夏号 2019
韓国の文化と芸術 特集
お寺の食事
欲と執着を捨てる道 欲望を捨てる食事 森羅万象を抱く食べ物 穏やかな故郷のような食事 食物こそが「体」であり「人格」 茶で修行する僧侶の物語
お寺の食事
VOL. 26 NO.2
ISSN 1225-4592
韓国のイメージ
「チメク」の光と影 キム・ファヨン
金華栄、文学評論家、大韓民国芸術院会員
© News1
韓
国人のお酒の消費量は、ロシアと共に世界トップクラスにあ る。お酒にはそれぞれ相性の良いつまみがある。マッコリに はピンデトック(チヂミ)、焼酎にはサムギョプサル(豚バ ラ焼肉)が合うように、ビールには断然フライドチキンだ。韓国人が作り出 したビールとチキンのファンタスティックな組合せは、外国語辞典にまで載 っている。その単語とは、英語のチキンからとった「チ」と韓国語でビール を意味するメクチュの「メク」を組み合わせた「チメク」だ。 カラッと揚がった衣の間から湯気の立ちのぼる熱々の鶏肉が顔をのぞ く。柔らかな肉の歯ごたえ、それに加えて甘いタレの中のニンニクの香り が、揚げ物特有の油っぽさを抑えてくれる。これが韓国特有のフライドチキ ンだ。そこに香りの強くない韓国産のドライビールの爽やかな味が加わると 「チキンは無条件正しいが、チメクは完全に正しい!」「天国には間違いな くチメクがあるだろう!」という若者たちの歓声が上がる。 チメクの歴史はさほど古くはない。朝鮮戦争が終わったあと、1960年代 までフライドチキンどころかフライドエッグも貴重な食べ物だった。チメク の初期の姿は、1960年代末ソウルの明洞で開業した鶏料理の専門店「栄養セ ンター」の電気オーブンで焼いた鶏の丸焼きと生ビールだったが、当時は値 段も高かった。その頃、アメリカから養鶏用の鶏の原種と飼料が輸入されは じめ、1970年代には鶏の生息地が庭から養鶏場、すなわち工場式の密集畜産 空間に移動した。一方、国産のショートニングオイルと食用油が大量生産さ れ、小麦の輸入の急増により小麦粉の消費量も増加した。このように万全の 環境が整った中で1977年、国内初のフランチャイズ・フライドチキン店「リ ムスチキン」が新世界デパート地下の食品売り場に開業した。そして1984年 にはKFCが鍾路に最初の店を出した。このようにチメクの大衆的な消費はフ ランチャイズ産業と直結している。 今日のチメクが登場したのは2002年だ。その年、韓国が準決勝まで進ん だサッカーの韓日共催ワールドカップは、国全体をお祭りムードにした。興 奮した人々はスクリーンがあるところなら広場、飲食店、居酒屋のそこかし こでビールとフライドチキンを片手にサッカーを観戦した。これが全国的な 流行となる。その後はドラマなど、韓流の拡散がチメク文化を東アジア圏全 体に広めた。 しかし、韓国人が楽しむ麻薬のようなチメクには否定的な側面もある。 鶏肉自体はもちろん、熱を加える天ぷら油、衣の過度の高カロリー、高い塩 分に加えてアルコール、そしてビール特有の食欲促進効果により過食を招 き、肥満、通風、心血管疾患、肝疾患などにつながるリスクが大きい。それ でも電話1本で、全国どこへでも30分以内に配達される安価なフライドチキ ンとビールのおかげで、週末はチメク天国となるのだ。
<編集長の手紙>
心と身体のための健康食
発行人
李是衡
編集長
金鍾徳
編集理事
最近、テンプルステイとともに精進料理が流行っている。韓国仏教のお 寺の伝統料理として僧侶や尼僧が長い間食べてきた菜食が、健康を懸念する 人々の関心を集めている。そのため精進料理を提供する食堂の人気がますま す高まり、精進料理教室や料理実演も目を引くようになった。 2017年ユネスコ世界文化遺産に韓国仏教の七つの山寺の登録が確定し た。世界遺産委員会は、山寺が宗教的信念と精神的修養、そして修道僧と信 者たちの日常的な暮らしが営まれている生活の中心だと説明した。寺院や禅 房での日常生活を通して、千年以上にわたって伝えられてきた衣服や献立の 伝統は大変重要だといえよう。 今回の『コリアナ』の特集は「お寺の食事-欲と執着を捨てる道」とい うタイトルで、韓国の仏教寺院料理の伝統を掘り下げてみる。騒々しい流行 を超えて、韓国の精進料理の本質を垣間見る機会を提供しようとした。ここ に紹介されたお寺、僧侶と尼僧、そして執筆者の選定に格別注意を払った。 そうすることで、インド初期仏教やアジアの複数の地域に伝わった仏教飲食 の歴史を振り返り、今日の精進料理 がどのように準備され、食されているの かを忠実に記事にした。 記事の内容から韓国の精進料理の調理法や味だけでなく、今日それらが 内包している意味を知ることができれば幸いである。ジングヮンサ(27ペー ジ参照)の住職ケホ僧侶は「簡単に作れてこそ、質素な生き方ができる」と言 う。質素な食べ物が私たちの心の苦痛を取り除き、また危機に瀕した地球を 救うのに役立つことを切に願う。
金成仁
編集諮問委員
韓敬九
Benjamin Joinau
鄭德賢
金華榮
金英那
高美錫
那秀昊
宋惠眞
宋永萬
クリエイティブディレクター 編集
尹世鈴 金三
池根華、盧倫永
アートディレクター
金志姸
監修者
嘉原和代
デザイナー
金銀惠、金南亨、葉蘭敬
翻訳者
坂野慎治
金明順
編集
張蕙先
金熒允編集会社 04035
韓国ソウル特別市麻浦区楊花路7-44. 秋思軒ビル3階 Tel : 82-2-335-4741
Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 価格
日本語版編集長 金鍾徳
韓国内:6000ウォン 韓国外:9USドル
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韓国の文化と芸術 夏号 2019
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『因-より緩やかな時間帯』 崔承美 2016年、障子の上に彩色、 45.5× 27.3㎝
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1987年8月8日文化観光部-1033で登録された季刊誌『Koreana』はア
ラビア語、インドネシア語、英語、スペイン語、中国語、ドイツ語、 フランス語、ロシア語でも発刊されています。
特集
お寺の食事-欲と執着を捨てる道 04
特集 1
欲望を捨てる食事 ムン・テジュン
08
特集 2
森羅万象を抱く食べ物 コン・マンシク
34
フォーカス
南北共同の人類無形遺産 「シルム」 パク・ホンスン
38
インタビュー
「ナム・ジュン・パイクの手」 と呼ばれる男 イム・ヒユン
44
文化遺産の継承者
水と火と空気でホミを作る鍛冶屋 カン・シンジェ
50
オン・ザ・ロード
聞慶の峠 三本の分かれ道 イ・チャンギ
14
特集 3
穏やかな故郷のような食事 ペク・ヨンオク
22
28
特集 5
茶で修行する僧侶の物語 パク・ヒジュン
特集 4
食物こそが「体」であり「人格」 パク・ミヒャン
58
二つの韓国
新しい想像力が必要だ キム・ハクスン
62
日常茶飯事
「幸運な」 若者が夢見る幸せ キム・フンスク
66
遠くの目
「汀」に想う
薩摩焼十五代 沈壽官
68
エンターテインメント
バラエティ番組にみられる韓国のツーリズム チョン・ドヒョン
70
ライフスタイル
新しい休暇の楽しみ方 キム・ドンファン
74
韓国文学の旅
喪失とともに生きる 彼らの倫理的な時差 チェ・ジェボン
『風景の使い道』 キム・エラン
特集 1 お寺の食事-欲と執着を捨てる道
欲望を捨てる食事 古くから韓国の寺院に伝わる料理と食事法。それが究極的に求めているのは、一食一食を通じて心 を修めることだ。食を通じて所有への欲望と執着を断ち、それによって心の安らぎを得るためだ。 したがって、お寺での食事は、心身を清める修行に他ならない。 ムン・テジュン 文泰俊、詩人 安洪範 写真 4 KOREANA 夏号 2019
は幼い頃から、母と一緒に家から1時間ほど
私
する僧侶、畑を耕す僧侶、飲み水を管理する僧侶、主食を作る
離れたお寺まで歩いて行った。母は、田畑で
僧侶、副食を作る僧侶、料理ために必要な薪を作る僧侶、暖房
収穫した穀物を仏様に供えた。そして、お寺
のために火を起こす僧侶などがいて、それぞれ自分の仕事を秩
に行く4日前から食事にとても気を付けて、特に肉を口にし
序正しくこなしていた。
なかった。また、お寺に行く日には、朝早く起きて体や髪を丁
お寺では、ほとんどの食材を自給自足し、その食材は僧侶
寧に洗った。まるで、母の心や体の邪気でも追い払うかのよう
の労働によって用意される。そのため「1日作さざれば1日食
に、心を込めて…。母は、仏像の前にひれ伏して拝みながら、
らわず」という言葉もあるほどだ。お寺を訪れると、ある日は
小さな声で祈りを捧げた。
僧侶が腕捲りしてキムチを漬け、ある日は茹でた大豆で作った
私は幼かったが、朝早くから急いで母と家を出ることが嫌
メジュ(味噌玉)を干していた。
ではなかった。それは、お寺での食事のためだった。私がお寺
僧侶が修行に集中する時に泊まる僧房での生活について、
で初めて食べたのは、おそらく小豆粥だ。茹でた小豆をすりつ
紹介文を読んで驚いたことがある。たくさんの物を所有・消費
ぶした汁で米を炊いた小豆粥は、格別だった。特に、もち米の
していることに、自責の念を覚えたからだ。韓国では毎年、夏
団子が入っており、かわいい形でおいしかった。母と一緒に食
と冬に僧侶が集まって3カ月間、集中的に修行を行う。これを
べた一杯の小豆粥は、今でもはっきりと覚えている。お寺で小
安居(あんご)と言い、その場所を禅院と呼ぶ。その期間は、
豆粥を食べるのは、小豆粥の赤色が悪い鬼、邪気、運悪く降り
僧侶が修行に専念できるように特に気を使う。
かかった災いを追い払ってくれると信じていたからだ。小豆粥
僧侶の食事はとても質素で、ご飯、汁物、キムチの他に3
の他にも、各種ナムル(野菜の和え物)を温かいご飯に混ぜた
~4種類のおかずが出される。僧房での生活に関する文書によ
ビビンバやククス(麺類)を食べることもあった。
ると、頭を冷やして足を温め、腹八分目にするのが基本だとい
しかし、お寺のご飯は、幼い私には味が少し薄かった。
う。僧房の1日の食事量には、私も驚かされた。一人当たりの
肉や魚を使わず、それほど甘くも塩辛くも辛くもなかった。
主食の量は、1日でわずか3合。朝はお粥、昼は白米、夜は雑
そのため、食事の時間は長くて退屈に感じられた。そんな私
穀を少し食べる。副食は主に野菜で、時には豆腐、ノリ、ワカ
が、お寺のさっぱりとした味付けを好きになったのは、かな
メなども出される。極めて質素な食事だ。また、食事の時間以
り後の話だ。
外には何も食べない。
極めて質素な食事
欲のない心
聞での紹介のため、あるいは日常から離れて心身を癒すために
(1912~1993)を挙げられる。ソンチョル僧侶が残した「自分
行ったこともある。お寺を訪れた理由は違っても、帰って来る
自身をしっかりと見つめよ」、「人知れず人を助けよ」、「他
と身も心も清らかになり、思考が広がって欲が減ったことに気
者のために祈りを捧げよ」などの言葉は、簡潔で心に響くもの
付いた。
がある。特に、不臥(横にならない)の修行を8年も続け、10
年を取ってからも、お寺によく行った。老僧との対談や新
韓国で尊敬を集めた僧侶として、ソンチョル(性徹)僧侶
お寺を訪れる回数が増えると、お寺の管理・運営が非常に
年もの間お寺の外に出なかった。ソンチョル僧侶の遺品は、擦
細分化されていて、僧侶にはそれぞれの仕事があることを知っ
り切れて何度も縫い直した僧衣、黒いゴムの靴、杖だけだっ
た。例えば、お寺の運営を全般的に管理する僧侶、お茶を担当
た。生前の食事も、ソンチョル僧侶らしかった。長きにわたり
全羅北道・扶安郡(プアングン)にある来蘇寺(ネソサ)でのテンプル ステイ(宿坊)で、鉢盂供養(食事)を体験する参加者。山寺で修行者 の日常を経験できるテンプルステイは、全国130ほどの寺院で行われてい る。鉢盂供養は、テンプルステイで重要なプログラム。
韓国の文化と芸術 5
寒さが身に染みる冬の朝、少しのおかずを前に黙っ て食べていると、食べ物を噛んで呑み込む自分の体 と澄んだ心が見えてきた。
ソンチョル僧侶に仕えたある僧侶は、次のように話している。 「ソンチョル僧侶の食事は、とても質素でした。無塩食だ
食事の規範
食材を選んで少食にするお寺の食事には、他にも規範があ
ったので、味付けをする必要もありませんでした。おかずと言
る。黙って食事をし、ただ食べる行為に集中する。そのような
っても、シュンギク4~5枚、2~3mmの厚さに切ったニンジ
点で、江原道の月精寺や全羅南道の華厳寺で、冬の朝に経験し
ン5切れ、黒豆の煮物1匙半くらいでした。そして、ジャガイ
た食事は格別なものだった。寒さが身に染みる冬の朝、少しの
モとニンジンの千切りを入れた汁物と、子供用くらいの小さな
おかずを前に黙って食べていると、食べ物を噛んで呑み込む自
茶碗に盛ったご飯が1食分でした。朝は、ご飯の代わりに白粥
分の体と澄んだ心が見えてきた。そして、ふと「この世に生ま
を茶碗の半分ほどを召し上がりました」。
れて生きるとは、何なのだろうか」という思いが浮かぶと、思
つまり、ソンチョル僧侶の食事は、少なく食べて欲を減
わず涙があふれた。
らすものだった。植物の葉や茎、実を食べるが、量は抑えて
『誡初心学人文』は、高麗時代のチヌル(知訥)僧侶
満腹感のないようにした。果たして、それだけで健康が保て
(1158~1210)が僧侶の修行のために書いた本で、食事につい
るのかと思われるほどだった。食事を修行のための薬とし、
ても触れられている。
身体を養うのに必要なだけ食べた。食欲も、泥棒のような
「食事の際は、飲んだり噛んだりする音を立てず、物を取
心だと考えたからだ。また、食への執着は怠け心を誘うとし
ったり置いたりする時は注意を払い、顔を上げたり後ろを振り
て、それを戒めた。
向かず、食べ物を選り好みせず、ただ黙々と食べ、話をせず、
お寺の入口の柱には「境内に入る際は、知を捨てよ」とい う文句が刻まれている。これまでの人生で得た分別心、横柄な
雑念を起こさず、食べるという行為は、ただ体が朽ちるのを防 ぎ、悟りを開くためにあることを知らなければならない」。
心、転倒した心を捨てよという教えだ。韓国でお寺とは、心を
お寺での食事は、全てにおいて心の修行に他ならない。お
修める空間だ。それでは、心を修めて、どのような心に立ち戻
寺では、僧侶のために特別な料理が用意される日があり、私も
ろうというのだろうか。転倒した心をどのような心に正そうと
何度か食べた。暑い日には、ジャガイモ入りのスジェビ(すい
いうのだろうか。
とん)やククス(麺類)、もち米のご飯などが出る。その中で
それは、寛大で清らかで嘘をつかず、他の生命を尊重し、 施して欲のない心を指す。そして、そのような心に到達するた
も特にククスが人気で、ククスと聞くだけで僧侶の顔に笑みが 浮かぶほどだ。
めには、衣食住の全てを簡素にしなければならない。そうした
お寺での食べ物の中でも、特に記憶に残っているものがあ
韓国仏教の伝統は、長く受け継がれてきた。その伝統が疎かに
る。例えば、秋に塩漬けしたダイコンを夏に冷水をかけて食べ
されたり崩れそうになると、志を同じくする僧侶が立ち上がっ
るチャンジ(漬物)、米のとぎ汁に霜が降りる前に摘んだカボ
た。「修行共同体」を清らかな状態に戻す自浄運動を繰り広げ
チャの葉を入れた味噌汁、干した大根の葉で作ったおかず、レ
たのだ。特に、水を汲み、薪を作り、畑に種をまくなどの労働
ンコンやゴボウの煮物や揚げ物などだ。また、お寺から持ち帰
を通じて、お寺の管理・運営を自給自足することは、自浄運動
って家で作ったヌルンジ(おこげ湯)の味は、今でも鮮明に覚
においてとても重要な実践だ。
えている。
6 KOREANA 夏号 2019
食べ物に込められた精神
お寺では、お坊さんが入れてくれたお茶もおいしかっ
は、望ましいことだ。繁華街に精進料理の店ができ、精進料理 の作り方を学んで家庭で料理するのも、良い流れだ。
た。特に、全羅北道・南原の実相寺を訪れた際、畑仕事をし
食材は基本的に、何か他の物から得られるが、できるだけ
ていたお坊さんが温かく迎え入れ、お茶に小さな梅のつぼみ
他の物を害さないように心がける。肉食を禁止するのも、その
を浮かべてくれた。その春の午後のお茶の香りは、今でも忘
ためだ。経典には「全ての土と水は自身の昔の身体であり、火
れられない。
と風は自身の本体だ」と記されている。仏教が食べ物をどのよ
最近、精進料理が人気を集めている。食べ過ぎや加工食品 の多い食生活から脱しようという動きが徐々に広がっているの
うに捉えているのか、うかがい知ることができるだろう。 毎日を生きる中で、内面がまるで埃にまみれた鏡のよう に感じられた時、満足することなく欲望だけが肥大した時、 山寺で祈りや瞑想を行う。また、質素で素朴な食事を前にし
お茶を飲んで、僧侶の説法を聞き、対話をするテンプルス テイでの茶道体験。普段、寺院で修行者に会う機会のない 人たちにとって、最も期待されるプログラムだ。
て、蔓のように絡み付いた欲望や俗心を反省し振り返ってみ る。お寺の澄んだ空間に座って思惟することで、激しい欲望 を捨てるのだ。
韓国の文化と芸術 7
特集 2 お寺の食事-欲と執着を捨てる道
森羅万象を抱く食べ物 仏教の修行者にとって、食べることの最も重要な目的は、それを養分にして世の中のあらゆる存 在と宗教的な悟りを共有することにある。そのため食事は、味わいや満腹感を得るものでなく、 修行の領域・過程にある。托鉢や鉢盂供養は、その実践方法といえる。 コン・マンシク 孔萬植、東国大学校宗学研究所研究委員 安洪範 写真
仏
教は、インドで生まれた宗教だ。ブッダ(仏
その他に、修行者がおいしい物だけを乞うこと、一度にた
陀)の生きた時代には、食べ物の量を極端に
くさんの施しを受けたり何回も施しを受けることも、戒律で禁
減らして味を否定するバラモン教やジャイナ
止されていた。また、修行者が食への欲望を捨てる最も根本的
教の苦行主義とは違い、食事の適切な量や味を認める中道的な
な方法は、修行だと考えていた。そして、修行の核心は食べ物
観念を持っていた。しかし、午後には食べない伝統があり、修
という対象ではなく、食への欲に駆られる修行者の感覚と認識
行者が食への欲望に駆られて戒律に反する余地もあった。その
を根本的に抑えることにあった。現在よく知られている修行方
ため、托鉢、食事法、戒律、そして食への欲から脱する修行を
法としては、ベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハン師の食
行った。
べる瞑想「マインドフル・イーティング」がある。
初期の戒律
修行者の労働
者から供養された物しか食べなかった。それによって、食への
異なる。インドの仏教では、修行者の生産活動、つまり農業活
欲望を減らすことができた。その他に、自発的な意志で食事の
動は生き物をあやめる恐れがあるため禁止されている。また、
量や味を抑える方式もあった。修行者の13の実践法には「托鉢
食材の保存や調理も許されなかった。しかし、禅宗では「1日
托鉢で毎日の食事を済ませるインドの仏教修行者は、在家
東アジアの禅宗は、食への態度や見方がインドの仏教とは
と食事法」があり、1日に1杯のご飯を食べた後、それ以上食 べることができないと規定されていた。また、一度座って食べ 終わると、その日は何も食べることができなかった。豊かな家 でも貧しい家でも順番通りに回って、食べ物を施してもらうと いう決まりもあった。
8 KOREANA 夏号 2019
鉢盂供養では、膳に当たる鉢盂単を敷いて、その上に鉢盂(器)を順 番に並べていく。御侍鉢盂(ご飯)は左手前、クク鉢盂(汁物)は右 手前、饌鉢盂(おかず)は左奥、清水鉢盂(水)は右奥。修行者は少 量の食事をするが、食事の量を調節するのも修行だ。
韓国の文化と芸術 9
1. 食事を済ませた後、鉢盂(器)はき れいにまとめて棚に保管する。
2. 京畿道・水原(スウォン)にある奉 寧寺(ポンニョンサ)で、ご飯をよそ ってもらった後、御侍鉢盂を持ち上げ る僧侶。眉の高さまで持ち上げて下ろ した後、汁物をよそってもらう。おかず は、必要なだけ自分で鉢盂に盛る。
1 ⓒ 伝燈寺
作さざれば1日食らわず」という言葉からも分かるように、修
(柔然)。第二に、食材は清潔で、食品として問題があっては
行者の生産的な労働は修行の一部とされ、生産物も保存でき
ならない(清浄)。第三に、大乗仏教の食の規定に従い、肉
る。禅宗で、修行者の食事は修行者が調理する。日本、韓国、
類、ニンニク、ネギ、ニラ、アサツキ、ラッキョウなど辛みの
中国の精進料理は、そのような東アジアの禅宗の独特な思想か
ある五つの野菜(五辛)を食してはならない(如法)。三徳
ら影響を受け、仏教文化の一部として成立したものだ。
は、料理への肯定的な認識と食材への具体的な見解を表し、韓
東アジアの禅宗の流れを汲む韓国でも、食の味と量につい
国の精進料理の重要な規定となっている。
てインドの仏教とは全く異なる見方をしている。食の味と量が
六味からも、韓国の精進料理の特徴をうかがい知ることが
肯定され「三徳」と「六味」という概念によって具体化され
できる。六味は、塩味、甘味、酸味、苦味、辛味、淡味を指し
ている。三徳は、次のように食材に必要な要素だ。第一に、食
ている。アリストテレスの四味(甘味、塩味、酸味、苦味)や
材は食べた後、体を円滑に機能させるものでなければならない
中国の伝統的な五味(甘味、塩味、酸味、苦味、辛味)に見ら
米一粒、唐辛子の粉一つも残さず、鉢盂の食べ物 を完全に食するのが原則だ。修行者は、そのよう な食事法によって、食の味や量への欲望を抑える ことができる。 10 KOREANA 夏号 2019
2
韓国の文化と芸術 11
れる味の水平的な位置付けとは異なり、韓国の禅宗の六味のう
功の多少を計り、彼の来処を量る。
ち最も重要なのは「淡味」だ。淡味は、他の五つの味の特性を
己が徳行の全欠を忖って、供に応ず。
受け入れ、料理の味を調える「根本味」で独特な位置付けにあ
心を防ぎ、過を離るることは、貪等を宗とす。
る。様々な味の食材を受け入れ、特定の料理の味へと調和させ
正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんがためなり。
るものだ。
成道のための故に、今この食を受く。
この三徳と六味に沿って作られた料理は、韓国の禅宗で 「鉢盂供養」と呼ばれる食事法によって食される。鉢盂供養
(この食物が、多くの人々によって作られたことを考えると)
は、共同体の食事だ。特定の修行者の口に合わせて調理される
(己の徳では、頂くのも恥ずかしい)
わけではない。その時々の季節や事情に合わせて用意された食
(心の過ちや欲を捨て)
材を使い、三徳と六味の規定に沿って作られる。そのため、ど
(身体を養う良薬として)
の修行者も個人的な嗜好に合った味を求めることはできない。
(悟りを開くため、この食物を頂く)
しかし、旬の食材と澄んだ空気と水が生み出す食の自然な味わ いを享受できる。
悟りへの過程
共同体の食事
修行者に与えられた食べ物は、自分だけのものではな
い。五観の偈が終わった後、食事を前にした修行者は、陸の
鉢盂供養には、自分が食べられる量を盛る過程も含まれ
動物、空の動物、虫などに与えるため、7粒のご飯を自分の
る。修行者は、配られた食事を各自の量に合わせて加減する。
鉢盂から取り出す。修行者の食事は、他の生命との共同体の
そして、米語で「パートラ」。ブッダは悟りに開いた後、二人
食事なのだ。
の商人から供物を受けた。だが、四天王は器がないことを知
また、修行者の食べ物は、この世の人間、動物、虫などだ
り、ブッダに鉢盂を献上したといわれている。それ以来、鉢盂
けでなく、あの世の存在とも分け合う。それは、亡くなった
は仏教の修行者の食器として使われてきた。東南アジアの上座
親、祖父母、親戚などだ。あの世にいる者のために、三つの
部(小乗)仏教では現在、一つの鉢盂が使われているが、東ア
「偈」を唱えることで表現される。また、修行者は人間、動
ジアの禅宗の伝統を継ぐ韓国仏教では、ご飯、汁物、水、おか
物、あの世の者など欲界の衆生だけでなく、上位にいる10人の
ずを入れる四つの鉢盂が使われている。また、鉢盂は鉄、陶
ブッダ(十号)と菩薩の名号を唱えることで、そうした存在と
器、木などで作られるが、韓国の禅宗では木製が一般的だ。一
も食べ物を分け合う。仏教の修行者にとって、食べることの最
方、インド仏教では、修行者が袈裟と鉢盂を自分で用意する。
も重要な目的は、それを養分にして世の中のあらゆる存在と宗
しかし、東アジアの禅宗では、弟子が師から袈裟と鉢盂を授け
教的な悟りを共有することにある。
られることが、法脈を継ぐ証とされてきた。
修行者がご飯粒や唐辛子の粉を残さず、水で洗って鉢盂を
修行者が食事の前に唱える「五観の偈(げ)」は、鉢盂供
きれいにするのは、鉢盂に残った水が餓鬼のものだからだ。仏
養が単なる食事の作法ではなく、最も重要な儀礼の一つだとい
教において餓鬼は、常に飢えと渇きに苦しむ存在だが、喉が針
うことを表している。
の穴よりも細いため、ご飯粒や唐辛子の粉でも喉に詰まってし まう。そのようにして、鉢盂供養は、与えられた物を完全に食 して終わる。
また、修行者の食べ物は、この世の人間、動物、 虫などだけでなく、あの世の存在とも分け合う。 それは、亡くなった親、祖父母、親戚などだ。
12 KOREANA 夏号 2019
器がきれいになるように食事を済ませた後、鉢盂手巾(手ぬぐい) で鉢盂、箸、匙をきれいに拭き、鉢盂褓(ふろしき)でまとめる。 その結び目は、一文字になるのが原則。
韓国の文化と芸術 13
特集 3 お寺の食事-欲と執着を捨てる道
穏やかな故郷 のような食事 比丘尼(尼僧)が全てを包み込む母の心でご飯を 炊き、裏山の山菜でおかずを作って、来客を もてなす。そんな庵が山奥にある。慶尚北 道・聞慶にある大乗寺の閏筆庵(ユンピル アム)だ。去年の春、そこで体験した食 事の温かさは、心の温度でもあった。 ペク・ヨンオク 白栄玉、小説家 安洪範 写真
閏筆庵(ユンピルアム)の尼僧が来客をもてなす 食事。ヨモギ、セリ、アブラナ、ナズナなど庵の 裏山で採ってきた自然の食材と、5日ごとに開か れる聞慶の市場で買ってきた旬の野菜を調理した ものだ。 14 KOREANA 夏号 2019
韓国の文化と芸術 15
1
16 KOREANA 夏号 2019
春
の花が咲く頃、小説家キム・フン(金薰)の 散文集『自転車旅行』を読む。何度も読んで いると、文章がたくさんの花を抱えた窓越し
の風景のように感じられる。例えば「モクレンは、明かりを灯 すように咲く」や「絶頂に達したツバキは、百済が滅びるよう に絶頂で突然墜落してしまう」などは、もはや本の一文ではな く、私の体の一部のように思われる。 そのため、閏筆庵(ユンピルアム)で咲き始めた花を見て 「サンシュユは、ただ揺らめく花の影として咲く」という一節 を思い浮かべるのは、私にとってごく自然なことだ。春の訪れ を感じるたびに、浮かんでくる文章。サンシュユも桜も梅も、 それは花でなく、厳しい冬を耐えた木の白昼夢のように感じら れる。閏筆庵の庭は、春を告げる物であふれている。僧侶が生 活する部屋の周りには梅の花、そのそばには黄色いフクジュソ ウと紫色のタツタソウが咲いていた。
2
僧房の扉を開くと、僧侶がすり鉢でコーヒー豆を挽いてい た。今まで飲んだコーヒーの中で、一番コクと深みがあった。 コーヒー豆の種類を聞くと、ただ普通のコーヒー豆だと言う。
「私は、全ての物を気負わず、自然に作ります。複雑で難
コーヒーを入れる様子を最後まで見ていると、格別な味の秘訣
しいのは、私のやり方ではありません。私は寝るのが好きで、
が分かってきた。僧侶は、挽いたコーヒーの粉をふんだんに使
型にはまった形式も好みません。そして、座布団に座っての黙
って、ほんの少しずつドリップする。2~3秒に1滴ずつを垂
養(沈黙)だけが、修行だとも思いません。せっせと手を動か
らすので、1杯のコーヒーに少なくとも30分はかかる。ダッチ
してご飯を炊き、お茶を入れ、人の世話をするのも修行です。
・コーヒーに似た方法だ。そのような特別なコーヒーが味わえ
私が炊いたご飯を食べたり、お茶を飲んだりする人に対して、
るのは、来客のために十分な時間を費やしているからだ。
健康と平穏を祈りながら行う全てのことが修行なのです」。
美しくて忙しい厨房
寺院には「園頭」がいる。園頭とは、菜園を管理する僧侶
農夫ではないが農夫であり、母ではないが母であり、シェ フではないが優れたシェフ。そんな修行者と向かい合って、た くさんの話をした。彼女の法名は「コンゴク(空谷)」。
のことだ。園頭は、トウガラシ、チシャ菜、キュウリ、ホウレ
閏筆庵は、修徳寺の見性庵、五台山の地蔵庵と共に、韓国
ンソウ、ヒマワリ、カボチャ、フダンソウのような野菜を栽培
で比丘尼が参禅する3大道場だ。この小さな庵では、厳しい精
して、厨房に供給する。禅院の運営と規則を記した中国・元の
進のためにやって来た比丘尼が、昼夜の別なく心と体を養って
書物『勅修百丈清規』の「列職雑務」編には「園頭は、労を惜
いる。
しまず身をもって率先しなければならない。野菜の種まきの時
自然の光が差し込む閏筆庵の厨房。太陽の作った色々な影
期を逃さず、水をやり、野菜の不足があってはならない」と書
が、壁のあちこちに絵のように映っている。美しい厨房だが、
かれている。
いつも忙しい。食事のたびに数十人分のご飯とおかずを用意す
僧侶が語った。
る。旧暦4月8日が近づくと、寺を訪れる人が増えて、さらに 忙しくなる。小麦粉の生地を麺棒で伸ばしてカルグクス(麺料 理)を作るなど、絶えず何かを叩いたり潰したり混ぜたりする 賑やかな雰囲気だ。厨房のかごには、裏庭から採ってきたり、 5日ごとに開かれる聞慶の市場で買ってきたヨモギ、ナズナ、
1. 庵の裏山で春の山菜オタカラコウを採る閏筆庵の住持コンゴ ク(空谷)僧侶。味も香りも強いオタカラコウは、生で食べたり 醤油漬けにしたりする。 2. 慶尚北道・聞慶の四佛山の麓にある閏筆庵。大乗寺にある庵 で、1380年に創建された尼僧の禅院だ。閏筆庵にある四佛殿に は仏像が安置されておらず、窓から見える四佛山頂上の四面石佛 に礼拝する。
アブラナ、フキなどの春の山菜が積まれている。釜では、クク ス(麺料理)のスープが煮込まれている。 スックク(ヨモギ汁)は、3月20日頃が一番おいしいとい う。ヨモギが小さくて軟らかい時期だ。その頃に採ったヨモギ で、僧侶はヨモギ茶を作り、残った物で石けんも作る。ヨモ ギだけでなく、山で育つ全ての物が素材になる。クワの葉、タ
韓国の文化と芸術 17
ンポポ、ミカンの皮、クリの渋皮は、お茶や石けんなどにでき
アブラナとヨモギのチョン(小麦粉を付けて油で焼いた料
る。月の光を見てキュウリが実ったかどうか気になって外に出
理)を食べると、シャキシャキしたアブラナから爽やかな春が
たが、鈴なりに実ったキュウリを見て、200本分のオイソバギ
感じられる。ヨモギのチョンは、小麦粉を薄く付けるため、特
(キュウリのキムチ)を漬けたという僧侶の話に、思わず笑っ
有の香りが強い。チシャ菜やエゴマの葉ではなく、セリがサム
てしまった。月の光を見てキュウリが気になる生き方とは、ど
(葉物の野菜でご飯やおかずを包んで食べる料理)のように下
んなものだろうか。
ごしらえされていたことも興味深かった。
寺での食事の準備は、かなり時間がかかった。生地を麺棒
「都会から来た田舎者に、セリを食べさせないと…」とい
で伸ばして包丁で切ったカルグクスまで用意したからだ。料理
う僧侶の話を聞いたせいか、春のセリは薬になるのかとも考え
が出てきた時には、昼食の時間が過ぎて大変おなかが空いて
た。タレをつけてご飯と一緒に頬張ると、噛む前からセリの香
いた。ククスの横にはスクポムリ(ヨモギと米粉の蒸し餅)、
りが口いっぱいに広がる。クルミとアーモンドを醤油で軽く炒
ナズナ、大根干葉もある。味付けは、手作りの醤油や味噌。黒
めた料理は、おやつのようで何度も手が伸びてしまう。黄色い
豆入りのご飯と共にきれいに並べられたテンジャンチゲ(味噌
梅のチャンアチ(漬物)は、コリコリした食感と甘さに箸が進
鍋)を見ていると、「味噌汁の汁と具のナズナと人間は、三角
む。考えただけで、よだれが出てくる。
の痴情関係」というキム・フンの一節が思い浮かんだ。この三 だ。おなかの調子が良くない時、味噌のチゲやスープを食べる
修行者の調理法
と落ち着くのも、そのためだろう。
る中で、シェフから聞いたおいしい料理の秘訣がある。例えば
角は、一つが二つを包み込む構図。だから、この痴情は平和
レストラン担当記者をしていた時、様々な飲食店を取材す
「熱いものは熱く、冷たいものは冷たく」。高度1万メートル の低い気圧のため、おいしくないことが多い機内食でも「サラ ダは冷たく、パンは温かく、コーヒーは熱く」という原則を守 るだけで、味が良くなるという。炊き立てのご飯、火から下ろ してもグツグツ煮立っているテンジャンチゲ、作り立ての和え 物…。閏筆庵での食事は、食材の下ごしらえには時間がかかる が、調理時間は短い。基本に忠実な料理だ。 しかし、料理をおいしくするには、さらに本質的な方法が ある。料理に時間と季節を取り入れることだ。長時間発酵させ た調味料に深みが出るのも、キムチが熟成されるのも、コーヒ ーがおいしくなるのも、全てそのためだ。座禅だけが修行では なく、お茶を摘んだり炒ったり発酵させたりする全ての過程が 修行だというコンゴク僧侶の言葉も、それと無縁ではないだろ う。僧侶は、梅の木の下まで私を連れて行って、お茶にする梅 の花を見せてくれた。まだ花が咲いておらず、膨らんできたつ ぼみだった。3月半ばの梅の花は、お茶にするのに最適だ。摘 んだ梅の花を何日か日陰で干して、青い額を丁寧に取り除いて 青臭さをなくすと、1杯の「梅花茶」ができる。僧侶は、さっ と10ほどのつぼみを摘んで、私の手に握らせた。手を開くと、 小さなつぼみから春の匂いがした。一杯の梅花茶を飲むこと は、春の気配を取り込むことに他ならない。 寺での食事は、素材の原形質や限界を一緒に食べること だ。それは、慣性的にただ飢えを満たすこととは全く違う経験
スクポムリ(ヨモギと米粉の蒸し餅)を作るため、 小さくて軟らかいヨモギにうるち米の粉をまぶすコンゴク僧侶。 スクポムリは、春の餅として人気。 18 KOREANA 夏号 2019
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真心を込めた家庭料理のような精進料理 まるで村上春樹の紀行文『辺
魚、塩辛類を一切使わない菜食メ
「おじさん、ネギありませんか」
付けで、塩辛くて甘い刺激的な味
境・近境』に登場しそうな食堂。 と聞くと「裏庭にいくらでもある から、好きなだけ採って食べてく ださい」と言いそうな店。静かな
ニューでもある。どれも薄めの味 に慣れてしまった人の味覚を和ら げてくれる。
基本に忠実な料理は、口当たり
町にあるため「こんなところに店
はいいが、しっかりしている。旬
間、精進料理を出してきた。その
基本にしており、素材本来の味が
が…?」と考えそうだが、25年 「コルグジェンイネ」は、朝9時 から夜9時まで一日中、客で賑わ っている。
店主は「精進料理というより
も、体に良い家庭料理を作るつも
の食材を使ったローカルフードを 深く感じられる。食材の味を吟味
と心を込めた料理と似ている。コン ドゥレご飯は単品で食べてもおいし く、食後に出される菊の花のお茶も 香ばしい。店主は1年を通して色々 なお茶を作り、その季節に合わせて 出している。
この店は、2012年にテレビ番組
味を紹介したいと言うので、支店
料理は、最初に出される「アプ
プサンには、蒸し豆腐、サラダ、ハ
だけでなく、化学調味料、肉、
張るほど豪華ではないが、母が時間
なかがいっぱいになる。
なり、たくさん食べなくても、お
ク、ネギ、ニラ、アサツキ、ラッ の野菜(五辛)を使わない。それ
(味噌汁)などが出てくる。目を見
で紹介されて有名になった。客が
りで、料理と向き合っている」と キョウなどの味と香りが強い五つ
2. 前菜のチョンビョン。ド ングリの粉を練って、細切り の旬の野菜を丸く包み、油 で焼いた後、食べやすい大 きさに切った料理。
ザミ)ご飯、白菜のテンジャンクク
していると噛む速度が自ずと遅く
サン」とその次に出される「トゥ
言う。この店の料理は、ニンニ
1. 京畿道・驪州(ヨジュ) 市の精進料理店「コルグジ ェンイネ」の料理は、山菜 中心で健康的。自然な味で、 調味料を使用しないことで知 られている。
イッサン」に分けて運ばれる。ア ス入りのキムチマリグクス(キム チ素麺)、トゥイッサンには、旬 の山菜、コンドゥレ(チョウセンア
旬の食材を使ったローカルフードを基本にしており、素材本来の味が深く感じ られる。食材の味を吟味していると噛む速度が自ずと遅くなり、たくさん食べ なくても、おなかがいっぱいになる。
増えると、知人がソウルでも店の も出した。しかし、材料の調達に 手間がかかり、食材の価格も上が ったことで、採算が合わなくなっ てしまった。結局、支店は1年で 店を閉めた。
毎日、新鮮な食材を使うため、
おかずの種類は時期によって変わ る。丹精込めた精進料理が食べた い時、迷わず行ってみるのもいい だろう。ソウルから車で1時間ほ どの場所にあり、由緒ある神勒寺 にも近い。
韓国の文化と芸術 19
私たちが食べたのは、食物でな く季節であり、厳しい冬を突き 破って芽を出した春の緑の気配 だ。そうした料理は、体を生か す良い薬になる。
ラーナシーで、ひどい下痢に悩まされたことがある。2005年2 月22日、女優のイ・ウンジュン氏が亡くなった当時だ。同じ宿 に泊まっていた旅行者から好きな女優が自殺したと聞いて、呆 然と過ごしていた。気力を振り絞って、三輪タクシーでヴァー ラーナシーから10㎞ほど離れた鹿野苑という寺を訪ねた。それ までずっとキリスト教徒だった私が寺を訪れたのは、ある旅行 者から「鹿野苑では、韓国の家庭料理が食べられる」と聞いた からだ。厚かましくも、僧侶が出してくれたテンジャンクク (味噌汁)とキムチを勢いよく、おいしくいただいた。そのご 飯を食べて、生きる力が湧いてきたと言えば、ありふれた言葉 に聞こえるかもしれない。だが、その食事のおかげでジャイプ カルグクス(麺料理)を作るため、小麦粉の生地を麺棒で 薄く伸ばすコンゴク僧侶。カルグクスは、僧侶が好む料理 の一つだ。
ールの砂漠を旅することもできた。私は、食べ物が人を生かす ことを実感した。 友達に裏切られたショックで仕事をやめて、江原道にある 祖母の家に閉じこもっていた人の話を聞いたことがある。涙と 沈黙の日々…。おなかが空いて、ご飯を炊いて食べているう
を与える。コンゴク僧侶が作ってくれたご飯を食べることは、
ちに、ふと生きたいと考えたと言う。それは残業が続いたある
単純な経験でなく、ある種の「体験」だ。僧侶が運んできた膳
日、コンビニエンスストアの弁当、カップラーメン、サンドイ
の料理を見て「私たちは今、春を食べているのですね」と言え
ッチで適当に済ませていた食事ではなく、時間をかけて作った
ば、それは詩人のメタファー(隠喩)ではなくファクト(事
食事が与える力だ。いつか、頭の中の煩わしい声でなく「体が
実)だ。私たちが食べたのは、食物でなく季節であり、厳しい
発する言葉」にしっかり耳を傾けてほしい。「おなかがペコペ
冬を突き破って芽を出した春の緑の気配だ。そうした料理は、
コだ。ご飯を炊く匂いが好きだ。ご飯が甘い」。私たちの胃、
体を生かす良い薬になる。
鼻、舌がささやく言葉に…。
心の安全地帯
腫れた目でご飯を食べていたある日、故郷が場所だけを意 味しないことに気付いた。飢えが肉体的な空腹だけを意味しな
「みんな、ご飯は食べたの?」
いのと同じだ。噛むほどに甘いご飯一粒にもナズナのテンジャ
近くの聞慶大学の学生が、ピクニックの途中で寺に立ち寄
ンククにも、故郷がある。僧侶が微笑みながら言った。
ったのだろう。昼ご飯を食べたと言う学生に、僧侶は厨房から
「お寺は、山が庭なんですよ」。
持ってきたクァベギ(揚げパン)を配った。学生は、そのクァ
閏筆庵は、あちこちに花が咲いていた。山と川は、山菜の
ベギを手に、夢中で春の花を写真に収めていた。 私は、冬に始まって春に終わる物語が特に好きだ。それ は、つらい青春の思い出のためかもしれない。インドのヴァー
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宝庫だ。疲れたり滅入ったりした時、すぐに帰ることのできる 故郷、心の安全地帯が必要だ。閏筆庵も、そのような場所であ り続けてほしい。
ミシュランの星を獲得した品格ある料理 れた餃子だ。パルゴンヤンの看板 メニューともいえる「各種キノコ のカンジョン」(キノコの揚げ物 の甘辛ソース和え)は、3年以上 熟成させたコチュジャン(唐辛子 味噌)と水飴を煮詰めた甘さに加 え、肉厚のシイタケの食感が肉好 きな人にも喜ばれるだろう。ニン ニクを使わない多彩なキムチは、 さっぱりとした後味で、シャキシ ャキしている。
タカヨモギ、キンカン、シャク
(ヤマニンジン)、チョロギなど 季節限定の食材、あるいは鬱陵島 など地域限定の貴重な食材を使う のも、この店ならではの特徴だ。 同じ建物の1階には「韓国精進料 理文化体験館」があり、精進料理
1
ソウルの都心にある曹渓寺(チ
(9万5千ウォン)など。やや値
「パルゴンヤン(鉢孟供養)」
が出てくるたびに、店員が食材な
ョゲサ)。その向かい側にある は、アジアで初めて精進料理とし てミシュランの星を獲ったレスト
ランだ。2017年から3年連続でミ シュランの一つ星を獲得して、海
段が高いが、コースに沿って料理 どを丁寧に説明してくれるので、 手厚くもてなされていることを実 感できる。
何よりも、硬いイチョウの木に
外でも何度か紹介されている。そ
9回も漆を塗った鉢盂(器)が、
リカ、中国、香港、台湾などか
の食材のうち、醤油、味噌、玄米
のおかげで、ヨーロッパ、アメ ら訪れる客が、35%以上を占め ている。昼食時に予約しないで 行くと、満席になっていること も多い。
メニューは、昼食時だけ提供
料理の品格を高めている。この店 酢、ウチワサボテン、豆腐など は、ユネスコの世界文化遺産にも 登録されている慶尚南道・梁山の 通度寺で作ったものだ。
願食のコースで目を引くのは、
される禅食(3万ウォン)をはじ
シイタケと梨をすりおろして載せ
念食(6万5千ウォン)、喜食
て様々な山菜、野菜、木の実を入
め、願食(4万5千ウォン)、
について学ぶこともできる。僧侶 が指導するプログラムで、食材や 調理法だけでなく、1700年間受け
1. レンコンの酢漬け、ゴ ボウの焼き物、キノコのカ ンジョン(キノコの揚げ物 の甘辛ソース和え)、緑豆 のチヂミ(左上から時計回 り)は、前菜の次に出され る料理。精進料理の六味の うち、淡泊な味で構成され ている。大韓仏教曹渓宗が 運営するソウル都心の精進 料理店「パルゴンヤン(鉢 孟供養)」にて。
継がれてきた韓国精進料理の由来 や食への姿勢なども知ることがで きる。
2. ミシュランの一つ星を獲 得している「パルゴンヤン (鉢孟供養)」。内装は上 質でモダン。料理はコース に沿って出てくる。
た冷麺(韓国産小麦使用)、そし
© Balwoo Gongyang
ニンニクを使わない多彩なキムチは、さっぱりとした後 味で、シャキシャキしている。
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韓国の文化と芸術 21
特集 4 お寺の食事-欲と執着を捨てる道
食物こそが「体」 であり「人格」
ソウルの北の境界となる北漢山。その麓にある津寬寺は、韓国の精進料理の神髄が受け継が れていることで有名だ。朝鮮時代には、王室の仏教儀式が行われていた。そこでは現在、住 持(住職)のケホ(戒昊)僧侶が伝統を受け継いでいる。 パク・ミヒャン 朴美香、ハンギョレ新聞飲食文化記者 安洪範 写真 22 KOREANA 夏号 2019
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19年4月19日、津寬寺へ向かう北漢山の道沿いに は、野花が春の香りを漂わせていた。大韓仏教曹渓 宗の第1教区の本寺は曹渓寺で、津寬寺はその末寺
に当たる。創建から1000年を超える古刹だ。仏教を排して儒教を尊んで いた朝鮮時代にも、この寺には王がよく訪れたという。 朝鮮王朝を建てた太祖・李成桂(在位1392~1398)は、仏教儀式の 水陸斎(水陸会)を行うため、津寬寺に管轄機関を設けた。水陸斎は、 死後に現世をさまよう諸霊や餓鬼を救済するため、仏法を説いて食べ物 を施す法会だ。太祖は、この儀式を通じて朝鮮の建国のために命を失っ た人々の冥福を祈った。津寬寺の水陸斎は現在まで受け継がれており、 2013年には韓国の国家無形文化財に指定された。 津寬寺は朝鮮戦争によって焼け落ちてしまったが、比丘尼(尼僧) の指導者として尊敬を集めたチングァン(真観)僧侶(1928~2016)に
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よって1963年から再建され、比丘尼の代表的な道場となっている。チン グァン僧侶は約40年にわたって津寬寺の住持(住職)を務め、水陸斎の 儀礼食の伝統を継承し現代化した人物だ。チングァン僧侶の精進料理の 秘訣は、弟子のケホ(戒昊)僧侶に受け継がれている。
自然と響き合う素材
柔らかな春の陽光が差し込む中、木魚の音に引かれて津寬寺の精進
料理研究所の厨房に入った。しかし予想とは裏腹に、その音は木魚では なく、長さ7~8mほどの大きなテーブルの上でケホ僧侶が大根を切る 音だった。
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ケホ僧侶が包丁で切った大根は、不思議な形に変わっていた。取っ 手の付いたスタンプのような形だ。ケホ僧侶は、それを「大根の油引 き」と呼んだ。ごま油をつけた後、フライパンに円を描くように塗り広 げると、油がよくなじむ。幼い頃、母から教わった方法だと言う。70歳 を目前に控えたケホ僧侶の故郷は、江原道・墨湖(現在の東海)。敬 虔な仏教徒だった祖母と母は、料理が上手だった。母がテンジャンチゲ (味噌鍋)やメミルジョンビョン(そば粉の薄皮巻)を作る時、横に座 ってじっと見ていた。そして、見よう見まねで覚えた料理を作ると、褒 めてもらえたと言う。
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1. 住持のケホ(戒昊)僧侶(右端)をはじめ、津寬寺(ジンガンサ)の尼僧 が、チャンチンのプガク(干し揚げ)を作っている。きれいに洗って水気を切 ったチャンチンの新芽に、米の糊をまんべんなく塗る。晴れた日に手早く終 える共同作業だ。
2, 3, 4. 米の糊を塗ったチャンチンをざるに並べて、日当たりと風通しの良い 甕置き台の上で干す。しっかりと乾くまで1~2度ひっくり返し、夜には暖房 の効いた暖かい部屋に干す。 韓国の文化と芸術 23
ケホ僧侶が、初めて仏教に接したのは高校生の時だ。偶然耳にした タノ(呑虚)僧侶(1913~1983)の言葉に胸が熱くなった。タノ僧侶 は、高麗八萬大蔵経のハングル翻訳に身を投じた人物で、東洋哲学にも 詳しかった。ケホ僧侶は、家族の反対を押し切って出家し、1968年に津 寬寺に入った。わずか18歳のことだ。師と仰いだチングァン僧侶は、修 行者が進むべき正しい道を照らす明かりのような存在だった。
精進料理の神髄
「晴れてきましたね。外に出ましょうか」 ケホ僧侶の言葉に、研究所にいた3~4人の僧侶が後について出て
行く。数百の甕(かめ)が整然と並べられた甕置き台の前には、ビニー ルシートの敷かれた長いテーブルがある。まるで映画『バベットの晩餐
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会』に登場するテーブルのようだ。テーブルには、半径2mほどのざる がいくつかあり、もち米とうるち米を煮た糊も用意されていた。若い僧 侶を含め10人ほどが、チャンチンの新芽のプガク(干し揚げ)を作るた めに集まって来た。 テーブルに向かい合っていた僧侶が、ケホ僧侶の指示に従って、チ ャンチンの新芽に米の糊を塗っていく。薄茶色のチャンチンの新芽は3 ~4月が旬。以前は、ただであげると言っても遠慮するほど、食べる人
1. 春の初め、山菜として食用にするチャンチン(香 椿)の新芽。寺では、新鮮な和え物だけでなく、酢・ 醤油漬けやプガク(干し揚げ)など保存食にもする。
2. 小麦粉と水で作った生地に、細切りの赤唐辛子と チャンチンを入れ、油を引いたフライパンで焼く。こ のようにチョンに調理すると、チャンチンの香りがい っそう引き立つ。
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24 KOREANA 夏号 2019
春によく見られるタンポポの葉を醤油、メシルチ ョン(梅エキス)、竹塩、ごま油、ごまなどで和 えれば、甘酸っぱい味とシャキシャキした食感に 箸が進む。
が少なかったが、精進料理が人気を得ると注目されるようになった。昔 から僧侶が好んだチャンチンの新芽は、春にプガクとして下ごしらえし ておけば、冬まで食べられる寺の最高のおやつ兼おかずだ。プガクは、 野菜や海藻に米の糊を塗って乾かした後、油で軽く揚げたもので、精進 料理の神髄だといえる。 「米の糊を塗って、すぐ日に干さないといけません。太陽の光が強 くないと、なかなか乾かないので。日が暮れたら、暖房の効いた暖かい 部屋に入れます。チャンチンの新芽は、新鮮な状態で乾かした方がきれ いな色に揚がって、おいしいですよ」 米の糊を塗って、しっかり干したチャンチンの新芽は、低温の倉庫 や冷蔵庫に保管した後、油で揚げてプガクにする。チャンチンの新芽の プガクは、噛むとカリッと音を立て、新鮮なバターを塗ったようにまろ やかだ。一口で虜になるような強烈な甘味はないが、いったん食べ始め ると止められない不思議な魅力がある。プガクを食べていると、何とな く素敵な人になったような気がする。 ケホ僧侶は「食物は生命であり、和合であり、功徳であり、慈悲で ある」、「自分が食べる物は、自分の体であり人格である」と言う。こ のチャンチンの新芽のプガクは、国内外に広く知られている。数年前、
韓国の文化と芸術 25
アメリカの映画俳優リチャード・ギアがケホ僧侶を訪ねた際、 特に気に入ったことでさらに有名になった。 チャンチンの新芽は、プガクの他にも色々な料理に使われ る。その中でも、風味豊かなチョン(小麦粉を付けて油で焼い た料理)は絶品だ。塩水と小麦粉で作った緩めの生地を付け て、油で焼く。その際「大根の油引き」が活躍する。ケホ僧侶 は「大根の油引き」で少量の油をフライパンになじませては、 焼いていく。平べったいチャンチンの新芽のチョンが焼ける と、研究所の厨房に香ばしい匂いが広がった。
欲を捨てた調理法
ケホ僧侶が次に作ったのは、タンポポの葉のコッチョリ(浅
漬けキムチ)。タンポポは、乱れた気を整えて炎症を抑える効果 があるといわれている。野原や道端でもよく育つタンポポは、生 命力に満ちた食材だ。ケホ僧侶は「厳しい冬を越したタンポポ は、食べると元気になる」と話している。タンポポは、主に葉を 食べる。ケホ僧侶は、タンポポの葉に醤油とメシルチョン(梅エ キス)をかける。寺で長く熟成させた調味料だ。そのコッチョリ を食べると、さわやかな甘みが感じられた。その甘さの秘密は、 すりおろした梨にあった。調理の際、砂糖の代わりにすりおろし た梨、酢の代わりにメシルチョンを使う。 ケホ僧侶の調理方法は、単純ながら奥深い。バラク・オバ マ前米大統領の在任中にホワイトハウスのシェフだったサム・ カス氏や有名シェフのエリック・リパート氏がケホ僧侶を訪 ねたのも、その味の秘訣を知りたかったからだろう。今年3月 にはベルギーのマティルド王妃がケホ僧侶を訪ねて、青少年の 精神的な健康と食の重要性について対談したという。ケホ僧侶 に、そうした人たちとの出会いについて聞くと「洋の東西を問 わず、体に優しい味を好む人は観点が似ています。自然な味を 求めているのです。サム・カス氏とは今も連絡を取っています が、やはり健康な味を好みます」と答えた。それは最近、アメ 1
リカやヨーロッパなどで起きている菜食ブームとも無縁ではな
ヤンニョム(合わせ調味料)をできるだけ使 わないのも修行だ。それは、さらにおいしく したいという欲を捨てる行為だからだ。
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い。ひょっとすると、そのブームの中心に韓国の精進料理があ るのかもしれない。 寺の山菜料理は、実に多種多様だ。ハリギリの新芽は、タ ンポポと共に僧侶が春に好んで食べる山菜だ。ケホ僧侶が選ぶ 春の3大山菜は、タラの芽、ヨモギ、ハリギリの芽。ハリギリ の新芽は、弱まった胃の消化を助けて食欲をそそる。鉄分やア ミノ酸が豊富で、膝の関節にも良いといわれている。 いくら食材が新鮮でも、ニャンニョム(合わせ調味料)が 良くないと、その味を生かせない。しかし、ケホ僧侶のニャン ニョムは、3~5年ほど熟成させた醤油、ごま油、ごまの3種 類だけだ。調理法も極めてシンプル。下ごしらえしたハリギリ の新芽を茹でて、そのニャンニョムで和えるだけ。ケホ僧侶は 「簡単に作れてこそ、質素な生き方ができる。複雑で煩わしい 調理法では、生活も複雑になる」と言う。また、ヤンニョムを できるだけ使わないのも修行だ。それは、さらにおいしくした いという欲を捨てる行為だからだ。ただしケホ僧侶は、一つだ
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け忘れてはいけない点があるという。 「煮物やチャンアチ(酢や醤油の漬物)を作る時は、最後 にごま油を入れますが、山菜を和える時は、ごま油を最初に入 れてください」 私たちは生きていく上で、他人の冷たい言葉に傷ついた り、思い通りにならなくて苦しんだりする。そうした時、それ ぞれのソウルフードが食べたくなる。癒される物を食べること で、余裕が出てくるからだ。修行者であるケホ僧侶にも、ソウ ルフードがあるのだろうか。ケホ僧侶は幼い頃、母が作ってく れたテンジャンチゲ(味噌鍋)が時々思い出されるという。大 豆を発酵させた味噌で作るチゲは、韓国人のソウルフードだ。
僧侶のソウルフード
「せっかくですから、テンジャンチゲを作ってみましょうか」 ケホ僧侶の言葉に、皆の顔が明るくなった。香しいタンポ
ポの葉のコッチョリ、ハリギリの新芽の和え物、カリッと仕上
3 ©津寛寺
がったチャンチンの新芽のプガクやチョンを味わっていると、 研究所は極楽のようだ。 「チゲの味は、どうですか。お寺で5年間熟成させた味噌 で作ったものですよ」 ケホ僧侶のチゲは、普通よりも塩辛くなく、平壌冷麺のよ うにあっさりとした味でおいしかった。ケホ僧侶らの会話は、 まるでブッダ(仏陀)と弟子のようだった。 「ケホ僧侶が一番好きな食べ物は何ですか」 誰かが聞いた。 「やはりスンソ(僧笑)ですかね」 ケホ僧侶の表情に、幼い僧侶のような無邪気さと、少女の ような恥じらいが一瞬浮かんだ。「僧侶を笑顔にさせる」とい う意味の「スンソ」とは、ククス(麺類)のことだ。
1. 津寛寺で5年間熟成させた味噌でテンジャンチゲ(味噌鍋)を 作るケホ僧侶。ケホ僧侶は、儀礼食の伝統を継承し現代化した師 のチングァン(真観)僧侶(1928~2016)から精進料理の秘訣を 受け継いだ。 2, 3. 水陸斎(水陸会)は、死後の諸霊を救済するための仏教儀 式。朝鮮時代の初期から王室によって行われてきた津寛寺の水陸 斎は、現在まで受け継がれている。その歴史が認められ、2013年 には韓国の国家無形文化財に指定された。
韓国の文化と芸術 27
特集 5 お寺の食事-欲と執着を捨てる道
茶で修行する 僧侶の物語 古くから寺院に伝わる言葉に「茶飯事」がある。お茶を飲んだり、ご飯を食べると いう意味だ。一般的には「ありふれた出来事」や「いつもの事」という意味で使わ れている。つまり、お茶は食事と同様に、寺院での日常的な修行において大変重要 な意味を持っている。 パク・ヒジュン 朴希埈、韓国茶文化学会会長 安洪範 写真
全羅南道・順天(スンチョン)の曹渓山(チョゲサン)の麓にある仙巌寺 (ソナムサ)。その茶畑で茶葉を摘む僧侶。仙巌寺は、韓国で茶栽培の伝 統を守ってきた数少ない寺院だ。
28 KOREANA 夏号 2019
韓国の文化と芸術 29
1
多
2
くの人が暮らす寺院では、共同
に、人生の広さと深さを込めるのが「茶道」だといえよう。
生活に不便がないように規則が
視する韓国の寺院では、全ての儀式の中心にお茶
韓国の茶文化の聖地
がある。一杯のお茶を供えることで朝の礼拝を始
大興寺には、そうした意味の名を持つ「一枝庵」がある。朝鮮半島の最南端
め、一杯のお茶で祖師の命日を記念する。これだ
に位置する全羅南道・海南から海を見下ろす庵。韓国茶文化の中興の祖とし
けでも、お茶が寺院文化の中心にあることが分か
て崇められるチョイ(草衣)禅師(1786~1866)が、150年ほど前に暮らし
るだろう。
ていた場所だ。
ある。特に、禅による悟りを重
1羽の鳥が空を飛んでも、休む時には1本の枝で十分だ。頭輪山にある
寺院で茶事・茶礼を司る僧侶は「茶頭」や
1830年の春、お湯を沸かす火鉢の側に座っていたチョイ禅師に、沙弥
「茶角」と呼ばれる。また、その場所を「茶
(若い修行者)のスホン(修洪)が「茶道とは何か」と尋ねた。チョイ禅師
堂」、その時間を知らせる太鼓を「茶鼓」とい
は『茶神伝』の文句を引用して「お茶を作る時は、真心を込め、乾かしてか
う。寺院の茶文化は、僧侶がお茶を楽しむことに
ら保存し、清潔に保たなければならない。茶道はそのような真心、乾燥、清
留まらない。精神的な領域である禅と物質的な茶
潔を求める中で自然に完成される」と答えた。『茶神伝』は、清の毛換文が
が一つになって、さらなる精神的な世界「茶禅一
編纂した『万宝全書』の「茶経採要」からチョイ禅師が抜粋した書物。韓国
味」を生む。それは、人類によって生み出された
の茶文化の古典で、茶葉の採取から衛生管理までまとめられている。
食文化の別天地だ。日常的に楽しむ一杯のお茶
30 KOREANA 夏号 2019
そして1837年の夏、とある人物がチョイ禅師に茶道について尋ねた。朝
3
1. ヨヨン(如然)僧侶は、朝鮮時代の後期に韓国の茶 道を確立したチョイ(草衣)禅師の製茶方法と精神を 受け継ぎ、お茶を作っている。韓国の現代茶文化をリ ードしてきた第一世代の人物だ。
2, 3, 4. 緑茶(釜炒り茶)は、摘んだ茶葉を釜で炒り、 手で揉んだ後、乾燥させる過程を2~3度繰り返して 作る。ヨヨン僧侶の「般若茶園」は、全羅南道・海南 の大興寺がある頭輪山の南の麓に広がっており、弟子 たちと管理している。
4
お茶の味と薬効を全て備えていると評し「茶道は、茶葉と湯の調和によって 中正(中道)に至る道」と記している。 一枝庵は、チョイ禅師が1824年に建てた後、40年ほど暮らし、その道を 修め伝えた場所だ。残念ながら、その死後、庵は焼け落ちてしまった。しか し、忘れ去られていた一枝庵は1980年、多くの努力によって復元された。そ の一枝庵を18年間守り、修行としてお茶の栽培・育種、製茶に専念する僧侶 がいる。ヨヨン(如然)僧侶だ。出家した海印寺で初めてお茶に接し、画家 のホ・ベンニョン(許百錬、1891~1977)、独立運動家で僧侶のチェ・ボム スル(崔凡述、1904~1979)など茶の大家と共に、韓国の現代茶文化をリー ドした第一世代の人物だ。特にチェ・ボムスル先生は、知恵を意味する「般 若茶」という名をヨヨン僧侶のお茶に授けた。 茶書には一般的に、お茶を摘む時期は穀雨の頃(4月)だと記されてい
鮮の第22代国王・正祖(在位1776~1800)の婿の
る。だが、チョイ禅師は立夏の前後(5月)が最適だと考えた。韓国は、中国
ホン・ヒョンジュ(洪顕周、1793~1865)だ。チ
の主な茶産地よりも緯度が高いため、茶摘みの時期も変えたのだ。頭輪山の中
ョイ禅師はその問いに答えて『東茶頌』を著し
腹で茶畑「般若茶園」を管理しているヨヨン僧侶も、チョイ禅師の志を受け継
た。その中で、韓国で生産されるお茶は、中国の
いで、穀雨が過ぎてから一番茶を摘んでいる。
韓国の文化と芸術 31
「お茶が心なら、茶器は心を込め る器だ。春の陽炎が揺らぐ茶碗を そっと傾けると、晴れた竹林のよ うに私の心も青く染まる」
1. チョイ禅師のお茶の伝統を受け継いでいる大興寺の一枝 庵で、お茶を入れる僧侶。澄んだ水を沸かして、ちょうど 良い温度にしてから、お茶を入れて茶碗に注ぐ。そうした 過程も、お茶の栽培に劣らず真心と集中力が求められる。
1
般若茶共同体
海南の社会運動家が1996年の春、ヨヨン僧侶
2. 来蘇寺(ネソサ)のテンプルステイ(宿坊)プログラム でお茶を飲む参加者。
する。そのようにお茶を作るヨヨン僧侶は、一般の人たちの感覚を超えてい るように感じられる。
からお茶を学ぶために「南荈茶会」を立ち上げ
ヨヨン僧侶は、炒った茶葉を手早く冷ました後、軽く揉む。茶葉を短時
た。会員はヨヨン僧侶と共に、お茶を通して仏教
間で冷ませば、茶の色が青みを帯びる。茶葉を軽く揉むと、お茶がゆっくり
修行を行う茶文化生命共同体を作り、1997年には
出るため、何度も飲める葉茶になる。また茶葉を軽く揉むと、形がそのまま
茶園を開いた。それが般若茶園だ。2004年には、
保たれ、お茶を飲みながら葉が開く様子も楽しめる。反対に、茶葉を強く揉
般若茶園の一番茶で茶神祭を行った。茶神祭は、
むと、お茶の成分が一度に濃く出るため、何度も飲めない葉茶になる。ヨヨ
天と地、人とあらゆる生命が持つ因縁を一杯のお
ン僧侶は、茶葉を強く揉むのは、韓国のお茶の弊害だと考えている。また
茶によって確かめて感謝する行事で、今も続いて
「お茶を9回蒸して9回乾かす『九蒸九曝』は、19世紀頃に団茶を作った方
いる。
法なので、葉茶の製造方法としては正しくない」と考え、伝統的な寺院の製
茶葉から緑茶(釜炒り茶)を作る工程は、炒 る(殺青)、揉む(揉捻)、乾かす(乾燥)の順
茶法でもないと言う。さらに、お茶を乾かす時は自然に任せるべきで、数字 や形式にこだわると、製茶法の本来の原理を失いかねないと話している。
で行われる。炒る作業で重要なのは、釜の温度で
ヨヨン僧侶は、製茶の現場や茶人とのお茶会などで毒舌家としても有名
はなく、摘んだ日の天気や茶葉によって水分量が
だ。徹底した反省がなければ、韓国の茶文化を確立できないと考え、まるで
違うことにあり、それぞれに合わせて製法を変え
竹箆(しっぺい)を打つように接する。お茶の現実を直視して率直に批判す
ている。主に作っているお茶は、薪火と釜を用い
る姿は、その手が作るお茶の柔らかくて深い味とは違い、麻のように粗い印
る葉茶と団茶だ。ヨヨン僧侶も、茶葉の状態によ
象を与える。
って様々な種類のお茶を作っている。ヨヨン僧侶
ヨヨン僧侶は新茶を試飲する時、小さな茶碗に茶葉を入れてお湯を注い
のお茶は、国内外の茶産地を訪れて、自ら身に付
だ後、しばらく待ってから一口飲む。韓国で「涙茶」と呼ばれる方法だ。茶
けた製茶法をまとめた成果だ。茶葉の状態に合わ
葉にお湯を注いだ瞬間、立ち上る香りと葉の色によって、茶碗に緑の風景が
せて、最適な方法で火を加減して炒る時間を調節
広がる。お茶の香りは、ほのかに乳飲み子のようで、色は淡い黄緑色、味は
32 KOREANA 夏号 2019
柔らかく爽やかだ。後から感じられる甘味に思わず目を閉じ、口と体に降り
もしお茶がなかったなら、私はヨヨン僧侶に
注ぐ春の日差しを感じる。その境地について、茶人は「8万4千の毛穴が開
出会えなかっただろう。ヨヨン僧侶も、違った人
くようだ」、「両脇から羽が生えたようだ」と表現する。
生を歩んでいたはずだ。お茶のおかげで、自分を
お茶で結ばれた縁
見つめ直し、しばしの休息もできる。それこそ、
ただお茶を一緒に飲むため、私が仁寺洞に場所を設けたのは1977年のこ
界ではないだろうか。いつも楽しくご飯を食べ
とだ。約40年間、毎年春になると、今年はどんな新茶に出会えるだろうかと
て、お茶を飲み、今を生きる人生。ヨヨン僧侶の
茶畑に駆け付けた。薄墨色の僧衣を着た僧侶が、釜の前で渾身の力を込めて
般若茶が投げかける問いだ。
茶葉を炒る姿は、いつ見ても美しくて厳かだ。
お茶が与えてくれる般若(悟りを得る知恵)の世
ヨヨン僧侶は、古希(70歳)を迎えた時、周
とある年、咲き遅れたヤマザクラが舞い散る宝城の大韓茶園。その池の
りから勧められて自分の茶道具の展示会を開い
ほとりで茶葉を炒る僧侶の姿が目に入った。ヨヨン僧侶だ。明星が輝く明け
た。2017年の秋に開かれた展示会のタイトルは
方、露に洗われた茶葉を摘んで釜で炒っていた。茶葉を摘む時、釜に入れる
「ヨヨン僧侶の茶道具」。当時、ヨヨン僧侶が展
前、釜で炒る時、茶葉を乾かす部屋に入った時、体を包み込むお茶の香り
示会の図録に書いた前書きには、お茶に寄せる心
は、毎年お茶を作りたいという淡い夢を抱かせてくれた。
がよく表れている。
私がヨヨン僧侶と再会したのは1986年、台湾の有名な中国茶喫茶「陸羽
「お茶が心なら、茶器は心を込める器だ。お
茶芸中心」だった。台湾の茶人とお茶を飲みながら話していると、聞き慣れ
湯を沸かしながら、月の光が降りそそぐ静かな山
た声が聞こえてきた。振り向くと、ヨヨン僧侶が立っていた。スリランカか
の松風に耳を傾け、お茶を淹れると、私の心は小
ら韓国に帰る際、費用のため乗り換えが必要な安価なチケットを利用し、そ
川に沿って歩いては、岩に腰かける。春の陽炎が
の合間に台湾茶を味わいに来たという話だった。私がヨヨン僧侶と共に茶畑
揺らぐ茶碗をそっと傾けると、晴れた竹林のよう
のある河東、宝城、康津、長興、金海、済州など韓国各地を訪れた時も、海
に私の心も青く染まる」。
を渡って日本と中国の茶文化の名所を巡った時も、ヨヨン僧侶のかばんには
私には、竹の葉に舞い降りた心が見えた。
常にお茶と茶碗が入っていた。
2
韓国の文化と芸術 33
フォーカス
南北共同の人類無形遺産 「シルム」
永い歴史をもつ民俗競技であり国家無形文化財のシルムが2018年、史上初めて南北共同でユネスコ 無形遺産に登録された。今後、南北関係改善のための新たな突破口になるものと期待される。 パク・ホンスン 朴弘淳、フリーライター
34 KOREANA 夏号 2019
1 パク・ホンスン提供
ルムは日本の相撲に似た伝統的な格闘技で、
シ
となってきた「尊い木」だ。この木は生命の源泉であり、大地
対戦する相手の腰と足にかけた布のサッパを
と天をつなぐ通路であり、木の上に止まっている鳥はこの世と
掴んだところから闘い始める点が、日本の相
あの世をつなぐシンボルだ。そのような木の横でシルムをとっ
撲とは違う。手と足、腰など体全体の筋肉と技を駆使して相手
ているということは、シルムがスポーツを超えて社会的な儀式
の膝より上を先に土俵につけた方が勝つ。強い筋力と瞬発力、
となっていたことを物語っている。それに木の下にいる熊と虎
持久力が要求され、多様な手、足、腰の技と強靭な精神力を必
は朝鮮半島の建国神話に登場する動物だ。すなわち、シルムが
要とする。
民族のアイデンティティと関係があることを示している。シル
韓国人にとってシルムは単なる伝統スポーツにとどまらず
ムは角抵塚だけでなく、いろいろな古墳壁画に登場しているこ
それ以上のものだ。昔から季節の変りに目に村人が参加した
とから見て、王族や貴族など上流階層に人気のあったことが分
り、見物する代表的な民俗遊戯だったからだ。即ち、旧正月
かる。そうかといって特定の階層だけの文化というわけでもな
や秋夕(旧暦の8月15日)に人々の興をあおるための遊びだっ
かった。壁画に描写されたシルム選手たちの姿に貴族の服装や
た。よって村でシルム大会が開かれるということは、本格的な
髪飾りのようなものは見えないという点から、一般庶民にも広
祝祭の始まりを告げる合図でもあった。
祭りのはじまり
シルムはいろいろな側面で、個人の技量や嗜好を超えて社
会的・集団的な意味合いを持っている。それで20世紀前半の、 国を失い国民みんなが苦痛にあえいでいた時期にも、力強い生 命力を維持することができた。当時は全国的規模のシルム大会 が1カ月に渡って開かれることも珍しくなかった。植民地統治 の末期、日本の弾圧で中断されるまでシルムは民族の独自性と アイデンティティを維持するのに一助していた。
1. 中国吉林省集安にある高句麗時代(5世紀前半)の古墳・角抵塚壁 画(一部)と、現在のシルム選手の動作は同じだ。シルムに関して現 存する最も古い記録だ。 2.「シルム」『檀園 風俗図帖』 金弘道、18世紀、紙に水墨淡彩、26.9 × 22.2 ㎝
朝鮮後期、図画署の画員だった金弘道が描いた風俗画の中でも代表的 な作品。両班と庶民、大人と子供が共にシルム競技を楽しんでいる場 面だ。臨場感あふれる構図で人物の表情や仕草が、生き生きと描かれ ている。
解放後、南と北に別れてしまった後も双方で主要伝統遺産 として、その命脈が今日まで受け継がれてきた。韓国では政府 樹立以前から全国体育大会の正式種目に採択され、今も毎年、 全国および地方単位の各種シルム大会が開かれている。昔に比 べれば少なくなったとはいうものの、依然として学校のシルム 部はもちろん、地域や企業を代表するシルムチームで多くの選 手が活動中だ。一方北朝鮮でも毎年秋夕に全国的なシルム大会 が開かれ、陰暦5月5日の端午節には村単位のシルム競技が、 6月1日の国際児童節には少年シルム大会が依然として国家の 重要行事として実施されている。 シルムに対する最も古い資料は、高句麗(BC37-AD668) 古墳の角抵塚壁画に見ることができる。現在の中国吉林省集 安、昔の高句麗の領土にあるこの古墳の壁画に描かれたシルム 選手たちは、相手のサッパを掴んで肩を合わせたまま、腰を少 し屈めており、その姿勢は現在の競技方式と違わない。古代 の競技方式が原型をとどめたまま現在まで続いていることにな る。しかし、シルムが正確にいつから始まったかはわからな い。ただ5世紀初めに壁画に相当な比重で描写されていること から見て、それよりもはるか以前から楽しまれていたことが分 かる。
に登場する木は、洋の東西を問わず古代社会で広く崇拝の対象
2
© 国立中央博物館
特にこの壁画は、古代韓国社会でシルムが単純な遊びや運 動競技以上の意味を備えていたことを教えてくれる。絵の左側
韓国の文化と芸術 35
もし、南北の人々が共に参加する定期的な大会 開催について合意できれば、それこそ平和と和 解に向かうまたとない一歩となるだろう。
庶く愛されていたものと推測される。 代表的な古代の歴史書『三国史記』(1145)によれば、
共同体の連帯
18世紀朝鮮時代の画家キム・ホンド(金弘道)の風俗画
朝鮮半島の支配をめぐり高句麗と争った新羅の王族キム・チ
「シルム」も、身分や年齢に関係なく社会構成員が一つになっ
ュンチュ(金春秋)と貴族のキム・ユシン(金庾信)が、シ
たシルムの社会的な機能をよく示している。シルムを描写した
ルムをして上着の紐が切れてしまったという記述が出てく
昔の絵の中で、韓国人に最もよく知られているこの絵は、勝敗
る。『高麗史』(1451)には14世紀の初・中盤になって、王
の決定的な瞬間を生き生きと描いている。絵の中の向こう側の
をはじめとして臣下や武士や多くの人々がシルムを楽しんだ
選手は足を掴まれたまま、手の技を利用して相手の選手を倒そ
と書かれている。この時期の朝鮮半島がモンゴル帝国の支配
うとしている。一方、手前の選手は相手の体を持ち上げて腰の
下にあったという点も注目する必要がある。民俗固有の伝統
力を利用して砂の上に倒そうとしているように見える。周りを
遊戯を通じて内部のアイデンティティと団結力を強化しよう
ぐるっと取り巻く見物人も非常に面白い。身分制度の厳格な時
という意図が窺える部分だ。
代に両班と平民、大人と子どもが入り混じって共に競技を楽し
1
1. 2015年9月平壌のシルム競技場で開か れた「第12回大黄牛賞全国民俗シルム 競技」で優勝したチョ・ミョンジン選手 が、黄牛にまたがり喜んでいる。 2. 2018年11月26日、安東室内体育館で 開催された「天下壮士シルム大祝祭」 で、一組の選手が熾烈な競技を行ってい る。この日、モーリシャスで開かれた無 形文化遺産の新規登録を審査するユネス コの政府間委員会で、シルムの南北共同 登録が決定された。
© 連合ニュース
36 KOREANA 夏号 2019
2 © 連合ニュース
む姿が異色だ。
政治的・軍事的な対立を続けてきたので、社会制度や運営方式
2018年11月26日、モーリシャスで開かれた無形文化遺産の
では相当な異質的要素が広がっている。このような状況でのシ
新規登録を審査する国連教育科学文化機関(ユネスコ)の政府
ルムの登録は格別な意味をもつ。一つの民族という漠然とした
間委員会で、24の委員国の全会一致でシルムの南北共同登録が
連帯感を超えて、各構成員が同質感を抱き、和解の過程に具体
決定された。正式名称は『シルム、韓国の伝統レスリング』
的に参加する実質的な契機とすることができるからだ。もちろ
(Traditional Korean Wrestling, Ssirum/Ssireum)だ。これで
ん過去にも卓球や青少年サッカー、アイスホッケーなどの種
韓国はユネスコ無形文化遺産20件、北朝鮮は3件を保有するこ
目で南北統一チームを構成して国際大会に参加したことはあっ
とになった。
た。しかしこのような試みは、特定大会を念頭においた一時的
登録過程でも前述したように、シルムの社会的な意味と南 北双方の地域で共に1600年にわたり、原型そのままに受け継が
な行事であり、勝負以外の情緒面での共有不足という限界のあ る、一過性のイベントに過ぎなかった。
れてきたという点などが認められた。ユネスコ無形遺産委員会
すでに南北当局と体育団体の間で、今後共同で開催できる
は「南北シルムが伝承様相、共同体に対する社会的・文化的意
シルム大会に関する議論が行われている。もし、南北の人々が
味から共通点がある」と評価した。共同登録の背景として「平
共に参加する定期的な大会開催について合意できれば、それこ
和と和解のための観点」だと言及している点も注目に値する。
そ平和と和解に向かうまたとない一歩となるだろう。どうか速
シルムが南北間の対立と葛藤を緩和させ、平和と和解のための
やかに南北の各地域で誰もが参加できる予選競技が開かれ、広
道を開くのに積極的な役割を果たすという意味だ。
域地域の優勝者同士が全国大会で最終的に闘うという大きな行
象徴的な歩み
事が開かれればと思う。さらにはシルムを、世界の人々が楽し
韓国と北朝鮮は互いに相反する社会体制をもち、70年以上
める遊戯・スポーツにするための共同の努力も行われることを 期待する。
韓国の文化と芸術 37
インタビュー
白南準の作品設置の専門家イ・ジョンソンさ んが、2010年仁川松島Tribowlに展示された 『M200』の前に座っている。1991年に製作 されたこの作品は、横9.6m、縦3.3mの大型ビ デオウォールで、合計94台のモニターで構成 されている。 © ニュースバンク
38 KOREANA 夏号 2019
「ナム・ジュン・パイクの手」 と呼ばれる男 世界的なビデオアーティストのナムジュン・パイク(白南準)が他界し十余年になるが、今も彼の作 品の保存・管理に勤しむ人がいる。ソウル世運電子街で電気修理店を営むイ・ジョンソン(李正成) さんは、白南準に出会って専従のエンジニアとなり、やがてかけがえのない協力者として、アイデア メイトとして共に仕事をするようになった。 イム・ヒユン 林熙潤、東亜日報文化部記者 許東旭 写真
世
界最初のビデオアーティスト、ナムジュン・
私の最初の仕事は、釜山にいた下の兄の真空管ラジオ工場から
パイク(白南準)の隣にはイ・ジョンソン
はじまったんです。
(李正成)さんがいた。このコンビの始ま
りは、1003個のテレビ受像機を積み上げた作品『多々益善』
イム:ラジオからテレビに? ソウルにはいつ来たんです か?
オ設置作品にテレビ設置技術者として加わり、共に世界中を飛
イ:小さい頃から兄のラジオが大好きでした。布団をかぶ って夜通し聞いていたものです。しかしバッテリーの値段が高
び回った。そしてその間に、彼はだんだんと技術者以上の存在
くて、兄からいつも怒られていました。ラジオが珍しくて、つ
となり、白南準の協力者でありアイデアメイトとなっていっ
いにはその蓋を開けて中をのぞいてみることを覚えました。家
た。白南準の頭脳は「イ・ジョンソンの手」という翼をつけ、
族には「これを勉強してみる」と告げました。姉がソウルで一
イ・ジョンソンの手には「白南準の頭脳」があったので飛び立
部屋間借りして住んでいたんですが、「縁側で寝るからご飯だ
つことができたのだ。
け食べさせて」と頼みこみました。そうして乙支路2街の国際
(1988)だった。それからの18年の間、李さんは白南準のビデ
イ・ジョンソンさんに会うために、ソウル鍾路区清渓川路
テレビ学院に通い始めたのが、18歳の頃でした。学院卒業後、
にある世運電子街を訪れた。6階にある事務所兼の作業室に彼
世運電子街で働くようになりました。その頃はまだ一般の家庭
はいた。古びたテレビとテレビの部品が無造作に置かれた棚、
にはテレビがありませんでした。KBSテレビが出来る前のこと
白南準に関する書籍が並び、縦に長く伸びた書架、その先に彼
です。お金持ちの家ではアメリカ軍の放送を見ようとテレビを
の机が置かれていた。『多々益善(多いほどよい)』を組み立
買っていました。私はそんな家を相手にテレビの設置と修理の
てたその手が、私の手をぎゅっと握り締めた。
仕事を始めました。
信頼の始まり
イム・ヒユン:いつからここで働いているんですか?
イ・ジョンソン:世運電子街は1968年に完工しましたが、 私は1961年からこの街にいました。その頃は宗廟前から退渓路
イム: 白南準さんと出会ったきっかけは?
イ:その前にこの話からしなくてはなりません。韓国で 家電博覧会が初めて開かれた年が1986年です。今の三成洞 COEXのあるところでソウル国際貿易博覧会が開かれ、三星と
まで、何ブロックにもわたってバラック小屋が続いており、そ
L Gの競争が熾烈をきわめていました。オープニングでい
こに古物や電子部品を扱う商店と作業場が集まっていました。
かに画期的な展示をするかをめぐり、互いに徹底した保安体
韓国の文化と芸術 39
制のもとで頭脳を競っていました。当時三星側から私に「T V
と思っていた」と打ち明けておられました。そしてこう訊ねら
w a l l」(壁内配線の壁掛けテレビ)の設置を依頼してきまし
れたんです。「ニューヨークで作品を一つ創らなければならな
た。短時間に528台のテレビを完璧に積み上げました。その
いんだが、出来るかい?」と。私は「ええ。はい、やりましょ
後、ソウルの三星電子の主要代理店のディスプレイは、すべ
う」と答えました。それが1989年ホイットニー美術館に設置し
て私に一任されたんです。
た作品『世紀末Ⅱ』でした。
そして1988年になりました。白南準先生が『多々益善』を
それを設置した後に今度は、白先生は私を言葉も通じない
創るために技術者を求めて、探し回った挙句に三星の仕事をし
スイスに派遣したんです。テレビ80台を1週間で設置しなくて
ていた私に連絡が来たんです。「1003台の仕事をしてくれない
はならない作業でしたが、大きな部品カバンのせいでチューリ
か」と言うんです。「いいですよ」と答えました。「528台も
ッヒ空港では税関員と身振り手振り、韓国語でやりあいまし
出来たのだから、二倍に増やすのもできないわけがない」と考
た。美術館側と協議して閉館後まで作業時間を延長してもらい
えたんです。その時まで白南準先生がどんな人物で、これに失
ました。そして5日もかからずに作業を終えて、観光までして
敗したら世界的に大恥じをかくなどということは全く知りませ
帰ってくると白先生は私の度胸と臨機応変さを見て、完全に信
んでした。無知ほど勇敢なものはないと言いますでしょう?
頼してくれるようになりました。
か?
意見交換
だよ」と一言言い残し、アメリカに帰ってしまいました。信じ
のための意志の疎通に問題はありませんでしたか?
イム;それで『多々益善』の作業は順調に進んだんです イ:白先生は私に1003台を設置するようにと命じて「頼ん
るときには無条件で信じる、そんな思い切りの良い人でした
イム:白先生は芸術家で、イ先生は技術者ですよね。作業 イ:白先生と私の間には正式な図面などというものはあ
ね、あの方は。当時大規模なテレビ設置で最も大きな課題は、
りませんでした。二人でレストランやカフェで多くの時間を
映像分配器をどのように準備するかでした。日本にもテレビ6
過ごしました。世界のどこに行っても、何時間でも座って討
台を連結する分配器しかありませんでした。しかも1個が500
論をしながら、レストランのナプキンやテーブルクロスにア
ドルもする高価なものでした。それで分配器を自分で作り始め
イデアをスケッチしたりしました。時にはL Pレコードの袋
たんです。その結果、約束した生放送の日時に1003台を完全に
や、タバコの包み紙にも書きました。子供の落書きのような
作動させることができました。気分は最高でしたね。白先生も
絵と字がまるでスパイの乱数票のようでしたが、私さえ分か
驚かれたようです。後に韓国に来て「正直、半分動けば十分だ
ればよいのですから。
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「あの時、フランスのカフェで話したやつ。あれやってみ ようか」「ニューヨークで話したやつ。あれ一度やってみよ う」。こんな風に作品がはじまりました。アニメーションイメ ージをビデオ映像と一緒にディスプレイした『メガトロン』 (1995)のアイデアもそんな風に生まれました。パリのポンピ ドゥーセンターで展示が終わりレセプションの日でした。我々 二人は、ポンピドゥーセンター広場で身体の調子が悪いと言い わけをして外に出ました。その足でモンパルナス駅の近くのカ フェに行き、一番良い席に座りました。その席からは当時ヨー ロッパ最大規模の大型ネオン広告を一目で見ることができまし た。ウエイターにチップまで渡してとった窓辺の席でした。二 人で座って窓の外を見ながら、あれを作品にしようと構想しま した。
イム:先生は技術者ですよね。当時芸術界でも追いつけな かった白先生の芸術世界を、どのように理解されたのですか?
イ:では逆にお聞きします。ピカソの絵が分かりますか。芸 術作品を受け止めるのに正解はありません。人々がその作品をな ぜ好きなのか、気にすることもありません。ただ「面白い」「き れいだ」と自ら感じればよいのです。最初は私も白先生に言われ るがままに受け身的に作っていました。しかしいつからか、私も 虚心坦懐に自分のアイデアを先生に提案するようになりました。 「先生、これを追加したらもっと面白いと思うのですが、どうで しょう」と言うと、白先生は「やあ、なぜもっと早く言わないん だ」とおっしゃいました。その時には「ああ、こんな風に話をす れば自分のアイデアにも耳を貸してくれるんだ」と思ったもので
5 イ・ジョンソン氏提供
1. 1994年ソウルの事務室で、イ・ジョンソンさんと共に 『メガトロン』の初期バージョンを試験している白南準 。 イ・ジョンソン氏提供
2. 1993年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品された作品の 図面。ドイツ館代表として参加した白南準は、最高の栄誉で ある金獅子賞を受賞した。 3. 白南準がイ・ジョンソンさんにプレゼントした絵。
4. パリのモンパルナス駅近くのカフェで、白南準がテーブ ルクロスに描いた『メガトロン』のコンセプト図面。『メガ トロン』1号はワシントンのスミソニア博物館、2号はソウル 市立美術館、3号はソウルのソマ美術館にそれぞれ所蔵され ている。 5. 2018年、上海の HOWアートミュージアムで開かれた「白 南準・ヨゼフ・ボイス:見者の手紙展」に展示された作品の 一つ『Tower』(2001年)。イ・ジョンソンさんが2週間ほ どかかって作品を設置した。
す。展示場の環境と技術的な限界を考えた私のアドバイスを、白 先生は積極的に受け止めてくれました。 そんな風に、自由に意見交換をして芸術世界に一緒に踏み 込んでいきました。また、外国に一緒に行った時などは、たい てい夜通し話をしました。たとえばニューヨークのコリアタウ ンに行けば、白先生は食堂で6人用のテーブルを予約するんで す。二人で行って食事を6~8人分注文して、午前4~5時ま で話し込むんです。白先生は主に正午に起きて夜仕事をするの が日課だったので、午前2時や3時でも目がらんらんと輝いて いました。
イム:どんな話をそんなにたくさんしたのですか? 白先 生はどんな方でしたか?
イ:話題がぽんぽん変わるんです。自分の同窓生がどんな 暮らしをしているか、韓国政治がどうなっているか話してい て、突然「パク・キョンリ(朴景利)先生の小説『土地』のあ らすじは」という具合です。白先生は韓国の状況に対して博識
韓国の文化と芸術 41
でしたが、新聞の隅から隅まで読んでいたからです。あの方の
笑いされると思います。一角では撤去してしまおうという意見
実力は新聞から出てきたと言えます。ニューヨークタイムズ、
もあるようですが、そんなことをしたら国際社会から物笑いの
ワシントンポストから韓国のいくつもの新聞まで一抱えにし
種にされてしまうでしょう。
んの新聞にいちいち全部目を通していました。
イム:白先生の作品を管理する仕事も多いですよね。それ 以外には最近は何をされていますか?
保存と復元
市立美術館の『フラクタル巨亀船』(1993)にも手を入れてき
て、毎日先生のお宅に持っていくのも私の仕事でした。たくさ
イム:京畿道果川の国立現代美術館の『多々益善』の電気 が切れて動かなくなってだいぶ経ちます。モニターの交換を含
イ:しばらく前には、慶州にある作品『108番脳』 (1998)がひどく破損していたので1週間かけて復元し、大田
ました。最近ではニューヨークのホイットニー美術館に行き
めた復元方法をめぐり美術界でいろいろな意見が出ており、状
『世紀末Ⅱ』の補修作業を終えてきました。それ以外には、若
況が停滞していますが。
いアーティスト志望の若者にアドバイスをしたり、時には講義
イ:いろいろな方法があります。一つ目はブラウン管の交 換です。しかし実行するのは非常に難しい案です。高さ19mの ピラミッド型だからです。支持台と足場を立てることからが大 変です。私が勧める方法は古いブラウン管をLCDに交換するこ とです。しかし平面LCDに変えるとブラウン管のもつ原作の曲
もします。今年の秋頃に、中国の南京で大規模な白南準展を開 くので、その仕事もしなくてはなりません。また、先生のアー カイブの整理にも心血を注いでいます。
イム: ユーチューブの時代ですね。この時代の白南準ア ートをどんな風にご覧になりますか?
が。メディアアートにおける作者の精神は、ハードウェアーで
イ:画期的な作品を創ろうと先生は借金をして回ったもの ですが、現在の技術力ならば本当に面白い作品をたくさん創ら
はなくソフトウエアーにあるのではないでしょうか。ソウル市
れたことでしょう。晩年にはテレビアートをやめてレーザーア
立美術館の『ソウルラプソディー』(2001)は平面です。白先
ートをしようとされましたが、費用が高すぎました。軍需用の
生が『多々益善』を作ったときはブラウン管が良くて使ったの
レーザーをやっと使う程度でしたから。もし白先生の時代にレ
ではなく、当時はそれしかなかったので仕方なく使ったので
ーザーとLEDが活性化していたら、私たちは白南準をもう一人
す。ですから原作を傷つけるという意見には同意できません。
手に入れていたことでしょう。
線を壊すという意見がでていますね。私はそうは思いません
そんな論理ならば絵画作品の復元も反対すべきです。ミラ ノのサンタ・マリア・デッリ・グラッツエ聖堂にあるダビンチ
イム:今も白先生と作業をしたときのことを思い出します か?
再び描いたのではありませんか。だったらあの作品にも手をつ
イ;もちろんです。一介の技術者だった私が白先生と出会 い一緒に芸術作業をしたのですから、思う存分生きてきまし
けるべきではなかったはずです。 生前白先生にたずねたこと
た。実は月に2、3回は今でも夢で白南準先生に会い、一緒に
がありました。「テレビが故障したらどうするんですか」と。
作業をしているんです。全く新しい作業をです。夢の中では昔
すると「その時にはよく映るテレビに変えればいいよ」とおっ
の作業をすることはありません。いつも新しいものを追及して
しゃってました。たぶん今の状況を白先生がご覧になったら大
いた白先生の頑固さは、未だ健在ということでしょう。
の『最後の晩餐』も輪郭線だけ残っていたのを数年にわたって
生前に白先生にたずねたことがありました。 「テレビが故障したらどうするんですか」 と、すると「その時にはよく映るテレビに変 えればいいよ」とおっしゃってました。
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ソウルの世運電子街にあるイ・ジョンソンさんの作業室は、彼が収集し た古いテレビと電子部品でいっぱいだ。白南準の脳は「イ・ジョンソン の手」という翼をつけ、イ・ジョンソンの手は「白南準の脳」があった ので飛び立つことができたのだ
韓国の文化と芸術 43
文化遺産の継承者
水と火と空気で ホミを作る鍛冶屋 1
いくつかの山脈が連なる高原の小さな都市栄州で、鍛冶屋一筋に半世紀も歩んできたソク・ノギ (昔魯基)さん。最近、彼の作るホミ(鍬)が、アマゾンやイーベイ(eBay)などの海外サイトで 大きな人気を得ている。西洋のスコップよりも「ㄱ」字形の刃をもつホミの方が、はるかに使い勝 手がよく、便利だからだ。 カン・シンジェ 姜信哉、フリーランサー 河志権 写真
44 KOREANA 夏号 2019
「最
初はアマゾンでたくさん売れているとい うので、アマゾンのジャングルで韓国の おばさんたちが団体で、ホミで地面を鋤
1
いているのだと思いました」。 ソク・ノギさんの知っているアマゾンは「熱帯雨林」がす べてだった。自分のホミ(鍬)がアマゾンドットコムの園芸用 品のトップ10に名前が上がり、アマゾン選定製品(アマゾンズ ・チョイス)に選ばれた後、彼は熱帯雨林よりももっと大きく 深いアマゾンがあることを知った。また、そこを通じて自分の 鍛冶屋で作ったホミが、昨年だけで2000個も全世界に散らばっ
2
ていったことも。 彼は「栄州テジャンガン」のロゴのついた、片手鋤の一 種であるホミを眺めながら言った。しかし、それがどれほど 破格な「事件」なのかは、依然としてよく分かっていない様 子だった。
それで「ホミ職人」として知られる、鍛冶屋歴52年目の鍛
「外国では家ごとに庭園の手入れをしますが、スコップや
冶屋の大将に対する気持ちは、鍛冶屋に行く前から複雑だっ
熊手のように掻くだけのものがあり、ホミのように「ㄱ」字に
た。彼はホミに何を見るのか。ホミを叩いて、整えながらどん
曲がっている道具自体がないと聞きました。それでホミが便利
なことを考えているのか。水、火、空気、鉄のすべてと気持ち
だったみたいだね。スコップのように土が刃の上につくことも
を通じてこそホミ1丁を生み出すことのできる鍛冶屋の世界
なく。力を少し加えるだけで土を掘り起こすことができるから
を、どのように受け止めているのか。
ね」。
人によって違うホミの使い道
「韓国型の園芸道具」
韓国のホミが国外にでてどこか他国の土を整えているとい
う話は、少なくともホミを握った母の手を記憶する世代にとっ
「このまま使うと土が前に行ってしまいそうなので…。真
ん中をこのようにちょっと広げてくれませんか。先も尖るよう にもっと伸ばしてください」。
ては、感嘆詞だけでは済まされない話だ。ホミは、素手で田畑
鍛冶屋の棚からホミを選んで、じっくりと見ていたお客が
を耕したこの地のすべての農家にとって、無くてはならない農
ソクさんに言う。尖った三角形の刃の真ん中をもう少し広げ
具だった。朝早くから田畑に出て、夜が更けるまでホミを手か
て、刃の先をさらに尖らせて欲しいという注文だった。ソクさ
ら放さなかったこの国の母たち。ホミで土の塊を掘り起こし、
んは手馴れたもので、ホミを受け取ると窯火の前に行った。火
その年の苗を植え、その穀物の成長を妨げる雑草を刈り取っ
をつけてふいごをまわして風の道を開くと、炎が起きはじめ
た。土深く突き刺した刃先で作物を収穫し、土をそっと整えて
た。火花をしばらくじっと眺めていた彼が、ホミを窯火に押し
畑の畝を掘ったり、埋めたりした。
入れて言った。
ホミの作業は、胸や背中を起こしたままではできない作業
「人によって道具を使う習慣が違うでしょう。同じホミで
だ。ホミを手に土と向き合うには、力を抜いて背中を曲げて大
同じ土を掘り起こしても土の塊が違った形に掘り起こされるで
地に向かい合う。母の曲がった背中の腺はホミの線と似てい
しょう。それで自分のスタイルに合わせて新品でもこのように
る。曲がったような、起こすことができないような悲しく丸ま
手直しするんです。ここは作った品を売るだけの荒物店とは違
った背中。その背中が休みなく田畑を耕してきたのだ。
いますから」。
1. 慶尚北道栄州にある「栄州テジャンガン」の主人、ソク・ノギさんが 熱い鉄をハンマーで叩いて、ホミの刃を作っている。14歳から鍛冶屋の仕 事を始めたソクさんは、23歳になった年に栄州駅近くにこの鍛冶屋をつく り、これまで43年間運営してきた。 2. ソク・ノギさんが作る様々な大きさと形のホミ。お客の求めに応じて ホミの形態を修繕することも多い。
韓国の文化と芸術 45
窯火を見つめていた彼の目つきがしばし変わったと思った ら、彼の手はニッパーを握ってホミを取り出した。真っ赤に燃
る。火を洞察して鉄を変形させるということは、風まで扱うこ とであり、鉄の内面を決定づけるものだ。
えた鉄が、その塊の中に燃える炎を閉じ込めているようだっ
「ふいごで風を送り込んで火を起こすので、鉄を熱すると
た。彼はそれを金床の上に置くとあちこち方向を変えながらメ
きには風の穴、空気の穴が生じます。叩きながらその穴を埋め
(鉄の塊に柄の部分を嵌め込む道具)で叩きはじめた。ガンガ
ていきます。そうして鉄の密度を均等にするんです。それで昔
ンガン、鉄が鉄を叩く大きな音がして、鉄の粉をい抱いた炎が
の鍛冶屋では数百回、数千回もの叩いていたものだよ。だが私
自然に飛び跳ねる。鉄に閉じ込められた赤色が徐々に薄くなる
は、機械を早くから取り入れたので、メジルはそんなにたくさ
につれて、ホミの外形は微細に変わっていき、客は満足そうに
んはしませんでした」。
うなずく。
究極の技術
叩く事は鉄に対する洞察を前提とする。いくら経験豊富な 鍛冶屋でも鉄を目だけで見分けることはできない。
た。次に彼は、拳骨くらいの大きさの小さな鉄の塊を窯火に
叩くことと焼入れ
入れて、再び炎の色を眺めた。鉄が溶ける温度は摂氏1500度前
うやく分かるんです。見た目には同じように見えても性質が少
後、鍛冶屋は鉄が溶ける直前の形が自由自在になる瞬間を見極
しずつ違うから。米にもいろいろな種類があるようにね。鉄に
めなければならず、温度計のない古い窯火の温度を読み取る手
も種類があり、非常に強くても折れやすい鉄もあれば、強いう
段は、もっぱら勘だけだった。
えにあまり折れない鉄もあるんです。鎌や鋤を作る鉄です」。
炎と鉄が一つになる時間は、妙なる没入感の高い時間だっ
「炎が熱くなっていくときの色で鉄を見ます。まだ薄赤い ようならもっと熱くしなくてはならず。色が月光のように濃い
「どの程度の強度が出たかは、火に入れて、叩いてみてよ
彼はホミの材料として、自動車のリーフスプリングを使用 すると言う。
赤になったら熱くなりすぎてダメです。そこから少しだけ陽の
「私は鋼鉄を使ってます。普通、鍛冶屋では鋼鉄はあまり
光のように白い色が出るくらいのタイミングに合わせますが、
使わないね。鉄が硬いので柔らかい鉄よりは扱いにくいんで
あまり白くなっても鉄が溶けてしまうので、それは使えません
す。しかし、柔らかい鉄は先が丸くなってしまうのでよくない
ね」。
んです。ナイフの先のように使わなくてはならないので、丸く
月明かりは赤く、陽の光は白いという彼の感覚に考えが至
なってしまってはだめなんです。そんな製品を出したら信用を
る前に、メジルという叩く作業が始まった。今回鉄を叩くのは
失ってしまう。修繕したらだめかって? 昔はホミを重たく、
大槌ではなく「ハンマー」のような道具だ。一定の時間と間隔
厚く作ったんです。500gにはなりますから、先の部分に修繕す
で上下運動をする自動メジル機械。彼は機械の下に赤く燃えた
る鉄がありました。鉄がなければ他の鉄を持ってきて付け加え
鉄の塊をのせて、形を作りはじめた。機械が叩いたり延ばした
て修繕しました。しかし最近は、200-300gの軽い品を中心に
りするリズムと、鉄の塊を回して叩く面を確保する手のリズム
作っているので、薄すぎて修繕するのも大変です」。
が、絶妙に相俟っている。リズムの中で長い三角形のホミの刃
彼は鍛冶屋にとって製品の価値を決める段階が「タムグム
が形作られ、飴のように伸びた鉄は、刃と柄がつながる長い線
ジル」だという。燃え上がる鉄の先を冷水にさっと浸けて取り
となっていく。これを再び熱して、叩いて形と線を精巧に整え
出す熱処理の段階だ。フランスの哲学者ガストン・バシュラー
ることでホミの刃が完成する。
ルは「タムグムジル」のことを「冷水で炎という野獣を鋼鉄の
「鋳物工場では、決められた枠に溶かした鉄を流し込んで
監獄に閉じ込める」と表現したが、彼は言葉では言い表せない
品物を作りますよね。鍛冶屋は完全に違うんです。鉄を直接熱
技術だと言った。鉄の性質、厚さ、温度、状態に従い1秒以内
して、叩いて、延ばして形作って品物を完成させるんです」。
に終わらせたり、それ以上の時間をかけたりするという。これ
その叩くという言葉の中には多くのものが溶け込んでい
は鉄の強度を決定する「鍛冶屋の仕事の花」と呼ばれる技術だ ったので、昔の鍛冶屋では、職人たちは真夜中に一人でこの 「タムグムジル」の作業をしたという。水と炎の極限を折衷し て極大値を得る作業は、簡単に他人の目には触れさせなかった
1. ソク・ノギさんが、窯火からホミの刃を取り出すときに使 用するニッパー(上)と、熱い鉄を金床の上にのせて叩く時につ かうメ(下)の使い方を、説明している。 2. 鍛冶屋として生きてきて一番大変だったのが、辛い労働に 耐え、辛抱することだったと言うソクさん。その言葉を、曲 がったままの指が証明している。
46 KOREANA 夏号 2019
ということだ。
自分自身との戦い
彼が鍛冶屋を始めたのは14歳の春だった。鍛冶屋をしてい
た姉の夫から、ちょっと手伝ったくれと言われて足を踏み入れ
1
たのが最初だった。春に麦一俵をもらってきて食べ、秋にはそ
2
を続けました」。
の借りを返すために、長利米を一俵払わなければならない貧し
一番大変だったことは何だったのだろうか。難しい技術、
い時代だった。彼は仕事をしただけ代価を得られる作業を断る
人間関係、体罰-すべてを含めてたずねた質問に、彼は「じっ
理由はなかった。しかし、鍛冶屋の道は容易ではなかった。
と耐えること」だったと答えた。
「鍛冶屋では鉄が冷める前に、鉄をいじる作業を終えなく
「夏の2カ月間、いや、1カ月でも仕事をしないで遊んで
てはなりません。手の甲に熱い鉄の塊が落ちても、やけどをし
暮らせたらというのが私の夢でした。世の中の人々は、他の仕
てもそれを取る時間はありません。冷めてしまったら最初から
事で暮らしていけるのに、なぜ自分だけが炎の前でこんな苦
また始めなくてはならないからです。10代のまだ見習いの頃の
労をして生きているんだと思いました。自分の家を持てた後に
ことです。鉄が飛んで目にあたったんです。手袋をした手で目
は、そんな考えがさらに大きくなり、街でタバコでも売って生
にそっとふれてみたら、血がべとっとついてきました。反対の
きていこうかと考えました。しかし、実行しようとしたら生活
目を閉じて見えるか見えないか調べてみました。幸い見えまし
費をかせぐ自信がなかったんです。鍛冶屋なら、その日の糧は
た。目が落ちたわけではないので、まあいいやとそのまま作業
稼げる自信があるのに…」。
韓国の文化と芸術 47
燃え上がるホミの刃を冷水に浸けてから 取り出すタムグムジルは、鉄の強度を決 定づけるので、長い間の経験と感覚的な 技術が必要だ。
鍛冶屋として生きる自分自身と戦う時間は長かったが、鍛
を2個も買って使う人はいませんからね」。
冶屋に闇が訪れるたのは瞬間だった。農機具の機械化で需要が
鍛冶屋が斜陽になると、彼は販路を開拓した。すべての作
急激に減り、安価な中国産の農機具まで押し寄せてきた。逃げ
業を手作業に頼っていたその昔、鉄を切る機械を家の一軒分の
出せるところは自分のホミの中だけだった。
値段をかけても取り入れた決断を思い出し、彼はインターネッ
「ホミを千個作るとしたら、一つくらいは満足できない物
ト販売を手助けしてくれる友人に会いに行った。
があると思うじゃないですか。私はそういうことは許せないん
「インターネット販売を始めたのは、10年前のことです。
です。私には千分の一でも消費者には100%だからです。ホミ
ホミがアメリカに一つずつ売れていき、買った人が話を広めて
48 KOREANA 夏号 2019
炎と鉄を真正面から受け止め、生き てきた彼にホミを握る韓国の母たち の姿が重なる。炎を抱いた鉄を叩く 鍛冶屋の熱い息には、ホミの刃を毎 年取り替えなければならないほど働 いてきた母たちの、凄然とした息遣 いが感じられた。
くれたんです。需要が一つずつ増え、噂が広がり、アマゾンま で行き着いたのであり、一日にしてこんなことが起きたわけで はないんです。今はオーストラリアでも売れており、最近は毎 日良いことが起きているようです。しかし、注文が来ても生産 が追いつかない状況で…。この仕事を覚えたいという若者はい ません。2、3人ほど手伝ってくれる人はいますが、高齢者ば かりなので今月で辞めるのか、来月で辞めるか予測もできない し。私も年とともに、だんだんとしんどくなって…。結局、私 が韓国の鍛冶屋の最後の世代になりそうですね」。
正直な人生
彼は誇らしさと残念さの混じった複雑な表情で笑いなが
ら、過ぎた人生について語り始めた。 「14歳以降、両親の助けはいっさい借りずに生きてきまし 2 た。43年前、23歳でここで、この場所で栄州デジャンガンの主
人となり、家庭を持ち、家を建て、3人の子供たちをすべて4 ソク・ノギさんのホミは、アマゾン園芸用 品トップ10にランクインし、アマゾン選定製 品に選ばれるほど海外での人気が高い。
年生大学まで出し、今まで生きてきました。他人にお金を借り たこともありません。幼い頃に学べなかった私が長官になれま すか。医師や判事になれますか。そんなことは夢にも思ったこ とはありません。ただ他人より先んずることは出来なくても、 同等には生きていこうと思いました。落伍者にはならないよう にです。そういう気持ちで必死に生きてきました。私はそれで 満足しています。いい人生だったと思います」。 他人の欲望を追い求める人生の多いこの世の中で、彼はこ れまでの人生を満足げに総括した。 「炎の前に長くいたせいか、私は視力もいいんです。この 年になるまでメガネをかけたことがないんです」。
をなんども握った指は、ホミの線のように曲がっていた。炎と 鉄を真正面から受け止めて生きてきた彼に、ホミを握る韓国の 母たちの姿が重なる。炎を抱き鉄を叩く鍛冶屋の熱い息には、 ホミの刃を毎年取り替えなければならないほど働いてきた母た
炎の力が染みいり明るくなった彼の瞳は月光か、陽光か?
ちの、凄然とした息遣いが感じられた。そして気づいた。農機
小柄で頑強な体、柔和で強靭な顔の彼を眺めた。昔話に熱
具が並んだ鍛冶屋の棚から、目と心を簡単には外せなかった理
中し、一段とトーンの高くなった声には鉄の音が混じり、ホミ
由を。
韓国の文化と芸術 49
オン・ザ・ロード
聞慶の峠 三本の分かれ道 鳥も飛び越えるのがきついほどの険しい峠。南から攻めてくる敵を防ぎ、都を守るための国 防の要塞。これらは聞慶(ムンギョン)セジェがもたらすイメージだ。古くから嶺南(ヨン ナム)地域の関門の役割を担ってきた慶尚北道聞慶の峠道を歩いてみた。 イ・チャンギ 李昌起、詩人・文芸評論家 安洪範 写真
50 KOREANA 夏号 2019
嶺南大路の稜線で最も高い山、主屹山の「釜峯(ブボン)」から見 下ろす聞慶セジェ。ソウルから車で1時間40分の距離に位置する聞 慶セジェの歴史は、三国時代にまでさかのぼる。昔から交通の要衝 であり戦略的にも重要な拠点だった聞慶セジェは、今でも美しい自 然と文化を誇っており、遺跡地を訪れる観光客で賑わっている。
韓国の文化と芸術 51
1 1.聞慶セジェの第1関門主屹関は、文禄の役と丙子の乱以降、 この地域の軍事的要衝としての価値が改めて認識され、1708年に 鳥嶺山城築城の際に造られた。
2.三国の激しい角逐が続いた5世紀頃に築造された長さおよそ 1.6㎞の姑母(コモ)山城。今ではそのほとんどが壊れ、一部だけ が残っている。城壁の上からは周りの絶景が見下ろせる。
52 KOREANA 夏号 2019
韓
国語でよく使われる「分水嶺」という言葉 は、「分水界(drainage divide)」と同じ 意味である。国土全体の7割を山地が占める
朝鮮半島で水系を分ける分岐点は、たいてい峠のように高い 所にあったため、その分かれ目を「嶺」とした言葉が分水嶺 なのだ。 高嶺と分水嶺が連なっているのが韓国の山脈である。そし て、興味深いことに、その分水嶺から分かれる水路で山脈の位 相が決まる。つまり、峠で左右に分かれたそれぞれの水路が再 会することなく別々の河口、あるいは海へと流れていけば、そ の分水嶺の品格は一層高まるのである。朝鮮半島の北端に位置 する白頭山からこのような品のある分水嶺に沿って、南の智異 山に至るまでの1,600キロ以上の距離。この大きな山脈を「白 頭大幹(ペクトゥデガン)」と称する。韓国人はこの山の尾根 に沿って縦走することを大きな名誉とする。
2
近代の縮尺の概念を適用して、細密な地形度を仕上げた朝 鮮時代の地理学者・金正浩(キム・ジョンホ、1804~1866?) は、晩年に白頭大幹の山脈や河川、里村を龍や太極の形状で描 いて、もち運びのよい地図を木版刊行した。これが『大東輿地
ちに石仏が立っているが、あいにくその道は、今やほとんどア
図(1861)』である。地図を製作した背景には、白頭大幹を朝
スファルトで覆われている。
鮮半島の自然地理の象徴、ひいては母国の文化や社会、歴史や
ハヌル峠の旧名は「鷄立嶺(ケリプリョン)」、つまり
環境を理解するベースと位置付けた彼の自然観があった。「愛
「立っている鶏の形状をした峠」である。朝鮮の史書『三国
国歌」(韓国の国歌)の第一小節に白頭山が登場し、小学校を
史記』(1145)には、「西暦156年の4月、新羅の阿達羅(あ
はじめ中学・高校・大学の校歌に例外なく近隣の山の精気を受
だつら)王が、鷄立嶺への道を切り開いた(阿達羅尼師今 三
け継いだことを強調する内容の歌詞が書かれているのも同じ脈
年 夏四月 開鷄立嶺路)」という記録が残っている。しかし、
絡だといえよう。
歴史学者はこれに対しては慎重な姿勢を示しており、紀元前か
来世と現世をつなぐ道
らこの地域で生活を営んでいた部族国家が、交通路としてこの
韓国中部地方の内陸に位置する忠州(チュンジュ)の水安
朝鮮半島の中央を貫通する漢江を水路として確保するために、
堡(スアンボ)から南東に向かって、車でおよそ20分ほど走る
この地域をめぐって数百年間争い続けたのは事実ではあるが、
と、たどり着く旧陶窯址(トヨジ)。ここに車を停めていくつ
当時の新羅は、慶州(キョンジュ)を中心とする小国に過ぎ
かの曲がり道を歩いて行くと、そこには壊れかけた石塔と巨大
ず、王権も衰退していたからである。だが、主要な国境への玄
な弥勒の石像のある古いお寺がある。高麗時代の威容を誇る弥
関口とはいえ、いつも軍人であふれていたわけではない。この
勒大院の敷地。現在、弥勒の石像は補修作業が行われている。
峠は、昔から北と南で生産された物品が往来する玄関口である
無情感にかられて、立石を目指してハヌル峠(ハヌルジェ)へ
と同時に、阿道和尙という高句麗の僧侶が初めて新羅に仏教を
と足を運ぶ。曲がりくねった山道。鬱蒼とした森ではあるが、
伝播するために通った道でもあったのだ。阿道和尙がこの峠を
威圧感はない。安らかでこじんまりとした道を歩いているとお
越えて布教したと伝えられる亀尾(クミ)に位置する毛禮(モ
のずと歩みは遅くなり、妙に余裕ぶった奇異な形状をした木や
レ)という町は、今日新羅時代の仏教の聖地として名高い。
峠をつくったと推定している。百済・高句麗・新羅の三国が、
岩の狭間に咲いている野花に視線がとまる。息が荒くなるこ
大きな野心を抱きハヌル峠を越えて、北への旅に出た新羅
ろ、やや低めの峠が現れるのだが、ここが韓国の史料に登場す
人がたどり着いたのは、文化・芸術の黄金期を迎えた唐。慶州
る最古の峠、「ハヌル峠」だ。下り道の向こうに聞慶が広がっ
から唐の首都である長安に到達するためには、いくつもの都市
ている。この峠に降り注いだ雨が聞慶へ流れると洛東江(ナク
を経由して、聞慶からハヌル峠を越え、忠州から漢江の水路を
トンガン)、忠州の方に流れると、あの漢江(ハンガン)にな
利用して西海岸まで行き、唐恩浦からは船に乗って北沿岸の航
るのである。忠州には来世を意味する「弥勒里」、聞慶には現
路を利用するのが、最も安全な経路だった。
世を意味する「観音里」がある。今でも観音里の街道のあちこ
記録によると、新羅の僧侶である元暁(617~686)と義湘
韓国の文化と芸術 53
(625~702)は、この道を少なくとも2回は往復したと伝わ
と宿を提供していた駅家の管理・代行をした寺院であり、人気
る。650年、34歳の元暁は義湘とこの峠を越えて、当時流行っ
の旅先でもあった。金賆という人物の妻・許氏(1255~1324)
ていた唐への留学に出たが、遼東で高句麗の国境守備隊に捕ま
の墓碑からは、当時の雰囲気をうかがい知ることができる。許
って追い返される。その10年後、元暁は再び義湘と唐への留学
氏は夫が亡くなると、お墓の近くにお寺を建てて金・銀で写経
を試みるのだが、唐恩浦で船を待っていた元暁は突然義湘と別
するなど、夫の冥福を祈るために10年以上も法事を務めた。彼
れて戻ってくる。彼が枕元では甘く飲めた水が、実は骸骨に溜
女は57歳になると旅に出て、名の知れた寺院や山巡りをしたの
まっていた雨水だということを起きた後に知り、「すべてのこ
だが、当時、彼女が礼拝した代表的なところが、この弥勒大院
とは人の心のもち方次第である(跋文)」という悟りを得たと
の石仏なのである。仏教を国教とし、男女の社会的な地位が比
いうあの有名な逸話が『海東高僧傳』(1215)に伝わる。その
較的平等だった高麗時代には、女性の聖地巡礼は珍しいことで
のち元暁は、唐文化の最盛期にその独自の思想で、韓国仏教史
はなかったのである。
に偉大なる足跡を残した。また、義湘は唐での留学から戻り、
ハヌル峠から南の方に40分余り山道をのぼると、炭項山の
新羅仏教の盛行を導いた。
頂上にたどり着く。ここからなだらかな稜線に沿っていくつか
935年、最後の新羅王・敬順王は、国運が傾くと高麗に降
の峰を通ると、連なる山々の間に聞慶セジェの第3関門である
伏した。高句麗に帰依して首都開京(開城の高麗時代の名)で
鳥嶺関が見下ろせる。ここもまた分水嶺で、峠に降り注いだ雨
晩年を過ごした敬順王も、また、降伏に反対し金剛山の山中に
水が北西方向の忠州へ流れると漢江、南東方向の聞慶へ流れる
篭って新羅再建を目指しながら、そこで一生を終えた息子の麻
と洛東江と合流する。鳥嶺関から聞慶方向に第2関門の鳥谷関
衣太子も、志は違えども両者ともこのハヌル峠を越えた。そし
を通って第1関門の主屹関へとつながる道が、忠州と聞慶をつ
て、二度と戻ることはなかった。
なぐあのセジェ道である。ハヌル峠から稜線に沿って歩くとセ
より至険な峠道へ
ジェまで6時間余りかかる。 聞慶セジェは、朝鮮が建国初期に大々的に開拓して以来
高麗時代の弥勒大院は、公務で旅に出た官人や旅人に食事
聞慶観光案内図
1
3
500年間、漢陽と東来、つまり現在のソウルと釜山(プサン)
ハヌル峠
忠州
2
4
弥勒大院址
槐山
鳥嶺山
1 聞慶セジェの酒幕 2 聞慶セジェ・オープン撮影セット場
聞慶セジェ
梨花嶺 姑母山城の城隍堂 3 五味子(オミザ) 4 テーマトンネル
54 KOREANA 夏号 2019
炭項山
170km
聞慶
ソウル 聞慶
をつなぐ嶺南地方の交通の要衝であると同時に、峠としてもそ の名を馳せた。ではなぜ朝鮮は、千年以上も利用してきた平坦 な稜線からなるハヌル峠ではなく、海抜が100メートル以上も
1594年、中城が築城される際に造られた第2関門「鳥谷関」。 聞慶セジェの関門のうち最も早く造られ、他の関門に比べて険 阻な山地に位置している。
あって険しいセジェを新たに開拓したのだろうか。
儒林の道
ハヌル峠には、租税で収めた穀物などを運ぶ漕運船が往来
麗とは違って、朝鮮では3里ごとに駅を、1里ごとに院を体系
していた漢江の水路とつながった交通路だという利点があっ
的に設置した。聞慶セジェが嶺南大路の一部になったのもこの
た。しかし、一時日本を脅かしていた元と高麗が衰退期を迎え
頃からである。セジェのおかげで、他の峠を利用するより移動
ると、海には倭寇が跋扈した。倭寇の略奪行為が日常化するに
時間が短縮した。大路といっても、二人が横に並んで歩くと肩
つれ、水運も次第に弱体化していった。モンゴルと紅巾の賊か
がぶつかるほどの幅に過ぎなかったが、牧畜を営んでいなかっ
らの侵略に耐えられず、防御線としてのハヌル峠の役目も色あ
た農業国では、しかも常に敵の侵略に備えなければならなかっ
せてしまった。一方、セジェは敵からの防御に有利な険路であ
た国にとって、この程度の陸路があれば十分だったのだ。
った上、陸路としても近道だったのである。
ただし、この道を開通する際に、なぜ防御のための城壁で
倭寇は朝鮮初期まで頻繁に出没した。朝鮮3代君主である
ある関所を設置しなかったのかは疑問である。このような油
太宗(在位1400~1418)は、武力と貿易という二つの手段を使
断からか、1592年に日本軍が朝鮮を侵略し破竹の勢いで北進す
って倭寇の挑発を抑制する一方で、通信と交通の円滑化のため
る際に、天恵の要衝であるセジェ峠の峡谷で防御しきれず、
に全国を四方八方につなぐ大道を構築し、一定の街角に兵士を
忠州で騎馬戦のあげく敗北してしまった。これは宣祖(1552~
駐屯させ、馬や寝食を提供する駅站制度を設けた。大きな山を
1608)が都を捨てて逃げる直接のきっかけとなった。翌年、領
越えたところや川を渡る自然拠点に、駅や院を設置していた高
議政(ヨンイジョン、朝鮮における議政府3議政の一つで、正
韓国の文化と芸術 55
一品にあたる最高の中央官職。現在の大韓民国の国務総理にあ
てこの道を通過した。つまり、彼らの帰郷の道は錦衣を着て故
たる)柳成龍(1542~1607)の提案で、セジェ峠に防御のため
郷に還る祝福の道であったと同時に、恥辱と嘆息の道でもあっ
の第2関門が設置されたが、今日のような三つの関門が完成し
たのだ。
たのは、丙子の乱以後の18世紀初期である。しかし、その後は
またこの道は、儒林が朝廷に諫言や陳情のために赴く「上
深刻な戦乱はなく、辺境の警備や使者往来のための関門の役割
疏の道」でもあった。儒林の本場である安東の儒生たちが上訴
にとどまった。
文を所持し、出発から聞慶セジェを越えるのに4日かかり、朝
高麗も朝鮮も外勢の侵略による衰退は避けられなかった
廷にそれを伝達して解釈をうけて戻るまでには、3カ月もかか
が、その道の上で営まれた暮らしの様相にはかなり相違があっ
った。また、王の特命を受けて、身分を隠したまま地方監察に
た。儒教国家だった朝鮮の10の都市のうち半分がこの嶺南大路
行く暗行御使(李氏朝鮮において、地方官の監察を秘密裏に行
に跨っているおかげで、セジェは朝鮮の文化がうかがえる象徴
った国王直属の官吏)、政府の文書を伝えに行く官吏、名勝地
的な峠となった。官吏の登用試験は高麗時代にもあったが、朝
に遊覧に出かける風流客で、聞慶セジェ付近の駅院や酒幕(旅
鮮時代には定期的に科挙(官吏の登用試験)が実施された。こ
人が飲食や宿泊をする施設)は混雑していたであろう。第1関
の試験に合格することが立身出世の証だったため、嶺南地方で
門と第2関門の間には東屋があるのだが、ここでは新たな赴任
儒学を修業した人士の殆どは、官吏登用という大きな夢を抱い
と離任する慶尚道観察使の官印の引き継ぎが行われた。この東
1
56 KOREANA 夏号 2019
屋の前には、文人墨客たちがよく訪れる小さな滝もある。 聞慶セジェを通る特別な客としては、日本を行き来してい た朝鮮通信使を挙げることができる。文禄の役の傷を乗り越え て、両国の交流を促すためにつくられたこの外交使節団は、 400~600人余りの朝鮮の学識者と文化人で構成された。使節団 はソウルを出発しいくつかの都市を経由し、聞慶セジェを越え て釜山に到達した。彼らの宿泊費はすべて地方行政の負担だっ たので、朝廷では行きと帰りの道を別々にして費用を分担する ように規定していた。
名もなき人々の道
第3関門からいくつかの岩山を越えた後、階段の多い急
な上り坂を1時間半ほど登ると、海抜1,026メートルの鳥嶺 山の頂上にたどり着く。ここで南へ3キロほど下ると梨花嶺
大路といっても、二人が並ん で歩くと肩がぶつかるほどの 小幅に過ぎないが、牧畜を営 んでいなかった農業国では、 しかも常に敵の侵略に備えな ければならなかった国にあっ ては、この程度の陸路さえあ れば十分だった。
2
だ。ここもまた、槐山(クェサン)の方へ流れると漢江(ハン ガン)に合流し、聞慶の方に流れると洛東江に合流する分水嶺 である。梨花嶺の道は険しく、山獣による被害も多かったた め、一人では到底越えられない峠だった。慶尚道(キョンサン ド)の聞慶と忠清道(チュンチョンド)の槐山(クェサン)を東と 西に結ぶ唯一の道だったので、昔から存在したことは確かで はあるが、その根拠となる史料はない。ただし幼い頃、梨花 嶺を越える行商人や牛の群れを率いて峠を超える牛飼いを見 たことがあるというお年寄りの目撃談からすると、ここが忠 州に行く際にセジェの迂回路として利用された道だと推測す るだけだ。 安全かつ宿泊施設もよく整っているセジェ道があるにもか かわらず、わざわざ同行人まで集めてこの道を迂回した人々は 一体何者だろうか。全国の市場をまわりながら品物を売ってい た行商人だったのだろうか。彼らにとっては、難癖を付けては 金品を奪い取ろうとする捕吏があふれているセジェ道より、山 獣の鳴き声を聞きながらみんなと一緒に越える梨花嶺の山道の 方が、かえって善策だったのだろうか。歴史の中における彼ら の身分は決して尊敬を受けるものではなかったが、彼らは並々 ならぬ機動性と結束力で、国が危機に直面する度に骨身を惜し
1.嶺南大路で最も険しい道で知られている「トキビリ」は、 崖を削り、岩を割って完成した道で、片方には切り立った崖があ り、その下を穎江が流れている。今では2㎞ほどしか残っていな いが、そのうちの半分だけが通行可能である。数百年の間ここを 通っていた人々の往来で岩道がつるつるにすり減っている。
2.弥勒大院の敷地にある高さ10.6メートルの花崗岩石造如来立 像。すぐ前には高さ6メートルの五層石塔と八角石灯籠も建って いる。高麗時代初期に建てられたと推定されるこの弥勒大院は、 当時、寺院と駅院の役割を兼ねていた。
まず、先頭に立って戦った。 セジェやハヌル峠とは違って梨花嶺古道は、日本植民地時 代の1925年に嶺南とソウルをつなぐ新道として開通し脚光を浴 びたが、1994年に梨花嶺トンネルが、2001年には中部内陸高速 道路が沿道に開通し、今や登山客や自転車同好会の人々が行き 来する閑静な道と化してしまった。 この三つの道のうち、あなたはどの道を歩いて旅行を楽し みたいですか?
韓国の文化と芸術 57
二つの韓国
新しい 想像力が必要だ 「LiNK(Liberty in North Korea) 」とは、アメリカの韓国人学生が2004年に設立した非政府団体 だ。現在、アメリカ、カナダ、英国、日本をはじめとする16カ国275団体と協力関係を結び、主に 脱北者の海外定着を支援している。最近、韓国支部長のパク・ソッキル(朴錫吉)さんが、英国・ 朝鮮半島関係の増進に寄与した功労で、英国王室から大英帝国国家功労勲章(MBE)を受けた。 キム・ハクスン 金学淳、ジャーナリスト、高麗大学校メディア学部招聘教授 安洪範 写真
韓
国系英国人で「LiNK」の韓国支部を率いるパク
義、情報の流入拡大、政府統制からはずれた人的連結網の誕
・ソッキル(朴錫吉)さんは、北朝鮮のキム
生、そして北朝鮮内部に蔓延する腐敗を、北朝鮮変化の6大要
・ジョンウン(金正恩)国務委員長と同年の35
因だと指摘する。
歳だ。彼は自分がもし北朝鮮に生まれていたら「チャンマダン 世代に注目している。1980年代半ばから1990年代に生まれた若
偶然の契機
者こそ、北朝鮮社会に変化を巻き起こす蓋然性が高い世代だと
ときに、何人かの脱北者に会いました。その時に、北朝鮮住民
信じているからだ。
のために何かしなければという覚悟と情熱を持つようになりま
世代」になっていたと言う。彼は北朝鮮住民の中でも特にこの
「チャンマダン」とは、ソ連崩壊後に北朝鮮政府が住民
「国連でインターンシップをしようとニューヨークにいた
した」。
に対する生活必需品の配給を大幅に減らしたため、生き延び
パクさんが脱北者を手助ける「リンク」で活動することに
るために自然発生的に生まれた野外市場を指し、ある面で北
なった契機は偶然おとずれた。彼はロンドン・スクール・オブ
朝鮮経済の市場化を象徴している。北朝鮮全体の人口の4分
・エコノミクスで国際関係学国際政治史の修士の学位を得て、
の1を占めるチャンマダン世代は、1990年代半ば国家社会主
ゆくゆくは国連か英国外交部で働きたかった。それでまず国連
義経済体制が没落した後に成長したため、既存世代とは全く
のインターンシップに志願した。インターンとして働いていた
違う社会化過程を経てきた。この年齢の脱北者に「党から
2008年、ニューヨークで脱北者救護団体「クロッシングボーダ
配給を受けた記憶があるか?」とたずねるとほとんどの人が
ー(Crossing Border)」の設立者マイク・キムの講演を聞く機
「ない」と答える。外部世界の情報にも相対的に多く接して
会があった。金融専門家のマイク・キムはシカゴ出身の韓国
いる彼らは、価値観、認識、行動などで父母の世代とは異な
人2世で、北朝鮮住民の貧困の実態と脱北者の話をまとめた
る様相を見せる。情報技術と環境が変わり、彼らは不法な外
『Escaping North Korea』という本を出版した直後だった。脱
国メディアを消費し、外部の異世界に目を向ける。特にファ
北者を支援して中国の公安に拘束されたこともある彼は、講演
ッションをはじめとする外観と生活方式は、韓国ドラマや中
終了後、パクさんにリンクで活動してみてはどうかと勧めた。
国映画から多くの影響を受けている。
「リンク」は1980年代後半に、カスコン(KASCON, Korean
国際政治の専門家でもあるパク支部長はジャンマダン世代
American Students Conference)という名前で発足し、韓国人
以外に、北朝鮮の家族との接触を続けている脱北者、資本主
学生とアメリカ人学生が集まり、毎年カンファレンスを開き脱
58 KOREANA 夏号 2019
韓国系英国人のパク・ソッキルさんは、国連でインタ ーンをしていたときに偶然「リンク」で活動すること になり、2012年からは韓国支部を任され、脱北民の救 出と定着を手助けする仕事をしている。
北者に対する関心を高めていた。その後、 2004年エール大学に集まった韓国人2世の 学生たちが、苦痛を受けている北朝鮮住民 の実像を世界に知らせようと「北朝鮮の自 由」という意味をこめた「リンク」を結成 することにし、ワシントンDCに本部をお くことにした。会議や討論だけでは変化を 導くことはできないことを実感して、団体 を作ることにしたのだという。 「リンク」の活動費は、慈善と関心を寄 せる各種財団をはじめ、学生、企業家、宗 教団体、会員などの寄付金でまかなわれてい る。小規模な集会ではTシャツやホームメー ドの菓子、タピオカティーやオニギリのよう な物を売り、音楽会を開いては募金活動をし ている。政府の支援は全く無い。 寄付金は主に中国に身を潜めている脱 北者たちを脱出させるのに使われる。一 人を脱出させるのにかかる費用は3000ドル (およそ330万ウォン)程だ。脱北者の主要 経由地である東南アジアの国々でも隠れ家 を提供し、アメリカへの定住を希望する人々には英語教育と職 業訓練も行う。
外交官の夢が「リンク」に変わる
パクさんは、英国マンチェスターで韓国人の父と英国人の
「リンク」は「ノマドプログラム」も運営している。これ
母の間に生まれ育った。彼が13歳になった1998年に初めて韓国
は大学生と大卒者を対象に「ノマドインターン」を養成して、
を訪れた。英国に暮らしていた祖母が亡くなり、父が遺骨を韓
アメリカやカナダなどで北朝鮮及び住民に対する認識の変化を
国に埋葬するためだった。少年パク・ソッキルさんは初めて訪
促すキャンペーン活動だ。ノマドインターンに選抜されると北
れた韓国で北朝鮮の存在を具体的に体験した。バスに乗るたび
朝鮮関連の教育を受ける。その次に年2回、春と秋に10週間北
に窓に貼ってある赤いステッカーが気になり、あれは何かと父
朝鮮の現状を伝える活動を行う。ノマドインターンは3人が一
に尋ねた。父は「北朝鮮のスパイを申告しろと書いてある」と
組となり合計1000カ所余りを訪問する。
教えてくれた。幼い少年はその時に南北間の敵対関係を肌で感
「アメリカ50州の中で2、3カ所を除いたすべての州を訪
じたという。
問しました。小さな村に暮らすアメリカ人が『私たちにできる
彼の祖父母は二人とも咸鏡北道明川出身の失郷民だった。
ことはあるか』と言ってくれたときには、大きなやりがいを感
明川は故金正日国防委員長と金正恩国務委員長が韓国に贈り物
じました」。
として送ったマツタケで有名な七寶山のあるところだ。パク
実際に活動したパクさんの体験談だ。
さんの父は韓国で高校を卒業した後、祖母と共に英国に移民し
韓国の文化と芸術 59
た。通訳・翻訳の仕事をしていた父は息子に韓国の話をよくし
北朝鮮住民のために活動する非政府団体であるだけです。北朝
てくれ、BBCニュースで韓国関連のニュースが流れると「見て
鮮人権団体という表現もそれであまり好きではありません」。
ごらん」と促した。
しかし彼は、長期的な人権改善なしには北朝鮮が普通の国
英国で高校を卒業したパクさんは、ウォーリック大学に合
家になることはできないと考えている。今、北朝鮮の人権を口
格した後、ソウルに来て1年間延世大学校の語学堂で韓国語を
にすると非核化が難しくなるのではないかと心配する声も聞こ
学んだ。外見は母親似の西洋人だが、いまや韓国語はぺらぺら
えるが、この問題をいつまでもそのままにしておくことはでき
だ。大学で心理学を専攻した彼は、2007年に再び韓国に来て、
ないというのが、彼の持論だ。独裁政権時代の韓国でもそうだ
行政安全部の地方政府研修院国際協力教育科で、開発途上国の
ったように、北朝鮮の人権問題は難しいが、誰かが根気強く声
公務員たちに韓国の経済と文化を教える仕事をした。
をあげなければならないというのが彼の主張だ。またパクさん
パクさんは2012年5月に「リンク」韓国支部が立ち上がる
は、BBCワールドサービスに韓国語放送を採り入れる案を、英
と、英国外交官の夢をあきらめてソウルに長期滞在し常勤活動
国のデビッド・アルトン(David Alton)上院議員と共に推進し
をするようになった。ソウルにある韓国支部では現在、彼を含
ている。韓国語放送が多くなればなるほど北朝鮮の人々に様々
めて8人の会員が常勤として活動している。彼は脱北難民救助
な情報を伝えることができると考えるからだ。
と保護・定着を手助けるリンクの既存業務だけではなく、脱北 目標は何よりも韓国の若者たちの参加を引き出すことだ。彼は
フレームを超えた共感能力
韓国の学生たちが脱北者についてあまりに知らないことに驚い
の外に定着した脱北者は326人に達する。脱北者の救出事業を
たという。
開始して以来、2018年末までに合計1000人がリンクのサポー
者に対する認識を改善するプロジェクトを推進している。彼の
「韓国に脱北者がどれだけいるかを大部分の人が知りま せん。3万人を超えたというと信じられないという人もいま す」。
1
2018年の1年間に「リンク」のサポートによって北朝鮮
トを受けた。 「南北間の文化の格差と不慣れな制度のせいで、脱北者が 韓国社会に定着するためには多くの支援が必要です。『リン
彼は韓国の学生たちが北朝鮮住民に無関心なのは、北朝鮮
ク』は脱北者が韓国に定着して、さらには社会に溶け込めるよ
問題があまりにも政治化しているからだと考える。パクさんは
うにサポートする役割しています。脱北者が増え韓国にうまく
リンクが「北朝鮮人権運動団体」と呼ばれるのはあまり好まな
定着できれば、長期的には北朝鮮の変化を引き出すことができ
い。韓国で保守団体として知られ、活動に制約を受けるのでは
ると考えます」。
ないかと心配だからだ。
パクさんは脱北者がサポートが必要な被害者であるだけで
「韓国では、北朝鮮人権団体だというと保守右派だと言わ
はなく、北朝鮮に変化を導く促進者の役割を果たせると言う。
れるじゃないですか。私たちは右派でも左派でもありません。
脱北者の大部分が北朝鮮に残してきた家族に送金したり通話す
© リンク
60 KOREANA 夏号 2019
世界各国の「リンク」を後援している支持者 たちが送ってきた写真。ワシントンDCに本 部をおくLiNKは16カ国275の団体と協力関係 を結んでいる。
「北朝鮮住民に対する韓国 の青年たちの共感能力は、 100点満点の10点程度にし かなりません。北朝鮮に対 する多くの知識より共感能 力を育てることがもっと重 要です」
© リンク
リンク韓国支部の職員たちと一緒のパク・ソッキル さん。ソウル苧洞にある事務所の前にて。
ることで、自ずと経済的・意識的に北朝鮮内部に変化の風を巻
メンタリー『チャンマダン世代』もその一環だ。パク支部長が
き起こす軸となるという論理だ。パクさんは今後10∼20年以内
共同監督をしたこの52分間のドキュメンタリーは、脱北青年10
には、今とは全く違った北朝鮮を見ることになると展望する。
人の生々しい肉声で、北朝鮮の青年たちの思考と文化を伝えて
そのためにも韓国の未来を担う青年たちが北朝鮮住民に対して
いる。パク支部長は「ドキュメンタリーを見た人々は、映像の
共感することが何よりも必要だと力説する。
中の北朝鮮の青年たちが自分の友人のようだと話すんです」と
「北朝鮮住民に対する韓国の青年たちの共感能力は、100 点満点の10点程度にしかなりません。北朝鮮に関する多くの知
語った。彼は北朝鮮住民に対して、これまでとは違った想像力 を注文する。
識より共感能力を育てることがもっと重要です。韓国人は主に
「敵対でも、恩恵でもない視線が重要です。これまでとは
北朝鮮を『韓民族であり、統一の対象』だと見なすフレームに
異なる新しい想像力への架橋が、脱北者だというわけです」。
とらわれているようです。北朝鮮を、多くの地下資源と安い労
今年パク支部長は、英国・朝鮮半島関係の増進に寄与した
働力を備えた魅力的な投資対象か利用対象としてだけ考えてい
点が高く評価されて、英国王室から「大英帝国国家功労賞」を
るようです」。
受賞した。脱北者と北朝鮮住民の人権のために働いた功労が認
パクさんは「韓国の青年たちは北朝鮮社会に対して実に無関
められたのだ。ソン・フンミン(孫興民)選手が所属するイン
心だ。よって北朝鮮が扉を開けたときに、偏見と理解不足による
グランドプレミアムリーグのトッテナム・ホットスパーFCの主
南北間の社会的葛藤が想像以上になるだろう」と懸念する。
将ハリー・ケインも今回、勲章の受勲者名簿に名前があった。
彼は政治・安保の枠組みのみで北朝鮮を見ている国際社会 にも、他の視点を提案する。 「北朝鮮と言えば、真っ先にキム・ジョンウンや核兵器を 思い浮かべますが、私たちがより関心を持たなければならない 対象は、2500万人の北朝鮮の住民です」。 「リンク」は脱北者支援以外に、北朝鮮の人々の生々しい 話を全世界に伝える活動もしている。2008年に作られたドキュ
パク支部長は「今も光の当たらないところで、脱北者が無事に 韓国に来られるように、黙々と活動しているすべての方々にこ の栄光を捧げたい」と話す。 彼はこの先条件が整えば、祖父母の故郷である北朝鮮に行 き、暮らしてみたいと言う。北朝鮮という難題を前にした彼 の、力の限り最善を尽くすという覚悟のもう一つの表現なのだ ろう。
韓国の文化と芸術 61
日常茶飯事
「幸運な」 若者が夢見る幸せ 韓国の既存世代は、現在の幸福よりは将来の幸福をより重要視してきた。それでバラ色の将来 を夢見て財布の紐を引き締め、奮闘し目先の欲望を節制した。しかし今の韓国の20代は、不透 明な未来の幸福よりは、小さくとも確実な現在の幸福を優先する。就職準備中のヤン・ヘウン (梁恵恩)さんもその一人だ。 キム・フンスク 金興淑、詩人 許東旭 写真 62 KOREANA 夏号 2019
国の20代は「放棄の世
韓
す。録音テープの韓国語を聞きながら台本と合わせてチェックし、誤字や脱字が
代」と呼ばれる。恋愛、
あれば修正する仕事です」。
結婚、出産を放棄する
週末にはカフェで働いている。定期的な二つの仕事のほかにも、臨時のイベ
という意味の「3放世代」という言葉
ント要員や事務補助などアルバイトがはいれば、それもほとんどこなしている。
が2011年に初めて登場し、「5放世代」
彼女は大学を卒業後、正社員として就職し実力も認められたが、1年余りでその
「7放世代」を経て2015年には、多くの
会社を辞めた。スタートアップ企業の会社で、何でも各自自分で取り組んでいく
ことを放棄しなくてはならない世代だと
雰囲気だった。彼女は創意性を認めてもらえたものの、もう少しシステムの整っ
いう意味の「N放世代」という言葉まで
た職場で働きたかった。
生まれた。
ヘウンさんが入社を考えている会社は、自分の究極的な目標に近い会社だ。
20世紀後半「やればできる」をモッ
「私は創作を通して、美しさを伝えることで社会を豊かにする人間、非営利
トーに「漢江の奇跡」を成し遂げた既存
の公共芸術活動を通して、子どもたちや家庭的に恵まれない人々に自由を与える
世代の中には、このような若者たちに対
人間になりたいです」。
して批判的な人も多い。しかし、彼らの
その目標を達成するために彼女は毎日文章を書き、絵を描き、写真を撮る。
若い頃の韓国と今の韓国は明らかに違
「家庭的に恵まれない」人々を助けたいという目標をたてたのは、自分の経験の
う。あの頃は急速な経済成長のおかげで
せいかもしれないと考える。今はソウルで暮らしているが、故郷は済州島で中学
就職もたやすく、より良い未来も夢見る
2年のときに両親が離婚をし、父と母の間を行ったり来たりしながら育った。
ことができたが、何年間も就職準備生と
彼女は平凡な中産層の家庭に生まれた。父は銀行員、母は主婦、祖父は地主
して生きなければならない若者が多い昨
だった。しかし、父が賭博をして他人の保証人となり借金を抱えることになって
今、未来の設計は運の良い少数の特権と
しまい、それにより畑と土地をすべて失い、祖父はショックで倒れ、そのまま病
なってしまったようだ。
院に数カ月間入院の末に亡くなった。両親の喧嘩は日に日に激しくなり、結局は
目標に向かっての旅路
離婚に至った。
準備生だ。
ンさんは両親の離婚のせいで人間にはいくつもの顔があることを知った。済州島
20代半ばのヤン・ヘウンさんも就職
済州島には親戚や知り合いが多く、離婚をしても複雑な事情が完全に払拭さ れるわけではなかった。「人間には9つの顔がある」という言葉のように、ヘウ
「大人たちは私たちの世代に対して
を抜け出したいからソウルの大学に行くと言うと、両親は強く反対したが、姉た
よく批判的な話をしますが、実は私たち
ちが積極的に支援してくれた。それで全額奨学金をもらって漢陽大学校国語国文
はその方たちの話には関心がありませ
学科に進学した。
ん。それはたぶん私たちがあまりにも忙 しいからでしょう」。
「両親の離婚後、これで私を取り囲んでいた塀が無くなったという事実に気 づき、誰にも頼らずに自立して生きてきましたが、それでも考試院で一人暮らし
ヘウンさんは小学生向けの塾の先生
をしながら勉強とアルバイトを両立させるのは本当に大変でした。1学年の1学
をはじめ、カフェのアルバイト、美術館
期には、故郷の姉に電話をしながら道端で泣いたことも一度や二度ではありませ
のボランティアガイドなど多彩な仕事を
んでした」。
してきた。今も平日と週末にそれぞれ別
最も安い住居空間といえる考試院には1、2坪ほどの小さな部屋がずらり
の仕事をしながら部屋代と生活費を稼い
と並んでいるが、部屋と部屋の間は薄い壁で仕切られただけでプライバシー
でいる。
もない。
「平日にはアメリカで使う韓国語の
「2学期からは泣きませんでした。学校のキャンパスが広くて気持ちがよ
教材を作る仕事をしています。『在宅勤
く、勉強するのが楽しくて、家族のような友人もできました。ソウルという都市
務』というのは言葉だけで、実際は主に
と多様な人々が新鮮で面白く感じられました」。
カフェでノートブックで作業をしていま
一人で過ごす時間
ヘウンさんの一日は午前8時に始まるときもあるし、11時に始まるときもあ
ソウル華陽洞にあるカフェで、韓国語 の教材作りをしているヤン・ヘウンさ ん。就職準備生の彼女は、自宅よりも カフェで仕事をするほうが、集中力が アップすると言う。
る。早く出勤しなければならないときには早く起きるが、そうでない日には遅く起 きる。朝はトーストか卵ですませ、ノートブック、スケッチブック、カメラなどの 入ったカバンを背負って家を出る。行き先はほとんど毎日違うが、たいていは前日 に決めておく。青果卸し市場や漢方薬材市場の路地を歩き回ったり、美術館や図書
韓国の文化と芸術 63
館、公園などを訪れて、写真を撮ってメ
たちが自由に遊んでいるのを見て、いつか必ず水泳を習おうと決めた。
モをする。そしてカフェに入って、アイ
「考え込みやすい人は、肉体を動かすことで悩みを解決できるという話を本
スコーヒー一杯にクロワッサンかマドレ
で読んだことがありますが、その話は当たっている気がします。私のルームメイ
ーヌ一つを注文し、4時間ほど「在宅勤
トは私よりも数カ月先に習い始めて、私は3月になりようやく始めましたが、水
務」をしてから家に帰ってくる。
泳を通して少し物事がシンプルになり、より自由になった気がします。これから
家では簡単に夕飯を食べてから、絵を
も水泳は続けていこうと思います」。
描いたり、映画を見たり、文章を書いた
ヘウンさんにとってルームメイトは家族と同じだ。今は6人目のルームメイ
り、本を読んだりしてだいたい午前4時頃
トと暮らしているが、済州島庁がソウルの大学に通う済州島出身の学生たちのた
に床につく。以前は本を買って読んでいた
めに運営している寄宿舎で初めて出会い、現在は韓国土地住宅公社が運営する青
が、今は借りて読むようにしている。
年住宅で一緒に暮らしている。それぞれ部屋を一つずつもち、小さなリビングと
「本が増えると引っ越すときに大変 なんです。それでも「ビッグイシュー」
バスルーム、キッチンがついている。一人当たりの部屋代は26万ウォン、これに 電気、水道、ガスなどの公共料金を合わせるとおよそ30万ウォンほどになる。
はほとんど必ず買っています。コンテン ツが好きなので」。 絵は写真に撮ってきたものを描くこ ともあり、ピンタレスのようなソーシャ
「ルームメイトの良い点は何と言っても身近に話相手がいるということで す。寝る時間や掃除の習慣など、生活パターンが違うと不便なときもあります が。前のルームメイトの一人は料理好きで、私の顔さえみれば何か食べさせよう としました。おかげで体重が5キロも増えてしまいましたね」。
ルメディアで見たイメージや映画の場面 を描くときもある。
週末に働いているカフェは建国大学校付近にあり、人の良い社長で2017年2 月から今まで働いている。彼女には常に新たな挑戦をするその女社長が輝いて見
「大学4年のときに5カ月間、映画
える。社長は何度かのチャレンジの末に製菓製パン師の資格証と運転免許をと
祭でインターンとして働きながら報道資
り、植物も熱心に育てているのでカフェの入口は常に植物であふれている。最近
料を作成してイベント支援をしました。
はイチゴラテ、青葡萄エイズなど、新しいメニューも研究している。
卒業後に働いた会社では、たくさんのイ
ヘウンさんはカフェで長い間働いたおかげで、ドリンクはもちろんカフェラ
ベント企画者やアーティストにインタビ
テにハートを描くこともできるが、バリスタの資格証を取ることはしなかった。
ューをしました。以前は作品を見るだけ
就職準備生の中には資格証を何枚ももっている人もいるが、彼女には資格証は一
で満足していましたが、アーティストた ちと接しながら私も直接してみたくなり ました。私の考えを表現する自由を満喫 したいと思うようになりました」。 月曜日から木曜日までの4日間、夜 には区役所の社会福祉館に行き、一時間 水泳を習っている。済州島で生まれ育っ た彼女は、幼い頃から海辺で遊んできた が、水泳はうまくない。大学時代に学校 からオーストラリアのブリスベンに語学 研究に行かせてもらったが、その時に外 国人の友人たちと市内のプールに遊びに 行ったことがあった。水泳のうまい友人
1, 2. クリエイティブな職業につきたいヤン・ヘ ウンさんにとって、前日に決めておいた行き先を 訪れ、絵を描いたり、写真を撮って記録すること は、大切な日課だ。
3. 彼女は毎週末、建国大学近くにあるカフェでア ルバイトをしている。バリスタの資格はないが、 2年以上働いたおかげで今では、ほとんどの飲み物 を作ることができる。 64 KOREANA 夏号 2019
1
2
「私は創作を通して美し さを伝えることで社会を 豊かにする人間、つまり 非営利の公共芸術活動を 通して、子どもたちや家 庭的に恵まれない人々に 自由を与える人間になり たいです」 枚もない。 「就職を準備する友人たちは普通、 不安に襲われるんですが、私は『就職し ようと思えばできる。不安に思わずに一 人でいる時間を充実させよう』と考えて います」。 昨年は一人でインドとエジプトを旅 行した。インドに3週間、エジプトに2週 間、帰って来たら貯金は底をついていた が旅をしてよかったと思えた。
3
「貯金がなくても不安ではありませ ん。お金は就職してまた稼げばいいので すから。旅して良かったと思った点は、 自分をよく知ることができたことです。
大学校を卒業し同大学の大学院の博士課程にいる。三人姉妹はずいぶん前に「絶
毎日新しい環境におかれることで自分の
対に結婚はせずに、30歳までは能力を磨き、責任がとれないのなら子供を生むの
新しい一面を発見できました。結果から
はやめよう」と約束したという。「絶対に結婚しないという約束は守れないかも
言うと、私は一人でも十分にうまく過
しれません。姉には長い間付き合っている彼氏がいるんです」と言ってヘウンさ
ごせる人間だということに気付きまし
んは笑った。
た」。
小学校4年生のときの担任の先生との出会いも幸運だった。その先生から文
慰労と激励
章が上手だと褒められたおかげで現在まで文章を書いてきた。2015年大学休学中
ヘウンさんは自分が幸運な人間だと
ューを書いた。原稿料はなかったが読者の反応を見て、創作と疎通の楽しさを感
思っている。物理学にエネルギー保存の
じることができた。今は忙しくて書けないでいるが、いつかは再び書く事がある
法則があるように、人生には「幸運総量
だろうと考えている。
保存の法則」のようなものがあると考え る。そして自分にとっての幸運は素敵な 人と出会うことだと信じている。 彼女の最初の幸運は、常に彼女を支
には「アップコリア」というコラム専門のウエブサイトに映画、演劇、本のレビ
ヘウンさんは時々寝る前に「ヘウン、今日もご苦労さん。勉強と仕事の両立、 二匹のウサギを捕まえようといつも大変だね」と自らを慰労しているという。 「生きていれば下り坂も、上り坂もありますが、重要なことはどんな状況で も品位を失わずにいることだと思います」。
持して激励してくれる姉たちだ。上の姉
長いこと生きている人間は多くても、成熟した大人は多くはない。ヘウンさ
は済州大学校を卒業後、中国上海の復旦
んはまだ26歳だがすでに大人だ。人間の成熟度を決めるのは過去の道程ではな
大学校の修士課程におり、下の姉は済州
く、自分と人生に対する理解なのだ。
韓国の文化と芸術 65
遠くの目
「汀」 に想う 韓国でのキムチ甕製作の修業を終えた私は、釜山から下関行きのフェリーに乗り込んだ。 30年前の事だ。船室は広めの座敷で、複数の人々がめいめい陣取り、そこで夜を明かす。 薩摩焼十五代 沈壽官 ちん・じゅかん
最
近の韓日関係について、何か思う 事をと問われ、この原稿に向かっ ている。
韓日関係、このテーマは私にとって50年近く抱 えてきた重大なテーマであり、殆ど私の人生を支配 してきた問題と言って良い。 「朝鮮人!」と呼ばれ訳もわからずに殴られた 少年期があった。「チョッパリ!」と呼ばれて韓国 の路地で5人の男に袋叩きにされた事もある。 「朝鮮に帰れ!」と日本で言われ、「400年の 垢を洗い流せ!、お前の器からは日本の匂いがす る」と韓国で言われた。 どうしたら日本人になれるのか、又、韓国人に なる為にはどうしたら良いのか? その為の明文規 定があるのか? 人心を鼓舞する度に使われる「民族」とはそも そも何を意味する言葉なのか?
海だったところが、潮が引くと陸になる。 山の上から、又は、沖合から陸がどうだ、海が どうだと叫ぶ人々がいるが、その人たちに「汀」は 見えていない。 「汀」は海と陸の狭間で両者を繋いてきた。 韓国でのキムチ甕製作の修業を終えた私は、釜 山から下関行きのフェリーに乗り込んだ。30年前の 事だ。 船室は広めの座敷で、複数の人々がめいめい陣 取り、そこで夜を明かす。 声高に釜山訛りのハングルで語り合う5〜6名のア ジュモニ達。大きな荷物を担いで乗り込んできた。 船はやがて釜山の港を離れ、玄界灘を越え下関 へ向かう。 夜の海峡は、好漁場である為、両国の漁船で実 に賑やかであった。 400年前、薩摩軍船の船倉に閉じ込められ、漆
国家とは一体何か?
黒の海を見知らぬ国へと運ばれた先祖の事を重ねて
様々な出来事が起こるたびに、幼い頃から自問
みたいと思った私のセンチメンタルは、集魚灯を照
してきた。
らす海上の忙しい現実風景にかき消されていった。
ただ、今、思うことは我々を含めて、二つの国
やがて夜が明けて船は下関の港へ。その時、下
の狭間で生きてきた人々がいる事。そして今も生き
船する大きな荷物を担いだアジュモニ達は、昨日ま
ている人々が数多くいる、という現実だ。
での釜山訛りのハングルから、実に見事な博多弁へ
遥か上空から地上を見下ろすと、海と陸の境界 が実に明瞭に見える。 が、一度、波打ち際に足を運ぶと。そこには海 とも陸ともつかない「汀」が存在する。さっきまで
66 KOREANA 夏号 2019
と変身していたのだ。 「あぁ、、。このお母さん達は、重い荷物を担 いで、何度も何度もこの海峡を渡りながら、立派に 子供達を育ててきたのだ」
その逞しさと屈託のない明るさに触れた時、何 かが私の中で溶けた。 「これが現実なのだ。これで良いのだ」と。 司馬遼太郎氏は私にこう教えた。
を見た私が、後で青瓦台の儀典課長に注意した。す ると河課長は「大統領がこれで構わない、と言われ るのです」と答えた。 以前、日本の公明党幹事長だった冬柴鉄三氏が
「民族とは些末なものです。文化の共有個体に
「沈さん、金大統領は韓国の南の小さな島の出身
過ぎず、人種ではありません。風土が違うだけなの
で、植民地時代、ハングルを使用禁止された為、父
です」と。そして、「強く日本人としてのアイデン
親と会話することが出来ず、涙を流しながら抱き合
ティティを持ちながら、韓国人、中国人の心が分か
った事もあるのですよ」と教えられた事を思い出
る事。国家をトランスできる事が大切です。真の愛
し、改めて、そのお人柄に打たれた思い出がある。
国はそこから生まれます」と。
又、当時の日本の小渕総理は、薩摩焼400年祭
そこには自民族中心主義の欠片も無く、肩書き
で私が韓国の全北南原市より運んだ聖火で焼いた茶
や富貴にも拠らない、自らを一個の人類に仕立て上
碗を父14代から受け取り、それを米国のクリントン
げようとする幼少期からの心がけのみがあった。
大統領に贈りたい旨の許可をわざわざ自ら電話で確
政治的な軋轢の中でも、交流を絶やさない人々
認してきた。
が相互にいる。中には重い障害を持ちながらも互い
たまたま電話を取った私に「自由民主党の小渕
に交流を続ける人々、そしてそれを支える健常者や
恵三です」と名乗られた時は、思わず直立不動の姿
スポンサー。
勢を取ったものだ。(ちなみにこの日は日本共産党
それは、両国の交流の中にあっては、実にささや かな事に過ぎないだろう。しかし、大切な事はそこに 行動し続ける人々が存在しているという事実だ。 1997年、父がソウルの一民美術館で我が家の歴 代作品を展示する「帰郷展」を開催した折、当時の
の不破哲三書記局長からもお祝いのお電話を頂き、 不思議な1日だった…) 飾らない人柄、イデオロギーを越えて相手に対 する深い敬意と信頼。そして彼らは一様に「汀」に 生きる人々の事を常に思っていた。
金大中大統領がおっしゃられた言葉だ。「我々は
私に、どちらかを選べ!お前の血はどちらだ?
400年前、日本に陶芸の技術を伝えた。日本人はそ
民族の心は? と問い詰めた愛国者と称する人々の
れを産業のレベルにまで引き上げた。我々韓国が学
心のなんと偏狭な事か。
ぶ点はそこにある」と。 その時、大統領の背広の襟が擦り切れていたの
薩摩焼400年祭 小渕総理来苑
今、私達が想起すべきはその事であり、今こそ 「汀」に生きる人々の努力が試される時であろう。
薩摩焼十五代 沈壽官
韓国の文化と芸術 67
エンターテインメント
バラエティ番組にみられる 韓国のツーリズム
1983年、韓国で限定的に解禁された海外旅行は、1989 年になって完全に自由化された。最近では、海外を訪 れる韓国人出国者数が年間3千人に上るほど、海外旅 行が広く普及している。国内外の旅行をテーマにした 様々なバラエティ番組から、韓国人の旅行形態の変化 をうかがうことができる。 チョン・ドヒョン 鄭徳賢、大衆文化評論家
Ⓒ tvN
1
旅
行がバラエティ番組の ネタとなったのは、韓
2
国の公共放送局「KBS」
が2007年8月に放送を始めたリアルバラ
え、アウトドアブームが巻き起こったほ
エティ番組を手掛けた。これらの番組
エティ番組『1泊2日』が最初だった。
どである。これに伴い、韓国の旅行形態
は、韓国の旅行バラエティ番組をけん引
何人かの人気タレントが、全国の隠れた
は、史跡や絶景スポットをカメラに収め
したほか、人々の旅行形態にも大きな影
名所を探しまわる過程で起こるハプニン
る「観光型旅行」から実質的な経験を好
響を与えた。また、観光型から体験型
グが売りのこの番組は「アウト・ドア・
む「体験型旅行」へと移行し始めた。
へ、国内から海外へ、団体から個人へと
ライフ」という新しい旅行形態を生み出
2019年3月まで12年間も続いたこの
した。特にゲームに負けた人が罰ゲーム
番組は、韓国の旅行バラエティ番組を語
映した番組ともいえる。
として、真冬に家の外のテントで寝なけ
る上で欠かせない人物、ナ・ヨンソク
ればならない、いわゆる「野外就寝」が
(羅䁐錫)プロデューサーの作品だ。
ブームとなり、全国のキャンプ場では、
『1泊2日』シーズン1の終了後、地上
旅行バラエティに込められた情緒
テントが数珠つなぎになるという珍しい
波KBSからケーブルテレビ「tvN」に転職
~6人がバッグパッカーになって、ヨー
光景も展開された。当時、テントはもち
した彼は、後輩のプロデューサー数人
ロッパを訪れる『花よりおじいさん』と
ろんのこと、各種アウトドアグッズから
と、いわゆる「ナ・ヨンソク社団」を立
いう番組も公開と同時に韓国で大ヒット
衣類に至るまで関連産業が好況期をむか
ち上げ、旅行をテーマにした数々のバラ
した。当時は「バックパック旅行=大学
68 KOREANA 夏号 2019
移行している韓国の旅行形態をうまく反
2013年、70歳以上のベテラン俳優5
生たちが好む旅行形態」という認識が
れ、知り合いを招待して一緒に料理を作
から離れて新しいことにチャレンジした
一般的だったため、このような試みは
ったり、その料理を一緒に食べながら一
いという「起業欲」と、外国人と日常的
かなり新鮮なものであった。お年寄り
味違う旅行の幸福感に浸る姿が映し出さ
な会話がしたいという「疎通欲」をうま
のバックパック旅行がバラエティ番組
れた。
く反映した番組である。旅行とは、本質
のテーマになれたのは、高齢化が進ん
このように自然に寄り添った旅行、
的に他者の暮らしや空間を見て回ること
でいる韓国社会の状況と海外旅行ブー
または環境にやさしいライフスタイル
である。海外を旅行する韓国人が増えた
ムがうまく相まったからだろう。実際
の究極ともいえるトレンドが、いわゆる
のは、より広い世界で暮らしている他者
にこの番組は、中高齢層の海外旅行へ
「オフグリッド」である。2018年、ナ・
への関心や好奇心が高まったというこ
の意欲を掻き立てた。
ヨンソク社団は、電気やガスなどエネル
との裏付けでもある。2017年にシーズン
一方、2~3人の若手タレントが誰
ギーが供給されない人里離れた山奥にあ
1、2018年にシーズン2と、計20話が放
の干渉も受けない静かな田舎で、一日中
るオフグリッドハウスで生活する『森の
送され大きな反響を呼んだ『ユン食堂』
ひたすら三度の食事を作って食べること
中の小さな家』という番組を公開した。
は、このような時代の流れをうまく捉え
だけに没頭する『三食ごはん』は、過度
孤立しているからこそより鮮明に聞こえ
た番組といえよう。
な業務や人間関係で疲れ果てた都会人を
る鳥の鳴き声や水の音、真っ暗な夜空に
2019年3月から放送された『スペイ
魅了した。2014年から2017年までシーズ
輝く星などが、都会の生活に疲れ果てた
ンの下宿』もユン食堂と同様、人気タレ
ン7にわたって放送されたこの番組で
人々の心を癒した。
ントが出演する定着型旅行番組だが、一
は、都会では簡単に済ませられた1日3
層進化した企画意図と構成が際立った。
タしながら苦戦する様子が描かれ、それ
疎通から得られる幸せ
海外で韓国食堂をオープンし、地元
ーラの巡礼路の中間地点にある村に下宿
が人々の笑いを誘い、共感を引き出し
の住民や観光客に韓国料理を味わっても
屋をオープンし、そこを訪れる巡礼者た
た。出演者たちがしばらくの間都会を離
らうという設定の『ユン食堂』は、韓国
ちに温かい食事と宿を提供するという設
度の食事を取るために、出演者がドタバ
スペインのサンティアゴ・デ・コンポステ
定の番組だ。巡礼路の下宿屋という設定 を通して、出演者が自然に地元住民と関 係を築いたり、下宿を訪れる韓国人だけ でなく様々な国から来た人々と疎通する 姿が映し出されている。 一見、旅行というテーマはすぐにネ タが尽きてしまうようにみえるが、どの ような形で、どのような場所で、どんな 人々と旅行するかによって、膨大な可能 性が繰り広げられるということをナ・ヨ ンソク社団は証明してくれた。またそれ は、韓国の旅行形態が旅行者の好みによ
1.『花よりおじいさん』は、高齢 のベテラン俳優たちによるバック パック旅行をテーマにしたリアリ ティテレビ番組である。アメリカ の地上波放送局NBCがこの番組の フォーマットを輸入、<Better Late Than Never>を製作し、放送した。
って今後一層多様化し、充実していく可 能性があるということをも意味する。 旅行においても画一化と集団主義が目 立っていた時代があった。「みんなが旅 行にいくならついでに私も」というよう
2. 『ユン食堂』は 、海外で韓国 食堂をオープンし、地元住民や観 光客に韓国料理を提供する番組で ある。 3.今年、放送が始まったばかり の『スペインの下宿』は、サンテ ィアゴの巡礼路に下宿屋をオープ ンし、そこを訪れる巡礼者たちに 温かい食事と宿を提供するという 設定の番組である。
な旅行の時代は終わった。パッケージツ アーから自由旅行へ、自由旅行から個人 の趣向を凝らした「趣向旅行」へと、旅 行産業において新しいトレンドが生まれ ている。テレビで相次いで放送されてい る様々な好みを取り入れた旅行バラエテ 3
ィ番組が、時代の変化を物語っている。
韓国の文化と芸術 69
ライフスタイル
ソウル都心のホテル 屋上にある野外プー ルで、宿泊客が日光 浴と水泳を楽しんで いる。
© 連合ニュース
70 KOREANA 夏号 2019
新しい 休暇の楽しみ方
ントに当選して思いがけない「ホカンス」 を楽しんだ。普段からホカンスに関心はあ ったものの経験する機会がなかった彼は、 「ソウル市内のホテルでゆったりと一晩を すごし、素敵な思い出を 作 っ た 」 と 語 っ た。さらに「普通旅行に行くと、主に決め られたスケジュールを消化するのに気を使 うことになる」とし、「宿舎は単に寝ると ころだと考えていたが、今回の経験でその
休暇を楽しむのに、わざわざ遠くへ旅行に出かけなくてはなら ないのか? 長距離旅行の疲れと休暇シーズンの人ごみを避け て、都心のホテルや自宅で読書やゲーム、映画鑑賞などを楽し み、十分な休息をとる「合理的」な休暇スタイルが、若者世代 を中心に広がっている。 キム・ドンファン 金東桓、世界日報記者
ような考えが変わった」と感想を述べた。 午後2時にチェックインをしたウさん は、会社のミーテイング の た め に 外 出 し て午後10時頃ホテルに戻った。そして近く のコンビニで買ってきたおやつを食べなが ら、タブレットP Cの中の映像を楽しむとい う休息をとった。‘チキンとビールを手に 海外サッカーを視聴する’という最初の計 画を実践することはできなかったが、自分 だけの時間を送ることができた。普段は朝 食抜きだが‘ホテルに行ったら必ず朝食は 食べるように’という知人らのアドバイス に従い、朝は早起きした。ご飯にスクラン ブルエッグ、焼き鳥、キムチという朝食の メニューにも満足し、彼はアロママッサー
わ
ジを受けた後、午前11時頃にチェックアウ
間がかかるという考えが広がっている。
こと。次は午後プロサッカーの試合を観戦
トをした。
ずか数年前まで、夏の休暇シーズンになると大多数の人々が
ウさんは「手軽に一味違う方法で、日常
山や海へと旅立った。しかし最近では、短期間の長距離旅行
を脱出する機会だった」とし「次回は友人
では疲労が残るだけで、日常の生活モードへの切り替えに時
たちと一緒にホカンスを楽しみたい」との
国内の市場調査専門企業マクロミル・エムブレイン(Macromil Embrain)
した後、夕方ホテルに戻って友人たちと美
が、2018年に19-59歳の成人男女1000人を対象に行った調査で「夏の休暇は必
味しいものを食べて、海外サッカーの中継
ず旅行に行くべきだ」と答えた人は42%に過ぎなかった。反面「どこにも行
を見る「サッカーファン・ホカンス」を企
かなくても良い」と答えた人は53.2%を占めた。ハイシーズンの人ごみと不当
画したいと抱負を語った。
に高い料金が主な理由として挙げられ、「旅行に行くとむしろ疲れる」との 答えも多かった。 それに伴いここ数年の間に登場した風潮が、ホテルにしばし宿泊して休暇
ホテルは夏の休暇シーズンだけではな く、クリスマスや年末シーズンにも家族連 れやカップル、友達同士でパーティを楽し
を楽しむ「ホカンス」と、家で休暇をすごす「ホームカンス」だ。
む人々で賑わう。そこに民族大移動の秋夕
負担のない日常からの脱出
(旧暦8月15日)と旧正月の大混雑の高速
スポーツマーケティング分野で働く20代の男性ウさんは、今年3月イベ
道路の列を抜け出し、のんびりと家族と休 暇を過ごす人々も年々増加している。
韓国の文化と芸術 71
知人と日常を共有するイ ンスタグラム、フェイス ブックも「ホカンス」人 気に影響を与えているよ うに見える。そこには他 人とは違う日常を誇示し たいという心理が反映し ているようだ。
1 © ケティイメージ
このようにホカンスの人気に弾みがついているもう一つの理由は「週52時 間勤務制度」の定着だ。仕事とプライベートのバランスを重視しながら、退 勤後には自分のためだけの休息をとろうと、一人でのんびり休めるホテルを 訪れる人々も少なくない。彼らのためのプール利用券とディナー食事券を含 めた「夜間パッケージ」を発売するホテルもある。 知人と日常を共有するインスタグラムやフェイスブックも「ホカンス」人 気に影響を与えているように見える。そこには他人とは違う日常を誇示した いという心理が反映しているようだ。宿泊アプリの「ヨギオッテ(ここはど う)」を運営する「 WITH Innovation」 は、2018年12月から今年の2月まで の、自社の予約アプリの人気キーワードを分析した。その結果“温水プール 関連の検索数が前年の同じ期間よりも40%ほど増加しており、これはリゾー ト施設を備えたホテルが増え、他の人々がSNSにのせた関連ハッシュタグを見 て、異色ホカンスに関心が集まったため”と説明した。 1. 忙しい日常から脱出して、ホテルで友人や家族と 共に美味しい料理や飲み物を楽しみながらテレビを 見るのも、休息を満喫できる方法だ。
2. ホテルの客室で楽しいひとときを過す宿泊客。ホ カンスの人気が高まるのに伴い、業界では客室内で 楽しめる様々なパッケージ商品を企画している。
72 KOREANA 夏号 2019
多彩なパッケージ商品
ホカンスの人気が急激に上昇している業界では、多彩なパッケージ商品
を企画・発売している。昨年の秋夕を前に済州のあるホテルは「愛する妻へ の贈り物」というコンセプトで朝食付きにビール・カクテル利用券、フット
タッフの応対に気分を害したという書き込み が、ホテルレビューサイトと関連アプリに見 られたりする。 このような不満があふれるのは、ホテ ル側がハイシーズンの利益を最大限引き出 そうと、さばききれない数の客の予約を受 けたせいだと指摘されている。公正取引委 員会と韓国消費者院よると、2015-2017 年の夏の休暇シーズンに受け付けた宿泊、 旅行、航空の被害数はおよそ1700件に達 する。
新しいショッピングトレンド
休暇期間に一定の場所にとどまる「ステ
イケーション(Staycation)」の新しい形態 である「ホームカンス」も注目される。通信 会社のSKテレコムは咋年7月、昼の最高気 温が33度以上を記録した日のニュース、ブロ グ、掲示板、SNSから収集したデーター合
2 © グランド インターコンチネンタルソウル パルナス
計131万7420件を分析した結果、避暑法と関 連したキーワードで「ホームカンス」とベラ ンダにプールを設置する「ベラパーク(ベラ ンダ+ウォーターパーク)」が含まれていた
マッサージなどが含まれたパッケージ商品を売り出した。その他にも宿泊券
と発表した。
に有名シェフの新メニュー利用券を組み合わせた商品、一人で旧正月や秋夕
刺すような真夏の日差しを避けて「ホー
を過ごす人のためのお一人様パッケージ、映画館と朝食券を組み合わせた商
ムカンス」を楽しむ人々が増えたことで、家
品、旧正月用の餅の提供や2泊以上宿泊客には近くの博物館の無料観覧券を
で完璧な休暇を可能にするアイテムもともに
提供するなど、新しい形態の商品が続々と登場している。
人気を得ている。咋年8月、家電量販店のロ
週末を含め最長5日連休の続いた今年の旧正月向けに、国内の主要ホテル
ッテハイマートでは、“本格的な休暇シー
は、ヨーロッパ式サウナ体験やジャズコンサートを組み合わせた商品、他国
ズンが始まる7月16日から30日までの2週間
にある自社チェーンホテル宿泊券などを売り出した。このような努力が実り
に、ミニビームプロジェクターとBluetooth
ソウル都心の某有名ホテルは、年平均20%だった内国人の宿泊比率を、旧正
スピーカーの売上が直前の2週間と比べて
月期間だけで3倍以上も増やすという成果をあげた。このような成果に対し
40%、30%ずつ増えた”という。壁全体をス
て業界関係者は“旧正月でも故郷に帰らないという人をはじめ、近くの便利
クリーンとして活用し、映画館レベルの豊か
な施設で休暇を楽しむ人々と連休に心身を癒そうという家族単位の顧客のお
な音響も具現できるので、ホームカンス族に
かげ”と説明した。
人気があるとの説明だ。さらにホームショッ
しかし、生涯の思い出に残るような休暇を楽しみたいという願いとは裏腹
ピングチャンネルでは、家で休暇を過ごす人
に、時折、時間とお金の両方を無駄にすることも起こる。ルーフトップ・プ
々のニーズに合わせたキャンプ料理の家庭食
ールのあるホテルに泊まったところ、狭いプールに押し寄せた多くの利用客
も人気を集めた。
のせいでプールはあきらめたという話、搭乗人員に比べてエレベーターが狭 すぎて、チェックアウトの際に長いこと待たされたという経験、不親切なス
韓国の文化と芸術 73
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韩国文化和艺术 89
90 KOREANA 夏季号 2019