Koreana Summer 2018 (Japanese)

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夏号 2018

韓国の文化と芸術 特集

済州-石の島の伝説

石の島の伝説 歴史になった石の形 済州石文化公園‐先覚者が残す遺産 生と死の境界を守る石 済州の石、土・火と出会う

済州

VOL. 25 NO.2

ISSN 1225-4592


韓国のイメージ

勉強が戦争になった

予備校街の夜景 キム・ファヨン 金華栄、文学評論家、大韓民国芸術院会員


日は試験だというのに夕方から睡魔に襲われて集 中できない。きっちり1時間だけ寝て試験勉強を 続けるから、必ず起こしてくれと母に頼んで横に

なる。目を覚ましたら眩しい太陽の輝く朝! 目の前が真っ暗に なった。 数十年前の学生時代の失敗を追体験するこんな夢を今も見るこ とがある。夢から覚めた私は、もう試験を受けなくてもよい年齢 だという事実に安堵し、再び眠りにつく。しかし、昨今この国の 子供たちは安堵することも、眠りにつくこともできない。 外国では韓国人の教育熱の高さをうらやむこともたまにはあ るが、社会が学歴中心となり、教育が職業成就と身分保障の手段 とみなされるようになり、「無限競争」という恐ろしい言葉と共 に子供とその親たちは、入試戦争の長距離マラソンに追いやられ る。幼稚園の先行学習から始まり中学・高校の各種序列化試験を 経て、いわゆる一流大学入学を目標とする「入試地獄」でマラソ ンは頂点に達する。しかし、その後にも留学試験や就職試験など 競争はまだまだ続く。 過酷な競争の中で子供とその親たちは、試験の高得点のため の効果的な方法を求めて血眼になる。序列化された公教育の無慈 悲な環境は、ずいぶん前から予備校という私教育市場を登場させ た。競争優位を叫ぶ予備校の広報はふりきれない誘惑だ。親たち は子供の成功のための未来投資という過度な費用の支出を余儀な くされる。しかし、いつの間にか私教育が当然視され、競争はよ り熾烈になり、優位の確保の効率はどんどん落ちていく。 教育は「知ることに対する欲求の充足」からどんどんかけ離れ て競争という中毒性が現れる。その結果、教育部が発表した2017年 の小中高校の私教育費は18兆6000億ウォン、生徒1人当りの月平均 私教育費は27万1000ウォンで歴代最高値を更新した。但し、実際の 私教育費はこの統計をはるかに上回り、公教育の予算を抜いたの もずいぶん前のことだ。 ここは、大韓民国私教育1番地というソウル江南大峙洞の予備 校街。予備校の授業が終わる夜10時にあわせて、子供を迎えに親 たちの乗ってきた自動車で道路が大混雑を極める。子供たちが溢 れるように出てきて始まるラッシュアワーの戦争が終わると、街 はまた静かになる。 「これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれ を楽しむ者に如かず」と言った孔子の言葉は、はるか昔の伝説の 中の戯言になってしまったのだろうか。 © Heo Dong-wuk


<編集長の手紙>

済州島の様々な顔

発行人

李是衡

編集長

金鍾徳

編集理事

楯状火山である漢拏山の緩やかな傾斜に、誰でも魅了される。亜熱帯の太陽 の下で漢拏山は平和で穏やかに見える。しかし、済州島に到着した時に、運の いい人だけが漢拏山の頂上を見ることができるといわれる。天候の変わりやす い漢拏山は、その神聖な姿の一面しか見せない。 済州は風の強い島であり、たびたび嵐が吹きすさぶ。海はとどろき、波は狂 ったように防波堤を殴りつけながら白い泡を当たり一面にばらまく。雨の日、 気の置けない人と一緒に美味しいコーヒーと心地良い音楽を聴きながら、快適 なカフェの窓の向こうにそんな風景を眺められたら、あなたは最高の一日を過 ごしているといえよう。 済州ではあちこちで黒い石を見かける。黒い玄武岩で飾った絶妙な風景は、 青い海と緑の草原、そして黄色い菜の花とが心地よい調和をなす。至るところ で散見される玄武岩は、200万年前にさかのぼり火山活動が行われていた島の起 源を物語ってくれる。 2007年に済州の火山と溶岩洞窟が世界自然遺産に登録された時、ユネスコの 世界遺産委員会は、済州の優れた自然とは別に、島が地球形成過程の歴史と地 質学的な証拠を抱いていると指摘した。済州は2002年に生物圏保存地域に指定さ れた後、2011年には世界地質公園に認定された。よって済州島は、ユネスコから 三冠王を授与された最初の島となった。 この記事のタイトルは、「三つのものが、多い島」という意味の「サムダ ド」という済州の名称を連想させる。すなわち石と風と女性が多い三多島だ。 今回の特集では、済州の石が島とその住民にどのような意味があるのかを垣間 見ることができた。表紙絵の作家ガン・ヨベ(1952年生)さんは、25年間生ま れ故郷である済州島の風景と悲劇的な現代史を描写することに、心血を注いで きた。

日本語版編集長 金鍾徳

姜榮必

編集諮問委員

韓敬九

Benjamin Joinau

鄭德賢

金華榮

金英那

高美錫

那秀昊

宋惠眞

宋永萬

尹世鈴

監修者

嘉原和代

翻訳者

坂野慎治

金明順

クリエイティブディレクター 編集

アートディレクター デザイナー

編集

朴美貞 金三

池根華、盧倫永、朴道根

朴相培

金智賢、金南亨、葉蘭敬

金熒允編集会社 04035

韓国ソウル特別市麻浦区楊花路7-44. 秋思軒ビル3階 Tel : 82-2-335-4741

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韓国の文化と芸術 夏号 2018

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『海-岩』 カン・ヨベ(姜尭培) 2012年、アクリル・キャンバス、89.4×130㎝

『Koreana』の記事を引用したり、非営利目的で使用する場合にも 『Koreana』からの転載であることが分かるようにクレジットを明示 してください。

掲載された記事は筆者の個人的な意見であり、『Koreana』や韓国国 際交流財団の公式見解ではありません。

1987年8月8日文化観光部-1033で登録された季刊誌『Koreana』はア

ラビア語、インドネシア語、英語、スペイン語、中国語、ドイツ語、 フランス語、ロシア語でも発刊されています。


特集

済州-石の島の伝説

04

特集 1

歴史になった石の形 イ・チャンギ

12

特集 2

済州石文化公園‐先覚者が残す遺産 ホ・ヨンソン

34

韓国大好き

韓国人より韓国的な 韓国の隣人 チェ・ソンジン

38

オン・ザ・ロード

丁若鏞が今なお 川を離れない理由 イ・チャンギ

46

二つの韓国

人権、脱北女性への 新たな視線 キム・ハクスン

50

日常茶飯事

「 路上の学舎」で 真理を悟る キム・フンスク

22

特集 3

生と死の境界を守る石 キム・ユジョン

28

特集 4

済州の石、土・火と出会う チョン・ウンジャ

54

遠くの目

韓国で日本語を学ぶ子どもたち 山崎宏樹

56

エンターテインメント

韓国人にもこのような 韓国は初めて! チョン・ドキョン

58

料理物語

茄子 暑い夏を代表する野菜 チョン・ジェフン

62

ライフスタイル

室内でシミュレーション スポーツを楽しむ キム・ドンファン

66

韓国文学の旅

治癒できない疾病 としての運命 チェ・ジェボン

『不治』

カン・ヨンスク


特集 1 済州-石の島の伝説

歴史になった 石の形

済州の石は、済州の人々の暮らしを大きく変えた。潮の満ち引きによって石垣の中に 取り残された魚を捕まえる漁労文化を生み出し、農業と牧畜業を大きく発展させた。 外部勢力の侵略と略奪を防ぐためにも用いられた。済州の様々な形の石垣は、 済州の人々の人生に似ている。 イ・チャンギ 李昌起、詩人、文学評論家 安洪範 写真

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「チャッソン」は、朝鮮時代に国営牧場で馬を 放牧するために造った石垣。山のふもと側にある チャッソンは、開発や破損によって痕跡しか残っ ていないことも多い。それでも中山間地域のチャ ッソンの中には、原形をとどめているものもあ り、済州の牧畜文化を確認できる。 韓国の文化と芸術 5


は時を超える。人はこの永遠性に魅せられ て、立てた巨石に英雄的な行為を記し、積み 上げた石を空間の境界とした。済州は、どこ

を掘っても石が出る。済州の人々は、その石で入ってはいけな い場所を示し、水路をふさぎ、風を防いで、馬を囲う。それ は、海に浮かぶ火山島での暮らしが育んだ生活様式だ。その 点で、済州の石は、はかない時間と目まぐるしく変わる自然を 制する魅惑の規範の中にある。その規範の本質は労働だ。それ なしに「巨大な老婆の姿をした女神が、スカートで土を運んで 1950mの漢拏山を造った」という苦難の創造神話など存在する はずがない。 時を超えた石は、青い海と空を背景に、長き沈黙に浸って いる。粗く黒い肌。自我を芽生えさせるような緩やかな曲線と 乱暴な穴。誰かの手によって幾重にも積み上げられた、済州で 「パッタム」と呼ばれる石垣。石と石が支え合う円錐状の山。 転がって滑らかになった石の丸み。入れ墨のような青銅色の 苔。そして、黒い地肌を隠すように背を向け、幼い妹を思い起 こさせる銀色のススキ野原。一面に咲いた菜の花…。 私たちにできることは、それほど多くない。せいぜいわず かな資料に目を通すか、それとも石に刻まれた傷跡なのか友情 なのか分かるはずのない痕跡と向き合い、しばらく遠くを見つ めるだけだ。それでも、石に染み込んだ誰かの温もり、時代の 目撃者として投げかけた密度の高い生の言葉を感じたいと願う のだ。

賑わった「ウォン」のひと時

済州で最初に現れた石垣は「ウォン」だ。漁の始まりは、

現生人類の出現前に遡る。「ウォンダム」あるいは「ケッタ ム」とも呼ばれるウォンは、魚を捕まえるために、海岸に石を 1mほど積み上げた目の粗い石垣を指す。つまり、満潮の時に 沿岸にやってきた魚の群れを、引き潮の時に閉じ込めておく装 置だ。 済州の海の特徴は、海岸と陸地の間に、岩礁が広がってい る点だ。溶岩が火山の噴火よって海に流れ込み、独特な地形 を形成している。長い所では、海岸から2kmほど流れ込んでい る。済州の人は、そうした海を「コルバダン」と呼ぶ。そのよ うな環境の中で、朝鮮半島のリアス式沈降海岸では珍しいウォ ンという独特な漁労文化が生まれたのだ。 ウォンを造る際には、海岸の自然地形を利用する。陸に向 かって弓のように曲がっている入り江では、両側の突き出た場 所をつなぐように石垣を造る。岩が海面から突き出ている場合 は、その岩盤の両側に石垣を築く。海底がへこんでいて、引き 潮の際に水がたまる地形なら、その周りに低い石垣を積み上げ るだけで、広くて立派なウォンになる。そのようなウォンが、 村ごとに多くて20カ所、少なくても10カ所はあった。 季節を問わず済州で人気の魚は、10~20cmのイワシだ。済

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済州の伝統的な漁業施設 「ウォンダム」は、自然 の海岸地形に合わせて石 を積んだもので、潮の満 ち引きを利用して魚を捕 る。昔は海岸に沿って数 百カ所あったが、今でも 原形を保っている所はさ ほど多くない。


© i love jeju

回る8月になると、村の人たちが集まって、たも網やボウルで

風雨に耐えた農業遺産

すくい上げる。ウォンは村の共同所有なので、捕ったイワシも

の姓を持った3人の神人が出てきたという三姓穴神話。重要な

皆で分け合う。当然、ウォンの築造や補修も共同で行う。イワ

のは、彼らによって「五穀の種」がもたらされた点だ。つま

シは、各種調味料を加えて煮詰めたり、油で揚げて食べる。済

り、時期ははっきりしていないが、優れた農業技術を有する勢

州の人の大好物は「メル汁」だ。捕れたばかりのイワシに白菜

力がやってきて、「耽羅」と呼ばれていたこの島の支配勢力に

と赤トウガラシを入れて煮込めば、淡泊な味が絶品だ。残りの

なったとも読み取れる。耽羅は、友好的な周辺勢力として高麗

イワシは干したり塩漬けにして、調味料やおかずにする。

に貢物を捧げ、管理・監視を受けていたが、1105年に耽羅郡に

州の方言で「メル」と呼ばれる。その群れがウォンの中を泳ぎ

海岸道路が造られて、多くのウォンが姿を消した。さら

済州には「三姓穴」という厳粛な名所がある。穴から三つ

改称されて高麗に組み込まれた。

に、船上で乾燥から加工まで行うイワシ漁船が増えて、ウォン

その時期の興味深い逸話に、高麗時代に済州の判官(地方

で漁をするのは時間のあるお年寄りくらいだ。しかし、引き潮

高官)だったキム・グ(金坵、1211~1278)が、初めて石垣を

の白い波間から姿を現す黒い石垣は、ひと時とても賑わった村

築くように命じたという記録がある。

の情景を思い起こさせる。

「かつて済州の畑には、境界を示すものがなかったため、

韓国の文化と芸術 7


© TOPIC

気が強くて乱暴な方が、日々少しずつ土地を広げていき、民が

定の高さの石垣を築くように指示したというのだ。彼の在任期

苦しんでいた。判官となったキム・グが、村の人たちからそう

間は1234~1239年。こうした記録から、済州で石垣造りが盛ん

した事情を聞き、石を集めて垣を築き、境界を設けると、民の

だった時期を推測できる。

生活が楽になった」(『東文鑑』より)。

石垣ができると、大きな変化が起きた。土地の境界を巡る

人口が増え、農地は低い平地から中山間地域へと徐々に広

争いだけでなく、牛や馬による農作物の被害も減少した。石垣

がったのだろう。しかし、開墾する土地といっても岩や石だら

は大雨による土壌の流出を防ぎ、強い風を防いで土の湿度も保

けで、その隙間にある土は、ほとんど火山灰土だったため、

ったので、作物の成長にも役立った。農作業が楽になり収穫量

降水量は多くてもすぐ地中に染み込んでしまう。さらに、高麗

が増えると、石だらけの痩せた高地が、生活の基盤に様変わり

時代は休閑農業だった。1年の農作業が終わると、肥料の効き

したのだ。

目が落ちるため、地力を回復させるために1年か2年ほど休ん

済州は、韓国の他の地域に比べて、経済における農業の割

だ。その間に農地が草で覆われたり、大雨で地形が変わるなど

合が最も高い。代表的な作物としてはミカンが有名だが、冬が

して、隣の畑との境界を決めるのは難しかったはずだ。

旬のダイコン、ニンジン、ブロッコリー、キャベツなども挙げ

そのため、土地争いが起こり、それを口実に地方の有力者

られる。済州のニンジンとブロッコリーは、全国の生産量の7

が弱き民の土地を奪うことまで起きた。そこで判官のキム・グ

割を占めており、ダイコンやキャベツ、秋ジャガイモは4割に

が、土地の境界に、畑を耕す際に出てきた石を積み上げて、一

達する。厳しい自然を生き抜いた済州の石垣農業は、2014年に

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1. 2014年に世界農業遺産(GIAHS) に認定された済州の「パッタム」。 この石垣は、厳しい環境を克服する ために生まれた農業遺産だ。済州の 人たちは、畑から出てきた玄武岩で 石垣を造り、強い風と土壌の流失を 防いだ。全長は島全域で2万2108㎞に もなる。

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2. 石垣が低い所では、ジャガイモや ニンジンのように高くならない植物 を栽培し、石垣が高い所では、アワ やムギなどの穀物を育てる。適当に 積み上げたように見えても「トルチ ェンイ」という専門の石工が丁寧に 造ったものだ。

国連食糧農業機関(FAO)によって「世界農業遺産(GIAHS)」

元を建てた直後。その頃、モンゴルとの長い戦いで疲弊した高

に認定された。それを機に済州の月汀里(ウォルジョンリ)で

麗が、臨時の都だった江華から開京(現開城)に遷都し、親モ

は、毎年その価値と美しさを紹介する「パッタム祭り」が行わ

ンゴル政策に転じた。すると、反モンゴル勢力の中心だった精

れている。

鋭部隊の「三別抄」が不服を唱え、朝鮮半島の南西海岸に位置

ある調査によると、約千年にわたって様々な形に積み上げ

する珍島を拠点にして抵抗勢力を集めていった。

られた石垣は、全長2万2000kmほどと推定されている。海岸か

高麗朝廷は1270年9月、三別抄の退路と予想される済州に兵

ら中山間地域までクモの巣のように張り巡らされている石垣

士を送り込み、上陸を阻止するための石垣を海岸に築くよう指示

は、農業的な価値や優れた景観だけでなく、済州の貴重な文化

した。それ以前から海岸には、波を防いで船を泊めるための石垣

遺産になっている。

があったはずだ。それをつないだり補強したりして、軍事用の石

農業用から軍事用の石垣へ

垣が初めて造られたのだ。波に洗われた海岸の石は丸いため、畑

争いながら生きてきた済州の人々。そんな済州が、激変する世

た。当然、その大変な労役は済州の人々に課せられた。

海産物を採取する合間に、狭くて痩せた畑を巡って隣人と

の石垣のように一列に積み上げるのは難しい。また防御という目 的のため、簡単に越えられないように幾重にも高く積み上げられ

界史に登場したのは、13世紀後半のモンゴルとの関係からだ。

しかし、それから3カ月後に上陸した三別抄軍を防ぐこと

つまり、チンギス・カンの孫であるクビライが中国を征服し、

はできず、高麗の意欲的な計画は水泡に帰した。三別抄と高麗

韓国の文化と芸術 9


ある調査によると、約千年にわたって様々な形に積み上げられた石垣は、 全長2万2000kmほどと推定されている。海岸から中山間地域までクモの巣の ように張り巡らされている石垣は、農業的な価値や優れた景観だけでなく、 済州の貴重な文化遺産になっている。

の間で様子をうかがっていた済州の人々は、それまで労役と

れでも、オルレ18コースにある禾北地区の「別刀煙台(のろし

搾取をしてきた高麗朝廷よりも、三別抄に好意的だった点が勝

台)」から海岸の石垣を見下ろせば、後に引けぬ当時の切実な

敗を分けた。それでも、三別抄が防御のために再構築した石垣

思いが十分感じられるだろう。

は、モンゴルを相手にできるほど堅固ではなかった。その翌

遊牧と農業の石垣に

年、珍島で大敗した三別抄は、済州で再結集して抵抗したが、 1273年2月に高麗とモンゴルの連合軍に敗れ去った。

済州とモンゴルの関係は、必然的に対立を生んだ。だが、

それ以降、この海岸の石垣は、元が衰退し始めた高麗末期

100年あまり続いた人的・物的交流は、済州社会に大きな変化

から朝鮮時代が終わるまで数百年の間、水と食糧を略奪する倭

をもたらした。その一つが牧畜文化だ。村周辺の草地での牛や

寇を防ぐための防御に用いられた。頻繁な倭寇の襲撃に対し

馬の放牧は、農業と同じくらい歴史が長い。それでも、済州に

て、朝鮮時代の済州の牧使(地方高官)は、ほとんど武官から

本格的な馬の牧場が造られたのは、三別抄を制圧した元が済州

選ばれた。19世紀には交流と略奪という二つの顔を持つ異国船

を直轄地にした直後の1276年だ。160頭の馬と共に牧畜専門家

が、好奇の目を向けた。この海岸の石垣は、いつからか「環海

の「牧胡」を呼び寄せ、城山一帯に「耽羅牧場」を設けてから

長城」と呼ばれ、済州のオルレ(トレッキングコース)を歩い

だ。それが今日の済州の馬産業の原点といえる。

ているとよく見かける風景でもある。しかし、ほとんどが崩れ

しかし、空間を流浪する遊牧民と空間の支配権を確保すべ

たり壊れていて、その名にふさわしい威厳は感じられない。そ

き定着民との根本的な摩擦は、元が退いた後、朝鮮が建国され

1. 涯月邑(エウォルウッ) にある「缸坡 頭城」(ハンパトゥソン) は、高麗時代 に三別抄がモンゴルと戦った最後の激 戦地。三別抄が1271年に済州に拠点を 移した後、築城した。外城は、平らな 石を敷いて基礎を固めた後、土で造ら れた長さ6㎞の土城。内城は、中心部 に石を積んだ外周800mの石城。当時の 土城の一部が残っている。

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2. 「環海長城」(ファンへジャンソン) は、海から侵入してくる外敵を防ぐた め、海岸線に沿って積んだ石垣。済州 には19の海岸の村にその痕跡が残って いる。その中で北東の海岸にある禾北 地区が、比較的原形をとどめている。 現在620mほど残っており、最近その半 分が補修された。高さは約2.5m


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てから激化した。放し飼いにしていた馬による農作物被害が増

という高い称号を授けられた。

え、海岸地域では足りない牧草を巡って争いが激しくなった。

チャッの補修も着実に行なわれた。高地には、馬が森林の

そのため、済州出身の官吏コ・ドゥクチョン(高得宗、1388

深いところに入って道に迷ったり凍死しないように「サンチャ

~1452)は1429年、朝鮮第4代国王の世宗(在位1418~1450)

ッ」を、中間地域には「チュンチャッ」を築き、1年おきに

に、安定した牧場運営について建議した。漢拏山(ハルラサ

農業と放牧を行うことで農地を広げた。そうして維持されてき

ン)を取り囲む中山間地域を10地区に分け、それぞれに国営の

た国営牧場は、日本統治時代に村の共同牧場になった。牛や馬

牧場を造るという計画だ。その内容は、馬が逃げないように、

の糞を燃料として使う済州の風習は、長い牧畜文化によるもの

海岸地域の農耕地と中山間地域の放牧地の間に石垣を築くとい

だ。漢拏山を幾重にも取り囲んでいたチャッは、開発と放置に

うものだった。その結果、高さ1.2~1.5mの石垣が、島全体に

よって壊れたり流失し、今では60㎞ほどしか残っていない。

張り巡らされた。「チャッ」あるいは「チャッソン」と呼ばれ

よく見ると、済州の石垣は、以前と違っているようだ。生

る石垣だ。そうして造られた牧場で、国所有の馬と個人所有の

活と環境の変化によって、用途も形も少しずつ変わってきたか

馬を同じように放牧した。

らだ。ミカンの木を保護する石垣は、さらに高くなった。新し

この政策によって済州の牧畜業は非常に盛んになり、そこ

い自動車道路の両側には、防護壁のように画一的な石垣が造ら

で育てられた馬は、ほとんどが軍馬として使われるか王室に献

れている。石垣を強くするため、金網で覆ったり、石と石の間

上された。済州東部の山間地域には、数千頭の馬を飼っていた

にセメントを入れたりもする。変わらないものもある。石垣の

キム・マンイル(金萬鎰)の個人牧場もあった。彼は、文禄・

表情は、今でも不愛想だ。昔ながらの価値を守ろうという心と

慶長の役の際に馬500頭を国に献上し、その後も戦乱が起こる

変化を受け入れようという心が、ぶつかり合っている。そんな

たびに数百頭の馬を捧げた。そのため、朝鮮第14代国王の宣祖

複雑な思いが詰まっているからだろう。その二重の望みも、済

(在位1567~1608)から従一品(朝鮮の官位)の「献馬功臣」

州の古い遺産だ。

韓国の文化と芸術 11


特集 2 済州-石の島の伝説

済州石文化公園 先覚者が残す遺産 済州市朝天邑にある100万坪の広大な「済州石文化公園」。石は済州の本質なので、 ここに石をテーマにした公園があるのも当然だと考えられている。 しかし、一人の先覚者の粘り強い努力がなければ、 済州の説話と石で造られたこの美しい公園は、存在できなかったはずだ。 ホ・ヨンソン 許栄善、詩人 安洪範 写真

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済州市朝天邑(チョチョンウッ)にある済州石文化公園 は、済州道庁が敷地と費用を支援し、ペク・ウンチョル 団長が企画している。100万坪という広い敷地に、済州の 民俗、神話、歴史が石によって表現されている。 韓国の文化と芸術 13


年ペク・ウンチョルは1960年代後半、ソウル 芸術大学校で演劇の演出を学んでいた。そし て、兵役のために入隊した江原道の山奥の工

兵隊で、樹齢数百年の木々の神秘的な姿と運命的に出会った。 1

彼は、枯れた木の根を傷つけないように丁寧に掘り起こし、1 日で終わる作業を7日以上かけて行った。自然主義的な彼が、 除隊後に直面した現実は、悲惨なものだった。その当時、政府 の主導で開発を進める「セマウル運動」によって、韓国の地形 は急激に変わっていた。

枯れた木の根との出会い

「ただ経済的に豊かに暮らそうというスローガンの

下、村の環境を現代化し、自然をむやみに破壊する様子を 見て、怒りがこみ上げてきました。微力ながら、一つでも 守り抜こうと思ったのです」。 一夜にして道が無くなったかと思えば、新しい道が できたりもした当時、ペク・ウンチョル氏は、そんな思 いであちこち歩き回って拾い集めたもので、済州市内に 小さな「耽羅木物苑」を造り、その後さらに発展させて 「耽羅木石苑」とした。自然の大切さに早くから気づい ていた彼は、石と木をテーマにした庭園を企画し、さら にストーリーテリングの技法を取り入れるなど創造性を 発揮した。昔から伝わる説話でありながら民謡や映画と しても広く知られる「カプトリとカプスニ」の恋の物語 を石と木で演出したのだ。そのおかげで、韓国の代表 的な新婚旅行先だった済州で、新婚夫婦の必須コース になった。 この独特なコンセプトの庭園は、2001年にフラ ンス文化・通信省建築遺産局(D A P A)が発行した 『Monumental 2001: Jardins historiques』で世界 12大庭園の一つとして紹介された。しかし、ペク・ ウンチョル氏は、そんな立派な庭園さえ思い切って 閉園してしまう。そのきっかけは1988年に遡る。写 真家でもある彼は、作品の展示のためにフランスの パリを訪れた。その世界的な芸術の都で済州の価値 が認められていることを知り、それまで気づいてい なかった自分を恥じた。フランスから帰国するや運 転を学び、その後10年間で120万㎞を走って、消えゆく 民俗資料や石の収集に取り組んだ。そんなある日、い つも通っていた海岸道路で、深いため息と共に涙を流 した。 © Jeju Stone Park

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「済州の自然が醸し出す霊的な雰囲気と、海に流れ込んだ 溶岩による色とりどりの石から、自分が生まれ育ったこの島の 美しさに改めて気づかされました」。

石で語る神話

その日の出来事が、自分の分身のような存在だった木石苑

の閉園と「これから100年を見据えた石文化公園」という構想 につながった。現在、済州石文化公園がある場所を見て、胸が さらに高鳴ったペク・ウンチョル氏は「もうすぐ消えてしまう かもしれない、この場所を守りたい」と思い「ここにソルムン デハルマンを再現しよう」と心に決めた。 ソルムンデハルマンは、済州の創造説話に登場する主人公 で、背が高くて力の強い巨大な女神だ。彼女は「五百将軍」と 呼ばれる500人の息子を産んだが、深刻な干ばつで飢えに苦し む息子たちのため、おかゆを作っている時に、誤って釜に落ち て死んでしまったという。ペク・ウンチョル氏は、よく知られ ているこの説話の主人公から、済州の女性の生活を支配してい た労働の起源と共に、人類愛へと広がる偉大な母性を見出し、 それを済州石文化公園のキーワードにした。 彼はそれまで集めた民俗資料をはじめ、石一つまで済州道 に寄贈した。自治体は100万坪の敷地を設けて、すべての費用 を負担することにした。彼は1999年に済州道庁と石文化公園の 造成に向けた20年間の官民協約を結び、展示と演出を総括する 企画団長に就いた。2006年に開園した済州石文化公園は、今で も未完成だ。かつてゴミ捨て場だった地下に博物館が造られ、 公演場を兼ねた五百将軍ギャラリー、伝統的なわらぶき屋根の 集落、自然休養林などが設けられた。だが、ソルムンデハルマ ン展示館は、2020年の完成を目指して工事が行われている。そ のため、彼は石文化公園の約5坪ほどの狭い場所で一人暮らし をしながら、自分の想像と直観に基づいた演出を続けている。 「クモは、考えながら糸を出しているのでしょうか。ただ 自然に出てくるのです。私もそうです」。 数十年間、思い描いてきた夢を実現するため、最後の拍車

2 1. 済州石文化公園の第1コースにある「トルハルバ ン」(済州特別自治道民俗資料2-21号)は、およそ 300年前に造られたと推定される。大きな目、ぎゅっ と閉じた口、頭にかぶったカムトゥ(冠)、両手を おなかに乗せて立っている姿など、トルハルバンの 典型といえる。もともと済州の人たちは「チャンス ン(村の守護神)」を意味する「ポクスモリ」と呼 んでいたが、観光商品としてトルハルバンという名 前が広がった。 2. ペク・ウンチョル団長は、生まれ育った済州の美 しさと魂を様々な石に見出し、2020年完成予定のソ ルムンデハルマン展示館に力を注いでいる。

をかけている中、こう話し続けた。 「後世に伝える歴史の流れをソルムンデハルマン展示館に 収めようと思います。民俗、神話、歴史は三つでありながら一 つであり、一つでありながら三つでもあります。すべて一つに つながっているのですが、済州においてその中核は石です。済 州では石の上で生き、石の上で死にます。よく考えてみれば、 夜空の星も宇宙もすべて石なのです」。 公園の名前に「石文化」を入れたのも「すべてが石の上に

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「後世に伝える歴史の流れをソルムンデハルマン展示館に収め ようと思います。民俗、神話、歴史は三つでありながら一つ であり、一つでありながら三つでもあります。すべて一つに つながっているのですが、済州においてその中核は石です。 済州では石の上で生き、石の上で死にます。 よく考えてみれば、夜空の星も宇宙もすべて石なのです」

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第3コースには、今ではほとんど見られない 済州の伝統的なわらぶき屋根の家が50棟再 現され、昔の島の生活を垣間見ることができ る。昔の家200棟から得た古い資材が使われ ている。

© Jeju Stone Park

韓国の文化と芸術 17


花開いた済州人の文化であることを強調したかったから」だと 言う。彼の言葉は自信に満ちていた。

石文化公園に捧げた人生

ペク・ウンチョル氏は、親から「眼福」というありがたい

「石を通じて平和に貢献できるような仕事に、残りの人生

贈り物を受けたと言う。「他の人の目には見えない人間のあら

をかけたいと思います。一種の瞑想と癒しのようなものでしょ

ゆる表情を石から発見し、捨てられたものから宝物を見つけ

うか。石はそれ自体が霊的な存在です。最近の人々は、物質的

る目を持って生まれた」と信じているからだ。済州がソルムン

なものにとらわれ過ぎているような気がします。他の世界の存

デハルマンという女神によって誕生したように、彼がここまで

在に気づくことが大事だと思います」。

来られたのも女性のおかげだ。肝の据わった母は、息子の夢の

メキシコ出身の世界的な建築家である故リカルド・レゴレ ッタ氏は、石文化公園について次のように話している。

ため、自分の果樹園に30坪の倉庫を建てた。まともな職に就か ず、山や野で石を拾い歩く彼に対して、周りの人々は、くだら

「博物館を石で満たすのは、非常に難しい挑戦だったはず

ないと思ったかもしれない。だが、母親は彼に最初の展示空間

だ。しかし、中山間地域という特性をよく理解した上で、その

を与えたパートナーであり、支援者でもあった。母親は7人兄

自然環境と程よく調和させた。特にソルムンデハルマンの伝説

妹の中でも、特にペク・ウンチョル氏と仲が良かった。息子が

は、とても興味深い」。

見事な石を拾ってくると、手を叩いて喜んだと言う。大変な道

また、この公園を訪れたフランスの写真家レオナール・ド

を彼と共に黙々と歩んでくれた妻の功は、言うまでもない。

・セルバ氏は「済州の石は、不思議な気配が感じられる。この

「済州は石で造られた島です。固まった溶岩の上にコッチ

石の島で、石文化公園は済州らしい神話を生み出せるだろう。

ャワル(原生林)ができ、民家がある場所には、万里の長城よ

イースター島の巨大な石像が、どこから来たか分からなくて

りも長い石垣が造られています。石によって霊的な雰囲気が醸

も、有名であるのと同じように」という感想を述べている。

し出されています。特に、済州に散在する48基のトルハルバン

© Lee Jae-hong

1

18 KOREANA 夏号 2018


(済州の方言で石のおじいさんの意)は、最高の宝物です。あ

てしまうかもしれませんが、ここだけでも長く残ってほしいで

の玄武岩の石像は、世界のどこにもありません。倭寇の侵略に

す」。

立ち向かう守り神として造られたトルハルバンは、大きく見開

ペク・ウンチョル氏は、自分の目には「すべての石が目を

いた目を夜中に見ると本当に怖いくらいです。どれも名のない

閉じて瞑想しているように見える」と言う。それに共感するか

石工が造ったものですが、すべてのトルハルバンには、それぞ

どうかは別として、古い何かに出会いたい日には、この公園を

れ魂が宿っています」。

訪れるのも一つの方法だ。時間の境界を超えて、自然が自分で

彼は、済州の童子石を通して「人間世界の先にあるものを

あり、自分が自然であることに気づくかもしれない。おそらく

見る」と言う。「霊的には童子石、美学的にはトルハルバン、

そこで白黒写真の風景のように古い帽子をかぶって土の道を歩

この二つが済州の象徴です。そのため、どうしても収集したい

く、白髪の仙人のような彼に出会えるだろう。

ものに出会うと、経済的に苦しくても必ず手に入れました」。 彼が木石苑から石文化公園に運んだ収集品は、トラック 500台分に達した。また、古い家200棟から得た資材で、わらぶ き屋根の家50棟からなる中山間の村を再現した。この村は、民 族の分断とイデオロギーの対立によって済州が経験した暗い現 代史「済州島四・三事件」を扱った映画『チスル』(済州の方 言でジャガイモの意)のロケ地でもある。 「単純な昔の村の再現ではなく、先祖の知恵を継承し、教 育する文化体験の場を作ろうと思いました。他の所はなくなっ

1. 済州石博物館地下1階の石ギャラリーに展示されてい る自然石。溶岩が固まった自然石の中から、変わった形 のものが集められている。 2. 野外展示場では、ひき臼やチョンジュソク(定柱石、 門の柱)など、済州の衣食住に関する石の民俗資料を見 ることができる。ペク・ウンチョル団長が、数十年かけ て収集したものだ。

2

韓国の文化と芸術 19


1

© Kim Tschang-yeul Art Museum Jeju

2

石の家

済州のもう一つの顔 済州を巨大な一つの火山岩と捉えることができるだろうか。米を

主食としてきた韓国で、稲作に適さない韓国最南端の痩せた地。この

島では、少し土を掘れば、どこでも石が出てくる。かつて済州の人

であれ現代的な建物であれ、壁や垣、庭など室内外の装飾に広く使わ れ、昔も今も済州の景観を特徴づける魅力的な要素になっている。

々は、あちこちに転がっている石を拾い集め、家を建てて石垣を築い

石の美感を抱いた美術館

加工する工場がいくつもある。最近の建築ブームによって、火山岩で

ム・チャンヨル)美術館。済州道が2016年、翰京面(ハンギョンミ

10年ほど前から済州で建築ブームが巻き起こっているのは、観光地

が一見、火山岩の塊ように感じられるが、よく見ると粗く仕上げら

た。今では、掘り出した石を削ったり磨いたりして、建築資材として 造られた資材のニーズが高まっているからだ。

だけでなく「住みたい街」として急浮上し、朝鮮半島から転入する人 口が増加し続けているからでもある。最近、済州のあちこちで新しい 建物を見ると、公共施設や個人住宅、数多くのゲストハウスまで、そ れぞれに個性を表現している。そうした趣向を凝らした設計に欠かせ

空から見下ろすと、四角い石の塊を集めたような形の金昌烈(キ

ョン)の楮旨(チョジ)芸術村に開館した美術館だ。黒っぽい外観 れた打ちっ放しコンクリートを黒く塗ったものだ。なぜ、済州の石 を使わなかったのだろうか。おそらく、ほとんどの観覧者が疑問に 思うはずだ。

その理由は、前述したように、火山岩では大きな建物の骨組みを造

ないのが、済州の火山岩だ。

ることができないからだ。また、壁面材としても適さない。それでも

にもかかわらず、家の骨組みには使えない。溶岩が冷えて固まった粗

築の中核でもあるからだ。

しかし、人気の高い「済州の石」は、情感あふれる色合いと質感

い構造なので、重さに耐えられないからだ。そのため、伝統的な家屋

20 KOREANA 夏号 2018

「済州の石のイメージ」を取り入れたかったのだろう。石こそ済州建 この美術館では、そのような深い悩みに対する答えをいくつも見つ


けることができる。加工されていない火山岩をまるで城壁のように高 く積んだ入口の壁面装飾。美術館全体を囲むような鉄の網をかぶせた 火山岩の垣。細かく砕いた火山岩が敷かれた屋根。さらに中央の庭を 埋め尽くす池の真ん中に置かれた黒い大理石。この大理石も、思わず 火山岩だと勘違いするように意図されている。

現して観覧者に伝えるため、金昌烈美術館は「済州の原初的な夢」の 象徴として見る者に迫ってくる。

石の温もりを分け合う家

最近、涯月邑(エウォルウプ)に建てられた高級ペンション「V

Tハガ・エスケープ」は、建物の内外に火山岩の垣と壁が適切に用い られている。リビングに座ると、小さな庭を囲む石垣が目に入る。青 い空の下、整然と積まれた石垣。その穏やかで平和な風景を眺めなが ら、落ち着いたひと時を過ごせるのが、このペンションの魅力だ。

鉄筋コンクリートの建物に、庭の垣までコンクリートだったなら、

旅行者は魅力を感じただろうか。おそらく建築主と設計者は「古く て、でこぼこした石で、温かく心を通わせる」ことに共感し、それが 利用者に温もりとして伝わるように工夫したのだろう。

「VTハガ・エスケープ」が、済州の石垣の現代的な応用だとす

れば、2011年に旧左邑にオープンしたゲストハウス「ハムPDの石の

家」は、100年以上の間、伝統的な家屋で流れてきた「石の歳月」を受

ⓒチャン・ジヌ(張眞玗)

このように、済州島の地中深くに眠っている巨大な石の塊の重厚さ

と、島中に転がっている黒い石の日常的な風景を、現代的な美感で再

3

1, 2. 済州道立・金昌烈(キム・チャンヨル)美術館を設計し た建築事務所アーキプランは、コッチャワル(原生林)に噴出 した火山島のような印象を与えるため、玄武岩を連想させる黒 い打ちっ放しコンクリートで外壁を造り、所々に本物の玄武岩 を使用して、一貫したイメージを持たせている。

3. 「ヌルジャク(Neuljak)」は、100年以上前に建てられた 典型的な済州の家を改造したゲストハウス。もともとわらぶき 屋根だったが、1970年代初めにスレート屋根になった。それで も、外壁と石垣は昔のまま残っている。

4. 「VTハガ・エスケープ」をエッグプラント・ファクトリー と共同設計したフィグ建築士事務所のキム・デイル(金大逸) 所長は、旅行者が室内でも済州の村の風景を感じられるよう に、所々に玄武岩を使用した。このペンションに使われた済州 の石は、空間を仕切るだけでなく、打ちっ放しコンクリートの 外壁に造形美を与えている。

4

け継いでいるといえる。オーナーが2014年に変わ り、今は「ヌルジャク(Neuljak)」という名前に

なっている。それでも、昔の家3棟分の骨組み、 壁、石垣、庭をそのまま生かし、内部に手を加え た建物は、依然として旅行者の安らぎの空間だ。 宿泊客同士があいさつを交わし、夕方になると時 折みんなが集まって、小さなパーティーを開いた りする。この素朴なゲストハウスは、まるで各地 に散らばっている家族が集まる盆や正月の故郷の 家とよく似ている。前オーナーは「故郷の情趣」 が息づく村に住みたくて、済州島に移住してきた ので、昔の家をそのまま残しておきたかったと話 していた。そうした心は、今でも利用者に余すこ となく伝えられているようだ。

新しい家を建てるにせよ、古い家を直すにせ

よ、新しい生活の場を求めて済州に移り住んだ人 は、この島で最初に目を引く低く黒い石垣と海岸 の輝く石との出会いを忘れられないだろう。胸に 収めたその美しさが、リビングで寝室で庭で情感 ⓒイ・スンヒ(李昇姫)

豊かによみがえっている。

韓国の文化と芸術 21


特集 3 済州-石の島の伝説

生と死の境界を 守る石

旧左邑のタンオルムの「サンダ ム」。墓の四方を囲む石垣で、朝 鮮半島では見られない。放牧の牛 馬が墓を壊したり、火の手が広が ることを防いでいる。ほとんどは 中山間地域やオルム(側火山)に あるが、畑の中に造られている場 合もある。

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済州の緩やかな丘にある墓。それを取り囲む低 い石垣(サンダム)と、そこに立っている無邪 気な表情の童子石は、火山島・済州の風土と信 仰が作り上げた象徴だ。技巧とは縁のない謙虚 で素朴な造形から、済州の人々が自然と共に生 きてきた歴史、そして生と死への認識をうかが い知ることができる。 キム・ユジョン 金唯正、済州文化研究所所長

鮮半島に属する約3300の島の中で最も 大きい済州島は、一つの巨大な山とい える。標高1950mの漢拏山(ハルラサ

ン)が、島全体にわたって緩やかに横たわっているか らだ。火山島・済州は、約170万年前に漢拏山の噴火に よって造られ、地表と地下には溶岩噴出の痕跡が数多 く残っている。最たるものは、済州の独特な景観を象 徴する玄武岩だ。済州島では、どの角度から見ても小 さな穴が無数に開いた黒っぽい玄武岩が、どこでも見 られる。そのため、石と風と女が多い「三多島」とも 呼ばれている。 人は与えられた環境に適応し、それを活用しなが ら生きていく。済州の人々も、避けることのできない 自然条件である海風を防ぐため、他の自然条件である 石を用いた。海食崖から剥がれ落ちたり、波食台に転 がっている石を拾い集めて、風や波を防ぐために海岸 や畑のあぜに石垣を築いた。また、墓を保護する石垣 (サンダム)を積み、死者を守護するように童子石を © 姜定孝

墓の周りに立てた。

韓国の文化と芸術 23


済州の人々は、石垣に囲まれた家で生まれて、生涯を過ごし、 死後も石垣を張り巡らせた墓に葬られた。そのようにして、 石は人間の生と死に深く関わってきた。

済州を象徴する石垣は、数世代にわたって積み上げられた

も、特に神聖視されている。墓を守るための垣であり、魂のよ

労働の蓄積だ。父が大きな石を適当なサイズに切り出すと、息

りどころを示す境界線でもあるからだ。サンダムには一重に積

子がそれを運んで石垣を積む。母は畑を耕す度に、草取り鎌に

まれた「ウェダム」と二重に積まれた「キョプタム」がある。

当たる小石で石垣の隙間を埋める。この単純で大変な作業が、

ウェダムは、形によって円形、ドングリ形、四角形に分けられ

どれほど長く繰り返されたのか計り知れない。空から済州島を

る。墓の後方が狭い、台形のキョプタムもある。

見下ろすと、大小様々な黒い石垣が自由奔放な線を描 きながら、島全体に張り巡らされている。まるで 巨大な美術作品のようだ。大地をキャンバスに した作者未詳の不思議な「芸術作品」。それ が特別なのは、人工的ではなく、自然の美 しさに満ちているからだ。

サンダムには、霊魂が通る神の門である「オルレ」 を設ける。サンダムの左側か右側に40~50cmほど開 けられた場所だ。そして、オルレの左右の垣の 上に、長い石を一つから三つ置いて、牛馬や人 が出入りできないようにする。オルレの方向 (左右)は、墓の主の性別と関係がある。

済州の石垣は、決まった規則や様式

男性の墓は死者の視点で左側に、女性の

がなく、自由に曲がりくねり、大地を

墓は右側に造り、合葬の場合は男性を中

這っている。そして、その石垣が描く線

心にして左側に設ける。中には、サンダ

は、まるで風に乗って運ばれてきたよう

ムの前面に造られることもある。二つ並ん

に自然だ。そのため「済州の大地と石垣 は、最初から一つになっていた」と言う 人もいるほどだ。

死者のための石垣

でいる双墓は、例外として左右両側にオル レを設けることもある。 サンダムは元々、畑ではなく野原にあった ため、火災による焼失や牛馬など動物の侵入 から墓を守るために必要だった。しかし、

島全体にある済州の石は、神から

野原だった地が徐々に耕作地に変わり、

の贈り物だろうか。それとも災いだろ

畑の片隅に位置するようになった。もち

うか。農家をてこずらせる時には、災

ろん、親戚などによる手入れが楽なよう

いとなるだろう。だが、石がこのよう

に、畑の片隅に墓とサンダムを造ったの

に多くなければ、人間と動物のすみ かだけでなく、死者の魂が眠る墓も まともに造れなかったはずだ。済州 の人々は、石垣に囲まれた家で生ま れて、生涯を過ごし、死後も石垣を

1. 墓を守る童子石は、幼い男児 ・女児の姿をした石像。済州の童 子石の特徴は、粗い玄武岩の質感 と、飾り気がなく霊的な雰囲気を 生かした表現

張り巡らせた墓に葬られた。そのよ うにして、石は人間の生と死に深 く関わってきた。

2. サンダムは、一重に積まれた 「ウェダム」と二重に積まれた 「キョプタム」に大きく分けられ る。この石垣の大きさと形は、そ の家の財力の表れでもある。

済州のあちこちで見られる色 々な形の石垣の中で、墓を囲むも のを「サンダム」と呼ぶ。サンダ ムは、様々な用途の石垣の中で 1 24 KOREANA 夏号 2018

© Kim Yu-jeong


© Kim Yu-jeong

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かもしれない。しかし、人家の近くにあっても、サンダムの石

子石は、仏教的な色彩が残ったまま、若干の地域的な特徴が加

は勝手に触れてはいけない禁忌の対象だった。妥当な理由や許

えられただけで、済州のものとは異なる。童子石は、儒教文化

可なしに、サンダムを勝手に越えてはならなかった。もちろん

の中心である漢陽(現ソウル)で生まれた墓石だ。そこから遠

例外もあった。遠くへ向かう旅人が道に迷った時に限って、サ

く南の辺境にある済州に伝えられる過程で、各地域の独特な風

ンダムに入って寝ると、墓の中の霊が守ってくれると信じられ

習や様々な信仰が結びついた。さらに、済州の風土と思想が加

ていた。

えられたことで、非常に独特な童子石に生まれ変わったのだ。

サンダムは一般の石垣とは違い、石を扱う済州の人々の技

すなわち、済州の童子石の特徴は、仏教、シャーマニズム、道

術と、品位ある造形的美学を感じさせる。その造形性を簡単に

教、土俗的民間信仰など多くの要素が混じり合い、反映された

定義すると「韓国の線の美学」といえる。例えば、韓国の瓦

点にある。

の屋根は、端に行くほど軒の線が緩やかにせり上がり、まるで

済州の童子石は、とても親近感を与える。特に18世紀、朝

ふわりと飛び立ちそうなリズム感を与えている。サンダムの線

鮮王朝の英祖(在位1724~1776)と正祖(在位1776~1800)の

も、これと同じような美しさがある。低い後方からゆっくりと

時代の童子石は、目を大きく見開き、滑らかな線で精巧に造ら

せり上がるように曲がり、前面の左端から再び緩やかに上がっ

れている。それは、朝鮮半島との往来によって影響を受けた

ていく。この線が、前面に中央に行くほど徐々に沈み込み、再

ものと考えられる。済州の人々は、国喪のたびに王陵造りに志

び上に向かうと、反対の右端で左端と同じ高さになる。そこで

願して、朝鮮半島に渡った。仁祖(在位1623~1649)の時代、

止まったサンダムの線を見ると、実に穏やかだ。

1629年に下された「出陸禁止令」によって、朝鮮半島への行き

霊の使い「童子石」

来が厳しく制限されたため、王陵造りは済州の人々が朝鮮半島

サンダムの中に立てる童子石は、その名の通り男児または

を再現したのが、今でも見られる済州の童子石だ。文人石(豪

女児の姿をしている。童子石の様々な機能は、死者の霊に対し

族の墓に立てられた石像)をかたどって造られたが、技術力の

て礼を尽くすことにある。具体的には、崇拝、奉養、守護、

低いアマチュアの職人によって、全く違う形の石像に生まれ変

装飾、呪術、遊戯などの機能だ。済州の童子石は、朝鮮半島か

わった。その結果、済州の童子石は、朝鮮半島では珍しい玄武

ら渡ってきた様々な氏族の入島始祖、赴任してきた牧使(地

岩を使っており、形もかなり違う。今では、飾り気のない美し

方高官)、済州出身の両班(高麗・朝鮮時代の支配階級)など

さがもたらす生き生きとした原始性によって、済州の魅力的な

土豪、流罪人などによって伝えられた。しかし、朝鮮半島の童

顔として広く親しまれている。

に渡る良い機会だった。その際、王陵造りの過程で覚えた石像

韓国の文化と芸術 25


日常生活の道具 として使われた 済州の石

ⓒイ・ギョム(李謙)

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火山島・済州島では玄武岩が多く、昔から主に石の生活道

具が使われてきた。石の豊富さに加えて、雨が多くて湿度も高 いため、木の道具はすぐに傷んでしまうからだ。済州の伝統的

な石の生活道具として最も代表的なものは、ムルパン(壺の 台)、ムルバンエ(ひき臼)、トットンシ(便所兼豚小屋) だ。その他に臼、火鉢、チョンジュソク(定柱石、門の柱)、 トゴリ(くり鉢)などがある。今ではほとんど使われていない が、済州の人々にとって特別な思いが込められた道具だ。

ムルパン

ムルパンは、ホボク(水汲み用の壺)を置く玄武岩の四角い

台。機能性と人の動きを考えて、主に台所の扉の外に設けられ る。済州の女性は何度も、ホボクを担いで村の共同の水汲み場 から水を運んできて、この台に置いた。水汲み場は家から遠く 離れていて、家ごと・村ごとに距離は違っていた。

海岸の村は、一般的に村の中心から1kmほど離れた場所で

水が湧いていた。この水は「サンムル」と呼ばれる。水の量が 潮差によって変わるため、潮の満ち引きに合わせて水を汲みに 行った。山あいの村でも、雨水が溜まったポンチョンス(奉天 水)をホボクで運んだり、木から流れ落ちる雨水を貯めたりし て、生活用水として使った。サンムルが足りない所では、わら ぶき屋根から流れ落ちる雨水も貯めておいた。

水は、主に女性・女児が運んだ。この水を飲用水とし牛や

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© TOPIC

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1. ムルパンは、ホボク(水汲み用の壺)を置 く台で、主に台所の扉の外に設けられる。

2. トルバンエは、祭祀の餅を作る際に主に使 われた。また、布地を柿渋で染める際にも有用 だった

3. 済州特有のトットンシは、石で囲った豚の畜 舎であり、便所と続いていた。ここで作られる 堆肥は、農作業に使われた。

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© Kim Yu-jeong

馬、豚にも飲ませた。済州の女性は、幼いころからホボクを担

る木の臼が好まれた。軽くて管理しやすいからだ。トルバンエ

日が始まった。ホボクは、水を運びやすいように工夫された丸

ように牛小屋の後ろに立てかけて保管した。

いでいた。ホボクで運んできた水を水甕に入れることから、毎 くて赤茶色の壺だ。遠くから運んでも水がこぼれないように口 は細くすぼまり、胴は丸く張っている。年齢に合わせて使える ように、様々な大きさのものがあった。

トルバンエ

済州の人々は、家族の誕生日よりも、先祖を祭る祭祀を大切

にした。その際、殻をとった穀物を粉にして餅を作るため、それ

を使わない時には庭の片隅に置き、ナムバンエは雨に濡れない

トットンシ

済州では、豚を育てるために石垣を張り巡らせたものを「ト

ットンシ」と呼ぶ。豚は済州で「トセギ」と呼ばれ、タンパク 質の供給源として非常に重要な家畜だった。しかし、穀物が貴 重だったため、主に人糞を与えていた。

豚の畜舎であるトットンシは便所でもあり、農作物の肥料

ぞれの家で臼が必要だった。この石のひき臼は、済州の方言で

を作る場所でもあった。床に麦わらを敷いておき、人糞を食べ

臼は、作業服を作る際にも有用だった。済州の民家では、梅

になると、その肥料を垣の外の路地に積んで2カ月ほど発酵さ

「トルバンエ」といい、2~3人以上の女性が交代でひいた。

雨が明けると青柿を摘んできて、柿渋で布地を染めた。青柿を 臼に入れてひくと、半月のような柿の種が出てくる(子供たち

た豚がその上に排泄して踏みつけるうちに、肥料になった。冬 せ、早春になると麦の種と共に畑にまいた。

豚を家の敷地の中で育てた理由は、他にもある。済州では、

は、面白半分でこの渋柿の種を食べたりした)。青柿が適当に

子供の結婚が近づくと、子豚2匹を買ってきて育てた。1年ほ

塗り、石垣に干して日に当てる。生地が乾くと、再び水に濡ら

「コギッパン」を作って招待客をもてなした。コギッパンは済

潰されると、麻や木綿の布を臼に置いて、手で満遍なく柿渋を しては干し、これを繰り返す。10日ほど過ぎると、糊の利いた 硬い布になる。この生地は「カルチョン」と呼ばれ、その布で 作った服を「カルオッ」という。このカルチョンで、様々な作 業服を作ると、汗をかいてもまとわりつかず、涼しい。また、 洗濯をするほど硬くなり、色も濃くなる。

精米・精麦には、トルバンエよりも「ナムバンエ」と呼ばれ

ど育てて大きくなると、結婚式の日取りに合わせて、その豚で 州の料理で、豚肉3切れ、スンデ(豚の腸詰め)1切れ、豆腐 1切れを盛り合わせたものだ。今も済州では「豚肉3切れ、い つ食べるの?」という言葉が「いつ結婚するの?」という意味 で使われる。

人糞で育った豚「トンテジ」はもう見られないが、天然記念

物として指定された黒豚は、済州が誇る特産物だ。

韓国の文化と芸術 27


特集 4 済州-石の島の伝説

済州の石 土・火と出会う

済州の甕器(オンギ、素焼きの陶器)は、土ではなく石の窯で作られる。甕器は昔から、鉄が 生産されない火山島で、日常生活になくてはならないものだった。だが、新素材の化学製品が 登場した1960年代以降、歴史から姿を消した。しかし、何人かの職人の大変な努力によって、 2000年に伝統的な石窯が復元され、少量ではあるものの生産が続けられている。 チョン・ウンジャ 田殷子、済州大学校耽羅文化研究院特別研究員 安洪範 写真

28 KOREANA 夏号 2018


済州陶芸村のカン・チャンオン(姜彰彦)村長が、石窯

「ノラン(黄)グル」の上で、チェップルジル(発色のため に火をくべること)をしている。火を入れてから4日ほどす

ると、窯の温度がもっとも高くなる。その時に窯焚きの佳境 であり最終段階でもあるチェップルジルをする。窯の上の

穴から乾かした焚き物を入れて、炎を強める。この過程で、 陶器の表面に釉薬を塗ったような光沢が出る。

韓国の文化と芸術 29


1

に使う甕器に生まれ変わった。朝鮮戦争の悲

内陸と異なる生産方式

劇を予告するかような済州島四・三事件が1948

た。最も大きな特徴は、日干し煉瓦で造られた土窯ではなく、

年に起きた際、虐殺から逃れて山奥に逃げるなど緊迫した瞬間

玄武岩の石窯で焼く点だ。これは朝鮮半島のものとは明確に異

にも、済州の人々は甕器を持っていったという。命をつなぐた

なる生産条件であり、日本や中国の生産方式とも区別され、世

めに欠かせない道具だったのだろう。

界的にも珍しい。

州の石は土と火に出会い、島の人々が日常的

済州の甕器は長い間、朝鮮半島とは異なる形で進化してき

済州では古くから甕器が使われていた。『南槎日録』は朝

また、釉薬を塗らない点も注目に値する。その理由は、

鮮王朝の粛宗(在位1674~1720)の時代、官吏として済州に派

朝鮮半島でよく使われる白土や黄土ではなく、火山灰土が使

遣されたイ・ジュン(李増、1628~1686)の在任期間にあった

われるからだ。陶磁器に適した土が少ないため、環境に合わ

出来事を日記のように記録したものだ。この本の後半に、その

せたのだろう。火山灰土に多く含まれている鉱物質が、甕器

160年ほど前に同じく済州に遣わされた文臣チェ・ブ(崔溥、

を焼く過程で表面に溶け出すと、釉薬を塗ったようにほのか

1454~1504)の『耽羅詩』が載せられている。この詩には、ホ

な光沢を放つ。

ボク(水汲み用の壺)を担いだ女性が、水汲み場へ向かう姿が

また、他の地域では、窯に火を焚く際に薪を使うが、生木

描写されている。当時も甕器が使われていたのだろう。一方

の枝を切って日陰で乾かした後、くべる点も異なる。それだけ

で、18世紀に刊行されたと推定される『済州邑誌』には「大静

ではない。済州の甕器は、一人の陶工によって作られるのでは

県に甕器を専門的に売る甕店があった」と記されている。

なく、土を採取する人、窯を造る人、火を焚く人、土を練る人

済州市翰京面の高山里(コサンリ)遺跡から出土した高山

が、それぞれ異なっていた。土と木の枝を集めるコネクン、土

里式原始無紋土器と隆起線紋土器は、約1万年前に作られたも

を練るオンギデジャン、火を焚くプルデジャン、全ての過程を

のと推定され、済州の甕器の先祖に相当する。原始無紋土器

統括するクルデジャンなど、分業が徹底していた。分業された

は、それまで韓国で発見された新石器時代の土器の中で最も古

共同作業によって生産されたという点で、済州の甕器は地域共

い。表面に波のような模様が施された隆起線紋土器は、古い済

同体文化の産物といえる。

州土器の白眉といわれている。

30 KOREANA 夏号 2018

粘性が低い火山灰土がほとんどを占める地質学的な条件


と、ホボクで水を汲んで運ばなければならなかった点など、済 州は甕器の生産において厳しい環境だった。故シン・チャンヒ ョン(申昌鉉)ホボク匠(済州島無形文化財第14号)が「甕器 を作るのは、あの世に行って来たかのように大変だ」と話して いるほどだ。厳しい環境の中、そのような苦労の末に作り上げ られた甕器は長い間、済州の人々の日常生活において非常に重 要なものだった。

伝統的な石窯の復元

1. 「カヒナ茶器」7.6×18.5㎝ 済州陶芸村の独創的な特許工法で作られたカヒナ 茶器は、2007年にユネスコによって優れた手芸品 (Seal of Excellence)として認められた。済州陶 芸村で開発した陶器用の粘土を用いて、玄武岩の ような質感を出している。 2. 「石壺」28.0×22.3㎝ ろくろの上で済州の石を使い、陶器用の粘土を何 度も打つようにして成形し、粗く素朴な質感を出 している。

20世紀に入ってピークを迎えた甕器の生産は、1960年代末

に完全に途絶えてしまった。工場で大量生産される安いプラス チック容器が登場し、製作が煩わしく生産性も低い甕器に取っ て代わるようになったのだ。そのように途絶えてしまった甕器 を復元したのが、済州陶芸村のカン・チャンオン(姜彰彦)村 長だ。 彼は青年だった1970年代から、廃虚になった窯跡 を探し、伝統的な甕器の破片を丁寧に観察していく うちに、済州甕器ならではの固有性に気づいた。 本格的な現地調査を行うため、1980年代初めに仕 事を辞めて海岸の村や中山間一帯を歩き回った。当 時は、瓦と甕器を焼く石窯が50基ほど残っていて、済州 道内の博物館に資料を求めたり共同作業を進めたりした が、今は済州大学校の博物館で国内外の学者と交 流し、より体系的に研究を行っている。しか し、運よく残っていた窯跡さえ、現代化 の下で激しく損なわれている。 さらに、1990年代に入り、甕器 製作の経験がある陶工が、次々と この世を去り、使っていた道具ま で消えていった。焦りを覚えた カン・チャンオン村長は、存命 の陶工を探し回った。しかし彼 らは、労働が厳しい上に、収入 も期待できないため、甕器製作 を辞めて農業を始めていた。そ のため「伝統的な甕器をもう一度 作りたい」という言葉に、なかな か耳を貸さなかった。 伝統的な石窯の復元は、職人が 力を合わせなければ不可能だ。幸いク ルデジャンのホン・テグォン(洪泰権) 氏とオンギデジャンのソン・チャンシク (宋昌植)氏ら数人が、献身的に協力して くれた。カン・チャンオン村長は1996年、全 ての財産を投じて、大静邑永楽里に済州陶芸村 を設け、4年後の2000年にようやく伝統的な方式 で済州甕器を作り始めた。

2

韓国の文化と芸術 31


1

温度差による甕器の特性

全燃焼が起きて、煙が甕器に染み付き、灰色や黒色を帯びる。

地面の自然な斜面を利用した半円筒形の天井のため、窯が洞窟

れた。

のように見えるからだ。石窯は大きく「ノラン(黄)グル」と で焼いた甕器がそれぞれ黄色と黒色を帯びることから名付けら

待つ美学

れた。甕器の色が違うのは、火の温度が異なるからだ。

的な様式に従って玄武岩で造られた。カン・チャンオン村長は

済州では、各種甕器を焼いた窯を「クル(窟)」と呼ぶ。

「コムン(黒)グル」の二つに分けられる。二つの名前は、窯

この甕器は、乾燥食品の保管に使われ、蒸し器としても利用さ

済州陶芸村で復元されたノラングルとコムングルも、伝統

まず、ノラングルは1100~1200度まで温度を上げる。その

窯を造る際、適当な大きさの玄武岩を選んだり、必要に応じて

過程で土が酸化し、甕器の表面が釉薬を塗ったように滑らかに

形を整えたりした。石の間にできる隙間は、玄武岩の破片や粘

なり、黄褐色や赤茶色を帯びる。また、高温の火花によって、

土で埋めた。

様々な模様が自然にできる。カン・チャンオン村長はこれを

ノラングルは全長12mで、焚口から排煙口までの空間は、

「プルムニ(火の模様)」と呼ぶ。この甕器は、硬くて食品の

燃焼室と焼成室に分けられる。窯の正面中央の下段にある焚口

変質を防ぐ効果があるため、水を運んだり食品を入れるために

は、地面に接しており、一見アーチ型に見えるが、よく見ると

使われた。

左右の石柱の上に天井石をかけたロ型だ。済州式の石窯は、焚

コムングルは、それよりも低い700~900度まで温度を上げ

口が非常に狭いのが特徴だ。済州陶芸村だけでなく、西部の新

て、窯の前後の穴を塞いで酸素量を減らす。それによって不完

島里にある100年以上前の廃棄された石窯も、これと同じよう

32 KOREANA 夏号 2018


済州の甕器は、一人の陶工によって作ら れるのではなく、土を採取する人、窯を 造る人、火を焚く人、土を練る人が、そ れぞれ異なっていた。徹底的に分業され た共同作業によって生産されたという点 で、済州の甕器は地域共同体文化の産物 といえる。

1. 済州陶芸村の展示室。この陶器は、製作に多大な 労力と費用がかかるため、普及には限界がある。それ でも、日本と中国の陶磁器愛好家が訪れるという。 2. カン・チャンオン氏は、済州の伝統的な石窯と陶 器が失われることを残念に思い、大変な努力の末、 2000年に伝統的な石窯を復元した。

2

3. 「黒いホボク」(前)41.4×33.0㎝ / 「黄色いホボ ク」(後)37.5×29.0㎝ 「黒いホボク(水汲み用の壺)」には、高温の火花が 作り出した赤い模様が鮮明に現れている。「黄色いホ ボク」は、口と肩の部分の色がその下と違うが、これ も焼成中に自然にできたものだ。

な形をしている。

に玄武岩を積んだ「プジャンジェンイ」と

天井の外側には砂土を塗

いう空間がある。プジャンジェンイは、ト

る。その左右には直径15㎝ほ

ダシバを覆い被せて雨風を防いだ。島の強

どの穴が、一定の間隔で15個

い風が、石窯にも影響を及ぼしたか

ずつ開いている。陶工が火の

らだ。これも済州の伝統的な石

状態を確認し、木を入れる役

窯の特徴といえる。

割をする。窯の裏側には、煙突

済州の甕器は、土質の粗

を設けずに穴を四つ開けて、そ

い火山灰土を練り、蔵に10

こから炎が噴き出るようにする。

カ月ほど保管してから窯で

コムングルはこれよりも小さ

焼く。この蔵も玄武岩で造

い 全 長 7 m で 、 仕切りのない穴窯

られ、隙間を土で完全に埋め

だ。甕器は、窯の後ろ側にある開口

て、光も風も入らないように

部から入れたり出したりする。その開

する。これも済州の甕器の大

口部は密閉せず、甕器を出してから適当に石

きな特徴で、まるで一人の人間

を積んでふさいでおく。

の誕生のように、謙虚に待つこ

済州の石窯には、焚口前の作業場所を取り囲むよう

とを教えてくれる。 3 韓国の文化と芸術 33


韓国大好き

韓国人より韓国的な 韓国の隣人 韓国で19年間暮らしているイ・マプブは、単純な労働を手始めに今では市民運動家兼映画人 となった。イ・マプブはこれからもずっと移民と移住者の人権のために闘うと言う。 そうすることで、自分の選択した第二の故郷である大韓民国が、 もっと寛容で開かれた社会になるようにしたいというのだ。 チェ・ソンジン 韓国バイオメディカルリビュー編集長 安洪範 写真

・マプブは俳優、ドキュメンタリー映画の製

の明洞聖堂で開かれた1カ月間の抗議闘争をはじめとするいく

作者、映画の輸入配給業者、映画祭の企画

つもの集会に参加した。

者、そして作家だ。さらに彼は韓国の市民権

その後、彼は目標を達成するためにより効果的で、自分に

をもっている。韓国に帰化し、韓国人として20年近く暮らして

ピッタリの方法があることに気づいた。移住労働者と結婚移住

いる。そんな彼に自分が選択した国が好きか嫌いかを問うのは

者の人生をドキュメンタリー映画にすることだった。「高校

幼稚な質問になるだろう。

生の頃から私は物を書くことと映画を観ることが好きでした」

「私は韓国生活において、食べ物や文化などすべてに完全 に適応したと考えています」とイ・マプブは語る。「それで故

とイ・マプブは言う。移住民労働組合でも彼は広報パートで働 き、労働組合の観点を拡散させるのに助力した。

郷のバングラデシュを訪れると、むしろ不便に感じることもあ

「私は労働組合の仕事を闘争的ではないもっと面白い方法

ります。ちょうど飲んでいた水が変わったときに胃腸の調子が

でしたかったのです。それで歌を歌ったり、面白い劇を楽しめ

悪くなるのと似ています」。

るような集会を企画しました」。

一風変わったはじまり

韓国人たちと出会う。そこには映画産業に従事する人々もい

イ・マプブは1999年に韓国にやって来た。当時の年齢は21

た。そしてある日、一人の映画監督から韓国女性と恋に落ちる

歳で、名前はマプブ・アロム(Mahbub Alam)。もともと3年

移住労働者の役をする人を誰か推薦してほしいと頼まれた。彼

間だけ働いて、稼いだお金で経営学大学院に進み、故郷にいる

はあちこち探してみたが適当な人物は見つからず、結局彼自身

病床の母親の治療費を作ろうと考えていた。しかし、二つの出

がその役をすることになった。彼はバングラデシュから来た29

来事が彼の計画を変えてしまった。まず彼の母親が6カ月後に

歳のイスラム教徒の移住労働者カリム役をすることになった

亡くなり、それにより故郷に帰ろうという気持ちがくじけてし

が、カリムは韓国人雇用主に搾取されるが絶対に怒らないとい

まった。そして、移住労働者が置かれている悲惨な状況が彼の

う性格だった。そして役になりきるためにイ・マプブは、体重

注意をひいた。その当時、ゲストとして韓国にやってきた移住

を大幅に減量する徹底したダイエットを強行しなければなら

労働者に対する搾取と差別が、社会全体に蔓延しており、そし

なかった。俳優ペク・ジニ(白珍熙)が17歳の高校生の役とし

て今も依然としていろいろな意味で状況は変わらない。

て、彼の相手役をつとめた。シン・ドンイル(申東日)監督は

このような活動を通じてイ・マプブは、芸術家や文化界の

イ・マプブは外国人の従業員に暴力をふるい、汚い言葉で

彼らとともに映画『パントゥビ』(ベンガル語でガールフレン

罵倒し、時に賃金の支給さえ怠る韓国人雇用主たちの搾取に立

ドという意味)を作った。その結果、2009年に韓国人と外国人

ち向かい闘ってきた。まず彼は移住民労働組合の運営委員とし

俳優の出演るすべてのインディ映画のなかで3番目に多い観客

て、1980年代の民主闘士たちの集会場所として有名な、ソウル

を動員した。

34 KOREANA 夏号 2018


バングラデシュ生まれのイ・マプブ さんは、移住労働者として韓国に来 た後、彼らの権利向上のために映画 監督をしたり、俳優に変身したりし ながら、今では映画配給会社 M&M Internationalを設立し経営している。 彼は少数者の人たちの連帯と疎通の ために努力している。 韓国の文化と芸術 35


© Cine21

2 © M&M International

1 1. バングラデシュから来た移住労働者の青年と韓国の女子高生の特別な友 情を、愉快にそして密度濃く描いた映画『パントゥビ』。主人公のカリム 役を演じたイ・マプブさんは、現実感あふれるリアルな演技を見せた。右 側は韓国人女子高校生役の女優ペク・ジニ(白珍熙)

2, 3. イ・マプブさん主演のもう一つの映画『シティ・オブ・クレイン(City of Crane)』と彼の会社 M&M Internationalが配給した映画『リョンヒとヨン ヒ』のポスター

3

での私の仕事をもっとやりやすく、円滑にしてくれるだろうと 思ったのです。 ところが彼自身が悟る前に、彼はすでに「腹の底まで韓国 人」になっていた。

差別を克服するために必死に努力する

イ・マプブにとって映画出演は良い経験となったが、その

「私も多くの韓国人のように性格が短気になってしまいま した。何をするにしても以前よりもはるかに、もっと早く早く とスピーディーさを願うようになったのです」。

ために辛い目にも遭うことになった。ソーシャルメディアで多

イ・マプブの好きな食べ物は、焼酎を飲みながら食べるサ

くの韓国人が彼の悪口を言い、中には殺してやると強迫する者

ムギョプサル(豚の三枚肉)だ。移住労働者のための放送をし

までいた。しかし、彼が人種や民族的な差別を受けるのは今に

ている間、彼はよく様々な背景の移住者たちと会食をした。た

はじまったことではなかった。子どもの頃、彼の家族はインド

いてい彼がメニューを決定することになったが、チキンにする

からバングラデシュに移住し、彼はバングラデシュでアウトサ

ことが多かった。彼はイスラム教徒だったので豚肉は避けなけ

イダーとして偏見の対象となった。「私や私の家族に対する人

ればならず、牛肉は高価だったからだ。しかし結局みんなチキ

々の態度が、直接的にしろ間接的にしろ他と違う態度をとると

ンには飽きてしまい、サムギョプサルと焼酎のメニューにする

感じました」とイ・マプブは言う。バングラデシュに帰らず

ことが多くなる。彼は同僚たちのために豚肉と焼酎を注文し、

に国籍を変えたのもそこで経験した差別のせいだと彼は説明す

自分は他のものを食べていた。

る。だが実際は、バングラデシュでの暮らしには肯定的な要素

「それがある日、ふっとこのように考えました。人生を楽

が多かったという。「差別は私の故郷よりもここ韓国でより露

しみ、他の人との交流に邪魔になるような宗教的な教理は忘れ

骨に行われます。それでときには故郷に帰りたいと思うことも

ようと」。

あります」と彼は言う。 しかし差別を恐れ、それに対して何もせずにいては何も変 えられないと彼は考えた。 「多くの恐怖や苦痛を感じれば感じるほど、私はよりいっ そう必死に働きました」。

初めて豚肉を口にした時のことを、彼はこう言った。 「最初は少し気持ちが悪くて、胃にもたれましたが、だんだ んとその味が分かるようになってきました。豚肉が油っぽいと感 じたときには、焼酎がそのギトギト感を洗い流してくれます」。 イ・マプブは現在、主に開発途上国で作った低予算の外国

幸い、彼は芸術家や映画監督を含めた多くの韓国人支援者を

映画を輸入して配給する映画配給会社「 M&M International」

得るようになった。また仕事を通じて妻イ・ミヨンさんと知り

を経営している。彼はウイーンに行ったことがあるが、そこで

合い、彼女の姓をとりイ・マプブと名乗るようになった。2012年

『パントゥビ』が、食堂の乱れたテレビ画面を通じておかしな

に彼は、韓国社会をより解放的で、寛容な多文化社会にするため

言葉にダビングされ上映されているのを見た。ネパールでは海

に寄与した功労で、文化観光体育部から世宗文化賞を受賞した。

賊版DVDで映画が売られていた。

「私は自分自身がこの国から愛される人間なんだと思えるように なりました」と、彼はその時を感慨深げに振り返った。 「私は完全な韓国人になることを望みました。それがここ

36 KOREANA 夏号 2018

「外国でも韓国映画に対する需要はありますが、そこでは上 映できるようなインフラがありません。外国のインディフィルム を韓国に紹介できる方法がほとんどないように、低予算の韓国映


「多くの人々は『コリアンドリーム』 というと、外国人労働者がいち早く 金をたくさん稼いで祖国に帰ることだ と考えます。しかし、実際には大部分 の移住労働者は、労働市場の足りない 部分を補い、ほとんど韓国人ができな い、あるいはしたがらない仕事を低賃 金でしているのです」

せるかについてだけ考えているというのだ。「彼らは外国の文 化商品を輸入するのに関心をもっていますが、その相手は主に 先進国である西欧諸国に限定されています。アジアのほかの国 々の映画を紹介することに関心のある人はほとんどいません。 大部分の移住労働者が南アジアや東南アジア諸国から来ている のにです」。 そのような理由から、彼は韓国が本当の多文化国家になる にはまだまだ道程は遠いと考えている。機関や大衆の認識と関 連して、韓国は移住民を受け入れる準備ができておらず、よっ て彼らの基本的な権利や福祉を無視している。彼の目には韓国 の指導者たちは、包括的に移住政策を発展させることにはほと んど関心がないように見える。フィリピン生まれのテレビタレ ントで女優のイ・ジャスミンさんが、2012年に国会議員に当選 したのは、その後の結果のない一つのイベントに過ぎなかった というのが彼の主張だ。

画も外国の観客の目に触れる機会はほとんどありません」。 「もちろん財政的な支援なしに映画を作ることは大変でし た」。彼は続けて「しかし低予算で映画を何とか作り上げたと

「移民者たちは、もはやただ単に外国人居住者としてだけい るのではありません。彼らの多くは結婚や学習のための長期滞 在、あるいは帰化によって韓国人になりました」と彼は言う。

しても、それを外国の観客に見せる方法がありませんでした。

「低出生率は韓国が当面する最も深刻な問題の一つです。

それでこの会社をたちあげたんです。しかし、まだ良い映画は

移民者たちは「人口の崖」に少なからぬ規模で問題解決の助け

そんなに多くはありません。ほとんどの映画が単純なプロット

となることができますが、大部分の韓国人はこの潜在力を無視

で出来ています。善良な韓国人が純真な移住者を悪い韓国人か

しています」。

ら救ってやる、まあそんな感じですね」。

彼はまた「コリアンドリーム」が一方に傾いていると見な

彼は彼と同じような考えをもつ芸術家や映画製作者と協力

す。「多くの人々は『コリアンドリーム』というと、外国人労

して面白い映画を作り、韓国の多文化共同体の多様な姿を見せ

働者がいち早く金をたくさん稼いで祖国に帰ることだと考えま

たいという。「私が望んでいるのは、多文化というイシューに

す。しかし実際には、大部分の移住労働者が労働市場の足りな

慣れない韓国人に、一つの媒体を提供することです。それで、

い部分をおぎない、ほとんど韓国人ができない、あるいはした

雇用主の国の市民たちともっと親しくなりたいと願う移住者や

がらない仕事を低賃金でしているのです」。

移民者と結びつけることです」と言いながらも、彼は次のよう

彼が出会ったほとんどの韓国人は、彼が韓国に帰化したこ

な点で、地域の映画配給システムに不満が多いとこぼした。低

とを知ると、どこの国から来たのか、それで金持ちになったの

予算映画を上映できる映画館が不足しており、いくら素晴らし

かについてたずねる。「私を馬鹿にしたようなこんな関心は無

い映画や、限りない努力をして作った映画だとしても、大衆と

礼だし腹も立ちます。不幸なことに多くの韓国人が私たちに対

出会える機会がほとんどないという。「大企業と中小企業の関

して全く関心が無かったり、反対に必要以上に関心を示したり

係に似ています」と彼は言及する。「マルチプレックス映画館

します」。

は、その名前のとおり内容と予算で様々な映画を見せてあげる

個人的な希望があるかとたずねると、彼は韓国と北朝鮮の

べきです。現在のマルチプレックス映画館は、モノプレックス

間の緊張が緩和されるのを見てみたいという。なぜなら彼の目

映画館に名前を変えなくてはなりませんね」。

には、大部分の韓国人が分断による不安と心配を暗に見せるか

コリアンドリーム-遠き目標

らという。彼はまた観光政策での問題点も指摘した。単に何カ

イ・マプブは自分の映画で、移住・移民者を可能な限り自

所かの有名な観光地に集中するよりは、韓国の日常を体験でき るプログラムをもっと開発することが必要だと思うと言った。

然にありのままを見せたいと思っている。あまりに悲惨だった

今から10年後の自分の暮らしをどのように想像するかとい

り、必要以上に幸せにではなくて。そんな好例として、彼はフ

う質問に、彼は映画産業に従事し続けることを期待すると言っ

ランス監督ジュリアン・ランバルディのコメディ映画『アフリ

た。結婚して10年、40歳になった彼は、妻ともども将来も子ど

カン・ドクター』をあげる。これは軽快だが意味のあるメッセ

もを持つ計画はないという。なぜ? 自分の子どもが韓国社会

ージを伝える映画だ。

で偏見と差別を経験せずに暮らせるか、確信がもてないからだ

イ・マプブは韓流の問題点も指摘する。政策決定者たち は、K-POPと他の文化商品をどうすれば海外に早く拡散さ

という。おそらく彼はその言葉どおり、大方の韓国人よりも最 も韓国的になったのかもしれない。

韓国の文化と芸術 37


オン・ザ・ロード

丁若鏞が今なお 川を離れない理由

19世紀末、改革君主の正祖(チョンジョ)とともに朝鮮の復興を夢見て、人文、科学などさま ざまな分野で批判的知性と実践を主張していたチョン・ヤギョン(丁若鏞)。今年は、18年間 の配流から帰った後書いた、彼の代表的な著書『牧民心書』(モンミンシンソ)が世に出て200年 という節目の年である。彼が世を去ってから180年もの歳月が経ったが、彼の心は今なお故郷の 町中を流れる小川、苕川(チョチョン)に留まっているようだ。 イ・チャンギ 李昌起、詩人、文学評論家 安洪範 写真

© Choi Il-yeon

38 KOREANA 夏号 2018


北漢江(プクハンガン)と南漢江(ナム ハンガン)が合流する京畿道両水里(キ ョンギド・ヤンスリ)のトゥムルモリ は、一時人とモノを運ぶ渡し場として繁 盛していたところだが、1970年代初め、 八堂(パルタン)ダムが完工して水路と しての機能を失った。しかし、気温差の 大きい朝になると周囲に立ちの込める水 煙は、昔も今も変わらない。 韓国の文化と芸術 39


煙は眺める対象をぼやけさせる。だからと言

の前でゆったり楽しめるから、ソウルに住む人々には最適な週

って視野を完全に遮るのではないので、視線

末のお出かけスポットである。ここからさらに300mほど急な

は見えているものと隠れているものとの間に

山道を我慢強く登ると、トゥムルモリを足下に見下ろせる雲吉

止まる。透明で正しく表れた部分と半分くらい隠れた部分が醸

山(ウンギルサン)の水鍾寺まで行き着くことができる。

し出す神秘さと幻想が見事なバランスをなした時に、人々の美

トゥムルモリには江原道旌善(カンウォンド・チョンソ

的好奇心をくすぐる。水鍾寺(スジョンサ)から見下ろしたト

ン)と忠清北道丹陽(チュンチョンブクド・タニャン)一帯を

ゥムルモリは、昔から名高い観光スポットである。詩人墨客た

ソウルのトゥクソムや麻浦(マポ)渡しをつなぐ渡し場があるた

ちが漢江(ハンガン)の広闊さと清さを詩でつづり、カンバス

め、一時物流ハブとして栄えた。だが、その下流に多目的ダム

に描きとめるため足しげく訪れたところだ。今はアマチュア写

の八堂(パルタン)ダムが1973年に完工し、もはや水路として

真家のスポットとなっている。

は機能しなくなった。ダムの影響から河幅が広くなり、流速も

水鍾寺と水煙

遅くなってしまったので、河川というよりはむしろ湖に近い。

二つの河川が合流するところという意味(二水頭)のトゥ

スの花、ヒシのような水生植物が群落を形成している。このよ

ムルモリは、地名としてよく使われているが、ここでは南漢江

うな生態環境の変化を利用し、付近の川沿いの湿地に道を開

(ナムハンガン)と北漢江(プクハンガン)が合流し、漢江

き、多様な施設と造形物を設置して湿地公園を作ったが、代表

に流れ込む京畿道両水里(キョンギド・ヤンスリ)の南側を指

的なところが洗美園(セミウォン)と茶山(タサン)生態公園

す。ソウルから出発し、河南(ハナム)を経て八堂(パルタン)大

である。平日でもこの一帯に車が混むゆえんだ。

橋を渡ると、遅くとも1時間足らずで、広々とした江と山を目

このため、この一帯は淀んだ水でよく生育するガマ、アシ、ハ

見どころは水煙だ。気温差の大きい早朝になると、決まっ て静かな水面に水煙が立ち込める。運よく上流の清平(チョン ピョン)湖に発生した水煙が、周りの山の中腹を囲い込んで山 風に乗って、トゥムルモリの川沿いに舞い降りるのを目の当た

© HUFS KContents Wiki

りにすると、我を忘れてしまう。この未明の水煙に遭遇した人 なら、誰でも旧い淡彩の風景と化してしまった昔の記憶の中か ら一歩も前に進むことができない。漢江の絶景とされるトゥム ルモリの日の出を水鍾寺から眺めて下る途中、駐車場の 隣にあるこじんまりとしたカフェに立ち寄って、女性 店主と気軽に声を掛け合ったりすれば、おそらく彼女 をここに引き止めた、スマートフォンに収まっている神 秘的で幻想的なトゥムルモリの全景写真の数々を見せて もらえるだろう。 1783年春、22歳のチョン・ヤギョン(丁若鏞、1762~ 1836)は、初級官吏になるための生員試(科挙の一種)に 合格したが、これを祝うため10人余りの友人とともに水鍾寺 を訪れた。祝宴がみすぼらしく見えないように同学と一緒に 帰郷しろという父親の助言に従ったわけだ。15歳で結婚し、ソ

1

ウルに分家してから7年間も科挙(官吏登用試験)の受験勉強 一筋だったので、父親としては不安で心の落ち着かない日々を

1. チョン・ヤギョンの著書500冊の中で代表作とされる『牧民 心書』(モンミンシンソ)は、計48冊で構成されているが、 今年で発刊200周年を迎えた。朝鮮時代の官吏たちの暴政を批 判し、牧民官(地方長官)が守らなければならない指針を、 百姓の立場で著述したことが高く評価されている。

2. 京畿道南楊州市鳥安面陵内里(キョンギド・ナムヤンジュ シ・チョアンミョン・ヌンネリ)に位置したチョン・ヤギョ ンの故郷マジェ町は、彼が康津(カンジン)での18年間の流刑 から戻ってきて、世を去るまでの18年間を過ごしたところであ る。故郷で釣りをしながらゆったりと田園生活を楽しむのが 彼の夢だったが、その願望は実現しなかった。 40 KOREANA 夏号 2018

過ごしていただろう。また、自分の家門が属した朋党の南人 (ナミン)たちの絆を深めたいという気持ちもあったろう。 水鍾寺は、千年を超える古刹で、周辺の景色を一望でき、 生まれ育ったマジェ町からも遠くなく、彼が幼い頃、足しげ く訪れて読書をしたり、詩を書いたりしたところである。その 日も、日が暮れて月が姿を現すと、お酒を飲みながら詩を作っ て、「子供の頃の思い出たっぷりの場所を再訪した楽しさ」を 共に享受した。茶山は、その日のことを詳しく『遊水鍾寺記』 に残した。


2

韓国の文化と芸術 41


『牧民心書』の発刊から200周年

て答えを求めなければならないかもしれない。19世紀後半、押

同時代に例えるなら、韓国人にとってチョン・ヤギョン

し寄せてくる外国勢力を防ぎ、国を守るため自主防衛と改革に

は、ドイツのフィヒテやフランスのヴォルテールと肩を並べる

取り組んだが、そのたびに挫折した高宗(ゴジョン・李氏朝鮮

ぐらい敬異されている人物である。彼は時代を超越した批判的

26代国王)が、彼の文集を読んでは、彼と同じ時代を生きるこ

知性と経世致用(学問は現実の社会問題を改革するために用

とができなかったことを嘆き悲しんだという。今回の旅はその

いられなければならないという学術思潮)の思想を盛り込ん

思いを胸に、茶山チョン・ヤギョンが生まれ育ち、さらに晩年

だ、膨大な著作物を残した。チョン・ヤギョンがヘルマンヘッ

を過ごした漢江(ハンガン)一帯を見て回りながら、彼の生涯

セ、 クロード・ドビュッシー、 ジャンジャック・ルソーと並

と思想の断片を探ってみたいと思った。だが、それは世間から

んで、2012年ユネスコの「世界記念人物」に選ばれたことから

理解され期待されている、厳粛で教訓的なアカデミックなもの

も、その名声が必ずしも国内に限られたものではないことが分

とは程遠いだろう。

かる。今年は、彼の代表的な著書の一つである『牧民心書』

4歳で千字文を読み、7歳で詩を作り、10歳以前に書いた

(モンミンシンソ)の発刊200周年と、18年間の配流から故郷

詩だけで構成した『三眉集』詩集を出したという天才的な才能

のマジェ町への帰郷200周年が重なった節目の年である。これ

よりは、前述したように辛うじて生員になった後、正祖(チョ

を記念するため、南楊州市(ナムヤンジュシ)とユネスコ韓国委

ンジョ)に気に入られたにもかかわらず、大科に何度も落ちて

員会は、今年4月ソウルで国際シンポジウムを開催した。

28歳にしてようやく合格したという、何ともく親近感わく履歴

彼の著書が500冊余りに上るということを考慮すると、私 たちはほぼ毎年彼の著作を手にして、今日の進むべき道につい

1

42 KOREANA 夏号 2018

をクローズアップしてみたい。彼も自分が生真面目な人物とし て記憶されることは望まなかっただろう。


同時代に喩えて言えば、韓国人にとってチョン・ヤギョンは、ドイツのフィヒテ やフランスのヴォルテールと肩を並べられるような人物である。彼の著書が500 冊余りに上るということを考慮すると、私たちはほぼ毎年彼の著作から進むべき 道を求めなければならないかも知れない。

三日間の逸脱

正祖の抜擢で王立図書館に相当する奎章閣(キュジャンガ

ク)に入ったチョン・ヤギョンは、主要官職を経て正祖の改革 政策を立案し、実行した。しかし、彼の逸脱した行動は記録さ れただけでも2回であることから、彼の能力や才能は変わった 面も多かったようだ。晋州(チンジュ)牧師に赴任した父親に会 いに行くといって勤務先を離れた。奎章閣の抄啓文臣という教 育生2年目の時だった。これを知った正祖は、彼を捕まえてく るように命じ、50打の鞭打ちの刑罰を下した。もちろん、正祖 はその後すぐ、彼を赦免した。 2つ目の逸脱は、王命の出納を担う左副承旨(チャブスン ジ)時代の出来事で、自ら以下のような記録を残した。 「1797年の夏、私がソウルの南山(ナムサン)の麓に住ん でいた頃である。ザクロの花が咲き始め、小雨が上がる光景を 目にすると、苕川で魚を捕るのにちょうどいい時期だというこ とを突然思いついた。規定によると、官吏は休暇を取得しなけ れば、都城の門を出ることができない。しかし、正式の休暇は 取得することができないので、そのまま出発して苕川に赴い た。翌日、川に網を張って魚を捕ったが、大小合わせて50尾に もなった。小さな船が重さに耐えきれず、水面に浮いた部分が わずか数センチに過ぎなかった。船を移し、濫子洲(ナムジャ ジュ)に停泊してから、楽しく満腹になるまでひとしきり食べ

2 1. 楊平郡(ヤンピョン-グン)にある自然浄化公園・洗美苑 (セミウォン)には、約270種余りの植物が生育している。そ のうち、水生植物が約70種余りに達する。 いぐさ (藺草)、コ ガマなど各種の水生植物が、ここの夏を色鮮やかな緑色に染 めている。 2. 雲吉山水鐘寺(ウンギルサン・スジョンサ)の庭から見下 ろすトゥムルモリの優れた景観は、昔から詩人・墨客たちが よく訪れる名所だ。チョン・ヤギョンの生家から遠くないこ ともあって、幼い頃の彼もここを足しげく訪れ、本を読んだ り詩を書いたりした。

た」。 葦で囲まれた苕川は、故郷の町の横を流れる小川で、彼

立てたが、その声が澄んで美しかった。鳥の鳴き声が聞こえる

にとっては故郷の象徴である。濫子洲とは、二水頭(トゥム

と、立ち止まってお互いに顔を見合わせながら楽しんでいた。

ルモリ)の下にある小さい砂島を指す。ところが、彼の逸脱

寺に着いたら、酒一杯に詩一編を読んで楽しい時間を過ごし、

はこれに止まらず、魚を食べたので、山菜も味見してみよう

三日間めいっぱい遊んでから戻ってきた。この時作った詩が20

と、連れを誘い、川向かいにある広州(クァンジュ)の天眞

編余りであり、我々が食べた山菜は ナズナ、ワラビ、タラの

菴(チョンジンアム)に足を運ぶ。天眞菴は,丁若鏞の兄弟

芽など、全部で56にもなった」(『茶山詩文集第14券』)

がカトリック教養を勉強していた因縁のあるところで、近く

無断で勤務先を離れた事件が実際に正祖に報告されたかど

に船をつけたとしても、歩いて10㎞は登らなけらばならない

うかは知る由もない。

奥山にある。 山の中に入ると、草木はすでに鬱蒼と生い茂っており、花が咲

冬に小川を渡るように

き乱れて花の香りが心地よく鼻をついた。様々な鳥たちが鳴き

呼び合う「号」という呼称があった。たいてい人物の特徴や人

「私たち4兄弟と親族3~4人とともに天眞菴に行った。

朝鮮時代には、名前以外にも友人や仲間たち同士で気軽に

韓国の文化と芸術 43


柄がよく表れられる呼び名をつける。家にも「堂号」と呼ばれ

楼船を買って、妻子とともに釣りをしながら過ごそうと、扁額

る名前を付ける場合が度々あるが、この堂号を自分の号として

まで作っておいた。しかし、その扁額は日の目を見ることもな

使ったりもする。茶山が官職を退き、故郷に戻った直後に自分

いまま、その年の夏、突然正祖の訃音とともに始まったカトリ

の書斎に自ら名付けた堂号が「余裕堂」である。

ック教徒に対する迫害で、彼と二番目の兄ヤクチョン(若銓)

「私は自分の弱点をよく知っている。勇気はあるが、物 事を処理する智謀がなく、善意に基づいて行動することが好

は、命拾いはしたものの流刑に処され、強い宗教的信念を持っ ていた三番目の兄ヤクジョン(若鐘)は殉教した。

きだが、やるべきことと、やってはいけないことを見極める

チョン・ヤギョンには、茶山以外にも「三眉」(サンミ)

ことができない。だから、善意のつもりでやったことが、結

という号がある。幼い頃かかった天然痘の痘痕のため、眉が三

果的に人に迷惑をかけたりするのには、自分ながら呆れる。

つように見えることからつけられたのだ。彼は、9人の子供を

『老子』を読んでいて、「好都合で好きなことは冬に小川を

もうけたが、6人がはしかと天然痘で失なった。末っ子の死亡

渡るように、当然やらなければならないことは周りの目を

通知は、流刑地の康津(カンジン)で聞いた。「私は生きてるよ

気にしながらしろ」といった文言が目に入った。小膝を打っ

り死んだほうがマシなのに生きていて、お前は死ぬことよりも

た。この文言こそ、私の性格的な弱点を改めるのにピッタリ

生きることのほうがいいのに死んでしまった」という彼の嘆き

の治療剤ではないか。

には、子供を不憫に思う父親の深い悲しみがにじんでいる。

改革君主の寵愛を受ける若手官吏に政敵は避けられない条

彼は死んだ子供一人一人に切ない哀悼の思いをつづってお

件のようなものだった。とくに、西洋学とカトリック教に対し

り、4日で亡くした最初の娘を除いては、いずれも故郷の町の裏

て友好的な彼に対する攻撃は、正祖の後ろ盾を得ていても耐え

山にある先塋に埋葬した。このような個人的な悲しみをバネに、

きれないものがあった。結局、1800年1月、官職を退いて故郷

彼は伝染病に対する治療に取り組み、はしかの治療法を紹介した

に引っ込んだ彼は、自分の希望通り、苕川で寝室のついている

医学書と種痘法を紹介した医学書2冊を執筆したりもした。

44 KOREANA 夏号 2018


楊平観光地図

水鐘寺

楊平

洗美苑

河南

漢江

北漢江

八堂湖

ソウル

南漢江

広州 天真庵

丁若鏞の墓

茶山記念館

実学博物館

洗美苑

漢江での平和な田園生活を夢見たチョン・ヤギョン

た一面が全く消え去ったわけではない。彼は暑さをしのぐ方法

康津での18年間の流刑から帰ってきたチョン・ヤギョン

に関する16編の詩を残した。いくつかの題名を書き並べれば以

は、自分へのご褒美と言わんばかりに、故郷でさらに18年間を

下のようだ。「涼しいむしろに座って囲碁をする」、「東側の

過ごした。彼は晩年の自分を「冽水」(ヨルス)と呼んだ。冽

水草でセミの鳴き声を聞く」「月夜に水に足を浸ける」、「家

水は、漢江の別の名前である。彼は漢江で生まれ、平和な田園

の前の木の枝を刈り込み、風通しをよくする」、「溝をさらっ

生活を夢見たが、現実はなかなか思うようにいかなかった。故

て流路を確保する」、「軒までブドウのツルを伸ばす」、「子

郷に戻ってきた翌年の1819年、船に乗って忠州(チュンジュ)

供たちと一緒に本を日光に当てて干す」、「くぼんだ鍋でメウ

にある父親の墓参りに行った際に、二番目の亡兄・若銓ととも

ンタン(魚の辛味スープ)を沸かす」。彼は、生まれつき暑が

に、毎年秋になると数十日間泊まって、農作業を見守った門巌

りなのか。それとも肥満だったのか。

(ムナム;楊平郡・西宗面・水陵里付近)にある田畑を見て回

チョン・ヤギョンの故郷の町に位置した茶山遺跡地には、

った。彼は「ここで農業をしながら生きることを40年前から夢

彼の墓と復元した生家、そして茶山文化館と茶山記念館があ

見てきた」と回顧した。兄若銓は、流刑先の黒山島(フクサン

る。茶山文化館には、長年の流刑期間中に執筆した数多くの著

ド)から戻ることなく、3年前の1816年に死去した。

書が展示されており、茶山機関には水原(スウォン)城の築造

チョン・ヤギョンは流刑地で書いた自分の著作を校正・編 集して晩年を過ごした。だからと言って、彼の奇抜さと変わっ

に使われた朝鮮最初の挙重機(クレーン)をはじめ、様々な展 示物が紹介されている。

チョン・ヤギョンが生まれて幼年時代を送り、長年の流刑から 帰ってきて晩年を過ごした故郷の家「余猶堂」(ヨユダン)の中 庭。1957年昔の姿に復元されており、彼の故郷に造成された茶 山(タサン)遺跡地は、この生家と茶山文化館、茶山記念館から なっている。彼が自ら作った堂号「余猶堂」は、「物事を甘く見 ず、謹んで行動すべし」という老子の教えを盛り込んでいる。 韓国の文化と芸術 45


二つの韓国

人権、脱北女性への 新たな視線

46 KOREANA 夏号 2018


「女性の人権を支援する人々(Women’s Human Rights Defenders)」は、韓国社会に定着する過程で人 権侵害にさらされた脱北女性たちを支援する市民団体だ。特に性犯罪に対する社会的認識が相対的に 低い北朝鮮社会の状況を考慮して、脱北女性たちの認識の改善を図るとともに法的支援も行なってい る。合唱団の運営やセミナーなど各種プログラムを通じて、南北の女性たちの相互理解と連帯も模索 している。 キム・ハクスン 金学淳、ジャーナリスト、高麗大学校メディア学部招聘教授 河志権 写真

一部傘下の統一教育院の2017年度末の統計によ

性たちの最初の反応は、「どうしてそんなことを口に出すこと

ると、韓国にやってきた脱北者は3万1千人を

ができるのか」という反問だった。北朝鮮社会では男性の性暴

超えた。その中の70%が女性であり、彼女たち

力に対して寛大な文化があるので、それからくる認識だ。そん

が経験した人権侵害の中で最も深刻なのが性差別と性暴力だ。

な社会的な雰囲気に慣れた脱北女性たちは、性暴力に対する対

社団法人「女性の人権を支援する人々」は、このように人権侵害

応にも消極的にならざるを得ない。

の苦痛に耐えている脱北女性たちを集中的に支援する団体だ。

彼女たちは「北朝鮮では強姦罪で刑務所に入ったという話

特にDV(家庭内暴力)、性暴力、セクハラ、売春を女性の人権を

は聞いたことがない」と口をそろえる。姦通の事実が明るみに

侵害する四大暴力として積極的に支援の先頭に立っている。

でても女性は浮華放蕩罪で非難を受け、3カ月間労働鍛錬隊に

「被害者たちは助けを求めたくてもどこに、どのようにす

送られるが、男性は何の処罰も受けないという。また北朝鮮で

ればよいのか分からずに、孤立感を深めています。特に定着し

は男性が体制への不満を性的な猥談で解消するのはよくあるは

てまだ日がたっていない脱北女性たちは、自分の苦痛を訴える

なしだ。

ことのできる共同体や社会的な連帯網がない場合が大多数で

大部分の脱北女性たちは法と制度、そして文化的な差別に

す。また被害者が何とか勇気をだして問題提起をし、告訴して

よりセクハラと性暴力の概念の違いさえ理解できないでいる。

も捜査と裁判の過程で被害者の安全とプライバシーが侵害され

また韓国に定着する過程で生き残らなくてはという強迫観念の

たり、被害者の方がむしろ職場を辞めなくてはならない状況が

せいで、DVにもきちんと対応できない。それに北朝鮮での生活

起こったりします」。

において、DVが深刻な人権侵害だと認識することもなかったの

社団法人「韓国女性の電話(Korea Women's Hot Line)」 で、相談専門家として活動してきたキム・ヒャンスン(金香順)

で、韓国に来ても関連法と制度に対する情報不足により、我慢 して沈黙してしまうケースが大部分だ。

社団法人「女性の人権を支援する人々」共同代表の話だ。この団 体が性関連の人権侵害に特に注目しているのは、脱北女性が 韓国の女性よりも性暴力の被害に合うケースが10倍以上だから だ。社団法人「女性の人権を支援する人々」で脱北女性たちの相 談を担当しているイ・セムさんは、このような現象を「人権に 対する南北の認識の差と、経済的な弱者である脱北女性たちの 厳しい環境が作り出した結果」だと説明する。

人権侵害に対する認識の低さ

最近、国内外で起きている「MeToo 運動」に対する脱北女

南北の女性たちの連帯のために、2011年に財団法人「女性の人権を 支援する人々」が立ち上げた合唱団「ヨウリム」。団員たちは指揮 者のチェ・ヨンシル(崔永實)前聖公会大学校神学科教授と共に、 隔週の土曜日ソウルの奬忠洞京東教会に集まり歌の練習をしてい る。合唱団の活動は分断以降、積み上げてきた南北の住民たちの間 の異質感を克服し、文化的な共感を広める契機となっている。 韓国の文化と芸術 47


「韓国社会では“脱北女性たちは助けてあげなくてはならない弱者”と してのみ認識されてきましたが、これからは彼女たちに対する就業 支援のような福祉的な次元を超えて、人権的な観点から新たな展望 を開きたいと思います」

脱北女性への売春の誘い

誘いを受けたことがある」と答えた脱北女性が全体の30%に達

「性暴力をはじめとする人権侵害にたいする問題提起をし

するという。そんな誘いを受ける最も大きな理由はもちろん経

たくても、積極的な対応をするのが難しいというのが実情で

済的に大変だからであり、就業教育を受けてもきちんとした職

す。加害者たちも脱北女性たちの弱みにつけ込んで、犯行を隠

を得られないのが最も大きな要因となっている

蔽しており実に残念です」。 あるイ・セムさんは彼女自身も脱北後、中国の北京と上海で10年

人権向上のためのプログラム

間、家政婦をして暮らし、2011年にソウルにきた脱北女性だ。イ

家族部の依託事業として、北朝鮮離脱女性の相談治癒プログラ

・セムさんは自分が担当した相談事例を紹介してくれた。

ムである「出かけていく相談」を運営している。このプログラム

南北ハナ財団で発行している雑誌『同胞サラン』の記者でも

社団法人「女性の人権を支援する人々」は、2016年から女性

ある40代の脱北女性は、某企業の会長の自宅で午後8時か

には、専門の相談員が参加する総合支援サービスも含まれてい

ら翌日の午前8時まで12時間、看病・介護の仕事をしていると

る。脱北女性たちの心理的な安定を助けるために始まった「出

いう。足が不自由で糖尿病を患っているこの会長は、猥談や彼

かけていく相談」は、それぞれ事情の異なる女性たちのための

女の身体にさわるなどのセクハラ行為をたびたびするという。

「自助グループ」を作り運営中だ。子供の教育と夫婦関係を相

たまらず抗議すると「悪かった」と謝罪することもあったが、そ

談する「主婦グループ」、職場の苦労・学業問題・過労問題を

の後も状況は変わらなかった。それでもこの女性は仕事を辞め

相談する働く女性のグループ、20-30代の若い女性を対象とし

ることができなかった。北朝鮮に残してきた娘を韓国に連れて

た大学での勉強を相談するグループの3つの集まりができてい

くるためにお金を貯めなくてはならないからで、ほかの職場よ

る。中でも「出かけていく相談」プログラムとともに実施され

りも報酬が高いこともあり辞めることができなかったのだ。

ている国内旅行のプログラムは、一番人気があり満足度が高い

脱北女性の性暴力被害は就業や結婚を斡旋する過程でも

という。自由な旅行に対する渇望があるのだ。

発生する。働き口をみつけてやると言ったり結婚相手を紹介

社団法人「女性の人権を支援する人々」は、その他にも「知

すると言って接近し、セクハラをしたり性的な暴行をはたら

っていれば役に立つ女性の人権指針書」「脱北女性支援実務者

こうとする男性が少なくないという。また孤独な生活をして

のための女性暴力予防教育マニュアル」などの冊子も発行し、

いて、オンライン上で出会った男性と結婚を前提につきあう

脱北女性と脱北者の支援機関に配布している。これらの本は女

もののデート暴力にあい、結婚にも失敗するという事例も多

性に対する暴力の実情と南北の認識の差、対処方法などを事例

数報告されている。

にあげて詳しく解説している。そのほか女性暴力予防の教育映

生存のために最小限のお金でも稼がなくてはならない脱北 女性の特殊な状況を悪用して、売春に誘う誘惑の手も多い。今

像を制作し、全国のハナセンターなどの脱北民支援機関の教育 現場で活用されている。

日明日の生活にも困っている一部の脱北女性の場合、「韓国で

最近になり、北朝鮮離脱女性の仕事と家庭の両立を支援す

売春は恥ずかしい事ではない」というあやまった認識のせいで

るための相談員養成課程プログラムが新たに運営されている。

売春に足を踏み入れる例もある。彼女たちがこんな考え方をす

ホン・ヨンヒ(洪英姫)共同代表は、「脱北女性が現実に経験

るのは、「売春が資本主義の一般的な現状」だと教えている北朝

している仕事と家庭の両立の問題や、職場内で経験するいろい

鮮の教育のせいでもある。

ろな葛藤を相談できる専門家を体系的に養成するのが目的」だ

女性家族部の調査によると、「韓国に定着してから売春の

48 KOREANA 夏号 2018

と説明する。


南北の女性連帯の新たなパラダイム

また、社団法人「女性の人権を支援する人々」は、脱北女性

の人権支援に負けないほどの、南北の女性たちの連帯による新

性関連の人権侵害に特に注目する「女性の人権を支援する人々」は、南 北の社会認識の差を理解し、対処方法がくわしく書かれた冊子を、持 続的に発刊して現場教育で活用している。

たな枠組み作りにも助力している。その一環として、南北女 性合唱団「ヨウリム」を2011年に立ち上げた。ヨウリムは毎年 全国の合唱大会に出場するなど活発に活動している。その名前

にされている脱北女性たちが、韓国社会で積極的に人生の主体

には「女性たちの集まり」「音の集まり」という二重の意味が

として生まれ変わることのできる橋渡しの役割をしている」と

込められているという。合唱団は隔週の土曜日に練習をしてお

述べ、「韓国社会では“脱北女性たちは助けてあげなくてはな

り、現在の団員数は35人、練習の時には平均25人ほどが参加し

らない弱者”としてのみ認識されてきましたが、これからは彼

ているという。60代の脱北女性で合唱団員のキム・ミョンファ

女たちに対する就業支援のような福祉的な次元を超えて、人権

さんは、「音楽文化と発声法が北とは違って最初は難しい点

的な観点から新たな展望を開きたいと考えています」との意志

もありましたが、練習をしながら身につけています」。そして

をあらわした。

「練習後の会食を通じて韓国の女性たちとより親しくなれて満 足しています」と言う。

社団法人「女性の人権を支援する人々」は、2010年代表的な 女性人権運動家のチェ・ヨンエ理事長のリードのもとで設立さ

合唱団の指揮をしているチェ・ヨンシル(崔永實)前聖

れた。彼女は「性暴力」という単語が使われる前の1991年に韓

公会大学校神学科教授は、「音楽的な異質感を抱いている南

国性暴力相談所を設立し、女性の人権伸長の先頭に立ってきた

北の女性たちが、互いの声に耳を傾けて一緒に歌う過程は、

人物だ。特に、社団法人「女性の人権を支援する人々」は、イデ

距離感と偏見を越えて互いを理解できる絶好のチャンス」だ

オロギーを超越し、進歩と保守の両陣営の人々が共に活動して

と強調する。

いる団体だという点に特徴がある。韓国の女性人権運動団体代

チェ・ヨンエ(崔永愛)理事長は、「2012年から毎年開催 している南北女性文化祭が、疎外され、ある意味でターゲット

表、北朝鮮女性研究者、脱北女性たちがこの団体の主役として 参加している。

韓国の文化と芸術 49


日常茶飯事

「路上の学舎」で 真理を悟る

アメリカの化粧品訪問販売の代名詞である「エイボンレディ (Avon lady)」の存在に対して、韓国には 乳酸菌発酵飲料を家庭や職場に届ける「ヤクルトおばさん」の存在がある。1971年に始まったヤクル トおばさんは、特定企業の商品の販売員というよりは、人情味にあふれ頼りになるお隣さんのような 存在として認識されている。 キム・フンスク 金興淑、詩人 河志権 写真

50 KOREANA 夏号 2018


ンピースを着たとき

ミスクさんが魔法の服を着るヤクル

女の届けるヤクルトを待っている。彼女

と、ジーパンをはいた

トおばさんとして働いてきた長い年月の

が毎日出会う人々は、冷蔵車の中の商品

ときの歩き方が同じと

間には、実に多くの変化があった。ユニ

よりもはるかに多様だが、彼女の目には

いう女性はいない。服装は人の行動を規

フォームのデザインも何度も変わり、販

けっして違うようには見えない。

定するが、中でもユニフォームはもっと

売する商品の種類も大きく増えた。商品

「私が配達する人々は皆同じです。

も不自由な服装だ。それを身につけると

を運ぶ手押し車は搭乗可能な冷蔵車に発

会社の中でどんなに高いポストについて

人は誰しも特定の役割を強要されるから

展し、毎日1万歩以上を歩いてまわった

いる方でも道に出れば、みんな同じ人間

だ。しかし私たちの周りにはそんなユニ

苦労も、ある程度は減った。しかし彼女

ではありませんか。私は道の上で働いて

フォームを着て活動している人々は意外

の日課は昔も今も変わることはない。

いるので、私にとってはみんな同じ人間

に多い。軍人、警察、学生、僧侶、神

「毎朝4時半に起床して5時には家

父、修道士、清掃員からヤクルトおばさ

を出るんです。我が家のあるパジュ(坡

ミスクさんと一緒に歩いていると、

んにいたるまで。そのような人々の中の

州)から広域バスに乗り込み、ひと寝入

彼女が東子洞の人々と一人残らず知合い

ひとりであるカン・ミスク(姜美淑)さ

りすると1時間半後にはトンジ(東子)

なのではないかと思ってしまう。

んは、自分のユニフォームにひとしお愛

洞の事務所に到着します。事務所でユニ

「会う人会う人みんなに挨拶しま

着を感じている。

フォームに着替えると“さあ今日もまた

す。それで私のお客ではなくても知合い

新たな一日が始まるんだなあ”と思うん

はたくさんいるんです。会社員の顧客を

です」。

訪ねて行ったときに、顧客が席にいなけ

なもんですよ。前に一緒に働いていた友

19年間の縁

れば普段から私と親しい隣の席の人が教

カン・ミスクさんの仕事場はソウル

とか、仕事で外に出ているのでもうすぐ

人がユニフォームは魔法の服だと言って

駅のある龍山区東子洞だ。ソウル駅は大

戻ってくるとか。そんな風に親しくな

ましたが、そのとおりですね」。

都市ソウルの交通の大動脈だ。市民の足

り、後に顧客になった人も多いんです。

「ひどく体の調子が悪い日でも私を 待っているお客様のことを考えるんで す。それで職場に来てユニフォームに着 替えれば元気になるんですから、不思議

なんです」。

えてくれます。風邪をひいて休んでいる

1999年4月からこれまで19年間をヤ

である地下鉄やバスはもちろん、全国各

永遠の顧客もいませんが、永遠に顧客に

クルトおばさんとして働いてきたが、一

地を結ぶ列車と広域バスが休みなく行き

ならない人もいません」。

度も欠勤したことのないミスクさんだ。

かう。しかし、ソウル駅前広場を歩いて

だから誰かに商品を買ってくれと頼

ミスクさんと同じユニフォームを着た全

いると、太陽の照りつける朝っぱらから

むよりは、ただみんなと親しくなるだ

国1万3千人のヤクルトおばさんは、韓

酒の臭いをぷんぷんさせて路上に倒れて

けだという。そしてそれが全国のヤク

国ヤクルトの訪問販売員だ。しかし彼女

寝ていたり、ふらついているホームレス

ルトおばさんたちを対象とした選抜大

たちは特定企業の社員というよりは、人

にも出くわす。また、高層ビルの裏手に

会で彼女が「親切大賞」を受賞した理

情味にあふれた、信頼できる訪問販売員

は毛細血管のように細い路地と今にも崩

由でもある。

を指す一般名詞のように認識されて久し

れそうな古びた家々の前を、薄汚れた身

い。彼女たちが全国で活動を始めたのが

なりでうろつく人がいたり、薄暗い部屋

1971年の春からなので、その歴史はほぼ

の中でうずくまっている一人暮らしのお

ようやく世の中を知る

50年に近い。

年寄りたちもいる。

からこれまで活動してきた地域は東子

ヤクルトおばさんカン・ミスクさんは、午前5 時に家を出て毎日1万歩の距離を歩き回るとい う苦労の多い日常にもかかわらず、お客にはい つも温かい笑顔で接している。19年間同じ町で 働いてきた彼女にとって、住民たちは顧客であ ると同時に互いの安否を尋ねあう隣人なのだ。

ミスクさんがこの仕事を始めたとき

ミスクさんは毎日、ヤクルトと牛

洞だけだ。一つの地域を継続して任せる

乳、手軽な食品などが200ℓほど積まれた

という会社の方針により、平均勤続年数

冷蔵車を押しながら、まるで昼と夜のよ

9.6年のヤクルトおばさんたちは、地域

うに相反する顔を見せる東子洞を歩き回

の事情を住民の誰よりもよく知るように

る。エレベーターに乗って空高く昇って

なる。そうやって一つの町で長い時間を

いかなければならないオフィスではネク

過ごしてきたミスクさんの固定客は、彼

タイを締めたお客が、また車1台が通り

女に直接お金を手渡し商品を購入してい

抜けるのも難しい裏通りのバラック建て

る300世帯の一般顧客と、福祉財団や政

の部屋では、一人暮らしのお年寄りが彼

府の支援を受けながら、彼女の訪問を待

韓国の文化と芸術 51


1

つ70世帯の一人暮らしのお年寄りだ。 「東子洞にソウル駅長屋相談所があ るせいか、東子洞は自治体などからの支

ミスクさんは東子洞で過ごしてきた

た。子供たちの話に耳を傾けることより

歳月の間、彼らから一度も嫌な目にあっ

も私の話に逆らわないように育てまし

たことはないという。

た。今になって考えてみると申し訳なく

援が多いという話です。それで一人暮ら

「ユニフォームのおかげのようで

思います。ヤクルトおばさんとして暮ら

しのお年よりたちもここに集まってくる

す。いつぞやは、私が席を離れたすき

すようになって世の中を知るようになり

ようです。私が訪問する70世帯の中には

に、ホームレスの人が勝手に私の商品を

ました。主婦としてだけ生きていた時よ

ひどく体の不自由な方も10人ほどおられ

他人に配ってしまったことがありまし

りも視野が広くなったといいますか。い

ます。どんなに忙しくてもその方たちは

た。その時も怒りませんでした。ただ心

ろいろな事を目にするので考えも深くな

毎日訪ねるようにしています」。

の中で、飲んでお腹をいっぱいにして健

りました」。

康になってと思いました」。

パリッとした服装の会社員の顧客に 対するときも、一人暮らしのお年寄りや

ミスクさんのこんなポジティブな態

ホームレスの人々に対するときもミスク

度には「他人を助ける人になりたい」と

70歳まで着ていたいユニフォーム

さんの態度は変わらない。彼女は決して

いう彼女の人生観が反映している。いつ

外国に滞在している娘が万一、ヤクルト

他人の人生を評価せず、自分がみんなの

かはカウンセラーとなり、他人の悩みを

おばさんになりたいと言ったら、喜んで

役に立つことだけを願っている。

聞いてあげたいと思い、2002年に放送通

「やってごらん」と言うという。それ程に

信大学教育学科に入学したこともある。

自分の仕事に対するプライドを持っている

々が恐くないのか聞かれることもありま

「主婦としてだけ生きていた時は、

彼女がこの道に入ったのは、1997年のIM

すが、全然そんなことはありません。一

世の中のことを本当に知りませんでし

F経済危機のせいだった。それにより、広

見恐そうに見えるのはお酒のせいであっ

た。家事をして息子と娘を育てるのが人

告関係の仕事をしていた夫は建設労働者に

て、最初から悪い人はいませんから」。

生で一番大切なことだと考えていまし

なり、本好きな専業主婦だったミスクさん

「周りの人からは、ホームレスの人

52 KOREANA 夏号 2018

ミスクさんは、ワーキングホリデーで


「毎朝4時半に起床して5時には家を出るんです。 我が家のあるパジュ(坡州)から広域バスに乗 り込み、ひと寝入りすると1時間半後にはトンジ (東子)洞の事務所に到着します。事務所でユニ フォームに着替えると‘さあ今日もまた新たな一日 が始まるんだなあ’と思うんです」

は、生活費を稼ごうと貸し本屋を開いた。

「昔は商品をつけで飲んだり食べたり

本好きでも世の中のことは、全く知らなか

して、そのままお金を払わない人が10%

ったので、経済状況が悪化すれば文化費の

くらいいましたが、今は1~2%しかい

支出を節約するという常識さえも知らずに

ません。クレジットカードのおかげでつ

始めた事業だった。

けで買う必要がなくなったこともありま

「あの時、貸本屋をせずにすぐにこ

すが、それだけ市民意識が高まったとい

の仕事をしていたらどれほど良かった

うことでしょう。正直な若者たちと出会

だろうに、何んにも分からなかったんで

い、国の未来が明るいと思うようにな

す」。

り、ホームレスや一人暮らしのお年寄り

貸本屋はすぐにつぶれ、彼女は新たな

を通して自分のことは自分で責任を取ら

仕事を探さなくてはならなかった。子供た

なければならないと学びました。年をと

ちにヤクルトを買ってあげたときに出会っ

ってから子供たちの重荷にならないよう

たヤクルトおばさんの姿に好感を抱いてい

に、老後の準備もしなくてはと考えてい

たうえに、何の資本も無しに始められる点

ます。健康が許すならば、70歳までこのま

に惹かれた。さらに会社に所属するのでは

ま配達の仕事を続けたいと思います。そ

なく、商品を販売し手数料を得る個人事業

の次にその時にやりたいことをします。

主だという点も気に入った。そうしてヤク

今は休学中の放送通信大学の勉強もその

ルトおばさんとなったミスクさんは何事に

時にまた続けるかもしれません」。

も前向きで「ポジティブ女王」というニッ クネームまでついた。

東子洞のミスクさんを見守り、育て てくれたのがユニフォームと顧客なら ば、 東子洞の学舎以外の内なる力でミ

1. 50年近い歳月の中で「ヤクルトおばさん」 の運搬手段も肩にかけて歩き回ったカバン から引っ張って歩くリヤカータイプに、そし て今では搭載可能な冷蔵車のココ(Coco)に変 わった。取り扱う商品も乳製品からレトルト 食品、コーヒーにいたるまでかなり変化した が、カン・ミスクさんの真心は、少しも変わ らない。

2

2. カン・ミスクさんの担当地域のソウル駅周 辺には、高層ビルが立ち並ぶ大通りの裏手に 一般住宅が建ち並んでいる。冷蔵車で接近で きないところは歩いて配達しなければならな い。虹色に塗られたこの急な階段も彼女が毎 日通る配達コースだ。

スクさんを守ってくれたのは宗教だ。土 曜日と日曜日には主にカトリック教会で 時間を過ごしている。彼女の洗礼名はベ ルナデッタ(Bernadette)だ。ベルナデッ タは1844年フランスに生まれて14歳にル ルドで聖母の出現を体験し、1933年に聖 人の列に加えられた人物だ。そんな洗礼 名のせいなのか、19年間東子洞で聖母の 代わりに数多くの隣人の顔を見てきた彼 女のユニフォームは、まるで求道者のい でたちのように見える。

韓国の文化と芸術 53


遠くの目

韓国で日本語を学ぶ 子どもたち 山崎宏樹 やまざき・ひろき、国際交流基金ソウル日本文化センター所長

サポーター事業の様子

国は今年、世界の注目を浴びてい

ポップカルチャーに触れる韓国人も徐々に増加し、現

る。2、3月には平昌冬季オリンピッ

在のソウルでは日本の本や映画、日本食などにたやす

ク・パラリンピックが開催され、4

く接することができる。韓国の経済発展も影響してい

月には南北首脳会談も行われた。そして日本にとって

るのだろうが、韓国の人々が日本を変に意識すること

も今年2018年は、1998年に当時の小渕恵三内閣総理大

なく日本文化に触れようとしていることは大いに歓迎

臣と金大中大統領が日韓共同宣言「21世紀に向けた新

すべきことだと思う。

たな日韓パートナーシップ」を発表し、韓国における 日本の大衆文化開放が始まってからちょうど20周年に

筆者が働く国際交流基金は海外の日本語学習者数

あたり、日韓交流の拡大が期待される年だ。現在では

を3年に1度調査しているが、その調査によれば韓国

日本を訪れる韓国人の数は年間700万人を超えるまで

は2009年までは90万人以上の学習者を抱える世界第1

になったが、1998年以前は100万人に達するのも難し

位の日本語学習大国だった。しかしながら、2012年の

かったので、隔世の感がある。訪日韓国人数が増加傾

調査では約84万人まで減少し、中国、インドネシアに

向に転じたのは、日韓共同宣言が契機になったとも言

次いで世界第3位に後退した。2015年の調査でも第3

えるだろう。そして、大衆文化開放後は韓国で日本の

位を維持したが、学習者数は約56万人にまで減った。

54 KOREANA 夏号 2018


韓国の学習者数の減少は顕著であるが、この原因は何

ら、彼らはなかなか日本人と直接話をする機会がな

よりも少子化と教育課程の改定(第2外国語の選択履

い。そこで、ソウル日本文化センターでは、駐在員や

修化)だ。なぜならば、韓国の日本語学習者の約8割

留学生といった方々にお願いして、当センターの日本

は中高校生であり、2009年には397万人いた中高生が

語専門家と一緒に韓国の学校現場を訪れてもらう「日

2015年には337万人にまで減少しているのだから、そ

本語サポーター」という活動を行っている。

の影響は大きい。日本語学習が学校教育の一部である からこそ、学習者数は子どもたちの数や学校制度に大 きく依存する。

日本語サポーターの方々はボランティアで生徒 と話をしたり、折り紙や浴衣、けん玉などを使って 日本文化を紹介したりしてくれているが、習いたて

しかし最近は状況が少し変わってきた。韓国の子

の日本語を使って一所懸命に話をしようとする子ど

どもたちにとっての日本語学習は学校教育の枠を越え

もたちと接することで、自分自身が大きな感動を得

て切実な問題になりつつある。現在の日本は就職活動

たとおっしゃる方も多い。学校側もより面白い授業

をする若者にとって売り手市場となっているが、韓国

を模索するなかで、日本人に学校を訪問してもらえ

では大学を出てもなかなか就職できないという状況が

ることをありがたく感じているようで、訪問を希望

続いており、韓国の若者の中には日本に留学する人、

する学校は年々増加し、2017年度には年間100件に到

日本で就職しようとする人が増えている。日本留学試

達した。嬉しい悲鳴ではあるが、センターとしては

験の受験者数は2017年に過去最高を記録し、国際交流

もっともっとボランティアを増やしていきたいと思

基金が海外で実施している日本語能力試験の受験者数

う。まだまだ当センターの活動を知らない日本人も

も、この試験が日本留学の際の一定の基準になること

多いので、まずはサポーターの体験交流会など広報

もあって2016年から韓国での受験者数が増加に転じて

活動に力を入れていきたい。

いる。そう、いま韓国で日本語学習熱が再燃している のだ。

日韓関係は浮き沈みの激しい関係と言われる。日 本の内閣府による世論調査の結果を見れば、韓国に親

日本で韓国語を学ぶ中高校生は1万人程度と言わ

近感を感じると答えた人の割合は、この20年の間に最

れているが、韓国では先にも述べたとおり約45万人の

低31.5%から最高63.1%までの振れ幅があり、行った

子どもたちが日本語を学んでいる。大人の学習者は文

り来たりを繰り返している。本当にちょっとした切っ

法が分からなければ学習についていけないものだが、

掛けで雰囲気は変わるのだ。そうであれば、これから

子どもたちはそうではない。アニメやドラマを見たり

先20年の新たな日韓関係を見据えながら韓国の子ども

漫画を読んだりするなかで、自然に日本語を身につけ

たちに日本文化や日本語に触れてもらうという活動

ていく子どもも少なくない。将来の日韓関係の一端を

は、地道ではあるが継続していくべき活動ではないだ

担うであろう韓国の子どもたちが学校で日本語を学ん

ろうか。願わくば、日本でも韓国語や韓国文化を学ぶ

でくれているのであるから、子どもたちの学習環境を

子どもたちが増え、日韓両国の若者がお互いを深く理

整備していくのは大切なことだと思う。ただ残念なが

解する関係を作っていってほしい。

平成27年度内閣府世論調査(2016年1月実施)

国際交流基金が実施した日本語教育機関調査による日本 語学習者数の推移

韓国の文化と芸術 55


エンターテインメント たちを見かけた韓国人たちが一目ですぐ わかるほどスターになった。

逆転の発想から生まれた新鮮味

外国人、そして旅というそれぞれ

の素材は、真新しいものではない。し かし、『ようこそ、韓国は初めてだよ ね?』は、有りふれた、得てして決まり きったこのネタをアプローチの違いで差 別化を図った。最近の芸能番組の傾向な がらも、国内の有名芸能人たちが海外旅 行をしながら、現地の人たちに出会うシ ーンを演出したのとは異なり、同番組は 逆に無名の外国人を韓国に招待して旅行 させる、間逆の光景を企画した。このよ © MBC PLUS

うな発想の転換は、予想外の結果をもた らした。韓国人であれば誰もが、すでに 知っていると思い込んでいる空間と経験 が、外国人の目線によって新たに生まれ

韓国人にも このような 韓国は 初めて! 旅を素材にした芸能番組が似たり 寄ったりで食傷気味だった中、新 しいフォーマットのリアリティシ ョーが話題となっている。韓国に 居住する外国人が自国の友人たち を招待して、あちらこちらを一緒 に旅する『ようこそ、韓国は初め てだよね?』 が、新鮮な魅力で視 聴者の心をつかみ、最近シーズン 2の制作に入った。 チョン・ドキョン 鄭德賢、大衆文化評論家 56 KOREANA 夏号 2018

変わったのだ。 例えば、韓国を初めて訪問したドイ 国に居住する外国人の番

ツ人ホストの友人たちは、ホテルのトイ

組出演がここ数年間の新

レのウォシュレットを目にすると、「お

しいトレンドとなった。

尻扇風機」と驚き、焼肉屋さんに設置さ

JTBCの『アブノーマル会談』がその最た

れた換気扇を見て不思議がった。また、

る例だ。2014年7月にスタートし、昨年

韓国人には慣れっこのタクペクスク(鶏

末に休止期に入った同番組は、毎回特定

肉の水炊き)やチキンが、外国人には「楽

のテーマを設定し、様々な国籍の若い出

しい冒険」になるということを見せてく

演者たちが突っ込んだ討論を繰り広げた

れた。そのような場面を見ながら、視聴

が、韓国語を流暢に喋る外国人の口才が

者は韓国人にとっては当たり前に馴染ん

大きな話題となった。この番組出演で大

だものが、彼らには変わったものとして

衆的な認知度を高めた幾人かの出演者た

受け止められるということに改めて気づ

ちが、ケーブルテレビのMBCエブリワンの

き、ひいては自分たちの平凡な日常が目

『ようこそ、韓国は初めてだよね?』の

新しくて驚くべきものになるという、思

主なホスト役として登場する。

いがけない経験をすることになった。

昨年7月、同番組が初放送された時

よって同番組のタイトルは、別の質

には、外国人たちを売りにした似通っ

問を派生させた。当初、外国人訪問者に

た芸能番組の二番煎じなのではないかと

投げかけた「ようこそ、韓国は初めてだ

いう、冷ややかな反応が目立った。とこ

よね?」という質問が、「どう? こう

ろが、結果は大方の予想を覆した。今年

して見るとこんな韓国、あなたも初めて

3月に終了したシーズン1の場合、MBC

だよね?」という質問になって、韓国人

エブリワンが2007年開局して以来の、最

視聴者の視線を釘付けにした。

高視聴率である5.1%を記録した。さら アクセス数上位ランキングにランクイン

他の文化と趣向の共有

しており、街で外国人ホストと彼の友人

別の文化的特性の違いに関心を寄せる契

に、毎回豊富な話題でポータルサイトの

同番組は、出演した外国人たちの国


機にもなった。出演者の国籍によって旅 の仕方も異なり、体験を受け入れる反応

る共感と疎通がより深まった。

背を向けるのが、今の大衆だ。 だとすれば、『ようこそ、韓国は初

外国人を見る目が変わる

めてだよね?』に現れている、今の大衆

は、旅に先立って徹底的に情報を収集

同番組が爆発的な反応を得ているの

の情緒はどこから来るものだろうか。そ

し、計画を立て、さらにそれを一つ一つ

には、韓国人に「外国人」という存在が

れは、一方的な褒めたたえでもなく、か

履行していく過程に自負心を感じた。そ

与える特別な意味合いがあるところが大

と言って批判でもない「別の見方」それ

れに対して、メキシコ人ホストの友人た

きい。西洋の文物が流入し始めた19世紀

自体が与える興味深さだ。もちろん、同

ちは、事前計画なしに無鉄砲に挑戦し、

末以降、韓国人は外国人の目に映った自

番組が外国人たちの韓国文化体験からく

試行錯誤しながら経験することを旅の醍

分たちの姿を気にするようになったが、

る楽しさと驚き、またはリスペクトのよ

醐味だと考えた。一方、生まれつきの楽

そのような傾向は国際社会との交流が活

うなものを主に取り扱っているが、韓国

天的な性格で、不慣れの土地、見知らぬ

発化し始めた1970年代に入って一気に広

文化に対する批判的な観点も自然な形で

人たちと心置きなく接するインド人ホス

がった。さらに、1988年開催されたソウ

反映している。

トの友人たちもいれば、自然に優しい生

ルオリンピックの際にピークに達した。

例えば、チムジルバン(サウナ)で

活をしてきたせいか、ソウルの複雑な大

当時、韓国が招致した史上最大規模の国

夜通し安価な生ビールが飲めるという事

都市の風景に馴染めなかったフィンラン

際イベントだったオリンピック競技で、

実に驚くフィンランド・ゲストたちが、

ド人ホストの友人たちもいた。それは、

自国の選手たちが善戦して、12個の金メ

「フィンランドでは、夜になるとお酒を

それぞれ異なる地域的・文化的な背景を

ダルを獲得し、総合成績第4位になった

飲める場所が限られている」と言う場面

持つ外国人たちの目線を通して韓国を映

ことは、国民的自負心を大いに高揚させ

がそうである。韓国の酒文化は異色では

し見る不思議な実験のように見えた。

た。戦後、外国の援助を受けて廃墟から

あるが、同時に飲酒について寛大すぎる

見事に立ち上がった韓国人に、外国人か

という批判としても受け止められる。彼

らの関心と賛辞は、これまでの成果の認

らは美容院で髪を切りながら、自分たち

証としてとらえられた。

は1年にたったの1~2度しか美容院に

もまちまち。ドイツ人ホストの友人たち

さらに、出演者と視聴者がお互いの 文化への理解を深めるのにも、同番組の 形式が一役買った。つまり、外国人ホス

外国人たちの評価に対して敏感な

行かないと話したが、これも外見に異常

トとMCたちがスタジオで、ゲストの友人

反応を見せる、このような情緒は一

に執着する韓国人の外見至上主義を皮肉

たちが旅行する映像を一緒に見ながら会

時、大衆文化マーケティングの手段と

った言葉としてもとらえられる。

話を交わす方式だが、二通りのリアクシ

して活用されたりもした。カンヌやベ

同番組は、韓国人が外国人の評価に

ョンが可能だ。

ルリン国際映画祭で受賞した監督や俳

こだわっていた過去の情緒を乗り越え、

まず一つ目は、ゲストたちが初めて

優たちは、国威発揚に寄与したとして

彼らと対等な視点で交流するレベルに達

韓国文化を体験する際に見せるリアクシ

褒めたたえられ、受賞作は大衆性がや

していることを見せているという点で意

ョンであり、二つ目はそのリアクション

や低くても観客を集めた。だが、この

味がある。韓国文化と彼らの文化を比較

をスタジオで見るホストとMCたちのリア

ような外国人、または海外での承認欲

して、どちらが良くてどちらが悪いかを

クションである。視聴者たちは、この過

求は、最近になって次第に弱まってい

天秤にかけるのではなく、文化は単に異

程で双方のリアクションを同時に観るこ

る。いくら国際映画祭の受賞作だとし

なるものであり、よって興味深いものだ

とができ、これを通じて他の文化に対す

ても、自分の好みでなければ容赦なく

ということを確認させられるのだ。

2017年6月初放送されたMBCエブリワンのリアリ ティ・ツアー番組『ようこそ、韓国ははじめてだ よね?』のパイロット番組で、イタリア出身のホ スト・アルベルト(左写真の右端)が、故郷の友 人3人と景福宮(キョンボクン)を訪れ、韓国人 来場客の関心を集めている。同番組を通じ、それ ぞれ異なる国籍と文化的な背景を持つ出演者たち が、それぞれ異なる旅の仕方を見せており、韓国 人視聴者は慣れ親しんだ自国の光景を、異邦人の 視点を通して新たな発見をしている。

韓国の文化と芸術 57


料理物語

茄子

© TOPIC

暑い夏を代表する野菜 ナスは暑い夏を代表する野菜だ。「梅雨は茄子を食べる楽しみで過ごす」は韓国のことわざで夏野菜のナ スがもつ魅力をよくあらわしている。強烈な日差しに立ち向かうアントシアニンの紫色に輝くナスを食べ ると、人々は暑い夏を乗り切ることができるという自信をもつのではないだろうか。 チョン・ジェフン 鄭載勲、薬剤師、フードライター

58 KOREANA 夏号 2018


「料

理は人間の技術の

のナスが安く手に入りやすいときに日干

ように見える。高麗時代の文人であり詩

中でも最も古いも

しにしておき、冬に取り出し水に浸した

人のイ・ギュボ(李奎報、1168~1241)

のだ」

あと水気を切り、調味料で味付けして食

は『家圃六詠』という詩の中でナスの味

フランスの美食家ジャン・アンテル

べる方法、生のナスを薄く切って塩漬け

と美徳をこのように詠んでいる。

ム・ブリア-サヴァランが残したこの

にしてから細かく切った野菜やマスター

言葉には、深い考察が含まれている。ど

ドを入れよく混ぜて食べるなどの調理法

紫色の地に頬紅を帯びている姿、

んな食材をどのように料理して食べるか

が紹介されている。

どうして萎えたと言えよう

えてみれば、歴史が古い食材ほど調理方

生でも食べた野菜

花は愛でて実は食す茄子、

法も多様だということだ。

ナスは、最近でも人気のあるおかずに

生のままで食べても良し、 煮ても実に旨い

に、その食文化の特徴と歴史がそのまま 現れるということだ。彼の言葉を逆に考

昔から様々な料理に使われてきた

これほどの野菜が他にあろうか 畝の中には茄子がいっぱい実り

たとえば、ナス科の植物であるナス

属する。食べやすい大きさに切ったナ

とトマトを比較してみよう。ナス科植物

スに小麦粉をさっとまぶして、油で揚

では葉と花の部分は、含まれているアル

げて調味料に漬けたり、薄く切ったナ

ナスを生のままで食べるという話に

カロイド成分のために食べることができ

スの上に牛肉のミンチを乗せて、溶き

は驚かされる。しかし事実だ。今も韓国

ず、食べられるのは生物学的な観点から

卵につけて油で焼く「チョン」にして

人はナスをそのまま味噌につけておいて

いうと、これらの植物の実の部分だ。し

食べたりする。最近では海外旅行や海

ジャンアジ(漬物)にして食べたり、キ

かし、韓国人の食卓ではトマトはおかず

外との交流が増えるにつれて、中国料

ムチ漬けにしたりする。このようにナス

になることは少ない。

理の魚香茄子(ナスの四川風辛味煮込

は生で食べても害はない。ナスには他の

ほとんどの国でトマトを野菜として

み)や日本料理の焼き茄子、イタリア

ナス科の植物の実と同様にソラニンとい

扱っているのとは違い、韓国人はトマト

料理のメランザーネ・アッラ・パルミ

う毒性のアルカロイドが含まれている

を果物と考えているからだ。青いトマト

ジャーナ(茄子のパルミジャーナ)を

が、もともと少量なうえに一度に30本か

を塩辛いジャンアジ(漬物、ピクルス)

家で作ってみる人も増えている。

ら40本以上を食べなければ問題はないと

にして、おかずとして食べる場合を除い

トマトとナスはどちらもナス科の植

いう。しかし、ソラニン成分は加熱して

ては、トマトは大部分果物として消費さ

物の実ではあるが、韓国人の食生活でト

も破壊されないのでソラニンが多量に含

れている。リンゴや梨のように食後の果

マトとナスの扱い方がこのように違うの

まれているナスの芽の部分は必ずとらな

物として食べたり、ジュースにして飲ん

は、これらの野菜が韓国の地にやってき

ければならない。

だりする。反面、ナスは韓国人の食卓で

た歴史と関連性がある。ラテンアメリカ

一方、ナスにはニコチンも含まれて

野菜として扱われている。大根、白菜、

が原産地のトマトは、17世紀初めに韓国

いる。やはりナス科の植物の特徴だ。食

かぼちゃのような野菜と同様に、ご飯と

にやってきたが、定着はしなかった。そ

べ物の中のニコチンもまた加熱しても破

一緒に食べている。

の後、20世紀の初めに再び流入した。そ

壊されない。しかし、ナス10kgに含まれ

へたを取って洗ったなすを蒸し器で

れでトマトが韓国料理になじむには、そ

るニコチンの含有量がタバコ1本に含ま

蒸したり、炊き上がったばかりのご飯の

の歴史が短かったというわけだ。反面、

れる量と同じ程度の少量なうえに、それ

上にのせて蒸したりする。熱いナスを少

熱帯アジアを原産地とするナスは、トマ

さえも体の中に入るとすぐにほとんど肝

し冷ましてから、火傷をしないよう冷水

トよりもはるか昔にインドから中国を経

臓で解毒されて体外に排出されるので、

に手をつけながら裂いていく。斜め切り

て朝鮮半島に伝わった。すでに新羅時代

人体には特別影響を与えることはない。

にした青唐辛子に醤油、ごま油、ごま塩

に栽培されていたという記録があるほど

野生のナスでは、この苦味成分が外

と合わせて作った調味料をこれにかけ

食材としての歴史が長いだけに、料理の

部の侵入者から自らを守るのに役立つ

て和える。これは1931年8月4日付けの

歴史も深い。

が、ナスを食べる人間の立場からすれば

『東亜日報』に紹介されたナスのナムル

高麗時代になって、韓国人の食卓に

明らかに毒だ。ナスに毒性があると考え

の作り方だ。またこの記事には7~8月

ナスがしめる位置が確かなものとなった

た古代のローマ人たちは、これに「狂

韓国の文化と芸術 59


ったりんご」という名前をつけた。今

Eggplant」、重さが650kgほどの重い品

日、イタリア語でナスを「メランジャナ

種「Black Enorma」などが生じた。カラ

(melanzana)」と呼ぶのはそのような理

ーも青ナス、白ナスに加え、紫地に縞模

由からだ。ベドウィン族の古い記録に

様まである色々なナスが作られた。その

「その色はサソリの腹のようで、その味

ひとつが一時アメリカで多く栽培され

はサソリの毒針のようだ」と言及されて

た白い卵型をしたナスだ。英語の単語

いることからもナスの苦味は、以後数世

「eggplant」はここからきている。

紀の間、悪名高かったようだ。

一方、ナスの苦味を嫌う人々は、こ

様々な色と形の新種を開発

の味を減らすための処理方法を研究し

しかし今日のナスは、過去の「狂

粗塩を振っておき、ほろ苦い汁を抜く方

ったりんご」とは距離が遠い。人類は

法が昔の料理本にたびたび登場する。も

長い間の育種と作物化の過程を通じ

ちろん塩が水気をとる役割をすることは

て、苦味の成分を減らして様々な色彩

するが、苦味の成分を効果的に除去する

と形態の品種を開発してきた。その結

のは難しい。それにもかかわらず、昔か

果、枝豆のように小さな品種 「T h a i

ら多くの料理人がナスを塩で調理したの

P e a E g g p l a n t」、長さ40c mに達する

は、塩の塩辛さが苦味を抑えて香りをよ

巨大ナス「Japanese Pingtung Long

くするからだ。最近のナスは苦味が少な

た。ナスを切って30分から1時間の間、

熱帯アジアを原産地と するナスは、トマトよ りもはるか昔にインド から中国を経て韓半島 に伝わった。すでに新 羅時代に栽培されてい たという記録があるほ ど、食材としての歴史 が長いだけに料理の歴 史も深い。

1 © TOPIC

60 KOREANA 夏号 2018


© gettyimagesKOREA

© TOPIC

2

1. 一般家庭でよく食べられ ている最もポピュラーなナス 料理は、ご飯のおかずナムル だ。蒸し器でさっと蒸したナ スを食べやすい大きさに裂い た後、ヤンニョム(醤油、 酢、長ネギの千切り、ごま 油、ごま塩)に入れてそっと 合わせる。 2, 3. お客をもてなしたり、 ナスを特別な方法で調理し たいときには、平たく切って からフライパンで焼いたり (左)、厚く切ったナスの間 に味つけた牛肉のひき肉をは さみ、小麦粉をまぶし、とき 卵をつけて油で焼くジョンに して食べる。

3

く、わざわざこのような手間をかける必

なケースだ。ナスは様々な国で肉の代用

要はないが、切っておいたナスに塩を振

品として愛用されているが、甘いデザー

っておくのは他の面からも有用だ。

ト料理にして食べる野菜でもある。それ

千の顔をもつ食材

でナスは非常に多彩な属性をもった食

ナスの組織はスポンジのような内部

「1000のナス料理方法を知らずしては、

構造でできているが、それにより発生す

結婚する準備が出来ていない」というこ

る質感が甘いので、独特な風味と共にこ

とわざもある。それほどナスを料理に多

の野菜が愛される理由となっている。し

用するという意味であると同時に、「熱

かし、油で揚げたり炒めたりすると、無

い太陽の下で紫色に輝くナスほど、美味

数の空気袋の中に相当量の油を吸い込

しい野菜があるだろうか」と思わせる話

み、とろとろになってしまう。それで事

でもある。

材というわけだ。実際に中東地方には

前に塩を振っておけば細胞内の水分が外

紫、赤、青の色に秘められたナスの

に出て空気袋を一杯にするので、このよ

皮には、抗酸化物質のアントシアニン

うな現象を減らすことができる。トルコ

成分が豊富だ。青い絵の具のように染

式のナス料理や中国四川式のナス料理

まってしまうこの野菜の成分は、主に

は、香味油がナスの中に染み込む現象を

ナスの皮の部分に含まれており、紫外

逆にうまく利用して風味いっぱいの料理

線やストレスから保護してくれ、100g

となっている。

当り700mgに達するほどに豊富だ。人体

そうかと思えば、東南アジア地域で

への吸収率に対する疑問は残っている

はナスの苦味を逆利用して料理の味をさ

が、ナス料理をする時には、皮は剝か

らに豊かにしている。タイでグリーンカ

ずにできるだけ皮のままで料理するこ

レーに苦味のあるタイナスを入れるよう

とをお勧めする。

韓国の文化と芸術 61


ライフスタイル

室内でシミュレーション スポーツを楽しむ 62 KOREANA 夏号 2018


蔚山科学技術院のキャンパ ス内にあるスポーツセンタ ーには、スクリーンゴルフ 場のような最新の施設が備 わっている。教授はもちろ ん学生たちもよく利用して おり、スクリーンスポーツ ブームを肌で感じる

1998年のパク・セリ(朴世莉)ブームに触発されたゴルフへの関心が、様々なIT技術の結合したス クリーンゴルフとして登場し、大衆の余暇活動へと広がりをみせている。年間1兆ウォン台の市場 として急成長したスクリーンゴルフに続けと、最近では野球をはじめ20種類余りの種目が加わり、 スクリーンスポーツの熱風を巻き起こしている。 キム・ドンファン 金東桓、世界日報記者

韓国の文化と芸術 63


し前まで韓国のサラリ

ツが結合したスクリーンスポーツが誕生

ーマンは、仕事帰りに

した。

同僚たちと食事をした

反面、実際に野外でスポーツを楽し

後、 2次会でカラオケに行ったり一杯

むことのできる大衆的なインフラが十分

飲みに行ったりというのが普通だった。

な国家では、わざわざこのような代案を

つい最近まで続いていたこのような職場

選択する必要がないといえる。ゴルフを

の会食文化に変化が起きている。若い世

例にあげるなら、ゴルフの盛んな外国で

代が飲酒文化のかわりに、より健康的な

は野外のグリーンフィとスクリーンゴル

余暇活動を望んでいるからだ。このよう

フの利用料金に大きな差がないだけでな

な風潮にのって急成長している分野がス

く、予約も簡単にできるのでわざわざス

クリーンスポーツだ。

クリーンゴルフを楽しむ理由もないとい

スクリーンスポーツが楽しめる店舗 は、1990年代に大盛況だったゲームセン

1. スクリーンゴルフ場の主な顧客は、中 壮年層の男性だが、スクリーン野球場は 様々な年齢層の男女に人気がある。各種 スクリーンスポーツを一つの場所で楽し める「スクリーンスポーツ・テーマパー ク」がだんだんと増えているが、その中 でも最も盛んなのがゴルフと野球だ。 2. 種目にかかわらずスクリーンスポーツ 場の様子は、ほとんど変わらない。前面 に巨大なスクリーンが設置されており、 シュミレーションを具現化する電子機器 が備わっている。

うわけだ。

面を占めており、シュミレーションを具

技術的な限界を克服した高いシンク ロ率

現化する電子機器が備わっている。しか

ゴルフ場が始めて登場した頃は、新たな

し運営方式はゲームセンターやカラオケ

余暇文化として根付くだろうと考える人

とは全く違う。一律料金を適用するので

はあまりいなかった。成功の可能性に対

ックを提供し、打球感もリアルに再現す

はなく、テーマパークのように種目と時

する数々の疑問がでていたからだ。まず

る新たなプログラムも続々と披露されて

間で料金が違う多様な利用券を販売して

18ホール基準で100万平方メートルの広

いる。人工知能を搭載した対話型のロボ

いる。さらに飲み物や簡単な食事までで

大なフィールドを使うスポーツであるゴ

ットまで融合させたメーカーまで登場

きるので会社帰りのサラリーマンや若者

ルフを、わずか10平方メートルの小さな

し、その展望はより明るいものとなって

たちにとって、お金をかけずに楽しめる

部屋で仮想体験するという概念自体がな

いる。

余暇となっている。

じまなかった。

大流行の背景には

さらに技術的な問題を指摘する声も

よると、11兆ウォンに達する韓国ゴルフ

大きかった。「実際のスイングを正確

産業におけるスクリーンゴルフが占める

スクリーンスポーツの熱風は韓国の

に反映した結果を具現できるのか」と

比率は、およそ10%で1兆ウォン規模だ

社会的・文化的な特徴がもたらしたもの

いう疑問がまず提議された。専門家は

という。年間の利用者数も2015年基準で

だ。 冬季・夏季オリンピックでの成績

もちろん、アマチュアゴルファーたち

150万人を超えており、実際のゴルフ場

が物語るように韓国は人口比のスポーツ

もグリーンの細かなアンジュレーショ

訪問客の数を上回っている。

強国、つまり少ない人口でもスポーツで

ンをセンサーが読み取ることに対する

このように仮想体験を楽しもうという

大国に負けないだけの好成績を収めてい

疑いを拭いきれなかった。もちろん初

ゴルファーが急増している最も大きな要

る。しかし「観戦モード」ではなく「実

期のシステムには、そのような指摘を

因は、断然経済的な理由だ。アマチュアゴ

践モード」でスポーツを楽しむには、韓

受けるだけの技術的限界が明らかに存

ルファーが野外のゴルフ場で一度ラウンド

国は劣悪な環境にある。大都市に人口が

在していた。しかし、この10年間で多

を楽しもうと思えば、まず本人をのぞいた

集中しているのでスポーツを楽しむ野外

くの部分が修正され、いまや相当数の

3人の同伴者とスケジュールをあわせて、

空間も十分ではなく、アマチュア野球や

利用者が「90%以上のシンクロ率」だ

都合の良い時間に予約を抑えなければなら

サッカーを楽しむインフラも絶対的に不

と認めるほどになった。

ないが、週末の予約は割増料金を払ったと

ターとカラオケ店を合体させたような形 態だ。部屋ごとに巨大なスクリーンが前

2000年代の初め、韓国にスクリーン

2015年度の未来創造科学部の統計に

足している。また自他ともに認めるIT強

もちろん芝生の手触りのようなリア

しても、神頼みでもしなくてはならないほ

国・ゲーム大国である点もスクリーンス

ルさは依然として技術的な課題として残

ど競争が激しい。何とか予約できたとして

ポーツの成長に一役買っている。韓国は

っている。だがこのような仮想体験の根

も、片道1時間ほどの距離にある首都圏の

基本的にシュミレーションスポーツを具

源的な限界までも、やがて克服できるだ

ゴルフ場なら、高額のグリーンフィを払わ

現化できる高度な技術力も保有してい

ろうという希望的な予測が優勢だ。最近

なければならない。

る。このような要因が合わさり実際のプ

では、実際のフィールドとの差がほとん

それに対して、都心のビルのあちこ

レーの代案と言える、仮想現実とスポー

ど感じられないほどの高解像度グラフィ

ちで看板を見かけるスクリーンゴルフ

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© legendheroes

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韓国は大都市に人口が集中しているため、スポーツを楽しむ野外空間も 十分ではなく、アマチュア野球やサッカーを楽しむインフラも絶対的に 不足している。また自他ともに認めるIT強国・ゲーム大国である点もス クリーンスポーツの成長に一役買っている。

場の使用料は、実際のグリーンフィの10

に進むというものではない。利用客を満

分の1ほどの安さで、またゴルフ場への

足させ、利用層を拡大するようなコンテ

う点も人気の秘訣となっている。 またスクリーンスポーツは、初心者に

往復に伴う時間と労力からくる疲労感も

ンツの力が成功を左右する鍵となるから

もハードルが低い。一例としてスクリーン

ない。さらに特別な準備や装備も必要な

だ。現在スクリーンで楽しめる種目とし

ビリヤードは、ビリヤード台の上のプロジ

く、同伴者なしに一人でも簡単に楽しむ

ては、最も活発なゴルフと野球以外にも

ェクターカメラとセンサーが玉の位置を認

ことができる。

テニス、乗馬、射撃、ボーリング、釣

識し、人工知能が点数を出すことのできる

手軽に楽しむ余暇活動

り、ビリヤード、そしてクライミングに

コースを分析する方式なので、競技方法や

いたるまでおよそ20種類をこえている。

技術を認識していない初心者でも簡単に点

このようなスクリーンゴルフの飛躍

最近では、2018平昌冬季オリンピックで

数をだすことができる。それでスポーツマ

的な成長がスクリーンスポーツの熱風を

銀メダルを獲得し話題を集めた韓国女子

ニアだけではなく、入門者でも心おきなく

リードしている。関連業界では、2018年

カーリング代表チームのカーリング種目

ゲームを楽しむことができる。

にスクリーンスポーツ全体の市場規模

まで、スクリーンスポーツの仲間入りを

は、およそ5兆ウォン台に達するだろう

果たした。

国内状況の特殊性を反映したスクリ ーンスポーツが、文化産業として好調

と見通している。ここに来て担当部署の

その間スクリーンスポーツの利用客

さを持続できるかを予測することは難

文化体育観光部が、スポーツとITの融合

は圧倒的に成人男性が多かった。しかし

しい。しかし、時間と経費を最小限に

を新たな成長エネルギー分野に規定し

コンテンツの多様化と利便性により、今

抑えて既存のスポーツを楽しもうとい

て、積極的な投資に乗り出している。

や老若男女の誰もが楽しむことができる

う韓国人の要求が、スクリーンスポー

もちろん、市場の環境だけが成熟し

ようになった。それに雨天や寒さのよう

ツの熱風を巻き起こしていることだけ

てもスクリーンスポーツの発展が自然

な気候の変化にも関係なく楽しめるとい

は確かだ。

韓国の文化と芸術 65


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