Koreana Winter 2009 (Japanese)

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日本語版

号 Su 2 0m 0 9m e r 2 4., 4No冬. 2 K O R E A N韓國の芸術と文化 A R T & C U L T U RVoE l . 1V6o,l .No

2009

田舎の少学校 ISSN 1225-4592



韓国の美

ヤクヨン (薬硏)

50

x1

5x

14

cm

©安洪范

方では処方に従って、乾燥させておいた薬

は薬材によって薬硏の材質を変えることで薬材の有効

材を粉にしたり、生薬材をそのままつぶし

成分を最大限生かそうとしたからだった。

て汁を抽出して使用する。その際に薬材を

薬硏には陰と陽の理想的な和合精神がよく具現

挽いたり、練り合わせたりするのに使用した道具とし

されている。深く凹んだ部分に薬材を入れて取っ手の

てヤクチョルギュ(薬臼)、ヤクメットル(薬石臼)と並

ついた硏アルを前後に動かすことで、器具の凹と凸が

んでヤクヨン(薬硏)がある

うまくかみ合った状態で薬材を挽いていく。ここには

薬硏はその起源が新石器時代の硏石にまでさか

陰陽の原理に従い自然の産物である薬材に精気を吹き

のぼる。硏石は火の発見に次いで人類の食生活改善に

込み病魔に打ち勝つようにするという意味合いも含ま

大きな革新をもたらした道具で、穀物などを挽いた

れている。韓国の薬硏の硏アルは太く端が丸いのが特

り、柔らかく練り合わせるときに使用されたが、現在

徴だ。日本や中国のものは韓国の薬硏に比べて硏アル

でも新石器時代の遺跡などからは硏石の周囲に食用と

の厚みが薄く、端も尖っている。

して使われた木の実が発見されたりする。

薬硏の外部には十長生、魚、蛙、龍などを彫刻

農耕生活が定着すると硏石は代々受け継がれて

したり、縁起の良い文字を彫って装飾した。また宮廷

使われるようになり、硏石の真ん中の部分がだんだん

や大きな漢方薬材店、家族の多い両班の家庭で使用さ

と凹んでいき、今の薬硏の形が自然と形成された。そ

れた薬硏の中には長さが1メートルを超えるものもあ

して石の真ん中が深く凹んだ初期の素朴な形から、舟

る。ここに紹介した木製の薬硏は長さが50センチほ

型に似た工芸的な薬硏に次第にその形が整っていっ

どだ。一般的な薬硏の形態である舟形をしており、ヘ

た。またその材料も石や木から青銅、真鍮、木、青

テ(獅子に似た想像上の動物)形状の彫刻だけを見ると

磁、白磁、赤粘土製の陶器、ガラスなどと多様化して

二匹のヘテが背中合わせに伏せているようにも見え

いき、宮中では銀、玉、瑪瑙のような高価な材料で薬

る。全羅南道潭陽郡にある松鶴民俗体験博物館の所蔵

硏を作り使っていた。薬硏の材質が多様に発展したの

品だ。


韓國の芸術と文化

Vol.16, No.4 冬号 2009

京畿道広州市の南漢山城内にある南漢山 小学校。教室が八つしかない小さなこの田舎 学校は、開校して100年が過ぎた。©黄 ⓒ 永東ⓒ

6

30

14

20

田舎の少学校 36

8 韓国における初等教育の歴史 趙延順 14 田舎の小学校が見いだした希望の出口 任年基 20 新しい空間に蘇った田舎の小学校 金鎕

42

26 田舎の国民学校の思い出 金华栄 68


30

文化フォーカス

大田国際宇宙大会2009が残したもの

| 金承祚

36 インタビュー 鄭然斗 メディアアーチスト チョン・ヨンドゥ(鄭然斗)| 姜承完 42 巨匠 ファン・ヘボン 韓国の伝統履物“風の靴”| 朴炫淑 48 傑作/名品

二頭の獅子が支える慈悲の灯り高達寺址雙獅子石燈

| 朴慶植

52 文化イベント・レビュー 創作ミュージカルの新たな挑戦「南漢山城」| 元鍾源 58 韓国再発見 沈 アール・ジャクソン・ジュニア、韓国で故郷を見つける | 李黄善愛 62 世界の中の韓国人 呉銀善 女性登山家、オ・ウンソン 14座制覇への挑戦

発行 韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル Tel : 82-2-2151-6544 Fax : 82-2-2151-6592 www.kf.or.kr 発行人 任晟準 編韓理事 韓榮熙 編集長 金鍾徳 編集諮問委員 金文煥,金英那,金華榮,鄭重憲 趙性澤,韓敬九,韓明熙 広告 CNC Boom Co,. Ltd ソウル市江南区大峙洞1008-1. タワークリスタルビル Tel : 82-2-512-8928 Fax : 82-2-512-8676 編集 金熒允編集会社 ソウル市麻浦区西橋洞398ー1 Tel : 82-2-335-4741 Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 印刷 三星文化印刷 ソウル市城東区聖水2街274-34 Tel : 82-2-469-0361~5 Fax : 82-2-461-6798

| 申永澈

68 オン・ザ・ロード 金泉 水清ければ山河もまた清し | 金熒充 76 料理 冬の食卓を飾る海の味「クルパブ(牡蠣飯)」| 沈暎順 Koreana ホームページ http://www.koreana.or.kr

80 遠くの目 上田秋成と朝鮮通信使 | 長島弘明

©© 韓国国際交流財団2009 〈Koreana〉に掲載されているすべての記事 の著作権は韓国国際交流財団に帰属し、 著作権法により保護されています。 〈Koreana〉の記事を転載する場合には、 事前に〈Koreana〉編集室に電子メール (koreana@kf.or.kr) かFAX(82-2-34636086)で転載許可を申請してください。 〈Koreana〉の記事を引用したり 、非営利目 的で使用する場合にも〈Koreana〉からの 転載であることが分かるようにクレジッ トを明示してください。

82 暮らし 韓国のブログ・パワーとパワー・ブロガー | 那秀昊 87

韓国文学の旅

李文烈

ベストセラー作家の観念の世界 李文烈の『匿名の島』| 匿名の島

| 翻訳 金明順

鄭弘樹

掲載された記事は筆者の個人的な意見で あり、〈Koreana〉や韓国国際交流財団の公 式見解ではありません。 1987年8月8日文化観光部-1033で登 録された季刊誌〈Koreana〉は英語、中国 語、フランス語、スペイン語、アラブ語、 ロシア語、ドイツ語でも発刊されています。


田舎の少学校 韓国で近代学校令の制度が成立し、初等教育機関がスタートしてから、田舎の少学校は地元地域の求心 的な役割を果たしてきた。しかし、都市化の影響で生徒数が減少し、存続そのものが脅かされていた が、生態体験教育、心の教育の価値が重視され始めた今日、田舎の学校が再び注目されている。韓国の 初等教育の歴史的観点から田舎の少学校にフォーカスしてみよう。

Koreana | 冬号 2009


京畿道広州市中部面山城里南漢山小学校

冬号 2009 | Koreana


等教育がいつから始まったのかその時期を特定するの

れ、その内容が何らかの形であれ、教育を通して各個人が習

は難しい。例えスタート時点が分かったとしても、そ

得していたに違いない。

れ以前の影響も無視できないためだ。旧石器・新石器・青銅 器・鉄器時代などの紀元前の上古時代は祭政一致社会であり、

初めての初等教育機関、書堂

学校教育がなかったとしても原始宗教と政治理念が密接にか

1世紀から7世紀までの三国時代と統一新羅時代には、

かわる形で教育が行われたと思われる。さらに、古朝鮮に伝

儒学、仏教、道教が伝わって、伝統的な思想の土台が作られ

わる禁法にも出ているように、人命と私有財産が重んじら

るようになったが、この時期に教育制度が形作られたことが

韓国における初等教育の歴史 近代初等教育が文盲追放や国民の素養教育の面で機能していたとすれば、今日の初等教育では一人ひとり の児童の多様性の尊重がもっとも重要なカギになっているといえる。韓国の田舎にある少学校を探る前に、 まず韓国における初等教育の歴史を概観してみよう チョ・ヨンスン (趙延順、梨花女子大学校 師範大学学長) | 写真 : 姜在薫、安洪范

Koreana | 冬号 2009


歴史記録に残されている。高句麗には初等教育の過程で、大

長すれば、友を選んでは寺観に出向いて講習し、幼い子供た

学程度の教育を担当する私学 教育機関である扃堂が存在し

ちも鄕先生に学ぶ」という記録も残されている。

ていたが、ここでは読書または誦経、軍事的訓練として弓道

ヤンバン(上流階級)の子弟を対象に官吏養成を目指し

を修練していたとされる。つまり、すでにこの時代に国が教

た高等教育機関だけが存在していた伝統社会で、庶民教育の

育機関を設立して国に必要な人材育成を目指した教育が行わ

普及と地方の住民の教化を目的に、個人や地域住民によって

れていたことが分かる。

設立された書堂が本格的に普及したのは朝鮮中期以降のこと

918年から1392年まで約500年間続いた高麗時代には、

である。1392年から1910年までの朝鮮時代は、性理学を政

内外の政治的混乱と外敵の侵略のため、国家主導の官学を

治理念とする中央集権社会であって、教育は修己治人という

発展させるだけの余力が不十分であった代わりに、数人の

性理学的倫理を習得して実生活に適用することを目指してい

学者と学問を重んじる王の努力で教育制度が整備・充実化し

た。朝鮮時代の官学としては、中央には成均館と四学が、地

た。高麗時代における官学の教育機関としては国子監、東西

方には郷校があり、また私学としては書院と書堂があった。

学堂と五部学堂、郷校があり、私学機関としては十二徒と書

その中で初等教育を担っていた機関としては書堂が挙げられ

堂があった。中でも書堂教育は児童たちにも学問に接する機

るが、グルバン、書堂、書斎、本部屋とも呼ばれていた書堂

会を与えたことから、現在の初等教育の前身に当たると考え

の教育対象は、5~6歳の子供から大人に至るまで年齢制限

られる。高麗の仁宗時代に、中国の宋から使臣の徐兢が書い

はなかった。『牧民心書』に「概ね45村に一つの書堂がある」と

た『高麗圖經』には、「街には経館と書社が二、三か所見られ、

書かれているのを見ると、書堂は朝鮮時代に入り普及したこ

民間のの子弟たちが群れを成して師匠から経を学び、やや成

とが分かる。

韓国初の近代的初等教育機関である 官立校洞小学校と、その後身である 現在の校洞小学校 The vast reed fields of Suncheon Ecological Park include walkways that enables visitors to fully enjoy the area’s natural splendor. The vast reed fields of Suncheon Ecological Park include walkways that enables visitors to fully enjoy the area’s natural splendor.


書堂は朝鮮時代における平民教育や普通教育を担当す るという重要な役割を果たしていて、基礎文字の習得のた め、文字教材と三綱五倫に関する教養書が取り扱われた。文 字習得のための教材には、人倫道徳とともに自然環境、歴史 などの内容が統合的に含まれていた。当時書堂は、意思があ れば誰でも設立・運営可能な施設であって、何らの規制もな く小規模で行われていて、庶民向けの初等教育を担う役割を 果たしていた。特に教育内容が統合的であり、児童の能力に 1

合わせてフレキシブルに行われると同時に、季節を考慮して 個人別・小集団別に授業が行われたことから、だんだん小規 模化する現在の初等教育に示唆することが多い。 ちなみに、書堂で天字文や童蒙先習などの本の勉強が 終わると、「チェッゴリ」というお祝いをする慣習があった。 チェッゴリは父兄が子供の学問が成長することを祝うととも に、先生に感謝するために用意するイベントであった。特に 食べ物として餡子や豆などを詰め込んだお餅が振舞われた が、それは、自分の子供の学問もそのお餅のように充実する ことを願う思いが込められていた。

2

初等教育の変遷 1876年から日韓併合(1910)を前後とする開化期に、日 本との間で江華道条約を締結した後、アメリカ・イギリス・ド イツ・イタリア・ロシア・フランスなど、西欧列強に次々と門 戸を開いてから、通商関係も成立した。さらに、同時期に近 代的な学校機関と制度が登場するようになり、新教育思想が 紹介された。 1895年に制定された<小学校令>により、近代的な初等 教育の官制が成立した。ところがその一年前に、既に漢城師 3

範学校付属小学校(官立校洞小学校)か開校していた。当時、 小学校の設立は学務衙門が担当していて、名門家の子弟に新

1 朝鮮時代において平民教育と一般教育を担当していた書堂 (1900年度)。 2 旧官立校洞小学校の図書館の全景(1936)。 3 3人の教師に9人の児童という田舎の小さな学校 (江原道洪 川郡北方面魯日里花渓小学校魯日分校、 2002)。

4

教育を行うために設立されたと推測される。<小学校令>の制 定直後、ソウルには4校の小学校が開校し、地方にも37の 小学校が開校した。それ以降小学校は急増し、1908年には宣 教会系の学校が796校、韓国の民間系の学校が3000校余も 開校した。 開化期における初等教育は書堂の個別学習のやり方か ら脱して、大単位の集団を対象にして説明するやり方に変 わった。さらに生徒の評価においても、甲・乙・丙・丁の厳格 な等級別制度を採用してたが、私立のキリスト教系列の学校 では直接実験したり、実物を与えて教えるという経験重視の 学習と創作活動などの現代的な教授法が導入された他、順

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位、成績表などを通じて、個人別・能力別の評価方法が採用

取り組むと同時に教育分野に対する建て直しも行われた。現

された。

在の基本学制と同じ6・3・3・4制に統一され、伝統的な教

1905年に日本によって<韓国教育改革案>が公布され

育を取りやめ、民主主義の理念に基づいて教えることを目的

てから、小学校は4年制の普通学校に再編された(1911年)。

にしていて、児童中心、個性の尊重、活動中心という教育方

当時の初等教育政策の基礎は韓国人児童を教育を通して日本

法に転換された。

の植民地の国民に変えることを目指していた。それから初等

大韓民国政府の樹立とともに1948年7月17日に制定さ

教育機関は小学校(1938)から国民学校(1941)へと、その名

れた憲法第16条に、初等教育の無償義務教育化が制定され、

前が変わった。1911年、4年制の普通学校に再編された時は

1954年には初めて国家水準の国民学校教育課程が施行され

8歳入学だったが、1920年から6年制に変わってからは6歳

た。第1次国家教育課程が制定されてから、韓国の小学校教

から入学できるようになった。しかし、実際には4年制の普

科教育における教科教育は、国が定めた教育課程によって成

通学校の数がもっと多かった。

り立ち、教育課程の傾向は世界各国が導入している教育理論

植民地時代には各種の私立学校、書堂、夜学、私設の 講習所など、様々な形態の私立の初等教育機関が存在してい た。その機関を通じて、日本政府の教育政策に対抗して、民

に倣って、教科中心から生活中心、学問中心から人間中心、 全人教育中心から活動中心へと変わった。 1995年、光復50周年を迎えて、植民地時代の負の遺産

族精神を高揚させると同時に、ハングルを教えることで文盲

をきれいに整理し、民族の精気を新たにすることを目指し、

追放に取り組んだ。当時先生が重要な内容を要約して黒板に

国民学校という名称を初等学校に変更した。

書けば、生徒たちがそれを書き写すやり方で授業が行われ、 また生徒たちには礼儀と服従が強調され、それに従わない生 徒は体罰を受けることもあった。

現代における初等教育の役割の変化 前述した通り、朝鮮時代の書堂は高等教育を受ける前

1945年8月15日解放以後、大韓民国政府が樹立される

の準備過程と、上流階層以外の平民の子供たちのための教育

まで、約3年に及んだ米軍政の時期には、民主国家づくりに

をという機能を果たしていて、開化期における初等教育は新

一人の先生と一人の児童しか残らず、結局廃校となっ たある田舎小学校の朝会の場面 (京畿道 華城郡 松山面 古井里牛音島の古井小学校牛音分校)(1997)

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1 1 2000年に廃校になった京畿 道楊平のある小学校。(京畿 道楊平郡西宗面西宗小学校 明達分校) 2 ソウルのある大型アパート 団地に位置している小学校 の運動会。(ソウル広津区広 壮洞広南小学校)

2

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朝鮮時代の書堂(寺小屋)は平民教育を担う役割を果たしていた。基礎文字の習得のために、教材と三綱五倫に関する教養書を中心 に教育が行われた。特に、教育の内容が統合的であって、児童の能力に従ってフレキシブルに進められ、個人別の小集団を対象 に教育が行われた点で、小規模化が進んでいる現代の初等教育に示唆することが多い。

しい文化を導入するための啓蒙教育の役割を果たしていた。

取り組みを地元の発展につなげるために努めてきた。

しかし、植民地時代には日本の文化と政策を植えつけるため

21世紀を迎え、世界は個性ある創造的な人材を求めて

の植民教育が始まってから一律的な教育が行われるようにな

いる。韓国では少子化が進んでいて、兄弟が少ないか一人っ

り、また義務教育の制定を境に、初等教育を国が管掌するよ

子である場合が多いため、最近の児童は個性が強く、彼らの

うになってからは、教育課程と教科目の振り分けなどにも国

ニーズも特性も実に様々である。その子供たちには、従来の

が介入するようになってしまい、教育の自主性が失われてし

国民教養教育のレベルから一歩進んで、各個人のニーズに応

まった。

えて個性が伸び伸びと発揮できるように支援できる小学校が

解放以降の初等教育は、人口増加によって児童教育の

求められている。最近、韓国でも多様な代案学校が現れてお

ニーズも急増し、文盲追放と国民の素養教育の役割を主に担

り、正規の学校より代案学校に関心を寄せる父兄が増えてい

当するようになった。その成果で韓国は世界でも文盲率が極

ることは、このようなニーズの表れともいえる。

めて低い国となり、だんだん教育先進国と肩を並べるように なった。 しかし、急速な経済発展による産業化で都市に人口が

韓国で近代教育が始まった頃は、70名近い児童が一つの クラスで勉強していた時期もあった。現在は、韓国の都心部 にある小学校は地域差はあるものの、30~40名ぐらいの定員

集中するようになり、農漁村地域の人口が急減すると同時に、

を維持している。しかし、今や国民素養や文盲追放という機

高齢化が進むにつれて学齢期の児童も急速に減少した。さら

能から脱して、一人ひとりの児童の特性と潜在能力を最大限

に、少子化の傾向と、よりよい環境で子供を教育したいと

に引き出し、多様性を尊重する初等教育として機能するため

いう教育熱の影響もあって、農漁村の学齢期の児童がさらに

には、クラス当たりの児童数をさらに減らすとともに、学校

減ってしまい、農漁村における小学校の小規模化が進んた。

もさらに小さくすべきである。そうすれば、児童らが学校を

少子化の進行による学齢人口の減少と、正常な学校運営

家庭とかけ離れた場所と認識せず、学校運営側としても家族

が困難になるという理由から、韓国政府は1982年に定めた基

的で自主的な雰囲気の中で、学校独自のプログラムを開発・

準に基づいて小規模の田舎の学校の統廃合に取り掛かった。

実践しやすくなるだろう。現在、韓国で統廃合の対象となっ

また、 2000年から各市・道の教育庁が自主的に行政を行うこと

ている田舎の小規模学校を存続させて、教育課程の構成と運

になってからは、以前の学校の統廃合が減少するようになり、

営の自主性を確保し、市道教育庁では行政・財政・プログラム

2005年に総理主宰の国政懸案調整会議で、統廃合推進が決議

面の支援を行えば、21世紀に求められる人材育成に貢献でき

されて再び中央政府レベルで進めることになった。一方、地

ると思われる。今は、韓国の初等教育の全身だった書堂教育

元の住民や父兄らは小規模の学校を存続させるために、様々

のメリットを改めて考える知恵が求められている。

な形で小さな学校ならではの長所を強調すると同時に、その 冬号 2009 | Koreana 13


田舎の小学校が 見いだした希望の出口 生徒数の急激な減少によって閉校の危機に瀕してしまったが、開かれたカリキュラム、自然にやさしい現 場教育を行うことで、隣接した都市の児童らを誘致して蘇った田舎の小学校が増えている。韓国の初等教 育の現実において、この新しい動きの示唆することを考えてみよう。 イム・ヨンギ (任年基、公州大学校 師範大学教育学科教授) 写真 : 姜在薫、安洪范

1

14 Koreana | 冬号 2009


舎を訪れる度に、立地条件の良い所に学校が位置している 事実に驚かされる。その中には政府予算によって学校の敷

地を買い入れたのではなく、住民が政府に土地を納めるという やり方で設立された学校もある。学校毎に地元住民の教育への 期待と情熱、そして子供に対する教育に向けた犠牲と汗が滲ん でいる。田舎の学校では1960年代まで、大人の文盲追放のため の国文講習所が運営されたりもしていた。韓国人の教育熱を田 舎でも感じさせられる。

閉校問題の浮上 ところが、田舎にある多くの学校が既に閉校となったり、 他の用途で使われたり、さらに生き残った学校の中の相当数が 児童数の減少によって、近い内に閉校の危機に瀕するであろう という事実にまた驚かされる。従来の田舎学校の問題といえば、 都心の学校と比べて児童の学業達成のレベルや教育環境などが 立ち遅れているという、いわゆる都市と田舎間の教育格差とい う点で注目されてきたが、今や生き残りをかけた問題として考 えなければならない局面がある。田舎学校の未来はあまり明る くない。 この現象は産業化・都市化による人口移動から始まった。田 舎を行政区域上、邑・面地域に規定できるが、この分類基準に 従えば、田舎の人口構成比が1960年の67.6%から2005年には 18.5%に減っている。特に、面地域の人口構成比は1960年の 63.0%から2005年には10.2%にまで急減した。田舎の人口は30 余年ぶりに50%未満に減り、50年を経た現在は20%未満に減って しまった。田舎は韓国社会において蚊屋の外に置かれてしまっ たのだ。 ところが、人口移動だけでは説明しきれないところもある。 韓国には「子が生まれたらソウル(大都市)に行かせるべきだ」とい

1 ある田舎小学校の運動会の光景(江原道寧越キムサッカ ッ面玉洞里玉洞小学校) 2 全校生30人というこの田舎学校は、様々な放課後プログ ラムを運営している。(京畿道驪州郡金沙面下虎里梨浦 小学校下虎分校)

2 ©全碩炳

冬号 2009 | Koreana 15


34人の在校生が4クラスの複式授業にならざるを得なかった巨山分校が、幼稚園を含めて7クラスに140人以上の子供たちが集ま り、活気に満ちた学校に生まれ変わったのは決して偶然でも、ある実験の結果でもない。韓国の教育が進めていくべき道を先駆 けているのである。

1~2 南漢山小学校の屋外授業の光景。開かれた教育プログ ラムの成果が口コミとなり、他の地域から転入する児童 も多い。

1 ©黄永東

う諺がある。この諺には今日の田舎学校が直面している問題

ある。

の核心が隠されている。田舎学校は児童数の自然減少ととも

政府による小規模学校の統廃合政策の趣旨は、田舎学

に、経済的余裕さえあれば、子供を都市の学校に通わせたい

校の規模の適正化を通じて田舎の学校に通う児童たちの実質

という親たちの教育熱のために、敬遠されるようになったの

的な学習権利を保障すると同時に、学校運営における経済的

だ。世界各国が田舎学校の教育問題を抱えているが、中でも

効率性を高めることにある。児童数が急減している田舎学校

韓国のそれは量・質ともに最も深刻な状況にある。量的には

の統廃合は、教育的・教育財政的レベルから避けられないと

田舎学校の空洞化、質的には田舎学校の学歴低下の現象がさ

思われる。まず、教育的観点から見れば、児童の数があまり

らに進行している。田舎学校の危機は田舎の衰退を加速させ

にも少ない田舎学校には、多様な教育サービスの提供に携わ

る決定的な要因となっている。

る教員の確保に限界があるため、教育課程の正常な運営が困 難になると同時に、適正な学習集団を形成する機会が足りな

田舎小学校の統廃合政策

いため、児童らの社会性と協同意識の発達にも問題が生じか

韓国政府は田舎学校の育成に向けて様々な政策を進め

ねないことが指摘されている。一方の経済的観点からみれ

てきた。中でも、もっとも注目すべき政策は小規模学校の統

ば、児童数の少ない小さな学校は、人件費や運営費用などの

廃合政策である。政府は1982年から人為的な小規模学校の

学校経費が有効に使われにくいことも否定できなないのが現

統廃合政策を行ってきた。児童数が急減したためだ。1950

実である。

年代以来、僻地に設立された田舎学校の児童数が急減したこ とを受けて、統廃合に乗り出すようになったのだ。第1段階 の統廃合政策は1982年から1988年まで、各市道教育庁が自

ミニ学校興しのためのキャンペーン 政府は田舎地域の道路網の改善を図った上、スクール

主的に進めてきた。国レベルの支援は大したものではなく、

バスを運行することによって児童たちが通学しやすくする一

統廃合の基準はスタート初期に、在校の数が180人、93年9

方で、田舎の小規模校の統廃合政策を進めてきた。にもかか

月に100人ぐらいだった。第2段階の統廃合政策は1999年

わらず、政府の政策は幾つかの問題点を露呈してきた。ま

の通貨危機の時期に行われた。政府が大型財政を組んだ後、

ず、国の政策推進に一貫性がなく、政策の信頼性を失うとい

統廃合の基準を100人に据え、厳しく推進した。第3段階の

う問題が生じてしまった。学校の統廃合に関する政策の基調

統廃合政策は2000年以降、市道教育庁が自主的に進めてき

が強力施行とミニ学校興しの間を行き来し、政府の直接介入

ていて、現在の統廃合の選定基準は児童数が60人ぐらいで

から自主性を強調したり、また国からのインセンティブ提供

16 Koreana | 冬号 2009


制度を打ち出しては各市道の財源に一任したり、まるで一貫

キの下、8つの教室が全部のこの学校は1901年に開校した典

性に欠いている。

型的な山村の学校である。

小規模校の統廃合政策の推進は「田舎のミニ学校興し

一時、児童数の急減によって廃校の危機に見舞われた

キャンペーン」を促した。政府の手が届かない小さな学校の

が、校長や3人の教諭、父兄に地元の市民団体の会員まで加

価値を生き残らせたい市民団体、教員団体、父兄団体など

わった学校興しキャンペーンが繰り広げられた。彼らは南漢

は、「ミニ学校を守りたい会」という連帯組織を立ち上げ、田

山小学校ならではの教育環境を生かしたユニークな教育プロ

舎学校興しに向けたキャンペーンを展開した。また、政府に

グラム開発に取り組んだ。その結果、他の地域に住んでいる

対しては田舎教育の育成に向けた根本的な対策づくりを促し

児童たちが転校してきたおかげで、学校は生き残ることがで

た。彼らは小さな学校が生き残るべき理由として次の点を挙

きた。

げている。第一、経済論理による小規模校の統廃合は正しく

それでは、彼らが具体的に取り組んだことは何であろ

ない。第二、田舎学校は単なる教育機関に留まらず、地域社

うか。この学校は地元の自然環境を生かした体験中心の教育

会における精神的・文化的空間でもある。第三、小規模校の

課程を設けて運営している。児童たちの朝は爽やかな自然と

統廃合は人々の田舎離れをさらに加速化し、田舎の空洞化現

の触れ合いから始まる。日当たりのよい図書館で本を読んだ

象を促進してしまう。

り、自由に走り回ったりするが、ほとんどの子供たちは登校

ミニ学校興しキャンペーンに支えられて、全国的に廃校

後、先生と一緒に裏山へ散歩に出る。学校の裏庭はそのまま

の危機を乗り越えて学校を残すためのキャンペーンが展開さ

松の木の森につながり、子供たちの感性や思考は森の謎めい

れた。以下ではその事例として南漢山小学校と巨山小学校を

た息遣いと直に触れ合う。このような朝の活動は子供たちの

ご紹介する。

感受性を育てると同時に、静かに勉強できる心の準備をさせ る。土を踏んで自然の変化を直接感じる朝の活動は都市部の

蘇ったミニ学校 例1 南漢山小学校は京畿道広州市中部面山城里の歴史遺跡地 である南漢山城の中にある。樹齢400年を超える二本のケヤ

学校では行えない教育課程である。学校の裏山は森の活動や 自然観察ができ立派な体験学習の場である。自然を観察し、 散歩の後は話し合うこともある。さらに、国語時間の詩の創

©黄永東

2


1 ©黄永東

作や、科学と自然観察授業など、体験中心の授業の時にも森

1 料理授業の光景(南漢山小学校)

の教室が使われる。

2 伽耶琴授業の光景(京畿道広州市南終面分院里分院小学校)

学校の畑を利用した農業活動も体験活動として取り入 れられ、実科、科学など、正規教育課程に入っている。さら に、各学年に振り分けたあと残った畑は父兄に分譲し、家族 で農事を体験できるようにした。子供たちが自然から浮かべ るトータル的な遊び場も運営している。野花や様々な草花と 野菜を栽培する生態学習体験の機会を提供しているのだ。 このような教育課程を通して幼い子供だけでなく、学

岳面巨山里)の精米所の跡地で簡易学校としてスタートした。 しかし、農村離れのあおりで1992年3月1日に巨山分校場

校の構成員としての教諭や父兄も教育的に成長した。PTA

に格下げされ、さらに2002年に児童数が34人まで減ると、

の成長は健康な信頼関係に基づいたコミュニティの中で行

廃校の危機に見舞われた。

われ、PTA らの協力こそ学校を建て直して維持できるもっと

ところが、同校の先生と父兄らは危機を発展の機会と

も重要なパワーになった。2001年9月に開設されて、現在

して受け止め、「ミニ学校」という弱点を強みに変えるために

まで150万人以上の人がアクセスしたホームページ (www.

知恵を出し絞った。この学校はそこで起きる様々な出来事を

namhansan.es.kr)は、PTA にとっては重要なコミュニケー

目と耳で確認できる小さな共同体であるだけに、子供らの心

ションの場でもある。このホームページを通じて様々な議論

と身体のリズムを考慮して、授業時間をフレキシブルに運営

が行われると同時に、各種の学習案内や学校資料などが掲示

する教育方法を採用した。

板や資料室を通じて共有されている。

田舎の特性を生かした環境生態教育も強化し、学校教 育過程を中心軸としながら多様な体験学習と読書、作文教育

蘇ったミニ学校 例2 巨山小学校は1935年に農道園(現在の忠清南道牙山市松 18 Koreana | 冬号 2009

に取り組んだ。体験教育を通して子供たちに自然と社会現象 を直接体験させ、多様で深みのあるテーマを身につけるよう


2

に工夫した。この学校が五感を通じて体得し、心から感じて

田舎のミニ 学校の希望探し

実践する多様な体験学習を教育課程の中心課題に選定して運

上述した二つの学校の成功例は田舎のミニ学校の価値を

営していることが知られるようになり、周辺の都心部から転

立証している。田舎の小さな学校が美しい自然環境を背景に

校を希望する父兄 からの問い合わせが来るようになった。

教育の本質と原型を回復できる可能性を見出してくれた。ほ

34人の在学生が4クラスの複式学級で学習せざるを得

とんどの父兄が競争の熾烈な都市部の学校を好む中、体験学

なかった巨山分校場が、幼稚園を含めて7クラス140人以上

習中心の田舎学校を選択する父兄もいるという事実が確認さ

の子供が学ぶ活気のある学校として生まれ変わったのは、決

れた。地元を離れていった子供たちが戻ってきて、隣の都市

して偶然や実験の成果だけではない。韓国の教育が進むべき

部の児童が転校してくる田舎学校の持続的な発展の土台が設

道を一歩先に見せてくれたのだ。児童数の増加に支えられ、

けられたのだ。

教育の主体である教師、父兄、地元の関係者、同門会、市民

目的のある小さな学校が集まって立ち上げた「ミニ学校

団体、大学教授などが分校を本校に引き上げるキャンペーン

教育連帯」は、小さな学校の教育的想像力を他のところに広

を展開し、2005年3月1日付けで、韓国で初めて分校から本

げつつある。その取り組みは多くの教師や父兄たちが学校教

校へと引き上げられた。

育に対して抱いていた「新しい期待とニーズ」を促す起爆剤と

同校は一年に一度、地元住民参加の音楽祭りを開く。放

して働くものと見られる。韓国政府も、少数の教育関係者の

課後学校で声楽の稽古を受けてきた子供たちが主な出演者で

骨折る努力の結実ともいえる学校興しの事例が全国の田舎に

あるが、外部から声楽家も招待する。観客は地元住民、父

散在する小さな学校でも実現できるように新しい支援策を進

兄、子供たちである。放課後活動に熱心な子供たちにとって

めている。蘇りつつある田舎学校は、公共教育の枠組みの中

このような発表の機会は達成感と自信を与えると同時に、プ

から代案教育的価値を実現する理想的な例となっている。田

ロの声楽家を招待するという本格的な講演は、地元社会を芸

舎のミニ学校の希望探しは今日も続いている。

術的に盛り上げることにも貢献している。これこそ、もっと も望ましい学校コミュニティのあり方といえる。 冬号 2009 | Koreana 19


新しい空間に蘇った 田舎の小学校 廃校に追い込まれた田舎の小学校の建物が韓国政府の支援と民間による再生への創造性に支えられて、 多様な文化空間に生まれ変わっている。小学校の校舎のリサイクルは経済・文化的に高い価値を生み出 す一方で、地元社会には活力を吹き込んでいる。廃校を再活用した代表的な施設を中心にその現状を調 べてみよう。 キム・ダン (金鎕、オーマイニュース 記者) | 写真 : 安洪范

20 Koreana | 冬号 2009


年9月初めになると、忠清北道永同郡で葡萄祭りが開

場の中に残っている黒板さえなければ、ここがもともと小学

かれる。韓国鉄道公社が運営するテーマ観光列車「ワ

校だった事に気づく人はそれほど多くないだろう。

イン・トレイン」に乗ってここを訪れた観光客は、葡萄狩り、

若者たちが都会に出て、子供たちの泣き声が聞こえな

葡萄踏み、ワイン作りなど様々な体験イベントを楽しむこと

くなり、閉校に追い込まれた主谷里は、廃校のリサイクルで

ができる。この葡萄祭りを楽しむためにこの地域を訪れる人

お祝いムードに包まれている。2007年に行政自治部が主管

々が年間1万人を超える。この祭りの中心に廃校がある。

する「暮らしたいいい町づくり」コンテストで金賞を受賞し た。廃校の復活が町おこしにつながったのだ。ところが、地

ワイナリーになった田舎の学校 ホテルを経営していたユン・ビョンテさんが76の葡萄農 家と共に「永同葡萄加工」という営農組合法人を設立したのが

元は幸せな悩みを抱えることになった。ワイン・コリアがさ らに繁盛して若い夫婦が戻ってくれば、新ファゴク小学校を 再び開校しなければならなくなる。

1996年のことである。本格的な韓国産ワインを作りたいと いう夢を実現するための第一歩であった。2001年に本格的

全国にある廃校とその現状

なワイン工場を設立する計画は立てたものの、ワイン工場を

もちろん、すべての山村が上述したような幸せな悩み

建てる地域選定が問題になった。組合員たちは郡内の葡萄農

を抱えているわけではない。教育科学技術部によると、今

家が参加しやすい地域に工場を据えることを希望した。100

年現在、学童数が60人以下の農漁村 (邑・面・島嶼僻)にある

世帯ぐらいある町の農家のうち、76世帯が葡萄栽培農家であ

小規模学校は1765校にのぼり、農山漁村学校(4972か校)全

る永同邑主谷里は、永同郡の中でも一番早く葡萄栽培に着手

体の35.5%を占めている。そのため教育部はいわゆる「適正

した地域であり、郡の真ん中に位置しているという理由から

規模学校」として育成するために、財政的インセンティブを

ワイン工場として選ばれた。

上方修正(本校廃止10億ウォン→20億ウォン、分校廃止3億

主谷里には永同教育庁管内に廃校となったファゴク小

ウォン→10億ウォン)することで統廃合を支援すると同時に、

学校があった。管内にある30校の廃校のうち、建物の延べ

統廃合された本校は田園学校に指定して教育環境改善を支援

面積は2番目に広く、建物の状態も窓ガラスだけ変えれば使

するとともに、学校運営の自主性を強化することにした。今

えるほど良好な状態であった。さらに、国道と鉄路が学校の

後3年間かけてこの計画を進め、500校を統廃合または移転

隣を走っているだけに、運送の便利さと広報効果まで期待で

配置するという計画である。

きた。教育庁は廃校の売却提案に反対する理由がなかった。

1982年から始まった小規模学校の統廃合政策によって

管理維持費のかかる廃校を売却すれば、収益が出る上、ワイ

これまで廃校となった全国の小学校の現状は、教育科学技術

ナリーは他の工場のように環境に悪影響を与える可能性もあ

部が正確な実態調査のために2006年から始まった「廃校財産

まりなかった。

活用の現状」(2008年7月31日基準)から把握できる。その調

このようにして、廃校は韓国で本格的なワインを生産

査結果によると、1982年以降統廃合された全国の廃校学校の

する韓国初のワイナリーに生まれ変わった。さらに、他の場

数は3246校にのぼる。2008年現在、6229校の小学校(本校

所から小さな工場まで集まり生産力が倍増し、組合員数も

5813、分校416)があることを考えれば、現存する学校数の

460人に急増した。ここにきて郡庁も本格的に乗り出した。

半分を超える学校が25年間に消えたことになる。

2004年には永同郡が22億5千万ウォンを出資して株式会社

これを地域別に見ると、ソウル市と一部の広域市の場

「ワイン・コリア」に変わり、同時に組合員も農民株主になっ

合、廃校となった学校数は一桁に留まるが、農山漁村の多い

た。廃校を中心に生産農家、加工企業、そして自治体が力を

▲全羅南道(683) ▲慶尚北道(581) ▲慶尚南道(501) ▲江原

合わせて達成した成功例である。ここを訪れば、ヨーロッパ

道(396) ▲全羅北道(311)に廃校が多いことが分かる。この

のワイナリーであるシャトーに似た建物がまず目に入る。工

五つの道で廃校になった学校数が全体の76%を占める。

古地図の展示会が開かれた青松郡立野松美術館。廃校となった小学校の 内部を改造して美術館に作り変えた。(慶尚北道青松郡眞寶面新村里新村 小学校の敷地) 冬号 2009 | Koreana 21


このように門を閉じた学校は様々な用途にリサイクル

物の加工場など、生産施設が入居するケースもある。

され、新しい姿に生まれ変わりつつある。「廃校財産活用 の現状」によると、全国にある3246校の廃校の内、1924校

ハヌルネ野花マウル(村)

(59%)が売却、交換、撤去などの対象になり、856校(26%)は

教育科学技術部は2006年に全国における廃校の現状を

教育、修練、宗教、福祉、企業、福利などの施設として賃貸

調べて、廃校活用における優秀事例を発表している。中で

している。残りの470か校(15%)は未だ使い道が見つからず

も、全羅北道長水郡天川面蓮坪里にある「ハヌルネ野花マウ

放置されている。内訳を見ると、特に売却(1625か校)が半

ル(村)」は廃校活用の模範例として評価されている。25世帯

分を占めている。

に30人余りの住民のほとんどは60歳を超えたお年寄りとい

しかし、2006年に韓国政府が「廃校財産活用を促進する

う山の僻地だったここは、2003年に都会からUターンした

ための特別法」を改訂し、賃貸範囲を広げた他、また一定の

人々が廃校状態だった蓮坪小学校を3億ウォンで買い取りエ

条件がそろった廃校の財産は無償で貸与できるようになった

コ商品専門のネット・ショッピング・モールのオフィスを開い

ことを受けて、売却より貸与するケースが増えている。教育

てから、大きな変化が生じた。

部も学校が長い間、地域文化の中心的な役割を果たしてきた

当時、エコ商品専門ショッピング・モールを開設し、都

ことを考慮して、廃校財産が売却された後も、一定期間は他

市と農村が共に生きていくという真の農村アメニティーを目

の用途に変更できないようにする特約条件を提示して用途を

指して週末毎に全国を旅していた彼らは、2003年に蓮坪少学

制限している。さらに、各市道教育庁は廃校の活用目的を

校を見て一目ぼれしてしまったという。様々な高さの山に囲

▲教育施設 ▲住民福祉施設や農業生産施設 ▲文化芸術また

まれている学校の前にはきれいな小川が流れていて、さらに

は文化事業空間 ▲社会福祉施設などに限定し、そして ▲娯

高速道路までは20分しかかからないという好立地でありな

楽施設や別荘 ▲美風良俗の有害事業 ▲環境汚染施設 ▲住民

がら、学校前の道路を通る車はまばらで打ってつけの場所

に抵抗感を与える施設 ▲地元住民が反対する事業 ▲その他、

だった。

投機を目的とする場合などは売却及び貸与の対象から除外し ている。

廃校となって3年が過ぎたこの学校の建物を最大限活か すとともに、環境に配慮する形で建て替えたら、周りの花々

この制度に従ってこれまで貸与された廃校の活用例を

や木々も生気を取り戻した。廃校が生気を取り戻したことで

見ると、代案学校や特殊学校、修練院など、主に第2の教育

村にも精化が生じた。環境にやさしい農法で育った良い食べ

施設として生まれ変わったり、美術館、博物館、創作村な

物を販売できる流通網が確保されると、60~70代のお年寄り

ど、文化芸術の空間として活用される例が一般的である。こ

がほとんどだったこの村に若者たちが戻ってきた。ハヌルネ

の他にも町の会館、保育所、老人亭、療養院など、福祉・福

野花村で生まれ変わった廃校は、いつの間にか自然と人々が

利施設として使われる例も増えていて、畜舎や牧草地、農産

調和をなして、子供たちが遊びまわる空間に変わっていた。

22 Koreana | 冬号 2009


人々が廃校の活用に関心をもっているのは、その場所が道路へのアクセス条件が良いだけでなく、 周囲の景観などの立地条件にも優れ、少し手を入れるだけで再利用でき、コストダウンも期待でき るというメリットがあるためである。

ジャガイモ花のスタジオ。廃校になった小学 校がアーチスト達の創作空間兼地元住民の文 化スペースに様変わりした。(江原道平昌郡 平昌邑耳谷里平昌小学校ノサン分校の敷地)

彼らは地元住民と提携して、村の農産物を安定的に販

化村は、市民に文化芸術をただ眺める対象としてではなく、

売できる販路を確保した他、ショッピング・モールの顧客を

体験しながら楽しんでもらう空間を目指している。さらに、

農村体験の観光客として誘致することにも取り組んだ結果、

昔ソッデ(訳注:村の入り口に立てた竿)の制作方法を教えて

年平均2万人以上の人々がこの村を訪れるようになり、都農

いた地元のお年寄りの方々が集まって「希望ソッデ」というシ

交流の成功例を作った。その結果、この村は2005年に韓国

ルバー企業を創業するという成果も挙げた。

の農林部が指定したグリーン農村体験村に指定されたことに 続き、2006年には最優秀農村体験村に選定された。

ジャガイモの花スタジオ 江原道平昌邑内からジョンソン方向に車で15分ほど行

ウッタリ文化村

けば、平昌邑耳谷里に位置した「ジャガイモの花スタジオ」に

平澤市傘下の平澤文化院が、廃校となった平澤市西炭

出る。磨りガラスと赤い鉄骨が露になっている2階建ての長

小学校グムガク分校を平澤教育庁から無償で借り、文化芸術

方形の現代風建物は、魯山分校という小さな廃校を建て替え

の体験空間に作り変えた「ウッタリ文化村」は文化コードに都

たものである。ここは文化芸術家には創作空間に、地元の住

市型廃校という特徴をうまく取り入れた成功例として取り上

民には文化空間兼たまり場として使われている文化芸術教育

げられている。

空間である。運動場の一角にある銅像や教室の形態をそのま

2005年にグムガク分校を賃貸した平澤文化院は市民ヒ ヤリング会を開いて市民の意見を聞いた後、タスク・フォー

ま活かして作ったスタジオを通して、このかっこいいランド マーク的存在は旧学校をしのぶ事ができるの。

ス・チームを立ち上げて文化観光部が公募した「文化疎外地域

変哲もない山村の廃校が全国的に有名な文化スペース

住民のための文化空間づくりプロジェクト」で1位になった

に生まれ変わるようになった背景には、若手文化企画者の

後、入居文化芸術家を募集した。その後、彼らが中心となっ

イ・ソンチョルさんがいた。イさんはソウル大学路で文化企

て廃校施設を建て替えるなどの作業を経て、2006年に「ウッ

画者として働いていたが、2000年に療養のために平昌を訪れ

タリ文化村」をオープンした。

ることになった。そのうち、教育庁のホームページで魯山分

それからここに5人の文化芸術家が居住するようにな

校が入札に掛けられるという公知を読んだのがきっかけに

り、地元の講師が平澤市民と首都圏住民向けに生活陶磁器、

なった。イさんは1年間、地元の人々と親交を深めながらこ

木工芸体験、創作童謡、近代生活の体験など、40以上のワン

の土地に慣れ親しみ、そして地元住民のための文化プログラ

day文化芸術プログラムを運営する創造空間に様変わり、延

ムの企画に取り掛かった。

べ25000人が訪れる平澤の名所として生まれ変わった。文化

折りしも、平昌郡庁側もジャガイモの花スタジオの企

芸術疎外住民プログラム、青少年と家族プログラム、市民文

画に関心を寄せるようになり、廃校のスタジオ化の作業が本

化享受プログラムなどの三本柱で運営されているウッタリ文

格化した。この企画を支援するため、平昌郡は魯山分校の敷 冬号 2009 | Koreana 23


Aquatic plants, such as the floating fern Salvinia natans, giant duckweed (Spirodela polyrhiza), and frogbit (Hydrocharis dubia), are examples of the marshland ecology of the Upo Wetlands.

1

1 済州道にあるキム・ヨンガプ・ギャラリー、デゥモアク。廃校になっ た小学校の建物を展示場に建て替えた。(西帰浦城山邑三達里三達分 校の敷地)

生涯済州道だけを撮り続けた写真作家として、2005年にルー

2 京畿道広州の分院白磁資料館。朝鮮王室最後の窯の跡地に位置した 白磁記念館であり、陶芸特性化教育学校である分院小学校の校舎の 一部を立て替えたものである。(京畿道広州市南終面分院里分院小学 校の中)

んが2001年に荒廃化した廃校の8つの教室をつなげて展示

ゲーリック病(ALS)で亡くなった故キム・ヨンガプ(金永甲)さ 場に建て替えた済州道の名所である。ここは2006年に済州 道議会の依頼で、1004人の観光客を対象に行ったアンケー ト調査で、済州道内にある48の観光地の中で家族満足度が もっとも高い所として選ばれた程、美しい魂が宿っている所

地と建物を買い入れ、また江原道も廃校の補修費用を支援し た。その結果、郡庁が所有するがイさんが管理運営するジャ ガイモの花スタジオが2005年オープンすることになった。

である。 また、南済州郡表善面加時里には、昔の加時里少学校 を改造して、済州島の四季と風景を展示する「自然愛ギャラ

スタジオは練習空間を探している歌手や演奏者達に場

リー」もある。さらに、北済州郡翰林邑明月里には、旧明月

所を提供して、文化面で立ち遅れていた地元住民に彼らのパ

少学校を建て替えて作ったガルオッ体験場の「モンセンイ」が

フォーマンスを披露するという「文化のギブアンドテーク」を

あり、西帰浦市大静邑武陵 里には「済州オレ」道に位置した

行っている。図書館や博物館などは、地元住民なら誰でも自

旧武陵少学校を建て替えて作った済州島自然生態文化体験場

由に利用できる。さらに、専門の各講師による地元住民のた

がある。

めの様々な文化芸術及び教育プログラムも運営されている。

老人休養所 済州道にあるユニークな展示館

子供たちが走り回っていた学校が廃校となった後、老

済州道にはフォト・ギャラリーから始まって、済州ガル

人休養所に生まれ変わった例もある。泰安郡銅雀区休養所も

オッ(訳注:済州道特産の服)の作業場に至るまで、大都市で

その中の一つである。泰安郡銅雀区休養所は自治体が全国で

は見られない数々のユニークな展示館が集まっている。この

初めて、田舎の廃校を買い入れて直接福祉施設(老人休養所)

ため、昔から石、女、そして風の多いという意味の三多島と

として運営している所である。

呼ばれてきた済州道は、最近四多島と呼ばれている。済州道

2000年から管内に老人福祉施設を設けることを検討し

ならではのエキゾチックな雰囲気を醸し出すその場所の相当

ていたソウル銅雀区庁は、敷地の購入と建築費用がネック

数は、児童の減少で廃校となった学校を改造して活用した所

となり、管内では適当な所を見つけられず、地方に目を向け

である。

るようになった。その結果、廃校として放置状態だった忠南

代表的な所は西帰浦城山邑、昔の三達分校の跡地に位 置した「キム・ヨンガップ・ギャラリー・デゥモアク」である。 24 Koreana | 冬号 2009

泰安郡安眠邑新野里にある安中小学校の新野分校が見つかっ た。銅雀区は森と海が調和をなしていて自然に恵まれた海上


2

休養地である安眠島にあった2階建ての廃校をリゾートとペ

市民記者講座、世界市民記者大会などのプログラムの他に

ンションが融合した休養所として改造し、お年寄りと障害者

も、江華歴史探訪、子供英語キャンプなどにも利用されてい

が無料で利用できる休養所に造り替えた。ここは2001年7

るここは、1997年に廃校後の10年間は、267世帯が住む村の

月に開院してから、2009年9月まで5万人の住民が利用する

真ん中の廃校に過ぎなかった。ところがオーマイスクールと

ほどの人気ぶりである。

して生まれ変わった後にも、校門には依然としてシンソン小

このケースのように、高い地価のために住民向けの

学校の縦看板が掛かっている。なぜなら、ここでは毎年全国

サービス施設の敷地確保が困難な ソウル市の各自治区は、

から集まった児童のための入学式と卒業式が開かれているた

農村地域の廃校に目を向け始めた。敷地と建物の確保にかか

めだ。

る費用をかなり節約できる上、都市部と農村地域間の交流を

実はオーマイスクールは2008年から「トゥゲザー入学

深める場としても活用できるメリットもあるからだ。銅雀区

式」と「トゥゲザー卒業式(Together We Go Commencement

のある関係者は「住民が安眠島を訪れて休憩を取るだけでな

Project)を開催してきた。前者は全国にある小学校の中で新

く、地元住民の唐辛子栽培を手伝ったり、地元の農産物を購

入生が一人しかいない、いわゆる「一人新入生」のためのサ

入したりしている」また、「休養所が銅雀区と新野里住民の両

マー・キャンプであり、後者は全国の小学校の中で6年生が

方に役立っている」と語った。都市と農村にとって相乗効果

一人しかいない「一人卒業生」のための秋の卒業旅行キャンプ

をあげている典型例といえる。

である。同期の友達もなく一人で入学または卒業しなければ ならない農漁村の児童に社会性を養ってもらう目的で設けら

江華「オーマイスクール」 2000年に創刊されたネット新聞、オーマイニュース (OhmyNews)はインターネット大国の韓国国内より外国で もっと有名なネット新聞である。「市民は皆記者である」とい

れたこのキャンプには、タレントのハン・ヘジンさんなどの 芸能人らが一日先生として参加して子供たちに夢と希望を与 えている。 オーマイニュースは2007年12月に「オーマイスクール」

うモットーに基づいて市民記者制度を採択している同紙の

を開いた直後、全国にある廃校のリサイクル運営者らと運営

常勤社員は70人前後だが、10倍以上の社員を抱えた従来のメ

希望者らを招待して、泊りがけで望ましい廃校活用方法に関

ディアと競争しながら、毎年10位前後にランクされるほど

する討論会を開いて注目を集めた。人々が廃校活用に関心を

の影響力を維持している。

持つのは、もともと学校の敷地のもつ好立地のためであろ

オーマイニュースは2007年に江華道にある廃校になっ

う。つまり、道路などのアクセスが良い上、地勢と周辺の景

て10年も経った江華郡佛恩面ノプソン里シンソン少学校を

色が素晴らしいため、少しの手入れでリサイクルが可能にな

借りて「オーマイスクール」として造り替えた後、常勤記者と

り、コストダウンできるからである。その討論会の結論も同

市民記者を育成するための生涯教育院として運営している。

じであった。「廃校の再生こそ村の再生につながる」 冬号 2009 | Koreana 25


の間、ドイツのハンブルクから一通の手紙を受け取っ

れている。その人生のスタート地点には、暮らしの香りと光

た。30年近くも祖国を離れてドイツに住んでいるとい

を圧縮したような最初のイメージ、故郷の国民学校がある。

う彼の手紙には、私の通っていた田舎の国民学校の初代校長

私はその人生初のイメージを取り戻すために、世の中を遠回

先生の息子であるとしたためてあった。彼も私と同じ時期に

りしてきたような気がする。詩人チョン・ヒョンジョンは次

その国民学校に入学したが、1年も経たないうちに父親の転

のように詠んだ。

勤で、その地を離れるようになったという。彼は私の書いた

あ、田舎の国民学校 / 前景がその懐に私を抱く。/ その

文章をどこかで読んで、自分の幼い頃の思い出が蘇ったとい

懐の中に / 私は抱かれる、/ 抱かれてまた抱かれる。// (世の

うことだ。

中を通して / そこにだけ存在する) // 神聖な平和よ / 時間の 花よ / 夢見るこだまよ / がむしゃらな清潔よ / 宇宙の神聖収

人生の最初のイメージ

斂よ ....

私の通っていた国民学校の初代校長先生! しかし、私

埃の立つ白い一本の砂利道が、細く長い野原を貫通し

はその先生の名前を覚えていない。私は30余年、小中高と大

て背後に立つ北側の険しい山谷に消えていく。その道を上り

学校に通い、その後の30年間は同じ大学で学生らを教えた。

つめた山の端に「浮石寺」という古いお寺が佇んでいる。7世

よって、私の履歴書には5、6か所の学校の名前が書かれて

紀頃に建てられた寺であり、そこが最果てであり、また時間

いるだけだ。履歴書の中には変哲もない自分の人生が投影さ

の終わりでもあった。その道はどこへも通じていない。その

田舎の国民学校の思い出 私の通った国民学校は私を世の中に送り出した後、老いた母のようにその暖かい懐を閉 ざしてしまった。しかし、私の心の中には永遠に止むことのないオルガンの音が響き渡 る小学校が静かに佇んでいる。 キム・ファヨン (金华栄、高麗大学校名誉教授、文学評論家) 写真 : 姜在薫

26 Koreana | 冬号 2009


道を辿って行った人は必ず引き返さなければならない。その

広い田畑を前にして、それぞれ30世帯ずつ、小山を背に暮ら

「最果て」の地から舗装もされていない道を10里も引き返せ

す集落「ウッマウル(訳注:上方の村)」、「アレッマウル(下方

ば、浮石市場があり、そこからさらに10里を行くと、私の

の村)」、小川の向こうにある「コンノマウル(向こうの村)」。

故郷である「桃灘」町に出る。桃の花の灘という意味である。

村の名前に登場するだけで、実は桃の花は余り見られない貧

昔、この町に咲き乱れていた桃の花びらが落ちると、勢いの

しいその三つの村の真ん中に、私が生まれた村「ソルアン」が

ある川水によって遠くまで流されていたのだろうか。昔、中

ある。新道の両側にある10世帯足らずの村。松ノ木の森の中

国の李白は『山中問答』で次のように詠んだ。「人はなぜこの

にあるという意味から村の名前が「ソルアン(訳注:松の中と

深い山中に / 暮らすのかと聞くが / 私は答えず微笑むだけ /

いう意味)」だった。この村の真ん中に古いあずまやと数本の

心も気楽である / 桃の花びら水面に落ち / 当ても無く消えて

柿の木、そして崩れかかった瓦屋根の家があった。

ゆき / 人影も見えない / 星空である」深い山中にある私の故

松ノ木の多い家の後ろにある山の中腹を回って行くと、

郷の名前は、おそらくこのような心の泉から汲んできたもの

丘の上に別天地が広がる。そこが上石国民学校だった。私は

であろう。

7歳になる前にその学校に入学した。幼稚園もない山村だっ たので、家で遊んでばかりいるよりは学校で遊んだ方がいい

見知らぬ文明の世界 そこは金氏の親族が集まって暮らす村落だった。かなり

と判断した親によって早くから学校に行かされたのだ。 コノテカシワの垣に取り囲まれた広い運動場の傍に藁葺

田舎の小学校は多くの都会人にとっての永遠 の故郷である。(京畿道楊平郡西宗面西宗西宗 小学校明達分校)

冬号 2009 | Koreana 27


1

2

その学校は公式には市場に位置していた浮石国民学校の上石分校だった。私にはその小さな学校があまりにも不慣れであり大き な世界だった。学童といっても一歩遅れて、新教育の洗礼を受けたくて入学した「大人学童」がほとんどであり、中には私の叔父 や叔母の年恰好の既婚者も交じっていた。彼らは私を可愛がり、抱いたりおんぶしてくれたりもした。

き屋根の家が二軒と井戸、日本の帝国主義時代の遺産である

なく他の「学童」らからも保護される存在となった。彼らはよ

校長の私宅があり、そして山の下には野菜畑とその傍にこぎ

く私を抱いたり負んぶしてくれたりした。そのためか、私に

れいな瓦屋根の新築の教室が二つ、教務室一つが全部の学校

とって学校は学び場としてだけでなく、詩人が詠んだように

だった。その学校は家から山を回って300mだけの短い距離

私を抱いてくれる暖かい懐のような所だった。 「その懐に私は

にあったが、そこは私にとってあまりにも不思議で不慣れな

抱かれる、抱かれてまた抱かれる」。これが60年が過ぎ去っ

文明の世界であった。そこで私は初めて綴り方の神秘と、算

た現在、その学校を思い出す度に脳裏に浮かぶ印象である。

数の手品を学んだ。 広い運動場、その側に佇む名も知らぬ大きな木にもたれ

オルガン、「大人」の学友、そして秋の運動会

かかると、コスモスの咲く山の下に広がる野原と、その真ん

入学した私にとって、一番問題だったのは綴り方でもな

中を通る白い道、柳の木と森の間に小川が流れまるで絵のよ

ければ九九段の暗記でもなかった。むしろそんなことは年取っ

うな風景を見下ろすことができた。その道の終わりには、終

た学友達より早く覚えた。私が困ったことは、家のそれとは

止符のように巨大な山が一つ。その向こう側は私達の知らな

違って大きく怖いトイレに行き、これまで履いたことのなかっ

い「世の中」だった。日本植民地から開放されて3年しか経っ

たサスペンダーを下に下ろすこと、そして体育の時間に「左に

ていなかったため、その学校は校長を含めて、先生が3名と

行け」、「右に行け」、「後ろに回れ」などの軍隊式訓練であっ

学童数が30人に満たない規模の、公式には市場にある浮石国

た。幼い私には右と左の区分ほど難しい問題はなかった。そ

民学校の分校であった。それでもその小さな学校が私にはと

の難問の壁にぶつかった私に暖かい懐とタバコの匂いのする

ても不慣れで大きな世界であった。

背中を貸してくれたのが先生たちと 「大人」 の学友だった。

新入生として、私と同じ年頃の子供は、ウッマウルか

学校生活で一番好きだったのは、見たことのなかった

ら通う子供がひとりいるぐらいで、ほとんどは新教育の洗礼

「オルガン」だった。空気が入って白黒の鍵盤から音を奏でる

を受けたくて入学した遅咲きの「大人」ばかりだった。年齢も

機械。ソウルで女子高校に通っていたという可愛い女の先生

10代の青少年がほとんどで、中には私の叔父や叔母の年恰好

の耳慣れないイントネーションの話に私は魅了されてしま

の既婚者らも交じっていた。そのおかげで、私は先生だけで

い、いつもオルガンを弾いて歌っていた。時々オルガンの傍

28 Koreana | 冬号 2009


3 1-2 ある田舎の小学校の運動会と授業の光景。(江原道麟蹄郡麒麟面鎮東 里麒麟小学校鎮東分校) 3 田舎小学校の運動会(京畿道楊平郡丹月面山陰分校)

に立っている私を見て先生は静かに微笑んでくれた。そし

飛んでゆく米軍の飛行機が落としてくれる名も知らないプレ

て、その美しい笑い声や歌声は教室の窓ガラス越しに遠く広

ゼント・ボックスからは玩具やコーヒー、牛乳の粉やイブキ

がる野原と白い道に伝って広がっていった。当時私は、将来

の匂いのする鉛筆が出てきた。

大きくなればその可愛い先生と結婚すると心に決めていた。

ある日、私はソウルの中学校に入学するために、その

しかし、それからまもなく戦争が起き、学校は門を閉じた。

懐を離れて「世の中」に出て行った。そして、都市と外国の学

その先生も去っていった。担任の先生も軍人になって戦場に

校を転々することになる。いまや、正月やお盆になって故郷

行ってしまった。貧しかった我々は校門の前に並んで、戦場

に帰っても山を越えてその学校を訪れることもだんだんなく

に向かう先生に学校の垣側に咲いた赤い百日紅で作った花束

なってきた。

と青りんごをいくつが贈った。

経済発展に伴って、人々は農村を離れていった。200

私は戦争の間、遠くから聞こえる大砲の音を聞きながら

人を超えていた児童数も減り、いつしかその学校は門を閉ざ

弟らや友達と一緒になって、野原を駆け回ったり、川で魚狩

した。いまや運動場に草が茂り、誰もいない校舎は荒れてし

りをしたりして遊んでは、疲れるとガランとした学校に行っ

まった。正門に掛かっているチェーンも錆付いた。

た。換気筒を伝って屋根裏に入って鳥を取ったり、排水溝の

数日前に同門会から来た手紙には、その学校に集まって

中を這い回りながら、子供たちが教室の床の小さな穴に落と

親睦を深めたいと書かれていた。しかし、私はその会に行か

してしまったちびた鉛筆や消しゴムを拾う「宝探し」遊びや運

ないつもりである。私の国民学校は私を世の中に送り出した

動場の傍にある丘の麓に咲き乱れたコスモスの群れの中でか

後、老いた母のようにその暖かい懐を閉ざしたのである。た

くれんぼに明け暮れていた。

だ、私の心の中には永遠に止まないオルガンの音が響き渡る

再び平和が訪れ、学校もまた再開した。そこで過ごした

小学校が佇んでいることを私は知っている。

6年間で記憶に残る出来事といえば、学芸会と赤と白の鉢巻 をして走り回った秋の運動会であろう。そして、新学期にな ると新しくもらう教科書と新しい紙の匂いのするノート、休 みに出された本に描かれていたきれいな絵。そして度々空を

(編集者注:特集1記事「韓国における初等教育の歴史」の内容通り、韓国 の初等教育機関の名称は1995年に「国民学校」から「初等学校」に変わった。 ただ、この文章は昔の思い出の話であるだけに、筆者の子供の頃に使わ れていた国民学校という名称をそのまま使うことにした)

冬号 2009 | Koreana 29


文化フォーカス

大田国際宇宙大会 2009が残したもの 第60回国際宇宙大会が「持続可能な平和と発展に向けた宇宙」というテーマで、韓国の大田で開催された。 人類が月に一歩踏み出してから40周年を迎えた年に開かれたこの大会の主な内容と特徴を紹介するととも に、その意味を考えてみる。 キム・スンジョ (金承祚、韓国航空宇宙学会会長、ソウル大学校教授)

1

30 Koreana | 冬号 2009


19

69年7月20日、世界の人々の関心が集まる中、人類史上初めて月面に人の足跡が残されるとい う光景が見られた。アメリカのケネディ元大統領が1961年に、60年代が終わる前に月への着陸を 実現させると宣言してから8年ぶりに大偉業を成し遂げたのである。この映像をテレビで見

守っていた世界の5億人以上の人々は、アメリカの進んだ科学技術に驚き、数多くの若者たちは宇 宙探査の神秘さに魅了されてしまい、各々が宇宙航空分野に将来の夢を托していた。また、人口衛 星による中継そのものも話題になった。宇宙中継技術のおかげで、世界がテレビを通じて瞬時にこ のような偉業が見られただけに、数多くの人々が宇宙技術の恩恵を実感できた瞬間だった。

古代に光を当てた宇宙技術 2009年に韓国の大田で開かれた第60回国際宇宙大会(IAC)では、宇宙技術の恩恵である、も う一つの興味深い活用例が発表された。ドキュメンタリ作家兼エンジニアである日本の中野 不二男博士が行った「地球観測衛星資料で分かった韓国から日本への渡来経路の確認」とい う講演の内容である。国際宇宙大会の最終日の午後4時に開かれ特に注目を集めたこの特 別講義の内容は、日本の一部の地域に分布している流民の定着地域の資料と地球観測衛星か らの立体データーを対照することによって、古代(約1400年前)韓国人の日本への詳しい移住経 路を把握することができたという内容である。特に韓国と日本は過去500年に及ぶ不幸な歴史の ために、外交・文化面でギクシャクした関係が続いているが、このような分析を基に、韓国と日 本が古代には血を分かち合った間柄という事実を科学的に確認する機会となった。両国における 不要な摩擦を減らすためにも大きく役立つと見られるこの科学的分析が、宇宙技術の活用で可

1 今大会の期間中開かれた学術 会議の光景。世界の主な宇宙 関連機関と企業の代表者らが 集まって、宇宙開発における 国際協力策について話し合っ ている。 2 宇宙技術展示会場の航空宇宙 関連企業の展示ブースの光景

2

冬号 2009 | Koreana 31


1

2

1

今大会は宇宙フェスティバル、技術展示会などを通して、一般市民の参加を促した。特に宇宙フェスティバルは、大きく宇宙市 民広場、外界人/星光/ロボット村、宇宙人センター、宇宙特別市の4つのセクションに分かれて50以上のプログラムが行われ、 参加者の反応は熱かった。

2 32 Koreana | 冬号 2009

3


1,3 2008年にロシアが打ち上げた有人宇宙船ソユーズ号に乗り組んだ初 の韓国人宇宙飛行士、イ・ソヨン博士の当時の姿を撮った写真と装備 などを展示した展示室。 2 中国の航空宇宙関連企業、CNSAの展示ブース

能になったということも新しい発見であり、宇宙技術に関す

人々の高い関心が確認された。イ・ミョンバク大統領は開幕

る研究を行っている筆者自身も誇らしい気分である。今大田

式典に出席し、宇宙開発への高い関心を示すと同時に、今後

大会が掲げた「持続可能な平和と発展に向けた宇宙」にうって

は宇宙に関する国際協力に積極的に取り組むことを明らかに

つけの内容であった。

した。

世界の宇宙科学史にとって2009年のもつ意味

大会の主な内容と評価

宇宙に対する人間の好奇心とは、子供が成長するにつ

今回の大田国際宇宙大会には米航空宇宙局(NASA)をは

れて内から外へ目を向けるようになることと同様で、狭い

じめ、ヨーロッパ宇宙機関(ESA)、日本宇宙航空研究開発機

世界からより広い世界へと羽ばたこうとする本能に似てい

関(JAXA)、ヨーロッパのEADS社、フランスのArian Space

る。宇宙に対するこのような本能ともいえる好奇心は、世界

社、イタリアのタレス・アレーニア(Thales-Alenia)など、世

各国の宇宙開発競争へとつながり、宇宙開発力そのものが国

界の宇宙関係の機関と欧州の各企業が参加した。

力を象徴するようになり、各国の宇宙開発競争はさらに激し

大会は、学術会議、宇宙技術展示会、宇宙フェスティ

くなった。厳しい競争の中で、宇宙に向けた人間の限りなき

バルの部門に分かれていて、開幕に先立って国連外気圏事

チャレンジは約2600億ドル(アメリカ宇宙財団の2009年度報

務局が主観し、韓国とIAF(国際宇宙航空連盟)が後援する国

告書)にものぼる巨大な宇宙産業市場を誕生させた。無限な

連/IAFワークショップ、国際宇宙学会の定期総会であるIAA

る未知の世界、宇宙へと飛び出そうとする人間の本能によっ

Academyなどが行われた。

て、いつの間にか宇宙産業は国家経済においてもっとも重要

国際宇宙大会の重要プログラムである学術会議では、

なエンジン役となったのだ。宇宙競争力こそ国家競争力と

抄録の審査を経て、25の技術分科に159のセッションが行わ

なった現在、宇宙科学の重要性はますます大きくなってい

れ、計1600本の学術論文が採択され、そのうち7割の論文

る。

が発表された。不参加の人も多かったが、宇宙探査、地球観 2009年は宇宙科学の歴史において特に重要な意味合い

測、通信など、宇宙技術に関する世界各国の宇宙専門家らが

を持つ。最初に述べたように、アポロ号が宇宙への夢と希望

集まり、宇宙技術に関する情報交流が学術会議を通して活発

を乗せて月に着陸してから40周年を迎えた年であると同時

に行われたと評価できる。多数の論文発表と講演は、比較的

に、宇宙技術・宇宙法・宇宙の平和的開発促進について、世界

宇宙開発の歴史の浅い韓国の科学者たちにとっては、視野を

が共に考え交流する国際宇宙大会を開催し始めて60周年と

広げるきっかけになったともいえる。

なった年でもある。さらに、国連が定めた世界天文の年でも

一方、NASA庁長をはじめ、ESA、JAXA、CNSA(中国国家航

あり、韓国としては初めて、国内で衛星ロケットのナロ号を

天局)など、世界の主な宇宙機関の代表らが参加した中で、

打ち上げた年でもある。

宇宙開発の現状や今後の計画に関する講演と会議が行われ

この意義深い年に、韓国は1950年以降アメリカ、ロシ

た。さらに、航空宇宙分野における宇宙人材育成に向けた学

アなど、世界大国が開催してきた国際宇宙大会を60番目に開

生プログラムをはじめ、国際航空宇宙分野における若い専

催する国となった。金融危機、新型インフルエンザなどの影

門家らのための宇宙関連企業の後援プログラムであるYoung

響で大会が縮小されるのではないかと懸念されたが、世界60

Professional Program、宇宙探査と宇宙分野に対する若手専

数国から3千人以上にのぼる宇宙専門家の参加者を得て、史

門家らの意見をまとめて反映させる国際青年宇宙協議会の定

上最大規模の大会となったことから、宇宙に対する世界の

例会議である国際青年宇宙会議(SGC)も開かれ、宇宙専門家

冬号 2009 | Koreana 33


1 大会開幕を祝う公演の光景 2 大会観覧客のための宇宙人訓練体験場 3 人類の月着陸40周年を記念するために設けられたNASA特別展示場 4 学術会議のあるセッションにパネリストとして参加したNASAの チャールズ・ボルデゥン庁長

1

せいか、多くの観覧客が集まった。ところが、一方では世界 的な経済不況のあおりで、より多くの世界規模の宇宙関係の 企業が参加できなかったのは残念である。特にアメリカから の参加が少なくて、少し寂しく感じられた。 NASAのチャールズ・ボルデゥン庁長は、学術会議のあ るセッションにパネリストとして出席し、各国の宇宙庁との 間で国際協力の方策について話し合い、特に韓国の教育科学 技術部の高級官僚と面談を行い、韓国とNASA間の協力策に 2

ついて話し合った。これを受けて、韓国とNASA間で進めら れている「小型人工衛星の共同開発プロジェクト」、「国際月 探査プロジェクト」などの協力プロジェクトにさらに弾みが つくものとみられる。また、大田宣言を通して、宇宙の永遠 の平和利用を誓うイベントも行われたほか、NASA所属の女性 宇宙飛行士のジャネット・カバンディさんは、講演会で韓国 の青少年たちに夢を与える一方、他の宇宙飛行士らと一緒に さまざまな記念行事に出席して、大田国際宇宙大会の開催を 祝った。

3

今大会の特徴 前回の大会とは違って、大田国際宇宙大会2009の特徴 を目指す世界の若者たちが交流を深め、ネットワーク作りに

といえば、専門家らのための会議ではなかった点にある。宇

取り組むことができた。参加した世界の若者らは、同質感と

宙フェスティバル、技術展示会などを通して、一般市民の参

ともに宇宙科学に向けた希望を新たにしたと思われる。

加を促し、一種のフェスティバルとして盛り上がった。特に

今大会にも宇宙技術展示会が開かれ、NASAの探査関連

宇宙フェスティバルは宇宙市民広場と外界人/星光/ロボット

宇宙船と装備の模型展示とNASA広報館が特に関心を集めた。

村、宇宙人センター、宇宙特別市など、4つのセクションに

アポロ号の帰還モジュール(1/20サイズ)、月着陸船(1/20 サ

分かれていて、50以上のプログラムが推し進められたが、参

イズ)、アポロ・ロケット(1/48サイズ)、月面作業車(1/10サイ

加者からの反応も上々だった。中でも、これまで一般人が

ズ)、月の岩石など、16点の探査関係の宇宙船及び装備が展示

体験したかった本格的な体験イベントが注目を集めた。宇

された。NASAが保有している探査関係の宇宙船及び装備模

宙フェスティバルの参加者たちは、韓国で初めてウクライナ

型の海外展示回数はこれまでに多くなかったといわれている

の天文台とつなげて宇宙生命体が生きている可能性のある惑

だけに、NASAの展示物を直接観覧できる貴重な機会であった

星や、大田市を象徴する星を選定した後、宇宙に向けてメッ

34 Koreana | 冬号 2009


4

セージを発信するMETIプログラムの他、電波望遠鏡を使っ

門家たちが一堂に介し、宇宙開発と技術に関する情報を交流

て宇宙からのシグナルをつかむという、地球の外に存在する

し合い、ネットワークを形成するなど、韓国の宇宙技術の発

知的生命体を探査するSETIプログラムを体験することができ

展に向けた礎を作ると同時に、宇宙先進国との国際協力を強

た。しかし、宇宙フェスティバルのハイライトは長さ70mに

化するきっかけにもなった。しかしながら、フェスティバル

のぼる世界最大規模の宇宙飛行士の模型だった。観覧客はこ

や技術展示会などが多くの観覧客で賑わう一方で学術的な側

の大型宇宙人模型の中で、韓国初の宇宙飛行士であるイ・ソ

面がやや削がれたのではないか懸念される。さらに、一部政

ヨン博士が訓練した宇宙訓練コースを体験し、8人乗りの光

治家らの集まりが開かれたことは、宇宙開発というプロジェ

速宇宙船に乗って仮想の宇宙旅行を体験することができた。

クトが元々国民の税金に頼るしかないという側面を考えあわ

今回の体験を通じて、子供たちはいつか本物の宇宙船に乗っ

せても、宇宙大会の主人公といえる宇宙科学技術者たちが蚊

て宇宙を飛行する夢を胸に抱き帰ったに違いない。

帳の外に置かれたのではないかと懸念される場面もあった。

また、連携イベントとして韓国の空軍の協力でC-130航 空体験搭乗イベント、大田熱機具フェスティバル、 SF映画の上

これからの宇宙大会では、以上の問題点を考慮して開かれて ほしい。

映、子供想像画大会なども開催され、遠い存在だった宇宙が

全般的には、今回の大田国際宇宙大会は宇宙に対する好

身近な存在となった。このように一般市民にまで参加を広げ

奇心を糧に韓国の宇宙産業発展につなげ、宇宙大国を目指す

て、専門家だけでなく皆のためのイベントとして盛り上った

韓国の険しい道のりへの力添えになったに違いないと思う。

ことは、大田国際宇宙大会ならではの試みだったと思われる。

大田国際宇宙大会を通じて強くなった連帯感をもって、我々

史上最大規模だった大田国際宇宙大会は、韓国国民に とって宇宙技術、宇宙探査、宇宙開発などに対する関心を深

は世界の宇宙関係者と共にに正真正銘の「持続可能な平和と 発展に向けた宇宙開発」の実現にまい進すべきであろう。

める機会となった。普段、集まることが難しい世界の宇宙専

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インタビュー

メディアアーチスト チョン・ヨンドゥ (鄭然斗) 忘れかけた時間の かけらを探して 1

メディアアーチスト チョン・ヨンドゥ(鄭然斗) は夢の伝道士だ。初期から現在まで彼の作業は、大都市 の舞踏会場、道路、アパート、オフィスなどで出会ったさまざまな国籍と文化的背景をもった人々の人生 物語と彼らの夢を聞くことを原点にし、彼らの深い内面に隠れている夢を具現化するミッションを遂行し てきた。そしてその媒体はパフォーマンスでも、写真でも、ビデオでも、絵でも、彫刻でも彼にとっては 重要ではない。 カン・スンワン (姜承完、国立現代美術館 学芸研究官)

然斗(1969-)は進んで他人の夢に介入する。彼に

しろ奇跡というよりは、作家と作品の素材であり主人公であ

とって他人は阻害された島の主人ではない。その

る人物、そして観客が一体となった共同作業の結果だ。

介入にスーパーマンのマントが必要ならば鄭然斗

はそのマントを羽織り飛び出そうとする。彼の作業が誰かの

他人に話しかける

夢を実現する英雄的な行為だとすれば、その救援行為の対象

鄭然斗は1994年にソウル大学彫塑科を卒業し、1997年に

は作品の中の主人公にとどまらない。退屈な日常に埋没して

ロンドン大学ゴールドスミス校で修士号を終え帰国した。そ

いた夢と人生をようやく自覚した観覧者の誰かかもしれな

の後、1999年からはずっと国内外の主要展覧会を通して頭角

い。キューレーターで作家のパトリシア・エリスが「鄭然斗に

を現し、光州ビエンナーレ、台湾ビエンナーレ、イスタン

とってスーパー英雄になるということは夢以上だ。それは彼

ブールビエンナーレ、ベニスビエンナーレなど、有数の国際

の作業の動機となっている」と言及したように、観客との疎

美術展に出品してきた。初期の作業から現在まで始終一環し

通は作業の過程であり結果だ。そしてその疎通は夢を現実の

て鄭然斗の作業の出発点であり目標はソウル・福岡・上海・リ

ものとする奇跡の通路にもなっている。しかしその奇跡はむ

バプールのような現代都市で暮らすさまざまな国籍と文化的

36 Koreana | 冬号 2009


2 1 チョン・ヨンドゥさん。彼は「どのように」表現するかよりも、「何を」 表現するかについて悩み、その挙句に彫刻から始まり写真、ビデオ、 舞台演出、映画とどんどんジャンルが広がっていった」と自分の作業 を説明する。 2 最近作の「シネ・マジシャン」。韓国の有名なマジシャン、イ・ウンギョ ルのマジックショーと舞台裏の照明、撮影など、スタッフの動きをと もに追っている。

背景をもつ人々だ。その点で東京都現代美術館の学芸研究室

スライドプロジェクション形式で見せたものだ。この作業で

長(チーフ・キュレーター)長谷川祐子は彼を「都市人類学者」

作家は家族のプライベートな空間の中に踏み込んでいる。そ

だと言う。

こでの彼らと鄭然斗との関係は被写体としての「それ」と自分

実際に作家がソウルに帰国した後の初期の作品は、彼と

ではなく、マルティン・ブーバーの名づけた「私とあなた」の

同時代を生きる平凡な人々を作品の中に参与させるという確

関係にまで踏み込んでいる。鄭然斗の作品の中の彼らは受動

かな方向性を示していた 。料理パフォーマンスを通して観

的な被写体ではない能動的な参加者として自らを語ろうと

客と出会う「エルビス空中飯店」 (1999)、ポラメ公園のダンス

するナレーターであり半作家なのだ。パトリシア・エリスの

ホールで社交ダンスの服装をして踊る中年男女の写真をプリ

言ったように、鄭然斗は「盗み見を分かち合い」に昇華させた

ントして壁紙にした設置作業の「ポラメダンスホール」 (2001)

のだ。家族写真は作家と対象の家族が会って対話するところ

などがそのような作品だ。

から始まる。家族との人生についての談話が終われば撮影が

常緑タワー(2001- )はソウルの賃貸アパートに暮らす32 所帯の家族をその家の居間で撮影した家族写真を写真または

始まる。写真に映し出された各世帯ごとの個性的な家具配 置、カーテンの色彩とパターン、壁にかかった写真、家訓、 冬号 2009 | Koreana 37


1 1 「かわいい魔女ジェニー」シリーズ。彼はこの連作で自ら魔法使いとな り、登場人物の夢と現実を一つにして表現している。 2 二つのモニターのうちの一つには愚痴混じりの回顧談を語る老人の姿 が、もう一つのモニターにはこれを視覚化した鄭然斗特有の手作業の 映像が流れる「手工記憶(ハンドメイド・メモリー)」シリーズ。 3 ニューヨーク現代美術館に所蔵された作品「ドキュメンタリーノスタ ルジア」

2

3

38 Koreana | 冬号 2009


「ロケーション」シリーズ、風景写真に多様なトリックで非現実的さを加味した。

絵画、カメラの前の多様なポーズなどは、同一の坪数、画一

眠りの森の姫、王子と踊りを踊るシンデレラ、大きな足の長

的な内部構造という彼らを規定していた社会階層的な枠を敗

い花の横に立っている少年、流れ星の落ちる空を飛び回る少

退させてしまう。さらには家族写真の中の構成員こそ、彼ら

女が住んでいる。作家は絵の中の事物に対する実体感と空間

の人生を規定する真の枠であり、内的な構造であることを示

の具体性を欠如させた超現実的な夢の世界をセットと衣装を

している。

準備して高校生に3次元の空間でそのまま再現させている。 そして写真を撮り絵と共に並べて展示した。また夢を実際に

夢から実存に

再現した写真は子供たちに贈り物としてプレゼントされた。

暮らしを維持するのは何か?夢か現実か?「英雄(ヒー ロー)」 ( 1998)はオートレース選手のような見事なポーズで かっこよく疾走する中華料理店の出前持ちの少年を撮った写

実存から夢に 鄭 然 斗 は 一 連 の 風 景 写 真 を 撮 っ た「 ロ ケ ー シ ョ ン 」

真だ。少年はその瞬間だけは一家の主として幼い弟たちの

(2007)シリーズからは現実に基づいているものの、意図的に

面倒を見なければならない辛い日常の重圧感から抜け出す。

不自然に演出した人工セットや照明によりどこか実存感の欠

1960年代のアメリカドラマに題目を借りた「かわいい魔女

如した風景を作り出している。セットの一部に見えるように

ジェニー」(2001- )はソウル、東京、北京、イスタンブール、

意図的に床に敷いた布、円形の実際の岩壁と舞台セットの岩

アムステルダムなど、世界のいくつかの都市で出会った40人

壁、砂浜に立てられた椰子の木とカーテン、アパート団地の

の青少年の現実の暮らしと夢を可視化した作品だ。カーレー

街路樹の前に立てられた街路樹の絵、雪の降る夜景の高速道

サーを夢見るガソリンスタンドで働く青年、亡くなった母に

路の食堂に舞う発泡スチロールの雪のようなトリックは風景

会いに天国に行きたがっている女性、数学教師を将来の希望

の非現実性を強調する。実存か非実存か、この風景は夢が壊

とし道で紅茶を運ぶ青年、彼らの現在の姿と夢を成し遂げた

れれば消え去ってしまう物語の背景のようだ。または遠い過

後の姿がスライドプロジェクションを通じて順々にオーバー

去の中に忘却してしまった時間の断片や、その真ん中に自分

ラップされ映し出される。そこから現実の時間と夢の時間は

がいたいと常に心の中に想像していた風景のようでもある

重なりながら両者の間の境界が薄らぐ。実存と非実存に対す

鄭然斗は2007年国立現代美術館の「今年の作家」に選定

る認識体系が形成されていない子供たちが描いた世の中はど

された。「ドキュメンタリーノスタルジー」は作家が国立現代

うだろう?「ワンダーランド」

美術館の展示のために製作した新しい映像作品だ。映像媒体

(2004)は幼稚園児が描いた絵を素材にしている。子供た

に対する新しい試み、叙事的なストーリーの展開、スペクタ

ちの心の中の世界には鯨が花に変わるのを見つめている少年、

クルな構造で関心を呼んだ。この作品は翌年の2008年には

花の装飾が付いたピンク色のお姫様ベットの横に立っている

ニューヨーク現代美術館のビデオギャラリーに招待され上映 冬号 2009 | Koreana 39


1

彼の作品の中で被写体と作家の関係は「それ(it)と私」ではない、マルチン・ブーバーが名づけた「私とあなた」 の関係まで進入す る。かれらは受動的な被写体ではなく能動的な参加者としてナレーターとなり「半作家」 となる。そして鄭然斗は「盗み見を分かち 合い」にまで昇華させた。

され、その後はそのままニューヨーク現代美術館に所蔵され

他人の記憶に対する映像作業が製作された。

ることとなった。「ドキュメンタリーノスタルジー」はもとも

「手工記憶(ハンドメイド・メモリー)」 (2009)はお年寄り

と存在していた風景に対する記憶を追い求めたものだ。作家

が多く集まるタプコル公園と老人福祉館で出会った6人のお

は作品撮影のために展示場全体に舞台セットを作り、室内、

年寄りが自分たちの過去に対して話す場面を撮ったビデオ作

都市の路上、農村風景、野原、森、雲海の合計6つの場面を

品だ。お年寄りにとって過去の時間は‐断片的な欠片として

構成して85分間のランニングタイムの間、休み無く露出と

存在‐青年たちの未来の時間と同じように彼らを支えてくれ

フォーカスの調整だけで撮影した。この作業は他人の話では

る原動力であり夢として存在する。記憶は実存するが、いま

ない作家自身の話だ。作家の記憶にある大学時代に韓国国内

や過ぎ去った消失した時間に対する断想だ。しかし忘れ去ら

の山に登りながら見た原始林がその対象で、開発により今は

れた時間がすべてほのかな夢のようなものなのか。作家の認

無くなってしまった場所に対する思い出だ。そしてその後、

知症にかかった外祖母のように、ときに思い出す過去の時間

40 Koreana | 冬号 2009

2


こそ生々しい実存であり、現実は夢として存在することを私 たちもまたよく知っている。

最近作の「シネ・マジシャン」 (2009)で鄭全斗は実際の魔 術師を登場させた。この作業は韓国の有名な青年マジシャン のイ・ウンギョルのマジックショーを120分の映画に撮りな

夢と実存がある地点で出会う

がら舞台の上で繰り広げられるパフォーマンスを映像に加工

「かわいい魔女ジェニー」や「ワンダーランド」で魔術師

し舞台の上のスクリーンを通じてリアルタイムで上映すると

は他でもない作家である鄭全斗だった。しかし夢をかなえて

いう作品だ。スタッフが小道具を運び、照明の位置を動かす

あげるのは魔術をかけるように単純な作業ではない。ファン

という完成された形式ではない過程を見せることで観覧客は

タジーの形象化は夢の実現過程としての時間と努力を経て実

「見えるもの(実存)」と「その裏面のもの(非実存)」を同時に体

存となる。2003年作家とイスタンブールで会い、夢を語った

験できる。鄭然斗はこの作業に対して「演劇は形而上学的な

「かわいい魔女ジェニー」の紅茶を運んでいたあの青年はこの

レベルと現実的なレベルを同時に表現できるので魅力的だ」

作品が契機となり後援者と出会い、夢だった数学の教師にな

と語っている。

る勉強を始め、結局夢を実現した。鄭全斗のファンタジー形

夢を実現させた彼の作品では、現実が仮想の舞台とな

象化作業が、一人の人間の夢をかなえることで作品をこえ数

り、また併置して存在している。つまり現実はそれ以上夢の

千万の観覧客の夢を実現する起爆剤の役割を果たしたのだ。

埋没地ではないのだ。夢の伝道師鄭然斗にとっては。

1 幼稚園の園児が絵で表現した想像上のイメージを写真で 具現した「ワンダーランド」 シリーズ 2 「ポラメダンスホール」 。スポーツダンス教室に通う中年 の会員らが踊りを踊る姿をカメラにおさめ、そのイメー ジを壁紙にパターン化して閉じ込めた。音楽と照明が一 つになったこの作品空間で実際にダンスパーティーを再 現したりもした。

冬号 2009 | Koreana 41


巨匠

韓国の伝統履物

風の靴

靴鞋匠ファン・ヘボン

く韓服のことを「風の服」と

去っていく一歩一歩 花をそっ

呼ぶ。野や山を吹き抜ける

と踏みしめて行くのです

風のようなその自然な曲線

最初の靴匠とた だ一人の靴鞋匠 靴鞋匠とは伝統的な履物を作る匠

の美しさを表した言葉だ。それなら韓

私の顔を見るのが嫌で 行かれるとい

のことだ。朝鮮時代に履かれていた、

国の伝統的な“ファ(靴)”と“へ(鞋)”

うのなら 死んでも涙は流しません

足首まである長靴タイプの靴を作って

は「風の履物」と言えるだろう。特に鞋

いた靴匠と、足首部分のないフラット

の足の甲から踵へと流れるような曲線

韓国人の哀切な感情を歌った抒情

シューズタイプの鞋を製作する鞋匠を

は、韓服のチョゴリの袖下の曲線に通

詩人・金素月の詩“つつじの花”だ。こ

合わせて呼ぶ呼び名だ。靴と鞋のルー

じ、丸みを帯びたつま先は、チマの下

の詩の中の去っていく恋人の履いてい

ツは上古時代にまでさかのぼる。北方

からチラッとみえるポソン(韓服の足

た靴はたぶん唐草紋の美しい唐鞋だっ

の騎馬文化圏では皮で作ったブーツ形

袋)の粋な美しさをそのまま生かした

ただろう。

態の靴を、南方の農耕文化圏では皮と

形だ。韓国でただ一人の靴鞋匠ファ

金素月がこの詩を発表した1922

草で作った鞋を主に履いていたよう

ン・ヘボン(黄海逢)さんは、靴匠とし

年、当時の韓国人はほとんどが伝統的

だ。これら韓国の伝統的な履物は時代

て初めて重要無形文化財に指定された

な履物を履いていた。1919年に平壌ゴ

の変遷に従い、実用性からさらに一歩

故黄韓甲さんの孫にあたる。彼は家業

ム工場が出来て以来、人々の間には唐

進み身分を表す美しい造形表現の対象

を受け継ぐ一方で、博物館の展示品と

鞋と雲鞋の形をそのまま生かして素材

となった。高句麗時代には靴を金と絹

なった伝統履物の復元にも力を注いで

をゴムにしたコムシン(ゴムの履物)が

で装飾したという記録が伝わっている

いる。

急速に普及し始めていた。しかし可憐

ほどだ。匠の技術がすばらしいことで

なつつじの花びらを踏みしめて行くに

有名だった高麗時代には優秀な匠は国

私の顔も見るのが嫌で 行かれると

は、ほっそりとした曲線の美しい鞋が

が組織的に管理していた。朝鮮時代に

いうのなら 黙って静かに見送りま

似つかわしい。鞋は「一葉舟」、一艘の

も中央官庁には16人の靴匠と14人の鞋

しょう

小舟の形に似ており、鞋を履いて歩く

匠がいたという。

姿は水の上をすべるように滑らかだ。

故ファン・ハンガプ(黄韓甲)さん

寧辺の薬山 つつじの花 つんで貴

それで鞋をはくと、歩みが重く遅い人

は高宗をはじめとする朝鮮王朝の最後

方の去っていく道に敷きましょう

も自然と軽やかになるという。

の王の履物を作っていた人物で、近代

42 Koreana | 冬号 2009


1

1 黄海逢匠が復元した赤錫と青錫。赤錫は王 が履き、青錫は王妃が履いたものだ。 2 絵画の中や遺物となった伝統履物の復元に 並々ならぬ情熱を傾けている黄海逢匠

靴鞋匠ファン・ヘボン(黄海逢)さんは朝鮮王室用の履物を作っていた祖父の後を継いで、韓国の伝統皮靴 の製造技術の命脈を受け継いだ。そして彼は人並みはずれた研究熱心さで古い文献や博物館の展示品と なった多様な伝統式履物を復元している パク・ヒョンスク (朴炫淑、フリーランサー) | 写真 : 安洪范

冬号 2009 | Koreana 43

2


1

44 Koreana | 冬号 2009


以後は最初の靴匠になった。彼は1971

無くなりました。我が家は私の5代に

年2月に重要無形文化財の靴匠部門の

わたり靴鞋を作ってきました。誰も

技能保有者に指定されている。そして

やるうとしない仕事。だからこそ

その孫である黄海逢(58歳)さんは現在

私までやめてしまったら、靴鞋

韓国でただ一人の靴鞋匠だ。彼は2004

がこの国から消えてしまうと思

年2月に重要無形文化財116号靴鞋匠

い、そんな切迫した心情で祖父から

技能保有者に指定された。彼は父の故

習い始めました。16歳でこの道に入門

ファン・ドゥンヨン(黄登龍)さんと共

しました」

に祖父から靴作りを習い始めたが、父

靴鞋作り42年、黄海逢さんは最近

に従い赤錫は王

は伝授を受けていた最中に亡くなり、

になりようやく、匠が一人、二人と仕

の履物、青錫は

彼一人で靴鞋匠の道を歩み続けてき

事を止めていく中で最後まで伝統を守

王妃の履物で

た。

り続けた祖父の心情を思い図ることが

す。世宗博物

「一人でこつこつと忍耐強く仕事

できるようになったという。90歳を超

館や古宮博物

を続けてきました。孤独は匠の友で

えた高齢でも孫の隣で仕事をしていた

館に行き、直接青

す。何十年もの間、実力を練磨しても

祖父だった。祖父は経済的に苦しく、

錫を見て研究しました。濃い青色の繻

自ら満足のいく作品に出会うことの難

多様な材料を揃えられなかった為にい

子の表地に、中には白絹糸をあてて靴

しいのが匠の道です。世の中の賛辞を

ろいろな履物を作ることはできずに、

先には房をつけて装飾し、足首の部分

喜ぶよりも、自分の目に見える塵の一

唐鞋と太史鞋のような限定された種類

をしばれるように紐をつけます。青錫

つが気になり許せないのが匠です。こ

の注文品だけを作り続けた。しかし黄

と同じ形で色だけ違うのが赤錫です。

の仕事は金儲けからは程遠いもので

さんは昔の文献からや博物館のガラス

現存する赤錫はエルカント博物館の所

す。祖父が若い頃までは良い時代だっ

ケースの中の展示品となってしまった

蔵品唯一つです。この赤錫と青錫の二

たようです。身分制度が崩壊した後、

伝統的な履物の再現に心血を注いでい

作品で1999年に伝承工芸大典で大統領

両班の占有物だった唐鞋、雲鞋に対す

る。

賞を受賞しました」

る平民の需要が急増したからです。し

「現在3足しか残っていないチョ

消え去り行く伝統履物に対する熱

かしそれも一時的なことで、コムシン

クソク(赤錫)とチョンソク(青錫)を復

い研究の情熱により彼の手から何足も

そして新文物と共に入ってきた西洋式

元しました。朝鮮時代に王と王妃が儀

の伝統履物が復元されている。木靴、

の靴が市場を占め、やがて匠の仕事は

礼のときに履いた靴です。陰陽の理致

黒鞋、油鞋などだ。

1 多様な模様の伝統靴

2

2 靴の形態が完成した後に、外型を整えると きに使う「シンコル」 と呼ばれる木枠

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「型をあてて刀で皮を切り取る作業の時には力を均等に加えて同じ速度で裁断しなけ ればなりません。この段階までは問題はありませんが、時々縫製をしていると目が 疲れてくることがあります。還暦も目前ですから当然でしょう。でも心配はしてい ません。次男が後を継ぐと言ってくれてますから」

72の工程に及ぶ手作業

な生地を中に入れて保温性を高めた温

黄海逢さんは朝鮮時代の履物は

鞋などがあり、一般の民衆は藁で編ん

20種類ほどだという。朝鮮時代には男

だチプシン(草履)とミトウリ(麻の履

女、身分、そして時と場所に従い、履

物)を履いていた。

物を履き変えた。王と王妃はソク(錫)

するだけで5日ほどかかります。一日

イプのファ(靴)を履いた。靴は鹿皮

6~7時間の作業で早くて3日、長い

と羊皮、絹などで作られ、防水用に作

ときには一週間もかかります。72の

られたスファジャ(水靴子)もあった。

工程をすべて手作業で行なわなけれ

へ(鞋)は履物の側面の低いフラット

ばならないからです。各工程が熟練し

シューズの形態で主に上流階層で履か

た技を必要としますが、特に底と側面

れ、男女の区別に従いその種類も多様

をぴったりと正確に合わせなくてはな

だった。その中でも朝鮮時代中期、士

りません。その脇をつなぐ縫製をする

大夫の男たちは太平の世の中を象徴す

ときには特に集中しなくてはなりませ

るテサヘ(太史鞋)をよく履き、その前

ん。伝統履物の生命は均衡美にありま

には女性らしい形の唐鞋を履いてい

すが、この工程の完成度が落ちるとバ

た。太史鞋は側面が低く、模様の無い

ランスが崩れきれいに仕上がりませ

絹地や羊皮を貼り付けて作られてい

ん。側面が大きくて、底が小さいとき

る。靴先は盛り上がっており、靴先と

には、側面の縫い目は大きく、底の縫

踵に太史紋と呼ばれる唐草紋の模様が

い目は小さくして縫っていきますが、

装飾されているのが特徴だ。

下手をするとバランスが取れず、中心

履物で、特によく履かれていた雲鞋は

3 完成した段階で木枠の足型にはめ、木の小 槌で叩いて整える。

1

がずれてしまいます。そうすると靴先 がゆがんでしまいます」

靴先に竹の葉の模様が入り、すらりと

低い側面から始まり踵に向かい上

したその形から一名、チェビプリシン

がっていく細くすらりとした曲線美は

(ツバメの口ばしの形の履物)とも呼

鞋の特徴であるが、そのわずかの隙も

ばれた。その他にも黒皮で作られた黒

ない確かな形は硬い皮と芯として使わ

鞋、油をすり込んだ雨の日用の履物の

れるペクビ(靴の内側や底に当てる布

油鞋、ユン(フランネル)のような温か

切れ)のおかげで可能になる。ペクビ

46 Koreana | 冬号 2009

2 靴を縫うのに使う針は必ず猪の首筋の毛で 作る。鉄針は跡が残り、よく曲がりもしな いからだ。

「雲鞋を一足作るには材料を準備

を履き、文武百官たちは官服に長靴タ

唐鞋は唐草紋が美しい女性用の

1 伝統靴に刺繍する十長生の模様

2


は木綿と麻布を米糊で何層にも重ね、3 日ほど自然風と太陽で 乾燥させたり、 朝露で湿らせることの反復を繰返した ペクビはたとえようもなく硬くなる。 このペクビを靴型に合わせて裁断する。 その次に、靴の側面用に貢緞(繻子)の ような布を裁断してペクビにつける。 出来上がった側面の上下の辺の部分に はバイアステープをつけるように米糊 で布をつけ、返し縫いをする。さらに 側面に支えの役割をし形を整えるため の布を当てる。次に裁断してペクビを つけた側面の内側に内皮を米粒で緻密 につける。つま先と踵、靴底と脇を縫 い合わせる綿糸の針は猪毛すなわちイ ノシシの首筋の毛で作る。 黄さんは「鉄針は跡が残り、良く 曲がりませんが、猪毛は堅固でありな がらもよく曲がり柔軟性にすぐれてい ます。韓国の履物を縫製するのにこれ ほどの針はありません」と言って猪毛の 針を見せてくれた。豚の毛の毛根のほ うではなく毛先の方に綿糸をよじって つけてあるが、その連結が自然だ。そ の後また数十の工程をへて靴底と中底 を裁断して縫い合わせ、これを再び脇

3

とつなげてから靴の形を整える木枠の 足型をはめて木の小槌で叩いて形を整

していると目が疲れてくることがあり

いと言ったら匠は断固とした顔つきに

える。その後、炭火でよく乾かし、縫

ます。還暦も目前ですから当然でしょ

なった。黄さんは「まだ72の工程の各段

製部分に滑石(タルク)粉を塗ってきれ

う。でも心配はしていません。次男が

階を学んでいるところです。靴の一つ

いに見えるようにすれば、ようやく雲

後を継ぐと言ってくれてますから」

もきちんと作れないままカメラの前に

黄さんの二人の息子のトクソン

立つわけにはいきません」とその理由を

(徳成 31)さんと、トクジン(徳真

説明した。彼はまた、「伝統履物は左右

29)さんは、彼の頼もしい跡継ぎだ。子

の区別がありません。一足が完全に左

「型を当てて刀で皮を裁断するこ

供の頃から父の仕事を見守ってきた二

右対称となっています。そしてその一

とをトゥジョンホンダといいます。若

人の兄弟のうち、手先の器用な徳真さ

足を履けば自然と足元も軽くなるんで

い頃は厚い皮も簡単に切ったものです。

んが家族との相談の末に父の跡を継ぐ

す」という。匠としての第一歩を踏み始

力を均等に加えて、同じ速度を保って

ことになった。これで韓国でただ一人

めたばかりの息子に伝統技術にかける

切らなければならないので、力もいり

の靴鞋匠の家門は6代にわたりその命

匠の心構えを伝える彼の顔は誇らしげ

ますが、要領も必要です。まだこの作

脈を受け継ぐことになった。徳真さん

だった。

業には問題はありませんが時々縫製を

と一緒に仕事をしている所を撮影した

鞋が一足完成する。

6代にわたる靴鞋の名家

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傑作/名品

は日常生活に不可欠な炊事、暖房、照明という三

究院が行った高達寺址発掘調査の過程で屋蓋石が収集されて

つの条件を満たしながら、文明を発展させてきた

復元され、現在は国立中央博物館に展示されている。全体を

動力として機能していた。その中でも照明の機能

見ると、上輪部が失われただけで、基壇から屋蓋石までは完

は宗教的な意味合いを持つようになり、礼拝の儀式の中で重

全な形を保っている。石灯の基底部分である地台石から見て

要な役割を果たすようになった。照明が教理の神聖性と神秘

みよう。

さを抱擁すると同時に、その伝播も象徴していたことが伺え

地台石は方形であり、各面には六つの括弧型の眼象がそ

る。仏教における灯りは智慧、解脱、慈悲、善行、再生など

れぞれ二つずつ装飾されている。上面には方形の下敷きと雙

を意味する。さらに、仏様に対する供養の中で、灯供養を最

獅子が一石から成る下台石を置いてある。板石形の下敷きに

高としていることを考えると、仏家で灯りの占める重要性が

ついて左右に造成されている二頭の獅子は前足を前方に出し

分かる。

て身を伏せてお互いを見つめ合う姿である。この姿勢はお互 いを眺めながら前足で火舎石を、後ろ足では力強く下台石を

前屈みの獅子像の背景

踏ん張っている統一新羅時代の雙獅子石燈とはかなり異なる

韓国に仏教が伝わってからお寺には仏像、石塔と共に

形として注目される。揃えた四本の足、端正なたてがみ、つ

火を灯す機具として石灯が建てられた。現在、その形跡だけ

ぐんだ口と歯の表現などは動的というより、非常に静的に感

が残っているものまで含めて280基余りが存在し、そのほと

じられる。おそらく背に竿柱石を置くという意図から現れた

んどは現存のお寺又はお寺の跡地に残っている。ここで紹介

姿勢ではないかと思われる。例え、前の時代に作られた獅子

する高達寺址雙獅子石燈(宝物第282号)もまた、仏家では信

像のように直立した姿勢であったならば、竿柱石を始め上面

仰の対象物の一つだった。

に置かれた資材すべてが不安定に見えたに違いない。従って、

この石灯は元々、京畿道ヨ州郡北内面上橋里高達寺址

端正で静的な雰囲気を出すために、獅子を彫刻しては伏した

にあったものを1959年にソウル市鐘路区世鐘路にある景福宮

姿勢で仕上げ、前の時代の雙獅子石燈の様式を受け継いぎな

に移転したものである。その後、2000年に記傳埋蔵文化財研

がら変化を試みた結果、新しい様式の石灯として完成した。

二頭の獅子が支える慈悲の灯り

高達寺址 雙獅子石燈 丹精で静的な雰囲気を出すために、獅子の彫刻を伏した姿勢で配置しているこの雙獅子石燈は、石造物 に対する高麗の人々の新感覚と創造性がうかがえる。高麗時代唯一の石灯の様式は朝鮮時代に受け継が れていく。 パク・ギョンシク(朴慶植、檀国大学校史学科教授) 写真 : 国立中央博物館

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獅子の灯りと背面の空間には雲の模様をびっしりと浮 き彫りにした高めの壇を設けていて、竿柱石のためのスペー スを確保している。こうした工夫によって、獅子が竿柱石 を押し上げているものの、実際には雲の模様で支 えられているように見えて面白い。

石灯様式の継承と創案 雲紋台の上に置かれた部材は一石で 作られているが、下面の方を広めに造成していて安 定感もあり、上面の周辺には雲紋が彫刻された高めの支え石 で竿柱石を支えている。 2枚の石材から成る竿柱石は中央に突出した方形の部 材を中心に、上下面が対を成していて、9世紀に造成され た鼓腹形石灯(竿柱石の中間部分をふっくらと作った石灯)の 竿柱石と似ている。梯形の長台石の下面は上面を平らに 作って、部材を支えるように施していて、四面には雲 紋が彫飾されている。その上に方形の部材を広く施す ことで安定感を持たせている。部材の上面には低い角 形の1段の下敷きを造出することで上面の竿柱石を支えて いる。上面の竿柱石は逆梯形であり、四面には宝相華紋を、 側面には草花紋が彫刻されていて、全体的には不等辺八角形

高麗時代唯一の双獅子石灯である高達寺址雙獅子石燈。統一新 羅時代における石灯の様式を受け継ぎながらも、雙獅子の表現 に変化が見られ、静的な雰囲気が表れている。

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の形になっている。

代に建てられた楊州の檜巌寺址と中原青龍寺址の雙獅子石燈

上台石は一石からなっていて、不等辺八角形の形をし

へと受け継がれた。所々、造形感覚が統一新羅のそれには至

ている。一番下には角形2段の下敷きを造出してから、各面

らないが、それなりの個性と創造性が見られ、文化の継承と

の中央と角にそれぞれ一つずつ、全部で8板の複葉仰蓮 を調飾し、花紋の間には間葉を配置した。さらに上面

発展という側面から注目される。全体的な様式からして、 高麗時代初期の10世紀に建てられたものと推定される。

には低い角形の1段の下敷きを造出した。 火舎石も不等辺八角形の形であり、8 面の中で広い面には火窓を設けている。敢

韓国の仏教美術の中で見られる獅子 もっとも乱暴な動物である獅子だが、

えて狭い面は内側に石材の面を削り、隅柱(柱)を

元々はインドで造成された仏像の台座に登場しなが

表現している。

ら重要な彫飾の類型の一つとなった。したがって、

屋蓋石は火舎石と同じく不等辺八角形の形を している点を除けば、一般的な石灯の形とあま

仏教美術において獅子登場の持つ意味合いは、イン ドの仏教文化にその起源を辿ることができる。地

り変わらない。角のほとんどが破損されてし

上でもっとも勇ましい獅子が仏教の造形物を支

まって原型は失われているが、残っている部分

えることは、何者にも犯させないという神聖さと

から本来の姿が確認できる。下面角弧角形3段

崇拝の意志を表しているとみられる。このような

の台を造出しただけであって、軒の下段には彫

思惟は仏教が東の方に広まるにつれて、中国を経

飾が全然見当たらない。落水面の傾斜が緩やかであ

て韓国にまで伝わった。韓国の仏教文化財の中では、

り、合閣線がはっきりしていて篆刻の反転が軽

現存する最古の仏像といわれるテゥツソム出土の

快である。上面には複葉16板の伏蓮台を造出し

銅造如來坐像の台座に獅子が登場する。その後、8

た。相輪部はすべて無くなっている。 この石灯は統一新羅時代に完成した雙獅子 石燈と鼓腹形石灯の様式を継承しながらも方形 と八角形の平面構図を持っていて、高麗時代

世紀に造成された慶州の獐項里寺址の仏像台座にも 獅子がみられる。そして、統一新羅時代の8世紀に入 ると、佛国寺の多宝塔と華厳寺の四獅子三層石塔の 基壇に獅子が登場する。このように獅子はだんだん

独特の石灯様式を創り上げたものと見られ

広く用いられるようになり、統一新羅時代末期の

る。さらにこの石灯は高麗時代を通して唯

9世紀になると、仏像はもちろん、浮屠の基壇

一の雙獅子石燈である。この石灯が朝鮮時

にまで現れ、もはや獅子は韓国で造られる多様

獅子像の配置は統一新羅時代の画一的な様式から脱して、伏した姿に変わった。四本足 で力強く火舎石を支えている姿勢に比べて、伏した姿勢をとることで、より安定的に見 えることに着目したものとみられる。

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な石造物の表面に登場する主な荘厳として位置づけられるよ

の配置というアイデアは統一新羅時代の石灯に倣っているも

うになった。

のの、高麗人の石造物に対する新感覚が垣間見れる作品の一

このような変遷の過程で統一新羅時代の石工らは、竿柱

例であると思われる。このようなことを考えると、高達寺址

石として獅子を用いた雙獅子石燈という奇抜なアイデアを思い

石灯は新羅様式の継承という側面とともに、これを造形物の

付き、これを実際の石灯づくりとして実現した。それ以前に建

特性に合わせて変えたユニークな作品だと考えられる。ま

てられた石灯は、全体の平面が八角形であったため、シンプル

た、竿柱石の場合においても、鼓腹形石灯の様式を取り入れ

で素朴であった半面、雙獅子石燈の場合は中心部の火舎石を支

るなどの変化を試みたことにも注目すべきである。鼓腹形石

える竿柱石を雙獅子に代えることによって、世界で唯一の石灯

灯も9世紀に建立された新様式の石灯であるが、同じ系列の

を作り出した。多宝塔と同じく、当時の石工たちの深い仏心 と情熱、それから芸術的感覚の実りであるのだ。 高達寺址石灯は前述した通り、獅子像の表現にお いて統一新羅時代に確立した画一的な様式から脱却し、 伏した姿を表すことによって高麗独特の新様式を 創り出した。前の時代の石灯では、後ろ足で 力強く火舎石を押し上げているのに

石灯の竿柱石で確立したように、円形の平面に上下対称の 原則は、高達寺址雙獅子石燈では平面が方形に変わるな どの変化が見られる。つまり、高達寺址雙獅子石燈は 9世紀に確立した雙獅子及び鼓腹形石灯の様式などを トータル的にまとめて高麗人ならではの芸術性と 感覚を活かして造成した石灯だと思われる。 灯りは仏教国家では造成され続けて

比べて、より安定的に見える

きた重要な造形物の一つである

ことに着目したものとみられ

が、石灯という新しい分野を

る。さらに、統一新羅時代の雙

開拓して長い歴史とともに受け

獅子石燈は獅子が竿柱石の役割を

継いできた国は韓国しかない。さ

果たしているが、高達寺址石灯は別の竿柱石

らに、雙獅子石燈という発想と造形は仏教発

が設けられているため、設計からその点を考

祥の地であるインドや、東アジアの歴史と文

慮に入れたものと考えられる。また、統一新

化をリードしていた中国でも見当たらない。

羅時代のものは雙獅子が見つめ合う姿

したがって、他の石造物もさることなが

勢であるが、高達寺址のそれは屈み

ら、特に石灯は仏教的特性を持つ一方

込んで首をひねて話し合うようにやさ

で、もっとも韓国らしい有形の資産とい

しい姿勢をとっている。従って、雙獅子

える。

冬号 2009 | Koreana 51


文化イベント・レビュー

1

創作ミュージカルの 新たな挑戦

「南漢山城」 創作ミュージカル「南漢山城(ナムハンサンソン) 」 は、清の侵略という国難に立ち向 かう朝廷の指導者たちの葛藤と苦悩、対立という重苦しいテーマを扱ったベストセ ラー小説を、大衆的ジャンルのミュージカルにしたという点で、開幕前から大きな 話題を集めていた作品だ。国内外の創作ミュージカルの流れから見た「南漢山城」の 意味と成果を評価してみよう。 ウォン・ジョンウォン(元鍾源、順天郷大学教授、評論家) 写真 : 鄭炯宇

1 清国の王「カン」の命令を受け祖国に対する復習を誓う朝鮮の奴婢出身の通訳官チョン・ミョンス。 チョン・ミョンス役は韓国の代表的なアイドルスター・イエソンが演じている。 2 南漢山城へと向かう王の行列、輿の上の仁祖 52 Koreana | 冬号 2009


2

は1636年12月、荒涼とした冬の空からは雪まで降

れるような悲哀を感じるだろう。刺客に生命を奪われ白い喪

り始めた。中国大陸の新興勢力である「カン」崇徳

服を着たまま「民よ立ち上がれ」を歌うミュージカル「明成皇

帝は、ついに朝鮮との戦争を宣布し南進を開始し

后」のラストの感動と同じものだ。

た。明との友好と外交関係という名分のために身動きがとれ ないまま争いの場に引きずり出された朝鮮はその胸ぐらを掴

ベストセラー小説の舞台化

まれ戦争の嵐の中に巻き込まれていく。右往左往する避難の

ミュージカル「南漢山城」は歴史を素材にしてはいるも

列の中には南漢山城に向かう王の行列もあった。重苦しい心

のの原作は他にある。舞台の基になったのは作家・金薫が

情ではあるものの、王・仁祖は作り笑いを浮かべ剛毅に満ち

2007年に発表し現在も大きな人気をよんでいる同名の長編

た一言を吐く。「山城に雪見に行こうぞ。そしてゆっくりと

小説だ。小説がミュージカルのルーツであり始発点なのだ。

昼寝でもしてこよう」

ミュージカルの製作発表会で原作者の金勲は「子供の頃に遠

ミュージカル「南漢山城」の一場面だ。清による侵略と

足に行く途中、この受難の歴史を説明してくれた先生の話が

いう民族の受難の歴史「丙子胡乱」を素材に、風前のともし火

印象的だった」と語った。それが後後、南漢山城を小説にす

となった国の苦難と悲しみを舞台化したものだ。ミュージカ

ることになった個人的な関心の出発点だった。小説に登場す

ルにするには多少重く暗い内容だと思うかもしれないが、す

る「死んで生きるのか、生きながらえて死ぬのか?死んで美

でに映画やドラマなどを通して何度も人気を博した物語を舞

しいのか、生きながらえて汚れるのか」という時代的な命題

台用に脚色したものなので韓国人ならば特に不自然さは感じ

は舞台になっても依然として大きな共鳴となり客席に伝わっ

ないだろう。降伏の意味で地面に頭をぶつけて血を吐くほか

た。

なかった仁祖の最後の降伏の場面では誰もが胸を締め付けら

ベストセラー小説の舞台化は世界的なトレンドであり、 冬号 2009 | Koreana 53


人気のあるミュージカルが多い。24年間毎日のように舞台 にかけられ世界で最長ロングラン公演中のミュージカル「レ ミゼラブル」や、韓国語公演でも大きな人気を博したフラン スのミュージカル「ノートルダム・ド・パリ」などはすべてフラ ンスの大文豪ビクトル・ユーゴーの同名小説を舞台用に脚色 したケースだ。またミュージカル「オペラ座の怪人」はもと もと1909年に出版されたフランスの推理小説作家ガストン・ ルルーの小説が原作だ。個性的なミュージカル「キャッツ」は トーマス・エリオットの連作詩集『猫に対する老いたポケット ネズミの報告書』を舞台用に書き下ろしたものだ。韓国の創 作ミュージカル「明成皇后」もやはり李文烈の長編小説である 1 1 後ろの巨大な人形は清の王 「カン」、そして 床にひれ伏す白い人形は降伏する仁祖を象 徴している。 2 和清派と抵抗派の相対する主張の間で苦悩 する仁祖。「死んで美しいのか、生きながら えて汚れるのか」という時代的な命題で大き な感動を呼ぶ場面だ。 3 オ・ダルチェが城郭にのぼり祖国の危うい運 命を前に嘆き悲しむ場面。城郭を極度に単 純化して表現した舞台芸術も注目された。

『女狐狩り』を舞台化したものだが、このくらいになると小説 の舞台化は珍しくも、異色でもなく、現代ミュージカルの興 行製造方式だとさえ言えるだろう。 小説が舞台化されると、活字は登場人物のイメージを 借りて生命を吹き込まれ具体的に立体感を帯びるものだ。そ れで本を通じて物語に先に接した人々は想像が具体的に具現 され目の前で実際に繰り広げられるという特別な体験をする ことになる。もちろん逆にミュージカルを見てから小説を読 めば舞台には登場しなかった新たな感動に出会う場合もあ

54 Koreana | 冬号 2009

2


る。小説がミュージカルの母体となり、ミュージカルが再び 小説を読む契機となるというわけだ。公演はすでに大衆性の 検証されたストーリーを、小説は公演を通じて新しい読者を 得るという、マーケティング的にも相乗の効果だといえよ う。

原作の再解釈力 単純に音楽と歌、踊りと芝居を組み合わせれば、すべ て出来のよいミュージカルになるというわけではない。小説 はミュージカル製作の出発点として、モチーフは提供する

3

が、舞台ミュージカルはそこから独特の世界と魅力を生み出 すための新しい挑戦に乗り出さなければならない。ワンパ

重さとは決してたやすいものではないが、劇の中で民衆は何

ターンを絵に描いたような叙事的な構造だけを活用するより

度も挫折を味わいながらも常に希望を歌う存在として描写さ

は、ストーリーを借りてキャラクターを再解釈するアレンジ

れる。戦争の苦痛と受難の中でも結局は生き残ることのでき

を加え、少しずつ違う妙味を加えてこそ、ようやくミュージ

た、いや生き残らなければならなかった民族の強靭な底力が

カルとしての完成度を高めることになる。現代文化産業のワ

ミュージカルの中から自然とにじみ出てくる。笑いながらも

ンソース・マルチユーズがもたらした妙味とはまさに解釈の

涙を流し、泣きながら微笑を浮かべる民族の諧謔と感受性が

差、すなわちストーリーの変化に発することは言うまでもな

ミュージカルの中に完璧に溶け込んでいる。

い。 ミュージカル「南漢山城」が採択した最も大きな魅力は

大型創作ミュージカルに向けての挑戦状

新しい主人公の発掘と、それによる小説の再解釈だ。原作で

韓国で幕を開けたミュージカル作品の数は年間180本に

は大きな比重を与えられていなかったものの、最後まで抗戦

肉薄する。それも子供ミュージカルは除外した数字で、特に

を主張した三学士の一人であるオ・ダルチェを舞台では物語

年末には数十本が一度に上演され、一大混戦となる場合が多

の中心に据え、劇の始まりと終わりに配置することで作品解

い。これらの中には外国にロイヤルティーを支払う翻案舞台

釈の観点と視覚を変化させることに成功した。そのおかげ

の作品、また現地から俳優やスタッフが直接やって来て訪韓

で舞台ではオ・ダルチェと妓生の梅香との間の哀切な恋情、

公演を行うツアーミュージカルなど、いわゆる輸入ミュージ

妊娠したオ・ダルチェの妻の南氏と梅香の間の微妙な緊張感

カルと韓国の俳優とスタッフが自国の言語と素材、文化と歴

と犠牲、そして敵国の将軍となり祖国に刀を向けるチョン・

史を背景に作った創作ミュージカルがある。

ミョンスと梅香、オ・ダルチェの三角関係など、ロマンチッ

数的に見れば創作ミュージカルが4~5倍多い絶対的

クな設定がストーリーラインの 主要な一つの柱として浮き

な優位を占めている。しかし市場を見てみると事情は違う。

彫りにされた。原作小説の悲壮美とは多少距離があるかもし

輸入ミュージカルが経済的な利益の創出が容易な大劇場で公

れないが、ミュージカルとしての再解釈による感傷的ストー

演されている反面、大部分の創作ミュージカルは小劇場で上

リーの展開は観客を舞台に取り込みのに十分だったのだ。

演されるので規模の零細性を抜け出せないでいる。量的には

南漢山城での戦闘と民衆たちの暮らしを交差させて劇

大きな成長を見せているものの、質的にはまだ収益創出の産

を進行させることもミュージカルならではの面白さだ。流れ

業構造的な側面で輸入ミュージカルに追いつけないでいるの

者の芸人たちのユーモラスな口調と歌は重くなりがちなこの

だ。国内ミュージカル関係者が大型創作ミュージカルの登場

物語の構造に観客がホッと一息できる間を与えている。百姓

を心待ちにするほかない理由がここにある。

たちは戦争の中で生き別れになった父を亡くした悲しみに耐

2 ミュージカル「南漢山城」は久しぶりに作られた大型創

えなければならず、兵士たちの死体を越えて山城に上り、清

作ミュージカルという点で特に期待が大きい。前述したよう

の国の兵士たちに犯されるなど、終わりのなり避難の道をた

に国内の多くの創作ミュージカルがソウル大学路を中心に

どることになる。彼らが耐えていかなければならない人生の

200~300席規模の小劇場で公演されている反面、この作品 3

冬号 2009 | Koreana 55


1

2

56 Koreana | 冬号 2009


創作ミュージカル「南漢山城」は、久々に作られた大型創作ミュージカルという点で特に期 待された作品だ。国内の多くの創作ミュージカルが200~300席程度のオフフリンジシア ター(小劇場)にかけられている反面、この作品は最初から大劇場の舞台を念頭において作 られたものだ。

は最初から大舞台を念頭において作られた。 もちろん小劇場で始まり大きな劇場に場所を変えながら コンテンツを成長させたケースもある。

「ザミュージカルアワード」の受賞式ではそれで一定規模以上 の作品だけを受賞の対象にしている。アメリカブロードウェ イの劇場街のトニー賞も同様の方式で運営されている。

ブロードウェイの劇場街の場合にはオフブロードウェ

ゴルフでは「ホールを過ぎて打たなければボールをホー

イで始まり本格的な規模の商業市場に舞台を移したミュージ

ルに入れることはできない」という言葉がある。始めなけれ

カルとして「レント Rent 」や「アベニューキュ Avenue Q 」が

ば大型創作ミュージカルの製作は永遠の夢に過ぎなくなって

ある。国内でも「シングルズ」や「兄弟は勇敢だった」のような

しまう。数多くの挑戦があってこそようやくその中で成功を

作品は小劇場から始まり中劇場に舞台を移していったケース

収めることができるように、芸術や文化産業も努力をしなけ

だ。しかし大部分の場合、大型ミュージカルはほとんどが最

れば結果を挙げることはできない。特に地域の芸術団体が流

初から大劇場で始まるものだ。なぜなら作品の外形や規模、

通の下部構造の役割を超えて意欲的に製作に乗り出し、長期

参与するスタッフ、キャストの数、装備、舞台装置や演出な

にわたってブランドを育成しようという計画を樹立したとい

どから大劇場用ミュージカルと小劇場用ミュージカルの間に

う点は大きく賞賛すべきだ。最初から満足するというわけに

は確たる違いがあるためだ。ときどき大都市で小劇場用に製

はいかなくとも、明らかに望ましい試みであり、今後の行方

作されたミュージカル作品が地方のツアー公演では大舞台に

が注目される変化だ。最初の祝杯はあげたのだから、より一

かけられる場合もあるが、子供が大人の背広を着ているよう

層発展し熟成させる努力を持続的に行うべきだ。製作陣と俳

な、ぎこちなさがある。もちろん最初の規模が違い、体の大

優に応援と激励の拍手を送る。

きさに差があるので発生する「隙間」だ。毎年、春に開かれる

1 縛られても抵抗するオ・ダルチェ、妓生の梅香、敵国の将軍チョン・ ミョンスの間の三角関係はストーリーの一つの柱を成している。 2 梅香の機知で敵の手から逃れたオ・ダルチェの夫人の南氏(中央) 冬号 2009 | Koreana 57


韓国再発見

3000本にのぼる世界の映画ビデオと DVDのコレクションを持っているアー ル・ジャクソン・ジュニア教授。 58 Koreana | 冬号 2009


アール・ジャクソン・ジュニア 韓国で故郷を見つける 映画学教授であり「トランス・アジア映画文化研究所」の共同所長でもあるアール・ ジャクソン・ジュニアさんは、アジアの映画学者と映画製作者らとの交流を通じ て、アジア映画の専門家としての位置を固めるために取り組んでいる。彼は様々 な共同プロジェクトを率いると同時に、映画関係の学術大会を主観しながら 〈トラ ンス・アジア映像文化研究〉の編集も担当している。 ファン・ソンエ (黄善愛、フリーライター) | 写真 : 安洪范

ャクソンさんが本格的に韓国に滞在し始めたのは

登録したが、講師が急に辞めてしまったため、学校側の提

2006年からのことだが、未だ韓国語での対話は難

案を受け入れて代わりに日本語を勉強するようになる。当

しいにもかかわらず、既に彼は韓国のユニークな

時、あまり人気のなかった日本語を勉強するようになった

文化コードを繊細につかむことができる。おそらく初めて韓

が、日本語にはまってしまった彼は日本語を専攻するように

国に着いた瞬間から故郷に帰って来たような印象を受け、韓

なり、日本学の学者になった。彼は、特別言語プログラム

国人と韓国文化を心から愛するようになったためかもしれな

(FALCON)に従ってコーネル大学でまた1年間日本語のイン

い。高麗大学校でアメリカの詩を教えた後、最近韓国総合芸

テンシブコースを聞いた後、修士号をとった。それから1970

術学校に移った彼は、授業の他にも様々な文化活動に積極的

年代に日本で、日本伝統の能と中世文学を勉強した後、ハー

に参加している。

バード大学で仏教学で修士号をとった彼は、プリンストン大

学で比較文学で博士号を取得した。

もう一つのアジア

ところが、韓国を通して彼は日本学の学者として抱い

ジャクソンさんはハワイの学術大会で出会ったキム・ソ

ていたアジアに対する認識が完全に変わることになる。「私

ヨン教授の招請で2004年に初めて韓国を訪れた。その後も数

が持っていたアジアのイメージは、長い間日本専門家とし

回にわたり、短期間ではあるが韓国を往来していた彼は、韓

て積んできた経験と知識を基にしたものでした。しかし、韓

国に定着するためにアメリカのサンタクルーズ・カリフォル

国を知ってから自分の観点は変わりました。韓国は苦難の歴

ニア州立大学の教授の座を辞任した。ところが、韓国はジャ

史を持った国です。また、他のアジア諸国との関係において

クソンさんが初めて住まい始めた外国ではない。アメリカの

も、日本とは違った事情がありますね。日本はアジアの中で

ニューヨーク州バッファロー市のスラム街で育った彼は、18

もかなり孤立した国です。韓国に暮らすようになってから、

歳の時に初めて文学を勉強するためにヨーロッパを訪れるこ

アジアに対する関心がさらに大きくなりました。なぜなら、

とになる。オーストリアのアルプス山周辺の地方で夏を過ご

韓国こそ真の意味で、アジアの真ん中に位置した国だから。

した後、ドイツ南部のババリア州で1年間生活した彼にとっ

日本中心の見方が変わるにつれて、アジアに対して持ってい

て、ヨーロッパの美しい自然は新しい世の中に目覚めるきっ

た歪んだイメージを修正するようになりました」

かけとなった。 ドイツのヴュルツブルク大学で1年間勉強した彼は、

彼の新しい認識は、仕事の方向性まで変えることに なった。映画学の教授であり、また「トランス・アジア映画文

アメリカのバッファロー・ニューヨーク州立大学でドイツ文

化研究所」の共同所長でもあるジャクソンさんは、アジアの

学を専攻してから特別言語プログラムのハンガリー語課程に

映画学者らや映画製作者との交流を通じて、アジア映画の専 冬号 2009 | Koreana 59


門家としての地位を固めるために取り組んでいる。彼はい

によかったです。運がよかったんですね」

まや同僚になったキム・ソヨン教授と一緒に様々な共同プロ

映画への情熱はその後も続き、彼は今や全世界の映画

ジェクトをリードしており、映画関連の学術大会を主管する

ビデオとDVDを3000本も集めたコレクターでもある。彼のコ

一方、<トランス:アジア映像文化研究>の編集も担当して

レクションには大好きな韓国の1950~60年代の映画も含ま

いる。今年11月に「アジアにおける多文化主義」というテーマ

れている。彼の大好きな韓国の監督はイ・マンヒ、キム・ギヨ

でインドとマレーシアの映画製作者らが参加した学術大会も

ン、シン・サンオクさんだ。韓国の映画に対して、「韓国映画

開催した。同大会は特にグローバル時代における重要な問題

は常に人間の尊厳と生存の問題を扱っています。生の価値を

となった多文化主義に対する理解を深めてもらうことを目的

求める問題とその価値を提示してくれます。表に表れていな

にしている。

くても、この問題は常に潜在しています。最近、イ・マンヒ

多文化主義が理想的な社会のあり方であると確信する

監督の1968年の映画<休日>が発見されましたが、この映画

ジャクソンさんは、同大会を通じて、異なった言語・文化圏

はおそらく、私が見た映画の中でもっとも憂鬱で悲観的な映

の人々が共存する姿を見せたかったと述べる。もちろん、多

画でしょう。内容があまりにも否定的であったため、当時上

文化主義社会が抱えている問題点も充分認識している。外国

映が禁止された映画です。映画の中で、二人の恋人が日曜日

人労働者との国際結婚の増加の影響もあって、韓国社会で

ごとに会います。二人は愛し合いますが、貧しかったです。

「多文化主義」は重要なテーマとなっている。このような状況 の下、ジャクソンさんは外国人労働者が差別を受けるのを間

映画は彼らの生存と絶望を表現します」と述べている。 韓国は特に20世紀に入ってから悲劇的な歴史を経験し

接的ではあるが経験した。「最近、テレビ番組である実験を

たが、その経験は1950年代と60年代の映画に反映された。

しました。一人の白人が道路で地図を見ていると、人々は彼

ところが、1980年代から韓国社会は経済発展を遂げ、その過

が質問する前に近寄っては助けようとしました。彼は英語し

程で生じる社会問題が映画で扱われるようになる。ジャク

かできないのにもかかわらずですね。その後、韓国語の上手

ソンさんによれば、生存の問題は最近の映画でも依然とし

なフィリピン人が人々に近づいて丁寧に道を尋ねました。し

て扱われるテーマだという。「2003年に公開された<浮気の

かし、誰一人として道を教える人はいませんでした。一人も

家族>という映画がありますね。本当にすばらしい映画で

対応してくれませんでした。本当にびっくりしましたね」

す。この映画の主人公らは豊かな家族です。夫は弁護士で。 しかし、彼らの生活は問題だらけです。この映画は骸骨だ

韓国映画の大ファン

らけの殺害現場を掘り起こすシーンから始まりますね。お

ジャクソンさんの文学と映画への情熱はかなり前から

互いに銃を突きつけていた過去の歴史が明らかになり、誰

始まった。高校時代、彼は度々学校をサボっては終日公園の

が誰を殺したか分からない状況を演出します。その歴史的

ベンチで、ジェイムス・ジョイスやらガートルード・スタイン

状況が映画を引っ張っていく重要な背景になっています。

などの作家の本を読んでいた。欠席が多かったため、結局退

非常によくできた映画だと思います」

学させられた彼はパン屋で1年ほど働いてから州立大学への

ジャクソンさんは非営利財団が運営する<ソウル・アー

入学試験を受けることになったが、独学にもかかわらず通っ

ト・シネマ>映画館の常連客だ。世界の古典映画が見られる

ていた高校の400人の生徒の中で唯一、バッファロー・ニュー

そこで、彼は韓国映画の観覧客の水準の高さを経験したと言

ヨーク州立大学から全額奨学金をもらうことになった。彼は

う。「ソウル・アート・シネマでファスビンダ回顧展を開いた

高校の時から映画が好きだった。「学校に行かなかったため、

時のことです。彼の全作を上映しました。テレビで放送され

時間は余っていました。それで、バッファロー大学に行って

た作品まで含めて。イベントの最後のところで特別上映とし

映画を見ましたね。大学ではすばらしい映画がいくらでも見

て二日間<ベルリン・アレクサンダー広場>を上映しました。

られたんです。例えば、アラン・レネの「去年マリエンバード

16時間もかかる大作です。朝9時にスタートして夜遅くまで

で」のようなヨーロッパの現代古典映画がありました。幸い

続き、無料でした。ところが、朝9時から映画館は満席でし

身分証を確認することもなかったんです。そこで見せてくれ

たね。英語の字幕だけとというのにもかかわらずです。韓国

る映画はすべて見ることができました。イングマール・ベル

映画ファンの高い水準が確認できました」

イマンやゴダールの映画などは、その時全部見ました。本当 60 Koreana | 冬号 2009

しかし、一方でジャクソンさんは韓国映画の未来に対


「私の知っているアジアは、長い間私が日本専門家として積んできた経験と知識に基づいたものでした。しかし、韓国を知る ようになってから私の観点は変わりました。韓国で暮らしながらアジアに対してもっと関心を持つようになりました。なぜ なら、韓国こそ真の意味でアジアの真ん中に位置しているからです。日本中心の観点が変わるにつれて、アジアに対してた 抱いていた歪んだイメージも見直すようになりました」

彼は韓国映画の背景にある韓国文化ならで はの特徴を見逃さない。最近彼は、韓国映 画のシナリオ作業にも参加した。

して懸念も示している。2006年、

かりですね。グラスにワインを注

アメリカとのFTA締結の過程

ぐと、二人の男性が彼女からグラ

で、アメリカの強い要求に負けて

スを奪い取りながら「どうかした

韓国映画に割り当てられた上映日

のか?鎮痛剤を飲んだんだろう」

数が削られたのだ。1年間韓国映

と怒鳴りますね。本当に韓国的で

画を上映できる日数が146日から

すよ。相手に対する思いやりでさ

半分の73日に減らされたのだ。変更されたこの制度は、1990

え、叱るように言います。実は愛しているにもかかわらずで

年代のメキシコのように、韓国映画の衰退を招きかねないと

す。そのコードが分からないと誤解してしまいますよね」

懸念している。ジャクソンさんは韓国映画の義務上映制度の

ジャクソンさんは旅行好きで、特に水泳とシュノーケリ

変更に強く反対している。「悪夢です。従来の制度に戻さな

ングが得意である。若い頃は、海洋生物学者を夢見ていた。

いとだめです。この制度のおかげで1990年代のあのすばらし

中米のベリーズ海岸ではサメと戯れたこともあるし、韓国の

い韓国映画が作られたのです。この制度なしにはおそらく不

南海で泳ぐことが好きで、一度はクラゲの群れから攻撃され

可能だったでしょう。義務上映日数を縮小するのは韓国文化

たこともあった。彼は韓国での旅行を通して特別な経験もし

の発展にまったく役に立ちません。上映日数がカットされた

た。メムル島を訪れた時は、自分のお母さんが1905年に日本

ため、投資家らは実験的な韓国映画への投資を渋ることにな

軍が船に乗って韓国に上陸する場面を目撃したという90歳の

るでしょう。いや、はじめから韓国映画へ投資しづらくなる

老人に出会ったこともある。

でしょう」

韓国の魅力の虜になったジャクソンさんは、現在も韓

韓国生活を充分に楽しんでいるジャクソンさんは、韓

国語の上達に取り組んでいる。映画のシナリオを書きながら

国のユニークな文化コードを読み解くことも得意である。特

韓国語を勉強した彼は、キム・ソヨン教授が今年釜山映画祭

に、映画を通じて韓国の文化を理解しているという。2005

で発表した<ビューファインダー>のシナリオの一部を書い

年に封切られた<サランニ(親知らず)>から、彼はユニーク

た。英語で書いてから韓国語への翻訳に自ら関わり、彼が書

な韓国の文化コードを見つけ出した。「韓国人は怒ったよう

いた台詞を俳優が演じる際には指示を出したりもした。ジャ

に愛し合います。このコードが分からないと誤解してしまい

クソンさんはその経験が特別なものだったという。「韓国語

ます。<サランニ>という映画は本当に面白く見ました。映

学習法としてもっとも効果的だったと思います。私には従来

画の最後のところで典型的な韓国文化がうかがえます。この

の教え方より、もっと有効な方法でした」。ジャクソンさん

恋愛物の主人公たちは映画の最後のシーンで一同に集まって

のユニークな韓国語学習方法の基には韓国という国そのもの

夕飯を食べます。対話の途中、女の主人公がワインを自分の

があるらしい。

グラスに注ぎます。ところが、彼女は親知らず歯を抜いたば 冬号 2009 | Koreana 61


世界の中の韓国人

オ・ウンソン

女性登山家、 14座制覇への挑戦

1


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オ・ウンソン(呉銀善)は世界的な女性登山家としてリー ダー的人物である。今春から夏にかけて、ヒマラヤの4 峰の登頂に成功した彼女は、秋にはアンナプルナへの登 頂に挑戦したが、悪天候のため撤退せざるを得なかっ た。ヒマラヤ8000m峰14座の登頂に成功した初の女性登 山家という栄光に向けた彼女のチャレンジは来年まで見 送られることになった。 シン・ヨンチョル (申永澈、月刊<人と山>編集委員) 写真 : 申永澈

球の屋根といわれるヒマラヤ山脈にはエベレス トを始め、8000mを超える高峰が14峰ある。その 高さを指して登山家たちは神様の領域だと表現す

る。14座すべてを征服した男性登山家は世界に18人いる。し かし、まだ女性はいない。いったい誰が女性として 初めて 14座の制覇に成功するだろうか。

五人のソプラノの競争 女性初の14座制覇の栄冠を勝ち取ることは国レベルの 関心事項であるだけに、その競争は激しい。オ・ウンソン (43歳、吳銀善)、スペインのエドゥルネ・パサバン(36歳)、イ タリアのニベス・メロイ(48歳)、強力なライバルだったオー ストリアのゲルリンデ・カルテンブルナー(39歳)、それから 2009年夏、ナンガ・パルバット峰(8126m)でオ・ウンソンと競 い合いながら頂上に立った後、下山の途中で死亡した韓国人 のコ・ミヨン(高美榮、42歳) いわゆる五人の 「ソプラノ」 達が繰り広げる競争は、ヒマ 1 ガッシャーブルム1峰を登頂する姿 2 カンチェンジュンガの頂上に立ったオ・ウンソン

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1 キャンプ1からキャンプ2に向かう途中、雪原で 2 ナンガ・パルバットを登頂する姿

ソン。身長150cm、体重50kgという小柄の身体のどこからそ のような超人的能力があったのだろうか。 世界初を目指すレースが終盤に差し掛かり、チャレン ジャーにとって少しのミスも命取りになってしまう状況に なっていた。死んだコ・ミヨンもそうだったし、同時間帯に K2(8611m)峰の8200m地点で2回の登頂が失敗に終わって しまったオーストリアのゲルリンデ・カルテンブルンナー も同じだった。カルテンブルンナーはもっとも強い競争相 手であって、K2で成功したならばオ・ウンソンと同じく13 座制覇を記録できたはずだ。実は、2006年にシシャパンマ (8027m)登頂に失敗したパサバンと、今年カンチェンジュン ガ(8586m)を諦めたメロイの場合も、一回のミスによって現 在リーディング・グループから外されてしまったのだ。現在、

1

オ・ウンソンが命を掛けて叶えようとする夢はアンナプルナ (8091m)に托されている。 ラヤを数年前から熱くさせている。その熱いレースを見守っ ている世界の山岳界の眼差しもだんだん熱を帯びている。

「ヒマラヤが私を受け入れれば」

そのレースが厳しくなるにつれて、栄光とは裏腹に悲

オ・ウンソンが帰国した数日後、佳山会の帰国歓迎会に

劇も生じた。2009年夏のナンガ・パルバットは栄光と悲劇の

出席した。「美しい山」という意味のこの会は親睦を深めるの

中心地となった。今年7月、私はナンガ・パルバットのベー

が目的の山岳会だが、オ・ウンソンはこの会をとても大切に

ス・キャンプを訪れてオ・ウンソンとコ・ミヨンを取材した。

している。

当時、二人の韓国の女性登山家は自信に満ちていた。登攀は

「私は信者ではないけど、仏教が好きです。仏教信者で

順調に進み、7月10日にオ・ウンソンが先に挑み、4時間後に

ある母がくれた数珠をいつも手首にはめています。この数珠

はコ・ミヨンも頂上に上った。しかし、高所キャンプで一晩

は私が頂上を目指す時いつも一緒です。これが私には大きな

を過ごした後、下山し始めた二日目にコ・ミヨンは6200m地

力になります」

点で転落死した。

何日も経たないうちにオ・ウンソンは見違えるほど回復

オ・ウンソンは8月12日に帰国した。彼女から電話をも

していたお祝いの花束を抱えたオ・ウンソンの笑みが輝かし

らったその足で出向き会った瞬間、言いようのない感情に包

い。歓迎のケーキの13本の蝋燭に火が灯された。オ・ウンソン

まれた。彼女は病み上がりのように力なく見えた。体力と精

が登頂した8000mの峰の数字であろう。彼女がその蝋燭の火

神力を出し尽くして険しい登攀過程を終えた彼女の疲れきっ

を吹き消すと、会長は再び一本を添えて火を灯した。14座の

た身体がその事実を雄弁に物語っていた。二ヶ月以上もカラ

登頂に成功することを願う会長の思いやりだった。ケーキの

コラムのヒマラヤの万年雪の中で登攀に挑んでいたオ・ウン

火を 吹き消した後、オ・ウンソンに登頂の感想をお願いした。

64 Koreana | 冬号 2009


「辛かったです。ナンガ・パルバットで起きた事故の後、救助作業を見守りながら助けようと努めていた時間。スカルドホテルで 一週間も空ろな状態で過ごしました。ヒマラヤが私を受け入れれば志が叶うだろうし、そうでなければ失敗する、というところ まで考えが及ぶと、計画通りに登攀を決行しようと心に決めたんです」

結局オ・ウンソンは自分の道を突き進むことに決めた。

「かなり辛かったです」 場内は静まり返った。「辛かった」という言葉が何を意

悲劇のナンガ・パルバットから下山した後、予定通りに 引き

味するか私には分かった。ナンガ・パルバットで会った亡き

続きガッシャーブルム1峰(8068m)に無酸素登攀した。ガッ

コ・ミヨンの顔が重なって見え、心が痛くなる。

シャーブルムI峰の頂上に立ったことで、オ・ウンソンは13

「辛かったです。ナンガ・パルバットでの事故の救助作 業を見守りながら自分も助けようと頑張っていた時間。嘘の

座の登頂に成功し、ライバル達を引き抜いてトップに躍り出 た。

ようだった数日間のドラマチックな反転。自分もその事故に

「ヒマラヤが私を受け入れてくれれば夢は叶えられ、そ

遭ったかも知れないという恐怖感。様々なことが頭から離れ

うでなければ失敗するということに気がつくと、計画通りに

ず夜も眠れませんでした。スカルドホテルでボーッとした状

登攀に出ることを心に決めたんです」

態で一週間過ごしました。登攀を続行するかどうか迷いなが

超越的な存在があるがごとくに、オ・ウンソンは常に何

ら。皆さんもご存知でしょうが、私にとってコ・ミヨンさん

者かに導かれているようだった。彼女の到着前には悪天候の

はお互いをよく知っていて、私が安住することなく前に進め

ため、周辺の峰では一人の登山者も登頂に成功できない状態

るように働きかけてくれた良きライバルでした」

だった。しかし、彼女がガッシャーブルムのベースキャンプ

2

冬号 2009 | Koreana 65


2 1 韓国で代表的なクライミング・コースである北漢山の仁壽峰を登る オ・ウンソン 2 スペインの女性登山家エドゥルネ・パサバンとオ・ウンソン 3 挑戦するたびに彼女は大自然に順応しながら、機会を待つ智慧を学 ぶ。

1

に到着すると、待ってましたばかりに好天気となった。以前 の連続登攀の時と同じく高所適応はできていたので、風に阻 まれながらも無事に頂上に立った。下山の途中、オ・ウンソ ンは再度墜落の瞬間を目撃した。 「誰かが傍をシュッと過ぎて行ったんです。一緒に登頂 した外国のチームの一員でした。私はシェルパとロープでつ ながれていたんですが、彼は同僚ともつながず下山していた のです。私の目の前を300mぐらい飛んでいったんでしょう。 その瞬間、いろんなことが頭をよぎっていきました。あれで 死んじゃうのか。幸い、彼は雪面に突っ込み命拾いしまし

無酸素登頂と連続登攀 話の途中、オ・ウンソンのケイタイが鳴る。 「母さん?うん、早く帰るから」 43歳であってもまだシングルの彼女は、世紀の女性とい う名が恥らうほど、お母さんにとっては遅くなると心配にな る大事な娘である。 私は聞いてみた。 「どうですか。残すはアンナプルナだけとなった現在、 心に余裕はあるんでしょうか」 数年前まではオ・ウンソンは外国では無名に近かった。

た。しかし、角度が少しも違っていたら数千mの崖っぷちに

外信はヨーロッパのカルテンブルンナー、パサバン、メロイ

飛ばされてそれでおしまいになったでしょう。本当に生と死

を三人のソプラノと呼びながら、彼女らの中から初めて14座

は背中合わせですね」

登頂に成功する人が出てくるだろうと予想していた。ところ

まだ結婚もしていない女性であるにもかかわらず、オ・

が、今は状況が変わった。彼女はレースを通じて穴馬として

ウンソンは死のことを話して憚らない。彼女はこれまでも数

浮上し、現在はマスコミから注目されている。スペインの日

多くの死体を目にしてきた。ヒマリスト達にとって生と死

刊紙とエキスプローラー・ウェブなどの外信もオ・ウンソンの

は、本当に紙一枚の差に過ぎないという事実を我々は目撃し

活躍ぶりを主なニュースとして取り扱っている。

ている。ついさっきまで笑っていた人が消えていくという底

「まだ余裕を感じる場合じゃありませんね。パサバンの

知れぬ白銀の世界。死は避けられない運命のように常に付き

動きがつかめないから。非常に強い女性であって、また彼女

まとう影のようだ。

を後援するスペインの山岳人やマスコミがあるから、決して

66 Koreana | 冬号 2009


あきらめないでしょう」 心配を隠さない。結局最後まで油断は許せないという話 だ。しかし、そんなに急いで取り掛かる問題でもない。すべ ての条件を客観的に分析してもオ・ウンソンは間違いなく初 の女性になるための有利な立場を占めている。後は一峰のみ という段階ですから。 「正直に言ってトップになる可能性が大きくなればなる ほど、プレッシャも重くなります。しかし、平常心を保つこ とが大事ですね」 もっともな話ではあるが、結果は誰も分からない。 ちょっとした事故がすべてを狂わせかねないからだ。だた、

3

2000mを超える山もほとんどない韓国に生まれて、自分より 背の高いヨーロッパの女性たちをリードしていることについ てはプライドを持ってもいいだろう。

はっきり言えるのはスポンサー会社は絶対無理な要求 はしないという事実だ。もし事故が発生すれば責任を負わな

オ・ウンソンは既に、アジアで3番目に7大陸の最高峰

ければならないためだ。アタックする山の選択と登頂方法は

を登った大記録を持っている。それも11峰を無酸素登頂し

あくまでも登山家自ら決める。スポンサーが介入しようがな

た素晴らしい記録である。さらに、彼女の記録が評価できる

い。命がけのことなのに、誰からか言われたからといって、

のは、オ・ウンソンの登攀はすごいスピードを出すというこ

危険な登攀に挑戦するはずはない。

とだ。オ・ウンソンは高所に適応してから連続登攀に取り組

韓国で最大規模の山岳人団体の大韓山岳連盟のイ・ウィ

んできた。シェルパだけを連れて、隊員無しに一人で登攀す

ゼ (Lee EiJae)事務局長は、「未知の世界への挑戦という山岳

ることも彼女だけの登攀スタイルである。去年、マカルーと

の本質に対する理解が足りない方々がいろいろと否定的な意

ローツェを、今春にはカンチェンジュンガとダウラギリを登

見を呈しているようだ」と残念がる。さらに彼は「無理な競争

頂した。続いて夏にはナンガ・パルバットとガッシャーブル

だとか、商業主義という批判は山に向けた挑戦の本質を理解

ムI峰の頂上に立ち、今年秋にアンナプルナに挑戦する。今

していないためだ」と言い切る。一個人の名誉ほしさに対す

回の挑戦に成功すれば、彼女は初めて14座制覇に成功する

る指摘も空しいだけだ。人類歴史上、一ページを飾るほどの

と同時に、同じ年に五つの峰に登った新しい記録を加えるこ

冒険で、それだけ大きなリスクを背負ってのチャレンジであ

とになる。(この記事が作成された後、オ・ウンソンが登攀に

るのに、個人の名誉が関わるのは当然な話ではないか。

チャレンジしたが、悪天候によって失敗に終わってしまっ

水原大学に入学してから山岳部に入ったオ・ウンソンは、

た。彼女の台詞を引用すれば「ヒマラヤが私を受け入れなっ

理論と実技の両面から本格的な教育を受けた。1993年にエベ

た」ということだろう。彼女は新年に再挑戦することを誓い

レストに初挑戦したが頂上にまでは及ばず、それ以来多くの

ながら下山した。-編集者註)

失敗を味わってきた。その経験が彼女を強くさせた。 韓国の公営放送局のKBSが彼女の登攀過程をドキュメン

最後の峰、アンナプルナを目指して

タリーに製作して放送している。

オ・ウンソンの登攀に対しては一部から批判の声も上が

「いつもカメラがついているので監視されているような

る。スポンサーの圧力のために、競争が過熱した、能力不足

気もします。しかし、スタッフの方々の厳しさが分かってい

にも関わらず名誉のために危険を冒してまで挑戦した、大掛

るから、最大限協調しています。結局自分のプライベートな

かりな人員の支援を受けながら頂上に登るという批判であ

空間はテントの中しかありませんね」

る。しかし、同じ山岳人の一人として、私はその批判が納

国民挙げての高い関心が負担に思われるはずだが、今

得できない。前述したヨーロッパの女性達も一シーズンに

やそんな関心に慣れてくれてほしいものだ。オ・ウンソンに

2,3峰にアタックし、シェルパの助けも受けている。また、

とって最後の峰になるアンナプルナ登頂も中継される予定

プロの登山家なら誰もスポンサーがついている。

だ。彼女の挑戦を世界が注目している。 冬号 2009 | Koreana 67


オン・ザ・ロード

秋の光に染まった金泉の直指寺の境内。家内安全を願い名 前の書かれた瓦が寺の屋根に使われる日を待って積まれて いる。 68 Koreana | 冬号 2009


金泉 水清ければ山河もまた清し 金泉は国道4号線をはじめとして京釜線鉄道と京釜高速道路、京釜高速鉄道が通過する慶尚道の関門 だ。都市の真ん中を川が流れ、古い寺刹がいくつもある静かな古都であるが、交通の要地であるがた めに韓国戦争の時には甚大な被害を被った地域でもある。 キム・ヒョンユン (金熒充、エッセイスト) | 写真 : 金容喆

冬号 2009 | Koreana 69


は10年ほど前に一度金泉に

憩いの場となっており、夏には水遊び

金泉市南山洞には過夏泉という

行った事がある。親類の娘

や魚とりをする。私が今回訪れたのは

泉がある。この泉はこの都市の水を代

が、この土地の男のところ

秋の初めだったが、ズボンのすそを捲

表するシンボルでもある。朝鮮時代に

へ嫁ぐことになり結婚式に出席するた

り上げて水の中にはいり、小魚とタニ

中国の将軍が自分の故郷の泉の名前を

めに訪れたのだった。それまでは金泉

シを採るのに夢中になっている人々の

とって「過夏泉」と呼ぶようになる以前

は通り過ぎるだけの土地だった。初め

姿がまだまだ多く見られた。そして多

は「金之泉」と呼ばれ、この泉の水で酒

てみる金泉は何か中身がすかすかの都

くの市民が豊かな水草と渡り鳥の演出

を作ると味と香りが良いことから酒泉

市という印象をうけた。金泉は地政学

するのんびりとした風景を傍らに、川

とも呼ばれたという。今日でもここの

的に韓国のソウルと釜山を貫く長い縦

辺のよく整備された散歩道を歩いた

水で作った過夏酒は金泉の人々の自慢

軸の真ん中に位置する。国土を縦断す

り、ジョギングしたりしていた。

の銘酒だ。

る鉄道、高速道路、国道のすべてがこ

私を乗せたタクシーの運転手に

金之泉とは、金の泉のことだ。東

金泉の自慢を一つ挙げてほしいと尋ね

洋の伝統思想である五行では金は水の

たところ、水だと答えた。彼は金泉の

始祖であり、その生産者だ。金泉とい

人々が飲んでいる水道水は貯水池に溜

う地名もまさに、金の泉を指してい

金泉の都心の真ん中を川が流れ

まった水を浄化したものではなく、地

る。そんなことを考えながらこの町を

ている。カンチョン(甘泉)と呼ばれる

下水をそのまま汲み上げているのだと

歩いていると澄んだ水が非常に多いこ

この川は、この町の中を毛細血管のよ

言った。私はその話が良く理解でき

とに気づく。野原を流れる小川も、山

うに流れる多くの川が流れ込み出来上

ず、金泉市庁の水道課に電話をかけて

の谷間を流れる渓谷の水もどこか普

がった河川だ。南から北東に流れ、や

みた。担当職員の話によると、ここで

通の水とは違う気がした。旅館に戻っ

がて洛東江に流れ込む甘泉は百年前に

は金泉の川底40m下に集水装置を置い

た私は浴室の蛇口から出てくる水を思

は塩を積んだ船が洛東江の下流からこ

て川底の砂利層を通してろ過した川の

いっきり飲んでみた。

こまで上ってくるほど一年中、豊かな

水を消毒して家庭に送っているという

水量を誇ったという。洪水や台風のよ

ことだった。貯水池に溜まった水では

うな自然の変動によって川床が現在の

なく流水を自然ろ過して使用している

私はこの町での一夜を高度800m

ように高くなってしまったのだ。

ので、他の地方の水よりは水質が良い

の山間の民宿で過ごした。金泉市の南

ということだった。

の端にある修道渓谷の上の修道山の中

こを通る交通の要所なのだ。

金の泉が湧き出る

金泉の市民にとって甘泉は大切な

山間の民宿

1 金泉市民の憩いの場となっている甘泉

1

70 Koreana | 冬号 2009

2 直指寺 毘盧殿の窓格子


2

腹にある家だ。インターネットで事前

木も植え、ミツバチも育てたという。

に調べた修道渓谷は平たい岩と牛と滝

そして畑で拾ってきたという一匹の子

が森の中に宝物のように隠れている美

リスを大切に育てていた。

直指寺と青巌寺 金泉の地には由緒ある古刹が多 い。中国から伝えられた仏法を高句麗

しい谷間で、夏には一日に3、4千人の

黄昏どきに突然現れた客を女主人

は新羅にも伝えようとしたが、南の小

行楽客が訪れるという。私も水に足を

は、自分たち夫婦のために準備した夕

さな国はこれを受け入れる考えはな

つけてみたくなったが、それは思った

餉の膳に快く迎え入れてくれた。味噌

かった。それで仏教は新羅の首都であ

だけだった。登るほど生い茂った茨の

チゲと豆腐のジョン、キムチ、ゴマの

る慶州にすぐに伝わることができず

藪と雑木が人間の接近をゆるさなかっ

葉のしょうゆ漬け、干し大根のしょう

に、新羅に入る関所である金泉の地

た。私は滝が水を叩き落としている風

ゆ漬けに豆ご飯というメニューは、私

に、まずその根を降ろした。この町に

景を木々の間から見るだけで満足しな

の目には十分おいしそうに見えたが、

歴史のある古刹が多い理由だ。

ければならなかった。

民宿の主人は客用には不十分だと考え

韓国の仏教の典型をとどめている

大邸で建設会社に勤めていたとい

たのか、外に出て行ったかと思ったら

直指寺は高句麗の阿道和尚が新羅の訥

う民宿のご主人は20年前に家族を連れ

鶏小屋から卵をとってきた。普段目に

祗王の時代である417年に建てたもの

て故郷に戻り、ここに来たという。成

する卵の1.5倍はある長くて大きな卵は

だ。この伽藍は新羅が仏教を公式に認

人した子供たちを都会に送りだし、ソ

鉄鍋の上で黄色く輝くおいしそうな卵

める527年までの110年間は仏教布教の

ウル生まれの妻と二人で民宿兼食堂を

料理になり、その卵からは深い味がし

前進基地となっていた。

運営し、畑では白菜とジャガイモを作

た。

り、鶏と豚を飼育する一方、リンゴの

私は最初の計画ではテンプルス イで一晩を過ごすつもりだった。曹溪 冬号 2009 | Koreana 71


宗の24本山の一つであるこの大伽藍を

かったが、最近は彩色法を開発したの

もっと身近で感じたくてわざわざ土曜

か、しっとりと落ち着いた目に優しい

日を選んで行ったのだが、新型インフ

色になっている。そのような建物とこ

ルエンザのせいで外部の客を泊めるこ

じんまりとした庭園はこの寺を非常に

とはできないと断られた。澄んだ秋空

趣のある空間にしている。しかしそれ

の下、土曜の午後の直指寺は行楽客で

でも一つだけ残念なものがあるとすれ

にぎわっていた。10年前に初めて来た

ば、それは空間に比べて建物の密度が

ときも風景は同じだった。大雄殿の三

高い点だ。

人の仏は依然として、雄壮でありなが

そのせいか私は竹林のある大雄殿

らも構成が緻密で彩色も華やかな幀画

の裏と、毘盧殿から黄嶽楼を過ぎ祖師

(仏画)を背景にして座っておられた。

殿へと続く渓谷の道がひっそりとして

天井の丹青もまた変わりなく美しかっ

いて気に入った。10年前にもそうだっ

た。1992年に金箔を着替えた毘盧殿の

たような気がする。聖宝博物館の西の

金仏像の前には今日も子宝、男の子を

庭とそこに瓦のかけらと土を混ぜて塔

授かるようにと手を合わせる女性たち

のようにぽつんと聳え立っている煙突

の姿があった。

も依然として心惹かれた。さらに今度

き届いた芝生の庭に出て、その庭の真

はもう一つ新しい物を見つけた。聖宝

ん中に茶室として使われるこじんまり

かもし出すのが、韓屋のもつ魅力だ。

博物館の向かい側の少し離れたとこ

とした建物があった。この寺では唯一

直指寺の多くの建物はそんな魅力を秘

ろに古い門が一つあった。門を開けて

と思われるガラス窓のついた洋式の建

めている。以前は塗ってからあまり

中にはいると目の前に小さな竹林が広

物だった。その庭にしばらくたたずん

経っていない丹青は色がきつくて思わ

がっていた。頭を少しかがめて竹林の

でいた。誰か出てくればお茶の一杯で

ず視線を避けてしまうような場合が多

間の狭い道を通りぬけると手入れの行

も所望しようと待っていたのだが、い

技巧を抑えて素朴で、古拙な味を

1

クァハチョン(過夏泉) という泉は、水の良いことで知られるこの都市の代表的な泉だ。この泉の水で酒を作れば味と香りがよ く、酒泉と呼ばれたという。この水で作った酒のクァハジュ(過夏酒) は現在でも金泉の人々が誇る名酒として知られている。

1 過夏泉の後ろには 「金陵酒泉」と書かれた岩 が立っている。過夏泉の水で作った過夏酒 は金泉の名物だ。 2 直指寺天王門の壁画

2 72 Koreana | 冬号 2009

3 金泉市の南の端にある修道渓谷


くら待っても人影はなく、それもまた 良かった。 今回の直指寺訪問で目についたも のが、もう一つあった。昔は気がつか なかったが他の寺に比べて特別に泉が 多かった。境内には泉、湧き水が11箇 所もあった。きれいな水があふれる小 さな石臼が要所要所に置かれてあり、 水だけは誰でもいくらでも飲むことが できた。金泉の水が良いという話をま た思い返した。

修道渓谷 修道渓谷の上流にある民宿で目を 覚ました翌朝、坂道を2、30分ほど上っ て修道庵という小さな寺を訪ねた。寺 というのはどこに行っても常に庭がき れいだ。早朝から誰かがきれいに掃き 清めたのだろう、その広い庭を昇った ばかりの太陽が静かに照らしていた。 俗人には早朝だが、僧侶にはすでに 朝のおつとめを終え、食事も終えてみ んな部屋の中にいるのか庭は静かだっ た。 修道庵は新羅の道詵国師が859年 に建てたもので、朝鮮時代に入り東学

3

革命のときに全焼した歴史がある。本 堂の大寂光殿に安置されている宝物

きてきた。石段の上から、太陽がゆっ

307号の石造毘盧舍那仏は大きさと様

くりと昇ってくる山寺の風景を眺めた

この寺も修道庵と共に 道詵国師

式から見て9世紀頃の新羅の仏像を代

私は続いて石段の下でラジオ体操を始

が創建したものだ。全羅南道霊巌生ま

表するものだという。大寂光殿の東に

めた。

れで15歳で出家した彼は風水地理の大

は薬光殿があり、ここにある石造薬師 如来坐像も宝物に指定されている。二

に明るく快活な女性だ。

家として知られているだけに国中を縦

青巌寺

横無尽にまめに歩いていたようだ。彼

つの仏殿の前庭に東西に分かれて立っ

修道庵から東に2kmほどのとこ

の足跡は彼が創建したという寺がソウ

ている三層石塔もまた宝物に指定され

ろにある青巌寺も広く知られている寺

ルのウイ洞の道詵寺をはじめとして国

ている。

だ。私はここを観光解説者の案内を受

のいたるところに無数にあることでも

残念ながら宝物の仏像と宝物でな

けて訪問した。前日市内にある金泉文

分かる。

い仏像の違いを見極めるような鑑識眼

化院の職員宋基東さんから紹介され

青巌寺という名前は寺の下の渓谷

が私にはないが、広く白い庭とその庭

た親切な観光解説者は文末順さんとい

の岩が苔のせいで青く見えることから

から大寂光殿へと続く高い石段を上っ

う。青巌寺から2km離れた下の村で食

ついた名前だ。寺に入る道端に果たし

ていくだけで自然と厳粛な畏敬心がお

堂を営んでいる30代後半の彼女は非常

て青い苔のいっぱいついた岩の壁が見 冬号 2009 | Koreana 73


1 瓦の欠片と土を混ぜて塔のように聳えてい る直指寺の煙突 2 亀城面の星山呂氏河回宅。18世紀初めに 建てられたもので、慶尚北道文化財資料第 388号に指定されている。

気で明るい。 寺から小川を挟んだ向こう側に 極楽殿と南別堂という建物がある。朝 鮮時代の粛宗の継妃だった仁顯王后が 1689年に宮廷を追われて庶民の身分に 落とされたときに山深いここに入り3 年間暮らしていたという家だ。この家 は国が王室の建築様式に合わせて建て たもので、悲運の女性の住まいとして 使われた建物は今は僧伽大学の教舎と して使われている。私が訪れた時には 極楽殿の前庭で学生たちが野菜畑の手 入れをしており、その中には青い目の、

1

若い西洋女性も混じっていた。

戦争の傷跡

えた。その向こうに見える小さな泉は

をつけなくてはならないからだ。青巌

牛鼻泉だ。風水地理で見ると、青巌寺

寺は尼寺であるうえに、尼僧だけが勉

金泉の南西の山間の村である釜項

は牛が寝ている臥牛形だというが、こ

強する僧伽大学まであるので、それで

面に釜項支署望楼というのがある。金

の泉は牛の鼻の部分に該当する。牛の

いっそう言動や態度には気を使ってし

泉市庁の文化財登録には登録文化財と

鼻が濡れてるのは牛が健康な証拠だと

まう。僧伽大学のあることは知ってい

して載っているが、観光案内図には抜

いうように、国が安泰で寺も静かなと

たが、それが尼僧の学校だという事を

けているここは韓国戦争(朝鮮戦争)の遺

きにはこの泉から水があふれ、国の中

知り、寺の境内に若くてすらりとした

産だ。文化財といってもコンクリート

に何か変事でも起きるとこの泉の水が

僧が多いわけを理解した。

の建物の残骸に過ぎず、訪れる人もな

干上がってしまうという。文末順さん

青巌寺は他の大きな寺とは違い入

く生い茂る雑草の中に放置されている。

り口近くに飲食店のようなものが並ん

しかし私は実は多くの金泉の市民がこ

でいることもなく入り口から人の出入

の廃墟のような石の塊を胸に抱いて暮

では話すのが「大変だ」とつぶやいた。

りを拒むような厳しい感じのする寺だ。

らしているのではないかと思った。

寺の静かな雰囲気を壊さないように気

しかし境内は若い学生尼僧たちの雰囲

が説明してくれた。 彼女は説明の途中で二回もこの寺

74 Koreana | 冬号 2009

11歳の頃から鍮器 (ユギ;真鍮製の


器) を作り始めてこの道62年間の金一雄

の命を失った。銃を手にした軍人が死

のだ。金泉はそうして消えていったも

さんは金泉の誇る鍮器匠だが、彼は韓

んでいくのは仕方がないとしても、避

のたちの跡を、時がはるかに過ぎ去っ

国戦争の時に自分が作った器を背負っ

難せずに山中の自分の家を守っていた

た今でも依然として埋められずにいる

て南の倭館まで避難したという記憶を

多くの村人もまた、むなしく命を失わ

のだ。

もつ。私が一泊した民宿のご主人も倭

なければならなかった。民宿の主人の

釜項支署望楼のある釜項面には釜

館まで行ったと言っていた。さらに南

叔父も避難せずに残っていて共産軍に

項川が流れている。この地域の人々の

に避難できなかったのは、そこで洛東

協力したという理由で反逆罪に問われ

水がめである甘泉の数多くの支流の中

江にかかる橋が爆破さてしまい南に向

て処刑されたという。

の一つである釜項川では今、ダム工事

私はここに至り、10年前の金泉の

が行われている。貯水量5430万トンを

金泉は韓国戦争の被害が最も大き

初印象がどこから来たのか分かった気

予定するこのダムが建設されれば釜項

かった地域だ。ソウルをあっという間

がした。戦争が終わって半世紀近くが

面の古くからの村々が水の底に沈むこ

に占領し南下を続けた北韓軍(北朝鮮

過ぎた現在も金泉は韓国戦争の悪夢か

とになる。その日に備えて新しい道路

軍)は交通の要所であるここを前線基地

ら抜け出せずにいるのだ。普通の韓国

を作りトンネルを掘る工事が同時進行

として大邸と釜山を攻略する準備をし

の古くからの農村には伝統的な韓屋が

している。その一方で釜項川の川底か

た。それに対して国連軍は人口の密集

あるものだが、ここには韓屋らしい韓

ら新石器時代と青銅器時代の住居の遺

した市内を中心に、この由緒深い古都

屋はほとんど見かけない。亀城面の星

跡を発掘する作業も行われている。昔

の全域に莫大な量の爆撃を加えた。そ

山呂氏河回宅というのが私の見た唯一

の物と、新しい物が絶え間なく交差す

れで市街地の80%が焼失してしまった

の伝統的な韓屋だった。それさえも空

るまさにここが人間の定住空間だ。金

のだった。

き家となり荒廃していた。戦争中に美

泉は果たして今後、どのように変わっ

しいものはすべて消え去ってしまった

ていくのだろう。

かう道が途切れてしまったためだ。

双方の攻防戦の中でこの町は多く

冬号 2009 | Koreana 75

2


料理

76 Koreana | 冬号 2009


冬の食卓を飾る海の味

クルパブ (牡蠣飯)

韓国人は食事に変化をつけたいとき、ご飯を炊く際に海産物や野菜な どを入れてに炊く韓国式炊き込みご飯を作る。こうして炊き上がった ご飯に、ヤンニョム(薬味:合せ調味料)をかけて混ぜて食べるもので、 ご飯の上にあらかじめ調理したナムルをのせて食べるピビンパブとは また一味違う風味が楽しめる。加える材料によって、「クルパブ(牡蠣 飯)」 「コンナムルパブ(大豆もやし飯)」 「ムパブ(大根飯)」など、多様な 味を楽しめるが、ここではその中から「クルパブ」を紹介しよう。 シム・ヨンスン (沈暎順、料理研究院長、「最高の韓国の味」の著者) 写真 : 安洪范

「ク

ル(かき)」はクルチョゲと

成分と効能

もいい、漢字では牡蠣・石

牡蠣は「海のミルク」といわれるほ

花などと表記する。牡蠣

ど栄養が豊富だ。鉄分を含んでいるの

は海に住む牡蠣科の軟体動物で硬い殻

で「貧血」にも良い食品で、肝臓の弱い

に包まれている。牡蠣の種類は22種類

人の体力回復にも良い。タウリンも多

ほどだと言われているが、すべて食用

く塩分の採りすぎで発生する高血圧を

になる。牡蠣が食用となった歴史は非

改善してくれ、血漿中のコレステロー

常に古く韓国では先史時代の貝塚の中

ルを下げ、血圧を抑えてくれる。その

から牡蠣の殻が数多く出土しており、

他の微量栄養素としてはビタミンA、D、

何冊もの古書に牡蠣に関する記録が多

E、B1、B2、C、ナイアシン、そしてカル

数残っている。特に朝鮮時代の人文地

シウム、カリウム、リンなどが含まれ

理書の『新増東国興地勝覧』には江原道

ている。特に牡蠣のカルシウム成分は

を除いた7つの道の特産物だと記録さ

体内への吸収が非常に早い。また牡蠣

れている。このように牡蠣は昔から韓

は煩熱と喉の渇きにも役立ち、血色を

国人にとても愛されてきた食品だ。

良くする。そしてたんぱく質の中には

牡蠣飯。牡蠣といろいろな副材料をよく混ぜてから蒸らすが、 混ぜないできれいに並べて視覚的な効果を高めても良い。 冬号 2009 | Koreana 77


「クルパブ」 の主材料は牡蠣だが、その他の海産物と野菜、そして各種ナッツ類を加 えると、牡蠣の風味がよりいっそう増す。食べ方は熱いうちに器に盛り、マスター ド入り醤油ソースを混ぜて食べる。

ヒスチジン、リチンが豊富だ。牡蠣は

い上、身も崩れやすくなり味も落ち

身が柔らかいので消化も良く、患者や

る。

牡蠣は買ってすぐに食べるのが

お年寄り、幼児にもうってつけの食品 だ。

感のあるものを選ぶことが大切だ。

よい。保管するときには殻つきの場合

鮮度の見極めと留意点

は10度以下の冷蔵庫に保管するのがよ

韓国で養殖されている牡蠣は秋

牡蠣は独特な味と柔らかな食感

く、水揚げから1週間以内に食べるよ

から冬にかけてで、この時期が栄養が

があるので生で食べるのが一番おい

うにする。剥き身のものは10度以下の

最も豊富で味もが旬良い。特に動物性

しい。それだけにまた選別、保管、管

海水に浸して保管するが、日ごとに鮮

澱粉でエネルギー代謝に重要な物質で

理が非常に難しい貝類の一つだといえ

度が落ちていくのでなるべく早く食べ

あるグリコーゲン、すなわち糖原、糖

る。牡蠣を選ぶときには新鮮度の高い

るようにする。

原質の量がこの時期の牡蠣に最も多

もの、すなわちできるだけ生きてるも

牡蠣の天然物と養殖を目で見分け

い。一方、春から晩夏までは産卵期な

のを選ぶのが良い。特に身が有白色

るのは難しい。ただ適期に出荷される

ので、季節的に牡蠣の中に石花質が増

で、光沢のあるものが新鮮な牡蠣だ。

養殖物は大きさも均等で、天然物より

え、流通時に鮮度の維持が旬の時期に

また手で押してみて、弾力があるも

比べると難しくなる。その為、特に真

の、特に身の端の部分

夏には生で食べるのは避けたほうがよ

が鮮明で弾力

い。また、生殖素が熟成し毒化しやす いので、生で食べると中毒になりやす

牡蠣飯の副材料。冷蔵庫の中で保存して いた海産物や野菜を利用して、その時々 で変化をつけることも可能。 78 Koreana | 冬号 2009

も発育状態が良い。しか


クルパブ(牡蠣飯)の料理方法 し天然物であれ、養殖であれ毎年、産 地ごとに味は違い、流通過程での鮮度

牡蠣飯の材料

の維持によっても味が違ってくる。そ

米 3カップ、昆布 20g、牡蠣 400g、干しえび100g、あわび 1個、大

の為、前述した新鮮な牡蠣を見極める 要領に従いよく選ぶべきだ。

根 50g、エリンギ 30g、栗 3個、銀杏 大さじ2、ナツメ 4個、胡桃 大 さじ 1、松の実 大さじ 1、ごま油、香辛汁、海産物味の醤油、食用 油、塩。

下準備と料理 牡蠣は絶対に淡水に浸したり、

ヤンニョム 醤油 大さじ 2、昆布のだし汁 大さじ 2、ねぎ(みじん切り)大さじ 1、

洗ってはいけない。それが牡蠣の殻を

マスタード入りの酢味噌 大さじ 1、メイプルシロップ 小さじ 1/3、

剥くときや調理時に牡蠣の味を損なわ

柚子茶 小さじ 1、コショウ少々。

ないための基本原則だ。塩水で洗えば 牡蠣の味を維持することができる。 牡蠣飯は味と栄養を兼ね備えた 料理だ。韓国では牡蠣飯を一年中、手

料理法 1米 は洗ってゴマ油をかけておく。 2水 2カップに昆布20g、香辛汁大さじ 1、海産物味の醤油大さじ

軽に味わうことができるが、何よりも

2、塩少々を入れてさっと煮立てる。香辛汁は玉ねぎ、にんにく、

旬の新牡蠣を新米に炊き込んだ牡蠣飯

生姜、梨の混合汁で、なければ省略しても良い。海産物味の醤油

こそ、その珍味を最もよく味わえるメ

は薄口醤油に煮干、昆布、かつお、イカ、玉ねぎを入れて煮た醤

ニューだ。ここでは牡蠣の味をさらに

油で、醤油を水で薄めたもので代用してもよい。

引き立てる海産物と野菜、そしてナツ

3牡 蠣は塩水に一、二度洗い、殻などの汚れを取り除き、水気を

メ、胡桃、松の実、銀杏などの各種

切ってさっと湯がく。海老とアワビは薄く切ってエリンギと共に

ナッツ類を入れて釜で炊き上げる牡蠣 飯を紹介する。食べ方はマスタード入 り醤油ソースをかけて混ぜて食べる。

さっと炒める。栗は皮を剥きナツメは種を取り出しそれぞれ4等 分して入れる。大根は細かく切って湯がく。 4 1の材料に2の沸騰しただし汁をいれてお米を炊く。 5ご 飯を蒸すときに3の材料とナッツ類を入れてよくかきまぜて、 ゆっくりと蒸す。 6炊 き上がった牡蠣飯を器に装い、ヤンニョムを小皿に取り分けて 添える

冬号 2009 | Koreana 79


遠くの目

上田秋成と朝鮮通信使 朝鮮通信使と日本の民間人の一医師との心温まる交流のエピソードであるが、後に医者となった秋成 は、自分が見た通信使と義理の叔父の間に、こうした因縁があったことを知る機会があったかどうか、 明らかではない。 ながしま・ひろあき(長島弘明、東京大学教授)

く続いた鎖国体制により、江戸時代の庶民にとって、外国人の姿を見る機会はきわめて 稀であった。そんな中、徳川将軍の代替り等の折に日本にやって来る朝鮮通信使は、強 い印象を与える存在だったようで、江戸の文学作品や随筆の中にも時折登場する。

江 戸 時 代 中 期 の 文 学 者 で 、 小 説『 雨 月 物 語 』 『 春 雨 物 語 』の 作 者 と し て 著 名 な 上 田 秋 成 (一七三四~一八〇九)の文章の中にも朝鮮通信使が登場する。秋成は、通信使と実際に会った経 験のある人である。 秋成が最晩年の七十五歳の時に書いた随筆『胆大小心録』に、次のような一節がある。 「唐人を二度見た事をとし忘れ」といふ俳句があつたが、翁は二度見たが、三度は見る事のな らぬ事じやさうな。十五さいの時と、三十さいくらゐの時とじやあつた。唐人といふたれ ば、儒者が韓人じやといふてしかつた事じやあつた。大坂の御堂(みどう)へ、ちよと贈和に 出た事があつた。 俳句は、忘年会で老人が、「俺は朝鮮通信使を二回も見たことがある」と自慢話をしている様 子を詠んだものである。引用文の後半には、儒学者に「唐人」と言ったら、正しく「韓人」と言えと 叱られたと書かれている。「唐人」は元来は中国の人のことだが、庶民は中国と朝鮮を区別せず、 朝鮮の人のこともこう呼んだのである。江戸時代の朝鮮通信使は一八一一年に途絶するまで十二 回を数えるが、頻繁だったのは第一回の一六〇七年から第六回の一六五五年までの半世紀で、あ とは間遠になっている。現に、秋成の在世中には、寛延元年(一七四八年、秋成十五歳)と、明和 元年(一七六四年、秋成三十一歳)の二回のみであった。秋成は、一七六六年に出版した最初の小 説『諸道聴耳世間狙』 (しょどうききみみせけんざる)でも、倹約家で堅物の男を「朝鮮人を三度見 たよりは咄(はな)しのない男ぞかし」と記している。 「大坂の御堂へ、ちよと(「ちょっと」の意)贈和に出た」というのは、朝鮮通信使の大阪の宿泊 所が、現在も大阪市中央区本町にある北御堂すなわち西本願寺の津村別院で、その滞在の折に、 御触書 (おふれがき) が出て、民間人で希望のある者を募り詩作の贈答を許したことを指している。 秋成が通信使一行と会ったのは、明和元年正月二十二日のことであった。その時の様子の一部が、

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上田秋成陶像(京都西福寺蔵)

秋成の後年の仮名遣いと音韻の研究書 『霊語通』 (れいごつう、一七九七年刊) に書かれている。 我弱年の昔、朝鮮の使の浪花の客館に在し間(ほど)、事の便有て、外(よそ)ながら説話(も のがたり)するを聞たりしに、男子を乙吶骨(をとこ)、女子を乙南娯(をなご)、腰刀を客打 乃(かたな)、烟管を吉節楼(きせる)などやうに、多くは短促の音のみにとなへしを思へば、 我国音はとなへぐるしき事と聞ゆ。 秋成は朝鮮語を実際に聞いたのである。また、先に掲げた『胆大小心録』の後の部分には、製 述官の南秋月や正使書記の成龍淵の短い印象も書かれている。 さて、秋成は実父は不明、実母の松尾ヲサキとも幼い頃に別れて上田家の養子として育っ た人だが、実母の姉妹だった人(俗称不明、法名は考照貞寿大姉)の夫である樋口道与が、秋成 十五歳の時の寛延の通信使と深い関係を持っている。道与は津軽出身で、宇都宮藩に医師として 仕えた後、この頃は大阪の町医者であった。寛延元年四月二十六日、大阪に滞在していた通信使 一行の船夫が、誤って火薬により大やけどを負った。十日以上経っても危険な状態が続き、官命 で尻無川(しりなしがわ)に停泊中の船に治療に赴いたのが、名医であった道与である。最初は日 本の医術や薬を疑っていた一行も、薬品は日本産ながらも人参や五味子は朝鮮産の物を使い、処 方は朝鮮の『東医宝鑑』に拠るという道与の配慮と熱心な説明に納得して治療を委ね、患者は回復 した。その後は、他の病気の者も皆こぞって治療を求め、道与はこれを快癒させたという。この 間、正使たちは将軍と会うために江戸に下っており、大阪に戻ってから道与の功績を聞いたが、 日程的に直接感謝を伝えられず、帰途の蒲刈(かまがり、今の広島県)から礼状と謝物を贈ったと いう。翌年に出版された道与著『韓客治験』 (かんかくちげん)は、この経緯と通信使の上々官(訳 官)三名連名の感謝の手紙、診察した患者のカルテ、また朝鮮の随行医である趙活庵と道与との、 人参葉の効用等に関する問答を記した本である。 朝鮮通信使と日本の民間人の一医師との心温まる交流のエピソードであるが、後に医者と なった秋成は、自分が見た通信使と義理の叔父の間に、こうした因縁があったことを知る機会が あったかどうか、明らかではない。

冬号 2009 | Koreana 81


暮らし

韓国のブログ・ パワーとパワー・ブロガー

びは分かち合えば倍になり、悲しみは分かち合えば半分になるといわれる。 人々とのコミュニケーションは我々の暮らしに意味を与え、人生をより豊 かにしてくれる。そのため、我々人間は言語を使い始めてから、人と感情

を分かち合おうとしてきた。時代と供に我々の経験を共有する伝達メディアが変わっ ただけて、本来の動機は変わらずに受けつがれてきた。新世紀のスタート直前に「ブロ グ」という新メディアが誕生し、世界に普及している。韓国も例外ではなく、韓国なら ではのユニークなブログ文化を発展させている。

世界的な現象 「ブログ」という言葉は「ウェブログ(weblog)」という新造語から派生した言葉であ るが、もともと「ウェブログ」はジョン・バーガーが1997年に使い始めた単語であり、最 近掲載された文章を順番通りに見せる日誌形式を説明するために作った言葉である。 ブログを使い始めた正確な時期に関しては意見が分かれるが、1999年にアメリカのピ タスというブロガーのブログ・サービスが始まってから普及が本格化した。現在存在 するブログの正確な数は分からないが、広く知られたブログ検索エンジンのテクノラ ティ(Technorati)によると、2008年現在1億1280万個のブログが集計されたという。 ブログの波が韓国まで到達する数年前の2001年、ウェブログ・イン・コリアとい うサイトが誕生した。同サイトは150人余りの初期ブロガー・コミュニティであり、韓 国におけるブログ歴史の第一ページを飾った。しかし、アメリカと同じくブロガー のニーズに応えられるサービスが登場してからようやく、ブログの流れが本格的に始 まった。その一例として、1999年にスタートした親交ネットワーク・サイトのサイワー ルド(CyWorld)が2001年に「ミニHP」サービスを始めた。同サービスはユーザ-がメッ セージを残したり、写真が掲載できる無料サービスであり、多様な背景画面やオンラ イン・スペースで自分の代わりとなるアバターの衣装などを購入できる機能ももってい る。同サービスは2002年秋から本格的に成長し始めた。 82 Koreana | 冬号 2009

韓国では様々なブログがネット文化の 中心軸として機能している。ブログの 運営を通して有名人になった「パワー・ ブロガー」達も多い。


2007年韓国インターネット振興院がまとめた報告書によると、韓国のイン ターネット・ユーザの56.8%がブログに定期的に接していて、42.9%は自分のブ ログを運営している。ブログの普及に伴って、いわばパワー・ブロガーも登場 した。 チャールズ・ラ・シュール (那秀昊、韓国外国語大学校 通訳翻訳大学院教授) 写真 : 安洪范

2003年に入って、韓国初のブログ専門サービスであるエイ ブルクリック(AbleClick)の誕生で韓国ポータル・ブログ時代の 到来とブログの大ブレークを予告した。新しい流れに応えるべ く、ダウム、ネート、ネイバー、ヤフー・コリアなど、商業的 なインターネット・ポータルサイトが我先にブログ・サービス 分野に参入した。ポータル・ブログ・サービスは韓国のネット・ユーザ 達にブログを紹介すると同時に、韓国におけるブログスピアーの強者 として存在してきた。それ以来、ブログは韓国のインターネット文化 の中心として根付いたが、この現象は自分のブログを通じて有名人に なった「パワー・ブロガー」や日常的にブログ活動を行っている数多くの ネット・ユーザを通じて確認できる。

韓国のブログスピアー 今やブログは韓国文化の要素として位置づけられている。広報会社の エデルマン社が 2007年にまとめた「世界のブログスピアー白書」によると、 韓国はブログを定期的に接する人の割合が42.9%にのぼり、人口に対する比 率において日本に次いで二番目に多かった。この結果に似た内容が韓国インターネッ ト振興院からも発表されたが、韓国のネット・ユーザのうち56.8%の人が定期的にブロ グに接していて、また42.9%は直接ブログを運営していた。 ブログの普及に伴って、いわゆるパワー・ブロガーも登場した。パワー・ブロガー は料理や映画に関する感想、あるいはブログそのものに焦点を合わせるなど、特定の テーマに絞ったブログを運営しながら質の高いコンテンツを頻繁に掲載し、ロイヤル ティーの高い固定読者を確保している場合が多い。そのため、パワー・ブロガーの中に は専業のブロガーになって自分のブログ・サイトに広告を誘致したり、ブログに掲載し た内容をまとめた本を出版することなどで収入を上げる場合もある。 冬号 2009 | Koreana 83


夕食の献立に迷ったら?最近の人気映画に対する人々の評判が知りたいなら?あるいは、水泳やサイクルなどのスポーツを始め たいが? そんな時ブログ・ゴー・スピアーにいけば、あなたと同じ興味を持っている人や、あなたが求めている情報に関する書き 込みを掲載した人に出会うかもしれない。韓国人にとってブログは情報の宝庫なのである。

1

ムン・ソンシルさんは幾つかの料理関係のウェブ・サイト

女自身の経験に基づいたストーリーをベースにしているこ

を運営している双子の母親である。彼女はおいしい料理方法

とがユニークである。彼女の語り口は高い人気を得て、ウェ

を紹介しているが、料理の手順を説明した写真を添えている

ブ・サイトを開設した2年間の訪問者件数は百万人を超え、

のが特徴。彼女はウェブ・サイトに掲載した料理レシピをま

現在は自分の出版社を立ち上げ、これまでに2冊のエッセイ

とめた本を4冊も出版した。また、イ・ジソンさんはブログ・

集を出版した。

コリアというメタ・ブログを運営している。メタ・ブログとは

伝統的に出版やマスコミなどの分野の壁はかなり高く、

ブログに対するブログであり、ブログスピアーから優れたも

この分野で成功するためには長い時間と努力が必要であると

のを探して、ユーザに提供するウェブ・サイトである。彼女

されていた。ところがブログは、このようなハードルを低

も「ブログ作成―パソコン初心者からパワーブロガーまで」と

くし、才能さえあれば誰でも成功できることを証明したパ

いうタイトルのブログ指南書を出版した。チェ・ムンジョン

ワー・ブロガー達は、彼らが選択した分野で一生懸命に努力

さんもブログを通じて出版業に参入したパワー・ブロガーで

し、また時間とエネルギーを注ぎ込んでいる。乗り越えなけ

ある。彼女は料理やブログなどの特定のテーマではなく、彼

ればならない障壁が何であれ、チェ・ムンジョンさんのよう

84 Koreana | 冬号 2009


1 ネット文化に親しい主婦らは、ブログを検 索して夕飯の献立を立てたり、お気に入り のレシピを見つけて料理を作ることも多 い。 2, 3 ブログというサイバー・スペースは、押花、 活花など、多様な趣味生活を支えている。

2

3

なパワー・ブロガー達は、自らの手でやりながら成功できる

ツを見る可能性が高い。どんなポータル・サイトであっても、

能力を見せてくれた。彼らの影響と動機は従来のメディア経

初期画面には人気のあるブログの最近記事がリンクされてい

路を避けて、仲介者の介入なしでロイヤルティーな読者と新

る。ネイバーなどのポータル・サイトは人気ブログをアピー

しい読者に自ら近づくものであった。

ルするための取り組みとして、文化・芸能・室内インテリア・

もちろん、皆がパワー・ブロガーとして成功できるわけ はなく、韓国のブログスピアーのほとんどはよく知られてい ないブロガー達である。中にはパワー・ブロガーを目指す人

ライフスタイルなどの分野におけるパワー・ブログを毎年選 定している。 ブログの読者がブロガーだけに限られているとすれば、

もいるが、情報の高速道路の路肩に小さな屋台を開いている

ブログスピアーというスペースはただブロガー達が集まって

ことに満足する人がほとんどである。ある人はサイワールド

お喋りするスペースに過ぎないだろう。しかし、ブログを運

にミニHPを運営しながら、家族や友達と写真を共有した

営しない人であっても、韓国の人々は多様なブログを定期的

り、ある人は幾つかのポータル基盤サービスの一つにブログ

に読んでいる。彼らはネイバーやヤフー・コリアなどの代表

を運営して、人生や様々なテーマに関する自分の考えを紹介

的なポータル・サービスのHPを利用することになる。検索

している。

エンジンにキーワードを入力すれば、ニュース記事、一般の

ブロガーというと、アメリカ人はブログスピアーの一 角を開拓して何人かの友たちと家族のためのコンテンツを作

ウェブ・サイト、ブログ、スポンサー・リンクのカテゴリーの 下に検索結果が現れる。

る一人ぼっちのブロガーのイメージを思い浮かべるかもしれ

注目すべき点は有料のリンクやスポンサー・リンク、各

ない。しかし、韓国の状況はちょっと違う。アメリカのブロ

ポータル・サイトの特別カテゴリーの次に「ブログ」のカテゴ

グがほとんどブロガー、ライブ・ジャーナル、タイプ・パッド

リーが登場するケースが多いことである。夕食にを作る前

など、専門のブログ・サービスを利用している反面、韓国の

に、おかずの作り方が知りたいのか。最新映画の評判が知り

ブログのほとんどはポータル基盤サービスを利用する。韓国

たいのか。あるいは水泳やサイクルなどのスポーツに関心が

にもティストーリーやイグルスなどの専門ブログ・サービス

あるのか。ブログスピアーを訪問すれば、あなたと同じ関心

が現れたが、インターネット・ポータル会社やその親会社<

を持っている人、あなたが探している情報に関する内容を書

前者はダウム・コミュニケーション(Daum Communication)、

き込んだ人が見つかるはずだ。韓国人にとってブログは情報

後者はネイト(Nate) とサイワールドを運営している SK情報

の宝庫である。

通信>に属している。

しかし、ブログに対するこのような態度は世界普遍の

韓国のブロガーにとって、こうした環境は既存のコ

ものではない。たとえば、アメリカではブログの数が増えた

ミュニティーと直接つながることが便利であるため、友達な

だけ、ブログが検索プロセスに妨げとなるという懸念が増え

どの小規模のグループの他にも、一般読者が自分のコンテン

ている。ある大学生はブログが「ただのお喋りだけなのに、 冬号 2009 | Koreana 85


出版企画者たちにとってパワー・ブロガーらは目ぼ しい著者である。さらに、ロイヤルティーの高い読 者を抱えているパワー・ブロガー自ら出版社を設立 するケースもある。

まるで重要な情報であるかのように済ました顔をしている」

利な立場にありながら、ブロガーとポータル・サイトとの利

とし、「重要な政治的・社会的事件が起きれば、グーグルは騒

害関係の衝突は続くものと予測した。

音に満ちてしまい、適当なブログを見つけるためには40番以

ブログの将来や行方は予測しがたい。しかし、ポータ

後のテキストから探さなければならない」と文句を言ってい

ル・サイトが韓国のブログスピアーにおいて重要な役割を果

た。2003年にグーグルがブロガーを買収して間もなくこの問

たし続けることは間違いなく、過去の歴史が証明するよう

題が浮上し、「ブログ検索」という別のページを設けるように

に、大衆の希望と願いが永遠に抑えられることはありえな

なって、ほとんどのブログが主要検索結果から姿を消すよう

い。韓国の歴史を顧みれば、彼らの信念のために立ち上がっ

になった。しかし韓国では、最新のニュースや事件に対する

た市民の話はすぐ見つかる。従って、強い信念を持っている

「市民記者」の意見がネット・ユーザ達からいい反応を受けて

ブロガーが充分多くなれば、ブログスピアーにおける革命も

いる。外国に比べて韓国の ブログスピアーは、皆が平等な

起こるだろう。その革命の方向は、独立したブログ・サービ

立場で、意見も正しく受け入れられる点で、真の意味でのオ

スが現れて、ポータル・サービスと競い合う方向になったり、

ンライン民主主義を実現しているといえる。ブログは最新の

あるいは、より多くのブロガー達が彼らのドメインを持って

テクノロジーに詳しい韓国人にとって、情報社会の持つ他の

ブログを運営することになるかもしれない。

様相と同じく、日常生活の一段面を見せているのだ。

ブログスピアーの発展の方向がどうあれ、ブログが韓 国人のライフスタイルにおいて中心的な機能を果たしている

今後の行方は?

ことは確かである。人々が長い間、自分の思いを記録するた

韓国におけるポータル基盤のブログの広がりは、コ

めに日記を書いたり、友達や家族と経験を分かち合うために

ミュニティーの一員という所属感を与えると同時に、ブロ

手紙を書いていたことと同じく、もはやブログは老若男女を

グ・コンテンツへアクセスしやすくしているが、だからと

問わず、韓国人が彼らの生活を他人と共有するツールとなっ

いって、まったく短所がないわけではない。自ら自分をアー

た。彼らは一個人でありながら、ブログを通じて彼らが韓

リーアダプターと呼んで、2008年度の「今年のブログ・アワー

国国民の一人、引いては全人類の一部族であるという事実を

ド 科学技術分野 top10」として選ばれたITコンサルタントの

確認している。今日のブログが十年前のそれと比べて少し変

イ・ガンソプさんは、ポータル基盤のブログスピアーの限界

わったように見えるように、これから十年後にはまた変わっ

について「企業に対するインサイダー告発や、消費者の製品

ているはずだ。しかし、彼らを束ねる共通のネット、つまり

に対する批判、政治的批判に対するポータルの立場が明確で

世界の人々が共有していて、引いては世界の一部分になろう

あるだけに、ポータル・ブログ・サービスのユーザのメディア

とするニーズは変わらないだろう。こうしてブログは、これ

傾向は弱まりつつある」と述べている。彼は「ポータルはブ

からも韓国人の暮らしの中で大きな役割を果たし続けるだろ

ロガーとの対立を通じて、ブログをコンテンツの生産者に留

う。

まらせる可能性が高い」と言いながら、ポータル・サイトは有 86 Koreana | 冬号 2009


李文烈

イ・ムンヨル(李文烈)は1977年に文壇にデビューして以来、個人の実存的な苦悩、宗教と芸 術、分断とイデオロギーの葛藤など、幅広いテーマをさまざまな形式を借りて扱ってきた小 説家だ。『ひとの子』、『若き日の肖像』、『皇帝のために』、『変更』などをはじめとして数多く のベストセラーを誕生させたこの人気作家の1982年の作品『匿名の島』は特有の“観念優位の創 作方法”がよく表れている短編だ。


作家評

ベストセラー作家の観念の世界

李文烈の『匿名の島』 チョン・ホンス (鄭弘樹、文学評論家)

本主義近代社会の変容と呼応するかのように、小説という新たな叙事形式が発生したことに より、「物語」はその役割が縮小されるほかなかった。しかしそうはいっても物語ること、物 語を聞くという人間の根源的な欲求が、近代小説の展開においても依然として無視できない

エネルギーとして作用していることを否定することはできないだろう。 20世紀の韓国文学において小説家李文烈(1948~)の華麗な文壇デビューと読者の熱い喝采を理解す るには多様な脈絡へのアプローチが必要だろうが、何よりもこの作家の「巧みな語り手」としての顔を強 調し過ぎるということはないだろう。'教養主義’を目指す知的博覧強記ともいえる人事の隅々から発掘 した絢爛とさえいえるほどの多彩な小説のテーマについて話すこともできるし、生まれつきのようでも あり、東西の古典の格別な咀嚼とも無関係ではないように見える洗練された流麗な文章力について語る ことも李文烈の小説の魅力とパワーを解明するのに引用可能な方法だ。'遠くにあるものに対する憧れ” ‘を内在したロマン的な世界認識や、ときには退行的にさえ見える東洋精神の権化に対する郷愁を帯び た文学的な表情も彼の小説を彩色するのに欠かせない要素だ。それに対して、北に行ってしまった父を もつ家族史の苦痛と、それを乗り越えようとする実存的な模索の中での理念の暴力と虚妄への批判、さ らにそれを継続しつつ小説的なテーマとすることで、分断以後の韓国現代文学の最もホットな課題と正 面から対決してきた姿勢もまた李文烈文学の文学史的な重さだといえる。 しかしすでに幾人もの評論家が指摘したように、李文烈の作家的な個性は何よりも「ストーリーテ ラー」としての能力に求めるべきだろう。それは李文烈が叙事詩やロマンなど、近代以 前の「物語形式」と決別しなければならなかった近代小説の特色を備えていないと いうことではない。彼の代表作の一つにあげられる『皇帝のために』がそうであ るように、李文烈が彼の作品で駆使する「時代錯誤」は大部分意図的なものだ。 ストーリーテラーとしての能力が彼の小説で特に目立っているとしたら、彼は この部分で近代小説の運命的な航路を批判的に見つめていたということだろう。 しかし一方で「卓越したストーリーテラー」としての顔が、実は李文烈の小説 を特徴付けるもう一つの重要な側面である「観念優位の創作方法」につながっ ているという点にも注目する必要がある。李文烈の小説に登場する多彩な 小説的テーマは、厳密に言えば現実に開放されていない。作家はある小 説的なテーマに対してすでに頑強な自分の見解を持っているように見え る。開かれた現実探求の過程で小説の叙事が展開されるというよりは、 作者自身の見解の説得と確認のための洗練された文学的な修辞に小説 の叙事が奉仕しているという感じがするのはその為だ。そして李文烈 の小説の得意な領域である幅広い知識と教養の人文主義、流麗な文章力

88 Koreana | 冬号 2009


が光を発揮する部分もまた、この修辞学的な部分だ。「善行観念の優位」が叙事を貫通し多様な曲 調の話を編み出していくという点に李文烈の創作方法の核心があるのだ。 1982年に発表された短編『匿名の島』はこのような李文烈の小説の特徴をよく表している。こ の作品は慶尚道の山奥のある同属部落を背景に村の女性たちの性的な欲望の処理方式に 関する、言わば小説として書かれた人類学的な事例報告書だといえる。その過程で作 家は現代の都市の一つの特色としてよく取り上げられる「匿名性」を特に現代の都市に 限られたものではなく人類普遍のテーマに置き換えるという小説的な錬金術を駆使 する。 秘密ダンスホールに関するニュースを視聴していて時代の性的な腐敗、または 道徳的な堕落を現代社会の「匿名性」と関連づけて嘆く「夫」の説教調の話は、小説の語 り手である中年女性の「私」の記憶を10数年前、教育大学を卒業し田舎の僻地の小学校に初赴任した頃に さかのぼらせる。そしてその記憶とは、近親の血縁で縛り付けられていた田舎の同属村もまた、その匿 名的逸脱の例外ではなかったことを証言している。 つまり『匿名の島』はすでに小説の語り手である「私」により物語の最初と中間と最後が完全に整理 されてまとめられた回想を読者に再加工して聞かせる形式をとっている。赴任の初日、バスの停留所で 出会った朦朧さと狂気が混在した異常な目つきの男。そこから始まる小説は語り手のこの男に対する疑 問と推理的な流れに乗り、少しずつ事態の真相に接近するが、この過程で作家が準備しておいた物語の 複線と結末は非常になめらかで、その自然さが疑われるほどだ。これは『匿名の島』の叙事的な滑らかさ が、予定されている答えから演繹的に構成されているからだ。その異常な目つきのケチョルという人物 が村の女たちの性的な欲求を解消する公認された愛人であり、これに女たちの夫を含めた村全体が暗黙 の同意ないしは合意をしているという驚くといえば驚くような事実も小説を読んでいる読者にはある程 度は予想可能な感じを与えるのもまさにそのためだ。そのため小説の語り手である「私」が公然とした秘 密の性的な提案にいつの間にか同調していたという「衝撃的な」告白もこの小説の叙事的な作為に対して 作家が準備しておいた精巧なアリバイとなる。ここで私たちは「観念の優位」という李文烈の小説の創作 方法論を再び確認することになる。 一社会の存続と維持には合理性を超えた剰余の欲望に対する調節が必要であり、そのために人間 社会が準備した人類学的な知恵としてケチョルのような、もう一つの剰余の存在はそれなりの普遍性と 正当性を付与されたといえる。そしてこのケチョルの存在は人間社会のある隠蔽された側面を解明する なかなか見事なアルゴリズムでもある。この魅力的な人類学的な観察は作家李文烈固有のものではない が、そこから『匿名の島』という面白い話を作り出した卓越したストーリーテラーとしての能力は「李文 烈」という名前を文学的な固有名詞とするのに十分だ。

冬号 2009 | Koreana 89


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