるということ
話で状態を聞いたところ「今は昏睡状態だが、長くはないだろ
だ。彼らは、それぞれに写真を見ては、腐敗した政権に憤慨
う」という返事が返ってきた。実際にイ・ハンヨル君は意識を
したあの日、民主主義に向けた熱気の中にいたことを記憶し
取り戻すことなく、7月5日に息を引き取った。チョン・テウ
続けるだろう。
韓国の文化と芸術 31
特集 3
韓国のフォトグラフィー:ビジュアル・ランゲージを自由に楽しむ
ホモ・フォトクスと デジタル写真の二面性
デジタルカメラとスマートフォンの普及により、写真は以前と大きく異なる意味合いを 持つようになった。いまや写真は、特別な事件ではない日常を記録する手段であり、誰 もが簡単に利用できるコミュニケーションの接点でもある。「認証ショット」を撮って SNSに載せるのが、今の時代に生きる人たちの日常的な特徴になっている。 チェ・ヒョンジュ ı 崔炫珠、フリーランス・コピーライター、写真エッセイスト
『Flâneur in Museum, Louvre』 キム・ホンシク(金洪式) エンボッシング、ウレタン、ステンレスに インク・シルクスクリーン、 120×150㎝(額幅含む)、2016年 ⓒ Kim Hong-shik
32 KOREANA 春号 2018
韓国の文化と芸術 33
1
最
近は、どこでも誰でも写真を撮る。なぜ多く
いるような古い寺院を訪れたことがある。その日に限って霧に
の人が、それほど熱心に写真を撮るのだろう
覆われて、真っ白で何も見えなくなり、とても残念な思いをし
か。考えてみると、写真を撮るという行為に
た。「ちょうどこの辺りで、この角度であのお寺を撮れればい
は、その対象が存在する時間を忘れず大切にしたいという意味
いのに…」。ガイドブックで見た写真が、頭の中に思い浮かん
が込められている。つまり、写真は「所有」と関係がある。思
だ。しばらく待っても、霧は晴れない。案内してくれたガイド
い出や記憶も、広い意味では一種の所有といえる。
さんが、微笑みながらこう言った。「良い方法がありますよ。
おばあさんたちは、よく言う。「年を取って写真なんか撮
家に戻ってから、グーグルで検索してみてください」。
るものじゃない」。この言葉の中には、写真は美しいものを撮
カメラを持った人が旅行先で同じような写真を撮ってくる
るという考えが含まれている。なぜ美しいものだけを撮るべき
のは、それが他人に自分の経験や感動を見せることができる一
だと考えるのだろうか。確かに仕事の資料や特別なコンセプト
種の証拠資料だからだ。旅先で並んで待ってまで同じ場所に立
の作品でもなければ、あえて醜い物やみすぼらしい風景にカメ
って同じような写真を撮るのも、そのためだろう。自分の目で
ラを向ける理由はないだろう。そもそも、そのようなものを所
見た美しい風景を自分のカメラで撮影することで、その風景を
有したい人はいないはずだ。
自分が所有したと感じ、また自分が所有したことを他人に認め
たった1枚の「人生ショット」を撮るために
てもらいたいわけだ。
デジタルカメラの登場以来、多くのアマチュア写真家が、
ショットは30年後、写真史学者によって、ドキュメンタリー
同じような風景を版画でも刷るように撮っている点について考
写真やポートレートのように一つのジャンルとして分類され
えてみよう。なぜだろうか。いつだったか、崖にぶら下がって
るかもしれない。工作する人を意味するホモ・ファーベル、
34 KOREANA 春号 2018
そのような写真は「認証ショット」と呼ばれている。認証
2
器用な人を意味するホモ・ハビリス、遊ぶ人を意味するホモ ・ルーデンスに続いて、2010年代にホモ・フォトクス(Homo photocus)と呼べる新生人類がついに誕生したのだ。 ホモ・フォトクスは老若男女を問わない。最新の機械が苦 手な高齢者でさえ、カメラの前では自然に振る舞う。一眼レフ はともかく、スマートフォンのカメラなら今や誰でも扱える。 片手に収まるスマートフォンだけで、ほぼ全ての種類の写真が
1. ソウル鍾路区の昌慶宮で自撮りす る、華やか韓服(韓国の伝統衣装)姿 の若い女性。ほとんどは、伝統文化の 価値よりも特別な「認証ショット」が 目的だ。 ⓒ朝鮮日報社
2. レストランで注文した料理が出てく ると、食べる前に撮影が始まる。日常 を「認証ショット」としてSNSに載せ るのは、若い世代の新しい文化だ。 © GettyimagesBank
撮影できる。腕よりも長い自撮り棒にスマートフォンを取り付 けて、好きな角度で写真を撮れるため、見知らぬ人に写真撮影 を頼む必要もない。21世紀の新生人類は、スマートフォンを片 手に、地球のあちこちで「認証ショット」を残すことに夢中に なっている。認証ショットという言葉は、デジタルカメラやス マートフォン、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービ ス)が作り出した新語で、新生人類の特徴を表すのに最適な単 語だ。 最近、ソウルの都心にある景福宮、ソウルの古い街並みが 残っている北村韓屋村、昔ながらの情緒が残る都市・全州の韓 屋村などでは、数年前にはなかった新しい光景が見られるよう
韓国の文化と芸術 35
21世紀の新生人類は、スマートフォンを片手に、地球のあちこちで 「認証ショット」を残すことに夢中になっている。認証ショットと いう言葉は、デジタルカメラやスマートフォン、SNSが作り出した新 語で、新生人類の特徴を表すのに最適な単語だ。
になった。そうした観光名所では、10~20代の男女が韓服(韓
れる。様々なやり取りが交わされた後、色々な評価が残され
国の伝統衣装)を借りてきて認証ショットを撮っている。結婚
る。写真を一つの人格と仮定すれば、アナログ時代の写真は、
式など特別な日に着るだけで、普段は忘れかけていた韓服が、
フィルムから現像されて額に入れられ、家のリビングにかけら
街に戻ってきたのだ。面白いのは、そうした流行が伝統や歴史
れることが最高の運命だと考えただろう。一方、デジタル時代
の懐古にはなく、あくまでも写真のおかげだという点だ。
の写真は、それほど多く現像されない。その代わり仮想世界の
若者は、現代の服とは全く違う美しい伝統衣装姿で写真を
イメージとして世界中に公開され、遠くまで広がる。デジタル
残すために、韓服を着る。認証ショットは、すぐにSNSに載せ
写真の運命は、うまく補正されてSNSで多くの「いいね」を得
られる。現実の本当の友達とネット上の仮想の友達に、ためら
ることにかかっている。
うことなく自分の写真を公開する。特に最近の若者は、自分の
個人的な経験から言うと、SNSで最も多くの反応を得る内
認証ショットの中で一番気に入った写真を「人生ショット」と
容は、政治的なやりとりでも社会的な話題でもなく、経験や悩
呼ぶ。1枚の人生ショットを撮るために、華やかな伝統衣装を
みを打ち明けた文章でもない。最も反応が良いのは、自撮り写
借りて、趣のある街へ、昔の王宮へ、カフェへ、観光名所へと
真と認証ショットだ。そのような写真は、より多くの人の心を
訪ね歩く労をいとわない。
動かし、普段は無口な人にさえ口を開かせる。文章よりも写真
コミュニケーションの中心にある写真
の前でよく笑い、感覚的になる。写真は文章より強い磁場で人
写真は人を呼び集める。写真のないテキストをインター
せる。つまり、誰かと関係を結び、親密にコミュニケーション
ネットに載せても、なかなか注目されない。そのため、ブロ
できるような動機を与える。SNSという翼を得たデジタル時代
グのような自分メディアを作っている人は、訪問者の視線を
の写真は、それ自体が最も有用なコミュニケーションになって
釘付けにできる写真を載せるために手間暇をかける。グルメ
いるのだ。
やファッションのようにイメージが重要なブログは言うまで
事実の認証ではなく、願望の認証
もない。最高級のデジタルカメラで、プロ顔負けの撮影スキ ルを発揮する。
と人とを引き寄せて、互いに近況を尋ねて挨拶や会話を交わさ
2010年代に人類が撮った写真は、カメラが発明されてから
デジタルカメラとスマートフォンは、多くの変化をもた
約180年間に撮られた写真よりも多いはずだ。テクノロジーの
らした。以前は写真を撮ったら現像して額に入れ、壁にかけ
発展がそれを可能にしたが、別の側面から見ると、写真にはデ
たり机に置いたりした。そして時折、写真を眺めて思い出に
ジタル時代の願望が反映されている。ソウル大学校消費者学
浸ったものだ。最近の写真は、撮るだけでは終わらない。撮
科のキム・ナンド(金蘭都)教授は、著書『トレンド・コリ
って選んで削除するものはすぐに削除し、フォトショップで
ア』で2015年のトレンドの一つとして「証拠中毒」と「日常の
修正したり写真アプリで簡単に補正する。そして、SNSに載せ
自慢」を挙げている。証拠を見せないと何も信じない疑いの時
る。この一連の行為は、連続的に行なわれる。撮られた瞬間
代。今や目に見える形で証明できるものだけが、脚光を浴びる
に写真になるわけではなく、SNSに載せられた瞬間、初めて写
時代になったというのだ。SNSのリツイートと「いいね」が存
真になるのだ。
在の根拠となる世界で、自慢は日常になり、日常は自慢になっ
SNSに載せられた写真には、たくさんのコメントが付けら
36 KOREANA 春号 2018
たと分析している。
そうした「自己証明」の時代に、重要な役割を果たしてい るのが認証ショットだ。しかし、おかしくないだろうか。証明 とは、文字通り事実と異ならず明白でなければならない。事実 と一致しなければ証明にならない。しかし、認証ショットは事 実でもあるが、同時に事実でないかもしれない。例えば自撮り
済州市旧左邑の細花海岸は、美しい景色と共に写真 を撮る恋人や新婚夫婦が絶えない。人生の大切な瞬 間を写真に収めて永遠に保存し、SNSで広く知って共 有してほしいという願望が、隠れた観光名所へと向か わせている。 ⓒ jejuguree
写真は、現実のありのままの自分ではなく、もっと格好よく理 想的な姿に補正して現実から切り離したものだ。スマートフォ ンの数多くのアプリは、さらに美しい顔にしてくれる。しわが 消え、顔色が良くなり、目元がはっきりする。現実の一面だけ を切り取ってより良く補正した写真で自分を証明するなんて、 矛盾してはいないだろうか。 人は長い間、自分を証明するために写真を使ってきた。
うなりたい」という点を証明している。つまり、スマートフ
しかし、今では免許証や履歴書の証明写真だけで、人を判別
ォンを片手に認証ショットを撮るのは、他人に絶え間なく自
できなくなっている。最近はありのままの写真など誰も使わ
分の願望を証明する努力に他ならない。他人を信じたりコミ
ない。美化された証明写真としての自撮り写真や認証ショッ
ュニケーションをしようともせず、多くの他人に認めてもら
トは、結局ありのままの自己証明ではなく、自分の願望を証
おうとする矛盾の時代。デジタル時代の写真は、現代の我々
明する資料だ。「私はこのような人間だ」ではなく「私はこ
の二面性でもあるのだ。
韓国の文化と芸術 37
フォーカス
北東アジア地域の 秩序を内包する
朝鮮通信使の記録
38 KOREANA 春号 2018
北東アジアの3カ国が朝鮮半島で熾烈な戦闘をおこなった壬申倭乱(文禄・慶長の役、 1592~1598)の直後からおよそ200年にわたって、朝鮮は日本に外交使節団を派遣した。 すなわち朝鮮通信使であり、それに関する記録が『朝鮮通信使に関する記録:17~19世紀 の韓日間の平和構築と文化交流の歴史の記録』という公式名称で、2017年10月ユネスコ世 界記憶遺産に登録された。韓国と日本の最初の共同登録事例だという点でも意義深いが、 それよりもさらに注目すべきは、この記録の持つ世界史的な重要性だ。 ソ・ギョンホ 徐敬浩、ソウル大学校名誉教授。前ユネスコ世界記憶遺産国際諮問委員会委員
『国書楼船図』 作者未詳、紙に彩色、 58.5×1524cm、日本江戸時代 朝鮮国王の国書を携えた通信使 の一行が乗った船が大阪の淀 川を下っていく絵。国書の伝 達は通信使の最も重要な任務 だった。釜山を出発して淀川 の河口に到着した使節団は、 ここで徳川幕府が提供する豪 華な御楼船に乗り換えてさら に旅程を続けた。御楼船に は徳川幕府を象徴する文様が 染められた旗がはためいてお り、中央では朝鮮から来た楽 人たちが演奏をしている。 ⓒ国立中央博物館
韓国の文化と芸術 39
鮮王室が日本に最初の通信使を派遣した1607
朝
雰囲気のなかで行われた。この会議では性格の相反する二つの
年は壬申倭乱が終息してから10年にもならな
記録、つまり朝鮮通信使と日本軍従軍慰安婦の二つの記録が同
い時期だった。朝鮮半島の侵略を主導した豊
時に審査対象となっていた。韓国と日本を含めた8カ国15の市
臣秀吉が死んだ後、徳川幕府は両国間の敵対的な関係を清算
民団体が共同で申請書を提出した慰安婦関連記録に対して、日
し平和を維持するために、朝鮮に通信使の派遣を要請し、戦
本政府が強力に反発したことは良く知られた事実だ。
争で全国土が焦土と化し疲弊しきっていた朝鮮王室はこれを 受け入れた。
国際諮問委員会は葛藤の素地がある慰安婦関連記録の登 録は保留し、朝鮮通信使の記録は登録するという勧告案を事
通信使の派遣は当時の朝鮮の首都漢城を出発して江戸に到
務総長に提出した。慰安婦関連記録に対しては利害当事者間
着したあと、再び戻ってくるという半年以上もかかる長い旅程
の対話を促すことでユネスコがこれからは、利害当事者が合
だった。参加した人員も400~500人になるほど規模も大きかっ
意した記録を登録の対象とするという原則を鮮明にしたもの
た。日本の徳川幕府は使節団を迎えるために莫大な費用を捻出
であり、朝鮮通信使の記録登録はそのような原則を具現した
し、その結果財政的な問題に局面するほどで、使節団は行く先
事例だと言える。
々で丁重なもてなしを受けた。最初の派遣から、1811年までの
世界記憶遺産の登録審査には社会的価値、保存状態、貴重
およそ200年間、合計12回にわたって派遣されたこの外交使節
性などいくつかの基準が適用される。その中で最も重要なのが
団は、両国の平和維持に寄与しただけではなく、開かれた文化
世界史的な意義だ。これは該当記録が特定国家や地域に限定さ
交流の窓口にもなった。
れたものではなく、世界史に影響を及ぼした事件や文化・文明
今回ユネスコ世界記憶遺産に登録された記録物は、外交
の成就に関する記録かどうかという点を判断基準としているこ
記録5件51点、旅程記録65件136点、文化交流記録41件146点
とだ。国際諮問委員会はこの基準を満たしていると判断される
の合計111件333点だ。この文献は現在両国の各々の機関で所
記録を世界記録遺産に登録し、不十分な場合は地域遺産や国家
蔵されているが、韓国が63件124点を、日本が48件209点を保
遺産への登録を勧告している。
管している。
ある記録が国家の次元を越え、世界史的な次元でも重要性
韓国の釜山文化財団と日本のNPO法人朝鮮通信使縁地連連
を確保していると主張するためには、広い視野からの歴史的解
絡協議会が共に推進した今回の登録は、まず韓日共同の努力で
釈の裏付けがなければならない。そのような観点から見たと
快挙を成し遂げたという点で実に意義深いものだ。
き、世界記憶遺産事業は既存の歴史学的な立場とは異なる新た
世界史的な重要性が認められて
な視覚としての役割も果たしていると言える。朝鮮通信使の記
今回の登録は2017年世界記憶遺産国際諮問委員会の微妙な
40 KOREANA 春号 2018
録の世界記憶遺産への登録もまた、この記録をめぐる歴史状況 に対する新たな解釈の機会を提供するものと言える。
17世紀の北東アジアを示す歴史的な遺産
インド会社が主軸となり対中国貿易が世界の貿易量の相当部分
朝鮮通信使に関する記録が世界史的な脈絡に占める重要性
を占めるに至った。
を観察するには、この記録が作られた時期の状況に注目しなけ
しかし中国朝廷の関心は、ヨーロッパの商人との海上貿易
ればならない。朝鮮通信使が韓日両国を行き来した1607年から
よりは北東アジアの秩序に重点をおいていた。この地域は外部
1811年までの期間、ヨーロッパでは16世紀初頭に始まった大航
世界の流れから取り残されており、独自の秩序が構築されてい
海時代以来、海上貿易を通じた世界化が活発に行われていた時
た。壬申倭乱(文禄・慶長の役)につづく明王朝の滅亡直後、
期だった。
中国と日本は関係を断絶した状態だった。中国は日本との交易
ヨーロッパ諸国の商船がアフリカ南端の喜望峰を回ってイ
を中断し、日本も鎖国政策を維持した。しかし漢字の使用と儒
ンド洋に進入、アラビア半島のアーデンからインドや東南アジ
教思想という文化的な絆があったため、そのような断行がすべ
ア、インドネシアや南太平洋諸島を往来し、巨大な海上貿易市
ての接触の断絶を意味するものではなかった。さらに貿易にお
場を形成していた。もちろん大航海の最終目的地は中国市場で
いて中国と日本は互いを必要としていた。日本では中国商品、
あり、18世紀中盤にはオランダの東インド会社とイギリスの東
特に書籍の需要が多く、また銀を貨幣として使用していた中国 は、日本で豊富に生産されていた銀を必要としていた。政治的 な葛藤で中国と日本の交易が途絶えると、朝鮮は特殊な地政学 的な位置により、中国と日本が間接的に接触する窓口の役割を
朝鮮通信使の旅程
した。朝鮮が双方向接触を通じた事実上の仲介者の役割を担っ ていたのだ。 このように17世紀の初めに新たに形成された北東アジアの
ソウル 聞慶
東海
日光
朝鮮
対馬
釜山
京都
下蒲刈 下関
相島
牛窓
大阪
大垣
日本
新井
東京 箱根 静岡
太平洋
政治・経済・文化的な秩序の中で、朝鮮通信使の記録だけでな く他方では中国に派遣された朝鮮の使臣たちの記録である燕行 録も製作された。従って朝鮮通信使の記録と燕行録を同時に分 析すれば、西欧の列強による世界化がアヘン戦争で完成する以
『通信使入江戸城図』伝金明国、紙に彩色、30.7×595cm、朝鮮中期 1636年に通信使の一行が江戸城に入る姿を描いた行列図。絵に登場す るそれぞれの人物の上段にはその役職が記載されている。当時、一行 に随行した図画署の画員金明国(1600~?)の絵だと推定される。 ⓒ 国立中央博物館
韓国の文化と芸術 41
当時の全般的な韓日関係から見 て、通信使の派遣は朝鮮王室の とった多くの外交活動の一つに 過ぎなかった。しかしこれを通 じて両国関係に平和を定着さ せ、さらには北東アジア地域で 韓国が中国と日本の間の仲裁者 として登場するという結果を生 み出したのだ。
前の北東アジアの独自の秩序が、どのように維持されていたか を理解する助けとなるだろう。また二つの記録を総合的に見て みると、10余年前に韓国のノ・ムヒョン大統領が提議した「北 東アジア均衡者論」の背景も理解できる。つまり朝鮮通信使の
『海行摠載』は、高麗と朝鮮の外交使節が日本に行って来た後に書い た各種記録文を集めた本だ。計28冊で出来ており、大部分が17~18世 紀の朝鮮通信使が書き残した記録だ。朝鮮英祖の時の文臣ホン・ケヒ (洪啓禧、1703~1771)が編纂したと伝わる。 ⓒ 国立中央図書館
記録と燕行録は単なるの過去の記録ではなく現在の論理でも理 解できる重要な歴史的な遺産なのだ。 注目する必要がある。大航海時代以来、ヨーロッパ人たちは地
当時の日本に対する韓国人の総体的な記録
球上の大部分の地域を植民地にしたが、北東アジア地域だけは
系化でも独特な面を備えている。この記録は外交文書、旅行
例外だった。一度もヨーロッパの植民地となったことのないこ
記と挿絵、知識人の交流などで構成されており、日本に対す
の地域はその後、世界史の重要な軸として浮上する。
る朝鮮時代の韓国の人々の総体的な経験の集大成ともいえ
一方、世界史の流れから北東アジア地域の持つ特殊性にも
朝鮮通信使の記録はそのような歴史性とともに内容の体
中国と日本が北東アジア地域の覇権を掌握するために起こ
る。このような構成と内容はほかの文明圏ではそれぞれ各項
した19世紀末の日清戦争から1945年の太平洋戦争の終息までの
目に分類されバラバラになっている可能性があるが、朝鮮通
状況は、世界史の流れの中で非常に重要な部分であり、その後
信使の記録はさまざまな性格の資料が互いに関連しあい総合
の東西冷戦状況でも両勢力がここで代理戦争のような緊迫した
的な資料となっている。
対決を見せ、20世紀末には中国の浮上でより注目されるように
これは当時韓国と日本の知識人たちが全体と部分を有機的
なった。このような脈絡から朝鮮通信使の記録は、今日の北東
に連結することで、相手に対する大きな絵を描こうと努めてい
アジア地域に集中している列強の地政学的な関心の根本を読み
たことを示している。それは部分々々が集まって全体をなし、
取ることのできる歴史的な証拠だといえる。従ってこの記録は
全体が各々の部分を統制するというアジア的な思考方式に起因
韓日関係史の研究のための資料の範疇をはるかに超える重要な
している。特に注目に値するのは、この記録に筆談でなされた
ものだ。
知識人の間の対話が含まれているという点だ。両国の知識人た
42 KOREANA 春号 2018
ちは言語の壁があるにもかかわらず、漢文と儒教思想を媒介と して活発な会話を交わしている。厳格にその意義を問えば、そ れは私的な対話に過ぎないといえるかも知れない。しかし両国 の官吏と知識人たちは、社会の流れを代弁する自分たちの対話
『朝鮮通信使来朝図』羽川藤永、紙に彩色、69.7×91.2cm、1748年 江戸に到着した通信使の一行が、将軍に朝鮮国王の国書を渡した後、 使館のある浅草本願寺に戻るために町中を通り過ぎていく情景を描い ている。 ⓒ 神戸市立博物館
を私的なものとみなさず、公式的な記録に含めた。朝鮮通信使 の派遣が200年にわたり持続できたのは、まさにそのような知
ような伝統を受け継いでいる。
識人たちの間の対話が双方に有益な情報を提供したのはもちろ
通信使の一行に画工が含まれていたこともあり、現地で
ん、互いの立場に対する理解をもとにした平和維持の助けにも
画工を臨時に雇用して絵を描かせたりもしたが、それは情報
なるという認識があったからだといえる。このような認識は漢
の記録と伝達で視覚資料をどれほど重視視していたかを示し
字文化圏が共有していた思惟の方式であり知恵だった。つまり
ている。外国を旅する機会が非常に少なかったこの時代に大
知識人たちの対話を公式の記録に含めたのは、北東アジア地域
多数の人々は、通信使の報告を通じた間接的な経験に依存し
特有の文化·外交的な接触の重要なプロトコルであり、相手の
なければならず、挿絵は具体的で正確な情報提供に大きな役
立場と意中を把握する手段でもあった。
割を果たした。 当時の全般的な韓日関係から見て、通信使の派遣は朝鮮王
情報提供に大きな役割を果たした挿絵
室がとった多くの外交活動の中の一つに過ぎない。しかしこれ
朝鮮通信使の記録は情報処理と伝達という点からも興味深
を通じて両国関係に平和を定着させ、さらには北東アジア地
い側面を備えているが、それは旅行記と挿絵に現れている。す
域で韓国が中国と日本の間の仲介者として登場する結果を生ん
でに世界記憶遺産に登録されている『朝鮮王朝儀軌』でさまざ
だ。朝鮮通信使の記録はそのような仲裁者の役割の生々しい記
まな国家行事の場面を絵で記録しているように、朝鮮の知識人
録であり、20世紀を経て今日まで平和と葛藤が激しく交差する
は情報伝達と保存のために文章だけではなく絵画という視覚的
この地域の情勢の根源と過程をあらわす世界史的に重要な記録
な媒体を活用する伝統を備えており、朝鮮通信使の記録もその
であることが認められたといえる。
韓国の文化と芸術 43
アートレビュー
私たちは今 どれほど遠くまで 来たのだろうか ソウル国立現代美術館徳寿宮館で開かれている「新女性の到着」(The Arrival of New Women, 2017年 12月 21日~2018年 4月 1日)は、近代の視覚文化に登場した新女性のイメー ジを通じて韓国の近代性を探求する展覧会だ。一世紀にわたり、女性が女性を振り返ってみ るという新しい試みだという点から注目を集めている。 チョン・ジェスク ı 鄭在淑、中央日報文化専門記者
「新
女性(New Women)」
世紀初めを花火のように生きぬいた女性
とは、西欧の文物の
革命家チュ・セチュク(朱世竹、1901~
影響で韓国社会全般
1953)、ホ・ジョンスク(許貞淑、1902
に変化が起き始めた開化期に、新しいス
~1991)、コ・ミョンジャ(高明子、
タイルの教育を受けて教養を身につけ
1904~)らの波乱万丈の一代記を扱って
た女性たちを指す言葉だ。国内ではこ
いる。彼女らはある日、同士であり友人
の言葉が1890年代以降に紹介され、雑
として志を同じくして断髪を決行する。
誌や新聞などのマスメディアで1920年
当時としては悲壮でありながらも快活な
代から使われ始め、1930年代末まであ
「友情の連帯」だった。小説家チョ・ソ
らゆる方面で使われた。特に新女性は
ンヒはこの事件を、植民地時代に京城で
近代的な理念と文物を追及する存在と
流行した月刊誌『新女性』に掲載された
して形象化された。
1枚のモノクロ写真から借用した。小説
新女性を象徴する断髪
実存する人物にスポットをあてた小説家チョ・ソンヒ(趙
善姫)が、2017年の夏に発表した長編小説『三人の女』は、20
44 KOREANA 春号 2018
の主人公であり『新女性』の編集長だっ たホ・ジョンスクは、1925年10月号『短髪特集号』にこの日の ことを写真と共にこう記録している。 「なぜか互いにわけの分からない偉大な理性と欲望がかな
えられたようで無条件うれしかった」。 1920年代、女性の断髪は大きな話題だった。断髪、ショー トカットの女性たちは朝鮮全土を通じてもまだ10人にも満たな い、指で数えられる程度だった。そしてその彼女たちの断髪は 「私は独立した人格体だ」と叫ぶ一人パフォーマンスだった。
ソウル国立現代美術館徳寿宮館で開かれている「新女性の到着」展の 第3部は、20世紀前半に先駆的な人生を生きた5人の女性たちへのオ マージュだ。韓国人最初の女流西洋画家 ナ・ヘソク(羅恵錫、1896 ~1948)、作家であり翻訳家でもあったキム・ミョンスン(金明淳、 1896~1951)、 現代舞踊家チェ・スンヒ(崔承喜、1911~1969)、 社会主義女性運動家のチュ・セチュク(1901~1953)、大衆音楽家のイ・ ナニョン(李蘭影、1916~1965)。時代を先駆けた5人の女性の理想 と挫折を、今日の視覚で振り返っている。 ⓒ 国立現代美術館
夜寝るとき以外はひっつめ髪をほどくことのなかった朝鮮の女
分けて展示しているが、多数の断髪が登場する。開化期から日
性たちが断髪をしたということは、それだけ強い意志を示す過
本の植民地時代まで近代の視覚文化で断髪は新女性を象徴する
激な行為だった。帝国主義、植民地主義、家父長制度、東西洋
典型的なイメージだった。趣味を主題とした月刊誌『別乾坤』
文化の衝突という何重もの抑圧と矛盾の中で新女性たちは、伝
(1933年9月号)の表紙からもそのような事実を確認すること
統的な良妻賢母の意識と新しいのモダンガール(modern girl)
ができる。断髪頭に西欧式の化粧、体の曲線が現れた上着、弾
との間で分裂する自分たちの意識を、髪の毛を切ることで表出
力のある脚の動きを暗示するモダンなスカート、誘惑的な赤い
し「自我」を主張したのだ。徳寿宮美術館の展示場に足を踏み
ベルトとハイヒール姿で表現されている。
入れた観覧客が最初に目にする100年前の顔が、この断髪娘た
タブーの領域に挑戦する
ちだ。 展示は絵画、彫刻、刺繍、写真、印刷美術、映画、大衆歌 謡、書籍、雑誌など500点余りの豊富な視聴覚媒体を3部門に
朝鮮の女性は「アンパンマニム(奥様)」という単語に現
れているように、家の中の奥深いところにあるアン房に埋もれ
韓国の文化と芸術 45
1920~40年代の女性雑誌と小説の表紙画に登 場する新女性は、ほとんど颯爽とした活発な姿 で表現されている。特にアン・ソクジュが描い た月刊誌『別乾坤』(1933年9月号)の表紙 画のこのような断髪は、既存の従属的な暮らし から抜け出し、自我の実現を求めた新女性の典 型的なシンボルだった。 (左から時計回りに) 『恋愛小説 熱い愛情』セチャン書館、コンジ ンキュ美術館所蔵、1957年12月号 『新女性』アンソクジュ、開闢社、コンジンキ ュ美術館所蔵、1933年9月号 『婦人』盧壽鉉、開闢社、コンジンキュ美術館 所蔵、1922年7月号 『別乾坤』アンソクジュ、開闢社、オヨンシク 個人所蔵、1933年9月号 46 KOREANA 春号 2018
「女性たちはたくましく 運命に挑戦し、ドラマチ ックな人生を生きた。私 たちは今、年俸や昇進の 問題にぶつかり憂鬱にな るが、この女性たちはそ んな諸々の現実を気にも 留めずに、命さえ惜しま ず、一人で全身で歴史に 立ち向かった」
て暮らす存在であり、男性の影に過ぎなかった。外出を控え、 ただただ家事と子供の教育にだけ力を注ぐ「ネジャ(内子)」 だった。しかし、変貌する時代を迎えた新女性は街に飛びだし ていく。家庭の垣根を抜け出し、自分の力で学び、働き、生き ていく独立的な人間になろうとしたのだ。ヤン・ジュナム(梁 柱南)監督の映画『迷夢』(1936年作)で女主人公のイェスン は「私は鳥篭の中の鳥ではない」と叫び、家族を残したまま家 をとび出して行く。 展覧会の第1部「新女性オンパレード」は、街を闊歩する 新女性の活動に焦点をあてている。「オンパレード」は公演を 終えた俳優たちが舞台の上に一列に並ぶ姿を指す英語の表現 「on parade」の1930年代の韓国式表記だ。韓国の新聞小説の 挿絵の先駆者だったアン・ソクジュ(安碩柱)は、舞踊手の溌 剌とした動作に例えて新女性の群像を描いている。 第2部では画家として活躍していた新女性たちを紹介して いる。依然として婦徳を守り従順する役割を強調していた近代 期の女性教育の中で、美術は一種の脱出口だった。新たな価値 観と芸術魂が結合し自由に息を吸える通路となった。しかし、 女性が画家となるのはたやすいことではなかった。1910年代に 初めて画家となった女性が、妓生出身の書画家だったという点 は、その間接的な証拠だ。良家の子女よりは比較的外部活動が 自由だった妓生は、四君子や書道でその才能を示したが、だか らといって独立した画家として認められていたわけではない。 傑出した第1世代の女流画家が輩出されたのは、朝鮮美術 展覧会を通じてのことだった。日本留学を経た東洋画家パク ・レヒョン(朴崍賢、1920~1976)とチョン・ギョンジャ(千 鏡子、1924~2015)がその代表的な人物だ。しかし彼女らより も一世代前に活動した西洋画檀のナ・ヘソク(羅恵錫、1896~ 1948)は、断然抜きん出た存在だった。彼女は最初の女性西洋 画家であると同時に文人でもあり、女性の主体性を主張する近 代女性運動家として強く記憶されている。ナ・ヘソクは絵だけ ではなく論説・小説・随筆などさまざまなジャンルの文章を書 き、男性同僚たちを圧倒した。彼女が1928年に描いたものと推 定される油絵「自画像」は、変革期を生きる知識人であり芸術 家として女性が背負わなければならなかった苦痛と憂鬱を、そ の暗い色調で表現している。
新女性に対するオマージュ
ナ・ヘソクをはじめとする5人の新女性を通じて、当代の
彼女たちが抱いていた理想を今日に照らし合わせてみたのが第 3部なのだが、彼女たちの人生を映し鏡にして大韓民国の現代 女性を振り返ってみたという点で実に新鮮だ。ここでの展示は 2018年に生きる女性たちが、当時の新女性から果たしてどれほ 『自画像』ナ・ヘソク キャンパスに油彩、88×75cm、1928年(推定) 水原市立アイパーク美術館所蔵 韓国の文化と芸術 47
1
ど発展したのかと問いただしている。
1911~1969)、社会主義女性運動家のチュ・セチュク、大衆
はじまりはナ・ヘソクだ。彼女は日本の東京女子美術学校
音楽家のイ・ナニョン(李蘭影、1916~1965)を展示した空間
(現在の女子美術大学)を卒業した朝鮮初の女流画家として、
は、荘厳な新女性の殿堂だ。彼女たちの人生の軌跡を追う観覧
封建的な家族制度と結婚制度の不当さに反発する辛らつな文
客の間からはすすり泣きさえ聞こえてくる。
章をいくつも発表した。その中の一つが東京の朝鮮留学生学友
第3部の展示が興味深いのは、彼女たち5人の新女性に対
会の機関紙だった『学之光』第3号に掲載された「理性的な婦
する現代女性作家たちのオマージュだ。現在では想像さえでき
人」だ。彼女は「良妻賢母は男性本意の教育であり、女性を奴
ない男性権威主義社会の鉄壁を壊して飛翔した5人の女性に対
隷にする結果を招いた」と批判した。また1924年『新女性』に
する尊敬の念は、新たな芸術として発芽した。その新鮮な共感
掲載された「私を忘れない幸福」の一節は、人間としての尊厳
が21世紀に生きる女性たちの自覚と奮発を促す。
性を回復しようと叫んでいるように聞こえる。
第1世代の女性文人として独特な作品世界を築いたキム
「私たちは謙遜し過ぎだった。いや、私自身を忘れて生きて
・ミョンスンに対して作家 キム・セジン(金世珍)は、ビデ
きた。自分の内心に隠れている無限の能力を自覚できずに、そ
オ作品「悪い血に対する年代記」で追憶している。庶子であ
の能力の発現を試してみようともしないほど、全体が犠牲だ
り、妓生の娘だという身分から抜け出そうとするキム・ミョ
け、依頼だけだった」。
ンスクの創作にかける情熱が、詩の朗読の形式で花開いてい
そうかと思えば、当代を熱く生き抜いたもう一人の代表的
る。映画監督キム・ソヨン(金素栄)は、無産者革命を夢見
な新女性たち、作家であり翻訳家であったキム・ミョンスン
た社会主義者チュ・セチュクの魂を慰める映像「 SF Drome:
(金明淳、1896~1951)、現代舞踊家チェ・スンヒ(崔承喜、
チュ・セチュク」を捧げた。そうかと思えば「木浦の涙」で
48 KOREANA 春号 2018
2
1. 『SF Drome: チュ・セチュク』 キム・ソヨン、3チャンネル映像 2017年、作家所蔵
2. 『探求』イ・ユテ(李惟台) 画仙紙に墨と彩色、212×153cm、1944年 国立現代美術館所蔵 3. 『いつかその日』千鏡子 紙に彩色、195×135cm、1969年 ミュージアムサン所蔵
3
るにあたりこう書いている。 「3人の女が生まれたのは20世紀の入口だったが、私は彼 女たちと共に百年以上生きた気がする。この小説の3人の女性 たちが生きていた時代は、歴史の最も陰湿な谷間であり、比喩 や風刺ではなく言葉どおり「ヘル朝鮮」、朝鮮という名前の地 獄だった。しかし3人の女性たちの人生もただの地獄ではなか った。女性たちはたくましく運命に挑戦し、ドラマチックな人 生を生きた。私たちは今、年俸や昇進の問題にぶつかり憂鬱に なるが、この女性たちはそんな諸々の現実を気にも留めずに、 命さえ惜しまず、一人で、全身で歴史に立ち向かった 」。
今だに私たちの耳元に聞こえてくるメロディを絶唱する歌手
会場をでても最後の一節が耳元から離れなかった。
イ・ナニョンの人生は、作家グォン・へウォン(権慧元)の
「一人で、全身で歴史に立ち向かった」。
メディアアート「知らない唄」でよみがえった。作家はイ・
もしかすると、この展示に登場するすべての新女性がそう
ナヨンが1939年に録音したブルース曲「茶房の青い夢」のい
だったのかもしれない。私たちは今、彼女たちからどれほど遠
くつかのバージョンをエンドレスで回転する舞台の上で、ほ
くに来ているのだろう。必死にユートピアを捜し求めて人生を
かの顔で再現している。
投げ出した私たちの母や祖母に頭が下がる。もしかすると本当
上記で紹介した小説家チョ・ソンヒは『3人の女』を終え
の意味で新女性はまだ到着していないのかもしれない。
韓国の文化と芸術 49
オン・ザ・ロード
京畿道坡州市広灘面龍尾里(キョンギ ド・パジュシ・クァンタンミョン・ヨン ミリ)には、17.4mにも達する素朴な磨 崖二佛立像が山腹から町を見下ろしてい る。11世紀高麗時代に作られたものとさ れる石仏立像は、宝物第39号であり、遠 くからでも目立つので、義州路(ウィジ ュロ)を行き来する昔の旅人たちにとっ て道しるべになった。
50 KOREANA 春号 2018
義州路
500年間世界へと つながる道
「道とはここからあそこに至る行路である」(道者自此之被之路也)。丁若鏞(チョン・ヤギョン、 1762~1836)が『中庸自箴』(チュンヨンザザム)で下した定義である。朝鮮王朝後期を代表す る儒学者の思惟から、このように平凡な定義がつけられた理由が気になるならば、あなたは当時の 事情を垣間見ることのできる位置にかなり接近したようだ。あと一歩さらに踏み出せば、彼の焦り と苦しみの嘆きが聞けるかも知れない。 イ・チャンギ ı 李昌起、詩人、文学評論家 安洪範 ı 写真
韓国の文化と芸術 51
教の経典に書いてある道とは、人間の本性に
儒
鮮の21代国王)・正祖(チョンジョ:22代国王)という卓越し
従うこと(率性之謂道、『中庸』)と、暮らし
た君主によって積極的に受け入れられ、朝鮮に大きな変化をも
に内在した理を見極めること(大学之道、在
たらした。このような流れに呼応して、さまざまな著書や多く
明明德、『大学』)の、二通りの意味にとれる。朱子(1130~
の政策提案書が相次いで出された。なかでも、あまり知られ
1200)は、道を「人として行うべき正しい道」(当行之理)と
てはいないが、シン・ギョンジュン(申景濬、1712~1781)の
定義した。朱子学が究極的に明らかにしようとしたのは、人間
『道路考』(1770年発行)はユニークな人文地理書である。
と事物に内在する絶対的かつ先験的な原理である。
この本は、朝鮮の陸路・海路はもちろん、国境と王の行幸
「道」と「道路」
通りに至るまで、あらゆる交通情報を盛り込んでいる上、当時
これを統治哲学として掲げて建てた国が朝鮮王朝(1392~
報まで収めた付録付きだ。著者は序文で市場が大いに繁盛し、
1910)だ。だが朝鮮の儒家たちは覇道政治に歯止めをかけるこ
道路の利用者が増え、利用者層も商人と庶民に拡大すると、彼
とができず、厳しい身分制度は社会の不均衡と不平等の高まり
らのための道路網を体系的に管理することこそ、国の役割であ
につながった。2度にわたる外国勢力の侵攻に簡単に屈してし
ることを強調した。さらに、彼は「道とは、そもそも主人がな
まった。18~19世紀を生きた丁若鏞(チョン・ヤギョン)は、形
く、道の上にいるすべての人が道の主人」(路者無主而惟在上
而上学原論に偏っていた「道」を実践の範囲、つまり生まれて
之人主之)という意味深い言葉を残した。シン・ギョンジュン
から死ぬまでの暮らしを営む過程、または社会的な発展の過程
は道路を、自主的・民本的な儒学の理想を実現する現実的な手
として解釈することによって、支配層の反省と現実改革の意志
段であり、究極の目標として位置付けた。おそらく資本の収奪
を表明した。
を防ぎ、流通を活性化させることこそ、真の「道路」あるいは
自己修養という、型にはまった儒学から脱し、国の根幹を なす農民たちの生活の安定と土地改革を唱え、商業と流通を新 たな活路として提示した丁若鏞らは、17世紀後半から登場しは じめた実学者である。彼らの主張は、英祖(ヨンジョ:李氏朝
国境貿易が行われていた「開市(ケシ)」という公設市場の情
「道理」だと考えたのではないだろうか。
燕行の道
シン・ギョンジュンは、この本で朝鮮の道路の根幹を6大
1
52 KOREANA 春号 2018
路に分けたが、そのうち第一路が義州路(ウィジュロ)である。 漢陽(ハニャン、朝鮮王朝の都)から出発し、北の方に開城 (ケソン―黄州(ファンジュ)―平壤(ピョンヤン)―安州 (アンジュ)―定州(チョンジュ)を経て、鴨緑江(アプロク ガン)沿いの義州につながる、この道を第一路にした理由は、 漢陽と平安道の監営(カミョン、道の役所)をつなぐ管路とし ての機能と役割に加え、中国と交流していた道路だということ に着目したようだ。大国に仕え、隣国とは平和な関係を築くと いう朝鮮の政策による中国との朝貢と冊封体制は、開国初めか ら1894年までの約500年間続いた。義州路はその交流が行われ ていた唯一の陸路だった。 この道は、辛うじて近代化に向けての第一歩を踏み出した
2
大韓帝国末期から日本植民地時代を経て新道に代替されたが、 南北分断が固着化して義州路につながる大部分の都市は北朝 鮮地域となった。漢陽から義州までの総距離は1,080里、すな わち約424㎞に当たる。ところが現在、ソウルから非武装地帯 ットで検索すると、最短距離45kmのタクシー料金は4万ウォン
初日、敦義門から碧蹄館まで
程度だ。もちろん、これも昔の道路のままではない。45kmは、
ン)に到着すると、身分の高い者から低い者まで送別する数十
朝鮮時代の燕行使(朝鮮が清の北京に派遣した国家使節)たち
人が目に入った。王様が自ら送別会のためのおもてなしをされ
の足では3日かかる距離だ。16世紀末の壬辰倭乱(文禄の役)
た。日が暮れて家君と別れ、高陽(コヤン)へ向かった。夜遅
の際に、日本軍が中部内陸地域の忠州(チュンジュ)城を超え
く高陽に着いて寝た」- ホン・デヨン(洪大容)『燕記』
(DMZ)の南方限界線まで旅行者が自由に行ける所をインターネ
「朝食をとってから家君を伴って弘済院(ホンジェウォ
たという報告を聞き、慌てふためいて漢陽を捨てて逃げ出して いた宣祖(ソンジョ、14代王)の足では、1日あれば足りる。
義州路は敦義門(トニムン)から始まる。西大門(ソデム ン)と呼ばれていたこの門は、1915年日本帝国によって撤去さ れ、今では痕跡すらないが、ソウルの旧都心の西側の慶熙宮 (キョンヒグン)から独立門(トンニンムン)方面へ進む坂道の あたりだと推測される。キョムジェ・チョンソン(謙斎 鄭敾、 1676~1759)が、1731年に描いた『西郊餞依図』(ソギョジョ ンウィド)には、敦義門の外の慕華館(モファグァン)で餞別 宴(別れの宴)を終えた中国使臣の行列が、迎恩門(ヨンウン ムン)を通り過ぎる姿が描写されている。開化運動を主導して いたソ・ジェピル(徐載弼)は日清戦争直後、清との関係を断
1. ソウル西大門区峴底洞(ソデムング・ヒ ョンジョドン)の大通りにある独立門(ト ンニムンムン)は、1897年外国の攻撃か ら国を守ろうとする国民からの募金によっ て建立された。本来この場には、朝鮮時代 に中国の使節を迎えていた迎恩門(ヨンウ ンムン)があったが、事大主義の象徴であ るという理由で独立教会によって取り払わ れ、代わりに独立門が建てられた。 2. 惠蔭院 (イムンウォン )は高麗時代以 降、開城(ケソン)とソウルを結ぶ重要 な交通路であった惠陰嶺を通る官僚の便宜 をはかるため建てられた国立宿泊施設だ。 1999年、坡州広灘面で「惠蔭院」という文 字が刻まれた軒瓦の発見により、その正確 な位置が確認された。現在でも多くの遺跡 と遺物が発掘されている。
ち、西欧文物を積極的に受け入れるべきだと主張し、募金運動 を展開した。また、1897年11月中国の使臣を迎え入れた迎恩門 を壊し、その跡に独立門を建てた。 ホン・デヨン(1731~1783)が1766年に書いた清旅行記 『燕記』から感じられる感情は、豪気と恥である。当時中国 は乾隆帝時代で、いわゆる康乾盛世の最後の治世を享受してい た時期だった。朝鮮が清に屈して100年を遥かに超えたが、朝 鮮では開放を通じて世界的な帝国として台頭した清に背を向け たまま、依然反清、華夷思想にこだわっていた。北学派(実学 者)と呼ばれるホン・デヨンをはじめ、有識者たちはこの思想 に疑問を呈し、直接その実状を把握する機会が来ることを待ち わびていた。北京のカトリック教会堂で初めてパイプオルガン に接し、その場ですぐ自分のコムンゴ(朝鮮の伝統弦楽器)曲
韓国の文化と芸術 53
1
をパイプオルガンで演奏するほど豪気な姿勢を見せたが、彼は 旅行の間ずっと何が真の恥なのか、また何を恥じるべきかを自 問自答していた。 義州大路の一番目の院(旅行者向け国立旅館)である弘済
とみられる。 王が下賜した食べ物とお酒で盛り上がると、扇子や筆、燭 台やカルモ(雨具)などを餞別として贈った。日が暮れる前に 最初の宿である碧蹄館(ピョクジェグァン)まで出かけるに
院に行くためには、虎が頻繁に出没する険しい毋岳(ムアク)
は、宴会はほどほどに席を立たなければならない。
峠を越えなければならなかった。今でこそ、山を削って平たく 頭が辛うじて通れる程の狭い道だったという。戦略的な判断も
二日目、碧蹄館から坡州官衙まで
あっただろうが、主要都市が江と海につながるほど、十分に発
て、12時頃坡州(パジュ)に着いた。ウゲ・ソンホン(牛溪・
達した水路を挟んでいた地形によるところも大きい。
成渾)先生が、先に手紙を送って返事を待っているが、わざわ
広げ、緩やかな傾斜をもつ大路になったが、朝鮮時代には馬一
「随行員二人とともに恵蔭峴(ヘウムヒョン)を通り過ぎ
弘済院一帯は、鬱蒼とした松の木や弘済川の渓谷が美しい
ざここまで来ることはないと勧められた。私は直ちに家来を
景観となり、使節団のための餞別宴を開くには、もってこいの
送って、感謝の手紙を差し上げて教えを仰いだ」- チョ・ホン
場所だった。公式の使節団は30人前後で、馬子と下男、貢物を
(趙憲)『朝天日記』
運ぶ人夫たちを加えると、総員は少ないときで300人余り、多 いときは500人余りを超えた。さらに、餞別宴に集まった数十
碧蹄館から出発し、今の78番国道に沿って行けば、くねり
人の家族と身内、見物人まで合わせると、当時としては大変な
ながら急な峠を越えなければならないが、ここが高陽から坡州
人込みだったはずである。今の仁王(インワン)市場は、当時
につながる恵蔭嶺である。高麗時代からソウルと開城(ケソ
餅を売っていた餅廛巨里(ピョンジョンゴリ)が進化した結果
ン)をつなぐ近道として利用されていた恵蔭嶺は、道が険しい
54 KOREANA 春号 2018
漢陽(ハニャン)から義州(ウィジュ)までの総距離は1,080里、 すなわち約424㎞である。しかし現在では、ソウルから非武装地帯 (DMZ)の南方限界線まで旅行者が自由に行ける所をインターネッ トで検索すると、最短距離45㎞のタクシー料金は4万ウォン程度 だ。もちろんこれも昔の道路のままではない。
ため恵蔭院という宿泊施設と寺院を設けて管理した。恵蔭院の
(クムサン)で戦死した。
跡地から坡州方面に2㎞ほど離れたところに、巨大な自然岩壁
石仏の立像を通り過ぎると、ソン・ホンの墓と彼の功績を
に彫刻して作った、二つの石仏立像が見える。この石仏の前に
たたえる記念館がある。昔、坡州官衙があった場所に坡州小学
は、力のない百姓たちが盗賊から身を守るため、群れを成して
校が建てられており、昨年は恵蔭嶺を貫通するトンネルが完工
行き来していた道があったのだろう。使節の旅に発つ者は、こ
した。
の石仏の前で無事帰還を祈っただろうし、帰ってくる者は遠く 今は向かい側の山すその共同墓地に止まっている。その左側か
三日目、坡州官衙から開城まで
らソウルの北漢山(プッカンサン)のふもとがかすかに見える。
り、イ・スクォン(李叔献)のもとを訪ねた。スクォンは病気
からこの石仏を見てほっとしただろう。素朴な石仏の視線が、
「早朝、坡州(パジュ)を発って栗谷(ユルゴク)に至
チョ・ホン(1544~1592)は、明の皇帝・萬暦帝の誕生日
で寝込んでいた。長いこと待っていたら、スクォンが部屋から
のお祝い使節団の一員だった。旅立つ前に墓参りをしたり、
出てきたがひどく疲れている様子だった。彼と向かい合って座
名高い学者のもとを訪れて教えを仰ぐことは珍しいことでは
り、時事に嘆き、人心と道心、理気一元論など、様々な視点か
なかった。坡州には著名な儒学者ソン・ホン(1535~1598)と
ら意見を交わした」- ホ・ボン(許篈)『朝天記』(ジョチョ
イ・イ(李珥、1536~1584)が牛渓(ソヨウル)と栗谷(パム
ンギ)
ゴル)に住んで親しくしていたが、近所の金浦(キムポ)で生 まれ育ったチョ・ホンは、この二人の指導を仰ぐ文人だった。
ホ・ボン(1551~1588)は、女流詩人ホ・ナンソルホン
後日、チョ・ホンはイ・イの学問を受け継いでおり、朝廷入り
(許蘭雪軒)の兄であり、『洪吉童(ホン・ギルドン)伝』の
してからは一生を直言に徹した。壬辰倭乱の1592年 (文禄の
著者ホ・ギュン(許筠)の兄でもある。イ・スクォンは、ユ
役が始まった年)に義兵700人を率いて、日本軍と戦って錦山
ルコク・イイ(栗谷・ 李珥)の字(叔献)である。彼の家を
1. 臨津江(イムジンガン)沿いの崖の上に位置した花 石亭(ファソクジョン)は、朝鮮時代の大学者であった 栗谷李珥(ユルコク・イ・イ)の5代祖父イミョンシン (李明晨)が1443年初めて建て、李珥は官職から退いた 後、ここで弟子たちと学問を論じて余生を送った。花石 亭の下にある臨津船着場は、南北分断後に鉄条網に遮ら れたが、過去には北に行く主要な道であった。
2. 臨津江上流の斗只ナル(斗只船着場)では、黃布(フ ァンポ)帆船が遊覧客を載せて高浪浦の浅瀬付近まで往 復6㎞を往来する。朝鮮時代の黃布(ファンポ)帆船の 原型を生かし、2004年3月から運航を始めた。これによ って朝鮮戦争休戦後50年間も出入りが統制されていた臨 津江に観光客が入れるようになった。
2
韓国の文化と芸術 55
義州路観光案内
敬順王陵 板門店
臨津閣
瓠蘆古壘記念館
臨津江 臨津江 生態探訪路
花石亭
軍事境界線
紫雲書院
坡州郷校 坡州
義州
双弥勒
413km
平壌
ソウル
ソウル 碧蹄館
辞去した許篈は、ユルコクが通った花石亭(ファソクジョン) に足を運ぶ。彼の家は建てて間もないようだが、まだ仕切りを 立てておらず、地勢は険しい。ユルコクはこの町で家族全員が 一緒に暮すことを願った。彼の気持ちがわかるホ・ボンは、わ ずか3カ月前に承旨(朝鮮時代の官職)から退いた大儒学者の 貧しい暮らしぶりに憐憫の情を抱き、くねくねと流れる臨津江 (イムジンガン)の向かいに聳え立つ山を眺める。 しかしその翌年、政治改革のあり方をめぐって士林(サリ ム:儒教の理念を重んじる地方出身の新進官僚)派が分裂する と、ホ・ボンは尊敬と憐憫の眼差しで仕えてきたイ・イと対立
1
56 KOREANA 春号 2018
1. 高句麗の時代に建てられ た瓠蘆古壘(ホロコル)は、 玄武岩の大地の上に築かれた 三角形の形をした城壁で、現 在残っている遺跡の周囲は約 400メートルである。瓠蘆古壘 があるゴランポー帯の臨津江 は、6世紀中ごろから約200年 の間、高句麗と新羅の国境の 役割をなし、ここで高句麗と 新羅、新羅と唐の間に熾烈な 戦闘が繰り広げられた。
2. 臨津江(イムジンガン)北 側の最後の浦である高浪浦(コ ランポ)は、船路を通じて農産 物を運んでいた時代に、西海岸 から入ってくる海産物と交易す る舟渡しの役割をした。この 浦の上流には歩いて渡れる浅 瀬があり、昔から軍事的な要衝 地だった。
2
し、結局1583年職務上の過失を理由にイ・イを弾劾する。これ
際には北朝鮮軍の戦車が下ってきた。近くに瓠蘆古壘(ホロコ
を受けて、兵曹判書(ピョンジョパンソ:兵曹の長官)から退
ル)という高句麗の要塞があり、新羅の最後の王・敬順(キョ
けられたイ・イは、持病が悪化して死去する。彼が残した財産
ンスン)王の墓があることからすると、三国時代にもこの道は
は、書斎いっぱいの本といくつかの火打石だけだった。ホ・ボ
重要な要路だったようだ。
ンもこの事件で流刑された後、政界に復帰できずに流浪のあげ
この一帯は軍事地域ではあるが、臨津江上流の斗只里(ト
く38歳で客死した。花石亭から遠くないところに、ユルコクの
ゥジリ)船着場では、黃布(ファンポ)帆船が遊覧客を載せて
位牌を安置した紫雲書院(チャウンソウォン)とユルコク記念
高浪浦の浅瀬付近まで行き、臨津ナルは生態系の観察が容認さ
館がある。
れ、探訪路を非定期的に開放している。ここから非武装地帯を 越えて開城までは40里、約15㎞弱の距離である。
臨津ナル(イムジン渡船場)は、花石亭の左側の林に隠れ パ)まで航路でつながった理由は、ここの川幅が狭くて水深が
四日目、未だ夢半ばの道
浅いからである。このため臨津ナルは、首都を防御する要衝地
が泥沼にはまってもだえ苦しみ、どこへ行けばよいかわからず
であり、事実上管理や使臣たちが利用していた管路だった。商
一晩中うろたえた。その未明に向き合った文の一節を慰めとし
人や一般の旅行者は、北側にある高浪浦(コランポ)まで上ら
て書いてみる。
た川辺にある。義州路が臨津ナルから川の向かいの東坡(トン
先人たちの燕行録を読む夜は、いつも夢で道に迷った。車
なければならなかった。高浪浦は、西海岸の海産物と陸地の農
「完全な社会などない。それぞれ社会は、それが主張する
産物が交易を行っていた臨津江の北側の最後の浦である。この
規範と両立できないある不純物をそれ自体の中に、先天的に持
高浪浦の上流にズボンの裾さえたくし上げれば、いつでも歩い
っている。この不純物は、具体的にはとてつもない量の残忍、
て川を渡ることができる広い浅瀬がある。この浅瀬で、壬辰倭
不正、そして混迷として表現される」- クロード・レヴィ=
乱(文禄の役)の際には日本軍が川を渡っていき、朝鮮戦争の
ストロース『悲しき熱帯』
韓国の文化と芸術 57
二つの韓国
祖父の国へ 希望を求めて 通りにはロシア語の看板がずらりと並んでいる。行き交う人々の会話も韓国語よりロシア 語のほうが多い気がする。中央アジアで生まれ祖国に移住してきた同胞たちが暮らす 「高麗人村」、ここは光州広域市光山区月谷洞だ。 キム・ハクスン ı 金学淳、ジャーナリスト、高麗大学校メディア学部招聘教授 安洪範 ı 写真
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労働者として生計をたてている。ウズベキスタンのタシュケン ト文学大学や医科大学でロシア文学を教えていた詩人のキム・ ブラジミールさんも事情は同じだ。キムさんは夫人と娘、息 子、孫を含む一家10人と共に2011年、韓国行きを決行した。光 州に高麗人村があるという話を聴いたからだ。 キムさんのように噂を聞いてここを訪れた高麗人のほとん どが、光州内の産業団地とその近くの農耕団地で日雇い労働者 として働いており、職場に近く家賃も安いワンルーム住宅の多 いこの村で暮らすようになり、月谷洞はいつの間にか自然と高 麗人村になった。
村の基盤をつくる
ここ高麗人村の高麗人たちは慣れない環境や経済的な面な
ど、さまざまな問題を抱えているが、強固な共同体意識で新た な基盤を作りだそうとしている。共同組合をつくり、保育園を 運営し、住民センター、児童センター、相談センター、憩いの 場、村の放送局などのような各種支援空間を自主的に作り、積 極的に生活基盤を整えている。 光州の高麗人村の保育園 で子供たちがハングル を学んでいる。中央アジ アから先祖の国に移住し てきた高麗人たちは、家 族単位で3代が一緒にや ってくるケースが多いた め、子供の教育、特に韓 国語の学習が大切だと考 えている。子供たちだけ でなく青少年や成人のた めの各レベルの韓国語教 室も運営されている。
流入人口が増え、自営業で成功するケースも増えている。 ロシア語で家族を意味する「スィミヤ」という名前のカフェで は、中央アジア地域の主食であるヌルクパン(麹パン)と焼き 鳥を作って売っている。ジョンバレリさんが2015年に1号店を 出して以来、長女と息子夫婦が4号店まで開店し、この家族カ フェは高麗人村に出来た最初のグルメだという評価を得てい る。ホアナスタシヤさんが2017年10月に開業したヨーロッパス タイルのカフェ「コレアナ」も人気を得ている。このように成 功する自営業者の人たちが増え、飲食店、旅行会社、外貨両替 店、土産物店など30軒余りの店舗が誕生し、高麗人村通りまで できた。 ここに高麗人たちが暮らし始めたのは、村の産婆役となっ
独
た高麗人3世のシン・ジョヤさんが韓国の地を踏んだ2001年頃
でいる。彼らは3~5世代にわたって、少な
イ牧師の助けを借りて2005年月谷洞に「社団法人高麗人村」を
くとも3回以上ディアスポラ(Diaspora)の悲哀を体験してい
設立し、くたびれた商店街のビルの1階に高麗人センターを開
る韓民族の子孫だ。20世紀初頭の日本植民地時代に朝鮮半島か
いた。2007年から中国同胞と高麗人同胞に合法的な滞在の道が
らロシアの沿海州に移住した1世代はスターリン時代になると
開け、訪問就業ビザが発給されるようになると、それに伴い光
日本のスパイだという濡れ衣をきせられ、中央アジアに強制移
州を訪れる高麗人の数も急増した。
からだ。工場で働いていたシンさんは工場の月給が滞り困って
立国家連合(旧ソ連)に暮らしている韓国系
いたときに、セナル教会のイ・チョニョン(李天永)牧師と出
の人々をひとまとめにして「高麗人」と呼ん
会い、その助けを得たのが契機となった。その後、シンさんは
住させられた。見知らぬ荒野に追いやられはしたものの必死に
高麗人がここに集まる理由は簡単だ。この村に行けば韓国
生きぬいた人々はソ連崩壊後、中央アジアでまた差別を受ける
社会に馴染めない人々に宿泊や通訳、そして憩いの場を提供し
ようになる。そして耐えられずに自分のルーツを探し求めて韓
てくれ、問題も解決してくれるという噂が中央アジアの国々で
国に渡ってくる人々が生まれた。
広く広まったからだ。このような環境を構築できたのは、彼ら
現在、韓国に住んでいる高麗人は4万人、その内の4000人
の悩みを自分のことのように受け止め、解決してくれたシン・
余りが光州の月谷洞で暮らしている。彼らの大部分はワンルー
ジョヤさんがいたからだ。自ずからシンさんは「高麗人のゴッ
ムのような手狭な部屋で暮らしながら、製造業の職工や日雇い
トマザー」と呼ばれている。ここで暮らす高麗人たちは「ジョ
韓国の文化と芸術 59
1
1. カフェ「スィミヤ」では中央アジアの伝統方法で作ったパン を売っている。高麗人たちはここで懐かしい故郷の味を楽しむこ とができ、ここを訪れた他の地域の人々は見慣れない飲食文化を 体験できる。 2. 多文化家庭の子供たちのための韓国初の代案学校であるセナ ル学校では、高麗人の青少年が韓国社会に定着できるように、木 工教室をはじめとする各種職業体験プログラムも運営している。
と話す。高麗人3世のジョンスベトㇽラナさんもシンさんと同 じ理由でここに来た。 「ここに来て洗濯機の組み立て工場に就職しました。日曜 日には食堂で皿洗いをし、そうやってお金を貯めてワンルーム の保証金50万ウォンをつくりました」。 ソ連崩壊後、独立した中央アジア諸国は自国語使用と自国 民優先政策をとった。そのためロシア語しかできない高麗人た ちはだんだんと社会的な弱者となってしまった。しかし、言語 的な差別のせいで故郷を離れた高麗人たちは、韓国に来て直面 した一番大きな障害もまた言語だった。ビザ問題などで官公庁 に行き公文書の作成はもちろん、子供を学校に入学させたり市
ヤ母さんがいなければ生きていけません」という言葉がいつも
場で物を買うという些細な日常生活でも、韓国語ができないこ
口をついて出る。シンさんの携帯電話に保存されている高麗人
とは大きな障害となった。
の電話番号だけでも2000件以上だ。またシン代表と2008年に結
そのような理由で高麗人村で最も大切にされているのが教
婚した夫も、移住民の哀歓を誰よりもよく知っている脱北者な
育だ。朝鮮族のような在中国同胞や東南アジアの労働者たちの
ので高麗人の心強い同士となっている。
ほとんどは単身でお金を稼ぎに来ているが、高麗人たちは家族
子供から大人まで一人ひとりにあった韓国語教育
単位で3世代にわたって一緒にやってくるケースが多いため、
「ウズベキスタンでは高麗人はどんなに賢い人でも冷遇さ
の中心的な役割を果たしているのが韓国初の多文化代案学校で
れています。大学を二つも出ましたが就職はできませんでし
あるセナル学校だ。2007年に開校したこの学校は2011年に学力
た」。
認定学校として認可を受けた。無償教育機関であり小中高校を
子供の教育問題により関心が深いといえる。ここで高麗人教育
シン・ジョヤさんの話だ。彼女はウズベキスタンでは生計
統合した代案学校として道徳教育を重視しており、中央アジア
を立てることが到底できず、祖父の祖国に来ることを決心した
に暮らす高麗人の間でも噂になっているという。この学校は高
60 KOREANA 春号 2018
高麗人村で最も大切にさ れているのが教育だ。朝 鮮族のような在中国同胞 や東南アジアの労働者た ちのほとんどが単身でお 金を稼ぎに来ているが、 高麗人たちは家族単位で 3世代が一緒にやってく るケースが多いため、子 供の教育問題により関心 が深いといえる。 2
© 社団法人高麗人村
麗人村を誕生させたもう一人の立役者であるイ・チョニョン牧
い高麗人にしばしの間、寝泊りのできる避難所となっている。
師が率いている。シン・ジョヤさんが高麗人村のゴッドマザー
就職、労災、未払い賃金、ビザの問題など、ありとあらゆる悩
なら、イ牧師はゴッドファザーというわけだ。
み事の相談にのり、解決してくれる空間であり憩いの場だ。
高麗人村の韓国語講座はいくつもの機関で能力別、時間帯
2017年6月に開館した高麗人歴史博物館も目を引く。総合
別に分かれて運営されている。受講生が増え、現在は成人のた
支援センターのすぐ隣にある博物館は規模は小さいものの、
めの基礎班、中級班、高級班など3つのクラスと最近移住して
1860年に沿海州に住み着いた韓国人が1937年に中央アジアの不
きた青少年のための韓国語教室を運営している。週末勤務と夜
毛の地に強制移住させられるまで、どれほど熾烈な抗日闘争を
勤で時間のとれない人々にとって高麗FM放送講座は、仕事をし
繰り広げていたのか、その子孫たちがありとあらゆる差別と不
ながらでも聞くことができると好評だ。
当な待遇に耐えて、どのように生きてきたのかが一目で分かる
また2013年にオープンした児童センターでは、小中高校生 のために放課後に韓国語、英語、数学、ロシア語の書き方、芸
ようになっている。2017年には「高麗人強制移住80周年記念事 業」も自主的に行った。
能学習を指導し、サッカーとギターも教えている。2012年にで
光州高麗人村という共同体を支える要素の一つにメディア
きた保育園は共働き家庭の子供たちを早朝から夜まで預かり、
がある。重病にかかり手術費用が必要だというような苦境に立
ハングル学習、文芸活動、運動を指導し給食と間食もでる。
った際には、高麗FM放送とナヌム放送のニュースを通じて互い
2017年7月からは小学校課程の週末ロシア学校も運営されてお
に助け合うというシステムが出来上がっている。移住民による
り、高麗人の子供たちは韓国語とロシア語の二つの言語を必修
歴史上初の自主ラジオ放送として開局した高麗FM放送は、韓国
として学ばなければならない。出生地でロシア語を習ったもの
語よりもロシア語のほうが楽だという高麗人のために80%の番
の、韓国滞在期間が長くなるにつれロシア語を忘れてしまう子
組がロシア語で進行している。24時間番組を送信する高麗FM放
供たちが増えているからだという。
送は「中央アジアに暮らしている親戚や知人がアプリケーショ
共同体を支える中心軸、メディア
ンをダウンして聞いているというほど人気が高い」という。一
来たばかりで住むところがないまま仕事を探さなければならな
いる。
高麗人総合支援センターはこの村の心臓部である。ここは
方、ナヌム放送ニュースではフェイスブックやEメールで11万 人とつながり、高麗人村の些細な日常生活のニュースを伝えて
韓国の文化と芸術 61
© 社団法人高麗人村
外国人に分類される4世
高麗人村では2013年から10月の第3日曜日を「高麗 人の日」に定め、毎年記念行事を行っている。2017 年第5回「高麗人の日」には村の子供たちが韓国伝統 の扇の舞を踊った。
光州地域の高麗人は強い共同体意識で自分たちの立ち位置
を固めている。彼らは互いに助け合いながら冠婚葬祭を行うの はもちろん「クリーン奉仕団」を創設して、通りの清掃ボラン ティアと自主防犯活動も行っている。また毎月「高麗人村訪問 の日」を決めて運営し、韓国社会の関心を誘導している。2017 年11月にはウズベキスタンの教育部長官がこの村を訪問したこ ともあった。 多様な支援システムが安定的に運営されているが、だから といって彼らの生活が楽であるというわけではなく、特に高麗 人がもっとも悩んでいるのは病気にかかったときだ。滞在期間 90日を過ぎて医療保険に加入できる資格を得ても、ひと月10万
が高麗人村にも400人ほどいる。彼らの願いは唯一つ、往来が
ウォンほどの保険料を負担するのは辛い。
自由な在外同胞ビザに制限をつけないことだ。
彼らが直面するもう一つの悩みは滞在ビザの問題だ。現行 の在外同胞法は高麗人3世までは「在外同胞」に分類して長期
2018年は高麗人が祖国韓国に来始めてから30年になる意義 深い年だ。
滞在を認めているが、4世からは「外国人」に分類している。
「私たちは国権回復のための独立運動に献身した祖先の意
従って高麗人同胞4世からは韓国生まれでも訪問同居ビザ資格
志を受け継ぎ、誇らしい韓民族の末裔であることを祖国である
が満了して満19歳になれば韓国を離れるか、3カ月の訪問ビザ
この地で証明していきます」。
を更新し続けて再入国を繰り返さなければならない。出生地が 韓国でもそうなのだ。このような法の適用を受ける高麗人4世
62 KOREANA 春号 2018
シン・ジョヤさんの力強い言葉に高麗人の生命力を見た気 がした。
詩人キム・ブラジミールさんの
「反転の人生」 詩人のキム・ブラジミールさんは光州高麗人村でも特別な
存在だ。ウズベキスタンで大学教授をしていた知識人がここで は日雇い労働者として働いているというだけではない。高麗人 3世である彼は、村の精神的な支柱となっている。高麗FM放 送では「幸福文学」という文学番組をロシア語で進行してい
る。その他、全国単位の行事にも高麗人代表として参加するこ とが多い。
詩の中で特に深い感動を覚える詩がある。
た。それが母国に来て生まれて初めて肉体労働をしています。
れて生きてきたのは我らの過ちではないことを」(「必死に待
「私はペン以外には何も手に持ったことがありませんでし
韓国語ができないので、出来ることといえばそれしかありませ んから。それも数年前に小腸癌の手術を受けた後は力仕事は
「大韓民国よ! わが祖国よ分かっておくれ / 我らが遠く離
ちわびた80年の歳月」)
彼は2017年夏、高麗人強制移住80周年記念事業会と国際韓
ほとんどできません。果樹園と農場でリンゴ、梨、ブルーベ
民族財団が主管した「回想列車―極東シベリアシルクロードの
す」。
トックからシベリア横断鉄道に乗り、カザフスタンのウシュト
リー、イチゴのような作物を育てて収穫するのが主な仕事で 最初工場で働いていたときは本当に大変だったという。韓
国に来て2~3年間は毎日のように後悔し、戻ろうかと考えた こともあったという。しかし今では、父の遺言通り韓国に来た ことを本当に良かったと自信を持って言えるようだ。
「父は1990年に亡くなりましたが、亡くなる直前になり韓
国の話をして『おまえは必ず故国の土を踏むように』と言って
旅 」 に高麗人村の代表として参加した。ロシアのウラジオス
ベ( Ushtobe)とアルマトイまで13泊14日の日程を通して、高 麗人の祖先が経験した苦難の足跡をたどる旅だった。回想列車 の体験は彼にさまざまなインスピレーションを与えた。これか ら出す2番目の詩集には高麗人強制移住に関する詩が多く含ま れるという。
詩人である彼は言語に敏感にならざるを得ない。「自然に
亡くなりました」。
思い浮かぶ言語が母国語でなければなりませんが、韓国語で詩
だ。韓国に来て書いた詩を集めた最初の詩集『光州に降る初
うまくなりましたが、もっと韓国語を一生懸命に学ぼうと思い
彼は時間をみつけて仕事の合間に詩を書くのが大きな喜び
雪』も2017年2月に出版した。雪の降る光州の風景に魅せられ て書いた詩で、その詩の題目をそのまま詩集につけた。この詩
をかけない状況が残念です。ここで何年か暮らしながら少しは ます」。
30余年の間ロシア文学の教授として教壇に立ったキムさん
集には韓国の地を踏んだ後にキム・ブラジミールさんが書いた
は、55歳停年退職の規定に従い、比較的若い年齢で教壇を去ら
る。啓明大学校ロシア文学科のチョン・マㇰネ(鄭莫来)教授
乗ったのが2011年3月、すぐに妻と子供たちも韓国に来た。今
35編の詩が、ロシア語とともに韓国語の翻訳文が掲載されてい が詩集の出版を薦めてくれたことで勇気を出すことができた。 ロシア語で書かれた詩の韓国語翻訳もチョン教授がしてくれ
た。彼女は高麗人同胞に関する論文を準備していてキム詩人と 出会ったという。
彼の詩には祖国や自然に対する愛、スターリンの強制追放
で中央アジアに強制移住させられた祖父や両親の哀歓のような ものが、率直な表現で静かに描かれている。彼の書いた多くの
なければならなかった。退職後に韓国行きを決心し、飛行機に
や孫まで含めて10人以上の大家族が高麗人村で暮らしている。 そして彼は「ここは私の祖国だ」と堂々と言える日を夢見てい る。彼の詩にもそんな心境がたっぷり込められている。
「私の友よ、歴史的な祖国の地で / (……) 私は外国人とい
う侮辱的な言葉を望んではいません/ 私は高麗人、私は韓国人 だからです/ 精神的にも良心的にも血統的にもそうなのです」 (「追跡」)
韓国の文化と芸術 63
遠くの目
旅人 図書館に通う 私は、日本の古典文学、とくに戦争・いくさに関わる文学の研究に取り組んでい る。近年、自分自身の研究テーマとの関係で、韓国に出かけ、韓国の資料を手に 取る機会が増えてきた。ここでは、去る1月下旬に韓国国立中央図書館を訪れた ときの小さな、しかし印象に残った体験についてお話ししたい。 鈴木 彰 ı すずきあきら、立教大学文学部教授
旅立ちまで
ルに出かけられるではないか。
私の勤務する立教大学では、一月末の一週間は定
まずはその旅に出てみる。そして、その地に立
期試験期間にあたる。授業自体はすでに終了している
ってそちら側から見つめ直してみる。どういうわけ
ので、そのぶん少しだけ時間と心の余裕ができる。
か、私は自然とそう考えてしまう。旅人主義の思考
この一年半ほどのあいだ、壬辰倭乱/文禄・慶 長の役の際に島津軍の捕虜となった、ある被虜人の 生涯とその文業を追いかけている。彼は日本に渡っ たのち、薩摩藩・島津家のもとで50年あまりの年月
とでもいうべきだろうか。
「族譜」をひもとく
韓国国立中央図書館で調べものをするのは、こ
を過ごし、78歳となった1654年に鹿児島で亡くなっ
れで二度目である。すでにIDは持っている。それ
たようだ。江戸に住んだ経験もある。とりわけ、彼
を入力して発行される一日利用カードで入館、すぐ
が日本で取り組んだ文化的な活動とその意義は、ま
にエレベーターで六階に向かった。そこに、膨大な
だ学界でも知られていない注目すべきもので、その
量の族譜を収めた書棚が並ぶ「古文献・地図資料室
ことについて、鹿児島でこの三月に研究発表するこ
/古文献閲覧室」があるはずだった。しかし、降り
とになっている。
立った六階が工事中で閉ざされているではないか。
こうしたテーマゆえ、まずは韓国で報告をと考
もしや、族譜の閲覧すらできないのでは……。しば
え、昨年六月に韓国外国語大学校で講演の機会を与
し茫然としたが、気を取りなおしてよく確認してみ
えていただいた折、彼との出会いについて話をさせ
ると、幸いなことに同室は五階に移っているとのこ
ていただいた。その後、調べていくうちに、彼の本
と。初心者にもかかわらず通い慣れた気になってい
名とされるものが判明した。ただし、それは後世の
たようで、気恥ずかしかった。
文献に書かれているもので、ただちに信用すること
この日、私は初めて族譜を手に取った。事前の
はできない。だが、その情報をもとに、もしかした
下調べで、精査すべき姓と本貫は分かっていた。図
ら族譜から何かわかるのではないか――。一度そう
書館のOPACで検索して、点検すべき資料に目星をつ
考え始めると、もう黙ってはいられない。この時期
けてもいた。くわえて、当日は韓国の研究仲間の協
なら、少し頑張れば、週末を利用して駆け足でソウ
力を仰いで、少しずつ手探りで、めざすその人の名
64 KOREANA 春号 2018
や世代、一族の関連記事を追い求めた。
日本でも変わりあるまい。じっさい、現在の韓国
そうしていると、ここが韓国の図書館である
で、この漢字・仮名交じりのカード目録の実用性は
ことすら忘れてしまうから不思議なものだ。考え
きわめて低いことだろう。伺ってみると、2000年ご
てみれば、閲覧席で族譜をひもといている人たち
ろまでは使われていた、とのことであった。
はみな等しく、歴史上のある人物を探すという
時間の許すかぎりカードを繰ってみた。私の場
同じ目的をかかげた旅の途中にある。旅はみちづ
合、人さし指と中指の指先を交互に使って、一枚一
れ。だからこそ、ありがたいことに、私のような
枚、カードを手前に移動させながら見ていく。
迷える旅人には温かい救いの手がさしのべられた
気になる書名がいくつも見つかった。
りもするのだろう。
それとともに、カード目録には多くの人々の筆
こうして、短い滞在期間ではあったが、重要な
跡が残されているという事実にも、今回あらためて
事実がいくつか判明したのであった。
心ひかれた。カード目録は、新しい本を受け入れる
朝鮮総督府図書館の図書カード目録
ごとに一枚ずつ書き足されていった。結果として、
閲覧室で過ごすうちに、ふと視界に入ってきた
ドが混在している。見るほどに、そこから生身の書
ものがあった。申請カウンターの脇に数台のブック
き手の感覚が迫ってくるのである。筆写された写本
トラックが並べられていて、それに隠れるように、
を読んでいるときとどこか似ている。
カード目録の棚が置かれていたのである。
大きさ、線の太さ、書き癖が違う字で書かれたカー
カード目録はかつて道具であったが、今や意識
朝鮮総督府図書館で使っていたカード目録棚で
的に文化財として扱うべきだろう。そこにもまた、
あった。この「1945年以前の図書カード目録函」は、
過去の人々の営みと記憶が刻みつけられている。こ
「外国古書分類目録(中国・日本)」、「古書分類
れを未来に向けてどのように活かすことができるだ
目録(1945年以前)」、「古書分類目録(1945年以
ろうか。
降)」に分かれていて、テーマごとに小分けされた引
一連の工事が終わったのち、「古文献・地図資
き出しのなかにはぎっしりとカードが収められてい
料室/古文献閲覧室」は何階に配置されるのだろう
る。カードには、書名、著者・編者名、整理番号、装
か。カード目録は閲覧者の目に触れるところに出て
丁、冊数などの情報が日本語で書かれている。
いるだろうか。
OPAC検索が一般化した昨今、カード目録はもは や脇役でさえなくなってしまった。それは韓国でも
1
すでにそんなことを考え始めている。近々また 旅人としてここに通うことになりそうだ。
2
3
1. 韓国国立中央図書館「古文献・地図資料室/古文献閲覧室」入口 2. 朝鮮総督府図書館のカード目録 3. カード目録の様子 韓国の文化と芸術 65
日常茶飯事
愉快な人生が 味を左右する
韓国公正取引調整院が発表した「2016年フランチャイズ業種別加盟店現況」を見ると、チキ ン店が2万4453軒で、3万846軒のコンビニに続く第2位を占めている。3番目は韓国料理店 で前の二つよりもはるかに少ない1万9313軒と集計されている。これはチキン店の経営には 特別なスキルが必要なく、多くの自営業者がチキン店を選択しているからだ。しかしこのレッ ドオーシャンは特別なスキルは無くてもかまわないかもしれないが、特別な原則は必要だ。 チョ・ウン ı 趙銀、詩人・童話作家 河志権 ı 写真
会
哲淳)さんは非常に成功したケースに属する。
社勤めをしていて何か問題に突き当 たったときに、痛快に辞表を叩きつ
彼は一言で言って愉快な人だ。家には「自分のい
ける自分の姿を想像する人も多い。
る場所で最善を尽くそう」という家訓入りの額がか
そんな時、頭の中にはいろいろな種類の自営業が浮
かっている。1960年生まれの彼がチキン店を経営し
かぶだろうが、自分を苛めた職場の上司さえいなけ
て20年になる。その間、積み上げた経験と見識は本
ればどんな仕事でもかまわないという気がする。自
社のプランに反映されるほどだという。
分の人生も周囲をあっと驚かせるような大逆転がで
「私は運営委員の資格で本社に行き、社長、会
きるという期待感と合わさり「もっと年取る前に」
長、役員らと同じテーブルに座り、多くの会議にで
というあせりも感じる。
ます。本社ではアンケートまでしてプランをたてま
しかし実行はそんなに簡単ではない。この道に進 もうと決めるまでには多くの苦悩と煩悩が伴う。そ
すが、私は初期段階から積極的に参与しています。 その間、賞もたくさんもらいました」。
れでも韓国人の自営業の割合が非常に高いのは、そ
本社でチャーター便10便を飛ばして行った済州島
れだけサラリーマン生活が幸せではなく、また停年
国際コンベンションセンターで開催された行事でも
退職の年齢が低く、退職後の適当な仕事が不足して
彼は最も大きな賞をもらった。家族全員が招待され
いるという意味でもある。
て、受賞台には家族も一緒にあがった。チョン・チ
自営業者になったとしても成功が保証されている
ョルスンさん夫妻は本社のテレビCMにもときどき
わけでもない。低成長と不景気で内需市場が萎縮し
顔をのぞかせているほどに、フランチャイズ業界で
ているからだ。このような観点から見るとフランチ
は有名人だ。規則的に運動し、よく笑い、地域社会
ャイズチキン店を経営するチョン・チョルスン(鄭
の活動にも熱心に参加するなど、その前向きな姿勢
66 KOREANA 春号 2018
ソウル西村でフランチャイズチキン店をし ているチョン・チョルスン(鄭哲淳)夫妻 は、多忙な日常の中でもいつも笑顔を絶や さない。
のせいか彼と彼の妻の顔は明るく輝き、一日中一緒 に仕事をしている夫妻のとびきりの笑顔はコピーで もしたかのようにそっくりだ。
味の秘訣は特別な原則
ン店に変えた。しかしその決定は簡単ではなか
をしていたチョン・チョルスンさんはある日、サラ
った。
ソウルにある会社で10年以上サラリーマン生活
リーマンとしてビジョンがないことに気付いた。変
「妻がやっていたビデオ店のすぐ隣に鳥の丸焼き
化を考えていた時期に、公州で公務員をしていた義
の店があり、ずいぶん悩みました。ビデオ店をチキ
理の兄が突然亡くなった。その後、未亡人となった
ン店にすれば、お隣にしてみれば競争相手がすぐ横
姉がソウルに引っ越してきて、姉弟は一緒にカルビ
にできるわけです。それでも決断したのは『鳥の丸
店を経営した。しかし二人とも経験が無かったため
焼き』と『チキン』は違うと考えたからです。今で
に、店はわずか3カ月で閉じることになってしまっ
は二種類の区分が曖昧になりましたが、あの頃は全
た。つまり彼はすでに飲食業で一度苦汁を飲んだ経
然違いました。とにかく今だに良き隣人としてお隣
験があったのだ。
さんとは仲良くしています」。
そんな辛い経験が、彼がフランチャイズの店
彼の店ではチキンをはじめとして多種多様なピザ
舗を開業した理由だった。本社の支援を受ければ
とチーズスティックのようなサイドメニュー、生ビ
もっと安定的に店を運営できるだろうと考えたの
ールなどを売っている。その中で全売上の80~90%
だ。彼は妻が7年間経営していたビデオ店をチキ
をチキンが占めている。長い間、チキン店を経営し
韓国の文化と芸術 67
「フランチャイズは味が画一 的」という一般的な固定観念が ある。そんな課題を解決できた のは、まず夫人の優れた料理の 腕前があったからだ。そしてそ れ以外にも彼が固守する原則が 一つある。本社から提供された マニュアルの油の温度より2度 ほど高い温度で揚げることだ。 これでカリカリッとしたフライ ドチキン特有の食感がさらにア ップするのだ。
てきた彼が客からよく聞く話の一つに「同じブラン ドのチキンなのに、なぜか他の店で食べるとおいし くない」というものだ。彼はお客のそんな話を賞賛 と受け止めている。 もちろんその賞賛は簡単に手に入れたわけではな い。「フランチャイズは味が画一的」という一般的 な固定観念を打ち破るために努力してきたからだ。 そんな課題を解決できたのは、まず夫人の優れた料 理の腕前があったからだ。そしてそれ以外にも彼が 固守する原則が一つある。本社から提供されたマニ ュアルの油の温度より2度ほど高い温度で揚げるこ とだ。これでカリカリッとしたフライドチキン特有 の食感がさらにアップするのだ。 「本社から同じマニュアルをもらっても、店ごと に味は少しずつ違わざるをえません。主婦に同じ材 料を与えてキムチを漬けろといっても同じ味を出す ことはできません。それと同じことです。そして何 よりも新鮮な油がチキンの味を左右します。私が使 っているオリーブオイルも食用油よりも4倍ほど高 い製品ですが、それを惜しんで必要なときに変えな いでそのまま使っていては、味を落とす要因になっ
1
68 KOREANA 春号 2018
てしまいます。私の息子はチキン店を開いた頃に生 まれたのですが、いつの間にか高校3年生になりま した。私は常に自分の息子に堂々と食べさせること のできる新しい油を使っています」。 子供に食べさせるという思いで作っているのだか ら、彼の真心が味の秘訣だと言える。それだけでは ない。 「本社では研究に研究を重ねてきた最上のレシピ を加盟店に提供しますが、忙しいとマニュアルを守 らないことも多々有ります。揚げたチキンに刷毛で 一つずつソースを塗らなければなりませんが、忙し さにかまけて手を抜くと、やはりきちんとした味は 2
でません。私たちはどんなに忙しくてもそんな原則 を守っています。それが変わらないうちの店の味の 秘訣です」。
過欲のない満足が幸福の秘訣
チョン・チョルスンさんの店がある西村一帯は、
昔はひっそりとした住宅街だった。そんな町が最近
1. チョンさん夫妻の一日は、材料の搬入から掃除、調理、 サービングにいたるまで息つく暇もないほど忙しく、一年 中休みの日もほとんどない。 2. チョンさん夫妻は自分の子供に食べさせるという思い で、良い油を使い真心をこめて作ることが味の秘訣であ り、成功の鍵だと信じている。
は文化通りとして世間の注目を集めるようになり、 周りもうるさくなってきた。しかし彼の店はそんな 雰囲気とは無関心だ。一日一日を誠実に働いてきた おかげで経済的にも安定し、5人家族が暮らしてい る2階立ての家も買ったので、これ以上望むところ
達人を直接雇用するよりは、彼らに支払ったほうが
もない。
安上がりです。しかし安上がり的に運営できないと
西村一帯は大規模デモがよく開かれる光化門広
いうのが問題です」。
場に近いので、その影響を受けるという地域的な
彼は自営業をしながら身体は正直くたくたにな
特徴がある。デモ隊を塞ぐために警察のバスがバ
るという。午前11時に店を開け、清掃、材料の準
リケードを築けば、配達するオートバイが動けな
備、調理、サービング、注文を受け、配達まで一
くなり、注文も来なくなる。そんな理由のためだ
日中、妻と一緒に休み無く働いている。特に注文
けではないが、彼は社会や政治的な葛藤が減り、
が重なる午後5時から9時までは息をつく暇もな
韓国社会が安定することを望んでいる。
い。午前1時になりようやく一日の仕事が終わる
一軒おきにチキン店があるといわれるほど、韓
くらいやることは多く、休みの日もほとんど無い
国人はチキン好きだ。その理由についてチョン・チ
ので大変さは口では言い表せないほどだ。しかし
ョルスンさんは「価格帯が適当だから」だと言い、
彼はいつも現実に満足し、過分な欲を出すことは
「食べやすい大きさに切って、カリカリッと揚げた
ないという。
チキンの食感と十分な量が韓国人の好みに合うのだ ろう」と考えている。 自分の店を経営すると同時に他の人々の創業も助 け、既存の加盟店のメントの役割もする彼にはいつ もすっきりしない問題がある。それは配達だ。直接 配達することの多い彼はこう言う。 「最近は大部分の加盟店で1件あたり3000ウォン 程度する配達専門業者を利用しています。実際、配
「うちはお客さんが列をつくって食べるほどの有 名店ではありません。ただ同じブランドのフランチ ャイズ営業店の中で相対的に美味しいという評価を 得ている店というだけです。それで十分です」。 なるほど。彼は自分の事業がどんな位置にあ り、どの程度で満足すべきかを正確に知ってい る。まさにその点が彼がいつも笑っていられる理 由のように見えた。
韓国の文化と芸術 69
エンターテインメント デビューから57年目を迎えた77歳の 女優に、韓国映画界がほぼ全会一致で支 持したのである。映画やテレビドラマで おおかた脇役を務めてきた老女優に送ら れれたこれらの賛辞は、すでに広く知ら れている彼女の卓越した演技力のみなら ず、彼女が出演した映画『アイ・キャン ・スピーク』に送る声援でもあった。
「ブマシ」の伝統を現代に合わせて 再現
この映画は、2007年米連邦下院で通
過した「日本軍慰安婦謝罪決議案」(HR 121)の評決を控え、慰安婦被害者のイ・ ヨンス(李容洙)さんが、ようやく公聴 会証言までこぎつけた実話を基に制作さ れた。証言以降、米国の下院本会議は、 日本政府に慰安婦問題に対する公式の認 定と謝罪、歴史的な責任の履行などを要 求する決議案を採択した。 第2次世界大戦当時、日本軍は韓 国、中国、東南アジアをはじめとする占
アイ・キャン・スピーク 話すべきことと話せることの間
領地で、若い女性たちを強制徴用した り、拉致、人身売買などの方式で強制連 行し、性的奴隷として搾取した。その人 数が実に20万人に達したとされており、 被害者の大多数は韓国の少女であり、現 在韓国には「慰安婦被害者」として政府
慰安婦という重たいテーマを題材にした映画が大衆的な人気を得られ るか。キム・ヒョンソク(金賢錫)監督の映画『アイ・キャン・スピー ク』(I Can Speak)の公開前までは、多くの人々が疑問を抱いていた。し かし、この映画は観客動員数を約330万人を記録し、比較的よい興行成 績をあげており、記者と評論家たちからも好評を得ている。 ソン・ヒョングク ı 宋亨国、映画評論家
に登録されたハルモニ(おばあさん)の うち、32人が生存している。しかし、ま だ日本政府による女性に対する戦争犯罪 の認定と公式謝罪はなされていない。 『アイ・キャン・スピーク』は、 2014年韓国の女性家族部が主催し、CJ文 化財団が主管した「日本軍慰安婦被害者 のシナリオ企画案公募展」の当選作であ る。ところが、日本のファンたちの反発
年末、韓国の各種映画
昨
ードの演技賞(女性部門)、韓国映画製
グと制作が難航した。そうこうするうち
賞の授賞式で女優に贈
作家協会の女優主演賞、アムネスティ・
に、イ・ヨンジュ(李勇周)監督の映画
られるすべての重要な
インターナショナルの特別賞、今年の女
『建築学概論』などで名を馳せた俳優・
賞をナ・ムニ(羅文姫)氏が総なめし
性映画人賞など、枚挙にいとまがないほ
イ・ジェフン(李帝勳)氏が、2017年初
た。青龍(チョンニョン)映画賞の女優
どだ。映画専門誌『シネ21』で、記者と
めに合流を決め、本格的な制作に入るこ
主演賞、韓国映画評論家協会賞の女優主
評論家26人が選定した「今年の女優」も
とができた。
演賞、ディレクターズ・ カット・アワ
彼女だった。
70 KOREANA 春号 2018
を恐れ、若いスター俳優たちが相次いで 出演を辞退したことから、キャスティン
このシナリオは、2年前からすでに
ナ・ムニ氏の手元にあった。彼女が扮し
より大きい単位の地域共同体をなすこと
に心から謝る。この謝罪は、実際の慰安
たナ・オクブン・ハルモニは、20年間区
である。昔の人々は、このような協力に
婦被害者のハルモニたちが、加害者から
役所に8,000件の苦情を申し立てた、い
よって、大勢の人手が必要な農作業の労
当然受けなければならないことは言うま
わゆる「苦情王」である。防犯から故
働力問題を解決した。そのような意味か
でもない。聴聞会で証言する場面でオク
障、商店街の再開発問題に至るまで、町
ら、映画の中の商人たちは、この映画の
ブン・ハルモニは、日本当局に向かって
内のことにいちいち口を挟む。そのた
三番目の主人公である。市場で洋服お直
以下のような発言をし、被害者の心境を
め、区役所の職員たちの間では「変人」
し専門店を営むオクブン・ハルモニと周
代弁する。
と呼ばれる。町の住民たちからも「クレ
辺の商人たちの友情が、映画をひときわ
ーマーお婆さん」だと後ろ指をさされ
豊かなものにしている。
「申し訳ない、この言葉がそんなに 難しいですか」(I am sorry, is that
る。イ・ジェフンが扮する区役所の職員
このシーンで観客が念頭に置くべき
パク・ミンジェ主任が、オクブン・ハル
点は、オクブン・ハルモニが慰安婦被害
so hard?) 本当に口にしづらいのは、女性とし
モニの苦情を引き受けることになってか
者だったという事実が、上映時間の半分
て、植民地支配者の性的奴隷として搾
ら、世代を超えた二人の間の友情物語が
以上が過ぎてようやくわかるということ
取された、記憶することさえ辛い残虐な
展開される。オクブン・ハルモニはどう
である。それまで映画は、オクブン・ハ
過去であるだろう。慰安婦被害者のオク
いうわけか、英語を教えてほしいとパク
ルモニをはじめとする区役所の職員たち
ブン・ハルモニが「はい、話します」
主任にすがりつく。これを避けていたパ
と、市場の商人たちの些細な日常に焦点
(Yes, I can speak)と、口火を切るまで
ク主任は、オクブン・ハルモニに妹の食
が当てられている。周辺の人々は、町内
60年の年月が必要だった。
事の世話を頼む代わりに、英語会話を教
のあらゆることにおせっかいをやくオク
この映画を制作した映画会社・明
え始める。
ブン・ハルモニが気に入らない。ところ
(ミョン)フィルムのシム・ジェミョン
韓国には、農耕時代から「プマシ」
が、これを機に、オクブン・ハルモニが
(沈載明)代表は、月刊誌『GQ』に寄稿
(仕事の助け合い)という伝統があっ
慰安婦被害者であり、英語を習う目的も
した記事で、「暴力と痛みを展示する映
た。ここで「プム」は「仕事をするのに
これと関連があるということが明らかに
画的な視線ではなく、自ら変化して行動
かかる力や手間」、つまり労働力を意味
なり、パク主任はもちろん、町のすべて
する主体的な女性像を見事に描いたこと
する。「アシ」は「相手に手助けされる
の住民たちの間に申し訳ない気持ちが広
を私は誇りに思う」と書いた。言い換え
ことに備えて、先に手助けすること」を
がる。事実がわからず生じていた誤解と
れば、この映画の核心は、「第3者が見
意味する。韓国人は、プマシを通じて農
憎悪が、申し訳ない気持ちに変わったわ
せる」のではなく、「自分で言う」こと
作業から家事、子育てに至るまで、必要
けだ。
にある。苦痛を隠して忘れようとするの
な労働力を隣人とやりとりして人手不足
映画はこれを通じて、より重い質問
を解消してきた。世界各地から伝わって
を投げかける。複雑な現代社会で、他人
くる隣人同士の協力システムは、地域の
の抱える事情がよく分からずに生じる誤
先日、ハリウッドの大物プロデューサ
コミュニティをしっかり維持する基盤に
解がいかに多いことか。私たちは他人の
ー、ハーベイ・ワインスタインが、女優た
もなった。『アイ・キャン・スピーク』
ことを見た目や思い込みで判断する。イ
ちへのセクハラ事件を受け、自分が設立し
でオクブン・ハルモニとパク主任の協力
ンターネット上で見知らぬ人に対する誤
た会社を解雇された。中東のチャドルを着
は、このようなプマシの伝統を現代に合
解や嫌悪も瞬時に広がってしまう。この
た女性からハリウッドのスター女優に至る
わせて再現したものといえる。さらに高
映画は、慰安婦被害というまだ解決され
まで、女という理由だけで沈黙を余儀なく
齢者と若者が、片方は子供の食事の世話
ずにいる歴史的な難題を、今日の普遍的
されるケースは数えきれないほどある。女
をし、もう一方が英語を教えるという内
な社会問題に置き換えて伝えることで、
性が「沈黙させられる」ことは、れっきと
容は、高齢化時代を迎えてひときわ意義
観客の共感を引き出す。
した文明社会で、ちゃんとした職場で、私
映画に描かれた苦痛からの開放
たち周辺の平穏そうに見える空間で日常的
多くの登場人物が感じる申し訳ない
沈黙を破り、知らなかった人たちに事実を
気持ちは、そのままそっくり謝罪とし
知らせ、負い目を感じている人たちから支
深い設定である。
事情が分かれば申し訳ない気持ちに なる
ではなく、むしろ、さらけ出して共感を 得ることが大事だということだ。
に行われる。オクブン・ハルモニのように
二人の主人公の協力が「プマシ」で
て返ってくる。パク主任と市場の商人た
持を引き出すことこそ、沈黙の中に閉じ込
あるならば、町の商人たちの間に築かれ
ち、誰にも言えない過去がある姉を一生
められている苦痛を救う道だと、『アイ・
る絆は「トゥレ」に喩えられる。トゥレ
懸命忘れようとする弟、そして大勢の米
キャン・スピーク』は訴えているかもしれ
とは、プマシをするお隣同士が集まって
議会の議員たちが、オクブン・ハルモニ
ない。
韓国の文化と芸術 71
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