春号 2016
韓国の文化と芸術
特集 春号 2016 vol. 23 no. 1
韓国演劇
韓国演劇 新潮流と新たな主役
舞台美術家イ・ビョンボク、韓国演劇の指標として半世紀 ソウルを代表する演劇の街、大学路
vol. 23 no. 1
ISSN 1225-4592
韓国のイメージ
マロニエ公園の 魔術 キム・ファヨン
金華榮、文学評論家、大韓民国芸術院会員
こ
こはソウル大学路の「マロニエ公園」だ。赤い帽子に赤いジャケットを 羽織った俳優が広場の真ん中で公演をしている。魔術師だろうか。彼
のまわりには見物人が一人、二人と集り始めている。路上の祭り。こ
の街では毎日、毎瞬間が祭りだ。しかしこの祭りも一皮むくと、大韓民国の 近代史の圧縮された断面が現れる。
ソウルの旧市街の北東。アルコ芸術劇場をはじめとする無数の小劇場が集
る街。地下鉄 4 号線の恵化駅を中心に南北 1.5 キロの大学路の周辺は国家が
指定した「文化地区」だ。この地域は酪山を背にして近くには昌慶宮、宗廟、 昌徳宮などの重要史跡が位置する歴史的な街だ。
「大学路」という名前は 1946 年、ここに最初に建てられた韓国初の近代的
な国立大学であるソウル大学校に由来している。私は 1961 年にこの大学の文
理大学仏文科に入学した。写真の後ろの方に見える赤い建物、アルコ劇場の 位置には古風なベージュ色のレンガ建ての建物の中に中央図書館と多くの教
授たちの研究室があった。そこで初めてカミュの『 異邦人 』を読んだものだ。
その前にはケヤキの森。ライラックの香りが漂う芝生の間の小道を歩いていく と大学の正門だった。学生たちが遠いパリを想像して「セーヌ川」と呼んでいた 小さな川の上にかかった橋を渡ると今の大学路だ。そしてその道の向かい側
には今もソウル大学校付属病院と医科大学が残っている。
1974 年の秋、私がフランス留学を追えて帰国し、最初で最後となる講義を
した講義室もここにあった。1975 年ソウル大学校はソウルの南の新キャンパ スに移り、この地域は若者と文化芸術の中心地へと変身した。
それだけではない。ソウル大学校が出来る前、ここには日本が 1924 年に
建てた京城帝国大学法文学部があった。写真の後ろに茂る二株の大きな木は
1927 年に京城帝大の日本人教授で美学者の上野直昭がフランスから持ち帰り 植えたマロニエだ。この公園の名前はそこから来たものだ。赤い帽子をかぶ
ったあの俳優はこの広場に秘められた時間と歴史の考古学的な魔術を知って いるだろうか?
編集長からの手紙
編集者からの手紙
春号は演劇『白石寓話』が表紙を飾っている。『白石寓話』は近代の民族 詩人・白石の人生を描いた演劇である。白石は1934年日本の靑山学院を卒 業し、生まれ故郷定州の自然と人間について土俗的な詩を書いている。今 日、白石は韓国で最も知られている詩人の一人であるが、南北冷戦時代に は忘れられた、いや発禁された人物であった。国が二つに分断された70 余年前、たまたま北朝鮮の定州に居残ったというだけの理由である。その 後、北朝鮮の体制にも適応できず、山奥の集団農場で生涯を終えたそう だ。『白石寓話』は、これまで現代社会のメッセージが盛り込まれた作品を 舞台化してきた劇団「演戯団コリペ」の最新作である。 読者の皆さんが春号の特集「韓国演劇-新潮流と新たな主役」をお読みに なると、韓国演劇界の現況が良くお分かりになるでしょう。韓国の演劇は 仮面劇や人形劇、そしてパンソリから派生した唱劇、今では新派劇、創作 劇へと進化し続けている。今回の特集は「舞台美術家イ・ビョンボク(李秉 福)」、「ソウルを代表する演劇の街、大学路」、劇団『演戯団コリペ』、「韓 国演劇の新たな主役」、「復活する唱劇」などを取り上げている。 その他、「ショパンコンクールで優勝したチョ・ソンジン」、「国民歌手イ ン・スニのインタビュー」、「建築空間を解釈する6人の写真家」、「パンソリ に魅せられたライオン・キャシディ」、「咸陽と山清の自然」、「視聴者の悩 み相談に乗るトークショー」、「遠くの目」、「ニンニクを使った料理物語」 などを楽しむことができる。そして1988年映画化(李長鎬監督)された短編 小説『旅人は道でも休まない』も読んでいただきたい。 日本語版編集長 金鍾徳
発行人 編集理事 編集長 編集諮問委員
柳現錫 尹錦鎭 金鍾徳 裵炳雨 那秀昊 崔寧仁 韓敬九 金華榮 金英那 高美錫 宋惠眞 宋永萬 Werner Sasse 監修者 嘉原和代 坂野慎治 翻訳者 金明順 朴美貞 クリエイティブディレクター 金三 林善根、盧倫永、朴信恵 編集 李栄馥 アートディレクター 金智賢、李成基、葉蘭敬 デザイナー 編集 金熒允編集会社 04035 韓国ソウル特別市麻浦区楊花路 7-44. 秋思軒ビル 3 階 Tel : 82-2-335-4741 Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 印刷 三星文化印刷 04796 韓国ソウル特別市城東区阿且山路 11-10. Tel : 82-2-468-0361 ~ 5
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韓国の文化と芸術 春号 2016
『白石寓話』 (李潤澤 シナリオ・演出)の演劇 ポスター。劇団「演戯団 コリペ」が2015年8月、大 田芸術の殿堂で初演し たこの演劇は、韓国が南 北に分断された時、生ま れ故郷の北朝鮮に残り、 生涯を終えた詩人白石 (1912~1996)を主人公に した楽劇である。
Published quarterly by The Korea Foundation 韓国国際交流財団 06750 韓国ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル
掲載された記事は筆者の個人的な意見であり、 『 Koreana 』 や韓国国際交流財団の公式見解ではありません。
1987 年 8 月 8 日 文 化 観 光 部 -1033 で 登 録 さ れ た 季 刊 誌 『 Koreana 』はアラビア語、インドネシア語、英語、スペイ ン語、中国語、ドイツ語、フランス語、ロシア語でも発刊 されています。
フォーカス
ショパンコンクール優勝者 チョ・ソンジンと 韓国クラシック界の未来
32
朴鎔妧
インタビュー
15
イン・スニ 「誰かに希望を与える歌手」 になりたい
26
38
38
趙誠植
アートレビュー
建築空間を解釈する 6人の写真家の視点
42 遠くの目
睦秀炫
韓国大好き
48
パンソリに 魅せられた外国人 ライオン・キャシディの「ソリ」が 文化の境界を超える ダーシー・パケット
特集
オン・ザ・ロード
韓国演劇 新潮流と新たな主役 特集 1
舞台美術家イ・ビョンボク 韓国演劇の指標として半世紀
咸陽と山青 春の山の匂い漂う ソンビの町
04
特集 2
ソウルを代表する 演劇の街、大学路
エンターテインメント
10
黄鎭美
崔允宇
特集 3
韓国で今、再びチェーホフを 見るべき理由 劇団「演戯団コリペ」
14
李昌起
特集 4
韓国演劇の新たな主役
20
金炤然
特集 5
復活する唱劇 姜溢中
26
52
料理物語
万能な香辛料野菜 ニンニク
64
金臻榮
韓国文学の旅 曺龍鎬
60
62
小嶋菜温子
分断を主題とした シュールな放浪の歌
郭在九
視聴者の悩み相談に乗る トークショー
金帥美
52
30年ぶりの韓国語 シンポジウム共催& スピーチ大会のこと
『旅人は道でも休まない』 李祭夏
68
舞台美術家イ・ビョンボク 韓国演劇の指標として半世紀 特集1 韓国演劇 - 新潮流と新たな主役
キム・スミ
金帥美、演劇評論家
安洪范 写真
イ・ビョンボク(李秉福)は、韓国演劇の舞台美学の礎を築いた先駆者だ。1969 年に演劇カフェを開き、西欧 の問題作、韓国の伝統民俗劇と現代創作劇を大衆に伝える架け橋となり、小劇場運動の活性化に貢献した。 40 年間「劇団自由」を導いた彼女は、舞台美術家である自分のことを「黒子」と謙遜する。しかし、後輩の演 劇人は彼女を指標とし、模索し続けてきた。
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昨
年 12 月、ソウル奨忠洞にあるイ・ビョンボクのアトリエでは、彼女の 90
歳を祝う小さなパーティーが開かれた。家族と数人の芸術家が出席し
たささやかなパーティーだったが、70 歳を超えた舞台俳優ソン・スクは、
こんなことを言った。「私たちのような演劇人が、この国で耐えてこられたのは、 先生の信念のおかげです。今までずっとそれを守ってきてくださったおかげで、私
たちがここまで来ることができました。本当にありがとうございます」。
カフェ・テアトルと劇団自由
イ・ビョンボクは 40 年間( 1964 ~ 2004 ) 「 劇団自由」の代表だった。演出家が
代表を兼任して劇団の運命を背負う一般的なシステムとは違い、劇団自由は舞
台美術家が代表を務めた点で珍しかった。「集団創作」という独特なシステムの
おかげで可能だったのだ。この劇団は、作品の選定と制作過程において、各分
野の専門家とコラボレーションして共同で決めてきた。イ・ビョンボクは、そうし
たシステムの下で舞台の衣装や装置を意欲的かつ積極的に作り、公演舞台の進 化に貢献した。
彼らの手本となったのは、フランスのルノー=バロー劇団(マドレーヌ・ルノー
とジャンルイ・バロー夫婦が立ち上げた劇団)。イ・ビョンボクの仕事上のパート ナーは、フランス滞在時からの友人で演出家のキム・ジョンオクだった。血気盛
んな二人が意気投合して劇団を作ったが、 60 年代の韓国には演劇公演を行うた めの空間があまりなかった。意欲的な劇団メンバーには持続的に公演できる劇
場が必要だった。イ・ビョンボクは、パリのモンパルナスにある小さな劇場やセ
ーヌ川沿いの小劇場を思い浮かべ「演劇カフェ」というアイデアを出し、画家であ
る夫のクォン・オクヨンとともにソウル忠武路2街の古い空間を借りて自らインテ
リアを手掛けた。床に一つ一つチョークで線を引いて入口、劇場の扉の位置、 舞台、機械室、ホール、チケットブース、クローク、カウンター、小さなバー、
トイレ、キッチンまで細かく区切った。散々考えた末に完成させた明洞の「カフェ
・テアトル」。1969 年4月にオープンしたカフェ・テアトルは、お茶を飲みながら 演劇を楽しむことができる韓国初の演劇カフェだった。月曜日には大学生の演
劇、金曜日にはパンソリ(唱劇)、コクトゥカクシノルム(人形劇)などの公演を 行い、その他の日には劇団自由と他の劇団が公演した。イヨネスコの『禿の女
歌手』、エドワード・オールビーの『動物園物語』など、当時の西欧の問題作が
次々と紹介された。さらに、オ・テソクの『ローラースケートに乗るおきあがりこ ぼし』など、韓国の優れた創作劇や新劇史から発掘した作品までレパートリーが
非常に多彩だった。劇場が困窮していた時期、多くの劇団(自由、民芸、実験、 広場、架橋、民衆)が、作品を自由に発表できる舞台だった。そんなカフェ・テ
アトルは、パンソリやコクトゥカクシノルムなどの伝統芸能を若い観客に見ても
らい、韓国小劇場の演劇活性化に大きく貢献した。また、一時代の文化人・芸 術家が愛した交流の場でもあった。
イ・ビョンボクの演劇人生には、二つの軸がある。一つは、共同体とコラボレ
ーションの意味を考えさせ続けた「劇団自由」。もう一つは、小劇場演劇の意味
と観客との接点を考えさせた「カフェ・テアトル」。この二つの軸を中心に彼女が 作り出した数多くの座標、その座標の間で生じた危機と緊張が、韓国の演劇人
を成長させ希望を抱かせた。
韓国の文�と芸� 5
実験的な舞台衣装と舞台美術
において服を裁断するんです。その都度モデルに服を
船で約1カ月もかかる遠い国だった。赤ん坊まで3人の子供を姑に預け、固
デザインを変えました。学校では絶対に学べない内
ナーになりたいという野望からではなかった。画家である夫の留学を支える
これが 1961 年に帰国後、イ・ビョンボクの制作法
イ・ビョンボクは 1957 年にフランスに渡った。フランスは当時、韓国から
い意志でフランス行きを決めたのは、世界的な衣装デザイナーや舞台デザイ
着て動いてもらって、雰囲気を見たり動く様子を見て 容でした」。
ためだった。しかし、韓国の有名大学の英文科出身という知性と真面目さ、 の基礎となったわけだ。この頃から彼女にとって衣
しっかり者の性格はフランスでも例外なく発揮された。夫を手伝い、その合 間を縫って裁断を学ぶための学校に入った。
装とは、単純な物でなく、息をして生きている一つ
の生命体になった。服が人であるかように、人が服
「平面裁断をしろと言ったのに立体裁断までしたという理由で追い出され
であるかように一体感を醸し出すイ・ビョンボク流の
ることになってしまいました」。悔しくて意地になった。その後、ある衣装製
衣装や小道具、装置まで一貫性のある調和のとれ
ました。時間が惜しくて一生懸命やっただけだったんですが、6カ月でやめ 作所の夜会服を扱う部署で働きながら、感覚を身につけた。「下着姿のモ
デルが何時間も裁断師の側にいました。マネキンではなく生身のモデルを側
舞台衣装の独創性も、この頃に芽生えたものだ。
た仕事で、演劇界に舞台美術という新たな概念を打
ち出した彼女の試みは『死んだら何になるか』 (1978 )
イ・ビョンボクの演劇人生には、二つの軸がある。一つは、共同体とコラボレーションの意味を考 えさせ続けた「劇団自由」。もう一つは、小劇場演劇の意味と観客との接点を考えさせた「カフェ・ テアトル」。この二つの軸を中心に彼女が作り出した数多くの座標、その座標の間で生じた危機と 緊張が、韓国の演劇人を成長させ希望を抱かせた。
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を起点にいっそう本格化した。それはハギの木に目のない布人形を掛けて、 感動を倍増させた。祭儀劇『オックッ』 ( 1999 )では、 一群の見物人を表現した『月見草』 ( 1982 )、小道具に過ぎなかった人形を 本格的な客体として扱い、クァンデノリ劇(演戯劇)に登場させた『風吹く日
にも花は咲く』 ( 1984 )につながった。
ついに舞台衣装と美術が一つになり、服が演劇と舞
台を作り出すイ・ビョンボクの作品世界を完成させた。 イ・ビョンボクの材料の引き出しには、麻袋、古新
『雄鶏が鳴かなければ雌鶏でも』 ( 1988 )では、 70 着あまりの韓紙の服で
聞、紐、ビニール、韓紙の切れ端などがきれいに整
濃さによって調節できる。何枚重ねるかによっても雰囲気が違ってくる。役
の材料は、実は捨てられるものだったのだ。手ずか
注目された。紙服の硬さは、使用する糊の原料(穀物、植物、合成など)や
理されている。洗練された品格さえ感じられる衣装
者の動きの強さや回数によっても、紙服の製作方法が異なっていた。立体
ら育てたヘチマは、乾かして服のボリュームを出すの
紙服の非現実感が時空の深みをさらに増し、色あせたような色あいは古風
を編んだり貼り付け、またアイロンをかけたりといっ
的に考え完成した紙服は、作品の祭儀的な性格をより明らかに様式化した。 に使い、王族が着る服の紋章は、糸とビニールと草 で洗練されていた。
た幾多の試行錯誤を経て完成させた。誰でも手に入
焼けを飛ぶ鳥たち』 ( 1992 )では甕(かめ)の形を模した韓服のズボンをふん
を考え、多くの失敗と手間をいとわない。そうした彼
を表現した。こうした成果は、作家の洞察力と芸術的想像力の産物といえ
ざまな角度から常に刺激を与えてきた。
『夕 『血の婚礼』 (1988)ではスカートの形によって庶民的な情緒を表わし、
わりと仕上げ、『ハムレット』 ( 1993 )では麻布 400 反を三段に設置して祭壇
る。質感と形から情緒的な共感を引き出す彼女の舞台は、作品を見る者の
2013 アルコ美術館代表作家展『イ・ビョンボク、3幕、 3 章』の開幕式で行われたパク・ミョンスク・ダ ンスシアターの公演。自然にはためくように垂らした布、韓紙の衣装など、イ・ビョンボクの舞台の 象徴的な要素が調和をなしている。
れられる材料に対して、普通では考えられないこと
女の実験的な態度は、ともに仕事する演劇人にさま 「良い韓紙はとても硬いものです。それで、衣装を
作るのに失敗した韓紙は、タル(仮面)を作るために
とっておきます。どれも捨てることはありません。演
劇舞台の上では、何でもすべて立派な小道具になる
からです。以前『泥棒たちの舞踏会』で使った芝生は、
韓国の文�と芸� 7
鉄クズを集めて作りました。金物屋の前を通ったとき、鉄を切るのを見たんです
が、まるで柔らかい絹糸のようだと思いました。それを集めると、自然とボリュ
ームが出たんです。外に出かけると、そういった廃品をたくさん拾ってきたもので
す」。
麻布の人形が屏風のように取り囲む『血の結婚』の舞台。イ ・ビョンボクは、スペインの劇作家フェデリコ・ガルシア・ロル カのこの作品を特に大切にし、全く新しい舞台美術によって 作品の韓国的な再解釈を繰り返してきた。
小道具の中でも、彼女のタルは非常に独創的だ。目がなかったり、あっても
糸みたいに細く、ぺちゃんこな鼻や歪んだ口は一見すると醜い印象を受ける。し
かし、奇妙で醜いこれらのタルは、上下左右どこから見るかによって、毎回違っ
た表情を見せてくれる。韓国人の情緒の根幹を成す「無定形性」は、イ・ビョンボ
クのタルによってこのように表わされているのだ。
「イ・ビョンボク、無い」
約 10 年前、京畿道南揚州金谷で独特な展示会が開かれた。彼女が 50 年以
上作ってきた舞台衣装、小道具、装置、人形などを展示したものだ。国内展示
としては珍しいことで、テーマも一風変わった「イ・ビョンボク、無い」だった。こ
のテーマには展示会の後、作家がそれまで製作したすべての作品を燃やして無く
すという意図が盛り込まれていた。
半世紀以上もの間、作り続けてきた作家の作品は、芸術史において貴重な資
料となり得る。しかし作家の死後、保存のための努力が十分でなければ、作品
は簡単に壊れて消えてしまう。イ・ビョンボクの「無い」展覧会は、芸術史の価値
と記録に無関心な国、そしてもどかしい現実に向けた作家の抗議だったといえ
る。老いた母が子に先立たれる心情で、自分の作品を火葬するという芸術家の 気持ちが伝わったのだろうか。2009 年 12 月に国立劇場に公演芸術博物館が設
けられた。演劇専用の博物館ではないものの、現在ここには 1950 年代から半
世紀の間おこなわれた韓国のさまざまな舞台芸術の資料が所蔵され、展示と教 育プログラムを通じて一般の人々に広く公開されている。
最近、彼女が力を注いでいることに、金谷の手入れがある。8000 坪の土地に
は、場所を移して復元した 10 軒ほどの古家がある。イ・ビョンボクと2011 年に
亡くなった 夫 の クォン・オクヨン が、 全 国 を駆 け 回って 探し出した もの だ。
1970 ~ 80 年代は、韓国の社会・経済が急激に変化し、街が大きく様変わりした
時期だ。韓国の街は当時、政府の大々的な地域開発事業のセマウル(新しい村) 運動によって、韓屋が洋式の家屋に変わっていった。しかし、夫婦はこの頃に始
まった洗練された洋式の家屋より、むしろ消えゆく古い韓屋に関心を寄せていた。 特に「クンジプ」は、 18 世紀朝鮮の第 21 代王であるヨンジョ(英祖)が末娘の
ファギル(和吉)翁主のために建てたもので、文化財としての価値が認められて
1984 年に重要民俗資料に指定された。クンジプを中心に龍仁や群山など各地
で見つけた古家をそのまま移し、近くに残っていた崩れかけのワラぶきの家は移
して復元し、時には新たに建てることもあった。周りに木を植え、小川を作り、 土地をならすだけで何年もかかった。
イ・ビョンボクにとって生涯最高の作品『王子好童』 ( 1991 )も、金谷で上演さ
いう四角いフレームから抜け出して自然が背景となった舞台に、パク・チョンジャ
やユン・ソクファら一流の役者の確かな演技力が加わり、舞台、衣装、空間すべ
てが最高の調和を奏でた舞台だった。今でもこの作品は、韓国的な舞台様式を 8 KoreaNa 春号 2016
©Arko 芸術劇場 Joom
れた。古い家を背景に、池には舞台が設置され、幻想的な光景だった。劇場と
完成させた象徴的な演劇として記憶されている。
事な文化財が呆気なく消えたその日、イ・ビョンボク
飾り、国内の関心よりもアジアからの注目が大きかった。当時公演を見た
い」展覧会のように勢いよく抗戦できるほどの気力は、
『王子好童』は、韓国で開かれた世界舞台美術家の総会でフィナーレを
日本や中国の関係者は「 舞台美術家が集まる世界総会の場で、初めて東
は呆然と軒下に長い間座っていた。約 10 年前の「無
もう彼女には残っていない。片方の耳はほとんど聴
洋 人として誇らしく思った 」と称 賛を送っている。「 舞 台 美 術に関しては、 力を失い、手首の調子が悪く苦労することも多い。 確かに韓国はいいものを持っていると思います。 1 9 9 0 年代からすでにプ
ラハの世界的な舞台美術展で、何度も実力が証明されています」。イ・ビ
イ・ビョンボクは、今でも暇さえあれば金谷を訪ね
る。雑草を取り、落ち葉を掃き集めるといった雑用を
ョンボクは、国際舞台美術展であるプラハ・カドリエンナレーで、 1 9 9 1 年
するのだが、 50 年間続いてきたこのささいな仕事を、
ソプらがそのバトンを引き継いだ。現在、毎年数多くの韓国の若い舞台美
たら彼女の人生を象徴する姿なのかもしれない。舞
に韓国人として初めて舞台衣装部門を受賞し、シン・ソンヒ、ユン・ジョン 術家が、この世界的な権威に挑んでいる。
彼女は一度も疎かにしなかった。それは、もしかし 台の裏側で役者の服を整え、幕が開く直前まで舞台
金谷は、このように大切な瞬間が保存されている大事な空間だ。しかし、 の準備をする美術スタッフ。華やかな舞台のきらびや
韓国近代史において文化財に当たるほどの伝統家屋の保存は、個人では手
かな歓喜の裏には、いつだって彼女の手が荒れるほ
年、長ければ何百年前に建てられた家であり、こちらに移してからすでに
ういった自分の仕事を表舞台で活躍する役者と区分
に負えないのも事実だ。移築して新たにリモデリングをしても、短くて数十
40 年あまり経っているため、保存と管理が常に問題になっている。いつだっ
たか、嘆かわしいことに泥棒に入られたこともある。二度と復元できない大
どの苦労と静かな応援があった。イ・ビョンボクはそ
して、舞台裏で活躍する「黒子」だと、よく自嘲を込 めて言ったものだ。
韓国の文�と芸� 9
特集 2 韓国演劇 - 新潮流と新たな主役
ソウルを代表する 演劇の街、大学路 チェ・ユンウ
崔允宇、ウェブジン 『演劇 in 』編集長、演劇評論家
安洪范 写真
この街には、半径 2.5k m 内に 160 ほどの小劇場があり、年間 2000 本近い
演劇、ミュージカル、舞踊などの公演が行われている。ここでは、常に1 日約 150 の作品が観客を出迎えてくれる。韓国演劇市場の売上の8割がこ こで生み出され、韓国で活動する演劇人の7割がここを中心に創作活動を 行っている。「 University street 」を意味する「大学路」という名で知られ るソウルの文化・芸術の名所だ。
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1 大学路の中心部の路地。観客が 気軽に楽しめるロマンティック・ コメディーを主に公演する大衆 的な小劇場が増えている。その ため、社会性の高い演劇にこだ わる小劇場が街の外れに追いや られ「オフ大学路」という言葉も 生まれている。 2 アルコ芸術劇場の野外舞台。大 学路の若さと自由を象徴する代 表的な空間
週
末になると歩行者天国や演劇・ミュージカ
大学路の形成
で集まってくる多くの人で賑 わう街。今で
の中の一つが、将来この街が韓国演劇の中心地に発
路は最初から演劇のために計画的に作られた街では
場)で、1981 年に開館した。80 年代には、セムトパ
ルを見るため、あるいは街の雰囲気が好き
は「韓国演劇のメッカ」として知られているが、大学
この公園を中心に赤煉瓦の建物が建てられた。そ
展するための基盤となった文芸会館(現アルコ芸術劇
ない。日本統治下の京城帝国大学時代からここにあ
ランセ劇場、マロニエ劇場が開館し、パタンゴル小劇
当)が冠岳キャンパスに移ると、学校の建物は撤去さ
場など、新村の学生街に集まっていた 10 ほどの小劇
ったソウル大学校の文理科と法科の2大学(学部に相
場、東崇アートセンター、演友小劇場、大学路小劇
れた。1975 年のことだ。しかし、長年キャンパスを
場が、高い賃貸料を避けてここに移転してきた。劇
と3本のマロニエの木が、歴史的な象徴として残さ
ど主な文化芸術機関や団体も居を構えたことで、新
守ってきた文理科大学本部の赤煉瓦の近代的な建物 れ、そこに公園が造られた。そのため、マロニエ公
園と呼ばれるようになったのだ。
場だけでなく韓国文化芸術委員会、韓国演劇協会な
たな文化スポットとして急浮上した。ちょうどそのころ、
ソウル市内の小規模公演会場の設置・運営規定が緩 韓国の文�と芸� 11
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多くの舞台芸術祭が海外の舞台芸術家をこの街に呼び、互いの作品と芸術的見解が交流する場に なっている。児童・青少年演劇フェスティバル、アシテジ・フェスティバル、ソウル国際公演芸術祭 から大学路小劇場祭まで、それぞれ違った性格のフェスティバルがほぼ年中行われ、大学路をダ イナミックな空間にしている。 2
12 KoreaNa 春号 2016
1 大学路の塀や壁を埋め尽くすポ スターは、何気なく大学路を行 き交う恋人や観光客を劇場へと 呼び込む。 2 2016 年の第 12 回アシテジ冬の フェスティバル( 1/7 ~ 1/16 )で 舞 台 芸 術 賞 を 受 賞した「 劇 団 21 」の家族ミュージカル『ファン タジー・オズの魔法使い』 3 マロニエ公園の裏の路地と駱山 公園の間にある梨花壁絵村は最 近、路地の古い階段や壁が「公 共美術プロジェクト」によってユ ニークな名所になり、若者や観 光客にとって大学路の必須コー スになっている。
和され、さらに多くの小劇場が次々に開館し、劇団
上の歴史があり、たくさんの人々が訪れる一風変わ
のオフィスや各種文化施設がなだれ込んできた。大
ったイベントになっている。
の街」というイメージは、こうして作られたのだ。
世界各国から芸術家をこの街に呼び集めている。毎
い始めたとき、その基本構想は、近代美術の発達を
少年のためのアシテジ・フェスティバルだ。また、新
学路において最も重要なアイデンティティである 「演劇
ソウル市が 1985 年に大学路という名を公の場で使
成し遂げたパリ・モンマルトル、日本のファッション・
特に、最近は国際的な舞台芸術祭が年中行われ、
年1月になると大学路を活気づかせるのは、児童・青 進芸術家の新しい舞台であるニュー・ステージ、AYAF
文化の発信地である東京・原宿、あるいはロンドン・
( A r k o Y o u n g A r t F r o n t i e r )を皮切りに、3月に
にするというものだった。今日の大学路が世界各国
ア演出家展が開かれる。4~5月にはソウルの代表
とを考えると、政府の思惑は結果的に違った方向で
のソウル辺方演劇祭、9月の大学路ストリート公演祭、
ピカデリーサーカスのように、国際的な文化観光地
の舞台芸術家に広く知られる演劇の名所になったこ 大きな実を結んだといえよう。
その頃から大学路は、週末になると全面的に交通
は新春文芸の一幕劇、日中韓3カ国が参加するアジ 的な演劇祭であるソウル演劇祭が開かれ、7~8月
10 ~ 11 月のソウル国際公演芸術祭、大学路小劇場
祭へと続く。このように多彩な性格と規模のフェステ
規制され、歩行者天国となった。ソウル市のそうした
ィバルが次々と開かれ、大学路をクリエイティブでダ
なり、韓国文化芸術委員会の建物前にある広場は各
大学路は、韓国文化芸術界の情熱とビジョンが読
決定によって街の文化フェスティバルがさらに活発に 種展示会、民俗遊び、詩の朗読会、公演などが自由
に行われる空間として活用されるようになった。演劇
イナミックな空間にしている。
み取れる街だ。国内の公演市場の流れを感じること ができ、政府の文化芸術政策の基調にも大きな影響
の街として知られる大学路に、フェスティバルの街、 を及ぼしている。そして、何よりも多くの若い演劇人 若者の街というイメージが加わったわけだ。また、象
徴的な造形物、彫刻、公演ポスターの掲示板、チケ
ットボックス、街灯、ベンチなど文化を楽しむための 設備を整えることで、マロニエ公園を中心にした平日
の野外公演が活性化され、大学路は公演のない日が ない舞台芸術の街として確固たる地位を築いた。
や演劇を志す人たちが、今日もここで夢見て、時に は挫折しながらも芸を磨いている。
3
多様化する観客
以前の大学路は主に 20 ~ 30 代が集まる若者の街
だったが、最近ここを訪れる人たちの年齢層が非常
に多様化している。依然として若い観客が中心だが、 子供連れの家族や中高年の夫婦も目に見えて増えて
いる。これは、それほど見どころが多くなったという 意味でもある。
一方、周辺の駱山公園や梨花壁絵村などを見て回
るのが一般的だった観光客も、物珍しげに路地を歩
き、公演を観覧している。近くの恵化洞ロータリーに
あるカトリック教会の前で毎週日曜日に開かれている
フィリピン・フリーマーケットも、大学路を特別な空間 にした名所の一つだ。フィリピンから来た労働者が自
国の食料品、雑貨、家電製品など多彩な品物を売る
ことで交流の場になり「リトル・マニラ」と呼ばれるよ
うになった。このフリーマーケットは、すでに 20 年以
韓国の文�と芸� 13
特集 3 韓国演劇 - 新潮流と新たな主役
韓国で今、再びチェーホフを 見るべき理由 劇団「演戯団コリペ」 密陽演劇村は、最も韓国的でありながら非常に現代的な演劇を追い求める人々が、 生活と芸術をともに作り上げている所だ。毎年夏になると、ここで夏公演が開かれる。 「演戯団コリペ」が、演劇を愛する人々に贈る楽しみであり、 文化芸術に親しむ人々に送るメッセージだ。 イ・チャンギ
李昌起、詩人、文学評論家
神
安洪范 写真
聖なパンと葡萄酒が象徴する救いの力を
いたい。創立 13 年目のその劇団は、時にはクッ (巫
めの世俗劇が共存していた 14 世紀初頭
演で、時には社会意識の高い作品で観客を集めて
テーマにした宗教劇と、純然な娯楽のた
俗儀式)と演劇を結び付けた斬新かつ実験的な公
のイギリス、ソールズベリー司教(恐らくS i m o n o f
いた。そうした成功によって、韓国の演劇を海外に
ような雰囲気を作っている役者を類型ごとに分け、
年前の 1998 年には『真如極楽』という作品で、ソウ
G h e n t だろう)は淫乱、ご機嫌取り、飲酒をあおる
一人一人呪いをかけていった。しかし、彼はこんな 記録も残している。
「道化師と呼ばれる人々がいる。彼らは、統治者
紹介する代表的な劇団の一つとなっていた。その1 ル国際演劇祭において作品賞を含め5部門をさらっ
た人気劇団だった。(その当時、韓国経済はデフォ
ルトの危機で国際通貨基金から資金支援を受けてい
の行動や聖人の人生を歌い、具合が悪い人や気分が優れない人
た点を思い出してほしい)
り、何らかの方法で幽霊を見せたりする者たちとは違い、多くの
は身も心もすっかり疲れ果てていた。どんどん商業化・通俗化さ
を元気づける。踊りを踊ったり、恥ずかしい服を着て手品をした
破廉恥で醜い行いをしない。けれども、道化師は人を癒してく
しかし、華やかな照明のもとで受ける拍手とは関係なく、彼ら
れていく時代の中、彼らにできることは、練習の合間に路上でチ
れる」。(『演劇の歴史』オスカー・ブロケット他、演劇と人間刊、 ラシ配りや客引きをしたり、数行の宣伝記事を書いてもらうため
194 ~ 195 ページ参照)
に必死に電話するくらいのものだった。公演が成功しても状況は
旅立つ劇団
地下で練習して、地下で公演する、地下生活者の暮らし」は健
人々を癒し、そうすることで癒されてきた劇団が、本拠地のソ
ウル大学路を去った。1999 年9月のことだ。興行に失敗し、内
輪もめによって挫折した劇団だと思ったなら、そうではないと言 14 KoreaNa 春号 2016
変わらなかった。団員の生活は相変らず不規則で「地下で寝て、 康を脅かした。
この劇団の創設者であるイ・ユンテク(李潤沢)氏は、当時あ
るコラムで「私は永遠の 20 世紀人として残る」という高度な文学
演技指導をする「 演戯団 コリペ」のイ・ユンテク芸 術監督。彼は、人物を象 徴化した人形の視線や小 さな動き一つにも、観客 に伝える表現を込めるよ う強調している。
韓国の文�と芸� 15
「私たちが描くチェーホフは、浅はかで荒くて騒がしい。 退屈なリアリズムの統一性と均衡が破られたその場で、 つまり傷ついて暴かれたその『桜の園』で、むしろ溢れそ うな革命の機運を感じることになるだろう」
1
的表現を用いた。しかし、それよりも「健全な精神と体で演劇す
るためにソウルを出る」というのが、団員の本心だったのだろう。 彼らが新たに腰を据えたのは、ソウルから南に 350k m 離れた密
「弱者の力」
この劇団の運営体制は、文化消費の本拠地である都市を中心
に活動するほとんどの劇団と違っている。だからといって、今ま
陽という人口 10 万ほどの小さな都市の廃校だった。「緊急避難」
でになかったというわけではない。韓国では朝鮮後期、男性で
年を迎えた「演戯団コリペ」だ。
全国を渡り歩いて精力的に活動した。また、日本の歌舞伎一座
を決行した団員は、全部で 60 人ほど。これが今年で創立 30 周 彼らを言い表す呼び名はいろいろある。「文化ゲリラ」、「文化
構成された大衆芸能の放浪集団「男寺党牌(ナムサダンペ)」が、
や中世以降のヨーロッパにおける放浪劇団も、古いモデルとし
アナキスト」。そして最近では、ある日本人の学者が言った「理
て挙げられる。フランスでは 50 年以上前から「太陽劇団」が共同
よくよく聞いてみると、それほど突飛な表現ではない。そうした
もに農業をしながら収穫で得たパンを分け合い、その副産物で
寝食をともにしながら共同生活を送り、ともに演劇を作り、必
ット・シアター」も、演劇共同体の新たな形として注目されている。
生き方を選んだのだ。
自分たちの特化された劇的本能が時代の価値(交換価値)にな
想主義的な演劇共同体 」など…。そんな耳慣れない呼び名も、 分配、共同創造、共同運営をモットーに活動を続けている。と 表現は、彼らが選んだ生存方法を反映しているからだ。彼らは
要と依頼に応じて全国各地で公演する。そんな放浪劇団という 16 KoreaNa 春号 2016
人形を作って人形劇をするアメリカ・バーモントの「ブレッド&パペ
つまり役者共同体は、主流社会(資本主義社会)の一員として、
れず生きていけないという絶望感から出発し、それぞれの社会
当てから成り、基本給は 50 万~ 200 万ウォンだ。手当てにはさ
的環境に最適化された暮らしを形作っているわけだ。
まざまなインセンティブも含まれているが、結果より価値に重き
ま、その社会体制の外と内にまたがった中途半端な存在になっ
る役者キム・ミスク (金美淑)さんは、その評価に皆が同意してい
この選択によって、彼らは主流社会と一定の距離を置いたま
てしまった。彼らの自発的な選択を尊重するとしても、競争から
はじかれた敗者の暮らしに注目する理由はあまりなさそうだ。し
を置くという点で一般会社とは異なる。運営スタッフの一員であ
るのかは分からないが、今まで揉めたことはないと言う。
共同生活を送っていると、ここで結婚して家庭を持つ人も多い。
かし、ヴィクター・ターナーは役者、貧民、障害者、精神疾患者、 彼らには家族のための空間が与えられる。26 歳で劇団に入り、 シャーマン、予言者のような境界人(彼は「コミュニタスの存在」
と呼ぶ)の持つ「弱者の力」に注目した。彼は、そうした社会的
40 歳を過ぎたイ・スンホン(李承憲)さんは、去年2月に若い女性
団員と結婚し、ここで新婚生活をスタートさせた。彼は、自分の
弱者が自分たちの持つ「象徴的力」 (危険性、伝染性、無政府性、 選択を後悔したことはなく、ここに自分と家族の未来を賭けてい
匿名性など)によって社会が捨てた相対的価値(同質性、平等性、 る。技術監督のチョ・インゴン(趙仁坤)さんは、昨年春に仲間で 道徳性、共同所有と分配など)を最大化することで、現在の社
会構造を他の社会構造に「通過」させる存在ととらえたのだ。こ れ は、 演 戯 団コリペ の 30 年
あり妻であったイ・ユンジュ(李允珠)さんと死別した。将来を嘱
望される演出家であり役者だった彼女との間に産まれた 11 歳の
娘は、劇団員に愛され見守ら
間の軌跡や追求してきた価値
れながら育っている。劇団の
と同じだ。
オフィスの壁にかかったスケジ
ュールには、新たな夫婦の誕
共同体の暮らし
生を知らせる結婚式の日取り
宿泊施設、劇場施設、その
が赤く示されている。
他関連施設を備えた「 密陽演
韓国的不条理劇が生まれ
劇村」が生まれて、多くのこと
る場
が変 わった。まず、ここで毎
密陽へ移ったことで、固有
年「 密陽夏公演芸術祭 」が開
の演劇方法論を持つ集団とし
かれている。このフェスティバ
ての性 格 はさらに強くなった。
ルは、国内外のさまざまな舞
台芸術を初披露するのが主な
目的だが、芸術文化とは縁が ない人たちにさまざまな演劇
体験を提供することも忘れてはいない。また「若手演出家展」と
いうプログラムでは、うまく作られた作品よりも、現実に立ち向
かう自分なりの表現方法を探る実験的な舞台芸術を後押しした。
1996 年に設立された「ウリ劇研究所」という劇団員訓練システ
ムも設けた。団員になるためには、誰もがこの研究所に入って
1カ月の基礎教育を受け、さまざまな実務過程をこなさなけれ
ばならない。制作者や企画者が作品を選び、オーディションによ
って役者を選ぶシステムとは全く違う。演戯団コリペのキム・ソヒ
(金昭希)代表は「ウリ劇研究所」の1期生で、彼女を中心に 20 年以上の経歴を持つ十数名の団員が、各自の役割に沿って劇団 運営に積極的に参加している。
2
1 3月にコロンビア・ボゴタで演劇祭に 参加する作品『旅立つ家族』の練習風 景。画家イ・ジュンソプの人生と芸術 を扱うこの作品には、イ・ジュンソプ が好んで描いた牡牛や蝶などがオブ ジェとして登場する。写真の右から 2 番目が「演戯団コリペ」のキム・ソヒ代 表 2「ウリ劇研究所 」の演技トレーニング。 団員になるためには、誰もがこの研 究所に入って基礎教育を受ける。
安定したチームワークをもと
に、ほとんどの小道具や衣装
を手 作りすることで制 作コス
トを削 減した。さらに、 市 場 の状況をうかがうより、 市場
の改革という挑戦意識が大き
くなった。歴史への関心、虐 げられ た 人 へ の 愛、 祭 儀 的
要素は強まり、躍動的・革新 的 かつ 不 条 理 な 舞 台で想 像
力が湧き上がる。勢道政治に
抵抗したソンビ(学識と人格を備えた人物)ナムミョン・チョシク
(南冥曺植)を扱った『田舍文士・曹南冥』、辺境の科学者チャン ・ヨンシル(蒋英実)の悲劇的な人生を描いた『窮理』、体制の
現在、団員数は約 80 人。彼らは平均3~4チームに分かれて、 犠牲となった芸術家であり詩人ペク・ソク(白石)を描いた『白石
5作品ほどを常設公演している。そうなると役者一人当たり少な
くとも4役、多ければ7~8役を演じることになる。住まいと食
事は無料で、 10 年前から月給も出している。月給は基本給と手
寓話』、ごみの埋め立て地を舞台にした幻想劇『原典遺書』、引
きこもるアウトサイダーを取り上げた『部屋の床を掻く男』のよう な作品が、この密陽の「工場」から次々と生み出された。観客 韓国の文�と芸� 17
は歓呼し、演劇界はその都度大きな賞を与え、彼らの活躍を 称えた。
その頃はロシアの演劇、特にチェーホフの劇が大学生や専門劇
団を問わず主流になっていた。崇高な人間の精神世界を探求す
演戯団コリペは、今年の春に二つの大きな公演を控えている。 るスタニスラフスキー流、登場人物の性格を極端にしていくヴァ
一つはチェーホフの『桜の園』 ( 2016. 4. 8~5. 1、「ソウル・ヌ
フタンゴフ流など、チェーホフの演劇がいくつも紹介された。そ
コロンビア・ボゴタ)だ。『旅立つ家族』は、ボゴタ・イベロアメリ
韓国的な劇団といわれる演戯団コリペが目を向けている。昨年
ンビッ劇場」)で、もう一つは『旅立つ家族』 ( 2016. 3.19 ~ 21、 うしたチェーホフに最近、ロシアとは無関係な、ともすれば最も カ国際演劇祭の参加作。この演劇祭に招かれたのは今年で3度
の『ワーニャ伯父さん』 (演出イ・ユンテク)をはじめとし、 『かもめ』
目になる。コロンビアが画家フェルナンド・ボテロの母国だとい
(演出キム・ソヒ)を披露した演戯団コリペは、チェーホフの短編
いた『旅立つ家族』を用意した。コロンビアから国費奨学生とし
たな試みをしている。そして、そのハイライトが、創立 30 周年記
を参照)さんも、この演劇チームの一員だ。ボゴタでの演戯コリ
は、自らの演出意図についてこう語っている。
うことを踏まえ、今回は画家イ・ジュンソプ(李仲燮)の人生を描 て密陽演劇村へ来ているクラウディア・オセホ(後続の関連記事
ペの舞台に刺激を受け、ここへやって来た彼女だが、夜遅くま
で続く練習だけは今でも慣れない。
小説7作を4人の演出家がそれぞれの視線で脚色するという新
念作『桜の園』だ。演戯団コリペの芸術監督であるイ・ユンテク 「私たちが描くチェーホフは、浅はかで荒くて騒がしい。『桜の
園』の女地主ラネーフスカヤは認知症の老人、農奴出身の商人
韓 国でチェー ホフの 戯 曲 が 本 格 的 に 公 演され 始 めたの は、 ロパーヒンは極度に現実的な人間、地主の兄ガーエフは遊び人、
1990 年代のこと。ロシアに留学した人たちが帰ってきてからだ。 隣の没落した地主ピーシチクはハムレット型の人間とした。スラ
1 Yi Geun-pil, the 16th-generation eldest male descendant of Yi Hwang, explains Confucian virtues to elementary school students visiting his clan head 2 An administrator of Piram Seowon records the details of the memorial rite held on the first day of the lunar month.
18 KoreaNa 春号 2016
ップスティック・コメディを彷彿とさせるほどに、すべてが
誇張されている。しかし、退屈なリアリズムの統一性と 均 衡 が破られたその場で、つまり傷ついて暴かれたそ
の『桜の園』で、むしろ溢れそうな革命の機運を感じるこ
と に な る だ ろう。 そ の とき、 チャイコ フス キ ー の 序 曲『 1812 年』の大砲音が響く。まさにこの喜劇は、 21 世 紀の韓国で私たちが読み解いたチェーホフなのだ」。
社会は決して進歩しないというエマーソンの言葉に同
意する。社会は波だ。一方が前に出れば、一方は後ろ
ある外国人女優が見た 「演戯団コリペ」 クラウディア・オセホ 演劇人
私が「演戯団コリペ」に初めて
出 会ったの は、 2012 年 に 私 が
住んでいたコロンビアのボゴタ
に下がる。技術を得れば本質を失い、資本を取れば自
で開かれたイベロアメリカ国際
人間の劇的本能は退化せず、私たちを夢中にさせ憤らせ
国の伝統芸術との絶妙な調和に大きな感動を受けた。それから
由を失う。しかし、私たちがどんな時代に属していようが、
演劇祭だった。『ハムレット』を見た私は、西洋の古典演劇と韓
るはずだ。ときには、私たちを慰めてもくれるだろう。こ
2年後の 2014 年にボゴタで見たフェデリコ・ガルシーア・ロルカ
あり、ボゴタでの公演『旅立つ家族』が期待される理由で
合させていることに今一度驚かされた。
れが 21 世紀の韓国で、再びチェーホフを見るべき理由で
もある。
2 の『血の婚礼』。私は、スペインの作品を自国の伝統に完全に融
その日から私は彼らとともに学ぶことを心に決め「演技におけ
る呼吸」というワークショップに参加した。しかし、満足のいくも のではなく、むしろ演技への欲求だけが大きくなった。そんな私
朝鮮時代の賎民出身の科学者チャン・ヨンシルの悲劇的な人生を描い たミュージカル『窮理』。釜山広域市機張郡に 2015 年 11 月にオープ ンした児童・青少年専門「アンデルセン劇場」のこけら落とし
の願いは、コロンビア政府が若い芸術家に与える特別奨学金に
よって実現した。そうして、私は韓国で彼らとともに生活しなが
ら、作品の制作過程や演技法を学ぶ機会を得たのだ。
最初はリハーサルから公演まで、すべての過程を写真に収め
る係を担当した。この作業を通じて、すばらしい作品の完成には、 チーム全体の献身、職業意識による懸命な働き、管理しながら の創造が必要だと知った。その後、役者や照明担当として参加
できるようになり、作品中の行動一つ一つが持つ正確さと厳格さ について学んだ。
西洋の劇団と違って演戯団コリペの役者が踊り、歌、演技と
いう三つの能力を兼ね備えている点も驚くべきことだ。
韓国人の歴史意識を呼び覚ます誉れ高き人物の生きざまや精
神を素材にした古典と現代を融合した伝記的な作品は、記憶が
芸術に意味を持たせ、そのメッセージを皆に届ける道具だとい
う点を忘れるなと教えてくれた。イ・ユンテク先生の演技指導は、 役者の演技が差別化され、力に溢れ、深みのある動きになるま
で指導を続け、仕上げていった。場面ごとに日常的な音を入れ、 多彩で豊かに作り上げる特別な能力は、観客の興味を引くのに 十分だ。
演戯団コリペでの生活は、単に作品を作ることにとどまらない。
その裏にあるのは、空間、劇場、宿所の維持・管理の原則だ。
ここでの留学生活は今も続いており、相変らずゴールは見えな
い。だが演劇だけでなく、人生においても大切な学びの機会だ
ということは、すでに証明されている。演戯団コリペは、韓国だ けでなくアジアと世界の舞台芸術に遺産を残しているのだから。
韓国の文�と芸� 19
特集 4 韓国演劇 - 新潮流と新たな主役
韓国演劇の新たな主役
キム・ソヨン
金炤然、演劇評論家
公演を行う場の多様化、さまざまな地域に根ざした演劇祭、演劇人の幅広い国際交流 によって、演劇界は日増しに活気を帯びている。その中心には、韓国的な演劇を作ると いう当為性から脱し、同時代性について考える新たな世代の演出家がいる。
20 KoreaNa 春号 2016
©国立劇団
1
20
00 年代の韓国演劇はひたす
演空間への関心が高まり、さまざまな空間が公演の場として注目されている。ソウルで
ら躍動的だ。若い世代は幅
いうなら漢南洞「テイクアウト・ドローイング」のように展示と公演が可能な複合文化空
の制作やプラットホームの規模と数も大き
ある工場を改造した「インディーアートホール GonG 」のような公演会場、古い住宅地に
広い創作に挑み続け、公演
く成長している。
躍動性の基盤
ソウルの真ん中にある大学路は、演劇
間、アトリエでありながら公演会場としても開放されている空間、永登浦の工場地帯に
ある使われていない建物を改造した文化空間などだ。そうした公演会場では、若い演 劇人が新たな試みを続けている。
幅広い国際交流によって、公演の幅も広がっている。2015 年の秋に開館した光州国
立アジア文化殿堂内にあるアジア芸術劇場は、ヨーロッパやアジアで活発に活動して
だけでなくミュージカル、舞踊、エンター
いる新進・中堅アーティストによる、アジアをテーマにした新作を数多く紹介している。
なって久しい。また、年中さまざまな演
されている。国際協力の幅も目に見えて広くなり、海外の演出家が韓国の役者とともに
や地方のあちらこちらで開かれている。中
ラボレーションも活発になっている。
テイメントショーなどが見られる中心地と 劇祭が、大学路だけでなくソウルの各地
・大型の劇場がソウルに集中する一方で、 規模や観客の反応において盛況を見せる 演劇祭は、地域に根ざしている。密陽夏
韓国演劇の海外進出も次第に増え、アジアやヨーロッパだけでなく南米などでも公演
作品を作ったり、韓国の演出家が海外で公演を担当するなど、国内外の劇団によるコ
「私は誰」から「今ここ」へ
そのような躍動性の中で注目されている韓国演劇の新たな主役、3人の演出家を見
公演芸術祭、春川マイム祭り、居昌国際
てみたい。そのためには、まず少し話を戻してみよう。
れた地域で成功した演劇祭だ。
多くの演出家は自分の「演劇アイデンティティ」について思い悩み、西欧から入ってきた
演劇祭などは、どれもソウルから遠く離 公共の劇場の役割も変化している。以
前の公共劇場は、発表の場が足りない民
間の劇団に、少しでも安くて良い環境を
アジアの他の国々のように、韓国でも近代劇は西洋劇の導入から始まった。そのため、
新たな演劇文化としての近代劇と韓国の伝統との融合に注目してきた。キム・ジョンオク
(金正鈺)、ホ・ギュ (許圭)、ソン・ジンチェク (孫桭策)、オ・テソク (呉泰錫)、イ・ユン
提供するという役割にとどまっていた。し
かし 2000 年 代に入り、 自ら制 作を手 掛
ける公共劇場が現れ始めた。LGアート
センターや斗山アートセンターなど、民 間企業が文化財団を設立して運営する劇
場だけでなく、国立劇団、明洞芸術劇場、 南山芸術センターのように公共の基金に
よって運営される劇場も、自ら制作した 劇場を飛び出して路上や日常的な空間
で行うサイト・スペシフィックな公演が増
えたのも特徴といえる。一方、新たな公
2
©劇工作所 魔方陣
演劇を年中プログラムとして運営している。
1 コ・ソンウン脚 色・演 出の『 趙 氏 孤 児、 復 讐の種 』 ( 2015 )。中国の古典悲劇を歌劇として再構成した 作品 2 シェークスピアの『マクベス』をコ・ソンウンが脚色し た『 キル べス 』 ( 2010 )。 派 手 なアクションの 中で、 悲劇的な緊張とギャグ的な転換が、爆発的な演劇的 エネルギーを生み出している。
韓国の文�と芸� 21
テク(李潤沢)など、 20 世紀における韓国現代演劇の巨匠の主な作品は、伝統文化を
ツール以外には舞台装置がなかった。ま
土台にして韓国演劇のアイデンティティを模索するところから始まっている。例えば、ギ
さに貧しい演劇だ。そのがらんとした舞
・演出した。あるいは、日常の空間に含まれる広く平らな広場よりも小さな空間、時に
られた小さなテーブルを置けば、若者と
た。そうした努力によって、クッ (巫俗儀式)、タルチュム(仮面舞)、民謡、パンソリ (唱
を貼れば古びた居酒屋になる。彼は「自
を豊かにした。
きな家を建てるのは意味がない」と言い、
への悩みよりも、同時代性への悩みが先だ。自分たちの演劇言語が、ともすれば自分
いる者の話を包み隠さず繰り広げる。時
から解放された代わりに、もしかして今自分は、演劇において偽の家を建てて偽の人
れた遊びのような展開が顕著に見られる。
リシアの悲劇やシェークスピアなど西欧の古典を韓国の伝統演劇の言語を使って再解釈
は家の庭で行われた韓国の伝統儀礼や演戯・芸能を近代劇場の舞台に移して再構成し 劇)などの伝統公演芸術から現代的な演劇性を見出し、現代劇に結び付けて演劇言語
だが、 2000 年代の作家や演出家は、彼らとは確実に違っている。アイデンティティ
のものではないかもしれない、他人の言葉で演劇を作っているのではないかという疑念 生について語っているのではないかと疑っているのだ。もちろん、彼らの先輩も考えな
台に布団を敷き、焼酒と海苔だけが載せ 父親が住む部屋になり、広告のポスター 分たちの暮らしとは違うのに、舞台に大
豊かな今の時代において最も虐げられて
には演劇的な省略と歪曲、そして誇張さ
しかし、そういった歪 曲と誇 張 によって、
かったわけではない。20 世紀の巨匠の弟子、後輩、仲間だったキム・ソクマン(金錫満)、 忘 れてしまっている今 の 時 代 の 様 子 が、
イ・サンウ(李相宇)、キム・グァンリム(金光林)らは、アイデンティティへの悩みから、 超写実主義的な再現のように突き刺さっ 今ここで自分と一緒に生きている人々の話へと方向転換した最初の世代といえる。
てくる。
の最前線にいる。1999 年に発表した『青春礼賛』は、彼の出世作であり代表作となって
いが、人間の最後の砦ともいえる家族関
作家・演出家のパク・クンヒョン(朴根亨)は、同時代性を掲げて新たに登場した世代
いる。内容はタイトルと違い、一家離散を経験し、学校からも社会からも受け入れられ
パク・クンヒョンの作品は家族の話が多
係まで崩壊したり、不完全な状況に置か
ない若者の話だ。大学路の一番小さな劇場のひとつ「恵化洞1番地」で初公演された際、 れて社会の枠外に追い込まれた者の話だ。
100 席足らずのがらんとしたブラックボックス形式の劇場には、客席となる2段の長いス
そして、彼の演劇は、おかしな家族の話 を超えて、韓国社会の随所に存在する傷
と痛みを冷笑とヒューマニズムが張りつ めた緊張の中で描いていく。
単純で流麗な感覚
「今ここ」を執拗に掘り下げたパク・クン
ヒョンに対して、コ・ソンウン(高宣雄)は
演劇性に満ちている。コ・ソンウンも作家
兼演出家だが、特に古典を自分のスタイ
©南山ドキュメンタ
ルによって新しく仕立て直すことで、演劇 の新たな言語と活気を見出している。
1
1 イ・ギョンソンとクリエイティブ v a Q i の『南山ドキュメ ンタ:演劇の練習-劇場編』 ( 2014 )のうち「幽霊散 策」のワンシーン。「幽霊散策」は、公演前に観客と 俳優が一緒に1時間の南山散策をし、そこで観客が 俳優の意図されたパフォーマンスに出会うという内 容 2 セウォル号の沈没事件を扱う『ビフォー・アフター』 ( 2015 )。2014 年に韓国社会に大きな衝撃を与え たこの事件を通じて、苦痛の感覚を深く見つめてい る。
22 KoreaNa 春号 2016
シェークスピアの『マクベス』を脚色し
た 2010 年の作品『キルべス』は、絶えず
殺し殺される争いが続く、いつどこだか
分からない場所が背景になっている。タ
イトルからして、原作のタイトル・ロール を韓国語の似た音でもじっている(刀を振
り回して殺し合う乱闘劇を連想させる「マ ク・ペオッタ」という意味の俗語)。幕開け
から刀と刀がぶつかり合う乱闘シーンで 始まり、常に喊声と刀のぶつかる音がけ
たたましく響き、時には肉弾戦も起こる。 だが、この演劇はシェークスピアの悲劇
を、派手な殺陣で脚色しているわけでは
ない。役者の体を流れる汗が手に取るよ
うに分かるほど、肉体を誇示する動きが 強調されている。しかし、慣習的な劇的
状況をもじった機関銃のような台詞回し は、それにも劣らず見事だ。コ・ソンウン
の台詞は、 日常的な会話や悲劇的な韻 律を意図的に壊して、独特のリズムを作
り出す。そのリズムに乗った言葉は、最 高潮の緊張を虚しく崩してしまうギャグ的
転換を生み、あるいは深刻な劇的状況と は対照的な意図された弛緩によって、悲
劇的緊張を超えてヒステリックな状態に
至りもする。緊張と弛緩が見事に交差す
るように動き、言葉が互いにリズムを取り 合いながら展開されるコ・ソンウンの演劇
を見ていると、凝縮された演劇的エネル
ギーを感じ、こちらが息切れしてしまいそ
うになる。
コ・ソンウン が 2015 年 に 発 表した 新
作『趙氏孤児、復讐の種』は、彼のスタイ
ルがユニークな感覚を超えて、人間が苦
痛の真っ只中をどのように突き進むのかを 描いている。紀君祥の中国古典戯曲『趙
©斗山アートセンター
2 韓国の文�と芸� 23
1
2000 年代の作家や演出家は、彼らとは確実に違っている。アイデンティティへの悩みよりも、同 時代性への悩みが先だ。自分たちの演劇言語が、ともすれば自分のものではないかもしれない、 他人の言葉で演劇を作っているのではないかという疑念から解放された代わりに、もしかして今自 分は、演劇において偽の家を建てて偽の人生について語っているのではないかと疑っているのだ。 24 KoreaNa 春号 2016
忘れ去られ、最近になって制作劇場とし
て再オープンした。この作品は、劇場の
歴史、劇場のある南山に関するさまざま
な 公 的・私 的 資 料 を調 査して作られ た。
その過程で得た映像資料を編集して見せ たり、この劇場のこけら落としだった『ハ
ムレット』のワンシーンを時代考証せずに 新たな手法で演出・公演する。そうかと思
えば、仮想インタビューによって、この劇
場と劇場のある南山を韓国現代史の事件
©劇団 路地
現場へと呼び戻す。この作品はタイトル
2
氏孤児』は、趙氏一族 300 人が皆殺しにされ、最後に残った産まれたばかりの「孤児」を
生かすために多くの人が命を捧げ、成長した孤児が一族を皆殺しにした仇を討つという
の通りドキュメンタリー演劇だと紹介され
るが、イ・ギョンソンと劇団は、資料の編
集にとどまらず提示と再現、事実と虚構 などの境界を素早く切り替えながら、劇
話だ。この悲惨な復讐劇で、コ・ソンウンは装置も動きも言葉もできるだけ取り払った。 場という空間、演劇という創作の本質に 舞台装置は、舞台を円型に囲む赤い幕だけだ。事件と行為は、そのがらんとした舞台
の上で、略号化された動きと小道具によって単純化される。『趙氏孤児、復讐の種』の 登場人物は、誰もが孤児の復讐のために死を選ぶ。コ・ソンウンは、そうした選択を道
ついて「今ここ」という現実を喚起しなが
ら、感覚的かつ知的に探求する。
そうした創作方法は、最近の作品『ビフ
徳や正義のための悲壮として美化せず、復讐劇に対するニヒリズム的な疑念も見せない。 ォー・アフター』 ( 2015 )でいっそう成熟し
その代わり、選択の前に立たされた人物が感じる人生への愛着と死への恐怖、それで
た視線を現している。この作品は、韓国
単純で流麗な動きと言葉で描き出す。そうした悲劇的な事件に巻き込まれないようにと
沈没事件を扱っているが、事件の再現や
も結局与えられた任務を受け入れる激しい葛藤と苦痛と決断を、極限までそぎ落とした 願うのも人間だが、生死をかけた選択の前でそれを選ぶのも人間なのだ。
感覚の倫理
社会に大きな衝撃を与えたセウォル号の
原因・影響を追跡することはない。逆に、
この途方もない事件を通じて苦痛の感覚
を問うのだ。現代社会は高度な技術社会
イ・ギョンソン(李敬誠)は 30 歳を過ぎたばかりだが、演劇を作る独自の方法論で「若
でありながら、致命的な事件・事故、そし
横断歩道や広場など日常的な空間で劇的な状況を引き起こすサイト・スペシフィックで
達した技術によってそうした事件・事故は
手」という修飾語が早くから付いて回らなかった。彼の演劇集団「クリエイティブvaQi 」は、 て不可抗力の災害にさらされており、発 注目を集めた。しかしイ・ギョンソンは、新しい創作方法や試みによって注目される若手 演出家にとどまらない。
イ・ギョンソンとクリエイティブ v a Q i の『 南山ドキュメンタ:演劇の練習-劇場編 』
( 2014 )は、公演された南山芸術センターが主人公だ。南山芸術センターは、 1960 年
にドラマセンターとして開館して以来、韓国現代劇の主な公演会場だったが、いつしか
ニュースで消費されるようになった。戦争
が中継される時代には、災害も映像とし
て消費される。『ビフォー・アフター』は、 そのような苦痛の消費をやめさせようとい
う試みだ。そのために、ある役者が経験
した父の死を中心に、劇に参加する役者 の苦痛のストーリーをナレーションや再現
など多彩な方法で舞台化する。また、リ
アルタイムの映像で、舞台上の行動を他
の視線で提示する。私たちは他人の苦痛
1, 2 パク・クンヒョン演出の『青春礼賛』。彼の出世作 であり代表作でもあるこの作品は、 1999 年の初 演以来、何度もキャストを変えながら再公演され ている。内容はタイトルと違い、若者に将来の 夢を与えられない社会の現実を描いている。
にどれくらい共感できるのか、それを全身
で感じることができるのか、そうした問い
に対する静かで緻密な作品として大きく 注目された。
韓国の文�と芸� 25
復活する唱劇 特集 5 韓国演劇 - 新潮流と新たな主役
「パンソリオペラ」を標榜する唱劇の「現代化」が活発に行われている。 古い内容と形式の枠を壊す果敢な試みによって、伝統あるパンソリを 生まれ変わらせ、さまざまな年齢層の観客から熱い支持を受けてい る。そして国立唱劇団は、その意義深い流れの中心にある。
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カン・イルジュン
姜溢中、演劇評論家
韓
国の重 要 無 形 文 化 財 第5号であり、
ユネスコが指定した無形文化遺産
でもあるパンソリは、公演様式が非
常 に 簡 潔 だ。 扇 子 を 持った 歌 い 手 兼 語 り 手「ソリクン」一人に、 太鼓を叩く 「コス( 鼓
手)」一人。たった二人が公演の主体となって
いるのだ。ソリクンは太鼓の拍子に合わせて
歌の形式で物語を展開し、言葉で内容を伝え
る「アニリ」を随所に入れる。また、その過程
で多様な動作と表情で状況を描き出すのだが、
これは「パルリム」と呼ばれる。
パンソリの完成のためには、これにもう一
つの要素が必要だ。それは「チュイムセ」。コ
スや観客が所々で唱者に興を添え、またソリ クンの腕前を称賛したり物語の内容に共感を 表す短い感嘆詞が「チュイムセ」だ。
伝統的なパンソリは、口伝えされてきた説
話をもとにしている。一人オペラのようなも
のなので、歌い手の「ソリ(音・言葉)」が公演 の決定的な要素になる。昔のソリクンは、深
い山奥の滝の下で、流れ落ちる水の音に負け
ないようにソリの修練をした。「滝の轟音をソ
リが突き抜けなければ、完全に『得音』できた と言えない」というのが、パンソリ界の通説だ
った。「得音」とは、辞書では「音を得る(歌や
演奏の腕前が非常に優れたものになる)」とい
う意味だが、ソリクンにとってはずっと深い意 味を持っている。
パンソリの衰退と唱劇の登場
パンソリは、 朝鮮時代の中期に当たる 17
世紀後半から庶民を中心に徐々に広がり始
めた。19 世紀の半 ばには、庶民だけでなく
©国立劇場
アヒム・フライヤー演出の唱劇『水宮歌』。名唱アン・スクソンが 3メートルものスカートを垂らして舞台に立ち、導唱として劇を リードする。国立唱劇団による「唱劇近代化」の最初の成果で あり、2011 年 9 月にソウル国立劇場ヘオルム劇場で公演された。
韓国の文�と芸� 27
特権階級の両班の間でも人気が絶頂に達し、多くの名唱が輩出
された。王の前でパンソリを披露した名唱が官職を得ることも
考えれば、もはや唱劇は古臭い昔のものとはいえない。伝統劇
の品格を失わず、大衆的な舞台芸術として時代とともに呼吸し
あった。
ているのだ。
始める。抜きん出た才能のない中途半端なソリクンの増加。独
三つの「パンソリオペラ」
西洋の近代劇の流入と西欧式劇場の建設など…。そうしたこと
月、国立劇場ヘオルム劇場で初公演した新しい概念の唱劇『水
うな傾向はさらに強くなっていった。
と内容の唱劇を作るという「 World Master's Choice 」プログ
しかし、パンソリはさまざまな内的・外的要因によって衰退し
演様式への嫌気。日本の新派劇や中国清朝時代の京劇。そして、 が同時多発的に影響を及ぼしたのだ。20 世紀に入って、そのよ
唱劇復活の合図は、国立唱劇団が長い準備の末に 2011 年9
宮歌』だった。海外の巨匠といわれる演出家を招き、新しい形式
最も目立った変化は、一人劇ではなく二人以上のソリクンによ
ラムの1作目で、ドイツの著名なオペラ演出家アヒム・フライヤー
リが進化した唱劇だ。1908 年にソウルの円覚寺で公演され、韓
アヒム・フライヤー演出の作品解釈や舞台は、韓国の唱劇ファ
るソリ芸術公演というジャンルができたことだ。これは、パンソ
が演出を担当した。
国近代演劇の扉を開いた作品とされるイ・インジクの『銀世界』
ンには極めて新鮮なものだった。原典の『水宮歌』の内容は寓話
欧式劇場のようなリアルな舞台で公演されるようになり、総合芸
ば病が治るという話を聞き、忠実なスッポンに陸地からウサギを
は、韓国初の創作唱劇だった。唱劇は徐々に出演者が増え、西
術の性格が大きくなっていった。しかし、創作劇が活発に開発さ
的だ。深刻な病にかかった海中の竜王は、ウサギの肝さえあれ
誘って竜宮に連れてくるように命じる。何も知らずに竜宮に来た
れないなどの理由で長い間、活力を取り戻すことはできなかった。 ウサギは、肝を陸地に置いてきたと竜王に嘘をついて無事に逃
唱劇の現代化
そうした現実の中、ここ数年の間に注目すべき変化が起きてい
る。中高年のものと思われていた唱劇公演に、演劇とオペラを 愛する人々を中心に比較的若い観客が押し寄せ、チケットが売
げ、陸地に帰るという話だ。賢いウサギが象徴する民衆と、竜
王とスッポンに代表される支配層、その反目を風刺的に描いた 作品だ。
アヒム・フライヤーの『水宮歌』は、スッポンを金と名誉を求
める世俗的なキャラクター、ウサギはあらゆる苦難を乗り越え
り切れているのだ。まるで唱劇が復興期を迎えたかのような雰
るために努力する賢い英雄とした。竜王は、手段と方法を選ば
術を融合させた唱劇が相次いで作られている点にある。国立劇
また、竜宮の天井には数多くのペットボトルをぶら下げて環境
ており、大きく三つの方向に向かって展開されている。
ーは、自ら舞台の幕、衣装、仮面をデザインし、役者は仮面
囲気だ。その理由は、内容の新しい解釈と現代的感覚の舞台美 場の傘下団体の一つである国立唱劇団がそうした動きを主導し 第一に、古典パンソリ12 作品の中で内容が完全に伝承されて
ず命 を長らえることに没 頭する支 配 階 級として描 か れている。 汚染を皮肉った。表現主義画家としても名高いアヒム・フライヤ
をかぶって「ソリ」をしながら動いた。それまでの唱劇では見る
いる5作品、すなわち『春香歌』、『沈清歌』、『興夫歌』、『水宮
ことのなかった強烈な視覚的イメージで、見る者を惹きつける
名な演出家に任せるというものだ。第二に、韓国のものではな
また、 もともとパンソリに
歌』、『赤壁歌』を唱劇化し、唱劇の演出経験がない国内外の著
く、外国の古典名作を唱劇化するという内容だ。
この二つの方法は、伝統芸術に馴染みがなく、西洋の劇芸術
には慣れ親しんだ国内の観客に訴求力を発揮した。また、西洋
人の目で唱劇を再解釈したり西欧の古典を韓国の芸術ジャンル
として表現することで、外国人が韓国の唱劇を身近に感じ、楽
しむことができるようにした。
そして第三に、 12 作品の中で唱(パンソリなどの歌)の内容が
完全に伝承されていない『ピョンガンセ打令』、『裵裨将打令』な
ど7作品について、今日の世情を反映しながら果敢に再解釈・再 創作することで、唱劇の演劇的な性格を高めた。
この三方向での努力が相乗効果を生み、唱劇が同時代性と普
遍性を得ている。少なくとも近頃の観客の反応が上々なことを 28 KoreaNa 春号 2016
舞台だった。
1 アンドレイ・セルバンの『別のチュンヒ ャン』。春香役のイ・ソヨンは、将来 を嘱望される若いソリクン(歌い手兼 語り手)。2014 年 11 月、ソウル国立 劇場タルオルム劇場での公演 2 エウリピデスの『メディア』を唱劇化し た『メディア』。メディア役の国立唱劇 団のトップスター、パク・エリは「韓国 の音・言葉で古代ギリシャ悲劇の核心 を感動的に伝えた」と評価されている。 2013 年 5 月、国立劇場ヘオルム劇場 での公演 3「パンソリ7作品復元シリーズ」として 2014 年に初演された『ピョンガンセ、 オンニョ』。演出家コ・ソンウンの初の 唱劇演出作で、国立唱劇団の興行記 録を塗り替え、再公演されている。
込められた風刺と洒落を現代
的な感覚で表現し、観客の笑
いも誘った。例えば、竜王が
スッポンに見せるため、画官 にウサギの絵を描くよう指 示
する場 面では、 キム・ホンド、 アイ・ウェイウェイ、アンディ・ ウォーホル、アルブレヒト・デ
ューラー、ピカソが登場する。 若い観客には古臭く映るかも
しれない唱劇が、華やかで洗
練されたスタイルになったの
国立唱劇団のキム・ソンニョ芸術監督は「パンソリは韓国の伝統声楽芸術だから、 きちんと保存・維持しなければならず、唱劇はパンソリから派生した劇芸術だから、 時代に合わせて変わらなければならない」と強調する。 2
3
韓国の文�と芸� 29
©国立劇場
1
だ。公演の性格を決める修飾語も「唱劇」の代わりに「パンソリ
オペラ」と名付けられた。
『水宮歌』に続き、 2014 年 11 月には海外の巨匠による演出で
徴的な舞台で「名唱」ソン・スンソプの導唱とソリクンたちの唱は、 強力なエネルギーを発した。
2作目となる『別のチュンヒャン』を国立劇場タルオルム劇場で初
その他の成果
ーロッパでオペラと演劇の演出家として旺盛な活動をしているア
劇を大衆化するための動きが他の形でも活発に進められている。
公演した。演出は、ルーマニア出身のアメリカ人で、北米やヨ
ンドレイ・セルバンが担当した。
この作品の原作のパンソリ『春香歌』は、高級官僚の息子イ・
モンリョンと引退した妓生(キーセン)の娘ソン・チュンヒャンの身
唱劇の現代的な解釈と翻案に対する観客の熱い声援の中、唱
失われたパンソリ7作品の復元シリーズ中『ピョンガンセ打令 』 は『ピョンガンセ、オンニョ』 (演出コ・ソンウン、 2014 年6月初
演)というタイトルで生まれ変わった。セックスの化身であるピョ
分を超えたラブストーリーだ。演 出 家のアンドレイ・セルバン
ンガンセに焦点を当てた原作が、献身的な女性であるオンニョ
想の価値を守るため死を恐れずに立ち向かう「戦う英雄」のイメ
の歴史において最も長い 23 回の公演日程の間、連日チケット完
は『別のチュンヒャン』でチュンヒャンという人物を、愛という理
ージとして描いている。それに比べてイ・モンリョンは、純粋さに
欠ける人物として描かれた。イ・モンリョンは高級官僚の息子で、 自分より身分の低い女性と恋に落ちた。しかし、利害得失にと
の心理を表す方向に改められている。この作品は、国立唱劇団 売を記録した。
古典小説『薔花紅蓮伝』は、 2012 年 11 月にハン・テスク演出
らわれ、彼女との束の間の恋愛は終わりを迎える。
舞台も型破りだ。螺旋階段のある冷たい鉄骨の黒い構造物が
舞台の両側にあり、床には砂を敷いて水で小川を表現した。映
像も積極的に活用した。映像の中でチュンヒャンとモンリョンが
韓服を着たまま愛し合っているのだが、舞台上のモンリョンはノ
ートパソコンを使う若者だ。
3番目の作品は、韓国の有名なオペラ演出家で国立オペラ団
イ・ソヨン演出『赤壁歌』2015 年 9 月、国立劇場ヘオルム劇 場での公演。簡潔で象徴的な 舞台と名唱ソン・スンソプの導 唱が大きな相乗効果を生んだ と評価されている。
の芸術監督だったイ・ソヨンが演出した『赤壁歌』だ。2015 年9 月に国立劇場ヘオルム劇場で公演されたこの作品は、舞台と唱
が見事に調和している。中国の小説『三国志演義』の「赤壁の戦
い」を中心に、曹操の華容道への避難までを扱っている。このパ
ンソリ『赤壁歌』は、政治風刺劇になった。数多くの英雄や将軍
が登場して戦場の猛々しさを伝える男性的な内容は、名前すら 残せず戦禍に倒れていった民衆の姿を浮き彫りにする方向に変 わった。
この作品は、特に舞台美学が際立っていた。オーケストラピッ
トから一段高い舞台は、太鼓をかたどったものだ。舞台に置か れている物はたった1つ、巨大な扇子の形をしたセットのみ。扇
子は古くて韓紙が剥がれ落ち、骨だけが残っている。舞台の後
ろ側を覆う韓紙のようなスクリーンでは、伝統的なパンソリ公演
の様子が見られる。コスが叩く太鼓の音に合わせて、唱者が扇 子を持って「ソリ」をするパンソリ本来の姿を、舞台の一つの構成
要素として形象化したのだ。扇子のセットは、舞台上で回転ま
たは移動することで、曹操が部隊を指揮する丘になったり、劉備 が諸葛亮を軍師として迎えるために礼を尽くして3度も訪ねた草
変われば、スクリーンと舞台の床に竹、桃源郷、点、線、面な
どの水墨画のイメージが現われる。簡潔ながらも密度の高い象 30 KoreaNa 春号 2016
©国立劇場
庵にもなり、軍船や鳥など多彩なイメージも作り出す。場面が
のスリラー唱劇『薔花紅蓮』として生まれ変わった。公園と湖が
あり中流層が住む団地で発生した殺人事件を中心に、現代人の 利己心と無関心をリアルに描き上げている。
な推進力は、国立劇場のアン・ホサン劇場長と国立唱劇団のキム
・ソンニョ芸術監督だ。キム・ソンニョ監督は「パンソリは韓国の 伝統声楽芸術だから、きちんと保存・維持しなければならず、唱
ギリシャの 悲 劇『 メディア 』の 唱 劇 化( 演 出ソ・ジェヒョン、 劇はパンソリから派生した劇芸術だから、時代に合わせて変わ
2013 年5月初演)では、唱劇の領域を拡大できる可能性が十分
らなければならない」と強調する。彼女は、内外の著名な演出
ユン・ホジンの演出によって同じタイトルの唱劇となり好評を得
し進める計画だ。
の輪』が、国立唱劇団の依頼によって、日本で活動する韓国系
演が終わった後、 2011 年 12 月にドイツのヴッパータール劇場で
を集めた。
場で公演された。コ・ソンウン演出の『ピョンガンセ、オンニョ』は、
に見られた。2014 年3月 には ベストセラー 映 画『 西 便 制 』が、 家の手でパンソリ12 作品を新たな角度から解釈し、舞台化を推
た。2015 年3月にはベルトルト・ブレヒトの『コーカサスの白墨 演出家チョン・イシンの手で唱劇となり、この作品も多くの観客
保存と現代化
国立唱劇団が進める唱劇の大衆化・世界化を後押しする強力
先ほどのアヒム・フライヤー演出の『水宮歌』は、韓国での公
行った公演が好評を得て、翌年9月に再び国立劇場ヘオルム劇 今年4月にパリ市立劇場の招きでフランス公演を行う予定だ。唱 劇が世界の舞台芸術の中心として京劇や歌舞伎と肩を並べる日 は、そう遠い未来ではないはずだ。
韓国の文�と芸� 31
フォーカス
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ショパンコンクール優勝者 チョ・ソンジンと 韓国クラシック界の未来 2015 年ショパン国際ピアノコンクールで韓国 の若手ピアニスト、チョ・ソンジンが1等賞とポ ロネーズ最高演奏賞を受賞した。 「チョ・ソン ジン突風」は韓国のクラシック音楽界を、より 多くの人たちが、より真剣に、より綿密に見直 すきっかけとなった。 パク・ヨンワン
朴鎔妧、元月刊客席編集長、文化体育観光部事務官
©Bartek Sadowski_NIFC
「最終決戦へ進む舞台では不思議と緊張していなかった。手が自動 的に演奏していて、私は自分が奏でる音楽を楽しみながら聴いてい た」-ピアニスト・チョ・ソンジンの受賞インタービューから
韓国の文�と芸� 33
昨
年の秋のある日、私のフェイスブックのタイムラインは 一日中、ある青年の写真で埋め尽くされた。主に文化
界に属する者たちと音楽愛好家たちで構成されたフェイ
スブックの友達は、次々と感激のコメントを寄せた。青年の顔は、
化されたコンクールだということは、クラシック音楽人口のうち、
ピアノ人口が占める割合が絶大であるということを裏付けてい
る。
3大コンクールの中でも唯一ショパンのピアノ作品だけで実力
すぐ韓国最大のオンラインポータルサイトのメイン画面に載った。 を争うショパンコンクールは、制約がもっとも厳しいが、皮肉な そういう場で彼ほどの若者の顔が見られるケースは大きく二つに
ことにもっとも多くのスターとスキャンダルを排出してきた。その
手かのケースである。韓国中が注目したこの青年はどちらでもな
世界大戦の勃発で荒廃したポーランドのワルシャワ。戦争により
絞られる。彼が有名芸能人だったり、あるいは花形スポーツ選
かった。かなり異例なことに彼は「ピアニスト」であった。
昨年 10 月 21 日、第 17 回ショパンコンクールの優勝者が発表
された。2005 年のラファウ・ブレハッチ(ポーランド)、 2010 年
のユリアンナ・アヴデーエワ(ロシア)に次ぐ5年ぶりのスター誕
強力な興行の歴史の始まりは、今から 89 年前に遡る。第一次 心身が疲弊したポーランド国民は、芸術ではなくスポーツに熱狂
した。ワルシャワ高等音楽院の教授でありショパン・スペシャリス
トのイェジー・ジュラヴレフ( Jerzy Ż urawlew )は、ポーランド が文化大国としてのステータスを失うことを憂慮した。ポーラン
生に世界の耳目が集まった。優勝はチョ・ソンジンに決まった。 ド国民を再び芸術舞台の前に呼び集めるために悩みぬいた末、
ショパンコンクール史上初の韓国人優勝者であった。優勝が発
ジュラヴレフが得た解決策は「音楽五輪」つまり、コンクールであ
チョ・ソンジンと今大会の入賞者たちが参加する「ショパンコンク
第1回ショパンコンクールは、 1927 年1月 23 日、ワルシャワ
表されるとただちに韓国の代表的な公演企画会社クレディアは、 った。
ール・ガラコンサート」開催(2月2日芸術の殿堂コンサートホー
のフィルハーモニアホールで開かれた。ショパンの作品だけを課
年 10 月 29 日、企画会社の前売り券販売システムのサーバが一
初代優勝者は、ロシア出身のレフ・オーボリン。続いて 1932 年
ル)のニュースを報じた。同公演の前売り券販売開始日の 2015 時ダウンするなど、クラシック音楽界ではまれなハプニングが発 生した後、公演チケットは一時間で全席完売した。
ショパンコンクール「興行」の歴史
題曲として打ち出した原則は、初代大会から今も守られている。
と1937 年に第2、第3回の大会が行われるが、第2次世界大戦
の混乱でコンクールは一時中断。終戦後の 1949 年、ショパン
の没後 100 周年を迎えて再開された第4回大会でポーランドは、 自国の初優勝者であるハリナ・ツエルニー=ステファンスカを排
いわゆる「 世界3大コンクール」とされるショパンコンクール、 出する(ベラ・ダヴィドヴィチと共同優勝)。
エリザベート王妃国際コンクール、チャイコフスキーコンクー
ルなどが、ピアノのための、もしくはピアノ部門がもっとも活性
1955 年第5回大会以後、5年周期で開かれたきたショパンコ
ンクール史上、最初の「ビックスター」は 1960 年に登場する。他
1 第 17 回ショパンコンクール授賞式会場のワ ルシャワのフィルハモニアホールでコンクー ル関係者および他の入賞者たちと並んだチ ョ・ソンジン。彼の左が第2位のシャルル・ リシャールアムラン(カナダ)、右が第3位 のケイト・リュウ (アメリカ) 2 ショパン・国際ピアノコンクールの受賞者ガ ラコンサートで演奏を終えて聴衆に一礼す るチョ・ションジン
1
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2
ならぬマウリツィオ・ポリーニ。1965 年には「女性」が登場する。 出身の優勝者が誕生したという事実だけでもポーランド全土を
あの有名なマルタ・アルゲリッチ。1970 年にアメリカ人初のギャ
熱くした競演であった。2位と5位なしに4人のアジア系演奏者
リック・オールソン、 1975 年にはポーランド出身のクリスティアン
が共同3位(韓国のリム・ドンミンとリム・ドンヒョクの兄弟)と共
ゲリッチは審査員の立場でもう一度ワルシャワを騒がせた。個性
なった。
・ツィメルマンが優勝する。1980 年開かれた第 10 回大会でアル
あふれるポゴレリチが本選に選ばれなかったことにアルゲリッチ
同4位(日本の関本昌平と山本貴志)で入賞したことでも話題に
が抗議し、本選審査を拒否したいわゆる「ポゴレリチ騒動」がそ
コンクール優勝より大きな夢
世紀ショパン・スペシャリストとして名を連ねて久しい。続いて
話に戻ろう。1994 年生まれのチョ・ソンジンは、韓国の有名芸
優勝者を排出できなかった。
経て 2012 年からパリ国立高等音楽院でミシェル・ベロフに師事
れである。もちろん、その年の優勝者であるダンタイソンも 20
1985 年スタニスラフ・ブーニンの優勝後、ショパンコンクールは
21 世紀になって新たな天才が誕生する。2000 年、中国のユ
(李雲迪)は、ショパンコンクール史上最年少であり15 ンディ・リ
昨年の秋、韓国全土を熱狂の渦に巻き込んだチョ・ソンジンの
術系特殊学校である芸苑(イエウォン)学校とソウル芸術高校を
している。2008 年ロシア・モスクワで開かれた国際青少年ショパ ンコンクールで最年少優勝し、国際舞台で名をあげ、 2009 年日
年ぶりの優 勝 者として記 録され、 一 躍スターダムに躍り出た。 本の浜松国際ピアノコンクールで最年少優勝を果たして世界の
2005 年開かれた第 15 回大会も記録に値する。30 年ぶりに自国
音楽界で大きく注目された。その後 2011 年チャイコフスキーコ
韓国の文�と芸� 35
ンクールで第3位、 2014 年アルトゥール・ルービンシュタイン国 際ピアノマスターコンクールで第3位を獲得し、地道にその成長
ぶりを見せつけた。
私がチョ・ソンジンに初めて会ったのは 2008 年 12 月で、芸苑
学校2年生の在学中に前述したモスクワ青少年ショパンコンクー
のチョ・ソンジンは、ロリン・マゼールが指揮するミュンヘン・フィ
ルとの来韓公演まであと1ヶ月という時期に韓国を訪れた。「物
価が高く、言語が難しいこと以外はパリ生活にすっかり満足して
います。目新しくて面白いです。性格も大きく変わったようです。 余り怖いものがなくなったような気がします。以前はやや人見知
ルで第1位を受賞して帰国した後だった。撮影のためスタジオに
りな性格でしたが、今では私のほうがリラックスして相手のほう
てまるで雪の花のようにクールに感じられた。その日、チョ・ソン
ールに輝く目に変わりはなかった。会話の途中、ユーモアとも
逸話を聞かせてくれた。ほかの出場者たちを見たとき、「みんな
が絶妙に入り混じった小さい溶鉱炉があるようだった。「成功し
入ってきた制服姿の少年の好奇心に溢れた目はとても輝いてい ジンは私に小学校2年生のとき初めて挑んだ国内コンクールの
はちょっとぎこちない様子で…」少年は青年になっていたが、ク 挑発ともとれる言葉がたまに登場した。彼の内面に熱意と達観
あのような姿でピアノを弾くんだな。プロのピアニストにしかでき
たいと思いますか」。私は最後の質問をした。
ワ青少年ショパンコンクール優勝に対する感想は次のように伝え
ろが、それがどのような欲なのかによって違います。演奏でお金
堂々たる姿を感じたとき、気が引けてしまいました。これから西
奏で多くの人の心を打つのが成功なのか、音楽は私のためのも
ない弾き方だと思ったんだけど…」とびっくりしたという。モスク
た。「ロシアで会った同年代の出場者たちから音楽的な自信と 洋音楽を勉強して多くの限界にぶつかるだろうと思います。もっ
と一所懸命レッスンし、人一倍頑張るし かないでしょう」
優勝した翌年の 2009 年1月、彼は錦
湖(クムホ)アートホールの新年音楽会
でリスト「 ダンテ・ソナタ」を演 奏した。 まだ少年に過ぎない彼が、楽譜上の音
符と指示語だけに従うだけで、果たし
てリストの愛を、ダンテの地獄と天国を 表現できるのだろうか。チョ・ソンジンの
演奏は、このような疑念をすっかり吹き 飛ばし、私に正真正銘のリストとダンテ
「仙人のような男だとよく言われますが、欲はあります。とこ
をたくさん稼ぐ演奏者を成功というのか、遥かに高いレベルの演
のだと言って、自分の部屋でもっぱら自己満足のための音楽を
「『アイドル』と呼ばれるのが嫌だ、『ショパン・スペシャリスト』と 呼ばれたりもするが、ショパンは私が今でも苦手な作曲家のな かの一人だ。ベートーヴェンやブラームスは、晩年に行くにつれ 音楽が軽快になるが、多く持っていたものを一つずつ捨てたから ではないのか。人生も同じだろう。だから、私の年齢では多く のものを得なければならない時期ではないかと思う。そうしてこ そ、後になって捨てるものがあるはずだから」
の物語を聴かせてくれた。もし少年がこのような物語を「言葉」
するのが成功なのか…成功って何だ、という定義はないと思い
んだろうか。音楽でなけれ ば不可能なことであり、よって音楽
思います。チョ・ソンジンが演奏するんだって、ただ単にそんな感
で語ってくれたならば、果たして私は感動を覚えることができた は偉大であり、「音楽をすること」も偉大なことであることを少 年は音楽で伝えてくれた。
ます。私の夢はものすごく大きいんです。貴重な演奏をしたいと
じではなくて、ルプ、ソコロフ、ぺライアのように貴重に感じら れる演奏をしたいと思います。ある人によってはそれが成功では
2011 年冬に再び錦湖アートホールでチョ・ソンジンに会った。 ないかも知れませんが。本当に大きい夢ですね。コンクールの
今回は親しい先輩であり仲間であるピアニスト、ソン・ヨルムと
第1位よりもずっと大きい夢なんです」
チョ・ソンジンはいきなり沖縄で経験した話を持ち出した。「この
・ソンジンが第3位に入賞した 2011 年チャイコフスキーコンクー
終えてそこで一日遊んだのは初めてだったんです。のんびりと歩
ついてこのように話したことがある。やはり「音楽家としての成
一 緒 だった。彼らはデュオ公 演を控えていた。長い会 話の末、 前沖縄に行って公演をしたんですけど、ここ数年間海外で演奏を
き回ってみたら、そこの人たちは日常生活のささいなことにも幸
せを感じていたんです。その姿を見て初めて本当の幸せって何な
んだろうと真剣に考えるようになりました」。17 歳のチョ・ソンジ
ンは、なぜあの時、南の国の幸せを語ったのだろうか。
また2年後の 2013 年にチョ・ソンジンに再会した。パリ留学中
36 KoreaNa 春号 2016
若い音楽家たちに「コンクール」はどんな意味を持つのか。チョ
ルで第2位を獲得したピアニストのソン・ヨルムは、コンクールに 功」を問う質問に対する返答だった。「以前コンクールで理不尽 な目に遭ったことがあって、懐疑的な気持ちになったときの、師
匠の金大鎭(キム・デジン)先生がおっしゃった言葉が思い出され
ます。今はコンクールがナンセンスだと思っているだろうけど、 もちろんナンセンスだが…。しかしまた世の中に出ると、コンク
ールほど公平なものもないだろう」。プロの音楽家としての生き
によると、「悔しいのは他ではない。韓国には『音楽をする人』し
方を選んだ世界の多くの若者たちにとって、コンクールはもっと
かいないということだ。マーケットも、音楽をきちんと取り扱う
竜門」に過ぎない。「貴重で希少な感じの演奏をしたい」という夢
ピアノに向かった 22 歳の青年が呼び起こした反響がどのよう
も残酷ながらも確実な登竜門であり、コンクールは文字通り「登 が、コンクールの優勝より大きい夢だというチョ・ソンジンの発言
媒体も、消費者と供給者も不足している」
な結果を生むかは、これから私たちみんなの手にかかっている。
は、だからこそより率直に受け止められる。
その結果がどのような方向に流れようが、「韓国のクラシック音
ア( Solea )マネジメントと契約を交わした。ソレア・マネジメント
になったということだけでも今日チョ・ソンジンの優勝は価値が
最近チョ・ソンジンは、フランスの音楽マネジメント会社のソレ
楽界」をより多くの人に、より真剣に、より綿密に見直すきっかけ
は、今年1月5日に自社のホームページを通じて契約の事実を
ある。
立した同社には、ピアニストのメナヘム・プレスラーなど、 20 人
ビューで2月の来韓公演を控え、国内のファンたちに対して一言
チョ・ソンジン効果?
て残りたい。『ショパン・スペシャリスト』と呼ばれたりもするが、
ック音楽市場にどれだけのインパクトを与えるかについての見通
ヴェンやブラームスは晩年に行くほど音楽が軽快になるが、多く
盤の発売とほぼ同じ時期に、韓国の代表的な若手男性ピアニス
初のショパンコンクール優勝」という突風がおそらく余りにもあっ
知らせた。2005 年ロマン・ブロンデル( RomainBlondel )が設 余りの音楽家たちが所属している。
一方、チョ・ソンジンのショパンコンクール優勝が韓国のクラシ
しは人それぞれだ。チョ・ソンジンのショパンコンクール実況音
トのイム・ドンヒョクとキム・ソンウクの新譜も発表された。三つ
の音盤はシナジー効果を発揮し、好調な売れ行きを維持してい
る。しかし、いわゆる「チョ・ソンジン効果 」がどれほど継続し、 拡大するかについては見方が分かれている。そもそも韓国のクラ
シック音楽産業の内需市場が小さすぎる。ある若い音楽家の話
ショパンコンクール直後、韓国のあるマスコミと行ったインタ
をお願いすると、彼は次のように答えた。「(クラシック音楽界
の) 『アイドル』と呼ばれるのが嫌だ、ずっとクラシック音楽家とし ショパンは私が今ももっとも苦手な作曲家の一人だ。ベートー 持っていたものを一つずつ捨てたからではないのか」。「韓国人
ドイツ・グラモフォンが発売し た「 2015 ショパンコンクール 優勝アルバム」は、発売直後 韓国クラシック部門でトップの 売り上げを記録し、好調な売 れ行きを見せている。
けなく、余りにも早く静まるかもしれ
ないこの性急な都市で、私たちはで
きる限り応援すべきだ。ある若い音 楽家の「華麗な成果」ではない、「孤 独な成長」を。
韓国の文�と芸� 37
インタビュー
イン・スニ
「誰かに希望を与える歌手」 になりたい チョ・ソンシク
趙誠植、東亜日報出版局記者
安洪范 写真
イン・スニはトロット、ソウル、ダンスのすべてのジャンルをカバーし、大韓民国で 一番歌のうまい歌手だと言われている。80 年代に得たダンシング女王という名 声に、圧倒的な歌唱力、本人の人生体験を背景にした深い洞察力が歌に深い解 釈力を与え、まさに「国民歌手」と呼ぶにふさわしい。 38 KoreaNa 春号 2016
ま
ずオンマの話から始めよう。韓国の週末はオンマ(母)を
えて今日に至っている。これまでに 14 枚の正規アルバムなど合
オンマ』そして M B C の『オンマ』はどちらも家族のために
イン・スニは 1957 年在韓米軍だったアメリカ人の父と、韓国
主人公にしたホームドラマが花盛りだ。K B S の『お願い
計 19 枚のアルバムを発表している。
献身する母親が主人公だ。視聴者はそれぞれ自分の母を思い浮
人の母との間に生まれた。彼女が幼い頃にアメリカへ帰った父
るのには、その挿入歌も一役買っている。「遥か遠き道を歩き /
憎みもし / 誰よりも大切にしてくれたあなたに会いたい」と歌う彼
かべながら涙を流す。その中でも特に『オンマ』が人気を得てい 人生の中間点を過ぎて」という歌詞で始まる『あんなにも美しか
ったのに』は、冬枯れの木漏れ陽のように凄然としている。甘く 清雅な音色と叙情的でドラマチックなメロディ。正直に告白する
はそのまま二度と戻ってこなかった。「互いに愛しあい、時には
女の代 表 曲『 アボジ 』が特 別 な理 由 がここにある。この曲 は
2011 年、有名なプロ歌手が一般市民からなる評価団の審査を
受けるというサバイバル歌番組『私は歌手だ( M B C )』でイン・ス
と、私はイントロの一小節を聞いた瞬間、この曲のファンになっ
ニが歌い広く知られるようになった。さらに、有名歌手とその歌
いでしまったのだ。歌手イン・スニ(本名、金仁順)の底力を改め
S I n G E R3( J T B C )』のイン・スニ篇でも物まね名人たちの涙の
てしまった。あふれるような感情の高波に心の小船が大きく揺ら
手の物まね名人がブラインド競演をする 『本物は誰だ―HIDDEn
て確認した瞬間だった。
競演で再び話題となった曲だ。
歳だということを信じる人はいないだろう。タートルネックに綿
年ニューヨークのカーネギーホールでの公演で喝采を浴びた曲
インタビューに現れた彼女は生気に満ちていた。数え年で 60
『アボジ』は韓国(朝鮮)戦争の参戦勇士 107 人を招いた 2010
パン、そしてスニーカーをはいていた。銀色の髪の毛がカフェの
でもある。イン・スニはこの日「もしも韓国に私のような娘がいる
存在だったのだろうか。
な心配はしないでください。皆、それぞれの人生で最善を尽くし
グレーの壁と妙に調和していた。彼女にとってオンマとはどんな 「将軍でした。留まることを知らず、何事も真正面から突き進
んでいくスタイル。倒れてもまた立ち上がる人でした」
そんな母 は 10 年 前 に二 度と帰らぬ 人となった。イン・スニ
かもしれないと思い、胸を痛めている方がいたならもうそのよう
ており、皆様みんなが、私のアボジです」と挨拶し聴衆の目頭を 熱くした。
『アボジ』もまた詩的な歌詞とドラマチックなメロディが特徴だ。
は「私なりには親孝行娘だと思っていましたが、亡くなってみて、 そしてこの歌のサビは最後の「そう私が愛してきた」の部分だ。イ
もっと良くしてあげれば良かったと思うばかりです」と語る。
差別に打ち勝ち
ン・スニはこの曲を簡単には終われないとでもいうように「あい・
し・て」の三音節にそれぞれポーズを置いたあと「きた」という前
にため息をつくように短い嘆息を漏らす。巨匠の境地とでも言お
イン・スニは 韓 国の大 衆 歌 謡 史に特 別 な位 置を占 めている。 うか。この部分で聞いていた私は思わず息を飲んでしまう。
混血児に対する冷遇と差別を克服し、ただひたすら実力でトップ
「その部分は私も毎回、同じように歌えません。雨が降る日の
まで駆け上った唯一の歌手であるからだ。1978 年ガールズグル
感情と、太陽が輝く日の感情が違うように、夜歌う時と、昼歌う
ロックンロールのダンス曲『夜は夜毎に』で人気歌手の隊列に加
す。気を緩めると涙声になってしまいます。気を引き締めると今
を転々とし、 1996 年『また』で「起き上がり小法師(こぼし)」のよ
す。自分自身をコントロールできないからです」
曲『 友 よ( 2004 年 )』、 バ ラ ード 風 の『 ガ チョウ の 夢( 2007
ガチョウの夢
ープ『ヒチャメ( Hee Sisters )』でデビューした彼女は、 1983 年 わった。以後 10 年間はヒット曲に恵まれず、ナイトクラブの舞台
うにまた立ち上がった。以後、ラッパーのチョPDとのデュエット 年)』、『アボジ( 2009 年)』が相次いでヒットし第 2 の全盛期を迎
時が違い、聴衆に男性が多いときと、女性が多いときが違いま
度は歌がうまくいかず。それで時には歌いたくないときもありま
彼女の最も大衆的なヒット曲はリメイク曲で、『ガチョウの夢』
が発表した同名の原曲を彼女の新たな曲解釈により発表から 10
年目に日の目を見た曲だ。「私、私には夢がありました」で始ま
るこの曲は超低音と超高音を行き交う高難度の曲として有名だ。 「 練習のときに本当に何度も涙を流しました。辛い日々の記憶
のせいです。それまで私も夢というものを考えたこともほとんど 歌手イン・スニ。彼女は「最高という言葉は存在しな い。まだ歌の勉強の途中だ」と言う。
ありませんでした。ただ一所懸命に働き、金を稼ぐという思いだ
けでした。どんな風に人生を生きるのか、私はこれが夢だと思
います。その夢を若者たちに話頭として投げかけたいと思い、そ 韓国の文�と芸� 39
1
「 2000 年頃に、自分はどんな歌手として残るのだろうと悩んだことがありました。誰かに希望を 与える歌手になれたらと思いました。不思議なことにその後、私のところに来た曲の一つ一つが 希望に関する歌でした。そして家族の歌でした」
れが当たったようです。この曲のおかげで放送にもずいぶん出演
しお金も稼ぎました(笑い)」
逆境の中でも夢を忘れずに堂々と生きていくんだという人生の
応援歌風のこの歌にはイン・スニの「起き上がり小法師」のような 人生が投影されているという評価を受けている。
「 2000 年頃に、自分はどんな歌手として残るのだろうと悩ん
だことがありました。誰かに希望を与える歌手になれたらと思い
が生まれた瞬間から成長の過程を記録した写真がパノラマのよう
に繰り広げられる。2013 年同じタイトルの本を出すほどに、娘 に対する愛情は格別だ。
「オンマは年をとると娘と友達のような関係になりますよね。
いつからか母がだんだんと娘のような存在になり、私は娘を産
んでようやく母を理解するようになりました。娘に対して何か感 情を抱くときに、母も私にこんな感情を抱いていたんだな、と考
ました。不思議なことにその後、私のところに来た曲の一つ一
えるようになりました」
作詞家に私の考えを話したこともないのに、彼らの目に私が歳
多文化家庭の青少年の代案学校運営
つが希望に関する歌でした。そして家族の歌でした。作曲家や 月の流れの中で変わっていく姿が映っていたようです」
彼女は娘に「あなたの好きなことをしなさい」と言い、「 働かざ
彼女が愛着をもつ、もう一つの曲に『娘に』がある。1994 年
るもの食うべからず」とも教えた。父母を頼りにせずに自分の人
ゃんに捧げた歌だ。ミュージックビデオを見ると、セインちゃん
「 幼い頃から節約する習慣が身に付いており、娘は今も高価な
大学教授パク・ギョンベ氏と結婚して授かった一人娘のセインち
40 KoreaNa 春号 2016
生は自分で責任を持てということを強調した言葉だ。
らは完全無償教育を行う方針を立てており、そのためにはもっと 多くの後援金が必要だ。今年の夏には学校の建物も建てる。最 近購入した廃校を生まれ変わらせるのだ。
ヘミル学校の生徒たちは父が韓国人で、母は大部分が東南ア
ジア出身だ。子供たちは母と意思の疎通がうまくいかないという。
父が母の国の言葉を習うことを望んでいないからだ。イン・スニ
は「だからオンマが子供たちにしてあげられることがあまり無い」
と胸を痛めている。特別なエピソードでもあれば紹介してくれと 言うと、イン・スニは首を振った。
「 子供たちを明るく育てようと集めたんです。彼らの痛みを世
の中に露わにすることは正しくないと思います。時に、後援して
やるといって子供たちの家庭の事情と関連のある映像を要求さ れることがあります。そういうときには私がもっとがんばらなくて
はと誓って、映像を送ることはしません。子供たちを傷つけたく ないんです」
屈曲の多かったであろう彼女の人生。いつが一番挫折したと
2
1 ヘミル学校の基金作りのための「チャリティ音楽会」の舞台で熱唱するイン・スニ。 彼女は多文化家庭の青少年の代案学校ヘミル学校の理事長だ。 2 在校生たちがペイントを塗って完成させたヘミル学校の看板
きだったのか。人生のどん底に落ち込んだと思った瞬間のことを 聞いた。しかし彼女の答えには一発やられた。
「私はそんなこと感じたことがありません。一つ一つが大変だ
と思っていたらとうてい耐えられません。生きていれば雨に打た れ、雪に降られ、小石につまずくこともあるでしょう。平坦な道
だけ歩いてきたなんていう人がいるでしょうか」
続く彼女の告白が再び胸の片隅を突き刺した。
「私はいまだに何でも語り合えるような気楽な友人がいません。
人々は私に個人的な関心はなく、私も他の人々にあまり関心が
ありません。最近になりようやく誰と一緒にご飯しようか考えて
いるほどです。放送局のプロデューサーも良く知りません。私が
人を訪ねて回るのではなく、人々が私を訪ねてくるようにしなけ
ものはあまり買いません。私もそうです。舞台に上がるときには
職業がら最高の姿を見せなくてはならないという考えから投資し
ればという考えに取り付かれて過ごしてきました。幸い、私の実
力を認めてくださる方がいて、ここまで来たのです」
今年、一番したいことは何かを尋ねると二つの答えが返ってき
ますが、 私自身のためだ けにはお金を余り使 わないほうです。 た。一つは白頭山に登ることだ。もう一つは釜山にある U N軍
でも他人のために使うのは惜しみません。私が使うお金で誰か が喜ぶ姿を見るのが楽しいんです」
孤児院、養老院に通い奉仕活動をしてきた彼女が最近、情熱
を燃やしているのが多文化家庭の青少年のための代案学校ヘミ
ル学校( Haemil School )の運営だ。「 ヘミル」とは雨が降った
墓地の碑石 2300 個あまりをきれいに磨くことだ。ここには韓国
(朝鮮)戦争に参戦した外国の軍人たちが永遠の眠りについてい る。すでに昨年の 11 月にオランダの軍人の墓碑 30 個あまりを磨 いたという。
「 戦争当時の彼らの年が 10 代の後半でした。私の父もそのく
後の澄んだ空を意味する。2013 年江原道洪川に建てたこの学
らいの年でした。世間知らずの年齢です。好きな音楽を聴いて、
生を出した。
十分に理解できるようになりました。韓国のために命を捧げてく
校の生徒数は中学校課程の 15 人だ。去年の 12 月に最初の卒業
社団法人 「イン・スニと善良な人々 」 が運営しているが、イン・
スニが理事長をしている。運営費は 200 人余りの後援者が出し ている。その間、食事代程度のお金をもらっていたが、今年か
女性アイドルの後を追いかけるような年齢です。そう思うと父を れた外国人に感謝しなくては。それで墓碑の話を聞いてこれは
私のやるべきことだと考え、すぐに実行に移しました」 鼻の奥がツンとしてきた。
韓国の文�と芸� 41
アートレビュー
建築空間を解釈する 6人の写真家の視点
モク・スヒョン
睦秀炫、美術史学者
安洪范 写真
©リウム美術館
1
三星美術館リウムで 2015 年 11 月 19 日から 2016 年 3 月 27 日まで「 韓国建築礼 賛-土の悟り」展が開かれている。建築を自然と人間の出会いの場としてとらえた 韓国建築の精神を尊ぶ展示だ。
1 ペ・ビョンウ作「昌徳宮」昌徳宮の暎花堂から眺めた後苑の様子 2「景福宮と六曹通り」1/200 縮小模型。観覧客は朝鮮王朝の王 宮だった景福宮とその前の主要官庁の配置を今日の光化門広 場の様子と比較しながら見ることができる。(韓国伝統文化大 学校の所蔵品)
42 KoreaNa 春号 2016
2 韓国の文�と芸� 43
20
04 年にオープンしたリウ
ム は 西 欧 文 化 を背 景 に
持つマリオ・ボッタ、ジャ
ン・ヌーヴェル、レム・コールハースの
3人の外国人建築家の設計による建物
で、建物自体も観覧の対象となってい
る。その中でもオランダ出身の建築家
レム・コールハースが設計した現代的 な展示館は天井が高く、 韓国の伝統
建築をテーマにした展示が行われてい
る。企画展示に先立って、三星文化財 団創立 50 周年を記念する建築写真集
の発刊が企画された。建築史の専門
1
家に依頼して韓国を代表する伝統的空
間を 10 箇所選定し、それぞれ6人の写真家が撮影し 10 巻の写真集を発刊したのだ。せっかく手間をかけて
作成した韓国建築のイメージが「本のみに終わるのはもったいない」ということで展示の形に再構成された。 展示を企画し演出したキュレーターのイ・ジュンリウム副館長の表現を借りると「写真集プロジェクトの意味
を美術館のレベルでより発展的な談論に拡大した」展示だという。
天・地・人のキーワードで見る建築美
展示は大きく3部で構成されているが、それは韓国の伝統建築の使用目的に基づいている。宗教行事を
する空間、統治の秩序を実施する空間、日常的な生活空間に分けて、それぞれを天・地・人を象徴した。建
築という素材を通して、人が天とどのように疎通し、大地にどのような秩序をうみ、人々が互いにどのよう
に調和をとって暮らしていたのかを見せようというものだ。
セクション「天」のサブテーマは「沈黙と荘厳の世界」だ。ここに招かれた空間は仏教寺院の海印寺、仏国
寺、通度寺、仙巌寺と朝鮮王室の祠堂で儒教精神の象徴でもある宗廟だ。セクション「地」のサブテーマ は「地の経営、秩序の建築」、ここには朝鮮時代を代表する宮殿昌徳宮(ユネスコ世界遺産)や 18 世紀に正
祖が新しい都市として建設した水原華城やソウルの城郭、漢陽都城などがある。セクション 「人」のサブテー
マは「暮らしと調和の空間」だ。15 世紀から続いてきた両班氏族村で朝鮮時代の生活様式が大事に保存さ れている慶州近くの良洞村、朝鮮時代の支配理念である性理学を教えた代表的な陶山書院、そして韓国の
民間庭園の白眉といえる全羅南道潭陽の瀟灑園が取り上げられている。これらの空間が展示場に招待され
ることで、観客もまたその空間に足を踏み入れるのだ。
空間を展示するのはたやすいことではない。膨大な建築空間を展示場の中に圧縮し、写真のような2次
元の平面を通じて観客に立体性と空間性を伝え、さらに何よりも建物を建ててその中で生活してきた人々の 暮らしを見せなければならないからだ。今回の展示では壁面にかけた大型写真を中心に 10 個の主要な建
築空間が再現されている。文章で説明するよりは観客が写真を通じて空間と直接対面できるようにしたの だ。そこに多角的な理解を助けるための装置も加えた。各空間の3Dスキャン映像と建築の建設方法を示
した3D映像および鳥瞰図模型、建築関連の遺物と絵画、そして韓屋の断面を縫い合わせるように再現して、 韓屋に対する記憶と経験を現代的にアレンジしたソ・ドホの作品「北側の壁」など、その多彩な構成からは企 画者の細やかな配慮が伺える。
建築と写真の出会い
このプロジェクトに参加した写真家はチュ・ミョンドク、ペ・ビョンウ、ク・ボンチャン、キム・ジェギョン、ソ
44 KoreaNa 春号 2016
1 良洞村無恭堂の空間構成 に新たな解釈を加えた有 恭堂。伝統的な木造構造 に現代的な鉄筋構造を加 えた。高床の板の間の規 格 は 1.8 m × 1.8 m 。 部 屋の窓から外の風 景 取り 込む韓屋の妙味「借景」を、 窓に風景の映ったスクリー ンを設置することで再現し ている。 2 パク・ジョンウの3チャンネ ル 映 像「 荘 厳 な 静 け さ 」。 暗幕の張られた映像室の 中で長さ5分の映像を見る ことで、 観 覧 客 は 建 築と 祭礼、祭礼楽と雨音を共 感 覚 的 にとらえ、 宗 廟 を 間接的に体験できる。
・ホンガン、キム・ドギュンの6人だ。ドキュメンタリーと文化財、風景など作業してきた経歴も多彩で、年 齢も 40 代から 70 代までと幅広い。写真家たちの視点は多様だが展示場は一貫性を保っている。
写真家たちは全体を見通す視線とそれぞれの空間に立ったときに見える周辺の風景を取り込もうとした。
高麗時代 11 世紀に製作された八万大蔵経の木版を保存してきた海印寺の蔵経板殿はチュ・ミョンドクの視
点で観覧客に示された。海印寺殿閣の屋根に舞い落ちる雪の一粒一粒が見えるほどに写真は繊細だ。ゆっ
くり変わるスライド画像は観客に、のろのろと歩きながらあちこちに視線をめぐらしているような感じを与え る。その中には停止した建物だけでなく修行僧たちの日常もあり、そこが生きた宗教空間であることを悟ら せてくれる。
白い雪におおわれた正殿の建物と石畳が長いフレームの中に納まっているペ・ビョンウの宗廟の写真の前
ではその厳粛さに思わず足が止まってしまう。宗廟の共感覚の現象がより鮮明になるのはドキュメンタリー 映像作家パク・ジョンウの3チャンネル映像「荘厳な静けさ」の前でだ。暗幕の下がった小さな映像室の3面
いっぱいに広がる宗廟の姿はわずか5分の時間がまるで永劫のように感じられる。白黒中心の簡潔な画面
は、宗廟建築と祭礼を執り行う人々、祭礼楽と雨音を共感覚的にとらえ宗廟空間の記念碑性と祭儀性を圧 縮している。
ソ・ホンガンの仏国寺の写真からは観光客で騒々しい日頃の姿ではなく、8世紀に国家的な経営で創建さ
れた仏国寺本来の威厳が感じられる。多宝塔、青雲橋と白雲橋、極楽殿の庭を撮映した風景だけではなく、
白雪に被われた正殿の建物と石畳が長いフレームの中に納まっているペ・ビョンウの宗廟の写真の 前では、その厳粛さに思わず足が止まってしまう。白黒中心の簡潔な画面は、宗廟建築と祭礼を 執り行う人々、祭礼楽と雨音を共感覚的にとらえ、宗廟空間の記念碑と祭儀性を圧縮している。 ©リウム美術館
2
韓国の文�と芸� 45
自然な石築基壇と丹青のような細かい部分にも目をとめている。ク・ボンチャンにいたっては、渓谷を挟ん
で長く伸びていて、一目で把握するのが難しい通度寺を金剛戒壇の裏の松林から眺める角度でとらえている。 渓谷を利用して作られた庭園の瀟灑園は韓国人の自然と建築感が良く表れた場所として知られている。ク・ ボンチャンは亭子の中から眺める周囲の風景を撮ることで、建築そのものよりも自然の中の建築の存在にス ポットをあてている。枠にはまらない配置の宮殿である昌徳宮も同様だ。これらの写真は韓国建築がどの
ようにその地勢を解釈し、自然と疎通しているのかを示している。同じ木造建築の伝統をもつ中国の建築が
大きく堂々とした形態を重要視するのなら、韓国の建築は形態や大きさよりは空間との関係を重視している
ように見える。これは韓国の建築観であり自然観でもある。
古美術とデジタル技術の融合
テーマに合わせて要所要所に適切に配置された絵画と地図、建築と関連した工芸品は建築物の空間を
拡張する一方、より奥深く見つめさせてくれる。ハーバード大学の図書館から借りた「宿踐諸衙図」は 19 世
紀、ある官吏が 42 年間かけて自分の勤務した官庁を描いた記録画であり、韓国では初めて公開されるも
のだ。「京畿監営図」は京畿監司が漢陽の西大門をでて監営に帰る姿を 12 幅の屏風に描いたもので、19 世
紀当時の建物を背景に人々の動きが生き生きと描写されている。モニターを通して画面の細部を眺めるこ
とができる 「デジタル拡大鏡」を使用すれば絵の中の建物と人々をより詳しく観察することができる。
デジタルを利用して新たに登場したのは金銅仏塔の映像の復元と細部のイメージだ。リウムが所蔵する
高麗時代の金銅仏塔は 150c m の小型で、現在は5層になっているが、研究で9層であったと推定されてい
るもともとの姿をデジタルで復元して見せている。相輪部、屋根、欄干などの構造的な姿、軒先の風鐸、 塔身に刻まれた仏像などに至る細部の様子を繊細に見ることができる。
展示は説明書きよりは映像を多く活用している。2013 年アメリカのメトロポリタン美術館で行われた「新
羅」特別展でお目見えした石窟庵の3D縮小映像は、8世紀の建築物である岩窟庵がどうやってそのような 完璧な形態を成すことが出来たのかを示している。水原華城の八達門の縮小過程と瀟灑園の光風閣の建設
から完成までを見せてくれる3D映像は礎石の上に柱を立てるところから屋根の構造が完成するまでを詳細 に再現しており、木造建築構造の理解に大いに役立つ。
韓国の現在と伝統建築
空間的な制約にもかかわらず実物大に再現された建築もある。展示の導入部には韓国の古建築の中で
最も古く、外形の美しいことでも有名
な浮石寺無量寿殿のエンタシス様式
の柱と柱の上の構造物である包作が 実物大で展示されている。木のもつ温
もりと屋根を支える柱の逞しさと同時
に曲線的な柔らかさが現れている。展
示の最後は良洞村の代表的な建物の 一つである無添堂を現代的に解釈した 有添堂がおかれている。この新しい建
物は伝統建築の歴史家であり、韓国
芸術総合学校の現総長キム・ボンリョ
ル氏のアイデアで具 現されたものだ。 設計者は「無」を「有」に変え、一方で
は伝統空間に現代の目を「加えた」と
いう意味からこのような名称にしたと 46 KoreaNa 春号 2016
1
1 ソ・ドホ作「北側の壁」。伝 統家屋の屋根と瓦、現代 的 に改 造されたレンガの 壁、 門、 窓 などを布を利 用して繊細に表現した。 2 チュ・ミョンドク作「修多羅 蔵 と法 寶 殿 の 屋 根 」。 法 寶寺刹の海印寺のこの屋 根の下には世界記録遺産 である八万大蔵経の木版 が 600 年 以 上 保 管されて きた。
2 ©リウム美術館
いう。伝統的建築物の木造楼閣と現代的に簡素化された節制の部屋は伝統と現代、良洞村の二つの家門
の結合など重層的な意味合いをもっている。この建物の良さは何よりも観客が靴を脱いであがって空間を
体験することができるという点にある。板敷きの楼閣では視覚と触覚で韓屋の空間を肌で感じることができ
る。部屋には目の高さに良洞村の風景がスライド映像で流れている。最も良い景色の見られるところに窓 をつくり、ちょうど額縁の中の絵のように窓を通して自然と共感していた昔の人々の自然観が伺える。
リウムは開館以来、1年に3、4回開催する特別企画展を通じて「画員大展」、「細密可貴展」のような所
蔵品を中心とした伝統絵画と工芸品の展示、「アンディ・ウォーホール展」、「アニシ・カプーア」などの現代
作家展を行ってきており、建築を主題とした展示は今回が初めてだ。 イ・ジュン副館長は今回の展示が「過
去と現代、美術史と建築、技術と人文学が融合して」作られた初めての本格的な展示だと自負している。 韓国人の生活空間は現在 70 %以上が都市化されている。伝統建築を暮らしの空間としてではなく観光で訪
れるところだと考えるのは外国人だけではなく、韓国の若者たちも同じことだ。しかし彼らが知っているか
どうかは別にしても韓国で育ってきた空間体験がすべて消えてしまったわけではない。韓国人は依然として
山に囲まれた穏やかな大地の大切さを知り、家が南の方向を向いているかを確かめ、風通しが良く、明る
い日差しが一杯に差し込む窓を好んでいる。室内に入るときに靴を脱ぐのは当然なことで、温かい床と光と 音が通る紙の窓が好きだ。
企画者の意図どおりに観客がそのような韓国建築のDNAを感じることができれば展示は大成功だと言えよ
う。韓国人は今や自然に囲まれた木と土で出来た家に住んではいないが、伝統建築の体験は韓国の若者た ちはもとより外国人にも自然と共に暮らしてきた韓国人の生活を理解する絶好の契機となることは確かだ。
韓国の文�と芸� 47
パンソリに魅せられた外国人 韓国大好き
ライオン・キャシディの「ソリ」が 文化の境界を超える ダーシー・パケット
フリーランス・ライター
安洪范 写真
韓服姿の西洋人が、パンソリ (語り口伝歌謡)を歌う姿はほとんど馴染みのない光景である。しかし、パンソリに対す
るライオン・キャシディ教授の情熱は、単にパンソリが普遍性を持った魅力的な芸術であることを示すレベルを超えて、 韓国固有のソリ (歌) の芸術を古くさいものとしか理解しない人々に疑問を投げかける。
48 KoreaNa 春号 2016
人
は他人よりも著しく際立った不慣れな環境に足を踏み入れることは決
して簡単ではない。1997 年韓国の地に初めて足を踏み入れたカナダ 人のライオン・キャシディ ( Ryan Cassidy )は、自分がそのような状況
に直面していることにすぐに気づいた。「当時は韓国に長く滞在するとは思わな
かったので、故国に帰れば二度とできない何かを習いたいと思いました」。いろ
いろな情報を捜し求めてようやく探り当てたのが、区役所の四君子(蘭、竹、菊、 梅)絵画教室だった。さっそく授業に登録した。「初日行ってみたら、私が唯一
の外国人であるだけでなく、男性は私一人だったんです」と彼は笑った。そのよ
うな状況下でも彼は平気で地道に基本を学んでいった。このような忍耐力と韓 息子・キイン君の太鼓伴奏に合わせてソリ(歌)を歌うライオ ン・キャシディ氏。息子も父親の趣味生活を傍で見ながら、 パンソリに目覚め、熱心にパンソリを習っている。
国伝統文化に対する彼の関心が結局彼をパンソリの世界へ導いた。
ときには「韓国版オペラ」と喩えられたりするパンソリは、一人の歌い手と太鼓
を打つ鼓手がペアになり物語りを歌にして伝える音楽である。キャシディ教授が 始めてパンソリに出会ったのは、彼が韓国で暮らして 10 年目の頃だった。「本
当に素晴らしいと思いました」と彼は当時を思い出し語り始めた。「とてもシンプ
ルななもののように見えたんですね。ただ一人の声があるだけで、楽器もかな
り平凡に見えました。ところが、その中で表現される感情の幅は実に広いもの でした」
彼の心に深い印象を刻み付けたパンソリ名人は、ソ・ジヨンさんで、キャシデ
ィ教授と同じ春川(チュンチョン)に住んでいる。以後、ソ・ジヨンさんの公演をさ
らに数回観覧した後、彼はソ・ジヨンさんに直接会って太鼓を習いたいと申し出
た。これまで歌にあまり興味がないうえに、カラオケに行くことさえ気が進まな
い彼だった。しかしパンソリの魅力に引きつけられた彼は今、ソ・ジヨンさんに 稽古をつけてもらっている。
韓国に根を下ろす
韓国に来る前まで彼は、自分は料理人に向いていると信じていた。1990 年
代スキーリゾートで有名なカナダ・ウィスラーに住んでいた当時は、お金を貯め
て調理師専門学校に行くつもりだった。しかし、ウィスラーでは彼の夢を叶える
ことが難しく、友達の勧めで英会話講師に採用されて、韓国に来ることになっ た。「韓国に着いた翌日から7歳の子供たちの授業を受け持ちました。講師研
修もなく、すぐ教室の中に押し込まれて授業を進めるように言われました。とこ
ろが半年後、英会話教室で開催した第2言語としての英語( E S l )のワークショ
ップを聴きながら、自分がどれほど教えることが好きなのかがわかりました」。
数年後、彼は英語教師要請プログラムであるセルタ( C E l T A )過程を修了し、
結局修士号まで取得した。
自ら「田舎者」と称する彼にとってソウルという都市はいろいろな面でカルチャ
ーショックの連続だった。「カナダで私が住んでいたところは、長さが4km、幅
2km に過ぎないとても小さい島でした。スキーシーズンではないときは、人口
も2千人に過ぎなかったんです」。妻のキム・ヒョンスク氏との出会いから一年後、 結婚した彼らは、2002 年に再び春川に引っ越してくるまでの数年間を江陵(カン
ヌン)で暮らした。今彼らは 11 歳の息子キインと8 歳の娘ハンナを育てている。キ
ャシディ教授は現在、翰林(ハンリム)大学校国際学部で学問としての英語力向上、 つまり読解と批評的思考力向上に焦点を当てた科目を教えている。
韓国の文�と芸� 49
「パンソリの裾野がもっと広がり、自然に享受できる環境が整うことを望みます。パンソリを楽し むのに必ずしも専門家になる必要はないと思います。西洋クラシック音楽を聴くように、気楽に 楽しめば良いのです」 半人前のパンソリ歌い手
歌』、 『春香(チュンヒャン)歌』、 『興夫(フ
パンソリはキャシディ教授が情熱を注げ
ンボ)歌』、 『赤壁(ジョクビョク)歌』、 『水
にパンソリを習うのに並々ならぬ忍耐力
一作品を最後まで歌いきるのに最低4時
る趣味となって久しい。誰もが考えるよう
最初は余暇時間に楽しんでいた個人的
一節一節ちゃんとできるまで練習し続け、 な趣味活動だったのが、今では観客の前
もう大丈夫だというところで、次の節に 移行するやり方です」
「 歌詞を覚えるのに特に苦労しました。
け入れている。「私のことを快く受け入れ
ることはなかったんです。かえって目を見
と思ったんです。ところが、『国楽饗宴』と
らないという反応です。だから、難しいけ
っていなかったんですね。観客の前で初め
です」
怖症などはありませんでしたが、その日
彼が最近稽古に励んでいる作品は、親
国楽界ではほとんど彼を排斥せずに受
「韓国の伝統音楽に携わる、複数の外
公演はうまくいかなかった。
国人に自分のパンソリ歌詞集を見せたり
ど無条件に頭の中に叩き込むしかないん
として舞台に立ったりもする。
てくださいました。実力不足の私にもか
国人教授を招いて舞台を飾るテレビ番組
もしますが、みんなどういう意味かわか
びたび師匠のソ・ジヨンさんの鼓手の資格
で公演も行うようになった。だが彼の初
漢字語が多く、今では使われていない古
語も多く含まれています。たまに周りの韓
られる。ソリ(歌)も歌うが、春川地域で
宮(スグン)歌』の 5 つしか伝わっていない。 は一人前の鼓手が不足しているため、た
が要る。「パンソリには楽譜がありません。 間から6時間かかる。 師匠の音を耳で聴いてマネするだけです。
ャシディ教授の公演を行う姿がよく見かけ
かわらず、少なくとも面と向かって叱られ
張って、外国人が国楽の魅力にハマった
だと言われて、『よし、一度やってみよう』
ことを歓迎してくださったのでしょう」
いう番組がそんなに大きな舞台だとは思
でありながら国楽の美を「見いだした」知
て試みる公演でした。前日までは舞台恐
ムルノリ(韓国の伝統芸能)を行うスイス
急に恐怖に襲われたんです。本当に何も
l a n g e )氏と数回にわたって公演を行い
実際に彼は、自分と同じように外国人
人数人とともに公演を行ったりする。「サ 出 身の ヘンドリケ・ランゲ( H e n d r i k j e
孝行娘の沈清(シム・チョン)が盲目の父
かもがメチャクチャになってしまいました」
ました。キム・ドクスのサムルノリ公演を
いう韓国の昔話『沈清歌』である。パンソ
新しい共同体を探す
と辞めて韓国に渡ってきた方です。伽倻琴
の目を治すために、船乗りに身を売ると
リ作品は、 12 作あったのが、今は『沈清
最近は春川はもちろん、全国各地でキ
見て、心理療法士という仕事をあっさり
(カヤグム)を演奏する大田在住のジョス
リン・クラック( J o c e l y n C l a r k )教 授、 奚琴(ヘグム)を演奏するソウル大学校の
ヒラリー・フィンチャムサング教授。みなさ ん似たような経験をしているようです。ほ
とんど韓国人でさえよくわからない国楽と いう音楽の粋を外国人が理解しているこ
とが不思議に思えるのでしょう」
キャシディ教授のパンソリに対するアプ
ローチから、彼がどれほどこの音楽に無
限の情熱を持っているかがはっきり読み
取れる。歌い手の「ソリ」が一般的な歌と
どのように違うのか、彼は次のように述
べる。「 歌はその音の幅がかなり狭いで
す。 概 ね 聴 いていて 楽しい ものです ね。 1
50 KoreaNa 春号 2016
それに対して、パンソリの「ソリ」はその
2
幅がはるかに広範囲なものです。聴きづ
行く創作者たちを散々褒め称えた。たと
込まなければなりません。春香歌の一節
1 ライオン・キャシディ氏は、妻のキム・ヒョンスク氏、 息子のキイン、娘のハンナの家族と春川に住みなが ら、翰林大学校で教えている。 2 2014 年「徳寿宮(トクスグン)風流」公演でライオン・ キャシディ氏が、『沈清歌』の中の「盲人の沈氏が目 を覚ます語り節」を歌っている。
と別れる場面を見ると、悲しげな鳥の声
が、私はここでちょっとアイロニーを感じ
ソリを作り、新しい可能性を開いた。彼
たちが、とても難しいピアノやヴァイオリ
評を得ている。
らい音を含め、ときには鳥のさえずりや
雷のような自然の音までも歌い手は盛り
の中で、春香が李夢龍(イ・モンニョン) が BGM で流れます。私の師匠のソリをお
ます。自分の息子と同年代の韓国の子供
ように感じられると思います。実に驚くば
ン曲を演奏するのをよく見るからです」
聞きになれば、まるで鳥が隣にいるかの
かりです」
パンソリの未来
韓国でパンソリは、今や専門家だけの
芸術だと捉えられているようだと彼は指
摘する。専門家グループ以外の人々はパ
えば、歌い手のイ・ザラムは、ドイツの劇 作 家・ベ ルトルト・ブレヒト( B e r t o l t
B r e c h t ) の『 T h e G o o d P e r s o n o f
S z e c h w a n 』をモチーフにした創作パン
の『 S a c h e o n - g a 』は、海外で大きく好
「従来の5つのパンソリは、それ自体で
とても卓越したものだと思います。しかし、 創作パンソリはより多くの人の耳目をパン
ソリに向けさせる呼び水になります」とキ
父親のキャシディ教授に連れられて彼
ンソリについてよくわからない二極化現象
ャシディ教授は強調する。「その歴史を見
る。「みんな私たちが習わせていると思っ
極をつなぐ中間層が今日韓国に必要なの
衆と呼吸をともにして変化し続けたから
の 二 人 の 子 供 も パ ン ソリ を 習 って い
ています。しかし、違いますよ。(笑い)息
が存在しているということである。その二
ると、パンソリが持続できた理由は、観
ではないかと、彼は控えめな意見を提示
です。パンソリは、もともと市場で下層民
「パンソリの裾野がもっと広がり、自然
に入って両班層がその主な聴衆に変わる
パンソリを楽しむのに必ずしも専門家に
20 世紀以降は、足踏み状態が続いてい
が楽しんだ遊び文化だったのが、 19 世紀
子がたまに公演を見に来て、またそれを
してみる。
と声をかけてみたんです。娘も同じでし
に享受できる環境が整うことを望みます。 など、変化を繰り返してきました。しかし、
楽しむ姿を見て『君も一度やってみるか』
た」。3人は最近ネパール地震の復興支
援公演の舞台にともに立った。息子のキ
なる必要はないと思います。西洋クラシ
ます。パンソリが引き続き進化、発展でき
インが特にパンソリの習得スピードが速い。 ック音楽を聴くように、 気楽に楽しめ ば
る道を探すことができれば、若者たちが
ことを学ぶのかとよく聞かれます。ところ
ると信じています」
「子供たちがどのようにそんなに難しい
良いのです」。彼は既存の枠を超えて新
しい創作作品にパンソリの地平を広げて
もっと親近感を感じるのに大きく貢献でき 韓国の文�と芸� 51
オン・ザ・ロード
© 国立公園管理公団/智異山国立公園
52 KoreaNa 春号 2016
咸陽と山清
クァク・ジェグ 郭在九、詩人
安洪范 写真
春の山の匂い漂うソンビの町
トゥルレキル(遊歩道) でつながる智異山(チリサン)圏域に、咸陽(ハムヤン) と山清 (サンチョン) がある。オーラに満ちた山は居心地のよい魅惑的な観光
スポットだ。歩けば春の匂いに、いにしえのソンビ(高尚な学者)の香りがか
すかに漂う。
朝鮮半島の南側の全羅南道(チョルラナムド) ・全羅北道(チ ョルラブクド)、慶尚南道(キョンサンナムド)にまたがる智異 山は、景色が美しく、歴史、文化、郷土遺跡もあちらこち らに多く残っているため、 1967 年大韓民国最初の国立公園 として指定された。智異山の数多くある峰の一つである老姑 壇(ノゴダン)は、全羅南道求礼郡(クレ)にあり、毎年5月 初めにツツジが満開となる。
韓国の文�と芸� 53
人
生の中で私が好きな匂いが二つある。お母さんのお乳の匂いと早春の山の匂いがそれ
である。母のお乳の匂いは、実は記憶にない。もう 60 年も経っているので、私にとっ
てこの匂いは観念的なものである。それでもこれまで生きてきた中で見た最も美しい光
景のうち一つは、母親が子供にお乳を与える姿である。私は6回程ヒマラヤトレッキングをしたが、 雪山の神秘的なパノラマよりも私の心を捉えたのは、高山の町の女性たちが子供におっぱいを飲
ませる姿だった。彼女らは、人目を気にしていなかった。目が合うと明るい笑顔で「ナマステ」と 挨拶した。母性で他人を眺めるからである。今、わたしの母はこの世にいない。夢にさえ現れな
い。
智異山の思い出
南原(ナムウォン)で智異山鄭嶺峙(チョンリョンチ)の峠を越えて雲峰(ウンボン)に行く道中、山
の匂いがした。車窓から飛び込んでくる早春の山の匂いが私は好きだ。古い書庫に並べられた本 の匂いのようでもあるし、夜通し書いた詩の初稿からにじみ出る匂いのようでもある。
鉄道駅のプラットホームの古びた椅子、長道列車の汽笛の音、立ってカップラーメンを食べる人
たちの背中にまでついた初春の匂いは華やかさはないが穏やかである。山は「私の夢を読み取って
くれ」とねだることもない。ただ同じ場所にじっと佇まい、間もなく移り変わる風景の次章を待つ。 世界の隅々まで旅した者の身体にはない匂いを早春の山は放っている。その匂いの中を車は静か
に走る。
一昔前に白武洞(ペクムドン)の谷間を経て智異山トレッキングをしたことがある。連れがいた。
人生には単に幸運だっただけだと見なしがたい運命的な瞬間がある。その瞬間がそうだった。彼
女がなぜ智異山トレッキングに同意してくれたのかは神様しか知らないだろう。山を登る途中で、
ある小ぢんまりとした村で昼食をとった。主人がキムチを出してくれたが、そのキムチから神秘的
な匂いがした。初めて嗅ぐ匂いだった。ジャスミンの香のようでもあり、ラベンダーの香りのよう
でもあった。主人がサンショウ(山椒)の匂いだと言った。馴染みのない香辛料を味わった瞬間だ
った。初めて嗅ぐその匂いがよかった。智異山のふもとではサンショウと呼ばれるこの木の芽の別 名はハジカミである。私が美味しそうに食べるのを見ながらた主人が一言付け加えた。「冷え込
1
54 KoreaNa 春号 2016
1 智異山の数多くある古刹の一つであ る大源(テウォン)寺は、東側の麓で ある慶尚南道山清郡に位置している。 智異山の旧名の「方丈山(パンザンサ ン) ・大源寺」という扁額が掲げてある この楼閣の下を通り抜けると、寺院 の境内である。寺下村の駐車場から 一柱門を通り抜けると、この楼閣に 至る長 い谷 は、 韓 国 最 高 の 濯 足 処 (足を洗う所)とされる。大源寺は代 表的な泥僧が参禅する道場である。 2 咸陽郡・馬川面(ハミャングン・マチョ ンミョン)の棚田。米 C n n が選定し た韓国の観光スポット50 カ所のうち 一つである。
2
みは和らいだようだが、頂上に登ると寒いから稲わら一束を持って行くといいよ」と。彼の家には、 秋に脱穀して残った稲わらがあった。私は彼の言うことに従った。ばかみたいにリュックサックの
上に 10kgほどの稲わら一束を担いで智異山を登った。山小屋に着いて私は彼に言われた通りに 床に稲わらを敷いた。横になるとふんわりとした感触だった。その上に横たわって毛布を二枚重
ねにして掛けたていたら、テントの中のランプの灯の光が暖かった。翌朝目を覚ますと、テントの
上に白く霜が降りていた。その晩、そのテントの中で初キスをして下山し、結婚して二人の子供を 授かった。
千年になった人口森
車は智異山の山道を進んで咸陽(ハムヤン)にたどり着く。中国を最初に統一した秦の首都と同
じ名前である。雲も休んでいく山間の邑(集落)になぜこのような名前がついたのか。表意文字の 漢字にその意味が秘められている。世界の隅々まで暖かい陽光が行き届くようにと。私の足は上林
(サンリム)へと向かう。上林は、今から 1150 年前の新羅の真聖(チンソン)女王時代の学者、崔
致遠(チェ・チウォン)が造った林である。韓国最古の人工林である。崔致遠は 11 歳で唐に留学し、
18 歳で科挙(官吏登用試験制度)に合格して 28 歳のとき帰国する。外職を志願して咸陽の太守(郡 韓国の文�と芸� 55
一蠹(イルドゥ)散策路という名の坂道を登ると、町の風景が一望できる。老いた松の木の枝 間から透けて見える古びた瓦家が整然と立ち並んでいる。折しも小川付近の家々から夕食の 炊煙が立ち昇る。 の長官)として赴任したが、町の人々が水害で苦しんでいるのを見て、防水林としてこの林を造った
という。
林の入り口に美しい伝説を持つ連理木(ヨンリモク)が立っている。連理木とは2本の樹木がくっ
付いて一つになっている姿を表し、連理枝(ヨンリジ)は根元の違う2本の木の枝が癒着結合して一
つの樹になることを言う。昔はすべての国に瑞祥がある兆しとして受け入れられた。この連理木は、 お互い異なる樹種であるケヤキとイヌシデが一つに合わさったものであることから、見る者の目を 釘付けにする。
崔致遠が上林を造るころ、川の向かい側に住むある青年が咸陽城内の娘に恋をして毎日川を渡
ったが、その話を聞いた崔致遠がこの川に飛び石を敷いた。年月が経ってその飛び石は消えてしま ったが、咸陽の住民たちはその川の上に千年橋という名の橋を架けた。林の樹を咸陽の人々はサ
56 KoreaNa 春号 2016
1 慶尚南道咸陽郡の鄭汝昌(チョン・ヨ チャン)古宅の離れの縁側。古拙な 様式の手すり越しに扉が見える。 2 咸 陽 郡・ 弄 月 亭( ノン ウォル チョ ン)。「月に戯れる」という意味のあず ま屋の名前は、真夜中岩盤の上の川 水に映った月の美しさから由来したと いう。
ランナム(恋の樹)と呼び、恋人たちがこ の樹の下を通り抜けると二人の愛が結実
するという伝説が伝わる。20 万平方メー
トルを超える面積に 120 種余りの 20,000
余本の広葉樹からなるこの林は、天然記 念物 154 号に指定されている。
介坪・韓屋村の風景
朝鮮時代から咸陽の人々は、「左は安
東(アンドン)右は咸陽」という言葉をよく 口にした。これは咸陽と安東が朝鮮時代
のソンビ精神(高尚な学者精神)を代弁す
る町であることの自負を伺わせる。先述
の孤雲(コウン) ・崔致遠をはじめ、佔畢
齋・金宗直(チョム・ピルジェ・キム・ジョン
ジク) ( 1431 - 1492 )、一蠹・鄭汝昌(イ
ルドゥ・チョン・ヨチャン) ( 1450 ‒ 1504 )、 燕巖・朴趾源(ヨンアム・パク・ジウォン)
1
( 1737 ‒ 1805 )など、韓国人なら誰でも 名前だけは知っている、時代の香りが色
濃くにじみ出るソンビたちが、ここに彼ら
2
の人生と学問の足跡を残した。
池谷面・介坪里(チコクミョン・ケピョンリ)の韓屋(韓国伝統家屋)村に差し掛かった。小さな橋を
渡って村に入ったら、精米所の建物が目に入った。昔、田舎では精米所の規模が生活の規模を物
語っていた。精米所が勢いよく回るほど人々は暖かくて穏やかな暮らしができただろう。精米所の 裏側の小山に立ち並んでいる老松の非凡な姿が目に留まった。
鄭汝昌(チョン・ヨチャン)の古宅を訪れた。彼は朝鮮王朝最悪の暴君・燕山君(ヨンサングン)の
生母廃妃尹(ユン)氏の追放と賜死事件が火種となった甲子士禍(カプチャサファ:燕山君 10 年に起
こった大規模な粛清事件)の際に、剖棺斬屍(墓を暴いて遺体の首をさらす極刑)に処された士林派
(サリム:成宗時代に政界に進出した新人学者)の代表的なソンビだった。12 棟からなるこの家は、
1506 年中宗反正(中宗擁立のクーデター)により鄭汝昌が復権した後、子孫たちが建てたものであ
る。サランチェ(別棟)に掲げられている「百世清風」という大型扁額が目に入る。代々にわたり清
廉な官吏として生きることを決意する朝鮮ソンビの念願がこめられている。あなたが酒好きならば、
この家中に香が行き渡っている家醸酒(カヤンジュ:家庭で作る醸造酒)のソルソン酒を味見する必
要があるだろう。5百年の伝統を持つこの酒は、鄭汝昌の子孫たちが礼を尽くして祖先を祭るため
に作った祭祀用酒から由来した。春に若い松の木から芽を採取して作るこの酒を口にし、昔のソン
ビたちの趣を一度感じてみたいと思ったが、残念ながら広報官で誰にも会えなかった。
一蠹(イルドゥ)散策路という名の坂道を上ると、町の風景が一望できる。老いた松の木の枝間か
ら透けて見える古風の瓦屋の姿が整然としている。折しも小川付近の家々から夕食の炊煙が立ち 昇る。昔の旅人は、一夜の宿を決める際に、ご飯を炊く煙を重要な基準にしたという。集落に花
が咲き、家々に炊煙が立ち昇ると、あ~今夜ここで泊まろうと思ったのである。ソルソン酒を口にす
ることこそできなかったが、老いた松の木の匂いとご飯を炊く煙を思う存分堪能したのだから、い わゆる 「松煙酒」を飽きるほど飲んだような按配だ。
韓国の文�と芸� 57
山奥の町とお寺
車は山清の大源寺(テウォンサ)通りに差し掛かる。智異山の麓を流れる鏡湖江(キョンホガン)
周囲には、シチョン、チャンセム、トクキョ、ミョンサンなどのような美しい名前の山里がある。闇
におおわれた川辺の灯りが美しい。山の上の家々の灯りが蛍の光のように見える。大源寺は、智
異山にある寺院の中で最も深い渓谷のせせらぎを聞くことができる。深山の匂いを深く吸いながら 山道を登る間中、せせらぎにつつまれた。
山の匂いがする中、星の光が明るく輝き、夜の礼拝を知らせるお寺の太鼓の音が聞こえてくる。
真っ暗な境内を歩いて本堂の前に至ると、一人の尼さんの合掌にあう。私も合掌をして丁寧に挨拶
する。「遅れました。かねてより、夜の大源寺に一度寄ってみたいと思っていました」。彼女は黙っ て小走りに消えて行った。この寺で一晩泊まり、夜通し谷のせせらぎを聞きながら山の匂いにつつ
まれたいと思った。この夢は叶えられなかったが、寺下村の民宿で山菜の添えられた夕飯を食べ、 一夜を過ごすことができた。川辺の集落の灯りが花のように見えた。
昔風の壁が美しい町
1989 年に小説家の李明翰(イ・ミョンハン)さんとともに中国の西域地方を旅行した。敦煌(トン
コウ)→吐魯蕃(トルファン)→烏魯木齊(ウルムチ)の順に回ったが、家業として漢方医の李さんは
私に、西域地方に「冬虫夏草」と呼ばれる優れた薬草があると言った。夏には草で冬には虫になる
という神秘な薬草の話を聞いたときは信じられなかったが、中国留園のある薬草屋で本物の冬虫
夏草に出会った。李さんが冬虫夏草をうやうやしく持った姿が今も鮮明に思い出される。李さんは
私に漢方治療の本質が香り治療であることを教えてくれた方だ。山薬草のいい香りで体の中の悪い 気運を追い払うということから冬虫夏草に対する更なる信頼感が生まれた。山清には智異山のふ
もとで採れる薬草を紹介する漢方医学博物館と許浚(ホ・ジュン:朝鮮王朝時代の名医)の東医宝鑑
の発刊 400 周年を記念する東医宝鑑村がある。東医宝鑑は、東洋医術の教本のような本で、中国
と日本でも刊行された。ユネスコの世界記憶遺産に登録された同著述は、金属活字と並んで韓国
咸陽と山清の魅力
ソウル
280km 咸陽
介坪里韓屋村
上林
咸陽市外バスターミナル
東医宝鑑村
山清市外バスターミナル
大源寺 智異山
58 KoreaNa 春号 2016
南沙イェダム村
290km 山清
咸陽上林( 森 )の入り口の連理木。 恋人がこの木の下を一緒に通れば 愛が結実するという伝説が伝わる。
人の誇りである。
南沙(ナムサ)イェダム村は、朝鮮時代の典型的なソンビ村である。昔風の壁が美しい村という
意味だ。村に入ると、李舜臣(イ・スンシン)将軍の白衣従軍(一切の官職なしに戦争に参加する処
罰)路という里程標があり、積み石の間に赤い土を入れて築いた石垣が目に入る。路地の入り口に 立つ2本のエンジュ(槐)が、頭上で互いに交差して旅人を出迎える。300 年以上経ったこのエンジ
ュは、昔のソンビたちがこの木の青い気性を見習って心と体をを磨いたとして「ソンビの木」と呼ば
れたりもした。風水上、この村は2頭の龍が火を噴く形象をしている。その炎を防ぐためこの木を
植えたという説もある。人間の背の高さよりはるかに高い壁が、ある旅行者にはやや窮屈に思われ
るかもしれない。山と野原を取り込んだ庭造りがなんと自然ではないか。「韓国でもっとも美しい
村、第一号」という称号も私にとってはやや重苦しい感じがする。深い学識と徳望を兼ね備えたソ
ンビならば、このように高い壁を建てたりはしなかったはずだと思っていたが、壁がほのかに放つ 春の土の匂いはとても良い。
韓国の文�と芸� 59
エンターテインメント
視聴者の悩み相談に乗る トークショー ファン・ジンミ
黄鎭美、大衆文化評論家
テ
レビでは有名な芸能人の育児や恋愛などのよ
うな日常生活を見せるリアリティ番組が溢 れ、 その隙間で視聴者の悩みを取り扱う番組が着
実に人気を得ている。テレビが今や他人のプライバシ
ーの覗き窓になった格好である。これはまるで食事の
時間になれば、家族みんなで食卓を囲んだ時代が過ぎ 去って、一人で食事を取る人口が増えると、逆説的に
テレビの中で「料理番組」が幅を利かせているのと似た
ような現象である。
最も深刻な悩みを選定 ©sbs
国営放送局の K B S 2のバラエティー番組『対国民ト
ークショー、アンニョンハセヨ 』は、 一般人のさまざ
まな悩み相談にのる番組で、5年以上続いている長寿
1
番組である。放送制作スタッフは、視聴者から送られ
1 S B S の『 同 床 異 夢 ― 大 丈 夫、 大 丈 夫 』は、 親と子供の間の問題を聴いて、解決策を模 索する番組である。観察カメラで家族の過 去の葛藤をドキュメンタリータッチで撮って 赤裸々に再現する。 2, 3 「全国悩み大会」を標榜する K B S2T v『対国 民トークショー、アンニョンハセヨ』の一場 面
てたきたハガキの中から毎週、興味深い話を3通選んで
読み上げる。続いてハガキの投稿者が直接番組に出て心境を打ち明け
る。奇異な習慣や趣向を持つ家族による苦しみを訴えたり、自分の変わ
ったルックスに対する社会的偏見から自由になりたいなどと訴えかけたり もする。話術巧みな4人の司会者は、主人公の悩みに同調したり、意地
悪な質問を投げかけたりしながら相談内容をより立体的なものにしていく。 悩み相談者の家族や友人、または悩みの要因となっている人物を登場さ
せ、彼らの話も聞いてみる。彼らの話によっては、主人公の悩みがより鮮
明に感じられる場合もあるが、むしろ主人公のほうにより大きな問題があ
るような場合もたまにある。招待されたパネリストは、主人公の相談内容
が本当に深刻な悩みなのかどうかについて意見交換し、最終的に傍聴人
の投票によって最も深刻な悩みと認められた相談者を選んで賞金を与え
る。
2
『アンニョンハセヨ』は、悩みについて面白く語り、それを聴いてあげるト
ークショーであり、悩みの解決策まで提示する番組ではない。ところが、大
勢の人の前で悩みを打ち明け、相手の話を聴いていく過程で悩み投稿者の
©kbs
心が軽くなり、自ずと仲裁が成立したりもする。もちろん、本当に専門的な 相談が必要な-精神医学的問題や法的問題を抱えていたりする-場合もあ
り、投稿者の悩みを通じて韓国社会の惨めな偏見が露呈してしまう場合も ある。司会者は、適切な励ましの言葉をかけたりして雰囲気が重く沈まな
平凡な家庭の悩みごとがテレビトークショーのテーマになっている。出演者たちは娯楽性とド
3
キュメンタリーの狭間で笑ったり泣いたりしながらストリーを展開して行く。他人の家族の葛
藤と和解に視聴者は自分の立場に置きかえて、視聴者掲示板を通じてアドバイスを与えたりもする。 今ではほとんど失われった隣人同士の絆のテレビ版である。
いようにブレーキをかけるが、論争的な話題が登場した翌日に
番組開始当初は、家族の問題を興味本位に誇張し放送しようと
はインターネットで白熱した議論が繰り広げられたりもする。
したという疑惑があがったこともあるが、制作スタッフの謝罪で
観察カメラに収まった双方の立場
れなかったのは、家族の和解を追い求める番組の趣旨と仲裁の
今年4月にスタートしたSBSの『同床異夢-大丈夫、大丈夫』
は、親と子の間の葛藤を聴いて解決を模索する番組である。毎
危機を乗り越えた。物議を醸したにもかかわらず、番組が廃止さ 効果について視聴者の共感と期待があったからだ。
回一家族の悩みを取り扱うが、単なるトークショーの形式から脱
他人の人生に口を挟む番組
く干渉する母親の話や夜遅くまで家に帰らず街をぶらつく娘の話
人との交流が盛んだったコミュニティの時代には、一家庭の問
メンタリータッチで撮る。必要に応じて、心理検査を依頼して専
く、人々は家族の問題にたいし自然にアドバイスしたり、口を挟
同番組でもっとも注目すべきは、双方の立場を対等に見せる
発によってマンション団地を中心に住居文化が様変わり、 90 年
却し、観察カメラは日常を通して家族間の葛藤を追う。娘に厳し などが登場する。制作スタッフは、このような家族の姿をドキュ
門家のアドバイスを聞く。
ということである。初めは投稿者の立場から悩みの内容と映像
人々が農村共同体に属して暮らしていたころや、都市でも隣
題がお隣に知られる場合が多かった。コミュニティには秘密がな
んだりする場合が多かった。しかし、 80 年代後半から都市再開
代の通貨危機を契機に新自由主義経済政策により個人間の競争
を見せ、スタジオのパネリストと意見を交わす。しばらく話を続
が激化すると、前述のような伝統的な隣人間の絆が切れた。今
視点が変われば、葛藤の様相がまったく異なるものとして捉えら
合うことができない孤立状態に置かれている。経済開発協力機構
けたあと、次に相手側の立場から悩みの内容と映像を見せる。 や人々は悩みがあっても親族や友人、隣人とその悩みを分かち れ、このような衝突を通して視聴者は双方の立場を客観的に理
解できる。出演した家族も、映像の中の自分の姿に驚く場合が
たびたびある。自分の行動が相手にどのように映っているのか
( o E C E )が発表した「 2015 年生活の質報告書」によると、困難 なときに頼りになれる友人や親族がいるかという質問で、韓国
はメンバー国のうち最低となった。話しかける相手は消えたが、
気づいていなかったのだ。「 同床異夢 」というタイトルのように、 だ からといって 悩 みや 疎 通 の 欲 求 まで 消 えた わ けで は な い。 親と子が一つの家で暮らしながらも、お互い異なる考えに陥り、 人々は今悩みがあれば、インターネットの匿名掲示板や S n S に 相手のことが理解できずに意思疎通が断絶したまま生きているこ
とが伺える。
『同床異夢』は、『アンニョンハセヨ』よりバラエティ的な要素を
書き込む。それを見て多くの人々が共感したり、おせっかいな内 容を書き込む。
以前なら現実の友人や隣人が耳を傾けてくれるような悩みをテ
減らし、仲裁の役割を拡大した。提示される葛藤の内容もより深
レビが代わりに聴き、視聴者はテレビを通じて他人の人生を覗き
っと高い。スタジオのパネリストは、一種の陪審員のように双方
ど変わらないことに安心し、自分の生活が完全に孤立していない
家に帰りたくない思春期の娘を持つ親に、娘の帰宅時間を 11 時
ど、他人のプライバシーを映しだすテレビ番組は成功するだろう。
自分の部屋のない娘のために、プライベート空間を設けてやるよ
に対する関心と助言の度合いも高まるだろう。隣の部屋で、ある
を経験する家族間の葛藤の詳細を画面で見守る視聴者は、これ
それでも日常の悩みを共有するコミュニティが維持されているよ
刻なものであり、制作スタッフが家族問題に介入する度合いもず
込みたい好奇心を満たす。そして、他人の生活も私の生活とさほ
の話を聴いて、具体的な批判とアドバイスを与える。たとえば、 という事実に安堵する。多くの人々の実際の生活が破片化するほ
に遅らせ、約束を取り付けるように調停する。彼らは親御さんに、 さらに、全国民がお隣さんであるかのように、他人のプライシー うにアドバイスしたりもする。合意と和解にたどり着くまでの経緯
家族が自殺したことも知らないという孤立した社会に生きながら、
らを通じて自分の家族間の疎通問題を振り返ってみるようになる。 うな幻想を掴もうとする皮肉な欲求が働くからであろう。
韓国の文�と芸� 61
遠くの目
30年ぶりの韓国語
シンポジウム共催&スピーチ大会のこと
1986 年に帰国してからの 20 年ほどは公私ともに多忙で、韓国語に接する機会もない ままでしたが、2004 年に韓流ブームが到来。韓国ドラマがテレビで次々に放映される ようになったお蔭で、忘れていた韓国語が少しずつ蘇えってきたのは嬉しいことでした。 小嶋菜温子
こじま なおこ、立教大学教授
昨
夏、「 60 の手習い」ならぬ「 63 の手習い」で、およそ 30 年ぶりに韓国語の勉強を再開しました。
韓国への興味は小学 1 ~ 2 年の頃に芽生えたのですが、きっかけは世界の国と習慣についての
本で知ったオンドルへの憧れからでした。1981 年、初めての韓国旅行でオンドルを体験し、ソ
ウル・慶州・扶余の史跡やさまざまな風物に心惹かれて、「きっと、ここに住むことになるだろう……」と の予感を覚えました。そのとおりに 2 年後の 1983 年から 3 年間、大邱(テグ)の啓明大学で日本古典文
学を教えることになったのでした。韓国語は渡韓前の半年間、韓国文化院(当時は池袋のサンシャイン
にあった)で勉強しただけの覚束ない状態でしたが、同僚の先生方や学生たちの助けで、楽しく有意義 な日々を過ごしました。1986 年に帰国してからの 20 年ほどは公私ともに多忙で、韓国語に接する機会
もないままでしたが、 2004 年に韓流ブームが到来。韓国ドラマがテレビで次々に放映されるようになっ
たお蔭で、忘れていた韓国語が少しずつ蘇えってきたのは嬉しいことでした。
還暦を過ぎたこの 1 ~ 2 年は、公私ともに一段落してきたこともあり、韓流ステージを観覧したり、家
族と韓国に旅行したりしています。仕事の関係で、 30 年ぶりに韓国の知人たちと出会う機会も増えまし
た。昨年後半には、勤務する立教大学と協定校の、韓国外国語大学校と研究交流を深めることができ
ました。8 月から 9 月にかけての1か月間は、韓国外国語大学校・日本研究所で派遣研究員として過ごさ せていただき、研究所や日語日文学科の先生方に心より感謝しております。日語日文学科の金鍾徳先生
や徐載坤先生は三十年来の知遇です。本誌の編集長でもいらっしゃる金鍾徳先生とは、東京大学大学
院で秋山虔ゼミの親しい仲間でしたし(秋山先生が昨年末に亡くなられて、哀しみを共にしています…)、 徐載坤先生は啓明大学校時代の教え子というご縁です。金鍾徳先生とは前々から、協定関係を活かし
て国際会議を共催しようと企画を練り、これも昨秋に実現できました( 2015 年 10 月 31 日;韓国外国語 大学校日本研究所・立教大学日文学会共催、国際シンポジウム「日本文学の研究と教育⸺韻文と散文
のコラボレーション」於:韓国外国語大学校・教授会館講演室)。韓国外国語大を中心とした韓国側の先 生方と、立教大学日文学科の古典部門スタッフ全員が一同に会し、熱のこもった会議となりました。韓
国における日本語日本文学の研究・教育が流動的なアジア情勢のあおりで難局にあるのと同じように、 日本における日本語日本文学の研究・教育も厳しい情勢です(その背景には人文科学全体の危機という 深刻な状況があります)。日韓両国の文化交流のあるべき姿を模索しつつ、人文科学に携わる者として 62 KoreaNa 春号 2016
自らの立脚点を問い続けながら、如何に連帯的な努力を重ねることができるか⸺この重たい課題につ
いての認識の共有を足掛かりに、今後さらに交流を深めていくことを誓いあったことでした。
三十年ぶりに韓国語の勉強をしたいと思うに至ったのは、こうした近況からです。会話学校は、東京
の四谷三丁目にある「ウリ・アカデミー」 (現在の韓国文化院のある、コリアセンターの向い)。東京MX
テレビの番組「フォンデュ」 (旧「韓流フォンデュ」)のMCで、韓流ステージの人気司会者でもあるYumi(李
由美)氏が特別講師をしておられる学院です。わたくしも氏のお仕事ぶりに魅せられているファンの一人
として、Yumi 先生の特別講座を受講したご縁で、同学院で学ぶことになったのでした。通い始めてほど なく、学院長の洪聖協先生およびご指導いただいている丁奉錫先生から、スピーチ大会(「第二回・全日
本韓国語スピーチ大会」、主催:韓人会=在日本韓国人連合会、後援:在日本韓国大使館等。本選:
2015 年 12 月 18 日、於:韓国文化院、司会:Y u m i 氏)への出場を勧められました。自信がないので躊
躇っていたのですが、この大会が日韓関係の好転を祈念して 2014 年に始められたと聞いて心を動かさ れるとともに、老化の一途の我が脳に良い刺激になるかとも考えて挑戦することに⸺予選から本選ま
で、学生の部・一般の部それぞれに優れたスピーチが披露されるなか、まるで何十年ぶりかの受験生の
心境で臨んだのでした。その結果、「審査委員長賞」を頂戴できたのは望外の喜びでしたが、ひとえに 先生方のご指導の賜物にほかなりません。還暦を超えて、かくも得がたい体験ができるとは、三十年前
には想像だにしえなかったことで、感慨もひとしおでした(同大会のことはKBSワールドの番組「水曜セ
レクト」 :2016 年 2 月 10 日放映:で紹介されました)。
スピーチの練習をつうじて、基本的な発音の大事さを痛感させられたのも収穫です。ふだん如何に曖
昧な発音で済ませていたかと、反省しています。オンドルへの憧れから始まった韓国とのさまざまな縁が、
ささやかな人生を豊かに導いてくれたことに感謝しつつ、これからも韓国語の勉強に熱心に取り組んでい
きたいと思っているところです。
付記:脱稿後に、スピーチ大会で来賓挨拶された韓国教育院長が、やはり30 年前の啓明大学での教
え子だった南貞順さんでいらしたことが偶然に判明し、感慨をあらたにしたことでした。
1
2
1 表彰式(左からウリ・アカデミー:丁奉錫先生。審査委員長:韓人会理事長・具哲氏。筆者) 2 スピーチ中の筆者
韓国の文�と芸� 63
料理物語
万能な香辛料野菜
ニンニク
キム・ジニョン
金臻榮、トラベラーズ・キッチン代表
安洪范 写真
ニンニクは中央アジアが原産地だが、韓国や中国をはじめとする東アジア、イ
ンドなどの西アジア、スペインやイタリアなどの南ヨーロッパ、そしてアメリカ を含む世界の多くの地域で広く栽培されている根菜類だ。韓国ではニンニクは ほぼすべての料理に使われているほどの香辛料であるが、ニンニクが生のまま 他の野菜と一緒に食卓に上ることもある。 64 KoreaNa 春号 2016
韓
国人にとってニンニクは建国神話に登場するほど永い歴史のある食材料だ。人
間になりたいというトラと熊に、天の神桓因の息子である桓雄は、百日間洞窟
の中で陽の光を浴びずにニンニクと蓬だけを食べて過ごすようにと命じた。トラ
は我慢できずに飛び出してしまうが、熊は百日間我慢して人間の女になり桓雄と結ばれ息 子を産む。その熊の息子の檀君が建てた国が古朝鮮で、韓国人は彼を自分たちの始祖だ
という。
漢方でいうニンニクの効能は「体に薫気や陽気を吹込み寒気と冷えを除去し、悪い気運や
物質を退治して外に追い出す」というものだ。その一例として昔の記録には、伝染病が流行
するという噂が流れるとニンニクの摂取量が増えたという記述がある。現代医学ではニンニ クが血液の循環を助け、抗菌効果、免疫増強効果にすぐれた食品であることを各種調査研
究が明らかにしている。アメリカの国立癌研究所が推薦する抗癌食品 40 種類の中の第 1 位
もニンニクだ。
万能香辛料
ニンニクはほとんどの国で香辛料として使われている。調理する油にまず薄く切ったニン
ニクを入れて唐辛子や長ネギといっしょに炒めたり、揚げたりする中国式調理法、パスタを
作るときにオリーブオイルに薄く切ったニンニクを入れて炒めるイタリア式調理法、薄く切っ
たり、すり潰したニンニクを入れて炒めた麻油(焦がしニンニク油)をラーメンの香味として 使用する日本式調理法などはすべて一脈相通じている。(日本では麻油の代わりに香りの 弱いニンニクパウダーを使用することもある)
韓国人にとってもニンニクは基本的には香辛料だが、ほとんどの場合、切って使うよりは
すり潰して使う。食卓にのぼるほぼすべての料理に調理の過程でこのすり潰したニンニクが 使われていると言っても過言ではない。
欧州ではスープストックを作るときにさまざまなスパイスとハーブのブーケガルニを利用し
て香りをつけたり、主材料の雑多な臭いを消し味をひきたてるが、韓国では特にサムゲタン
(参鶏湯)、カルビチム(牛肉蒸し煮)、タッポックムタン(鶏肉炒め)、ヘムルタン(海鮮鍋) などの肉料理や魚料理にニンニクを山ほど入れる。ソウルの鍾路3街に古くからあるタッポ
ックムタンの店「ケリム・マヌルタッ」はタッポックムタンの鍋にすり潰したニンニクを山のよう にのせて出すことで有名だ。テーブルで直接煮込む過程で山のようにあったニンニクがいつ
の間にか鶏の油と一緒に熱い汁の中に溶け込み鶏肉の生臭さを消すだけでなく、砂糖とは 一味違う甘味を引き出してくれる。
焼いて食べたり、生で食べたり
生のニンニクが生の葉野菜と一緒に食卓に上ることもある。牛カルビ肉の塩焼き、豚の
三枚肉のような肉類を鉄板で焼いて食べる際には、サンチュやゴマの葉に肉と薄くスライス
した一片のニンニクをのせて、専用の味噌を添え包んで食べる食べ方をよくする。生ニンニ
クをあまり食べたことのない人は生ニンニクをまるごと、または薄くスライスしたものを肉と 一緒に鉄板にのせて肉から染み出る油で焼いて食べたり、あるいは鉄板の端にごま油を入
昔は家ごとによく乾いたニンニクを旬の時期にたくさん購入し、茎をつけたままで風通しの良い日陰にかけて保存し、必 要なときに少しずつとって使った。しかし最近ではスーパーで剥いたニンニク、叩いて潰したニンニクなどが売られている ので用途に合わせて少しずつ購入して使うのが一般的だ。
韓国の文�と芸� 65
れたホイルの器を置いてそこでニンニクを蒸し煮しながら食べた
りもする。(これはニンニクのひりひりするような辛味を押さえ、ニ
ンニクの最大の問題点である食後の口内のニンニク臭を防止するの にもお勧めの方法だ)
ニンニクを利用した伝統的な小鉢のおかずとしてはニンニクしょうゆ漬
けがある。煮立てて冷ました醤油にむいたニンニク、あるいは皮付きのま
ま入れて、数ヶ月保管し熟成させたものだ。家庭ごとに少しずつ違う醤油の 味にニンニクの味、そして時間の味が加わり立派な保存食品となる。
ニンニクを利用した食べ物はどこの国にもあるが、最も手間のかからないレシピ
2
にガーリックトーストがある。潰したニンニク、溶かしたバター、砂糖でソースを作り、斜め に切ったフランスパンに塗ってからパセリの粉を少し振りかけオーブンで焼けば良い。焼
く過程で美味しそうな匂いが家中にただよい、食するときバターの風味がさらに 豊かに感じられるだろう。
ニンニクの茎
韓国人のニンニク好きはその実だけにとどまらない。 ニンニクの花茎や茎はニンニクよりも味も香りもソ フトで、すばらしい食材となる。ニンニクの花
の咲く3月、南の美しい観光地済州島でニ
ンニクの茎の収穫が始まる。市場に行く と、アスパラガスよりも細めの緑色のニ
ンニクの 茎 が 束 に なって売られており、
春を告げている。乾燥海老と一緒に油で
炒めたり、実と同様にしょうゆ漬けにした
1
漢方ではニンニクの効能を「体に温熱や陽気を吹き込み、寒気と冷えを取り除くもの」だと謳っている。 現代医学でもニンニクが血液の循環を助け、抗菌効果、免疫増強の効果に優れた食品であると各種 調査研究で明らかになっている。 66 KoreaNa 春号 2016
りして一品料理として食べる。オリーブオイルとニンニクが主材料のパスタ料理アーリオオー
リオを作るときに、ニンニクの代わりにこの茎を使っても良い。ニンニクの茎は熟してもその さくさくとした食感が残り、辛さは甘みに変身する。
春には肉を食べるときにサンチュ、唐辛子などの野菜とともにニンニクの茎が食卓にの
ぼることもある。ニンニクの茎を食べやすい大きさに切ってから熱したフライパンに油で炒
め、さらにきれいに切り揃えたイカと唐辛子味噌、砂糖、数滴の酢、豆板醤、牡蠣ソース
を入れて炒めると春先の食欲のないときに打ってつけのおかずになる。
エシャロットとニンニク
ニンニクを大量に使用する韓国料理を食べたことのない人は、エシャロットという香辛料
を思い浮かべれば似たような味と香りを想像することができるだろう。エシャロットはニンニ
クと同じユリ科の植物でニンニクのような辛い味にタマネギよりもさらに強い甘味が合わさ
った香辛料だ。フランス、東南アジアではサラダやソースによく使用される。ソースを作る際 のベースとなり、魚料理、肉料理の付け合せや香辛料として使われる。オーブンでオイル焼
きにして食べたり、葉が緑の時にはその葉も香辛料として使われる。韓国人がニンニクを油 で焼いて食べたり、ニンニクの茎を食材料として使うのと似ている。
旅先で見慣れぬ食べ物に出会うことは避けられない。その出会いを喜びに変えてこそ旅
の楽しさも深まるというものだ。食材料専門家の私が旅行作家たちと一緒に「トラベラーズ・
キッチン」という集まりを作ったのもそんな理由からだった。国内旅行先で有名食堂の食べ
歩きだけにとどまらず、季節の旬のものを、その産地で味わうものにし、海外旅行において
も韓国料理店だけを探し回って終わる旅ではなく、旅先の見慣れぬ食文化を楽しむ旅にし
たい。そんな意味から、ニンニクに馴染みのない旅人にお勧めしたい。韓国ではぜひニン
ニクに親しんで欲しいと。
1 ニンニクのしょうゆ漬け。砂糖と酢を 入れた醤油を煮立たせてから冷まし、 それをニンニクにかけて作るが、醤 油の味は家ごとに少しずつ違う。 2 ニンニクの茎のしょうゆ漬け。ニンニ クの茎を適当な大きさに切ってから砂 糖と酢を入れた醤油を煮立たせて熱 いうちにかけ、密閉容器で保存して 熟成させる。 3 参鶏湯をはじめとする各種肉料理に は叩いて潰したニンニクと生のニンニ クが欠かせない香辛料として使われ る。
3 韓国の文�と芸� 67
韓国文学の旅
作家評
分断を主題とした シュールな放浪の歌 「私の小説は絵画から多くの影響を受けました。私は 外形的な社会意識よりは個人の無意識世界、彼らの 夢と悪夢に多くの関心があります。これらは合理的な 思考で解明できない世界なのですから、自然とシュー ルな技法でアプローチするほかありません。私の小説 がストーリーではなくイメージ中心なのはその為であ
り、私は読者との緊張関係を維持しながら彼らの想 像力に、より多くの余地を残したいと思っています」 チョ・ヨンホ
曺龍鎬、小説家、世界日報文学専門記者
19
84 年、 韓 国 は 南と北 に分 か れた分 断 状 態であり、 30 年が過ぎた今も依然としてその状態は変らない。
南と北は過酷な緊張関係におかれ 80 年代は所謂、
新軍部が登場して強圧的な統治を行った時代だった。この時期
の韓国文学は圧制に抵抗し、民衆を慰める 「民衆文学」が流行し、 社会主義リアリズムが脚光を浴びていた。
その年に小説家イ・ジェハ(李祭夏)が短編小説『旅人は道で
も休まない』を発表し、翌年に李箱文学賞を受賞した。イ・ジェ
ハは同時代の作家たちの中でも群れに加わらないアウトサイダ ー的な小説家 だった。 1937 年生まれの彼は美術の名門弘益
大学校で西洋画を専攻した。田舎から上京し、画集を通じて表 現主義と超現実主義に接して大きな衝撃を受けたという。彼は
無意識を小説で表現しながらそのような思潮の強調と変形技法 68 KoreaNa 春号 2016
を積極的に活用した。その結果『草食』や『劉字略伝』などの作
ら小説は夢と現実が混ざり合う非常にシュールなタッチになって
まない』は比較的ストーリーが掴みやすいと大衆にも親しまれ
示を受ける。
品はほとんど難解だという評価を受けたが、『旅人は道でも休
ている小説だ。だからといってこの小説が最後まで親切なわけ ではない。
この小説のもっとも重要な特徴は読者に一部始終をきちんと
いき、読者は男の妻が車に飛び込んで亡くなったという事実の暗
彼の妻は生まれたところも分からない流れ者の浮き草のよう
な身の上だった。妻が生まれたところが漠然と東海岸のどこか
だろうという心 証 だ けで妻の遺 灰を抱いて旅にでた主 人 公が、
説明しようとしないという点だ。だから話が展開していくほど、 なんとかして休戦ラインの向こうの故郷の近くに行き死にたいと 読者は起きている状況とその理由に対してはっきり分からず混乱
いう老人と出会うのだ。
が目の前に広がる海を見つけて、どうしてその場に釘付けになっ
かし老人のまわりの人たちは、老人の願いをかなえるために危
彼は海岸に降りていき若い哨兵に制止されるが、当時束草な
る人物ばかりだ。息子は父から受けた仕打ちの仕返しをしようと
してしまう。港町の市内バスから一番最後に降り立った一人の男 てしまうのか、その理由もなかなか出てこない。
どの東海岸では北朝鮮軍の侵入に備えて民間人の出入りが禁じ
られた警備区域が多かったことを知らない読者にはこれもまた 何のことかさっぱり分からない状況だ。この小説の話し手は最
初から最後までこのような曖昧さを維持していく。入った食堂で
のバスから一緒に降り立った行楽客と体を売る女たちとの間のあ
死ぬときには故郷の近くに行きたいというのは人情の常だ。し
険な旅に付いてきた看護師以外は皆、老人の故郷行きを妨害す
悪態をつく。看護師は執念深く後をつけてきた追っ手に見つかり、 老人をソウルに送り返した後、男の腕の中で悲しく泣き崩れる。 男は看護師と新しい人生を一緒に歩むことを誓い、内陸の港か
ら船に乗り旅立とうとするが、看護師はムダン(巫女)からシンネ
リム(神憑き)を受けてしまう。ムダンのクッ (祭儀)の音が騒々し
りふれた光景は、動機が明らかでない男の行為とは対照的だ。 く鳴り響く港を後にしながら男は、昔その女が聞いたという話を 食堂の主人が男を奥の部屋の看護師連れの病んだ老人のところ
思いだす。
と謝礼金を示して頼む。彼は頼みを断り、バスで出会った男たち
人が前世のお前の夫だ 」
に案内し、彼らを休戦ラインの真下の村まで連れて行って欲しい が行くという旅館に向かう。
男はバスで出会った男たちと旅館で花札をしながら、思いが
「 30 歳に水辺で棺 3 個を背負った人間に必ず会うだろう。その
ムダンは女に昔亡くなった自らの娘の姿を見、男は死んだ妻
を見た。小説はこのように現世とあの世の境界がぼんやりと混
けなく売春をする女と一緒の部屋で過ごすことになるが、セック
ざり合う混沌とした絵を描いている。リアルなストーリーの展開
揺り起こして、女が一人心臓麻痺で死んだと伝え、警察が来る
の日以降に対しても全く予想できない。
スはせずにそのまま眠ってしまう。真夜中に行楽客の一人が彼を 前に出かけるようにと促す。旅館を後にした彼は故郷の近くに行
きたいと言っていた老人のことが気になり、食堂に戻るが老人と
とは違うのがこの小説の魅力であり、突然の結末は男と女のこ あらゆる辛酸をなめた人生を生きてきた根無し妻のわびしい
遺灰を 3 年も持っていて、ようやく旅立たせようという男の人生
看護師はすでに発った後だった。
が順調であるわけがない。生きているような、死んでいるような
る。妻との新婚旅行の地である鏡浦湖畔に達してようやく小説は
にも安着できない悲しい魂だ。
に撒きにやってきたという背景が明らかになる。読者はここでよ
される雰囲気の中で、時代の話頭である分断の問題を素材にし
再びバスに乗り旅立った男は海岸にそって南に進み江稜で下り
彼の死んだ妻の話、亡くなってからだいぶ経った妻の遺灰を海
うやく小説の冒頭で男がカバンから取り出したビニール袋の中身
彼らは皆、恨み多き現世の旅人であり、放浪者だ。どんな人生 李祭夏はこの小説を書いた当時、リアリズム小説作法を強要
たものの、もう一つ何かを確保したかったという。そのもう一つ
の骨 粉について、 男の旅の目 的について理 解することになる。 がシャーマニズムだった。死んでも行きたい故郷だが、生きては 彼は厳粛な儀式を行う代わりに、刺身屋の2階の窓を開けてそ
こから遺灰を風に飛ばし、そこで一晩泊ることになるが、ここか
行けない悲劇的な現実をせめてムダンのクッで慰めようというの
か。
韓国の文�と芸� 69
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春号 2016
韓国の文化と芸術
特集 春号 2016 vol. 23 no. 1
韓国演劇 舞台美術家イ・ビョンボク、韓国演劇の指標として半世紀 ソウルを代表する演劇の街、大学路
ISSN 1225-4592
vol. 23 no. 1
koreana@kf.or.kr
韓国演劇 新潮流と新たな主役