Koreana Winter 2011 (Japanese)

Page 1

冬 号 2011

韓国の文化と芸術 特集 冬号 2011

八 萬 大 蔵 経 vo l. 18 n o . 4

イントロダクション、千年記念、初雕大蔵経、 日本の木版本、版木、デジタル知識ベース

高麗大蔵経

ISSN 1225-4592

v o l. 1 8 n o . 4

デジタル化で 新たなる千年を迎える


発行人 編集理事 編集長 監修者 編集諮問委員

金炳局 全南鎭 金鍾徳 嘉原和代 裵炳雨 Elisabeth Chabanol 韓敬九 金華榮 金文煥 金英那 高美錫 宋惠眞 宋永萬 Werner Sasse

広告 CNC Boom Co,. Ltd ソウル市江南区大峙洞1008-1. タワークリスタルビル Tel : 82-2-512-8928 Fax : 82-2-512-8676 編集 金熒允編集会社 ソウル市麻浦区西橋洞384-13 Tel : 82-2-335-4741 Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 印刷 三星文化印刷 ソウル市城東区聖水2街274-34 Tel : 82-2-469-0361~5 Fax : 82-2-461-6798

Koreana ホームページ http://www.koreana.or.kr © 韓国国際交流財団2011 『Koreana』に掲載されているすべての記事 の著作権は韓国国際交流財団に帰属し、 著作権法により保護されています。 〈Koreana〉の記事を転載する場合には、 事前に〈Koreana〉編集室に電子メール (koreana@kf.or.kr) かFAX(82-2-34636086)で転載許可を申請してください。 〈Koreana〉の記事を引用したり、非営利目 的で使用する場合にも〈Koreana〉からの 転載であることが分かるようにクレジッ トを明示してください。

掲載された記事は筆者の個人的な意見で あり、〈Koreana〉や韓国国際交流財団の公 式見解ではありません。 1987年8月8日文化観光部-1033で登 録された季刊誌〈Koreana〉は英語、中国 語、フランス語、スペイン語、アラブ語、 ロシア語、ドイツ語でも発刊されています。

韓国の文化と芸術 冬号 2011 韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル

1236~1251年に板刻された再雕大蔵経。 今年で製作から千年を迎える初雕大蔵 経は、1232年にモンゴルの侵攻によって 焼失した。

高麗大蔵経の千年紀を祝う

経典の冒頭は「如是我聞(かくのごとく我聞けり)」で始まります。この有名な句はお 釈迦様の教えが葉っぱに刻まれ三つの籠に保管される前、数世紀に渡ってそれを 暗記した僧侶によって伝承されてきたことを物語っております。 大蔵経は崇拝の対象であるとともに知恵の根源でありました。東アジアの僧侶た ちは仏様の教えを求めて命がけで海を渡り、山や砂漠を歩きました。彼らの皆が 戻って来たわけではないが、生還した僧侶たちは当時の共通文字であった漢文に 翻訳された経典を持ち帰りました。その経典は広く普及させるために木版に刻ま れ、千年後には活字になって一般大衆に読まれております。それから約百年後の

今日、釈迦の教えはデジタル化されインターネットを通じて全人類が共有できる ようになりました。 今季冬号ではアジアの人々が貴重な知識と知恵の源泉を如何に記録し普及してき たのか、特に韓国人が注いできた情熱と努力の過程を振り返ってみました。これ には高麗大蔵経刊行千年を記念する意味と、この木版に刻まれた知恵がより良い 世界を開くことへの期待が込められております。 日本語版 編集長

金鍾徳

© 湖林博物館

預修十王生七経・変相図(一部)、13世紀、湖林博物館所蔵


特集 八萬大蔵経

04 10 18 24 26 32

10

イントロダクション

大蔵経板刻千年 経典研究の新時代が開かれる

ルイス・ランカスター

千年記念

大蔵経千年世界文化祝典観覧記

那秀昊

初雕大蔵経

巻物の高麗こうぞ紙が伝える知恵 初雕大蔵経の韓国内保管現況

金学淳 26

日本の木版本

日本に残る初雕大蔵経木版本

金学淳

版木

760年の間、無傷のまま伝えられてきた版木

朴相珍

デジタル知識ベース

宗林和尚のデジタル大蔵経に向けたコンピュートピアの夢

金裕卿 04

40 46 50

40

54 60 64 64

文化フォーカス

飲み水か遺産か、盤亀台岩刻画保存で揺れる蔚山

李光杓

アート・レビュー

「庭を出ためんどり」劇場用アニメの新時代を切り開く

韓兌湜

世界の中の韓国人

上海アート・フェスティバル招待作〈白鳥の湖〉の振付師韓国舞踊家 林洱調

巨匠

54

伝統自然染色アーティスト・金貞花

朴炫淑

韓国再発見

「白頭大幹が私の人生を変えた」と語るロジャー・シェパードさん

パク・ジョンウォン

オン・ザ・ロード

先人の暮らした跡を訪ねて西村巡り

72

金裕卿

ブック・レビュー 金学淳、金祜廷

『世界地図学通史』韓国部分の翻訳出版 『韓国古地図の歴史』 ガリ・レッドヤード/チャン・サンフン訳 鄭明勲とソウル市交響楽団が奏でるフランス音楽 ドビュッシーの交響詩「海」、モーリス・ラヴェルの「マ・メール・ロワ」と 舞踊詩「ラ・ヴァルス」 韓国茶に関する三大古典散文集 『Korean Tea Classics (Paperback)』 李穆、草衣禅師著

82

74 78 80 82 86

グルメを楽しむ

クッパ:韓国のファーストフードの原点

芮鍾碩

エンタテインメント

韓国ドラマ 制作の舞台裏とストーリー展開の秘密

金大午

遠くの目

韓国の山と陶磁器、そして‥‥‥

奥野昌宏

ライフスタイル

一緒に歌う観客 韓国コンサート会場の観覧風景 韓国文学の旅

情念と鬼気にあふれた恋愛小説 『初恋』 全鏡潾

魚秀雄

徐政玟

崔亥利


八萬大蔵経

イントロダクション

大蔵経板刻千年 経典研究の新時代が開かれる

4

Ko re韓国の文化と芸術 a n Cu l tu re & A rts


高麗時代の1011年に始まった大規模な漢文経典の叢書刊本事業は、東アジアの知識の歴史にお いて一つの革命的な出来事だった。今年、大蔵経の製作着手千年を記念する行事が行われ、 この歴史的な出来事の持つ大きな意味が改めて注目されている。 ルイス・ランカスター(カリフォルニア州立大学バークレー校東アジア言語文化学名誉教授)| 写真 : 安洪范

K o r e a n a ı A冬u号 t u mn2 0 121011

5


1 1. 北宋・開宝大蔵経の仏本行集経木版本(京都・南禅寺所蔵)。 開宝大蔵経は983年に刊本された漢文文化圏初の大蔵経だが、 版木は残っていない。

年は、高麗の王室によって1011年に大蔵経刊本事業が始まっ

していたことになる。北宋版大蔵経、高麗版大蔵経、

てから1000年になる年だ。それに先立ち中国・北宋の皇室は

遼版大蔵経、金版大蔵経だ。しかし、現存してい

991年、高麗に進物を贈っていた。それは、漢文経典の叢書といえる

るものはない。木版本は残っているが、版木は遠

木版本だった。最初に贈られた経典は12万ページを超え、以後数年

い昔に失われてしまった。幸い高麗が13世紀に2

にわたって北宋から経典の木版本が贈られた。高麗の王室は、最 初の経典を受け取ってから10年後、北宋の経典を基にして大蔵経 の版木を製作するよう命じた。中国・開封の北宋皇室は、続いて 当時中国で発見された梵語の経典を贈った。そして最後に贈 られた経典には、最初の経典にはない内容が含まれていた。 それは、北宋以前の中国歴代皇室が翻訳した経典だった。

度目の版木を作り、現在までヘインサ(海印寺)に保 管されている。漢文経典としては最も古い大蔵経の版 木である。奇跡ともいえるのは、この13世紀の経典の 版木が、傷みのない優れた状態で残っているという点だ。 そのため、私たちはこの韓国の寺院に今でも保管されてい る800年も前の経典の版木に接することができるのだ。 考えてみれば、1000年前の出来事について正確に論及でき

東アジアの四つの木版本 高麗で1011年から1087年にかけて作られた大蔵経 の版木は、モンゴルの侵攻による火災で1232年頃に 焼失してしまった。その当時、木版本は遼(契丹

るとは驚くべき事実だ。歴史は、政治的・社会的な主要人物に 関する大きな出来事を記録したものである。そうした出来事は、 長い歳月を経る中で人々の話の種になり、記念の対象にもなる。 初雕大蔵経板刻千年を記念する意味は、前述したような古い伝承と

族の国)と金(女真族の国)でも作られていた。し

儀礼の記憶とは明らかに異なる。そこには、ある少数の集団が遠い

たがって、11世紀までに4種類の木版本が存在

昔、国家的事業を始めた正確な時期を判別するための現代人の知恵が

6

韓国の文化と芸術


2

3 2. 契丹大蔵経の巻物と称賛大乗功徳経 3. 大蔵経千年祝典のため、800年前に作られた再雕大蔵経の 版木を注意深く運び出す海印寺の僧侶

表れている。10世紀も前にどのようなことが起きたのか知りえる力

て、大蔵経に関する新しい情報を発掘して新たな解釈をする学者が、

があるのなら、それは韓国で文化的な伝統が現在まで力強く続いてい

筆者の研究分野に加わった。

ることを意味するといえよう。

京都の南禅寺には、1011年の初雕大蔵経の版木で刷った数千ページ

東アジアでは1011年以前から数世紀にわたって印刷技術が存在し

の経典が所蔵されている。その木版本を目にしたのは、最も胸の高鳴

ていた。しかしその印刷技術では、標準様式に沿って標準漢文を10

る出来事の一つであった。南禅寺の住職は、韓国の研究チームにその

万ページ以上印刷し、その多くのページを一つ一つ糸で綴じて数千冊

木版本のデジタル映像化を許可した。その結果、この資料は現在イン

の韓紙の書物にすることはできなかった。数千冊に及ぶ11世紀の木

ターネットで誰もが自由に利用できる。私たちは、海印寺に現在保管

版本が裏付けている技術革命によって、韓国は情報の収集・保存分野

されている版木について、さらに多くのことを学んでいる。

で先頭に立ったのだ。

例えば海印寺の大蔵経は、1種類ではなく様々な種類の木の板が使 われているとみられる。古い記録によると、大蔵経はシラカバの木

大蔵経研究のこれまでの成果

の板に彫ったとされるが、実際には一部に過ぎないことが分かってい

筆者は45年前、大蔵経の研究をすでに始めていた。その当時UC

る。研究の結果、多くの版木はオオヤマザクラで作られている。また

バークレーは、海印寺所蔵の大蔵経の版木8万2000枚を刷った12部の

他の研究は、版木を数世紀にわたって保管してきた書庫に焦点を合わ

木版本のうち1部を購入した。この1960年代の刊本は、海印寺の大

せている。書庫について研究を重ねると、その優れた長所が明確に

蔵経の全版木を利用した最後のものだ。当時は韓国の大蔵経について

なってきた。海印寺の大蔵経の書庫は、版木の保管に完璧な環境であ

ほとんど知られておらず、なんとか補助を受けて筆者所蔵の木版カタ

り、現代においてもそのように完璧な環境を作り出すことは想像だに

ログを大学出版部から出す程度だった。しかしその後数十年が経っ

できない。

Koreana ı 冬号 2011

7


8

Ko re韓国の文化と芸術 a n Cu l tu re & A rts 1


1. 再雕大蔵経の版木。印刷に用いられた墨が 乾くと、版木の表面に墨の層が作られる。 その炭素膜が、版木の老朽化や風化を 遅らせる。 2. 海印寺の全景。最も高い場所にある 建物(標高645m) が、版木の保管されている 蔵経板殿。伽倻山の頂を背に、多くの峰に 抱かれている。

2

ほぼ1世紀の間、学者らは自らも気付かぬうちに、仏教文学研究を 東アジアの高麗大蔵経木版本に頼ってきた。

デジタル大蔵経 20世紀の最後の10年間、大蔵経の版木に彫られた5200万字がすべ

準として広く知られている間、それが海印寺の大蔵経の写しだと気付 く者はほとんどいなかった。ほぼ1世紀の間、学者らは自らも気付か

てデジタル化され、全世界の学者が自由に利用できるようになった。

ぬうちに、仏教文学研究を東アジアの高麗大蔵経木版本に頼ってきた

1000年前の情報伝達の新技術は、文字を裏返して彫った活字だった

のだ。

が、現代の新技術はデジタルだ。ある意味で、私たちは11世紀と共

大蔵経について、私たち学者が研究・究明すべき疑問点は未だ多

通点の多い時代を生きている。海印寺の大蔵経のデジタル化は、1000

い。例えば、版木を彫った工房の性格に関する疑問だ。板刻が一つの

年前の大規模な印刷技術と同様に、資料を判読・複写・分析する新しい

工房で行われたのか、多数の寺院で行われたのか。さらに、初雕大蔵

方法の始まりなのだ。デジタル大蔵経によって、学者の研究方法にも

経の版木が存在していた2世紀の間、どのようなことが起きたのか。

変化が起きている。大蔵経の版木が、新たにその意味を表現し始めて

初雕大蔵経の版木によってどれほど頻繁に経典を刊本し、その経典は

いるといえよう。例えば、コンピュータを利用して経典の内容のパ

どこへ消えたのか。様々な会議やワークショップが開かれており、ま

ターンと語彙の用法を分析することで、大蔵経を総合的かつ新たな方

た1000年を記念することで多くの人々が新たに関心を持ち、大蔵経

法で理解できるようになる。

研究にさらに多くの研究者が参加している。本誌『コリアナ』を通じ

海印寺の大蔵経には、1011年の製作当時の雰囲気が今も息づいてい

て、大蔵経の性格と意義について詳しく知ることができるものと期待

る。日本が漢文経典の大蔵経を現代版として作ったが、その内容は韓

する。大蔵経研究の新時代が開かれている中、今後この重要な歴史的

国の大蔵経だった。日本の大正新脩大蔵経が、全世界の漢文経典の標

遺産について一層理解を深めることを願う。(翻訳:坂野慎治)

Koreana ı 冬号 2011

9


八萬大蔵経

千年記念

大蔵経千年 世界文化祝典観覧記 韓国人の精神、高麗の重要な印刷文化、そしてお釈迦様が残した人をより良く導く教えは、次の千年のため に保存する価値が大いにある。大蔵経千年世界文化祝典は、その旅路の第一歩だ。 ナ・スホ(那秀昊、韓国外国語大学校通翻訳大学院教授)| 写真 : 安洪范

1

10

Ko re韓国の文化と芸術 a n Cu l tu re & A rts


年でも百年でもなく千年前、前ミレニアムの夜明けまでさか

高麗大蔵経の本山

のぼってみよう。私たちの生きる現代とは、まったく異なる

私たちは、ヘインサ(海印寺)への旅路に就いた。多くの人たちと

世界だ。ヨーロッパでは、外部からの侵略が終わってようやく平和が

共に、伽倻山の深い森の中へと木漏れ日の道を歩いていくと、何かが

訪れ、中世盛期に入り人口が爆発的に増加して社会が発展していた。

目に留まった。看板が、踏み固められた道から外れた方向を指してい

北アフリカはシーア派イスラム王朝・ファーティマ朝が支配し、巨大

る。その看板に沿って進むと、程なく深いくぼみに行き着いた。そこ

なサハラ砂漠とその南側は多くの帝国、王国、部族のものだった。ア

には誰もいない。くぼみの中には、半分ほど土に埋まった仏様の坐

メリカ大陸は、海を探険するヨーロッパ人と不運にも出会うまで500

像。向こう側には、二人の若い男性がクワとシャベルを手にして立っ

年の時があった。その頃、中米の古代マヤ文明の都市は捨て去られ、

ている。二人は発掘作業をどう進めるべきか話し合っていた。

ミシシッピ文化のマウンドと呼ばれる塚を積み上げていた人々は、現 在の米国中部と南西部を支配していた。

しかしこの二人は、実際に考古学的な発掘をしているわけではな かった。これは、韓国のアーティスト・チョ・ドッキョン(曹徳鉉)の作

地球の反対側・東アジアでは、高麗が現在の中国北東部とモンゴル

品『発掘プロジェクト』。インスタレーションとパフォーマンスが融合

東部を支配する遼(契丹族)の侵攻と戦っていた。高麗は遼を退けた

したこの芸術作品は、仏教精神と現代芸術の疎通を表現する50余り

が、単に勇猛と武力によって勝利を収めたわけではない。高麗の顕宗

の作品による『海印アートプロジェクト』の一つだ。海印寺とその周辺

は、この国家的危機を武力だけでは乗り切れないと悟り、経典を集大

に、多くの作品が点在している。海印寺の第一の山門・一柱門のそば

成して木の板に彫るよう命じた。全国の山寺に隠遁した僧侶が、高麗

には、韓国のアーティスト・アン・ソングム(安星金)の仏像作品『仏陀

の精神と進んだ印刷文化を発揮して、76年にわたる記録的な作業をや

の声』がある。これは平凡な仏像ではない。半分に切られた仏像の間

りとげた。

には空間があり、観覧客がその空間に入ることで作品に参加し、内面

しかしその後150年も経たずに、高麗に侵攻したモンゴル軍によっ て、大蔵経は1232年に焼失するという悲劇を迎える。海印寺八萬大 蔵経研究員保存局長のソンアン(性安)和尚は「危機が最高の機会です」

に隠された仏の声を発見して人として完成する経験ができる。 韓国以外のアーティストもプロジェクトに参加している。一柱門 に近づいてみると、虹色の工作用粘土で作られた多数の曼荼羅が、一

と言う。原本よりも一層正確で新しい大蔵経が、僧侶たちの献身的な 努力と発展した技術によってわずか16年で完成した。これがユネス コ世界記録遺産に登録されている海印寺所蔵の八萬大蔵経であり、今 年の大蔵経千年記念祝典の主人公だ。

Koreana ı 冬号 2011

1. 八萬大蔵経の版木が保管されている蔵経板殿。2棟のうち手 前にある修多羅蔵の入口。 2. 九光楼前の庭にある塔。中央の石塔の周りを歩きながら参禅 する。

11

2


12

チリのアーティスト、マグダレナ・アトリアの作 品『Kalchakura』。大蔵経千年世界文化祝典の行 事「海印アートプロジェクト」の参加作品で、海 印寺・一柱門の石の基壇を利用している。 韓国の文化と芸術


柱門を支えている石の基壇に張り付いている。チリの芸術家マグダレ ナ・アトリア(Magdalena Atria)の作品『Kalchakura』だ。その曼荼羅を 通り過ぎ、一柱門をくぐって海印寺の境内に入る。最初の庭は石塔が 中央にあり、その周囲には曲がりくねった道がある。塔の周りを歩く ことは、参禅を意味する。私たちはその道に沿って歩きながら、私た ちが今どこにいて、なぜここにいるのか、深く考えながら時を過ごし た。しかし、この寺院の最も奥、最も高い場所に行けば、8万1258枚 の高麗大蔵経の版木が私たちを出迎えてくれる。それを知りながら歩 みを緩めることは容易でない。 しばらくして、私たちは青い空と明るい日差しの下、最後の階段 1

を上り、版木が収められている建物に入った。枠が蓮の花のように曲 線を描く扉を通ると、大蔵経に取り囲まれる。木の格子戸の向こうに は、版木保管用の高い棚が、建物の端まで長く続いている。蔵経板殿 の内部は、風通しを考えて特別に設計された窓によって新鮮な空気が 流れているが、歴史の重みも感じられる。この版木が750年以上もこ こで保管されてきたという事実が、にわかには信じがたいほど、今で もこの版木は鮮明な経典を刷ることができる。 もちろん、最近ではこの原版で経典を刷ることはほとんどない。 ソンアン和尚は私たちを部屋に案内し、ウーロン茶を勧めながら説明 してくれた。ソンアン和尚は「温かいものでも飲みながら話しましょ う。お寒いでしょうに…」と言いながら、手ずからお茶を入れてくれ た。2時間ほど多くの話をする間、私たちが高麗大蔵経について、い かに無知だったのか気付かされた。話が終わる頃、ソンアン和尚は非 常に興味深い話をした。「すべてのものは変わります」。そして、口元 に笑みをたたえて「その事実を受け入れることが、まさに人生の煩悩

2

から脱することなのです」と続けた。 初めは、数百年にわたって版木を保管してきた責任者が、そんな 話をするのかと腑に落ちなかった。保管という行為は、変化の波を食 い止める努力ではないのか。しかし、すぐにソンアン和尚が言わん とする意味が分かった。「大蔵経はとても難しいのです。だからこそ、 何か私たちと八萬大蔵経をつなげる輪、あるいは共通点を見出す必要 があります」。つまり、すべてが変わる中で大蔵経の保管とは、単に 版木を物理的に守るのではなく、大蔵経の持つすべてのものを守るこ とを意味するのだ。

1. 韓国のアーティスト、アン・ソングム(安星金)の作品『仏陀の 声』。半分に切られた仏像の間に空間があり、観覧客がその空間 に入ることで各自の内面に秘められた仏の声を見出す。 2. 知識文明館のデジタルアート・インスタレーション『千年の合 唱』。1000体の仏坐像の顔の部分に、小さな有機EL (AMOLED) ディスプレイが埋め込まれている。 3. 祝典メイン会場の世界市民館。観覧客の願いが書き込まれた 数千枚の短冊が、彫刻作品を彩っている。 Koreana ı 冬号 2011

3

13


大蔵経精神の記念 私たちは翌日、朝早く祝典のメイン会場におもむいた。会場は通 常午前10時から入場できるが、多くの人が待っていたため、予定よ りも早く開けられた。メイン展示館の大蔵経千年館は、中央にある千 年の広場の向こうに見える。まずは、そちらへ向かおう。 展示館に入ると、印象的な大蔵経展示室に出迎えられる。円筒形 の展示室は、緩やかな傾斜の螺旋廊下に沿って上がっていく。ニュー ヨークのグッゲンハイム美術館を思い起こさせる構造だ。この空間の 中央には、大蔵経の版木を3Dで再現した立体のホロキューブが置か れている。 私たちを囲む壁は、本棚に見立てられている。螺旋廊下を進むと 本物の本棚もあり、その中には版木らしきものが収まっている。これ は、大蔵経を銅版で複製したものだ。これまでに1000枚ほどが完成 している。祝典の後も作業は続けられ、いつかはこの廊下を囲む本棚 に8万1258枚の銅版がすべて収められるだろう。 廊下の終わる2階には、観覧客が高麗大蔵経をより深く経験でき るよう展示室が設けられている。例えば、大蔵経の製作過程を詳細に 紹介する実物大の展示室。まず、大蔵経の内容を校訂・編集する繊細 な過程を経て、原稿を作る様子が示されている。次に、その原稿を裏 返して版木に張り付け、一文字一文字彫っていく。

1

他の展示室では、数世紀にわたって大蔵経が保管されてきた蔵経 板殿の科学的な建築知識を紹介するビデオが、大型スクリーンで上映 されている。地面に炭と塩を敷くことで呼吸する土の床、特別に設計 された窓など、これらすべての要素が、大蔵経をありのまま現代まで 伝承・保管するという一つの目的に向けられている。目が暗闇に慣れ る頃、この展示室がただの上映室ではなく、版木が保管されている蔵 経板殿の内部を再現したものだと気付く。 展示館の周辺には、様々な展示空間が設けられている。版木の模 型による印刷体験、休憩がてら読経を聞く特製の椅子など、老若男女 を問わず誰もが大蔵経を経験できるようになっている。そうした大蔵 経千年館の中で最も人気なのは、韓国と世界各国の版木と木版本を紹 介する展示室だ。この展示室の主役は、ガラスケースに収められた八 萬大蔵経の本物の版木。ケースを覗き込むと、750年前に作られたと は思えないほど、彫師の道具が残した細心の作業の痕跡を目にするこ とができる。 祝典のメイン会場には、その他にも千年の広場の両側に二つずつ

1. 大蔵経千年館の大蔵経保存科学室には、高麗初雕大蔵経の般 若心経と華厳経の変相図の版木が1点ずつ展示されている。 2. 大蔵経の板刻から印刷までの過程が展示されている。 3. 大蔵経千年館の螺旋廊下

14

3

韓国の文化と芸術


2

Koreana ı 冬号 2011

15


大蔵経千年館の中で最も人気なのは、韓国と世界各国の版木と木版本を 紹介する展示室だ。この展示室の主役は、ガラスケースに収められた八萬大 蔵経の本物の版木。ケースを覗き込むと、750年前に作られたとは思えないほ ど、彫師の道具が残した細心の作業の痕跡を目にすることができる。

計四つの展示館がある。大蔵経千年館を出て右側の世界交流館に入っ

いっぱいだ。私たちは、大蔵経の印刷に関する展示が印象深かったた

てみると、世界各国から来たおよそ60人のアーティストによる美術

め、木版印刷に挑戦した。まずは墨を塗る。伝統的な方法では筆を使

作品とインスタレーションが、大蔵経の精神を表現している。その隣

うが、私たちは版木に墨を隈なく塗るためにローラーを使った。版木

には世界市民館があり、観覧客も祝祭に参加できる。天井につるされ

の上に韓紙を乗せると、刺激的な墨の匂いが色濃く広がる。最後に、

た彫刻には、色とりどりの短冊が数千枚ぶら下がっている。近づいて

布で包んだスポンジで紙をこすると、経典が刷り出される。印刷を終

みると、この紙は単なる装飾ではなく、観覧客の願いが一枚一枚に書

えると、この手に歴史の1ページを握り締めているような気がした。

き込まれている。また、ここでは108拝リレーをする小さな部屋もあ

陽が高くなると、ますます多くの人で賑わった。千年の広場の周

る。108という数字は、人間のすべての苦痛の根源・煩悩の数を意味

りには、たちまち長い列ができ、大蔵経の版木を見るためには2時間

し、仏教では非常に重要だ。8万1258人の観覧客が108回額づいて108

かかるという案内が聞こえてきた。多くの観覧客は焼き鳥などおいし

拝することを目指しており、ギネス世界記録にも挑戦している。私た

そうな料理に誘われて、食べ物市場で昼食やおやつを頬張り、元気を

ちが訪れたときには、すでに1万5000人が参加していた。

充填している。

千年の広場の向かい側には、大きな展示館が二つある。知識文明

一方、メイン会場の片隅では、様々な年代の男女が韓国の民族衣

館は、東洋と西洋の記録文明の歴史を紹介する年表から始まる。ここ

裳姿でそそくさと整列している。まるで行列でも待っているかのよう

では碑石、木版、筆写など時代に沿って記録文明の発達を紹介してお

だ。外でもない、大蔵経の版木を運ぶ移運行列を再現するためだ。ま

り、様々な資料の実物と模型が展示されている。薄明かりの展示館の

ず先頭を行く農学の太鼓と鉦が響き渡り、鎧姿で武器を手にした勇猛

中でひときわ輝いているのが、現代韓国書芸家ホ・ラク(許洛)が、金

な武士が行列を護衛する。その後に、版木の模型を頭に乗せて、顎

泥(金のインク)で経典を筆写した金写経だ。非常に小さな文字は、こ

でひもを結んだ女性たちが登場する。女性たちは、両手をきれいに揃

の上なく精密で美しく、緻密な挿絵は、世界的な博物館に所蔵されて

えて、わらじで砂の道を歩いていく。続いて登場する幼い子供たち

いる華麗な彩色写本を思い起こさせる。知識文明館を出る直前、館内

は、版木を背負って楽しそうだ。大きな子供と成人男女は、背負子を

の最後に千個の小さなデジタルディスプレーが展示された現代に至

背負っている。行列の最後に、牡牛が版木の束を荷車で引いて登場す

る。光と色の饗宴、その調和が、人生において唯一変わらないもの、

る。行列に参加する人、歓声を送る人、誰もが大蔵経を身近に感じた

すなわち変化を描き出す。

ことだろう。

最後の展示館・精神文化館では、日常生活に息づく仏教の影響につい

ソンアン和尚の言葉通り、大蔵経は本当に難しい。しかし祝典の

て紹介されている。しばしば使用する慣用句をはじめ、茶文化、銅鐘、

展示や記念行事は、この途方もない神秘に近づく最初の輪になるだろ

石塔などの芸術品まで、すべてが仏教に根ざしている。こうした体験

う。会場を後にする頃には、大蔵経に秘められた歴史、大蔵経を作り

は受動的なものではない。曲がりくねった通路では歩きながら瞑想を

出した先人の知恵と努力がより深く理解できた。しかし、それよりも

経験し、展示館の最後には座禅のための特別な空間が設けられている。

重要なのは、高麗大蔵経がこれまでのように単に見聞きしたという 存在ではない点だ。大蔵経は、すでに私たちの生活の中に息づいてい

大蔵経体験とは

る。(翻訳:坂野慎治)

再び外に出ると、千年の広場では、天井の尖った白とオレンジのテ ントが手招きしている。テントでは、版木を彫る人、寸分違わず再現 された大蔵経木版を刷る人、風鐸や提灯などの工芸品を作る人たちで

16

1. 大蔵経の保存科学に関する説明ビデオを視聴する観覧客 2. 大蔵経の版木を運ぶ移運行列の再現

韓国の文化と芸術


1

Koreana ı 冬号 2011

17

2


八萬大蔵経

初雕大蔵経

巻物の高麗こうぞ紙が伝える知恵 初雕大蔵経の韓国内保管現況 初雕大蔵経は、刷り出された巻物の状態で千年にわたって伝えられてきた。 韓国に約300巻、日本に約2400巻が残っている。キム・ハクスン(金学淳、ジャーナリスト)

18

韓国の文化と芸術


うてい信じられなかった。わずか何カ月前に新しい韓紙に 刷ったかのようなその巻物が、千年前に作られたとは…。ソ

ウル大学校に程近い湖林博物館で100巻近い初雕大蔵経の木版本を見 た第一印象は、驚異的以外の何ものでもなかった。さらに、釈迦の教 えを集めた仏教経典叢書であり、この世に存在するあらゆる仏教知識 の総覧でもある大蔵経の千年前の木版本だと考えると、感激に胸が高 鳴った。変色や傷みがほとんどなく、美しく整った経典。いくつかは 傷みがあったが、何人もの手を経る中で保管に問題が生じたためだ。

紙と墨 初雕大蔵経の木版本が千年の歳月を耐え抜いて、今日でもまるで 真新しく鮮明に見える秘密は何だろうか。まず気になったのは、その 点だった。韓国で初雕大蔵経の木版本を最も多く所蔵する博物館の一 つ、湖林博物館のキュレーター、パク・ジュニョン氏がその謎の一部 を解いてくれた。決定的な要素は、世界で最も優れているという高麗 紙にある。 高麗紙の主原料はこうぞの繊維質で、100回以上叩いて繊維をほぐ して作られる。伝統的な製紙技法・流し漉きで紙を漉き、砧の上で整 えると、丈夫で艶があり滑らかな紙になる。このように作られた高麗 紙は繊維同士が密着し、まるでコーティングでもしたような効果があ る。高麗紙が耐久性に優れ、千年の歳月を経ても色が変わらず当時の 光沢を保っている秘訣は、こうした特別な材質と製作方法によるも のだ。さらに高麗紙は中性なので、空気や光にさらされても長持ちす る。 「絹五百年、紙千年」という昔の言葉のように、伝統的な韓紙がい かに優れているかは広く知られていた。特に高麗紙は、自尊心が強い 中国でも最高の紙と評価されていた。中国の文献には「高麗のこうぞ 紙は、色が白く魅力的で百錘紙と呼ばれている。高麗紙は、白くて丈 夫な点は蚕のまゆから作った綾羅(絹)のようだが、字を書くと墨を よく吸い墨を生かす。これは中国にもない貴重な品だ」という記録が 残っているほどだ。中国の唐宋八大家の一人で宋代最高の詩人・蘇軾 (蘇東坡、1037~1101)も、高麗紙と高麗青磁を所望したという話が伝 えられている。 永久貸与という形で最近フランスから戻った外奎章閣儀軌は、数 百年が過ぎても紙や絵などの保管状態が非常に優れており、注目を集 めた。外奎章閣儀軌の中でも王が見る御覧用の紙は、草注紙という高

© 湖林博物館

Koreana ı 冬号 2011

千年前に印刷され、現在まで巻物として伝えら れてきた初雕大蔵経

19


© 湖林博物館

1

級韓紙だ。高麗紙は、朝鮮の王が使ったその草注紙よりも優れている と考えて間違いないだろう。

ページに掲載される予定だ。 ナム教授は「こうぞが主原料の韓紙は、外部からの特別な影響や損

初雕大蔵経木版本の紙が持つ秘密の全体像は、初雕大蔵経復元事

傷がない限り、2000年は優に持ちこたえる優れた紙で、現時点で千年

業で主導的な役割を果たした慶北大学校文献情報学科のナム・クォン

という時の秘密は大きな意味を持たないほどだ」と説明する。紙だけ

ヒ教授チームによって明らかにされた。ナム教授と高麗大蔵経研究

でなく墨にも重要な秘密が隠されている。松やにが固まった枝や節を

所(所長:チョンニム〈宗林〉和尚)が、2010年8月から11月まで共同で

燃やしたすすを集め、これをにかわと混ぜて作った松煙墨が秘密の核

行った初雕大蔵経の紙および装丁分析のための研究プロジェクトによ

心だ。こうして作った墨で刷ったり書いた文字は、黒色が褪せず、千

るものだ。同研究チームは、現存する初雕大蔵経木版本の紙、軸、紙

年の歳月を経ても生き生きと保たれる。

継ぎ、装丁、糊、表紙などの秘密を解明し、その大きさ、厚さ、色、 紙を漉くすけたの形、こうぞを叩く程度、紙の表面などを密度調査

紙継ぎ

と繊維の種類分析によって解き明かした。「初雕大蔵経の紙および装

紙をつなぎ合わせた巻物が、千年の間剥がれることなく原形を留

丁分析の結果報告書」は2011年11月以後、高麗大蔵経研究所のホーム

めている秘訣は、優れた接着剤にある。紙と紙をつなぎ合わせる紙

1.『初雕大蔵経の阿毘達磨識身足論』巻12(湖林博物館所蔵) 2.『初雕大蔵経の阿毘曇毘婆沙論』巻11(湖林博物館所蔵)

20

韓国の文化と芸術


継ぎには、天然穀物の小麦を3~10年ほど発酵させ、薬剤を混ぜて

国宝・宝物(日本の重要文化財に相当)の初雕大蔵経が所蔵されている。

作った糊を使用した。現在も継ぎ目が浮かず密着している秘密がここ

国宝としては、『大方広仏華厳経』巻2(国宝266号)、『阿毘達磨識身

にある。わずか2~3㎜の継ぎ目がしっかり接着しており、不思議に

足論』巻12(国宝267号)、『阿毘曇毘婆沙論』巻11(国宝268号)、『仏説

思えるほどだ。

最上根本大楽金剛不空三昧大教王経』巻6(国宝269号)が目を引く。

初雕大蔵経の紙は、刷った時期によって大きな違いがある。ナム

湖林博物館は、初雕大蔵経の板刻から千年を記念して「1011~2011千

教授によると、韓国のものは概して厚くて白みを帯びているが、日

年を待つ-初雕大蔵経」の特別展をソウル市江南区・新沙分館(5月18

本の南禅寺などに保管されているものは、薄くて黄みを帯びており、

日~8月31日)、ソウル市冠岳区・新林分館(5月30日~10月31日)で開

繊維の処理も十分に叩かれて細かい。1種類の紙を用いた木版本と、

き、国宝級の初雕大蔵経を一般公開した。初雕大蔵経は他所で1~2

様々な種類の紙を用いた木版本が混在している。

点公開されたことはあるが、今回のように大規模な展示は初めてだ。 国宝や宝物などは、製本の様式と保管状態によって三つに区分されて

所蔵現況

いるという。

パク・キュレーターによると、湖林博物館には、韓国で最も多くの

誠庵古書博物館は、湖林博物館と共に韓国で最も多くの初雕大蔵

初雕大蔵経からは「生きている千年の知恵」がほのかに感じられる。 「大蔵経の製作は、千年の知恵を集めて、千年の未来に送ること」と語っ た高麗の大覚国師・義天の言葉が、ふと思い浮かんだ。

© 湖林博物館

2

Koreana ı 冬号 2011

21


経木版本を有しており、初雕本の版画を唯一所蔵していることでも名

作品だ。変相とは代表的な仏教絵画で、これを印刷できるように板刻

高い。それが『御製秘蔵詮』1巻だ。御製秘蔵詮の版画は、初雕大蔵経

したものを仏教版画という。

にのみ存在する貴重なものだ。『御製秘蔵詮』は、仏教教理の深い意味

韓国唯一の古書博物館・誠庵古書博物館は、ソウル市の光化門交差

を詠んだ1000首余りの偈頌(五言詩)からなる一種の仏教詩集。版画

点近くに位置する。ここには高麗時代に角筆で書き込まれた経典があ

はすべて吉兆の祥雲がかかる美しい自然を背景に、仏道の修行と秘法

り、非常に価値が高い。角筆とは硬く尖った筆状のもので、これを強

を伝授する場面で構成されている。高麗初期の優れた仏教版画で、山

く押し付けて、経典の本文に解釈する順序、意味、助詞、語尾などの

や岩などの地形、雲と川の水、様々な形の木々、建物、人物などの要

符号を記している。肉眼ではよく見えないが、斜めから光を当てたり

素が緻密かつ荘厳に描かれている。この版画は11世紀後期、初雕大

機械を使って判読する。誠庵古書博物館は現在、一般開放されていな

蔵経の開版当時に刷られたものと推定されている。高麗初期の絵画は

い。

貴重で、当時の山水画と仏教版画・変相図について知る非常に重要な

22

韓国では、初雕大蔵経木版本が湖林博物館と誠庵古書博物館にそ

韓国の文化と芸術


れぞれ100巻近く所蔵されており、この二つの博物館の所蔵本が全体 の83%を占めている。この他に啓明大学校図書館に5巻、国立中央 博物館に4巻、湖巌美術館に4巻、嘉泉博物館に4巻、救仁寺に3 巻、清州古印刷博物館に3巻、延世大学校図書館に3巻、ソウル歴史 博物館に2巻、嶺南大学校に2巻、パンアジア紙博物館に2巻、京畿 道博物館に1巻、明知大学校博物館に1巻、三星出版博物館に1巻な どがある。国立中央博物館には、最近他界した人気英語参考書の著 者ソン・ソンムン(宋成文)氏の寄贈した顕揚聖教論(国宝271号)があ る。国宝に指定された1992年「原形をしっかり留めている最も古い大 蔵経」だと専門家も色めいた経典だ。ナム教授は、初雕大蔵経の木版 本を所蔵していながら公開していない人もいるとみている。 初雕大蔵経の木版本は、このように韓国で約300巻が確認されてい るが、日本では南禅寺、対馬歴史民俗資料館などに2400巻もあると いわれている。国内外のものをすべて合わせると、およそ2700巻に なる。 現在までの調査の結果、韓国で所蔵されている初雕大蔵経のうち、 韓国にのみ現存するものは78種154巻が確認されている。南禅寺の所 蔵本と同一のものは50種66巻、対馬の所蔵本と同一のものは1種8 巻ある。韓国の初雕大蔵経のうち、日本の所蔵本と同じ経典・巻次は 約70巻。この中で最も多い経典は、合わせて3部ある。これは初雕 大蔵経の完成後、部分的あるいは一括的に3度以上刷ったことを意味 している。また全数調査に参加したナム教授によると、同じ巻次の本 でも日本と韓国のものを比較すると、20数種において同じ面に異なる 板刻があった。これは、初雕大蔵経が完成した後も部分的な修正を続 けたか、保管上の問題で板刻し直して補充したためとみられる。内容 の変更もたびたび発見されたという。

印刷形態 初雕大蔵経の印刷形態は、木版した紙を何枚か長くつなぎ合わせ て巻物にした巻子本だ。書物の装丁としては最も古い。本を数える単 『御製秘蔵詮』巻1の版画(変相図)。山や岩などの地形、 雲、川、木々、人物など様々な要素が緻密かつ荘厳に 描かれている(誠庵古書博物館所蔵)。

位の「巻」は、この巻子本の名残といえる。韓国でも最初の本の装丁は 巻子本だった。木版本の表紙は、濃い紺色に染めた韓紙、あるいは一 般的な韓紙で作られた。紺紙(黒みがかった濃紺に染めた紙)を使用し た場合は金で、一般的な韓紙を使用した場合は墨で経典の名前を書い た。 パク・キュレーターは、初雕大蔵経の字体は再雕大蔵経よりも名筆 だと評している。このような初雕大蔵経からは「生きている千年の知 恵」がほのかに感じられる。「大蔵経の製作は、千年の知恵を集めて、 千年の未来に送ること」と語った高麗の大覚国師・義天の言葉が、ふと 思い浮かんだ。(翻訳:坂野慎治)

Koreana ı 冬号 2011

23


八萬大蔵経

日本の木版本

日本に残る初雕大蔵経木版本 キム・ハクスン(金学淳、ジャーナリスト)| 写真 : 朴宝夏

存する初雕高麗大蔵経木版本は韓国よりも日本に多く、それ も大切に保管されているという事実が韓国人として残念でな

らない。日本には京都の南禅寺や対馬歴史民俗資料館などに、実に 2400巻もあるという。韓国よりも8倍以上多く、量だけでなく質の 面でも価値が高い。 特に南禅寺の所蔵本は、全初雕大蔵経の3分の1を超える1800巻 に達する。さらにナム・クォンヒ教授によると、現在知られている木 版本の中で最も古いものであり、すべてを一度に刷ったと推定されて いる。韓国のソウル歴史博物館に所蔵されている顕揚聖教論だけが唯 一、南禅寺の所蔵本よりも早い時期のものだと確認されている。初雕 大蔵経は、中国宋代の開宝版大蔵経(971~983)を基にして製作され たため、その体系と内容は高麗の当時の状況だけでなく、宋版の体系 研究や復元にも決定的な役割を果たす。宋版が世界で10巻程度しか 残っていないこともあり、南禅寺の所蔵本は内容の面でも非常に貴重 だ。南禅寺の所蔵本のうち『瑜伽師地論』巻7は、韓国のものと共に角 筆で書き込まれた重要な経典であり、漢文経典解説、韓国語研究など の重要な資料になっている。 また『御製秘蔵詮』、『御製逍遥詠』、『御製仏賦』は、大型の版画が 収録されている貴重な資料だ。全20巻のうち1巻が欠けているが、 およそ100の雄大かつ細密な版画を目にすることができる。中国の開

1

宝版の版画は1巻しか残っていない。 南禅寺の初雕本は、ほとんどが1~2種類の紙を使っており、何 種類もの紙を使っている経典もいくつかある。南禅寺の初雕大蔵経の 存在は、日本が韓国を併合していた1930年代以前から知られていた。

定的にではあったが初めて韓国に知らされた。 対馬歴史民俗資料館にも、およそ600巻の所蔵本があるという。そ

しかし、日本の学者に限定的に公開していただけで、韓国の学者が調

の所蔵本は本来、対馬に近い壱岐島・安国寺と対馬・長松寺に所蔵され

査する機会はなかった。1960年代以降、キム・ドゥジョン博士が調査

ていたものだ。安国寺は、14世紀前半まで八萬大蔵経が所蔵されてい

した数巻と成均館大学校のチョン・ヘボン教授が調査した数巻が、限

る韓国の海印寺と同じ名前だった。しかし、後に二つの島を含む日本

24

韓国の文化と芸術


1. 2004年から6年にわたる日韓共同・初雕大 蔵経デジタル化事業に参加したナム・クォンヒ (南権煕)教授。南禅寺所蔵の初雕大蔵経木版 本の書誌を調査している。 2. 南禅寺の初雕大蔵経収蔵庫

全国に寺院と塔を建立し、戦没者の慰霊と国の平安を祈るという目的 で名前を変えたという。 安国寺にあった大般若経のうち、初雕大蔵経の木版本は219巻あっ た。その中の6巻に高麗国金海府戸長兼礼院使・許珍寿が靖宗12年 (1046)、国の安寧と母の寿福、他界した父の冥福を祈るために経典 を刷って奉納したという記録がある。初雕大蔵経のはっきりとした印 刷記録は、これが唯一だ。このとき許珍寿は、慶尚南道・金海に近い 西伯寺の仏像の中に初雕大蔵経を奉納したという。韓国の学界では、 二つの仏像のうち一つにあった初雕大蔵経がすべて盗まれて、日本に 渡ったとみている。 長松寺の旧蔵本は、大蔵経の中で最初に当たる六百般若で、全体

2

を代表する内容であり量も最も多く重要な経典だ。南禅寺が所蔵して いる1800巻の中には、大般若経が1巻も含まれていないため、日本 に同時に伝わったものが数カ所に分けられた可能性がある。南禅寺の

適切な方法で韓国に持ち込まれた資料が、文化財として登録される過

所蔵本には、裏に金海府で作成された文書の一部が記録されているた

程で書誌学者らに発見されたが、一部は文化財に指定された。しか

め、同じまとまりから分けられた可能性があるということだ。安国寺

し、この資料は日本の文化庁が自国の文化財として指定していたた

のものも、長崎付近から移されたといわれている。対馬歴史民俗資料

め、返還を求めている。

館が管理している大蔵経は、このように長松寺と安国寺が所蔵してい

(ナム教授チームによると、日本での木版本調査は、たいへん苦し

たものだ。歴史民俗資料館は、この大蔵経が高麗の首都・開城の東に

いものだったという。冬休みと夏休みを利用した調査は、窓も冷暖房

あった長湍都護府の天和寺で作られたとみている。高麗史と新増東国

設備もない部屋で行われた。冬には、服をいくら着込んでも身にしみ

輿地勝覧の記録によると、天和寺は12世紀の初めに建立され、15世紀

る寒さに耐えながら作業を行った。夏には、頭からつま先まで防塵用

頃に姿を消した。歴史民俗資料館は、大蔵経奥書(写本などの巻末に

の靴、マスク、服などを着用して目だけ出した状態で、日本の蒸し暑

製作した人物の名前、製作日、製作の経緯などを記した文)に天和寺

さに耐えながら1~2時間ごとに外で休憩するという作業を5年間続

で刷ったという記録がある点から、そのように推定している。

けたという。) (翻訳:坂野慎治)

安国寺のものは1980年代に盗難に遭い、33巻しか残っていない。盗 難に遭った一部が、韓国で発見されたという。対馬にあった大蔵経の 一部が2005年に韓国に持ち込まれ、学界を驚かせたことがある。不

Koreana ı 冬号 2011

25


八萬大蔵経

版木

760年の間、 無傷のまま伝えられてきた版木 八萬大蔵経の版木は、美しい芸術品ではない。黒い墨に染まり、数多くの文字が彫り込まれた木の 板にしか見えない。しかし、5200万字に及ぶ経典を一文字ずつ彫り込んだ高麗人の執念と誠意が宿 る、膨大で精巧な印刷文化遺産だ。 パク・サンジン(朴相珍、慶北大学校名誉教授・木材組織学者)| 写真 : 安洪范

高麗再雕大蔵経の版木(大般若経・巻660、終章) 。 版木の両端には、印刷や保管に便利な持ち手が 付けられている。

類が文明生活を始めたきっかけは、知りえた知識を文字として記録・保存し、他の人 に伝える技術を生み出したことにある。初めは動物の革、布、粘土板、木の皮に文

字や絵を記した。さらに発展して、竹や木を薄く切った竹簡や木簡を利用するようになっ た。仏教が伝えられると、多くの人が一度に読めるよう経典印刷の必要性が高くなった。木 の板に字を彫れば、必要なときに大量印刷できる。韓国は、印刷術が非常に早くから発達 し、すでに8世紀頃には版木で刷った『無垢浄光大陀羅尼経』という世界最古の印刷物があっ た。その後、木版印刷技術が開花し、八萬大蔵経の版木として実を結んだ。世界に現存する 経典の版木としては最大規模だ。

版木の材質と製作過程 八萬大蔵経の版木は、約5200万字の漢文経典が彫られた8万1258枚の木の板からなって いる。1枚の版木には、裏と表に約640字が彫られており、版木の両端には印刷や保管に便 利な持ち手が付けられている。横幅は数種類あるがほとんどが68cmか78cm、縦幅は24cm、 厚さは2.8cmほどで、1枚の重さは3.4㎏前後。版木をすべて積み上げると高さが約3200m、 すべてを横につなげると長さが約60kmに及ぶ。重さは合わせて約280tで、体積は約450㎥に 達する。

26

韓国の文化と芸術


預修十王生七経・変相図の版木。再雕大蔵経の製作後に作られた模作 Koreana ı 冬号 2011

27


刻字は、熟練した彫師でも1日に40文字程度しか彫れない。した がって、すべてを彫り終えるのに、延べ130万人余りが動員されたと推 定される。

極少量の標本を採取して顕微鏡で分析した結果、版木の製作に使われた木は、韓国の中 南部に広く見られるオオヤマザクラが64%、ヤマナシが15%ほど。その他にチョウセンミ ネバリ、ミズキ、イタヤカエデ、タブノキ、チョウセンヤマナラシが1~9%ずつ含まれて いる。最も多く使われているオオヤマザクラは、均質で比重が0.6ほどと刻字に適しており、 伐採しやすい場所に比較的多く見られる。 版木を製作するためには、まず直径40cm以上の木を伐採し、1~2年間山に置いて、木 にかかっている生長応力を緩和させる。二人一組になり二人挽き鋸で 板を切り出し、切れ端は捨てる。乾燥の際に板の割れや歪みを防ぐた め、板を一カ所に集めて塩水で煮る。6カ月以上、十分に自然乾燥さ せた後、かんなで表面をきれいに削る。版木の大きさに板を揃え、両 端には版木より若干厚い持ち手をはめる。持ち手は、版木の刻字の部 分が触れ合わないようにし、版木の反りを防いで、保管や印刷の際に は取り扱いやすくする。 次に、韓紙に筆で経典を書き、裏返して版木に張り付ける。乾く と字が見づらいので、植物性油を塗りながら字を彫っていく。字を彫 り終えた版木に墨を塗り、紙を乗せて軽くこすってから剥がせば、経

1

典が刷り出される。何度か刷った後、一部の版木には漆を塗った。ウ ルシオールを主成分とする漆は、東洋の伝統的なペイント材だ。漆には防水効果があり、防 腐・防虫の目的もある。しかし、八萬大蔵経の版木には一部のみ漆が塗られているため、装 飾用とみられる。 刻字は、熟練した彫師でも1日に40文字程度しか彫れない。したがって、すべてを彫り 終えるのに、延べ130万人余りが動員されたと推定される。高麗史の記録によると、製作期

1. 蔵経板殿は、まっすぐ細長い木造建築で、 16m離れて2棟が並んで南向きに建てられて いる。その間の東西両端にある小さな 建物は、海印寺が所蔵する大蔵経以外の 版木を保管する寺刊殿。 2. 版木に墨を塗って刷る様子を再現している 八萬大蔵経保存局長ソンアン(性安)和 尚(写真中央)

間は16年とされている。しかし実際の刻字期間は、版木に彫られた干支を基にすると、1237 年から1248年までの12年間といえる。したがって、年間延べ11万人が動員されたと考えられ る。彫られた版木の数が毎年一定ではないため、多い年には数十万人の彫師が動員されたの だろう。

卓越した自然通風構造 木材が持つ腐敗、虫食い、可燃という性質にも関わらず、760年間も傷むことなく版木が 保管されてきたのは、多くの科学的な手立てがあったためだ。まず、版木を保管する蔵経板 殿の建築構造から見てみよう。 蔵経板殿は、まっすぐ細長い木造建築で、16m離れて2棟が並んで建てられており、広

28

韓国の文化と芸術


Koreana ı 冬号 2011

29

2


30

韓国の文化と芸術 1


さはそれぞれ646㎥だ。南向きで日当たりが良く、乾燥した空気が常に内部に留まるように なっている。内部は不必要な装飾を一切なくし、空気の流れが滑らかになるように設計され ている。外壁側の柱の上に大梁を架け、その大梁の端を高い中央の柱の側部に固定する。そ のように左右に架けられた大梁は、中間に小さな柱を立てて支え、できる限り広い内部空間 を確保している。 また蔵経板殿の窓は、建物の前後・上下の位置によって、大きさと形が変えられている。 北向きの裏手は、湿った空気が下に集まるため、上の窓よりも下の窓を若干小さくして、 湿った空気があまり入らないように設計されている。内部に入った空気は版木の水分を奪 い、入ってきたときよりも重くなって下に集まる。このように湿った空気が、南向きの前面 の格子窓から素早く流れ出るよう、下の窓は上の窓よりも4倍以上大きい。逆に、乾燥して 上に集まった空気が長い間、内部に留まるように前面上部の窓は小さい。 床は板を敷かず、土のままだ。空中の湿度の変化によって土が吸湿と放湿を繰り返し、 自然に内部の湿度が一定に保たれるようにしている。ただし、近世に入って蔵経板殿を補修 した際、土埃を防ぐために土の表面が生石灰で固められた。石灰層は、土と空気の水分交換 を遮断し、版木の水分調節を妨げる恐れもあるため、今後の科学的・ 総合的な検討が必要だ。 その他の保管の秘密としては、版木の保管方法がある。蔵経板殿 では本棚のように版木を保管しており、建物の長辺に沿って棚が配置 されている。この棚は5段になっており、版木の縦方向が背表紙にな るように立てて保管する。各段に1列ずつ詰めて、その上にさらに1 列乗せる。こうして1段の棚に2列重ねると、80枚前後の版木が入る。 版木の厚さは2.8cmで、両端の厚さは4cmなので、上から見ると版木 と版木の間に幅2.4cm、長さ60~70cmの細い長方形の空間ができる。 2

棚の上から見ると、1段目から5段目まで長方形の排気筒が設けられ ているといえる。対流現象によって内部の空気が上下に移動する自然

1. 蔵経板殿の内部 2. 蔵経板殿の前面は、重く湿った空気が 素早く流れ出るよう、下の窓が上の 窓よりも4倍以上大きい。

循環装置が、合理的に設置されているのだ。版木の含水率は現在16~17%で、季節による変 化は非常に少ない。蔵経板殿の構造と棚の配置が、空気の循環を優先的に考慮しているため だ。 版木を刷った後、墨が乾いた層も、保管に大きく役立っている。版木には多くの細孔隙 がある。粒子の大きな墨はその孔隙をふさぎ、印刷後も版木の表面に残る。そのため、刷り 終った版木は墨で完全にコーティングされており、墨の層が版木の表面に炭素膜を形成す る。炭素膜は版木の老朽化、風化、光劣化を遅らせ、多少の防水効果もある。

版木保管の縁の下の力持ち いくら科学的な設計で保管しても、火災や盗難など様々な災いが降りかかる恐れはある。 最初の危機は1592年の日本の侵攻だったが、義兵が豊臣軍の接近を食い止めた。さらに1950 年の朝鮮戦争の際には、海印寺にいた共産パルチザンを爆撃するよう命令が下されたが、あ る空軍大佐の賢明な判断によって他の場所に機関銃掃射して危機を免れた。何よりも760年 という長い歳月にわたって版木を守ってきた僧侶の努力がなければ、八萬大蔵経の版木が今 日まで無傷のまま保管されることはなかっただろう。(翻訳:坂野慎治)

Koreana ı 冬号 2011

31


八萬大蔵経

デジタル知識ベース

宗林和尚の デジタル大蔵経に向けた コンピュートピアの夢 ボタン一つでパソコンの画面に表示される電算化大蔵経の影には、これまで発願、 再訂、製作、印刷などの歴史を積み上げてきた多くの人々がいる。その中心人物が チョンニム(宗林)和尚だ。 キム・ユギョン(金裕卿、ジャーナリスト)| 写真 : 安洪范

印寺の再雕高麗八萬大蔵経が、750年の歳月を経て21世紀のデ

た国々の中で、最も早く成し遂げた業績だった。これまでに6度の

ジタル電算本となった。その主役が、高麗大蔵経研究所理事

校訂作業を終え、さらに正確さを増している。こうした過程で異体

長のチョンニム(宗林) 和尚だ。 1972年に出家したチョンニム和尚(1944年生)は、1980年代に海 印寺図書館長を務めていた頃「印刷媒体は限界に達している。コン ピュータを使って、仏教経典を今の時代に相応しい形で見直したい」

字、仏教用語、大蔵経解題、経典目録集などおよそ10の研究成果が、 様々な学者の努力によって生み出され、仏教学術の新しい地平を開い ている。 華厳寺の石経復元も終えた。文禄・慶長の役の際、火災によって

と考えた。たいへんな読書家であり禅師だったチョンニム和尚が発願

1万3千の破片になった石経を一つ一つ写真に撮り、その文字が含ま

したのは、仏教哲学・縁起などを大蔵経という巨大な記録によって確

れている経の本来の位置に戻していった。「電算化された大蔵経の検

かめることであり、コンピュータがその夢を実現させるというコン

索機能がなければ不可能だった。完成してみると六十華厳だった」と

ピュートピアの夢だった。

言う。 2004年からは初雕大蔵経の資料を求め、日本の南禅寺が所蔵して

高麗大蔵経知識ベース 社団法人・高麗大蔵経研究所は、1993年に設立された。海印寺に残 る再雕大蔵経、焼失してしまった初雕大蔵経(1011~1087年製作)、

いる1800巻の木版本の撮影と書誌の調査を行った。ここから得られ た資料と韓国・湖林博物館などに300巻ほど残っている資料を基に、 2009年に初雕大蔵経データベースが構築された。

その間に作られた義天の教蔵総録まで高麗大蔵経のすべての文献を集

2011年には初雕大蔵経影印本を製作した。写真とテキストの入力

め、仏教学の原典をすべて探し出して、インターネットで構築すると

以外にも紙、墨、糊、木、染料、経箱など、細部まで可能な限り高麗

いう長い道のりを歩み始めた。

時代そのままに蘇らせる総合的な取り組みだった。大蔵経が秘めてい

最初の課業である八萬大蔵経は、5200万字の漢字を入力する際に必 要な漢字フォント、異体字(意味は同じだが表記の異なる字)、文章記 号(標点)、再訂などの問題に直面しながらも、2000年に完成した。大 蔵経を所蔵している日本、中国、台湾、チベットなど競争関係にあっ

32

大蔵経電算化の主役、 高麗大蔵経研究所のチョンニム(宗林)和尚

韓国の文化と芸術


Koreana ı 冬号 2011

33


高麗大蔵経研究所が2011年に製作した初雕大蔵経の 復元本。経箱まで高麗時代そのままに蘇らせた。

る学問的なスペクトルを計り知ることができるだろう。 これらの資料はすべて高麗大蔵経知識ベースとして社団法人・蔵経 道場高麗大蔵経研究所のホームページ(http://www.sutra.re.kr) で公開 されている。仏典以外にも各種辞典、書誌学、大蔵経の彫師など様々 な関連資料が加えられた。「情報化の海に進むこと」だと述べられてい る。

21世紀のデジタル集大成 今後の計画も進められている。高麗の僧義天(1055~1101)が集めた 4700巻の仏教学解説書・教蔵も、資料収集を終えている。イギリス、ド イツ、フランス、ロシアに散在していた敦煌仏典からは『高麗大蔵経と 敦煌文献の比較研究』を作成した。このプロジェクトは、仏教文献の編 纂・校訂史研究の基盤になるだろう。最終的な目標は、高麗大蔵経をは じめパーリ語と梵語の大蔵経、日本の大正新脩大蔵経、中国の大蔵経、 英語の仏典など30余りからなる世界統合大蔵経をインターネットで構 築することだ。まだ翻訳作業が終わっていないハングル大蔵経との統 合、南北統一大蔵経仏事なども含まれる。 その本質は、仏教情報を新しくすることにある。これまでとは広が りと深みが異なる研究の道を開いた点から、大蔵経学と名付けられよ う。 チョンニム和尚は「これによって、韓国の八萬大蔵経に関するすべ ての文献を統合できます。さらに、誰もがインターネットで簡単に、 世界統合大蔵経という巨大な資料に接することができるようにもなり ます。筆写本から木版本、活字本、電算本に変遷してきた過程も明ら かになるでしょう。試行錯誤もありましたが、思い描いた通りに進ん できました。お釈迦様の入滅後、4度の歴史的な集大成に続く、21世紀 のデジタル集大成だとはっきり言えます」と話す。 「韓国、日本、中国の東洋3カ国は歴史上、大蔵経について何度か 逆転劇を演じてきました。まず、経典を漢訳して宋版大蔵経を作った 中国が先を行きました。それを高麗が発展させて、守其和尚の編集と 校訂によって八萬大蔵経が作られ、今まで保管されてきました。日本

34

Ko re韓国の文化と芸術 a n Cu l tu re & A rts


冬i 号 Koreana ı W n t e r2 0210111

35


36

韓国の文化と芸術 1


1. 初雕大蔵経の復元本は、無形文化財の韓紙職人 キム・サムシク(金三植)氏が復元した紙を用いている。 2. 文章記号(標点)が加えられた大蔵経。原文を文章単位に 区切って記号を付け加える標点作業は、大蔵経電算化の 最も重要な要素。

は大蔵経の刊本には失敗しましたが、朝鮮を訪れて強引に初雕本を手

ソク(鄭承碩)教授チームによって作成され、従来とは比べられないほ

に入れ、韓国と中国の木版本や筆写本などと合わせて、一揃えの大蔵

ど多くの項目を含んでいる。

経として保存してきました。

八萬大蔵経の版木にはない分かち書き、終止符、疑問符、引用符

そのような日本がわずか100年前の1920年代、活字本の新脩大蔵経

など10種類の文章記号を電算本に付け加える標点作業は、1990年代に

を索引と近代資料まで揃えて大量製作しました。そのときから全世界

参加可能な南北すべての専門家が手作業で丹念に行った。北朝鮮から

の仏教研究は、日本の新脩大蔵経を教材にしてきました。高麗大蔵経

は、漢文学に精通した社会科学院の重鎮が、中国を通じて参加した。

は実用性において力を失い、日本が仏教研究の先頭に立ちました。

この作業によって高麗大蔵経電算本は、一定の単位の分かち書きと句

しかし、私たちが2000年に大蔵経の電算化を最も早く終えたこと

点だけが表示されている新脩大蔵経を超えた。また八萬大蔵の版木

で、仏教学のすべての研究は高麗大蔵経知識ベースを検索する時代に

は、写真家パク・ボハ(朴宝夏)氏によって16万枚の写真として記録・

入っています。私たちの電算化が遅

保管されている。

れていたなら、韓国の仏教学さえも

統合大蔵経目録は一言で言えば、

西欧や日本、中国に従属するところ

ジャングルのようなすべての大蔵経

でした」。

間の相関関係を究明したものであ

高麗大蔵経電算化の過程で、避

り、今後進められる統合大蔵経の設

けて通れない問題に直面した。その

計図であり中枢神経系のようなもの

解決に5~15人からなる研究員チー

だ。この作業は『大蔵目録集』として

ムが当たり、研究成果を出版した。

出版されている。

これまでに出版された成果をいくつ

一人の知識人の情熱

か紹介しよう。 2

高麗大蔵経には異体字が非常に 多い。日本の新脩大蔵経は、高麗八

高麗大蔵経研究所は、ソウル市 城北区安岩洞に位置する普陀寺境内

萬大蔵経を底本としているが、異体字をすべて一つの文字に統一し

にある。チョンニム和尚は、2005年に所長職を辞して理事長として統

た。しかし高麗大蔵経電算本は、版木の約3万の異体字をすべて反

括している。「各種プロジェクトが安定するまでは私が率先して動き、

映している。一例を挙げると、計7486種の異体字のうち「鑿(うがつ、

その次からはチームごとに進めて、終われば解散します。重労働です

のみ)」は65種の字体で表記されている。

よ」と言う。

延世大学校のイ・ギュガプ(李圭甲)教授チームは、異体字を整理し

あれほど多くの業績がここで生まれたのかと思うほど、素朴で単

て正字との関係をまとめた『高麗大蔵経異体字典』を出版した。漢字の

純な所だ。テソク(大石)和尚、チュンヒョン(中玄)和尚、チョン・

歴史上、最初で最大の作業だ。この字典は、海外の大蔵経電算化にも

チョルファン(全喆煥)氏、キム・ミヨン(金米映)氏など、古くからの

非常に重要であり、現在も海外から自国にだけある異体字の申し出が

同志7~8人が研究所の仕事をしている。最近、高麗大蔵経の研究書

あれば、高麗大蔵経研究所で整理して文字を作成している。 『高麗大蔵経解題』と『仏教用語辞典』は、東国大学校のチョン・スン

Koreana ı 冬号 2011

『大蔵経、千年の知恵を込めた器』を出版したオ・ユニ(呉允煕)氏は、 電算化の初期からチョンニム和尚と共に参加してきたヘムク(慧黙)和

37


尚だ。これまで高麗大蔵経プロジェクト参加者のうち7人が僧侶とし て出家し、7人が大蔵経研究で北京大学などの博士号を取得した。 チョンニム和尚は、1986年に著書『魍魎の歌』を通じて、仏教の縁 起、禅の方法、空思想などに関する持論を発表した。 「人を安らかにする物質や神のような観念的対象がなくても、世の 中の問題を正面突破できる方法が、仏教的な縁起と空の世界観、公案 (問答)です。反縁起的な本性論や存在論を打ち破りたいのです。 存在するものに最後まで残っている究極的な概念の追求ですが、 仏教における縁起は、事物の関係の追求であり、西洋哲学的な存在論

私は今でも、こうした思考態度を他の人に理解してもらえるのな ら、私のすべきことはもうないと考えています。しかし『魍魎の歌』で は限界がありました。大蔵経の電算化は、私の論理を証明する手段に なると考えて準備してきました」。 つまり、一例を挙げれば「仏法とは何か」という問いに「庭の五葉 松」と答えることが、時代的にどのような形式を経て形作られたのか、 縁起的証明を行おうというのだ。禅宗語録などを基にして、数百人の 禅師による言葉と行動が、時代、宗派、聞き手によってどのように異 なるのか分類する。

とは異なる概念で認識論といえます。私が興味を持っている経は、金

大蔵経の電算化という途方もない作業の第一歩は、一人の知識人

剛経と中論です。金剛経は初期の経典なので空の概念がなく、空はそ

の知的情熱から始まった。その成果は、すでに個人や仏教界というレ

の後で生まれました。中論では、その空の論理的な概念を極端なとこ

ベルを超えて、すべての人のものになっている。もしチョンニム和

ろまで押し進めています。

尚が信念を持ち続けていなければ、今日の成果はなかっただろう。韓

38

韓国の文化と芸術


高麗大蔵経研究所の知識ベース構築によって、 誰もが蔵経道場高麗大蔵経研究所のホームページで 大蔵経の原文と関連資料を検索・閲覧できる。

「…お釈迦様の入滅後、4度の歴史的な集大成に続く、21世紀のデジ タル集大成だとはっきり言えます」

国の仏教と哲学を結びつける学会と研究プロジェクトは1990年以降、

いる暗い墨色の版木には、守其という善知識の品格が宿っているよう

チョンニム和尚によって進められてきた。

だった。海印寺保存局長のソンアン(性安)和尚も「守其和尚のことを 考えると胸が高鳴ります」と話している。

大きな歴史を刻んだ人々

チェ・ウ(崔瑀、またはチェ・イ〈崔怡〉)、チェ・ハン(崔沆、崔瑀の

ボタン一つでパソコンの画面に表示される電算化大蔵経を目にす

息子)、チョン・アン(鄭晏、崔沆の義理の兄弟)は、高麗大蔵経の製作

ると、これまで発願、再訂、製作、印刷などの歴史を積み上げてきた

に私費を投じて支援した大資産家だ。チョンニム和尚の電算本製作に

多くの人々が思い出される。

は、仁川のソンダム(松潭)和尚が「この時代に仏教界がなすべきこと

義天(1055~1101)は王子であったが10歳で出家し、宋、契丹、日

は、これしかない」という言葉と共に、信徒から募金した10億ウォン

本、沖縄まで訪れて、4700巻の仏教解説書を収集して板刻・刊本し、

を贈った。仏教界で最も大きな支援だった。サムスン電子、文化財

その目録集である3巻の教蔵総録を残した(新編諸宗教蔵総録:日本で

庁、学術振興財団なども、プロジェクトごとに支援を行った。チョン

は続蔵経とも呼ばれた)。日本や中国では思いもよらなかった、途方

ニム和尚の人柄と事業に惹かれた人たちの寄付も、大きな役割を果た

もない課業だった。

した。

開城・開泰寺の僧守其は再雕八萬大蔵経を編集する際、従来の初

印刷については、朝鮮時代に行われた十数回の記録が残っている。

雕版、契丹版、宋版、独自に集めた仏典などを照らし合わせ、およ

大蔵経の印刷は、一揃えで6000冊以上を印刷・製本する総合的な事業

そ60の経典について誤りを詳細に校訂し、抜けている部分を補った。

だったため、ほとんどが王家や僧侶によって行われた。当時は厳格な

再雕高麗八萬大蔵経は、こうした編纂によって一層完全な集大成、誤

儒教秩序を前面に押し出してはいたが、太祖も世宗も世祖もすべて

字の最も少ない良本となり、高麗の仏教学と印刷文化の水準を物語っ

お釈迦様に国と民と王家の招福を祈り、大蔵経を保管するためにこ

ている。守其は、このような編集・校訂過程を記録し、高麗国新雕大

うした仏事を行った。燕山君妃・慎氏は、燕山君のために3部を製作

蔵校訂別録10巻を残した。

し、成宗の時代に仁粋大妃と仁恵大妃は蔵経板殿を修造した。高宗も

チョンニム和尚は「守其和尚の校訂別録は、独自の校訂体系を記録

私費を投じて刷り金剛山・正陽寺などに保管し、厳妃と林尚宮は版木

した最初の著書で、キリスト教で同様の作業を行った西洋のエラスム

を補修した。最も新しいところでは、1963年に海印寺で13部が製作さ

スよりも200年以上前のことです」と評している。

れた。その一つが海印寺蔵経板殿・修多羅殿2階に保管されており、

ソウル・曹渓寺の仏教中央博物館大蔵経特別展に、守其の校訂別録 の版木が1点展示された。裏返しに彫られた漢字で埋め尽くされて

Koreana ı 冬号 2011

6000冊に及ぶ木版本を外からもわずかに目にすることができる。(翻 訳:坂野慎治)

39


文化フォーカス

40

Ko re韓国の文化と芸術 a n Cu l tu re & A rts


飲み水か遺産か 盤亀台岩刻画保存で 揺れる蔚山 先史時代の遺跡、盤亀台岩刻画の保存対策が求められている。 盤亀台そのものの景観保存が重要だと主張する文化財庁と、市民の ための飲み水の確保がより重要であると考える蔚山市の対立を調整する ため、韓国政府が代案を打ち出したが、これもまた経済論理に ぶつかって揺れている。 イ・グランピョ(李光杓、東亜日報文化部記者)| 写真 : 権泰鈞

山市蔚州郡大谷里にある国宝第285号の盤亀台岩刻画は大谷川の下流にある巨 大な岩に彫られた先史時代の絵である。この岩刻画は1971年、東国大学校のム

ン・ミョンデ(文明大)教授チーム(現在は東国大の名誉教授)の発見によって世の中に知 られるようになった。

先史時代の生活像の宝庫 盤亀台岩刻画には人の姿をはじめ、虎、鹿、猪、鯨、オットセイなど、300余りの動 物の絵が彫りこまれている。専門家によると、この岩刻画は新石器時代後期から青銅 器時代の間に製作されたものと思われる。 大谷川の岩に描かれている絵は、幅10m、高さ4mにも及ぶ。この岩刻画を詳しく 観察すれば、朝鮮半島に住んでいた先史時代の人々の生活ぶりが手に取るように分か る。性器を露にし踊る男、鯨を捕獲する人、落とし穴に陥った虎、交尾する猪、もり の刺った鯨、潮を噴き出す鯨など、当時の暮らし振りがダイナミックでユーモラスに 描かれている。巨大な岩にこれほど精緻に描かれているケースは、世界的にも非常に 珍しい。先史時代の人々の日常のようすはもちろん、豊饒を願う当時の人々の想いま で表れている。先史時代における暮らしと文化を描いた叙事詩と言っていい。盤亀台 岩刻画は捕鯨を写実的に描写した世界初の岩刻画という意義もある。 大谷川の周辺には国宝第147号の川前里岩刻画もある。この絵には、点、円、同心 円、ひし形、波の模様、神の顔と見られる模様など、抽象的で幾何学的な模様が彫ら れていて、盤亀台岩刻画とはまた違う価値を持つ。盤亀台岩刻画が日常の表現が中心

蔚山市蔚州郡大谷里にある盤亀台岩刻画。大谷川下流の川 辺に屏風のように連なる岸壁の中で、一番広くて滑らかな 垂直の岩の表面に岩刻画が形成されている。 冬ui 号 K o r e a n a ı AW nt ut emm r2 02102111 011

41


盤亀台岩刻画は先史時代の暮らしぶりと文化が描かれた叙事詩とも言える。 世界で初めて鯨の捕獲を写実的に描写した岩刻画としての意義を持っている。

42

韓国の文化と芸術


1. 水に浸かった盤亀台。周辺にダムが建設された ため、盤亀台岩刻画は一年中4カ月から8カ月間 は水に浸かってしまう(2008年8月23日、安東大学 校史学科のイム・セグォン(任世権)教授撮影。 2. 盤亀台岩刻画に彫り込まれた鯨(左側) と魚

2

であるとすれば、川前里岩刻画は先史時代の人々の宗教的精神世界を表現している。 二つの岩刻画は同じ地域にあるが故に、さらに価値が高い。この地帯が先史時代の 人々の生活の場であったことを意味するからだ。 盤亀台岩刻画はユネスコ世界文化遺産の登録を目指している。2010年に盤亀台岩刻 画と川前里岩刻画は、周辺の文化歴史の景観と共に「大谷川岩刻画群」というタイトル でユネスコ世界文化遺産の暫定リストに載った。

保存の現状 盤亀台岩刻画はさほど雨水の差し込まない地形に位置している上、岩の表面が滑ら かで、雨水の浸透がないために長い年月に耐えてきた。もちろん、数千年という歳月 の経過に因って岩の表面がもろくなるという自然風化は避けられないが、周辺環境の 変化による損傷が加速化していることがもっとも大きな問題である。 盤亀台岩刻画の存在を知らなかった1965年、蔚山市は産業団地への工業用水と地元 住民の飲み水を確保するために、岩刻画から4㎞下の所にサヨン(泗淵)ダムを建設し た。それ以来、盤亀台岩刻画は毎年、短い時で4ヶ月、長い時は8ヶ月 間も水に浸か る状態が繰り返されたため、表面の損傷が進んだ。特に冬場には岩刻画の岩の狭間に 入り込んだ水が凍結と溶解をくり返し、損傷の被害がさらに大きくなっている。 2010年に公州大学の産学協力団がまとめた研究結果によると、盤亀台岩刻画の表面 の24%が損なわれていて、最大深さ3~4mまで風化が進んでいることが分かり、保 存対策が急がれている。

対策作り 岩刻画の表面が損なわれているという指摘が提起されると、1990年代半ばから文化 財庁と蔚山市、それに文化財の専門家らが集まり、保存策について話し合いを始めた。 様々な対策案が提起された末、2003年頃、ダムの水位調節、流路の変更、遮断塀(遮断

Koreana ı 冬号 2011

1

43


堤防)の設置という3つの案に絞られた。 第1案は、サヨン・ダムの水位を60mから52mに低めて、ダムから流れてくる水に 岩刻画が浸水されないよう工夫する。第2案は、大谷川の水の流れが岩刻画の前を通 らないように、トンネルを建設する。第3案は、岩刻画に水が及ばないように岩刻画 の前に水よけの塀または堤防を築く、が3つの具体案である。 文化財庁と専門家の多くは第1案に賛成した。第1案の支持者たちは第2、3案の 問題点を指摘した。トンネルや堤防の建設は盤亀台岩刻画の周辺の景観を損なう上、 工事の課程で発生する振動で岩刻画にも影響を及ぼしかねない。そうなると、ユネス コ世界文化遺産としての価値を失う恐れがあると。一方、蔚山市は第1案に反対し、 第2、3案を支持した。サヨン・ダムの水位を低めれば、蔚山に流れ込んでくる水量が 減り、蔚山市民の用水が足りなくなるというのが理由だった。 双方の意見が対立する中、数年間も論議が続いた。議論の末、第1案の方に傾いて はいるが、蔚山市側は水不足問題がまず解決しない限り、ダムの水位を低めることは 出来ないと主張し続けている。難航を極める中、2009年に国務総理室が調整案を示し た。「サヨン・ダムの水位を低めて岩刻画を保存する。しかし、盤亀台岩刻画に流れ込 む水量を減らす代わりに、足りない用水は他の地域から供給する」という内容だった。 具体的には岩刻画周辺にある清道ウンムン・ダムの水を毎日7万トンずつ、蔚山市に 引く方策を含めて、一日12万トンの水を蔚山市に供給するという計画である。言わば 「蔚山圏きれい水供給事業」 であった。 2010年、とうとう蔚山市は水不足問題を解消する条件で第1案を受け入れた。盤亀 台岩刻画の保存をめぐる長い論議にようやく解決の糸口を見出したのだ。文化財庁は ウンムン・ダムのアウトソーシングの結果が出れば、2011年下半期からダムの水位を低 めて、水門の設置工事に着手する計画である。海抜52m水準にダムの水位を低めれば、 岩刻画が水に浸かる期間を年55日に減らせる上、さらに水門が建設されれば、岩刻画 が水に浸かる期間は年1~2日に過ぎない。

経済性より大事な価値 ところが2011年7月に思わぬ出来事が発生した。「蔚山圏きれい水供給事業」に対し て政府が行った予備妥当性調査で「事業性無し」という判定が下されたのだ。水を引こ うとする方策が白紙になった。

大谷川周辺にある川前里の岩刻画。先史時代 の人々の宗教的精神世界が抽象的・幾何学的な 模様で表現されている。

その中、蔚山市は流路の変更案と遮断壁の設置案など、従来の第2・3案を再度政府 に提案した。岩刻画保存問題は一から出直さなければならない状況になったのだ。この 状況を受けて「大切な文化遺産は日に日に損なわれているのに、政府は経済性ばかりを 気にしていて、妥当性がないと結論付けたのは無責任である」 という批判が出ている。 サヨン・ダムの水位調節も重要だが、岩刻画の表面の保存や強化処理作業も早急に 取り組むべきことである。そして慎重に進めるべきである。表面強化処理は、実は表 面を変えることになる。文化財庁のキム・チャンジュン(金昌俊)文化遺産保存局長は 「保存処理を施せば表面に膜が生成するが、これが新しい副作用につながる恐れがあ る。今強化処理をすると、10~20年間はその効果が持続するが、その後、さらに深刻 な損傷につながりかねない」と指摘する。急がずに慎重に進めるべきだという話だ。ま

44

韓国の文化と芸術


た、その保存処理も岩刻画の前面に立ち込めた水が完全に引かないと不可能である。 簡単には取り組むことが出来ない状況にあるわけだ。 問題が解決しそうになって再浮上する水問題は岩刻画保存対策の策定に足かせに なっている。この現状を解決するために韓国政府は、蔚山市民の水不足問題の解決に 引き続き取り組まなければならない。ただ、盤亀台岩刻画のような文化遺産が生活を 妨げる存在ではなく、我々の暮らしと精神を潤す存在である事実に対するコンセンサ スが形成されつつあるのは幸いなことである。 岩刻画をめぐる論議は岩刻画の再生を前提にした論議になるべきだ。文化財そのも のだけでなく、周辺の景観や環境も含めて保存するのが世界的な流れである。盤亀台 岩刻画も例外ではない。当面の便宜を図るよりは、貴重な文化遺産が永く後代に受け 継がれていく保存方法を重点においた認識のもとで、この論議の早い収束を願うばか りである。(翻訳:趙祥恩)

Koreana ı 冬号 2011

45


アート・レビュー

「庭を出ためんどり」 劇場用アニメの 新時代を切り開く

「庭を出ためんどり」 は大自然の中に飛び出した雌鶏の冒険談を描いた劇場版アニメだ。6年 の歳月をかけて作られた魅力的な動物キャラクターの演技は人と人とのつながりと思いやり の大切さを教えてくれる。そして背景として登場する韓国の野山は美しく、生き生きと描か れている。 ハン・テシク(韓兌湜、映画評論家)

鶏場を脱出した雌鶏と、その雌鶏に育てられたマガモが主人公のオ・ソンユン監督の劇場用長編アニメ

「庭を出ためんどり」が夏休みに家族向け映画として封切られ大きな話題を巻き起こした。その少し前に

封切られたハン・ヘジン(韓恵珍)監督とアン・ジェフン(安渽訓)監督の「大切な日の夢(Green Day)」、11月公開の ヨン・サンホ監督の「豚の王(The King of Pigs)」と並んで、韓国アニメの歴史に新しい時代が到来したと言われ る。

アニメ業界と映画業界のドッキング 韓国の長編オリジナルアニメ市場は2007年のイ・ソンガン(李成彊)監督の「千年狐ヨウビ(Yobi,The Five Tailed Fox)」以後、注目を浴びるような作品がでてこなかった。その一番の理由は投資家が見つからなかった

46

韓国の文化と芸術


ことだ。これまで国産の劇場用アニメは、その作品性や技術的な完成度など では高い評価を受けてきたものの、観客動員の面で惨憺たる成績を残した。 その為、この3本のアニメは封切り前から韓国アニメの前途を占う作品 だという声が多く聞かれた。 そしてついに「庭を出ためんどり」が大成功をおさめたのだ。夏 休みシーズンという有利な条件でのスタートに加えて、制作方式上 の新しい試みも大きな成功要因として作用した。これまで韓国の劇 場用アニメはアニメ専門の製作会社が企画、制作、広報、配給まで 一括して行っていた。それは実写映画(live-action film)に比べて相 対的に立ち遅れた効率の悪いシステムだった。そこでアニメ会社と映 画会社の協力の必要性が指摘され、その最初の試作品となった のが「庭を出ためんどり」だった。 数々のヒット作を世に出してきた映画製作会社ミョン フィルムが企画とストーリー構成を担当し、アニメ製作会社 オドルトキが新鮮なアイデアと美しい作画を提供することで、相乗効果 を発揮した。また純制作費30億ウォン以外にマーケティング費用として18億ウォンが投資された。そしてその 効果は爆発的という言葉にふさわしいものだった。原作童話のストーリーは映画の持つ豊かさに加え、暖かな 色彩と洗練された動物キャラクターは映画に原作以上の魅力を増した。また自然と人との関係など、童話が持 つ豊かな感受性においても韓国的な情緒と独創性が光っていた。

原作のパワー 「庭を出ためんどり」は童話作家ファン・ソンミの同名童話を原作としており、この小説は韓国の児童文学と しては珍しい発行部数100万部を突破したミリオンセラーだ。原作は養鶏場の卵用種(卵を産ませることを目的 とする鶏)であった主人公の「イプサク」が、庭の向こうの雌鶏のように卵を孵したいと養鶏場を飛び出し経験す る冒険を描いた物語だ。タイトルだけ聞くとイギリスのアニメ「チキン・ラン(Chicken Run)」を思い浮かべる人

K o r e a n a ı A冬u号 t u mm 2 0 1210 1 1

47


がいるかもしれないが、「庭を出ためんどり」のテーマ「意識」と哲学的な背景はもっと重く深い。例えば、「イプ サク」が養鶏場を飛び出して庭を通り抜け貯水池へと向う、その人生の軌跡には生と死、人種、自由、飛翔、文 明と自然、近代と脱近代など、重く、難解なテーマが含まれている。 2004年に映画化を決定した制作陣は原作の持ち味を最大限かつ忠実に生かしながら、子供と大人が共に楽し めるファミリーアニメを作ることに目標を定めた。それから6年余り、制作スタッフ陣は原作のテーマ「意識」 をアニメに効果的に溶け込ませながら自然と生命の成長という感動的なストーリーを生み出した。特に生まれ て初めて卵を孵すことになる雌鶏の「イプサク」とその卵から生まれたマガモの「チョロギ」は特別な親子関係を 形成しながら、子供の成長と母親の母性愛についての感動的な物語を展開していく。この作品の韓国的な色彩 もこの主人公たちのキャラクターによるものだと思われる。 そして映画はありきたりな勧善懲悪的な結末にはならない。「主人公の雌鶏は善で、雌鶏をいじめるイタチ は悪だというよくある善悪の対決構図にはしませんでした。現実の世界は心優しい善人から極悪な悪人まで、 さまざまな人がいるものです。そしてそんなストーリーは映画を見た後、何かを考える契機となるでしょう」 ハッピーエンディングではない、家族映画としては果敢な結末はこんな監督の考えによるものだ。

大人の観客の反応 「庭を出ためんどり」は多様なキャラクターが実に魅力的な作品だが、口ばしと羽のある鳥を擬人化するのは

48

韓国の文化と芸術


作画チームはハリウッドや日本のアニメとは一味違う韓国的な絵画スタ イルのアニメを作ろうと、韓国の野山や湖水を歩きまわり、スケッチし た鉛筆ドローイングをもとに1000カットに達する背景画を描いた。

最も難しいというのが業界の定説だ。それに、この作品は3Dアニメではない作画を基本とする2Dアニメなの で、より多くの労力と物量を必要とした。まさに合計12万枚の原画を描いた製作会社オドルトキのデザイナー とアニメーターの努力と実力が伺われる部分だ。また作画チームはハリウッドや日本のアニメとは一味違う韓 国的な絵画スタイルのアニメを作ろうと韓国の野山や湖水を歩きまわり、スケッチした鉛筆ドローイングをも とに1000カットに達する背景画を描いた。特に映画の後半部に登場する沼の場面で光りが作りだす午後の色 彩、湖水に映る山と木々の陰絵は高い美的完成度を示している。 声優として出演した有名映画俳優やイ・ジス音楽監督の音楽も原作の感動を越えた新たな作品の誕生に寄与 したといえる。この作品は企画段階からの目標通りに、成人観客たちの間で口から口へと噂が広がり観客の年 齢層を拡大していった。公式的な統計によると、これまでの韓国の劇場用アニメの観客動員数の記録72万人を 1ヶ月足らずで更新し、9月末には損益分岐点の150万人を楽々と越えて、全国累積観客数200万人を突破した。

韓国アニメの新時代 「庭を出ためんどり」はいくつかの3D合成場面での異質感と演出力の不足が指摘されている。しかししっか りしたシナリオと高度な技術力、完成度の高い作画、そしてアニメ製作会社と映画製作社との共同企画 がもたらした画期的なシナジー効果は子供用アニメの制作にとどまっていた韓国アニメ産業に新しい 時代を切り開いたと言える。韓国には海外の有名映画会社で名を馳せている多くの独立アニメ監督と アニメーターがいる。いまや彼らにより多くのチャンスを与える時期が到来したと思うのは筆者 だけであろうか。(翻訳:金明順)

Koreana ı 冬号 2011

49


世界の中の韓国人

れまでも「韓国舞踊のグローバル化」を掲げなが

は非常に残念なことですが、外国の人に感動を与えて理解してもらうことが重要

ら、海外の舞台にチャレンジした韓国舞踊家たち

です」とイム・イジョは言う。

は多かったが、成功例は少ない。ただ、今回のイム・イ ジョのチャレンジはちょっと違う。彼は韓国の古典的な 踊りをテキストに創作する従来のやり方を捨て、世界の 古典バレエに韓国舞踊を融合させるやり方を選んだ。

「無謀なこと」という懸念を乗り越え イム・イジョは〈白鳥の湖〉を昨年4月、自身が団長を勤めるソウル市舞踊団の 定期公演作として初演し、今年5月にはさらに手を加えて再公演した。〈白鳥の

イム・イジョは韓国風に再解釈した〈白鳥の湖〉の構想

湖〉は古典バレエの代表作である。原作の持つ叙情的なストーリ、チャイコフス

段階から、グローバル化を念頭に置いていた。彼は〈シム

キーの音楽、正確で完璧なバレエ技術、本物の白鳥を思わせる衣装、夢見るよう

チョン〉、〈春香〉、〈ファンジンイ〉など、韓国の古典作品

な美しい舞台は人々の脳裏にはっきりと焼きついている。それだけに、原作を越

でもって世界の舞台に進出することに懐疑的である。そ

える再解釈版はあまりなく、経歴の長いバレエ振付師にも再解釈作業は怖い。と

のやり方では海外の観客の心をつかめないという事実を

ころが、伝統舞踊の大家であるイム・イジョが〈白鳥の湖〉を韓国の踊りとして再解

よく知っているからだ。「西洋のストーリを持っていくの

釈すると乗り出したことに対して、舞踊界では「無謀なこと」だと懸念の眼差しを

上海アート・フェスティバル招待作 〈白鳥の湖〉の振付師 韓国舞踊家 林洱調 伝統舞踊の名人、イム・イジョ(林洱調)が〈白鳥の湖〉を「2011年上海アート・フェスティバル」の 舞台で披露した。この作品は韓国舞踊の呼吸や動作において再解釈した舞踊ドラマである。 チェ・ヘリ(崔亥利、韓国舞踊文化資料院研究委員)

50 1

Ko re韓国の文化と芸術 a n Cu l tu re & A rts


1. 上海アート・フェスティバルの舞台に上 がったソウル市芸術団の〈白鳥の湖〉公演の 場面。イム・イジョさんは振付師であると 同時にソウル市芸術団の団長を勤める。 2. サルプリを踊るイム・イジョさん

51

冬i 号 Koreana ı W n t e r2 0210111

2


イム・イジョさんが韓国の踊りを再解釈した白鳥 (ソウル市舞踊団のイ・ジンヨン)

向ける人が多かった。結論から言うとイム・イジョのチャ

させることに取り組んだのである。さらに「韓国風の舞踊ドラマ」を掲げ、作品の

レンジは見事に成功した。「韓国舞踊の新しい境地を切り

背景と登場人物を韓国風に作り直した。ストーリの背景は呪術的世界観が支配し

開いた」という好評とともに、海外の舞台から招待も受け

ていた古代朝鮮半島のブヨン国、ビリョン国、マンガン族という仮想の国々。そ

た。

して、原作の主要登場人物であるジークフリート王子、白鳥オデット姫、呪術師

イム・イジョは作品の副題を「ソウル市舞踊団、チャイ

のロッドバルトと彼の娘の黒鳥のオディールは、それぞれブヨン国のジギュ王子、

コフスキーとの偉大な同行」と付けた。彼は「韓国の踊り

オデット姫はビリョン国のソルゴニ姫、マンガン族の呪術師ノデゥバルスと彼が

はどんな音楽にもよく合う」と言いながら、自分の再解釈

創った暗闇の化身コムンジョに創り直した。振付師としての彼はソウル市芸術団

に対して「韓国舞踊の振りとクラシック音楽との出会い」

の若いダンサーらを鍛えて自分の構想を形にした。

に焦点を合わせたという説明を付け加えた。言い換えれ

原作の〈白鳥の湖〉でもっともダイナミックな場面は直線と斜線が作り出す大規

ば、大衆に馴染みのあるクラシック音楽に韓国人の叙情

模な白鳥の群舞である。イム・イジョはこの場面を韓国の雰囲気を醸し出せるよう

性のある呼吸、静中動、節制の美が加わった動作を融合

に曲線と円形の群舞に変形した。さらに、足先に立つ典型的なバレエの動作を地

52

韓国の文化と芸術


面を踏みにじるような韓国舞踊の足動作に置き換えた。

盛り込まれた作品を創作するために、説話や民族信仰をモチーフにして、伝統舞

その他にも韓国伝統舞踊の剣舞、扇踊り、太平舞、僧舞

踊と現代舞踊を融合するなど、様々な試みや変化を模索している。こうした取り

などを取り入れるなど、作品の形式や構成を韓国的な色

組みは5年前からだんだん日の目を見るようになった。2006年に彼が振付けた 〈天と地〉が世界的なダンス・フェスティバルの一つであるニューヨーク・シティ・セ

彩と基調でまとめた。

ンターの秋の舞踊フェスティバルの開幕作品として招待された。また、韓国舞踊

大衆性と創作精神

の大衆化やグローバル化に取り組んだ彼の努力が買われて、同年10月には大韓民

伝統舞踊家にとって最高の賛辞といえば、「粋がある」

国文化勲章の「花冠」を受けるまでになった。

という言葉であろう。イム・イジョの踊りは「粋のある踊 り」の典型といえる。彼の踊りは美しく充実していて、一

海外進出への踏み台で

つ一つの動きからは深い誠意が感じられる。踏み出す一

11月4日・5日の二日間、上海人民大劇場の舞台に上げたイム・イジョの〈白鳥

歩、一歩、手の動作、そしてやさしい眼差しなど、彼の

の湖〉は、上海アート・フェスティバルのメイン・プログラムの一つであった。今年

全ての動作は精巧極まりない。伝統舞踊を踊るにぴった

で13回目を迎えたこのフェスティバルは、中国の文化部と上海市が共催する中国

りの小柄な体型に顔までいいイム・イジョは伝統舞踊のた

最大規模の国際アート・フェスティバルである。シンガポールと香港で開かれる国

めに生まれた人物のようだ。

際アート・フェスティバルと共にアジアにおける3大アート・フェスティバルとい

イム・イジョにとって踊りは宿命のような存在だ。彼

われる。ほぼ一ヶ月間の開催期間中、中国全体と世界から300万人のアーチスト

の母親は現代舞踊を専攻した舞踊家だった。彼はその影

とプレゼンターらが集まる。フェスティバルの華はメイン公演である。過去12年

響で、幼い頃から現代舞踊を始め、多様な踊りに接する

間、上海国際アート・フェスティバルのメイン公演に招待された団体としては、ロ

ことができた。6歳の時から踊り始めた彼が初めて稽古

シアのキーロフ・バレエ団、イギリスのロイヤル・バレエ団、台湾のクラウド・ゲー

したのはバレエだった。当時の舞踊界における大物だ っ

ト舞踊団、フランス国立交響楽団、ズービン・メータとイスラエル・フィルハーモ

たソン・ボムが彼の初めて先生だった。それから、新舞踊

ニー・オーケストラなどがある。そして今年、ソウル市舞踊団と共に招待された団

の大家のウン・バンチョ、伝統音楽のパンソリの名人であ

体はスイスのベジャール・バレエ団、ベルリン・フィルハーモニー・オーケストラ、

るキム・ソヒなど、舞踊界と国楽界の名高い名人から踊り

バイオリニストのイツァーク・パールマン、アメリカのブロードウェイのミュージ

や国楽を学んだ。 イム・イジョは19歳の時、イ・メバンの僧 舞を観たことがきっかけとなり伝統舞踊の 道に入った。「イ・メバン先生の僧舞を観た 瞬間鳥肌が立ちました。韓国舞踊はこんな に抑えられた姿で表現するものだなと、こ

彼は「韓国の踊りはどんな音楽にも合わせられる振りだ」と言 い、「韓国舞踊の振りとクラシックとの出会い」に焦点を合わ せたと説明する。

れが韓国舞踊だと思いました」。彼は直ぐ イ・メバンの弟子になり、これまで40年近く イ・メバンの門下にいる。そのおかげで彼はイ・メバンの 粋な踊りを受け継いだ舞踊家として知られている。さら

カル〈ゾロ〉など、計24の団体である。 イム・イジョの〈白鳥の湖〉は韓国の団体としては初めて上海アート・フェスティ

に彼はイ・メバンが保有している重要無形文化財第27号、

バルに招待された。メイン・プログラムは上海アート・フェスティバルの企画チー

僧舞の伝授教育のアシスタントであり、第97サルプリ

ムが世界的に有名な団体の中から慎重に選定することで知られている。

(巫女がアドリブで悪い気運を追い払うための踊り)の伝

上海アート・フェスティバルの企画チームは、自国の舞踊家らが10年前に〈白鳥

承者でもある。過去、彼の師匠であるイ・メバンがそうで

の湖〉を伝統的に再解釈しようと取り組んだが、結局諦めたことがあるとし、韓国

あったように、現在のイム・イジョは伝統舞踊分野におい

舞踊家のイム・イジョがとうとうそれに成功したことに驚いていた。彼らは昨年5

て、もっとも大衆に愛される舞踊家になった。

月に偶然イム・イジョの〈白鳥の湖〉が収録されたDVDを見て、躊躇なく招待するこ

ところがイム・イジョは伝統舞踊だけに安住せず、絶 えず新しい舞台に挑戦する。韓国固有の叙情と楽しさが

Koreana ı 冬号 2011

とにしたという。今回の上海公演はイム・イジョの海外進出に大きな踏み台となる に違いない。(翻訳:趙祥恩)

53


巨匠

伝統自然染色アーティスト

金貞花

キム・ジョンファ(金貞花)は藍の作り出す青で深い海を、紅花の紅で太陽の熱気を表す。 そして栗の木の皮から抽出した黒で闇の降りた智異山を水墨画のように描く。一枚の絵が 完成するまでには3年から5年かかり、時には1500回の染色を繰り返すという。 パク・ヒョンスク(朴炫淑、フリーライター)| 写真 : 安洪范, 権泰鈞

国の伝統染色を復活させた芸術家キム・ジョンファ(金貞花)に

宝物にする。コッニは自然の色を敏感に感じとる審美眼を備えていた

会い、インタービューをはじめた時、ふと脳裏に浮かんだ人

のだ。「こんなに美しい色の川で水浴びをし、水遊びをすることがで

物がいた。チェ・ミョンヒ(崔明姫)の大河小説『ホンブル(魂の火)』に

きれば、どんなに幸せだろう」 奴婢の身分では許されない美の世界に

出てくる人物「コッニ」だった。

心を奪われた娘を見た母の嘆きに満ちた独白は涙を誘う。

コッニは両班の家で針仕事をしている奴婢ウレの娘だ。一生か

韓国の伝統染色は植物の花、葉、実などを原料とする。染匠の手

かっても着る事のない大紅明紬(絹織物)と紫朱麻織、玉色苧麻の布切

を経た布は深く澄んだ自然の光を発するようになる。身分の壁が高

れを母からもらった少女コッニはその美しい色に酔い、その布切れを

かった朝鮮時代には美しく染められた布地は両班層だけの専有物だっ

54

韓国の文化と芸術


焼ける『コスモス3』 Explodes : Cosmos3/2007/1600× 120cm/五倍子、松葉、芍薬、蘇木、桂皮、厚朴などを 使い綿と麻の混ざった布に染色

た。 慶尚北道永川で果樹園を経営していた両親の長女として生まれた 金貞花さんも幼い頃に自然の色に魅了された。

…。野原に横になり太陽をまっすぐに見て目をつむると幾重もの光の 饗宴が始まります。後に曼荼羅を見てびっくりしました。私が太陽を 直視した後の残影の光がその中にありました。自然の色を表現する画

「子供の頃によくひきつけを起こしました。母は私を負ぶって村を

家になりたいと思うようになりました。しかし、私の見た色と私が使

歩き回りながらあやしてくれましたが、その時に目にした風景が深く

うことのできる色が違うという事実をクレパスを手に持った日に悟り

心に刻まれました。陽が昇る時の太陽の色、その光が反射する母の顔

ました。小学校の美術の時間に木を表現する色がない、色塗りができ

の色、くすんでいながらも暖かい肥料の色、果樹園の梨の木の灰紫色

ないと泣きながら家に帰ったこともありました」

Koreana ı 冬号 2011

55


「染色をするたびに、新しいインスピレーショ ンがわいてきます。草と陽光と風、そして朝 露と月光が私を助けてくれるのです」

56

Ko re韓国の文化と芸術 a n Cu l tu re & A rts

1


1. 柿汁をまいている金貞花さん。大型絵画の作業はこ のようにアトリエの外の広い空間で行われる。 2.『見る 20』/ 2009/ 74×122cm/ 綿の布に藍、蘇木、 柿汁などで染色

2

少女の色に対する想いは20年間、変わることがなかった。しかし

ばかり、まさに伝統染色の命脈が途切れようとしていた。彼らの生々

中学時代に父親が他界、長女として家族の生計をその肩に負うことに

しい肉声を通して接した自然染色はやはり本とは大きな差があった。

なり、高校卒業後は1974年に農村指導所の公務員試験に合格し生活

色を出す原料として使われる植物一つをとっても、それを採取する時

指導者として勤務することになった。30代の半ばまで画家の夢は心

期とその日の天候によって差がでてしまう。染着率の低い繊維と染料

の奥に秘めたまま、それを抑えて生きていく苦しい日々が続いた。

をつける媒体の役割をはたす媒染体は焼き明礬(みょうばん)から豆の 茎やヨモギの茎を燃やした灰でつくった灰汁にいたるまで実に多様

全国の染匠に出会う

だった。またわずかな濃度の差でも染色結果に大きな違いがでること

「30代の半ばのある日、ふと昔の人々は自然から必要な色を直接

も分かった。染匠の話しを聞き、自ら染色をしてみて分からないこと

作って使っていたんだ。色は自然の中に含まれているのだと気付きま

があればまた訪ねて行き、質問し、また訪ねて行くことを繰り返し

した。記録を探すと自然染色法は『閨閣叢書』、『林園経済志』、『尚方

た。特に染匠を指す「ムルジェンイ(水ものたち)」が多かった羅州、務

定例』、『本草綱目』などに書かれていました」

安地域ではまるで自分の家にでも帰るかのように通い詰めた。その執

しかし彼女は自然染色を本で学ぶことはしなかった。昔、染色の

拗さに村老たちは「アイゴー、もうそのくらいにしなさい。本当にし

匠たちは身分が低く、文字を書くことができなかった。そのため学者

つこい」と勘弁してくれと手を振ったものだが、「それではうちの叔母

たちが染匠の話を書き写し本にしたのだが、その過程で抜け落ちた

さんを訪ねてご覧」と言って隠れた染匠を紹介してくれたりした。そ

り、間違って記載された部分があると思われたからだ。1980年代か

の探求の道で埋もれていた色を発見したりもした。

ら彼女は染色を頭ではなく手で記憶している染匠のもとを訪れるため に、時間が許す限り全国を歩き回った。 伝統的な自然染色を体験した世代は当時すでに80~90代の高齢者

Koreana ı 冬号 2011

「1996年に済州の色を探しに行き、テウリ(金をもらい個人や村の 牛を専門的に管理する人)のおじいさんと出会った時に騮黄色の話を 聞きました。長老の話ではウォルタマルといい、毛の色が赤くたてが

57


1

2

みが黒い馬の毛の色だというのです。騮黄色の“騮”

体サイトクリエーション(www.sitecreation.

の字は、このウォルタマルの“騮”の字を使います。黒

org)の招きでカリフォルニア州サンタクララ

と濃い黄色の中間の色だというその色がとても見た

市で100点余りの自然染色絵画の個展を開い

かったんです。結局、その色を探しました。黒味を

た。彼女の作品を見たサイトクリエーションの ジェラルド・ブレッド代表は「金貞花は私たち

おびた黄色、一種の明るい褐色だといえます」

が渇望する世界を描いている。色の達人と

長い間、自分をとりこにしてきた自然の色を求 めて20年、金貞花さんは藍草、紅花、柿のような自然

してはほとんど神の境地に達した彼女だが、

3

幻想を作りだすことはもっと優れている。ま

の染色材料としてよく知られている植物から、カラワタケ、

た、彼女が使用する色を作り出す工程は歴史的

イボタノキの実、リンゴの木の葉、ブドウの皮、大豆など、あまり知 られていないものに至るまで204種類の材料を染色した。 染色液に布を浸して色をつけ媒染処理するのには丸一日かかる。

に過去に近づていく作業だが、彼女の作り出す映像は時間を超越し過 去から未来へと続いている」と評した。

色抜けせず、雑多なシミのない、満足のいく色を得るにはその工程

藍と麻、紅花で染色した布の切れ端で、幾重にも重なり合う山中

を40~50回は繰り返さなければならない。それで彼女は少なくとも

を表現したチョカクボ(小さなハギレを利用してつくる風呂敷)、富

8千回を越える染色作業を経て自然の色に染める実験をしたという。

貴長寿と祈願する伝統模様の花と亀を染色した作品、ホルチギ(布を

そこにはさらに、野山を歩き回り植物の葉や実を採取して染色の準備

縛って染める)技法を利用した千仏千塔などは彼女が韓国の自然と伝

をする作業、色をつける布を月光にあて朝露を受け貯蔵する作業など

統にどのように取り組んできたかを物語る作品だ。

も加わる。

彼女が子供の頃に太陽を直視し、恍惚の境地に陥った映像を再現

金貞花さんはほとんど毎日、朝4時から翌日の午前1~2時まで

した「見る」は藍、ダイオウ、玉ねぎ、スオウ、柿などで多彩に表現さ

作業に没頭する。染色液に布を浸すたびに変わっていく色の変奏曲に

れている。横6m、縦4mの布2反で表現した「霊木」と宇宙の神秘を

酔う時間だ。染色をしていると時間があっという間に過ぎ、体は疲れ

表現した横20m、縦2mの「コスモス」連作はスケールの大きさで観客

ても気持ちは歓びにあふれているという。その工程を通し彼女は染色

を圧倒し、精巧でありながらも自由な表現が嘆声を呼び起こす。すべ

に適した植物40~50種類を見つけた。ついに自分のキャンバスに自

ての作品は3年から10年にわたる不断の染色の工程を経て誕生した

然の色をつける「その色」を探し当てたのだ。

ものだ。それは具象と抽象が溶け合い、油絵と水墨画の境界を取り壊 した世界だ。

王様の色「大紅」から労働者の色「褐」に至るまで 2007年7月、金貞花さんはアメリカシリコンバレーの非営利芸術団

58

「自然染色には人工の色がかなわない深みと美しさがあります。ま た自然の色は何度も染色しても色が濁ったり、暗くなったりしませ

韓国の文化と芸術


1. 紅花で染色した薄いピンク色から濃い紅色までの 明度の高い布を乾かしている。 2. 柿渋染色の作業 3. 染色に使う材料、左上から時計回りに栗の木の 皮、紅花、渋柿、乾燥した紅花、藍葉。 4. 染色をした後、裁縫で輪郭を表現したりもする。

ん。だから表現技法に制限がありません。きちんと染色すれば退色し たりもしません。染色をするたびに新しいインスピレーションが生ま れます。そうすると草と陽光と風と朝露と月光が私を助けてくれるの です。より自然で情感のある色の原型を求める自然染色は、私にとっ て命の最後の日まで習い続ける師匠なのです」 彼女が作り出した奥妙な自然の色の中でも、大紅と褐が一つに混 ざったものが特に目を引く。身分制度の厳しかった朝鮮時代には、こ の二つの色は絶対に一緒に使われることはなかった色だ。 大紅は明るい色の紅色の中でも最も透明で深みがあり、鮮明な色 で、王様の服である袞龍袍に使われた尊い色だ。尊いだけに作る工程 に費用と労力が多くかかった。幅30cm、長さ22mの織物1疋(反物2 反分の長さ)を大紅で作るには200斤の大紅が必要で、25回の染色が必 要だった。彼女は紅色の着色のための最適な酸度を調べるために昔の

4

記録どおりに五味子、柿、ブドウ、リンゴ、グエン酸など多様な酢酸 を8年間試験した挙句の果てにブドウ酢が最適であることを突き止め た。

以上かかります。そして秋まで紅花をきちんと貯蔵します。ブドウ、

反面、褐は青柿の色を荒く染色したもので朱色と褐色の中間くら

柿、五味子などで色を布に移しやすいようにする醋を作ります。紅花

いの色だ。仕事をしていて汚れた水がはねたり、土がついても目だた

の赤い色素は木綿のような吸収性の良く、貯蔵性のいい布に染色した

ないように、過酷な肉体労働をする身分の低い人々が着ていた色だ。

後で、その中にある染料を再び抽出して染色する方法の“ケオギ染色”

貴重で高貴な紅色と土の臭いのする柿色の調和がこんなに美しいこと

をします。そうすることで美しく、奥深い紅色を得ることができま

を昔の人は知らなかっただろう。

す。その工程の一つでも失敗すれば次の季節を待たなければなりませ ん。スピード時代にスローな色だというほかありません」

スピード時代に追求するスローな色 「染色をする工程には人生が凝縮されています。紅色を作るには少 なくとも四季が必要です。春に種をまき、夏に花を摘み、水で水溶性

金貞花は世の人々から芸術家として見られるのが窮屈でならない。 自分はただの「自然の色に狂ったムルジェンイ」だといい、過酷な労働 で靭帯の伸びた手を見せてくれた。(翻訳:金明順)

の黄色を取り出してから灰汁で洗って材料を作りおくまでが6ヶ月

Koreana ı 冬号 2011

59


韓国再発見

「 白頭大幹が私の人生を変えた」 と語るロジャー・シェパードさん ロジャー・シェパード(Roger Shepherd) は70日に及んだ大長征ルートと指南書の 執筆を通して、韓国の白頭大幹の隅々までを知り尽くしている。今年10月からは 北朝鮮側の白頭大幹の踏査を始める。 パク・ジョンウォン(『月刊 山』部長)

白頭山

蓋馬高原

DMZ 山脈 太白

香爐峰

五台山

太白山 脈 月岳山 白山 俗離山 小

智異山

60

朝鮮半島の脊椎に当たる白頭大幹を歩くロ ジャー・シェパード(右側)さんと アンドリュー・ドウチ(Andrew Douch)さん 韓国の文化と芸術


のあちこちに散在する興味深い宗教的遺物や、200余枚にのぼるすば らしい景色の写真も含まれている。 ニュージーランド人ロジャー・シェパードは、どんな理由で韓国の 白頭大幹を知り尽くすようになったのか。彼は幼い頃から好奇心に満 ち、常に新しい場所を求めて旅立つ放浪癖のある人だった。かつて、 21才の時イギリスに旅立ち、1年後には「未知の大陸」アフリカに渡っ た。9年の間、南アフリカ、モザンビーク、ザンビアなどを経て、国 立公園管理人、サファリのガイドなどの仕事を経験した。 2000年になって放浪癖の性向が彼を韓国へと導いた。韓国の自然 が自分を引き付けるように感じたという。しかし翌年、その感覚を胸

20

10年7月、ロジャー・シェパードさんは2年以上にわたる作

に抱きニュージーランドに帰った彼は警察官になった。

業をようやく終えた。外国人向けに英語で書かれた初めて

2006年、3カ月の休暇を得て再び韓国を訪れた彼は、白頭大幹と運

の白頭大幹指南書『白頭大幹トレイル:韓国の山脈を歩く』 (ソウル・コ

命的な出会いをする。だが、夏の洪水や悪天候で、6週間で半分くら

レクション刊行)を出版したのだ。6カ所の国立公園を有する韓国の

いしか進めず断念せざるを得なかった彼は、脳裏に「白頭大幹」という

代表的な山脈である白頭大幹で自らが経験した「とても興味深くて、

四文字を深く刻んでニュージーランドに帰った。

信じがたい経験」を、山を愛する世界の人々と分かち合いたかったの だ。

70日間の大長征 2007年9月、彼は失敗の経験を基に再挑戦することを心に決めて

初の白頭大幹登頂 452ページにわたるこの英文の白頭大幹指南書は、白頭大幹の南側

三度韓国を訪れた。今度は友達のアンドリューさんと一緒に白頭大幹 縦走に再挑戦するためだった。9月2日、慶尚南道中山里智異山の麓

にある智異山天王峰から韓国最北の江原道香爐峰に及ぶ740㎞を17の

からスタートし、20日ぶりに秋風嶺502峰(502mの高さから付いた名)

区間に分け、さらにそれを日帰りコースに細分化して、体系的な山歩

を越え、9月末に俗離山を過ぎて10月始めに月岳山に向かった。10月

きが出来るように案内している。また各コースの進行過程と重要ポイ

中旬に太白山の天祭壇に着き、10月27日に五台山国立公園に到着し

ントを明確に示す図表や詳細な道しるべも載せてある。また、白頭大

た。そして11月7日に、とうとう白頭大幹の最北端である香爐峰に

幹のもつ歴史的・文化的・生態学的重要性を紹介する一方、縦走コース

登った。DMZ越しに北朝鮮の地が見下ろせる地点である。引き続き

Koreana ı 冬号 2011

61


11月10日に陳富嶺を通って馬山峰についに到着した。70日間に及ん

世界に対する漠然とした好奇心から始まったが、風水や山神などの韓

だ白頭大幹縦走がこの時終わった。

国の文化的背景を理解するまでに発展していった。

縦走の間、実に様々なことを経験した。漆黒の暗闇の中で道に

「白頭大幹は韓国民族の聖霊であると言えます。そこを縦走すると

迷ってしまい、遠くに見える灯火を頼りにやっと民宿の戸を叩いた。

いうことは巨大な宇宙の生命体が発するとても神秘的な気運を受け入

疲れきった碧眼の登山客を見た宿の主は「鬼だ!」と叫んで、固く戸を

れることだと思います。白頭大幹は荘厳で魅力的な景観をもっている

閉じたこともあった。小白山の周辺では、世界的に知られた韓国の山

地理的空間であると同時に、韓国民族にとっては超越的概念の源であ

人参を見つけるという幸運もあった。

る霊的存在です。今日の韓国とって白頭大幹は、巨大な山脈という存 在以上の象徴的概念として存在すると思います」

白頭大幹の意味

縦走を終えた二人は英語で白頭大幹指 南書を書く作業に取り掛かり、慶煕大学

「白頭大幹は世界的に見ても遜色のない 美しい山であり、素晴らしい文化空間で

校のデイビッド・メイソン(Davie Mason)

す。アメリカのアパラチア山岳コースのよ

教授が監修を受け持った。メイソン教授

うに国際的な観光名所になれる条件が揃っ

はアメリカ人で、韓国に来てから韓国の

ています。外国人にもっと知ってもらい、

山の神にはまり、全国津々浦々を歩き捜 し求めた研究家でもある。3人の協力の

多くの人々が訪れるといいですね」 白頭大幹に対する彼の関心は、新しい

1

結果、白頭大幹指南書は完成した。

「白頭大幹は韓国民族の聖霊であり、ここを縦走することは巨大な宇宙の 生命体が発するとても神秘的な気運を受け入れることだと言えます」

62

韓国の文化と芸術


北朝鮮の白頭大幹踏査

そして10月、20日間かけて北朝鮮の白頭大幹の10区間を登りながら

2009年に彼は文化観光部傘下の韓国観光公社の名誉観光大使に任

撮影を行った。来る2012年には再び北朝鮮を訪問して、咸鏡北道と

命された。2010年には警察の仕事を辞めて、韓国で「ハイク・コリア

両江道の白頭大幹を撮影する予定である。40日間のスケジュールの

(Hike Korea)」という会社を立ち上げた。出版と写真を通して韓国の

踏査には、三池淵、赴戦、長津を拠点とする白頭高原、蓋馬高原一帯

山岳文化を世界に向けて発信するのが主な仕事である。 白頭大幹に対する彼の熱い探求心は、今北の方に向

が含まれる。韓国人が分断以降70年近くも見ることができなかった この上なく美しい地域である。

かっている。南北分断以来、外部にまったく知られ

韓国の山河の虜になってしまったロジャーさんは白頭大幹だけで

ていない北朝鮮側の白頭大幹まで視野に入れた長期

なく、韓国の山々を歩き回り、島々をよく訪れる。ロジャーさんは

踏査プロジェクトを推進し始めたのだ。2011年5

「韓国の自然には素朴な美しさがあり、ニュージーランドの雄大な自

月、彼は北朝鮮の白頭大幹の写真エッセイ集の

然とはまた違う味わいをもっているため、どの国に比べても遜色があ

発刊にむけて、北朝鮮訪問を関係者らと

りません」と評価する。

話し合った。N G O機関の韓-ニュージー

彼は10月10日に北朝鮮を訪問して20日間の踏査から帰ってきた。

ランド・フレンドシップ・ソサエティー

来年の本格的な白頭大幹遠征に向けた準備過程を無事終えたわけだ。

(Korea-New Zealand Friend Society)の支

北朝鮮白頭大幹縦走で取材した写真集の発刊が待たれる。(翻訳:趙祥

援 を 受けて、10月から作業を開始しても

恩)

いいという許可を得た。

1. 白頭大幹の鳥寝嶺で。中央がロジャー・シェ パードさん 2. 自ら執筆した英文の白頭大幹ガイドに収録 された白頭大幹の地図を開いて区間について 説明するロジャー・シェパードさん。

Koreana ı 冬号 2011

2

63


オン・ザ・ロード

先人の暮らした跡を訪ねて

西村巡り

ソウルの景福宮の西側から仁王山の麓まで続く地域は西村と呼ばれている。朝鮮王朝の正統性を 表す社稷壇(土地神、穀物の神を祀る祭壇)がある。山紫水明のソチョン(西村)にはかつての 有力者らの住居や別荘が集まり、芸術や風流韻事がいち早く花開いた所である。 キム・ユギョン(金裕卿、ジャーナリスト)| 写真 : 徐憲康, 安洪范, 李順姫

64

韓国の文化と芸術


2011年に行われた社稷大祭の光景。毎年9月第3週の日曜 日に社稷壇で、土地の神様と穀物の神様に対する祭祀が行 われる。社稷大祭は2000年10月、国家無形文化財に指定さ れた。

西

村には孝子洞、社稷洞、玉仁洞など、15の村が集まっている(住居地域は約58万平方メートル)。昔の人々は この地域 を「ウッデ」 (上村、清渓川の上部の地域という意味)と呼んでいた。この名称には宦官(去勢された宮中の内官)、別

監、衙前などの中人(上流階層のヤンバンと平民の間の階層)が占めていた下位官吏らの居住地がら、近代に入り中産階級の ブルジョア的進取性に富んだ地域的特長が良く表れている。 この昔ながらの生活の痕跡に郷愁を感じる西村。ソウルの人々にとっての、誇れる場所である北村と共に、ここ西村もソ ウルにとって欠かせない場所になっている。

青瓦台への入り口、孝子路 1980年代以降、南北を結ぶ孝子路、紫霞門路、弼雲大路の3本の道路は拡張を繰り返し、家々の間を貫通する消防道路が 敷かれる過程で西村は昔ながらの村の原型をかなり失ってしまった。しかし、細い路地裏の所々には未だ昔の痕跡が残って いる。数歩も歩けば町の名前も変わってしまうほどの小さな集落だが、仁王山を背景にして居住地や市場、小さな店などが 程よく溶け込んだ町並みは親しみを感じさせる。

Koreana ı 冬号 2011

65


1

66

韓国の文化と芸術 2


景福宮西門の迎秋門を通る孝子路から西村の散策を始める。高さが制限されているせいか道りには比較的低めの現代的建 物が多い。建ち残ったほとんどの韓屋も近代的建物である。道はまるで生命体のような構造で、枝分かれした3本の道路に 沿って形成された地域からは、それぞれ違う個性が感じられる。 青瓦台に近い孝子路には政府官庁の別館として使われている建物が多く、公務員とおぼしき男性らがよく見かけられる。 朝鮮時代の宮殿だった景福宮に近いこの地域は、官吏らの居住地域だったおかげで、伝統を継いでいるようだ。 この町に住む建築家のファン・デゥジン(黄斗鎮)さんは、「この町に住んでいた宦官らの家は入り口から部屋につながる 通路が迷路のような構造だったが、建て替えのためにすべて取り壊された」と話した。画一的な構造の韓屋だけが生き残っ た現在、昔の家はどんな構造だったか知りたくなる。たった数十年の間に、ソウルは貴重な建築遺産の多くを失ってしまっ た。ところが、道路沿いの建物の裏に回って、複雑な路地に一歩足を踏み入れてみれば、数百年前の構造そのままの狭い道 が残っている。

600年樹齢の通義洞白松

過去数十年の間に、ソウル市は貴重な建築遺産を多く失った。 ところが、細い路地裏に一歩足を踏み入れれば、数百年前の 構造をそのまま保つ複雑な迷路が続く。

西村が注目されるようになってから、 やたら華やかさを増した画廊や飲食店に 隠れてしまった路地裏に回ってみた。大 小の韓屋が半分ほど洋風の形に様変わり をしていたが、ある路地は100メートル も行かない道を6回も曲がり、迷路を

作っている。さらに昼間にもかかわらず、不思議なほどの静けさの中、門を閉じたまま人気のない家々が連なる。朝鮮時代 の宦官らが住んでいた家だろうか。静かな環境を求めて出版社がこの町に移って来た理由が理解できる。また、一見住宅な のか、それともレストランなのか見当もつかない密かな高級レストランもかなり増えた。 ところで、この町のど真ん中には通義洞白松があった。樹齢600年の古木で、ソウル市と同じ年のこの木は、白い根元の 巨大な松の木であったが、十数年前に枯死してしまった。現在は、木を取り囲んだ家々の間に、白い皮の木の根元だけを残 して、周りには小さな松の木が育っている。今では、周辺のレストランの置物や甕などがその場を占領し、すっかり影を潜 めているが、この白松の威風堂々とした雄姿の写真がある家の塀に掛かっていて、昔の威勢を物語る。路地裏は壊れかけた 塀に視野が遮られながらも、意外にもまとまって絵のような雰囲気をかもし出している。この村の真価は、いたるところか ら漂ってくる昔の人々の生活美が残っていることである。 道沿いには画廊やカフェなどが軒を連ねる。この地域に集まるアーティストらの展示作品には、様々な趣が表れている。

1. 通義洞の路地裏。展示会のポスターが貼られた門を くぐって中に入ると、昔の韓屋がそのまま小さな写真 ギャラリーになった「リュガホン(流歌軒)」である。 2. 杏の葉が黄色に染まった孝子路 3. 西村の路地裏を歩く途中に出会えるもう一つの小さ なギャラリー、「昌成洞ゼインゼノギャラリー」 Koreana ı 冬号 2011

3

67


1 © サムスン美術館 リウム

古い宿の建物には、「芸術を売る店」という小さな看板を掲げられ、部屋ごとにシュールな展示作品が並んだ画廊に衣替えし た。モダニズム詩人、イ・サン(李箱)の難解な詩が抽象画のように書かれた窓から中を窺う人々が見え隠れする。 迎秋門に映える昼下がりの西日がまぶしいというのに、向い側の日陰では若者が椅子に腰掛け、のんびりと本を読みなが らパンをかじっている。道端の塀には紫色の花木の壁画が描かれている。表面が剝がれた貴重な絵の痕跡のようで、ひょっ として「アーティストの作品?」などと想像してみる。無表情な男が道具を抱えて鉄門を開けて入って行く。彼がこの家の アーティチストかな? 通りは絶えず行き交う人々で賑わっている。アートショップの窓や塀の壁画には見向きもしない地元の住民たちとわざわ ざこの村を訪れる若者らが交差する風景である。

国の祭祀が行われた社稷壇 2百年前、書道家キム・ジョンヒ(金正喜、1786~1856)は白松の周辺に住んでいた。風流を好む友人の住む西村の端っこま で出かけた。社稷洞までは孝子路から紫霞門路を渡れば15分ほどで着く距離だ。 朝鮮王朝はその支配哲学によって、宮殿の西側に土地や穀物の神様を祀る社稷壇を設けた。今年は9月18日に社稷大祭が 行われた。 8つの紅箭門が二重になった社稷壇には黄土が平らに敷かれ、社壇(土地の神)と稷壇(穀物の神)で祭祀が行われる。 正四角形の社稷壇の形からは、儒教にはない古代史の気運が感じられる。太社と太稷という二つの神位は建物の中に祀ら れているが、特に土地の神様を祀る社壇には、古代の哲学を象った形の下(地)が四角 、上(天)は丸い石が黄土の土に埋め込 まれている。初めて見た天円地方の原理を表現した祭礼用の品物は神秘的だった。正祖(在位1776~1800)が在位当時、ここ

68

韓国の文化と芸術


2 1,2. 鄭敾の『雨上がりの仁王山の風景 (仁王霽色図)』と今日の風景 3. 社稷壇の社壇に差し込まれている花崗岩

に立ち寄って器物などを視察しながら「そこの社壇に置いてある石は何の石なのか」と訊いた。責任者は「五礼儀に社があれば 石柱があると書かれていますが、壇上の石はそれに倣ったものです」と答えた。王様も我々と同様にその石のことが知りた かったわけだ。

アーチストらの生き方 西村の古い歴史を語るには、仁王山が輩出したアーチストらの活動を抜きには語れない。山から始まった水路が谷に沿っ て流れ、清められた岩石と調和をなしている。多くの人々がここを訪れて絵を描いたり、詩を詠んだり、清楓渓などの渓谷 に住まいを設けた。画家チョン・ソン(鄭敾、1676~1759)が描いた「雨上がりの仁王山の風景(仁王霽色図)」は、仁王山の頑丈 な岩の形や雨上がりの霧の立ち込めた風景が目の前に広がっているよ うに描写されている。絵の中には 多くの木が立ち、その中に家が佇 む。この家がチョン・ソンの親友である文章家のイ・ビョンヨン(李秉 淵)の家だと主張する人もいる。 この構図から西村に住んでいた人々が楽しんだ風流や、アーチス トらの暮らしぶりがよく分かる。絵の中のどっしりとした岩は、現在 でも紫霞門路を通り過ぎる度に見かけることができる。しかし今で は、古雅な古家の代わりに、ビルやショップが所狭しと立ち並んでい る。 西村に住んでいた中人たちは18世紀後半に入ると、政府に管理職 3 Koreana ı 冬号 2011

69


70

韓国の文化と芸術 1


1. 仁王山の清雲公園 2. 清雲公園に設けられた美術作品 「仁王山から転がってきた石」

2

への道を強く要求した。その結果、医師、天文学者、通訳、画家など、彼らの伝統的な職業は近代化の先駆けをなし、今日 の専門職に貢献した。また彼らは詩を楽しむ会合を開き、その記録を残した。玉仁洞の上部に位置する水声洞の麒麟橋にあ る渓谷からは、詩を詠み風流を楽しんだ彼らの姿が想像できる。この麒麟橋は元々安平大君の屋敷の跡地だともいわれる。 チョン・ソンの絵「水声洞」にもこの麒麟橋が登場する。その周辺には尹皇后一家や興宣大院君の屋敷の跡地が残っている。高 級料亭だった仙雲閣も一時代を風靡したと伝わる。 現代でも西村に住むアーチストの面々は華やかである。1920年、イ・ボムスン(李範昇、1887~1976)は鍾路区社稷洞に初め て私設図書館を建設した。後身の市立鍾路図書館には彼の胸像がある。 鍾路区役所は仁王山の青雲公園に「尹東柱の丘」を造り、「尹詩人が楼上洞に下宿していた頃、ここを散策しながら詩想を 思い巡らせていただろう」という説明書きを添えた。また、その隣には「仁王山から転がってきた石」というタイトルの美術作 品がある。2007年に三人の建築家が仁王山で有名な岩の形をした鉄骨の構造物を作り、道行く人々に仁王山の石を詰め込ん でもらったものだ。

伝統市場 仁王山にもっとも近い弼雲大路の周辺には可愛い生活密着型のお店ができた。ここから細い路地裏に入ると居住地が山の 麓まで続いている。肉屋、金物屋、農産物のディスカウント・ストアー、スーパー、文房具店、小さなビアーホールなどが立 ち並ぶ中にチュ・ウィミ(朱宜美、30歳 )さんの広さ2坪の店がある。この韓屋の一室で手作りの工芸品や雑貨などを並べて販 売している。「小さな店ですが、自分が好きなことをしながら商売するのは楽しい」と話していた。その隣には古本屋もある。 少年が一本の花の刺さった誕生パーティー用の山形帽子を被って通り過ぎた。肉屋の若者がつかの間の休憩をとっている。 耳には10個のピアスが飾られている 二カ所の伝統市場も健在だ。アスファルトで舗装され近代的な通仁市場にはアーチストを志す学生らがやって来て、商品 と関連性のある店に設置美術作品を置いていた。包丁を研ぐおじいさんにも市場でばったりと出くわした。一方、玉仁市場 は舗装のされていない市場で店が開かれている。ここでトッポッギを売っているおばあさんにとっては、コンロ一つと幾つ かのダンボールが店の代わりだ。彼女は若い頃から同じ場所でトッポッギを売って、年を取ってきた。道を渡って昌成洞に 住むある大学の教授は、この醤油味のトッポッギを食べるため、娘らと一緒にわざわざ訪れてきた。黄昏時、男達が市場の 酒場に群がっては、盛り上がって楽しい時間を過ごす。 集合住宅の多い町には、マウル(町)バスが住民の足になっている。夜になるとがらんとなる他の商業地区とは違って、町 に対する西村の人々の愛着は格別である。一度定着すれば20年以上は住み続ける。体府洞の韓屋の狭間に見える古い西洋風 の家は、建築家の作品に間違いないが、二人の老夫婦が1階だけを使って住んでいる。よく手入れされた花鉢がこの静かな 家で続く西村の暮らしぶりを物語ってくれる。(翻訳:趙祥恩)

Koreana ı 冬号 2011

71


『韓国古地図の歴史』 ガリ・レッドヤード/チャン・サンフン訳/ソナム出版社/シカゴ大 学出版部/p406/35000ウォン

ブック・レビュー

『世界地図学通史』韓国部分の翻訳出版

「地図とは秤のようなもの」と言った人がいた。生死を分ける羅針盤 であり、人生のバランスメーターだからだ。この表現の通りだとすれ ば韓国の古地図はその時代の韓国人にとって秤のような役割をしてい

たはずだ。アメリカコロンビア大学の韓国学名誉教授であるガリ・レッ ドヤードは朝鮮の地図の優秀さは、中国人も認めていたほどだと評価 している。彼は18世紀初めの西洋の地図学と朝鮮の地図学の出会いを

象徴する興味深いエピソードとして、「皇興全覧図」という全国地図を 作っていた清が朝鮮に使臣を送り朝鮮の地図と地理情報を送るよう求 めたと紹介している。 レッドヤード教授の『The Cartography of the Traditional East and Southeast Asian Societies』は1994年にシカゴ大学出版部から出版さ れた世界各国の古地図の発達過程に関する 全集『世界地図学通史(The

History of Cartography) 』全8巻の第2‐2巻だ。今回、韓国で翻訳出版

された『韓国古地図の歴史』は、この本の中から韓国に関する部分を翻

訳したものだ。2011年の今年は朝鮮時代の優れた地図学者キム・ジョン ホ(金正浩)が科学的な実測地図「大東興地図」を完成してから150年目に あたり、これを記念して出版された。

『The Cartography of the Traditional East and Southeast Asian Societies』は世界の学界に韓国の伝統地図学を紹介するのに大きく寄

与した。筆者は古地図の文化的・記述的影響力にスポットをあてて、韓

国の古地図の発達過程に関する史料を分析している。「序文」で筆者は

韓国の伝統地図に関して次のように評価している。「韓国の文化が中国 文明の多くの特徴と制度を自由に吸収しながらも独自のアイデンティ ティーを強力に維持したように、韓国の地図製作者たちも中国で発展 した地図製作の一般的な規範を適用しながら、自分たちの環境に合わ せて実用的で美しい地図を創造した」

このような彼の評価は地図だけでなく韓民族の歴史と文化全般に関 する知識をもとにしたものだ。レッドヤードは韓国の伝統地図学が積 み上げた独創的で優れた業績を明瞭に示している。その一つとして高

麗時代に、世界で最も古い仏教式地図である「五天竺国図」を製作した

点をあげている。さらに彼は朝鮮王朝の開国と共に製作された「混一疆 理歴代国都之図」を東アジア初の本物の世界地図だと指摘し、この地図

キム・ハクスン(金学淳、コラムニスト) キム・ホジョン(金祜廷、中央日報文化部記者)

のもつ意味を力説している。彼はこの地図の製作姿勢から中国と韓国 の文化的な差も読み取っている。イスラム社会と西洋社会から入手し た同一の資料をもって中国は「大明」の地図を製作し、韓国は韓国と日 本の地図を付け加えた世界地図を作り出したというのだ。

72

韓国の文化と芸術


鄭明勲とソウル市交響楽団が奏でるフランス音楽

ドビュッシーの交響詩「海」、モーリス・ラヴェ ルの「マ・メール・ロワ」と舞踊詩「ラ・ヴァルス」 鄭明勲とソウル市立交響楽団、ドイツ・グラモフォン、17.25ドル

韓国茶に関する三大古典散文集

『Korean Tea Classics (Paperback)』 李穆、草衣禅師著、Brother Anthony of Taizé/Hong Kyeong hee/ Steven D. Owyoung 翻訳、Seoul Selection、P196、18000ウォン 茶の味を問う人に昔の茶人はこう

現在、韓国のクラッシックファンに一番愛されている指揮者は チョン・ミョンフン(鄭明勲)だろう。彼が2005年に常任指揮者となっ

言った。「水流花開く如し!」水が流れ、

た「ソウル市立交響楽団」はこの6年で驚くほどの発展を遂げた。日本

花が咲く調和のとれた自然、その境地

の音楽評論家の高久暁は「10年前、韓国の公演会場で見たソウル市響

こそが茶の味だという話だ。このよう

の演奏は“評価しないほうが良い”水準だった。しかし最近の彼らはま

に茶には雑多な味は無い。コーヒーの

さにアジアトップクラスになった」と述べている。

ように刺激的でもない。茶のこのよう な特徴は当然のごとくソンビや文人た

最も大きな変化はメンバーの交代だ。若くて実力のある演奏者が

ちの関心と嗜好を刺激した。

続々とオーケストラの団員となった。さらに海外経験豊富な鄭明勲が 「救援投手」として直接連れてきた外国人演奏家が管楽器のパートに加

韓国の茶文化については、朝鮮時代

わり、韓国のオーケストラの長年の課題だった管楽器のレベルをワン

の寒齋 イ・モック(李穆:1471~1498) と

ランク引き上げることに成功した。 6年間の発展ぶりを伺い知ることのできるアルバムが今年7月に

チョイ(草衣)禅師(1786~1866)を抜きには語れない。特に草衣禅師 は「韓国の茶聖」と呼ばれるほど茶文化の発達に貢献した人物だ。

でた。ソウル市立交響楽団と鄭明勲のフランス音楽のCDで、アジア

李穆の記した『茶賦』と草衣禅師の著書『茶神伝』、『東茶頌』は韓国

のオーケストラとしては初めてドイツグラモフォンから発売されたの

茶に関する三大古典だ。『Korean Tea Classics』はこの三冊の本を要

だ。曲はドビュッシーの交響詩「海」とラヴェルの作品集「マ・メール・

約、翻訳して一つにまとめた本だ。一言で言えば茶の香りのする本

ロワ」、それに舞踊詩「ラ・ヴァルス」が収録されている。

だ。

このCDの最も大きな特徴は絶妙なアンサンブルにある。このオー

『茶賦』は韓国に現存する最も古い茶書だ。イ・トッリ(李徳履)の

ケストラは不断の訓練と練習でフランス音楽を自分たちのものにし

『記茶』よりも300年早く、草衣禅師の『茶神伝』よりも340年も先駆け

た。精巧に調律されたアンサンブル、特に一部の隙もない完全一致し

て書かれ、茶の歴史にはもちろん、文学史的にも意味のある本だ。名

た弦楽器の演奏が印象的だ。

称や詩句、産地などの一般的な内容を部分的に引用してある箇所を除

ソウル市立交響楽団と鄭明勲は去年の5~6月に欧州9都市でこ

けば完全に著者である李穆の茶に関する研究書だといえる。この本を

のCDの収録曲と同じプログラムを演奏した。ツアーに先立って韓国

書いた動機、茶の産地と生育環境、煎茶、効能などを七修、五功、六

国内で同じプログラムを5ヶ月間に9回演奏して実力を向上させた。

徳に分けて記述した後、最後に自分の茶の精神を認めている。

今回のCDの演奏時間は計54分11秒。最初に出す商業アルバムだとい

草衣禅師の『茶神伝』は19世紀の茶文化を紹介した、茶人たちの必

うことで、最も自信のあるレパートリーだけを集中的に録音した結

読書だ。茶を摘む時期と作る方法、良い茶ができる土壌、茶を入れて

果、オーケストラのCDとしては短くなった。

飲むのに必要な知識と多様な情報、茶を飲む際の正しい姿勢や心構え

今後彼らは2016年までの5年間で計10枚のアルバムをドイツグラ

にいたるまで詳しい説明が加えられている。

モフォンから出す予定だ。すでに10月にはマーラーの交響曲1番のは

『東茶頌』は茶詩の古典だ。ひもとくと、茶の精髄を見事に表現し

いった2枚目のアルバムも発売している。韓国のオーケストラがこの

たこんな文章もある。「茶の味の最も奥深い真髄は水の味と茶の香り

ように長期間にわたるアルバム発表を予告したことはかつてなかった。

が分離されずにいることだ。茶は水の神、水は茶の体なので、良い水

韓国はこれまでピアニストやバイオリニストなど、世界的なソリ ストは何人も輩出しているが、鄭明勲は「一人では素晴らしい演奏を していた韓国の演奏者たちが集まるとなぜ下手になってしまうのか」 と口癖のように指摘していた。それが今回のソウル市立交響楽団のア ルバム発売により韓国にも「アンサンブルの時代」が始まったと言える

でなければ茶神を降神させることはできず、良い茶でなければ水の真 の意を表すことはできない」 翻訳者は韓国の茶文化と歴史、李穆と草衣禅師についての紹介も 付け加えているので、読者の韓国茶への理解の助けになるだろう。 (翻訳:金明順)

だろう。

Koreana ı 冬号 2011

73


グルメを楽しむ

クッパ

韓国のファーストフードの原点

クッパはさまざまな方法で調理した熱い汁にご飯を入れて食べるという韓国の一品 料理だ。地方ごとに入れる材料の違う、いろいろな名前のクッパがある。 イェ・ジョンソク(芮鍾碩、漢陽大学校経営学部教授)| 写真 : 安洪范

西

洋にはスープがあり、中国や日本にも多様な汁物があるが、その中にご飯を入れて食べるこ とはしない。むしろ日本人はご飯に味噌汁をかけて食べると行儀が悪いという。しかし韓国

人は普段から汁にご飯を入れて食べるのが好きだ。そしてその最たる物が、最初から汁にご飯を入れ て出てくる「クッパ」だ。いかにクッパが広く食べられているかを証明でもするかのように、わざわ ざご飯と汁が別々に出てくるという意味の「タロクッパ(ご飯と汁が別々のクッパ)」という名前のメ ニューまである。しかし、せっかく別々に運ばれてきたタロクッパも、結局客は汁にご飯を入れて食 べてしまうようだ。

韓国式のファーストフード

1. スンデクッパ。おかずは左からニラの 和え物、大根のキムチ、白菜のキムチ。 これらのおかずはクッパと一緒に出てく ることが多い。 2. 大きな釜で煮えているソモリクッパ。 スープはソモリ(牛頭)、サゴル(牛の脚 の骨)、大根、高麗人参をじっくり煮込 む。5時間ほど煮込んだあとで、まずソ モリを取り出し、残りの材料はさらに5 時間以上煮込む。取り出したソモリの肉 は薄く切りクッパの上にのせて出す。食 べる時には各自の好みに合わせて塩加減 を調整する。平日でも一日にソモリ32個 を使いスープを作ると言う。京畿道光州 の「チェ・ミジャ・ソモリクッパ」で撮影。

韓国各地にはいろいろな材料で作ったさまざまなクッパがある。昔からソウルの人々はジャン クッパ(醤クッパ)を、西南部の全羅道の人々はコンナムルクッパ(大豆もやしのクッパ)を、東南部の 慶尚道ではテジクッパ(豚クッパ)を食べていた。北朝鮮ではスンデクッパ(豚の腸詰のクッパ)がポ ピュラーで、平安道(北朝鮮)の肉のスープに緑豆のジョンと炒めた豆腐を載せたオンバン(温飯)、咸 鏡道式ジャンクッパと言えるカリックッパもある。それ以外にもキムチ クッパ、クルクッパ(牡蠣クッパ)、ソモリクッパ(牛頭クッパ)な どがあり、突き詰めていけば韓国のサラリーマンの昼食の主要メ ニューであるコムタンやソルロンタン、ユッケジャンも、すべて クッパに属する。 このような食文化の由来についてジャーナリストの李奎泰は、 「韓国が貧しかった時代に少量の食品を、例えば家族が多い場 合、1~2斤の牛肉を分け合って食べるにはその肉で汁 を作り、そこにご飯を入れて食べるしか方法が なかった。また韓国は外国からの侵略が絶 えなかったので、外敵に追われながら食 べるにはこのような汁飯にして手っ取 り早く腹の中に流し込むほかなかっ

74

1

韓国の文化と芸術


2

た」と主張している。クッパは貧困にさいなまれ、外敵に悩まされた

パ)だ。今はソルロンタンやコムタンに押され気味だが、昔はクッパ

弱小国の民衆が生存のために考え出した悲劇の産物だという見解だ。

といえば醤クッパだった。1950年代までソウルには醤クッパしかな

また、クッパが近代化の過程で誕生した賢い料理だという見解も

かったという。1869年に出版された調理書『閨壺要覧』に「醤クッパは

ある。食品学者の李盛雨は汁飯は「開化期に入り韓国も社会の発展に

麺類を作るように作るが、麺ではなくご飯を入れるものだ。脂肪の豊

従い外食や集団給食の必要性が高まり、複雑な家庭料理の方法ではス

富な肉を醤油で煮付けてご飯の上にのせ、肉のだし汁をかける」とあ

ピーディーな対応ができないので、それでクッパが出現した」と分析

る。醤クッパは肉を朝鮮醤油をいれて茹でたことから付けられた名前

している。クッパが戦場や労役場で簡単にいろいろな栄養素をバラン

だ。19世紀にはソウルの至る所に醤クッパの店が盛業していた。醤

スよく摂取できるように考案された効率的な食事法だと言うのだ。い

クッパの店は入口に白い紙で作った旗を竿に高くつけて目印にしたと

わばクッパは韓国式のファーストフードの原点だと言える。

いう。 数多いジャンクッパの店の中でも清渓川近くにあったムギョタン

都心でも、市場でも さまざまなクッパの中でも元祖と言えるのはジャンクッパ(醤クッ

Koreana ı 冬号 2011

バン(武橋湯飯)の名声は今日までも伝説として伝わっている。庶民は もちろん権力者たちも下男を連れて訪れ、時には王様もお忍びでやっ

75


二日酔いの朝、熱いコンナムルクッパ(大豆もやしのクッパ) を流し込みながら「シウォナダ(すっきりする)」を連発するの は、まさに韓国人ならではの情緒と言えよう。

て来たほどだったという。身分の高い両班がやってくると平民たちは食事 の手を止めて席を離れ、両班一行が食べ終わり出て行けば、また戻って食 事を続けたという。身分差別のあった時代でもクッパの店はそれなりに階 級を越えた食事の場だったというわけだ。 小説家の朴鍾和は武橋湯飯の味について「この店のジャンクッパはヤン ジモリ(牛の胸肉)だけ茹でても十分美味しいのに、ユトン(乳房の肉)を入 れた上に、各種調味料で味付けした野菜と牛肉のサンジョク(串焼き)を 熱々に焼いて上に乗せてくれるので、このユトンとサンジョクの味が程よ く調和し天下の珍味となるのだ」と回顧している。1930年代には武橋湯飯 の値段がソルロンタンや冷麺、ピビンバの価格の三倍もしたという記録も ある。そのように高い値段でも商売ができたということは、それだけ美味 だったことがわかる。 ソウルでは都心にある食堂でクッパが売られていたが、地方ではもっぱ ら市場でクッパが売られていた。市が立つ日になると賑やかな通りの道端 で薪の火で煮ながら大きな釜の中のクッパを売っている店が全国どこの市 場にもあったものだ。何十里も歩いてきた行商人や市の客たちは熱々の汁 のかかったクッパとマッコリ一杯で腹を満たして元気を取り戻したのだっ た。

76

韓国の文化と芸術


すっきりする味、香ばしい味 ソウルに醤クッパがあれば、全州にはコンナムルクッパ(大豆もやしのクッパ)がある。大豆もやしのクッパ は、二日酔いの朝に食べるヘジャンクッ同様、酔い覚まし用の汁として広く知られている。汁自体がさっぱり していることもあるが、大豆に含まれるアスパラギン酸が疲労回復とアルコールの分解を促進するのに効果が あるからだという。前夜の酒の酔いが残った朝に熱い大豆もやしのクッパをフーフー言いながら食べ、「シウォ ナダ(すっきりした)」を連発するのは、まさに韓国人ならではの情緒ではないかと思う。大豆もやしのクッパは 酒粕で作った甘い母酒と一緒に食べるのがお薦めだ。 釜山や密陽などでよく食べられているテジクッパ(豚クッパ)は素朴な名前とは違い、豚特有の臭いもせず、 見た目は日本の豚骨ラーメンのような料理だ。網の塩辛で味をつけ、地元の人々が「チョングジ」と呼んでいる プチュムチム(ニラの和え物)を乗せて食べると豚のスープだということが信じられないほどにさっぱりしてい て、一品メニューとしても遜色ない。豚の内蔵を使って作ったという点で豚クッパと同類項のスンデクッパ(豚 の腸詰のクッパ)はもともと北朝鮮地域でよく食べられていた料理だが、朝鮮戦争以後、韓国にも伝わり、今で は全国的に親しまれるメニューとなった。豚の腸に各種野菜と穀類などを詰めて作るスンデは西洋のソーセー ジと似ており、そのままでも食べるがクッパの材料にしてもおいしい。豚の腸詰のクッパはエゴマの粉をたく さんふりかけて、カジャミシッケ(カレイの塩辛)と一緒に食べるとその美味しさが倍増する。 韓国人の好きなクッパと言えば、ソンジクッパも欠かすことができないメニューだ。牛の血を冷まして固め たソンジをシレギ(干した大根の葉)と一緒に煮るとその味は絶品だ。それにソンジは鉄分と各種ビタミン、タ ンパク質が豊富で貧血にも良く、二日酔いにも威力を発揮する。 ソウル芋洞のピョンレ屋と乙支路3街の朝鮮屋に行くと、昔よりは簡素化された佇まいだが、今でも「醤クッ パ」を味わうことができる。「大豆もやしのクッパ」は全州の「ウェンイチップ」とソウル北倉洞の「全州ユハラモ ニチップ」が美味しく、「豚クッパ」は釜山西面の「ソンジョンサムデクッパ」とソウル忠武路の「カマソッテジ クッパ」が美味しい。「豚の腸詰のクッパ」はソウル江南区新沙洞の「咸鏡道チャプサルスンデ」が、「ソンジクッ パ」はソウル清進洞の「チョンジンオク(清進屋)」が有名だ。(翻訳:金明順)

Koreana ı 冬号 2011

77


エンタテインメント

韓国ドラマ

制作の舞台裏とストーリー展開の秘密 「医

学ドラマは医者の恋愛模様を、法律ドラマは弁護士の恋を、

国、東南アジアだけでなく、情緒的な差があると思われる中東や中央

そして時代劇は宮廷を舞台としたラブストーリーに過ぎない」

アジアでも旋風を巻き起こしている。韓国ドラマには人々を惹き付け

テレビドラマが大好きな韓国人がよく口にする不満だ。一言でいって

る「何か」があるという証拠だ。

韓国ドラマにはラブストーリーしかなく、「ミド」 (韓国ではアメリカ

日本経済新聞が発行している週刊誌『日経トレンディ』の最新号は

のドラマのことをこう呼ぶ)とは全然違うということだ。「海外のドラ

「日本のすべての放送局で流されている韓流ドラマの放送時間を合算

マと違って韓国のドラマは専門分野のリアリティが落ちる」というき

した結果、10月基準で毎週計93時間40分だった」と報じている。これ

つい批判の声も聞こえてくる。

は日本の4つの地上波テレビと6つの衛星放送を対象とした調査だ が、日本での韓流ドラマの人気のほどを良く物語っている。韓国人が

韓流恋愛ドラマの実力 俳優の層が薄く、余裕のないハードな制作日数、微々たる制作費 など、厳しい環境の中で作られる韓流ドラマが世界各国で人気を得て

自国のドラマを見て、ワンパターンの恋愛物語の繰り返しだと不平を 言いながらも、ついつい見てしまうのと同様に、外国人視聴者もまた 美男美女の俳優たちの切ない恋愛物語に心を奪われてしまうのだ。

いることは実に、喜ばしく、誇れることだと思う。 宮廷内での医術を素材とした時代劇でイ・ヨンエが主人公を演じた 「宮廷女官チャングムの誓い」 (MBC制作)が2007年にイランで視聴率1 位を占めたのがその代表的なケースだ。 KBSで放送された「花より男子(原作は同名の日本漫画)」は中央ア ジアのキルギスタンに輸出され、また新たな韓流ブームを巻き起こし ている。その人気ぶりは、このドラマの主人公と関連した映画が現地

ラストのどんでん返し 韓国ドラマが、ドラマの制作環境の整った国で作られた作品に比 べて完成度の面で落ちるのは事実だ。だが、その代わり瞬発力だけは 素晴らしい。決して視聴者が予想したような方向には結末を持ってい かないという意味だ。 ドラマは視聴者を毎回、毎瞬間ごとに惹きつけなければならない。

で制作されたほどだ。この映画、現地のシナリオ作家が台本を書き、

その為にどうしても必要なのがストーリー展開の瞬発力だ。韓国ド

現地の俳優が出演したというのだが、「花より男子」の制作陣や出演者

ラマももちろん事前にストーリーを決めて制作を始めるが、放映期間

もそんな映画が制作されているとは全く知らなかったという。映画の

中、視聴者の反応を見ながらその時々でストーリーラインや結末部分

タイトルは「ク・ジュンピョと結婚する方法」だ。ちなみに「ク・ジュン

を修正するのだ。視聴者の予想を超えるのはもちろん、時にはもとも

ピョ」とはこの映画のモチーフとなった韓国版「花より男子」の男性主

とのストーリーとは正反対の結末になったりもする。ドラマの後半に

人公の名前だ。

なると視聴者はドラマのホームページに数々の結末予想を書き込み熱

このように韓流ドラマは今や、情緒的な同質性をもった日本や中

78

い論争を繰り広げる。インターネットでは数々の憶測と噂が飛び交

韓国の文化と芸術


EBS(教育放送)を除いた韓国の地上波テレビ4チャンネルで毎日放送される連続ドラマ、週末放送の週末ドラマ、 決まった曜日(月火と水木)に放送されるいわゆる「ミニシリーズ」など、一週間に20本以上のドラマが放映されている。 しかし、視聴率や視聴者の反応を敏感にドラマに反映していくという制作スタイルは、連日の徹夜撮影と放映当日ま で続く編集という綱渡り的な環境を作り出している。キム・デオ(金大午、オーマイスターチーム長)

い、多様な結末が飛び出す。そのため制作陣は結末について徹底した

んもお分かりになったと思います。ドラマ関係者にご迷惑をかけたこ

秘密保持をしながら、さらに意外な結末をひねりださなければならな

とは申し訳ありませんでしたが、そうでもしなければ改善されないと

い。そんなことをしていると、最初に出された伏線がストーリーが展

思ったからです」と語った。

開するにしたがい変化してしまい、主題やストーリーの流れが常識的

彼女が受け取る出演料は1話分で3千万ウォンだ。男性主人公の1話

に理解しがたいものになってしまう場合もある。しかし大部分の韓国

分出演料2千万ウォンを合わせると、二人のスター俳優の出演料が制

ドラマの視聴者はハッピーエンドやサッドエンド(悲劇的な結末)とは

作費全体の20%を占める。「スターキャスティング」に依存しすぎた

関係なく、意外な結末に最も大きな拍手を送る。

結果、主演俳優の出演料は天井知らずにアップし、高額を払う主演俳

その代表的なドラマが最近終了した 「女人の香り」 だ。末期がんを宣

優を最大限活用しようという計算から、彼らの出ない場面はほとんど

告された主人公が自分のバケットリスト(死ぬまでにやりたいこと)を

ないという状況になる。一方で主人公の出演料の割合が異常に大きい

一つずつ完成させ死を迎えるという作品なので、視聴者は自然に主人

という歪んだ制作費構造では照明、同時録音、装備など外注部分の人

公の 「死」 を念頭に置いていたが、このドラマのラストシーンでは 「7ヶ

件費は反対にどうにかして減らす他無い。そのため、短時間で早く撮

月と2日、まだ生きている」 という主人公のナレーションが流れた。

らなければならないということになる。このような状況でドラマ1本 を撮るのに数億ウォンの出演料をもらう主演女優が体力がもたない

女優の撮影ボイコット 一方で、このような「瞬発力」の裏には劣悪な制作環境が存在する。

と、撮影をボイコットしたのだから、彼女に支持と非難の世論の声が 集中したのも当然のことだ。

シナリオ作家がその日の朝に制作陣に手渡す「チョク台本(その日の

とにかく今回の事件を契機に韓国ドラマの制作条件の改善に対す

撮影シーンだけの書かれた台本)」をもとに徹夜の撮影が強行されるの

る論議は活発になった。文化体育観光部は50%以上、事前制作する

だ。放送当日の朝まで撮影が続き、放送直前まで編集、ぎりぎりで放

ミニシリーズには制作プロダクションに制作費を支援するという事前

送に間に合わせるという離れ業も日常茶飯事だ。ストーリーの展開に

制作奨励法案を出した。(国内の地上波3放送局のドラマの外注制作

瞬発力を発揮させるため、「チョク台本」に依存してドラマを柔軟に制

割合は90%を越え、ミニシリーズは100%外部のプロダクションが制

作することが当然視されているのだ。

作している)制作の第一線にいるPDも原則的には事前制作を望んでい

このように目が回るほど慌ただしい制作環境に対する抗議の表れ

る。しかし視聴者のフィードバックをドラマの展開に反映するという

として、最近韓国のある女優が撮影ボイコットを宣言し、制作現場を

現在の開かれたシステムが韓流ドラマの原動力であり、事前に撮った

離脱、結局はまた復帰するというハプニングが起きた。彼女は復帰

場面もストーリーの変化により新たに撮り直すことが多いため、事前

を前にした記者会見で「現場の状況がどれほど劣悪なのか国民の皆さ

制作には限界があるというのが現場の本音だ。(翻訳:金明順)

Koreana ı 冬号 2011

79


遠くの目

韓国の山と陶磁器、 そして‥‥‥ この9月に私は韓国中部の山中にある海印寺に赴いた。訪れたのは3度目である。ここには世界遺 産の八萬大蔵経の版木が収蔵されており、これをまた見たいと思ったからだ。 おくの・まさひろ(奥野昌宏、成蹊大学教授)

にはいくつかの宝物がある。この宝物に近年また新たなものが加わった。韓国の山や陶磁器、そして何よ りもこれらを通じた出会いや人のつながりである。

私が韓国の山にはじめて登ったのは2005年のことである。機会あって、この年の春から1年間、ソウル市内 のある大学の研究所にお世話になった。本業のメディア研究のためである。しかしその本業を始める前、行って 早々に山登りに誘われた。旧知の先生からである。私は一も二もなく応諾した。学生時代から登山に親しんでき た私にとって断る理由はなかった。 最初の山はソウル北東部にある道峰山であった。ソウルを囲む山の中でも北漢山と並ぶ名山の一つに数えられ る。標高は800メートルに満たない低山であるが、花崗岩の大きな岩場もある、見ても登っても楽しめる山だ。滞 在中この山には何度となく登った。毎週末どこかの山に登っていたように思う。先の先生たちのグループや他の 人たちと一緒に、また時には一人で。お世話になっていた大学の先生方が作る登山の同好会にも加えていただき、 何度もお供した。 週末近郊の山に行くと大勢のハ イカーに出会う。健康志向も手伝っ て韓国は今登山ブームなのである。 しかし韓国の人たちにとって、山は それだけの意味ではないようだ。山 は登る対象というだけでなく、独特 の親和的な心が向かう先なのであ る。かつて多くの日本人の中にも あった山への思慕に近い思いだ。古 刹ばかりでなく、たとえば多くの大 学が山裾に建ち、丘陵地の緑に抱か れて死者が眠る。そうした所を価値 ある場所とみる心情がある。山は心 のふるさとなのかもしれない。「韓 国の山と民芸を愛し、韓国人の心の

80

1

韓国の文化と芸術


1. 道峰山の側壁 2. パクタル窯の白磁 3. 陶芸家 呂相明さん

2

3

中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」と碑に刻まれた浅川巧も、ソウル近郊の小高い丘の上に眠っている。 周知のとおり、浅川巧は日本の帝国主義時代に植民地朝鮮を愛し、朝鮮の文化を認めた数少ない日本人である。 彼は兄伯教の後を追って1914年に朝鮮に渡り、31年に40歳の若さで死去するまで朝鮮に住まいし朝鮮の人と文化を こよなく愛し続けた。伯教は当初現地の教師として赴くが、後に朝鮮陶磁器の調査研究に専心する。柳宗悦が朝 鮮の工芸に関心を高めたのにはこの浅川兄弟の影響が大きいといわれ、特に伯教が土産として携えた、いわゆる 李朝染付秋草面取壺(日本民藝館所蔵)がきっかけだったともされる。現在日本民藝館に多くの朝鮮工芸品が収蔵 されているのは、ここに端を発する柳の朝鮮民芸への強い思いの結果である。 素人ながら陶磁器に多少の関心を持つ私も、韓国に行くと美術館で古陶磁の名品を鑑賞したり、仁寺洞のギャ ラリーなどで新作に見入ったりしている。陶芸で有名な利川にも足を運び、陶工らにも若干の知己を得た。この ことで韓国での楽しみが増えたばかりでなく、人との出会いとつながりの尊さや温もりの大切さをあらためて教 えられたりもしている。人間同士のつながりが文化交流の基礎にあることを実感するのである。 この9月に私は韓国中部の山中にある海印寺に赴いた。訪れたのは3度目である。ここには世界遺産の八萬大蔵 経の版木が収蔵されており、これをまた見たいと思ったからだ。この歴史的遺物は印刷文化やメディアの歴史を たどるうえで重要な意味をもつ、文字通り世界的な遺産なのである。 当地を訪れたのにはもう一つ大きな目的があった。それは海印寺からさらに山の中に入ったところにある、あ る陶芸家のもとを訪ねることであった。彼はここをパクタル窯と呼び、山野に抱かれながら手作りの家と窯で作 陶生活を続けている。6年ぶりの私の再訪を彼は快く迎えてくれた。かつては井戸茶碗の系統の器を作っていた が、2,3年前から白磁を手がけているという。訪ねたときにはちょうど焼きあがった作品を冷ましているところで あった。部屋にはいくつかの白磁の大壺が無造作に置かれていた。かねてより朝鮮古白磁の大壺・大甕が好きで あった私には心躍る光景であった。その脇で一夜を明かしたのはさらなる喜びであった。 韓国の山や街のあちこちで楽しさを味わい美しさに浸り、そして幾多の人びととのつながりに出会って、また その縁に助けられてもきた。私がソウルを訪れるたびにかつての山仲間が集ってくれる。彼らと山を歩き、帰り に酒を酌み交わすのは何度繰り返しても飽きることのない喜びである。韓国で出会った多くの人たちやそうした 人びととのつながりは、私の宝物にほかならない。文化の交流は、自然を身体に染み入らせ、そこで出会う人び との人生に畏敬の念を抱き、そして自然と人とが生み出す世界に触れることの幸せとして、経験されるものであ る。私の心にはそうした交流で得た一生の宝物がいっぱい詰まっている。

Koreana ı 冬号 2011

81


ライフスタイル

一緒に 歌う観客 韓国 コンサート 会場の 観覧風景

外国のミュージシャンは初めての韓国公演で、熱狂的な観 客の反応に一様に驚き、大きな感動を受けるその背景には 観客が一緒に歌う韓国独特の観覧文化、つまり「テチャン (群で歌うという意味)」がある。もちろん外国にも似たよ うな観覧文化はある。しかし、韓国ほど爆発的な勢いで 「テチャン」に集中する観客は、世界中どこにもいないとい うのが大方の見方だ。 ソ・ジョンミン(徐政玟、 ハンギョレ新聞社記者)

82

韓国の文化と芸術


ダンロックバンド・デリスパイス(Delispice) の最大のヒット 曲「チャウチャウ」のギターによるイントロが流れると、コ

ンサートホールのアーチ型の屋根を吹き飛ばさんばかりの歓声が上 がった。悪天候にもかかわらず、コンサート会場の外に集まってい た人々は降りしきる雨に打たれながら跳ね上がっていた。 「あなたの声が聞こえる」 誰からともなく一斉に「テチャン」が始まった。暗くて沈んだ雰 囲気の曲が楽しいフェスティバルの賛歌に変わった。舞台から遠い 観客には、デリスパイスの演奏や歌声は届かない。巨大な「テチャ ン」のうねりが伝わるだけだ。それでも全然悔しくない。彼らもそ のうねりに身を任せて、絶頂を味わったはずだから。今年7月29 ~31日に京畿道利川で開かれた「芝山バレーロックフェスティバ ル」の最後の夜はひときわテンションが高かった。

テチャンのパワー デリ・スパイスのベーシスト、ユン・ジュンホが当時のことを思 い出しながら話してくれた。 「その瞬間だけ“チャウチャウ”は我々の歌ではありませんでし た。観客の歌でした。我々の感想?言葉では言い表せないほど胸が 熱くなりました。涙ながらに歌うある観客と目が合った瞬間、胸に 何か熱いものがこみ上げてきました」 舞台に立つミュージシャンと舞台下の観客とをつなげてくれる のが「テチャン」のパワーである。韓国語で群れを意味する「テ」と歌 うという意味の漢字「チャン(唱)」の合成語「テチャン」という言葉は 辞書にはない。格式のある合唱とは違って、テチャンは事前の約束 なしに即興的な演出で成り立つ。舞台のミュージシャンが歌い始め ると、観衆も一斉に歌うのである。合唱のように洗練されてはない が、巨大な響きが与える感動は計り知れない。 韓国で公演経験のある外国ミュージシャンの間では、韓国観客 の「テチャン」は既に広く知れわたっている。「イギリスの新星」歌 手・ミカ(Mika)は、2009年10月に、ソウルで初コンサートを開いた。 当時、二枚の正規レコードをリリースしたミカは、コンサートで二 枚に収録されている全曲を歌った。驚いたことに観客らは最初から 最後まで、ミカが歌った全曲を一緒に歌ったのだ。コンサートを見 る機会の多い私にとっても初めての経験だった。 それに感動を受けたのか、ミカは2010年に続いて2011年にも韓 国でコンサートを開いた。ミカは今年9月20日に行った3回目のコ

2011芝山バレー・ロックフェスティバルでの 「Delispice」 の公演で観客も一斉に歌っている。 (CJ E&M 写真提供) Koreana ı 冬号 2011

83


2010ペンタポート・ロックフェスティバルの光景

ンサートの直前、筆者の電子メールによるインタビューに対して、 「韓国でのコンサートは初めから終わりまでパーティーのようだっ た。全曲を一緒に歌ってくれた観客らは私やバンドと共にコンサー トの一部になった。アーチストなら誰でも自分の音楽に応えてくれ る観客にもっと多くのことを見せたいと思うはず。私も、お客さん に応えるべきだと思う」と答えた。 2000年7月、ジャンプしながら「テチャン」に高ずる観衆は炎の ように熱かった。舞台に立ったビリー・コーガン(Billy Corgan)は 「今日まで韓国に来なかった私はなんとバカなんだ」と言い放った。 1990年代を風靡したオルタナティブ・ロック・バンドのスマッシン グ・パンプキンズ(Smashing Pumpkins) の初来韓コンサートは、彼 のある言葉とともに幕を下ろした。そのコンサートの直後、スマッ シング・パンプキンズは予告通りに解散を宣言した。 それから10年が過ぎた2010年8月。歴史から帰ってきたスマッ シング・パンプキンズが嘘のようにまた韓国を訪れた。再結成後の 韓国コンサートであった。スマッシング・パンプキンズのリーダー、 ビリー・コーガンは「10年前に見た韓国の観衆のことが忘れられず、 万事をさしおいて韓国を訪れた」と語った。

練習する観衆 「世界最強の観客」は簡単には生まれない。観衆はミュージシャ ンがコンサートで演奏する曲のリストである「セット・リスト」を確 保して予め「予習」する。韓国に来る直前に他国でコンサートがあっ た場合は、その曲を中心に歌を練習して歌詞を覚える。ただ、ワー ルド・ツアーであってもコンサートの毎にレパートリーを少し変更 する場合も多いため、候補曲までしっかり抑えておく。イギリス のロック・バンド、ミューズ(Muse)の代表曲である「スターライト (Starlight) 」 を練習する時は、独特の 「1-2-1-3」 拍手も練習する。 ところが、全ての歌に対していつも「テチャン」で応えるわけで はない。悲しい歌の場合は静かに聞き入って音楽を鑑賞する。「テ チャン」は他の人々と一つになることである。前に進む時と後ろに 引くタイミングをわきまえること、それこそ「テチャン」のマナーで ある。 ところで、韓国独特の「テチャン」文化が日本にまで伝わってい る。日本の観客は静かなことで知られている。普通コンサートが始 まると、一斉に立って同じ仕草でペンライトを振るスタイルだ。拍 手も曲と曲の間に短く送る。舞台に立ったミュージシャンや音楽を

84

韓国の文化と芸術


「韓国でのコンサートは初めから終わりまで パーティーのようだった。全曲を一緒に 歌ってくれた観客らは私やバンドと共にコ ンサートの一部になった」。イギリスの歌 手、ミカの言葉だ。

鑑賞する他の観客の邪魔にならないための思いやりから出た観覧文 化のようだ。 しかし、今年9月20日に横浜のアレーナ・スタジアムで開かれた 韓国の女性グループ「2NE1」の日本デビューコンサートの雰囲気 は違った。席から立ち上がってペンライトを振る観覧態度は変わり なかったが、歌の途中に叫んだり、拍手する姿もよく目に付いた。 最後の曲「アグリー(Ugly)」を歌う時は観客全員がジャンプしなが ら、繰り返しの部分を歌い上げる珍しい光景も見られた。ここ数年 来、日本におけるK-popブームによって、韓国「テチャン」文化が自 然に伝わったものとみられる。

コンサート会場は巨大なカラオケ 韓国人の独特な「テチャン」文化について、専門家らは歌や踊り が好きな韓国民族の気質による現象であると説明する。人の歌をた だ聞いて鑑賞するよりは、自ら歌いながら楽しむことを大いに好む ため、コンサート会場においても一緒に歌うということだ。「カラ オケ」は日本で生まれたが、1990年代初めに韓国に現れたノレバン (歌の部屋の意味)文化が日本と比較にならないほど急速に普及した ことを見ても分かる。韓国人は老若男女を問わず、ノレバンで歌っ て踊ることを楽しむ。コンサート会場は巨大なノレバンと化すので ある。 さらに、「テチャン」に加われば、その空間にいる全員が一つに なったような強い絆を感じることができる。好きなミュージシャン のコンサートを見るために集まった事実だけでも仲間意識を誘発す る。そこで、好きな歌を一緒に歌いながら盛り上がる瞬間、観衆は 文字通り渾然一体になるのだ。この最高の感動は舞台に立つミュー ジシャンにもそのまま伝わる。自分の歌を声をそろえて歌ってくれ る観客を見ながら、ミュージシャンは自分の心を託す。韓国の「テ チャン」文化を経験したミュージシャンらは魔法のようなその瞬間 が恋しくて、繰り返し韓国を訪れるのかもしれない。(翻訳:趙祥 恩)

Koreana ı 冬号 2011

85


韓 チョン

文 ギョン

リン

全鏡潾 チョン・ギョンリン(全鏡潾、1962~)は 「大韓民国で恋愛小説が最もうまい作家」 だと呼ばれている。 その作品は強烈なイメージと華麗な文章が作り 出した愛と情念、そして鬼気の物語だ。

作家評

情念と鬼気にあふれた恋愛小説 オ・スウン(魚秀雄、朝鮮日報文化部文学担当記者)

情念とは辞典によると「感情にともなって起きる抑えがたい想念」 とある。全鏡潾の文学はよく「情念」と「鬼気」という二つの単語で表 現される。その情念の強さを個人的な体験を通して紹介しよう 。

なので、すみません。部屋に戻っておられれば、すぐに伺います」 と伝えた。 私は2階の彼女にお礼をしたかったが、残念なことに持っている

私がソウル明倫洞に暮らしていた独身時代のことだ。その頃は自

ものは本しかなかった。その中でも一冊しかない本をあげることは

らの肉体に責任を持たなければならないという強迫観念を持ってい

どうしても気がすすまず、唯一、二冊あった本を選んだ。それが 全

た。それで朝、日課の運動から帰ってくるとシャワーをした。問題

鏡潾の長編『熱情の習慣』だった。「まあそんな、お礼なんて」、「い

はその次だ。なぜかバスルームのドアが開かなくなってしまったの

や、この分野で働いているので。気になさらないで下さい」

だ。まるで外から閉められてしまったかのように。いくら力を入れ ても無駄だった。その時、思いついたのが上の階に住んでいる若い 女性のことだ。数日前に玄関に貼り付けてあったポストイットを思 い出した。「共同生活のエチケットを守りましょう」

翌日、階段で出会った彼女は私を避けた。本は読み終えた様子 だったところをみると、私を情念の化身とでも思ったのだろうか。 全鏡潾は大学を卒業し馬山KBSに客員PDと構成作家として勤務 した。学生運動をしていた男と結婚した後は平凡な主婦として暮ら

ベッドに入る時にオーディオのスリープ予約をしておいたのは

していたが、二人目を生んでから習作を始めた。1993年、作家の家

認めるが、誓ってボリュームは最低レベルだった。とにかくそれ程

族は慶尚南道馬山の隣の鎮田面の田舎の村に引越し、そこで作家は

敏感な耳を持っているのなら、この状況下ではなおさら彼女の耳は

「何かが外に表出するような気分」を味わったという。そして一歩も

有効ではないか。体面などにかまっていられないと、天井を叩きな

外に出ずに書き始めた。そして1995年東亜日報新春文芸の中篇小説

がら「助けてくれ!」と叫んだ。すると本当に奇跡のように彼女が

部門で『砂漠の月』が当選し、作家活動を開始した。

来た。彼女はどこの玄関のドアにも張ってある「鍵修理・ドア開けま

彼女の文学的な関心事を要約すれば「自分の欲望に忠実な内面的

す」というステッカーを見て電話をかけ、30分後には人の良さそうな

な世界と秩序化され体制化された外の世界との間の緊張と要求の中

鍵屋のおじさんがやってきて、ドアを開けて入ってきた。彼女も隣

で葛藤する女性、そして女性的な生き方」だ。1997年に短編『ヤギを

にいた。あいにくシャワーの後で着替えようと下着はバスルームの

追う女』で韓国日報文学賞、『どこにもいない男』で文学トンネ小説

外にあった。そこで「お礼を言わなければなりませんが、裸のまま

賞、1998年『メリーゴーランドサーカスの女』で21世紀文学賞、2004年

86

韓国の文化と芸術


短編『夏休み』で大韓民国小説文学賞大賞、2007年短編小説『天使はこ

僚、先輩、後輩作家たちと一緒だった。ソウルから行く私たちとは

こにとどまる』 で第31回李箱文学賞を受賞した。

違い、彼女は慶尚南道咸安から上がってきた。文芸創作科教授とし

『私の生涯でたった一日だけの特別な日』、『ガラスで作った船に

て在職中の慶南大からやってきたのだ。同じ慶尚道内なので遙かに

乗り見知らぬ海を彷徨う』、『熱情の習慣』などの長編小説と何冊も

短い時間で来たと思ったが、誤算だった。ソウルから来るのとほと

の小説集をだしている。どれもが自己の欲望に忠実な女たちを主人

んど同じ4時間近くかかったという。そして彼女は夢見るような口

公に、華麗な文章で、その欲望と衝突する社会制度との葛藤を鋭く

調で言った。「暑すぎるわ」その甘く倦怠の香りのする言葉。柔らか

分析している。

な花模様のワンピースで作家はまるで暑さと恋に陥ったような表情

作家は一時、自身のイメージを「氷山」と「獅子」に例えたことが

だった。

あった。氷山は陽の光で絶え間なく溶けていく。獰猛な獅子は陽の

「世襲的なマッチョ」だと自己を表現している小説家の金薫はこの

光を追い、氷山の周りをぐるぐるまわる。自分は氷山を守る獅子

後輩作家をこんなふうに評している。「彼女の口調と仕草はシャイ

で、同時に解けている氷山だというのだ。太陽と獅子の間で氷山は

で謙虚、女性的な細やかな模様がついている。そしてその細やかさ

溶け落ち、また凍ることを繰り返す。獅子と太陽と氷山の緊張と苦

の中には危うい不安定な挑発性が潜んでいる。時には彼女は雷管を

悩、和平の相互作用によって氷の堆積層は徐々に自身の風景を作り

備えた爆弾のように見えた。彼女は定住しない。彼女は随時、絶え

出す。

間なく部屋を移り、引越しをして過ごし、今、どこにいるのかも分

この見事な隠喩は実は生命の本質に対する隠喩であろう。人生も

からない。全鏡潾の小説の中で、傷とは生命が生きている世界で処

愛も文学も熾烈に、その極限まで行ってみた人間は結局、不可解に

した所の名称だ。生命は欠乏であり、喪失することなので、一人で

不可能なこの生の深淵と向かい合うことになる。彼女の生涯と作品

自足することは出来ないようだ。欠乏と喪失は生命現象だと、彼女

はそんな氷の堆積層を作ってきた。個人的にこの作家を圧縮する文

の小説は語っているようだ。そしてその欠乏と喪失を拒んだ生命の

字を一つ選ぶならばそれは「夢」だ。この夢幻的な雰囲気は人間全鏡

チャレンジもまた生命現象だろう。その両方にぶつかり炸裂すると

潾を要約する代表的な単語だと言えるだろう。

き、彼女の小説は限りなく美しい。彼女は今頃はまたどこかに移ろ

数ヶ月前に、作家と慶尚北道蔚珍へ旅行に行く機会があった。同

Koreana ı 冬号 2011

うと引越しの荷物をまとめているだろう」 (翻訳:金明順)

87


韓国のイメージ

になると草木や動物など、すべての生命体の中に宿った光が輝きを放つ。木の皮はくす ぐったさをこらえきれずに黄緑色の芽を吹き出し、花のつぼみはまばゆい色彩に炸裂し、

花の香りに天地がざわめく。 木の葉は広がりを見せ、その緑も色濃くなる。草の香は濃密になり、命あるものが息吹きすべ ての生命体の熱気が溢れ出る。渇きを覚えた樹木は土中の奥深く根を張りめぐらし水を吸い上げ る。雷が鳴り、夕立が降り注ぎ、人々が駆け出す。世の中が一段と慌しく、複雑になるのだ。 やがて緑に飽きた森では落葉が始まる。枝と枝の間に空が広がり、そこから冷たい風が吹きぬ

純粋さについて キム・ファヨン(金華榮、仏文学者) 写真 : 徐憲康

ける。人々の視線がだんだんとさらに遠くに向かい始める。道は暗い林の中 に吸い込まれて行く。後姿を見せて歩いていく人々の歩みが遅くなり、枝先 に夏を愛しむかのように残っていた最後の一葉も消え去った。大地に伏せた

落ち葉の上を風と時間が無心に積み重なり歳月が流れる。 そしてある日、雪が降る。雪は春、夏、秋を覆いつくし、過ぎ去った人生の記憶を消してしま う。複雑だったすべてのものが単純になる。四は二になり、二は一になる。しかし世俗に生きる ものは複雑で不純だ。真の純粋さはない。すべての存在は虚空につけられた斑点であり、汚点だ。 ただ無だけが、死だけが純粋だ。純粋さは聖なるものに近寄ずくためのかりそめの魂だ。王朝の 王と王妃は数百年の間、民衆の上に君臨して死んでいった。王と王妃の魂を祀る大きな家は「1」の 字となって単純に横たわり、無言だ。住み人のない家は単純で索漠としている。その単純さの上 に真っ白な雪が一枚の寿衣 (死に装束)のように覆っていく。 しかしこの白い無垢はかりそめだ。死の抽象と対称、その単純さと純粋さを拒むかのように裸 木の森が夕焼けの空を頭上に仰ぎ、じっとたたずんでいる。また春が来るまで。(翻訳:金明順)

朝鮮王朝の王と王妃の位牌が祀られている(宗廟)


Turn static files into dynamic content formats.

Create a flipbook
Issuu converts static files into: digital portfolios, online yearbooks, online catalogs, digital photo albums and more. Sign up and create your flipbook.