夏号 2 014
韓国の文化と芸術 特集
済州島の海女文化
済州島の海女
漁によって育まれた 強靭な済州の海女 海女として、今を生きる済州の女性
VOL. 21 NO. 2
ISSN 1225-4592
韓国のイメージ
扉も壁も無い、月光に満ちた家
キム・ファヨン (金華榮、文学評論家、大韓民国芸術院会員)◎ 写真 觀照
韓
国で最も美しい庭園だといわれている全羅 南 道 潭 陽『 瀟
ンビたちは「風景は眺めるのではなく、その風景の一部となって生
まぶしい夏の日ざしは小さな家の扉をすべて開け放させた。部
きはしなかった。人為的に自然を区画したり、変形させて装飾す
灑園(ソセウォン)』夏の家。
屋と板の間、内と外を仕切っていた障子戸は高く持ち上げられ天 井の一部となっている。
壁もない、扉もない、ただ柱だけが残った家。
自然の光と音と香りが四方から れるほど流れ込んでくる部屋。
この素朴な家は、庭園の木と岩と小川の流れを客観的に眺める
のではない。
ここでは内が外で、外が内だ。人と自然が渾然と一つになる。
この 16 世紀の韓国庭園の美しさは西洋や日本の庭園のように
空間的な構成、水と岩と手入れの行き届いた草木の風景から感じ
られる視覚的な喜びだけではない。視覚とは対象を客観化する。
しかし道家的な精神に傾倒していた 16 世紀、韓国の知識人、ソ
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きて行こう」 とした。彼らは自分の庭園を 「所有」 するための塀を築
ることはしなかった。ただ自然そのままの山と竹林と水の流れと岩
の間に、一番適当な場所を選んで家を建て、自然のおおらかな懐
に抱かれた。大きく華やかな家ではなく、自然をふんだんに受け 入れ満ち足りた心の家、そこで 16 世紀の詩人はこんな歌を詠んで
いる。
十年間の計画を立て 草廬三間を建てた
私が一間、月が一間、清風にも一間を任せて
山と川は入れる所がないので
周辺に屏風のように置いて眺める
『十年を経営して』宋純( 1493 ∼ 1583 )
1
編集長からの手紙
海女の不朽の価値 「コリアナ」はこれまで、己の価値を守るために地道に歩む人々に紙
面を割いてきました。夏号の企画にあたり、海女にインタビューしたら
どうだろうか、という素朴な思いからすべては始まりました。済州島の 海女は長い伝統と忍耐力でよく知られています。しかし、彼女たちの 仕事がどれほど厳しく過酷なものなのかはあまり知られていません。
今回の特集「済州島の海女文化」はこのような発想から企画された
ものです。このユニークな職業の歴史と生活を究明するために、済州
島の海女の文化に精通した学者と作家が参加しました。彼らの洞察力
と熱意のおかげで、海女の生活や考え方が大部分明らかになりました。 海女という仕事は本当に驚異的な職業です。しかし、戦略的な支
援なしには、この古くからの伝統が近い将来に消滅してしまう可能性
があります。この意味で海女をユネスコ世界文化遺産として登載する
ために、政府と学界が引き続き努力していることは望ましいことです。 数々の苦難に耐えてきた海女が世界文化遺産に登載されることは当然
の果報であります。
しかし、無分別な広報への懸念もなくもありません。地元のジャー
ナリストで詩人のホ · ヨンソン氏は「海女を紹介するためには彼女たち の精神的価値を見ていただきたい」。さらに「彼女たちの精神は自己犠
牲の神々しいものです。この崇高な精神遺産が商業的プロパガンダに
よって色褪せることがないようにしてもらいたい」と心境を語ってくれま
した。
海の中で命をはって潜っている海女、そんな彼女たちの存続を求め
ることは理不尽なことかもしれません。そこで海女の伝統価値を保存
しつつ、韓国最南端の島の天然資源を保護する綿密な政策が急がれ ます。
日本語版編集長 金鍾徳
発行人 編集理事 編集長 監修者 編集諮問委員
柳現錫 車斗鉉 金鍾徳 嘉原和代 裵炳雨 崔寧仁 韓敬九 金華榮 金英那 高美錫 宋惠眞 宋永萬
Emmanuel Pastreich Werner Sasse 編集 Ahn Graphics Ltd. ソウル特別市鍾路區平倉 4 4 ギル 2 Tel: 82-2-763-2303 / Fax: 82-2-74 3-8065 w w w.ag.co.kr 印刷 中央文化印刷 京畿道坡州市新村 1 路 27
Tel: 82-31-906-9996
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1987 年 8 月 8 日文化観光部 -1033 で登 はアラビア語、 録された季刊誌『 Koreana 』 インドネシア語、英語、スペイン語、 中国語、ドイツ語、フランス語、ロシア語でも 発刊されています。
韓国の文化と芸術 夏号 2014
Published quarterly by The Korea Foundation 韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル
「海女の夢」 ( 1984 ) カン・ドンウン。紙にインクと薄いカラ。 162 130cm。1947 年済州島生まれ。 カン・ドンウンは生涯生まれ故郷済州島の 人々を描いている。
特集
04
済州島の海女文化 特集 1
海で花咲く曲がりくねった人生の旅路 最高齢の海女 コ・イノさん
ホ・ヨンソン
04
12 18
26
42
22 26
特集 2
済州の海女の過去と現在
ユ・チョルイン
特集 3
漁によって育まれた海女の強い生活力
チュ・ガンヒョン
特集 4
私たちの世代の済州の海女
イ・ジンジュ
フォーカス
DDP 未来に向けたソウルの 新ランドマーク
56
ク・ボンジュン
32
文化遺産の継承者
民族が共有する視覚的な思惟の 原形を守る
グルメを楽しむ
アイスデザートの旋風
ビンス
ユン・ドックノ
60
澗松コレクション 3 代の物語
遠くの目
美術教育を通しての 私の韓国との交流 福田隆眞
コ・ミソク
38
アート・レビュー
42
オン・ザ・ロード
韓国の道教文化 幸福への道
62
韓国文学の旅
ささいな錯覚への共感 チャン・ドゥヨン
料理人の爪
アン・ギョンスク
尹高恩
河東
詩心で訪れた文学とお茶の里
クァク・ジェグ
50
韓国再発見
写真で時代を記録する
写真家 キム・ニョンマン
ユン・セヨン
50
62
特集 1 済州島の海女文化
海で花咲く 曲がりくねった人生の旅路
最高齢の海女 コ・イノさん
西帰浦の穡達里の海で漁を続けて 76 年。済州島の最高齢海女コ・イノ (高仁五) さんは、今
日もワカメ、ナマコ、サザエ採りに余念がない。1 代にわたって漁をして、共に生きてきた 彼女たちに、済州の海女の強さと豪放さを見る。 ホ・ヨンソン (許栄善、詩人)◎ 写真 趙知瑛
4
韓 国 の 文化と芸 術
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1 息一つが、この世とあの世の境界になる漁。海女は、 今日に満足し、欲張らずに生きるすべを海で体得して いく。 2 最高齢の海女コ・イノさんは、娘と嫁が後を継いで漁 を一緒にすることが、何よりの喜びだ。自分のことより も、娘や嫁がたくさん採った日のほうが嬉しい。
1
海
の上には黒い足ひれ、丸いテワク (浮き)がブイのように揺ら
の海と共に生きている。済州最高の観光地・中文。そこに先祖代々
し。やがて、海女(ヘニョ)の一団が陸に上がってくる。網いっぱ
海女が乗ってきたオートバイが並んでいる。屏風のように囲んでい
めいている。遠くから見ると数珠のようだ。強い南国の日差
いにサザエ、ナマコ、ワカメ。それからかなり後、真打のように黒
いゴムの潜水服を着た女性が姿を現した。網いっぱいのワカメを 肩にかけ、スラリと一番背が高くガッシリとした体格で、力強く歩
いてくる。磯メガネを持ち上げると顔が見えた。年齢を感じさせな
い、たくましい印象。今年 90 歳になる済州の海女コ・イノさんだ。 西帰浦の穡達里の海で漁を続けて 76 年。済州島で最高齢の専門
守ってきた穡達里の海がある。海辺には黄色い菜の花。その下に
る絶壁の上には、様々な種類の木が、海の匂いを包み込んでいる。 小さな背を伸ばして、海風に曲がったまま。驚異的なコ・イノさん
の漁には、仲間の 60 ∼ 70 歳代の海女も舌を巻く。二人分生きて
いるようなものだと。
「このおばあさんは、言葉では言い表せないよ。誰もついてい
けやしない。誰よりも先に出ていって、重い物も軽々と持ち上げ
職女性だ。「ワカメを採って、あの大きな岩の方からここまで泳い
る。私たちは、チョロチョロとついていくだけさ。こんなパダン
い遠くに出て、漁をしていたものでね」。
・イノさんの漁獲は、若い海女の2倍。漁の腕も誰より優れてい
海の龍王の娘
目を閉じても、海の隅々まで手に取るように分かる。日が出ない
でくるのに、時間がかかってしまったよ。ここからは見えないくら
オモン( 海のお母さん)は、韓国のどこを探してもいないよ」。コ
る。仲間の海女は、コ・イノさんを「 海の龍王の娘 」 と呼んでいる。
コ・イノさんは休むことなく、ワカメを一つずつ岩の上に広げて、 日はあっても、海に入らない日はなかった。風の強い日だけは除
テキパキと干し始める。海辺の玄武岩は、いつのまにか天然のワ
カメ干場、コ・イノさんのワカメ畑になっている。「ワカメは軟らか
いて。
いのが一番だよ」。ポツリポツリと話しながら、ワカメを干していく
息を無駄にするな
と日差しに干されて、程なく商品として売られていくのだろう。「こ
一つだけ食べると「 昼ご飯は、これで終わり」。コ・イノさんは、
老いた手が、日差しに照らされている。そのワカメは、澄んだ海風
の海は良いところだけど、漁はとても厳しくなったね。タコもアワ
ビも、ずいぶん減ったよ」。
最盛期の漁獲には及ばないが、コ・イノさんにとって、その海こ
そが人生だ。幼年期も青春期もその海で過ごし、老いてからもそ
6
最高の海女コ・イノさん。朝から4時間の漁を終えた後、パン
今まで一度も海で危険な目に遭ったことがないという。いち早く
海の中のことが分かるからだろうか。いや、欲張らないからだ。
休む日は、深く昼寝をする。休むときは、しっかり休むことが大 切だ。
韓 国 の 文化と芸 術
カギノミで捕まえようとした瞬間、タコがスッと引っ込んでしまえば、捕まえられない。 運が良ければ、次の日にまた外に出ていることもある…。自分の息の分だけ漁をして、 それを超えてはダメだ。息を無駄にするものじゃない。欲張ると失敗するよ。 海が荒れたら出てはいけない。息が 2 分を超えてもダメだ。
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天然のアワビも赤ナマコもいるからね」。そのため、海女には危険
が付き物だ。
最高の海女コ・イノさんは、とても珍しいことに、空気ボンベ
などなくても 20 メートルまで 潜 れる。2分くらいは 耐 えられ
る。「 潜っていくと、絶壁が見える。 17 メートル潜っただけでも、 気持ちの方は息がつまる。死にそうな気分だ。海の外で息をする
のとは違うんだ。息をこらえる秘訣が一番重要だよ」。息を使い
果たして海から上がってくると、自然と息が吹き出す。スムビソリ
と呼ばれる磯 笛だ。こらえていただけに、もの悲しく響く磯 笛。 そうして海から上がってくると目に映るのが、空。それが最も恍
惚となる瞬間だ。そんな魅力が、海女を海に呼び戻すのかもし
れない。
生涯すべてが海だった 波を怖がる 15 歳の娘に、母親は毎日水の中に頭を漬けながら
教えた。 「漁をしないと、生きていけない。水を怖がるんじゃない」。
1
そうして息をこらえて吐く要領を教えた。持って生まれた健康な体
と肺活量のためだろうか。浮きのヒョウタン一つに身を任せ、自分
の家のように海の中で遊び始めた。海辺に産まれた済州の女性は、 誰もがそうして運命のように漁を学んだ。「海女は子供を産んで3
日後に海に入る 」という話まであるほどだ。あくせく生きる毎
日。「棺の底板を背負って生きる」 とまでいわれた。
コ・イノさんは、穡達里の海女の中で一番背が高い。少女時代
に伸びたものだという。「歩いていると『あの大きな若い海女を見
なよ』なんて言われたものさ。もともと健康でね。うちの母さんは、
コ・イノさんの漁は、ただ「いつも通り」 「普段通り」するだけだ。 長く生きられなかった。75 歳くらいで亡くなってね。母さんくらい
ただ「行って漁をする」 「目に映れば採る」。「カギノミで捕まえよう
の年には、私も死ぬと思っていたけど、今も生きている」
運が良ければ、次の日にまた外に出ていることもある。10 メートル
視野が広くて便利だ。コ・イノさんが、耳からヨモギをスッと取り
とした瞬間、タコがスッと引っ込んでしまえば、捕まえられない。 ぐらい潜れば、手のひらよりも大きなアワビも、ずいぶん採れたも
昔の磯メガネは「二つメガネ」だったが、今の「一つメガネ」は
出した。ヨモギで耳をふさぐと、水が入らないという。「一つメガ
のさ」。コ・イノさんは、淡水でも魚をよく捕っていた。今では年齢
ネ」は、ヨモギで拭くと、曇らずによく見える。今はゴムの潜水服
た。今でも耳がよく聞こえ、声も大きい。コ・イノさんの健康の秘
こともあった。そのソジュンイにムルジョクサム(綿の上着)を着て、
のこともあってしないが、若い頃は銛(もり)の腕も広く知られてい 訣は、そうした平常心にあるのだろう。そして、もう一つの秘訣は 食べ物。「この手で採った新鮮なものしか食べないから、健康な
のは当然さ」。
を着るが、コ・イノさんが若い頃は、ソジュンイ (下着) だけを着る
漁をしたものだ。腰に鉛の重りをつけ、浮きのテワク、網、磯ノミ、
鎌、竹の柄の銛(もり)などの道具を持って。風の吹く冷えた日に
は、そうして海から上がると、肌は赤くはれて震える。長く潜るこ
息一つが、この世とあの世の境界になる漁。「自分の息の分だ
ともできない。そのため、すぐに海女の憩い場であり、おしゃべり
欲張ると失敗するよ。海が荒れたら出てはいけない。息が2分を
では、そのプルトクも防波堤の工事でなくなってしまった。「今じ
体が老いて、息が苦しくなるのを感じるという最高の海女。他の
たものだ」。
け漁をして、それを超えてはダメだ。息を無駄にするものじゃない。 の場でもある「プルトク(いろり)」で薪を燃やして暖を取った。今
超えてもダメだ」。それでも、体は以前のようにいかないという。 ゃ潜水服も、こうしてゴムになって楽になったよ。本当に良くなっ 海女に「息を使い果たしてから、上がろうとしてはダメだ。アワビ
やタコが底にいるのを見ても、一度上がって息を整えてから採るん だ。30 秒のせいで、命を落とすことになる」と常日頃から言い聞か
済州の海女は、昔から日本、中国、ソ連のウラジオストクまで
行って漁をした、強く堂々たる女性の象徴でもある。家族の生計
のため、遠い海まで出ていったのだ。コ・イノさんは、海外に行く
せているからだろうか。時おり他の海で海女が命を落としたという
ことはなかったが、若い頃は九龍浦や甘浦など朝鮮半島の海を回
がなかった。「一人で漁をしていると、とても遠くに出ていってしま
部自分のためになる」。漁で稼いだお金で、家も畑も買った。それ
ニュースを聞くが、ここ穡達里の海女は今まで一度もそんな事故
った。「海はすがすがしいし、潜ればお金になる。漁を習えば、全
う。周りの仲間も目に入らない。そうやって探しながら出ていくと、 も、やりがいの一つだ。
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2
3
1 娘のカン・ミョンソンさんは漁のない日も、道具の手入れだけでなく、穡達里の漁村契の事務室の掃除や操業計画など、じっとしていられない性分だ。 2,3 済州島を訪れる観光客は、海女が網いっぱい採ってきた新鮮な海の幸を味わうため、海の近くまでやってくる。
漁をしてこそ、長生きしてお金も稼げる 17 歳で結婚。娘が一人産まれた後、23 歳のときに一人目の夫
が戦争で命を落とした。そのときは、自分も死にたかったという。 紆余曲折の末に再婚。済州の歴史的な悲劇「四・三事件(島民虐
殺事件)」 のときは、夫が警察官だったので死なずに済んだ。コ・イ
ノさんは、水を怖がる 10 代の娘にも漁を教えた。自分の母親と同
じように。「これを習えば、お金も稼いで健康で長生きできる。子
供も勉強させられる。習わなければ、することがない。漁だけ習え
と言ったものだよ」。
長女のインジャ(仁子、73 歳)さんは、みかんの農作業に漁ま
で休む間もない。結婚前は、漁が上手だった。だが、みかん栽培
が盛んなところに嫁いだので、漁よりも農作業が中心になった。 下の娘ミョンソン(明善、62 歳)さんは、この穡達里の海女をまと
める漁村契(組合)長。嫁も、経歴 36 年のベテラン海女。コ・イノ
さんは、娘と嫁が後を継いで漁を一緒にできることが、何よりの喜
びだ。自分のことよりも、娘や嫁がたくさん採った日の方が嬉しい。
娘のカン・ミョンソンさんは穡達里の漁村契長
漁村契長のカン・ミョンソン (姜明善) さん。しっかりした体格に、
特別な化粧などしなくても肌がきれいだ。責任感と統率力が必要
な漁村契長を務めて 11 年目になる。カン・ミョンソンさんは、海女
食堂も取り仕切っている。薄暗い明け方に家を出て、昼 12 時にな
る頃、やっと海から上がってきた穡達里の海女。その日の漁獲は、 K o r e a n a | 2 0 14 夏号
他の日よりもかなり良かった。 済 州 島 内に 19 の漁 村 契があり 4500 人ほどの海女がいるが、穡達里の漁村契に所属しているのは、 わずか 23 人。だから皆が家族のようだ。31 人だったが、具合が 悪くて漁をできなくなったため、減ってしまった。 カン・ミョンソンさんは清掃の当番も決めて、毎朝「割り 一つ 捨てない運動」を行っている。穡達里の海は、今でも美しいことで 有名だ。サザエも小さなものは残して、大きなものしか採らない。 海女の社会は、助け合いの共同体。互いに気配りせずに、つらい 漁を一緒に続けることはできない。カン・ミョンソンさんは、母親 似だ。前向きな性格、年齢よりも若い容姿、刺身を切る素早い手 つきに加え、漁の腕まで。15 メートルまで深く潜れる肺活量も、 持って生まれたものだろうか。「赤ナマコ一つ、天然物のアワビ一 つ採れるだけで嬉しいものですよ。大変だけど、運動にもなるし、 海の中が好きなんです。実入りが良ければ、たくさん稼げるけど、 全くダメな日もありますね」。 漁は、1カ月のうち 14 日は個人で、16 日は共同で行う。個人 で採ったものは、観光客などに直接売る。それは個人の収入だ。 1日に 30 ∼ 40 万ウォンになるが、もっと少ない人もいる。共同の 漁は、売上も組ごとに分けられる。1500 万ウォンの売上があれば、 1カ月に一度、一人当たり70 万ウォン以上渡される。「時々ストレ スもたまるけど、他の漁村契に比べれば比較的、仲良くやってい ます」。話し合うことがあれば、いつでも会議をする。海女の世界 は秩序が重要だ。海洋警察で決められた操業規則もある。単独で
9
1
の漁は控えて、危ないときには助け合えるように二人一組で漁を
ネスコだ何だと言うよりも、海女に実質的な福祉政策を行うべき
すること。漁は1回につき1分以内。無理せずに1日4時間、1カ
です」。漁をした後は気力を消耗して、家に帰っても何もできない
は、浅いところで1日2時間以内漁をするように薦めている。高齢
ている。姑のコ・イノさんも嫁も、頭痛薬を手放せない。そのため、
のたびに皆が自分のことのように胸を痛めている。
してくれたという。「 私は、漁しているから健康だ。家にいると退
嫁は経歴 36 年のベテラン海女
誰が 100 歳に近づいていく海女だと思うだろうか。
に出ないように言っても、家にいれば寝るだけだからって、出かけ
はよく進む、離於島に行くか / 母さんが産んだとき、エエ / 陽も月
月に8日漁をすることなどが原則だ。特に 70 歳以上の高齢の海女
化によって、今年も済州島で3人の海女が命を失ったという。そ
「お母さんに、もうやめてって。寒い日、雪の日、雨の日には海
ていくんですよ。みかんを取った後も、漁に出て…」。母は二人の
娘が不憫で、二人の娘は今でも漁をする母に胸が痛む。それでも 母は、大きな になり、永遠の海の師匠にもなってくれた。
カン・ミョンソンさんは、海女がユネスコの無形文化遺産に登録
されれば、これからは海女のイメージがいっそう良くなるだろうと
のが海女の現実だ。海女は、ほとんどが慢性の頭痛に苦しめられ
胃の調子も良くない。だが最高の海女コ・イノさんは、海が健康に
屈で、動ける間はこの仕事を続けるよ」。少女のように明るい笑顔。 「離於に行くのか、離於島か / 離於島に行くか、ヘイ / この船
もない日に私を産んで / 離於島に行くか、よく進む、よく遊ぶ / こ の人生もよく遊ぶ、離於島に行くか…」
海女が歌う『離於島に行くか』が、軽快に済州の春の海を進ん
でいく。冥土への道も見極める 91 歳の海女コ・イノさん。62 歳の 娘も 60 歳の嫁も、この荒れた海に生きている。曲がりくねった道
明るく笑う。カン・ミョンソンさんには、娘 4 人と息子一人がいる。 のような人生が、海で花を咲かせている。
だが、その子供たちは誰一人、このつらい漁に人生を投じなかっ
海がコ・イノさんを引き寄せているのか。コ・イノさんが海を引き
た。海女の家族が受け継がれなくなるのは、寂しい限りだ。
寄せているのか。荒々しい火山島・済州島に産まれ、あの世とこの
根本的な支援策がないことについて、次のように話している。「ユ
・イノさん。まさに火山の娘、海の娘、海の女神だ。
嫁は、海女にゴムの潜水服を与えるだけで、いまだに政策的・
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世を行き来するように生涯を生きてきた、堂々たる最高齢の海女コ
韓 国 の 文化と芸 術
まな板にのせて手早く切っていく。ゴマ油を
入れて中火で炒め、米と水を入れて混ぜる。 米は、水に漬けなくても漬けておいても構わ
ない。最後に少々の塩で味を調える。
高 価 で 貴 重 なアワビ は、 刺 身 が 最 高 だ。
だが、香ばしさあふれるアワビ粥も味わいた
い。まず、アワビの内蔵を包丁で細かく叩く。
これをアワビより先に入れて、さじ一杯のゴ
マ油で炒めておく。そこに水に漬けておいた
米か洗った米を水と一緒に入れて炊く。ただ
し、水に漬けておいた米は、時間がもう少し 長くかかる。米が膨れてきたら、アワビを入
れる。ポイントは長く炊かないこと。長く炊く
と、アワビが硬くなるからだ。
赤ナマコも生が一番。本土では塩水でゆ
でて干してから食べるが、済州島は違う。サ
ザエは深い味に欠けるが、お粥にしたりアワ
ビ粥に入れてもおいしい。生のサザエの殻を 割って身だけをきれいに取り出した後、油で
炒めてからアワビ粥のように炊けば、サザエ 粥になる。生で食べても、殻ごと焼いても良
い。ゆでてから適当な大きさに切って、薬味
で和えてもおいしい。
生のワカメは、よく洗って水気を切った後、
2
沸騰したお湯で青みが出るようにサッと湯が
く。取り出してから冷水で何度か洗って水気
海女コ・イノ式 海の幸の調理法 1 潜水服を着て、海辺に力 強く立っているコ・イノさん とカン・ミョンソンさん。日 常に戻れば、温かな田舎の 母と娘の姿になる。 2 コ・イノさんの海の幸の料 理は、調味料で飾られてい ない、 単 純 かつ 淡 泊 な 味。 作り手の人柄を表している ようだ。
「海
を切った後、ゴマ油、醤油、小ネギを少々入
れ、 好 みによって酢と砂 糖を加えて和える。
ワカメ料理は多種多様だ。魚のスープに少し 入れても良く、ワカメと味
の味 味
さえあればワカメ
汁になる。夏には冷たい水にワカメと
を溶いた冷や汁が、最高の一品だ。
「これ一つで、食事が済むんだよ」。コ・イ
ノさんが 突 然、かばんから瓶を取り出した。
で採 れたものは、 全 部良いものだ 」。 白色のヨーグルトかドブロクのようだ。コ・イ 海女コ・イノさんの食卓には、常に海
ノさん特製「 シュインダリ」。済州の先人が、
コ、アワビ、ナマコ、ワカメ、サザエなど。コ
はの乳酸菌健康飲料。冷蔵庫がなかった頃、
の幸が並んでいる。採ったばかりの生きたタ
夏になると好んで作ったものだ。済州ならで
・イノさんは、この新鮮な食材をどんな風に料
ご飯がすぐに傷むので、もったいなくて作っ
こにあるはずだ。だが、その調理法とは「 料
どに、細かくした麹をさじ 2 杯ほど入れ、よく
つ淡泊だ。本土では調味料を利かせるが、コ
る。そこに蜂蜜と砂糖を少し入れて、ぐつぐ
理するのだろうか。きっと長寿の秘訣が、そ
理だって? そんなの簡単さ」の一言、単純か
・イノさんの料理は調味料で飾られていない。
たのが「シュインダリ」だ。冷めたご飯3杯ほ
混ぜて一晩経つと、ブクブクと膨れ上がってく
つ煮る。 冷めた後、 瓶に入れて飲むだけだ。
四季のスタミナ料理、タコのお粥の秘訣。 コ・イノさんが、シュインダリを1杯飲み干
タコは、何本もの足で動き回るので、生のま
す。「ご飯を食べたくないときは、これをどん
ま切るのは難しい。 何 度も水で洗ってから、 ぶり一杯飲めば十分さ」。 K o r e a n a | 2 0 14 夏号
11
特集 2 済州島の海女文化
済州の海女の 過去と現在
12
韓 国 の 文化と芸 術
朝鮮半島の南端・済州島では、他にはない独特な文化が伝えられてきた。その代表といえるのが海女だ。済
州の女性の強さを象徴してきた海女の由来、海女が受け継いできた生き方を通して、海と共に生きてきた済 州の人たちの暮らしと精神的な価値を探ってみる。
ユ・チョルイン (庾喆仁、済州大学校人類学教授)◎ 写真 金興求、安洪範
早朝、大漁を期待して海に向かう海 K o r e a n a | 2 0 14 夏号 女の足取りは、軽く力強い。
13
海
女(ヘニョ)は、空気ボンベなしで素潜りして海
産物を採る 「漁」 を職業とする女性だ。済州島は
2007 年に「済州火山島と溶岩洞窟群」としてユネスコ
の自然遺産(世界遺産)に登録されている。その済州
島には現在「潜女(チャムニョ)」または「潜嫂(チャム
ス)」とも呼ばれる海女が 4500 人ほどいる。特別な器 材を使わずに海中で海産物を採ることは、世界的で広
か。様々な記録を調べてみると、後者が理由だったと 考えられる。
現在、一般的に知られている済州の海女は「貢納制
生産様式」 の潜女ではなく、 「資本制生産様式」 の女性 裸潜漁業者だ。済州の海女が、資本制生産様式の職
業集団となった最大の背景には、出稼ぎ漁がある。朝
鮮半島の海藻問屋が済州島に来て、海女を一定期間
く行われている。だが現在、職業としているのは韓国
・一定賃金で雇い、朝鮮半島の東部・南部の海岸で海
済州の人たちは、いつから素潜りで海産物を採って
魚津や浦項は、1883 年頃から日本から来た伊勢の海
と日本だけだ。
いたのだろうか。アワビやサザエなどの貝類が最も多く 見つかった上モ里貝塚の年代から見て、済州島での貝
藻類を採り始めたのは 1895 年のことだ。慶尚道の方
女の漁場だった。しかし済州の海女が進出すると、日
本の海女は次第に減って、1929 年以降は見られなく
類の採取は、紀元前3世紀にまでさかのぼると考えら
なった。なぜだろうか。
ない。
ために 13 キロほどの分銅(金属の重り)の付いた綱を
れている。しかし、素潜りで採っていたのかは定かで 韓国の「水産業法施行令」は「裸潜漁業」を「酸素供
給装置なしで潜水した後、鎌、鑿(のみ)、刃物など
を使用して、貝類、海藻類、その他の定着性水産動
植物を捕獲・採取する漁業 」と定義している。現在の
1, 2 韓国で海女の数が 飛び抜けて多いのは、済 州 だ。 特 に 済 州 で は、 若 者 だけでなく70 歳 以 上の高 齢の海 女が活 発 に漁を続けている。
伊勢の海女は、船に乗って沖に出て、素早く潜る
使い、海から上がるときも船頭(主に夫)がその綱を引
き上げる。その綱が「 命綱 」だ。しかし済州の海女は、
ヒョウタン(最近は発泡スチロール製)の浮き「テワク」 に胸をのせて海岸から遠くまで泳いでいった後、一人
海女のような方法で海産物を採る「 裸潜漁業者 」は、 で素潜りする。そのため済州の海女は、綱を引き上げ
朝鮮時代( 1392 ∼ 1910 年)の 17 世紀になって初めて、 る船頭が必要なく、日本の海女よりも労働生産性が 済州島に関する記録にのみ登場する。では朝鮮時代
高かった。
鮮時代の各地の特産品に関する記録を見ると、主に
るが、 済 州 島はその数が 格 段に多い。 他の地 域は、
外にも朝鮮半島の複数の海岸地方の特産品として紹
半島の沿岸に見られる海女は、そこに定住した済州の
には、済州島にしか海女がいなかったのだろうか。朝 海女が採るワカメ、サザエ、アワビなどが、済州島以
介されている。しかし、どのように採っていたのかは説
明されていない。潮の満ち引きの差が大きい海岸では、
最も深いところにすむアワビも潜ることなく採れる。そ
のため海女は朝鮮時代にも、韓国では済州島にだけ
海女は現在、朝鮮半島沿岸のいくつかの島にもい
出稼ぎの済州の海女によって伝えられたものだ。朝鮮 海女と地元出身の海女からなっている。
海女として生きる済州の女性
済州の海女は、空気ボンベなどを使わずに、通常 10 メートルほどの海中に 1 分ほど素潜りして海産物を 採る。夏には 1 日 6 ∼ 7 時間、冬には 4 ∼ 5 時間、年 間 90 日ほど漁をする。済州の海女だからといって、生 女性裸潜漁業者・済州の海女 まれつき特別な体質ではない。長い間、漁を繰り返す 済州島には、17世紀末まで男性の裸潜漁業者「鮑作 (ポジャク)」がいた。鮑作は主に深い海でアワビを採 ことで、海女になっていくのだ。済州島に海女が最も 多かった 1960 年代、海岸の村の少女が浅い「エギバ り、女性の潜女は比較的浅い海でワカメやマフノリな どの海藻類を採っていた。しかし 18 世紀初めには、女 ダン(赤ん坊の海の意)」で漁を学ぶのは、とても自然 性だけが漁をするようになる。なぜ、女性だけが漁を なことだった。たいてい 17 歳頃に海女になったが、漁 するようになったのだろうか。女性の身体的な特長が、 の前後に着替えをし、漁の合間に暖を取る「プルトク 男性よりも漁に向いていたため、次第に女性だけが漁 (いろり)」で過ごしながら、次第に一人前の海女にな っていった。 をするようになったのだろうか。あるいは、重い税(貢 日当たりのいい海辺にある露天の脱衣所「プルトク」 納)に耐え切れず逃げ出した夫(鮑作)の代わりに、妻 (潜女)が漁を一手に引き受けるようになったのだろう は、 伝 統 的な済 州の海 女の共 同 体を象 徴している。 いたと推測されている。
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韓 国 の 文化と芸 術
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済州の海女は、空気ボンベなどを使わずに、通常 10 メートルほどの海中に 1 分 ほど素潜りして海産物を採る。夏には 1 日 6 ∼ 7 時間、冬には 4 ∼ 5 時間、年間 90 日ほど漁をする。済州の海女だからといって、生まれつき特別な体質ではない。 長い間、漁を繰り返すことで、海女になっていくのだ。
プルトクとは「焚き火の場所」 という意味。伝統的な木
綿の「磯着」を着て長時間、漁をするため、海女は漁
になるには漁村契に加入しなければならない。 ほとんど は結婚後に海女になった。海女になれば、漁村契の海
に入る。 で凍えた体を温めるため、漁場の近くで焚き火をした。 女の自主的な組織「潜嫂会」 場所によっては、船で沖に出て漁をすることもあった。
そうした場合、船にもいろりが設けられた。済州の海
地区ごとに組織されている潜嫂会は「いつ何を採る
のか」、「地元で葬式や結婚式があれば、どれくらい漁
女は、 1970 年 代中頃からゴムの潜水服を着始めた。 を休むのか」など、いろいろな問題について取り決めを
その頃から漁の始まる海岸からプルトクが姿を消して、 する。漁は基本的に共同作業なので、潜嫂会の会議 近代的な脱衣所が造られ始めた。
は全員一致で決定する。仲間は競争相手でもあるが、
強い共同体的生活の伝統 1970年代以降、済州の女性が海女になるのは、自然
は仲間を深く思いやっている。漁も、互いの作業が見
えるほど近い場所で行う。
村契」 が、海女の漁場の入漁権を持っているため、海女
済州の海女に広く知られている。漁が非常に危険だと
なことではなく選択肢の一つになった。地元の組合「漁
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水中での危険を防ぎ合う役割もするため、済州の海女
「あの世で稼いで、この世で使う」ということわざは、
韓 国 の 文化と芸 術
いうことを物語ることわざだ。そのため済州の海女は
たくさん採ろうという個人的な欲が抑えられる。海女
おばあさん)」に海での安全を祈る巫俗の祭儀「潜嫂ク
・時間、採ってもいい海産物の大きさを決めて、漁に
毎年、春になると、海の女神「ヨワンおばあさん(龍王
ッ」を行う。その際、海女はヨワンおばあさんの子孫に
の地元の漁場を自主的に管理する漁村契は、漁の時期
必要な技術と道具を制限する。海女は漁場を「 海の
と考えて、1年に 2 ∼ 3 度、海岸と干潟の雑草を共 なり、同じ先祖の子孫として共同体の一体感を高める。 畑」 潜嫂クッでは、象徴として海岸にアワをまいて、海産
物がたくさん採れるように祈る。
同で取り除く。漁の対象になる海藻や貝類の
になる
海藻が、よく育つようにするためだ。また、サザエやア
海女の漁は、すぐに身に付けられる技術ではない。 ワビの稚貝を地元の漁場に放流する際に、それに参加
漁の腕は、長年の経験が育ててくれるものだ。肺活量
するのも済州の海女の義務の一つだ。自然と共存する
要なのは、経験を通して体が覚えたものだ。済州の海
しかし、済州の海女の数は毎年減っていて、存在
や冷たい水への耐性など身体的な要素よりもさらに重
女は、暗礁や海産物の漁場など、海中の世界に関する 認知的な地図を持っている。また、潮流や風に関する
生き方といえよう。
が危ぶまれているのも事実だ。1965 年には 2 万 3000 人ほどだった済州の海女は、1975 年におよそ 8400 人
独自の知識も豊かだ。そうした地図や知識は長い間、 に減った。10 年で約3分の1に減少したのだ。減少が
漁を繰り返した経験によって習得される。
最も急速に進んだが、その時期だ。ちょうど済州道が、
海女の漁は、単純な労働でなく特別な技術を要す
みかん農業と観光産業を集中的に育成するという開発
下軍に分けている。上軍の海女は、長年にわたる漁に
減り続けて、2012 年の済州の海女の数は 4500 人ほ
る。済州の海女は、素潜りの技術によって上軍、中軍、 政策を本格的に推進し始めた時期だ。その後も徐々に よって技量が優れ、暗礁や海産物に関する知識も豊か
どになっている。
天気予報より経験豊かな上軍の海女の言葉を信頼す
には 30 歳未満の海女が 31% ほど占めていた。しかし
だ。天気によって漁ができるかどうか判断するときも、
るほどだ。
海女の数が減って、高齢化も進んでいる。1970 年
2012 年の調査では、30 歳未満の海女は一人もいなか ある済州の海女が強調するように、漁は 「目で盗む」 った。30 歳代と40 歳代の海女も 2% ほどにすぎない。 ものだ。獣を狩るのも魚を捕るのも同じで、海女の漁 若い世代では海女になろうとする女性が少ないが、海 女の漁には定年がないため、済州の海女は元気なうち に欠かせない知識は、はっきりとした言葉で学ぶこと は 80 歳代まで漁を続ける。 はできない。学習とは練習で、練習が学習なのだ。経 験の浅い海女は、漁の前後に共同脱衣所で、上軍の 済州の海女の伝統が継承されるためには、海女が 海女から漁に必要な知識だけでなく、海女としての義 漁によって安定した収入を得て、健康に暮らせるよう 務や仲間への思いやりを学ぶ。 にする保護策が必要だ。そのため済州道は、様々な 努力を行っている。そうした努力の一環として、サザ エやアワビの稚貝を育てて漁村契に供給し、潜水服を 自然にやさしい持続可能な生き方としての漁 支給して、前職と現職の海女が無料で診療を受けら 自然にやさしい持続可能な生き方としての漁済州の れるようにしている。また漁村契と話し合って、新規 人たちの中で母親や祖母が海女でなかった人はいない 海女養成プログラムを様々な形で支援する計画も立て ほど、済州の海女は、済州の人たちのアイデンティテ ている。 ィーの重要な部分を占めている。浮きのテワク一つを しかし、何よりも済州の海女自らが、1日の漁の時 頼りに、恐れることなく荒い波に分け入る済州の海女 間と年間の漁の期間を減らす必要がある。海女の健康 の姿は、済州の人たちのチャレンジ精神を象徴してい る。済州の海女は、済州島のやせた火山土壌のため、 と安全、そして安定した所得を保障する保護策が、海 女のいっそう積極的な参加と合意によって実現すれば、 家計を担う存在でもあった。また、一定区域の海で共 同で漁をして、その収入を村に寄付したり学校を建て 新しい世代が後を継いでいく可能性も高まるはずだ。 たりもした。 そうなれば済州の海女の漁が、現在の韓国の高度産 済州の海女の漁は、自然にやさしい技術で持続可 業社会に存在する多様な生産方法の一つとして受け継 能性が高い。海中で息を止めるという限界があるため、 がれていくだろう。 K o r e a n a | 2 0 14 夏号
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漁によって育まれた 海女の強い生活力 特集 3 済州島の海女文化
水の中で長い間、息を止めているのは、とてもつらいことだ。海女が海中で呼吸を止めて漁をした後、海から 上がってくると、一気に息を吐いて「ヒュー」という音が響く。この磯笛をスムビギソリまたはスムビソリと呼ぶ。
この音は、生きているという命の証だ。海に鳴り響く海女の磯笛は、まさに命の合唱なのだ。 チュ・ガンヒョン (アジアパシフィック海洋文化研究院長、済州大学校碩座教授)◎ 写真 李誠恩
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韓 国 の 文化と芸 術
考
えてみると、水に潜るのは済州島に限られたことではない。 塩水にさらされるので、いくら手入れをしても肌は荒れるしかない。 現在、広く人気を集めているスキューバダイビングが始まる
朝鮮の英祖(在位 1724 ∼ 1776 年) の時代、文人シン・グァンス (申
はるか昔から、人は川や海から資源を得てきた。そうした意味で、 光洙) は 『石北集』 で素潜りの様子を次のように生き生きと描写して
スキューバの歴史は人類の歴史と共に始まったのかもしれない。 いる。
日本、インドネシア、オーストラリア、スリランカ、南インド、オ
マーンなどでは、アコヤガイ(真珠貝)を採るために古くから素潜り
が知られていた。地中海やカリブ海の海綿、イタリアの赤珊瑚、
突然、水の流れに引かれて、あちこち漂う
泳ぎを習ったカモが、水中に潜るように
紅海やハワイ沿岸の黒珊瑚も、素潜りによって採られてきたことが
ただ、ヒョウタンだけが水面に浮かんでいる
歴史を持っている。
急いで腰に結んだヒョウタンを引き寄せて
広く知られている。海産物ではイガイ、アワビなどの貝類が、長い ダイバーは珊瑚、海綿動物、軟体動物などを採るだけでなく、
不意に青い波がほとばしり 一度に長い息を吐くと
他の漁の手伝いもする。水中に網を仕掛けたり、魚を網に追い込
その音は悲壮に響いて、龍宮に深く染み渡る
そうした労働は、共同体的な努力がなければ不可能だからだ。
君はただ利を欲し、死の危険をも冒すのか
んだり、捕まえた魚を引き揚げたりもする。ダイバーは共同で働く。 世界中どこでも、ダイバーは特別な器材を使わず水に潜って、
危険な作業を自力で行ってきた。器材を使わないダイビングは、
人生に働くにしても、よりによってこの仕事なのか
世宗(在位 1418 ∼ 1450 年) の時代、牧使(地方の文官) キゴン
現在でも広く行われている。磯メガネが使われ始めてから、まだ (奇 )は、西風に乗って吹雪が激しく吹きつける日に見回りに出 100 年にもならない。寒さを防ぐゴムの潜水服が普及したのは、 かけた。ところが、雪の降る寒い冬の日に、多くの女性が素肌で 海に入っていくではないか。牧使は真っ青になり、それからは恥じ つい最近のことだ。 入って、海女が採ったアワビやサザエなどを一切口にしなかったと いう逸話が伝えられている。純祖(在位 1800 ∼ 1834 )25 年 11 月、 男性の漁から女性の漁へ 右議政(正一品の官職)のシム・サンギュ (沈象奎)が上奏した内容 ダイビングはほとんどの場合、男性がしてきたため、韓国はダイ が『純祖実録 27 巻』 ビングの歴史において重要な意味を持っている。済州の海女(ヘニ に残されている。 ョ)は、とても特別な歴史を持っており、強い組織によって現在ま で持続的な漁の伝統を受け継いできた。職業の一貫性と体系性、 「冬の寒さの中、アワビやワカメを採るため、男も婦女子も全裸 漁の組織の固い共同体性、職業と祭儀の並行など、済州の女性 で海に入って、震えながら波に洗われており、死なないだけでも ダイバーの人生は、多くの研究者の関心を集めてきた。 正に幸運です。海から出て海辺にたいた火で暖を取ると、肌はひ 済州の海女は、悲しい歴史を持っている。海女は、採ってきた び割れてしわになり、物の怪のように醜いものです。せいぜいいく アワビを役所に税金として収めなければならなかった。17 世紀前 つかのアワビを採って、どうにかいくつかのワカメを採っても、そ の値ではろくに暮らしていくことはできません。」 半まで、漁は女性だけの義務ではなかった。しかし、海産物を献 一般的な漁村の暮らしが極度に疲弊し、多くの民が住むにも食 上する役割をしていた男性の鮑作(ポジャク)が減り、女性にその うにも事欠く中、漁をする彼らの苦しみがいっそう激しかったこと 義務が課せられたのだ。役所の過酷な収奪に耐え切れず、済州の 男性が朝鮮半島に逃げ、海岸を渡り歩いて海産物の採取で生計を を詳しく物語っている。今でこそある程度、保温してくれる潜水服 立てるようになった。そうして朝鮮半島に出ていった済州の男性が を着るが、以前は冬のとても冷たい海にも半裸で潜っていた。服 1万人あまりに達したので、16 世紀後半の済州島は、男性に比べ 地が貴重で普段着もままならない暮し向きの中、海水によって早 く痛んでしまう磯着を用意する余裕はなかったのだろう。もちろん、 て女性が多いという不均衡が極めて深刻だった。 全裸ではなく「ソジュンイ(済州島特有の女性用ショーツ)」だけ身 朝鮮時代( 1392 ∼ 1910 年)中期の詩人イムジェ (林悌)が、済 に付け、胸はあらわだったといわれている。赤ん坊は、漁の間「ク 州島を旅した紀行文『南溟小乗』を見ると「済州島の男性は、船が ドク」 と呼ばれるかごに眠らせておいた。 沈没して戻らない者が1年に 100 人あまりにもなる。そのため、女 性は多く男性は少なく、村に住む女性の中で夫のいる者は少ない」 という記録が目を引く。一人残された未亡人まで鮑作の義務を負 漁と畑仕事を引き受けた海女 わされ、寒い冬に素肌で漁に出るしかない悲しい歴史の中で、強 済州の女性は昔、16 ∼ 17 歳になると漁に出た。子供の頃は、 い女性ダイバーが生まれたのだ。済州島をよく「女性の島」と呼ぶ 練習がてら浅い岸でクボガイやテングサを採っていた。漁の技術 のは、そんな過酷な歴史によるところが大きい。 は口伝され、漁場での体験を通して受け継がれてきた。 基本的な漁の方法や手順、注意すべき点、仲間との礼儀や決ま り、海産物の採取や取り扱いなど必要とされるあらゆる基準が、経 泣く赤ん坊をかごに乗せて海へ 験によって習得されて伝えられてきた。そうした知識と技術はある さらに、女性ダイバーは「潜女雑女」と軽 された。済州島でも 種の不文律になり、共同体に属する海女は必ず守る義務があった。 両班(貴族階級)を名乗る人物は、できる限り漁を避けた。いつも K o r e a n a | 2 0 14 夏号
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基本的な漁の方法や手順、注意すべき点、 仲間との礼儀や決まり、海産物の採取や取り扱いなど 必要とされるあらゆる基準が、 経験によって習得されて伝えられてきた。 そうした知識と技術はある種の不文律になり、 共同体に属する海女は必ず守る義務があった。 厳格な義務は、海女の安全のためにも必ず守られた。
遠い漁場は船に乗っていって漁をし、沿岸では泳いでいって漁
をする。主にアワビ、サザエ、トコブシ、クボガイ、ウニ、ナマコ、
ヒジキ、カジメ、トサカノリ、テングサなどを採るが、海の宝物は
何といってもアワビだ。カジメは、夏に鎌で切って肥料にする。こ
の肥料を一度まけば、3年は肥料がいらないほど土地が肥える。 海女の役割が海辺に限られないことを物語っている。
ほとんどの海女は、半農半漁だった。海女は、必ず農作業もし
ていた。海から揚げた肥料で火山性のやせた土壌を肥やし、種を
まいて作物を育てた。漁から戻ると畑仕事に出かけて畑で草むし
りをし、潮合を見計らって再び海に出ていった。畑仕事も、決し
て楽なものではなかった。太平洋の島々にも、似たように素潜り で仕事をする人はいるが、このように畑仕事も漁もしっかり行うこ
とはほとんどない。海藻を採ってきて肥料とし、有機栽培の生態 循環を形作った済州の海女は、エコ農法のモデルといっても過言
ではない。
職業共同体と祭儀共同体 海女は、1カ月に 10 ∼ 12 日ほど漁に出る。漁は潮合を見計ら
って始めるが「引き潮のときには、それなりにやり過ごし、満ち潮
のときに海に入って仕事をする」ということわざがある。特に潮の
流れが速い大潮のときには、漁を避ける。そこに波まで立てば、
さらに厳しくなる。普段なら 2 メートルの波も、そんな日には 2 倍、 つまり水深 4 メートルまで影響を及ぼす。荒波の中では、目の前に
アワビがあっても流されて採れない。
磯着を着ていても、深い海の中では素肌に近く、漁をしている
ときに魚が現れて肌が傷ついたり、サメの群れが寄ってくること も時にはある。アワビを採ろうと磯ノミを岩とアワビの間に突き刺
したが、手に巻いていた磯ノミが抜けなくなって、海から上がれ
ず不幸にも命を落とすこともある。このように、漁では常に命が
危険にさらされている。そのため海女は、伝統的な「クッ (巫俗の 祭儀)」によって、運命を神に委ねる。そのため毎年、共同で「潜
嫂クッ」を行う。職業共同体が祭儀共同体の機能も兼ねているわ
けだ。
済州の海女は毎年春になると、海での安 全と豊漁を祈る巫俗の祭儀「 潜嫂クッ」を 行う。村の海女が行う小さな「クッ」からユ ネスコの無形文化遺産に指定された「済州 チルモリ堂燃燈クッ」 まで規模も様々だ。
海女は、家庭の力強い経営者だ。家事に漁までこなして、や
っと手にしたお金で畑も買って、子供を大学まで通わせる。厳し い仕事は、必然的に酷い職業病を伴う。潜水病が多いのだ。一 度頭が痛くなると、頭痛薬や風邪薬をたくさん飲む。海女の福 祉政策の一環として病院で特別診療をしているが、完治は期待
できない。
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韓 国 の 文化と芸 術
素潜りの範囲は、済州に限られたものではなかった。
山、鬱
漁には、泳いでいける漁場で行うものと、15 ∼ 20 人ほどで船
「アッパル (南の海という意味の済 陵島、独島、黒山島などに行った人が多く、遠くは日本、中国、 に乗っていくものがある。沿岸の
ロシアなど北東アジア全域に出稼ぎに行った。春になると他地に
州方言 )」から離れて、外国まで行って船で寝食を共にすること
向かって半年以上、漁をして、秋に戻ってくる出稼ぎ漁も行われて
を「ナンバル( 遠い海という意味の済州の海女の言葉 )」と呼んだ。
った。
を残している。
を持っていき、倹約してお金を貯めた。赤ん坊のいる母親は、子
いなく人間の限界を超えている。海女なくして済州の海の生活を
漁に出ていって、船で赤ん坊を産んだという海女もいた。
海女はアルファでもありオメガでもあるからだ。
いた。時には何日も船をこいで、中国の青島や大連にまで出てい そうした海女は、一食のご飯代も節約しようとアワなどの穀物
供を抱いておっぱいをあげながら、漁場に通った。朝鮮半島まで
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海女は、20 世紀の韓国の独立運動史においても、輝かしい記録 時には 20 メートルほどの海底で漁をする海女の仕事は、間違
論ずることは、全くもって不可能だ。済州の人たちの人生において、
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私たちの世代の 済州の海女 特集 4 済州島の海女文化
「両親の職業を教えてもらえますか」。「あなたの職業を子供に受け継がせたいと思いますか」。 職業の社会的地位を知る上で、そうした質問はかなり有用な指標だ。 しかし、最近になってユネスコ登録ブームが起きるまで、海女とその家族にとって、 そうした質問はあまり愉快なものではなかった。 イ・ジンジュ (李珍朱、フリーライター)◎ 写真 趙知瑛、金興求
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アジア 最 大 級 の 水 族 館「アクアプラネット」の 大 型 水 槽では 毎日4回、 海 女の水中公 演が 行わ 韓 国 の 文化と芸 術 れている。
冷
たい冬の海に潜って育てた子供たちは、ほとんどが本土に 出ていった。海女(ヘニョ)は、自由気ままな夫の代わりに
った海産物は、すべて日本に輸出されて外貨を得ていたという。
家族を養うだけでなく、豊かな国づくりにも貢献したということだ。
家族を養う実質的な家長だ。だが、漁で服が体に張り付くため、 第1次産業としての経済性が薄れた現在、世界でも珍しい唯一・
何の罪もないのに風紀を乱すと疑われてきた。そのためか、子供
独特な文化コンテンツに進化しているという見解だ。
に職業を継がせるつもりはない。最近、ニューヨークタイムズが取
海女学校で第二の人生
が、一人娘は泳ぐこともできないという。
は、やはり海女学校だ。済州市
よると、1965 年に 2 万 3000 人以上だった済州の海女は、すでに
人(済州道内 35 人、道外 10 人、移住女性・外国人 5 人)ほどが入
たちは親が海女だということを口にしたがらない。海女自身も、娘
材した 80 歳の海女キム・ウンシルさんは、漁で 5 人の子供を育てた 海女の数も、そうした状況を証明している。済州道庁の統計に
4600 人以下になっている。さらに、その 50% 以上が 70 歳を超え
海女によって人生が変わった人は、他にもいる。そのきっかけ 林邑の漁村で始まった海女学校
は、今年4月の初めに7期生の募集公告を出した。1期当たり50 学するが、今年は 240 人が応募して 70 人が合格した。済州のス
た高齢の海女だ。「毎年 130 人ほど亡くなるが、新しく海女になる
ローライフへのあこがれが広がり、本土からの応募者が増えて毎
ないことになる。漁によって生計を立てる職業としての海女は、も
海女という職業に就くための訓練の一環として入学する人も毎年、
のは 15 人程度 」。このままでは、20 年後には 1000 人も残ってい はや維持することもままならないようだ。
年倍率が上がっている。プロの海女を養成する学校ではないが、
数人いる。漁村契の推薦状を持って入学するわけだ。本土出身で
これでは、残された道はいくつもない。他の伝統技能のように、 は、去年卒業した 6 期生の中で一回り違いの仲良し二人組み、ウ
政府レベルで海女を伝統文化遺産の保有者として優遇し、履修
ェブデザイナーのシン・ドンソン (申東善、27 歳) さんと写真家チャ
きた人魚姫」のようなキャラクターとストーリーを開発してコンテ
んでいる。
者を政策的に育てる。あるいは「強い母」、「海の娘」以外にも 「生
ンツを作る。それとも、水泳やスキン・スキューバなど日常的な運
動や趣味へと発展させる。日本との競争の中で官民協働で進めて
きたユネスコ無形文化遺産登録、アマチュア海女養成学校、済
ン・ミラ(張米羅、39 歳)さんが、海女になるために真剣に取り組
ウェブデザイナーのシンさんは、才能や知識を生かして社会貢
献する「才能寄付」として海女学校のホームページも作った。一人
娘のシンさんは幼い頃、両親に連れられて海や渓谷に行って魚を
州道庁が企画した海女祭、小さな町ごとの組合「漁村契」を中心
つかんだことを思い浮かべながら、両親を説得した。将来の希望
作った「小さな海女モンニ」や「島の子ソジュンイ」といったキャラ
ジョンレストランが夢だという。済州市内の I T 企業に通ってしっか
とした民宿やサザエ採り体験、済州基盤のアニメーション企業が
は、最年少海女。朝の漁で採ったシーフードで料理を出すフュー
クター開発などは、海女文化の大衆化・現代化のための努力とし
り とお金を貯め、30 歳になる 3 年後には、涯月の漁村契に入る計
非営利法人「済州海女文化保存会」のイ・ハニョン代表は、海
でなく、本物のストーリーを込めた写真を撮りたいという思いで済
でスキン・スキューバ・ダイビングの講師として働いていたが、海女
だ。城山に住んでいるチャンさんは、一般人としては初めて海女公
に登録した。それが、人生の転機になった。イ代表は済州に移り
事をしている。海女の写真館を出すのが夢だ。
て挙げられる。
女のコンテンツとしての力と可能性に注目している。もともと本土
の潜水法を学ぼうと「ハンスプル海女学校」 (校長イ・ハクチュル) 住み、海女が採ったカジメから作ったビタミン、スキン・スキューバ
・ダイビングの普及、水中公演イベント、水槽清掃など様々な営利
事業も行っている。アジア最大級の水族館「アクアプラネット」の
画を立てている。写真家のチャンさんは、海女を客体化した写真 州にやってきた。その熱い思いが、自ら海女になる道に導いたの
演団に入り、海の掃除などがあれば実質的な末弟として海女の仕
海女祭と博物館
秋に開かれる海女祭は「韓国で唯一の女性中心の祭り」という
水深 20 メートルの大型水槽で毎日4回行われる海女の水中公演も、 キャッチフレーズで、済州道を挙げて行われる行事だ。もともと
イ代表の企画だ。
は 2007 年に旧左邑の町の行事として企画されたものだが、反応
&リゾートに運営を委託している水族館で、沖縄美ら海水族館よ
大した。海女祭には各地域の漁村契が大挙参加して、海女パレ
アクアプラネットは、済州道庁海洋開発課がハンファ・ホテル
りも大きな水槽がある。ここで公演している海女は、古城・新陽
漁村契に所属していて、平均年齢は 70 歳以上だ。海女の人生
が良かったため、2011 年からは済州道の支援を受けて規模を拡 ード、水泳大会、漁大会を開く。海女の小さなオリンピックと呼
ぶ人もいるほどだ。地元の住民にはブースを設けて麺類を振る舞
に感情移入する大人たちは、熱い反応を示している。海女のお
ったり、観光客にはアワビなど貝類を無料で分けるなど、本当に
んなに誇らしかったことはない」、「これまで生きてきた心のわだ
特に漁村契の間には微妙な競争が起き、パレードに参加する海
ばあさんは、観客から拍手を送られて「 海女だということが、こ
かまりが晴れたようだ」と涙を見せることもあった。いまや何人
お祭りムードだ。
女が電動バイクに乗ったり櫓を漕ぐなど、それぞれに趣向を凝らし
かの海女は、講演も行ってマスコミにも出演するスターになって
て登場する点が観覧ポイントだ。去年は、下道里の海女合唱団が
イ代表によると産業化の時代、海女が特別な器材を使わずに採
るく楽しい歌を歌い、合唱団の名前も「海女時代」だった。済州出
いる。
K o r e a n a | 2 0 14 夏号
人気を呼んだ。憂鬱で暗い漁の歌の代わりに、方言メドレーや明
23
1
済州道庁の統計によると、1965 年に 2 万 3000 人以上だった済州の海女は、すでに 4600 人以下 「毎年 130 人ほど亡くなるが、 になっている。さらに、その 50% 以上が 70 歳を超えた高齢の海女だ。 新しく海女になるのは 15 人程度」。このままでは、20 年後には 1000 人も残っていないことになる。
身の世界的な音楽家ヤン・バンオン(梁邦彦)氏から「海の娘」とい
の子は1歳にもならない赤ん坊だった。学校の廊下でも他の母親
う曲も贈られた。
と会うときも、子供がぐずると、背を向けて座っておっぱいをあげ
客に人気。海女の指導を受けて浅い岸で潜水するのに 2 万∼ 2 万 5000 ウォン。サザエ、クボガイ、カニ、ウニなどの海産物を採る 体験コースは 5000 ∼ 1 万ウォン。下道里では、海女が服を着替 えながら休んだ「プルトク(いろり)」体験も1万ウォンでできる。寒 さの厳しい冬以外なら、ホームページで事前に予約を受け付けて いる。下道里の漁村契長は「海洋レジャーと文化事業に突破口に したい」 と話している。 「済州海女博物館」も見逃せない。筆者は、展示館の白黒写真 が印象に残っている。赤ん坊におっぱいをあげている、まだあどけ ない海女の写真。その前には、6 ∼ 7 歳ほどの少年が後ろ向きに 立っている。私はその海女に、にぎやかな本土の生活から離れて 済州島にやってきた私自身を見たのだ。済州島に来た年、二人目
ごに入れて漁をしなければいけない幼い海女の人生が、妙に重な
常設プログラムの中では、沙渓里と下道里の海女体験が観光
24
た。友人も仕事もない場所でうつ病になった私と、乳飲み子をか
って涙があふれた。
済州では海女を 「パダンオモン」 と呼ぶ。「海の母」 という意味だ。
パダンオモンを通して母になることの意味と母性の強さを垣間見た
その経験は、私に癒しをもたらした。だが、それは私だけに限っ
たことではないようだ。京畿道に住む 12 歳の子供の母親だという 女性は、博物館のホームページに磯笛の動画を載せて欲しいとい
う書き込みを残した。済州の旅行中に偶然にその動画を見たが、 帰ってからもずっと頭から離れないという。博物館側は「人生に疲
れたとき、磯笛を聞きたい」という彼女の願いを受けて、ホームペ
ージの資料室にその動画を掲載した。海女博物館では、子供のた
めの海女体験も用意されている。
韓 国 の 文化と芸 術
1 済 州 島では現 在、 海 女を村の通りの壁絵の素 材やキャラクター商品と して広くアピールするな ど、いっそう身近に感じ られる済州ならではの文 化として広めようと、そ の方法を模索している。 2 済 州 海 女 博 物 館には、 漁の道具から各種文献ま で、 海 女 文 化に多 角的 に接することのできる貴 重な資料が保管されてい る。観客数は、年間およ そ 25 万 人。 写 真は、 博 物館のロビーにある作家 イ・スンス(李承洙)の海 女を素材にしたインスタ レーション作品。
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25 2
フォーカス
未来に向けた ソウルの 新ランドマーク
ソウルを代表する新しいランドマークを目指す「東大門デザイン・プラザ & パーク( D D P )」が最近オープンした。総工費 4840 億ウォンをかけた 延べ面積 8 万 6572m 2 規模の、この興味深い建物が建った東大門一帯は、 人口 1000 万人を抱えるソウルの巨大なファッション産業の中心地であり、 一方で 600 年の歴史の足跡が多く残っている。D D P は特別な意味のあ る場所に新しい伝統を築くという果敢な試みである。 ク・ボンジュン (建築コラムニスト、新聞記者)
東 側の東 大 門、つまり興 仁 之 門 一 帯は、
1
長い間、商業や交通の中心地だった。こ
こは 1960 ∼ 70 年代の高度経済成長期に
最大の輸出業種だった繊維産業の拠点と
して急成長した。その結果、周辺で生産
された衣類製品が流通する巨大な市場が
できて一つのタウンを形 成した。いわゆ
る「東大門」は数万人にのぼる労働者や商
人、そしてデザイナーがひしめく韓国ファ
ッションのメッカである。「東大門ファッシ ョン」とはここで生産された製品を指す表 現である。
© 樸海昱
また東大門一帯は現代韓国スポーツの
古里でもある。日本の植民地時代に大型
の運動場が建設されて以来、1980 年代ま
1 D D P の外 観はなんと4万 5133 個の 形と大きさの違うアルミ板を一つ一つな げて作られた、非常にユニークな構造 で、夜になると背面から光を放ち巨大 な彫刻のように輝く。 2 外部はもちろん、内部も曲線の 宴 だ。外とは完全に遮断されたまま、曲 線が織りなす不思議な陰影で満ちた室 内は、まるで時間の止まった別世界の ようだ。
ソウルの中心、東大門
朝
鮮王朝時代、ソウル ( 昔の名前はハ
であった。韓国を代表する伝統的な建物
である韓国の宝物第1号の興仁之門、そし
ンヤン「漢陽」) は現在より規模も小
てコンクリート製のスタジアム、人出で賑
(韓屋)」が立ち並ぶ都市だった。山々に囲
最もダイナミックで熾烈を極める経済と文
さく、屋根の美しい木造建物の「ハンオク まれたソウルでもっとも重要な施設の一つ は、敵に備えるために築造した都城の城
壁だった。城壁には8つの城門が聳えてい
て、中でも勇壮な大門が東西南北の 4 箇
所にあり、ソウルの関門の役割を果たして
いた。
「4大門 」と呼ばれるこれら城門の中で
26
で主なスポーツ試合が繰り広げられた舞台
わう市場が共存するこの一帯は、ソウルで 化の現場である。
デザイン専用の空間が誕生 ソウル市は 2000 年代の中ごろ、ここに
あった競技場を取り払い、新しい文化施設
として「デザインのすべて」を包括できる特
別な空間を計画した。競技場と向かい合っ 韓 国 の 文化と芸 術
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© Virgile Simon Bertrand
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韓 国 の 文化と芸 術
建物の後ろには小さな文化スペースを擁した建物が立ち並び、一つの村を形成している。 である。 ザハ・ハディッドが DDP について一番誇らしげに語るのが「建築と地形が一つになった風景」 四方が高層ビルやショッピング・センターに囲まれたソウル都心のど真ん中に、 これほど広々と水平的空間が存在すること自体が新鮮な驚きを感じる。
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© Virgile Simon Bertrand
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© Ahn Graphics
1
ているファッション・タウンともつながって、 提案して当選した。建物の高さは低いが、 アルミ製の板を一々つなげて建築したこの 韓国の未来の成長戦略といわれるデザイン
の中心になる施設、韓国とソウルを訪れる
多くの観光客が注目する観光スポットとし
て D D P が企画されたのだ。世界の主要な 美術館や展示施設がますます専門化・細分
化されていく流れだが、デザイン専用の空
間として D D P ほど大規模で華麗な施設は
見当たらない。D D P は韓国の現代建築物
の中で、もっとも多額の費用が投入された 公共建築プロジェクトだった。
大地に広がりながら地中から波のように飛
び上がるデザインだった。
2009 年から建築が始まって徐々にその 姿が現れ始めると、高い関心が集まっただ けに、様々な論議を呼んだ。銀色に光る宇 宙船みたいなこの建物がソウルの都市景観 とは調和しないという批判がある一方、新 しい活力を吹き込むことのできる個性的な 空間になるという期待感とが交錯している。
新 概 念の超 大 型 建 築 物であるだけに、 ザハ・ハディッドの建築美学 まず目を引くのは何と言ってもザハ・ハデ
設計者の選定にも大きな関心が集まった。
内外の有名な建築家の中から選ばれたの
はザハ・ハディッド( Z a h a H a d i d )。彼女
ィッドの持ち味といえるユニークなデザイン
神秘的な建物は、夜になると背面から光が
放たれ、巨大な彫刻のようにきらきら輝く。 型破りの外観に劣らず、内部もユニー
クだ。6面全体が真っ白で、内部空間も曲 線の
宴である。外と完全に遮断されたま
ま、曲線が醸し出す微妙な陰影に満ちた 室内は、時間が止まったような別世界を演
出する。
建物自体が作り出す独特の空間も D D P
が 誇 る 見どころだ。D D P は 流 線 型 マス
( m a ss )が聳え立ち、その間々に多彩な 間空間が隠されている。銀色の柱の間
にある狭い通路を通れば、広々とした屋外
である。DDP は建物の床を除けば直線と
の空間が目の前に現れ、凹んだ広場の上
な曲線と斜線、そして「 非定型の建築 」で
すべての空間が緩やかな曲線となり、解き
このように床の高さや構造が随時に変わり、
建築家である。ザハ・ハディッドはの運動
す「世界最大の非定型建物」である。金属
スペースは、それ自体で他の建物ではなか
公園を形成する「 風景 」としての建築物を
んと4万 5133 個の、形やサイズも全部違う
たデザイン市場やイベント競演場などにい
は直線と直角からなる従来の建築とは裏腹
独自のブランドを構築した世界最高の女性
直角がない。壁や天井、廊下に至るまで、 を広い橋のような空中廊下が通っている。 放たれた通りのように非対称の曲線をな
場の敷地と建物が一体のようにつながり、 板で覆われた外観もとてもユニークだ。な
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建物の内と外をつなぐ開放されたオープン
なか体験できない空間であり、活気に満ち
韓 国 の 文化と芸 術
2 1 デザイン展示館では、韓国で最も古い私立古美術博物館・潤松美術館( Kansong Art Museum )の常設展示が行われている。 2 デザイン・遊び場は、子供たちがデザインで未来を経験しながら想像してみる空間である。
くらでも変身できる。実際に一年中、デザ
イン展示会を始め、新製品の発表会やデ ザイン市場など、様々な文化イベントが開 かれる計画だ。
中でも目を引くのは、韓国でもっとも古
い私立古美術博物館の澗松美術館
( Kansong Art Museum )がここに常設
展示場を設けたことだ。韓国文化の精髄と
いわれる澗松美術館の収蔵品は、韓国人
でも容易に接するのが難しかった貴重な宝
物である。それが、もっとも未来志向的な 最先端の建物で、韓国の輝かしい文化遺 産に出会えるようになったのだ。
市民に余裕と幸福感を与える ランドマーク
建物の名前に 「公園」 が入っていることか
らも分かるように、DDP は伝統的な概念の
建築物ではなく、「統合された景観」である 博物館型公園と見るのが正しいだろう。建
物の屋上は人工丘だが、緑の草地に覆わ K o r e a n a | 2 0 14 夏号
れていて、石を積み上げて作った朝鮮時代
の都城と都市の基盤施設だった遺跡につな
い材料と出会ってソウルで生まれ変わった。
D D P は「水平のランドマーク」であるだ がって緩やかな稜線を演出する。建物の後 けに、21 世紀における世界の主要都市に ろにはやはりザハ・ハディッドがデザインし 見られる流れを反映している。市民に楽し た小さな文化空間を抱えた数々の建物が大 さを提供し、公共の価値を追及し、市民 地に建っていて、一つの村を形成している。 に余裕と幸福感を与えるランドマークが最 ザハ・ハディッドが DDP についてもっとも誇 近の都市の流れである。そのため、市民の らしげに語るのが「建築と地形が一つにな 目線に合わせて、都市の公共空間に自然 った風景」である。四方が高層ビルやショ につながる水平構造のランドマークが登場 ッピング・センター囲まれたソウル都心のど しているが、DDP もその一連の流れとなっ 真ん中に、これほど広々と水平的空間が存 ている。 在すること自体が新鮮な驚きを感じる。 D D P そのものが 小さな 都 市 のようで、 ザハ・ハディッドが現在、世界的に花形 一度で全部を見て回ることは難しい。強烈 のスター建築家の一人になったのは、彼女 で破格的なデザインは見方によって、その のデザインが我々の時代的な特性をうまく 評価も極端に分かれる。しかしこの興味 表しているためだ。彼女の建築物は、水の 深い建物自体が、複雑でダイナミックな都 流れのように変わっていく流線型空間が現 市であるソウルの特 性を盛り込んでいて、 代社会における自由と流動性を表し、先端 多様な見どころを提供していることは間違 と未来に対する現代人のファンタジーを刺 いない。我々はここでソウルの過去と現在、 激する。イラク生まれの彼女の目に映った そして未来に同時に出合える。それこそが 砂漠の稜線は、金属とセメントという新し DDP の魅力であるのだ。
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文化遺産の継承者
民族が共有する視覚的な思惟の 原形を守る澗松コレクション3代の物語
鋭い鑑識眼で韓民族が共有する視覚的な思惟の原形を収集した文化財収集家「澗松(カンソン)」、 そして彼の宝物庫を世の人々と共有するために渾身の力で守ってきた子孫たち。
3 代に渡って続いてきた「文化に対する愛情と尊重」、これこそが「澗松」の家系の光り輝く偉大なる遺産だ。
コ・ミソク (高美錫、東亜日報論説委員)
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韓 国 の 文化と芸 術
澗松コレクションの最も重 要な基準は「韓国固有の美 を見事に表現したものか」 だ。 韓 国の美を独 創 的に 表現した謙齋 歚「海嶽傳 神帖 」の中の「 金剛内山 」 (32.5 49.5cm, 絹本淡彩)
日
本が韓半島で民族抹殺政策を繰り広げていた 1940 年7月、 全国の学校では韓国語教育が廃止され授業はすべて日本語
で行われ、さらにすべての韓国人は強制的に日本式の苗字に姓氏 改名させられた時代だった。京城市内(今のソウル)の
南書林に
立ち寄った当代最高の文化財収集家チョン・ヒョンピル( 全
弼、
1906 1962、澗松は号)は、有名な本の仲買人が慌てて歩いてい
く姿を見て、これは何かあると直感し呼び止めた。そして「慶尚北 道安東に訓民正音の原本が出たというので本を買う金を工面に行
くところだ」という話を聞き、澗松は胸が高鳴るのを感じた。仲買
人が口にした金額は当時、瓦屋根の家が1軒買えるだけの 1000 ウ
ォンという巨額なものだった。澗松は「 この本を必ず買い求めてく るように」と頼むと、その値段の 10 倍以上の現金を渡した。ハン グルの創成原理が書かれた本の存在が世に明らかになれば日本が 破棄してしまうかもしれないと考え、どんなことをしてでも「訓民正 音」 を守るんだという一念だった。
このようにして澗松コレクション入りした「 訓民正音解例本 」
( 1446 年)は国宝 70 号、1997 年にユネスコの世界記録文化遺産
に登録された本だ。澗松は解例本を手にしても、そのことを公に はせずに密かに保管し、独立後にようやくハングル学者が研究で
きるように内容を公開した。澗松の長男で澗松美術文化財団理事
長のチョン・ソンウ(全晟雨、80 歳)さんは「解例本は父の澗松が
最も大切にしていたもので、歴史的、文化的にも民族の最も貴重
な宝物です」と述べている。全世界の主要な文字の中で、作った 人間と作られた意味、そして作られるまでの科学的な原理が正確
に記載されている唯一の文字がハングルであり、これを立証する 唯一の証拠が、この解例本だと説明する。
文化で国を守る
大富豪の息子に生まれた澗松は人の行かない道を開拓した。
陶磁器であれ、書画であれ、名品が市場に出れば価格を問わず © 澗松美術文化財團
無条件に、ただこの国に残すべき作品かどうかだけを冷徹に考え
買い集めた。 1935 年京城のある日本人の骨董商から瓦屋根の 家 20 軒分の値段をだして『 青瓷象嵌雲鶴紋梅瓶 』を買い取った
時もそうであった。これから先、もうこれ以上の青磁を手にする
ことはないだろうという彼の判断は正しかった。多くの鶴が舞い 飛ぶ陶磁は国宝 68 号であり、『 高麗青磁の代名詞 』として韓国
の地に残っている。 1936 年日本に渡り、英国人の国際弁護士ジ
ョン・ギャスビーの高麗青磁のコレクションを買い取った話など、 澗松の所蔵品にはその一つ一つにこれと同じような逸話が残され
ている。
24 歳で 10 万石( 20 万俵、およそ 400 億ウォン)の財産を相続し
た澗松は民族の魂のこもった文化遺産が日本に流出することのな
いように守ろうとした。また最初の民族私学の普成学校の再建に
も全財産を惜しみなくつぎ込んだ。何よりも大切なことは彼の文化
財収集は個人の趣味活動ではなく、文化的な独立運動の次元で
始まったものであり、この地の精神文化を守護するための活動だ
ったということだ。そのため 1945 年の独立と共に文化財の収集を 中断したのも「これからは誰が集めてもこの国に残るだろう」と考え
K o r e a n a | 2 0 14 夏号
33
1
1 澗松が自ら描いた作品「古塘秋暁」 2 大富豪の息子として生まれた 澗松の20代の頃 3 韓国初の近代的な私立美術館である葆華閣の開館の ために1938 年閏 7月、澗松が彼の家に古美術学者を集 め話をしている。 4 1938 年に建立された 葆華閣は光輝く宝物を集めた 家という意味だ。
3
4
2
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韓 国 の 文化と芸 術
「初代の澗松が民族文化の存立が百尺竿頭の危機に していた植民地時代に、すべてを犠牲にし て文化財を集め守ったのなら、2 代目の私と弟は韓国 ( 朝鮮 ) 戦争で多大な被害を受けたコレクシ ョンを整理し、これを学術的に研究保存するのに力を注ぎました。そして私たちの後に続く3 代目 は世界にわが国の文化の優秀さを広く知らせ、韓国の文化的なプライドを高める為に努力してい るのです」
たからだった。
同じ敷地内に暮らしながら澗松コレクションを守り抜いてきた主
澗松は 1938 年自分のコレクションがばらばらにならないように、 役たちだ。
ソウル市城北区城北洞の山裾に『葆華閣』を設立した。韓国初の
偉大な父の息子として生きる事はたやすいことではない。澗松
近代的な私立美術館の誕生だ。1962 年に彼が他界した後は、遺
の二人の息子は画家ではあるが、自分の名声よりも父の崇高な意
れ、『澗松文華』 という研究論文を兼ねた展示図録が発表されてい
返り「本当に誇らしい気持ちでいっぱいであると同時に、「本当に
族と美術界の人々によって 1966 年韓国民族美術研究所が設立さ
る。1971 年に葆華閣が澗松美術館となり、それ以来、澗松が収
集した傑作は毎年5月と10 月の企画展の間だけ一般に公開され
思を受け継ぐことをまず考えていきてきた。彼らはその人生を振り
大変でした」と述べている。「父の意志を受け継いだ倉庫番」だと
自らを紹介するチョン理事長は、各世代の役割をこんな風に整理
人々を魅了してきた。
している。「初代の澗松が民族文化の存立が百尺竿頭の危機に
父の名前で
なら、2代目の私と弟は韓国 ( 朝鮮 ) 戦争で多大な被害を受けたコ
澗松コレクションは国宝 12 点を含めたおよそ 5 千点あまりの作
品から成っている。古風な石造の建物で 40 年間、春と秋の 2 回だ
していた植民地時代にすべてを犠牲にして文化財を集め守ったの
レクションを整理し、これを学術的に研究保存するのに力を注ぎま した。そして私たちの後に続く3代目は世界にわが国の文化の優
け公開されて来た作品が今年の3月から美術館の門外に出始めた。 秀さを広く知らせ、韓国の文化的なプライドを高める為に努力して 世界的な建築家ザハ・ハディド氏が設計したソウル東大門デザイン
いるのです。」
国を守る』展に訓民正音をはじめ仏像、陶磁器、古書画など 100
の絵師」が放映され 18 世紀の巨匠たちの絵画を所蔵している美術
の発足を記念して現代的な空間と便利な環境ですぐれた民族文化
は「これまでの枠では到底手に負えない難しい点が多かった」と
プラザ( DDP )内のデザイン博物館で開幕した『澗松文華―文化で 点余りが展示されるために。咋年、設立された澗松美術文化財団
「風 2008 年に朝鮮時代後期の宮廷画家が登場するテレビドラマ
館に対する人々の愛情と関心が爆発的に高まった。チョン理事長
をより多くの人々と共有できるようにと、ソウルデザイン財団と協
し「より多くの人々の近くに私たちが近づき民族の文化遺産の美し
D D P での展示を契機に韓国の精神文化のルーツを守り抜いた
する。若い頃、アメリカに留学したことのある彼は、東洋の精神
約を結び3年に渡る共同展示を始めたのだ。
父の名前を大切にし、所蔵品の保管と研究の基礎を整えること
に生涯をかけたその家族にも注目が集まっている。澗松の長男の
チョン・ソンウ理事長と次男の澗松美術館長・チョン・ヨンウ (全暎 雨、 74 歳)さん、そして孫の財団事務局長・チョン・インコン(全
寅建、 43 歳 )さんがその家族だ。美術館が位置する丘の頂上の K o r e a n a | 2 0 14 夏号
さを知らせ、共有できるようにと昨年財団を設立しました」と説明
世界と西洋の表現技法を融合させた個性的な作品を作り、有名な
画廊と専属契約を結ぶなど、嘱望された画家として頭角を現して
いた。しかし父が他界すると彼はアメリカでの生活を整理して帰国
した。帰国後は大学でも教
をとったが、父の意志を受け継ぐこ
とに全力投球するため教授職も辞した。彼は 「父が常に行動で示し
35
1
ていた文化に対する愛情とその仕事の大切さを感じていたので、
チョン事務局長は祖父の遺産を創造的に継承する仕事に関心
過ぎた日の選択に後悔はない」 と語る。
をもっている。「祖父が収集した目的自体が個人の趣向による一般
尊敬の念を語ってくれた。「父が建てた葆華閣の意味は『国の輝く
品に対する芸術的な審美眼がなかったということではありませんが、
の森から記憶を蘇生させ、私たちが誰なのかを教えてくれるものな
美を独創的に表現した画家、謙齋・ 歚(キョムジェ・チョンソ
松はその部分を非常に大切なものとして認識していました」
集めて後世の人々が研究できるようにしました。今後、その価値
澗松美術館の枠を固めたチョン・ヨンウ館長も父に対する深い
宝物を集めた家』というものです。この宝物は私たちにとって忘却
のです。まさに精神性を回復させてくれる媒体なのです。父、澗
過去から未来を夢見る
澗松は言葉の代わりに行動で実践した人物だった。子供たちに
ただの一度もこうしろ、ああしろ、これが正しいなどと言ったこと はなかった。文化財に対する愛情も常に静かな行動で示していた
的なコレクションとは完全に意味が違っていました。趣味や骨董
韓国固有の美をよく表現したものかが重要な基準でした。韓国の
ン :謙齋は号)の場合は師匠と弟子、父と息子の絵まで系統的に
を国内外にきちんと報せることに力を尽くしたいと思います」
根っ子のない木がないように、現在と未来は過去から伸びてき
たのだ。未来を描きたければ過去から振り返らなければならない。
これがチョン局長が「必ず私がしなければならない仕事」だと考え 歴 史 学 者としての夢をたたみ父と叔 父の財 団に参 加した理 由
父のように二人の息子たちも黙々と自らのすべき仕事を続けてきた。 だ。「うちの家には家訓というものはありません。ただ幼い頃から
そんな父と叔父の後を継いでチョン・インコン事務局長は若い意気
肩越しに見て接しながら体で覚えた教育がすべてです。しかし注
所蔵品をネイバーとの協約を通じてオンライン上で紹介し、D D P
父がそうだったように、わが国の文化の過去と現在、そして未来
で新たな変化を模索している。ホームページもなかった美術館の の先端空間で企画展を開くためには彼の汗と情熱が必要だった。
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入されたことよりも体得したことの方が遙かに重いと思います。祖
へと繋ぐ連結の輪を作りたいと思います」
韓 国 の 文化と芸 術
( 1446 年)は国宝 70 1 澗松が守った『訓民正音解例本』 号で 1997 年にユネスコ世界記録文化遺産に登録された。 2 澗松は 1935 年に京城のある日本人の骨董商から「 青 瓷象嵌雲鶴紋梅瓶 」を買い入れた。そのおかげで国宝 68 号で、「高麗青磁の代名詞」と言われる名品が韓国人 の傍らに残ることができた。 3 日本に流出した蕙園申潤福( 1758 ∼?)の「蕙圓傳神 帖」もまた 澗松が大阪で購入し、新たに表具をしたもの だ。これはその中の「端午風情」 ( 28.2 35.2cm、紙本 淡彩)
2
冷たく厳しかった日本の植民地時代にもいつか幕が降りると確
信し、その時まで文化のアイデンティティーと価値を証明する傑作
を守り通すことで民族精神をきちんと育てることができると信じた 澗松、彼がいなかったら、今日、私たちがこの目で見て感
3
を禁
じえない大切な宝物もたぶんその多くは国外に流失しバラバラの
離散家族になっていただろう。元老学者のチェ・ジョンホ (崔禎鎬)
元延世大教授はあるコラムで 澗松の業績をこのように書いている。 「澗松がいたから私たちには『訓民正音』の原本があり蕙園の民
俗画帳もある。澗松がいたからこそ、数の面でも価格の面でも計
り知れない謙齋と檀園の名画や、秋史の名筆、国宝に指定された 青磁、白磁の名品が私たちの傍らに残っているのだ。日本の収集 家の手に渡りかけたり、中にはかまどの火付けになりかけた国宝
級の文化財を澗松は 10 万石の全財産と全生涯を捧げて買い集め、
この地に、この同胞たちの傍らに保管しておいてくれたのだ。韓国 人が韓国人であることを誇らしく思える文化遺産を国立中央博物
館に負けないくらい収集しているのが、彼の澗松美術館だ。国も
できないことを、国を失った植民地時代に、澗松はただ一人でや
り遂げたのだ。
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アート・レビュー
韓国の道教文化
幸福への道
国立中央博物館は 2013 年 12 月 2 日から 2014 年 3 月 2 日まで、 企画特別展「韓国の道教文化―幸福への道」 を開催した。
韓国の儒教や仏教、民間信仰などを扱った展示はこれまでにも少なくなかったが、 道教文化全般を網羅した展示は今回が初めてだったと言える。 アン・ギョンスク (安京淑、国立中央博物館考古歴史部 学芸研究士)
韓
国の伝統文化は一般的に儒教・仏教・道
神に対する人間の念願
教の影響下で形成されたと言われる。こ
道 教はもともと不 老 不 死の薬を服用したり、
のように道教は儒教・仏教と共に韓国文化の根
心身修練や神に対する祈祷を通じて不老長生や、
芸術・大衆文化、そして健康・修練など、生活
土着の宗教だった。その道教が教理と組織を整
幹を成しており、現在までも歳時風俗や信仰・
のあらゆる分野にその命脈が残存している。「韓
国の道教文化―幸福への道」展はこのような道教文化
を振りかえることで、韓国の精神文化の多様性と豊か
さを確認すると共に、昔の人々の幸福への旅程を通じ、 現在に残された道教文化の足跡を確かめようという展 示だ。
展 示 は 大きく3部 に分 かれている。まず 第1部
の「道教の神と儀礼」では「神となった老子」 「天・地・ 水の神」 「 国家が行う道教の祭祀」などの主題を通じて
幾種類もの神への韓国人の念願がどのように表現され
てきたかを見ることができる。第2部「 不老不死 」で は「 神 仙 の 世 界、 洞 天 福 地 」 「 神 仙 の 世 界 を夢 見
る」 「 神仙になる法」などの主題で道教の理想郷と神仙
の世界に対する憧憬、神仙になる方法などを見ていく。 最後の第3部「寿福康寧」では「共にいきる道教」 「福
を願う」 「 民間信仰と道教 」などの主題で多様な宗教
思想と疎通し共存した道教文化と、絵画や工芸品な
ど日常の中の遺物に残る道教的な祈福の痕跡を目に することができる。
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富と名誉のような現世的な利益を追求する中国
「山水文塼」 ( 29 29cm, Earthenware ) 宝物 343 号 国立扶餘博物館所蔵
えたのは 4 世紀北魏の寇謙之(こうけんし、道士、 365 ∼ 448 )の新天師道( 後の道教 )からだ。その後、 道教は多くの宗派を生み出し、神仙説と民間信仰を 核にして陰陽、五行、周易などの説と医学、道家哲 学などを加味して、さらに仏教や儒教の要素まで加え ていく。 道教は公式には7世紀頃に高句麗を通じて伝来し たと言われているが、韓国人はすでにそれ以前から道 教的な文化要素を受け入れていた。しかし道教は韓国 では宗教として体系を整えたり、仏教教団あるいは儒 林(儒学者)のような確固とした勢力を形成するまでに は到らなかった。それは道教の祈福宗教としての役割 は巫俗(シャーマニズム)を中心とした土着の民間信仰 が遂行しており、道教的なアイデンティティーを備え た知識人は個人的に養生修練に没頭したからだ。そし てそれが韓国の道教文化の特徴でもある。 昔から人々は天と地と水を神聖視した。そのような 古くからの信仰は後日、道教にも組み込まれ、太陽と 月、北斗七星をはじめとする天の星宿神(星座の神) と 韓 国 の 文化と芸 術
© 國立中央博物館
K o r e a n a | 2 0 14 夏号
国宝 287 号の 「百濟金銅大香爐」 (高さ61.8cm, Gilt Bronze ) は神仙たちが住むといわれ る神山を表現した博山香爐 の伝統を継承し、それに百 済的な要素が加味されてい る。国立扶餘博物館所蔵
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現存する最古で最高の 「日月五峰図」 (朝鮮、1909 年入手、 194.7 219.0cm、 絹に彩色) 。 中国を通じて入ってきた 西洋顔料を使った 20 世 紀 の日月五 峰 図とは 違 い、天 然 顔 料 の岩 彩を 使 用してい ることが 分 析の結果分かった。
后土のような地の神、龍神に象徴される水の神などが
反面、老いることも死ぬこともない道教の神や神仙
道教の神となる。
たちは人々が幸福を祈る対象として依然として人気が
った道教の神たちを祭る祭祀の「斎醮」では、北斗七
八仙人の絵や、最高の女性神仙人である西王母の宴
高麗時代から朝鮮時代中期まで国家が主導して行
星などの星座の神に対して王室と国の安寧を祈願した。
また高麗時代には石棺に太陽、月、北斗七星などの 星座を彫り、百済の武寧王陵から出土した買地券(墓
地の副葬品で墓地の売買証明書 )や、高麗時代の僧
あった。韓国では最も人気のある 8 人の神仙を描いた 会を描いた絵、そして長寿を宿願する絵などが朝鮮後
期に広く人気を集めた。また人の寿命を管轄する寿老 人、長寿を象徴する東方朔、学問の神である文昌帝
君、財宝の神である關聖帝君などが、神仙人の絵の
侶の買地券には后土と称する大地の神が登場する。古
素材として大衆の人気を集めた。
航海の安全を祈願する祭祀も行われている。このよう
れる霊芝、そして鹿、鶴、亀をはじめとする十長生(十
だと言える。
意味で各種吉祥画や工芸品の模様として日常用品に
代以来、川や海などの龍神を対象に雨乞いをしたり、 な事実が韓国の土壌に根付いた代表的な道教的要素
王室と国の安寧を祈る道教の祭祀が盛大に行われ
ていた高麗時代には儒教・仏教に対する素養は言うま
一方、西王母の仙桃に由来する桃、神仙草と呼ば
種類の長寿のシンボル)などは長寿と福祿を象徴する 幅広く使われた。
でも無く、道教に対する知識や道教的な生き方をする
善行を積んで神仙になる法
鮮時代になると道教の地位は大きく下落したものの、
し、実際に実践した。道教の神仙になるための方法
かれ続けた。
外丹と、修練により人体内に生命の気運を蓄積する
ことが美徳とされていた。性理学を統治理念とした朝
それでも文学や絵画では三教一致の世界が頻繁に描
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より積極的な人々は神仙になるための方法を研究
は不老不死の薬のような人体外部の物質に依存する
韓 国 の 文化と芸 術
辛い人生であればあるほど、慰安を求めるのはもしかすると人間のもつ自然な 本能なのかもしれない。だからこそ尚更、道教が現在の私たちが直面している問題をすべて 解決してくれるなどと安易に考えることも、逆に道教を迷信と同一視して過度に否定することも、 どちらも適切な見方だとは言えない。道教文化の現代的な意味を解釈することは、 今日を生きる私たちに与えられた課題なのだ。
内 丹 に 分 か れる。 朱 砂 [ H g S ,
思想は文学や絵画などの芸術作品に多大な影響を与
る金丹は外丹の不老不死の薬
響を与えることになる。知識層を中心として広がった
え、方術文化は朝鮮後期の英雄小説の類に大きな影
硫化水銀 ]と鉛を原料にして作
修練文化は韓国固有の山岳信仰や神仙思想の流れと
の代名詞だったが、金丹を服用
合わさり、隠
した人々が相次ぎ中毒死したこと
で宋代以後には外丹は衰退してし
まう。韓国の内丹修練の伝統は9世
道教の現在を訪ねる
紀に唐に留学した統一新羅のキム・ガキ
(金可紀)、チェ・スンウ(崔承祐)、僧侶のチ
ャヘ(慈恵)などに始まる。朝鮮時代には内丹修練が
盛んに行われ、キム・シスプ(金時習、1435 ∼ 1493 ),
チョン・リョム(
磏、1506 ∼ 1549 )などは内丹学を
代表する知識人だった。また専門的な内丹修練家で
はなくても著名な性理学者のイ・ファン (李滉、号は退
的な人物を通じて伝授されていった。
今回の特別展を企画しながら私は、道教文化の中
「神仙模様の香合」 (直径 5.6cm、 Silver Gold ) 国立中央博物館所蔵
に内包されている多様な物語が現代の作家たち、そし
て観客を通じて量産されればと願った。そしてそれら を通じて文化コンテンツの宝物の倉庫であり、常に私
たちの傍らにある道教文化を見つめなおすことができ
ると考えた。特に道教文化の現代的な意味を解釈し
ようと現代の作家たちの作品を一緒に展示したことは、
渓、1501 ∼ 1570 )のように健康のために内丹修練を
この特別展だけの特別な試みだ。それらを通じて道
の薬を飲んで修練をしても、倫理道徳を守らなければ
る私たちの人生にも密着していることを実感できただ
行う人々も多かったところで道教ではいくら不老不死
神仙になることはできず、寿命もそれだけ短くなると 考えられた。そしてこのような教えを伝える道教の勧
善書が朝鮮後期に広く流布した。このような勧善書に
教文化が荒唐無稽な遠い国の話ではなく、今を生き
ろう。
辛い人生であればあるほど、慰安を求めるのはもし
かすると人間のもつ自然な本能なのかもしれない。だ
示された善行は儒教や仏教の徳目をはじめとする人間
からこそ尚更、道教が現在の私たちが直面している問
くなく、現世的で実践が可能だという点から大衆の支
逆に道教を迷信と同一視して過度に否定することも、
の普遍的な道徳規範を残らず含んでおり、内容も難し
題をすべて解決してくれるなどと安易に考えることも、
持を得ることになる。
どちらも適切な見方だとは言えない。道教文化の現代
もあるが韓国固有の土着神と相通ずるものもまた少
えられた課題なのだ。私たちは私たちの歴史に道教が
たり、人が暮らす大地と川、山と木などを神聖視し、
仰として今も私たちの暮らしに大きな影響を与えており、
道教の神々の中には中国土着信仰に由来したもの
なくなかった。例えば、夜空の星座を観察して崇拝し
村や城郭、家庭を守る心霊がいると信じる宗教観は 韓国人にも早くから備わっていたものだ。北斗七星に
由来する七星神、城郭や村を守護する城隍神、火を 守護する
的な意味を解釈することは、今日を生きる私たちに与 存在したという事実、道教文化が歳時風俗や民間信
多くの部分で私たちの生活に有用だったということを
忘れてはならない。伝統という名の文化の深い淵源、
そしてその中に溶け込んでいる多様な人生の方式を眺
王神のような道教の神々が韓国に入ってき
める為の媒介として今回の展示がその意味を発揮でき
だんとその一部となっていったのは、ある意味で自然
その一方で綿々と受け継がれてきた道教文化の多
て土着の民間信仰と無理なく溶け合いながら、だん な結果であった。
道教はその特有の開放的な包容性により仏教や民
間信仰と混合したり、東学のような新興宗教に影響
を与えるという形で残っていった。また道教的な隠逸 K o r e a n a | 2 0 14 夏号
ればと思う。
様な脈絡が、今日を生きる私たちの目と手により新た
な文化コンテンツとして誕生し、そしてそのインキュベ ーターとして今回の展示がその役割を果たせれば企画 者としては限りない喜びである。
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オン・ザ・ロード
詩心で訪れた文学とお茶の里 二十歳の初夏、私は川に沿って歩いていた。緑色の日差しが川に降り注ぎ、 風はほのかに甘かった。当時、私の人生で一番重要なのは詩だった。 一日 24 時間、86400 秒すべてを詩に捧げたかった。それ以来、私は詩のための夢を見始めた。
その夢とは国中のすべての村を回りながら一晩ずつ泊まることだった。
クァク・ジェグ(詩人)◎ 写真 李
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九、趙知瑛
韓 国 の 文化と芸 術
河 東 の 名 山である智 異 山 は、 季節ごとに移り変わる神秘的 な景観が魅力的だ。夜明け前 の霜の降りた風景は特に有名 だ。智異山は慶尚南道と全羅 南・北道の三つの道の五つの 郡にまたがっていて、荘厳な 風景が広がる、様々な伝説を K o r e a n a | 2 0 14 夏号 持つ国立公園である。
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蟾津江下流は、澄んだ川でしか獲れないサワガニやシジミ、そして櫓の代わりに綱を引いて移動する綱渡し舟で有名なところである。
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ど
の村に何の花が咲いたのか。どの村の夜空が最も美しいか。 井戸の周りに人々が集まって会話を交わし、めでたい日には
村人が集まってどんな歌を歌うのか自分の目で見たかった。聞き 伝えではなく、自分の目で見てこそ初めて、夢にまで見ていた詩が 書けると信じていた。自分の足で歩いてその村を訪れたく、その村
の香りを嗅ぎたかった。初めに蟾津江と智異山一帯、慶尚南道河
東郡を訪問したのは自然な選択だった。私の住んでいた順天から 河東までは、わずか 40k mくらいの距離であり、河東に対する鮮
明な思い出も私をそこに導いてくれた。
蟾津江の流れに従って 1970 年代に初めて河東の地を踏んだ。その時も今のように蟾
津江の川辺に沿って智異山が 広がっていた。道中、日が暮れると、
川辺にテントを張り砂場に横になって夜空を眺めた。私は月光の 降り注ぐ砂場にうつぶせになって友達に手紙を書いた。「月の光が
明るい。ラビンドラナート・タゴールとヘルマン・ヘッセが読めるぐ
らい。家よりも大きいノイバラ(野薔薇)の茂みが川辺に沿って花
を咲かせ、その香りに酔いしれて眠れなかったよ」。河東は夢に見 た村、理想郷、シャングリラに近かった。
1970 年代の韓国の現実は、河東で感じていた暖かさや平和な 雰囲気とはかけ離れたものだった。軍事独裁政権による政治的弾 圧が続き、アジアの他の国に比べて、経済的にも遅れている貧し い国だった。街のあちこちに設置された検問所やバリケード、無 線機を手にした警察が歩調を合わせて町中を練り歩き、私服を着 た警察が令状を提示することもなく、人々のカバンや身体を検閲し た。詩が好きで、詩が自分の人生における天職だという二十歳の 情熱はあるものの、詩が我々の暮らしを救ってくれるかどうか確信 はなかった。最後まで詩を書き続けられるか。なぜこんな国に生 まれたんだろう。二十歳の私の徒歩旅行はそんな絶望感との、遥 かなる戦いだったかもしれない。
花開市場から雙磎寺(サンゲサ) まで
私が花開の渡し場に着いたのは、徒歩の旅から五日目のことだ
った。私はここで渡し舟に乗ったが、川の両岸にロープを渡して船
頭がそのロープを伝い、向こう岸に渡してくれる方式だった。川を 挟んでこちら側が全羅道で、向こう側は慶尚道であることが不思
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花開市場は五日ごとに開かれる 伝 統 的 な 定 期 市 場 で あnる。 河 東の山間の村々をつないで、 商業の中心地としての役割を果 たしてきたが、今では文化的な 観光名所になった。
議な気がした。故郷の違う二人が一緒に舟に乗り合わ
をいれる姿を見つめた。象
しゃったんですか」とおばあさんに聞くと、「 子供の結
た。「なぜ詩を書くんだ」。この質問こそ後にも先にも、
せて川を渡る姿は実にいい情景だった。「どこにいらっ 婚相手のお宅に行ってきた」と歯茎を見せて笑う姿に
ほのぼのとなった。
花開の渡し場を通って河東の名所である花開市場
に向かった。今ではすっかり姿を消したが、当時の花
開市場の光景は今も鮮明に覚えている。コールタール
を塗ったバラックが並んだ商店街の、日に焼け色あせ た建物の間を歩いていると、心が安らいだ。市場見物
は心ときめいた。呉服屋、米屋、薬草の店、農機具
店が 立ち並び、 酒 場や醸 造 場に、 古い宿もあった。
1990 年になって、これらの建物はすべて近代的な建 物に変わってしまったが、昔の市場の風情を残して、 新市場を建設したなら、花開市場の名前は今よりずっ と知られたはずだ。 花開市場を通り過ぎてたどり着いたのは雙磎寺。お 寺の住所は、花が咲いて雲や水が流れていくという意 味の雲水里である。韓国の住所名の中に、雙磎寺ほ ど詩的な地名があるだろうか。仏頭花が咲いた境内を ゆっくり歩いていくと、若いお坊さんに話しかけられ た。「何しに来た」 「詩を書くために」。禅問答のような 短い会話がお坊さんに気に入れられたのか。彼は私に お茶を勧め、私はうなずいた。部屋でお坊さんがお茶
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色の茶器に緑茶の葉っぱ
を一握り入れて湯を注ぐ時間。お坊さんは再び尋ね
私にとって一番難解な質問であった。お坊さんが注い
でくれたほのかな薄緑色のお茶を容易に飲み干せなか
った。お茶の色があまりに美しく、ちょっとためらった
あと、 湯 のみを手 にした 私 は 初 めて緑 茶 を飲んだ。 後々になって私は、雙磎寺の周辺に韓国の茶始培地が
ある事実を知った。お寺から下る道中、緑茶の深い香
りに酔いしれて、一生山で生きることもいいんじゃない かと思うほどだった。
文学の息吹が感じられる村
平沙里はパク・ギョンリ(朴景利)の小説『土地』が
発表されてから世間に知れ渡るようになった。土地に 対する執念と登場人物同士の切ない恋物語には、韓 国人の魂に深い共感を起こした。40 年前に初めて平
沙里を訪れた時、麦の熟した香りが村全体を包んでい
た。当時私は初めて空楼を見た。山の谷間で畑を耕
しながら暮らす平沙里の人々は、家の中に空楼を設け
ていた。楼閣の形をした空楼に座ると、蟾津江と広々
と広がった畑が見下ろせた。野良仕事の終わる日暮れ
時になると、竹や木などを敷いた空楼に家族が集まっ
て座り、一日のことを話し合いながら夕飯を食べる家
河東の茶の栽培地域は、蟾津江と隣接して霧が多く立ち込み、湿気が多い。茶の木を栽培するのに最適の環境条件備えているためか、味や品質に優れている。 4月下旬から5月初旬にかけての手摘みの葉は、まろやかな味と香りがいい。
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楼閣の形をした空楼に座ると、 蟾津江 ( ソムジンガン ) と広々と広がった畑が見下ろせた。 畑仕事の終わる日暮れ時になると、 竹の木などを敷いた空楼に家族が円を描いて座り、 一日のことを話し合いながら夕飯を食べる情景は 暖かくのどかなだった。
族団らんは暖かく平和だった。
平沙里で一番美しい空楼は丘の左の端っこに位置した家にあっ
た。正門のすぐ傍にあった2階建てのその空楼からは、蟾津江と
アクヤンボル ( 大河小説「大地」のロケ地 ) を取り込み、平和で純粋
なエネルギーに満ちていた。ところが、再び訪れた際に、その空
楼が撤去されたと聞いた。時間の経過というのは、心の中にしま
っておいた美しい風景が一つ、二つ、消えていくことを意味するか もしれない。
ふと村の灯りが目に入った。ゆらゆらと灯る村の灯りは、水の
中で輝く小石のようでもあり、一晩中涙ながらに書いた一
の詩
のようにも見えた。その時私は分かった。人間が世の中で作り上
げたもっとも美しい芸術作品は、夕暮れの村で輝く灯火 であるこ
とを。ピカソもゴッフも、シャガールもその村から見える灯火の輝
きに惹かれて、偉大な作品を世の中に送り出した。詩も同じでは ないか。詩も人から生まれたもので、人々の暮らしの息遣いが絶
えないこの世の中こそ、詩が記憶すべくもっとも愛しい原点だと思
われてならない。貧しくつらい暮らしであっても、その中に人が夢
見る究極の世界があるはずだ。私は旅の途中で少しずつ自由にな
った。
韓国の文豪パク・ギョンリの大河小説『土地』 の舞台として有名な平沙里は、自然に恵まれた土地である。ここは韓国的な美しい風景として広く知られていて、 文学村としても有名だ。下は小説に出てくる崔参判宅を再現した家と、訪問客らが願いを込めて積み上げた小さな石塔。
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蟾津江(ソムジンガン) 蟾津江は長さが 212.3k m で、韓国で4番目 に長 い。 地 理 的 には 全 羅 南 道、 全 羅 北 道、 慶尚南道に渡って流れる。河東一帯から眺め た蟾津江は、韓国の南東と南西地方の境界 の役割を果たす川として、川辺の散策路を歩 きながら山々や野原、山村の風景などが楽し める。
合っていた。現在は歴史的意味合いと文化的 価値のあるスポットとして、主に観光客が訪れ る場所になった。
うに、二つの渓谷が交差するここでは、毎年 4月になると桜が満開し、谷から流れる澄ん だ水や奇岩と古木が絶景を演出する。新羅時 代、定康王がここで修道した真鑑禅師の高い 平沙里 崔参判宅 道徳と法力をたたえて建設した真空禅師大空 が有名だ。 小説家パク・ギョンリ( 朴景利 )の『 土地 』は、 塔碑(国宝第 47 号) 河東郡岳陽面平沙里を主な舞台に繰り広げら 茶の木の始培地 れる大河小説である。平沙里に位置した崔参 雙磎寺の周りにある茶の木の始培地( 828 年、 判宅は、小説の中の舞台を現実の中に再現し 花開市場 たところで、508.485m 2 の面積に瓦屋根の木 唐から初めて緑茶の種が入り、王命で初めて 植えた場所) で、慶尚南道の記念物第 61 号で 慶尚道の河東と全羅道の求礼の境目に位置し 造の建物 10 棟を建設して一般に公開する河東 た伝統市場である。市場の規模は長さ 50m、 を代 表する名 所である。 小 説と関 係のある ある。始培地は花開面タップ里から雙磎寺の 面 積 は 132 ∼ 165m 2 でそれほど大きくない。 様々な文化イベントや、文学体験プログラムも 入り口を通り過ぎてシンフン村まで、約 12km にのぼる。山や野原に造成された野生の茶畑 運営されている。 1700 年代に花開市場は智異山一帯の山村を 結ぶ商業の中心地としての役割を果たしてき と人工の食材茶畑が同時に存在することから た。当時は蟾津江の水路が主な交通手段であ も、河東の緑茶の品質の高さが分かる。現在 雙磎寺(サンゲサ) も河東と求礼の住民たちが茶の木の始培地で ったため、慶尚道と全羅道の住民たちがこの 智異山の南側の麓、国立公園の中にある雙磎 5月、7月、8月、3回にわたって茶葉を収穫 市場に集まって、内陸地方で生産された林産 寺は 722 年に義湘大師の弟子、三法お坊さん する。 物、農産物、南の海で獲れた海産物を交換し が創建したお寺だ。その名前からも分かるよ K o r e a n a | 2 0 14 夏号
韓国再発見
写真で時代を記録する 写真家 キム・ニョンマン
40 年以上も現場を走り回りながら、韓国の現代史を写真に盛り込んできた写真家キム・ニ ョンマン (金寧万)。彼にとって写真は時代を記録する仕事であると同時に、自分を表現す る手段だった。仕事を超えて、自分らしい写真作品を残した彼は、一番好きな自己実現を なしえた 「写真」 とともに生きたことは幸せだったと語る。 ユン・セヨン (尹世鈴、月刊写真芸術編集長)
歴
史は記録する者のものだといわれる。過去は記録によって
が一瞬のうちに消えてしまうことが惜しくて、写真にでも残したい
際的で客観的なメディアの写真の登場によって、我々は写真の再
彼は大学を卒業した 1978 年、東亜日報に入り、23 年間写真
証言され、記録を根拠に再構成されるからだ。もっとも実
現力を借りて過去を振り返ることができるようになった。韓国の現
気持ちで足しげく故郷に向かった。
記者として生きてきた。1980 年5月、光州民主化運動と80 年代
代史における歴史的な瞬間を写真に残した写真家キム・ニョンマン
を通じてソウル都心の中で繰り広げられた激しいデモの現場や板
なく見せてくれた韓国を代表する写真家である。
場にはいつも彼がいた。
写真を始めた動機は歴史的考証と関係しています
真家と写真記者、二つの観点を同時に持てる幸運に恵まれたと
( 1949 ∼)は、早くから写真の記録性に気づき、その特性を遺憾
門店、大統領府の青瓦台など、韓国の現代史において重要な現 彼は自分の作業に取り組んでいるうちに記者になったので、写
キム・ニョンマンの故郷である全羅北道コチャン( 高敞 )には、 いう。
築城の年代の分からない邑城がある。高敞郡では 1969 年に高敞
邑城の築城年代を明らかにするため、賞金をかけて公募した。高
記録したものは必ず本として出版
した。
失わなかったことで注目される。彼は新聞に載せる一枚の写真を
ながら城壁を観察して、石に彫られている字をすべて写真撮影し
真集として実った。光州民主化運動を収録した『光州その日』、南
時代の本を探し始めた。その結果、彼は築城年代が 1453 年とい
間を記録した『大統領が何よ』、写真記者として生きた 20 年間を
校卒業後、進路を模索していたキム・ニョンマンはこの課題に挑戦
彼は築城年代につながる糸口を探すために、城を数十回も回り
た。その後、図書館に行って写真の中にある字と関連のある朝鮮 う事実を突き止めた。
「歴史書に一行でも築城年代が書いてあったら、そこまで苦労
キム・ニョンマンは取材活動のなかでも、常に写真的な視点を
撮る際も、必ず自分らしい写真を撮った。その結果、何冊もの写
北分断を扱った『板門店』、青瓦台の出入記者として活動した6年
記録した 『激動 20 年』がその賜物である。彼は韓国の 1980 年代と
90 年代を見せてくれる『 激動 20 年 』で、2005 年に北海道の東川 しなかったでしょう。その時、記録の重要性を実感しました。また、 で開かれた国際写真フェスティバルで海外作家賞を授賞した。 当時写真を活用しながら写真の魅力に気づきました。それで写真 彼は記者を辞めた 2001 年以降も、引き続き故郷とソウル、そ を学ぶために、賞金をもってソウルに行きました」。 して南 北 分 断の現 場を撮 影して、2014 年 初め、『 時 代の記 憶 彼 はソウルで 基 本 的 な 写 真 技 術 を学 んだ 後、 故 郷 に戻り、 Portrait of Times 』という写真集を出版した。この本は過去 40 年間の韓国社会を見せてくれる写真集であり、作家の写真世界を 1971 年から始まったセマウル(訳注:新しい村づくりの意味)運動 を撮影した。数百年間続いてきた農村の姿が変わっていく過程を 総まとめにした集大成である。ここに収録された 270 枚の写真は 記録したのだ。その2年後、本格的に写真を勉強するために、中 産業化による農村とソウルの変化、光州民主化運動やソウルのデ 央大学の写真学科に進学した。 モ現場などの政治的変革、そしてイデオロギーの対立が生み出し 当時、休みのたびに故郷に帰ると、友達から田舎者だから田舎 た南北分断の現場など、韓国の現代史を生々しく見せてくれる。 の写真ばかり撮るのかといぶかられた。ところが彼は、長い伝統 「 写真が過ぎ去ってしまう瞬間を記録するメディアだとすれば、
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韓 国 の 文化と芸 術
© 權赫才
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1 1 デモが小康状態になり、戦闘警察が緊張を緩めて休憩をとっている。 (ソウル・ヘンダンドン 〔杏堂洞〕、1982 ) 2 田植えをする田舎のお母さが、姉の背中に背負われた赤ん坊に母乳を与えている。 (全羅北道コチャン 〔高敞〕、1974 )
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韓 国 の 文化と芸 術
3 3 農村にも近代化の波が 押し寄せてきた時代、買 い物帰りの田舎の女性の 後姿と、砂ぼこりを立て ながら走ってくる タクシ ーとのコントラストが面 白 い。( 全 羅 北 道 高 敞 {コチャン }、1976 ) 4 緊張感が漂う板門店で、 北 朝 鮮のある兵 士が 韓 国人記者の望遠レンズに 関心を持って覗き込んで いる。(板門店、1990 )
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北朝鮮を後にして南に避難し たお さんが、正月を迎えて 臨津閣で祭祀を行った後、有 刺鉄線を握りしめ切実な祈り をささげ ている。 ( 京畿道臨 津閣、1993 )
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韓 国 の 文化と芸 術
キム・ニョンマンは 2014 年初め、『時代の記憶、Portrait of Times 』 という 写真集を出版した。ここに収録された 270 枚の写真は産業化による 農村とソウルの変化、光州民主化運動とソウルの民主化デモの現場などの政治的変革、 そしてイデオロギーの対立がもたらした韓国の現代史を生々しく物語っている。
写真集は、一言にすぎない一枚一枚の写真が紡ぎ出す一行の文
章、ひとつの物語です。だから写真も真剣に撮りましたが、その 写真を綴って写真集も熱心に作ろうと頑張りました」。
玉もつなげてこそ宝物になるという韓国のことわざのごとく、彼
は写真一枚一枚を綴って貴重な歴史資料として残した。
ハン (恨) とペーソス
た目だけでなく、その中に内在する本質までをも見せてくれる写真
です」。
キム・ニョンマンのユーモラスな写真は彼本来のユーモア感覚と
無関係ではない。彼のそんな気質は、どんな状況下でもユーモラ
スな瞬間を見逃さない能力として表れ、ユーモアはキム・ニョンマ
ンの写真を語る重要なアイデンティティーになった。
彼の写真はとても温かい。農村の写真であれ、ソウルの貧しい
未完の写真、南北分断 山村を撮った写真であれ、さらには緊張感が漂う板門店の写真で 分断から61 年目。南北分断は彼の写真作業において特に重要 すら、素材を問わず彼のペーソスとユーモアな視線が表れている。 な意味をもつ。彼は過去 30 年間、板門店と非武装地帯を撮り続 韓国人にとって普遍的な情緒であるハン(恨)をペーソスで解釈し
たところが写真家キム・ニョンマンの最大の特徴である。
忙しい田植えシーズンにちょっと手を休めて田んぼの畦で、姉
に背負われた赤ん坊に母乳をあたえる母親さんの写真を見ている
けてきたが、統一されて彼の写真が歴史の遺物になるまで、その 作業は続くと言う。
「 私の写真の中には、有刺鉄線を握りしめているしわだらけの
北朝鮮出身のお さんの写真があります。彼の写真は分断の痛み
と、胸がキュンとなる同時に口元が緩む。家で乳飲み子に母乳を
を象徴する代表的な写真として、現在も臨津閣や非武装地帯に行
しでも赤ん坊を楽にしてあげようと、背負ったねんねこの縁を持ち
真のお
あたえる暇もなく、働かなければならない厳しい状況のの中で、少 上げている土で汚れた母の手から、深い母性愛が伝わる。
さらに、デモ現場を撮った写真を見ると、催涙弾の匂いが充満
した中、鼻をコットンで塞いで休憩をしている戦闘警察の姿や、ビ ニール袋を顔に被って通り過ぎる市民たちの姿は、もの悲しくも笑
いを誘う。
けば見られます。その写真を撮って、もう20 年が過ぎました。写
さんは既に亡くなられたでしょうが、分断は続いていて、
時間は流れています」。
過ぎゆく時間の中で、歴史に埋もれてしまう個人の喜怒哀楽の
瞬間を取り続ける写真家キム・ニョンマン。彼はマクロな視線では
なく、ミクロな視線で歴史を記録しようとしている。彼は 40 年以
上も、見知らぬ現場を訪れて、人々の暮らし方、彼らが織りなす
南北が厳しく対峙している板門店でも彼のセンスが発揮される。 暮らしと個々人が集まって作られていく歴史を温かい写真の言語で
カメラに対する好奇心から、前かがみで韓国人記者のカメラを見
語ってくれた。その中には、まだ終わっていない未完の物語が南
に思想教育を受けたとしても、好奇心には勝てない人間的なとこ
を遂げるまで、分断の悲劇を記録し続ける。
つめる北朝鮮の兵士の姿に我々は微笑んでしまう。いくら徹底的
ろが感じられるためだ。
北分断である。彼は写真家という肩書きで生きていく限り、統一 彼は生涯で一番好きなこと、最も得意な「写真」ともに生きたこ
「私の故郷はパンソリで有名なところです。春香伝やフンブ(興
とが幸せだったという。カメラを手にできる力さえあれば、生涯
な瞬間や非常に悲惨な瞬間にもユーモアを忘れません。ユーモア
我々が生きてきた時代を、より豊かな物語として貴重なアーカイブ
夫)伝、シムチョン(沈清)伝を聞いてみてください。彼らは絶望的
より濃いペーソスが感じられます。私もそんな写真が撮りたい。見 K o r e a n a | 2 0 14 夏号
現役という写真家キム・ニョンマン。彼が撮った瞬間瞬間は、後々、
になるだろう。
55
グルメを楽しむ
アイスデザートの旋風
ビンス
細かく削った氷に各種トッピングをして食べるビンス (かき氷)。
真夏の暑さを吹き飛ばす夏の食べ物と思われてきたビンスが、 今や一年中楽しめる豪華なデザートとして新たな脚光を浴びている。
韓国のビンス旋風をリードする多様なビンスの世界と、 その歴史的な背景を紐解いてみよう。 ユン・ドックノ (飲食文化評論家)◎ 林學铉、趙知瑛
『南
極ビンス』を食べたことのある人はほとんどいないだろう。 ロ皇帝が食したという雪山のデザート、11 世紀の東洋の華やかな 氷点下 50 度を下回る極寒の寒さでウイルスさえ生きられ
りし「氷水」の文化が韓国でビンスとして華やかに復活中だ。きれ
けてスプーンでザクザクと砕いて口に運ぶというかき氷が南極ビン
ゴをのせたイチゴビンス、マンゴをのせたマンゴビンスなど伝統的
映画『南極料理人』に登場するものだ。南極は誰でも行けるところ
らせて作る緑茶ビンス、ワインビンス、凍らせた牛乳をきれいに
うか?
ーヒービンスまで、数限りない種類のビンスがある。氷を雪のよ
ないという南極の万年雪、その上にイチゴのシロップをたっぷりか
スだ。南極基地の隊員だけが食べられるというデザートで、日本
ではないから、映画の中だけの想像上の食べ物に過ぎないのだろ
いに削った氷の上にゆでアズキをたっぷりのせたパッビンス、イチ な果物ビンスや果物シロップをかけたビンスはもちろん、緑茶を凍
削った雪花ビンス、黄粉をかけた黄粉ビンス、チーズビンスにコ
そんなことはない。今から 2000 年前の人々は氷のデザートを
うに細かく削ってその上にゆでアズキ、果物、果汁などをトッピン
の万年雪を持ってきて食べただけだ。その代表的な人物が1世
と卵で出来たクリームをベースにしたカスタードに空気を注入して
ッピア街道に一列に従者を並ばせて雪山から運んできた雪を宴会
た。実際に「アイスクリーム」という単語は 18 世紀中ごろ、「凍っ
べたという。アイスクリームの起源として伝わるこの伝説のような
れていたようだ。
そんな風に食べていた。ただ南極の代わりにアルプス、ヒマラヤ 紀ローマの皇帝「ネロ」だ。すべての道はローマに通じるというア
場まで全力疾走で持ってこさせて蜂蜜と果汁、ワインを混ぜて食
話に登場する食べ物は、正確にはシャーベットの原形と言えるだ
ろう。
ルネサンスのビンス
ルネサンスの辞書的な定義は「古典にかえること」、つまりはギ
グして食べるのはアイスクリームの始原に戻ることでもある。牛乳
柔らかくした後で凍らせたソフトアイスクリームは 17 世紀に登場し
たクリーム( i ce d c re a m )」という用語も 17 世紀後半から使用さ アイスクリーム以前に欧州の上流階級が食べていた氷のデザ
ートはシャーベットだ。牛乳成分の入ったシャーベット、あるい
は牛乳成分の入らないシャーベットは果物や果汁を冷たくした
り、凍らせて食べる食べ物だった。それ以前のギリシアローマ 時代では雪山から運んできた雪や、冬に切り出し保管しておい
リシャ・ローマ時代の文化を再び花開かせることであるなら、今、 た氷を必要な時に取り出し果汁や香料、あるいはワインをかけ 韓国では氷のルネサンスが花開いていると言っても良いだろう。ネ
56
て食べた。
韓 国 の 文化と芸 術
パッビンスは細かく削った氷に茹で たアズキ、 のようなものをのせて 食べるデザートで、真夏の暑さを凌 ぐための韓国の代表的なアイスデザ ートだ。
K o r e a n a | 2 0 14 夏号
57
東アジアのアイスデザート文化
ビンスはもちろんヨーグルトをのせて食べるヨーグルトビンス、ユ
ンス (かき氷) を楽しんだ。特にビンスは昔から東アジアで愛されて
梅花酒ビンスまであった。また夏には氷を砕いて果物と共にファチ
東洋は西洋とは違い、氷を削って果汁や香料をかける氷水やビ
スラウメの実をのせた果物ビンス、中には今のワインビンスに似た
きたデザートだ。11 世 紀、中国の宋の歴 史を記 録した宋 史に
ェ(訳注:フルーツポンチのような韓国の夏の飲み物)にいれたり、
った」という記録がある。氷に蜂蜜をかけてアズキ餡をのせたビン
凍らせた果物という意味の氷果だ。
は「土用の牛の日になれば皇帝が主な大臣たちに蜜沙氷をふるま
スだと推定される。こうしてみると昔のビンスも現在のものと大し
て違わない。11 世紀の初め、日本の『枕草子』という文献には氷
氷でお盆をつくり果物を冷たくして楽しんだともいう。これが氷で
どうしてこんなに多様なビンスと氷果が発達したのだろう?冬に
氷を切り出し貯蔵し、夏に取り出して使う氷庫は数千年前からあ
を刀で削ってから、すぐに溶けないように金属の器にいれて、その
ったものだが、11 世紀頃に氷の貯蔵技術が画期的に発達したから
もよって苦い
した。もちろん氷果は相変わらず極少数の富裕層が楽しむ贅沢品
上に 汁(あまづら) をかけて食べたという記録がある。なぜよりに 汁なのか、不思議に思われるが削った氷の上にシ
ロップをかけるのだから今のビンス、特に日本の伝統的なビンスで
ある 「かき氷」 とよく似ている。
このように昔の東洋には多様なビンスがあった。今のようなパッ
だろう。氷の需要も増え、値段も下がるにつれ氷果の種類も発達
だった。西洋でアイスクリームが 18 世紀末に大衆化したように、
ビンスもまた大衆化するのは 19 世紀後半、東洋で最も先に近代化 を成し遂げた日本でかき氷の機械が作られてからだ。
混ざった味が嫌なら、純粋に氷の味を楽しみたければ、 混ぜずに別々に食べると良い。ビンスはこのように個性あるデザートだ。 よってアイスクリームが既製品ならビンスはカスタメイドと言える。 それも氷とトッピングでできた簡潔さの極みであり、同時に複合の真髄でもある。
1
簡単なレシピのスローフード
アイスクリームに押され子供たちの手軽なおやつに過ぎなかっ
たビンスが 21 世紀の今、東アジア全体で大流行している。韓国の パッビンスだけでなく、日本のかき氷、中国のパオビン(
冰)も
広く人気を集めている。名前が違うだけで、どれもビンスの一種で、
この流行の中心には韓国がある。特に韓国でビンスが発達した理
由は夏にも熱い茶を飲む中国とは違い、麺に氷まで浮べて食べる
ほどに冷たい食べ物に目が無い韓国の飲食文化と関連があるもの
と見られる。
ところで、ではなぜアイスクリームでなくビンスなのか?韓国
をはじめとする東洋でビンス文化が復活したその理由を、 21 世
紀の時代的特徴に探ることができる。つまりファーストフードか
らスローフードへの転移だ。アイスクリームがファーストフードな
ら、ビンスはスローフードだ。削った氷にいろいろな飾りをのせ るだけ。ゆでアズキ、アイスクリーム、黄粉
、ピーナッツ・ア
ーモンド・クルミなどのナッツ類、ゼリーに果物、果汁のようなト
ッピングは1種類の時もあれば、2種類以上のこともある。好み
と気分で好きなトッピングと氷を混ぜて食べるだけだ。混ざった
味が嫌なら、純粋に氷の味を楽しみたければ、混ぜずに別々に
食べると良い。ビンスはこのように個性あるデザートだ。よって
アイスクリームが既製品ならビンスはカスタメイドと言える。そ れも氷とトッピングでできた簡潔さの極みであり、同時に複合の 真髄でもある。
58
韓 国 の 文化と芸 術
2 1 マンゴの果汁を混ぜた牛乳を冷やしたあと、氷のように削って作ったマンゴビンスだ。 2 夏のものとされてきたビンスが今や一年中楽しめる豪華なデザートとして新たな脚光を浴びている。 3 ビンスは好みに合わせてトッピングを楽しむカスタメイドのデザートだ。 4 きれいに削った氷の上にアイスクリームとシロップをかけた紅茶ビンス。
3
K o r e a n a | 2 0 14 夏号
4
59
遠くの目
美術教育を通しての 私の韓国との交流 私が韓国画の画家の李教授に 3 つの国の水墨画の違いを尋ねると、
「材料と技法は同じで意識の違いしかありません」 と明快な 答えをおっしゃりました。改めて東アジアの関係に気づかされました。 ふくだ・たかまさ (福田隆眞、山口大学教育学部教授)
私
は美術教育を専門とし、特にアジア 地域の調査研究をしています。1987
年にシンガポールに当時の国際協力事業団
いた大都会は現代的で、しかも懐かしさと 親近感のある街に映りました。
美 術 教 育 を通しての 交 流 の 始まりは、
から派遣されたのが契機になっています。 先ずは韓国の美術と美術教育の理解から 以 来、 遅々としながらも、シンガポール、 でした。長い歴史を有している韓国と日本
マレーシア、インドネシア、ベトナム、台湾、 の交流には、その理解が必要で、美術館、
中国、韓国の美術教育の調査をしています。 博物館、美術大学、教育大学などの訪問、 私が韓国を初めて意識したのは、 1979
年に筑波大学で韓国からの留学生に出会
った時でした。彼は流暢な日本語で、私
の知らないソウルの街の様子や韓国の文
化を表現豊かに話してくれました。ソウル
が 1000 万人の人口を擁した大都市である
ことも初めてイメージできました。その後
の 1990 年代には広島大学に留学されてい
た金香美さん(現在淑明女子大学教授)に
出会い、韓国の美術教育の話を少し伺う
ことができました。当時の私には興味が東
南アジアにあったので、隣国でありながら 韓国への興味は未熟なものでした。東ア
ジアの同じ漢字文化圏ではありますが、ハ
ングル語の勉強を全くしてない私にはやや
遠い存在でした。そして、初めてソウルを 訪れたのは 2001 年でした。イメージして
調査を続けてきました。そしてやっと最近、 交流が具体化してきました。
2013 年 12 月にソウルで韓国造形教育 学会が開催され、学会会長の李珠燕京畿 教育大学教授のご厚意で、基調講演の機 会を与えていただきました。講演の内容は 日本の新しい美術教育の教育課程に新設 された共通事項の考え方と、日本と東南ア ジアの美術教育の紹介でした。共通事項 は色や形によるイメージの形成を美術の基 礎と捉え、表現活動にも鑑賞活動にも活 かして行こうとする内容です。視覚言語に 通ずるものです。 日本美術の表現の特徴には、線による 平面性、大胆な構図、余白の美しさ、象 徴的表現、鮮やかな配色など、江戸時代 の琳派や浮世絵をイメージするとその個性
1
韓国造形教育学会での講演
2
3
学会参加者
的表現を認めることができます。一方、水
墨画に見られるように、湿潤な気候風土
山大学での趙の授業
国を初めて訪問し、興味と関心を大きくし
ました。
山大学では李ミンハン教授をは
のなかで培われた滲みや暈しによる表現が
じめ美術学部の先生に歓待していただき、
へと伝わってきた東アジアに共通する代表
山大学の学生さんに授業をさせていただき
あります。水墨画は中国から韓国、日本 的な美術表現です。
学生も感激をいたしました。交流では、
ました。私と中国人留学生趙忠華と日本
こうした美術表現の中の、点、線、面、 人学生佐古淳子の3名が発表をしました。
色、形といった造形要素と、構図、余白、 私は日本美術の表現の特質を述べました。 滲み、暈し、配色といった造形原理を総
中国人留学生は中国の高等学校美術の内
として行われています。それはデザインの
生は韓国と日本の仏像を対象にして歴史
称した視覚言語が美術教育の一つの方法
容を紹介しました。(図3)そして日本人学
ように世界に共通する内容もありますが、 的な交流について述べました。 100 名の学 国や民族に固有に存在する視覚言語もあ
生さんはこれらの東アジアでの美術教育に
講演ではシンガポール、マレーシア、イン
ております。授業後の交流会では、中国、
アジアの国や地域には東アジアとは違った
私が韓国画の画家の李教授に3つの国の
ると考えられます。このような観 点から、 ついて興味深く受講していただき、感謝し ドネシアの美術教育を紹介しました。東南
視覚言語が存在し、そのことで東アジアを
韓 国、日本 の 水 墨 画 の 話 題 が 出ました。 水墨画の違いを尋ねると、「材料と技法は
より理解できるのではないかと考えました。 同じで意識の違いしかありません」と明快
(図1、2)
その後、2014 年 3 月に 山大学美術学
部と交流をしました。私の研究室の大学
院生 6 人も同行しました。学生のうち 5 人
は中国からの留学生ですので、彼らは韓
な答えをおっしゃりました。改めて東アジ
アの関係に気づかされました。
今後も東アジアの共通する美術文化を
基盤に異なる文化の理解に努め、交流を 進めたいと思います。
61
韓国文学の旅
作家評
ささいな 錯覚への共感 チャン・ドゥヨン (張斗寧、文学評論家)
タ
ウン情報誌の広告記事を書くのが仕事の主人公「チョン」に
起きたすべての出来事は些細な「錯覚」からはじまった。クラ
するために淡々とした語調で一貫したこの小説でも、苦笑いを誘
発するような冗談がときどき飛び出してくる。それも同じような
イアントの店の名前を錯覚し、間違った記事を書いてしまったため、 理由からだ。
100 箇所くらいの配布所に配達した5千部の新聞を回収し、いち いちシールを貼ることになってしまった。看板の文字を誤って読む ことぐらい誰にでもおきるごく些細なミスだが。 4番バスに乗る人間が 8 番バスに乗ってしまった時のように、些 細な「錯覚」により主人公はあっという間に「日常の行路」から外れ てしまう。そして日常に亀裂が生じ、破局へ向かう。時に小説の 中の主人公のように町の看板を読み違え、おかしな想像をしたこ とのある読者としては他人事ではないと感じるだろう。誰でも一度 や二度は経験したことがあるような些細でありふれた素材を実に 深刻に、そして奇抜な想像力で飛躍し、小説の中の人物と読者の 間に奇妙な共感帯を生じさせるのが、この小説の基本的な叙事、 戦略なのだ。 身のまわりでよく見かける出来事、しかし多忙な日常の雑務 のせいで何気なく通り過ぎてしまうものに注目して、想像力の翼 を広げるのはこの小説だけのことではない。ユン・コウンが発表 した作品にはこのような発想法が頻繁に登場する。道を歩いて いてときどき目にする可笑しな模様のタイルの欠けらが、実は社 会に抵抗する勢力が残していった抵抗の標識だと想像する『イン ベーダー・グラフィック』 (『 文学思想 』2009 年 )、ベッドの下や 箪笥の隅でみつけた虫の死骸を見ながら蚤が全地球的な次元で 空襲しているという不安に震えながら蚤の撲滅作戦を繰り広げる という 『甘い休暇』 (『創作と批評』2009 年)、空の月が 6 個になり、 無重力症候群という仮想の新種の流行病が荒れ狂うという長編 小説『 無重力症候群 』 ( 2008 年)など、彼女の作品を見ると作家 の奇抜な想像力とウイットがどれほど豊かなのかがすぐに分かる だろう。主人公「チョン」の息を殺したような静かな日常を表現
62
チョンは刺身屋の水槽の前に立っていた。連れと一緒だったが
独りで立っているようだった。水槽の中でサバは急速に一方向
に向けて回転していた。回転しないではいられないほどの流れ、 それでもっと新鮮な波のように感じられる流れだった。もしかす
るとあのサバは自分で泳いでいるのだと考えているのかもしれな い。その泳ぎが受動的なのか、能動的なのかを知る為には二
つの方法のうち一つを選ぶほか無かった。水の流れを止めるか、 あるいはサバが水槽の外に飛び出すこと。しかし外には固いア
スファルトの地面があるだけだ。
作家ユン・コウンが作り出す多少、荒唐無稽で溌剌とした想像
力の裏面にはいつも悲しい現実の影が重なっている。「 些細な錯
覚」から始まる小説は刺身屋の水槽の中のサバの群れを観察しな
がら「 深刻な錯覚 」に関する恐ろしい警告につながっていく。強
い水の流れにのり一方向にだけ急速に回転しているサバは自ら一 生懸命泳いでいると「 錯覚 」したまま、ただ周囲の流れに巻き込
まれているに過ぎない。荘子の「胡蝶夢」の話、または映画「マト
リックス」 「トゥルーマンショー」が自然と思い出される。日常のわ い雑さの中で、資本が支配する現実の論理の中で私たちは「 巨
大な錯覚 」の中で暮らしているのではないかと、この小説は問い
かけている。
しかし小説が注目するのは存在論的な認識構造や主体性を喪
失した現代人というよりは、日常から遺脱してしまった時にぶつか
ることになる「寂しさ」という感情自体だ。「連れと一緒だったが独
りで立っているような」感じ、会社の同僚たちは明日また急速な水
韓 国 の 文化と芸 術
© 樸宰洪
の流れの中で自分で泳いでいるんだと錯覚しながら生きていくのだ
ろうが、チョンは固いアスファルトの地面に放り出されたサバの身 の上だ。同僚たちは水槽の中の水の流れがあまりに速くて力強い
ためチョンを理解したり、同情する余裕などはない。もしかすると 彼女は水槽の中にいたときから孤独だったのかもしれない。失職
により水槽の中と外に境界が作られたことを契機に自分がこれまで
長い間孤独であったことをようやく悟ったに過ぎないのだ。結局、
些細な錯覚から始まり想像の跳躍を経て到達した小説の中の人物
への読者の共感とはアスファルトの地面に放り出されたサバが味わ
う 「寂しさ」 だ。
出てくる。3ヶ月間、その学校に通っても寂しさを克服することが
尹高恩
に食事をする方法だったのに、得たものは受講の間、自分が一人
子に貼られた小さなシールを見たことがあ
作家の他の短編小説『一人用の食卓』 (『実践文学』2009 年)で
は食堂で一人で寂しく食事をすることを恐れる人々が通う学校が できない主人公はこんなふうに語る「習おうとしたのは一人で自由
で食事をする唯一の人間ではないという慰めだった。一人ででき たチェーン店のようなもの」寂しさは寂しいと思う人々が集まり集
団を成したとき、それはもうそれ以上、孤独ではないという短くも
確かな真実が含まれた発言だ。
『 料理人の爪 』でもこのような真実はそのまま当てはまるよう
だ。些細な錯覚から始まり底なし沼のような孤独に沈潜する主 人公「チョン」の足跡をたどっていくと読者は彼女の孤独と疎外
を一緒に読み進んでいかなくてはならない。小説は平凡な日常
に転がっている孤独をしっかりみつめ、共感し彼らを慰めながら、 結局自らも慰められるのではないかと言っている。それが現実を
変えたり小説の中の人物の人生を変えるほどの力は持っていな
いにしても「 共感 」と「 慰安 」こそ、水槽の中で生きている私たち サバの義務だと言っている。たとえ、それさえも一つの「錯覚 」だ
としても。
K o r e a n a | 2 0 14 夏号
間違って印刷された文字を隠すために小冊
る。印刷し直すには時間と費用がもったい
ないので、とりあえずの方法としてシールを
貼るのだ。あなたが一度でもこのシールを 剥がした事があれば、平凡な日常から多彩
な想像力の泉を
み上げるユン・コウン(尹
高恩、 1980 ∼)作家の『料理人の爪』と言
う物語に深くはまりこんでしまうかもしれな い。余りに深く嵌ってしまい、そのまま行間
に埋もれる小さな「 染み」になってしまうか
もしれない。
63
料理人の爪 ユン・コウン(尹高恩) 翻訳:金明順 ◎ イラスト:金時熏
『C
HEF S MAIL 』を『 CHEF S NAIL 』に見間違
ンはオフィスのドアの前の指紋認証機に指を当てて出勤
えなければ、 最初からこんなことは起きなかっ
を報せていた。 3年間同じ指紋だというのに、 今更の
ただろう。 すべては数ヶ月前、 チョンがある店の看板
ように指紋認証に失敗したというエラーのメッセージが
を 見 間 違 え た そ の 瞬 間 から 始 まった。 向こうに
表された。もう一度当ててください、もう一度当ててく
『 CHEF S NAIL 』という看板が見えたとき、 チョンは
ださい。 案内の音声のとおりに何度も繰り返したがチョ
携帯電話のメモを見直した。 広告するのは食堂だと聞
ンの指紋は読み取られなかった。 チョンはハンドクリー
いていたのに、看板を見た瞬間、何の業種なのか戸惑
ムを取り出すと右手の人差し指にぬった。 乾燥してい
ってしまった。
るせいかもしれない。
チョンは地域新聞の広告記事を書いている。 一日に 数えきれないくらいに多くの看板の商号を見てきた人間 だった。 しかし料理人の爪だなんて、 それは奇抜とか
「何をべたべた塗ってるんだ。 化粧をしている場合 か?」 指紋が認識されると同時に、 チーム長がチョンの前
新鮮などというより奇怪な感じで迫ってきた。 ネイルア
に立ちはだかった。 チーム長の後ろには1万5千枚の
ートの店の名前が料理人の爪なら、 なかなか良い気が
シールとなった『 MAIL 』があった。 記事にでて来る
した。 でも食堂の名前とは考えたくもなかった。 料理
『 NAIL 』は全部で3箇所だった。 チョンはそのシール
人の爪という看板が出ていたら、 その下で食事をする
を手に 100 箇所の配布所を訪れた。 まだ配布されてい
人々はどこか不潔な気分を拭い去るのは難しいだろう。 ない新聞の上にシールを一枚ずつ貼っていった。 指紋 しかしそれはどこにも存在しない表現だった。 看板は
が少しずつすりへっていった。 すでに印刷された誤字
『 CHEF S MAIL 』だったし、 イタリアンレストランだっ
は料理の中の爪ほどに不潔だった。 すでに印刷され配
た。 ちょっとしたハプニングだった。
布までされた誤字は料理の中から客の口の中に入り込
そのちょっとしたハプニングが五千部に印刷され、 んだ爪ほどにぞっとした。 その地域の商店街とアパート、 住宅のある道々に配ら れ た。 どうしたことか チョン は 記 事 にも『 CHEF S
NAIL 』と書いていた。 頭の中で二つの概念が同時に
「こんなシールが貼ってあると、 必ず剥がしてもとも と何が書いてあったのか見る人っていますよね」 一緒にシールを貼っていた後輩のクァクが言った。
作 動 し 混 乱 を 生 み 出 した 結 果 だ った。『 MAIL 』
チョンはシールを貼り付ける指にさらに力をこめた。 ク
が『 NAIL 』に化けてしまったが、 その単語は誰からも
ァクが自分もそんな人間の一人で、シールを貼ることで
疑われずにそのまま印刷された。 チョンの責任ではあ
むしろさらに好奇心を刺激するといった。 チョンはそん
ったが他の人間の目もいい加減だったのだ。 起案文に
な人間ではなかった。 そしてこういうミスをたびたび仕
日付を 2010 年 11 月 37 日と書いてあっても通る会社だっ
出かすような人間でもなかった。 料理人の爪だなんて、
た。 結局、全部印刷されて配布された直後に 『 MAIL 』
その先で引掻かれただけだとチョンは自分自身を慰め
と『 NAIL 』の違いに気付いたチーム長は、 発作の際の
た。 その日の夜、 バスに乗り違えることさえなければ
薬を探すようにチョンの名前を呼んだ。 その時、 チョ
そんなふうに考えられただろう。 チョンは間違ったバス
64
韓 国 の 文化と芸 術
K o r e a n a | 2 0 14 夏号
65
料理人の爪
に乗ってしまい、 遠回りして帰って来た。 4番バスに
は刺身屋の水槽の前に立っていた。 連れと一緒だった
乗らなければならないのに、 バスに乗ってから8番バ
が独りで立っているようだった。 水槽の中でサバは急
スだと気付いたのだ。 4番バスと8番バスの列はいつ
速に一方向に向けて回転していた。 回転しないではい
もバスの標識の前に長く続いており、 尚かつその端は
られないほどの流れ、それでもっと新鮮な波のように感
ねじりドーナッツのようにねじれていた。 混同しやすい
じられる流れだった。もしかするとあのサバは自分で泳
構造ではあったが、 今までチョンはいつも4番バスに
いでいるのだと考えているのかもしれない。 その泳ぎ
乗っていた。 それがそんなに難しいことだと思ったこと
が受動的なのか、 能動的なのかを知る為には二つの
もなかった。
方法のうち一つを選ぶほか無かった。 水の流れを止め
クァクのようにシールをわざわざ爪で剥がしてみる人 間が多いのか、 何度か新聞社に抗議の電話がかかっ てきた。 相変わらずチョンの指先は指紋認証機が認識 できないでいた。 ハンドクリームを塗っても指紋認証に 失敗したという表示が出た。 「とうとう指紋まで不良品なのか?」 背中から聞こえたチーム長の声で、ようやくチョンは 指紋認証機に登録された右手の人差し指の代わりに左
るか、 あるいはサバが水槽の外に飛び出すこと。 しか し外には固いアスファルトの地面があるだけだ。 「あの水槽、うちの会社みたい」 チョンは誰ともなしにそう言った。 チョンの言葉が 終わるやいなや一行の中の何人かが水槽の中に足を 入れる真似をした。 自分たちはそんな風に巻き込まれ てもいいということだった。 新しく入社してきた新人記 者たちだった。
手の人差し指を押し付けていたことに気付いた。 左右
「それが大勢でしょう」 と、 彼らの一人が言った。 皆、
が変わっただけなのに ―左右が変わったので― 指
笑った。 チョンも笑った。 衝 動を抑えるためだった。
紋が読み取れなかったのだ。 そんなふうにチョンは不
ダイビングをしたい衝動がふと、 湧き出してきたのだ。
良品の判定を下された。
水槽の中にではなく、 水槽の外に。 だから固い現実
「チョン記者はまあ、 仕事はミスっても、 まっすぐじ ゃないか。 人間が」
の地面に。 翌朝、 出勤するエレベーターでチョンは局長と出く
会食の席でチーム長がそう言った。 ただ最近になっ
わした。 電話をかけていた局長はチョンにペンがあれ
てボーッとしている瞬間が多いのが致命的な短所だと
ば貸せというジェスチャーをした。 チョンは素早くカバ
いってくれた。 チーム長の話はほとんど聞き流している
ンの中からペンを取り出し差し出した。 それと同時に
彼女だったが、「最近」という単語はそこだけ耳に飛び
局長の表情がこわばった。 チョンの表情もこわばった。
込んできた。 一度看板を読み違えてからチョンは些細
カバンの中から飛び出したのはペンではなく、 昨夜の
なミスを繰り返していた。 紙コップを握った手と汽車の
干しノガリ (訳注:スケトウダラの稚魚)だった。 会食の
チケットを握った手を混同したり、 熱く熱したフライパ
席で新人記者たちがチョンのカバンの中に干しノガリを
ンの上に油の代わりに台所用洗剤を垂らしたりした。 一匹放り込むとこう言ったのだ。 図書返却機の前で返却する本と郵送する本を混同して
「先輩の表情と似てるんです」
入れてしまうこともたびたびあった。 コンビニでガーグ
灰色のカラカラに乾いた、 突然のノガリの出現にチ
ル液(訳注:呼吸器官用薬)を買ってから、 蓋を回して
ョンはしばしボーッとした。 瞬間チョンは自分が本当に
開け、 中味を飲み込もうとしたこともあった。ドリンク
昨夜の酒の肴と似ていると考えた。局長も同じようなこ
剤と間違えたのだ。みんな疲れのせいだとクァクは言っ
とを思ったようだった。 チョンは言った。 ただの失敗だ
た。 いや、 チーム長が言ったんだっけ。 誰かの口から
と、 わざとしたのではないと。 局長も分かったようだっ
そんな話が出た。 すべては疲れのせいだと。この世の
た。 ただ局長はこう言った。
中のすべての死は究極的にはみんな過労死だと。 会食を終え、 2次会に移ろうとしていた時、 チョン
66
「きみには休息が必要なようだ。 カバンの中も頭の 中もごちゃごちゃだから混同してしまうんじゃないか。 韓 国 の 文化と芸 術
料理人の爪
そんなことをしててブレーキペダルとアクセルペダルを
2年間は楽が出来た。 しかし今やそうではない。これ
踏み間違えたらどうするんだ」
も当然の手順なのかは分からないが、 恋人からも別れ
そういう局長はなぜ起案文の日付が 11 月 37 日でも
の知らせが来た。 互いに多忙で一月に一度会うか会わ
通過させたんですか、 11 月 37 日を作った人は堂々と
ないかの間柄だった。 会社、 家、 恋愛、 すべてが一
会社に出てくるじゃありませんか。 私はたった一度のミ
度に終わってしまいチョンは一瞬にして無所属となった。
スだったんです。 と抗議したかったがチョンは何も言
その真空状態が余りにも不安で喜悦さえ感じた。
わなかった。 エレベーターのドアが開き、 その日チョ
チョンはソファーに寝転び向かいの壁紙を眺めた。
ンは何の仕事もしなかった。退勤のスタンプを押そうと
この8年間の都市生活が頭をよぎった。 チョンが都市
したが、 チョンの指紋は認証されなかった。 当然だっ
で選んだ最初の家は地下3階にあった。 見る角度によ
た。 チョンはもはや、 そこの社員ではなかったのだ。
り地下2階にもなり、 地下3階にもなる家だった。 思
正確に言えば部署の移動だったが、 状況から見て
いっきりジャンプしても地下2階、 思いっきり床に墜落
それは構造調整、リストラの一部であり、 チョンはそ
しても地下3階ということでもあった。 部屋にないもの
うやって水槽の外に飛び出した。 それ以上皆が指を押
は一つだけだった。 それは窓。 現実は経験や想像の
し付けている機械の前で指紋など公開しなくてもいい
すべてを超越した。 チョンが知っているすべての家に
と思うとチョンは気持ちが少しだけ軽くなった。 指紋認
は、 あるいはチョンが想像できるすべての家には大き
識機を公衆トイレの便器のようだと思えば、 悔しさも少
くても小さくても窓があったが、ここ、 窓の無い家は確
しは薄れた。 クァクが数歩だけ見送りに出て来てこれ
かにあった。 見方によれば、 見る角度によっては窓が
からどうするのかと尋ねた。
あったとも言えた。 ただし横ではなく下にあった。 地
「地下鉄に乗って本でも読むわ」
下3階、あるいは地下2階のその家から下に開いた窓
クァクは気の毒にという目つきでチョンを眺めてから
を開けると階段が現れた。 そしてその階段の下に、 ち
名刺を一枚差し出した。役に立つだろうという言葉と共
ょうどその部屋の4分の1ほどの大きさの倉庫があっ
に。 チョンは形式的に名刺を確認してからカバンに入
た。 チョンはその倉庫にすぐに使わないものを入れ、
れた。 そうやってチョンはアスファルトの地面に落ちて
引っ越すまで二度と開けることはなかった。 そこを出
しまった。 脱出だった。 そうは言っても自分はゴミ箱さ
ていく日、 下に開いた窓を開けて倉庫に入れて置いた
えも拒否するゴミなのではないかと思い憂鬱になった。
品々を取り出したが、 ほとんどはそのままゴミに分類さ れて捨てられた。 それが何だったのか、 記憶にもない。
一
日中、 家にいるので、 今日が何曜日であれ日曜
驚いたのはその細長い建物に合計 80 世帯が住んで
日のように感じられた。 翌日も日曜日だった。 いたという点だ。 チョンはそこに住んでいる間、 一度
その次の日も日曜日だった。 日曜日が3回、 連続して
も隣人と顔をあわせたことがなかった。 地下はすべて
やってくるとそれ以上は日曜日は日曜日ではなかった。 を優しく包み込み、 階層間の騒音も聞こえてこなかっ 日曜日が4回連続した日、不安は現実となった。 当然
た。 その家を出た日、 チョンはようやく自分の暮らして
の手順として管理室から電話が来た。 退社時には 45
いたところがこの都市の縮小版だということに気付いた。
日以内に家を明け渡さなければならないというのだ。 都市で生き残る為には他人の騒音に無関心でなけれ
K o r e a n a | 2 0 14 夏号
チョンも知っている規定だった。 ただその規定が適用
ばならず、 そのためには自らもある程度騒音を作り出
される時点が他意によって突然訪れるとは思ってもい
した方が良いということを教えてくれたところだった。
なかった。 夜勤が多く、 安月給でも会社にしがみつい
そういう点でその建物はチョンが通過した最初の家に
ていた理由は社宅のためだった。 チョンのように地方
相応しかった。 そしてその家を出る頃には、 チョンは
から来た人間には魅力的な点だった。 チョンは運良く
窓が無くても大した問題ではないということを知った。
入社1年で社宅に入ることが出来、 そのおかげでこの
窓は家を構成する必要条件ではなかった。
67
料理人の爪
一度の地下と二度の屋根部屋を経てチョンが4番目 に選んだ家は外階段のアパートの2階だったが、ようや くチョンは都市の中に定着したような感じがした。 天井 と床がすべて温気で暖かい家だ。 その家が、 まさにこ の家だった。 しかしすぐに 5 番目の家を探さなくてはな らなかった。 玄関のドアにおかしな標識をみつけたのは本当の日 曜日になった日だった。 日曜日を連続して5日ほど過 ごして、 本当の日曜日になった時、 チョンはいつもの 日曜日のように出前の食べ残しの容器を出そうと玄関 のドアを開けた。 冷たい空気がすっと吹き付けてきた。 チョンの家以外にも廊下に出前の容器を出している家 が何軒かあるという事実が幸いだった。 しかし次の瞬 間、 チョンは隣の家との違いをみつけた。 数字だった。 チョンの住んでいる家の玄関のドアには 237と言う数字 がマジックで書かれていた。 あまりにも堂々とした文字 と位置からして、 落書きではなく何かの標識かもしれ なかった。 一人住まいと思われる家に犯罪者たちが表 示をしておくという噂を聞いたことがある。 もしかする とその模倣なのかもしれない。 237 番目の標的、 ある いは 2 月 37 日の標的、 いや、 37 日は前の会社の起案 文でしか通らないような日付ではないか。 チョンは一 旦、 タバコを 1 本口にくわえたがタバコの煙でぼんやり するような状況ではなかった。 災難のような流行がチ ョンの家の前を避けて通らないのだとすれば、 自分で 避けなくてはならない。 237 のせいで、 チョンは初め てこの外階段のアパートの1階から屋上までを眺め回 した。どこにも237 はなかった。 独り住まいはチョン一人ではなかった。 チョンは隣 にどんな人が住んでいるのか、 だいたいは見当がつい ていた。 同じ棟には同じチームの人間がいないことも 知っていた。 チョンは廊下を通るたびに隣の家のガス メーターを盗み見て −自分のガス料金が特にたくさ ん払っているのではないことを確認する為だったがー その隣人の構成を推測してみる人間だった。 引っ越 してきて数週間はどの家のものかも分からないインター ネット網に便乗し無料で無線インターネットを利用した こともあり、 そのインターネットのアクセスが突然切れ たときにはむしろ隣人の存在を改めて意識し、 時には
68
韓 国 の 文化と芸 術
料理人の爪
K o r e a n a | 2 0 14 夏号
69
料理人の爪
前後左右にぴったりくっついた隣人たちがボイラーをど んどん焚けば、 その真ん中で便乗して暖かくなったり
「お
した。 何号の誰々さんが犬を飼い、 何号の誰々さんが 新婚夫婦で、 何号の誰が何時に会社から帰ってくるの
客様、 当行ではマイナス通帳だけのお取引で すね」
銀行の行員の言葉だった。 貸付は不可能だった。 あちこち電話はかけてみたものの適当な職もあらわれ
かをいつの間にか漠然と知っている人間でもあった。 なかった。 いつも肩にかけていたカバンは会社から飛 しかし確かなことはチョンは彼らが自分について知るこ
び出した日の形のままで玄関の前でつぶれていた。 カ
とを望んではいないということだ。 もちろん彼らと区別
バンを逆さまにして持ち上げてみると雑多なものの中か
されることも望んでいなかった。 しかし彼らはもしかす
ら合計 20 枚ほどの名刺があふれ出てきた。 取引先だ
ると知っているかもしれなかった。 2年もこの家に暮ら
ったのか、 道で無造作に受け取ったものなのか、 その
している一人の女の身の上に起こった変化を。 一週間
出所の分からない名刺があった。「広告代行社 本の
の間、 ずっと規則的にドアの前に出された出前の器が
虫」と書かれたものだが、 たぶん後輩のクァクから渡さ
その証拠だった。
れた名刺のようだった。
237 がいつからチョンの家のドアに描かれていたの
10 日ぶりに再び仕事を始めた。 毎日午後6時から
か、 チョンに分かるはずもない。 別れていなかったら、 11 時まで、 5時間の間、 地下鉄の車内で本を面白そ 今頃はチョンは恋人に電話をかけていたかもしれなか
うに見ていればいいという仕事だった。 社員が首都圏
った。 もちろん過ぎた時間を振り返ってみれば、 そう
だけでも500 人にはなるという会社だった。 驚いたのは
しない割合がより大きい事は大きかった。 彼らの一周
この会社がすでに 15 年前から活動していたという事実
年の記念日、 男はチョンにバイブレーターをプレゼント
だった。 密かに。 信じようが信じまいが、 新しい職場
した。 恋人から一周年記念でもらうようなプレゼントで
を見つけるまで、 アルバイトとしてはなかなかだった。
はなかったが、 チョンは笑った。 チョンは男にライター
時間当たり15000ウォンは少ない金ではなかった。 見
をプレゼントしたが、 男はぎこちなく笑うと言った。 俺、 ようによれば前の会社の月給よりも良いようでもあった。 タバコやめたんだ。 皿の上のステーキが冷めていった。
「 男がある本を実に面白そうに見ていたとします。
本当はチョンはそんなにステーキが好きではなかった。 完全に魅了されて時には笑ったりもします。 そうしたら 男もステーキがあまり好みではなかった。 なぜステー
どうです?その本のことが気になりませんか?今度は非
キを前にして座っているのか二人とも分からなかった。 常に知性的な雰囲気の女性が本を読みながら、 視線 その後、 何度か、 電話をしたことはあったが、 会った
を本からはずせずにいます。 ほら女性たちは、 すれ違
のはそれが最後だった。 チョンは今になり箱の中から
いざまに香水の香りの良い人を見ると何気なくブランド
バイブレーターを取り出した。 虚空でスイッチを入れた。 を尋ねたりするじゃありませんか。とても気になればそ バイブレーターが虚空の中に入り込んでいくような気が
ういうこともあります。ところがこの本は題目を尋ねる
した。 しかしそれは考えの中の文書に過ぎない。 小さ
必要もないんです。 題目が良く見えるように読んでい
な振動を作り出すこの道具が生み出す効果は孤独な中
るのですから。 それなら気にならないって?ところで、
心部に持っていかない限り分かるはずが無い。 見た目
名前は本名ですか?チョン・バンベ…、 バンベ駅のある
は静かな「かざぐるま」 のようだった。
2号線に配置して差し上げますね」
翌日、 世が明ける前にアパートのすべての玄関に標
広告代行社の本の虫のチーム長は履歴書を見て言
識が広がった。 チョンは寝坊をした。 早朝から冷たい
った。どこか前の会社のチーム長と雰囲気が似ていた。
空気を吸ったので体の調子が悪かった。 全部 237を書
チーム長はチョンの手入れの行き届いた爪を見て安心
くか、あるいは 238 から数字を続けて書くかで悩んだ末
した。 2週間前のネイルアートなのですでに爪の先は
に、 237を選んだ。 数字を反対に数えるのでなければ、 荒れていたが、 チーム長はそんな些細な部分までは この建物の最初の犠牲者になるのはお断りしたいので。
70
見ていなかった。 本の虫は人間広告塔のようなもので 韓 国 の 文化と芸 術
料理人の爪
あり、 身だしなみはきちんとしていなければならなかっ
た− カバンから本を取り出した。 鮮やかなイエロー
た。チョンは無難に通過した。 地域新聞の経歴が認め
の表紙にグリーンで『ナメクジの家』というタイトルが書
られ教育も一日で終わった。 普通は2日ほど受けると
いてあった。 チョンが読まなくてはならない本だった。
いう話だった。
10 ページほど読んでからチョンは一度笑った。 自分
「安易に考えないで下さい。 だからといって体が馴
でもぎこちなかった。 軽くフッと笑い流す程度が適当な
染めばこんなに楽な仕事もないでしょう。 ただ地下鉄
のにフッという声は出ず、 いかにも作り笑いのような笑
の中に座って本を読んでさえいれば良いのですから。 顔になったようだった。 視線をそっとあげると向かい側 映画の中の巧妙な広告をご存知ですよね。 映画が終
に座った女と目が合った。 チョンはさっと目を伏せた。
わると観客たちがコカコーラを飲みたくなる。 あれのよ
20 ページでもう一度笑った。 今度はフッという声が変
うに私たちも地下鉄に乗っている人々が無意識にある
だった。 考えてみたらチョンはもともと声を出して笑う
本の題名を認識するようにするのです。 本の虫のメン
人間ではなかった。 チョンの笑いはいつも声を出さな
バーたちがたびたび露出すればよいのです。 もちろん、 いものだった。 チョンはカバンからペンと物差しを取り ここで重要なことは地下鉄で本を読んでいる貴方を、 出し、 いくつかアンダーラインを引いた。 隣の視線が 必ず他の人々が認識するようにしなければならないと
本の上に落ちるのを感じた。 さらに数ページを読むと
いうことです。 他の人々が貴方をエキストラのように認
肩がこってきた。 最も大切なことは本を長時間、 膝や
識して通り過ぎてしまったらダメなんです。 貴方はもち
カバンの上に置いてはいけないということだった。 片手
ろん、 貴方に投資した広告主も水の泡です。 資本の
で軽く、 あるいは両手で本を掴んで持ち向かい側、 あ
浪費です」
るいは横からその本の題名が見えるようにしなくてはな
チーム長は最近の読者は本を自ら選んでいる時間が
らなかった。 チョンは席を放棄して立ち上がった。 す
ないので、 好奇心を誘発する機会を作ってあげなくて
でに循環線を一回りしていた。 原点だった。 教育で学
はならないと言った。 その役割を本の虫がしているの
んだところによれば 40 ページほど読み進んでいなけれ
だと。
ばならなかった。 チョンはページを遅くめくりすぎた。
「こんな広告が効果があるんですか?本が良く売れる ようになるんですか?」
口元の筋肉に小さな痙攣がおこった。 都市を一回りす る間、 同じ席に座っている人間は彼女しかいなかった。
チョンの話にチーム長は真顔で答えた。
何かを読んではいたもののそれさえ原点に戻ってしまっ
「私どもは創業 15 年の会社です」
た。 一節も覚えていなかった。
チョンは夕方の時間帯に投入された。これからは指
全 338 ページの本だった。 最初の数日は表情を管
紋認証機の代わりに交通カードがチョンの出退勤を証
理することも、 本を読むことさえできなかった。 時間
明する。 会社からもらった交通カードは月単位でその
が少し過ぎてようやく本の内容が目に入ってき始め、
内訳が会社側に報告された。 地下鉄で人々の視線は
本をすべて読み終えた後にようやく表情や本を持つ角
正面、 側面ではなく各自の膝の上に固定されていた。 度にも神経がいきわたるようになった。 その後、 読書 周りを見ている人よりも本、 あるいは各種映像機器を
を始める地点はいつも同じだった。 237 ページからだっ
握った自分の手の中を見ている人のほうが多かった。 た。 会社にいるとき、 いつも左から3番目のトイレだ そんな人々の注目を集める為には地下鉄に乗るときか
け使い、 いつも左から2番目のバスの座席に座ってい
ら視線を集める必要があった。 初出勤の日、 チョンは
たように、 ただの習慣的な選択だった。
12 cm のハイヒールと長さ28 cm のミニスカートをはいた。 チョンは路線表をちょっと眺めた −計画された行動だ
る。 蓋をして五分後、 再び蓋を開けると中にナメクジ
った− あいてる席に行き座った。 そして携帯電話を
はいない。 ベタベタした液体だけが残っている」
しばし確認した後 −これもまた計画された行動だっ K o r e a n a | 2 0 14 夏号
「ナメクジを集めて荒塩がいっぱいの甕の中に入れ
その文章でチョンは仕事を始めた。 237 ページから
71
料理人の爪
242 ページまでが5駅、 242 ページから250 ページま
った。 チョンの表情は日に日に良くなっていった。 二
で8駅、 そんな風に地下鉄で横に動いていると水の流
度ほど泣いたこともあった。 泣くのはやはり笑うのより
れに適当に順応しながら自ら泳いでいるのが感じられ
も数倍難しかったが、 チョンは3周目に涙の演技を成
た。 夜の7時を過ぎると人波が満ち潮のように押し寄
し遂げた。 チョンはやや傾けたページの上に涙があら
せてきて、 だいたい9時を過ぎると引き潮のように引
れのように落ちた時にもページを規則的に、 しかし自
いていった。 ある駅から初めても2号線を一回り循環
然にめくることを忘れなかった。 2回のうち1 度は隣に
するのにだいたい 90 分かかった。 チョンは一日に3周、 いたおばさんが彼女にティシューを差し出し、 何を見 2週間休み無しに働いた。 本の中に視線を没していた
てそんなに泣いているのかと尋ねてきた。 もう1度目
目をあげるといつの間にか彼女の前には誰も座ってい
の時は誰も彼女に声をかけることはしなかったが、 皆
なかった。 真っ暗な暗闇の中を走る、 窓ガラスに反射
がチョンが手にしていた本に視線が行くのを隠すことは
した自分の姿だけだった。 本を鼻の上まで引上げて、 できなかった。 もちろんチョンは本のせいで泣いたの 本の中に息を吐き出す、 読者の姿。 3週間が過ぎたがチョンは相変わらず同じ本を、 同 じ地点から読み始めていた。これから1ヶ月間はこの
ではなかった。 ただ涙が老廃物のように出てきただけ だった。 チョンはもともと泣かない方だったが、 仕事 だと思うと難しくはなかった。
本を読まなくてはならなかった。 最初は飽き飽きした
ページから視線をはずして地下鉄の片隅をみると非
ものだが、 演劇の台本だと思うことで少し気が楽にな
常にゆっくりゆっくりと点が一つ、 通り過ぎていった。
72
韓 国 の 文化と芸 術
料理人の爪
ナメクジだった。 奇妙な風景だったが見慣れていた。 で、 見知らぬ人間がほとんどだった。 それなのに隣人 仕事のせいだ。『ナメクジの家 』を毎日読んでいると、 たちはまるでチョンの退職を、 チョンの空間に下された たとえその文には心打たれなくても慣れてきた。 チョ
時間に限りがあることを知っているかのようだった。 チ
ンはいつも同じ軌道を回っていたある日、 線路から離
ョンは廊下の一番端の家に住んでいたが、 その真横の
脱した。 2号線の本線だけ回っていればよいのに、ソ
家ではチョンの行路を塞ぐほどに巨大な量の白菜を積
ンス駅で支線の方に行ってしまったのだ。 チョンの頭
み上げていた。 そこから始まったナメクジがのろのろチ
の中の誤作動が作り出した、 あの文字が再びチョンの
ョンの玄関の方にやってきた。 チョンは目をぎゅっとつ
前を通り過ぎたからだ。『 CHEF S MAIL 』ではなく正
ぶって開いた。 2号線がまた始まった。
確に 『 CHEF S NAIL 』 だった。 字体も間違いなく、あ
一人の男が2−1のドアから入ってきて中央に位置
の時のあの看板のデザインと似ていた。 チョンが読み
を占めて立った。 本から視線を長い間放していては広
間違えた、地上にはないあの看板だ。 2号線に乗りシ
告効果が落ちるので、 チョンは誰が通り過ぎても本に
ンチョン駅まではいかなくてはならなかったが、 チョン
視線を貼り付けていた。 そのとき、 チョンの耳元にあ
は『 CHEF S NAIL 』につられて降りた。 ある男の持っ
る部分が生々しく聞こえてきた。シェ・フ・ス・ネ・イ・ル
ていた本の題名だったのだ。 循環線から枝分かれした
「私の書いた本の題名はシェフスネイル。 ですから
ように広がる道をチョンは歩いて行った。 わずか数個
料理人の爪ということです。 世の中にたった1冊しか
の活字が目印だった。 しかしいつの間にか活字を見失
ない本です。 私が直接書いたもので、 まあ当然の話
ってしまった。
ですが、 私の話を直接書いた直筆だということです。 ここをご覧になればお分かりになりますが。 直接手書
チ
ョンはカレンダーを眺めた。 2週間後にはこの
きで書き、 ページ数も直接書きました。 それになんと
家を明け渡さなければならなかった。 出勤の際
製本までしました。 話の誕生から包装まで私が直接し
に管理人とはち合わせたのだが、 管理人はチョンにい
たのです。 本は門と同じで、 開けて入らなければなり
つ引っ越すのかと尋ねた。 チョンは探しているところだ
ません。 一度入いったら出てこれなくなることもありま
と答えた。 事実だった。 チョンは出勤する前に、 あの
す。 洋装本の外表紙はなかなか重たいものです。 値
街この街と歩き回ったが適当な家は現れなかった。 チ
段も高価ですし。 これ、 洋装本です。 しかし本の世
ョンはそんなにうるさい人間ではなかった。もちろん何
界はどれほど恍惚でしょう。 皆さん、 本に入っていらし
軒かの家は致命的な −致命的という単語を使うには
てください」
適さないほど欠陥が多かった− 欠陥があった。 チョ
白色のペディングジャンパーに赤いマフラーをしてい
ンは屋根部屋や地下には行きたくなかった。 すでに2
る、 その様子がちょっと見たところ料理人のようにも見
度の屋根部屋の経験は時には暖房費が家賃よりもはる
えるようだった。 料理人が本の前と後ろをつかんで広
かに大きいかもしれないことを教えてくれ、 地下の部
げると、 その間から扇の模様に本のページが広がった。
屋での経験はカビのせいでアトピー −本当にカビが
料理人はアコーディオンを演奏する人間のように見えも
アトピーに一助したのかは分からないが− に近い痒
した。 本は売れなかった。 何人かの人々は好奇心を
さを税金のように賦課した。 しかし限られた予算の中
漂わせた目で料理人を見はしたが、 いくら30 % 割引さ
で家を探す間にチョンは段々寛大になった。 日差しや
れた価格だといっても5 万 6 千ウォンという値段は地下
窓が家を構成する必要条件ではないことを知っていく
鉄の中で売る物にしては高かった。 それがたとえ世界
間にチョンは老いていった。 いや古くなっていった。
にただ一つしかない本だとしてもだ。 しかしそれは
社宅ではあったが同じラインにはチョンを知るような
K o r e a n a | 2 0 14 夏号
『 CHEF S NAIL 』だった。 その単語がこれで3度も
人は住んでいなかった。 チョンが勤めていた新聞社だ
チョンの前に現れた。 一度は見間違えのミスとして、
けでなく、 いろいろな会社が使用しているところなの
もう一度は本当で、 今度はその分かれ道にいた。 そ
73
料理人の爪
の単語がたびたび目の前に現れることがチョンを不安 にした。 また気にもなった。 チョンは立ち上がった。 黒い表紙の洋装本で、 大きさは飲食店のメニューく
地下鉄がフラフープのように都市の腰に巻きつきぐ るぐると回る間、チョンは本を読んだ。 しかしいつも同 じ規格で定められたコースを機械のように読み進んで
らいの大きさで、 ページは合計 300 ページに達した。 いるだけで本当に本を読んでいたのではなかった。 本の表紙には金色で『 CH EF S N A IL 』という文字が 書かれており、 裏表紙には「定価8万ウォン」というシ ールが貼ってあった。 内容は創世記と似ていた。 非常
ク
ァクと偶然会ったのはチョンが退勤まであと1 時 間という頃のことだった。クァクからは会社の匂い
に長い目録の羅 列だった。 人 間だけでなく、 動 物、 がした。 チョンはクァクがくれた名刺を一生懸命活用し 植物、 芸術作品もあり、 自動車タイヤの種類や限定
ている自分が少し決まり悪かった。 恥ずかしくもあった。
版のリップスティックのようなものもあった。 そのすべ
勤務中だったが思いがけない突発事態だったので、 チ
てが無秩序に混ざり合っているのではなく、 尻尾掴み
ョンは本を閉じた。 ただカバンに入れることはせずに膝
をするように、 尻取り遊びをするように、 すぐ前と後
の上に乗せておいた。 二人は並んで座り同じ方向に流
ろの連結でつながっていた。 仮に料理人の爪ならば、 れていった。 チョンはクァクの一言、 二言で退社した日 注文した料理から爪をみつけたお客の運動靴の中敷の
にクァクがくれた名刺は本の虫の名刺ではないことを知
話につながり、 その運動靴の中敷を作った工場の住所
った。クァクがくれたのはタイマッサージを3回受けるこ
につながり、 その住所に郵便を配達する郵便配達人
とのできるクーポンだった。 名刺大の大きさのクーポン。
につながり、 そうやって世の中のすべてを生んで、 生
しかしクァクがマッサージは良かったかと聞いたとき、
んで、 生んで、 また生んで結局は一つの関係につな
チョンはありがとうと答え、 本の虫の話は持ち出しもし
がることを示す話だった。 一晩ですべて読むことはで
なかった。 たぶんそのマッサージクーポンはすでに有
きなかった。 チョンは本を前から、 後ろまでページを
効期間を過ぎているかも知れず、 残っているにしてもこ
めくっていくうちに、どこかで自分の名前を見つけてす
の都市の巨大な廃紙用ゴミ箱に流れ込んでいったのだ
ぐにその部分を探してみた。 しかしなかった。「チョン
ろう。どちらにしても結果は悪くなかった。この仕事を
・バンべ」と似た文字はないようだった。 特に面白いと
していなければ『 CHEF S NAIL(料理人の爪)』 を所有
は言えなかったが、 読んでいるとどこからか自分と関
することはできなかったのだから。 そして自分は今、
連した何かが一つか二つはでてきそうだった。 本によ
適切な水位で、 適切な情熱で働いているではないか。
れば料理から見つかった料理人の爪は陰凶な力を備え
「あの時、 先輩が言ってた話。 刺身屋のさばの話。
ており、 一度その爪を認識した人間はどんな形であれ
あの話今でもときどき会社で話してるんですよ。 今日
すべてつながってしまうという。 チョンは自分もまたそ
も、 でも、 私はただ前だけ見ようと思います。 水の流
うだったのではないかと考えた。 去勢されずにすくすく
れに身を任せれば他のことは考えないじゃありませんか。
と勃起した爪がチョンが知らない間にチョンを惑わせて
ちょっと疲れはしても、さばが前をいくさばの後姿だけ
いたのではないか。 そんなことを考えている間、 チョ
見ていれば自分が泳いでいるのか、 そうでないかなん
ンはもうすぐこの家を明け渡さなければならないという
て、 そんなことを考える暇なんてないでしょう。 私は
事実、 新しい職場を見つけなくてはならないという事
今、 前を行くさばの尾ひれだけ見ているんです。
実を忘れることができた。 しかし一日中、 そうやって
懸命に走っているんです」
過ごすわけにはいかなかった。
クァクがいった。 チョンは自分が前ではなく横を見
出勤の時に玄関のドアをあけると差し押さえの張り
たために、 水槽のガラスの内側に映る自分の姿を見た
紙のようにメモが貼ってあった。 社宅の使用期限が残
ために首になったんだと、 つぶやいた。 クァクがしば
り1 週間だという内容だった。 それでも他人に見えない
し、 またかわいそうにという表情をした。 そんな気配
ように封筒の中に入れてくれたのがありがたかった。
を目であれ、 耳であれ確認することになるかと思い、
74
韓 国 の 文化と芸 術
料理人の爪
チョンは退社後、どこにも連絡できなかった。 同じ都
そうやってチョンの人差し指はページの上に移された。
市に暮らす友だちにも、 他の都市に暮らす両親には尚
これでチョンは他の複写本、 また他の料理人の爪とは
更のこと。 胸のうちを明かすのに気が楽なのはむしろ
違う本を持ったのだ。 チョンは持っていた本を再びカ
ネイルアートショップや美容室、 エステの人々なのかも
バンに入れて、『ナメクジの家』を取り出した。 次の列
しれない。しかしそれさえも今やぎこちなかった。
車がもう到着しようとしていた。
「あっ、 先輩!それから。」 クァクは思い出したというようにカバンから何かを取
ごつごつした都市の上を地下鉄は同じ速度で流れて いった。 出勤・退勤の時間帯の地下鉄は巻尺のように、
り出した。 4回目の『 CHEF S NAIL 』がチョンの前に
肥大化した都市の腰を巻いて動いていた。 チョンは路
現れた。 今回は現れて欲しくはなかった。 すでに一
線図に目印のように同じ間隔で入っている駅名をじっと
つだけの原本をチョンが所有しているのに、 もう一つ
見た。ときどき間隔が開いた駅も見えるが、 すぐに新
の『 CHEF S NAIL 』が現れるなんて。 それも同じ大
しい駅によって破られるのだった。 絶え間なく増え続け
きさ、 同じ厚さ、 同じ色の本で。
るあの地下鉄の路線がいつかは下水溝の髪の毛のよう
違うのは値段だけだった。 クァクは取材からの帰り 道にこの本を4万8千ウォンで買ったと言った。
に絡まってしまうようでめまいがした。 しかし夜になる と地下鉄は少し居心地が良くなる。 都市の上から下に、
「 地下鉄で品物を買うのは初めてだったんですが、 あるいは下から上にアイロンでもかけるように走った。 これ題目を見てください。私はこれが実際にあるとは知
それはチョンがいても、 いなくても関係のない平穏だ
りませんでした。 先輩がこの本を読んだことがあって混
った。 チョンがいなくてもアイロンかけは続くだろう。
同したんじゃありません?一冊だけの本だといって作家
地下鉄の床をはっていくナメクジがチョンの目にとま
が直接売ってたんで買ったんです。 前のほうを少し見
った。 ナメクジは地下鉄のドアの方にゆっくりゆっくりと
たら、まあ、 あまり読まれそうにもありませんけど」
這っていくと、ドアの前で立ち止まった。 ちょうどドアが
さっと目を通すとほとんど同じ内容だった。 チョンは
開いた。 チョンはナメクジの行く手に目をやった。 ナメ
自分もこの本を持っており、 5万6千ウォンで買ったと
クジがどうやってあの体の 10 倍以上にはなるという虚空
いう話はしなかった。 クァクはチョンにどこで降りるの
を越えていくのだろう。 ホームとドアの間に墜落するの
かとたずねた。 クァクはチョンが当然、 社宅から引っ
ではないか。どちらでもなかった。 ナメクジはドアのま
越したものと考えているようだった。 チョンは答える代
ん前で、 だから虚空に渡ろうとする前に、 踏み潰され
わりにクァクにたずねた。
た。 立体から平面に圧縮され緑色のしみだけが残った。
「地下鉄2号線に乗って一周したらどれくらいかかる 「さあ、 2時間?1時間?」
リ
「 87 分」
ム長から評価の電話を受けなければならなかった。 チ
か知ってる?」
そうなんだ。 クァクはうなずいた。 クァクが降りる駅 までまだあったので、 チョンは先に下りた。 シンドリム 駅だった。 クァクを乗せた地下鉄が出た後、 チョンは
ストラだという。 本の虫の社員が半分にされた。 チョンはなんとか生き残った。 その代わりにチー
ーム長は彼女に言った。 「勤務中に物品購入1回、 勤務中に長時間のおし ゃべり1回、 勤務中に路線離脱4回、 勤務中に」
プラットホームの長椅子に座ってカバンの中の 『CHEF S
その結果月給は半分しか入らなかった。 地下では
NAIL(料理人の爪)』を取り出してみた。 チョンはプラ
影はできないが、 見えない影がチョンについて回って
ットホームの床の埃に人 差し指をなすりつけてから、 いるようだった。 目は多かった。 チョンはモニタリング 本の1ページの上に指紋をぎゅっ、と押しつけた。 不
されていた。 読むものの上に読んでいる振りをしている
良だった指紋が名も知らない星雲のように奥妙に見え
者がいて、 本を読んでいるふりをしている者の上に本
た。 誰でも持っている、 でも誰も同じではない軌道、 を読んでいるふりをしているか見ている者がいた。 チョ K o r e a n a | 2 0 14 夏号
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料理人の爪
ンはようやく知ったのだが本の虫よりも本の虫モニタリ
るのは長所だった。 本の虫が要求するのは人々の無意
ングをするほうがもっと稼ぎが良かった。もちろん本の
識に『ナメクジの家』をはめ込むことだったので、 ただ
虫モニタリングは誰でもできることではなかった。 それ
本を読んで居眠りをしたとしてもその本を宣伝するのに
は一種の昇進だった。 チーム長はチョン・バンベさんに
失敗したというわけではなかった。 明らかに男は視線
はもっと頑張ってもらわないと、と言った。 本の虫の社
を集めるのには成功し、 飛び交う視線を『ナメクジの
員の中には博士号やミスコリア入賞、 大学路の演劇俳
家』で受け止めていた。 ある女はただ静かに『ナメクジ
優出身程度のスペックをもった人も増えてきたと言った。 の家』を読んでいた。 それは本の虫の基本的な要求事 「最近は不景気で、 就職に血眼になっているじゃあ りませんか。 良くご存知でしょう」
項にはあっていたが、 その女は何の特色もなかった。 本を読む機械のようだった。 チョンは女に言った。
チョンは良くも悪くもない普通、 だから「中間」程度
「さばが前をいくさばの後姿だけ見ていれば自分が
で暮らしたかったが、 それが一番難しかった。 中間に
泳いでいるのか、 そうでないかなんて、 そんなことを
留まろうとしている人々は下に墜落した。 頂点を目指し
考える暇もないでしょう。 私は今、 前を行くさばの尾
て走っている人々の中で墜落した人間がすでに中間に
ひれだけ見ているんです。 懸命に走らなくては」
尻がかかっているからだった。 チョンは中間になるた
女は答えなかった。 干したノガリのような表情で、
めの維持をしなければならない態度がどんなものなの
人波に埋もれて本を読んでいる人、 それはチョン自身
か少しわかったような気がした。 一旦、 水槽の中に入
だった。 地下鉄がチョンの動線を読んだ。 交通カード
ったら水槽が要求する速度のとおりに回らなければな
が、防犯カメラが、そしてチョンが知らない多くの人々
らなかった。 速度調節器はチョンにはなかった。 そう
が彼女の動線を読んでいた。 もうすぐ家を明け渡さな
やってチョンはまた水槽の中で回っていた。
ければならなかった。 使用期限は残り3 日だった。 仕
チョンはただただ出勤して本の中に視線を没したま
事の邪魔になるほど携帯電話がたびたび鳴った。 自然
ま、 活字ごしの、 裏表紙ごしの世の中を盗み見た。こ
な読者の姿に支障を与えるほどだった。 ベルを振動に
の 6 両、 10 両編成の鋼鉄の塊が自分だけの独占舞台
してかばんの奥深くにしまいこんだ。 しばらくして確認
ではないとは知っていたが、 両目でその事実を確認す
してみると合計 6 通の電話と1件の文字メッセージが来
るとどうにも少し恥ずかしくなった。 チョンの視野に 『ナ
ていた。 管理人だった。 入居する人が待っているので
メクジの家』を手にした人間が 3 人もはいってきた。 本
今週中に必ず整理してほしいという内容だった。 引越
の虫の所属かもしれないし、 本物の読者かもしれなか
しの日が来週の月曜日だという。 しかしおかしなことに
った。 一人の女はわざと、 しかし気づかれないくらい
こんな活字が仕事用の本の中の文句のようにある程度
で誰かにぶつかった。『ナメクジの家』が落ちるとそれ
距離を置いて読めた。 自分のことだという実感がわか
を自分で拾ったり、相手が拾ってくれれば受け取るとい
なかった。 チョンは 10 分ごとに楽しそうに笑い、 また
う方法でもっと積極的な広報をしていた。 30 分の間、 それ以上に度々アンダーラインを引いた。 それとともに、 その女はたびたび人とぶつかりながら本を落とすのを
3 日以内にどこへ行けばよいのか考えていた。 それは
繰り返していた。 もちろん効果は良かった。 本が落ち、 そういう事実を気付かれないほど巧妙だった。 老練に 持ち上げるを繰り返しながら 『ナメクジの家』 の題目と表 紙がさらに積極的に露出した。 ある男は居眠りをして いた。 静かに『ナメクジの家』を手にしたまま座って居
なっていた。 「あっ雪だ」 地下鉄の中で誰かがそう言った。 本当に本の外で、
眠りをし、 目を覚ましてはまた本を読むことを繰り返し
雪が麻薬の粉のように飛んでいた。 酔ってしまいそう
ていた。 広報する本を手にして居眠りをするというの
だった。 豪雪の中で地下鉄1号線はときどき止まり、
は明らかに減点要因ではあったが、 なんと言うかその
2 号線は延びた都市を固く締め付けるように 、ぐるぐる
表情と姿勢があまりにも独特なので人々の視線を集め
と回っていた。 手首を締め付ける手錠のように、 ある
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料理人の爪
いは罪人の首を締め付けるお縄のように。 まだ解けない雪の上に寒さが急襲した日、 地下鉄
朝、
チョンのドアを開けるのにスペアーキーが動 員された。 管理人がドアを開けて内部を覗
はナフタリンの臭いにあふれた。 アルパカとウール、 いたとき、 その中には荷物は何もなかった。 すでに引 あるいはナイロンのような各種繊維が眠っていた季節
越しをして出て行ったような、 空家だった。
の重みと共に出てきて混ざり合ったのだ。 ナフタリン
チョンはその時間、 2号線を3周していた。 チョン
の臭いの中でチョンはナメクジの数が幾何学的に増え
は普段よりもはるかに早く出勤した。 出勤ではないかも
ていくのを見た。
しれなかった。 ナメクジがページの上をゆっくりゆっくり
チョンは機械のように帰宅した。 すでに日曜日をす ぎ月曜日の午前 0 時も20 分も過ぎていた。 「使用期限が過ぎました。 今日の午前中に内部の荷 物を回収して別に保管いたします」
過ぎていった。 葉ではなく風をかじっているようだった。 チョンが見ている中、 ナメクジは活字の上を消しゴムの ように這っていたがすぐに跡形もなく消えてしまった。 本の中に入ってしまった。 魔法のようだった。 非常に
チョンが家の中には入りいくらもたたずにベルが鳴っ
老練にナメクジは立体から平面に圧縮された。チョンは
た。 管理人だった。 チョンは息を殺した。 ニュースの
アンダーラインを引いた。 引いてから、 行ってみること
中で見るような、 借家人と家主との間の対決の状況が
にした。『 CHEF S NAIL( 料理人の爪 ) 』 の中ですべて
今ここで起こっていた。 まだ家は見つからなかった。 の名前はその名前が出るほかない、 それなりの必然的 携帯電話はすでに電源を切って久しかった。 つけたく
な理由を付与されていた。 そんなところが本当にある
なかった。ドアをどんどんと叩く音にチョンはトンカチ
のなら、 チョンでも行けないことはなかった。 チョンは
で叩かれている釘になっていた。どこか他のドアがあ
じっと地下鉄の路線図を眺めた。 地下鉄が四方八方に
ればそこに逃げ込みたかった。
臍の緒のように広がっていた。終点はもしかすると終点
チョンはもしかすると数多くのコピー本の中の 1 冊か もしれない『 CHEF S NAIL( 料理人の爪 ) 』 を開いて子 供の髪の分け目を見つけるように読んでいた部分を探
ではないかもしれなかった。 終点と車庫地、 それ以後 まで走っていけば救いの臍の緒が伸びているかも。 すでに退勤時間は過ぎていた。 何周地下鉄で都市
した。 洋装本の二つの表紙を床にピタリとつけると、 を回っていたのか数え切れなかった。 チョンは『ナメク 中の紙が扇のように開くのが好きでチョンはわざと枝折
ジの家』をかばんに入れて『 CHEF S NAIL( 料理人の
りを使わなかった。 チョンはその中の1ページに耳を
爪) 』 を取り出した。 開いた本の二つのページがまるで窓
つけて横になった。 一枚を頬の下に枕のように敷いて、 のように見えた。 名前と名前が継続して生まれ、 生ま 次の一枚が鼻のほうに傾けばそれを布団のようにかけ
れ、また生まれた本を読みながらチョンは地下鉄の端か
た。 ページとページの間にそっと横たわり圧縮されたら
ら端まで走った。 地下鉄は 2 号線を過ぎ、 5号線を過
どうだろう。 空間の中に時間を圧縮してしまう方法、 ぎ、 8号線、 12 号線まで続いていた。 237 ページを穴 流れていく時間を掴む方法は剥製しかなかった。 時間
が開くほど眺めているとページがドアのように少し、 体
と空間の重さの中で水分が蒸発し、 それ自体は永遠
を傾けてくれた。 終点以後、 車庫地以後の時間が空間
不滅の剥製になるのだ。 チョンの本の中にはそうやっ
の 形 態 で 長く暗く迫ってきた。 この 時 間 が 過ぎ れ
て剥製となった時間がすでに数個の野の花となって横
ば 『CHEF S NAIL (料理人の爪) 』 の世界が開けるだろう。
たわっていた。
まだ生まれていない路線、 穴さえできていない土の中
管理人がドアを叩く音の合間にそっと耳を澄ますと 他の音が聞こえてくるようだった。この世界の時間に嫌 気が差し、この世界の空間に息がつまり、 本の中の文 脈を自ら読んでいく本の響き。 わざと何でもないと装っ ても、 後ろ足では見えない脱出口を作る本の身振り。 K o r e a n a | 2 0 14 夏号
にチョンは動いた。 そしてついにその先から本の中に入 っていった。 立体から平面に。 5番目の家だった。
『C
という看板を 『CHEF S NAIL 』 HEF S MAIL 』 と見間違えさえしなければ最初からこんなこと
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は起きなかっただろう。 いや、『 CHEF S NAIL(料理
紙だけが少し、 肉のように出てきた。
人の爪)』 と 『ナメクジの家』 を混同さえしなければこんな
それはチョンの遺品でもあった。 防犯カメラに映っ
ことは起きなかっただろう。 しかしもしかするとそのす
たチョンの姿は線路に身を投げたというよりは本の中に
べての混同がなくても、 事は起きていたかもしれない。 重心が傾いて人生自体が傾いてしまったように見えた。 チョンは望んでいた本の中に入ってきたが、 料理人
その映像がニュースに出た後、『ナメクジの家』を読む
の爪は活字でも実物でも見えなかった。 向こうのほう
人が急速に増えた。 本の虫会社の拡張なのか、 そう
の通りにナメクジが一匹、コンマのように通り過ぎてい
でなければ本当に読者が増えているのかは分からない
くのを見て気がついた。 間違って来てしまったことを。 が、 確かなのはチョンの死が『ナメクジの家』を有名に チョンが入ろうとおもった世界は『 CHEF S NAIL(料
したという点だった。 その本を両手にぎゅっと握った女
理人の爪)』だったが、どうしたわけかチョンは『ナメク
の投身は多くの人々の視線を集めた。 その女がチョン
ジの家』に入ってしまっていた。 確かにカバンに『ナメ
であることを知った何人かの人々の腕に鳥肌が立った
クジの家』を放り込み、 他の本を取り出したのに、 た
が、 世の中のすべての鳥肌がそうであるように直にお
ぶん左手と右手、 一と一ではないこと、 昼と夜、 その
さまった。 周期的に地下鉄でチョンを見た人々は自殺
外にまた二重的な多くのものが混同しているのは明ら
した女についてこう言った。 その女はいつも本を見て
かだった。 たぶん過労のせいで。
いたと。 時々, 泣いたり、 時々笑っていたと。
チョンは自分の体の下に流れる、 自分の体よりも大 きな活字を読んだ。
K o r e a n a | 2 0 14 夏号
2号線の巡回線はぐるぐると回っていた。 クァクは チョンと一緒に地下鉄に乗ったあの晩を思い出してい
「ナメクジを集めて荒塩がいっぱいの甕の中に入れ
た。 あの時、 チョンにおかしな気配のようなものは感
る。 蓋をして五分後、 再び蓋を開けると中にナメクジ
じられなかった。 チョンは平凡だった。 ただ地下鉄2
はいない。 ベタベタした液体だけが残っている」
号線が一回りするのに 87 分かかったというチョンの話
その文章の上を這っていく間、 空気と視線が荒塩の
が今になってみると少し意味深長なようでもある。 クァ
ようにチョンの体を収縮させた。 自らが他人の本に無
クには 87 分を体で証明してみる時間はなかった。 クァ
断でくっついたナメクジのように感じられチョンはさらに
クは月曜日に社宅に入った。 そこがチョンが住んでい
萎縮した。 向こうに依然として地下3階の床に窓がつ
た家であることは知らなかったが、 知っていたとしても
いている都市での最初の家が見えた。 家を無くしたナ
変わることはなかっただろう。 社宅から会社まで地下
メクジのように小さくなった人間一人がその中に入って
鉄2号線で4駅の距離だった。さあ降りる時間だ。
いった。 バイブレーターの振動音が小さく始まるとすぐ
クァクが本をカバンに入れようとすると、本は鳥のよう
に真っ黒な活字が石のように振ってきた。 いくつかの
にバタバタと羽ばたきをした。 するとクァクのカバンから、
活字がその家を押しつぶした。 肩がくぼみ、 腰がゆが
地下鉄の鋼鉄の屋根を破り、 天に吹き上がった。 バタ、
みながら、 すべてがぺちゃんこになった。 彼女が通り
バタという音が暴風のように大きくなった。 地下のあちこ
過ぎた場所には何の痕跡も残っていなかった。 チョン・
ちに大人しく横たわっていた数万冊の本が体をカモメの
バンベは行間に残った。
ようにぱっと広げたまま飛び上がり始めた。 あるものは
クァクが本を開いたとき、 すでにチョンはページの
低空飛行を、あるものは高空飛行をして彼らは一つの世
間で圧死した後だった。 237 ページ以後、どこかにチ
界を通過した。 その隙間から活字が羽のように舞ってい
ョンの碑文が残った。 しかし誰もその碑文を読むこと
た。 本は高く飛び上がった。 数メートルの上空でくちば
はできなかった。 クァクは 237 ページ以後の紙が一ま
しを大きく開いてまた他の標的も求めて、 大きくあくびを
とめになって固まり開かないのをみて変だと思った。 ク
した。 屋根に穴のあいた地下鉄は何もなかったかのよう
ァクが長い爪を差込み、 ページとページの間を分離し
に流れていき、 人々は本を読んだ。 時折吹く風が頁を
ようとしたが、 頑固に口を閉ざしたその数ページでは
めくった。
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