Koreana Summer 2011 (Japanese)

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夏 号 2011

韓国の文化と芸術

vo l. 18 n o . 2

特集 夏号 2011

済 州 島 済州の昨今と将来展望 済州島のチルモリダン・ヨンドゥンクッ 済州馬を求めて

済州島の歓喜と悲哀 ISSN 1225-4592

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火山による溶岩台地


発行人 編集理事 編集長 監修者 編集諮問委員

金炳局 金成燁 金鍾徳 嘉原和代 金文煥, 金英那, 金華榮, 鄭重憲 趙性澤, 韓敬九, 韓明熙

編集 金熒允編集会社 ソウル市麻浦区西橋洞384-13 Tel : 82-2-335-4741 Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 印刷 三星文化印刷 ソウル市城東区聖水2街274-34 Tel : 82-2-469-0361~5 Fax : 82-2-461-6798

広告 CNC Boom Co,. Ltd ソウル市江南区大峙洞1008-1. タワークリスタルビル Tel : 82-2-512-8928 Fax : 82-2-512-8676

Koreana ホームページ http://www.koreana.or.kr © 韓国国際交流財団2011 〈Koreana〉に掲載されているすべての記事 の著作権は韓国国際交流財団に帰属し、 著作権法により保護されています。 〈Koreana〉の記事を転載する場合には、 事前に〈Koreana〉編集室に電子メール (koreana@kf.or.kr) かFAX(82-2-34636086)で転載許可を申請してください。 〈Koreana〉の記事を引用したり 、非営利目 的で使用する場合にも〈Koreana〉からの 転載であることが分かるようにクレジッ トを明示してください。

掲載された記事は筆者の個人的な意見で あり、〈Koreana〉や韓国国際交流財団の公 式見解ではありません。 1987年8月8日文化観光部-1033で登 録された季刊誌〈Koreana〉は英語、中国 語、フランス語、スペイン語、アラブ語、 ロシア語、ドイツ語でも発刊されています。

韓国の文化と芸術 夏号 2011 韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル

風に揺れる済州の海辺 (写真 : 裵炳雨) brm1a-018h, 2002 © 裵炳雨 表題の文字

© 姜秉寅

sea1a-051h, 1999 © 裵炳雨

『Koreana』 が新しくなりました。

2011年夏号から『Koreana』が新しく改編されました。この度のデザイン改編は読者 の皆様にもっと魅力的な雑誌をお届けするために生まれ変わりました。この改編を きっかけに『Koreana』はもっと多様な変化を試みる計画です。 『Koreana(英語版)』は1987年の創刊以来、韓国の文化と芸術を世界に紹介する先導 的役割を担って参りました。日本語版は1999年休刊となりましたが、2006年に再刊 されてから早五年目を迎えております。韓国の伝統文化・芸術を紹介することは韓 国国際交流財団の編集部にとりましてもたいそう有意義なことと思っております。 創刊から二十年が過ぎ、編集部のみならず読者の関心もいっそう多様化してきまし

た。この度のデザイン改編もそのような世界の読者のさまざまな要望に応えるため の試みであります。『Koreana』はこれからも改編作業を続け尚いっそう充実したコ ンテンツとビジュアル作りに力を入れ、読者の皆様にもっと魅力的な雑誌をお届け するつもりです。それに関連して本誌では読者の皆様の貴重なご意見やご感想をお 待ちしております。これからも『Koreana』に深い関心と愛情を持ってお見守りくだ さいますようよろしくお願いいたします。 日本語版編集長

金鍾徳


特集

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済州概観

04

済州島-その歓喜と悲哀 ボックス

済州の昨今と将来展望

崔成子

シャーマンの儀式

済州島のチルモリダン・ヨンドゥンクッ

金裕卿

海女の宿命

済州の女たちの強靭な生き方

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許榮善

馬の飼育

済州馬を求めて

金裕卿

食べる楽しさ

済州島の珍味

崔成子

外国人の目に映った済州

済州島に栖を移した-ある外国人の個人的な体験

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許榮善

ウェルナー・サッセ

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文化フォーカス 1

韓国の再発見-ドイツ博物館収蔵の韓国芸術品の展示会 文化フォーカス 2

街に詩が流れる-ソウルの文化アイコン「光化門広告塔」20年の歴史 文化イベント・レビュー

創作ミュージカル「天国の涙」 元鍾源

韓国再発見

私の韓国文学探訪記

マヤ・スティラー

66

チャールズ・モンゴメリ

インタビュー

黄斗鎭と建築の可能性

ロバート・パウジャー

世界の中の韓国人

グッゲンハイム美術館で「無限を表す」-イ・ウファン

鄭亨模 60

70

70 76

オン・ザ・ロード

北村、昔懐かしいソウルの町を歩く

金裕卿

ブックレビュー キム・ハクスン

肖像画から読み取る韓国の歴史と文化 『韓国の肖像画』 趙善美 韓国の木にまつわる物語、自然科学者による人文学的な木の話 『韓国の木の世界』第1、2巻、パク・サンジン 今の時代の卓越した語り手が残した最後のエッセイ集 『行けなかった道がもっと美しい』 朴婉緒

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78 80 84

遠くの目

韓国トイレ見聞録

小沢康則

ライフスタイル

韓国の若者の間に起こった海兵隊ブーム

キム・ダン

韓国文学の旅

作家評: 明暗と余白の静かな調和-尹大寧の小説美学 テンジャ(からたちの実) 尹大寧

卜道勳

高美錫


© 東亜日報

特 集 済州概観

済州島 その歓喜と悲哀

漢拏山の頂上から眺めた日の出

オルム(側火山)に上り、視界に広がる海や漢拏山を見よう。くねくねとした稜線によっ てつながる漢拏山とオルム、丸い屋根の藁葺き家と海岸線、渓谷、曲がりくねった畑の 石垣、丸い墓地―済州島は一切が曲線だ。 ホ・ヨンソン(許榮善、詩人)| 写真 : 徐在哲

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海に映った漢拏山の頂上

い稜線がうねる。小さいオルムも大きいオルムも目を覚ます。やがてそれらは群となってどこかへ走り出そうとする構え だ。済州島の夜明けはそのようにしてやってくる。風と光が共に生きる「ヨンヌニ・オルム」。白いウメバチソウ(梅鉢草)が

ゆらゆらと揺らめく。野原は野の花でいっぱいだ。平地にふっくらと盛り上がってうねるこれらの丘陵を、人々はオルムと名づけ た。済州島は、世界一多くのオルムがあるオルム王国。一年365日、毎日上っても余りあるくらいだ。

漢拏山とオルム オルムの所々に、サンダム(墓地を囲む石垣)に囲まれたお墓が静かに佇んでいる。一つの生の終わりが別の生の始まりである ことを感じさせる。そのお墓の傍には、苔に覆われた石像「童子石」が墓の主の長年の友のように寄り添っている。人間の喜びや悲 しみが滲んで霊妙な表情をした童子石 (済州島の「健康」と「長寿」の守り神)を作ったのは、この島の名も無い人々だったろう。 遠くから馬の世話をする「テウリ(牧童)」の声が聞こえる。図体の大きい牛たちも草地でのそのそと牧草を食べている。オルム Koreana ı 夏号 2011

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© 済州特別自治道

漢拏山頂の火口湖、白鹿潭の春

は、ワラビや山菜、薬草を採って暮らす人々の生計を支え、疲れた人々にとって慰めの場でもあった。その昔、オルムはこの島の人々に とって、抗争の拠点であり、一生を終えた身体を寝かせる所でもあった。 オルムの風はなかなか寝付かない。甘い風ならいいが、生臭みを含んでいる。オルムに上り、視界に広がる海原と漢拏山を眺めてみよ う。くねくねとした稜線によって繋がる漢拏山とオルム、丸い屋根の藁葺き家と海岸線、渓谷、曲がりくねった畑の石垣、丸い墓地など 済州島は一切が曲線だ。 ヨンヌニ・オルムの近くにあるタランシュ・オルムは、オルムの中の女王だ。月の皓皓と照る夜に、このオルムに上ってみるといい。月 が「クンブリ(噴火口)」にすっぽり抱かれる。女の豊かな胸のように、横になったり或いは伏せているようなオルムたち。オルムのへこん だ噴火口は大地の子宮で、あらゆる生成と消滅を孕んでいる。 済州島は光の島だ。光と風は、想像もつかない色彩の絵の具を溶かしてオルムへ流し込む。降り注ぐ眩しい光に魅入られて、この島に

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© 済州特別自治道

アブ・オルム。漢拏山は、側火山であるオルムを360余り抱えている。

定着したある男がいた。写真作家のキム・ヨンカプ。彼は長い間、ヨンヌニ・オルムの上を流れる光を、土の光を見つめ続けた。そして、 彼の感性が捉えた済州のオルムと、三達里の「キムヨンカプ・ギャラリー」で会うことができる。ひたすら済州の自然とその写真に生命を 賭け、早世した彼の精神がしみじみと伝わってくるような気がする。 山頂火口湖があるサラ・オルムに行く道は、漢拏山に向かう道だ。城板岳から始まる漢拏の山道は、赤い紅葉や緑の広葉樹、赤いワタ ゲカマツカの実がきらめく道でもある。漢拏山は、済州島民にとって暮らしの基でもあり、想像力の源でもある。空から見下ろす漢拏山 は、ふんわりしたじゅうたんのようにも見える。漢拏山、天に手を伸ばせば銀河に触れることができるといわれる山。仰向けになって空 を見上げれば、星がこぼれ落ちてくる。神話の元になる山でもあり、母なる山でもある。孤独ながらも強く丈夫な骨格を持ち、誰彼とな く慰労し、台風や外圧に立ち向かいみんなを守ってくれる山だ。 ああ、これはいったい何だ。巨大な岩が木を抱擁し、木が岩を抱擁している。木と岩が互いに寄り添い生きている住処、コッザワル Koreana ı 夏号 2011

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奇岩絶壁と秋の紅葉が一体となった漢拏山霊室。

だ。ここが済州の肌、つまり原始林なのだ。これだけ強烈な野性の本能を、他に見たことがあるだろうか。200万年前、火柱が吹き出た 火山の島、済州島。流れの速かった溶岩、又は遅かった溶岩の痕跡が、あちこちにその跡を残した。ソンフルコッの椿庭園も溶岩が残し た痕跡だ。このコッザワルは、生命水を濾す宝蔵だ。ここで済州人の生涯や歴史が作られた。炭を焼き、実を取り、木を切って家を作 り、あらゆる珍しい植物やノロ、生きるもの全てを孕んだ。 コムン・オルムを上る道も同じである。この古い森が語ってくれる。「人間よ、お前も自然のうち。だから自然に似るようにしなさい」 と。ただ謙虚になれという言葉だろう。ここでは森の道を、頭を下げてもっとゆっくりと前に進まなければならない。

島中が地質公園 海に浮かぶ一点の島、済州島。地中海や他の海とは違って、ここの海は全身で叫ぶ。村ごとに、同じ海の色が違うのなぜだろう。藍色

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© 済州特別自治道

龍泉洞窟。コムン・オルムの溶岩洞窟系に属する9洞窟の一つで、石灰洞窟と溶岩洞窟の特徴を併せ持った世界的にも珍しい洞窟(ユネスコの世界自然遺産及び世界地質 公園に登録)。

や青色・翡翠色、ディープブルー、黒色まで…。 深く霧がかかる日の済州の海では、陰鬱な音調の巫歌の声が悲しげにさ迷う。その巫歌の声は済州の黒い石よりも更に黒い色調を帯 びる。海で死んだ数々の霊魂、海へ発つ彼らの安寧を祈る声。旧暦の2月になれば、風の神「ヨンドゥンハルマン」が風にのってやって来 る。済州島は、1万8千もの神々の楽園で、漢拏山や海、洞窟など、村ごとに神話が刻まれている。その神々の王国であることを代弁す るかのように、村ごとに本郷堂があり、村民はビニョム(願うという意味)を祈る。 波と風は、島の美学を決定した。セソカクを通り過ぎ、西帰浦ウェドルゲ海岸と大浦里海岸、猊來洞のケッカクに至ると、思わず嘆声が口を ついて出る。済州の火山が生んだ結晶体、流れが止まった溶岩の数々の痕跡だ。火山の地、済州島は火の島でもある。多くの断層が刻まれ、風 が通り過ぎた痕跡。波と風が醸し出した神様の傑作だ。海のあちこちに聳え立った垂直の岩柱の前に立つと、戦慄が走る。柱状節理そのものだ。 遥か太古の時代、火山の爆発と同時に、あの灼熱の溶岩は流れ出たのだろう。真っ赤に燃える川は流れて、海と出会った瞬間、その熱い涙をぴ Koreana ı 夏号 2011

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© 東亜日報

柱状節理帯。火山活動が作り出した海岸の絶景である。

たっと止めたことだろう。溶岩の力は、漢拏山、コムンオルムの溶岩洞窟系、城山日出峰のような素晴らしい世界自然遺産を授けてくれた。 済州島は、島中が地質公園である。防邪塔とパッタム(畑の石垣)、サンダム、塩。穴だらけの済州島の玄武岩は、その細胞(穴)の一つ ひとつに風を含んでいる。昔の人々はその岩を砕き、磨いて家財道具を作った。 様々な動物の形をした火山炭、人間に似た形の岩の表情、済州の原初的な民俗を感じたければ、済州石文化公園に行ってみるのもい い。そこは、済州島の創造巨女「ソルムンデハルマン」とその500将軍の息子たちの物語が見られる神話の庭園だ。そこでは時間の流れが 遅い。故に、せっかちな人ならば、全くあきらめたほうが良い。

城山の日の出、水月峰の日の入り 海から湧き上がる、もっとも荘厳な日の出を演出する城山。ここで人々は、息を飲んでしまうほど美しい日の出に敬意を表する。海が

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城山ソプチコジ。海に突き出た岬で、済州海岸の絶景として最初にあげられる。

爆発した勢いで出現した山、城山は登ってみるより、すこし離れて見たほうが美しい。また空から見れば、その威容さが感じられる。 それなのに、この大胆な城山日出峰の海岸は、なぜ悲しい色の瞳になるのだろう。この島の真の姿が見たければ、この地の歴史の傷跡 も知らねばならないと思う。そうして初めて、どうして暖かい日差しのあたる春の日に、真っ黄色な菜の花の島が歓喜となるのか、どう してこの島の椿の花が溶岩よりも赤い光を帯びるのかが分かるはずだ。 済州島は数多くの狂風に遭遇した。それが、東北アジアの中心に位置した島の運命だったのだ。城山日出峰の海岸にぽんぽんと開いた洞 窟が見える。日本支配時代に作られた陣地洞窟だ。もちろん、その作業に動員されたのは無力な済州島人で、強制労役の生きた証拠である。 そして、今から62年前に、韓国現代史の大惨劇である「済州4・3(1948~1954)事件」が巻き起こった。日本支配から解放されたあと、韓 国の左翼と右翼の理念対立が招いた最たる悲劇ともいえる「4・3事件」は、1948年4月から翌年の冬にかけて残酷極まりない犠牲を生み出し た。漢拏山は、一時たくさんの避難民の隠れ場になった。島の絶景のほとんどが虐殺の場と化した。「済州4・3平和公園」は、その歴史を Koreana ı 夏号 2011

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© 済州特別自治道

平らな大地に聳え立った山房山。噴火口のない火山である(ユネスコ世界地質公園に登録)。

証明している。 松岳山への道も、そんな嵐のような風吹く道、歴史の道だ。今でも、野原の上に日本支配時代に作られた多くの格納庫が、丸く口を開 けて抱腹した姿が見える。4・3事件の辛い傷跡だらけのソダル・オルム。立ち止まってしばらく頭を垂れば、長い歳月の間、大自然の中に 閉じ込められた不毛の火山灰土の地で、苦しく辛い暮らしに耐えてきた島の人々の労働謡「イオドハラ」が聞こえてくるような気がする。 やがて、風の丘、松岳山に至る。草ですら眠ることができないといわれるここでは、兄弟島である加波島と馬羅島が見られる。もっと 原形質の島が見たければ、更に島に渡ることだ。済州島の中の島、つまり飛揚島や馬羅島、加波島、楸子島、牛島へと。 済州島の悲哀の歴史は、その昔独立国であった耽羅と朝鮮時代にまで遡る。済州島民にとってこの島は干からびた不毛の地だった。 時々海の境界を越えてくる倭寇の収奪に、貧しい家財道具さえ奪われてしまった島でもある。また、朝鮮王朝は、済州を配所として利 用した。死刑を免れた重罪人に対する最高の刑罰が済州流刑だった。しかし、済州の秀麗な風光は、流配者の絶対孤独を芸術に昇華させ

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城山日出峰(航空撮影)。平たい噴火口が島全体に散在する(ユネスコの世界自然遺産及び世界地質公園に登録)。

た。政争に巻き込まれ、済州島で9年以上の流配生活を強いられた朝鮮末期の学者、秋史金正喜がその好例である。 黄昏時は、オルムが再び暗闇の稜線に沈む時だ。松岳山を出て、遮帰島へ行った。ここの夕日は魅惑的だ。世界地質公園に登録された 最西端の高山里水月峰に立てば、「生きてきた道と生きていくべき道について、またあなたが失ったものは何であるか」と、夕日が問いか けてくる。 だから、もし癒されたければ、人生にインスピレーションを貰いたければ、全てを捨ててこの島に来ると良い。強烈なエネルギーを感 じるだろう。済州では、何処からでも水平線が、漢拏山が、オルムが視野に入る。くねくねと曲がりくねったオルレ道、サリョニ森道、 海道、石道…この道を歩いてみた人ならば分かるだろう。この国に済州島があることが、どれほど素晴らしい天の祝福であるかを。美と いう美のすべてがぎゅっと凝縮されたところ、南国の絶景である済州島は数々の風雨を乗り越えてきた歓喜と悲哀の地だ。隠れていても きらきら輝く黒い石の島。世界の人々から十分愛されるに値する島である。(翻訳:金禧貞) Koreana ı 夏号 2011

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特 集 ボックス

済州の昨今と 将来展望 ソウルから飛行機で1時間の距離にある大韓民国最南端の島、 済州島。この火山島は、原始自然の秘境と国際自由都市の面 貌を同時に見せてくれる。 チェ・ソンジャ(崔成子、ジャーナリスト)| 写真 : 徐憲康

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州島は、四季折々に彩を変え、潮の香りで人々を迎える。すが すがしく広がる海から風に乗った磯の香が島全体に広がり、そ

して、標高1950mの漢拏山の高い峰は何処からでも認めることができ る。 火山から流れ出た溶岩は、オルム(火山の噴出によってできた中小 の山体の総称)を形成し、野原を作り、海辺の模様を形成した。奇妙な 形の数々の岩は、想像力を引き出してくれる。島の人々は、それらの 石を集め、100万坪の敷地に〈石文化公園〉を作った。済州島の岩石に絡 んだ神話や伝説に関心のある人は、珍しい貴重な岩石の数々と岩石の 民芸品が展示されたこの公園に必ず立ち寄ることである。済州の至る 所で見られるほのぼのとした石垣とは一味違う魅力的な石文化が楽し める。 済州島は、東西75km、南北41kmの楕円形をした、韓国で一番大き い島である。東アジアの地図を見れば、韓半島を頂点として、中国と 日本を一直線で繋いだ三角形の底辺に位置する。四季ははっきりして いるが、真冬でも漢拏山の頂上を除けば氷点下を下回ることはほとん どない温帯気候である。漢拏山を中心として亜熱帯や温帯・寒帯の植物 が共存する植物の宝庫であり、蝶などの昆虫の天国でもある。8000種 に及ぶ動植物の棲息地でもある。黒潮海流と台湾暖流が色々な種を運 んでくる。アフリカで自生するハマユウが、この島の海辺に育つのも その由縁である。

オルレ・トレッキングコース 近頃の済州島では、オルレ道を歩く運動がブームとなっている。オ ルレは済州島の土俗語だ。オルレはもともと、荒々し風を防ぐために 大通りから家まで玄武岩の石を積み上げた穏やかな雰囲気の路地のこ とをいう。島の伝統的な藁葺家の門を出るとオルレに出くわした。隣 り合った者同士が人情を分かち合うという働きをするこの道が、今で は村と都市を繋ぐ道であると同時に、田畑を通り抜け海へと続く道と

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© 済州特別自治道


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© フェニックスアイルランド

1. 済州彫刻公園 2. 安藤忠雄のゲニウス・ロキ(Genius Loci) 、地下のメディアアート展示室 3.安藤忠雄のグラスハウス(Glass House) 、城山日出峰や海、広い草原が一望で きるように設計されている。


なった。オルレの道で、現代人は煩雑な日常から離れ、済州島の自然 に浸ることが出来る。 「済州は空気と水が汚染されていないのでいいです」。オルレ屋(オ ルレを歩く人のこと)たちは笑顔で語る。スペインの「サンチアゴへの 道」をモデルにして、ジャーナリストの ソ・ミョンスクさんがご自身の 故郷に作った道である。これまで18コースが設けられた全長15km以内 のオルレ道は、歩いて5~6時間かかる。海岸沿いの道をはじめ、横 町、山道、野道、オルムなどと結んでいるが、小さい島を回るコース もある。今年の11月には「済州オルレ世界トレッキング・フェスティバ ル」が開かれる。

休養と生態探訪 済州島は自然環境に恵まれた世界的な観光リゾート地である。済 州島の2大産業は、観光産業と水と風に代表される環境に配慮したグ リーン成長産業である。2010年にここを訪れた国内外の観光客数は、 750万人に上る。50万人ほどの島人口の15倍に達する数である。現在 は、約180ヶ国からビザ無しで済州に入ることができる。 島を訪れる外国人には、米国人やヨーロッパ人もいるが、近隣の中 国や日本からの観光客も多い。この頃は、飛行機で1時間半の北京や 上海からの中国観光客でにぎわう。済州のリゾートコンドミニアムや 土地を買い求める中国人もいる。 「米国人は、主に島の自然そのものを楽しみ海辺で日焼けをし、ド イツ人やフランス人は、火山島である済州の地質学的特性に関心を持 ち、探査や生態探訪をします。韓国人や中国人そして日本人は、あく までも済州の隅々まで秘境を探し回ります」。これは、済州観光公社の バク・ヨンス(朴瑛秀)社長が語った旅行客の特徴である。 観光客は、この小さい島に取り分け多い大小の博物館めぐりをする ことで、島の歴史や文化を理解できるようになる。例えば、〈済州道民 俗自然史博物館〉、〈国立済州博物館〉、〈海女博物館〉などがある。海女 の歴史や文化を展示している海女博物館を出て海辺に行けば、ムルジ

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ル(海に潜って海産物を獲ること)をしている海女たちに直接会うこと ができる。日本支配時代に日本軍が掘った2kmのタンクル(地下通路) は、〈戦争歴史博物館〉の一番の見所である。オランダ東インド会社の 船長として1653年に一行の36人と共に済州島に漂着し、1668年帰国し たハンドリック・ハメル(1630~1692)の記念館が船舶に設けられてい る。彼が記した『オランダ船済州島難破記』と『朝鮮国記』は、韓国の地

1. マリオ・ボッタ(Mario Botta) のアゴラ。ガラス張りのピラミッド型建築物であ る。 2. ノアの方舟をモチーフにした伊丹潤の方舟教会。 3. 済州のオルムと韓国伝統の藁葺家をモチーフにした屋根の曲線が特徴である 伊丹潤のブドウホテル。

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© ピンクスビオトピア


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© ピンクスビオトピア

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「済州に来るアメリカ人は、主に海辺で日焼けを楽しみ、ドイツ人やフランス人は 自然や生態の探査・探訪をします。韓国人や中国人、そして日本人は、済州の隅々 まで休まず秘境を探し回ります」

© ピンクスビオトピア


理・風俗・交易などをヨーロッパに紹介した最初の本である。

溶岩洞窟の子宮、「コムンオルム」 最近の旅行客は、自然遺産生態探訪を好むようだ。コムン(黒いと いう意味)オルム探訪に出てみた。コムンオルムは、火山が爆発したと き、溶岩噴出物が堆積し形成されたもので、茂った林が黒く見えるこ とから由来した名前である。平日は〈戦争歴史博物館〉の学芸室長を勤 め、週末は解説者としてコムンオルムの生態について案内をするボラ ンティアのホン・ソンピョ(洪性杓)さんは、「コムンオルム噴火口から 3

流れ出た溶岩が峡谷を伝って14㎞まで及びました。この溶岩によって、 萬丈窟•金寧窟•龍泉洞窟が誕生しました。コムンオルムは、済州の溶 岩洞窟の子宮です」と解説してくれた。この溶岩峡谷を覆っている火山

1. 伊丹潤のドゥソン地中美術館 2. 伊丹潤のドゥソン地中美術館の館内 3. キャサリン・スティーブンス駐韓米国大使と一緒にオルレ道を探訪し ているウ・クンミン済州道知事。 4. 草原に放牧された馬を背景に記念写真を撮る観光客。

岩は、湿気を沢山含んでいる。木々は、土の中ではなく、岩に根を下 ろして生きている。 「溶岩が演出した芸術作品」と評価されている萬丈窟は、長さ7.6km という世界最長の洞窟である。2005年、新しく不思議な洞窟が発見さ れた。道端の電信柱が地中に消えたおかげで、偶然龍泉洞窟が発見さ れた。そして洞窟の中の長さが約800mもある湖が長い眠りから覚め た。さらにその湖の中に、皮膚の中に退化した目を持つ魚が住んでい る。また、1400年前の炭や器破片も見つかり、人が暮らした痕跡もあ る。2007年、世界遺産登録のための調査が行われたとき、各国の地質 学者らがこの洞窟に非常に魅了されたという。

ミネラルウォーター・ビジネス 気孔の多い玄武岩層で出来た済州島には、水が少なかった。民俗自 然史博物館に展示されている素朴な美しさを持つ済州の素焼き土器「ホ ボク」は、泉の水を汲んで運んでいた島の女性たちの苦労を象徴してい る。 済州島の女性たちを苦労させた地下の水が、今日のミネラルウォー ター産業を興した重要な資源になっている。韓国人にフランスの水、 エビアンに匹敵するほど愛されている水は、岩盤水である〈済州三多 水〉である。ウ・クンミン(禹瑾敏)済州道知事は、コーヒーや紅茶の代 わりに三多水でお客さんをもてなす。三多水は、地下420mから汲み上 げれれる。漢拏山に降る雨水は、数十重の火山玄武岩層を通過し、取 水地点に到達するのに18年以上もかかる。三多水工場は、済州市にあ る。一日の取水量は2100トンで、米国食品医薬品局(FDA)と日本の厚 生省による水質検査にも合格し、米国・中国・日本・インドネシアなど に輸出されている。口当たりの爽やかな弱アルカリ性ミネラルウォー ターである。 ウ・クンミン知事は、この三多水を世界的なブランドに育成したい と強く語った。「済州のミネラルウォーターは、品質の面で世界最高の 4

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© 済州特別自治道

水準です。ミネラルウォーター産業のクラスターを作り、水による治 療センター、特産酒、機能性飲料、香粧品等に関連する企業を誘致し、 来年は済州産「白虎麦」を使ったプレミアム級の「済州ビール」を発売す る計画です」

国際自由都市 済州島では、静かな変化が起きている。258kmの海岸線には、花 のつぼみがほころび始めるかのように静かながらも確実な動きが見え 始めている。世界的な建築家が設計した建築物が、島の自然と調和 を図りながら所々に建っている。西帰浦市城山邑ソッチコジには、幾 何学的建築の大家であるマリオ・ボッタ(Mario Botta)によるアゴラ (Agora)、単純な美と機械的な美を表現する安藤忠雄によるゲニウス・ ロキ(Genius Loci)とグラスハウス(Glass House)がある。安徳面に は、伊丹潤による「石の美術館」 「 風の美術館」 「 方舟教会」 「 ブドウホテ ル」などがある。今年9月に開校する英語教育都市の「North London Collegiate School Jeju」も伊丹潤が建築統括を勤めた。 済州英語教育都市は、済州島が医療ヘルスケア事業と合わせて心 血を注いでいる事業である。西帰浦市大靜邑に2015年までに国際学校 12校、寄宿型英語教育センターなどを作り、人口2万3000人が暮らす ようにする計画である。イギリスの「North London Collegiate School Jeju」とカナダの「Branksome Hall Asia」 など3校の設立が確定した。 また済州島は、マイス(MICE)産業を育成し、済州島を世界25位の 国際会議都市へと跳躍させる準備を進めている。ウ・クンミン知事は、 「済州島では、2009年の韓・アセアン特別首脳会議や2010年の韓中日首 脳会議など約10回の首脳級会議が行われ、2010年は、147件の国際会議 が開かれました。さらに2012年は世界自然保護会議 (WCC)が開催され ます」と述べた。世界の環境専門家と政治指導者1万人余りが参加し、 世界環境をテーマに会議を行うという。 さらにウ・クンミン知事はこのように述べる。「グランドキャノンに 行けば、勇壮たる自然景観だけを見ることができ、タンザニアのキリ マンジェロは登山家だけが、その美しさを見ることができる。しかし、 済州島では、誰もが美しい自然の中で、独特の文化と人間味に触れる ことができ、島の人々の暮らしの中にも美しい自然を感じることが出 来ます」 道政スローガンである 「世界が訪れる済州、世界に広がる済州」 のよう に、済州島は世界に開かれた魅力に満ちた島である。 (翻訳:金禧貞)

1. 済州石文化公園。展示された様々な石は、済州島形成の歴史を物語る。 2. 徐福説話の起源地である正房の滝 3. 済州石文化公園で来訪客の視線を引くトルハルバンは、この島の代表的な民族像 である。

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1


© 済州特別自治道

「徐福伝説」と ブレーンアート瞑想 済州島には、秦の始皇帝(紀元前259~210)に関わる伝 説がある。秦の始皇帝に不老長寿薬を探してくるようにと 命じられた方士徐福は、神仙が住むという三神山のひとつ 2

である瀛洲山(漢拏山)を訪れたという。『史記』には徐福を 徐市と記してあるが、彼は、秦の始皇帝が同行を許した童 男童女の数千人と共に瀛洲山に登り、不老草を手に入れた という。そして、正房の滝を見てはそのあまりの美しさに 魅入られ、その近くの岸壁に徐市過此(徐市此処を通る)と いう文字を刻んで西の方に帰って行ったという。 現在の西帰浦の地名がこれに由来したという説もある。 正房の滝の西側の岸壁の上に2003年開館した「徐福展示 館」は、この説話に因んで建てられた。展示館の入口には、 中国の温家宝総理直筆の揮毫「徐福公園」の四文字が刻まれ た「泰山石」が立っている。 長寿に関わる伝説は今も受け継がれている。ブレーン アート瞑想がそれである。約10年前から、韓国脳科学研 究院のイ・スンホン院長が「無病長寿テーマパーク」で行っ ている瞑想旅行には、毎年米国・カナダ・日本・ドイツ・ロシ ア・香港などから3000人余りが参加する。 ブレーンアート瞑想では、韓国伝統の仙道鍛錬法とし て気体操と丹田呼吸、脳瞑想などを行う。自分自身を取り 戻し、心の治癒をすることを目指している。イ院長は、徐 福伝説を本当の出来事だと信じている。徐福が求めた不老 草についても、彼が済州に見た三無精神、即ち泥棒・門扉・ 乞食が無いことだとする。またウ・クンミン済州道知事は、 私見と断ってこのように述べた。「徐福が掘り出した不老 草は、済州島に自生する[黄漆の木(チョウセンカクレミ ノ)]です」と。つまり黄漆の木は、老化防止の薬理効果が あるということである。済州島では、正房の滝に刻まれた という文字を確認するため、今年の下半期に3D映像カメ ラなどを利用して高さ23メートル、幅10余メートルの絶 壁を調査することにしている。

3


特 集 シャーマンの儀式

1. 両手に神刀を持ち、踊りながらクッを執り行う神房金允洙氏。 2. 焼紙の儀式を行う海女たち

1


済州島の チルモリダン・ ヨンドゥンクッ

2

風を司る神が西風に乗って、しばらく済州島に立ち寄った。ムルジル(海産物採取)を生業とする島人 たちが集まり、「海畑に種をたくさん蒔いてくださる」ことをお祈りした。この海神の儀礼の現場を取 材した。 キム・ユキョン(金裕卿、フリージャーナリスト)| 写真 : 安洪范

暦2月(新暦ではだいたい2月末~3月中旬)、周囲をぐる

そしてハルマンが更に一泊をするという小島(牛島)でのクッまで、

りと海に囲まれた済州島の天気は、それでなくても強い風

3度の儀礼を行う。

雨にくわえ、気まぐれな寒さが厳しさを増す。済州島ではこの時

ヨンドゥンハルマンがやってくる旧暦2月1日のクッは、通常

期が、風神を象徴するヨンドゥンハルマン(霊登婆様)が訪れるヨ

水協魚販場のビル内で簡素に行われる。15日後の2月14日に行わ

ンドゥンの月だといわれる。海で操業する船、海女のムルジル、

れるチルモリダン・ヨンドゥン送別クッには、もっとも盛大な祭り

引越し、家の修理、内装、旅行などの日常生活や生業活動さえ、

で、当事者の海女や船主ら、住民など大勢の人々が参加する。小

慣習的に控える期間となる。

島での最後のクッは、船の出入りが困難なことが多いため、小島 で独自に行われる。

ユネスコ登録世界無形文化遺産 済州市の東にある紗羅峰の丘にチルモリダン(堂)がある。済州

聖と俗とが共存するクッパン

島各地にある巫俗神のための堂の中の一つである。済州市東北側

2011年3月18日午前9時、海松が鬱蒼と茂った紗羅峰チルモリ

の海岸村にある健入洞の住民の無事と安寧を司るヨンドゥン大王

ダンの野外広場でヨンドゥン送別クッが始まった。空中には五色

など全部で6神位を岩石に刻んで祭ってある。元々チルモリダン

の帯が長く張られ、堂旗と椿や竹の葉で飾られたウォルドッキ(大

は、村の先の波止場にあった。道路が作られ現在の位置に移され

きなクッパンに神を迎えるために立てる10m位の笹竹)、東西南北

たときに、他の付属品は無くなり、位牌石の3点だけが紗羅峰公

を示す旗と祭壇の五色の帯紙飾りが風にはためいていた。チャン

園に並んで置かれた。

グ、銅鑼、そして済州の巫俗楽器ソルスェ(篩の上に俯かせて叩

海を生業の場としている済州島民にとって、風は命と収穫を

く、鉦に似たもの)が一斉に音を立てクッの始まりを告げた。

左右するだけに、海辺の村のあちこちでは随時安全と豊饒を祈る

巫俗チャンダン(リズム)にあわせて、紅色の礼服姿の、孔雀の

クッ(儀礼)が行われる。その代表的なクッである「チルモリダン・

羽を挿した黒い冠をかぶったムダン(巫)キム・ユンス(金允洙、ヨ

ヨンドゥンクッ」は1980年、国家指定重要無形文化財になり、2009

ンドゥンクッ技芸保有者)が、踊りと誦文で儀礼を執り始めた。会

年ユネスコに「世界無形文化遺産」として登録された。一年を通し

場には、金氏をはじめイ・ヨンオク(李龍玉)とヨンドゥンクッ保存

て、ヨンドゥンハルマンを迎える歓迎のクッと送る送別のクッ、

会の男女22人が演奏とクッの指揮を執った。その多くは、代々引

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1

き継いだ世襲ムダンだった。

クッの順序と意味

位牌石との間に立てられた屏風の前には、海女や船主ら、村の

「クッは、神様が位牌として納められている櫃を開けるこ

住民が持ち寄った30余りの大小の御膳が並んだ。通常の祭祀の膳

とから始まります。門扉を開けて初めて出入りが可能になる

と同じだけど、ヨンドゥンクッに欠かせない供物として、お米で

からです。門扉を開ける踊り、門扉を見回る踊りがあります。

こしらえた丸くて平べったいトルベ餅、ゆで卵、竜王に供える白

神様にクッの場にご参加を御願い申し上げ、門扉を通り抜けた

紙にご飯を包んだチドゥリム、そして済州沖の産物であるアワビ

神様を確認し、『どうぞこちらにお座りくださいませ』とご着席を

やサザエ、タコがそのまま置かれていた。

お願いするわけです。クッの来歴を報告し、まれびと神であるヨ

白いチマチョゴリの海女や船主の家族らが重要な参加者と して杯を奉げ、跪き深々とお辞儀をした。「蝋燭の火が風に消

ンドゥンハルマンを迎えいれ、ご馳走と歌と踊りで手厚くもてな 2

します。そして、皆の安全や豊漁を願うとともに、厄は背負って

えず、上がってくる」と誰かがささやいた。ムダンが福を祈ってく

帰っていただくことをお願いするわけです」と無形文化財であるヨ

れる常連客の名簿が、白い紙に「レミコン会社の某…」と書かれた

ンドゥンクッ技芸保有者のキム・ユンス巫は説明した。「この世で

ものから一家全員の名前を連ねたものまで高く積まれていた。

も重要な国賓を迎えてもてなすのと同じ儀典です。駆け引きや交

空中に掛けた紐に複数の神々の名前が記された紙を吊しておく

渉もしますし」

ことで、神々の御座を知らしめた。その前方に、この日の行事に

クッの重要な要素である踊りは、鉄棒に細長く白い帯紙の束を

祝儀を出した人々の名前も一緒に吊るされた。文化財庁の名前が

つけた神刀と竹、香炉、杯等を持ち、クッパンの会場を踊り回わ

最初に挙がり、次いで道知事等の官僚、水協・漁村係り、高麗号・

るのである。チャンダン(リズム)が息が切れるほど速くなる節目

南海号等の船、海女、海産物会社、住民、事業家、村の団楽酒店、

では、キム巫の足さばきも非常に速くなった。クッを見物をして

舞踊団、出版社、プンアッペ(韓国伝統音楽演奏者群)、演劇団体

いたキム・チョンジャ(金貞子)さんは、それには慣れているような

等の名前がクッの間中吊るされていた。1万ウォン札が数枚も名前

評価をした。「金神房(ムダンに対する済州島語)の踊りは、動作が

の下にぶら下がっていた。クッパン(祭の会場)は、聖と俗の絶妙

大きくはないけど足さばきが速く、軽やかで和やかです。歌声が

な調和を奏でていた。神々の集まる神聖なところでありながら、

すごく良いですね」。実は、キム・ユンスは1990年全国民俗競演大

お金の実体が覗かれ、また真剣さと楽しさがあった。持参した布

会のとき250名が出場する中で、済州島ソウジェッソリの歌と踊り

製の座布団に座り、長時間まじめにクッを見つめる日本人も多数

を演出し、大統領賞を受賞した。済州島には全部で76種のクッが

居合わせた。その一人が、「どうか日本が沈没しないようにお祈り

あるが、彼はその全てのクッの踊りと儀礼と歌(誦文)を覚えたと

します」と言った。

いわれ、最長14日間も続く神房のネリムクッ(降神祭)も進行する

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韓国の文化と芸術


1. 白い仮面をかぶり、松明を持ったヨンカム。 2. 風に靡く堂旗 3. ヨンカムノリ(令監遊び)の一場面

3

という。 チルモリダンの本鄕神(主神)である都元帥を迎え入れるときは、

背負って帰るという、世俗的な性格のヨンガムノリが登場します」 長い時で30~40分も歌い続ける済州島の巫歌では、宇宙の成り

勇猛な将軍神の本質を表わすため矢射るポーズをとっていた。見

立ちから韓国の古代史、済州の近現代史まですらすら暗誦する。

えない矢と矢筒が揺れないように腕から背中へ布をまわして固定

神話的な人物である大別王や小別王、三別抄のキム・トンジョン

し、酒瓶を手に踊るときは、激情と殺伐とした雰囲気が同時に感

(金通精)将軍をはじめ、6.25 戦争や1970年の大惨事であった旅客

じられた。 都元首神との接し方を聞いたら、金神房は次のように答えた。 「都元首の後に続く3千の兵卒に酒瓶を投げかけ、『これ飲んで退 け』と言うのです。この時は、神が降臨するので雑念を無くして取

船南営号の沈没まで次々と登場する誦文は、叙事文学のようにも 思われた。済州島の土俗語なので聞き分けが難しいけど、「この子 孫のこと、どうか無病息災をお願いします」や、漁業での安全を繰 り返しお願いする切実な誦文は、自ずと分かった。 クッのパフォーマンスは神気の 篭った真剣さの中にもユーモアも

「まれびと神を迎え入れ、祭祀の御膳と歌と踊りで手厚くもてなし

ある。海女や船主らが焼紙を行っ

ます。現世で重要な国賓を迎えてもてなすのと同じ儀典です。駆け

ている最中に、「あのな~、髪の

引きや交渉もしますし…」

毛に火、点かないようにせんとあ かんからな!」と神房が叫んだ。 神と疎通しながらこのように現実 とも直通するところが、韓国巫俗

り組みます」。

の特色である。神房のイ・ヨンオク氏がこう述べた。

「『今年豊漁にしてくださるのか』とたずねたら、『昨年より海

「大勢の神様が前からも横からも見られているので、精神を集中

での収穫などはましだろう』と仰るのです。暖かいから薄着をし

し、礼を尽くして深々とお辞儀をすると、肩にスッとかかる神様

てきたとも言い、ハルマンが娘を連れてくると暖かくなるそうで

の重みが実感できます。何度も占いをし漁業の成否を確認します

す。海に魚の種を蒔き、竜王道を丹念に作り、その道を通って穏

が、昔の銅貨と杯を投げて、落ちてきた模様を見てよく判断しな

やかにご退場されるように手際よく進行させます。その間にソウ

ければいけないのです」

ジェッソリを2度歌います。済州島の人々は、この歌を働くとき

どの魚が豊漁になるのか、気をつけなさいという卦がでないか

も遊ぶときも疲れたときも歌います。そして最後に、全ての厄を

と、参加者たちは緊張して見つめていた。人間の力を超える自然

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1. 厄を乗せ海へ流すための藁舟。 2. 杯の酒で濡らした竹の葉で撒清め、神の入ってくる道 を浄化する。 3. 堂神である都元首将軍を迎える儀式。神房が腕を縛り 矢を射る動作で踊り、手に持った酒瓶を投げ、将軍神に ついてきた兵士を退かせる。

1

の威力を、文学や芸術・宗教の力を頼りに敬い畏れ

豚肉を入れたヌードルを出した。

ながら治める現場なのだ。しかし、クッはかなり減っ

ヨンガムたちは、白い仮面にぼろぼろのペレンイ

ているのが現状である。 「昔は、船主はみんな皆済州島人で、海女も大勢いたから、

(笠)と黒いトゥルマギ(外套)を着た身なりに、松明とキセ 2

ルを手に持って四方から飛び出てきた。楽しい仮面劇ととも

もっとご馳走があり御膳も調っていたんです。今や海女の数も減

にソウジェッソリを歌いながら踊った。そして藁舟に供物が載せ

り、船主らは陸の人に代わりました。それでもクッが文化財に登

られた。白いご飯に鯛やトルベ餅、わかめ、バッカス(強壮剤のブ

録されてからは、皆がとても気楽に受けとめているのが分かりま

ランド名)、飴、奉げていたテジモリまで。午後6時、それぞれ三

す。なんとしてでもこれを保存していくのに最善を尽くしたいと

隻の船に分乗し、西埠頭から沖へ向かった。ある地点で藁舟を海

思います」

に投げ落とした。五色の布帯で飾られた複数の藁舟は、ひとつも 倒れることなくずっと波間に乗って流されていった。これで貪欲

厄を乗せた藁舟を送る

な鬼たちや全ての厄が去ってしまった!

「人情を貰う」というパフォーマンスもあった。籠にそれとなく 観覧料として若干のお金を頂くものだが、これがまた誰にどう言 葉を掛けどのような反応が返ってくるかを見る面白い場となった。 「なるほど、学生だから千ウォンしかないってわけか、よーし。カ メラのおっさん、人情を掛けないと写真が真っ黒になるよ」。外国 人には「ハロー?オッケー!」の2つの単語で全て通じていた。 厄払いをするヨンガムノリは、一本のマダングッ(共同劇)で あった。ソウルの南山谷に住む許丞相の7人の息子がヨンガム

「堂神がどんどん消えていきます」 「済州島で巫俗を理解せずして文化云々するのは、堂々巡りでし かありません」 済州島の巫俗資料を集め23冊の本を出し、また済州島一帯の堂 に祭られていた143ほどの神像が開発ブームによって捨てられたの を拾い集め、民俗博物館を運営しているチン・ソンギ(秦聖麒)館長 はこのように言った。「この堂神がどんどん消えていきます」と。

ノリの鬼たちになったのだが、ならず者の末っ子が漢拏山を受け

火山石で作られた神像の数々をよく見ると、チルモリダンの都

持っていたが、病気や風浪を起こすので、他の兄弟がやってきて

元首神像、独眼のヨンドゥン大王神像もあった。これら神像に関

彼を永久に連れ去ってしまうという内容である。

わる物語だけでも、済州島の歴史や風習から出来上がった長編の

「この時、藁で作った小船にあらゆる供物を載せ、ヨンガムと一

叙事詩が展開されるような思いがした。それぞれの神像が、名前

緒に海に浮かべて流します。ヨンガムたちは豚肉やお酒が好きな

と行跡に相応しい表情をしていた。「近頃は、韓国人の表情を研究

ので、必ずこれを供物にします」。

する画家や美術家、映画監督らが見に来るんです」と、済州巫俗の

今年はテジモリ(豚の頭)2つを奉げ、見物する人々に煮込んだ

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守り手ともいえる秦館長は語った。(翻訳:金禧貞) 韓国の文化と芸術


3


特 集 海女の宿命 っ黄色に波打つ菜の花や石垣の向うに、真っ青な海がゆら

媒介者の役割をする。また生産のためなら進んで身を投げ、自主

ゆらと揺れる。ただフクベだけを頼りに年老いた海女や若

性且つ独立性に富み、どんどん自らの人生を開拓する。自我意識

い海女が、自由気ままに海に入ったり出たりする。懐に海を抱く

が強く進取的なので、男の前でも控えめになったり恥ずかしがっ

女丈夫たちである。彼女らの生と死は、その海にある。「その海の

たりせず、主体的に夫を選び、優れた瞬間対応力、勇猛と知恵を

深さを察して一尋、二尋と潜っていけば、あの世が近づいたり遠

持って集団を危機から救う。

のいたり…」、彼女らこそ済州島の生きた女神ではないだろうか。

済州島の創造神話に登場する女神、ソルムンデハルマンは、済 州島の創造神であり済州島の母でもあります。彼女は、その巨躯

神話の中の済州の女たち

に誰も想像できないほどの広い心で、太平洋に向かって門戸を開

済州の神話と伝承巫歌には、活発で積極的な女主人公たちが多

いた女神だ。この巨女が、漢拿山を枕にし横になれば、片足が済

く登場する。彼女らは、島の外の世界と島国済州との疎通を図る

州島沖の冠脱島にかかるくらいだったそうだ。また彼女はとても

済州の女たちの強靭な生き方 塩気に晒され老いたススキが白い髪を風になびかせている。海面では黒い水かきが現れたり消えたり する。ホーイホーイと、海女のスンビソリ(潜水直後の吐息が口笛のように聞こえる音)が聞こえる。 その音は、風になり舞い上がる。 ホ・ヨンソン(許榮善、詩人)| 写真 : ブレンダ・ペク・ソヌ, 徐在哲

1. 済州の海女の生き方を写真に納めた在米僑胞フォトジャーナリスト、ブ レンダ・ペク・ソヌ氏の写真集『潮時-済州の海のお婆さんたち(原題:Moon Tide-Jeju Island Grannies of the Sea) 』のワンカット。 2. 並んでムルジル(海産物採り)に出る海女たち。 3. 海に飛び込む海女たち。手に持っているのは、海産物採りで海中から水 面に浮いたとき、位置の目印となる道具「テワク」と 海産物を入れる「マンサリ」である。

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2


母性愛の強い母で、500人の息子たちに食べさせるお粥を炊いて

で助かった」という話を聞きながら育つ。マンドックハルマン(婆)

いたが、その釜の中に落ちて死んでしまう。更に彼女は、島と陸

は、1794年に済州島が凶作に見舞われた際に、自分の全財産を投

を繋ぐという大胆な夢を持っていた。ソルムンデハルマンがチマ

げ打ってお米を買い上げ、1100人の島民の命を救った。やがてそ

チョゴリで運んでいた土がこぼれ落ちたのが、済州島に360を越え

の善行を伝え聞いた当時の正祖王から「念願をかなえてあげよう」

るオルムを作ったと伝わる。

と言われた金万徳は、金剛山を見物したいと申し上げた。そうし て彼女は、済州島民としては初めて陸地に上り金剛山を見物し、 それまでの200年間守らたれてきた、済州島民に対する出陸禁止令

女性巨商、金万徳 この島の女神たちと同じように、済州島の女性には自ら自分の

を破った最初の済州人女性になった。

運命を開拓していくという自主性と強靭な血が流れている。中央 王朝の収奪に喘ぎながら、不毛の自然環境の中で済州島の女たち

海女のリャンさん

は、スーパーウーマンとしての生き方を余儀なくされた。

出陸禁止令の歴史を遡って見よう。朝鮮時代初期から済州島の

済州島の最初の女性経済人、キム・マンドック(金万徳、1739~

男性は、重すぎる軍役に動員され、上納品を調達する為に海へ向

1812)は、済州島の女神の特性である自主性と独立性に富み、利他

かった。島の防御作業に動員されたり、王朝に奉げる上納品(蜜

的行動を実践する女性だった。彼女は12歳で親を亡くし、一人で

柑や馬、アワビなど)を獲るために死ぬほどの苦難を強いられた。

生き延びる術を身につければならなかった。芸者の身分を抜け出

挙句の果てに苦役を逃れようと、島を脱出し陸に移り渡る流民が

し、経済感覚を身につけていく。あらゆる悪条件にも屈せず、流

増えた。すると朝鮮王朝は出陸禁止令(1629年)を発し、軍役に女

通業に成功し富を築いた後、助け合いの精神・寄付文化の精神を実

性も動員し始めた。このようにして、男性鮑作干(済州の海民)が

践した。

担っていたアワビ採取の仕事も、17世紀以降は海女の仕事になっ

済州島の人々は、子供のときから「マンドック婆ちゃんのお蔭

た。海女の獲ったアワビは、ただただ進呈品もしくは官衙への上

3


納品になった。 それ以来、海は済州島の女性の生存そのものになり、夢になり、

政樹監督のドキュメンタリー映画「海女のリャンさん」にそれを垣 間見ることができる。この映画の主人公である済州の海女リャン・

全てになった。「素人潜水」から始めて、潜水力の優れた「上級潜

イホン(梁義憲)さんは、20歳代にムルジルのため日本と済州を行

水」海女になるまで、パダノンサ(海の生業)を営み続けた。生計を

き来していたが、結婚とともに日本に落ち着く。悲しい思いをし

立てるために険しい海に命がけで飛び込むこともあれば、出産後

ながら外国の荒海でムルジルをして家族を養った彼女は今年で96

三日も経つか経たないうちに海に身を投げ入れることもあった。

歳、現在大阪の生野区に住んでいる。7人の子供を育てたが、そ

故郷の沖合いでムルジル(海産物取り)を覚えた子供の海女は、

の中には1960年代に北朝鮮へ渡った息子たちもいる。彼女はその

大きくなれば生計をたてるために「出向ムルジル」に発った。九龍

息子たちに会いに、20回以上も北朝鮮に行った。短い再会に長い

浦や淸津港をはじめ、対馬、台湾、中国のチンタオ(青島)、ソ連

離別。済州の海に育ち、離散の辛さを胸に抱いて生きているこの

のウラジオストクまで、東アジア全域の海を舞台に潜りまわった。

お母さんは、明けても暮れても国の統一ばかりを考えている。

1920年代に 出向ムルジルとして日本に渡った済州の海女たち

80歳になるまでムルジルをしたリャンさんの目には、海のアワ

は、日本の地に彼女らだけのネットワークを作り上げた。この海

ビやサザエ、ワカメの在り処がありありと浮かぶ。済州島の故郷・

女たちの人生には、平坦ではない近現代史が刻まれている。原村

東福里、そして鹿児島や対馬、愛媛、三重など日本の列島を潜り

神話の中のソルムンデハルマンは、島と陸を繋ぐという夢を持った大胆な想像力の持ち主で あった。彼女が橋作りのためにチマチョゴリに入れて運んでいた土がこぼれ落ちて、済州島に 360を越えるオルム(側火山)を形成したといわれる。

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まわった往年の上級海女だから。

海女の延人数は1万7千人。

1952年から独島(日本の竹島)までムルジルに行っていた海女も

日本強制占領時代の36年間で女性による抗日闘争はかつてな

いた。「牛の大きさほどのオットセイの群れが岩肌に横になった

かった。それは韓国で最大規模な漁民闘争でした。済州海女博物

り、海に入ったりしていたの。そこで赤ちゃんオットセイを抱い

館には、その彼女らの生き方が歴史として展示されている。

て戯れたこともあるの」という済州島の海女たち。「カモメの卵を

済州島を荒廃させた大小の蜂起の中で、済州島の女性は数々の

食べ過ぎ、たぶんカモメの数が減ったに違いない、またアワビが

受難に見舞われた。彼女らの悲劇は、「済州4・3事件(1948~1954)」

ありふれていて、俯けになったり仰向けになったりして食べてい

で絶頂に達する。4・3事件は、済州島という共同体を一瞬にして破

た」という彼女たち。ただワカメだけがお金になった時代に、済州

壊してしまった。この事件により、彼女らは子供の命を奪われる

の海女たちは毎年数ヶ月も独島にムルジルに出ていた。独島は当

など、とうてい言葉で言い表せない苦しみに苛まれる。このとき

然のことながら、古くから自分たちの畑であり厳然たる我らの地

に、人生の全てをまるごと奪われても「サランシミン(生きれば)サ

なのに、今更日本との領土紛争はなんということか、というのが

ラジンダ(なんとか生きのびれる)」という一念で、済州島の女性は

彼女らの話だ。

野の花のように生き残った。荒々しい済州島の風を乗り越えてき た彼女らは、強健且つ威風堂々たる存在だ。

抵抗精神

人生の艱難辛苦を嘗め尽くし、とことんすり減らされたが、気

済州の海女たちに潜む内なる強靭さは、日本強制占領時代に火

品ある古い榎木のように豊かに枝を伸ばした彼女らは、もはやお

が点された。1931年から2年間にかけて北済州郡舊左邑の不当な

婆さんになった。五日市や道端の露店で、或いは海や野原で出会

労動力搾取に対して、屈服することができなかった彼女たちは戦

う素朴な済州島のお婆さんたち、彼女たちからは神話の女神のよ

いを続けた。生存権のために戦い始めたが、抵抗精神無しではあ

うな気高さが伝わってくる。(翻訳:金禧貞)

れほど長い戦いは続けられなかったはずだ。済州島全域で戦った

1. 海が仕事場である済州の海女は、ムルテ(いい潮 時)以外は、畑仕事もする。 2. ムルジルからの帰り道、海女たちの背後に城山日 出峰が見える。

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特 集 馬の飼育

済州馬を求めて 海抜200~600メートルにある済州島中山間を通るときに見られる、牧草地に群がって牧草を食べる馬は済州島の 象徴である。火山島の土質に適した豊富な草資源と猛獣のいない温暖気候は、済州島に牧畜場としての恩恵をも たらした。 キム・ユキョン(金裕卿、フリージャーナリスト)| 写真 : 徐在哲, 安洪范

州島には体躯は小さいが強靭な済州馬(チョランマルとも言

ともと蒙古出身の「牧胡」が「馬を明朝に渡すまい」と反乱を起こし、

う)と競走馬として世界的に知られるサラブレッド、そして

済州島の官吏数百人を殺害した。結局、1374年チェ・ヨン(崔瑩)将

両方の混血であるハンラマ(漢拏馬)の三種類の馬がある。昔のよ

軍が大軍を率いてきて、彼らの鎮圧に成功した。

うに軍用・運送用・農耕用には使われず、競馬・乗馬・食用として飼

西帰浦のウェドルゲという岩島の近くを通り過ぎる際に、この

育されていて、馬の関連産業も進められている。韓国国立畜産科

岩島がチェ・ヨン将軍の威厳を示す陣地の役割を果たしたという話

学院のイ・ジョンオン(李種彦)博士は、「全国の27,000~28,000 頭

を思い出した。朝鮮王朝の建国者イ・ソンゲ(李成桂)と対蹠の対場

の内、9割が済州島で生産された馬で、その内の7割が済州島で飼

にあったチェ将軍の事跡を、済州馬に因んだここ美しい岩島ウェ

育されています」と語った。

ドルゲの近くのオルレ道で眺めることができた。李成桂が乗って いた8頭の馬の中にも済州馬があったという。李成桂は、「馬に

済州馬の起源 扶餘と高句麗の名馬は早くから知られていたが、済州の馬につ

乗ったまま絶壁を駆け下りる」というほど乗馬に長けた武人であっ たと書いてある文を読んだことがある。

いては1073年、「高麗文宗に名馬を送った」との記録が最初だ。し かし、高麗時代に三別抄が済州島で対蒙古抗争によって討伐され てからは、モンゴル帝国によって軍馬を育てるための直営牧馬場 が済州島に設置され、歴史の流れは一変する。

馬に関する重要な諸記録 済州島の牧場は朝鮮王朝時代に、大きく10の牧場に区分され た。世宗大王の代には、馬が区域を超えて逃げないように、漢拏

「1276年に大宛馬160頭と蒙古人馬飼育専門家である牧胡が大勢

山の周囲を200キロメートルに渡って石垣「チャッソン」が築造さ

入ってきましたが、これが後の朝鮮時代の牧場仕組みに引き継が

れ、馬の絶対数を確保するために馬肉を食べることも禁止された。

れます。三姓穴(済州島の三氏の始祖が湧き出たという三穴)時代

また済州島では、ソウル(当時は漢陽)の王朝や済州牧使等の役

の在来馬は消滅したと見られ、大宛馬が済州島の険しい環境に適

所に毎年、更に3年ごとに馬300頭以上を献上した。王朝では、馬

応し、やがて体躯は小さいが持久力の高い今日の済州馬になった

の状態が良好でなければ関係者を免職するという重罰を課してい

というわけです。今、我が国の固有資源である済州馬の長所を活

たため、済州に赴任した役人はどんな手を使ってでもとにかく優

かした、特別な乗用馬を育成する研究を進めています」

れた馬を選んで進上しようとした。

大宛馬とは、中央アジアのフェルガナ(大宛国;ウズベキスタン

馬を所有することは特権であったらしく、洪家の先祖の一人が

共和国東部の都市)地方の名馬で、一日に千里を走り、血の汗を流

「いつもは賄賂を貰わないのに、馬一頭の誘惑に負け、結局免職さ

したと伝わる。そしてこの馬の存在を知りえた漢武帝(紀元前157 ~87年)が大宛国を攻略し、凄まじい戦闘の末、種馬を奪い取り 中国で育てるようになった。一方、済州島で育てられた大宛馬は、 1276年から100年間蒙古 (元)へ差し出した。 高麗末期の恭愍王時代に済州島は高麗に還属され、「親明朝」政 策の下、馬の管理を高麗が直接行うことになる。そうすると、も

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れた」ことを、その子孫が話してくれた。 歴史上済州島にもっとも馬の多かった時期は高麗末期~朝鮮初 期にかけて、約2万頭が放牧されていた。 肅宗28年(1702年)に済州牧使を務めたイ・ヒョンサン(李衡祥) の著書『耽羅巡歴図』には、当時の済州島に国の所有馬9,372頭、牛 703頭とあり、人口は43,515人だったと記されている。 韓国の文化と芸術



「全国の27,000~28,000頭の内、9割が済州島で生産された馬で、 その内の7割が済州島で飼育されています」

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© 済州特別自治道

1. 漢・縁側山中山間で跳ね回る済州馬 2. 画家李明福氏の済州馬(キャンバスにアクリル画) 3. ご自身の牧場で飼育する馬に乗る、マルテウリ金完寶氏

2

3


火山石で積み上げられたチャッソン

鉉、55)さんとキム・ワンボ(金完寶、59)さんのお二人に会った。

自動車の登場以来、馬の伝統的な用途は廃止された。純血の済

「(蒙古以来の)在来種の済州馬と、外来種のサラブレッドは育て

州馬は、1984年には1,000頭を下回ったが、1986年に血統の正しい

方も違いますよ。済州馬は、強靭だから雪が積もった原野に放っ

数十頭が天然記念物に指定された。2011年現在、済州道庁の集計

ておいても餌を探し出して食える んですが、スピードはサラブ

によると、済州馬が1,392頭(血統登録された純血馬は200頭)、サ

レッドの半分しか出せないんです。しかし、サラブレッドは速い

ラブレッドが4,179頭、ハンラマが16,692頭と全部で22,223頭にな

反面、無知なせいか餌もろくに探せず、一日三食面倒見なければ

る。島内の1,157農家で飼育され、毎年1,000頭が屠殺される。馬産

いけないんです。蹄も弱く虚弱な体質だから扱いにくいけど、競

業は、現代人のレジャーである競馬・乗馬と食用、そして馬油石鹸

馬の収入を考えて育てています」とお二人は話を続く。

などの加工産業に変わった。また競馬場は、済州馬を蘇生させた

「近来は、馬引きをしてやたらに草地に放牧するよりも、車に馬

特効処方でもある。血統登録を証明するチップが埋め込まれた済

に与える水や餌を乗せ、山の各自の牧場を往来します。保護すべ

州馬は、毎年80~90頭が生産され、競馬用として訓練される。

き済州島自生植物が多くあるコッザワル(溶岩上に形成された植物

長い年月にわたって済州島に形成された牧畜文化の痕跡を、中 山間のチャッソン(石垣)に見ることができる。火山石を幅1メー

生態地域)一帯では放牧が禁止されていますので」。その間、馬た ちは飼い主の車の音を聞き分け、頭をもたげて待っていた。

トル、高さ1.5メートルに積みあげて出来たチャッソンは、牧馬場

「私は乗馬が特技で、代々に乗馬用の才馬を育てています。走る

の境界を示しているが、村ごとに積み方も形も異なる。山奥にも

途中でもブレーキがかかったように足を揃えてあげたり、歩いた

チャッソンの名残がありユネスコ世界自然遺産に登録されたコム

りできるようにした品種なので、これが自慢ですね。済州馬とサ

ンオルムにも、崩れ落ちた石垣の址が見られるが、探訪案内人が

ラブレッドの長所と短所を半分ずつ持ち合わせた交雑馬です。馬

チャッソン址だと説明してくれた。

の方が牛より賢いです。雷がな り稲妻が光ると、木下を出て平地

さて、蒙古人の牧胡らは朝鮮の良民に編入された。‘済州の牧畜

に向かい、風雨が吹きそうになると先に森に入っていきます。馬

儀礼’を研究したジャ・ドンリョル(左東烈)氏は、「うちの先祖は、

を見れば天気が分かりますね」と金完寶さんの馬の話は尽きない。

もともと済州島に入島した馬の監督官兼医師だった」と言った。

雨が降りぴちゃぴちゃと音を立てる牧場で、馬たちはのんびり

ジャ氏は、筆者に済州KALホテルのロータリー付近にある馬祖壇

とした動作で、全く動じる様子がない。お二人は、事もなげに馬

址に立ち寄ることを薦めてくれた。済州島は28の星座のうち馬に

と一緒に雨に打たれながら、馬の背中をかいてあげたり、また皆

関連する房星(さそり座の頭部の四星より成る)が照らすのは東南

そろっているかを点呼をとった。そして、「済州島全域に伝統的な

向きだということで、馬の繁殖を祈願する祭祀を行ったという馬

マルテウリは数人しか残っていません。馬に対する細やかな情愛

祖壇址に該当する丘には、その標石が立っているだけだった。

を持っているマルテウリは僕たちだけです」と誇らしげに言い放っ た。

最後のマルテウリ(horse driver)

人間と呼吸を合わせて動く唯一の動物である馬。済州島のアー

実際に伝統牧畜技術を伝受し、馬を飼育しながら馬と密着して

ティストたちが、取り分け馬の絵をたくさん描き、馬の彫刻をた

生きる牧畜専門家のことを「マルテウリ」と呼ぶ。済州教育庁のパ

くさん彫り、馬の写真をたくさん撮るのも、馬への愛情が他より

ク・ジェヒョン室長が著した子供の本『最後のマルテウリ』は、今年

も厚いからに違いない。済州島が好きで奥さんと一緒に済州島に

82歳になるマルテウリ、コ・テオ(高泰五)さんの馬一筋の人生を取

引っ越してきて、翰林邑楮旨文化芸術人村にギャラリー・ノリを開

り上げた本だ。

いた画家イ・ミョンボク(李明福))さんの『済州馬』は、手なずけら

「昔は、全戸が馬を育てていたから、村で決めた順番が回ってき た人が、村中の馬を山のちょうど良い草地に連れていき、草を食

れない鼻息の荒い人の肖像画のような感じがした。彼は、馬の絵 展示会の企画を進めている。

べさせたりして、面倒を見ました。その馬の世話を専門にする人

競馬場には、馬がたてがみをたなびかせながら全力疾走するス

がマルテウリで、他の人はただ自分の順番のときだけ馬の世話を

リルがある。一度そのように走りぬいた馬は、15日間以上休ませな

するのです」

ければならない。近頃、モンゴリアンたちはが改めて馬を連れて

高泰五爺さんが歌う馬引きの歌は、口音というべきか歌という

済州島にきている。この度は、50頭余りの馬に乗り最高の騎馬術を

べきか、馬と会話をするスピリチュアル・メロディーだった。また

披露する野外劇場が舞台になる。ところで何故か、彼らの乗る馬

翰京面楮旨里で牧馬場を営んでいるというコ・キョンヒョン(高景

は済州産の「漢拏馬」なのだ。(翻訳:金禧貞)

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特 集 食べる楽しさ 1. アラの刺身。アラの胴体を三等分し中央部を捌いた刺 身(右写真)と、ビンタ・エンガワ(背鰭と腹鰭の付け根)、 軽く火を通した唇と首の身、肝臓や胃腸などによるスペ シャル料理(左写真)。 2. 焼きアマダイ 3. アワビのチム(煮物) 4. 味付け焼き馬肉

1

済州島の珍味 済州島料理の核をなすのは海産物である。しかし、刺身やアワビだけが済州の珍味ではない。韓国の最南 端の島、済州島には亜熱帯気候に恵まれた広い面積の耕作地があるおかげで、料理には野菜が添えられ、 放牧して育てた畜産物も登場する。陸から離れた島の食文化だけに、その味や調理法において陸地とは異 なる特色を持つ。 チェ・ソンジャ(崔成子、ジャーナリスト)| 写真 : 安洪范

2


州島には海産物を使った料理が多く、例えば、活魚の刺身、

チョン(煎)を焼き、その上に、大根を千切りして茹でたものと各

トコブシ(巻貝の一種)入り海鮮土鍋、焼きアマダイや焼き

種薬味を混ぜ合わせた具をのせ、くるりと巻いた細長い郷土餅だ。

銀太刀魚、太刀魚のスープ、モムグック(豚肉とホンダワラのスー プ)、ウニスープ、チャリムルフェ(スズメダイの刺身のお吸い

黒麦クッス

物)、ハンチムルフェ(ヤリイカの刺身のお吸い物)などがある。美

近年、昔ながらのお婆さんの味がこもった伝統料理を取り戻す

味しいという評判の食堂を訪れ、海鮮料理をはじめ済州独特の食

ことが、一つのトレンドになっている。済州市一徒2洞にある「黒

べ物を幾つか食べてみた。

麦クッス」の店主キム・チョンジャさんは、母方の祖母が焼いてく れた黒麦のチョンの味が忘れられず、2008年に、黒麦を主材料に したパジョン(ネギのチヂミ)やスイトン、クッス(細い麺)を開発

トコブシ入り海鮮土鍋 トコブシ入り海鮮土鍋は、トコブシとサザエ、海老、アサリな

した。「黒麦は、一般の麦より収穫量は少ないんです。香りが良

どを主材料に味噌やコチュジャン(唐辛子味噌)を溶かして煮込ん

く、食物繊維の含有量が一般の麦より5倍以上も多く、鉄・リン・

だ料理で、ほどよい辛さとうまさが特徴だ。トコブシは、アワビ

カリウムなどのミネラルもたくさん入っていて、成人病にいいで

と同じ軟体動物で、水深20メートルの岩に付着して生きている。

す」

全国の漁獲量の70%が済州島で収穫される。 済州市蓮洞に位置する「ユリネ食堂」は、トコブシ入り海鮮土

また生地の弾力を高めるために、黒麦粉に、ジャガイモや長芋、 キノコを挽いて水に溶かしたものを加えてこねる。煮干と昆布の

鍋やウニワカメスープ、焼き太刀魚、ムルフェ(刺身のお吸い物)

だし汁に塩だけで味付けをするので、クッスの味が淡白だ。済州

の専門店だ。美味しいことで昔から名声が高かったようで、現大

の海産物であるボマル(カワニナに似た巻貝)を入れて作ったスイ

統領や前大統領をはじめ済州島を訪れる有名人の多くがこの店を

トンは、さっぱりとした、もっと淡白な味だったでした。

訪れている。壁や天井一面に訪問を記念するサイン入りの色紙が びっしり貼られていた。たくさんのおかずの中から、メイン料理

馬肉料理

が出るまえに、お通しとして一人に一切れほどのビントックが出

済州島の名物肉類として馬肉や黒豚、雉肉が挙げらる。済州島

たが、実にこれが逸品だった。そば粉をゆるく溶いた生地で薄く

には、昔、国の馬を飼育する牧場があった。それで馬肉料理が盛

3

4


長寿の島ともいわれる済州島の清い海と野原で 育った食材を、短時間で調理した済州島の料理 が、改めて脚光を浴びている。栄養素の損失が 少なく、健康料理として認識されつつあるからだ。

んになった。

ス料理を好む」と教えてくれた。

朝鮮時代の王室献上品としてアワビや蜜柑と共に馬肉が選ばれ たという。つまり王様の御膳に上がったというわけだ。旧暦の10 月が過ぎ、馬肉から草の匂いがしない頃になると、一般の家でも

蜜柑コーヒーと蜜柑チョコレート 済州島を代表する果物といえば蜜柑で、糖度が高く美味しい。

馬肉料理を食べた。脂肪が少なく、なますやカルビチム(肉付き肋

済州島には蜜柑農園がとても多く、何処でも目にすることができ

骨の味付け煮込み)、ヤンニョムクイ(味付け焼き)など様々な作り

る。改良された蜜柑だけでも20種類を超え、中でもハンラボンと

方があった。馬の骨は、煮込んでスープにしたり、粉にしたりし

チェンヘヒャンが、高級蜜柑として都会のスーパーなどで人気が

て食べた。神経痛によく効くという俗説があったから

高い。

だ。一般の飲食店で売られるようになったのは、

最近は、蜜柑エキスからできた香水やミス

陸地文化が渡ってきた1980年代になってから

トなどの化粧品も販売されている。コー

のことで、現在は40余りの食堂で馬肉料理

ヒーやチョコレート、マッコリなどにも

が食べられる。

入っている。蜜柑の皮は薬の材料とし

西帰浦中文観光団地に位置する99軒

ても使われ、蜜柑の一種である陳橘

の伝統韓屋作りの、馬肉専門店「馬苑」

の皮(陳皮)をお茶にして飲むと、胃

で馬肉を食べてみた。味付けした馬肉

腸などの消火によく、青橘の皮(青

を鉄板で軽く焼き、ワサビ醤油をつけて 食べた。肉質は柔らかく淡白だ。馬肉は 焼きすぎると硬くなる。店のシェフが、「日 本人は、馬肉のユッケを好み、中国人は馬骨の エキス、ユッケ、膾(なます)などで構成されたコー

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2

1. ハンラボン(漢拏峰)、済州特産の高級 蜜柑 2. 郷土餅のビントック

韓国の文化と芸術


アラ料理の名人、

カン・チャンコンさん 「魚の刺身がこんなに美味し いとは…」、食べたことの無い 人にその味を教えることは至 難の業です。西帰浦市安徳面 沙渓里の海辺にある「ジンミ食 堂」は、アラ料理においては他 の追随を許さない店だ。店主 1

はカン・チャンコン(57)さん。 2006年10月イタリアトリノで 開かれた「スローフード世界大 会」に招かれ、世界150余カ国からの約1000人の調理師と 競い合い、アラ料理で世界の調理師100人(Great chef)に 選出された。カンさんがアラ料理の名人になったのは、本 人の情熱と研究熱心の賜物だ。彼は、30種類を超えるアラ 料理を創り出し、2002年度に「アラの刺身の造成物及び製 造方法」で特許も獲得した。 料理の秘法を尋ねると、「独自の魚の管理法と部位別の 包丁の使い分け」を挙げた。 「海から獲ってきたアラを水族館にいれた後、新鮮さを

皮)はマラリアなどの細菌性疾患に効果がある。

保つことが重要です。酸素を注入しながら適度な水温を維 持し、音楽も聞かせます。アラが水中で動かずにただじっ としていると、肉質が落ちます。実際の海中のように、た

済州の食文化 済州民俗自然史博物館では、昔ながらの食べ物を紹介している。

えず波を起こし、体を動かせます。また、魚の部位ごとに 包丁の使い方が異なるのも、味に変化をつけるためです。

昔の島での暮らしはとても貧しかったようで、心に染みてくる。済

さばくときは、手の甲と刃のバランスをとり、45度と135

州島には食べ物が少なかったため、必ず食べきれる分量だけを作っ

度の傾斜になるようにします」

た。作り方も簡単なものでなければならなかった。海女たちはいつ もムルジル(海中での海産物獲り)で忙しかったので、作る暇がな

1991年の韓ソ首脳会談が済州道で開催されたとき、当 時のゴルバチョフ大統領のための晩餐会では、27部位に分 けたアラ刺身を出して有名になった。済州島を訪れる国内

かったからだ。それで、時間を要する煮込み料理や蒸し料理より、生

外の有名人は、珍味食堂でアラ料理を食べることが定番と

で食べれる料理が発達し、香辛料の味より材料そのものの味を生か

なっているほどだ。

した料理が主となった。

私が味見をしたアラは、体長が30cm、重さが1kgのも

また済州島は、長寿の島としても知られている。 2010年9月に全

のだった。最初に出だされたのは、アラの胴体を3等分し

国16市道の人口構成を調査した結果、100歳以上の人口は53人だっ

中央部を捌いた刺身(右写真)だった。次に、一番旨い部位

た。これは割合でいえば全国1位で、全国平均の2倍をはるかに超 える数値だ。その背景には、済州島の食べ物があると思われる。近 年、済州島の清い海や野原で獲った食材を短時間で調理する済州島

であるビンタ(頬肉)やエンガワ(背鰭と腹鰭の付け根にあ る肉)、そして軽く火を通した唇の肉と首の肉、肝臓や胃 腸で構成されたスペシャル料理(左写真)が運ばれてきた。 その次は、茹でた皮の料理と、捌いた魚の頭と中骨を

の料理が改めて脚光を浴びている。というのも、栄養素の損失が少

煮込んだペッタン(白湯)が出された。アラの刺身は柔らか

なく、健康料理として認識されつつあるからだ。済州道庁のヒョン・

くてあっさりしていた。ペッタンは生臭くなく、出し汁は

ハッス氏は、 「470種類を超える済州料理をウェルビーング・長寿料

コクと旨みがあった。

理として新しく取り上げる計画である」と言う。 (翻訳:金禧貞) Koreana ı 夏号 2011


特 集 外国人の目に映った済州

済州島に栖を移した ある外国人の個人的な体験 「済州島!ズバリここです! ここに定住しよう」 この決定は非常に即興的に、それもたった数ヶ 月前に決まった。しかし、それがベストチョイスだったと私たちは思っている。 ウェルナー・サッセ(Werner Sasse、画家、韓国学学者)| 写真 : 裵炳雨, 徐在哲

と妻は、ここでずっと前から住んでいたような気がする。

にある互いの素敵な家をあきらめることにした。彼女の家は京畿

見渡す限りの水平線と絶えず動き続ける海は気運を高めて

道の静かな山村にあり、私の家は全羅道の平地にある美しい韓屋

くれる。数千年間も農地を耕作する生活を営んできた島の人々の

(ハンオク)だった。

努力の賜物である畑は、岩石で挟んでできた畝の凹凸で、岩だら

済州島にふたりの将来の住処を作ることを決めてから、結婚式

けの島の風景に文様を描く。茫々とした茂みが処処に、その小さ

も済州島で行うことにした。友達の一人が、自然石と人工石の彫

な畑に境を作り出し、梅雨に降り注ぐ雨によってできた細く深い

刻作品が散りばめられた、すばらしい景観の〈済州石村公園〉を結

溝に身を寄せる。島の中央にそびえる漢 拏 山が麓の畑を擁し、こ

婚式会場として使わせてくれた。結婚式は、特殊な韓紙で作られ

の火山がパラダイスの島を誕生させた。

た白の改良チマチョゴリを着て、〈石博物館〉屋上にある〈ハヌルヨ ンモッ(Sky-Pond)〉に浮かんだ舞台で新郎新婦が出会う場面から始

「シュガームーン」と 結婚式 済州島を将来の住処に選んだのは、「シュガームーン」旅行をし たときのことであった。韓国人には面白い言葉を作る才能がある

まった。次に平壤式伝統礼服に着替え、北朝鮮式結婚式を略式で 挙げた。東側から来た新婦と西側から来た新郎が、韓国の最南端 の島で北朝鮮式の結婚式を挙げたのである。

が、シュガームーンもその一つである。ハネムーンが新婚旅行で あるのに対し、シュガームーンは婚前旅行である。済州島に到着 してまもない頃、島を見て回ったわずか数日間で、私たちは本土

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穏やかでダイナミックな島、済州 済州島のどこに魅了されたかと訊かれたら、ただ幾つかの思い 韓国の文化と芸術


2

1. 城山日出峰の日の出 2. ウェルナー・サッセ(Werner Sasse)氏、韓国学教授を引退し、済州で画家の生 活を送っている。

に関する記事が新聞を埋め、多くの会議がそれをテーマにしてい る。そのプロジェクトについて、済州島民は、内国人及び外国人 1

向けの観光ビジネスが、バランスの取れた持続可能な経済的発展 とライフスタイルを可能にするために、取り組んでいる。 全てのプロジェクトは、教育、自然から由来した製品及び有機

つきの理由しか言えない。なぜなら、この素晴らしい島が人生に

農法産製品の生産、また興味本位の「娯楽公園」よりはメディカル

与えてくれる 魅力は、あまりにも複合的で、簡単には描写するこ

関連施設(リハビリなど)の基盤拡充、芸術奨励に焦点を合わせて

とが難しいからである。何よりも、私たちが目指している生き方

いる。澄んだ空気、綺麗な水、そして穏やかな気候を持つ済州島

を可能にしそうな幾つかの基本条件を満たしているという点、そ

は、ソウルをはじめ大都市の雑踏から離れて、オルタナティブな

してもっとも肝心な理由は島全体の雰囲気だった。現代舞踊家で

生き方を実現する可能性に富んだ島だ。済州島は「スロー島」なの

あり瞑想家でもある妻と、画家であり韓国学研究者でもある私は、

だが、過去のロマンに捕われることなく、ひたすら未来に向かっ

共に平和で静かなところを求めると同時に、活動的で未来志向的

て進んでいくところでもある。

な雰囲気も必要としていた。済州島での文化や暮らし方は、この ように一見矛盾しているように見える条件を満たすにはこの上な いものであった。

済州の光 済州島は二つの顔を持っている。飛行機や船に乗って到着する

済州島の島民は、まだ伝統への意識 を強く持ち、本土と区別さ

関門は、島の北端にある道庁所在地、済州市だ。ここから更に一

れる文化的独自性に対する自負心を抱き、スピードを調節しなが

時間ほど車で走れば、南の海岸都市である西帰浦とリゾート地域

ら余裕のある人生を送っている。また同時に、島の未来に備え個

である中文に出る。そこへ至る道(済州島の道路状態は全て上々)

人及び政府機関によるプロジェクトも多く推されている。社会的

は、海抜800~1000メートルの道路を通ることになるが、その道中、

にも生態的にも健康的な環境を作り出すための各種プランや討論

天気によってさまざまに変化する魅力的な景色が 楽しめる。地元

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住民の人情が感じられる「オルム(丘)」と呼ばれる火山体丘陵から、 よく晴れた日には遠くの小島も視界に入る。霧のかかった日には、

風と岩、そして女 岩と女とともに、風は済州島の名物としてよく知られている。

雲に覆われた山頂に広がる白みがかった森林地帯は、まるで別天

これには私も同感だ。島には風がたくさん吹き、時には暴風のよ

地のようだ。山の頂を越え、風が強く肌寒い北側の険しい地域を

うに吹き荒れる。こういうときの波は、海岸の岩壁にぶつかる前

後にすると、ふと、甘い香りを放つ花や植物でいっぱいの温和な

に、狂ったような踊り方をする。きちんとした服装をして暴風の

亜熱帯地域にいる自分に気づく。

中を歩くと、さわやかな気持ちになり、元気を取り戻したような

さて、環境の違うこの両地域を結び付ける要素が一つあるが、

気がする。その時、不快な気持ちや感情が一気に吹っ飛ばされる。

これがすなわち光である。済州島の光は、本土の光よりも遥かに

実際、済州島には風や岩が多く、これらは永い年月を経て、島

明るい。画家の私にとってこれは何よりも大事なことだ。ヨー

の自然環境を特徴づけてきたのだろう。その反面、女性が多いこ

ロッパでは多くの芸術家たちが、煌めく光からインスピレーショ

とは、本当は時の流れと共に変化する社会経済的な理由に基づく。

ンを得ようと地中海沿岸に移っていく。到る所で恍惚の光を放つ

地元住民の説明によると、古くから漁師の男たちは海に出て命を

島。多くの画家や工芸家が、まぶしい光の中で作業をしたいと願

落とし、取り残された未亡人たちが家族の生計を立てるために強

い、この島に生涯の、いや一時でも住処を作るのは、ごく当たり

くならざるを得なかったという。別の説明によると、海岸沿いに

前のことかもしれない。それが〈楮旨芸術家村〉になることも、谷

住む女性が強い理由は、彼女らが家族の生計を担っていたからで

間のどこか に設けられた独立アトリエになることも、それとも空

ある。だからこの島では、いわゆる女仕事を男が受け持つのが普

に近い、広い内陸の高原になることもあるだろう。光は、芸術的

通である。男性が家事や子育て、畑仕事をする合間に、女性は海

インスピレーションをもたらす媒介以上の働きをすることは、言

に出て海鼠やアシハラカニ、海草、蛸、貝などの海産物を採取し

うまでもない。光は、全ての人の体と魂を癒す、この上ない薬で

ていた。

もあるのだ。 実は、短期間の予定で済州島にやってきて、あれこれ写真を撮

「ヘニョ(海女)」と呼ばれる、世界的にも有名な済州の女ダイ バーたちは、海中20メートルまで潜る訓練を受け、そこで数分間

り1~2日で立ち去るような人なら、真の来島者とは言えない。

も酸素ボンベ無しで耐えられる。ヘニョの数が年々減ってきてい

彼らは、ただ島の表面を見て触れただけなのだ。済州島は、容易

るといわれるが、私の書斎の窓越しに数人のヘニョの姿が見られ、

にその美しさを現したりはしない。心を穏やかにして、自分を島

彼女たちが海岸を歩きながら、息を吐き出すために吹く口笛の音

の時の流れに合わせ、辛抱強く眺める時間が必要だ。

も聞こえてくる。

例えば、白い飛沫を抱いた波が浜辺まで寄せてはぶつかり、引

済州島が、伝統的に母系社会であったと主張する人もいる。こ

いては寄せる波間や海を眺めることは、いつでも魅惑的なことだ。

れに賛同するかどうかに関わらず、女性は、今日の韓国社会の発

ここで私たちは変化だけが唯一、持続的なものであることを悟る。

展の先頭に立っている。ますます多くの女性が、歴史上のどの時

それはまさしく人生を象徴している。岩場に腰をおろし、ゆっく

代よりも、特に600年前に建国した朝鮮王朝以来のもっとも旺盛

りと色彩の変化を見てみよう。ゆらゆらと揺らめく海草の緑 が

な経済活動を営み、社会的独立を果たし続けていくと思う。韓国

点々と散らばる海岸沿いの薄黄土色は、海の深みが増すほどエメ

社会における女性の役割変化は、今現在加速度を増している。例

ラルドグリーンに変わり、さらにいろいろな色調の青い光を帯び

えば、インターネットカフェのコンピュータの前に20人の学生が

る。それが、やがて水平線に至っては、暗い鋼鉄色の線を引いて

座っていて、そのうち17人が男子で、3人が女子だとしたら、男の

終点に至る。雨を含んだ厚い雲でどんよりした日には、同じ海な

方はほとんどゲームに夢中になっている。しかし、女子の方は何

のに黒い光になり、また白雲が高くなると、海は銀色の光に変わ

かを検索するかEメールを打っている。こういう場面を見て、将来

る。日の出の黄金色の光や、黄昏の紅色の光には言語に絶する。

どちらが社会的に成功するか思い知らされる。

また済州島を取巻く海は、絶えず変わりゆく空の模様を魅惑的 に反射させる。島の空は、風に乗って変化する天気のごとく速く、

漢拏山とオルレ道

絶えず様変わりをする。故に、初夏の朝、霧の中で「オルレ」と呼

私たち夫婦が本当の住処を見つけるまでに、現在仮の家として

ばれるハイキングコースを散策する場合には、雨具と水着の両方

住んでいるのは、海辺の岸壁の上に建てられたマンションだ。こ

を持参した方が良い。天気の変わり方によって、どちらか一方、

のバルコニーの下から波の音が聞こえてくる。しかし、済州で新

或いは両方とも必要になるからだ。

しい人生をはじめようとする人なら、海岸だけが唯一な選択肢と

42

韓国の文化と芸術


国内外の画家にインスピレーションを与える済州の海の色

brm1a-049hc, C-print, 260×135cm 2002

© 裵炳雨

いうわけではない。 漢拏山は、南北41キロメートル、東西73キロメートルのこの島

の島々と同じように、ここの食堂でもほとんどいろいろな魚や海 産物を焼いたり茹でたり、或いは生で提供する。魚によっては、

の中間にある高さ1950メートルの山である。海岸から数キロメー

済州島以外では味わえないものや、旬にしか食べられないものも

トルほど内陸に入れば、別の気候と草木を楽しむことが出来る。

ある。地元の特産物で有名な黒豚料理や、馬肉料理、雉料理も味

山に向かって4~5キロメートルを奥へ進んだところで、亜熱帯

わえる。これらの料理は、冬場でも数種類の新鮮な野菜と共に提

植物は、鬱蒼と茂った森林地帯と牛馬が草を食んでいる広々とし

供される。

た高原の牧草地に座を譲る。海岸沿いに作られたオルレ道が多く

もちろん、済州島は、きちんと区画されたゴルフコースを求め

の観光客を集め、有名になっているが、漢拏山付近にもハイキン

る人、カジノやテーマパーク、博物館やギャラリー、又はスクー

グコースが多い。大別してオルレ道と漢拏山の二つのハイキング

バダイビングや乗馬のようなスポーツを求める人々にも勧めてい

コースは、どちらもコースマップがよく作られていて、私みたい

いところだと思う。しかし、この文章を読まれる読者の皆様は、

に経験の浅い登山客の多くは、沢山の架け橋や歩きにくいコース

そういうことは私の関心事ではないことをお察しのことと思うが。

の上に設けられた木の散策路に感謝するのみだ。

最後に、この島の人たちの厚いもてなしや親切な振る舞いについ

海岸沿いのハイキングコースが好きなのは、コースの途中でと

て伝えておきたい。時には地元住民の行動や態度が単純で率直に

きどき休みを取りながら飲んで食べることが出来る施設が設けら

見えても、それはみな真直ぐな心からの発露であることは間違い

れているからだ。それに済州の食べ物は格別である。もちろん他

ない。(翻訳:金禧貞)

Koreana ı 夏号 2011

43


文化フォーカス 1

韓国の再発見

ドイツ博物館収蔵の韓国芸術品の展示会 「韓国の再発見-ドイツ博物館収蔵の韓国芸術品の展示会」は韓国国際交流財団とシュトゥットガルトのリ ンデン博物館が共同主管し、ドイツ国内10か所の博物館が開催する巡回展示会として、ケルン東アジア芸 術博物館で3月25日に開幕した。この展示会では、ドイツの複数の博物館に収蔵されている主な芸術品の 中から選りすぐられた作品だけが展示された。ヨーロッパにおける韓国芸術品の展示会史上、新ターニン グ・ポイントとなった。 マヤ・スティラー(カリフォニア大学ロサンゼルス校韓国芸術史、韓国宗教研究家)

「韓

国の再発見 -ドイツ博物館収蔵の韓国芸術品の展示 会」はドイツ各地に散在している韓国の芸術品を披露

展示品のほとんどは19世紀後半と20世紀初めに韓国を訪

する巡回展示会であり、今年3月25日にケルン東アジア芸術

れたドイツの外交官、商人、そして宣教師らが購入したも

博物館にて、印象的な開幕式を皮切りにスタート

のである。作品は宗教画、風俗画、陶磁器、漆の

した。開幕式典には地元の文化・外交関係の有識

箱、屏風、彫刻品、活字体で印刷された古書で

者を始め、400人余りのゲストが出席したが、彼

ある。ケルンの開幕展示会(3/25-7/17)の後、

らを迎えた博物館キュレーターであるアデーレ・

巡回展示会が開かれるが、その日程は次の通り

シュロンブスさんは、開幕の挨拶で次のように

である。ライプツィヒ・グラッシィ人類学博物館

語った。「過去30年間、ヨーロッパで開かれた韓

(2012/2/27-5/27)、フランクフルト応用芸術博物

国芸術・文化展示会は6回に過ぎません。アジア

館(2012/6/28-9/9)、シュトゥットガルト ・ リン

の芸術に向けた我々の関心は、主に中国と日本

デン州立民俗博物館(2012/11/17-2013/2/17)。 「今回の展示会はドイツにおける主な博物館に

に集中していたことを認めないわけにはいきま せん。しかし、今回の展示会を通じて、これま での偏った見方に変化が生じることを期待します」

1

収蔵されている韓国の芸術品をまとめて鑑賞できる 又とないチャンスになるでしょう。観覧客は展示作

韓国国際交流財団の支援を受け、ドイツ国内 10か所にの

品から文化やスタイルの面における、相互関連性が観察でき

ぼる博物館の共同努力で実ったこの展示会は、ヨーロッパの

る機会になるでしょう」と語ってくれたのは、ベルリン人類

観覧客に韓国という国が、サムスンの携帯電話や現代の自動

学博物館のキュレーターであるジグマー・ナーザー(Siegmar

車、赤い悪魔に象徴されるサッカーファンの他にも披露でき

Nahser)さん。ナーザーさんは国際交流財団のベルリン事務

るものが多いという事実を証明することに成功したといえ

所長のミン・ヨンジュン(閔暎準)の招待を受けてドイツ巡回

る。この展示会は、主なドイツ博物館が収蔵している芸術

展示会を企画するために、2008年夏にあった最初の会合に招

品の中から選りすぐりの作品116点だけが展示される、ヨー

待された10人の博物館キュレーターの一人である。

ロッパにおける韓国芸術品展示会史上初めての企画である。

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ドイツ国内の博物館の合作

その初会合の後に行った調査で1万点以上の韓国芸術作品

その作品の数々は10か所の博物館のキュレーターから成るパ

がドイツの博物館の倉庫で眠っていることが明らかになり、

ネラーが、自らの博物館に収蔵されている約8千点余の作品

その多くが購入から1世紀の間、日の目を見ていないことも

の中から選別したものである。

分かった。各博物館が 韓国と縁を結ぶようになった経緯もそ

韓国の文化と芸術


2

4

3

5

1. 金製イヤリング、長さ10cm、三国時代新羅(5~ 6世紀)、ハンブルク美術工芸博物館所蔵品 2. 青磁水差し、高さ26 cm、 12世紀、ケルン東アジ ア芸術博物館所蔵品

Koreana ı 夏号 2011 K o r e a n a ı S u mme r 2 011

3. 雲竜文青画白磁、朝鮮時代 (18世紀) 、高さ45cm、 直径32. 5cm、ライプツィヒ・グラッシィ文化人類学 博物館所蔵品 4. 水月観音図、高麗時代 (14世紀) の掛け軸、縦 98cm、横55cm、ケルン東アジア芸術博物館所蔵品

5. 鳳凰を手にしたお使いの木彫刻像、朝鮮時代(17 ~18世紀) 、ケルン東アジア芸術博物館所蔵品

45


れぞれ異なる。キュレーターたちは各作品を研究し、その作

イツと韓国間の協力関係を表す好例である。同じく、ベルリ

品が自分たちの博物館に来るまでの経緯を調べた。その研究

ン博物館の収蔵品である19世紀の画家キム・ジュングン(仮名

結果を書いた論文は展示作品の写真とともに410ページにの

はキサン)の風俗画からは、韓国を訪問した初期のドイツ人

ぼる、英語・ドイツ語併記の展示会図録に掲載された。図録

達が韓国の風俗図とライフスタイルに関心を持っていたこと

は展示作品に関する説明とともに、ドイツ博物館がその作品

が伺える。

を収蔵するに至った経緯と、20世紀初めに韓国とドイツ間の

ケルン展示会で目立つもう1つの作品は、ぺク・ナムジュン のビデオ・コラージュ「グローバル・グルーヴ(Global Groove)」

外交文化関連史にも言及している。 同展示会を準備する過程でキュレーターたちはある発見に

であり、これは博物館から借りた作品である。カールハイン

驚かされた。「会合の場で我々はそれぞれの博物館に収蔵さ

ツ・シュトックハウゼンの弟子で、音楽を勉強しながらドイ

れている作品を紹介し合いました。その過程で各自の博物館

ツでアーチストとしてスタートしたビデオ・アートの先駆者

が収蔵している作品が韓国文化を様々な角度から反映してい

であるぺク・ナムジュンに捧げる作品である。東洋と西洋を

ることが分かりました。多くの場合、我々は他の博物館が収

結ぶ架け橋として、ぺク・ナムジュンの作品は山の神仙と虎

蔵している作品に初めて気づきました」と、ライプツィヒ・グ

の神話的イメージを表すシャーマニズム信仰の絵から始まる

ラッシィ人類学博物館のキュレーターであるディーター・グ

この展示会の成功に役立っている。

ルンマン(Dieter Grundmann)さんは述べた。さらに、アデー

同展示会の作品点数は116点だけであるが、この展示会の

レ・シュロンブス(Adele Schlombs)さんは次のように評価し

意味は、展示作品の数をはるかに超えるものである。これま

た。「例えば、グラッシィ博物館は私にとって新しい発見で

で2年間取り組んできた結果、キュレーターたちは各々の博

した。博物館が収蔵している18世紀と19世紀に製作された白

物館に収蔵されている韓国芸術品のリストに関して、依然と

磁の器と花瓶は本当に素晴らしい作品ですね」

してやるべきことが多い現状に気づかされた。したがって、 この展示会は韓国の文化遺産をドイツの大衆に披露するため の努力という点で、新時代を切り開く開幕式典といえる。

素晴らしい発見 展示作品の半分程度は、400点以上の韓国の芸術作品を収

ハンブルク民俗博物館の韓国芸術品キュレーターであるス

蔵しているケルン東アジア芸術博物館のものである。同博物

ザンヌ・クヌーデル(Susanne Knoedel)さんは、将来の計画に

館の創立者であるアドルフ・フィッシャー(1856~1914)さん

ついて次のように述べた。「今回の展示会によって韓国への

は、仏画と高麗青磁を高く評価している。フィッシャーさん

関心が高まり、収蔵している韓国の芸術品のリストアップ計

は奥さんと一緒に、1910年に韓国を訪問した際に、日本の美

画に弾みがついた。今回の展示会からインスピレーションを

術仲介商からレベルの高い作品を購入した。二人が蒐集した

得て、2013年には特別展示会を開催して、我々が収蔵してい

作品の多数が今回のケルン展示会で披露される。

る2600点にのぼる韓国の芸術品から厳選した作品の展示会を

展示作品の華といえる作品で14世紀の作品である水月観

計画している」 (翻訳:趙祥恩)

音図は、フィッシャーさんが専門的鑑識 眼の持ち主であることを裏付ける。濃い 色のシルクの下地にもかかわらず、精巧

1. ドイツ博物館所蔵の韓国芸術品の巡回展示会におけるドイツ・ ケルン東アジア芸術博物館の開幕式典(2011/3/25) の光景。

な描き方が見られ、華やかな服と飾りで 身を包んだ大衆的な菩薩の崇高なイメー ジが感じられる。 ベルリン人類学博物館の収蔵品で1880 年代初頭、高宗皇帝の外交官であったド イツ人のモエルエンドルフ(1848~1901) の手持ち品であった朝鮮時代の貴族の衣 服は、激動期の韓国の近代史におけるド 1

46

韓国の文化と芸術


2

3

4

この展示会には収蔵作品の中から116点だけが厳選された。しかし、同展示会の持つ意味は、 展示された作品数からは計り知れない。これまでの2年間、キュレーターたちが取り組んだ結 果、自分たちの博物館が収蔵している韓国の芸術品のリストと研究において、依然としてやる べき仕事が多いという事実を改めて知らしめられたのだ。

5

2. 巫俗画(山の神仙と虎)、20世紀初頭の掛け軸、縦 61. 5cm、横46.5cm、ハンブルク民俗博物館所蔵品 3. ケルン東アジア芸術博物館の設立者であるアドル フ・フィッシャー(1856~1914)さんと夫人

Koreana ı 夏号 2011

4. 朝鮮時代の官僚の服装 (19世紀) 、ベルリン民俗 博物館の所蔵品、コートの長さは140cm 5. 漆器螺鈿箱、朝鮮時代 (18世紀) 、横20.5cm、縦 19cm、奥32cm、ベルリン民俗博物館所蔵品

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文化フォーカス 2

春が囁く 花咲け 希望せよ 愛せよ 暮らしを恐れないで

街に 詩が 流れる

ソウルの文化アイコン「光化門広告塔」 20年の歴史 韓国のある保険会社の屋外広告塔が、一千万人の人口を抱える首都ソウル のど真ん中に登場し、「光化門広告塔」として親しまれて今年で20年になる。 道行く人々はこの広告塔の、わずか2~3行に過ぎない文言から気分爽や かになり、こころ慰められ、時には暮らしへの希望さえもらう。 コ・ミソク(高美錫、東亜日報美術専門記者)| 写真 : 安洪范

顔をほころばせてフクロウよ これは春雨ではないか

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韓国の文化と芸術


年3月1日、ソウルのど真ん中にある世宗路。午後6時が

て、春(3月)、夏(6月)、秋(9月)冬(12月)の、3か月毎に書き

過ぎると、いつものように街は仕事を終えて家路へと向か

変えた。初めは啓蒙的・教訓的な内容だったが、1997年の韓国金融

う人々で溢れる。帰りの足を急いでいたOLのハ・ジヨンさんも光化

危機の時からその方針を変えた。文学、中でも希望や慰めのメッ

門広場の前を通り過ぎ、何となくある建物の屋外広告塔を見上げ

セージを盛り込んだ詩の一節を紹介する内に、広告塔の存在はソ

た。その瞬間無表情だった顔が一瞬明るくなり、花屋に走り一束

ウル市民のこころの中に根付くようになった。

のフリージアを買った。彼女は「花の香りを嗅ぎながら家に帰って

2009年に光化門広告塔文言選定委員会に参加した小説家のウ

いく途中、自分の心は春の香に満たされた。その花束をもらった

ン・ヒギョン(殷熙耕)さんは、「どこでも見られる名言・名句ではな

母の顔にも春が訪れたようだった」と言った。鼻先をくすぐる春風

く、様々な文学作品の中から選んだ文章から勇気や希望を伝えた

を感じるように彼女を駆り立てたのは教保生命社のビルに掛かる

り、考え込ませたり、時にはおかしくなったりする点が市民から

大型屋外広告塔に映し出された一節の詩だった。

愛される理由であるようだ」と述べた。現在広告塔は企業のブラン

「いきなり花が買いたい/花を買わず、何を買うというのか」 イ・ジンミョン(李珍明)詩人の『何だ、こうやって花を買うのか』

ド・イメージを高めるプロジェクトという意味合いを超えて、詩が 流れるソウルを象徴する文化アイコンに位置づけられている。

という詩の一節である。たったの一行の詩が日々の生活に追われ て余裕を失った市民のこころに春の気運を吹き込んだ。横20メー トル、縦8メートルの広告塔の持つパワーである。

文言の選定作業 教保生命は広告塔を設置してから暫くの間は、内部で文章を決 めていたが、2000年12月からは「光化門広告塔文言選定委員会」を

啓蒙から慰めに

設けて運営している。作家、教授、ジャーナリストなど、7人から

光化門広告塔は1991年1月に教保生命の創立者、故シン・ヨン

なる同委員会は、会社のホームページに掲載された市民からの応

ホ(慎鏞虎)会長のアイデアから始まった。市民が歩きながら広告

募作や委員らの推薦作を対象に、討論と投票の過程を経て最終的

を読んでも直ぐに意味が分かるように30字くらいの文章にまとめ

に文章を決める。文言が決まったら、6~10人のデザイナー達が

Koreana ı 夏号 2011

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光化門にある教保生命保険ビルの屋外広告塔。 短い文章が道行く人々に勇気や希望を与える ソウルの文化アイコンになった。

教保生命によると、65の広告塔の文言が広く親しまれてきたが、中でも「集まって森になる」と 「道がなければ道を拓きながら進む/ここから希望だ」というコ・ウン詩人の文章は特に高い関心 を集めた。ト・ジョンファン詩人の「揺れず咲く花なんてない」 (2004年春)、チョン・ヒョンジョ ン(鄭玄宗)詩人の「朝に運命などない。あるべきものは専ら、新しい日」 (2008年冬)もチャレン ジ精神と希望とを発信するメッセージとして愛された。

読みやすい書体と芸術的なデザインをもって文言に生命を吹き込

た。

む作業に取り組む。そのような過程を経て最終的に選定された文 言が3か月間光化門の顔になるわけである。最初から文言の選定 過程に参加してきた詩人兼教保生命傘下の大山文化財団のクァク・

「世の中を明るくした100人」 これまで20年間、華やかなネオン照明がなくても、屋外看板に

ヨファン(郭孝桓)事務局長は、「一国の首都、それも都心のど真ん

掲載された短い文章が社会的・文化的に注目されるようになった。

中で詩に出会えるということ自体が大きな意味を持つ」と言いなが

文章が変わると、ネットのユーザらはブログを媒体に世の中にそ

ら、「詩と出会う人々は束の間の思索に耽り、大衆に作品が紹介さ

の内容を発信し、新聞コラムのテーマとして登場したりもした。

れた作家は、大きな幸運に恵まれるというわけだ」と付け加えた。

2007年12月に環境財団は「世の中を明るくした100人」を選定し、初

選定の過程において、候補作品が時代の潮流をいかに反映して

めて人間ではないこの広告塔が選ばれた。その翌年の3月には、

いるか、季節感はあるか、分かりやすい作品なのかなどをトータ

ハングル文化連帯によって韓国の文章や言葉を愛する人や団体に

ル的に検討する。これまでは孔子、ヘルマン・ヘッセ、アルフレッ

贈る「ハングル恋人」として広告塔が選定された。昨年10月には、

ド・テニスン、パブロ・ネルーダ、韓国のソ・ジョンジュ(徐廷柱)、

広告に登場した文章や製作過程を紹介した『光化門で読む、歩く、

コ・ウン(高銀)、ト・ジョンファン(都鍾煥)などから、昔の賢人た

感じる』という本が出版され、スマートフォンのユーザのために文

ちと40人余りの詩人の作品、イソップ寓話、仏教の経典を初め、

章が取り込める無料アプリケーション・プログラムも製作された。

ヒップホップ歌手のキビの歌詞「君と私はそれぞれの植木鉢で生き

光化門広告塔をベンチマークしようとする公共機関や企業からの

ていても、一緒に日に当たること」に至るまで、実に様々な文章が

問い合わせも相次いでいる。これほど高く評価されている広告塔

選ばれた。隠喩的表現が好まれているため、やはり詩が一番好ま

は「光化門」という地域を超えて教保生命が経営する江南の教保タ

れる。もっとも多く採択された作家は、毎年ノーベル文学賞の候

ワー、天安、大田、釜山、光州、大邱、済州など、全国の8か所

補になるコ・ウン詩人である。彼の詩はこれまで7回も選定され

にある社屋に同時展示されている。

50

韓国の文化と芸術


共感と隠喩の力

ない所へ」という一節に刺激を受けて仕事をやめて兼ねてからやり

光化門の広告塔は現実と密接に共鳴しながら時代における窓の

たかったことを始めた。2004年、軍隊から社会に復帰したばかり

役割を果たしてきた。その文章の中に盛り込まれている意味合い

のある青年は、教保生命側に感謝の気持ちを伝えた。未来に不安

を見れば、我々社会の変化や流れが垣間見られる。

感を抱いていた彼は「揺れずに咲く花なんてない/どんなに美しい

中央大学校のイ・ミョンチョン(李明天)教授率いるチームは、広 告塔のテーマや比喩表現を分析した学術論文を発表した。イ教授 のチームは「ランドマーク効果として現れる地域特性、他の屋外広

花も/みんな揺れながら咲いたはず」という詩を読んではふと気が 付いて頑張れるようになったと伝えてきた。 2008年春、政権交代の時期に選定された時の内容をめぐって、

告と比較したスケール効果、一日の流動人口100万人、車25万台

様々な政治的解釈が行われた。「愛よ、乾杯しよう/墜落するすべ

の通行量に対する露出効果、何よりも20年間も続けてきたキャン

ての物や/花咲くすべての物のために乾杯!」 ( パブロ・ネルーダ)

ペーン期間は、屋外広告分野において類を見ない」と評価した。同

「墜落」と「花」が象徴する物をめぐって市民の間では熱い討論が繰

論文によると、この広告がこれほど長く親しまれているのは、「共

り広げられたりした。2009年春の文章にも経緯があった。折りし

感」と「隠喩」のお陰である。ストレートな表現ではなく、想像力に

も3月1日に起こった独立運動記念日に、日本の詩人である小林

満ちた「隠喩」を通して、直接的表現よりは感性的なアプローチで

一茶の俳句「顔をほころばせよフクロウ、これは春雨ではないか」

「コンセンサス」を得て、想像力豊かな「隠喩」を通して人々のここ

の掲載を計画していた会社側は、市民の反応が気になってならな

ろの中に近づいたと評価されている。 1991年に初登場した広告塔は「皆が一丸となって経済の活力を

かった。幸い、その詩に対する市民の反応は良く、韓国社会は文 化的な懐が広くなったことが確認された。

取り戻せ」という標語で飾られていた。その次は「まだ遅くない。 再び走って経済成長」、「見事な結果は見事なスタートから始ま る」など、経済的勤勉さを促すキャンペーン的掛け言葉が続いた。

「私に贈られるプレゼント、広告塔」 20年間も続いてきた光化門の広告塔。教保生命によると、65編

1997年末に金融危機に見舞われた韓国社会は、絶望感に陥った

の広告が広く親しまれてきたが、中でも「集まって森になる」と「道

人々が増え、社会的変化が起きた。屋外広告のアイデアを考えつ

がなければ道を拓ながら進む/ここからが希望だ」というコ・ウンさ

いた教保生命の創立者であるシン・ヨンホさんは「企業広報は気に

んの詩は特に愛された。ト・ジョンファン詩人の「揺れずに咲く花

せず、市民を慰めるものとして運営しろ」と指示した。

なんてない」 ( 2004年春)、チョン・ヒョンジョン(鄭玄宗)詩人の「

再スタートを切ったのは1998年2月、コ・ウンさんの「慣れてな い所」という詩だった。「旅立とう慣れてない所へ /君一日一日の / 古い繰り返しから」。 それ以来、厳しい毎日を送っていた韓国人の辛さや不安を慰め てくれる内容が続々と登場する。光化門の広告塔が市民の間で話

朝に運命などない。あるべきものは専ら、新しい日」 (2008年冬)も チャレンジ精神と希望を発信するメッセージとして愛された。 内容が変わる度に教保生命のホームページ(www.kyobo.co.kr) の「光化門広告塔」というメニューには市民の感想が掲載された。 「広告塔は私にとって、時には暮らしの挑戦となり、時には甘い

題になり始めたのがその頃である。暗い金融危機に耐えていた期

ラブレターみたい」 (イ・ウンジョン) 「二番目の子供を生んでから、

間の広告塔のキーワードは「慰労と希望」、「自省と努力」で要約で

久々の外出先で冷たい風に吹かれながら我を忘れて眺めていた。

きる。中でも1998年冬に登場した共存と共生のメッセージは、韓

私にだけ贈ってくれたプレゼントのようで、嬉しくて感性の扉を

国国民に勇気を与える応援歌として注目された。

開いてくれた」 (ユ・ヒョンミ)

「集まって森になる/木一株死なせず/ 森になる/ その森の時代に 我々は行く」。

文学界の人々は世界でも類を見ない文化コンテンツである「光化 門広告塔」がこれからも長く続くことを願っている。「私の心が明

危機を乗り越えて社会的安定が訪れた後からは「愛」がテーマに

るくなるように、あの短い詩が失敗して落胆した心を労わり、辛

なることが多くなった。「あなたの心を愛おしく思うように我々の

さや不安は慰められ、癒えない心の傷跡を癒してくれる、と思っ

住む世の中を愛します」 (2008年夏)、「雪と氷の合間をすり抜けて

た」 〈チャン・ソクジュ(張錫周、詩人)〉 「光化門広告塔はソウルの青

/一番早く押し上げる野原の花/それが君であってほしい」 (2010年

空である。乾いた日常を潤す爽やかな風であり、20年以上もの光化

冬)。

門の街を流れる清い水である」 〈キム・ヨンテク(金竜沢、詩人)〉 (翻

広告塔が話題になるにつれて、様々なエピソードも生まれた。

訳:趙祥恩)

1998年初め、大統領府で働いていたある公務員は「旅立とう慣れて Koreana ı 夏号 2011

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文化イベント・レビュー

創作ミュージカル

「天国の涙」 「天国の涙」の韓国初演はアイドルスターのキャスティングや、公演に先立つコン セプトアルバムの販売などのおかげで、盛況のうちに幕を降ろした。しかしブ ロードウェイ・デビューのためには、まだまだ解決しなければならない難題も 多い。 ウォン・ジョンウォン(元鍾源、順天郷大学教授/ミュージカル評論家)

国で一年に制作されるミュージカルはいったい何本くらいになるのだ ろうか?驚いたことに180本にもなるという。それも子供ミュージカ

ルや家族ミュージカルを除いた数字だというのだから、とてつもない数の 作品が舞台に上がっていることになる。 作品数が多いので儲かっている人間も多いと思うかもしれない が、金儲けとはまた別の問題だ。文化産業というのがそうなように ミュージカル界でも貧しきものはいつまでも貧しく、富める者はま すます富むという状況は同じだ。制作現場のもっとも大きな苦悩 は輸入ミュージカルと創作ミュージカルの不均衡だ。お金になる 作品はすべて翻案や直輸入された外国の有名ミュージカルばか りで、韓国の文化、韓国の物語、韓国人スタッフと資本の投入 された純粋「韓国産」のミュージカルは、これら外国勢相手に 苦戦しているという話だ。 作品数が多いということはつまり、1本あたりの公演期間 が短いことを意味している。海外の大きな市場で何度もフィル ターにかけられ、華やかなセットまで空輸してくる外国の有名作品と の競争に負け、短命に終わる作品が多いということだ。それだけ創作 ミュージカルで大衆の財布の紐を解かせるのは難しいという話にもな る。特に1000席を越える大劇場での創作ミュージカルの劣勢はより はっきりと表れている。競争力を備えた韓国ミュージカルの登場

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韓国の文化と芸術


「天国の涙」の一場面。左側が男性主人公、ベトナム 戦争に派兵された韓国軍人のジュンだ。アイドルス ターのキム・ジュンスがこの役を演じ、そのチケッ トパワーを発揮した。

が待ち望まれる理由がここにある。

韓国的なストーリー、グローバルな制作陣 「天国の涙(Tears of Heaven)」はこのような状況を打開する一つの方法を提示し たという点で注目される。韓国の制作社(クリエイティブプロダクションとソルエ ンカンパニー)が主軸となり、韓国的なラブストーリーに韓国のアイドルスターを キャスティングして興行面での成功を狙い、一方でグローバルな制作スタッフを 投入することで世界市場を狙ったのだ。韓国が海外の有名ミュージカルのライセ ンス消費市場に終わるのではなく、新たなコンテンツの生産基地になりえること を示そうという公演企画者たちの意欲が伝わってくる。一部では「天国の涙」は韓 国の資本と企画が外国のクリエイティブチームと結合して作った「多国的」文化商 品だという指摘もあるが、世界市場に合わせて、チャレンジする為にはそのよう な試みは確かに意味があるといえよう。

『ミス サイゴン』の影? ミュージカル「天国の涙」の背景はベトナム戦争だ。すでに 「ミス・サイゴン」とい う傑出したミュージカル作品が世界的なヒットを記録しているのに、なぜわざわ ざまたベトナム戦争をミュージカルにしたのかと疑問に思う人もいるだろう。し かし、少し考えてみれば制作陣の意図はすぐに把握することができる。当然とい えば当然なことだが、この作品に登場するベトナム戦争は大韓民国の視点から再 構成された戦争だ(韓国はベトナム戦争にアメリカの次に多い30万人を越す兵力を 派遣し、その傷跡も大きい国だ)。「ミス・サイゴン」の影から抜け出せるか心配だ という私の愚問に、私席で会ったグレイスン大佐役のミュージカル俳優ブラッド・ リトルは、「ベトナム戦争に関するミュージカルは一つだけという決まりでもある のかい」という明快な答えをくれた。

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戦争の渦の中で人々が死んでいく様子を、自らも倒れながら 歌い上げる「雨のように降る炎(Raining Fire)」や、戦線に向か う主人公が登場人物たちとともに歌う第1幕最後の歌、「聞こ えますか(Can you hear me?)」などの音楽的効果により、舞台 はなお一層、胸に迫る感動的なものとなった。

ブロードウェイ・デビューを期待し 洗練された舞台デザインはミュージカルの面白さをさらに倍増さ せる。舞台の床に敷かれた LED電光板が多様な色彩を放す空間演 出や、照明と映像が適度に混ざりあった東洋式の影絵遊びの登場、 四方八方に移動しながら多様な空間を創出する「門」の使い方など は舞台の面白さを十分に味あわせてくれた。「ドロウジー・シャペロ ン(The Drowsy Chaperoe) 」や「モダン・ミリー(Thoroughly Modern Millie)」などを通して最近、世界の興行界で大きな人気を得ている舞台 デザイナー デイビッド・ガロ(David Gallo) の才気が感じられた。2011 年初め、ソウルで3つの作品 (「ジキル&ハイド(Jekyll & Hyde)」 「モン テクリスト(Monte Christo)」、そして「天国の涙」)の幕を同時に開け た作曲家フランコ・ワイルドホン(Frank Wildhorn)の音楽も彼特有の 大衆的な吸引力を遺憾なく発揮している。戦争の渦の中で 人々が死ん でいくと歌い上げる「雨のように降る炎(Raining Fire)」や、戦線に向 かう主人公が登場人物たちとともに歌う第1幕最後 の歌、「聞こえま すか? (Can you hear me?) 」などの音楽効果によって、舞台はなお一層 感動的なものとなった。

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韓国の文化と芸術


「天国の涙」の一場面。左はグレイスン大佐役の ミュージカル俳優ブラッド・リトル。彼は助演クラ スであったが、その強烈な存在感で高い評価を得 た。右の写真は男女主人公のベトナム女性リン(イ・ ヘリ)と韓国兵士ジュン(キム・ジュンス)。

国内の創作ミュージカルとしては珍しくコンセプトアルバムを先に制作したことも面白い試みだ。 ミュージカルに占める音楽の比重を考えるならば、先に歌を鑑賞できるようにしたこのような配慮は非常 に望ましいといえる。おかげで歌手のヤンパの歌う「聞こえますか?」や女性デュオ「ダビンチ」のイ・ヘリ の歌う「天国の涙」を公演前に聞くことができた。韓流ブームのおかげで韓国のミュージシャンの音楽を好 きになる外国人も増えている中、このようなマーケティング手段も登場してきたようだ。 韓国での興行は初演としてはなかなか良い成果を挙げることができたが、これから解決していかなけ ればならない課題も多い。感情の飛躍や陳腐なストーリーの展開もその中の一つだ。リアリティーのない 偶然の連続も同様だ。今後、ていねいに整えていかなければならない要素だ。もうすこし緻密に補完する ことでグレードアップすれば、ソウルでの初演は価値あるものとなるだろ う。今後のブロードウェイ・デ ビューに期待する。(翻訳:金明順)

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韓国再発見

私の韓国文学探訪記 韓国文学への探訪は私が45歳の時、つまり6年前に始まった。行く先々でいつも予期せぬ出来事に出会った り、手にした一冊の本は、常に私に新しい発見を提供してくれた。いつからか週に一度、ソウルにある外書専 門書店に立ち寄ることが日常の一部になった。自らに課したミッションは、これまで出版された韓国の現代文 学の翻訳書をすべて所蔵して私設図書館を設立することである。 チャールズ・モンゴメリ(東国大学校英語英文学部 通訳翻訳専攻教授)| 写真 : 安洪范

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韓国の文化と芸術


15年前、アメリカのカリフォルニア州立大学ヘイワード校の、ある言語ラボの授業の時だった。エ ド・パクという韓国人のアシスタント講師が私に話しかけてきて、我々は昼食を共にしながら文学

に関して話し合おうと約束した。蛍光灯の下、パソコンの唸るような雑音のする言語ラボ教室で、私の韓 国語の勉強は始まった。その時以来、エドは私の親友になり、我々は共同で翻訳をしながら、徹夜で文学 に関して話し合ったりした。後に私は彼の息子のゴッドファーザーになった。それから9年後、私は韓国 行きの飛行機に乗った。エドが光州で結婚式を挙げることになったからだ。 仁川国際空港に着いた瞬間から、何か特別なことが起こるのではという予感がした。おそらく仁川空港 の規模の大きさが非常に印象的だったからかもしれない。もしくは、長時間の飛行と時差による疲れが原 因だったのかも知れない。とにかくその感覚を抱き続けながら、観光客として韓国を旅する間、私は自分 がいつかまた韓国を訪れるだろうと予感していた。韓国という国に対して強い関心を持つようになったの だ。

韓国文学の発見 アメリカに帰った後、私は英文学の修士課程を始め、論文を書く時期が迫ってきた。運よくキム・ヨン イクの作品である『They Won't Crack it Open』 (韓国では出版されず、「心の壁」と訳せばいいと思う-編集者 注)を読むことになった。キム・ヨンイクという名前は聞いたことがなかったが、彼の小説は異なる文化を 行き来しながら経験する生の桎梏が描写されていた。私はすぐにインターネットでキム・ヨンイクという 人物と、彼の作品に関する情報を検索しはじめた。彼は非常に特殊な作家であった。韓国生まれの彼はア メリカに渡って英語を学び、直接英語で小説を書いた。その作品のレベルは相当なものであった。彼の作 品はそれ以上は出版されていなかったが、私は熱心にネット検索して過去に出版されたほとんどの作品を 手に入れることができ、キム・ヨンイクの作品はほぼ全部所蔵するに至った。 キム・ヨンイクの作品が印象的なのは、何よりも彼が現実の問題と人間の姿をありのままに書いている ことである。彼の文学は実に普通の読者を想定した作品であり、単に批評家や学者のために書いたもので はなかった。キム・ヨンイクの小説のおかげで私は修士論文を書くことができただけではなく、韓国文学 全般に対して関心を持つきっかけにもなった。 その後私は、エドに会って韓国文学を翻訳した本を紹介してくれるよう頼んだ。彼はイ・ムンヨルの小 説『我々の歪んだ英雄』を薦めてくれた。私は一気にその小説を読み終えて、イ・ムンヨルという作家の作 品が文化的背景とは関係なく、とても重要なテーマを扱っていることに気づいた。それは翻訳書にもかか わらず、すぐ読み取れた。このようにして私は韓国文学に触れることになり、修士号を取得した後は、韓 国文学の原点にもっと近づきたいと思って、韓国で仕事を探し始めた。 そのような過程を経て、2008年3月に私は再び仁川国際空港に降り立った。アメリカのサン・ホセにある エバーグリーン・コミュニティ・カレッジの地域営業部長の職を辞めて、大田の又松大学と、付属のソルブ リッジ国際大学で講師として働くことになったのだ。 大田に定着した私は、度々ソウルまで足を伸ばし翻訳書を捜し求めた。本探しと購入は私の趣味の一 つであるが、私同様に本好きな妻が数ヵ月後に韓国にやって来てからは、本探しと購入は我々夫婦にとっ て、日常的イベントとなった。そんなある日、偶然にも「Portable Library of Korean Literatur」 (韓国文学 文庫版)が手に入った。同シリーズは韓国文学翻訳院の翻訳プロジェクトの支援を受け、ジムンダン出版 社から出版された本である。私が手に入れた本は、キム・ヨンハの短編、『写真館殺人事件』と『エレベータ に挟まれた男に何が起こったか』の英語翻訳書だった。両作品とも優れた作品であったが、中でも私は作 家キム・ヨンハの簡潔な文体に魅了された。 それがきっかけになって、私はジムンダン出版社シリーズを全部読み終えて、自分のブログに書評を Koreana ı 夏号 2011

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書こうと思い立った。韓国文学を共有したいという衝 動からではなく、書評を書くことで私自身が韓国文学 をもっと理解できるのではという期待感があったの だ。時間が経つにつれて、私のブログはもっぱら韓国 現代文学を専門に扱うブログに進化した。今やこの ブログは「韓国現代文学における翻訳(Korean Modern Literature in Translation)」 (http://www.ktlit.com) とい うタイトルで運営されており、エド・パクと私が韓国 の現代文学における翻訳に関する内容を書いている。 私個人の興味から始まった韓国の現代小説探しは、今 やこのように韓国の文学を皆と共有したいという願望 に変わった。 韓国での生活が1年を経過した後、私にとって幸運が舞い込んだ。東国大学校の英語英文学部の通訳・ 翻訳専攻の教授として採用されたのである。ここで私は、心の通う先生たちと研究熱心な学生たちに出 会った。同僚の教授一人ひとりが韓国文学と翻訳の各分野における専門家であり、彼らは自分らの知識を 私と共有してくれた。さらに、私は東国大学校の翻訳学研究所(TSRI)で編集者としても勤めることになっ た。これをきっかけに私はさらに様々な韓国文学に接することができ、韓国人の韓国文学に対する見方に 関しても多くのことを学ぶようになった。 韓国文学を読めば韓国文化に関する新しい発見もあり、一冊の本が韓国を理解する道しるべになる。韓 国の歴史と文化、そして韓国人に関する新しいことが分かるようになる。作品を読む度に、新しいことに 気づく。幻覚状態のように朦朧とした表現のイ・サンの『翼』は、日本の植民地時代の閉塞状態への理解を 助けてくれるし、南北分断を描いた作品を通して、よく分からなかった朝鮮戦争の実態をもっと深く理解 することができた。イ・グァンスの『無情』とヨム・サンソップの『三代』は、韓国社会とその文化が20世紀か らと21世紀にかけて、いかに猛スピードで変貌していったか如実に書き示されている。 もちろん私には理解しがたい部分もあり、『蕎麦の花の咲く頃』の翻訳書を何度も繰り返して読んでみた が、何故この小説がそんなに有名なのかが分からない。ファン・スンウォンの『夕立』も同じである。韓国 人に愛されている短編だが、私には単調で予測可能な内容の作品に過ぎない。おそらく、好みや趣向の違 いからくる感覚の相違なのかもしれない。もちろん、そういう点が韓国文学への興味をそそるということ もある。そうした相違点とともに、グローバル時代に可能な文化の交流を通して発見される、共通点と類 似性は、いつしか韓国文学がさらに多くの世界の読者にアピールする要素になると思われる。

旅を通じての歴史体験 韓国文学を熱心に読む傍ら、私は韓国のあちこちを旅行することになり、韓国の文化全般を体験するこ とになった。例えば、慶州旅行を通して、新羅王朝に関してもっと分かるようになった。タクシーで石窟 庵を訪れた後、金東里・朴木月文学記念館に立ち寄った記憶はまだ新しい。その時私は、石窟庵を見物し たあと、文学記念館に立ち寄ろうと、自分の家族とタクシー運転手を説得しなければならなかった。その 運転手は一度も記念館でお客を降ろした経験がなかったのだ。金東里の『カササギの鳴き声』と『巫女図』を 読んだことがあり、記念館で作品原稿の実物を見たことは貴重な経験であった。さらに親切なガイドが私 に付き添って、写真を撮ってくれたのも特別な経験であった。また春川を旅行しながら金裕貞文学館を偶 然訪問することになったが、それもまた楽しい経験であった。それは、ジムンダン・シリーズで読んだ作 品の一つに『椿の花』があったためだ。その文学館で私は写真を撮ったり、下手な韓国語で話しかけたりし

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Korean Culture & Arts 韓国の文化と芸術


今年5月に江原道を旅行した際、キム・サッガッ文化センターに立ち寄った。イ・ムンヨル(李 文烈)の素晴らしい小説『詩人』を読んだ直後であった。キム・サッガッが渡り歩いた地域を訪れ て、文化センターに収蔵されている原稿や美術品、そして昔の建物やこの放浪詩人のお墓など を通して、まさに歴史そのものが「蘇る」ような現場を目の当たりにした特別な体験であった。 ていたが、親切な記念館のガイドが我慢強く私の話を聞いてくれ

ると、画面の最初に登場するのがウィキペディアのサイトである。

た。

ところが、ウィキペディア辞書は韓国文学と作家に関しては、非

それからも私の文学行脚は続き、去年5月に旅した江原道では

常に簡単な情報しか提供していない。私は既存の情報の内容を修

キム・サッガッ文化センターに立ち寄った。イ・ムンヨルの小説『詩

正し、新しい情報を作成し始めた。こうした私の取り組みに対し

人』を読んだ数ヶ月後のことである。キム・サッガッが 流れ着いた

東国大学校のキム・スンヨン教授が関心を示し、彼女は大学当局に

地域を訪問し、文化センターに収蔵されている原稿や美術品、そ

私の作業を報告した。東国大学校は現在、英語圏サイトを対象に

れから昔の建物とこの放浪詩人のお墓などを見て回ることで、文

韓国文学に関する情報を発信する作業を拡大するために特別プロ

字通り歴史そのものが蘇ってくる瞬間を体験をすることができた。

グラムに取り組んでいる。もちろんまだやるべきことは多い。

韓国文学の翻訳も着実に増えている。朴婉緖の『その多かった

まず韓国という国の「ブランド」イメージが一貫性を持った形で、

シンアは誰が食べたのか』は二人の母親と娘を中心に、波乱に満ち

外国人にきちんと認知されなければならないし、そのイメージは

た家族の歴史を韓国の現代史の中に絶妙に織りこんでいる。また、

持続的に世界の人々の脳裏にインプットされなければならない。

今年秋にはキム・ヨンハの『光の帝国』がアメリカのハーコート・ブ

次に、韓国文学の翻訳作業にさらに取り組まなければならない。

レイス出版社から出版された。韓国の文学が新しいスタイルと

その取り組みとは、「正しい」作品の選定と関係がある。正しい作

ジャンルをもって英語圏の読者に紹介されている現在、韓国文学

品とは、英語圏読者の興味を引くような作品のことをいう。また、

のファンになることは非常に楽しいことである。

流暢で読みやすい英語に翻訳できる翻訳者を探す取り組みが必要 である。つまり、関心のある読者が翻訳書と作家、そして広い意

ウィキペディア ・プロジェクト

味で、韓国文学へのアプローチを容易にしてくれる。

韓国文学に関する私の知識が蓄積されていくにつれて、当然注 目を集めていいはずの韓国の文学が、国際的にあまり知られてい

図書館の設立

ないことに気づいた。アメリカとイギリスにいる私の文学仲間か

私の韓国文学への探訪は今も続いており、新しい発見は常に私

らもその現状を確認することができた。彼らに自分が読んで勉強

を驚かせる。週に一度、ソウルにある外国語書店に立ち寄ること

した韓国文学のことを語れば、彼らは丁寧に反応してくれるが、

は私の日常の一部になっている。自分自身に課したミッションは、

しかし作品と作家に関しては始めて耳にしたようだった。実際、

これまで出版された韓国の現代文学の翻訳書をすべて収蔵し、私

俳句や歌舞伎は知っていても、時調やパンソリのことを知ってい

設図書館を建てることである。

る人は誰もいなかった。私はこうした現状が理解できなかった。

そんなことが果たして可能かどうか。

インターネットを検索してみると、韓国の文学は国際的な文学賞、

ひょっとすると不可能かもしれないが。

または外国の作品や翻訳書の書評を扱うサイトでもほとんど取り 扱われていなかった。私は韓国文学の認知度が高まれば、国際舞 台でもきちんと評価されると信じている。

前を見つめて 私の韓国文学への探訪は、私が45歳の時、つまり6年前にス

これをきっかけに、私は「ウィキペディア・プロジェクト」に着手

タートした。過ぎ去った日々を振り返ると冒険のような毎日だっ

した。英文ウェブサイトに韓国文学に関する情報を提供すること

た。行く先々で常に新しい出来事が生じ、手にした一冊一冊の本

で、韓国文学への理解を広めることがこのプロジェクトの目的だ。

を通して、私は新しいことに気づかされた。このような経験は韓

英語を使うネット・ユーザの8割程度はまずグーグルを通じて情

国文学を英語圏の世界に発信することができるという、貴重な贈

報を検索するが、「韓国文学」や他の情報を検索するとしよう。す

り物である。(翻訳:趙祥恩)

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インタビュー

洋館と韓屋の二つの異なる空間を一つにした、ソウル北 村にあるイタリアンレストラン「嘉会軒」

の100年間、自分たちの作品をめぐる都市環境

20世紀後半になるとモダニズムのインターナショナルスタイルが折衷的で

に対して論評した偉大な建築家たちが大勢い

多方面的なポストモダニズムにその地位を譲り、状況が変わる。建築家は都市

る。20世紀初期と中期には建築家たちは都市を否定的

を発見とインスピレーションの場所だと考え、その可能性に関心をもつように

な視線で眺め、都市の混乱に秩序を与えようとした。

なる。例えば、国際的な名声を得ているポーランドの建築家 レム・コールハー

『インターナショナルスタイル』の開拓者の一人である

ス(Rem Koolhaas)はニューヨークに対して討論しながらも即興的で偶然的な

スイス生まれのル・コルビュジエ(Le Corbusier)は鋼

都市の暮らしの性格を肯定的に評価した。都市理論においてポストモダン的転

鉄とガラス、そしてセメントの建物でできた計画され

換はいくつかの類似した運動を引きおこした。例えば ニューアバニズム(New

た地域社会を作ることで都市を浄化しようとした。ま

Urbanism;北米で起きた都市設計の動き)、ニューペデストリアニズム(New

た大西洋の向かい側のアメリカでは、アメリカ建築史

Pedestrianism;新歩行者主義)、スロウ・シティ(slow cities:スローな暮らし)

で最も名声を博した建築家フランク・ロイド・ライト

などである。これらはインスピレーションを与える都市空間を地域経済の繁栄

(Frank Lloyd Wright) が都市に対して同じように否定的 な見解をもち、巨大な緑の空間を分散的に造成するこ とで都市を住みやすく出来ると主張した。

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や強い共同体意識と連結して開発しようというものだ。 他のすべてのものと同じように韓国で起きている急速な変化は昔のものと新 しいものを調和と緊張の中で共存させている。しかし日本の植民地時代に始まっ

韓国の文化と芸術


黄斗鎭と 建築の可能性

ファン・トゥジン(黄斗鎭)はソウル旧都心の望ましい未来像を示そうとしている中堅建築家だ。永 い歴史と文化を備えてはいるものの、経済的な中心からははずれてしまった昔の町並みを伝統と 現代が共存する活気にあふれた文化空間に生まれ変わらせることが彼の建築の核心だ。 ロバート・パウジャー(Robert Fouser、ソウル大学韓国語教育学科助教授)

たソウルの都市の現代化は、ヨイドと江南に新しい計画

パウジャー: 中央日報であなたが西村を非常に好きで、それでここに引越し

が推進し地域共同体が開発され始めた1970年代まではほ

てきたという記事を読みました。いつ頃、そしてなぜ引越しされたのですか。

とんど休業状態だった。この1970年代の開発により大通

黄: ここには2002年に引越してきました。当時、近くの孝子洞で建築の仕事

りと巨大なアパート団地というモデルが誕生し、それが

がありそれで西村にもたびたび来ていました。その時にここがとても気に入

韓国の都市計画を主導し現在に至っている。

り、それでここに家を建てることにしました。歴史と自然(仁王山が目の前に

建築家の黄斗鎭は、現代のアパート団地のモデルに

見える)の混ざったところが気に入りました。そして多目的な用途の地域の雰

代案を示す新しい世代の中堅建築家の一人だ。アパー

囲気も好ましく思われました。この町では時間が何層にもなって積み重なって

ト団地が次第に都市の風景を掌握するようになり、そ

いる感じがします。

のような都市モデルへの批判が2000年代後半からおき 始めているが、それに変わる新しい代案を示す人間は

伝統村の保存と開発

さほど多くはない。2011年3月、ソウル西村の通義洞

パウジャー: 私も2009年に楼下洞の近くで暮らしたことがありますが、当時

にあるスタジオで黄斗鎭に会い、その新しい代案の見

はこの地域は再開発と保存という相反する立場が激しく対立していました。ソ

解についてインタビューした。

ウル市はその後、この地域の伝統家屋を保存する計画を立てました。このこと

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「『虹のモチ』が何だかご存知ですよね。いろ いろな色が調和をとりながら層を成してい る美しいモチです。このモチのアイデアを 多目的な用途の2、3階建の建物を建てるの に応用してみました。こんな形態の建築構 図が現在の建築コードとマッチし、すでに 商圏が造成されている西村にピッタリだと 思うんです」

嘉会洞の韓屋。黄斗鎭は文化財でも、 改良された韓屋でもない、 現代式の創作韓屋を追求している。

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韓国の文化と芸術


についてはどう思われますか。

功したと言えます。北村の伝統的な都市景観がだいぶ残り、多くの韓屋は魅力

黄: 私は雰囲気というものを重視します。西村がな

的な住居空間に生まれ変わりました。初期段階においての保存ガイドラインは

ぜ特別なのかを考えてみる必要があります。何を保

少し偏狭な面があったのですが、その後、もっと創意力を発揮できるように緩

存すべきで、何を開発すべきかを考えるべきです。例

和されました。本当に幸いなことです。なぜなら復旧された韓屋の大部分がほ

えば、大部分の人々は韓国の伝統家屋である韓屋と路

とんど同じ形をしていたからです。

地、歴史的な地形や遺物、そして自然環境を保存すべ

パウジャー: 私は今、北村の心臓部だといえる桂洞に住んでいますが、私の

きだということには同意するでしょう。また一方で、

目にもそれは良く映ります。北村に建築を頼まれた仕事がありますか。韓屋の

開発しなければならないものもあると思います。下水

デザインはどのくらいされましたか。

道のようなインフラが老朽化すれば、それは改善が必

黄: 北村にある8軒の韓屋をデザインし、京畿道では非住居用の韓屋の建物

要です。もっと重要なのはこの地域がより高い人口密

をデザインしました。しかし西村ではまだ1軒もありません。最初は伝統的な

度を通じて利益を得るようにするということです。光

建築原理に厳密に従っていましたが、経験を積み、最近ではもう少し個性的な

化門から10分以内でアクセス可能な市内の中心に位

形態を作るために他の要素も加味しています。例えば、韓屋に現代的なインテ

置しているのに、密集度は世界の主要都市に比べて非

リアの地下室を設けたことがありましたが、そこには韓国の伝統的なデザイン

常に劣ります。密集度が高まれば活性度も高まり、地

要素はほとんど含めませんでした。

域経済にもプラスになります。それで密集度が重要に なってきます。またこの地域は山が近いなど、自然に ふれやすい環境ですが、地域内には小さな緑の空間は あまりありません。 パウジャー: 韓屋は普通、庭園がついた平屋です。

パウジャー: 保存の努力がまだ十分でないと批判する人もいます。その意見 に対してはどうお考えですか。 黄: 問題は批判の大部分が保存をヨーロッパ式に定義しているから起きるの だと思います。これらの批判は、ヨーロッパの都市は何世紀もの間、持続的に 相当な高さの人口密度を維持してきたという事実を見過ごしているのです。こ

密集度を高めながら、一方で韓屋を保存していくには

れはアメリカ東部海岸にある古い都市も同様です。それに対して朝鮮時代のソ

どうすれば良いですか。

ウルは大体が人口密度が低い平屋の都市でした。多くのものが密集して集まっ

黄: はい、簡単ではないことはよく分かっています。

ていても、人口密度はヨーロッパの都市と比較すれば比べ物になりません。ソ

しかし西村にはまだ使われていない空間がたくさんあ

ウルでの保存努力は、人口密度を高めるという現在の要求と併行しなければな

ります。ですから韓屋を保存しながら韓屋のない地域

りません。しかし北村の場合に限っては、その伝統的な都市景観と独特な雰囲

は密集度を高めていくのです。『虹のモチ』が何だかご

気を守るためには密集度を犠牲にすることになっても致し方ないと思います。

存知ですよね。いくつもの色が調和をとり何段重ねに なっている美しいモチのことです。このモチのアイデ アを多目的な用途の2~3階建の建物を建てるのに応 用してみました。例えば、1階は商店と事務所、あるい

西村と北村、そして江南 パウジャー: 私は西村と北村の両方に住んでみましたが、依然としてこの二つ の地域の雰囲気を描写するのは難しいと言えます。先生はどうお考えですか。

はビジネスの為の作業場として使用し、2階と3階は住

黄: 私にも難しい質問です。私は二つの地域をどちらも好きです。北村にもよ

居用にするというものです。こんな形態の建築構図が

く行きますし、また好きです。慣れない人は北村は傾斜が多いと感じるでしょ

現在の建築コードとマッチし、すでに商圏が造成され

う。一方、西村は平地です。地形のせいで二つの地域は非常に雰囲気も違いま

ている西村にピッタリだと思います。このような建物

す。北村は少し重く落ち着いた雰囲気をしており、歴史の重さを感じることが

の構造は韓国の他の旧都心地域を多目的な用途で開発

できます。西村はより多彩で活動的な感じがします。もっと都市的ですよね。

する時に一つのモデルとして提示できると思います。

私にとって西村は家そのものであり、そこに属しているという感じがします。

パウジャー: 面白いお話ですね。それではちょっと 景福宮と北村地域を見てみましょうか。この地域にあ る韓屋を保存しようという努力に対してはどうお考え ですか。

パウジャー: 話の幅をもう少し広げてソウルという都市について考えてみた いと思います。ソウルについてはどんな思いがありますか。 黄: ソウルは特定の一つのカテゴリーでは最高というわけではありません が、いろいろなカテゴリーを総合した時には相当高い点数を得ることができる

黄: その努力は非常に遅く始まりました。北村をほと

と思います。ソウルは昔のものと新しいものが結合された都市です。また自然

んど忘れてしまうところでした。しかしその努力は成

も残っています。その点を人々は見過ごしていると思います。何よりも私の生

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1. 漢方病院「春園堂」。漢方薬を煎じる様子が透明ガラス越 しに外から見えるように設計されている。 2. 黄斗鎭がデザインしたスウェーデン、東アジア博物館の 韓国館内部の様子。

1

活にオンラインとオフラインの双方から力動的なエネ

リズムの伝統を受け継ぐものですが、形式は機能を追うという考えに基づいて

ルギーを受けることのできる都市です。ソウルはオン

います。私の作品はミニマリズム的というわけではありませんが、不必要なも

ラインデジタル都市としての姿が強く、これは物理的

のを追求することは好きではありません。ルイス・カーン(Louis Kahn)は私の

なオフライン都市と平行して現れており、この二つの

好きな、もう一人の建築家です。フランク・ロイド・ライトも好きですが、それ

間の相互作用は非常に興味深いものがあります。

は彼の作品が地域に深く根付いているからです。彼の場合はアメリカの中西部

パウジャー: 江南についてはどう思われますか。 黄: 江南は1960年代に、ソウルのひどい人口密度を 緩和するために居住地としてデザインされた地域で す。しかし公共基盤施設が必要以上に多く建てられ、

地域でしょう。結局、偉大な建築は地域性から生まれるものだと思います。 パウジャー: 受けた影響が興味深いですね。次はあなたの人生と成長過程に ついて少し教えてください。 黄: 私の両親は朝鮮戦争当時、北朝鮮を脱出したので、私も韓国に定着した

自然が不足しています。江南と江北の旧都心地域は完

失郷民の一人だといえます。私は北朝鮮にある祖先の墓を訪れることができま

全に違った別の都市です。従って都市計画にしても一

せん。それで常に周囲の人と自分は少し違うと感じてきました。私は教育を重

つの基準でこの二つの地域にアプローチすることは不

視する中産階級の家庭で育ち、ソウル大学で学士と修士をとりました。その

可能です。

後、エール大学で建築学で修士をとり、そこで初めて地域性に関心をもつよう になりました。なぜならエール大学がニューヘブンという、その当時非常に問

注目される建築物 パウジャー: ちょっと難しい質問になるかもしれま せんが、どんな建築家があなたの考えや作品に影響を 与えましたか。 黄: たぶんミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies

題の多かった地域社会に積極的な関心を示していたからです。エール大学は世 界的な教育機関として全世界から学生がやって来ますが、学校はその地域社会 に 多くの関心を払っていました。それが私には非常に印象的でした。 パウジャー: 最近の作品についておたずねします。現在進行しているのはど んな作品ですか。

van der Rohe)から最も多くの影響を受けたと言えるで

黄: はい、建築において地域性が重要だとお話しましたが、私の地域性は韓

しょう。ほとんど大部分がガラスと鋼鉄でできている

国、さらに絞ればソウルの西村だと言えます。私がデザインする現代的な建物

彼の作品はミニマリズム的です。バウハウスのミニマ

は私の地域性を反映しており、また反映しなければならないと思います。例を

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韓国の文化と芸術


2

一つあげると、2008年に鍾路3街にある漢方病院の春

窓からスウェーデン特有の景色を眺めることになるのですが、私は韓国の芸術

園堂漢方博物館をデザインしました。春園堂は1847年

が展示された空間の中に地域性を引き込みたかったのです。展示場の『韓国的

に創立されたソウルで最も古い漢方病院です。この病

なもの』と景色の『スウェーデン的なもの』を調和させたかったのです。また平

院は7代にわたり、170年間受け継がれてきた個人病院

穏な雰囲気は韓国の伝統的な室内デザイン を連想させます。

です。漢方は伝統的な方式で自然の材料を煎じて薬を

パウジャー: 最後に今後の計画は?

作ります。薬を作る長い歴史とその伝統的な調剤方式

黄: これまで私は自分の住んでいる地域に根を降ろして非常に地域性の強い

が私にインスピレーションを与えました。デザインを

建築家として活動してきました。これからは私の地域性の範囲をもう少し広げ

する際に薬を煎じる場所を建物の前面にそれもガラス

て、海外のほかの地域ともっと交流したいと思います。私の地域が提供できる

張りで作りました。普通は視野に入らない建物の後ろ

ものを他の地域と共有し、他の地域からは新しいものを学びたいと思ってい

の部分に設置するものです。また他には2009年に 漢江

ます。ストックホルムプロジェクトは他の地域に対する私の最初の試みでした

にかかる3本の橋の上に5つのコーヒーショップをデ

が、どんな反応があるか楽しみです。

ザインしました。このコーヒーショップは橋よりも少

パウジャー: 多くの時間を割いていただきありがとうございました。私の心

し高いところに作られているので、人々はソウルの重

は依然として西村にありますが、今日はとてもよい隣人とお会いできた気がし

要な自然景観である漢江を新たな視点から眺められる

ます。

ようになりました。 黄斗鎭と話しながらジェイン・ジェイコブズ(Jane Jacobs)を思い出した。

スウェーデン東アジア博物館韓国館内部のデ

その著書『アメリカ大都市の死と生』 (1961年)で彼女は都市デザインのために

ザイン

高速道路を作り、すでに存在する構図を『現代的』にするために破壊してしま

パウジャー: いろいろなお話を伺ってきましたが、こ

うモダニズム的な接近を批判している。都市が生命力を失わないためには『4

れからは韓国という枠を抜け出し、国際舞台に話を移

つの多様性の原動力』が必要だと彼女は力説している。すなわち、密集度、多

したいと思います。海外で手がけた作品はありますか。

目的な用途、建物間の距離の短縮、建物の年齢と状態においての多様性がそれ

黄: はい、あります。ドイツのフランクフルト展示

だ。彼女の本は密集度と『混乱』がいかに生命力のある都市空間をつくるのに寄

会に参加したことがあり、アメリカではいくつかの大

与しているかを力説している。ジェイコブスはストックホルムを訪問したこと

学を回りながら建築の講義をしました。また海外での

はないが、そこは彼女の言う「4つの多様性の原動力」に完璧に符合する町だ。

最初の作品はストックホルムの東アジア博物館の韓国

黄斗鎭を初めとする他の建築家にもそこが魅力的なのだろう。黄斗鎭 は韓国

館内部のデザインで、ここは2011年10月にオープン

の伝統家屋を『虹のモチ』をヒントにした多目的利用という概念で復活させ、

します。韓国館は博物館の建物の一番奥に位置してお

韓国の旧都心地域を活性化させる解決策を示した。それは十分に実現可能な提

り、休憩のとれる魅力的な空間です。デザインのポイ

案だ。密集度にもとづいた多目的な用途というアプローチを通して彼は他の地

ントは長いベンチの椅子ですが、そこから目の高さの

域の建築家に都市問題を解決するためのインスピレーションを与えた。(翻訳:

窓を通して港と都市の景観を眺めることができます。

金明順)

Koreana ı 夏号 2011

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世界の中の韓国人

グッゲンハイム美術館で「無限を表す」

イ・ウファン

ヨーロッパを中心に活動してきた画伯イ・ウファンさんが、ニューヨークのマンハッタンにあるグッゲンハ イム美術館で大規模な回顧展を開く。「無限を表す」と題した今回の展示会では、1960年代初期から現在に 至る彼の作品世界が披露される、ドローイング、ペインティング、彫刻など、90余りの作品が展示される 予定だ。 チョン・ヒョンモ(鄭亨模、中央サンデー文化エディター)| 写真 : The Guggenheim Museum

66 1

韓国の文化と芸術


「彼

は偉大なアーチストであると同時に哲学者で もある。ミニマリズムやポスト・ミニマリズム

の彼の作品と文章は他に類を見ない。彼は主に日本と ヨーロッパで活躍してきたので、アメリカではあまり 知られていない。今回アメリカで展示会がようやく開 かれることになったが、遅い感じがする」 ニューヨークのグッゲンハイム美術館の主席キュ レーターであるアレクサンドラ・モンローさんの話で ある。4年前からイ・ウファン(李禹煥、75)さんの展 示会を準備してきた彼の話は、なぜグッゲンハイムが イ・ウファンを選んだのかという疑問に対する答えに なるだろう。

作ることへの否定 グッゲンハイム美術館は毎年1~2人の現役作家

2 1. 石と鉄板を用いた設置作品「関係項(Relatum)」シリーズの1作品、 「Relatum-a signal」 (2005) 。 2. 石と鉄板の間に存在する緊張や対話を創作のテーマにする彼は、作品に使う 石を求めて世界を歩き回る。

を選定して美術館全館にその作品を展示してきた。こ れまでヨーセフ・ボイス(Joseph Beuys)、マシュー・ バーニー(Matthew Barney)、クレス・オルデンバーグ

創造に対する否定とは何か。彼は近代以降、美術のほとんどが「再構築」さ

(Claes Oldenburg)など、実験精神に徹した巨匠らが展

れたと言う。作家の頭の中で一度生じた原型を単に目に見える形にコピーした

示会の主人公であった。アジアの作家としては韓国の

ものであるという意味である。「もの派」はそういう現実に疑問を投げかけるこ

ぺク・ナムジュン(白南準、2000年)、中国の蔡国強(Cai

とから始まる。「もの派の作家にとってモチーフは単に制作のきっかけに過ぎ

Guo-Qiang、2008年)に続いて、イ・ウファンさんが三

ない。重要なのは制作される「もの」と「時間」と「場所」が作品に大きく働き、反

番目の展示会となる。展示会のテーマは「無限を表す

映されること」という説明である。言い換えれば「自分の考えは半分程度に限定

(Marking Infinity) 」である。

させ、残りは見えるものと見えないもの、外と内をつなげる試み」 といえる。

彼はもの派(1960年代末から70年代代初頭に日本で 展開された美術運動)を率いてきた代表的な作家とし て知られる。彼はもの派の運動が始まった背景から説 明してくれた。 「1960年代末、キネティック・アート(Kinetic Art)

観覧客のエゴに迫る設置作品の数々 そういう面で点を打って、線を引いて、岩と鉄板を巧妙に配置する彼の作 品を貫くキーワードは「余白」である。彼は自分の本『余白の芸術』で「余白」に ついて以下のように説明している。

というものが日本社会に上陸した。これは錯視現象を

「自分の芸術は、自分の想像する部分を限定させ、自分の想像していない部

誘発する、一種のトリックであった。存在するもので

分を受け入れることで、浸透し合ったり、拒んだりするダイナミックな関係を

もなく、しないものでもない、間違いとも正しいとも

創り出す。この関係作用によって詩的で批評的で、また超越的な空間が開かれ

言えないもの、目の前にあるものであっても信じられ

ることを期待する。私はそれを〈余白の芸術〉と呼ぶ。しかし、ただの空いた空

ないと考えさせる。そのため、現実を曖昧にさせるユ

間を余白とは言えない。それはリアリティが欠けているからだ。例えば、太鼓

ニークな現実批判に衝撃を受けた。1968年は 世界的

を打てば音が周りの空間に響き渡る。太鼓を含めたそのバイブレーションの空

に非常に重要な時期であった。イタリアでは前衛的美

間を私は余白と呼びたい」

術運動であるアルテボーヴェラ(Arte Povera、貧しい 芸術を意味し、日常的な素材を活用して、作品の置き

アレクサンドラ・モンローはこれを改めて〈関係〉という言葉で説明した。 「彼の設置作品である岩と鉄板を見ると、鉄は産業を意味し、都市とビルを象

方や展示空間に意味を加え、作品に対する視点を広げ

徴する。反面、岩は自然である。イ・ウファンはその二つの〈関係〉に注目し、

た)が現れた。その脈絡からもの派は産業生産に対す

彼らの対話を表現する。これは非常にコンセプトに充実していてダイナミック

る批判、創造への否定を掲げた」

である。アメリカ人観覧客のエゴに衝撃を与えるだろう。外部にある何かが自

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「自分にとって絵とは、高く、遠く、 大きな世界を感知できる仕事でなけ ればならなかった。見るという行為 を超えて、空間が豊かに開かれ、絵 の彼方にあるもっと大きな世界を経 験できる刺激を与えたかった」

に留められた。美大生活にあまり興味を持てなかった 彼は、新しい勉強に挑むことを決意した。文学だった。 ところが、文学を勉強するためには、まず思想と哲学 を勉強する必要があった。彼が日本大学の哲学科に編 入した所以である。しかし、外国語を学びながら文学 を勉強することは簡単ではなかった。 「政治にも関心があって探ってみたが、結局は諦め た。反対のため反対は自分の性格に合わなかった。そ れからは、絵を描く仲間と親しくなり、ちょこちょこ と絵を描くようになった。しかし、自分の絵は違わな 1

ければならなかった。目の前にあるものをそのまま描 いてはならなかった。自分にとって絵は高くて遠く、

分の胸の中に浸透してくることを感じるだろう。作品

大きな世界を感知できるようになるべきだった。視覚を超えて空間が豊かに

の他の何かをそのまま受け入れる体験をしてもらうこ

開かれ、絵の彼方にある大きな世界を経験できる刺激を与えたかった。もちろ

とが今回の展示会の目的である」

ん、これはかなり時間が過ぎた後に整理された概念である」

「自分の絵は違うものであってほしかった」 彼はなぜ見えないものを盛り込もうとしたのか。

グローバル・ノマド 今や彼は韓国を代表する作家になった。2009年に世界の美術品オークショ

1936年に慶尚南道で生まれた彼は、幼い頃、漢学者か

ンでもっとも高額の作品が売られた韓国人作家が彼である。世界的な美術市場

ら絵と書道を学んだ。当時の先生は彼の絵を褒めなが

の分析専門サイトである「アートプライス(www.artprice.com)」の「2009定例報

らも、絵を描くことは薦めなかった。「絵描きは男のや

告書」によると、2009年のオークションで落札された彼の作品の総額は416万ド

るべきことではない。学者や政治家になるべきである」

ルで、164番にランクされた。生存作家としては30位、生存しているアジア作

と言った。幼いイ・ウファンは戸惑った。それで、対象

家としては13位である。彼の作品は計65回もオークションに掛けられ、単一

を見てそのまま描く絵は、レベルの低いもの、大切で

作品として最高落札価格は69万6600ドルだった。1973年から2007年までは東

はないものだと考えるようになった。そして彼は〈見え

京の多摩美術大学で教え、パリのエコール・デ・サボールの訪問教授としても指

ない音楽〉 が相対的に素晴らしい芸術だと考えた。

導した。多くの勲章も受けた。2010年安藤忠雄の設計で日本の瀬戸内海に浮か

1956年にソウル大学美術大学に入学した彼は、その 年の夏に日本に渡った。叔父に漢方薬を渡すように父 親に命じられたのだ。しかし、叔父によって彼は日本

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ぶ直島にオープンしたイ・ウファン美術館は、一日最多1700人の観覧客が訪れ るアート・ツアーの名所になった。 現在は日本とヨーロッパを往復しながらグローバル・ノマドとして活躍して 韓国の文化と芸術


1.「関係項(Relatum) 」シリーズの1作品 「Relatum - silence b」 (2008) 2. ぐるぐる巻かれた鋼鉄を下方に押したような グッゲンハイム美術館の建物 3.「線から」 (1977) 4. 対話(2010)

3

2

4

いるが、これまで彼は、自分の芸術を守るために、世

るぐると上がったり、下ったりしながら作品を鑑賞する仕組みになっている。

の中を相手に孤独な戦いをしてきた。

リチャード・アームストング館長ですら、「美術館の空間があまりにもユニーク

「私は美大出身でもなく、後援者もいなかった。生

であるため、普通の作家は空間を完全に掴めにくい。それで、非常に強いパー

き残るために前向きになるしかなかった。初めは歓迎

ソナリティが求められる。アーチストとしてはかなり大きな挑戦になる」と述

されるように見えたが、目立つようになってからは批

べてはばからない。

判され、疎外された。仲間はずれにならないために、

空間と作品の調和を目指す彼は、ショッピングモールのウィンドーみたい

戦いながら生きるしかなった。さらに、韓国では日本

な空間には馴染めなかった。そのため、白いキューブの形をした別室を要求し

人扱いされ、日本では朝鮮人と呼ばれ、ヨーロッパで

た。ところが館長は「それなら全館とホワイト・キューブをすべて使ってくださ

は東洋人として見なされ、推薦されてもリストから外

い」と、かえって規模を広げた。

され…常に境界人であり、一人ぼっちだった。それで

「数回にわたって検討した結果、ぐるぐる回りながら見返しても作品が見

も『差別のためやれない』という言葉を発した覚えはな

えることから、新しい試みになると思った。ホワイト・キューブではない、

い。それを言葉にした瞬間、自分は敗者になるから

ちょっと変わった空間を前向きに活用しようというやる気が生まれた。今回の

だ」

展示会ではドローイング、ペインティング、彫刻など、90余りの作品が見られ

その彼にとって今回の展示会は新しい挑戦である。

る。自分の作品が新しい空間でどんな物語を聞かせてくれるが楽しみである」

グッゲンハイム美術館はユニークな空間である。鉄の

展示会は6月24日から9月28日まで、サムスングループと韓国国際交流財

巻かれたねじを下方に押さえたような形のフランク・

団、日本国際交流基金、カーペンター財団などの後援で開かれる。(翻訳:趙祥

ロイド・ライトの白い建物は、斜めの廊下に沿ってぐ

恩)

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オン・ザ・ロード

ソウルの「北村」に古い瓦屋根の韓屋がそのまま残っている町並みがある。光化門広場や普信閣のあるソウ ル都心部の北側に10余りの集落が高いビルの合間を縫うように連なっている。行政区域としては、ソウル 鍾路区三清洞と嘉会洞を指し、景福宮と昌徳宮の間に位置している。 キム・ユギョン(金裕卿、フリーランス・ジャーナリスト)| 写真 : 河志権

北村、昔懐かしいソウルの町を歩く

70

Ko re韓国の文化と芸術 a n Cu l tu re & A rts


村には朝鮮時代、歴史の中心地で暮したソウルの人々の精神的暮らしと生活文 化がそのまま残っており、古き良きソウルを象徴する処だ。北村の範囲は4大

門の内外に及び、文化形態としては儒教、仏教、シャーマニズム、学問に関する場所 やいくつかの儀礼が残っている。 北村の瓦屋根の町並みが観光地として知られるようになり、ここを訪れる人々は 安国洞を通って三清洞までの道中、ソウルの精神文化といえる伝統に触れようとする。 今でこそ注目されている北村だが、わずか10数年前までは、江南が活気に満ちて、 新しい文物の流入で栄えたことに比べて、北村は旧来の韓屋と閉鎖的な宮殿、朝鮮時 代の遺物が集まった廃れた村としてしか認識されなかった。 さらに政府の政策として、韓屋を撤去し最新建築の住宅地に建て替えられるので

Koreana ı 夏 S u号 mme2r0 121011

嘉会洞の路地裏に佇む韓屋の町は、北村の風景の 中でも一番の見どころとなっている。

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1

1. 伝統韓屋の垂木に掛けられたモ ダンな照明が現代韓国人の韓屋暮 らしぶりを象徴している。 2. 三清洞の道。ここ十年の間、北 村の中でもっとも賑やかな街に様 変わりした。

はないかと懸念された時期もあった。

されている。この町にある朝鮮最高のお金持ち

現在、北村にある集合住宅と直線状

だったパク・フンシクの家は、このころの富裕層

に拡張された道路は、その政策が施

の憧れとなつている。

行された1990年代の負の遺産であ る。

伝統文化の中で、近代化と改革の本山として 耐え抜いてきた北村は、韓国の精神文化を代表す

その間に多くの韓屋が変化に合わ

る所になった。ある著名な音楽家がここを散歩す

なくて消滅していった。昔から暮らしてきた北村

ると、地元の人々から「あっ、ここに引っ越して

住民らは、この頃の北村は「軽すぎて昔の家のよ

こられましたね」と声がかかってくる。隣同士で

うではない」と嘆く。北村の入り口にある安洞別

キムチを分け合ったり、お餅を配って歩くことも

宮のような「宮家(宮殿ではないが、王室の親戚ら

ある。地理的にもここは日のよく当たる南向きの

が住んでいた大型の韓屋は宮と呼ばれていた)」や

丘に位置し、さらに都心に近い割には空気はきれ

広い敷地の韓屋は、近代化の荒波に晒され消えて

いな上、眺めも美しい最高の地区として知られて

いった。家屋や路地の喪失とともに精神も変質し

いる。

てしまった。

北村を訪れる人々であれば、安国洞の地下鉄 駅の大道りから北側に通じる4~5本の路地があ

北村の復興

72

るが、いずれも北村に通じていて、適当な所で腰

歴史に翻弄されてきた北村だが、伝統に対す

を下ろしたりゆっくりと時間を過ごすこともでき

る自信を取り戻しその深いルーツと価値が再確認

る。道の中でも景福宮の塀に沿って三清洞に入る

韓国の文化と芸術


2

900棟以上の瓦屋根の家が集まっていて、色褪せた古い瓦に、くねくねと連な る屋根の美しい曲線に懐かしさがこみ上げてくる。路地を挟み両側に韓屋が向 かい合う唯一の集落である。

大道りが一番アクセス性が良い。この道は、右

年前から捧げる花供養だそうだ。路地裏には新人

側の小高い孟 峴 丘に並行して、三清トンネルま

のアーチスト達が不確実な未来に向けて、何かを

で1.5キロほど続く。道の両側は住宅街だったが、

実現しようと取り組んでいる工房のような画廊が

ここ数年の間に、商店街に様変わりし、道行く車

立ち並ぶ。

と人出でいつも賑やかだ。

人々はゆっくりと歩を進めながらも見物に忙

ここは現在北村でもっとも活気に溢れる道で

しい。歩道の幅が狭いうえに勾配も激しいため歩

あり、様々な国籍のレストランやカフェ、美術館

きづらいが、それさえも三清洞の生命力として受

を見かけることができる。また、静かな場所で瞑

け止められる。そのように、路地裏を歩き回り、

想したり、休憩をとることもできる法蓮寺の屋外

崖の上を上ったり下ったりすることで町の歴史を

法堂もある。ここには専門家の手による可愛い植

懐古する時間となる。時が止まったような路地か

木鉢が置かれているが、このお寺のある信者が数

ら目と鼻の先に光化門があり、何時でも都心に戻

Koreana ı 夏号 2011

73


韓屋が立ち並ぶ懐かしい路地裏 は、今やわざわざ遠くから人々が 訪れる、北村の名所になった。

74

れる点も嬉しい。

北村ならではの雰囲気

三清洞の道路際に高く聳えた丘があるが、14世

この町では、道を歩きながらアーチストの温

紀初め、政治家のメン・サソンが牛に乗って笛を

もりが感じられる品物にも出会える。小さなガラ

吹きながら越えていたということから、メンヒョ

スケースの中に、蓮の葉っぱの形をした青磁の薬

ンという名が付いたらしい。今では牛の代わりに

缶があるかと思えば、骨董品を扱うお店もある。

車が往来する。

しかし、三清洞での散策を妨げる障害もある。そ

大道の両側には、文化界における巨大資本の

れは車が多すぎることである。人出の多い週末と

象徴といえる大型画廊や華やかなお店が立ち並

もなれば、人の波に押されながら歩くしかない。

ぶ。40年前からこの町で伝統服のお店を経営し

嘉会洞の路地裏に佇む韓屋洞は、北村の風景

ているデザイナー、イ・リサさんは、「北村といえ

の中でも精髄といえる。瓦屋根の家々が立ち並ぶ

ば、気が引き締まる雰囲気があります。江南の方

町を通り過ぎるのは、高層マンションの町を通り

で店をやれば、もっと儲かるかもしれませんが、

過ぎる時とはかなり雰囲気が違う。見知らぬ人が

政府関係の機関が集まっていて、令夫人など、

住んでいても、色褪せた古い瓦に屋根の曲線や生

様々な階層の服の着方を観察するには北村が打っ

活空間に慣れ親しんできた懐かしさを感じると同

てつけです。高級服とか、流行の服とか、華やか

時に、ソウル市民特有の親近感も感じられる。こ

な服だけでなく、儀典の細かなところまで知り尽

こは路地の両側に韓屋が向かい合う唯一の町であ

くしていなければ、高級服は着こなせないことが

り、600年の歴史を誇るソウルの生きた暮らしの現

分かるからです」とこの町の魅力を語った。

場を確認できる町である。

韓国の文化と芸術


路地は、急に広くなったり、狭くなったりし

ち着けていい」と語っていた。

ながら続いていく。高い建物に遮られないため日

路地裏と韓屋だけでは知り尽くせない韓国精

当たりがよく、安らいだ雰囲気のある北村の醍醐

神の深さは、毎年ソウルで開かれる恒例の儀礼を

味は、このように古い道をとぼとぼと進んでいく

通して確認できる。代表的な儒教儀礼である宗廟

ところにある。

大祭は、5月の第1週目の日曜日に開かれるが、 朝鮮時代の王を祭る光景が見られる。また、3月

落ち着く場所、路地裏

と9月には成均館の全建物が開放され、伝統的な

嘉会洞の傾斜の急な丘に建ち並ぶ韓屋は、11坪

儒教学問の本山を直接見物できる。さらに、儒

に過ぎない小さな家から1000坪ほどもある大きな

教や仏教が伝わる前、数千年来の儀礼である社稷

ものまで様々だが、車が通れないほど道幅が狭い

(この地を守る土地の神様と穀物の神様)大祭から

ため、建て替えなどができず原型が保たれた。過

は、不思議な古代の雰囲気も体験できる(9月)。

去600年間、さまざまな人物がこの場所で暮らし

シャーマニズムの現場といえるグッは一年中、仁

てきた。憲法裁判所の跡地は、昔は趙氏王妃の実

王山と三角山のグッ堂で開かれ、ここでは山神祭

家だったが、後に改革派の家になり、彼らが反逆

のため訪れる人々に出会える。北村ではこのす

者として殺された後は政府所有となった。純宗の

べてが毎日のように行われている。(翻訳:趙祥

王妃の実家のあった敷地には米大使館が建ってい

恩)

たが、現在はサムスングループの所有地となりさ ら地となった。また、高宗の二人の王妃が宮殿か ら出た後、暮らしていた韓屋はお寺になった。景 福宮の西側にある通義洞には、王様に仕えていた 宦官らの家が多かった。彼らの家は秘密の構造に なっていて、奥座敷までアクセスできる通路は迷 路のようだ。 昔、仁寺洞にあったお金持ちの韓屋の広い庭 も今では跡形もなく、建物も一棟だけが残ってい る。また、昔見かけた昔風の繊細な構造の韓屋の 建物はほとんど見られない。外見だけを似せた韓

北村の思い出 忘れられない韓屋での一場面。パンソリ の名人、故キム・ソヒさんのご自宅にアーチ ストやマスコミの関係者らが集まると、時 に伽耶琴と玄琴が演奏され、舞踊家の踊りが

屋が集まっている体府洞には現在も「韓屋保全反

披露されたりしていた。舞踊家のイ・メバン

対」という立て札が掛かっている。

さんはソル杖鼓(訳注:立って肩にかけて打

北村の町を毎朝ジョギングする住民の女性は、 「早朝、走りながら通り過ぎる北村の光景はあま りにも優しい。日の出の時間に見る景福宮がまた いかに美しいことか」と話してくれた。 エッセイストのナ・ソンギュンさんはこの町が 好きで50年以上もここに住んでいる。「餅屋で朝 食の代わりに食べるお餅を買って、嘉会洞の韓屋

つ鼓)も打っていた。それは楽しい場面だっ た。キム・ソヒさんは気楽な場では、シュー ベルトのアベマリアも歌っていたが、それ がまた非常に良かった。雨の中、台所から は焼いたばかりのカボチャのチヂミをお父 上がが運んでくれた。

路地を経て三清洞にある我が家まで歩く時間が落

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『韓国の肖像画』 趙善美 著、ドルベゲ、325頁、50000ウォン

朝鮮時代の人々は「髪の毛の一筋でも違えば、本人ではない」という心構えで 肖像画を描いたという。それでこそ対象人物の外見と内面を「あるがまま」に表 現できると信じていたからだ。当時の人々は肖像画を単なる芸術作品ではなく、 そこに描かれた対象が祖先や先賢、その人自身だと考えていたからだ。戦乱や 天災が起きれば肖像画と位牌を真っ先に持ち出したのもそんな理由からだ。朝 鮮の肖像画では、レンブラントやゴッホの自画像、日本の徳川家康像などに見 られるような内面的情緒や個人の性情は表出されていない。 チョ・ソンミ成均館大学芸術学部教授兼博物館長の著したこの本は、古墳壁 画で有名な高句麗時代から朝鮮時代に至るまでの韓国肖像画のこのような特徴 をよく解説している。‘Immortal Images of the Noble and the Brave’という副 題のついたこの本は、2009年に出版された『韓国の肖像画‐形と影の芸術』を英語 圏の一般読者と韓国学研究者を念頭において再構成したものだ。原作は王、士 大夫、功臣、女人、僧侶など74人の韓国の傑作肖像画を歴史的、絵画的な観点 から中国、日本と比較し、形式、表現技法、対象人物の人生に至るまで忠実に 紹介している。英文版では、その中から歴史的、芸術的に重要度の高い50人を 厳選して、肖像画にまつわる逸話を通じて韓国の歴史と文化を理解できるよう に編集されている。

ブックレビュー

肖像画から読み取る 韓国の歴史と文化

韓国の肖像画

韓国の木の世界

韓国美術史の博士号取得第1号である著者は、 40年近く肖像画を研究してきた 「肖像画研究の第一人者」と言われる人物だ。著者は「中国の肖像画が人物の地位 と身分を強調し、日本が個人の特徴をよくつかみデフォルメすることで個性を 強調したりしているのとは違い、朝鮮の肖像画は写実的描写では両国の肖像画 を圧倒している」 と説明している。 背景のない画面に一人の人物のみを円形で描写していることも朝鮮の肖像

キム・ハクスン (コラムニスト)

画の特徴の一つだと著者は分析している。富と権力、威厳を示すために侍立童 子や侍女などを挿入する中国や日本の肖像画とは違い、朝鮮の肖像画は人物の 社会的な身分や教養、好みを示すための装置や道具はほとんど登場しない。人

行けなかった道がもっと美しい

物に対する誇張やデフォルメにより個性や美学を表現するのは中国や日本だけ ではなくヨーロッパも同様だが、朝鮮だけはまったくそのようなものはない。 前のコリアヘラルド主筆のイ・ギョンヒ氏の外国人読者に配慮した詳細な編 集と翻訳のおかげで、専門家だけではなく一般の読者でも興味深く読めるだろ う。

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韓国の文化と芸術


韓国の木にまつわる物語、 自然科学者による人文学的な木の話 『韓国の木の世界』 第1、 2巻、 パク・サンジン 著、キムヨン社、608頁 (第1巻) 、572 頁 (第2巻) 、

今の時代の卓越した語り手が残した 最後のエッセイ集 『行けなかった道がもっと美しい』 朴婉緒 著、現代文学、 268頁、 12000ウォン

30000ウォン

木にもその国の歴史と文化が反映されている。木には人々の哀

韓国現代文学の巨匠、パク・ワンソ(故 朴婉緒)はいくつかの

歓も込められている。数百年、運が良ければ樹齢千年をこすとい

呼び名をもっていた。「永遠の現役」という愛称は今年1月22日に

う巨木は自ら説話の主人公でもある。この本が単に韓国の樹木に

80歳で他界するまで、休みなく精力的に作品を書き続けた彼女に

ついて説明した生態学的な図鑑としてではなく卓越した人文書籍

もっとも相応しい。1970年、不惑の年、40歳という年齢で登壇した

になれたのは、人を惹きこむような語り口による。林業学者とし

彼女は40年間、ひたすら癒しと慰めの文章を書き続けた。

て出発した著者のパク・サンジン慶北大学名誉教授は、韓国の木の

「文壇の母」という愛称も年齢を感じさせない活発な創作活動で

文化財研究分野における最高権威者であり、長い歳月にわたる研

後輩たちの模範となっていたことからつけられた。『今の時代の卓

究がこのような力作を誕生させたといえる。

越した語り部」という愛称は人間の心のひだを読み取るのに長け、

著者は1000種を越える韓国の木の中から242種を選び出し、

それを明快、赤裸々に表現した彼女に与えられた賛辞だ。

「花の美しい木」 「実のなる木」 「薬に使われる木」 「庭園樹に使われる

今は北朝鮮の地となってしまった開城付近に生まれた彼女は韓

木」 「 街路樹に使われる木」など、その用途別に分類し説明してい

国の現代史を貫通した悲劇の歴史を、故郷を失った悲しみと家族

る。著者は『三国史記』 『三国遺事』 『高麗史』 『朝鮮王朝実録』などの

の死という個人的な体験を、愛と和解の文学へと昇華させた。

4大歴史書をはじめとして古典小説、ソンビたちの文集、詩歌集、

昨年の夏、最後に出したエッセイ集『行けなかった道がもっと

近・現代文学作品などの木と関連した各種資料に一つひとつ取りく

美しい』の中でも作家自身の忘れられない悲劇的な体験が綴られて

み、丁寧に整理し分析している。

いる。彼女は「朝鮮戦争の経験がなければ、私は小説家にならな

韓国の代表的な儒学者であり、千ウォン札に描かれている退

かったかもしれないほど、私は戦争体験をずっと背負い、そこか

渓・李滉の話も出てくる。梅花に関する詩、91首を集め『梅花詩集』

ら絞りだしてきた。そして今もまだ語り尽くされてないような気

にまとめたほど梅への思いが格別だった退渓・李滉が丹陽郡主に在

がする」と告白している。戦争がなかったならば学問の道を歩んで

職していた当時のことだ。トゥヒャンという妓生が退渓を慕い、

いたかもしれないという回顧談からこの本の題目の意味が推察さ

彼が梅花に格別の愛情を注いでいるという話を聞き、白色の中に

れる。そのせいか、この本を読んでいるとロバート・フロストの詩

青色がにじんでいる珍しい梅花を求めて退渓に贈った。梅花の美

『行けなかった道』が思い出される。作家は「神が私を間引くまでは

しさに感服した退渓は彼女に心を開き、その後彼女が贈った梅花

この世で愛されたい、必要な人になりたい、良い文を書きたい、

を陶山書院に移して植えたという。そして彼の最後の遺言も「あの

このまま柔軟な心だけは持ち続けたい」という最後の願いをこの本

梅花に水をやるように」という一言だった。千ウォン札に退渓の顔

に認めている。

とともに描かれているのがこの梅花だ。

この本はハンキョレ新聞の選んだ2010年「今年の本」 (国内部門)

朝鮮時代の著名な画家、金弘道、申潤福、鄭敾の作品の素材

10冊入りしたほど、読者の関心も熱かった。その他の作品には登

となった木、そして国民詩人といわれる金素月と柳致環の詩の主

壇作の『裸木』から始まり『揺れる午後』 『古い古い冗談』 『余りに寂し

人公となった木の話もでてくる。700枚余りの木の写真と50枚の絵

いあなた』 『あのたくさんのオオヤマソバを誰が全部食べたのだろ

画など、ビジュアル資料も豊富だ。著者の前作『木に刻まれた八万

う』 『親切なポクヒさん』などの小説集と『ビリに贈る喝采』 『私はな

大蔵経の秘密』 『 歴史が刻まれた木の話』 『 木、生きて千年を語る』

ぜつまらないことに憤慨するのか』 『鎌』など珠玉の散文集がある。

『宮廷の木』 『文化財となった木の探査記』などをあわせて読めばさ

(翻訳:金明順)

らに面白いだろう。

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遠くの目

韓国トイレ見聞録 私が実際に現地調査して一番印象に残っているのは智異山の頂上付近にある待避所(山小屋)のトイレである。山など南山に上るのさえロープーウエィを 利用する人間であるのがその時はなぜか待避所まで登るはめに陥ったのである。 こざわ・やすのり(小沢康則、韓国外国語大学校日本学部教授)

19

84年に韓国にきて延世大学校の語学堂で韓国語を勉強し、そ

異変があった。韓国のテレビ番組で不注意による事故や安全対策を紹

れから機会があって85年、韓国語外国語大学校日本語科にお

介しているバラエティー形式の番組でエスカレーターの安全性につい

世話になり、今まで韓国で日本語を教えている。韓国では総合大学を

て特集したことがあったのだが、その中で現実の事故現場の場面など

大学校、単科大学を大学と呼ぶので、私が所属した当時は韓国外国語

を公開した結果、大きな反響があり、鉄道会社などでも「右側通行」の

大学校東洋語大学日本語科であったが、その後、東洋語大学から独立

ポスターから、親子が両手を握りベルトもしっかり握っている「両側停

して日本語大学日本学部となっている。将来的には学部の下に学科が

止」ポスターに変わったのである。ただ、これは時勢に受け入れられな

でき専攻の細分化がされる予定であるという。自分としては日本語教

かったようで、今でもラッシュのときなどは多くの乗客が左側通行を

育どころか語学とも関係のない社会学出身であるので、大変な大学で

している。

日本語を教えることになってしまったわけであるが、そのおかげでい

ところで、同協議会であるが、同協議会はワールドカップを「韓国

ろいろな経験をさせていただいている。やはり仕事がら、公共機関の

を世界に紹介するよい機会であるばかりでなく、対内的には韓国の生

語学教育やら面接試験などと言ったことが多いのであるが、時には郷

2ととらえ、三大目標の一 活文化水準を一段階引き上げる絶好の機会」

土料理の評価委員とかマスコミ関連の仕事の依頼を受けることもある。

つである「清潔」運動の重点課題としてトイレを取り上げた。「当時、恥

そんななかで、私が偶然からかかわることになってしまったことにつ

ずかしい水準であった韓国のトイレ文化を火急的速やかに取り扱わな

いて紹介してみることにする。

3からだという。そのための具体 ければならない課題として認識した」

ここ何年間か、毎年秋になると韓国中を巡って30~40ヵ所前後の

的行動として、1999年から朝鮮日報社と共同で「美しい化粧室大賞」を

トイレを見て回っている。メンバーの多くはトイレの専門家たちであ

制定し、2010年度までに12回を数えるにいたっている。たいてい100以

るが、私はもちろん門外漢である。なぜ、このようなことになったの

上のトイレから応募がり、書類審査の結果、40前後のトイレを実地調

かというと、2002年のワールドカップと関係がある。ご存知のとおり、

査することになる。その中には公園などの地方自治体管理のトイレや

2002年のワールドカップは日韓共催だったわけであるが、日韓共催は

高速道路休憩所やデパートなどの民間経営のトイレ、駅などの公共機

いろいろな副作用を生んだ。その一つが、世界中が日韓の比較をする

関運営のトイレ、そして学校のトイレなどが含まれているのであるが、

ということだった。日本と比較されても恥ずかしくないようにと言う

第8回大会で海軍護衛艦のトイレが応募してきたのを契機に、軍施設

ことで、官民あげての動きがあったのだが、その中に、2002年ワール

からの参加が増えてきている。韓国では兵役が課せられている。それ

ドカップサッカー大会文化市民運動中央協議会(1997年設立)というの

ゆえ、軍施設のトイレに関しては以前から(同協議会が)打診していた

があった。同協議会は「親切、秩序、清潔」を文化市民運動の三大目標

のであるが、第8回にして初めて応募があったわけだ。今後も多くの

としてあげており、その主要な活動がエスカレーターの「左側通行」や

軍施設からの応募があれば、それは結局、軍の厚生施設の向上へとつ

トイレの改善であった。そこで同協議会の傘下に「化粧室文化フォーラ

ながるわけであるから、歓迎すべきことであろう。

1というのが設置され、その委員として共催国を代表して (?)私が

私が実際に現地調査して一番印象に残っているのは智異山の頂上付

選ばれたというわけだ。メンバーには建築学科や観光学科の教授にト

近にある待避所(山小屋)のトイレである。山など南山 4に上るのさえ

イレのデザイナー、マスコミ関係者、それに女性団体や障害者団体の

ロープーウエィを利用する人間であるのがその時はなぜか待避所まで

役員など、多彩な顔ぶれがそろっていた。

登るはめに陥ったのである。朝食も食べずに朝早く出発した一行だっ

ム」

ちなみに、エスカレーターの「左側通行」には、その後ちょっとした

78

たが、途中で老先生がたがリタイア。結局婦人団体の会長と私、それ 韓国の文化と芸術


南楊州市のかたつむりトイレ

釜山市亀浦市場の女性専用亀化粧室

南楊州市下水処理施設のピアノ化粧室

に若手の職員と待避所の案内人だけになっていたのだ。案内人が「まだ

い(36.1%)が一番多く、以下、便宜用品の不足(25.8%)、探しにくい

山地ではなく平地なのに」と嘆くのを聞いては、そこでリタイアするわ

(19.0%)、施設の老朽化(8.6%)、ドアが開かない(5.3%)という項目が

けにはいかない。案内人についてひたすら登り、途中、イノシシの鼾

続く。最後の「ドアが開かない」というのは、多くの飲食ビルなどに見

が聞こえるから気をつけろなどと脅されながら、待避所についた。残

られるもので、何軒かの飲食店が一つのトイレを共有している場合な

念なことにそのあと釜山に行き、それから済州島にまで行かなければ

どである。水道料や掃除の関係などから、普段は鍵を閉めておき、一

ならないというスケジュールであったため、頂上まで登ることはでき

般の人が入れないようにしておく。店の利用客には各店ごとが保管し

なかったのであるが、私が自分の足で上がった標高としては最高のも

ている鍵を貸し、その利用客だけが使えるようにしてあるシステムの

のであろう。近くに湧水があるので水が豊富に使えることがトイレの

ことである。同協議会でも「開かれた化粧室運動」を展開し、一般への

清潔を保っていた。また、排泄物をガス化して待避所の燃料として使

開放を呼びかけてはいるのだが、財政的な援助なくしては、まだまだ

う親環境的施設であり、高山植物等の保護地域でもあるため眺めは絶

難しいものと思われる。

景であった。

最後になるが、韓国には公衆トイレに関する法律が存在している。

2010年の第12回「美しい化粧室大賞」は183の応募作の中から京畿道

それまで韓国の公衆トイレに関する法的規則は「汚水および糞尿畜産排

南楊州市の「かたつむりトイレ」 (写真1)が選ばれた。同トイレは南楊

水の処理に関する法律」などの法律に分散して規定されていたのである

州市の水落山遊園地に位置するもので、周辺の自然環境に調和した景

6という法律にまとめ が、2003年12月、「公衆化粧室などに関する法律」

観とソーラシステム、中水道設備、LED照明などの親環境施設が評価さ

られ、国会を通過した。同法には、「女性トイレの便器数は男性トイレ

れてのものだった。第11回の釜山市北区亀浦市場の亀浦女性専用公衆

の大小便器の合計よりも多くなるように設置しなければならない」 (第

化粧室(写真2)5は上空から見ると亀の形に見えるということであった

7条)などといった設置基準が盛り込まれており、「トイレに人権概念

し、第10回の南楊州市下水処理施設に作られたピアノ化粧室(写真3)

まで導入した」として有名になりもした。ワールドカップを契機にトイ

は誰が見てもピアノそのものである。最近は外見にもテーマを持って

レの一大革命を成し遂げた韓国は、2007年には世界化粧室協会創立総

きているのが流行っているようである。

会を開くなど7、先進トイレ国家への道を邁進している。

また、第8回からはさらに、「公衆トイレ設計公募展」という行事も 始まった。同様の行事は過去にも散発的に行われてきたのであるが、 どれも有名無実化していた。そこで同協議会が行政自治部の支援を受 けて、2006年度から始めた行事である。今後の発展が期待される行事 でもある。 ところで、少し数字は古くなるのであるが、同協議会が実施した設 問調査の結果によると、「ワールドカップ開催後、一番改善された分 野」は公衆トイレ(49.7%)であった。以下、公共交通(21.8%)、宿泊施 設(14.3%)と続く。外国人観光客に対するトイレの満足度調査でも、 「大いに満足」と「満足」の合計が45.6%で、「大いに不満」と「不満」の合 計である18.8%を大きく上回っていた。不満の内容に関しては、汚 Koreana ı 夏号 2011

1. 韓国語ではトイレのことを化粧室と呼ぶ。現在は「化粧室文化運営委員会」と いう名称に変更されている。 2. 2006年12月15日開催の第8回 「美しい化粧室大賞」授賞式におけるキム・ウォン チョル文化市民運動中央協議会本部長の経過報告より引用。 3. キム・ウォンチョル文化市民運動中央協議会本部長の経過報告より引用。 4. ソウル市の中心にある山。頂上にソウルタワーがあるので有名。 5. 五日ごとに市が開かれる市場の入り口に位置している。少し離れた所に古く からの男性用と女性用があるのだが、市場の利用客は圧倒的に女性が多いた め、女性専用トイレが新たしく設置された。 6. 2006年4月28日、一部改正。法律第7934号。2004年7月29日には公衆化粧室に 関する法律施行例(大統領令第18492号) も出された。 7. その時の主題は 「トイレ革命は人類の未来を変える」であったという。

79


1

1. 青少年海兵隊キャンプでゴムボート(IBS)に乗り組んで水上訓練を 受ける青少年たち 2.「地獄訓練」と呼ばれる6週間の入所訓練を終えて、海兵隊を象徴す る赤い名札をもらって喜んでいる海兵隊員たち。

2


ライフスタイル

韓国の 若者の 間に起 こった 海兵隊 ブーム

自ら進んで海兵隊に入隊して話題になったトップスター、ヒョン・ビン。

国の海兵隊(ROK Marine Corps)は一言でいうと「目立つ」軍隊で

ある。セーム革の軍靴、赤い名札、八角形の帽子、モヒカン刈

りのような髪型から、独特な用語や話し方に至るまで、他の軍隊とは また一味違う」

海兵隊に入隊したトップ・スター 部隊創設1年後に起こった6.25 戦争(朝鮮戦争1950年)で「鬼を討つ 海兵隊」というあだ名の付いたこの際立った軍隊が最近話題だ。特定の 軍が大衆の関心を集めたことは今までになかった。ところが、何人か の芸能人がテレビのバラエティ番組に出演して、海兵隊出身であるこ とを誇らしげに話す一方で、人気絶頂の俳優、ヒョン・ビン(本名;キ ム・テピョン)が海兵隊に志願入隊(1137期)した3月には、大衆の関心 は 絶頂に至った。 ヒョン・ビンが海兵隊に入隊した日、慶尚北道浦港市の宿泊施設や 食堂は、「ヒョン・ビン効果」で賑わった。 彼の入隊の前日から海兵隊教育訓練団の

歴史ある大韓民国海兵隊が国民的人気をあつめている。最近、人気絶頂期の若者 スターが海兵隊に入隊してファンの熱い支持を得ている一方で、若者らは競争社 会を生き残る戦略として海兵隊への志願を選んだりする。しかし、「海兵隊ブー ム」は今に始まった現象ではない。

ファンが陣取ったためであった。韓国軍

キム・ダン(ジャーナリスト)

の最高責任者であるイ・ミョンバク大統

周辺に、国内ファンはもちろんのこと、 日本・中国・香港・台湾などアジア各国の

領も「ヒョン・ビンさんの考え方は正し い」と、彼の海兵隊への志願決定を高く称賛したことも話題になった。 ところが、海兵隊が大衆の関心を集めたり、若者らが海兵隊に熱 狂する理由は、少数のトップ・スターが入隊したことだけが理由ではな い。韓国で海兵隊は、昔から一種の「珍しい社会現象」として認識され ていたのだ」 Koreana ı 夏号 2011

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海兵隊を選んだ理由

た」と語っている。

これと関連した目を引く調査結果がある。韓国の20代を「S世 代」というキーワードで規定した「毎日経済」新聞が行った世論調査

青少年海兵隊キャンプ

の結果である。同調査は韓国の20代の社会意識と価値観を調べた

2005年8月、海兵隊は兵第1000期修了生を輩出し、海兵隊の歴

ものであるが、同調査によると、二極化と大競争、雇用不安に悩

史における新しいページを開いた。海兵隊戦略研究所は当時、第

んでいる韓国の20代にとって第一の命題は生き残り(Survival)のた

1000期及び第1001期修了生を対象に、海兵隊に志願した動機を調

めの要件である、いわば「スペック(Specification)」の用意と厳しい

べた。その調査結果によると、▲海兵隊の強さ(61%)がダントツ

「闘争(Struggle)」である。同紙は、「人脈」を重視する高麗大学校

多く、その次に▲入隊の時期を選択できる(19%)▲外見(14%)▲

2年生のクォン・スンホ(仮名)さんが海兵隊を選択した理由を次の

周囲の勧誘(6%)と続く。つまり、海兵隊に入隊した若者4人中

ように紹介している。「高麗大校友会、海兵隊戦友会、湖南郷友会

3人は、海兵隊の「強さ」と「外見」 (イメージ)に惹かれていること

に全部入会できれば「韓国人脈の終結者」と言うんじゃないですか」

が分かる。

「2010年国防白書」によると、65万人の韓国軍の中で海兵隊(2つの師団と1つの旅団)の兵力は 2万7千人(4.2%)であり、まさに「A Few Good Men」である。しかし、人数は少ないものの、 いや少ないほど、むしろ強い体力と精神力で抜群の戦闘力を誇示してきたという自負心が、若 者たちを海兵隊へと導くのだ。

海兵隊は首都ソウルの西北側の島々を防御する任務とともに上

海兵隊の「強いイメージ」は2003年に、あるリサーチ機関が国産

陸作戦を行う。上陸作戦といえば、艦艇を載せた兵力を敵の海岸

ブランドの競争力向上のために行った調査からも確認できる。当

に展開させることだけを考えがちだが、海兵隊の上陸作戦の場合、

時の調査で「韓国を代表するブランド」であるサムスン電子の携帯

艦艇だけでなく装甲車や航空機など、すべての運送手段が含まれ

電話とLPGAプロ・ゴルファのパク・セリ、メジャーリガーのパク・

る。従って、海兵隊は多目的な即時対応軍として、有事の際はど

チャンホ選手らとともに、海兵隊も韓国を代表するブランドの一

んな状況下であっても、任務を全うできる作戦随遂行能力を備え

つとして選定されたのだ。海兵隊の人気は1997年の金融危機の時、

るために、平時に実戦を想定した訓練に取り組む。

社会公益プログラムとしてスタートした兵営体験訓練プログラム

「訓練で汗を流せば流すほど、実戦での流血は少ない」という格

である「青少年海兵隊キャンプ」でも確認できる。

言は、敵に気づかれる事無く、敵陣内部に浸透する事によって敵

海兵隊キャンプに参加する青少年たちは4泊5日間、海兵隊出

軍をかく乱し、我軍が進撃できる足がかりとしての橋頭堡を確保

身のベテラン教官の指導の下で、遊撃訓練、山岳行軍、墓地恐怖

する役割を果たす海兵隊に打ってつけの格言である。特に6週間

体験、IBS(ゴムボート)水上訓練など、実際の海兵隊訓練顔負けの

行われる新兵基本訓練は、「地獄訓練」という別称がふさわしく、

訓練を受ける。浦港と金浦(海兵第2師団)で行われるこのキャン

訓練の厳しいことで有名だ。

プは毎年、夏・冬休みの期間に、男女中高生と社会人を対象に開か

辛い訓練の「苦痛」とともに、自分らは少数精鋭だという「プライ

れるが、殺到する志願者を受け入れられないほどの人気振りであ

ド」を共有する海兵隊独特の絆ができるのである。去年8月に海兵

る。このため、民間会社が運営する同じプログラム のキャンプも

隊の訓練を終えた歌手イ・ジョン(30歳、海兵隊1080期)も、今年1

15か所にのぼる。毎期、150~300人ずつ、毎年3~4期を募集する

月に行ったマスコミとのインタビューで「海兵隊訓練のハイライト

海兵隊キャンプは、昨年まで95期が進められ、既に3万人を超え

である〈天子峰行軍〉を終えて赤い名札をつけた瞬間、胸が高鳴っ

る青少年たちが「一度(訓練を受けた)海兵は永遠の海兵」になった

82

韓国の文化と芸術


わけだ。

韓国型上陸突撃装甲車(KAAV)の乗り組み訓練を受けている青少年海兵隊キャン プの隊員たち

一度海兵は永遠の海兵 海兵隊の人気は「国民に兵役の義務がある」国民皆兵制が前提に

に次いで4番目の規模である。兵力の質を数字で測ることは難し

なる。さらに韓国は、「好戦的な兵営国家」といわれる北朝鮮と対

いが、アメリカの海兵隊と組んで展開される定例の米韓合同訓練

峙しているため、軍隊に行っていないという事実は、男性にとっ

で世界最高水準と認められている。

て社会生活上、ハンディキャップとして働くことになる。一部の

咋年11月23日に、6.25 戦争以来初めて北朝鮮による韓国領土の

若者らは兵役を逃れようとする傾向もあるが、兵役の義務を果た

直接攻撃、延坪島砲撃事件が発生し、その後、海兵隊への志願率

すために、渋々軍隊に入るというより、強いイメージとプライド

が上昇した。それに対して一部では、マスコミによって大々的に

の高い海兵隊に志願する気風も強いのである」

報じられた国家的安保事件に対する海兵隊の対処方法がクローズ

海兵隊では「誰でも海兵になれるならば、自分は決して海兵隊

アップされ、海兵隊の人気をさらに高めたと分析する。韓国の兵

を選ばなかっただろう」という共通認識と「少数精鋭(A Few Good

務庁によると、今年1月に海兵隊の1011人募集に4553人が志願し、

M e n)」というモットーから確認できる強い自負が感じられる。

4、5倍率という史上最高の競争率となった。

2010年国防白書によると、65万人の韓国軍の中で、海兵隊(2つの

北朝鮮軍による砲撃で延坪島に駐屯していた海兵隊の兵士二人

師団と1つの旅団)の兵力は2万7千人(4.2%)だけであり、文字

が死亡したものの、陣地に砲弾が落ちて、鉄帽が焼け落ちるとい

通り「A Few Good Men」である。兵力は少ない分、むしろより強い

う切迫した状況下でも、落ち着いて対応射撃に取り組む強く頼も

体力と精神力を基に、ダントツ強い戦闘力を誇るというプライド

しい姿に同時代を生きる青年らは胸を打たれた。ある銀行はその

を刺激する海兵隊に若者らは惹かれているのだ。 陸軍などと比べれば「少数精鋭」であるが、諸外国と比べても良 質両面においてまさに世界トップレベルである。兵力の規模は、

「焼ける鉄帽」の持ち主に、除隊後に採用するという約束をした。 海兵隊の強いイメージを企業のイメージ・アップに利用しようとす る思惑もあったのだろう」 (翻訳:趙祥恩)

海兵隊を有する50余りの国々の中で、アメリカ、フランス、台湾 Koreana ı 夏号 2011

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小説家ユン・デニョン(尹大寧、1962~)はフラン ス文学を学び、ファッション雑誌の記者をしてい た。1990年に『文学思想』の新人賞をとり文壇に デビューし、現在まで旺盛な活動を続けている中 堅作家である。彼は有名な文学賞を何度も受賞し ており、文筆活動に専念していたが、数年前から は同徳女子大で学生たちに小説創作も指導してい る。『テンジャ』は作家が2005年に済州島で書き 上げた作品だ。

作家評

明暗と余白の 静かな調和 尹大寧の 小説美学 ポク・ドフン(卜道勳、評論家)

尹大寧 ユン

ニョン

大寧は多作の作家だ。これまでに彼は小説だけで短編 集を6冊、長編8冊、掌編1冊と中篇1冊を出版している。

特に最初の短編集である『鮎釣り通信』 (1994年)は鮎の群れの回 遊という始原的な感受性と、通信に象徴される都会的な生き方 の孤独という相反する主題を、うっとりするほどの詩的な文体 で一つに融合させている。このような主題意識と文体はその後 微妙に進化し、最近の短編集『大雪注意報』 (2010)では世俗的な 生き方に対する探索を深めている。そして彼の最近の作品は聖 と俗が実は別個のものではないことを余白のある素朴で淡々と した文体章で語っており、依然として読者のこころを暖かくし てくれる。 尹大寧の作品の中でも特に短編小説はその美的な特徴が良く 表れており、高い評価を得ている。それは作家の書いた文章が とりわけ詩に似ており、彼の小説が一遍の長い散文詩のように 感じることとも決して無関係ではないだろう。外国の作家の中 で彼と文体の側面で比較できるような作家をあげるとしたら、 それは2008年度にノーベル文学賞を受賞し、韓国に対する愛情 も深いフランス人の小説家ル・クレジオ(J. M. G. Le Clézio, 1940 ~)をあげることができるだろう。実際に二人の作家の間には つきあいがあるという話だ。 尹大寧が1990年代の韓国文学で独歩的な小説美学を開拓し た作家だという事に異議を唱える人はいないだろう。1990年代 中ごろに文筆活動を始めた作家はその当時、主に寂寞として断 絶された都会からの逃走と放浪を夢見る若者たちの出会いと別 れ、そして孤独を繊細に描写するのに注力していた。顕現の美

84

韓国の文化と芸術


学といっても無理のない彼の詩的な文章は人生の微細な亀裂を

るという意味で、人は環境によって変化するという教訓的

感知する地震計にも似ている。その地震計は無味乾燥とした都

な話だ。しかし『テンジャ』の中の橘化為枳は教訓談ではな

会の暮らしに疲れた人物に、ときたま訪れる超越的で詩的な啓

く、作家のペン先から生まれた人生に対する深い悟りを含

示に非常に敏感に反応する。しかしその啓示の媒体が自然では

んだ一遍の文学だ。家の中で「飯炊き女」扱いされてきたコ

ない人工物だという点が90年代の尹大寧の小説の興味深い部分

モが唯一自分に関心を見せてくれたという理由だけで尋ね

だ。彼の小説の主人公が虚無に生きてきたことを悟るのは、例

たのは、すでに中年になった甥っ子だ。コモはその前で辛

えば最初の長編『昔映画を見に行った』では木の葉を揺らす自然

酸だった生涯を、希望と怨望を、涙と微笑を、出会いと別

の風ではなく、都心のど真ん中にあるレコード店から流れてく

れを、歌とむせび泣きを節制を失わずに吐き出していく。

るビートルズの「 Across the Universe」に入っている鳥の群れの

甥っ子は礼儀正しく、そんなコモに対しながらも最後まで

鳴き声を聞いた瞬間だ。90年代の彼の小説の主人公は どこか

その理由がわからず、彼女が去る日まで途惑うばかりだっ

遠くに旅立つ準備を終えた若い遊牧民の顔をしていた。そして

た。しかしコモの死を知らせる小説の終焉にいたると、読

その顔は人生から逃避しようというのではなく、人生の真実を

者は自然に胸が詰まり、熱い感動が徐々に迫ってくるのを

回復しようという必死の表情だった。

覚える。

そんな尹大寧の小説世界も2000年代に入ってからは徐々に

この小説の与える感動は平凡な女の一生を一遍の詩に昇

変わり始めた。私はそれを遊牧民の感受性から定住民の感受性

華させたからではない。テンジャがミカンになったからで

への変化だと思う。より正確には遊牧民的な感受性と定住民的

はない。テンジャがミカンになり、ミカンがテンジャにな

な感受性の調和だと言える。詩的な描写は相変わらずだ。しか

るなどということはない。テンジャはテンジャ、ミカンは

し彼の文章は最新作の短編集『大雪注意報』に入っている「草上

ミカン、平凡な女は平凡な女に過ぎない。そのように育ち

の昼食」でマネの同名の絵を描写する時でさえ西洋絵画の量感

ながら、それぞれが熟し、それぞれが高貴な人生を終える

とボリュームの絢爛さよりは、東洋の水墨山水画を眺めるよう

のだ。コモが生涯の最後の夏に持ってきたテンジャは彼女

な明暗と余白の静かな調和に似ている。

がこの世を去った秋に黄色く熟し、済州の路地のミカンも

このような変化は短編集『燕を育てる』の中の傑作『テンジャ』

また黄色く熟した。去る者と帰ってきた者、遊牧と定住、

の「橘化為枳」という中国の故事から始まるストーリーからも感

世俗と超越の調和、『テンジャ』で見せた尹大寧の小説の品

知される。『テンジャ』の中でも紹介されているが『橘化為枳』

格は韓国文学の一つの頂点だ。(翻訳:金明順)

は中国の南のミカンが淮水をわたり北に行けばテンジャにな Koreana ı 夏号 2011

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韓国のイメージ

鮮半島の美しい宝石のような島、済州島。黒い石塀ごしに菜の花が波のように揺れてい る。一幅の水彩画のようだ。黒い石塀と絶妙な調和をなしている菜の花は済州島の素朴

なシンボルだ。穴のポツポツと開いた石塀の隙間から菜の花の香りが、自由気ままに風に吹か れている。満ち潮のように迫り来るあの菜の花畑に立てば、私が揺れているのか、菜の花が揺 れているのか、甘い香りに酔いしれる。菜の花波に身も心もすっかり濡れてしまったようだ。 まぶしい南国の日差しを浴びて育ったあの黄色い花に魅了されない者がいるだろうか。 毎年春になると真っ黄色の花の波を背景にして城山日出峰が、松

菜の花畑の花波 ホ・ヨンソン(許榮善、詩人)

岳山が、ヨンモリ(龍頭)海岸が、済州島の東の方に佇む小さな牛島 がより輝きを増す。そして済州島では華麗に菜の花祭りが始まる。オ ルレの道を行く人々はのんびりと歩きながら感嘆し、さかんにシャッ

ターを切る。都会の人々が空から、海から、黄色の春を求めて島へ、島へとやって来る。「西 帰浦菜の花国際ウォーキング大会」が開かれるのもちょうどこの頃だ。日本から、中国から、 遠くはロシアから来た人々が菜の花の甘い風に心を弾ませながら軽快に歩いていく。 そして菜の花は目を楽しませるだけではない。舌も魅了する。花の咲く前の茎やつぼみを ナムルにしたり、キムチに漬けたり、花が散ればその実を収穫して油を絞る。新鮮な刺身に添 えられたほろ苦い菜の花ナムルの味は、春の味覚を香り高く引き立ててくれる。真っ黄色の菜 の花波が落ち着くころ、火山の島、済州島の黒い岩が輝きを取り戻す。そして、済州島の海は その本性を現し、濃い群青色の夏の波もまた、その本能を露にする。(翻訳;金明順)

Koreana ı 夏号 2011

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