Koreana Winter 2015 (Japanese)

Page 1

冬号 2015

Korean Literature in Your Hands!

韓国の文化と芸術

特集

冬号 2015 vol. 22 no. 4

| |

書院 朝鮮王朝の儒学と士林の本拠地 節制と質素を追い求めた性理学的美学 未来に向けた役割の変化:書院の日常

New_list(HD)

vol. 22 no. 4

New_list(HD)

書院 朝鮮時代の 性理学の教育機関 ISSN 1225-4592


韓国のイメージ


軒下に味噌玉が 吊るされる立冬の頃 キム・ファヨン

金華榮、文学評論家、大韓民国芸術院会員

年は 11 月 8 日が立冬だ。農家では立冬になると冬を迎える準備で家族みんな

が忙しい。その中でも欠かせないのが韓国式の味噌玉(メジュ)作りだ。オン

ドル部屋の横木や軒下に藁で縛って吊るすメジュを、鮮やかな秋の陽差しで乾

燥させる様子は、常に郷愁を誘われる私の心の中にある故郷の原風景だ。

メジュは韓国人の食生活に最も重要な位置をしめる味噌、醤油、唐辛子味噌の主原

料となり植物性タンパク質の供給源だ。幼い頃、立冬の頃になると祖母と母は母屋の 外に立てかけてある大釜いっぱいに大豆を茹でていた。よく乾いた栗のイガで一日中弱

火で煮ると、その間中、大豆を茹でる香ばしい匂いが家中に立ち込めた。私は茹でた 大豆を母に隠れて口に放り込んでは空腹を満たした。

その頃になると私は父といっしょに部屋の障子戸に真新しい真っ白な窓戸紙を貼った。

薄く溶いた糊を障子戸の桟にきれいに塗り、真っ白な窓戸紙をその上にのせて刷毛で伸

ばし叩いて戸の桟にしっかり貼る。次に口いっぱいに含んだ水を戸全体に吹き付ける。

そうすると障子戸に貼られた紙は鮮やかな秋の陽を浴びて乾くにつれピーンと張ってくる。 その頃にはすでに母は大釜から大豆を取り出し臼で突いている。祖母はメジュ用の枡の 中に麻の布巾を敷いて臼で突いた大豆をぎゅうぎゅうに押し込みメジュの塊を作る。次

に地面に藁を敷きその上にメジュの塊を置いて2、3日乾燥させる。そして最後に父が

メジュを藁で縛って日当たりの良い軒下に吊るすのだ。陽の光と風と空気のおかげでメ

ジュに着床した微生物がタンパク質の分解酵素を分泌する。新しい窓戸紙を貼りなおし

た障子戸は明るい光を部屋の中いっぱいに満たし、冷たい冬の風を防いでくれる。

昨今、都市の多くの子供たちはメジュが何かを知らない。今や味噌も、醤油も、そし

てメジュさえも市場で買うことができるようになった。ことわざに「豆からメジュを作ると いっても」というのがある、大豆からメジュを作るという当たり前のことも信じられない

という意味なのだが、まさに今の子供たちは数百年間続いてきた昔からの暮らしの様式

を信じようとはしない。彼らにはピザやハンバーガーや炭酸飲料があるので、ことさら 関心がないのだろうか?


編集長からの手紙

書院の朝の祭礼

朝6時の田舎は霧に包まれていた。黄金色に輝く田畑の間の舗装道路を走っ ていくと、いつの間にかこぢんまりとした家並みの、絵のような村が見えてき た。いつの間にか霧は晴れわたり、輝く朝日に照らされた古い書院が、村隣の 紅箭門(魔除けの為に建てる高貴な門)の向こうに見えた。そして我々一行は9 月13日の朝早く全羅南道長城にある筆巌書院に着いた。 今回の特集記事の執筆陣はいくつかの有名な儒教書院を見て回りながら、 四番目の書院に期待を抱き訪問した。月二回開催される「祭享儀礼」を観覧で きるという機会が生じたのだ。程なくして書院を司る有司(管理者)が順番に 入ってきた。彼らは講学堂で会議をした後、皆白の祭礼服を着て厳かに一列に 並んで書院の裏側の祠堂に向かった。 祭礼は祭享の手続きが記された笏記の朗読から始まる。香を焚き、お辞儀 をするという単純で厳かな儀式が繰り返された。時間が止まったようで、否、 数百年前に戻ったようだった(8頁参照)。この祭礼の目的は何か。ここに集 まった人々が今日も祭礼を続け、未来の世代へ伝えようとする価値は何であろ うか。読者の皆さんも特集「書院、朝鮮時代の性理学の教育機関」をお読みに なって、この質問の答えを得られることを願う。 また「天から授かった踊り手、李梅芳とその舞の世界」については、コリ アナのサイト(www.koreana.or.kr)で二つの映像をご覧になれます。20世紀の韓 国伝統舞踊の伝説的な人物である李梅芳は今年の8月に亡くなった。巨匠踊り 手李梅芳のために固有の僧舞とサルプリ・チュム(舞)を集めた映像が紹介さ れている。 日本語版編集長 金鍾徳

発行人 編集理事 編集長 編集諮問委員

柳現錫 尹錦鎭 金鍾徳 裵炳雨 崔寧仁 韓敬九 金華榮 金英那 高美錫 宋惠眞 宋永萬 Emanuel Pastreich Werner Sasse 監修者 嘉原和代 坂野慎治 翻訳者 金明順 朴美貞 クリエイティブディレクター 金三 金貞恩、盧倫永、朴信恵 編集 李栄馥 アートディレクター 金智賢、李成基、葉蘭敬 デザイナー 編集 金熒允編集会社 韓国ソウル特別市麻浦区西橋洞 385-10. 秋思軒ビル 3 階 Tel : 82-2-335-4741 Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 印刷 三星文化印刷 韓国ソウル特別市城東区聖水洞 2 街 278-32 Tel : 82-2-468-0361 ~ 5

Koreana ホームページ http://www.koreana.or.kr 価格 韓国内:6000 ウォン 韓国外:9US ドル 定期購読料:詳しくは『 Koreana 』 80 ページをご参照ください。

© 韓国国際交流財団 2015 『 Koreana 』に掲載されているすべての記事 の著作権は韓国国際交流財団に帰属し、 著作権法により保護されています。 『 Koreana 』の記事を転載する場合には、 事前に『 Koreana 』編集室に電子メール ( 82-2-3463-6086 )で ( koreana@kf.or.kr )か FAX 転載許可を申請してください。 『 Koreana 』の記事を引用したり、 非営利目的で使用する場合にも 『 Koreana 』からの転載であることが分かるように クレジットを明示してください。

韓国の文化と芸術 冬号 2015 『冊架図』 八曲屏風、18世紀後半~ 19世紀前半、112×381cm (部分)。個人所蔵 © タハルメディア Published quarterly by The Korea Foundation 韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル 冊架図または冊コリは、静物画の一種。主にソンビ(学識 と人格を備えた人物)の書斎に飾られた絵で、本、文房四 宝(筆,硯,紙,墨)、骨董品などを配し、自身の学問的 素養、経済的地位、個人的野望などを象徴的に表している。

掲載された記事は筆者の個人的な意見で あり、『 Koreana 』や韓国国際交流財団の公 式見解ではありません。

1987 年 8 月 8 日文化観光部 -1033 で登 録された季刊誌『 Koreana 』はアラビア語、 インドネシア語、英語、スペイン語、 中国語、ドイツ語、フランス語、ロシア語でも 発刊されています。


フォーカス

「天から授かった名人」 李梅芳の舞の世界

34

梁鍾承

文化遺産の継承者

コムンゴで 伝統を守る

40

鄭在淑

18

オン・ザ・ロード

奥深い山河 アラリのリズムににじみ 出た哀歓、寧越と旌善

44

郭在九

エンターテインメント

20

双方向性が売りの 一人放送の地上波進出

52

姜明錫

47

特集

グルメを楽しむ

書院、朝鮮時代の 性理学の教育機関 特集 1

書院、朝鮮王朝の 儒学と士林の本拠地

冬至の小豆粥 幼い頃の冬の思い出 朴贊逸

04

34

申炳周

特集 2

書院建築:節制と質素を 追い求めた性理学的美学

10

李相海

特集 3

未来に向けた役割の変化 書院の日常

20

長い眠りから覚めた 君子の士官学校

遠くの目

韓国人留学生との 40 年 変わったもの 変わらないもの 似ているところ 違うところ

54

24

ライフスタイル

エプロンをかけた男たち 彼らはなぜ 料理にはまるのか

60

金龍燮

韓国文学の旅

沈まない太陽 消えない懐かしさ

64

曺龍鎬

『西山の向こうには』 金采原

坂本惠

金賢真

特集 4

56

43

李昌起

特集 5

若い知性をいざなう 現代版書院 李吉雨

30

62


特集 1 書院、朝鮮時代の性理学の教育機関

書院

朝鮮王朝の 儒学と士林の本拠地 シン・ビョンジュ

申炳周、建国大学校史学科教授

安洪范 写真

4 KoreaNa 冬号 2015


慶尚北道安東の屏山書院では定期祭享 (祭祀)を控え、儒学者が集まって役割を決める 「分定記」を作成している。

朝鮮時代( 1392 ~ 1910 )の書院は、地方に根差した儒学者が聖賢を祭り、後進を養 成した私設の教育機関であり、村の自治運営機関でもあった。書院は、朝鮮の統治理 念である性理学(宇宙の原理としての理を究明し、人間の本性を明らかにしようとした 儒学の一学説)の学問的な中心だったが、勢力を次第に拡大して党派争いの温床にな り、結局は国家権力の衰退をもたらした。これは、歴史の皮肉といえる。しかし、学 問と家門の長い伝統をかたくなに守る書院が、今も韓国全域に 600 カ所ほど残ってい

る。そして、正しい人間教育を渇望する今日の韓国社会は、再びこれに注目し始めた。 韓国の文�と芸� 5


院は、朝鮮の政治・経済・教育・

た。16 世紀の士林派の学者は、そうした伝統を受け継ぎ、教育機能を強化する一方、

その創 立 は 高 麗 末 期、 地 方を

後進の養成を主な目的としていた。

文 化 に大きな 影 響 を及 ぼした。 先賢を祭る祠堂の機能を統合して書院をつくった。そのため、書院は先賢への祭祀と

中心に勢力を拡大した「新進士大夫」 (改 革科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備

イ・ファン(李滉、1501 ~ 1570 )は、1548 年(明宗3年)に豊基郡守として赴任すると、

白雲洞書院の価値を掲げて国に支援を求めた。そして、 1550 年には王から紹修書院

えた儒学者の改革勢力)の政治的成長と

という扁額を賜った。このように王が直接、祠堂や書院に名前をつけて扁額を与えるこ

派が、 16 世紀に政治的反対派から4度の

働き)などの支援を受けて、免税・免役の特権も与えられた。

かかわりが深い。新進士大夫のうち士林

弾圧「士禍」に見舞われながらも、朝鮮後

とを「賜額」といい、国の承認を意味した。賜額書院になると、土地、書籍、奴婢(下

期の支配勢力になれたのは、地方社会に

講学と先賢奉祀

を設立して性理学を普及し、地方社会を

が学問を学ぶ講堂と、寝泊りしながら勉強する斎室があり、祭享施設としては祠堂があ

支持基盤があったからだ。士林は、書院

基盤にして中央の勲戚(功臣)勢力を批判

した。また「 為己之学( 自分のための学

書院には、教育施設と祭享(国の祭祀)施設が必要だった。教育施設としては、院生

った。斎室は、たいてい講堂前の庭に東西対称に配置され、書院ごとに独自の「斎名」

があった。祠堂は、書院の一番奥や高い所にあり、塀で仕切られていた。その他には、

問 )」を重視して修養に力を注いだ 結果、 祭享の供物の準備や祭器の保管をした祭器庫、院生が自然の中で余暇を楽しんだ樓閣、 性理学教育の重要性が高まり、自然と書 院が建てられていった。

韓国書院の幕開け、チュ・セブンの白 雲洞書院

豊基郡守チュ・セブン(周世鵬、 1495

書物を出版・保管した蔵板閣などがあった。

書院は、院生が勉強するのに必要な書物を収集するなど、図書館の役割も果たして

いた。紹修書院に保管されていた書物は 1600 年頃、107 種・1678 冊に上った。このよ

うに書院は、多くの書物を保有することで地方の人々の教化と知識向上に貢献した。ま た、独自に出版事業も手がけた。

書院の全国拡大と士林の支持基盤

~ 1554 )は 1543 年( 中宗 36 年 )、 慶尚

強化

道順興面白雲洞に韓国初の書院、白雲

書院は 16 世紀以降、地方社会で支持

洞書院を建てた。高麗末期に朝鮮半島に 性理学を取り入れた学者アン・ヒャン(安

基盤を広げようとする士林の努力によって、

するためだ。チュ・セブンは、アン・ヒャン

在 位 期 間 1545 ~ 1567 )の時 代 には 18

珦、 1243 ~ 1306 )を祭り、後進を養成

徐々に増えていった。ミョンジョン(明宗、

を祭るために「晦軒祠」という祠廟を設け、

カ 所、 ソ ン ジ ョ( 宣 祖、 在 位 期 間

をまねて白雲洞書院を建てた。

ぶ書院が建てられた。その中でも嶺南士

私財をはたいて書堂や書斎と呼ばれる私

院がつくられた。イ・ファンを祭った陶山

1567 ~ 1608 )の時代には 63 カ所におよ

その後、中国の朱子が建てた白鹿洞書院

林派の伝統を継ぐ慶尚道に、数多くの書

朝 鮮 時 代に教 育を重 視した儒 学 者 は、

書院、チョ・シク(曺植、 1501 ~ 1572 )

学を建て、地方の後進養成に力を尽くし

6 KoreaNa 冬号 2015

1

©国立現代美術館

1『陶山書院』チョン・ソン(鄭敾、 1676 ~ 1759 )、 1721 年、紙本淡彩、 124 × 67cm 慶尚北道安東市土溪里の風光明媚な清涼山のふも とに位置し、洛東江を臨む陶山書院。書院の典型 的な立地条件を備えている。 2 忠清南道論山の遯巌書院の蔵板閣で、保管中の冊板 (版木)をのぞき込む有司(運営・管理者)。蔵板閣に はキム・ジャンセン(金長生)の『沙渓全書』、キム・ジ プ(金集)の『慎独斎全書』など、 2103 枚の版木が保 管されている。


2

朝鮮時代に教育を重視した儒学者は、私財をはたいて書堂や書斎と呼ばれる私学を建て、 地方の後進養成に力を尽くした。16 世紀の士林派の学者は、そうした伝統を受け継ぎ、 教育機能を強化する一方、先賢を祭る祠堂の機能を統合して書院をつくった。 韓国の文�と芸� 7


全羅南道長城の筆巌書院で、旧暦1日の祭享(祭祀)を行う有司(運営・管理者)。 祠堂の祐東祠には、地元出身の儒学者キム・インフ (金麟厚)とその弟子 ヤン・ジャジン(梁子徴)の位牌が祭られている。

8 KoreaNa 冬号 2015


を祭った徳川書院、リュ・ソンリョン(柳成

書院の乱立とその弊害

どが代表的だ。書院は当初、 公立学校

も建てられた。そのうち 105 カ所が賜額書院だった。書院は、免税・免役の特権を乱用

郷校よりも教育環境が良く、権威も高ま

書院の設立を厳しく禁じるとともに、賜額をしないと決めた。王権強化を求めたヨンジ

龍、 1542 ~ 1607 )を祭った屏山書院な

スクチョン(肅宗、在位期間 1674 ~ 1720 )の時代に書院は急増し、全国に 166 カ所

に当たる郷校と競争関係にあった。だが、 して国の経済を乱すなど、弊害も少なくなかった。そのため、スクチョンは 1714 年以降、

ったことから、地方両班の子弟が多く入

ョ (英祖、在位期間 1724 ~ 1776 )も、スクチョンの書院撤廃措置を積極的に引き継いだ。

性理学の普及と教育という学問的な機能

「甲午年(1714 年)以降、 大々的に撤廃令を下した。1741 年4月8日の『英祖実録』には、

学するように なった。 朝 鮮 中 期 以 後 は、 1741 年には、 1714 年以後につくられた書院と祠宇(先祖や先賢を祭る祠堂)について、

の中枢的な役割を担うなど、肯定的な機

朝廷に奏上せず、個人的に祠院を建立したり、密かに祭祀をした場合、それが大臣で

学縁などが合わさり、地方両班の利益を

た場合、道臣と守令(地方官)は身分を剥奪し、儒学者は遠くへ島流しせよ」と、ヨンジ

能を持っていた。その一方で血縁、地縁、 あれ儒賢であれ、皆撤去せよ。(中略)以後、私的に書院を建てたり、追加で祭祀をし 代弁する場にもなっていった。特に地方

ョの命令が記録されている。その後、スンジョ(純祖、在位期間 1800 ~ 1834 )からチ

治的地位を強化する手段として利用した

信認を得た特定の人物や集団による政治)が行われたが、書院はほとんど建てられてい

の士林が、書院を自分の学問的基盤と政 ため、党派争いの温床になった。

例えば、士林派の派閥のうち南人は退

ョルジョン(哲宗、在位期間 1849 ~ 1863 )の代に至る 19 世紀には、勢道政治(国王の ない。このことからも、ヨンジョの強力な書院禁止令は、効果が大きかったといえる。

渓 学 派、 北 人 は 南 冥 学 派 と花 潭 学 派、 書院撤廃令と朝鮮儒学の衰退 西人は栗谷学派と牛渓学派、 少論は明

ヨンジョに続き、書院撤廃に積極的だった人物としてフンソン大院君(興宣大院君、

斎学派、老論は牛渓学派からなっていた。 1820 ~ 1898 )がいる。息子のコジョン(高宗)が 1863 年に王位に就くと実権を握り、 学派の領袖は、理気論や礼訟論争のよう な思想的・政治的事案について上表文な

どを奉り、政治的な立場を表明した。そ

うした学派の意見を結集したところが書 院だった。

朝 鮮 中 期 以 後、 イ・イ( 李 珥、 1536

~ 1584 )の学説を支持する畿湖学派の学

者が広く輩出され、全羅道、忠清道、京

1865 年には老論の精神的支えであるソン・シヨル(宋時烈)の万東廟を撤廃し、 1868

年には賜額でない書院 600 カ所ほどを撤廃した。1871 年には書院が党派争いの温床

になっていると指摘して、 47 カ所を除く、全国すべての書院と祠宇に撤廃令を下した。

そのときに残された書院が、紹修書院、陶山書院、藍渓書院、玉山書院などだ。

撤廃された書院の土地や財産は国が管理し、書院の増設を許さなかった。書院撤廃

に反対する全国の儒学者が、上京して集団示威運動を行った。また、慶尚道の儒学者

1460 人は、大院君を「東方の秦始皇」と批判し、宮廷の門前で上表文を送ったが、大

院君は一歩も譲らなかった。「民を害する者は、孔子が生き返っても、私が許さない。

畿道でも書院が活発につくられた。全羅

(中略)書院は今や、盗賊の巣窟と化した」という大院君の一喝により、儒学者の士気

麟厚、 1510 ~ 1560 )を祭った長城の筆

日本の統治と急激な近代化の中で、本来の教育機能は失われたが、聖賢への祭享と

道を代表する書院には、キム・インフ(金

は下がった。

巌書院、忠清道にあるキム・ジャンセン

いう伝統は、今日まで受け継がれている。最近、書院の価値と伝統を守ろうという人々

の遯菴書院、京畿道にあるイ・イを祭った

学的な素養が重要視される昨今、一時代の模範となった学者が学問を修めて後進を養

( 金 長 生、 1548 ~ 1631 )を祭った連 山 紫 雲 書 院 と ソ ン・ ホ ン( 成 渾、 1535

~ 1598 )を祭った坡山書院が、主要な書 院に数えられる。

を中心に、書院の復元と歴史的・文化的な価値への関心が高まっている。特に、人文

成した書院は、その人間中心の教育において特別な意味を持っている。朝鮮時代のソ

ンビ(学識と人格を備えた人物)文化と教育の遺産を留める書院、その現代的な活用案 が必要な時期となっている。

韓国の文�と芸� 9


特集 2 書院、朝鮮時代の性理学の教育機関

10 KoreaNa 冬号 2015


書院建築:節制と質素を 追い求めた性理学的美学

イ・サンへ

李相海、文化財委員会委員長

徐憲康 写真

書院の立地環境と空間構成は、節制と質素を追い求めた性理学的美学に基づいている。士林は、 世の喧噪と距離を置き、学問に邁進することで、宇宙と人間の理を悟ろうとした。その理想を反映 して、多くの書院は自然景観の美しい静かな場所にたたずんでいる。書院の建築様式は、講学(学 問研究)と祭享(祭祀)という主要な機能を忠実に果たすべく、前低後高(前方は低く、後方は高い 構成)、前学後廟(前方に講学空間、後方に廟堂空間)という基本配置に沿っている。自然の中で 経書を習得し、先賢を仰いで祭祀を行い、先賢を模範として人格完成の道を進もうとした性理学者。 その学問における目的意識を象徴的に表している。

慶尚北道安東市河回村の屏山書院の入り口 にある晩対楼。書院の楼閣は、儒学者が自 然の中で休息をとり、宇宙の秩序と万物の理 について考える場所でもあった。

韓国の文�と芸� 11


鮮時代に書院設立を主導した士林は、実用的な知識や技能の教育に偏らず、人格完成

を通じて望ましい人間を育てる全人教育を理想とした。全人教育とは、心を集中して学

問に励み、己を修める「 蔵修 」によって行われるものと信じていた。性理学者にとって、

学問は単に儒教の経書を習得し、討論する講学に留まらなかった。先賢の足跡を称え、それを見 習うための祭享(祭祀)に加え、学問する緊張感から脱して自然の中で精神と心を解き放ち、森羅

万象の理を考える 「遊息」も含んでいた。したがって書院の立地と空間配置は、そうした機能を効率 的に果たすことに目的があり、書院は礼拝の対象として建てられた宗教施設とは異なる。

自然と天命に順応する

朝 鮮 時 代 最 初 の 書 院 で あ る 白 雲 洞 書 院 は、 1543 年 に 豊 基 郡 守 チュ・セ ブン( 周 世 鵬、

1495 ~ 1554 )によって建てられ、 1550 年に朝廷から「紹修書院」という名で「賜額(王による扁額

の下賜)」された。紹修書院は、祭享のための祠宇、講学のための講学堂、遊息のための東屋を 設けていたが、書院の空間構成において決まった形式は持たなかった。祭享空間は、書院の西側

に南向きに作られ、講学空間は、祭享空間の東側に位置し東向きとなっている。しかし、紹修書 12 KoreaNa 冬号 2015


院に祭られているアン・ヒャン(安珦、 1243 ~ 1306 )の故郷に位置し、周辺の環境が静かで景観

が美しい点など、朝鮮時代の書院における祭享意識の規範がよく表れている。そのため、後に建

てられた数多くの書院が、立地条件と空間構成の模範とした。

書院建築は、設立を主導した性理学者の学問修養法「格物致知」、そして宇宙論的認識と人性

論の根幹「天人合一」の思想と密接に関わっている。「格物致知」は、中国・宋の時代に性理学を集

『孟子』、 『中庸』とともに四書の一つとした『大学』 大成した朱熹(朱子、1130 ~ 1200 )が『論語』、

の重要な概念で、「物事の理を突き詰めれば、知に至る」という理論だ。朝鮮時代の性理学者はそ の理論を受け入れ、書院を建てる際には必ず相応しい環境、すなわち静かで景観の美しい場所に

すべきだと考えた。

書院建築に反映されたもう一つの理念である「天人合一」は、人間が自然と天命に順応するとい

うものだ。したがって、性理学者が望ましいと考えた景色は、自然の変化を通じて天地万物の理を

2

(財) 韓國書院統合保存管理團 ©

1

1 慶 尚 北 道 栄 州 の紹 修 書 院 の入り口。 松林があり、右に竹渓川を臨み、傍 らには景濂亭。朝鮮時代の性理学者 は、書院の入り口付近に東屋を建て、 自然の中で思索して自然に寄り添お うとした。 2 チョン・ヨチャン(鄭汝昌)を祭る慶尚 南道咸陽の藍渓書院。前低後高の傾 斜地にある建物からは、堂々とした 豪放さが感じられる。寄宿舎の東斎 と西斎の前には、美しい蓮池 3 慶尚北道逹城の道東書院。講堂であ る中正堂の扉の裏には、キム・グェン ピル(金宏弼)を祭る祠堂への階段が 見える。

3 韓国の文�と芸� 13


14 KoreaNa 冬号 2015


整然かつ端正な形式と秩序、そして周辺の自然にまで考えを広げ、自然 と人工を一つにしようとする空間処理と配置。書院は、節制と清貧の美 学に基づいた性理学者の理想をつぶさに反映している。 1 陶山書院の講堂である典教堂。その前に は、寄宿舎の博約斎と洪毅斎 2 遯巌書院の講堂である凝道堂は、一般的 な書院の建築に比べて、雄大で格式が感 じられる。垂木を増やした屋根、ひさしの 付いた軒、肘木の装飾などが目を引く建物 で、宝物(重要文化財)1569 号に指定され ている。

1 2

悟り、「天人合一」に至ることのできる場所だ。性理学者は、そうした理由から遠く人里離れた自然

の中で「天人合一」できる場所に書院を建て、心身を修養して学問を磨き、後進を養成したのだ。

例えば紹修書院は、小白山の麓を源流とする竹渓が流れ、奥深く静かな雲に沈み、ひっそりとし

た所にある。イ・ファン(李滉、テェゲ:退渓、 1501 ~ 1570 )を祭る陶山書院も、そうした立地条

件を備えている。陶山書院は、イ・ファンが学問を修めて弟子を教えるため、 1561 年に建てた陶

山書堂を母体とし、その死後 1573 年に建てられた。イ・ファンが陶山書堂を建てた後に書いた『陶 山十二曲』には、その心情や書堂周辺の景色が繊細に描かれている。 春風に花は山を覆い、秋夜に月は楼閣を覆う 四季の美しき趣は人も同じ

まして天地調和の玄奥に終わりがあろうか 天雲台を巡り戻ると、瀟洒な玩楽斎

万巻の書を読む人生の楽しさは無窮 外を歩く風流は然してもない

立地条件と建築様式の確立

書院建築における基本的な形式は、チョン・ヨチャン(鄭汝昌、1450 ~ 1504 )の学徳を称えて祭

るため、1552 年に慶尚南道咸陽に設立された藍渓書院から始まっている。藍渓書院は、遊息空間、 講学空間、祭享空間が書院の前から順に配置されるという基本形式をとっている。前低後高の地 形に前学後廟の空間構成、つまり韓国の書院建築の典型が成立したのだ。書院において遊息空間 韓国の文�と芸� 15


1

2

16 KoreaNa 冬号 2015

1 遯巌書院の祭享空間である崇礼祠は、装飾の美しい塀で囲まれている。 朝鮮時代に礼学を導いたキム・ジャンセン(金長生)とその息子キム・ジプ (金集)をはじめ、ソン・シヨル(宋時烈)、ソン・ジュンギル(宋浚吉)の位 牌が祭られている。 2 道東書院の祠堂から階段を下りてくる祭官 3 慶尚北道慶州市良洞村の玉山書院。祭享空間の入り口である体仁門か ら、祠堂の体仁廟が見える。祭享空間は書院の奥の高い場所にあり、塀 で仕切られているため内三門を通って入る。


と講学空間を前方に配置したのは、儒学者の往来が多く、いつも賑やかで生き生きとした空間にす

るためである。そして祭享空間を後方に置いたのは、儒学者の出入りを制限することで、厳かかつ 静かで穏やかな空間にするためだった。

玉山書院は、朝鮮前期に性理学の基盤を固め、嶺南学派を創始し「東方五賢」と称えられるイ・

オンジョク (李彦迪、1491 ~ 1553 )を祭るため、1573 年に慶州安康邑に建てられた。この書院も、 紫玉山を臨む風光明媚な渓谷のそばにある。無辺楼と求人堂は、周囲の自然と調和する重要な建

築物だ。玉山書院を構成する建物は、計画的に一度につくられたため、書院の入口から一番奥の 祠宇まで直線でつながり、しっかりした中心軸が建物配置の特徴をよく表している。

湖南地方で最も長い歴史と大きな規模を誇る筆巌書院は、キム・インフ (金麟厚、1510 ~ 1560 )

を称えて、 1590 年に設立された。筆巌書院は、地形と建物配置の形式において、他の書院とは 異なる特徴がある。前が低く後が高い傾いた地形ではなく、山裾とつながる平地にあるため、講

堂を書院の前方に建て、祠宇の方に向けている。講堂と祠宇の間に広い空間を設けることで、開 放感が感じられるようにしたのだ。書院の前面に広がる広大な景観は、入口にある廓然楼から見

られる。

大邱広域市逹城郡にある道東書院も、朝鮮時代の性理学者が理想とした書院の立地条件を備え

ている。キム・グェンピル(金宏弼、 1454 ~ 1504 )を祭る道東書院の建物配置と空間構成は、書 院の立地・建築の典型がはっきりと見られる。書院の前を左から右に流れる洛東江を臨み、遊息空

間、講学空間、祭享空間が山麓の傾斜地に中心軸を成すように整然と配置されている。それだけ

でなく建築構造、材料の使用法、繊細な建築技法なども価値が高い。

忠清南道論山の遯菴書院は、平野から遠い山を臨む「野景書院」だ。遯菴書院に祭られているキ

ム・ジャンセン(金長生、 1548 ~ 1631 )は、「山を仰ぎ見て楽しみ、街を見下ろし水を察し、自然

の景物に接するたびに理を悟る」と言った。これを反映するように、書院の門楼である山仰楼は、 遠く山を仰ぎ見るという意味がある。山と水など景物に接することを、宇宙と人間の理を悟ること

に結び付けているのだ。

慶尚北道安東・河回村の屏山書院は、文禄・慶長の役を回顧した『懲毖録』の著者として広く知ら

れるリュ・ソンリョン(柳成竜、 1542 ~ 1607 )を祭る書院だ。どのようにして建築が自然と調和して

通じ合い、遊息空間がつくられるのかを物語る代表的な書院でもある。書院前の川の向こうに見え

(財) 韓國書院統合保存管理團 ©

3

韓国の文�と芸� 17


18 KoreaNa 冬号 2015


屏山書院は、前方が低く後方が高い書院の 空間配置をよく表している。背山臨水(背後 に山を、前方に水を臨む)の原則のもとで自 然と調和するという性理学者の理想郷を反映 している。

る屏山は、崖のように険しく威圧感がある。それを和らげるため、書院の前面の壁をなくし、柱、 床、屋根だけの横長な楼閣で前面を覆っている。楼閣の建物が、屏山の与える威圧感を和らげな

がらも、絵のような眺望を遮らない卓越した借景技法といえる。

質素な節制美と借景の知恵

朝鮮時代の書院建築には、立地、建物の配置、空間構成において、いくつかの共通した特徴が

ある。書院は、主に世俗から離れた景色の良いところに位置している。立地選択のもう一つの重

要な条件は、祭る人物のゆかりの地、すなわち出生地や学問を修めた場所、官職にあった地、墓

のある所などを選んだ。後進が模範とする人物との精神的な繋がり、そして学統を重視したのだ。

また、建物の配置とそれによる空間構成は、書院内から秀麗な自然景観を最大限に鑑賞できるよ

うになっている

例えば、書院は儒学者が一緒に寝泊りして共同生活をする場だったため、講堂前の庭先を中心

に左右向かい合わせに東斎と西斎を配置することで、講学空間の領域性を確保した。同時に、書 院の中から常に前面の視野が開かれているように、外部空間を構成した。特に講学空間と遊息空

間の中心となる講堂や楼閣は、そこに座れば目の前に遠くの山、野原、川などを臨めるように建

物が配置されている。普段から目にする景観が、人格形成と学習効果を高める役目を果たしてい

るわけだ。したがって、自然と触れ合うのに最も相応しい楼閣を書院の入口に建て、自然と通じ合

う場所にしている。

性理学者は、書院が建てられた地の自然景観を最大限、建築の領域に取り込もうとした。その

結果、内部と外部の空間が互いに調和し交感する建築、さらには建物が自然に溶け込み、アンサ

ンブルを奏でる建築様式を作り上げた。また書院の建物は、互いの関係がはっきり表れるように配 置されているが、同時にさまざまな外部空間も演出している。つまり、建物は基本的に対称に配

置されているが、厳格に幾何学的な対称ではなく、ある程度決められた軌道から外れた自然かつ 活力ある空間となっている。そうした書院の建物は、壮大でも派手でもなく、節制された上品なた

たずまいとなり、性理学的世界観を建築空間の中に凝縮・昇華させている。整然かつ端正な形式と 秩序、そして周辺の自然にまで考えを広げ、自然と人工を一つにしようとする空間処理と配置。書 院は、節制と清貧の美学に基づいた性理学者の理想をつぶさに反映している。

韓国の文�と芸� 19


特集 3 書院、朝鮮時代の性理学の教育機関

1

未来に向けた役割の変化

書院の日常 20 KoreaNa 冬号 2015

キム・ヒョンジン

金賢真、フリーライター

安洪范 写真


全人教育の新たな基盤

一つにも常に気を使ってきた。ソウルの会

誰にでも同じく礼を尽くす

うな役割を担っているのか、また書院の

ュ・ハヌクさんとは違い、リュ・シジュさん

渓、イ・ファン:李滉、1501 ~ 1570 )の宗

運営と管理を担当する「有司」に話を聞い

そのためか「儒教式の礼節や教えを古臭

ピル(李根必)先生が暮らしている。かくし

修書院では、ちょうどベトナムの若者数

して、「そう思ったことはない。むしろ、そ

ンビ( 学識と人格を備えた人物 )の普段

的だとけなすのは残念だ」と答えた。

の徳目についてやさしく説明する。「楽不

一緒に食事することで、自然と全人教育

ひたすら楽しめはしない。人生は苦楽の

現代の韓国人にとって、書院はどのよ

社を退職し、故郷に戻って有司になったリ

安東の陶山書院の近くにあるテェゲ(退

あるべき未 来 は どのような もの なのか、 は 20 代からずっと書院の仕事をしてきた。 家には、16 代宗孫(宗家の長男)イ・グン

てみた。最初に訪れた慶尚北道栄州の紹

十人が「書院ステイ」に参加中だった。ソ 着「道袍」を身にまとい、頭には室内用の

冠帽「儒巾」。順興郷校のクォン・ヨンハク

いと感じたことはないか」という質問に対

ゃくとした先生は、書院が運営する 「ソンビ

の価値を知らない人が、儒教を単に保守

れた小学生に、韓服姿で正座をして儒教

リュ・シジュさんは、幼いときから親と

(権容学)典校(管理役)が、伝統的な礼

がなされた「食卓教育」が、今はほとんど

で韓国式のお辞儀を学んでいるかと思え

め、 屏山書院が 1954 年に近くに建てた

節について講義をしている。真剣な表情

ば、ぎこちない動きがおかしくて笑い合っ

消えてしまったと心を痛めている。そのた

のキム・ヨナ(金妍児)や歌手PSY(サイ)

が分かったように、子供たちも分かってく

分かりやすく面白く話す。子供たちも、そ

た自分が、大人になってその教えの価値

るソンビ村の旧宅での宿泊(1~2泊)とい

だ)」、「欲不可従(良いものをすべて手に

入れようとするな。欲しいものをすべて手

を怖がったり、祭祀は大変だと避けてい

書院の重要な機能である講学(学問研

神と礼節の教育、そして書院のそばにあ

連 続 で、 苦 し さ に うち 勝 つ 力 も 必 要

に入れても、結局満足できない)」のよう

とを幸いに思っている。小さい頃は書院

究)と祭享(国の祭祀)の体験、ソンビ精

可極(楽しさにも限度が必要。終わりなく、

高校で、生徒に全人教育を続けているこ

たりするなど、その表情からは新しい体 験への好奇心がうかがえた。

文化修練院」の体験プログラムで宗家を訪

れると信じているからだ。

な難しい四字熟語も、フィギュアスケート

など子 供に人 気の有 名 人を例に挙 げて、

んな先生の説明に姿勢を正して聞き入って

う珍しい体験ができる 「書院ステイ・プログ ラム」には会社員、学生、一般人、外国

人が引きも切らずに訪れる。今、社会的

に重要視されている全人教育が、書院で 行われているからだ。

慶尚北道安東の屏山書院では二人の有

司、リュ・シジュ (柳時柱)さんとリュ・ハヌ

ク(柳漢郁)さんに会った。西厓リュ・ソン

リョン(柳成竜、1542 ~ 1607 )の子孫で、 幼い頃から「ご先祖様の顔に泥を塗っては

いけない」との教えに従い、些細な行動

2

1 紹修書院の書院ステイ・プログラムに参加したベトナ ムの学生が、順興郷校のクォン・ヨンハク(権容学) 典校(管理役)から冠帽「儒巾」のかぶり方を習ってい る。書院ステイでは、さまざまな参加者がソンビ文 化と伝統礼節を学び体験している。 2 ソウルの会社を退職し、故郷に戻って屏山書院の有 司(運営・管理者)になったリュ・ハヌクさんが、晩対 楼から眼前の山を眺めている。

韓国の文�と芸� 21


1

いた。高齢で耳が遠いため、会話には相

先生は、「私もその姿に感化され、習練

そのような客人への対応は、一朝一夕

手の話を文字にしてくれる人が必要だ。し

と努力を重ねた末に、今では誰の前でも

では築けない伝統だ。「 1970 年、書院を

ビとしての知識と徳目で、穏やかに慈しみ

言う。キム先生は、企画予算処(現企画

統領が、楽な姿勢で会話をしていたので

かし、小学校で校長を務めた経験と、ソン

深く子供たちとのやり取りを楽しんでいる 様子が、表情から見て取れる。

その姿を見守っていた陶山書院長で修

練院理事長のキム・ビョンイル(金炳日) 22 KoreaNa 冬号 2015

正座をするのが当たり前になりました」と

訪問した当時のパク・チョンヒ(朴正煕)大

財政部)長官など政府高官だったが、引

すが、きちんと正座して客人に接する 14

び、今では書院と修練院の仕事に専念し

て正座をしたという話が、今でも語り草

退後にテェゲの精神に魅かれて儒学を学 ている。

代宗孫(現宗孫の祖父)を見て、座り直し

になっています。どんな客人にも正座して


丁重に接するのが、基本的な礼儀なので

ソニ(金善義)掌議(儒学者の長)は、実

ング (李東耉)有司は振り返る。

の仕事も熱心にこなしている。60 代だが、

ることを常に望んでいたという。それは、

コ 世 界 文 化 遺 産に登 録 申 請する際にも、

の中を正しくするためには、まず自分が

ト教徒で、「儒教は宗教ではない」と強調

ゲの教えを今、 84 歳の宗孫と後進が身を

割を担った書院を中心に、儒学の現代的

業家として忙しい中、時間を割いて書院

す」と、当時陶山書院で働いていたイ・ド

有司の中では若いほうだ。書院をユネス

テェゲは、この世に善良な人が多くな

積極的にかかわった。キム掌議はキリス

今日の陶山書院の存在目的でもある。世

する。朝鮮時代に各地域のカレッジの役

正しく行動しなければならないというテェ

もって示している。

なルネサンスのため毎年開催している書

院の行事以外にも、未来志向的な事業を

世の人々に寄り添う

多彩に構想していると胸を張る。

キム掌議は、本来 10 ~ 20 代が中心だ

全羅南道長城にある筆巌書院に旧暦8

月1日(新暦9月 13 日)朝7時に訪問する

った書院が、現代においても若い世代に

う定期饗礼を見ることができた。年に数

書院でクラシックコンサートを開き、近隣

と、すべての書院が毎月1日と15 日に行

夢を与えるべきだと考えている。そこで、

十回、このように大変な各種祭礼が行わ

住民から好評を得ている。また、書院を

れている。儀礼用の服を着た有司が、古

くから伝わる規範どおりに丁寧に儀式を

行う。公務員を退職した後、有司になっ

たキム・インス(金寅洙)先生は、大変で

はないかという問いに、責任感だと答え

2

そうした考えから、儒教の教えを今日

に合わせて読み解き伝えるため、難しく 書かれた性理学の経典を現代人が理解し

紹介して礼節教育を広く伝えるためのパ

ンフレットや動画の制作、所有している古

い書籍のアーカイブ構築など、書院復活 のために体系的な努力を進めている。

キム掌議は、朝鮮時代の礼学を導いた

る。「 全羅道で最も大きな書院ですから、 やすいように変えていこうと努力している。 キム・ジャンセン(金長生、1548 ~ 1631 ) 役割をきちんと果たすため、それぞれの

その一例として、春秋享祀前夜祭の行事

先生の子孫らしく、書院がまず子供の人

黙々と受け継いでいます」。

一般人による儒教関連の「白日場(科挙に

ている。そのため、自費で教材を作って

家門に任命された有司が、代表者として 男 女 七 歳 にして 席 を同じうせずとい

に、 年 輩 儒 学 者との性 理 学 経 典の講 読、 格・礼節教育の中心に行うべきだと考え ならった詩文コンテスト)」、筆巌書院が

地域の子供たちに配布し、学校を訪れて

う「男女有別」を話題にすると、キム先生

先 賢 として 祭 る キ ム・インフ( 金 麟 厚、 礼節教育を行っている。また、書院が知

代は過ぎました。現代文明の便利さを享

などがある。そうした行事にかかる費用

は笑いながら首を横に振る。「そんな時

受しながら、昔の教えを文字どおり受け

入れるのは不自然です。現代に合うよう

に解釈すべきでしょう」。

1510 ~ 1560 )先生を称える学術発表会

は関連家門が分担し、儒学の価値が新た

に紡がれるよう努力を続けている。

忠清南道論山にある遯巌書院のキム・

識人の拠点となっていた時代を思い、ユ

ネスコ文化遺産登録に備えて、一般の人

たちにも分かりやすく面白く儒学の精神と 価値を伝えようと、さまざまなプログラム

の開発を準備している。

1 宗家を訪れた小学生に儒教の徳目について説明する イ・ファン(李滉、テェゲ:退渓)の 16 代宗孫(宗家の 長男)イ・グンピル(李根必)先生と、真剣に聞き入る 生徒。どうしたら好きな仕事をしながら幸せに暮ら せるのかについて、フィギュアスケートのキム・ヨナ (金妍児)や歌手PSY(サイ)などの人気有名人を例 に挙げて話している。 2 筆巌書院の有史(運営・管理者)が、旧暦1日の祭享 (祭祀)を終えた後、その日の記録をしている。

韓国の文�と芸� 23


特集 4 書院、朝鮮時代の性理学の教育機関

長い眠りから覚めた 君子の士官学校 24 KoreaNa 冬号 2015

イ・チャンギ

李昌起、詩人、文学評論家

金政泰 写真


道東書院で行われた賜額(王による扁額の下 賜)奉献の再現行事で、賜額行列を待つ儒学者。 道東書院は「朝鮮五賢」の一人キム・グェンピル (金宏弼)の学問と徳行を称えるため 1568 年に 建てられ、 1607 年に賜額書院に昇格した。

韓国の社会は、いつの頃からか学校教育の崩壊を心配し、教育を立て直す方法を懸命に模索 してきた。かと思えば、アメリカのオバマ大統領は韓国の教育を称賛し、見習いたいとも言っ た。アメリカの政治リーダーが注目する韓国教育の価値とはどんなもので、韓国が失くしてしま

った教育の伝統的価値とは何だろうか。その価値を取り戻すためには、朝鮮時代に新儒学の 理念のもと、全人教育を追い求めた「書院」が役立つだろう。 韓国の文�と芸� 25


1 2

26 KoreaNa 冬号 2015


陶山書院において 2001 年、朝鮮中期の儒学者テェゲ(退渓、イ・ファン:李滉)の生誕 500 周年を 祝う行事が開かれた。その場で、21 世紀において儒教とは何かという話題が再燃した。志をひと つにした人々は、「ソンビ文化体験を通じて、ソンビの精神を受け継ぎ育む社会倫理実践の主体を 養成し、道徳的な国づくりに貢献する」という夢を持ち、陶山書院の付設機関としてソンビ文化修 練院の設立を進めた。

バマ大統領の韓国教育に対する称賛は、韓国にとって、 は私学の「書堂」で儒学の初歩的な知識を学び、 10 代半ばには もはやビッグニュースではない。オバマ大統領は、韓国

官立の「四学」や「郷校」で勉強した。科挙の「小科」に合格すれ

職業なのかを例に挙げ、教育における韓国の競争力を強調して

に磨きをかけ「大科」に合格する。これが、出世のための最も一

の教育の当事者である韓国人は心苦しく感じる。その言葉の根

士林は、そうして選ばれた官吏に対して、現実に追従するだ

の子供がいかに勉強熱心で、教師がいかに尊敬される

きた。しかし、そういった肯定的な発言が繰り返されるほど、そ 底に、韓国人の儒教的な教育観があることを読み取る者は、オ

ば、最高の教育機関である成均館に入学する。ここで更に学問

般的なエリートコースだった。

けだと不満を持っていた。ほとんどの官吏は儒教を受け入れは

バマ大統領が注目する韓国的教育の伝統が、今の韓国社会にど

したが、性理学を倫理や哲学というより、ただ世の中を治めるシ

と未来においても有効なのか、そしてその伝統がいつまで持続

と軋轢が生じ、多くの官吏が改革者の示した厳格な枠組みと速

れほど残っているのか、また産業化・資本化された時代の価値観

可能なのかを見つめ直し反省することになるからだ。

理想社会を夢見た支配階級エリートの教育機関

ヨーロッパがちょうど中世から脱し、いわゆる大航海時代が幕

を開けた頃、朝鮮半島では、朝鮮( 1392 ~ 1910 )という新たな

王朝が誕生した。朝鮮王朝を興した野心的な革命の主導者は、

ステム程度に理解していた。必然的に官吏と士林の間には競争

度に抵抗した。その結果、改革に乗り出した多くの士林が命を 落とした。士林が災いを被った「士禍」と呼ばれる4度の大きな

弾圧が、儒教的価値が拡大し始めた 16 世紀前半に集中してい

る点は、示唆するところが大きい。この血なまぐさい事件の後に 建てられたのが、書院だ。

新しい権力にとどまらず、新儒学という新たな理念の国を標榜し

誰が何を学んだのか

試行錯誤を繰り返すなど、長い適応期間が必要だった。

格した者(生員科と進士科)、または司馬試の初試に合格した者

た。朝鮮人が儒教的価値に慣れ親しむまでには、幾多の葛藤や 朝鮮は 500 年以上、王朝が続いた。その朝鮮をリードした支

配階級エリートには、官吏と、「士林」あるいは「山林」と呼ばれ

る公職に就かない在野の儒学者がいた。彼らは、自身の修養を

最初の書院である白雲洞書院は、「科挙のひとつ司馬試に合

を優先する」と、入学資格を規定している。これは、官立の成均

館とほぼ同じだ。白雲洞書院を建てたチュ・セブン(周世鵬)は、

おそらく初期の書院を地方の官学と考えていたのだろう。しかし、

通じて道徳的人格を備えた君子になろうとし、ひいては聖人が

テェゲ(退渓、イ・ファン:李滉)が建てた伊山書院の入学資格に

そうした支配階級エリートの非常に革命的で根本主義的な教育

挙の準備機関ではなく、各自の修練

王となり国を治めた古代の理想社会の実現を夢見た。書院は、 は、生員や進士に合格した者という規定はなかった。書院を科 機関だ。彼らは 300 年の間、書院を中心に書物を読み、講義や 議論を行い、志をひとつにして朝鮮だけの独特な儒教文化を築

いていった。

身分制社会であった朝鮮で出世するためには、特権階級であ

る両班として、科挙(官吏登用試験)に合格して官吏になるほか なかった。教育も、おのずと科挙のためのものだった。幼い頃

1 キム・ジャンセン(金長生)の 学問と徳行を称える遯巌書 院の秋季享祀(祭祀)。享祀 は、祭官が祭物を捧げる奉 進 礼、 絹 を 捧 げ る 奠 幣 礼、 酒杯を捧げる初献礼の順で 進められる。 2 屏山書院の秋季享祀(祭祀) でお辞儀をする献官(祭官)

と学問実践の場にしようというテェ ゲの意志がうかがえる。しかし、科

挙 試 験にも柔 軟 な態 度を見 せ、 地

域の儒学者を集めるという現実的な 事情も考慮していたようだ。時間が 経つほどに、書院は出世や功利主義

韓国の文�と芸� 27


から遠ざかっていった。

書院の講学(学問研究)機能は、大きく読書と講会に分けられ

る。読書は、儒学者個人が普段行う個別の活動、講会は基本 的に決まった時期に儒学者が集まって行う集団講学活動だ。

講 読 科 目 は、 四 書 や 六 経 の よう な 儒 教 経 典 と『 朱 子 家

礼』、『近思録』などで、書院ごとに違いはあるものの『小学』だ

けは、すべての書院が必読書とした。『 小学 』は性理学の中核

1 遯巌書院の礼学教室で、先生のお辞儀の手本を見つめる子供たち。礼 学の本山である遯巌書院は、地元の小学生を対象に礼節講座を続けて いる。 2 遯巌書院で行われる朝鮮時代の科挙の再現行事「郷試」で、答案を書き 込む参加者。郷試は初等部、中高等部、大学部、一般部に分かれて行 われる。 3 遯巌書院の凝道堂での音楽会。国楽(伝統民俗音楽)やクラシックの演 奏だけでなく、礼節教育、著名人の講演など、現代における書院の役割 を模索する活動が関心を集めている。

である修己と五倫をはじめとする儒教の実践規範を説く入門書 であり、朝鮮社会の儒教化のために国を挙げて配布した朝鮮最

高のベストセラーだった。有名な儒学者は皆、『小学』の教育と 実 践 に 力 を 注 い だ。 チ ュ ン ジ ョ ン( 中 宗、 在 位 期 間

1506 ~ 1544 )は、儒学や歴史の講義「経筵」を通じて自ら『小

学』を学び、「子供が学ぶ科目(童稚之学)」から「生涯学ぶ学問

( 終 身 之 学 )」に 格 上 げ させ た。ソン ジョ( 宣 祖、 在 位 期 間

1567 ~ 1608 )の師であったテェゲは、幼いソンジョに与えた『聖

学十図』に小学図を加えた。『小学』には「師が教えを施せば弟

子はこれを模範とし、素直に謹んで自らを白紙にし、学んだと

おり丁寧に履行しなければならない(先生施教弟子是則温恭自

虚所受是極)」という管子の一節がある。オバマ大統領が好きそ

1

うな言葉だ。

また、朝鮮の儒教化に決定的な役割を果たした本として『朱

子家礼』がある。この本には、冠婚葬祭など日常的で普遍的な 行為について規範が記されている。これによって、自分たちの生

活が人間らしい生活だという自尊心を持たせ、家族の愛情と尊 重を深めることに根本的な目的があった。

講学によって蘇る書院

朝鮮はソンビ(学識と人格を備えた人物)の時代だった。「天

の命令するものを本性といい、その本性に従って行うことを 『道』

といい、その道を修得することが教え(天命之謂性率性之謂道修

道之謂教)」だと考えた。また「国に道があれば出て仕え、国に 道がなければ、ただちに才能を巻いて懐におさめる(邦有道則

仕邦無道則可巻而懐之)」のが、ソンビの姿勢だった。師の教え

を重視し、師弟間の教えの道筋である「道統」を守ろうとしたの

も、性理学の独特な教育観だった。その道統を引き継ぎ「道」を 磨く場が、書院だった。

陶山書院において 2001 年、朝鮮中期の儒学者テェゲの生誕

500 周年を祝う行事が開かれた。その場で、 21 世紀において儒

教 とは 何 か という話 題 が 再 燃した。 志 をひとつ にした 人 々 は、「ソンビ文化体験を通じて、ソンビの精神を受け継ぎ育む社

会倫理実践の主体を養成し、道徳的な国づくりに貢献する」とい

う夢を持ち、陶山書院の付設機関としてソンビ文化修練院の設

立を進めた。その 10 年後、ソンビ文化修練院は、設備の整った 28 KoreaNa 冬号 2015

2


教室と宿を備えた「院祠」を設け、思い描いたとおりの教育プロ

んでいる。全羅南道長城の筆巌書院では、毎月1日と15 日の早

は西欧から学ぶものと信じ、伝統は保全さえすればいいものと

ンビ精神の一端を味わったといってもいいだろう。

日を記念し、書院が教育機関として本来の機能に立ち返る機会

演で、儒学の特徴を次のように説明している。

グラムを運営している。朝鮮が滅びた後、近代化のための道筋

考えられてきた。そうした時代に、テェゲ先生は 500 回目の誕生 を与えたといえる。

一連の動きに刺激受けた多くの書院は、それぞれの特色をい

かし、今にふさわしい変化を試みている。慶尚北道栄州の紹修

朝に厳粛で品位ある祭祀が行われている。これを見たなら、ソ 世界的な儒学者である中国の杜維明は、数年前ソウルでの講

「儒教は人間を孤立した島のように理解するのではなく、絶え

ず流れる水のように考えています。いつも躍動的で変化を追い求

めながら、常に自分を覚醒する、そんな存在だということです。

書院は、1泊2日のソンビ文化体験プログラムを運営している。 自分のことを、このように絶え間ない変化の渦中に置かれてい

ま た、 礼 学 の 大 家 と 呼 ば れ た キ ム・ジャン セ ン( 金 長 生、 る存在として理解するとき、人間は静的な意味における関係の

1548 ~ 1631 )を祭る忠清南道論山の遯巌書院は、近くに住む

中心ではなく、躍動的な意味における関係の中心に立つことが

生徒・学生を対象に礼節教育を数年前から実施している。さら

できるのです」。

慶尚北道安東の屏山書院では、「晩対楼」の素朴ながらも大胆

方を考える多くの人々が、杜維明の言葉に共感し勇気づけられ

に「人性芸術教育士資格」の試験を行い、奨励している。そして、 な建築美と、それと調和した山の自然景観が、ソンビ精神を育

豊かな社会、競争の社会といわれる今の時代に、教育のあり

ることを願う。

3

韓国の文�と芸� 29


特集 5 書院、朝鮮時代の性理学の教育機関

若い知性をいざなう 現代版書院

イ・ギル

李吉雨、ハンギョレ新聞選任記者

安洪范 写真

デジタル文化が溢れ返る中で、息つく間もなく変化する現代社会。しかし、その一方で、昔のやり方で古典を 暗唱・習得する若者もいる。数百年前、朝鮮時代のソンビ(学識と人格を備えた人物)が、静かな自然にたた ずむ書院に集まり、学問に精通した師のもとで天下万物の理を悟ったように、現代都市の真ん中で古典や人文 学を教える 「現代版書院」に若い知性が集まっている。

30 KoreaNa 冬号 2015


営学専攻のウ・ジニョン(禹珍英、 22 )さんは、「朝鮮時代の監獄と脱獄」というテーマでレポ

ートを書くため『朝鮮王朝実録』を読んでいる。彼女は海外で中学・高校を出たため漢字はほ

とんど知らないが、特に問題はない。500 年続いた朝鮮王朝の歴史記録の全文は、ハングル

訳がネットに掲載されており、監獄や脱獄に関する記録も随所に見られる。「単に昔のことだとは思い

ません。この地で数百年前に起きた出来事を見ていると、韓国民族に対する理解が深まります」。

洋の東西を問わず古典を読み漁る若者

法科大学院を卒業後、国際通商専門弁護士を目指すというウさんは最近、峨山書院で勉強している。

今まで接することのなかった多彩な知識を得て、自国への理解がより深まったと言う。レポートのテー

マも、そうした理由から決めた。

工学部生のキム・テヨン(金兌営、 24 )さんも、同じ書院で『千字文』や『撃蒙要訣』などの古典を通じ

て、昔の学者の探求心や政治哲学を学んでいる。機械工学を専攻するキムさんには、敷居の高い分野

だ。だが「これから社会に出て外国人に会ったとき、自信をもって話ができそうです。韓国の古典を通

じて、祖先が暮らした社会・文化的環境を知りました。また、西洋古典を勉強して、その考え方を理解 するのに、大いに役立つと考えています」と話している。

彼らは今年8月、同期 30 人とともに 10 対1の競争を突破し、峨山書院に入学した。ソウルの都心、

慶喜宮近くにある峨山書院は、SF映画のセットを思わせるモダンな建物だ。「 21 世紀型書院」を標榜

して 2012 年8月に開館した、若者のための新しい教育機関だ。教育方法は、朝鮮時代の書院での教

育方式に、イギリス・オックスフォード大学の哲学・政治・経済学( PPE )のカリキュラムを組み合わせた

ものだ。人文学的な素養が豊かで、国際感覚を持った「現代のリーダー」を育てるのが目標だ。

学生は最初の5カ月、寮で共同生活しながら人文学を学び、その後5カ月はワシントンや北京のシン

クタンクでインターンシップを経験する。アメリカのヘリテージ財団やブルッキングス研究所などで学術 大会に参加することもできる。韓国内の教育だけ

でなく、海外インターンシップに必要な費用も、す べて書院が支援する。峨山書院は、現代グループ

の創業者である故チョン・ジュヨン(鄭周永)会長の 雅号から名づけられた。

カリキュラムは 歴 史、 哲 学、 文 学 など基 礎 的

1

な人文学や、東洋・西洋の政治思想、国際政治、

経済、英語、全人教育などで構成され、ボラン

ティア活動、文化体験、スポーツなど多くの経験 ができる。さらに「修辞学」、「開放と閉鎖」、「建

築の空間社会学」など、普段は接する機会のない 科目も多数含まれている。課題が多く、 発表や 討論のために徹夜することもある。2科目以上落

とすと、書院をやめなければならない。「一生懸 1 ソウル北村の建明苑で、チ ェ・ジンソク(崔珍皙)苑長 の東洋哲学の講義を聞く学 生。毎週水曜日の夕方に東 洋・西 洋 哲 学 や 古 典 な ど、 さまざまな人文学講義が行 われている。 2 韓屋を改造した建明苑の講 義室で勉強する学生

命勉強しないとついていけない」と、学生は口を

そろえる。

峨山書院のキム・ソックン(金錫根)副院長(峨山

政策研究院・韓国学研究センター長)は、このよう な学び方を「書院ノリ (遊び)」と呼ぶ。嫌々学ぶの

ではなく、学びたいことを自ら探して自発的にする ということだ。キム副院長は「現実とかけ離れた

2

韓国の文�と芸� 31


人文学ではなく、現代に息づく人文学に接する機会を提供し、伝統的な書院と近代の大学を結び付け

て、現代にふさわしい教育機関になるよう努力している」と話している。

現在の卓越性よりも未来の可能性に注目

今年3月にソウルの北村(プッチョン)に開館した建明苑も、若者に東洋・西洋の哲学、芸術、科学な

どを教え 「未来型融合人材」を育成することが目標だという。斗陽文化財団のオ・ジョンテク (呉政沢)理 事長が、私財 100 億ウォン余りを投じた書院だ。

まず、多彩な教授陣が目を引く。苑長を務める西江大学哲学科チェ・ジンソク(崔珍皙)教授が全般

的な東洋哲学と老荘思想を、ソウル大学宗教学科ぺ・チョリョン(裴哲炫)教授が宗教とラテン語の古典

を、国民大学キム・ゲチョン(金開天)教授が芸術と建築分野を教える。韓国科学技術院( KAIST )電子

科キム・デシク(金大植)教授は脳科学を、物理学科チョン・ハウン(鄭夏雄)教授は複雑系ネットワーク

とビッグデータについて講義する。また、ソウル大学西洋史学科チュ・ギョンチョル(朱京哲)教授は近代 世界史を、西江大学哲学科ソ・ドンウク (徐東煜)教授は西洋思想を、高麗大学言語学科キム・ソンド (金 聖道)教授はメディア学を教える。

建明苑では 20 ~ 29 歳の学生 30 人が、毎週水曜の夕方に集まって4時間勉強する。老子の道徳経、

キケロの演説文などの古典を漢文やラテン語で暗唱しなければならない。10 カ月のカリキュラムを終え

朝鮮時代の書院が、科挙(官吏登用試験)の準備に忙しい郷校(地方の教 育機関)に代わってつくられたように、今や大学が就職のための学問へと様 変わりしたことで、多くの若者が現代版書院に目を向けるようになった。大 学において人文学が力を失っているのも事実だが、一方では厳しい経済論 理によって終わりなき競争社会を生きる現代人が、人生の意味を取り戻そう と人文学に答えを求めている。だからこそ、現代版書院に注目が集まって いるのだろう。

32 KoreaNa 冬号 2015

1 ワシントンD.C. のアメリカ 議会図書館を見て回る峨山 書院の学生。5カ月の人文 学課程を終えた学生は、次 の5カ月間、多彩な海外研 修プログラムに参加する。 2 韓国漢詩学堂で唐の詩人の 詩について教えるハ・ヨンソ プ(河永燮)院長。89 歳の 師 から詩 を学ぶ 50 ~ 60 代 の学生は、学習熱が高い。


ると、1カ月間の海外研修の機会が与えられる。 費用はすべて書院が負担する。

脳科学を教えるキム・デシク教授の授業では、

脳の思考パターンを読む技術「ブレイン・リーディ

ング」と、脳に特定の情報を入力する技術「ブレ イン・ライティング」の実験を扱っている。キム教 授は「人間の思考の 90 %は、錯視による脳解釈

の 結 果。つまり、 人 生とは 脳 が 情 報 を選 択し、 編集した結果 」だと言う。そして、 人生につい

て「生物学的に長生きすることは意味がない。人

間は認知的に長生きしなければならない」とも 述べ、講義を締めくくった。学生から拍手が湧

いた。

オ理事長は、教授陣に「学生を今の時代の反

2

逆者に育ててほしい」と頼んだ。「今の時代に逆

らってこそ、次の時代の中心に立てる。30 年後 に彼らの時代がやって来たとき、従来の考え方

では解決策を見いだせない。将来のリーダーには、考え方のフレームを丸ごと変えられる人文的素養

1

が欠かせない」と強調する。

建明苑では学歴、国籍、性別、宗教など、いかなる制限も設けず、情熱と創意性のみに基づいて受

講生を選抜する。平均競争率は 30 対1にもなる。前回の書類選考のエッセイは、「 30 年後の韓国と自

分の姿」というテーマだった。

漢詩で学ぶ祖先の風流と趣

ソウル鍾路区にあるタプコル公園のそばに住民センターがある。その屋上に韓国漢詩学堂がある。

11 年間、毎週火曜日に漢詩を教えてきたのが、学堂の設立者であり院長のハ・ヨンソプ(河永燮、 89 )

さんだ。「今では、生きている友達があまりいない」と言う。ここで漢詩を学ぶ 30 人余りの学生は、ほ

とんどが中高年の大学教授や元大学教授だ。ハ院長は、陸軍士官学校を出て軍人になり、除隊後に 公務員として働き退職した。そうした中、漢学者チョン・インボ(鄭寅普、 1893 ~ 1950 )先生の直系の

弟子ホン・チャンユ(洪賛裕、 1915 ~ 2005 )先生から 17 年間、漢詩を学んだ。

檀国大学哲学科キム・ジュチャン(金周昌)教授は、正統な漢詩を学ぶために9月からこの学堂に通っ

ている。キム教授の前に座っている学生は、受講して 10 年になる級長で、檀国大学哲学科ファン・ピロ

ン(黄必洪)教授だ。

50 代になってから漢詩にのめり込んだというハ院長は「漢詩は、 10 年以上勉強してやっと面白さが

分かる。漢詩の系譜を受け継ぐ弟子を育てることに、やり甲斐を感じる」と言う。「漢詩を理解してこ

そ、祖先の風流と趣を理解できる。現代の書院でも学べないことを、ここで学ぶことができる」と話し

ている。

その他にも、ブックカフェで古典を勉強する「キルダム書院」、周易や史記だけではなく朝鮮王朝実録

からスピノザまで多彩な本を読む「坎以堂(カムイダン)」など、小規模な学堂があちこちにできている。 朝鮮時代の書院が、科挙(官吏登用試験)の準備に忙しい郷校(地方の教育機関)に代わってつくられた

©峨山書院

ように、今や大学が就職のための学問へと様変わりしたことで、多くの若者が現代版書院に目を向ける ようになった。大学において人文学が力を失っているのも事実だが、一方では厳しい経済論理によって 終わりなき競争社会を生きる現代人が、人生の意味を取り戻そうと人文学に答えを求めている。

韓国の文�と芸� 33


フォーカス

34 KoreaNa 冬号 2015


生前の李梅芳(イ・メバン)が僧舞(スン ム)を舞っている。今年8月、 88 歳でこ の世を去った李梅芳は、「天から授かっ た才能の持ち主」と呼ばれ、まるで神が 乗り移ったかのような踊りで観客を魅了 した。彼は 20 世紀の伝統舞踊舞台で大 きく頭角を現し、韓国舞踊の保存に多 大な貢献を果たし、そして多くの弟子た ちを育てた。

「天から授かった名人」 李梅芳の舞の世界 才能に恵まれた踊り手、熱狂的な踊りで観客を魅了していた李梅芳(イ・メバン) が8月7日、88 歳で他界した。彼は 20 世紀の韓国伝統舞踊の舞台で大きく頭角 を現し、韓国舞踊の保存に優れた貢献をし、大勢の弟子たちを育てた。繊細で 優雅な舞で多くの人々の心を惹きつけた李梅芳はこの世を去ったが、彼が与えた 舞の感動はこの先も長く余韻としてずっと残るだろう。

ヤン・ジョンスン

梁鍾承、韓国芸術総合学校客員教授

崔秉載 写真

韓国の文�と芸� 35


1

作家の故・車凡錫(チャ・ボムソク)さんは、 2001 年「李梅芳踊り一筋の大公演」を見て、 次のような言葉を残した。「李梅芳は名舞とされている。その理由は人それぞれだと思う

が、彼の舞は魂の込められたものだ。彼の舞は心から湧き出るものだ。それは単なるテ

クニックではなく、精魂を傾けて祈るかのような踊りだ。そのため、踊る姿や表情はとても美しく、 厳粛さと絶妙さを超えて神秘的である。舞台全体を包み込む彼の果てしないエネルギーと虚空の 舞いの波長は、もはやこの世のものではない」

7歳ごろ始まった舞の人生

李梅芳は、 1927 年全羅南道・木浦(モクポ)で生まれた。彼の家は、祖父の代まで覡(おかんな

ぎ)生業を引き継いできたが、父親のみが志を異にして覡になることを拒否した伝統的な覡家系だ。

そのような家系の血統を受け継いだだけに彼は小さい時から踊り手として卓越した才能を発揮した。 李梅芳は、4~5歳の頃から姉たちのチマチョゴリを着て母親の鏡台の前でよく踊ったりした。7歳

の時には隣の咸菊香(ハム・グクヒャン、木浦の券番の長)の勧めで券番に入った。そこで結った髪

を背に長く垂らした十歳前後の童妓たちとともに舞の稽古に励んだ。李梅芳は、歌、太鼓、踊り などで名声を博した当代最高の鼓手・踊り手だった祖父の李大祚(イ・デゾ)から僧舞(スンム:朝鮮

民族舞踊の一つで、白い山形の傘をかぶり白い僧衣を身に着けて舞う舞)と剣舞などを教わり、小 36 KoreaNa 冬号 2015


学校時代には券番に通って僧舞と太鼓を習った。

日本植民地時代に満洲で学校に通っていた彼は、北京に住んでいた姉の家を訪れた際、中国の

伝説的な京劇俳優で舞踊家の梅欄芳(メイ・ランファン、 1894 - 1961 )の公演に魅了され、彼か

らほんの少し踊りを教わる幸運に恵まれた。梅欄芳から長剣舞と灯りの舞を学び、本名も李圭泰

(イ・ギュテ)から李梅芳に改名した。

彼が舞踊界にデビューしたのは 1948 年である。当時、浦木でパンソリ(朝鮮の伝統的民族芸能

で物語性のある歌と打楽器の演奏)の巨匠・林芳蔚(イム・バンウル、 1904 - 1961 )が率いる名唱

大会が開催されたが、その公演で僧舞を舞う予定だった人が現れなかった。主催側が踊り手を手 配していたところへ、師匠の紹介で李梅芳が代わりに舞台に立つことになった。初舞台で彼は観

客から熱い支持を受けた。その後、 1953 年光州(クァンジュ)で初の個人発表会を皮切りに、舞踊

1 菩念僧舞(ポリョムスンム)は、李梅芳 (イ・メバン)が仏教の儀礼に基づいて 振り付けをした群舞である。布施と 念仏、つまり財物と仏法で恵む、他 人に施す慈悲を象徴する作品で、バ ラチュム(シンバルの舞)の動作が華 麗である。 2 李梅芳(イ・メバン)が「士風情感(サ プンジョンガム)」の初めの部分で扇 に絵を描く動作を表現している。学 識経験者が真理に気づいた後、心の 奥深いところから湧き出る歓喜を表 現したもので、代表的な男性の踊り である。

人生 50 周年、 60 周年、 70 周年の公演をはじめ、生涯を通して国内外で数多くの公演を行った。

1980 年代からは米国、欧州など世界各地で韓国の伝統舞踊を知らせる上で大きな役割を果たした。 1998 年にフランスの「アヴィニョン演劇祭」に招待されて公演を行っており、同年フランス芸術文化

勲章を受章した。

李梅芳の家族はいずれも彼と同じ道を歩んでいる。妻の金明子(キム・ミョンザ、 73 )と一人娘の

李炫周(イ・ヒョンジュ、 39 )がそれぞれ重要無形文化財の僧舞とサルプリ・チュム(舞)の伝授助教

と履修者として彼の後を引き継いでいる。その他、韓国舞踊界を代表する多くの舞踊家たちが李梅

芳の弟子であり、 1,000 人余りの弟子たちが彼の僧舞を学び、サルプリ・チュムを引き継いでいる。

伝統舞踊の保存と普及に捧げた生涯

李梅芳は、「天から授かった才能の持ち主」と評価される。彼は、朝鮮中期以後、仏教信仰、民

族行事、流浪芸人、シャーマニズムなど、韓国の伝統の中で受け継がれてきた踊りを継承し、優 れた舞台芸術として発展させた。彼の舞は、伝統社会の民衆の哀歓を表現する一方、厳格さと品

格を兼ね備えた芸術として昇華させた。舞踊評論家の姜理文(カン・イムン、 1923 - 1992 )は、

李梅芳を「国舞」と位置付けており、その他の多くの文化界の要人たちも彼を「神に祝福された踊り 手」と呼んだ。李梅芳は、現代社会で大衆から見放されてしまった民族舞踊に息を吹き込んで復活

させ、正真正銘の現代の舞踊芸術へと昇華させ、ひいて は国家文化遺産として磨きをかけてきた。

李梅芳は、伝統舞踊の中に秘められた民衆の芸術的な

思想と精神を再生した。彼の舞は、韓国の大地で自主的

に発展してきた民俗舞踊の根として受け止められ、韓国舞

踊芸術史に独創的な舞として位置づけられた。彼のその

ような努力が認められ、 1987 年重要無形文化財 27 号・僧

財 97 号・サルプリチュム芸能保有者として新たに指定され

た。

李梅芳の踊りのルーツを遡ると、申芳草(シン・バンチ

ョ)という人物にたどり着く。全羅南道・玉果(オククァ)出

身の申芳草は、 1817 年巫女家系に生まれた才人(芸人: 高麗と朝鮮時代の最下層階級の一つ)で、神がかりの儀式

で巫女の世話役として働いた。舞はもちろん、全羅南道

民謡、歌曲、歌詞、リズムなどに長けており、全羅南道 地域一帯で非常に高い名声を得た。そのため彼は当時全

2

©宇峰(ウボン)・李梅芳(イ・メバン)アートカンパニー

舞芸能保有者として認定され、1990 年には重要無形文化

韓国の文�と芸� 37


羅南道地域の有名な巫女たちの間で引っ張りだこだったという。申芳草の舞は、申永洙(シン・ヨ

ンス)、安斗温(アン・ドゥオン)、李正善(イ・ジョンソン)に伝授された。李正善は舞に限らず太鼓

叩きにも優れた才能を発揮し、パンソリも上手かったので人々から優遇された。彼の舞は木浦出 身の金今玉(キム・グムオク)と朴貴洙(パク・クィス)に引き継がれた。

その後、李梅芳の代々の師匠にあたる朴永求(パク・ヨング)、李大祚、李昌祚(イ・チャンゾ)、

チン・ソクサンなどに継承された。朴永求は、全羅南道・和順(ファスン)生まれで、僧舞と太鼓叩き

の名人であり、光州の券番で舞を教えた。李梅芳の祖父である李大祚は、全羅南道・務安(ムアン) 出身で、僧舞の大家であり、木浦の券番で舞を教えた。李昌祚は、全羅南道・凌州(ヌンジュ)出 身で、剣舞に秀でた才能を発揮しており、同じく券番で舞を教えた。また、チン・ソクサン(陳素紅

とも呼ばれる)は、全羅南道・潭陽(タムヤン)生まれで、ソウル・仁寺洞(インサドン)で飲食店を営 む傍ら、サルプリ・チュムを伝承した。李梅芳は彼らの舞の受け皿となったわけだ。特に、彼が祖 父の李大祚から習った僧舞は、6代目に引き継がれたものだった。

全身で表現される僧舞の控えめな美しさと優雅さ

李梅芳の代表的なレパートリーは、僧舞とサルプリ・チュムをはじめ、立舞、剣舞、長剣舞、杖

鼓舞(チャンゴチュム)、士風情感(サプンジョンガム)、草笠童(チョリプトン)、昇天舞(スンチョン

ム)、テガムノリ、祈願舞(キウォンム)、菩念舞(ポリョムム)、鼓舞(コム)、小鼓(ソゴ)チュム、 サラン(愛)歌、花郎道(ファランド)、閑良舞(ハンリャンム)、神仙舞(シンソンム)、春香伝(チュ

ンヒャンジョン)など、 19 の舞が含まれている。

李梅芳の僧舞は、仏教的色彩が濃く、韓国舞踊ならではの「静中動」の情緒がうまく表現されて

いる。彼は、品を失うことなく激しい動作で、遊郭から伝承された僧舞を芸術として昇華させたと 評価される。彼が舞う僧舞は、世俗的な苦悩と煩悩から脱し、人生の長い道のりを豊かに昇華さ

せようとする努力が含蓄した、極めて人間的な人生の一代記のようだ。

サルプリ・チュムは、シャーマニズムで厄払いの意味の舞である。李梅芳のサルプリ・チュムは、

控えめな切実さが特徴的で「魂の込められた舞」と褒め称えられており、メリハリのある動作ととも

に控えめな美しさが際立つ。

李梅芳の舞には、軽さと重さ、素早さと鈍さ、揺らめきと頑なさ、繊細さと力強さ、精巧さと荘

重さなどバラエティーに富んだ形で表現される。それに加えて、悲しみと喜び、名残惜しさと安堵

感、煩悩と歓喜、静寂と騒然などさまざまな感情が描写され、彼の舞は究極的に人生の苦悩と哀

歓、そして希望と幸福を抱え込む。このような感覚と感情は、極度に微妙かつ繊細な彼の足取り、 精巧な腕と手の動き、さまざまな体の回転ぶり、まるで神がかったような深遠な表情の中で、鳥肌

の立つ感動的な表現力となる。

「生涯、食べるものや着るものに欲もなく、舞一筋の人生だった」と口癖のように言っていた李梅

には舞台衣装まで直に仕立てて着せるほど、舞においてはとことん妥協を許さず、完璧さを追い求

めた師匠であり、芸術家であった。劇作家の車凡錫(チャ・ボムソク)は、彼の公演のお祝いのメッ

セージとして、以下のような文言を書いた。

「あなたは世界で最も孤独な人なのかもしれない。夜明け前の未明の道を一人で行く旅人だと言

っても過言ではないでしょう」

「踊り手は魂の清い人でなければ舞も美しく表現できない」というこだわりを一生貫いてきた李梅

芳。-彼の徹底的な芸術魂と舞の哲学は、後裔たちの記憶と身振り手振りの中に永遠に生き続け

るだろう。

38 KoreaNa 冬号 2015

©宇峰(ウボン)・李梅芳(イ・メバン)アートカンパニー

芳。彼は、舞の基本よりも名声ばかりを追う弟子には、厳しく叱りながらも公演を控えた弟子たち


「李梅芳の舞は魂の踊りだ。それは単なるテクニックでは なく、精魂を傾けて祈るかのような踊りだ。すなわち、 舞う姿や表情はとても美しく、厳粛さと絶妙さを 超えて神秘的でさえある。舞台全体を包み 込む彼の果てしないエネルギーと虚空を 埋める舞の姿は、もはやこの世の ものではない。

李梅芳(イ・メバン)のサルプリ・チュム(舞)は、彼の故 郷の全羅道(チョルラ道)地方のサルプリ・チュムの命脈 を継いだもので、グッパン(厄払いの儀式)で執り行わ れていた信仰儀礼を舞台芸術に昇華させた。

韓国の文�と芸� 39


文化遺産の継承者

コムンゴで 伝統を守る

深く低い音色で「男性的な楽器」だと言われ、 1500 年の歴史をもつコムンゴ、その演奏者ホ・ユンジョン (許胤晶)は国内よりもむしろ海外でその名を知られ ている。思索と霊性の色合いの濃いコムンゴの魅力 にとりつかれ、その永い伝統を守ろうと一筋に歩み 続ける彼女には妥協を知らないソンビ精神が感じら れる。楽器と舞踊の両方に通じる彼女が人生の同伴 者として選んだのがコムンゴ、玄琴だ。彼女の思索 と疎通、そしてコムンゴの深い響きが一つになって誕

生する感動のドラマ、それは決して期待を裏切ること はない。 チョン・ジェスク

鄭在淑、中央日報論説委員 兼 文化専門記者

羅承烈 写真

1

40 KoreaNa 冬号 2015


・ユンジョン(許胤晶 )は月日の流れの中で忘れ去られ

です」

的な音楽として生き返らせた。フュージョンやクロスオ

コムンゴを招いてくれる演奏会が少なかったからだ。伝統楽器の

家たちを横目に彼女はただひたすらコムンゴを守ってきた。彼女

とはなかなかなかった。自らの意志というよりは半分は世の中

に満ち溢れている。彼女は華奢なタイプだ。しかし彼女が舞台

に対する驚きと賞賛が海外のミュージシャンの間で話題になるよ

ようとしていたコムンゴ(玄琴)の太い音色を最も現代

ーバーの波の中で西洋音楽に向かって走り去る多くの国楽演奏 が奏でるコムンゴの音色には妥協しない国楽の精神、伝統の力

ホ・ユンジョンの演奏は一時、国内ではめったに聞けなかった。

独奏舞台を難しく退屈なものだと思う韓国の観客の前に立つこ

のせいで海外での活動が増えて行った。彼女のコムンゴの演奏

で作り出す骨太の音楽に酔いしれた人々はどこからあんな力が

うになる。今年7月国立劇場で開かれた国楽祭り「ヨウ楽(ここ

がら、彼女はその体躯の枠を超えた大きな快感を味わせてくれ

還だと言っても良いだろう。今回の公演の芸術監督でジャズアー

出てくるのかと驚く。パワーのある、響きの大きな楽器を扱いな

る。

にわれらの音楽がある)」はそのような意味でホ・ユンジョンの帰

ティストでもあるナ・ユンソン(羅玧宣)が彼女を 「今年のアーチス

「コムンゴは本能的に私とよく合う楽器だと思います。幼い頃、 ト」に強く推したのだ。

伝統舞踊を習っていましたが、そのリズム感がコムンゴにはあり

「その間、海外で熱心に演奏していた経歴が無駄ではなかった

ます。スルテという棒で弦を叩いて音を出す打楽器的な要素が

と思いました。ピリ(縦笛)の名人チョン・ジェクック(鄭在国)先

弦を叩くときにそのまま応用できるんです。チェロやビオラのよう

と一緒に舞台に上がり、代を受け継いでいるんだと言う誇らしい

なりました」

と呼吸する伝統の美徳を見つけました」

深く狭いコムンゴの魅力

支えるリーダーとなるコムンゴの力

が薄くなっていった時代だった。一時は成績優秀な生徒しか専攻

たいろいろな試みを見せてくれた。それは海外のフェスティバル

非常に面白いんです。私がサムルノリから学んだ農楽のリズムが

な低い音域の楽器が好きだったのもコムンゴを選択した理由と

彼女が音楽を習っていた 1980 年代はコムンゴが段々とその影

生、デグム(横笛)の名手ウォン・ジャンヒョン(元長賢)先生たち 気持ちで胸が一杯になりました。先生方と音楽で共感し、時代

ホ・ユンジョンは 2015「ヨウ楽」公演でコムンゴを前面に出し

できなかった「楽器の中の楽器」だったコムンゴがフュージョン音

や劇場で熱い反応を巻き起こしてきたコムンゴ演奏者としての自

ようになると、重たく変身も難しいコムンゴはだんだんと演奏者

ズミュージシャンたちとの共演ワールドミュージックプロジェク

楽の波の中でその地位を失っていく。国楽の大衆化が叫ばれる

信が感じられる舞台だった。アメリカニューヨークのフリージャ

から煙たがれる楽器となっていった。

ト「トリアンサンブル」、即興性を基にした弦楽バンド「ブラックス

たこともありました。アジェンを演奏しながらカタルシスを感じ

トリオ」などで培った力が音楽に自然に溶け込んでいた。

「私も一時はアジェン(牙琴)を専攻にしようかと心が揺れ動い

ました。しかし2、3年ほどすると、やはり違うという気がしまし

トリング」、中国の琵琶と日本の三味線とのコラボである「イース 「ジャズアーティストと作る舞台『タイムリスタイム』でコムンゴ

た。浮気をして本妻のことを改めて強く思い直したというところ

は中心ではなく枠組みの役割を果たしました。私を知っている何

く浅くいくよりも狭く深く行こう。そう私の音楽の世界を決めたん

と言ってくれたほどです。後ろから押してあげ、支えてあげる役

彼 女のこのような信 念の確 固 は 父ホ・ギュ( 許 圭、 1934 ~

た。独奏者でありリーダーとしてのコムンゴの力量を発見しまし

精神を今日に復活させようと演劇の場を作り出した劇作家兼演

50 歳を前にして彼女は若い国楽の演奏者たちを発掘し育てな

でしょうか。むしろどんどんコムンゴに魅せられていきました。広 です」

2000 )の影響が大きい。国立劇場長を務めた父親は伝統宴戯

人かが後で、予想よりもあまり目立たなかったが非常に独特だ

割です。他の楽器の音を包んで包容していくのは大きな喜びでし

た」

出家だった。ホ・ユンジョンが代表をつとめる北村昌優劇場は、 ければという使命感を感じているという。冷たい風の吹く国楽界 生前に父が心血を注いで設立した演劇専用劇場だった。その舞

台に立った数多くのグァンデ、大道芸人たちを見ながら幼いユン ジョンは芸人の歩むべき道を心血に刻み込んだ。

「 父は私に永遠を追求しろと言いました。私にはその永遠が

コムンゴというわけです。最近、北村昌優劇場が企画するさま ざまな公演もまた、伝統芸術のもつその永遠性を再現する作業

で苦労を目の当たりにしていた幼いころに強く思った、先輩にな 1 ホ・ユンジョン( 許 胤 昌 )が 2015 年 7 月 国 立 劇 場 で おこ なっ た「ヨウ楽」フェスティ バルで「今年のアーテ ィスト」に選定されコ ムンゴを演奏している。

るんだという誓いだ。自分の音楽で勝負

をかけるという気持ちよりは一緒に音楽 を作っていかなけれ ばならないという共

同意識がより湧き上がる時点に到達した

のだ。利己的な音楽より温かく柔らかな 韓国の文�と芸� 41


©光州ワールドミュージックフェスティバル

1

「私のアイデンティティーは伝統です。つねにそこにかえって行きます。あれこれと関心のある音楽 に触れはするものの、結局は私をしっかりと支えてくれる伝統に回帰します。私の音楽を解きほぐ してくれるコムンゴはまさにその伝統の核となる楽器です」 音楽が今、彼女を主導している。

「コムンゴが私を教えてくれる師匠です。コムンゴは国楽器の

核であり、深い哲学を秘めている楽器です。西洋の楽器で言え

ば「アノ」にたとえることができます。伝統礼楽思想を具現するこ

とのできる力のある楽器です。朝鮮時代の高潔な学者たち、ソン ビの精神が溶け込んでいます。たぶんそれでコムンゴを男性に例

えるのでないかと思います」

ホ・ユンジョンはそんな男性的な楽器に女性のもつ長所を吹き

込み、コムンゴのスペクトラムを拡大している。子供を抱きしめ

る母の母性愛を音楽的な包容力で変奏するというわけだ。ジャ ズボーカルと出会い、電子音楽とコラボし、共演の美徳をコム

ンゴの音に乗せて運んでいる。

コムンゴの魂、その根深い伝統の力

1 2013 光 州 ワールドミ ュージックフェスティバ ルの「韓中日プロジェ クト」でホ・ユンジョン が多様なジャンルの音 楽家たちと共に公演を している。左からジャ スボーカリスト兼作曲 家 の ジェン・シュ( 米 国)、琵琶演奏者ミン ・シャオ・ポン( 中国 )、 コムンゴのホ・ユンジ ョン( 韓 国 )、 打 楽 器 演 奏 者 サト シ・武 石 (日本) 2 ホ・ユンジョンが 2013 年 国 立 劇 場で開か れ たナ・ユンソン( 羅 玧 宣 )カルテットの公演 にゲストとして出演し 共演している。

ホ・ユンジョンは伝統と現代、規範と破格を行き来しながらも

根深い木のようにまっすぐだ。彼女のこのような点を高く評価

し 「ヨウ楽」の中心においたナ・ユンソンは「ホ・ユンジョン先生が 光るのは伝統の重さを備えているからです」という。重要無形文

化財第 16 号ハン・カプトク(韓甲得、 1919 ~ 1987 )流のコムン

ゴ散調の伝承者として一つの道を歩き続ける姿勢にぶれを見せ たことはない。彼女にはいつでも帰る故郷、伝統がある。一度 もコムンゴよりも良い楽器には出会ったことがないという。

「私のアイデンティティーは伝統です。つねにそこに帰って行き

ます。あれこれと関心のある音楽に触れはするものの、結局は 私をしっかりと支えてくれる伝統に回帰します。私の音楽性を解

42 KoreaNa 冬号 2015

2


きほぐしてくれるコムンゴはまさにその伝統の核となる楽器です」

人々が展示会にも足を運び、勉強しながら作品が何を言おうと

ホ・ユンジョンが古楽譜をみつけだして演奏しようとしている理

しているのか関心を持っています。それなのになぜ国楽にはそん

奏していたコムンゴとテグムによる雅楽「平調会相」を現代の演

で引き寄せることは私たち供給者の力不足な部分が多かったと

を出した。コムンゴの曲がほとんどない北韓の資料も詳しく調べ

ます。伝統音楽を難しい、優しいの次元で何かいうのではなく。

間には海外公演に出かけ、国内の舞台にも立つ。8月には英国

少したびたび接する機会を持つべきです」

由でもある。彼女は 1930 年代から 40 年代の李王職雅楽部が演

奏者たちが簡単に演奏できるように採録した国文・英文の楽譜集

てレパートリーを増やす作業もしている。CDも準備中だ。その のロンドン、 10 月にはソウルの 2015「 ジャーニー・ツー・コリアン

ミュージック」で共に演奏したアンサンブルサニ( SAnI )は互いの

音楽性を知っている知音だ。サニはもともと「道化師や芸人」を

な努力を傾けようとしないのでしょうか。過去の音楽を今ここま

言えます。しかしもう需要者の姿勢も少しは変わるべきだと思い

ただ良ければ良いのです。音楽が心に響き好きになるにはもう 彼女は国楽が大衆と広く疎通する未来を夢見ている。海外で

輝いたホ・ユンジョンの風流と興を国内につなぎ伝えるのに努力

すると言う。そのためには観客と触れ合う場がを増やさなけれ

意味する韓国語だ。学生時代から呼吸を合わせて来ているので、 ばならない、それで熱心に舞台に立とうとしている。

いつでもどこでも会えばすぐに息の合う音楽の仲間たちとアンサ

ンブルを組織し、サニという名前をつけた。

「気が合えばジャンルが違い、国籍が違っても、誰とでも一緒

にできるのが音楽です。国楽は大衆に人気がなく、理解されな

いのは接点が少ないからだと思います。例えば、美術は多くの

「体力ですか? 舞踊で鍛えた身体なので健康だけは自信が

あります。父が演劇のリハーサルに入ると7、8時間、夜を徹し

て集中していたのを見たことがあります。そのエネルギーを私も 受け継いでいるようです。頼もしい同伴者コムンゴが友となって

くれるので、何の心配もありません」

韓国の文�と芸� 43


オン・ザ・ロード

奥深い山河

アラリのリズムににじみ 出た哀歓、寧越と旌善

クァク・ジェグ 郭在九、詩人

安洪范 写真

韓国で最も辺鄙で山奥の町と言われる寧越(ヨンウォル)と旌 善( チョン ソ ン )に は、 悲 運 の 幼 王・端 宗( タ ン ジ ョン、 1452 ~ 1455 )の悲しみを秘めた清冷浦(チョンリョムポ)と 旌善アリラン(韓国伝統民謡)の痛切な歌のメロディーが伝わ るアウラジという町がある。今では、廃坑となった舍北(サプ ク)にカジノができ、清冷浦には観光客の足が絶えないほど 賑わっているが、なお山深い里の昔の趣を懐かしがって旌善 の5日市場を訪れる人々も少なくない。

44 KoreaNa 冬号 2015


江原道・寧越(カンウォンド・ヨンウォル)にある悲運の 幼王・端宗(タンジョン)の墓一帯が雪に覆われている。 端宗は、肅宗(スクチョン)王時代の 1698 年復権され、 端宗という墓号を与えられ、王の地位にふさわしく墓 も整備されて莊陵(チャンヌン)に復元された。

韓国の文�と芸� 45


1 観光客が観光列車アラリ号に乗って雪に覆われた旌 善(チョンソン)の美しい風景を楽しんでいる。旌善5 日市場に合わせて、五日に一度ソウルから出発する 同列車に乗れば、旌善のアウラジ、アラリ村、旌善 市場などを見て回れる。 2 旌善アリランの伝説の主人公の女性像がアウラジ江 を眺めながらて立っている。ここには真夏に川の水 嵩が増し、会えなくなって気をもむカップルの愛の話 が切ない歌とともに伝わっている。

1

光が明るく照らす山道。

15 日の夜、江原道の奥山を車で走るのは旅行者にとっては祝福だ。月光

は、路面に塩のように白く積り、周りは静まり返っている。物音一つしない静

かな山道を車は月光を浴びながら上る。寧越から旌善を経て洪川(ホンチョン)へ向か

う道。私が初めてこの道に出会ったのは、 1990 年 10 月のある夜。月光が絹のように

男性の選択が果てしなく美しくも悲しいも

のに思えた。この世で彼は英語教師兼詩

人だった。彼が書いた一遍の詩をここに 書き写す。

柔らかく美しい夜だった。ヘッドライトで月光が色あせてしまうような気がしてならなか

を走らせた。

満ち足りた気持ちがわかりましたが

「死」をもって愛を完成させた詩人

空虚な気持ちがわかりました

った。その夜、私はヘッドライトを消したまま、少し泣きながらその山道をおもむろに車

1990 年 9 月 1 日、嶺東(ヨンドン)高速道路で雨に濡れた路面を猛スピードで走行して

星を知ってから

いた一台のバスが南漢江(ナムハンガン)の支流の蟾江(ソムガン)に転落し、乗客 28 人

星を知る前

男性は妻と息子を失った。彼は、連日降りしきる雨に降られながら、この世での最後の

星を知ってから

のうち24 人が死亡する大事故が発生した。この事故で張在仁(チャン・ジェイン)という

15 日間を蟾江の川沿いで、事故死した妻と息子が生き返ってくることを待ち焦がれてい

た。夜になると焚き火で川岸を照らした。事故から5日後に妻の遺体が、それから8日

信念の豊かさがわかりましたが 豊かさの中の渇きに目覚めました

後に息子の遺体が発見された。15 日間の間、蟾江を照らしていた焚き火も燃え尽きた。

星が心の中に入り込んだあの日から

込んだ妻のように、私も妻子の後を追ってこの世を去るつもりです。これは事故現場に

心の片隅は

「不幸な人の人生に巻き込まれて苦労させられた妻!息子の後を追って再び川に飛び

着いてから川面を眺めながら、自分の胸の中にしまっておいた唯一の願望でした。……

どうか妻子の後を追う私の死を悲しまないでください。私ども3人家族が二度と離れる

心は星で一杯でしたが

空っぽであることに気づきました

ことがないように再会と幸せをお祈りください。いつも謙遜しながら献身的に支えて、

星を知る前

名を呼びながら駆けつけてくるかのような気がしました」

星を知ってから

貧しかった私の人生を豊かなものにしてくれた、かけがえのない妻と息子がまるで私の

25 年前に私はこの世で一度も会ったことのないある男性を追悼するために、この道

に初めて足を踏み入れた。愛する妻子と人生の最後まで一緒にいたいと思った 33 歳の 46 KoreaNa 冬号 2015

静寂だと思っていたものが 渦であることがわかりました 〈星〉全文


2 韓国の文�と芸� 47


人生の本質は、喜びよりは予測のつかない暗い雨雲の方にあるといえる。 山深く、荒波は険しくとも人々は喜んでこの僻地に足を運び温かい息吹を吹き込む。

端宗が悲劇的に人生の幕を閉じた清冷浦

その後、大臣たちの中から端宗の復位

寧 越 は、 史 上 最 も悲しい人 生 を送ったもう一 人 の 男 の 話 を秘 めたところである。 を図る秘密の動きが出始めた。明の使者

朝鮮の第6代王・端宗。ハングルを創世した世宗(セゾン)王の孫として生まれ、母親

をもてなす席で王を殺そうという決死会

は出産の後遺症で彼が生まれて3日後に亡くなった。世宗は後継者の端宗が愛おし

の暗殺計画が密告によって露見した。王

2年でこの世を去り、端宗は 1 2 歳という幼い歳で王位に就く。父も母もいない幼王

刑に処し、3族までを滅 ぼした。この時

く背中に負ぶって散策をしていたという。父親の文宗(ムンジョン)は病弱で即位から

は反逆に加わった臣下たちを八つ裂きの

の運命は過酷なものだった。政権欲に駆られた叔父の首陽大君(スヤンデグン)は、 亡くなった6名の臣下たちを後々、ソンビ

1 4 5 5 年幼い甥から玉璽(ぎょくじ=王の印章)を奪い取り、王になった。世祖(セジョ

・在位期間 1 4 5 5 ~ 1 4 6 8 )である。 48 KoreaNa 冬号 2015

(学識と人格を備えた人物)精神のシンボ

ルとして褒め称え、死六臣(サユクシン)


と呼んだ。死六臣には成三問(ソン・サムムン)、朴彭年(パク・ペンニョン)、李塏(イ・ゲ)、 河緯地(ハ・イジ)などがいる。

魯山君(ノサングン)に地位を格下げされた端宗は、寧越に配流されて清冷浦で暮らした。

三面は荒波を浴び、背面には切り立った断崖があることから刀山(トサン)という地名がつ

いた。舟でなければ立ち入れないところだった。17 歳の廃王(廃位された王)は、清冷浦で 妻の定順(チョンスン)王后を想いながら子規(ザギュ・ホトトギス)詩一遍を残した。 悔しい思いを胸に、鳥一羽宮中を去る

孤独な影、伴侶を失い緑の山を彷徨う 夜は深まるが寝つけず

年が明けても恨めしい気持ちは果てしない 端宗はその後、彼が生きている限り自分の王位が危ういと感じた世祖の命令によって薬

殺刑に処された。絶えず自殺を強要されたとも伝わる。生まれて三日目に母親を亡くし、

さらに十二歳で父親にも先立たれて王位に就いたが、3年後、血で血を洗う政変に巻き込

まれて、辺鄙な山奥に配流されて 17 歳でこの世を去った端宗、なんと悲しい運命だろう。 寧越にある莊陵(チャンヌン)は、端宗が埋められた墓である。庶民の身分で死を迎えて秘

密裏に仮埋葬された彼の墓は、2百年余りが経った肅宗(スクチョン)王時代になってようや

く正式の王陵として復元された。

東江(トンガン)の流れが弱くなる冬、寧越の人々はこの時、祭りを楽しむ。東江と向か

い側の徳浦(トクポ)の堤防をつなぐソプタリ (臨時の橋)を掛け、川を渡る祭典である。ソプ

タリは、東川の水嵩が下がる秋に細枝を丁寧に組み合わせて作っては、翌年の夏に水嵩が 増すと流されてしまう橋である。ソプタリを見ていたら、厳しい環境に耐えて越冬してきた 人々の知恵がうかがえて心が和んでくる。凍結した川を渡って戻ってくるのは、人生を彷彿

させるものである。不完全なソプタリを前もって渡ったのだから、翌年の彼らの生活には必 ず丈夫な石橋が待ち受けているだろう。

アウラジで芽生えた男女の愛

道は寧越から旌善に差し掛かる。

旌善を語るためには、まず最初にアウラジを訪ねなければならない。アウラジは二つの

支流、松川(ソンチョン)と骨只川(コルジチョン)が合流するところである。この地域の人々 は松川を陽水、骨只川を陰水としているが、陰陽のエネルギーが調和して初めて暮らしや

すい環境になる。アウラジは、まさに二つの川が合流して「オウロジダ(調和をなす)」との 意味がある。

アウラジは、 19 世紀末傾きかけた王朝に新しい息吹を吹き込むために興宣大院君(フン

ソンデウォングン)が景福宮の修復の際、重要な水路の役割を果たした。深山で巨樹に成長

した松の木は、宮殿の骨組みに用いられるためアウラジから筏になって漢江(ハンガン)ま で下っていった。その際、全国から集まった筏師たちは故郷で歌っていた歌を口ずさみなが

ら労働の疲れを癒しただろう。筏師たちが歌った労働歌を「アラリ」と呼んだが、「誰も私の 冬場の渇水期を迎え、細枝を丁寧に組み合 わせて作った東江(トンガン)の名物・ソプタリ (臨時の橋)。この橋は、翌年の夏に水嵩が 増すと流される。

境遇と気持ちなんて、わかってくれる人はいない」という意味が秘められている。この「アラ

リ」は、遥か昔から旌善に歌い継がれてきた「旌善アラリ」と相まってさまざまな歌詞で歌わ れたが、その歌詞は男女間の愛と離別、身の上を嘆く内容、世渡りなど、日常生活の身近

な内容を網羅している。

韓国の文�と芸� 49


アウラジ船頭よ 舟をちょっと渡してくれ 早世椿みな落ちた

落ちた椿は落ち葉に包まれ 春夏秋冬あなたが恋しく 私は生きられない

アリラン アリラン アラリヨ アリラン峠を越えさせてくれ

1 旌善(チョンソン)のアリラン市場で国楽人 (韓国伝統音楽家)たちが、旌善アリランを 演奏している。ここには全国各地から旌善 5日市場を訪れる人々のために多種多様 な娯楽が用意されている。 2 サムタンアートマインは、 2001 年廃坑にな った三陟(サムチョク)炭鉱施設を改造し、 2013 年オープンした。ストリーのある文化 芸術団地を標榜し、文化疎外地域に創造 的な活気を吹き込む取り組みを行っている。

アウラジを挟んで二つの村があった。村には恋人同士のカップルがそれぞれ住んでいた。

女性は、椿の実をとるという口実で毎日恋人の住む村に行って愛を交わしたが、真夏に水

嵩が増して川を渡れない日々が続くと、切ない思いでこのアラリを歌ったのだ。川辺に建て

られたアウラジの女性像が、昔この川辺を行き来していた人々の哀歓の瞬間をひっそり思い 出させる。

雪が降るかな 雨が降るかな 梅雨の大雨が来るかな 萬壽山(マンスサン)に暗い雲が押し寄せてくる

アリラン アリラン アラリヨ アリラン峠を越えさせてくれ

人生の本質は、喜びよりは予測のつかない暗い雨雲の方にあるといえる。山深く、荒波

は険しくとも人々は喜んでこの僻地に足を運び温かい息吹を吹き込む。旌善の人々が「アラ

リ」と呼ぶ「旌善アリラン」は、「密陽(ミリャン)アリラン」と「珍島(チンド)アリラン」と並ん

で「三大アリラン」と言われる。古くから韓国の庶民たちは、このアリランを口ずさみながら つらい生活を何とかやってきたので、韓国人の民族的なシンボルを「アリラン」と呼んでも差

し支えないであろう。

風と日差しがもたらした素朴な料理

川に沿って山奥の村を旅してみるとすぐに空腹を覚える。澄んだ空気と山薬草の放つ芳香

1

50 KoreaNa 冬号 2015

2


が消化に良いからだ。寧越と旌善で出会う郷土料理は新鮮な地

あるものである。

麗アザミナムルご飯)とススブクミ(もろこし粉の生地にあんこを

市・ビルバオ市が思い出される。ニューヨークのグッゲンハイム

が私の好物である。あちこちを歩き回って出くわした山奥の小さ

ットとして生まれ変わった。廃坑になった舎北には、カジノをは

心がとても癒される。数千年間、風と日差しと星の光を受けた

このあからさまな対比を目の当たりにすると、悔しくて残念な気

元食材をたっぷり味わえる。その中でもコンドゥレナムルパプ(高

入れて焼いたお菓子)、メミルジョンビョン(そば粉の薄皮巻き)

ネオンサインが輝く夜の舎北の町に入ると、スペインの鉱業都

美術館のヨーロッパ分館のあるビルバオは、世界的な観光スポ

な食堂で、これらの食べ物が放つ山薬草の香りを嗅いでいると、 じめとする娯楽施設が立ち並んでいる。美術館とカジノの対比。

野花の香が、一杯のごはんにたっぷり盛られる。

旌善の南側の舎北(サブク)と古汗(コハン)に、太白(テベク)

持ちになるのは否めない。それもまた私たちの選択なのだから、

その残念な気持ちが「アラリ」に濃くにじみ出ている。サムタン・

線列車が走る。高山地帯を上り下りするこの鉄道は、とくに冬

アート・マイン( Samtan Art Mine )という美術館で炭鉱が盛業

は廃坑になった。雪が白く積もった雪山のあちこちに黒い石炭の

ちを紛らわせてみる。私は東へと車を走らせた。ここから 30 分

場にはロマンがある。本来この地域は炭鉱地帯であったが、今

跡が滲んでいる様子を目にするだけでも、この列車の旅は意味

中だった時代の鉱員たちの生活の痕跡を見ながら、残念な気持

で青く波立つ東海(日本海)に出会える。

韓国の文�と芸� 51


エンターテインメント

©mbc

©sbs

双方向性が売りの 一人放送の地上波進出 デジタルメディア技術の発達により誕生した一人放送は、簡単な装備さえ あれば誰でもできる。このため、放送をする人の数ほどさまざまなコンテ ンツが存在する。一人放送がその人気に支えられて、とうとう地上波に進 出した。既存の放送のように一方向の情報配信ではなく、双方向コミュニ ケーションができる魅力に若者たちが熱狂している。一人放送の地上波進 出がもたらす変化が注目される。 カン・ミョンソク

姜明錫、ウェブ文化マガジン IZE 編集長

52 KoreaNa 冬号 2015


日テレビは、 自 分 が希 望さえすれ

ば誰でもいつでも出演できる媒体に

なった。さらには、自ら放送局を立

スターたちはリアルタイムでインターネット上に書き込まれたコメントを確認

しながら番組を進行する。

一人メディアの人気は、リアルタイムで視聴者のニーズを満たしていると

ち上げることもできる。インターネットとスマ

ころに因る。従来のテレビスターたちは、視聴者に楽しみを提供するものの、

カメラ一台さえあれば充分である。韓国には

アでは放送する人と視聴者との直接的な対話が可能である。「マイ・リトル・

ートフォン、または P C に取り付けられている

視聴者の反応にいちいち対応することはできない。それに対し、一人メディ

ネット放送専門サイトのアフリカ Tv があり、そ

テレビ」でも、視聴者が出演者に「コミュニケーション」を求める様子が頻繁

とも劣らない人気を博している。現に、彼ら

が大切である。「マイ・リトル・テレビ」番組で高い人気を得た飲食店経営者

こから放送する一部の人たちは芸能人に勝る のうちの何人かは、マネジメント会社と契約

を結び、芸能人のように活動している。世界

に見られる。そのため、視聴者のコメントを読み、彼らの要求に応えること

の白鍾元(ペク・チョンウォン)さんは、視聴者との柔軟なコミュニケーション 力が一番の持ち味である。彼は視聴者がすぐ簡単に作れる料理を紹介して

的 に 発 信するユ ーチューブに、 エステ、 I T、 いるが、その過程で視聴者と対話しながら雰囲気を盛り上げる。 音楽などさまざまな分野と関連動画を載せる

ユーチューバーたちが人気だ。誰でも放送で

隙間市場をついた変化とダイナミズム

ィア時代」が幕を開けたのだ。

ように歌や演技力が上手いわけではない。しかし彼らは視聴者が声をかけ

一人メディアの地上波進出の意味合い

トフォンでアクセスさえすれば、ダイレクトに話しかけられる身近な芸能人

・リトル・テレビ」 ( My little Television )か

として発展できる原動力になっている。さらに、一人メディアは、地上波放

る。同番組は放送一週間前にインターネット

人公たちは、歌が上手だったり、面白いコメディーで視聴者を笑わせたりし

き、彼らのうち誰かはスターになる「一人メデ

最近、人気を得ている M B C テレビの「マイ

らも、一人メディア時代の影響力が見て取れ を通じて先に放送する。出演者たちはその他

の一人メディアのように一人で番組を進行し

インターネットの一人メディアの進行役のみんなが、既存のスターたちの

ると直ちに応じ、様々な要求にも積極的に応える。コンピューターやスマー だ。一人メディアが個人の退屈しのぎを越えて、エンターテインメント産業

送が考えつかなかった隙間領域をついている。人気のある一人メディアの主

てスターになったわけではない。彼らはゲームをレビューしたり、単に食べ

物をおいしく食べたり、料理をしたりしながら視聴者の目を引いている。か

て視 聴 者たちを呼び込まなけれ ばならない。 つてなら、インターネットで歴史を講義する人がスターになることは期待薄

この過程で有名なスターたちが視聴者に愛想

よく話しかけたり、視聴者たちの要求に一つ ひとつ返答しながら番組を進める。一週間後

であった。ところが、今や番組の構成に工夫を加えることで、いくらでもス

ターになれる。世の中を生きる上でさまざまな知識が重要になり、大衆が それぞれの多種多様な好みを持っていることから、マスメディアだけでは満

地上波ではこのプロセスを編集して放送する。 たせない空白を一人メディアが埋め尽くしている。 地上波が一人メディアを取り込んだ格好であ

この過程でメディアの世代交代も進む。「マイ・リトル・テレビ」は、プロデ

る。出演者たちが動画を載せてアクセス数を

ューサー全員が 30 代前半である。彼らが「マイ・リトル・テレビ」を企画でき

アイドルグループ・少女時代のメンバーたちが

た、彼らはマスメディアでまだ取り上げられなかった分野とネット用語など

増やす S B S「 18 秒」のオンスタイルは、人気

ネット放送番組を進行する「チャンネル少時」 を放映した。このように一人メディアは今や

たのも、ネット文化に馴染んでいる若手プロデューサーのおかげである。ま

を取り上げている。一人メディアは、ゲームのレビューやエステ・メイクアッ

プ な ど、 今 時 の 若 者 の ニーズを汲 み 取ってすぐ使 いこなす。 その た め

大手放送局が無視できないほど流行っており、 10 ~ 20 代の若者たちは多くの時間を、地上波のテレビ番組よりはモバイル 端末を通じてネット放送及びコンテンツに接するのに費やす。

一人メディアはそれ自体が変化であり、原動力を意味する。一人メディア

の登場は、既存の放送局に影響を与え、また、彼らが取り扱うコンテンツ 「一人放送」の人気の高さを受けて、地上波でもこの新しい 放送フォーマットを借用し始めた。地上波放送局 S B S の人 (左)とMBC の「マイ・リトル・テレビ」は視聴 気番組「 18 秒」 者たちとリアルタイムでやり取りできるということが売りで視 聴率が高い。

が新しい分野への大衆の興味を刺激し、これにより新世代がそれぞれの産

業で注目され始めた。単に自己 P R や技術の変化だけでは説明しきれない

現象なのである。一人メディアは、今私たちが生きている世の中の変化のあ

り方を、最も迅速かつ明確に示唆している。

韓国の文�と芸� 53


遠くの目

韓国人留学生との40年

変わったもの、変わらないもの 似ているところ、違うところ

筆者が韓国を初めて訪れたのは 1980 年代の終わりで、その頃はまだ独特の建物も多 く、日本との違いを感じた。1990 年代に何度か訪れた際には、だんだん違いが少な くなったと感じられた。地下鉄の駅で電車が日本とは逆方向から入ってきて、ここは日 本ではなかったとびっくりしたほどである。外国にいるという緊張感が少なく歩いてい たことを思い出す。最近では昨年 2014 年に訪れたが、日本のあちこちの都会とほと んど違いがないと感じられた。 坂本惠

サカモト・メグミ、東京外国語大学教授

が初めて韓国からの留学生に会ったのは 1970 年代の終わり頃、国語学の勉強をするために 大学院に入ったときだった。もう亡くなられた恩師は敬語研究の第一人者で、私も敬語の研

究をしたくてその門をたたいたのだが、他の大学からも先生を慕ってくる学生もいた。韓国か

らの留学生は先輩に当たるが、やはり敬語を研究しており、その後韓国に戻ってから韓国の日本語教育

を牽引することになった方である。まだ留学生自体が数少なかった時代ではあるが、その後も韓国から

の留学生が次々と入学してきた。恩師の大学院の敬語研究のゼミであちこちの留学生と一緒に勉強した

のは楽しい思い出である。先生は留学生一人一人に、韓国ではどうですか、台湾では、とお聞きになり、

同じものではないが敬語や敬語に似たシステムは日本だけではなく、どこの国にもあることを学んだ。 特に韓国は日本語に似た敬語のシステムを持っており、韓国からの留学生は日本語の敬語についてもよ

く理解する一方で、大きく違う点もあることをお互いに知ったのである。このときの仲間の留学生たちは、 とにかくがんばる人が多い、というのが印象的であった。卒業後は韓国で大学教員となった人もいるし、

政治家になった人もいる。日本で日本語学校を開いた人もいる。韓国での日本語教育に尽力するなど、 韓日の交流に努めた人たちであると言えよう。

その後私は日本語教育に従事するようになり、接する韓国人留学生は先輩後輩の関係から教師と学生

の立場に変わった。当時の私はまだ若く見え、頼りなく思えたのであろう、兵役を済ませた年齢の変わら

ない韓国人の男性の留学生たちから、こうです、と説明しても、いえ、先生私の意見では…と反論され、

泣かされたこともあった。その後も複数の大学で日本語のクラスを持った中で、クラスの中に数は少なく

とも、たいていいつも韓国からの留学生がいた。韓国語と日本語は語順も近く、「は」と「が」に当たるよ

うな助詞があるなど似た点が多く、また、漢字にも余り抵抗がないことから、韓国人留学生は日本語が 早く上手になるという印象がある。男性は兵役を済ませないと留学できないと聞いたことがあり、その関

係もあって年齢が若干高く、その分社会経験を積んでいるという人が多かった。現在在籍する大学では韓

国からの留学生は交換留学生や大学院の学生が多く、語学系の大学であることもあり、女性が多いよう

である。やはりいろいろな面で日本と感覚が近く、大学のシステムも近いようで、日本の大学に順応して、 日本での留学生活を楽しんでいるようである。大学院で学位取得のためにがんばっている人も多い。

日本語と韓国語は体系的な敬語を持っていることが知られており、敬意を持つ、それを言語で表すと

いう点では共通点があり、お互いに理解しやすいが、いろいろ異なるところも多い。大きな違いは、日 54 KoreaNa 冬号 2015


©Kim Dong-kyu

外国人語学研修生たち

本語では話す相手と第三者の関係によって扱いが変わる、つまり相対的だと言えるが、韓国語では扱い

が変わらないいわ ば絶対的なものであるということである。例えば、家族のことを他の人に話すとき、 日本語では身内扱いして「父がこう申しました」と言うが、韓国語では「お父さんがこうおっしゃいました」 などと言うようである。韓国語では目上の人など上位の相手であると認識した人は常に上位の扱いをす

るが、日本語では相手によって使い分けるということがある。もちろん日本語の中でもこれに近い扱いを

するところもあるが、規範的にはたとえ社長であっても社外の人に対しては身内扱いするなど、常に関

係や距離をはかりながら表現していると言える。もう一つ大きい違いを感じるのは人との距離の取り方で

ある。韓国では親しくなると距離が縮まって家族同様の関係になり、何でもOKになることが多いようで あるが、日本では「親しき仲にも礼儀あり」ということわざがあるように、プライベートなことは親しくな

らないと聞けないとか、家族間でも「ありがとう」を言うとか、逆に親しいからこそ言えないことがあるな どのことがあり、どちらかというと距離を置くような傾向があるが、これは韓国の人から見ると冷たく感

じられるようである。日本人は家族でも「ありがとう」と言い過ぎる、水くさいと言われたことがある。小 さいことだが、授業中に消しゴムを忘れた韓国人を含む多くのアジアの人々は隣の友達の消しゴムを黙

って使い、そのまま返す。日本人同士なら、何か一言断りの言葉があるべきところである。このようなつ きあい方の違いは気がつきにくいが、積み重なると壁になることもある。近いと思うだけに違いが気に なるところである。

筆者が韓国を初めて訪れたのは 1980 年代の終わりで、その頃はまだ独特の建物も多く、日本との違

いを感じた。1990 年代に何度か訪れた際には、だんだん違いが少なくなったと感じられた。地下鉄の

駅で電車が日本とは逆方向から入ってきて、ここは日本ではなかったとびっくりしたほどである。外国に

いるという緊張感が少なく歩いていたことを思い出す。最近では昨年 2014 年に訪れたが、日本のあちこ

ちの都会とほとんど違いがないと感じられた。高層ビルがあり、路地にはおしゃれなカフェがあり、居酒

屋があり、コンビニがある。日本にいるような気がしているのに、ふと気づくと、看板に書いてある文字

が全然読めない、という不思議な気分を味わった。80 年代には町中でかなり漢字を見かけ、漢字から 意味の見当がつくことが多かったが、現在は漢字はほとんど見られず、ハングルは少し勉強したので読

むことはできるが意味はわからない、という状況である。変わったものもあり、しかし変わらないものも

ある。同様に、韓国と日本は似ているところも多いが、違うところもあるのだと感じている。

韓国の文�と芸� 55


DONGJI 冬至の小豆粥 幼い頃の冬の思い出 PATJUK グルメを楽しむ

パク・チャンイル

朴贊逸、料理研究家、 フードコラムニスト

安洪范 写真

56 KoreaNa 冬号 2015

多くの中年以上の韓国人にとって小豆粥(パッジュク)は思い出の 食べ物だ。寒い冬の夜、家族団欒で温かいオンドル部屋に座り、 小ぶりの白玉餅を丸めては小豆粥に入れ、出来上がった小豆粥 を何日もかけて美味しく食べたものだ。特別なおやつのなかった 時代、子供にとって小豆粥は一番のご馳走だった。また小豆粥 を食べると病にもかからず、邪気を追い払うといわれ小豆粥は 家族の健康と幸せを守ってくれる力強い食べ物でもあった。


の幼年期の冬のイメージは、陽の光は透明で日は短く、そして風は顔が切れるほどに鋭

利だった。今でもあのときの北風の、刃をたてたような鋭さと冷たさを思い起こすほどだ。 薄い皮膚を切り裂いてしまいそうに鋭い風の刃先。むしろ暗い夜空から雪でも降ってきた

ほうが心が温かくなる気がした。その頃、村では家ごとに小豆粥を作っていた。長い長い冬が始ま

るという宣言だったのだろうか。暖かな赤い色の小豆粥を食べて冬を無事に乗り切ろうと考えたの だろう。我が家には年中行事に合わせて食べ物を作って食べる風習はなかった。食べるだけで精

一杯な暮らしの中ではそこまで母に望むのは難しかった。そんなうちの母も小豆粥だけは何度か作

っていたようだ。冷たい冬の夜に冷めた鍋から小豆粥を取り出しては暖かく温めて食べた記憶は今 でも鮮やかによみがえる。

温かな小豆粥とさっぱりしたトンチミ

最近は大部分の人が小豆粥を甘くして食べるが、幼い頃に家で食べた小豆粥はキムチと一緒に

食べる食事だった。水キムチやさっぱりした大根キムチのトンチミのようなものをおかずに添えた。 時には熱々の小豆粥で口の中を火傷したものだが、そんな時に冷たくさっぱりしたキムチの汁を口

に含むと口の中がすーっとした記憶が残っている。小豆粥の中にいれる白玉餅をもち米にするか、

うるち米にするかで大人たちがもめていたことも思い出す。もち米が高価だったので、そんな会話 をしていた模様だ。

最近は小豆粥を家で作って食べることもあまりない。いつの頃からか小豆粥は買って食べる物に

なってしまった。それゆえ、小豆粥を作ってご近所に配ったり、家ごとに少しずつ味の違う小豆粥を

食べ比べる楽しみも無くなってしまった。今や小豆粥は、夏にかき氷を専門に扱っていた店が、冬

に夏場のかき氷用の小豆を利用して作るメニューになってしまった。さらに、日が短くなり、気温も 下がり、冬至も近づいてきたので小豆粥を食べる時期になったという季節感覚も薄れてしまい、季 節とは関係の無い食べ物となってしまったようだ。今年の冬は寒いかどうかと言いながら、添え物

のトンチミがよく熟したかどうかを話題にする人もなおさら珍しくなってしまった。

悪鬼を払う食べ物

韓国の食べ物に対する関心の強い詩人であり、多方面に博識な文化運動家でもあったチェ・ナム

ソン(崔南善、 1890-1957 )の残した『朝鮮常識問答』を広げて読んでみる。彼は朝鮮の餅の中で 第一はシルトック(蒸餅)だと言っている。シルトックは練った米粉に茹でた小豆を交互に入れてい

き、それを重ねて蒸した餅だ。そしてその形は他の餅とは違い非常に原始的だ。博物館で見られよ

うな昔の蒸し器、シルからそのまま取り出したような形をしている。餅を作るときに粉を捏(こ)ね て練って形を作り、餡子(あんこ)などのいろいろな具をいれる方法はずっと後になって生じた調理

法だ。素朴なシルトックはそれゆえに、より伝統的で韓国固有の食べ物だという気がする。そして

そのシルトックの中味となるのが小豆だ。小豆は赤いといわれ、それが呪術性を意味するのは中国 の影響だ。赤という色の邪気、鬼を払うという意味を食べ物に挿し込めたのが小豆だ。昔から家

ごとに小豆粥を作り家の大門の前や村の路地に撒く慣習が伝わっているのは不浄なものを追い払お

昔から冬至の日に作って食べてきた小 豆 粥 は 紅 い 小 豆 を茹 でてあくを取り、 米とセアルシムという小さな団子を入れ て煮た料理だ。冬至は「小正月」とも呼 ばれ、一年中で一番夜の長さが長い日 だが、この日に食べる季節の食べ物が 小豆粥で、大門の前や村の路地にまけ ば厄除けになるという民間信仰ととも に伝わった。

うという願いの現われだ。

冬至は非常に寒い冬の始まりであるが、太陽系の運行から見ると冬の終わりをも意味する。一番

日が短いということは、翌日から日が長くなるという意味だからだ。実際に古代には冬至を一年の

始まりとして見る暦もあった。それで赤い太陽を象徴する小豆で食べ物を作り食べることが自然の 摂理に適っていたのかもしれない。しかし実際に人々が感じる冬至はこれからどんどん寒くなる冬の 入り口だ。たぶんそれで赤い小豆粥で暖かい太陽にあこがれる情緒を表現したのだといえよう。

もう少し現実的な見方をすると、収穫を終えたばかりの冬至の頃に小豆粥を食べたのは時期的 韓国の文�と芸� 57


に最も適切だったのだろう。もし春に小豆粥を作っていれば、誰もが手軽に楽しめる料理とはなっ

ていなかっただろう。長い冬を過ごし食料が不足していくときに、春に食べようとわざわざ小豆を残

しておくことはたやすい事ではなかったからだ。

由来と作り方

小豆粥の由来をさかのぼると古代の中国の文献に到る。6世紀梁の時代に書かれた『荊楚歳時

記』に小豆粥の叙述的な役割が簡略に言及されている。「共工氏に息子がいたが、冬至に亡くなり 疫病の鬼神となった。その息子が生前に小豆を恐がっていたので冬至に小豆を茹でて疫病を持って

くる鬼神を防いだ」という内容だ。したがって小豆粥で天然痘のような恐ろしい病気を追い払う中国

の文化が韓国にも流入したものと推測される。そして段々とあらゆる不浄なものを追い払う邪気の 意味を備えた食べ物として認識されるようになった可能性が大きい。

小豆粥は韓国、日本、中国の三ヶ国で共通に食する食べ物だ。中国の人々は一年中、小豆粥

を好んで食べている。冬には熱くして、夏には甘く冷たくして食べる。日本ではさらに多様な方法

で食べられている。韓国のセアルシムに似た餅を入れて食べたり、小豆をこし、つぶしあんに加

工して食べる。日本でもやはり塩を入れて食べる食事用と砂糖を入れるデザート方式が混用され

ている。

韓国人が小豆粥を作る方法は昔も今も特に変わりはない。19 世紀の初めの料理書である『閨閤

叢書』や 20 世紀初めの大韓帝国時代に編集された『婦人必知』などに小豆粥を作る方法が出てくる

が、その方法は現在とほとんど同じだ。小豆は硬いので水をたくさん入れて十分に茹でてあくを取

り、米と一緒に再び煮る。ここにセアルシムと呼ばれる小さな団子状のものを入れて煮る。丸くす

る楽しみもあり、口当たりも良いので淡白で物足りないとも感じる粥の味に変化をつけるセアルシ ムは、小豆粥を台所の料理から家族で一緒に作る料理に変化させた。子供たちも一緒になってセ

アルシムを丸めて作る家族団欒の光景だ。

「冬至に田舎で小豆粥を作り、蜂蜜を入れて食べた、これで邪悪な気を洗い落とせた」高麗時代

冬至は非常に寒い冬の始まりであるが、太陽系の運 行から見ると冬の終わりをも意味する。一番日が短 いということは、翌日から日が長くなるという意 味だからだ。実際に古代には冬至を一年の始 まりとして見る暦もあった。それで赤い太陽 を象徴する小豆で食べ物を作って食べる ことが自然の摂理に適っていたのかも しれない。

1

58 KoreaNa 冬号 2015


1 シルトックは米の粉に茹でた小豆を 相互に入れていき、それを重ねて蒸 した餅だ。小豆の紅い色が悪い邪気 を払うと信じられていたので、引越し の日に隣人に配ったり、祝い事の際 によく食べられていた 。 2 冬至の小豆粥は小豆を十分に茹でて 笊にあけて皮を取り除き、残った汁 に米と米の粉を捏ねて丸めたセアル シム(小団子)を入れて煮る。地域に よっては米とセアルシムを一緒に入れ て煮たり、あるいはセアルシムだけ を入れて煮る地方もある。

2

末の儒学者牧隱・李穡( 1328 ~ 1396 )が残した詩の一節だ。これを見ると今日、私たちが食べて

いる小豆粥の歴史は思ったよりも遥か古いものであることが分かる。しかし当時は蜂蜜が貴重な食

材料であったために誰でも簡単に食べられるものではなかった。小豆粥の大衆化は 20 世紀の初め

に砂糖が輸入された後からの風俗だ。

開化期のソウルの風俗を記録した作家でありジャーナリストでもあったチョ・プンヨン(趙豊衍、

1914 ~ 1991 )の書いた『ソウル雑学事典』にも興味深い小豆粥の話が出てくる。日本の植民地時代、

東大門市場に小豆粥の店が多く、粥を売る行商人がソウルの裏通りを売り歩いていたものだが、早

朝になると小豆粥を売る人が多く、朝早く仕事に出かける労働者がこの小豆粥を朝食代わりにした

という内容が出てくる。小豆粥は現在でも在来市場で売られている主な食べ物の一つだ。人々の 好みが段々と変わり、今では売る店も昔に比べればだいぶ減ってはきたが、全国各地の伝統市場

では砂糖がたっぷり入った甘い小豆粥は依然として人気メニューとして残っている。小豆粥は材料

費が比較的かかるが、水の割合が多く依然として値段が安いので在来市場で売られているのだ。 主に中年女性と高齢層が多く訪れる在来市場の特性とも合っていると言える。最近では釜山の市 場の小豆粥がブログなどでも紹介され、若い観光客の人気を集めているという。

韓国の文�と芸� 59


ライフスタイル

2015 年、韓国のテレビが料理で熱く沸き立っ ている。もう少し具体的に言えば、料理をする 男たちが闊歩している。テレビには毎日男性ス ターシェフが料理をする番組が流れ、視聴者を 熱狂させている。料理はいまや多くの男たちの ロマンとなった。共稼ぎの増加、核家族化など、 社会経済的な変化は男たちを台所に呼びよせ、 男女の性別役割にも変化をもたらしている。

エプロンをかけた男たち

彼らはなぜ 料理にはまるのか キム・ヨンソプ

金龍燮、鋭い想像力研究所長

安洪范 写真

60 KoreaNa 冬号 2015


近、料理をするセクシーな男性をさす「料セク男」という新造語が流行している。こ れは料理が男性を象徴する新たな手段となったことを意味する。このような現象は

非常に破格な変化だといえる。韓国社会では料理は母と妻の役目、つまり女の役割

だと認識されてきた。しかしいまや料理をする男がカッコ良く、セクシーだという。もちろんま だ料理をする男性が圧倒的に多いというわけではない。そして男性の料理の実力もまた「男性

的なセクシーさ」のものさしとなるものでもない。結局大切なことは相手に対する配慮であり、 食べ物を作る努力と真心、そして一緒に食事をする過程だと見るべきだ。

料理番組全盛時代が社会に与える影響

最近韓国のテレビは料理にはまっている。火曜日には「チップパブ(お家のご飯)」、水曜日

には「水曜美食会」と 「冷蔵庫にお願い」、木曜日には「韓国料理」で対決し、金曜日には「サム

シセキ(一日三食)」も食べ、土曜日にも「私の小さなテレビジョン」で料理をするという、一週

間をとおして毎日毎日、料理関連番組が放送されている。料理番組が急速に拡散したため、 自然と 「シェフテーナー(シェフ+エンターテーナー)」にもスポットがあたっている。例えば、ペ

ク・ジョンウォン(白鍾元)、イ・ヨンボク(李連福)、チェ・ヒョンソク(崔鉉碩)が大きな人気を 得ている。彼らはいろいろな番組に出演しながらシェフとしての魅力を発揮している。そこに

料理の腕はそこいらの料理人には負けないという俳優チャ・スンウォン(車勝元)も加わった。 最近子供たちの将来なりたい職業の上位にシェフがランクインしたという報道もあった。

韓国の最初の料理番組は 1980 年代のKBSの「家庭料理」そしてMBCの「今日の料理」のよ

うな主婦のための料理の実演と情報中心の番組だった。その後、 2000 年代までは有名なレス

トランや食堂を訪れるグルメ番組や料理人の味の対決番組などが続いた。それが 2010 年代か

らケーブルテレビに料理専門チャンネルが登場し、自分の店を持つオーナーシェフたちを用い

た多様な番組が作られ始め、今や「グルメ」と 「クック」が一つになった番組が数多く登場してい

る。

最近の料理番組はシェフやゲストが料理を作り、美味しそうに食べる姿まで映し出す。そし

てその過程に楽しいトークまで加わる。これにより料理番組はいっそう美味しく、面白いショー

となった。料理番組では料理を非常に手軽に、手早く作る手順を見せてくれる。それでこれま

で料理は専門家の領域だと思っていたり、母や妻の役割だと考えていた男たちさえ、今や自分 たちも直接できると思うようになった。

彼らは料理人になろうとして料理を学んでいるのではない

これまで料理を学ぶ男たちの目標は大部分資格証をとり料理人になることだった。しかし今

や料理は男たちの趣味であり、日常の領域に確実にその地位を確保する存在となった。書店 には男のための料理本があふれ、インターネットを検索さえすれば手軽に、手早くできる簡単 料理法が見つかり、多くの男たちを料理の道へと導いている。

最近、主なデパートの文化センターの料理講座の男性受講生の割合が 20 %を超え始めたと

いい、 30 %を超えているところもある。2011 年まで平均5%程度だった点からみれば非常に 早い速度で増加していると言える。インスタントラーメンを作ったり、三度の食事をなんとか解

決しようというのではない。時間とお金をかけてイタリアの家庭料理を学び、韓食のフルコー

スを学ぶ男たちが増えている。20 代、 30 代 が料 理を学ぶ男たちの主 流といえるが、 40 代、

50 代の男たちの参加も増えている。

男性だけを対象にした料理講座も増加している。食品会社と地方自治体もそれぞれマーケ

ティングと新しい福祉文化の次元で男性専用の料理講座をたくさん開設している。昔の母親た 韓国の文�と芸� 61


1

韓国社会ではこれまで、料理は全面的に女だけの家事の領域だと思 われてきた。それがいまや料理は男女の区別無く楽しんでできること、 さらには一緒に共有できる一つの文化として受け止められている。そ してこのような流れは今後も長く続きそうだ。 2

62 KoreaNa 冬号 2015


1, 2 食品メーカー主催の「 料理する男の ためのパーティー料理クッキングクラ ス」で参加者が料理を習っている。最 近のライフスタイルの変化により人々 の認識も変わり、料理をする男性が 目に見えて増えている。 3 料理するプロデュサーとして知られる KBSのイ・ウクジョンPDがある番組 で料理をしている。彼は「ヌードルロ ード(麺の道)」 「料理人類」など、食 べ物関連のドキュメンタリー番組を 演出して大きな注目を浴びた。

ちが男が台所に入ることを嫌がったとすれば、最近の母親たちは料理をする息子を誇らしげに 思うようになった。これは男女平等意識の拡散、共稼ぎの増加と核家族化など、社会経済的

な変化がもたらした現象でもある。最近の一人暮らしの増加も男たちが台所に立ち入るほか ない大きな理由だ。料理する男性の増加と共に、男たちの料理の水準も高くなった。料理専

門チャンネル「オリーブテレビ」の料理オーディション番組「マスターシェフコリア」の参加者たち は女性よりも男性が多かったほどだ。

食品や家電製品の広告にも若い男性タレントが台所の主人公として登場するケースが増えて

いる。そして視聴者たちはそんなイメージを自然に受け止めている。「 料理する優しい母さ

ん」 「故郷の味」というキーワードから、「料理する素敵なオッパ」 「父親の愛情あふれる味」とい

うキーワードに急激に変化している社会的な現象のなかで、今や男性にとって料理は選択では なく必須になろうとしている。

料理に対する態度の変化、それは韓国社会の進化だ

アパートに暮らし共稼ぎをする核家族というのが今日の韓国の典型的な姿の一つだ。このよ

うな状況で夫婦が家事を分担する姿はある程度普遍化した。もちろん 40 ~ 50 代とそれ以上の

世代ではまだまだ妻が家事労働をほとんどしていることも事実だ。しかし20 ~ 30 代の男たち は上の世代に比べて遥かに積極的に家事をしている。料理も同様だ。妻のために料理をする 夫、子供のために料理をするパパはいまや見慣れぬ光景ではない。社会的、経済的な変化が

台所での役割構図にも変化をもたらしてきたのだ。さらに共稼ぎで忙しいせいで外食の回数も

増えている。それに吹き荒れる料理番組の熱風は人々を台所に導き、家庭のご飯が一番という 考えを根付かせている。これは私

たちが再び食卓を囲んで家族の情

を分かち合うという意味でもある。 それにもかかわらず一つだけ残

念な点が残る。これまで女性が料

理をするのは当然で、したがって 感謝の表現もしなかった。素敵だ

と賞 賛する人 もまた いな かった。

しかし男性がすることで料理がい まさらながらかっこ良いものにな

り、特別な魅力があるように見え る。これは裏を返せば、これまで 私たちの社 会で男 女 差 別がいか

に深刻だったかという証拠だとも

いえる。

これまで料 理 は 全 面 的に女 だ

けの家事の領域だと考えてきた韓

国 社 会で、いまや料 理 は 男 女の

区別無く楽しんでできること、さら

には一緒に共有できる一つの文化

として受け止められている。そし

てこのような流れは今後も長く続

きそうだ。

3 韓国の文�と芸� 63


韓国文学の旅

作家評

沈まない太陽 消えない懐かしさ チョ・ヨンホ

曺龍鎬、小説家、世界日報文学専門記者

白修章 写真

やかな三 原 色の赤、 黄、 青 を

混 ぜ ると黒 色 に なってしまう。 大学で絵画を専攻した小説家キ

ム・チェウォン(金采原)はこれを「いろい

ろな色をたくさん混ぜると結局自分の色

に勝てずに黒くなってしまう」と表現して

いる。 彼 女 が 11 年ぶりに発 表した短 編

集『 筏の歌 』に収 録された『 誰が赤、 黄、 青を恐れているのか』という作品でのこと だ。

人生に対する深く真剣な省察

を叙情的、絵画的に描写する 小説家がキム・チェウォン(金 采原)だ。この作品『 西山の 向こうには 』には不安で悲し い作家の内面がよく現われて いる。この作品が収録された 小説集『筏(いかだ)の歌』を 貫く感情を作家は自ら「悔恨」 と規定している。彼女は「 私

がいつも家にばかりいるので ガラス窓が世の中を見る窓の ようなもの」であり「私にとっ て小説は結局自分の知ってい る世界を書くものであり、そ の窓を通じて世の中を書くの だ」と言っている。

64 KoreaNa 冬号 2015

金采原は 1946 年に詩人のキム・ドンフ

ァン(金東煥)と小説家チェ・ジョンヒ(崔

貞熙)の次女として生まれた。父は韓国

(朝鮮)戦争のときに北に拉致され、いつ 亡くなったのかもはっきりせず、その消息 は不明だ。梨花女子大学校絵画科を卒

業し、 1975 年に伝統ある文芸月刊誌『現

代文学』に短編『夜の挨拶』が推薦で掲載

され 文 壇 にデビューした。1989 年、 小

説『冬の幻』では韓国を代表する文学賞の 李箱文学賞を受賞した。文人である父母

の遺伝子はそのまま子供たちにも受け継 がれ、姉のキム・ジウォン(金知原)も有

名な小説家だ。この小説集には2年前に

亡くなった姉を偲ぶ意味が含まれている。 実際に『西山の向こうには』は、若くして

アメリカに移住した従姉妹をモデルとして 描いた作品だ。

小説の中で従姉妹と 「私」は幼い頃、同

じ屋根の下で大きくなり、一緒に遊んだ


長 い夜 も共 有している。 従 姉 妹 は 韓 国

の向こうへ 消え行く夕 焼 けが / 私 は 行く、 きないほど果てしなく、深さを計り知れな

私もまた父を亡くしているので互いに似た

作った。彼女は西山の向こうの遠いとこ

( 朝 鮮 )戦 争の爆 撃で母と兄 弟を亡くし、 私は行くと手を振っている」という童詩を

い闇、 荒 々しい風、 風 が 庭 に、 大 門 に、 井 戸 に、 木 の上 に、 屋 根 の上 に、 塀 に、

ような境遇だったため情緒もまた似てい

ろ で、 深 い 沈 黙 の 中 に 消 えて いっ た

つ彼女たち姉妹の話だが、小説では従姉

は 決して 沈 むことは な いという事 実 だ。 れて割れる音。甕に蓋をしていたボール

るという設定だ。現実では同じ父母をも 妹をもう少し不幸な存在として描いてい

が、「私」は新たな真理を発見する。太陽

行も珍しくない世の中で「私」もまた一度

引き裂いている。空っぽの甕の一つが倒

自分が寝ている間にも太陽は従姉妹を照

が外れてグルグルと回っている音。落ち

実だ。その太陽が消えない限り、たとえ

ばされていく音…」

る。その従姉妹はアメリカに移住した後、 らしに西山の向こうに行くという自明な真 一度も祖国を訪れたことがない。海外旅

容赦なくぶつかり凶暴に空中をびりびりと

遠い異国の地で死んだ従姉妹だとしても

葉がザザーッ、ザザーッとあちこち吹き飛

兄は現実適応力の低い、アコーディオ

も家を離れたことがなく、彼女と同じだ。 彼女の胸の中では決して死ぬことはない

ンを弾く映画好きな感傷的な青年だった。

長い時間交流を続け、その挙句に一度も

にとってはわけもなく涙の出る、ため息を

二人の女は電話と小包だけのやり取りで

のだ。

顔を見ることもないまま最後を迎える。

的な絵画」だという評価を受けてきた。生

つかせるほどに軟弱な長男だった。この

八百屋、洋装店、ハンバーガーショップ

と世の中を自分だけの色で表現して見せ

の反対で失恋すると酒びたりになって暮ら

金采原の作品は叙事で描かれた「叙情

従 姉 妹 は アメリカで 夫 と死 別した 後、 に対する透明な観照をもとに事物と人間

姉妹にとっては多感な存在だったが、母

兄は美しい女性と恋愛をして、女性の家

など手当たり次第に働きながら子供たち

る美徳を発揮する。『筏の歌』もまた彼女

した挙句に若くして絶命してしまう。母は

あったが、彼女は自分には子供がいるの

自伝的な回顧の性格の強いこの作品は幼

っと家をでてまた夜遅くに帰宅した。痛み

延 びた。 後 日 聞こえてきた 噂 によれ ば、 歳月の悔恨を叙情的に描写している。彼

てはこない。観念の中の追憶の「筏」では

ニューヨークで911テロが起きた後、主

込めて詩のように最後の文章を書いてい

を育てた。働いている間に二度も強盗に

で命だけは助けてくれと命乞いをし生き

の作品世界が象徴的に圧縮された短編だ。 生計をたてるために早朝の汽車に乗りそ 年期と成長期の家を舞台に、過ぎ去った

二度とも強盗は彼女をレイプしたという。 女は女手一つで彼女たちを育てる母親と ロマンチストの兄とそして姉たちと暮ら

でもあり懐かしくもあるあの頃はもう戻っ 来ることができるか。作家は強い願いを

人公は従姉妹のことが心配でたびたび電

す「家」を短編の主人公にしている。今は

く。

やむしろ分からなくなったというか、しか

象徴し昔の記憶を捉えようとしている。そ

肝をつぶして旅立った幼年のあの筏が深

話をする。その過程で従姉妹の存在を 「い

観念の中にだけ存在するその家を「筏」で

「夜の向こうにあの筏が来るなら…驚き

しこれまでより何かが密着した気がする」

してこの小説は「その船はその夜を渡った

い夜を渡って来てくれさえすれば…木陰で

なってしまう。

る。

柔らかな風で詠嘆の曲を歌おう…。まだ

が、ある日突然、従姉妹は電話に出なく 従姉妹は小学校に入学した頃、「西山

のだろうか」という静かなささやきで始ま 「夜はそんなにも深く決して渡る事ので

眠る赤ん坊を起こさないようにひとふきの 残っている春の日に…」

韓国の文�と芸� 65


購読/購入ご案内

定期講読の お申し込み 講読料情報

www.koreana.or.kr の購読申請メニューに購読情報をご記入し、「送信」ボタンを押すと、お支払方法 などのインボイスをあなたの E-mail にお送り致します。 配送地域

定期講読料 (航空便送料を含む)

韓国 東アジア

1年

東南アジア

2年

50,000ウォン

1年

US$45

3年

1

2年

2

ヨーロッパと北米 3

アフリカと中南米 4

25,000ウォン

3年 1年

2年

75,000ウォン

US$50 US$90

2年

US$99

US$55

3年

US$132

2年

US$108

3年

US$9

US$108

US$120

1年

6,000ウォン

US$81

3年

1年

バックナンバー* ( 1 冊當り)

US$60 US$144

* バックナンバーのご購入は、送料が別途かかります。 (配送地域区分)

1. 東アジア(日本、中国、香港、マカオ、台湾) 2. 東南アジア(カンボジア、ラオス、ミヤンマー、タイ、ベトナム、フィリピン、マレーシア、東ティモール、イ ンドネシア、ブルネイ、シンガポール)、モンゴル 3. ヨーロッパ(ロシア、CIS を含む)、中東、北米、オセアニア、南アジア(アフガニスタン、バングラデシュ、プ ータン、インド、モルジブ、ネパール、パキスタン、スリランカ) 4. アフリカ、中南米(西インド諸島を含む)、南太平洋諸島

ウェブマガジン・ メーリングサービス

読者ご意見

koreana@kf.or.kr にウェブマガジン・メーリングサービスを申請(氏名、電子メールアドレス)していた だきますとウェブマガジンの更新時にメールでお知らせ致します。 * ウェブマガジンだけでなく、アップル i-books、グーグル books,アマゾンを利用してモバイル端末でもコリア ナ i-booksをご覧いただけます。

Koreanaは読者の皆さまの貴重なご意見を反映し、より良い雑誌を作るために最善を尽くしております。 ご意見がございましたらいつでも e-mail ( koreana@kf.or.kr ) にてご連絡ください。


a JoUrnal of the eaSt aSia foUndation

We Help Asia Speak to the World and the World Speak to Asia. In our latest issue:

eaSt aSia’S edUcation WorrieS: eSSaYS BY

plUS

Cheng Kai-ming, Takehiko Kariya, Yang Rui, Young Yu Yang, S. Gopinathan & Catherine Ramos, Nicola Yelland and Qian Tang

Special feature: india’s quest for fdi Three writers look at the drive for foreign investment under Narendra Modi in focus: northeast asia’s history problem Jie-Hyun Lim, Alexis Dudden and Mel Gurtov analyze the intractable issues around attempts to suppress historical truths in South Korea and Japn heiko Borchet German Security Co-operation with Asia Book reviews by Christopher Capozzola, John Delury, Taehwan Kim, Nayan Chanda and John Swenson-Wright

Breaking oUt of the rUt: engaging north korea

Education in East Asia: Overstrained, Outdated and in Need of Reform Learn more and subscribe to our print or online editions at www.globalasia.org

JoongAng Ilbo Chairman Seok-Hyun Hong offers thoughts on paths to draw Pyongyang out of isolation the evolving US-Japan relationShip

J. Berkshire Miller on Abe’s recent Washington visit

US$15.00 W15,000 a JoUrnal of the eaSt aSia foUndation | WWW.gloBalaSia.org | volUme 10, nUmBer 2, SUmmer 2015

Education in East Asia Overstrained, Outdated and in Need of Reform

Latest issue, full archives and analysis on our expert blog at www.globalasia.org

Have you tried our digital edition yet? Read Global Asia on any device with our digital edition by Magzter. Issues are just $5.99 or $19.99 per year. Download the free Magzter app or go to www.magzter.com


冬号 2015

Korean Literature in Your Hands!

韓国の文化と芸術

Our new multimedia platforms bring interactive content you can watch and listen to beyond the pages of the magazine.

特集

冬号 2015 vol. 22 no. 4

The New |

www.list.or.kr | Mobile Application

書院 朝鮮王朝の儒学と士林の本拠地 節制と質素を追い求めた性理学的美学 未来に向けた役割の変化:書院の日常

www.list.or.kr

New_list(HD)

Available on the App Store & Google Play

www.klti.or.kr / Yeongdong-daero 112-gil 32, Gangnam-gu, Seoul 135-873, Korea / TEL: +82-2-6919-7714 / info@klti.or.kr

vol. 22 no. 4

New_list(HD)

書院 朝鮮時代の 性理学の教育機関 ISSN 1225-4592


Turn static files into dynamic content formats.

Create a flipbook
Issuu converts static files into: digital portfolios, online yearbooks, online catalogs, digital photo albums and more. Sign up and create your flipbook.