Leeds Castle Booklet - Japanese

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オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 2 週末 オリーヴ• ベイリー夫人 保養地 の の

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中庭 . . . . . . . . . . . .

専用執筆部屋 . . . . . . . . . . . . . . .

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サロン . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .

螺旋階段

ベイリー夫人のプライベートブードワール

ベイリー夫人の寝室

ベイリー夫人のドレッシングルームと浴室

ベイリー・ルーム

黄色の寝室

アッパーブリッジの廊下

内ホールと階段

黄色の応接室

ソープホール応接室

1オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 リーズ城の歴史 1150年~1925年 . . . . . . . . . . . . . . . . . . 2 ベイリー夫人のカントリーハウス保養地の紹介 . . . . . . . . . . . . . 7 書斎 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 9 ダイニングルーム . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 11 使用人の部屋 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 12 使用人の廊下 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 13 専用ダイニングルーム . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 14 ゲームルーム . . . . . . . . . . . . . .
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トを除けばほとんど残っていません。城内で、 グロリエットと中庭の土台となる部分は、カス ティーリャのエレノアが所有していた頃のも のです。どちらも17世紀に火災で一部が焼失 し、19世紀に再建されました。

中世のリーズ城は6人の女王が所有していまし た。エドワード1世(1239年~1307年)の妻、カ スティーリャのエレノア(1241年~1290年頃) はリーズ城を購入し、スペイン育ちの影響を受 けた異国情緒溢れる保養地を作り上げました。 グロリエットのほか、鳥小屋を作り、シシリアン オウムやナイチンゲールを入手して招き入れま した。1290年にエレノアが亡くなると、エドワー ド1世と若く快活な2番目の妻マーガレット・オ ブ・フランス(1279年~1318年)が、リーズ城で 新婚生活を送りました。エドワード2世(1284年 ~1327年)は、リーズ城を妻のイザベラ・オブ・ フランス(1295年~1358年)に譲ると約束して いましたが、約束を破り、男の寵児に譲ってし まいました。彼女はリーズ城を包囲し、そのよう な寵愛された男性たちの勢力に対抗し、夫の

オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 2 リーズ城の歴史 1150年~1925年 ドーバーやロチェスターとは異なり、リーズ城は重厚な要塞や軍事的な城で はありませんでした。むしろ、重要な客人や寵児が滞在することを許された、 田園地帯の保養地、憩いと娯楽の場と見なされてきたのです。 中世の痕跡は、ハウス、バービカン、グロリエッ
死後、摂政女王としてイングランドを統治しま した。エドワードの未亡人として、彼女は死ぬ までリーズ城の所有者であり続けました。ボヘ ミアのアン(1366年~1394年)は、リチャード2 世(1367年~1400 年)と結婚する前のクリス マスをリーズ城で過ごしました。国際色豊かな 彼女の影響を受け、リチャードは騎士道精神に 基づいた新しい豪華な宮廷を作り上げました。

4回、この城に滞在しています。彼は、最初の妻であるアラゴンのキャサリン (1485年~1536年)のために、リーズを中世の城からチューダー朝の豪華 な保養地へと変えました。

リチャードとアンは在位中ずっとこの城に滞在 し、宮廷の形式的な慣習から逃れるための場 所として利用しました。ナバラのジョアン(1368 年~1437年)は、1403年に2番目の夫である ヘンリー4世(1367年~1413年)と結婚しまし た。彼の死後、継子であるヘンリー5世(1386 年~1422年)とは当初良好な関係を保ってい ました。しかし、彼女の財産を手に入れようと したヘンリーは、ジョアンを魔女と裏切り者と して非難しました。ジョアンは、2度にわたって リーズ城に収監されましたが、比較的快適な 生活を続けていたことは、彼女のワードローブ ブックからも伺い知ることができます。正式に 裁判にかけられることはありませんでしたが、 魔女の汚名は残りました。ヘンリーは、華やか で人気のあるカトリーヌ・ド・ヴァロワ(1401年 ~1437年)と結婚しましたが、間もなく亡くな り、カトリーヌは若くして未亡人となってしまっ たのです。後に国王となるヘンリー六世の母と して、彼女は洗練された家庭を築きました。そ の後、カトリーヌの情事が宮廷のスキャンダル となりましたが、最終的にオーウェン・チューダ ーと結婚し、チューダー王朝が誕生することに なりました。彼女は、リーズ城を所有した最後 の中世の女王です。

リーズ城は1552年まで王室の所有物でした。 国立公文書館に保管されている記録によると、 ヘンリー8世(1491年~1547年)は1522年から 1544年の間に少なくとも4回、この城に滞在し ています。彼はリーズを中世の城から、最初の 妻キャサリン・オブ・アラゴン(1485年~1536 年)のためのチューダー朝の豪華な保養地へ と変貌させたのです。キャサリンは若くして、後 のヘンリー王の兄であるウェールズのアーサ ー王と婚約していました。1502年に10代で未 亡人となり、彼女の将来は不確かなものでし た。1509年にヘンリーと結婚し、結婚当初は彼 の最も親しい友人の一人であり、助言者でし た。高度な教育を受け、多言語を操るキャサリ ンは、ヨーロッパ史上初の女性大使となりまし た。二人の愛の絆を象徴するものとして、ヘン リーは、彼女の個人的なシンボルであるザクロ をあしらったアパートを建設しました。この彫刻 は現在でも城の暖炉の一つに残っています。

3オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地
ヘンリー8世(1491年~1547年)は、1522年から1544年の間に少なくとも

ヘンリーの死後、ヘン リーの3番目の妻ジェ ーン・シーモア(1508 年頃~1537年)との間 にできた唯一の嫡男エ ドワード6世(1537年 ~1553年)は、1552年 に城の所有権をアンソ ニー・セントレガー卿 に譲渡しました。この 時から、リーズ城は王 室の保養地ではなくな り、1974年まで個人の 所有物となりました。

1925年まで、リーズ城の将来は不透明でした。第一次世界大戦 が勃発し、何百人もの若い相続人がフランスの戦場で命を落と し、イギリスのカントリーハウスの黄金時代は終わりを告げたの です。戦後の課税と膨大な相続税により、土地や不動産の売却 が急速に進みました。何百ものカントリーハウスが取り壊され、 そのインテリアは建築物回収業者に売却されました。また、アメ リカへ運ばれ、公共の博物館や昔を懐かしむ裕福な地主に購 入されたものもありました。リーズ城も、英米の裕福な相続人が 適時に介入しなければ、同じような運命をたどっていたかもし れません。 ベイリー夫人(当時はウィルソン・フィルマー夫人)と2番目の夫 であるアーサーは、1926年にフェアファックス・ウィキハム・マー ティンからこの城を譲り受けました。ゲートハウスとグロリエッ トの大修理に巨額の資金を注ぎ込み、ジャコビアン様式の母屋 を取り壊し、チューダー様式の母屋に建て替えましたが(1822 年)、20世紀初頭には城は老朽化し、売りに出されることになり ました。

長年にわたり、カルペパー家 やフェアファックス家など所 有者が変わるとともに、この 城の運勢も盛衰を繰り返し ました。

オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地

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多額の財産と古き良きものへの情熱を持つベイリー夫人は、エレガントな カントリーハウスを作ることを決意しました。ベイリー夫人は、イギリスの歴 史、特にヘンリー8世のロマンスに魅了された一方で、電気、暖房、優れた配 管システムなど、あらゆる近代の便利なものをこよなく愛するアメリカ人で もありました。ベイリー夫人は「フランス式」の装飾を好み、大陸の有力デザ イナーであるアルマン=アルベール・ラトーやステファン・ブーダンを起用し ました。

1931年にアーサー・ウィルソン・フィルマーと離 婚し、エイドリアン・ウィリアム・マックスウェル・ ベイリー卿と結婚した彼女は、以後1974年に 亡くなるまで、「オリーヴ・ベイリー夫人(Olive, Lady Baillie)」と呼ばれました。1930年代に 彼女が手がけた華やかで豪華なインテリアは、 ヨーロッパで起こった戦争「ギャザリングストー ム」を背景に繰り広げられたライフスタイルを 映し出しています。 リーズ城は、戦間期のカントリーハウスでの生 活と娯楽の全盛期を伝える他には類のない遺 物です。ベイリー夫人は社交界の礼儀作法に 精通しており、寛大なホステスという役割は彼 女のDNAに刻み込まれていました。彼女のサロ ンには、いつも幅広い層の知人たちが集まり、 愉快な会話と気の利いたおしゃべりを楽しむこ とができました。ゲストはゲームルームでカナ スタやブリッジを楽しみ、サロンでは音楽とダ

ンスを楽しみました。ベイリー夫人は、城の内 装を完全に作り直し、一部は中世の様式を取 り入れたため、1926年以前の時代を示す物証 はほとんど残っていません。そのため、私たちは 1930年代のハウスパーティーが盛んだった頃 の城の様子を紹介しています。

5オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地

オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 6 皆さんをハウスゲストとして リーズ城にお招きします。 ただし、ご注意ください。女主人、ベイリ ー夫人は非常に秘密主義です。ひょっとす ると、秘密の階段に消えていく姿を垣間 見ることができるかもしれません。あるい は、ブードワールでお気に入りの映画を 観ている姿しか見かけられないかもしれ ません。

こよなく愛した田園地帯の保養地へようこそ。

ベイリー夫人は、1926年から1974年までの約50年間、リーズ 城を所有していました。彼女はこの城の最後の個人所有者であ り、ここは、家族と共に住む自宅であると同時に、20世紀を代表 する政治家、芸術家、文化界の著名人たちの田園地帯の保養 地でもあったのです。 ベイリー夫人はアングロサクソン系の米国人で、裕福な相続人 であり、国際的で贅沢なライフスタイルを送っていました。世界 中に数多くの土地を所有しており、ロンドン、南フランス、バハマ に住居もありました。 リーズ城はその中でも間違いなくお気に入りの住まいであ り、1926年に購入した瞬間から、彼女は その救出と修復に多くの時間をかけ、入念に手を入れて、お金 をつぎ込みました。イギリスのカウントリーハウスで、「階段の 下」の生活をのぞいてみましょう。また、世界的に有名なフラン ス人デザイナーが手掛けた素晴らしいインテリアもご覧いた だけます。

7オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 はじめに ベイリー夫人(1899年~1974年)こと、オリーヴの
オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 7
オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 8 1930年代に撮影されたオリーヴ・ベイリー夫人の写真

書斎 この部屋は当初、ベイ リー夫人の二人の娘、 ポーリーンとスーザン のための勉強部屋と して使用されていまし た。二人の娘はベイリ ー夫人の元フランス人 家庭教師、マダム・サウ シエールによって家庭 で教育されました。

ブーダンは、ヨーロッパのデザイナー、ダニエル・マロの17世紀 後半の版画をもとに設計し、本棚の幅を交互に変え、その上に 中国の磁器やアンティークの地球儀を飾りました。

20世紀半ばのリーズ城のインテリアは、ベイリー夫人の古き良 きものへの愛情から着想を得ており、彼女やそのデザイナーを はじめ、多くの人たちが17世紀と18世紀のデザインにインスピレ ーションを得ていました。この時代、高価な物件に投資する資金 を持ち、英国社会に名を残すことを望んだアメリカ人たちによっ て、独特のカントリーハウススタイルが広まりました。

1938年、この部屋は、パリのお しゃれなインテリアデザイナ ー、ステファン・ブーダンの設 計により、書斎に改装されま した。ステファンは、その後数 十年にわたってベイリー夫人 の親友となりました。

9オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地

インテリア、ダニエル・マロによるエングレービング、17世紀末 リーズ城の外にいるポーリン(右)とスーザン、1930年頃
オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 10 エティエンヌ・ドリアンによるブーダンの仕事中の水彩画、1940年代

ダイニングルーム

1938年から39年にかけてステファン・ ブーダンによって設計されたダイニン

グルームは、イギリス、フランス、中国 の様式を融合させた斬新なものです。 この部屋のオブジェは、ブーダンが新 しいインテリア計画のために特別に 持ち込んだものです。

暖炉の上には、1927年にベイリー夫人が購入 した「ファーザー・タイム」をあしらった華麗な 掛け時計が吊り下げられています。この時計ケ ースは、フランスの家具職人アンドレ=シャル ル・ブール(1642年~1732年)が製作したもの で、彼は、ブール細工と呼ばれる真鍮を象嵌し たべっ甲張りの作品を製作したことで知られ ています。

展示されている磁器の大半は、1948年の模 様替えの際にベイリー夫人が購入したもの で、1950年代から1960年代にかけても、さらな る作品の収集が続けられました。これらの展示 品は、ブーダンが色や花の種類を細かく描写し たフラワー・アレンジメントによって、より華やか に彩られています。

11オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地

珍しいルイ14世時代のオルモルが取り付けられた ブール製カルテル時計、フランス、18世紀初頭 ブーダンのインテリアデザイン事務所であるメゾン・ジャ ンセンから持ち込まれた寄木細工の床の委託品で、ヴェ ルサイユ宮殿から持ち込まれたと言われています。
オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 12 使用人の部屋 ベイリー夫人が1926年にリーズ城 を購入したとき、この部屋は19世紀 の大広間の一部でした。彼女は書斎 として使用するためにその部屋を改 造させました。 漆喰の天井は、ヴィクトリア・アンド・アルバート 博物館に展示されている17世紀の家の骨組み を参考に作られたものです。1938年、この部屋 は現在の大きさに縮小され、使用人の部屋と なりました。 リーズ城のようなカントリーエステートを運営 するには、40人以上のスタッフを管理し、連携 をはかる必要があり、全員がそれぞれ固有の任 務と責任を負っていました。 木製のパネルに描かれた肖像画は、17世紀か ら18世紀にかけてのリーズ城の「階段の上」の ストーリーを物語っています。1690年にキャサ リン・カルペパーと第5代フェアファックス卿ト ーマスの結婚により、城を相続したフェアファッ クス家の人々が主に描かれています。 大広間 1900年頃 キャサリン・フェアファックス夫人(旧姓カルペパー)の肖 像画、キャンバスに油彩、1680年頃、ウィレム・ウィッシング (1656年~87年)の作 ポール・ピンダール卿宅の1階玄関前の部屋、ジョン・トー マス・スミスによる1810年のエングレービング
13オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 使用人の廊下 この「階段下」の空間は、使用人の部 屋とグロリエッテをつないでいます。 この廊下は、1930年代にベイリー夫 人に雇われたスタッフが使用し、ベ ルボックスで迅速に対応し、慎重に 仕事をすることが求められました。 壁には、1926年に リーズで働くよう になったベイリー 夫人の信頼する大 工ジョー・クーパー と、1927年に雇わ れた装飾専門家マ シューズの言葉が 記されています。 この時期にリーズ城で行われていた大規模な 改修工事は、マスコミの関心を集め、アーチの 上には1929年に「The Daily Sketch」に掲載さ れたコラムの抜粋が掲載されています。 仮設の 鉄道線路 1920年代の城の改修工事の際、堀 の向かい側に仮設の鉄道線路が敷 かれました。

プライベート ダイニン

夫人が親しい人たちを もてなすために使用さ れました。入口の右側 にある隣接した部屋か ら給仕していました。 この部屋は、リーズ城の 「階段下」の物語の一 部として、将来的にアク セスできるようになる 予定です。

を作りたいというベイリー夫人の夢を、最初の建築家オーウェ ン・リトルと設計者アルマン=アルベール・ラトーが実現しまし た。1929年には300万人以上が失業しましたが、リーズ城では熟 練した職人が求められていました。フランスやイタリアから来た 職人、そして地元の職人が、オークの梁の取り付けや16世紀のテ ラコッタタイルの敷き詰め作業に従事しました。

オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 14 プライベートダイニングルーム
グルームは、ベイリー
20世紀の贅沢品を取り入れながら中世の田園地帯の保養地
プライベートダイニングルーム、1936年
15オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 ゲームルーム ベイリー夫人は熱心なギャンブラー でカードプレイヤーでした。リーズ城 の週末の宿泊客は、裕福な女主人を 満足させるために、参加するだけで なく、賭け金を上げることが期待さ れていました。 半円形の煙突は、ベイリー夫人が1927年から 1928年にかけて行った改修工事の際に設置 されたものです。 イギリスの俳優デヴィッド・ニーヴンがリーズ城 に滞在した際、使用人の部屋でカードゲームを するためにディナーパーティーを抜け出したと 言われています。 ベイリー夫人は親しい友人たちを連れて海外 のカジノへ定期的に出かけ、特に「贅沢な富の 誇示と無謀な富のばらまきの国際的代名詞」で あるモンテカルロの世界的に有名なギャンブル を楽しみました。 —「モンテのテーブルはいつも人に囲 まれている。リーズ城の美しいものた ちを捨てて、モンテに気晴らしに来た ベイリー夫人(原文のまま引用)のギ ャンブルのやり方が大きな騒ぎを引き 起こしている。大勝負をして、見物人に 話題を提供する数少ない人物の1人 である。」 タトラー紙 1933年8月16日(水)

ジョーカー = 50点 エース / 2のカード = 20点 8からキングのカード = 10点 4から7のカード = 5点 黒の3のカード = 5点

ナチュラルカナスタ(500点) ミックスドカナスタ(300点) 赤の3のカード(1枚につき100点 また は全部揃ったら800点) ゴーイングアウト(100点)

最初のメルド

1,500点未満 = 50点

1,500~2,999点=90点 3,000点以上 = 120 点

オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 16 ベイリー夫人が好んだカードゲームは、スペイン発祥のカナスタで、スペイン 語で「バスケット」を意味します。ブリッジよりも手軽に遊べるゲームで、人気の 高いラミーの変形版です。カードやバックギャモンと同様に、1920年代から30 年代にかけては、ジグソーパズルも非常に人気のある遊びのひとつでした。 クイックガイド カナスタ 252枚のカードデッキ 4枚のジョーカー 4人のプレイヤー 必要なもの カナスタには7枚のカードが必要 黒の3のカードは、捨て札の山を取るの をブロックする ワイルドカードの場合は、捨て札の山は「 フローズン」となる ジョーカーと2のカードはワイルドカード 基本事項 最初に5,000点を取ったチームが優勝 11枚のカード/ プレイヤー ディール メルド点数(カードの点数) ハンド点数(手札の点数がマイナス点)
カードの価値スコアカード

ベイリー夫人が手がけたグロリエッ トの改装の中心となったのは、16世 紀の様式を模した木枠のファサード を完成させることでした。このファサ ードからは中央の中庭が見渡すこと ができ、そこには壮麗な木製の螺旋 階段が設置されていました。

1278年に建てられたグロリエットの中央にあ る中庭は、20世紀のファサードを鑑賞するのに 最適な場所です。噴水を中心として、香りのよい 植物に囲まれたこの屋外空間は、座ってくつろ ぐのに理想的な空間です。

17オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 中庭
中庭のファサード、1927年~30年設置 ラトーが描いたファサードのスケッチ、1926年頃

専用執筆部屋

熱心なコレクターであ ったべイリー夫人は、 幅広い趣味を持ち、高 級志向でした。

16世紀のフランドル織のタペ ストリーや、18世紀のデルフト 焼の花瓶は、伝統的にチュー リップを飾るために使われて いたもので、彼女のさまざま なコレクションの中に含まれ ています。ベイリー夫人が愛し た花々は、城のあちこちの部 屋に飾られています。

この部屋は、アルマン=アル ベール・ラトーが用途に合わ せて設計し直し、1927年に天 井を取り付けた後、ベイリー 夫人専用の執筆部屋として使 用されていました。暖炉はベ イリー夫人の寝室から移され たもので、ヘンリー8世が城を 所有していた頃のものです。

オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 18
1926年頃にラトーが描いたグロリエットの梁のスケッチ ヘンリー8世の紋章と最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンの紋章が、 石細工の各角に刻まれています。 暖炉 この暖炉は、ヘンリー8世が所有し ていたものですが、ラトーがベイリ ー夫人の寝室からここに移したも のです。

サロン

天井の複雑な彫刻が施された梁と、二重の蟻 継ぎが施された黒檀の見事な床が設置され、 床の精巧な格子は、中央暖房システムの一部 です。梁の多くは、電気ケーブルを通すために空 洞になっています。16世紀の彫刻が施されたカ ーン石の暖炉は、ラトーがフランスの城から輸 入したものです。

飲んだり、夕食後に集ったりするときに使われ

19オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地
グロリエットの中心にあるこの部屋 は、1927年にアルマン=アルベー ル・ラトーによって完全に再設計され ました。
サロンは、ベイリー夫人の招待客がカクテルを
ていました。床はダンス用にスプリングが利い ており、音楽が流れているのも週末のハウスパ ーティーでは恒例でした。イギリスの新聞「デイ リー・メール」によると、当時最も人気のあった 歌手の一人、レックス・エヴァンスなどの人気 芸人が「最新の歌を歌う」のを聴くことができ たそうです。 サロンを含むグロリエットの改修、1927年
オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 20 サロン、1930年代頃 週末にリーズ城へ招待されることは、大変人気がありました。ベイリー夫人は名高いホス テスであったにもかかわらず、所在が掴みにくい人物でもありました。サロンにある秘密の 階段は、壁掛けで部分的に隠されており、そのおかげで、ベイリー夫人はパーティに目立た ないようそっと出入りすることができました。ゲストがベイリー夫人を目にするのは、週末の 半ば過ぎと決まっており、それが容認されていたのです。

中央のねじれた親柱は一本 の木の幹から彫られ、その上 には笑う十字軍兵士とその犬 の像が置かれています。リネン フォールドパネルを含む全体 の構造は、フランスで彫刻さ れ、リーズ城に運ばれて設置 されました。

1930年代、ベイリー夫人の2 代目デザイナー、ステファン・ ブーダンは、城の大工ジョー・ クーパーに十字軍の像を切り 落とすように命じました。クー パーはこれを拒否し、ベイリ ー夫人が残すことを主張した ため、ほっとしたそうです。

21オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 螺旋階段 グロリエットの2つのフロアを直接行き来できる木製の螺旋階段は、1920年 代の改装の一環としてアルマン=アルベール・ラトーが設計したものです。
笑う十字軍兵士
オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 22 リーズ城の螺旋階段の設置、1927年~28年

トブードワール

ベイリー夫人は、土地の管理人や、鳥小屋で珍しい鳥の世話を するバードキーパーと毎日ミーティングをしながら、この場所か ら敷地の運営を指揮していました。彼女はよく、飼っているグレー トデンのブーツとダニーと一緒に敷地内を散歩し、堀にいる黒 鳥を観察していたそうです。ベイリー夫人は犬や鳥を愛し、映画 も大好きで、敷地内に映画館を設けたほどでした。

アンティーク家具を数多く収集したベイリー夫人ですが、城内 の家具はモダンなものも購入しています。この部屋の化粧台 は、1930年代にパリのFrank & Co .が製作したもので、シャーク スキンで覆われています。ベイリーのコレクションである、印象的 な女性の肖像2枚がこの部屋の中心となっています。ベイリーの 母ポーリーン・ホイットニー(1874年~1916年)の絵と、バイエル ン王ルートヴィヒ1世の愛人でダンサー・女優のローラ・モンテス (1821年~61年)の絵です。

23オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 ベイリー夫人のプライベー
この部屋は1931年からベイリー夫人の3番目の夫、エイドリアン・ベイリー卿 の寝室として使用されました。二人の離婚後、この部屋は設計し直され、ス テファン・ブーダンにとってそれがリーズ城で最後に任された仕事となりまし
た。そして、ベイリー夫人のプライベートブードワールとして1960年代に完成 しました。
ポーリーン・ホイットニーの肖像画、 キャンバスに油彩、1909年 マーク・ ミルバンケ作 ローラ・モンテスの肖像画、キャン バスに油彩、1845年頃 ジュール・ ロール作

この部屋は、ステファン・ブーダンが1936年にベイ リー夫人のために初めて依頼されたもので、リー ズ城における彼の最高傑作と言えるでしょう。

紀の木製パネルと、それに合わせた革新的なエイジング加工を 施した新しいパネルが組み合わされています。くつろげる女性ら しい空間を演出するために、費用は惜しみませんでした。

ブーダンとベイリー夫人は、 出会って間もない1935年か ら、非常に親密な顧客とデザ イナーの関係を築いていまし た。ブーダンはパリのアトリエ から設計図を送り、ベイリー 夫人の承認を得ていました。 そして、彼女がその絵にフラン ス語で注釈を加えて、返却し ていました。あらゆるものが、 彼女の要望により、特注で作 られました。読書灯が内蔵さ れているハーフテスターのベ ッドもその一例です。

は、特注のドレッシングケース (化粧箱)があり、これを持っ て3つの家を行き来したり、休 暇に出かけたりしていました。 絹、ワニ革、金で精巧に作られ たこのケースには、社交界レ

オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 24 ベイリー夫人の寝室
ベイリー夫人の所有物の中に
ディが化粧をするために必要 なものがすべて収められてい ます。ほとんどのケースには、 小さな宝石で彼女のイニシャ ルが描かれています。 装飾はフランス摂政時代(1715年~1723年)のスタイルで、18世
ベイリー夫人の特注ドレッシングケース

食器棚やワードローブには、 照明を内蔵するなど、当時と しては最新の技術が導入さ れていました。浴室は、城内で 最も豪華なものです。その壁 には、ロシア製のオニキスが 敷き詰められていました。こ れは、城の内装の豪華さを物 語るだけでなく、1920年代に 社交界に出ていた女性たちが 贅沢に入浴し、身支度をする ならわしがあったことも表し ています。

主人、ベイリー夫人が、自分のスイートルームへの最短ルートとして使用したものです。

25オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 ベイリー夫人のドレッシングルー ムと浴室 華やかなドレッシングルームは、1920年代後半にベイリー夫人の最初のデ ザイナーとなったアルマン=アルベール・ラトーがルイ16世(1774年~1793 年)様式でデザインしました。 ベイリー夫人は、エリザベス2世のロイヤル・ドレスメーカーであったハーディ・エイミス(1909年 ~2003年)など、サヴィル・ロウの仕立て屋の宮廷人たちの服を含む、誰もが羨むドレス・コレクショ ンを持っていたのです。ベイリー夫人のドレスの領収書がいくつか残っており、彼女が「スリムで細い 小さな体型とスモーキー・ターコイズの瞳」を引き立てるために採用したスタイルや色彩について 知ることができます。 パネルに隠されているのは、下のサロンに続く専用の螺旋階段です。この螺旋階段は、気ままな女

ベイリー・ルーム

1927年、この部屋はアルマン=アルベール・ラトーが設計したベイリー夫人 のブードワールでした。彼は、劇場用の金メッキと塗装を施したモールディン グとピラスターを設置し、中国の壁紙パネルを縁取りました。また、部屋の両 端に大きな鏡を取り付けました。

その後、ベイリー夫人の一人息子、ガウェイン の寝室として生まれ変わりました。現在、この 部屋は、ベイリー夫人が愛した鳥や自然界を 紹介する仮設展示場となっています。城内のほ ぼすべての部屋に、何らかの形で鳥の絵や鳥を 表現したものがあります。ケースに入った「極楽 鳥」は、ベイリー夫人のコレクションで唯一知ら

オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地

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れている剥製です。この作品は彼女に贈られた と言われていますが、誰が、何のために贈った のかは、現在のところ謎に包まれています。ベイ リー夫人の土地仲介人であったジョン・マネー は、「『鳥』はベイリー夫人の人生にとって不可 欠な部分となり、実際、リーズでの生活全体の 一部となった」と評しています。
27オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 黄色い寝室 1926年以降、リーズ城は富裕層や有名人の安息の場となりました。すべての ゲストルームには、当時のカントリーハウスでは珍しかった、隣接する大理石 のバスルームがありました。 週末には、ゲストたちは、芝生の 上でテニスや釣り、クロケットな どを楽しみました。ゲートハウ スの厩舎はスカッシュコートに 改造され、1937年にはメイデン ズ・タワーの庭に屋外プールが 建設されました。 このプールは、ウェーブマシン を備えたイギリス初のプライ ベートプールでした。ベイリー 夫人は大の映画好きで、デヴ ィッド・ニーヴンやノエル・カワ ードなどの俳優や劇作家が週 末によく訪れていました。 クロケットのマレットを持つベイリー夫人の絵、1930年代頃

アッパーブリッジの廊下

1920年代から1930年 代にかけて、週末にリ ーズ城でベイリー夫人 のもてなしを受けたゲ ストの中には、エドワー ド8世やウォリス・シン

プソン、ジョン・F・ケネ ディ、ウィンストン・チャ ーチル、チャーリー・チ ャップリンなどの顔ぶ れも揃っていました。

壁に貼られた引用文は、第二 次世界大戦中にベイリー夫 人を頻繁に訪問したヘンリー・ 「チップス」・チャノン(1897

年~1958)の日記から引用 されたものです。この抜粋は、 戦争がヨーロッパを荒廃させ

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続けていた1943年8月のも のです。 肖像画は(左から)英国の作家ダフネ・デュ・モーリア、チャーリ ー•チャップリン、英国の社交家でアーガイル公爵夫人であるマー ガレット•キャンベル、ダグラス•フェアバンクス•ジュニア、そして、 エロール•フリンです。 階段 は、1階の主要となる応接室に通じ ています。

ンをはじめ、数多くの絵画やタペストリーが展 示されています。壁には、コレクションの中で 唯一、ベイリー夫人を描いた絵画が飾られて います。

29オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 カンバセーション・ピース:ベイリー夫人と娘のス ーザン、ポーリーンの肖像画、エティエンヌ・ドリア ン作、キャンバスに油彩、1947年~48年。 内ホールと階段 1930年代に、建築空間を際立たせ、中世の城のコンセプトを強化するため に、内ホールが再設計されました。当時の写真では、ホールには絵画や家具 がなく、階段とアーチの純粋なラインが強調されています。 現在、ホールにはベイリー夫人のコレクショ
フランスの画家エティエンヌ・ドリアンによって 描かれたこの絵には、テーブルに座るベイリー 夫人と、それを囲む二人の娘スーザンとポーリ ーンが描かれています。この絵の反対側にある ソープホール応接室の窓が、一家を囲んでいま す。強い香りのトルコ煙草を好むヘビースモー カーだったベイリー夫人が、左手に煙草を持っ ている姿が描かれています。 内ホール、1930年代頃

黄色い応接室

アマン=アルベール・ ラトーが1927年にこの 部屋を昼食の間として 設計し直したとき、この 部屋にはグレーのオー ク材のパネルが張られ ていました。そのわず か10年後、この部屋は ステファン・ブーダンに よって、ベイリー夫人の 城の主要な応接室の1 つとして再構築されま した。

彼は、コーニスのすぐ下にある部屋を取り囲む房飾りと、中国の ファミーユローズ磁器を支えるブラケットをデザインしました。 このとき、両方の窓は、芝生につながる小さなテラスへの扉とし て、低くなっていました。1945年以降、この部屋は応接室として 使われるようになりました。

1938年、ブーダンは現在の パラディオ様式の煙突を設置 し、壁には豪華な金のシルク を張りました。

暖炉の上の絵は、イ ギリスの「ミスター・ パンチ」のモデルとな ったコメディア・デラ ルテのキャラクター「 プルチネッロ」に着 想を得た一連の絵の 一つです。この絵は ベネチアの画家、ジ ョヴァンニ・バティス タ・ティエポロ(1696 年~1770年)の作品 で、1955年にベイリ ー夫人が入手しまし た。彼女はこの特別 な絵を何年も追い続 け、ついに購入する 機会を得たと言われ ています。

パンチネロの台所、キャンバスに油彩、18世紀、 ジャンバッティスタ・ティエポロ作。

オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地

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1936年7月12日の日曜日、ベイリー夫人は この部屋でルーマニアの皇太后マリー陛下 (1875年~1938)とその家族をもてなしま した。この時の昼食メニューは、城の公文 書館に残されています。

この部屋の松の羽目板と煙突は、1653年のもので、もともとピーターバラにあるソープホールの大 広間にあったものです。1927年にこの板が到着したときは、緑色に塗られていました。ペンキは剥 がされ、板は巨大なジグソーパズルのように組み立て直されましたが、何千枚もの板をはめ込む必 要がありました。板を設置するために、部屋の天井を低くする必要がありました。部屋の出窓の端 には、壁を切り開いて黄色い応接室に通じる新しいドアが作られました。

31オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 ソープホール応接室 1920年代には、死亡税が課せられたり、第一次世界大戦で多くの相続人が 亡くなったりして、多くのカントリーハウスとその家財道具が売却されたり、 取り壊されたりしました。カントリーハウスのオーナーの中には、単に開拓業 者を呼んで、部屋から元の特徴を取り除いただけの人もいました。
壁の磁器製の鳥や漆塗りの屏風は中国製で、17世紀に作られたものです。中国の装飾美術をこよ なく愛したベイリー夫人が購入したものです。 ピーターバラにあるソープホール ソープホールの応接室、1936年
オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地 32 内ホールと入り口ホール からお帰りください。 リーズ城の見学をお楽しみいただけまし たでしょうか。またのお越しをお待ちして おります。
1オリーヴ・ベイリー夫人の週末の保養地

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