Koreana Autumn 2015 (Japanese)

Page 1

秋号 2015

韓国の文化と芸術

統営

統営、意外な魅力 海と島に寄り添って暮らす人々 自由を夢見た芸術家の都

vol. 22 no. 3

ISSN 1225-4592 www.koreana.or.kr

our digital edition by Magzter. Issues are

特集 秋号 2015 vol. 22 no. 3

統営、魅力的な南の港町


韓国のイメージ

| |

New_list(HD) New_list(HD)


変わらぬ 秋の願い キム・ファヨン

金華榮、文学評論家、大韓民国芸術院会員

「1

年 12 ヶ月 365 日、ハンカウィのようにありますように!」韓国人は秋夕

になるとこんな素朴な願いを語り合う。秋夕は陰暦の8月 15 日、ハン

カウィとも言う。秋夕は旧正月と共に韓国人にとって一年のうちで最も

大切な年中行事だ。秋夕は秋真っ盛りの実り豊かな季節でもある。

秋夕の頃になると、うだるような暑さも過ぎ去り、さわやかな青空が天高

く澄み渡り、平野には黄金色に実った稲穂が頭をたれている。一年間、汗 水流してつくった穀物が熟す。故郷を離れて暮らす人々は、老いた両親が先 祖代々の土地を耕して暮らしている故郷の秋を想う。

今年の秋夕は陽暦では9月 27 日の日曜日だ。秋夕の公休日は三日間だ

が、今年は秋夕の当日が日曜日と重なるため、振り替え休日制度により29

日までの4連休となる。国民の 75 %が故郷を訪れるという秋夕の民族大移

動が今年もやって来た。高速道路は混み合い、列車のチケットもあっという 間に売り切れる。

この豊穣と感謝の祭りの日、人々は 夏の間に茂った先祖の墓の雑草を刈

り、ご先祖様に感謝の祭礼を行う。この祭りの日の祝いの膳や祭礼用の供

え物に欠かせないのがソンピョン(松餅)だ。秋夕を象徴する食べ物ソンピョ

ンは、主食である米を粉にしてお湯で捏ねて皮を作り、その中に豆、小豆、 ゴマ、松の実、ナツメなどの具を入れ蒸して作る餅だ。心をこめて作った餅

が互いにくっつかず、薫り高い松の香りがするようにと蒸し器の中には餅と 一緒に松の葉を入れて蒸すので、松の餅と呼ばれる。辛い労働と収穫、こ

の国の山野に広く広がり育つ松の木の香り、モチを作る人々の手の跡…そし

て分かち合って共に食べる人々の笑顔、ソンピョンにはこの国に暮らす人々 の人生がそのまま詰まっている。

しかし世の中も移り変わり、ソンピョンを直接作って食べるよりは餅屋で

買ってきてそのまま供える家庭が増え、都市から田舎に帰郷するかわりに、 故郷の老いた両親が都会に暮らす子供たちの家を訪れる「逆帰省」の風景も

珍しくなくなった。ソンピョンよりは菓子やハンバーガーを好む新世代、暮ら

しはこんな風に変わりつつある。それでも満月は秋の澄んだ夜空に今宵も 顔を出し、豊穣を願う祈りだけは変わらない。

「1年 12 ヶ月 365 日、ハンカウィのようにありますように!」


発行人 編集理事 編集長 編集諮問委員

柳現錫 尹錦鎭 金鍾徳 裵炳雨 崔寧仁 韓敬九 金華榮 金英那 高美錫 宋惠眞 宋永萬 Emanuel Pastreich Werner Sasse 監修者 嘉原和代 坂野慎治 翻訳者 金明順 朴美貞 クリエイティブディレクター 金三 金貞恩、盧倫永、朴信恵 編集 李栄馥 アートディレクター 金智賢、李成基、葉蘭敬 デザイナー 編集 金熒允編集会社 韓国ソウル特別市麻浦区西橋洞 385-10. 秋思軒ビル 3 階 Tel : 82-2-335-4741 Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 印刷 三星文化印刷 韓国ソウル特別市城東区聖水洞 2 街 278-32 Tel : 82-2-468-0361 ~ 5

Koreana ホームページ http://www.koreana.or.kr 価格 韓国内:6000 ウォン 韓国外:9US ドル 定期購読料:詳しくは『 Koreana 』 84 ページをご参照ください。

© 韓国国際交流財団 2015 『 Koreana 』に掲載されているすべての記事 の著作権は韓国国際交流財団に帰属し、 著作権法により保護されています。 『 Koreana 』の記事を転載する場合には、 事前に『 Koreana 』編集室に電子メール ( 82-2-3463-6086 )で ( koreana@kf.or.kr )か FAX 転載許可を申請してください。 『 Koreana 』の記事を引用したり、 非営利目的で使用する場合にも 『 Koreana 』からの転載であることが分かるように クレジットを明示してください。

編集長からの手紙

一つの村と一つの祭を渇望

今季の『KoREAnA』の最終原稿を校正している最中に、南北に分断された韓

国の情勢は新たな局面に突入した。軍事的な緊張が最高潮に高まる中で始まっ た会議は8月24日の深夜まで、3日間も続いたマラソン交渉の結果、韓国と北朝

鮮はついに軍事的な衝突を避け、緊張緩和と関係改善のための合意にたどりつ いた。

過去の南北関係の歴史を振り返ると、性急な楽観主義は禁物である。今回の

合意も短期的な猶予になるだろうと懸念する声もある。また南北の離散家族の 再会が一回行事に終わるかもしれないし、軍事境界線でのプロパガンダ放送が 再開されるとも限らない。しかし南北双方の国民が関係改善を渇望するという 事実を疑う人はいないだろうと思う。特に今回の南北膠着状態の中で非武装地 帯(DMZ)の「自由の村」住民は緊張の日々であったろう。

「二つの韓国」は社会・文化的な観点から南北の領土問題に関するイシュー

を掲載するコラムである。冷戦の結果として生まれた南北最前線の村を見て、 作曲家ユン・イサン(尹伊桑)を記念して毎年平壌と統営で開かれる音楽祭を 連想するのも悲しいことである。

今回の特集では政治的な理由で、生きて故郷の土を踏めなかった尹伊桑の生

まれ故郷、慶尚南道統営を取り上げている。統営は多くの芸術家や作家の生ま れ故郷であり、16世紀の朝鮮時代に無敵の李舜臣将軍が指揮を執った三道水軍

統制営(海軍総司令部)があった所でもある。開港後には、日本と西洋の文物 をいち早く受け入れた都市で、異国情緒が最も感じられる統営に読者のみなさ んを招待したい。

日本語版編集長 金鍾徳

韓国の文化と芸術 秋号 2015

掲載された記事は筆者の個人的な意見で あり、『 Koreana 』や韓国国際交流財団の公 式見解ではありません。

1987 年 8 月 8 日文化観光部 -1033 で登 録された季刊誌『 Koreana 』はアラビア語、 インドネシア語、英語、スペイン語、 中国語、ドイツ語、フランス語、ロシア語でも 発刊されています。

Published quarterly by The Korea Foundation 韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル

『統営の海の声』 ソ・ヒョンイル キャンバスの油絵 45.5cm ⅹ 53.0cm. 2011


フォーカス

パリで演奏される 宗廟祭礼楽

34

宋恵真

アートレビュー

13

「発願、切なる祈りと 願いを込めて」 仏教美術の後援者たち

42

申紹然

韓国大好き

韓国文化の味に魅せられた 村岡ゆかり

48

ダルシ・パケット

18

57

特集

グルメを楽しむ

統営 魅力的な南の港町 特集 1

統営、意外な魅力 海と島に寄り添って 暮らす人々

04 10

自由を夢見た 芸術家の都

オン・ザ・ロード

和順、穏やかで 神秘的なオーラに 包まれた大地

18

ライフスタイル

52

若者が開く日韓の これからの 50 年のために 山崎宏樹

コーヒーの 虜になった韓国人

60

66

金龍燮

韓国文学の旅

郭在九

遠くの目

姜済尹

特集 3

朴賛逸

37

韓敬九

特集 2

チョノ 稲穂が色づくと旬到来

62

パン生地を捏ねる パンジュクの時間 ―あなたへの和解の仕草―

70

張斗寧

『ククス』 キム・スム

李昌起

特集 4

12工房 新しい感覚で華やかに

24

李吉雨

特集 5

情感あふれる港町 魅惑的な山海の珍味

30

宋永萬

69


特集1 統営

統営

意外な魅力

ハン・ギョング

韓敬九、ソウル大学校 自由専攻学部教授

安洪范 写真

韓国人が住んでみたい三大都市の一つ、統営。統営は一言では言い表せない場所だ。朝鮮半島の南海 岸に位置する人口 14 万の小さな都市だが、さまざまな姿に変貌を遂げてきた。海上交通の要衝、計画 された軍事都市、伝統工芸と商業の中心地。日本統治時代には、多くの日本人が住む地域でありなが

ら、独立運動と社会運動が盛んに行われた。数多くの優れた作家や画家、音楽家などを輩出した芸術 の都でもある。美味しい海の幸がたくさん捕れ、季節を問わず美食家を惹きつけてやまない。文化運動 によって町おこしに成功し、国連持続可能な開発のための教育センターを誘致することで、観光とレジャ ーの都市、音楽を通じたユネスコ創造都市になることを夢見ている。 4 KoreaNa 秋号 2015


日が昇るころの統営市内と弥勒島、 統営沖の島々が一幅の水墨画のようだ。

営(トンヨン)は島ではないが、狭い峠が陸地につなが

統制使とは、慶尚道・全羅道・忠清道の三道と五つの水営(水軍

乱(文禄・慶長の役、 1592 ~ 1598 )以前は、頭龍浦

軍を率いて朝鮮半島南部の海上作戦を指揮する役職だ。

っているため、島のような雰囲気を漂わせる。壬辰倭

と呼ばれる静かな漁村だった。文禄・慶長の役で朝鮮王朝が初

節度使が駐在する軍営)の将兵と艦隊、すなわち大半の朝鮮水

めて勝利を収めた玉浦海戦も、近くの巨済島沖で起き、三大勝

海上交通の要衝、激戦地

艦隊の集中的な運用の必要性を感じた朝廷は、1593 年8月にイ

場所を変え、 1604 年に現在の統営市がある場所に落ち着いた。

利の一つである閑山島海戦は、1592 年7月に統営沖で行われた。

統制使の本陣である統制営は閑山島に設置されたが、何度か

「統 ・スンシン(李舜臣、1545 ~ 1598 )を三道水軍統制使に任命した。 その後、1895 年に廃止されるまで、ほぼ 300 年間存続した。

韓国の文�と芸� 5


営」という都市名は、海軍司令部を意味する 「統制営」または「統

にいっそう力を入れるようになった。特に、朝鮮第 21 代国王・英

1994 年までイ・スンシン提督の贈り名(諡号)を冠して「忠武(チ

1800 )の時代には、独自に鋳銭するほど手工業の基盤が発展し

営」に由来するもので、統営邑(邑は町に相当)は 1955 年から

ュンム)」市と呼ばれていた。

朝鮮後期に統営で商業が大きく発展したのも、日本統治時代

に日本人が大勢やって来て暮らしたのも、統営が交通の要衝だ

ったからだ。釜山や対馬とも近く、釜山から全羅道方面へ向か う拠点となっていた。

祖( 在 位 1724 ~ 1776 )と 第 22 代 国 王・正 祖( 在 位 1776 ~

た。また、住民が共同で商品を生産するようになり、伝統社会 における一種の初期工業化が始まった。

手工業が拡大し、朝鮮時代の男性がかぶったカッ(冠)や小盤

と呼ばれるお膳、螺鈿(らでん)漆器などの高級品が、全国的に 名声を博した。それに伴って商品を取引する市が発展し、人口

そのため、統営は朝鮮戦争の際、北朝鮮軍の攻撃を受けた。 も増加した。軍船の製造・修理技術は商用船舶にも用いられ、

北朝鮮軍は統営を占領し、巨済島から馬山と釜山へ攻撃を仕掛

船舶に必要な物品を保管する倉庫も建てられた。

に陥った。しかし、巨済島を守るために緊急出動した海兵部隊

に河口を広く埋 め立てて、 市場の敷地を拡大した。米、 呉服、

1950 年、仁川上陸作戦の1カ月前のことだ。統営は、韓国で

沿海地域の商業中心地となった。

従軍記者のマーガレット・ヒギンズ( 1920 ~ 1966、ニューヨーク

近くの島にまで居住地が広げられ、人口は 18 世紀末から 19 世

けよう目論んだのだ。そのため、韓国軍と国連軍は大変な危機

海を介してヒトとモノの往来が増えたため、統制使は 1872 年

は上陸作戦を行い、北朝鮮軍を追い散らして統営を奪回する。 雑貨、タバコ、ナマコを専門的に扱う店ができ、統営は慶尚道

初めて上陸作戦が行われた場所でもあるのだ。韓国海兵隊は、

・ヘラルド・トリビューン)の報道により「鬼を狩る海兵」の異名を とった。

平和を渇望する軍事都市

「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」

統営は、三道水軍統制営の移転により、計画的につくられた

軍事都市だ。しかし、統営は二度と残酷な戦争を許さないとい

その結果、統営の都心部も自然と拡大した。土地が不足し、

紀末の 100 年で2倍に増加した。一戸当たり人数は 7.2 人に上り、 当時のソウルの 4.4 人よりもはるかに密度が高かった。統営は大

韓帝国末期に人口が全国で 12 位となり、晋州や木浦よりも大き な都市だった。

いち早く目覚めた意識と誇り、収奪されながらも成長

統営の人々は、生活力が旺盛なだけではなかった。強い誇り

う意志と覚悟をもって侵略を未然に防ぎ、平和を維持するため

を持ち、意識も高かった。それは、おそらく300 年近く続いた統

的に加えて、朝鮮水軍の力と意志を表す建物が堂々と鎮座して

で、地方長官である観察使と同格だった。周辺の晋州、昌原、

グァ)門」といい、すべてを守って平和を維持するという願いが込

有事の際には各地域の長と軍隊を指揮した。統営は、地域の軍

統制営は、設立当初から財政面において自立せざるを得なか

朝鮮王朝が 1895 年、西洋の文物を受け入れるために甲午改

につくられた平和都市でもある。都市の中心には、機能的な目

いる。これが「洗兵(セビョン)館」だ。その入口の門は「止戈(チ められている。

制営の存在があったからだろう。統制使の品階(階級)は従二品

金 海、 鎮 海、 泗 川、 巨 済 など 11 の地 域と23 の水 軍 陣を率い、

事・行政・文化の中心で伝統工業と商業の中心でもあった。

った。戦乱の最中、中央政府からの支援を期待できなかったイ・

革を断行すると、その一環として統制営が廃止された。これは

製塩することで軍備をまかなった。また「 12 工房」を設けて職人

一挙に職を失った。12 工房で働いていた職人の大半は、ソウル

スンシンは、屯田で兵糧を確保して民間人を救い、魚を捕って

大きな衝撃だった。代々、 水軍に従事してきた官吏や軍人は、

を集め、武器や軍需品を製造した。工房は軍需品だけでなく、 など他の地 域に引っ越し、 一 部 は 近くで仕 事を続けたものの、 農具や日用品も製造した。一部は中央に献上し、一部は販売し

伝統工業はどんどん廃れていった。

今日「統営ヌビ」と呼ばれる刺し子が有名なのも、すべて統制営

漁民が押し寄せてきた。日本人は政治的・行政的支援を受け、

統営の女たちは夫や息子の軍服を作ったため、誰もが刺し子の

独占し、商業と金融を掌握し始めた。日本人居住者も増え、岡

て統制営の財政に回した。統営の伝統工芸が有名になったのも、

一方、朝鮮王朝が開港すると、新しい漁場を求めて日本から

のおかげといえる。軍服に使われる刺し子の需要が急激に伸び、 新たな技術や機具、資本などを持ち込んだ。そして良い漁場を 名人になったという。

商工業の発展と旺盛な生活力

統制営の工房は、軍需品にとどまらず日用品や献上品の生産

6 KoreaNa 秋号 2015

山県のように補助金を与えて組織的に植民を図り、独自の集落

を形成することもあった。

伝統的な漁業が近代化する中、多くの苦境を乗り越え、着実

に成長した。1966 年には欲知島に漁業基地が設けられ、その


1830 年 代 の 統 営 の 古 地 図。 中心に統営城、河口の入り江、 弥勒島とつながる昔の橋・掘 梁橋。そして、大小さまざま な島が、周りの海を囲んでい る。この地図は今年2月、海 外の競売サイトで統営亀甲船 ホテル代表のソル・ジョングク 氏が購入した。

今では小さくて古びた街に見えるかもしれないが、かつて統営は大規模な新都市だった。朝鮮王 朝で初めての計画された都市であり、伝統工業と交易の発展により社会の経済的な変化をリード した。地域の中心として文化的土壌もしっかりしていた。開港後には、日本と西洋の文物を比較 的早く受け入れたことで、異国情緒が最も感じられる地域の一つとなった。水産業と商業で富を 築き、近代化の最先端を走る都市だったのだ。朝鮮王朝で初めての計画された都市であり、伝統 工業と交易の発展により社会の経済的な変化をリードした。地域の中心として文化的土壌もしっか りしていた。開港後には、日本と西洋の文物を比較的早く受け入れたことで、異国情緒が最も感 じられる地域の一つとなった。水産業と商業で富を築き、近代化の最先端を走る都市だったのだ。 韓国の文�と芸� 7


翌年には統営市内に種苗センターが設置され、養殖業が広がった。統営は、恵まれた自然環境を 背景に「水産一番地」として名を馳せた。

統営は依然として近代水産業と沿岸海上交通の中心ではあったものの、経済的・文化的な比重

は高度経済成長期に相対的に小さくなった。その上、水産業は幾度かの危機に見舞われた。赤潮

の発生により養殖場の魚介類が大量死し、カキの輸出が中断することもあった。1980 年代から

1990 年代にかけて人口がほとんど増加しないなど、停滞期が続いた。2000 年代半ばに造船業が

好況を迎え、一時は水産業よりも大きな役割を占めた。だが、統営は長い間、開発の対象になら

ず、そのおかげで自然を守ることができた。

美しくて魅力的、意外な驚きがある所

統営は芸術の都だ。詩人キム・チュンス(金春洙、 1922 ~ 2004 )、詩人ユ・チファン(柳致環、

1908 ~ 1967 )、画家チョン・ヒョンニム( 全爀林、 1916 ~ 2010 )、劇作家ユ・チジン( 柳致真、

1905 ~ 1974 )、作曲家ユン・イサン(尹伊桑、 1917 ~ 1995 )、小説家パク・キョンリ(朴景利、 1926 ~ 2008 )、小説家キム・ヨンイク(金溶益、1920 ~ 1995 )など、数多くの著名な文人と芸術

家が、統営で生まれたり育ったりしている。詩人ぺク・ソク (白石、 1912 ~ 1995 )や画家イ・ジュン

ソプ(李仲燮、 1916 ~ 1956 )なども、統営と関係が深い。統営では彼らにちなんだ場所や記念碑 が、通りや公園などそこかしこで見受けられる。

小さな都市からこれほど多くの文人や芸術家が輩出されたことを、不思議に思う人も多い。美し

い風景、あるいは 12 工房の伝統のおかげともいわれている。しかし彼らの登場が、ある一定の時 期に集中している点に注目すべきだろう。

今では小さくて古びた街に見えるかもしれないが、かつて統営は大規模な新都市だった。朝鮮

王朝で初めての計画された都市であり、伝統工業と交易の発展により社会の経済的な変化をリー

ドした。地域の中心として文化的土壌もしっかりしていた。開港後には、日本と西洋の文物を比較

的早く受け入れたことで、異国情緒が最も感じられる地域の一つとなった。水産業と商業で富を築

き、近代化の最先端を走る都市だったのだ。

統制営の建物は、洗兵館だけを残して取り壊され、そこに学校、裁判所、税務署などが建てら

れた。日本風の近代的な街並みができ、道路や港湾施設が整備された。1931 年には統営運河と

2

1 河口の入り江に亀甲船(左)と板 屋船(上)の模型が泊まっている。 亀甲船は、イ・スンシン将軍が 日本水軍の接近を防ぐため、亀 の甲羅を模して上部を覆った戦 艦。甲板に指揮塔「 将台 」を設 けた板屋船とともに、文禄・慶 長の役で海戦を勝利に導くなど 大きく貢献した。 2 統 営 の 中 心 に あ る 洗 兵 館 は、 1604 年に造られた朝鮮三道水 軍 統 制 営 本 営 の 客 舎。 洗 兵と は「 天の川を引いてきて武器を 洗う」という意味で、二度と戦争 が起こらないようにとの願いが 込められている。

1

8 KoreaNa 秋号 2015


海 底トンネルが完 成した。1930 年 代 半 ば、 統 営 邑に 3000 人、 ある。特に新幹会運動は、全国で最も強い綱領の下で展開さ 統営郡全体には 6000 人ほどの日本人が住んでいた。

れた。統営は教育への関心が高く、日本への留学者がソウルに

西洋の文物も早い時期から入ってきた。イングランド国教会

次いで多かったという。青年運動も活発に行われ、自主的な募

で布 教 活 動を始 めた。 1905 年には教会、 1911 ~ 1912 年に

後には、自主的な民族国家の建設のために激しい運動も起きて

やオーストラリア長老教会の宣教師が 1894 ~ 1895 年に統営

金でレンガ造り2階建ての統営青年会館が建てられた。終戦直

は幼稚園が設立された。初等教育機関にあたる普通学校はで

いる。

女性に教育を受けさせて夜間学校も開設した。これらの教育

開発会議のよる「アジェンダ 21 」を地域レベルで実現するための

を行い、統営の人々の社会運動の精神的支柱となった。また

のための教育センターが誘致されたのだろう。「青い統営 21 」は、

とができた。

ウル」という全国的な名所として復活させるなど、統営を魅力あ

きなかったが、宣教師は進明講習所を設け、学齢期を過ぎた 機関は、実業教育とともにキリスト教の精神に基づく民族教育

統営の人々は、早くから宣教師を通じて西洋の文物に接するこ 統営は三・一運動、青年運動、労働争議、小作争議、新幹

会運動(民族運動)など、さまざまな運動が行われた場所でも

そうした統営の社会運動の伝統があったからこそ、国連環境

民官協治機関「青い統営 21 」が設立され、国連持続可能な開発

撤去の危機にさらされていたマウル(集落)を「トンピラン壁絵マ

る観光地としてアピールした。これからも統営は、多彩な姿と 意外な魅力で、新たな姿に生まれ変わっていくだろう。

韓国の文�と芸� 9


特集 2 統営

海と島に 寄り添って 暮らす人々 統営は、山と海と島が程よく調和している。山としては艅航山 と弥勒山。海を抱いた河口の入り江。その前にあるいつも賑や

かな市場は、新鮮な魚介類さながらに活きのいい統営を演出す る。統営沖から始まる多島海には、大小さまざまな島が宝石の ように散りばめられている。絵のような風景の中で生きる人々。 その暮らしのひとコマをのぞいてみよう。 カン・ジェユン 姜済尹、詩人、プレシアン人文学習院 「島学校 」校長 崔貞善 写真

10 KoreaNa 秋号 2015


船に引き揚げたかたくちいわしを網から外し ている。統営沖のかたくちいわし船団は新鮮 さを保つために船の上で加工する。

韓国の文�と芸� 11


「寝

1

ても覚めても、何はともあれ海」。統営(トンヨン)は美しい港町だ。統営半島の前をふさぐよ

うに防波堤の役割をしてくれる弥勒島のおかげで、統営の港は波風が穏やかで安全だ。特に、 街の中心まで深く入り込んだ河口は、統営の心臓部といえる。そこから漁船が随時出入りす

る。一晩かけて捕った魚や貝などの海産物は、河口の港に隣接した中央市場で売られる。海の香りあ

ふれる豊かな水産物の集散地という地位を保てるのは、この河口港と漁船のおかげだ。

弥勒山とトンピラン・マウル

弥勒山は、統営を穏やかに包み込んでいる。龍華寺や兜率庵のような千年の古刹を抱き、長い間統

営の人々に崇められてきた霊山だ。激しい風や高い波から統営の人々を守ってきた山だけに、山自体

が信仰の対象となっている。現在はケーブルカーで楽に登れるようになった。

弥勒山の頂上からは、統営市内と統営沖の島々、遠く三千浦、南海、固城、泗川、巨済の島々ま

で壮大なパノラマが広がる。弥勒山の頂上には昔、外敵の侵入を監視する三道水軍統制営が、煙と火

で信号を送る烽燧台を設けていた。そのため、山のふもとにある集落の名は「烽燧ゴル(ゴルは谷の 意)」となった。

弥勒山の南側の中腹には、弥来寺がある。山の景観を損なうことなく静かに佇む寺。その外観の美

しさもさることながら、最大の宝は何といっても周辺のヒノキの森だ。ヒノキは日本統治時代に日本人 12 KoreaNa 秋号 2015

2

1 漁師は、統営の沿岸で捕れ た活きのいい魚のうち、か な りの 量 を 日 干 しに する。 干した魚は手間暇かかるが、 良い値がつくので実入りが いい。 2 網の手入れをする漁村の女 性。漁で傷ついた網は、丁 寧に手入れしなければ使え なくなる。


によって植えられ、今は寺が買い上げて管理している。約5万坪に及ぶヒノキの森は、癒しの森だ。森

の道を歩けば、身も心も清らかになった感じがする。

最近話題になっている統営のランドマークといえば「トンピラン・マウル」だ。トンピランとは東側の崖

を表し、マウルは集落という意味。統営で最も貧しい集落だったトンピランが注目を集めるようになっ

たのは、ある市民団体のリーダーが主導した村おこし事業のおかげだ。統営市は 2007 年に集落をす

べて撤去し、公園をつくるという「トンピラン再開発計画」を立てた。だがそのリーダーは、寂れた集落、

路地、暮らしの痕跡が消えてしまうのを残念に思い、統営市に再開発ではなく保存することを提案した。

やみくもに集落を撤去するよりも「地域の歴史と庶民の暮らしが溶け込んだユニークなストリートカルチ

ャーをつくり、再び光を当てよう」と関係者を説得した。古びた集落や路地も大切に守るべき文化だと 考えたのだ。そうして大学生が古い家の塀に絵を描き始めると「トンピラン・マウル」は壁絵マウル(集

落)として名が知られ、観光客が押し寄せるようになった。古い壁に絵を描いただけで活気を取り戻し

たのだ。古いものを保存することで、消えてしまいそうだった集落を蘇らせた。それだけに風景だけで なく、そこに込められた精神も美しい。

統営沖と欲知島

統営沖には 500 あまりの島がある。島を取り巻く海では、水産物の養殖が盛んだ。中でもカキとホ 韓国の文�と芸� 13


1

大学生が古い家の塀に絵を描き始めると「トンピラン・マウル」は壁絵マウル (集落)として名が知られ、観光客が押し寄せるようになった。古い壁に絵 を描いただけで活気を取り戻したのだ。古いものを保存することで、消えて しまいそうだった集落を蘇らせた。 ヤの養殖は全国一で、生産量の 60 ~ 70 %を統営が占めている。統営のカキは水のきれいな海で育つ

ため、風味豊かだ。冬が旬の生ガキは、ミルクのように濃厚でコクがある。統営がカキの本場となっ たのは、 1960 年代に統営市の光道面において、筏式垂下法でカキの養殖を始めてからだ。

春になると、養殖場でホヤを揚げる船が、まるで海に咲く美しい紅い花のようだ。私たちがホヤを手

軽に楽しめるようになったのは、 1970 年代以降、統営をはじめとする沿岸部で養殖が始められてから だ。以前は沿岸に住む人しか食べられないほど、海女や潜水士が採る天然物のホヤは貴重で、内陸に

住む人にはなかなか届かなかった。都市部ではよくホヤを刺身で食べるが、沿岸部ではスープや和え 物、ビビンバなど多彩な料理で楽しまれている。

欲知島の周辺には大小さまざまな島が点在しているが、さえぎるもののない海が眼前に広がってい

る。多島海の美しさと大海の爽快感を同時に満喫できる貴重な島だ。この島には 1500 人あまりが住 んでいる。主峰である天王峰( 392m )は登山道が整備されており、登山客が絶えない。頂上からは

周辺の数多くの島々を一望できる。特に吊り橋の先にある一枚岩から眺 める景色は、まさに絶景。 島全体が山岳地形なため、美しい森も多い。中でも最も美しいとされるのは、自富浦のツブラジイ

の群落地だ。韓国の暖帯林の中で、ツブラジイやスダジイのようなブナの群落が残っているのは珍し

い。

かつて欲知島は、数千隻の漁船がひしめく南海岸最大の漁業基地だった。しかし今では、捕る漁業

14 KoreaNa 秋号 2015

2


1 自富浦の 70 ~ 80 歳代のお ばあさんたちが「おばあさん バリスタ」という小さなカフ ェで、島のサツマイモでクッ キーを焼き、コーヒーを淹 れている。おばあさんの真 心 の こ もった コ ー ヒ ー が、 旅人をいっそう愉快にさせ る。 2 一時は撤去の危機にさらさ れたトンピラン・マウル。若 い芸術家が古い塀に絵を描 き始めると、壁絵マウル(集 落)として有名になった。今 では全国から観光客が押し 寄せる統営の名所

から育てる漁業へと変わっている。近隣の海はタイやクロソイ、マハタなどを育てる網いけす養殖場が

密集している。最近はサバの養殖も盛んに行われている。サバの養殖は欲知島で初めて成功し、今で は近くの蓮花島まで広がっている。サバの刺身は一度食べると、風味豊かな甘みが、それまで食べた

すべての刺身の味を忘れさせるほど。自富浦のもう一つのの名物は、 70 ~ 80 歳代のおばあさんたち

が作った地元企業「おばあさんバリスタ」だ。おばあさんたちが島で採れたサツマイモでクッキーを焼き、 自家焙煎のコーヒーをいれてくれる。

大毎勿島、楸島、蓮花島、牛島の人々

大毎勿島には、海の景色が途切れることのないトレッキングコースがある。海岸の崖に沿った道は、

何とも穏やかでのんびりしている。林道を抜けると、おとぎ話みたいに草地が現れる。目の前に広がる

海。島の裏手は、変わった形の大きな岩が並ぶ。その切り立った岩の間に伸びるスダジイやツバキのよ

うな常緑樹は、まるで緑の花のようだ。将軍峰展望台に上がると、小毎勿島と灯台島が手の届きそう なところに見える。絶景と名高い小毎勿島の美しさが実感できる。森を知るには森の外から。小毎勿

島と灯台島を眺めるのに、大毎勿島ほど良いところはない。大毎勿島の海女たちは、アワビ、サザエ、

ウニ、石花(カキなどの付着性の貝類)などの海の幸を捕る。船着場に陣取り、年配の海女さんが捕っ た手のひらほどのカキをさかなに一杯。これも、島と海ならではの旅の楽しみだ。

韓国の文�と芸� 15


楸島では、ビクニンがたくさん捕れる。ここでは、竹を筒状または底のない徳利状に編んだ筌(うけ、

うえ)という漁具で捕る。他地域ではプラスチック製の筌を使うが、楸島だけは今も伝統的な竹製の筌

で漁を続けている。これは環境にやさしい漁法といえる。楸島のビクニン漁は、秋の終わり頃から冬に かけて行われる。その時期になると、島全体でビクニンを干す風景が見られる。丘の斜面をはじめ道

端、塀、畑、空き家の庭まで、どこもかしこもビクニンが干されている。どこの家でも、洗濯物よりビ

クニンの方が多いほどだ。ビクニンは、そのまま出荷することもあるが、ほとんどは干物にされる。手

間はかかるが、干した方が断然高値で売れるからだ。酒を飲み過ぎて調子が悪いとき、ビクニンのスー

プは最高の薬になる。

蓮花島は、一つの山だ。その山の斜面に人が集まって暮らしている。蓮花峰の頂上に立つと、眼

下に広がるヨンモリ(龍頭)海岸の素晴らしい風景に息をのむ。蓮花里に住むおばあさんたちは、手

作りのマッコリを売っている。このマッコリ一杯が、旅人の渇きを癒してくれる。蓮花島の向かいにあ

るのは、牛島。牛島の海岸沿いの道は、とにかく美しい。島の周りを囲むように続く緩やか道を行く と、目の前に森のトンネルと海が交差する。この島の名物は、漁師の妻が作る海藻料理だ。ヒジキ

ごはんにテングサ、オオオゴノリ、ユナなど各種海藻をのせて醤油などで味付けした海藻ビビンバは、 最高の健康食。アメフラシ、カメノテ、フジツボを使った海鮮料理も、島でしか味わえない特別な一 品だ。

16 KoreaNa 秋号 2015


菩薩の心を 持つ蓮華島の老漁師 一人の老人が、蓮華島の船着場でつぼ網を繕っている。これは今ではほ

とんど使われない漁具で、定置網の一種だ。日差しが強い日中。老人は小

さなパラソルを帽子のように頭にかぶった。奇抜な発想だ。どこで手に入れ たのか聞くと 「インターネットで普通に売ってるよ」という。

老人は蓮華島で生まれ育った。兵役を終えてから、外航船の機関士とし

て 30 年以上勤 めた。島に戻ってきたのは、 老母が認知症になってからだ。 老いた息子は、 92 歳の老母を甲斐甲斐しく世話する。老人が網を繕ってい

るのは、自分のためではない。蓮華島と牛島を隔てる海には、魚の網いけ

す養殖場があちこちにある。養殖場では時々、網が破れて育てていた魚が

大量に逃げてしまう。そうなると、養殖場の主は莫大な損害を被り、破産す

ることもある。老人はそんな大変な目に遭い、失意のどん底に陥った島の人 を何人か見てきた。そうして考え付いたのが網の修繕だ。また誰かの養殖場

の網が破れて魚が逃げれば、この網を持って行き、少しでも損害を減らして

ほしい。そんな気持ちで、何の見返りもないが、常に網の手入れを怠らない。 老人は、魚が逃げていく方向の両側にこの網を張っておけば、その一部で

も捕まえられると考えている。養殖場が駄目になると 「他のところでは潰しが 効かないだろうに…」と、そこで働く人を心配する。そういう気持ちから、少

しでも力になりたいと思う。まさに菩薩の心だ。 1

1 蓮花島の海岸は曲がりくねっており、ほと んどが岩で風景が美しい。絶壁に沿って海 を見下ろしながら、トレッキングを楽しめる。 2011 年にできた蓮花島吊り橋は、足元の エメラルドグリーンの海が美しい。 2 蓮花島で生まれ育ち、 30 年以上外航船に 乗ったという老漁師は、認知症の老母の世 話をしながら網を繕う。島のそばの養殖場 では、網が破れて破産する人もいる。そん な人たちの役に立ちたいと考えて、網の手 入れを始めたという。

©Kang Je-yoon

2

韓国の文�と芸� 17


特集 3 統営

1

自由を夢見た芸術家の都

イ・チャンギ

李昌起、詩人、文学評論家

安洪范 , 崔貞善

写真

日本統治時代に統営で生まれ、音楽家、詩人、画家、小説家として一世を風靡した芸術家。彼らが芸術的な 才能を花開かせた根底には、統営の自立性、近代性そして経済的な豊かさがあった。今から約 400 年前、頭

龍浦という人里離れた漁村から始まった南海の小さな港町。多くの人が足を運ぶ統営。そこに行けば、誰も が詩人・芸術家気分を味わえるからだ。 18 KoreaNa 秋号 2015


営(トンヨン)の人々は、自分た

ちの街が「文化芸術の都」だと

チファン( 柳 致 環、 1908 ~ 1967 )、 詩

人 キ ム・ チ ュ ン ス( 金 春 洙、 1922 ~

の漁業の中心地として成長していた。対 馬暖流の影響から漁業資源が豊かで、早

胸を張る。「芸術の都」と聞くと、 2004 )、 詩 人 キ ム・サ ン オク( 金 相 沃、 くから水産業が発達し、経済的にも好況 (朴 1920 ~ 2004)、小説家パク・キョンリ

を迎えていた。また統営の人たちは、日

た都市と肩を並べるほど脚光を浴び、文

ンイク( 金 溶 益、 1920 ~ 1995 )、 画 家

と交流し、新しい文化に接していた。三

思うだろう。

1916 ~ 2010 )など。皆、統営で生まれ

とした仕事に就けない小地主や船主の子

すぐにフィレンツェ、パリ、ウィーンなどを

思い浮かべるような人は、統営がそうし 化の華を咲かせことがあるのかと疑問に ある地域が、特定の場所としてアイデ

景利、 1926 ~ 2008 )、 小説家キム・ヨ

本統治時代以前から移住してきた日本人

チ ョ ン・ ヒ ョ ン ニ ム( 全 爀 林、 ・一運動以降の新教育ブームは、きちん たり育ったりした芸術家だ。彼らは誰も

ンティティを持つ条件とは何か。それは、 が認める卓越した成果を収め、韓国現代

どもたちを日本へと留学させた。

その場所を体験する人が、関連ある人物

芸術の全盛期をリードした人物。そして、 芸術の光と影

け止め、精神的なイメージを共有するこ

前半、つまり日本統治時代と重なってい

者を中心に文学サークルが結成され『掃

あるいは誰が暮らしていたのか。そんな

しての地位を失ったものの、南海岸沿岸

た。これを主導したのはユ・チジン、ユ・

の活動を理解し、意味ある場所として受

彼らの生きた時 期 は、すべて 20 世 紀の

とにある。つまり、そこで何が起きたのか。 る。統営は 1895 年に三道水軍統制営と 出来事、または人とのつながり、その価

統営では 1920 年代、東京へ留学した

除夫(ソジェブ)』という同人誌が発行され

値を納得させる必要がある。例えば、モ

ーツァルトは 主にウィーンで活 動したが、 生まれ故郷のザルツブルクが「モーツァル

トの街」になっている。

統営は自然発生的にできた都市ではな

い。15 世紀末、7年にわたる文禄・慶長

の役がやっと終わり、その後の戦略的な

必要に応じてつくられた軍事都市だ。そ

んな統営が、どうして文化芸術の都を自 負するようになったのだろうか。

植民地と近代の衝突

文化芸術の都・統営が誇る代表的な芸

術家を挙げてみよう。音楽家ユン・イサン

(尹伊桑、 1917 ~ 1995 )、劇作家ユ・チ

ジン(柳致真、 1905 ~ 1974 )、詩人ユ・

2

1 ユン・イサン記念館には、生前使っていた楽器や楽譜 などの遺品が展示されている。この記念館は、統営 の中心に位置する生家の隣にあり、音楽と祖国への 思いと生前の姿をしのぶ意味ある場所だ。 2 慶尚南道巨済市の屯徳面芳下里で生まれ、統営で育 ったユ・チファンは「生命と虚無と抵抗の詩人」として 知られている。ユ・チファンは詩に故郷への思いを込 め、死後は故郷の先祖の墓地に眠っている。

韓国の文�と芸� 19


よる徴 収・徴 用が厳しくなると、 馬 山の

チファン兄弟だ。漢方薬店をしていた父

演 劇を志した彼 は、 帰 国 後に劇 芸 術 研

学の途中で帰国せざるを得なかった。だ

展 開 した。 彼 は 劇 作 と 演 出 を 担 当 し、 そして終戦によって祖国が解放されると、

親が事業に失敗し、弟のユ・チファンは留

が、彼はすでに当時の詩壇を風靡してい

た日本のアナキストとチョン・ジヨン(鄭芝

究 会を立ち上 げ、 本 格 的 な新 劇 運 動を 日 本 の弾 圧 によって劇 芸 術 研 究 会 が解

散 に追 い込まれるまで主 導した。 日 本

妻 の 実 家で隠 遁 生 活 を送るように なる。

ユ・チファンに会うために統 営 へ 向かう。

キム・チュンスは、次のように回想してい

溶、 1902 ~ 1950 )の影響を受けていた。 の植 民 地 による収 奪と民 族の窮 乏の過

る。

集『青馬詩抄(チョンマシチョ)』には、代

る。

を志す者が故郷に集まり、統営文人協会

の教科書にも載っている「それは、声なき

韓国の現代詩壇を彩った詩人キム・チュ

会長を務めた。今は西ドイツに国籍を移

1939 年に発行されたユ・チファンの初詩

表作『旗』が収録されている。中学の国語 叫喚 」で始まる作品だ。しかし、彼は生

程が、 写 実 主 義 的 な手 法で描かれてい

「解放直後、統営出身の芸術家と芸術

「 無意味詩 」という独特な文学世界で、 を立ち上げた。詩人のユ・チファンさんが

ンス。彼は、ユ・チファンの妻が先生を

してしまった作曲家のユン・イサン、詩人

計を立てるために職を転々とし、 1940 年

して いた 幼 稚 園 に 通って いたことから、 のキム・サンオク、亡くなった劇作家のパ

なるなど大変な苦労をした。

た。キム・チュンスは、これといった目

には家族を連れて満州で農場の管理人に 弟 ユ・チファンとは 違 い、 ユ・チジン

結婚式で花を持ちフラワーボーイを務め 標を立てずに日本に留学し、リルケに心

は 日 本 で 立 教 大 学 英 文 科 を 卒 業した。 酔した。だ が太 平 洋 戦 争 末 期に日 本に

ク・ジェソン(朴在成)、もう一人の作曲家

チョン・ユンジュ(鄭潤柱)、そして画家チ

ョン・ヒョンニムさんが主なメンバーだっ た」。

統営という小さな都市で、レベルの高

い芸術家が、何人も意気投合したことは

驚きだ。だが、彼らが民族舞踊を発掘し、 演劇公演、ハングル講習、文学講演を行

う一方で、夜間学校まで運営したことは

更に驚きだ。彼らは「 解放された祖国で

の文化運動による民族精神の高揚という 壮 大 な目 標 をそれ ぞれの胸 に刻んでい

た」。しかし、キム・チュンスはこう振り返

る。「この運動は2年も続かなかった。あ の頃の私たちはとても若く、血気盛んだ

った」。

彼らの若さと血気は、情熱と覇気と受

け止められているが、時代の波はその人 1

1「花の詩人」として広く知られるキム・チュンスの遺品 展示館には、遺族が寄贈した 800 点ほどの遺品が 展示されている。埠頭の道沿いにある展示館は、1 階に著書、原稿、手紙など、2階に生前使用した家 具、服、書籍などの生活用品が、当時を再現したよ うに展示されている。 2 パク・キョンリは『金薬局の娘たち』や『土地』など傑 出した作品を残し、韓国現代文学を代表する小説 家。「愛というものが、最も純粋で密度も濃いのは 憐憫だ…」と語った写真と遺品が、故郷の海を見下 ろす記念館で出迎えてくれる。

20 KoreaNa 秋号 2015

生に暗い影を落とすこともあった。ユ・チ ジンは、日本が劇団を解散させると新た


な劇団を立ち上げ、総督府の指示に従っ

た演劇を主導し、後日『親日人名辞典』に

載せられた。親日文学の論争から外れて

いたユ・チファンも最近、満州に滞在して いた時期に書いた親日詩が見つかり、彼

のいわゆる 「志士的逃避」は色あせた。ユ

ン・イサンは、 1967 年の「 東 ベルリン事

件」によって韓国政府から思想の不純な者

とされ、二度と恋しい故郷の土を踏むこ

とができなかった。韓国の国家情報院は、 後に歴史の真実究明を行い「東ベルリン 事件は、当時の政府が政権を維持するた

め政治的に利用したものだ 」と発表した。

ユン・イサンにとって故郷・統営とは何だっ

ただろうか。

私の故郷・統営

「父はよく私を連れて夜釣りに出かけま

した。私たちは船の真ん中に座って、魚

が跳ねる音と、他の釣り人の歌声に耳を 傾けました。その歌声は船から船へとず

っと続いていきました。あの歌声はいわ ゆる『南道唱』と呼ばれる沈鬱な歌で、水

面がその余韻を遠くまで届けました。海

はまるで共鳴板のようで、空は星でいっ ぱいでした」 (作曲家ユン・イサン『傷つい

た龍』 より)。

「私は中学生になると、ソウルで勉強す

ることになりました。鍾路の和信百貨店

の前だとか、光化門通りのどこかだとか、

そういうところを歩きながら、ふと真昼に 空でカモメの鳴き声を、それも一羽や二

2

2

©Toji Cultural Foundation

韓国の文�と芸� 21


1

統営という小さな都市で、レベルの高い芸術家が、何人も意気投合したことは驚きだ。だが、彼 らが民族舞踊を発掘し、演劇公演、ハングル講習、文学講演を行う一方で、夜間学校まで運営し たことは更に驚きだ。彼らは「解放された祖国での文化運動による民族精神の高揚という壮大な 目標をそれぞれの胸に刻んでいた」。 22 KoreaNa 秋号 2015


羽じゃなくて数十羽の鳴き声を聞いたんで

す。その瞬間、私の目の前に浮かんだ空

と海は、故郷の荘佐島でした。幾重にも

重なった白い雲の塊と閑麗水道に向かっ

て伸びた藍色の海でした」 (詩人キム・チュ

ンス 『詩人になりロバに乗って』 より)。

ナポリ』と呼ぶ。それほど海の色は青く澄

んでいる」 (小説家パク・キョンリ『金薬局 の娘たち』 より)。

覇気と情熱の都市

藍色の海を抱く統営には、彼らが残し

ではない。朝鮮戦争中に画家イ・ジュンソ

プ( 李仲燮、 1916 ~ 1956 )が展示会を 開いた港南洞のソンニム喫茶。詩人ユ・チ

ファンが愛する女性に 5000 通もの恋文を

送ったことで知られる中央洞郵便局。そ

の向かいにあったといわれる、彼女が営

た足跡と彼らを称える文化スポットが、分

んでいた手芸店の路地。統営の女性に思

の 頃 のカンバスを色 濃く染 めた 青 色 は、 作曲家ユン・イサンを称えて毎年、国際音

どうすることもできず、さまよった場所に

「 故郷は、作家にとって創作の源泉に

もなる。私の作品の青い時代といえるあ

厚い本一冊分になるほどに充実している。 いを寄せた詩人ペク・ソクが、その想いを

まさに私の脳裏に焼き付いていた忠武港

楽祭が開かれる統営国際音楽堂。中央

・ヒョンニム『故郷の空と海の色は、私の

望日峰のふもとにある青馬文学館。海岸

の光とそれに接する空だった」 (画家チョン 作品の偉大な師』 より)。

「 統営は、多島海のそばにある小さな

漁港だ。釜山と麗水を行き来する航路の

中間地点として、地元の若者は『朝鮮の

建てられた詩碑。そんな何とも切ない場

路の生家近くにあるユン・イサン記念公園。 所もある。

そうかと思えば、統営を創造都市に変

道路にあるキム・チュンス遺品展示館。統

える未来志向的なスポットもある。河口

館。鳳坪洞五叉路のチョン・ヒョンニム美

壁絵マウル」だ。都心から追いやられた貧

営大橋の向かいにあるパク・キョンリ記念

術館。このように整った文化空間 ばかり

の海を中庭のように見下ろす「トンピラン

しい人々が暮らすマウル(集落)で再開発

の対象地域だったが、文化が息づく空間 に様変わりしている。古くて狭くるしい路 地がユニークな絵で彩られ、趣のある空

間に生まれ変わると、観光客が押し寄せ

た。寄り添うように密集した小さな家々 の壁は、志を持つ芸術家の創作空間にな

っている。

ひっそりした漁村に過ぎなかった統営

は、 17 世紀には国を守る軍事都市、 20 世 紀には 水 産 業で経 済を復 興させた商

業都市、そして今は文化と芸術の都へと 変貌を遂げている。そんな統営が気にな

るなら、今度はその目で統営の人々の文

化と芸術への覇気と情熱を隅々まで確か

2

め、じっくり味わってみてはいかがだろう

か。

1 弥勒山のふもとの烽燧ゴルにあるチョン・ヒョンニム 美術館は、画家チョン・ヒョンニムと息子チョン・ヨン グンの作 品をモチーフにした美しい外 壁 が目を引 く。「多島海の海の色の画家」、「色彩の魔術師」な どと呼ばれるチョン・ヒョンニムの絵といつでも会う ことができる。 2 河口の入り江を見下ろす丘にあるトンピラン・マウル は、狭い路地に密集している古い家の壁に描いた壁 絵で、最近活気を取り戻している。一年を通して観 光客が絶えない「村おこしプロジェクト」の成功例と して注目を浴びている。

韓国の文�と芸� 23


特集 4 統営

1 1 伝統的な木の家具に用いる装飾金具は、木の継ぎ目、扉のちょうつがい、単純な飾りなど を指す。まず白銅の板に形を描いて、押し切りで切った後、糸鋸で裁断する。そして模様 を刻んで、銀糸や銅をはめ込む。数百、数千という手間暇をかけて完成する作品だ。 2 統営 12 工房の伝統を受け継ぐ螺鈿(らでん)匠ソン・バンウン氏は現在、クヌムジル(切断 技法)を完璧に使いこなす唯一の匠だ。統営の螺鈿製品は華やかで美しく、一時は多くの 女性が望む人気の品だった。

12工房 新しい感覚で華やかに イ・ギルウ

李吉雨、ハンギョレ新聞選任記者

徐憲康 写真

統営の伝統工芸品は華やかだ。優れた美的感覚と巧みな技術が調和し、見る者の心をつかむ。雄大な山を抱 いた大小の美しい島々が絵のように広がる自然。そこで育まれた感性のおかげだろうか。朝鮮時代後期の数 百年もの間、全国随一を誇った「 12 工房」の職人の腕は、今も脈々と受け継がれている。 24 KoreaNa 秋号 2015


2 韓国の文�と芸� 25


16

04 年に設置された朝鮮の三道水軍統制営は、さまざ

まな技術を持つ職人を近くに移り住ませた。一つの地

子房」では靴。「鞍子房」では馬の鞍。「貝付房」では螺鈿(らで

ん)製品。「周皮房」では皮製品。「尾扇房」では円形の扇子。そ

域に多様な分野の職人を集め、組織的な工房の体系

うした統営の工房では、国に献上したり全国的に販売するほど

ても、12 種類を意味するわけではない。韓国では、裾幅の広い

方の工房の中で生産と財政規模が最も大きく、最高水準の製品

を作ったのは、韓国の歴史上初めてのことだった。12 工房といっ

チマ(スカート)を「 12 幅のチマ」、幾重にも重なった山中に続く 峠を 「 12 の峠」といい、12 には「多い」という意味合いがある。

水準の高い品が生産された。そのため 19 世紀後半には、各地

を生産する手工業団地となった。

特に統営の螺鈿たんすと小盤(一人用お膳)は、現代に至って

も全国から大きな人気を集めた。統営出身の小説家パク・キョン

扇子から弓袋まで、全国随一の品々

リ(朴景利、 1926 ~ 2008 )は、自分の遺品の中で次の三つを

物品を作った。それぞれの工房では、次のようなものが作られ

営の小木匠(木製家具の匠)が作ったたんすだった。彼女は「ミ

統制営傘下の工房の職人は、各種生活用品と戦闘に必要な

ていた。「扇子房」では、王が端午節に贈り物とした扇子。「笠

子 房 」では、 馬 尾 毛を編んで作ったカッと呼 ばれる男 性 用の

冠。「 総房 」では、頭髪の乱れを防ぐため額に巻きつける網巾、

大事にしてほしいと遺言を残した。古いミシン、国語辞典、統

シンは私の生活、国語辞典は私の文学、統営のたんすは私の芸 術」と説明した。

統営の小盤は、成人男性が米俵を一つ担いで乗っても、びく

正式な冠の下に着ける宕巾、儒生がかぶる冠の一つである儒巾

ともしないほど丈夫だという。カッが両班(特権階級)の装身具

闘に必要な地図や儀仗用の装飾画。「小木房」では家具や各種

朝鮮第 26 代王・高宗(在位 1863 ~ 1897、後の大韓帝国初代皇

スズや白銅などで家具用の各種装飾金具。「銀房」では金・銀製

は、統営に人を送り 「統営カッ」をあつらえた。1895 年に統制営

など。「箱子房」では柳の枝や竹の箱。「画員房」は画室で、戦

だった時 代、 統 営 製のカッはおしゃれな両 班の必 需 品 だった。

文房具。「 冶匠房 」は鍛冶屋で、 金物や武器。「 朱錫房 」では、 帝)の父で、当時最高の権力を誇った興宣大院君(1820 ~ 1898) 品。「漆房」では各種工芸品の漆塗り。「筒箇房」では弓袋。「靴

1

26 KoreaNa 秋号 2015

が廃止されると、 12 工房も閉鎖されてしまう。職人は全国へ散


1 5代目として家業を継いで竹の簾(すだれ)を作るチ ョ・スンミ氏は、簾匠チョ・デヨン氏の娘。8年前から 仕事を習い始め、伝承工芸大展で文化財庁長賞を 受賞するほどの腕になった。若い世代らしく伝統的 な簾を生活用品に取り入れ、さまざまな変化を試み ている。 2 簾匠チョ・デヨン氏の簾は、竹を細く裂く竹ひご作り から始まる。竹ひごを絹糸で編んで模様を入れる簾 は、作品を一つ仕上げるのに 100 日以上かかる。風 通しがよく、 夏の日 除 けとして使 われた竹の簾 は、 奥ゆかしい美しさで広く愛用された。

2

り散りになり、一部は統営に定着した。

朝鮮戦争( 1950 ~ 1953 )が終わると、統営の工芸品は再び

全国的な名声を得る。全国民が「豊かに暮らそう」というスロー

ガンを唱えた 1960 年代、統営の工芸品は富の象徴だった。裕

1940 ~)氏は、今も螺鈿漆器を作る際に自分の唾を使う。人の

温もりがこもった唾は、膠(にかわ)の粘りを良くし、アワビの殻

を砕いた螺鈿を漆塗りの表面に固定するのに効果的だ。筆にお 湯をつけて塗ることが多いが、彼は今でも唾を使っている。「筆

福な家には、螺鈿のたんすや文箱など必ず統営の家具があった。 を使うと温もりが長く続かず、水分量も一定しません。伝統的な 当時、統営には3~4軒ごとに工房があったといわれるほど、螺

手法に従って唾を使うのが、一番いいんですよ」。

螺鈿細工を学んだ。統営の人口が4万人だった時代、螺鈿職人

いう言葉のように、ソン・バンウン氏は長年にわたって膠を舐め

しかし、そんな統営の工芸品にも激しい現代化の波が押し寄

ルは、細く切り出した螺鈿を刃物で切って貼り、木の家具に模様

鈿製品の生産が盛んだった。多くの若者が大学に行く代わりに の数が 1000 人を超えるほどだった。

せた。螺鈿たんすは、モダンなデザインのものに取って代わられ

「 30 斗分の膠を口にして、初めて一人前の螺鈿匠になれる」と

続けてきた。彼は「クヌムジル(切断技法)」の大家だ。クヌムジ

をつける技術だ。彼の師は父親だ。螺鈿匠第1代重要無形文化

た。人気がなくなり、職人もいなくなった。お金にならないため、 財技能保有者ソン・ジュアン(宋周安、 1901 ~ 1981 )氏は、 19 学 ぼうとする若者も減った。政府は国の予算から支援金を出

歳からクヌムジルを彼にだけ伝授した。「良い製品を作るために

化財」とも呼ばれる職人が 45 の工芸部門で指定され、そのうち

雄より雌の方が、きれいな色をしています。特に統営の海で採れ

し「重要無形文化財」という名で職人を優遇し始めた。「人間文

は、まず質の良い螺鈿を用意しなければなりません。アワビは

4部門の技能保有者が統営出身あるいは統営と関係がある。笠

るアワビは、最高級の螺鈿が作れます」。彼が螺鈿漆器の家具

継者といえる。

きなものは3年以上かかる。

一万回の手間隙をかける工芸品

氏は若い頃、全国から簾(すだれ)を買い求める人が殺到したこ

匠、螺鈿匠、豆錫匠、簾匠だ。彼らは、統営 12 工房の真の後

を一つ作るには、小さなものでも平均6カ月、たんすのような大 重要無形文化財 114 号・簾匠チョ・デヨン(趙大用、 1950 ~)

重 要 無 形 文 化 財 10 号・螺 鈿 匠 ソン・バ ン ウ ン( 宋 芳 雄、 とを今も覚えている。「値の張る簾を買うために、女性は頼母子 韓国の文�と芸� 27


1

統営の工芸は、次なる飛躍へと前進している。統営の螺鈿たんすは、すでに海外の収集家の関心 を集めている。さらに、海外のブランドに心を奪われていた地元の若者も、本当に価値のある統 営の製品に目を向けるようになった。その中心にあるのが工芸品だ。 講をしていました。当時は一般家庭の必需品でしたから」。

絹糸で竹ひごを編み、さまざまな模様を入れる作業は、巧み

な技術と強い忍耐力が必要だ。絹糸に巻かれた投げ玉(簾を編

むとき縦糸に巻いて垂らす小石)が、ゆらゆらとぶら下がる編み

台で、細い竹ひごを絹糸で一つ一つ編んでいく。満足できる簾を

一つ作るには、 一 日 中 作 業しても少 なくとも 100 日 はかかる。

デヨン氏は、四代目に当たる。彼の曽祖父は 160 年前、武科(武

1 統営ヌビ(刺し子)の 400 年の伝統を継ぐ 「新世代の職人」チョン・スッキ氏のヌビ・カ バン。ヌビに漆塗りをした高い実用性、モダンなデザインで、カバンやネクタイな どさまざまな作品を発表している。また、若いヌビ職人チョ・ソンヨン氏、ニューヨ ークで活躍するデザイナー、イ・スリョン氏らとのコラボレーションで、ヌビの活用 と価値を高めている。 2 幼い頃、螺鈿漆器工房が並ぶ街で育ったシン・ミソン氏は、遅ればせながら螺鈿漆 器を学び、その魅力に引き付けられた。現代的なデザインの弁当箱や宝石箱など 小さな作品で、若い世代にアピールできるよう努力している。

官の科挙)に合格したが、職務に就くまで時間があったため、簾

た。父が竹材の仕込みをするときには、一緒に竹を取ってきて、

上した。祖父も村長を務める傍ら、曽祖父から簾を編む技術を

簾を編んだ。

を編んで朝鮮第 25 代国王・哲宗(在位 1849 年~ 1863 年)に献

学んだ。父親は、図面を描いて簾を編む応用技法を創案した。

デヨン氏は、小さい頃から父を手伝い、簾を作る方法を教わっ 28 KoreaNa 秋号 2015

枝をとり除き、専用の刀でひご作りをした。そして、模様のない 重要無形文化財 64 号・豆錫(装飾金具)匠キム・グクチョン(金

克千、 1951 ~)氏と、統営カッの伝統を今に受け継ぐ重要無形


文化財4号・笠匠チョン・チュンモ(鄭春模、 1940 ~)氏も伝統を

コンテナ 工房と 新世代の 職人

守るという一念で、この道一筋に歩んできた。職人の後継者は、 ほとんどがその子どもたちだ。それほど難しく、やっていくのが

大変だということだ。

伝統工芸を脈々と受け継ぐ人々

チョ・スンミ ( 39 )氏は結婚後、遅ればせながら家業を継ぐこと

を決めた。父は簾匠チョ・デヨン氏。彼女は、結婚して違う地方

に住んでいたが「簾作りは難しく、誰もやろうとしない。娘のお 前が跡を継ぐしかないと思わないか」という父の頼みを断れなか

った。女性にとって体力的に大変な仕事だ。孤独な道を行く父

を、クリーニング屋と船着場での雑用をしながら支えてきた母イ

ム・ソンエ( 63 )氏。そんな母の丹誠が、苦難に耐えて父の跡を

2

夫の友人が2年前、台風で飛ばされ海上を漂ってい

継ぐ上で、大きな心の支えになった。8年前から仕事を習い始め

た傷だらけのコンテナを拾って来た。船を修理する夫

どの腕となった。伝統的な簾を作るだけでなく、竹簾をインテリ

を塗った。内部にはきちんと壁紙を貼って、自分の工

たスンミ氏は、2年前に伝承工芸大展で大統領賞を受賞するほ ア小物にも取り入れた。茶器セットの敷物として、華やかな模様

も入れた。「簾は、見えるようで見えないような、あるようでな

の仕事場の庭でコンテナのへこみを直し、きれいに色 房にした。

主婦シン・ミソン( 46 )氏は6歳の時、統営沖で漁を

いような、本当に不思議なものです」。

していた父親が、嵐によって船とともに海に消えた悲

けではないが、最近注目されている統営の「新世代の職人」だ。

いた。そんな苦しい生活のため、商業高校をなんとか

チョン・スッキ( 45 )氏は、工芸と関わりのある家に生まれたわ

スッキ氏は、伝統的な「統営ヌビ(刺し子)」を現代風にアレンジ

している。二枚の布の間に綿を入れ、ひと針ひと針丁寧に縫い

しい記憶がある。祖母と母は、廃品を拾って暮らして 卒業すると、すぐに就職した。その後、結婚して1男1 女の母となった。3年前のある日、街で螺鈿漆器の作

合わせた刺し子は、朝鮮時代の軍人にとっては敵の矢から身を

り手となる教育生を募集する横断幕が目を引いた。統

寒服として、母親にとっては赤ちゃん用の子守帯やおくるみとし

所で嗅いだ膠の匂いが思い出された。螺鈿漆器の工

守る軍服として、漁師にとっては冬の冷たい海風から身を守る防 て、また寝具などとしても幅広く使われてきた。スッキ氏は、刺

し子をカバンや財 布、リュック、ネクタイ、キッチン用 品 など、 若い感覚のおしゃれな生活用品に変身させた。また、刺し子に

営市が設けた螺鈿漆器教室だった。幼い頃、家の近 房からの匂いだ。何かに導かれるように、迷いもなく 入門した。

ミソン氏は、自分のコンテナ工房で螺鈿漆器の技術

伝 統 的 な漆 塗りをして、 長 持ちする布 地に生まれ変 わらせた。

を磨いた。入門してから1年で慶南工芸品大展の大賞

品は、 高級ホテルや免税店、 国立博物館、 複合アートセンタ

品した工芸品は、二段のお重箱。漆塗りの小さめの

今風のデザインに防水用の内袋が施されたカバンなど彼女の作 ー「芸術の殿堂」内のギフトショップ、さらには青瓦台の総合観

光広報館「サランチェ」にも並んでおり、韓国工芸品の水準を引

き上げるのに一役買っている。

を受賞した。今年も銀賞に輝いた。ミソン氏が昨年出 重箱に螺鈿細工を施した。伝統的な模様ではなく、現 代的なデザインを試みた。

「 漆 塗りは、 埃との 戦 いです。 工 房 に 埃 があると、

「運よくニッチ市場が見えたんです。統営の伝統的な刺し子を

塗った面が滑らかになりません」。そのため、螺鈿漆

統営の工芸は、次なる飛躍へと前進している。統営の螺鈿た

を避けるためだ。「螺鈿漆器は大変だからこそ面白い

用いた生活用品は、売れると判断しました」。

器の職人は昔、服も着ずに漆を塗ったという。服の埃

んすは、すでに海外の収集家の関心を集めている。さらに、海

んです」。

ある統営の製品に目を向けるようになった。その中心にあるの

を守るため、 2008 年に始めた「クラフト12 プロジェク

外のブランドに心を奪われていた地元の若者も、本当に価値の

が工芸品だ。

ミソン氏は、統営市が朝鮮時代の「 12 工房」の伝統

ト」によって螺鈿漆器の職人になった。

韓国の文�と芸� 29


1

特集 5 統営

情感あふれる港町、魅惑的な山海の珍味 統営の食べ物はおいしい。韓国ではよく、慶尚道にはおいしいものがないといわれる が、統営は別だ。季節ごとに新鮮な海の幸を使った料理は、全国のグルメの舌をう ならせる。朝鮮時代には三道水軍統制営が設置されていたという独特の条件が、統 営を美食の宝庫にしたのだろうか。 2

30 KoreaNa 秋号 2015

ソン・ヨンマン

宋永萬、暁亨出版代表

安洪范 写真


は昔、 1960 年代の初め頃、現在「統営」と呼ばれてい

る由緒ある地名は、当初「忠武」と呼ばれていた。小 学4年生だったある日のこと、私は姉の地図帳で忠武

という港町を見つけた。人口7万の忠武は「東洋のナポリ」とい

うしゃれた呼び名がついていた。幼心に行ってみたいと思った。

しかし、それは現実的に無理なこと。地球の反対側のナポリで あれ、閑麗水道のナポリであれ、私には遠い世界の話でしかな

かった。

私が大学生の時分、統営へ行くには懐具合も交通の便もよく

なかった。今でこそ大田~統営間に高速道路ができ、ソウルから

至る所に見るもの、食べるもの、乗るもの、買うものが充実し

ているので、訪れる日が待ち遠しい。旅先で、三食きちんと楽し むことは難しいものだ。それでも統営では、仕方なしに食事を 済ませた記憶がほとんどない。

海が香る統営の海の幸

統営の食事は違うのだ。朝には、酔い覚ましのフグ汁とシレギ

(ダイコンの葉)汁が待っている。どこの食堂に入っても裏切られ

ることはない。昼は海藻やホヤのビビンバなど、海産物をふん だんに使った料理、あるいは閑麗の海風が染み込んだ弥勒山の

4時 間 ほどで行 けるようになった。しかし 10 年 ほど前までは、 青菜を添えた韓定食。夕方には、宝石のような澄んだ海の幸が 大邱、馬山、晋州と遠回りして一日がかりでやっとたどり着く、 ずらりと並ぶ海鮮の宴を堪能できる。血気盛んな 20 代後半、初 遥か南の都市だった。

めての休暇で訪れた統営。そこで初めて刺身らしい刺身を食べ

た。私は忠清道の内陸とソウルで育ったため、知っている魚とい

路地ごとに美食があふれる統営

えば、塩漬けにしたものか、イシモチやサンマくらいなものだっ

いる。思いもよらない幸運が潜んでいそうな港町の裏通り。河

辛しか食卓に上ることはなかった。

統営の街は、全体的にこぢんまりしていて、情感があふれて

口を抱くトンピランの丘は、いつの季節も若者で賑わう観光スポ

た。当時は余裕のある家でも、そうでない家でも、焼き魚か塩

1980 年代半ばには新聞社が主催する「 21 世紀経済科学特講」

ットになっている。活気と好奇心は、食べ物にも新たなトレンド

のため、統営、晋州、馬山あたりをよく訪れた。俗にいうソウル

(のり巻)、タコ天、クルパン(はちみつパン)の店が河口に軒を

足を運んだので、その地域にとってはありがたいことだった。昼

を生み出した。甘くてしょっぱい刺激で満ちている。忠武キムパプ 連ねている。

忠武キムパプは、どの店も「元祖」だ。具を入れずに白飯だけ

を海苔で巻いたキムパプ、甘辛いイカの和え物、よく漬かった大

根キムチのセット。今ではコンビニや高速道路のサービスエリア

でも食べられる 「国民食」になっている。

の名門大学や経済学の教授、科学に精通した先生方が遠くから 食や夕食の時には、おすすめの店に連れて行ってもらった。その 時初めてコノワタを知った。ナマコは好きだったが、その内臓の

塩辛・コノワタの存在を初めて知り、食べてみた。同行したソウ

ル大学校経済学部の故カン・グァンハ(姜光夏、 1947 ~ 2012 ) 教授も初めてだと言った。カン教授も内陸の大邱出身だから知

もともと忠武キムパプは、釜山と麗水を行き来する旅客船で

らないのも無理はない。その日、私達は盛り上がって、ヒレ酒

売るおばあさんたちが、しばし船に乗り込む。しかし、夏場のキ

並んだ。ウニとカラスミもあったので、日本人が「天下の三大珍

生まれた。中間の寄港地の統営には、昼頃に着く。キムパプを ムパプは傷みやすい。そこで妙案。傷みにくくするために、白飯 だ け をのりで 巻 き、 キムパプ の 中 に 入 れる具 は 別 にして 売

る。「窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通ず」だ。

統営クルパン。名はクルパンだが、クル(はちみつ)は入って

いない。パン生地にあんを入れ、ボール状にして油で揚げ、水

飴をたっぷり塗って黒ゴマをまぶす。貧しい時代に女学生の小腹

を満たしたおやつだ。貧しかったその当時は皆、甘いものに目

がなかった。ずいぶん豊かになったが、今でも観光客は甘いも

のに弱い。クルパンを友達へのお土産にと、たくさん買って帰る。 私は、これまでに 15 回ほど統営を訪れたが、食べ歩きをした

ことがない。「ごはん一粒残さず、ありがたく頂きなさい」と教わ

ったせいか、味を楽しむ繊細な味覚もマメさも持ち合わせていな いためか…。風景を楽しむために咂~6回、仕事のために喂~

7回、 統営を訪 れた。統営の旅は、 海外旅行よりも心が踊る。

を何杯も飲んだ。クロダイ、ブリ、ニベ、アワビの刺身などが 味」と称する海産物すべてにお目にかかったことになる。閑麗水 1 海岸の岩で育ち、花のように 咲くため、石花と呼ばれるカ キ。統 営の海で養 殖に成 功 し、 全 国 民 に愛される海 産 物になった。チョジャン( 唐 辛子酢味噌)で楽しむ新鮮な 生カキ、カキのスープ、カキ ご飯、カキのチヂミなど、さ まざまな料理を味わえる。 2 養 殖 に成 功するまで、 海 女 が採ったものしかない貴重な 食材だったホヤ。今では手ご ろな 値 段 で 手 に 入りやすく、 人 気 の 高 い 刺 身 用 の 食 材。 内 陸の人 は、 主に生のまま チョジャンで食べるが、統営 など沿岸部では、さまざまな 食材をのせたビビンバを好む。

道の海の賓客が、一堂に会した豪 華な夜だった。

家族と一緒に旅行しても、一人

で楽しむ所がある。国内外どこを 旅しても必ず訪れる場所。それは

フリーマーケットや人情あふれる市

場 だ。 統 営では 魚 市 場 が 好きだ。 新 鮮 な 刺 身 がその 場 で 味 わ える。 持ち帰って宿で食 べてもいい。方

言での威勢のいいやりとりに、 魚

をさばく手も忙しい。統営沖で捕

れるあらゆる魚介類が、プラスチッ

クのたらいの中で口をぱくぱくして 韓国の文�と芸� 31


2 1 いろいろな野菜や牛肉を入れた典型的なキムパプ(のり巻)とは違い、忠 武キムパプは白飯だけを海苔で巻き、甘辛いイカの和え物と一緒に食べ る。忠武キムパプは、忠武市と呼ばれていた統営が昔の名前を取り戻し た後も、依然として忠武キムパプと呼ばれ、誰からも愛される料理にな っている。 2 統営のクルパン(はちみつパン)は、オミ社というクリーニング店の横の 屋台から始まった。そのクルパンが大変な人気で、クリーニング店はなく なったが、店名だけはクルパン店が受け継いでいる。そのオミ社クルパ ンの人気によって、統営市に数多くのクルパン店ができたのだ。 3 河口と中央市場が統営の重要な観光地になり、多くの人が訪れる河口に は、数多くの忠武キムパプ店とクルパン店が軒を連ねている。どこが元 祖なのか分からないが「元祖」と名乗る店が多い。

1

早春のヨモギと一緒に煮たメイタガレイのヨモギ汁は、深く澄んだコクが絶品。「秋のコノ シロ」、「春のメイタガレイ」といわれるほどだ。その他にも、嫁に食わすなといわれる初夏 のウニ、朝食の代名詞となっているフグ汁、夏のスタミナ食の象徴・ハモの刺身、冬の賓客 といわれるカキ。これらすべてが統営を代表する食べ物。特にカキは全国の生産量の 70 % を占めており、まさに統営の宝だ。

いる。マダイ、コノシロ、ヒラメ、タコ、テナガダコなど、捕れ

たてで活きがいい。ホヤ、ユムシ、ナマコ、サザエ、アワビも鮮

秋のコノシロは、脂がのって歯ごたえもある。「サバの生き腐れ」

とはよくいったもので、サバは水から揚げるとすぐに死んでしまう。

度抜群。ナマコはあまりにも新鮮で、歯ごたえがたまらない。

そのため、サバの刺身は、なかなかお目にかかれない。だから、

統営で味わう旬の味

にサバの養殖場が見事に広がっている。先日、欲知島を旅行し

よく統営を訪れるため、季節ごとに旬の魚が味わえる。春に

塩サバがよく食べられるのだ。最近は、欲知島や蓮華島の沖合

た際に見た養殖場は、壮観だった。海面に浮かぶ丸い土俵のよ

はスズキの刺身、夏にはウナギとニベの刺身も食べた。ぷりぷ

うな形がユニークだ。海で捕ったサバを網に入れたまま引っ張っ

は比べものにならない。餌が豊富な夏に栄養をたっぷり取った

れるため運動量が少なく、しっかり脂の乗った魚に育つ。

りしてコクもある。しかし、秋に食べるコノシロとサバの刺身と 32 KoreaNa 秋号 2015

て来て、一定期間エサをやり育てるという。狭いいけすで養殖さ


3

冬の海産物は皆おいしい。その中でもタラ汁とビクニン汁は、 朝食の代名詞となっているフグ汁、夏のスタミナ食の象徴・ハモ

統営の人にとって特別なものだ。冬の通過儀礼ともいえる。特

にタラは、冷たい風が吹き始める立冬から立春まで、弥勒島の

長承浦の近海に現れる。寒流の黒潮に乗ってくるタラは、2月の

ものが最高だ。澄んだスープのタラ汁は、淡泊でさっぱりした味

が絶品だ。刺激的な味を嫌う中高年に人気が高い。筆者も若い

頃は、ぼやけたような味があまり好きではなく、赤いスープのテ

の刺身、冬の賓客といわれるカキ。これらすべてが統営を代表

する食べ物。特にカキは全国の生産量の 70 %を占めており、ま さに統営の宝だ。

ところで統営の食文化は、どのようにして発達したのだろうか。

いろいろな説がある。例えば、人口 14 万あまりの小さな港町が

数多くの優れた文化芸術家を輩出し、その繊細で感性豊かなD

グメウンタン(タラの辛いスープ)の方が好きだった。統営では、 NAが宿っているから。あるいは、約 400 年前の朝鮮時代に三 海産物だけ食べるのは味気なく、酒とともに楽しむ。酒のさか

道水軍統制営が設置され、ソウルから派遣された高級官僚とそ

そんなときは、二日酔いに効くヘジャングク(酔い覚ましのスー

が盛んに入ってきて、地元の文化と融合したおかげ…。

ではコムチ汁と呼ばれている。若い頃によく行った東海岸の江陵

あったからではないだろうか。巨済島が南からの激しい海の流れ

物干し竿に干されていたビクニンが、山陽地区の丘にある集落

して、弥勒山がいつも見守り、閑山島が抱き保護する。そうして

早春のヨモギと一緒に煮たメイタガレイのヨモギ汁は、深く澄

誰もが文人墨客。風流・風雅を楽しむ芸術的な感覚が生まれる

ながうまいと、酒はさらに進む。夜が更けると、胸焼けがする。 の女中が、優れた料理の腕を振るったため。そして、外来文化

プ)をあちこちで食べられる。それがビクニン汁だ。東の海岸部

と束草でも、コムチ汁が朝の食卓に上がった。青草湖のそばで

でも目に付く。

んだコクが絶品。「秋のコノシロ」、「春のメイタガレイ」といわ

しかし、何といっても恵まれた地理的条件と気候が、根底に

を和らげ、欲知島と蓮華島が番兵さながら風を受け止める。そ 絶妙な河口が形作られた。南望山の頂上から西湖を一望すれば、 だろう。恵まれた自然は美しい空間をつくり、そこで育まれた詩

れるほどだ。その他にも、嫁に食わすなといわれる初夏のウニ、 的センスとエスプリは、優れた味わいを醸し出す。

韓国の文�と芸� 33


フォーカス

パリで演奏される 宗廟祭礼楽 ソン・ヘジン

宋恵真、淑明女子大学校 伝統音楽専攻教授

徐憲康 写真

宗廟祭礼楽(宗廟とは朝鮮時代の歴代王と王妃、そして功臣達を祀る国家儀式)が今年9月 18 日と19 日の両 日間、パリ国立シャイヨー劇場の舞台に上がる。韓仏国交樹立 130 周年を記念する 2015 - 2016 韓・フランス 相互交流年の開幕公演であり、国立シャイヨー劇場の開幕公演だ。宗廟祭礼楽は、儒教を統治理念とした朝

鮮時代に「孝」を国レベルの規範として実践するため、宗廟で執り行った祭祀のための儀式用音楽と舞踊で、 2001 年にユネスコ「世界無形文化遺産」に定められた。敬虔な宗廟の建物とともに荘厳かつ無駄のない美しさ、 自然と人間の永遠性を象徴する韓国伝統総合芸術の白眉と言える。

34 KoreaNa 秋号 2015


鮮時代には儒教の教えに従って生前の両親に孝行を尽くし、亡くなった後もまるで祖先が生

きているかのように敬愛する孝行がかなり重んじられたが、宗廟祭礼は国王自ら「孝」を実践

する手本として執り行われた王室最高の儀礼だった。歴代王と王妃たちの忌日だけではなく、

国家的重要なことがあるたびにこれを先代に告ぐため、年数回執り行われたこの祭礼には、国王と太

子、領議政(李氏朝鮮における議政府3議政の一つで、最高の中央官職。現在の国務総理)をはじめ、 主要官吏が参列して儀典に記された規定に沿ってお香を焚いて神仏を招き、供物を捧げて楽しませた 後、お送りするという手順で行われた。この際、祭礼の空間に配置された宮廷楽師たちは、儀式と手

続に従って楽器を奏で、これに合わせて先祖の功徳を褒め称える歌を歌い、舞員たちは音楽に合わせ

て佾舞(イルム)という特別な舞を舞った。この演奏と歌、舞を総括して宗廟祭礼楽と言い、 1964 年国 家の重要無形文化財第 1 号に指定され、今日まで受け継がれている。

儒教儀礼の奏楽伝統と宗廟祭礼楽

宗廟祭礼で奏楽は、北東アジアの長い儒教儀礼の伝統から始まった。儒教儀礼では、中国の古代か

らさまざまな材料で作った楽器で楽隊を構成し、これに合わせて公徳を称える歌を歌いながら一定の数

宗廟祭礼が行われる間、舞員が音楽にあわせて武舞を踊 っている。武舞を踊る舞員は武士のように剣と槍を持って 踊る。定大業之楽の旋律に似合う武舞は武士の威厳が 感じられる舞である。

韓国の文�と芸� 35


の舞員たちが隊列を整えて踊った。

楽隊を構成する楽器は、金、石、糸、竹、瓢、土、革、木の八つの材料で作るが、これを「八音」

と言い、八音楽器の合奏は、自然に存在する音の調和を象徴する。一方、祭礼では八音楽器を備えた 二つの楽隊を祭礼空間の上月台と下月台に配置するが、これはそれぞれ陽と陰の位置を意味し、両楽

隊が交互に演奏して陰陽の調和を表す。正殿の高い位置の上月台に配置された楽隊を登歌(トゥンガ: 上月台に配置され歌の無い音楽を演奏する楽団)と言い、低い位置に配置された楽隊を軒架(ホンガ: 下月台にて歌のある音楽を演奏する楽団)と言う。また、登歌と登歌の間の正殿の片隅に舞員たちが 列を作って舞うことによって、天地の間に人々が交わる 「天・地・人」の構図が完成される。このように象 徴的な意味が反映された祭礼楽の構成は、古代中国の雅樂から始まったものであり、韓国では 12 世

紀に初めて受け入れられた。その後、朝鮮の世宗代になって中国古代雅樂についての総合的な研究を 踏まえて、全面的な再整備が行われた。

宗廟祭礼楽の起源

現在、演奏されている宗廟祭礼楽は朝鮮の世宗(セジョン、朝鮮第4代王、 1418 ~ 1450 )が 1449

年作曲し、彼の息子の世祖(セジョ、 1455 ~ 1468 )代に一種の編曲過程を経て、 1464 年から宗廟祭

祀で演奏され始めた新しい祭礼楽だ。つまり、純粋な雅楽演奏の伝統を破り、世宗が新しく作曲し

1 宗廟祭礼で楽士たちが玄琴 (コムンゴ)を演奏している。 1500 年の歴 史を持つ玄 琴 は、桐の共鳴筒の上に、絹 で紡がれた6本の弦を張っ た弦楽器で、12 本の伽耶琴 (カヤグム)と並んで韓国の 代表的な伝統弦楽器だ。そ の音色が荘重で優雅である ためよく 「貴族の楽器」と呼 ばれる。 2 宗廟祭礼が行われる間、楽 師たちが大笒を奏でている。 朝鮮時代の宗廟祭礼では宮 廷楽士たちが音楽を奏でた。 祭 礼 に使 われる音 楽 は 22 曲の独立楽曲で、その賛歌 のテーマによって保太平之樂 (ポテピョンジアク)と定大 業 之 樂( チョンデオプ ジア ク)に区分されている。

36 KoreaNa 秋号 2015

1


た「朝鮮式宮廷音楽」がこの宗廟祭礼楽として位置づけられるようになったのだ。

世宗はハングルを創製した後、初の作品として「龍飛御天歌(ヨンビオチョンガ)」という朝鮮建国の

大叙事詩を完成し、これを歌舞楽として展開するための新しい作業に取り組んだが、この過程で雅楽

の様式と朝鮮伝来の音楽伝統を結びつけた新しい実験をすることになる。つまり、中国古代の雅楽と 似ていながらも内容的には違いをはっきりさせた「朝鮮式宮廷音楽」を試みたのだ。楽隊の配置と八音

楽器を備えた編成、隊列を組んで踊る舞員の数と舞具、楽・歌・舞で構成される形、音楽の始め方と終

わり方など、外形的な様式は雅楽に従い、内容面では八音楽器の構成に雅楽器のほかに、中国伝来

の唐楽器および朝鮮の楽器を含めたり、楽曲の拍子と旋律、歌詞などは古来の郷楽(ヒャンアク)から

とって新しい音楽を創作した。つまり、雅楽様式と朝鮮伝来の音楽を融合させた新しい宮廷音楽の誕

生だった。世宗は、これを「新しい音楽」という意味の「新楽」と名づけており、この手の朝鮮式音楽が 宮廷の宴会とさまざまな儀礼に使われることを希望した。このような世宗の意向は世祖代になって具体 的に実現された。

世祖は、世宗の公徳を称えるために創作した「保太平之樂(ポテピョンジアク)」と「定大業之樂(チョ

ンデオプジアク)」を整えて宗廟祭祀に使い始めたが、この曲が今日に伝承される宗廟祭礼楽だ。宗廟

祭礼楽に採用されてから、王室の音楽人たちによってもっとも重要な宮廷音楽として途絶えることなく 受け継がれ、現代まで着実に引き継がれてきた韓国ならではの音楽遺産だ。

韓国の文�と芸� 37 2


厳粛な儒教儀礼、最初から最後まで大きな変化もなくゆるゆると流れる音楽、風変わりな楽器の 音響、聞き取れない歌詞など、現代韓国人の聴衆にも不慣れな要素があるが、にもかかわらず 宗廟祭礼楽は、時空を超えた「永遠性」を味わうことのできる独特で高尚な、人類の音楽遺産であ るのは間違いない。 宗廟祭礼の楽・歌・舞

宗廟祭礼楽を構成する楽・歌・舞の楽は、楽器の編成と登歌と軒架の配置を意味する。宗廟祭礼楽

の楽器編成は、雅楽器と唐楽器、郷楽器をいずれも適切に使う。現行の宗廟祭礼楽には、編鐘(ピョ

ンジョン)、編磬(ピョンギョン)、方響(パンヒャン)、柷(チュク)、敔(オ)、拍(パク)、唐觱篥(タンピ

リ)、大笒(テクム)、奚琴(へグム)、牙箏(アジェン)、杖鼓(チャング)、鉦(チン)、太平簫(テピョンソ)、 節鼓(チョルゴ)、晉鼓(ジンゴ)の15種の楽器が登歌と軒架に配置されるが、朝鮮時代にはこの他に

伽倻琴(カヤグム)、玄琴(コムンゴ)、月琴(ウォルグム)、唐琵琶(タンビパ)、鄕琵琶(ヒャンビパ)、 大笒(テクム)、中笒(チュングム)、小笒(ソクム)など約20種の楽器が加えられた。

歌は楽章、つまり歌だ。宗廟祭礼楽の楽章には、祭祀を行う意味と追悼の対象である朝鮮王朝の歴

1 朝鮮の歴代王と王妃たちに 捧げる宗廟祭礼は、祭需の 供物、並べ方でも一般家庭 の 祭 祀 とは 格 が 違 う。 米、 粟、 キ ビ な どの 穀 物 と豚、 羊、牛などの供物はいずれ も生ものを供えた。最も新 鮮な食べ物を先代王に捧げ るという意味だった。 2 神仏を迎える準備を終えた 祭官たちがそれぞれ所定の 位置に整列している。続い て線香をあげて魂魄を呼び 戻す晨祼礼(シングランネ: 王が祭室まで赴き香を焚き 神を迎え入れる儀式)を執 り行う。朝鮮時代の宗廟祭 礼には、王と太子、高官を 含む約 300 人の祭官が参列 した。

38 KoreaNa 秋号 2015

1


代王たちが民を守るため献身した内容と国の太平に尽力した功労、子孫繁栄の祈念などの内容が詳細

に描写されている。「真心を尽くして執り行う祭祀を通じて限りない福を享受したいという子孫たちの 心」がこの宗廟祭礼楽歌詞の主な内容だが、そのほかにも「先祖たちが福を授ければその恩を一生忘

れない」という誓いだとか、「子孫たちまでも栄えるようにしてくださり、永遠に彼らの成功をご覧いた

だきたい」という念願、そして「親孝行をする子孫たちにめでたいことがたくさんあって健康長寿できるよ

うにしください」という願い事も含まれている。同時に、祭祀を受ける先祖に対して褒め称えたり、賛美

したりする内容が主になっている。現行の宗廟祭礼楽は、サブタイトルのある22曲の短い独立楽曲か らなっているが、その歌のテーマによって大きく定大業と保太平に分類される。

このように宗廟祭礼楽の楽章は、宗廟祭礼が敬いと真心、礼と楽、清潔な飲食と酒を備えて王室の

祖先を追悼することにより、王室と国家が末永く栄えることを祈念するための儀式であることがわかる。

さらに、「宗廟に祭祀を行い、子孫を保持する(宗廟祭之子孫保持)」という「中庸」の教えのように、祭

礼を通じて先祖たちの軌跡を辿り、その後代が先代の尊い志を見習うようにする教育的目標も強くにじ

ませている。

舞は佾舞(イルム)を意味する。

宗廟祭礼の舞は、複数の舞員たちが隊列を整えて舞う舞であるから佾舞と言い、文舞と武舞で構成

韓国の文�と芸� 39 2


される。この舞を舞う際には、いずれも紅いトゥルマギ(チョゴリとパジ)の上に羽織る外套)の紅周衣

(ホンジュイ)に藍色の帯である藍糸帯(ナムサデ)を締め、木靴を履いて頭には幞頭(ポクトゥ)をかぶる。

手に取る小道具は儀物(イムル)と言い、文舞を舞う際には左手に楽器の一種である籥(ヤク)を持ち、 右手にキジの羽である翟(チョク)を持つ。指孔が三つしかない管楽器である「籥」は、三つの孔ですべ

ての音の調和をなすという意味を込めており、「翟」は1尺あまりの木の棒にキジの羽を縛って結び目を 作ったもので、いずれも平和と秩序を象徴する。

文舞は舞員たちが籥と翟をぶつけ合ってリズミカルな音響を流しながら踊る。舞員たちは、それぞれ

自分の位置に立って両腕を上げたり下げたりし、上半身を前にかがめたり伸ばしたりし、右側と左側に

ゆっくり回る動作を持続的に繰り返す。地味ながらもつつましく見える動作だ。

文舞は 迎神礼(ヨンシンレ:神を迎える儀式)から初獻礼(チョホンレ:神をもてなす儀式)まで舞うが、

進饌礼(ジンチャンレ:神に供物を捧げる儀式)では豊安之樂(プンアンジアク)に合わせ、残りの手続き

では保太平之樂の演奏に合わせて踊る。 亞獻礼(アヒョンレ:神を喜ばせる儀式)と終獻礼(チョンホン

レ:最後の酒の杯を上げる儀式)のための武舞は、前列から4列目までは剣を、後ろから4列目までは

槍を手に執る。武舞の動作は、胸の前で手を合わせて準備姿勢をとった後、音楽が始まるとまず左に 胴体を回し、再び右に方向を変えて両手を広げ右手を頭の上に挙げたり下げたりする比較的に簡単な 動きを繰り返す。しかし、定大業之樂の豪気溢れる旋律にふさわしい武舞の動作では、武士の威厳が

宗廟正殿で歴代の王と王妃に 対する祭祀が行われる間、上 下月台では舞員の舞と楽士の 音楽演奏が続き、儀式に荘重 で流麗な威厳を添える。

40 KoreaNa 秋号 2015


うかがえる。宗廟祭礼楽の佾舞は、世宗時代に中国古代の楽舞を研究して再演、創作したもので、雅 楽の佾舞と外見的な仕組みは類似しているが、固有の特徴を持ち合わせるようになった。

宗廟祭礼楽は、 1970 年代半ばから現在まで毎年 5 月の第一日曜日に執り行われる宗廟祭礼で祭礼

とともに演奏されている。そのほか、音楽と舞は伝統音楽の主なレパートリーで、国立国楽院などの 劇場で楽しめる。最近一般人の関心が高まったことを受けて、解説付きの宗廟祭礼楽公演だどか、舞 台の上で宗廟祭礼楽の儀式を再演しながら祭礼楽を演奏する新しい演出が次第に広がっている。

一方、宗廟祭礼楽は、あまりにも公演の規模が大きいため海外舞台で披露することは極めてまれな

ケースだ。2002 年「日韓W杯共同開催」をきっかけに開かれた日韓宮廷音楽交流演奏会、 2007 年9 月イタリア・トリノ音楽祭とドイツアジア・太平洋主宰文化行事で公演されただけだ。

約 90 分間にわたって全曲が演奏される今回のパリ公演は、これまで演奏を中心に構成された海外公

演とは一線を画して、縮約された形の儀礼を一部含め、舞踊団の人員を大幅に増やしており、舞の動

きを前面に掲げた新しい演出になる予定だ。厳粛な儒教儀礼、最初から最後まで大きな変化もなく、 ゆるゆると流れる音楽、風変わりな楽器の音響、聞き取れない歌詞など、現代韓国人の聴衆にも不慣

れな要素があるが、にもかかわらず宗廟祭礼楽は、時空を超えた「永遠性」を味わうことのできる独特

で高尚な、人類の音楽遺産であるに間違いない。この「容易ではない」公演がパリの聴衆たちにどう受 け止められるか期待される。

韓国の文�と芸� 41


アートレビュー

「 発願、切なる祈りと 願いを込めて」 仏教美術の後援者たち シン・ソヨン

申紹然、 国立中央博物館学芸研究士

国立中央博物館で開かれた「発願、切なる願いを込めて」 ( 5 月 23 日~ 8 月 2 日)展は仏教美術の後援者たちを通して、韓国社会における仏教と美術、そし て後援者との関わりを考える企画展だ。展示は各時代別に主要な後援階層に 焦点を当てて5部構成されており、後援者の社会的地位や経済力がそのまま 作品に反映している点が興味深い。

1

教は紀元後4世紀頃の三国時代に伝来して以来、これ

事に参加することで功徳を積もうとした。今日、韓国の寺刹で

人は仏の力をかりて疾病、飢餓、戦争、自然災害な

り、多くの後援者がいたからこそ製作が可能だった。もっとも一

まで韓国の固有の文化と相まって発展してきた。韓国

どを克服しようとし、そのような願いはさまざまな信仰の対象を 作り出し、仏教儀式として受け継がれてきた。そしてそれは韓国

の歴史と文化が発展する原動力ともなった。

展示の序章「プロローグ:発願の意味 」では、三国時代( B .

C.37-A.D.668 )と統一新羅時代( 668-935 )の仏教美術を通じ

出会う仏教美術品の大部分はまさにこのような発願の産物であ

般的な発願の内容は国が平安で自分と家族、ひいてはすべての 人々が悟りを得て極楽往生をすることだった。

国家の最高権力が寺刹を建て仏教を後援する

三国時代から統一新羅時代にいたるまでの古代国家での仏教

て祈願することの意味と、主に国家と王室が仏教を後援してい

は、中央集権国家の精神的な求心点となっていたため、寺刹建

を建立し、本堂の中に仏像と仏画を奉安し、経典を刊行する仏

石塔の中には舎利具を奉安したが、統一新羅の王室が発願した

た時代的背景を解説している。当時の人々は寺刹を建てて石塔 42 KoreaNa 秋号 2015

立の最も強力な後援者は国家と王室だった。この時期、寺札の


1 慶州九黄里皇福寺址の三層石塔(国宝 37 号)の中から発見された 金銅舎利函と遺物は 692 年と706 年の2回にわたり奉安された。 舎利函の金銅外函の蓋の内側には 692 年に孝昭王が母の神睦太 后と共に先王である神文王の冥福を祈って石塔を建立したと刻ま れている。 2 13 世紀の「木造観音菩薩坐像」は計 15 個の木材で作られた優雅で 自然体な仏像だ。目には水晶をはめ込み、仏像の中には木で作 ら れ た 瓶、 穀 物、 鉱 物、 織 物 な ど が 奉 安 さ れて いる。 高 さ 67.6cm、国立中央博物館所蔵

韓国の文�と芸� 43 2


代表的な舎利具は皇福寺址といわれる現在の慶州九黄洞の三

を紹介している。高麗時代には青や赤で色をつけた紙に金や銀

層石塔の舎利具だ。舎利函の金銅外函の蓋の内側には 692 年

で絵を描き、字を書き写す写経が流行した。その発願文には王

石塔を建立したと記録されている。当時6歳だった孝昭王の年

な願い事も書かれている。注目される作品としては、中国元の

孝昭王が母の神睦太后と共に先王である神文王の冥福を祈って

室の安寧を祈願するだけでなく、自分と家族の福を願う個人的

齢を考えれば実質的な塔の建立者は神睦太后であり、塔の建立

国に行き官職についた安賽罕が 1334 年に発願した「大方廣仏華

の、政治的な意味が込められていたものと思われる。706 年聖

で自分が二品の階級に上がったことを感謝し、家内と国の安寧

るが「無垢浄光大陀羅尼経」に従い作られたものだ。舎利函の中

ったチベットモンゴル仏教美術の様式を備えており、これは親元

目的は国王と王室の権威を確立し、王位継承の正当性を示す為

徳王が奉安した舎利函の表面には 99 基の小さな塔が彫られてい

に入っていた銀合、金合、金製の仏坐像と金製の仏立像、金銅

高杯と銀製高杯、緑色硝子片と硝子玉などは王室から発願した

厳経普賢行願品」だ。安賽罕は発願文で父母の恩恵と元の皇室

を祈願している。経典の絵は中国元代に流行して高麗にも伝わ 系の人物であった後援者の立場などとも関連が深い。

仏教美術品がいかに豪華だったかを物語っている。

官僚から平民まで仏を拝む

部:国王と貴族、経典を刊行する」は高麗の王室、貴族、中央

内にいろいろな物品を入れる腹蔵儀式が登場しはじめ、それに

高麗時代(918-1392 )になると個人的な祈願がはじまる。「1

官僚のような最高権力者たちの後援が集中した経典関連の仏事

1

44 KoreaNa 秋号 2015

「2部:官僚から卑民まで、仏を拝む」では、 13 世紀から仏像

連れて後援者の数も増えて階層も拡大していった。腹蔵とは仏


今日に伝わる数多くの寺刹の仏教美術品は国家の平和と 安寧、あるいは自分の父母や家族の極楽往生を願う誰か の強い祈りが込められて製作されたものだ。それと同時に 仏事に参加するということは、悟りを得ようと努力する者 たちにとって限りない功徳を積むためのものでもあった。 困難が降りかかれば互いに力を合わせてこれを克服してい く韓国人の共同体意識は功徳を積んで他人を助けようとい う利他主義的な仏教信仰と結合し、素晴らしい仏教美術品 を生みだした。 2

像の中に発願文、舎利、経典、織物、穀物など、多様な物品を入

れることで仏像が単なる金属や木材で作られた彫刻ではなく�仏� そ

れ自体だという認識を示している。13 世紀の「木造観音菩薩坐像」

(国立中央博物館所蔵)は計 15 個の木材をつないで作られた優雅で

自然体な仏像だ。目には水晶をはめ込み、仏像の中には木で作っ

た瓶、穀物、鉱物、織物などが奉安されている。1333 年に作られ た「金銅阿弥陀三尊仏」は菩薩像の底に張鉉とその妻の宣氏が主要

後援主だと記録されている。また腹蔵を作る際の発願文には中央の

高位官僚から平民以下の卑民にいたるまで数百人の名前が書き込ま れており、文字を書ける人は直接署名を残し、そうでない人々は誰

かが代わりに名前を書いた。仏像は少数の人が後援し造成されたの

に対し、腹蔵物は身分の上下を問わず多くの人々が供養し完成させ

たことが分かる。

「3部:地域社会の信徒たち、音と香を捧げる」は、読経の時間を

知らせる鐘、供養の時間を知らせる鉄鼓、儀式に必要な香椀と燭台

など寺刹で日常的に使用される仏教関連の工芸品の後援者に関する

内容だ。ここでは特に地方で影響力の大きかった郷吏の後援による

ものが目に付くが、「大恵院銘銅鐘」 (宝物 1781 号)や、「青銅銀入 絲香椀」 (国宝 214 号)に見られるように地方の行政官の役割が浮上

したことが分かる。地域社会の仏教信仰共同体である香徒もまた仏 教工芸品の主要後援者であったが、構成員の階層、職位、経済力

1 高麗時代に安賽罕が 1334 年に発願した「大方廣仏華厳経普賢行願品」 (宝物第 752 号) は紙に金で文章を書き絵を描いたものだ。2巻の折帖本でとじた時の大きさは 34.0 × 11.5cm、湖林博物館の所蔵 2 慶尚南道固城玉泉寺所蔵の「壬子銘飯子」 (宝物 495 号)は直径 55c m、幅 14c m の青 銅鼓だ。高麗時代の 1252 年に、中央の高位官僚たちの後援で製作された。

韓国の文�と芸� 45


1 1 朝鮮時代の 1622 年に仁穆大妃が発願した「金光明最勝王経」は絹地表紙に刺繍を施して大妃が自ら親筆で経典を写経したものだ。 10 巻の折帖本でとじた時の大きさが 34.6 × 12.0cm 。京畿道の有形文化財 34 号。東国大学博物館の所蔵 2 京畿道南揚州の水鍾寺の八角五層石塔から造成の発願文と共に出土した金銅仏龕と三尊仏(宝物 1788 号)は、朝鮮時代の 1493 年に太宗の後宮であった明嬪金氏が発願して作られたものだ。仏龕の高さは 21cm 3 慶尚北道義城郡大谷寺の「甘露図」は、 1764 年に寺を財政的に支援していた寺刹契の後援で製作された。画面の真ん中には大 きな祭壇があり、その下には儀式を行う法師と土下座した悪鬼、そして儀式に参加する王、王妃、文武百官、信徒たちの姿が描 かれている。絹に彩色、大きさは 211.5 × 277cm

2

に伴い仏 教 工 芸 品の水 準や規 模も

異なっていた。中央の高位官僚の集

の塔から出土した金銅仏龕と三尊仏が

まりで後援し製作した宝物 495 号慶

あ る。 光 海 君( 在 位 期 間 1608-

1623 )の即位で実家の家族と息子の永

尚南道固城玉泉寺所蔵の飯子は、開

昌大君を失った仁穆大妃が 1622 年に発

城 の 名 匠・韓 仲 叙 が 製 作 に 参 加し、

願した「金光明最勝王経」は、表紙に刺

その大きさや精巧さからも後継者の

繍を施し大妃自ら親筆で経典を写経した

経済力がうかがえる。反面、下級官

僚や武官、女性や地方の香徒で構成され

た場合は規模や繊細さにおいてそれに及ばない 。

王室の女性が後援の主体となる

して建てられた京畿道南揚州の水鐘寺

ものだ。自身と娘の貞明公主が西宮に幽閉

されている時に発願し、幼くして非業な死を遂げた息子の

極楽往生を願う母の思いが込められている。京畿道揚州檜厳寺

の「薬師三尊図」は仏教を中興させようと努めた文定王后が発願

「4部:王室の女性、発願の主体となる」は、仏教を抑制し儒

した絵だ。文定王后は明宗(在位期間 1545-1567 )の母として

建国以後も相当な期間にわたり活発に行われた王室の女性たち

寺に 400 点の仏画を製作させたが「薬師三尊図」はその中の1点

教を尊ぶ朝鮮時代( 1392-1910 )の政策にもかかわらず、王朝

の仏事を紹介している。代表的な事例として、明嬪金氏が発願 46 KoreaNa 秋号 2015

孫の世子の冥福を祈り、王の長寿と王子の誕生を祈願し、檜厳 だ。


3

僧侶と民衆が仏教復興の中心に立つ

の下には儀式を行う法師と土下座した悪鬼、そして儀式に参加

「5部:僧侶と民衆、仏教復興の中心に立つ」は、僧侶と一般

する王、王妃、文武百官、信徒たちの姿が描かれている。下段

には壬辰倭乱(文禄・慶長の役、 1592-1598 )と丙子胡乱(清国

良人たちの後援によって製作された仏画の中に彼らの姿が投影

民衆が中心となった朝鮮後期の仏事を展示している。朝鮮時代

には死の場面と民衆の生活が風俗画のように描かれているが、

による侵略、 1636 )の2度の大きな戦乱が終わると、多くの寺

されている点が興味深い。

躍により、戦後に僧侶の社会的地位が向上し、僧侶が主導し民

あるいは自分の父母や家族の極楽往生を願う誰かの強い祈りが

山会場図」は 1777 年に製作されたもので、霊鷲山で説法をする

いうことは、悟りを得ようと努力する者たちにとって限りない功

とが確認できる。

せてこれを克服していく韓国人の共同体意識は功徳を積んで他

盛行し甘露図のような仏画も製作された。慶尚北道義城郡大谷

い仏教美術品を生みだした。

院が再建された。国が危機に陥った時に勇敢に戦った僧軍の活 衆が後援する仏事の形が普遍化した。大邱近郊の龍淵寺の「霊

釈迦牟尼仏の姿を描いた画記を通じて多くの僧侶が参与したこ またこの時期には亡くなった人の極楽往生を祈願する儀式が

寺の「甘露図」は 1764 年に寺札を財政的に支援していた寺刹契

今日に伝わる数多くの寺刹の仏教美術品は国家の平和と安寧、

込められて製作されたものだ。それと同時に仏事に参加すると 徳を積むためのものでもあった。困難にあえば互いに力を合わ 人を助けようという利他主義的な仏教信仰と結合し、素晴らし

の後援で製作された。画面の真ん中には大きな祭壇があり、そ 韓国の文�と芸� 47


韓国大好き

韓国文化の 味に魅せられた 村岡ゆかり ダルシ・パケット

Darcy Paquet、フリーランス

安洪范 写真

村岡ゆかりさんは韓国の味がわか

る。日本人としては初めて韓国伝 統酒ソムリエになった彼女は、マ ッコリ、焼酎、薬酒、果実酒など 数多くの韓国伝統酒を学習し、味 わい、楽しんできた。飲食と酒に 対する情熱と文化交流に対する強

い信念に支えられて、韓国内外の 人々と共に新しい感覚の世界へ導 くために取り組んでいる。

酒を飲むと人との距離感は埋ま

らで黙って見守るだけでそのコツは私自

近づけることができるのではない

長するにつれて村岡さんの高級料理に対

りやすい。だとすれ ば両文化も

ら見つけるようにしてくれたのです」。成

か。村岡ゆかりさんはそれができると信

する情熱も育っていった。

の 村 岡 さん は 2010 年 にソウル に 来 た。

た。「 私が育った神戸は水が清く美味し

好家であり、韓国と日本の両国で活動し

水 )という名 前 が 付くくらいでしたから。

じている。日本の神戸出身の飲食研究家

彼女は酒造りで有名なところで成長し

彼女はマッコリをはじめ韓国伝統酒の愛

いことで有 名 なんです。『ミヤミ酒 』 (天

ている。1200 人の会員を擁する日本マッ

この天水で作ったお酒は日本でも最高と

2の故郷である韓国で韓国の伝統酒文化

らお酒と酒造に自ずと馴染んでいたわけ

国農林畜産食品部から表彰を受けた。

で5年 間、 木 材 輸 入 会 社で仲 介 業 務 に

コリ愛好家コミュニティー会長であり、第

されているんですよ。それで小さい頃か

に息を吹き込んだ努力が認められて、韓

です」。村岡さんは、大学卒業後カナダ 携 わった。しかし 30 歳 を機 に、 料 理 研

熱心な料理愛好家

究家になりたかった夢を追うことを決め

料理に関する村岡さんの関心は子供時

た。「あの頃、私はお酒と料理に対して

んです。そのためかもっとも古い記憶の

酒の味はその地域の料理ともっとも相性

代から始まった。「母は料理が上手だった

は 人 一 倍 関 心 がありました。 各 国 のお

中でも私は料理に興味があったんですね。

が良いということがわかりました。後で

与えながら使い方の練習をしろと言った

すが、その時教えた料理のすべてが酒の

小学校1年生のある日、母が私に包丁を んですよ。それなのに肝心の包丁テクニ

ックは教えてくれなかったんです。母は傍 48 KoreaNa 秋号 2015

日本でクッキングスクールを開いたんで

1

肴にぴったりだったんですよ」と彼女は言

う。


1 韓国伝統酒ソムリエとして村岡 ゆかりが働いているソウル仁寺 洞(インサドン)の伝統酒ギャラ リー( Sool Gallery )に各地域 の代表的な酒が展示されてい る。上から時計回りに全州(チ ョンジュ)の名酒・梨薑酒(イガ ンジュ)、忠清南道礼山(チュン チョンナムド・イェサン)のチュサ アップルワイン、安東焼酎、済 州島のコソリ酒。 2 神 戸の酒 造りのある村で幼 少 期を送った村岡さんは、韓国の お酒に対する愛 情の深さが桁 違いだ。2010 年韓国伝統酒と 料理を学ぶために韓国に来た 彼女は、 2014 年伝統酒ソムリ エ資格を獲得した。

2 韓国の文�と芸� 49


韓国伝統酒の魅力

の伝統酒歴史、酒の科学的知識と流通す

アジアを始め世界の大勢の人と同じよ

る多くのブランドについて評価する筆記試

うに、村岡さんも 2004 年日本で放映され

験を受けたあと、彼女は 2 次試験の受験

た韓国ドラマ「チャングムの誓い」にはまっ

者となった。

ある若い女官についての話だ。主人公は、

さえマッコリが伝統酒を指す名前だと勘違

ラマで特に村岡さんの興味を引いたのは、

清酒(チョンジュ)、焼酎、マッコリ、果実

た。この時代劇は、宮廷料理人になった

「外国人はおろか、多くの韓国人たちで

後に王を治療する最初の女医になる。ド

いします。ところで、韓国伝統酒は薬酒の

料理と医学との関連性だった。

酒の4種 類があります」と彼 女 は 説 明す

「韓国には『薬食同源』 『医食同源』とい

る。「試験はすべての伝統酒を網羅して取

う言葉があります。バランスの取れた料理

り扱っているし、ブラインドテストとストリ

とお酒は薬になりうるし、病気を予防して

ーテーリングまで含まれます。審査委員た

くれるという意味ですね。この概念は韓国

ちに酒の歴史と背景を説明しなければな

料理だけではなくて、伝統酒にも反映さ れています。何よりも印象深かったのは韓

国伝統酒の作り方が健康に良い食材に焦

点を当てているということだったんです」。

らないんですね」。

韓国人と外国人を別々に分けて行われ

1

日本で幅広く人気を集めるようになり始め

1 もち米、麦、米、キビ、粟、ハトムギなど多様な穀 物が伝統酒を醸す原料に使われる。穀物を蒸し器で 蒸してご飯を炊き、麹と混ぜて発酵させる。 2 村岡さんは、一週間に2度伝統酒ギャラリーで韓国伝 統酒を知らせる仕事をしている。彼女は、韓国のお酒 は体に良い食材で作られて、健康に良いと説明する。

ったんですね。最初は輸入マッコリを飲ん

自由時間には伝統酒についての知識を積

村岡さんの韓国に対する関心が次第に

大きくなる中で、韓流の影響でマッコリが

た。「大勢の日本人がマッコリが好きにな

る 試 験 は、 準 備 不 足 の 人 に は 至 難 の

業。「試験中に緊張しすぎて時間が飛ぶよ

うに過ぎたんですよ。 」と村岡さんは振り返

った。ところが彼女は試験に無事合格し、 日本人としては初めて韓国伝統酒ソムリ

エになった。

そのような努力が功を奏して 2014 年 11

でいたけれど、韓国で味わった新鮮なマッ

んで行った。

月に村岡さんは、李桐弼(イ・ドンピル)農

んです」と彼女は説明した。

大学校近くの弘益(ホンイク)大学街に突

続いて彼女は、今年2月から仁寺洞(イン

た瞬間から絶え間なく味が変わり続けると

リの酒屋は概ね伝統的なインテリアをして

ラムとビジネスセンターの仕事を手助けし

乳酸菌の活動によって持続的に発酵が起

タイルのマッコリバーが登場し始めて、若

「 韓国人は韓国語の発音が少し下手な

から3日から5日の間がもっとも味が良い

ムがもっと長く続 け ばよかったんですが、 わることを興味深く思うんです。そうかと

コリがずっと美味しかったことがわかった

マッコリの魅力の一つは、 出来上がっ

いうことだ。マッコリに含まれる数多くの

2012 年語学コースを卒業する頃、西江

然マッコリブームが巻き起こった。「マッコ

いるんです。ですが、この頃から新しいス

林畜産食品部長官から表彰状を受賞した。 サドン)の伝統酒ギャラリーで教育プログ

ている。

者たちから高い人気を得ました。このブー

外国人から自分たちの伝統酒について教

今、若者たちは手作りビール(クラフトビ

思えば自分たちの飲酒文化について外国

からですね。ところが最近は、ますます多

コリブームは一時的なものではあったにせ

うかもしれないんですね。ですからもっと

韓国人だけではなく日本人もですね」。

しい認識を植え付けるのに役立った。

みながら言う。

韓国での新しい生活

に彼女はコンサルティング会社のグローバ

韓国伝統酒体験

タートしたが、それが彼女の主な収入源

酒 は もちろんのこと、マッコリだ けでも

やりたい仕事を追い求め続け、 2014 年に

な お 酒 は 何 かと聞くと村 岡 さん は 微 笑

こるからだ。一般的にマッコリは作られて という。「日本のマッコリア(マッコリのマ ニア)は、毎月韓国に飛んできます。近い

ール)に乗りかえったんです」。たとえマッ

くの人が日本でマッコリを作り始めました。 よ、若い消費者たちにマッコリに対する新 以後村岡さんは忙しくなった。2013 年

2010 年、 村 岡さんは 韓 国の伝 統 酒と

ル・ユー( Global U Co. ltd. )の運営をス

を決心した。言語の重要性を身にしみて

だ。しかし、彼女は多忙な中でも自分が

料理についてもっと深く学ぶため韓国行き 感じ、まず西江(ソガン)大学校の2年間

のインテンシブ韓国語講座で勉強しながら、 伝統酒ソムリエ資格試験を受けた。韓国 50 KoreaNa 秋号 2015

人より詳しくないことをやや恥ずかしく思 一所懸命学習するようです」と彼女は微笑

韓国の酒は数多くの薬酒、焼酎、果実

1000 種類を超える。そのうち、一番好き む。「よく聞かれる質問が『一番好きな韓


2

国の伝統酒は何か』ということです。正直

にとても素朴で地味なのです」。村岡さん

より味わい深くなります」。

たびに味が違ってくるものだから」。

来た直後に訪れた。あるテレビ局が開催

文化間の橋渡し

になったのだ。「 私たちのために特別な

密にしたりもする。「ある伝統酒の醸造家

そんなものはないんですよ。お酒を飲む

は、全羅北道にあるその酒造場を韓国に

お酒は時に慰めになったり、人々を親

「一番好きなのは、特定のお酒が生産

したイベントに参加するついでに行くこと

とです」と彼女は言う。「そうすれば、飲

夕食が用意されていました。そしてマッコ

が私にこう言ったんですよ。『 悲しいとき

料理と調和をなした味があまりにも印象

分かち合う友達になります。また、嬉し

されるところで郷土料理と一緒に飲むこ

はあなたのそばに静かに座って悲しみを

酒の経験を最大限に享受できます」。彼

リが出されたんですね。その味が、特に

影響を及ぼすと主張する。気分や外の天

的だったんです。本当に伝統マッコリの持

いときはあなたと共に嬉しさを分かち合

数年間村岡さんは、多くの酒造場と蒸

村岡さんの情熱は、単にお酒を愛する

女は周辺環境などが食 べ 物や飲み物に

います』と」。

気さえも。「 酒造りに用いられた水が野

ち味が最大限に引き出されたわけです」。

なる味を体験することができます」。

留所に足を運んだ。「 韓国伝統酒に限っ

ことだ けではない。「 私が若いとき文化

特別な経験を思い出した。「ソン・ミョンソ

ることがもっと大切だと思うんです。自分

んです。もちろん、韓国と日本の関係は

コリを飲んだことがあるんですね。お米と

の情熱を持って取り組む方たちが最高の

人では問題を解決できないはずです。し

菜栽培や料理に使われると、まったく異 村岡さんは強烈なインパクトを受けた

プ(宋明燮)という方が製造する伝統マッ

ては、私は技術や機械装置より心を込め たちが作るお酒の細かいところまで最大

間の架け橋の役割をすることが夢だった

いろいろと多くの問題点があり、自分一

麦を使って造りますけど、人工甘味料の

お酒を造ります。彼らがお酒と料理につ

かし、伝統酒を通して人々をお互いに近

ないんです。名前はシンプルに「ソン・ミョ

方を勧めることから感じ取ったんです。彼

何かをやっているんだなという感じがする

アスパルテームや糖分はまったく入ってい

ンソプマッコリ」です。容器もお酒のよう

いて情熱的に説明して、さまざまな飲み

づける小さな役割ができるならば、私も

らの 酒 造りの 話 を聞 いてから味 わえ ば、 でしょう」。

韓国の文�と芸� 51


オン・ザ・ロード

和順

クァク・ジェグ 郭在九、詩人

安洪范 写真

穏やかで神秘的なオーラに包まれた大地

「大地のオーラが和やかで風は至純だ」という意味を盛り込んだ和順(ファスン)は、この世に暮らす人間にはも ってこいの地だった。太古から人間を抱いているその地は、数百個のドルメンを痕跡として残しており、新しい 世の中の念願を込めて千仏千塔を築き上げた人々の切実さを秘めている。川に沿ってくねくねと広がる砂浜、 神秘的な雰囲気が立ち込めた細良池(土堰堤)。現代生活の疲れを癒してくれる母の懐が懐かしくなれば、和 順へ出かけてみよう。 52 KoreaNa 秋号 2015


ドルメンは青銅器時代の支配層の墓で、小さいものか ら、大きいもので重さが数十、数百トンに上るものまで ある。このように巨大石を採石して、運んで墓を作るた めには、大勢の労働力が必要だったはずだ。韓国には 極めて多くのドルメンが残っており、世界的に見て最も 密集した分布を示している。和順(ファスン)をはじめ、 高廠(コチャン)、江華島(カンファド)のドルメン群が 2000 年にユネスコ世界文化遺産に登録された。

韓国の文�と芸� 53


生の早瀬を渡ってみたらいくつかの飛び石に出くわす

終電車はなかなか来なかった

た。同年1月1日に 10 年間の習作期を経て、中央日

白い紫色のヒロハハツドイを映す窓ガラスごとに

はずだ。1981 年に私はその中の一つの飛び石を渡っ

報の新春文芸に当選した。新春文芸は、韓国だけに存在するユ

ニークな新人作家の登竜門で、その伝統は 1930 年代の日本植

民地時代まで遡る。韓国を強制併合した日本帝国主義は、韓国

人の母語使用を禁止するなど政治的に弾圧したが、当時韓国の

主要新聞社が先頭に立って新春文芸を作り、それに当選すれば

待合室の外には夜通し雪が積もり 鋸屑暖炉が焚かれていた (中略)

午前零時を越えると

不慣れからくる居心地悪さも悲しみもすべて雪原だが

すぐ作家や詩人として認められた。新年最初に発刊される新聞

もみじのような葉をいくつか車窓につけて

どと言える。80 年間余維持されたこの制度を今日の韓国の文学

懐かしい瞬間を思い起こしながら私は

に自分の名前が刻まれた詩や小説が発表されるのは大変光栄な 青年たちも依然として最も意味のある登竜門として受け止めて

いる。私の詩『砂平(サピョン)駅で』もそのようにして生まれた。

1

54 KoreaNa 秋号 2015

夜行列車はまたどこへ流れていくのか

一握りの涙を光の中に投げかけてやった


砂平、駅のない江村

1980 年代韓国の政治状況は窮乏を極めていた。習作期の文

学青年としての私の夢は、同時代を生きる韓国人みんなが苦痛

の時間を渡って、希望の地平にたどり着くことだった。その時、 私は南海岸のある島へ短い旅をした。帰り道、バスに乗ったが、 大勢の乗客たちの間ですぐ隣に立っている若い女性の横顔が目

に入った。彼女は静かに微笑んでいた。窓の外には小川が流れ、 平穏な砂浜が広がっており、ポプラの木が川に沿って立ち並んで

いた。二十代の私は、内気で人見知りだった。初対面の女性に 2

声をかけるなんて想像すらできないことだった。そんな私が彼女

に声をかけた。

「笑顔が美しいですね。何を見て笑ったんですか」 彼女が私に目をやった。

「あそこの川辺の砂浜で小さい頃、水遊びしながらよく遊んだ

1「 雲が止まるところ」という意 味の雲住寺(ウンジュサ)には、 9世紀統一新羅時代に道詵(ト ソン)国師が一夜で建てた千仏 先塔があったと伝わる。名前 と同じくらい神秘的な雲住寺 の谷のあちらこちらに仏塔がさ まざまな姿で位置している。 2 雲 住 寺の仏 像の大 部 分 が弥 勒 菩 薩 だ。また、 一 般 的 な 仏像とは異なり、台座、光背 のような形式を備えていない。 釈迦が救済し切れなかった衆 生を救済するという弥勒菩薩 に対する信仰は、未来に対す る希望を反映する。 3 臨對亭(イムデジョン)の園林 (庭園)は、韓国伝統庭園の 原型を示している。美しく手 入れされた森には、東屋と池 があり、その東屋に多くの文 人が訪れ詩を詠んだ。

んですよ。友達やお婆さんのことも思い出したんです」

彼女と私は終点で降りて、コーヒー一杯を一緒に飲んだ。幼

い彼女が水遊びをした故郷の地名が「砂平」ということをその時

聞いた。砂平は砂の多い平和な江村だ。私はその頃書いた詩に 砂平という印象深い地名を借用したのだ。当然この江村には鉄 道駅がない。

砂平の小さい川辺の村を歩くことから私の和順の旅は始まった。

村は依然として美しかった。立葵と月見草、鳳仙花が咲いてい

た。ある農家の縁側でお婆さんが孫娘の爪をホウセンカで染め

ている。満員バスで出会った彼女も今は耳順を優に超えただろ

う。キジュトック(米粉にマッコリを入れて膨らませた餅)を売る 餅屋の前に一群の人々が並んでいる。初めて会った彼らに「おは

ようございます!」と挨拶をしたらみんな笑顔で応じてくれる。歳

月の川の神秘さよ、 40 年間以上すっかり忘れられていた彼女の

名前がふと思い浮かんだのだ。私は彼らに彼女の家を知ってい

3

韓国の文�と芸� 55


るかと尋ねたが、実はそれは質問ではなくて歳月のため息交じ

の生き方が伺えるところだ。ここで発掘された土器の破片と種の

和順という名前は「大地のオーラが和やかで風は至純だ」とい

ていたら、ふとその文様が詩の原型ではないのか、という気がし

人にとっては、この上なく恵まれた環境の地だ。先史時代の人々

ある日は悲しくて、ある日はさびしくて、またある日はうれしかっ

りの独り言のようなものだった。

う意味を盛り込んでいる。この世で気楽に人生を生きたいと思う

年齢は 2500 年前後と記録は物語っている。櫛目文土器を眺め

た。文字が発明される前でも、 人々に心はあったはずだから。

がこのような良い地の気運に気づかずにはいられなかっただろう。 たはずだから。その感情を櫛目文に刻んだならば、それこそ今 和順の南側の山の麓に位置した宝剣峙(ポコムジェ)周囲には

私たちが言う詩のイメージになるのではないか。

て指定されたこのドルメン群は、複数のドルメンが集まっている

ドルメン群と櫛目文土器

目でわかるようなところだ。孝山里(ヒョサン二)から大薪里(テ

196 個のドルメンが集まっている。隣接する宝城(ポソン)郡の郡

596 個のドルメンが密集している。2000 年に世界文化遺産とし

上、上石の採石場が一緒に発見され、ドルメンを作る作業が一

シン二)をつなぐ5km のドルメン群落道は、世界でもっとも神秘

的で審美的なトラッキングコースの一つとして位置づけられてい

る。

官庁(カンチョン)岩と呼ばれるドルメンの周りには合わせて

守が和順を訪れてこのドルメンの上で役所の業務を行ったという 逸話がある。宝剣峙(海抜 188. 5m )の頂上に位置した月淵岩

のドルメン群落は、遥か昔の人々がこの峠を越える際に月光の

孝山里の入り口に車を停めてゆっくり歩く。近くて遠いドルメ

ように明るく峠道を照らしたという来歴がある。昔の旅人が月夜

先史時代の体験場が目に入る。このドルメンを建てた住民たち

それ自体で心の慰めとなったようだ。ピンメ岩のドルメンは、石

ンの姿が時 空を超えて過 去の空 間に入り込むような気がした。 にこの峠を越える際、 満月のように明るく輝くドルメンの姿は、 を投げかけるという意味がある。全長7 m、 高さ4m、 重さ 200トンを超えるこ

のドルメンは、世界一の規模を誇る。天 井石の裏面を磨いた跡があり、支石で支

えられている。支石と天井石の間に一定

の空間があるという。ドルメンの上に位置

した穴に左手で石を投げ込むと縁談が持 ち上がるという伝説が伝わる。

三神婆さん(サムシンハルミ:生命や生

産の女神)と呼ばれ、韓国の歴史の誕生

を司った麻姑婆さん(マゴハルミ)の家が

ここだったという伝説は、このドルメンの

規 模 がどれ だ け 大きかったかを物 語る。 計 133 個のドルメンがピンメ岩の周りに集

まっている。朝鮮王朝時代の勢力のあっ 1

た驪興・閔(ヨフン・ミン)氏家は、このド

ルメンに自分たちの祖先が埋められた地

1 砂平(サピョン)村・堂山の木陰の下の東屋で村人たち がひと夏の暑さをしのぎながら談笑しいる。 2 雲住寺の臥仏は、座仏が 12.7m、立像が 10.26m に もなる巨大な仏像だ。大きな岩に仏像を彫刻した後、 岩から仏像を取外そうとして失敗した痕跡が随所に見 られ。ここに、二つの仏様が立ち上がる日に、新しい 世界が開かれるという伝説が伝わる。

56 KoreaNa 秋号 2015


2

韓国の文�と芸� 57


だという文言を刻んだ。作業ツールもろくにない時代に、先人たちはどのよ

うな思いでこのつらく過酷な作業を全うしたのだろうか。カクシ岩の採石場 とキムテ岩を眺めながら強い感動を覚えた。

ドルメンの遺跡地から 818 番の道路を南西側に向かって 18km ほど車を

走らせると雲住寺に至る。韓国内の寺院の中でこれほど神秘なる履歴と伝

説を持つ寺も珍しい。新羅末期、道詵(トソン)国師(新羅末期の僧侶)が一

夜で千仏千塔を建てたという説と麻姑婆さんが作ったという説がある。15、

細 良 池( セリャンジ)は、 山 桜 の 咲く春 の 風 景 が 特 に 美しい。 山 一 面 が パステルカラーに染まっ た姿が水面に映って美し い絶景を作り出す。最近 アメリカの C n n が選 定 した「韓国で必見の美し い 50 ヶ所」に含まれた。

6 世紀までは、この寺に千個の仏塔と千個の仏像が存在したという記録があ

るが、 1942 年には石塔 30 基と石仏 213 座が残っていたという。現在は 17 基の石塔の石仏 70 座が残っている。寺の入り口に入った瞬間から縁起の良

いオーラに包まれる。小説家・黄晳暎(ファン・ソクヨン、 1934 ~)と宋基淑

(ソン・ギスク、 1935 ~)は雲住寺をそれぞれの小説の背景にしたが、雲住

寺 を 世 の 中 に 広く知 ら せ た 人 物 は ド イ ツ 人 の ヨ ア ヒ ム・ヘ ル マ ン

( J o c h e n H i l t m a n n )だ。ハンブルク国立音楽大学教授だった彼は、自分

の父親を看護していた韓国人の看護士の献身的な看護に心を打たれて彼女

と結婚した。ソン・ヒョンスクという名前の看護士は、ハンブルク国立美術大 学を卒業して画家として大成し、帰国展示会も成功裏に終わった。

1980 年代半ば頃、ソン・ヒョンスクの故郷である潭陽(タムヤン)でヘルマ

ンに会った。潭陽の山の中にある妻の実家で長身の彼が土壁に作られたと ても小さな竹のドアを開けて、前かがみになり出てくる姿がかなり印象深か

った。彼は雲住寺が放つ「汎宇宙エネルギー」に魅せられ、3年間雲住寺の 昔の姿を写真に収めた。さらに、そこの伝説と説話を理解するため、仏教

と道 学、 風 水まで勉 強するに至った。1985 年 彼 はドイツ雑 誌『スプレン

( Spuren )』に「 Miruk, Die HeiligenSteine Koreas: 英文 Miruk, The

H o l y S t o n e s o f K o r e a 」というタイトルで初めて雲住寺を紹介し、 1987

年同じタイトルでフランクフルトのクムラン( Q u m r a n )出版社から発刊した。

この本は 1997 年学古斎(ハクコジェ:韓国の美術文化財専門出版社)から韓

国語翻訳版が出版され知識人の間で韓国文化の歴史に対する深い反省を呼 び起こした。雲住寺は私たちにとって何なのか、そのあり方を探し求める真

剣な議論も行われた。彼は『 Miruk 』で「雲住寺が位置する千佛洞(チョンブ

ルドン)は私を感動させる。どんな現代芸術作品もそれほど私を感動させた ものはない」と綴っている。

山桜が咲き乱れる春の「日の出」直前に細良池を訪れると絶景を満喫できる。湖の上に水霧が出て、 山桜の影がかかる地上は、もう一つの龍華浄土となる。ドルメンの中に横たわる人々が夢見た世 界、雲住寺(ウンズサ)に千仏千塔を築いた人たちが長年夢見た世界に、しばしここで出会うこと ができる。 58 KoreaNa 秋号 2015


雲住寺、千仏千塔の伝説を宿す谷

雲住寺の境内でもっとも目を引いたのは、互いに背を合わせ

に臥仏に着いた時、李璟子氏が「ああ、居心地いいな」と言って、

その溝に仰向けになったことが思い出された。太古から人々は、

たまま仏龕の中に座っている仏様の姿と円盤模様の石で築かれ

この臥仏が立ち上がる日には真の仏国土の国、龍華浄土に往生

徴しているのか、と考えたりする。先を見据えて先へ進む者は悟

時に、怨恨を詩の力に昇華させた感動がある」と美しく記述した。

た7階建ての石塔だろう。私はこの背面仏を見るたびに、何を象

りを開き、釈迦になれるだろう。円盤模様の石で築かれた塔は

すると信じた。ヘルマンはこれを「敵対勢力と闘争し続けると同

私たち皆が、新しい世界を夢見て生きる限り、雲住寺の臥仏の

由来がないため、宇宙人の作品だという説まである。シャーマ

イメージは私たちにとっていつまでも現在進行形だ。

ピレーションが読み取れる痕跡ではないだろうか。

1905 ~ 1982 )画伯の記念館がある。吳之湖の絵の中で私は少

ニズムと仏教が相接する接点をヒントにした石工の芸術的インス

和 順 には、 韓 国 の 印 象 派 画 家 の 先 駆 者・吳 之 湖( オ・ジホ、

臥仏は雲住寺のシンボルだ。第一の釈迦といわれるこの仏様

女像( 1929 )が好きだが、この作品の少女を見つめていると、祖

は長い溝がえぐられているが、この溝は男女の生殖器模様にそ

この少女に似ていたのだろう。千仏洞を訪れた先人たちの中にも

は、男女の姿で横たわっている。両仏像の頭が相接する地点に

母の顔を思い起こす。ドルメンに埋葬さられたある女性の頭像も、

れぞれ似ている。かなり以前に小説家の朴婉緖(パク・ワンソ、 これと似た顔が多かったことだろう。

1931 ~ 2011 )、李璟子(イ・キョンジャ、 1948 ~)の両氏ととも

韓国の文�と芸� 59


遠くの目

若者が開く日韓の これからの50年のために いまや日韓の間では 1 年間に 500 万人の人々が往来する時代だ。日韓が国交正常化 を果たした 1965 年当時は 1 年間の移動人口が 1 万人規模であったことを考えれば、 実に 500 倍という変化だ。 山崎宏樹

やまさき・ひろき、国際交流基金ソウル日本文化センター 所長

ウルでの勤務は今回が二度目だ。前回は 2007 年から約 6 年間勤務して、今回は 2014 年 10 月

からの勤務となるので、通算で 7 年以上をソウルで過ごしたことになる。故郷の神戸を除けば、

ソウルは私が最も長く暮らした街だと言える。まさに第二の故郷だ。今回ソウルで暮らしてみて

感じることは、前回に比べて韓国の日本への関心の割合が低下しているということだ。世界全体のグ

ローバル化が進んでいることから、日本にとっても韓国にとってもお互いの関心の比重が相対的に下が

ることは当たり前と言えば当たり前の話で、そのことを強いて取り上げる必要はないのかもしれない。

しかし、日韓両国の文化交流の促進を使命とするソウル日本文化センターをとりまく状況が変わってい るなかで、日韓国交正常化 50 周年の節目の年に我々に何ができるのかあらためて考えてみたい。

節目の年とはいえ、メディアを通して見る現在の日韓関係は、改善の兆しはあるものの、良好とは

言えない。ただ、メディアのなかで特に韓国の新聞記事の日本語版を読む際には注意が必要であるこ

とを指摘しておきたい。これだけインターネットが発達して日本語で韓国の新聞記事が読めるようにな

ると、韓国に関心のある日本人はどうしてもそちらの記事に目が行ってしまう。しかしよく考えてみれ

ば、韓国の新聞はあくまで韓国の国内向けに記事を書いているのであり、新聞各社は「日本」と比較す

ることで韓国の人々に対し「もっとがんばろう」という意味の啓発を行っている場合が少なくない。韓国 の新聞は日本人向けに書かれているわけではないにもかかわらず、日本語に翻訳されて日本人が読

むことにより、韓国人向けに例えとして書かれている「日本」の記事が日本人には不快に思えてしまう

のだ。このことが日韓関係悪化の一因になってはいないだろうか。さらに、ごく一部の反日的な事件

であっても、メディアではそれだけが大きく取り扱われてしまうこともある。

ソウルで長年暮らしていて、私自身が韓国人から反日的な態度をとられたことは一度もない。むし

ろ政治的な軋轢を迷惑に感じている人が多いくらいだ。ただ、日本に好意的な韓国人であっても公の

場では日本を批判する場合が少なくない。韓国人も日本人と同様、本音と建て前を使い分けていると 思うのだが、こういったことはメディアでは報道されない。だからこそ、日本人、韓国人それぞれが

直接相手の国に行って互いの文化を肌で感じることが重要となってくる。いまや日韓の間では 1 年間に

500 万人の人々が往来する時代だ。日韓が国交正常化を果たした 1965 年当時は 1 年間の移動人口が

1 万人規模であったことを考えれば、実に 500 倍という変化だ。日韓の間では文化交流・民間交流が

着実に拡大しており、現在は多様なチャンネルが存在しているとも言えそうだが、両国の人口を考え

れば人々の往来にはまだまだ伸び代がある。国際交流基金は日本と世界各国との文化交流を推進し、

60 KoreaNa 秋号 2015


日本の友人を増やすことを目指しているが、そのためにはまず、日韓の間においても両国の人々がお 互いの文化に直接触れる機会をもっと増やしていかなければならない。

その意味で、国際交流基金では今年、50 周年を記念した事業をいくつか実施している。例えば、日

本の国立新美術館と韓国の国立現代美術館が共催し、国際交流基金と韓国国際交流財団が協力す

る「アーティスト・ファイル 2015 隣の部屋⸺日本と韓国の作家たち」展は、日本( 7 月 29 日~ 10 月 12 日)と韓国( 11 月 10 日~ 2 月 14 日)で開催される大型の展覧会で、日韓の新進気鋭のアーティスト各 6

名が参加している。また、韓国でも人気のある作家・村上春樹を特集する事業も実施する。蜷川幸雄 演出による舞台『海辺のカフカ』を l G アートセンターで 11 月 24 日から 28 日まで上演するとともに、11

月 17 日と18 日には「村上春樹の世界―クラシック音楽、ジャズ、そしてビートルズ」を新村にあるクム

ホアートホール延世で開催する。若者の町・新村には、ソウル日本文化センターが運営する文化情報室

もあり、日本関連図書や DvD などを日韓両言語で紹介しているので、多くの方々に訪れてもらいたい。 ソウル日本文化センターは 50 周年を契機に人材育成の面からの若者支援を強化することも考えてい

る。日韓両国がお互いの関心の比重を下げたとしても、日本と韓国はアジアを代表する国々であり、 両国が将来にわたってよりよい協力関係を築くことが世界的に見て重要であることに変わりはない。そ

して両国が将来にわたる協力関係を築くためには若者の力が必要だ。若手日本研究者の訪日支援や

若手文化人対話事業など、若者を対象に幅広い分野でネットワークやパートナーシップが構築される

よう支援することで、日韓の間の相互理解と協力関係が進み、両国の間に横たわる問題が相対的に 小さくなっていくことを願っている。日韓国交正常化 50 周年のキャッチフレーズは「共に開こう 新たな 未来を」だ。新たな未来を切り開く若者たちのために我々は彼らが歩むべき道筋をつける努力をしな

ければならない。そして、若者たちならばきっと、我々の期待をはるかに超える新たな未来をつくりあ げてくれるに違いない。

1

2

3

1『海辺のカフカ』韓国公演ポスター 2 ソウル日本文化センター文化情報室 3「アーティスト・ファイル 2015 隣の部屋⸺日本と韓国の作家たち」日本展ポスター

韓国の文�と芸� 61


グルメを楽しむ

秋を代表する魚のチョノ(コノシロ)はそ のまま網で焼いて食べるのが一番美味 しい。朝晩、冷たい秋風が吹き始める 頃になるとチョノも脂がのり、さらに香 ばしくなる。

パク・チャニル

朴賛逸、料理研究家、フードコラムニスト

チョノ 稲穂が色づくと旬到来 安洪范 写真

62 KoreaNa 秋号 2015


になると韓国ではとある魚に対するラブコールが始まる。マスコミで先を競うように季節の珍味と

してこの魚を紹介し、人々の食欲を刺激する。それがチョノ、日本名コノシロだ。一年中、いろい ろな魚を味わうことのできる韓国でこれほど一つの魚に熱狂するのも珍しいことだ。韓国人は昔

から全国どこでもイシモチ、サバ、サンマ、ニシン、メンタイ、イカのような魚を食してきた。しかしコノシ ロはこれまで広範囲で愛されてきた魚というわけではなかった。よって昨今のコノシロ人気はマスコミの報

道が大きな影響を与えたものだと思われる。毎年、秋になると南海岸と西海岸の各地で開かれるコノシロ 祭りのニュースが相次いで報道され、それが旅行客の足を向かせているのだ。

秋の代表的な魚となるまで、その人気の秘密

韓国は四面が海に囲まれた半島だが、以前は海辺の産地以外の内陸部の大都市では旬の魚を食べるこ

とは難しかった。たとえばタラやニベは夏が旬の魚として知られているが、ソウルをはじめとする内陸部で はそれほど広く人気はなかった。反面、コノシロは秋の魚にもかかわらず大都市はもちろん全国的にその

人気が広がった数少ないケースに属する。何よりもコノシロは値段が安く、調理も簡単だ。刺身にすれば 刺身好きの韓国人の好みにピッタリだし、焼き物にすれば香ばしく脂ののった深い味が楽しめる。それに最 近のマスコミの集中的な報道も一役買ったといえる。

コノシロはだいたい大人の手の平よりは小さいが、時にはそれよりもさらに小さかったり、あるいは大き

かったりする。秋の初めからくたくさん捕れるが、稲が黄金色に色づき頭を垂れる頃がコノシロの旬だ。コ

ノシロは敏感な性質で捕まるとすぐに死んでしまうので、一昔前の都市では刺身で食べることが難しかった。

しかし今日では生きたまま輸送する技術が発達し、また 2000 年代の初め養殖に成功したことで物流が大き

く改善され、現在では大都市でもコノシロの刺身を食べることができるようになった。子供の頃にコノシロ を食べて育った南の海岸都市出身の人々が、故郷を離れて都会にでてもコノシロを食べようとしたのだ。

コノシロは増え続ける消費量に対応するために養殖が増えている。天然物はほとんど 15c m 前後で色も

黄金色を帯びているのに比べて養殖のコノシロはサイズが少し小さく、背中の青い色が濃い。しかし味は天

然物も養殖も区別がつかないほどだ。コノシロは澄んだ水よりも砂がたくさん混じった暗い海を好む。最近

では水温の変化により東海岸でも捕れるが、やはり西海岸から南海岸へと続く海で多く捕れ、この地域では 養殖も盛んだ。

コノシロはだいたい秋が旬だというが、夏の終わり頃から市中に出始め 10 月末まで供給が続く。11 月に

入ると小骨が多くなり、コノシロの人気も落ちる。産地別に旬も異なり、慶南産は8月中旬から9月初旬ま

で刺身がお勧めだ。西海岸産は秋の最盛期 10 月に焼き魚にして食べるのが一番だ。

香ばしく脂ののった味が一品のチョノ(コノシロ)は刺身にしたり、焼いて食べたりいろい ろな調理方法が楽しめる魚だ。朝鮮時代の実学者ソ・ユグ(徐有榘、1764-1845 )によ

れば、身分に関係なく万人に好まれ、値段を問わずに買いあさったのでチョノ(銭魚)と 呼ばれたという。捕まえるとすぐに死んでしまう性質で全国的な流通が難しかったコノシ ロだが、輸送手段と養殖技術の発達により今では秋の魚として多くの韓国人の舌を虜に している。 韓国の文�と芸� 63


代表的な調理法

夏の終わりから秋の初めに出回るコノシロは刺身で食べるのが一番だ。水がまだぬるく身にあまり脂が

のっていないからだ。この時期のコノシロは味がさっぱりしていて骨が柔らかく、背ごしにし刺身で食べるの

が良い。別名「セコシ」とも呼ばれるコノシロの刺身は唐辛子味噌をつけてゴマの葉、青唐辛子、ニンニク

などと一緒に食べたり、いろいろな野菜と酢味噌和えにして食べる。全羅地方ではこれにゴマをたっぷりと

かけてより香ばしい味を出す。秋が深まるとコノシロは体が大きくなり骨も固くなるので骨付きで食べるのに は適さない。朝夕、冷たい北風が吹き始めると、焼き魚にするのにちょうど良いコノシロがたくさん市場に 出回る。

コノシロの脂はほとんどが不飽和脂肪酸で成人病を予防するEPAなどの成分を大量に含んでいる。秋に

なると脂肪酸の含量が3倍くらいまで高くなるが、これが香ばしい味の秘密だ。特に秋に焼いて食べるのに

良いコノシロをトックチョノと呼ぶ。主に釜山と鎮海の沖で捕れるトックチョノは普通のコノシロよりも大きく 顔が丸くて平たい。

「コノシロの頭にはゴマが三杯」とか、「コノシロを焼いた匂いに家出した嫁も帰ってくる」など、昔から民

間に伝わる諺はコノシロの味をより魅力的に感じさせてくれる。また「コノシロは嫁が実家に帰ったときに密

かに焼いて食べる」という話もコノシロが大衆に広く愛されてきた庶民的な魚であることを意味している。嗅

覚を刺激するという意味のこのような諺はコノシロの味をより立体的に記憶させてくれる。特に炭火の上で 網にのせて団扇で煽りながら焼いた分厚いコノシロの味はいつまでも忘れられない美味しさだ。

コノシロの刺身は噛めば噛むほど香ばしく、淡白な味わいが口の中に広がる。特に秋の初めに捕まえた

小ぶりのコノシロを骨ごと切って食べると、骨が奥歯に触れてサクサクした歯ざわりが感じられ食感も良い。 南海岸の漁師たちはコノシロ漁に出かけてお腹が空いてくると「トンマリ(まるごと)」と言って小さな

コノシロの内臓を取り除き丸ごと唐辛子味噌をつけて、あるいはキムチに包んで食べる。生で 食べるコノシロは味覚だけでなく歯ざわりも重要だ。

コノシロを十分に楽しむもう一つの調理法は塩辛にすることだ。コノシロの

内臓を塩に漬けた塩辛は全羅道地方の料理の濃い味付けの決め手となるも

のだ。実学者の徐有榘はその農村経済政策書である『林園経済志』で もコノシロについて言及しているが、商人がコノシロを塩に 漬けてソウルに持って行き売っているとある。脂

ののったコノシロは 非 常に良い塩 辛の材 料 だ。

ソウルでも風味豊かなコノシロの 塩辛を楽しみたいものだ。

1

夏の終わりから秋の初めに市場に出回るコノシロは刺身で食べるのが一番だ。水がまだぬるく、ま だまだ身に十分な脂肪がのっていないからだ。この時期のコノシロは味が淡白で骨が柔らかいので 骨ごと背ごしにし刺身で食べると良い。…朝晩、つめたい秋風が吹き始めるころになると焼き魚に するのに格好なコノシロが出回り始める。 64 KoreaNa 秋号 2015


1 魚を三枚おろしにして刺身にするが、 しかしチョノは骨付きのまま刺身にし て食べる唯一の魚だ。初秋のチョノ は骨が柔らかく淡白なので、背ごしに して、酢コチュジャンにつけて食べる。 2 チョノを食べる方法はいろいろとある が酢であえて食べるのも人気だ。新 鮮なチョノを食べやすい大きさに切っ て、そこにゴマの葉のような野菜と酢 コチュジャンを入れて甘酸っぱく合え て食べる。チョノの淡白さと各種野菜 の香りが合わさったその味は一品だ。

2

韓国の文�と芸� 65


ライフスタイル

コーヒーの 虜になった韓国人

韓国では朝起き抜けにコーヒーを飲む人が多い。モーニングコーヒーの 習慣が身についてしまった人たち。出勤時にテイクアウトコーヒーを片

手に出社し、食後、カフェに立ち寄ったり、インスタントコーヒーを飲ん だりする人たちも多い。けだるい昼下がりの 3 ~ 4 時ごろになると、職 場や家庭でもコーヒータイムを楽しむ。友達に会ったときもコーヒーを 飲み、恋人たちのデートもカフェから始まる。 キム・ヨンソプ

金龍燮、鋭い想像力研究所長

安洪范 写真

66 KoreaNa 秋号 2015


病管理本部の「 2013 年国民健康栄養

茶店」は日本式表記を使ったタバンの元祖だ。当

で一番多く摂取する食品はコーヒーだ

ムに乗って多くの日本人が来ていて、そこにタバ

調査 」によると、韓国の成人が週単位

った。ご飯は一週間に7回、白菜キムチは一週間

に 11.8 回食べているのに対して、コーヒーは一

時、南大門には京義線(キョンイソン)の建設ブー

ンができたものと思われる。韓国人が開店した最

初のタバンは、 1927 年映画監督の李慶孫(イ・キ

週間になんと12.3 回も飲んでいることがわかった。 ョンソン、 1905 ~ 1977 )が鍾路区・寛勳洞に構 主食のご飯よりも、韓国を代表する伝統食品のキ

えた「カカドュ」だ。韓国でコーヒーが大衆的に広

うわけだ。統計上で、韓国人にとって主な食文化

ンドン)と 忠武路(チュンムロ)、鍾路(チョンノ)

ーと言っても過言ではない。私たちはいつの間に

格的にコーヒーを消費し始めた。

ムチよりも、コーヒーが多く消費されているとい といえば、最早キムチでもご飯でもなく、コーヒ

このようにコーヒーにはまったのだろうか。

韓国のコーヒー史

がったのは 1920 年代以降だ。当時、明洞(ミョ

あたりにコーヒー販売店が続々とでき、人々が本

1920 ~ 30 年代になると、知識人や芸術家た

ちがタバンを開店した。タバンは新しい文化を受 け入れて人々の交流の場となった。小説家・李箱

韓国に初めてコーヒーが伝わったのは 1890 年

(イ・サン、 1910 ~ 1937 )は、芸者の錦紅(クム

るいは「カベ(咖啡)」と呼ばれ、西洋から入った

入口に「チェビ(ツバメ)」というタバンをオープン

前後とされている。そのころコーヒーは「カビ」あ

ホン)と1933 年鍾路1街清進洞(チョンジンドン)

湯薬のように苦い味の飲料、 「洋湯グク (スープ)」

した。 劇 作 家 の 柳 致 眞( ユ・チ ジン、 1905 ~

好品だった。高宗(コジョン、 1863 ~ 1907 )が

画俳優の卜惠淑(ポク・ヘスク、 1904 ~ 1982 )

とも呼 ばれた。初めコーヒーは王室で楽しむ嗜

1896 年、露館播遷( 1896 年 2 月 11 日~ 1897 年

1974 )は小公洞(ソゴンドン)に「プラタナ」を、映

は仁寺洞(インサドン)で「ヴィーナス」というタバ

2月 20 日、高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝

ンをそれぞれ営んだ。王室の嗜好品として、知識

コーヒーを初めて味わったという記録がある。韓

ヒーは上から下へ、贅沢品から大衆化に根を下

ランス 系ドイツ 人、 アントワネット・ソンタグ

も馬鹿にならないほど高かった。依然として韓国

の執政をとったことをいう)後、ロシア公使館で 国初のバリスタは高宗にコーヒーを淹れていたフ

( Antoinette、 Sontag )と推定される。駐韓ロ

人や芸術家たちの文化として受け入れられたコー

ろした文化だ。したがって、初期のころには値段 では、会社や家に客が訪ねてくるとコーヒーでも

シア公使のカール・ ヴェーバー( Karl I. Weber)

てなすことがマナーとなっている。

信任と後援を得て 1902 年に西洋式ソンタグホテ

あなたの好みのコーヒーはどんなタイプ?

の親戚で、ソウルに住んでいたソンタグは高宗の ルをオープンした。

韓国のコーヒー文化は 1960 年代のタバンコー

ソンタグホテルは当時、外交中心街の貞洞(チ

ヒー、 1970 年代のインスタントコーヒー、 1980

舞台となった。このような理由からホテルではコ

2000 年代はコーヒー専門店がリードした。また

後、梨花学堂(梨花女子大学校の前身)の寮とし

マシン、カプセルコーヒーマシンなどの使用が増

花女子高 100 周年記念館には今もカフェが一つ

しいコーヒーを飲むために、家庭で自らコーヒー

110 年 前にこの席でコーヒーを飲んだであろう

ーヒー豆を挽いて飲む人たちもいる。高価なエス

ョンドン)に位置していたため、政治と外交の表

ーヒーが提供されていた。ソンタグホテルはその て使われだが撤去された。そこから最も近い梨

年 代 ス ティッ ク コ ー ヒ ー、 1980 年 代 カ フェ、

2000 年代以降はドリップコーヒー、エスプレッソ

加し、コーヒー消費が一層多様化した。よりおい

ある。私はよくそこに足を運んでコーヒーを飲む。 豆を焙煎したり、自家焙煎コーヒー豆を購入しコ 人々に思いをはせながら……。

韓国初の茶房(タバン)は、 1909 年南大門駅

(現在のソウル駅)に開店した「喫茶店」だが、 「喫

プレッソマシンを買うなど、コーヒー器具にも興

味を持つ人たちが増えたかと思えば、コーヒーに

ついて学習する人たちも増えてバリスタ資格を持

韓国の文�と芸� 67


私たちにとってコーヒーは単なる嗜好品ではなく、コーヒーを飲む場所が与える意味も大きい。 20 世紀初め、西洋文化の伝播とともにタバン(茶房:韓国の昔なじみの喫茶店)は韓国伝統のサラ ンバン( 出会い、 集いの場 )の役割を受け継いできた。休戦直後の 1953 年ソウルに 214 ヵ所、 1960 年には 1041 ヵ所のタバンがあった。コーヒーのみならず、双和湯(サンファタン : 韓国の代 表的な漢方茶)を初め、韓国伝統茶も多く売れたことからすると、人々がコーヒーという新しい飲 み物に限らず、社交や文化的な空間としてタバンを好んでいたものと思われる。 っている人も多い。しかし依然として、ミルクと

90 年代には、自販機コーヒー一杯の値段が 100

砂糖入りのスティックタイプのインスタントコーヒ

ウォンくらいだったから、一枚のコインでもコーヒ

ヒーも今なお存在し、世界的なコーヒーチェーン

以下に減ってきてはいるものの、コーヒー自販機

ーを飲む人たちも多い。紙コップ式の自販機コー も依然根強い人気がある。

現在コーヒーショップは、全国で約3万軒に上

ーを十分楽しめたわけだ。最盛期に比べて半分 は今なお私たちがコーヒーを消費する手段の一

つだ。さらに、コーヒーショップ全体の市場規模

る。コーヒーショップは魅力的な空間だ。コーヒ

よりインスタントコーヒーや缶コーヒーをはじめと

W i - F i スポットも増えてきているため、コーヒー

がはるかに大きい。

オフィスにもなってくれる。おかげさまでカフェを

でインスタントコーヒーとコンビニコーヒーの市

ーとともにスペースまで買うことができるからだ。 するコンビニコーヒーなどが占める市場規模の方 一杯の価格で何時間でも「サランバン」にもなり、

オフィス 代 わ り に 使 う、 い わ ゆ る「 コ フィス

( Coffice )族」も急増している。

コーヒーの高級化で忘れかけられたようなコー

市場調査会社の調査によると、 2012 年ベース

場 規 模 は2兆2千 億ウォン弱であるのに対して、

コーヒー専門店の市場規模は1兆 5800 億ウォン だった。これは今でも多くの人たちが日常的に安

ヒー自販機も韓国内に依然4万個程度残っている。 くて手軽に楽しめるインスタント・スティックコーヒ

1

1 ソウル弘益大学校近くのあるカフェでは直接コーヒーを焙煎する。このカフェではコーヒーを炒る際、伝統的な方法にこだわって古い 機械を使う。目で見て、香りを嗅ぎながら、自分の飲むコーヒーについてより詳しく知ってもらいたいという店主の心が込められている。 2 捨てられた靴工場の内部空間を改造して開店したカフェの2階で客がコーヒーを飲んでいる。

68 KoreaNa 秋号 2015


ーを好んでいるということをうかがわせるものだ。 1879 ~ 1910 )義士が、ハルビン駅で伊藤博文 韓国のスティックコーヒーは、海外でも品質が認 められて大きな人気を博している。

韓国人にとってコーヒーの持つ意味

韓国人が特にコーヒーにこだわるのはカフェイ

( 1841 ~ 1909 )を暗殺する直前に待機していた ところもタバンであり、韓国現代史の民主化運動

や政治的に大きな事件の場所としてもタバンがよ

く登場する。1980 ~ 90 年代、大学街にも多くの タバンがあった。仕切りの高いタバンに立ち込め

ン効果のためだという分析がある。夜勤が多く、 るタバコの煙の中で、大学生たちが政情や愛につ 寝る時間を惜しんで勉強することを美徳としてい

いて話し合った時代だった。

覚醒させるだけでなく、やる気を出させるカンフ

はない。日常の憩いと、浪漫と思索の時間を与

る韓国人にとって、コーヒーは朦朧とした意識を ル剤のような役割をしているのだ。

私たちにとってコーヒーは単なる嗜好品ではな

私たちにとってコーヒーはもはや単なる飲料で

えてくれる魅力的な必須品となった。ここ数年間

で急増した若者に人気のマカロン、チョコレート、

く、コーヒーを飲む場所が与える意味も大きい。 ケーキ、アイスクリームなど、高級スイーツ旋風

20 世紀初め、西洋文化の伝播とともにタバン(茶

も急増するコーヒーの消費に支えられたところが

ンバン(出会い、集いの場)の役割を受け継いで

だ。

房:韓国の昔なじみの喫茶店)は韓国伝統のサラ

きた。1953 年の休戦直後に 214 軒、 1960 年に

大きい。スイーツとコーヒーの相性が抜群だから 韓国人は 1 秒に 728 杯のコーヒーを飲んでいる。

は 1041 軒のタバンがあった。コーヒーのみなら

これを年間に換算すると、 229 億杯に上る。あな

茶)を初め、韓国の伝統茶も多く売れたことから

ーヒーを淹れて、コーヒーを味わい、コーヒーを

ず、双和湯(サンファタン : 韓国の代表的な漢方 すると、人々がコーヒーという新しい飲み物に限

らず、社交や文化的な空間としてタバンを好んで いたものとみられる。

文献によると、1909 年安重根(アン・ジュングン、

たがこの文章を読んでいる今も多くの韓国人がコ

前に誰かとおしゃべりをしているだろう。コーヒ

ーにはまった韓国人のコーヒートレンドは、これ

からも続くことだろう。

2

韓国の文�と芸� 69


韓国文学の旅

パン生地を捏ねる パンジュクの時間 作家評

―あなたへの和解の仕草― チャン・ドゥヨン

張斗寧、文学評論家

19

74 年 に 蔚 山 に 生 ま れ 大 田 で 育った キ ム・スム は、

四番目の小説集『ククス( 2014 )』でも平凡な日常的な暮らし

1997 年に『スローにたいして』で大田日報の新春文

の中に秘められた闇と傷を鋭利に描こうという作家の探索的な

新人賞を受賞し創作活動を開始した。彼女はデビュー初期から

の登場人物の性格および葛藤構図の中心に家族を置いている点

最初の小説集『闘犬( 2005 )』と二番目の小説集『寝台( 2007 )』

探して』 『その夜のキョンスク』)、 舅と嫁(『 誰も帰ってこない

た。作家はこれらの作品で現代社会の暴力性により苦痛を味わ

家族関係の中に現われる恨み、憎悪、不安、嫌悪、自己欺瞞

芸賞を、 1998 年には『中世の時間』で文学トンネの

視線は依然として強く維持されている。特にここでは小説の中

実験的で美学的なスタイルを試み、批評家らの注目を浴びた。 が興味深い。作家はこれらの作品で夫婦(『終電』 『ミョンダンを に収録された初期の作品は残酷さとグロテスクさに包まれてい

っている人々の不安と絶望を敏感にとらえてそれを形象化しよう

夜』)、父と息子(『くぼみ』)、姉妹(『オクチョンに行く日』)など、 などさまざまな感情をとらえている。人物関係を家族内部に限

とした。悪夢のような悲惨な現実とその現実の中で窒息していく

定したことで叙事を単純化する一方で、永遠の愛憎の対象であ

そのような理由で初期の作品は叙事的な展開よりはイメージの

に深みを与えようとした。その中でも母と娘の関係を扱った表

三番目の小説集『肝と胆( 2011 )』に収録された作品は、それ

ていくことの意味への真剣な苦悩と省察にまで踏み込んだ作品

人物たちの惨憺たる内面をえぐり出すことが主な関心事だった。 る家族間の複雑微妙な感情に焦点を合わせることで人物の内面 提示を全面におしだした叙述的な傾向が優勢だった。

以前に発表された作品に比べてより現実に密着し始めた。作家

はこの作品から私たちが 一度は会ったことがあるような人物が

題作の『ククス』は、伝統的な家父長制の社会で女性として生き だ。

『ククス』は小説の概観だけを見るならば非常に単純な作品だ。

経験する日常的な暮らしの一場面をとことん描き始めている。そ

末期ガンの宣告を受けた継母のために義娘がカルククスを作る

望が、この小説集からは現実の重く冷たい生と死の境界で感じ

女性の生きてきた人生の痕跡がパノラマのように広がっている。

れまでの作品では多少漠然とぼんやりと描かれていた不安と絶

る恐怖として具体化された。それは実験性から現実性への肯定 的な変化だったといえる。

70 KoreaNa 秋号 2015

場面が小説のすべてだ。しかしその深淵をのぞいてみると一人の 一生を影のように暮らし耐え忍んできた彼女の心の重荷と葛藤

がありありと描かれている。どうしても「オモニ(母)」と呼ぶこと


せんさく

キム・スムは闇と傷を穿 鑿する作家だ。そんなわけで彼 女の小説には不安と絶望の痕跡が頻繁に見られる。だ からといって彼女の小説が虚無と自暴自棄に陥ってしま うわけではない。デビュー初期から現在まで、作家は作 品のあちこちに事物の本質をするどく貫こうという真剣な 探索を作者ならではの証のように試みてきた。そして反

復する不安と絶望の中でも必死に追求しなければならな い人生の姿勢が何なのかを持続的に読者に問いかけて いる。

を拒む義娘の内面の心理と、継母が作ってくれた一杯のカルクク

うまずめ

石 女という宿命から抜けだそうというあがきであり、失敗が予想

スを痛切に懐かしんでいる二律背反的な心理がそこから読み取

されていたことなので尚更哀れだ。しかし「私」も絆作り作戦に

間の葛藤が凝縮して詰めこまれている小説なので、文章の一つ

ではない。「あなた」が生きてきた人生の闇と傷を理解し、それ

捏ねるパンジュクの時間は忍耐の時間だ。小麦粉を捏ねなが

捏ねるパンジュクの時間は世の中すべてが静かだ。世の中の

れる。『ククス』はこのようにカルククス一杯に人間の運命と長い

一つに集中して読まなければならない作品だ。

らその中に苦悩、恨み、嫉妬をすべて詰め込み「ぎゅっぎゅっ」と 絶え間なく捏ねていくのだ。固くもつれてほどけない感情のしこ

参加することにする。子供を産めないという共通点のせいだけ

を自分のものとして受け止める共感の過程を経たからだ。

唯一の生存者である「私」と「あなた」が対話する時間だ。たと

え 「あなた」が寝ていて「私」の話を聞いていなくても、いやもしか

りに立ち向かい闘っているような様相だ。長時間、反復している

すると「あなた」が寝ていると思ったからこそ「私」は勇気をだし

ていく。捏ねる作業が「あなた」には胸の中のしこりを揉んで解き

ではなく 「告白」だ。最も純潔で敬虔な疎通の形式である告白だ。

うちに心の中に固まり重くのしかかっていたしこりが徐々に解け

ほぐす時間だったのだ。子供を産めずに離縁され、後妻として

嫁いできた「あなた」が 29 年間、どれほど多くのパンジュクの時

て「あなた」に語っているのかもしれない。それならそれは対話

今年キム・スムは『根の話』で第 39 回李相文学賞の大賞を受賞し

た。この作品で彼女は他人の苦痛に対する共感と傷の克服方法

間を持ったのかを、「私」は考えてみる。そしてそのようなしこり

としての疎通を強調した。『ククス』も同一な主題意識を備えて

捏ねるパンジュクの時間は「絆」を作る時間でもある。友人は

緒にその痛みを共感する美徳を、そして「長い間」あなたのこと

と傷を注意深く揉んでみる。

子供が絆だという。夫と自分を繋ぐ絆だけではなくこの世の中と

いる。忍苦の歳月を送ってきた「あなた」の生き方を理解し、一

を懐かしく思っていたことを告白し、和解の手を差し差し伸べる

も繋いでくれる絆だと自慢する。それが「あなた」にとっての闇と

という感動が一杯のククスに凝縮されている。作家キム・スムは

とうとしたのは結局「子供という絆の代わりに小麦粉を捏ねて絆

あらゆる不安と絶望の中でも最後まで守るべき人生の姿勢だと

傷の根源だ。「あなた」が長い間、捏ねるパンジュクの時間をも

を作ろうとしたこと」に変わりは無い。捏ねる作業パンジュクは

人と人との間を繋ぐ運命の絆を紡ごうと強く願っており、それが 言っている。

韓国の文�と芸� 71


購読/購入ご案内

定期講読の お申し込み 講読料情報

www.koreana.or.kr の購読申請メニューに購読情報をご記入し、「送信」ボタンを押すと、お支払方法 などのインボイスをあなたの E-mail にお送り致します。 配送地域

定期講読料 (航空便送料を含む)

韓国 東アジア

1年

東南アジアなど

50,000ウォン

1年

US$45

2年

2

ヨーロッパなど 3

アフリカなど 4

2年

3年

1

25,000ウォン

3年 1年

2年

75,000ウォン

US$50 US$90

2年

US$99

US$55

3年

US$132

2年

US$108

3年

US$9

US$108

US$120

1年

6,000ウォン

US$81

3年

1年

バックナンバー* ( 1 冊當り)

US$60 US$144

* バックナンバーのご購入は、送料が別途かかります。 (配送地域区分)

1. 東アジア(日本、中国、香港、マカオ、台湾) 2. モンゴル、東南アジア(カンボジア、ラオス、ミヤンマー、タイ、ベトナム、フィリピン、マレーシア、東ティ モール、インドネシア、ブルネイ、シンガポール) 3. ヨーロッパ(ロシア、CIS を含む)、中東、北米、オセアニア、南アジア(アフガニスタン、バングラデシュ、プ ータン、インド、モルジブ、ネパール、パキスタン、スリランカ) 4. アフリカ、中南米(西インド諸島を含む)、南太平洋諸島

ウェブマガジン・ メーリングサービス

読者ご意見 84 KoreaNa 秋号 2015

koreana@kf.or.kr にウェブマガジン・メーリングサービスを申請(氏名、電子メールアドレス)していた だきますとウェブマガジンの更新時にメールでお知らせ致します。 * ウェブマガジンだけでなく、アップル i-books、グーグル books,アマゾンを利用してモバイル端末でもコリア ナ i-booksをご覧いただけます。

Koreanaは読者の皆さまの貴重なご意見を反映し、より良い雑誌を作るために最善を尽くしております。 ご意見がございましたらいつでも e-mail ( koreana@kf.or.kr ) にてご連絡ください。


韓国のイメージ

Korean Literature in Your Hands! Our new multimedia platforms bring interactive content you can watch and listen to beyond the pages of the magazine.

The New | www.list.or.kr | Mobile Application

www.list.or.kr

New_list(HD) New_list(HD)

Available on the App Store & Google Play

www.klti.or.kr / Yeongdong-daero 112-gil 32, Gangnam-gu, Seoul 135-873, Korea / TEL: +82-2-6919-7714 / info@klti.or.kr


秋号 2015

a JoUrnal of the eaSt aSia foUndation

eaSt aSia’S edUcation WorrieS: eSSaYS BY

plUS

Cheng Kai-ming, Takehiko Kariya, Yang Rui, Young Yu Yang, S. Gopinathan & Catherine Ramos, Nicola Yelland and Qian Tang

Special feature: india’s quest for fdi Three writers look at the drive for foreign investment under Narendra Modi in focus: northeast asia’s history problem Jie-Hyun Lim, Alexis Dudden and Mel Gurtov analyze the intractable issues around attempts to suppress historical truths in South Korea and Japn heiko Borchet German Security Co-operation with Asia Book reviews by Christopher Capozzola, John Delury, Taehwan Kim, Nayan Chanda and John Swenson-Wright

Breaking oUt of the rUt: engaging north korea

US$15.00 W15,000 a JoUrnal of the eaSt aSia foUndation | WWW.gloBalaSia.org | volUme 10, nUmBer 2, SUmmer 2015

Education in East Asia

統営、魅力的な南の港町

Overstrained, Outdated and in Need of Reform

統営、意外な魅力 海と島に寄り添って暮らす人々 自由を夢見た芸術家の都

Learn more and subscribe to our print or online editions at www.globalasia.org

the evolving US-Japan relationShip

J. Berkshire Miller on Abe’s recent Washington visit

統営

Education in East Asia: Overstrained, Outdated and in Need of Reform

JoongAng Ilbo Chairman Seok-Hyun Hong offers thoughts on paths to draw Pyongyang out of isolation

特集

In our latest issue:

秋号 2015 vol. 22 no. 3

We Help Asia Speak to the World and the World Speak to Asia.

韓国の文化と芸術

Latest issue, full archives and analysis on our expert blog at www.globalasia.org

vol. 22 no. 3

www.koreana.or.kr

Have you tried our digital edition yet? Read Global Asia on any device with our digital edition by Magzter. Issues are just $5.99 or $19.99 per year. Download the free Magzter app or go to www.magzter.com

ISSN 1225-4592


Turn static files into dynamic content formats.

Create a flipbook
Issuu converts static files into: digital portfolios, online yearbooks, online catalogs, digital photo albums and more. Sign up and create your flipbook.