春 号 2013
韓国の文化と芸術
特 集
ソ ウ ル 物 語
春号m2013 n o . n1o . 2 sum er 2012vo l.vo20 l. 26
ソウル、その起源と未来;私が生きてきたソウル; 江南、私が生まれ育った場所;私のソウル
ISSN 1225-4592
v o l. 20 n o. 1
思い出の街 ソウルの今と昔
発行人 編集理事 編集長 監修者 編集諮問委員
金宇祥 全南鎭 金鍾徳 嘉原和代 裵炳雨 Elisabeth Chabanol 韓敬九 金華榮 金文煥 金英那 高美錫 宋惠眞 宋永萬 Werner Sasse
編集 金熒允編集会社 ソウル市麻浦区西橋洞384-13 Tel : 82-2-335-4741 Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 印刷 三星文化印刷 ソウル市城東区聖水2街274-34 Tel : 82-2-469-0361~5 Fax : 82-2-461-6798
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1987年8月8日文化観光部-1033で登 録された季刊誌『Koreana』はアラブ語、 インドネシア語、英語、スペイン語、 中国語、ドイツ語、フランス語、ロシア語 でも発刊されています。
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韓国の文化と芸術 春号 2013 韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル
パク・ヌンセン(朴能生) 『 バンジージ ャンプ』2010年、キャンバス/水墨・ア クリル彩色、90×72.7cmバンジージャ ンプをする人の眼下に広がるのが1394 年以来、韓国の首都であり、世界屈指 の大都市である現在のソウル。
ソウル南山の頂上には、展望台をそなえた電波塔・ Nソウルタワーがそびえている。南山のふもとに広がる100万㎡以上の 緑地は、ソウルで最も広い都心の公園として市民の憩いの場になっている。©徐憲康
ソウル物語
今回の特集「ソウル物語」の寄稿者は様々な人生を生きてきた方々です。彼ら は600余年にわたって韓国の都であり続けたソウルに纏わる物語を聞かせてくれ るはずです。この物語は読者の皆さんにその時代々々におけるソウルの姿を見 せてくれると思います。また都市の長い歴史の中で、そこで織り成された彼ら のそれぞれの思い出が、ソウルをもっと懐かしいものにしてくれるでしょう。 すでにあまりにも身近な主題であるソウルを特集に扱うことはコリアナ編集 者や作家にとっては一つの挑戦です。しかし驚くべき発展とともに惜しくも元 来の姿は失われてしまいましたが、韓国の急激な発展の足跡を見せてくれる鏡 として、ソウルの歴史を振り返ってみるのも意義ある作業だと思われます。今回
の特集で扱っている内容にすべて満足するわけではありませんが、この物語が 読者の皆さんにソウルの隠れた宝物に巡り合う可能性を提供し、それらが伝統 文化遺産として、またはこの時代の人気スポットになることを期待しています。 古都が無秩序に膨張する今日 、絶え間なく変貌し続けてきた巨大都市ソウル の明暗を明らかにし、これからの発展の一助となることができれば、この特集 の基本目標は達成できたと言えるでしょう。 日本語版編集長
金鍾徳
特集 ソウル物語
04 10 16 24
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特集1
ソウル、その起源と未来
崔宗鉉
特集2
私が生きてきたソウル
金華榮
29
特集3
江南、私が生まれ育った場所
ペク・ヨンオク
特集4
私のソウル
ダニエル・チューダー
30 36
アート・レビュー
高麗青磁-その繊細な優雅さ
李昭玲
世界の中の韓国人
ドミニク・パングボーン:偶然がもたらした幸せ
マヤ・ウェスト
42
42 46 50 53
巨匠
5代にわたり続く家業の金箔 重要無形文化財(第19号金箔匠保持者)キム・ドクファン
36
朴炫淑
韓国大好き
詩を通して見た韓国
那秀昊
オン・ザ・ロード
お茶三昧の至福
朴南濬
56
ブック・レビュー
双方向のコミュニケーションを志すK-リット(K-Lit)全集 『バイリンガル・エディション:韓国現代小説』
全丞姫
韓国の伝統リズムを奏でる二重奏 全志暎 キム・ヘスク、チェ・オクサム流の伽倻琴散調
62
58
遠くの目
〈東アジア比較説話学〉の新世紀を拓くために
60
エンタテインメント
62
グルメを楽しむ
66
韓国文学の旅
増尾伸一郎
公営放送の果敢なチャレンジ「本を読んでくれるラジオ」 林鍾業
春には卵がいっぱいのメスを、秋には身の詰まったオスを
人生に対するするどい洞察力 『その男の家』 朴婉緒
魚秀雄
芮鍾碩
>> 特集 1 ソウル物語
ソウル、 その起源と未来 都市を理解するためには、通時的な視点が必要だ。ソウルについても、朝鮮が漢陽を 都とした1394年以前から朝鮮が滅亡して現在に至るまで、その全貌を見なければならない。 チェ・ジョンヒョン(崔宗鉉、通義都市研究所所長)| 写真 : 徐憲康
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韓国の文化と芸術
ソ
ウルは、いつどのように始まったのだろうか。人口1000万人 を超える現在の巨大都市ソウルに住んでいる人でさえ、その
時空間的な始まりについてはよく知らない。江北(漢江以北)は600年 にわたる歴史的な都市であり、江南(漢江以南)は歌手サイの『江南ス タイル』によって世界的に知られた地域だ。しかし、ソウルの全体的 なアイデンティティーは、いまだにはっきりしていない。現存する全 ての都市と同様に、過去と現在をしっかりと分けられず、絶えず変化 する未来像も明確に描くことはできない。 そんなときは、出発点に戻ってみるものだ。ソウルが都市として 形作られ、歴史の舞台に登場した時点の様子と周辺の状況を知ること は、ソウルを訪れる人たちにとっても、興味深い思考トレーニングの 機会になるだろう。ソウルの原形を探す時空間的な旅に出かけてみよ う。
ソウルの原形 ソウルは普通、600歳ほどと計算される。太祖・李成桂が1392年に 朝鮮を建国し、その2年後に開京(現在の開城)から漢陽(現在のソウ ル)に都を移したためだ。そのとき名称が漢城に改められ、1945年の 解放直後にソウルになった。ソウルは、李成桂の遷都から今日に至る まで、朝鮮半島の全ての王朝・政権で首都であり続けた。したがって、 ソウルは世界の首都の中で、もっとも長い歴史を保ち続けている都市 の一つでもある。 しかし、そうした計算において見落とされている点がある。李成 桂は、何もない荒地に漢城という新しい都市をつくったわけではな い。ソウルの旧都心部のうち清渓川の北側は、高麗後期にはすでに民 家が立ち並んでいた。高麗王朝は1067年、その漢陽府の北西部を切 り離して、南京とした。全国を効率的に統治するため、地方の3大拠 点として西京・平壌、中京・開城と共に、南京・漢陽を選んだのだ。 そうして都市が地域の拠点となると、必ず行宮(仮宮)が設けられ た。王が訪れた際に留まる臨時の宮廷であり、その地域の中心でも あった。その南京の行宮は1104年、現在の景福宮の西北の端に完成 した。景福宮の北門・神武門の内側にある小さな丘の上だ。高麗の粛 宗は、その年の8月に南京を訪れ、行宮の中心に新築した延興殿で多 くの官吏から祝賀を受けたと、朝鮮初期に編纂された高麗の歴史書 『高麗史』に記されている。 重要なのは、その時点と地点だ。高麗の粛宗が臣下から祝賀を受け
ソウルの城郭の西に当たる仁王山区間。山のふもとには、高層アパートが立ち 並んでいる。写真右上に見えるのは、都心のビル越しに写った南山と頂上のN ソウルタワー K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
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た延興殿の場所こそ、現在のソウルの原点であり、粛宗が南向きに座っ
その道を端から端まで通れないためだ。国際政治における暴力的な行
て新しい都市を見下ろした穏やかな視線こそ、私たちが今ソウルを見
為が、私たちの国土と都市構造に残した傷跡だ。近年、開城工業団地
る視線の原形だからだ。朝鮮の太祖は、その延興殿から南東にわずか
に韓国の工場が入居し、最低限の通行はできるようになったが、巨大
400メートルの場所に景福宮の正殿・勤政殿を建て、行宮を景福宮に含
な障壁にあいた針の穴のようなものだ。 900年前に使われた開京・南京間の道は、昔の文献と地域によって
めた。朝鮮の王宮・景福宮が、高麗の南京行宮を継承したわけだ。 高麗の地域の拠点と朝鮮の都とでは当然、規模が違う。宮廷の敷
は可能な実地調査を通じて推定できる。その道は、大きく二つあっ
地が広くなったように、朝鮮の漢城も、高麗の南京と漢陽府を全て取
た。高麗王朝の官吏が南京に向かう場合、開京のすぐ東にある青郊駅
り込んで拡大された。私たちが現在「四大門の中」と呼ぶ地域は、その
を通り、長湍の通坡(現在の東坡)駅から臨津江を渡って、坡州に入っ
ときに決まったものだ。ユネスコ文化遺産への登録を目指して復元工
たと考えられる。ここまでは二つとも同じルートだ。 先を急ぐ場合は、坡州から南に向かい、恵陰嶺を越えて高陽の碧
事中のソウルの城郭も、そのときの基準に沿ってつくられている。 このようにソウルの原形がつくられた年代を300年ほど早める理由
池(現在の碧蹄)駅、ソウル碌磻洞の迎曙駅を経て、弘済洞のユジン商
は、はっきりしている。北岳・白嶽を「主山」として、南山・木覓山を
店街交差点から東の水路に沿って洗剣亭に向かい、紫霞門の峠で息を
主山と向かい合う「案山」とするソウルの地理的な概念が、そのときに
上げながら南京に入ったのだろう。現在の清雲洞の辺りだ。こちらは
形成されたためだ。南北には北岳山と南山
近道で、それだけに険しい峠を何度も越え
が向かい合っており、東西には駱山(駝駱山 とも)と仁王山が向かい合う朝鮮・漢城の領
なければならなかった。馬を速く走らせれ 開京
域は、高麗の南京と漢陽府を合わせた領域
ば、1日でも十分な距離だ。
長湍
一般的には、それよりも平坦な道を選ん
靑郊駅 東坡駅
とほぼ同じだった。そして、朝鮮時代の500
だ。歩いて3~4日ほどかかったはずだ。
年間、まったく変わることはなかった。ソ
坡州
ウルが城郭の外まで東西に拡張されたのは、
惠陰嶺
楊州
日本の統治下でのことであり、漢江を越え
駅を通って現在の東大門の外側にあった南
碧蹄駅 緑楊駅
高陽
て南に広がったのは1970年代以降のことだ。 迎曙駅
蘆原駅 南京駅
ソウルに通じる道
開京
南京
南京
ここで一度、考えてみたい。高麗王朝が
南泰嶺
坡州から東へ向かい、楊州の緑楊駅と蘆原
京駅まで、それほど丘を越えることもなく、 ほとんど平地を進むことができた。南京駅 で一夜を過ごして入浴し、身なりも整えて 書類に目を通した後、朝早く起きて清渓川 沿いに南京の行宮まで一息に向かったのだ
果川
新しい地域拠点として漢陽府に南京を設け
ろう。高麗時代には現在の鍾路がなかった
たのなら、首都・開京から南京へ向かう道
という点も知っておきたい。
も新たにつくったのではないだろうか。ひょっとすると、小さな道を
二つの道のうち、前者は北からまっすぐソウルに入る道であり、
拡張したのかもしれない。新設であれ拡張であれ、開京と南京を結ぶ
後者は東から入る道だ。それならば、南からソウルに向かう人は、ど
道が、ソウルとその周囲をつなぐ現在の道の原形ではないだろうか。
んな道を通ったのだろうか。いつ道が形作られたのかは定かでない
人の行き来によって数百年にわたり自然に形作られた昔の道は、 ある日突然、消えることは決してない。時を経て、しっかりと受け継
が、果川の南泰嶺を越えて沙平院(現在の漢江鎮)を渡る道が、朝鮮中 期以降に定着した。
がれていくものだ。自然の地形に沿って曲がりくねった昔の道のそば
ここで注目すべき点は、高麗や朝鮮時代にソウルに向かう人たち
に、まっすぐな一直線の道がつくられることもある。土木技術の発展
が、その目でソウルを捉えた地点だ。北からは恵陰嶺、南からは南泰
によって、そうしたことが頻繁になっていく。だからといって、昔の
嶺、東からは南京駅であった。恵陰嶺は高陽市と坡州市の境界で、南
道は簡単にはなくならない。大通りに陣取れない小さな店が、でこぼ
泰嶺は果川市とソウル舎堂洞の境であり、南京駅はソウル市東大門区
こに古びた昔の道に軒を並べることもあるだろう。私たちが気付かな
新設洞の大光高校のある丘に位置していた。今でも恵陰嶺と南泰嶺の
いだけなのだ。
峠に立つと、北漢山が見える。そこまで来れば「もうソウルだ」という
開京と南京を結ぶ昔の道をすぐには思い描けない重要な理由が、 もう一つある。南北分断によって開城とソウルが切り離され、今では
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心理的な安堵感が広がったのだ。南京駅のあった場所は、漢陽府や東 大門と向かい合っている。そこが、首都圏を大きく捉える場合、視覚 韓国の文化と芸術
京畿道坡州から見た北漢山 ©黃興萬
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開京と南京を結ぶ昔の道をすぐには思い描けない重要な理由が、もう一つある。南北分断に よって開城とソウルが切り離され、今ではその道を端から端まで通れないためだ。国際政治 における暴力的な行為が、私たちの国土と都市構造に残した傷跡だ。
的・心理的な境界となる。
ここで拡張の基準は、常識となっているソウルの始まり、つまり朝 鮮の太祖・李成桂が漢城を新しい都に定めた1394年にある。時間的
拡張から共存へ 以上のように、ソウルの持つ時間と空間を大きく拡張してきた。
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にはそこから300年さかのぼって原点を探し、空間的には南北分断に よって忘れ去られた昔の道をたどって、ソウルの視覚的・心理的な境 韓国の文化と芸術
界を再発見した。 誤解しないでほしい。こうした試みは、古ければ何でも良いとい
ソウル世宗路に位置する朝鮮の王宮・景福宮。この王宮の中心・勤政殿の背後 には北岳山、西には仁王山が見える。
う擬古典主義から発したものではない。無理にでもソウルの起源をさ かのぼらせたいなら、紀元前18年に百済が河南慰礼城を都にしたこ とまで考えられる。しかし漢江の南側は、今ではソウルの行政区域に
うるという話を、ソウルの行政区域を拡張しようという意図と捉えた
含まれているが、本来は高麗の南京や漢陽、朝鮮の漢城と何ら関わり
のなら、大きな誤解だ。むしろ、ソウルの北にある高陽、坡州、楊州
のない場所だった。百済が475年に高句麗に押されて、都を熊津(現
などの地が、ソウルとの関連性において水平的に共存する方法を見出
在の公州)に移した後、1963年にソウルに編入されるまでの1500年ほ
すべきだというのが、筆者の考えだ。それは、900年前からある開京
ど、空き地か農地だった。そこにソウルの起源を見出すことはできな
と南京を結ぶ二つの道が全て復元されてこそ可能だろう。
い。 空間的にも同様だ。北は高陽の恵陰嶺までがソウルの領域になり K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
それは、ソウルの過去が未来に与える示唆でもある。(翻訳:坂野 慎治)
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>> 特集 2 ソウル物語
私が生きてきたソウル 幾重にも重なった地層が、その中に古い地殻変動の記憶を保ち続けているように、都市は、長年の変化のひそかな 歴史をそこに生きてきた人たちの記憶に深く刻み込む。そのため、都市を生の空間として理解することは、 その都市の現在の外観に埋もれている個人の考古学的な経験と記憶を解読するのにも役立つ。 キム・ファヨン(金華榮、文学評論家、芸術院会員)
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Ko re韓国の文化と芸術 a n Cu l tu re & A rts
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55年2月のとある日、私は朝鮮半島の南東にある田舎の農村で小学校を卒業した 後、永州まで18キロもの黄土の道を一人で歩いていった。そして、生まれて初め
て250キロにもなるソウル行きの汽車に乗った。3年以上続いた朝鮮戦争が停戦協定によっ て終わってから、1年半ほど過ぎた後だった。私は13歳の幼い少年だった。汽車の中で偶 然、出会った唐辛子売りのおじさんが「幼い子供が一人で汽車に乗って、どこに行くのか」と 尋ねてきた。私は「京畿中学校の入学試験を受けるためにソウルに行くんだけど、中央劇場 前にあるトングァン製紙株式会社の副社長の父さんが、清涼里駅まで迎えに来てくれる」と 誇らしげに答えた。祖母に言い聞かされた言葉通りに。
13歳のソウル留学生 数時間もの長旅の末、日も暮れた後に到着した駅には、どういうわけか父は来ていなかっ た。不憫に思った唐辛子売りのおじさんが「夜も遅いから、とりあえず一緒に行って一晩休 み、明日お父さんの会社に連れていってやろう」と言ってくれた。私は怖いとも思わず、つ いて行った。 生まれて初めて乗る電車。物珍しかった。だが、窓の外に見える戦後の首都ソウルは、 廃虚だった。おじさんが案内してくれたのは、ソウルの都心を通り過ぎて、反対側の北西の 外れにある霊泉峠のふもと。そこのバラック街にある飴売りの簡易宿所だった。庭には飴売 りのリヤカーが並んでおり、広い部屋には多くの飴売りの行商が、布団も敷かずに木の枕だ けで倒れるように寝たり、壁から突き出た木の棒に水飴の塊りをかけては引いて飴をつくり ながら、昼の行商での出来事を話していた。本当に見たこともないような光景だった。幸い にも、かまどの釜で飴の原料を沸かし続けていたので、ほとんどが土の床のオンドル(床暖房) 部屋は、とても暖かかった。何よりも、おじさんのおかげで宿代はタダだった。 おじさんは翌日、乙支路の有名な中央劇場を難なく見つけてくれた。劇場の向かい側に ある小さな建物の1階は「タルナラ(月の国)」という喫茶店で、2階に「トングァン製紙株式 会社」という看板がかかっていた。しかし、中に入ると、小さなスチールの机が一つと椅子 が二つしかなかった。机の上には、空き缶を切った汚い灰皿が置かれていた。驚きもし、 がっかりもした。父は、唐辛子売りのおじさんに礼を言った。後で分かったことだが、父の 製紙会社の工場は戦争中に爆撃で完全に破壊されてしまい、会社は名ばかりで父はすっから かんだった。ソウルが大きく変わっても、中央劇場前のその小さな2階建ての建物は、最近 まで50年間もかたくなにその場に守ってきた。しかし今年の夏、ついに超近代的なガラス張 りの高層ビルが完成し、私の初めての上京に関する最後の名残も消えてしまった。
ソウルのランドマークの変遷 父は、私を連れて韓国最高峰といわれる京畿中学校に入学願書を出しにいった。しかし、 避難先の釜山から戻ったばかりの中学校は、貞洞の徳寿国民学校の隣の空地に急造した、低
水標橋。朝鮮時代の世宗2年(1420年) に清渓川に架けられたが、 清渓川の暗渠化工事によって1959年に奨忠壇公園の入り口に移された。 KK oorr ee aa nn aa ıı W n t e r2 0210312 春i 号
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私の心の矢印は、私がソウルと初めて出会い、中・高・大学で勉強して友達と遊び、 そして30年余り大学教授として教壇に立ったソウルの漢江以北の旧市街地にいつも 向かっている。
い板張りの建物がいくつかあるだけだった。その場所は今、韓国最大の購読者数を誇る日刊 紙・朝鮮日報の編集部と美術館になっている。一方、京畿高校は校舎が米軍部隊に使われて いて、世宗路の「逓信部が燃えた場所」と呼ばれる広い空地のテント村を臨時校舎としてい た。その後、その場所に新築された近代的な市民会館は1972年に火災でなくなり、今では 有名な公演会場・世宗文化会館になっている。 京畿中学校は6カ月後、花洞の旧校舎の裏の空地に新しい建物が完成すると、そこに引っ 越した。2年後には米軍部隊が校舎を明け渡してくれたおかげで、私が高校に進学したとき には、由緒ある昔の校舎で勉強できた。学校と大統領官邸のある景武台(現在の青瓦台) ・景 福宮の間には、首都陸軍病院という大きな建物があった。 1979年10月に銃撃で負傷したパ ク・チョンヒ(朴正煕)大統領が運び込まれ、息を引き取ったその場所では現在、国立現代美 術館の新築工事が進められている。韓国初の公立中等学校である京畿高校は、1970年代に 漢江の南に移り、私の通った校舎は今では市立の正読図書館になっている。 中学校に入学すると、父の友人が鍾路1街の角にある和信百貨店で、生まれて初めて革 靴を買ってくれた。中学校の決められた制服、カバン、帽子も、いつもその百貨店の5階で 買った。幼い私たちはエレベーターで上ったり下りたり、華やかなディスプレイを見たりす る楽しさに、学校の授業が終わるとその百貨店に向かったものだ。韓国で一番のお金持ちと いわれたパク・フンシク(朴興植)氏がつくったその百貨店は、中央庁、ソウル市庁、ソウル
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韓国の文化と芸術
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1. 近代ソウルのランドマークだった 鍾路1街の和信百貨店。当時、最高 の交通手段だった電車が、その前を 行き交う。 2. 1978年の江南区狎鴎亭洞・現代 アパートの建設現場。そのそばに は、牛で畑を耕す人が見える。 (写真:チョン・ミンジョ)
駅、半島ホテル、美都波、新世界百貨店と共に、誰もが知っているソウルの数少ないランド マークだった。誰もが中央庁(日本の総督府だったその建物が1995年に解体された後、王宮 が復元されて美しい北漢山を望める)や和信百貨店を中心に、ソウルの地理を理解した時代 だ。私が大学生になった1961年の春、父はその百貨店で革のカバンを買ってくれた。その 百貨店が撤去された場所には、韓国のもう一人の最高のお金持ちであるサムスンの新しいビ ルが建っている。鍾路タワーと呼ばれるそのビルに、私はまだ一度も入れずにいる。 中学校に通う間、私は旧市街の南にある忠武路4街の母の実家に居候していた。そこは、 もともと日本人の家だった。忠武路には日本の統治下で日本人が多く住んでいて、日本風の 家も多かった。乙支路4街まで歩いていって電車に乗り、和信前の停留所で降りてから、か なり歩いて学校にたどり着いた。小遣は1カ月分の電車の回数券を買える程度だったが、そ のお金で道端の焼きイモやプルパン(今川焼きに類似)を買い食いしては、学校まで1時間近 く歩いて通った。路地には、カランカランと鐘を振る豆腐売り、大きな鉄のハサミをチャ カチャカと鳴らす飴売り、夜になると大きな声を響かせる餅売りやそば粉のムク(豆腐に類 似)売りが行き交っていた。ソウルの中心には清渓川が東西に流れていたが、様々な汚水が 流れ込んで真っ黒なドブになり、ひどい悪臭を放っていた。川辺には、貧しい人たちの粗末 な掘っ立て小屋が立ち並んでいた。私は、清渓川にかかる広橋や水標橋などを渡って学校に 通った。
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高校の卒業を控えた1960年4月、イ・スンマン(李承晩)大統 領の独裁と不正選挙に抗議する大々的な学生デモが起き、多くの 人が警察の銃弾によって命を落とした。その日、学校の裏で別れ た隣の席の友達も、銃弾に命を奪われた。第2共和国期の翌年4 月、私はソウル大学に入学した。東崇洞にあるソウル大学は、日 本の統治下で京城帝国大学だった由緒ある建物を使っていた。校 門の前には小さな川が流れており、校庭には日本の統治下でフラ ンス文学の日本人教授がプロバンスから持ち帰ったという韓国初 のマロニエの木が1本立っていた。 1961年5月にクーデターによって政権を握ったパク・チョン ヒ大統領は、その翌年から第1次5カ年計画を実施した。私は東 崇洞で大学と大学院の課程を終えたが、大学院在学中の1967年 秋に韓一銀行の行員として初めて職場に通い始めた。そのとき私 が輸出入に関する仕事をした乙支路入口の2階建ての建物と、解 放直後に米軍政庁のホッジ長官の事務室があった半島ホテルの場 所は今、ロッテ百貨店とロッテホテルになっている。私は1969 年に大学院を出ると、フランスに留学した。
巨大都市への変容 1974年の夏に博士号を取得して帰国すると、ソウルは急速に 変わりつつあった。私は韓国に戻った直後、光復節(8月15日)の 記念行事のテレビ中継で、ユク・ヨンス(陸英修)大統領夫人が殺 害される場面を目撃した(そのときフランス留学から戻ってきた 徳寿宮の庭園手入れのボランティアを する制服姿の高校生
大統領の娘パク・クネ<朴槿恵>氏は、後に政治家になって2012年12月の大統領選挙で当 選した)。その悲劇的な事件によって、大統領は地下鉄1号線の開通式に参加できなかった が、私はソウルで初めて地下鉄が開通した日を永遠に記憶することになった。そのときから 地下鉄の時代が幕を開け、ソウルは漢江の南に伸びて、人口1300万人の巨大都市へと変容 し始めた。 東崇洞のソウル大学は1975年秋、ソウル南西の冠岳山のふもとの広大な新キャンパスに 移転した。私の若き日の思い出が深く刻まれた講義室や研究室の場所は演劇ホールになって おり、運動場は盛り場になっている。大学本部の建物は文芸振興院になったが、それも程な く地方に移転するという。大学の校庭だった場所に残る「マロニエ公園」という名だけが、過 ぎし日のかすかな記憶をよみがえらせる。 1976年8月21日には漢江の南の盤浦、狎鴎亭、清潭、道谷など永東第1・2区画整理地区 779万平方メートル(約236万坪)が、広域アパート地区に指定され、漢江の南に広大な新都 市が建設され始めた。そこは、大学生のときに遊びに行った山と野原だ。多くの友人が貿易 会社の社員になって忙しそうに働き、暮らし向きがよくなった幾人かは、初めてつくられた 江南の盤浦アパートに住んでいると誇らしげに語った。漢江の南に建設された最初の大規模 マンション(団地)だった。 私は、帰国した年の秋学期から高麗大学校の教授としてフランス文学を教え始めた。長
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韓国の文化と芸術
い歴史を誇るこの私立大学校は、今も昔も変わらずソウル北東の 安岩洞にキャンパスがある。 1976年には馬場洞と南山1号トン ネルをつなぐ1.2キロの清渓高架道路が、高麗大学校の近くにつ くられた。その道はドブとあばら屋しかない清渓川を覆った道路 の上に建設され、都心を東西に貫いていた。私は学校からの帰り 道、その高架道路を通って車で10分で到着する市内の中心で、友 人と酒を酌み交わした。しかし、首都の心臓部をスラム化し、都 市の美観を損ねていた機能中心のいびつな高架道路は、2006年 に撤去された。その場所には美しい清渓川が復元され、今では澄 んだ水が流れている。私は、その川辺の小道をのんびりと散歩す るのが好きだ。
漢江の南と北 私は1980年代の初め、何もない江南に新築されたマンション を購入して引っ越した。そこから北に向かえば、新しくつくられ た聖水大橋を渡って、一直線に高麗大学校に向かえたからだ。し かし、完成して15年が過ぎたある日、急激に膨らんだ大都市の 交通量に耐え切れず、聖水大橋が崩壊して多くの死傷者が出た。 1997年7月には、頑丈な聖水大橋が新たに完成した。 朝鮮戦争直後からソウルの中心だった江北では、漢江に近い 南山のふもとに、無許可のバラック街が大きく広がっていた。 1980年代の後半には、そうした家々を取り払ってマンションの 建設が始まった。木の生い茂る南山のふもとから澄んだ湧き水が 流れ出すということで、玉水洞と名付けられた。私は1986年にそこに引っ越した後、今ま でずっと暮らしてきた。 13歳の少年だった私が初めてソウルの清涼里駅に到着した1955年
ソウル都心を東西に貫く清渓高架道 路。 2006年に撤去され、清渓川が復 元された。
から、大学教授を退官して6年目になる今日まで、57年の歳月が流れた。当時157万人だっ たソウルの人口は、1000万人以上に増えた。私が通った田舎の小学校は、農村の空洞化に よって廃校になり、もぬけの殻になっている。中・高校の建物は市立図書館になり、大学の あった場所は、盛り場とマロニエ公園になっている。皆が競うように、漢江の南の新都市に 移り住んだ。 一方、ソウルから遠く南に離れた世宗市には、行政首都が建設された。 1950年の朝鮮戦 争の際、漢江大橋の爆破によって南に避難できずに敵の統治下のソウルに残るしかなかった 多くの人たちの苦しいトラウマが、心の向きを一斉に漢江の南へと向かわせたのかもしれな い。しかし、私の心の矢印は、私がソウルと初めて出会い、中・高・大学で勉強して友達と 遊び、そして30年余り大学教授として教壇に立ったソウルの漢江以北の旧市街地にいつも向 かっている。私は今日も漢江のほとりの散歩道をゆっくりと歩き、時おり川の向こうにある 狎鴎亭洞の高級マンション街に目をやる。だが、すぐに視線を戻して、きらめきながら流れ る漢江の水に心を遊ばせる。人生は、川の水のように流れて変わっていく。私たちの人生が 絶えず流れて堆積した都市がソウルだということを、私はよく知っている。(翻訳:坂野慎 治) K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
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>> 特集 3 ソウル物語
江南 私が生まれ育った場所 江南とは、どこなのか。はっきりと言えるのは、歌手サイの『江南スタイル』 に本当の江南はないということだ。それなら、本当の江南は、どこにあるの だろうか。どんな姿なのだろうか。 ペク・ヨンオク(Baek Yeong-ok、小説家)| 写真 : 安洪范, 徐憲康
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ソウルを南北に分けるように流れる漢江。 その南側が江南
Ko re韓国の文化と芸術 a n Cu l tu re & A rts
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12年の秋、私はニューヨークのブルックリンにいた。偶然
始めるサイの歌。そのとき、信じがたい光景を目にした。サイの歌が
にも、歌手サイの『江南スタイル』が人気を得て、ビルボー
流れると、何人かが突然、肩でリズムを取り始めたのだ。私は、その
ドで2位にまでなっていた時期だ。ブルックリンとマンハッタンを行
店でサイの「ホース(馬)ダンス」をまねする人たちを少なくとも5人以
き来する間、サイの人気をニュースでなく実生活で体感した。例え
上見た。白人、黒人、東洋人を問わず、人種も様々だ。1階の売り場
ば、次のようにだ。近所の「C Town(スーパー)」で買い物をしている
に下りるエレベーターの中でも、M&M'Sのチョコレートでつくっ
と、ラジオから流れるサイの歌。買い物袋を提げて家へ向かっている
たニューヨークの自由の女神像の前でも、チョコレートをくわえたス
と、白人の乗ったオープン・スポーツカーからもサイの歌が鳴り響く。
パイダーマンの仮面の前でも、とても楽しそうに踊っていた。右手を
洗濯物を干すために窓を開けていた10月にも、通り過ぎる車から大き
回してお尻を揺らす姿は、本当にご機嫌に見えた。
く響き渡るサイの『江南スタイル』を耳にした。 最も興味深かったのは、ハロウィーンを控えて特に込み合うタイ
江南の定義
ムズスクエアのM&M'Sショップでの出来事。マイケル・ジャクソ
その日、タイムズスクエアのLGUプラスのネオン広告塔で、楽
ンの『ムーン・ウォーカー』が流れ、人々であふれる店内。そこに流れ
しげにホースダンスを踊るサイを10分間も見た。『エビータ』の公演
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を終えたリッキー・マーティンにサインをもらおうと長い列をつくっ
ソウル地下鉄2号線の江南駅。流動人口が最も多い。
ているヒスパニックの子供たちに混ざってのことだ。ネオン広告塔を 見ていたカルロスやペドロといった名前の男の子も、サイの名前を正 確に知っていた。 こうなると、そばにいた友人が、私にこう尋ねるのも当然だろう。 「いったい江南スタイルって何?」、「江南に行くと、あんなにおもし
形成された商圏を指すこともある」 私にとって江南とは、いくつかのソウルの地下鉄駅を意味した。
ろい男の人が、たくさんいるの?」。私は、イスタンブールから来た
地下鉄3号線・高速バスターミナル駅は私が生まれた街であり、地下
アルマに江南の話を始めた。今になって考えてみると、私にとって江
鉄2号線・宣陵駅には私の通った中学があり、大学生のときには彼氏
南は幼少期を過ごした場所でもある。だが、今の江南とその当時の江
と江南駅や狎鴎亭駅でデートした。そうした駅の周りが、私にとって
南とでは、いくらか違っている気もする。インターネットの百科事
は江南だったのだ。もう少し具体的に言うなら、今ではなくなってし
典・ウィキペディアは、江南を次のように定義している。
まった江南駅のニューヨーク製菓の前や狎鴎亭洞のマクドナルドの前
「江南とは、大韓民国ソウル特別市の漢江以南の地域。 2007年度
のような場所が、私にとっての江南だ。
の調査では、世界で家賃が高い地域として10位になった。また江南 には、進学率の高い名門高校や多くの塾・進学予備校があり、子供の 教育のために親が好む地域でもある。江南という言葉は漢江以南を全
マンションと潜水橋 江南の最初の姿は、私が住んでいた5階建てのマンション(団地)
て指すが、一般的にはソウルの漢江以南の中でも東部の江南区と松坡
の姿でもある(後に再建築事業によって30階近いマンションに変貌
区、中央部の瑞草区のみを指す場合が多い。江南という言葉が定着す
し、故郷を失ったような気分を味わった)。それが1970年代と1980年
る前には、永登浦の東側という意味で主に永東と呼ばれていた。この
代にソウルで生まれた「アスファルト・キント(子供)」が記憶している
ように狭義で江南区、瑞草区、松坡区を意味することもあり、そこに
故郷の姿だ。5階建てや12階建てのマンション。そのマンション群
江東区が含まれることもある。また、江南駅や江南駅交差点のよう
と漢江公園の間にある数多くの桜やイチョウの木。年を経るほどに生
に、ソウルの二大繁華街であるソウル地下鉄2号線・江南駅の一帯に
い茂る木々と、その間から見える公園。電柱にベタベタと貼り付けら
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韓国の文化と芸術
れたビラ。近所を勢いよく走る中華料理店の出前のバイクの煙たい排 気ガス…。
いただろう。 まだフランチャイズという言葉もなかった1980年代、私の住んで
セメントを冷たい産業化の象徴のように感じる人も多い。特に江
いた盤浦には、いろいろなパン屋、本屋、服屋、食堂があった。今の
南のマンションで生まれ育った私たちの世代は、土で遊んだ記憶のな
ように、同じ店が他の街にもあるとは考えられなかった時代だ。盤浦
い無味乾燥な世代だとも言われている。しかし実際には、セメント
の「タレ城」のジャージャー麺と「盤浦チキン」のニンニクチキンは、他
も石に過ぎない。つまりは土から生まれたものだ。したがって、マン
では決して味わえない独自のメニューだった。
ションに塗られたセメントについて、温かい記憶がないはずはない。
その盤浦チキンが、夜な夜な文学評論家のキム・ヒョン(金炫)や
私の1980年代を振り返ってみると、大急ぎで5階まで階段を駆け上っ
詩人のファン・ジウ(黄芝雨)ら文人が集まり、明け方まで詩や小説に
たり駆け下りたりし、友達と一緒に12階に上がるエレベーターに乗っ
ついて議論を交わしていた生ビールの店だという事実を幼いころは
たりしていた。3~4年に一度マンションの色を塗り替えるたびに、
知らなかった。時おりその店に寄って、父と話した午後が思い出され
信じられないほど長いロープを垂らして「韓信」や「住公」といったマン
る。小説家になるという決意に満ちた16歳の娘が文芸創作学科への
ション名を描き直すペンキ塗りのおじさんの後ろ姿も、鮮明に記憶に
進学を口にすると、あまりにもなじみがないため、父は国文学科や英
残っている。
文学科はどうかと暗に問いかけてきた。
特にチョン・ドゥファン(全斗煥)大統領以降、きれいに整備され
時が流れた今そこに座っていると、1920年代にアメリカの戦後作
た漢江の川辺を歩いた記憶は、特別なものがある。漢江には江南と江
家が文学論を戦わせたニューヨークの「アルゴンクインホテル」が思い
北をつなぐ橋がいくつかあるが、私は瑞草区の盤浦洞と龍山区の西氷
浮かぶ。アルゴンクインホテルのロビーで飼っていたマチルダという
庫洞をつなぐ盤浦大橋の下にある潜水橋が一番好きだった。この地球
名の猫も。私が幼いころは、ネズミを捕まえるために猫を飼う店が多
上にこんな橋は他にないと堅く信じていた。雨がたくさん降れば、必
かった。そんなかすかな記憶のためかもしれない。幼い私にとって、
ず水に浸かってしまう奇妙な橋があるなんて!大学で文学の授業を受
そうした猫の名前が全てナビ(蝶)だというのが、とてもおかしく思わ
けていた21歳のときには、潜水橋に関する小説を書いたほどだ。潜水
れた。どうして、猫の名前は全てナビなのか。どうして、犬の名前は
橋はあまりにも詩的で、大雨が降った日には消えてしまい、大雨が止
全てメリーだったのか…。
1990年代の狎鴎亭洞は、おしゃれな人であふれていた。それは、
いくつもの江南の顔 おもしろいのは、私が高校生の
流行をリードするニューヨークの「ヒップスター」のような存在
ころ「盤浦の田舎者」という言葉が
だった。ハイカットの白いニコボコ(NICOBOCO)やナイキのス
あったことだ。詩人ユ・ハ(柳河) の『風が吹く日には狎鴎亭洞に行か
ニーカーにヒップホップスタイルのジーンズをはいたファッショ ナブルな人たちが、ソニーのイヤホンで「デュース(DEUX)」や「ソ テジ・ワ・アイドゥル」の最新ヒット曲を口ずさんでいた風景。
なきゃ』に代表される狎鴎亭洞の時 代でもあった。江南で生まれた詩 人ユ・ハの記憶する狎鴎亭洞は「ナ シの花でいっぱいの、幼い日の空 間」だが、彼の詩になって生まれた
めば嘘のように低くどっしり構えた姿を現す。 私は、車が通行止めになった後、水に浸かる直前の潜水橋が一番
狎鴎亭洞は欲望の集積場だ。 ユ・ハが同名の映画を発表した1993年、私は大学生になった。「外
好きだった。そんな潜水橋を見ていると、現実と非現実の境界に立っ
車と高級ブランドの服、インスタントな恋愛が乱舞する狎鴎亭洞に、
ているような気がしたものだ。今は漢江ルネサンス政策によって「セ
未来のウッディ・アレンを夢見るヨンフンがやってくる。8ミリカメ
ビットゥンドゥン島(人工島)」のような巨大な構造物が浮かんでいる
ラだけが唯一の食い扶持のヨンフンは、真っ赤なオープンカーに乗る
が、その当時の漢江には流されてきた木や草しかなかった。その風景
ヘジンに一目ぼれする。ヨンフンはヘジンに自分の映画の主人公に
は、季節と水量によって自然がおのずと作り出したものだ。もしもそ
なってほしいと頼むが、ヘジンの目標は上流社会への進出だ」という
の当時、デジタルカメラがあったなら、私は何百枚もの写真を撮って
映画のあらすじだけを見ても、1990年代初めの狎鴎亭洞の雰囲気が
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読み取れる。狎鴎亭洞の現代アパートが富の象徴のように見なされた
既存の店が路地裏に追いやられている(2007年に街路樹通りにあった
時期でもあり、「狎鴎亭オレンジ」という言葉もそのころに生まれた。
店のうち、2012年まで残っている店は10%もない)。表通りを追われ
おかしな話だが、狎鴎亭オレンジのパロディー「盤浦キンカン」という
た店が、路地裏のことを自嘲気味に 「セロスキル」 (横を意味する 「カロ」
言葉も自然と生まれた。
に対して、縦を意味する「セロ」をもじって)と呼ぶことを後になって
1990年代の狎鴎亭洞は、おしゃれな人であふれていた。それは、流
知った。空いた表通りは、ザラやフォーエバー21などの巨大なフラン
行をリードするニューヨークの「ヒップスター」のような存在だった。
チャイズショップが占めている。そうした現象が世界的なものだとい
ハイカットの白いニコボコ (NICOBOCO) やナイキのスニーカーにヒッ
う点も、後味が悪い。マンハッタンやパリの一等地も、多国籍ファス
プホップスタイルのジーンズをはいたファッショナブルな人たちが、
トファッションブランドの店で覆われている。そうした現実を悲しむ
ソニーのイヤホンで「デュース(DEUX)」や「ソテジ・ワ・アイドゥル」
幾人かの芸術家が、昔の街路樹通りを守るべく独創的な雑誌をつくっ
の最新ヒット曲を口ずさんでいた風景。彼らは「新派悲劇」を忌み嫌っ
ており、いくつかの店では今も変わらずインディーズミュージシャン
て 「クール」 を叫び、 「エックス世代」 と呼ばれる自由な存在だった。
の公演を行っている。新沙洞の魅力が、毛細血管のように伸びている
1990年代も半ばを過ぎて2000年代に入ると、江南の中心地は、少 しずつ清潭洞に移っていった。高級住宅街だった清潭洞に「カフェ・
路地にあることに注目すべきだろう。今でも路地裏では、斬新なカ フェやレストラン、アパレルなどの小さな店が繁盛しているのだから。
ド・フロール」ができると、ニューヨークやパリなどでファッション や料理を学んだ人たちの店が一つ二つとオープンし始めた。いくつか のギャラリーもできて、「シーアン」などのフュージョンレストラン、
その目で見てほしい本物の江南 江南スタイルを定義するのは難しい。良い大学に入らせようとい
「ゴーモン」のような正統派のフレンチレストランも登場した。地下鉄
う母親の「チマパラム(猛烈ママぶり)」に象徴される大峙洞の塾・進学
の駅がないのも、清潭洞の特徴を物語っていた。島のように孤立して
予備校街を意味することもあり、最先端の流行が集まる新沙洞の街路
いて、車がなければ行けない場所だったのだ。昼の清潭洞を歩いてみ
樹通りのような商圏を指すこともあり、三成洞のタワーパレスや現代
ると、行き交う人よりもドレスアップしてバレットパーキングをする
アイパークなどの高価な不動産を表すこともあるからだ。
店員の方が多いほどだった。
だが、はっきりと言えるのは、歌手サイの『江南スタイル』に本当
私が『ハーパース・バザー』に勤めていた2000年代半ばからは、江
の江南はないということだ。サイの歌う江南スタイルは、典型的な意
南の中心地が徐々に新沙洞の街路樹通り(カロスキル)に移っていっ
味の江南ではない。サイの歌には、セクシーな女性と熱い夜を送ろ
た。閑静な街路樹通りにあった独創的な店が口コミで少しずつ噂にな
うと必死な、見るからに滑稽なホースダンスを踊る遊び人がいるだけ
り、デザイナーのブティックが店を構えた。交通が不便な清潭洞に比
だ。口では「自分は江南スタイル」と主張しているが、江南を意味する
べて、地下鉄の新沙駅に近くアクセスも良かった。
名詞は全て消え去っている。意味の転換が全面的に起きているという
新沙洞の街路樹通りは現在、爆発的に値上がりした賃貸料のため、
点で、この曲は破格なわけだ。サイがホースダンスを踊って江南を皮
1. 新沙洞の街路樹通り。秋になると黄色いイチョ ウ並木が美しいこの通りは現在、高級カフェ、ギャ ラリー、アパレルショップが密集する江南のホッ トプレイス 2. 江南駅前の待ち合わせ場所として30年間、名を はせたパン屋・ニューヨーク製菓が、高い賃貸料 のため廃業し、その場所には咋年、韓国のグロー バルSPA・エイトセカンズがオープンした。
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韓国の文化と芸術
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肉るとき、聞く人は知らず知らずに妙な快感を覚える。 幼いころ江南で育った私は現在、江南には住んでいない。現実的
ペインの男性がいる。『韓国で一番おもしろいのは、車のドアについ ている青いスポンジだ。どうして、みんな格好いい車を乗り回してい
な理由として、あまりにも高い家賃・マンション価格と、どうにもな
るのに、あんなにみっともないものを付けているのか分からないよ』。
らない渋滞のためだ。江南には良いものが全て集まっているが、江南
その男性は、これから世界中を歩き回って、韓国の車に付いている青
で人と会うことは少ない。ニューヨーク製菓の前で友達を待っていた
いスポンジに関する武勇伝をしゃべりたてるだろう。そうなのだ。私
1990年代の江南は、思い出として残っている。私が中学校に通って
が見せてあげたかったのも、そんなものなのだ。車に付いている青い
いた1990年代の初め、大峙洞の塾・進学予備校は「韓国学院」しかな
スポンジ。散歩するおばさんたちがしているダース・ベイダーのよう
かった。今では信じられないほど塾・進学予備校が増えた宣陵駅の辺
なマスク。市内のバスで流れるラジオ(どうせならリスナーののど自
りを見ると、まるで見知らぬ場所のようだ。
慢)。深夜0時ごろのタクシーの乗車拒否。床屋のサインポールを一
江南が最先端を走って発展してきたのは事実だ。だが、本当のソ ウルに出会いたいのなら、江北に行くべきだろう。マンハッタンが最 先端のレストランやショップ、ギャラリーの密集地なのは事実だが、
対かかげた風俗店。真っ赤なネオンに彩られた教会の十字架。新装開 店の騒々しい音楽に合わせて踊る、疲れた魂のナレーターの少女」 私が江南で見せたいのも、そういったものだ。マンションの商店
多くの貧しい芸術家が住むブルックリンに熱い視線が注がれているの
街にいくつも並んでいる不動産店。夜ごと塾・進学予備校の黄色いバ
と同じだ。それでも、海外の友達が来ると、私は新沙洞の街路樹通り
スでいっぱいになる大峙洞の風景。週末の真昼の江南駅交差点で、一
の店を見て回る。建築家オ・ヨンウクの『それでも私はソウルが好き
群の人波が群舞でもするように横断歩道を一気に渡る姿。友達とお酒
だ』の一節は、こんな場合に引用するのにうってつけだと思われる。
を飲んで出てくると、客引きがばら撒いていったビラが幾重にも重
「私が、ソウルに来る海外の友達に見せたいこの都市の姿は『日常』
なった新沙洞の路地裏。明かりの消えた清潭洞を一人で歩いていると
だ。…昌徳宮や伝統的な家・韓屋の街では得られない、日常の痕跡が
出会う、華やかな高級ブランドショップの孤独なマネキン…。本当の
刻み込まれた生のままのソウルの記憶をプレゼントしたいのだ。…ソ
江南を見たいのなら、そうしたものに目を向けるべきだろう。(翻訳:
ウルを訪れた外国人の中で、もっとも印象的な感想を語ってくれたス
坂野慎治)
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旧把撥
石坡亭 北岳山
仁川国際空港
北村韓屋
西村
仁王山
光化門
独立門
郵便局 世宗文化会館
普信閣
デジタルメディアシティ
南大門
明洞聖堂
弘益大学校
ソウル駅
国会議事堂
漢江 金浦国際空港
ボラメ公園
ソウル大学校
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韓国の文化と芸術
北漢山 泰陵選手村
貞陵 清涼里駅
成均館
駱山
仁寺洞
東大門
シェラトン・ ウォーカーヒルホテル 南山韓屋村
南山
子供大公園
Nソウルタワー
街路樹通り
高速バスターミナル
江南駅
COEX
良才市民の森
芸術の殿堂
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23 イラスト:ジョン・ジホ
>> 特集 4 ソウル物語
私のソウル 例えば、ソウルにはエッフェル塔やセントラルパークのような象徴的な建物や場所がない。 ソウルは、美しい都市というよりも実用的で機能的な韓国の首都だ。だが、2002年にソウルを 初めて訪れて以来、私は完全に魅了されてしまった。 ダニエル・チューダー(エコノミスト・ソウル特派員)| 写真 : 安洪范, 徐憲康
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00万の人が暮らす大都市ソウルで、人々は成功を追い求めて疲れ果てるまで働 き、芸術を創造して、勉強して、とことん遊ぶ。人間の全ての行為が行われて
いるため、疲れて伸びてしまった人でもない限り、誰もがソウルを愛する何かを見つけ ることができるのだ。 ソウルは、何でもそろっているため、性格を一つに規定できない。先日ある建築 家から、ソウルは江北(漢江以北)と江南(漢江以南)という二つの都市に分かれている と聞かされた。世界を制覇した英雄サイ(歌手)のおかげで、江南はすでに韓国の新興 富裕層(ヌーボーリッチ)の中心として世界に知れ渡っている。江南は、広い街路樹の道と国際的な 摩天楼のため、建築においても江北とは大きく異なっている。 だが私の考えでは、ソウルは二つの地域に分かれているわけではなく、少なくとも10の地域に 分けられる。ソウルは、それぞれの目的とルールが支配する様々な「マウル(街)」が集まった 大都市だ。その中から、私の好きな地域をいくつか紹介したい。
弘大 ソウルの北西部で楽しく遊べる場所の代名詞だ。韓国で暮らし始めたとき、私はたびたびそこを訪れ て、本当に我を忘れて遊んだ。だが弘大の真価は、クラブの出入りや1杯の値段で2杯のテキーラを飲め ることではない。そこには文化が根付いている。目の前にある弘益大学校の芸術学部の学生、近くにある 延世大学校、西江大学校、梨花女子大学校からやって来る学生たちであふれているためだ。 まだ芸術学部に入学していない学生も集まってくる。彼らは、昼は塾や進学予備校に通い、夜には弘大 のライフスタイルの一部になる。古着屋で服を買い、チェーン店ではない個性的なカフェで社会について 考えて、友達同士でつくったインディーズバンドの演奏をミュージックバーで見守る。 インディーズバンドは十人十色。だが、それこそがポイントだ。弘大の音楽は、韓流として海外によく 知られたK-ポップのように入念に企画された音楽世界とは正反対だ。そして、良いバンドは、ほぼ完璧 なレベルにある。私が大好きないくつかのバンドも、全て弘大のインディーズ出身だ。例えば、サード・ ライン・バタフライは1999年から弘大で活動しており、最近4枚目のアルバム『ドリームトーク』を出した。 ファンキーな弘大のバーで、そのバンドのリーダー兼ギタリスト、詩人でもあり音楽を専攻したソン・ギ 弘益大芸術学部や近隣大学校の 学生で込み合う弘大通り
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ワン氏が、人々を楽しませる姿をよく見かける。 私にとって弘大は、何よりも仕事をする場所だ。記者の日常を生きる私が、まるで知的な作家にでも 韓国の文化と芸術
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なったように格好つけてカフェに座り、しかるべき文章を考え出すために、あごをさすりながら宙をじっ と見上げるのに、これ以上の場所はない。そういう人が、私一人だけではないからだ。マックブックを見 つめてカフェに居座り、シナリオの執筆に没頭しているクールガイを目にすることも多い。 だが、それも永遠に続きそうにはない。弘大一帯は急速に商業化しており、家賃は学生にとって次第に 大きな負担となっている。弘大の象徴ともいえるリッチモンドパン店が閉店し、そこにロッテの経営する エンジェル・イン・アスというコーヒーショップができた去年、多くの人がショックを受けた。 芸術家のコミュニティーは、すでに地下鉄2号線から程近い、衰退した工業地域の文来洞などに移転し 始めている。芸術家の集まりは、文来洞の空いている建物に引っ越して、新しい試みを始めた。ひょっと すると、いつか「新しい弘大」が生み出されるかもしれない。実際に弘大も、そのようにして生まれたのだ。 20年前、家賃の高い隣街の新村に住めなくなった才能ある貧しい若者が、新たに弘大を切り開いたのだか ら。
恵化洞 恵化洞は、大学生が主流をなす地域の一つだが、弘大よりも少し高尚だ。恵化洞には、ソウルの独立 系演劇ホールが集まっている。熱情的な若者が愉快に騒ぎ、自身の最新作を広告しながらチケットを売っ て回る場所だ。大道芸も多く見られる。驚くほどの専門性を持ったストリートミュージシャンやパフォー マーらが、いくらかのお金を受け取って、あなたを魅了するかもしれない。 恵化洞の最大の長所は、すてき散歩道のスタート地点だという点にある。成均館大学校の校庭は、それ だけでもとても印象的だが、特に長い歴史を誇る儒教の学舎・明倫堂は、一見の価値がある。さらに、大 学の裏門は裏山につながっている。
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韓国の文化と芸術
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そこから、ソウルを囲む山の一つである北岳山の散策路に入る。その頂上から青瓦台をはっきりと見下 ろせるという理由から、以前は近づくことさえできなかった。北朝鮮の特殊部隊が1969年、パク・チョン ヒ(朴正煕)大統領を暗殺するために青瓦台に侵入しようと、その山を越えたことがある。その作戦は失敗 したが、韓国軍との戦闘は、木に撃ち込まれた銃弾の跡から今でもうかがい知ることができる。
1. 東崇アートセンターでのミュージ カル『深夜食堂』のワンシーン。恵化 洞と近隣の東崇洞では、情熱的な演 劇家による大小さまざま な演劇にい つでも出会える。 2. 東廟の骨董品店
頂上から見渡す風景は、思った通りすばらしいが、下りていく道は、さらにすばらしい。山のふもとは、 まだ完全に都市化の波にのまれていない、そしてまだ真価が知られていない、かわいらしい街・付岩洞だ。 きつい散歩の後、マッコリ(どぶろく)を楽しめる場所でもある。
東廟 東廟は、中国の求めによって17世紀につくられた関羽の廟だ。だが、東廟よりもその周辺が興味深い。 東廟を囲む道と路地には、高齢の人たちが今にも倒れそうな露天を出して、ありとあらゆる奇妙な物を売っ ている。4人乗りの中古自転車、さびついたサックス、韓国の昔の軍事独裁者の肖像画、あるいは古びた タイプライターなど。そうした物の値引交渉をしてみたければ、東廟に行ってみよう。 東廟の買い物客や店主の平均年齢は、およそ60歳以上にみえる。したがって、そこで「漢江の奇跡」以前 の韓国を推し量ることもできる。大声を上げる人、道を歩いていると押し退ける人もいる、洗練とは程遠 い場所だ。それでも親切で活気にあふれている。道端にテーブルと椅子を並べた飲み屋では、味噌チゲ(鍋 料理)や麺類を出しており、江南から来た人には信じられないほど安い。 東廟を訪れたなら、東大門まで充分、散歩できる。東大門は本来、夜間の市場と最先端のファッション で有名だ。だがロシア、中央アジア、その他のアジア諸国、インドからの移住者が集まり、新しい一面を 見せ始めている。いまや東大門は、ソウルで世界各地の料理を手ごろな値段で味わえる場所でもある。 K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
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ソウルは、それぞれの目的とルールが支配する様々な「マウル(街)」が集まった大都市だ。 そのマウルは、地理的に近くてソウルの地下鉄でつながっているという点以外には、 共通点がほとんどない。私は、そんなところが好きなのだ。
汝矣島 汝矣島はソウルの金融街。ガラスと鉄筋の高層ビルは、どこもスーツ姿のストレス中毒人間であふれて いて、とてもシリアスな雰囲気だ。私は時おりミーティングのために、あるいは昔、投資会社で仕事をし ていたつらい日々を思い起こすために、汝矣島に向かう。だが、汝矣島には他の一面もある。漢江の島で ある汝矣島は、夕方には川辺を散歩して、ロマンチックな時間を楽しめる最高の場所でもある。 ローラースケートが好きなら、汝矣島公園がいいだろう。公園は、島を二分するように細長く伸びてい る。本来は飛行場として、日本の統治下でつくられて、後に米軍が使用していた。公園のそばには、白い ドームが印象的な国会議事堂がある。 1975年から韓国の国会が開かれている場所だ。 国会の周りでは当然、様々なデモが見られる。与党セヌリ党の本部がすぐそばにあり、その前の道路は、 不正に抗議する人たちによる交通渋滞に常に悩まされている。政治に関する記事を書くとき、私は近くの カフェの窓辺に座り、ペンを走らせるために必要な雰囲気を感じてみる。
忠武路、明洞 ソウルに住み始めたとき、私は忠武路の小さな2階建ての家を借りていた。忠武路にはフィルムスタジ オがいくつかあるため、時には「韓国のハリウッド」と呼ばれることもある。正直なところ、それほど華や かな場所ではない。だが、そこから南山につながる公園がある。南山は、ソウルの真中にそびえる山だ。 私は2004年の冬、試験のために1カ月間、勉強に集中しなければならなかった。そのときに頭を冷やすた め毎朝、南山に登って、ソウルをぐるりと見渡していたものだ。 明洞は、忠武路から少し離れたところにある。ショッピングストリートとして有名で、いまや日本人と 中国人の観光客には、決して外せない名所となっている。ネオンの明かりの下、ひしめく人波の中を歩き たい衝動にかられたのなら、明洞のロッテホテルの辺りで、無事に通り抜けられることを願いながら人波 に分け入ってみる。 明洞も興味深い場所だ。特に、道端に並んでいる食べ物などの屋台。私が夏によく行く場所でもある。 ソウル市は道路を1カ所、通行止めにして「飲食文化区域」に指定している。だからといって、引き返す必 要はない。そこは今でも変わることなく、明洞の本来の姿を残している。
江南駅 私は江南スタイルではないが、江南駅の周りは間違いなく「私のソウル」の一部だ。コエックスのある三 成洞で仕事をしていたとき、同僚とストレスを発散したくなると、江南駅の近くで豚バラ肉に焼酎を傾け たものだ。そして、歌って無理がかかった喉を休めるために、無料でアイスクリームを出してくれる高級 カラオケ店へと向かった。 最近、江南駅へ行く理由は、その当時とは違う。「夜と音楽の間」は、1980年代から90年代に流行した韓 国のポップソングを流すクラブだ。前へ前へと押し進んできた韓国が、いまや後ろを振り返り、郷愁に浸
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韓国の文化と芸術
り始めたようにみえる。だからこそ、そんなクラブもできたのだろう。そこに集まる30歳代は、DJの流す 様々な曲を聞きながら、幼い日々の記憶を呼び覚ます。そのため、うきうきと愉快で楽しいムードに包ま
漢江の川辺をジョギングし、対岸の ソウルの金融街・汝矣島をながめて 一息つく人たち
れている。イギリス人としてマンチェスターで幼いころを過ごした私には、ナミの1984年のヒット曲『ピ ングルピングル(ぐるぐる)』を聞いて昔の記憶を呼び覚ますことはできない。それでも、思い出に浸ってい る人たちと共に過ごす時間は楽しい。 こうしていろいろな場所を紹介してみると、そうした「マウル」が、地理的に近くてソウルの地下鉄でつ ながっているという点以外には、共通点がほとんどないことに気付く。しかし私は、そんなところが好き なのだ。ソウルには一つの定義でくくれない。だからこそ、ソウルを愛している。ソウルは、全ての人に 何かを提供できる可能性として存在している。ならば、あなたにとってソウルとは何なのだろうか。(翻 訳:坂野慎治) K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
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アート・レビュー
高麗青磁
その繊細な優雅さ 国立中央博物館は1990年以降の韓国陶磁器の研究成果をもとに「天下第一翡色青磁」 特別展を企画、2012年10月16日から2ヶ月間の日程で開催した。編年、用途、象嵌、 名品の4つのコーナーに分かれた展示は韓国陶磁器の精髄だと言える高麗青磁を 多角的な面から理解するのに役立つだろう。 イ・ソヨン(李昭玲、ニューヨークメトロポリタン美術館 キュレーター) 写真 : 国立中央博物館
1
麗青磁の魅力はどれほど普遍的なものか。韓国陶磁器の愛好
も踏んだこともなく、大多数が日本の学者や芸術品のオークションな
家・コレクターであったイギリスの著名な学者ゴンベルツ(G.
いし、コレクターを通じて高麗青磁に接していた。その一例として19
St. G. M. Gompertz) の記念碑的な著書『韓国の高麗磁器』 (1963) にその
世紀後半から20世の初めにアメリカで韓国の芸術品のコレクターの
答えを見い出すことができる。「韓国の青磁にいまだ精通していない
間で最も大きな影響力をもっていた人物は、ニューヨークとボストン
人々にその魅力を説明することは難しいことだ…韓国の陶磁器が皆さ
で骨董品店を経営していた山中定次郎(1866~1936)だった。
高
んを待っているという言葉が適切な表現だ。韓国の陶磁器の特別な魅
アメリカで高麗青磁の真価を最初に発見した人物としては、日
力はその繊細な形態と線、色感、そしてそれらが調和して醸し出す‘静
本の芸術品愛好家および収集家として有名なエドワード・モース
けさ’にある気がする」。華やかな豪華さではない繊細な優雅さがまさ
(Edward Sylvester Morse、1838~1925)とチャールズ・ラング・フ
に高麗青磁の美しさだ。
リーア(Charles Lang Freer、1854~1919)の名前をあげることができ る。モースとフリーアの収集品は現在、それぞれボストン美術館とワ
高麗青磁に対する西欧の初期の関心
シントンのスミソニアン博物館のフリーア&サックラーギャラリー
しかしゴンベルツよりも半世紀ほど前にすでに東アジアに憧れた
(Freer and Sackler Galleries)に所蔵されている。これらの初期のコ
西欧の探険家の中には韓国の独特な磁器文化を発見した人がいた。彼
レクターの中でもフリーアは特に韓国の芸術品に愛着を示し百点以上
らの大部分は韓国の文化や歴史についてよく知らず、韓国の地を一度
の作品を収集し、その中の大部分をニューヨークの山中骨董店で購入
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韓国の文化と芸術
1. 青磁魚龍形注子、水差しの蓋の鱗と 尾の先に白土で点と線を描いている。高さ 24.4cm、胴体の直径13.5cm国立中央博物館 所蔵 2. 青磁童女形硯滴、頭の装飾が蓋の役割を し、手にした瓶の口から水が出てくるよう に作られている。高さ11.4cm、大阪市立 東洋陶磁美術館所蔵 K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
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1
した。
よび日本の有数の博物館に所蔵されている主要青磁を厳選して展示し
中国陶磁器の愛好家たちもまた高麗青磁の価値を認識し始め
た今回の企画展の代表的な作品としては、「伝仁宗王陵出土青磁瓜形
た 。 例 え ば 、 ヨ ー ロ ッ パ の ジ ョ ー ジ ・ ユ ー モ ホ ブ ロ ス( G e o r g e
瓶」など整った器型と落ち着いた色彩を特徴とする翡色の青磁類、薄
Eumoforpoulos,1863~1929)が収集した作品は現在大英博物館と
い緑色の釉薬が施され透明な光沢を帯びた力動的で威厳のある「青磁
ヴィクトリア・アルバート博物館に所蔵されている。アメリカでは
獅子型蓋香」など私たちにも良く知られた傑作品は、高麗青磁の中で
チャールス・ベイン・ホイット(Charles Bain Hoyt,1889~1949)を
もたぶん最も有名な作品で、織物に図案化したように胴体の全面にわ
あげることができ、彼のコレクションは現在ボストン美術館にある。
たり白黒の象嵌を施した円の中と外に、空あるいは下方に向かって飛
また、彼らよりは関心の幅がより多様であった、特にヨーロッパ美術
ぶ鶴と雲を描いた「青磁象嵌雲鶴文梅瓶」、赤褐色で強調した葡萄の蔓
に心酔していた美術品愛好家の中にも韓国の磁器に関心を示した人々
に童子がぶら下がり遊んでいる様子を生き生きと描いた「青磁象嵌葡
がいた。またよくあるケースではないものの、青磁などの韓国陶磁器
萄童子文瓢形注子」とその承盤(台座)などをあげることができる。
に心酔して韓国を旅したりこの地に住んだ人々もいた。前世紀にはよ
これらの遺物以外にも具現するのが難しい銅赤色の彩色で花に生
り多くの、そして相当数の西欧の美術品愛好家と画廊主、博物館の
命を吹き込んだ「青磁銅彩花形盒」、羅漢あるいは阿羅漢の特徴をそっ
キュレーターが高麗青磁に目をとめ、この特別な形態の芸術作品に対
くり備え高麗が仏教を国教としていたことを可視的に示している「青
する審美眼を養った。
磁鐵彩堆花文羅漢像」、そして高麗青磁の白眉ではないものの道教の 儀礼に使われた器物であることを示す銘文が彫られている「菊花文皿」
天下第一
など、珍しい遺物も一緒に展示された。
今日でも依然として高麗青磁は、ヨーロッパと北米の博物館およ び美術館に所蔵された韓国の芸術品の中で最も多く接することがで き、もっともよく知られている韓国の遺物の一つとして残っている。
北米とヨーロッパでの展示 「天下第一」展に展示された作品の一部はすでに西欧で展示された
これら博物館の観覧客が最近、国立中央博物館で開催された「天下第
ことのあるものだ。代表的なものとしては1979年から1981年の間に
一 翡色青磁」展を見たなら、現在まで行われてきた高麗青磁関連の
「韓国美術5千年」というタイトルでアメリカで開催された巡回展をあ
研究結果を最も包括的に集約しているこの展示の内容の深さと幅の広
げることができる。国立中央博物館をはじめとして韓国政府が後援お
さに深い感動を覚えることだろう。国立中央博物館をはじめ、韓国お
よび開催したこの展覧会は観覧客の韓国美術に関する目を開かせた契
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韓国の文化と芸術
1. 青磁獅子型蓋香炉、金属器ではない青磁の香炉 は陶磁器製作技術の発達を意味する。自由な表現 が可能な土の特性を生かし蓋を獅子の形に彫刻し て装飾した。高さ21.1cm、国立中央博物館所蔵 2. 青磁九龍形浄瓶、龍の目は鉄絵具で描かれてい る。精密な彫刻技法と絶頂期の翡色が美しい浄瓶 だ。高さ33.5cm、日本 大和文華館所蔵 K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
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1. 青磁象嵌雲鶴文梅瓶、白黒象嵌をした円の中に は空に向かい飛び立つ鶴を、円の外には下方向を 向き降りたとうとしている鶴を描いている、12世 紀、高さ42.1cm、底直径17cm、潤松美術館所蔵 2. 青磁人形注子、帽子の前の部分の穴から水を 入れ、手で支えた桃の前の穴から水を注ぐように できている。 13世紀前半、高さ28.0cm、底直径 11.6cm、国立中央博物館所蔵 韓国の文化と芸術
「純粋芸術主義者にとってはたぶん官能的な胴体をもった瓶 類から華麗な瓦に至るまで、かの有名な翡翠色をおびた青磁 のすべてがより印象的に迫ってくるだろう。これらの陶磁 器を見ているとなぜ韓国の陶工が極東アジアで最も優れて いると評価されているかうなづける」
機となり、観覧客の意識の中で韓国が東アジア文化圏の中で確かな位
国の遺物を別途に展示
置を占める契機となった。この展覧会ではまた「青磁象嵌銅彩牡丹文
している美術館はほと
梅瓶」など、「天下第一」展でも展示された高麗青磁の中でも至宝の秀
んどなく、従って一般
作と言われるものが紹介された。 1979年「ピープル誌」は5千年展に
観覧客がこれらの遺物
ついて次のように評している。「純粋芸術主義者にとってはたぶん官
にじっくり接する機会
能的な胴体をもった瓶類から華麗な瓦に至るまで、有名な翡翠色はも
もまた全然なかったと
とより、青磁のすべてがより印象的に迫ってくるだろう。これらの陶
いえる。そのため1968
磁器を見ていると、なぜ韓国の陶工が極東アジアで最も優れていると
年の展覧会はアメリカの
評価されているかうなづける」。それから数年後の1984年、これに匹
美術品愛好家およびキュレー
敵する展覧会が「韓国の宝物-韓国美術5千年展」というタイトルでロ
ターが韓国の陶磁の価値を認識し、収集した高麗青磁を一般大衆に公
ンドンで開催された。
開する印象的な場だったと評価できる。
2
天下第一展では現在、日本で所蔵されている高麗青磁もまた一緒 に展示され、その中でも大阪市立東洋陶磁美術館の安宅コレクション
翡色青磁の新しい理解
は西欧でもその価値が広く知られているものだ。高麗青磁の最高峰の
高麗青磁の真価に初めて気付いた初期も今も西欧の美術品愛好家
一つに数えられている「青磁童子形・童女形硯滴」は、人物像の顔から
を魅了させている要素は同じだ。つまり神秘的な翡色と奇抜で才知あ
服飾の微細な模様と服のしわに至るまですべての面で精巧さと魅惑的
ふれる器形、そして実に革新的だと言える象嵌装飾がそれだ。今日に
な美しさがあふれ気品に満ち、大家の作だと思われる。アメリカのい
至りその脈絡だけが違っただけだ。すなわち、韓国の青磁の歴史と美
くつもの美術館でもこの硯滴をはじめとする安宅コレクションの一部
学、さらには韓国芸術全般に対する理解が深くなるに従いこれらの遺
作品を展示したことがあるが、最近では2002年にメトロポリタン美
物を新たな観点からさらにもっと深い部分まで鑑賞できるようになっ
術館で展覧会が開催された。
たということだ。直に接することのできるチャンスが増加したことに
1980年代以前に遡ると1968年に韓国の陶磁の展覧会が北米で開催
伴う結果であることは言うまでもない。海外の博物館に設置された韓
された。ロバート・グリフィン(Robert P. Griffing,Jr.)が企画し「韓
国コーナーの増加は高麗青磁が永久展示され、より多くの観客が韓国
国陶工の芸術」というタイトルでニューヨークのアジアソサエティの
の芸術に接することができるようになったことを意味する。より頻繁
アジアハウスギャラリーで開かれた展覧会だ。この時に展示された作
に接すれば接するほど親密感が生じるだろうし、さらに愛着へとつな
品はシカゴ美術館、サンフランシスコ・アベリー・ブランデージ財団、
がる。これら芸術品がどのように作られて、使用されたかに関する知
クリーブランド美術館、ホノルル芸術院、フィラデルフィア美術館、
識が深まるほど、これら遺物の生涯を再構成するのに役立つ。高麗青
メトロポリタン美術館、ボストン美術館など、アメリカの27の主要美
磁の静かな雰囲気が明るい光と不協和音でいっぱいの世の中と対比さ
術館および個人が所蔵していたものであり、アメリカ内に相当な数の
れ神秘感を増して21世紀観覧客の興味をより一層深めることだろう。
高麗青磁が流入していたことが分かる。しかし今日とは違い当事は韓 K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
(翻訳;金明順)
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世界の中の韓国人
1
ドミニク・パングボーン 偶然がもたらした幸せ デトロイトを拠点に活動する芸術家、グラフィック・デザイナー、事業家、慈善事業家などの肩書き をもつドミニク・パングボーンさんは、『コリアナ』の雑誌を手に席についた。韓米混血児として生ま れ、養子縁組でアメリカへ渡った10歳の子供がその後、芸術とデザインを融合させた様々な分野で国 際的成功を収めた秘訣と人生哲学について話をするために。 マヤ・ウェスト(Maya West、フリーランス作家、翻訳家)| 写真 : パングボーン・デザイン
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韓国の文化と芸術
1. デザイナーであり画家であり、企業家でもあるドミニク・ パングボーンさん。デトロイトにあるパングボーン・デザイン・ オフィスにある仕事場で。 2. パングボーンさんは1980年代初めにネクタイのデザインで 世界のファッション市場から注目され始めた。彼のあだ名が 「タイ・ガイ」になった所以である。
2
週土曜日の夜7時10分に、韓国公営放送のKBS1で「グローバ
ドを尊敬しています」と彼は続けた。「4週間に毎日2時間ずつ教育
ル成功時代」という番組が放映される。世界各地でに成功した
して青少年をマネージャーにするというのは本当にすごいことです
韓国人の人生物語を取り上げたテレビ番組である。 2011年秋に放映
よね!」。その後、大都市に出て有名なシカゴ芸術アカデミーに入学
された成功神話の主人公は、ドミニク・パングボーさんだった。アメ
した時、パングボーンさんは時給3ドルで、ある小さなデザイン・ス
リカのミシガン州に拠点を置く芸術家かつデザイナーである彼は、韓
タジオの見習いとして働いた。その時もすべてのことが急速に進展し
国から養子縁組によって初めて渡米した。放映から1年半が経ったこ
た。「そこで働いて一年が過ぎた頃、上司がやってきて私に言いまし
の日、我々は装飾の美しいパングボーン・デザイン会社の本社で向か
た。「話は聞いたかい?今からお前が俺の上司だぞ」と。「もちろん上
い合って座った。
司は辞めてしまいました」とパングボーンさんは微笑みながら言った。
毎
「本当に忙しかったんです。番組放映後、フェイスブックで友達リ
3年後にパングボーンさんはグラフィック・デザインの学位を取
クエストが2000件もありました」。彼はそのリクエストを全部受け入
得して卒業し、これまでの経験を基にある会社の主席デザイナーとし
れたのだろうか。「もちろんです。一人ひとりのプロフィールを欠か
て営業部長職についた。最初デザイン会社の見習いとしてスタートし
さず読みました!」彼は微笑みながら答えた。一体どれぐらいかかっ
たその経験は、自分の会社を立ち上げて運営する上で必要な修練期間
たのだろう。「そうでずね。実は私、寝る時間は少ないほうで何日も
になった。結果は数年後に現れた。結婚してデトロイトに引っ越した
かからなかったです。大体朝4時から5時にそのリクエストに応えま
後、もっと規模の大きいデザイン会社の主席副社長職まで断わり、彼
した」
はすぐ自分の望みを叶えたのだ。 1979年、まだ20代の若さでドミニ ク・パングボーンさんはパングボーン・デザイン会社を立ち上げた。
成功物語
しかし、それもほんの始まりに過ぎなかった。
すでに60代のパングボーンさんは、白髪が多いにも関わらず40代
現在パングボーン・デザイン会社は数十年間の経験を基に、グラ
半ばぐらいにしか見えない。おそらく彼には「活力」という言葉がぴっ
フィック・デザインのみならず、包装デザイン、製品デザイン、マー
たり当てはまるだろう。「私は何事も素早くやってしまいます。私に
ケッティングの各分野で成長している。さらに興味深いのは若いパン
はスピードがすべてです」
グボーンさんがデトロイトに定着して以来、過去数十年間、地元のコ
実際にスピードや加速度に対する感覚がパングボーンさんの成功
ミュニティーで重要な役割を果たしてきた事実である。彼は50を超
の決め手であるらしい。ミシガン州のジャクソン市に住んでいた15
える理事会と諮問委員会で活動してきていて、数多くの慈善団体にも
才の頃の彼は、英語に対して自信がなくて辛い思いをしたが、マク
深く関わってきた。私がその数に驚くと、彼はこう付け加えた。「実
ドナルドで働いて数カ月でマネージャーになった。「私はマクドナル
は自分も驚きました。私の同僚が関係のある団体の数を数えて50だ
K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
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と言ってね、50ですよ!」。教育分野にも投資している彼は、時々学
を書くとしたら、タイトルを『偶然がもたらした幸せ』とつけるでしょ
校や大学に出向いて学生らと会う。彼はデトロイトの地域議会から
うね」
「新しいグローバル・リーダー賞(Emerging Global Leader Award)」も 受賞した。
1
幸せな偶然
デトロイト市が文化都市として急成長して、割安な家賃を武器に
「今の私は偶然が作り上げたんです」。パングボーンさんはやや憂
全米のアーチストたちを誘い入れた背景には、陰で力を貸していたパ
い顔で話を続けた。「幸せな偶然だったらいいですがね。ある男性と
ングボーンさんに負うところが大きい。後に会社の本社になったリ
女性、ある米軍と私の母の偶然な出会いでした。どんな出会いだった
バータウンウェアハウスの、長く続く白い屋根のビルを見つけた時、
かは分かりません。実際知りたくもありませんが。ただし、そんな出
その建物の中は1mも水に浸かっていて、屋根は崩れかかっていた。
来事があったことは嬉しいです」
パングボーンさんはその建物を購入し資金を投入して造り替えた。広
1952年に韓国の忠清道でチョン・ソンフンという名前でドミニク・
いスペースを持つその建物は現在のスタジオとギャラリーに衣替えし
パングボーンさんは誕生した。だが、彼は生まれて10年間は外の世界
た。
と離れて孤立した生活を余儀なくされた。彼が住んでいた所は12世
我々が座って話し合う間、明るくよく整った部屋の一面に展示さ
帯ばかりの小さな村であったので、混血児という彼の事情はそんなに
れた多彩なパングボーン・デザインのネクタイとスカーフが目を引い
問題にならなかった。「我々は孤立した部族みたいにお互いを頼って
た。大胆なデザインでパングボーンさんは世界の舞台に自分を初めて
暮らしていました」と彼は説明する。「親族同士が集まって暮らしてい
披露し、1980年代初めにはファッション業界で名声を得た。色やパ
ました。わが村ではチョン氏族、隣の村にはキム氏族とパク氏族が集
ターンに独特な美的感覚を表現する彼の商品はサックス・フィフス・
まって暮らしていました」。本当に彼はいじめられなかったのか。「キ
アベニュー(Saks Fifth Avenue)とノードストローム(Nordstrom) など
ム氏族の子供たちからいじめられましたね。二人だけでしたが、私の
の高級売り場で販売された。 30年が過ぎた現在もパングボーンさん
大胆な性格が気に食わなかったらしい。二人は私を“アメリカ野郎”と
のアクセサリーは会社の主な収入源である。ファッション業界での成
呼んだりしました」。パングボーンさんは「そんなこと私には大きな問
功と、彼に付いたあだ名の「タイガイ」について質問するとパングボー
題ではありませんでした。母の方がもっと辛かったでしょう」と何事
ンさんは手を振りながら和やかに話した。「それは本当に偶然でした。
もなかったかのように言った。
面白半分で始めただけなのに、ことがうまく行きました」。椅子に背
他の子より早くも物心ついた少年ソンフンは、クラスで断然トッ
をもたれかけながら彼はさらに言った。「仮に自分の人生について本
プの成績で、いつもクラスの班長に選ばれた。 1962年に彼のお母さ
38
韓国の文化と芸術
んがアメリカへの養子縁組を決心するようになった背景には、こうし た彼の才能も一因しただろう。村のカトリックの宣教師がソンフンを アメリカに連れて行って、彼に最高の条件の家庭を見つけてあげると 言い出した。そうすることで混血児として韓国で受ける差別も避ける ことができると彼の母親を説得したのだ。パングボーンさんのお母さ んは息子に決定をゆだねた。彼は留まることもできたが、しかし、村 の向こう側の世界を全く知らない、そして一言の英語も話せない10才 の少年はアメリカ行きを決意した。 彼を迎え入れたパングボーン家は既に11人の子供のいる家庭だっ た。振り返ってみて、育ててくれた養父母にパングボーンさんは感謝 の気持ちで一杯だ。だから彼は毎月2~3回、ジャクソン市に住む 90才の養母を欠かさず訪問する。ところが、アメリカに着いた当時 は新しい変化そのものが試練だった。「私はいきなり賢い子から愚か な子になってしまいました。読み書きはもちろん、話すこともできま
2
せんでした。馬鹿になったみたいでした」と彼は当時の自分を表現し た。「自分だけが後戻りするように思われました」。彼は4年生から再 スタートするために半年も待たされた時の辛さを今でも鮮明に覚えて いるのだ。 しかし、今になって考えてみると、そんな辛さそのものが幸せな 偶然であったのかもしれない。そのおかげで高い評価をもらえたのだ から。そして、高校2年生になって初めて美術の授業を受けた。「誰 でも自由にスケッチをして絵を描くことができることが分かったんで す!」。彼が自分の才能に気づいたのもこの授業の時だった。また、数 年後に芸術アカデミーに入学して間もなく、彼は同級生の英語が自分 の英語の実力とあまり変わらないことに気づいたのだ。 「教授の話は私の方がもっとよく理解していたんです」 それからの彼は驚くべき成果をあげていくが、その過程で人々は 彼によくどこからインスピレーションを得るのかと訊ねた。彼はその 質問にすべてのインスピレーションは韓国からきたものであると答え る。彼は私にこう説明してくれた。「1950年代、韓国の田舎はほぼ廃
3
墟状態だった事実を理解する必要があります。ところが、私はそれが 好きだった。なぜなら、そこから想像力が出てくるからです。ものが 無ければ何かを作るために考えなければなりません。ちょっと、買っ
1.“All Good Things” (2010) 、30 x 60 x 10 cm。アルミパネルの創作 2-3. パングボーン・デザインは現代的であるが、伝統的な茶器 セットを始め、家庭用品にまでビジネス領域を広げている。
てくればいいじゃん、とは考えないでしょう。川辺の泥を揉んで玉を 作り、お母さんのために石油ランプの作り方も工夫しました。そんな 記憶は昨日の出来事のように今もはっきりと覚えています」
百本の矢 パングボーンさんは突然頭上の電灯のスイッチをオフにした。す ると、洞窟のようなスタジオ別館は緩やかに闇の中に陥った。午後か K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
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1. パングボーン・デザインならではのスタイルが 目を引く数々のアクセサリー 2.“Lisa’s Garden” (2005) 、60 x 90 cm. oil on canvas。パングボーンさんの最近の絵の傾向を 表している。 .
1
ら夕方に変わる時刻の冬の日差しが数枚の高窓のガラスを通して入り
は同時に幾つかのプロジェクトを進めていると言えますね。的に百本
込んでいた。私の周りの絵が光を放ち始めた。花や蝶が現れ、その光
の矢を射ると、少なくとも数本は当たるでしょう。一本が的の真ん
景に私が驚いていると、パングボーンさんはさながら子供のように喜
中に命中することもあるんですよ」。へこたれない楽観主義、疲れを
び笑った。彼の作業場を見て回る間、私は川辺で泥だんごを作りなが
知らないエネルギーこそ、彼の人生哲学だった。彼はこう言い切る。
ら喜ぶ幼い少年のことを容易に想像することができた。彼の人生の片
「世の中には泣き言や愚痴をこぼす人が多い。そんな人々に対して私
鱗が現れ、彼の目は悪戯っぽくさらに輝いた。ドミニク・パングボー
はこう言いたい。うまくやれると思ったら、思う存分やってみろと」
ンさんは本当に自分の仕事を愛する人だった。
彼個人にとって重要な問題であり、韓国でも論議が絶えない海外
5年前まではパングボーンさんにとって純粋芸術は単なる趣味に
養子縁組についても、彼の見解は一貫している。国内養子縁組を奨励
過ぎなかった。彼の本業はデザインだったから。しかし、DIY模型や
するために、法で海外養子縁組の機会を制限することは厳しい環境を
コンピューター・プログラムの拡散でグラフィック・デザイン分野に
克服してよりよく生きるチャンスを奪うことと同じだと、彼は自身の
起こる変化に逆らえなくなると、パングボーンさんはまた新しい変
生き方から考えている。韓国にまだ家族(彼は現在、韓国の兄弟と連
化にチャレンジすべき時期がきたと確信した。その結果は周知の通り
絡を取り合っている)が残っている人の見解であるだけに興味深い。
の、成功を収めた。ミシガン州のパーク・ウェスト・ギャラリー(Park
彼が結果的に成功を収めたとしても、養子縁組という経験はパ
West Gallery)でも購入できる彼の作品は大ヒットした。彼のスタジ
ングボーンさんという個人にとっては辛い経験もあった。例えば、
オを見て回りながら成功の理由がすぐに分かった。絵画だけでなく、
1980年代始めの頃、韓国の家族のために十分なお金を稼いだと思っ
彫刻や床に敷かれた絨毯にいたるまで、見る人を想像の世界へと誘う
て、初めて韓国を訪れた時、彼は既に「5年遅かった」事実に気づいた。
媒体がすべてに網羅されている彼の作品は、その芸術的才能と優れた
彼の産みの母は既に亡くなっていた。「私は母を愛しています。生き
ビジネスのバランス感覚に長けている。彼の芸術は居丈高だったり恐
ていたらと思います。我々は皆多くのことを希望します。しかし、育
怖を与えたりすることなく、関心を引き出して楽しんでもらうことを
ててくれた方も私の親です。私は養子縁組されたからといって、母を
目的としている。例えば、ある3Dシリーズは角度を多様に変えたり、
失ったわけじゃありません。お養母さんとお養父さんを得たんです」
巧妙に調節したりすることでギャラリーの回廊が長く見えるように錯
「私はよく“進化”という表現を使います。この言葉こそ私の人生を
覚させる。これは中に吸い込まれるように感じさせる視覚的トリック
一番良く表しています。私はすべての物事が自然に流れてきて、ま
である(この作品の12mバージョンは現在、マイアミ・マーリンズ・
た流れていくことが好きです。そして、常に柔軟に立ち向きたいです
ボールパーク・スタジアムに掛かっている)。これと同じく、暗い媒
ね。早く変わる必要がある時は、変わる準備ができているのです。運
体にペイントで鮮明な光を加えることで輝く蝶や花はパングボーンさ
転していて、赤信号になったら、私はすぐハンドルを切って迂回しま
んが購入者に向かってウィンクしているようだ。すべてが好意的に関
す。もうお分かりでしょう?私は常に運が良かったんです!」
連しているわけだ。 「私は一度に一つのことしかしません」。私が周囲のさまざまなプ ロジェクトの多さに驚いていると、彼はこう言い変えた。「いや、実
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彼は再び微笑みながら「私は何事も前向きに変えられます」と言っ た。彼の生き方そのものがその事実を証明していることを誰も否定で きないだろう。(翻訳:趙祥恩) 韓国の文化と芸術
「私は一度に一つのことしかしません。いや、実際には様々な仕事を一度にす ることができます。的に百本の矢を射ると、少なくとも何本かは当たるで しょう。また、一本が的の中央に命中するかも知れませんね」
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2
巨匠
1
42
韓国の文化と芸術
ソ
ウルの江北地域(漢江の北側)には伝統文化や伝統工芸を間近で見たり、接する ことのできる空間がいまだ数多く残っている。その代表的な地区が代々、家業
として伝統工芸を継承している匠たちがたくさん暮らしている北村だ。キム・ドクファ ン(金徳煥)金箔匠の工房「金箔宴」も小さな韓屋が立ち並ぶ北村の嘉会洞にある。
5代にわたり続いている金箔匠の命脈 金箔とは一般的に金の塊を薄く叩いて伸ばしたものを指すが、韓国では接着剤を利 用して対象物に金箔を施す技術も金箔という。世界的には、エジプト古代王国の黄金 時代である第4王朝(BC2613-BC2494)で使われていたというのが最も古い金箔に関す る記録だ。韓国では統一新羅の興徳王(在位826-836)の時代に身分に従い服の金箔使 用に制限をつける制度があったという内容が歴史書『三国史記』に出てくる。 小さなㄷ字形をした韓屋の金箔宴の門を開けて中に入ると、濡れ縁や扉などあちこ ちに金箔の作品が展示されている。青い絹のしおりに施された牡丹の金箔やスマート フォンケースの龍の金箔、ボウタイの梅花の金箔などは日用雑貨の品格を一段と引き 2
立てているようだ。 展示された品々が放つ強力な金色も、金徳煥さん(重要無形文化財第19号金箔匠保持 者)の鋭いまなざしに合えば、その威力がなくなるようだ、今年79歳の金徳煥さんの力強いまなざしは「生 涯金色を見つめ続け、金箔を施す仕事をしてきたから」だという。
金箔を施した布地の仕上げをする金 徳煥金箔匠(上)と彼の作品、紅圓衫 の龍金箔の胸背部分
最近では金箔匠といえば単純に織物の上に金箔で模様を施す職人だと思われがちだが、伝統金箔の工程 は実は非常に複雑で細かい作業が何段階にも渡って行われた。朝鮮時代(1392-1910)王宮の金箔匠には、 金を製錬する匠、金を薄くきれいに伸ばす匠、金箔の模様を木に彫る匠、膠を作る匠、布に金箔を施す匠 など、段階別に何人もの技術者がいた。 「最近私は金箔工場で金箔を買ってきて、その段階から作業を始めます。韓紙に包んだ純金の塊を何日
5代にわたり続く家業の金箔 重要無形文化財(第19号金箔匠保持者) キム・ドクファン 北村にある「金箔宴」は金箔を家業として受け継いでいる匠の工房だ。先代は王家の礼服用の金箔が主 な仕事だったが、今はスマートフォンのケースやボウタイの金箔作業もしており、工房は自由に見学 もできる。 パク・ヒョンスク(朴炫淑、フリーライター)| 写真 : 徐憲康 K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
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1
1. 華麗な金箔が輝く紅圓衫(王妃の大礼服)。金徳煥金箔匠が大 韓帝国末期の遺物である金箔模様をそのまま再現したものだ。 2. 雲の間を飛ぶ鳳凰模様を彫った金箔版(上)と、この金箔版で 施した鳳凰模様(下)
もかけて朝から晩まで叩き続けて、息をしただけで飛んでしまうよ うな薄さにするのが一番大変な作業だったのですが、この仕事を最近 はしなくなりました」。機械を組み立てる仕事が面白くて技術者にな りたかったという金さんは、老いた父親が大変そうにしているのを見 て、宿命だと思い家業を継いだという。「丹精込めて金箔を完成させ たときの、その喜びはまさに私一人のものです。その気持ちは誰にも 理解できないでしょう」 最近は金箔匠として経歴10年目になる息子のキム・ギホ(金基昊、
から5代目の息子の金基昊さんへと続く。
45歳)さんと、嫁のパク・スヨン(朴秀英、45歳)さんが側で手伝って いるが、金徳煥さんがその手を休めることはない。
金箔版と糊の重要性
金徳煥さんの家は1856年、朝鮮哲宗(1849-1863)のときに金箔を
華麗な仏教文化を花咲かせた統一新羅と高麗では仏画や写経を金
始めた。彼の曽祖父の金完亨(キム・ワンヒョン)氏は当事、王宮の品
銀泥で装飾し、僧侶の服にも金箔が使われていた。しかし儒教を国教
物を調達する下級官職についていたが、宮中行事に必要な絹織りの礼
とし、仏教を弾圧した朝鮮時代に入ってからは自然と寺刹の華麗な金
服を中国から輸入する仕事もしていた。しかし行事の日程に合わせて
箔模様は衰え、王室のみその使用が認められた。しかし王家でも普段
礼服を調達することができないこともたびたびあり、その代案として
の服には金箔を施すことはなかった。また模様にも厳格な身分の制限
金箔を礼服に施すことになった。金箔を施した礼服を輸入の金織礼服
があり、皇女の服には花紋だけが使われ、王妃の服には花紋と鳳凰紋
の代わりにしたのだ。金は王家の権威を象徴するものであり、金箔の
が、王の母である大妃の服には花紋、鳳凰紋、龍紋がすべて使われた。
工程は宮廷内だけで行われた。したがって金徳煥さんの祖父の金元淳
金箔版には高貴な身分を象徴する文字、花、果物、鳥、昆虫、動物、
氏と父の金慶龍氏は二人とも宮廷内で金箔匠の仕事をしていた。今年
幾何学模様などが彫られた。
で156年続いている、この金箔匠の家門の命脈は4代目の金徳煥さん
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「わが家に代々伝わる金箔版だけでも800個余りになります。素材 韓国の文化と芸術
「丹精込めて金箔を完成させたときの、その喜びはまさに私一人 のものです。その気持ちは誰にも理解できないでしょう」
としては堅固な山梨の木だけを使い、完成した金箔版は精巧な彫刻が
ない、完璧な美しい彫刻でした。頭の中に刻んだ図案をそのまま表現
損傷しないように大切に扱っています。私の両親は金箔版を守るため
できる才能があったのです」
に朝鮮戦争の時にも避難しなかったといいます」 金箔の工程はまず紙に模様を描き、それを木版に接着させて彫刻 し金箔版を完成させる。次に糊を作り金箔版に塗り、金箔版を布地の
父の天才ぶりを記憶している息子の金徳煥さんはその記憶をもと に今日もより美しい金箔を作ろうと夢見ている。彼は「父は芸術家で、 私は技術者」だという。
金箔をする位置に押しあてる。布地についた糊が完全に乾く前にそ
朝鮮王朝が幕を閉じ、日本の植民地時代を迎えた20世紀の前半に
の上に金箔を乗せて、乾燥させて仕上げるという手順で作業が行われ
金箔の服は段々と両班の間に、そして民間でも婚礼や還暦宴などのお
る。簡単そうに見えるがそれぞれの工程ごとに熟練した匠の技量はも
めでたい席で着る服として広がっていった。今日でも特別な行事の時
ちろん、布地と金、糊の性質などに対する深い理解がその根底になけ
には金箔の服を着る人々がいる。金さんは言う。「韓服を着る文化の
ればならない。
中で生きてきた人々が金箔の美しさを忘れずにいます。金箔はただ華
最も重要なことは金箔版に彫られた彫刻が完璧でなければならな
麗なだけの紋様ではありません。昔は祖母が孫や孫娘の1歳のお祝い
いという点だ。その次には糊だ。布の厚さとその布に使われる染色に
の時の服に金箔を施しました。よくできた金箔は一生、その紋様と輝
よって糊の種類と濃度が違ってくる。糊の濃度には金箔を施す日の
きを失いません」 (翻訳:金明順)
天気も十分に考慮しなければならない。 1954年に金箔に入門した後、 60年近く糊を扱ってきた匠は主に魚のニベニカワで作られた伝統膠 に対する理解をもとに10年あまりの開発工程を経て植物の油と松脂 を主材料とした改良糊を開発した。
「父は芸術家、私は技術者」 匠の父、金慶龍氏は口数が少なく、息子に対してもいちいち説明 しながら金箔技術を伝授するではなく、手伝わせることで自然と身に つけさせるようにした。 「父は手先が器用なだけではありませんでした。考えてみると、天 才彫刻家だったと言えます。いつでも図案なしに数百個の模様をその 場で版画にしていました。さまざまな大きさの金箔版は一つの歪みも K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
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2
韓国大好き
詩を通して見た韓国 マームード・アハメド・アブドゥル・ガファール(Mahmoud Ahmed Abdul Ghaffar)教授は1990年代にカイロ大 学で、外国人にアラビア語を教えたことが契機となって韓国と縁を結ぶようになった。彼からアラビア語を教 わった韓国人留学生たちが帰国した後、若くて優れたアラビア語の先生が話題になったのだ。彼はそのおかげ で韓国でアラビア語を教えることになり、そして韓国語と韓国詩を勉強することになった。 ナ・スホ(那秀昊、韓国外国語大学校 通訳翻訳大学院教授)| 写真 : 安洪范
マ
ームード・アハメド・アブドゥル・ガファール教授は故郷の味が少しでも感じられるというソウル都心 にあるエジプト・レストランに我々を招待した。そして「マームードと呼んでください」と言いながら、
西洋の名前とはちょっと違うアラブの名前について説明してくれた。「ガファール」は「許し」という意味で、99 種類にのぼる神様の名前の一つであり、「アブドゥル」とは「~のお使い」を意味すると教えてくれた。学生たち は度々彼を「ガファール様」と呼ぶが、その都度彼は失笑しながら「頼むからそう呼ばないでくれ。私は神様じゃ ないから」と答えたりすると言った。 マームード教授はカイロ大学で詩を専攻し首席で卒業した。エジプトでは首席卒業生にその課で教える機会 が与えられる。その後は、修士課程から博士課程へ進学して、教授に昇進したりする。このシステム通り、マー ムード教授もカイロ大学のアラビア語文学科で詩を教えるようになった。授業の中で外国人のためのアラビア 語の講義も受け持ったが、それが契機となり韓国に来るようになったのだ。
新しい文化への適応 1998年、マームード教授は留学生たちにアラビア語を教え始めた。「新しい教授法を探していたんです。当 時、参考書のほとんどは、ただ学生が文章を棒読みするだけの内容でした。それで私は英語の教授法からアイ デアを得てアラビア語の授業にその方法を導入しました。効果があったと思います」と彼は言う。彼にアラビア 語を教わった留学生たちが韓国に帰った時、このすばらしいアラビア語の先生について語っていたことからす ると、マームード教授の試みはかなり効果があったらしい。光州にある朝鮮大学校と連絡を取り合ってから3 年後、そこでアラビア語を教えるようになり、博士課程で勉強することになった彼は奨学金ももらえるように なった。朝鮮大学校には彼の博士論文を指導できる韓国人のアラビア学教授がいなかったため、博士号はソウ ルにある明知大学校で取得した。 2006年に韓国に来た彼は、今年7月頃にエジプトに帰る。 韓国での生活は容易ではなかった。イスラム教徒である彼には食べ物に制限があり、特に飲酒禁止の戒律は 韓国の人々との交流を難しくした。アラブ文化と韓国文化の違いのため、韓国の生活に慣れるまでかなり時間 がかかった。「アラブ文化の人々はかなり解放的な面があるが、韓国で対話の相手といえば、タクシーの運転手 さんぐらいでした」と言いながら彼は、家でのんびりすることが好きな自分の性格も一因だったことを自ら認め た。「自分の本と音楽、食べ物がある限り、私は家にいるのが幸せです。たまに買い物に出かけることもありま すが、外の出来事にあまり関心はありません」 韓国の文化と社会に適応する過程で難しい面もあったが、彼は研究には熱心だった。もちろん、その最初の
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韓国の文化と芸術
課題は韓国語の習得だった。アラビア語と韓国語は非常に異なる言語
図書館で英語に翻訳された何冊かの韓国の詩集を見つけた。彼は詩人
であるため、なかなか難しかった。ところで、彼にとって未だ韓国
コ・ウンの作品に魅了されたが、マームード教授はコ・ウンがジャン
語は難しく、韓国語を練習する機会がもっとあれば良いと考えている
ルの境界を行き来するアーチストだと説明する。「コ・ウンさんは単
が、韓国の人々が韓国語を母国語としない人々に配慮しない話をする
なる詩人ではありません。彼は詩の形態、あるいは形式を借りて小説
ことへの不満を吐いた。「韓国の人に『こんにちは』と挨拶すれば、直
や短編小説を書く小説家です」。さらに、彼の言う境界はそれだけに
ちに政治や経済などについて話し始める。そして、それにうまく答え
とどまらない。「コ・ウン自身は、自分が南と北の境界に立っている
られないと、テーマをやや易しいものに変えようとはせず、話すのを
と言いました。政治的には二つの国ですが、韓国と北朝鮮の人々は同
やめてしまいます」。それでも彼は韓国詩を勉強するために、ほぼ3
じ民族であるので、彼はそういうふうに区分することを拒んでいま
年間韓国語を勉強した。
す」 博士論文のテーマを決める時点で彼は、研究対象のテキストの一
韓国の詩をアラブ世界に紹介する 韓国に来る前、マームード教授はカイロにあるアメリカン大学の
つにコ・ウンの詩集である『南と北』を、そしてキム・クァンギュの『上 行』を選んだ。彼はこの二つの作品をして、詩に現れている場所の持
二人の韓国現代詩人の詩集をアラビア語に翻訳したマームード・アハメド・ア ブドゥル・ガファール(Mahmoud Ahmed Abdul Ghaffar)教授。現在、朝鮮大学 でアラビア文学を教えている。今年の夏にはエジプトに帰国するが、韓国文学 を研究し、アラブ世界に紹介する仕事を続ける予定だ。
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つイメージ、特に「故郷(あるいは田舎)」と「都市」に関係のあるイメー
を読み取る能力は存在するものと存在しないものとのギャップを埋め
ジを中心に、エジプトの詩人の作品と比較した。彼は現代エジプト詩
る能力です。読者は詩を読みながら意味を想像していきます。詩にお
と現代韓国詩に現れた故郷のイメージがあまり変わらないことを明ら
いては、たった一つの意味だけが存在することはありません。読めば
かにした。「ある詩人について書こうとすると、まずその人が韓国の
読むほど、その間隔をもっと正しく埋めることができれば、重要な意
詩人なのか、それともエジプトの詩人なのか、しばらく手を休めて自
味に近づくこともできます」
問自答するくらいでした」 しかし、都市のイメージにおいては大きな違いが見受けられた。
それでは詩を他の言語に訳す過程で、存在するものと存在しない ものをいかにして保存すればいいだろうか。マームード教授は翻訳の
実は、彼の学問的探求は現代詩の中で都市がいかに取り扱われている
スタイルを作品に対する翻訳家の解析を反映して訳す解析的翻訳と、
かという点からスタートした。エジプトは西洋の列強による植民地
原作に忠実に従いながら読者にその解析を託す、この二つの翻訳方法
支配の歴史が長かったため、都市が人間性の破壊を象徴するように
に区分している。彼が追求しているのは後者であり、彼は自分の作業
なった。さらに、アラビア語で15回以上も翻訳されたT. S.エリオット
を次の比喩表現を用いながら説明してくれた。「翻訳とは料理の味付
(Eliot)の『荒野(The Waste Land)』などの西洋詩は、アラブの詩人た
けのためにスパイスを入れることと同じです。スパイスを入れても、
ちが用いるイメージに大きく影響を及ぼした。「T. S.エリオットやそ
食べる人がその料理がどんな食べ物なのか見極めなければなりませ ん。食べた人がシェフに「こ れは何という食べ物なのか」
彼は現代エジプト詩と現代韓国詩に現れた故郷に対するイメージが ほぼ同じであることを明らかにした。「ある詩人について書こうとす
と聞いたとすれば、それは 失敗です。 翻訳にアラブ的な色彩を
ると、まずその人が韓国の詩人なのか、それともエジプトの詩人な
添えながらも、原文の精神
のか、しばし手を休めて自問自答するくらいでした」
を維持するために、彼はア ラブ語の流暢な韓国人指導 教授と一緒に作業に取り掛
の前代のウォルト・ホイットマン(Walt Whitman)の西洋詩では、都
かった。作業には4年もかかったが、マームード教授はその結果に満
市がどんな対象に対しても全く信心がない場所として描写されていま
足している。さらに、彼の翻訳は韓国詩をアラビア語を母国語とする
す。そしてエジプトの詩人たちもカイロを信心のない都市だと呼んで
アラブ人が初めて翻訳したという意味合いを持つ。マームード教授の
います。カイロに数千個のモスクがあるにも関わらず。因って、韓国
作業は韓国文学をアラブ世界に紹介する上で、重要な足がかりになっ
の詩も西洋都市のイメージから影響を受けたのかどうか、知りたくな
た。
りました」 その答えは、少なくともキム・クァンギュの詩を見る限り「ノー」
彼は自分の研究分野である韓国現代詩の研究範囲を広げ始めた。 昨年12月に彼は韓国とエジプトの現代女性作家を比較する研究論文
であり、その点で、マームード教授はエジプト詩の未来に希望を持つ
を発表した。彼が見つけた両国の女性作家の間に見られる一番大きな
ことができた。彼は「韓国とエジプトは驚くほどよく似ています。歴
違いは、文章を書く自由の度合いである。エジプトの女性たちは他の
史的背景、最近の状況、ひいては文学の動向もほぼ同じです。現在エ
アラブ諸国、特に湾岸地域の女性よりは社会的にみて、より自由な立
ジプトで起きている出来事は、韓国で40年前に起こったことに似てい
場ではあるが、それが文学の創作にまで保障されているとは言い切れ
ます」と言う。さらに彼は韓国が過去数十年間で成し遂げた発展を詩
ない。「現在の韓国の女性作家たちはアラブ世界の女性作家より、もっ
の側面にとどまらず、政治面においても非常に希望的兆しとして見て
と自由に様々なテーマを扱っています。アラブの女性作家たちは、
いる。「明日は今日よりもよくなるという希望があります」という彼の
セックスや夫婦間の問題などについて語ることを怖がります。彼女ら
声は確信に満ちていた。
の夫たちがそれをフィクションとして受け止められず、夫の主観的判
もちろんマームード教授の研究は韓国の詩を読んで分析だけには
断を甘受しなければならず、時には結婚生活が犠牲になる場合もあり
とどまらない。彼は自分が研究する作品の翻訳作業も行っている。詩
ます」。アラブの女性作家の大多数が未婚だったり、離婚経験者であ
は母国語で書かれた作品であっても読み取るのは容易ではない。「詩
ることと無縁ではないらしい。
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韓国の文化と芸術
エジプトに吹く韓流ブーム
のドラマに出てくる男性のロマンチックなイメージに惹かれて韓国の
韓国に滞在する外国人の中でアラブ人の占める割合はさほど多く
男性と結婚するために韓国に行きたがっている若いエジプト女性もい
ないが、アラブ世界と韓国との関係はかなり長い歴史をもつ。マー
るという。「彼女たちに『気をつけてよ。現実は違うよ』といくら注意
ムード教授は9世紀のアラブの地理学者であるイブン・フルダ-ズ
しても聞き入れない」とマームード教授は笑いながら首を振った。
ベ(Ibn Khordadbeh)が書いた『道路と王国(The Book of Roads and
一方で彼は、韓国人のエジプトに関する知識の豊富さに感心して
Kingdoms)』について語った。この本には新羅に関する内容も書かれ
いた。もちろん、古代エジプトとピラミッドなどの遺跡については誰
ているが、アラブ人がよく訪れて、暮らしやすい所だったと記され
もが知っている。「エジプトが近代化された国家である事実さえ知ら
ている。しかし現代に入り、1988年のソウル五輪や2002年ワールド・
ない人もいて、たまに笑ってしまいます。エジプトの人々が今もラク
カップ大会の開催などは、エジプト人にあまり知られていなかった。
ダに乗って移動すると思っている人もいます」と笑う。しかし韓国人 の多くは近代国家としてのエジ プトのことをよく知っていると 話した。「人々が自分の故国につ いて知っていて、また関心を持っ てくれると嬉しいです。私の祖 国を特別で偉大な国に作り上げ たエジプトの人々に感謝してい ます」 話しの途中、マームード教授 はアラブ文化の開放性について 説明するためにアラブのことわ ざを教えてくれた。「エジプトで もっとも基本的な食べ物はパン と塩です。食物を買うお金のな い貧しい人々はパンに塩をつけ て食べます。それでエジプトに は「我々の間にはパンと塩があ
朝鮮大学校を訪れた高校生たちと話し合うマームード教授
る」ということわざがあります。つまり、食物を分け合うと、血縁関 係を結ぶことになり、家族の一員になったも同然です。アラブ文化に おいてパンは生命の象徴であり、パンを分かち合うことは暮らしを分 かち合うことを意味します」
ところが、韓流ブームはエジプトでも巻き起こり、今やエジプトの若
彼の話を聞いていて、彼が韓国に対しても同じ感情を抱いている
者の間で韓国ドラマの人気は熱い。また、エジプトの市場には韓国の
ことがはっきり分かった。7月になると彼はエジプトに帰るが、彼は
製品が溢れている。「現代や大宇、起亜などはエジプトで上位3位の
韓国と密接な関係を維持したいと思っている。彼は韓国詩を引き続き
自動車ブランドですよ」とマームード教授は語り、サムスン電子とLG
研究するだけでなく、カイロ大学に韓国語文学科を開設するという希
電子の電子製品も品質の高い製品として知られていることも付け加え
望も持っている。「カイロ大学には14の言語学科があります。日本語
た。
科は設立から50年以上もなり、中国語科も8年目です。韓国語科が
マームード教授は韓国に対する高い関心について語りながらに
開設されれば、きっと歓迎されるでしょう」。彼の取り組みによって、
こっと微笑む。「最近、韓国を訪問したがる若者は本当に多いですね。
韓国とエジプト両国の文化の絆がさらに強くなることを期待する。エ
彼らはここで勉強したり仕事をしたいと思っています。韓国の追っか
ジプトに帰った後も、韓国はいつまでも彼の心の中にあるだろう。
けファンになってしまった若者はとても多いですよ」。さらに、韓国 K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
(翻訳:趙祥恩)
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オン・ザ・ロード
お茶三昧の至福 茶畑のある家々を訪ねて、お茶の葉っぱを摘んでもいいか尋ねるうちに、 お茶を作るようになった。そしてついに、私の夢見ていた茶畑ができた。 お茶ができるまでの間、私はずっとその香りに酔いしれて暮らす。 パク・ナムジュン(朴南濬、詩人)| 写真 : リ・チャンス, 安洪范, 徐憲康 1
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韓国の文化と芸術
K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
1. 山を取り囲むように広がる宝城の茶畑 2. 河東花開の野生の茶畑
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2
よ
く茶畑に遊びに行ったりしたものだ。南は済州道や宝城、智異山の麓にあ る河東のように規模の大きい茶園から、淳昌、金海などの山麓に広がる小
規模の野生の茶畑やお寺の周辺の静かな茶畑までも歩いて見た。広大な茶畑を眺 めたり畑の中に腰を下ろしたり、のんびりと心地良い想いに浸った。私もいつか はお茶を作って見る機会があるだろう。自らいれたお茶を客人と一緒に飲みなが ら語り合う幸せを夢みていた。そして、その夢は図らずも実現した。
私が夢見た茶畑 どういう縁のめぐり合わせか分からないが、韓国の南部、慶尚南道河東郡岳陽 面智異山の麓に引越してきた。岳陽は春になると、背の低い石塀が続く路地裏ご とに、お茶を炒める青い香りが溢れる。新茶が出るとあちこちでお茶を飲みに来 てと誘われる。お茶のもてなしを受けながら、お茶の味について品定めをしても らいたい主人の心が伝わってくる。そのようにしてお茶をつくる人々に出会った。 緑茶作りの要領もお隣の作業を手伝っているうちに自然に身についた。 引っ越してきて3年目のある春の日、お茶を作って見た。それ以来、ここに住 んでいて一番の楽しみといえば、ほかならぬお茶づくりになった。葉っぱを摘む ことから自前のお茶をいれて、初めてその香りを嗅ぐ瞬間までが、この上ない幸 せである。 初めから自分の茶畑があったわけでなない。ただ、茶畑を所有している家々を 訪ねて、葉っぱをちょっとだけ摘んでもいいかと尋ねているうちに、お茶を作る ようになった。私のことが隣人の耳に入ったらしく、その家のそばに茶畑がある が、今はお茶を栽培していないから、一度見て気に入ればお茶を栽培してもいい と伝えてきた。岳陽に住んでいるという畑の持ち主は、そこで手放し状態の茶畑 を購入し、その一角に家を建てて、河東邑内で歯科院を開業している方だった。
1. 草衣禅師がお茶用の水に使っていたといわれる 海南大興寺の一枝庵の泉 2. 小痴許錬が晩年を過ごした珍島の雲林山房
1
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韓国の文化と芸術
2
その家の傍を流れている小川に沿った山麓の所々に立つ 梅の木陰や大きな岩間で育ったお茶の木々は、私の背よ りも高く、2m以上の巨木がほとんどだった。手入れも
発酵茶づくり ところが、お茶作りは始めから終わりまでどれひとつ簡単ではなかった。辛 かった。
せずに10年も過ぎたため、野生の茶畑状態だった。その
緑茶を炒る釜がなかったので、ほとんど向こう村の友の家で炒った。初めは緑
茶畑を見て回っている間、胸の奥で澄んだ鐘の音がこだ
茶ばかり作ったが、今では新芽を摘む日だけ緑茶を作って、後はもっぱら発酵茶
まするように広がった。「ここだ!夢見ていた茶畑じゃ
を作っている。自分にはどうやら緑茶よりは発酵茶の方が合うらしかった。わが
ないか!これからは茶畑の主の顔色を伺う必要もなく、
家を訪ねてくる客人たちも発酵茶のほうを気に入ってくれた。お茶を栽培しては、
葉っぱを摘めるんだ!」
少しではあるが、お茶の好きな知り合いにもおすそ分けした。直接栽培したと言っ
私は口笛を吹きながら小さな黄色いスクーターで村 を走り回った。一人で葉を摘む時間は新しい瞑想の世界
たら、知り合いの夫婦が自分らも一度、一緒にお茶づくりに挑んで見たいと言い 出した。
へと私を導いてくれた。葉を摘む指先から、袖に触れる
彼らと一緒に葉を摘み、お茶を作った。韓国の西南部の全羅北道全州に住むそ
葉っぱから、葉を揺るがす春風からも青いお茶の香りが
の夫婦は、茶摘みの前日に我が家を泊りがけで訪れて、翌朝早く茶畑に出て葉を
霧のように立ち上がった。
摘んだ。一人でやっていた時とはまた違う味わいがあった。時折り手を休めて腹
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1. 茶山丁若鏞が18年間も流人生活を送った茶山草堂 2. 摘んだばかりのお茶の葉を熱い釜で炒める。炒めては 揉む過程によってお茶の味が決まる。
1
山奥の小さな家。わが家を訪ねてきた客人に「お上がりになってお茶でもいかがですか。 緑茶にしましょうか、発酵茶にしましょうか」と聞く。
ごしらえしようかと呼んでも気づかないほど作業に夢中だった。一枚、一枚と葉
ほど繰り返す。
を摘む度に、すがすがしい生の葉っぱの香りがあまりにも爽やかで、疲れている
甕の中の茶葉が熟成する。手で触れて見ると、真昼に
ことや腹が減っていることにさえ気づかなかったという。幼い頃の遠足の光景と
暖められた甕の表面はまだ熱い。蓋を開けて香りを嗅い
少しも変わらない。おやつタイムの時も我々は、まるで子供のように葉っぱを摘
で見る。うーむ。まろやかなお茶の香りが前庭に広がっ
む楽しさに浮かれて興奮気味でしゃべり合っていた。
ていく。日が沈んでいく。昼の間、日差しの下にあった
緑茶は摘んだ葉をその日の内に炒めて乾燥させるのに対し、発酵茶は複雑な過
お茶の甕を全部部屋の中に入れておく。
程と時間をかけてはじめて、味わいのあるお茶になる。作り方は人それぞれで少 しずつ違う。私が会得した自己流の発酵茶の製造過程は大体次の通りである。 摘んできた葉を陰干しにして一晩置き、翌日に日向干しにして乾燥させる。日
お茶の香りに酔いしれて お茶を作る間、私はずっとその香りに酔いしれて過ご
差しの強さによって30分から1時間ほどその乾燥状態をみて、また陰干しをする。
す。葉っぱを摘む時、風に乗ってやってくる柔らかい緑
葉っぱを手のひらで包んで見て、壊れずすっと包まれる感じがしたら茶の葉を揉
色の香りに微笑み、茶葉を炒めながら香る香りに、茶の
み始める。つくり方は釜で炒った茶葉を円を描くように揉めばいい。その後、も
葉が発酵して部屋中を満たすお茶の香りで自分の体が雲
う一度日陰干しで乾燥させる。このように、同じ過程を夕方までに3~4回繰り
の上に浮かんでいるようだ。そのため、お茶三昧から到
返して行う。作業の途中に緑色だった茶葉がだんだん褐色に変わっていく様子や、
底抜けられない。山の谷の小さな家、何を出そうか。客
そこから漂う香りは言葉に表現できないほど魅力的である。
人に話しかける。「お上がりになってお茶でも一杯いかが
上記の過程を経た茶葉を甕に盛って、暖かい部屋の中で布団をかけて温度をあ
ですか。緑茶にしましょうか、発酵茶にしましょうか」冬
げておく。茶葉が酸化する過程で大量の酸素を必要とするので、1時間に一度ぐ
が去って春が来た。春風に乗って「わたし、わたしはここ
らい、甕の蓋を開けて茶葉を裏返してあげる。 20時間から24時間ぐらいの発酵過
です」と、薄緑色の愛らしい新芽がささやく。(翻訳:趙
程を経た後、甕の中から葉を取り出して陰で乾かす。よく乾燥した茶葉をまた甕
祥恩)
に戻して、昼の間は日差しに晒し、夜には甕を暖かい部屋の中に置く過程を10日
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韓国の文化と芸術
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2
ブック・レビュー
双方向のコミュニケーションを志すK-リット(K-Lit)全集
『バイリンガル・エディション:韓国現代小説』 第1次。 『負傷者とまぬけ (The Wounded) 』
(イ・チョンジュン作、ジェニファー・リー訳、141頁、6000ウォン/$7 (他14巻。図書出版アジア (2012)
最近、韓国に対する外国人の関心が高まっている。韓
若手作家の代表作までが網羅されている。開放後の韓国
国に留学する外国人学生も増え、世界的に見ても韓国語講
作家の作品を分断、産業化、女性、自由、ソウル、愛と
座や韓国学科の新設も急増している。韓国の歴史や文化に
恋愛、アバンギャルド、伝統、ディアスポラなどのテー
対する関心の高まりを好機ととらえ、韓国をもっと深く理
マに基づいて分類しているのが特徴である。これから出
解してもらうためのツールが切に求められる。ところで、
版される予定のパッケージには、開放以前の時代を代表
韓国への理解を深めてもらうためには韓国文学はうってつ
する短編も多数含まれている。
けの教材である。例えば、昨年世界各国で翻訳されて出版
同シリーズは韓国内はもちろん、アマゾンやアラジン
されたシン・ギョンスク (申京淑) の 『ママをお願い (Please
USなどのサイトを通じて海外でも販売されている。前学期
Look After Mom) 』 は、文学作品として普遍的共感を得るこ
にハーバード大学、ワシントン大学などで教材として採択
とに成功し、同時に韓国という国を知らせるのにも大きく
され、今年もコロンビア大学を始め、アメリカの有数の大
貢献した。韓国初のアジア文学の専門文芸誌であり、韓
学で採択される予定である。コロンビア大学のシアドア・
国唯一の韓英対訳雑誌である『アジア』を発行してきた「図
ヒューズ教授は「この対訳シリーズは一般の読者や、韓国
書出版アジア(Asia Publishers)」 (英文対応ウェブサイト
と韓国語、韓国文化に関心のある学生たちに貴重な資産に
www.bookasia.org参照) が、昨年7月に最初の15巻を出版
なるだろう」と評価した。他の文化圏でも韓国語と文化を
『バイリンガル・エディション:韓国現代小説』 シリー した
学ぼうとする人々にも良い教材として歓迎されている。
ズはこうした現実のニーズに応えている。 この企画には作家バン・ヒョンソク、評論家のイ・
なかったことへ果敢にチャレンジしたという点で、一種
ギョンジェなど、韓国文学界における重鎮とハーバード
の発明であると言っても過言ではない。『バイリンガル・
大学の韓国学研究所のデービッド・マッケン(David R.
エディション:韓国現代小説』シリーズは翻訳を通して世
McCann)教授、韓国文学の英語翻訳の権威であるカナダ・
界とコミュニケーションを図ろうとする、少数言語文学
ブリティッシュ・コロンビア大学の韓国文学科のブルー
としては初の試みである。これまで韓国を含めてアジア
ス・フルトン(Bruce Fulton)教授などが参加した。韓国
やアフリカの多くの国が、少数言語で書かれた作品を主
現代文学の成果を代表する作品として、作品の長さと
要な言語に翻訳して、主な言語圏のマーケットに切り込
テーマが外国人の読者たちにも受けそうな中・短編の中
もうと試みてきた。しかし、作品の中に二つの言語を併
から100作を選定して5年を越える作業の末、初めての
記して双方向のコミュニケーションを、これほどの規模
実りを結んだ。
で試みた例は前例がない。その意味からも、『バイリンガ
第1回分の15巻にはパク・ワンソ(朴婉緒)、オ・ジョ
ル・エディション:韓国現代小説』は、西欧大国中心のグ
ンヒ(呉貞姫)、イ・チョンジュン(李清俊)な
ローバル化ではなく、世界各国が肩を並べているという
ど、解放後の韓国文学の大家たちの作
意味合いで、真のグローバル化に向けて歩みだした一歩
品が入っている。今年上半期に
といえる。
出版される予定である第2、3
今後、同企画の編集陣のみならず、学会や政府などに
回分の35巻にはイ・ムンヨルな
よる綿密な検討を経た標準案が設けられて、韓国文学の
ど、解放後の大家の作品からキム・ エラン(金愛爛)、パク・ミンギュ(朴 ミン奎)、キム・ヨンス(金衍洙)など、
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二つの言語が併記された文学全集の企画は、誰も試み
グローバル化がさらに促進されることを期待する。 チョン・スンヒ (全丞姫、ハーバード大学校韓国学研究所研究員) 韓国の文化と芸術
韓国の伝統リズムを奏でる二重奏 キム・ヘスク、チェ・オクサム流の伽倻琴散調 伽倻琴キム・ヘスク、太鼓ユン・ホセ (オコラ・ラジオ・フランス (OCORA Radio France) 発刊、45分10秒、$24.43
散調は誕生から100年ほどしか経っていない韓国の伝
の音楽性を生かして旋律を増やしたり削除したりするこ
統音楽だ。朝鮮半島の西南部の音楽様式を基に発展し、
ともできる。さらに弟子に自分の持つ散調バージョンを
主に20世紀の半ばから後半に流行った独奏曲である。韓
教え、弟子 たちは師 のバージョンを基に、自分の音楽
国の伝統音楽の基盤が17~18世紀に整ったのに比べて、
世界を実現した散調を構築してきた。師弟関係を通じて
散調の誕生や発展が遅れたのには理由がある。演奏者の
形成された散調はこのような活動を通して一定の「流派
キム・ヘスク教授はその理由についてアルバムの解説で
(school)」を作ってきた。よって、散調の流派には歴史
次のように説明している。 「感性をもっと表現する方向へと音楽
的に有名な演奏者の名前が付くようになった。例えば、 キム・ジュッパ(金竹坡、1911~1989)
史に変化が生じ、それに忠実な形態の
という伽 倻 琴の名人によってリズムが
音楽が現れ、その上に芸術的な演奏技
誕生して伝承・発達した散調はキム・
量のある専門の演奏者も登場した。そ
ジュッパ流の伽 倻 琴散調、ハン・ガプ
うした状況の基に、声楽曲であるパン
デゥック(韓甲得、1919~1987)という
ソリは人を泣かせたり笑わせたりする
コムンゴの名人によって誕生して伝承・
音楽として発展し、幅広く受け入れら
発達した散調はハン・ガプデゥック流
れるようになった。このような変遷を
のコムンゴ散調と呼ばれるわけだ。
経て誕生したのが器楽の独奏曲である
このアルバムでキム・ヘスクが演奏
散調である。“語らないパンソリが散
した散調はチェ・オクサム流の伽 倻 琴
調”といえるほど、散調はパンソリの音楽語法を前向きに
散調であり、20世紀半ばの伽倻琴の名人チェ・オクサム
変容させ、世代を経るにつれて即興的な内容から定型化
(崔玉三、1905~1956)によって形成・発達した伽倻琴散
する過程が見られる。つまり、韓国の音楽史において散
調である。この散調はハンドンジョンウォル(咸洞庭月、
調は既存の音楽から脱し、新しいジャンルの形として生
1917~1995)名人によって洗練を極め、飛躍的な発展を
まれた器楽独奏曲であり、長い歴史を持つ韓国の伝統音
遂げた。キム・ヘスクはハンドンジョンウォルに伽倻琴
楽を素料にしながら、それがさらに凝縮された賜物であ
散調を学び、早くも20代から伽倻琴演奏者として頭角を
る」
現し始めた。同世代の演奏者の中でも、卓越した技量で
初めての散調は伽倻琴散調であり、伽倻琴という楽器 も散調のおかげで新たに注目されるようになった。その
自信に満ちた伽倻琴演奏を披露してきた彼女は、伝統音 楽の理論家でもある。
後、散調という新ジャンルは旋律を演奏できる大琴、笛
このアルバムはフランスの国営ラジオ・フランスが
を始めとする様々な管 楽器とコムンゴ(韓国の琴)、ア
2010年から推し進めてきた「韓国音楽プロジェクト」の
ジェン(韓国の伝統的な弦楽器)などの弦楽器に広がった。
最初の結実である宗廟祭礼楽に続く2番目の成果である。
最近はピアノ散調、ギター散調なども登場している。散
キム・ヘスクが太鼓演奏者(鼓手)のユン・ホセと息を合
調はチャンゴ(鼓の一種または太鼓)との二重奏ともいえ
わせた45分間の伽倻琴散調演奏を盛り込んだアルバムで
る。
あり、20世紀における韓国の伝統音楽の精髄を味わ
散調の旋律は朝鮮半島に定着し生きてきた人々の歴 史と暮らしを背景に形成され受け継がれてきた。演奏者
う機会を提供してくれる。(翻訳:趙祥恩) チェン・ジヨン(全志暎、音楽評論家)
は師に学んだ旋律だけを繰り返すのではなく、自分自身 K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
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遠くの目
〈東アジア比較説話学〉 の新世紀を拓くために 昨年(2012)12月15日にソウルの崇實大学校を会場として、韓国日語日文学会と日本の説話 文学会との共催によるシンポジウム「古典の翻訳と再創造―東アジアの『今昔物語集』―」、 ならびにラウンドテーブル「日韓比較研究の諸問題」が開催された。韓日両国はもとより、 中国やベトナム、フランスなどからも多数の参加者があり、熱心な討議が展開されたが、 そこから見えて来たものは何か。 ますお・しんいちろう(増尾伸一郎 東京成徳大学人文学部教授)
今
回のシンポジウムで取り上げられた『今昔物語集』は、12世紀初期に日本最大の説話集である。撰者 は未詳で、一部欠佚を含むものの、全31巻1,080話に及ぶ。構成は天竺(インド) ・震旦(中国) ・本朝
(日本)の各部を、それぞれ仏法と世俗に分けており、<仏法東漸>を基軸とした、当時の世界観である三国 意識を反映する。 中国とその周辺の漢人・漢文文化圏に属する地域との関連も深いことから、中国・韓国・ベトナムで翻 訳作業が進められており、パネリストには、その中枢を担う張龍妹(北京日本学研究センター)、グェン・ティ・ オアイン(ベトナム社会科院・漢喃研究院)、李市埈(韓国・崇實大学校)の3氏が迎えられ、各国における 『今 昔物語集』を中心とした日本古典文学の翻訳と研究をめぐる現状と課題について、詳細な資料をもとにした 報告がなされた。 日本における『今昔物語集』研究の牽引者である小峯和明氏(立教大学)の基調講演では、伝奇・志怪や伝 記、霊験譚をはじめとする正統的な<漢文小説>に対して、<説話>は民譚・昔話・街談巷説など口承性を より色濃く包含するものであり、漢文文化圏に広く流布することを多方面から論じた。その上で、日本にお ける『今昔物語集』研究の先駆者の1人である南方熊楠(1867~1941)の手稿や書入れを紹介しつつ、比較説話 学の方向と可能性を考察するとともに、欧米における翻訳・研究の歩みと課題についても言及した。 アジアの各国で『今昔物語集』を中心とする説話文学研究と翻訳を推進する人々が、一道に会して行われ たシンポジウムは、臨場感あふれる<知の交響>といった趣きを呈した。 その後、会場を移して開かれたラウンドテーブル「日韓比較研究の諸問題」では、シンポジウムの内容を 受け、説話の日韓比較研究の今後に向けた課題の共有を目指した。 4名の報告者の最初は松本真輔氏(韓国・慶熙大学校)で、比較研究の方法と資料をめぐる諸問題について、 13世紀末に僧一然が仏教故事を集成した『三国遺事」と日本の『古事記』や『日本書紀』との関係、その留意点を 中心に考察し、長年にわたって現地調査と資料収集を続けている韓国の寺院縁起の比較研究についての成果 を踏まえた報告がなされた。 次いで江戸時代の小説を中心に、東アジア文化圏における比較研究を精力的に進めている染谷智幸(茨城 キリスト教大学)が、日韓比較文学研究から東アジア文学研究へ、グローバルな観点から転換をはかること
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韓国の文化と芸術
韓国日語日文学会と日本の説話文学会との共催によるシンポジウム
の重要性を論じた。近世以前の日本における中国中心主義と、近代以降の西欧中心主義の間から朝鮮(韓国) が、なぜ抜け落ちたのかを、東アジアの中での日韓というスタンスから根本的に捉え直す必要があるという 提言は、幅広い文学史研究に裏打ちされており、きわめて説得力をもつものであった。 続いて韓国側を代表して金鍾德氏(韓国外国語大学校)が、近年までの韓国における比較文学研究の動向 を要約したうえで、韓日比較の場合には、上代(古代)と近代に研究が集中し、その間を対象とするものはほ とんど見られないことを指摘した。そのうえで専門の『源氏物語』や『宇津保物語」などにも言及しつつ、欠落 した中古・中世への注視を促した。 最後に筆者(増尾)が、東アジア比較説話学の形成と民俗学との関連をめぐって、ちょうど1世紀前から本 格化した歩みをたどった。 1904年に『比較神話学』 (博文館)という先駆的な著作を刊行した高木敏雄(1876~ 1922) は、日本民俗学を創始した柳田国男・南方熊楠と盛んに情報交換を行い、西欧の成果に深く学びつつ、 新たな東アジア比較説話学の方法を模索していた。高木が1912年に発表した論考「日韓共通の民間説話」は、 文献説話が素材の大半を占め、口承資料があまり用いられていないという限界はあるにせよ、最初の本格的 な比較研究であり、当時の政策に沿ったいわゆる日鮮同祖論などとは一線を画するものとして注目に値す る。 日本ではその後、柳田国男による<一国民俗学>が中心を占めたこともあって、南方や高木らの比較説 話・民俗学が大きく開花することは近年までなかったが、1920年から32年にかけて日本に留学した孫晋泰 (1900~1950以降、消息不明)や、戦後、長く留学生活を送った崔仁鶴らによって、その視点や方法が継承 されたことを論じた。 司会を担当した竹村信治氏(広島大学)は、今後、日韓両国で共有していくべき主な課題として次の諸点 を挙げた。 1)比較という方法そのものをめぐる問題。 2)そこにおいて求められる視座。 3)日韓比較文学研 究の現状。 4)説話をめぐる日韓比較研究の歴史である。各報告はそれぞれの立場から、この課題に答えよ うとしたものであり、その結果、全体討議は白熱し、かなり時間を延長することになった。 なお、このシンポジウムとラウンドテーブルの詳細は、近く出版される〈説話文学会50周年記念論集〉 (日 本・笠間書院)に収録される。 K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
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エンタテインメント
公営放送の果敢なチャレンジ
「本を読んでくれるラジオ」 韓国のあるラジオ番組で「聞く読書」という実験的な番組を放送している。一日に11時間も本を読んでくれる 教育放送(EBS)FMの「本を読んでくれる ラジオ」 という番組である。同番組は今年3月で一周年を迎える。 イム・ジョンオプ(林鍾業、韓民族新聞記者)
も
ともとEBS FMチャンネルは外国語教育をメインに、中でも英語の読む、書く、話すプログラムを一日 に21時間放送してきた。聴取率は1.5~2.0%にとどまったが、英語学習に関心の高いリスナーには人気 があった。ところが、この放送局が昨年の3月から、放送時間の11時間を本を読んでくれる時間に 割いたのだ。通常テレビ番組やラジオ番組の読書関係の時間の割合は、一日15分前後、ある いは一週間に50分程度である状況を考え合わせるとかなり異例の時間割である。初めて放 送を聞いたリスナーの反応は「画期的だ」と「とんでもない」に分かれた。
読まぬなら聞かせよう 出版関係者の集まりである韓国出版人会議と文化体育観光省による本の販売部数の 調査によると、2010年には前年に比べて8.5%減少し、2011年には7.8%の減少であっ た。昨年の2012年にはさらに10%近く減少したものと推定される。ここ8年間で町の 書店の数は29.3%も減少した。この現象はネット書店が図書定価制(再販価格制 度)のルールを揺るがし、割引率の高い処世術に関する本を購入す る読者が増える中、多種多様な本が出版されなくなったこと と無関係ではない。また、決まった答えを求める受験制度の 影響で青少年の本離れ現象はさらに進み、インターネット とスマホの環境も活字離れをさらに加速させた。逆を言え ば、「本を読んでくれるラジオ」は本を読まない時代が生み 出したプログラムであるといわざるを得ない。 「ラジオの聴取率や影響力の低下を乗り越える方法を 模索するなかで、語りで感動を与えようということに意 見が一致しました。ところが、以前からほとんどのラ ジオ放送では、リスナーの日常話などが主な素材でし た。そこで選んだのが本でした。他の番組と差をつけ るために思い切って『本を読んでくれるラジオ』にしま した。感性メディアであるラジオと本は相性が良い
60
韓国の文化と芸術
と思いました」とキム・ジュンボム(金埈範)製作部長は番組誕生につ
とリスナーの反応を根拠に、知的好奇心が強く寂しい人々が主な聴取
いて明かしてくれた。
層になって番組を支えていると見ている。リスナー参加コーナーや ネットの掲示板を通して、朝の番組に参加していたリスナーが夕方
原作に忠実に語る
の番組でも出会えることもしばしばあるという。さらに、放送当日
「本を読んでくれるラジオ」は月曜日から金曜日まで朝10時に「大人
の朗読に先立って前日までの作品のあらすじを要約したり、ネットの
のための童話」からスタートして、夜11時に「英米文学館」で終える。
掲示板に掲載された感想を紹介したり、また、作品に関するクイズを
その間には「詩のコンサート」、「随筆コンサート」、「短編小説館」、
出して当てたリスナーの中から選んでプレゼントを贈るなどの取り組
「名士(または読者)が読み聞かせる一冊の本」、「古典を読む」、「ブッ
みが功を奏したと評価している。あるリスナーは「本を読んでくれる
ク・カフェ」など盛りだくさんの内容で構成されている。土曜日には
ラジオ」が「聴読」という変わった境地を開いてくれたと評価し、「本は
午前10時から午後8時までリスナーの手紙を生放送で流し、日曜日
理解ができなければいつでも読み返すことができるので、気を抜くこ
には同時間帯に一週間に朗読された作品のダイジェスト版を再放送す
ともできるが、ラジオはその一瞬を聞き漏らしたらリピートできない
る。
でしょう。さらに集中して聞きますね。積極的な読書行為といえます
朗読する作品はリスナーたちに親しまれて、少なくともタイトル
ね」と話していた。
くらいは知られている作品の中から選定する。より耳を傾けてもらう ためである。これまで、近代・現代の韓国文学の歴史において、名前
「本を読むタクシー」の登場 「本を読んでくれるラジオ」
の知られた作家たちの短編・長 編小説、本屋の店頭に並べられ
は「EBSバンディ(bandi)」という
るほど人気のあった作品、イプ
ソフトをダウンロードすれば、
センやオ・ヘンリーなど海外の
ネットや携帯電話でも聞くこと
有名作家たちの名作が放送され
ができる(http://home.ebs.co.kr/
た。ラジオ連載小説では、小説
bandi)。放送を聞き漏らした場
家キム・ヨンスの『波が海のこと
合はホームページ(http://www.
であれば、』ファン・ソギョン(黄
ebs.co.kr/index.jsp)が無料の
晳暎)の『せせらぎの音』など、単
オーディオ・ブックの役割を果
行本化される前の作品も紹介さ
たしてくれる。
れた。作品は原作通りに朗読す
今春、教育放送は再編を通し
るのが原則である。会話文の多い小説を朗読する際は、気持ちを込め
て新しい試みに挑む。土曜日の10時間の生放送では、リスナーの手
てドラマチックに読み上げる。教育放送所属のアナウンサー、演劇俳
紙ではなくリスナーの創作作品を選定して朗読する予定である。さら
優、声優、歌手、著述家、芸人などそうそうたるメンバーが、番組の
に、朗読された作品は本にし出版することで、一般の人にとっては作
進行や朗読のために参加したりする。本の語り手の感性、熟練度はも
家への登竜門にもなる。また、『洪吉童伝』、『春香伝』、『沈清伝』な
ちろん、作品の持ち味が生かされているかによって、リスナーの傾聴
ど、韓国の古典文学を現代風に脚色し、外国語に訳して放送する計画
度に影響するので、スタッフは語り手の選定には慎重にならざるを得
もある。外国人にとっては韓国の古典文学に触れる機会になると思わ
ない。ひとコマの放送時間は短くて20分、長いものでは2時間にも及
れる。
ぶ。
この放送の成敗を云々するのはまだ早い。聴取率が跳ね上がった
専門家らはリスナーが朗読に没頭する時間を最長15~20分だと見
り、朗読された作品がベストセラーになるという指標も見当たらな
ているが、放送側は1~2時間ぐらいなら集中することには問題ない
い。ただ、車の窓に「本を読むタクシー」と書いて、終日同放送を流す
とみている。2時間の番組「ブック・カフェ」を担当するソン・ヒジュ
タクシーの登場には励まされる。この放送のおかげで運転しながら本
ン(孫煕俊)プロデューサーは「最初は反応がいまいちかと心配してい
が読めるようになったと喜ぶタクシーの運転手さんたちが、昨年9月
たが、リスナーが作品の主人公になったつもりで番組に集中している
20日に 「本を読むタクシー」 を立ち上げた。今日も彼らは乗客と一緒に
ことを確信するようになった」と言う。番組のスタッフは去年の成果
本の朗読を聞きながらソウルの街を走っている。 (翻訳:趙祥恩)
K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
61
グルメを楽しむ
春には卵がいっぱいのメスを、 韓国ならではの特別な蟹料理といえば「コッケタン(蟹なべ)」と「ケジャン(蟹の醤油漬け)」だ。 特にケジャンは韓国人にとって「ご飯泥棒」とまで言わせるほどの最高のおかずだ。 イエ・ジョンソク(芮鍾碩、漢陽大学経営学部教授、飲食文化評論家)| 写真 : 安洪范
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韓国の文化と芸術
秋には身の詰まったオスを 蟹
は誰からも愛されている食材だ。世界のどこの国でも海があれば必ずといって良いほ ど蟹が獲れ、地元の人々はその獲れたての蟹を使った料理を楽しんでいる。サンフラ
ンシスコのフィッシャーマンズワーフや香港の鯉魚門(レイユームン)のような海産物の名所が どこにでも一箇所くらいはあるもので、そういうところの食堂やレストランには近海で獲れた 蟹が山ほど積み上げられている姿をよく見かける。特に蟹好きの日本では、都会の大通りを歩 いていても大きな蟹の姿をした看板のレストランが多数目に付く。しかし蟹好きと言えば、世 界中で韓国人に勝る民族もいないだろう。
コッケタンとケジャン 韓国人の蟹好きの歴史は朝鮮時代にまでさかのぼる。朝鮮初期の文臣、金宗直(キム・ジョ ンジク、1431-1492) は、 斫玉片還隨箸 はさみを切り白い肉に箸が触れ 破腹金穰自滿匡 腹を割り中には金色の身がぎっしりと、その味を賞賛している。 同じ時代の徐居正(ソ・ゴジョン、1420~1488) も、 東坡居士宜偏嗜 東坡居士(蘇軾)はもともと蟹が非常に好きだったというが 我亦年來抵死憐 私もまた近年になり、蟹が死ぬほど好きになったと言っている。 韓国人はこのように蟹に熱狂し、どこの国の人びとよりも蟹をいろいろな方法で調理して 食べてきた。 19世紀末に著された料理の本『是議全書』には蟹焼き、蟹煎油(茹でて蟹を卵で包 んで焼いたもの)、蟹の塩辛、蟹蒸し、蟹なべ、干し蟹など、いろいろな料理方法が載っている。 1809年に出版された女性生活百科『閨閤叢書』にはいろいろな蟹の料理法はもちろん、蟹を育 てる方法、保管法、食べ合わせ(一緒に食べて良い食材と良くない食材)、食用の時期、有毒な 蟹の識別方法、ケジャンをたくさん漬ける方法(生きたままの蟹に特別な餌を与えて蟹の醤油 漬けの風味要素である内臓が多くなるようにする秘法)まで載っている。韓国に暮らす英国人 飲食コラムニストのティム・アルファは「西洋でカニ料理は単純に蒸して調理したものがほと んどなのに比べて、韓国人はコッケタン(蟹なべ)とケジャン(蟹の醤油漬け)という独特な蟹料 理を発展させてきた。タイの代表的な蟹料理のプー・パッ・ポン・カリーとともに、これらは
卵がいっぱい詰まった新鮮なメス蟹で作ったコッケ鍋。鍋に味噌と唐辛子の粉を溶き、 新鮮なコッケと大根を入れてひと煮立ちしたら、蟹を取り出し甲羅をはがして食べやすい 大きさに切り、たまねぎ、赤唐辛子、青唐辛子、春菊などの野菜と一緒に入れて煮立てる。 K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
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1. ケジャン。醤油に玉ねぎ、粒胡椒、にんにくなどの香辛料を入れて 煮立てて味醤油を作る。冷ました味醤油に生きた蟹を漬けて熟成させ て食べるという、韓国だけの特別な料理方法だ。 2. 春、秋の蟹漁のシーズンには都市の水産市場でも産地直送の活きの 良い生きたコッケを買うことができる。
私が選んだ地球最高の3大蟹料理だ」と記している。彼はまた蟹の醤 油漬けの味に感嘆して「驚くほどソフトで深い味のする恍惚的な料理 だ。生きた蟹を醤油に漬けて保管するという考えは、実に単純に見え るが、結果は本当に驚くべきものだ。果たしてこんなアイデアを他の どんな国が思いつくだろう」と綴っている。
味は甘い 蟹は全世界に4500種が存在するが、韓国の近海では180余種類が 獲れるという。その中でも韓国人が最もよく食べる蟹がコッケ(渡り 蟹)だ。コッケはその旬が一年に二度ある。春には産卵前の卵のぎっ しり詰まったメスがおいしく、秋には気候が寒くなるにつれ段々と身 の詰まったオスがおいしい。オスとメスの区分は、いわゆるヘソと呼 ばれる腹の模様でするが、オスは尖臍といい三角形で尖っており、メ スは団臍といい先が丸い。コッケを漢字では 蝤蛑 、撥棹、矢蟹と書 き、それ以外にもコッチレ、サルクゥエ、コッケなどと呼ばれる。地 方によってはナルゲコッケ、コックイとも言う。英語圏ではコッケを “swimming crab” というが、1814年に丁若銓 (チョン・ヤクジョン)の 著した魚類研究書『玆山魚譜』にも「大体、蟹はみんなよく這いずり回 るが、泳ぎはうまくない。しかし、この蟹だけは扇のような脚で水の 中で泳ぐことができる」といい「これが水の中で泳ぐと、大きな風が来 る兆しだという。味は甘みがある」と言及している。 韓国では旬だといっても常にコッケを思う存分に食べられるとい うわけではない。コッケの供給は南北が対峙している韓国の政治状況 と密接な関係があるからだ。韓国のコッケの収穫量の半分以上を占め る仁川甕津郡と江華郡の西海5島一帯は、北朝鮮と非常に近く軍事的 な緊張感の高い地域だ。北朝鮮の挑発があればすぐに操業が禁止され るので、そうなればコッケはしばらくの間お目にかかれなくなる。以 前の延坪島海戦のときもしばらくの間、漁業活動が禁止されたため コッケの値段は天井知らずに跳ね上がり、庶民の口には入らなくなっ てしまった。韓国人だけが抱えている悲しい現実だと言うほかない。
鮮度が命 蟹料理を最もおいしく食べる秘訣は産地に行き食べることだ。蟹 を遠くの地方まで流通させると鮮度が落ちたり、蟹がストレスを受け
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韓国の文化と芸術
2
甘みがあり、生臭くない新鮮なコッケ(ワタリガニ)は何と いっても鍋にして食べるのが一番おいしい。だから産地の西 海岸で獲れたてのコッケを使って作るコッケタン(蟹なべ)は 最高の蟹料理だと言える。
て身が痩せ、味も落ちてしまう。甘みがあり、生臭くない新鮮なコッケは何といっても鍋にし て食べるのが一番おいしい。だから産地の西海岸で獲れたてのコッケを使って作るコッケタン は最高の蟹料理だといえる。 前述の『是議全書』には、昔ながらの蟹の食べ方が次のように紹介されている。「蟹の黄色の 内臓と黒い内臓をそれぞれかき出し、黄色の内臓は卵をまぜておき、油醤で味をつけ、胡椒、 ネギ、生姜などをよく混ぜて味噌汁を作る。味噌汁が十分に煮えたら卵を落とす」 この内容から想像すると、蟹の内臓だけを利用して蟹汁を作ったようだ。品良く食べるた めの両班用の調理法ではないかと思う。しかし現代人にとって、ぎっしりつまった身をほじく りだしながら食べることは、行儀が悪いとは言えない。鍋に味噌と唐辛子の粉を溶き、大根を 入れてひと煮立ちしたら、背中の甲羅と脚のはさみの部分を切り落とした新鮮なコッケを入れ て、たまねぎ、赤唐辛子、青唐辛子、春菊などの野菜を入れて煮立てる。 コッケ料理で有名な所としてはソウル新沙洞のカンジャンケジャン通りと、馬場洞のコッ ケ通りをあげることができる。最近は獲れたての蟹を氷をつめた密閉包装の状態で受け取るこ とのできる宅販サービスが発達しているので、春、秋になると産地に一箱注文し、蒸したり、 鍋にしたり、あるいは蟹の醤油漬けにして食することができるようになった。都市の水産市場 でも産地直送の新鮮なコッケを箱ごと、あるいは何匹か重さで買うこともできる。(翻訳:金 明順) K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
1
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作家評 韓 国 文 学 の 旅
人生に対するするどい 洞察力 オ・スウン(魚秀雄、朝鮮日報文化部文学担当記者)
20
13年1月22日は作家パク・ワンソ(朴婉緒、1931~2011)の
禁忌を犯そうという恋人たちの官能と罪の意識、そして作家自身さえ
2周忌だった。その頃に故人の長女ホ・ウォンスク(扈源
も含めた人間の虚偽意識に対する辛辣な告発だ。
淑)と数ヶ月かぶりに通話をした。端正で清潔好きだった先生の九里
小説は1950年代前後のソウルの疲弊した風景が背景だ。老婆と
の自宅を今は彼女が守っている。短編『その男の家』 (2007年発刊 朴
なった主人公が若い頃の初恋の相手「その男」が住んでいた敦岩洞の安
婉緒小説集『親切なボッキ氏』収録作)に、「私も数年前に、長かったマ
甘川を訪れるところから物語が始まる。主人公もそこで幼い時期を過
ンション暮らしを清算し一戸建てに引っ越した」という内容で登場す
ごした。「私はそのあたりには土地勘があった」と宣言するほど、熟知
る、その家だ。
した町だった。主人公が女子高に通っていた頃、その町に母の遠い親
朴婉緒は韓国の読者にとっては「国民作家」と呼んだとしても、何
戚が引っ越してくる。その家は虹霓門がついた気品のある朝鮮瓦の韓
か物足りないほどの大きな存在だ。詩人チャン・ソクジュの表現をか
屋だった。その品のある親戚の家には同じ年頃の男子学生がいた。そ
りれば、朴婉緒は「韓国母系文学の水源地」だ。
の当時は男女七歳にして席を同じゅうせずという時代なので、登校の
韓国の小説史は父系血統に対するものが長い間、主流を占めてい
途中にあっても目をふせて過ごしていた。その数年後、若い男女は再
た。しかし朴婉緒の小説は家父長制の社会で疎外されるほかなかった
会する。大学生となり、お金を稼ぐために米軍部隊で働いていた私が、
存在の「女性」の物語だ。息子よりは娘、父よりは母、夫よりは妻が主
ある冬の夜、帰りの電車の中で偶然、その男と再会し互いの身の上を
人公だ。韓国文壇にはそういう傾向の作品を書く女流作家は多いが、
語る。
朴婉緒の水源池から湧き出る小説は限りなく鋭利であると同時に豊穣
そして切ない感情が芽生える。ソウルのあちこちを歩き回り幸せな
だ。特に人生に対する洞察力は恐ろしいほどだ。小市民的な幸福の虚
冬を過ごすカップル。しかし男は無職で、主人公は5人家族の生計を背
偽を鋭く見抜き、人間の偽善と二重性を看破する作品が彼女の専売特
担う大黒柱、家長だった。朝鮮戦争のせいで男という男はすべて戦線
許だ。そして短編『その男の家』は作家自身さえも鋭利な視線から逃れ
とあの世に行ってしまい、家の中には「女子供」しか残っていなかった
ることができなかったと告白しているほどの魅力的な作品だ。
からだ。それでも恋の官能と情熱はどうしようもない。いくら家族を
短編『その男の家』は文芸季刊誌『文学と社会』2002年夏号に掲載さ れた。その時、作家は70歳。早老する作家が多い韓国文学界の中で、
養う身ではあるものの、この不穏な情熱はどうしようもなかった。 家の男たちを戦争の最中に失い、突然家長になってしまった若い
70歳を過ぎた作家が若い後輩たちと肩を並べて堂々とこのような短
女はその胸に深く入り込んでしまった愛の官能を前にそれを罪だと感
編を発表したという事実は新鮮でありうれしい衝撃だったと鮮明に記
じてしまう。『その男の家』にはこんな一節がある。「5月になるとそ
憶している。
の庭にはありとあらゆる花が咲いた。香りの濃い白いライラックをは
今号の『コリアナ』の企画特集のテーマが「韓国人もよく知らないソ
じめとして紫色のアイリス、炎のようなサツキ、しなやかで妖艶な椿
ウルの由来」だが、作家朴婉緒のこの短編は韓国人も良く知らないソ
桃、遊郭の灯火のような石榴の花、息が詰まるようなクチナシの花、
ウル敦岩洞周辺の風俗に対する小説考現学として読むこともできる。
そんな花々が不穏な情熱-浮気な気分のように噴出していた」
そしてそのような表面の裏側には官能と辛辣さが煮えたぎっている。
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情熱と罪の意識の交差はこの小説で最も輝いている部分の一つだ。 韓国の文化と芸術
パク
ワン
ソ
朴 婉 緒 朴婉緒は韓国の母系文学の水源池だ。韓国文壇に
韓国の歴史に精通していない海外の読者なら、60代以上の韓国人が 抱いている根源的なハン(恨)の情緒がどこから来ているのかが分かる
はそういう傾向の作品を書く女流作家は多いが、
小説とも言えるだろう。作家の喩えのように朝鮮戦争という民族合い 争う悲劇は、まるでのたうち回る重病人のように家族を互いに敵同士
朴婉緒の水源池から湧き出る小説は限りなく鋭利
にしてしまうことがよくあったからだ。国軍と人民軍が一進一退を繰 り返し、寝返りをうつように何度も反復していた時期は、世の中も
であると同時に豊穣だ。特に人生に対する洞察力
ひっくり返っていたが、個人の心の内もまた何度もひっくり返ってい たのだ。
は恐ろしいほどだ。短編『その男の家』は作家自身
罪の意識の中で情熱を燃やす「私」は小説の最後でその男を裏切る。 この部分が『その男の家』が世界文学の普遍性を確保した瞬間でもあ
も鋭利な視線から抜け出ることができなかったと
る。自分自身さえも騙しながらその男を裏切った本当の理由は自らが 俗物的で現実的な保守主義者だったからだという。小さくても良いか
告白しているほどの魅力的な作品だ。
ら問題のない堅固で安全な家で、子供を産んで育てて生きていきたい という母鳥の心。そこには人生の裏をつく鋭い洞察が現れている。 彼女の2周忌を迎え、作家自身の書いた年譜を読んでみたところ、 こんな内容があった。 「末っ子まで手のかからないほどに育てあげると私は退屈した。退 屈は次に突然とてつもない不快感となり私を襲った。子供たちはも う私の24時間のケアを必要とする子供ではなかった。子供たちにも、 夫にも、家の外でやるべきたくさんの仕事があり、その仕事がどんど ん増えていくのに、私は彼らをケアし、待っているだけが全てで、そ れさえも日に日に少なくなっていることに気付き、私はみじめになっ た。私も何か私だけの仕事を持たなければと考え始めた。私のような 情熱的な女がこのままずっとその情熱を家族にだけ注いでいたら最後 には家族関係を地獄にしてしまうことは明らかだった」 私は作家朴婉緒のこんな率直で利己的な告白が好きだ。程度の差 はあったにしても、人間はこの限界を避けることのできない存在だか らだ。故人のご冥福を祈る。(翻訳:金明順)
K or e a n a ı 春 号 2 0 1 3
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韓国のイメージ
人
口1000万を越える大都市ソウル。旧市街の迷路の中で車、信号、横断歩道などの障害物の妨害を受 けずに、ゆっくりと独り、の考えに浸り散歩することのできるところは、たった一箇所、ここ清渓
川しかない。都市の心臓部を10.8km貫く水路にそって、西から東へ流れる水の流れとその両側の高い塀の 下の静かな散歩道は、都心の猥雑さをしばし忘れることができ、また視点を変えればすぐにエネルギッシュ な都市に復帰できる魔法の庭園だ。 1392年に建国された朝鮮王朝が首都に定めたソウル。ソウルは北には高い山が、南にはこじんまりと小 高い山があり、その間に広がった盆地に建設された都市だ。北と南の山から流れてきた30余りの支流が都 市の真ん中で一つになり小川をなして西から東へ進み、さらに南へと方向
600年の記憶が流れる 都市の川-清渓川 キム・ファヨン (金華榮、文学評論家、 学術院会員)
を変えて漢江に流れ込む。都市のど真ん中を貫く水路の流れだ。この自然 の河川は普段はだいたい干上がっているものの、雨季になると周囲の支川 から流れてきた水が集まりあっという間に洪水を起こし、家屋を浸水させ ていた。 600年の歴史の中で清渓川はこの60年間に最も急激な変化を遂げた、い
わば近代史を映す鏡でもある。 1953年、朝鮮戦争が終わる頃、清渓川は避難民たちがバラックの村を形成 して定着した貧民窟だった。大量の黒い下水とゴミが流れ込み悪臭が鼻をついた。 1958年からこの河川に 蓋をし始めた。それは醜悪な現実に蓋をすることで取りあえず隠そうとしたのだ。以後、急激な産業化時 代を迎えてソウルは目まぐるしく変化し、ひたすら前を見て疾走しなければならなくなった。蓋をした区 間の上に1967年から長さ5650m、幅16mの清渓高架道路が建設された。これでわずか10分で大都市を貫通 することが可能になった。清渓川の覆蓋工事は始まりからほぼ20年で完了した。 そして21世紀、ようやく醜悪で危険な現実に気付く。清渓川を復活させてこそ、ソウルも生き返るんだ と悟ったのだ。 2003年から高架道路と覆蓋の構造物を撤去し、はじめて22個の橋をかけた。 2005年10月、 清渓川には澄んだ水が流れ始めた。この600年の間休みなくきれいな水が流れていたかのように。いまや水 辺にたたずむ人々の顔は過ぎ去った日々の真っ黒な闇から抜け出した解放感で輝いている。 (翻訳:金明順)