夏 号 2012
韓国の文化と芸術 特集 夏号 2012
閑 vo l. 19 n o . 2
麗
水
道
島を抱いてゆるやかに 流れる南海の道
海と素晴らしき島々 芸術あふれる海辺の都市、統営
閑麗水道
v o l. 19 n o. 2
ISSN 1225-4592
韓国のイメージ
青い山の向こう、遠くに見える / 真っ青な故郷の空、懐かしい空よ いつも故郷の家が懐かしくなれば / 山の向こうの空を見上げる
20世紀の半ばまでこの国の子供たちはこんな童謡を歌って育った。全国土の70%が山林の韓国、人々の 心の故郷の風景にはいつでも地平線の向こうに山がそびえていた。山はいつでも「プルン(青い)」山だった。 韓国語の形容詞「プルダ」という言葉の意味する色彩は可変的だ。近くに見えるときの「プルン」山は青い山 ではなく緑の山だ。遠くに見えるときの「プルン」山は青だ。遠くにあるか、近くにあるかによって色彩が
私の故郷は キム・ファヨン (金華榮、文学評論家 ・芸術院会員) 写真 : 徐憲康
変わる山を常に眺めて暮らしてきたこの国の人々の故郷はそのプルン山の遙か彼方にあるので 目に見えはしなかった。プルンという色は遠くの色だ。プルン山の向こうの故郷はいつでも帰 りたい原初的世界だ。それでこの国の子供たちは常に同じ風景画を描いていた。背景には青い
山が連なっており、その山の麓には藁葺き屋根の家があり、その家に白い道がくねくねと続いている。家 と家の間には古木が高く聳え立ち、道端には野菜畑の緑が広がっている。 しかし産業化、世界化によって人々は農村の故郷を離れ、都会へと集まって住み始めた。早朝く起きて 仕事に出かけ、夜遅く疲れて家に帰るとそのままベットに横たわる都会の人々は「青い山の向こう」の故郷 を懐かしみながら生きてきた。1970年代の産業化、そして「セマウル運動」の波の中に藁葺き屋根の家も消 えてしまった。人々は毎年、新しく葺き替えなければならない藁のかわりにスレートや瓦で屋根を覆い、 あちこちにアパートを建てて都市を建設した。暮らしは豊かになり、国は発展した。しかしもはや青い山 の向こうには藁葺き屋根の家と白い道、緑の野菜畑の広がる懐かしい故郷はない。故郷は生活博物館に なってしまった民俗村や古くからの童謡の中で剥製になってしまった。写真の中の故郷の村には人々の姿 は見えない。
私の故郷は花の村 / 桃の花、アンズ、ヒメつつじ 色とりどりの花の宮殿 / 遊んだあの頃が懐かしい
楽安邑城
発行人 編集理事 編集長 監修者 編集諮問委員
金宇祥 全南鎭 金鍾徳 嘉原和代 裵炳雨 Elisabeth Chabanol 韓敬九 金華榮 金文煥 金英那 高美錫 宋惠眞 宋永萬 Werner Sasse
編集 金熒允編集会社 ソウル市麻浦区西橋洞384-13 Tel : 82-2-335-4741 Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 印刷 三星文化印刷 ソウル市城東区聖水2街274-34 Tel : 82-2-469-0361~5 Fax : 82-2-461-6798
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掲載された記事は筆者の個人的な意見で あり、〈Koreana〉や韓国国際交流財団の公 式見解ではありません。 1987年8月8日文化観光部-1033で登 録された季刊誌〈Koreana〉は英語、中国 語、フランス語、スペイン語、アラブ語、 ロシア語、ドイツ語でも発刊されています。
Koreana Internet Website http://www.koreana.or.kr
韓国の文化と芸術 夏号 2012 韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル
閑麗水道は「慶尚南道・統営市の閑山島 付近から全羅南道・麗水に至る120kmの 海路」。国では、この海路と海岸の一部 を1968年から海上国立公園として保護 している。 SEA1A 034H 2007 ©裵炳雨
海と島、そして住民
多くの人々にとって、海はレクリエーションやリラックスのために訪れる場所で す。しかし、島の住民にとって海は、基本的生活に不可欠なものです。そしてアー ティストは、創作活動にインスピレーションを受けてきました。また外洋に出る船 乗りにとってその深く青い水は、危険でありながらもたまらなく魅力的です。 韓国は三面が海に囲まれており、海を海洋資源の宝庫としてだけでなく、芸術 的・文学的創作の源泉として大事にしてきました。特に南の海は険しい海岸線の沖 に無数の島々が点在し、古代以来、北東アジアの国際貿易の重要な水路となって おります。
海と島、そして住民は、地域のユニークなライフスタイルや過去から現在まで の文化についてたくさんの物語を持っています。この夏号では、魅惑的な海洋環 境と厳しい海の仕事、特に干満と調和を図りながら共存する彼らのたゆまぬ努力、 日常生活を垣間見ることにします。2012年5月12日から8月12日に開催される麗水 EXPOは、「生きている海、息づく沿岸」をテーマにし、世界100カ国が参加し、展 示場は閑麗水道の美しい海岸で開かれています。 日本語版編集長
金鍾徳
特集 閑麗水道
04 10 18
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歴史の海
閑麗水道、島を抱いてゆるやかに流れる南海の道 島
海と素晴らしき島々
韓昌勳
芸術の街
芸術あふれる海辺の都市、統営
52 52
薛湖静
24 30 36
30
42 48
鄭一根
文化フォーカス
ソンミ山村の物語
柳昌馥
アート・レビュー
節制・余白・発酵の美学「韓国の単色画」展
高美錫
巨匠
印刷文化のルーツを守る鋼鉄のプライド、金属活字匠 林仁鎬
韓国の近代文化遺産
韓国銀行、韓国貨幣の総本山
朴炫淑
36
42
金晶東
インタビュー
『花壇に咲くいろいろな花のように』 漢陽大学校グローバル多文化研究院長 鄭炳浩教授 金昶熙 オン・ザ・ロード
梅の花の咲いた楽安邑城と金芚寺
金裕卿
60
ブック・レビュー 崔俊植, 魚秀雄, 李守基
先人の心を読む 『オ・ジュソクの韓国の美特講』(Special Lecture on Korean Paintings) 暮らしの中の死に対する痛烈な探求 『私は私を破壊する権利がある(Tengo derecho a destruirme)』スペイン語版 人工知能の友達 『 スマート・フォン・アップ “シンシミ(Simsimi)”』
64
62 64 68
遠くの目
K-POPについて考えたこと
李仁之
グルメを楽しむ
海産物とも肉類とも良く合うカルクッス
芮鍾碩
韓国文学の旅
10年目、2度の別れの逆説とは 『離別前後史の再認識』 金度延
魚秀雄
3
特集 閑麗水道 / 歴史の海
閑麗水道 島を抱いてゆるやかに 流れる南海の道
茫洋たる海原に道などあるのかと反問するかもしれないが、道は地上にだけあるわけではない。 空には空の道があり、海には海の道がある。閑麗水道は、韓国の海の道の最高峰だ。 チョン・イルグン(鄭一根、詩人・慶南大学校教授)| 写真 : 裵炳雨
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韓国の文化と芸術
SEA1A 034H 2007
Koreana ı 夏号 2012
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国
民歌手と呼ばれるイ・ミジャ(李美子)さんの『三百里閑麗水道』
ごとに変化する。
という昔の流行歌がある。曲名の通り、閑麗水道は韓国の昔
の単位で300里(日本の30里に相当)になる。つまり、現在の120kmに
ツバキの海
当たる海路だ。陸上で120kmなら車で1時間強で到着するが、閑麗水
閑麗水道の地理的な意味は「慶尚南道・統営市の閑山島付近から泗
道の300里は、簡単にはたどり着けない「心の道」だ。誰であれその海
川(三千浦)や南海などを経て、全羅南道・麗水に至る海路」だ。国で
路の旅人になったなら、目に映るもの全てに心を奪われて、ゆるりゆ
は、この海路と海岸の一部を44年前(1968年)から海上国立公園とし
るりといつまでも留まってしまうからだ。
て保護している。韓国にはいくつかの海上国立公園があるが、その中
韓国は、東・西・南が海に臨んでおり「韓半島」と呼ばれる。日の昇 る東海は「希望の海」。日の沈む西海は「別れの海」。多くの島々が花
で初めて指定されたものだ。 その海と海路を生涯にわたって描いた統営のチョン・ヒョンニム
のように咲き乱れる南海は「歌の海」。閑麗水道は、温暖な青い「歌
(全爀林、1916~2010)画伯は、その色をコバルトブルーと定義した。
の海」を行く海路だ。空と海と島と人が響かせる歌声に合わせて、
その海は、春になると赤い歌で満たされる。海路の陸や島では、赤い
引いては寄せる海路。歌のトーンは朝夕で異なり、春夏秋冬の季節
ツバキの花が冬の終わりにポツポツと花を付け始め、春に最高潮を迎
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韓国の文化と芸術
sea1a 06hc 2011
閑麗水道の始まる閑山島から海路の終わる麗水・梧桐島まで、3月はツバキの 季節だ。赤いツバキの花は、海の青い背景によって美しさがさらに際立つ。
えると花ごとポトリと落ちる。まるで海の神ポセイドンの赤い涙のよ うに…。
り、その海では変わることなく春にツバキが咲き誇る。 閑麗水道の始まる閑山島から海路の終わる麗水・梧桐島まで、3月
先ほどの歌『三百里閑麗水道』でも「夕焼けの閑散島にカモメが飛べ
はツバキの季節だ。赤いツバキの花は、海の青い背景によって美しさ
ば、三百里の閑麗水道は絵に描いたよう。曲がりくねった海路を戻っ
がさらに際立つ。ツバキの花が咲く所には、必ずメジロがやって来て
てくると、あなたを迎える島娘の胸の中に、赤く赤くツバキのように
さえずる。スズメ目メジロ科のメジロは、ツバキの花が咲く島にすん
燃え上がる。岸に浮び上がる」とツバキの花を歌っている。この歌が
でいる。ツバキの花は、ハチやチョウではなくメジロによって受粉を
発表されてヒットしたのは1973年。40年たった今でも愛唱されてお
する。
Koreana ı 夏号 2012
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SEA1A 022H 2001
閑麗水道を流れ行き、ツバキの咲く島に着いたなら、しばらくの
る閑麗水道は「味の海」でもある。その澄んだ海では、韓国の食卓を飾
間その花の下でメジロのさえずりに耳を傾けてみよう。桃源郷は遠く
るおいしい魚など海の幸が捕れ、養殖も行われている。この海が豊
にあるのではなく、閑麗水道のツバキのそこかしこに、しばし身を潜
かな理由は、複雑に入り組んだリアス式海岸だからだ。小さな湾が多
めていることに気付くはずだ。落ちたツバキの花を拾い上げ、その花
く、島も多い。
びらを一枚一枚海に散らしたなら、誰かが海路を流れてきたそのツバ キの花びらを見て、その先に桃源郷があると夢見るだろう。 ツバキの花が散れば、実がなる。韓国の人たちは、ツバキの実か ら油を採った。それがツバキ油だ。ツバキ油は、韓国が貧しかったこ ろ様々な用途に使われた。古びた家具のつや出し、機械の錆の予防、
入り組んだ海岸は、魚の産卵場に適している。さらに、暖流に よって水温が一年を通して安定しているため、水産養殖業が盛んだ。 そのため、閑麗水道を行けば、どこでも新鮮な魚や海藻類など海の幸 が豊富だ。 韓国の人たちは「春のメイタガレイ、秋のコノシロ」という言葉か
そして電気のなかったころには明かりをともすためにも利用された。
ら海の味に目覚める。春にはメイタガレイ、秋にはコノシロが絶品
ツバキ油は、何よりも女性の髪油として使われた。髪を長く伸ば
だ。魚の味も季節によって違うため、まるで旬の果物のように最高の
していた時代に、髪にツバキ油を塗って美しく見せたのだ。無臭で乾
味を求めて楽しむ。さらに、一つの魚でも様々な味を楽しむ。例え
きにくいため女性に愛されたツバキ油が、最近では健康食品として再
ば、メイタガレイは刺身はもちろん汁物にしても美味しい。同じ刺身
び注目を集めている。
でも、薄く切ったり骨ごと切ったりする。また、産婦にはワカメ入り のメイタガレイのスープをこしらえ、春には海風を受けて育ったヨモ
味の海
ギ入りのメイタガレイのスープに仕立てる。
統営、泗川、南海、麗水など最高の避暑地を抱くように続いてい
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韓国の文化と芸術
sea1a 18h 2008
歴史の海 閑麗水道は、歴史の海だ。この海で620年前、韓国と日本との戦 争があった。韓国では「壬辰倭乱(文禄・慶長の役)」と呼ぶ。1592年か ら1598年まで2回にわたり、日本の軍勢が海を渡って侵略してきた。
ている。イ・スンシン将軍の名と共に亀甲船にも出会うことができる。 世界初の突撃用鉄甲戦船と評される亀甲船は、イ・スンシン将軍の力 となって海戦を勝利に導いた、亀の形の戦艦だ。 イ・スンシン将軍は、戦争の記録を陣中の日記に残した。その日記
韓国の国土は荒廃し、民衆は塗炭の苦しみを味わった。だが、この海
が、韓国の国宝に指定されている『乱中日記』だ。武人の文らしく簡潔
にはイ・スンシン(李舜臣)将軍(1545~1598)がおり亀甲船があったた
で真実性が高く、力強い筆致は文学的にも優れている。『乱中日記』は
め、勝利を収めた。
今年、ユネスコの世界の記憶(世界記録遺産)の暫定リストに登録され
イ・スンシン将軍は、韓国人が敬ってやまない偉人だ。壬辰倭乱を
た。
勝利に導いたイ・スンシン将軍は、世界の海戦史において最高の提督 に列せられる。イギリスのネルソン提督と比べられることもある。日
麗水国際博覧会
露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った日本の東郷元帥は「自分は
閑麗水道の終着点でもあり起点でもある麗水では「2012年国際博覧
ネルソンに比べられるかもしれない。しかしイ・スンシンは私を超え
会」が開かれている。ここからさらに南に回ると、多島海海上国立公
ている」と話したと伝えられている。
園が広がっている。古代ギリシャ文化の発祥の地であり、地中海東
イ・スンシン将軍は、閑麗水道での戦闘でことごとく勝利した。戦
部、ギリシャ、小アジア(アナトリア半島)、クレタ島に囲まれた、も
争の終盤には、日本の船およそ200隻を撃破して、7年にわたる戦争
う一つの多島海・エーゲ海。そのエーゲ海を知る世界の人たちが今年、
の最後の海戦に勝利した。そして、その海戦で壮烈な最期を遂げた。
韓国の南海に隠された「島の花園」を数多く訪れている。(翻訳:坂野慎
そのため閑麗水道の随所には、イ・スンシン将軍の名が今でも残っ Koreana ı 夏号 2012
治)
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特集 閑麗水道 / 島
海と 素晴らしき島々 私は「人生に飢えと渇きを覚えたなら、海に行け」と言っている。しばらく海辺を歩いて、 新鮮な海の幸を食べるだけでは知りえない、本物の海を感じろと。 ハン・チャンフン(韓昌勳、小説家)| 写真 : 鄭寅守, 權泰鈞
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韓国の文化と芸術
私
は、南の海の遠い島で生まれた。青い海とおぼれない程度の地。私が目にして育った 世界は、それだけだった。ベドウィン族の子供が、この世は少しのオアシスと果てし
ない砂漠の世界だと信じるように……。目を開ければ、手ずから積み上げた石垣、斜面を開墾 したジャガイモ畑、ツバキの花が落ちて赤く染まった飼い葉桶。その背景には、東西南北すべ てに海が見えた。家から少し離れれば、真っ黒な磯、垂直に切り立った海蝕崖、小さな漁船が あった。 明け方には、漁師が小さな船で海に出ていった。少女は、磯に魚介類を採りに行き、海女 は真っ黒な磯着姿で漁に出かけていった。私の祖母も海女だった。祖母は漁に行くときに、 私をよく連れていった。30人の海女が水に入ると、残された服などの番をするのが私の役目 だった。 海女は、海に潜りながらゆっくりと遠ざかり、3~4時間ほど過ぎると一斉に戻ってきた。 陸に上がった海女の体からは、青い海の雫がポタポタと落ちた。私が祖母の磯メガネを借りて 海に入ったのは、9歳のときだった。息を吸い込み過ぎてはだめだ。頭を完全に下に向けない といけない……。当時の祖母の手ほどきだ。波に揺れる海草と群れをなして泳ぐ魚たち。その 間でイルミネーションのように揺らめく日差しのプリズム。海の中は、驚くような世界だっ た。 漁師はマダイ、スズキ、ブリ、ウナギ、タコなどを捕り、海女はサザエ、ナマコ、アワビ を採ってきた。磯に出かけた少女の手には、ワカメとノリが握られていた。時には命を落とす 人もいたが、そのような日常は留まることがなかった。そうしたものを売らなければ、米や服 を買うことができなかったからだ。
私の故郷・巨文島 私の故郷は、麗水・巨文島。閑麗水道と海路で結ばれた多島海海上国立公園にある島だ。南 海沿岸の幾多の島の中で、この島ならではの変わった歴史がある。巨文島事件だ。1885年4 月から1887年2月まで、イギリス東洋艦隊の軍艦6隻と商船2隻が、この島を武力で占領し たのだ。占領期間、巨文島はポート・ハミルトンになり、イギリスの国旗がはためいた。近代 帝国主義の侵奪が加速していた当時、ロシアの南下を牽制するのが目的だった。今でも巨文島 には、そのときに息を引き取ったイギリス人水兵3人の墓とイギリス人水兵の撮った写真が 残っている。 そのおかげで、私はその当時の巨文島の姿を詳しく見ることができる。笠をかぶった儒学 者(筆談で中国人通訳官と話したと考えられる)、くたびれた服を着た住民、古びた木船、様々 な農具や漁具を作る鍛冶屋などだ。最も印象的だったのは、みずぼらしい身なりにも関わら ず、住民の誰もが鋭い目をしていることだった。すっきりと洗練された顔立ちに、力のない目 をしている現代人とは正反対だ。
© Park Jong-su
Koreana ı 夏号 2012
白島。麗水・巨文島から28kmほど 離れた無人島群で、数多くの岩の 島からなる。
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韓国の文化と芸術
記録によると、イギリス人水兵は、住民ともめごとを起こさなかったそうだ。だからと 言って、無断占領という事実は変わらない。イギリス女王・エリザベス2世が1999年に4日 間、韓国を訪問した際、韓国の国民であり巨文島の住民の一人として、私は女王のお詫びを期 待していた。形式的な遺憾の意でも表してくれたなら、時代の特殊性と物理的な衝突がなかっ たという事実を考えて受け入れていただろうが、女王は一言もなく帰国した。 イギリス人水兵にとって、この島はあまりにも遠く離れた場所だっただろう。幼いころ、 私が韓国の本土に出かけたのと同じように……。115km離れた麗水港までは、旅客船に8時間 も揺られなければならなかった。それは、この上なく辛いことだった。今では子供たちへの保 護や配慮が十分あるだろうが、当時はそんなものなかった。船は古くて遅く、子供たちはあふ れ返り、大人は荒々しかった。 大人は、船室で酒を飲んでタバコをふかし続け、花札をした。私たちは、危険だからとい う理由だけで狭くて汚い船室に押し込められ、すぐに船酔いが始まった。巨文島のそばに草島 がある。この二つの島の間は、常に海流が激しく波が高かったため、大人でもたびたび船酔い をした。私たちは高い波、ひどいタバコの煙、酒の臭いのため、8時間もの間、真っ青な顔で 震え続けるしかなかった。本土は、そんな苦痛の末に近づいてきた。 船酔いの中でも、私は島が次第に近づき、また遠ざかっていく様子を眺めてい た。海が美しくあるためには、島が必要だと早くに気付いた。私が大人になった 後、この地域は国が価値を認めた海の公園に指定された(1981年)。国が価値を認 めて管理するほど、素晴らしい海の公園に暮らしていたわけだ。
私の仕事場・閑麗水道 そんなこともあってか、私は大人になっても島々を回るようになった。数年 間、海産物加工の仕事をしたのだ。主にイガイを扱っていた。麗水沿岸の養殖場 2 1. 統営・紅島のウミネコ繁殖地 2.「巨済海金剛」と呼ばれるカルゴッ島。 削り取られたような奇岩・絶壁の名勝
のイガイが売れてしまうと、私は同僚と船を駆って西は黒山島、東は統営まで出 かけていった。その途中、行く先々にも島があった。切り立ったり、のっぺりし
た島。すわりがよい楕円形のような曲線、あるいは鋭い線を描く島……。 そうした島々は独立共和国のように、それぞれ口調が異なり、料理もまちまちだった。酒 にも差があり、仕事のやり方も一様ではなかった。海流が違い、水深も同じではなった。だ が、同じものもあった。青い海を背景にした辺境の孤独。物理的な欠乏。共通点は他にもあっ た。仕事を終えて家に帰るとき、西の海を赤く染める夕焼け。見知らぬ村でごちそうになる豊 かな食卓。例えば、捕れたてのタイの刺身、ゆでたタコ、辛いタコの炒め物など……。やがて 夜空に現れる天の川。朝になると再び活気にあふれて始まる1日の労働。そのとき私が行った のは、すべて閑麗水道の島々だった。南の海は、そうして長い間、私とつながってきた。 イガイを満載して島々を行き来するとき、私たちはいつも海流に気を配っていた。荷を積 んだ船は速度が出ないため、海流を計算しなければ、正確な到着時間を計れない。それは以 前、故郷のお年寄りがしていた方法でもあった。 島のお年寄りは、人間がどこまで感覚を研ぎ澄ますことができるのか十分に証明していた。 例えば、こんなふうにだ。年老いた漁師が、小さな船で海に出ていた。その漁師は、島の裏側 まで行って釣りをしていた。ところが突然、霧に包まれてしまった。高い波や強い風よりも、 さらに怖いのが霧だ。方向が分からなくなり、漂流することが多いからだ。
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船酔いの中でも、私は島が次第に近づき、また遠ざかっていく様子を眺めて いた。海が美しくあるためには、島が必要だと早くに気付いた。私が大人に なった後、この地域は国が価値を認めた海の公園に指定された。
年老いた漁師は、まずその日の潮の満ち引きを思い起こす。干満とは、月や太陽など天体 の引力によって、海面が1日に2回の周期で上下する現象だ。その漁師の頭には、海水の規則 的な変化がすべて記憶されている。旧暦の何日で何時なのかを確認して、船の流れる方向を見 る。旧暦、満ち潮・引き潮、海流が頭の中で計算される。そして、こう言う。 「今この時間に海水がこっちに流れているなら、島は向こうだ」。 その判断に従って船を回すと、ほどなく霧の中に島が現れた。 私たちは、そこまではできなかったが、海流に乗ったときと逆らったときとの 時間の差を計算することはできた。最近では、そんなことはGPS(全地球測位シ ステム)がしてくれる。機械に頼ってばかりだと、感覚は鈍ってしまう。高齢の船 長でも、GPSだけで現在の位置を確認して船を回す。もし機械が壊れたらどう なるのか、今では誰にも分からない。2004年にインドネシアで津波が起きたとき も、近くに住んでいた原始部族は、感覚的に津波を察知して山に逃げ、全員無事 だったという。
200年前に書かれた海の博物誌 私が通った西の黒山島といえば、思い浮かぶ人物がいる。朝鮮後期の文官・巽庵チョン・ヤ
1 1. 海辺に干される南海産のイワシ 2. 閑麗水道でヨットを楽しむ人たち 3. 夏には避暑客でにぎわう統営・比珍島
クチョン(丁若銓、1758~1816)だ。幼いころから聡明で広量だったチョン・ヤクチョンは、キ リスト教(カトリック)に惹かれ、最初期の改宗者の一人となった。そして、1801年(純祖1年) に辛酉邪獄が起きて多くのカトリック教徒が迫害された際、黒山島に流刑になった。 チョン・ヤクチョンは、その島で16年間暮らした後、没した。その間、学校を建てて若者を 教えもしたが、最も優れた業績は『茲山魚譜』という書物を残したことだ。『茲山魚譜』は、黒山 島の海の動植物155種の名前、分布、形態、習性、食用法を詳細かつ緻密に観察した博物誌。 韓国初の水産学関係書籍といえる名著だ。 私もその本を持っている。さらには、その本を引用して『私の食卓の資産魚譜』という本ま で出した。チョン・ヤクチョンを敬愛する理由はいくつもあるが、最も大きなものは、社会に 対する開かれた姿勢と能動的な態度だ。 大陸中心のアジア文化圏に属していたため、韓国の支配階級は海を無視してさげすんでい た。チョン・ヤクチョンは、そうした支配階級・両班だった。たとえ新しい文物を受け入れて、 実学を自身の哲学としていても、身に付いた性向は貴族だった。それにも関わらず、黒山島の
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韓国の文化と芸術
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韓国の文化と芸術
海に目を向けて、海洋生物の記録を始めたのだ。当時としては、まさに革命的な行動だった。 そのおかげで、私たちはとても重要な海洋関連書籍を200年前に得ることができたのだ。
李舜臣将軍の戦跡地 チョン・ヤクチョンが学者として海を見たとすれば、軍人として海を見た代表的な人物が イ・スンシン(李舜臣)将軍だ。丁酉再乱(慶長の役)が起きた1597年(宣祖30年)9月16日、三道 水軍統制使だったイ・スンシン将軍には、たった12隻の戦船しかなかった。そこに漁師が使っ ていた船1隻を加えた13隻。これに対して、朝鮮の南西海岸を攻撃してきた日本の海軍は、 計133隻の戦船を有していた。10対1の戦いでは、誰の目にも結果は明らかだった。 しかし、イ・スンシン将軍は海流を読み、地形・地物を戦闘に応用する力があった。イ・スン シン将軍は、全羅南道・珍島と陸の間の狭い海峡ウルドルモクに目を付けた。そこは南海と西 海を結ぶ要地である上、満ち潮と引き潮の際には流れがとても激しい所だ。ウルドルモクとい う地名も、海水が暗礁にぶつかる音がとても大きく、岩が泣いているようだとして名付けられ たという。満ち潮の際は、潮流が時速10ノットほどになる。 イ・スンシン将軍は、巨大な鎖をそこに沈めておいて、敵軍を待ち伏せした。敵軍が現れる と、農夫らに鎖を引かせ、敵の船に損害を与えた。そして、潮の流れが変わる時 間を計算して陣を敷き、狭い水路の激しい潮流によって敵軍の隊列が崩れた暇を 突いて、大勝を収めた。 そこは現在の鳴梁海峡だ。そのため、この戦闘は「鳴梁大捷」と呼ばれている。 この勝利によって、丁酉再乱の大勢が朝鮮軍有利に傾いた。イ・スンシン将軍は、 こうした能力によって戦力の格差にも関わらず、鳴梁大捷だけでなく20あまりの 海戦をすべて勝利に導いた。閑麗水道の数多くの島々のうち最も広く知られてい る閑山島も、これに先立つ戦闘 「閑山大捷」の戦跡地だ。 2
を称えて、郷土文化祭が毎年開かれている。それが、海南・珍島一帯で行われる
1. 麗水・向日庵の日の出は壮観 2. 春を告げる閑麗水道のツバキの花
そのため、南海を日本軍から守り国を危機から救ったイ・スンシン将軍の業績
「鳴梁大捷祭」、統営の「閑山大捷祭」 だ。
故郷・巨文島へ 月日は流れたが、ここ南の海の水は、今でも島々の間を流れている。引いては寄せ、寄せ ては返す海の水。私も海の水のように韓国本土を流れ漂い、7年前に故郷に戻った。早春には 毎年、家の裏のツバキの木立で、ツバキの花がポトリポトリと落ちる。そして、地面が赤く染 まる。 昨日は、島で一番親しい隣人が訪ねてきた。国立公園事務所の職員だ。何日も雨が降って いないので、ことあるごとに山火事防止の見回りをしている。そうでなくても、道でよく顔を 合わせる。そのたびに、手を上げてあいさつを交わす。彼らにとっても、私は一番のお隣さん だ。先日、庭のツバキが病気になったときも、彼らが訪ねてきてくれた。木に糸のようなもの ができ、つぼみが付かなかったのだ。彼らは写真を撮って、原因を調べるために資料を持ち 帰った。しばらくすれば、病気の名前と治療方法が分かるだろう。 窓の外に見える南海の海は、変わることなく青い。大小様々な島も、あのときの場所、あ のときの姿のままだ。海が美しいのは、そうした島々があるからだ。(翻訳:坂野慎治) Koreana ı 夏号 2012
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特集 閑麗水道 / 芸術の街
芸術あふれる 海辺の都市 統営 朝鮮時代に工芸職人の拠点となって以来、トンヨン(統営)は芸術の街だ。共同作業による 壁絵で知られるトンピラン・マウルは、この歴史深い都市に斬新な魅力を与えている。 ソル・ホジョン(薛湖静、ジャーナリスト)| 写真 : 安洪范, 李謙
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韓国の文化と芸術
1. 統営の風景の半抽象画を鑑賞できる チョン・ヒョンニム美術館 2. 詩人ユ・チファンの生家を復元した 青馬文学館
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術評論家オ・グァンス(呉光洙)は言う。
美
「忠武(現在の統営)を語るとき、どんな芸術よりもチョン・ヒョ
ンニム(全爀林)の1枚の絵さえあれば十分だと思われる。未堂(詩人・徐廷 柱の雅号)の詩に、自分を育てたのは8割が風だったという一節がある。 チョン・ヒョンニムの芸術を育てたのは、8割以上が忠武の風景ではなかっ たかと考える」
チョン・ヒョンニム美術館 統営の美しさを知りたいなら、チョン・ヒョンニムの絵を見ろというわ けだ。チョン・ヒョンニム美術館は「色彩の魔術師」と呼ばれる彼の多彩な 作品を展示しており、実際に「統営観賞」の近道といえよう。 チョン・ヒョンニムは1916年に統営で生まれ、2010年に統営で亡くなっ た。彼は、学校で絵を学んだことのない画家だ。だが、一人でスケッチ ブックを持って海や山に絵を描きに行っていた少年時代から、形を超えた 世界を描きたいと思っていた。早くから抽象の世界を追い求めていたの だ。 チョン・ヒョンニムは『忠武港』と『閑麗水道』という題名の絵を1950年 代から60年近く描き続けた。初めは、対象をほとんど崩した夢幻的な絵 だった。その後、極めて単純で平面化された島、家、船、橋、山が、き らめくコバルトの海に浮かぶ、美しい半抽象画に進化した。その絵が、 統営を象徴する「1枚のチョン・ヒョンニム」に選ばれた作品だ。ノ・ム ヒョン(盧武鉉)前大統領も、在任当時その絵に惹かれ、青瓦台(大統領官 邸)の接見室の一面を埋め尽くすほどの大作「閑麗水道」を官邸の所蔵とし た。 統営・弥勒山の麓にあるチョン・ヒョンニム美術館は、彼が30年近く暮 らした古い家屋を取り壊した場所にある。チョン・ヒョンニムと息子の チョン・ヨングンの絵が描かれた7500枚にもなるセラミックタイルで外壁 を彩った、ユニークな建物だ。展示館は3階にわたり、展示されている 80点ほどの作品を、彼の生涯に関する資料と共に観賞できる。
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韓国の文化と芸術
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1. 統営・南望山彫刻公園に展示されているスウェーデ ンの彫刻家エリック・ディエットマンの『最高の瞬間の ために止まっている機械(The Machine Stopping for the Best Moment)』 2. チョン・ヒョンニム美術館に展示されているチョン・ ヒョンニムの大作『曼陀羅』 3. 統営の伝統工芸・螺鈿漆器の技術を受け継ぐ職人イ・ ヒョンマン(李亨萬)氏
3
よみがえる伝説
層的だったからだろう。
統営は、画家チョン・ヒョンニムだけでなく、多くの芸術家を生ん だ。作曲家ユン・イサン(尹伊桑)、詩人・青馬ユ・チファン(柳致環)、
……今日も僕は
詩人キム・チュンス(金春洙)、時調(定型詩)詩人・草汀キム・サンオク
エメラルドの空を一目で見渡す
(金相沃)などだ。今では皆、故人となってしまったが、その非凡な人 生と芸術は統営の伝説になっている。彼らは、第二次世界大戦直後、
郵便局の窓の前に来て 君に手紙を書く……
統営女子中学校で共に教師として働いた仲だ。彼らは毎日のように ユ・チファンの家に集まり、酒を飲んでは終戦後の混乱期を憂い、統
ユ・チファンは、統営女子中学校に一緒に勤めていた時調詩人イ・
営文化協会を結成して文化運動を行った。この運動は、統営が文化・
ヨンド(李永道)に、何千通もの恋文を送ったという。ささやくよう
芸術の都市となる上で重要な役割を果たした。
に温かく甘美なこの詩『幸福』も、イ・ヨンドに送られたものだ。統営 の人たちの間で、この詩の舞台と考えられ
全国から集まった美術学生らが、みずみずしくウィットに富 んだ絵で路地を満たしていった。くたびれた貧しい町が、美 しく活気にあふれていった。若者の創造性が、トンピランを
る統営中央郵便局を青馬郵便局に変えよう という動きがあったが、まだ実現していな い。また夫ユ・チファンの負担を減らすた め、夫人が運営していた幼稚園の跡地に、 独り身になったイ・ヨンドが娘と暮らしな
生まれ変わらせたのだ。
がら、ユ・チファンと手紙で心を通わせた 家も残っていて、詩人の現実と夢を実感で
そのような彼らに加えて、1926年に統営で生まれて2008年に亡く なった後、故郷に戻って弥勒山に埋葬された小説家パク・キョンリ(朴 景利)が、今では統営市民の日常にしばしば“出没”している。そうし
きる。また望日峰の麓には、ユ・チファンの生家を復元した青馬文学 館がある。 青馬文学館には、ユ・チファンの生涯と作品世界への理解を深め
た芸術家の名前や雅号を付けた道が、そこかしこに作られ、彼らの生
られる遺品およそ100点と各種文献資料350点ほどが展示されている。
家は“リフォーム”や復元されて記念館になっている。また銅像、詩
ユ・チファンは59歳のとき、交通事故のため釜山で亡くなった。
碑、音楽碑が、所々に建てられている。伝説は、そのようにして作ら れるのだ。閑麗水道の美しい風景に、こうした文化資源が合わさり、 現代の統営のブランド価値はますます高まっているようだ。 その中でも、最も愛らしい記念碑的な芸術家は、恐らく詩人・青馬 ユ・チファンだと思われる。彼らの中で一番短命だったが、人生が重 Koreana ı 夏号 2012
伝統工芸 統営は、こうした近代芸術の“匠”の故郷でもあるが、朝鮮時代に は工芸の匠の拠点だった。朝鮮王朝の三道、つまり慶尚道、全羅道、 忠清道の水軍統制営があった統営(統制営の略語)には、各種軍需物資
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1 1. 統営・文化洞の朝鮮時代の石チャンスン (守り神)の顔 2. 東の崖という意味のトンピラン・マウル。 共同作業の壁絵がこの集落に命を吹き込んだ。
や消耗品を供給する12の工房があったため、職人が多かった。そう した歴史的な背景から、統営は現在、全国の基礎地方自治体(市・郡・ 区)の中で最も多くの国指定の重要無形文化財を有している。重要無 形文化財第10号の螺鈿匠(螺鈿工芸)、第55号小木匠(木製家具)、第 64号豆錫匠(家具用の真鍮・白銅装飾)、第114号簾匠(竹の簾)の技術
の美化のために撤去を計画した。そこに、忠武公イ・スンシン(李舜
保持者は、すべて統営の職人だ。第4号の笠匠も統営の無形文化財
臣)将軍が設置した統制営の東砲楼を復元して、一帯を公園にすると
だったが、技術保持者がソウルに居を移し、統営の文化財から外され
いう壮大な計画だった。
た。 こうした伝統工芸品を見られるのが、道南洞の統営伝統工芸館だ。
しかし2006年11月、「青い統営21」という市民団体が「貧しい街も整 備すれば美しくなる」と主張し、壁絵の公募展を開いた後、状況は急
こちらの作品も、伝統文化の現代への継承の例に漏れず、伝統と現代
変した。全国から集まった美術学生が、みずみずしくウィットに富ん
をスムーズに調和させ、時代の求めに応える工芸品に変容するための
だ絵で路地を満たしていった。くたびれた貧しい町が、ナポリの海辺
苦悩が感じられる。
の丘のように、美しく活気にあふれていった。若者の創造性が、トン ピランを生まれ変わらせたのだ。今やトンピランは、統営の斬新な観
トンピラン・マウル
光地になっている。特に若者に人気の魅力的なスポットだ。
統営港前の中央市場の裏から続く坂道を上ると、トンピランとい う小さな集落(マウル)がある。東のピラン(崖の統営方言)にあるた
パゴダまたはバグダッド・カフェ
め、名付けられたという。ここは当初、日本の統治下で外地から来た
トンピランには、その斜面の傾斜のように、危うい人生を送って
労働者が集まり、自然に形作られた。計画のないまま、生きるために
きた人が多い。それだけに悲しい出来事も多かった。そんなトンピラ
必要に応じて家が建てられたため、迷路のように狭くて曲がりくねっ
ンで、ハンおばあさんに出会った。そこで40年近く暮らしてきたと
た路地が残り、貧しい日常が家の外にまで漂っていた。統営市は、街
いう。「そりぁ、いろいろあったさ……。1日中ここに座って、船が
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韓国の文化と芸術
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戻ってくるのを見てるんだけど、船が白い旗を揚げて戻ってきた日
る。「アイスクリームもよく売れるしね」。店の名前がパゴダ・カフェ
にゃ、本当に驚いてねぇ。裸足で下のあの入り江まで、一気に駆け下
になったいきさつが面白い。ある日、店に来た人が、ここを「まるで
りていったもんさ。白い旗は、事故の知らせなんだから」。
映画のバグダッド・カフェのようだ」と言った。それを聞いたペクおじ
村を一回り歩いてみると「パゴダ・カフェ」が目に飛び込んでくる。
いさんは翌日、店に「パゴダ・カフェ」と書き込んだ。耳の遠いおじい
看板はカフェだが、実は小さな雑貨店だ。一坪ほどの店には、菓子、
さんは「バグダッド・カフェ」を「パゴダ・カフェ」と聞き間違えたのだ。
飲み物、カップラーメンなどが並んでいる。店先には、大人3~4
カフェの前にある家の壁には、誰かが捨てていったオーディオが
人が座れるほどの縁台と古いソファーが置かれている。コーヒーを
置かれている。オーディオからは1本のコードが伸びていて、壁を
1杯頼むと、ペク・テジンおじいさん(73)が、紙コップにインスタン
伝って上がっていく。そのコードが途切れた場所には、ヘッドホンが
トコーヒーを入れてくれる。海を眺めながら飲む1杯のコーヒーは、
描かれている。ヘッドホンが描かれたその壁の前で、行き交う人たち
実に甘美だ。「おじいさん、ここに住まれて、どのくらいになります
は、必ずそのヘッドホンに耳を当ててみる。そして目を閉じる。海の
か」。「ざっと40年以上かねぇ。何年か前までは、水もまともに出な
音を聞いているのかもしれない。壁の絵は、2年後に描き直されると
かったんだ。道だって、ひどいもんだったさ。自転車が1台やっと通
いう。壁絵が色あせてしまうからだ。そのときトンピランは、どんな
れるくらいだったからね。ここの女たちは、ほとんどが、あそこの中
ふうに変わっているだろうか。そうそう、ヘッドホンの壁絵のそばに
央市場で魚を売っていたんだ。子供がパンツもはかずに、坂道を走り
は、古い木のイスが一つ置かれている。そのそばには、こう書かれて
回ってたのが、つい昨日のことのようだ……」。ペクおじいさんも、
いる。「しばし腰掛けて、朝の海をご覧なさい」。忘れずに、言葉通り
壁絵が描かれてから、多くの人が訪ねてくるようになったと喜んでい
にしてみることをお薦めする。(翻訳:坂野慎治)
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文化フォーカス
ソンミ山村の 物語 ソンミ山村は1994年に共同育児を目的とする保育所としてスタートし、一貫教育の代案学校、有機農産物を取引する 生協、住民の文化交流の場までを擁し、成功したコミュニティとして注目されている。都市開発によって消えていく 町のコミュニティの復興は、最近ソウル市がもっとも取り組んでいるプロジェクトでもある。 ユ・チャンボク(柳昌馥、ソンミ山村劇場代表)| 写真 : 安洪范
夏のクリーニング屋の前、大きな
蘇らせて維持させようとソウル市が関心を持
テーブルを住民らが囲んでいる。ク
つようになったのは、遅まきながらも歓迎す
リーニング屋のおばさんがザクッと音をたて
べきことである。ただ、コミュニティという
真
ながら、真っ二つにスイカを割り、その真っ
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のは誰かが計画するからといってできるわけ ではない。地域を共有する隣人同士が、暮ら
赤に熟れた果肉をスプーンで切り分けて大き めのボールに盛っている。その傍らでは伴侶のおじさんが氷の塊をそ
しの中で遭遇する問題点を話し合いながら、解決策を模索し、力を合
のボールの上に載せて、金槌で叩き小さな破片にしている。気の短い
わせていく過程で自然に形成されるものだと思われる。個々人が持っ
向かい側のスーパーのおじさんはスイカの半分を、ナイフで切り分け
ている才能を分かち合って暮らしていく互助的な生活ネットワークこ
て群がる子供たちに配っている。食べ終わった子供たちはその場で隠
そ「村」である。
れん坊をしたり、電柱にぶら下がっている街路灯の光がやっと届く、 路地裏の一角に座り込んでお化けの話をしている。テーブルではスイ カの皮を片付けたおじさんたちが将棋を指している。
共同育児からスタート ソンミ山村はソウル市麻浦区に位置したソンミ山(海抜66m)一帯
40年前、私の幼い頃、我が家の前で見られた風景である。都市で
は、1キロ半径ほどの広さで、行政区域としては5カ所の洞(町)を合
生まれて育ったが、私は隣近所の人々と一緒に楽しく温かい日常を
わせた地区である。10数年前から「ソンミ山を守る」活動でマスコミ
送っていた。最近、「村づくり」が掛け声のようにうたわれている。ソ
に紹介され始め、広く知られるようになった。最近は毎年、全国各
ウル市は“村”のコミュニティの復興プロジェクトを本格的に進めると
地から5000人以上の訪問客がこの“村”を訪れている。成功した村の共
して「ソウル村共同体委員会」を発足させた。自主的な共同体の価値を
同体を「見学」するための訪問客である。ここまで来るのに20年がか
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韓国の文化と芸術
1. 環境にやさしい食べ物を販売する 生活協同組合の売り場 2. ソンミ山学校の講堂で行われる 体育授業の風景 2
2
ⓒ garimtoMJKim
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劇場は1年中休むことなく運営されている。映画、演劇、コンサートはもちろん、 ファッションショーや成人式などのイベントが開かれ、さらに村の大小の会議や 宴会が開催される。さながら村の広場である。
1. 町の入り口。生活協同組合のある街の 風景 2. 毎年5月に開かれる村祭りの風景 3. 放課後の教室。当番の親教師が子供た ちをケアする。 4. ソンミ山マウル劇場で公演のリハーサ ルに取り組む子供たち
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4
かった。 1994年、子供を預ける所を求めていた共働き夫婦の、20世帯が力を
がり始めた。我々の子供がちゃんと育つためには、まず我々の町が暮 らしやすい所でなければならなかった。
合わせた。彼らは子供を一緒に育てるために、お金を出し合って麻浦 区延南洞に保育所を建てた。韓国初の共同育児協同組合である「ウリ (我々)保育所」の誕生であった。さらにその翌年には西橋洞に2つの 共同育児保育所「空飛ぶ保育所」を建設した。
村のセンター、生活協同組合 2001年、共同育児協同組合の貴重な経験を基に生活協同組合を立 ち上げだ。環境にやさしい食品の共同購買を主な事業にする一方で、
「我々の子供、我々が一緒に育てる」という共同育児の哲学に共鳴
共同育児組合員だけでなく、地元住民と絆を結ぶこともできた。10
した人々が生活の場を大胆に整理して保育所の周辺に引っ越してき
年が過ぎた現在、生協は5000世帯の会員を擁し、年間50億ウォンを
て、ソンミ山麓の新しい住民として定着したのだ。数回にわたる会議
売り上げ、様々な地域活動のセンターとしての役割を果たしている。
や参加によって協同組合を率いていく中で、子供たちは大きくなって
例えば、地元住民のサークル活動(山岳会、農事、アトピー克服会、
いった。当時、最年長の腕白の子が24才の青年に成長した。一緒に
親の役割勉強会、民謡講習会)の結成や運営の支援、毎年開かれるソ
子供たちを育てながら、我々親たちも新鮮な喜びを経験した。子供た
ンミ山村祭り、森の音楽会、村運動会の他、地域の重要事項について
ちのおかげで大人たちも随分親しくなり、お互いの家庭事情まで知る
の共同審議・決定の権限の中心に生協がある。
ほどの仲になった。子供に対する関心は地域社会に対する関心へと広 Koreana ı 夏号 2012
中でも代表的な活動が前述した「ソンミ山を守る」ことである。
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2001年にソウル市が麻浦地域の上水道供給のための排水地建設のた
劇場は1年中休むことなく運営されている。舞台の半分は住民の、そ
めに、地元の大事な緑地であるソンミ山の木々を切り倒して工事を
の半分はプロのアーチストたちの舞台になっている。映画、演劇、コ
進めた。我々はこの工事の反対運動を展開するために「ソンミ山を守
ンサートはもちろん、ファッション・ショーや成人式などのイベント
る」会を結成し、結局2年がかりで工事を中止させた。さらに2009年
が開かれ、“村”の会議や祭りが開かれる。単なる劇場ではなく、“村”
には、ある小中高を擁する私学財団のソンミ山移転に反対して、再度
の広場としての役割をも果たしているわけだ。劇場のおかげで住民の
ソンミ山を守るための取組を行ったが、移転工事を防ぐことはできな
文化芸術関連の同好会も次々と結成された。風物会、村劇団、写真同
かった。現在、ソンミ山の3割に当たる面積が学校の新築工事によっ
好会、動画同好会、中高年によるロック・バンド、村合唱団、ドロー
て損なわれてしまった。「山には森を、学校は平地に」という我々の主
イング同好会など、15の同好会が活動している。
張は現実の壁を越えることができなかった。
代案教育システム 毎日が祭り
1
我々の“村”には 韓国初の小中高一貫教育12年制の代案学校もあ
生協の立ち上げに奔走していた2001年5月、地元に生協を知らせ
る。住民の力で2年余の準備期間を経て、2004年9月に開校して早く
るために始めた祭りが毎年行われるようになって、既に10回目を超
も9年目に迎えた。170人の子供がこの学校に通っている。保育所-放
えた。5月になるとソンミ山を覆うアカシアの花の香りが町内に漂い
課後教室-村学校の「クム(夢)処」に続いて、小中高代案学校につなが
始める頃、祭りが始まる。才能ある住民が舞台に上がって情熱を燃や
る教育システムを設けることで、育児から中等教育に進む教育の全課
す。1年に一度だけではもの足りない、毎日祭りをやりたいという声
程を住民の力だけで運営できるようになったのだ。子供たちが成人に
を受けて、同好会のたまり場の代わりに「ソンミ山村劇場」も設けた。
達するまでの20年という期間を地域の大人たちが責任をもって見守
る、という“村”として一番重要なインフラが設けられたのだ。 長年暮らしても隣に誰が住んでいるのか分からない大都会ソウ ル。子供の教育のために、もっとい良い学校を求めて引っ越す こともはばからないソウルで、引っ越さずに長く共に暮らせる 現実的基盤を築いたのだ。暮らしの中でぶち当たった問題を一 緒に悩み、考えて、解決策を見出しながら共に歩んできた隣人 であったからこそ、このような厚い連携が可能だった。まさに 互助的生活のネットワークである。
住民主権の学習場 生協に続いて毎年1~2カ所の“村”企業が創業した。2002 年に有機能食材に化学調味料を使わないおかず屋の「町台所」の オープンをはじめ、村のカフェ「小さな木」、そして食堂の「ソ ンミ山テーブル」が住民らの出資で運営されている。資 金の問題や労働も皆の力を合わせて解決していくうち に、「親しい隣人」にも出会った。体の不自由な青年の 仕事場である「ソンミ山工房」、手作り石鹸を製造する 「石鹸デゥレ」、環境にやさしい綿製の女性用品、布団 カバー、韓服などを生産する「ハンタム・デゥレ」、お年 寄りをケアする「ドルボム・デゥレ」は技術をもった働く 意欲のある住民の事業体としてスタートした。最近は 代案的に住宅開発施工会社である「疎幸住(疎通があっ て幸せな住宅の略字)」が設立され、コ・ハウジング (co-housing)概念の共同住宅を開発して住民に分譲 している。この“村”では20余りの町企業が運営されてい るが、すべて協同組合として運営されている。事業資金 は住民がそれぞれの経済状況に合わせて出資して、時間 的に余裕のある人が進んで経営に当たっている。町企業 で働く住民は約150人程度で、住民らで起業した町企業 が地域の雇用創出にかなり役立っていることが分かる。 協同というのは大変煩わしいことでもある。様々な構成員同 士がお互いの立場を認め合い、共存の意味を身をもって体得しなけ れば、前に進むことも、結果を出すこともできない。しかし、一応 2
協同の苦痛に耐え切って得られた成果によって、協同のパワーと可 能性に気づくことになる。それは、自らの問題を自らの力で解決し ながら、それを阻害するものを見極めて一つひとつ取り除いていく 過程でもある。ソンミ山村は国の行政区域ではない。自ら参加する 地元住民の間に形成された絆を象徴する名前である。我々にとって、 この空間は住民主権の学習の場であると同時に、実践の場なのだ。
1. ソンミ山学校の教室。授業の風景 2. 放課後教室の子供たち
(翻訳:趙祥恩) Koreana ı 夏号 2012
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アート・レビュー
節制・余白・発酵の美学
「韓国の単色画」展
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今回の展示は韓国現代美術の重要な足跡である単色画40年の流れにスポットをあてたものだ。単色派の画家 31人による150余点の作品を通じて単色画の誕生と発展の過程が入念に紹介されている。 コ・ミソク(高美錫、東亜日報美術専門記者)| 写真 : 國立現代美術館
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韓国の文化と芸術
2 1. 金泰浩、「内在律2011-44」部分、キャンバスにアクリル絵の具、163×260cm 2 . 李禹換、「点から」、キャンバスに顔料、 117×117cm
伝
統的な韓屋の空間機能を模した会場の雰囲気は温かく、大きく
ン・ジンソプ(尹晋燮)氏がプランナーとして招かれた。単色画を同時
開かれた庭や、密かな通路にそって配置された単色抽象画は静
代的な美術の観点から観ていく展示であり、これまで、なかなか接す
かな光と豊かな響きを発している。それぞれ個性豊かな作品は黒、青、
ることのできなかった水準の高い大型作品が一同に展示されたという
白など、単純な色の中に重層的な意味と多彩な表情を秘めている。
点からも専門家はもちろん、観覧客から好評を博した。
京畿道果川市にある国立現代美術館で3月17日から5月14日まで開
何よりもこの展示は、これまで「モノクローム絵画」、「モノトーン
かれた「韓国の単色画」展は具象性を一切排除した純粋単色の抽象画
絵画」、「単色平面絵画」など、混沌としていた名称を「単色画」という
だけで構成された密度の濃い展示だった。パク・ソボ(朴栖甫)、イ・ウ
固有の名前で公式に表記することで主体的な視覚を示したという点で
ファン(李禹換)、チョン・チャンソプ(鄭昌燮)、ハ・ジョンヒョン(河
注目される。ユン教授は「韓国の単色画は西欧のミニマルアートとは
鍾賢)など、70年代初めの単色画の胎動期をリードした画家たちを筆
その内容が根本的に違う。今回の展示を通じて国際的に通用する韓国
頭に、80年代になりモダンな新感覚を開拓したイ・ガンソ(李康昭)や
美術のブランド『単色画』という韓国語の表現が定着することを期待す
キム・テホ(金泰浩)をはじめとする40~50代の作家まで、いずれも現
る」と述べている。単色画は西洋で出発した美術史の流れに、韓国の
代韓国を代表する作家たちが勢揃いした。
内面性と精神的な価値を付与して再解釈した独自のものであり、日本
展示にあたって、国立現代美術館所蔵のコレクションに新たな視 点を加えるために、外部から美術評論家であり湖南大学校教授のユ Koreana ı 夏号 2012
の「もの派」やイタリアの「アルテボヴェラ」のように、海外でも韓国を 代表する個別ブランドとして通用させたいという意味だ。
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熾烈な労働から生まれた沈黙
たる作家の手作業の反復から現れた色の肌理細やかさが感じられる。
韓国美術界で単色に基盤をおいた絵画は1970年代初期に芽吹き、
同じ黒でも一度の塗りで描かれたものと、数十回の反復で描かれた重
中ごろに大きな流れに拡大した。ミニマルアートに代弁される西洋の
層的な色の密度は決して同じものではない。ユン教授は「西欧のモノ
モダニズムの影響から出発したものの40年の年輪を積み重ねて、今
クロム作品が視覚中心だったとしたら、韓国の単色画は触覚性に意味
や韓国独自の様式として花を咲かせ、根を降ろしたと言える。
をおき自然と同化する韓国の独特な自然観を反映している」とし「西洋
それでは西洋のモノクロームやミニマル絵画と韓国の単色画はど こが違うのか。招聘キュレーターのユン教授は西洋のモノクロームあ
の形式主義的な観点ではなく生態学的、宇宙的、対峙的観点から完成 した作品」だと説明している。
るいはミニマル絵画が数学と言語に基盤をおいた理性的、論理的な作
韓国の単色画家たちは自然に逆らわない伝統的な自然観をもとに
業なら、韓国の単色画は身体を道具として使った瞑想的な作業だと説
余白、観照、静中動、無為自然、中庸の精神など、「韓国の精神」と言
明する。
える価値を作品に内面化しようとした。そのため作家たちは自分だけ
西欧のミニマリズムの「空っぽの絵画」とは違い、韓国の単色画に
の表現技法を求めて、生涯にわたり粘り強く自己との戦いを続けてき
は熾烈な思惟と労働の痕跡、沈黙の深さが溢れている。同じ単色の作
た。反復的な行為を通して精神的な超越状態をキャンバスに表現した
品でも韓国の単色画は西欧のミニマル絵画とは違い数十、数百回にわ
のだ。ロバート・モリスやドナルド・ジャッドのようなミニマリズム作
1 1. 尹亨根、 「Burnt Umber & Ultramarine Blue 86-29」 、キャンバスに 油彩、300×150cm 2. 朴栖甫、「描法 No. 43」、麻布に油彩、鉛筆、193.5×259.5cm 3. 金春洙、「ウルトラマリン1034」、キャンバスに油彩、200×200cm
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家がアイデアだけを提示し作品は工場に任せて産業材料を使って制作
ヒョングン(尹亨根)、身体になじんだ修行をもとに韓国の伝統瓦の
したのとは違い、韓国の単色画の作家たちはまるで修道僧のように自
屋根を連想させる太く垂直的なうねを表現したパク・ソボ(朴栖甫)、
分の身体を酷使しながら、長い歳月をかけた労働によって自然の理致
キャンパスの裏に厚い油性絵の具を付けた後で絵の具を表面に押し出
を作品に込める作業を目指してきた。
すようにしたハ・ジョンヒョン(河鍾賢)、精神を鍛錬するように新聞 紙をボールペンと鉛筆で真っ黒に塗りつぶすチェ・ビョンソ(崔秉昭)、
産業化以前と以後
白い空間に筆で白色を塗る作業を繰り返してきたイ・ドンヨプ(李東
展示室は単色画作家の作品を前期と後期に分けて展示している。
燁)などの作品が続く。
展示のしょっぱなには、自己練磨の姿勢で大きなキャンパスに濃い
1980年代以後、新たな感覚と視覚で単色画の世界を発展させた後
ブルーの点を描いていったキム・ファンギ(金煥基)、書道に基盤をお
期の単色画家たちは産業化時代を経た戦後の世代で、作家の意識と
いたイ・ウファン(李禹換)、薄い紙を華やかな色の点で埋めていった
趣向、材料の面で1930年代の前期作家たちとは明らかな違いがある。
グァク・インシク(郭寅植)の作品が並ぶ。そして、韓紙の材料である
企画者のユン教授は「後期の作家たちは大部分大学時代に西洋のモダ
コウゾの樹皮を素材に豊かな水性の世界を表現したチョン・チャンソ
ニズム美術の教育を受けた人々で、前期と後期の作家の間には一種
プ(鄭昌燮)、天然麻布の色を生かして絵の具の滲みを活用したユン・
の美観的な断絶が存在する」と説明している。実際に後期の単色画を
3
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1
ユン教授は「韓国の単色画は西欧のミニマルアートとは、その内容が根本的に違う。今回の展 示を通じて国際的に通用する韓国美術のブランド『単色画』という韓国語の表現が定着するこ とを期待する」 と語った。
展示した展示室には油彩やアクリル絵の具を使用したイ・カンソ(李 康昭)などの作品もあるが、ウレタン自動車塗料のムン・ボム(文凡)、
韓屋の開かれた構造にアイデアを得た展示空間 今回の展示では空間構造も注目を浴びた。既存のホワイト
スパンコールを使ったノ・サンギュン(魯相均)、人造真珠のコ・サン
キューブの展示場の単調な空間デザインから抜け出し、韓屋空間の借
グム(高山金)、合成樹脂のチョン・グァンヨプ(千光燁)など、人工
景はまるで両班の家を見て回っているような感覚があるからだ。韓屋
材料で産業社会の美観を探求した作品も多い。1986年アジア大会と
の中門や狭く長い通路、外の風景を部屋の中に引き込んでしまうよう
1988年のソウルオリンピックの開催後、韓国は消費社会に突入した。
な開かれた構造に着眼し、開かれた空間と閉鎖的な空間、緊張と弛緩
後期作家たちはその兆候を多様なスペクトラムによって表現したの
に満ちた展示空間を作り出した。テーマや作家が変わる地点では、鑑
だ。
賞者が作品に集中できるようにさまざまな試みも行われた。
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韓国の文化と芸術
2
3 1. 李康昭、「島から‐07247」 、キャンバスにアクリル絵の具、218.2×291cm 2. 今回の展示は開放と閉鎖、緊張と弛緩の展示空間でも注目を浴びた。 3. 安貞淑、「緊張2008‐A‐2」、キャンバスに油彩、85×85×8cm
例えば、1970年代の単色画の胎動期の作品は、一目で眺望できるよ
て広がった韓国の単色画は華やかな花を咲かせもしたが、一方で韓国
うに韓屋の庭のような大きく開かれた空間に展示された。反対に剛直
の美術界に影を落とした。単色画を追従する作家たちが大きな集団を
なソンビの精神が伺えるユン・ヒョングンの大作を紹介する展示室は、
作ったことで、それとは違った声を出そうとした作家の立地が狭まる
長く貫通する視線の軸を生かした2次元の絵画作品を空間的な深さを
という画一化の副作用をもたらしたのだ。また80年代に入ってから
感じさせる3次元的に鑑賞出来るようにした。中心と周辺の領域を確
は軍事政権が支配する抑圧的な現実に対して沈黙したという理由で社
実に分離するというよりは、狭い通路が開放的な空間と出会うように
会批判的な性向の民衆美術陣営の作家たちから強い批判を受けた。
会場を構成し、水の流れが淀んでは、また流れ出すように色の流れや 展示の領域が自然につながるようにした。
それにも関わらず西洋のミニマリズムが一次的な流行を経て70年 代に終焉を告げたのとは違い、韓国の単色画は現在進行形で今日まで
キュレーターが展示室のあちこちに観覧客の動線を考慮した
絶えることなくその命脈が受け継がれている。西洋思潮の単純な追従
ビューポイントを設定した点も新鮮だ。観客は作品を自由に見て周り
を越え、韓国の単色画は考えを盛る器となり、意識の余白を把握する
ながら、このポイントに立つといろいろな作品が調和をとりながら一
独自の芸術世界を作り上げた。
つになっている光景に接することができるのだ。
作家たちは「単色の色面」という同一テーマの範疇の中で、それぞ れ違った表現方式と態度を駆使しており、労働集約的な作業で心の風
熟成と発酵の美学 1970年代の初めに開かれた「アンデパンダン」展、「エコール・ド・ ソウル」、「ソウル現代美術祭」、「大邱現代美術祭」などの展示を通じ Koreana ı 夏号 2012
景を描き出すという点で共通している。その風景の中には長時間の熟 成過程を経てかもし出された節制、余白、発酵の美学が溶け込んでお り、見るものに平静と静寂を与えてくれる。(翻訳:金明順)
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тиетїа
1
印刷文化のルーツを守る鋼鉄のプライド
金属活字匠 林仁鎬 イム・イノ(林仁鎬)さんは2007年から現在まで合計44種の金属活字を復元した。そして 現在は、世界で最も古い金属活字の印刷本である『直指』の活字を復元するという5ヵ年 計画に挑んでいる。 パク・ヒョンスク(朴炫淑、フリーライター)| 写真 : 安洪范
20
12年1月17日、忠清北道槐山郡重要無形文化財101号金属活字 匠イム・イノ(林仁鎬、50歳)さんの作業場で「直指金属活字の復
元事業報告会」が開かれた。イム・イノさんが世界最古の金属活字印刷本で ある『直指』の金属活字の復元作業を始めてから1年、下巻78章の中の13章を 蜜蝋鋳造方法での復元に成功したことを祝うための意義深い席だった。清州 市が主導するこの事業は『直指』金属活字印刷本の下巻と木版本で残っている上巻を 2011年から2015年まで年次的に復元するという5ヵ年計画だ。 2
高麗の印刷術と『直指』 韓国は印刷に必要な紙墨などを製作する技術が早くから発達していた。また木版印刷術も大きく発達してい たが、木版を作るのにかかる費用と時間が多大な上に、ようやく作り上げた木版が腐ったり、磨り減ったり、 虫に食われたり、火災で延焼するなど多くの欠点があった。その点をカバーするために作られたのが金属活字 だ。木版とは違い活字、すなわち「動く文字」を作りそれを版に配列した後で活字の表面に墨を塗り紙に刷るの
1. 鋳型に溶かした鉄を流し込 み、それが冷めたら鋳型を壊し て活字を取り出し一定の大きさ に整える林仁鎬さん 2. 母字の付いた蜜蝋
だが、その材質は金属なので非常に堅固で保管も容易だ。 高麗の金属活字は世界的な印刷文化の中でも断然輝いている。記録によれば13世紀の初めに世界最初の金属 活字印刷が高麗で始まった。当時高麗の首都開京で中央政府の主導で活発に行われていた金属活字本書籍の刊 行は地方にも広く伝わり、多くの本が印刷され普及した。 『直指』は高麗時代の僧侶景閑が書いた禅の要諦を悟るのに必要な内容を記した本で、正式な名称は『白雲和 尚抄録仏祖直指心体要節』上下2巻からなる。高麗の禑王3年、1377年7月に清州興徳寺で金属活字で刷られた 本で、現在に伝わっているのは下巻1冊だけだ。19世紀末から20世紀初頭にかけて駐韓フランス代理大使と してソウルに赴任していたコリン・デ・プランシが収集し、その後、フランス国立図書館に寄贈され、現在も同 図書館に所蔵されている。『直指』はドイツのグーテンベルクの『四十二行聖書(グーテンベルク聖書)』よりも78 年、中国の『春秋繁露』より145年も古いもので1972年にユネスコが指定した「世界図書の年」に出品され、世界 最古の金属活字本として認められた。そして2001年にはユネスコの世界記録遺産に登録された。『直指』は林 Koreana ı 夏号 2012
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「刻字だけだったら面白くなくて、たぶんもう辞めていたで しょう。金属活字は私の生涯をかけて取り組んだとしてもそ の面白さは尽きないほどに興味津々です」
1
仁鎬さんにとって意義深い本だ。彼の師匠の呉国鎭さんが亡くなる 2005年まで8年以上、師匠と共に復元に努めていたものだからだ。
ませんでした」 林仁鎬さんは1984年、字や絵を他の材料に彫る書刻に入門し、1992 年故郷の槐山郡に書刻のアトリエを開いた。そして書刻とも関係のあ
師匠の意志を受け継ぎ 「金属活字は鉄、木、砂、蝋、火などを扱い、いろいろな技術が合 わさり一字一字、姿を現してきます。工芸と科学技術を網羅して生み
る金属活字に関心を抱き1996年、第1代金属活字匠の呉国鎭さんの もとを訪れた。6ヵ月以上通い続ける彼の情熱に負けて呉国鎭さんも ようやく弟子入りを許してくれたという。
出される総合芸術品です。『金属活字の国』と言っても言いすぎではな
「ぐつぐつと煮えたぎる溶鉄を鋳型に流しいれて文字を生産する工
いほど、金属活字印刷が発達していた朝鮮では中央政府が活字鋳造官
程に魅了されました。『無から有を作るというのはこういうことなん
庁である鋳字所を設置し活字を製作し、各段階ごとに匠の分業体制が
だ』と思いました。一字一字、息づいて動き出しそうな文字通りの活
整っていました。活字を彫る匠、鋳物を扱う匠、版に活字の間隔を揃
字、それに手をいれた瞬間のときめきも非常に新鮮な喜びでした。命
えておく匠、書籍を印刷する匠といった具合です。今日の金属活字匠
脈が途絶えた金属活字の製造術を復元させようという師匠の執念にも
は金属で活字を作り、各種の書籍を印刷するまでの全工程を一人でし
感動しました。師匠は金石文字をはじめとする考証学と書道の大家で
なければなりません。それだけ大変だということです。まして現存す
非常に厳しい方でした。誤字を出したときはもちろん、字画が一つで
る本を見て昔の金属活字を復元するという仕事は師匠にとっても、私
もきちんとしていないと雷が落ちました。あきらめることを知らない
にとってもたやすいことではありませんでした。でも師匠はあきらめ
方でした。父の命日はときどき忘れてしまいますが、師匠の命日は忘
1. 鋳物土の中で活字ができる様子の断面を理解しやすいように林仁鎬さんが 作った断面モデル。鋳物枠を作る鋳物土は黄土と砂、水の割合を正確にあわせ ないと割れてしまう。 2. 蜜蝋に文字の見本を裏返して付けた後、文字を陽刻する。 3. 鋳物砂鋳造法で作った金属活字
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2
韓国の文化と芸術
3
1. 完成した型に溶かした鉄がうまく流れ込むように斜めに固定 してから、側面の穴から細心の注意を払って鉄を流し込む。 2. 完成した金属活字で組版した様子 3. 蜜蝋鋳造法に使われる蜜蝋 4. 復元した活字で印刷した 『直指』
れたことがありません」 韓国の金属活字は金属を溶かして液体にして鋳型に流し込み、好 みの形を作る鋳造技法で製作された。鋳造方法は二つの方法が伝わっ ている。一つは蜜蝋鋳造法、もう一つは鋳物砂鋳造法だ。蜜蝋鋳造 法は高麗時代に考案されたもので蜜蝋に文字を彫り鋳物土で包んで焼 き、蜜蝋が溶けてできた空間に溶かした鉄を流し込んで活字をつくる 方法だ。鋳物砂鋳造法は朝鮮時代に官庁と王室で行われていた方法で 木に文字を彫り、いわゆる「字母」を作る。型を作ってその中に字母を 1
入れてその間に溶かした鉄を流し込み活字を作る方法だ。 「鋳型枠は熱に耐えられずに割れてしまい、型を作るのに使う砂と 黄土、水の正確な割合が分からず実験に実験を繰り返しました。その 結果、金属活字を作るのに使われる合金の青銅を作るには銅、真鍮、 鉛をそれぞれ75%、25%、1~2%であわせなくてはならないことが分 かりました。型の作業の時には砂と黄土の濃度、湿度をきちんと把握 しなければなりません。作業をする季節や気温により差があります が、基本的には砂、黄土、水の割合が6:4:1程度です。長い間の苦労 の末に伝統的な蜜蝋鋳造法をきちんと復元できた時のうれしさは今も 良く覚えています」 古文書復元のための金属活字を復元するには1200度の熱で溶かし た鉄を流し込む時に金属が延びたり縮んだりする割合まで計算して作 業をしなくてはならないので極度の緊張を強いられる。蜜蝋や木に 彫った文字の大きさ、鋳物土と型の完成度、溶かした鉄の濃度と温 度、流し込む技術、最後に活字を一字一字整えていく工程などで少し の誤差でも生じれば間違いなく失敗してしまう。一日に10時間文字
2
を彫り、鋳造の枠を作り、活字を整え、版に文字を揃える作業 に集中していたら円形脱毛症になってしまったと、彼は 髪の毛をかきあげた。ピンポン玉ほどの小さな円形が できている頭を見せてくれた彼の表情にはむしろ誇ら しさのようなものさえ感じられた。 3
韓国の文化と芸術
4
44種類の金属活字の復元 毎日毎日、数多くの本が出版される現代社会で、林仁鎬さんは一 冊の本を作り続けてすでに5年になる。
た思い出は生涯忘れられないだろうと言う。 「甲寅字は世宗16年の1434年、朝鮮の印刷術が頂点に達した時に作 られた活字です。天才だった世宗大王は科学技術も一段階発展させま
「本の一頁を完成するには400個余りの活字を作って印刷しなけれ
した。1446年訓民正音を発布するのに甲寅字を使用しました。大き
ばなりません。蜜蝋鋳造法の場合、金属活字匠一人が4万字ほどの活
な字は横1.6㎝、縦1.4㎝で、小さな字は横0.8㎝、縦1.4㎝、厚さはど
字を鋳造して印刷するまで、最低でも5年間休まずに仕事をしてよ
ちらも0.6∼0.8㎝で製作されました。活字の四面がまっすぐ平らで、
うやく一巻が仕上がります。生産性だけを考えれば不可能な仕事です
組版の完成度が高く、字体も精巧で、かつ優しく美しいので朝鮮時代
が、一つ一つの工程が非常に面白く引き込まれてしまいました。刻字
後期まで何度も繰り返し作られています。最初に製作された初鋳甲寅
だけだったら面白くなくて、たぶんもう辞めていたでしょう。金属活
字をはじめ再鋳甲寅字、三鋳甲寅字、四鋳甲寅字、五鋳甲寅字、六鋳
字は私の生涯をかけて取り組んだとしてもその面白さが尽きないほど
甲寅字があります」
に興味津々です。世の中で最も美しい文字は『狂うの狂』の字だと思い ます」
林仁鎬さんは金属活字作りに集中していると頭の中の雑念がすべ て消え去り、ひたすら活字しか見えなくなるという。この仕事を通し
朝鮮時代には世界の印刷術の発達史の中でも他に例を見ないほど
て「昔の人々は単純なところに宝石を作り出した」という悟りを得たと
活発に金属活字が鋳造された。1403年朝鮮初期の金属活字の癸未字
語る彼は、今日韓国がIT強国になったのも早くから発達した印刷文化
が鋳造されて以後、1420年庚子字、1434年甲寅字、1436年丙辰字、1450
という情報革命の基盤があったからだと力説した。韓国の印刷文化の
年庚午字、1484年甲辰字などが相次いで誕生した。林仁鎬さんは2007
ルーツを守っているという強靭なプライドは金属活字を作る工程の歓
年から現在まで癸未字など44種類の金属活字を復元した。特に韓国
びに溶け込み彼の情熱を変わりなく熱いものにしている。(翻訳:金明
の金属活字の中で最も精巧で美しいと評価されている甲寅字を復元し
順)
Koreana ı 夏号 2012
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韓国の近代文化遺産
韓国銀行
韓国貨幣の総本山 韓国銀行は1909年、日本第一銀行の京城支店として設立され、1948年の 大韓民国政府発足後は中央銀行の建物としてその役割を果たしてきた。 現在は韓国銀行貨幣博物館として利用されている。 キム・ジョンドン(金晶東、牧園大学校 建築学部教授)| 写真 : 安洪范
韓
国銀行は我々が毎日使用する紙幣にその名称が登場する。韓国の紙幣の発行は大統領では なく、韓国銀行の総裁によって発行されるため、ハングルで「韓国銀行総裁」と書かれてい
る。また、韓国銀行の建物は珍しい外観によって国民に深く認識されている。つまり健全な銀行と いうイメージを与えているのだ。同建物が建てられた当時、銀行の建物は権威がなければならな かったし、お金を預けるところであるだけに、重厚に建てるのが主流だった。しかし入り口は泥棒 対策のため小さく造られた。現在では当時とは状況も変わりガラス張りの銀行もある。
韓国銀行創立の経緯 銀行の象徴ともいえる代表的建物はロンドンの「バンク・オブ・イングランド」である。銀行とい えば石造りというイメージはこの銀行から由来した。日本人は明治時代に初めて銀行を設立するに 当たって、このロンドンの銀行について学習した。その結果が現在の日本銀行に集約されている。 日本人は直ぐ京城(現ソウル市)にも銀行を開設した。日本は1905年から本格的に韓国への侵略
設計者はこの建物を権威的で威厳のある外観を演出するためル ネサンス様式を取り入れ、そこにベルギーのシャトー(Chateau) 風を加えた。この建物は鉄筋コンクリート構造に石造で仕上げ てある。
政策を展開した。それを受けて日本の第一銀行京城支部(韓国総支店)は日本政府から政府国庫金 の取り扱い、貨幣整理、銀行券の発行等の仕事を委任された。1909年7月26日、韓国中央銀行条例 が発表されたことを受けて株式会社韓国銀行が設立された。韓国銀行は日本第一銀行の権利と義務 を継承したのだ。設立当時、今後50年間の1959年7月26日まで続くと見越していた。1910年の韓 日併合以来、1911年8月15日には朝鮮銀行に改称され、略して鮮銀と呼んでいた。日本人は日本銀 行と日本銀行京城支部の建築を日本人建築家の辰野金吾(1854~1919)に任せた。彼は工部大学校 (現在の東大工学部)の第1回卒業生(1879)であり、明治時代における新建築をリードした。彼は イギリス人建築家のジョサイア・コンドル (Josiah Conder、 1852~1920)の弟子だった。辰野は卒業
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韓国の文化と芸術
直後の1880年にイギリスに留学し、後期ビクトリア・ゴシック時代の建築家、リ チャード・ノーマン・ショー(R. N. Show、1831~1912) に惹かれた。 日本に戻った後、1886年に東京帝国大学建築科の教授になった彼は日本銀行 を設計した。彼の赤煉瓦建築はリチャード・ノーマン・ショーの作品に似ている。 ショーのいわばフリー・クラシック方法をコピーしたのだ。 彼はまた葛西萬司(1863~1942)と共に日本第一銀行の京城支部(韓国銀行本店) を設計した。両国における代表的な銀行の建物が、用途は変わったものの、辰野 の設計のまま現存されているわけだ。建築家としては非常に誇り得ることであろ う。
朝鮮の宮殿の跡 韓国銀行のあった場所にはもともと達成離宮と、大きな韓屋が幾つか残って いた。そこは「松の木の多い丘」で「南松峴」と呼ばれていた。ソウルの代表的な一 里塚である南大門とも近く「南大門の隣南松」とも呼ばれていた。1896年8月14 日、アメリカの南監理教海外宣教部(Board of Foreign Missions of the Methodist Episcopal Church、South)朝鮮初代宣教師であるリード (李徳、C. F. Reid) 夫婦がソ ウルに到着して、住宅を兼ねた宣教本部としてここの韓屋を使っていた。その後 リードは1906年に培花学堂のあったソウル北西部のコガナムゴル(漢城府仁達坊 古磵洞、現在の内資洞)のイ・ハンボク家の跡地に宣教地を移した。 もう一棟の韓屋は尚洞教会が修理して病院として使っていた。その 隣には済衆院もあった。さらに、周辺に病院が幾つかあって、1901年 にはドイツ人侍医だったリハルト・ブンシュ(Richard Wunsch、1869~ 1911)博士がここに移り住むようになったが、おそらく病院への通勤が 容易であったからだろう。またその丘(現在の小公洞、韓国銀行別 館辺り)の辺りには皇室の顧問だったアメリカ人のウィリアム・
貨幣金融博物館の内部と円塔。以前は銀 行の中央ホールだったが、今は世界各国 の旧貨幣や現在通用する貨幣を展示する 貨幣広場として使われている。 Koreana ı 夏号 2012
1
F.・サンズ(William Franklin Sands、山島; 1874~1946) も暮らしてい
央銀行を参考にしたといわれる。
た。つまり、この辺りは当時、韓国で滞在していた外国人宣教師や皇
建物は正面部が左右対称になっている。左右端と側面の角の3カ
室の顧問たちの住居地であったことがわかる。貞洞に続く二番目の外
所にはそれぞれ円塔(階段室)が設置され、柱の頭の部分には見せかけ
人居住地であったわけだ。
の紋章形の装飾を施してあり、外来物の古風を好む設計者の趣向をう
日本の統監部はこの達成離宮と宣教師村を強引に取払った後、そ の敷地に新しい銀行を建てた。常識のある設計者ならば、その場所の 持つ歴史性を考慮して、他の敷地を探していたはずだ。
かがわせる。当時彼らはその飾りを作るために、韓国の旧貨幣を集め て、溶かして製作するという横暴もはばからなかった。 正面の中央部には円形の塔を設け、両側にはきめ細かな細工のを 施したぺディメント(Pediment)を載せた。また、円形の階段の屋根
1912年、5年ぶりに竣工 旧韓国銀行本館の建物は地下1階、地上2階と屋上からなってい
の部分に載せたサラセン(Saracen)風のドーム(Dome)が鐘のように 見える。屋上の部分を重視したのがみてとれる。
る。平面はハングル文字のㅁ字の形をしていて、中央のポーチを中心
外面の花崗岩は東大門の外側にある昌信洞で採取されたものだっ
に一対のシンメトリーをなしている。1階の中央ホールは160坪規模
た。煉瓦は官立煉瓦製造所で作られたもので、鉄材はアメリカのカー
で、約1600人が収容できる中庭として計画され、地下には当時とし
ネギ社の製品とイギリスや日本のものが使われた。この建物は1907
ては最大規模の金庫が入った。延べ建坪は2295.46坪であった。
年11月に着工し、5年間の工事を経て1912年1月20日に完成した。定
辰野金吾は機能性にこだわるよりは、権威的で威圧的な外観を実 現するためにルネサンス様式を取り入れ、さらにベルギーのシャトー
礎式典は1909年7月11日に行われたが、当時の統監だった伊藤博 文が出席して礎石に「定礎」の二文字を書いたという。
(Chateau)風を加えた。この建物は鉄筋コンクリート構造に石造で仕
ところが、この建物は最初の設計よりは縮小されて竣工されたた
上げてある。設計の際にイギリスのイングランド銀行、ベルギーの中
め、一部の飾りは省略されていた。工事は日本の清水組に任され、工
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韓国の文化と芸術
3
ことだった。しかしそれから10日後に6・25動乱(朝鮮戦争)が勃発し、 銀行の機能は麻痺した。6月28日に本店は大田に避難し、7月16日に 2 1. 韓国銀行の建物がある南大門路は現在もソウルの中心街である。写真の 右側に、円塔の後ろに建設から32年経って、近代的ビルとして新築された ソウル中央郵便局が見える。 2,3. 博物館の休憩スペース。補修はされたが、昔の骨格はそのまま保存さ れている。
は大邱へ、さらに8月22日には釜山へと避難せざるを得なかった。 戦時中の空襲で、屋根や地上層の内部はほとんど破壊された。し かし、建物の外部は花崗岩のおかげで、痛手は負ったものの存立は可 能であった。 1956年5月に韓国銀行は戦争で破壊された本館建物の補修に着手 し、1958年10月に終えた。その時、屋上部分は原形より縮小復旧され た。全昌日(ジョン・チャンイル、1912~1971)と宋旼求(ソン・ミング、 1920~2010)が復旧作業に尽力を尽くした。全昌日は韓国独立後、韓
事期間中の臨時建築部の工務長(現場監理及び常駐滞在者)は中村与資
国銀行に就職し本店・支店で営繕の仕事に従事していたが、一方、宋
平が務めた。
旼求は本館補修・設計建築家として参加したのであった。
ところが同建物は竣工後に二度も火災の憂き目に遭った。独立直
1973年12月29日、大韓建築学会は韓国銀行の撤去案を韓国銀行に
前の1945年1月15日に発生した火災で内部の一部が消失し、4月29日
提出した。しかし、近代文化遺産の保存を求める市民の反対にあっ
復旧された。そして解放と共にこの銀行は韓国銀行となった。一方日
て、この建物は1981年9月25日、史跡第280号に指定されて国家に保
本では敗戦後、朝鮮銀行の財産を資本にして日本債券信用銀行が東京
護されることになった。その後、1987年には本館の後ろに地上16階、
朝鮮銀行東京支店の跡地で生まれ変わった。
地下3階建ての現代風の新館が完成し、旧本館の建物は貨幣金融博物
韓国銀行が中央銀行として生まれ変わったのは1950年6月12日の Koreana ı 夏号 2012
館に衣替えしてオープンした。(翻訳:趙祥恩)
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インタビュー
鄭
炳浩教授へのインタビューのアポイントを電話で取り付けた
国境の無い町
ときに若干の行き違いがあった。鄭教授はご自身の勤務する
お会いするやいなや、鄭教授は京畿道安山市元谷洞の「国境の無い
大学のある京畿道安山に来て欲しいと言われたが、私はソウルまた
町」を案内してくれた。万国旗がたなびく空の下では正に、万国の商
は、ソウル近郊でお会いできないだろうかと申し出た。しばし考えら
店と人々が入り混じっていた。元谷洞の韓国人住民は2万人前後、そ
れた教授は「ここで『国境の無い町』を直接見ながら話をしたほうが良
してそれと同じ数の外国人が60カ国から来て居住している。週末に
いと思うのですが」と提案した。その瞬間、私は「分かりました。そち
は友達を訪ねてきたり、お国の料理を食べにやって来る外国人でその
らに伺います」と言って電話を切った。人類学者が自ら研究する多文
割合ははるかに高くなるという。週末も営業する銀行がどこにあるだ
化の現場を紹介し、その場で話をしたいというのだ。そこまで考えの
ろうか?しかし、この町にはあるのだ。平日に一生懸命働き、週末に
及ばなかった自分自身が恥ずかしくなった瞬間だった。
送金などで銀行の窓口を利用しようとする外国人移住者のための配慮
『花壇に咲くいろいろな花のように』 漢陽大学校グローバル多文化研究院長 鄭炳浩教授 韓国に暮らす外国人は昨年120万人を越えた。全国の主要工業団地の周辺には多文 化空間が形成されている。チョン・ビョンホ(鄭炳浩)教授が率いるグ「ローバル多文 化研究院」のある安山はその代表的地域の一つだ。 キム・チャンヒ(金昶熙、ジャーナリスト)| 写真 : 金容喆, 安洪范
である。韓国で最も大きな外国人集団居住地域らしい話だ。
「朝鮮という一つの封建国家の臣民だった韓民族の一部が、日本の
ここが鄭教授が最近だした本『韓国の多文化空間』の現場だ。過去
侵略と植民地主義の結果として周辺諸国に散らばり、植民地と冷戦時
にも国内の多文化現象を扱った本はたくさん出ていたが、この本ほ
代の間、隔離された状態で暮らした結果、私たちとはまったく違う社
ど、総合的な見地から書かれた本もないだろう。私たちは「スマルカ
会的変化の過程を経て異文化集団となってしまったのでした。そして
ント」に席をとった。ウズベキスタン出身の高麗人が経営するレスト
脱冷戦と国際的な移住という時代的な状況が相まって、突然国内で再
ランだ。ロシアンビールを飲みながら羊肉のシャスリック(串焼き)や
び出会うことになったのです。私はこのような状況を韓民族の多文化
サムサ(包子:石窯で焼くパイ)などの料理を注文した。
現象だと呼びたいと思います」
「元谷洞だけをみると、最近外国人住民の数は減っています。商店
このように鄭教授は「歴史性」に続いて移住民問題の持つもう一つ
が繁盛し、家賃やテナント料が値上がりしているので、少しずつ近隣
の側面、すなわち「民族性」の問題を指摘した。これは非常に重要な発
地域に出て行った結果、全体的に外国人の町が拡大しているというこ
見だった。ほとんどの人々にとって移住民というのは異質な他民族に
とでしょう」
過ぎず、そのような点から「他者」に過ぎない。しかし国内移住民の相
元谷洞だけではない。外国人居住地は今後も増えていくことは
当数を占めている朝鮮族と高麗人は決して「他民族」だと言えない存在
あっても、少なくなることはないだろう。国内に帰還するコリアン・
であり、だからといって「私たちと完全に同一な韓民族」とみなすこと
ディアスポラ(中国の朝鮮族及び旧ソビエト地域の高麗人)と結婚、あ
も難しい存在だといえる。それなら彼らは果たして何者なのか?
るいは仕事を求めてやってきた外国人労働者が最も大きな比重を占め
ここで鄭教授の認識は一段階ジャンプする。外国人労働者の流入
ているが、彼ら以外にもさまざまな理由で韓国に居住する外国人が日
であれ、コリアン・ディアスポラの帰還であれ、そのすべてをひと
に日に増えている。
くくりにして普遍的な「移住民問題」として見ようというのだ。彼ら
私たちは果たして彼らと共に生きて行く心構えができているのだ
を差別無しに韓国社会の中にどうやって統合するかを考えようとい
ろうか?1990年代初めから始まった外国人ラッシュは私たちに大き
う提案でもある。そしてそのようにしてこそ、私たちは脱植民、脱
な課題を投げかけている。この20年間の新たな経験は私たちに多く
冷戦の世界史的な課題を果たし、南北統一まで展望できるという話
のことを考えさせてくれた。
だ。
「よく考えてみれば、外国人が大挙して韓国にやって来たのはこれ
「脱冷戦の潮流の中で国内に戻ってきた朝鮮族を差別せずに、韓国
が初めてではありません。1876年の江華島修交条約以後、いくつか
社会に同化させる問題は決して温情主義の次元で扱う問題ではありま
の港に開港場が設置され、1882年の壬午軍乱を契機に清の軍隊4千人
せん。今後、韓国が数十年間離れ離れで暮らしてきた北韓(北朝鮮)の
がソウル龍山に長期間駐屯し、最初の外国軍駐屯地を形成しました。
人々と会った時に彼らとどのように接するかという問題を、事前に考
その地は1894年の日清戦争後に日本軍の駐屯地になり、1905年の日露
え経験してみる重要な契機でもあるのです。そのような観点から今の
戦争の時には3百万坪の広さに拡大されました。第2次世界大戦後に
「多文化問題」は「一足早く来た近未来」でもあり、「実践的な課題」でも
は、そのまま在韓米軍の基地となりました。いわば、植民と脱植民、
あるのです。決して他人事、後回しにしてよい問題ではありません」
分断と冷戦の近代史の中で私たちは外国人や外国軍とソウルのど真ん 中で出会うことになったのです」
脱北青少年の自立を支援して このような説明とともに鄭教授は自分が多文化問題に関係するよ
韓民族の多文化
うになった個人的な経緯を詳細に紹介してくれた。それはこの問題を
鄭教授の多文化に対する視線にはこのように「歴史性」が込められ
単純な研究の次元ではない実践の問題として受け止めるようになった
ている。そんな歴史の潮流を再度、大きなうねりとして迎えたのが世
理由でもあった。彼は1990年代末、中国東北部地域で脱北者の実態
界的冷戦時代が終結した1990年代だった。国内の産業構造と人材市
調査をしたのが契機となり、脱北者たちの国内定着を支援するハナ院
場の環境が大きく変動したことで、主に東南アジアと中央アジアの
付設の「ハナトゥル学校」で2001年から4年間、脱北青少年を教えた。
国々から多くの労働者が流入し始めたのだ。過去とは全く違った様相
そこで彼は多くのことを学んだ。
だった。その労働者の大多数は近代初期に時代の波に押し流され、中
「北韓(北朝鮮)から来た青少年が国内で最初にぶつかるコメディー
国と旧ソ連地域に暮らす羽目になった韓民族出身の在外同胞の子孫た
が何か分かりますか?仁川空港にある‘Welcome to Korea’という英
ちだった。
語の看板です。彼らを歓迎する文句ではあるものの彼らはこの言葉が
Koreana ı 夏号 2012
49
理解できません。彼らが生死をかけて豆満江を渡り満州を流浪する状
命を認めた数少ないケースの一つです。韓国の学校に招いて特別講義
況と私たちのポストモダンな状況が共存していることを象徴的に示す
をしてもらったことがありましたが、8年間も亡命を認めてもらえず、
場面です。この乖離をどのように狭めたらよいのか、深く悩みまし
ありとあらゆる誤解の中で苦労してきた話に多くの生徒たちも涙を流
た」
していました。光州民主化事件以後、韓国の若者たちがアメリカに
それで脱北青少年を政治的に特殊な存在とし
密入国して暮らしていた状況と何が違うという
て見るよりは現実適応力を育てて、韓国社会
のですか?皆、理由と契機は違うものの、た
に溶け込めるようにするために、朝鮮族、高
だ金儲けのためだけに韓国を訪れた人々だと
麗人の青少年はもちろん、モンゴル族など、
思ってはいけないということです」
他民族の移住民青少年とともに韓国社会を学
移住民の一人、一人の考えと目標をあるが
んでいく過程を作ることになった。国家青少
ままに受け止め尊重すること。もしかすると
年委員会の支援を受けて設立したムジゲ青少
それが移住民問題を最も自然に調和をとりな
年センターがそれだった。鄭教授はここで南
がら解決していく為の第一歩かもしれない。
と北の問題もまた多文化の問題という普遍的
そうやって尊重する気持ちがあってこそ、移
な次元で見るようになる。
住民が「他人」ではない「私たちの隣人」として 見えてくるからだ。
双方向の理解に向かって
またよく観察すれば彼らが素晴らしい生
「安山のある食堂でバングラデシュの青
存戦略家であることが一目で分かるという
年と会ったことがあります。韓国語もうま
のが鄭教授の指摘だ。何としてでも隙間市場
かったんですが、英語はもっと流暢でし
(ニッチ市場)を発見し、そこで最大限の努力
た。よく聞いてみたらタカ大学の政治学科
をして数年以内に自己目標を達成するとい
を卒業したという話でした。今はコンテナ
うのだから、驚嘆すべき生存能力を備えて
を作る仕事をしているということでした。
いるというのだ。鄭教授は脱北者たちも他
かわいそうですって?とんでもありませ
の移住者たちのこのような側面を見て学ぶ
ん。野心満々な青年ですよ。韓国社会の
べきであり、私たちが脱北者たちを支援す
エネルギーを学び祖国に帰ってからは貿
る際にも政府の定着金と社会福祉に依存す
易をしたいと言ってました。そうかと思
るよりは、むしろこのような自生的な生存
えばビルマから来たアウン・チン・トゥン
能力を促すように支援すべきだと指摘
という若者は韓国政府が最近政治的な亡
安山市元谷洞の外国人住民センターの外 壁には万国旗で人の形が作られている。 鄭教授はこの地域のさまざまな集まりに 研究者として、そして友人として出席し ている。
50
した。
「安山のある食堂でバングラデシュの青年と会ったことがあり ます。タカ大学の政治学科を卒業したという話でした。今は コンテナを作る仕事をしているということでした。かわいそ うですって?とんでもありません。野心満々な青年ですよ。 韓国社会のエネルギーを学び祖国に帰ってからは貿易をした いと言ってました」
鄭教授へのインタビューが進めば進むほど、移住民問題の性格が
パスの位置する安山地域の特殊性を認識し、グローバル多文化研究院
だんだんはっきり見えてきた。最初は曖昧模糊としていたことが、
を大きく支援しているという点だ。すでに所属教授が50人を越えて
韓国の歴史と現実の中でその問題の輪郭が見えてくると、いまや韓
おり専攻分野も多岐にわたっている。鄭教授の問題意識とこの研究所
民族の未完の課題となっている統一に至る重要な路程として位置づ
の活動を追っていくだけでも移住民問題の相当部分が新たな展開を見
けられるようになった。完全に自分の問題となったのだ。「他人の問
せるだろう。
題」を「自分の問題」に転換する、この驚くべき変化を私たちが共に経 験できる方法とは何か?
鄭教授はインタビューの最後に、こんな経験談を紹介してくれた。 「ドキュメンタリー監督の金二瓉さんが、この近くに『地球人の停
鄭教授は今度、ご自身が企画・編集して出した『韓国の多文化空間』
留所』という事務所を開き移住民たち自ら映像メッセージを作れるよ
はグローバル多文化叢書シリーズの始まりに過ぎないという。今後、
うにする教育プログラムを運営しています。このプログラムに参加し
世界各地の韓国人移住者たちの生存戦略である超国家性を扱った本
たあるロシア人女性が安山での経験をドキュメンタリーにしました
を準備中だという。これは移住民問題を見るより広い視野を確保す
が、これを見て本当に感動しました。安山市のあちこちにある花壇に
るためのものだ。また植民地時代の遊民史であれ、一時代前の炭鉱
咲いた花々を創作的な構図と豊かな色調で映し出して、私たちの身近
夫、看護婦たちのドイツ移住史であれ、すでに私たちが切実に体験
にあっても気付かなかった美しさをとても効果的に見せてくれまし
した教訓がなぜ、この地にやって来た外国人移住者たちに歴史の教
た。このようなことが私たちと移住民たちが互いの内面を理解するの
訓として適用されないのか分析してみたいという。
に重要な契機となるのではないでしょうか?理解というのは一方向で
この叢書シリーズの発行において重要な基盤は大学当局がキャン Koreana ı 夏号 2012
はなく、双方向でなければならないからです」 (翻訳:金明順)
51
オン・ザ・ロード
梅の花の咲いた 楽安邑城と金芚寺 楽安邑城には朝鮮時代の地方計画の面影が今も残っている。城壁に囲まれた村では、 現在も昔ながらの生活を伝統文化として継承しつつ村民たちが暮らしている。 キム・ユギョン(金裕卿、ジャーナリスト)| 写真 : 權泰鈞, 安洪范, 河志權, 徐憲康
1. 楽安城の正門である東門。その半 分は小さな城に隠されている。 2. 楽安邑城の入り口に立っている チャンスン。村の守護神のような存 在だ。
2
楽
安邑城(ナガンオプソン)は全南順天から西側に峠を一つ超えた、22キロか かる道のりにある。順天五日市の開かれるある春の日、私はソウルを出発
し、アレッチャン(下の市場という意味、ウッチャン〈上の市場〉とともに順天を代 表する伝統市場)を見て回った後、買い物を終えて帰る人々に紛れて、午後から楽 安城に入ってみることにした。 順天から東川を渡ると、買い物袋を提げて忙しく行き来する人々から市場独特 の活気が伝わってくる。順天近くにある山間の村では、市を待っていたかのよう に物が動きだし、そして人々も動くのである。 停留場では大きな荷物を背負った人々がバスを待っている。楽安まで40分ほど かかる距離をバスは、ブルジェ峠を超え、両側の山の間を縫うように走る。昔は 狐が道行く人々を化かした峠だったが、今や昔話である。「以前は明かりがなけれ ば峠を越えるのが怖かったが、今や過去の話だね」と、ある中年男性が回想した。 バスが邑城の前に止まった。平地に築造された楽安城が見える。チャンスン (村の入り口に守護神として立てた木像)が「ようこそ、こちらです」と話しかける かのように出迎えてくれた。城の内外に人口200~300余人が暮らす小さな田舎だ が、風格が感じられる。
邑城周りの構成 高麗時代の末から朝鮮時代の初めにかけて、楽安の豊かな産物を狙った倭寇の 侵略のため、この地は戦闘が絶えなかった。城門の前にある石橋に彫られた3匹 の犬の彫刻は、「楽安城に攻め込み死んだ倭寇の怨霊から邑城を守る」守り神であ 1
53
1. 悪い気運が城内に入ることを防ぐために東門の 前に佇む石製の犬の彫刻(石狗) 2. 楽安邑城の東南側に竹が茂る城壁の周辺
1
る。正門の東門の半分は小さな城に隠されている。外部
20カ所以上もある。北門がなく、東門と南門は日本植民地時代に管理不行き届き
の人々を慎重に選り分けて迎え入れるための施しである
で廃れていたものを1980年代に楼閣として復旧し、西門は楼閣を復旧せず、高い
らしい。楽安邑城はこのようにして自らを守り、地を保
車両が通れるようにしてある。
全してきた。 4万1千坪(135,597㎡)規模の楽安邑城の内部を見る
「幼い頃、自分の背丈より高い南門側の城壁の石垣を見ながら、どうやってこ んなに大きい石をもって城を築いたんだろうと、いつも不思議に思っていました」
と、北側の半分ぐらいは東軒と客舎、内衙、林慶業将軍
と、西門を守る管理人が話していた。城壁の上からは城の内外の村落や平野、周
の祠堂、楽民館、資料館、監獄で構成された昔の行政官
辺の山々がすべて見渡せる。城壁の中にある家々はそれぞれ2~3棟の建物を擁
庁の区域である。全て瓦屋根の建物であり、樹齢数百年
し、庭と小さな畑があり、藁の束が積まれてある。石垣の中はいたるところに梅
のケヤキ、エノキ、ムクノキの木が佇む。
の花が咲いていて、庭には牛や子牛がいた。
南側には道に沿って80世帯330棟余りの家々が連なっ
官庁区域では監獄に収監されたり、刑具に縛られて尻を叩かれる人の模型が見
ているが、全部藁葺きの家である。韓国には山城が1500
られ、迫力に圧倒された。しかし、藁葺き屋根の集落からは、低い石垣を覆うよ
カ所もあるが、城壁の中に昔そのままに村民が暮らして
うに咲く名もなき花々、梅の花、青々としたニンニクの畑から日常の穏やかさが
いる所はここだけである。現在も人々が楽安邑城を訪れ
感じられる。
る所以である。
4メートルある高さの城壁の上では幅3~4メートルの道路を歩いてひと回り
城壁の下には朝鮮半島に多く存在する青銅器時代の遺
することができる。10月の夜には、この城壁の上をたいまつを持って歩くイベン
物であるドルメンがあり、金銭山には6世紀の百済時代
トが開かれる。ここ東軒の名誉別監の宋甲得さんは、邑城の管理所長を勤めなが
のお寺である金芚寺がある。このお寺には百済風の石佛
ら楽安邑城について本を書き、村の代表も兼任していて、楽安城の過去と現在に
と統一新羅時代の三層塔がある。山の石を使って長い梯
詳しい。
子の形で築造した城は周りが1.4キロである。東南側の丘
「邑城の真ん中に古い銀杏の木が二株見えるでしょう?楽安城を船に例えるな
には竹林が広がり、村や城壁の上部を繋げる狭い石段が
ら、その二本の木が帆柱であり、数百年にもなる15株の巨木が櫓の役割を果たし
54
韓国の文化と芸術
2
1
2
1. 城壁の上から見下ろした城内の藁葺きの家々 2. 城内のキルサム (機織)工房の伝統機織のシミュレーション 3. 金銭山の金芚寺の一柱門
3
ます。帆は城の外、郷校の中にある東山に当たります」。 邑城は三面が山に囲まれている。東南側だけに開かれた楽安平野を見た瞬間、 その経済的裏付けが理解できた。例の湖南穀倉の一部であり、一万種類の実りが あり、また海の幸にも恵まれた地である。 李舜臣将軍と林慶業将軍の足跡がここに残っている。全羅左水使だった李舜臣
が持っていったとも言われています。もう一本は秋蓮剣 で、忠州で大きな鯉か大蛇からもらったと言われ、忠州 市に保管されています」 楽安城で風物が行われる時は、堂山の木ではなく林慶 業祠堂から始まる。
将軍は壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の際、楽安城を5回も訪れて戦略を議論し、軍 の食料や兵器、兵士を補充した。勇敢な水軍の中にはここの出身者が多い。ま た、将軍の荷車をここ銀杏の木の下で直したと言われ、当時の村民たちはキキョ
住民の暮らしぶり 城壁の中にある藁葺き屋根の民宿は小ぢんまりとし
ウ、ツルニンジン、ムック(寒天状の食品)、魚、大根、岩茸、ワラビ、セリなど、
た小ぎれいな宿だった。オンドルの部屋は熱かった。周
地元の特産物である「8珍味」でもてなしたという。城壁の中のある食堂に同じメ
りは静まり返って月や星がくっきり見えた。じっとして
ニューがあったのでさっそく注文して食べたら、椎茸のチヂミに大根を入れた魚
いられず、寝る前に真鋳製のさじで戸締りのしてあった
煮、キキョウの和え物などがついた韓定食であった。私が銀杏の木を通り過ぎる
門を開けて、夜の路地裏を歩いてみた。街路灯が梅の花
際、おばさんは説明してくれた。
を照らす石垣の道、流れゆく泉の水、道の曲がり角に溜
「あの銀杏の古株から昔、オップデゥンイ(青大将)が出てきました。私の祖母
まった夜の闇、所々に見える窓の明かり、瓦屋根の家
が清水を捧げ『いい所に行ってください』と祈ったところ、その後は二度と出ませ
の楼閣の長い軒。道行く人は誰ひとりいない。それも、
んでした。30年も前の話ですよ」。
4万坪もある敷地にたった80世帯だけがたたずみ、酒
林慶業将軍は楽安の郡主であった。彼の祠堂が城壁の中にあって、毎年祭祀が 行われる。
屋もなければ幾つかある商店も皆閉じて静まり返ってい る。その静けさの中を割って入ってくる車の音が妙に嬉
「林慶業将軍の名剣が二本もありました。その一つが竜泉剣ですが、ここ楽安
しく思われた。城門は夜も開いている。監獄が南門の近
の竜沼(楽安民俗自然休養林の付近)から出た龍が落としたものです。後日日本人
くにあるため、囚人の脱出を防ぐための小さな泉がその
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57
1
周辺にあった。民宿のおばさんは「田舎では皆早く寝るか ら夜は静かだ」と言った。
9時になると、東軒、資料館、パンソリ屋などがオープンした。鍛冶屋で刀を 研いでいたカン・ホイン(姜鎬仁)さんは言う。「この鍛冶屋の刀は見た目はパッと
朝早く庭に出てみたら、梅の花が満開だった。観光客
しないだけど、西洋のナイフ10本束になっても適わないですよ。錆付かないよう
でにぎわう前に、城壁の中を見て回った。城壁の上には
に、荏胡麻の油を塗ります」。刀を新聞紙にくるくる包んだ後、両端を曲げてゴム
早くも散歩をする人々がいた。
ひもで固定したら包装完了。
路地は四方八方へとつながっている。車一台通れる幅
柴の編み戸の開かれた家の中には、藁を結う家や染色屋などがあり、見物しな
があるため、ゆったりとしている。いつか写真で見たよ
がら歩いていたら、誰かに呼び止められた。「ちょっと、ここだよ、ここ。よそん
うな故郷の山や川がそこにあった。崩れかけた石垣の傍
ちに入っちゃだめ。早く、来てコーヒーでも飲んだら」
に咲いた花、藁葺き屋根の家の小さな縁側、畑など。
民宿のお婆さんが私を見て呼んだのだ。一晩泊まっただけなのに、すっかり我
夜には姿のなかった子犬がいて、おかみさんたちは庭
が家って感じ。お婆さんは旧式の台所に立って、砂糖壺や匙、シンプルなカップ
に水を撒きながら新しい一日を迎える。上水道が敷かれ
に入れたコーヒーを私に勧めた。「コーヒーは砂糖をたっぷり入れると美味しい
た時、城壁の中にあった一番大きな泉はそのまま保存さ
よ」
れた。水が溢れ出て石の溝を通って流れていた。そこも クムジュル(禁糸)に取り囲まれていた。
お婆さんの名前はキム・グィシム(金貴心)。格好つけず、朗らかな方である。 「私はここで生まれて嫁いで、ここで暮らしてきたの。若い頃は大の男よりも力が
チャンスンが要所々々に数十本立てられ、道しるべの
強くて、稲きりも男に負けないくらいの女だったの。前は、市の立つ日は、順天
役割を果たしている。木の形を巧妙に生かしたチャンス
まで頭の上に蕎麦の種子や大根を載せて、3~4時間の道を歩いていって、売って
ンは、イム・ビョンジュ(任炳柱)をはじめ村の木工芸家た
きたの。それがね、今は『人って老いたらしまいだぞ。丈夫でよく歩いていたバ
ちが作った。
バァがあんなになった』と言われてる」
58
韓国の文化と芸術
1. 茶を供養する僧侶の姿が彫られた金芚寺の 三層塔と石仏 2. 伝統や野生茶に詳しい僧指墟
2
「幼い頃、自分の背より高い南方の城壁の石を見ながら、どうやってこんな大きい石を持って きて城を築いたのかと、いつも不思議に思いながら歳を取りました」と西門を守っていた管理 人が語った。城壁の上からは城の内外に広がる村や平野、周辺の山々までが見下ろせた。
お婆さんの話は続く。 「9人の子供を生んで、悪いことなぞせず暮らしたの
観光客が30万人も訪れるという。その時は、全羅南道で知れた食堂は2~3日店 を閉めて、ここに集まって腕を競うという。
に、息子3人に先に死なれたわ。主人は52歳で亡くなっ た。主人は1月15日に、農楽隊で法具を打っていたが、
金芚寺のお茶供養
私が見物しているのを見て『帰ろ!』と怒鳴った。『男を見
楽安城の外、ちょっと離れた金銭山の麓にある金芚寺はこの村の長い歴史を物
るんじゃない!』と。今私は92才なんで、主人のおかげ
語ってくれる。このお寺には野生の茶畑を耕す、お茶に詳しいお坊さんの指墟僧
で長生きしてると言われる。家の柚子の木が実ると、皆
がいる。金芚寺は6世紀、百済時代の威徳王時代のお寺である。ここには7世紀
やってきて取っていくの。昨夜は風が強くて、窯に火を
の百済の石仏と9世紀の塔もある。文禄・慶長の役の際に焼け落ちたが、指墟僧が
入れなかった。煙突が高く屋根にくっついているので、
1983年から建て直した。
火の粉でも飛んで火事になるのが怖くて。ここ縁側に 座って道行く人々を見ていると、退屈しない」 誰かがスクーターに乗ってやって来た。お婆さんが大
「私が偶然スイカを買いにここを訪れた時、廃墟と化した所に崩れ落ちた仏像 を見ました。ところが、その数年後に縁あって、またここで生活するようになり ました。この三層塔は茶供養をする姿を彫刻した宝物で、我々の茶道の資料です」
声で呼んだ。「おい、出前いくのか?こっちへ来い」。そ
お寺の上に切り立つ崖っぷちを背景に三層塔と石仏が向かい合っている。三層
れから私に言った。「彼はコーヒーが好きなの。一杯いれ
塔の2層の塔身には片方の膝をつき、一方の膝は立てたまま、両手でお茶を供養す
なきゃ」
る二人の僧侶の像が彫りこまれている。指墟僧が塔の隣にある石仏の前で、お茶
町の代表がマイクで「東内里の誰かさん、肥料を持っ
を供養する姿が塔に彫刻された場面にそっくりだった。真心がなければ、9世紀と
ていってください」と案内する。ここはまだ農業が主な
21世紀のお坊さんの茶供養がこれほど一致するわけがない。我が国のどこへ行っ
産業である。だたし、10月の南道食べ物文化祭りの時は、
ても発見できる歴史の痕跡に、又もや驚かされてしまった。(翻訳:趙祥恩)
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『オ・ジュソクの韓国の美特講』 (Special Lecture on Korean Paintings) オ・ジュソク著、李秀分、曺允廷訳 ハンリム出版社、 261頁、US$49.50 故オ・ジュソクは韓国の美術史学者 としては初めて、韓国美術の美しさを 分かりやすく解いて、大衆に歩み寄っ た学者である。これまでも素晴らしい 研究成果を上げてきた美術史学者は多 いが、そのほとんどが様式の研究に固 執したあまり、絵本来の美しさに対し ての研究は疎かにされてきた傾向があ る。オ・ジュソクはその従来の枠から 脱して、美しさそのものについて語ることで、さらに多くの人々に感 動を伝えることができた。 彼はもちろん、朝鮮時代の天才画家であったキム・ホンドの研究 『檀園金弘道』 (1998)などの専門学術書を出版した正真正銘の学者で ある。しかし彼はほどなく、一般大衆に韓国絵画の美しさを知っても らおうと『昔の絵を読む楽しさ』 (1999) などの力作を出した。 当時私はオ・ジュソクと親しく、彼の講義をよく聞いたりした。彼 の講義は他の美術史学者らの講義とはまったく違うものだった。何よ りも彼は絵を完全に理解していた。当時私は彼に対して、「少数の人 にしか聴いてもらえない講義ではもったいないから、本を出版したら どうか」と勧めたが、その結果がこの本である。 この本を読むと、オ・ジュソクの絵に対するアプローチの方法とは、 絵が生きているように接するということが分かる。絵の様式を論じる ことも必要なことではあるが、それは絵を無機質なものとみなし対処
ブック・レビュー
先人の心を読む
チェ・ジュンシク(崔俊植、梨花女大国際大学院韓 国語科教授) オ・スウン(魚秀雄、朝鮮日報文化部文学担当記者) イ・スギ(李守基、中央日報記者)
している。オ・ジュソクは絵の中から先人の心を読み取る。その理由 は、そのように向き合わなければ、その絵は理解できないからだ。そ もそも何故、昔の絵を理解する必要があるだろうか。それは、現在の 我々を理解するためなのだ。現代韓国人の精神の中には先人たちの思 考が投影されている。韓国人はその事実を忘れて生きている。オ・ジュ ソクは昔の絵を解きながら韓国人の精神に内在していながらも、自覚 されていない韓国性 (Koreanness) について知らしめてくれる。 またこの本は外国人にとっても有益である。韓国に関心のある外 国人は韓国の芸術に内在する韓国人の心を知りたくても参考書がな かった。しかしもうその心配は要らないようだ。この本の英語版が翻 訳・出版されたから。このような点からこの本の持つ価値をいくら強 調しても言い足りないくらいだ。
60
韓国の文化と芸術
暮らしの中の死に対する痛烈な探求 『私は私を破壊する権利がある (Tengo derecho a destruirme) 』 スペイン語版 金英夏作 金賢均訳
人工知能の友達 『 スマート・フォン・アップ “シンシミ (Simsimi)”』 韓国語、英語対応、 3.76MB、無料
ブエノスアイレス、バホ・ラ・ルナ出版社、 112頁、 US$13.50 『私は私を破壊する権利がある』 がスペイン
スマートフォンはいつでも寂し い人々のおしゃべりの相手になっ
語に翻訳・出版された昨年の11月。私は作家
てくれる。人工知能チャット用の
キム・ヨンハ (44) と共にメキシコのグアダラハ
アプリケーションである“シンシミ
ラにいた。グアダラハラ図書館で開かれたキ
(Simsimi)”が代表的なアップである。
ム作家の「読者との出会い」イベントは文字通
シンシミに「今日試験受けたよ」と話し
り、立錐の余地もないほどの盛況ぶりであっ
かけると、「どうでした?うまくいけばい
た。東洋からきた名前も知らない作家に、ア
いですね」と答えが返ってくる。
ズテックの子孫たちが高い関心を示した。そ
このアップは2010年6月に売り出されたが、スタートは2002年
れは彼が投げかける質問が同時代的であり、全地球的であったからだ。
MSNメッセンジャーがサービスした対話コンテンツの“シンシミ”で
この長編小説の主人公は自殺デザイナーである。「私」は人生に対
ある。当時ソウル大学校の学生だった崔正会 (37) さんが仲間と一緒に
して虚無に落ち、孤独で憂鬱な人を探し出して自殺を勧める。彼らが
作ったものだ。今年1月にアメリカのアップ・ストア・マーケットに参
望む通りの自殺方法を教え、また必要な仕事を代わりにやってあげ
入し、一週間で220万件のダウンロード件数を記録した。これは無料
る。「私」にとって死は、退屈で雑然と乱れた人生を圧縮する芸術的方
アップ全体で2位に該当する成果である。有名なラッパーであるエー
法であり、暮らしの美学的完成をもたらす一種の祭儀である。小説で
ス・フッド (Ace Hood) とソウルジャ・ボイ (Soulja Boy) が自身のツイッ
は二人の女性が自殺する。最初の女ユディット(セヨン)はチュッパ
ターに「シンシミが面白い」と紹介した後、ダウンロード件数が急増し
チャップスを噛んでセックスをする習慣のある酒場の女。二人目の女
た。現在も一日に100万人以上のアメリカ人がシンシミを利用する。
ミミはパフォーマンス・アーチストである。裸になり長い髪の毛で絵
シンシミはアップル社のアップ・ストアやアンドロイド・マーケットで
を描く自分の姿をビデオ・アーチストに撮らせ、そのビデオを見なが
無料でダウンロードできる。現在は韓国語と英語に対応している。
ら動脈を切る。自殺する理由は分からない。 キム・ヨンハの小説はさながらメビウスの帯が内部と外部を区別で きない図形を造るように、現実と虚構、そして暮らしと死を結合させ る。彼の小説は問う。人が生を望むならば、暮らしの中に内在してい る死も当たり前に望むことができないかと。キム・ヨンハの小説にお ける死は単に肉体の消滅ではなく、憧れの対象になる。
シンシミの人気の秘訣といえば、24時間いつでもチャットができる ことだ。ユーザがシンシミに言葉を教えることもできる。そのため 状況にあった冗談にも対応できる。「あなたと結婚したい」と話せば、 「通帳はいくつ?」という答えが返ってくる。 シンシミみたいに大ブレークするアップを開発しようと頑張る開 発者も着実に増えている。韓国コンテンツ振興院が今年2月に発刊
1996年に同書を皮切りに、これまでキム・ヨンハは6冊の長編小説
した「2011年スマート・コンテンツ市場調査報告書」によると、国内の
を書いた。彼の作品は英語・ドイツ語・フランス語・日本語など、15か
スマホ・コンテンツ市場の規模は1兆4989億ウォンに上る。スマホ・
国語に翻訳された。中でも『私は私を破壊する権利がある』は一番知ら
コンテンツ関連の会社は1270社余り、雇用人員は1万8637人である。
れた作品であり、ごく最近翻訳された作品でもある。「これまでの韓
しかしアップの開発者が人気の職種に浮上するにつれて、実際には
国文学とはまったく違う地点に立っている作品である。これこそ、こ
もっと多くの人がこの仕事に就いていると見られる。
の作品を読まなければならない理由であろう」。ドイツのズットドイ チェ・ツァイトゥングのこの作品に対する評価である。
実際にSKテレコムのアップ・ストアであるティ・ストア(T-Store)に 登録された開発者は2万9000人以上である。この中の2万6000人が
分断と独裁の経験が主なテーマであった前世代の韓国作家たちと
個人の開発者である。世界全体で440万件を超えるダウン・ロード件
は違って、1980年代の「民主化時代」以降の情緒が彼にとっては文学的
数を記録したアイフォン向けアップである“アーチェリー・ワールド
滋養分である。彼は集団よりは個人の価値、歴史的課題よりは疎外と
カップ(ArcherWorldcup!!)”を製作したキム・ヒョンス(26)さんも1人
疎通の問題を重視する韓国作家の代表として先を行く。
でこのアップを開発した。(翻訳:趙祥恩)
Koreana ı 夏号 2012
61
遠くの目
K-POPについて考えたこと このように、楽しくて興が湧く韓国の伝統的な音楽や踊りには、サムルノリ(四つの打楽 器、小さな鉦、鉦、杖鼓、太鼓の合奏による韓国の伝統的な民俗音楽)やボリッテ踊り(韓 国の伝統文化で庶民の即興的な踊り)、クッ踊り(巫女の踊り)などがある。これらの公演 を見れば、たとえ韓国人でなくとも、興趣を感じとれるだろう。K-POPの演技には、こ うした韓国の伝統的なサムルノリやボリッテ踊り、クッ踊りにみられるような、非常に楽 しいモッと興の湧く動作に影響されているところがあると思われる。 リ・インジ(李仁之、武蔵野大学人間科学部社会福祉学科教授)
グ
ロ-バル化とともに、新たに登場したK-POPの活躍は、韓国の舞台芸術の最新版であ るといえよう。今回は、韓流の一つとして最近、東京をはじめ世界各地で人気を集めて
いるK-POPの公演について、私なりの感想を述べてみることにしたい。 私がK-POPの音楽や踊りを通して感じたことは、彼らの芸能が海外からそのまま輸入した ものでもなく、また韓国の伝統的固有のものでもないということである。そこには、この二つ をはるかに越えた新たな芸術的創造性として、世界的に通用するものがあると思うからであ る。それゆえにK-POPの公演は世界的に歓迎され、人気を集めているのである。もし歓迎さ れない国があるとしたら、それはK-POPの芸術性の問題ではなく、政治的な問題ではないだ ろうか。 また、そこに韓国の伝統的な美意識を見出すことができず、海外からの輸入品にすぎない という辛らつな批判をする人々がいるかもしれない。だが、芸術は常に新しく生まれ変わりな がら、成長・発展していく流動的な有機体と同じである。それゆえ、芸術は一部の地域で停滞 するものではなく、変化しながら新たな創造を繰り返すものである。K-POPもそうであるに 違いない。そこには、海外から取り入れたものだけでなく、韓国の伝統的な美意識が混ざるこ とで、新たな創造による総合芸術の香りが漂っているように思われる。 K-POPのメンバ-たちの音楽と踊りには、スムーズで緩やかなリズムと、時には均整のと れた全体的な調和だけではなく、力強い動作で破格的なゆがみを生み出しているところもあ る。その破格性から韓国の伝統的な美を読み取ることができ、韓国のモッ(粋)と出会うことが できると思われる。モッというのは、韓国の美意識に欠かせない文芸理念で、辛いハン(恨)を 楽しいフン(興)に昇華・発酵させることによって生み出される美の一種であると思われる。 そこでK-POPの踊りには、韓国の伝統的な踊りに見られるくるくる回るリズミカルな動き
62
韓国の文化と芸術
サムルノリの一場面
が物語るように、とても楽しいフンがある。それを見ていると、自分でも知らず知らずのうち に、興が湧いて、その場面のなかに吸い込まれるような気がする時がある。これこそ、モッと いうものであるかもしれない。また観客を楽しませるくるくるまわる動作は、興が湧くリズム やスピ-ド、またはパワーを伴うので、観客を夢中にさせるものがあるといえよう。 このように、楽しくて興が湧く韓国の伝統的な音楽や踊りには、サムルノリ(四つの打楽 器、小さな鉦、鉦、杖鼓、太鼓の合奏による韓国の伝統的な民俗音楽)やボリッテ踊り(韓国の 伝統文化で庶民の即興的な踊り)、クッ踊り(巫女の踊り)などがある。これらの公演を見れば、 たとえ韓国人でなくとも、興趣を感じとれるだろう。K-POPの演技には、こうした韓国の伝 統的なサムルノリやボリッテ踊り、クッ踊りにみられるような、非常に楽しいモッと興の湧く 動作に影響されているところがあると思われる。 伝統的な美意識がますます薄れていく昨今、K-POPが今後、その深層に秘められている無 限のエネルギーを活かしていくためには、その真価を再認識しなければならないだろう。こう した韓国の伝統的な美意識と現代的な芸術をいかに融合させ、芸術性に富む新たな創造性を発 展させるかが大きな課題である。それができれば、K-POPは常に世界の多くの観客を楽しま せ、継続的な人気を集め、世界にはばたくことになるだろう。 しかしながら、この融合はそれほど簡単なことではない。芸術における伝統的な形と現代 風の様式は異なるだけでなく、そのリズムにおいても一致しない場合が多いから、融合を可能 にするのは形とリズムを超えた像、すなわち超克的な心像の作用による創造的な活動に頼るし かないと思われる。特に形自体が崩れつつある昨今、形よりも心像を重視する伝統的な美意識 に注意すべきではなかろうか。その意味で、K-POPを産み出すアーティストたちの絶え間な い努力が、今後も続く必要があるかと思われる。 Koreana ı 夏号 2012
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グルメを楽しむ
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韓国の文化と芸術
海産物とも肉類とも良く合う
カルクッス 小麦粉をこねて伸ばしたあと折りたたんで包丁で切りクッス(麺)を作る。この麺のだし汁と具材を 変えることで、限りなく豊富な種類のカルクッスが誕生する。 イェ・ジョンソク(芮鍾碩、漢陽大学経営学部教授、飲食文化評論家)| 写真 : 安洪范
大
韓民国でカルクッスほど身近で大衆的な料理もないだろう。全国どこの町に行っても カルクッスを看板にしている食堂を目にする。カルクッスの人気が特に高い大田をみ
てみれば、韓国人がどれほどカルクッスが好きか想像がつくだろう。地元紙の最近の報道によ ると、人口150万人の大田市にカルクッスを出す店が2000軒もあるという。これはうどんで有 名な日本の香川県のうどん屋の数をも凌駕する。ソウルはもちろん地方のどんな小さな町に 行っても、その町を代表する有名なカルクッスの店が必ずあるものだ。
麺を打つ昔ながらの方法 カルクッスは韓国の家庭でも主食のご飯の次によく食べられている料理の一つだ。それで 大多数の韓国人は母の作ってくれたカルクッスに対する郷愁と思い出を持っているものだ。金 泳三元大統領はカルクッスが大好物で、大統領在任中にも大統領府の来賓にカルクッスを振 舞ったことは有名だ。とにかく庶民から大統領に至るまでカルクッスは韓国民にもっとも好ま れ、よく食べられている料理の一つだ。 外国人はカルクッスという名前を聞くと、なんて物騒な名前なのかと思うだろう。カル クッスのカルは刃物、包丁を意味するからだ。しかし韓国人がよく言う笑い話の「タイ焼きに
カルクッスは小麦粉をこねた生地を麺棒で薄 く伸ばした後、幾重にも折りたたんでから包 丁で切って作る。小麦粉をこねる際にクロレ ラを入れて色と旨味をつけることもある。
鯛はない」と同様に、カルクッスにも刃物は入っていない。カルクッスは小麦粉をこねた生地 を包丁で切るところから付けられた名前で、料理の材料や調理法ではなく調理器具を料理の名 前に付けたという、韓国料理の名前としては例外的な事例だ。ときどきソンカルクッ ス、という看板の出ている食堂もあるが、これもまた機械ではない手(ソン) で打った、手打ち麺だというところから付けられたもので、切るのに やはり包丁が使われている。カルクッスをカルチェビとも言うが、 これはやはり小麦粉をこねて生地を作りそれを手でちぎって作 るスジェビ(すいとん)と区別するために付けられた名前だ。 伝統的な麺の作り方は大きく3種類に分類することが できる。小麦粉をこねたあと、打ったり伸ばしたりしな がらどんどん長く伸ばして紐のようにしていく拉麺、瓢 やボールのような道具に穴を開けてそこから生地を押し Koreana ı 夏号 2012
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人口150万人の大田市にカルクッスを出す店が2000軒 もあるという。これはうどんで有名な日本の香川県 のうどん屋の数をも凌駕する。
出して作る圧搾麺、生地を麺棒で薄くのばしてから幾重にも折りたたんで包丁で 切っていく切麺の3種類だ。その中で中国式の拉麺は韓国の記録には全く出てこ ず、冷麺を作る方式の圧搾麺も最近は機械化され、その製造方法が変わったが、 ソンカルクッスだけは今でも昔ながらの方法がそのまま続いている。
小麦が貴重品だった頃には蕎麦で 昔は小麦が貴重品で小麦粉のカルクッスは高級料理だったようだ。1123年中国 宋の使臣の徐兢が高麗に来て見聞きした内容を記録した『高麗図経』という本には 「高麗には小麦が少ないので華北から輸入している。そこで小麦粉の値段が非常 に高く婚礼の時以外は食べることができない」とある。当時はむしろ蕎麦が一般 的だった様子で17世紀末に出た料理の本『飲食知味方』や『酒方文』などは蕎麦粉で 作った蕎麦カルクッスを主に紹介している。朝鮮後期に徐命膺が執 筆した総合農書『攷事十二集』には「クッスは本来、小麦粉で作るも のだが、朝鮮では蕎麦粉で麺を作る」という内容が出てくる。蕎 麦カルクッスは蕎麦が多く採れる江原道地域では今でも食べら れており、京畿道にも「カルサットゥギ」という名前で残ってい る。 それほど高価だった小麦粉のカルクッスが現在のように大衆的 になったのは韓国(朝鮮)戦争当時、アメリカから小麦粉が救援物資と して大量に流入してきてからだ。また1960年代に米の供給が不足し政府が粉食 奨励施策(小麦粉を主食にする施策)を繰り広げたことから、さらに盛んに食べ られるようになった。
材料の多様化 カルクッスは小麦粉、蕎麦粉、きな粉、ドングリ粉など麺を作る材料や
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韓国の文化と芸術
論峴洞のハンソンカルクッス。ニラキムチとナバ クキムチがおかずとして出てくる。牛骨や牛肉を じっくり煮込んだスープに麺を入れて煮こみ、ピ リ辛に味付けして炒めたズッキーニを具としての せる。(左下)
だし汁と具材など、調理方法によって味のバリエーションが広がる。まず汁のだしを何からと るのか、具は何を使うのかによって、タッカルクッス(鶏カルクッス)、サゴルカルクッス(牛 骨カルクッス)、ミョルチカルクッス(煮干しカルクッス)、バジラッカルクッス(あさりカル クッス)、パッカルクッス(あずきカルクッス)、ドゥルケカルクッス(えごまカルクッス)、キ ムチカルクッス、メセンイカルクッス(カプサ青海苔カルクッス)、ナッチカルクッス(手長た こカルクッス)などがある。内陸では牛骨と肉で出汁をとり、海の近くでは煮干とあさり、多 様な海産物でだしをとった。また昔は現在のような肉類ではなく、雉肉でだしをとり、味付け として醤油、五味子などもよく使ったようだ。カルクッスの上にのせる具も朝鮮カボチャや牛 肉、鶏肉、キノコ類、そして卵を黄身と白身に焼き分けた黄白ジダン(薄焼き卵)など、さまざ まだ。 カルクッスはクッスの調理方法によってコンジンクッスとチェムルクッス(ヌルムクッス) に分けることができる。コンジンクッスは儒教の本場、慶尚北道安東の両班の家で大切な客を もてなす時に出された料理だ。小麦粉にきな粉を混ぜてこねてから、細く切り、茹でたあと冷 水で洗い、最後に出し汁をかけて具をのせる料理だ。チェムルクッスは細く切った麺を別に茹 でることなく、直接沸騰したチェムル(だし汁)にすべての材料とともに入れて、ぐつぐつ煮込 む食べ方だ。そのため汁がコンジンクッスに比べて濃くなり、どろっとしている。同じカル クッスではあるがチェムルクッスの方は庶民風だと言える。 カルクッスは単品料理としてよく食べられているが、各種メウンタン(魚貝類の辛い鍋料 理)やシャブシャブなどを食べて残った汁にクッスを入れて煮込み、最後に食べるメニューと しても人気がある。 ソウルの数多くのカルクッスの専門店の中で、サゴルカルクッスでは恵化洞の恵化カル クッスと論峴洞のハンソンカルクッスを上げることができ、鶏カルクッスでは明洞の明洞キョ ジャが長い歴史を誇っている。あさりカルクッスは瑞草洞のイムビョンジュサンドンカルクッ スが、煮干カルクッスは忠武路の忠武カルクッスが有名だ。有名なカルクッスの食堂の共通点 として、いずれもキムチがおいしいことだ。(翻訳:金明順) Koreana ı 夏号 2012
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韓国文学の旅
キム・ドヨン(金度延、1966~)は大関嶺の雪と風と孤独の中で 作品を書き続けている作家だ。時代とともに変化する政治認 識に男女の出会いと別れを重ね合わせて描写した『離別前後 史の再認識』は一種の政治的な寓話で、彼の作風からみると 少し例外的な作品だ。
キム
ド
ヨン
金 度 延 作家評
10年目、2度の別れの逆説とは オ・スウン(魚秀雄、朝鮮日報文化部文学担当記者
韓
国の作家たちの創作活動の拠点として人気のある場所が二つ
作られた当時、文壇ではこの作家は牛と話す能力があるという噂が広
ある。原州にある土地文化館と麟蹄にある万海マウルだ。二
がり、さらには酒を飲んだら道端の草や石ころとも疎通ができるとい
箇所とも江原道にあり、江原道出身の作家たちが幅を利かせているよ うな気がするが、礼儀正しく、慎み深い地元江原道出身の作家たちは
う話までとびかった。 彼の作品の大部分はそんな素朴で人情味溢れたものだが、今回の
いつも他郷の作家たちに配慮し常に譲歩している。江原道平昌出身で
『離別前後史の再認識』は少し違う。副題として「彼女と彼の延坪海戦、
大関嶺を離れようとしない作家キム・ドヨンもその一人だ。彼は知り
そして楽しいツイスト」とある。ヨンピョン(延坪)海戦とは、海上の
合いの作家たちがやってくれば観光ガイドになる、先輩、後輩作家の
南北軍事境界線にあたる北方限界線を越えて北の警備艇が韓国領海を
接待にいつも忙しい。純朴さでは当代随一といってもいいほどで、そ
侵犯した際に韓国海軍の哨戒艇との間でおきた二度の短い交戦を意味
の人情味に溢れた人柄には定評がある。彼の小説の中に『牛と一緒に
する。
旅する方法』という2007年に長編映画になった作品があるが、映画が
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1997年と2007年、二つの時間の歯車で小説は進んでいく。1997年 韓国の文化と芸術
には女が強者だった。かび臭いベットの上に横たわった女は「誰が次
べるのには困らないような暮らしができるようになり、政治に鈍感に
の大統領になるか」という質問を投げかける。そして「不安なの」とい
なってしまった中産層に向けた皮肉と見ることもできる。日本の植民
う言葉を常に口にしていた。男の体が欲望をもう我慢できないという
地からの解放と、韓国(朝鮮)戦争当時の政治認識をマクロ的な視線で
状態になっているのを横目で見ながら、女は仕方が無いといった風に
解説した社会科学の本を、この小説は恋愛というミクロ的な顕微鏡の
体を開き、男と女はようやく一つになる。二人はまだ結婚してはいな
世界で解説した魅惑的な作品だといえる。
い恋人同士だった。しかし女は貧しい日々から何とか抜け出したいと 願う。あたかも時は金融危機、大韓民国がIMFの救済を受けている時 期だ。「まともな職場で働いている人も路頭に迷う」時代に、互いに愛
さて、こんな面白い観察を小説にした作家にスポットをあててみ よう。 地元江原道に生まれ育った金度延は1991年、江原日報新春文芸に
しあってはいたものの、二人は結局別れることになる。男は最後に女
当選して文壇にデビューする。大関嶺の雪と風と孤独が彼の資産だ。
にネックレスと流行の服を買ってやる。
一時はその雪と風に嫌気がさし逃げ出したこともあった。平昌面楡川
10年の歳月が流れ、二人は再会する。一人にとっては偶然だった
里の故郷の家から陳富中学校に通ったが、高校は春川に「脱走」をは
が、もう一人にとっては必然だった。彼女に会わなくてはという強迫
かった。同じ村の友人のように大関嶺を越えて江稜の高校に通ってい
観念に駆られた男はインターネットで検索し、100人余りの同姓同名
ては、週末ごとに家に帰らなければならないからだ。しかし春川高校
の人物のサイトを一つ一つチェックして突き止めたのだ。忍耐強さの
時代にも孤独は彼につきまとう。雪と風は故郷よりは少ないものの、
勝利とでも言うべきか。ついに栗の木の茂る山の遊園地の食堂のバン
孤独を消し去ることはできなかった。そんな彼を救ってくれたのが物
ガローで二人は再会する。それぞれ別の異性と結婚した既婚者だ。男
書きだった。
は故郷で妻と小さな学習塾をやっており、女は夫が支店長に昇進した
デビュー後も小説だけで生計を立てる事は難しく、父に金を借り
おかげで「奥様」と呼ばれる有閑マダムだ。焼酎を飲み、茹でた鶏の身
てカフェを始めるが、一年ももたなかった。豊かとはいえない暮らし
にかぶりつきながら、二人は10年の時間の空白を埋めていく。
が、この孤独な作家を再び故郷に帰らせる羽目になる。結局2000年
他人の目からみれば醜聞(スキャンダル)だろうが、二人は再び昔
の初めに再び盗人のようにそっと夜、家に忍び込み、朝になったらま
の恋人同士に戻っていく。しかしその恋は10年前とは違った形態を
たそっと出て行くんだと堅く決心していたものの、彼は春になっても
とる。モーテルの部屋で横になって見ているスポーツ中継の主人公
故郷の家を離れることはなかった。故郷に戻った『離別前後史の再認
が、プロ野球投手のパク・チャノからサッカー選手のパク・チソンに変
識』の主人公の男は、作家自身の姿を反映したものだ。
わり、大統領の名前も変わった。変わったものはもう一つある。忍耐
冒頭で作家・金度延は牛とも話せると紹介したが、実際に彼は故郷
が何かを学習させてくれた10年前とは180度変わった女の態度だ。女
の家の犬を抱きしめてよく話をするという。小説を1編脱稿しても見
は自分の方から体を投げ出し、幼い息子からの電話にも「ママはお友
せる人がいないので、酒に酔って家に帰ると、うれしそうに尻尾を
達に会って、もう少ししてから帰るから」と平気で答える。関係する
振って迎えてくれる犬を捕まえ、小説を読んで聞かせてやるという。
たびに口癖のように「不安なの」とつぶやいていた女は、今度は反対に
ソウルから江原道に行くにはいくつものトンネルを過ぎなければ
「幸せ」という単語を繰り返す。結局二人は再度の別れを予感し、誰が
ならない。トンネルを過ぎると雪が降り、また一つ過ぎると今度は車
次の大統領になるかという質問には「誰になっても関係ない」という無
が横揺れするほどの風が吹いている。最後のトンネルを通過するとふ
愛想な答えが返ってくる。
いに孤独が押し寄せてくるのかもしれない。そんな多くのトンネルを
小説の前半には「1997、離別前後史の認識」、後半には「2007、離
順々に通過していくと、金度延の文学がすこしずつ染み込んでくるの
別前後史の再認識」という小題目がついている。「再認識」は、不倫が
だ。『離別前後史の再認識』に向き合う私たちの姿勢も同様だ。10年
美しくはなり得ない理由についてのウイットにあふれた解説だ。しか
という歳月のトンネルを抜けると、「不安なの」から意図的に繰り返す
し表皮を一枚めくれば、政治的な解釈も可能だ。1980年代の大学で
「幸せ」に変わっている離別の逆説。この短編が与える教訓はまさに、
学生運動の必読書のように読まれていた『解放前後史の認識』と20余
その逆説にある。(翻訳:金明順)
年後に出版された『解放前後史の再認識』のパロディーとも言える。食 Koreana ı 夏号 2012
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