Koreana Autumn 2010 (Japanese)

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韓国の芸術と文化

Vo l . 1 7 , No . 3 秋 号 2 0 1 0

韓国における スマートフォンの 時代 ISSN 1225-4592 1016-0744


韓国の美

花 塀

© 安洪范

面をいろいろな模様で美しく装飾した塀を

力となっている。作り方はまず土で図柄を製作した後

コッタム(花塀)という。朝鮮時代の宮廷の

で焼きあげ、それを一定の位置にはめ込んでいく。さ

塀、寺刹の塀、そして民家の塀などにさま

らに文字や模様はいろいろな色彩のレンガを形状にあ

ざまな表情の花塀がある。その中でも傑作といわれる

わせたモザイクのような方法がとられている。

のが朝鮮時代の正宮である景福宮慈慶殿の西側外壁の

宮廷の花塀は名も無い匠人らの共同作業による

花塀だ。慈慶殿(チャギョンジョン)は王の母親・大妃

作品だ。塀の基本単位であるレンガを見栄え良く模様

をはじめとする宮廷の女性たちの住まいとなってい

を彫る仕事は瓦署に属する瓦職人がした。浮き彫りの

た建物だ。壬申倭乱(文禄の役)により焼失した景福

下絵は絵と図案に長けた図画署の画員が担当した。ま

宮を高宗元年(1865)に高宗の父である興宣大院君が

たレンガとレンガの間は、土、黄砂、生石灰を同じ比

再建した際、高宗の母・神貞翼王后のために建てられ

率で混ぜ合わせたものを固めて作った三華土で埋めた

たものである。その後、再び火災で焼失し高宗25年

が、この作業は左官の役割だった。特にレンガの配置

(1888)に再建されて現在に至っている。

のバランスをとりながら、全体模様を構成していく作

慈慶殿の花塀は朱黄色のレンガで築造された基

業は、高度な技術を備え経験豊かな左官が動員され

盤の上に花や鳥、吉祥を表す模様と文字で華やかに装

た。花塀が完成した後、レンガの表面に色をつける工

飾されている。梅、青葡萄、牡丹、菊、竹、ざくろな

程は画員、もしくは専門家である丹青匠が担当した。

どを描写した花草模様を真ん中に配置したものや、篆

ソウル市は最近、景福宮慈慶殿の花塀の色を「ソウル

書体の万、寿、福、康、寧のような漢字の一文字を一

を代表する10のカラー」の一つに選び、「花塀黄土色

組にして配置したものなどが基本的な構図となってい

(ソウルオレンジ)」という呼称をつけた。ソウルの街

る。この花塀には大妃の長寿と健康、王室の繁栄を願

で、この色のタクシーをときどき目にするが、ソウル

う意味が込められている。蝶が舞い遊んでいる様子を

市は今後市内のすべてのタクシーをこのカラーにして

描いた生動感に満ちた花草模様はこの花塀の一番の魅

いく計画だという。(翻訳:金明順)


韓国の芸術と文化

Vol.17, No.3 秋号 2010

韓国統計庁の公式集計によると韓国の 移動電話の普及率は2010年3月に100%を 超えた。1984年移動通話サービス開始から 26年目のことで、この数値は携帯電話利用者の 低年齢化、複数台もの携帯電話を保有している 加入者が増加していることを意味する。

8

16

24

32

韓国における スマートフォンの時代 44

8 モバイル、そのダイナミズムと不安のはざまで 金贊鎬 16 韓国のモバイル産業 趙亨來 64

24 韓国携帯電話技術の進化史 金東石

78


32

発行 韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル Tel : 82-2-2151-6544 Fax : 82-2-2151-6592 www.kf.or.kr

文化フォーカス

ノスタルジックなソウルに出会う本

| 権爀爀 爀 煕

38 インタビュー 陶芸家・黄甲淳-21世紀版の朝鮮陶工

発行人 金炳局 編韓理事 金成燁 編集長 金鍾徳 監修者 嘉原和代 編集諮問委員 金文煥,金英那,金華榮,鄭重憲 趙性澤,韓敬九,韓明熙

| 鄭亨模

44 巨匠 楽器は時代を盛る器-楽器職人・金僕坤 | 朴炫淑 50 傑作/名品 慶会楼-朝鮮乭王朝のもてなしの場

広告 CNC Boom Co,. Ltd ソウル市江南区大峙洞1008-1. タワークリスタルビル Tel : 82-2-512-8928 Fax : 82-2-512-8676

| 金奉建

54 文化イベント・レビュー 2010年の記念公演 | 金文換

編集 金熒允編集会社 ソウル市麻浦区西橋洞384-13 Tel : 82-2-335-4741 Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr

60 世界の中の韓国人 囲碁界のパイオニア-プロ棋士・李乭世乭乭9段

印刷 三星文化印刷 ソウル市城東区聖水2街274-34 Tel : 82-2-469-0361~5 Fax : 82-2-461-6798

| 陳在昊

64 オン・ザ・ロード 海南 海に抱かれた地の果てタンクッマウル | 金熒允 72 料理 カジソン(ナスの肉詰め)| 李鐘任

Koreana ホームページ http://www.koreana.or.kr ©© 韓国国際交流財団2010 〈Koreana〉に掲載されているすべての記事 の著作権は韓国国際交流財団に帰属し、 著作権法により保護されています。 〈Koreana〉の記事を転載する場合には、 事前に〈Koreana〉編集室に電子メール (koreana@kf.or.kr) かFAX(82-2-34636086)で転載許可を申請してください。 〈Koreana〉の記事を引用したり 、非営利目 的で使用する場合にも〈Koreana〉からの 転載であることが分かるようにクレジッ トを明示してください。

76 遠くの目 馬耳山のお堂の壁画 | 小峯和明 78 暮らし 高齢者のための生涯教育 | 那秀昊

掲載された記事は筆者の個人的な意見で あり、〈Koreana〉や韓国国際交流財団の公 式見解ではありません。

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韓国文学の旅

李李承雨

話し手の運命、李承雨の『チョンギス・語り部物語』| チョンギス・語り部物語

| 翻訳 金明順

李守炯

1987年8月8日文化観光部-1033で登 録された季刊誌〈Koreana〉は英語、中国 語、フランス語、スペイン語、アラブ語、 ロシア語、ドイツ語でも発刊されています。


韓国における スマートフォンの時代 携帯電話の進化が現代人の日常生活をリードしていることは世界的な現象であるが、韓国社会 においてその現象は少々特別である。携帯電話が韓国人の日常生活において、どのように機能 しているのかを紹介し、世界的な水準での競争力をもつ韓国の携帯電話産業を考察してみる。

Autumn 秋号 2010 | Koreana


モバイル、 そのダイナミズムと 不安のはざまで 韓国人の携帯電話の使用時間が世界で最も長いことが明らかになった。ドイツに比 べ二倍程である。韓国人が移動通信にここまで熱狂し執着する理由は何であろう か。携帯電話が有する即興性は、時にとてつもない力で社会を動かしたりする。 キム・チャンホ(金贊鎬、聖公会大学校教養学部教授) 写真 : 金容喆

『U

.S. News & World Report』誌は、2007年3月18日付

た。それがもたらしたもの、とりわけ生活と社会の変化はと

けの誌面において「彼らはどのような面で勝っている

てつもなく大きい。皆が携帯電話を所持しているということ

のか」と題する特集記事を掲載した。アメリカは世界最高の GDPを誇り、かつノーベル受賞者を最も多く輩出したが、他

を前提に物事が進む。 うっかりしてそれを家に置いて出てきた日には、一日

の国から学ぶべきことは今なお多いという内容が書かれてい

中不安であり、時として業務に重大な支障をきたす。今や、

た。例えば、ブータンは喫煙率が最も低く、ドイツとオラン

携帯電話なしでは日常生活、それ自体が成立するのが難しい

ダは自転車の通行のための道が安全で、アフガニスタンでは

ほどである。ある移動通信の広告のキャッチフレーズのよう

客人を厚くもてなすというように、様々な国の長所を挙げて

に「生活の中心」となったのである。韓国人にとって携帯電話

いる。そこには韓国も含まれていた。携帯電話を非常に多様

は、あたかも義肢、または神経網の一部を移植した電子チッ

な用途で使用するという面において、日本と共に最高水準に

プのようだと疑うくらい、身体に密着しており、頻繁に稼働

達し、アメリカのブロードバンド通信網より速い速度で携帯

する。講義や映画が終わるやいなや、互いに申し合わせたか

電話のネットワークを使用することができる国として韓国が

のように一斉に携帯電話を操作しながら出てくる姿をよく見

選ばれたのである。

かける。 韓国人がいかに携帯電話に依存しているのか、それは

生活必需品となった携帯電話 韓国の携帯電話の加入者数は、2006年11月に4千万人

外国人の目には奇異に映る姿に今更のように気づかされる。 KBS放送の「美女たちのおしゃべり」という番組でドイツの女

を突破、2009年10月の統計では4千7百70万人を突破した。

性、ミルヤさんはこのようなことを言った。「食堂や飲み屋

1996年CDMA技術を常用化し、本格的な普及が始まった当

に行くと、真っ先に携帯電話を取り出して、テーブルの上に

初は加入者数が300万人を少し超えていたので、10年目に13

置きます! 決まってそうです! それに、授業中に学生が電話

倍以上に増加したことになる。今や国民のほとんどがいつで

に出るのを見た時、本当に驚きましたけど、教授も講義中

もどこでも互いにコミュニケーションできるご時世となっ

に電話に出るんです。また、ご飯を食べている最中に、前

サムスン電子の本社がスマートフォン「ギャラクシーS」の出荷に合わせ、 建物前の歩道に設置した大型広告物。 Koreana | 秋号 2010


Autumn 秋号 2010 | Koreana


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1 鉄道庁が韓国通信と提携し、主要KTX駅舎に設けた無線ラン(Wi-fi) ゾーン。 2 SKテレコム顧客体験コーナー。最新の携帯電話と多様な コンテンツを誰もが自由に体験できる空間。

に座っている友達が5分おきにSMS[訳注:携帯電話文字メッ

入力早打ちコンテストをすると韓国人が常に1位をとるが、

セージサービス、Short Message Service]を送っているんで

これは手の器用さだけでなく、文字自体の特性にも起因す

す。気になってしょうがないし、イライラします」

る。 SMSが多く使われるもう一つの理由は、生活環境にあ

SMSの使用頻度の高さ

るといえよう。青少年は多くの時間を学習塾や予備校で送

韓国人は携帯電話の使用においてSMSの送受信の頻度

る。家に帰ってからも勉強しなくてはいけない。友達と自由

が他の国の人に比べ非常に高いほうである。フィリピンも同

にしゃべれる余裕など、なかなか与えられない。このような

じだが、それは通話料が驚くほど高いからである。韓国は違

状況の中、携帯電話はありがたい捌け口となり得る。体は拘

う理由からだ。まず、ハングルという文字は非常にデジタル

束されているが、心は空間の制約を離れ、ありとあらゆる人

コンテンツと親和的である。韓国の携帯電話のボタンを見て

とコミュニケーションを取ることができる。授業中にこっそ

みると、すぐに確認できるが、10個を若干超える数の文字が

りSMSを送信することができ、家でも自分の部屋の中で「完

配列されている。ハングルは、文字すべてが26個の子音と

璧な沈黙」に包まれ、友達と無限に対話することができる。

母音のモジュールで構成されているが、中でも母音はいくつ

これは青少年だけに限られた現象ではない。物理的に一緒に

かの簡単な記号の組み合わせであり、子音も簡単な操作で相

いなければならない人とは疎通したくないが、意思疎通をし

互に変換することができる。ゆえに英語のアルファベットよ

たくても実際にそばにいない時、ひとはSMSを送信し、自分

り格段に速く文字を打つことができる。実際に携帯電話文字

宛に送られたSMSに喜ぶ。

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スマートフォンが普及するにつれ、生活に便利な様々なアップストア[訳注:App store]のプログラムを活用する楽しみ方が 広がった。特に、2千万人がひしめく首都圏で暮らしているソウル及び京畿道の市民にとって、交通や飲食店、映画館などに 関する情報を効率的に入手できることは、人生の質を高めてくれるといえよう。

文化的背景と携帯電話 もちろん全体的にみるとSMSに比べ、音声通話がより

り「私たち」が優先される。人と交じり合いながら生活するこ

多く使用されている。韓国人の携帯電話の使用時間は世界で

とで心が安まるのが韓国人の一般的な社会心理である。プラ

最も長いことが明らかになった。ドイツに比べ、二倍程であ

イバシーの境界が曖昧である。それで携帯電話の番号も誰に

る。韓国人が移動通信にここまで熱狂し執着する理由は何で

でも気安く開示する。社会団体主催の研修会で発行された資

あろうか。韓国の携帯電話は、どのような背景から爆発的な

料集を見てみると、参加者の名簿と共に携帯電話の番号が記

伸張ぶりを見せたのであろうか。ソウル大学校の生命科学部

載されているのをしばしば目にすることがある。大学生がア

ホン・ソンウク教授は、著書『ネットワーク革命、その開かれ

ルバイト先を探したり、サークルの会員を募集する案内状

たものと閉ざされたもの』で次のように分析している。「他国

を、至る所で見かけることができるが、そこにも自身の電話

に比べ、特に、韓国でポケベルや携帯電話が急速に普及した

番号を堂々と書き記す。

のには、1990年代に入り、急速に共同体が崩壊するという

個人間の境界が明確でないのは、韓国のみならず村落

経験をした人たちが、技術的通信手段を用いて、今なお他人

共同体や定着社会の普遍的な傾向であろう。ところが韓国社

とつながっているという思いを、確認することを渇望した文

会は過去半世紀の間、急速な変化を経験した。産業化と都市

化的背景がある。また、携帯電話の番号を私的なものという

化は全国的な人口移動を誘発した。農村から都市へと移住

より、誰にでも公開することのできる、公的なものと看做す

しただけでなく、都市内部でも非常に頻繁に居住地を移転

ような、プライバシーを物ともしない態度が一役買っている

する。職場も随時変える(新入社員の三分の一が一年以内に

ことも事実である」

退職する)。ある一定の場所に深く根を下ろすには、あまり

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1

韓国人は集団主義的な情緒が強いほうである。「私」よ


2

3

1 携帯電話売り場。移動通信関連の新技術開発により、韓国人の携帯電話の買い替え周期もますます短くなっている。 2 SKテレコムが2007年映像通話サービスを開始するなか路上での試演会を通じ、その活用方法を宣伝している。 3 ニューヨーク・マンハッタンのゴッサムホールで開かれた第1回「LGモバイルワールドカップ」授賞式シーン。世界最高の「親指族」(携帯のメールを素 早く作成し送信できる人)を選ぶこの大会では、去る1年間13カ国600万名が地域予選を行い、決勝戦では韓国チームが1位、アメリカチームが2位、 アルゼンチンチームが3位を占めた。

に流動的な生き方である。深い人間関係も築くことができな

とができるため、それだけ携帯電話の「価値」が高まるのであ

い。家族さえも各自、仕事や勉強に追われ、合間に交わす上

る。

面だけの常套的な対話に慣れ親しむ。

しかし、プライバシーに関する観念が弱いところが意

家庭、町、職場、学校、どこであれ、同じ場所に身を

外に長所として表れたりもする。それは、誰にも臆すること

置いている人と、より深いコミュニケーションを図るのが

なく自身を解放する美徳として発現されることである。一

難しい社会、生活の流動性(mobility)が急増する状況下でモ

つ例を挙げてみることにしよう。韓国には言葉の不便さを

バイルメディアは空間の制約を超え、人とのかかわりの回路

感じている外国人のために、電話で通訳を代行するボラン

を四方八方に広々と開いてくれた。近くにいる人と心が通じ

ティア組織がある。<BBB>という団体だが、「Before Babel

ないだけに、遠く離れた場所にいる人との交感に想いを募ら

Brigade」の略で、言語が分かれる以前の世界を志向すると

せる。そして、あらゆる縁故を使い、プライベートな人間関

いう意味である。2002年ワールドカップ開催を迎え、結

係を編集しながら、生存、そして出世しなくてはならない韓

成されたBBBには、現在、3700余名の奉仕者が17カ国の

国社会において、携帯電話はその「コネ」を堅固に繋ぐ輪とな

外国語の通訳を支援している。利用方法は簡単である。

る。端末機の中に内臓された電話番号のリストは、その持ち

1588-5644に電話をかけて、通訳が必要な言語を選択する

主が管理する人脈図をそっくりそのまま表している。

と、直ちに助けを得られる。奉仕者は、自らの時間の都合が

携帯電話が日常の必需品となり、社会に接続する絶対

つく時だけ、電話回線をつなげれば良いのである。

的なツールとなる中でオフライン空間に対する配慮が欠ける

興味深いことは、このような奉仕団体が韓国にだけあ

弊害もある。外国人が韓国を訪問した際に不慣れに感じるこ

るということである。いくつかの国で試みたものの、みな失

との一つが、電車のような公共の場所で携帯電話で通話する

敗したという。その理由は何であろうか。こうした電話通訳

人の姿である。自分と他人のプライバシーに対し敏感ではな

の活動に参加するには、自身の電話番号を公開し、いつであ

いので、誰が聞こうが聞くまいが極めて私的な対話を大きな

ろうと、どこにいようと、見知らぬ人からの電話に出る心の

声で交わす。韓国で携帯電話が急速に普及し、売り上げが桁

準備が必要だ。しかし、こうした不便さを甘受しようとする

外れに増えたのも、こうした文化に便乗したものと見受けら

人があまりいないということである。けれども韓国人はこう

れる。他国であれば、当然通話のできない高速電車の中でさ

した不便さを物ともしない。携帯電話は、家族や身近な知人

えも、事も無げに電話機を取り出し、大きな声で話をするこ

同士と言葉を交わす私的なメディアではなく、助けが必要な 秋号 2010 | Koreana 13


1 スペイン・バルセロナで開かれた移動通信専門展 示会MWC (Mobile World Congress)2010のSKテ レコムのブース。自動車と通信間の融合を強調 するために自動車を登場させた。 2 携帯電話にクレジットカード機能がついた 「smart pay」の決済場面

1

人であれば、誰もがつながることのできる、公共財のような

と相手は当然電話に出るものという前提、そしてSMSを送れ

ものと看做しているのである。

ば即座に返事(「Quick Back」)が返ってくるであろうという期 待が、数多くの誤解と不満を生む。特に、恋人同士の間では

即興性とダイナミズム

携帯電話のせいで不和が生じやすい。

このように韓国で携帯電話は、公的・私的な領域を行き

即興性は、このように様々な日常の些細な出来事を疑

来しながら、非常に頻繁に使用されるため、通話時間が徐々

心し、煩雑にしたりもするが、時として、ダイナミックなパ

に増えるのである。今や誰とでも、いつでも、どこでもつな

ワーで社会を動かしたりもする。ローソク集会は、2002年

がるので、あらゆる仕事の速度が増す。即興的な接続が可能

に初めて行われ、それ以降、特別な社会的論点に関する市民

な情報環境は、何をするにも素早く片付ける韓国人の心性に

社会の意見の表出方法として幾度となく大きな威力を発揮し

合致する。充分な時間をかけた上で物静かに計画し推進する

たが、携帯電話の媒介作用なくしては、あれほどの爆発力

よりは、とにかく仕事に着手するという性急さ、仕事を進め

を発揮するのは難しかったはずである。特に、SMSは同時に

ていく中で生じる錯誤はその都度、敏捷に修正し繕う卓越な

大量のメッセージを発送できるので、迅速な動員に緊要で

臨機応変さに対応するには、携帯電話は(インターネットと

ある。文化評論家のイ・ドンヨン氏は『文化部族の社会:ヒッ

共に)打ってつけのアイテムである。

ピーから廃人に至るまで』という本の中で、その情報メディ

しかし、携帯電話により日常の不安定性は更に加重さ

アのゲリラ的な性格を次のように分析する。「モバイルの

れる。約束の時間と場所は随時変更され、会う直前に取り消

SMSは、匿名の大衆にリアルタイムで情報を提供することが

されることも多々ある。何人かで数台の車に分かれて乗車し

できるという点で、インターネットメールサービスの機能に

外食をしに出かけるが、前もって食堂を定めずに走行しなが

比べ、遥かに機動力が強い。ゆえに、モバイルのSMSは、特

ら相談するなど、厄介なことがしばしばある。出発前に意見

に集団行動やイベントを効率的に広報する、新しい媒体の機

がまとまっていたのなら簡単であったはずなのに、どんどん

能を果たしている」

複雑になるのは、携帯電話へのつまらぬ依存のせいである。

携帯電話の政治的威力は、ツイッターと連携し、更に

同じように、携帯電話への過度な依存が心の不安を加重させ

驚異的な力を発揮することもある。2010年6月に施行された

たりもする。電話の電源を切っている間、誰かから大切な電

地方自治選挙で予期せぬ結果がもたらされたが、ツイッター

話が来やしないかと気になる。そして相手が続けざまに電話

に代表されるソーシャルメディアの影響が大きかった。投票

に出なかったら、待受け画面に表示された自分の名前を見て

率がとても低くなるとの予想とは裏腹に、15年振りに最高と

受信を拒否してはいないかと疑ったりもする。電話をかける

なる54%を記録したのは、若者の投票参加率の増加が決め

14 Koreana | 秋号 2010


てであった。野党を支持する若者たちは投票当日、出口調査

様々なアップストア[訳注:App store]のプログラムを活用す

結果をもとに、あと少しだけ票が集まれば勝つ見込みがある

る楽しみ方は色々だ。特に、2千万人がひしめき合っている

と、周りの友人に投票に必ず参加するよう呼びかけた。ここ

首都圏で暮らしているソウル及び京畿道の市民にとって、交

ではスマートフォンを所持していたツイッター利用者が非常

通や飲食店、映画館などに関する情報を効率的に入手するこ

に大きな役割を果たしたとされる。アメリカのオバマ大統領

とは、人生の質を高めてくれる。

の当選の時と同じような状況が韓国でも繰り広げられたので

携帯電話は徐々に魅惑的な力で人々の心をわしづかみ

ある。このような流れの中で政界では「モバイル政党」を標榜

にする。全てのスピードを高めてくれた。それは効率を増進

するなど、選挙戦略や遊説スタイルの変化を予告している。

させながら、同時に緊張を加重させる。そうでなくとも、圧 縮成長の恐るべきスピードのせいで、人生をゆったりと振り

機能の多様化

返り整理する意味空間が手狭というのに、モバイル通信が拡

いまや携帯電話はその機能が電話機だけにとどまらな

大されながら、業務の日常はより一層多忙を極める。そのリ

い。それはどこまでも個人的なメディアであるが、社会的な

ズムが手に負えなくなった時、私たちはそのゆとりのない時

意思疎通が広範囲に起きる通路と化している。瞬く間に大量

空間のどこかに休止符を打ちたくなる。しかし、まさにその

に複製され、伝達されるメッセージのモバイル増幅装置と言

欲望にすかさず応じられるのがまた携帯電話である。いつで

える。それにまた、既存のマスメディアとインターネット機

もどこでも自分が願う相手と接続可能なメディアが手中に入

能も持ち合わせている。人々が電車の中で携帯電話を熱心

ると同時に人々はお互いの周波数を合わせるのにせわしい。

に見ている姿がしばしば目につくが、SMSのチェックのため

その弱々しい波動は、心躍る交感の磁場でもありえるが、ま

だけではない。DMB[訳注:Digital Multimedia Broadcasting、

た意思疎通の不完全さをあらわす雑音でもあり得る。携帯電

日本のワンセグに相当]で様々な映像作品を鑑賞したり、イ

話は人生の秩序を配列し、人間関係を編集するメディアであ

ンターネットに接続し情報を検索するケースが次第に増えて

り、心の指紋を追跡する回路である。(翻訳:李美江)

いる。特にスマートフォンの普及とともに、生活に便利な

2

秋号 2010 | Koreana 15


韓国の モバイル産業 韓国の携帯電話産業は外国から部品を取り寄せて単純に組み立てるという水準か ら、わずか20年で韓国を代表するハイテク産業として成長を成し遂げた。現在、 ホットな話題のグローバルスマートフォン市場で新しい跳躍を模索中である。 チョ・ヒョンレ(趙亨來、朝鮮日報次長) 写真 : 安洪范

サムスン電子携帯電話デザインチーム

北龜尾のサムスン電子の携帯電話工場。ここはサムス

た見事であった。携帯電話の組み立て工程は、自動車や冷蔵

ン電子が最近出荷したスマートフォン「ギャラクシー

庫、洗濯機のような大型家電製品とは異なり、ベルトコンベ

S」をはじめとするサムスンの主力携帯電話をつくる生産基

ヤーを使わない。作業者1~3人が個別作業台の前で十余り

地である。ここではわずか5秒ほどで携帯電話一台を完成さ

の組み立て工程を一人で遂行するセル(cell)生産方式を採択

せることから、「5秒ライン」と名づけられた生産ラインがあ

している。セル生産方式の作業者の場合、各種部品がぎっし

る。1998年に一台あたり23秒かかった生産時間を、2005年

りと詰まっている携帯電話のメイン基板をケースに入れ、直

に世界最高水準である5秒に縮めたのである。このラインの

径2ミリメートルほどの小さなねじで5~6箇所を固定させる

検査工程の検査員たちはわずか5秒ほどで、携帯電話2台を

のに10秒とかからない。このように龜尾の工場では、年間

両手に持ち、キーパッドを押したあと、バイブモード、外観

5500万台の携帯電話を生産する。金額としては、実に18兆

検査、液晶画面の色合い、カメラモードの正常作動検査をチ

ウォンに達する。工場の規模だけを見ると、自動車や大型家

ェックする。検査員たちのあざやかな手さばきは、ほとんど

電工場の10分の1にもならないが、売上げの規模や収益性で

魔術師の域である。

は、国内製造業の中でも断然最高水準である。携帯電話工場

その他、組み立てラインの作業者たちの手の動きもま 16 Koreana | 秋号 2010

を訪問し、韓国人特有の繊細で手際の良さを発揮できる携帯


電話こそ、韓国人のDNAに最も適した産業と感慨にひたっ

向、政府のリーダーシップなどが絶妙の調和を見せながら、

た。

成長してきたものと評価できる。 実際に韓国の携帯電話産業は、わずか20年で外国から

部品を取り寄せて単純に組み立てるという水準を超え、韓国

CDMAの常用化

を代表するハイテク産業として成長を成し遂げた。サムス

韓国の携帯電話神話は1996年、世界初のCDMA(アメリ

ン電子とLG電子はモトローラやソニー・エリクソンなど錚々

カ式デジタル移動通信)技術の常用化が出発点である。サム

たるグローバル企業を差し置いて世界2位と3位にそれぞれ

スン携帯電話神話の主役、李基泰サムスン電子前副会長は

ランキングしている。特に、サムスン電子の世界シェアは

「韓国がCDMA技術方式を採用していなかったら、携帯電話

22%で、世界最高の携帯電話メーカーであるフィンランド

産業は今のような成長を成し遂げられなかったはずである」

のノキアを追い上げている。

と断言する。また、CDMA技術の常用化は海外の源泉技術を

韓国の携帯電話産業の進化プロセスを観察していると、 韓国人特有の企業家精神と勤勉性、新しいIT製品に熱狂する 韓国人気質、一寸の誤差も許さない韓国消費者の気難しい趣

受け入れ、韓国特有の瞬発力と応用能力で最高の製品を生み 出した韓国式革新の産物でもある。 韓国政府は1990年代のはじめよりアナログからデジタ 秋号 2010 | Koreana 17


18 Koreana | 秋号 2010


LG電子携帯電話の工場内部作業光景

ル移動通信への転換準備を進めていた。問題は「どのデジタ

在KTに統合)、LGテレコムなど、韓国の移動通信業者が大規

ル方式を採用するか」であった。当時、ヨーロッパではヨー

模な携帯電話補助金制度を展開、熾烈な加入者獲得競争を繰

ロッパのデジタル(GSM)方式が常用化され、その勢いが拡散

り広げたことも市場拡大の主要な要因といえる。

していた。しかし、韓国政府はアメリカの小さなベンチャー

その他の要因は、ITの新製品に熱狂する韓国の消費者で

企業に過ぎないクアルコムが源泉技術を保有していたCDMA

ある。韓国は世界的にも高価な携帯電話がたくさん売れるこ

を技術標準として採用した。当時の一部の言論と専門家たち

とで有名であり、携帯電話の買い替えの周期も1年6ヶ月と

は既に検証されていたGSM方式を採用すべきと批判したが、

非常に短いほうである。韓国の消費者は、携帯電話を自らの

韓国政府は通話の品質や周波数の効率性において、より優れ

ファッションセンスと見做し、新しい変化にいかに迅速に対

ているCDMAを選択するという冒険を敢行した。

応しているのかを測る尺度と考え、絶えず新しい製品を求め

この決定は、韓国主導のデジタル移動通信を常用化し、

る。こうした環境の中、韓国の携帯電話メーカーは多様なモ

国内の携帯電話産業を育成するという愛国心と全電子交換機

デルの携帯電話を市場に投入し、韓国の消費者を対象にテス

の独自開発に成功した自信感の表れであった。しかし、当時

トしたあと、海外へと輸出するビジネスモデルを有すること

の開発秘史を聞くと、途方もない失敗と苦難の連続であっ

ができた。わずかな欠陥をも見逃さぬ韓国の消費者の気質も

た。開発者たちは山岳の多い韓国の地域に適合した移動通信

相俟って、良い製品を生み出さざるを得ない土壌となったの

サービスを提供するため、全国を駆け回り通話状態の点検を

である。

し、クアルコムの開発者も1996年1月1日、常用化の日程に

最も代表的なのがサムスン電子初のテンミリオンセ

合わせるため、クリスマス休暇も返上し徹夜勤務をしたとい

ラー(1000万台以上販売された製品)のSGH-T100である。

う。

2002年に市場に投入されたこの製品は、サムスンの李健熙 韓国のこうした冒険は、1年も経たずに成功が立証され

会長のアイディアが反映された製品として、韓国では「李健

た。サムスン電子など国内の携帯電話メーカーは技術的に優

熙フォン」と呼ばれた。この製品がなぜ革新的かというと、

れているデジタル携帯電話を全面に押し出し、迅速に内需市

手のひらに収まるスリムなデザインのみならず、世界初のカ

場を掌握していく。1996年末、サムスン電子の国内シェア

ラーLCD画面を採択したというところにある。当時としては

は50%を越え、その反面アナログ携帯電話の時期に韓国市

値が張るカラーLCD画面を、携帯電話の画面に採択したこと

場を掌握していたモトローラのシェアは10%代に落ち込ん

について、疑問を投げかける声が大きかったが、サムスンは

だ。無線移動通信の元祖であり、当時の世界最高の携帯電話

国内はもちろん全世界的にカラー携帯電話旋風を引き起こ

の製造業者であったモトローラは韓国のCDMAへの転換を過

し、一挙に世界3大携帯電話メーカーとして浮上した。

小評価し、デジタルへの転換を躊躇、この決定的な失策によ り転落してしまったのである。

韓国には携帯電話の部品を手掛ける世界的に競争力の 高いメーカーが多いというのも核心要因である。たとえば、 携帯電話に組み込まれる半導体やディスプレイの場合、韓国

気難しい消費者と開発者の職人精神

のサムスン電子とハイニックス半導体、LGディスプレイなど

CDMAの常用化以降、国内の移動通信の加入者数は、爆

が世界1、2位を争うほど独歩的な競争力を保有している。そ

発的に増加した。常用化の最初の年である1996年318万人

れだけ国内携帯メーカーは海外メーカーに比べ、より精度の

から1997年683万人、1999年2344万人、2001年2905万人

高い製品をより速く生産することができる。

など、短期間の間に急激に成長した。SKテレコムとKTF(現

その他の成長要因は、韓国携帯電話開発者の瞬発力と 秋号 2010 | Koreana 19


1

韓国はすでに4年前に、全世界のどこにでもかけることのできる画像通話サービスを常用化している。それだけではない。 地上波放送を携帯電話で視聴できるDMB(デジタルマルチメディア放送)サービスを、2005年に世界で初めて開始した。更に凄いの はこのようなハイテクに関するサービスをスマートフォンではない、一般のFeature phoneを通じてやってのけた点である。 これは韓国の携帯電話の性能がそれだけ優れているという傍証である。

2

20 Koreana | 秋号 2010


1 アメリカ・ラスベガスで開かれた国際家電博覧会CESのLG電子ブース。 次世代移動通信サービス技術である、LTE(Long Term Evolution)を 利用した超高速データ転送を試演して見せている。 2 サムスン電子がスマートフォン「ギャラクシーS」 の利用者のために 運営している「ギャラクシーSアカデミー」 の授業光景。

職人精神である。端的な例として、ノキアなど海

2000年代の中頃、 3世代移動通信の常用化以

外グローバル企業が1年に30~40個の新しいモデ

降、韓国携帯電話の海外進出速度に更に弾みがつい

ルを市場に投入するのに対し、サムスン電子など

た。サムスン電子は、殊にスライドフォンである

の国内企業は毎年100個に近い新製品を世に送り

ブルーブラックフォンを市場に投入、1年目にして

出している。李健熙フォン以外にもスライド方式

1000万台以上を売りつくした。ブルーブラックフォ

を採用したブルーブラックフォン、新世代の趣向に 合う感覚的な色調のチョコレートフォンなど、トレン

ンは、販売価格が実に500ドルを上回る超高価フォン 3

であると同時に、当時はアメリカ・ヨーロッパなど先進

ドの変化に素早く対応する製品を作るため、韓国のエンジニ

市場における需要があまり高くなかった点を勘案すれば、と

アたちは徹夜勤務もいとわず献身的に仕事をする。李基泰サ

てつもない成功であった。ブルーブラックフォンは全世界的

ムスン電子前副会長もまた、世界最高品質の製品づくりを目

に「ブラック」熱風を引き起こし、ホワイトやグレーを主とし

指すため、携帯電話をわざと踏みつけてみたり、洗濯機に入

た携帯電話の色調においても革新を巻き起こした。ブルーブ

れて回してみたりと堅牢性テストを直接行ったという。李前

ラックフォンは、2005年「携帯電話のオスカー賞」ともいう

副会長は、海外移動通信業界のCEOと製品供給契約を行う際

べき3GSMの「最高携帯電話賞」を受賞、アメリカの経済専門

も、目の前で製品を壁に投げつけたあと、通話になんら支障

誌フォーチュンでは、ブルーブラックフォンの開発全過程に

ががないことを試演して見せ、協商をするほどであった。

関する分析記事を、フォーチュン75周年創刊特集号に掲載 したりもした。

世界的な携帯電話強国へと跳躍

LG電子は2005年以降、飛躍的な成長を続けている。LG

サムスン携帯電話の成功は、「韓国は最高級の携帯電話

電子はGSM(ヨーロッパ式デジタル)携帯電話の開発に多少

を製造する国」というイメージを全世界に刻印し、LG電子や

遅れを取り苦戦を強いられたが、3世代携帯電話市場が本格

ペンタックスなどの国内の携帯電話メーカーの成長にも肯定

的に到来し、サムスン電子に次ぐ競争相手として浮上した。

的な影響を及ぼした。そして韓国の携帯電話の輸出

LG電子のグローバル浮上を世に知らしめた最初の

は毎年、飛躍的に増加した。韓国の携帯電話の輸

製品は、2005年に市場に投入したチョコレート

出は、1996年当時12億2000万ドルに過ぎなかっ

フォンである。チョコレートの色合いに感性デ

たが、以後、毎年急増、2002年には実に136億

ザインを組み合わせたこの製品は、LG電子史上

1900万ドルに達した。輸出規模はこの10年弱で

初のテンミリオンセラー製品として記録され

10倍の成長を遂げたことになる。

た。LG電子は次いで2007年3月世界的なファッ

4 3 韓国では「李健熙フォン」と呼ばれている、サムスン電子初のテンミリ オンセラー。2002年に出荷された製品。 4 サムスン電子のテンミリオンセラー、ブルーブラックフォン。 秋号 2010 | Koreana 21


1 MWC2010にて初めて公開された次世代携帯 電話の貯蔵装置であるSmart Sim。 2 MWC2010にて公開されたMobile in Vehicle 技術。スマートフォンに搭載されたソフト ウェアを利用し、自動車の主要な機能を 制御できる。

1

ションブランド、プラダと提携し、世界初のタッチスクリー

4年前に、全世界のどこにでもかけることのできる画像通話

ン携帯「PRADA Phone」を 投入した。LG電子はこれまで5つ

サービスを常用化している。それだけではない。地上波放送

のテンミリオンセラーを作り、モトローラを抑えて世界の

を携帯電話で視聴できるDMB(デジタルマルチメディア放送)

シェア3位に登りつめた。

サービスを、2005年に世界で初めて提供し、リングバック トーンサービス、有無線音楽ポータルサービスなど、数多く

数多くの「世界初」のサービス 韓国の携帯電話産業は、移動通信サービスの発展もさ

の世界初のサービスを開始している。 更に凄いのはこのようなハイテクに関するサービスを

ることながら、IT部品やコンテンツ産業の成長も牽引した。

スマートフォンではなく、一般のFeature phoneを通じて

たとえば、韓国は2006年、世界初の画像通話常用サービス

やってのけた点である。これは韓国の携帯電話の性能がそれ

の提供を始めた。アップルのスティーブ・ジョブズCEOが去

だけ優れているという傍証でもある。記者の私は個人的に、

る6月の初め、iphone4を紹介しながら、「画像通話」を核心

もしも韓国が「英語」を公用語とする国であったのなら、ス

のアプリケーションとして試演してみせたが、韓国はすでに

マートフォンとモバイルコンテンツ市場を取り巻く競争の様

22 Koreana | 秋号 2010


相が今とは遥かに異なって展開されたであろうと確信する。

韓国コンテンツ業者がアップルのアップストア[訳注:App

SKテレコム・KTなど、韓国の通信業者がハイテク携帯電話と

store]を介し、世界のコンテンツ市場に進出できる道を得る

サービスを前面に打ち出し、数多くの海外市場の進出を試み

ことができた。しかし、一方でスマートフォンは、音声通話

たが、これといった成果が出せなかったのも、つまるとこ

と制限付きの無線インターネットサービスから脱することの

ろ、言語や文化的障壁を乗り越えることのできない、産業の

できない、韓国の通信業界と携帯電話産業には衝撃と挑戦で

外的影響がより大きいと見受けられる。

あった。 しかし、韓国携帯電話メーカーは、iphoneの衝撃が大き

スマートフォンへの挑戦

かっただけに、迅速な対応策を講じている。サムスン電子は

スマートフォンが韓国携帯電話産業に新たな課題を投

iphone上陸の6ヶ月後にiphoneに次ぐスマートフォン「ギャ

げかけてくれたことは間違いない。アップルのiphoneは、昨

ラクシーS」を市場に投入、LG電子とペンタックスも外国人が

年11月末に韓国市場に上陸、わずか6ヶ月で70万人を超え

あっと驚くようなハイテクスマートフォンを投入するなど、

る加入者を集め、爆発的に成長している。国内メーカーは

大々的な反撃に備えている。韓国携帯電話メーカーは、ス

iphoneが10万台程度売れるのものと予想していたが、こう

マートフォンの核心ともいえるソフトウェアの運営体制を

した予想をはるかに超えてしまった。新しいIT製品に素早く

グーグルやマイクロソフトといった海外企業から借用するも

反応し、携帯電話をファッションのアイコンとして見做す韓

のの、これを最も最適化するというやり方で、差別化された

国人の気質がiphoneの成功にも寄与したに違いない。

スマートフォンを製造し、追撃に出たのである。海外の優秀

iphoneの成功は、スマートフォンという新しいハード

な技術を迅速に受け入れる開放性、素早い意思決定と実行

ウェアにとどまらず、モバイルとして提供される、より多く

力、世界最高の製造技術が結集し、再び危機をチャンスに変

のコンテンツを韓国の消費者に届けた。また、ゲームなど、

えているのである。(翻訳:李美江)

2

秋号 2010 | Koreana 23


韓国携帯電話技術の 進化史 アイディアと技術資源、そして消費者の強靭で迅速な適応能力が韓国の世界的な携帯電話技術の 発展を導いてきた。こうした有利な環境の中で韓国の携帯電話メーカーは世界市場において上位へと 跳躍することができた。 キム・ドンソク(金東石、電子新聞社モバイルチーム長) 写真 : 金容喆

世界初の携帯電話は、1983年モトローラで発表され

の携帯電話が世界市場に登場し、カラーLCD、カメラ、呼び

た「ダイナテック(Dyna TAC)」であった。重さは1.3kg、

出し音、デザインなどで製品を差別化、携帯電話のトレンド

レンガもしくは運動用具を連想させる。1980年代の中頃に

を主導した。サムスン電子は2002年に世界3位、2007年に

至ってもグローバル携帯電話市場で韓国の存在はなかった。

世界2位に上り詰め、グローバル市場を掌握した。

韓国の携帯電話の歴史は24年前に遡る。サムスン(三星)電

サムスン電子の無線事業部、チョ・ジンホ常務は、「韓

子は1986年に国内で初めて自社開発したカーフォンSC-100

国の携帯電話は、通話の品質、軽量化、スリム化といった技

を市場に投入、引き続き「88年オリンピック」に合わせ、国

術力で、海外の携帯電話と比較して大きく抜きんでている」

内で開発した携帯電話SH-100を世に送り出した。この時ま

と言及し、「国内メーカーが持続可能な経営戦略を樹立し、

でも国内の携帯電話市場はモトローラなど外国産の携帯電話

グローバル移動通信市場の環境変化に迅速に対応したことも

が主流を成していた。しかし、90年代に入り、状況は大きく

功を奏した」と述べている。

変化した。サムスン電子携帯電話の国内シェアは目を見張る ほど上昇した。2000年代はサムスン電子やLG電子など国産 24 Koreana | 秋号 2010

グローバル市場において勢い増す韓国携帯電話のデザ インとモバイル特許など、技術的な側面から考察する。


LG電子とプラダが共同開発したPRADA Phone。 右側は腕時計型端末「PRADA Link」。

ハングルの特性と文字入力方式

より特許権を譲渡され、登録を済ませている。LG電子もベ

携帯電話の文字入力方法にはどのようなものがあるの

ンチャー企業である「言語科学」が1999年に特許出願したナ

だろうか。現在、移動通信市場では、サムスン電子の「天地

ラックル方式に対して、10億ウォンでその使用権を購入して

人ハングル」とLG電子の「ナラックル[訳注:国の文字という

いる。

意味]」が携帯電話の文字入力方式を代表している。シェアを

特に、天地人の母音入力方式は、入力ボタンを最少化

見ると天地人ハングルが70%以上を占める。英文ではT9と

し注目を浴びた。子音ボタンの数は到底減らすことはできな

いうアメリカの会社が提供している文字入力方式が主流を占

いが、母音は異なる。色々な要素が交わり様々な母音を構成

めているが、英文字の特性上、その変化はハングルに比べ多

しているので、この構成原理さえうまく活用すれば、ボタン

様ではない。

の数も減らすことができ、入力を容易にすることができる。

携帯電話文字入力方法は、移動通信事業者のSMS[訳注: Short Message Service] の収入として、年間7200億ウォン

工夫により、たった3個のボタンだけでハングルの母音を表 現できるようになった。

の収益をもたらす重要な技術である。こうした携帯電話SMS 事業の側面では、ハングル文字の科学性が重要な役割を果た

携帯電話入力方式の進化

している。メーカーは、携帯電話の文字入力方法が市場で自

コンピュータのキーボード配列と同じQ W E R T Yキー

社製品のイメージを強化するのに重要な役割を果たすと見て

パッドは、わが国ではスマートフォン市場が活性化された

いる。

後、比較的最近になって話題になり始めた。モバイルを介し

主要端末機のメーカーが、自社の入力方式に固執する

たソーシャルネットワークサービスが重要視する北米やヨー

のは、特許権を握っているからである。サムスン電子は、

ロッパなどでは、既にQWERTYキーパッドが10~20代の文

1998年に自社開発チームの社員であるチェ・インチョル氏

化コードとして根付き、また、長文のメッセージ、モバイル 秋号 2010 | Koreana 25


サムスン電子は去る2月にスペインのバルセロナで開かれた「モバイルワールドコングレス(MWC)2010」 でソーシャルネットワーキ ングとマルチタスキングが強化されたUX 「タッチウィズ3.0」 を公開した。iphoneの対抗馬として6月25日に市場に投入されたサム スン電子の戦略スマートフォン、「ギャラクシーS」にも搭載されたタッチウィズ3.0はチケット機能があり、お知らせメッセージ が届いた時、使用中の機能を妨げることなく、使用者に知らせてくれる。

Eメールの使用頻度の高い英語圏諸国においても大勢を占め るようになって久しい。その背景に消費者のニーズに積極的 に取り組んだLG電子がある。 LG電子は2000年代の中頃に北米市場の攻略に向けて、 SMSを送信する際、9つの数の既存ボタンだけでは不便だと いう消費者のニーズを新製品に反映させた。消費者が携帯電 話を利用してSMSを送る回数は、毎年2倍以上のペースで急 成長しており、携帯電話を用いて簡単なEメールの使用を希 望する消費者のニーズが高まっている事を受け、パソコンか らEメールを送り、オンラインチャットをするように、便利 で手早く携帯電話からSMS、Eメール、メッセンジャーが出 来るよう、携帯電話での文字入力方式、そのものを替えるこ とにしたのである。 当時においても、PDA [訳注:personal digital assistant] 1

やスマートフォンの場合は、コンピュータのキーボード形態 のQWERTYキーパッドを適用した製品があったが、一般の

1 サムスン電子の携帯電話の入力方式、 「天地人ハングル」。 2 スライド式のQWERTYキーパッドを適用した LG電子のスマートフォン「andro-1」

携帯電話にはない形態であった。特に、PDAやスマートフォ ンの場合、IT機器に非常に慣れている少数の消費者だけが使 用しているという実情であった。PDAの長所と既存の携帯電 話の長所を併せ持つ横長タイプのQWERTYキーパッドを装 着させた新しいタイプのデザイン、LG電子のメッセージフォ ンは予想通り北米の携帯電話の市場を強打した。若い層とビ

2

ジネスマンを中心にメッセージフォン市場が 素早く拡散され、LG電子はタッチ型、脱 付着型、普及型など多様な方式の携帯電 話を開発し市場に投入、メッセージフォ ン市場をリードしてきた。 QWERTYキーパッドを装着した携 帯電話の量産には、デザインや技術的な 完成度を追求するため、より多くの努力 と研究を傾ける。一般のタッチ式ディス プレイだけを単一で採用した製品に比べ、 押ボタン、動作ボタンが多いため、キー パッドの故障率、反応速度、ユーザビリ ティ(Usability)に関する検証が必要である。


3 LG電子のスマートフォン 「オプティマスQ」 4 LG北米携帯電話法人(LGEMU)携 帯電話デザイン公募展「未来をデ ザインせよ(Design the Future)」 の受賞作。視覚障害者のための 点字のキーパッドが装着されて いる。

3

また、搭載される全てのアプリ

及び小さなタッチ画面での入力感度の改善など、

ケーション及びアクセサリーソ

様々な技術が必要である。高密度器具設計、及

フトを二種類(縦長モード、横

び小型化技術など、LG電子携帯電話の技術力と

長モード)開発設計しなければな

デザイン力が結集された製品といえる。

らず、何よりもQWERTYキーパッド

この製品は、通話や文字入力はもちろんのこと、

を搭載する場合、製品の厚みが増すなど、デザイン

時間調整やアラーム設定などの画面操作を指で簡単に

の要素を損なう恐れがある。LG電子が最近、国内市

できるように、1.43インチの全面

場に投入した「オプティマスQ(LG LU2300)」の場合、

タッチスクリーンを採用した。ま

QWERTYを搭載しているが、14.35mmの薄さにより、

た、声で電話をかけるなど、簡単な

グリップ感、及びQWERTYのユーザビリティ性、縦長と横

音声認識機能を内蔵、文字を音声に変

長の画面転換速度において好評を得ている。

換するTTS(Text To Speech)など多様な 入力方式を搭載した。

話題となったロシア大統領の携帯電話 今年のはじめ、ロシアのドミートリー・メドヴェージェ

4

フ大統領が身につけた姿が捉えられ話題となった携帯電話

韓国が主導するモバイル特許出願 次世代携帯電話技術に関する開発の熱気が高まる中、

は、LG電子の「3世代タッチワッチフォン(LG-GD910)」であ

特許競争も過熱している。2010年、世界1位携帯電話メー

る。インターネットと映像通話が可能で、一般の携帯電話

カーとして跳躍を宣言したサムスン電子が最も積極的であ

画面の半分程度、3.63cm(1.43インチ)の大きさのタッチスク

る。

リーン方式で作動する。太陽光など外部の光で液晶表示装置

サムスン電子は、1998年以降、国内において1万2000

(LCD)が切れた時も一般の時計画面を見ることができる。画

件、海外で2万5000件の携帯電話に関連する特許を出願し

像通話が可能な3Gフォンを腕時計式に作るには、集積回路、

た。サムスン電子は4世代と携帯インターネット分野におけ 秋号 2010 | Koreana 27


1 サムスン電子が2006年に海外市場へ投入、4千万台を販売したグロー バルヒットモデルE250 2 スマートフォンの普及と共に韓国人の生活の中に急速に広まるツイッ ター

る標準化の主導を実現するため、研究開発(R&D)投資に力を

など、実際にデジタル機器に適用が可能であり、移動通信

注ぎ、サムスン電子の技術100余件が3・4世代の標準として

標準化機構(3GPP)において「実用特許国際標準」候補として

採用された。サムスン電子はこれと関連し、現在、3000余

選定することのできる予想特許出願は、134件程度と知られ

件の特許を27カ国に出願中である。

ている。実用特許国際標準の予想候補を基準にした場合、LG

LG電子もまた、動画関連技術のMPEG4と使用者イン

電子が40件(30%)で1位を占めており、クアルコムが30件

ターフェース(UI)分野の特許に主力を傾けている。LG電子は

(22%)で2位、サムスン電子が14件(10%)で5位に記録され

3G移動通信分野の標準化技術と関連のある3GPP・3GPP2技

ているという調査結果がでた。

術分野において数多くの特許を出願、 そのうちの一部を特許として登録し、

ファッション・アイコンとして

端末機の高級化による新技術部門と

2004年の春、汝矣島のツインタワーで、LG電子MC事

マルチメディア技術を中心に特許を

業本部の端末研究所長を担当していたアン・スングォン社長

出願する計画である。L G電子はこ

(当時副社長)は、LG電子のキム・サンスCEO、パク・ムンファ

れまで国内と海外においてそれぞれ

MC事業本部長と驚くべき約束を取り交わすことになる。

1800件、1万2000件の携帯電話の関

LG電子MC研究所で年に一つ「正真正銘、革新的な製品」

連特許を出願した。ペンタックスも

を製造する巨大プロジェクトを遂行するという前提のもと、

国内外で4000件ほどの特許を出願中

予算、製品のコンセプトに関する中間報告は全て免除となっ

である。 特にLG電子は4世代(G)移動通信 技術である、LTE(long term evolution) 部門でグローバル1位を宣言した。LG 1

電子の崔高熙移動通信技術研究所長は

「4世代移動通信を標準に確定的なLTE部門においては、LG電 子が世界初の技術を開発し、端末機を生産するなど、グロー バル1位企業の基盤を確実に固めている」と述べた。 4世代(G)移動通信は、停止状態で1Gbps(1000Mbps)、 時速60Km以上で移動する際、100Mbps以上の速度を提供す る次世代通信技術である。移動中には現在WCDMAの50倍、 停止中には超高速有線通信速度の10倍以上の速度を支援す る。携帯電話で、700MB映画1本をわずか1分以内にダウン ロードすることができる。 移動通信専門コンサルティング企業である、アメリカ のTechIPmが去る1年間に、アメリカの特許庁とヨーロッパ 電気通信標準協会(ETSI)に登録した特許を調査・分析した結 果、LTE関連の特許出願件数は、当月1日基準、総1238件で あった。このうち、携帯電話、ノートブックパソコン、PDA 28 Koreana | 秋号 2010

2


た。報告体系を重視する大企業

携帯電話」を開発することであった。ワイシャツのポケット

では想像のできない、この破格

に入るくらいに小さく、世界で最も薄いスライドフォンの開

的な決定こそが正に「チョコレート

発が始まった。スマートさを強調するため、ピュアブラック

フォン」秘密プロジェクトのはじまり

カラーを使用した。不必要なラインとロゴ、装飾などは可能

であった。

な限り減らした。携帯電話業界で初めて、使用者が指でタッ

この秘密プロジェクトの提案は、

3

チするだけで敏感に反応する全面タッチパッド方式を採用し

アン社長の経験から出されたもので

た。薄く見せるためタッチを用い、使用上の安定性も確保し

あった。プロジェクトに関わる人員が

なければならない問題、閉じた時に黒色に光り、開いたら色

多ければ多いほど、機密が漏れること

が変化する感覚的な技術を具現化するためにその努力を惜し

もあり、多数の意見を製品に反映する

まなかった。

となると、独創的であった製品が平凡な製品へと変わるのが

チョコレートフォンは開発プロジェクトの企画段階か

常である。一方、デザインは企業内の携帯電話の専門家では

ら、デザイナーのアイディアに技術を合わせる方向で進ん

ない、音楽機器のデザイン専門化に依頼した。彼

だ。デザインコンセプト原案を正確に生かし、

は当時、デザイン競争が最も盛んであったMP3

技術を具現化したあと、段階別にデザイナーが

市場で独創的な携帯型オーディオを作るため樹

最終的に判断した。このようにして、デザイ

立したコンセプトのうち、携帯電話に最も適し

ンと感性コードのみで購買意欲を呼び起こす

たものを採用、活用することができた。

という、企画意図を生かした製品が誕生し、

製品開発の目標は、「見たら買いたくなる

機能中心の携帯電話の購買パターンに大き

3 スライド式キーパッドを透明に処理したLGの 「クリスタルフォン」 とヘッドセット 4 LG携帯電話デザイン公募展の受賞作

4 秋号 2010 | Koreana 29


1 サムスン電子のもう一つのテンミリオンセラーである「ウルトラエデ ィション」。世界各国の携帯電話業界及び通信事業者1000余社が参加 する「3GSM世界会議」において、2007年「今年の最高携帯電話賞」を受賞 したモデル。

ンのバルセロナで開かれた「モバイルワールドコングレス ( M W C )2010」でソーシャルネットワーキングとマルチタ スキングが強化されたU X「タッチウィズ3.0」を公開した。 iphoneの対抗馬として6月25日に市場に投入されたサムスン 電子の戦略スマートフォン、ギャラクシーSにも搭載された タッチウィズ3.0はチケット機能があり、お知らせメッセー ジが届いた時、使用中の機能を妨げることなく、使用者に

1

知らせてくれる。また、統合型メッセージサービスである 「ソーシャルハブ[訳注:Social Hub]」も初めて搭載された。携 な変化をもたらした。これを起点にLG電子は、携帯電話に

帯電話の住所録を通じて、海外主要サイトのEメール、メッ

「ブラックラベルシリーズ」という概念を導入、単純にIT機器

センジャーなどの情報を一括管理するだけでなく、ツイッ

として認識された携帯電話に消費財という概念を取り入れ、

ター、フェイスブックなどに文章や写真をリアルタイムに

「携帯電話のファッション・アイコン」トレンドを作り出した。

アップデートしてくれる。メールの作成、チャットなども住

チョコレートフォンは、LG電子の携帯電話の位相を変え、最 も多くの国で長期間販売され、LG携帯電話の中でも最も販売 量が多い2100万台以上を記録した。

所録からすぐに利用することができる。 S N Sなど上級機能を活用する使用者のため、ツイッ ター、フェイスブック、マイスペースサー ビスをフォンブック、カレンダーと連

感性を刺激する使用者経験(UX)

動させ、携帯電話でソーシャルネット

スマートフォンで天気とニュース

ワーキングサービスへのアプローチ

を確認し、モバイル地図を通じて大型

サービス、友人・知人管理機能を向上

スーパーの位置を確認したあと、目的

させた。

地に到着、商品の最低販売価格を確認

時計や天気、株式、ニュースな

し、ショッピングする。こうした日常的

どの多様な情報を使用者が待受け画面

なモバイル経験を使用者経験( U X;U s e r

ですぐに確認することができ、時間と

Experience)と称する。使用者経験の進化

天気が同時に表示される「ハイブリッ

は、スマートフォン使用者が家から職場

ドクロック(Hybrid Clo ck)」や天気、

までの移動過程で絶えずモバイル経験を

ニュースなどの情報が同時に表示され

可能にする。

る「インフォアラーム(Info Alarm)」な

サムスン電子は去る2月にスペイ

ど上級のウィジェット(Widget)も提供

2

30 Koreana | 秋号 2010

2 サムスン電子の「スターフォン」。2009年ヨ ーロッパ市場に投入し6ヶ月で1000万台、 1年で2000万台の販売記録を打ち立てたフ ルタッチフォンである。


している。

感あふれる光沢があり、

サムスン電子無線事業

ブラックトーンでシックな

部のチャン・ドンフン専務は

感じに仕上がっている。数

「タッチウィズ3.0は一般の使用

字やメニューボタンはなく、

者には容易で便利な機能を、上

7.62cm(3インチ)の液晶画面を

級使用者には多様な機能を提供す

指で軽くタッチしながら、作動

るサムスンの新しいUXデザイン」で

させる方式である。バータイプの

あると言及、「スマートフォンに最適 化した多様な機能はスマートフォンの

タッチスクリーンとブラックトーン 3

のデザインのマッチングが調和を成している。

競争力を高めるであろう」と述べた。

両社は、世界的に有名な一部のブランドが過度のテレ ビ広告により「普通の商品」へとブランド・イメージを大幅に

PRADA Phone の場合

転落させたという過去の経験と照らし合わせながら、テレビ

全てのデザイン、製作工程を企業秘密にしているプラ

広告は行わなかった。こうした有名ブランドのマーケティン

ダは、本社公開に際しても極めて制限してきたが、今年のは

グ戦略により、携帯電話の代理店もプラダ側が提示した「展

じめにLG電子との「PRADA Phone 」協業のため、プラダ本社

示ガイドライン」に従っている。(翻訳:李美江)

の内部をわが国の記者に開放した。これは極めて異例なこと であり、同時にPRADA Phone にたいする愛着をも見せつけ た。 両社は、伝統的なファッションの中心地であるイタリ アのミラノで行われたファッションウィークで特異なIT製品 であるPRADA Phone をデビューさせた。1913年に設立さ れ、世界の3大有名ブランドとして成長したプラダが、各国 から集まってきた流通商にLGと共同開発した「PRADA Phone 」を公開したのである。販売店や流通網も厳選された。全世 界30余カ所のプラダの直営売り場のうち、革新的なイメー ジを創出することのできる20カ所の売り場を選り分け、各 国の主要デパートなども300余カ所に限定した。 PRADA Phone は、プラダ固有の高級感あふれるデザイ ン哲学を反映させた製品である。表面は滑らかな質感の高級

4

3 LG電子の「チョコレートフォン」。企画段階よりデザイナーの アイディアに技術を合わせる方向で進められた。 4 NWC2010「Samsung Mobile Unpacked」イベントのワンシーン。 「Wave」を初めとした多彩なスマートフォンのラインアップを 公開した。 秋号 2010 | Koreana 31


文化フォーカス

1

ノスタルジックな ソウルに出会う本 ソウルに関する書籍の出版が相次いでいる。旅行者向けのガイドブックのような情報を 提供する実用書ではなく、日常性に注目した人文教養書である。ソウルの宮殿や北村などのように、 歴史的空間から路地裏に至るまで、ソウルっ子も知らないソウルにまつわる物語を語ってくれる。 クォン・ヒョクヒ(権爀爀爀煕、ソウル歴史博物館学芸研究士)

1 生活の歴史を蘇らせた本、『北村ホリック』に 紹介された北村の風景 2 『ソウル風景画帖』に著者が描写した2008年の 鍾路区清進洞の風景 32 Koreana | 秋号 2010


2

近出版されたソウル関連の書籍は、ソウルという

こったとすれば、その関心が「今日の都市」に移行していった

都市の今日の姿から、伝統と現代、文化と芸術、

と考えられる。以前、活発に出版された文化遺産関連の本

そして歴史の片鱗を見つけ出そうとする試み、と

が、韓国の伝統文化のアイデンティティ探しという幅広い議

いう共通点を持っている。それは我々が住んでいる「今」、 「ここ」と深くつながっている歴史と関連付けて探求する「都

論の中で、「国家」と「伝統」が話し合われていたこととは対照 的な現象である。

市探査」作業の結果と言える。

ソウルを研究する本は歴史的出来事や誰しもが知って いる芸術品ではなく、ソウルという都市全体を細部にわたっ

日常のソウルの姿を見つめる

て照明すること。ソウルのある特定の空間(space)を説明し

こうした作業を可能にしたのは、統一新羅と高麗、朝

たり、その空間にまつわる物語を語りなおすことで、その場

鮮に続く過去の遺物と遺跡を新たに見直す「伝統復興」作業が

所に埋もている物語をできるだけ探り出していることが特徴

これまで地道に行われてきたおかげでもある。90年代に美術

といえる。これは、歴史遺跡に対する議論が主に政治的出来

史学者・兪弘濬の『文化遺産踏査記』が火付け役となって、韓

事や王を中心に行われていた従来とはかなり違う傾向でもあ

国全土に散在している歴史遺跡を見て歩くブームが巻き起

る。 秋号 2010 | Koreana 33


1

2 1, 2 『宮殿の涙、百年の沈黙』に紹介された徳寿宮の石造殿と、ソウル 中区小公洞に残っている朝鮮時代の祭壇である圜丘壇の姿。

近・現代のソウルを歩く 歴史地理学者・李賢君の『昔の地図を手にソウルを歩く』

いかに受け入れて、適応していったかを詳細に見せてくれる 人文社会学的報告書としての機能も果たしている。

と歴史学者・チョン・ウヨンの『ソウルは深い』は、朝鮮時代に

『宮殿の涙、百年の沈黙』は既刊の宮殿関連の書籍とは

おけるソウルについて面白く物語っている。李賢君は城郭都

一風変わた本である。従来の本は主に伝統文化遺産としての

市だったソウルの持つ都市的特徴を歴史地理という観点か

宮殿を紹介しているが、この本は建築史的観点から宮殿の破

ら見つめ直して、都市の歴史と文化を説明している。例え

壊と毀損の過程を植民地化の過程と比較している。「帝国消

ば、慶福宮と北岳山の位置関係、鍾路という街が形成された

滅から100年、我々の宮殿はどこへ行ってしまったのか」とい

背景、そして都城の中の北村と南村に住んでいた人々の話な

う副題に同本の内容がよく表れている。慶福宮、徳寿宮、昌

どの話題を通して、空間と人々の物語を織り混ぜて語ってい

徳宮、昌慶宮、慶喜宮、円丘壇など、ソウルにある主な宮殿

る。

が植民地時代にどう撤去されて解体されたのか、またどこに 一方のチョン・ウヨンも、ソウルっこも知らないソウル

移されて売られてしまったのかなどについて語っている。波

の空間と人々の物語を通して、ソウルのあちこちに埋もれて

乱に満ちた韓国の近代史を宮殿という建物を通じて反芻して

忘れ去られようとしている歴史を今日に蘇らせている。例

いるといえる。

えば、ソウルの「カクジェンイ(訳注:けち、ソウルっ子の意

上述の諸本からも分かるように、我々が近代に関心を

味)」という言葉の由来を追いかけたり、チョンゲチョン(清

傾けるようになったのも最近出版されたソウル関連の本が

渓川)、鍾路の街、徳寿宮の噴水など、ソウルにあるモニュ

持っている大きな特徴といえる。馴染みのあるソウルという

メントの変化にまつわる意味を説明している。またこ

生活空間が歴史的時空間とも深く関係していることを表す過

の本は、大韓帝国末から植民地時代に至るまで、

程で、大韓帝国時代と植民地時代を中心にした近代歴史の現

ソウルに住む人々の階層的分布と変化、そ してソウル市が近代化という現象を

34 Koreana | 秋号 2010

場がその背景になっているのだ。今日の出来事と場所を 融合させて紹介するという傾向である。


3

4

3, 4 『ソウル風景画帖』の著者が描写したソウル西村のある古家と、 現在は国立中央博物館に移転されたが、もともと廉居和尚の 浮屠があった景福宮の昔の風景。

権奇鳳の『ソウルを歩きながら消えていく歴史に出会

研究の先例としては、2003年に出版された姜明官の『朝鮮の

う』の内容も変わらない。同本は具体的な場所や施設物など

路地裏の風景』や、シン・ミョンジクの『モダン・ボーイ、京城

を通して、近現代の歴史を組み直して語ってくれる。例え

を歩く』などが挙げられる。

ば、今や無くなった「清渓高架」、100年の歴史を誇る映画館、 産業化の象徴となった「セウン(世運)商店街」、現在も滅びつ

北村のなかの生活史

つある「崔南善古家」など、様々な物語を聞かせてくれる。現

歴史の重みを暫し忘れて、現在我々の暮らしの空間と

在我々が歩いている道と、気づかずに通り過ぎていった片隅

してのソウルを紹介する本もだんだん増えている。キム・ユ

の小さな 空間が、我々の歴史と決してかけ離れていないこ

ギョンの『ソウル、北村にて』、玉仙姫の『北村ホリック』は、

とを語っている。朝鮮時代と植民地時代に関するミクロ歴史

外国人にとってソウル踏査の代名詞となった北村の韓屋村

ソウル城郭の眼下に広がるソウル市内 (徐憲康 写真)

秋号 2010 | Koreana 35


これらの本は、それぞれの分野における人々が消え去っていくソウルの風景を惜しむ声を盛り込んでいるといっていい。 みんなが異口同音に声を発しているのは、完全にその姿が消え去る前に、訪れて街の歴史に直接触れてみたいという 共感からだろう。

を、伝統の象徴としてではなく、今我々が生活を営んでいる 現場として紹介している。(北村は現在の行政区域としては ソウル鍾路区苑西洞、斎洞、桂洞、嘉会洞、仁寺洞地域にま たがっていて、朝鮮時代から受け継がれてきた韓国の代表的 な居住地域であり、現在伝統韓屋保存地区に指定され保護さ れている) 『ソウル、北村にて』の著者は長期間、北村のいた る所を歩き回りながら出会った地域住民、商人、アーチスト らの証言を通して、史料や文献からは見えてこない北村にお ける生活の歴史を蘇らせた。 『北村ホリック』は、600年にもなるソウルの歴史の重み を感じさせることなく、現代のちょっとした日常が生き生き と繰り広げられている北村ならではの特徴を うまく捉えて 紹介している。同時に、名所に関する情報も欠かさず、踏査 指南書としての機能も充実に果たしている。ここで言う名所 とは、歴史的遺跡や歴史本でしか見られない文化財に埋まっ た博物館ではない。古ぼけた伝統市場やこじんまりとした公 園、さらには高層ビルの人工庭園までが網羅されている。

路地裏の歩き方 さらに都市を詳しく観察して解剖した本としては『ソウ ル風景画帖』がある。副題として「ソウル、今ここ、我々の暮 らしの風景」とある。同本は建築家夫婦が過去10年間、ソウ ルのあちらこちらを歩き回って書いた文章と絵からなってい る。建築家の視線で宮殿から超現代風の建物や古い路地裏に 至るまで、都会の要所要所を詳しく取り扱っている。清進 洞のピマッギル(路)、鍾路、乙之路などの通りを始め、明洞 と弘大前の繁華街から南山と汝矣島、宮殿では慶福宮と雲峴 1

宮、そして話題のニュータウンに関する話まで、諸所にまつ わる物語を語ってくれる。 ソウルを探求するうえで一番の話題といえば、「路地 裏」である。現代ソウルにおける路地裏は過ぎ去った我々の 暮らしの名残であると同時に、消え去りつつある思い出の対

1 『ソウル風景画帖』の著者が描写した ソウル鍾路の路地裏にあった ピマッゴルの昔の風景

象でもある。

2 現在のソウル清渓川(徐憲康 写真)

有名な路地裏とソウルの路地裏を並べて比較している。「路

36 Koreana | 秋号 2010

権寧晟の『私は路地にこだわる』は、世界各都市にある


2

地は生きている暮らしの匂いのする総合

した細い路地裏が、高

芸術品」という著者は、鍾路のピマッ

層マンション街に様

ゴル、付岩洞など、ソウルの路地裏

変わりし、跡形も無

を東京の柴又の路地裏と、ドイツの

く消え去っているのが現

ローテンブルクの中世都市の路地裏、そ

状である。朝鮮時代からあった鍾

してイタリアのフィレンツェの美しい路地裏など、 多様な路地裏と共に「総合芸術品」として表現している。「一 番美しい都市の散歩方」という副題には、観光名所中心のう わべからは感じられない隠れたスポットを探して、世界の路 地裏を歩き回った著者の趣向がよく表れている。

路街のピマッゴルはもちろん、山の麓に形 成された町の路地裏まで、ソウルの昔の風景は、 ニュータウンという名の下で消えつつある。 昔のソウルの風景が消えつつあることを嘆く声は、本 の出版にとどまらず、写真を掲載したブログを通じて盛り上 がっている。町の景観やソウルの目立たない住宅街や路地裏

消え去りつつあるソウル風景の数々 今ソウルを研究する書籍が大衆の関心を引いているの

を趣味で撮る一般の人々がだんだん増えている。彼らが撮っ た写真は、ブログを通じてネット・ユーザに公開されている。

は、歴史物には見当たらないソウルの昔話を語っていて、馴

都市空間の研究と景観の記録を目的とする「文化ウリ」が最近

染はあるものの、具体的に感受できなかったソウルの生き生

結成されて、ソウル歴史博物館のような公共機関においても

きとした表情を見出してくれるからである。特に北村などの

ニュータウン建設に伴って消えつつある在りし日のソウルを

路地裏について書かれた本が盛んに出版され、大衆から歓迎

記録に残している。このように、それぞれ違う立場の人々が

されている現象は、現在ソウルのあちこちで行われている

異口同音に声を発信しているのは、完全に消え去る前に直接

大規模な都市再開発と無関係ではないはずだ。産業化・都市

行って、見て感じて欲しいというメッセージに他ならない。

化の時期にソウルに集まってきた人々が作ったくねくねと

(翻訳:趙祥恩) 秋号 2010 | Koreana 37


立ソウル大学校美術大学52棟にある陶芸作業室

彼の陶磁器は川辺で拾った丸くて白い砂利のように

は白緑の空間だ。そして円筒の形をした白緑色の

丸々として柔和だ。乳白色の磁器に込められたその持ち味

土の塊が乳白色の美しい磁器に変身する場所だ。

で彼は世界的なデザイナーたちの公募展である「the Red Dot

ファン・カプスン(黄甲淳、47歳)教授とその弟子たちは日々

Award」で2003年に「Best of the Best賞」を受賞した。

ここでロクロを回している。6月下旬ここを訪れた。テーブ

2005年には「The Red Dot Award」のハイデザインクリ

ルの上には出来上がったばかりの同じ形をした陶磁器30点余

エーター部門賞も手にした。今年の3月にはドイツミュンへ

りが並んでいた。

ンで開かれた国際手工業博覧会で革新造形部門の金メダルを

「今年の秋に開かれるG20首脳会談で各国の首脳に贈呈

受賞した。年末にはパリの「The Ateliers d’Art de France」と

するものです。裵商冕酒家で作った新しい伝統酒を入れる陶

ハンブルグ手工芸博物館で大規模な作品展が予定されてい

磁器です。包装紙から蓋、アクセサリーにいたるまで韓国文

る。

化の精髄を一つにしようという趣旨なので、私も参加するこ とにしました。酒瓶100個を納品することになっていますが、 170個ほど作っています」

なぜ そうしなければならないのか? 「子供の頃、母の姿はまるで山のようでした。病弱でい

白色の土の粉にまみれたぶかぶかの作業服姿。眼鏡を 頭の上にのせた黄教授は明朗な声で話し始めた。爪の間にし みこんだ白土が目を引く。

つも横になっている後姿がそのように感じられたんです」 少年黄甲淳は学校から帰るとすぐにカバンを放り投げ て、一日中外で遊んでいた。ありとあらゆるイタズラをした

インタビュー

1

陶芸家・黄甲淳 21世紀版の朝鮮陶工 ファン・カプスン (黄甲淳) は朝鮮時代の白磁の精神を 「文化遊牧民」 という方式で再解釈し、21世紀の世界と疎通する 陶芸家だ。今年、ミュンヘンの国際手工業博覧会で革新造形部門の金メダルを受賞した。彼の作品の革新的な 造形は節制と練磨、そして釉薬に対する審美的かつ科学的な長期的探求の結果といえる。 チョン・ヒョンモ (鄭亨模、『中央SUNDAY』文化エディター) 38 Koreana | 秋号 2010


という。遊びに長けた叔父とその友人たちはこの小さな甥っ

みましたね。それでいて一番面白くなかったのが専攻の授業

子のすばらしい仲間となってくれた。

でした。青磁はこうでなくてはならない、白磁はこうあるべ

「熱いトタン板にクレパスを溶かして絵を描いたことが ありますか?実に面白いんですよ」

きだ---。なぜそうでなければならないのかが私の悩みでし た」

特に泥遊びがお気に入りだった。土から生まれたもの

何か全く新しいものを見つけたかった。昔のものをそ

は何でも大切に感じられ、道で石英や紫水晶を見つけたとき

のまま再現する伝承作家も、昔のものに基づいて自分の作品

は涙が出るほどうれしかった。

をつくる伝統作家も、彼は自分の進む道ではないと思った。

中学に入ると文学少年になった。高校時代は校内新聞 の記者として活躍した。それでも暇さえあれば絵を描いてい

「私は朝鮮陶工ではなく、大韓民国の陶芸家なんです。21世 紀には21世紀のスタイルが必要だと思いました」

たが、両親は長男が美大に進学することを許さなかった。そ

彼はその可能性を大学2年の時にソウルで開かれたある

のせいで世の中のすべてに背を向けていた時期を経て、結局

展示会で発見する。国際陶芸アカデミー所属のドイツ人の

は浪人してソウル大学校美術大学の工芸学科に進学した。

会員たちで構成された「ドイツ陶芸家グループ83’」の来韓展

「キャンパスがやたらと広かったんです。山岳クラブ、

だった。

合唱クラブに入り瞑想クラブにもいました。演劇クラブにも

「どうやったら土をこんな風にすることができるんだろ

顔をだして舞台の準備を手伝いました。漫画サークルは私が

う。これは科学だ、という思いが湧き上がってきました。そ

立ち上げました。人文大学の先輩たちと酒も実にたくさん飲

のときから留学を夢見るようになりましたね」

1 陶芸家ファン・カプスンさんの妻で陶芸家のカン・ジスクさん 2 国際手工業博覧会革新造形部門の金メダル受賞作「花瓶シリーズ」 秋号 2010 | Koreana 39

2


共存(Sichzusammenfinden)連作

「私の体にはすばらしい陶磁器を作ってきた朝鮮陶工の遺伝子が入っています。 朝鮮白磁の堂々とした風格から得たインスピレーション が、それを実感させてくれます。 私が本当に願うならそれは私を通じて私だけの陶磁器を生み出してくれると信じている 理由です。そうやって完成した作品が世界的に美しいと認められるとき、それは最も 韓国的なものだと私は確信しています」

40 Koreana | 秋号 2010


R O T C(予備役将校訓練隊)将校として兵役

2000年には教授の代わりに中国沆州国立

を終えた後、インドとネパールを3ヵ月間放

美術大学に材料学の招請教授として出かけ

浪して帰国した1990年、彼はドイツに旅立

た。「韓国人である自分が陶磁器の母国で

つ。目的地はキールにある造形美術大学

ある中国で陶磁器の核心技術である釉薬を

のMuthesius-Academy of Fine Arts。そこ

教えるという事実に自ら興奮しました。朝

では「グループ83」の会員だったJ o h a n n e s

7時から午前2時までドイツ語-中国語の通

Gebhardtが教授をしていた。

訳二人を介して二ヶ月あまり教えました。 中国の学生たちに韓国人の精神をみせるチャ ンスでした」

ドイツ留学時代 彼は常に授業の1時間前に到着し、いつも一番前の席に

彼は自分がドイツで各種の特典を受けている分、周囲

座った。学校の前に安いアパートを借りたのも交通費と時間

の人々に恩返しをしなくてはと思った。隣家のおばあさんが

を節約するためだった。お金はなかったが、課題作品の制作

植木鉢を割ってしまったと持ってくれば、どんなに忙しくて

には常に一番良い材料を使用した。そのようにすべてを専攻

も直してあげた。近所の子供たちが陶磁器を作ってみたいと

の材料学の授業に傾けた。専攻授業の前には3ヵ月間電話帳

訪ねてくれば、子供があきるまでいくらで

ほどの厚さの専攻書をまる暗記するほど読み込んだ。おかげ

も教えてあげた。近くの学校の美術

で最初の講義の時には材料学に関する大きな青写真がすでに

の先生ともよく話しをした。

頭の中に描けるほどだった。

そんな彼をドイツの人々は愛し

「すべての施設と材料を自分のもののように使いまし

た。人間文化財に与えられるドイツ

た。学校に通った7年間、午前中の4時間には毎日釉薬の実験

の文化賞 Kultur Aktuellが2003年40歳

をしました。カオリン、石英、長石、石灰石などに含まれて

になったばかりの彼に与えられた。21

いるカルシウム、カリウム、ナトリウム、マグネシウムなど

人の審査委員が2年ごとに国内の隅々

の成分をうまく配合して良い釉薬を作ることは昔は極秘でし

まで歩き回り一人を選ぶという賞だ。

た。しかし同じ釉薬でも土の種類、陶器の厚さなどによって

やはり長くドイツに暮らした作曲家の尹

感じが違ってきます。それがノウハウです。あらゆる実験を

伊桑先生も受賞したもので、彼が19人目だった。「個人的に

試みました。理論書に“チタンとリンを混ぜてはいけない”と

最も光栄だと思います」という賞だ。

書いてあれば、興味津々でそれを混ぜてみたりしましたよ」 ハンブルグ手工芸博物館のキュレーター R ü d i g e r

そしてその年の秋、彼は母校に教授として迎えられた。 14年ぶりに故郷に錦を飾ったのだ。

Joppien博士はそんな彼に、2002年Justus Brinckmann Preis 賞を授与し、「数百の釉薬を使って透明性と光りの屈折など の微妙なニュアンスを表現できる人物」だと評した。 一日中、作業台に向かっている弟子が教授はどれほど

黄甲淳の陶磁器 母校に戻り彼が真っ先に着手したのはシステムの構築 だった。現職の作家でさえも滅多に使えない最高級の材料を

誇らしかったことだろう。奨学金を与え、美しい庭と大きな

無制限に使う環境だ。しかし学校側の支援は不足していた。

ギャラリーのついた作業室まで提供してくれた。ドイツ国立

そのために学生たちから学期ごとに材料費として25万ウォン

マイセン白磁マニュファクチュアは彼を招聘作家として招い

ずつ徴収した。またお互い公募展で賞金を得たり、バザーを

た。そして共に学んだカン・ジスク(姜智淑、48歳)さんと結

開いたりして作品が売れれば、収益の10%を寄付するように

婚した。

した。 「出したお金より材料を多く使う学生がたくさんいま す。そうなると損をするようですが、実はそういう学生は良 い作品を作るんです。すると賞もたくさんもらってくるん で、またよく売れます。そうしてまた寄付をする、というわ

G20首脳会談で各国首脳への贈答用に使われる伝統酒用の酒瓶(一番上)

けです。私は一言、『材料はいくらでも使え、ただし学校に 秋号 2010 | Koreana 41


1

42 Koreana | 秋号 2010


1~3 朝鮮白磁の堂々とした美しさを革新的に 発展させたファン・カプスン氏の作品

2

遅刻したり、早退したりはするな』と 言うだけです」 そのようにして7年間教えた結果が去年末から現れ始め た。2009年11月27日から12月6日まで開かれたバザーの売上

朝鮮陶工の遺伝子 彼にとって陶磁器とは何か。彼は朝鮮時代の実学者朴 齊家の書いた『北学議』の一部を読み上げた。

げが何と8000万ウォンに達したのだ。今年の4月1日から24

「最初、匠人が荒削りに品物を作ると庶民は(その品物

日まで、ソウル江南区新沙洞ギャラリーLVSで弟子たちと共

を手荒に扱い)荒々しく仕事をした。心ががさつになったの

に開催した「堆積」展でもほとんどの作品が売れた。

だ。器一つをきちんと作れなかったことで、国のありとあら

秘訣は何か。彼はロクロで成型した土に釉薬をかけず にそのまま焼く。釉薬はむしろ内側にかける。そして荒い表 面はダイヤモンドで整える。外側は人間の肌のようにでこぼ

ゆるものが、その器を真似る様になってしまった。たとえ小 さな品物一つでも無造作に作ってはいけない」 ところで、彼の製作した青線の幾何学的模様の入った

こな感じを与え、内側は滑らかな「黄甲淳印」の陶磁器はこの

円筒形乳白色の陶磁器は、はたして朝鮮白磁の子孫なのか。

ようにして作られる。

彼は「良い土と水という天恵の条件と陶工を蔑視する社会構

彼が語る器の完璧な形態は「卵」だ。外は固い石灰質だ

造の下で生まれたのが白磁」だとし、「堂々としていながら一

が、内側には水と生命を抱いている。さらに白色だ。透明に

方では悲しい運命」だと言う。そして自らを「文化遊牧民」だ

近いホワイトは彼の美観の完成でもある。

と規定したあるドイツの新聞とのインタビューの話を持ち出

「普通1250度で焼くと形態も良く、割れる確率も低くな

した。

ります。省エネにもなります。しかし私は1280度で焼きま

100年前には陶工は村の数キロ外には出ることも出来な

す。そうすれば殆どガラスに近くなります。難易度は高くな

かったが、今は数千キロ離れたところで互いに異なった文化

りますが、作品は透明になり磁器の吸収率も低くなります」

を融合させて新しい陶磁器を作っている。その「疎通」こそが

このような彼の作業は工業的な生産性を前提にしてい る。彼は「工芸は一つの芸術品を作るのではない。反復可能 な製品を作れなければならない」と言う。彼が学生 たちに「工業規格」を強調する理由だ。

グローバル時代の新しい美の条件だと彼は言う。 「私の体の中にはすばらしい陶磁器を作ってきた朝鮮陶 工の遺伝子が入っています。朝鮮白磁の堂々とした 風格から得たインスピレーション が、それを実

彼の釉薬実験は今も進行中だ。彼が作り出し

感させてくれます。私が本当に願うならそれが私

た釉薬はおよそ8000種余り。彼の研究室にはこの

を通じて私だけの陶磁器を生み出してくれると信

ような釉薬を使って焼かれた実験破片が籠いっぱ

じている理由です。そうやって作った作品が世界

いに入っている。彼と弟子たちがアイデアを出し

的に美しいと認められるとき、それは最も韓国的

合って、そこから生まれたデーターはコンピュー

なものだと私は確信しています」 (翻訳:金明順)

タに貯蔵して互いに共有している。 3 秋号 2010 | Koreana 43


巨匠

44 Koreana | 秋号 2010

1


1 楽器職人キム・ボッコンさん。 彼はさまざまな伝統楽器の復元と 改良に務めているが、その中でも 最も力を入れている分野は写真の カヤグムのような弦楽器である。

鮮時代の儒学者である燕巖・朴趾源はその著書『楚亭集序』で「法古而知変 創 新而能典」と言っている。これは「昔のものを手本にしたとしても変化を知ら なくてはならず、新しい物を創造するにしても昔の物に長けていなければな

らない」という意味だ。この言葉は今日では「法古創新」という四字熟語として伝わって

2 キム・ボッコン氏製作 「郷琵琶」

いるが、伝統を基盤として新しい未来の価値を求めようとする努力の大切さを教えて いる。

より良い音を求めて 金僕坤さんはまさに法古創新の匠だ。ソウル市無形文化財第28号の楽器匠技能保 有者である 金僕坤さんは伝統音楽に使われる楽器を作る職人で、その復元に努めるだ けでなくさらに進歩を重ねている。2005年、彼は百済時代の5つの楽器を徹底した考証 を通じて再現した。1400年前に作られた宝物287号の百済金銅大香炉に彫刻されてい た5人の楽師像が演奏しているコムンコ(玄琴)、プク(太鼓)、ハプ(盒:4弦の弦楽器)、 チョンチョク(縦笛)、ペソ(排簫:西洋のパンフルートに似た管楽器)の5つの楽器を再 現したのだ。また音に影響を与える材料と演奏技法を研究し2000年11月には弦楽器の 共鳴板とその製造方法に関する特許を獲得した。さらにその翌年にはヘグム(奚琴)の 弦の張力調節装置を開発、実用新案登録も済ませた。弦楽器の胴体である共鳴筒を作 る時に凹凸模様に木を製材する技術も伝統方式から着眼し開発したものだ。 「現代の発達した機械の力を借りれば楽器の精巧さを高めることができます。楽 器の胴体に弦を張るために穴を開けるときにコンピューターを利用した精密なド リルを使用すれば昔ながらの方式で錐で開けるよりもずっと精巧な作業が可能 です。精密な穴は木が変形するという危険を減らし、調律の回数も大きく減 らすことができます。500年前に書かれた『楽学軌範』という本を見ますと、 昔の人々の楽器に対する根本的な理解と材料を扱う卓越した方式に深い 感動を覚えます。現代の技術で解決されない部分では伝統のすばらしい 方法を継承し、伝統と現代を調和させることができるのです」 金僕坤さんは韓国の伝統楽器の製作全般について長じているが、特 2

にカヤグム、コムンコなどの弦楽器を得意としている。韓国の伝統弦楽器は 楽器の胴体に弦を張り、この弦を通じて音をだす。このような楽器にはアジェン

楽器は時代を盛る器 - 楽器職人

金 僕 坤

キム・ボッコン (金僕坤) さんは韓国の伝統楽器の復元と発展に努めてきた楽器職人だ。 彼は徹底した考証を通して伝統楽器を蘇らせ、さらに新たなものを創造しようという努力を続けている。 彼は職人であると同時に発明家なのだ。 パク・ヒョンスク(朴炫淑、フリーライター)| 写真 : 安洪范 秋号 2010 | Koreana 45


(牙箏)、ヘグム(奚琴)のように弦を弓でこすって音を出す

たが、その後20年間、師匠の弟子として過ごしました。好

もの、コムンコ(玄琴)のようにスルデ(匙:弦を弾

きで始めたのではなく、とにかく食べていくために仕方なく

く為の竹棒)で弦を弾いたり、引き上げ

始めた仕事でしたので手に傷も数多く作りました。しかし

て演奏するもの、カヤグム(伽倻琴)の ように指で弦をつまびいて演奏するも

時間が経つにつれ師匠の剛直な職人精神と楽器に魅せら れました。孔子の言葉に知好楽というのがあります。

のなどがある。これらの弦楽器は共鳴

知っているだけでは好きな人にはかなわず、好きな

筒を桐でつくり、下板は栗や松などを使

だけでは楽しんでいる人にはかなわないという

う。楽器の両端を装飾する彫刻にはナツ

意味ですが、だんだんと楽器を知るにつれこの

メの木や黒檀、伊吹の木などが使われる。 弦楽器の音質を決定するのは桐の木だ。桐

仕事が好きになっていきました」 好きな対象に対する少年の知的な欲求

は音響がよく振動し乾燥しても隙が生ぜず、

は学問への情熱をかきたてた。金僕坤

シミもつかないという特徴がある。また軽く

さんは中学・高校の課程を入学資格

て耐久性に優れていることから伝統家具の材 料としても人気が高い。

検定試験で終了し、ソウル市立 大学に進学、さらに中央大 学芸術大学院で『芸術経

田舎の少年の学問にかけた情熱 今年55歳の金僕坤さんは韓国の伝統楽器を作 り続けて41年になる。1969年、全羅北道任実で小

営』分野の修士課程を終 えた。そして漢城大学で 『古典文学』を専攻し博士課程を

学校を卒業し、友人とともに何も考えずに上京した

修了した。勉強をすればするほ

15歳の少年が食べていくために入った職場がコムン

ど、彼は自分のしていること

コ、カヤグムを作る工房だった。 「卒業生100人の中で中学に進学したのは4,5人だ けという貧しい時代でした。何の計画もなくソウル に来たのですから食べられないのは当たり前で した。友人たちが中華料理店や洋服店に就職 する中で私は鍾路にあった崔泰珍師匠の工 房に入りました。偶然みつけた職場でし

が美しい伝統を守る尊い仕 事だという思いを強くして いった。 彼の師匠である崔泰 珍さんは京畿道無形文 化財楽器匠第30号だ。 そしてその師匠は早

1 キム・ボッコン氏製作「散調カヤグム」 2 キム・ボッコンさんがコムンコの裏に描いた「青山は墨無くとも 千個の秋を描き、蒼水は弦無くとも万個のコムンコの音を奏でる」と いう意味の漢詩。 3 カヤグムの製作工程:最初の写真は固定されるまえのアンチョク(雁 足)、アンチョクとは雁の足という意味で、弦を支える役割をする。 46 Koreana | 秋号 2010

1


くに国家無形文化財楽器匠に指定され

の結果、クッス模様技法を新たに復元

た故金広胃さんだ。金広胃さんはその

して弦楽器の共鳴筒の性能を改善する

技能を父親の金広七さんから受け継い

ことに成功する。さらに製作の最終段

だ。金広七さんは近代散調カヤグム製

階では楽器の耐久性を高めるために漆

作の枠を作った匠だ。金僕坤さんは名

を使用した。漆の木の樹液を使う漆塗

声高い師匠の厳格な教えを受けて伝統

りの寿命は千年に達するという。その

楽器の勉強に邁進した。1493年に製作

ようにして復元した「クッス模様天然生

された音楽百科事典の『楽学軌範』を読

漆塗り共鳴筒」は特許を得ている。コム

み、12ヶ月を象徴するカヤグムの12本

ンコの演奏分野の人間文化財である故

の弦など、楽器の構造とその演奏方法

元光湖先生は彼の作ったコムンコを演

などを学んだ。

奏して名琴という賞賛を惜しまなかっ た。またカヤグムの名人である黄秉冀

科学で解明する伝統楽器の神秘 宮 中 音 楽 の 正 楽( 雅 楽 )を 演 奏 す

先生も彼のカヤグムを高く評価してい 2

る。

る正楽カヤグムは長さが170cm、幅が

金僕坤さんが運営するソウル市瑞

30cm、弦の長さが140cmほどだ。カヤグム1台を完成させる

草区瑞草洞の東洋国楽器製作所を訪れ「クッス模様天然生漆

までには長い時間と手間がかかる。特に楽器を作る木を乾燥

塗り共鳴筒」を使ったカヤグムを見た。真っ直ぐな年輪をも

させるのにかかる手間は大変なものだ。

つ木の幹の部分で作られた共鳴筒は音波を伝達する波長を一

『楽学軌範』を見ると桐の根本から7~8尺ほど上の部分、

定にして澄んだ音色を出すという。また螺鈿で味をだしたア

つまり若い頃の年輪層が良いとありますが、ソウル大学音響

ンチョク(雁足)、牛の骨を陰刻した装飾はカヤグムに気品を

研究所などに依頼して研究した結果、その部分の年輪模様は

与えていた。

クッス(麺)模様のように一直線になっており、それが清雅な

「一般的なカヤグムは製作に1カ月ほどかかります。桐

音色を出すということが分かりました。昔から名琴として伝

の共鳴筒に絹糸を縒って作った12本の弦を縦に張り、弦の下

わってきたクッス模様共鳴筒の優秀性を現代科学で立証して

には雁足を入れて支えます。指で弾いて音を出すカヤグムは

いく過程の一つひとつが驚異にみちていました」

雅楽を演奏する正楽カヤグムとこれを縮小した散調カヤグム

彼はクッス模様共鳴筒を研究するために林業研究院、 耳鼻咽喉科の医師、補聴器製作者と会い、共に研究した。そ

に分かれます。材料を準備する時間まで合わせればカヤグム 1台を作るのには非常に長い時間と手間がかかります。共鳴

キム・ボッコン(金僕坤) さんは伽倻琴のクッス(麺)模様共鳴筒を開発するために林業研究院、耳鼻咽喉科の医師、 補聴器製作者と会い共に研究した。その結果クッス模様技法を新たに復元して弦楽器の共鳴筒の性能を改善し、 音の完成度を高めた。そして楽器製作の最後は耐久性を高めるために漆塗りで仕上げた。

3

秋号 2010 | Koreana 47


48 Koreana | 秋号 2010


筒だけでも質の良い桐を選び、雨雪に

るでしょう。伯牙は自分のコムンコの

当てながら最低でも10年ほど乾燥させ

演奏を認めてくれた友の種子期が亡く

ます。技術も重要ですが、基本がもっ

なるとその弦を切ってしまったという

と大切です。私がいくらすばらしい技

逸話がありますが、本当に美しい話で

術をもっていてもよく乾燥していない

す。本物の友情を指す<知音>という

木を使えば、良く炊けていない芯のあ

言葉も彼らの話に出てきます」

るご飯を炊くのと同じことです」

『楽学軌範』で言及された韓国の伝 統楽器は65種類。彼はその楽器の完全 な復元を夢見ている。良い木を選び、

一日24時間でも足りない

4

楽器を作ることですばらしい音楽

心を込めて作った楽器が西洋のストラ

と出会う幸運を得たという彼は朝鮮時

ディバリウスのバイオリンのような

代のソンビたちがなぜ楽器を演奏しな

名品として認められることを願ってい

がら心を修練したのかが分かるようだ

る。その夢のために彼は今日も良い木

という。暗い心の片隅に光を当てて、

を探して、また良い技術を練磨するた

傷ついたこころに慰安の手を差し伸べ

めに努力している。インタビューの間

てくれる音楽は、辛く厳しい匠の道を歩んできた彼にとって

中、彼は口癖のように「一日24時間でも足りない」と繰り返し

も魂の友だった。

ていた。一日に3時間ほどしか寝ずに、食事をする時間も惜

「楽器を作りながら、人生もコムンコとカヤグムのよう

しんだエジソンのようだ。匠の頑固さと発明家の実験精神が

に中がガランドウの共鳴筒が無ければきちんとした音を出す

絶妙に調和し情熱となっている彼の指先から生まれてくる楽

のが難しいことを知りました。本当に空にしてこそ新しいも

器はどんな音色を聞かせてくれるのだろう。

のを詰め込むことができるのです。韓国画の一番の美しさも

「楽器は時代を盛る器です。器の基本を保ったまま、時

余白にあるといいます。よく仲の良い夫婦のことを<琴瑟相

代の新しさも含めなければなりません。それでこそ、その時

和す>といいますが、これは琴と大琴の和音を指した言葉で

代時代にあった生き生きとした音が演奏できるのです」 (翻

す。夫婦だけではなく人と人との関係でも琴瑟の調和を忘れ

訳:金明順)

なければ本物の香りのする世の中にな

キム・ボッコンさんは伝統楽器を昔の製造方法そのままに復元するので はなく、現代技術の力を借りてより正確で、より質の高い音色を作っ ている。ヘグム(右の写真)の弦の張力調整装置を開発して実用新案登 録をした。 秋号 2010 | Koreana 49


傑作/名品

慶 会 楼

朝鮮王朝のもてなしの場 慶福宮の慶会楼 (キョンフェル) は朝鮮時代において、宮中の宴会や国の重要な行事が行われていた場所で ある。韓国の国宝第224号であり、現在韓国に残っている伝統の木造建築の中で単一の建物としては、 最も壮大な2階建の楼閣である。 キム・ボンゴン (金奉建、前国立文化財研究所長)

慶会楼の前景。 人工池の上に建てられた楼閣である。 50 Koreana | 秋号 2010


会楼(キョンフェル)はもともと慶福宮寝殿の西側

昔の文献をひも解くと、慶会楼は様々な宴会を開く目

に位置した小さな楼閣であった。ところが、楼閣

的で建てられと記録されている。実際、ここは外国の使臣を

が傾き始めると、朝鮮王朝の太宗時代(1412年)に

もてなす機能の他に、王が戦場に向かう将軍らを労ったり、

池を掘って、その池にさらに大きな規模で建て直した。しか

重臣らのための宴会を開いたりしていたが、その他にも弓術

し、文禄・慶長の役で慶福宮が焼け落ちた際に慶会楼も消失

を見物したり、科挙(国家試験)を行うなど、宮中の主な行事

し、270余年の歳月の間、廃墟と化したままの状態にあった。

が執り行われた。特に、慶会楼の池は国の水を代表するとい

そして、高宗が慶福宮を建て替えた際に慶会楼も建て直され

う象徴的な意味合いを持っていて、旱魃が続くと、ここで雨

た (1867年) 。現在の建物は高宗当時のものであり、正面から

乞いのための祭が執り行われた。

見て7間、側面5間の2階建ての楼閣の形の建物である。慶会 という名称は、王と臣下が徳をもって会うという意味から名 づけられた。つまり、王が政治を行うことは人を得ることを もって、その根本とするという認識から由来している。

水をもって火を防いだ建築理念 高宗時代の大臣であった丁学洵が作成した『慶会楼全 図』では、慶会楼築造の意味を単に技術的側面にとどまらず、

秋号 2010 | Koreana 51


小さな門をくぐり、慶会楼の中に入って行くと、まず白い花崗岩の柱が並んでいる光景が目に入る。 次に視点は繊細な細工が施してある広い天井へと注がれる。その時、観覧客は並んだ柱の列によって、 狭まれた視野が、見上げることで広がるように感じられるのです。

儒教的な宇宙秩序を体系立てて説明しようとした易の原理に

が、これは周易の64卦を意味する。また、24本の外陣柱は24

基づいた説明がなされている。これは、王の住む宮殿という

節気を意味する。すなわち、このような観点から慶会楼は儒

建物に儒教的理念に基づいた天と地の理知を盛り込もうとし

教的哲理を盛り込み、安全と繁栄を祈願するモニュメントで

ていたと理解できる。

あったと思われる。

慶会楼には48本の柱があり、その柱によって作られる 間は全部で35間であるが、周易の64卦に関わりのある36宮、

屋根と柱

つまり六六宮と関係がある。建物の間の数が35であり、36よ

伝統建物の架構構造の特性から、立面構成において屋

り一つ足りないのは、空っぽの虚空が太極の一つであり、こ

根の占める割合が全体的にみて大きい。慶会楼は非常に規模

れを足して36になるためである。六は周易の八卦の中で坎

の大きい建造物であるために、自然に屋根のサイズが大きく

卦であり、大きな水を象徴する。したがって、慶会楼の築造

なったと思われる。それ故に、下部に比べて上部の屋根が大

の意味はもともと、火を治めることにあったと説明されてい

き過ぎて、アンバランスの形になってもおかしくはない。し

る。慶福宮の前面に聳え立つ冠岳山が焼ける姿、つまり火形

かし、慶会楼の場合は上層の柱の他にも、下層に長い石製の

をしているため、慶福宮は火災に弱いという風水地理説と、

柱が全体的に一つの立面として認知されているため、屋根の

実際によく発生していた火災に備えるために、こうした象徴

大きさが相殺され、全体的にバランスの取れた立面構造に見

説を用いて慶会楼を建てたわけである。さらに、火災防止の

える。つまり、上・下層の柱はそれぞれ別の柱でありながら、

ために銅で作った竜を池に入れたと記述されている。竜は8

視覚的には同じ階にあるように感じられるのである。その構

卦の中で乾卦に当たるものであり、金生水の五行の原理に

造を見ると、当時の職人の優れた造形感覚が垣間見られる。

従って火を制御するといわれる。実際に、1997年に行われた

慶会楼へは石橋を渡っていくが、小さな門をくぐり、慶会楼

池の浚渫作業の際に、この銅製の竜が発見されていて、『慶

の中に入って行くと、白い花崗岩の柱が並んでいる光景がま

会楼全図』の内容が事実であることが確認された。

ず目に入る。次に柱の上段に視点を向けると広い天井が広が

この他にも、『慶会楼全図』には儒教的秩序が建築計画

る。この時、観覧客は列をなしている柱によって狭まれた視

に影響を与えたと解釈している。すなわち、慶会楼の平面は

野が広がり開放されたように感じられる。天井には花模様が

3重になっているが、一番奥の3間は天地人三才を意味し、8

華やかに施されていて、柱の白とのコントラストが、劇的に

本の柱は8卦を意味するという。内陣間は12間であり、1年12

変わる空間的カタルシスの効果を上げている。

か月を意味するほか、16本の柱にはそれぞれ4つの扉がある 52 Koreana | 秋号 2010

現在の柱は外陣を除けば、上部より下部の柱の直径が


慶会楼の池から出土した銅製の竜。火災を 防ぐための供物として入れたと記録がある。

広くなる「ミンフリム(上に行くほど細くなる)」という手法が

人工島と方池

用いられていて、西欧建築のエンタシス手法とは異なるシン

眺めの良い場所に建てて、景色を観賞することが楼閣

プルさと節制の美が感じられる。朝鮮王朝の成宗時代にあっ

建設の本来の目的であるとすれば、慶会楼こそ景観的にみ

た慶会楼は現在とは違って、石柱に竜が彫刻されていた。こ

て、もっとも優れた立地条件を備えているといえる。右手に

れを見た琉球からの使臣は、石柱に彫られた竜が池に映る光

は力強い仁王山が控えていて、左手には慶福宮の屋根の稜線

景を、当時ソウルで見られた3つの壮観の一つとして取り上

が幾重にも連なっている。背面には北岳の峰が聳え立ち、正

げたといわれる。しかし、残念ながら高宗時代に行われた建

面からは遠くに南山と冠岳山が見晴らせる。

て直しの時に、石柱の竜の彫刻は再現されなかった。

このような慶会楼の立地をさらに際立たせているのが、 大きく築造した方池(四角の池)の存在である。水は建物を柔

2階の床の段差の意味 2階の床は平面的な床構造ではなく、3段の段差を設けて

らかく見せる重要な造園の要素であり、古今東西を問わず数 多く用いられてきた。広大な敷地に慶会楼のように大きな楼

いる。つまり、外陣から内陳に進むにつれて高さを上げて、

閣が水のない所にぽつんと建てられているとしたら、本当に

中央部分は一番身分の高い人のために設けられていることが

味気ない風景になっていたに違いない。池という人工的な要

分かる。このように段差のある床には、使用者の階級の差に

素を取り入れたことで、巨大な慶会楼が池に映し出される素

よる儒教的身分の秩序が反映されているのだ。

晴らしい景観が演出されたのだ。

床の段差の意味はその他に、空間感覚の側面からも説

なお、方池には2つの人工島を設け、いろいろな木を植え

明ができる。慶会楼のように面積の広い床を同じレベルで

た。池と人工島を築造する方法は道家の神仙思想から由来し

作った場合、広すぎて平板でしまりのない平凡な造りになっ

たものであり、当時の人々が夢見ていた理想郷と関係がある。

てしまう。あえて段差を設けることによって、躍動的な空間

慶会楼は人工的に造られた池に壮大な楼閣を建てたも

に仕上げたのである。

のであり、当時の土木工学の技法にも注目しなければならな

床が3段階の段差に区分されているが、3つの領域が完全

い。その一つは自然な環水システムである。東側の池底を高

に壁などで区切られているわけではない。つまりそれぞれの

く、西側は低く作り、自然に水が流れるように工夫した。そ

領域は、上部には光窓を、下部には門が設けられていて、門

のおかげで、地下から湧き出る湧き水と北岳山から流れ込む

を開いた場合、自然を室内に迎え入れることができる。こう

水が、鏡面のように見える静かな水面を乱すことなく、自然

した手法を用いることで、楼閣という建物の開放性がうまく

に還流しながらも、水が淀むことなく維持できる。そのこだ

活かされている。

わりと工夫には驚かされてしまう。

また、柱と柱の間を落陽刻で飾っている。落陽刻は高

一方、人工的に築造した慶会楼の湖岸は、太宗時代に

句麗の古墳などで見られる帳幕が建築的に変わった副材料で

築造されて以来、問題なく今日もその姿を保っている。大規

ある。落陽刻によって、外から慶会楼を眺めると華やかに見

模な建築である慶会楼は池の一角の人工大地に建立された

え、建物の内部からは柱の合間に広がる空間を通して外の景

が、数百年が経った今日まで健在しているのを見ると、当時

観を眺めると、その華麗な装飾がフレームの機能を果たすの

の土木技術の優秀さが伺える。(翻訳:趙祥恩)

で、景観を際立たせる効果がある。 秋号 2010 | Koreana 53


文化イベント・レビュー

2010年の 記念公演 今年は韓日併合100周年、朝鮮戦争60周年、光州民主化運動30周 年の年にあたり、この歴史的な出来事を記念する公演が相次いで いる。その中からミュージカル 「英雄」 と 「華麗な休暇」 を中心にご 紹介しよう。 キム・ムンファン(金文換、演劇評論家)

1

54 Koreana | 秋号 2010


20

10年は韓国にとって、いろいろな意味のある節目の年だ。大韓帝国が日本により強 制的に併合されてから100年目にあたる年であり、朝鮮戦争の勃発から60年目の年 でもある。また独裁政治に抵抗し多くの大学生と知識人が蜂起した4.19学生革命か

ら50年目にあたる年でもある。 日本の植民地支配からは解放されたとはいえ、朝鮮戦争の勃発によって極度の貧困に あえいでいた1950年代末。国民多数の不満が積もり、不正選挙で権力の延長を図った勢力は 4.19学生革命により、その権力の座を差し出すほかなくなった。しかしそれですべての不幸 に終止符が打たれ、ばら色の時間が始まったわけではなかった。1961年に起きた軍事クーデ ターにより、さらに強力な軍事政権が登場したからだ。 その朴正熙大統領も1979年末、部下の撃った銃弾でその生涯を終えた。その後、民主化 を叫ぶ民衆の大々的な群集集会、いわゆる「ソウルの春」が全国に広がり、ついに5月には光州 で民主主義を叫ぶ人々の大々的な群衆集会が開かれた。これに対して全斗煥保安司令官を中 心とする軍部は流血事態を恐れずに街頭にあふれた市民を鎮圧したのだ。光州民主化運動と 呼ばれる、この抗争から2010年は30周年目を迎える。 このような歴史的な事件を2010年は芸術界でも様々な角度からスポットを当ててその意 味を考察している。その中から芸術的な成果の認められる公演を見ていこう。

1 ミュージカル「英雄」 の一場面 2 演劇「6.25戦争と李承晩」の 一場面

2

ミュージカル「英雄」 エイコム・インターナショナルが製作したミュージカル「英雄(脚本:ハン・アルム、演出: ユン・ホジン)」の背景は、韓国が日本に強制併合された1910年ではない。それと密接した関

秋号 2010 | Koreana 55

2


係のある事件。つまり安重根がハルピン駅で日本の枢密院議

事件自体は歴史的な事実だが、ミュージカルはその事

長・伊藤博文を殺害した1909年だ。伊藤博文は日本の韓国支

件を芸術的に処理する為に架空の人物を何人か登場させてい

配を総括した韓国統監府初代統監である。このミュージカル

る。まず前作の明成皇后との物語の連携性を生かすために、

では安重根の法廷での陳述を通じて、彼を大韓帝国の最後の

明成皇后の殺害を目撃した宮廷女官を登場させ、宦官たちを

皇后である明成皇后を殺害した総責任者だと主張している。

中心とした愛国団体(帝国益聞社)が彼女を日本に送り込み芸

これはミクロ的な歴史的事実の如何ではなく、韓国の

者にして伊藤博文の愛妾に仕立てたというストーリーにし

近代史の流れをマクロ的な観点からとらえたもので、

ている。この団体は高宗が通信使を偽装して作った皇

特にこのミュージカルを製作したエイコムの前作「明

帝直属の情報機関で1909年に解体されたよう

成皇后」からの連続性を考慮すれば肯ける内容だ。「明

だが、この劇では安重根の伊藤博文殺害も

成皇后」は創作ミュージカルとしては国内はもち

その地下活動の一環として行われたとして

ろん、ニューヨークやロンドンでも上映さ

いる。伊藤博文の愛妾となった女は劇の中

れたほど大々的なブームを巻き起こ

でハルピンに出かける伊藤に同伴し、ハル

し、国民的ミュージカルとも呼ば

ピンに到着する直前に彼が寝ている隙をつ

れた作品だ。

き暗殺を企てるが、前から彼女の正体に気

「英雄」は1909年9月2日、ロシ

付いていた伊藤は飛び起きる。すると女は

ア沿海州の翌桧の林で12人の朝鮮人

走る列車から飛び降りて雪の花のように飛

青年が同義断指会を結成してから、安 重根が逮捕されて処刑される1910年5月26 日までの9ヵ月間を息を飲むような速度で描 いている。

1 ミュージカル「英雄」の一場面 2 演劇「6.25戦争と李承晩」の一場面

1

56 Koreana | 秋号 2010

び散ってしまう。それで彼女の名前は雪姫と いう。 もう一人の架空の人物は安重根を助ける中 国の商人と彼の妹のリンリンだ。彼女は安重根


を心から愛している。兄が死に、安重根まで生命の危険にさ らされると彼女は彼をかばって銃弾を受ける。 この作品は虚構ではあるものの、その必然性も肯ける。 このような構成を通して安重根だけでなく、伊藤もまた単純 で破廉恥な国粋主義者というよりは、それなりの価値を模索 した一人の英雄として描かれており日本での上演の可能性も 期待される。 俳優たちの歌唱力と走る列車の場面のために二台の映 写機を使った特殊効果などが観客から好評をえて、第4回 ミュージカルアワーズで最優秀創作ミュージカル賞、主演 男優賞、演出賞、音楽賞、舞台美術賞、そして照明音響賞 の6部門で受賞した。音楽賞は作曲ではなく、この劇団と長 い間、作業を共にしてきたピーター・ケイシーが編曲で受賞 した。

2

6.25戦争と李承晩 21カ国が直接的・間接的に参戦した朝鮮戦争も60周年を

た「オ将軍の足の爪」を上映したが、これは1988年に初演し

迎え、これを記念して演劇界でも各種公演が企画された。し

たものの再演だ。幸い、創立47周年を迎えた劇団民衆劇場が

かしテレビがいろいろな特集を組んでいるのに比べると、舞

演出家チョン・ジンスで演出した「6.25戦争と李承晩」が大学

台は静かに進行している。明洞芸術劇場が朝鮮戦争を風刺し

路芸術劇場の舞台にかかり何とか体面を維持した。民衆劇場 の 中堅俳優が大挙して出演した大規模な公演だったが、ド キュメンタリー的な側面と政治色の濃い作品となった。李承 晩大統領は大韓民国の建国大統領として多くの貢献をしたに もかかわらず、不正選挙を工作し長期執権を図ろうとした挙 句に、1960年の学生革命により下野し、ハワイで客死したと いう理由でその評価は余り高くない。そんな現実に対する批 判意識がこの作品に強く反映しているからだ。チョン・ジン スは「朝鮮戦争の勃発60周年目を迎えて朝鮮戦争の意義と李 承晩の業績に対する再評価を一般に広く認識させる契機とす るために企画した」と書いている。このような観点から成り 立っているので、作品のための基礎資料は主に右翼陣営の研 究資料を活用している。 題目は6.25となっているが、実際には1953年6月から11 月まで、すなわち休戦会談が進行した時期に焦点を合わせて いる。1950年6月25日に勃発して1953年7月27日に休戦協定 が締結されるまでの3年以上続いた戦争の中から、協定締結 直前の1953年6月18日日曜日の朝、李承晩の決断により米軍 の捕虜収容所に捕らわれていた27000人の捕虜が電撃的に釈 放された事件に焦点があてられている。彼らは実際は人民軍 に強制徴兵された韓国出身者が大部分だった。この事件が世 界を驚かせ、ついには休戦協定締結を急いでいたアメリカに 秋号 2010 | Koreana 57


1 ミュージカル「華麗な休暇」の一場面 2 演劇「オ将軍の足の爪」の主人公、オ将軍

1

ミュージカル「華麗な休暇」は叙情性と躍動感の調和を図っているが、劇の進行が多少もたついてみえる。それをドイツの 作曲家ミハエル・シュタウザーの音楽が舞台をしっかりと支えている。しかし文学性という点では20周年の時の公演作 「五月の新婦」 を超えるには力不足の感がある。

大きな衝撃を与えることになるが、実はこれは重い腰を上げ

と、ニクソン大統領をはじめとするアメリカ側の関係者、そ

ようとしなかったアメリカを韓米相互防衛条約の締結に同意

して彭徳懐に代表される中国側関係者など、多くの登場人物

させるように仕向けるための圧力手段だったというのが、こ

によって展開し進行していく。大統領執務室を中心に展開す

の演劇の観点だ。すなわち李承晩が休戦協定締結を無視し、

る演劇の限界を克服するために多くの独白と資料画面を活用

どんな突発的な行動をとるか予測がつかないという判断から

する一方、コミカルな大統領府青瓦台の秘書陣が劇の進行を

李承晩の殺害さえ計画されたものの、ついにはその年の8月

退屈させないように登場する。李承晩役の俳優(パク・ギサ

8日に防衛条約締結が仮調印され、10月1日にはワシントンで

ン)はまだ李承晩を記憶している人々がいる状況で彼と似た

正式調印されることになった。そして、この条約が以後の韓

声と動作を表現するために多くの努力を傾け、反応も比較的

国の防衛に決定的に寄与し、今日まで韓国が発展する基礎と

好意的だった。作家は生存しているペク・ソニョプ将軍の回

なったということだ。それだけでなく、未来のための教育と

顧録の一節をこの演劇の主題として要約している。

科学技術に対する彼の関心が原子力技術の導入に対する原則

「人事においては愚か、外交においては達人という言葉

的な合意を引き出す作用までしたという事実にこの演劇は注

が常に李大統領に付きまとった。反共捕虜の釈放から休戦協

目している。

定の調印までのおよそ1ヵ月こそ、李大統領が外交的な手腕

このような観点が李承晩とその夫人のフランチェスカ、 ペク・ソニョプ陸軍参謀総長をはじめとする国防関係参謀陣 58 Koreana | 秋号 2010

を遺憾なく発揮し、一人で巨大なアメリカを相手に孤独な戦 いをして韓国の将来のために必要なほとんどすべてのものを


る青年とのロマンスが芽生えるが、結局父と青年も犠牲にな る。30年が過ぎたある日、初老になったかつての乙女が父と 青年の眠る光州民主化運動犠牲者墓地を訪れ献花をして、過 ぎた日々を回顧する形式で劇が進行する。叙情性と躍動感の 調和を試みた舞台だが、反復が多いため劇の進行が多少間延 びしてしまう感がある。韓国に長い間住んで、大学で実用音 楽を教えているドイツ人作曲家のミハエル・シュタウダーの 音楽が劇をしっかりと支えている。しかし文学性という点で は20周年の時に公演された「五月の新婦」を越えるには力不足 の感が否めない。 詩人ファン・ジウの戯曲、キム・グァンリムの演出で劇 団「ヨンウ舞台」により舞台にかけられた「五月の新婦」は詩と 劇が一つになった詩劇だ。このような方式をとったことによ り光州民主化運動はようやく一つの芸術作品に生まれ変わる ことができた。作家は「1980年5月18日、光州民主化運動の 歴史的な事実を資料としている」と言っているが、実はこの 作品は詩人としてすでに一家を成した作家が「ドラマの内的 欲求に従い作り出した完全な虚構」であり、それで現実より も、よりリアリティにあふれている。それまでも光州を素材 にした芸術的な努力があったことはあったものの、具体的で 普遍的な感動を与えるような作品にはめぐり合えないでい た。私たちはこの作品でようやく「汚い手」 (サルトル)、「正 手に入れた劇的な期間だった、と言っても少しも誇張ではな

義の人々」 (カミュ)などと肩を並べるような作品を作ること

いだろう」

ができたのだ。 跪く気持ちでこの 野外受難劇(そうだ。まさにこれは受

ミュージカル「華麗な休暇」と「五月の 新婦」

難劇なのだ)を見守っている間、私はドイツ留学当時に、南

ミュージカル「華麗な休暇」 (脚本:キム・ジョンスク、演

ドイツのオーベランマーガウで見た受難劇の記憶がオーバー

出:グォン・ホソン)は30周年を迎えた5.18光州民主化運動を

ラップした。13世紀、全ヨーロッパを巻き込んだ黒死病から

扱っている。すでに映画でも制作されている「華麗

生き延びた人々がその恩恵に感謝するために10年

な休暇」という題目は、当時民衆蜂起を

に一度ずつ上演してきた。その受難劇は6時間近く

流血で鎮圧した戒厳軍の作戦名だ。

上演される一種の苦行だ。「五月の新婦」も毎年、望月

ミュージカルはその題目から「休暇」

洞で大韓民国の国民が全員、いや民主主義を信奉するす

を遠足と関連づけて幕を開ける。

べての人々が参拝するための受難劇として奉納すべき作

一団の市民が5月の天気の良い日

品だ。2010年には上演されるだろうと期待していた

に行楽にでかける平和な場面

が、まだ公演計画は明らかになっていない。

はその後に残酷な暴力によ

冒頭でも述べたように2010年は大韓民国として

る群集デモの鎮圧へと続い

は記念の年である。南北首脳会談の6.15南北共同宣言10周年

ていく。そして、その中で

は哨戒艦沈没事件の余波で、当の与党関係者だけが参加す

デモ隊を指揮する退役大

る小規模な記念式になってしまったが、いつかはこれも舞台

佐の娘(看護婦)と早くに両

の上でスポットライトを浴びる日もあるだろう。(翻訳:金明

親を亡くして弟を育ててい

順) 2

秋号 2010 | Koreana 59


世界の中の韓国人

囲碁界のパイオニア プロ棋士・李世乭乭9段 世界囲碁の歴史において、韓国の曺薫鉉、李昌鎬、李世乭の三人の棋士が獲得した世界タイトルは 全体の8割を超える。中でも李世乭は1997年に頭角を現して以来、これまで13にのぼる世界大会で 優勝を果たしており、今後ますます期待される棋士である。 チン・ゼホ (陳在昊、囲碁評論家)

20

10年4月27日。3億ウォンの優勝賞金がかかった第 2回BCカード杯ワールド囲碁チャンピオンシップ

の決勝戦で、イ・セドル(李世乭、27才)は中国の常昊(34歳、

これは、幼い(経験不足の)棋士には具えにくい素質です」 2000年に常昊はまたもやLG杯で李世乭と対局した。そ の時、李世乭は初めて彼に勝った。

Chang Hao)に3連勝し、世界トップの座に就いた。さらにこ

「李世乭はその都度新しい手法を用意し、相手の弱みを

の優勝で、24勝無敗という驚異的な記録もマークした。李世

鋭く見抜き、勝負の勘が鋭いと感じました。もうじき彼の時

乭は優勝トロフィーを手にした瞬間、自分に恥じない人生を

代がやってくると思いました」

生きろという父親の言葉が頭に浮かんだという。

パイオニア精神 ライバルの評価 今回の大会でも彼は序盤から、常識に反する手を駆使

「私が一番強い。誰にも負けそうにない」 2002年日本で開かれた第16回富士通杯世界囲碁選手権

していた。そして、それは完璧な勝利につながった。彼は、

大会で優勝した後、19歳の李世乭は「誰が世界最高の棋士だ

先輩たちの研究結果を参考にするよりは、常に自分の将棋の

と思うか」という記者の質問に、真摯でありながらも自身に

世界に疑問を見出しては、それを自ら解決していくことを好

満ちた表情でこのように答えた。

む。他の人が躊躇する未知なる道をあえて求めて冒険を楽し

世界囲碁選手権大会のトップになった選手が「世界で一

む。今大会の決勝戦は、こうした「李世乭流の囲碁」の完成を

番囲碁のうまい選手」と言われておかしくはない。しかし、

見せてくれた。今大会の決勝戦で敗北した中国を代表する常

礼と道を重んじる囲碁の世界で、自ら世界最強だと言っては

昊棋士は、1997年に開かれたLG杯の世界選手権で、少年李世

ばからない彼の言動はかなり唐突に思われたに違いない。プ

乭に初めて会った時のことを次のように振り返る。

ロの囲碁棋士である李世乭は、こうした生意気な態度で従来

「当時彼は小柄で囲碁も現在のように強くありませんで した。しかし、手を見るスピードが非常に速く、私に負けは したものの、とても強く印象に残りました」

のルールに挑戦し、それまでの最強の選手を勝ち抜いて、自 分だけの世界を築いたのである。 普段我々が慣れている理論や学説は過去のものであり、

1998年のLG杯でも常昊は優勢に立っていた。「彼が負け

固定観点である。19才という若さで世界トップの座に上り詰

てしまったものの、驚くべき事実があります。たったの1年

めた彼の唐突さは、固定観点に囚われない自由な発想があれ

で彼の実力は目を見張るほど発展していました。特に生死の

ばこそ可能であった。「そうしてはいけない」を「こうしても

岐路で選択しなければならない切迫した瞬間に、彼はトップ

良い」に変えてしまう李世乭は、まさにパイオニアである。

レベルの棋士だけが持つ強烈な勝負感覚を見せつけました。 60 Koreana | 秋号 2010

李世乭みたいに現実に挑んだ棋士はいない。彼は形式


1997年に頭角を現し 始めてから、現在まで 通算13の世界大会優勝を 記録しているプロ棋士イ・ セドル。

的な昇段制度をなくすべきであると主張し、3段の時から昇

かった。ただ、小さなことにも規定とルールを重視すべきで

段大会に出るのを拒否した。数十年間も続いてきた慣行であ

あるという彼の主張は受け入れられた。6か月間も休んだ彼

り、すべての先輩棋士たちが応じてきた制度をなくそうと、

は、個人的にまた、金銭的・精神的にかなりのダメージを受

「昇段大会無用論」を主張したのである。長い間の囲碁界の

けた。そのような結果を承知の上で、囲碁界の慣行に楔を入

権威に反旗を翻したのだ。初段が9段に勝つという、時代の

れた彼の行動は、後代の囲碁人が認めなければならないだろ

流れを認めるべきという彼の主張に、当時は「生意気だ」と反

う。

発する声が多かったが、結果的に彼の意思は昇段規定を変え た。李世乭が正しかったことを否定する人は、今はいないだ

曺薫鉉、李昌鎬、そして李世乭

ろう。彼の行動は「コロンブスの卵」のような試みであった。

韓国はいくつかのスポーツ種目では、既に世界最高レ

2009年7月に彼は「休職騒ぎ」を巻き起こし、またもや古

ベルにある。テコンドー、アーチェリー、ショート・トラッ

い慣行に反旗を翻した。プロ棋士としての活動に何ら支障も

クなどの種目は、五輪や世界選手権大会で優勝を独り占めに

ないように見える棋士がいきなり休むと宣言したことは、李

してきた種目である。それに、囲碁も含めるべきではない

世乭が初めてだった。既に世界トップに立っている棋士の休

か。

職宣言に韓国の囲碁界が受けたショックは大きかった。彼と

昔は日本や中国の囲碁が強かった。しかし、1980年代

しては囲碁界の甘い仕事ぶりを見かねた所以の主張であっ

から始まった世界囲碁の歴史において、韓国は常にその中心

た。しかし、彼の行動は同僚の棋士からあまり歓迎されな

にあった。マインド・スポーツの代表格である囲碁において、 秋号 2010 | Koreana 61


韓国では相次いで世界最強の選手が誕生することによって、韓国人の優れた頭脳が世 界に知れ渡った。 まず、通産157のタイトルを獲得し、世界新記録を持っている曺薫鉉(58才)さん である。さらに、彼の弟子である李昌鎬(36才)も138のタイトルを獲得し、二人は過去 30年間、世界囲碁界を率いてきた。 李世乭は、1997年から羽ばたき始めた。2002年には韓国人棋士の劉昌赫(44才)を 破って富士通杯で優勝した。生涯初の世界大会優勝であった。2003年にはついに、巨 大な山脈のようで揺さぶることのできないように見えた「盤上の石仏」李昌鎬を破って LG杯の世界技王戦で優勝カップを手にした。それ以来、通産31回の優勝を記録してい て、中の13タイトルは世界大会の王冠である。なお、彼は27歳の若さであり、これか らさらに期待されるのである。 ただ、これまで韓国プロ棋士の名ばかり述べているからといって、韓国の囲碁界 にだけに的を絞って話しているわけではない。上述した曺薫鉉、李昌鎬、李世乭の三 人が、過去30年間に獲得した世界タイトルは、全体の8割を超える。

「弟の方が私よりうまいですよ」 12歳にしてプロ棋士になり、世界トップのプロ棋士に成長した「世乭」は、名前か ら囲碁との運命的な出会いを予想させる。人間を意味するセ(世)、石を意味あするド ル(乭)、世の中を囲碁のドル(石)として支配しろという念願を込めて、彼のお父さん が名づけた。 李世乭の故郷は全羅南道木浦に属した飛禽島という離島で、1983年生まれ。自由 な環境の中で育てられた影響か、自由奔放な性格をもっている。そのためか、彼は今 も怖いもの知らずで、個性が強い。既に亡き父親のイ・スオさんは5兄弟皆に囲碁を 教えたが、次男の相勲と末子の李世乭だけが現在も囲碁を続けている。李世乭が7歳の

1

62 Koreana | 秋号 2010

「これからは勝つために囲碁 を打たない。最善の囲碁を 打って、最高の境地を目指 して、自分自身と戦いたい。 ミスのない囲碁、後悔しな い囲碁を打つことは、囲碁 と人生における総括的目標 である」


1 独38期ハイウォン・リゾート杯名人戦で、 ぺク・ホンソク7段と大局する場面。 2 第23回富士通杯世界囲碁選手権大会で、 中国の古力9段と対局している場面。

2

時、兄の李相勲(35才)が15歳でプロ棋士になるという実績

李世乭は8歳離れたお兄さんの相勲に感謝している。

を先に挙げた。李相勲はプロ棋士になるや否や、かなりの

「今の私があるのは、多くの人々の応援もあるが、兄の

腕前を見せたが、あるインタビューで、おかしな(?)話をし

存在が大きかった」。相勲自身も将来が期待されていたが、

た。

弟の才能を開かせるために、自らマネージャー役を買って出

「弟の方が私よりうまいです」

たことに対する感謝の気持ちであった。

「あなたの弟とは?」 「今は田舎で囲碁を勉強しています」

世界に向けて

このようにして天才少年李世乭の存在が世の中に知ら

囲碁は単なる知的遊戯ではなく、思考方法に対する発

れるようになる。長男の相勲から囲碁界の事情を聞いた父親

見であるため、人間の頭脳に対する限りない開発と関係があ

は、まだ9才の少年をソウルに行かせることを決心した。当

る。囲碁は暮らしの教訓と悟りの哲学のツールであるに相違

時お兄さんの相勲は権甲竜(53才)道場で修練していて、李

ない。老若男女を問わず、一緒に会話できる通路を提供して

世乭も研究生として同じ道場に入った。

くれる。世界的に見れは、チェス、ブリッジ、チェッカーな

李世乭は11歳になった1994年に、テスト的にプロ選抜

どのマインド・スポーツもあるが、東洋文化の精髄といえる

大会に出場して、その翌年にプロになった。曺薫鉉(9才)、

囲碁は4000年前から人間の本性を扱う礼道であった。李世乭

李昌鎬(11才)に次いで歴代3番目の最年少プロ棋士になった

は囲碁が悠久な歴史のベールをはがして、世界の舞台に出て

のだ。しかし、プロになったからといって、名高い諸先輩

くることを望んでいる。囲碁こそマインド・スポーツの代表

と競争して、いきなり頭角を現すことはできない。4、5年間

格であると信じているから、世界の人々が囲碁の世界に目を

李世乭が鳴りを潜めていた1998年に、父親が病気で亡くなっ

覚まし、楽しんでもらうことを望んでいる。

た。父親の死が眠っていた野生を引き立てたかのように、李 世乭の腕前が大きく花開くことになる。

世界人は今年11月に中国の広州で開かれる35億人アジ ア人の祭りである第16回アジア大会で、チェスとともに囲

ところが、李世乭は決して一人で完成されたわけでは

碁を観戦することになる。李世乭は当然、韓国を代表して出

ない。師匠の権甲竜さんは「本当に天才的な子供だった。普

場することになるが、それは金メダルが目当てではない。世

通の常識では満たすことのできない器のような。方向を間違

界の人々に囲碁の素晴らしさを知ってもらい、広めていきた

えて 非凡さがなくなってはいけないと思って気を使ってい

いと思っているからだ。

た。非常にユニークな少年だった。ただ、自分がやりたくな

「今や勝つために囲碁を打たない。最善の囲碁を打っ

ければ死んでもやろうとしないのが短所だった。そのような

て、最高の境地に向けて自分自身と競争したい。ミスのない

彼の強い性格のために、周辺から白い目で見られることも

囲碁、後悔しない囲碁を打つことこそ、私の囲碁と人生にお

あった」と振り返る。

ける総括的目標である」。(翻訳:趙祥恩) 秋号 2010 | Koreana 63


オン・ザ・ロード

海南

海に抱かれた地の果てタンクッマウル 海南は低い山々が続き、三面が海に面している。しかし住民の多くは漁業ではなく農業に 従事しているという。由緒深い名刹の大興寺ではテンプルステイのプログラムが運営され、 朝鮮時代の儒学者尹善道の旧宅跡地の裏山には美しい榧の木の森もある。 キム・ヒョンユン(金熒熒充、エッセイスト)| 写真 : 安洪范

海南郡と珍島の間にある鳴梁海峡。壬申倭乱(文禄・慶長の役) の時に李舜臣将軍が豊臣軍を蹴散らした鳴梁海戦が繰り 広げられた場所。 64 Koreana | 秋号 2010


ウルから海南までは高速バスで5時間ほどかかる。

の衣を着て、袈裟を肩にかけた僧侶たちは我々に背を向けて

国土が狭く、交通網の良く発達した韓国で5時間と

立っているだけなのだが、大人の指2本ほどの長さのバチを

いえば、「最も遠いところへの旅」と言えるだろう。

握り、まるでリスのようにすばやい速度のばち捌きを見てい

私は今度の旅でこれまで体験はおろか、想像さえしたことの

るとまるで踊っているように見えた。太鼓の次は木板をトン

ない体験をした。それはお寺の座禅に参加したことだ。これ

トンと叩く音がした。木魚を叩く音だ。その次には鉄の音が

までお寺を観光で訪れて、本殿に足を踏みいれたことはあっ

した。雲版を叩く音だ。そして最後に低く荘重な音色の鐘の

たが、仏教儀式に参加したのは今回が初めてだった。

音に変わった。梵鐘を鳴らす音だった。 梵鐘の音を合図に私たちは本殿の中に案内された。前

大興寺のテンプルステイ

方に座った和尚が木魚を叩きながらあげる読経の声に合わせ

由緒ある、海南大興寺の夏の午後。寺の入口で会った

て、私たちはその場で立ったり座ったりの動作を続けた。本

案内人は私たちを、部屋がいくつかありシャワー施設も別途

殿に行く前に案内人から説明を受けた仏教式礼拝の仕方、つ

にある建物に案内した。私たちというのは、この寺で実施し

まり五体投地(仏教徒が行う最高の敬礼法)で、額と両手のひ

ているテンプルステイ(宿坊体験)のプログラムに参加し、夏

じ、両膝を床につけて体全体でひざまずく礼拝の方法をい

の一夜をこの寺で過ごすことにした6人のことだ。私たちは

う。案内人は私たちに両手を胸の前で合わせて合掌拝の方法

山道を登ってかいた汗をシャワーで流したあと、テンプルス

と、五体投地の両方を教えてくれた。

テイの参加者であることを示すマーク入りのユニフォームに

30分くらい経っただろうか、読経は予想よりも早く終

着替えた。そして案内人に従いお寺を一回りして説明を聞い

わった。たぶんいくつかの順序が省略されたのだろうが、敬

た。

虔な感動を得るには十分だった。感動は広い寺の庭と深閑と 夕陽が傾く頃、本殿に着くとその向かい側にある鐘閣

した森に響く太鼓の音がなり始めた時にすでに始まってい

では僧侶たちが代わる代わる大きな太鼓を叩いていた。法鼓

た。教会のオルガンの伴奏に合わせて歌われる聖歌隊の聖歌

という太鼓だ。一人の僧侶がある程度叩くと、次の僧侶がバ

も良いものだが、それに劣らないほどの美しい旋律が寺にも

チを手にピンと張られた丸く大きな牛革の太鼓前に進み、そ

あった。ゆっくりと流れる僧侶の読経の声もまた一つの音楽

の簡潔でありながら力のこもった旋律を引き継ぐ。墨染め

だった。

秋号 2010 | Koreana 65


1

私は10代から敬虔なキリスト教徒で「私以外の他の神は

と書かれていた。寺の夜が早いとは分かっていたが、それ

拝むな」というキリスト教の戒律に忠実だった。そのためク

にしてもこれは少し行きすぎだという気がした。夜中近くに

リスチャンとしての自負心が和らいだ後でも、仏様の前にひ

なってようやく床につく暮らしに慣れている私としては、こ

ざまずくことは考えたこともなかった。

んな早い時間に床につかなければなら

しかし私はついにその長い間のタブー

ないという現実に少しがっかりした。

を破った。私は対象が何であれ、その

そして就寝までにやることといったら、

前で心を合わせてひざまずくことがど

ただお茶を一杯飲むだけだというのだ。

れほど自分自身を浄化する行動なのか、

落胆している私に再び現れた案内

その薄暗い本殿の中で深く感じた。

人が言った。茶は一枝庵(イルチアム)

食堂に案内され夕食を食べ終わる

で飲み、今晩寝るのもそこだというこ

と、再び最初に到着した宿舎に行けと

とに私は驚いた。こんなどんでん返し

いう。まだ陽も落ちていないというの

が準備されていたとは。

に、「これからいったい何をするんだろ う?」という思いが、私を少し戸惑わせ

一枝庵と草衣禅師

た。

私は昨年の冬と今年の春に海南を 壁に貼られた時間表では和尚と共

にお茶を飲んだ後、夜9時には床につく 66 Koreana | 秋号 2010

訪れた。そして大興寺に立ち寄り、春 2

には大興寺の裏山である頭輪山に登っ


1 タンクッ船着場のまん前にある 二つの小さな岩の島、メム島。 2 大興寺の輪蔵台。輪蔵台は経典を収める多角形の本箱で、この 輪蔵台を回すと経典を読んだと同じ功徳を積むことができると 信じられている。 3 大興寺一枝庵。右側には小さな池の中の柱に支えられている瓦屋根の 庵、池向かいには小さな草葺の庵が見える。普通 一枝庵と言えば、 この草葺の庵を指すが、庵全体を一枝庵と呼ぶこともある。

た。しかし大興寺の庵の一つである一枝庵に立ち寄ったこと はなかった。変だと思われるかもしれないが、大興寺を訪れ る人々が、この古い庵を訪れることを通過儀礼のように思っ ているのが気に入らなかったからだ。みんなが行くので、私 一人だけでもそこを彼岸の場所として残しておきたいと思っ たからだ。だから今回の旅でもその彼岸を訪問する計画はな かった。大興寺ではテンプルステイに来た人々には出来るだ け一枝庵に泊まれるように配慮してしているという。イン ターネットによる日程表には宿泊施設が具体的に出ていな かったので、私は全く予想していなかった。 案内人は4輪駆動のトラックで私たちを3人ずつ2回に分 けて庵の近くまで運んでくれた。遠い道のりではなかった が、急勾配の山道を歩いて上れば暑さのせいでもう一度シャ

3

ワーをしたくなったことだろう。 小さな池の中に建てられた石柱の上の小ぢんまりとし た瓦屋根の家、そしてその池の向こう側には小さな草葺の

るというこの庵の主である和尚の話、そして若者がこの人里

家。緑濃い森を背景にした白い庭には竹林と滑らかな木肌の

離れた山寺で茶を習っている理由についてなど、話が尽きな

さるすべりの木、里芋の大きな葉が目についた。萩の木の垣

かった。

根が庭の周りを囲んでおり、その古い歴史を感じさせるかの

一枝庵は19世紀に草衣禅師が80年の生涯のなかで晩年

ように黒く変色した垣根の上にはくもの巣が張っていた。石

の40年を過ごした場所だ。僧侶であった彼は茶から仏教の理

柱の立つ池には睡蓮の間をオイガワが泳いでいる。澄んだ心

致を知る。茶の中には仏の真理(法)と瞑想(禅)の喜びがすべ

地よい風が竹林を揺らし、庭からは遠くの山々が見渡せた。

て溶け込んでいるというのが禅師の考えだった。彼はこの小

和尚の代わりに、私たちを出迎えてくれたのは若い青

さな庵を中心に茶を通じて世の中の人々と交流し、彼らに茶

年だった。和尚はちょうど日本に用事で出かけており、彼が

を飲む喜びを伝えようとした。いわばここは韓国の茶の聖地

代わりに私たちに茶をいれてくれるという。ここに来てちょ

なのだ。私はこの日、茶を何杯も飲みながら法悦を悟るまで

うど2カ月になるという青年は、和尚からお茶を習っている

にはいたらなかったが、雑念のない心安らかな夜を過ごすこ

そうだ。

とができた。

私たちは池を見下ろす楼閣に座り茶を飲んだ。境内に ある茶畑で摘んだ葉を和尚が350度の温度で炒ったものだと いう。250度で炒る一般的な茶とは違い5、6回お湯を差して

タンクッマウルと甫吉島 海南にはタンクッマウルというところがある。朝鮮半

も十分に茶の味が楽しめるという。長方形の木卓の周りに座

島の南端、韓国の陸地の果てだ。地球的規模で言うならば、

り参加者と茶を飲みながら、茶の話、350度の高温で茶を炒

一番大きな大陸であるユーラシア大陸の南の果てということ 秋号 2010 | Koreana 67


1 大興寺北弥勒庵の磨崖仏坐像 2 尹善道の古宅

のがらんとした海岸は飲食店と宿泊施 設、そして商店で埋まっていた。そし て何よりも海に迫り出した山にケーブ ルカーが人々を乗せて山頂を上る光景 だった。私も友人と共にその空を行く 電車に乗った。低く垂れ込んだ雲に遮 られてはいたものの、ぽっかり浮かん だ島々の海の風景は天気の良い日にも う一度来たいと思わせるのに十分だっ た。 タンクッマウルのその端には周辺 の島々に向かう旅客船が往来する港が ある。私たちはそこから甫吉島に向か う船に乗った 甫吉島は行政区域では隣 の莞島郡に属するが、この地域の住民 のは海南の一部だという思いが強い。 特に尹善道という人物の足跡がこの小 さな島を海南の人々の意識と深くつな げている。 草衣禅師(1786~1866)が仏教の

1

人物であるのに対して、彼よりも200 年ほど前に海南で生まれた尹善道 になる。 韓国人はここを重要な観光地の一つに数えている。沿

(1587~1671)は儒教の人物として知られている。朝鮮時代の 519年間、儒教が国教とされ、仏教は抑圧されていた。儒学

岸地域の中で景色の最も美しい海岸というわけではないが、

者たちは尊敬され、僧侶は彼らから蔑まれていた。しかし二

タンクッ(地の果て)というドラマチックな地名が心を弾きつ

つの宗教は対立していただけではない。交流と融合の歴史も

けるからだろう。私が15年くらい前にここを訪れたときに

また見られる。例えば尹善道は11歳で寺に入り勉学に励み

は朝から暴風雨が吹き荒れていた。荒涼とした海上に降り注

26歳の時に科挙に合格した。草衣禅師は仏に仕える僧侶では

ぐおびただしい雨粒は旅情を凍らせる威力を持っていた。私

あったが、当代を代表する若い儒学者たちとの間には深い交

はその日の「雨」をよく覚えている。久しぶりにその最果て

流があった。

の地に到着した。天気は曇っていたが、雨の降りそうな気

尹善道は政治に携わった儒学者として、その時代の政

配はなかった。そこは大きく変わっていた。盛りを過ぎた日

治家の大部分がそうだったように浮き沈みの激しい人生をお

68 Koreana | 秋号 2010

1


くった。彼が後世の人々の尊敬を集めるようになったのは、

をなしている。ここは朝鮮時代の両班貴族の暮らしぶりと風

その政治的に不運だった人生の後半期に作った詩のおかげ

習をよく保存しており、さらに博物館まであるので、朝鮮時

だ。当時の詩人のほとんどが漢文で詩を作ったのに対して、

代の文物に触れるにはお勧めの場所だ。

彼は漢文だけでなくその時代の儒学者が見下していたハング

私が到着したのは尹善道遺跡地と名づけられ、今も

ルでも多くの詩を詠んだ。今日まで伝えられている彼の詩は

人々の暮す古宅が客を迎えるには余りにも早い時間だった。

75首。彼は韓国語の芸術的価値を世に広めた詩人だと評され

そのため‘古宅の庭を大門の隙から垣間見程度で満足しなけ

ている。

ればならなかった。今回の旅の目的は古宅ではなかったから

甫吉島には洗然亭という美しい庭園がある。韓国の両 班階級がどんな暮らしをしていたか、そしてどんなに繊細な

だ。私はその気品に溢れた建物を後に村の裏山の道を上って 行った。

美意識を備えていたかが分かるところだ。両班貴族の名家

よく育った松の木のうら寂しい森の道は、澄んだ酸素

に生まれ、裕福な詩人でもあった尹善道は甫吉島に書斎と家

を私の肺の中一杯に満たしてくれた。その爽やかな道をしば

を建て、「周辺の景観が水で洗ったように美しいので、端正

らく上っていくと目当ての木々が目に飛び込んできた。榧の

で爽快な気分になる処」という意味の庭園「洗然亭」を作った。

木の古木群だ。木は地面から真っ直ぐに空高く伸び、力いっ

彼はそこで詩を詠み、釣りをし、儒学者たちを招いて詩会を

ぱいその枝を広げていた。短い針のような葉をぎっしりとま

催し、音楽や踊りを鑑賞した。

とった枝はまるで数多くの象形文字を空中に描いているよう だった。その文字は難解ではあったものの美しかった。山の

榧の木の森 海南の中心から右に少しはずれたところに尹善道の昔

勾配に沿って鬱蒼とした森に木の階段が築かれているので、 旅は比較的楽だった。

の家がある。正確に言えば、この詩人の4代前の祖先から尹

この森は500年前にこの地に根を降ろした尹氏家門の

家門の人々が代々暮らしてきた屋敷だ。今もその子孫が暮ら

人々が造成したものだ。榧の木は建築や家具の材料として有

しており、その古宅を中心に代々の先祖の墓と祠堂が集り村

用なだけでなく、その実は漢方薬材として使われる。漢方で

秋号 2010 | Koreana 69

2


1

は榧の実は「腹中の邪気を追い払い、寄生虫を退治し、蛇や 虫の毒を中和し、死体から伝染する病気を治療する」と伝え られている。 現在、天然記念物に指定されたこの森で採れた実を使

1 タンクッマウルの展望台から眺める落日 2 タンクッマウルの名物トッカルビ。メインのおかずとして真ん中に 置かれているのがトッカルビ。牛肉のカルビ肉を骨から外して叩いて 味付けして焼いた料理。 3 尹善道の古跡地の裏にある榧の木の森

い、尹氏家門の女性たちが「榧のカンジョン」という伝統菓子 を作っている。旧正月や秋夕(旧暦の8月15日)などに、ここ に来れば尹善道の14代目の当主に会え、お茶の一杯とこの茶 菓子の微妙な味も味わえるという幸運に出会えるという。

トックカルビを食べる 去年の冬に海南を訪れたときにはコチョン湾のススキ 野原を訪ねた。全長14kmの湖を中心に広がる165万平方メー トルのススキ野原はナベコウ、黒ハゲワシのような鳥類とと もに全世界のトモエガモの98%がやってくることで知られて 70 Koreana | 秋号 2010

2


3

朝鮮半島の南端、韓国の陸地の最果てを海南タンクッマウルという。そして人々は ここを重要な観光地の一つにあげている。タンクッというのは地の果てという意味だ。 そのドラマチックな地名に心惹かれるのだろうか。タンクッマウルのタンクッ、 つまり村の端には周辺の島々へ向かう旅客船の港がある。

いる。私は渡り鳥を求めてキョロキョロしながら海南は実に

すばらしい。さらにニシンもやはり炭火で焼いてくれるが、

多くのものを包含した処だということを改めて感じた。

トックカルビに負けない風味が味わえる。そしてその他の数

広く豊かな土地では穀物と野菜が実り、近くの海から

多くの皿に最初は満腹で半分以上手をつけられないだろうと

は海の幸が十分に獲れる。山の稜線は深い森を抱いて穏やか

思ったが、気がつけばほとんどの皿を空にしていた。キムチ

に続き、大興寺のある頭輪山はもちろんのこと、美黄寺とい

とナムル、韓国式の茶碗蒸し、さらには塩辛くて普段は滅多

うもう由緒ある寺を懐に抱いた達磨山もまた深い森に包まれ

に手をださない塩辛にまで手をつけ、私はこのご馳走の山を

ている。達磨山から続く森は寺の下の平地まで長く続いてお

堪能した。豊かな食材が豊かな食事を作るという事実を認識

り、広い密林を形作っている。

したひと時だった。

タンクッマウルに行った日、私は夕食にトックカルビ

私はテンプルステイの翌日の夜を民宿で過ごした。働

を食べた。いやこの表現は正確ではない。トックカルビと一

き者で愛想の良い若夫婦が運営する民宿で伝統家屋の雰囲気

緒に29種類の料理を食べたのだ。牛のカルビ肉を叩いてみじ

もあり、以前に宿泊した時その広く清潔な部屋が気に入っ

ん切りにし調味料で味付けして炭火で焼いた料理がトックカ

た。周囲は典型的な農村の風景が広がり、心を穏やかにして

ルビだ。海南の郷土料理というわけではないが、海南にはこ

くれた。路地裏の家の庭から一匹の犬が見慣れぬ旅人を見て

の料理を80年以上作り続けてきた店があり、その味は実に

吠えた。それもまた穏やかな風景だった。(翻訳:金明順) 秋号 2010 | Koreana 71


料理

ナスを主材料とした煮物料理のカジソン 72 Koreana | 秋号 2010


カジソン (ナスの肉詰め) ナスは最近、アントシアニン色素が入っているカラーフードとして新たな 脚光を浴びている。カジソンはナスを主材料にした料理で、調味料が良く しみ込んだ柔らかなナスの味が楽しめる。 イ・ジョンイム(李鐘任、大韓食文化研究院院長) 写真 : 安洪范

品の価値とは栄養価だけで論じることはできない。色や香り、味などが 食品の重要な要素となる。食品の色合いが美しければその視覚的な効果 で中枢神経が刺激され、食欲が増進される。調理をする時に、食品の色

合いを生かし、色彩の調和をはかる理由がそこにある。最近ナス固有の色に含ま れているアントシアニン系の色素が生活習慣病を予防し老化を遅らせる効能があ ることが広く知られ、ナスは健康野菜として脚光を浴びている。 ナスはナス科に属する一年草でインドが原産地だと知られているが、韓国に は中国を経てずいぶん昔から入ってきていたようだ。初夏から初秋にかけてが旬 で水分が95%を占めており、糖質は3.4%ほどで脂質、ビタミン、無機質の含有量 は少ない方だ。ナスを選ぶ時には表面に傷がなく光沢があり濃紫の実がよく引き 締まったずっしり感のあるものを選べば新鮮だ。

簡単なナス料理 ナスで作る最も手軽な料理はナスのナムルだ。ナスを蒸して細く裂き、ネ ギ、ニンニク、ごま塩、ごま油などの調味料で合えた料理だ。好 みに合わせて酢を入れて酸っぱくしたりすることもでき る。また夏には冷たくして食べるナス冷クッもお勧 めだ。ナスナムルの時と同様にナスを蒸して細く 裂き下味をつけたあと冷水を注ぎ、醤油、砂糖、 お酢、塩をたして味付けすると甘酸っぱいナス冷 クッが楽しめる。蒸す代わりに炒めて食べる料理法 もある。ナスに玉ねぎ、青唐辛子、長ネギを加えて味付 けをし、油で炒めたものだ。生のナスではなく、乾したナスを使う 秋号 2010 | Koreana 73


ナスに卵黄と卵白の薄焼き卵、イワタケ、糸唐辛子、 青唐辛子、松の実をのせて飾る。5色の飾りを使うのは 韓国料理固有の食文化である。

方法もある。旬の時に

ん切りにして下味をつけた牛肉、鶏肉、貝など

ナスをたくさん買い、食べ

を詰め、肉汁をかけて醤油やコチュジャン(唐辛

やすい大きさに切って陽の下で良く乾燥させて

子味噌)、味噌などで味付けして煮

貯蔵しておき、冬になったら水に戻して炒めて

付けた料理だ。料理の過程で新

食べるというものだ。現代はハウス栽培により

鮮なナスの紫色は失われるが、

冬でも新鮮なナスが食べられるが、乾したナス

調味料が良くしみ込んだ柔ら

のナムルは少し歯ごたえがあり苦味もあるが、

かなナスの味は絶品だ。調味

生ナスのナムルとは一味違う独特な風味がある。

料の材料と調理法によってはさま

韓国人は陰暦の1月15日の「正月の十五夜」に9種

ざまな変化を楽しめる。ここでは肉とシイ

類の乾したナムルを水に戻したあと下味をつけ

タケをいれて作る伝統的なカジソン料理を紹介

て油でよく炒め、雑穀飯とともに食べる風習が

しよう。特に高血圧や熱の高い人にあった料理

ある。

方法だ。ナスは水分が多いので、下ごしらえの 段階で塩でしめてから、水気を切ることが大切

さまざまな変化が楽しめ るカジソン料理 カジソンはナスを適当 な長さに切り、縦に十字の 切り目をいれ、その中にみじ 74 Koreana | 秋号 2010

だ。またここで紹介する方法以外にも 煮 干の出し汁入り味噌ソースで煮付けれ ば香り高く深い味を引き出すことがで きる。(翻訳:金明順)


カジソンはナスを適当な長さに切り、縦に十字の切り目をいれ、その中にみ じん切りにして下味をつけた牛肉、鶏肉、貝などを詰めたあと、肉汁をかけ て醤油やコチュジャン(唐辛子味噌)、味噌などで味付けして煮付けた料理だ。 味付けの材料と方法によってはバリエーションも豊富になる。

カジソン料理 材料 ナス2本、水カップ1、塩大さじ1、牛肉100g、乾しシイタケ3枚、出し汁(水)カップ1。 飾り : 薄焼き卵(卵1個分)、松の実、糸唐辛子、いわたけ、青唐辛子。 肉のタレ : 醤油大さじ1、砂糖小さじ1、ネギのみじん切り大さじ1、ニンニクのみじん切り小さじ1、ごま塩小さ じ1、ごま油 小さじ½、胡椒。

料理方法 1

ナスは4cmの長さに切ってから、縦2.5cmの深さに十字の切り目を 入れ、塩水に30分ほどつけてから水気を切っておく。

2 醤油に調味料を分量どおりに入れて肉用のタレをつくる。 3 牛肉は細く切り、肉用のタレ (½の分量)で下味を付ける。 4 乾しシイタケは水に30分ほどもどしたあと石づきをとり、洗ってか

ら水気を切り、細く切って肉用のタレ(½の分量)で下味を付ける。 5 味付けした肉とシイタケを混ぜて①のナスの中に詰める。 6 鍋に⑤のナスを入れて醤油で味をつけた肉汁をかけて強火で煮立てたあと、中火で汁をかけながら10分ほど

煮つめる。 7 卵は黄身と白身にわけて、塩味をつけてからフライパンで、それぞれ薄焼き卵にし、細切りにする。糸唐辛

子とイワタケは2cmの長さに切る。 8 器にカジソンを盛り、汁を少しかけてから上に黄色と白色の薄焼き卵、イワタケ、糸唐辛子、青唐辛子を飾

りとしてのせる。

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遠くの目

馬耳山のお堂の壁画 大学のそばにはなじみの韓国食堂があり、今日もテレビの韓国の歴史ドラマを年表や地図を 脇に置いてかぶりつきで見ている。すべては馬耳山のお堂の壁画から始まった。 これも仏縁としかいいようがなく、出会いの縁の不思議をあらためてかみしめている。 こみね・かずあき(小峯和明、立教大学教授)

国を初めて訪れたのは二〇〇〇年の秋であり、以来毎年欠かさず 出かけているが、もう十年たったという思いと、まだ十年しか たっていない思いとが複雑に交差している。それまでの韓国は私

にとって文字通り近くて遠い国であり、一九九四年夏に身近な研究会のメ ンバーで訪れることになったが、事前の準備をしているさなかに病気にな り、とうとう行けなくなってしまった。その時の喪失感や虚脱感は何とも 言い難く、一種のトラウマ状態となった。勤務先も国文学研究資料館から 立教大学に変わり、九九年に趙ウネさんが留学生として私の研究室へ来た のを機縁に、俄然韓国との距離が縮まった。二〇〇〇年に初めて釜山から 慶州、晋州をまわったのを皮切りに、トラウマの傷をぬぐうべく次々と出 かけるようになった。 なかでも二〇〇一年、ウネさんの手引きでゼミの院生達もまじえ、全 羅道の寺院や聖地を訪れたのが印象深い。ことに聖地馬耳山巡拝は、その 後の研究動向にもかかわるおおきな出来事となった。馬耳山のふもとに小 さなお堂があり、その外側の壁にいろいろな絵が描かれている。何気なく 見ているうちにひとつの絵に眼が吸い寄せられ、驚愕した。男が象に追わ れ、断崖絶壁の木の枝の蔓にぶらさがると、下から四匹の蛇が待ちかまえ ており、さらに男がつかまっているその蔓を白黒二匹の鼠がかみ切ろうと している、すると木の枝にかかった蜂の巣から蜜がしたたり落ち、まさに 男の口に入ろうとしている、という図であった。これは以前に論文を書い ていた、仏典の二鼠譬喩譚(じそひゆたん)という説話そのものではないか。 男は絶体絶命の窮地にあるにもかかわらず、口に入った蜂蜜の味でその危 機的状況にあることを忘れてしまう。人が常に死と背中合わせに生きてい ることをたとえた、無常をあらわす寓話であった。この説話の焦点は白黒 の鼠にあり、日月の比喩で時々刻々過ぎてゆく時間そのものをあらわすと される。 中国では種々の漢訳仏典に引かれ、墓誌銘などにもみえ、近年紹介さ れた『敦煌願文集』にも用例がたくさん出てくる(「二鼠」と「四蛇」の対句)。 日本では、すでに『万葉集』に山上憶良が引用しており、正倉院にある聖 76 Koreana | 秋号 2010

全羅道、馬耳山のお堂の壁画。


武天皇直筆の『雑集』の観音画讃にも引かれ、平安時代にはこの説話をもと にした「月のねずみ」の歌ことばまで生まれていた。しかもこの説話はイン ドからさらにイスラムを経てヨーロッパに伝わり、釈迦の伝記にまじって キリスト教の聖者伝にも組み込まれていた。男を追いかける象は、地域に よって虎やラクダや一角獣に変わるが、白黒の鼠は変化しない。しかもそ の聖者伝は十六世紀末、西洋から印刷機を運んでやって来たキリシタンに よってローマ字本の『サントスの御作業』に再び翻訳、出版されていた。ま 中世ドイツの刷り物。聖者サンバルラン、 ジョサハツ伝。左手に一角獣、男の両手脇に 白黒の鼠が見える。

さに説話が世界を駆けめぐる姿をまざまざと示してくれる絶好の例である。 日本でも中世以降、『古今集』や『和漢朗詠集』など様々な注釈書にひ かれ、ひろまっていたが、そうした追跡をしていても韓国のことは全くと いっていいほど念頭になかった。それが馬耳山のお堂の壁画に描かれてい たのである。その絵が目に飛び込んで来た時の衝撃は今もって忘れること がない。その時、はじめて自分が韓国のことを全く知らずに意識さえして いなかったことをあらためて身にしみて悟らされたのである。その後、高 麗時代の『釈迦如来行蹟抄』にこの説話が仏典から引用されており、禅問答 の論題になっていたことも知ったし、お堂の壁画も慶州をはじめ複数ある ことがわかってきた。 以来、韓国とりわけ前近代の朝鮮半島の歴史文化、文学は欠かせない ものになった。それまで琉球とのかかわりしか視野になかったのが一気に 東アジア全域へとひろまった。今では韓国の古典は、私にとって東アジア の説話世界の重要な領域としてある。留学生もウネさんに続いて、金英順、 金英珠、権香淑さんとあいつぎ、にぎやかである。彼女たちと研究会で『新 羅殊異伝』を読み終え、続いて『海東高僧伝』を読み始めた。書斎も研究室も 韓国の本が圧倒的に増えた。李市埈氏には拙著『説話の森』の韓国語訳を出 してもらった。大学のそばにはなじみの韓国食堂があり、今日もテレビの 韓国の歴史ドラマを年表や地図を脇に置いてかぶりつきで見ている。すべ ては馬耳山のお堂の壁画から始まった。これも仏縁としかいいようがなく、 出会いの縁の不思議をあらためてかみしめている。

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暮らし

高齢者のための生涯教育 韓国人にとって60歳を迎える還暦は人生におけるターニングポイントといえる。60歳になると、 人生の一周期が終わり、新たな周期が始まる。言わば、新しい人生のスタートである。高齢化が進み、 60歳 以上の人口が増えている韓国社会においてはことさら顕著な現象である。多くの人々が人生の 第一周期の終わりに満足することなく、新しい人生を切り開くために必要な新たなスキルを学んだり、 レジャー活動に勤しむことに前向きである。 ナ・スホ(那秀昊、韓国外国語大学校 通訳翻訳大学院教授)| 写真 : 安洪范

つからか、世の中の死亡率と出生率は著しく低下し、高齢化社会を経験 している。国連が昨年発表した報告書はこうした人口高齢化を「前例が

ない(unprecedented)、人類史上例を見ない過程」と表現している。この報告書に よると、2050年までには、世界的に60歳以上の老人人口が15歳以下の人口を上回 ると予測している。 韓国の高齢化はさらにハイスピードで進んでおり、世界の平均値をはるかに 上回る。韓国の統計庁はより厳しい基準を設けていて、65歳 以上を老人と規定し ているにもかかわらず、老人人口の割合は2000年7.2%から、昨年は10.7%へと着 実に増加している。9年後の2018年には、その割合が子供人口を上回る14.3%にの ぼるものと見られる。そして、2050年になると、韓国がOECD(経済協力開発機構) 諸国の中でも最も高齢化が進んだ国になることが予想される。 こうした変化が社会経済に及ぼす影響はおびただしい。それが韓国人にとっ 1 1, 2

てどんな意味をもち、また韓国人の暮らしはどう変わるのか。高齢者たちはこう ソウル市蘆原老人福祉館のコンピュー ター教室の風景

した変化にどう適応し、未来にどう備えているのか。韓国社会を支えている大き な柱の一つは教育である。多くの高齢者たちは、家にいながら世の中の変化を見 守ろうとはしない。彼らは自ら自分の未来に責任をもって、趣味と余暇活動を楽 しんだり、仕事に必要なスキルを覚えたりもするが、ただ単に、長くなった人生 を楽しむためのスキルなどを学んだりしている。

心は青春 ソウルの北東部に位置する蘆原区には、煉瓦作りの3階建てのビルがマンショ ン団地の隣にある。「蘆原老人総合福祉館」と表示された建物に毎日にように通っ ている人々は、ここを単に「学校」と呼ぶ。ここの職員として働いているイ・ジョン ヒさんによると、この福祉館は20年前に建てられ、17年前から教育プログラムが 運営されてきたという。この学校に毎日通う生徒の数は150人程度にのぼり、不定 期に出席する生徒まで合わせると500人近くになるという。ここは一見普通の学校 のように見える。教室で授業を聞いている生徒もいれば、ある生徒は美術やダン ス教室などの芸能やスポーツ授業に参加し、また卓球や玉突きなどのレクリエー ション活動を楽しむ人々も見られる。 78 Koreana | 秋号 2010


2

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ソウル市蘆原老人福祉館で 行われる書道教室の風景

ある小さな教室では20人余りの女性たちが集まってハングルの書道を学んでいた。生徒 である尹さん(70歳、女性)は書道大会に出場して賞をとったこともある。彼女は「書道をする 1

と心が落ち着き、退屈しませんね。心の若さを維持するのに役立ちます」と言う。書道仲間の 李さん(80歳、女性)にとってこの福祉館は学校以上の意味合いを持つ。「私は他の所へは行け ませんよ。自分にとってここは故郷のような所です」。ここで書道を学ぶ生徒たちは皆、自分 のレベルに極めて謙遜であるが、彼女らの作品はとても素晴らしく、筆を握る姿勢をみただ けでも、彼女らの書道に対するプライドの高さがひしひしと伝わってくる。 隣の教室では多くの人々が楽しくスポーツ・ダンスを習っている。その光景から、気持 ちだけが青春ではなく、体も若いことが見てとれる。ここのプログラムのほとんどはお年寄 りを念頭において設けられたものであるが、若者にも通じるものがかなり多い。人形劇プロ グラムはその一例である。生徒たちはここで直接人形を製作し、シナリオを書き、幼稚園な どを訪問して子供を対象に人形劇を披露する。また同福祉館では、多様な音楽プログラムが 運営されているが、毎年生徒たちが一般の人々のためにコンサートを開く。職員のイ・ジョン ヒさんは、高齢化社会を憂いながらも、未来に対して肯定的に考えている。「お年寄りの方々 が知識や経済力を持つようになりました。それだけに意識もだいぶ洗練されていて、ここに 通う方々の態度は堂々としていらっしゃいますね」と語り、「年取った方々にも可能性は多く、 豊かな資源を持っていらっしゃると思います」と付け加えた。 ソウル都心に位置したソウル老人福祉センターも、高齢者に学びの場を提供し、それを 社会と分かち合うプログラムを運営している。ここのメンバー自らが福祉館内放送を担当す るラジオ放送局を運営することもその一環である。現在は福祉館内に限って放送されている 80 Koreana | 秋号 2010


鄭さんは公務員として勤めていた頃は、パソコンをよく使っていたが、リタイアした後は遠ざかってしまった。 「5年ぐらい休んでいたら、使い方を忘れてしまって。これではいけないと思ってこの授業を申し込みました」 と言う鄭さんは 現在、デジタル写真の編集方法にトライし、孫娘の写真を使ってコンピュータの前で奮闘している。

が、将来は他の地域にも放送できるように周波数を確保する計画である。さらに10月始めに は、第3回ソウル老人映画祭も開催する予定であり、年齢に関係なく 有望な映画関係者が一 堂に集まるイベントになると思われる。若手監督には韓国社会を生きるお年寄りについて改 めて考える、また年配の監督には、彼らの人生観を披露できる機会になるだろう。

職場復帰 自分と他人の暮らしを豊かなものにすること以外にも、高齢者たちは働き口を探した り、職場復帰を望んでいる。ソウル老人福祉センターの隣には付属機関であるソウル市老人 就業訓練センターがあるが、高齢者の職場復帰を手助けする所である。履歴書の作成から面 接試験のリハーサルに至るまで、就職に必要なコツや実質的なスキルを教えるプログラムを 一年中運営している。例えば、建物環境管理員訓練プログラムは二日間行われるが、授業を 通じて講師陣は彼らの持つノウハウや知識を伝えている。講師の一人は実際、建物の管理所 長として働いているが、生徒である高齢者たちに対して、彼らが今後使うことになる様々な 装備や薬品に関する基本的な知識を伝える。彼は建物環境管理員という職業が専門的な職業 にもかかわらず、その仕事を目指す人々のほとんどは事前に全然トレーニングを受けていな いと指摘する。「志願者の99%はこの仕事について学ばずに 来るのが現状です。ここで教育 を受ける方々は誠意があり、やる気のある方々です」 参観その日は、男女合わせて約30人程度が授業に参加していた。生徒の一人、金さん (64歳、男性)はリタイアするまでは自動車会社の管理職にいた。彼は新しい仕事を始める前 に、それに備えることが重要である言う。「どんな職業であっても、与えられた仕事に対して ある程度は専門性を備えないとだめですね。簡単なことだと高を括ってはいけない。ただ、 床を拭くだけじゃと思ってはいけないと思います」。さらに「掃除や管理に対してきちんと学 んで職に就けば、新しい職場にずっと適応しやすいでしょう。ちゃんと教育を受けてから就 職すれば、自分はもちろん、会社の方にも役に立つと思います」 高齢者が再就職を通して社会に貢献できる方法はそのほかにも多い。ソウル老人福祉セ ンターの西側に位置した西大門区には森林体験指導者クラブがあるが、ここは2004年から高 齢者を対象にした教育プログラムを運営している。森林体験指導者は、周辺の山を訪れる訪 問客を案内しながら、地元の生態に関する自分たちの専門知識を分かち合うことを通して、 単なる山歩きを教育的な経験に引き上げるというプログラムに取り組んでいる。姜さん(83 歳、男性)は森林生態指導者の役割の重要性を強調する。「森林生態体験は視覚、聴覚、触覚、 嗅覚、そして味覚など、体で生命感を感じることを通じて、子供たちに自然や生命の大切さ を認識してもらいます。また、貫禄のある解説者が森林を構成している様々な花や木の由来 や機能、教訓などを語ってくれるので、森林の生態や山林文化を理解する機会になります」と 言い、「私たちの暮らしの場でありながら、子孫に伝えるべく未来の資源を守る取り組みであ ると同時に、子供たちに自然の大切さを知ってもらう機会にもなるため、やり甲斐がありま すね」と、仕事へのプライドをにじませた。 この他にも高齢者が自分の経験を生かす方法はまだまだある。各自治体が地元の高齢者 秋号 2010 | Koreana 81


を文化解説者として雇い、彼らの経験と地域に関する知識を活用している。

未来に備える さらに新しい方法で未来に備える高齢者もいる。若者なら、社会や文化、技術などの変 化に適応しやすいが、高齢者にとってはた易いことではない。しかし、高齢者の多くは新し い技術を学ぶことで、自らの生活をもっと暮らしやすくしようと頑張っている。例えば、パ ソコンの使い方の習得である。概ね各老人福祉センターにはパソコンの授業があり、一番人 気がある。蘆原老人福祉館も例外ではない。ここで生徒たちは現代のパソコン・ユーザが知っ ておくべきすべての知識を学んでいる。曺さん(74歳、女性)はアメリカに住んでいる子供や 孫たちと電子メールのやり取りをするためにパソコンを使っていて、さらにインターネット の使い方を学ぶために授業を聞いている。鄭さん(63歳、男性)は、この授業を聞くためには 長く待たなければなかった。「競争率が高いですね。人気のある授業なので抽選をしますが、 なかなか当たらないですよ」。彼は元公務員で、パソコンをよく使っていたが、リタイアして 西大門区の森体験指導者過程を 終えた森体験指導者の活躍ぶり

からはパソコンから遠さかっていた。「5年ぐらい休んだらもうすっかり忘れてしまいました。 これではいけないと思って、この授業を申し込みました」と言う。現在彼は、デジタル写真の 編集方法にトライし、孫娘の写真を使ってコンピュー タを前に奮闘している。 社会の変化に応えようとする男性高齢者に特に 人気のある講座もある。韓国では台所は昔から女性の 領域であった。今時の若者たちの間ではその認識もだ いぶ変わったが、旧世代の男性の多くは料理方法を学 ぶ機会がなかった。ソウル城北区役所が運営するシル バー男性料理教室は、彼らに料理の機会を提供してい 1

る。男性たちの中には、これまで自分の面倒を見てく れた奥さんの面倒を見なければならない状況に置かれ ることもある。あるいは、家族に愛を表現できる新し い方法を見つけようとする人もいる。具さん(70歳、 男性)は、「これまでは、家内が作ってくれたり、外で 美味しいものを求めて食べていましたが、自分が料理 を作って家族と一緒に食べるのもいいのではと、普段

から考えていたんです」と言う。 高齢者は余生を楽しむために必要なスキルの他に、健康にもかなり関心が高い。蘆原老 人福祉館やソウル老人総合福祉館など、ほとんどの福祉館には健康のためのスポーツ施設が 設けられていて、会員が経済的に豊かなだけでなく、健康に暮らしていけるように支援して いる。 国連によると、現在人類が経験している高齢化は前例のないことで、その傾向は今後も 変わらないという。昨年まとめた報告書ではこの現象を「不可逆な(irreversible)」ことと表現 していて、さらに「当然のように思われた若者たちが21世紀の半ばに減ってしまう」と断言し ている。したがって、これからも健康で生き甲斐のある生活を送るために頑張っている現世 代の高齢者の取り組みは、自分たちの後に控えた高齢者予備世代のために、道を切り開く作 業でもあるわけだ。彼らは現在、我々の未来を開拓しているのだ。(翻訳:趙祥恩) 82 Koreana | 秋号 2010


韓 国 文 学 の 旅

神学徒の道を歩んでいた李承雨 (1959~) は1981年に文壇にデビューした。彼はキリスト教的な 世界観を基にした形而上学の観点から人生の内面を見つめ続けてきた。彼の長編小説 『植物た ちの私生活』 はフランスのガリマール出版社の 「ポリオシリーズ」 に載っている。 『チョンギス・ 語り部物語』 (2006) は彼の9冊目の小説集 『古い日記』 に収録されている作品だ。 リ

スン

李 承 雨 Autumn 秋号 2010 | Koreana 83


作家評

話し手の運命 李承雨の『チョンギス・語り部物語』 イ・スヒョン(李守炯、ソウル大学研究教授)

承雨は神、暴力、原罪などに関する宗教的な

いるにもかかわらず、自分だけの小部屋に閉じこもった

質問を真正面からとりあげた『エリュシクトン

まま疎通の欲求をもっていることはもちろん、自分が孤

の肖像』 (1981)で文壇にデビューし、それ以来

独だということさえ隠して生きているという真実に気付

これまで現代人の救いや罪の意識のような形而上学的な

くことになったのは必ずしも不幸なことだとは言えない

問題を探求した小説を主に発表してきた。彼の小説の重

かもしれない。

要な特徴の一つは、その代表作『生の裏面』 (1992)に見ら

彼の長期にわたる失業生活を心配した妻は会員に本

れるように、このような形而上学的な探求が小説を書く

を読んで聞かせるサービスを提供する「ソウル21世紀チョ

という問題と密接に関係しているという点だ。そのよう

ンギス」というインターネット事業を立ち上げ、妻の頼み

な側面から彼の小説に現れた「小説を書く―物を書く」と

で彼もまたひょんなことから老年にさしかかったある会

いう行為は単純に文学的な領域に限られたものではなく、

員の家を訪問することになる。もちろん、その時まで彼

現代人の実存的な問題を探求する省察的行為という意味

は、自分が代行することになった語り部の役割に何らか

を持っている。朝鮮時代ソウルの路上で物語の本を専門

の意味を発見することになるだろうとは期待してはいな

に読んで聞かせる仕事を業としていたチョンギスという

かった。そして彼が本を読んであげる老人は深い皺と焦

語り部をテーマにした『チョンギス・語り部物語』は、「小

点の定まらない眼、そして世の中に対する関心を完全に

説を書く―物を書く」という行為を「語り部―話す」という

失ったような無表情な顔をしていた。そのような人物が

行為に拡大することで、より日常的で普遍的な次元で遂

いったいなぜ誰かに本を読んでほしいと頼むのか?

行される省察の問題を扱った作品となった。

彼は気乗りがしないままトルストイの『人生論』を読

『チョンギス・語り部物語』の主人公は全地球的な金

み始めたが、最初から無表情だった老人もやはり彼の朗

融危機の結果、韓国に押し寄せた構造調整という名のリ

読に何の関心も示さなかった。無反応の老人を前にして

ストラにより突然失業しなければ、至極平凡な人生を歩

彼は、自分の話を聞きもしない人間に何かを語らなけれ

んでいたであろう人物だ。彼は小説を書くことはもちろ

ばならない仕事の無意味さに疲れてしまう。そしてふと、

ん、小説を読むこととも全く関係の無い人生を歩んでき

そんな状況が自分が職場で勤務していた時の状況と少し

た人物で、実存的な苦悩とも距離のある人生を生きてき

も違わないという事実に気付く。結局、彼の孤独は失業

た。そんな彼が1年以上続いた失業生活の末に深い孤独と

のせいで発生したのではなく、元々人生に潜伏していた

断絶を感じるようになったという事実は、果たして幸か

根本的な条件であったわけで、単に彼は忙しさを言い訳

不幸か。そんな体験は一個人にとっては不幸なことでは

にそのような事実から目をそむけたかっただけなのだと。

あるが、現代人が心の底では誰よりも強く疎通を望んで

それから彼は孤独を抜け出すために、本を読む代わりに

84 Koreana | 秋号 2010


自分の話を語り始める。

はじめて開かれる。たぶん、その老人は、主人公の語っ

するといつの間にか、話し手である彼は顧客の老人

てくれた主人公自身の話を聞きながら自分のことを語れ

の好みや立場はもちろん、反応にも気を使わずに勝手に

ない状況にじっと耐えていたのだろう。主人公が語って

いろいろな話を選び始め、自分の話をだらだらと話すこ

くれる話は老人自身の話ではないが、ある意味でそれは

とが多くなり、聞いている老人のために話すというより

また主人公と老人を含めた私たち皆に共通した話ではな

も、話をしている自分自身のために老人が聞いてくれて

いだろうか。

いるのかもしれないという意識の倒錯に見舞われる。聞

30数年耐え抜いてきた挙句、ついに自分自身の事を

くことで得ることよりも、話すことで得るものの方が大

語ることができた老人は、まるで待っていたかのように、

きいならば、誰が誰に依存しているのか?聞いている者

その後すぐに亡くなったという消息を最後に伝えながら

ではなく、話している者が人間の本性により近いでのは

主人公はこのように言う。「誰かが口を開かなくては絶対

ないか……。

に分かるはずのない、長くて暗くて驚くべき熱い話が僕

『チョンギス・語り部物語』という小説自体が誰かに

たちの人生の地表面下に流れているという事実を忘れて

語りかける口語体で書かれている。そのため主人公自身

はいけないんだ」。言わなければ分からない話、だからこ

が語る話を聞くのは小説の中の老人だけでなく、読者で

そ何としてでも話そうとする話は主人公の人生にも、老

ある私たち自身でもある。彼の話はどんな内容なのかな

人の人生にも、そして私たちすべての人生にも少しずつ

んて、別に重要なことではないかもしれない。彼は自分

隠されているはずだ。話すということは、また小説を書

が上司から裏切られ失職することになった事情について

くということは、そんな話を聞かせる作業なのだ。だか

話し、また自分がどういう経過で老人と出会ったかにつ

らどうだというのか?何をどうするというのではなく、

いて話す。重要なことは話の内容ではなく、とにかく自

そうすることで私たちは自分自身に対して、他人に対し

分の話をする状況にならなければ、たぶんその話は永遠

て、究極的には互いに対して分かるようになるというこ

に口にされなかったに違いないという事実を確認したこ

とだ。他の特別な目的があるのではなく、人間が生きる

とにあるのだ。

ということ自体が互いを知ることなのだ。そういう点で

後で明らかになるが、彼の話を無表情で黙々と聞い

私たちは皆、話をする運命にあると言える。そしてそん

ていた老人の事情もまた、これと大同小異だった。民主

な運命に少しでも敏感な人が小説家になるということな

化にはまだまだ遠かった1970~80年代の韓国社会で頻繁

のだ。(翻訳:金明順)

に発生した、ある種の政治的な事件に巻き込まれ、語る ことを禁じられた老人の口は、30数年の時間が経過して 秋号 2010 | Koreana 85


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