韓国の美
トッサル (餅型)
©安洪范
ッサル(餅型)は餅の一種のチョルピョンに模様をつ
ルピョンの模様を見ただけでどこの家の餅なのかが分かると
けるのに使用した伝統的な道具で、高麗時代(918
いう。チョルピョンに使われる模様としては花模様、斜線模
~1392)から使用されていたという。造形美に優れ
様、雷模様、鯉などの魚模様、富貴や男児の誕生、健康、長
た多様な模様が刻まれており、今日でも伝統的模様の宝庫と
寿を祈るめでたい文字の模様、太極模様などがある。子供の
して知られている。朝鮮半島の穀倉地帯である湖南地方で特
1歳の誕生日に使うチョルピョンには主に鯉の模様を使い、
に古いトッサルがたくさん見つかっている。
還暦の餅なら長寿を祈る字模様や花模様を入れるという具合
ト
韓国の餅は種類が非常に多く、中でも最も定番として、
に、儀礼の性格に合わせてチョルピョンに使う模様がそれ
どんな祝いの席にも欠かせない餅がこのチョルピョンだ。
ぞれ異なるので、用途に合わせてトッサルの模様も使い分け
チョルピョンの作り方は、水に浸した米をひいて蒸したあと
た。そのため各家ではいろいろな種類のトッサルを備えてい
臼でつき、こねて適当な大きさに伸ばしてから好みの大きさ
た。中には写真にあるような面ごとに模様の違うトッサルも
に切る。そこにトッサルを判子のように押して模様をつけ、
ある。
適当な硬さになり模様が鮮明に現れたら、最後にごま油を さっとまぶして艶を出すというものだ。
トッサルとして使用される素材は磁器のトッサルと木 のトッサルに分かれる。木の材料としては材質の丈夫な松、
「餅があるから祭祀をしよう」ということわざがあるほ
クヌギ、柿、オノオレカンバ、銀杏、棗の木が使われた。餅
ど、韓国人にとって餅は儀礼と密接な関連がある。旧正月や
が主に儀礼に使用されるため、雷の落ちた木は縁起が悪いと
秋夕(旧暦の8月15日)、そして祭祀などでご先祖への供え物
され、それで絶対にトッサルを作ってはいけないという決ま
として供えたり、家内の祝事などの席にも作って、隣人と分
りもある。現代でも伝統的なトッサル模様を自分の主要テー
かち合ったり、お客にお土産として持たせたりする。特に
マとして継承し、発展させている木工芸家がいる。一方、伝
チョルピョンは、まわりに黄粉まぶしたり、中にあんこを入
統を追求する主婦たちの中にはシリコンで作った軽くて便利
れたりする他の餅とは違い、傷み方が少なく形も崩れないの
な判子型のトッサルを使い、家でチョルピョンを作ったり、
で保存食として食べるのもよし、おすそ分けするのにもよい
クッキーを焼くのに応用する人もいる。
餅だ。各家に代々伝わってきたトッサルがあり、隣人はチョ
韓国の芸術と文化
Vol.17, No.1 春号 2010
李源祚宗家の不遷位祭祀を行うため、各地 から集まった子孫たちが離れに集まった。 「執事 分定」 といわれるこの手続きは、祭祀でそれぞれ が果たす役割をその場で決める、最初の段取り である。©ⓒ 徐憲康
6
34
16
宗家文化
24
40
8 現代の韓国人にとって宗家の意味とは 李順炯 16 宗家の祭礼と食べ物 李蓮子
46
24 宗家博物館探訪記 那秀昊
72
34
元気な韓国の創造都市プロジェクト
| 李善哲
40 インタビュー 21世紀のネオシャーマニズム・現代舞踊家アン・ウンミに聞く 46 巨匠 金泳煕 貴族の宝石、愛の象徴“玉”
京畿道無形文化財18号、玉石匠技能保有者キム・ヨンヒ
52 傑作/名品 仙岩寺昇仙橋-俗界と仙界を結ぶ橋
| 朴炫淑
| 千得琰
信号弾 展と国立現代美術館
| 金男洙
発行人 金成燁 編韓理事 韓榮熙 編集長 金鍾徳 編集諮問委員 金文煥,金英那,金華榮,鄭重憲 趙性澤,韓敬九,韓明熙 広告 CNC Boom Co,. Ltd ソウル市江南区大峙洞1008-1. タワークリスタルビル Tel : 82-2-512-8928 Fax : 82-2-512-8676 編集 金熒允編集会社 ソウル市麻浦区西橋洞398ー1 Tel : 82-2-335-4741 Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr
56 文化イベント・レビュー
発行 韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル Tel : 82-2-2151-6544 Fax : 82-2-2151-6592 www.kf.or.kr
文化フォーカス
| 鄭在淑
62 韓国再発見 沈 韓国は人生行路の贈り物 | 李ロバート J. ファウザー
印刷 三星文化印刷 ソウル市城東区聖水2街274-34 Tel : 82-2-469-0361~5 Fax : 82-2-461-6798
66 世界の中の韓国人 裴炳雨 写真で描いた水墨画 -裴炳雨の絵画的な写真の世界
| 尹世鈴
72 オン・ザ・ロード 大田 大田 スローライフな都市 | 金熒充 80 料理 手軽な健康料理-イカ丼 | 沈暎順
Koreana ホームページ http://www.koreana.or.kr ©© 韓国国際交流財団2010 〈Koreana〉に掲載されているすべての記事 の著作権は韓国国際交流財団に帰属し、 著作権法により保護されています。 〈Koreana〉の記事を転載する場合には、 事前に〈Koreana〉編集室に電子メール (koreana@kf.or.kr) かFAX(82-2-34636086)で転載許可を申請してください。 〈Koreana〉の記事を引用したり 、非営利目 的で使用する場合にも〈Koreana〉からの 転載であることが分かるようにクレジッ トを明示してください。
84 遠くの目 「甘露幀(カムノテン)」の餓鬼神 | 伊藤好英 86 暮らし 2009年韓国で起きたマッコリ・ブーム
| 許時銘
91
韓国文学の旅
鄭智我
老年の発見とその小説化-鄭智我の『春光』| 春光
| 翻訳 金明順
掲載された記事は筆者の個人的な意見で あり、〈Koreana〉や韓国国際交流財団の公 式見解ではありません。
金慶洙 1987年8月8日文化観光部-1033で登 録された季刊誌〈Koreana〉は英語、中国 語、フランス語、スペイン語、アラブ語、 ロシア語、ドイツ語でも発刊されています。
Koreana | 春号 2010
宗家文化 宗家とは長者によって代々受け継がれてきた家元のことを意味し、韓国には朝鮮中期以降、4百年近く受 け継がれている宗家も多い。宗家は儒教文化伝承の主役として、核家族化が進んでいる現代の韓国社会 においても、伝統的な価値と生活様式の宝庫であると同時に模範として機能している。
慶尚北道安東市君子村(www.gunjari.net)の 金孝盧宗家にあるあずまや、濯清亭。 春号 2010 | Koreana
現代の韓国人に とって宗家の 意味とは 宗家という家族制度を通じ、韓国人は生命も祖先の精神も「私」を通 じて子孫に受け継がれていくと信じてきた。18年間にわたって韓国 の宗家を研究してきた学者に、宗家形成の背景と理念、宗家制度の 特徴、宗家の現在と未来について聞いてみる。 イ・スンヒョン (李順炯、ソウル大学校教授、児童家族学科) 写真 : 李東春, 徐憲康
韓
国人の教育熱は、大学卒業者が8割を超えるという現状が物語って いる。韓国人の教育熱を指して、アメリカのオバマ大統領は韓国に
学べと語ったほどである。アメリカの留学生の中で韓国人が占める割合が 一番高い。このような高い教育熱に支えられ、韓国の人的資質も高まり、 世界第9位の経済と民主的社会発展を成し遂げたのである。このように社 会発展の原動力になった教育熱と教育理念は歴史的に古い儒学の理念に基 づいている。
精神的モデル、ソンビ 6百年前に建国された朝鮮の建国理念は儒学である。朝鮮時代が5百 年間も続いたのは儒学という堅固な精神文化に基づいていたからである。 儒学は精神的であり実際的な理念である。儒学は個人の道徳的正義と善を 強調しながら、実際の行動原則と規範を教えるという学問的特長を持って いた。このような特徴をもつ儒学では来世については語っていない。 朝鮮の儒学が目指していた人間像はソンビ(昔、学識はあるが官職につ かない者)だ。ソンビは学問を磨くことで孟子の教えである仁義を志し、こ れを実践していた人を指す。義は人倫であり、人倫は三綱五倫である。人倫 は人間関係に基づいている概念である。西洋の人間観では、人間は孤独な存 在として意味づけられているが、朝鮮における人間像は人間関係の中から存 Koreana | 春号 2010
忠清南道唐津郡の南以興宗家の全景。(南以興将軍のホームペ ージ・アドレス:www.chungjanggong.or.kr)裏山の日向に祖先の お墓がある。
Spring 2010 | Koreana
在意義を求めようとする。そして、その関係の中で、守るべ
とを意味する。大宗家は苗字の始祖から長者にだけ受け継が
き正しい道理、つまり節義の実現を目指す。節義とは義理の
れた家門を指し、1千年以上も維持されてきた家門もある。
ことである。義理は王様と臣下の間だけでなく、師と弟子、
小宗家は大宗家から中始祖を起点に派生した宗家を意味す
親と子ども、夫と妻、友達の間でも守られるべき徳目であ
る。国を乱から救い上げたり、学問が高く、国の精神的師匠
る。
になった人物が中始祖となり、国は彼の位牌を祠堂から下げ ソンビに必要とされる重要な徳目は、節制力と忍耐力
ないように命令する。朝鮮時代の各家庭には亡くなった4代
そして正直さである。ソンビは正直さを自分の名誉とし、時
の祖先の位牌を祀った祠堂があり、王家には王様の祖先を
には命がけで守らなければならない。さらに、人間の本能か
祀った宗廟があり、国には精神的な師匠の位牌を祀った文廟
らくる欲求をコントロールし、快楽を抑制する節制力は、日
が成均館に設けられていた。朝鮮時代の文廟では18賢者の
常生活や人間関係にとどまらず、学問の追求においても厳し
位牌を五百年間祀っていたが、彼らの教えを精神的支えとし
く守ることが求められていた。そして、自分の欲求を統制し
た。
なければならない理由や、その価値を認識する過程で必要な
朝鮮時代の人々にとって、自分自身は祖先と子孫をつ
徳目が忍耐力である。ソンビにとって節制力と忍耐力は切り
なぐ中間者であり、祖先の教えと思想を子孫に伝えるべく
離せない関係にある。ソンビはこのような徳目を備えている
メッセンジャーでもあった。彼らは祖先の精神的教訓の教
人として、知識を学ぶと同時に実際に行動で実践する人のこ
授を重要と考えていたため、代々伝わってきた祖先の思想
とである。
を書き記した文集を後代に残すために、瓦屋根の土壁の間 に入れて保管したり、押し入れに手紙を入れたあと土で塗
暮らしの中心、宗家
り固め、火災で祖先の文集が消失しないように工夫した。
儒学は国の組織が家族または家門単位で構成されている
さらに、彼らは家庭の物質的資産よりは精神的教えを重視
ことを強調し、国家と家族の運営原則において、忠孝を基本
し、貧しさをソンビの清廉な暮らしの象徴として考えるき
とする。つまり、国家と家庭は、その維持と運営原則が変わ
らいすらあった。
らないという観点である。朝鮮の理念は家族主義であり、こ
ところが、このような理想的なソンビ像は、困窮な生
れは集合主義の部類でもある。家族主義の特性は、家族構成
活を強いられることもあった。多くの宗家が祭祀を行った
員以外の全ての人間は外部の人としてみなすこと、家族の目
り、客のもてなしにかかるお金の工面に苦労していたが、宗
標を達成するために、家族個人の活動を統合することであ
孫(宗家の長孫)や宗婦(本家の一番上の嫁)はそうした生活に
る。土地、金銭、物的財貨の形成と使用においても、個人で
こそ意味があると考え、貧しい暮らしにも耐えることで親戚
はなく家族単位の判断によって行われる。家族が希望すれ
の尊敬と物的支援を受けながら何とか生活を維持していた。
ば、彼らに提供する義務があり、もし家族の一人が外部の者
宗家では宗子でなくても、優れた人物の出現を強く期
による困窮があれば、他の家族構成員は進んで彼を支援しな
待していた。才能のある息子を望んでいて、家中が才能ある
ければならない。構成員は家族の期待に応えるべく、経済活
子どもを見つけ出して、家元の名を高める人材として育て上
動を行いつつ、新しい家庭を作る。この全ての行為の基には
げることに努めた。宗家に血のつながった子(血子)がいなけ
家族をうまく維持していかなければならないという考えがあ
れば、親戚の子どもの中で優秀な子を養子にしたことからも
る。
伺える。家門の名を高めるのは学問の優れた人材であり、そ 宗家は始祖から代々宗子に受け継がれてきた家元のこ
の人材を通して祖先の実績が受け継がれていくものだと考え
1 慶尚北道慶州市 良洞村(http://yangdong.invil.org)の心水亭(重要民俗 資料第 81号)の楼床。高い天井の垂木がむきだして見える。 2 慶尚北道星州郡ハンゲ村にある李源祚宗家の北扉古家の祠堂。 10 Koreana | 春号 2010
1
朝鮮社会を支配していた儒学が目指していた理想的人間像は、個人としてではなく、人間関係の中にその存在意味を探求する共 同体的倫理意識であり、未来社会でもっとも必要とされる徳目であるかも知れない。
2
12 Koreana | Spring 2010
慶尚北道慶州市良洞村
られていた。したがって、宗家の人々の考え方は現在に止ま
め、知識と実際の行動は一致しなければならないことを学ん
らず、過去から未来へとつながっていく。そして、個人や各
でいたわけである。
家庭だけでなく、常に家門の形成や発展・衰退を念頭に考え ていた。
宗家の教育は、女性たちが生活するアンチェ(母屋)と 男性たちが生活するバカッチェ(外棟)に生活空間が区分され
朝鮮時代の人々は、生命も祖先の精神も「私」を通じて
ていた韓国の伝統家屋の構造とも関係があった。アンチェで
子孫に伝えられていくものだと信じていた。宗家の人々に
は幼児期に自助技術を学び、日常生活に適応するための学習
とって、歴史意識は過去(祖先の暮らしと思想、家門の歴史)
をすることになる。幼児期には祖母が面倒を見ることが多
を通して、現在の自分を創り、過去の精神を未来(子孫の教
い。育児の経験が豊富で、時間的にも余裕があり、ゆったり
育と社会化)に伝えていくものであった。
とした心持で子供に接することができ、子供の人格形成に安 定感を与えることできるからだ。
宗家の教育 ソンビの教育の場は家庭であった。家庭は社会の最小
4、5歳頃、ある程度の自助行動が可能になった後、お 爺さんが生活するサランチェで生活するようになる。このよ
単位であり、さらにその単位をまとめる親族集団があった。
うに、幼い時期に祖父母と生活しながら、祖父母の行動を見
朝鮮社会の親族社会は宗家を中心に維持されていた。宗家は
て学ぶことで、若者のように機敏ではないものの、自分をコ
家門の発展を図るために、宗子個人の成就と同時に家門の隆
ントロールする統制力を育み、安定的な性格が形成される。
盛を重視していた。宗子には3つの任務が与えられていた。
子供がお年寄りと同じ部屋で生活するという特殊な環境の中
第一に、学行を修め、ソンビとして自ら成長しなければなら
で、大人の行動ルールを学ぶことで、欲求のコントロールと
なかった。第二に、譜学を学んで祖先を祀り、祭祀を行わな
社会的順応性に対して高い効果をあげた。伝統的な家庭で成
ければならなかった。第三に、親族間の親睦を図り、客を篤
長した人は自己をコントロールしやすく、忍耐力もあるので
くもてなさなければならなかった。
外部の誘惑に惑わされない人格を持った人として成長してい
宗子は自ら勉学に励み、行動などを顧みて、ソンビと しての知識と品性を磨かなければならなかった。本や生活教
く。社会の要求に応じて自ら進んで応えようと努め、責任感 のあるソンビの人性を育むことになる。
育を通して、儒学の精神とソンビ精神を身につけたソンビ
宗家の社会化とは集団社会化を意味し、その主な心理
は、学問を学んで出世し、精神的名誉と現実の富をも手にす
機制は見聞と集団風土の造成に集約される。集団風土作りと
ることができた。ところが、そのためには国家試験である科
は、健全な儒家としての雰囲気を維持する宗家の生活環境が
擧に合格して、官吏になるしかなかった。まさに、その入門
児童の社会化環境として働き、児童の性格と言行を形成して
過程が当時の公式文字であった漢文を学ぶことであった。
いくことを意味する。これは児童社会学習理論の造形と同じ
宗家の宗孫は5、6歳から祖父と一緒に生活しながら漢文
過程でもある。見聞は文字通り、見て聞くことを指し、児童
を教わった。「千字文」などの教材からスタートして漢文を勉
が大人の行動を見習うことである。見聞は三つの心理的機制
強し、児童期には「撃蒙要訣」や「小学」を勉強した。撃蒙要訣
を含む。モデル同一視、観察と模倣、強化と補償である。モ
は朝鮮時代の宣祖10年(1557年)に大学者の李珥が書いた子
デル同一視はバンデューラなど、西欧の心理学者が主張した
供用の学習書である。さらに、家庭教師や書堂の先生から
模倣学習理論と一致し、強化と補償は社会学習の心理機制と
「中庸」や「大学」など、中国の古典を読むことでソンビとして
同じである。こうした心理理論が現れて発展したのは1960
の人生観や価値観を始めとする基本倫理を習得していった。
年代末のことであるが、宗家では既に朝鮮時代から伝えられ
その過程で文字教育と道徳的教育が同時に行われていたた
た社会化の方法を取り入れていたのであって、このやり方は 春号 2010 | Koreana 13
17世紀以降、定着して家門から家門へと伝えられてきた。
に学問を勧めたのも、学問を通して知識と道徳的思考力を併
宗孫の学問と生活
せ持ったソンビになることを高く評価していたためである。
朝鮮時代・中宗王の時の政治家で性理学者の趙光祖(1482
さらに、学問に励むことは、息子の成功を期待できる
~1519)は 『靜庵先生家訓』 の中で、 「いくら立派な資質を持っ
上、息子が科擧に合格して官吏になれば、家門に栄達をもた
て生まれた人であっても、学問を磨いてこそ世の中の道理を
らすことができたのだ。試験に合格した個人は、出世の道を
身につけることになる」 と記してある。学ばなければ世の中が
たどることになり、社会的地位による名誉と実利が保障され
理解できず、世相が分からなければ、身の処し方も分からな
ていた。
くなる。このため、自分の存在価値も分からない人間になっ
学問に対する朝鮮時代の人々の情熱は興味深い二通り
てしまうというのだ。中国宋時代の文人である柳永が書いた
のライフスタイルを創り上げた。一つは故郷で祖先の祭祀を
勧学文の一節にもその趣旨がはっきり記されている。
執り行って祖先の地を守る暮らし方である。この場合、宗孫
親が子供を育てながら教えないのは子供を愛しないため
とその配偶者である宗婦は故郷で本家を守りながら祖先を祀
であり、子供を教えながら厳しく教えないのも、子供を愛し
り、また客をもてなし、さらに郷班として故郷に住んでいる
ないためであり、親の教えに従わない子供は自分を愛しない
家中の人々の生活の面倒も見なければならなかった。一方、
ことである。このため、子育ての場合、必ず教育しなければ
家門が発展するためには、清貧な郷班として留まっていては
ならなく、その教育は厳しくすべきであり、(教えが)厳しけれ
だめで、新しい文物を受け入れて、学問の盛んな所で人々と
ば(学ぶ者は)勤勉になり、勤勉になれば必ず成功する。
交流すべきだと認識した宗孫は、幼い息子のためにソウルの
学問の勧めには二つの理由がある。まずは、学問を通し
中心街に住まいをもうけ、家庭教師をつけたり、家風のある
て人間になるという考え方である。儒学の学問が知識だけで
家門の子供たちと一緒に勉強するように努めた。息子が田舎
なく、道徳的教えをも含んでいて、実行の重要性を教えてい
にいれば、学問に励む機会に恵まれず、しがない村の人に
るため、学問をすることも現代のように知識の習得に留まら
なってしまうと考えたのである。ソウルで息子が教育を受け
ず、人間としての道を教えていることであると考えられた。
ると、同じ年頃の子供たちと交流できる上、将来的にネット
したがって、朝鮮時代の人々は学問そのものを重視してい
ワークづくりにも役立つことになり、新しい情報も得られる
た。学問を通して志を立て(立志)、偉人の考え方に接するこ
と踏んでいた。自分の息子の能力が足りなくて高い官職に上
とで彼らの思想を学んで、精神的な暮らしを営むソンビにな
がることができないとしても、友達が貴重な資産になると信
り儒学の理念を継承していくことを願っていたのである。安
じていた。
東地域をはじめとする嶺南学派では、出世を勧めない代わり
今日の韓国社会を生きる親たちの意識の基には朝鮮時代
1 宗家ならではの秘伝に従って造った韓国醤 油と味噌が保存されている瓶置き場。
1 14 Koreana | 春号 2010
2 尚州玉洞書院で行う祭祀のために集まった 人々の執事分定。
2
の親の教育観と同じようなものがある。子供を教育すること
た宗家を韓国人にとって貴重な文化遺産として大事にし享受
によって、祖先の思想の伝承に努める一方、家門の発展につ
する文化が定着した。韓国政府は宗家の跡地と家屋はもちろ
なげるという伝統社会の一念は、現代社会を生きる親たちの
ん、祭礼や飲食文化の保存を政策的に支援している。
暮らしにおいても重要な目的の一つになっている。韓国人の
現代社会を生きる個人独自の考え方や意思決定に否定的
無意識に内在しているこの高い教育熱の遺伝子は、時代を超
であった血縁主義と家門主義の影響力は、日を追うことに弱
えて韓国人の血の中に流れている。
まっている。しかし、朝鮮社会の儒学が目指していた正しい 人間像、つまり個人ではなく人間関係の中で存在意義を求め
宗家の未来
ていた共同体的倫理意識は、未来社会にもっとも必要な徳目
1980年代までは多くの宗孫らが宗家の存続に危機感を
かもしれない。宗家とその構成員らによって受け継がれてき
抱いていた。しかし、1990年代に入ってからは宗家が今後も
た有・無形の文化遺産は、今後も継承されていくだろう。特
維持できると考えるようになった。1980年代の経済成長に
に、物質的発展と豊かさだけでなく、清貧なソンビの精神を
よって人々の生活が豊かになると、今度は自分のルーツを探
大切にして、ソンビ精神の教育に取り組んでいた宗家の精神
して、家門を考え直そうとする人々も増えたのである。伝統
文化は、未来の韓国社会の発展における礎になるに違いな
文化に対する一般の人々の認識も高まり、よく保存されてき
い。 春号 2010 | Koreana 15
宗家の祭礼と食べ物 韓国の宗家は家門固有の冠婚葬祭の儀礼を継承してきたが、中でも重視されているのが祖先を祀る祭祀 儀式である。祭祀は韓国の伝統飲食の伝承と発展にも大きく貢献してきた。 イ・ヨンジャ(李蓮子、ウリ茶文化院院長) 写真 : 李東春, 徐憲康
16 Koreana | Spring 2010
1
995年12月、ソウル鍾路にある宗廟がユネスコによっ
る宗家の祠堂は、その子孫たちの生活の場である家にあると
て「世界文化遺産」に登録された。宗廟は朝鮮時代の歴
いう点で、その生命力が感じられる。
代の王と王妃の位牌を祀って、毎年5月に祭礼楽と祭礼服
今日の宗家はいにしえの祖先が暮らし始めたところに
飾、祭礼飲食はもちろん、厳格な規範に基づいて祭祀が行わ
400年以上もの間、同じ苗字の人々が集まる「集成村」を成し
れる場所である。今日、儒家の手順を遵守し祭礼を行う国
て、古色蒼然の韓屋で伝統的な生活を送ってきている現場で
は、東洋でも韓国が唯一であり、儒教文化圏の国々からの視
ある。祠堂に祀られた祖先に毎年恒例の祭礼を行うために、
察は後を絶たない。
多彩な食べ物を丹念に準備し、祭礼服を着て追慕の儀式を行 う。祭礼が終われば、その食べ物を隣人と共に食べる美徳も
宗家の祠堂 朝鮮王家の祠堂である宗廟が祭礼を行う場所として価 値があるとすれば、韓国全国にある数多くの苗字の本家であ
あった。貧しかった時代に振舞われた祭礼の食べ物は、人々 の腹を満たしただけでなく、韓国の食文化の発展にも大きな 影響を与えた。 さらに、高句麗・新羅・百済を経て、高麗と朝鮮にいた る2000年の歴史を通じて綿々と受け継がれてきた祭礼は、 王家や貴族だけの儀礼ではなく、韓国人なら誰でも行ってき た国民的儀礼である点で、もっとその価値が際立っている。 祭礼は親孝行の延長線にあるという点でも、我々が守るべき 貴重な文化遺産でもある。
祭礼の種類 韓国人は祭祀と聞けば、まず宗家を思い出し、宗家と 聞けば祭祀を行う家だという認識を持っている。祭礼を行わ ない宗家は宗家としての資格がないからである。私は490問 もあるアンケート用紙を持ち歩いて、過去10年間120の宗家 を取材してきたが、当時の取材原則として、祠堂を保有し、 そこに宗孫が居住し祠堂を守っていることを取材の対象にし た。子孫が住まっていてこそ、生々しい宗家文化を記録とし て残すことができるからである。 宗家で行われる祭祀の種類は多い。祖先が亡くなった 日の夜に行う忌祭や正月・お盆などの名節の朝に行うチャレ (茶礼)、そしてお墓の前で行う墓祭などの祭祀は基本であ る。その他にも、国や家門にとって功績を残した祖先の場合 は、4代までを祀るという原則を適用せず、永遠に祭礼が行 われる不遷之位祭礼の対象になる。 現在も儒教文化の伝統が強く残っている慶尚北道安東 地域では、厳密に言えば、不遷之位祭礼がある家だけが宗家 になれるという。さらに、宗孫が亡くなれば、3年間喪に服 した後、位牌が祠堂に入る吉祭と、家中に様々な出来事があ
慶州催氏宗宅である慶尚北道 「慶州催氏の家」チェ・ジンリプ将軍 の享祀 (祭祀)を行うため集まった家門の人々 春号 2010 | Koreana 17
宗家の祭祀は年に30回は基本で、中には50回以上も行う宗家もある。このように頻繁に祭礼が行われる過程で、韓国文化の精 髄といえる容器文化、規範文化、飲食文化が受け継がれてきたわけであり、我々のルーツを再確認すると同時に、自己のアイデ ンティティーに対する誇りを高める役割をも果たしてきた。
る度に祖先に報告する告由祭もある。
祖先の世数(訳注:祖先から子孫にわたる代の数)と名前
収穫したばかりのものを祠堂の祖先に真っ先に供える
はもちろん、官職名と業績までもよく把握していた。祖先に
薦新祭、歳時の時期に行う1月15日(旧暦)の茶礼やツツジの
まつわる逸話や時代的状況まで熟知していてこそ、宗孫とし
チヂミを作って春の訪れを知らせる三月の茶礼もある。ヤマ
て尊敬される。直系祖先の祭祀の日はもちろん、祖先のお墓
ゴボウ餅とユスラウメの飲み物を供える端午茶礼、収穫した
の位置もちゃんと知っていた。そのほかにも古文書が読める
麦で作った麺を備える七夕茶礼も宗家では重視される。秋の
実力を持っていたり、書道に精通した宗孫も多かった。近い
収穫が終わった後、感謝の気持ちを伝えるために行う10月
親族の名前と家族関係、祭祀の日を覚えていて事あるごとに
の茶礼、あずき粥を供える冬至茶礼などもある。また、正月
訪ねて礼を尽さなければならず、経済的裏づけも必要だ。
には家庭の平安を祈りながら成主神(訳注:家の守護神)にも 祭祀を行う。
宗婦は、「宗婦の役割を果たすにはせめてもの運気が必 要だ」ということわざもある。宗婦として生きていくという
このように様々な祭礼を全部あわせると、年に30回は
ことは、並大抵のことではないのだ。宗婦の生涯はよく「奉
軽く超え、50回にものぼる祭祀を行う宗家もあった。このよ
祭祀接賓客」という言葉で表現される。女性にとって祭礼と
うに数多くの祭礼によって韓国の伝統文化の基本が持続さ
接客は、日常の営みとは比較にならないほど厳しいことであ
れ、韓国人は文化的プライドとアイデンティティーをきちん
るわけだ。
と守ることができたのだ。
玄風郭氏の宗家には春になると、親戚らを乗せた数台 のバスが押しかける。その人数を把握して、食事やお酒を振
祭祀を奉り、賓客を接待する 宗家の中心は宗孫と宗婦である。宗孫の任務は祖先の位
舞うためには、猫の手でも借りたくなる忙しさである。とこ ろが、夜を徹して行われる祖先への祭祀を年に数十回も取り
牌を祀って祭礼を行い、男の子を生んで受け継ぐことである。
仕切りながら、お客が訪れると自分の分のご飯までも提供し
息子がいなければ養子縁組をしてでも、家門を維持するのが
て、食事抜きになることも多々あるという辛い暮らしである
宗家の法度である。その最大の理由の一つが祭祀であった。
にも関わらず、当の宗婦は「生まれ変わっても宗婦になる」と
私が取材の過程で出会った多くの宗孫たちは、現代を 生きる中でも伝統が求める自分の役割を比較的きちんと果た
いう。自分の娘らをまた宗家に嫁がせることを見れば、宗婦 としての高いプライドが伺える。
しながら暮らしていた。例えば、これといった職業のない宗
つまり、自分のことは省みず、我々として考える家中
孫もいた。家のことと祭祀を行うことに徹しなければならな
の大人として、堂々と凛々しく支えている宗孫 ・宗婦の精神
いためである。さらに、訪問客の絶えない中、お客と親戚の
力は、衰弱した現代の人々には師表となる。400年以上も
人々に対して、宗孫としての権威を守るために族譜にも詳し
守ってきた古屋で、長者によって受け継がれてきたという事
かった。
実だけをみても、高い道徳性をもった名門家としての底力が
慶尚北道安東市君子村の金孝盧宗家の祭祀のために、離れに集まっ て分定する風景。その内容を整理した 「執事分定記」は、人々の目に 付きやすいところに貼る。 春号 2010 | Koreana 19
南以興宗家の不遷位祭の執事が位牌に向かって杯を捧げる儀式 が行われている。
感じられる。
各家のお酒や餅 慶尚北道英陽郡石保面ウォン里にある載寧李氏の宗家 には、350余年前に初めてハングルで書かれた料理本『飲食知 味方』の産屋が現在も残っている。本に記録されている146 種類もの食べ物の記録の中に、特に51種類の酒造りの方法 が記されている。この本の著者は1999年11月の文化人物に 指定された安東張氏である。 宗家でこのように多様な酒を造っていたのは、祭祀の 回数とお客の数が多かったためであった。冷蔵庫もなかった 時代に、度数の低いお酒の保存は難しかったため、祭祀の日 が迫ってから酒を造り始めた。梅酒、菊酒、蓮葉酒など、四 季折々のお酒や、七日酒、十日酒のように発酵期間がそのま ま名前になったお酒もあって面白い。 慶尚北道安東君子村の光山金氏禮安派の宗家では、 一千年の食べ物の歴史が盛り込まれている『需雲雑方』という 料理書が450年前から伝えられている。この本にも60種類に ものぼるお酒が記録されている。酒造りの秘伝に留まらず、 祭礼には欠かせない茶食の作り方も詳細に記されている。 忠清南道牙山外巌村の禮安李氏家門では蓮の花酒が有 名だが、これも祭祀の際に供えていたお酒である。今や商品 化でよく知られている慶州法酒も、12代に渡ってお金持ちの 祭祀の時に供えられていた名高いお酒だった。 慶尚北道奉化村の安東権氏宗家では、祭祀に供える五 色のカンジョン(訳注:韓国伝統のお菓子)とサンジャ、薬果
先の遺言に従って、現在もお米で作った餅の代わりに栗餅を 供えている。
など、伝統のお菓子を300年間作ってきた。済州梁氏宗家で
一方、祭祀に供えたお餅を、大人の座高ぐらいの高さ
は、祭礼に供えるお餅を月・星・地の形で作っていたが、気候
に積み上げていた家もあった。平たく四角いコシキ餅で充分
条件の厳しい地域の特性が反映された結果である。朝鮮時代
なのに、さらにその上にジョアク、花煎、団子、ケクリな
の有名な暗行御史だった朴文秀の宗家では、祭祀の際にお餅
ど、10種類を超える餅を上乗せしていたが、これは祖先の官
は供えなかった。食料事情の厳しかった時代、飢え死にする
職を象徴していたという。いくら清廉なソンビ家であって
人も多いのに、祭祀にお餅なんか供えてはいけないという祖
も、主婦は髪の毛を売ってでも祭祀に上げる飲食だけには奮
20 Koreana | 春号 2010
発したのは、家門の興亡盛衰が祭礼の飲食にかかっていたと
だ。食べ物が貴重であった時代だけに、庶民にとって様々な
信じていたためである。
食べ物が食べられるヤンバンの祭祀の日は、名節よりも特別
祭祀の食べ物だけをみれば、どこの祭祀であるかが一
な日になったはずだ。
目で分かるが、それは祭祀用の飲食には、その家の宗婦にだ
一つの材料で数十種類の料理法を創り出した宗婦の智
け代々伝えられてきた独特の技があったからだ。祭礼に供え
恵は、天と地と祖先を崇拝して祀る祭礼があったからこそ可
られた食べ物は袋に子分けられ「福を分かち合う」という意味
能であったと思われる。宗婦らにとっては、祭祀の時間まで
から、隣人や家の使用人などに振舞われたが、当時の分け与
に餅や酒を始め、祭祀に供える全ての食べ物を完璧に用意す
えられた食べ物が庶民においての祭礼飲食の手本になったの
ることこそ最大の責務であった。彼女たちは祭礼の飲食を用 春号 2010 | Koreana 21
意する自分たちの務めを命がけで守っていた。
一杯だけを捧げることが忌祭祀との違いである。正月・お盆 の献立は『三国遺事』の「駕洛国記」編にも記されている。三国
一千年も続いた祭礼飲食
を統一した新羅の文武王は、即位した661年に「伽耶は亡ぼ
忌祭祀は一人の祖先のために行われ、お正月やお盆な
されたが、首露王は私の母方の祖先であるので、祭礼を忘れ
どに行われる茶礼は複数の祖先を祀り、その年の最初に収穫
てはいけない。歳時(正月3日と7日、5月5日、8月8日と
された果物や穀物などを捧げて祈る行事は薦新祭である。お
15日)毎に、酒、甘酒、餅、ご飯、茶、果物を供えるべし」と
正月にはご飯の代わりにトックッ(餅スープ)を供え、お盆に
命じた。
はソンピョンという餅を供える。安東の河回という村の宗家
驚くのは、上述の6つの食べ物が1300年が過ぎた今日
では、この薦新祭を完璧に準備するために、お盆の茶礼を旧
でも、祭礼の際に欠かせないということだ。一国の歴史も
暦の9月9日に行うが、その時期でなければ新穀がよく実ら
千年と続くのが難しいのに、祭礼の品を継承してきた長い歴
ないという理由からだった。
史は、我々が文化民族であることを世界に誇れる証拠といえ
また茶礼は無祝単献であり、祝文を読み上げないで酒 22 Koreana | 春号 2010
る。
慶畿道水原市沈温宗家の墓地に向かう祭官たち。
祭礼の飲食に盛り込まれた意味
るが、そのたびに違う炙(焼き物)が登場する。海幸の魚炙と
亡くなった人の忌日に行われる
山幸の肉炙、豆腐や多彩な野菜を串焼きにしたものを蔬炙と
忌祭祀の飲食を調べてみよう。家ごと
いう。自然がくれたいろんな食べ物を祖先に供えたいという
に供える食べ物が少しずつ異なること
親心からの工夫であった。三色の果物の中でナツメには子孫
から家々礼とも呼ばれるが、基本枠は
繁栄の意味がこめられていて、栗は祖先との永遠のつながり
あまり変わりない。位牌から最前列に
を意味する。種となる栗を土に植えると、最初に実った栗は
はご飯と杯、汁椀、スプーンと酢入り
巨木になっても腐らず、そのまま残るという。祖先を祀った
の醤油が置かれる。二列目には麺と
位牌や神主を栗の木で作るのも、栗の木の生態を人に喩える
肉・野菜・魚の炙(焼き物)、そして餅
ためである。柿は種を植えれば、すぐ柿にはなれずマメガキ
と、それにつける飴などが置かれる。
になる。3~5年ほど経てば、その枝に他の柿の木の枝を接
三列目には魚・肉・素の湯(魚や肉類な
木してこそ、見事な柿が実る。人間も生まれてからちゃんと
どを入れない祭祀用のスープ)など、
教わらないと立派な人間にならないという意味から、柿の木
三種類のスープが上がり、その間には
の生態に喩えているのだ。
ジョンも置かれる。4列目には干し肴
お正月の定番の食べ物であるトックッは『農家月令歌』に
として、明太干し、肉干し、タコ干し
も登場するが、「我が国の湯餅は茶礼の飲食として米で作っ
などが上がり、その傍に3色のナムル(訳注:青菜のおひたし)
た長いカレ餅を細く切ったコルム餅で煮た汁物である」と書
とナバクキムチ、シッケ(甘酒に似たもの)などが供えられ
いてある。また、「餅を切る際は、丸いドンチャック(昔の丸
る。最後の5列目には果物が上がる。
い硬貨のような大きさ)ほどに切る」とも書いてある。ドン
果物を置く順序として、紅東白西だの、棗栗梨柿だの、
チャックという形は、新年の朝に見られる丸い日を象徴する
家門の法度を掲げるが、礼書には果物の名前など全くない。
が、餅を切る際に斜めではなく丸く切って、茶礼の食べ物と
ところが、その祭祀の食べ物を注意深く見てみると、祭祀に
しての意味合いを持たせていた。
供える食べ物一品一品には象徴的な意味が盛り込まれてい
我々の祖先が数千年も祭礼文化を継承してきたのは、祭
る。三色ナムルの場合、白色は根ナムルだといってキキョウ
祀を通じて親孝行を実践し、兄弟姉妹間はもちろん一家の親
や大根ナムルを使った。黒色は幹ナムルとしてワラビを用意
戚間の親睦を深める目的もあった。人類の偉大な遺産である
し、青色は葉っぱものの芹やホウレン草を用意した。ちなみ
家族という共同体を健全に率いる中心として祭礼がその役割
に、根は祖先、幹は親、葉は自分を象徴する。
をきちんと果たしてきたことを、祭礼の食べ物を通じて確認
三炙にも特別な意味がある。祭祀の際に三回お酒を捧げ
することができるわけである。 春号 2010 | Koreana 23
宗家博物館探訪記 博物館に対して持っているイメージは人それぞれ違う。時には静かに考え事をしたり、自己を省みる時に居心 地の良い空間となる。あるいは過ぎ去った時間への通路、または人類歴史に向けて開かれた窓にもなる。人そ れぞれにインスピレーションや畏敬感、驚異的な感覚が味わえるスペースや展示場がある。英語の「ミュージア ム(museum)」という言葉は文学と芸術的ひらめきを取り仕切るギリシャの女神のミューズの神殿を意味するギ リシャ語「mouseion」に由来する。宗家博物館もインスピレーションを与えてくれる場所である。なぜなら、韓 国の過去が伺える上に、過去を現在に蘇らせる場所であり、肉体は無くとも、魂は我々の傍にいる祖先の精神 を改めて考えてみる場所でもあるからだ。 チャールズ・ラ・シュアー(那秀昊、韓国外国語大学校通訳翻訳大学院教授) 写真 : 徐憲康
24 Koreana | 春号 2010
宗
家とは“一番になる家族、あるいは家庭”を意味するが、 もっと詳しく調べてみると、宗家とは名高い祖先から
その家の長者によって代々継承されてきた家を指す。名高い 祖先とは、その氏族の始祖であるが、大概の場合は、その後 代の祖先の中で、生前に偉大な業績などを挙げて死後に「不 遷之位(位牌を祠堂から永遠に移さないこと)」の地位が認め られた人が始祖になる。
宗家の起源 韓国で祭祀の伝統は宗家という概念と同じく朝鮮時代 (1392~1910)の儒教から始まった。儒教は王と臣下との関 係、父と息子の関係など、特に上下関係を重視するが、こう した関係に内在している義務は死後も続くことになる。その ため、祠堂を建てて位牌を祀ることになるが、位牌とは祖先 の名前を記した小さな木製の牌であり、祖先の魂が宿ってい るところであると同時にその象徴としてみなされる。 祖先の祭祀を行う特権と義務はその家の長者にあり、 毎年、各祖先の命日になると、祭祀飲食を用意して祖先を祀 る祭祀を行った。そして、祖先がその見返りとして子孫を 守って、家の繁栄を助けてくれると信じていた。このような 伝統は韓国文化の中に深く根付いているわけで、現在も本家 (長者の家)では祭祀が行われている。 伝統によると、祭祀の対象は上の4代までの祖先であ る。家長が亡くなり、祖先と共に祠堂に祀られることになる と、それまで4代前祖先の位牌は祠堂から移される。ところ が、上述した「不遷之位」はこうした掟が適用されない。ある 祖先が国に対して大きな業績を挙げたりすれば、王や権威者 の令によって永久に祭祀を行うこともある。 ほとんどの宗家はこうした不遷之位の祖先の子孫に 李元翼宗家の忠賢博物館(www.chunghyeon.org)
よって維持されてきた家である。これらの宗家は祭祀を行う だけではなく、代々に伝えられてきた貴重な文書や遺物を保 存する役割も果たしている。幾つかの宗家はさらに一歩進ん で、小さな博物館や遺物館を開いて、家の宝物を展示してい る。それでは韓国にあるユニークな博物館を何箇所か紹介し てみよう。
金誠一宗家の雲章閣 宗家探訪の旅は韓国の精神文化の首都と言われる慶尚 北道安東から始めよう。安東は昔から儒教思想と文化に止ま 春号 2010 | Koreana 25
鶴峰金誠一宗家の祭祀のお膳の後ろに 立てる屏風型の掛け軸と祭器。掛け軸 に書かれた文章を直訳すれば、長らく 吹く清らかな風であり、代々、清い家 風を維持するという意味である。
らず、学問と芸術の中心を担ってきた。したがって、この地
金誠一(1538~1593)は、朝鮮時代の大儒学者・退渓先
域に宗家博物館が多く残っているのも当然のことと言える。
生の弟子として知られる。彼は30歳の時に官職につき、さま
金誠一宗家は安東から北西側、鳳停寺へ行く道の途中に
ざまな要職を歴任しながら外交使節として中国と日本も訪問
位置している。高い正門の内側に沿って歩いて行くと、広い
した。16世紀末に日本が朝鮮を侵略した際は、戦乱を被った
芝居に出る。右側には良く手入れされた木々と潅木、自然石
地域を訪れて、命を顧みずに義兵らを助けたり、励ましたり
と石物が配置された小さな庭園がある。家は左側に韓国産松
することに努めた。彼は学問にとどまらず、常に民のことを
の木に覆われた丘の麓に位置している。
心配する高い愛国心の持ち主として名高い。
金誠一から15代目の子孫にあたるキム・ジョンギルさん
家のすぐ側には雲章閣という遺物館があり、金誠一が残
が我々を迎えてくれた。ところが、彼はまだこの家の宗孫で
した2百点余りの遺品を含め、2万点余りの遺物と文書を収
はない。彼の父親が亡くなって2年が過ぎたものの、喪に服
蔵している。元々ここは代々伝わってきた遺物と遺品を保管
する3年の期間が終わっていないためだ。キム・ジョンギル
するために建てられたが、年月とともに遺物の保管がままな
さんは父親への弔問客のために用意してある小さな部屋を見
らなくなると、義城金氏の人々が政府の支援を受けて遺物館
せてくれた。壁には弔問客を迎え入れる時に喪主が着る喪服
を建てた。
がかかっている。暖かな春風が吹く5月になると、喪の期間
ところが最近、金誠一と義城金氏の家門が所有している
も終り、家族は祠堂にキム・ジョンギルさんの父親の位牌を
貴重な遺物に関心を持つ人々が増えたことを受けて、雲章閣
祀る儀式を行うことになる。それと同時にキム・ジョンギル
側は収蔵庫に保管していた幾点の宝物を展示する空間になっ
さんから4代上の位牌は祠堂から移されて地中に埋れること
た。展示品を観覧したい訪問客は遺物館に予約すれば、多様
になる。ところが、祠堂の左端に安置された金誠一の不遷之
な遺物に関する説明も聞くことができるが、今後さらに新し
位は居残ったままである。
い遺物館を開いて一般に公開する計画である。
干し柿、松の花粉で作った茶食や薬菓など、宗婦が用
遺物館に収蔵された遺物の中でも特に目を引く展示品
意した様々な伝統菓子やお茶を食べながらキム・ジョンギル
があるが、中でも金誠一の所持品だった眼鏡と眼鏡入れは、
さんは現代社会における宗家が直面した課題、つまり伝統と
韓国でも最古の品であるという。また、木製の鞍も歴史学的
現代の狭間でのバランスの取り方について語った。「家族と
にはまだ照明されていないが、韓国でもっとも古い品々であ
家門を中心にしていた伝統社会の構造は崩壊しかかっていま
ると推定される。朝鮮時代に身分証の役割をしていた小さな
す。その流れに逆らうことはできなくても、伝統を守ること
木切れや骨の破片で作った戸牌(身分証)などもある。さらに、
において宗家の役割は重要であると思います。やはり、現代
雲章閣には膨大な量の記録資料もあり、学者らにとっては朝
社会の環境に適応する必要はあるでしょうが」
鮮時代の歴史と文化に関する貴重な研究の場となる。資料の
26 Koreana | 春号 2010
金孝盧宗家に伝わる笏記。笏記は祭祀の進め 方や法度を書いた文書である。
© 李東春
中には<經筵日記>というものがあるが、經筵とは王が学識と
に位置していたが、安東ダムが建設されてから1974年に現
徳の高い臣下を招いて彼らの講義を聞く場であり、この場に
在の場所に移され、元々の地域は水没した。真っ青な空の
参観した史官がその内容を記録したのが經筵日記である。こ
下、青い松の木に覆われた丘の辺りに集まっている平屋建て
うした資料は厳重に管理され、当代の王や首脳らも閲覧する
の家並みは、一枚の絵の中の風景のように見える。
権限がない上、実録編纂の際に史料として使われた。ここに
村の外れで宗孫の弟であり、遺物館と村の施設を管理し
ある<經筵日記>は全部金誠一自ら記録したものである。その
ている君子村館長のキム・バンシクさんに会って案内しても
内容こそ歴史的に大したものではないかもしれないが、朝鮮
らった。親切で真摯な彼は君子村の美しさを写真に収めるこ
の社会像に関する興味深い内容が書かれた文書もある。例え
とを趣味としていた。こうした趣味は金孝盧(1454~1534)
ば、金誠一が科擧試験に提出した文章の元本が見ると、採点
の人柄を考えれば自然な成り行きに感じられる。同地域にあ
者による、特に優れた文章であることを示す赤印をつけた部
る他の宗家の祖先とは違って、彼は官吏としての暮らしを諦
分や、点数や順位などもはっきり残っている。遺物館の担当
めた代わりに、静かで清楚なソンビの暮らしを選択した。退
者のキム・ヨンスさんは「今にすれば80点ぐらいですが、非常
渓先生が書いた金孝盧の墓碣銘(墓石に彫った文章)には、「科
に高い点数です」と言った。
擧試験にこだわらず、清く正しい品行で他人から直接教わる
もはや静かな雲章閣を後にする時間である。鶴峰古屋の
のではなく、自ら学問を磨き、端正で敬う心持で祭祀を行う
正門を出る道すがら、工事中の新しい建物が目に入った。今
一方、親に対する親孝行や兄弟に対する友愛で子孫を諭して
後は、そこに雲章閣に保管されている数多くの遺物が展示さ
いた。死後に儒学界では彼のために祠堂を建てて位牌を祀っ
れることになるが、訪問客の関心がもっと高まることを期待
た」と記してある。
してみる。
キム・バンシク館長は我々を村の入り口に案内した。そ こには崇遠閣という遺物館がある。村の他の建物と同じく韓
金孝盧宗家の崇遠閣
国伝統の家屋と形は同じだが、セメント張りの現代風の建物
今度は足を少し東の方角に向けて陶山書院の方へと向
である。1974年に村が移された時に450年の歴史をもつ木
かう。松の木に覆われた丘の間の道をくねくね行く途中でい
造建物である後彫堂の蔵から1200冊以上にのぼる本や文書
きなり森が消え、小さな韓国伝統の村が眼前に現れた。ここ
が見つかった。その遺物の保管・展示のために政府の支援を
は君子村として有名な烏川遺跡地である。君子という言葉は
受けて2007年に崇遠閣を建てた。しかし電気施設など、建
「徳のある人」を意味するが、この村にこうした名前がついた
物のメンテナンス費用は家門の負担になっているため、予約
のは、昔、安東の首長が「烏川のある村には君子でない者は
した人に限って博物館を開放しているとキム・バンシク館長
いない」と言ったことに由来する。元々君子村はもっと東側
は博物館の入り口にかかっている鉄製のシャッターを持ち上 春号 2010 | Koreana 27
げながら語った。
のと見られる銅鏡などの遺物もある。精巧に作られた箱は、
建物の中に入ると、その日の訪問客が我々だけではない
一時祖先の位牌を入れる箱として使われたものである。ある
ことに気づいた。他の訪問客らも我々と一緒に貴重な文書や
陳列棚の遺物に目が止まった。そこには持ち主の名前が記さ
様々な遺物を興味深く鑑賞していた。最初に我々の目を引い
れた矢があり、それは戦場で倒れた軍人を発見すると、彼を
たのは一連の教旨であったが、
倒した人の名前を記録したも
中でも興味深かったのは、真の
のだという。厳しかった戦乱
意味の宗家になるための条件と
の時代性を反映していた。
して、王が金孝盧に下した教旨
他の訪問客らも鑑賞に熱
だった。もう一つ面白い文書は
中していて、遺物を見ながら
婚書と分財記だった。婚書は新
話に花を咲かせていた。遺物
郎が書いて納幣と一緒に新婦の
館の観覧が終わると、キム・バ
家族に送ったものだが、そのや 1
ンシク館長は我々を後彫堂に
や下手な字で書かれたのを見る
案内した。後彫堂は朝鮮時代
と、婚姻当時の新郎がいかに幼
に建てられたが、垂木と框が
い子供だったのかが分かる。韓
高麗時代(918~1392)の様式
国の分財記は西洋での遺言書と
であるなど、前の時代の痕跡
同じ機能をするが、この分財記
が見られた。垂木の方を見上
は初期の朝鮮社会を理解するに
げると、文書が見つかったと
おいて非常に面白い。普通人々
いう小さな空間が見える。
は朝鮮社会を男性中心の社会だ
後彫堂を出た後、キム・バ
と考えがちだが、分財記を見る
1
限り、そうでもないことが分か
ンシク館長は君子村で伝統韓 屋での宿泊体験で訪れた客を
る。16世紀末の文禄・慶長の役の前までにしても、息子と娘
案内することになっていた。それで、我々は石造りの階段を
を問わず同等に財産が相続されていて、女性は結婚後にも自
下り、けやきを通り過ぎて君子らの村を後にした。
分の財産を直接管理していた。しかし、それも文禄・慶長の 役以降変わった。国が危機に瀕してから儒教の教理がさらに 強化され、女性たちは以前より自由が抑圧された。
柳成龍宗家の永慕閣 我々は南側の安東市を目指したが、途中西側に曲がって
一方、こうした貴重な文書の他に日本から持ってきたも
河回村に向かった。洛東川の流れがくねくね曲がりこむ絵の
1 李源祚宗家の香炉 2 金誠一宗家遺物館に収蔵されている金誠一 先生自ら使っていたという眼鏡や眼鏡いれ( バク・テシン 写真) 3 南以興宗家遺物館の陳列棚に展示されてい る服の数々。左側が白い絹の生地に龍の刺 繍が施された袞龍袍である
© バク・テシン
2 28 Koreana | 春号 2010
ように美しい村には100棟を超える韓屋があり、その中の12
宝物であるが、一方では柳成龍という人物の生涯の一面を覗
棟は文化財に指定されていた。河回という村の名前は「川の
かせる遺品もある。都体察使として勤めの際に着ていた甲冑
曲り」という意味であり、村の地形的特徴から由来している。
は彼が経験した大きな試練を思わせる。また、皮製の履物
河回村では、伝統家屋を見回りながら文化体験をし、毎年開
や珠の紐のついたガッなど、日常生活の中で使われていた遺
かれるマスク・ダンス・フェスティバルや伝統的な花火大会な
品と、王に謁見したり、宗廟の祭祀の際に持っていた象牙笏
どのイベントを楽しむために訪れる訪問客でいつも賑わって
など、官吏としての暮らしぶりが窺える遺物も展示されてい
いるという。しかし、今日我々が目指しているところは、柳
る。
成龍宗家の遺物と遺品が収蔵されている小さな遺物館である 永慕閣である。 河回村は豊山柳氏の人々が集まって暮らしている村で ある。豊山柳氏の中でもっとも有名な人物といえば、宣祖
我々は永慕閣を出て村を見て回った。見所の多い場所で あるが、また次の機会に訪れることとし、安東を離れて北西 方にある忠清南道の泰安半島に向かった。唐津郡から西側に 30キロほど離れた所にある南以興将軍の宗家を目指した。
(在位1567~1608)時代に首相にあたる領議政を勤め、文禄・ 慶長の役当時、都体察使として軍務を取り仕切った柳成龍
南以興宗家の忠慕館
(1542~1607)である。優れた政治家である一方、軍事指導
我々迎えてくれた 宗孫のナム・ジュヒョンさんが、遺
者でもあった彼は、学者としても名高く、文禄・慶長の役の
物館の建物に案内してくれた。韓国政府によって1980年に
後に<懲毖録>を書いていて、戦乱を前後にして支配層が犯し
立てられた二つの建物はともに「忠慕館」、つまり「忠壮公を
た過ちを辛らつに、また詳しく記録している。
記念する館」という名称が付いている。南以興将軍(1576~
村の入り口から西側にある大路に沿って歩いていたら、
1627)の死後、王から授かった名前が忠壮公である。上述し
両側にある細道に逸れてみたい衝動に駆られたが、まっすぐ
た人物たちと同じく、南以興将軍も厳しい時代を生きた人物
歩いて行った。すぐに柳成龍の宗家である忠孝堂の後ろにあ
である。1624年に李适が仁祖(在位1623~1649)に対抗して
る永慕閣に着いた。永慕閣は年中一般人に解放されていて、
反乱を起こした際に、南以興将軍は自分が率いる軍隊の3倍
中に入ると静かに見回っている訪問客らの姿が見える。<懲
もある反乱軍をやっつけ、反乱を鎮圧した。これを受けて仁
毖録 >はもちろん、家門代々に伝わっている文書
祖は彼を一等功臣の一人にした。3年後、女
の数々が見える。文禄・慶長の役に関する
眞(あるいは清)族の軍隊が朝鮮を侵略し
記録と文書も多い。日本の侵略後、王族
た際に、南以興将軍は我が軍の10倍
を安全に義州まで護送したことを労った
を超える敵軍に対抗して安州城を守
内容の教旨もある。
る責任を負った。敵軍の侵入を阻止
これらの文書は柳氏家門にとっては
している途中、支援軍が望みがな
© バク・テシン
3 春号 2010 | Koreana 29
1 金孝盧宗家の全景 2 慶尚北道安東市河回村(www. hahoe.or.kr) 柳成龍宗家の遺 物館である永慕閣
1
忠賢博物館は財団法人でありながら私立博物館として公式に登録されている点が珍しい。忠賢文化財 団のイ・スンギュ理事長(延世大学校医科大学名誉教授)は、現在の宗孫夫婦の後代にも財団法人は維 持されるので、忠賢博物館の未来が補償されるという事実が重要であると強調した。
いと判断して踵を返してしまった。それで南以興将軍は城門
保管倉庫から本物を持ち出して見せてくれた。所々古ぼけて
を開けて敵軍を城内に入れたが、それは降伏するためではな
いるものの、竜が今にも飛び出しそうに華やかな服の上で体
く、彼は敵軍を火薬庫に誘引して爆薬を爆発させ、自分もろ
をよじっていた。
共多数の敵を殺した。仁祖が彼の死を知って大いに悲しみ、 南以興将軍を国葬することを命じた。 宗孫のナム・ジュヒョンさんは彼の祖先について語りな
袞龍袍の隣には南以興将軍が鎧の中に着ていた皮製の服 もあるが、4世紀も過ぎた今も驚くほどよく保存されている。 ナム・ジュヒョンさんは服に開いた穴は、鎧を貫いた矢の跡
がら、南以興将軍の実績を誇りに思いながらも謙虚だった。
であり、その周りについている血の跡もよく見えるという。
最初の記念館の門の内側に将軍の画像がかかっているが、将
そのような跡を見ていると、昔のことが生々しく感じられ、
軍がそこに座って、訪問客を迎える場面を暫く想像してみ
歴史について学ぶのではなく歴史そのものを見入っているよ
た。その画像は彼が李适の反乱を抑えた時に、仁祖が授けた
うであった。この皮製の服は王の袞龍袍ともに、大きな瓶に
ものである。左側に曲ると、南以興将軍の生と死が伺える貴
収められて家の床下に埋めて保管されていたため、激動の韓
重な遺物で埋め尽くされた陳列棚が見える。真っ先に目に付
国の歴史の中でも保存できたのである。
いたのは、白い絹の布地に竜の刺繍が施された華麗な袞龍袍
ここには他にもいろんな遺物があるが、軍人としての
である。南以興将軍が着ていた服ではない。彼の葬儀の際
南以興将軍の生涯が垣間見られる矢筒や、流鏑馬(やぶさめ)
に、仁祖が大いに悲しみながら、着ていた袞龍袍を脱いで将
の弓矢などがある他、木、象牙、骨などで作った戸牌のよう
軍の棺おけの上を被せたという。陳列棚の服はレプリカで
な、日常の品々も展示されている。中でも目を引く遺物は青
あったが、ナム・ジュヒョンさんは我々のために、わざわざ
色の単純な瓦であるが、陳列棚の光に反射して金メッキのよ
30 Koreana | 春号 2010
2
うに見える苔で覆われている。これは普通の瓦ではない。青
う」と言う。最後まで抵抗する精神を表す王の袞龍袍や、矢
色の瓦は王だけが使えるものだが、仁祖は南以興将軍に感謝
に撃たれて、血痕が残った皮製の服など、我々が見てきた数
の気持ちとして青色の瓦を二枚贈った。その中の一枚は最
多くの遺物のことを振り返り、彼の言葉にさらに大きな感動
近、屋根を修理する途中壊れてしまったが、幸い一枚は残っ
を受けた。
たのである。最初の遺物館を出て丘を登ると、我々の前に祠 堂の門が現れたが、手前を右側に曲がって二番目の建物に
我々は唐津を後に北へと移動した。次の目的地は今回の 旅の終着地ソウル近郊の忠賢博物館である。
入った。右側に大きな木の箱のような物が小さな部屋を占領 している。ナム・ジュヒョンさんは我々に書簡(個人の手紙)と
李元翼宗家の忠賢博物館
分財記、教旨など、家門の歴史を伝えてくれる貴重な文書で
忠賢博物館はこれまで訪れた所とはやや違う。まずソウ
あると説明した。そして、木の箱を指しては、それが南以興
ルに近くて、大衆交通機関を利用して簡単に訪問できる。首
将軍と奥様の棺桶だったと説明した。厚くて頑丈に見える棺
都圏地域で損なわれずに残っている宗家は稀であるが、それ
桶は地中から掘り出した時、棺桶の蓋をした位置を特定する
は安東のような地域とは違ってソウルは韓国戦争(朝鮮戦争)
ことに苦労したとナム・ジュヒョンさんは説明した。
で激しい戦闘が繰り広げられたため、ソウルにあった多数の
観覧を終えて数世紀前の職人たちの技に感心していた
歴史的建物や遺物が破壊されてしまったためである。幸い、
ら、ナム・ジュヒョンさんは「遺品の価値は価格ではなく、そ
李元翼宗家は戦争の廃墟から生き残った。さらに、忠賢博物
こに盛り込まれている精神で決まります。子孫たち が祖先
館は財団法人でありながら、私立博物館として公式に登録さ
の志を継承することにこそ、遺品保存の意義があるのでしょ
れた博物館であるという点で非常に重要である。忠賢文化財
春号 2010 | Koreana 31
李元翼宗家の忠賢博物館が収蔵している李元翼の画像4点
団のイ・スンギュ理事長(延世大学校医科大学名誉教授)は今
2003年に忠賢文化財団を設立して、宗宅を含めた宗家の一
後、宗孫夫婦の後代にも財団法人として維持されるので、忠
帯を私立博物館に指定した。イ・スンギュ理事長は「宗家博物
賢博物館の未来が補償されることが重要であると説明する。
館にとってもっとも重要なことは“精神文化教育”ですが、そ
イ・スンギュ 理事長は李元翼(1547~1634)の13代目の
の中核は朝鮮時代における儒教の忠孝思想です」という。現
宗孫である。李元翼は3人の王様に仕えながら領議政を務
在、韓国私立博物館協会の会長も務めているイさんの奥様の
め、文禄・慶長の役の際には、政治・軍事的に優れた能力を発
ハム・グムジャ館長は、博物館は教育と文化の空間であると
揮した。彼は有能な指導者であっただけでなく、民百姓のこ
話した。彼女は他の活動と一緒に地元の児童達を対象に伝統
とを心から愛する官吏であった。彼は賄賂を受け取ることな
文化とその重要性を教育するプログラムを運営している。
く、民の苦しみを和らげるために最善を尽くした清廉潔白な
正門に入ると、右側に見える2階建ての展示館の建物か
人として知られている。彼の家が余りにもみすぼらしいこと
ら博物館観覧を始めた。1階には火鉢とアイロン、尿瓶な
を見かねた王が、その地位にふさわしい家を授けようとした
ど、日常生活の中で使われていた遺品が展示されている。ま
が、李元翼は民に負担はかけられないと3回も固辞した。し
た、離れや母屋で使われていた様々な家具が展示されている
かし、最後まで断るわけにはいかなかった彼は、必要最小限
陳列棚もあるが、母屋の家具の方がもっと精緻に飾られてい
の規模で家を建てるという条件付で受け入れた。李元翼が亡
るのが特徴であった。また、ハム・グムジャ館長が蒐集した
くなった時、彼の位牌は宗廟にある仁祖の廟堂に一緒に祀ら
数多くの小盤(小さいお膳)の一部も展示されている。朝鮮時
れた。
代のヤンバン社会では、独床といって、独りずつ一人ずつ小
この博物館も他の遺物館同様、家中に伝えられてきた
さな食卓に向かって食事していたため、小盤の数がその家の
遺物と遺品を展示する遺物館としてスタートした。ところが
富の程度を表す物差しになっていた。1階の最後の展示室に
32 Koreana | 春号 2010
はイ・スンギュ理事長とハム・グムジャ館長夫婦が新婚の時に
屋の前には樹齢400年にもなるコノテガシワが立っていて、
宗宅で生活しながら使っていた品々が展示されている。婚約
その側には李元翼が木の影の下で韓国伝統の弦楽器であるコ
のプレゼントとしてお互いに交換した時計とイ・スンギュ理
ムンゴを演奏したという平らな岩がある。忠賢博物館探訪を
事長が妻に買ってあげたトランジスター・ラジオや古い器な
最後に、韓国宗家博物館を目指して旅立った我々の短い旅も
どは、宗家の歴史が後代にも依然として生きていることを感
終りを迎えた。
じさせる。 2階に上がると、まず目に付いたのは李元翼の画像で
旅路を振り返えながら
ある。中でも左側から2枚の画像に注目した。二枚のうち右
宗家博物館という韓国の一部分を見て回った結果、幾
側の画像は王が下賜したものであり、国に雇われた画家が描
つかはっきりとした点がある。これら小さな博物館と、そこ
いた肖像画の特徴がよく表れている。一方、左側の肖像画は
に収蔵された遺物と文書は韓国文化と歴史を結ぶ貴重な宝庫
個人の画家が描いたものであり、若かかりし李元翼が偲ばれ
である点だ。韓国最古の眼鏡など、遺物の相当数は博物館に
る。李元翼の臣下の者たちは彼に対する尊敬の念を表すため
あって当然と思われる品物である。ところが、膨大な量の本
に、生前に「生祠堂」(祠堂は通常死後に建てられるものであ
と手紙、教旨など、宗家によって保管されていた多様な文書
るため、このように呼ばれる)を建てたが、それを知った李
には驚いてしまう。世界どこに行っても、一個人がこんなに
元翼が激怒してその祠堂を壊したという。しかし、その画像
膨大な量の歴史記録物を蒐集した例はないだろう。もちろ
だけは保存され、現在彼の公式の画像の隣にかかっている。
ん、その中で宗家の血統を露にする場合もあるが、ほとんど
他の陳列棚の中には李元翼が妻の死を悲しんで書いた詩
はそうでない。これら収蔵品は祖先の智恵に対する子孫たち
が展示されている。ふたりは婚姻後、戦争や戦乱のため、一
の愛情であると考えざるを得ない。ここに宗家博物館として
緒に過ごした時間が短く、彼の深い悲しみがその詩によく表
の真の価値と意義がある。ここでは、歴史は抽象的な概念に
れていた。ハム・グムジャ院長は、この詩に胸を打たれると
留まらず、息づいている家族の一部として存在している。し
言いながら、我々に自ら詠んでくれた。特に「あなたについ
かし、残っている宗家の数に比べて、宗家博物館はあまりに
て行きたい思う心切なく/長生きを願わないので/地下でもし
も少ない。祖先から伝わった古家に住んでいる人達にとって
お互い結ばれているなら/業報の因縁は当然以前と同じであ
も、膨大な量の遺物と文書の管理は難しいことであり、それ
ろう(苦願從此逝/不願在世久/地下倘相隨/業縁當如故)」とい
で大型博物館にその宝物を寄贈したりもする。それで、宝物
う最後の節が今も心に残っている。また、李元翼の遺書は極
が保存されることはいいことだが、大型の博物館に展示され
めて実用的な内容になっている点で興味深い。彼は家族に
ている遺物は物語を欠いた、他の展示品と変わらない遺物に
葬儀は簡素に行うこと、巫女や仏教関連の行事は行わないこ
過ぎない。今回の旅を通して一番興味深かったのは、その遺
と、墓地を選ぶ際に、風水に惑わされないよう強調した。そ
物と密接な関わりのある関係者から直接その裏話まで聞かさ
の代わりに、彼の遺体は死者に着せる衣だけでまとい、訪ね
れる点にあった。
やすい場所に埋蔵して、葬式の際にも飲食を簡素に用意する
忠賢博物館が私立の博物館に登録して6年が過ぎたが、
ように頼んだ。彼が子孫に書いた他の手紙からも、彼の実用
今だ韓国で公式に登録された唯一の宗家博物館として残って
的な教えと智恵が見られる。
いる。しかし、イ・スンギュ理事長はこの現状を誇りに思う
もちろん展示館だけで終わらない。古い宗宅と王から授
よりは残念がっていた。我々が見てきた他の遺物館(博物館)
かった小さな家、梧里影宇(李元翼の画像がある祠堂)、2か所
にも価値のある物が多いが、その宝物を一般に公開すること
の亭、書院の跡地、祖先のお墓のある家門所有の山など、宗
には難しいことも多い。安東の金誠一宗家で新しく遺物館を
家一帯にあるすべての要素が博物館を構成している。宗宅は
建てていることや、他の宗家遺物館でもさらに多くの人々に
イ・スンギュ理事長とハム・グムジャ院長が新婚時代に現代風
近づくために取り組んでいることは望ましいことである。こ
に建て替えたこともあるが、現在も伝統的な趣と美しさが
うした取り組みが今後も続けられ、宗家博物館が皆にインス
残っている。王から授かった家は観感堂と呼ばれるが、「観
ピレーションを与えると同時に、精神文化教育を担当する中
て感じる家」という意味である。李元翼の行動を見て心に銘
心的な役割を果たすことを期待する。
じるようにという意味から、王が付けた名前である。この小 春号 2010 | Koreana 33
文化フォーカス
1
元気な韓国の 創造都市プロジェクト 若手芸術家に創作空間を支援し、地元住民には生の文化現場を共有できるように取り組んで いる自治体プロジェクトが盛んだ。21世紀における世界の芸術界の特徴的現象である「アー ト・ファクトリ(Art Factory)」 の脈絡から、韓国の各自治体は慎重でありながらも果敢に進めて いる「地域拠点型総合芸術空間」プロジェクトの現状と未来について調べてみる。 イ・ソンチョル(李善哲、芋の花スタジオ代表)
34 Koreana | 春号 2010
2
外
国の先進都市で最近、〈創造都市〉という概念が注目されている。この概念とこれま で文化都市などと呼ばれていた概念との違いは、従来のものは掛け声倒れになって いた感が否めないが、最近は具体的な政策として現れているという点である。様々
な見方とアプローチに基づいた期待効果、施設インフラとともにプログラムと運営の仕組み の重要性も強調されている。特に大規模な新築施設作りよりは、遊休施設や歴史的な価値の ある建物をリサイクルして、新しい文化空間として復活させることが都市活性化の主な手段 として注目されているのだ。 最近、こうした先進都市の傾向を韓国の大都市と中小都市、引いては農村でも地元の状 況に合わせて積極的に受け入れているのだ。自治体は多様な形態の遊休施設を文化空間に作 り替えることで、地域としての新しい価値を創出する一方、都市マーケティングの手段に活 用し始めた。これは、これまでの開発政策と同じ脈略から文化施設を新しく造成していた従 来のやり方とはその様相がかなり違っていて、それぞれの地域が持っている生態資源と建築 的遺産の重要性を認識するようになったことは望ましいことである。
ソウル市の例 ソウル文化財団が進めている「ソウル市創作空間造成事業」は、都心部の遊休施設のリサ イクル戦略の典型といえる。同事業は「創造文化都市」の実現に向けたソウル市の「カルチャ ノミックス」政策によって、芸術家と市民の創造的能力を育むことで、都市の国際競争力強化 を図るプロジェクトである。芸術家には創作空間を提供し、距離感のあった芸術を地元住民 にとって身近な存在にしようという趣旨から、2008年度に企画された。去年秋から本格的に オープンした創作空間は、本来の機能を失った遊休空間を創作空間として活用することで、 旧都心部を文化的に再生し、地域共同体を活気付けることで、ソウルの文化・環境・教育・経済 的ニーズに応える効果をもあげている。 この事業の結果、西橋洞(弘大前)の旧役場の建物をリサイクルした芸術実験センターを 皮切りに、延嬉洞の旧時事編纂委員会の空間を活用した文学創作村、禿山洞の印刷工場を活 用した国際文化芸術交流センター、新堂洞の旧地価商店街を改造した新堂創作アーケード(工 芸工房村)などが既にオープンした。その他にも文来洞の鉄工所団地内の工場と保健所、交通 センターなど、都心にあった様々な遊休空間を引き続き掘り起こして、多様なジャンルと形 の創作空間に作り上げている。
1 衿河芸術工場(Seoul Art Space GEUMCHEON)。ソウル市禿山 洞の印刷工場を建て替えて、 作家入居室と共同作業場とし て提供する。 2 西橋洞の旧洞事務所(町役場) の建物を活用した西橋芸術実 験センター(Seoul Art Space SEOGYO)の1階展示場 3 新堂創作アーケード(Seoul Art Space SINDANG)。ソウル新堂 洞の古い地下商店街を改造し て工芸中心の小規模スタジオ、 展示場、共同作業場として活 用している。 Winter 2009 | Koreana 35 春号 2010
3
韓国芸術総合学校のイ・ジョンホ教授は「文化施設は市民とかけ離れてはいけない」 とし、「そうでなければ、本来の意図とは違っ て、都市の中の孤島になりかねない」と強調した。
この創作空間の特徴といえば、廃校の活用、創作村、 国公私立の創作スタジオ、個人及びグループの創作室など、
術家と市民が一つになれる未来志向的な総合文化空間を目指 している。
従来の空間が持っていた長所をより生かした「地域拠点型総 合芸術空間」であることだ。特に芸術家らの創作活動に対す
仁川と京畿道の例
る支援の他にも、海外との交流、若手養成および、文化芸術
この他にも仁川市は、開港から建てられていた近代の
教育を通して、市民に密着した空間になるように取り組んで
建築文化財をリサイクルして、芸術家らの創作空間として活
いる。さらに、巨大都市でよく見かける大型コンプレックス
用する仁川アート・プラットフォームを造成した。第2の跳
中心の施設ではなく、都市のあちこちに散在していた小規模
躍を夢見ている仁川市は、この空間が仁川駅、チャイナ・タ
な遊休施設を活用することによって、その空間の特色に合わ
ウンと隣接しているだけに、都心の活性化の中心として観光
せた新機能を持たせる一方、地域の拠点空間として生かすと
客を取り込むことができると期待している。一方、京畿創作
同時に、一つのベルトにつなげ、ネットワーク化することは
センターは京畿道安山の道立職業専門学校を建て替えて、芸
注目に値する。
術家レジデンスを目指した空間である。美術を中心に多様な ジャンルの芸術家の作業スタジオとして活用されると同時 に、様々な展示会や地域プログラムや祭り、そして、アーカ
大邱市の例 大邱市が旧タバコ人参公社の煙草製造廠の建物と敷地
イブとしての機能まで果たしている。
を活用した「大邱創倉(大邱創造製造倉)」プロジェクトは、地 方都市である大邱が地域の範囲を越えて、世界レベルの芸 術・文化都市に成長するための戦略の一環として推し進めて
江原道の例 江原道は山に囲まれた地域的特長から、農山魚村の廃
いる計画である。煙草製造廠の敷地は地上5階建ての本館を
校を活用した文化空間づくりプロジェクト に前向きである。
含めて計4万8千843㎡であり、このプロジェクトはその規
特に、代表的なグリーン地域として、冬季オリンピックの開
模や活用の可能性という面からも他の例とは違う。この広大
催候補都市である平昌郡は、地元の廃校施設を積極的に買い
な空間は本館と別館、公園の敷地からなっていて、純粋芸術
入れて、民間の専門家らに経営を委託している。美術館、演
の創作活動を始め、レジデンス・スタジオ機能をもちろん、
劇劇場、レジデンスなど、地元ならではの文化空間として活
メディア・ライブラリーと子供・市民を対象にした芸術教育、
用しているが、芋の花スタジオ、ムイ芸術館、月光劇場、ス
大規模のカンファランスから大衆文化にいたるまで、実に芸
ハサン文化学校などはその好例である。
1 36 Koreana | 春号 2010
2
1 新堂創作アーケードの作業場 の一室。 2 新堂創作アーケードの 「私も アーチスト」体験工房。市民参 加型プログラムである。 3 執筆室、ゲストハウス、コ ミュニティー空間を設けた延 嬉文化創作村(Seoul Art Space YEONHI)。
Winter 2009 | Koreana 37 春号 2010
3
1
中央政府の支援 韓国政府も地域の遊休施設のリサイクル・プロジェクト を積極的に支援している。中でも最も注目すべきものは、文 化体育観光部が文化政策のビジョンとして「ソフト・パワーの
1 仁川市海岸洞の近代建物を総 合文化空間としてリニューア ルした仁川アート・プラット フォーム。 2 仁川アート・プラットフォーム で開かれた市民写真展。
強い創造文化国家」を掲げながら打ち出した〈近代産業遺産を 活用した芸術創作ベルト・プロジェクト〉である。産業時代が 残した遺産を活用して創造的な文化空間を造る同プロジェク トは現在、工場・駅舎・公共施設などがその対象となってい る。 これまで、数多くの登録近代産業遺産が保存政策に よって文化資源としては有効に活用されなかった事実を受け て、文化部は自治体と連携してこれら遺産を積極的に芸術創
性とハンガンをつなげた「文化創作発電所」として育成してい
作空間や 市民文化空間、また観光資源に活かして立ち遅れ
く計画である。
た地元経済の活性化を図ると同時に、暮らしやすい文化共同 体を作るという政策目標を掲げている。群山の埠頭周辺にあ る近代の建物、抱川の旧採石場を活用したアート・バレー、
成功戦略 このように地元の多様な遊休施設または空間を文化空
新安の塩田倉庫、大邱の煙草製造廠のリサイクルなどが支援
間として蘇らせるためには、まず正しい方向性と戦略が必要
の対象になる。
である。その地域が有している遊休施設の現状や、もとも
具体的には2008年から産業時代の遺産を文化空間に活
とその施設がどんな空間であったのか、歴史的な背景の有無
用する様々なプロジェクトを本格的に進めてきた。まず、
や、ハード面でどんなやり方で建て替えできるのか、どんな
2004年に高速鉄道の開通によって閉鎖されたソウル駅舎は
プログラムとそれに適した対象、地元がもっている力と外部
2010年に、仁川空港鉄道との連結に備えて、コンサートや
の支援とのネットワーク化の可能性、広報とマーケッティン
展示なども行われる総合文化空間に生まれ変わる。唐人里火
グ戦略、運営予算の持続可能性と予算確保の方策など、どれ
力発電所の敷地には2012年まで近代産業博物館、デザイン・
も簡単ではない課題が山積みである。
アーカイブなどを設けて、弘益大学校、新村周辺の文化的特 38 Koreana | 春号 2010
したがって、このようなプロジェクトは企画段階から、
2
幾つかの前提条件が充実していてこそ成功を担保し、失敗の
レベルの高いフェスティバルやイベント通じて活力を吹
リスクを最小限に抑えられる。地域のもつ歴史性と現在が調
き込み、都市にとって文化推進の役割を果たすことも必要で
和する中に、活用可能な資源を見つけ出して、その地域なら
ある。隣接した地域に既に存在する施設とのネットワーク化
ではのコンテンツを確保すること、実質的なプログラムの構
も欠かせない。多様な文化芸術教育プログラムを積極的に活
成、運営とマーケッティングに向けた持続的な実践策も欠か
用すれば、住民生活の中に自然に文化共同体が形成され、そ
せない。さらに、運営においても施設を不動産的資産ではな
して市民は創造的な環境を享受できる。芸術家らが常駐する
く、資源として認識すべきである。そして、実際にその新し
環境作りに取り組み、活動を支援すれば、市民と芸術家との
い空間で地元住民が文化芸術を体験し享受できる機会が広が
コミュニケーションが可能になるはずだ。最近の環境にやさ
り、空間の価値を文化界や 自治体だけでなく、市民社会も共
しい低炭素グリーン都市と連携したプログラムとコンテンツ
鳴できるようにしなければならない。この脈略から韓国芸術
開発も欠かせない。このような取り組みは、各地元の環境を
総合学校のイ・ジョンホ教授は、「文化施設は市民とかけ離れ
整えて訪問客にも満足してもらえる高いレベルのアウラを作
た存在になってはいけない」とし、「でなければ、本来の意図
り出し、都心へ人々を引き寄せる要素として働くことにな
からかけ離れた都心の中の孤島になってしまう恐れがある」
る。これからは、その施設が魅力的な文化空間として人々に
と強調した。
広く知られる新しいブランドを目指すべきであろう。 春号 2010 | Koreana 39
インタビュー
現
代舞踊家アン・ウンミ(安銀美)は2009年第1回ナム ジュン・パイク(白南準)国際芸術賞の受賞者に選定さ れ、それを契機に彼女の踊りには大きな関心が寄せ
られている。今回の受賞で白南準と安銀美の世界が出会ったこ とは、驚異であると同時に21世紀の芸術の未来を占う象徴的な
21世紀のネオ シャーマニズム 現代舞踊家 アン・ウンミに聞く
事件だともいえる。なぜなら白南準が1960年代の西欧のアバン ギャルド芸術のど真ん中で非ヨーロッパ人の「文化的野望」を実 現しようとしたのと同様に、安銀美もまた東アジアの領域を抜 け出し「文化的紛争」としての踊りを目指しているからだ。
時間を超越した踊り 二人とも非西洋人の肉体では心の響きは表せないと思われ ていた場面で、十分に衝撃を与えることができたという点が共 通している。白南準は天下にとどろいた風雲児として名高いが、 安銀美もまたアメリカとドイツをまたにかけて活動範囲を広げ てきた芸術家だ。しかし単純にそういう空間的な次元の移動だ
アン・ウンミ (安銀美) は韓国固有のモティーフを 使った作品でヨーロッパの舞台で認められてい る現代舞踊家だ。シャーマニズム的なものを土 台にしているという点において、故ナムジュン・ パイク (白南準) と精神的な根源を共有している ともいえる彼女は、 「私は頭で計算する編集能力 の振付家ではない」 と語る。彼女の舞踊の世界と その振付の美学にふれてみよう。 キム・ナムス(金男洙、白南準アートセンター学芸室長) 写真 : 崔英模
けでは彼らを十分に説明したとは言えない。二人は観点を「韓国 の外」 「東アジアの外」に移動させただけではなく「西欧の外」にま で飛び出した芸術家だ。これは次元の移動であり、一つの観点 ではなく、多数の観点を交差させることで新たな観点を生み出 すということだ。 例えば、抜群のセンスを誇る友人が私の書いた物を賞賛し てくれたとしよう。すると私は再びその文章を読み返してみる だろう。なぜ友人がこの文章を賞賛したのかと考えながら、そ の友人の視覚で自分の書いた文章を読むことになるだろう。そ れは私の視覚と友人の視覚が交差する瞬間であり、新たな観点 の誕生だ。安銀美の踊りの世界はまさにそういう世界だ。踊り は現在に基盤を置いた時間芸術だが、彼女の時間観はこのよう な踊りの常識を超えている。
「新春香、2006」の一場面。扇を 持っているのが春香役のアン・ウ ンミ。 40 Koreana | 春号 2010
「外からの視覚が必要です。時間を非常に長いものとして 捉えて、ゆっくりと何度も何度も考える芸術が必要です。私の 振り付けはこの時代のためのものではありません。この破片が、 この振り付けが化石になるなら!この時代の誰かが、死んでい る時間がよみがえることを願うのなら!この伸縮性のある人生 の中で瞬間的に膨張し世の中を横切る、そういう記憶、思って もいない記憶のために踊るのです。単純に現在のためだけのも のではありません。ある時代の誰かに宇宙人扱いをされれば、 その摩擦が面白いのです」
白南準と安銀美のシャーマニズム そして白南準と安銀美にはシャーマニズムを土台にして活動 したというもう一つの共通点がある。白南準はピアノの上に乗っ て飛び跳ねたかと思うと、黒板に 「青空」 と書いて自分のパフォー マンスが北方シャーマニズムにその文化的起源をおいていること を明らかにした。モンゴルのシャーマンが崇拝する神がこの「青 空」なのだ。その後、彼は一生、北方シャーマニズムに基盤をお いたクッ・パフォーマンス精神を一貫して追求し、 「アジアから来 た文化テロリズムだ」 (アラン・カプロー) と評された。 彼の「ジョン・ケージへのオマージュ」や「ピアノフォルテの ためのエチュード」、「Originale」などの初期の音楽パフォーマ ンスの核心は北方アジアのシャーマニズムを基盤にしたクッ・パ フォーマンスであり、ヴァルター・ベンヤミンの言う肯定的な 「文化的な野望」に該当するものだった。すなわち、これはすべ てが均一化され没落の道をたどっている西欧の伝統に異質なも の、破壊的なものを介入させて狂乱させることで、究極的には 「さらに高い健康(ニーチェ)」を追求しようというものだった。 オスヴァルト・シュペングラー以後、「西欧の没落」という主題は 歴史の終焉という危機意識につながり、他者の文化から新しい
春号 2010 | Koreana 41
1
2
エネルギーと生産力を求めようという密やかなプログラムが
すことになった。当時、ヨーロッパの舞踊誌「ダンスナウ」は
稼動したと見ることができる。人類学は諸刃の剣のようなも
彼女のことを「彼女はアジアのビナ・バウシュだ」と評した。
ので、このような西欧の知的文化的な過程に深く関与してい
「私の公演は人間の出来事に対する寓話であり,その中
る。しかし西欧が没落したかどうかは分からないが、相変わ
には暴力に関する研究、共同体の両面性、形式とビジュアル
らず西欧が「刀」を握っていることに変わりは無い。
の配置が含まれています。基本的に現実の政治には関心があ
一方、安銀美が追及する「文化的な紛争」は直接的に身
りませんが、芸術は政治的なものとは深い関係があります。
体が自分の言葉をみつけ、硬くなった身体的な楽譜を広げ
特定の政治的背景を帯びてはいなくても自分の法則で踊りを
て、シャーマニズム的な残酷劇で世界を治癒するクッ・パ
踊っている人間の身体は政治的な共鳴をまき起こします」
フォーマンスに由来している。否定と肯定は「○×」という逆 説的な語法で語られるのが特徴だが、身体自体が近代化の影 と文化の原型の間の紛争地帯として演出されるのだ。「私は
受賞記念パフォーマンス 白南準芸術賞の授賞式が終わった後、安銀美は74台の
誰か」この質問の刃の上で人生の肯定的な力が増幅される。
ピアノを白南準アートセンター前の道路に置き、空中には
例えば、ヨーロッパ巡回公演に成功した「新春香2006」は春
24台のピアノをつるした「白南準へのオマージュ」を行った。
香という韓国の伝統的な物語の主人公に東アジアの独特な文
これは二人の芸術家の目指すところがある種の疎通をしてい
化的色彩を加え、さらにその中に暴力と愛の二律背反的なエ
るから可能だったと言える。この日、安銀美はネクタイでプ
ネルギーを反乱させたダンスドラマだった。この作品の影響
リーツスカートを作り 、ジョン・ケージのネクタイをはさみ
は非常に大きく、その後韓国では一つの分水嶺の役割を果た
で切った白南準の有名なパフォーマンスを再現するかのよう
42 Koreana | 春号 2010
3
1-2「Louder! Can You Hear Me」の一場面。1番のダンサーがア ン・ウンミ。 3-4「Let Me Change Your Name」から
4
に、人々にネクタイの細切れを配った。また狂詩曲スタイル
付美学の根源を探し当てた。それは韓国シャーマニズムの根
の音楽と童話的な熊人形のダンスを踊った。パフォーマンス
源であるバリ姫の説話を同時代のパフォーマンスにしたも
「ある美しい女性舞踊家の年代記」は大地の母、女神のように
のだ 。この公演ではパンソリと叙事巫歌、パンソリと民謡、
純粋増殖をした安銀美がクレーンに乗り空中浮揚を試みなが
パンソリと踊りが一つになった。交響楽芸術、Symphocaと
らクライマックスに達すると、斧とハサミでピアノを攻撃す
いう形式は「ルネッサンス・マン」パク・ヨングが創案した概念
るというものだった。彼女はこのような精神的な結合の中で
で、一種のワーグナー的な総合芸術のようなものだ。
「白南準の帰還」を求めたのだ。 「渇きが無ければ救いもありません。人生のどん底に横 たわった深い低音に共感することが大切です」
「危害を受けた者が先に加害者を許せというのがイエス の教えです。このような教えを実行できる人間はシャーマン しかいません。国を与えるといっても嫌だといい、権勢もい
これはどういうことか。すべてが折衷と遊戯のポスト
らない、ただ万民のための母となり、その愛と生命力でバリ
モダンの中に溶け込むようでありながら、振り返ってみれば
(巫女)になるというのがバリというシャーマンの存在です」
人生の根源的な次元は湛然不動だという意味ではないか。人
それでは安銀美のシャーマニズムは何か。彼女の
生は進歩しなければいけない、矛盾と逆説に目覚めるべきだ
シャーマニズムは細かなメッセージを交換するコミュニケー
という意味ではないか。
ション的行為ではない。言語や絵で互いの記号を受け取るこ とには関心はない。ただ無知だとしても崇高な体験となる世
振付の美学 安銀美は2009年に「バリ-この世編」を公演し,自分の振
界の開始、それが彼女の踊りのたった一つの目的だ。シャー マニズムでいうところの天と地、そしてその間の疎通に介入 春号 2010 | Koreana 43
「現在の底を打ち、認識論的な衝撃を与えることが重要です。私な りの言葉で言えば“毎瞬間がここ一発”ということです。瞬間的に 極大化したパワーは決して緩むことの無い絶頂で観客の胸にポー ンと響きます。精神のエネルギーが生まれるのはその瞬間です」
1
するシャーマンの存在は私たちが忘れてしまった流動的な知
入っているのです」
性の構成要素だ。ここで天は「創造的な力動性」であり、地は 「総体的な関係の場」だ。力動的なエネルギーと関係の美学が 交じり合った生動する人生、それを舞台化する彼女は何を考 えているのか。
今年の公演 今年彼女は「バリ-あの世編」でこのような人生を死の観 点から新たに眺めようとしている。バリ姫が父を生き返らせ
「現在の底を打ち、認識論的な衝撃を与えることが重要
ようとする行為、7人の息子を産み、忍従の年月を耐え忍ぶ
です。私なりの言葉で言えば“毎瞬間がここ一発”ということ
行為、そして万人の平等と万国の平等を普遍化させるシャー
です。瞬間的に極大化したパワーは決して緩むことの無い絶
マンになる行為を見せようとしている。しかしこれを堅苦し
頂で観客の胸にポーンと響きます。精神のエネルギーが生ま
く表現するのは彼女の好みではない。
れるのはその瞬間です。私は頭で計算する編集能力の振付
「基本的に孝の思想を基盤にしています。また平等、民
家ではありません。私を滅ぼす力動的な一言がコミュニケー
主主義などもありますが、漫画的な想像力を働かせたいと思
ションパワーとして人々に底を打つ体験となることを願うだ
います。この世で果たせなかった希望の夢で私たちの脳を開
けです。“安銀美にまたやられた”という観客の反応は単純な
く公演を考えています。何よりも小さな女児の身体をもった
修飾語ではありません。もちろん私にも踊りを通じたコミュ
33歳の女性がバリ役を演じるので、透明で純粋で挑発的な
ニケーションは約束された記号以上の次元なので数多くの危
舞台になるでしょう。彼女のバリはきっと天使の降臨のよう
機があります。言語が私たちをだまし、その根本的な次元を
な時間となることでしょう。それで体の不自由な方々の中か
超えて言語を使用しなくてはなりません。そんな危機のたび
ら、バリ役の彼女と同じ小人症の方6千人を招待しようと
に霊験の友が助けてくれます。安銀美の中には数多くの友が
思っています」
44 Koreana | 春号 2010
また今年はドイツのハイデルベルグで新しい公演を 行う予定だという。すでに「Let Me Change Your Name」や 「Louder! Can You Hear Me」のような作品で大きな反響を巻 き起こしている。後者の作品に対して評論家ホフマンは「多 くのことを約束する始まり」と評し、やはり評論家のルード ビッヒ・アムマンは「幻想的な静物、第一印象から観客をとり こにする驚くべき効果」だとして「1秒の無駄も無かった」と 評した。 安銀美は舞踊家を酷使して彼らの身体が経験する変身 のモティーフを現実化する振付家である。そして非西欧の身 体だけでなく西欧の身体までも力と反作用して変化してい く。身体の真実という多少素朴な表現が時間的な空間的感動 として表れるのは驚異である。 「真実は率直に言うことではありません。長い間悩むこ とであり、その苦悩がまるでむだな歳月のように思えるほど 2
悩むのです。フロイドが言ったように“臨時性の原理”が作用 して、その多くの時間が過ぎてようやく“突然の悟り”に到達
1,3「バリ-この世編」から
するのです。そのように悩んだかさぶたが取れ、凝縮したエ
2 第1回白南準国際芸術賞の授賞式直後に披露されたパ フォーマンス「ある美しい女性舞踊家の年代記」で、ネク タイで仕立てたウエディングドレスを着て公演するア ン・ウンミ。
ネルギーとして表れたのが私の踊りです」
春号 2010 | Koreana 45
3
巨匠
京
畿道議政府市佳陵洞の住宅街。網の目のように広 がる裏通りの一角に建つ2階建て住宅、その1階 のドアには、玉石匠の作業場であると一目でわか
る大きな表札がかかっている。2階が自宅で1階が作業場 だ。何の変哲もない外観とは違い、20坪ばかりの作業場の中 にはあちこちに興味を引く物ものがおいてある。作業場は、 原石を切断し表面を加工するスペース、精巧なデザイン作業 をするスペース、金属鋳物を作り細工をするスペースに分か れている。それぞれのスペースはさらに細部工程に分かれて おり、びっしりと並んだ20個の作業台はそれなりの秩序を 保っている。そして作業台の上と壁面には数百本の刃物と各 種器具がびっしりと並んでいる。 各工程ごとに技術者が配置される分業化された工場と は違い、20個あまりの作業台を行き来して数百種類の器具を 手馴れた様子で扱い作業をしているのは匠とその弟子の二人 きりだ。京畿道無形文化財18号玉石匠の技能保有者キム・ヨ ンヒ(金泳煕)さんは、玉工芸だけでなく、それに付随する金 属工芸にまで通じている、国内でただ一人の匠だ。
53歳、経歴40年 韓国では青銅器時代から玉工芸品が作られ愛用されて きた。慶州の天馬塚から出土した遺物の68%が玉石類の勾玉 であることからしても、韓国人が玉を非常に好んできたこと が分かる。玉は原石を手に入れるのが難しく、高価な上に工 芸技術も複雑なため高貴で貴重な工芸品として昔から匠の数 を国で制限していた。そのため玉匠の人数自体が昔から極度 に少なかったという。採石した玉をデザインしたあとで切断
貴族の宝石、愛の象徴 “玉” 京畿道無形文化財18号、玉石匠技能保有者 キム・ヨンヒ (金泳煕) 玉は昔から東洋の文化圏で発達してきた宝石だ。韓国をはじめとして中国、日本など では玉を身につけたり、家内に所蔵すれば災いを防ぎ健康を守り、富貴を得られる と信じられてきた。玉石匠キム・ヨンヒ(金泳煕) さんは、玉工芸だけでなくそれに 付随する金属工芸にまで通じた、韓国内で唯一の匠だと評されている。 パク・ヒョンスク(朴炫淑、フリーライター)| 写真 : 安洪范
46 Koreana | 春号 2010
春号 2010 | Koreana 47
「昔の人々は玉には善、義、智、勇、厳の五つの徳が含まれていると考えていました。高校生のお子さん のいるご両親が子供の婚礼用の装身具を事前に準備するのだといって製作を依頼されたことがありまし た。孫のために装身具を作って欲しいというおじいさん、おばあさんもいらっしゃいます」
1
し、成形、細部を彫刻し、光沢を出してようやく一つの作品
韓国に人間文化財という概念を始めて定着さ
が完成する。正確な予測が必要で、のこぎり、旋盤、ろくろ
せたイエ・ヨンヘ(芮庸海)はその著書『人間文化
などの器具と金剛石の粉を使って磨いていくが、そこには精
財』で朝鮮王朝の最後のペムル匠キム・ソクチャン
巧な技術だけでなく高度の芸術性が要求される。 キム・ヨンヒさんは白玉、翡翠、瑪瑙、水晶、琥珀など
(金錫昌)さんを紹介している。金泳煕さんの師匠 の金在煥さんは、この金錫昌さんの弟で兄に負けな
の玉石類でペムルと呼ばれる装身具を作っている。今年53歳
い優れた匠だった。弟子の作品を誉めることなど全
のキムさんは48歳で無形文化財になった。他の分野の無形文
くなく、弟子たちを厳しく叱りとばしていた金在煥さん
化財に比べて彼の年齢は少なくとも10年ほど若いが、彼の経
だったが末弟子の金泳煕さんに対しては何かと目をかけてく
歴は今年で40年になるというから決して短くはない。彼は12
れるようになり、いつの頃からか宿題を出すようになったと
の歳の1970年から宝石細工とペムルの技術を習い始めた。
いう。
「忠清南道洪城が故郷です。12歳で母が亡くなり、生活
「私が24歳くらいの頃です。虎のように恐かった先生が
が苦しくなって中学校に進学できずにそのまま生計のために
ある日、私に優しく『お前の手でデザインして一度作ってみ
父と姉、妹と共にソウル貞稜にやって来ました。知
ろ』と言うのです。作品を完成してお見せすると、何もおっ
り合いの紹介で貞稜にあるキム・ジェファン(金 在煥)先生のペムル細工の工房に就職しました。 当時先生はペムル細工の第一人者でした。工房 には先生の弟子が何人もいましたが、私は末 弟子として入門し、19年間先生の下で働きまし た。人々は先生のことを天工、つまり天 の使わした技術だ、匠だと言います。先生 は無口で気難しい方でしたが、今になってみれ ば、そんな姿こそ職人気質なのではないかと思 います。口数は少ない方でしたが、先生の『完璧 にしないのであれば最初からするな』、『間違っ たのなら新しく始めろ、直して使おうとする な』という言葉は今でも鮮明に記憶していま す」
純宗皇后花冠の装飾
48 Koreana | 春号 2010
しゃらずにまた他のものを作って来いとおっしゃいまし
1 玉の指輪と梅竹の飾りのついた翡翠の簪。玉指輪はキム・ヨ ンヒ匠が玉の大衆化のために現代的なデザインを施した。 2 青玉鳳凰文透母子盒、鳳凰、蓮花紋、唐草紋、雲紋を透彫り した青玉でできた大きな青玉盒の中に白玉の小さな盒が5つ 入っている。
た。宿題はしばらくの間続 きました。何も言わずに私の 作品をただじっとご覧になってい
2
る先生の顔を見ているだけで胸がいっぱ 種類と色に従い
いになり、私には褒められたのも同然でした」
身分がどのように区分さ
インスピレーションを記録した二冊のノート 師匠から伝統韓服につけるノリゲ類、粧刀、かんざし、 指輪、角帯、トルチャム(礼装用のかんざしの一種)など、装
れるかも分かるようになりました。何か新しいこ とを知ればそれと関連して勉強することがどんどん増えてい くのです」
身具の細工技術を習っていた20歳の頃の金泳煕さんは、伝統
一人で資料を探してノートに記録し勉強する習慣は現
装身具の世界を知りたいという知的な欲求が噴出していたと
在でも続いている。何か気になることがあれば玉石工芸を研
いう。彼は博物館、書店、図書館などを手当たりしだ
究する大学教授、伝統模様を描く画家、鉱物学者などを訪ね
いに訪れて伝統装身具の由来と歴史、種類などにつ
ていくという。複雑にからみあった糸のように、頭の中でぐ
いて独学で学んだ。玉の美しさに感嘆しながら、そ
るぐる回っていた問題の糸口が見え始めると、彼はすぐに記
れと同時に玉石に彫られた多様な模様に込められ
録するという。そしてその為に常にノートを持って歩いてい
た意味についても彼は心に刻み付けた。 「太陽、山、水、岩、雲、松、不老草、亀、
る。特にデザインに関するインスピレーションはあっという 間に消えてしまい、自宅でのんびりしているときに思い浮か
鶴、鹿、これが長生不死する十長生と呼ばれ
ぶことが多いので、寝室の枕元、食卓の上には常にノートと
ていること、梅、蘭、菊、竹が高潔な君子を
ペンを置いている。ノートの厚みは玉石工芸に対する彼の情
表すことも知りました。服飾を装飾する玉の
熱に比例してどんどん厚くなっていった。
春号 2010 | Koreana 49
2 1 純宗王后の花冠 2 玉帯。王様の使うベルトで、木を削って作った帯を赤い 絹で包み、腰の部分には黄色の絹に綿をいれて当ててあ る。金縁をつけて龍を透彫りした白玉板で装飾した。
彼は玉石工芸の装身具分野で無形文化財になったが、 牡丹文白玉香盒、蓮花文硯、玉製香炉など玉石工芸全般に 優れた腕前を備えている。彼は1999年第24回伝承工芸大展 で鳳凰を透彫した青玉盒の中に白玉母子盒を入れて作った 青玉鳳凰文透母子盒を出品し特別賞を受賞した。最近では 朝鮮王朝の王の禮帽であった冕旒冠の復元に成功した。ば らばらになっていた資料を集めて製造技法を研究し完成す るまでに3ヶ月間もかかった作品だった。英祖の影幀(肖 像画)掛け軸を復元したこともあり、明宗と仁顯王后、仁 順王后の印章も復元した。彼が作った伝統ペムルは壇国大 学石宙善民俗博物館で開催された北韓服飾展に出品され、 その後、同博物館に所蔵されている。イギリスのエリザベ ス女王が韓国を訪れた際に記念品として製作され贈られ た純宗王后花冠は現在、英国王室に所蔵されている。
玉のように大切な人、美しい物語 金泳煕さんの仕事は30%ほどが遺物を復元することだ という。その仕事を彼は「匠にとってはまたとない栄誉の ある仕事」だという。彼は遺物を復元していると、祖先の 美意識と細工技術に感嘆するが、玉は種類も多種多様で、 それぞれに木目と硬度が違うので用途に従 い厳選し、熟練した技術で細工 しなければならないという。彼 が今でも午前3時に目を覚まし て枕元に置いたノートにひらめいたア 1 50 Koreana | 春号 2010
3 2
4
3 珊瑚に細かな彫刻をする作業 4 英親王妃の大三作ノリゲの中の蝶。玉板に蝶の模様の金型を置き、 真珠、珊瑚、青剛石で 飾装してある。
イデアを記録する理由だ。 「昔の人々は玉に仁・義・智・勇・厳、すなわち仁に厚く、
彼に玉のような人がいるかと尋ねると妻のシン・オクス ン(申玉順さん、49歳)を紹介してくれた。申さんは夫の作っ
義を重んじ、智にたけ、勇気を持ち、厳格にわが身を律す
た玉装身具の完成度を高めるために自ら伝統メドウプ(組紐)
る、という5つの徳が含まれていると考えていました。尊
を学んだ。夫婦で玉装身具に最も似合う絹糸を選び、その絹
く、そして美しいものを指すときには“玉”の字をつけます。
糸で夫人がメドウプを作るのだから、玉工芸と金属細工に通
かわいい子供のことを玉童子といい、美しい声のことを銀の
じた匠の能力にさらに力が加わるようなものだ。匠は伝統模
お盆に玉の球を転がす声と表現し、王様の体を玉体、王様の
様をベースにして現代的な造形美を加味したブローチも作っ
座る場所を玉座といいます。韓国人が好きな白玉は純潔と義
ている。伝統を遠い昔のもの、難しいものだと考えている
を象徴しており、その深い白色は見る者の心に美しさを与え
人々に少しでも玉に親しんでもらおうという彼のアイデア
てくれます。私は青玉や翡翠はミャンマー産などを使います
だ。金属工芸と宝石デザインを専攻した長女、彫塑を専攻す
が、白玉は国産の春川玉の品質が最も優れています」
る長男、衣装デザインを専攻する末娘が父の現代的な装身具
朝鮮時代まで王族と一部の上流階級だけが身につけてい
作りにアイデアを提供している。彼の運営しているソウル市
た玉の装身具は、このごろでは家代々に伝わる宝物として大
鐘路区寛勲洞の宮中装身具ギャラリー禮智房には、彼が再現
切に扱われている。代々伝わってきたという玉のかんざし、
した多用な遺物と並んでブローチ、ネックレスなどモダンな
指輪、ノリゲを見せてくれる人々に出会うと金泳煕さんは玉
装身具が展示されている。
に込められた多くの美しい物語が聞けるという。
“玉石を選り分ける”という言葉がありますが、私は石も
「玉を愛する人々は玉自体よりはその中に込められた美
よく磨けば宝石になれると思います。私たちの暮らしもそう
しい物語を大切にしていることが分かりました。そこには家
だと思います。良い心ざしをもち、暮らしを美しく整えてい
族に対する愛と約束が込められています。高校生のお子さん
こうと努力すれば、その暮らしは宝石のように輝くと信じて
のいるご両親が子供たちの婚礼用のペムルを事前に準備する
います。
んだといって製作を頼みにきたり、孫のために装身具を作っ
一日にラーメン一個を食べただけで、朝の9時から夜の
て欲しいというおじいさん、おばあさんもいらっしゃいます。
10時まで玉工芸に没頭していた青年金泳煕さんは、完成した
そんなお客様に会うと、私の作った玉工芸品は単なる物では
作品を見ながら、今は大変でも未来は燦爛と輝いている、と
ないんだ、玉のようにきれいな心根をもつ人々がその中に愛
信じていたという。53歳の彼は今でも玉工芸に対する情熱で
を込めて美しい物語をつくっているのだと思わされます」
眠れない夜を過ごし、玉のように美しい夢を見ている。 春号 2010 | Koreana 51
傑作/名品
仙岩寺昇仙橋
俗界と仙界を結ぶ橋 仙岩寺への入り口にある渓谷に架かっている昇仙橋は、その形態と 構造の美しさや周辺景観との調和など、すべての面において虹霓橋 の傑作といわれている。この橋は岩の上に僧侶たちが力を合わせて 積み上げた橋である。 チョン・デゥクヨム(千得琰、全南大学校 建築学部教授) 写真 : 徐憲康
全
羅南道順川市昇州に位置する仙岩寺の境内に立ち入ると、背後の 曹渓山の渓谷に架かっている2つの美しいアーチ型の石橋(虹霓 石橋)が見える。上流の方にある大きな橋が昇仙橋である。韓国
の典型的な一間虹霓橋であるこの橋は1707年に若休によって造られたが、 1712年の水害で破壊されたのを1713年に改修したものであり、宝物第400号 に指定されている。
建立の起源 昔から韓国では、寺に通じる通路にはアーチ型の石橋である虹橋を設 置する場合が多かった。仏教の世界では、橋は聖なる世界と俗界を区分す る境界である禁川を渡る役割を果たす。また、水は清さを意味するため、 俗界で汚れた心を清めて、聖なる所に入るという連結した意味をも含んで いる。 昇仙橋の建立には次のような伝説がまつわる。護岩大師若休が観音菩 薩の姿見たさの一心で、百日間の祈りを捧げたにも関わらず、その願いが 実らず、がっかりして崖から飛び降りようとした瞬間、ある女の人が現れ て大師を救った後、姿を消した。大師は自分を助けて消えてしまった女性 が観音菩薩であることを悟って、円通殿を建てて観音菩薩を祀る一方、寺 の入り口に美しい虹橋を建設したといわれる。 昇州地域は平均気温が14度、降水量は1500mm程度である。ところ が、仙岩寺一帯は海抜高度が高くて、周辺の平地より降水量が多い。した
52 Koreana | 春号 2010
韓国の典型的一間虹霓橋である仙岩寺の昇仙橋。半円の中心石 の下に突出した竜頭の形をした石材(部分写真はp55に)には厄 除けや安全を祈念する意味合いが盛り込まれている。 Winter 2009 | Koreana 53 春号 2010
がって、仙岩寺を出入りするためには渓谷を渡るための橋が
れるように橋を架けることを、仏教では人のために尽くす布
必要であったのだろう。現在と同じ姿の紅霓橋を設置するに
施の一つである越川功徳といわれる。したがって、橋の建設
はかなりの資金力と技術力がなければならない。以前は仙岩
に参加した人々は、その仕事へ注ぎ込んだ努力が自分の功徳
寺を訪れる人は昇仙橋を渡って境内に入ることが許されたが
として積み上げられると信じていただけに、そのような精誠
現在はこの橋を保護するため、さらに右側に新しい道路が作
がこの丈夫で美しい石橋を作り上げたに違いない。
られた。
韓国で橋建設の主体は国や民間、そして僧侶たちだっ た。昇仙橋のように高度の技術が必要なお寺の石橋建設に
形態美とその意味
は、特に僧侶らが参加することが多かった。例えば、同じく
昇仙橋は韓国最高の虹型石橋といわれている。その理
全南地域にある興国寺の虹橋と筏橋虹橋の場合も変わらな
由はおそらく石からなる人工的な曲線美が周辺の景勝と調和
い。昇仙橋の北側には橋の建設に参加して苦労した方々の功
をなしているだけでなく、いくつかの粗い石材を組み立てて
徳を称えるために、昇仙橋碑が立っている。いつ、誰が、な
完成した形態と、仕上げの美しさが特に優れているためであ
ぜこの橋を建設したのかなどの内容が記録されているこの橋
ろう。また、渓谷を流れる水がしばし竜形をなして留まり、
碑は石橋の歴史を知る上で貴重な史料となっている。
石橋と調和したそのアングルは目を釘付けにする美しさだ。 そして水面に映し出された昇仙橋の半円型アーチと石橋が一 つになり、完成した美を映し出す。
建築の特徴 昇仙橋のあるところは渓谷の幅が10m前後と狭い。川
誰もが韓国を代表する石橋として取り上げてはばから
底は花崗岩系の片麻岩が敷かれていて、その上にアーチの直
ない昇仙橋は、神秘的な美しさをもっている。さらに、橋の
径が8.8mの半円型の重い虹橋が架かっている。昇仙橋の幅
周辺の景観も仙岩寺でも最も景色の美しいところとして有名
は約3.6mで、二人並んで充分行き来できる。アーチ型の虹
である。渓谷に下って、昇仙橋の上方に位置する降仙楼の方
霓石は40個であり、内部の石まで合わせると、石材の数は全
向に目を向けると、昇仙橋の背景の空と渓谷の水、石橋と木
部140個ぐらいにのぼる。
造の楼閣、直線と曲線が絶妙に調和をなしている。
韓国には様々な虹橋があるが、このように広いアーチ
仏教界では建物の名前に仙という言葉をめったに用い
を設けた橋は珍しい。基底部分は自然の岩盤の上に建てられ
ないことを考えれば、神仙が昇ったり、降りたりするという
ているため、重々しい橋にも難なく堪えられる。また、自然
意味の昇仙橋と降仙楼は例外的な名前といえる。その名にふ
の岩盤であるため、大洪水の際にもまったく揺るぎない。昇
さわしく、この一帯には神仙が出入りしていた空間のよう
仙橋の虹霓は、地面に面した下部から円形で少しずつ外側に
に、道教の雰囲気が漂っていて、俗界から仙界へ渡るような
押し出しながら積み上げられていて、完全な半円型になって
神秘的な趣を醸し出している。
いる。結構の方法はよく手入れした長大石を横の方向に一段
前述したように、仙岩寺における昇仙橋の領域は、伽
ずつ隙間なく密接させることで、自らの重さに耐えられるよ
藍においては一種の過程としての領域に入る。俗界から聖界
うに工夫されている。また、基底部は大きな石を積み重ね、
へ進む過程的空間は、辛くて遠いはず。しかし、仏様を訪ね
上に上がるにつれてやや小さな石を差し込んでいる。精巧な
る道のりは遠くても心はずむ。さらに、誰もが簡単に川が渡
虹霓石の両側には石ころを積み上げて、両側の丘につなげ、
54 Koreana | 春号 2010
渓谷を下って昇仙橋の方向に目を向けると、降仙楼が現れる。 アーチ型の石橋とその下を流れる渓谷の水、 青い空を背景に石橋と木造の楼閣の直線と曲線が絶妙な調和をなしている。
上面には土を被せて平らにし
する平壌州大橋(414年)と、熊
た。中国の虹橋は人々が歩き
津橋(498年)の建設に関する内
回る上面の勾配が急であるが、
容である。しかし、その記録
韓国のそれは平らにして歩き
だけでは橋の材料と形態が特
やすく工夫されている。特に、
定できない。現存する石橋と
半円の中心に位置した中心石
して最古のものは新羅時代の
[要石]の下には、小さな石材を
景徳王10年(751)に建てられた
突出させて、ユニークな形を
佛国寺の青雲橋と白雲橋、そ
作ると同時に、幾何学的に中
して蓮華橋と七寶橋である。
心となっている。突出した石
渓谷に架かる虹霓橋ではない
材は竜頭であり、厄除けの施
が、韓国で昇仙橋と肩を並べ
設である。それには、まず石
られる石橋として、佛国寺の
橋の安全を祈念すると同時に、
青雲橋と白雲橋が取り上げら
苦悩の世界である俗界から仏
れることが多い。佛国寺は山
様の世界である聖界に渡って いく衆生を保護し、受け入れ
に位置したお寺として、高台 © 権泰鈞
るという意図が盛り込まれていると思われる。
の上に幾つもの佛殿がある。 特に高台に上るために、左右に2段の石階段を設けたが、東
昇仙橋から60mぐらい離れた所に昇仙橋より小さな石
側が青雲橋と白雲橋、西側が蓮華橋と七寶橋である。青雲橋
橋があり、「下昇仙橋」と呼ばれる。突出した岩盤を虹霓基石
と白雲橋は大雄殿に向かう紫霞門に続く橋で、アーチの形を
として用いて建てた、比較的簡単な橋である。したがって、
していて、世俗の世界と仏様の世界を結ぶという象徴的な意
昇仙橋と同じ文化財保護区域の中に位置しているものの、文
味合いを持つ。
化財には指定されていない。
虹霓橋は世界各地で見られその数も多く美しい歴史的 造形物である。地域によって形態や技術力の差が激しいこの
アーチ技術の伝来
構造物は、様式や規模、バランス感覚において他の物と違う
一般的に虹霓橋の核心であるアーチ技術はローマから
特徴を持っている。韓国にも長い板石や長大石をつなげて敷
ペルシアを経て中国にまで伝わったと知られている。バビロ
いた平石橋をはじめ、様々な形の橋が存在するが、特に虹霓
ンの空中庭園や、ローマの水道橋と下水溝など、アーチ型の
橋は構造や形態的造形美という面で、最も節制された美しさ
遺跡は数限りない。こうしたアーチ技術を用いて作られた虹
が認められる。特に、仙岩寺の昇仙橋は規模が大きく形の美
霓橋は中国から韓国を経て日本に伝ったとされる。韓国の場
しさだけではなく、扱いにくい石材をよく組み合わせた構造
合は、新羅時代に唐から初めてその技術が伝わり、橋の建設
美が際立ち、周辺の景観とも調和するなど、最高の傑作とし
に応用されたものと考えられる。
て高く評価されている。
韓国で橋に関する初めての記録は、<三国史記>に登場 春号 2010 | Koreana 55
文化イベント・レビュー
「信号弾」展と 国立現代美術館 昨年の韓国美術界が得た最も大きな収穫といえば、国立現代美術館が ソウル都心にソウル館となる敷地を確保したことだ。ソウル昭格洞の 入り口に位置する昔の国軍機務司令部と国軍ソウル地区病院の建物が、 2013年にオープン予定のソウル館の建設予定地であり、ここで初の展 示「シンノタン(信号弾)」展が開かれた。 チョン・ジェスク(鄭在淑、中央日報文化部記者)
韓
国美術の総本山である国立現代美術館(MOCA)はソウル近郊、京畿 道果川の動物園の横に古城のようにそびえており、都心から離れて いるというアクセスの不便さが、これまで何度も問題点として指
摘されてきた。気軽に立ち寄れなくてはならない美術館が、わざわざ時間を 作って出かけて行かなければならない山の中の見慣れぬ空間に存在している のだ。美術館の建物が研究所や実験室に適合するので、市内の科学財団のビ ルと取り替えないかという話がでてきたほどだ。
新しい国立現代美術館 美術界ではだいぶ前からソウルの都心、昭格洞にある昔の機務司令部の 建物を国立現代美術館ソウル館の候補地としてあげていた。画廊の密集して いる昭格洞と三清洞の端に国立現代美術館が位置すれば、この地域が名実共 にアートの街になるという願いからだった。 去年政府はこの機務司令部に国立現代美術館ソウル館を建設することを 確定し発表した。開館40周年を迎えた国立現代美術館はソウルの副館建設工 事に先だち、その間閉鎖されていた機務司令部の建物を一般に公開する「信号 弾」展を2009年10月22日から12月6日まで開催した。
歴史の影がゆれる空間 「信号弾」は何よりもその展示会場、すなわち、ようやく公開にこぎつけ た建物自体が重要な要素として注目を浴びた展示会だ。機務司令部がどんな 場所かというと、軍事の保安と軍の防諜を任務とする軍の情報機関であるが、 昔は政権の脅威となる民主化運動の闘士に対する不法な視察がここで密かに 56 Koreana | 春号 2010
1 イム・オクサン作 「遊んでいきません」。建物全体 がピンク色の塀と塀フレームで覆われている。 2 開幕パフォーマンスのイ・ヨンベク作の「エンジェ ル・ソルジャー」
1
春号 2010 | Koreana 57
2
1
2
行われていた。軍部独裁時代の影が色濃く残る韓国現代史の
る「美術館プロジェクト:新しい美術館のために」、昔の機務
史跡なのだ。長期執権した大統領が側近の手により射殺され
司令部の空間を変用して、この場所の歴史的・社会的・物質的
た10.26事件(朴正煕大統領の暗殺事件)当時、朴元大統領の
な意味にスポットを当てた「空間変形プロジェクト:美術の
遺体が最初に移され安置されたのがこの機務司令部と同じ敷
新しい始まり」、ここが権力者のための閉じられた空間から
地内にある国軍ソウル地区病院だ。高い塀で囲まれたこの軍
再び市民と共にある開かれた空間に帰還する過程を記録した
の建物が市民に公開されるということだけでもこの展示は多
「ドキュメンタリープロジェクト」だ。
くの関心を集めた。韓国現代史の傷跡の残る代表的な「閉鎖
面白いのはもともと多様な用途の事務室として使われ
された空間」のすべてを市民に開放し「開かれた空間」に生ま
ていた一定の大きさの四角い部屋を出品作家に一個から数個
れ変わるのだ。「信号弾」展という展示会の題目はそんな点で
ずつに配分し、一種の個人展示室として使わせている点だ。
適切なニュアンスを含んでいる。
それはがらんとした大型展示室をパーティションで分けて使
観覧客は過去には簡単に近寄ることのできなかった境界
う一般的な展示場とは実に違った印象を与える。観覧客は廊
の扉が開くことへの好奇心で美術館を訪れた。そしてそれは
下の床に描かれた展示観覧の動線表示に従いこの部屋、あの
出品した作家たちも同様だった。灰色の壁と高い天井からな
部屋というように行ったり来たりする。過去、ここで勤務し
る、平凡な展示場ではない禁断の地域に足を踏み入れたのだ。
ていた人々の足音が聞こえてくるようだ。歳月の中に消え
数十年間、ここを占領してきた部隊の痕跡が、軍人の息吹が
去っていった魂、いや幽霊たちが徘徊しているこの場所で作
ここには残っている。それは銃と鉄の臭いでもあり、権力に
家たちはアートで新しい対話を試みたのだ。
押さえつけられた呻き声でもある、正方形や長方形の角張っ
元機務司令部講堂で行われたメディア・アーティストの
た事務室はそれ自体で人を窒息させる権威として作用した。
イ・ヨンベクの開幕パフォーマンスの題目は「エンジェルソル
各種機材が持ち出された後の乱れた室内は不気味なほどだ。
ジャー」だ。花模様の軍服で偽装した若者100人が数千、数万
そして長い間軍事施設として使われていた所のもつフォース
本の花畑の中で彼ら自身が花になる。花模様の軍服に描かれ
もまたものすごいものがある。空間事態が強力なパワーを噴
た名前は韓国出身のビデオアーティストのペク・ナムジュン、
出している設置美術なのだ。つまりすでにショーが始まって
前衛芸術家のジョン・ケイジのような有名アーティストの名
いるところに作家たちが新たなショーを添加したのだ。
前だ。生と死、平和と戦争がこれらエンジェルソルジャーの 体で一つに咲きほこる。敵に見つからないように偽装した戦
脱権威と脱権力を求めて 展示は大きく三つの領域に区分されている。国立現代 美術館の所蔵品を作家たちが自分の作品と結びつけて展示す 58 Koreana | 春号 2010
闘兵の体が花の中に隠れる。エンジェルソルジャーという題 目には暴力を憎む作家の才気が光っている。 チョン・スチョンの「3D空間想像」は一遍の抒情詩を読
1 過去、国家の監視と査察に対して一般市民の感じていた恐怖を 象徴したキム・テジュン作「国家の安寧のために」 2 観覧者は部屋の外に置かれた本の中から1冊を選んで参加する 設置芸術空間カン・エラン作「崇高-ヘテロトピアの空間」 3 凸レンズをかぶせた顔で、物質社会を生きる人間の欲望を表現 したキム・ジミン作の 「気を付け」 4 1025匹の捨て犬を木材で表現したユン・ソクナム作「1025:With or Without Person」
3
3
春号 2010 | Koreana 59
4
1
1970年代のアンフォルメル・アート、いわゆる不定形絵画から2000年代のシングルチャンネルビデオ作品まで現代アートを圧縮 したような展覧会が「信号弾」展だ。それは韓国が圧縮成長を成し遂げるのに一役買った機務司令部の過去を振り返るものでも あった。
1 景福宮が見下ろせる機務司令部の屋上に蛍光色のプラスチックのバケツを積み上げた、チェ・ジョンファ作 「銃・菌・鉄」 2 ウォン・ダヨン作「Above_W, Above_X,Y,Z」 。木と電線などで作った椅子に観客が座れるようにしてある。
んでいるかのようだ。7個の部屋 を利用してストーリーの
つで上げたり下げたりしている。キム・ギラは社会的な通念
ある設置美術を展開している。司令官が執務室として使って
を痛快に打ち砕いた。周辺部の人々と少数の人間にだけ関心
いた部屋の施設をそのまま生かして時間の痕跡を追跡した。
のあるキム・ギラは負けた方の手を上げた。「コカ・キラー」は
シャワー室からは今にも司令官が飛び出してきそうに水が流
全地球を市場論理で包む資本主義社会のプロパガンダを大衆
れ、トイレではおかしなことに拷問の悪夢がよみがえる。広
消費社会のアイコンであるコカコーラで表現したものだ。強
い寝室を占領するベットの上ではエロビデオが映し出され、
い中毒性で地球人の健康を危うくするコカコーラを、あなた
電話交換台では盗聴の暗示がスピーカーから飛び出してい
は、この作品を見た後でも飲むことができるかと問いただし
る。リアルでありながら幻想的なストーリー、想像の中だけ
ている作品だ。
で描かれてきたあの時、あの時代が魔術でよみがえってきた ようだ。
本物の信号弾を期待して
元機務司令部の運転兵の建物を作品素材として選んだイ
ベテランから青年まで63人のアーティストが参加した
ム・オクサンはダイナミックに遊んでみた。建築家と手を組
「信号弾」展が観覧客に与えたメッセージは何か。パク・ヨン
み、建物全体を塀と塀フレームで覆ってしまったのだ。それ
ソクの設置美術「新しい姿でまたお目にかかります」は風刺の
もピンク色で、題目も挑発的だ。「遊んでいきません」幸福な
中に市民の願いを伝えている。機務司令部の建物で収集した
反乱だ、男性的な空間が女性的な空間に変身した。遊郭を連
廃蛍光灯などを床に敷き地下室を燦爛と明るくしてチェ・テ
想させる室内空間に入れば世の中は回りまわるという言葉が
ヒョンの音楽「蛍光灯」を流している。昔の機務司令部の事務
自然と思い浮かぶ。
室を明るくした蛍光灯(過去)と今、美術館に変身しようとい
若い作家たちの溌剌とした想像力は世の中を美術品一 60 Koreana | 春号 2010
う何もないガランとした空間を明るくしている蛍光灯(現在)
2
3
3 アン・ギュチョル作「恐怖の化石」 4 キム・ユンス作「風の記憶-雲のよ うな風景」
は同じものでありながらも全く違
品が観覧客を迎えてくれる。市場
う。未来の蛍光灯は何を照らして
こそが作品にインスピレーション
いるのか。楽しく愉快な美術館に
を与える最高の贈り物だという
再生して市民のもとに帰ってくる
チェ・ジョンファ。低級を高級に
ことを作家は隠喩している。
変身させるのが得意な彼は今回も
広い空間に作品があふれて
彼が良く使う市場で売っている安
いる。静かにオーディオから流
4
れる説明を聞きながら観覧すれ
物のプラスチックのバケツを利 用した。「芸術は特別なものじゃ
ば2時間以上かかるという大規模な展示だ。1970年代のイン
ない、私が作ればそれが芸術なんだ」 というのが彼のモットー
フォーマル、いわゆる不定形絵画作品から2000年代のシング
だ。生活の無いアートを彼は軽蔑している。真っ赤、真っ黄
ルチャンネルビデオ作品まで、現代アートを圧縮したような
色のプラスチックのバケツを数百個積み上げて作った 「銃、菌、
総合贈答セットが「信号弾」展だ。それは韓国が圧縮成長を成
鉄」 。私たちは機務司令部の屋上でこんなすばらしい景色を楽
し遂げたのにも一役買った機務司令部の過去を彷彿させる。
しむことができるが、これもすべてこれまでに犠牲となった
皆、この40年間、ほんとうに苦労して生きてきたんだ、一生
人々のおかげだ。機務司令部が美術館に変身するのは単なる
懸命生きてきたんだという思いが伝わってくる。
建物の用途変更ではない。この社会の民主化を熱烈に望みそ
目が疲れてしばし休みたいと思うときには屋上に上がっ てみるといい。さわやかな風、遠くまで見渡せる展望ととも に美術館の異端児でありアイデアマンのチェ・ジョンファの作
の身を投げ打って戦った勇敢な霊魂の夢が実現したのだ。 これから国立現代美術館のソウル館は末永く彼らを記念 することであろう。 春号 2010 | Koreana 61
韓国再発見
韓国は 人生行路の贈り物 人生におけるチャンスは時に意外な形で訪れる。2008年の春、私はソウル大学校韓国語教育学科が外国語 としての韓国語教授法を教える教授を募集するという広告を目にした。私は志願し採用されて2008年9月、 再び韓国に来ることになった。この帰還はとても光栄で、まさに帰郷そのものであった。そして今再び韓 国語が戻ってきた。韓国語をまた学び始めること以上に嬉しいのは、私は大学のインサイダーとして、「参 与者」 として韓国語を学ぶことである。 ロバート J. ファウザー (ソウル大学校 韓国語教育学科副教授) 写真 : 安洪范
62 Koreana | 春号 2010
「新しい語彙と表現に接しながら、私は毎日新しい ことを発見する」と語るロバート・J・パウザー教授。
「お
前はもしかすると、まったく違う世界にいる自分 を発見するかもしれない……。そして自問自答す るだろう。『一体なぜ私は今ここにいるのだろう』
と」。有名なグループ、トーキング・ヘッズが1980年代に歌った <Once in a Lifetime>に出てくるこの質問に答えるのは簡単で はない。私の場合は「どうして韓国に来ましたか」と韓国人によ く聞かれるが、その質問に答えるのが全然難しくない。「言語と 文化のためである」という答えがあるからだ。東洋哲学でいう陰 陽のように「言語」と「文化」は常に私を韓国に惹きつけてくれた 要素である。これまで十数年間、この一対の概念は、時によっ て違う重さをもって私を魅了したが、私が韓国と縁を結ぶよう になった経緯を大きく三つの時期に分けて説明しよう。
1980年代の韓国 学生時代としての第1時期は、私が1982年の夏に日本を訪 問した時から始まった。当時私は、ミシガン大学で日本語と日 本文学を専攻していた。その当時に日本を訪れた他の大学生と 同じように、私は船で下関港から釜山へ渡り、釜山から汽車で ソウルに行って一週間を過ごした。私は韓国の新聞で漢字が読 めたことがとても嬉しかった。韓国人にとって日本語は学びや すい言語だということを聞き、また当時聞いた韓国語は私の耳 にとても美しく響いた。 1983年に卒業を迎えるまで、韓国語に対する私の好奇心は 消えることはなかった。それで大学院に進学する前に、韓国で 一年間語学研修を受けることを決意した。ワシントンの韓国大 使館から韓国語はソウル大学校と延世大学校で学べると教えて もらった。もちろん、今では韓国語が学べる所ははるかに増え たが、私はソウル大学校を選択して、そこで一年間集中的に韓 国語を勉強した。当時、私の日本語実力は韓国語習得にかなり 役に立った。それは両国の言語は類似の文章構造と漢字語語彙 が共通していたからだ。一年間の語学コースを終えた私は、韓 国語がある程度話せる状態でアメリカに戻った。 春号 2010 | Koreana 63
応用言語学の修士課程を終えた後、私は韓国語と韓国 に対してもっと知りたいという一心で、韓国で英語を教える ことを決意した。当時日本はバブル経済の真っ只中という 時期で、就職条件もかなり良かったが、やはり韓国が私の心 を捉えて放さなかった。韓国の軍隊を始め、KAIST、高 麗大学校などで7年間英語を教えた後、1993年にはアメリカ で博士課程を始めるために、再び韓国を離れることになった が、それは辛い決断であった。 その当時を振り返ってみると、私を魅了していたもの は、日常から経験する予期せぬ出来事や急変する社会のダイ ナミズムであった。毎日が新鮮だった。朝起きて、その日の 午後5時頃に自分が何をしているか予測できなかった。1980 年代の韓国社会は激動の真っ只中にあり、強固な民族主義的 独裁体制から民主主義社会へと変貌を成し遂げていた。景気 は好調で、ソウルは1988年のオリンピック開催に備えていた ため、巨大な建設現場と化していた。海外旅行の自由化と留 学を通じて外国文化に触れた人々が韓国文化を再発見すると いう文化的覚醒の時期でもあった。1980年代はいわば386世 代の時代であって、彼らは1960年代に生まれたため、日本に よる植民地時代、韓国戦争、そしてどん底の貧しさを知らず に育った最初の世代であった。一方、当時の反米感情は個人 的には私に否定的な影響を与えず、それは民主化の過程と文 化的覚醒から生まれた一種の現象に過ぎないと理解した。こ の時期、私は韓国語と韓国文化を学ぶ学生であって、激変す る韓国社会がこれからどう変貌するかとても気になった。
韓国の文化に浸る 1993年から私はダブリンのトリニティ大学で博士課程 を始めた。「観察者」としての時期のスタートでもある。韓
彼は2008年に韓国に戻ってきた時、記憶の中に しまっておいたお店やレストランなどを尋ねな がら「里帰り」したように感じたという。
国との接触といえば、電子メール(当時はまだ普及していな かったが)と雑誌の講読によってつながっていた。アイルラ ンドでの留学が終わった後、私は日本のある大学で英語を教 えることになり、韓国にもっと接しやすくなった。どういう
までは「コリア・ヘラルド」紙に毎週一回の固定コラムを連載
わけなのか-おそらくアイルランドと日本滞在の影響だと思
していた。また同時期に韓国文化の精髄に触れる重要なきっ
う-この時期に韓国の芸術と文学に対する私の関心はさらに
かけがあったが、かの著名な韓国古典文学学者であるキム・
大きくなった。それは韓国の芸術と文学に対しては韓国の外
フンギュ(高麗大)教授の韓国文学入門書を「韓国文学の理解
からでも観察が容易であったためだろう。また「ダイナミッ
(Understanding Korean Literature)」というタイトルで英語
クな韓国」という言葉が流行るずっと前から、私は既に韓国
に訳したのだ。
の芸術と文学から「ダイナミズム」をキャッチしていたため
インターネットの普及とともに、1997~98年の経済危機
かもしれない。とにかく、この時期に私は記事や芸術批評
の克服、そしてサッカーのワールドカップで見られた国を上
などの文章をいろんなメディアに寄稿し、1996年から2002年
げての応援は、1980年代に私を魅了した韓国社会の即興性と
64 Koreana | 春号 2010
2006年に鹿児島大学は韓国語プログラムを開設し、大学内でeラーニングを開発することになり、 私にその仕事が任された。それを機に私は英語講師の仕事から離れると同時に、私が 「参与者」とし て韓国と縁を結ぶようになった第3時期が始まった。
ダイナミズムを再確認できる機会だった。1997年に故金大中
ているという広告を目にした。外国語としての韓国語研究者
元大統領が当選したことで、韓国はこれまでとは違う変化を
や教師養成を目指すそのポストは、私が鹿児島大学で教えて
経験することになる。私が初めて韓国を訪れた1983年に、金
いた仕事の内容とほぼ変わらないものであった。そのポスト
大中元大統領は亡命中であったが、政治的闘争としては比較
に志願した私は教授に任命され、2008年9月に韓国を再訪す
的短い歳月といえる14年で、彼は民主的な選挙によって大統
ることになった。この帰還は私にとって栄光であり、里帰り
領に当選したのである。韓流の源には、韓国が「文化追従者」
のようなものだった。以前、私が好んで通っていた飲食店の
から「文化生産者」へ変貌するという、歴史的にもまれな変化
中には既になくなった所も多かったが、私にとってその町の
を遂げたことがある。メディアを騒がせた政治・経済の激変
風景は依然としてフレンドリーなものだった。昔の友達や学
の過程を経て、韓国はより安定的で健康な社会に生まれ変わ
生らとも連絡を取り合い、韓国に帰った初年度は、帰りを祝
ろうとしていた。
うパーティーの連続であった。鹿児島で韓国語を教えながら 経験した言語的混乱と同様、韓国での生活の中で私は時間的
韓国社会のインサイダーとして韓国語を学ぶ 日本での滞在が2000年半ばまで長引いたため、韓国に 関する寄稿もだんだん減るようになり、私は焦りを感じるよ
混乱を覚えた。時々自分は一度もここを離れたことがなかっ たかのような錯覚に陥った。15年という時間的間隔はたった 一回きりの長期休暇のように感じられた。
うになった。中年に差し掛かった私は英語講師の仕事にも身
そして、また韓国語へ戻ってきた。新しい語彙と表現に
が入らなくなった。一種の危機感の中で私は何かを求めてい
接しながら、私は毎日新しいものを発見する。韓国語を学び
たところ、想像もしなかったものを見つけた。日本のある大
なおすこと以上に楽しいのは、大学内で、インサイダーとし
学で韓国語を教えることになったのだ。2006年、鹿児島大学
て、また参与者として韓国語が学べることである。学生たち
は韓国語プログラムを開設し、大学内でeラーニングを開発
を教え、修士・博士論文を評価し、教授会議への出席や研究
することになったが、私にその仕事が任されたのだ。それを
費の申請にいたるすべての仕事を今や韓国語でこなしている
機に英語講師という仕事から脱するようになり、同時に「参
のだ。これは新世界であり、毎日が勉強の連続であると同時
与者」として韓国との縁をつなげていく第3期が始まったの
に私には新しい経験でもある。
である。韓国語プログラムは、私自ら進めているショーのよ
このすべての変化と発見にもかかわらす、私は依然とし
うものであり、非常に面白かった。私がカリキュラムを企画
て変わらないことがあることにまた驚いてしまう。私が学生
し、教材を選び、講師を採用しては図書館に置く本も直接注
として、また観察者として経験したこと、私を魅了して止ま
文した。会議に出席して韓国語教育に関する自分の考えを発
なかった韓国社会の即興性とダイナミズムは変わっていない
表しながら感じた興奮に似た感情を今でも覚えている。日本
のだ。韓国の学生らは依然として礼儀正しく、一般的な韓国
語で韓国語を教え始めた頃は好奇心を誘発し、私はすぐその
人は規模の差はあるものの、現実的な夢を抱いて暮らしてい
仕事に適応した。両言語はその類似性のため、お互い容易に
る。毎日が驚きの連続であり、私の思考を刺激する出来事が
交差することができ、時々自分がどんな言語を使っているの
絶えず起こっている。景福宮付近の楼下洞にある家のベラン
か忘れる時もあった。1990年代始め以降、影の薄かった韓国
ダから眺めるソウルは、ダイナミックな混沌とした魅力を発
語が、いまや再び前面に登場するようになった。
散していて、私は未来における自分の韓国生活がもたらすで
人生の中でチャンスは時として予想だにもしない時に訪
あろう驚きに対する期待に胸を膨らませている。私の韓国の
れたりする。2008年春、私はソウル大学校の韓国語教育学科
旅はこれからも続き、その旅は決して私を失望させないこと
で、外国語としての韓国語教授法を教える専任教授を募集し
を確信している。 春号 2010 | Koreana 65
世界の中の韓国人
写真で描いた水墨画 裴炳雨の絵画的な写真の世界 べ・ビョンウはソウルでは昌徳宮を、ヨーロッパではスペイン政府の依頼で世界文化遺産であるアルハン ブラ宮殿の写真を撮った。慶州では白黒写真で松の木を、タヒチ島では原色の華やかな花や木を撮った。 2010年も彼の主な活動舞台はヨーロッパだが、常に撮りたいのは故郷の海だという。 ユン・セヨン (尹世鈴、月刊写真芸術編集長)
66 Koreana | 春号 2010
20
10年のべ・ビョンウ(裴炳雨)の活動舞台はヨーロッ パになるだろう。松の木の写真が2010年夏に、 オーストリアのザルツブルクで開かれる音楽フェ
スティバルで、ポスターとポストカードに用いられることに なった。さらに開催期間中、彼は当地で招待展示会を開く ことになった。11月にはパリ・フォトで展示会を開き、また 2010年の一年間、スイスのチューリッヒ大学で招聘教授とし て講義もする。 べ・ビョンウの海外展示は1990年代末から始まった。 そして、ここ数年間は、ニューヨークとパリ、ロンドン、 チューリッヒ、ベルリン、マドリッドなど、韓国国内より海 外で頻繁に個展が開かれている。さらに、アメリカのヒュー ストン現代美術館、シカゴ写真美術館、東京国立現代美術 館、ソル・ルウィット・コレクション、エルトン・ジョン・コレ クション、シスレー・コレクションなど、海外の有名美術館 がこぞって彼の作品を収蔵していることは、彼がもはや国際 的なアーチストになったことを裏付けている。
水平の目 2009年11月に韓国国立現代美術館‐徳寿宮分館で、大掛 かりな招待展示会が開かれた。主催側は「対象の本質を見つ け出し、絵画的写真を提示するべ・ビョンウの作品世界の旅 路を確認するための展示会」であると、企画意図を明らかに した。同展示会では、作家の故郷の風景を撮った海の写真か ら始まり、松の木の写真、韓国の自然の特徴といえる緩やか な稜線を捉まえたオルム(寄生火山)、自然美と人工美の調和 した昌徳宮庭園とアルハンブラ宮殿の写真など、97点にのぼ るべ・ビョンウの代表作が公開された。国立現代美術館は彼 の作業に対して、たとえ歴史的背景や文化は異なっても、同 時代を生きる人々に韓国独特の美的感性に基づいてコミュニ ケーションできる造形言語を提示したと評価する一方、彼の 真価が現れた今回の大規模展示会で鑑賞者たちは、世界を舞
松の木連作(Pine Trees)の中から
台に繰り広げられる彼の活躍を期待するきっかけになったと 説明した。 べ・ビョンウの魅力は女性的な繊細さと男性的な大らか さを併せ持っている点にある。彼は大海原に身をゆだねなが らも、一本の花や木に対する感動も惜しまない。このような 両面性を併せ持ち、彼は線の太いスケールと同時に繊細でメ タフォー的な表現で、男性性と女性性を同時に感じさせる。 言いたいことは言ってはばからない率直な性格と、小さなも のにも敏感な彼の感性がバランスよく出会い、彼の松の木 春号 2010 | Koreana 67
1
が、海が、そしてタヒチの花が、宗廟の厳正な建物などがべ・ビョンウな らではの独特な作品として誕生する。 梨花女子大学美大教授の彫刻家キム・ジョングさんは、べ・ビョンウ の風景が東洋にとどまらず西洋にも通じるのは「水平の目」のおかげだと解 釈する。水平の目は平穏である。そのため、べ・ビョンウの松の木や海は 観る者に安らぎを与え、深い世界へと誘う。風景を撮る写真家は多いが、 国籍を問わずべ・ビョンウの風景が人々に感動を与えるのは、静けさと沈 黙のもつ美と深さによるというのだ。
海と松の木 国内外で松の木作家として知られている彼だが、べ・ビョンウ本人は
2
自分の写真の原点は松の木ではなく海だと言う。全羅南道麗水で生まれて
1 海シリーズの中で、故郷の麗水の沖を撮った作品。
小学生の頃からよく絵を描いていた彼は、弘益大学校で視覚デザインを勉
2 「カメラは現代の筆である」と語る写真家べ・ビョンウ。
強した。ところが、大学時代に親しい先輩から写真を始めないかと勧めら れた彼は、放浪癖を満たしてくれる写真にはまって方向を変えてしまった。 「幼い時はカメラの代わりに海を描いていたのであって、自分の海写 真は小学校1年の時から始まったのです。私にとって海は故郷であり、ス ピリットの源であり、もっとも安らかになる所です。最後まで撮り続けた い素材は南海岸、つまり私の故郷の海です」 68 Koreana | 春号 2010
3 3 海シリーズの中で、タヒチの海を撮った 作品。 4 向日庵連作の中から。彼は実家から20キ ロ離れたここまで徒歩で往来しながら作 業した。
旅行好きな彼は、地中海を始めとする外国の有名な海岸を訪れる機 会に恵まれているが、いつも韓国の南海岸の独特な美しさを再確認させ られ、南海の美しさを世界に知ってもらいたいと言う。麗水の沖合いを眺 めていると、敢えて写真を撮らなくても気持ちがいいというべ・ビョンウ。 彼は南海岸の小島を訪れて、まだ生き残っている地元の椿の花や松の木を 見つけて眺めるだけでも幸せになると言う。 アクティブな外見とは裏腹にべ・ビョンウは動物より植物の方が好き だ。アフリカ旅行の際にもサファリよりは森に連れて行ってもらって撮影 したほどで、特にバオバブ木が印象に残ったという。彼は草原を好み木と 花を愛でる。慶州の松の木、済州のオルム、タヒチの森など、彼の写真は 植物系である。特に彼が2006年にスペインのティッセン・ボルネミッサ美 術館で展示会を開いた際に、松の木の写真に関心を寄せたスペイン政府 が、彼にアルハンブラ宮殿の撮影を依頼しながら建物だけでなく、庭園に も関心を持ってほしいと要請したのも同じ脈絡からであろう。 彼の写真に水墨画の美徳があるのは間違いない。墨の濃淡はモノ トーンの諧調におき変えられ、線で分割された空間美は余白を担保する。 松の木の枝が直線または曲線として画面を横切っているものの、強力な メッセージは松の木の頑固な枝にあるわけではなく、枝と枝の間に霧のよ うに醸し出されている森の精霊のようなアウラを演出する余白にある。済
4 春号 2010 | Koreana 69
1
彼に言わせれば、うまく写真を撮る方法は「いっぱい撮ればいい」の一言に尽きる。25年間も松の木の写 真を撮り続けていて、今も撮影するのかと聞けば、こんな答えが返ってくる。今の松の木は当時のその 木ではなく、今の自分も当時のように若くもないと。
2
Winter 2010 2009 70 Koreana | 春号
3
1 タヒチ連作の中から。 2 オルム連作の中から。 3 昌徳宮連作の中で、芙容亭を撮った作品。
州道のオルム写真や海の写真も同じである。丸いオルムの曲線が空と境 界を描く所に、限りない懐かしさのように、あるいは叶えたい夢のように そっと近づいてくる空間は、描かれてはいないが決してか空ではない余白 である。描かれた空間に劣らず余白を重視していた韓国伝統の水墨画の美 感が実現しているため、べ・ビョンウの写真が国内だけでなく海外でも注 目されているのだ。
いつまでも撮り続ける 彼は写真を撮り始めた30年前と比べて想像もできない程の黄金期を 謳歌しているが、浮かれて興奮することもなければ揺ぎも無い。好きで写 真を始めただけであって、松の木を撮りながら、その写真一点が1億ウォ ンを超える価格で販売されるとは夢にも思っていなかった。シスレー、マ ンゴ、カルティエなど、有名ブランドのオーナーは彼の作品をコレクショ ンするファンである。2009年6月には、米韓首脳会談でイ・ミョンバク大 統領がオバマ大統領に彼の写真集〈青山に住もう〉を贈った。彼の写真はも はや世界に通じる言語になっている。 彼は、このような結果が自分の努力だけによるものではないと思っ ている。ただ、彼が今も確信しているのは、30年も一途に歩んでいれば、 いつかぐるぐる回っていた世の中が自分の座標とピッタリ合う瞬間が訪れ るかもしれないという。トレンドばかりを後追いするのではなく、地道に 自分の作品を追い求めていけば、世の中のサイクルと一致する瞬間が訪れ るかもしれないこと。今はまさしくその瞬間であり、それもいつかは消え ていくかも知れないと、彼は考える。しかし、そんなことなど彼には重要 ではない。世の中の評価とは関係なく、自分が好きな作業をずっと続けて いくだけである。「南海岸の撮影が終われば、私の写真は終わるでしょう。 いつまで撮り続けるかは分かりませんが、少なくとも10年以上は海の写真 を撮っていくでしょうね」 彼は30年間ソウル芸術大学の学生に対して「近道はない。一所懸命 に頑張るだけ。そうするうちに道が開けてくる」と教えてきた。すべては 時間に比例するだけであって、秘訣などないというわけだ。彼にとって良 い写真を撮る方法は「いっぱい撮ればできる」こと。このシンプルな答えは 彼自身に言い聞かせている言葉であるかもしれない。国内外での展示会と 学校の授業などで、誰よりも忙しい日程の中でも、彼は写真を撮り続け る。25年間も松の木の写真を撮ったのに、まだ松の木なのかという問いに 彼は答える。今の松の木は当時のその木ではなく、自分も当時のように若 くもないと。 海も同じである。海はいつもそこにあるが、既にその海ではない。 朝と夕が違って、季節毎に違う。そして、海は同じであっても、海を眺め る彼の視線は昨日とは違う。彼が絶えまなく撮り続けるしかない所以であ る。
春号 2010 | Koreana 71
オン・ザ・ロード
© ユン・キジュン(尹基重)
大田
スローライフな都市 「大きな畑」という意味の大田は韓国の主要幹線道路と鉄道の中心に位置する都市だ。11の低い 山々に囲まれ、儒城温泉があることでも有名だが、現在では教育と研究の都市としてのイメージ が強い。 キム・ヒョンユン(金熒允、エッセイスト)| 写真 : 安洪范 72 Koreana | 春号 2010
鶏足山のふもとにある尤庵史蹟公園。朝鮮時代の儒学者宋時烈が学問を磨き、弟子たちを養成したところで、学者らしい簡素で趣のある庭園で有名だ。
達者でな 俺は行く 別れの言葉もないまま
の一番の歌詞だ。 「大田ブルース」は韓国人に最も愛
だから大田ではこの歌を知らない人は いない。大田を本拠地とするプロ野球
旅立つ夜行列車 大田発0時50分
されている大衆歌謡の一つで、最初に
韓化イーグルスの試合のある日には、
世の中が眠りについた 静かな晩に
登場したのは1959年、それ以来50年間
この歌が応援歌として野球場にこだま
一人 声の限りに泣いている
も歌い継がれてきた。友人に連れられ
す。まさに大田を象徴する歌謡だ。
ああ 捕まえても振り切っていく
てカラオケに行っても、最初から最後
木浦行きの普通列車
まで口をつぐんでひたすらバックダン サーの役割にまわる私のような音痴で
この詩は「大田ブルース」という歌
も、この歌の歌詞だけは知っている。
山河もゆっくりと流れる都市 大田は列車のふるさとだ。韓国全 土をつなぐいくつもの鉄道網の真ん中 春号 2010 | Koreana 73
に大田がある。特に最も距離が長く多
れの言葉が言えずに黙って去っていく
だといえよう。これまでにも何度か大
くの地域をつなぐ京釜線と湖南線が共
男と、男を最後まで引き止めることも
田を訪れたことがあるが、主に都心で
に大田を通っている。掴んだ袖を無情
できずに暗闇の中に一人取り残され、
仕事をして、そのまま帰ってしまって
に振り切り旅立つ「大田ブルース」の主
こらえていた涙を流す女の歌だ。
いたので、今回は余裕をもってこの都
人公の行く先は木浦。木浦は湖南線の
大田は平野が広がり、その平野を
終着駅だ。ソウルと釜山をつなぐ京釜
取り囲む山々の小高い稜線はどこまで
線は1904年に完工し、それから10年後
も緩慢で穏やかだ。大田市を横切る3
私は大韓民国の交通の要所であ
の1914年に大田発、木浦までの湖南線
本の川、大田川と柳等川、そして甲川
るこの平らな都市を11もの山々が取
は開通した。
が流れている。3本とも南から北へと
り囲んでいることを、今回初めて知っ
鉄道だけでなく韓国の東西南北を
流れ、後に一つになり錦江へと流れ込
た。しかもそれらは400~500m級の低
結ぶ主要幹線道路の結節点として、大
む。私は陽が沈む頃の甲川の川辺に出
い山々だった。壯泰山という西の方に
田は韓国の交通の要衝となっているの
て、辺りが暗くなるまで歩いた。足裏
ある山は高さが374mしかないという。
だ。
の感触がふんわりした舗装道路もあれ
この地域の山もまた住民の気質と同じ
ば、砂利の敷かれた空き地もあった。
ように周囲に優しい存在のようだっ
な人々の故郷」として知られている。
広い河川の両岸を行きかうことができ
た。
話すテンポが遅く、行動ものろい
るように置かれた飛び石の上も渡って
人々、すぐに怒ったり興奮したりせず
みた。たくさんの人々が川岸を歩き、
向かった。高さ429mの鶏足山は、名
に柔順な人々のふるさとだ。忠清道の
ジョギングを楽しみ、自転車に乗った
前のとおり鶏の足のような形をしてい
南、慶尚道の人々は会って10分もたて
多くの人々を抱いていても広い川辺は
る。日照りが続いたとき、この山が鳴
ば10年来の知己のように腹を割って打
静かだった。釣り竿を持った一人の若
けば雨が降るという伝説があるとい
ち解けているというほど、気性が激し
者が、闇の濃くなってきた川の中に釣
う。鶏足山の頂上には山城があるが、
くせっかちだと言われる。それによく
り糸を投げ入れた。
6世紀頃の三国時代に新羅が建て(百
大田を抱える忠清道は、「スロー
市の自然と向き合おうと川べり歩きを し、その次に山へ向かった。
私は市の東の方にある鶏足山に
比べられるのが忠清道の人間だ。忠清
翌日は柳等川の辺を歩いた。や
済が主人だったという主張もある)、
道の人々のそんな気質の特徴が「大田
はり心の落ち着く道だった。都心でこ
高麗時代を経て19世紀の朝鮮時代まで
ブルース」に良く表れている。遅いテ
んな森閑とした川辺の道を散策できる
軍事施設として使われてきた。山の中
ンポでメロディを奏でるこの曲は、別
ということは、この都市のもつ楽しさ
腹から山城まで険しい坂道を20分ほど
1 大田駅高速鉄道KTXが一日に50便、 ソウルと大田を1時間で結んでいる。 2 甲川大橋。甲川では大田市民が水上 レジャースポーツを楽しんでいる。 74 Koreana | 春号 2010
1
2 © ユン・キジュン (尹基重)
登ると頂上に到着する。頂上部には石
も説明が難しくてよく分からなかった
近づけないようにしてあるのには残念
を積みあげ平らにして築いた山城があ
りして、少し迷ってしまった。また案
で仕方がなかった。実は鶏足山に登る
る。城の上に立ち見下ろすと、その名
内表示には外国語の表記がほとんどな
前に朝早く、湖水を見に上流のダムに
のとおり鶏がその足を四方に広げるよ
く、この美しい山道を韓国人だけが通
も行ってみたのだが、そこでも水辺近
うに稜線が遠くまで続いていた。
るには惜しい気がした。
くには行くことができなかった。湖水
そのくねくねと曲がり続いている
私は鶏足山の頂上を東側の道へと
の上に作られた展望台から見下ろすほ
稜線に私は魅せられ、そして山城の東
進み、大青湖の前の平地に出た。昼時
かなかった。私は風にそよぐ水音を目
門から遠くに見下ろす大青湖の青い水
をずいぶん過ぎてしまい腹が空いてい
の当たりで見たかった。もしやと思っ
に誘われて森へと向かった。道幅は人
たものの、山の麓には食堂は見当たら
てやって来たここでも、水鳥たちが群
一人が歩くには十分だが、二人並んで
なかった。空腹をもう少し我慢しなく
れを成して水辺に遊ぶ様子を鉄条網ご
歩くには狭く森の巡礼者はみんな、一
てはならなかったが、さほど苦ではな
しに見て満足するほかなかった。まあ
列になって歩いていた。森の中は至極
かった。景色の美しさに身も心も満た
人間の飲み水を供給するために作られ
快適で気持ちが穏やかになった。ただ
されていたからだ。しかし大青湖のま
た湖水なので、厳重な管理も仕方が無
分かれ道に表示がなかったり、あって
わりに鉄条網が張り巡らされ、湖水に
いのかもしれない。 春号 2010 | Koreana 75
鶏足山以外の山々に行くことはで
になった。そして1932年忠清南道の道
忠清道地方の商業の中心地としての機
きなかった。ただいろいろな本やイン
庁が公洲から大田に移り、その後この
能を大田が肩代わりするようになって
ターネットサイトによると、大田地域
地が観光地として開発され始めた。
いた。さらには行政の中心地としての
の11の山々が皆、それぞれ特徴があり、
大田は「大きな畑」という意味があ
機能も公州から移されることになった。
特に寶文山、食蔵山、壯泰山、万仞山
る。この地名が最初に世に知られるよ
大田の発展はそのまま温泉地帯である
のような都心に近い山は訪れてみる価
うになったのは1904年のことだ。この
儒城の繁栄をも招いた。儒城は韓国で
値が十分にあると書かれている。鶏足
年、ソウルと釜山をつなぐ鉄道である
温泉開発が最も早く始まったところだ。
の上でひと時を過ごした私の経験から、
京釜線ができ、その中間駅がここに位
鉄道ができると住民だけでなく全国各
そういう説明は信じるに値する。
置を占めたことで、それまで誰も注目
地から汽車に乗り人々がやってきた。
しなかったのどかな農村が都市として
行政区域としての儒城は広いが儒城の
の基盤を整え始めた。当初、京釜線が
温泉地域は1時間もあれば歩いて回れ
私は儒城に一泊した。大田の都心
建設されたとき、隣の公州が忠清南道
るほどの広さだ。その中に宿泊施設と
から西に11kmほどのところにある儒城
一帯では最もにぎやかな都市で、中間
飲食店、飲み屋、カラオケなどが集中
は温泉地域だ。朝鮮半島で最も古い地
駅として有力視されたが、住民の中に
している。
層である始生代末期の花崗岩層の下か
新しい文物に拒否感を持っていた両班
ら水温40℃前後のアルカリ性ラジウム
が多く、その反対で大田が駅の候補地
されている。規模の大きなホテルと、
泉が湧き出ている。皮膚病や神経痛を
に指定されたのだ。
規模の小さいモーテルと呼ばれる中規
温泉とモーテルとチムチルバン
儒城の宿泊施設は145軒だと集計
はじめとして各種病痛の治療に効果が
近代文明の寵児である鉄道の誕生
模のホテルが多い。宿泊施設の見本市
あることで知られているこの温泉が歴
は「大きな畑」に巨大な変化の嵐を巻き
と言えるほど名前も多様で、外観もさ
史に登場したのは一千年も前のことだ
起こした。交通の中心地として国内の
まざまなモーテルが夜になるとネオン
が、京釜線と湖南線が開通した20世紀
文化と人力が交差する地点となったこ
が輝きお客を手招きする。旅行をする
始めになって人々の注目を浴びるよう
とで、いつの間にか公州のもっていた
ことの多い私はこの国のどんな田舎で
大田の発展は温泉地帯である儒城の繁盛を招いた。鉄道が通ると全国各地から汽車に乗り人々がやって来た。儒城の温泉地帯は 歩いておよそ1時間もあれば見て回れるほどの手ごろな広さだ。その中に宿泊施設と飲食店、そして飲み屋やカラオケが集中し ている。
© ユン・キジュン(尹基重)
1 大田エキスポ科学公園一帯の全景 2 鶏足山城。6世紀頃の三国時代に新羅が山 の頂上に築いた城だ。 3 儒城の温泉足湯体験場。服を着たまま温か いお湯に足をつけると疲れがとれる。 76 Koreana | 春号 2010
1
2
春号 2010 | Koreana 77
3
1 © ユン・キジュン(尹基重)
も簡単に目に付く、このモーテルとい
私は韓国を訪れる外国人にモーテルに
う名の小規模な宿泊施設に信頼を寄せ
泊まることをお勧めしたい。
ている。大型ホテルに比べれば4分の
儒城のモーテルでは部屋の中で映
1程度の値段で泊まれ、その値段の割
画も見られると宣伝していた。私は見
には内部も清潔で防音設備もよくでき
物がてらにモーテルを見て回りついに
ている。外から見てまだ新しい感じが
宿舎を決めた。24時間チムチルバン。
するモーテルならばほとんど安心して
これは韓国だけの独特な文化ではない
もよい。私の見たところニューヨーク
だろうか。ドイツと北欧にはサウナが
やロンドンの4等級ホテルに比べても
発達しているが、24時間サウナが可能な
決して見劣りしない。ロンドンのよう
のは韓国のチムチルバンだけだ。それ
に古くて床がきしむ音がするなどとい
に驚いたことにはサウナを楽しむだけ
うことは考えられない。さらに価格を
でなく食事もでき、広い空間では男女
比較すれば韓国のモーテルの主人たち
問わず休息をすることもできる。もち
にお礼を言わなくてはならないほどだ。
ろん決まったユニフォームを着なくて
ニューヨークやロンドンではホテルの
はならず、他のお客に配慮したマナー
部屋の中に冷蔵庫のあるところはほと
も必要だ。熟睡している人々のイビキ
んどないが、ここでは冷蔵庫も各部屋
の轟音を我慢できる自信があれば、外
に揃っている。さらに歯ブラシに歯磨
国人にもこの独特な空間を利用するこ
き粉、石鹸、シャンプー、ローション
とをお勧めしたい。韓国にやってきて
にタオルまで全部無料で提供される。
いる移住者や外国人就業者の中にはす
78 Koreana | 春号 2010
1 大清ダム。錦江本流を塞いだ大きな湖水は 山に囲まれている。この湖に沿うように走 る道路は幻想的なドライブコースだ。 2 同春堂。朝鮮時代の禮学の大家宋浚吉 (1606-1672)が学問に励んだところ。
でにここの魅力を十分に楽しんでいる 人々も少なくない。私はモーテル利用 料の5分の1に過ぎない価格でここで 一晩を過ごした。ラジウム温泉のお湯 は程好い温度で水も滑らかだった。眠 るのには少々不自由ではあったが、我 慢できないほどではなかった。
未来を開き古き良きものを守る 人々 儒城の近くに大徳研究開発特区 という地区がある。27.6㎢の広さの敷
2 © ユン・キジュン (尹基重)
地に科学館、科学公園、科学文化セン ターとメディカルセンターがあり、60
代のソンビ(在野の学者)、ソン・ヒョサ
史跡は、その友の遺跡よりももう少し
以上の各種研究機関と2万人を超える
ン(宋效商)を始祖とする宋氏家門の家
北に位置している。生前、彼が使って
研究者とその家族の住むアパートが立
内墓から見つかったミイラだが、この
いた別堂の建物である同春堂が残って
ち並んでいる。私はこの地域を1990年
ときに昔の衣服も一緒に出土した。そ
おり、それを中心に公園が造成されて
代の始めに訪れたことがある。とにか
の服の中から40点ほどを復元した展示
いる。同春堂は宋浚吉の号で、常に春
く広いというのが第一印象だった。広
会が最近儒城にある大田先史博物館で
のようだという意味だ。建物の主人よ
大な敷地の中に各研究機関は余裕のあ
開かれた。朝鮮時代のソンビたちの暮
りも遥かに長生きをした友がその懸板
るスペースをとって建てられ、団地内
らしぶりを見ることのできるチャンス
を書き、それが未だにかかっている。
の道路はすべてまっすぐに伸びていた。
だとして民俗学者の関心を集めた展示
大田駅前には市内を貫通する地
車もまばらな道路を渡ろうとすると、
会だった。朝鮮時代の優れた性理学者
下鉄駅があり地下商店街もある。長い
思いっきり猛スピードで走る車が多く
李耳の思想を継承した一団の学者たち
間、この地域の人々の生活用品を供給
気をつけねばならなかった。20年が過
をさして畿湖学派といい、その中でも
してきた地上の伝統市場がだんだん衰
ぎた今日でも車の往来が増えたこと以
忠清道地方のソンビを区別して湖西士
退しているのに比べて、地下商店街は
外、風景は昔とあまり変わらない。
林という。この湖西士林派の代表的な
流行のファッションと新しく出たモバ
大田には大徳研究開発特区の中に
人物であるソン・シヨル(宋時烈)とソ
イルフォンなどの電子機器を見に来る
ある韓国科学技術大学(KAIST)をはじめ
ン・ジュンギル(宋浚吉)を大田の人々は
若者たちで昼夜を問わずにぎわってい
として、大学の教育機関が19もあり、
特に尊敬しており、先人たちの剛直な
る。このような明暗は、のどかな農村
大学生が17万人近くも学んでいる。こ
精神世界と清廉で簡素な生活ぶりを手
から華やかな都市に変身させたその原
のように研究と教育の都市としても輝
本としてきた。
動力が今も変わらずに発揮されている
いているのが大田の特徴だ。この都市
大田の東、佳陽洞の山のふもとの
ことを感じさせる。スローな人々の都
がこのような顔を備えるようになった
森の中に尤庵史蹟公園がある。1607年
市大田、しかしこの都市の変化は一度
のは、何よりも交通が便利なうえに手
に生まれて82歳で亡くなった宋時烈が
も足を緩めたことはなかったのかもし
付かずの広い土地があったことが最も
学問に励んだ場所に作られた公園で、
れない。そしてそれがスローな人々の
大きな理由だろうが、歴史にその因縁
尤庵は彼の号だ。典型的な韓国のソン
底力なのだろう。私は大田駅広場の真
を見出すこともできる。
ビの頑固さで有名な尤庵が勉強した建
ん中に建てられた「大田ブルース」の歌
2004年の春、大田の寶文山の南の
物の中に文集や楷書を含めた遺物が展
碑をもう一度眺めた後、列車に乗り込
ふもと木達洞で韓国最古のミイラが見
示されている。宋時烈と同時代の人物
んだ。
つかった。朝鮮時代の第四代王・世宗時
で、同僚学者だった宋浚吉を記念する 春号 2010 | Koreana 79
料理
手軽な健康料理-イカ丼 イカは昔から韓国人にとって最も身近な食材として親しまれてきた。最近では栄養 学的にも優れた食品だと注目されている。イカのゆで汁で炊いたご飯に、イカを 使ったトロリとしたソースをかけて食べるイカ丼をご紹介しよう。 シム・ヨンスン (沈暎順、沈暎順料理研究院長、『最高の韓国の味』の著者) 写真 : 安洪范
イ
カの種類は世界的におよそ500種ぐらいで、食用にできるものは 15~20種だ。韓国のイカの漁場は東海、西海、南海のすべての海 に均等に分布しており、一年中捕獲されているが、主に8~10月
が最盛期となっている。最近は水揚げしたものをそのまま船で急冷凍させ て流通する方式が普遍化しており、いつでもどこでも手軽に入る食材だ。
栄養成分 イカには良質のたんぱく質とビタミン A、E、B1、B2、ナイアシン、カリ ウム、鉄、亜鉛、銅、リンなどの微量栄養素が含まれている。特にビタミ ンE、亜鉛、銅の成分は細胞を活性化し鉄分の吸収を助ける。特に干した スルメのたんぱく質は牛肉のたんぱく質の3倍以上にもなる。またイカは 燐酸の含有量の多い酸性食品なのでアルカリ食品の野菜と一緒に食べるこ とをお勧めする。イカは100gあたり180mgのコレステロールが含まれてい るため気にする人も多いが、最近魚貝類に含まれているコレステロールは 肉類とは違い、生活習慣病とは関係ないという事実が明らかになり注目さ れている。またコレステロール低下作用のあるタウリンも一般魚類の2~ 3倍、肉類の25~60倍も多く含まれている。(100g当たり327mg~854mg) イカを干したときに表皮に生じる白い粉がそのタウリン成分だ。イカは脂 イカ丼。イカといろいろな副材料をピリッ と甘辛く味付けしたソースで和えて、ご飯 の上にのせて食べる 80 Koreana | 春号 2010
肪の含有量は非常に少ないが EPA,、DHAのような良質の脂肪酸が入ってい る。また人体細胞の代謝機能に必修のセレニウムも多量に含まれている。
Spring 春号 2010 | Koreana 81
イカは皮をつけたままで調理する方が栄養学的には良い。収縮しないように 縦横に包丁で軽く切りすじを入れて加熱すれば、イカ料理をさらに華やかに できるという効果も得られる。
1
セレニウムは体内の重金属を無力化さ
すれば-35℃以下で急冷凍したものを
に包丁で軽く切りすじを入れてから調
せる作用と発癌性因子を阻止する効果
解凍して使うよりは身が柔らかく新鮮
理する。切りすじを入れることでイカ
がある。またイカ墨の成分はメラニン
だ。
料理がさらに見た目も美しくなる。
色素で防腐作用があり、細菌を殺し潰 瘍を防止する効果がある。
イカは皮のついたまま調理するの が栄養学的には優れている。しかし調 理時に収縮し量が減ったり、色が赤黒
多彩なイカの調理法 イカの料理方法は実に多様だ。最
くなり硬くなってしまうのが欠点だ。
も簡単な料理方法はイカをさっと湯が
新鮮なイカは色素細胞が鮮明な
そのため唐辛子ソースや醤油で調理す
いてチョコチュジャン(酢味噌)をつけ
青褐色を帯び、透明で光沢があり目が
るときや、イカの胴体の中にいろいろ
て食べる「スッフェ」だ。身も柔らかく
飛び出ている。また足に吸盤が正確に
な野菜を詰めて蒸すスンデ料理を作る
味も良い。チョコチュジャンソース
付いており、吸着力の強いものほど新
ときは皮のついたままで調理し、白く
は、コチュジャン(唐辛子味噌)大さじ
鮮だ。身が赤黒色のものは新鮮度が落
きれいな模様を生かした料理では皮を
5に酢大さじ2、砂糖大さじ1、サイ
ちる。夏には蛍イカが、冬には甲イカ
剥いてから調理する。また加熱すると
ダー大さじ2の割合で混ぜて作る。
や槍イカがおいしい。生きたイカを海
きに収縮しないように胴体の内側に縦
種類と下ごしらえ
水に入れておけば2~3日程度は生きて いる。生きたイカを利用して料理を
82 Koreana | 春号 2010
また内蔵を抜き取り水気を切っ た後に適当な大きさに切り、天ぷら粉 をまぶして揚げたあと醤油をつけて
2
イカ丼の料理方法 材料 1
米 カップ 2+1/2. 塩少々、 サラダ油 小さじ 1、 ゴマ油 小さじ 1/3。
2
イカ(頭、足)1匹、 昆布 5g、煮干 30g、 香辛汁 大さじ 1、
食べるイカの天ぷらは韓国人なら誰で も好きな料理で、道端の屋台でもトッ
水 カップ 2、塩 小さじ 1。 3
イカ(胴体)1匹、 エビ 30g、青唐辛子 1個、
ポッキと並んで一番の人気メニュー
しいたけ10g、インゲン豆20g、
だ。新鮮な生きたイカを内臓を残した
なす 30g、
ままで焼いて食べる「生イカの丸焼き」
たまねぎ 20g、ハルウコン 30g、
はイカの味と栄養を損なうことなく摂
サラダ油大さじ 1+1/2、
取できる最も効果的な料理方法だ。
香辛汁 大さじ 1、
ここで紹介する料理はイカのゆで
塩、胡椒少々。 4
汁で炊いたご飯に、イカを使ったトロ
コチュジャン(唐辛子味噌) 小さじ 1、 コチュカル(唐辛子粉)大さじ 1/2、
リとしたソースをかけて食べるイカ丼
水あめ 大さじ1/2 醤油 大さじ 1/2、
だ。調理過程が面倒だと思う読者なら
2番の材料で、イカを湯がいた湯 カップ 1/2、
「ご飯炊き」の部分は省略し、ソースだ け作ってご飯にかけて食べるようにし
片栗粉 大さじ 1、またはもち米の粉 大さじ 1+1/2。 *
香辛汁は梨200g、大根 200g、玉ねぎ200g、ニンニク 200g、生姜 10gをお ろし器やフードカッターにかけて汁にしてからビンに入れて保存し調味料
ても良い。
として使う。無ければ省略してもよい。
料理方法 1
米はきれいにといでから、材料1でさっと炒めておく。
2
材料2を茹でてからざるに上げておく。イカのゆで汁を材料1の炒めた米に 適量を入れて、そのまま炊く。
3
イカは縦横に1cm間隔で包丁で軽く切りすじを入れ、さっと湯がいて少し 斜めに薄く切る。 エビは皮のついたままでさっと湯がいてから皮を剥いて薄く切る。 しいたけは傘の部分だけを使い薄く切り醤油を少し入れてあえる。
3
ナスはイカと同じくらいの大きさに切り塩でさっとしめる。 インゲン豆、青唐辛子、玉ねぎはさっと湯がいて切っておく。
1 昆布・煮干・塩。昆布と煮干はだし汁の旨み の元で、韓国料理の必須材料だ。
ハルウコンは薄く切りさっと湯がいておく。 以上の材料に香辛汁、塩、胡椒をいれてフライパンにサラダ油をひき、強
2 準備した材料を強火でさっと炒める。
火でさっと炒める。
3 イカに包丁で切れ目を入れる。 4
材料4で作った熱いソースを材料3にかけて混ぜ合わせたあと、熱いご飯に かけていただく。
春号 2010 | Koreana 83
遠くの目
「甘露幀(カムノテン)」の 餓鬼神 私の韓国通いは1991年に始まった。それは折口信夫の国文学・芸能史に関心を持って沖縄の調査などを行 なっていた私を、明治大学の日向一雅先生がさらに視野を広げる意味で一緒に韓国に行かないかと共同研 究のグループに誘ってくださったことがきっかけであった。 いとう・よしひで(伊藤好英、慶應義塾大学講師)
国に「甘露幀(カムノテン)」と呼ばれる仏画があ
露」を地獄に落ちた餓鬼たちに施すいわゆる施餓鬼会の様
る。私がこの甘露幀に出会ったのは、高麗大
子を極めて独特の描き方で描いた一連の仏画を総称して
学校留学中の2000年の夏であった。同僚三人
韓国では「甘露幀」と呼んでいるのである。どこが独特の
が夏休みに観光を兼ねて私を訪ねてくれて、詩人の高雲
描き方かというと、絵の中に施餓鬼会の思想、すなわち
基さんの案内でソウル市内を廻った。独立門の近くの奉
甘露施与の思想までを盛り込んでいる点である。甘露の
元寺に立ち寄った時、三千仏殿の一隅の壁に掛けられた
儀式とは何なのかが、上段の菩薩、中段の大きな餓鬼、
その珍しい仏画に目が止まったのである。縦2メートル、
下段の死者(それぞれの餓鬼)の生前の姿で象徴的に説明
横3メートル以上の大きな彩色画で、上部には何人もの
されている。法会の中でこの絵を使った絵解きが行われ
菩薩達が立ち並び、中央部には二体の人間とも妖怪とも
たことも十分に考えられるところである。ちなみに、朝
見分けがつかない異様な姿をしたものが座り、残りの空
鮮王朝時代に描かれた甘露幀は現在65点確認されており、
間には、法会を行なう僧たちと芸能者たち、それに一般
そのうち朝鮮王朝時代前期の作品が日本に4点伝わって
庶民の生前の姿が非常に細かく描かれている。その時に
いる。
韓
は私の関心が村祭りや芸能にあったので、その絵の中の
私が甘露幀に引き付けられた理由は二つある。一つ
特に、韓国の巫女であるムーダンがクッ(神楽)を演じて
は先に述べたように芸能者に対する関心であり、もう一
いる様子や、二本の綱を使った綱渡りの演戯場面に目を
つは中央に描かれた巨大な餓鬼の存在に対する興味であ
奪われたことを記憶している。この絵を見たあと本堂に
る。
戻ってそこにいた常連の参拝者と思われる婦人に話を聞
甘露幀には、居士(コサ) ・社堂(サダン)などと呼ばれ
いてみると、このような絵にはパターンがあって、その
る朝鮮王朝時代の芸能者たちが大勢登場し、竿(ソッテ)
描き方は代々の僧に伝えられ、この寺には今でもこのよ
登り・綱渡り・念仏踊り・仮面戯などの演戯の実態が実に生
うな絵を描けるお坊さんがいるのだということであった。
き生きと描かれている。後の男寺男(ナムサダン)の芸能
あとで調べてみると、この種の仏画は「甘露幀」と呼
にも繋がるこの仏画との出会いは、韓国芸能史を勉強し
ばれる施餓鬼図であることがわかった。中央の異様な姿
たいと思って韓国に渡った私にとって非常に貴重なもの
をした二体は餓鬼であった。仏たちが救済のための「甘
となった。
84 Koreana | 春号 2010
「奉恩寺甘露幀」1892年(撮影:筆者)
私の韓国通いは1991年に始まった。それは折口信夫
しかもその無念な死に際の姿を表わしたものが多い。巨
の国文学・芸能史に関心を持って沖縄の調査などを行なっ
大な餓鬼は、これらの小さな餓鬼を救済すべく自ら餓鬼
ていた私を、明治大学の日向一雅先生がさらに視野を広
の姿をとった神的存在だと考えられる。
げる意味で一緒に韓国に行かないかと共同研究のグルー
私がこのような存在であるいわば餓鬼大将に興味を
プに誘ってくださったことがきっかけであった。その後、
持ったのは、その姿と役割が折口信夫の言う「まれびと」
1993年度の一年間はそのグループのメンバーであっ
の本質を極めて象徴的に表わしているからである。「まれ
た朴銓烈先生がおられる中央大学校に研究員として、2000
びと」はいわば神であるが、われわれ人間の前に異形の姿
年度と2001年度の二年間はその後面識を得た高麗大学校
で現れ、その場においてわれわれと濃密なコミュミケー
の田耕旭先生の勧めで、徐淵昊先生を指導教授として同
ションをさまざまな形で行なう神である。そしてそのよ
大学の博士課程で勉強することとなった。2004年に
うな場から文学(芸術)が生まれてくるというのが折口の
提出した博士論文のタイトルは「折口信夫の芸能学を通し
文学(芸術)発生論である。
て見た韓国の民俗」であった。この論文を日本語に直した
さらに、甘露幀に登場する芸能者たちは、折口のこ
ものを基にして慶應義塾大学出版会から出した本が『折口
とばでは「ほかひびと」と呼ばれる。折口によれば、「ほか
学が読み解く韓国芸能』 (2006年)である。この本の表紙に
ひびと」は「まれびと」の言動を複演する人々とされる。甘
は三つの寺の甘露幀の中から芸能者の演戯の場面を選ん
露幀の中の芸能者たちもまた、神の複演の役割を持たさ
で使用した。
れているだろう。彼等は、差別を受け厳しい生活を余儀
私の甘露幀に対する興味の二番目の理由である巨大
なくされている一種の餓鬼である。しかし、餓鬼であり
な餓鬼について述べよう。多くの甘露幀で中央を陣取っ
ながら、人々の憂いを解き、人々の願いを表現する救済
ている二体ないし一体のこの餓鬼こそが、実はこの絵の
者の役割を担い続けてきた者たちである。甘露幀はその
主役なのである。この餓鬼は、上段の菩薩たちが与える
ような彼等の生活の実態を如実に表現している。
甘露を手に持った器に受け取り、これを絵の下部に描か
私には、以上述べたような構造を含み持つ甘露幀が、
れている小さな餓鬼たちに分け与える役割をしている。
そのまま韓国芸能史を象徴しているように思えるのであ
下部に登場する人物たちは、先に述べたように生前の姿、
る。 春号 2010 | Koreana 85
暮らし
昨
年、韓国で話題となったニュースは色々あったが、中でもマッコリにまつわるイベン トの話題で持ちきりだった。大人向けのお酒が2009年度の最高ヒット商品に選ばれた のも非常に異例なことといえる。年末ある環境団体は、輸入酒に比べてマッコリが製
造と運送過程における、二酸化炭素の発生量が少ないということで、マッコリを「2009 世の中を 明るくした人々」の「環境と気候変動」部分の受賞者に選定した。 マッコリが2009年に人気を博したからといって、韓国に突然登場したわけではない。マッ コリは韓国で最も古いお酒であり、韓国人に最も親しまれているお酒である。年配の韓国人なら マッコリにまつわる思い出を誰でも持っているはず。中でも多いのは、幼い時、父に町の醸造場 にお酒をもらいに行かされたという物語である。なぜ大人はマッコリが好きなんだろうといぶか りながら酒をもらって帰ってくる道すがら、マッコリを嘗めていたという話も出てくる。
米で造った庶民の伝統酒 1988年にソウル・オリンピックが開催される前までは、マッコリは韓国人が一番好んで飲んで いたお酒だった。ところが、1988年のソウル・オリンピックとともに海外旅行が自 由化され、また輸入自由化が始まるなどの変化の中で、マッコリは古い物 として認識されるようになり、ビールに首位の座を明け渡してしまった。 都市化と西欧化の波に流され、韓国人にそっぽを向かれたマッコ リが、2009年に華やかに復活したのである。さらに、韓国人にとど まらず、韓国を知る外国人の口まで虜にするように なった。景気の落ち込みで輸出もままならない 状況の中、マッコリの輸出量は前年に比べ て20%を超える伸びを記録している。そ れでは韓国人に親しまれているマッコリ とは一体どんなお酒なんだろう。 マッコリは昔から韓国の庶民が好んで飲
2009年韓国で起きた マッコリ・ブーム 韓国のサムスン経済研究所が2009年度韓国の最高ヒット商品にマッコリを選定し た。世界的に流行った「新型インフルエンザ」関連商品とフィギュア・スケート選手 として世界トップとなったキム・ヨナ選手がそれぞれ2位と3位にランクした中で のトップ入りである。「最高の発酵飲料」として輝いたこの乳白色酒の華麗な復活 の背景を探ってみる。 ホ・シミョン(許時銘、濁酒学校校長、伝統酒研究家) 写真 : 安洪范 86 Koreana | 春号 2010
ソウルのあるマッコリ・ カフェで開かれた 「2009 年新米ヌーボー・マッコ リ・ガーラ・ディナー」 。 イタリアのシチリアから 来たジュセぺ・バロネ(右 側)さんと参加者らが乾杯 している。
んでいた代表的なお酒である。色が濁っているため、濁酒とも呼ばれ、農事を営む農民が働く時に よく飲んでいたため、農酒とも呼ばれた。マッコリは伝統的に一般家庭でも簡単に造れる酒であっ た。ところが、20世紀に入ってから酒にも税金を課するようになって、家庭で酒を造ることは禁じ られるようになった。1934年からは醸造場でしか酒が造れないようになったが、それから60年が 過ぎた1995年から、一般家庭でも酒が造れるように法律が改訂された。 韓国の一般家庭でも自由に酒が造れるようになるにつれて、醸造方法を学ぶ人も増えている。 野菜を直接栽培するように、自分が飲む酒を自ら造って飲みたいと思う人々である。酒づくり体験 への参加を希望する外国人も増えていて、筆者が運営するマッコリ学校にマッコリづくり体験に関 する問い合わせがくることもある。 マッコリは韓国人の主食である米で作る。時には、もち米や麦、粟などでも作るが、主にお 米で造る。まず、水気の少ないご飯を蒸して冷ます。それに小麦を挽いて造った麹(発酵剤)を水と 一緒に混ぜ合わせる。ワインづくりの時は、酵母だけ入れればよいが、マッコリの場合は糖化酵素 と酵母が入っている麹を入れる。強飯と麹を5対1の分量で入れた後、水を強飯の1.5倍を入れて
春号 2010 | Koreana 87
1
から丁寧にこねた後、瓶に入れて、夏場の場合は5日間、冬場は7日間経つと発酵が終わる。発酵 した酒を丸いふるいやフィルターに入れて軽くこすと、濁ったマッコリが出来上がる。そのままだ と、酵母が生きている生のマッコリであり、65℃のお湯のなかで30分程度殺菌すれば、殺菌マッコ リになる。
1 若年層に人気のあるフ レッシュ・ジュースを ミックスした「カクテ ル・マッコリ」。 2 取材に来た日本の記者 たちと乾杯するマッコ リ学校のホ・シミョン 校長。
若者や外国人に人気 2009年に起きたマッコリ・ブームの主な要因は、健康に対する関心が高まったことである。 マッコリのアルコール度数はビールより1.5倍高く、ワインの半分にも満たない。弱いお酒である ため、女性たちも安心して飲める。なお、米マッコリの色は牛乳のように白いため、日本人が理解 しやすくミルキー酒とも呼んでいる。マッコリの白色の中には、米から分解された様々な食餌繊維 やアミノ酸・有機酸などが含まれている。この成分の効能が知られてから、マッコリでダイエット する人々まで登場した。 マッコリがスポーツと出会うことになったことも、2009年のマッコリ・ブームを促した。昔か らマッコリは農民が午後のおやつとして野原で飲んでいた。大きな杯で一杯飲み干すと腹が適当に 満たされて身体が温まるため、また働ける力を得ていた。度数が低いため酔わず、疲れを忘れさせ てくれる程度である。2009年、マッコリは登山とゴルフとも出会った。健康対策のために週に一度 山に登る人々は凍ったマッコリをリュックに入れて行く。5時間程度冷凍したマッコリには浅い氷 ができる。二時間ほど山歩きすれば、マッコリが程よく解けていて、その時飲む一杯の酒は渇いた 喉を潤してくれるし、再び登る力も湧く。この効能のために、ソウル近郊にある登山路にはマッコ リを売っている人々がいて、麓にはマッコリ屋が並ぶ。 88 Koreana | 春号 2010
112
2009年のマッコリ・ブームの重要な要因となったのは、健康志向の高まりがまず挙げられる。マッコリの中には米から分解された 食餌繊維やアミノ酸・有機酸などが含まれている。この成分の効能が明らかになるにつれて、マッコリをダイエット食品として飲 む人々も現れた。
山から下りて、豆腐キムチにマッコリを飲むことが多いが、その時飲むマッコリを「下山酒」 と呼ぶ。また、ゴルフをした後、以前は高いお酒を飲んでいたが、今はよくマッコリを飲む。ス ポーツで汗を流した後に飲むマッコリは、喉の渇きを癒し、疲労を忘れさせる最高の発酵飲料水と いう認識が広まった結果である。 韓国でマッコリは元々は庶民と農民のお酒という認識があったが、2009年に起きたマッコリ・ ブームでその認識が大きく変わった。大学生が集まる酒場で売られるマッコリも新しく生まれ変 わった。カラー・マッコリ、つまりイチゴ、パインアップル、トックリイチゴ、桃などの果物と マッコリを混ぜたカクテルが登場してから、女子大学生の間でも人気を呼んだ。750ml入りの1千 ウォンしかしない手ごろなマッコリがホテルで売られるようになったのも、2009年に見られた現象 である。ホテルでマッコリが韓国の陶器や食べ物と一緒にサービスされることで品格が高まった。 特に、ホテルに滞在する外国人から人気を得るようになり、また韓国人が外国人をもてなす時に も、マッコリが登場するようになった。
日本のマッコリ・ブーム 中でも日本人のマッコリへの関心は高い。2008年下半期から始まった円高の影響で、韓国を 訪れる日本人観光客が増えた。当時から日本人観光客がよく買い求めていたのが韓国の特産品であ るマッコリだった。マッコリを購入する日本人観光客が増えた理由について、日本で発行予定の 〈韓食文化〉の記者である田中博さんに質問してみたら、次のような答えが返ってきた。 「韓国のドラマや映画に惹かれた日本の中年女性の中でも特に熱心な人々は、年に4、5回ぐ らい韓国を訪れます。ところが、彼女らの韓国に対する理解の幅と深さというのは大変高い水準で
春号 2010 | Koreana 89
あり、ちょっとしたことでは満足できません。焼肉、冷麺、春川鳥カルビ、ビビンバなど、 既に日本入りした食べ物ではなく、もっと本格的な韓国の食べ物を探していたところ、マッ コリに出会ったのではないでしょうか」 日本で韓国マッコリ販売で首位を占めているイドン・ジャパンのキム・ヒョソプ代表は、 韓国の食べ物に対する日本人の関心がキムチ、カルビ、ノリ、柚子を経て、今やマッコリに落 ち着いたところであると語った。日本には日本人が経営するマッ コリ醸造場も現れ、東京では東京マッコリが販売されている。
「新米ヌボ」の登場 2009年秋には、新米マッコリが登場して、又もや人々の関 心を集めた。マッコリは安いお酒であるという昔からの認識を払 拭し、従来のマッコリより3倍も高い値段で新しい消費層を掘り 起こす試みである。従来のマッコリは2、3年経た輸入米と輸入 小麦粉で作っていたが、韓国の農民が栽培した新米でマッコリを 造って、より新鮮で美味しいマッコリを生産することになったの だ。原料の米の値段が3倍も高いため、酒の値段も3倍高く設定 された。特に、ボジョレー・ヌーボーが売り出される11月の第3 木曜日に新米ヌボ・マッコリも売り出されたが、販売量がボジョ レー・ヌーボーより多かったというニュースが報道された。もち ろん意図的にボジョレー・ヌーボーの売り出しの日に合わせたの である。ボジョレー地方の農民が収穫した葡萄で作ったワインに 熱を上げる韓国人と世界の人々に、ボジョレー・ヌーボーと肩を 並べられる韓国の新米マッコリの存在をアピールするためのイベ 1
ントであった。このイベントの結果、高級品しか取り扱わないデ パートでも、新米マッコリの販売に乗り出すようになった。
1
マッコリー醸造場で発酵して いるマッコリ。
2 販売中の多様なブランドの マッコリ
マッコリ学校の登場もマッコリ愛好家の興味を引いた。マッコリを通じて韓国文化を理 解し、多彩な味を求める人々の出現はマッコリ・ブームが一時的な流行ではないことを裏付け ている。 韓国人はどんな酒が好きなんだろう。韓国人はどんな味が好きなんだろう。そんな疑 問を抱いていた人々なら、マッコリにトライしてみるのがいい。韓国人が好きなマッコリの おつまみには、チヂミと豆腐キムチなどがある。特に雨の日は、マッコリにチヂミが食べた くて居酒屋に向かう韓国人が多い。豆腐キムチは生の豆腐に焼いたキムチを乗せて食べる食 べ物であり、豆腐の淡白な味とキムチの辛い味、マッコリのほろ甘くて酸っぱい味とが合わ さって豊かな味が口いっぱいに広が る。 これからは、韓国人に会う時 に、豆腐キムチにマッコリを飲 みましょうと誘ってみよう。そ の瞬間、あなたは 韓国人の心を 掴むことになるだろう。 2
90 Koreana | 春号 2010
韓 国 文 学 の 旅
鄭智我 チョン・ジア(鄭智我、1965~)は1990年に20代でパルチザン出身の両親の体験を綴った小説『パ ルチザンの娘』を発表し、一躍文壇にその名を知られるようになった。2004年に最初の小説集 『幸福』を出版、2006年には短編『風景』 で第7回李孝石文学賞を受賞した。『春光』は2008年に出 した2番目の小説集『春光』の表題作だ。
春号 2010 | Koreana 91
作家評
老年の発見とその小説化
鄭智我の『春光』 キム・ギョンス(金慶洙、文学評論家)
鄭
智我は韓国で活動している作家の中でも比較的、特別な位置を占めている作家 だ。現在、活発な執筆活動をしている作家の中で幼少期を田舎で過ごし、自然の 原始的な感覚を体で記憶している人はそう多くない。おそらく、その理由として
近代化が考えられるが、鄭智我と同世代の作家の大多数がいわゆる都市小説を発表してい ることから見てもそれは明らかだ。鄭智我は都市よりは田舎の話に愛着を示しており、そ の上、消え去りつつある世代に対する人並みはずれた関心が彼女の個性をより確かなもの にしている。そしてそれは老年の再発見だといえる。 鄭智我の『春光』は50代にさしかかった息子が、年老いた父が痴呆 にかかったようだという母の連絡を受けて故郷に帰り、病院で認知 症の宣告を受けた後、両親を伴って田舎の家に戻る道中の話だ。一見 ストーリーは単純そうだが、しかしこの作品内容は韓国社会が直面し ている重要な社会問題の一つ、老人問題の深刻さを提起しているといえ る。この作品で鄭智我は痴呆の症状を見せている父母世代の問題はもと より、すでに中年にさしかかった子供たちがどんな方法でそんな両親との新しい関係 を築いていくかという問題にまで踏み込んでいる。 『春光』で痴呆の症状のある父はその状態がそれほど深刻な方ではない。行動がのろ く、記憶力が後退したということ、妻との関係において意固地になって自己主張をしてい るといった程度で、この程度ではそれ自体が問題を内包しているとは言いがたい。問題は そんな症状が長年連れ添ってきた夫婦の間に不和を招く契機として作用しているという点 であり、それはまたそのまま子供たちの世代にも一定の精神的な負荷を与えるという連鎖 作用を巻き起こしている点である。この作品で主人公の両親が日常茶飯事のように繰り返 している熾烈な口げんかと、その見慣れぬ光景にどうすることもできず戸惑うばかりの主 人公、これはたぶん親の世代の老化と共に生じる家族の典型的な風景の一つだといえるだ ろう。 些細な食べ物で争う両親の姿に主人公は当惑する。それは自分の記憶の中に刻印され た両親のイメージとは全く違うものだからだ。その見慣れぬ場面は自分の両親も年をとる んだという現実を考えたことのなかった自分の無知に対する自覚でもある。しかし鄭智我 はこの部分でその見慣れない場面とそれによる衝撃を乗り越える一つの方法論を模索して
92 Koreana | 春号 2010
いる。父母の世代の人生に対する真摯な回想を通して、自分を一人前の大人に育ててくれ た両親もいつの間にか死を目前にしており、そのように可視化された両親の死を自分も素 直に認めなくてはならないことを自覚するということだ。この作品の最後の場面で主人公 が車の中で寄り添うように眠っている両親を見ながら感じる下記のような自覚はそれゆえ に美しい。 静かになったのでバックミラーでのぞいて見ると、二人は先ほどの様子が嘘のように 仲良く頭を寄せ合って眠っていた。早朝から起きだし、遠くの町まで来たので80の年では 疲れるのも当然だが---(中略)---遠出をするたびに幼い彼は父母の懐に抱かれてぐずりなが ら眠りについたものだ。同じように母と父は彼の車の中で長旅の疲労に勝てず眠っていた。 彼らが彼の生命を育てたように、これからは彼が彼らを懐に抱いて歳月に借りた生命を返 して旅立っていくのを見守らなければならない。 いつの間にか中年を過ぎた子供たちの世代の人物が、人生の黄昏で疲れて眠ってし まった両親の姿を見ながら父母との永別を現実のものとして受け止め、その延長線上で自 分の運命まで瞑想するというのはたやすいことではない。また、あらゆる花が満開になる 春の真っ只中にそんな死の風景を配置することで得られる場面の力は、小説の構成として 強いインパクトがある。平均寿命の延長と共に父母の世代と子供の世代が共に老いていく 風景は見慣れてきたかもしれないが、そんな二つの世代がどんなやり方で互いの生き方を 認めて生きていくかに対する人生の指針書はまだまだ目に付かない。それだけに鄭智我が この作品で描いている老年期の生き方、そしてそれをどのように受け止めるべきかに悩み 苦悩する子供世代の対応も非常に貴重なものだ。 高齢化社会になり、徐々にその数が増えている老年期のもつ人間的な意味を探索する ことも小説文学の役割だといえる。伝統的な大家族制度の下で育った人々は例外かもしれ ないが、結婚と同時に父母のもとから独立して暮らす生き方が当然視されてきた近代化以 後の人生を生きる者たちにとって、老年の人生は今や自明なものではなく、ある面ではこ れまでまったく経験したことのなかった新たな次元の人生だといっても過言ではない。さ らにこれからそのような老年の人生が例外的な個人の人生ではなく、時代の普遍的な人生 像になったという現実まで考慮すれば老年に対する探求、その中でも人間学を志向する文 学的探求の意味はより格別だといわざるを得ない。 鄭智我の小説集『春光』に収録された他の作品もある意味では、『春光』の 延長であったり、この作品の話の周辺に配置されそうな風景だといえる。そ れは他の言葉で言えば、中年の扉から、黄昏の扉にたどり着いた両親の世 代と、その人生を眺める子供が共にある風景だと定義することができるが、 このような風景をキャッチすることこそ、作家の役割であり、作 家の仕事だ。そんな意味で鄭智我は作家としての自分の役目に忠実 な、数少ない貴重な作家だと言えるだろう。
Spring 春号 2010 | Koreana 93