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Abcence of Morphology Concept Book for Graduation Project Kyoto Institute of Technology Nagasaka Lab. Atsushi Onoe

07.01.2018

MEX-USA



Concept Book for Graduation Project Kyoto Institute of Technology Nagasaka Lab. ATSUSHI ONOE


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Concept これは 3.11 のポスト世代として建築を学ぶ自身の位相を巡る記述である。ポスト 3.11 的な建築が、未曾有の災害を目の前にして社会貢献という倫理的な価値観の正当 性の内でのやり取りにすぎないとするならば、その能天気で簡単に扱える非出来事性 を夢想することは建築を決して前に進めることはできないと思った。無論その社会貢 献はなくてはならないのだが、社会はあれから 8 年が経とうとしている。社会はその 8 年前から凄まじい速度で社会は変容してきているのに、相変わらず創造することは その社会貢献という倫理的に異論の余地がない正当性にすがっている。 結局のところモダニズム以来、建築家による英雄的な行為という認識めいたものが 建築家のなかに自覚なく内在しており、これまでそれを暴くことですらタブー視され ているのではないだろうか。建築が社会のシステムなどの具体的な要求に知らず識ら ずのうちに雁字搦めになり、メタ的に消費社会の構図を暴こうが開き直りを見せる。 こうした近代が生み出した虚構のシステムの中で、今一度断絶され、摩擦を起こす 概念同士を調停することが必要なのではないだろうか。 本書は3つの章によって構成される。第1部ではこれまでの消費社会の社会的な理 論について概説し建築の社会における位相を分析する。その上で第2部においてデザ インが記号化されてその操作によって形の価値が損なわれていくことについて考えた い。そして第3部では後の設計計画で取り上げる、国境のあり方について建築的な言 語すなわち “ 境界 ” という言葉をテーマにして語る。しかし建築に限らず絵画など創 作全般に対して言及しようとするものである。 これらは日々自身が書き留めてきたことを精査してある程度の理論化を図ったもの の寄せ集めである。この入り組んだ言葉たちを集積し整理した上で一つの具体的なコ ンセプトを打ち出す一助としている。設計計画の中でこれらを明確に示す。 ゆえに断片的な議論の集約にとどめ、これを整理された論として展開するのは後の 機会に譲ることとする。

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BORDER SPACE 無形の現在−国境空間


CONTENTS <Prologue> 臨界点 / 消費社会

<Part 1. 消費社会の社会的理論 > ・産業革命直後の生産と消費の社会的理論 有閑階級の誕生 / 消費の顕示性 / 消費:記号と社会 ・現代の消費社会 意味の時代 / 資本主義下における消費の神話

<Part 2. 無と建築 > 消費時代の建築 / コンセプトの不在 / 建築と社会:消費と再生産 / 主体の位相 / 無形の現在

<Part 3. 建築としての国境 > 調停すること / 阻むものとしての国境 / 境界

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Abcense of

Morphology


「無形の現在」と銘を打って始めようとするこのテキストは、建築がカタチを失っていく中 で起こる様々な事象の評価と再解釈である。 私たちが生きる大量消費社会と同時に発生する情報社会の中で建築は、あるいは建築家は どのような立場をとっていくべきなのだろうか。資本主義の限界が露呈されていると言われ はじめてから久しいが、社会に強く依存する建築もまたその限界に達し始めていることはい うまでもないだろう。それとは逆に技術の進歩はめざましく、限界が露呈されていながら建 築があらゆる形を持って実現が可能だというパラドクスにひどく疑問を感じる。同時に資本 主義の概念が解体されてきたときに、資本主義が前提ともいえるテクノロジーはどこへ向か うのだろうか。そして建築はどこへ向かうのだろうか。



PROLOGUE

プロローグ Critical Point−臨界点 /Consumer Society−消費社会

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Critical Point

1995 年 3 月 20 日の地下鉄サリン事件、2001 年 9 月 11 日の同時多 発テロ、2011 年 3 月 11 日の東日本大震災及び福島原発事故。私たち の世代の中はこの 3 つのエポックを目の当たりにしてその後の世界に生 きている。 とりわけニューヨークの同時多発テロはメキシコに住んでい た幼き頃の私にとって極めて印象的な出来事であった。事件当時犯人が メキシコ人であると見られ、アメリカに出張していた父はその日は帰っ てこなかった。当たり前のように毎晩帰ってきていた父が途端に姿を消 したように思い、その時初めてビルが燃え崩れ去る様子の意味を幼いな がらに感じていた。同様な不安が 10 年後の大地震の際に遅い、父の職場 は神奈川県の本牧埠頭に位置し、社内への浸水の対応に追われ交通渋滞 にも見舞われ深夜に帰宅した。姉は慶應大学湘南藤沢キャンパスで行わ れた理系のコ ンテストに参加しており、夜遅くになって彼女の安否が確 認でき翌日に帰宅した。 発展の象徴とも言える構造物が燃え崩れ、爆発 した様子をテレビというメディアを 介して目の当たりにした自身にとっ て近いようで遠いような経験であった。それが一体なんなのかその現場 を確認すべくその後の現場を見にアメリカに飛んだこともあった。 地下鉄・高層ビル・原子力発電所…。我々、とくに都市に住まう人々 の生活とは 縁の切りようがない三者がたった 16 年の間に決定的な文化 的システムの脆さを 露呈した。そして私自身が住んできた各都市と強く 関連してきたことである。特に 3.11 後には日本の建築家らによって第 13 回ベネツィアビエンナーレにて「ここ に、建築は、可能か」と問わ


れたことには大きな意義があった。コミッショナーと して参加した彼ら

ナハウスが置かれているだけであった。当 然電車も通っておらず、瓦礫

によって被災者のための「みんなの家」を憩いの場として設計す るプロ

と幾つかの流木、大きく傾き沈下した RC 造の建造物 が横たわり上空か

セスを展示にしたが、彼らは皆東京などの都市を起点に活動する建築家

ら撮影された映像を脳内で再生され鳥肌が立ったのは忘れられ ない。孤

たち であった。陸前高田で起こったプロジェクトであるが現地の住民か

立していたコンテナハウスは仮設のメディアセンターのような機能を果

らすれば、どこ の馬の骨かもわからない人等が何をしにきたのか、と快

た し、いかに今回の震災・津波が甚大なる被害であったか、そしていか

く思わない人だっていただ ろう。現地の人々とのギャップを承知でこの

に過去に起こ った数々の津波から得た危機感が忘れ去られていたかが展

プロジェクトに取り組んだのには、3.11 が単なる震災及び津波被害では

示してあった。そこで聞 いた中年女性のボランティアスタッフの方の話

なかったからである。それは人と人との関係 の裏に虚ろでしたたかな価

を聞きながら、先に話した「みんな の家」の設計に取り組んだ建築家ら

値の交換がつきまとっており、人の関係性すらも消費の 渦に飲まれてい

が表沙汰にしなかった苦悶が見えたような気が した。彼らが苦悶した問

たことが露呈したからではないかと思う。

い、すなわち「ここに、建築は、可能か」という問いを自 身にも突きつ けられたような気がした。話を伺ったボランティアスタッフにまがい 物

そうした動きの中で建築もいかに人の関係性を消費の渦から脱せるか

よろしくの計画を提示できるだろうか、と。その問いとの死闘の末によ

という、人 の生活を主に重点を置いているように思える。しかし一方で

うやく何か一つの提案ができるのではないだろうか。そうした手続きを

それは当たりの優しく、聞こえの良い設計で、もしかすると下手にユー

踏まずに、震災以降 の建築についてインターネットや本などで得た知識

トピアを夢見たものであると思われ ているのも事実である。非常に重要

だけで臨むことに強い抵抗を 感じるし、消費的な関係について考えるよ

であると再発見されたはずの人と人との関係の デザインが、スター建築

うになったのもこれがきっかけではないだろうか。

家らによって行われたが故にそれを見よう見まねのパロディとして学生 らは設計課題をこなす節があるのもまた事実ではないだろうか。震災 か

壮大な物語を描くかのような切り口だが、こうして話のスケールを極

ら 2 年が経つ頃に私は、原発事故こそ起こらなかったが津波の甚大な被

端に示すことで消費社会の潜在性や密かなテロリズムについて語れるの

害に見舞 われた女川町を訪れた。現在では復興整備が進み、坂茂氏設計

ではないだろうか。

の駅舎を起点に今後の津波対策としてのまちづくりが進められている。 初めて足を運んだ時、海沿いは文字通りの更地でそこにポツリとコンテ Absence of Morphology

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Consumer Society

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幼少期に父親の仕事の関係でメキシコに渡り、帰国して東京に住まい、大

何かを整理してそれを理論立てることで、近代は発展しそれは科学に基づ

学生活を京都で送っていることは自身にとっていろんな境目を意識させてい

いた “ 信憑性 ” に拠り所を求めていた。技術も発展し、人々は土地に拘束さ

るように思う。その場所は様々な二項がぶつかり合う場所であり、それゆえ

れなくなり物理的に地球の何処へでも行くことができるようになり現代では

に文化の多様性を見せていた。そしてまたその多様性と保守的な思想がぶつ

多様性について会話が繰り広げられるようになった。幸いにも自身が海外で

かり合う場所でもあったと思う。二項対立が連鎖的に発生し、細分化された

過ごした時間では、こちらの主観としては、多様性が認められたような気が

り統合されて大きなくくりでの二項対立を生む。そこにはグルーピングが発

していたが、それは地球上のたった一人についてでしかなく全てが受け入れ

生していて、これが記号の生まれ方なのではないかと思う。

られている訳ではないだろう。おそらく人間の最大にして最難関であろう対

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立はこの人種というグルーピングであるのではないだろうか。それを基準に

レンやジャン・ボードリヤールの著作にであって突きつけられた。そのラディ

して文化や社会、経済が歴史的な背景を元に階級づけられたりすることで摩

カルさを目の前に自身の生き方に不安を覚えたのは今でも忘れない。

擦を生み出しているのではないだろうか。 ここまでは自身の経験から導き出した消費社会への漠然とした視座を提示 そうした社会学的な観点は学ぶことすらグルーピング行為と変わらないと

したが、ヴェブレンやボードリヤールが語ってきた消費社会の構造と連関さ

思っていたがそうした大きな世界観に先立って、そうしたことが我々が生産

せながら建築や都市における消費の理論と問題点について明らかにして生き

と消費のシステムの中で生きることに内在することをソースティン・ヴェブ

たい。 Absence of Morphology

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Objects Human Society Part1 物 / 人間 / 社会 (1) 産業革命直後の生産と消費の関係 有閑階級の誕生 / 消費の顕示性 / 消費:記号と社会 (2) 現代の消費社会 意味の時代 / 福祉という欺瞞 / 創作行為の消費性 / 建築、消費の芸術?

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一言に “ 消費 ” と言えどそれは非常に多義であり、どの ような切り口で語るのかを明記する必要があるだろう。い くつかの語り口があるが、産業社会のシステムにおいて需 要と供給など目に見える数値化された物としての “ 消費 ” が一般的に理解されているだろう。しかし、ここでは消費 の意味性に重きをおいて論じる。それはつまり、見えるも のと見えないものの往復運動によってそこに意味を発見し 消費の本質を見ようとすることである。 消費論 / 記号論の走りとなったヴェブレンと死した今も なお世界で議論の種をまくボードリヤールについて注視し ていくなかで消費社会における物と人間の関係性について 考察する。


1)産業革命直後の生産と消費の関係 消費と生産の関係は現在進行形のサイクルである。その 消費のサイクルの、特にその意味性について発生の原初を 捉えることから本論を始めたい。 ヴェブレンが『有閑階級の理論』を記したのは 1889 年 で産業革命が起こってからおよそ1世紀ほどたったころで ある。アメリカで生まれ育った彼は 1812 年頃に掴んだ工 業化の流れと同じ年月をある程度共有しており、それが確 立されてから 20 年ほどしてからこの著作を発表した。の ちに消費論の先駆著書として知られるようになるが、彼に とってこれは自身が生きている社会の批判的な観察と考察 であった。彼が生きたこの時代は南北戦争を経て訪れた資 本主義の急速な発展期であり、初期にしてその本質をつい ていた。

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有閑階級の誕生 ヴェブレンは本書の中で “ 顕示的閑暇 ” や

における多様化した現代でいう職業の違いや

“ 顕示的消費 ” などこれまでとは特異な言葉

性別の違いによって明らかになるとヴェブレ

を使って社会を描写・分析していた。ほぼ

ンは語る。この産業体系の移行期においては

同時期にドイツではニーチェが『悦ばしき知

産業的な職業と非産業的な職業の違いが “ 英

識』(1882)で “ 神は死んだ ” と記したよう

雄的行為 ” と “ 退屈な仕事 ” として区別され、

に産業革命を機に近代へと歩みを進めた世界

それは男女の体の作りだけでなく気質の違い

は、「神の死」によって宗教的権威を失い個

とにているとされる。その上でヴェブレン

人の存在の拠り所は生産と消費あるいはそれ

は「有閑階級という制度は、共同社会が原始

を可能にしてきた科学となった。産業革命が

社会から野蛮状態へと移行する間に、つまり

波及していくことで人々は生産と消費のサイ

もっと正確に言えば、平和愛好的に生活習慣

クルの恩恵を受け、それは生活の質の向上へ

から一貫性を 持つ好戦的な生活習慣へと移行

と寄与する。ここで生活が豊かになることへ

する間に斬次的に発生した」としている。近

の希望が人々の心の中に生まれることになっ

代に突入すると人々の思考は、神という倫理

た。こうした一連の流れの中で、“ 有閑階級 ”

の拠り所から科学や合理性に依拠していくこ

が生まれた。

とがわかるだろう。これが現代が意味の時代

有閑階級という制度的な概念が明確化した

であるとされる原初となっているのではない

のは、“ 野蛮時代の文化の高次元化 ” による

だろうか。

ものであるとして、産業革命によって共同体


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消費の顕示性 こうした近代のヒエラルキーの細分化とそこに意味を与える流れは必然的に男女間 における所有の問題を発生させていた。「略奪の永続的な成果を誇示することによって 武勇のほどを証明 しようという “ 成功した男の欲望 ” に起源を持って」おり近世から の所有の概念は人(女性)を所有することから、人の勤労 ( 女の勤労 ) による生産物を 所有することにまで拡大された。この概念の拡張は所有は 成功した略奪の証拠として よりもむしろ共同体内の他の人々よりも優れているという優越性を示すものへと変化 している。ただし、こうした優越性は人との差を誇示するためであり所有の優越性は 生存に最低限必要なものとは無関係である。 単に生産性とその富によって優劣がつくのではなく、人間に内在する欲が近代の差 異化の流れの中で誇示されていくことが現代に到るまでの消費社会の本質の一つであ ろう。 財と生産の関係において生産には必然的に労働が伴う。したがって下層階級という 概念が自ずと浮かび上がり、さらにその対概念的に存在する上層階級 ( 有閑階級 ) に ついて生産の観点から議論を展開する。上流階層においては、金銭的競争という副次 的な要求によって節倹の成就は事実上抑圧され、勤勉への誘因は全く効果 を発揮しな いことが多い。これは生産的労働の回避として、社会的地位の維持を可能にするため の顕示欲に伴 う有閑階級の普段の努力とも言えよう。それはかつての野蛮文化におい て、労働することがすなわち “ 弱さ ” と “ 主人への服従 ” を意味するという考えに依拠 している。 また、前述の有閑階級の顕示欲について、富や権力というものは持っているだけで はなく自らなんらかの形 をとることで明示しなければならない。それによって有閑階 級としての自らのイメージを確立し尊敬の対象と なるためである。 だがしかし、こうした有閑階級に属す者でさえ労働をすることがある。その労働は 統治や戦争にあたるのだ が、それらに共通していることはこの階級の人々はこれらの 生産的労働によって富を増加させることではない ということだ。戦争に見られるよう に、本質的な目的が略奪的な仕事に基づく労働に関していえば、有閑階級はそれを行う。 それは略奪行為こそが有閑階級の原初とも言えるからだ。閑暇あるいは有閑とは単に 怠惰や静 止状態を示すわけではない。それは “ 時間の非生産的消費 ” であり、有閑階 級にとっては生産的な労働は行うに値せずむしろ何もしないことこそが財力の誇示な のである。また、行儀作法についても、日頃からそれを身につける訓練を行うことが できる財力を示すことである。 これまでは有閑階級を主体としていたが、代行的閑暇という形をとって主人に奉仕 するための、貴婦人や従僕の閑暇を定義した。これによって補助的で派生的な有閑階 級が生まれたのである。

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消費:記号と社会 無論、生産と消費の関係が意味の世界のみによって働いて いたわけではない。有閑階級の発展にはとりわけ経済におい て財を惜しみなく消費することにあった。また、単に階級誇 示的な何かを所有するだけであることから、品質上の優秀さ に関する区別が発展した。つまり男は富と力と野蛮を持つだ けでなく、頭が悪いと思われぬように眼識を養わなければい けない。であるからして、そうした一種教養的なものを磨く ことに、彼らは投資をするのだ。 富を蓄積していくと有閑階 級はあらゆる側面で発展し、階級内での差別化が進む。有閑 階級の中のヒエラルキーの関係から、低い階層の有閑紳士は 有力な紳士の仲間入りを果たすことで自らの階級を維持する。 また、中流階層においては代行的閑暇と消費という義務的な仕 事を妻一人に委ねる。この時点において、妻は男が生産する 財を消費する立場をとりそれによって閑暇の代行を完了する。 有閑階級は、社会構造のヒエラルキーの頂を占め、それゆ えに作法の価値基準がその階級によって社会全体に “ 規範 ” を あたえる。逆にそうした規範を作ることは、より下層の階級 間の昇降と上層の羨望に大きく関わる。それゆえに規範とい うものの社会的な図式を説明しなければならない。 階層が分化されていくと閑暇よりも消費の方に重きが置か れる。本書の章のタイトルにもある顕示的消費とはまさにこ のことであり、都市化が進んでいく中で顕示によって自らの ヒエラルキーの位をしめすことができるから、そのために彼 ら有閑階級は消費を惜しまない。ここで浪費という観念が見 出される。この “ 浪費 ” とは人間生活や人間の福祉に役立たな いことをいい、個々人によって浪費たるものが変化すること はない。生活水準の推移の中でかつては浪費的なものとして 始まったものが消費者の理解の上で次第に生活必需品と化し ていく。

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2)現代の消費社会 ボードリヤールはソルボンヌ大学の博士論文として 1966 年に『物の体系−

か。

記号の消費』を発表し博士号を取得して著作として出版される。その後現代思

大量消費社会と再生産の時代において、ヴェブレンが唱えてきた顕示的閑暇

想に大きな影響を与えることとなる『消費社会の神話と構造』(1970)を発表

あるいは顕示的消費の問題を哲学的な記号論の視点から批判し、その範囲はの

している。彼の生きた時代はおもに戦後であるが、ヴェブレンが警鐘を鳴らし

ちに芸術などの域にまで広がる。「いかに豊かさを誇ろうとも、モノは人間の活

ていた消費社会は戦後についに大衆を完全に獲得して大量消費社会へと移行し

動の産物であって、自然の生態学的法則によってではなく交換価値の法則によっ

た。ヴェブレンがマルクスとは違った視点からの産業社会への分析を行ったの

て支配されているということを決して忘れてはならない」というラディカルな

に対して、ボードリヤールは構造主義の「貨幣は、一定の諸機能において、そ

言葉は今後発表されていく多くの著作の中で一貫している。

れ自身のたんなる記号によって置き換えることができる」とマルクスの価値論

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を取り入れていた。両者が社会学と哲学とで研究のベクトルが違うように見え

ここでは消費社会の理論をメタ的に扱い、その中に建築についての広がりを

て、そこには通底している生産と消費の構造批判への眼差しがあるのではない

見出したい。

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意味の時代 現代が記号の操作というゲームによって成り立っているとしたボードリヤールの主張 は『消費社会の神話と構造』を書いた 1970 年から本質は変わっていないだろう。彼は 同著作の中で以下のように述べている。

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“ モノは花でも獣でもないが、繁殖した植物群やジャングルのような印象をわれわれに与える。モノのジャングルの中では現代の新しい野蛮人たちは 文明社会の繁栄を容易に見せないほどである。もともと人間によって作られたのだが、出来の悪い SF によくあるように人間を包囲して攻撃をしかけて くるこの獣や花の生態を、現在われわれがこの目で見ている通りに手早く記録しておく必要がある−−もちろん、いかに豊かさを誇ろうとも、モノは人 間の活動の産物であって、自然の生態学的法則によってではなく価値交換の法則によって支配されているという事実を決して忘れてはいけない ” 『消費社会の神話と構造』第一部 モノの形式的儀礼 Absence of Morphology

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ここで言われているように、あらゆるモノが現代では価値交換のサイクルの中で生きている。近年では SNS の普及によって経験す らも消費されていると言えるだろう。特定の社会において珍しかったり映えある物や場所に訪れそれを小型のカメラに納め、言葉を添 えてアップロードする。何かモノを所有することによる顕示欲から、経験を実態のないモノに収める言でその顕示欲を満たすようにな り、それは技術の進歩に合わせて多くのものを消費対象にせしめた。ボードリヤールはこのモノ=記号を生産されたものに限らず社会 のあらゆる物事に対して当てはめながら、目に見える社会的な問題としてのみならずむしろ目に見えない虚ろな関係を生み出す構造に ついて言及してきた。 さらに時代が進むと人々はインターネットや社会の多様化の中で膨大な量に膨れ上がった情報の海で自身の存在意義を情報に委ね顕 示することで自らも消費しているのではないだろうか。 Absence of Morphology

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福祉という欺瞞 消費社会を語るにあたって資本主義との連関を無視することはできない。資本主義と民主主義はとかく並列して考えられ、民主主義は平等とい う神話の元に成り立つし資本主義もまた原則としては富の再分配が求められる。しかし、たった7歳であった自身の目に写ったメキシコの小さな 売り子の姿を見たときからその後学校で聞く民主主義や資本主義の理想に疑問を抱いていた。 ボードリヤールは消費社会の社会的な理論を展開するにあたって民主主義や資本主義の平等主義的なイデオロギーとしての福祉の欺瞞について ガルブレイスの『豊かな社会』(1958)を引き合いに出しながら記述する。

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“「福祉の革命」は、市民革命、あるいは実際には実現できないし望んでもいないのに万人の平等を原則とするようなあ らゆる革命の後継者であり、遺言執行人である。そこでは民主主義の原則が、能力や責任や社会的機会、つまり(言葉の完 全な意味での)幸福に対する現実平等から、モノや社会的成功といった明白な記号を前にした平等へとすりかえられている。 4

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それは、スタンディング〔社会的地位や生活程度〕の民主主義、テレビや車やステレオの民主主義、うわべだけは具体的だ が実はまったく形式的であり、社会的矛盾や不平等が存在するにもかかわらず、憲法上の形だけの民主主義に対応する民主 4

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主義である。これら二つの民主主義は、一方が他方のアリバイとなりながら、結合して真の民主主義と平等の不在を全面的 に隠蔽する民主主義的イデオロギーとなる。” 同著作 第二部 消費の理論 Ⅰ消費の社会的理論 福祉の平等主義的イデオロギー Absence of Morphology

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近年の日本では 3.11 を皮切りに欺瞞に満ちた民主主義的イ

目的)を悪魔的に逆転することによって、社会的不平等、特権

デオロギーが露見しだしているが、民主主義は資本主義と同

階級、不均衡等を生産し、再生産し、復活させている ” ことを

様に少数派の救済が前提とされており、まさに上記の言葉が近

確認するだけで満足する。理想主義者の中では貧困は成長の増

年の日本をよく表しているだろう。少数派の救済がなされなけ

加によってやがては吸収されるとしている。つまり、富の再分

れば多数派の意思によって施政されその結果として真逆とも言

配を行うのは生産の増加であるという主張であるが、現実の社

えるファシズムが誕生する。民主主義は常に独裁制と表裏一体

会関係においてこれが決して正しいとは言えない。貧困を取り

であり、決して手放しに喜べるような社会ではない。資本主義

除こうという理想主義者の中の努力は、全面的な豊かさへの肯

もまた富の再生産を引き起こすと同時に貧困を再生産させてい

定が逆説的に貧困を必然的に再生産させるという機構によって

る。

虚しさを得ている。どうしてもなくならないこの “ 残された貧

“ 福祉 ” は理想主義者によって先に記した欺瞞の上に立ち上

困 ” についてガルブレイスは私的な消費に対する集団サービス

がる。理想主義者たちは、“ あらゆる対策にもかかわらず、経

への遅れなどによるものだとするが、これに対してボードリ

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済成長はその目的(誰もが知っているようにいいことづくめの

ヤールは上記の通りに批判する。

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創作行為の消費 記号の操作、象徴交換によって消費社会が成り立つことはすでに確認し ているが、創作行為においてそれは顕在化してくると言えるだろう。創作 行為はかつて人間が洞窟に描いてきた壁画以来行われてきた行為であり、 創作行為は文化を形成するのに大きく寄与してきた。しかしこの消費社会 においては、文化すらも大衆社会の中で消費される。 消費社会における文化について語るにあたって、歴史で語られるような 文化と現代の大衆文化の二項を用意すべきだろう。ボードリヤールは前者 の特性を “(1)、作品・思想・伝統の遺産、(2)、理論的・批判的思考の 切れ目のない広がり ” としており、“ 批判的超越性と象徴機能という意味 4

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での文化とは正反対の概念 なのだ ” としている。続けて、“ 文化のこれら の性格は、次々に役に立たなくなっていく文化的要素や記号からなる周期 的に変化するサブ・カルチャーや、キネティック・アートから週刊百科に 至る文化の現代的形態−−ルシクラージュを受けた文化によって否定されて いる ” と語る。ルシクラージュとは “ 誰でも左遷されたり取り残されたり 排除されたりしたくなければ、自分の知識や学力つまり労働市場における 個人の「実戦用装備」を時代に合わせて更新しなければならない ” ことで ありこれはいわば消費社会の “ 流行 ” の本質であって、季節ごとに服やモノ、 自動車を取り替えるように義務付けられていなければ “ その人は消費社会 の本ものの市民ではないのだ ”。消費社会は必然的に大衆を伴わなければ ならず大衆文化もまた必然的である。このことは文化というものが永続す ることを前提として創造される時代が終わったことを意味している。単純 に “ 流行 ” に合わせて消費行為が行われるということではなく、“ 作品の意 味にかかわる重要な事実、それらはあらゆる意味作用が周期的に変化する ようになったこと ” であり “ メディア自身や参照コードをもとにして生産 可能 ” になることでそれがまた消費されることで文化の再生産と消費の構 造が立ち上がるのである。この点において文化は様々な記号のやり取りの 中で、すなわちルシクラージュによって消費される。

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建築、消費の芸術? 芸術もまた技術の発展に伴うようにして一 品物から複製あるいは大量 “ 生産 ” されるよ うになる。それはヴァルター・ベンヤミンが 『複製技術時代の芸術』において、芸術が神 話的な、あるいは呪術的な力すなわちアウラ を失い、その儀式性に替わって芸術は政治に おいて実践なされようとしていることを語っ た。それは大衆社会に移行する段階で、近世 の神というきっかけから大衆というきっかけ を得ようとする社会の流れによるものと言え るだろう。それはアーツアンド・クラフツ運 動に芽を見出し、ロシア構成主義で大きく社 会を創作の拠り所とするという宣言に至った こととおおよそ同義だろう。 消費が日常的なものならず、芸術において も垣間見えるとしてボードリアールはポッ プ・アートについて言及している。

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“ この問題はひとことでいえば次のようなものだ。ポップ・アートはわれわれのいう記号と消費の論理にもとずく現代芸術の一形式なのだ ろうか、それとも単なる流行の産物に過ぎず、それ自体が純然たる消費対象なのだろうか。これら二つの疑問は矛盾しない。ポップ・アートは、 それ自体が(その固有の論理に従って)純粋で単純なモノとなりきることによって、モノの世界の調子を変えることが認められているからだ。 広告もやはりこうした両義性を伴っている。” (同著作 第三部 マス・メディア、セックス、余暇 Ⅰ マス・メディア文化 ポップ、消費の芸術?)

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ここにおいてポップはそれまでの芸術が持っ ていた歴史性や伝統的に与えられてきた地位を 認めず、“ 記号の内在的秩序に同化しようとして いる ”。それは “ 記号の産業的大量生産、環境全 体の人為的人工的性格、モノの新しい秩序の膨 張しきった飽和状態、ならびに教養化された抽 象作用に同化しようとしているといってもいい だろう ”。消費と生産の問題が日常的なものに限 らず芸術においても認められるとしたが、むし ろ芸術の側が日常的なものへとそのステイタス を移行させてきたと言えるだろう。更に言えば、 神や見えないものという人間の拠り所を失い、 合理性の中に拠り所を見出したと言えるだろう。 非日常的なものであった芸術は今ではそれを納 める美術館の側から社会に開くという名目で日 常的なものへと取り込んでいった。そして芸術 や建築は日常的なステイタスを獲得すると、今 度は日常に従属する形で消費社会を円滑に進め る潤滑油となっている。つまり、リテラルな社 会問題に対して従順に答えることで消費社会に 存在するいわば市民権を得ようとしているのだ。 その芸術や建築の地位の “ 失墜 ” に反旗を翻すよ うにダダとシュルレアリスムによって “ パロディ 的に ” 復活に成功したものの空間分析としての 抽象絵画によって再び解体された。こうしたカ ウンターカルチャー的なパロディは現在でもな んども行われ、パロディすらも再生産されるよ うになった時代である。

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何もかもが生産と消費の関係において記号すなわち意味のやり取りに自同律的に引き込まれる現在は ある意味でモノの世界においては無なのかもしれない。 Absence of Morphology

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Nothing or

Architecture Part2 無と建築 消費時代の建築 / コンセプトの不在 / 建築と社会:消費と再生産 / 主体の位相 / 無形の現在

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消費時代の建築

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“ 対話を無から始めるわけには行かない。というのも、

そらく無なのだから、空白こそは真にラディカルな空間

論理的には、無とはむしろ到達点であるだろうからだ ”。

ではないだろうか ” と述べる。ラディカルなことを拡張

このようにしてジャン・ボードリヤールは建築家ジャン・

するのではなく別の次元で、その真のラディカリティで

ヌーベルとの対話を切り出した。おそらく建築や空間に

ある空白をうめることはできないかという問いかけであ

ついてボードリヤールが語るのはこの対話くらいだろう。

る。それはすなわち、やや安易な言い方かもしれないが、

これは「作家の家」(パリの文学者の社会活動を支援する

建築が持っているはずの空間についてオブジェ(ここで

組織)とパリ=ラ・ヴィレット建築学校(パリの国立建

は特異性、他社性の意で用いている)の自同律的な建造

築大学)による「都市の架け橋」 (都市論をテーマに文学・

によってそれは生産と消費のサイクルにおける意味作用

哲学と建築のクロスオーバーを試みたシンポジウム)と

でしかなく、内在するはずの空間が空白であるか空間は

題されたプロジェクトの一環のシンポジウムである。こ

不在し、それどころかオブジェ自体がそれ自体によって

の対話は、彼らの建築や哲学における思索的なやり取り

消費されているということではないだろうか。これがあ

であり、それによって “ ラディカルで必然的な未完成状態 ”

る意味での “ 無 ” という到達点であり、建築がこれを限界

すなわち特異性というテーマに基づいて展開される。

として、それを乗り越えようという運動が近代以降常に

ボードリヤールは冒頭で “ 真にラディカルなのは、お

行われてきたことだろう。


その到達点は現代になって顕著になり、建築のクローン化は止まらない。 中立であることを求められ、もはや建築行為はそうした立場に建築家が立 脚している以上建築家は必要ないという結論に至る。ここで話をもう少し シンプルにすると、市民のヒーロー的に仕事をすることが全世界で求めら れてしまうこの大衆社会というイデオロギーの中で建築家と呼ばれる人々 は洗脳され自身のステイタスを確保するのに精一杯である。特異性を持つ オブジェを作ろうとすることに前向きになれない時代にいかに建築につい て思考すべきか、いかに建築を作るべきなのか。彼らの対話を引き合いに 出して、それを再構築することで現代建築の問題について思考したい。 こ の 第 2 部 に お い て は『Les objets singuliers -architecture et philosophie- Jean Baudrillard/Jean Nouvel(特異なオブジェ−建築と 哲学−)』(訳 塚原史 鹿島出版)における対話を引用しながら展開していき たい。

Absence of Morphology

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コンセプトの不在

“Jean Baudrillard(以下 JB)−たとえ建築が政治的プログラムに対 応したり、社会的ニーズを満足させたりすることを望むとしても、建築 はそうした目的にはたどり着かないだろう。なぜなら、幸いなことに、 建築にはブラックホールのような何かが存在するという、別の一面があ るのだ。このブラックホールが意味しているのは、結局、 〔建築が〕「マッ ス〔消費社会の大衆〕」を相手にしているということにすぎない。彼らは〔建 築の〕受け手としては意識的でもなく、思慮深くもなく、何でもない。マッ スは建造されたすべてのものに関して、極端に倒錯した操作者となる ”。 (同著作 第一の対話 コンセプト、解消不能性、めまいについて)

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この建築界隈の人間にとって、特に現代の建築学生にとっては痛烈な言葉ではないだろうか。ここに建築に携わ る人間として一言加えるとすると、建築がボードリヤールのいう “ 空間 ”、つまり “ 建造されたオブジェ(物体=対象) のうちに存在する、空間のめまいを誘うすべてのことがら ” が内包されているとすれば、決して目に見える社会的 な事実を積み重ねることによって構築されるコンセプトはもはや概念ですらなく出来事にすぎないだろう。それを “ コンセプト ” と謳って小綺麗な透視図と着彩された図面を提出すれば周りから “ 優秀な人 ” というレッテルを受け ることができる。私自身は日本で建築教育を受けている身であるから他の国ではどうなのかは断言できないが、少 なくとも日本においては概念すなわち “ コンセプト ” がほぼ不在なのである。だがしかし、一度レッテルを受けれ ばそれが規範を消費することで今一度再生産されるのである。これまで述べてきた、あるいはボードリヤールが語っ てきた事柄は建築設計の土俵においてもなんら例外を持たないのである。こうしてみてみると建築教育においてこ の消費の問題は顕著に現れているのではないだろうか。 48

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ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの最後の共著となった『哲学と

非・出来事のどちらかにしか軍配を挙げない構図を取っているのはある意味

は何か』(1991)で、“ 哲学とは概念(コンセプト)を創造することだ ” と

で近代以降にとっては自然な流れなのかもしれない。

している。さらに “ こうして結局、かの問は、すなわち哲学についての問は、

ここで二項対立と二者闘争的であることを明確に区別する必要がある。お

そこで概念と創造が互いに関係しあう特異点なのである ” とも述べる。ボー

そらくドゥルーズがコンセプトが二者闘争的であるといったのは、ある既存

ドリヤールが対話の中でも “ コンセプトを、ドゥルーズは二者闘争的な何も

のなにかが受け取ることのできる前後関係やあらゆる意味作用と対立しない

のかとして、彼なりに定義していた ” としており、哲学と概念(コンセプト)

わけにはいかないと認識していたからだろう。ここで二項対立としているの

と創造が連関していることを明示している。創造という行為にあたってわれ

は出来事と非・出来事でありこれらはじつは対立するどころか共犯関係ある

われは既存の社会や都市、つまり実際に起こっている “ 出来事 ” についてそれ

いはほぼ同義なのである、というのもこれまでのいくつもの建築や創造にお

を選ぶわけにはいかない。おそらくすべての創造に関わろうとも各個人はそ

ける特異点をわれわれは認識しているのだから!共犯関係であるこの二者を

の “ 出来事 ” の中で生い立ちを刻んできたのだから。その出来事はさまざま

対抗させて択一する構造が二項対立という合理主義的虚構には内在している

な形(メディアや社会の声など)によって決定されていくが、コンセプトは “ 非・

のである。しかし、二者闘争的であるということはコンセプトと非出来事性

出来事(現実世界の出来事が起こらない状態)” を作り出す。いわばその非・

においておこるやり取りである。出来事が起こらない状態である非・出来事

出来事はいわばフィクションであるがこれが現実:出来事に対して闘争的な

性においてコンセプトはそれとの闘争において非・出来事性を転覆させるこ

関係に参入しようとしない限りにおいてシュミレーションにしかなり得ない。

とに尽くすのである。非・出来事を生み出そうという試みはコンセプトでは

出来事と非・出来事を二項対立の関係である限りそれらは互いに相入れない。

ないのである。

もっともこれが合理主義の善悪のものさしによって図られることで出来事と


建築と社会:消費と再生産 テオドール・W・アドルノは “ アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である ” と発言したがこれはアドルノの文化批評としてアウシュビッツの効率主義的殺害が 後の文化の効率主義下における消費体制への批判である。こうしてあらゆる方面から消費社会への警鐘が鳴らされているわけだが、建築は社会というファクターを免罪 符にして無批判にその批判の対象外とせしめているのではないだろうか。

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現代においてあらゆる行動について 最高権力を持つのは社会という虚構で ある。あるいは社会という名の政治的 なイデオロギーかもしれない。日本に おいても戦前には検閲などがトップダ ウン的に行われていたり、その構造が 監獄そのものであったりする。現代で はそれが他のものにとって替わってい る:SNS(Social Network Service) だ。 Twitter や Facebook などに代表され るようなそれはもちろん当初は世界の 人とつながるためや、そうした議論を 場所を問わず展開することが目的とさ れてきたが、先に記したように創造、 とりわけ社会という現実に親いものは その目的にそぐわないことが常だ。こ と運が悪かったのはそれが他人と繋が れることを理由に自身を実態のない虚 構にせしめることが可能であるという ことである。そしてそれが匿名という 自身を記号化することで行えるという ことである。さらにこうしたツールは 容易に検閲することが可能であり、ひ とびとは言論の自由や多様性を得たと 錯覚していることを自覚しながらそれ が検閲されている恐怖感が故に社会と いうイデオロギーに追従するかたちで 発言する。そうして一部の言論は社会 というイデオロギーの圧力を追従され た言論によって受けるのである。これ が匿名のもとにのみ可能だというわけ ではなく記名であろうとそれは変わら ない、結局のところ自身を記号化する ことによって社会という実態のないも のの英雄的な代弁者として語ろうと自 身を消費しているのだから。

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近年では建築家もそうした SNS の土俵に躍り出て議論

こうした計画全てが虚しいという言いたい訳ではないし、

を展開しようとする。なぜなら建築家たちはそこで発言

こうした活動も立派な建築家の職能であるとも思う。だ

することがすなわち自身の建築家としての英雄的な社会

が、こうした活動はいわば対症療法にしか過ぎないので

への貢献を顕示しようとするからだ。もちろん全ての建

はないだろうか。言いたいことは、こうした活動への批

築家に当てはまる訳ではないことをきちんと注記しなけ

判ではなくてこれを英雄として、絶対的なものとして崇

ればならない。特に日本では東日本大震災及び大津波に

められる構造、すなわち社会という日和見な構造のこと

よって消費社会の問題が大きく露見した訳だが、それに

である。

よって日本の建築界はさらに社会に従属することを選ん

建築と社会が切っても切れない関係であることはまぎ

だ。そうして建築家たちはより地域コミュニティの重要

れもない事実であるし、その関係を断ち切ることに尽力

性を説いてきた訳だが、その先に何を見ようとしたのか

しようとは思わない。だが、社会は一義的なものではない。

は理解しがたい。日本は海に囲まれあらゆる自然災が高

あらゆる社会が存在していながら、意味不明で根拠のな

確率で起こりうる土地であるし、そうした時に地域の人々

い “ 一般的に言われるモラル ” を盾に一元的な社会という

が災害が起きてもそのコミュニティによって最悪の場合

これまたモラルにすがろうとするのである。だがここで

を避けることができるということなのかもしれない。だ

現れているのはアドルノの言説をエクリチュールを借り

からひとびとには定期的に集まるための集会場やシステ

れば、“3.11 後に建築を作ることは野蛮である ” というこ

ムを町全体で計画すべきだということだろう。もちろん

となのだ。


主体の位相

“ 普遍的なものの諸価値とグローバリゼーションの諸価値とのあいだには、 大きな差異が存在している。 普遍的なものは、まさに、まだ価値体系である、原則として、誰もがそこに接近できたから、それはま だ、何らかの獲得対象だった。さて、そのあと少しずつ普遍化が中立化され、すべての文化が並置され るようになったが、こうして生じた結果は、上からの価値による平等化にとどまっていた。他方、グロー バリゼーションの過程ではむしろ下からの、最小公分母による均一化が見られる。つまり、世界の「ディ ズニーランド化」というわけだ。” (同著作 第二の対話 中立性、普遍性、グローバル性)

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現代ではあらゆる場所でグローバル化と いう目標が掲げられている。グローバル化 は事実上社会主義圏が崩壊し世界的に資本 主義に移行し始めたことと、インターネッ トなどの技術の進歩、つまり情報革命にあ る。そのことは明白であるが、上記の引 用のようにグローバル化は多様性を重んじ るという名目の元に平等の神話を築き上げ た。矛盾した言い方をしたが、これはつま り、多様性を重んじるということ自体が世 界のあらゆる状況に対して平等でなくては ならないということだ。しかしグローバリ ズムが内包する、あるいは自明でありなが ら神話を盾に隠されている、強力な資本主 義の搾取体制は根本的に孕む問題として強 烈な差別構造を生んでいる。それは連鎖的 に不可逆な形で存続しているし、近年の移 民などをめぐる人種差別の問題も批判が相 次いでいながら一向に解決することのない ものとなっている。これもまた多様性のも とに正当化されているのもまた事実と言え るだろう。

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グローバリズム、あるいは世界的な資本主

える必要はない。むしろ、アイデンティティ

義構造は多様性の本来の意味とは裏腹に上下

は更新されていくものとして常に未来志向に

軸を挿入することでピラミッドを築き上げた。 なるか懐古主義に陥る。もはや現代において 我々はあらゆる顕示によってそのピラミッド

アイデンティティはいわばほぼ幻想に過ぎず、

の中の立ち位置を常に示すことを要求される。 帰国子女や普通ではない生い立ちを経ること それに応えることによって、消費社会の一員

でしか形成されないものであると信じられて

としての ID を獲得する。そうして主体は自

いる。こうして消費社会は自同律的に自らが

身の位相を獲得して行くのである。その時々

“ 決定される ” という人々の受動性を引き出す

に顕示することによってそれが自身を形成す

形で抑圧する。私自身はまだ 20 年と少しし

るものだと確信させられるために、自身のア

か生きていないものの、この薄暗くて息のつ

イデンティティについて大きくなってから考

まりそうな雰囲気を少なからず感じている。


無形の現在

無−それはもっとも根本的なものである。現代をそう評価するにはおおよそ見当違いも甚だしいが、むしろラディカルさを失って物理的な形は蓄積され た歴史の断片をつぎはぎにして生み出される。歴史的な文脈にそって正統に構成することはあるだろうが、おおくの創作はむしろプログラミングされた システムの中で変数を選択し組み合わせることで建築は生成されている。合理主義の名の下に建築は実験を重ねられ、ついにはある種の大多数の人が認 める事実という変数によって建築を構想する。生成されたものの中から一つを選んでそれを世に公表する。建築はもはや創造されるものではなく生成さ れるものとなった。生成されたものがたとえ触れることのできるものであろうとも、それ自身が形と認められるのは創造を担う世界において無条件に受 け入れられるものなのだろうか。

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建築の歴史を多く積み重ねてきたわれわれは、カテゴライズする

よって建築造形がシステムの中に公式として組み込まれてしまって

ことやされることに無抵抗か、もしくは猛烈に反発する。確かに技

いる。つまりここでの問題はこれまで建築と呼ばれていたものをシ

術の発展によって建築は多様な形を生み出してきたし、現代では複

ステム化して矛盾や情緒を排除したことにある。それは資本主義と

雑な曲面でさえ物理的な不可能を克服してきている。全く見たこと

の契約上必須の条件だったかもしれない。だが、建築は創造とリテ

のない造形や新しい建築について思考することは、技術の発展を待

ラルな社会情勢との架け橋としての存在で、それが双方で行き交う

てば可能になるという希望はどんどん薄れてきている。そして 3.11

力関係を調停することにあったのではないだろうか。時に現状に歯

後に形を作ることに前向きになれない時代に突入すると、人々の関

を向けながら、建物として最善の策ではないかもしれないが問題を

係性について設計をすることが主流となってきた。ここにおいて建

引き起こすことに価値があることもあった。その未来に対してわれ

築にたずさわろうとするひとは、形について考えることを一度ス

われは発言しなければならない。現状の克服には、ある種の論理を

トップしたのである。もはや現代では形は先行せず、いわばストー

伴った未来が必要だ。ただその論理は更新されなければならないし、

リーを設計することにシフトしたのである。それは確かに一理ある

そうした思考 研究過程でセレンディピティの誘いを受けて初めて

ことで、われわれはあまりにも建築の形にとらわれていた、という

社会的に認められる。幸か不幸か、創造の世界に身をおく限り、合

事実に気づくという転換期に立ち会ったのである。建築は後追いす

理的なものだけでは決められないはずなのである。それは現代の善

る形で、新しいコマンドをその設計システムに組み込み変数を増や

悪の物差しだけでは計れず時間を考慮に入れなければならないから

した。だがしかし、その行為は造形や創造行為と呼べるのだろうか。

だ。その時間、すなわち未来を考慮に入れなければいよいよ建築は

無とは程遠いところで過剰な意味作用とその欠如を糾弾する構造に

完全なるシステムとして作用するようになるだろう。



Border as

Architecture 3


Part3 建築としての国境 調停すること / 阻むものとしての国境 / 境界


調停すること

第 2 部までは消費社会と建築あるいは創造についての理論記述であったが、ここではそれを実際に創造においていかに実践するかを示していきたい。 建築というフィールドにおいてこれまでの消費の問題にいかに取り組むべきか。専門的に建築を学び始めてから4年目だが、この命題は一貫していた。 多くの設計課題は敷地や条件が決められたものであったが、その時々において的確にテーマを選択してきた。建築が消費社会の中で問題視されるの本 質は、スクラップアンドビルドやデザインの話だけでもなければ生産と消費の関係を補完しよとするものでもない。それは建築と社会の関係そのもの についてである。 いうまでもなく建築は社会にもっとも近い造形物のうちの一つである。第 2 部でも述べたように、現代では建築が社会の要求に従属している。それ ゆえリスクを伴うラディカルな応答ができない。ポストモダニズムの時代に磯崎新が示してきた、対立する二項があったらどちらも否定してその対立 関係すら揺るがすというアーティスト的な手法は、今日では社会に従属する気はないという宣言であるという記号をもって消費する。そのことが示す ようにポストモダンは基本的に記号の世界であったとも言えるだろう。それがなにも不思議でないのは情報化社会と同時に消費社会も消費の幅を広げ てきたからだ。 追従することとアンチの姿勢を保つ二者に限界が見えた時に我々はどうすべきだろうか。第三者として対立する二項を調停すべきではないだろうか。 ここで注意しておきたいのは、調停とは中立の立場を取るということではない。中立であるということはその対立から目を背けるということだし、人 が完全に中立であるということは基本的にありえないからだ。

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何か二項が対立するとき、それが物理的なものであれば両者は領域を持 つだろう。するとその両者の間には境界が生じる。資本主義や消費社会は 一項では成り立たず複数項が互いに二項対立を起こしながら細分化された ピラミッド型の差別構造を生み出している。その最たる例は国境にあるの ではないかと思う。メキシコとアメリカの国境は世界でもっとも緊張のあ る国境の一つである。そこでは多くの差別と場合によっては射殺が横行す る。その元凶は、消費社会がもたらした意味の世界やラベリングである。 経済格差のみならず、人種差別を重ねて抑圧的な国境の壁を設置すること で両者はある種の対立関係を持つ。 このことは違う形ではあるが日本においても全く無視できるような問題 ではない。むしろこのことが捻じ曲げられながらメディアに報道されるこ とも多いし、そもそもそのことについてはっきりと意見できる人もあまり いない。日本は海に囲まれており、国境への自覚は薄いが地続きになって いないだけで本質の問題は一緒である。このことについて考える時に、世 界的にも認識されているメキシコとアメリカの国境について考察すること から、日本の海外との関係への問題意識を投げかけたい。 そして何より、幼いころの私よりもさらに幼かった少年や少女たちと道 端でであった場所でキチンと向き合いたい。


阻むものとしての国境

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国境に壁を建てることは、始皇帝が万里の長城を築いていたようにはるか昔から行われていた。外敵の襲来を阻むものとして建てられたことは明らかであるし、 これが一つの平和の保ち方であったとも言える。時代を進めて近代ではベルリンの壁が建設された。国家の存続をかけて社会主義体制にあった東ドイツが世界 の資本主義への移行の風潮による市民の西ドイツへの亡命を阻むために建設された。国境は常に国家という大きな虚構同士のやり取りの中で生まれ、最悪の場 合として壁が建設され、自由を奪い、あるいは負の象徴として見せつけることでさえ目的化されていたとも考えられるだろう。

いまもっとも注目を集める国境の一つであるメキシコとアメリカの国境

ロ直後はメキシコ人が犯人であると報道されていたくらいにすでに不法移民

線沿いにはベルリンの壁のように、コンクリート造ではないが鉄骨の壁が

の問題は深刻だった。その問題とは、人種差別に基づくものである。世界で

立ちはだかる。それはおよそ5m ほどでベルリンの壁よりも高くそびえる。

もっとも多様性を重んじているように思えるアメリカのジレンマとも言える

1994 年に麻薬の密輸や不法移民の阻止などを目的に建設が開始され 2006

し、逆に巨大な国土をもっている合衆国として意見が割れてしまうというこ

年には安全フェンス法としてブッシュ政権の下で国境警備隊の増員がなされ

ともまた事実である。

た。これは 2001 年9月11日のアメリカ同時多発テロの影響でもあり、テ

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国境について語るということは様々な問題を浮き彫 りにさせる。国境の壁を巡る論争において自然環境へ の影響や先住民の村の分断などがある。ここで単純な 疑問が浮かび上がる:国境はいかに決められているの か。現在メキシコ人やメキシコを経由してアメリカに 入国しようとする南米の人々が増えてきているがその 多くの人々は、なぜたった1キロも離れていない向こ う側のショッピングセンターで働くことすら許されな いのか、と疑問を持つ。それはもちろん法的に認めら れていないことなどがあげられるだろうが、この疑問 は至って本質的なのである。通常国境は地形や川の流 れに沿って設定される。もちろん東西を横断するメキ シコとアメリカの国境についても例外ではない。だが 幾つかは、近現代のインフラ整備や車を持つ人の増加 などによって検問所付近で都市を形成する。それは交 通の要所として成立するのだから至って自然である し、ティファナとサンディエゴはその典型的な例であ る。しかし、古来から共同体と共同体の間にはなにが しかの中間領域があったとされている。そこは不可侵 の領域であった。イデオロギーから自由な領域として の森や運河が通り、互いの共同体はその領域を挟んで 均衡を保っていた。 68

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現代はどんなものであっても無所属であることが許されない。あらゆる土地を分ける虚構の線を境に法が変わる。 その境は線でしかなく、かつて持っていた中間領域を持たない。もはや動物的な感覚を捨てて数値によって人々は左 右され、そのリテラシーに欠いていようが数値と虚構によって罰せられる。国境の壁そのものが移民への負の圧力の 象徴であるのは間違いないが、それ以前に資本主義における数値と所有の概念によって生まれる “ 国境線 ” という排 他的な概念そのものが国境の壁に負の象徴を与えているのである。


境界 国境について建築的なアプローチを施そうとするのが本論考及び後の設計計画であるが、ここで一度国境を含む境界全般について思考したい。 近年では多くの建築が Pablic(公共)と Private(私的)の関係に基づいて描かれるようになっている。かつての労働者住宅から推し進められたように、現 代的な都市化が進む中で建築や住居が極めて公共的に重要な立ち位置を確保し始めている。その両者の空間のヒエラルキーを巡って建築が語られているのは現 代の建築の必然的な社会的な要求でありながら流行りであるとも言えるだろう。

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ハンナ・アレントは『人間の条件』(1958)のなか で “ 閾 ” について言及している。日本語では “ 敷居 ” の 方が馴染みがあるだろうが、これと大差ないと考えて いいだろう。両者共に空間の境界線をさしている。ア レントは著書の中で「閾」の喪失にそれが象徴的に示 されていると言う。閾とは家の中にある私的空間と公 的空間が混在する外的な働きを緩衝する空間であるこ とである。つまり家というものをひとつのものとして 見た時にその家の全 体空間に対してヒエラルキーが存 在していた。その閾にあたる多くが仕事場、つまりお 店であった。そしてそれらは、同じような店を営む家 によるギルドのようなものが形成されていて、それは ひとつの地域権力になりえていた。しかしこの場合の 権力は管理体制を意味しているのではなく、むしろ共 同体的な意味作用があり住人らの意思を示していた。 意思を物化した結果が家だったのである。 彼女は人間の基本的な活動力として “ 仕事・労働・活 動 ” の 3 つを挙げた。とりわけ “ 活動 ” について、「物、 あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行われ る唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、す なわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間 man ではなく、多数の人間 men であるという事実に対応し ている。 ( 中略 ) しかし、この多数性こそ、全政治生活 の条件であり、その必要条件であるばかりか、最大の 条件である」と言う。均質な空間が人同士の摩擦をキャ ンセルした結果、人は最大の条件を失い、ヒトと化した、 あるいはヒトになりかけていると言えるだろう。 これらのことが示すのは、境界というものが単なる 物理的な建築単体やタウンスケープとしてのヒエラル キーであるどころか共同体同士の政治的な営みに内在 している一つの現象であるということである。そして 逆説的に言えばその境界を巡って建築行為を行うこと 自体極めて政治的な行為なのである。それを自覚する 限りにおいて建築は成立するのである。

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この “ 閾 ” という言葉は英訳では “No man's land” とされている。ある時、 画塾でお世話になった TA の先輩である大久保貴裕さんの個展に伺ったときに “No man's land” と題された絵画が展示されていた。彼は大学では建築学を専 攻していたが、それと並行して同塾で先生をされていた画家の内海信彦先生の 元で学んでいた。30 歳を手前にして5回個展を開きその他多くのグループ展 に出展している。その彼の画家としての作品は極めて都市・建築的であると思 う。グリーンバーグによるポロック評のなかで画面の奥行きに関して言及する ことに関して語っていたことを今でもよく覚えている。彼は現代美術を乗り越 える手続きの中に空間を常に意識している。それは建築を学びながら得た一つ のアイデンティティだろう。“No man's land” が展示された個展では、それま で彼がポロックのオートマティズムを発展させる形でカンバスには無数の断続 的な “ 線 ” が描かれていた。しかし “No man's land” だけは描かれていなかった。 そこには突如として無秩序であらゆる空間のヒエラルキーが解除し始めた混沌 の始まりを予期しているかのような平面図が現れていた。そこには明快な空間 のヒエラルキーは存在しないか、あるいは空間同士がそのヒエラルキーを巡っ て戦う。そのヒエラルキーは先に書いたような公私のような二極の混在ではな く複数の混在と衝突である。それらの無秩序な運動が繰り広げられるキャンバ スはキャプション通りの ”no man’s land” である。誰のものでもない記名の集 合体が運動する世界空間である。そのような平面図を見ているような気持ちで いた。 では、その平面図はどのように広がっているのだろうか。もし仮にそれが ”no man’s land” であるならば各方面で色彩がまとまって境界が形成されて秩序を 生み出すのだろう。そしてそうであるならば、それこそが今我々が佇む世界で あり真理なのだろう。しかし、この平面図が連綿と各ベクトルに連なるのであ ればアレントが、我々が概念化している ”no man’s land” はそもそもの世界の 真理なのであって、我々はそのように名付けて仮想現実を夢見てるだけなのか もしれない。人は空間が仕切られているという錯覚を起こしているだけで、世 界を秩序立てたいという潜在意識がそう思わせてしまっているだけなのかもし れない。そして我々はこう思う:世界の空間的な真理とはどのようなものなの だろうか。 種明かしをすると、大久保さん自身にとってこの絵画はどうにも手がつけら れなかった作品に対するジョークとして、Joy Division の “Disoder” の歌詞 から引用したという。“On the tenth floor, down the back stairs, it's a no man's land(10 階で裏階段を下るとそこは誰もいない場所だった)” という 一節である。彼はその上で私の考察に繋げて、“ 空間の概念化や秩序立てなど 所詮儚い幻想に過ぎないけれど、それでも人間は自分が生きる空間を立ち上げ 続けなければならない。これが建築の究極の宿命かもしれません ” と述べる。 どれだけ真剣に境界を巡って我々が思考し、実践に至ろうとも、世界の奥底で 空間の真理は高らかに嘲笑うのだろう。そんな真理と裏腹に幾度も概念を作り 出そうという人間の空間に対する執拗な思いは止まらない。それが何かを解決 すると常に願っていたいからだ。そんな虚構に何度でもすがりたいからだ。

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国境の代案を出そうとするのはその虚構を真理に近づけるためではない。 むしろ虚構を違う形で、違う目的に向かって再び出現させたいからである。


Acknowledgement 本研究は私自身の経験とそれに基づいた理論形成によって成り立つ。その経験と知見の幅を広げてくださった内海信彦先生、 滝清子先生、本永恵子先生に感謝申し上げたいと思います。また、その多くの経験を支えてくれた父や母、姉にも感謝したい。 また研究室の教授として本研究の、主に設計計画について指導いただいた長坂大教授に深謝する。卒業計画にあたっての姿勢 やそれを実際に設計という具体的なものに落とし込むことや、それを支える理論形成についてなど多くの助言をいただきました。 建築を学びながら画家として活躍されている大久保貴裕さんにもおおくの示唆深い助言をいただきましたことを感謝したい。 建築と絵画という垣根を超えて、創作全般に対する思考と理論形成について多くのことをご教授いただきました。 その他多くの方々、学部の同期や高校の同期、そして芸術学や文学を学ぶ先輩方との対話の中で研究における理論形成の種を 撒いてくださったことをここで感謝いたします。

Credit Photo: Atsushi Onoe / Chihiro Onoe / Takahiro Okubo


BORDER SPACE Abcsence of Morphology Kyoto Institute of Technology Nagasaka Lab. ATSUSHI ONOE


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