Koreana autumn 2017 (japanese)

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秋号 2017

韓国の文化と芸術

特集

韓国の台所

伝統的な台所-女性の人生を圧縮した隠喩の空間 日本・中国との比較から見た韓国の昔の台所 その台所では、常に何かが湯気を立てている 大地と海を抱く済州海女の台所、未来の台所

韓国の台所

VOL. 24 NO. 3

ISSN 1225-4592


韓国のイメージ

墓参りと伐草 キム・ファヨン 金華榮、文学評論家、大韓民国芸術院会員


「秋

夕」は十五夜の中秋の名月が裏山に昇る、明るい秋の夜 を意味し、韓国人にとっては故郷に帰る日だ。この頃に なると、ソウルや都市近郊の公園墓地やその周辺の高速

道路は、墓参りと帰省の車で大混雑となる。寒食(4月5日)と秋夕(旧暦 8月15日)の墓参りは、先祖の墓地を訪れてお墓の手入れをするものだ。昔 から続くこの風習は、お墓が先祖の魂と肉体が共にあるところだと考え、子 孫に重要な場所だと認識させるためでもある。 山裾の斜面を平らにして、木棺に納められた遺体を土深くに埋葬したあ と、その上に土を盛って円形の封墳を造り、芝を植えて土砂が流れ落ちるの を防ぐのが韓国特有の墓づくりであり、毎年毎年管理が必要である。寒食に は冬から春の間に生じた墓地の裂け目や凹みなどの傷みを補修し、薄くなっ た芝を植え替える。雑草の成長が止まる処暑の頃には、墓地の雑草を抜き取 り周りをきれいに整える。これが伐草だ。秋夕に墓参りをするためには、事 前に必ず伐草を終えていなければならない。秋夕には先祖のお墓を訪れ、祭 礼を行う。秋夕の墓参りは1年間汗を流して収穫した、その年に採れたばか りの米や果物をご先祖様にまず第一にささげるという意味で重要だ。 しかし、時代の変化とともに多くの人々は墓参を忘れたり、伐草と祭礼を 公園墓地の管理機関に任せて、自分たちはリゾートに旅立ったりしている。 火葬、納骨堂、樹木葬などが増えており、墓参を代行する互助会が盛業中の ご時勢だ。ある主婦のインターネットにのせた1通の手紙が今日の韓国人の 心の断面を反映している。 「舅が亡くなって早6年。義父は故郷に骨を埋めたいと申しておりました が、都市に暮らす子供たちは、たびたび墓参りに行くこともできないと、風 水地理的にも良いところがあると説得して、大都市近郊の公園墓地に埋葬し ました。そのため夫の故郷には義父が存命中のときのように、たびたび行く こともなくなりました。たまに旅行の途中で故郷に立ち寄っても、昔のよう に心惹かれることもなく、糸の切れた凧のように思い出だけが遠い空をさ迷 っています。しかし年に1度だけ、義兄の家族と一緒に伐草のために故郷を 訪れます。ご先祖さまのお墓の手入れをしなくてはならないので、今頃の少 し暇な時期を選んで伐草をします。明日の朝、夜明け前に出発しようと草取 りのときの飲み水とスイカを準備して、コーヒーは明日の朝ハンドドリップ しようと氷だけ先に準備しておきました」 © Joongbooilbo


<編集長の手紙>

読者層の拡大を期待して

発行人

李是衡

編集長

金鍾徳

編集理事

韓国社会に「グローバル化」の波が押し寄せる以前に、「韓流」というポ ップカルチャーが、空前の人気を集める前に、『コリアナ』は誕生した。1986 年のソウルアジア競技大会と1988年のソウルオリンピックが開催された年の間 の、1987年の秋のことである。 世界に韓国の文化と芸術を広く紹介する雑誌『コリアナ』の英語版は、海 外の学者や外交官を読者層として想定した。その後30年間で読者層の裾野は大 きく拡大し、多様化してきた。今や読者は全世界の11カ国語で提供される『コ リアナ』を読むことができるようになった。 このような驚くべき読者層の成長は『コリアナ』を製作する者にとって、 常にやすからぬ挑戦であった。しかし、多様な外国の読者の関心を引くテーマ を探し出す仕事は、大きな幸せであった。もちろんテーマに合う物語を企画 し、各シーズンごとに新しい号を発刊することは、大変な仕事でありながら興 味深いことでもあった。その過程を通して編集部の視野も広がり、深まった。 今回の特集「韓国の台所」は、この点でよい例になるだろう。特集号は、 韓国の台所を垣間見ることで、魅惑的な体験を提供するものである。専門家の 綿密な調査と詩人の叙情的な心で分析された台所、さらにIT技術者の予言も聞 くことになるだろう。IT関連筆者は未来の台所が再び家族を呼び戻し、より多 くの時間をすごせる最先端の多目的な空間になるという。このような予想が現 実になるよう祈りをささげよう。 最後にまた大事なことがもう一つある。読者の皆様に、新しいデザインの 『コリアナ』を楽しんでいただきたい。雑誌の字体とページの構成を再編成 し、さらに洗練度を高めて表紙タイトルも一新した。新しい編集の試みはわれ われの絶え間ない努力の一部分であり、30周年を迎えての、読者の皆さんにお 届けするプレゼントでもある。

金光根

編集諮問委員

裵炳雨

那秀昊

崔寧仁

韓敬九

金華榮

金英那

高美錫

宋惠眞

宋永萬

Werner Sasse

監修者

嘉原和代

翻訳者

坂野慎治

金明順

クリエイティブディレクター 編集

アートディレクター デザイナー

編集

朴美貞 金三

池根華、盧倫永、朴道根

金度潤

金智賢、金南亨、葉蘭敬

金熒允編集会社 04035

韓国ソウル特別市麻浦区楊花路7-44. 秋思軒ビル3階 Tel : 82-2-335-4741

Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 価格

韓国内:6000ウォン 韓国外:9USドル

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日本語版編集長 金鍾徳

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韓国ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル 印刷

三星文化印刷 04796

韓国ソウル特別市城東区阿且山路11-10. Tel : 82-2-468-0361〜5

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韓国の文化と芸術 秋号 2017

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『祖母の茶ダンス』

カン・ジヘ 2017.障子に彩色.130×97㎝

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掲載された記事は筆者の個人的な意見であり、『Koreana』や 韓国国際交流財団の公式見解ではありません。

1987年8月8日文化観光部-1033で登録された季刊誌 『Koreana』

はアラビア語、インドネシア語、英語、スペイン語、中国語、 ドイツ語、フランス語、ロシア語でも発刊されています。


特集

韓国の台所

04

特集 1

伝統的な台所 女性の人生を圧縮した隠喩の空間 ハム・ハンヒ

12

特集 2

日本・中国との比較から見た韓国の昔の台所 キム・グァンオン

36

フォーカス

ソウル路7017 都心の空中散歩道 ハン・ウンジュ

42

文化遺産の継承者

人生を映し出すチャングの音色 カン・シンジェ

46

二つの韓国

様々な奉仕活動で統一を準備する キム・ハクスン

50

オン・ザ・ロード

湖畔の花陰に座って詩を読む クァク・ジェグ

18

特集 3

その台所では、常に何かが湯気を立てている イ・チャンギ

24

30

特集 5

未来の台所

キム・ジヒョン

特集 4

大地と海を抱く済州海女の台所 ホ・ヨンソン

58

日常茶飯事

仕事で人生の楽しさを追求する IT開発者 イ・ジヨン

62

エンターテインメント

あなたの冷蔵庫の中を片付けます シェフたちの奇抜な料理対決 キム・ヨンオク

64

遠くの目

台湾での韓国人留学生とのふれあい 谷口龍子

66

料理物語

白菜が無かったらキムチは どうなっていただろう パク・テギュン

70

ライフスタイル

シェアハウス 見知らぬ隣人との理由ある同居 キム・ドンファン

74

韓国文学の旅

短い恋、長い物語 チェ・ジェボン

『 4月のミ、7月のソ』 キム・ヨンス


特集 1

韓国の台所

伝統的な台所

女性の人生を圧縮した 隠喩の空間

19世紀後半に建てられたパク・キョンジュン(朴炅重)家は、全羅南道羅州を代表する 伝統家屋だ。大胆な木造架構、薪の煤、歳月の痕跡がひときわ印象的なこの家で、古い 台所は、建築構造や規模など見どころが多い。さらに、建築的な基準の代わりに女性社 会学という観点から見ると、隠れていた物語が姿を現す。 ハム・ハンヒ 咸翰姫、全北大学校考古文化人類学教授 安洪範 写真

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全羅南道羅州のパク・キョン ジュン(朴炅重)家の台所。 宗婦が釜からスープをよそっ ている。暖房と調理を兼ねた 韓国の伝統的な台所は、焚き 口が床暖房よりも低い位置に ある。この家では、台所の床 よりもさらに深く掘られてい る。焚き口で作られた炭は、 火鉢に入れて部屋の中で使わ れた。

韓国の文化と芸術 5


国の伝統的な家屋は、外観が優雅で気品を感

のパク・チェギュ(朴在珪、1857~1931)氏が宮殿を模した邸

じさせる。両班(朝鮮時代の支配階層)が住

宅を建てた。この家を守りながら暮らしている宗孫のパク・

んでいたような瓦屋根の邸宅、わらぶき屋根

キョンジュン氏によると、アンチェ(母屋)とサランチェ(客

の民家は、端正で均整のとれた佇まいだ。多くの民が住んで

間)は1884年に建て始めたが、敷地内の様々な建物まで全て完

いたわらぶきの家は、全て消えてしまったが、両班が住んで

成したのは、1930年頃だと言う。どの民家よりも規模の大きい

いた家がいくつか残っており、伝統家屋の美しさを今に伝え

この古宅が、戦乱や時代の変革期にも取り壊されず、本来の姿

ている。

を保っていることに驚きを覚えた。

しかし、伝統的な建築の魅力に惹かれて、家の中に入っ

庭に立って敷地を見ていると、最近ピョルチェ(別棟)に

てみると、古い家は近頃の暮らしには不便な点が多いように

新しく造られた台所が目に留まった。アンチェの中心であるア

感じる。特に、家事をする女性にとって、優しい造りではな

ンパン(奥の間)のすぐ隣にある古い台所と、そこから離れた

い。古い家を守りながら暮らしている宗孫(宗家を継ぐ一番

場所に新しく造られた現代的な台所が対照をなしている。パク

上の者)と宗婦(宗孫の妻)も「家のあちこちを改修しない

・キョンジュン氏の母親でこの家門の14代宗婦として一生この

と住みにくい」と言う。その中でも、台所を最初に直すこと

家を守り続けたイム・ミョスク(林妙淑)氏が、高齢で台所仕

になるだろう。

事が難しくなったため、アンチェの西側にホッカンチェ(納

韓国の伝統的な台所は、暖房と調理が同時にできるように 工夫されている。薪や松の枝を焚き口から入れて火をつける

屋)を建て、立って炊事ができる現代的な台所と食事のための 空間を設けたのだ。

と、炎が中に吸い込まれて、床暖房が効く。室内は、床からの

家の生命は、人が住んでこそ続いていく。いくら貴重な古

対流熱によって空気が暖められる。その間、女性はかまどに釜

宅でも、人が住まなければ、博物館としての機能しか残らな

をかけてご飯を炊き、料理をした。エネルギー源が貴重だった

い。したがって、子孫が住み続けるためには、本来の姿をあま

時代には、極めて効率的なシステムだったといえる。

り損なわない範囲で、その時代の生活環境に合わせて手を入れ

古い家が建てられた数百年前に遡ってみると、伝統的な建

ていく必要がある。そうした観点から、この古宅は伝統的な家

築は、韓国の自然生態的な条件を十分踏まえていたと考えられ

屋の美と品格を失わず、家の生命力を維持しているという大き

る。台所という空間にも、当時の科学的な知識や技術が深く根

な特長がある。新しく造られた台所が、まさにその生命力の象

付いていたのだ。しかし、年月が流れて、新しい燃料や技術、

徴ではないだろうか。

各種道具が発達したことで、生活環境は大きく変わった。今や

家全体に拡張される台所の機能

伝統的な家屋の台所で、昔ながらの生活様式を受け継いでいく ことは、ほとんど不可能に近いだろう。

家の生命力は人から

筆者は先日、全羅道に残っている古宅の中で、建築様式と

代々この家を守り続けてきた女性の物語は、多くの時間を

過ごした空間で、いっそう生き生きと描かれる。女性が頻繁に 出入りした台所が、今もその原形を保っているため、この家の 女性の人生がより身近に感じられる。

規模において屈指といえるパク・キョンジュン(朴炅重)家を

女性は、台所の前の庭にある井戸から汲み上げた水で米を

訪れた。敷地は、代祖のパク・スンヒ(朴承禧、1814~1895)

といだり、野菜の下ごしらえをしたりして、食事の準備をし

氏が確保し、草ぶきの家を建て住まいとしたが、その後4代祖

た。味噌、塩辛、キムチなどを入れておく甕置き場も、井戸と

夕方、パク・キョンジュン家の台所を裏手からのぞいた 様子。移動と換気のため、台所の二つの扉が向かい合 っている。台所の裏手側に小さな板敷き場所があり、 炊事をする女性が、腰かけて休んだり食事をしたりし た。表側にある物置には、薪を積んでおく。

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韓国の文化と芸術 7


同様に、何度も行き来しただろう。そのため、井戸と甕置き場

く変わっている上に、そうした空間が少なくなったため、キム

は、家族の食生活を支える台所が拡張した空間だといえる。

ジャンの規模も小さくなっている。

また、穀物を保管しておく倉庫や食材を保管しておく場所

このように伝統家屋では、基本的な調理は台所で行われる

も、台所の延長線上にある。居間には米びつがあり、食器や膳

が、広い空間が必要になると、いつでも庭、奥の間、居間へと

などの棚もあるため、戸棚の機能を併せ持つ空間だといえる。

場所を移して調理した。「家全体の台所化」といっても過言で

そうした点は、この家だけでなく、韓国の伝統家屋の構造

はない。これは、女性の家事がどれほど多くて大変だったのか

的な特徴でもある。なぜなら、韓国の伝統的な食生活におい

を物語っている。

て、下ごしらえの段階から広い空間が必要だったからだ。キム 噌、唐辛子味噌を作る時も、台所を超えた広い調理空間が奥の

母の匂いは、焦げた煙の匂い

間まで広がる。旧暦の正月・盆などの祭日や味噌を作る時期に

一人の宗婦に出会った。その日常について、次のように記録し

なると、奥の間のアレンモク(焚き口付近)は、大きな木の鉢

ている。

ジャン(冬に食べるキムチを漬ける風習)に加え、醤油、味

筆者は1980年代の半ば、羅州のある農村での現地調査中、

や蓋の閉まった正体不明の器でいっぱいになった。キムジャン

「ウンアム夫人の一日は、朝5時頃に起きて台所で火を焚

の時期になると、庭に白菜が積み上げられ、大きな鉢で100株

きつけることから始まった。台所は広く、薪を隅に積んでおく

を超える白菜を塩漬けにした。最近は人口構造や食生活が大き

ための空間があり、井戸から汲んできた水を貯めておく水が

台所の裏には、大小様々な甕が40ほどある甕置き場。醤油、味噌、唐辛子味 噌などを熟成させるため、日当たりの良い場所にある。地面に砂利や板石を 敷いて20~30cmほど高くし、水が流れ出るようになっている。

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め、臼、挽き臼なども台所の隅に置かれていた。かまどには、 二つの大きな釜がかけられる。ウンアム夫人は、焚き口の前に しゃがみこんで火を焚きつけた」。 「彼女はご飯を炊く前に、必ずきれいな水を小さな器に入 れて、かまどの神様に家族の健康と安寧を祈った。前日にとい でおいた米を釜に入れてご飯を炊き、おかずを作って、朝ご飯 の支度をした。かつては、生活が豊かな上に、宗家だというこ とで手伝ってくれる人が多かったため、台所は相嫁や小姑でに ぎやかだった。今のように落ち着いた雰囲気になったのは、わ ずか10年前からだという」。 「朝ご飯を食べ終えると、ウンアム夫人は畑に向かった。 夕暮れ時には畑仕事を終え、収穫した穀物や野菜を庭で片付け て、夕ご飯の支度をするなど、忙しかった」。 当時、筆者が目にしたその家の古い台所は、煤がついて真 っ黒に見えたが、実は手入れが行き届いていた。木と松の枝を

その家の古い台所は、 煤がついて真っ黒に見 えたが、実は手入れが 行き届いていた。ウン アム夫人は、常に台所 の煙の匂いを漂わせて いて、その匂いは子供 たちにとって故郷の匂 いとして記憶されてい ただろう。

陶器製の煙突。煙突は、台所の焚き口から煙を外に出し、焚き口か ら空気を入れて火を強める役割もする。この陶器の煙突は、四方に 四つの穴があり、煙が出やすくなっている。

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1. アンパン(奥の間)の 前にあるテチョン(広い 板の間)には、食器棚や 米びつなど台所で使う物 が多数ある。天井近くに は棚を設け、膳や普段は 使わない器を保管する。 韓国の伝統的な家屋で、 アンチェ(母屋)のテチ ョンは台所の延長線上に ある。 2. アンチェ(母屋)の横 に造られた現代的な台所 で料理をするパク・キョ ンジュン家の宗婦カン・ ジョンスク(姜定淑)氏

1 © Cultural Heritage Administration

焚きつけてご飯を炊いたので、かまどから出る煙が壁と天井を

てきた。台所が女性の人生を圧縮的かつ隠喩的に表現する空間

真っ黒にいぶしていた。そのかまどの前にしゃがみこんでいる

だという点で、この期間に台所で起きた空間構造の変化に注目

ウンアム夫人の白髪交じりの頭は、厚く積もった煤の黒と妙な

する必要がある。変化の原動力は、科学技術の発達や商業主義

対照をなしていた。その瞬間、筆者は煤も白髪も全て台所で作

だった。一言で言えば、科学主義が生んだ機能性と合理性が結

られたという点で、その根っこが同じである「同種異形」だと

びついて、女性の台所仕事を楽にしてくれたのだ。しかし、そ

考えた。ウンアム夫人は、常に台所の煙の匂いを漂わせてい

の過程を見てみると、決して簡単なことではなかった。都市の

て、その匂いは子供たちにとって故郷の匂いとして記憶されて

基盤施設が十分整えられるのを待たなければならず、また家屋

いただろう。

の構造を変える必要もあったからだ。

ウンアム夫人も、1992年に古い家を取り崩して新しい家を

1950年代の後半になって、都市に上水道が普及し始めた

建てる際に、やっと現代的な台所にした。火を焚きつけてかま

が、その水を台所で使えるまで、さらに30年ほどかかった。

どでご飯を炊く代わりに、ガスを使ってご飯を炊き、灯油で暖

その上、現代的な台所の必須条件の一つである燃料の問題を

房するようになったのだ。

解決することも、それほど簡単ではなかった。1970年代まで

一世紀にわたる緩やかな変化

都市でも練炭が使われていたからだ。一般家庭で暖房用と調

韓国は、20世紀の近代化を経て、政治・社会・経済・文化

理用の熱管理システムがようやく分離されたのは、1980年代 以降のことだ。

など各方面において大きな変化を経験した。その変化は、密接

台所の現代化を詳しく見てみると、この一世紀の間、パク

に絡み合った日常生活を全面的に変えてしまった。当然、人々

・キョンジュン家の宗婦やウンアム夫人のような女性が、何を

の意識も変わった。わずか10年前まで、台所は女性だけの空間

実践しようとしたのか、その意志が感じられる。それぞれの立

とされてきたが、今はそうではない。また、最近の若者は「台

場で少しずつ改善を図り、たとえ制限的ではあったものの、日

所」の代わりに「厨房」という言葉をよく使う。おそらく台所

常の変化を夢見たのだろう。それらは全て、利便性と合理性を

という言葉が、時代遅れの旧式、または古びた場所を思い浮か

求めながら、各自の夢を実現するために努力してきた一つの過

ばせるからだろう。

程だったことを、私たちの娘に伝えていきたい。

この100年の間、韓国の台所は現代化に向けて変化を重ね 10 KOREANA 秋号 2017


手入れの行き届いた家は、夫人の心から

パク・キョンジュン家の宗婦カン・ジョンスク(姜定淑)氏インタビュー 筆者は今年の初夏、朝鮮後期のソンビ(学識と人格を備えた人

た。そして、夫の祖父がいたので、お客さんもたくさん来まし

庭の隅には白いお茶の花が落ち、青々とした葉がとても清々し

た。そのため、嫁入りするとすぐに、その祭祀から行いまし

物)の古宅として知られるパク・キョンジュン家を訪れた。

い。端正な韓屋(韓国の伝統家屋)など古宅を美しく保ってい

る夫人の手際に感動し、庭に立ち止まっていたところ、15代宗 孫パク・キョンジュン氏と宗婦カン・ジョンスク氏が温かく迎 え入れてくれた。

ハム・ハンヒ:広くて古い家ですが、とてもきれいですね。ど うやって家を守り続けてきたのですか。どうやって、こんな

に大きな家の家事をこなしてきたのかも、お聞きしたいのです が…。

カン・ジョンスク:7年前に亡くなった義理の母は生前、と ても苦労しました。私は幼稚園を経営していたので、義理の 母がほとんどの家事をして、嫁である私をいつも支えてくれ ました。

ハム:義理のお母さんを立てているようにも見えますが、それ でも、姑との関係は大変ではありませんでしたか。

カン:結婚してこの家に来てみると、夫の祖母は亡くなってい て、夫の祖父、義理の父、義理の母、そして夫の弟まで、た

くさんの家族がいました。義理の母は、6人の息子を育てまし 2

た。嫁入りして間もなく、1月5日に5代祖の祭祀がありまし た。今も毎年、20回にもなる祭祀を行っていますし、暑い夏も 祭祀は続きます。昨日の夕方は夫の高祖父の祭祀、もうすぐ7

月22日になると夫の祖父の祭祀、8月には義理の父と義理の母 の祭祀があります。

ハム:昔から宗家の宗婦にとって一番大事なのは「奉祭祀接賓 客」だといわれていますね。大きな家でそうした仕事をするの は、とても大変だと思いますが、40年も経った話を昨日のこ

とのように淡々とお話になるのを見て、とても感銘を受けまし た。そのように多くの祭祀を行うためには、大きな台所が必要 でしょうね。

カン:私が嫁に来た時には、元々あった古い台所を使っていま した。また、つるべで水を汲んでいました。他の家とは違っ

て、排水溝が台所の中にあったので、そこは便利でした。水は けが良くて。かまどは今も使っています。大きな行事がある時 や、牛の骨を煮込んだり、醤油を煮詰めたり、手間のかかる炊 事は、今もあの古い台所でしています。毎日のご飯は、煙がた くさん出るので、古い台所ではしていません。

ハム:現代的な台所を造ったきっかけは、何でしたか。

カン:かまどに火を焚きつけてご飯 を炊くなど、炊事を全て台所でしま すが、古い台所ではあまりにも大変 だったので、アレチェ(離れ)に、 立って炊事ができる台所を造りまし た。もう20年前のことです。

この家の女性の日常を思い浮かべる と、韓屋の美しさについて改めて考 えさせられる。先祖が建てた素晴ら しい建築物だと褒めてばかりはいら れないという意味だ。かえって、そ の不便な家を黙々と守り続けてきた 女性の忍耐と犠牲、そして創造的な 精神こそ、褒められるべきではない だろうか。家の清潔さと気品から受 ける感銘は、夫人の日ごろの心がけ と振る舞いの賜物なのだから。

韓国の文化と芸術 11


特集 2

韓国の台所

韓国の民間信仰で「竈王 (そうおう)」と呼ばれ る台所(かまど)の神 は、火の崇拝に由来す る。器の中のきれいな水 が神体で、松の枝を挿す こともある。

12 KOREANA 秋号 2017

© 徐在植


日本・中国との 比較から見た

韓国の昔の台所 中国の大陸に源を発し、韓国を経て、日本に渡った東アジアの台所文化。ある民族の 伝統的な台所文化が、他の地域の気候や風習などに合わせて、独特な構造に発達した。 現代の台所は、調理と食事を兼ねた空間に過ぎないが、伝統的な台所は、家庭の 安寧と繁栄を祈る女性の信仰の空間でもあった。 キム・グァンオン 金光彦、仁荷大学校名誉教授

国の台所に関する一番古い記録は、中国・西

336年に高句麗に渡って357年に世を去った前燕の将・冬寿とも

晋の陳寿が著した『三国志』に見られる。

いわれている。安岳3号の壁画に描かれた台所は、切妻屋根に

「かまど神を丁重に祭り、皆、家の西側にあ

瓦をふいた別棟の建物だ。

る」という一言に過ぎないが、台所の位置を示す貴重な資料で

古くから宮廷や豊かな家では、アンチェ(母屋)の裏手に

あり、韓国の台所の特徴を物語っている。「家の西側」は南向

台所を建て、それを「飯婢間(パンビッカン)」と呼んだ。

きの家を前提にしたもので、実際に韓国の99%以上の家庭で台

『朝鮮王朝実録』(顕宗7年:1666年1月1日)では、台所で

所を西側に設けていた。台所を東側に置くと、シベリアから吹

仕事をする下女を「飯婢(パンビ)」と称している。しかし、

いてくる強い偏西風の影響で、かまどの炎と煙が煙突から出に

2015年に景福宮に復元された二つの台所は「焼厨房(ソジュバ

くくなるため、非常に科学的な配置だといえる。

ン)」に名称が変えられた。この言葉が『承政院日記』(仁祖

昔の記録に見る台所

10年:1632年11月9日)に見られることから、17世紀には「飯

しかし日本や中国には、台所の配置についてそうした考え

では、飯婢間を「ハンデップオク」と呼んだ。飯婢間は、純祖

方はない。かまどに床暖房を使わないからだ。そのため、『三

(朝鮮の第23代国王)の時代に昌徳宮に建てられた演慶堂のア

国志』でも「台所は皆、西側にある」と記しているわけだ。

ンチェの裏に、今も残っている。

婢間」と「焼厨房」が共に用いられていたことが分かる。民家

黄海道安岳郡にある4世紀の墓「安岳3号」の壁画に見ら

このように台所をアンチェとは別に設けた主な目的は、火

れる台所も、重要な資料だ。被葬者は、高句麗の第16代王・故

事の際にアンチェに燃え移るのを防ぎ、食べ物の匂いが染み付

国原王とされるが、前燕の初代王・慕容皝という説もあり、

かないようにするためだった。また、一度にたくさんの料理を 韓国の文化と芸術 13


かまど神の神体は、 かまどの奥の壁の段 差や釜の上に置かれ る「器の中の水」だ。 女性は毎朝、器の水を かまど、焚き口、釜蓋、 水甕などに少しずつ かけた後、新しく 汲んできた水を入れ、 家族の一日の安寧と幸 福を祈った。

することが多かったからでもある。そのため、一般家庭でも台 所のそばに、床暖房には使わないハンデップオクを設けた。 飯婢間は、中国から伝わったものだ。漢代の墓から発見さ れた画像石22点のうち、山東のものが10点に上る。そのため、 中国の影響を受けた高句麗の壁画が、それにそっくりなのも当 然だろう。また大棟のカラスも、太陽神の使いとされていた中 国から取り入れたものだ。これは百済にも伝わっており、新羅 の阿達羅王4年(157年)に日本に渡って王になったとされる 延烏郎と妻の細烏女の名前に「烏」が入っているのも偶然では ない。日本の天皇の礼服に施されていた烏の刺繍とも、深い関 わりがある。 その他にも、踏み臼小屋、馬小屋、井戸、肉を店頭に ぶら下げた肉屋も中国式だ。したがって、前述した安岳3 号の被葬者が、前燕から渡ってきた冬寿である可能性も低 くない。

「台所」という言葉の言語的背景

韓国語には現在「プオク」と「チョンジ」という言葉があ

る。二つとも台所を指す単語だが、地域によって異なる。「プ オク」は主に平安道と黃海道をはじめ、京畿道・忠清道・全羅 道の西部、そして済州島でよく使われている。「チョンジ」は 咸鏡道と江原道を中心に忠清道・慶尙道・全羅道の東部に広が っている。これは台所が北方と南方の二つの系統に分かれてい ることを意味する。 「プオク」は、現存する資料としては1481年の『杜詩諺 解』に初めて見られる。「プオク」の「プ」は「プル(火)」 に由来し、「オク」は場所を指す接尾辞だ。当時は「プソク」 に近い発音だった。かまどを意味する済州の方言「プソプ」を 連想させる点も、非常に興味深い。 咸鏡道の複列型間取りは、厳しい寒さを防ぐために部屋 を前後に配して、田の字型になっている点が特徴だ。チョン ジは、そうした咸鏡道の間取りの「中心空間」から来た言葉 だ。咸鏡道に近い中国・黒龍江省の北西の山岳地帯に住むオ ロチョン族は、天幕式住居の入り口の向かいにあるかまど後 部を「マルロ」または「マルル」と言い、右側の女性の席を 「チョンジドゥイ」と呼ぶ。韓国語の「マル(床)」は「マ ルロ」に由来しているとされるため、「チョンジ」とも何ら かの関わりがあるはずだ。黒龍江省一帯が、昔は高句麗の領 土だった点も「チョンジドゥイ」が「チョンジ」の元だとい う証拠になるだろう。 一方、台所を意味する漢字「厨」は、漬物を盛る器を手 に持つ形から来ており、それが料理をする台所という意味に 変わった。中国で料理人を「厨人」や「庖人」と呼ぶ理由が ここにある。 日本では、料理する場所を「台所」または「勝手」とい う。日本の小学館『古語辞典』を見ると、台所という言葉は平 安時代に宮廷や貴族の家で使われた、食べ物を載せる足の付い 14 KOREANA 秋号 2017


現在の北朝鮮の黄海道 に位置する、高句麗時 代(4世紀)の墓「安 岳3号墳」。その壁画 は、古代韓国の台所に 関する多くの手がかり を残している。

© Korea Creative Content Agency

た器具を指しているという。勝手は弓を引く右手を指すが、右

「三徳」として祭り、それぞれに供え物をした。引っ越しをし

手が左手より使いやすいという意味で「生計」の意味を持ち、

ても、ソットクだけは必ず持って行った。住んでいた家で授か

それが台所の意味に変わったという説がある。

った福を失わないためだ。これは中国の四川省、雲南省、貴州

神を祭る空間

省などの少数民族が行っていた慣習を想起させる。

異なるが、家の西側のかまどに祭る」という文がある。地祇

る産神であり、火を鎮める守護神でもあるからだ。

冒頭で触れた『三国志』に「地祇を祭る方法はそれぞれ

ともかく、韓国では神体として水が最初に挙げられる。水 は穢れを洗い流して幸運を招く善神であり、新しい命を宿らせ

(地の神)はソウル・忠清南道・慶尚道などの「竈王(そうお

中国の場合、竈王の神体は水でなく絵だ。紙に描かれた絵

う)」系と忠清道・全羅北道・済州島などの「火徳」系に分

を買ったり、直接描いたり、あるいは木の板に書かれた神位を

かれる。竈王も竈王カクシ(花嫁)、竈王ハルマン(お婆さ

用いることもある。韓国の大きな寺院で庫裏(台所)に竈王神

ん)、竈王大監などに分かれるが、料理をするのが女性である

の像をかけて供え物をした後、般若心経を唱えるのも、中国の

ため、地祇も女性だ。竈王は中国の言葉であり、火徳の方が韓

影響だといえる。中国では竈王が天の玉皇大帝によって人間界

国人にとっては身近に感じられる。竈王は一つの観念に過ぎな

に送られた使いとして登場し、韓国と同じく女性だ。一方、日

いが、火徳はいつも使っている火と関係があるからだ。

本の東北地方では、かまど神として険しい表情の木の面を祭っ

かまど神の神体は、かまどの奥の壁の段差や釜の上に置か

て「火男(ひょっとこ)」と呼ぶ。

れる「器の中の水」だ。女性は毎朝、器の水をかまど、焚き

竈王は毎年、大晦日に地上に降りてきて、家々を見て

口、釜蓋、水甕などに少しずつかけた後、新しく汲んできた水

回った後、玉皇大帝に報告する。そして、徳を積んだ家に

を入れ、家族の一日の安寧と幸福を祈った。

は福を、悪行を行った家には罰を与えるという。そのた

また、かまどが存在しなかった済州島では、ソットク(焚

め、各家庭では、その時期になると焚き口に飴や酒粕を塗

き口の両側に立てた石)を竈王とし、釜を支える三つの石を

りつけた。焚き口は口を象徴しているため、そうすること 韓国の文化と芸術 15


1

で竈王の口がくっついて話せなくなると考えたからだ。一

北朝鮮の言葉で、咸鏡道の複列型間取りが日本の東北地方に

方で、餅や果物を供え、天に昇るための馬まで準備して、

伝わった点とも関連が深い。1990年に発行された岩波『古語

歓心を買おうとした。

辞典』にも「朝鮮語のカマに由来する」という説明がある。

日本に渡った韓国のかまどと煙突

これは8世紀の『万葉集』と10世紀の『和名類聚抄』にも見

日本の工業デザイナー・榮久庵憲司(1929~2015)は『台

日本では、朝鮮半島から伝わった釜を初めて目にし、どれ

所道具の歴史』という本で「朝鮮半島から伝わるまで、かまど

ほど不思議に思ったのだろうか。それは、島根県出雲市にある

が日本に存在しなかったのは、驚くべきことだ。(中略)その

韓竈神社で、今も釜が神体となっていることから分かるだろ

おかげで熱効率が高まっただけでなく、煙突までできて人々が

う。また、かまどとは切っても切れない煙突も忘れてはいけな

煙から解放された」と述べている。

い。中田薫(1877~1967)は1906年に発表した論文『日韓両国

られる言葉だ。

「韓(かん)かまど」または「韓(から)かまど」と呼ば

語の比較研究』で「今日、かまどをクドと呼んでいるが、そ

れるかまどは、今も日本の韓竈神社で神聖なものとされてい

れは本来の言葉の意味から転じたもので、昔は煙突を指してい

る。韓国と同じく小正月(旧暦1月15日)頃に、豊かな家の土

た。同じような意味の韓語(朝鮮語)のクルトゥク(煙突)が

を塗り重ね、幸運を祈った。

それに当たる。(中略)このような関係は、古代に成立した」

かまどに続き、釜が日本に伝わった。江戸時代の学者・

と述べている。実際に朝鮮半島で17世紀に煙突を「クルトク」

新井白石(1657~1725)が「昔はかまどのことをカマと呼ん

と呼び、今も全羅道の一部でそのまま使われている。パッチム

だが、後に釜も指すようになった。これは韓語(朝鮮語)の

(閉音節、終音)を使わない日本語で「クド」になったとして

方言に由来する。今も朝鮮では釜をカマと呼んでいる」と記

も不思議ではない。

している。「韓語の方言」であるカマは、かまどを意味する 16 KOREANA 秋号 2017

一方、奈良県王寺町の久度神社では、古くから百済人を主


2 © Zhao Jiankang

神、釜を地祇としてきた。釜の側面に「慶安元年(1648年)8 月に奉ず」という銘文が刻まれており、その時期に新しい釜に 変わったことを表している。筆者が2000年代の初めに行った時 には、足が1本欠けていた。神社周辺の平郡・生駒の一帯は、 かつて百済人の居住地だった。 また、国際脳教育総合大学院大学校・国学科のホン・ユ ンギ(洪潤基)教授が2007年、日刊紙に寄稿した内容(「ホ ン・ユンギの歴史紀行:日本の中の韓流を探して36」世界 日報、2007.5.2)によると、東洋史学者である内藤湖南 (1866~1934)は「今木神は外来の神で、久度神は百済の聖

3 © Getty Images

1. 韓国の伝統的な台所は、シベリアから吹いてくる偏西 風のため、南向きの家の西側に造られる。部屋の壁の下 に焚き口を設け、暖房と炊事が同時に行えるようになっ ている。台所には、焚き口にくべる薪が積み上げられて いた。 2. 地域ごとに多少の差はあるが、火鉢が主な暖房だっ た中国では、台所の焚き口を部屋の近くに設ける必要が なく、母屋のそばに台所を別途に造ることが多かった。 そうした別棟の台所を「飯婢間(パンビッカン)」と言 い、韓国にも伝わった。

3. かまどが韓国から伝わるまで、日本の台所では炉を使 っていた。韓国のかまどは、今でも韓竈神社で神聖なも のとされている。

明王(百済の第26代王)の先祖である仇首王(百済の第6代 王)である。古開神の『古』は比流王(百済の第11代王)、 『開』は肖古王(百済の第5代王)のことである」と述べて いる。 東アジアの台所文化を木に例えるなら、中国は根、韓国は 幹、日本は枝だ。前述したように三国の台所の様子が異なるの は、そこに住む人々の思考が反映され、多様性がもたらされた 結果だ。枝から花が咲くように、東アジアの台所文化も、日本 で花を咲かせたといえよう。 韓国の文化と芸術 17


特集 3

韓国の台所

その台所では

常に何かが湯気 を立てている 台所は料理を作ったり、食べたりする空間だが、時にはその用途をはるかに超える。ある者にとっては 台所がアトリエになり、思い出の詰まった空間にもなり、青春の足跡が刻まれたりもする。そのため、 全ての台所では吸い物であれ、ご飯であれ、恋しさであれ、常に何かが湯気を立てている。 イ・チャンギ 李昌起、詩人、文学評論家 安洪範 , 河志權 写真

には、そこに住む人に関する多くの情報が収 められている。特に、住居と食事という二つ の機能が混在する台所は、そこに住む人のラ

イフスタイルや人生観がうかがえる直接的で実在的な空間だ。

ように使い、記憶していたのだろうか。

「見慣れない」台所

芸術家がある空間をひどく陰鬱に描写したり、これ見よが

このような観点から、台所をテーマにする場合、最も身近なア

しに明るく表現したからといって、そのまま受け止めてはいけ

プローチの方法は「変化」だろう。もちろん、台所が変化の主

ない。多くの場合、芸術家は矛盾を秘めており、対象への感情

体になるわけではない。それでも、台所はゆっくりとだが、ど

を最大化したり曖昧にする上で、優れた才能を持っている。ひ

のような方式であれ変化を反映してきた。

ょっとすると、そこから読み取れる葛藤や対立さえ、実際には

時代や環境の変化によって、あるいは火をコントロールす

存在しなかったのかもしれない。それは、現実の生活空間を内

る方法によって、台所の役割と形がどのように変わってきたの

的な空間に移す過程で生じる副作用なのだ。この独特な関係

かを振り返ってみることは、過去、現在、未来の生活様式と文

は、実証主義よりも大きな説得力をもって、人と空間について

化を比較する上で、かなり有効な方法だといえる。

共感させ魅了させ理解させる。

しかし、その過程で手にした啓蒙的な知識を偉そうに語る

『イメージの裏切り』で知られるルネ・マグリットは、台

のは、それほど目新しいことではない。ほとんどの場合、愉快

所兼食堂で絵を描き、食事をしたり来客に会うという日常生活

な質問や好奇心は、そうした近代的な常識の向こう側にあるの

も、そこで行った。彼は、アトリエが欲しいとは全く思わなか

だ。それならば、女性の密かな空間だった台所を男たちはどの

った。アトリエらしいアトリエは、髭を伸ばしてベレー帽をか

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台所は伝統的に女性の空間だったが、最近では台所 に立って料理を楽しむ男性が増えている。

ⓒ 安龍吉

韓国の文化と芸術 19


ぶったパリの画家のように、ただの見栄に過ぎないと考えて嫌

担当していた。エリートで、モダンボーイでもあった。

っていたのだ。狭いアパートの台所兼食堂で、スーツを着て絵

「薄緑色のダブルブレストを翻して、寒帯の海の波を連想

を描いていると、食卓にぶつかったり、フライパンで手に火傷

させるウェーブのかかった黒髪をなびかせながら、光化門通り

をしたり、あるいは出入りする来客のためにドアの取っ手に腕

の十字路を渡る」彼が、見た目とは全く違う朝鮮の伝統、しか

が当たって、キャンバスのひょんなところに筆先が当たりもし

も平安北道定州の土俗的な世界を懐かしみ、のめり込んでいる

た。食事の時間になると毎回、創作を中断してイーゼル、パレ

ことに、人々は衝撃を受けた。イム・ファ(林和)は地方主義

ット、筆などの画材を片付けた。

という観点から、朝鮮の普遍的な情緒ではないと懸念して批判

そのためか、彼の作品には台所や食卓で目にする物が、頻 繁に登場する。『これはチーズである』に出てくるガラス箱の

した。キム・ギリム(金起林)は、復古でも感傷でもない「純 粋な郷土の顔」を持っていることに感嘆した。

中のひとかけらのチーズ。『黄金伝説』で飛行機のように列を

ペク・ソクの詩は、定州での幼い頃の経験を素材にしてい

なして空を飛ぶバゲットなど…。彼は、実物をそのまま再現し

るため、土俗的だといえる。しかし、その経験に縛られること

たこれらの平凡な対象をユニークな方法で配置することで、慣

はなく、一定の距離を置いた話者による抑制された叙述、平安

れ親しんだ物を見慣れない物に作り変えた。ベルギーでシュル

北道の風習とシャーマニズム的な世界を基にした豊かな言語表

レアリスム(超現実主義)を主導した詩人のポール・ヌージェ

現、特にフランドル派の細密画を思わせる極端なイマジズムの

は、次のように述べている。

手法で方言を自在に駆使している点で、その他の「地方色豊か

芸術家がある空間をひどく陰鬱に描写したり、これ見よがしに明るく表現したか らといって、そのまま受け止めてはいけない。多くの場合、芸術家は矛盾を秘め ており、対象への感情を最大化したり曖昧にする上で、優れた才能を持っている。 ひょっとすると、そこから読み取れる葛藤や対立さえ、実際には存在しなかった のかもしれない。

「マグリットの絵を見れば、世界が変わる。平凡な物な ど、もう存在しない」。

な文学」とは明らかに異なる。 ペク・ソクが最も注目した故郷の情趣は、食べ物だ。33編

マグリットの台所のある家は、今は美術館になっており、

の詩からなる『鹿』に登場する食べ物は、46にも上る。普通の

ブリュッセル郊外のジェットという街に位置している。アンド

韓国人にとって、その食べ物の名前はなじみがなく、外国人に

レ・ブルトンとの不和によって、シュルレアリスムのグループ

でもなったようだ。食べ物を生み出す台所の風景も、ペク・ソ

から外されたマグリットが、1930年にパリから戻って住み始め

クの詩によく登場する。その台所の釜では、常に何かが湯気を

た場所だ。マグリット夫婦は、ここで24年間過ごした。

立てている。

「吸い物が湯気を立てる」台所

マグリットが台所の片隅で『これはチーズである』を完成

させた1936年、韓国ではペク・ソク(白石)という20代の若い

「小姑や相嫁のひしめく賑やかな台所の脇戸の隙間から、 障子の隙間から、ムイジンゲ汁を煮る、おいしそうな匂いが漂 うまで眠る」(『狐谷の一族』より)

詩人が、初の詩集『鹿』を出した。近代化の中で生まれ育った

「明日のような祭日の前夜は、台所に明々と灯りがとも

ペク・ソクは、五山学校を経て、日本の青山学院大学で英文学

り、釜の蓋はカタカタと揺れ、香ばしい匂いと共にコムタン

を学んだ後、朝鮮日報社に就職し『女性』という雑誌の編集を

(牛のスープ)が煮込まれ」(『古夜』より)

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ペク・ソク(白石)の詩は、台所の風景がたびたび描写される。その台所の 釜では、常にスープがおいしそうな匂いを漂わせている。台所のかまどで何 かが湯気を立てているということは、料理が作られていることに加え、部屋 が暖められていることも意味している。

「暗い台所では、一人暮らしの老いた舅がワカメ汁を作る

を象徴している。寒い冬、寝ぼけ眼で匂いを嗅ぐだけでもよだ

/そのマウム(心)*の離れ家でも、産後の産婦のために汁物

れが出そうなムイジンゲ汁は、大根とアミの塩辛で作る平安北

をこしらえる」(『寂境』より)

道の郷土料理だ。大根のさっぱりした味にアミの塩辛のコクが

[*文学評論家イ・スンウォン(李崇源)氏によると、マ ウム(心)はマウル(村)の誤記。離れ家は、産婦の実家を指 している]

加わり、淡泊で香ばしいという。 ペク・ソクは、モダンボーイにふさわしい服装で、20世紀 の日本統治時代の京城(現ソウル)を闊歩していた。それでも 彼の味覚、嗅覚、情緒は「幼い巫女が刃物に乗って」、「ヤマ

韓国の伝統的な台所は、多くの場合、奥の間の壁につなが

ナシの実を食べて壊したお腹、サンザシの実を食べれば治る」

っており、その壁面に造られたかまどには、3~4の釜をかけ

と信じる人々が住んでいた19世紀朝鮮の北方の村の伝統に属し

ることができる。その火でご飯を炊いて、吸い物も作る。その

ていた。おそらく彼の不幸は、近代と伝統、亡国と植民の間で

熱が奥の間の床暖房を通って煙突から出ていくため、部屋も暖

生じたのだろう。親に強いられた5回の結婚と幾多の転職、そ

められる。そのため、台所のかまどで何かが湯気を立てている

して根なし草のような生活によって『鹿』以降の彼の詩の世界

という描写は、暖かい部屋と湯気の上がる料理があることを意

は、故郷の温かい記憶ではなく、悔いと寂しさで埋められた。

味し、一つの家庭がうまく機能しているという穏やかな雰囲気

ウィリアム・バトラー・イェイツの伝記を書いたR.F.フ 韓国の文化と芸術 21


ォスターは、次のナポレオンの言葉が、イェイツに完全に当て

絶えてしまった。そのため韓国の文学史は、韓国人の原初的な

はまると述べている。「一人の人間を理解するためには、その

想像の世界をそれ以上堪能することができず、「悲嘆と諦念の

人が二十歳だった頃の世界を理解しなければならない」。イェ

詩人」として彼の晩年を記録するしかなかった。

イツが幼い頃に経験したアイデンティティーの混乱、そして祖 国であるアイランドの神話と伝説への傾倒について、英文学を 学んだペク・ソクは知っていただろう。政治的・社会的な抑圧

「がらんとした」台所

ソウルの舍堂洞には「ソウルの未来遺産」に指定された詩

と己の性質をうまく調和させたイェイツとは異なり、ペク・ソ

人ソ・ジョンジュ(徐廷柱)の家がある。彼は、その家で生涯

クはそうすることができなかった。終戦後、南北に分断された

を終えるまでの30年間、妻と過ごした。「ミダン(末堂)」と

祖国のうち、どちらかを選ばざるを得なかった彼は、北朝鮮に

いうソ・ジョンジュの雅号は「まだ完成していない家」、つま

ある故郷の定州に戻り、個性あふれる文学的な試みはそこで途

り「まだまだ足りない者」という意味だ。しかし、そのような

22 KOREANA 秋号 2017


慶尚南道梁山市の通度寺の供養 間(台所)で、汁物ができるの を待つ僧侶。筆者も一時、江原 道五台山の上院寺の台所で、寺 の人のために吸い物を作り、後 片付けをしていた。

まに残しておいて、海を求めてこそ詩人であるものを…」。 もう誰も帰ることのない、がらんとした家の1階にある台 所には、ミダンが最後まで飲んでいたといわれるビールの缶が 一つ置かれている。妻と死別した85歳の老詩人は、他の食べ物 は一切とらず、台所のテーブルに一人座って酒を飲み続けて、 三カ月足らずで亡くなったという。この話をしてくれたのは私 の妻だ。妻は詩人のその気持ちがよく分かるようだ。

「気恥ずかしい」台所

家父長制の伝統が残っていた20世紀の韓国において、台所

への男の考えを聞くのは珍しいことだった。それでも、台所に 関する思い出が全くない人は、珍しいだろう。幼い頃、私は 退屈だったりお腹が空いたりすると、よく台所の扉の前に立っ て、暗い台所をぐるりと見回した。その時、目に留まるのは、 中身を隠している唯一の家具である戸棚だ。その扉を開くと、 ゴマ油などよく分からない液体がこぼれて染みついた跡から、 すっぱくて塩っぽくて生臭い匂いが、入り混じって鼻をつい た。私はキョロキョロしながら、蜂蜜の壺から一匙すくって口 の中に放り込んだり、戸棚の隅にある母の財布に手をつけたり もした。 小学校の高学年になると、台所は素朴な労働の空間になっ 謙虚な名とは異なり、多くの韓国人は、彼こそ韓国近代文学に

た。ある日の夕方、かまどの焚き口の前にしゃがみこんで火を

おける最高の詩人だと称えている。

見つめていると、同じクラスの隣の席の女の子が突然現れ、台

その家の台所の片隅には、1978年に納めた防犯費の領収書

所の扉にもたれて私を見下ろしていた。1歳年下の妹と急に仲

が置かれている。そして、白いからむしの上着を着た夫婦が、

良くなったようだった。私は恥ずかしくて顔さえ上げられず、

夏のある日、まぶしい日差しに顔をしかめ、庭の石垣に並んで

煙を吸い込みながら台所の床にしゃがみこんで、微動だにしな

座っている1枚の写真が飾られている。詩人の妻パン・オクス

かった。昼ご飯の時間に青いヤマナシの実をくれたことに、あ

ン(方玉淑)氏の人柄を知るために、彼女が若い頃、ある新聞

りがとうの一言も言えなかった。

記事に載せたケジャン(たれに漬けたカニ料理)の作り方を紹 介しよう。

もう少し大きくなると、その低くて暗く湿った台所の床 で、火を焚く手を止めて、ラジオから流れる曲の歌詞を必死に

「チャムケジャンは、畦や川辺にいるチャムケ(チュウゴ

書き写したものだ。そう言えば、二十歳の冬に出家を決めて、

クモクズガニ)で作りますが、秋風が吹いて稲が実り始める頃

やっとの思いで訪れた五台山の上院寺で、老僧が凍った麺料理

になると身が詰まって、内臓が黒くなるので、さらにおいしく

をかき混ぜながら渡してくれたことがある。それを慌てて食べ

なります」。

たのも、僧侶ときこりの小屋として使われていた草堂の台所の

ミダンは生涯、数百編の詩を残したが、台所への思いを詩

縁側だった。私は、その台所でしばらくの間、火を焚き、寺の

に表すことはなかった。「浮気をしないようにと/妻が毎日、

人のために吸い物を作り、後片付けの合間を縫って、仏教の経

早朝から甕置き台まで汲んでくる/三千杯の冷水」を見て「私

典の代わりにキム・スヨン(金洙暎)の詩を読んでいた。

が先に天に登るその日に/私の息は妻の空の器に入れようか」 (『私の妻』より)と歌った彼としては、少し意外だ。 その物足りなさを満たしてくれるのが『詩論』という 詩だ。

「部屋二つと居間一つときれいな台所と愛しい妻を抱えて /見た目だけでも他の人と同じように生きていくことが、なぜ こんなにも気恥ずかしいのだろうか」(『雲の歩哨』より)

「海でアワビを採って売る済州の海女も/一番良いもの

このように漏らしたのは、真っすぐで鋭い男、キム・スヨ

は、あの人が来る日に採ってあげようと/海の岩についたまま

ン。韓国文学史において彼ほど自分の人生を完全にむき出し、

にしておく/詩のアワビも、一番良いものは、そのままにして

自らを観察し、率直に記録した詩人が他にいるだろうか。これ

おけ/全てを採って空しくなって、さまようのか/海にそのま

が私の出会った二十歳の頃の世界だ。 韓国の文化と芸術 23


特集 4

韓国の台所

24 KOREANA 秋号 2017


大地と海を抱く

済州海女の 台所 済州の伝統的な台所「チョンジ」では、かまど がないため土間で調理し、家族が集まって食事を した。朝鮮半島とは全く異なるこの島の台所文化 は、亜熱帯性気候の特性と共に、厳しい労働に耐 えてきた海女の人生が溶け込んでいる。 ホ・ヨンソン 許栄善、詩人 金味柱、李謙 写真

韓国の文化と芸術 25


年で89歳になる海女のオ・スンア(呉順児)さ

豚肉を入れて煮込んだスープ。済州では、めでたい日に食べた

ん。済州島の表善面で一人暮らしをしている

という。豚肉の脂が浮かんでいて、一口食べると、海と大地が

彼女の家は、海に向かう道沿いにある。スレ

中和し合った独特な味がする。ホンダワラと豚の背骨をじっく

ート屋根で、12坪ほどの一部屋。かつて子供たちが通っていた

り煮込んだ「モムクク(海草入り豚骨スープ)」は、産婦に良

駄菓子屋を思わせる造りだ。生涯、海と畑で仕事をしてきた女

いという料理で、これも済州でしか味わえない。「この生活に

性が、人生の黄昏時を過ごすには十分に思われる。

満足しているよ」と微笑む老海女にとって、床土間にしゃがみ

道路に面した扉を開けると、誰でも部屋に入ることができ る。流し台、冷蔵庫、居間兼板の間、ベッド、倉庫兼台所。構

こんで鉄釜に火を焚きつけた記憶は、遥か昔のように感じられ る様子だ。

造と構成を見ると、都会の若者が住むワンルームと大差はな

彼女の台所も、かつては広い土間だった。その当時、済州島

い。彼女は、この狭くて古い家をとても気に入っている。庭に

の台所は「チョンジ」と呼ばれていた。済州島の台所は、朝鮮半

通じる扉を開けると、結婚した息子夫婦や孫の住む家が、目の

島の台所とは大きく違っていた。最も大きな違いは、炊事と暖房

前に見える。子供たちの家庭菜園も、彼女が手入れしたおかげ

が別々になっていた点だ。かまどに火をつけて暖房するクルム

で、雑草一本生えていない。

ク(煙突の済州方言)と、釜をかけてご飯を炊くソットク(焚き

済州では親が高齢になると、結婚した子供に母屋(アンチ

口の両側に立てた石を意味する済州方言)は、それぞれ分かれて

ェ)を譲り、離れ(離れパカッチェ)に移り住んだ。そのた

いた。朝鮮時代に済州牧使として赴任したイ・ヒョンサン(李衡

め、済州の伝統的な家屋では、同じ敷地内に二間や三間の建物

祥)は『南宦博物』で「台所では、ただ釜をかけて火をくべる」

がある。居住空間が切り離されているため、親は子供と一緒に

と述べている。セメントのかまどを使い始めたのは、1970年代に

食事をしない。独立した空間で暮らし、炊事もする。この島の

住宅改良事業が行われた時期からだ。その頃から、部屋に炊事の

古い習慣だ。

熱を取り込むように構造を変える家が増えた。 また、1カ所で炊事と暖房を行った朝鮮半島では、台所が

一つの敷地に二つの家

アンパン(奥の間)のすぐ隣にあるが、済州島ではアンパンと

オ・スンアさんが、使い込まれたアルミ製の丸い膳を運ん

できた。流し台と冷蔵庫のある居間で、私たちは一緒に食事を した。彼女の冷蔵庫は、ウニやワカメなど様々な海の幸が詰ま った「海の冷蔵庫」だ。その日の汁物は、新鮮な生のワカメに

チョンジは離れている。これも違う点だといえる。

原始的で合理的な構造

オ・スンアさんも、嫁に行く前に実家の台所で、釜を五つ

もかけていた記憶がある。 「両側と後ろに石を置いて、釜をかけて火をつけると、三 つの隙間から炎が勢いよく上がってね。そうして炊いたご飯を 大きなアルミの器に盛って、家族みんなであわただしく食べた もんだよ」。 その当時は、どの家の庭を見ても、台所がすぐに目に留ま った。台所のそばにある「ムルパン」が目印になっていたから だ。ムルパンとは、平べったい石の台に丸い水瓶(ホボク)を 載せたものだ。チョンジから出ると、すぐに水を汲めるように するためだ。水道がなかった頃、女性にとって水瓶に入れる水 汲みは、大変な仕事だった。 「幼い頃は『テバジ』という小さな水瓶を担いで、湧き水 を汲みにいったものさ。テバジを担いでくると、母がその水を 水瓶に移してくれてね。帰ってくるときに割ってしまって、怒 られたりもしたもんだよ」。 木の障子戸を開けると、中から土の匂いが広がる。粘土を 押し固めた土の床は、スベスベになっていた。片隅には小さな 草ぼうきが置かれ、暇さえあれば、きれいに掃いていた。畑や 海での仕事から帰ってきた女性は、家に着くやいなや台所に入 って、土間に座布団を敷いて座り、焚き口に火をくべた。座布 団は、カヤを編んだ渦巻き状のものだ。 1 © Gloria Cho

26 KOREANA 秋号 2017

「祖父や父が座布団の編み方を知っていれば、作ってもら


1. 担いできた水瓶から、台所の横の 大きな甕に水を注ぐ海女

2. 済州民俗村に再現されている済州 の伝統的な家屋と甕置き場。台所の裏 手には、甕置き場と小さな菜園があ り、炊事をするのに便利だった。 3. 済州では、食器を保管する棚を 「サルレ」と呼ぶ。サルレの上には、 木の器や膳が載せられている。

2

3

えたけど、そうでなければ、木の椅子を作って座ったよ」。

ど、大きさによって用途も違った。土と石で造られた藁ぶきの

昔は、子供用の小さな物から大人用まで、家族の数に合わ

チョンジは、かまどの煙を外に出す小さな扉をつけることもあ

せて座布団を編んで、チョンジの土間に敷き、皆が輪になって

った。このように済州のチョンジの造りは、原始的ではあった

食事をした。チョンジの一方には、平べったい石の上に水瓶を

が合理的でもあった。

載せ、もう一方には食器を保管する棚「サルレ」を置いた。サ

「あの頃は、婦人病なんてなかったような気がするね。焚

ルレの木の扉を開くと、茶碗や皿など様々な用途の食器が整然

き口の前にしゃがみこんで火をつけると、その熱が体を暖めて

と並べられていた。食事を終えると、食器を持ってチョンジの

くれたし、殺菌もしてくれて…」。

裏手に出ていく。石を敷いた場所で洗い物をした後、サルレに 食器を戻す。

近所に住むコ・ボキ(高福姫)さんの話だ。

てその上に釜をかけるのは、どこも同じだった。鉄釜は、台所

熱くて涙が出る空間

の大きさによって三つか四つ、あるいは五つ使われた。大きな

止まらなかったのだ。12歳の娘も、火かき棒を握ってかまどに

釜では、お湯を沸かした。仕事から帰ってきて、体を洗うため

火をつける時は、燃え上がる焚き口の前にしゃがみこんで、じ

のお湯だ。スープを作る釜、ご飯を炊く釜、おかずを作る釜な

っと見つめているしかなかった。スイッチなどなく、焚き口か

済州は地域ごとに台所の造りが少しずつ違うが、石を置い

その昔、チョンジは熱くて涙の出る場所だった。煙で涙が

韓国の文化と芸術 27


ら見える炎の感覚だけで調節するしかなかった。枯れた葉や薪 などで火加減を調節するのだが、その要領が分からない幼い娘 には、決して簡単ではなかった。

(庫房)もあった。 薪が切れないように用意しておくのも、大変な仕事だっ た。牛が食べ残したまぐさも薪にした。松の葉や麦藁などを集

「一番難しい料理は、豆のスープやお粥だね。吹きこぼれ

めてきて、枯れた枝などと一緒に、チョンジの隅に積み上げて

ないように注意しないといけないから。よそ見をしていると、

おいた。その中でも、麦藁がよく燃えた。しかし、釜の下に煤

みんな溢れてしまう。その熱い吹きこぼれで火傷でもしようも

がこびりつくので、毎回、丁寧に拭く必要があった。そのまま

のなら、もう大変。料理を始めると、野菜を入れたり、塩を少

にしておくと、怠け者と言われた。そのため、集めておいた豚

し振ったりして…」。

の油で釜蓋をピカピカに磨いた。丁寧に磨かれた釜が、整然と

済州の伝統的な料理といえる豆のスープやお粥は、難易度

並べられているチョンジ。それは、女性の勤勉さを象徴してい

が高い。そのため、母は味噌を取りに行く前に、料理がまずく

た。優しい夫なら、時には重い釜蓋を磨いてくれることもあっ

ならないか心配で、かまどの中をかき混ぜすぎないように、幼

たが、基本的に女性の仕事だった。

い娘に念を押したものだ。

ソットクに火をくべる際、気になるのは灰だ。薪に火をつ

チョンジの裏手には、甕置き場と小さな菜園があり、料理

けるたびに、灰をかまどの後ろに押しのけるため、灰が積もっ

をしながら味噌や醤油を取ってきたり、野菜を摘んでくるのに

てしまう。その灰を「プルチ」と呼んだ。その灰も、捨てるも

便利だった。また、台所のそばには、穀物用の甕を置くコパン

のではなかった。釜を載せるソットクと壁の間に50~60㎝ほど

28 KOREANA 秋号 2017


そのチョンジで支度した釜炊きのご飯 は、ただのご飯ではなかった。燃え上 がる炎の前で、涙とため息をもらす母 の料理だった。母の涙とため息で炊き 上げた芳ばしい麦飯の香りが、庭を満 たして空腹も満たした。

かまどのある朝鮮半島の台所とは違い、両側と後ろに石 を置いて釜を載せた。火にかけられる釜は、それぞれ用 途が異なる。

の隙間を設け、そこに灰が積もると「プルチ桶」にためておい

息で炊き上げた芳ばしい麦飯の香りが、庭を満たして空腹も満

て、畑の肥料にしたのだ。

たした。

「灰を畑の肥料にすると、作物がよく育ってくれてね」。

今の感覚からすれば、昔の済州のチョンジは、不便に感じ

灰も農作物の肥料として利用していたわけだ。ある村で

るかもしれない。しかし、最も自然と向き合っていた済州の食

は、灰にソバの種を混ぜて畑に蒔くこともあった。細く掘っ

文化の空間でもあった。一つの釜で炊いたご飯を分け合った

た畝に少しずつ蒔いて、木の枝を結った道具で土の上を一掃

家族の空間であり、愛情溢れる空間であり、温もりの空間でも

きする。すると、土がしっかりと被さり、たくさんのソバが

あった。その済州の台所、海女の台所は、今や立って炊事をす

なった。

る現代的な構造になっている。流し台の横には、ガスレンジが

不便でも温かい思い出

鎮座している。文明は、そうして懐かしのチョンジを消し去

済州のチョンジは、マルパン(板の間)のようにならされ

った。燃え上がる焚き口の炎を見つめる海女のオ・スンアさん も、若い頃の記憶は遥か遠くにあるようだ。

た土間で料理をする場所だった。その土間にしゃがみこんで炎

今では民俗村でしか見られない済州のチョンジ。大きな森

で体を暖め、残った灰は穀物の肥料にした。そのチョンジで支

から風が通り抜け、ソットクの前にしゃがみこんでいる女性の

度した釜炊きのご飯は、ただのご飯ではなかった。燃え上がる

額をそっとなでていく。そんな自然の台所は、大地の恵みと海

炎の前で、涙とため息をもらす母の料理だった。母の涙とため

の幸を抱く空間だったのだ。 韓国の文化と芸術 29


特集 5

韓国の台所

未来の台所 未来の台所は、先端技術によって、この上なく便利になると予想される。調理の時間と手間 が大きく減り、最小のコストとエネルギーでより新鮮なものが食べられるようになるだろう。 何よりも期待できるのは、家族がコミュニケーションを取りながら楽しい生活を送るエ ンターテインメント空間になるという点だ。 キム・ジヒョン 金知賢、ITテクニカルライター

をあわただしく行き交い、台所で家事をする

利便性を最大限に引き出す三つの技術

姿を見てきたのは、40年ほど前からだ。その姿

(AI)、スマートホーム・プラットフォームなど現在、注目さ

は、今も大きく変わっていない。妻の事情も同じだ。台所に食

れている最新のIT技術を基に大きく変化すると予想される。

親が冷蔵庫、ガスレンジ、流し台、食卓の間

未来の台所は、モノのインターネット(IoT)、人工知能

器洗い機や電磁調理器が追加されただけで、調理時間が短くな

最近は音声だけで家電機器を操作できるようになった。し

ったわけでもない。変化があるとすれば、母の動きが以前より

かし、それを可能にするためには、前提条件が必要だ。家電機

遅くなり、妻の動きが少し速くなったくらいだ。

器がインターネットに繋がっていなければならない。つまり、

これから10年、20年後の未来の台所は、依然として今と同

モノのインターネットだ。これまでインターネットに繋がる物

じような姿なのだろうか。おそらく、そうではないだろう。中

は、パソコン、スマートフォン、タブレットくらいだったが、

国の古典から先賢の名言を集めた『明心宝鑑』には「未来を知

今後10年間でより多くの物がインターネットに繋がるとみられ

りたいなら、まず過去を振り返らなければならない」という一

る。冷蔵庫はもちろん、窓や鏡など予想もできなかった物まで

節が出てくる。未来の台所がどんな形をしているか予想するヒ

インターネットに繋がる驚くべき世界が、目の前に広がろうと

ントは、既にいくつもある。

しているのだ。

30 KOREANA 秋号 2017


未来の台所では、ガスレン ジ、調理台、食卓の機能が一 つになったスマートテーブル が使われると予想される。 © Nefs

韓国の文化と芸術 31


冷蔵庫をはじめとする台所の機器が、モノのインターネット(IoT)で繋がり、 無数のデータを生み出す。人工知能(AI)も搭載され、様々な作業が行えるよ うになる。

モノのインターネットの中核は、単に物がインターネット

く、調理道具まで音声で操作できるようになるだろう。

に繋がる「状態」にあるわけでなく、インターネットに繋がっ

スマートホーム・プラットフォームは、家の中のほとんど

た物が無数の「データ」を生み出す点にある。例えば、冷蔵庫

の機器が人工知能と繋がって作動するシステムを指す。はるか

がインターネットに繋がれば、毎月の使用電力量をはじめ、冷

遠い未来の話だと思うかもしれないが、スマートホーム・プラ

蔵庫の中にある食材の種類や状態がデータとして保存される。

ットフォームの主な技術はすでに完成しており、遠からず現実

それらのデータはメール、ブログ、フェイスブックなどにも送

のものになるだろう。ピザやチーズなどを手軽に作れる3Dプ

られ、必要なサービスに合わせて利用される。

リンターも、既に開発されているくらいだ。

人工知能は、音声やテキストでコンピューターに命令をす ようにサポートしてくれる。人工知能を用いたサービスは、キ

変化する台所のインテリア

ーボードやマウスでパソコンに命令するのとは全く違う。話す

が1926年に登場し、ようやく台所は流し台、調理空間、食材の

だけで、必要な情報やサービスが得られるからだ。今のところ

保存空間、調理道具の保管空間などで構成された現在のような

簡単な命令に過ぎないが、これからは台所の家電機器だけでな

姿になった。ほぼ1世紀の間、変わることのなかった台所の構

ると、まるで秘書のように指示を理解し、その命令が行われる

32 KOREANA 秋号 2017

現代的な台所の原型である「フランクフルト・キッチン」


© LG Electronics

造は今後、大きな変化に直面するだろう。今までは料理を作る

現在のように食卓に料理の本を開いたまま、行ったり来たりし

調理台やガスレンジ、食卓などが、それぞれ別々になっていた

ながら調理する必要はない。

が、今後は全てが一つのスマートテーブルに統合されると考え

台所のインテリアの中で大きく変化するのは、テーブルに

られる。そして、ロボットや3Dプリンターのような新たなハ

とどまらない。台所で最も広いスペースを占めている冷蔵庫

ードウェアが、台所に置かれるかもしれない。

が、今より小さくなり、棚の機能が広がると予想される。ネッ

スウェーデンの家具量販店イケア(IKEA)とアメリカのデ

トショッピングがさらに便利になって、食材が希望する時間に

ザインコンサルティング会社アイディオ(IDEO)が共同で考案

ドローンで配達されれば、冷蔵庫に長期間保存する必要がない

した2025年の台所を見ると、実にもっともらしく思える。カメ

からだ。棚には食材を新鮮に保存できるように温度センサーが

ラ、コイル、ディスプレーが内蔵されたテーブルに食材を置く

あり、冷蔵庫の役割の一部を担うようになるだろう。

と、材料が自動的に認識される。そしてレシピに合わせて、そ

実際に、冷蔵庫の片隅や野菜室で食材が傷んでしまうこ

れぞれの材料をどのように下ごしらえし、どれくらいの量を使

とは、かなり多い。棚に食材を保存すれば、どんな材料があ

うのか教えてくれる。テーブルの上に表示される情報に従って

るのか一目で確認でき、生ごみも減らすことができる。生ご

料理すれば、あっという間においしそうな料理ができあがる。

みはディスポーザー(粉砕機)で処理され、料理や食器洗い 韓国の文化と芸術 33


ほぼ1世紀の間、変わるこ とのなかった台所の構造は 今後、大きな変化に直面す るだろう。今までは料理を 作る調理台やガスレンジ、 食卓などが、それぞれ別々 になっていたが、今後は全 てが一つのスマートテーブ ルに統合されると考えられ る。そして、ロボットや3 Dプリンターのような新た なハードウェアが、台所に 置かれるかもしれない。

先端技術によって台所 が多目的空間になれ ば、家族がより多くの 時間を一緒にすごせる だろう。

機で使われた水はリサイクルできるように分別されれば、最 も望ましい。 また、人工太陽光によるホーム・ファームがあれば、よく 食べる野菜は買わなくても育てて食べることができる。もちろ ん、今でもマンションのベランダでレタスやトウガラシなど簡 単に栽培できる野菜を育てている人も多いが、ホーム・ファー ムは効率をいっそう高めてくれる。台所がベランダの役割まで してくれるのだ。このように台所のインテリアと構造が変われ ば、それに伴う経験も変わってくる。

楽しい多目的空間へ

基本的に台所は調理したり、食べたりする空間だ。しかし

未来の台所は、概念が新たに定義されるだろう。様々な技術革 34 KOREANA 秋号 2017


新によって調理時間は最小限に圧縮され、家族そろって食事を

ソコンとしても利用できる。もし、食事の時に家族旅行の話が

しながらコミュニケーションを楽しむことに、より多くの時間

出たとしよう。今だったら食事が終わった後、パソコンのある

を費やせるようになるからだ。

子供の部屋に行って情報を調べたり、スマートフォンで検索す

さらに、バーチャルリアリティー(仮想現実)デバイス

るだろう。だが未来には、テーブルのディスプレーを使って、

も、台所の変身に一役を買うものと予想される。メガネ型デバ

その場で検索できるようになる。また、このディスプレーで一

イスをかけると、台所の至る所に大きな仮想ディスプレーが現

緒に映画を見たり、ゲームをすることもできる。

れる。それを通じて、冷蔵庫の中の食材リスト、収納家具の中

韓国の伝統的な家族は大家族だったが、近世以降、徐々に

の食器リストなどが確認できる。大事にしていた食器が割れた

核家族へと変わってきた。今では、家族が顔を合わせることも

時、どうしてもブランド名を思い出せず、同じ製品が買えない

難しくなっている。未来の台所が楽しい多目的空間になれば、

ことはなくなるはずだ。また、電子レンジや食器洗い機の進み

薄らいだ家族関係が回復し、たくさんの会話が交わされるので

具合や、皿に盛りつけられた料理のカロリーなども、バーチャ

はないだろうか。技術の発展がもたらす未来の台所は、もはや

ルリアリティー・デバイスでいつでも確認できる。

母と妻だけのものではない。家族がコミュニケーションを取り

スマートテーブルは、調理しない時には子供の遊び場やパ

ながら楽しい時間を送る皆の空間になるのだ。 韓国の文化と芸術 35


フォーカス

都心の空中散歩道 1970年に竣工したソウル駅の高架道路は、ソウル駅周辺の交通の流れを東西に連結して、高度 成長の象徴として機能してきた。それが市民の散歩路として都心の樹木園を標榜した「ソウル路 7017」に生まれ変わった。5月20日にオープンして以来、ソウルのニュースポットとして注目を 集めているが、都市再生のための公共建築物なのに、社会的合意が十分行われなかったという批 判の声も依然として聞こえてくる。 ハン・ウンジュ 韓銀珠、建築家、ソフトアキテクチャラップ代表 河志權 写真

36 KOREANA 秋号 2017


韓国の文化と芸術 37


谷が深く有名な景勝地の山々には、クルムタ

イムにも大きな変化が生じ始め、都市の構造と空間に対する新

リ(雲橋、吊り橋)がかかっていることが多

たな価値観が台頭してきた。さらに、高架道路は交通の流れに

い。これは一般的に地形の限界を克服して登

寄与する効果がさほど大きくないという研究結果が続々と発表

山客の動線をつなぎ、景色を鑑賞するのを目的として設置され

された。何よりも近隣地域がスラム化するという社会問題によ

る。クルムタリは山のリズムに従うしかなかった身体的運動方

り、高架道路の有用性に対する批判的な見解が巻き起こり、視

式から、大自然の雄大な眺望を可能にしたという点で非常に重

覚の転換が要求された。それに高架道路と隣接する建物の劣悪

要な構造物だ。

な環境は、実は交通量による騒音よりは空間的な疎外に起因す

この詩的な装置があるのは山の上だけではない。高層ビル の作り出す都心の摩天楼の渓谷をつなぎ、都市の流れに活気を

ることも明らかになった。

道路が、歩行者のための憩いの空間に生まれ変わった「ソウル

車から人に

路7017」もそんなケースの一つだ。

な世紀に入ると高架下の日陰の空間に向き始める。さらに2000

与えるクルムタリもある。交通インフラとして使用されていた

高架道路の機能面にのみ集中していた社会的関心が、新た

もちろん人々は以前から、バスや乗用車に乗ってソウル駅 の高架道路の上を通り過ぎるときに、歩行者の視線では経験で きないような高さから都市の景観を鑑賞する機会を少なからず 享受していた。しかし今では「ソウル路7017」歩道をのんびり と歩きながら、都市風景を眺める余裕を満喫できるようにな り、大きな鉢に植えられた木々の間を散歩する自由を得た。ソ ウル駅を通過する線路を見下ろしながら、まるで雲の上を散歩 しているかように都市の上を逍遥するのは、想像しただけでも 楽しくなる。これが「ソウル路7017」の空間シナリオだ。

公共空間のパラダイムの変化

既存のソウル駅高架道路は、都心深くに入り込んでいる鉄

道路線により断絶された周辺地域をつなぎ、都心の交通の流れ をスムーズにすることを目的に、南大門路5街から萬里洞まで のおよそ1.15km区間に建設された。その後ここはソウル駅と南 大門市場および明洞一帯を結び、ソウル心臓部の円滑な車両通 行に寄与する施設として、急速に産業化した都市の組織細胞に 酸素を供給する動脈の役割を果たしてきた。 しかし2000年代になり、施設の老朽化により撤去か再建築 かという論議が始まった。2014年周辺の商人や地域住民の様々 な意見があるにもかかわらず、ソウル市は道路機能の代わりに 都心公園として再活用するという独自の決定をくだした。以 降、ソウル駅高架道路の公園化事業は国際公募を経て急速に進 行した。 高架道路は一時、産業化した都市発展のシンボルだった。 1970年代以降、韓国は都市の中産層の増加と乗用車の普及率の 上昇により、平日の都心の交通量が急速に増えていった。交通 当局はこのような現象に対処するための政策の一環として、都 心の主要交差点を立体化し始めた。当時高架道路の建設は交通 量の解消と共に、建設技術力に対する社会的な認知のようなも のでもあり、産業化の尺度とみなされた。高層ビルの間を走る 高架道路は発展する先端都市のイメージと重なり、都市の未来 を楽観的に示す時代的なシンボルとなり、ソウル市だけでも 100箇所余りが建設された。 しかし21世紀に入ると、生活様式が変わり産業化のパラダ 38 KOREANA 秋号 2017

交通インフラを公共空 間に再生させた「ソウ ル路7017」で市民が 都心での休息を満喫し ている。


年代の初めから吹き始めた不動産景気の好況に伴い、低評価さ

する。さらに、撤去を通じて周辺地域の空間的な疎外と落伍

れていた地域を再開発しようという動きが活発になり、撤去優

が解消され、バランスのとれた都市空間を実現させただけでは

勢論が力を持ち始めた。これにより2002年、東大門区のトクジ

なく、既存の構造物を都心に必要な用途に転換して活用するこ

ョン高架道路を皮切りに、高架道路撤去に対する論議と実行が

とになったのは、一段階進化した形態だ。京釜線のソウル終着

活発に突き進み、現在ソウル市の高架道路のおよそ30%が撤去

点の線路をまたがる1km以上の距離に造成された空中都心公園

された。代表的なケースが1971年に開通した清渓高架道路だ。

も、歩行者に散歩の楽しみを与えるだろうという期待は当然の

ソウルの中心地区を貫通する幹線道路としての役割を長い間果

ことだった。ソウル市が企画の最初の段階で明らかにしたよう

たしてきたが、2003年に撤去された。その結果、まるで病に侵

に、ニューヨークの「ハイライン」にアイデアを得たこのプロ

されていたような都市の細胞組織が蘇り、周辺の道路には人々

ジェクトは、老朽化した都心のインフラを「車よりも人」が主

が集まり、活気に満ち溢れはじめた。

人だという時代の流れに合わせて再生したという点で、明らか

このようにソウル駅の高架道路の変身は、巨視的な側面か ら出来上がった都市空間に対する社会的な合意と流れを同じく

に歓迎される。 1970年に誕生し、2017年に17箇所の歩道とつながれ、新た

韓国の文化と芸術 39


1

な、道に生まれ変わった「ソウル路7017」の最も大きな魅力

行路となり、ソウルの代表的な名所となるだろう。

は、ソウル駅と南大門、明洞、南山など市内の主要観光地をつ らは見ることのできなかったソウル都心の風景をのんびりと楽

社会的合意が不十分だった過程

しむことができる。さらに漢陽都城へと続く道を行けば、600

のために必要だと感じる南大門市場の商人たちも少なくない。

年古都ソウルの歴史まで体験できる。

オープンを前に問題となっていた一部の造形物に対する酷評や

なぐ求心点だということだ。ショッピングはもちろん高架下か

しかし一方では、未だにこの高架道路が交通の円滑な流れ

オープン以来、夜間歩道の青いライトアップが幻想的だと

サービス施設の不備の問題点など、実はこのプロジェクトが市

いう人や、トランポリンの器具やミニショップなど、歩行者の

民の意見を十分に汲み取る過程を経ずに、慌ただしく進行し急

ためのさまざまな施設と装置に好感を抱いた人もいた。直接歩

いだ結果だ。

いた人々は、ソウル都心に歩きたくなるような道ができたとい

実は人々がこのプロジェクトで注目したのは、コンクリー

う点に拍手を送った。特に「空中樹木園」というコンセプトの

トの植木鉢の形やそこに植えられた木々の種類ではない。批判

もとに植えられた228種2万4000株余りの樹木が視界を明るく

であれ、賛成であれ、都心に公共建築物が出来るときに巻き起

し、涼しい木陰を作っている。このプロジェクトを担当したオ

こるさまざまな意見の骨子は、結局「社会的協議の過程は十分

ランダの建築スタジオMVRDVの見解のように、この多くの木々

だったか」ということだ。従って「ソウル路7017」の造成過程

が根を張り、枝葉を伸ばし、時間の流れとともにより美しい歩

で、行政便宜主義やあるいは明らかになっていない政治的な意

40 KOREANA 秋号 2017


京釜線(ソウル駅-プサン駅 を結ぶ鉄道路線)のソウル 終着駅の線路をまたぐ1km 余りの距離に造成された空 中都心公園が、歩行者に散 歩の楽しみをもたらすだろ うという期待は、当然のこ とだった。ソウル市が企画 の最初の段階で明らかにし たように、ニューヨークの 「ハイライン」にアイデア を得たこのプロジェクトは、 老朽化した都心のインフラを、 車よりも人が主人だという時 代の流れに合わせて再生した という点で、明らかに歓迎さ れるものであった。 2

図で、性急に決定されたという問題はなかったか。また国際公 募という手続きを利用して安易にプロジェクトの権威を高め、 広報効果を得ようとしたのではなかったかに対する検証と反省 が必要だ。この点は、今後も進行する都市建築の過程で必ず念 頭に置かなければならない事案だ。

1. ソウル駅近くのコーヒーショップの窓越しに「ソウル 路7017」が見える。「ソウル路7017」ができてから周囲 の建物の窓辺の風景も変わった。 2. ネイバー文化財団が運営する「ハロー!アーティスト ソウル路展示館」で、家族が李宇城の「ハローキス展」 を見ている。

歴史を振り返ってみると、建築プロジェクトは視覚的な効 果のせいで政治的な宣伝によく利用されてきた。しかし個人を 尊重する社会的意識が高まるにつれ、逆説的に公共性により大 きな役割が与えられる。私的な空間に対するさまざまな欲求が 公共の空間にまで延長されているからだ。従って現代都市での 公共空間の企画・具現化において大切なのは、どんな社会的合

ことから始まる。

意をどのように引き出したかである。都市の建築プロジェクト

オープン以来、数カ月か過ぎた「ソウル路7017」は、その

は単純な視覚的な成功を越え、市民のさまざまな意見で形成さ

間に枝葉を伸ばした木々により新たな空間をつくりだしてい

れた社会的観点の渓谷につり橋をかけるのと同じようなもの

た。樹木が根を張り育つほどに、この歩道を歩く人々の愛着も

だ。その過程は毎回、公共の根源的な意味と価値の追求を促す

根付くものと期待される。 韓国の文化と芸術 41


文化遺産の継承者

人生を 映し出す

チャングの音色

6歳でチャング(杖鼓)を始めたというイ・ブサン(李部山)さんは、農楽の拍子に踊りのリ ズムを加え、全羅道と慶尚道の伝統を反映させた彼独特の音色を作り出した。60年近い歳月 をひたすらチャングと共に生きてきた名人の人生は、今も昔もチャング一筋だ カン・シンジェ 姜信哉、フリーライター 安洪範 写真

42 KOREANA 秋号 2017


鼓)を肩にかけて父の部屋に入って来た客た

踊りの拍子を身につける

ちは、父の前で必ずチャングを叩いた。朝日

月を経て、父のものと思われたチャングがだんだんと彼に近づ

と共に押し寄せてくるチャングの響きの中で目覚めた少年は、

いてきた。ソルチャングの名人に名を連ねるイ・ブサンさんの

文字よりも先に拍子を覚えた。

舞台は、その歩んできた歳月がそのまま反映した舞台だ。

年の家にはいつも客がいた。チャング(杖

少年イ・ブサンの黒かった髪の毛が真っ白になるまでの歳

音だけ聞いて知っていたチャングという楽器を初めて手に

公演が始まると彼はチャングを肩にかけて舞台に上がり、

し、身体で初めて体験したのが1961年、少年が6歳になった年

両手の撥を動かしてチャングを鳴らし始めた。互いに違う高さ

だった。頭の中でぐるぐる回る拍子を自分でも知らないうちに

をもつチャングの二つの面からは、低く厚い音と高く澄んだ音

打っていたとき、父はそれを聞いていた。当時、全羅北道無形

が交差し広がった。彼の足は拍子に合わせて動き、片手がチャ

文化財第7-3号、湖南右道金堤農楽保有者で「人間文化財」

ングを叩く間に、もう片方の手は撥を回したり握ったりして興

だった父は、じっと立ち尽くして聞いていた。

を増す。両手の動きはチャングの音が作り出す二つの音の動き

父と息子のチャング演奏

でもあった。そしてそれは、これまで見てきた他のチャング演

その当時、チャングは単なる「楽器」ではなかった。村に

「1973年のことでした。釜山での公演に、韓国舞踊界の大

一つ有るか無いかの白黒テレビから流れる連続ドラマを遠くか

家、イ・メバン(李梅芳)先生が、キム・ジンホン(金眞弘)

ら見るのが唯一の娯楽だった時代に、チャング(杖鼓)、ケン

先生、イ・ドグン(李道根)先生と一緒に来られて、私の公演

ガリ(小金、小さい鉦)、テピョンソ(太平簫、チャルメラ)

をご覧になりました。ご覧になって、『いいねえ、舞踊家もソ

などの楽器と踊りが豊かに組み合わさった農楽団の公演は、庶

ルチャングを習うべきだ』とおっしゃいました。それで私が舞

民にとって大きな喜びだった。

踊家の皆さんにチャングを教えるようになったんです。ずっと

奏者の動きとは明らかに違うものだった。

大衆にとって遊戯の対象だったチャングは、農楽団員にと

農楽だけをやっててきた私が、そこで舞踊の拍子を知ることに

っては生活の手段だった。3食食べるのに必死だった貧しい時

なりました。僧舞の拍子もしましたし、サルプリ舞の拍子もし

代に、チャングを演奏すればご飯にありつけた。「ソルチャン

ましたし、太平舞の拍子もしました....。同じクッコリの拍子

グ」と呼ばれるソロ演奏を披露すれば、観客は息を詰めて魅入

をとるのでも農楽のクッコリと舞踊のクッコリは違いますか

り、演奏者の腰は観客の差し込むおひねりの紙幣がいっぱいに

ら…」。

なった。貧しさに押しつぶされそうな民衆は、それぞれの事情 を抱えて農楽団に加わり、全国を流浪しながら奇芸を披露し、 そのひもじい腹を充たした。

トップクラスの舞踊手たちが繰り広げる踊りの振りの中で 生きていた時代に、彼はこんなことを悟る。 「民俗楽には楽譜がありません。定められた時間の中で好

そのお金の喜びと悲しみをすべて知っている父は、テグム

きなようにチャンダン(長短:独特の拍子)を伸ばすことも縮

(大笒、横笛)、アジェン(牙琴)、ソゴ(小鼓)のどれも嫌

めることもできます。それは経験から生まれるものです。それ

だと突っぱねた息子がチャングにだけは没頭するのを見て、そ

でソルチャングの粋は口で教えることができない、本人が肌で

のまま見過ごすわけにもいかなかった。父は息子の手を握り、

直接感じるものなんです」。

二人は砂の土俵の上にチャングを2台置き、向かい合って座っ

そんな時期を過ごす間にも、「チャング」という単語の隣

た。その日は農楽団がシルム(韓国相撲)の競技に興を添える

に彼の名前三文字が並ぶことが多かった。農楽の大きな大会で

日だった。砂埃の舞う土俵の上には、幼いチャングの音とそれ

も開かれようものなら、主催者側はイ・ブサンさんを参加さ

を包み込む大きく温かなチャングの音が流れた。それはイ・ブ

せるために必死になった。それは全羅道と慶尚道の間の深い感

サンさんがチャングの演奏者として生きてきた59年間、一度も

情の溝を越えて、全羅道金堤出身の彼が慶尚道普州三千浦農楽

忘れたことのない音色だった。

を伝授するチャングチェビ(重要無形文化財第11-1号 普州 三千浦農楽伝授助教)になるほどだったからだ。 「幼い頃に学んだ湖南右道農楽は、華やかながらものんび りしていましたが、普州三千浦農楽は、線の太い力強いもので した。周りの話によれば、私のソルチャングには二つのスタ イルが溶け込んでいるそうです。変わった履歴のせいでしょ う」。

ソルチャングの名人イ・ブサンさんが両手 でチャング(杖鼓)を持ち、軽快に演奏し ている。ソルチャングは演奏者がその演奏 ぶりを披露するものだ。

皮によって違ってくる音色の変化

彼の音色が気になった。彼が作り出すチャングの音色のル

ーツはどこにあるのか。 韓国の文化と芸術 43


「民俗楽は楽譜がありません。定められた時間の中で好きなようにチャンダン(長 短:独特の拍子)を伸ばすことも縮めることもできます。それは経験から生まれ るものです。それでソルチャングの粋は口で教えることができない、本人が肌で 直接感じるものなんです」

「私の故郷の金堤は平野が発達しているところです。平和 だった農村の姿が音楽にそのまま現れています。つまりオンド

は見たことがありません」という彼の話は留まるところを知 らない。

ルの床の上に大豆をばら撒く音、枯葉ににわか雨があたる音

「左手に握る撥は竹の根で作ります。かといってどんな根

までチャングで表現します。私はそんな静かで穏やかな音まで

でも使えるわけではありません。崖を見るとまっすぐに飛び出

表現します。チャング演奏者はそれぞれ自分の音色をもってい

している根があります。それを塩水につけてヤニを除いて使い

て、それらは声音と同じようなものです。このチャングを打

ました。その中でも節が一定で整ったものを選ばなくてはなり

っても、あのチャングを打っても同じような音色が出るんで

ません」。

す」。

楽器を自分に合わせることができるというのは、楽器を完

だからといってすべてのチャングが繊細な音を表現できる

全に掌握したという意味でもある。だからだろうか、彼に有名

というわけではなかった。彼は皮の話を始めた。撥で叩くチャ

な楽器職人が作ったチャングは使わないのかという質問をし

ングの胴の両面は皮できており、その皮の種類と状態によって

たところ、彼はそんな必要はないと断言した。自分の求める音

チャングの音色が変わってくる。

を具現できるチャングは、どこででも見つけることができるか

「静かな音を効果的に表現するには、皮は薄くなくてはな りません。一般の牛革は厚くて私には合いません。牛革は雅楽

ら。そしてそれを自分に合わせて手を加えればよいからだ。

グにはほとんど使いません。私のチャングはドイツから輸入し

まっすぐな心が良い音を作りだす

た子牛の皮で製作しています。音が柔らかいんです」。

題になっていく。

や民謡の拍子をとるチャングには使いますが、風物用のチャン

彼に実力と楽器についてたずねても、話はまたもや心の問

彼が小さい頃には犬の皮を剥いで塩水に漬けている風景を

「鋭い人々はチャングを叩いても鋭い音がしますし、のん

よく目にした。1、2カ月の間そのようにしておき、毛をきれ

びりした人は柔らかい音を出します。音を聞いただけでその人

いに抜いたあと、釘を打って皮を伸ばした。そしてそれは父の

自身が見えてきます」。

チャングに張られて音をだした。農楽というのは文字通り、農

チャング演奏者の人柄は、何人もの演奏者が一緒に演奏

業の現場の喜怒哀楽とともにあった民衆音楽であり、庶民は辛

する舞台の上で最もよく表れるという。「トゥレペサムルノ

い労働の合間にせめて音楽からでもささやかな慰労を得ようと

リ」の旗揚げメンバーとして国内外公演を数千回行ってきた

直接楽器を作った。それで村で育てていた犬はチャングの皮と

彼が、ケンガリ、チャング、チン、プク(太鼓)の4つのリ

なり、裏山の桐の木はチャングの胴体になった。

ズム楽器が一緒になって演奏するサムルノリでのチャングに

そんな時代、人生と音楽が自ら楽器を作り、叩く人間の身

ついて語る。

体を通して一つになった。農業のかたわら桐の木を選んで切り

「プク(太鼓)が拍子をとると言いますが、しかし拍子が

倒し、中をくり抜くために汗を流し、好きな音を思い描きなが

早くなったり遅くなったりして何かしっくりこないときに、チ

ら自ら準備した皮を薄くあるいは厚く整えた。そのように丁寧

ャングで中心をピタッと合わせてやると他の楽器がそれについ

に心を込めて準備した過程があり、擦り切れてしまった皮を縫

てきます。昔は分かりませんでしたが、年々やっていくうちに

い合わせ、叩くたびに変化する音を探っていった細かな心づか

チャングがきちんと支えてやれば、4つの楽器の演奏が無理な

いもあった。あれは何だったのだろうか。それほどまでに正直

く流れていくことが分かりました」。

な生活の音に、いったいどこで出会えるのだろうか。 「直接削って作った幼い頃の、あのチャング以上の楽器 44 KOREANA 秋号 2017

彼の話を隣で聞いていた弟子のクウォン・ジュンソン(権 俊成)さんが付け加えた。


京畿道水原市にあるアパート 団地で公演を行い、子供たち がソルチャングのリズムに合 わせて踊りを踊っている。

「チャングの音にチャング演奏者の性格が溶け込むよう に、サムルノリの公演では先生の配慮がそのままにじみ出てき

初めてだと言ってとても嬉しそうでした。それが実に私も嬉し かったです」。

ます。荒々しく飛び出して行く楽器を受け止めてやったり、流

昔のことを思い出した彼が写真撮影のために服を着替えな

れをリードしながら中心をとったりします。実力と人格が兼ね

がらパンフレットをそっと差し出した。衣装と帽子を身に付け

備わってこそ可能なことです」。

た彼が、チャングを演奏している写真だった。よく撮れてい

弟子の話に恥ずかしそうな顔をしていた彼が言った。経歴

るでしょう?と、繰り返し同意を求めた彼が言うことには、こ

が10年であれ、50年であれ、公演30分前に到着し衣装を整えて

れが自分の背中にもあるという。人生をかけたこの道を死ぬま

待機しているのが自分たちの道理だと。どんなに素晴らしい芸

で一筋に生きていきたいので、その気持ちを身体に彫ったとい

術を成し遂げたとしても人間としてきちんとしていることのほ

う。果たして背中にはその思いがそのまま投影されており、そ

うが先だと言う。彼に最も記憶に残っている舞台を挙げてもら

の横には「杖地一打」という漢字語が見えた。「チャングを背

ったところ、彼らしい答えが返ってきた。

負ってどこの地でも一生打楽をする」という気持ちで自ら作っ

「アメリカ11州を巡回公演したときのことです。ホテルの

た言葉だという。

部屋を掃除してくれた夫婦が東洋人でした。彼らは私たちが話

「一人で背負い、一人で行くという意味」だと笑う彼の前

をしているのを聞いても何も言いませんでした。それが数日後

で、それ以上チャングについて尋ねることはしなかった。そし

に、彼らが韓国語で話しているではありませんか。自分たちの

てチャングの演奏のために、毎日のように身体を鍛錬するとい

身の上が恥ずかしくて韓国人だと言えなかったようなんです。

う彼の言葉をかみ締めた。背中の鮮やかな刺青は、身体を鍛え

私は言いました。そんなことを考えるなと。私たちはどこにい

るたびに鮮明になるほかないということ、それでさらに堂々と

ても同じ韓民族なんだと。それで公演のチケットを差し上げま

輝くイ・ブサンさんの意志がチャングの向こうにかいま見える

した。夫婦でずっと苦労してきたので、こんな公演を見るのも

ようだ。 韓国の文化と芸術 45


二つの韓国

様々な奉仕活動で

統一を準備する 統一部によれば、2017年現在、韓国に入国した脱北者は3万人に達するという。韓国社会の人道的な 支援を受けて新たな生活を始めている脱北者の中には、自ら奉仕団体や社会的企業を立ち上げ『受け る』立場ではなく『支援者』 として活動する人々もいる。彼らを通じて真の社会統合と統一への種が 芽吹いている。 キム・ハクスン 金学淳、ジャーナリスト、高麗大学校メディア学部招聘教授 安洪範 写真

脱北者の大学生が中心 となり活動しているユ ニシード奉仕団のメン バーが、ソウル駅近く でホームレスの人々に 弁当を配っている。

46 KOREANA 秋号 2017


々は脱北者が、一方的に助けを受けるだけの

ったのだ。そのことから奉仕団員たちは「助けは一方的に与え

存在だと思っている。新しい環境に定着する

るのではなく、相手の望んでいるものを与えるべきだ」という

のに必死でそんな余裕は無いだろうという固

教訓を得た。ホームレスの人たちにとって、どんなに高価な珍

定観念のせいだ。しかしそれは「苦労している人ほど、もっと

味よりも温かいご飯と食べなれた味噌汁が最高のメニューだと

苦労している人を助けるものだ」という事実を見過ごした先入

いう事実に気付いたのだ。それ以来、おかずも一般的な家庭料

観に過ぎない。

理にするようにした。

そのような偏見の枠を壊した団体がある。韓国の青年6 (Uniseed)統一奉仕団」だ。ユニシードは「統一の種」という

純粋な情熱が認められ

意味で、この奉仕団は毎月一回、手作りの弁当をソウル駅のホ

なぜないんだ」と怒りだす人がいたり、「北の人間のくれる食

ームレスたちに配っている。韓国社会に定着するために苦しい

べ物は食べない」という言葉を聴き、胸を痛めたこともあっ

過程を経ている自分たちよりも、もっと苦しいのがホームレス

た。しかし弁当配りの奉仕を続けながら、奉仕団員たちの目頭

の人々だと考えてのことだ。

を熱くするような出来事もあった。2014年秋のことだった。弁

人を含めた50人余りの脱北者大学生が活動する「ユニシード

弁当の奉仕活動をしながら傷ついたこともあった。「水が

彼らの活動はそれだけではない。北朝鮮の飲食文化交流、

当配りの奉仕を終えて帰ろうとしたその時、一人のホームレス

児童福祉施設へのプレゼント、そして恵まれない人々にキムチ

の男性が、オム代表に近づき袋を一つ手渡した。袋の中には大

や練炭を届ける活動も年中行事として行っている。また彼ら

福が3個とみかんが1個入っていた。オム代表は「誰かにもら

は中国などに隠れて暮らす脱北者に、ほとんど毎月のように生

って、後で食べようとしていたものだろうに…」と思い、胸が

活必需品と衣類を集めて送っている。このような多彩な活動を

熱くなったという。

「南北の青年たちが共に集まり分かち合い、疎通し、愛し合

2015年夏にはまたこんなこともあった。特に暑い日だった

い、一つになる」をスローガンに実践している。

が、味噌汁など温かい食べ物を配るので汗をだらだら流してい

統一への事前準備

た奉仕団員に、ホームレスの男性が自分の持っていたダンボー

毎月第3土曜日の午後1時。ソウル駅付近にある萬里峴監

だ。そんなふうに時間が過ぎて、奉仕団員とホームレスの人々

理教会の厨房に、ユニシード統一奉仕団の青年10人余りがやっ

の間には相手を尊重する気持ちが行き交うようになった。そし

てくる。彼らはそれぞれの役割に従いご飯を炊き、汁を作る。

て今では、弁当を配るのに忙しそうにしている奉仕団員に、雨

また豚肉のプルコギ、煮干炒め、イカとキュウリ和えもの、キ

の日には傘を差しかけてくれる人、弁当を配り終えた食後のゴ

ムチのようなおかずも手際よく作っていく。汁とおかずは季節

ミの片付けを一緒にしてくれる人が一人二人と増えている。ま

により種類が少しずつ変わる。冬には温かいオデンや味噌汁、

た弁当を受け取った後、脱北青年たちが苦しい生活をやりく

春には新鮮な山菜類、夏には冷たいキュウリの冷汁というよう

りして作った弁当だという話を聞いて、「そんなことを聞いて

に季節を考えたメニューを立てている。

は、とても申し訳なくて食べることができない」と返しにくる

奉仕団の青年たちは心をこめて作った弁当を、午後5時ソ

ル箱の一部を切り取り、団扇にするようにと渡してくれたの

人もでてきたという。

ウル駅前広場に持っていき、ホームレス200人余りに早めの夕

奉仕団ができてから3年がたった今では、ホームレスの人

食として配っている。200人分の弁当を作るのに必要な費用60

々が喜んで迎えてくれる。オム代表は一人のホームレスの男性

万ウォンは、奉仕団員が事情の許す範囲内で出したり、ファン

から「他の団体の人々は義務的にしていると思うときもある

シー用品を製作して売った代金をあてている。時には各種公募

が、ユニシードの若者たちからは真心と真剣さが感じられる」

展に参加して受け取った賞金を経費にしている。費用を捻出し

という言葉を聞いたという。そして「時には大変で辞めてしま

たり、調理する行為はどれも簡単なことではないが、食事を終

おうかと思うときもありますが、そんな激励の言葉を思い出し

えたホームレスの人たちから感謝の挨拶を受けると、それだけ

て頑張ろうと立ち上がるのだ」と言う。

でこれまでの苦労を忘れてしまうという。

脱北者奉仕団員のチョ・ウンヒさんは「最初はホームレス

ユニシード統一奉仕団を立ち上げた韓国外国語大学校中国

の人々が恐くて近寄る勇気が出ませんでしたが、今ではまず近

語科4年オム・エスタ(嚴Esther)代表が、弁当を配る奉仕活動

況から尋ねています。奉仕の日が待ち遠しくなりました」と語

を始めたのは2014年7月のことだ。自身が受け取った奨学金

る。ユニシード統一奉仕団がなぜホームレスを助けることにし

250万ウォンを元手に、考えを同じくする脱北者大学生の友人

たのかは、彼らが障害者や高齢者に負けないくらい大変な思い

4人と共に始めたものだ。最初は試行錯誤の連続だった。南北

をして暮らしていると判断したからだった。奉仕団員のキム・

が一つになるようにという願いから北朝鮮の料理、豆腐丼700

ミジョンさんは「韓国の人々は私たちがホームレスを支援する

個を作って配ったことがあったが、予想に反して反応は芳しく

ことをよくは思っていないようです」と言い、 「たぶん一部の

なかった。見慣れぬ食べ物がホームレスの人々の口に合わなか

ホームレスの人々が酒を飲んだり、暴力をふるったりすること 韓国の文化と芸術 47


があるので、支援を受けるような資格はないと判断してのこと

Haven)」を訪れた。それが奉仕活動の始まりだった。彼は土曜

ではないでしょうか」と分析した。

日になると早朝から起き出して施設を訪れ、障害者の身体を洗

彼らと一緒に弁当配りの奉仕活動に参加している30代後半

い、施設のあちこちをきれいに掃除する。学校生活とアルバイ

の韓国の青年は「脱北者の友人がホームレスのために汗水流し

トを両立させる厳しい日常の中でも土曜日の奉仕は欠かしたこ

て奉仕していることに驚きました」と語る。

とがなかった。疲れて鼻血が出たときもあったが、奉仕活動は

脱北者の自尊心を高める

韓国生活の唯一の楽しみだった。

オム代表は2度の脱北の末にようやく韓国の土を踏むこと

感を強く受けました。受けるだけの存在ではなく、誰かに何

ができた。2004年3月、脱北に成功したものの、その年の10月

かをしてあげることができると思うと、自尊心も高まりまし

中国で捕まり北に送還された。しかし2006年、中国に再脱北し

た」。

「奉仕を通して、私もどこかで必要な存在なのだという実

て2008年に韓国に来ることができた。その過程で中国延吉で母

そうやって始まった奉仕活動にオム代表がより打ち込むこ

と妹が自分の目の前で中国の公安に捕らえられた光景を目撃し

とになったのは、その後さらに個人的な不幸が加わったから

なければならなかった。

だ。北朝鮮にいた弟が亡くなったという話を伝え聞いた後、

一人残され、助けを求めるところさえなかった当時、オ

1000万ウォンもかけてなんとか脱北させた母が癌の宣告を受け

ム代表は人生を放棄しようとしたことがあった。そんな時に

るなど、不運がいっぺんに押し寄せてきたオム代表は、ひどい

四肢のない老人が道端で口に筆をくわえて字を書き生計を立

鬱病にかかってしまった。それで極端な考えまでもつようにな

てている姿を見た。胸が熱くなり、また生きようという勇気

ったが、そのときに家族よりも先に思い浮かんだのが、自分を

が湧いたという。そして彼は突然、誰かの力になりたいとい

応援して心配してくれた同僚の奉仕員たちの顔だった。そんな

う気持ちが湧き上がり、その足でまっすぐ障害者の施設を訪

経験からオム代表は「奉仕こそ、毎日のように聞こえてくる脱

れた。しかし「奉仕活動をしたい」という彼の言葉に「身分

北者たちの「極端な選択」を防ぐ解決方法だと悟りました」と

証から見せてくれ」という答えが返ってきたという。その時

強調する。ある統計資料によれば、脱北者の自殺率は韓国人の

「隠れて暮らす人間は良いこともできない」と思い、たまら

3倍にも達するというのだから、参考にすべき話だ。

なく寂しかったと言う。

個人的な不幸で苦悩していたオム代表は、自分のような境

それでオム代表は韓国に到着するとすぐに、知人から紹介

遇の脱北者に自尊心を回復して欲しいという思いから、2014年

された障害者の社会福祉法人「エンジェルスヘブン(Angel’s

支援奉仕団を立ち上げた。知人を説得して調理のための場所を

「統一の種」という意味 をもつユニシード奉仕団 がソウル駅広場で、弁当 配りの行事を知らせるパ ンフレットを手にして立 っている。この奉仕団は 韓国外国語大学校中国語 科4年オム・エスタ代表 (写真右から4番目)が 2014年に創立した。

48 KOREANA 秋号 2017


はじめ、弁当箱、箸などの品々を支援してもらったオム代表 は、より安定的な奉仕団運営資金をつくるために、北朝鮮料理 を開発し販売する社会的企業「オスンドスン(仲睦まじく)」 を創業した。 この企業は2015年、韓国社会的企業振興院(Korea Social Enterprise Promotion Agency)が主催した全国ソシアルベンチ ャーコンテストで優秀賞を受け、韓国馬事会が運営する脱北者 経済自立プログラムを受けた。そして2016年11月からソウル市 城東区のSEAM(Social Entrepreneurship and Mission)セン ターでフードトラックの営業を開始し現在に到っている。SEAM センターはキリスト教信仰を基盤に社会的企業を育てている団 体で、オム代表はそこで行っているフードトラック運営を基盤 にして「ユニシードカンパニー」を興し、奉仕活動の幅を広げ る計画だ。 オム代表の夢は大学ごとにユニシードカンパニーの支部が でき、南北の青年たちが一緒に統一文化を作っていくことだ。 それを通じて脱北者の韓国定着が「韓国人化」ではなく「統一

「奉仕活動を通して、私も どこかで必要な存在なのだ という感じを強く受けまし た。受けるだけの存在では なく、誰かに何かをしてあ げることができると思うと、 自尊心も高まりました。 奉仕こそ、毎日のように聞 こえてくる脱北者たちの 「極端な選択」を防ぐ解決 方法だと悟りました」

時代の架け橋」となるようにしたいのだという。それが本当の 脱北者の定着だと彼は信じている。

脱北者支援奉仕団の様々な活動

自発的な奉仕活動を展開する脱北者支援奉仕団は、ユニシ

ード統一奉仕団一つだけではない。例えば、統一部傘下の南北 ハナ財団が選定した10余りの奉仕団体で構成された「着韓奉仕 団」がその代表的な例だ。2015年11月に構成され1年に2回、 合同奉仕活動を繰り広げる「着韓奉仕団」は、脱北者会員が 50%以上をしめる奉仕団体を選定基準としている。 南北ハナ財団(Korea Hana Foundation)の関係者は「着韓奉 仕団は脱北者たちが支援奉仕活動を通して、受ける立場ではな くい寄与者だという認識を高め、大韓民国で受けた愛を恵まれ ない隣人に返すことで定着の意志を固め、同時に社会統合を成 し遂げるために始めた事業」だと説明している。

着韓奉仕団の合同奉仕活動は2016年5月14日に第1歩を踏 み出した。京畿道漣川郡のナルペ村がその最初の舞台だった。

着韓奉仕団は2017年4月、首都圏埋め立て地管理公社内

ナルペ村は休戦ラインと隣接した最北端の村の一つだ。「平和

(Sudokwon Landfill Site Management Corporation)に造成さ

生態村」に指定された、ここの河川は2009年北朝鮮がファンガ

れた森で故郷を思いながら「統一の木」を植える行事を実施し

ンダムを放流したときに6人の死者を出している。

た。起亜自動車家族奉仕団と共に進行したこの行事は、南北の

奉仕活動は村のお年寄りを北朝鮮料理でもてなし、統一の

住民が直接統一を願う木を植えた後、この木を北朝鮮に送ると

願いを込めた壁画を描き、村の道や施設を整えるなど様々なプ

いう意義深い行事だった。この日、「着韓奉仕団」の一員とな

ログラムで進行した。着韓奉仕団が準備した北朝鮮料理はタラ

り統一の木の植樹に参加した脱北者支援奉仕団は、光明ハナ郷

ノ木の芽の冷麺、北朝鮮式マンドウ(餃子)、豆腐丼、肉の代

友会、ハナ奉仕会、セタ民ヘッピッサラン会などだ。

わりに豆腐を使った肉料理など、現在北朝鮮で人気のあるメニ

大韓赤十字社傘下のハナ奉仕会のグァク・スジン代表は

ューの品々だった。

「奉仕という単語を韓国に来て初めて聞きました」と言い「私

その他にも着韓奉仕団は、2016年5月に国立顯忠院の無名

たちは周辺の恵まれない人々を助け、脱北者に対する認識を変

兵士の墓を訪れ、草むしりをはじめとした環境整備奉仕活動を

えようと奉仕活動を始めました」と感想を語る。咸鏡北道茂山

行う一方、11月にはソウル駅近くの貧しい一人暮らしのお年寄

が故郷のアン・ヨンエさんは「北朝鮮の山々はほとんどが禿山

りを訪れ、直接漬けたキムチを配った。着韓奉仕団以外にも

なので、統一した日に故郷の地に植えたいと思い、心を込めて

2015年以降、大小の脱北者奉仕団体50余りが全国的に活動して

植樹をしました」と述べた。

いると言われる。 韓国の文化と芸術 49


オン・ザ・ロード

50 KOREANA 秋号 2017


湖畔の花陰に座って

詩を読む

韓半島の南端、その中心に位置した晋州(チンジュ)は人口35万 の由緒ある都市である。その中心を流れる南江(ナムガン)では 昔は日本軍と凄惨な戦いが繰り広げられた。現代になって南江ダ ム工事により人工湖・晋陽湖(チンヤンホ)の水路になった。晋 州では水とともに時は流れる。 クァク・ジェグ 郭在九 詩人 安洪範 写真

韓国の文化と芸術 51


の見える窓際に座って若い詩人の初詩集を読 む。詩と水と旅の属性は互いに似ている。水 は大地を静かに流れては留まり、詩は人間の

「花を植える」という「植える」である。 「いったい誰がこんなところで本を読むというのか。絶対 に続かないだろう」。

魂の中を流れてはどこかで留まる。旅は人が時間の中を流れる

周辺の商人たちは心配したが、取り越し苦労だった。3坪

ようだ。しばらく旅の足を止めて、時の流れに身をまかせると

弱の書店に客が訪れ始めた。近隣の鉄道駅で降りた旅行者たち

人は温かくなる。

が市場の賑わいを掻き分けてこの書店にやってきた。そこに並

晋陽湖(チンヤンホ)沿いに位置した町・内村(ネチョ

んでいる旅行記と詩集と絵本を目当てに足を運ぶ客もいる。放

ン)。ここから旅を始めたのは幸運だ。カフェに座って窓の外

送局や新聞社の記者たちも訪ねてくる。晋州に来る前に「植え

を眺めながら詩集のページをめくる。

る」に立ち寄った際に、店主の夫婦が私に一冊の詩集を手渡し

青銅器時代にも詩があったのだろうか

た。『淡淡』。水が流れるように静かな心とは? 張誠希(チ

「植える」という名前の書店をオープンした。「木を植える」

がそのまま伝わってきた。

私の住む都市にある在来市場の中の路地に、若い夫婦が

52 KOREANA 秋号 2017

ャン・ソンヒ)の初詩集だ。詩を読み進めるうちに詩集のタイ トルとは違って、この世で彼が経験した人生の浮き沈みと苦難


一人で病気になった日 寒さに溶けて形体がなくなった 私は滑稽な人間です 長く歩いてびっしょりになった足裏を押さえつけて 四角い靴を履いて 高いヒールの音をさせながら下へ下へ 降り注ぐ私の親愛なる冷たさ 最後までこだわっていた長い名前が 舌先に残るザラつき

2 1. 慶尚南道・晋州市 (キョンサンナムド・チンジュシ)の中心を 流れる南江(ナムガン)沿いの矗石楼(チョクソクル)。その欄 干の向こうに晋州市内が見える。高麗時代に建てられて数回の補 強と修復を経たこの楼閣は、文禄・慶長の役に晋州城を守る指揮 本部の役割をしており、今は慶尚南道が指定した文化財資料とし て市民たちに愛される憩いの場となっている。

2. 晋州の青銅器文化博物館内部の展示室に、晋州市大坪面(テ ピョンミョン)一帯で発掘された青銅器時代の遺物が展示されて いる。

1

「氷」という題名の詩。涙を氷として表現した隠喩が気に 入った。「私の親愛なる冷たさ」も涙の隠喩表現である。四角 い靴が目に留まる。人生はヒールの高い四角い靴を履いて、果 てしなく虚空をさ迷うものではないか。湖は淡々とした色合い を帯びる。 湖に沿って続く1049番の地方道路を走る。10kmほど車を走 らせた時、「晋州青銅器文化博物館」という立て札が目に入っ た。紀元前1500年頃、ここ三角州に定着して暮らしていた青銅 器時代の人々の姿を再現し、発掘された遺物を展示した博物館 である。 今から3500年前の人々はどのように暮らしていたのだろう か。400基の穴倉の跡地が発掘されたという記録を読んで、彼 らの衣食住が今日の私たちの生活と酷似していることに驚い た。火をつけて土器の釜でお米を炊いたり、川で捕った魚を焼 いて食べたり、炭になった桃が発見されたりしたという。穀物 を貯蔵していた屋根裏と糸を縒る紡ぎ車、赤紫色の土器も発掘 された。 その時代の人々は心の流れをどのように表現したのだろう かと、ふと気になった。山を越えて河を渡って旅をしたかった のではないかと思った。土器の表面をよく見たら、いずれも無 紋土器だった。 3500年前のここの人々に詩はまだ存在していなかった。一 人旅がそもそも不可能だったのかもしれない。人間が万物の霊 長だという認識は、近世以降の人間が生み出した文物に対する 知的傲慢や虚勢である可能性が高い。 韓国の文化と芸術 53


不運な時代の美しい言語

病んでいる人の心の中 に詩があり、詩の中に 痛ましい魂の旅がある と思った。3500年前の 青銅器時代の人々に詩 がなかった理由は、彼 らに痛みが存在してい なかったためではない かという気がした。

同じ道を走り続ける。湖に沿って走る道沿いには、ネムノ

キの花が咲き乱れている。この木を人々は「合歓樹」または 「合昏木」と呼ぶ。日中には葉が幹の左右に大きく広がってい るが、日が暮れると葉同士で重なるからだ。湖を見下ろせる丘 のネムノキの木陰に座って『淡淡』を読み直す。

神と酒 安全な解毒剤だと思っていた名前 冬が過ぎたのに白い息が出る 墓が必要な体 私は戦争のような天気、どれだけ暑くなれるか 吐く息ごとにつく疑問符 風が吹いて雨が降るのに 傘もささずに歩くあなたが 倒れた木の陰のようだ 「歩いても歩いても」という題名の詩。「傘もささずに歩 いていたあなた」とは、詩人自身である。倒れた木の陰のよう な1980年代、私は20代だった。韓国にも「詩の時代」と呼ばれ る時代がやってきた。政治的な迫害と弾圧が相次いだが、人々 は詩を書いた。農民も、大工も、バスの運転手も、鉄筋工も、 先生も、鉱員も、看護師もみんな詩を書いた。詩が人々を慰め て癒してくれる魂の憩いの場だった。100万部以上売れる詩集 が続々と刊行されていたその時代を人々は愛した。 『淡淡』を書いた若い詩人よ、絶望しないでください。愛 おしい言語が傍にあるから、いつかあなたに人間の魂がどれほ ど悲しくて美しいものなのかを、ちゃんと綴れる日が来るだろ う。

ケシの花よりも赤い心の女性

矗石楼(チョクソクル)は、晋州城の中にある楼閣であ

る。南江を見下ろせる高台にある美しいこの楼閣は、韓国人に 歴史の傷みと慰みをともに与える魂の場所だ。 1592年日本は朝鮮を侵略した。その後7年間続いた文禄・ 慶長の役。1592年10月日本軍が2万の兵力を動員して晋州城を 攻撃した際に、当時晋州の牧使(知事に相当)であった金時敏 (キム・シミン)は、3800人の兵力で戦って勝利を勝ち取る。 7日間続いた戦闘の末、300人余りの日本軍将師(指揮官級) と1万人の日本兵が失なわれたことからも、戦闘の壮絶さがう かがい知れる。金時敏はこの戦いで敵弾に撃たれて戦死した が、当時39歳だった。 第2次晋州城の戦いは翌年の1593年6月に始まる。梅雨の 中で繰り広げられた戦闘の末、晋州城が陥落する。城内のすべ 1

54 KOREANA 秋号 2017

ての兵士が日本兵と戦って戦死したり、南江に飛び込んで死亡


2

したり、百姓たちは殺戮される。日本兵が本国に送った首級は 2万に上る。溺死者によって河川の流れが塞がったほどだとい う。晋州城は陥落したが、この戦いで大きな損失を被った日本 兵は結局、朝鮮の穀倉地帯の全羅道(チョルラド)を占領する ことができず、朝鮮征服の野望を諦めざるを得なかった。それ ゆえに戦いの偉大なる香りは深い。 この戦いの果てに咲いた1輪の花のような女性の話が語り

1. 3階建ての晋陽湖(チンニャンホ)の 展望台で市民たちが河辺の夕日の景色を楽 しんでいる。

2. 晋州城壁に沿って形成された「仁寺洞 (インサドン)」と呼ばれる600mにおよ ぶ骨董品通り。1970年代後半から骨董屋さ んが一つ二つと店を構えて、今のような街 の風景が出来上がった。

継がれる。論介(ノンゲ)。論介は妓生(芸者)と言われた り、良人(ヤンイン)の身分とも言われるが、その違いは重要 ではない。晋州城の戦いが終わって、日本軍は戦勝祝いを行っ た。論介は敵将の毛谷村六助を抱き込み南江に飛び降りる。論 介が敵将を抱いて投身した岩を晋州の人たちは義岩(イアム) と呼び、論介の位牌を祀る位牌堂の義妓祠(イギサ)が、南江 を見下ろす山腹に位置している。韓国の詩人・卞栄魯(ピョニ ョンノ)は論介について次のように歌った。 韓国の文化と芸術 55


神々しい憤りは 宗教よりも深く 熱い情熱は 愛よりも強い ああ、ツルナシインゲンマメの花よりも青い その波の上に ケシの花よりも赤い その心流れろ

州に「国際祭り都市」賞を授与した。 祭典が始まると、南江一帯は色とりどりの美しい灯りで埋 め尽くされる。夜空には星より多くの提灯が輝くが、これは晋 州城の戦いにおいて、城内の人々が城外の人々に自分の安否を 伝え、城外の人々が城内の人々に故郷の便りを伝えたことから 由来した。 旅人のあなたが10月初めに晋州に立ち寄るならば、旅がも たらす予期せぬ贅沢さに胸がときめくかもしれない。あなたの 名前とあなたの夢、あなたの懐かしい想いを刻んだ提灯を秋の

美しかったその眉 高くなびいて ザクロの実のような唇 死の接吻! ああ、ツルナシインゲンマメの花よりも青い その波の上に ケシの花よりも赤い その心流れろ

夜空に飛ばすことができるから。今から425年前の晋州の人々 が南江を最後の砦に繰り広げた戦いを、その時の彼らの気持ち になって考えてみることもできるだろう。

小説家が愛した骨董品通り

私は晋州城壁に沿って形成された古い街が好きだ。この街

はソウルの有名なアンティーク通りである仁寺洞(インサド ン)と同じ名前を持つ。晋州市仁寺洞に寄るたびに思い出す人 がいる。今は亡き小説家・朴婉緖(パグワンソ)だ。

晋州の人々は、毎年10月開かれる油燈(ユドン)祭典を街

彼はこの街をとてつもなく愛した。ソウルの仁寺洞はあまり

の誇りとしている。国際祭り協会(IFEA)は、この祭典を固有

にも混雑し、物価も高いのに比べ、ここは閑散としている上に人

のストリーを持つ美しい祭りとして認定し、2015年の総会で晋

情に厚いので、歩くに値すると述べている。晋州の骨董商たちは

56 KOREANA 秋号 2017


晋州の観光スポット

内村

ソウル 328km

晋州城

中央市場

晋州 李聖子美術館

ほとんど1~2冊ずつ朴婉緖の作品を読んでおり、ある人は彼の

おられたら「郭さん、どこでそれを見つけたのですか。見る目

本を取り出してサインを頼んだりもしたものだから、自分の作品

がある」と言われたはずだ。

を大切に思う読者の心は作家にそのまま伝わっていた。

詩が芽生える場所、詩があるべき場所

朴婉緖お気に入りの骨董は朝鮮木家具だった。 「洗練された西洋絵画や非具象作品と一緒に並べても朝鮮

晋州市立「李聖子(イ・ソンジャ)美術館」は2015年に開

木家具は見劣りしない。品位を保ちながら、静かに静物を完成

館した。李聖子(1918-2009)は、金煥基(キムファンギ)、

させる力がある」。

李應魯(イ・ウンノ)らと並んで、20世紀韓国美術を世界に知ら

彼の言葉を思い浮かべて数軒の骨董屋さんを見て回った。

しめた晋州出身の西洋画家である。

どうしても手に入れたい物が目の前に現れた。出来心で素焼き

展示された彼の多くの作品に詩的題名がついている。「風

の陶磁器一点を300ドルぐらいで買った。朴婉緖先生が生きて

の息吹」「未明のささやき」「心配のない人魚」などの作品が 私の心を和ませてくれた。 日本植民地時代に日本に留学した後、朝鮮戦争の真っ只中 の1951年にフランスに留学したという彼の履歴が、絵に影響を 及ぼしたに違いない。苦しみの中故国と、故郷の人々を忘れる ことなんて到底できない。 病んでいる人の心の中に詩があり、詩の中に痛ましい魂の 旅があると思った。3500年前の青銅器時代の人々に詩がなかっ

晋州市南江路一帯で毎年 10月開催される晋州南江 油燈祭りで文禄・慶長の 役当時の戦いが再現され ている。

た理由は、彼らに痛みが存在していなかったためではないかと いう気がした。今よりその時代の人々の方が平和で穏やかだっ たのかも。詩を生み出した人間の歴史はその時代より後退した のかもしれない。 韓国の文化と芸術 57


日常茶飯事

仕事で人生の 楽しさを追求する

IT開発者

58 KOREANA 秋号 2017


組み込みソフトウェア(embedded software) の開発者たちは、一般人にはまったく理解でき ないような記号を組合せて、人間の利便さを極大化しようとしている。そんな仕事をしている キム・ユンギ(金允基)さんからは、予想通り「ひと月の半分は残業の繰り返し」という告白 を聞かなくてはならなかったが、彼には夢見る10年後の計画があった。 イ・ジヨン 李知映、bloter.net記者 河志權 写真

ラマや映画の中の IT開発者の姿はま

に派遣されることも多いので、時間があるときにで

るで魔術士のようだ。黒いモニター

きるだけ顔を合わせて互いに応援しあっているんで

画面を凝視し、指がキーボードの上

す。ブラザーたちの中でも私が一番年が若いので、

を素早い速度で縦横無尽に動き回ると突如画面が変

3歳違いの年上のブラザーに悩みや分からないこと

わり、隠れていた情報が現れる。プログラム開発過

を話したり、相談したりしています」。

程を知らない門外漢にはただただ不思議な場面だ。

IT業界には「開発者はコーヒーで作られる」とい

別世界に住んでいる人間のように感じられたりもす

うユーモアがある。出勤後気分を切り替えるために

る。しかし、現実の開発者の姿は必ずしもそうとは

コーヒーを飲み、仕事の途中で眠くなれば眠気覚ま

かぎらない。入社8年目のキム・ユンギさんは、自

しにまたコーヒーを飲み、気が散れば集中するため

分の日常について「普通の会社員と変わらない」と

にまた1杯、このように IT開発者は水を飲むように

淡々と話を始めた。出勤時間は午前9時、退勤は午

コーヒーを飲んでいる。

後6時、昼休みは11時30分から12時30分まで。定時

残業の鉄則

に帰れることもあるが、残業をすることもある。

開発者はコーヒーで作られる

12コアを搭載したデスクトップパソコンと32イン

チのUHDモニター、入社以来使い続けている古びたキ

キム・ユンギさんは出勤して仕事を始める前にい

ーボードがキム・ユンギさんの「武器」だ。彼はこ

つも同僚たちとコーヒー1杯の余裕を楽しむ。彼は

のような作業道具で戦闘を開始するように業務に日

この同僚たちを「ブラザー」と呼んでいる。メッセ

々臨んでいる。彼はエンベデッド・ソフトウェアの

ンジャーでブラザーたちを呼び出せば、すぐに1階

開発者だ。エンベデッド・ソフトウェアとは、テレ

にあるコーヒーショップの前にみんな集合する。コ

ビや冷蔵庫のような家電機器に内蔵され特定の機能

ーヒーが出来るまでの間、ありふれた世間話が行き

を実行する組み込みソフトウエアを意味する。最近

交う。長くても5分から10分程度の短い時間だが、

脚光を浴びているInternet of Things(モノのインタ

彼の一日を始める大切な瞬間だ。

ーネット)もまたこのソフトウエアが必修的だ。

「入社のときから一緒のブラザーたちが3、4

しかし彼は他の人に自分を紹介するときに「ただ

人いますね。会社に出勤せずに家からまっすぐ外部

の開発者」だと言う。自分のしている仕事を詳しく

韓国の文化と芸術 59


話し始めると説明が長引き、彼の話を理解できない

をとる同僚もいますが。私はどんなに遅くまで仕事

人々は質問を連発してくるからだ。その質問に答え

をしても必ず家で寝ることにしています。そうして

ていると対話がいつ終わるか知れず、ひどく疲れて

出勤するとエネルギーが沸いてくるんです」。

しまう。こんな経験を何度も繰り返すうちに彼は余 計なことは言わなくなった。 知らない人に会ったときに困惑してしまうことも よくある。「IT開発者というとゲームが得意そうで

家は仁川で会社は京畿道城南市にあり、距離的に はかなり離れているが、彼はこの原則を頑固に守っ ている。

染してしまって、ちょっと直してくれませんか」と

楽しく仕事をする秘訣

頼む人もいる。

声、時計の音、そして突然訪れる静寂が好きだ。

すね」と言われたり「私のパソコンがウイルスに感

キム・ユンギさんは事務所での同僚たちの話し

「球技種目にバスケット、サッカー、野球などが

よく集中できるからだ。しかし集中力が途切れる

あるようにIT開発も同じですよ。ウエブ、エンベデ

と、何をしてもうまくいかない「魔の時間」が訪

ッド、サーバーなど様々な分野があります。バスケ

れる。そんな時に脱出口にしているのがポータル

ットボールの選手が他の種目よりもバスケットがう

サイトだ。いろいろな検索をすることで一日が過

まいように、やはり様々な開発分野の中の一つに特

ぎていく。

化しているんです。すべて出来るというわけではな

「開発するとき、ビルドというプロセスを経るこ

いので、他の分野についてたずねられても困ってし

とになります。コンピュータが理解できる言語で作

まいますね」。

業をした後に、その内容をコンピュータがきちんと

IT開発は小説を書くのと似ている。一日中一生懸

処理しているか検証するプロセスです。このビルド

命に働いたからといって完成するというものではな

は予想以上に時間がかかります。それで開発者であ

い。前日までしていた作業がうまく作動するか確認

る私の最良の友すなわち武器は、この退屈な待ち時

し、万一うまくいかないときはどこが問題なのかを

間を短くしてくれる高機能のコンピュータです」。

把握し、やり直すというプロセスを数限りなく繰り

恋愛も中弛みなときがあるのだから、仕事にも中

返していく。ちょうどあたかも各々のストーリーが

弛みがないわけがない。キム・ユンギさんもまた反

積み重なって、読者を納得させる一つの大きなあら

復する日常と作業に疲れてしまうときがある。そん

すじが出来上がる小説のようだ。もしそれ以前の作

な時には仕事を放棄しないために開発自体を自ら楽

業で発見した問題点を解決できなければ作業はそれ

しむことだ。またエネルギーを充電する趣味活動も

以上進展せず、残業する日々が増え続ける。彼はひ

必要だ。

と月の半分程度は残業をするという。

「コンピュータ以外には関心がなく、その道だけ

「残業をするときには自分なりの鉄則がありま

を極める開発者もいますが、余暇活動や文化生活を

す。家に帰る時間が惜しくて会社で横になって睡眠

楽しむ人もたくさんいます。開発者の大部分の人が

IT開発は小説を書くのと似ている。一日中一生懸命に働いたからとい って完成するというものではない。前日までしていた作業がうまく作 動するか確認し、万一うまくいかないときは、どこが問題なのかを把 握し、やり直すというプロセスを数限りなく繰り返していく。それは あたかも、各々のストーリーが積み重なって、読者を納得させる一つ の大きなあらすじが出来上がる小説のようだ。 60 KOREANA 秋号 2017


キム・ユンギさんを始めとするエンベデッド・ソフトウェア開発チームのメンバーが会議をしている。エンベ デッド・ソフトウェアは家電機器に内蔵され特定の機能を実行する、組み込みソフトウエアだ。

好奇心旺盛なほうなので、他に面白いものを探そう

レスからうつ病になり苦労している人も少なくないの

とするものです。私もそうです」。

が現実だ。夜遅くまで消えることのない事務所の明か

彼は時間ができると本を読むが、最近読んだ中

り、会社で食べ、会社で寝るのが日常の職業。幸いな

ではミハイ・チクセントミハイの『没入の楽しみ

ことにキム・ユンギさんは、自分の仕事を楽しみなが

(Finding Flow)』が良かったと言う。週末にはたま

ら仕事のやりがいと人生の楽しさまで追求していた。

った勉強もして映画も見る。また会社ではギター同

彼には夢が一つある。ITと芸術を結合させた融合

好会に加入して演奏もしている。そうかと思えば一

ITにチャレンジする開発者になることだという。現

時は毎日、帰り道を4kmを走って帰宅するほどラン

在の作業にとどまらず、今の仕事を土台にしてより

ニングも好きだ。アマチュアマラソンフルコース大

大きな作業をしたいという。

会に2度参加して完走したこともある。

「10年くらい後にギャラリーを開きたいんです。

「余暇活動を通して趣味を求めることも仕事を楽

IT開発者の工房のようなものですね。コードで何かを

しくするためです。これが私が楽しく仕事ができる

作る開発者からさらに一歩踏み出し、実際に製品を作

秘訣です」。

るエンジニアになりたいのです。いつになるかは分か

もちろん状況が異なる開発者もいる。業務のスト

りませんが、必ず成し遂げたい私の夢です」。

韓国の文化と芸術 61


エンターテインメント

近環境部が発表したあ

気を博している番組のアイデンティティ

番組の人気が高まるにつれて、最初

る統計によると、韓国

は、オープニングコメントそのままを反

の憂慮とは裏腹に出演を希望する芸能人

の家庭の冷蔵庫には平

映している。同番組にレギュラー出演す

が相次いだ。、チェ・ヒョンソク、サム

均34種類の食べ物が保存されており、そ

る某シェフは、初放送を控えて制作スタ

・キム、イ・ヨンボク、ミカエルなどレ

のうち野菜類の12.5%、果物の5.7%、

ッフとの打ち合わせを終えた後、長くて

ギュラー出演するシェフたちも料理の実

レトルト食品の4.1%が捨てられる。韓

も6回は超えないだろうと予想したとい

力とは別に、個性溢れる魅力的なキャラ

国のケーブルテレビJTBCの番組『冷蔵庫

う。

クターを演出し、「シェフテイナー」

をよろしく』は、有名芸能人、スポーツ

果たして芸能人の誰が自分の冷蔵庫

選手、ファッションモデルの冷蔵庫をそ

をわざわざスタジオまで運び、公開する

のままスタジオに移動させて、視聴者の

だろうか。また、プライドの高いベテラ

特にこの番組で目を引くのは、料理

目の前で扉を大きく開いたあと、その中

ンシェフ同士の料理対決というプログラ

人たちが人気レストランの厨房を率い

の食材だけでシェフたちが15分間、料理

ムがシェフたちに受け入れられるだろう

る有名男性シェフだということ。女性料

対決をするというユニークなアイデアの

か。さらに、15分以内で作れる料理がど

理研究家による調理の手順を丁寧に説明

料理番組が最高視聴率を記録している。

れ程あるだろうか等々、懐疑的な見方が

する伝統的な料理番組とは一線を画し

シェフテイナーの誕生

強かったようだ。

ている。唯一の女性シェフ、パク・ヘ

レシピ!」

「冷蔵庫の残り物で超簡単おいしい

(シェフ+エンターテイナー)として位 置づけられた。

しかし『冷蔵庫をよろしく』は、

リ氏は、アメリカの料理大学「CIA(The

2015年が「クックバン」(cookとバンソ

Culinary Institute Of America)」出身

ン〈放送〉の造語)年として位置づける

で、元大リーグ野球選手の朴贊浩(パク

「韓国随一のシェフがあなたの冷蔵

上で決定的な役割を果たし、JTBCの看板

・チャンホ)氏の妻。韓国のクックバン

庫に眠っている食材をフル活用して差し

バラエティ番組として様々な賞を総なめ

は男性陣が牽引している格好だ。

上げます」。

した。このような流れを受けて、アジア

2014年11月17日の初回放送は、二人

を視野に入れたフードバラエティを制作

の男性MCによる華々しいオープニング

するために設立した某コンテンツ制作会

芸能人の日常を覗き見

コメントとともにスタートした。昨年

社では、同番組のチーフプロデューサー

台所から運び出す。彼らは冷蔵庫がなく

10月に放送100回目を迎えて、今なお人

をスカウトし、また中国ネット企業のテ

て夕べはビールも飲めなかっただの、ミ

ンセントと共同制作したリメーク番組

ネラルウォーターも飲めなかっただのと

『拜托了冰箱』(冷蔵庫ください)は、

冗談交じりに不平を漏らしたりもする。

シーズン2まで放映された。

冷蔵庫はアイスボックスに移した中身と

冷蔵庫は番組収録の前日、ゲストの

あなたの冷蔵庫の中を 片付けます

‒シェフたちの奇抜な料理対決‒

1日24時間働く最も忙しい家電製品の冷蔵庫。その中はご主人の食生活や嗜 好、ひいては交友関係や恋愛状態まで覗き込めるという非常にプライベートな 空間である。結婚した娘の家の冷蔵庫を勝手に開けるのもちょっと憚れるとい うのに、有名人の家庭冷蔵庫を大衆の前でありのまま公開し、その中の食材で 料理対決をするテレビ番組がある。 キム・ヨンオク 金蓮玉、フリーランス寄稿家 62 KOREANA 秋号 2017


ともに引っ越し業者のトラックでスタジ

いもの、しかしながら元気が出る料理を

オに移動させた後、前もって撮っておい

注文する。年老いた母の話をして涙ぐむ

た写真に従って元通りに復元する。ゴム

俳優は、母の誕生日に作って上げるヘル

手袋まではめたMCたちが「捜査」に突入

シーフードを学びたいと要請する。誰か

し、冷蔵庫の持ち主と中身をネタに意地

にプレゼントされて冷凍庫いっぱいに詰

悪な突っ込みを通して笑いを誘い、番組

まっているが、なかなか食べる気になれ

前半を盛り上げる。

ないし、かといって捨てることもできな

少女時代のメンバー、ソニーの冷蔵 庫からは飲み残しのマッコリとビニー

いトウモロコシや半乾燥スルメの料理を お願いしたりもする。

JTBCテレビの人気の料理トークショー『冷蔵庫を よろしく』に出演した「シェフテイナー」たちが 有名芸能人の冷蔵庫に入っている食材で即興料理 対決をしている。

ル袋に包まれたソルロンタンが出てきた

ここから番組は料理を題材にしたス

り、「ファッショ二スター」として知ら

ポーツ中継に変わる。15分にセットされ

とんどなかったINFINITE(インフィニッ

れた芸能人、キム・ナヨン氏の冷蔵庫か

た電光掲示板の時計の針が刻々と時をき

ト)のメンバー、ソンギュの冷蔵庫でキ

らは死んだアリ入りのはちみつが見つか

ざむ張りつめた雰囲気の中で、シェフた

ム・プンがつぶしたトマトと卵の水煮だ

ったりした。ウナギエキスだの玉ねぎエ

ちは包丁を自在に操り華麗なパフォー

けで作った超簡単レシピは、「トダルト

キスだの健康補助食品で埋め尽くされた

マンスを披露する。MCのキム・ソンジュ

ダル」(トマトとダルギャル放送〈卵〉

冷蔵庫にも見慣れた。賞味期限から数年

は、卓越したスポーツキャスターとして

の頭文字で作った名前)という面白い名

たった食材はいつものことで、食べかけ

の持ち味を見事に発揮して臨場感あふれ

前が付けられ、「SNSで最も手軽にマネ

のチョッパル(豚足)の骨、悪臭を放つ

る対決場面を中継する。その場で練った

できる料理」に選ばれている。

白身魚のジョン(ちぢみ)、カビの生え

生地でパスタを作ったり、様々な漢方薬

家庭でも素早くマネできる15分簡単

た肉、熟れすぎてグジャグジャのイチゴ

を入れた釜めしを炊いたり、生高麗人参

レシピを紹介するというのも、最初の制

などを見て、芸能人の日常生活を覗き見

を和えたり、わかめスープを作ったり

作意図の一つだった。しかし、高い視聴

したいという願望のあった視聴者たち

するなど、果たして15分以内に料理は完

率と話題性にもかかわらず、同番組で紹

は、人気アイドルも食事をとる時間さえ

成するのだろうか。とても信じられない

介された料理を作ってみたという主婦は

ない物寂しい青春だということを感じ

光景を目の当たりにする視聴者の最大の

それほど多くない。韓国随一有名なシェ

る。それでもテレビに映るというのに、

疑問に対し、シェフたちはきちんと「本

フたちの白熱した真っ向勝負の末に出来

それだけ整理されていない冷蔵庫の中を

物」で答えをだす。しかし、タイムプレ

上がった料理を、一般の台所で応用する

1 平気で見せられるのか。制作スタッフ

ッシャーでシェフの手が震える場面もた

には無理があるのだろう。正確なレシピ

は、「手つかずのまま放って置かれた冷

まに見られたり、キャリア43年の中華の

の提示が難しいことも残念なところだ。

蔵庫の状態こそが面白さのポイントだと

巨匠、イ・ヨンボク氏が包丁で指を切っ

しかし、雨後のタケノコのように次から

いうことを知っているため、冷蔵庫丸ご

てしまったこともあった。

次へと生まれるクックバンの中で、視聴

と運搬する場合が多い」と説明した。

ついに出来上がった料理を冷蔵庫の

者は賢く必要な部分だけをチョイスす

有名シェフを夫にもつ女優、ソ・ユ

持ち主が慎重に試食し、勝敗のボタンを

る。例えば簡単なレシピは、料理バラエ

ジン氏とビックバンのメンバー・G-ド

押して勝者を決める。勝ったからといっ

ティ番組『お家ご飯ペク先生』や『今日

ラゴンの冷蔵庫のように、松露キノコ

て賞金があるわけでもなく、せいぜい小

は何を食べようかな』、『三食ごはん』

(マツ林の地中に発生する卵形のキノコ

さな星形のバッチ一つを胸につけてもら

などから得て、『冷蔵庫をよろしく』か

・日本のトリュウといわれる)、フォア

うだけなのに、ミシュラン一つ星レスト

らはアイデアとソース、プレーティング

グラ、キャビアの世界三大珍味などが入

ランの総括シェフ出身の某シェフは、

などをヒントにするといった具合だ。

っていて、シェフたちを興奮させる場合

「ミシュランの星をとった時よりうれし

も時にはある。しかし、有名人の冷蔵庫

い」と大喜び。

1960年代に韓国で初めて登場した家 庭用冷蔵庫の容量は120リットだったの

もだいたい平均的な韓国人の冷蔵庫の中

放送後に話題になるのはプロのベテ

が、だんだん大型化して、今では900リ

身と大差ないということを見せつけてか

ランシェフより、むしろ唯一のアマチ

ットルを越える4ドア冷蔵庫まで販売さ

ら、本格的な料理対決に突入する。

ュアであるウェブコミック作家、キム・

れている。家族が減り一人暮らしの世帯

息詰まる15分間の熱戦

プンの料理である場合が多い。「自炊料

が増えても尚、韓国人は大容量の冷蔵庫

理」のプロというキャラが定着したキム

を好む。一人暮らしの有名芸能人の冷蔵

料理のテーマは、その日の冷蔵庫の

・プンは、大雑把な作り方をしていなが

庫も押しなべて大きくて、その中には話

持ち主が注文する。コンサートを控えた

らもゲストの口に合わせた料理を作るこ

のネタが盛りだくさん!『冷蔵庫をよろ

某歌手は、甘くも塩辛くもなく食べやす

とで勝率をあげている。使える食材がほ

しく』は、長寿番組になりそうだ。 韓国の文化と芸術 63


遠くの目

台湾での韓国人 留学生との ふれあい

谷口龍子 たにぐち・りゅうこ、東京外国語大学国際日本学研究院准教授

0年代に台湾に留学していた時に出会っ

9

でんを売っていた。図書館や院生室で研究を終え、

た2人の韓国人留学生について話したい

深夜に寮に戻り、熱いおでんを口に入れながら、そ

と思う。

れぞれの部屋に引き上げるのが我々の日課であっ

ひょんなことから世界的に著名な言語学者と出

た。韓国の彼女も好物らしき煮卵を買って部屋に戻

会い、台湾の大学院で研究生として籍を置くことに

る姿をよく見かけた。寮の裏門から続いている急坂

なった。私が所属していた言語学研究科(語言學研

を登り切ると、我々の人文社会学院に突き当たる。

究所)は、当時、中国語の理論研究やオーストロネ

「地獄坂」と勝手に名付けたその坂を早朝眠い目を

シア諸語の調査研究が盛んで、欧米に発信する言語

こすりながら上っていくと、その少し前を韓国の彼

学者を多く抱えていた。そこでは、台湾の学生のみ

女が太めの体を揺さぶりふうふう言いながら上って

ならず、アメリカ、フランス、韓国、日本などの留

いく姿を見かけることもあった。

学生も学んでいた。

キャンパス一体を鳳凰樹が真っ赤に彩る季節が

修士課程の一年生、つまり私の一年上の先輩に

訪れ、大学院の入学試験を翌日に控える夜だった。

あたる学年に韓国の女子留学生がいた。大学で中国

現地の学生でも一度では合格できない者がいるほど

語を専攻し、中国語が堪能であるだけでなく、大柄

入試は難しく、留学生枠も少なかった。「だめだっ

でバイタリティに溢れ、授業での発言も積極的な学

たら日本に戻るしかない。」落ち着かない心を静め

生だった。中国語の統語構造にも通じていて、教授

ようとキャンパスにある池の畔をぐるぐる回った。

陣からも一定の評価を得ていた。一方、私はもとも

足下ではカエルが鳴き、どこからかバイオリンの音

と中国語が専門ではなかったこともあり、授業につ

が聞こえていた。寮の部屋にもどると、ドアの隙間

いてゆくのがやっとで、せっかく先生が私に発言の

に小さな包みが挟んであった。韓国の彼女からの手

機会を与えようと日本語について質問をしてくださ

紙であった。中には丸い粘土のようなものが包ま

っても、気の利いた返答もできず、忸怩たる思いを

れ、「韓国ではこのお守りを持っていると良いこと

していた。「韓国の学生は積極的に発言し自己アピ

があると言われている。明日必ず試験会場に持って

ールするのに、日本人のあなたは・・・」と同じ留

いったほうがよい」と中国語のメモがついていた。

学生として周囲から常に彼女と比較されているよう

私の味方ではないと思っていた人物から思わぬもの

にも感じられた。引け目を感じていた私は、自然彼

をもらい、驚きとともに胸の奥が熱くなった。翌日

女と距離をおいていた。彼女自身も私に声をかける

は上着のポケットにそのお守りを入れて試験会場に

わけでもなく、互いに口をきくことはほとんどなか

臨んだ。その一か月後に合格したことを告げると、

った。毎週英語の原書や中国語の論文を100ページ

いつもと同じように視線を外したまま「おめでと

以上課題とされ、授業では発表やディスカッション

う」とそっけない一言が彼女から返ってきた。私は

を中国語で行う作業は、留学生にとって睡眠時間を

それ以上何も言えずその場を去った。正規の大学院

ぎりぎりまで削っても準備の時間が足りなかった。

生となってからは、彼女と同じ授業に出ることもな

大学院の女子寮では寮母さんが夜食に台湾式お

くなり、その姿を見かける機会もなくなった。よう

64 KOREANA 秋号 2017


人文社会学院の図書館

寮の部屋にもどると、ドア の隙間に小さな包みが挟ん であった。韓国の彼女から の手紙であった。中には丸 い粘土のようなものが包ま れ、「韓国ではこのお守り を持っていると良いことが あると言われている。明日 必ず試験会場に持っていっ たほうがよい」と中国語の メモがついていた。私の味 方ではないと思っていた人 物から思わぬものをもら い、驚きとともに胸の奥が 熱くなった。

大学院の女子寮

やく彼女を捕まえてお礼を告げることができたの は、一年後の卒業式だった。彼女は学位記を抱え私 に満面の笑顔を返してくれた。 博士課程には、ソウル大学校出身の男子留学生 も在籍していた。理論言語学の領域で、中国語、韓 国語、英語を対照し、頭脳明晰、立ち居振る舞いも スマートで後輩たちのあこがれであった。教授陣に も食い下がり持論を譲らない頑固さもあり、キャン パス内を足早に颯爽と歩く姿には韓国エリートのプ ライドが垣間見られた。夏休みが終って新学期が始 まる頃、その彼がとても美しい女性と一緒にキャン パス内を歩く姿を見かけるようになった。長い髪が 揺れ、エレガントな彼女と長身のカップルは遠くか らでも人目を引いた。夏休みに韓国で結婚式を挙げ 新妻を連れてきたのだった。年に2回長い休みに帰 国するたびに一日12時間のデートを連日行い、人 生観や価値観について十分に理解し合った上で結婚 を決めたのだという。博士候補の資格試験のために 日本語を勉強したいということで、彼と奥さんに週 一回日本語を教えることになった。大学近くのカフ ェで仲睦まじいカップルと時をともに過ごすこと は、学究生活に明け暮れる私にとって数少ない癒し のひと時であった。 台湾ではほかにも様々な韓国人留学生との出 会いがあった。韓国語ができない私にとって彼ら との共通語は中国語であった。母語でなくても共 通語があれば分かり合える。日本に帰国してから は、韓国の人々とふれあう機会が少なくなったよ うに思う。台湾では韓国人も日本人も外国人留学 生であり、孤独と厳しい学究生活を体験する仲間 として、互いに思いやり歩み寄れる関係だったの かもしれない。 韓国の文化と芸術 65


料理物語

白菜が無かったらキムチは どうなっていただろう

中国が原産地の白菜はキムチの主材料であり、17世紀、韓半島で栽培され始めてから現在にいたる まで韓国人の食卓に無くてはならない栄養供給源だ。同じアブラナ科に属する他の野菜より相対的 に低評価されているが、実は白菜はなかなか有益な野菜だ。 パク・テギュン 朴泰均、高麗大学校食品工学科研究教授

66 KOREANA 秋号 2017


学校の教科書に掲載された詩人、羅 喜徳の詩『白菜の心』を読むと胸が 熱くなる。

「夏の間、畑の土手を通り過ぎるときに忘れなか った言葉/私は君のおかげで嬉しい/よく育ってく

よりも高い。 白菜は便秘と肥満予防に有効な食物繊維が豊富 で、他の野菜より柔らかく、熱を加えると容量が小 さくなるという特徴がある。特に腸で発酵しガスを 排出することが少ないという点も目立っている。

れて嬉しく思う/晩秋の白菜の頭が縛られているの

白菜の効能に言及するときに最も強調される部分

を見ると/それでも丈夫に大きくなり中までぎっし

は、癌抑制効果が立証されていることだ。アメリカ

りだ」

のハーバード大学医学部研究チームが、1986年から 1996年まで医療従事者の追跡調査に登録された4万

詩的な想像力で白菜に人格を与えた詩人がいるほ

7000人の食習慣を調査し「白菜とブロッコリーの摂

ど白菜は韓国人に親しまれている野菜であり重要な

取が多ければ多いほど坊抗癌の発生リスクが低いこ

野菜だ。

とが分かった」と明らかにした。白菜の抗癌効果に

アブラナ科の葉野菜

対する研究は他にもいくつかある。韓国食品研究院

白菜は大根や唐辛子とともに韓国人が好きな3

食べさせた結果、白菜と大根を食べさせたマウスが

大野菜の一つだ。中国が原産地ではあるが、韓国白

一般の飼料で育てたマウスに比べて、肝臓がんの大

菜(Korean cabbage)という固有の品種もある。白

きさが半分ほど小さかったことが確認されている。

が肝臓癌にかかった実験用のマウスに様々な野菜を

菜の形態、すなわち葉の詰まり具合によって大きさ

「秋の白菜は扉をしめて食べる」という韓国のこ

が3段階に分類される。砲弾のように全体が固く詰

とわざがあるほどに、晩秋の白菜の味は絶品だ。そ

まった結球白菜、根の部分だけが詰まったものが半

れに消化も良い。水分量が95.6%にもなるほど多い

結球白菜、そして葉が詰まっていないものが不結球

からだが、このような理由から白菜は肉との相性も

白菜だ。この3種類の中で主に結球白菜と半結球白

とても良い野菜だ。

菜を栽培して食べている。この2種類が早く育ち収 あるためだ。そうかと思えば、一般人にはあまり知

昔は韓国人の冬の主食

られていない話だが、韓国の白菜はまた「ソウル白

キムチを買って食べる最近の若い主婦たちはどんな白

菜」と「開城白菜」に分かれる。「ソウル白菜」は

菜が良いのか分からないだろう。白菜は葉先までかた

背が低く葉の色が薄いのに比べて、「開城白菜」は

く巻きがしっかりしていて、ずっしりと重いものが良

相対的に背が高く色が濃いという差がある。

い。また葉は薄く柔らかで、根元の部分がしっかり詰

穫量も多く、貯蔵しやすく扱いやすいという長所が

葉野菜である白菜は植物分類上アブラナ科に属す る。アブラナ科の野菜には大根、キャベツ、ブロッ

家事のベテランである年配の主婦たちとは違い、

っていなければならない。外側の葉に黒い斑点があれ ば中までそのようになっている確立が高い。

コリー、カリフラワー、ケールなどがあるが、その

今とは違って、白菜が四季を通じて出荷されなか

中でも西洋人の食卓によくあがるキャベツとブロッ

った以前には、キムジャンの季節に合わせて秋に収

コリーなどは、すでにウェルビーングフード食品と

穫した。晩秋、霜が降りる頃に出回るのが一番おい

しての地位を固めている。しかし白菜と大根はその

しいからだ。この時期を過ぎると気温がさらに下が

効能を明らかにする研究が相対的に少なく、他のア

り葉が硬くなってしまい味が落ちる。

ブラナ科野菜に比べてまだきちんとその価値が認め

韓国人は白菜で汁物を作ったり、合わせ調味料で

られていないと言える。

和えたり、旬の秋や冬には、小麦粉をうすくつけて

味が良く栄養も豊富な秋の白菜

ジョンにして食べたりもする地域もある。特に慶尚

白菜は低カロリーで、思ったよりもはるかに健康

と言っても一番の用途はキムチだ。昔からキムチは

に良い食品だ。生の白菜は100g当たり12kcalでキャ

「半食糧」となっていた。冬の季節は新鮮な野菜が

ベツや赤キャベツの半分の水準で非常に低い。茹で

手に入らないので、キムチはビタミンCなどの必須栄

たり塩漬けにしても14kcalに過ぎないので負担にも

養素を摂取できる、ほぼ唯一の供給源だった。特に

ならない。ナトリウムは11mg入っており、18㎎含有

他の食べ物を摂取することの困難な貧しい庶民にと

しているキャベツよりも低い、身体の抵抗力を強化

っては、より一層大切な食糧だった。

させるビタミンAの含有量は263IUで98IUのキャベツ

道地域でよく食べられているメニューだ。しかし何

このようにキムチが韓国人にとって大切なおかず 韓国の文化と芸術 67


なので「キムジャン」という独特な文化が生じた。

17世紀の頃だと言われている。キムチを漬けはじめ

キムジャンは立冬を前後して長期間食べるキムチを

たのは18世紀だと推定されるが、今日のような唐辛

一度にたくさん漬けて、貯蔵する古くからの伝統

子粉で味付けした真っ赤な辛い白菜キムチが登場し

だ。一人でキムジャンをするのは大変なので、キム

たのは18世紀以降のことだ。唐辛子が白菜よりも後

ジャンの季節になると村の主婦たちが互いに助け合

にこの地に伝わったからだ。18世紀以前には塩水だ

って行っていた。キムチの味を決定するのは白菜な

けで白菜を漬けていたのだろう。

ので、キムジャンの季節に良質の白菜を確保するこ

最近の韓国人が食べているような白菜キムチが登

とは主婦の課題だった。キムチを漬けるとき、材料

場した18世紀は、朝鮮の経済活況期にあった。主食

の配合比率はそれぞれの地域と家庭ごとに基準が千

の米の消費量が増えるとともに、それと相性の良い

差万別であり、それにより味もまたさまざまだ。ま

白菜キムチも全盛期を迎えた。このみごとな組合せ

たキムジャンはアミの塩辛や生牡蠣、新鮮な魚など

は最近の調査でも依然として有効だ。檀国大学校食

を入れて漬け、ゆっくりと発酵させて食べるので栄

品栄養学科研究チームが2016年「食品と健康ジャーナ

養もより豊かだ。

ル」に発表した研究論文によれば、韓国人が一日に

韓半島で最近のような白菜が栽培され始めたのは

3回以上摂取する食べ物の1位と2位が米飯と白菜

1

68 KOREANA 秋号 2017


1. 白菜は汁物にしたり、或いは塩漬 けにした後にいろいろな材料を包む サムにして食べたりする。茹で豚と 生牡蠣を柔らかな白菜の葉で包んで 食べるポッサムは、現代の韓国人が 好んで食べる料理の一つだ。 2. よく発酵したキムチを食べやす い大きさに切り、器に盛る。白菜キ ムチはご飯を主食とする韓国人の食 卓に無くてはならない基本メニュー だ。

2

主食である米の消費量が増える とともに、相性のよい白菜キム チが全盛期を迎えるようになっ た。このみごとな組み合わせは 現在までも依然として有効だ。 白菜キムチはご飯を美味しく食 べるために発達したおかずなの で、米の消費量が減れば白菜キ ムチの需要もともにに減るもの と思われる。

キムチだった。しかし、食卓が欧米化するにつれて 肉類の消費は増加する一方で、米の消費量は減少を 続けている。白菜キムチは米飯を美味しく食べるた めに発達したおかずなので、米の消費量が減少すれ ば白菜キムチの需要もともに減るものと見られる。

西洋人が好きなキャベツ

西洋ではキャベツが韓国の白菜のように大切にさ

れている。「貧しい者にとってキャベツは医者」とい うことわざを持ち、オリーブ、ヨーグルトと共に3大 長寿食品に上げられており、価格も安いのでそんな話 が生まれたのだろう。キャベツはギリシャの哲学者デ ィオゲネスが好んで食べたと伝えられている。好事家 たちは、アレキサンダー大王に訓戒したとして有名な ディオゲネスが、非衛生的な環境の中でも90歳まで長 生きできたのはキャベツのおかげだという。キャベツ は白菜と同様に低カロリー、高カルシューム、高ビタ ミンCの食品だ。100g当たりの熱量は24kcalに過ぎずダ イエット中の人にも人気が高い。 一つだけ面白い点として、医療界でキャベツが高 い評価を受けているのは、ビタミンUの存在のためだ という事実だ。1949年アメリカスタンフォード大学 研究陣は「キャベツの青汁が胃潰瘍の治療効果があ る」と発表した。一週間だけキャベツの青汁を摂取 しただけでも潰瘍が治ったが、それを可能にする物 質がビタミンUだという説明だ。ビタミンUは後にア ミノ酸の一種のグルタミンだと明らかになった。人 口調味料の主原料であるグルタミンは胃腸管内の細 胞の再生を助ける役割をする。最近ではキャベツが 抗癌食品、骨折予防食品として期待を集めている。 韓国の文化と芸術 69


ライフスタイル

シェアハウス

見知らぬ隣人との理由ある同居 シェアハウスという共同生活スタイルが注目されている。主に一人暮らしの大学生や会社員にとって経済 的˙情緒的に一助となる臨時の住居形態が、いまや一人暮らしの高齢者のための福祉の代案としても活用 されている。また一方で、見知らぬ隣人と住居空間を共有するこの新しいライフスタイルが、不動産市場 にも影響を与えている。 キム・ドンファン 金東桓、世界日報記者 田財浩 写真

ソウル東大門区踏十里にあるシェアハ ウスで入居者たちがそれぞれの時間を 過ごしている。この家は共同住宅専門 業者「シェアハウス宇宙」が運営して いるもので、個人の空間と共同の空間 が適当に配分されている。

70 KOREANA 秋号 2017


「こ

こに住んでいて良い点は、いつ帰

がそれぞれ使い、キッチンとリビングを共有する。

っても私を家族のように迎えてく

二人で一部屋を使うシェアハウスも多い。そのとき

れる人がいるということです。他

にはベッドとベッドの間をカーテンで仕切りをして

のシェアハウスは分かりませんが、ここは入居者同

最小限のプライバシーを保証する。家主から一部屋

士、とても仲がいいんです」。

を借りて暮らす下宿屋とは違い、シェアハウスは賃

ソウル暮らしをはじめて2年目という20代後半

借人だけで暮らすので管理と運営まで担当すること

の会社員のキムさんは、シェアハウスで暮らしてい

になる。

る。彼はここでの生活に満足している様子だ。共同

孤独の解消は長所、感情の衝突は短所

生活スタイルのシェアハウスに対する感想をたずね ると、肯定的な答えが続いた。

ソウル梨泰院にあるシェアハウスに暮らす30代の

「たまに外でビールを一緒に飲んだり、映画を

会社員のキムさんは「入居後、寂しいとか孤独だと

見て帰ったりします。個室という一人だけの空間が

思ったことはありません」と言う。人々がいつも隣

あるのでプライベートの時間をもつこともできます

にいるので精神衛生に良いというのが彼の説明だ。

し、共有スペースのリビングやキッチンで、他の入

彼が暮らすシェアハウスには男性だけ8人が暮らし

居者と一緒に料理をしたり食事をしたりしていると

ている。

精神的にも落ち着きます」。

彼は「胸に秘めていた話も出来るほどに親しくな

一人暮らしの増加が触発した住居スタイル

った」とし、「男だけの生活の何がそんなに面白いの

統計庁の「将来の世帯推計:2015-2045年」に

いな雰囲気です。今後、どんな生活になるか楽しみ

よれば、2016年の韓国の一人暮らしの世帯はおよそ

です」と語る。これまでの人生経験が違うので、一

530万世帯、これは世帯全体のおよそ28%に該当す

緒に暮らすだけでも多くのことを新しく知ることに

る。2006年におよそ338万世帯水準だった一人暮ら

なり、間接経験で得られるものが多いとキムさんは

しがこの10年間に1.5倍以上増えたことになる。保険

言う。

かと思われるかもしれませんが、意外と和気あいあ

研究院は「韓国の世帯構造の変化に伴う社会的・経

ソウル銅雀区上道洞のシェアハウスに住む大学生

済的な影響」という報告書で、2045年には一人暮ら

たちは「行って来ます」「ただいま」と言える相手が

しの世帯の比率が全世帯の36.3%に拡大すると予測

いることだけでも嬉しいと口をそろえる。母や父に

している。

していたように愚痴や悩みを口にできる人が同じ空

一人暮らしの世帯が大きく増え「一人飲み」「一 人ご飯」は今や見慣れた社会現象となった。さらに

間にいて安心するといい、互いに助け合い頼りにし ていると強調する。

一人暮らしのライフスタイルに合わせた住居トレン

しかし短所もある。馬が合う人同士なら黙ってい

ドも新たに形成されている。一人暮らしを対象にし

ても面白いだろうが、考え方や生活習慣が全く違う

た小型アパートやオフィステルが人気を集めている

人と一緒に暮らせば、家に帰るのが憂鬱になるとい

一方で、ここ数年の間にシェアハウスが大きな注目

う副作用が起きることもある。他人が自分の持ち物

を浴びている。

に触ってもなんとも思わない人がいるかと思えば、

シェアハウスは賃貸料の高騰にともなう経済的な 負担を何人もの人で分け合い、孤独や不便性など一

笑って済ませられることでも大声をだして言い争い になる人もいる。

人暮らしの問題点も解消するために登場した住居形

ソウル新村にあるシェアハウスで暮らす20代の女

態だ。入居者数で公共料金、生活費などを分担する

性カンさんは「感情の消耗」がシェアハウスの最も大

ので、一人で負担するのに比べて日常的な経済的負

きな短所だという。冷蔵庫にあったものが無くなっ

担が減るといえる。そのため入居の審査過程を問題

ているとか、掃除当番が掃除をしない場合、誰かが

なく通過すれば周辺の住宅よりもはるかに安い費用

代わりにしなければならないなど、頭にくることも

でより快適な暮らしができることになる。

多いという。それぞれ役割があるのに責任を果たさ

シェアハウスは一人一部屋が普通だ。個室は各自

ず、いちいち調整しなければならず、その過程で互

韓国の文化と芸術 71


住居スタイルに対する好みは人それぞれだ。それでシェアハウスの専門会社 では、韓国伝統家屋風やヨーロッパ風など多彩なスタイルと室内インテリア で差別化を図っている。最近では最初からシェアハウスを念頭において設計 されたマンションも登場している。

ンさんは言う。シェアハウスの中にはそのような問

不動産市場にも吹きはじめた変化の風

題点を減らすために細かな事前調査を通じて、好み

居者を募って専門的に管理する業者も現れた。共有

や関心事が同じ人だけが入居できるように制限する

経済の一つの形態としてシェアハウスが韓国で社会

ところもある。

的な関心を引き始めたのは2012年後半のこと。この

いに気分を害したり、けんかになることもあるとカ

シェアハウスが新たな事業領域として浮上し、入

ソウル聖水洞にあるシェアハウスの入居者た

時期に登場したシェアハウス専門業者の「シェアハウ

ちは、入居者間の不必要な摩擦を事前に防ぎ、互

ス宇宙(WOOZOO)」は、現在ソウル市内13の地域に合

いを理解するために毎月1回、会議の日を設けて

計52のシェアハウスを運営している。

いる。会議が終わった後には一緒に何かを食べた

この会社の資料によれば、これまでの入居者の累

り、酒を飲んだりして気まずい雰囲気を解消する

計は300人以上、その間入居を申請した人の数だけで

という。時には費用を集めてパーティーを開いた

も7千人近くになるという。シェアハウスに対する

りもするという。

関心の高さがうかがえる。満足度が高いおかげで既 存の入居者の再契約率も75%に達する。サービス業 に従事する30代初めの男性は、この会社が紹介した シェアハウスに2年以上住んでいるという。彼は「追 い出されない限りこのままシェアハウスに住み続け

1. 入居者たちは掲示板を通じて互いの日程を共有するこ とで、日常の不便さを解消している。 2. 入居者たちが集まり食事をしている。シェアハウス は住居費用の節約と情緒的な連帯感を併せ持つという メリットを備えた、新しい住居形態として関心を集め ている。

たい」と言って笑いを誘った。 住居スタイルに対する好みは人それぞれだ。そ れでシェアハウスの専門会社では、韓国伝統家屋 風やヨーロッパ風など多彩なスタイルと室内イン テリアで差別化を図っている。そのおかげでそれ ぞれの好みと関心を引く家を選ぶことができる。 伝統韓屋形態のシェアハウスは主に外国人に人気 があるという。 最近では最初からシェアハウスを念頭において設 計されたマンションも目につく。シェアハウスが新 たな収益型不動産として浮上している結果だ。シェ アハウスはマンションの方が一戸建てより管理と保 安面で有利であり、コミュニティー施設も使用でき るという長所がある。 不動産業界の専門家は「シェアハウスはワンルー ム水準の賃貸料でより良い生活をしたい入居者と、 保証金よりも家賃を好む貸主の需要がマッチした構

1

72 KOREANA 秋号 2017


2 © Sharehouse WOOZOO

図です。今後不動産市場で高成長が予想される」と分

だ。京畿道が運営するシェアハウスは市中の賃貸

析している。

住宅の保証金の30-50%の水準で、「Hugシェアハウ

福祉政策の一環としても一役買う

ス」は周辺の賃貸料の60%の水準で部屋が借りられ

シェアハウスを金儲けの手段としてのみ考えると、

とっている。

不動産市場に変化を巻き起こしていると言っても

る。さらに「Hugシェアハウス」は就職コンサルティ ング、就職能力強化費用の支援プログラムの形態も

誤算を生じる。自治体が福祉政策の一環としてシェ

単純に家を共同で使用するという実用的な基本概

アハウスを活用しているからだ。例えば京畿道では

念から抜け出し、世代間の疎通を助ける方式に変形

産業団地で働く青年労働者と大学生の住居負担の解

したシェアハウスもある。ソウル市が運営する「一つ

消のためにシェアハウス70世帯を試験的に供給して

屋根の下の世代共感」がそのケースだ。高齢化問題と

いる。国土交通部傘下の公共企業体である住宅都市

青年たちの住居問題を同時に解決するための事業と

保証公社も「Hugシェアハウス」という名前のシェア

して、住空間に余裕のある高齢者が大学生や大学院

ハウスを運営している。就業準備中の大学生が対象

生に安く部屋を貸す方式だ。保証金が無い上に、学

で、ソウル城東区にある1次「Hugシェアハウス」は

校の近くで暮らせるとあって学生たちにも吉報とい

入居を完了した20人が暮らしている。

えよう。高齢者は高齢者で寂しさを紛らすことがで

自治体や公共企業体が運営するシェアハウスは、

き、良いことずくめだ。

家賃が周辺の住宅よりも安いことが大きなメリット

韓国の文化と芸術 73


韓国文学の旅

作家評

短い恋 長い物語

チェ・ジェボン 崔在鳳、ハンギョレ新聞記者

ム・ヨンス(金衍洙)は知的な作家だ。作家 というのは文章を書いて暮らす存在なので、 作家で知的でない人はいないという、そんな

言葉は当たり前の同語反復なのかもしれない。しかしここで言 う「知的」というのは、豊かな読書と深い思惟の痕跡が作品に 表れているという意味で理解して欲しい。 金衍洙のデビュー作は、1994年に発表された長編小説『仮 面を指して歩く』だ。『作家世界』という文学誌の賞を得たこ の作品は、1980~90年代の韓国社会と文学界で流行していたポ ストモダニズムの影響を色濃く反映している作品だ。実験的で 挑戦的ではあるが、20代初めの若者らしい稚気も残っている。 デビュー後、金衍洙は初期に見せた過激と実験とは距離を おき、自分の形式とスタイルを開拓していった。しかし、ポス トモダニズム的な世界観を完全に振り落とすことはできなか った。彼は真実と嘘、事実と虚構、現実とテキストの間の境界 を問題として、あるいは小説というジャンル自体に対する懐 疑と探求に没頭した。題目から時事的な小説集『私は幽霊作家 です』、1930年代に活動していたモダニズム作家イ・サン(李 箱)の存在しない作品を中心に本物と偽物の区分、作品と人生 の相互的な関係などを深く追及した長編小説『グッバイ、イサ ン』などにそのような作風が見える。 金衍洙のもう一つの特徴として「国際的な感覚」をあげる ことができる。彼は作家にしては極めて海外旅行を楽しみ、 ポップ音楽に造詣が深く、レイモンド・カーヴァー(Raymond Carver)のような外国の作家の小説を翻訳したこともある。同 じようにカーヴァーの作品を何冊も翻訳している村上春樹のよ うに金衍洙もマラソン好きだというが、別にそれを意識してい るわけではないだろう。 『4月のミ、7月のソ』にも外国の地名と外国人が登場す る。しかし2000年代以降、韓国の小説には外国人と外国の空間が

74 KOREANA 秋号 2017

© 李天照

たびたび登場するようになった。だからこのような点を根拠に金


「4月のミ、7月のソ」という個性的な題目の短編小説は、主人公の叔母で ある韓国名チャ・ジョンシン、米国名パメラという二つの名前を持つ女性の 話だ。「チャ・ジョンシン」と「パメラ」という名前にはそれぞれたくさん の物語が含まれており、二つの名前の中には幸福と不幸、苦痛と癒しが交差 する時間が隠れている。

衍洙の国際的な感覚を言及することは、もしかすると幼稚なこと

「パメラ・チャ」として新しい人生を歩み始める。ポールと出

かもしれない。ともあれこの作品には主人公の「僕」の叔母であ

会い、愛し合い結婚までしたが、彼に対する愛情は、チョン監

るチャ・ジョンシンがアメリカに行き「パメラ」という名前でポ

督の存在を完全に消し去るほどではなかったようだ。それが初

ールというアメリカ人男性と結婚し、その夫婦が暮らすアメリカ

恋と二番目の恋の差のせいなのか、そうでなければ挫折した恋

南部フロリダの海岸の村セバスチャンが出てくる。

と結ばれた恋の差なのか、或いは二つの理由がどちらも当ては

「僕」は恋人に会いにニューヨークに行き、そのついでにセ

まるのか、読者には分からない。誰にも他人が侵すことのでき

バスチャンまで行き叔母に会う。「僕」は「ペム叔母さんが聞か

ない、正確な観察さえも不可能な深淵のような内面があるから

せてくれたさまざまな話が、僕たちの結婚に大きな影響を与えた

だ。ただハネムーンのような初恋の場所だった西帰浦を忘れら

ことだけは事実だ」と述べている。だからこの小説の本当の主人

れない叔母に、癌で死を目前にしたポールが死ぬ前に西帰浦に

公は僕の叔母で、「僕」は叔母の話に影響を受けて、さらにその

一度どうしても行きたいと言ったという話は胸を痛くする。

話を読者に聞かせているメッセンジャーというわけだ。

ポールが地球の裏側の韓国の南端西帰浦にどうしても一度

「だから死ぬ瞬間に最後に見ることになる顔が普段愛した

行って見たかったという理由は「地形の形態はどうなのか詳し

人の顔ではなければ、その人がどんな人生を生きたにしてもそ

く調べて、都市の全般的な感じはどうか見ないと、そこで生

れは不幸だという他ない。だから無条件に結婚をして、その次

まれ変わることができない」という考えのためだ。こんな考え

には子供を産んで、私が言いたいことはそれが全部だよ」。

は東洋的な輪廻観を誤って理解したところからはじまっている

これが叔母が聞かせてくれた話の核心だが、叔母自身の辛 い経験に裏付けられた言葉なので力を持っている。小説は年を とった叔母が人生に対してこんな結論を出した経験談とその後 の話で構成されている。

が、どちらにしろ彼は死んだ後にもまた叔母に会いたいと願っ ていた。 ポールが死んだ後、叔母はアメリカ暮らしを辞めて西帰浦 に永久帰国する。しかし叔母が西帰浦に戻ってきた本当の理由

若い頃とても美しい女優だった叔母は、自分が出演した映

は、チョン監督との思い出をかみ締めるためだったのだろう。

画の監督だった家庭のある男性と愛の逃避行をしたことがあっ

西帰浦で暮らす叔母のもとにある日、チョン・キルソン

た。彼らの行った先は済州島の西帰浦だった。二人は海の見え

監督の息子のチョン・ジウン監督が訪れる。叔母の夢は生涯

るトタン屋根の家で暮らし、ある日、監督の奥さんが子供を連

愛した人の顔を見ながら死を迎えることだ。若い頃すでにチ

れて現れ、3カ月間の関係に終止符を打つ。

ョン・キルソン監督と別れてしまったので、その夢は永遠に

叔母はトタン屋根から落ちる雨音を「私たちが暮らし始め

果たすことができないという点で叔母は不幸だと言えよう。

た4月にはミだったのが、だんだんと高くなり7月になったら

しかし自分の愛した人とそっくりな息子との出会いを通して

ソくらいにまで高くなっていた」と描写した。そして「その3

得た「愛すべき人を愛した」という確信は叔母に大きな慰め

カ月間、夜には監督の腕の中で雨音を聞きながら横になってい

となっただろう。

た」と回想する。 愛する男をその妻のもとに返し、お腹の中の子供も家族の 強要で堕胎した後、チャ・ジョンシンは単身でアメリカに渡り

こんな風に、恋は過ぎ去り、愛した人たちも今や死んでし まっていないが、物語は終わらずに続いていく。物語はいつま でも生きている。 韓国の文化と芸術 75


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