Koreana Autumn 2011 (Japanese)

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秋 号 2011

韓国の文化と芸術 特集 秋号 2011

伝統工芸とデザイン vo l. 18 n o . 3

家具;テキスタイル・アート;陶器; 漆芸;金属造形

韓国伝統工芸の美意識

ISSN 1225-4592

v o l. 18 n o. 3

現代の職人の 手によって蘇った作品


発行人 編集理事 編集長 監修者 編集諮問委員

金炳局 全南鎭 金鍾徳 嘉原和代 裵炳雨 Elisabeth Chabanol 韓敬九 金華榮 金文煥 金英那 高美錫 宋惠眞 宋永萬 Werner Sasse

広告 CNC Boom Co,. Ltd ソウル市江南区大峙洞1008-1. タワークリスタルビル Tel : 82-2-512-8928 Fax : 82-2-512-8676 編集 金熒允編集会社 ソウル市麻浦区西橋洞384-13 Tel : 82-2-335-4741 Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 印刷 三星文化印刷 ソウル市城東区聖水2街274-34 Tel : 82-2-469-0361~5 Fax : 82-2-461-6798

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掲載された記事は筆者の個人的な意見で あり、〈Koreana〉や韓国国際交流財団の公 式見解ではありません。 1987年8月8日文化観光部-1033で登 録された季刊誌〈Koreana〉は英語、中国 語、フランス語、スペイン語、アラブ語、 ロシア語、ドイツ語でも発刊されています。

韓国の文化と芸術 秋号 2011 韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル

チャン・ウンボク(張應福)のファブリッ クパターンで拵えた韓服。2010年張應 福作品展「Hidden Flowers」に出展された ビデオアートの一場面。 Calligraphy

© カン・ビョンイン(姜秉寅)

チョン・ヨンボク(全龍福) 漆絵画「朝の海」部分、木版上に漆塗り、60X60cm、2010

韓国現代職人の世界

すべての国と民族が日常使用する生活用品には身近な美意識が溶け込んでいます。 長い間、職人の手によって受け継がれてきた韓国の日用品にも同じことが言えま しょう。たとえ無名の職人であっても、彼らの 手工芸品には真の芸術作品として の感動と職人魂が吹き込まれています。 今回紹介された今日の職人たちは前近代の職人たちとは異なり、個々の仕事を通 して個人的な名声を得ています。この点で彼らは自分たちの芸術を創作してきた 現代工芸職人の第一世代と言えましょう。彼らの作品は意識的・無意識的に前近代 の職人たちと固有の美意識を乗り越えた創造的な作業によって多様化した美の世

界を築いています。 今季秋号の特集では革新的な職人精神を追求することで、我々の時代精神を反映 している韓国の最も優れた職人たちの世界を垣間見ることができました。特に前 近代と現代の巨匠たちにスポットをあて、彼らの独創的な作品の持つ意義を考え てみました。 日本語版 編集長

金鍾徳


特集 伝統工芸とデザイン

04 08 14 20 24 30

イントロダクション

韓国人の美意識

崔俊植

家具

朝鮮家具を現代に再現する大工・李定燮

具本埈

テキスタイル・アート

韓国の美を借景するテキスタイルデザイナー・張應福

全恩景

20

陶器

30

生活陶器運動を展開する陶芸家・李侖信

全恩景

漆芸

伝統漆芸を超える限りない挑戦、漆芸家・全龍福

朴炫淑

金属造形

金属が作りだす自然の音、スピーカーデザイナー・劉国壱

36 42 48

42

54 60 64 70

08

金瑛佑

文化フォーカス 1

世界の韓国学の未来を考える、2011. K.F. アセンブリー

許振碩

文化フォーカス 2

『外奎章閣儀軌』145年ぶりの里帰り

李京姫

アート・レビュー

「時間の光」の中で捉えた千年の風景

李文宰

48

インタビュー

華やかな外見の奥に秘めた重い真実

高美錫

世界の中の韓国人

世界が共感した『母をお願い』金美賢 巨匠

「五父子」が作る甕器の世界-甕器匠・金一萬

朴炫淑

オン・ザ・ロード

高麗大蔵経の巡礼の道

性安 54

70

78

ブック・レビュー 金学淳

10年がかりで発刊された英訳、朝鮮時代の実学者・丁若鏞の名著 『牧民心書』 英訳本ダイジェスト版 西洋人の視点による韓国観光地の評価 『ミシュラングリーンガイド韓国篇』 ミシュラン出版 最新技術で録音された音楽を超えたサウンド 「松広寺の早朝読経 CD」 31番地プロダクション

88

80 82 86 88 92

エンタテインメント

トップクラスの歌手たちのサバイバル競演「私は歌手だ」李英美 グルメを楽しむ

ピンデトック

芮鍾碩

遠くの目

ニッポネンシス(日本病)に悩む日本経済

柳在相

ライフスタイル

ロッテの熱狂ファン、釜山カモメ

宋永万

韓国文学の旅

道無き道の案内人、キム・ミウォルの小説世界 『ソウル洞窟ガイド』 金美月

李光鎬


イントロダクション

伝統工芸とデザイン

韓国人の美意識 現代韓国のデザイナーにとっての文化的DNA(遺伝子)とはなんだろう。朝鮮時代のマッサバル (井戸茶碗)とチョガッポ(パッチワーク風呂敷)に見られる自然と人為との絶妙なバランスに、 それを見出すことが出来るだろう。 チェ・ジュンシック(崔俊植、梨花女子大学校国際大学院韓国学科教授)

チョガッポ(韓国刺繍博物館所蔵品) と18世紀の白磁タルハンアリ (国立中央博物館所蔵品)

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韓国の文化と芸術


国の伝統芸術に現れる美意識は、韓国の歴史が長いだけに多種多様 であり、その全てを覗くことはそもそも不可能なことである。例

えば、1500年前の百済の芸術と100年前の朝鮮の芸術性においては、韓 国の芸術と他国の芸術を比較するほどの違いがあるだろう。そこで 今回は範囲を絞り、現代韓国人が考える伝統芸術にフォーカスを当 てたいと思う。ところが意外にも、韓国人が捉える韓国伝統芸術と は、遠い昔のものではなく、ほとんどが朝鮮後期のものである。例 えば、ユネスコ世界無形遺産に登録されている韓国の代表的な声楽 「パンソリ」は、19世紀後半になって現在の形が完成した。ここでは、 その頃に形成された韓国芸術に現れる美的特徴について見ていきたい。

宮殿建築 19世紀後半の韓国の芸術を他国のそれと比較する場合、取り分け目立つ特徴 として、非対称性(asymmetry) ・自由奔放さ(spontaneity)とに形容される、型破り の美しさを挙げることができる。韓国人は、型にはまった秩序に対して根からの拒否感 を感じるようである。これは、同じ文化圏に属する中国や日本の芸術と比較すると殊更はっ きりする。中国と日本の芸術品の場合、対称的で完璧な美を誇るが、朝鮮後期の芸術品はたとえそれが陶器であ れ建物であれ、対称的な作品より非対称的な作品の方がはるかに多い。 例えば宮殿建築を見てみよう。中国の紫禁城を例に挙げると、最初の門から正殿である太和殿を経て、最後 の門まで中軸線上に並んでおり、紫禁城の他の建物もこの軸を中心に左右対称に配置されている。現在ソウルに ある朝鮮の五つの宮殿のうち、その中国様式に従っているのは、第一宮殿の景福宮だけである。世界文化遺産に 登録された第二宮殿の昌徳宮をはじめ、他の宮殿はその原則(様式)を無視し自由奔放に建てられている。

チョガッポとタルハンアリ また、朝鮮の非対称美を語る際、チョガッポを抜きに語ることは出来ない。チョガッポは布切れを縫い合わ せて作る風呂敷である。その素晴らしい縫い合わせもさることながら、特にその構成に注目してほしい。布切れ を素材としているため、同じものは一つもない。故にそもそも対称的な構成を期待するのは無理である。果たし てこんな無定形の布切れで風呂敷が作れるのかと、危惧の念を抱くが。 しかし、その出来上がった作品の全体的な構図は、実に素晴らしい。非対称性又は自由奔放さの中に、見 えない秩序が伺える。そんなわけで、このチョガッポを欧米で展示すると、観覧客から作家は誰かと聞か れるそうである。造形構成に非常に優れているからだ。しかし、そのデザイナーは、既知の通り朝鮮の 無名の女性たちである。彼女らはデザインが専攻でもないのに、これだけの秀作を残した。これは、 朝鮮後期のデザインのレベルの高さを示している。 因みに陶磁器についても見逃すことができない。朝鮮後期の白磁の代表といえば、何と 言っても「タルハンアリ(満月壺、moon-shaped porcelain)」と呼ばれる美しい名前の白磁が ある。現存のタルハンアリに、同じ色や同じ形のものは一つもない。皆まちまちである。特に 全体的な形態がいつも非対称的で、片方が歪んでいるように見える。こうした非対称的な白磁は、 日本や中国ではほとんど見当たらない。しかし、韓国ではこうした陶磁器が一般的である。 この白磁と関連して面白い事実がある。実は朝鮮の白磁は、二つの白磁を上下に重ねて作り、しかもその 繋ぎ跡がそのまま残されているということである。白磁の表面の中央あたりをよく見ると、くっ付けた部分に微 細なひび割れが出来ているのが分かる。こうした現象も韓国の芸術品だけに見られる特徴である。つまり、韓国 Koreana ı 秋号 2011

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人は細部には無関心なので、作業過程で生じた小さな傷をあまり深刻に考えない。そのため、 中国や日本の職人の目には韓国の職人が大雑把な作業をしているように映る。韓国の芸術品の 多くは、細部を果敢に省略し、全体の大きな枠を重要に捉えている。故に、遠くから眺める全体 的な形は美しいが、近くでよく見ると、いい加減な仕上げと思われる芸術品が多い。韓国の下手 な職人がいい加減に作業をすれば粗雑な物が出来上がるが、腕の良い職人が大雑把に作ると、日本 や中国の芸術家には真似ることのできない作品を創り出すこともある。 こうした芸術精神が深く盛り込まれたものに、よく「マッサバル」と呼ばれる器がある。この器は、17世紀以降 の日本で大きな人気を博した。これは、その器に見られるタフさ(toughness)と、大雑把な作業と思われるよう な取組みの精神によるものであった。この精神については、自然主義(naturalism)というややこしい表現が用い られたりした。マッサバルは、人の手による人為的なタッチを出来るだけ排除し、焼く際に釉薬の流れるままに 放っておいたり、繋ぎ目の破れも放置するなど、細部には関心を持たない韓国芸術の精神を端的に表している。 この大雑把に物を作る精神がもっとも自然な美しさを創り出し、人為的な美に慣れている日本人の間で大きな人 気を呼んだのである(しかし、この器は中国ではあまり人気がない)。

木造家具 その反面、韓国芸術には上記の自由奔放さとは非常に異なる美が発見されることも忘れてはならない。最も 一国の伝統芸術を、1つや2つの言葉で定義づけてしまうことはできないと思う。その異なる美というのは、単 純さ(simplicity)又は素朴さ(naivety)である。朝鮮後期の芸術品には、およそ儒教、特に性理学に影響されたと 思われるが、その外形の単純なものが多い。先に述べたタルハンアリもその典型的な例である。タルハンアリの ように表面にまったく紋様を入れず、全面を白色にするやり方は、まず日本や中国には見られない。 タルハンアリの美意識には、自由奔放さと単純さによる美しさが絡んでいるが、その他に極めて精製された 美と単純な美が同時に具現される場合もある。その代表的なものに、朝鮮の木造家具を挙げることができる。朝 鮮の木造家具は、その完璧な比例と単純さ又は自然さ(naturalness)ゆえに世界的な美術品といえる。朝鮮の木 造家具は、別の大きなテーマとして多角的に見る必要があるが、ここでは素朴さの面に絞って見ていきたい。 朝鮮の木造家具は、大概対称的な構図となっているが、これは家屋の内部構図と合わせるためだったと思わ れる。一つ注目すべき点は、多くの木造家具が非常に単純にデザインされていたということである。これは、外 見で自慢することを極力嫌う性理学に影響されたからではないかと思う。朝鮮の場合、中国のように華麗さを極 めた芸術品を見かけることが難しい。その代わり装飾を出来るかぎり排除した芸術品が多く散見される。木造家 具もその一つである。完璧な比例で勝負をかけている。余ったり足りなかったりすることなく完璧な比例を見せ ている。そこに、同じ考え方でデザインされた「仏国寺」の石塔が連想される(「釈迦塔(仏国寺の塔)」はもっとも 単純なデザインであると同時に、韓国では一番素晴らしい塔である)。朝鮮の木造家具は中国や日本と違って、 絢爛たる装飾を施さないため、単純であると同時に樹木の年輪の木目をそのまま生かそうとしていることが分か る。朝鮮美学の著しい特徴として、人為的な手を加えない点があるが、この家 具にもその傾向を見ることが出来る。 以上、韓国の造形芸術を中心に述べてきた。しかし、本当の韓国の美し さは、公演芸術である音楽や踊りによく現れている。音楽や踊りには、人の 感性がそのまま現れるので、美的特徴がことさら目につきやすいのである。前 述した韓国人の自由奔放さは、音楽や踊りでは即興性(improvisation)という形で 現れる。韓国の伝統音楽に見られる即興性はその度合いが酷すぎて、ときには気まぐ れとも思われる。これに関連した話はまたの機会に語ることにして、この文章を締めた い。(翻訳:金禧貞)

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韓国の文化と芸術


朝鮮美学の特徴は、人の手を加えることを最小限 に抑えている点にある。その結果現れたのが、非 対称性(asymmetry) や自由奔放さ(spontaneity)と に形容される、型破りの美しさである。

朝鮮マッサバルと四方卓子(飾り棚) (国立中央博物館所蔵品) Koreana ı 秋号 2011

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家 具

伝統工芸とデザイン

朝鮮家具を 現代に再現する 大工・李定燮 イ・ジョンソプ(李定燮)は朝鮮家具の伝統美を再現する家具職人として評価されている。一時西洋画家の 道を志したが、その後山奥に入って伝統韓屋の建築を基礎から学び、今日に至っている。 ク・ボンジュン(具本埈、ハンギョレ新聞記者)| 写真 : 安洪范

1. 空間建築事務所内にある「空間韓屋」の 茶室。乃村木工所製作のティーテーブル。 低いコンソール、茶道具を乗せる棚箪笥 などが設えてある。

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韓国の文化と芸術


ウル市苑西洞にある「空間グループ(Space Group)」社屋の中に昨年オープンした

「空間書架」には、テーブルから椅子、本たて、小道具に至るまで「乃村(ネチョン)

木工所」の大工イ・ジョンソプの作品が展示され、韓国文化界で大きな話題を呼んだ。韓 国現代建築の第一世代建築家、故金壽根(キム・スグン)氏が建てた「空間」の社屋は、韓国 建築学を学ぶ者たちにとっては巡礼地のようなもので、世界的な建築家たちも韓国訪問 の際には訪れる場所だ。韓国建築デザイン界を代表する「空間建築設計事務所」がイ・ジョ ンソプの作品世界に注目し、広報に乗り出したのである。「空間書架」の訪問客は、イ・ ジョンソプが作った椅子に腰かけ、建築関係の図書を読むことができる。

輸入名品との真剣勝負 朝鮮家具は、重厚で奥ゆかしい木特有の色合いと装飾の無いシンプルな形のなかに、 不思議な組合わせの比例の美しさがあるのが魅力だ。永い歳月を経た奥深さを秘めなが らも単純明快なデザインは、現代家具よりもはるかに近代的だ。そのため、現代の韓国 デザイナーにとって朝鮮家具の遺伝子(真髄)を再生することは、長年の課題であり目指 す目標でもあった。家具デザイナーよりは「大工」と呼ばれたいというイ・ジョンソプは、 朝鮮家具の伝統美を再現する家具職人と評価されている。 イ・ジョンソプの家具は徹底的に余分を切り捨て、シンプルさを極めたデザインが特 徴だ。天然木の持ち味を活かし、丈夫で長く使える家具本来のあるべき姿を忠実に実行 している。ところが見る人は、軽く反り上がった椅子の座面に韓国伝統家屋の屋根の稜 線を連想し、座枠と脚との繫ぎ方に韓屋の柱構造を連想する。 イ・ジョンソプが世間に対して本格的に自分の作品を発表したのはそう長くない。 2007年の年末、海外名品ブランドの店が並んでいるソウル市清潭洞(チョンダムドン)の 高級商店街通りに「乃村木工所ギャラリー」をオープンしたのは、「真剣勝負をしたい」気 持ちがあったからだ。この試みはビジネス的成功には繋がらなかったが、彼の家具作品 にフォーカスが当てられるきっかけとなった。韓国伝統美と現代的デザインが絶妙に調 和した彼の家具は、伝統的な空間にも現代的な空間にもよくマッチし、人気を呼んだ。 最高の名品家具デザイナーということで、日本の家具作りの名匠であるジョージ・ナカシ マと比肩される。

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「創造なんてない」 もともと韓国では建築の仕事をするのは大工だった。今でも伝統建築の韓屋を造る

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2. 鍛造脚のテーブル(forged iron) 。カワイ・ジュ ンジ(鍛冶職人、武蔵野美大・東京芸大兼任教 授)作の鉄鍛造の脚と、イ・ジョンソプ作の原木 の天板がユニークな調和をなしている。

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のは建築家より主に大工の方だ。韓屋は木で造られるからだ。大規模な宮殿も、小さな 居住空間も全て大工が造った。そして韓国の大工には二つのグループがある。家屋のフ レームを造る「大木(テモク)」と、家具や窓・戸など家屋内部を造る「小木(ソモク)」があ る。大木と小木は、各々の専門領域が徹底的に区分されている。しかしイ・ジョンソプの 場合、この両方を受け持つことができる。彼が大工になったのは家を造りたかったから だ。 イ・ジョンソプはもともと画家になるのが夢だったが、大工になった。ソウル大学で 絵画を専攻したが、制度の枠にとらわれ排他的な美術界に早くも興味を失った。 画家の夢を諦める代わりに、本当にやりたかったことを始めた。工作の好きだった彼 にとって一番感動的で興味深かったのは、故郷の村に彼の伯父が作った小さな家だった。 大工でも建築家でもない伯父が作ったみすぼらしい家だが、彼にはインスピレーション

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1. 空間建築事務所のオープン資料室であ る「空間書架」。乃村木工所による家具で 飾られている。 2. 低いコンソール。飾り気のない構造と イ・ジョンソプ家具特有の比例美がよく 表れている。 3.「雨が降る日は家具を作り、降らない日 は家屋を建てる」という大工イ・ジョンソ プ氏

の源泉であり創作のモデルでもある。住む人が直接造った家、デザインの概念すら知ら ず、ただ自分に必要だから建てた家。このように意図しなかったデザインが本当に生活 の中で美しく感じれるような家を造ることが、自分の目標となった。韓屋学校で木工を 学び、彼は大工に変身した。 しかし、建築技師資格証もなく、実績もない若い大工に家を建てる仕事を頼む建築主 は、当然ながら誰一人いなかった。それで視線を向けたのが家具だった。家具を作るよ うになったのは、ほしい家具を作ってくれる人がいなかったからだ。彼のほしい家具は 非常に単純なものだった。言い換えれば「良い材料で作られた見栄えの悪くない」家具だ。 また同時に丈夫でなければならない。しかし市販の家具にはそんなものはなかった。そ れで直接家具を作り、独自のデザインを施した。装飾はまったく排除した、骨組み自体 で美しさを表現する家具になった。 経済性を考えず、大量生産方式を拒み、ひたすら汗を流しながら手作りで仕上げる彼 の家具は、直ちに口コミで広まっていった。人々は惜しみなく彼の家具を買い入れ、美 術界では展示会の要請が相次いだ。 有名な家具デザイナーになると、建築家の夢も叶うようになった。ミニマルなデザイ ンの家具に魅せられた人々は、それと同じ感覚の家を建ててほしいと頼んできた。イ・ ジョンソプが直接設計・施工した家は、彼の家具と同じように極度なシンプルさと材料の 持ち味をありのままさらけ出している。 しかし面白いことに、彼自身はデザインを創造しなかったと述べている。世の中には 既に遠い昔の人々が作っておいた最高のデザインが存在し、自分はそれを拝借し使うだ

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大工のイ・ジョンソプが求める家具は「材質が良く見栄えのする」家具だった。その上丈夫でな ければならなかった。しかし市販の家具にはそんなものはなかった。それで直接家具を作り、 独自のデザインを施した。それは、装飾をまったく排除した構造自体で美しさを表現する家 具になった。

けだという。「大英博物館でメソポタミア陶器を見たら、最高のデザインはもうとっくに 昔に全部出来上がっていました。創造なんてありません。それらの組合わせの比例を見 て、自分なりに家具を作るだけです」

山奥の作業室にて イ・ジョンソプは江原道洪川郡乃村面の作業室に引きこもり、もっぱら木だけを扱う 暮らしをしている。ソウルから車で二時間半しか離れていない距離だが、自然環境がよ く保存され山奥の気運が実感できる僻地に安着したのは、10年前のことだ。彼が自分の好 み通りに設計し、直接両手で作業をし、素朴な家具で配ったこの家はイ・ジョンソプのデ ザイン哲学を最もよく表している作品でもある。この家で彼は、「雨が降る日は家具を作 り、雨が降らない日は家屋を建てる」暮らしをしている。 上質な木だけを厳選し、5年以上乾燥させた後に加工し、投げてもビクともしない丈 夫さを持つものを作るので、彼の家具はゆっくりと少量生産される。接着剤などすべて の材料は、FDAに認可された人体に無害なものだけを使い、もし気に入った部品がなけれ ばいちいち直接作って使用する。世相に逆らい流行を拒むイ・ジョンソプの作品が当代最 高の名品になったのは、正直さと誠実さという素朴さ、且つ守りにくい価値観をあくま でも貫いているからだろう。(翻訳:金禧貞)

1. 乃村木工所のゲストハウス 2. 乃村木工所のソファーと低い円卓がある 「空間書架」のラウンジ Koreana ı 秋号 2011

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テキスタイル・アート

伝統工芸とデザイン

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ャン・ウンボク(張應福)は輝く原石を丹念に細工し宝石に変えるデザイナーだ。彼 女にはいつも「韓国的なファブリック」という修辞が付いてくる。弘益大学校で繊

維美術を学び、1985年にモノ・コレクション(MONO collection)を設立してから25年間、 テキスタイル・デザイナーとして活動してきた。特に彼女の独創的なファブリック「モノ チョン」は、固有名詞として使われるくらい世界的にその感性が認められている。

ソフトインテリア まるで工芸作品のようだと評価される張應福のファブリックは、コッシン(花柄の履 物)、扇子、冊架図、トックサル(餠の模樣や柄を刷り出す型)、ノリゲ(韓服のチマの腰 の部分に垂らす装飾品)、ゴムシン(ゴム靴)など韓国的なモチーフからインスピレーショ ンを得てデザインされたものだ。しかし非常に現代的で完成度が高く、ファブリックだ けでも素晴らしいインテリア・アイテムとしてよく用いられる。 張應福は自らの仕事をソフトインテリアと定義づけている。「私は直接生地を作るこ ともありますが、それを使って家具作りや空間の演出をすることもあります。私の言う ソフトインテリアとは、文字通りにソフトで可変性がある、使う人が自ら演出できるデ ザインを意味します。言い換えれば、プライバシーの面では少し不便かも知れませんが、 有機的でコミュニケーションが取りやすい空間を言います」 (ソフトインテリアは、日本・ アメリカなどではソフトファニッシング(soft furnishing)、イギリスをはじめヨーロッパ

韓国の美を借景する テキスタイルデザイナー・張應福 チャン・ウンボク(張應福)は、韓国の伝統美を現代スタイルに再解釈し、世界的な名声を獲得した テキスタイルデザイナーだ。これまでさまざまなファブリック作業を通して家具やインテリアデ ザインなどの領域を行き来してきた張應福は、自分の仕事をソフトインテリアと 定義づけ、異なる次元へと跳躍している。 チョン・ウンキョン(全恩景、月刊『DESIGN』編輯長)| 写真 : 安洪范

コッシン・パターンの生地を被せた引き戸 式パーティションの前でポーズをとるテ キスタイルデザイナー・張應福。彼女のデ ザインしたパターンは、インナーや 家具など使途が多岐にわたっている。 Koreana ı 秋号 2011


ではインテリアスタイリングアンドドレス(interior styling and dress) と呼ぶ) 張應福は最近ソウル市近郊の果川(カチョン)に作業室を移した。 がらんとした空間にモノコレクションの多様な生地を被せた引き戸ス タイルのパーティション数枚を置いてあるが、この 作業室自体がソフトインテリアとも言える。リサイ クルしやすく扱いやすい素材だということもメリッ トだ。大金をかけず、空間を壊さずに、数枚の生 地だけで新たな空間の演出が可能なところが即ちソ フトインテリアの力だ。ファブリックを用いたパー ティション、照明、家具、カーテンなどがその例だ。 彼女は私的空間と公的空間が交差するホテルに対し て、本格的なソフトインテリアを実現したいと意欲的 だ。

伝統民話から得た多彩なモチーフ 「自然を鑑賞する態度にも、韓日中の間で民族性の 違いを感じます。日本は庭園に山水を縮景することで 自然を取り込み、中国は出来るだけ勇壮で巨大な風景 式庭園を造ることを好みます。しかし韓国は景色のい い所に東屋を建て、自然の風光をありのまま借景して 楽しみました」 張應福は韓国の祖先が自然を借景して楽しんだのと 同じように、韓国固有の伝統的なイメージをデザインに「借 景」している。「私はいろんなところからたくさんのインスピ レーションを得ています。これまで発表した作品は、主に韓国の民話 からモチーフを得たものが多いですね。コッシン、ゴムシン、ソバン など身近な生活用品からアイデアを得ましたが、必ず検証されたモ

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張應福は、自作のパターンでインテリアや 衣服の雰囲気を新しく創造し、オリジナリ ティーあふれる作業を楽しむ。下は朝鮮時 代の山水画の大家、チョン・ソン(鄭敾、号 は謙齋)の『金剛山図』をモチーフにした作 品、パーティション。

「韓国民話からモチーフを得たものが多いですね。コッシン(花柄の履物)、 ゴムシン(ゴム靴)、ソバン(一人用のお膳)など身近な生活用品から たくさんアイデアを得ました」

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チーフをたくさん使います。韓国固有の美しさという基準を崩さな い範囲内で、現代的に再解釈したデザインを追及してきました」 張應福は韓国の伝統が残っている町、貞陵(チョンルン、ソウル 市)の韓屋で育った。「私のことを韓国的なデザインをする人だと言 いますが、それは私の生い立ちともかなり関係があります。私の名 前をつけてくれた祖父は漢学者で、我家ではほとんど毎日のように 祭祀が行われました。公務員だった父と手先が器用だった母の下で、 とても質素な暮らしでした。幼い頃から古風な環境で見聞きし育ち ましたが、当時は特にいいとは思いませんでした」 考えてみれば、彼女の育った町や環境そのものが「アンティーク」 だったに違いない。通りがかりの古物商がチャントッテ(醤油甕や味 噌甕の置き場)にある非凡な形のソレギ(甕の蓋。或いは高台の無い 口の広い素焼きの器の総称)を発見すると、「是非とも買いたい」と扉 を叩いたことも覚えている。1960~70年代、プラスチックの時代とも いえる当時に、張應福の家にはプラスチックのパガジ(杓子、元来 ひょうたんを半分にして使われた)すらなかった。今になって考える と、特別な経験をさせてくれた環境だったが、海外を放浪し続けた 若い時代にはそこまでは気がつかなかった。 「私は30~40歳代を海外を放浪し道路上で過ごしました。一時は生き残りのために韓 国の伝統的なものを活用するしかないという「輸出用のオリエンタリズム」を追求しまし た。もうそんなことからは解放されました」 デザイナーとして生きてきたこの25年間。今の彼女は別に韓国的という修辞を付けな くても、自然に滲み出る「張應福らしい」スタイルを持てるようになった。 最近は、もっと多くの人に使って喜んでもらいたいという想いで大衆化を図り、ホー ムインテリアブランド「BOGG(福)」を発売した。最初の試みとして、デザインの格調を保 ちながらも大量生産が可能な寝具を発表し、満足のいく結果を得ている。 張應福はこの頃、悩むことがある。絵筆を取って絵を描いた世代のデザイナーとし て、アナログとデジタルの混在する今の時代に、どのように作品を展開していけばいい のかについての悩みだ。 「以前は首が折れるほど写真を撮りパターンを描きました。機械的に、あまりにも手 軽にすると、感動が減るんじゃないでしょうか」 モノコレクションは、韓国で最大規模のデザイン行事であるソウルリビング デザインフェア(Seoul Living Design Fair)をはじめ、世界的な展示会で目立 つ成果を上げてきた。その最初は、1994年東京で開かれたハイムテキスタ イル・ジャパン(Japan Heimtex)だった。これを皮切りに、2000年にはド イツ・フランクフルトで開かれたハイムテキスタイル(Heimtextile)でも 好評を得、2005年には日本の森美術館(Mori Art Museum)の展覧会『The Elegance of Silence』に出品し、2007年にはフランスのロッシュ・ボボワ (Roche Bobois)社にモノコレクションが独自にデザインした生地と、 その生地で作られた製品を輸出した。張應福の作品はソウル市の「北村 韓屋村」でも見ることができる。(翻訳:金禧貞)

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数枚の生地や小物だけで、違う空間を演 出できるのがソフトインテリアの力だと、 張應福は語る。

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陶 器

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なたは、今日どんな器にご飯を盛って食べたのですか。素朴な食事でも、どんな 器に盛って食べるかによって豪華な晩餐になることもある。だからイギリスの芸

術批評家、ハーバート・リード(Herbert Read)は、一国の文化レベルを見極めるにはそ の国の生活陶器を見ることだと言った。 韓国は高麗青磁、朝鮮白磁に代表される伝統的な陶磁器強国だった。しかし現代に 入ってからの韓国は、陶磁器強国の名声がはずかしいくらい、陶器文化から何歩も後進 していたのが事実だ。日本帝国に強制占領された期間と、1960~70年代の産業化過程を 経る中で、貴重な文化遺産が疎かに扱われた。元来、優秀な陶器産業のインフラを有し ていたにも関わらず、伝統の保存だけに偏っていたため、せっかちな現代人の生活に適 した陶磁器の居場所がなかったのだ。李侖信は、この現状を非常に残念に思った。そこ で 「自分が作る器は、必ず食卓に上がるようにする」と一大決心をした。

現代人のための生活陶器。 李侖信は、韓国では生活陶器を作る、いわゆる陶芸家第一世代に数えられる。弘益大 学校美術大学と同大学院を卒業し、日本に渡って京都市立芸術大学院で陶芸を学んだ。 25年前に彼女が陶芸を始めた頃の韓国では、「美しい器」は使うものではなく、鑑賞する ものだと思われていた。韓国に比べて生活陶器文化の進んだ日本で勉強をする中で、羨 ましさと憧れの感情を覚えた。そして、鑑賞する作品を作る陶芸ではなく、日常生活で よく使われる器を作らなければならないと心に決めた。これが原点となり、李侖信の 作った器は実用性を最優先している。そして陶磁器が実用的であるためには時代相を反

「器の価値は使う人によって変わる」と語る 陶芸家・李侖信、そして彼女の作品

映しなければならないと信じている。 「高麗や朝鮮時代における精神、文化を考えると青磁や白磁が作られるしかなかった 状況というのがあります。それと同じように、21世紀の現代の韓国で作られるべき陶器と いうのは別にあると思います。もちろん青磁や白磁は非常に美しいですが、今では実用 的な値打ちはありませんね。」 21世紀に適した陶磁器を焼くために、李侖信は薪窯の代わりに電気窯やガス窯を利用 する。昔の工程に固執するより、現代人の食生活に合ったシンプルで格調ある器をデザ インすることにエネルギーを注ぐことの方がもっと重要だと思うからだ。 「芸術的な焼き物は、唯一点を得るために数か月も作業に集中しますが、日常用の焼

生活陶器運動を展開する 陶芸家・李侖信 陶芸家のイ・ユンシン(李侖信)は、「陶器の居場所は、飾り棚ではなく、食卓の上だ」 と言う。韓国陶磁器の美しさを知らせ、新たな暮らしの文化を提案するために、 2010年にソウル市の北村に複合文化空間を開いた。 チョン・ウンキョン(全恩景、月刊『DESIGN』編輯長)| 写真 : 安洪范 Koreana ı 秋号 2011

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「大事な器であるほど、ただ飾って置くのではなく、時々取り出して使うことでその 値打ちが増すのです。器そのものの美しさも大事ですが、もっと肝心なことは、 その器を使う人の眼識と活用如何です」 き物は大量生産を考えないといけないので、作品を完成した後も色々考慮することがた くさんあります。私の目標は、生活陶磁器の裾野の拡大です。このためには大量生産が 可能であることと、生産秘法(方式)をスタッフと共有することが必要です」 勿論大量生産といってもパーフェクトな自動化ではない。手作業が必要なため、100~ 200点程度の同時生産が可能な水準だ。大きな工房程度の規模と言える。伝統的な手作り の風合を持ちながらも実用的な器を作るための妥協点というわけだ。それらを考慮し立 ち上げた個人工房は、当初自分の名前を取って「李陶(イド)」と命名したが、生活陶器を より広く広め海外市場にも進出しようと、2006年から漢字の代わりに「Yido」という英文表 記を使っている。

料理を盛ってさらに美しくなる器 これまでの韓国陶磁器は、国際的互換性に少し欠けていたと言える。しかし「李陶」 の器は、韓国食はもちろん日本食、洋食にもお似合いだ。ホテルやレストランでパスタ やサラダ、ケーキを盛る器としても使われる。李侖信の器は、伝統的な趣とモダンな作 りのゆとりを持ち合わせ、何を盛ってもどんな場面に出しても、その雰囲気によく馴染 む。購入したシーズンが異なる器同士でも、並んだときに不思議にもよく調和している のも大きなメリットだ。きちんと計算された美しさはないものの、心を和ませる。完成 度で言うと、きっちりした日本の陶磁器やヨーロッパの陶磁器に見られる華やかな飾り と紋様、多彩な色使いはない。その半面、「李陶」の器は料理を盛りつけると、 その美しさを増す。李侖信は、器作りの際にいつも料理が盛られている 様子を想像しながら作業をする。器の基本目的は、飾るためではなく使 われるためだからだ。料理が盛られたときにもっと価値が高く美しくなる ように作られるので、所蔵者にとっても「よく手が伸びる」器になるのは当た り前かもしれない。「李陶」の器は、特にヨーロッパで好評を受けている。先日

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韓国の文化と芸術


「2010~2012韓国訪問の年」を記念して、ニューヨークの世界的なシェフ、ジャン・ジョー ジとその韓国系妻マルジャが出演した、韓国料理や多様な文化を紹介するドキュメンタ リー「キムチ・クロニクルズ(Kimchi Chronicles)」 が放送されたが、実はこの番組に登場す る器が「李陶」の器だ。 また李侖信は、有名作家の作品だからと食器棚にしまっておかないで、思う存分使う ことを勧めた。李侖信自らも、自分の作品はもちろん他の中堅作家の作品を実際に使っ ている。「大事な器であるほど、ただ飾って置くのではなく、時々取り出して使うことで その値打ちが増すのです。器そのものの美しさも大事ですが、もっと大事なのは、その 器を使う人たちの主眼と活用如何です。器の価値を高めるのは、結局使う人だからです。 よく使い、また感じて下さい」 李侖信は、もっとたくさんの人に生活陶器を普及したい気持ちで韓国の生活文化雑 誌『幸せいっぱいの家』と共同で、毎月読者の食器を入れ替える「うつわ運動」をくり広げ たこともある。また、年に1回「一万ウォンの幸せ(一万ウォンで買えるうつわの企画展 示)」を開催している。

パニーノにもビビンパにもぴったり 李侖信は長い準備期間の末に2010年、韓国の器の美しさと手工芸の価値の高さを知っ てもらい、新しい生活文化を提案しようと、複合文化施設「李陶」を立ち上げた。韓国の 伝統美が残っている町、嘉会洞(カフェドン)の端っこにある非常に現代的な建物がそれ だ。「李陶」ギャラリーでは小さな湯飲みからご飯茶碗、丼茶碗、お皿、大きな壺にいた るまで、毎日食卓に上げて実際に使える多様な器と、韓国の有名な陶芸家たちの作品を

鍾路区嘉會洞にある「複合文化空間イド (Yido)」の地下陶芸ショップ「Yido pottery」 (左)。Yidoの器は和食や洋食にもよく似 合う。

鑑賞したり買うことができる。また、さまざまな展示やテーブルセッティング、フード スタイリング、或いは陶芸講座を受けることもできる。「李陶」は、2011年5月にフラン スで出版された『ミシュランガイド韓国編』に紹介されたこともある。景福宮と北村の韓 屋村(ソウル市)、水原華城(水原市)など韓国の23名所と共に、外国人に薦めたい韓国の 飲食店とカフェなどを紹介した記事に名前が載ったのである。特に「李陶」の2階にある レストラン「イル・チプリアーニ」では、「李陶」の製品に盛られて出されるパニーノやコー ヒーなどを味わえる。「李陶」の空間全体は、李侖信が生涯をかけて進めている「うつわ運 動」の結実なわけだ。使っているその器を見ればその人となりが分かる、と言う李侖信。 逆に李侖信の器と 「李陶」空間を見ると、李侖信がどんな人柄なのかが分かりそうだ。 「私は生まれ変わっても、また陶芸をするでしょう。その時はもっと上手く出来るよ うな気がします」。これまで多くのデザイナーに会ってきたが、李侖信ほど確信に満ちた 口調で話す人を見たことがない。李侖信の夢は、将来自分がいなくても持続的に成長し ていく「李陶」ブランドに育てることだ。李侖信は陶磁器市場が韓国を超え全世界に広が る可能性を持ち、若者層をはじめとする潜在顧客の増加を展望している。 最近はフランスをはじめ世界的に韓国の大衆文化に対する関心が高まり、マッコリ、 ビビンパ、プルコギなど韓国料理に対する関心も高くなってきている。スローフードな 韓国料理について正しく伝えるためには、その精神を韓国の器に盛って出さなければな らないと、李侖信は口調を強めた。日本料理が日本の陶磁器と共に知られたのと同じよ うに。海外で李侖信の器に盛られた韓国料理を味わう日もそう遠くはなさそうだ。(翻 訳:金禧貞) Koreana ı 秋号 2011

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漆 芸

伝統工芸とデザイン

伝統漆芸を超える 限りない挑戦 漆芸家・全龍福 全龍福(チョン・ヨンボク)は韓国伝統漆器技法に基づき日本の 漆芸技法を取り入れ、その上独自に開発した多様な技法を 施し、漆芸の芸術世界を広めたことで評価されている。 バク・ヒョンスク(朴炫淑、フリーライター)| 写真 : 安洪范

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韓国の文化と芸術


年4月初めに中国北京の「中国美術館」で開かれた、ある漆芸家の 作品展示会は熱いスポットライトを浴びた。ここは主に中国の近

現代芸術作品の展示・所蔵・研究を行い、外国人にはあまり貸館しない国 立美術館だ。ここで展示会を開いた韓国人漆芸家の展示テーマは「漆彩 永恒」、すなわち「漆の色彩は永遠である」という意味だ。 10日間の展示期間に2万5千人の観覧客と中国の著名な芸術家の訪 問が途絶えず、類例のない盛況を博した。この展示会の主人公は漆芸家 2

の全龍福。東京の国宝級宴会場である目黒雅叙園の漆壁画と遺物5,000 点の復元製作を総括指揮したことで名前が知られるようになった。目黒

雅叙園の横26.3メートル・縦1.4メートルの大規模な「四季山水の壁画」には、韓国と日本に 受け継がれてきた漆技法が網羅されている。漆芸とは漆木から採取した漆液を精製した 漆を主材料にした芸術作品のことをいう。

漆芸チェロや漆芸バイオリン 漆は湿度や温度に敏感な特性を持ち、30回以上の工程を経て作品が乾燥するまで6ヶ月 以上もかかるため、大作の製作は非常に難しい。それにもかかわらず今回の中国展示会 において、全龍福は横560センチ、縦180センチの画面に、川の激流に逆らって泳ぎ、生 まれた川に戻るサケの群れを描いた「帰郷」などの大作約50点を出品した。また韓国の伝 統山水画を新しく解釈した漆絵画を、箪笥・文箱、化粧台などの韓国伝統家具に施した作 品と漆芸チェロ、漆芸バイオリン、漆芸ギターなどの楽器、そして漆時計などを展示し た。全龍福は、漆特有の特徴が平面のキャンバスを越え新しい試みを可能にしていると 述べた。 「漆は他の塗料にはない美学的な特徴があります。特有の深い光彩、装飾性、彫刻美 がそれです。技法の使い次第で表現領域も無限に広がります。それに漆を塗って1万年 以上保存された遺物が出土するほど、耐久性に優れています。セメント作りの建物やコ ンピュータなどから出る有害物質や電磁波を遮断し、人体に有益な遠赤外線を放出しま す。いわゆる生命力の根源である “気”です」 全龍福が独自の漆芸技法を創りだすまでの過程は失敗の連続だった。通常は木に塗る 漆を、金属パネルに施すためにありとあらゆる産業設備で実験を行い、ついに独自の高 温硬化法の開発に成功した。そしてこの技法を施したエレベーターの漆芸絵画と漆芸時 計が生まれた。漆塗りの上に吐息で金銀粉を吹いて蒔く「口吹蒔絵」も彼の考案による新 しい技法で、これこそまさに「失敗は成功の母」という信念の結実だった。この技法には 誕生秘話がある。金銀粉を入れた竹筒を指先でとんとん叩いて金粉を蒔きつける日本伝 統の「蒔絵」技法を学んでいた全龍福は、蒔き加減の調節が難しく失敗を繰り返す度に、

1. 漆絵画「春のメロディー(Melody in Spring)」。木版上に漆塗り。80x60cm、 2007 2. 岩山漆芸美術館(岩手県)における全龍 福の作品展示会の模様 3. 韓国伝統の漆塗り技法を使った現代的 な雰囲気の櫃(蓋のある大型箱) Koreana ı 秋号 2011

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漆芸家・全龍福。後ろにあるのは箪笥、 下は漆芸結納品箱(両方共全龍福の作品)。

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韓国の文化と芸術


食卓や楽器など全龍福の漆芸は、い ろいろな平面をキャンバスとして活 用する。

長いため息をついた。ところがそのため息で飛んだ粉によって丁度いい蒔き具合を見 せているのを発見したのだ。現在全龍福は自分の名前を掲げた漆芸研究所で、各種レー ザー及びコンピュータ設備などを活用し、漆芸技法の新しい地平を開く作業を続けてい る。漆芸アカデミーを営み、後進の養成にも情熱を注いでいる。

漆絵画の世界 「私は正規の美術教育を受けることができませんでした。ひどく貧乏だったので高校 課程を辛うじて終え、家の生計を立てるために、果物商や土方の仕事にも飛びつきまし た。後で漆芸のことを知るようになってからは、漆塗りの職人を探しまわり、その技法 を学び、自分なりの技法を考案しようと努めました。厳しい若き時代を送ったわけです が、ふと視線を送った全てのものに美しさが宿っていることに気付き、慰められしまし た。労働現場でシャベルを地面に差し込んだまま一服する時も、シャベルで地面にでき た亀裂の美しさに心が奪われました。深夜疲れた体をひきずりながら家に帰るときも、 竹林の合間に揺らぐ月光や風の感触に幸せを感じていました」 全龍福は少年時代に、こわれた壺や木の枝、ある家の扉にぶら下った注連縄(韓国で は子供の生まれた家で不浄を避けるために用いられた)を取ってきて好 きなように飾っては自分の作品だと紹介した。画家になるのが夢だっ た。それぞれ西洋画家と東洋画家として活動した母方の二人の叔父が絵 を描くのを肩越しに見て、魅力を感じたのも大いに影響した。貧しさが 彼の夢を邪魔したものの、彼は家具会社に通い鰻上りの昇進で生活が安 定し始めると、改めて夢を実現しようと漆芸作業に取り掛かった。 家具会社で働き塗料について知るようになり漆塗りにはまったのだ から、もしかして漆芸家は彼の運命だったかも知れない。伝統的な家具 に以堂金殷鎬(イダン・キムウンホ)画伯の山水画を下絵として写し取り、 その上に独自の感覚で漆塗りを施した。韓国の伝統的な螺鈿漆器技法の Koreana ı 秋号 2011

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「自然の生命力と美しさ」、それは全龍福がその作品に具現しようとする テーマだ。そして漆は彼のテーマに適した最上の表現材料である。

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Ko re韓国の文化と芸術 a n Cu l tu re & A rts


一つである、「クヌンジル(切り取り)技法」 (千切りした鮑貝の殻を利用する)を用いて山 の曲線を表現し、斧で刻んだようにタフで強い跡を残す韓国の伝統絵画技法「斧劈皴(ブ ビョクジュン)」を漆塗りで新しく表現した。このように、螺鈿と彩画塗りをベースにし ながら新しい領域の韓国漆絵画を試みるなど、独創的な作品世界を開くために自分と熾 烈な戦いを繰り広げてきた。

世界巡回展を準備する

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漆を始めて10年目のときに知りえた土器の上に漆塗りをする伝統的な「瓦胎漆」技法を 施した作品をもって、1986年に韓国現代工芸美術展で大賞を手にした。2年後の1988年 には日本の「岩手美術工芸展」で特賞を受賞した。86年に受賞した瓦胎漆作品は伝統技法

1. 金剛山の日出を絵画的に表現した箪笥

を受け入れ自分の情緒を表わした作品で、88年の岩手美術工芸展での特賞作は発泡スチ

2. 木版の上に漆塗りを施した数々の漆絵 作品

ロールと乾漆を活用して独創的に制作したものだ。

3. 漆芸陶磁器

「韓国から持ってきたニンニクをじっと見ていると、女性の裸像がオーバーラップし たのです。「これだ!東洋的な線と韓国的情緒を結合してみよう」と決心しました。発砲ス チロールでニンニクの優麗な線をなぞった型を取り、黄土と漆液の混合したもので麻布 を重ね貼りしました。麻布の目が目立つように糸を解きほぐしまとまった形に固まった 後、発砲スチロールを溶かすと、趣の違う形の陶磁器が完成しました。ハン(恨み)のは じまりと言える「欲望」と命名しました」 漆芸家全龍福は現在来年の秋の世界巡回展の準備を進めている。(翻訳:金禧貞)

K o3r e a n a ı A秋u号 t u mn2 0 121011

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金 属 造 形

伝統工芸とデザイン

金属が作りだす自然の音 スピーカーデザイナー・劉国壱 スピーカーデザイナーのユ・クッイル(劉国壱)は、原音にもっとも近い 音を再現するために金属を材料として選んだ。彼のスピーカーは音伝達の 完璧性だけでなく、造形的な美しさでも世界的に認められている。 キム・ヨンウ(金瑛佑、月刊『DESIGN』記者)| 写真 : 安洪范

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韓国の文化と芸術


1.「2010年レッドドット・デザインアワー ド」受賞作のスピーカー「スワン(Swan)」。 4年かけて完成させた。 2. 金属スピーカーデザイナー・劉国壱 3.「ムーン(Moon)Ⅲ」。劉国壱は、穴開け や部品に対してもビジュアルな美しさと 最高の音質を共に追求している。

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国壱は大学で金属造形デザインを専攻した。子供のころから好きだった音楽と大 学での専攻を組合せ、1992年から金属スピーカーのデザインを始めた。1998年に

MSD(Metal Sound Design)を設立した。2004年からは世界一のユニットメーカーである ドイツのアキュトン(Accuton)社と技術協約を結び、コラボレーションによる世界的なハ イエンドスピーカーを発表している。彼のデザインしたスピーカーは、金属という素材 の特徴を最大限に活かし、原音の伝達に必要な技術を造形言語で駆使した点が高く評価 され、世界最大の家電見本市「CES」でイノベーション・アワードを3回も受賞した。

金属を選んだ理由 劉国壱が率いる会社の名前からも、彼がどんなデザインをしているかがすぐに分か る。社名は「メタル・サウンド・デザイン(Metal Sound Design)」。金属で音をデザインす るという意味だ。金属でスピーカーの形態をデザインし、この形態によってスピーカー が正しい音を出せるようにするのだ。これが即ちスピーカーデザイナー、劉国壱の仕事 だ。彼が作るスピーカーは、振動板の機能をするユニットと回路以外は、外部と内部の 部品すべてが金属でできている。重くて堅い物性を持つ金属製スピーカーは、木製ス ピーカーに比べて振動が少なく、音の歪みがなくて澄んだきれいな音が出る。これこそ 彼がスピーカーの材料として金属を選んだ理由だ。しかし、金属は加工が難しく、その 上製造工程で少しでもキズが入れば商品価値が落ちて使えない、気難しい材料でもある。 実は、世界的なスピーカーメーカーでも、コストの関係で金属スピーカーを生産する会 社がほとんどない。しかし劉国壱は、この気難しい金属をもって1992年から20年近い年 月をスピーカー製作にかけてきた。彼のデザインした金属スピーカーは、技術的・造形的 な優秀性において世界から認められている。彼はこう述べる。 「素材に関する専門性は、デザイナーにとって必須条件です。またデザイナーは製品の 製作プロセスを正確に知っていなければなりません。組立のプロセスで面と面をどう結合

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するか、使う人にどんな感触を感じさせたいのか、完成したときのイメージをどのように Koreana ı 秋号 2011

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金属で作られたものとは信じがたい滑らかな曲線は、 長い年月ひとつの材料にこだわってきた賜物だ。 一見派手で装飾的に見える外見も、最高の音を 作り出すための細かい手立てだ。 表現するかなど、全体を見ると同時にプロセスの一つひとつを緻密に考慮する必要があり ます。材料の持つ特性とデザインを自然に結合させる作業が望ましいと思います」 劉国壱は、金属の中でも特に飛行機製作によく用いられるジュラルミンを使っている。 青銅、鋳鉄、ステンレスなど多様な金属を材料に使ってみた結果、ジュラルミンは軽く堅 いため音による振動が少ない、しかも加工性に優れ、スピーカーのデザインにぴったり だったからだ。金属で作られたものとは信じがたい自然な曲線を施したスピーカーの外観 デザインは、長い歳月をかけて金属という素材にこだわり、丹精を凝らしてきた結果だ。 一見派手で装飾的に見えるが、すべて最高の音を出すための細かい手立てだ。

見えるものと見えないものとの調和 「目に見えるものも大切ですが、見えないものも重要な要素だと思います。それで見 えるものと見えないものが調和するように作業をします」と彼は言う。 この言葉には二つの意味がある。ひとつは、目に見えない内蔵部品にも金属を使うと いうこと、もうひとつは目に見えない音をもデザインするということ。これは、劉国壱 が自ら音のチューニングができるくらい鋭い聴覚の持ち主だから可能なことだ。スピー カーデザイナーとして美しい形を考えるより、音に一番適した形を探すわけだ。そして その見つけ出した形を、自然的で造形的に美しいデザインに仕上げる。その代表的なも のがRhea Wなど「Rhea」シリーズに施された等高線のような模様である。ユニットのまわ りに広がる波長の曲線が、だんだんと低くなるこのデザインは、音の反射による歪みを 減らすために工夫されたもので、空に浮いている星を表現している。音の波長を小さく して音を明確にする理論を取り入れたこの作品は、2009年にCESでイノベーション賞を受 賞した。2005年に初めてCESでイノベーション賞を受賞したムーンⅡ(MoonⅡ)を見てみ よう。スピーカー筒の機能をする二つの円筒形エンクロージャーを装着し、もっと自然 な高音域帯の音が出るようにした。その上デザインとしては、地球の周りを回る月のイ メージを形象化し、ユニットの円周上に穴をあけて音の歪みを減らすと同時に夜空の天 の川を表現している。ドイツのアキュトン社との初のコラボレーション作品である「プラ ネット(Planet)」は、中高音を発するツイーター(tweeter)が前後・左右に回りながら良音 が出る位置を探すようにデザインされた。火星の周りを回る惑星を形象化したデザイン で、2006年のCESイノベーション賞を受賞した。これらは皆見えるデザインと見 えないデザインを一体化した成果だ。

韓国の美は「つながり」 スピーカーのデザインに際して、彼に一番大きなインスピレー ションを与えてくれるのは自然だ。2001年から、劉国壱の作品は夜空

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1 韓国の文化と芸術


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1. スーパーツイッター(supertweeter、高音用ス ピーカー)、「リラ(Lyra)」 2-3.「プラネット(Planet) 」。中高音を出すツイッ ター (天辺)が前後左右に回転する。最上の音を出 す位置を探し出せるように考案された。 4. 最近作のスピーカー「蓮(ヨン、Yeon) 」。水滴の 落下による水面の変化を蓮の葉で形象化した。 韓屋の天井組込み用として製作された。

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をモチーフにしている。製品名もすべて星から取っている。彼は自然の中で出会う全て がデザインの手がかりになると言う。 「デザインをする人なら、周りの全てから感じとることが大切だと思います。感じた ものがイメージへ、デザインへと自然につながるのです」 劉国壱はひとつの作品を仕上げるのに長い時間をかける。世界三大デザイン賞のひと つとされる、「レッドドット・デザインアワード」の2010年度の受賞作「スワン(Swan)」は、 4年かけて完成した。時間が経過しても良すぎたり悪すぎたりしないデザインを作るた めだ。 「色の美しい高麗青磁を海外に持って行って見るのと、ここで見るのとは違うと思い ます。韓国と日差しの量も違い、土壌の色も違うからでしょう。空に浮いている星も同 じです。砂漠で見る星は赤い色を帯びます。また海で見る星は青く見えると思います。 どんな対象でも、それが存在する場所を反映するからです」 劉国壱は、デザインをする中で自分が感じた自然のイメージを表現するだけで、わざ わざ韓国の美を表現しようとしたことはないと言う。 MSD社の作るスピーカーには、ドイツのアキュトン社製ユニットとドイツのムンドル フ(Mundorf)社製のネットワーク回路図が用いられる。両社とも世界最高の製品を作る ことで認められている会社だ。2008年に劉国壱がムンドルフ社を訪れたとき、この会社 の全職員から「あなたの美しいスピーカーに弊社の部品を使って頂き、有難うございま す」とお礼を言われた。また、世界一のユニットメーカー「アキュトン社」とは2004年から 技術面でのコラボレーションをしている。アキュトン社は、全世界の34カ国へ製品を供 給しているが、少量を注文するMSD社を同社選定の14大ブランドに指定している。 このように世界的にそのデザイン性が認められているものの、劉国壱は誰かに見せた り認められたりするためにデザインをするのではない。自分自身が認めるデザインを作 りたいと彼は言う。「自分のデザインがどうであるかは、自分自身が一番よく知っている と思います。人のためではなく、私自身のために自分の好きな作業をするだけです。」 (翻 訳:金禧貞)

1.「ムーン(Moon) Ⅲ」の台

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2.「レアW(Rhea W)」。2009年度米国家電見本市 (CES)でイノベーション賞を受賞した。 韓国の文化と芸術


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文化フォーカス 1

世界の 韓国学の 未来を 考える 海外の学者86人を含む、国内外から200人以上の韓国学学者が集まり、韓国学の発展の方向性について話 し合う国際学術大会 「2011コリア・ファウンデーション・アセンブリー (2011 Korea Foundation Assembly) 」 が7月7日から9日にかけて、ソウル中区のロッテ・ホテルで開催された。今回の大会は「韓国学への新 しいアプローチ、グローバルな視点から見た韓国」をテーマに、韓国語、人文学、社会科学、韓国学セン ター、理論と政策、教授法など、 6つの分科に分かれて討論が行われた。 ホ・ジンソク(許振碩、東亜日報記者)

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韓国の文化と芸術


年で設立20周年を迎えた韓国国際交流財団が、当財団の 支援で設けられた教授職に就いている学者と、海外におけ

(John Lie)教授は、「韓国の経済発展について研究する名高い学者 も、従来の韓国学分類法により韓国学としてみなされないため、

る韓国学センターの責任者を集めて学術大会を開催したのは今回

支援から外されている」と述べ、「結局は優れた知的体系を誘致す

が初めてのことである。20才の成人式を迎えてより良い未来を設

ることが韓国学の存続を保証するという事実を念頭に留めおかな

計するように、財団として韓国学の発展のために設けられた場で

ければならない」と付け加えた。さらに彼は「日本は日本学を支援

あった。

する過程で日本に批判的な学者は支援しなかった」とも述べ、「韓

財団支援で過去20年間に設けられた韓国学の教授職は、世界

国学支援はその二の舞になってはならない」と提案した。

12か国の69か所で100職にのぼり、韓国研究センターが設置され

オブザーバーとして参加したある学者は、需要サイドから見て

た所は13カ国の40余カ所に及ぶ。昨年末現在、財団の支援で設け

も、韓国学の概念の枠を広げる必要があると強調した。彼は「ビ

られた韓国学講座の学生数は年間9000人を超え、一講座当たりの

ジネスのために韓国学に関心を持つ外国人が多いのは事実」と前

平均学生数も、講座維持に必要な20人を超えていると財団側は説

提しつつ、「経営学を韓国学のカテゴリーに入れて、韓国文化に

明している。

関する研究も「ビジネスのための韓国文化」など、実用的な分野に まで広める必要がある」と述べた。

幅広く北朝鮮学も包容すべき

韓国学中央研究院から依頼を受けて、韓国学発展政策に関する

学術大会の期間中、韓国学の発展に向けて様々な提案が出され

研究プロジェクトを進めている高麗大学のチョ・ソンテク教授(哲

た。伝統的な韓国学分野である哲学と宗教、思想、歴史などの他

学)も、東亜日報とのインタービューの中で、「韓国の経済発展と

にも、社会科学との共同研究を通じて韓国学の領域を広めるべき

韓流の影響で、韓国学支援分野を歴史、文化、芸術など、人文学

であるという意見から、北朝鮮に関する研究も韓国学の範疇に入

の領域を超えて政治、社会、経済など、すべての学問分野にまで

れるべきであるとの意見にいたるまで、様々な意見が出された。

広げる必要性が高まっている」と述べた。さらに彼は、「韓国学研

アメリカのカリフォルニア大学バークリー校のジョン・リー

究の実績が蓄積されるにつれて、地域別に様々なニーズが生まれ

Koreana ı 秋号 2011

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「以前は外国人の韓国に対する関心は、主に韓国独特の安保状況や経済成長などにあったが、 最近は韓流によって韓国を見直すようになった。韓流に関する研究活動を支援する 必要がある」

ているため、北米や東南アジアなど、各地域のニーズに応えられ

した。デヴィッド・カン教授は「世界各地の文化仕組みとは関係な

る戦略づくりが必要である」とも述べた。

く広まっている韓流は、立派な学術的研究テーマになる」と強調

しかし、今回の大会では「日本学や中国学が他の分野に領域を

した。

広げたのは、伝統的な人文学への支援が確固たるものになった後 のこと」という意見や、「韓国学はまだまだ人文学への支援をもっ と強化すべき時期である」という意見を述べた学者もいた。

8つの分野から政策提案を採択 今回の大会は韓国語、人文学、社会科学、韓国学センター、理 論と政策、教授法など、6つの分科に分かれて進められた。最終

韓流、学術研究の対象として真剣に考えるべき 韓国学支援20周年を記念する学術大会であっただけに、最近 世界各地で話題になっている韓流の話で持ちきりだった。7日に 開かれた公式記者会見に参加した学者たちは、韓流に関する自国 のニュースを伝えてくれた。 イ タ リ ア の ボ ロ ー ニ ャ 大 学 の ア ン ト ニ オ・フ ィ オ リ( F i o r i

日の9日には、二日間にわたって韓国学の発展に向けて話し合わ れた内容に基づいて作成された政策提案書を韓国国際交流財団に 伝えた。 この提案書の中で大会の出席者たちは、まず韓国語教育につい て韓国系韓国語学習者のための資料開発の充実と、外国語として の韓国語専攻指導者の確保が必要であると提案した。さらに、近

Antonio Andrea)教授は、「韓国の歌謡に接して韓国という国を知

代以前の時期を研究する韓国学教授たちに対する支援を拡大し、

るようになった学生たちが韓国語講座を聞いている」と話し、中

近代後の韓国研究に偏っている不均衡を是正する必要があること

国最大規模の韓国学単科大学のある山東大学の牛林杰 (Niu Linjie)

も指摘した。

教授は、「前は韓国の企業に就職するために入学する学生が多

社会科学分野の韓国学については、アメリカやヨーロッパにお

かったが、今は韓国の音楽やドラマが好きで入学する学生が150

ける従来の韓国学が人文学中心になっていたことに比べて、最近

余人の新入生の半分以上を占める」と述べた。インドのネルー大

は現代韓国社会と政治に対する関心が高まっているだけに、社会

学のヴァイジャヤンティ・ラガヴァン(Vyjayanti Raghavan)教授

科学分野の研究を支援するプログラムが求められていると建議し

は、「現代自動車の影響でインド社会では、韓国の大衆文化にと

た。

どまらず、労働文化も輸入されて影響を受けている」 と話した。

ガバナンスと制度構築に関しては、韓国語教育者と他の分野の

東亜日報が大会の期間中、海外の韓国学学者20人を対象に

韓国学者たちとの共同研究を促進するオンラインの韓国語データ

行ったアンケート調査で、回答者の8割は最近の韓国の歌謡

ベース(DB)の構築、世界における韓国学学者たちが参加する学

(K-POP)を中心に現れている韓流現象が「正しく韓国を分かって

術大会と交流に対する支援の拡大なども提案している。また、韓

もらう」ことに前向きな影響を与えるという見通しを示した。 在米学者として朝鮮半島問題の専門家であるジョージタウン大

国学の更なる発展に向けて、北米以外の地域に拠点を設けるべ く、韓国ディアスポラに対する研究の充実化も提案した。

学のビクター・チャ(Victor Cha)教授と南カリフォルニア大学のデ

韓国学研究センターに対する支援策とともに、韓国関連講義や

イビッドデヴィッド・カン(David Kang)教授は、韓流を研究対象

研究に必要な各種の視覚資料や授業 計画書、オーディオ・ファイ

として学術的に真剣に考えるべきであると提案した。ビクター・

ル、ビデオ、論文、記録物など、多目的データベース構築を支援

チャ教授は「以前、外国人たちは主に韓国独特の安保状況や目覚

しなければならないという内容も含まれている。最後には、韓国

しい経済発展ぶりなどに関心を持っていたが、最近は韓流を韓国

学学者と他の分野の学者間の学術提携に向けたネットワーク構築

のユニークな要素として捉えている」とし、「韓国政府や韓国国際

に対しても関心を持つべきだと促した。(翻訳:趙祥恩)

交流財団が韓流に関する研究活動を支援する必要がある」と主張

38

韓国の文化と芸術


「コリアファウンデーション・ アセンブリー」 に参加した 海外学者たちとの対面 クラーク・W・ソレンスン(アメリカ、ワシントン大学国際学教授)

「第

一回、コリアファウンデーション・アセンブリー」国際学術大会は

寄せた反共熱風などの重大な政治的変革と、ベトナム戦争に対する反動

韓国を始め、北米や南米、ヨーロッパ、オーストラリア、北東ア

で1960年代末と1970年代初めに登場した批評的学風に触れたいと思いま

ジア及び東南アジアなどから、100名ほどの学者が集まった有意義な大会

した。

でした。私は北米の「第二世代」韓国学学者ですが、今は亡きアメリカの

私のテーマ発表に対して、予想した反応と、予想外の反応がありま

韓国学「第一世代」の学者たちから学んだ私も、驚いたことに韓国学分野

した。まず私が予想していた反応ですが、聴衆の中に私が説明しようと

においていつの間にか「元老学者」になってしまいました。この点から、

思った学界の変革を、自ら経験した方々は、私の解釈の内容を一部修正

私はアメリカの第三、第四世代学者の皆さんにアドバイスできる位置に

してくださいました。それこそ、私の望んでいたことでした。その後、

立っております。

私はより正確な情報を得るために2~3名の学者と会合を持ちました。

私と同じ研究分野の著名な韓国学学者の皆さんと長い間交流してきた

一方、予想外の反応ですが、この分野の歴史に詳しくなかったアメリカ

ことは、元老学者として嬉しい限りです。その方々と出会って、新しい

の若手学者たちが、私の説明に感謝の意を表してくれたことです。こう

関係ができたり、交流がさらに深まる機会に恵まれとても幸せでした。

した反応は、自分の論文の価値を認めてもらった気がして嬉しかったで

また、「コリアファウンデーション・アセンブリー」は私に、韓国学分野で

す。

注目されつつある若手学者たちと出会える機会を提供してくださり、本

私の論文にとどまらず、地域学の性格と地域学に占める韓国学の地

当に貴重な経験でした。参加者の方々の中には、アセンブリー以前には

位に関するアメリカの学者らの論文に対して、予想もしなかった反応が

個人的交流はなくても、その著述や学問的実績については既に承知の

ヨーロッパの学者たちからありました。我々アメリカの学者はアメリカ

方々もいました。特に今回、当大学の『韓国学ジャーナル』誌に寄稿され

文化政治学がいかにして韓国学に影響を及ぼすようになったのかに焦点

た方の一人と出会ってとても嬉しく思いました。

を合わせた反面、数人のヨーロッパの学者は我々に次の点を思い起こさ

アメリカで韓国学を切り開いた学者の一人、ジェイムス・B・パレ教授

せました。つまり、韓国学がアメリカに登場した政治的状況とともに、

と共同研究を行った元老学者の一人として、テーマ発表を通して私は残

アメリカの学界を周期的に揺るがしてきた政治的問題のために、アメリ

念な思いで、現実的な事実を喚起せざるを得ませんでした。学問として

カにおける韓国学が特別な面を持つようになりましたが、これはアメリ

の韓国学が、アジア太平洋地域においてアメリカの影響力が大きくなっ

カに限った特異なな歴史であるということです。

ているため、アメリカで登場したという事実です。一世紀以上、アメリ

「なるほど」、我々アメリカの学者らは自分の学界で起こっていること

カ人の想像力に火をつけた中国や日本に比べて、最近まで韓国はアメリ

が絶対的でグローバルな性格を持っていると思い込んで、まさに「井の中

カ人にとってそれほど興味のない文明を有した国でした。ところが、幸

の蛙」になってしまう可能性があります。アメリカと韓国の学界に影響を

いにも韓国国際交流財団(コリアファウンデーション)の支援により、ア

与えたように、米韓同盟関係と韓国におけるアメリカ流の教育の影響の

メリカで韓国学が確立されるにつれて、一般の人々もだんだん興味を持

おかげで、韓国の学者たちの中にも似たような傾向が見られる場合があ

つようになりました。さらに韓国の経済成長とともに、韓国のテレビ・ド

ります。ヨーロッパの学者にはアメリカが過去に経験した政治的トラウ

ラマや文化商品は若者らを熱狂させています。

マの経験がなく、アメリカのような地域学研究に存在してしまいがちな

状況はだんだん好転しています。私は韓国学とアメリカの政治学界の

政治的性格に対して頑固な立場を取る懸念が相対的に少ないと思います。

間に欠かせないつながりを私の視点から強調したのであります。最初は

私にとって「コリアファウンデーション・アセンブリー」は非常に面白く

第二次世界大戦後に、アメリカ政府としては韓国語の出来る官吏や情報

て有意義な時間でした。我々はお互いを理解し合い、お互いの研究実績

分析家が必要であったため、韓国学は産声を上げましたが、その人々の

に対して敬意を表しました。一つのテーマの下で開催された国際会議の

中で何人かが韓国に惹かれてアメリカで韓国学を始めたのであります。

場で、皆が一同に集まって韓国学に関する自分の見解を論文に表す前ま

私は自らの著述を丁寧に検討し、先輩世代が経験した限界と、自らの分

では、テーマの重要性にもかかわらず、互いの意見の差を認識すること

野に存在する構造的フレームの限界を乗り越えようと努力している学者

はできませんでした。ところが、今回の会議によって我々はさらに相互

らの能力を集中強化しながら、またアメリカ学会における地域学研究に

理解を深められたことに感謝しています。(翻訳:趙祥恩)

影響を及ぼした1940年代末と1950年代初めに、特にアメリカ社会に押し Koreana ı 秋号 2011

39


「コリアファウンデーション・アセンブリー」 参加者対談

ヨロッパにおける 韓国学の課題 アントニオ・フィオリ(韓国国際交流財団招聘教授、イタリア・ボローニャ大学 政治学教授)

Q.コリアファウンデーション・アセンブリーの持つ最大の意義は何でしょ

と思いまです。ヨーロッパ大陸で韓国と韓国学に興味を持っている学生

うか。

が増えている現実を考えれば、ヨーロッパにおける韓国学の未来は明る

A. まず申し上げたいことは、コリアファウンデーション・アセンブリーが

いと思います。ただ、短期的にはヨーロッパの大学間で、韓国学のネッ

世界各国から韓国学を研究する学者が集まって、韓国学の未来と発展の

トワークの統合をより強く進めていくことが重要であり、その観点から

方向性について話し合う場であったということです。世界中から集まっ

見て、デジタル化とネットワーク化のためのデータ・パスウェイの開発が

た学者たちが話し合いながら、意見交換できる「コリアファウンデーショ

必要です。そうなれば、ヨーロッパの各大学が一種のコンソーシアムを

ン・アセンブリー」は、韓国学の発展に非常に役立つ方法だと思います。

立ち上げ、韓国学の中でも特定分野の学者を、その特定分野に馴染みの

Q. 韓国学に興味を持つようになった特別なきっかけがありましたか。韓

ない大学に送り込むことも出来るようになります。そうなりますと、コ

国学の学者としてご苦労されている点と、最もやり甲斐のある点を教え

スト削減にもつながります。また、若くて有能な学者を増やし、韓国学

てください。

の競争力を高めるために、より多くのヨーロッパの大学が韓国学を専攻

A. 私はハングルが表意文字でないことを知って、ハングルを学ぶことに

できる博士課程を新設すべきだと思います。

興味を持つようになりました。そのうち、私はだんだん韓国の文化、歴

Q. ヨーロッパにおける韓国学の発展にとって、足りない点は何ですか。

史、政治や社会発展に惹かれていきました。政治学者としての私は韓国

それを補うために必要なことは何でしょうか。

がインスピレーションの源として価値ある国だと考えているので、私が

A. ここ数年、ヨーロッパにおける韓国学は、韓国学の課程が開設され

韓国を研究テーマに選択したことについて後悔したことは一度もありま

たすべての大学の発展ぶりには目を見張るものがありました。ところ

せん。たまに、他の社会学者の中には韓国は研究テーマとしては限界が

が、アジア学全体のなかで韓国学を見た場合、伝統的に学生に人気のあ

あると言う人もいますが、私はかえって韓国は非常に興味深い、世界の

る中国学や日本学と対等な地位を確保するためには、もっと多くの学生

縮小版であると見ていて、アジア国際関係学に関心のある学者には、非

がアプローチしやすい基金を設けるなど、さらなる取り組みが必要です。

常に適した研究対象であると確信しています。

ヨーロッパにおける韓国学の環境を改善するためにはまず、より多くの

Q. イタリアにおける韓国学の現状はいかがですか。

韓国学の教授職を新設したり、支援を強化しなければなりません。それ

A. 現在、イタリアにおける韓国学研究の状況は満足できるレベルです。

と同時に韓国を一般大衆にもっと知ってもらうために、大衆向けのプロ

ナポリにある「オリエンタレ大学」、ローマにある「ラ・サピエンツァ大

グラムを設けることも重要です。イタリアを含めて幾つかのヨーロッパ

学」、ヴェニスにある「カ・フォスカリ大学」などは主に言語と文学に集中

の国々が現在、自国内の大学制度を構造調整する教育改革を進めている

する韓国学授業が設けられています。一方ボローニャ大学では、私が韓

だけに、韓国国際交流財団の役割はヨーロッパにおける韓国学の普及に

国の政治と国際関係を教える政治学部で韓国国際交流財団が支援する招

欠かせません。

聘教授プログラムが新たに設けられました。私は学部と大学院で教えて

Q. ヨーロッパでK-popの人気がますます高まっている現在、ヨーロッパの

いますが、学部では1910年以後の韓国の政治や社会発展を、そして大学

若い世代に引き続き韓国について興味を持ってもらうために、韓国政府

院では韓国の国際関係や南北関係を主に教えています。2008年に、この

と学界に対してご提案があればおっしゃって下さい。

招聘教授プログラムが設けられて以来、韓国の政治に興味を持つ学生が

A. 私は韓流の専門家ではありませんが、私の学生の中にも韓国の映画や

増え続け、こうした韓国学に対する人気は、学部及び韓国に関する論文

テレビ・ドラマ、K-pop、漫画などが好きになったことがきっかけとなって

の数が着実に増えている事実からも証明されています。今後、わが大学

韓国学を勉強するようになった場合も結構あります。したがって私個人

では、韓国語を教える教授を新たに招請することで、韓国学の地平をさ

的な考えとしては、韓流は多くの学生が韓国の多様な側面に触れてみる

らに広めようとしています。韓国学は学生にとって魅力的な学問になり、

きっかけとして有用であったと思います。韓流はまた、韓国と韓国文化

我々の大学の地位もさらに高くなると思います。

に対する一般的な関心を呼び起こしました。したがって私は、韓流の普

Q. ヨーロッパにおける韓国学の現状について、韓国学の地位と今後の発

及と韓国文化の人気が高まることを歓迎しています。(翻訳:趙祥恩)

展の見通しについて、お聞かせください。 A. ヨーロッにおける韓国学の伝統はかなりきっちりしていて基盤も固い

40

韓国の文化と芸術


「コリアファウンデーション・アセンブリー」 参加者対談

韓国に対する 認識を拡大する韓流 カロリナ・メラ(アルゼンチン、ブエノス-アイレス大学韓国学教授)

Q. 韓国を研究するようになったきっかけと、特に関心のある研究分野に

せる。さらに、大学における韓国語と韓国文化の普及に取り組む。3)学

ついて教えてください。

者、研究員、教授、学生間の交流を強化する。4)教育資料や図書リストの

A. アルゼンチンに住んでいる韓国人移民の存在に興味を持つようになり

交換、翻訳作業を促進する。5)教授や大学院課程、専門家課程または博士

ました。1991年からこのテーマに引かれて、その後、韓国の歴史と文化の

課程を修了したり、教育協力プログラムに参加する研究員に対する支援

様々な様相を呈する、家族、宗教、近現代社会と政治的変化なども重要

を強化する。6)両国の研究センターや大学の学際研究チームの立ち上げを

に思えるようになりました。

促進する。7)様々な組織やセミナー、学会、授業を組織することで、両国

Q. ブエノスアイレス大学は中南米地域で唯一、独立した韓国研究セン

の文化発信を促進する。

ターを運営していると聞いています。センター設立の背景と、今後の運

Q. 中南米地域における韓国学は現在どんな段階にあると思いますか。地

営方向をお聞かせください。

域間の韓国研究者間の交流はいかがですか。

A. ブエノスアイレス大学で進めている韓国関連研究は、1995年に社会科

A. 中南米の韓国学は始まったばかりです。韓国学に関係のある学問間の

学大学のジーノ・ゲルマニ研究所で始まりました。同研究所はアルゼンチ

提携が進んでいるとはいえ、新しい世代が誕生するためには時間が必要

ンの韓国人移民を研究する研究拠点です。1997年には研究の成果として、

なわけで、中長期的な研究機関の組織づくりには非常に時間がかかりま

ブエノスアイレス大学出版部から「ブエノスアイレスの韓国人移民」とい

す。息の長い持続可能な成長のためには、何よりも社会科学や文学、芸

う本が出版されました。また、1999年からジーノ・ゲルマニ研究所が中心

術、経済、言語、政治学などの学問の研究に取り組むことが重要です。

になって、アルゼンチンの韓国人移民二世のアイデンティティに関する

それぞれの分野で韓国について研究している若い研究者たちの研究成果

研究が行われました。2000年にはアルゼンチンの韓国人社会35年の歴史に

によって、韓国学は科学的で独立した学問に発展し、持続可能な成果を

関する学会やセミナー、文化行事を含めた様々なイベントを計画し、中

もたらすでしょう。

でも「アルゼンチンの韓国人社会の35年」という展示は注目を集めました。

Q. アルゼンチンにおける韓流現象はいかがですか?大衆文化に対する関

さらに2001年には中国の北京で5月30日に開かれたアルゼンチンと中国

心が韓国全般に対する深い理解につながるので、これから韓国政府や海

間の科学技術協力合同委員会に、当時ジーノ・ゲルマニ研究所長のPedro

外の韓国学界の取り組むべきことは何ですか。

Krotsch教授が参加して、東アジア地域に関する研究の成果を発信し、さ

A. 大衆文化に対する認識と関心が、韓国に対する全般的な認識に大きな

らに促進するために東アジア研究体(GEEA) の組織を提案しました。

ウェイトを占めています。多くの人々が韓国に興味を持つようになりま

研究所文化部活動の一環として私が組織した東アジア研究会は、ブエ

した。私は韓流が韓国に関する全般的な認識の拡大に非常に重要である

ノスアイレス大学の学生らと大学院生からなる、学際研究の集まりに変

と思います。しかし、真剣にアプローチすべき学問や中南米における大

身しました。この集まりでは東アジアが抱えている懸案に関する研究を

学間の提携強化に向けた仕組みを確立するまでには十分ではないと思い

行い、研究の計画を練る過程において、最近高くなった韓国の国際的地

ます。

位を反映するかのように、特に韓国に関する研究プロジェクトと多様な

Q. アルゼンチンにおいて、韓国文化の中で特に関心の高い分野は何で

学会、セミナーが行われました。その結果、研究所の研究を起点にして、

しょうか。

韓国とアルゼンチンの間の経験と知識の交流がさらに活発になりました。

A. 大衆文化に限っていえば、テコンドーは欠かせないでしょう。最近で

だんだん、関心事項や共同研究へのニーズが韓国とブエノスアイレス大

は大衆音楽に対する関心が高いですね。他の分野では、韓国監督の映画

学間の学問、科学、そして文化分野で提起されてきました。その状況の

が多くの関心を引きました。

中、ブエノスアイレス大学の韓国-アルゼンチン研究センターの創作プロ

Q. 中南米地域における韓国学の発展に向けて、中長期ビジョンを提案す

ジェクト(CECA)が、在アルゼンチン韓国大使のチェ・ヤンブ博士と韓国

るとしたら。

国際交流財団の権仁赫理事長、ブエノスアイレス大学・ギジェルモ・ハイ

A. 中南米の大学と研究所の共同、そして中南米と韓国間の提携をそれぞ

ム・エチェベリ総長の協力でスタートしました。

れ強化すべきだと思います。また、韓国語-スペイン語の翻訳物の出版を

CECAの目的は、1)センターにおける科学技術研究共通プロジェクトの 計画と発展を支援する。2)ブエノスアイレス大学の韓国学を強化し復興さ Koreana ı 秋号 2011

奨励し、韓国の歴史・文化・社会・政治に関するセミナーや学術大会もスペ イン語で推し進められなければならないでしょう。(翻訳:趙祥恩)

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文化フォーカス 2

『外奎章閣儀軌』 145年ぶりの里帰り フランス・パリの国立図書館(BNF)に収蔵されていた『外奎章閣図書』297冊が5月27日に 韓国に里帰りした。その文化財としての価値と学術的意味、そして盛大に開かれた歓迎 式典の模様や、今後の計画を見てみよう。 イ・ギョンヒ(李京姫、中央日報記者)| 写真 : 徐憲康

1

1. 壮烈王后尊崇図鑑儀軌(1686)の表紙。仁祖 の継妃である壮烈王后(1624~1688)に尊号を 捧げる過程を記録した儀軌である。御覧用と して雲模様の緑色のシルク生地の表紙に、さ らにシルク生地を重ねた部分にタイトルが書 かれている。真鍮で作られた邊鉄、5本の釘、 丸い真鍮製の取っ手が付いていて、御覧用儀 軌装丁の原型が見られる。

奎章閣は朝鮮時代、正祖6年の1782年に江 華島に設けられた、奎章閣(朝鮮王室の図書

館-昌徳宮の敷地内に設立)の別館である。ここには 王室や国の重要な行事を記録した儀軌をはじめ、千種類余にわたる、5千冊が保管されて いた。しかし1866年にフランス軍が江華島を襲った際に、297冊の儀軌を含む、340余冊が 持ち去られ、残りは焼かれてしまった。『外奎章閣儀軌』の存在が知られたのはBNFの司 書をしていたパク・ビョンソン(朴炳善)博士が1975年にリストを整理して公開したこと がきっかけになった。パク博士は世界最古の金属活字本である高麗時代の書籍「直指」が BNFに収蔵されている事実も明らかにした書誌学者である。

返還への道程 奎章閣の図書を管理しているソウル大学校が1991年から『外奎章閣図 書』の返還に取り組み始めた。韓国政府は1992年、フランス政府に対し て図書の返還を要請した。1993年に韓国•フランス間の首脳会談が開かれ た。当時、フランス政府は韓国に高速鉄道のテゼベ(TGV)を販売しなけれ ばならない課題を抱えていた。当時のミッテラン大統領は『外奎章閣図書』 の中の一冊である『徽慶園園所都監儀軌』を返し、残りの『外奎章閣図書』の返 還も約束した。しかし、BNFの司書たちの反対などに合い返還は行われず、政 府間の交渉も難航した。『外奎章閣図書』をめぐる交渉は中止と再開の繰り返し だった。 ところが、2010年にソウルで開かれたG20首脳会談で、両国の大統領は5年毎 に更新する条件で、図書を永久に貸し出すことに合意した。韓国政府は「実質的 な返還」だという、不満の世論をなだめた。フランスの法律上、正式な「返還」に はフランス法の改正が必要であるとの理由を掲げた。それからBNFと国立中央図書

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Ko re韓国の文化と芸術 a n Cu l tu re & A rts

2


2, 3. 外奎章閣儀軌の里帰りを歓迎するイベント会場になった景 福宮の勤政殿に向かう移封行列。一冊の儀軌影印本を載せた輿 (2番写真)の後を吹打隊と護衛武士、儀仗隊、文武百官、騎馬 隊など、500人以上が後に続く。

K o r e a n a ı A秋u号 t u mm 2 0 1210 1 1

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3


『朝鮮王室儀軌』は一度に複数を製本して、一冊は王に進上し、残りは国の典礼を取り仕切る 機関や史庫に保管された。今回帰ってきた儀軌のほとんどは、王が拝見する最高級の 御覧用の儀軌である上、国内にはない唯一本が30冊も含まれているため、 その価値はさらに高いといえる。

1. 英祖貞純王后嘉礼都監儀軌(1759) の中の親迎班次図。王妃亡き後、二 番目の王妃、貞純王后を迎える英祖 が自ら新婦を迎える行列。それ以前 は使臣に新婦のお迎えを任せていた が、この儀軌に王の輿が初めて登場 する。

1

44

韓国の文化と芸術


2 2. 文禧廟営建聴謄録(1789)。官庁業務日誌の一種である。

3 3. 懿昭世孫礼葬都監儀軌(1752) 。葬儀の過程を記録した儀軌であり、葬儀 に使う服装の寸法まで記録されている。

館の間で実務協約が結ばれた。その措置によって、図書は4月14

所を決め、胎室を設けて保管する過程を記録した。王世子(皇太

日から5月27日までの期間に、 4回にわたって韓国に里帰りした。

子)になったり、王世孫(王の孫のうち将来王位を継ぐことになっ ている者)として決められる過程も同じであった。また、王室で

『朝鮮王室儀軌』とは 外奎章閣図書のほとんどは『朝鮮王朝儀軌』であり、600年を超

婚礼があれば、『嘉礼都監儀軌』が作成された。婚礼当日の様子を 記録するだけではなく、王妃を決める手続きから結納に納められ

える朝鮮時代に行われた国や王室における重要行事を文章や絵で

る各種の品物、新郎が新婦を迎える過程までを詳細に記述した。

詳細に記録した筆写本である。儀軌とは「儀式」と「規範」の合成語

国王や王妃が亡くなった場合は『国葬都監儀軌』が、王世子や世子

であり、つまり「儀式の模範になる本」である。国や王室の行事の

の妃が亡くなった場合は『礼葬都監儀軌』が作成された。王や王妃

様子を詳しく記録して、後代の人々が参照する際、試行錯誤する

の王陵づくりの工事を記録した『山陵都監儀軌』、3年間喪に服し

ことがないように作成された白書であるわけだ。『朝鮮王朝儀軌』

た後、国王の神位を宗廟に移す過程を記録した『示付廟都監儀軌』な

は2007年にユネスコの世界記録遺産に登録された。同じく世界

どもある。さらに、宮殿や城郭の整備、宴会、実録の編纂過程、

記録遺産である『朝鮮王朝実録』とともに韓国記録文化の華といえ

王の肖像画である御真の製作過程なども儀軌として記録された。

る。実録は朝鮮王朝における主要事件を編年体(歴史的事実を事

儀軌は緻密で周到な記録書であった。行事に動員された人々の

件が発生した順序通りに記述する方式)で記した資料である。そ

リスト、身の上の資料、品物のサイズや材料、一銭まで詳細に記

れに比べて儀軌には絵が含まれているため、より立体的である。

述されている。例えば、水原華城を築造した後に作成した『華城

儀軌は王子の誕生から作成されている。王子の胎を保管する場

Koreana ı 秋号 2011

城役儀軌』には、工事で働いた1800人にのぼる技術者の名前まで

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1. 壮烈王后国葬都監儀軌(1688)。仁祖の続妃で ある壮烈王后の国葬の行列を記録した出棺班次 図。大輿(国葬に時に棺を載せた輿)の傍に帳を 張って、道行く人々から見られないように工夫 した。大輿の後をついて行きながら、大声で泣 く人々の行列も白い帳に遮られている。一方、 王の葬儀では帳は張られていない。 2. 景福宮の勤政殿の庭で開かれた祝賀公演の場 面

1

もが記載されている。さらに、その名前の下には半日勤務だった

山、江原道の五台山などに位置した史庫に保管した。『外奎章閣

とかの勤務内容が詳しく記されていて、それに合わせて支払われ

図書』のほとんどは王が直接目を通されるため、最高級に製作さ

た給料も記載されている。朝鮮王朝は儀軌を通じて王室の行事で

れた御覧用の儀軌である上、国内に存在しない唯一本が30冊も含

執行されたすべての内訳の情報を公開することで、国の財政の無

まれており、その価値はさらに高い。御覧用の儀軌は高級紙の草

駄遣いや流用の危険性を防いでいたのだ。

注紙に最高級の絵の具を使ってシルクの装丁に真鍮製で綴じこん

図画署(朝鮮時代に絵を描く仕事を担当していた官庁)に属した

だ。一方、分上用、つまり数か所に分けて保管する儀軌は楮の紙

当代最高の画家らによって儀軌の挿絵が描かれ、絵も当代最高の

を使って、麻の表紙に普通の鉄で綴じこんだ。『外奎章閣図書』は

レベルである。今日でも生き生きと蘇ってくる儀軌を参考に、朝

ソウル大学奎章閣と韓国学中央研究院が収蔵している3800冊余り

鮮時代の行事を再現したり事物を原型に近づけて復元できるほ

の儀軌と比べても、完成度が高いと知られる。

どである。例えば、朝鮮戦争の際に破壊された水原華城の城郭を

『外奎章閣儀軌』297冊の半分ぐらいは王室の葬儀に関するもの

1975年に復元した時も、儀軌が主要な資料として活用された。復

である。残りの半分は嘉礼(王室の婚礼)、各種の宴会、世子の決

元された水原華城がユネスコの世界遺産に登録されたのも、儀軌

定、宮殿や城郭整備などの内容が記録されている。5回にわたっ

に負うところが大きい。

て『外奎章閣儀軌』の現地調査に参加した建国大学校のシン・ビョ ンジュ(申炳周、史学科)教授は、「外奎章閣図書の班次図(王室の

学術的価値

行事を描いた絵)は人物の髭にいたるまで細かく描かれているほ

朝鮮時代の王室儀軌は一度に複数を製本して、一冊は王に進上

ど完璧だ」と説明した。唯一本である30冊を除いた儀軌はすべて

し、残りは礼曹など、国の典礼を取り仕切る機関や江華島、太白

国内にもある。しかし儀軌は手書きであるため、表紙の装丁から

46

韓国の文化と芸術


2

表記の方式まで、少々違いがある。国内の班次図は時に省略され

冊は、航空便で4回にわたって帰ってきた。アシアナ航空と大韓

た絵もあるが、王に進上された『外奎章閣図書』は、完璧な状態に

航空が熾烈な競争を繰り広げた末、一回ずつ交互に輸送すること

近いというのがシン教授の説明である 唯一本30冊は2005年に、

になった。里帰りした儀軌はすべてソウルの竜山にある国立中央

韓国政府とフランスが協力してデジタル化して共有していた。儀

博物館の収蔵庫に直行した。

軌が帰ってくるがどうか分からない状態であったため、デジタル

歓迎イベントは6月11日に江華島とソウルで開かれた。まず

化してでも研究を行うために進めた作業であった。今回の里帰り

外奎章閣の史庫があった江華郡からスタートした。同日の午前、

で、紙の質・表紙・絵の具などについて、深く研究することができ

江華道の住民ら500余人によって江華山城の南門から外奎章閣の

るようになった。シン教授は「写真と原本の感じは当然ながら違

跡地まで続く「移封」行列が再現された。1783年に奎章閣図書を江

う。さらに、儀軌は紙の材料や質、表記方式、絵の具など総合的

華島の外奎章閣に移す過程が記録された『内閣日暦』 (奎章閣の勤

に調べなければならない」と述べた。韓国の歴史学と書誌学はも

務日誌)に基づいて再現したのである。儀軌の里帰りを祖先に報

ちろん、服飾史・美術史の研究にも欠かせない資料になるわけだ。

告する告由祭と祝賀コンサートも開かれた。午後になると、ソウ

ところが、7種12冊を除いて、表紙はすべて改装された。フラ

ル光化門広場と慶福宮でもイベントが繰り広げられた。

ンスに移送される過程で水に濡れたり、焼かれてしまったものを

文化部と国立中央博物館は、専門家からなる研究チームを立ち

フランスで手入れしたものと見られる 。原型を保っている7種12

上げ、来年12月には、学術シンポジウムも開催する予定だ。さら

冊が原資料としてもっと価値があるという。

に儀軌297冊のデジタルDBを構築すると同時に、唯一本30冊は今 年中にネットで配信する予定だ。(翻訳:趙祥恩)

歓迎イベント 1993年にミッテラン大統領によって返された1冊を除いた296 Koreana ı 秋号 2011

47


アート・レビュー

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韓国の文化と芸術


1. 慶州南山の塔谷四方仏の東側に彫られた仏、 菩薩、飛天、1986 2. 慶州路東洞古墳群、 1984

「 時間の光」 の中で捉えた千年の 風景

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カン・ウング(姜運求)は韓国のドキュメンタリーカメラマンの第一世代にあたる写真家だ。彼の写真展「古の風景」 は新羅の王陵、三国神話、仏教遺跡など、韓国文化の原型に対する数十年にも及ぶ探索の賜物だ。 イ・ムンジェ(李文宰、詩人・慶熙サイバー大学文芸創作学科教授)| 写真 : 姜運求

山を写真の都市だと呼ぶのは大仰だ。しかし韓国の写真界に限定して言えば4月中 旬から2ヵ月間の釜山は明らかに写真の都市になった。

釜山で同時に開かれた三つのドキュメンタリー写真展 韓国第二の都市であり、韓国第一の港湾都市釜山は21世紀に入り「映画の都市」として知られるよ うになった。世界でもっとも躍動的な映画祭だと言われている釜山国際映画祭(PIFF)が16年前から 開催されているからだ。今回、一人の写真家による「回顧展」 (当事者は否定しているが)が、まるで 映画祭のように賑わすはずがないのだが、しかし、カン・ウング(姜運求)の大型写真展「古の風景」は ニュースになるのに十分なものだった。会場となった古隱写真美術館新館も特別な意味を持ってい る。ここは韓国の地方都市の中で二番目にオープンした写真の専門美術館であり、最初の写真専門 美術館は4年前に開館した古隱写真美術館の本館だ。二つの美術館は共に釜山の海雲台区に位置す る。 姜運求の写真展が古隱写真美術館新館で開かれている間、本館ではグォン・テギュン(権泰鈞)の 「沈黙する岩」展が、トヨタアートスペースではソ・ホンガンの「神々の庭園」展がそれぞれ開かれてい た。グォン・テギュンとソ・ホンガンは共に所謂「姜運求のグループ」に属する中堅写真家だ。韓国の ドキュメンタリー写真を開拓した第一世代と、彼らの影響を受けた第二世代が同じ年の、同じ期間 に釜山で、それも互いに無関係ではないテーマ(どれも韓国の伝統文化と関連している)で写真展を 開いたのだ。今年の4月~7月の期間、釜山は間違いなく写真の都市だった。 Koreana ı 秋号 2011

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慶州南山薬水谷磨崖大仏と共に見える風景、1985

歴史三部作

州南山で撮影された新羅仏教遺跡の写真の前には大勢の観覧客が

姜運求の「古の風景」は韓国の古い文化遺産にスポットをあてた

長い間足を止めていた。慶州南山は慶州市の南にある低い山(海

「歴史三部作」だ。(彼は10年前にソウルで、韓国の山奥の村々の

抜471m)だが、峰と稜線には寺と塔、石仏が点在している。新

写真を集めた「村三部作」という写真展を開いており、同じ名目の

羅仏教の千年の息吹が感じられ「屋根のない博物館」と言われてい

写真集もある)今回の展示を構成する三つの軸は新羅の王陵、古

る。彼は慶州南山を1970年代の後半から撮り続けてきた。慶州南

代国家から伝わってきた神話(三国遺事)の現場、そして新羅の仏

山と最初に出会ったとき、若い写真家は意欲を燃え立たせた。し

教遺跡だ。姜運求が40年近く撮り続けてきたこの三つテーマはす

かし一年後、彼は撮った写真をすべて廃棄した。最初の写真集で

べて千年以上の歴史を対象にしたもので、韓国の伝統文化の核心

彼はその時のことを「写真をひたすらうまく撮ろうと力みすぎた。

をなすアイコンだ。

あまりに幼稚な写真だった」と振り返っている。その後4年かけ

韓国の古代神話の代表的な著述『三国遺事』は高麗時代の1281

て慶州南山を再び撮った。岩仏と真剣勝負をする代わりに、岩仏

年に一然和尚が著したもので、檀君神話から統一新羅に至るまで

が時間の中に自然に溶け込むのを待った。岩仏の表情がもっとも

の千年間(紀元前57~936年)に起きたいろいろな事実が収められ

自然によみがえる瞬間の光の量と角度を待ったのだ。

ている。『三国遺事』はその大部分が神話と伝説だが、時間と場所

姜運求の写真の特徴は待つことだ。一日や二日待つのは日常

が言及されており、その現場を確認することができる。姜運求は

茶飯事だ。雪の降る新羅の王陵の写真を撮るために、冬になると

写真展とともに出版した写真集で「新羅とは絵空事ではなく現実

天気予報に耳を傾けた。しかし雪のニュースを聞いて駆けつけて

に根拠あるこの地の話だということが分かった」と認めている。

も、いつの間にか雪は溶けていた。一年に一度しかシャッター

会場には合計100点余りの写真が展示されたが、その中でも慶

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チャンスのない被写体もあった。岩の中に置かれた岩仏で、その 韓国の文化と芸術


全羅北道益山市金馬面の弥勒寺址の石塔、1996

顔には光が一年に一日しか差し込まない。それが今回の展示で紹

だ。(同じ名前の写真集もある)今回の写真展に発表された写真は

介された「仏谷石窟の如来坐像の顔1984」 ( 写真集143p)である。 「今とここ」よりは「そのとき、その場所」を強調している。もちろ 慶州地域のある和尚は姜運求の写真集『慶州南山(1987)』に掲載

ん松林や、夕暮れの空、海辺、石塔、王陵の片隅などを撮った写

されたその写真を見て自分も同じ写真を撮ろうと仏谷石窟を訪れ

真は被写体に潜む時間の重さがそのまま伝わってくる。しかしそ

た。だが何度行っても光は差し込まなかった、という話を和尚は

の時代と今とははっきり区別される。

今回の写真展の際にも彼のもとを訪れて嘆息交じりに語ったとい

しかし4層の稜線を背景にした王陵の写真「路東洞古墳群、慶

う。姜運求は「慶州南山」の写真を撮り終えた後、こんな風に言っ

州路東洞1984」にいたっては彼の写真は時間を遡る。この写真は

ている。「たびたび訪れ、何枚も何枚も撮るという未練がましさ

千年前の風景が今、ここに忽然と現れたような衝撃を与える。風

だけが私の唯一の方法だった。もしも少しでも正確に記録するこ

景の発掘ができたとしたら、それは彼の写真のようではないだろ

とが出来たとしたらそれは私の愚鈍さのせいだ」

うか。光の写真ではない、「時間の光」の写真なのだ。写真家の時 間とは写真家の主観なのだろう。路東洞古墳群の写真は彼の言う

風景の発掘

とおり、対象と表現方式が幸福な調和を成したケースだ。しかし

「古の風景」の古には二重の意味がある。一つは長い時間、すな

彼の写真では表現方式の占める割合はさほど大きくない。後輩の

わち千年の歳月を耐えてきた文化遺産を対象としていること、も

写真家たちから「アマチュア写真のようだ」という評を聞くほど

う一つは写真家が撮影した長期にわたる写真だということだ。彼

に、彼の写真は大部分、技巧からは程遠い。彼はどんな写真家よ

の古の風景写真には光ではない、時間が介入している。写真は

りも写真の基本、写真固有の特徴に固執している。風景の発掘が

光の芸術だ。しかし彼の写真の光は太陽の光ではない「時間の光」

できたとしたら、それは彼の写真と同じではなかろうか。

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1. 慶州暗谷洞の山の中の無蔵寺址、1995 2. 慶州南山三陵谷の観世音菩薩立像、1985

1

姜運求は大学で英文学を専攻し、1960年代にアマチュアカメラ

になっている。

マンとして出発した。大学卒業後に新聞社に入社したが、カメラ

早くからフリーの写真家となった彼は多様なジャンルを消化し

マン記者としての独立性と自主性を全く保証されず大きく失望す

てきた。しかし誰かから依頼を受けて撮影した写真はその写真が

る。そして1975年にマスコミを掌握しようという軍部独裁政権の

いくら完成度が高くても自分の作品としては認めなかった。彼は

政策により強制解雇されてしまう。記者時代から「写真とは何か」

後輩たちに「写真家を守ってくれる人間は写真家自身しかない」と

というテーマで写真の歴史を独学してきた彼は解雇後、韓国の写

言っている。彼は自分の写真と人生を一致させてきた数少ない芸

真界で最初のフリーランサーとなる。カメラマンには義務のみ

術家だ。彼の写真集を担当してきた編集者の李起雄は昨年だした

あって、権利はなかった暗黒の時代、彼は開発によって急速に崩

『姜運求写真論』の序文でこう述べ ている。「姜運求は頑固だ。彼

壊していった農漁村を歩き回り自分 の写真を撮り続けた。 姜運求の写真観は「ご飯写真論」 に要約される。「米でできる最高の 料理がご飯なように、写真術のもっ とも優れた写真とは記録性のある写

彼の写真は時間を遡る。そしてそこに写しだされた風景は、千年 前の風景が今、ここに蘇ったかのような衝撃を覚える。風景の発 掘ができたとしたら、それは彼の写真のようではないだろうか。

真だ」 「 ご飯写真論」が韓国のドキュ メンタリーの出発点だ。彼にとっ て最も写真らしい写真とは、迅速で正確に記録された写真のこと

は自分が信じたことは曲げない。しかし彼がそのように信じるま

だ。そしてそのようなリアルな写真で大衆と幅広く疎通すること

でには多くの観察と思考と勤勉さがあったので、ほとんど違うこ

がドキュメンタリーを撮るフォトジャーナリストの本分だと考え

とはない」

ている。彼が韓国の若いドキュメンタリーカメラマンから尊敬さ

姜運求は1941年生まれ。今年70歳だ。年齢から言えば姜運求

れる理由は彼の作品には一貫した明確な世界観があることだ。彼

の人生も「古の風景」になる。しかし彼の写真と作家魂は相変わら

の作品は「土の叙事」と「歴史物語」に分かれる。後者の作品群は今

ず若い。写真の本質を最後まで守っており、作家としての尊厳

回の「古の風景」展と写真集で整理され、前者は『村三部作』 (2001)

を忘れないからだ。彼は永遠の青年写真家なのだ。(翻訳:金明

と『夕暮れ時』 (2008) 『すべての沈殿』 (1997)などの写真展と出版物

順)

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2 Koreana ı 秋号 2011

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インタビュー

華やかな外見の奥に 秘めた重い真実 イタリアで開催される第54回ヴェネチア・ビエンナーレ。今年はスイス出身のビーチェ・クリガーが 総監督となり、光をテーマとした本展示「 イルミネーション」と歴代最大規模の89カ国が展示を 行うパビリオンがある。韓国館はコミッショナーのユン・ジェカプ(尹在甲)の企画による イ・ヨンベク(李庸白)の単独展が注目をあびた。 コ・ミソク(高美錫、東亜日報美術専門記者)

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・ヨンベク(李庸白)はビエンナーレ展の開幕を終え、帰国後の疲れも癒えぬまま、 荷物をまとめて南海の旅に出た。携帯電話の電源を切ったまま3泊4日の海釣り

から帰った彼を、京畿道金浦市にある作業場に訪ねた。真っ黒に日焼けした顔にもつれ た髪、小さく引き締まった体躯は概念的な作業をするメディアアーティストというより は熟練した船乗りのような印象だ。 彼はソウルで小中高、大学を終えたあと20年前に故郷の京畿道金浦に戻り、小高い 丘の上に作業場を建てた。今、自宅兼作業場として使っている空間は3年前に新築した コンクリートの建物だ。作業場は雑然とした工場のように見える。一部屋には録音室で 使われる超大型スピーカーが置かれている。大型テレビモニターと工具がいくつも散ら ばっている作業場を見学した後、台所の木製の長い食卓に座ってインタビューを始めた。 高美錫 おめでとうございます。ヴェネチア・ビエンナーレ韓国館はメディア設置作 品「天使と戦士(Angel Soldier)」、「割れた鏡(Broken Mirror)」、彫刻「ピエタ」、平面作品 「プラスチックフィッシュ」など14点で構成されていますが、海外メディアから好評を得 ています。今回の成果についてどうお考えですか? 李庸白 観客として2、3回ビエンナーレを見に行ったことがありますが、アーチス 原色華やかな人工の餌を描 い た 平 面 作 品「 プ ラ ス チ ッ ク フィッシュ」 (左側)と彫刻制作 のための鋳型の原型が、その 鋳型の中から現れた彫刻を抱 いている「ピエタ‐自己の死」。

トとして参加してみると完全に次元の違う世界でした。本当に戦場のようでした。戦車 をひっくり返して展示した米国館は40億ウォン以上のお金を注ぎ込んだという話で、競 争は本当に殺伐としていました。それを見ながら「あんたたちは戦争をしていればいい、 私は反対の道を行く」と思いました。国家館の展示はどこも攻撃的な感じがするので、反 対に花模様の軍服を洗濯して屋上に並べました。軍服 を洗濯で変身させたのは休息の意味で、同時に戦争す る意志が無いということを示して平和を意味します。 外信の報道と観客たちの口コミの評判が伝わり除々に 熱い反応を実感しています。

花と軍服 韓国館を見た観覧客がわざわざ彼のもとを訪れ「最 高の展示」だと親指を立ててみせた。そんな様子に対 して彼は「外見は華やかでも私自身にはどれも悲しい アートです。観客はそんな悲しさに気付いたのでしょ う」と淡々と語った。

高 「 愛 は 終 わ っ た け れ ど 傷 は 癒 え る で し ょ う (Love is gone, but the scar will heal) 」というタイトル は恋愛詩のように感じられます。タイトルの意味、作 品選定の基準はなんですか。 李 そのタイトルはコミッショナーが提案したも のです。私は西欧美術に対する片思いからだんだんと それを克服していく過程だと解釈して同意しました。 傷はすべて癒され、もう私たちも同等に競争できる時 Koreana ı 秋号 2011

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点に来たという意味です。 作品選定に先立ち展示空間を考慮しました。何もなくてもいっぱいだと感 じられる空間にするには単独作品で展示を進行するのは困難でした。それで

高 観客が作品の前に立つと銃声とともに鏡が こっぱみじんに砕け散る「割れた鏡」もインタラクティ ブメディア作品として大きな人気を得ました。

絵画、彫刻、設置など、多様な媒体の作品を設置しました。誰でもどれか一

李 鏡の作品は自分を壊すという意味から哲学的

つには心惹かれるだろうから、それを通じてその他の作品にも関心を持って

な反省の意味を備えています。もともとサウンドが鮮

もらおうとしたのです。

烈で衝撃的なのに、それに加えて観客が悲鳴をあげ

全体的に私の作品の与える第一印象はきれいで、輝いているというもの

るなど反応が強烈でした。鏡の作品を始めたのはドイ

です。しかしよく見てみますと重さが感じられます。設置とビデオ、写真で

ツのシュトゥットガルト国立造形大学に留学していた

作られた「天使と戦士」の場合、華やかな色の調和でいっぱいの画面の中で花

時代からです。男なので鏡を見ることがあまり無かっ

模様の軍服を着た人々が銃を手に非常にゆっくりと動いています。花は現代

たのですが、留学先で発表を前に鏡を見るようになり

美術家にとって最もタブー視される素材ですが、私はこれを逆に活用しまし

ました。鏡を見ながら独り言を言ったり、じっと立っ

た。一次的には花の美しさが目に付きますが、異常な恐怖と緊張感がその内

たまま自分自身を振り返ったりしました。実際の自分

面に潜んでおり韓国分断の政治的な状況が感じられます。

と、自分が考えるかっこいい自分の姿、そのギャップ

高 彫刻「ピエタ」は鋳型とその中から現れた自分自身を抱きかかえている

から多くのことが生じます。現実とシュミレーション

という形式が特徴です。既存の彫刻では捨てられていた鋳型を活用した点で

が近づけば夢がかなったと感じ、遠くなれば挫折す

「天才的」だという評価を得ました。 李 人間は自分を愛しすぎたり、反対に憎悪するという両面性を備えてい

る、その隙間を壊れた鏡を通して指摘しようとしまし た。

ます。それで韓国館の「ピエタ」は自分自身の死を抱きかかえている姿、自分 自身を攻撃する姿の二つの様子を示しています。

原色華やかな人工餌を描いた「プラスチックフィッ

もともと「ピエタ」は人間自体の悲しみに対する表現ですが、西洋ではマリ

シュ」には自然を模倣したイミテーションが本物の自

アがイエスを抱いている宗教的な銅像です。私は本当の悲しみというのは結

然を捕まえるのに使われるという現実に対する比喩も

局、自分自身の死だと思います。これは単純に物理的な死ではなく、夢を無

含まれている。それらの作品で出来上がった展示は20

くしてしまったという意味です。

世紀の韓国現代史。時代の痛みを圧縮し詰め込んでい

メディア設置作品「天使と戦士」と作家・李庸白。花でいっぱ いのような画面をよく見てみると、花模様の軍服を着た人々 が銃を手に非常にゆっくりと動いている。

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韓国の文化と芸術


「芸術とドキュメンタリー 、両方ともしたいです ね。60歳過ぎたら自然ドキュメンタリーを本格的 に撮り歩くつもりです。海釣りとスキューバダイビングを楽し みながら韓国の無人島をすべて撮ってみたいと思っています。 アーチストとして長く仕事をしていくには遊ぶことが非常に大 切だと思いますね」

るという評価を得た。

ペク・ナムジュン(白南準)との出会い 作家として彼は、ジョン・ケージ、ペク・ナムジュン、ヨーゼフ・ボイスをもっと も尊敬するという。彼らは芸術のパラダイムを変えたアーチストたちだ。特に ビデオアートの創始者のペク・ナムジュンと交わした対話は彼が宝石のように 大切にしている思い出だ。

李 1991~96年、ドイツ留学当時、学校で学生たちが急に走り出し何 のことかと思ってたずねると「ペク・ナムジュンが来た」と言うのです。あ わてて私もついて行きました。一度は美術館に本を買いに行き、先生と出会 いました。韓国から来た留学生だとあいさつすると、一緒に飯でも食おうと言 われ、ホテルで食事をしながら数時間、お話をすることができました。進路 について悩んでいた私に先生は「学校でさらに学ぶことがあるのかい。 韓国であれ、アメリカであれどこでも作品を現実化できるところ に行きなさい」 「funnyとinterestingを区分できるようにならなく てはいけない」などのお話をしてくださいました。

何より彼は「うまくできた部分を見ようとはせずに、失敗 を減らせ」という忠告を大切にしている。ビエンナーレで もそのまま使った言葉だった。ペク・ナムジュンのアドバ イスに従い帰国したものの、無名の彼が韓国でアーチス トとして生きていくことは簡単なことではなかった。

李 1996年に帰国後、ある美術館から2年後に個展を開 こうという話がありました。ところがキュレーターが変わり展示の 6ヶ月前に突然話が白紙化してしまいました。それで名前も分から ない省谷美術館のキュレーターのもとを訪れ、30分だけでいいか ら私の作品について説明する時間をくれと頼みました。話を聞い Koreana ı 秋号 2011

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たその人はすぐに個展を開くことをオーケーしてくれました、そのキュレー

比べて李庸白氏の作品には関係性の美学があります。

ターが先日他界したイ・ウォンイル氏です。無名作家の展示でしたが幸いに

荒っぽく言えば芸術社会学的に発言しながらも究極的

も観覧客がたくさん訪れ、評判も好評でした。そして2000年には観覧客と死

な人生が表れています。また西洋的なレファレンスに

んだ牛の呼吸を連携する「人工感性」というインタラクティブ・アートを作り

は全くない独自のスタイルを備えています」と評して

ましたが、観客はわずか30人でした。誰も関心を示さないことに大きな衝撃

いる。

を受けました。 高 挫折の時期ですね 李 そうです。その時に、少し遊んだほうがいいかなと思いました。アー

高 絵画、彫刻、設置、メディアなど非常に多様 な媒体の作業をなさってますよね。

チストというのは一人で存在できるものではありません。作品が売れない

李 私の作業が多様な理由は芸術の自由、表現の拡

にしても、実験的な作品は応援してくれる人がいることが大切です。誰も

張をタブー視する時代を生きてきたからです。1985年

分かってくれなかったことは本当に辛かったです。2001年からは展示をせず

に弘益大学に入学しましたが、教授陣は100%ミニマ

に放送制作の仕事を始めました。重い装備を背負い30mの水中に入り自然ド

リストでした。一つの方法だけに固守する教育に反発

キュメントを撮って生活しました。

を覚えました。私だけの芸術がしたくて大学に入った のに、すべて禁止されて腹が立ちました。軍部の独裁

30代から昨年まで彼は放送プロダクションを運営しながらお金を稼ぎ、そ

時代を経て検閲も厳しいものでした。私の考える芸術

のお金を作品に注ぎ込むという生活を繰り返してきた。文化財庁のインター

は概念の拡張、認識の拡張なのに、まるで古臭い封建

ネットチャンネルに仏国寺など、韓国の文化遺産を撮ったドキュメント番組

的な父親に抑圧されて生きているような感じがしまし

を納品したりもした。彼の美術作品が始めて売れたのは41歳の時だった。

た。一方で学校の外では民衆美術の声が高まっていま した。そのような二分法が私には合いませんでした。

李 芸術とドキュメンタリー、両方ともしたいです。60歳過ぎたら自然ド キュメンタリーを本格的に撮り歩くつもりです。海釣りとスキューバダイ ビングを楽しみながら韓国の無人島をすべて撮ってみたいと思っていま

芸術とは根本的に自らを開放し、その結果が 他の人もそのようになるものだと信じて いたのに、大学時代はそれが通じな

す。アーチストとして長く仕事をしていくには遊ぶことが非常に大切だ

い時代でした。外国に出るほかな

と思います。一生懸命に働くよりも遊ぶほうが実はもっと難しいんで

く、留学時代は法律で許される範

す。作品を作るにはどんな方式であれ外部の刺激が必要なんで す。

囲内で自分の心のままに生きまし た。活動の初期の頃には、展示が終 われば作品が消滅するプロセスアート

彼の生きてきた時代 彼の作品はストレートでパワーがあるという評価 を得ている。コミッショナーのユン・ジェカプ氏は 「多くの作家の作品が概念的で重義的で私的なのに

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に関心を抱いていましたが、それを記録とし て残すのにビデオが必要でした。伝統絵画や 彫刻は競争が大変ですが、新しく登場したビ デオアートなら西洋の人々と対等に競争でき

韓国の文化と芸術


ると思いました。それで多彩な作業を試みました。 それ以来彼は一つのアイデアを思いつけばそれを多様なメ ディアで解釈し実行していく習慣が生まれた。どんな形式を最 終的に選択するかは 「通帳の残高」を基準にして決めた。

日でも彼は自分の作業が固定した枠の中にはめ込まれ ることを拒否する。 李 留学時代に多様な実験をしながら他人からう まいと賞賛さればその作業はすぐに辞めて,他の作業 を試みました。今後どのように生きるか悩んだ時に本

高 米国の碩学でコロンビア大学のジョン・ライクマン教授が図録の解説

を読んでいて印象深い内容を見つけました。兎を捕ら

を書いたのも話題でした。彼は韓国の自生的な現代美術が芽吹いた時期を

えるためにワナを仕掛けても兎を一度捕まえたらワナ

1987年の民主化以降だと見ていますが、先生の作品が韓国の政治・歴史・社会

は捨てろという内容でした。私はこれを人生に当ては

的な状況と合わさっていると指摘しています。大学時代には学生運動の闘士

めました。芸術は疎通の手段であり、疎通が終われば

でしたか?

一度は捨てなくては。それで留学を終えた後、コンテ

李 デモには参加しましたが幹部ではありませんでした。一度デモの時に 石を投げたら機動隊の一人が倒れました。その次からは石を投げることはし ませんでした。

ナ二台分の作品をすべて捨てて、紙の作品だけを持っ て帰国しました。 高 今後のご計画は?

高校時代に美術教室に通っていた頃から先生方はモダニストと民衆美術に

李 9月に中国の北京で798芸術団地のピンギャラ

分かれていました。どちらも嫌でした。考えてみれば朴正熙時代に教育を受

リーで大規模な個展を開きます。ヴェネチアが練習

けた私たちの世代は強制ということに慣れていました。民衆美術も同じこと

ゲームだったとしたら中国は本番です。

です。綱領ができ組織ができ、権力ができるのを見て モダニストと何が違うのかと思いました。世の中を見る方式を事前に決定

彼は上気した表情でしばしその構成を説明してく

し、それに体を合わせていくのは芸術とは言えないというのが私の信念です。

れた。一つのテーマで死ぬまで作業することは彼には 想像もつかない。生命力のあるアーチストは自己反省

再びスタートラインに立つ

の強い作家だと確信しているからだ。狩に使ったワナ

彼の作品は美しい。これはアーチストとしての生存と関係がある。美しさ

を果敢に捨てることのできる知恵、それが彼に無限の

と輝きで包装して人々の警戒心を緩めたあと、自分の内面の真実、時代的な

挑戦と果てしない成長を与えているのだろう。(翻訳;

イシュに視線が行くようにするのだ。大学時代に二分法に抵抗したように今

金明順)

「ピエタ‐自己憎悪」鋳型の原型から現れた彫刻が原型を攻撃す る。作家はヴェネツィア・ビエンナーレ韓国館の屋上に、洗 濯した花模様の軍服を干して並べ平和を宣言した。

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世界の中の韓国人

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世界が共感した

『母をお願い』 シン・ギョンスク(申京淑)の長編小説『母をお願い』がアメリカに続いてヨーロッパ でも大きな反響を呼んでいる。彼女は母の象徴性を通して文学の普遍性を獲得す ることに成功した。 キム・ミヒョン(金美賢、梨花女子大学校国語国文学科教授、文学評論家)

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版10カ月で韓国文学史上、最も短期間で100万部を突破。2011年6月現在、 175万部の販売。世界28カ国で出版契約を締結。イギリス、ポルトガル、

イスラエル、セルビア、フィンランド、アイスランドなどでは、韓国文学作品と しては初めて翻訳出版される。ネット書店のアマゾンが選定する2011年上半期最 高の本としてベスト10入り。ニューヨーク・タイムズ誌選定のベストセラー小説 部門で14位にランクされる。アメリカの7つの都市とヨーロッパ8カ国で行われ たブック・ツアーの成功。 上述した内容はシン・ギョンスク(申京淑) の長編小説『母をお願い(Please Look After Mom)』があげた客観的な成果である。作家はあるインタビューで「この本 の英語版は私個人にとっても、韓国文学にとってもアメリカに降った初雪」と謙 遜に答えている。しかし、彼女が海外であげた成果は初雪にしてはボタン雪に近 い。また、今回の成果が一日にして達成された偶然な出来事ではなく、1985年に デビューして以来、20年以上も地道に積み重ねてきた文学的底力の賜物である点 でさらに大きな意義がある(作家シン・ギョンスクの文学世界の全容については 『Koreana』2010年冬号のInterviewを参照)。 今回の成功には韓国文学の海外への発信を目標に、韓国文学翻訳院や大山財団 が行ってきた取り組みや支援、そして翻訳家キム・ジヨンさんの優れた翻訳、ア メリカ最高の権威を誇る文学専門出版社クノープ(Knopf)の積極的な広報活動な ど、作品外の要因も働いたに違いないが、何よりも作品の内的要因を究明する ことが重要であろう。

「韓国的な文学」を乗り越えて この小説のどこが国家人種の壁を乗り越えて、世界の読者たちの 共感を得るようになったのか。「もっとも民族的なものがもっと も世界的なもの」という従来の定説を超えて、様々な要素が この小説には多く見受けられる。 その中心に「母」 がある。この小説は母の象徴性を通して、当 然ながらも達成しにくい文学の「普遍性」の獲得に成功している。小説 の中の母はだんだん失われていく家族の価値のために自分を犠牲にし、家族と葛 藤しながらも家族を変えたりする。読者はそれぞれ自分の立場で小説の母を翻訳 し、理解する。 2 1. アメリカのニューヨークのリンカーン・ センターの前でくつろぐシン・ギョンスク さん(写真:イ・ゼアン)。コロンビア大学 の訪問研究員としてニューヨークに滞在 する間、最も頻繁に出入りした所がリン カーン・センターだったという彼女は、8 月末にアメリカ滞在を終えて帰国した。 2. 英語版 『母をお願い』の表紙

その母は時には神(God)であり、生命(子宮、故郷)であり、他者(other)であ る。引いては自分自身であるかもしれない。ただ、こんな母そのものこそ、我々 が失ってしまったが、また取り戻すべき価値を代弁していることは間違いない。 「韓国の家庭を描いた小説だが、場所と名前さえ変えれば、アメリカのどこにで もある家庭の話にもなる」というアマゾン(Amazon.com)の読者書評や、「この小 説は世界どこでも経験できる家族のジレンマを捉えている」というMs. Magazine Blogの書評からは、母の持つ普遍的な意味が確認できる。 この小説が持っているもう一つの特徴は母性に対する「新しい」洞察である。 『母をお願い』に登場する母は伝統的で犠牲的な姿をそのまま踏襲してはいない。 彼女は、従来の母性イデオロギーに対して、自分だけのやり方で抵抗したりす

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5月にイギリスの本の町、ヘイオンワイ・ブックフェスティバルで行われた 朗読会の終了後、読者サイン会に出席したシンさん。

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る。作家の言葉によれば、「母を正しく見る小説、母の固定観念を打ち破る小説、 母を人間的に解体させた小説」である。この小説の母は見かけは保守的で、前近 代的な母性の価値にこだわるかに見えるが、その一方で我々は、進歩的で主体的 な母性をも発見する。 したがって、この小説は母性に関する限り、「トロイの木馬」のような役割を果 たすと言ってよい。従来型の母親を再現しながら、「反近代(anti-modernism)」、 「反フェミニズム(anti-feminism)」ではなく、「近代以後(post-modernism)」、 「フェミニズム以後(post-feminism)」の姿が見られるためだ。この小説は受身的 に存在する(being)母ではなく、前向きに行動する(doing)、生きている「生物」と しての母を幾重もの複合的な姿として見せている。作家の意図が過去の母への回 顧ではなく、取り戻すべき母の実態に近づけようとする点で、この小説は21世紀 における母性小説であると同時に、家族小説でもある。

世界の読者のシン・ギョンスク文学の読み 中でも望ましいことは『母をお願い』が「文学性」の面でもその価値が認められて いることである。「母を失って一週になる」という文章で始まり、「母を失って九 カ月になる」という文章で終わるまでの過程 を推理小説のような構成と強力な叙事、「息

「韓国の家庭を描いた小説だが、場所と名前さえ変えれば、 アメリカのどこにでもある家庭の話だ」

子-娘-夫-母自身」へと視点を変えながら 多様な観点を受け入れていること、「あなた」 という2人称使いによる新鮮さと緊張感、母 にだけ与えられた1人称視点の響きと余韻、

母の分身である履物や鳥、ピエタ聖母像などの象徴性がこの小説の文学的価値を 高めている。 『母をお願い』を注目すべき本に選定したオプラ・ウィンプリのブック・クラブ・ マガジン2011年4月号のリディング・ガイドに掲載された質問を見てみよう。「2 人称の形式叙述が母に対する各人物の感情をどう表してしるのか。なぜ母だけが 1人称形式で自分のことを物語らせているのか」、「ヒョンチョル(息子)の母に対 する思い出の中で、なぜ食べ物がそんなに強い要素であるか」、「母が失踪した当 時、踵の低いベージュ色のサンダルを突っかけていたにもかかわらず、母を見か けた人々が傷のある足に青色のプラスチック製のサンダルを履いていたと証言す ることをどう説明するのか」この小説に仕掛けられた文学的装置に対する読者の 関心が伺える。小説に盛り込まれているストーリーに止まらず、文学的形象の側 面にまで注目しながらこの小説をきちんと、そして深いところまで読み取ろうと 試みていることが分かる。シン・ギョンスクの小説が一回きりの流行りものでは なく、今後も芸術性のある作品として受け入れられると予測できる。 シン・ギョンスク文学の本領は、冷たいものをもっと冷たく見せたり、怒りを 通して世の中を厳しく告発するのではない。人間的な絆や慰め、反省と感動の源 として文学の重要性が大きくなるほど、シン・ギョンスク文学の存在理由ももっ と明確になってくる。彼女が見つめれば、世の中がもう少し暖かくなるためであ る。(翻訳:趙祥恩) Koreana ı 秋号 2011

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巨匠

「 五父子」が作る甕器の世界

甕器匠・金一萬 韓国料理の特徴の一つが主な食べ物が発酵過程を経ていることだ。代表的な発酵 食品には海外でも健康食品として脚光を浴びているキムチと、醤油や味噌、コチュ ジャン(唐辛子味噌)などの発酵調味料がある。これらの食品を保管する甕が甕器(オン ギ)だ。「息をする器」といわれている甕器の特色がこれらの発酵食品には不可欠なのだ。 キム・イルマン(金一萬)さんは甕器作りの伝統を受けついでいる6代目の甕器匠で、彼の 甕器に対する変わらない愛情と情熱はその息子へ、そして孫へと受け継がれている。 パク・ヒョンスク(朴炫淑、フリーライター)| 写真 : 安洪范

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韓国の文化と芸術


然の産物に乳酸菌が加えて熟成させることで食べ物は味も

伝統窯にこだわり

良くなり、健康食品としてすぐれたものになる。発酵食品

甕器は粘土をこねて、ロクロで形を成型した後、黄土窯の中で

特有の深く、濃厚な味は一度食べたら病みつきになる『第3の怒

チョウセンブナの薪で焼いて作る。釉薬には灰汁を使い、艶を出

涛』を書いた未来学者のエルビン・ドプラーの言う、いわば「第3

して堅く焼きあげるオジクルッと、灰汁をかけずに、艶を出さな

の味」だ。彼は世界の食文化が第3の味に移っていくだろうと予

いチルクルッの両方を合わせて甕器という。近代以後、この釉薬

言した。第1の味は塩の味、第2の味はソースの味、最後の第3

をかけないチルクルッは急激にその姿を消し、最近では甕器とい

の味が「発酵の味」だ。また、発酵過程を経ることで食品は栄養が

えばオジクルッを指すようになった。甕器には目に見えないほど

豊富になり多様な有用成分が生成される。韓国の食品の9割を占

の小さな穴が開いており、この穴を空気が通過することで発酵が

めるのがこの発酵食品だ。甕器はこのような韓国の食文化を背景

起きる。空気は通過するものの、水がしみこむのは防ぐので、食

に登場して来た。

べ物が腐らないですむ。それで甕器を「息をする器」と呼んでいる

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1. 甕器作りの仕上げの作業をする甕 器匠・金一萬さん 2. ロクロの上に器の底の部分を作 り、その上に土カレを一本づつ積み 上げていく。 3. 器壁を叩きながら延ばして厚さを 薄く、より堅固にする。 4. 成型した甕器はよく乾燥させてか ら釉薬をかける。

1

のだ。韓国の主婦たちはキムチと味噌の味を維持するために甕器

15歳で甕器作りの世界に足を踏み入れたという甕器匠の金一萬

をまめに拭いているが、これは穴がふさがらないようにしている

さん(70歳)、最初の仕事は粘土を水につけて甕器作りの土を作る

のだ 翡翠色の青磁は高貴な貴族の風合いをかもし出し、純白の白 磁は恥ずかしげな乙女の姿態をしている。それで青磁と白磁は大

「スビ(水飛)」の作業だった。彼は2010年2月11日、重要無形文化 財第96号に指定されたという知らせを聞き、一生の仕事としてき た甕器匠の仕事が認められたことが何よりうれしかったという。

切に扱われ鑑賞する、装飾品としての性格が強い。その反面、甕

「伝統窯を使うと売り物になるのは5割ほどですよ。炎が均等

器は詩人のチョン・ジヨンがその詩「郷愁」で詠っているように「何

でないので割れてしまうし。ガス窯を使えば、一晩中釜に薪をく

ということもなく、美しくもなく、一年中腕まくりで家事をして

べる苦労もなく、使い物にならない物もでないしね。ロクロも足

いる妻」のような生活の器だ。一目で相手を魅了するような美し

を使わず電気ロクロで回せば楽でしょう。しかしそれじゃ甕器匠

さよりも、愛情を注ぎながら長い間、傍らにおいて暮らしている

とは言えねえ。甕器を作れば作るほど、伝統的なやり方に勝るも

と、ふいにその穏やかな美しさが目にしみてくるような器だ。

のはないと思いますよ」

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韓国の文化と芸術


入り(およそ110リットル)の甕を作っていた。金一萬さんの長男

8代続く匠の脈 甕器についての記録は『三国史記』に見ることができるが、新羅

の成鎬さん(49歳)、末息子の龍鎬さん(37歳)、そして成鎬さんの

に瓦器典といい甕器の生産を担当する機関があったという。1960

息子の明眞さん(23歳)だ。5男1女の子供のいる金一萬さんの4

年代頃まで、全国には500基あまりの伝統窯があった。

人の息子はみんな父の後を継いでおり、次男の正鎬さん(46歳)と

甕器の伝統的な作り方をそのまま受け継いでいる金一萬さん

三男の昌鎬さん(43歳)は分家して甕器を作っている。ということ

の迷うことなき信念は作業場の隣にある3つの窯に現れている。

で匠の甕器は「五父子甕器」というブランドで売られており、甕器

それは京畿道驪州梨浦里甕器窯と呼ばれ作られてから150年にも

匠の伝統が8代続いていることになる。長男の成鎬さんは父と同

なる3基の伝統窯だ。各窯は形態と規模が違い、一番大きな大

様に15歳から甕器作りを始めてたので最早30年以上の経歴になる

砲窯はもともと40mの長さだったのが現在は長さ24.5m、幅2.4~

が、未だに自分のことを「学生」と呼んでいる。

2.8m、高さ1.53~1.75mで主にチャントク(味噌・醤油用の甕)や

「まだ学んでいる途中だからです。全国の良い土を選び水飛(陶

キムチトック(キムチ用の甕)のような大きな甕を焼くのに使わ

土を水の中にいれてかき混ぜ雑物を取り除くこと)し、さらに成

れる。中間の大きさの窯であるシル窯は長さ 10.73m、幅1.5m、高さ1.1~1.15mで中間の大 きさの甕や小さなシル(蒸し器)などを焼く。 長さ7m、幅1.95m、高さ1.15~1.27mの一番

「伝統窯を使うと売り物になるのは5割ほどですよ。炎が 均等でないので割れてしまうし。ガス窯を使えば、一晩中

小さな窯では調味料を入れるのに使う小さな

釜に薪をくべる苦労もなく、使い物にならない物もでない

壺など、チルクルッを焼く。

しね。ロクロも足を使わず電気で回せば楽でしょう。しか

「私の故郷は安東で5代前の爺さんから 代々、甕器作りをしてきました。私で6代目

しそれじゃ甕器匠とは言えねえ」

です。昔も今も甕器匠の暮らしは楽ではない です。まして父は甕器を売って金ができるとその金で酒を飲んで

型、焼成と、その一つひとつの工程が全部難しいんです。伝統方

しまうような人でしたよ。自分の家もないので全国の甕器窯を渡

式にこだわっている父は賢明だと思います。伝統方式は機械が人

り歩く技術者として働いていたが、私の代になって戸主(自分の

の手の代わりをしてはいけないというこだわりから生じています

作業場を持っている甕器匠)になったんです。1980年代にここ梨

が、それが正解です。伝統窯で焼くと損失率は高いものの、より

浦に定着し、当時ここは甕器村で窯もたくさんあったんだが、今

堅固になり、自然の炎の作り出す美しい甕器が生まれるんです。

では数も少なく貴重な窯になってしもうた」

また足で動かすロクロを使うことで自分だけのリズムを作ること

窯の向いには甕器を成型する作業場がある。足の力を使って動

ができます。それでこそスレジル(甕器の表面を平らにし、土の

かす5つの足ロクロが並んでいるが、そこで3人の男性が6マル

密度を高めるために、木製のスレを使い甕器の表面を叩いて行く

2

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1. 五父子甕器の伝統窯は一年に4回の窯 焚きをし、一度の窯入れで5昼夜、熱く 燃え上げる。 2. 火を落とした窯の内部。伝統窯は炎が 均等でないので窯の中に入れた甕器の中 で売り物になるのは半分くらいだ。

作業)もきちんとできるんです」 陶芸高等学校を卒業し視覚美術を専攻している孫の明眞さんは 祖父から「代々受け継いできた匠のプライドと喜び」を学んだとい う。そばから三男の昌鎬さんも一言添える。 「甕器を作る仕事は最初から最後まで非常に多くのエネルギー が必要です。特に窯に火を入れ始めると5日間はほとんど徹夜に なります。昼夜を問わず炎を調節するのに神経を使わなければな りません。最後の日に火を止めると甕器匠はヘトヘトになってし まいます。多くの甕器匠の中で、その日の内にもうロクロの前に 座っている唯一の人間がうちの父です。今でもあだ名がドイツ将 校(ゲシュタポ)です。子供の頃、そんな父の姿を見て父と同じ道 を歩もうと決心したんです」 最後列のロクロの前に座り甕器を作っている金一萬さんの前に 二人の息子と孫が座り、やはりロクロを回している。無言で子供 たちの歩む道を見守る父の姿だ。彼は「力のある甕器匠のロクロ はぐるぐるとよく回り、スレジルの音もパンパンと気運が溢れる が、年をとったせいかロクロもがたがたと回り、スレジルの音も パタパタです。あいつらを見てください、音に力が溢れているで

1

しょう」と息子と孫の腕前を自慢するのだった。そして足ロクロ に対する思いも格別だ。 「昔、まだ力のあった頃には70マル(約1260リットル)入る甕で も一人で作りました。私が特別ではなくて、他の甕器匠もみんな

息をする甕作り

そうだった。ところで陶磁器を作るほかの国では甕器のような大

キムチはよく熟成してこそ本来の味がでる。甕器もまた熟成と

きな器を作る時には一人で作業をするのは難しいので、何人もの

いう過程をへて本物の「息をする器」となる。まず「祖父が選び孫

人が一緒に作業をするといいます。いくつもの土の塊を棒状に作

が使う」という言葉が伝わっているほど、土をよく熟成させなけ

り、一つにまとめてつけていく方法をとるというが、私たち甕器

ればならない。

匠は餅カレ(包丁で切る前の長い棒状の餅)のようによく捏ねた土

「地方によって土が違いますね。もち米とうるち米があるよう

カレ(棒状に伸ばした土)を作りそれを一つずつ積み上げていきな

に、土にもねばねばした土、堅い土があり、石の混じっているも

がら堅く固めていきます。そうすればずっと丈夫な甕になるで

の、無いものがあり、石の特性もまた違うんです。土のもつ特性

しょ」

をよく生かすことが大切ですが、それには一つの地域の土だけで

堅固な甕器を作るには熟練した技術が必要だが特にスレジルが

はだめですね。昔から土は多々無病と言って、多様な土を混ぜる

大切だ。金一萬さんは土カレをきちんと積み重ね、それを繋げて

ことで質が良くなるといいます。高霊、報恩、鳥致院など、土の

行く方法を身につけるのに2~3年、10年たってようやくスレジ

良いという所はすべて訪ね歩きサンプルをとってきて配合してみ

ルがきちんとできるようになると説明する。

ました。そうやってもっとも良い状態のものを探しだすんです

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韓国の文化と芸術


2

ね」 配合に成功した土は水につけて草の根、砂利などを取り除いて

を選び、土カレを作り、甕器を成型し、乾かし、焼くまでには50 ~60日の時間が必要だ。

から熟成させる。この工程が「水飛」だ。そうやって沈殿させた土

「甕器を焼くのは伝統窯で春に2回、秋に2回の年に4回火を

をよく乾かし、叩いて、配合する工程が「センジル」だ。その次に

入れます。1回の窯に甕が350~400個くらい入り、薪には江稜で

土を手で捏ねてよく混ぜ合わせた後、水でよく捏ねて空気を取り

買ってきた皮の薄い赤松だけを使います。それが火力がいいんで

出し、ねばねばした状態にしてから長い棒状の土カレを作るのが

す。初日は100℃くらいから始めて1200~1230℃まで温度を上げ

「コナ」の工程だ。続いてロクロの上に白土粉をまき、その上に甕

て5日後に火を止めます」

の底の部分になる土をおき、スレで叩きながら延ばして甕の底を

門外漢の目には似たような甕器に見えるが、五父子は自分の

作ってから、土カレを一本一本積み上げていき、ある程度の高さ

作った甕器を見分けることができるという。甕器匠なら言うに及

になれば器壁を叩きながら厚さを薄く延ばして堅固さを高める。

ばずだ。金一萬さんは世の中には知られていなくても自らに、そ

このようにして作った甕器を季節によって1週間から1ヶ月ほど

して目の肥えたお客に恥じないように伝統的方式をこれからも守

よく乾燥させたあと釉薬をかける。木の灰と黄土を混ぜて作った

り続けていくという。代々受け継ぎ伝統に対するこだわりは彼ら

釉薬も2~4ヶ月ほどの熟成過程を通過したものが使われる。土

の甕器と同じように堅固で美しい。(翻訳:金明順)

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オン・ザ・ロード

今年で『高麗初雕大蔵経』刊行1000周年を迎えた。これを記念するために、9月23日から慶南陝川の海印寺一帯で行われる 「大蔵経千年世界文化祭り」の開幕まであと100日を切って、大蔵経の移動を祝うイベント (移運行事)が繰り広げられた。 ソンアン(性安、海印寺八万大蔵経研究院 保存局長)| 写真 : 安洪范

高麗大蔵経の 巡礼の道

移運行列のスタート。経板を載せた輿 を先頭に、大蔵経の移運行列が三階石 塔の立つ海印寺の大寂光殿の庭を巡っ ている。

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Ko re韓国の文化と芸術 a n Cu l tu re & A rts


高麗大蔵経の木板。今年で板刻着手 千年を迎えた初雕大蔵経木板は、1232 年のモンゴル侵略の際に焼かれてし まい、印刷本の一部だけが残ってい て、現在に伝わる木板はその4年後 に板刻作業に着手して16年目に完成 した再造大蔵経である。

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11年6月18日土曜日の朝、海印寺の梵鐘閣で大鐘を鳴らす5打 の厳かな音が鳴り響いた。韓服姿の合唱団の三帰依合唱、僧爐

殿の般若心経の奉読、学長僧の告佛文の朗読が終わると、住職のお坊さん が蔵経板殿に入り、「経板」をうやうやしく持参して輿に載せた。一連の大 蔵経移送イベントの開始をつげる儀式が終わり、このあと移送のための行 列が動き出した。

イベントのスタート 「大蔵経」移運行列のスタートは黄色い服装をした吹打隊の演奏と ともに始まった。香炉を抱えたお坊さん、引路王幡と五方幡をそれぞ れ掲げたお坊さん、日傘を差したお坊さん、芭蕉扇を手にしたお坊さ ん、輿、そして住職を始め、禅院で修道に励んでいる禅房僧、律院で 戒律を守るお坊さん、講院でお経を学ぶ学人僧、海印寺の山内庵で夏 安居参禅を行う比丘尼僧、そして模造の経板を頭の上に載せた信徒た ちが後に続いて進んだ。法寶殿を出発して大寂光殿を通り過ぎ、行列 は碑石通りで止まった。ここで住職が陝川郡の郡守(韓国の官名)に大 蔵経板を手渡した。この伝達式をもって初日のイベントが終わった。 この「大蔵経板」が海印寺を出発して、ソウル都心で開かれるイベ ントに参加し、その後、高霊開経浦を経由して海印寺に戻ってくると いうコースが今回のイベントの旅程である。高麗が経済的・文化的に 先進国であったことを物語る代表的な遺産が八万大蔵経であり、優れ た文化は豊かさの中から花咲くといわれる。高麗時代の僧義天は大蔵 経の編纂にあたり「千年の知恵を新たな千年に向けて送ること」と叙述 している。高麗の人々は大蔵経の中に過去千年間の知識と技術を集結 して千年後の我々に送ってくれたのである。その意味を改めて噛みし めるため、今回の大掛かりな移運イベントが開かれたのである。イベ ントに先立って大蔵経板殿に至るまで、海印寺の境内を紹介してみよ う。

百八つの階段 伽 倻 山紅流洞の渓谷を流れる清流に沿って頂上に向かって歩いて Koreana ı 秋 S u号 mme2r0 121011

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1

いると、美しい山々に囲まれた千年の歴史を誇る雄大な古刹、海印寺が見え てくる。まず最初に近年の高僧たちの浮図を祭った舎利塔を通り過ぎると、

1. 帰りの道。模造経板を頭に載せた信徒たちが吉祥庵から 海印寺に向かって行進している。 2. 蔵経板殿の前で開かれた大蔵経の移運行列の出発の儀式。

海印寺の歴史と関わりのある碑石が集まっている碑石通りを通ることにな る。伽倻山の頂上が池に映るという影池を過ぎると、「伽倻山海印寺」と書か れた扁額のかかった一柱門に着く。この門を通ると、天に向かって真っ直ぐ に伸びた大きなモミの木が列を成して人々を迎える。海印叢林と書かれた縦

いう殿閣に法鼓、雲板、木魚、梵鐘の四物が掛かっ

軸の見える鳳凰門を通ると絵になった四天王が現れる。四天王門とも呼ばれ

ている。九光楼を通り過ぎれば、再び広い庭に出くわ

るこの門を通り過ぎると、右側に「局司壇」という看板の掛かった小さな殿閣

し、新羅時代の三階石塔と石灯があり、右側には「観

が見える。普通のお寺では山神を祭った山神閣が一番高い所に位置している

音殿」が、左側には「玄堂」が見える。ここは僧伽大学

が、海印寺には山神閣がない代わりに鳳凰門と解脱門の間に、伽藍の守護神

で学人僧侶たちが生活と修練に取り組む空間である。

である道場神(局司大神)を祭ってある。再び空を見上げながら階段を上って

空を見上げれば、「大寂光殿」と書かれた看板が目につ

行くと、「海東圓宗大伽藍」という扁額の掛かった解脱門に出くわす。この三

くが、ここがお寺の中心になる法堂である。

つの門を通過すれば、やっと広々とした庭に出るのである。

再び階段を上れば、毘 盧 遮那の釈迦を主佛として

正面には「九光楼」という殿閣が見えるが、その名前は華厳経で釈迦が九カ

祭ってある大寂光殿を中心に、右側には住職の住まい

所で説法を行う度に、まず白毫で光明を放ったことに由来する。その右側に

である「禅悦堂」や、地蔵菩薩を祭る「冥府殿」と羅漢を

ある「普敬堂」では夏場に夏季修練大会が開かれ、週末にはテンプル・ステイ

祭る殿閣の「應真殿」がある。左側の「大毘盧殿」という

が体験できる。視線を左側に向けると、「四雲堂」という宗務所と「梵鐘閣」と

殿閣では韓国最古の木造仏像である双子の毘盧遮那佛

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韓国の文化と芸術


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を祭ってある。大寂光殿の裏側に回ってみると、海印 寺でもっとも古くて大きな建物が現れる。それが蔵経

られなければ、一度に二つの階段を上った人であるのだ。 海印寺に出家した私は、法堂で三千回の敬拝を捧げた後、髪を剃り落と

板殿である。勾配の厳しい階段を上ると「八万大蔵経」

して茶色の行者服を着ることになった。行者には任務が与えられるが、私は

という看板に出くわす。

後の園を管理する院主室の行者になった。院主行者の日課の中で重要な仕事

海印寺の一柱門から蔵経板殿までの階段の数を数

は、朝、昼、夕の供養時間に蔵経板殿を守る蔵主僧に代わって蔵主室を掃き

えてみると、百八つあることが分かる。これは、仏教

清め、一人で板殿をお守りすることである。1965年に建てられた小さな建物

では煩悩が百八つあるということから由来している。

である蔵主室は、蔵主僧と法寶殿において千日祈祷を捧げる祈禱法事の住ま

そのため、一柱門から蔵経板殿に向かって百八つの階

いである。毎日三回ずつ、勾配の激しい蔵経板殿の階段を上る度に、私の心

段をちゃんと上って蔵経板殿に着くと、すべての煩悩

はときめいた。何とも表現しようのない神秘な気運が板殿を包み込んでいる

が無くなるといわれる。一段一段と階段を上る度に、

ように感じられたからである。

我々は煩悩から自由になれるということだ。というわ けで、蔵経板殿に着いても、心の静けさや平和が感じ

蔵経板殿 普眼門を通り過ぎれば「脩多羅蔵」という扁額が見えるが、その意味は梵語 の「ストラ(sutra)」の音を写した(音写)ものであり、釈迦の教えまたは仏教 の教えを書いた本の総称である。そこに「貯蔵する」という意味の漢字である 「蔵」をくっ付けて「脩多羅蔵」と書いて、釈迦牟尼仏の説法を貯蔵する所を差

1

1.大蔵経殿の棚にびっしり差し込まれた高麗大蔵経の木板。木版 を手にした筆者。

すようになった。脩多羅蔵の出入り口は、鐘模様の丸いアーチ型になってい

2. 仁寺洞(ソウル)を通り過ぎる移運行列

るのがめずらしい、その門をくぐって左側を見ると、一枚の写真が掛かって

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韓国の文化と芸術


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いる。白黒写真で、脩多羅蔵の入り口で合掌をしてい

経の木版を印刷した印經(印刷)本であり、毎日1冊ずつ読んでも、18年もか

るお坊さんの姿が普眼門の瓦屋根と調和して影を作

かる膨大な量である。海印寺には高麗大蔵経の木版が脩多羅蔵と法寶殿の棚

る。この時の姿は仏教を象徴する蓮の花のようで、お

にびっしりと差し込まれている。その量といったら、経板を一枚ずつ積み重

坊さんの姿は花の蘂(雄しべと雌しべ)になってしま

ねていけば、白頭山よりも高い3200mになり、横に並べれば約60kmになり、

う。この蓮の花の影は常に見られるものではなく、春

重さは280トンもあるという。板刻作業は1236年に始まって16年目の1251年

分と秋分を起点にして、七日間しか見られない稀少な

に完成した。延べ130万人もの人が動員されたため、短期間で大作業を終え

ものだ。

ることが出来たのだ。字数は朝鮮実録の字数に匹敵する5200万字である。韓

現在の蔵経板殿は海印寺の中でも最も古い建物で、

国には三大寺刹があるが、お釈迦の砂利を奉安した佛寶宗刹の通度寺、釈迦

朝鮮初期の成宗19年(1488年)に建てられた。この建

の教えを経板として製作して奉安している法寶宗刹の海印寺、数多くの国師

物の何よりも重要な機能は「経板」を守り、長期間保存

層を輩出した僧寶宗刹の松広寺である。海印寺が法寶宗刹になったのは高麗

することにある。そのためには最適な換気と温度を

時代に板刻された高麗大蔵経が奉安されていたからだ。

保って、経板の変形と腐食を防がなければならない。 蔵経板殿は建物の立地、建物の配置や向き、構造と窓

ソウルの真ん中の移運行列

の処理、板架の構造、経板の配列などの面から、風通

二日目のイベントはソウルの曹渓寺で午後1時にスタートした。初っ端に

しが良く適当な日照量があり、木版の保存に欠かせな

フュージョン国楽の公演団が、仏教の礼佛文と神妙章句大陀羅尼を現代風に

い温度・湿度が一定の状態で保てられるように工夫さ

早いテンポにアレンジして、雰囲気を盛り上げた。今回の「大蔵経千年世界

れている。そのため、建物の外観よりは実用的に作ら

文化祝典」が仏教界に止まらず、国挙げてのイベントであるだけに、今回の 移運行事にも多くの官僚たちが参加 して記念の挨拶を述べた。秋のフェ スティバルの名誉広報大使を任され

高麗時代の僧義天は「大蔵経」の編纂の意義を「千年の知恵を

た在韓パラグアイ大使のセフェリノ・ バルデスさんと、四本の指で演奏す

新たなる千年に向けて送ること」と述べた。高麗の人々は大

るイ・ヒアさんも壇上に登場した。イ

蔵経の中に過去1000年間の知識と技術を結集して1000年後の

ベントの成功を祈るパフォーマンス

我々に送ってくれたのである。その意味を改めて噛みしめる

として、大型木版印経のイベントも

ことに今回のイベントの目的がある。

繰り広げられた。イベントの成功を 祈念する文章を刻み込んだ木版に墨 を塗って布に刷りだした。 2時になると、移運行列はラッパ の音と共に曹渓寺を出発した。仁寺

れている。仏教の108つという数字を建物に取り入れ

洞に戻ってくると、日曜日であるだけに大勢の外国人観光客が、現代の服装

て、建物の柱は計108本である。そして脩多羅蔵、法

ではなく、昔の身なりで模造の経板を一枚ずつ手にした行列が進む風景に歓

宝殿、東寺刊殿、西寺刊殿と普眼門の面積は、一年の

声を上げた。人々はユニークな服装や行列を見ようと道行く足を止めて、携

365日を意味する365坪である。また、出来るだけ手

帯やカメラでその風景を収めるのに余念がなかった。特に初めて牛車を見た

を入れず自然のままの礎石を使っていることも特徴と

子供たちは面白がった。

いえる。従って、蔵経板殿は経板を保管するだけの建

移運行列は仁寺洞を通り、鍾路2街、清渓2街、清渓川路を通り過ぎ、広

物という意味を超えて、仏教の価値観と世界観を表し

通橋まで進んだ。海印寺では見られなかった護衛武官、鎧を着た軍人、文武

ているといえる。

百官、背負い梯子に経板を担いだ人、経板を担いだ人、牛車、農楽隊がソウ

正面に目を向ければ、「八万経閣」という扁額の下

ルの街を彩った。行列に参加した人々は2時間もカンカン火照りのソウルの

に古書が積まれている風景がガラス窓越しに見える。

真ん中を疲れも見せずに歩き続いた。釈迦の教えを噛みしめ、秋のイベント

そして、6791冊という数字も見える。これは高麗大蔵

が無事終わることを切に願う姿であった。

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韓国の文化と芸術


開経浦の移運行列。別の所で製作された大蔵経板が海印寺から 最も近いこの船着場まで木造船で運ばれたというのが定説であ る。

イベントの終わり 移運イベントの最終日の20日には、慶北高霊郡開

板を運ぶ過程を再現した後、船から経板を降ろした後、ソウル曹渓寺で行わ れた同じ行列が開経浦を象徴する碑石まで進められた。碑石の前で改めてイ

津面開経浦で大蔵経板を運ぶ移運行列を再現した。

ベントの意味を振り返った後、慶尚北道高霊郡の郡守より慶尚南道陜川郡の

八万大蔵経は大蔵都監と分司大蔵都監で製作された経

郡守に大蔵経板が手渡されて行事は終わった。

板を意味するが、いつ、どうやって海印寺に奉安され

開経浦から再び海印寺に向かう移運行列は、海印寺の庵である吉祥庵から

るようになったのかは未だ謎のままである。しかし、

始まった。吉祥庵から海印寺に続く道は濃い緑の木々が陰を作ってくれる。

どこで製作されていても海印寺に到着するためには蔵

日差しを避け木陰で涼しげに清んだ空気を満喫し、吹打隊の音楽を聴きなが

経ナル(船着場の意味)と呼ばれる開経浦を必ず通った

ら前進する人々の表情はさらに明るくなった。吉祥庵で紅流洞渓谷に沿って

はずだ。当時の運送手段は今日のように発達していな

上っていけば、勢いよく流れていく渓谷の水が夏の暑さを忘れさせる。一柱

かったので、大量の経板を運ぶためには、木造船を利

門を通って、大蔵経板に奉安されている蔵経板殿に到着した大蔵経板は、三

用したと思われる。海印寺に一番近い河口は開経浦で

日間の巡礼を終えて法宝殿に奉安された。

ある。移運イベントの最終日、行列が開経浦の漕運船 からスタートした所以である。 漕運船は朝鮮時代に南部地方で収穫した穀物をソ ウルまで運ぶのに使われた船で、大量の荷物が載せら れる。イベント当日、木造船で開経浦の船着場まで経 Koreana ı 秋号 2011

移運行列に参加したすべての人が、住職のお坊さんと一緒に万歳三唱を 叫けぶことで三日間に及んだすべての日程を終えた。遠くから夕食時を知ら せる鐘の音がかすかに聞こえ、軒先の風鈴は風に揺れながら自分の存在をア ピールする。黄昏時の蔵経板殿は再び山の中の静けさに包み込まれていく。 (翻訳:趙祥恩)

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ブック・レビュー キム・ハクスン(金学淳、コラムニスト)

10年がかりで発刊された英訳 朝鮮時代の実学者・丁若鏞の名著 『牧民心書』英訳本ダイジェスト版 丁若鏞著、チェ・ビョンヒョン英訳、バークレー出版部、p.1174、95ドル (ハードカバー)

朝鮮時代の実学者であり文臣だったチョン・ヤギョン(丁若鏞)の 最大の力作『牧民心書』は韓国の古典の中でも最高と言われるもの

ンは生前に『牧民心書』をベッドの枕元に置き、愛読していたと知 られている。

の一つだ。世論調査では韓国国民の必読書1位に選ばれたことも

このように意義深い『牧民心書』が昨年末に英訳で出版され、全

ある。『牧民心書』は一言で言えば、地方行政の指針書だ。民衆を

世界で読まれる契機となった。翻訳者のチェ・ビョンヒョン湖南大

統治する地方行政官の備えなければならない心構えと守らなけれ

学英語英文学科教授は『牧民心書』はプラトンの『共和国』に匹敵す

ばならない準則、徳目が書かれている。丁若鏞は民衆を中心にし

るような素晴らしい古典」だと称え、「翻訳本の出版を契機に世界

た政治制度の改革と地方行政の改善を図ろうという思いからこの

的なテキストとなるだろう」 と語っている。

本を著した。豊かな事実と論理をもとに当時の実情と慣行にまで

全12巻からなる原本の分量があまりにも膨大なので、圧縮して

踏み込み、具体的に分析しながら問題の原因を探求し、その治癒

1冊にまとめてある。それでも全体で66万単語、1174ページにも及

策を示した。彼の民衆への温かい思い、清廉で堅素なソンビの姿

ぶほどの厚い本だ。翻訳だけで7年かかり、内容を修正し補完し

勢、詳しく緻密な行政法策、熾烈な自己修養の姿が描かれている。

出版するのにさらに3年を要したほどの大変な作業だった。

丁若鏞が最も強調した公職者の徳目は「清廉」だ。「清廉は牧民官

チェ教授が2003年にバークレー大学から出版した柳成龍の『懲

の本務であり、すべての善の根源である。徳の基本である清廉で

毖録(The Book of Corrections)』 の英訳本はアメリカのミシガン大

なくては牧民官になることはできない。富を貪する首長はその下

学、ボルステッド大学、カナダのブリティッシュコロンビア大学

のものまで汚染され一様に蓄財にだけ励み、これはそのまま国民

などで東洋史・韓国史の教材として使用されている。チェ教授は現

の血を吸い上げる盗賊と同じ存在となる」

在『韓国の古典の英訳のための古典用語大辞典』の編纂作業も進行

清廉な政治家として尊敬されたベトナムの最高指導者ホーチミ

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中だ。 韓国の文化と芸術


西洋人の視点による韓国観光地の評価 『ミシュラングリーンガイド韓国篇』 ミシュラン出版、p.450、25ユーロ

最新技術で録音された音楽を超えたサウンド 「松広寺の早朝読経 CD」 31番地プロダクション、1万5000ウォン

『ロンリープラネット』が世界的な旅行ガイドなら、『ミシュ

「何年か前に松広寺の早朝のお勤めを直接見て、その読経の

ランガイド』はグルメたちのバイブルとして知られている。世

声を聞いたことがあるが、ベートーベンの運命交響曲がつまら

界的な権威を認められたグルメ&旅行ガイドである『ミシュラ

なく思えるほどだった。今回CDを買って聞いてみたがやはり

ンガイド』は高級レストランを紹介するレッドガイドと社会・歴

すごい」。ある韓国の医師の話だ。「幻想的だ!」。サウンドミ

史・文化・旅行地・グルメを合わせて案内するグリーンガイドの

ラーの代表で、何度もグラミー賞を受賞した世界トップクラス

二つのラインがある。

のレコーディングエンジニアであるジョン・ニュートンの賛辞

ミシュラングリーンガイドの韓国篇が今年の春にフランスで

だ。全羅南道にある松広寺は韓国の三大寺院の一つで僧宝宗刹

発刊された。ミシュランガイドが韓国を扱うのは今回が初めて

の松広寺と言われている。この千年古刹の早朝読経を韓国初の

だ。ミシュランのバーナード・デルマス東アジア総括社長は5

DSD 5.0 チャンネルサウンド方式で 録音したのがこのCDだ。

月17日に韓国観光公社で開かれた出版記念式で「ミシュランは

早朝読経は寺刹の儀式の中でももっとも荘厳で雄壮なものと

面白く有益な情報を提供し、旅行者に良い印象を与えることを

して有名だ。その中でも松広寺の読経は特別だ。読経の中心に

原則としている」と述べた。

声があるからだ。それで松広寺の読経は他のどの寺刹のものよ

ミシュランガイドが韓国の観光地の中で3つ星の満点を与

りも 「音楽的」 だと評価されている。

えたのはソウルの景福宮、昌徳宮、北村の韓屋マウル、慶尚北

「松広寺の早朝読経CD」はいろいろな面で意義深い。読経を

道慶州の仏国寺・石窟庵・良洞マウル、安東の河回マウル、慶尚

録音したCDはすでにいくつもの宗派から出ており、音の品格が

南道陜川の海印寺、済州島の城山日出峰などの23箇所だ。全羅

卓越していると名高い松広寺の読経のCDもすでに二度も出てい

南道順天の仙厳寺、松広寺・順天湾も3つ星をもらった。3つ

る。にもかかわらず新しく出たこのCDが関心を引くのは、何よ

星をもらった意外な場所もある。全羅北道鎮安の馬耳山道立公

りもその音質がずば抜けているからだ。音楽CD制作の録音は通

園、高昌のコインドル博物館などがそうだ。バーナード・デル

常PCM(pulse code modulation) 方式で行われるが、この『松広

マス社長は「韓国を訪れる外国人観光客は韓国的なものに興味

寺の早朝読経CD』 はワンランク上のDSD方式で録音されている。

をもつ」としてそれらが高い評価を受けた理由を説明した。

目を瞑って聞いていると、まるで読経の現場の真ん中にいる

ミッシュランは韓国の旅行地のなかで合計110箇所に星をつ

ような錯覚に落ちるほどだ。あなたの自宅のリビングに山寺の

けた。その中には市場が多いという点が注目される。釜山の

早朝読経の清雅な音が原音そのままに鳴り響くのだ。万物を目

チャガルチ市場が2つ星、大邱の薬令漢方薬材市場と西門市場

覚めさせる早朝の読経の声に包まれる時、このCDの解説のよう

も1つ星だ。星はないものの、ソウルのクァンジャン市場、京

に、仏が近くにいることを感じるかもしれない。運転中の車の

東薬令市場、長安坪中古車市場、踏十里中古車市場、その他の

中で聞けば交通渋滞にイライラすることもなく、気持ちが安ら

蚤の市など、多様な形態と内容の市場がお薦め観光地として登

ぐだろう。

場する。西洋人は軽い散歩をしながら休み休み見物のできると

現場で録音し,CD作業を総括したファン・ビョンジュン・サウ

ころを好む。そのせいかソウルを代表する観光名所の梨泰院と

ンドミラーコリア代表は、2008年のグラミー賞最優秀録音技術

明洞はミッシュランの視線を惹かなかった。

賞を受賞したグレチャニノフの合唱音楽「受難週」の録音にも参

チムチルバンを韓国のお薦めスポットに選定している点も興

加しており、韓国最高のレコーディングエンジニアの一人だ。

味深い。「韓国の分け合い文化の結晶体」という説明までついて

ファン代表は 「このCDでグラミー賞録音技術賞に挑戦したい」と

いる。この本はまた韓国の経済状況、韓流・食べ物文化・犬肉の

宣言している。タイトルと解説、すべて英語が併記されている

食習慣など多様な韓国文化を客観的に紹介している、星なしで

のは、韓国発売と同時にアメリカでも発売されたからだ。(翻

紹介された韓国の食堂も注目された。城北洞の豚カルビ、清進

訳:金明順)

洞のへジャンクックなど107の食堂が出ている。ミシュランは 今年の11月にこの本の英語版を出し、レッドシリーズ発刊作業 にも着手する予定だ。 Koreana ı 秋号 2011

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エンタテインメント

トップクラスの歌手たちの サバイバル競演

「私は歌手だ」 いわゆるサバイバル番組の熱気は冷めることを知らない。地上波放送と ケーブルテレビを合わせて10以上のサバイバル番組が放映されており、 その数はさらに増え続けている。そしてその頂点にあるのがこの 番組「私は歌手だ」だ。 イ・ヨンミ(李英美、大衆芸術評論家、聖公会大学兼任教授)

「私

は歌手だ」はトップクラスの歌唱力を誇る7人の歌手が競演するサバイバル番組

だ。10代から50代まで百人ずつ五百人の観客評価団が7人の歌手の公演をみて良

かったと思う歌手に投票し、一番投票数の少ない歌手は脱落し、翌週には新しい歌手が 加わるというのがこの番組のシステムだ。そこに課題曲の抽選場面、課題曲の練習と編 曲の過程、公演当日の舞台裏での歌手たちの様子を挿入することで娯楽性を高めている。

娯楽番組に見られる社会性 サバイバル番組は外国ですでに人気のあった番組フォーマットを取り入れただけだと いう分析があることも事実だ。しかしその点だけに集中してしまうと、韓国社会の内部 変化を読み取ることができなくなってしまう。なぜならすでに2001年と2006年に サバイバルオーディション番組が作られたものの、現在のような大きな反響を 得ることはできずに終わってしまったからだ。10年前には人気のなかった番 組フォーマットが現在では10個以上も作られている。このような途方もない 人気を得ているという事実は明らかに韓国の大衆心理に起きた興味深い変 化だと言える。 2000年前後の傾向は「ヌッキムピョ!(感嘆符)」で代表され るキャンペーンとバラエティを結合させた番組フォー マットだった。「ヌッキムピョ!」を通じて、読書書 に対する関心が高まり、町に小さな図書館が誕生した り、文化遺産に対する関心が高まったりした。当時韓国は 外貨危機に陥り経済は危機に瀕していた。スタートしたばかり の金大中政府とともに社会にはタンスの中にしまっておいた金の指 輪を放出して経済危機を乗り切ろうという公益的な雰囲気が広がってい

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韓国の文化と芸術


た。そのためサバイバルのオーディション番組よりは公共キャンペーンのほうが大衆に アピールしたのだ。そしてその頃には歌謡番組の順位付けさえ辞めるべきだという世論 も生じた。 2003年からは「スポンジ」に代表される教育と知識探求を兼ねた新たなスタイルのバラ エティ番組が人気を得始める。視聴者の知的好奇心を刺激し、それをクイズとトーク、 実験などを通じて解き明かしていくスタイルだった。以後、健康的な食生活に対する知 識探求とバラエティを結合させた「ビタミン」。そして各地域の方言に対する理解とバラ エティを結合させた「マルタルリジャ(馬を走らせよう」などがその後に続いた。読書と討 論、教育を重視する若い盧武鉉大統領の登場という時代背景もこのような現象と無関で はなかったはずだ。

極限の競争舞台の光と影 2010年に始まったサバイバル番組の人気の背景にも社会心理が反映している。互いに 憎み合っているわけでも、悪いことをしているわけでもないのに、勝つために必死に争 わなければならず、負けた人間は容赦なく脱落させる現代社会の様相がそのままこの番 組に反映されているのだ。 「私は歌手だ」が人気を得るのは当然だ。人気最高の職業人たちによる自らの職業領域 の中でプライドをかけた真剣勝負の戦いだからだ。歌手がオペラのアリアやスポーツダ ンスやフィギュアスケートに挑戦するサバイバル番組も作られていて、それらの番組に 出演した歌手たちは例え失敗したとしても、「私は歌手だ」のように大きなダメージを受 けることはない。「私は歌手だ」は大衆歌謡の歌手が大衆歌謡を歌って競争するのだ。そ のため「私は歌手だ」での脱落は彼らに致命的な傷となりうるのだ。いくら順位は重要で はないと慰めても、その緊張感は到底言い表せないものだろう。 無限競争の社会が生んだこの番組が、大衆にとっては干からびた情緒を癒すオアシス のような存在になっているという現象は実にアイロニーだ。この番組のおかげで、ダン スミュージックグループとアイドル歌手だけになった韓国大衆歌謡界は久しぶりに歌唱 力のある歌手に対する関心が巻き起こっている。「私は歌手だ」の観客は懐メロをロック バージョンで見事に蘇らせたYBバンドの演奏に席から立ち上がり歓呼し、長い間活動を 中断していたが、この番組で久しぶりに登場し人生の重みを増したシャウティング唱法 で咆哮するイム・ジェボムの舞台に涙を流した。個性が生命の歌手に順位をつけて脱落さ せる企画自体に問題があるという強い批判を受けながらもこの番組が、「テレビに歌らし い歌を取り戻した高水準のライブ舞台」 という賛辞を得ている理由だ。 脱落しないようにという大きな緊張感が歌手を圧迫し、歌唱における行き過ぎた感情 的な高揚,過度のパフォーマンスがあることも事実だ。数十年間歌い続けてきたベテラ ン歌手がたった一曲を歌っただけでエネルギーを使い果たし歩くこともできないように なったり、出演して一、二週間すぎたころ皆、体を壊して病院通いをするなど、この番 組が歌手たちに過剰な要求をしていることも事実だ。これは明らかに正常な状況ではな い。幸福な状況でもない。しかし今の韓国の視聴者はこのような番組に歓喜しているの だ。自分たちも彼らのように極限の生存競争の中でエネルギーを枯渇させながら必死に 生きているからだ。それで渾身の力を振り絞る歌手の歌声に週末の一時、安らぎを覚え るのだ。(翻訳;金明順) Koreana ı 秋号 2011

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グルメを楽しむ

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1 韓国の文化と芸術


の中には多くのプチンゲ(チヂミ)料理がある。中国の煎餅、葱油餅、日本のお好み焼

き、ロシアのブリヌイ、イギリスとアメリカのパンケーキ、イタリアのピザ、インドの

ドサとウタバム、 エチオピアのインジェラ、フランスのクレープ、メキシコのトルティーヤ、 ベトナムのバインセオなどが各国を代表するチヂミ風料理である。国ごとに材料が少しずつ 違い料理の仕方や食べ方も違うが、この多様な料理の共通点は庶民と哀歓を共にしてきた食べ物だ ということだ。これらの食べ物の相当数が各国のスナックとして屋台などで売られている点も、 その大衆性を雄弁に物語っている。

貧しい人の餅 韓国にもチヂミ風の料理が多い。葱の入ったパジョン、ジャガイモをすりおろして作るカ ムジャジョン、魚を使うセンソンジョン、肉を使うコギジョンなど、多くのチヂミがある。そ の中でも一番人気は何と言ってもピンデトックだ。ピンデトックはキムチ、ブルコギと並んで韓国

2

を代表する食べ物だ。ピンデトックの特徴もまた他の国のチヂミと同様にその庶民性にある。ピン デトックという名前の由来についてもいろいろな説があるが、もっとも多く言われているのが「ピン ジャトック(貧者餅)」貧しい人の餅という意味だという説だ。ピンデトックは緑豆を挽いてキキョウ の根、ワラビ、長ネギ、キムチ、唐辛子などいろいろな野菜や肉などを入れて鉄鍋で薄く焼き、醤 油タレにつけて食べる料理だ。昔は油で焼いた肉や魚を祭祀のお供えとして高く積み上げる際に下 敷き用として使われ、それを祭祀が終わると召使たちに分け与えていた。それがその後独立して一

1.「スンヒネ」の大きく分厚いピン デトック。緑豆を挽いた中にキム チとモヤシだけを入れて熱く熱し た鉄鍋に油を敷いて焼く。 2.「ピョンレオク」のピンデトック、 モヤシ、豚肉、長ネギが入ってい る。

つの料理として発展したという説だ。また朝鮮時代、凶作の年には首都ソウルに入る城門であった 南大門の外には大勢の流浪民が集まってきたが、そんな時には当時の権力者たちがピンデトックを たくさん作り牛車に乗せて持って行き「どこどこの家門からの善行」だと言いながら流浪民に分け与 えたという。いわば今日で言う救援物資の役割をしていたのだ。

昔の料理本の記録 ピンデトックが料理の本に最初に登場したのは1670年頃に書かれた『飲食知味方』だ。この本は女 性の手による東アジア最初の調理書として知られている。著者の安東張氏は「緑豆をきれいに皮をむ

ピンデトック ピンデトックは韓国人にもっとも愛されている酒の肴だ。緑豆を挽きいろいろな 野菜や肉などを入れて鉄鍋で薄く焼き、醤油タレにつけて食べる。 イェ・ジョンソク(芮鍾碩、漢陽大学経営学部教授)| 写真 : 安洪范

Koreana ı 秋号 2011

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き、水気の少ない状態で挽き鉄鍋に油をひいて熱くなったら少し ずつすくってのせてから、皮をむいた小豆に蜂蜜をからませたも のを具として置き、その上に緑豆の挽いたものをまた乗せて柚子 色になるまで良く焼く」とその調理法を説明している。今のピン デトックとは違い甘い小豆が中にはいった料理だったのだ。1809 年に出た『閨閣厳書』の説明も似ている。但し、小豆の代わりに蜂 蜜をからめた栗が具として入り、その上に松の実を乗せナツメを 四方にはめた花煎の形に作るとある。昔のピンデトックは今日の ピンデトックに比べて甘い味に華やかな飾りをつけたデザートに 近い食べ物だったようである。 今日のピンデトックのように具をいれない調理法は1924年に 刊行された『朝鮮無雙新式料理製法』になってようやく登場してく る。しかしここにもナマコ、アワビ、各種キノコが材料として入 るなど、今日の庶民的な料理のピンデトックとは非常に距離のあ る高級料理である。こうしてみるとピンデトックは両班たちの高 級料理から徐々に庶民の食べ物に様変わりしてきたと推測され る。1948年に歌手のハン・ボクナムが歌って大ヒットした大衆歌 謡「ピンデトック紳士」はピンデトックがその当時には完全に庶民 の食べ物となっていたことを示している。「ピンデトック紳士」の 歌詞は金の無い紳士が飲み屋に行き酒を飲んだ挙句に金を払えず 殴られて逃げ出す場面を見た妓生が「金が無いなら家に帰ってピ ンデトックでも食べてろ」とからかうユーモラスな内容で大きな 人気を得た。

緑豆の効能 ピンデトックが韓国の他のチヂミや外国の似たような料理と 違う点は主材料が小麦粉やトウモロコシではない緑豆だという点 だ。緑豆は『東医宝鑑』や『本草綱目』のような昔の医学書に「栄養 に優れ世の中に存在する穀物の中で一番だ」と記録されている食 材だ。緑豆をよく知らない人には緑豆の芽が出たのがモヤシだと いえばよく分かるだろう。漢方では緑豆には熱を下げ、老廃物を

1. 鉄鍋には焼いたピンデトックが何枚も重 なって、行きかう人を誘う。 2. 片隅では自動メットル (石臼)が山のよう な緑豆を休むことなく挽いていく。

84

韓国の文化と芸術


雨がしとしと降る晩にピンデトックを肴にマッコリ一杯が恋しくなる のが韓国人の情緒だ。ピンデトックにはマッコリが一番だ。

体の外に排出する解毒作用があるという。また緑豆 には血管に良い必須脂肪酸が多く含まれており糖尿 病や高血圧に効果があり、タンパク質の必須アミノ 酸も多く含まれているうえに、ビタミンB1とB2も多 く滋養強壮にも良いという。 2

雨の日にピッタリの料理 ピンデトックは韓国人にもっとも愛されている酒の肴だ。西洋人とは違い韓国人は酒を飲む時に は酒の肴をたくさんつまむだけでなく、無くてはならないものだと考えている。「酒は肴が良くなく てはならない(そうでないと酔うだけで体を壊す)」とか「肴を食べなければ婿の助けは得られない(肴 無しに酒だけ飲ませると酒に酔うだけだ)」ということわざまであるほどだ。典型的な韓国式の居酒 屋ならどこでもピンデトックは必ずある。酒の肴にはそれぞれに良くあった酒の種類があるものだ が、ピンデトックにはマッコリが一番だ。 韓国人はなぜかしとしとと雨の降る日にチヂミを良く食べる。雨の日にチヂミを食べたくなる理 由にはいろいろな説がある。まず昔の農耕社会で、雨が降れば野良仕事に出られないので退屈しの ぎに家で簡単に作れるチヂミを焼いて食べたという説だ。二つ目には私たちの体は日照量によって 体の中のホルモンの分泌量が違ってくるので雨の日はメラトニンホルモンが増えて食欲が増加する ためだという説。三つ目は雨の日は気温が低くなるので体温を維持するために代謝作用が活発にな り空腹感を早く感じるためチヂミのような油気の多い食べ物を食べたくなるという説。その他にも 雨音がチヂミを焼くときの音と似ているので食べたくなるという説もある。 とにかく雨がしとしと降る晩にはピンデトックにマッコリ一杯が恋しくなるのが韓国人の情緒だ。 ソウルのピンデトックのうまい食堂としては江南ではノヒョン(論峴)洞の「ハンソン食堂」が、江北 ではチョ(苧)洞の「ピョンレオク」が有名だ。鍾路5街にある広場市場のうまいもの横丁の「スンヒ ネ」に行けばやたらと厚くて大きい平安道式のピンデトックにお目にかかれる。家で作って食べる時 には好みに従い好きな材料を入れてタネを作った後、フライパンに油を十分にしいて焼けば香ばし いピンデトックを作ることができる。(翻訳:金明順) Koreana ı 秋号 2011

1

85


遠くの目

ニッポネンシス(日本病)に 悩む日本経済 ニッポネンシス(nipponensis) という言葉がある。もともとは 「日本にしか見られない、日本固有のもの」という意味 のラテン語であるが、欧米の日本に詳しい識者の間では 「日本病」を指す言葉として使われている。私の見解では、 日本病は「決断欠乏症」 「前例依存症」 「調整病」 「先送り中毒」の合併症によるものと判断される。 ユ・ジェサン(柳在相、日本福祉大学教授・商学博士)

8

月3日から5日まで、東日本大震災の被災地を自分の目で

京電力による賠償問題や原発事故への対応においても思い

見回ってきた。宮城県名取市と岩手県花巻市には、以前

きった政策や解決策を施すこともできないし、復興に必要な

からも農業経営の研究やJA指導などで何度か訪ねたことが

財源をいかに確保すべきかについても赤字国債の発行か、増

あったので、被災地の甚大な被害状況が一目でわかった。知

税を実施すべきかについての議論ばかりが先行し、政府の基

人の案内で被害の大きかった地域にも足を運んでみたところ、

本方針がなかなか決まらない。7月27日、やっと菅総理は東日

震災から5ヶ月が過ぎようとしているのにもかかわらず、現地

本大震災からの復興基金として今後5年間で新たに13兆円を

はゴミや瓦礫の山が散在し、津波の爪跡がそのまま残ってい

投入することと、その財源としては10兆円の増税を時限的な

る地域も少なくなかった。当該JA職員の説明によると、国や

措置として実施すると発表した。ところが、与党の反発を受

県を当てにすることができず、地元住民が一致団結してボラ

け、二日後の政府案では所得税や法人税、消費税など基幹税

ンティア組織の協力を得ながら毎日少しずつこつこつと根気

による10兆円の増税を明記することができなかったのである。

よく片付けているという。最近はテレビやマスコミの報道も

今回の震災で、日本経済は計り知れないほどの打撃を受

激減しており、復興への関心が希薄になっていくのではない

け、3度目の「失われた10年」を迎えるのではないかと心配され

かという心配すら口にしていた。

ている。日本経済は、平成元年(1989年)から小泉政権が樹立

3月11日以降、被災地では悲惨な状況下においても他人へ

するまでの10年間は「失われた10年」と言われ、実質経済成長

の思いやりや助け合いの精神を発揮し、決して地域社会の秩

率がマイナスを記録するまでに落ち込み、国や地方自治体な

序が乱れることはなかった。世界のマスコミ各社はこのよう

どの借金残高は1989年の254兆円から2002年には705兆円(名

な被災地住民たちの冷静沈着でかつ辛抱強い対応に対して、

目GDPの1.43倍)にまで膨れ上がった。小泉政権は、この失

改めて日本人の底力を確認するとともに、尊敬の心を込めて

われた10年間を取り戻し、沈滞化した日本経済を一日でも早

最高の賛辞を贈った。

く活性化させるために、「聖域なき構造改革」を訴えながら帆

これに対して、日本政府をはじめ、地方自治体や政財界、

86

を揚げた。政権発足直後は、日本国民の小泉首相の強いリー

研究機関などが一丸となって復興のために真剣に取り組んで

ダーシップへの期待が大きいことから、国民の高い支持率に

いるものの、議論ばかりが先行するだけで、未だに具体的な

支えられ、小泉政権は大胆な改革政策を展開することができ

復興へのビジョンを示すこともできず迷走を続けている。東

たが、与党内の抵抗勢力の反発が予想以上に根強かったため、

韓国の文化と芸術


2

1

3

4

1. 宮古から海岸線への道 2. 大槌から釜石へ 3. 名取市田園 4. 名取市住宅街

抜本的な改革を実現することができずに終わってしまった。

られている。菅政権には、まさしくこのことが期待されてい

戦後初めての政権交代により、民主党政権が発足した時も、

ると言える。かつて、英国も経済の低成長と悪性インフレに

国民の期待と支持はとても高かったが、選挙公約の実行がな

よる「英国病」に苦しんだが、「鉄の女」といわれたサッチャー

かなか伴わず、わずか3年も立たないうちに、菅政権の支持

首相により、経済構造を根幹から組み替えるほどの大胆な改

率は戦後最低の記録を更新することとなり、その結果、2010

革を断行し、見事な成功を収めたのである。

年には借金残高は875兆円(名目GDPの1.62倍)にさらに膨れ上 がった。

先月30日、日立製作所は「東芝とソニーによる中小型液 晶パネル事業の統合交渉に加わる方針である」と発表した。

ニッポネンシス(nipponensis)という言葉がある。もともと

シャープをはじめ、長い間ディスプレイ産業を主導してきた

は「日本にしか見られない、日本固有のもの」という意味のラ

日本企業は、三星電子などの韓国企業の追撃を受け、その地

テン語であるが、欧米の日本に詳しい識者の間では「日本病」

位を低下させてきた。最後に残った砦が中小型液晶パネル事

を指す言葉として使われている。私の見解では、日本病は「決

業である。世界シェア6位の日立としては単独での生き残り

断欠乏症」 「前例依存症」 「調整病」 「先送り中毒」の合併症による

が難しいと判断したのである。新しく創設される会社は年内

ものと判断される。すなわち、日本では和(コンセンサス)を

にも発足する方向で、産業再生法に基づき設立された官民共

重視した集団による意思決定がおこなわれ、斬新で大胆な決

同出資の産業革新機構(投資ファンド会社)が約2千億(7割)を

断よりは前例に倣っていかに失敗のリスクを軽減するかに焦

出資し、残りを3社で分け合う資本構成で、日本国内に新た

点が当てられる。そして、関連部署の間で細かいところまで

な生産ラインを建設する見通しである。

利害調整を何度も繰り返すため、結局は主要な意思決定が先 送りされてしまい、なかなか成果をあげることができないの である。

いかにも大胆な意思決定であり、迅速な進め方ではないだ ろうか。 韓国企業が日本企業に追いつき、この「韓国経済躍進」への

日本経済が再び活力を取り戻し、安定的な成長を達成する

危機意識が日本の経済界を本気にさせたように、今回の東日本

ためには、このニッポネンシスを克服していかなければなら

大震災が日本政府や政財界を本気にさせ、 「ニッポネンシス」 の

ないだろう。強力なリーダーシップの下、将来への明確なビ

手術に本格的に取り組む機会となることを切実に願う。

ジョンを具体的に描き、迅速に実行に移していくことが求め

Koreana ı 秋号 2011

87


ライフスタイル

釜山市民にとってこの3年の間、一週間は七日ではなかった。地元球団ロッテ・ジャイアンツ(以下ロッテと略す)が勝っ た日、敗れた日、そして試合のない月曜日の三日だけが存在するというのである。これは過去30年間、ヘテ・タイガース (現キア・タイガース)と共に韓国プロ野球界の両輪として牽引してきたロッテのファン文化を指すメタファーである。 ソン・ヨンマン(宋永万、暁亨出版代表)

ロッテの熱狂ファン 釜山カモメ 元球団ロッテに対する釜山市民の愛情は格別である。ロッ

カモメの熱い応援に応えるかのようにオープン戦ではダントツ・

テが連勝でもすれば、市場が活気づき、連敗の悪夢が続

トップ。そのことから「ボムテ(ボムは韓国語で春の意)」、「オー

けば、一様に機嫌が悪くなり、消費や食欲まで落ちる。ポスト・

プンテ(オープン戦に凄いロッテ)」という自嘲ぎみな言葉も生ま

シーズンに進出するだけで、1500億ウォンを超える消費効果があ

れた。

るという統計もある。まさに「ロッテ効果」である。ある文化評論 家は、「釜山の人々はその長い冬場をどう凌いでいるのか知りた い」と言う。シーズンオフは何を楽しみに生きているのか気がか りらしい。

「母胎ロッテ」の由来 ロッテファンを指して「母胎信仰」と呼ぶ。クリスチャンの両親 から生まれた子供が洗礼を受けて、信仰二世になるごとく、親に

ファンの中でも特

ついて子供らも野球場に足を運ぶという意味である。社稷球場で

に熱狂的なファンは

よく見かける「母胎ロッテ」と書かれたプラカードはその現象をよ

「釜山カモメ」と呼ば

く説明している。

れる。肌寒い天気に

「母胎ロッテ」の経緯をもっと探ってみよう。釜山野球の歴史は

もかかわらず、独特の

長い。「お爺さんカモメ」、「お父さんカモメ」世代から野球の人気

オレンジ色のゴミ袋で髪を

は熱かった。地理的に釜山は日本に近く、対馬は福岡より釜山に

結い上げ、釜山東莱区にあ

近い程だ。そのため、1990年代初頭までは、日本の地上波放送が

るホームグラウンド、社

見られた。日本人の野球に対する情熱や技量などはそのまま釜山

稷球場を埋める。さなが

に伝わった。自然に釜山には野球に強い名門高校が誕生した。慶

ら「宗教的行為」のようだ

南高、釜山高、釜山商高、慶南商高などの野球名門校は進学率も

と言う人もいる。ロッ

高い名門高校であった。釜山・慶南地域で勉強が出来ると認めら

テの選手たちは釜山

れた生徒たちが部活に集まり、地域リーダーを多数輩出した。野

1. 9試合連続ホームラン世界記録の持ち主である イ・デホ選手 2-3. ジャイアンツ愛に満ちた、ロッテファンの応 援の様子。オレンジ色のゴミ袋はロッテ・ジャイア ンツのファンにとって欠かせない応援道具だ。

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韓国の文化と芸術


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球は釜山のアイデンティティを決定付ける最高の価値であり、象

当然ながら応援文化も画一的で一方的であった。他のチームへ

徴であり、また様々なストーリのテーマになった。釜山の地域新

の配慮も足りない時代だった。しかし、それでもこの時代は、釜

聞社が主催する「花郎大旗高校野球大会」はソウルで開かれる大会

山が潜在的に持っていた「野球への用意周到性」で凌駕していた。

と肩を並べるほどの大会であった。高校野球の全盛期であった 1970~80年代に、これら学校が与えた影響力は大きかった。

長い落込みの後、登場した救世主

政治的に厳しかった1982年、政権を握っていた人々は韓国国

腐っても鯛、さすがロッテは'95年と'99年に準優勝を果たし

民の鬱憤のはけ口を設けた。プロ野球球団を発足させたのであ

た。'99年に行われたプレイオフ戦でサムスンと対戦し、1勝3敗

る。わずか3年前に発生した釜山-馬山事態(釜山-馬山地域を中

の瀬戸際に追い込まれた挙句の果ての3連勝。しかも6対5とい

心に起こった民主化運動)で抑圧された「都市の潜在力」は、九徳

う1点差の勝利に、釜山は高炉の炎ように沸き立った。破局を予

球場で噴出した。

告する祭りは厳かでドラマチックなものだ。凄絶な死の序曲は一

野球はピッチャー次第であるとも言われる。試合時間が長引

見、美しく絶頂の美学を誇示するが、たちどころに夕日と共に消

くと、自ずと試合の緊張感は緩んでしまう。だが次の瞬間熱くな

える。そして奈落の底に落ちていく。ロッテは2001年から4年続

る。これが釜山市民の気質に非常に似通っている。言わば、船乗

けて最下位で、前例のない数字「8、8、8、8、5、7、7位」と続い

りの気質に似ている。地理的環境、高校野球ブーム、政治的意図

た。ファンは離れていった。2002年のある試合の観衆はたったの

によって設けられたはけ口、船乗りの気質など、釜山市民がロッ

69人という最低の記録を更新した。冷静と情熱の振幅は激しく、

テ・ジャイアンツを包み込む要因になった。第一世代の釜山カモ

熱烈な愛は冷たい別れを予告する。神様は釜山に「最悪のチーム

メらは、宿命的に設けられた条件の中で、ロッテと釜山を同一視

をもたらしたが、最高のファンを与えた」。一時流行った熱狂的

していった。

ファンらの嘆きのせりふである。釜山カモメ達が自嘲ぎみに呼ん

プロ野球発足3年目の1984年、チェ・ドンウォン(崔東源)と いう大物投手が登場した。ペナント・レースで何と27勝(現在の

でいた愛称は「コルテ(いつもビリのロッテの意味)」であった。 希望が見えなかった最下位チームのロッテに、二人の外国人

2010年度のポスト・シーズン(プレーオフ)でロッテは挫折し、またしても監督の更迭説が流れ 出た。釜山カモメらは自腹を切って新聞に広告を出した。「ロイスターをほっといて」と。前 例のない突飛な「人事介入」であった。

プロ野球の試合数は133ゲームであるが、当時は100ゲーム)を上

が目を剥いた。ジェリー・ロイスター(Jeron Kennis Royster)、韓

げ、韓国シリーズでも4勝をあげた。チェ・ドンウォンのおかげ

国プロ野球史上初めての外国人監督が現れたのである。敗北感に

で「ロッテ・ミーハー」という言葉が初めて登場した。

満ちていた選手らに「NO FEAR」の精神を吹き込み、「自信野球」

1992年にもロッテは韓国シリーズで優勝した。ペナント・レー

の精神を引き出したロイスター監督は正に救世主であった。さら

スで3位に止まったチームが切歯腐心して、優勝までしたので、

にもう一人、メキシコ人選手も助っ人に加わった。三振を食らっ

釜山では観衆が120万人も集まってドンちゃん騒ぎの状態になっ

た後、悔しさのあまり野球バットを二つに折ってしまうカリム・

た。当時としては考えられない数字である。この時は、ユン・ハ

ガルシア(Karim Garcia)選手。彼は敗北の連鎖でナルシシズムに

クギル(尹学吉)とヨム・ジョンソク(廉鍾錫)という二人の傑出し

陥っていたチームとファンらに新鮮な衝撃を与えた。新監督の赴

た投手が、釜山カモメらを熱狂させた。ロッテのファン達が「宗

任初年度に、ロッテはポスト・シーズンに進出した。いわば「ロイ

教集団に没入した信者みたいな人々」と言われ始めたのもこと時

スター効果」である。史上初めて3年連続してポストシーズンに

からだ。おそらく「第一世代カモメの時代」の始まりだと言えるだ

進出する快挙を挙げた。「カモメ達」には世の中が美しく見えた。

ろう。

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釜山カモメの応援文化もいきなり進化し始めた。以前の応援 韓国の文化と芸術


外国人ファンも加わった熱い応援

とはレベルの違うやり方であった。創造 的で個性あふれる応援が社稷球場で繰り 広げられた。ワールド・ベースボール・ク ラシック(WBC)での準優勝と、北京オリ ンピックで勝ち取った金メダルによって、 野球の人気は絶頂に達した。全国民的と なったエンターテインメントは女性ファ ンらも野球場に呼び込んだ。この時から ユニークな文字が書かれたプラカードと 奇想天外な掛け声が社稷球場を彩った。 以前の画一的でありふれた応援文化から、相互に通い合う自由な

いる。うまく行く時は聖杯の祭りであるが、悪ければ毒入りの杯

形のイベントに進化していった。「ゴミ袋」が外国人の頭にも被ら

を強いる。2010年のポスト・シーズンでロッテの成績は悪く、ま

せた。「マー(「やめて」または「この野郎」の意味)という面白い仕

たもや監督の更迭説が持ち上がった。釜山カモメらは自腹を切っ

草、セリラ(殴って)、アージュラー(ボールを拾うと子供に与え

て新聞に広告を出した。「ロイスターをほっといて」と。前例のな

てという意味)など、釜山なまりは一種のパフォーマンスになっ

い突飛な「人事介入」である。ロッテ監督には「祝福であると同時

た。青い目の外国人が「マー」を叫ぶ光景も見られた。社稷球場が

に呪い」という言葉がある。インターネット時代の最近のファン

国際的に進化したのである。

は、毎日のように監督の戦術と選手たちの実力を評価する。

こうした風景は他の野球場でも見られた。ソウルの蚕室球場

ロッテの野球は攻撃一点張りで無謀にも見える。やり方が粗く

や仁川の文鶴球場でもよく見かけられる風景である。ビジター試

て洗練されていないという評価もある。しかし一方では、機械的

合の時にも釜山カモメ達の波乗り応援は繰り広げられる。チーム

でなく人間味があるという評価もある。それこそロッテの魅力で

の勝敗に関係なく、雰囲気は何時も盛り上がり、楽しい。一方的

あると言われる所以だ。

だった応援文化は、コミュニケーションできる形ですべての野球

しかし、緻密でない野球は勝負どころで敗れてしまう危険性

場に広まった。ピケを使う応援文化も社稷球場で始まった。これ

が高い。ここ3年間、ポスト・シーズンへの進出で釜山カモメた

はファンが選手と自分を同一視する情熱から始まった。これは試

ちは最盛期を迎えている。彼らの楽しい仕草が引き続き見たけれ

合に完全に没入したい積極的なコミュニケーション行為であると

ば、節制ある精緻な野球をやらなければならない。

理解できる。「地球最大のカラオケ」で歌う「釜山カモメ達」は、釜 山市民の存在理由であり、生活の活力素になった。

しかし、今年もまた、ロッテの持病がぶり返す兆しが見えてい る。早くも釜山カモメ達がワアワアとうるさく騒ぎ始めた。ミレ ニアムと同時に始まった「8、8、8、8、5、7、7位」の呪いが釜山

集団野宿の群れ

カモメ達の杞憂かトラウマであればよいのだが。

秋の野球シーズンになると、ファン達はチケットを手に入れよ

社稷球場は地球上で最も躍動感に満ち、没頭できる空間であ

うと社稷球場の前にござを敷く。このような釜山カモメはもはや

る。釜山カモメらは、ここで世界の野球の歴史を揺るがしたイ・

「ロッテ・ファン」を超えて、「ロッテ廃人」と呼ばれる。 ところで、ロッテに対する釜山カモメの愛情は二面性を持って Koreana ı 秋号 2011

デホ選手の9試合連続ホームランの大記録に続く世界記録を待ち 望んでいる。(翻訳:趙祥恩)

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このソウルという洞窟で「私」はどんなふうに生き ていくのか?どうやって幽閉と迷道の恐怖から抜 け出すことができるか?短編『ソウル洞窟ガイド』 はキム・ミウォルの小説の出発点を明確に示して いる。

作家評

道無き道の案内人 キム・ミウォルの 小説世界 イ・グァンホ(李光鎬、文学評論家)

金 美 月 キム

ウォル

ム・ミウォル(1977~)は2007年に出版された最初の小説集

『ソウル洞窟ガイド』で社会と断絶された新しいタイプの孤

独を表現した。そして2010年に出版された長編『八番目の部屋』で は現代を生きる若者たちの成長と挫折を部屋という空間を中心に 明るくユーモラスに描いた。 キム・ミウォルの小説の登場人物は幽閉された存在だ。しかし 彼らは日常的な領域の中で自らの内面に沈殿しているだけの90年 代的な人物ではない。彼らは他人と疎通するために物事と異常な 方式で結びつき、自分の内部で他の生き方を経験することで仮想 の楽園を作り上げていく。そしてキム・ミウォルの小説に登場す るのは内面の復元ではなく、自らの楽園世界で生きている新しい タイプの人間たちだ。 キム・ミウォルの小説は人間の楽園への執着を描きながらも、 それが現実の脱出口ではないことを逆説的に示している。楽園の 空間はユートピアとしての楽園ではない最小限の自己領域だと言 える。そしてそれは「最小楽園」と呼ぶことができるだろう。最小 楽園は他人との社会的な関係を通じた集団的なユートピアの実現 に挫折した世代による個人的な楽園なのだ。これは日常の中に隠 れている仮想楽園であり、日常世界の暴力や虚威とは別個の外の 世界というわけではない。 公的な幸福のシンボルでもなく、かといってユートピアの反 対、全面的なディストピアの空間でもない。それは日常的な時間 の中の個人の記憶と身体空間、記憶と現実の「内部の外部」だ。そ れが楽園だというのは個人的な欲望を実現できる最小限の契機と なるからだ。しかしそれは体と記憶が居住する「今、ここ」の外で はない。 短編『ソウル洞窟ガイド』はキム・ミウォルの小説の出発点を明

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韓国の文化と芸術


確に示している。ここには「洞窟」という一つの仮想空間が登場

すればいいの?」と自らに問いかける。それは小説の冒頭で抱く

し、孤独な主人公はソウル考試院203号室に住んでいる。考試院

「赤と青の信号が両方ついていたらどうすれば良いか?」という疑

は「40人をこえる人々が一斉に鉤の字型に横たわっている」狭い空 間、「貧乏長屋」で、暗い廊下は時に「未開放洞窟」のようだ。「私」

問に対応する。 もちろん答えは「1. 渡らない 2. そのまま渡る」の中の一つ

が働く職場は人工洞窟だ。「ソウル洞窟探検館」のガイドである私

だけだ。どんな状況でも「渡るか渡らないか」の他には選択項目は

は探検服を着用し、お粗末な偽の洞窟の中で小学生を案内する仕

ない。それがソウルという洞窟の構造だ。出口が入口の空間では

事をしている。考試院の洞窟のような構造と彼女の働く「ソウル

道は意味がない。結局、唯一つの道だけが存在するのだ。こんな

洞窟」はよく似ている。

閉鎖的な空間では道を探すこと自体が無意味で、「道を案内して

息苦しく、消化が悪いという「私」の症状は二つの記憶と結び

くれる人」の役割は虚偽だ。ソウル洞窟探検館での私のガイドが

ついている。一つは海辺の砂浜で女児を抱いて死んでいる女の死

欺瞞であるように。道を探すという問題意識自体の虚偽を代弁す

体を見たこと、もう一つは大学時代に洞窟探検の途中で道に迷い

る最後の場面で、小説はソウルという空間のもつ限界状況を冷た

「完璧だと言うほかない暗闇」の恐怖を経験したことだ。しかしそ の記憶の底に隠れているのは実は、間違って見ず知らずの女児を 助けようとして死んだ母のイメージだ。

く淡々と描いている。 洞窟は内包、閉鎖、隠蔽の象徴だが、この小説はその洞窟に仮 想世界と現代ソウルのイメージを重ねることで、それを道に迷っ

主人公に消化剤を売る薬剤師補助の 隣人の女は夜毎、「マヨ

た現代のイメージとしている。キム・ミウォルは社会から幽閉さ

ネーズを擦り付けたような」嬌声を聞かせてくれるが、彼女との

れ、挫折する新しいタイプの若者たちを描きながら、孤独な現代

短い接触を通してその真実の一部を知ることになる。他人の誤解

人の最小楽園を描いているのだ。最小楽園は孤独を 慰めるところ

とは違い彼女は誰かと似た男の出るビデオを毎晩見ていたのだ。

ではない、それは決して解消されることのない事実を抱きしめる

彼女は睡眠剤を盗んだという理由で薬局から追い出され考試院に

場所なのだ。彼女は、孤独とは態度ではない現実なのだと語って

もいられなくなる。薄い壁で仕切られただけの狭い空間だが、こ

いる。

のように考試院は他人との疎通ができない空間だ。

そして不幸の前でそれに立ち向かう意志の強い人間像ではな

このソウルという洞窟で「私」はどのように生きていくのか?ど

く、無心さと悄然さで最小限の内的自立性を確保しようとあがい

のように幽閉と迷道の恐怖から抜け出すことができるか?偽の洞

ている人間を描いているのだ。それは世界を自分の好きなように

窟の構造は入口と出口が同じ、つまり出発点と到着点が同じなの

裁断するような強烈な個性の持ち主ではなく、自分が自立できる

だ。考試院の出入口もやはり一つのガラスの扉になっている。

ミニマムな空間に生きている人々だ。この受動的な能動性が現代

それでは、こんな空間から脱出することが可能なのだろうか? 小説の最後の場面で私は「信号の赤と青が両方消えていたらどう Koreana ı 秋号 2011

の一つの存在美学だということをキム・ミウォルの小説は示して いる。(翻訳;金明順)

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韓国のイメージ

羅の王たちは千五百年の長い眠りの中に沈黙する。その大きく丸い墓はその中に私たち の知らない沈黙の卵を抱いたまま、いまや無限の永遠の波となり、遠くの山のリズム

とゆっくりゆっくりと呼吸を合わせて揺れている。時間は腐って粉々に砕け一人青き光となっ た。ただ垂直に伸びた木々だけが濃い木影を作り永遠の波と青き光を無心に眺めている。そし て証言する。「依然として世界はそこにあり、そこには何かがある。私たちが考えられる、最 大限に遠い時間と空間の中にも依然として物質が、消滅しない物質が存在するだろう」と。そ して意識がその青き光の中で目覚める。

永遠の波と青き光 キム・ファヨン(金華榮、仏文学者) 写真 : 姜運求

私がまだ生まれる前、世界はそこにそんなふうに無心で あった。その世界の姿を私はこの青き光の中で振り返る。私が 死んでも世界はそこにそんなふうに無心であろう。そんな世界

の姿を私はこの青き光の向こうにみる。この青き光は、人生を無用な情熱で燃やし尽くした、 その残灰が虚空に飛び散る光だ。歓ぶことも悲しむこともない、この永遠の青き光の中に私は いない。 「人間は永遠に生きられるようには生まれてこなかった-こう言わなければならないだろ う。そうすることで必ず来るであろうある日、宇宙は彼らのいないガランとしたものになるだ ろう。彼らが成し遂げた文明と彼らが繰り返した征服は彼らと共に消滅してしまうだろう。彼 らの信念と彼らの疑惑、彼らの発明は消え去るだろう。彼らのものなど何も残らない。そして 多くのものが生じて、また死んで行くのだ。人生の他の形態が現れ、他の考えが世の中に広が る。そして無定型の存在の中に帰っていくのだ」 (翻訳:金明順)


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