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Noda's archive
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the Second Summer of Love
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special thanks to Mayuri Aakama, Kengo Watanabe, mkimpo, Naoka Fukumoto/ KONTACTO EAST (http://kontacto.jp)
1988 年 から 89 年にかけてのUKに おけるアシッド・ハウスと快楽主義、 そしてレイヴ・パーティの未曾有の広がりを、1967 年のサンフランシスコ でおきたサマー・オブ・ラヴ— いわゆるサイケデリック・ロックと愛と 平和の精神の時代と類似していることから、ポップの史学ではセカンド・ サマー・オブ・ラヴと呼んでいる。あれから 21年、すでに新しい世紀を通過 して10 年近く経つものの、いまだあのときのようなビッグ・ムーヴメント は起きていない。あれは音楽がうながしたムーヴメントの最後のひと息
artwork: Naohiro Ukawa
だったのだろうか……いま、21 年目の“愛の夏”を検証する。
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1988 年7月、ロンドン〈シューム〉。 ダンスフロアの汗だくのレイヴァーたち。 Sweaty ravers on the dance floor at Joy, Shoom club , London, July 1988 photo : David Swindells/PYMCA.com
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'Boys Own' rave, East Grinstead, Surrey, August 1989 1989 年8月、 〈ボーイズ・オウン〉の野外レイヴにて。 photo : David Swindells/PYMCA.com
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1989 年 8 月、イースト。 グリンステッドでの〈ボーイズ・オウン〉の 野外レイヴで朝日を見ながらチルアウトする人たち。 People sat chilling out, Sunrise at 'Boys Own' rave, East Grinstead, Surrey, August 1989 photo : David Swindells/PYMCA.com
1988 年、ロンドン〈シューム〉。 UK レイヴ、アシッド・ハウス、 麦わら帽子で踊る少女。 UK Raves, Acid House, Couple dancing, girl wearing straw hat and bandana, Shoom, London, UK, 1988
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1988 年、ロンドンの〈アストリア〉で開かれた 〈ザ・トリップ〉のダンスフロアのレイヴァーたち。 Ravers on the dancefloor at The Trip @ Astoria, London 1988 photo : David Swindells/PYMCA.com
▲▲ Hacienda(フロア+トニー・ウィルソン)1989 年マンチェスターの〈ハシェンダ〉、メインフロアで踊るレイヴァーたち。 Ravers on the main stage in the Hacienda, Manchester 1989 photo :Peter J Walsh/PYMCA.com ▲ 1990 年、トニー・ウィルソン(右)とハッピー・マンデーズのマネージャー、ネイザン。マンチェスターの〈ハシェンダ〉にて。 Nathan the Happy Mondays manager and Tony Wilson head of Factory Records, Manchester 1990 photo :Peter J Walsh/PYMCA.com ◀ next page: 1993 年、東京〈オデッセイ〉のダンスフロアで踊るレイヴァーたち。とても日本とは思えない。 photo: Mayuri Akama
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▲▲ 1988 年のウェアハウス・パーティの光景。photo : Mayuri Aakama ▲車で集合。1988 年の野外レイヴの風景。ヒップホップもレイヴも同じ。モノを売る人も出てきている。photo : Mayuri Aakama ◀ next page: 1989 年、 〈Land of Oz〉にて。このときステージではザ・KLF がライヴしていた。photo : Mayuri Aakama
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あなたが若かった頃、空はどんなだった? 空は永遠だった 私がアリゾナに住んでいた頃 空にはいつも小さなふわふわした雲々があった 空は長くとても鮮明で 夜になるとたくさんの星が出たの 雨が止むとそれは本当に美しかったわ 黄昏時には炎の上に紫と赤と黄色が見えて 雲はどんな色もつまえていたの 素敵だった 私がまだ小さかったとき 私はそれをじっと見ていたから あなたの知らない 小さなふわふわした雲々 ちちちちち…小さなふわふわした雲々
Matthew Collin, Altered State, 1997
を開け、せーので長髪の男をひっぱり上げた。よかったよかった、それではダンスフロアに行こう。あの狂騒の海へ……、1992年、初冬の話だ。
俺が窓を開けてやる」と言った。そしてパトカーを横目に、入口に向い、住所を書いて金を払い、ドアを開け、僕と彼はトイレを探すとただちに窓
所は知っていると言った。しかし金を持ってないから先に入ってトイレの窓を開けて自分を入れて欲しいと言った。派手な服装の男は「わかった、
いたんだけどさ」と言い、僕は「僕もそこに向かっているんです」と言った。もうひとりの男は、長髪で、絞り染めのTシャツを着ていた。彼は場
なのは明らかだった。誰が口火を切ったのかは憶えていない。改札口を出るあたりでいちばん派手な服装の男が「このあたりでレイヴがあるって聞
深夜の山手線、内回り。車両のなかにはふたりいた。他にも誰かいたかもしれないが、記憶にあるのはふたり。僕も、彼らもお互いそれぞれ離れ て座っている。新橋が近づくと、それぞれ立ち上がり、そして駅に降りた。こうなると服装からして、髪型からして、気配からして、目的地が同じ
身をゆだねろ……そう、身をまかせるんだ、大丈夫だ」、私はじょじょに落ち着きを取り戻した。
体を襲う。静脈と動脈と骨と歯を駆け上がり、私をプラスティックの椅子に押しやる。「落ち着け……クソォォォォ……流れに
分後、ほとんどわずかに、まるで加速するエレヴェーターのように、すべては転換された。圧倒的でパワフルな電撃が私の身
“ Little Fluffy Clouds ” , 1990 THE ORB
文:野田 努 text : Tsutomu Noda
「つまりこれは 年周期で起きるんだ。 「俺たちは 年待った」、リチャード・ノリスは今年の3月の『ガーディアン』紙の取材でこう話している。 21
ンも似たような理論を持っていたね」、 世紀においてロックとダンスをミックスするDJはこう続ける。 「彼によれば7年ごとにそれは起きると」 、
同席したエロール・アルカンも昨今のロック・バンドにおけるダンス熱を引き合いに出しながらこの話に加わる。 「そういえば、トニー・ウィルソ
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思わずノリスが叫ぶ。「 は7の倍数じゃないか!」、アルカンは言う。 「いや、彼が言ったのは、オアシスが1994年に出てきて、その7年後にザ・
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はははは。 年前の体験について、『ガーディアン』の記者をつとめるマシュー・コリンズは著書『アルタード・ステイト』のなかでざっと次の ように 書 い て い る 。
ストロ ー ク ス が 登 場 し た わ け で … … 」
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突然、スピーカーから叩きつけていた音楽が止んでフロアの上のストロボが意識を焼き付ける。あたかも音のように、それ らきらびやかなスラッシュは私の細胞を切り刻み、その生理学を変質させる。ドラムは空中に煌めき、まるで大聖堂をめぐる低 音のように反響する……。それはいままで聴いたことのないもので、それはどこまでも共鳴した。 (中略)私の頭の血圧は劇的 に上昇し、そして自分の腕を優しく撫でると、私はあらゆる箇所で温かさを感じる。世界はついに解放されたのだ。ウェアハウ スは我々の魔法の国へと変換され、そして神秘的で虹色の光彩が輝いている。新しい世界、新しい音、新しい生活、すべては正 しい、そう、巨大で、熱烈で、マジカルな「YES」。(前掲同) それはたしかに巨大で、熱烈で、マジカルな「YES」に違いなかったのだろう。そして、それだけだった。ノー・スローガン、ノー・コンセプト、 ノー・ポリティクス、何もなかった、そう、何も……これまで味わったことのないほど強力な悦楽( pleasure )以外の何も。 これが本格的に日本にやって来たのは、イギリスで起きてからから4年後の1992年あたりで、だからこの国のサマー・オブ・ラヴを定義する なら、その年から翌 年までと言えるだろう。 “ミステリー・オブ・ラヴ”をかけるDJは 年代の東京にいた。しかし、それがサマー・オブ・ラヴ 80
いつもあの娘もみんな突き進んだ。ロックのレコードを放り投げ、どこまでも、果てしなく……。ポップの史学によれば、イギリスでは 年のDI
と呼べる動きとして顕在化したのはその時期だ。つまり幸福( euphoria )と忘却( oblivion )の2年間 — 新橋の狂騒の後は〈キー・エナジー〉と 〈オデッセイ〉がその精神を受け継いだ。人はいちど悦楽を知覚すると、とんでもないことになる。すべての制約は削除され、無鉄砲に突き進む。あ
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「私のハウスはあなたのハウスで、だからこれは私た そして“キャン・ユー・フィール・イット”の奇妙な歌詞のように、その季節においては、 ちのハウスになった」。蘇ったのは長髪だけではない。この文化は、長いあいだホコリをかぶっていた 年代の理想主義を引っ張りだした。 “私たち”
Yサウンドシステムによるキャッスルモートンでの4万人のフリー・レイヴがこの文化の頂点だったというが、この国でははじまったばかりだった。
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1994年 月3日、ロンドンにおけるCJB反対のデモにも参加した。CJBとはレイヴ・カルチャーを取り締まる法案で、後にCJAなる法 律となっている。政治集会でも何でもない、ただ悦楽を求めて集まった人の数があまりにもでっかくなり過ぎた故にイギリス当局は法律を立てたの
は場所を決めてDJに声をかけて、フライヤーを作り、スピーカーを運び、飲み物を仕入れ……、終わった翌日はみんなで後片付けもした。
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である。そして……実に素晴らしいことに、“ノー・スローガン、ノー・コンセプト、ノー・ポリティクス、あるのは悦楽のみ” 、そんな文化に肩入 れして い た 多 く の 当 事 者 は 、 怒 り を 露 わ に そ の デ モ に 参 加 し た 。
サラ・チャンピオン『ディスコ・ビスケッツ』序文(渡辺健吾訳)
レイヴは社会の秩序を変えた。少なくともレイヴァーたち自身が無法者の烙印を押されるほどには。当局は、パンクに対し て は そ ん な 処 置 は 取 ら な か っ た が、 レ イ ヴ に 対 し て、 人 以 上 の 人 間 が 野 外 で 繰 り 返 し の ピ ー ト に あ わ せ て 踊 る の を 禁 じ る ク リ ミナル・ジャスティス法を可決した。
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DIYの精神、 インチ・シングル、文化のゲリラ戦術、秘密のパーティ、そして幸福と忘却……熱は下がったとはいえ、この文化はまだ生きている。
“ユア・オンリー・フレンド” はスクリームの “ミッドナイト・ そんなわけで 世紀最後のパーティは 世紀最初のダンスを準備した。フューチャーの リクエスト・ライン”へと展開し、いまや野外パーティは日常化し、幅広く客を集めている。ダンス・ミュージック、アンダーグラウンド・カルチャー、 21
と同時に、サード・サマー・オブ・ラヴはまだやって来ない。 世紀に入ってこの文化は東欧にも拡大した。が、しかしチェコでレイヴがあれば 軍が出動する。あるいは、人はそんな無法な夢を忘れてロックを聴きにライヴハウスを選ぶ。ミニマルはより強力な幻覚剤となって忘却に生きる。
拡大し て い る と の 報 告 が あ る 。
可能性はある。これだけ重苦しい時代だ。僕は昔と同じように、現実逃避に駆り立てられている。たとえそれが週末だけの出来事であっても、虹 色の世界を見れるのならそれでいいじゃないか。実際、ここ数年は日本でもゲリラ・パーティは試みられ、イギリスでも新世代による野外レイヴが
チャーなのだ」。厳密に言えば、まだ終わっていない。
ダブステップから聴こえるエレジーは、こうした季節の変節への嘆きの感覚に他ならない。それでもコード9が言うように、 「これはレイヴ・カル
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「アシッド・ハウスが 年代的無関心への抵抗だとしたら……」、2006年にサラ・チャンピオンは『オブザーヴァー』紙で新世代のレイヴ・カ ルチャーについてレポートしている。「いまの起きていることは主流のポップスと酒の暴力、陳腐なパブ文化への抵抗なのだ。そして一度はつぶさ 「私 た ち の 勝 利 な の だ 」
れたこの文化がもし本当に復活するのなら……」、彼女は続ける。
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features the Second Summer of Love
PoWER tO THE peOPlE
1967年の 年後が1988年だった。そしてあれから 年後と言えば2009年じゃないか。サード・サマー・オブ・ラヴは起きるかもしれない」 、
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OUr HISToRy
すべてはフライヤーのデザインにはじまる……。去る4月、東京恵比寿のリキッドルーム2階にオープンした〈Time Out Cafe〉にて、アシッド・ハウスとクラブ・カルチャーの 20 周年を祝うヴィジュアル展、「OUR HISTORY」が 開催された。会場には、1988 年から 1990 年代半ばまでのこの文化をヴィジュアル面からサポートし、盛り上げた数々 のデザインやイラストが展示されていた。イビサ系バレアリックの拠点となった〈Shoom〉や〈Spectrum〉の有名 なフライヤーやポスターをはじめ、ザ・KLF の有名なピラミッドまで。これらもサマー・オブ・ラヴの残した遺産なのだ。
cElebraTing 20 yeARs of acid housE & club CUture
love By Dave DoRrEll, 19 88
Shoom By george Georgious, 19 88
1988 年にロンドンの〈WAG CLUB〉でス タートしたパーティ〈Love〉 。 〈Spectrum〉や 〈Shoom 〉や 〈Sin〉と並んでセカンド・サマー・ オブ・ラヴを代表するパーティ。
ダニー・ランプリングによる伝説のパーティ。スマイリー を流行らせたことでも知られる。転がり落ちるスマイ リーが何を意味をするかは誰にでもすぐわかった。
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The klf logo by Jimmy Cauty, 1987 ジミー・コーティによるザ・KLF のロゴ・ マーク。ミステリアスで、そしていまだ 格好いい。
Bastard bunny & Sabres of Paradise by Dave Anderson タンク・ガールが 90 年代初頭のライオッ ト・ガールズの象徴なら、バスタード・ バニーは、ロンドン・クラブ・シーンの DIY の象徴だった。1994 年には 『NME』 で連載がはじまり、やがてアンディ・ウェ ザオール の〈Sabres of Paradise〉に 起用されている。
Back tO Basic by Dave BEer and JamIe Reid, 1991 〈Back to Basic〉 のもっとも有名なデザインといえばこれ。ジェ イミー・リードもさぞかし喜んだことだろう。 〈DFA〉よりはる か昔、ダンス・ミュージックをパンクと最初に結びつけたのは、 UK の連中だった。
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Back to Basic by Beer & Gundill, 1995 イングランド北部おけるパンクとディープ・ハウスの融合。ロルフ・ローソンがレジデント を務めたリーズのパーティで、後にデリック・カーターの UK での人気の火付け役としても 知られることになる。デザインはすべて状況主義的センスによるもので、アイシュタインや ゲバラのほかにシド・ヴィシャスやエルヴィス・プレスリーなどもカットアップされている。
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Universe Return with The Tribal Gathering by Oli Timmins, 1993 完全に合法の野外パーティ〈Tribal Gathering〉は CJB による締め 付けが厳しくなったとき、DJ やオーディエンスたちの拠り所となった。
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love Ranch by Sean Maclusky & PaUl Khera, 1990
love Ranch by Sean Maclusky & PaUl Khera, 1990
レスター・スクウェアの〈Maximus〉にて 1991 年から開かれた〈Love Ranch〉は当時の花形パーティだった。レフトフィールドのポール・デイ リー、ダレン・エマーソン、ダニー・ランプリングらがレジデントを務めた。
第二次バレアリックの拠点となった〈Love Ranch〉だが、デザインはパ ンキシュな路線へと向かっている。このパーティのフライヤーはすべて格 好いい。
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Pumpin Curls by B-Art, 1994 B-Art ことマーティン・ブラウンはさまざまなクラ ブのフライヤーを手掛けている。他にも〈Trade〉 や〈The End〉 、 〈fablic〉も手掛けている。
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The Hacienda flesh by Trevor Johnson, 19 88 トレヴァー・ジャクソンは、 〈ハシエンダ〉のダンス系のイヴェント のフライヤーのデザインを数多く手掛けている。もちろんピーター・ サヴィルとともに〈Factory〉レーベルでもデザインをしている。
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North vs South by TomatO
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〈Our HIstory〉を主宰するアネスト・リールによるレー ベル〈Arthrob〉のデザイン。手掛けるのはアンダー ワールドで有名になった TOMATO。TOMATO はこ のレーベルの多くのデザインを手掛けている。
midnight Cowboy by Sean Maclusky & Paul Khera マルコム・マクラレンとヴィヴィアン・ ウェストウッドのカウボーイ・シャツを サンプリングした〈Love Ranch〉のフ ライヤー。こうしたデザインを見ると、 UK におけるアシッド・ハウスがパンク の延長で捉えられていたことがわかる。
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The Time Machine by Oli Timmins, 1993 〈Univers〉はこの時期のテクノ・シー ンにおける最良の合法のパーティを提 供している。出演する DJ は、 マニアッ クなファンも納得する顔ぶれで、多く のファンから信用を得ていた。
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Darragh Greally は 1994 年にロンド ンで経験したテクノやドラムンベース のクラブを彼の住んでいる町 Galway でにも普及しようとした。フライヤー に描かれた漫画にはパーティ会場の 情報が隠されてる。彼は 2003 年、会 場へ向かう途中に自動車事故で他界 している。
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Branksy by Darragh Greally
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DiY-Soundsystem by Nicky Chalmes 野外でやるときは入場料をとらないことを 信条としたバーミンガムのアナーキーな パーティ集団〈DiY〉 。ポスターに大きな 文字で「FREE(無料) 」と記されている!
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Tonka by Tonka Design 1990 80 年代後半のアシッド・ハウス時代におけ る悪名高き無法者のパーティ集団〈Tonka Sound System〉 。
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Raindance by Pez 〈Raindance〉は 1989 年において最初の合 法の野外パーティとなった。このアイコンは、 天安門事件やベルリンの壁の崩壊、マルタ 会議による冷戦の終結の年を象徴している。
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Shoom lOgO by Stephen Reid, 19 89 ご存じ、アシッド・ハウスの拠点〈Shoom〉 のロゴ。この時代のラヴリーな明るさがよ く出ている。
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spectrum by Dave liTTle, 1988 〈Heaven〉にて月曜日に開催され、ポール・オークンフォルドや アレックス・パターソンがプレイするなか 1500 人以上が熱狂し たモンスター・パーティ。このアートワークは現在、ヴィクトリア・ アンド・アルパート博物館に所蔵されている。このデザインは、 アシッド・ハウスの時代の最高傑作のひとつと言われている。
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東京のリキッドルームのタイムアウトカフェで〈 Our History 〉 — を見て、とても感慨深くなり、今回の企画を考えました。僕もその世
ピーだった。だから、政府がそんなハッピーな人たちを脅威に感じた ということが、とても革命的だと思ったね(笑) 。
代のひとりで、 〈 Our History 〉には、当時、自分がイギリスで経験し MDMAが果たした役割についてお話いただけますか? その — たクラブ・カルチャーの記憶がみごと展示されていました。まずは 〈 Our 特性、つまり超ハッピーに気分を高揚させるという性質も、この文化 を後押ししたと思いますか? 〉をはじるにあった経緯を教えてください。 History ア ー ネ ス ト そ の ポ ジ テ ィ ヴ さ は 貢 献 し た と 思 う よ。 例 え ば 年 前 だ っ た ら、 ド イ ツ 人 と イ ギ リ ス 人 が 話 を す る こ と な ん て ほ と ん ど な
だったから、フライヤーの効果/役割についてはずっと興味を持って
ス テ ー ジ と い う 感 じ だ ね。 僕 自 身 も か つ て は ク ラ ブ の プ ロ モ ー タ ー
フィックの歴史をまとめようというものさ。展覧会はそのセカンド・
た。ビートの気持ち良さの方が重要だったからさ!
ルチャーから来たものだった。でも、 誰もそれを気にする人はいなかっ
や黒人を差別していた。だけど、アシッド・ハウスは黒人のゲイ・カ
かった。戦争の影響とか、いろいろあってさ。それに一般の人はゲイ
ア ー ネ ス ト 〈 Our History 〉 は プ ロ ジ ェ ク ト 名 な ん だ。 フ ラ イ ヤ ー などのグラフィック・デザインをアーカイヴして、過去 年間のグラ
いた。例えばレコード屋に並んでいるのを見ると、ぱっと見ただけで
ブ・カルチャーは、よい意味でも悪い意味でもどんどん発展を続けて
テクノのイヴェントだな、とかヒップホップのクラブだな、とわかる
ランスにはフランスのカルチャーがある、東欧には東欧独自のヴァー
社会的な文脈で見たときのこの文化を説明してもらえますか? — アーネスト みんな、いまになってこの文化の社会的なインパクトを 認識しはじめていると思う。それまでのカウンター・カルチャーは、
かと考えたんだ。
きたから、みんなが「それにしてもあのカルチャーはすごかったな!」
ヒッピーにしてもパンクにしても、一夏しか続かなかった。でもクラ
これだけのデザインを集めるのに5年かかったと聞きました — が。
と振り返るタイミングがなかったわけだ。だからあれから 年経った
だろう? グラフィック・デザインから伝わるものは、とても興味深 い。だから実際にデザイナーがどういうことを考えているのか、会っ
アーネスト 集めるのに5年かかったというわけじゃないんだ。クラ ブ・プロモーターをやっていたから、僕はその歴史も知っていたし、
ジョンのクラブ・カルチャーがある。ずっと継続的に発展し変化して
いまだに続いている。日本には日本のクラブ・カルチャーがあり、フ
デザインも見てきた。5年かかったのは、実際にデザイナーたちを探
て聞いてみたいと思った。それをひとつにまとめたらいいんじゃない
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と見つかったと思っても、 「君は何のためにこんなことをやるんだ?」
て い た 人 も い た。 ま ず 居 場 所 を 突 き 止 め る の に 時 間 が か か り、 や っ
てる人もいたからね。料理人になっていた人もいるし、もう亡くなっ
れだけの時間がかかったんだ。もういまはデザイナーを止めてしまっ
し出して、このプロジェクトに参加してくれるよう呼びかけるのにそ
は、カルチャーに関わる人たちがみんな平等(同じ equal )だという こと。例えばロックンロールの場合、その国々で独自のシーンを形成
も、あり得なかったと思うんだよね。このカルチャーの面白いところ
……いまこうやって日本の雑誌が僕にインタヴューしてるなんてこと
なく、例えば広告のあり方も変えたし、人びとの話す言葉も変えたし
ということを実感しはじめているんじゃないかな。それは音楽だけで
いま、やっと振り返り、この文化がどれほどクリエイティヴだったか
しているけど、クラブ・カルチャーの場合は感覚的な差異がほとんど ない。だから常に人と人のつながりもあるし、つねに情報交換があっ て、相手が日本人だろうが韓国人だろうがアメリカ人だろうが関係な
止めさせようと、法律で縛り付けることにした。いまはイギリスの法
治ゲームの一部となっていったんだ。だからサッチャー政権はそれを
府にとっては、それが政府にとっては脅威となった。そうやって、政
の一部である、社会の一部である、と言いはじめたわけだ。だから政
を作ってる」と主張しはじめた。私たちは単なる個人ではなく、集団
貧乏学生もいたし、みんなが一緒に、一か所に集まって、しかもハッ
き込んでた。ものすごい金持ちや王室の人までパーティに来ていたし、
ト・カレッジの学生だけとかだけじゃなく、あらゆる種類の人間を巻
にかく、まったく新しいものだと感じたね。中流階級だけとか、アー
インストリームとはかけ離れたところで生まれた文化だったから、と
それ以上の危機を感じたということだよ。とても革命的で、しかもメ
警察を動員してまで止めさせられることはなかったからね。だから、
の威力があったという証拠だと思う。ヒッピーだってパンクだって、
らがいちばん協力的だった。
と協力してくれないと思うよ」とか言われていたんだけど、実際は彼
だから話してくれないかもよ」とか、 「本当に意義があると思わない
じたよ。実は、彼らに連絡を取る前は、いろんな人に「難しい人たち
グ(人びとに力を与えること)だ。実際に会って話してみてもそう感
覚していることはとても頭がいいことだと思う。とてもエンパワリン
化的なポジションをよく理解していた。私は、自分のポジションを自
やってる。私たちは個人のいいところを集めてみんなでひとつのもの
カルチャーが出現してきて、 「いや、私たちはみんなで一緒にこれを
と国民に言い聞かせていた。まあ資本至上主義だ。でもそこでクラブ・
アーネスト 当時のイギリス政府は、マーガレット・サッチャーの政 権だけど、基本的に「もう社会は存在しない、あるのは個人だけだ」
なたなりの注釈をいただけますか?
B)に直面にしたとき政治性を帯びていきます。この展開についてあ
ノー・ポリティクス、ノー・スローガン、ノー・マニフェスト — だったこの文化が、やがてクリミニナル・ジャスティス・ビル(CJ
い。音楽とグラフィックが優れていれば、すぐ受け入れられる。
律として、 「反復するビートが流れている場合、警察はそれを止めさ
今後の〈 Our History 〉の展開を教えてください。 — アーネスト 来年やりたいと思っているのは、このカルチャーにおけ るゲイ・カルチャーからのインパクトに光を当てること。 年前に、 まれたわけだろう? それって本当に進んだ考えを持った人たちだっ たと思うんだ。アメリカでも決して大きくはないシーンで、黒人とい
アメリカのゲイの黒人DJに注目した人たちがいたからこの文化が生
本質について気づかせてくれました。
だった。でもこの国(イギリス)に持ち込まれて、それが5000人、
に遭いましたけど、この経験は僕にレイヴ・カルチャーのラジカルな アーネスト あの法案が提出された頃、 〈 Ministry Of Sound 〉はパ ランボ卿が所有していて、彼は芸術協会の代表を務めていた人物だ。
ごく興味深いことだと思う。シカゴの片隅で生まれた音楽の、何がこ マにした展覧会を企画したいね。
れほどまで多くのイギリス人を惹き付けたのか。そういうことをテー
〈 Fabric 〉くらいのものだ。 年ほど経ってやっと、オーディエンス が「マクドナルド・カルチャーはもう嫌だ」と気づいたわけだな。そ
ダ ー グ ラ ウ ン ド に 戻 り つ つ あ る。 い ま で も 人 気 の あ る 大 型 ク ラ ブ は
が、だいたい 〜 年くらいまで続いたわけだが、それからまたアン
な っ た。 そ れ が、 い わ ゆ る ス ー パ ー ス タ ー D J ブ ー ム の よ う な も の
Jのギャラも大きく変わり、すべての値段が上がり、一大ビジネスと
認可された店だった。これがCJBの議論がはじまったのと同じ時期
6000人という規模で聴かれるようになったんだ。それだけでもす
うだけでなく、ゲイでもあるという完全なアウトサイダーたちの音楽
彼の息子が〈 Ministry Of Sound 〉をオープンさせた。このクラブが、 イギリスで初めて 時間のライセンス(開店許可か酒の販売許可)を
実は暴動になったCJBのデモのなかに僕はいたんです。催涙 — 弾を浴びたり、ハイドパークで騎馬隊に追いかけ回されたり大変な目
んだ。
せる権利がある」と実際に書かれているんだよ。 20 年前に作られた 法律だ。だからこれを政治問題であるとしたのは、政治家たちだった
が踊るのを止めさせようとしたという事実だけをとっても、それだけ
アーネスト そのときはね……あまり深く考えなかった。だけど、と ても革命的だとは感じていたけど。政府が警察を動員してまで人びと
—年代末、初めてこの文化に触れたときはどう思いました?
のに時間がかかった。
は僕の意図を理解してくれて賛同してくれたけど、そこまで説得する
なんて言われて、説明しなければいけなかった。でもみんな最終的に
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の国で活動していたプロモーターのほとんどは、東欧に移って行った。 イ ギ リ ス で の 経 験 や 知 識 を 生 か し て、 東 欧 の 国 々 で そ れ ぞ れ の カ ル チャーを築いている。あの頃、いろんな場所からイギリスに集まって 来ていた人たちも、それぞれ自分の地元に帰ってシーンを築いている。 それはいい発展だと思うね。 ザ・KLFのデザインも展示されていましたが、彼らの取った — 一連の行動についてコメントをお願いします。 アーネスト ああ、リキッドルームで盗まれたやつね(笑) 。 彼らはとても勇敢なで、素晴らしい知性だったと思うのですが。 — アーネスト 僕はつねに、音楽とグラフィックをひとつに統合させた ような表現が好きだった。それはとても進んだ考え方だと思ってきた。 彼らのライヴ・パフォーマンスはアメージングだし、彼らの活動には いつもインスパイアされてきた。彼ら(だけ)は、当時から自分たち の活動が重要で意味あるものだということを自覚していた。音楽の文
Ernesto Leal チリ生まれ。労働組合の家族は、独裁者として知られるアウグスト・ピノチェト政権によっ て迫害を受け、全国炭坑労働者組合を通じてスコットランドに亡命。80 年代はエンジンバラのクラブで オーガナイザーとして活躍、 88 〜 89 年頃にイースト・ロンドンに場所を移す。そこでウェアハウス・パーティ を手掛ける一方で、 〈Arthrob〉というレコード・レーベルをはじめる。レーベルからはサラ・チャンピオ ンによる有名なアンソロジー『ディスコ。ビスケッツ』のサントラ、あるいは現代音楽家スティーヴ・ライ ヒのリミックス・アルバムもリリースしている。
C ElebraTing 20 years of acid hOuse & Club cuture 取材 : 野田 努/通訳 : 浅沼優子 interview: Tsutomu Noda / interpretation: Yuko Asanuma
でもクラブ・カルチャーはどんどん発展を続けていまだに続いている —〈Our History〉の主宰者に訊く
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れがCJAのもたらしたひとつの結果だ。それ以外のところでは、こ
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だったわけだ。結果としてどうなったか? クラブ・カルチャーはこ のときから企業化が進んだ。まるでマクドナルドみたいになった。D
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OUR HISTORY みんな、いまになってこの文化の社会的なインパクトを認識しはじめている。 ヒッピーにしてもパンクにしても、一夏しか続かなかった。
までそんな体験をしたことがなかったから本当に妙な気分だった。
るんだ。そんなコンセプトには耐えられなかったね。とにかくそれ
プレイ中に人に話しかけられるということに驚いたし、2時間経っ
デリック レコードを売ること! それが真っ先に思い浮かぶよ。 あの頃はレコードが売れまくったからな。いまはもう売れないだ
デリック 1989年の冬じゃないかな。 それまではデトロイトだけ? —
それは何年? —
たら止めなきゃならないってことに驚いた。ブースから追い出され
ろ。それと、もうひとつ思い浮かぶことは、ものすごい数の人たち 最高にエネルギーが高まっているときに打ち切られるなんてさ。
—年、 年で真っ先に思い浮かぶことは?
がとても興奮していたということだ。DJに対してじゃない。音楽 初めてイギリスでDJをやったのはいつ? 場所は? — デリック 場所は〈 Heaven 〉 。ギャラは700ポンドだった。ポー デリック ああ。ニューヨークでもやったことはなかった。最初の レコードを出したのが 年だから……初めてイギリスに行ったの
そのものに対してだ。
ル・オークンフォルドと一緒で、 「 Balearic Beats 」とか、そんな ような名前のパーティーだった。俺にとっては変な体験だった。そ は 年だったかもしれないな。でもそのときDJはしなかった。で
—どこまでも最高潮に達したフロアにおいて、いまだこの曲を
超えるものはないのだろう。デリック・メイがおそらく初めて語る、 愛の夏の思い出……。
がいた。どの村にも村長がいるみたいにね。
まだDJカルチャーはゲイだけのものだったんだよ。DJカル チャーはコミュニティに根ざしたものだった。各街にキング (DJ)
スなんてなかったから、段ボールに詰めて持って行ったんだぜ! レコード・バッグなん、誰もそんなもの作っていなかったからね!
てきて、 「次のDJがもう来てるから」と言われるんだから。まず
なかった。ぴったり2時間で終わらなきゃならない。実際人がやっ
したことがなかったから、 「2時間セット」をやることに慣れてい
体を仕切り出してさ……。こういうことがドラッグの蔓延を招いた
のほうが現場に慣れていた。だからセキュリティーがイヴェント自
モーターはあまり経験のない人たちで、逆にセキュリティーの連中
リスのセキュリティー(警備員)はやたらアグレッシヴでね、プロ
人とかじゃないかな。デカすぎたね。制御不能になっていた。イギ
味がないんでね。規模はめちゃくちゃデカかったよ。1万5000
えてないんじゃないかな。俺はそういうもの(レイヴ)にあまり興
よ。レイヴと呼ばれたものの走りだ。あまり面白くなかったから覚
からなかったからね。でも 「OK!」 と言った。当時はレコード・ケー
と言われてびっくりしたんだ。彼が何を期待してそう言ったのかわ
も2回目に呼ばれたとき、 マネージャーに「レコードも持って来い」
ダーが誕生して、政治的な革命が起ころうとしている。だから、そ
り言う。先生もビビッてる。でも、 やっとバラク・オバマというリー
だ。両親もビビッているし、メディアも怖がらせるようなことばか
ルは高くない。恐怖( fear )の時代だ。いまの若者は、革命という 考えを失っている世代だ。恐怖に晒された環境で育ってきたから
代が終わって、世界の指導者を見渡しても革命的/反抗的なレヴェ
冷戦崩壊直後に起こった。いまはちょうどジョージ・ブッシュの時
ガレット・サッチャー、ロナルド・レーガン、ゴルバチョフの時代、
革命の後には、クリエイティヴな革命が起こる。この文化は、マー
マック、スライ・ストーン……革命的な時代だったんだ。政治的な
イギリスのシーンはどういう風に映りましたか? — デリック 俺にとってはエキサイティングだったよ。一度目はそう 思わなかったけど、二度目のときはそう感じた。みんなバレアリッ 理由のひとつなんじゃないかと思うよ。どこからともなく、いきな
でも俺たち3人は違った。俺たちのプレイはたとえ客が踊らなくて
ロンドンの外でロンドンのDJを聴きたがる奴なんて誰もいない。
でも、だからこそ、俺たちはイギリスに大きな影響を与えた。誰 もポール(・オークンフォルド)には興味を示さなかったけどね。
彼らにとっては、まるで宇宙の彼方からやって来たみたいだった。
……DJがマイクで喋るし(笑) 。俺たちがやっていたことは……
いるような曲をかけていて、客もみんなスーツにネクタイみたいな
いクラブでDJするはめになった。他のDJたちはラジオで流れて
その約2週間後にブレイク・バクスターとケヴィン・サンダーソ ンと一緒にイギリス・ツアーをしたんだけど、俺たちは誰も踊らな
のだけどね。
リッシュメント・ソングだった。革命の扉を開いた曲だ。
的ムーヴメントのアンセムだったと思っている。アンチ・エスタブ
デリック もちろんそんなことは知っているさ。でも俺はレイヴだ けでなく、もっと大きなユース・ムーヴメント、若い人たちの文化
「ストリングス・オブ・ライフ」がレイヴ・アンセムになっ — たことについては?
中とは違って、心がこもった付き合いをしてくれたよ。
は本当に有能だったし、俺たちのためを思ってくれていた。他の連
ちゃんといい写真を使って、中身のある記事を書いてくれた。彼ら
ズとかね。彼らは俺たちのことをちゃんとした記事にしてくれた。
合えたこととか。スチュアート・コスグローヴやマシュー・コリン
ンを作っていたんだが、いまは大勢の兵隊だけがいる。それが現在
……それぞれの街にかつてはキングがいた。そういう人たちがシー
ない分、 たくさんのソルジャー (兵隊) がいるだけ。 シカゴにもニュー
デリック わからない。本当にわからないね。なぜなら、クラブ・ カルチャーにはもうキング(王)が存在しないからだ。キングがい
だったんだ。俺たちの時代の、街の声(音)だった。
ていたわけじゃなかった。俺たちにとっては、あれが政治的声明
デリック 俺はデトロイト出身だからさ、そりゃ全然違うよ。ヴァ イブが違う。俺たちは、クラブの社交的な環境のために音楽を作っ
マー・オヴ・ラヴに接続するというのが面白いというか……。
ネットで〈 Music Institute 〉時代のデリックのミックスを聴 — くと、とてもメランコリックな印象を受けるんだけど、あれがサ
ただの水のようになっている。あって当たり前という状態だ。
かもしれない。 ただ、 いまはそれがまだ起こっていない。 いま音楽は、
クな音楽を流していてね。とてもいいサウンドだったよ。なぜなら、
たし、 俺たちのムーヴメントだった。 でもロンドンに来てみたら、「な
も、みんな音は聴いていた。エクスタシーやドラッグ・カルチャー
いま俺たちが話題にしているようなムーヴメントは、 年ごとに 生まれるものだ。だから、あと数年は新しいムーヴメントは生まれ
デリック マーク・ムーアと遊べたこと。とても仲良くなった。デ ペッシュ・モードと会えたこととかトップ・ジャーナリストと知り
以前の話だ。みんな遊びに行って、酒を飲んでいた時代。でも半
の若者たちが起こした革命的なムーヴメントだ。公民権運動や……
ないだろうし、これの前のムーヴメントは 年代だった。アメリカ
革命の扉を開いた曲だ。
ソングだった。
アンチ・エスタブリッシュメント・
アンセムだったと思っている。
若い人たちの文化的 ムーヴメントの
もっと大きなユース・ムーヴメント、
でも俺はレイヴだけでなく、
もちろんそんなことは知っているさ。
ジェームズ・ブラウン、ローリング・ストーンズ、フリートウッド・
15
の大きな問題だな。
ヨークにもLAにもミネアポリス、デトロイト、ロンドン、パリ
いまデリックがクラブ・カルチャーに期待していることとは — 何ですか?
年後に俺たちが戻ったら、みんなスマイリーのTシャツ着てアシッ
ントの名前までは覚えてないな。ぐちゃぐちゃなイヴェントだった
にもそこで会ったと思う。コヴェントリーという街だった。イヴェ
デリック ああ。 たしか、 初めてカール・コックスに会ったときだな。 まだカールに髪があった頃だ(笑) 。グルーヴライダーとファビオ
最初にウェアハウス・パーティーでDJしたときのことは覚 — えてますか?
た。
なんてものじゃない、巨大なムーヴメントがはじまろうとしてい
がっていたから、何が起こっているかはよく理解していたさ。変化
の雑誌の表紙にもなった。すべてのレコード会社が俺たちに会いた
ス(取材)をこなした。テレビのインタヴューもしたし、いくつも
ルを求めて行ったんだ。レコード会社と話をして、すごい数のプレ
行った。それは自覚していたよ。俺たちは大きなレコード・ディー
コード会社からレコードを出して、スターになるチャンスを掴みに
デリック ただエキサイティングだった。新しかった。俺がロンド ンに行ったときは、自分が何をしたいかハッキリわかっていた。レ
いわゆる、そういうセカンド・サマー・オブ・ラブ/レイヴ・ — カルチャーに直面してどう感じましたか?
クレイジーだよ。
ドやってるじゃないか! 一体どうしちゃったんだ? って感じさ。
んだこれ? 聴いたことないな。でもいいじゃないか!」という感 じだった。もっとも、あのシーンはロンドンだけに存在していたも
この頃で最高の思い出は? —
れが起これば、何年かのうちにクリエイティヴな革命がまた起こる
間違いなく多くの人がこの曲を挙げる。 “ストリングス・オブ・ライフ”
りエクスタシーというものが流入してきて、セキュリティーの連中
取材:野田 努 通訳:渡辺 亮+浅沼優子 interview: Tsutomu Noda interpretation: Ryo Watanabe, Yuko Asanuma photo: Yasuhiro Ohara
セカンド・サマー・オブ・ラヴにおけるアンセムをひとつ挙げよといえば、
あの夏の記憶—デリック・メイ
聴いたことのない新しい音楽だったから。デトロイトでは誰もがデ
れまでデトロイトの外で、他のDJがやっているパーティでプレイ
87
がそれで金を稼いでいた。だから、それを放置していたんだ。
88
features the Second Summer of Love
89
トロイトとシカゴの音楽ばかりかけていた。それが俺たちの音だっ
DErRICK maY デリック・メイ 1963 年デトロイト生 まれ。先輩のホアン・アトキンスに影 響され音楽制作をはじまる。1985 年に 〈トランスマット〉レーベルをスタート。 1987 年に永遠のレイヴ・アンセムとな る「Strings of Life」を発表。UK をは じめヨーロッパで大ヒットする。その後、 「Beyond The Dance」 (1989) 、 「The Beginnig」 (1990)など野心作を発表 するが、音楽制作を止めてしまう。DJ としてはいまでも世界を飛びまわり、今 年は久しぶりに〈トランスマット〉から 新人の作品を発表する予定。
60
30 31
88
2008 年、まるで夜空に浮かぶ 宇宙船のような〈メタモルフォーゼ〉の光景。 @伊豆修善寺サンクリングセンター photos : eyespyeyes
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2005 年、 〈メタモルフォーゼ〉で 熱狂するレイヴァーたち。 @伊豆修善寺サンクリングセンター photo : eyespyeyes
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the Second Summer of Love
features
最初は何人ぐらいだったの? —
んどん大きくなっていった。
A WAY OF LIFE—赤間マユリ 取材 : 野田 努 interview: Tsutomu Noda
は〈メタモルフォーゼ〉のオーガナイザーとし
てすっかり有名になった赤間マユリだが、その
原点は紛れもなくセカンド・サマー・オブ・ラ
かったんでしょ?
彼女はこの時代の生き証人のひとりだ。いまで
ヴにある。もし読者が〈メタモルフォーゼ〉に
彼女の経験によるものだと思っていただきた い。つまり 1988 年のロンドンを経験した人間 の感性に方向付けされたものだと。
のだと、あのときはずいぶん感動したもの
であると、この文化はそういうものである ぐらいの感じで。
し、やっとアシッド・ハウスが出てきたかな
けど、とくにハマっていたわけでもなかった
ロック少女だったし(笑) 。 —
けど、それはどんな風に入っていったの?
でも、結果としてセカンド・サマー・ — オブ・ラヴの真っ直中に入ってしまうわけだ
マ ユ リ い や、 ツ バ キ ハ ウ ス と か( 笑 ) 。ハ ウスもテクノもなかった。
りである赤間マユリは、彼女のやり方でい マユリ じょじょに、じょじょに。気がつい たらそこにいた、そんな感じ。最初はアシッ 最初にロンドンに行ったのはいつ? — マユリ 年の8月ですね。友だちが住んで ド・ハウスだったんですよ。ロンドンの小さ いたから、気軽に。お金は貯めていたから、 いクラブでアシッド・ハウスがかかりはじめ
までもそれを表現している。
いている。二番目の愛の夏の経験者のひと
とは無縁な音楽シーン……それはいまも続
のDIYの精神、そしてポップ・チャート
る。何よりも踊り、楽しむこと。そのため
だった。レイヴ・カルチャーは生き方であ
年の時点 き、 「 A WAY OF LIFE 」と記されたフラ マユリ 知らなかった。それに 87 イヤーを見たことがある。つまり「生き方」 では、まあ、もちろんクラビングしてました
ロンドンのレイヴ・カルチャーに触れたと
aKaMA maYURI いの気持ちで。まあ、3ヶ月ぐらいかな、と
貯金がなくなったら帰ってこうようかなぐら
ように踊っている(笑) 。 「うわ、ロンドンす
れ、ストロボ点滅していて、で、人が狂った
て……、フロアではスモークがんがんに炊か
り合った。
き合っていたんで、その関係上、ジミーと知
何が起きているかなんて全然知らな —
だったから。
寄 り で し ょ。 私 は テ ク ノ っ ぽ い ほ う が 好 き
という間に、どんどん人が増えていって、ど
ごいな」と、そしたら、それがあれよあれよ
ハックニー訛りだから (笑) 。そんな子たちが、 素晴らしい話だね。 — マユリ すべてが重なったんでしょうね。ア シッド・ハウスと快楽主義、サッチャー政権
まって……イギリス人はこういうウェアハウ
ウス(倉庫)みたいなところでレイヴがはじ
ど、当時は、これはもうずっと続くものだと
特別な時期だったんだろうと思うんですけ
マユリ 当時は、 「時代はこんなもんだ」と 思って遊んでいた。いま振り返ると、なんて
た?
マユリ 私もあのヴィデオの撮影に誘われた んだけど、用事があって行けなかった。行っ
ことはないよ。
くる日本人女性とも知り合えたし、思い残す
知り合えたし、ザ・KLFのヴィデオに出て
くない。
タジオ 〉やトニー・ウィルソンの映画があ
トニー・コルスタン・ヘイターの伝記 — 映画をやるって話があるよね。たしかに〈ス
思っていたので。いつの日か終わるなんて夢
は電話して、みんなを誘って車に乗って行く。
だったの?
15
ルーム)にも行ったんでしょ?
マユリ 行きましたね。そこでKLFのライ ヴもあった。 どんなライヴだったの? —
ドルームみたいなヴェニュー)とか。ああい うところでやるとまた盛り上がるんですよ。 た だ …… も し ひ と つ 選 べ と 言 わ れ た ら ……
ハハハハ。アレックス・パターソンが — スティーヴ・ヒレッジの曲やジャマイカのダ
たので、みんなフロアのほうに行って……。
最近いなくなったね、高いところに登 — る人(笑) 。
マユリ たしかに。高いところに登る人が多 いほうが(笑) 。
やっぱ人数が多いほうが盛り上がるよ — ね。
ブをミックスしているところにはいなかった
マユリ じゃあ、一段落した頃だね。 うん、細分化をはじめた頃だね。当時 — は、 ま ず は バ レ ア リ ッ ク と 呼 ば れ る シ ー ン があって、で、真っ先に行ったんだけど、す で(笑) 。で、もうひとつあったのは、コマー
でにもうファッショナブルになっちゃった頃 シャルなレイヴ。カール・コックスが出てく るようなヤツで、出し物があるような(笑) 。
マユリ はい。808ステイトの “パシフィッ ク”やア・ガイ・コールド・ジェラルドの“ヴー
〈 Shoom 〉には行かなかったの? — マユリ 行ったんですけど、あそこはイビサ
んどは 〈 Lost 〉とか、 あと〈 Knowledge 〉とか、 どんどんアンダーグラウンドになる(注4) 。
当時、マユリちゃんが好きだったDJ で、当時アンダーグラウンドで面白かったの — がジャングル(当時はハードコアとも呼んだ) は誰? コリン・フェイヴァーとか? マユリ コリン・フェイヴァーは好きだった。 とテクノだったんだよね。 マユリ レイヴがコマーシャルになると、こ コリン・デイルも好きだった。
よ。
ドゥー・レイ”と一緒にかかっていたんです
あれはやっぱものすごく流行ったの? —
ら。
マユリ “ストリングス・オブ・ライフ”は よく憶えていますよ。あれは感動的だったか
んだ。
マユリ 野田兄は何年? 最初に行ったのは 年。 —
時はアンビエントなんて聴く感じじゃなかっ
(笑) 。アレックス・パターソンのDJも、当
感 じ の …… あ ん ま り よ く 憶 え て い な い ……
もの格好で……まだアシッド・ハウスっぽい 〈 Sunrise 〉かな。
マユリ 大きな扇風機があって、紙吹雪みた い な の を ず っ と 飛 ば し な が ら、 彼 ら は い つ
平日もロンドン市内の〈 Heaven 〉とか。あ るいは〈アストリア〉 (注:東京でいうリキッ
〈ランド・オズ・オズ〉(注:アレックス・ いちばん思い出深いパーティは? — — パターソンがDJをつとめたアンビエント・ マユリ うーん……、毎週サマー・オブ・ラ ヴでしたからね〜 (笑) 。毎週レイヴに行って、
クスマンになっていたから。
るんだったら、あの人の映画あってもおかし
54
スみたいなところでやるのが得意なんです よ。
にも思っていなかった(笑) 。
で、絶対に迷うんですよ。
マユリ そう、真っ暗。でも、そういうなか をドライヴしていると、他にも迷っている車
当時はサッチャー政権だったしね。し — かも第三次政権に突入したばっか (注1) 。
マユリ 友だちのサユリちゃんがユースとつ き合っていたんですね。それで、もうひひと
でに人気DJだったからね。
当時はロンドン・ブリッジのあたりな — んかウェアハウスだらけだったよね。いまみ
マユリ そう、尋常じゃなかったから。その 場に行くと、誰かが「今週は1000人来た
でも、あの感じはないよね。 —
マユリ そう、いちおう続いているんですけ どね。
たいに開発されていないから。
いますよね。 マユリ 大好きだった。うん、だから、DJ というよりもパーティで行っていましたね。 あの日本人、サユリちゃんなの? — ト ニ ー・ コ ル ス タ ン・ ヘ イ タ ー ( 注 3)の 主 マユリ そう、あの金髪の日本人。 そうだったんだ! 俺、 『ベルリン天 宰するレイヴはみんな行ってましたけどね。 — 使の歌』に出てくる日本人女性とも 年前に 〈 Sunrise 〉や〈 Back To The Future 〉とか。
天下取ったように遊んでいた(笑) 。
ました(笑) 。
思って行ったんですけどね。4年いてしまい
87
でっかいレイヴでまわしていたファビ — オみたいなDJは?
自分からこのシーンを盛り上げようという気持ちがすごくあった。
サユリちゃん、すごいね (注2) 。 — マユリ 彼女、ザ・KLFのヴィデオに出て
自分はこのシーンの一端を担っているという意識がすごくあった。
ておけば良かった(笑)! でも、四六時中、 マユリ おかしくない。ある意味では裏方な 彼らと一緒にいたわけではないし、彼らはす んだけど、彼はいつの間にかシーンのスポー
の〈 Heaven 〉に行っていたんです。それが、 ……。 いつの間にかロンドン・ブリッジのウェアハ 「時代は変わった」という意識はあっ —
マ ユ リ ホ ン ト に 小 箱。 た と え ば 木 曜 日 の 〈 Rage 〉なんてね、平日だし、キャパは小さ い、 で も す ご い 熱 気 で ね。 最 初 の 頃 は 週 末
そう、だから来ている子たちも、客なんだけど、
マユリ そうそう、だからみんな勝手にサウ いまでもある意味では続いているよ — ンドシステムを持ち込んで。でもね、最初は (笑) 。 クラブだった。そうしたら、 「ロンドンのは ずれの大きな映画スタジオを借りた1000 人規模のパーティがあるみたいだよ」「じゃ 人から1000人規模。で、1988年に入 らしいよ」「2000人来たんだってね」とか、
あ、行こう」とか。だから、はじめは500 ると郊外の馬小屋みたいなところでやり出 それが週を追うごとに3000人、4000 人、5000人と、どんどん増えていく。携
す。 年まではまだ本当にアンダーグラウン ドなパーティだったけど、 年になったとき には週を追うごとに人数が増えていって、で、 帯もインターネットもない時代に、しかも場 そうすると、オーガナイザーも場所を遠くへ
それと同時に警察につぶされるんですよね。 所も山奥だったりするわけで。山奥に行くに 遠くへと、ちょっとわかりにくい場所でやる
し。
ようになる。 「これはちょっとすごいムーヴメント — だな」という意識はあったの?
しかもイギリスの田舎道って、外灯も — ないし、ホントに真っ暗じゃない。
俺もその経験ありますよ(笑) 。 — マユリ でしょ? 絶対に迷う。携帯もない
マユリ というか、 「イギリスってこういう 国なんだ」と思った。ほら、その 年前にパ 化がすごかった。パンクに限らず、ストリー
と出会うでしょ。で、だんだん出会う車の数 空に光が見えてくるんだよね(笑) 。 —
ト・カルチャーが根付いていた。ライフスタ でもなんでも、それをみんな自分のスタイル
が増えていって……。
を 貫 き 通 し て 遊 ん で い た。 遊 び に 対 す る 姿 勢、自分の生き方に対する姿勢が真剣なんだ よね。まあ、みんなお金がなかったというの もあったと思うんですけど、でも逆に、お金
マ ユ リ そ う、 だ か ら 鬱 憤 が た ま っ て い る 若 者 ば っ か で ね( 笑 ) 。レイヴに行っても労
り私の友だちがアレックス・パターソンとつ
マユリ 楽しかった(笑) 。 マユリちゃんが、 ジミー・コーティ(ザ・ — KLF)周辺と仲良くなるのはどういう経緯
働者階級の子ばかりで。言葉でわかる、汚い
がないがゆえに文化は栄えたわけですよ。
あれはあれで楽しいんだよね。 —
マユリ レーザー光線ね。そうするとまたさ らに盛り上がる(笑) 。
イルがあるんですよ。パンクでもロカビリー
ンクがあったでしょ。ストリート次元での文
10
features the Second Summer of Love
行って他とは違う何かを感じたならば、それは 91
88
34 35
93 年、 〈Odyssey〉で DJ をするマユリ。
87
は広めないとヤバイ」 「あんな楽しいのに」っ
そう、だけど、 年には〈キー・エナ — ジー〉 も出てくるし……。それこそマユリちゃ
て、 な か ば 使 命 感 を 感 じ て ま し た( 笑 ) 。そ
あの感じがなかったのに驚いて、で、 「これ
そう、俺、まさに〈 Lost 〉と〈 Know- — で、トイレ行くと、人がぶっ倒れてい — るんだよ(笑) 。 れでデッキも買って、DJをはじめて……。
……。
……、とても楽しかった(笑) 。
た ら 声 か け て く る し、 白 人 も 黒 人 も い る し
は 異 常 に 厳 し い し、 入 れ ば い ろ ん な 人 が や
も止まってるし、入るときのボディチェック
て、そこをみんなでくぐって……。
れていかれて、で、金網に穴が開けられてい
せられて、ウェアハウスみたいなところに連
どこに行くかは明かされずにみんなバスに乗
キ ー な パ ー テ ィ( 笑 ) 。当時の思い出をひと
〈キー・エナジー〉も〈オデッセイ〉 — も 勢 い が な き ゃ で き な い よ ね。 あ ん な リ ス
に市民権を得るだろうと思っていた。
マ ユ リ 〈 オ デ ッ セ イ 〉 は 年 の 冬 で す ね。 り用を足すってことだったよ(笑) 。 マユリ そして葉っぱで拭く(笑) 。 「ミステ あの頃は勢いがあった。これからものすごい リー・ツアー」というレイヴも面白かったな。 ことが起きるという期待感もあったし。絶対
びっくりしちゃった。入口にパトカーが二台
マユリ そういうのは楽しいよね。
T シ ャ ツ を 着 て い た の ね。 デ リ ッ ク・ メ イ
くる。
んのオーガナイズした〈オデッセイ〉も出て
93
金網に穴が開いているの、俺も経験あ — ります(笑) 。
俺もそうだよ! ハ ハ ハ ハ。 イ ギ リ ス の 野 外 フ ェ ス に — — マユリ ハハハハ。「なんだこりゃ?」 でしょ。 行って知ったのは、向こうの女性は彼氏に服 ハハハハ。 「なんだこりゃ?」だよね。 で隠してもらいながら日中の原っぱでしっか — ジャングルのパーティもすごくワイルドで
て 感 じ だ っ た ね。 私、 〈 Lost 〉で 生 ま れ て 初 めてジェフ・ミルズを聴いて。
マユリ トイレがあれば良いほうですよ。野 外 レ イ ヴ に 行 く と、 明 け 方 は 野 グ ソ だ ら け
〉にやられたひとりですよ。 ledge マユリ ああいうのは、さらに地下に潜るっ
6 さ。で、ある晩、どっかのパーティに行った ら黒人の女性が「あんたいいTシャツ着てる
いう側面もあるんですけど(笑) 。
ね〜」って声をかけてきたもんだから親しく なって、 「私もDJやってるんだ」って彼女
(注5)のシーンやCJBのデモ (注6)に行っ
んが「彼女はコールドカットのマットの奥さ
良くなってさ〜」って言ったら、マユリちゃ
たからマユリちゃんに「あの人とこないだ仲
は言ってね。で、別の晩にその黒人女性がい
たりとか、いわばポスト・サマー・オブ・ラ
わなかったんだ(笑) 。
マユリ そう、だから来ている子たちも、客 なんだけど、自分はこのシーンの一端を担っ
いたんだよね。
DJとして来て、それでしばらく東京にいつ
マユリ そう彼女(注:DJネームはブラッ ク・ビッチ)は〈トワイライト・ゾーン〉の
ているという意識がすごくあった。自分から
マユリ そう、泣く泣く。 DJは日本に帰ってきてからでしょ? — マユリ はい、レコードは向こうで買ってい たから持っていたし。 〈ジオイド〉が最初? — マユリ そう。 〈トワイライト・ゾーン〉で KUNIと知り合って、で、毎週木曜日に〈ジ
〈 Tribal Planet 〉をやって、で、たいへん苦 労しまして、 もうこれ以上はやめようと(笑) 。 ホント、ど素人とはいえお客さんにも苦労さ せ……。 しかし、結局〈メタモルフォーゼ〉で — 復活する(笑) 。
マユリ 野外が好きなんですよ。 この文化はいったいどれほどの人生を — 狂わせたんだろうね。
マユリ 5年間のブランクを経てね。 やっぱ忘れられなかったんだね。 —
だったね(笑) 。
マユリ しかもまだ続いていますからね〜。
オイド〉でやることになって。
か な。
このシーンを盛り上げようという気持ちがす ごくあった。
〈オデッセイ〉は何年続いたの? — マ ユ リ 年 に は じ め て 年 ま で 続 い た の 年の春に初めて伊豆で野外レイヴ
できたよ。
この文化のとてもタフな側面を感じることが
気持ちよかったね」で終わってないというか、 んよ」って。彼女はそのことを俺に一言も言
ヴを追うことになるんだけど、 「あの時代は
マユリ ホントね、感動する。 俺の場合は、その後、フリー・レイヴ —
ただ、あのDIY精神には感動させら — れましたよ。
マユリ あれ、笑うよね(笑) 。ああいうね、 から直々もらったヤツで、あの頃〈トランス DIY精神がすごい。まあ、やりっぱなしと マット〉のTシャツなんて手に入らないから
つ 言 え ば、 あ る と き〈 ト ラ ン ス マ ッ ト 〉の
92
95
マユリ 私はね、帰国して、日本にまったく
新橋の〈トワイライト・ゾーン〉は日 — 本で最初の本格的なUK式の狂ったパーティ
93
95
features the Second Summer of Love
4 5 マユリちゃんが帰ってきたのは 年? — 91
36 37
サマー・オブ・ラヴ……88 年、野外レイヴを楽しんでいます! 88 年のウェアハウス・パーティ、後方のダンサーたちに注目。 これも 1988 年の野外レイヴの明け方の風景。 1988 年の野外レイヴで踊るマユリ&サユリ。 スマイリーの T シャツを着て。 1992 年、これが新橋の〈トワイライト・ゾーン〉その入口付近。 1 2 3 4 5 6
1 2 3 (注1)1979 年の総選挙で勝って以来、1990 年 で、要するに、金のためにやらないことがこの文 まで保守党党首および英国首相を務める。新自由 化の本質だと解釈する無料の、ただし非合法のレ 主義の推進者として知られる。イギリス経済を立 イヴ。92 年にキャッスルモートンで4万人のレイ て直す一方で、失業者を増大させ、地方経済を犠 ヴァーを集めたバーミンガムの〈DIYサウンドシ 牲にした血も涙もない人間として当時の音楽シー ステム〉 が有名。レイヴ・カルチャーの政治性をもっ ンからは目の敵にあっている。 とも体現している。 (注2)筆者も知っている人なんで……。数年前は (注6)当時の保守党政権が立ち上げたレイヴ禁 デトロイトのゲットーにも住んでいました。 止の法案。CJBの内容を簡単に説明すると以下 (注3)サマー・オブ・ラヴ当時もっとも精力的に のようになる。●許可なき野外での 10 人以上の 活動したプロモーター。 〈Sunrise〉や〈Back To ダンス・パーティは解散。対象となる音楽はビート The Future〉を手掛ける。レイヴ成金とも揶揄さ の反復する音楽。●警察がそれを社会への妨害だ れた。 と判断した場合、侵害的集会は禁止。●警察が (注4) 〈Lost〉も〈Knowledge〉も 90 年代初頭 それを侵入だと判断した場合、公共の土地だろう のロンドンにおけるテクノ・パーティとして有名だっ と6台以上の車両の駐車は撤去。従わなければ逮 た。スティーヴ・ビックネルが主宰する〈Lost〉は、 捕。これは 94 年の秋に可決され、以後、CJA(ク ジェフ・ミルズをロンドンに紹介した。 リミナル・ジャスティス・アクト)となる。 (注5)先鋭化されたレイヴ・カルチャーの一形態 赤間まゆり 90 年代初頭より DJ 活動とパーティ オーガナイズを開始、数々の人気パーティ、イヴェン トを手掛ける。現在は今年で 10 周年を迎える〈メタ モルフォーゼ〉を主催。テクノ DJ として 18 年のキャ リアを持ち、ハードからミニマル、テックハウスまで 幅広いスタイルを持つ。レジデンツは今年 11 年目を 迎えた〈REBOOT〉と、ロンドンー東京共同主催の 〈FIERCESOUNDS〉 。 日本 国 内はもとより、US、 アジア、オセアニア、ヨーロッパ等へ遠征、多数の パーティでプレイ。2009 年 7 月には 4 枚目となるミッ ク ス CD『A PIECE OF TECHNO』 を MYTRIX MUSIC よりリリース。ちなみに当時の思い出の1枚 は808ステイトの「Pacific State」 。 http://www.myspace.com/djmayuri http://www.metamo.info http://www.myspace.com/ metamorphosefestivaljapan
これ が いまや 伝 説 的 なレイヴ 〈Sunrise〉のフライヤー。フライヤー の裏面には、当局の取り締まりをか わすため住所は記さず電話番号しか 記されていない。この番号に電話す ると開催地がわかるのだ。
〈Odyssey〉のフライヤー。イル カと 3D のコンピュータ・グラ フィックが時代を感じるね。
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the Second Summer of Love
features
セカンド・サマー・オブ・ラヴの『さらば青春の光』
文:久保憲司 text : Kenji Kubo
友だちからイギリスで大変なことが起こって
そんなに取り上げられていなかったし。そんなバ
プールの〈Quadrant Park〉というウェアハウ
いると電話がかかって来たのはザ・ストーン・ロー
ンドがブラックプールという寂れたイギリスの
ス・パーティに行った。そのときにぼくはエク
ゼズが 1989 年の 8 月ブラックプールで 4000 人
観光地で何千人も集めたライヴをすると言って
スタシーというドラッグがたくさんの人間と同
の観客を集めてコンサートをするという何週間
も、ぼくはどうせ、500 人くらいでしょうと思っ
じ目的をもってやると、それがとんでもない一
か前のことだった。 「すごいことになるからお前
ていたのだ。しかし、ふたを開けてみると本当に
体感を生むということを知った。ぼくは 1/4 の
も来い」と言うのだ。友だちから出てくる言葉は
4000 人近い人を集め、次の週の音楽誌『NME』 アシッドとエクスタシーを食って完全に飛ばさ
エクスタシー、ダンス、ウェアハウス・パーティー
の表紙を飾り、見事にザ・ストーン・ローゼズは
れてしまった。そのときぼくはすべてを理解し
(この頃はまだレイヴと言ってなかった)という
勝利を宣言したのだ。ロンドンのメディアもぼく
た。何を、何だろう、このときぼくが感じたの
言葉、いまから考えればこのキーワードですべて
も、イギリスの北部でとんでもないことが起こっ
は、これはイギリスの労働者階級のお祭りだと
がわかるんだけど、その当時のぼくはそんな言葉
ているのだとこの『NME』で初めて気づかされ
いうこと。毎日働いて週末ですべてのお金を使
を聞いてもドクター&ザ・メデックスみたいなも
たのだ。
い果たしてしまう人たちのお祭り、月曜日から
のなのかなくらいにしか理解できなかった。
いままではザ・スミスとかにしてもやはりメ
金曜日は仕事でいがみ合うことがあるかもしれ
86 年にイギリスで一発ヒットを当てたこのサ
ディアを中心に盛り上がっていったのだが、そう
ないけど、このパーティのあいだはすべてを忘
イケデリック・リヴァイヴァルを夢みたバンドは、 なる以前から、こんなにも支持を集めているバ
れて、みんながひとつになって、同じ夢を共有
自分たちのパーティを毎週ロンドンでやってい
ンドはいなかった。その奥にはぼくの友だちの
た。日本でもいちどやったことがあるんだけど、 言っていたエクスタシーというドラッグや、ウェ
に百万人もの人を集めるまでになったのだ。そ
アハウス・パーティということがあるんだけど、 して、いつしかみんなが、これって 1967 年の
とをやっていたのだ。マジカル・ミステリー・ツ
ぼくはエクスタシーも〈4AD〉のアーティスト、 サマー・オブ・ラヴに似ていないかと言い出して、 やがてセカンド・サマー・オブ・ラヴと呼ばれ
そこからバスにのって、ブライトンとかのピア
ているドラッグだよ」と手に入れてやったことが
るようになったのだ。
と呼ばれる海の家みたいな場所でライヴとパー
あったし、ウェアハウス・パーティもロンドンで
いまエクスタシーを食っても、またこれと同
ティを楽しむというようなことをやっていて、そ
は北よりもっといいパーティーがたくさんあっ
じ体験ができるのか、いまの若い子が同じよう
んな感じなのかなと思っていた。
たので、何が何なのか全然わからなかった。
な気持ちでエクスタシーを食べているのか、ぼ
ザ・ストーン・ローゼズのアルバムはもう聴い
どうしてもザ・ストーン・ローゼズやハッピー・ くにはわからない。でもこんな日々があったの
ていたけど、明るいジョイ・ディヴィジョンくら
マンデーズが出て来たバックグラウンドを知り
いにしか感じなかった。イギリスのメディアでも
たくって、 マンチェスターから車で 30 分のリヴァ
41
久保 憲司 1964 年 生まれ。 バンドやって挫折して、ロン ドンに行って挫折して、日本 に帰ってきて、カメラマン、 ライター、クラブ・オーガナ イザーなどをやる。著書 『ロッ クの神様』 、写真集『ロング・ オア・ライト・イッツ・オッケー』 など。
しようとした。そんな思いが〈ラヴ・パレード〉
たまにマジカル・ミステリー・ツアーみたいなこ
アーといってもだいたいいつも、 公園に集まって、 ウルトラ・ヴィッド・シーンから「NY で流行っ
▶▶ above page: 1992 年6月、グラストンベ リー・フェスティヴァル photo : Kenji Kubo ▶ 1989 年 10 月、ストーン・ ローゼズ、五反田ゆうぽーと photo : Kenji Kubo ▲ 1990 年3月、 ハッピー・ マンデーズ、G-MEX photo : Kenji Kubo
だということをぼくは一生忘れない。
40
the Second Summer of Love
features
年が経った。ときが経つのは早い。音楽も急速に変わっていく。古いものは捨てて、新しいものを消費するよう促される。新たなるテクノロジー 革命には、インディペンデンスへのポテンシャルがある。だけどイメージはとてもインスタントで、構築され、計画され、自意識がある。ニュー・
ルへ押し上げてくれることを期待しながら。
インディペンデント精神、みんなを動員できる能力、インディペンデンスから恩恵を受けた知識は、サマー・オブ・ラヴの最高の遺産だ。ノスタ ルジーにしがみつき、自分がそこにいたことを讃えるメダルを磨きながら、僕たちは僕たちに取って代わった次世代を眺めている。ネクスト・レヴェ
た。それでも彼らの視界から逃れるようにアンダーグラウンドへと戻り、そして失敗から学び、成長を続けたのだから。
フスタイルとなった。大人がコントロールするのが当然だと言わんばかりに、メジャー・レーベルも参入しはじめた。だけど、その良さは失われなかっ
やがて〈クリーム〉や〈ミニストリー・オブ・サウンド〉のようなブランド化されたスーパー・クラブの時代がやってくる。ケビン・サンダーソン、 スティーブ・シルク・ハーレー、後期808ステイトがUKチャートに入るようになってからというもの、アンダーグラウンドは商品化されたライ
いた。成功するカウンター・カルチャーとは、メインストリームが食べたくなるような熟した果実だから。そして吸収を強いられ、予算がはじかれた。
それが突然はじまったように、突然終わってしまったことは驚くべきではない。自分で自分を貪り、で、終わってしまった。そして、残飯を欲し がる人たちにも分け与えた。欲望は要求となって、メインストリームのカルチャーをおんぶしてしまったとき、すでに動き回ることは難しくなって
いだだったけど、みんな仲間だった。
お金を儲けた人たちだっていた。すべての人びとに居場所があった。サマー・オブ・ラヴの大量消費は自分たちで作り出したものだから、自分た ちが自分たちを消費していたってことにもなる。すべての人がオーナーシップを持っていたんだ。DJ、レーベル、ドラッグディーラーは、短いあ
でスピーカーに頭を突っ込んでいるだけで、クリエイティヴな気分になれたのだから。
たから。それは、ある部分カウンター・カルチャーであり、ある部分オルタナティヴな現実であり、ある部分快楽主義だった。なにせ野外パーティ
この新しくて刺激的な発見、つまり唐突に出現したかに見るダンス・ミュージックとエクスタシーによる大衆的祝祭も、振り返ってみれば理解し やすい。ある友人はもうひとりの友人に伝え、もうひとりの友人はさらにもうひとりの友人に伝えた。誰もが自分の経験したことの共有を望んでい
いない人たちがいたというだけなんだ。それは、いまでも変わらない。
すべてが成功していたわけではない。うまくいかなかったことだってある。だけど、トライすることは止めなかった。音楽といちゃつきたかった だけの人も、ドラッグと一夜限りの関係を持ちたかった人もいただろう。いずれにしても、たくさんのわかっている人たちと、たくさんのわかって
も差別されることはなかった。誰ひとりとして外見や身分を気にしていなかったから。
ていない、トラヴェラーたちの集まりだった。初期の環境運動家、スクウォッターズ、スカリーズ、金持ちの子供たち、都会っ子たち、田舎者、誰
に僕たちの両親に警告を送ったように。でもね、それは占領することなければ、リーダーにも無関心な宗教だったんだ。まったくオーガナイズされ
終わらせるには、もったいなかった。いいことがあり過ぎたから。けれど、社会にとって危険になり過ぎてもいた。急速に広まった、国外へ逃亡 するカルト集団のようだった。実際、セカンド・サマー・オブ・ラヴにおいてドラッグと音楽は宗教だった。タブロイド紙がセールスを延ばすため
皮肉にも、僕たちはコントロールを失っているというカテゴリーに分類されてしまったけどね。
も動員した。僕たちは自分たちでムーヴメントを起こし、自分たちであり続けることができた。コントロールを失うことなく大いに楽しんだことで、
楽にふけるセックスと同様にそれは“パブリック・エネミー・ナンバー・ワン”とされながら、しかしプロテスト運動や変化を要求する人びとさえ
とって宿敵だった。音楽とドラッグの結合によってこれだけ大衆に広く支持されるムーヴメントが生れるなんてことは、それ以前にはなかった。快
僕たちは資本主義、大量消費の時代に生まれた。そして、まるでそうすべきだと教えられたかのように、欲しいものを欲しいときに消費した。マー ガレット・サッチャーのイギリス資本主義の青写真をまるで折り紙のように折り曲げて、たたんでいた。ラウド・ミュージックとドラッグは政府に
当時、僕たちは自由を手に入れたように感じたものさ。好きなときに好きなだけもうひとつの現実に行けた。いずれ警察が手錠を振りかざすよう になるだなんて、誰も想像もしていなかった。これをずっと続けていられると思っていたんだよ。
でもね、 “みんなの”快楽主義はさらに良かったんだ。それは、みんなの宝が詰まった宝箱を探しているようなことだったから。
ていたかのどっちかだろう。古き良き時代を思い出して、 ノスタルジーに浸るのは簡単なことだ。誰もがいつかきっとそうする。でもね、 (Inner City の) 歌詞にあったようにそれはたしかに“ビッグ・ファン”であり、 本当に“グッド・ライフ”を生きているように感じられたんだ。快楽主義は良いものさ、
あの当時のサマー・オブ・ラヴやセカンド・サマー・オブ・ラヴを体験したという人は現在中年か、さもなければ当時まだ未成年だったのに遊びに行っ
カになれ)”と。
1988年と1989年? とにかくふたつのサマー・オブ・ラヴがあった。ドラッグ、音楽、パーティ、ポリティクス、プロテスト運動、順番 はまあいい。ベビーブーム世代の子供たちをスマイリー・フェイスが励ましてくれたものだったよ。マントロニクスが言ったように、“ Get Stupid (バ
それは都会と田舎、階級や人種など文化の境界線も超越した。ウェアハウスでも、ストリートでも、野外や山奥でも、その光景と目的は同じだった。
ウェアハウスで、野外で、ロンドンの地下で、鉄道橋の下で、サウンドシステムはセットアップされ、レコードはプレイされ、音楽を聴いて、ドラッ グをやって、そこに集まったすべての人たちが、何故そこに集まったのかもわかっていた。すべての人が同じ理由でそこに集まっていることもね。
ちがはじめたことなのだと。
あの頃、エクスタシーとダンス・ミュージックのコンビネーションの発見は、僕たちの手で作り上げた革命のように思えた。僕たちのコントロー ル下にあって、僕たちに属していて、大勢の人びとと分かち合い、祝うべきものだと感じられたものだった。ナイキに言われるずっと前に、自分た
わりとなって。
登場する。さらに、それはエクスタシーの登場と美しく衝突したってわけ。スマイリーや鳩が刻み込まれた錠剤は人びとにとって手頃なアヘンの代
フラワー・パワーとパンク。アナーキーと起業家精神。行動主義と無関心。これらの結合……と言ったらキミは何かの冗談だと思うかもしれない。 そう、ベッドルームでキッズが音楽を作り、リビングルームを拠点とするレーベルからリリースできるようになる、それを可能にする安価な機械が
Mary Anna Wright, The Great Ecstasy Revolution, 1998
性を誘惑すること、こぼされたビールのことで喧嘩することに背を向けた。そして、音楽は集まるための理由となったのだ。
人びとは傍観者になることなく、この新たな民主的なムーヴメントに匿名で参加した。彼らは最新のダンスがどうであるか、異
訳:門井隆盛 translatin : Takamori Kadoi
エキセントリックなセカンド・サマー・オブ・ラヴの子供たち — クラクソンズ、CSS、ホット・チップなどは、あのふたつの夏のスピリット を持っている。それはもちろん音楽からも伝わってくるけれど、 重要なのはオーディエンスとの相互関係や一体感だ。しかし、 まだ彼らのパフォーマー とオーディエンスのあいだには“私たち”と“あの人たち”という古くさいヒエラルキーが存在している。お行儀のいい、お楽しみのように。 DIYの精神とインディペンデント主義は家宝のように受け継がれている。いま、2ステップの外向性はダブステップの内向性に取って代わられ ている。そして、新しいものが登場する機会は増えている。少しずつ、ひとつずつ……そしてそれらは素早くアップされていく。機械で作られた音 楽自体はもはや革命的ではない。ドラッグも驚くことではない。すくなくともUKでは。 “2度目”が起きることを誰が予想できただろうか。しかも“1度目”のときより、より サマー・オブ・ラヴは2度と起こらないだろう。でもね、 効果的に、ヨーロッパで起こることを誰が予想しえただだろうか。そして、それがダンス・ミュージックとドラッグの融合になると誰が考えただろう。 創造的かつ文化的なインディペンデンスの実現は、 年前よりもずいぶんやりやすくなった。道は作られているし、やり遂げるための知識だって ある。いまさら文化的植民地主義者たちの講釈など聴かなくたっていい。自分たちのやり方で、自分たちで出来る。世界的文化革命の爆発と大衆的 いからね。 社会を生きることは簡単なことではない。だけど、テクノロジーはふたたび音楽に革命をもたらしている。政治的プロテストはみんなが集まる動 機となっている。そして、新しい世代の新しいコミュニケーションとリスニングもある。次のサマー・オブ・ラヴはキミたちが起こせばいい。 ただ、自分たちでやってしまえばいいんだよ。
features the Second Summer of Love
文:ジョン・レイト text : John Wraight
祝祭は近いうちにやってくるのかもしれないよ。当時だってそんなことがすぐに起きるとは誰も思っていなかった。待っていたって、何もわからな
20
42 43
BaNg the drUm 20
アシッド・ハウスを輸入していたのは有名な話。
そしてダンス熱は高まり、マッドチェスターへと発展した。
その渦中にいたひとり、808 ステイトのグレアム・マッセイに健吾が話を訊く。
の錠剤を飲み込みイビサの享楽をブリテンの大地に拡散させた。 音だったりエレクトロが好きだったグレアム青年が、どうやって
かかってたよ。金曜はダンス・ミュージック。女ひっかけるみたい
永遠のクラシック「 Pacific 」など、若くしていくつもの輝ける 勲章を手にした808ステイトの中心人物グレアム・マッセイ。
青春を送り、UKアシッド・ハウスの金字塔『 Newbuild 』や、
は“マッドチェスター”なる現象にまで発展する。そんななかで
ncを駆使して複数のマシンを鳴らし、マルチ・トラックで作った。
ンプルな構成だったのに対し、俺たちはローランドのDIN Sy
なドラムマシン1台+303が1台+サンプルひとつという超シ
シッド・ハウスへの回答。ただ、ひとつ違うのはシカゴの曲はみん
くらいの軽い気持ちでね。あの頃聴きまくっていたアメリカのア
てないし、ただ、 「こういう曲作ればラジオでかかるんじゃねぇ?」
アシッド作れるぞ」みたいなノリでやったんだ。 『 Newbuild 』は、 週末2日間だけで全部作った。事前にあれこれ話しあったりもし
グレアム そうだね。いや、実はたんに「TB303があるから、
作っちゃえっていう。
みんなが欲しくて探してるのに、ほとんど買えないから自分たちで
ド・ハウスのレコードを作ろうって思った理由のひとつは、それ。
いうレコード自体がものすごくレアで買えなかったからね。アシッ
シッド・ハウス・タイムがあるような感じ。そもそも、当時はそう
クソンかかってた。R&Bとかソウルがメインで、途中で 分のア
るようなハコじゃなかった。最初はSOSバンドやマイケル・ジャ
けのクラブがダンス・ミュージックをかけていたけど、誰でも行け
前だとDJグレッグ・ウィルソンがいた〈レジェンド〉って黒人向
水・金・土と通ってたけど、たしか最初水曜はロックでスミスとか
パーティはセカンド・サマー・オブ・ラヴを象徴するように熱く
バーナード・サムナーとの交流なども含め、激動の時代の渦中で
それで多層的でポリリズミック、ポリトーンな響きになっている。
重な歴史の証言を聞くため、まだマンチェスターに住んでいると いう彼の自宅へ電話をかけた。 808の前に、ヒット・スクワッドMCRってヒップホップ — のグループをやっていたよね。マンチェスターでは当時ヒップホッ
とを大きく打ち出したクラブはあれが初めてだったと思う。それ以
グレアム ほとんど人気がなかったヒップホップと違ってハウス の人気は沸騰し、808もいろんなところに呼ばれるようになっ
なった?
グ レ ア ム は は は。 ほ ん と そ う だ ね。 ハ ウ ス と 言 っ て も“ Pump
ンセのデモみたいな音は……」って感じだった。
だけでは、ダメだったんだな。聴く側も、 「なんだこのチープでシ
その発想はすごいなぁ。日本でも、当時ハウスに影響を受け — ましたっていきなりバンドからそういう音に転身するアーティス
の取材に訪れていて、店をやってた元メンバーのマーティン・プラ
”みたいに洗練されたものもあったけど、シカゴ Up The Volume の音は知性のかけらもない究極の阿呆サウンドって感じだ。そこが
トがいたけど、ひとつも残ってないよ。やっぱり表面的に真似した
た。でも決定的だったのは、ジョン・ピール。彼は定期的にレコー
めたころにはいくつかグループがあったけど。
イスが『 Newbuild 』を渡したんだ。そうしたら気に入ってあちこ ちでプレイしてくれた。それがきっかけでブレークしたんだ。
響されていた。マンチェスターで流行ってたのは、ストリート・サ 当時のマンチェスターの状況があまり想像できないんだけ — ウ ン ズ っ て い う コ ン ピ・ レ ー ベ ル の 出 し て い た『 Street Sounds ど、グレアムにとって「こりゃぶっ飛んだぜ」みたいな経験がやっ
マンチェスター、 〈ハシエンダ〉と言えばやはりニュー・オー — ダーだよね。以前、バーナード・サムナーとは〈イースタン・ブロッ
グレアム そう。あの辺はサンプル主体じゃなくて、シンセで音作 りしてただろう。あれがかっこよくて、真似してた。当時はスタイ
あ〜、ハシム、サイボトロン、エジプシャン・ラヴァー、マ — ントロニクスとか。
グレアム そうでもない。ステュー・アレンのラジオとかレコード でも聴いてたから。でも、フロアで聴かなかったらたぶん全然わ
じゃあ、最初はアーティスト名とかも知らずにいきなりフロ — アで聴いた?
したような感じで、そういうことかって。
量で浴びるように聴いて、意味が全部わかったんだ。カチッと音が
グレアム 最初はフューチャーの「 Acid Trax 」かな、 アドニスとか。 ヘヴィでシンプルなやつ。それを〈ハシエンダ〉とかクラブの大音
を実現した。世界を見て、 その影響をマンチェスターに持ち帰った。
グ レ ア ム み ん な こ こ か ら 逃 げ 出 し た い と 思 っ て い た ん だ。 ニュー・オーダーはインターナショナルに成功して、いち早くそれ
ニュ ー・ オ ー ダ ー が い な か っ た ら、マ ッ ド チェ スタ ー も な — かったわけだ。
ンダという場を作っていった。
くさん本場の経験をしていたわけで。地元に帰って、そういう新し
グレアム そう。まぁやっぱり、 マンチェスターのシーンにとって、 彼らの存在は大きかったよ。誰よりも早くからアメリカに行ってた
ク〉がUSハウスのレコードを彼の家に配達していたことをきっか
ウルと1時間ずつ区切ってやる番組があった。ただ、地元じゃハウ
かってなかったよ。
だからみんなが尊敬して憧れた。よく勘違いされるけど、 年代半
のラッパーと一緒に実験を繰り返したんだよね。ステュー・アレ ンっていうラジオDJがいて、日曜夜にヒップホップ、ハウス、ソ
けに親しくなったと言ってたよね。
スはゲイのあいだで人気で、ヒップホップはマッチョだからシーン
東京ではね、アシッド・ハウスは当時ほとんど無視されてた — し、クラブでガンガンかかってたわけでもなく、誰もわかってな
ばには誰もマンチェスターを誇りに思ってなかったし、とにかくこ
ぱりあったんだよね?
は完全に別だった。俺たちはヒップホップのジャムの途中でアシッ
かったと思う。ノー・ドラッグでDJもいないしレコードもあんま
い音をプレイできる場所がないってことで後に伝説になるハシエ
ド・ハウスをやるようになって、ものすごい反発を喰らった。
売ってないし、メディアも理解してなかったから当然なんだけど。
ハウスと言っても“ Pump Up The Volume ”みたいに洗練されたものもあったけど、シカゴの音は知性のかけらもない 究極の阿呆サウンドって感じだ。そこがいいんだよ。純粋に快楽しかないっていうサウンド。
80
ル的にはいろいろで、MCチューンズとかMCシャインとか、地元
わはは。後にレコードで聴いても、あの怖いルックスのMC — チューンズのマシンガン・ラップと、ハウスのトラックが合体し
』のシリーズだった。 Electro
いいんだよ。純粋に快楽しかないっていうサウンド。
グレアム自身もアメリカのヒップホップに影響を受けて? — グレアム いや、当初は〈ON U - 〉とエイドリアン・シャーウッ ド、 スキドーみたいなサンプリングを駆使したものにより影
グレアム いや、そうでもない。当時のイギリスじゃメディアも含 めて、みんなアメリカからの輸入文化だと思ってたから、アンダー グラウンドだったな。少ないリスナーのなかから自分たちでも作っ
ド店〈イースタン・ブロック〉にマンチェスターのシーンやバンド
30
てみようっていう連中が出てきて、俺がドラムマシンで実験しはじ
プの人気があったの?
なノリじゃなく、音楽、それにダンスそのものを楽しむっていうこ
彼が何を見、考えたのか。 年以上が経過したいまだからこそ貴
それが結果、808ステイトやUKのアシッド・ハウスのア — イデンティティーに結びつくわけだ。で、予想通りすぐに話題に
燃え、ロック・バンドが次々ダンスの魅力に取り憑かれ、ついに
』みたいなアシッド・ハウスに向かったのか。いきなり 『 Newbuild MCチューンズだったらわかるけど。
と、
マンチェスターでは、みんながいっせいにそっちに向かったという
北部工業都市が世界のどの都市よりも早い時期に
感じだったの?
「なにせロンドン(南)よりマンチェスター(北)のほうが早かったから」。
てるのはびっくりしたもんな。客もやってる連中もみんなあんな感
「最初は南北の対立があった」と、DJ のマイク・ピカリングは回想する。
じだったら、 「こいつら何カマ音楽やってんだ?」ってなっちゃう
何度も来日してフロアを熱狂させた 808 ステイト。キーボードを弾くマッセイ。photo : Kengo Watanabe
か つ て マ ン チ ェ ス タ ー に は 魔 法 が あ っ た。 年 代 を 通 し て ニュー・オーダーがロックの世界に電子のビートを浸透させたあ 80
グレアム いや、こっちでもだんだんという感じ。 〈ハシエンダ〉 だっていきなりハウスばっかりかけるようになったわけじゃない。
取材:渡辺健吾 interview : Kengo Watanabe
ね。ただわからないのは、サンプリング主体のヘヴィなビートの
gRAHaM masSEy 年 ご ろ か ら イ ギ リ ス で も 一 番 早 く ア シ ッ ド・ ハ ウ ス や 例
マッドチェスター・フラッシュバック —グレアム・マッセイ 20
features the Second Summer of Love
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87 2 3
グレアム アンドリューの弟、一時ダンサーとして808のステー ジに上がってたエリックっていうのがいてね。ヤツはかなりの遊び
グレアムは元々そんなに「パーティが大好きでとにかく遊び — まくるぜ」ってタイプではないみたいだね。
グレアム ああいうバンドがどうやったらアシッド・ハウスやテク ノと同じ仲間みたいになるのか意味がわからなかった。ストーン・
じゃあ、クラブ側からは“マッドチェスター”みたいに一括 — りにされることに反感も強かったんだ。
義なんだよ。
もバーズみたいで、ルックスも 年代みたいって、どれだけ懐古主
人で、早くからイビサに行ってたんだよ。ちょうど、ニュー・オー
エリックも帰ってきてウェアハウス・パーティをオーガナイズした れようとしてポール・オークンフォールドなんかにプロデュースを
ローゼズも「 Fool's Gold 」まではクラブでかかってるのを聴いた ことないし、ハッピー・マンデーズもどうしてもクラブ層に支持さ
ダーが『 Technique 』の制作中、イビサで遊びほうけてたってい うくらいの時期だ。 だから、 彼を通して、 いろんなことを吸収したよ。 り、 年以前は誰もやってなかったことを地元でやりだした。そも
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そも、イリーガルなパーティをやるってアイデア自体、反骨精神旺 て上げようとしてたけど、俺たちは未来を見てる、ハイテクでメカ
依頼したわけだよね。音楽メディアはひとつのムーヴメントに仕立 ニカルでツヤツヤのヴィジョン。デリック・メイやデトロイト・テ
盛なマンチェスターの人間にはマッチしたんだと思う。 クノのアーティストが提示したような世界を目指していたんだ。ギ ターとフレアのレトロとはわけが違うんだぜって感じていたよ。
んな暗くてつまらなくて何もない場所は嫌だって考えてた。 んとしないと、運営できなくなっちゃう。最初は数百人だったの
なったら、トイレ、フード、騒音、駐車場、警備、救護…全部ちゃ
アする必要が出てきた。なにも考えないでやってたのが、数万人に
どうしたらいいかって。フロアで初めて“ Strings Of Life ”を聴
が次々出てきた。それで競争してたわけ。あのレコードに勝つには
グレアム レコードは本当にたくさんあるよ。 〈イースタン・ブロッ ク〉で毎日フレッシュな音を聴かせてもらって、 「コレ聴いた? すげーぜ」って大騒ぎ。世界中から新鮮で驚きにあふれたレコード
当時を振り返って、パーティやレコードにまつわるこれはす — ごかったっていう思い出があったら教えてくれないかな。
つまり、それってかつてのデトロイトの状況と似ているよ — ね。 が2000人になって、それが数週間のうちに2万人に膨れあがっ いたときのことも、 “ French Kiss ”がかかったときのことも、絶 対忘れられないよ。 年ぐらいまでは、本当にエキサイティングな
逃避するためにファンタジー・ミュージックを作るしかなかった。 想像上だけでも、未来を夢想したかったんだな。
グレアム ところが、皮肉なことにいまのマンチェスターは昔想像 したような未来都市に変貌した。文化的な爆発があって 年代に大 きく変わったんだ。いろいろな要因があるだろうけど、俺は文化が マンチェスターを再生させたと思ってるよ。
時期だったと思う。そのあと、DJが“音楽をかけるひと”じゃな く“レコードをミックスするひと”に変わって、何を聴いても同じ
グレアム もちろん、当時のドラッグに共感度を高める作用が大き くて、みんながそれでひとつになったという面もあったと思うけ うって考えたことはないんだ。
は止めてしまう人も多いよね。グレアムは、DJとしてやっていこ
この世界で成功した人たちの多くは、数曲のアンセムを作っ — たら、その後はずっと世界中でDJをし続ける、もう曲を作ること
になっちゃった。
ど、ひとつのカルチャーを自分たちで作って、所有しているんだ、
グレアム 世界中にマンチェスターが知られて、活気が戻ったとい う意味ではよかったけど、文化的にはもうかつての輝きやパワーは ド・ハウスをくっつけようとしたのが気にくわなかったな。ラヴ&
グレアム そう。だから、メディアが急に「セカンド・サマー・オ ブ・ラヴ」とかって言いはじめて、 年代のヒッピー文化とアシッ
ど、誰もがマシンを使って音楽を作るようになってしまったから逆
するときの限界をマシンを使うことで越えられると考えていたけ
て きて、楽 器 も 弾 く し、 幅 広 い 音 楽が 好き だ。昔 は、人 間が 演 奏
グレアム 俺はむしろ逆かな。DJを職業にしようと思ったことは ない。808にはすでにプロのDJがふたりいるわけだし、それは
ないよね。薄まってしまったというか。もちろん、 あの頃はインター ピースとか、「なに言ってンの?」って。当時は、 超モダンな世界で、 に考えるようになった。人と人との交流のなかで、どうやって音楽
それまでになかったまったく新しいカルチャーだし。 —
ネットのない世界で、現在とは違う。いまの人たちに当時の孤独感 アンチ・エスタブリッシュメントで「未来に向かっていくものだぜ」
自分の領分じゃないと感じてた。自分は 歳からずっと音楽をやっ
とか疎外感、サッカーの試合以外で誰もマンチェスターになんて来 年代へのノスタルジーに収束されるなんてとん
それはポジティヴな変化だった? —
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これは俺たちのものだっていう意識が大きかった。
う 〜 ん、 8 0 8 ス テ イ ト が 何 故 サ イ ボ ト ロ ン“ Techno い、想像もしなかったことが次々起きて、毎週末楽しくてしょうが — ”をサンプリングしたか、ようやく理解できた。 ないって感じ。 City
だからこそ面白かったんだよね。それは、自分たちでも同じ — ようなことを東京でやったからわかるよ。何が起きるかわからな
た。誰もそんなの予想してなかったからね!
90 年頃の 808 ステイト。向かって左がマッセイ。 いちばん右がマーティン・プライス。
グレアム そうなんだ。それですごくシンパシーを感じた。かつて 工業都市で衰退してしまって暗く希望がないような街で、そこから
カオスだよ。それがある数になったとき、突然いろんなことをケ
携帯電話もない時代、口コミで人を集めてさ。完全にクレイジーで
グレアム そう。自然の流れで、何も考えずに音出せる場所見つけ て許可も取らず安全面とかも考えずに、ただやりたいからやった。
ロンドンやほかの場所よりマンチェスターでアシッド・ハウ — スが爆発したのは、そういう部分が大きかったと。
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旗印の下にプライドと愛着を持ってわーっと音楽シーンが盛り上
グレアム サッカーにはひとつの旗の下にたくさんのひとをユナ イトするという力があるだろう。あれと、マンチェスターという
カップの応援歌作ったりしているよね。
サッカーと言えば、マンチェスターにはふたつ有名なチーム — があって、サポーターも多いと思う。ニュー・オーダーもワールド
たがらないだろうという感覚を理解してもらうのは難しい。
いつ絶対覆面警官だ」って言ってた(笑) 。
のあいだでは、パーティにスマイリーTシャツのやつがいると、 「あ
では俺たちは「あんなの超ダサイな!」って言ってたんだ。俺たち
たなぁ。スマイリーは 年代のアイコンで、だからマンチェスター
ションとか、「やめてくれ!」って思った。スマイリーですら嫌だっ
でもないよ。ウッドストックとの類似だとか、ヒッピー風のファッ
と思っていた。
こまでいくともう現実感がないんだ。それと 人しか客がいないと
作用するのかってことのほうが興味あるね。数の競争には意味がな
てすごいことだと思わなかったかい? いまでは、毎日世界中であ まりにもたくさんのDJが曲をかけていて、当たり前のことになっ
る前、ただレコードをかけるだけでたくさんの人がひとつになるっ
るっていうのが魅力だった。DJがいまみたいにビッグスターにな
に燃えたとき、あれだけたくさんの人がひとつの音楽のもとに交わ
にマジカルな魅力が宿るのかっていう部分。そもそも最初にレイヴ
なんていうのも、そういう流れのなかの出来事だ。ちょっと宗教的 な部分もあるし、バンドや音楽に忠誠心を示すみたいな。サッカー のたくさんの要素は、簡単に音楽にも転用できると思うね。
いから。グラストンベリーで6万人を前にしてプレイしたけど、そ
ちゃったけどね。俺は、パーソナルなレヴェルで、音楽が人にどう
がったのは似ているんじゃないかな。例えば、ストーン・ローゼズ 笑 え る! 日 本 に も ゴ ア パ ン 刑 事 っ て 都 市 伝 説 が あ っ た — なぁ。
きと比べて、優劣をつけるようなことじゃないんだよ。
のスパイク・アイランドの野外イヴェントにあれだけ人が集まった グレアム マンチェスターと言えばフレア・ジーンズとかバギー・ スタイルって思うかもしれないけど、例えばストーン・ローゼズの
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そういうファッションなんかも俺たちは全然ダメだと思ってた。音
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グレアム・マッセイ マンチェスターのアヴァン・ロック・バンド、 バイティング・タンのギタリスト、そしてザ・ヒット・スクワッド MCR のメンバーを経て、いち早くシカゴ・ハウスやデトロイト・テ クノを輸入していたマンチェスターのレコード店〈イースタン・ブ ロック〉を経営するマーティン・プレイスやジェラルド・シンプソ ンらとともに 808 ステイトを結成。1988 年にデビュー・アルバム 『Newbuild』を発表する。1989 年の「Pasific State」は“Strings Of Life”への UK からの回答と言われた。代表作は〈ZTT〉から リリースした『90』と『EX:EL』 (ともに日本盤はサードイヤー) 。
◀ 1998 年7月、 ベルリンの〈ラヴ・パレード〉の様子。 photo: Kengo Watanabe
90
年代において、間違いなく大きな影響のひとつだ。
挑戦者であり、希代の思索者でもある彼が、 その思いを誠実に語ってくれた。
時代背景がまったく違っている。そういう雪解けみたいな雰囲気が
るんだけど。冷戦と 9.11 の間に起きたっていうのは、たとえば冷 戦の一部であるベトナム戦争の真っ最中のサマー・オブ・ラヴとは
あった。もちろん湾岸戦争もあったし、いろんなところで紛争はあ
すると、東西対立崩壊以降、大きな戦争は終わったみたいな空気が
オブ・ラヴは起きている。2001年の 9.11 で、もう喜んで踊っ ていられない空気になって、レイヴ・カルチャーが衰退していくと
が解体する。で、 冷戦が終わると。そういう時代にセカンド・サマー・
にベルリンの壁が崩壊する。東欧革命が起きて、1991年にソ連
ゴルバチョフが就任して、ペレストロイカをはじめる。1989年
の流れとシンクロしているというか。そういうことって、いま世界
とか、自然界のなかの一部に過ぎないとか。ディープ・エコロジー
の身体感覚からはじまって、人間も動物の一種であるみたいなこと
多い。ほんとにDiYで素晴らしいと思うんですけど。そういうと
ロジーとかスピリチュアルな考えがある人たちが開いている場合が
日本だったらヨーロッパと違って、普通に山のなかでパーティを やるので、山によく行ってました。そういうのって、もともとエコ
はないと思う。やはりそれは大変な何かなんだ、と思います。
単に企業からカネを貰ってるからダメといって片付けられるもので
ヴ・パレード〉の100万人規模のパーティともなると、さすがに、
れを反体制的なものだと位置づけることができて、よかったです
ういう意味があるのか……絶対になにかあるはずだと思ってた。そ
なね。自分でも何でこんなに踊るのか不思議だったし。社会的にど
くなっていただけのこと。みんなそれを思い出して喜んだ、みたい
とで。たまたましばらく、われわれ近代人とか現代人とかがやらな
鶴見 そう。それに新鮮さをおぼえた人はすごくたくさんいると思 う。もともと、踊るっていうことは、人間が古くからやってきたこ
代的だとも思います。
と浅いエコロジーで。ディープ・エコロジーは、自然界とひとつに
サイクルとか、環境に優しい家電を買うとか。そういうのは、わり
のになっちゃってる。二酸化炭素を出さないようにしようとか、リ
す。ちなみに、一般的にエコロジーっていうと、ロハスみたいなも
鶴見 反対運動の現場とディープ・エコロジーの方面に、レイヴ・ カルチャーの良い部分の現在形みたいなものを勝手に感じてるんで
うものは、反資本主義的なところで繋がっていると。
正直僕は行ったことないんですけど。レイヴ・カルチャーとそうい
レイヴ・カルチャーを通して、それまでの自分の価値観や一 — 般社会の基準とは違うものを見つける。そしてそれをそれぞれに追
のことを考える上でも絶対に知っておかなきゃいけないことだと思
ころで、自分や周りの人たちも、自然に目覚めたりする。まず自分
あったからなのかな、とか。 う。
(笑) 。 『檻のなかのダンス』でも書きましたけど、たとえば貧乏揺
なるというか、農業とかもやりながら、できれば自給自足を目指し
ます。意味のなさこそが重要だったと。ある意味では、とても 年
すりって、抑圧され押さえつけられている身体がその窮屈さに耐え
取しない、そういう自立的な楽しみなんだ」と書いてある。誰か他
何も消費しないし、資源も使わないし、環境も破壊しない。誰も搾
も「経済発展の時代は終わった。踊りましょう」とか「踊ることは、
なるほど。一方で、この文化には快楽主義というものがあり — ますね。たしかに脱社会的ではある。しかし、反社会的かというと、
ないとヤバイなとは思いますね。
自分のほうに取り込もうとしてくるから、そこには意識的になって
レイヴ・カルチャーと経緯が似ているんですけど、エコロジーは、 もともとは資本主義と対立するものだった。でも資本主義はすぐに
たい、みたいな。
求していくと、結果的にエコとかデモとかにもいくんでしょうね。
かねて、 ストレスを発散する動きですよね。そういうものなんだ、 と。
の人から搾取するとか、他の人を犠牲にして自分が得をする、とか
今日は『世界がもし100人の村だったら②』(註1)という、 世界の格差をわかりやすく紹介した本を持ってきました。ここで
でもない。そういう方面からも、踊ることはよしとされてます。
う問題でもあるんですけど……僕は、商業化されたパーティからこ の文化に入ったし、反体制的とかっていう意識に対しては、正直
よくわからないところもあると思うんです。まあどう捉えるかとい
なるほど。ところで、しばらく日本のレイヴで遊んで、海外 — に行かれますよね。それこそ〈ラヴ・パレード〉とか。日本と海外 の違いは、どのように感じましたか?
るほど、と思ったりはしますけど。
意に企業から金をもらっちゃったことはあったと思う。でも、たく
にも関わらず、資本主義や企業の側に取り込まれちゃったり、不用
しているだけっていうのは、反抗の意味を成さなくなってきたりす
新自由主義的な時代だと、ただ単に権力に対して自分の自由を主張
鶴見 自分は、踊っていること自体が規律訓練的な権力に対する反 抗なんだから、それでいいんだと思っていた。でも、いまみたいな
ちょっと実感がないんですよね。鶴見さんの本を読んだりして、な
鶴見 パーティは大きくなると、商業主義的になってダメだとよく 言われます。たしかに、主張や意味がなかったりぶんだけ、本来は
さんの人が集まるっていうのは、やっぱり魅力的なことで、それだ
る。 年代は、グローバリゼーションが進展していた時代でもあっ
そういう(大きな)アクトが出るフェスティヴァルがある。そして
やアンダーワールドとかオービタルとかケミカル・ブラザーズとか、
るのかどうかは……難しいですよね。一方には、 〈ラヴ・パレード〉
動に繋がっていく側面もあったそうです。ウェアハウス・パーティ
ていた。そこから、リクレイム・ザ・ストリーツ(註2)という運
スティス・アクトとか、とにかく規制されることに対しては反対し
非常に悔やまれる。でも、たとえばイギリスでは、クリミナル・ジャ
たし、そういうところに対してあまり意識的ではなかったことが、
生産や消費や競争に関係ないという意味で反資本主義的なものなの
けで嬉しかったりするし。そこらへんは、一概に悪いことと言え
その広い裾野の下のほうに、公園でラジカセを持って互いに好きな
アル』や『無気力製造工場』の 著 者 が、 レイヴの魅力を語っていた。 踊ることを通して前向きに生きる思想があった。彼は、僕のよう そう考えるきっかけを与えてく —
なまず快楽主義ありきの人間に、この文化や踊るという行為に娯 楽以上の切実な問題がある れた人間のひとりだ。 僕自身は、それを社会的・政治的な文脈に位置づけて考えるこ とをしてこなかった。デモにも行っていない。今回、恐れ多くも そんな僕が取材させてもらうことになった。彼の考えには遠く及 ばないが、踊ることが好きなのは同じだし、この時代に生きづら さを感じている点でも同じだと思う。 彼は熱く語ってくれた。僕は、この文化の持つ力についてあら ためて考えることができた。 まず、鶴見さんがレイ ヴ・カルチャーに出会ったところから — 話を聞かせてください。 鶴見 箱(屋内)のパーティだったら1994年かな。外だったら 1995年くらい。もともとパンクやロックのライヴによく行って いたんですけど、その頃から、大きめの会場でDJが回すイベント もだんだん増えてきて。海外のミュージシャンが来日するときに、 有名なDJがフロントアクトとして回してたり。それで 〈新宿リキッ ドルーム〉のパーティに行くようになったりとか。それから 年か ら 年に、野外でもポツポツ開催されるようになって、外のにも行
そもそも、セカンド・サマー・オブ・ラヴとかになんで主張がなかっ たのかってこじつけ的に考えてみると、1985年くらいにソ連で
だろう?」と考えるわけです。
い」ことがものすごい新鮮だった。だからこそ、 「これはなんなん
たと言えるところもあるんだけど……でも最初は、その「主張がな
鶴見 セカンド・サマー・オブ・ラヴとかレイヴ・ムーヴメントって、 「主張がない」と言われがちですよね。たしかに、それがよくなかっ
それまでの音楽の楽しみかたとは、全然違うわけですよね? — 鶴見さんにとっては、何が新しかったんですか?
くようになりました。
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も、空いた建物にサウンドシステムを持ち込んだりして、スクワッ
レイヴ やクラブにはまりはじめて、とにかく楽しくてしょうが なかった幸せな時期に、 『レイ ヴ 力』を読んだ。 『完全自殺マニュ
名著『檻のなかのダンス』から 年、 — そしていま彼は、どこでダンスをしているのだろう。
彼は僕たちに、「生きづらさ」からのエスケープを教えてくれた
鶴見済は、レイ ヴ 世 代 のア ジ テーターでもあった。
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なるほど。たしかに『檻のなかのダンス』では明確に、踊る — という行為がいかに反社会的で逸脱的なものなのかが主張されてい
2003 年 10 月 5 日、渋谷宮下公園にて。photo : mkimpo
features the Second Summer of Love
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雨宮処凛 『 「生きる」ために反撃するぞ! 労働& 生存で困ったときのバイブル』 対談で鶴見も参加している。新自由主義 とグローバリゼーションによって 90 年代 よりもさらに厳しくなった 00 年代。個人 的な生きづらさの問題を、社会の問題と 繋げて考えていくことが訴えられている。
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曲を掛け合って踊る、みたいな完全にDiYな世界がある。それが
SHUT UP AND DANCE 『Reclaim The Streets』 リクレイム・ザ・ストリーツに賛同した、 ジャ ングルのオリジネーターによるアルバム
取材 : 桑田晋吾 interview: Shingo Kuwata
同時に存在していたから、 両方に行けるんですよ。自分としては、〈ラ
鶴見済 『檻のなかのダンス』 (太田出版) 留置所の内実、学校や会社の管理教育、 〈ラヴ・パレード〉を含めたヨーロッパや 日本のレイヴ紀行、薬物に関する記述、 あるいはオウム事件などへの言及。赤 裸々な語り口で社会の生き苦しさを明か し、そのなかで踊る自由を描いた。
路上の サード・サマー・ オブ・ラヴ
いまや欧米においては、ヒップホップとレイヴ・カルチャーはそれなりの関係にあるのだろうが、この国にもその文化に親和性を持つBボーイ/Bガールは少 なくない。彼らはダンス・ミュージックに魅せられたことで遊興の越境者となり、さまざまな文化圏(ジャンルやシーンと言い換えてもいい)の人間と交わり、パーティ で踊る悦びを共有し、そして目の覚めるような斬新な音楽を生み出している。 アメリカでは 90 年代、ヒップホップ・プロデューサーのティンバランドがサウンド・プロダクションにダンス・カルチャーからの影響を取り入れた作品をミッシー・
M.I.A. は“XR2”で、レイヴで大騒ぎする人間を馬鹿にする意見にたいして、 「Some people think we r stupid but we r not(私たちが馬鹿だと思ってる人もいるけど、 それは違う)」と歌っているが、その通りだと思う。ダンスとは自由を求める行為だ、と言うと陳腐に聞こえるかもしれない。しかし、たとえばサウンドデモにダンスが なければ、それは退屈な政治運動になってしまうだろうし、ここで紹介したアーティストがダンスの悦びや快楽を知らなかったら、彼らはこんなにも創造的で音楽的に開 かれた表現を手にすることができただろうか。彼らは踊ることで、世界とつながっているのだ。僕が彼らと出会えたように。
2004 年 2 月 22、宮下公園を出発するサウンドデモ。photo : mkimpo
この不満と閉塞の時代に彼らは否応なく政治的な存在ではある。しかし、70 年代初頭、革命の夢に失望し、ギャングの抗争により荒廃したNYのブロンクスの 若者が、ポリティカル・パーティ(政党)よりも、ブロック・パーティに希望を見出したように、ダンス・ミュージックに魅了されたこの国のBボーイ/Bガールも開か れたユートピアを創造するために魂を燃やしている。僕はいま、そこに希望を抱いているのだ。
COLUMN: 1
Bボーイも踊っている 文:二木 信 text : Shin Futatsugi
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the Second Summer of Love
features
ティング文化とかを継承している。だから、たしかに快楽主義的で
はあるんだけど、よく見ると、けっこういまの反資本主義運動に繋
がってたりするんですよ。レイヴ会場は、まずテントで生活する。
なにもないところで、 大勢の人間がいて。当然DiYじゃないとやっ
ていられない。そこで、たとえば食べ物を共有したり、物々交換し
G
たり、相互扶助的なことをやっていく。
反資本主義的なアナーキズムの運動家の活動にも、すごく通じる ものを感じます。たとえば反 8の時も、資本主義的な世のなか
に対する反対行動としてキャンプ空間を作ったりするわけで、それ
自体がはっきりと反体制なわけです。そういうDiYな文化とか、
一時的に自立的な空間を創る動きとかっていうのは、レイヴ・カル
チャーが考えだしたものではなくても、それを広めたっていうのは
あると思う。
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日本でもDJを乗せた車が先導するサウンド・デモがあって、そ こには〈ラヴ・パレード〉のようなものが引き継がれているとも言
えるだろうし。 年にレインボー・パレードっていう、代々木公園
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から出発して、渋谷とか原宿辺りを1周して、環境保護を訴えると
いうトランス系のサウンド・デモも始まったし。 年代の反戦サウ
ンド・デモは、特に大きいものだったと思います。高円寺の素人の
乱界隈のデモとか、マリファナ・マーチでもサウンド・デモをやっ
ている。反格差・貧困というか「生きさせろ」系のデモやイベント
でもDJの人たちが、デトロイト・テクノとかをすごいかけるんで
カルチャーの 25 年の歴史をコンパイルした『An England Story』と並列に聴けるような代物だ。
すよ。それが貧困層とかマイノリティのところからはじまった音楽
湛えた素晴らしい曲だ。これはぜひ聴いて欲しい。コンピとしては、同じく昨年〈ソウルジャズ〉が、ダンスホール、UKガラージ、グライムといった、イギリスのMC
だってことを意識してかけていると思う。このあいだあった「自由
れず闘う都市生活者の哀愁と反骨精神をラガ・スタイルを取り入れたラップに託した“邪悪な太陽””は、じゃがたらの“都市生活者の夜”のような深いメランコリーを
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と生存のメーデー」のアフター・パーティとか、ものすごい盛りあ
Future Ragga Session- 』は、レゲエ・カルチャーとヒップホップ・カルチャーをこの国ならではの感覚でブレンドすることに成功している。ルミが、深い闇の中で人知
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がって。そういうの見てると、社会運動と全然切れていないな、と
カイフィッシュ、鎮座ドープネス、ルミらが参加している、レゲエ・レーベル〈PART 2 STYLE〉が昨年リリースしたコンピレーション『Strictly Dancing Mood Vol.1-
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思いますね。
の見本市でもある。ここからはラガ・ジャングルはもちろんのこと、アタリ・ティーンネイジ・ライオットなどのデジタル・ハードコアの残響音さえ響いてくる。そのス
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最後に、 年代に踊るという行為と、 年代に踊るという行 — 為には、どんな違いがあると思いますか?
スカイフィッシュの最新アルバム 『Raw Price Music』 にはUKサウンドシステム・カルチャーからの影響がうかがえる。アルバムはある意味、 ハイブリッドなMCカルチャー
鶴見 年代だったらベトナム反戦って言うだけでひとつになれた けど、いまはそれが難しいって言われますよね。いま、多国籍企業
また、鎮座ドープネス、ルミ、環ロイ、漢、CIA ZOO などのアンダーグラウンド・ヒップホップ・シーンの現場を騒がすラッパーたちをフィーチャリングした
鶴見済 1964 年、東 京 都 生ま れ。フリーライター。著書に『完 全自殺マニュアル』 『人格改造マ ニュアル』 『檻のなかのダンス』 『レイヴ力』 (共著)などがある。 現在、 PARC が出している雑誌 『オ ルタ』で連載中。今のグローバ ルな経済の仕組みに反対しつつ、 それにからめとられないローカ ルな生き方を模索、提唱してい る。公式ブログ“tsurumi's text” http://tsurumitext.seesaa.net/
に反対って言っても、何それ? って感じだろうし。でも、やっぱ りいまは、ただ踊っているだけじゃダメだっていうのは感じます。
イヴやサウンド・プロダクションに取り入れているのは、そんなアンダーグランド・ダンス・シーンの現場感覚と無縁ではないだろう。
年代には、 「自由にさせろ」って言っているだけじゃ
NINO〉に遊びに行ったのだけど、サウンドシステムの持ち主が驚くほどにシステムのポテンシャルを引き出したヒカルのアシッディーなプレイは凄まじかった。今年 〈BLACK SMOKER〉から『四次元墓場』という凄まじいタイトルのミックス CD をリリースした ECD が 00 年代中盤以降、アシッド・ハウスの定番シンセ、TB3003 をラ
ないけど、
ドマンといった、現在のアンダーグラウンド・ダンス・シーンを賑わす DJ のプレイを体感できる。僕は 2 ヶ月ほど前に、彼らが〈池袋 bed〉で主催するパーティ〈EL
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抑圧からの自由を主張するっていうのが、 年代だったのかもしれ
イによるレイヴ賛歌といえる。キラーボングが所属するヒップホップ・レーベル〈BLACK SMOKER〉のパーティに足を運べば、ヒカル、コノマーク、シロー・ザ・グッ
ダメで。イェーって言っていられるほどハッピーでもないわけだし。
るといい。キラーボングは音と戯れながら、酩酊を誘うダブ・ハウス・トラックの背後から「smokin' ×××〜 !!」と、歓喜の雄叫びを上げている。これはこの国の B ボー
具体的に貧困にさらされてきているし。旧来のようなデモだけでは
この国はどうか? たとえば少し前の曲だが、クワイエットストームのアルバム『Soramiro』(04 年)に収録されたキラーボングの“Fuji Rocks”を聴いてみ
辛いだろうし、そこにレイヴ的な要素が入っているから良い、と思
超盛り上がれる)」 「we were like grime(私たちはグライムそのもの)」と、豪快にレイヴ・カルチャーからの影響を歌っている。
(註1) 2001年頃からネットを媒介に 広まった。世界をひとつの村に たとえて、さまざまな問題をわか りやすく示し、世界の相互理解 を求める内容 (註2) 90 年 代 の イギリスで 誕 生した (1991 年にイギリスのブリクスト ンで最初に起こったと言われて いる) 。自動車の利用中止などを 訴え、公共空間の「解放」を訴 える団体・運動のこと
う。まあ、すでに言われてることだけど、踊りながら反抗する……
カルチャーなくして存在し得なかったジャンルである。M.I.A. もセカンド・アルバム『カラ』に収録された“XR2”で、 「took a pill good time all the time(一錠キメれば
それが良いんじゃないかと思います。
エリオットやアリーヤなどの作品を通じて発表している。またイギリスに目を向ければ、 UKガラージの発展型であり、 UKヒップホップの最新型であるグライムはレイヴ・
“セカンド・サマー・オブ・ラヴ”について調べてみようと思ったきっかけは、たまたま 年にイギリスでケーブルTVを観ていたらアシッド・ クラブの中継をやっていたからである。まったくの偶然でしかなかった。中継の合間にはア・ガイ・コールド・ジェラルド“ヴードゥー・レイ”の
メントの外にあったということになる。ムーヴメントの当事者たちは誰だって自分たちが最初だと主張したがるものだし。
ていた若者たちは“サマー・オブ・ラヴ”の体験者だったはずがないし、なのに、それを踏まえた表現になるということは、視点は初めからムーヴ
そもイギリスで起きていたことに関心がなかったのかもしれない。“セカンド”というネーミングがそもそも奇妙である。レイヴ・パーティに集まっ
そんなことはわかる訳がない。“サマー・オブ・ラヴ”は大事でも“セカンド”をそれと一緒にしてたまるものかと思ったのかもしれないし、そも
1967年に起きたサマー・オブ・ラヴがきっかけで生まれた雑誌なのに、なぜ“セカンド・サマー・オブ・ラヴ”について報じなかったのかと。
レイヴ・カルチャーのことを日本に紹介しようと思って“セカンド・サマー・オブ・ラヴ”という言葉を雑誌(初めて書いたのは『シティロード』?) で使ったときのこと。それを読んで『ミュージック・マガジン』の長い読者だという知り合いが急に怒りはじめた。 『ミュージック・マガジン』は
文:三田 格 text : Itaru W. Mita
けを買って日本に帰り、溜め込んであった『NME』や『FACE』のバック・ナンバーを片端から読み直してみた。そして、少しでもそれらしい 記事があればそれをインデックスに組み替えながら、全体のストーリーを追った(そのインデックスはいまだに役に立っている) 。そのインデック スの最初に、実は『NME』による“サマー・オブ・ラヴ”の回顧記事がある。正確にいうと〈デフ・ジャム〉についての記事が載った3週間後に
ウスとニュー・サマー・オブ・ラヴ」( 年7月)という記事が書かれたことで、それはまるで予告編のような印象を持つようになった。 “サマー・
たというようなことが滔々と書いてあった。“セカンド”のことはいまだ予兆すらなかった頃である。しかし、それから約1年後に「アシッド・ハ
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マー・オブ・ラヴ”という文化のあり方に興味を持つことができ、それと同時に、それ以前の 年間を支配していたパンク/ニューウェイヴから派
の方が多く、特集されればされるほど(僕個人にとっては)逆効果を極めていた。何かを思い出すにはやはりタイミングがある。そのときだけは“サ
オブ・ラヴ”に関する記事はそれまでにも何度も書かれていて、そのほとんどは青春の押し売りみたいな内容で、どちらかというと反感を持つこと
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られなくて 分もするとすぐ次のクラブに行ってしまうこと。DJマユリが“レイヴシグナル”の次に曲を掛け損なったにもかかわらず、うっとり
どこのクラブで誰がどんな曲をかけ、その時、自分やその周囲にいた人たちがどう反応したかという記憶だけではない。グラストンベリー・フェ スティヴァルではハンバーガー屋さんが“エイジ・オブ・ラヴ”に合わせて飛び跳ねながら肉を焼いていたこと。石野卓球が一箇所にじっとしてい
アイドルのコンサートでペンライトを振ったりしなかったのも似たような理由からだろう) 。
マー・オブ・ラヴ”に抵抗があったのも道理である。その頃は“ひとりで聴く”音楽にしか価値がないと思っていたのだから(音楽性を別にすれば
う回路が僕のなかには確固として存在するようになり、そのときから“ひとりで聴く”音楽とそれは明確に使い分けられるようになった。そう、 “サ
像すらできない。DJカルチャーというものがどういうものであり、それがどのように成り立っているのかを理解してからは“みんなで聴く”とい
クマン“スペースティック”とか初期のエイフェックス・ツインでさえそうである。ベーシック・チャンネルを静かに懇々と聴いているなんて、想
しない大歓声とともにはじまり、曲が終わるとクラウドも一緒に消えたような気までしてしまう。そんなわかりやすい曲だけでなく、プラスチィッ
クリアー”や“ファンキー・ギター”といった曲を、いま、家で聴いても、それはもうひとりで聴く音楽に戻すことはできなくなっている。ありも
聴いているだけでは何もわからない文化といえ、それは本当に「なるべく大きなパーティ」に行って初めて理解できるものだった。 “クリスタル・
音楽には2種類ある。ひとりで聴く音楽とみんなで聴く音楽である。パンクやニューウェイヴは大きな会場に足を運んでも、基本的にはひとりで 聴いている音楽だった。その価値に何か揺らぎがあるわけではない。だけど、セカンド・サマー・オブ・ラヴというモーメントは、家でレコードを
ヴハスウに潜り込むのではなくて、そこにはウッドストックがオーヴァー・ラップしていた。そうか、そういうことだったのか。
指すのである。それまでメジャーの価値観だと思っていたことがマイナーのトップに位置していた。セックス・ピストルズを見るために小さなライ
ければ大きいほどいい」という女の人の意見だった。はっきりしていた。そういって、彼女は2万人規模の〈サンライズ〉や〈ユニヴァース〉を目
だか“セカンド”だかどっちもいいような言葉が噴出しまくっているなか、いちばん記憶に残ったのが「なるべく大きなパーティに行きたい。大き
なかでカタツムリが焼け死んでいくのにどうすることもできない」とか「気が付くとメンタル!と叫んでいる」とか、早くも“サマー・オブ・ラヴ”
何かを教えてくれたのは、そして、クラウドの言葉だった。セカンド・サマー・オブ・ラヴは最初からクラウドが主役だといわれていて、彼らの 言葉が『NME』やとりわけ『FACE』や『iーD』といったスタイル・マガジンには無数に紹介されていた。印象的な言葉は多い。 「焚き火の
ME』の見出しに使われたことは一度もない)。
オブ・ラヴ”が何かを教えてくれるだろうと直感したのである(ちなみに“ニュー”ではなく、 “セカンド・サマー・オブ・ラヴ”という言葉が『N
オブ・ムー・ムー(後のザ・KLF)のレコードがなぜ面白く聴こえるのかを理解したいという自分自身の欲望とも重なっていた。そのために“サマー・
テクノ(……と、分けて聴いていたわけではない)、あるいは、マーズ“パンプ・アップ・ザ・ヴォリウム”やジャスティファイド・アンシエント・
生したカルチャーやそのあり方に対して失望を自覚することも可能になった。それは、 そのとき、 自分の目の前にあったシカゴ・ハウスやデトロイト・
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としていて誰もそれに気付かなかったこと。死ぬかと思ったこと。助けてもらったこと。いまだに名前さえ知らない友人が山のようにできたこと。 くだら な い 思 い 出 も 山 の よ う に で き た こ と 。 “みんなで聴く”は消えたり、 “みんなで聴く”は、しかし、そう長くは続かなかった。“ひとりで聴く”は現代において非常に強い衝動だからである。 揺り戻したりを繰り返しながら、僕のなかでは、もうほとんど跡形もなくなりつつある。ゼロではないと思いたいとか、その程度のものだろう。レ イディオヘッドやフィッシュマンズの後では“ひとりで聴く”音楽の方が面白くてしょうがなかったのだから、これはもう、仕方がない。ジム・オ ルークやヤン・イエリネクがそれにどんどん拍車をかけていった。しかし、記憶が残っているか何もないかは大違いで、そのことを思い知ったのは サウンドデモの時だった。 ヶ月間に渡って断続的に続いたサウンドデモは機動隊や警察のフォーメイションが整うに従い、だんだんと自由なこと ができなくなり、ヒドいときになると完全に機動隊のつくる“囲い”のなかで蠢いているだけだった。だけど、そのようにして劣勢に追い込まれた デ モ 隊 が い き な り 活 気 を 取 り 戻 す 瞬 間 が あ っ た。 た と え ば“ ハ イ テ - ック・ジャズ”がかかったときである。何を合図に勢いを取り戻しているのか わかっていない機動隊はふいを付かれて、一気に膨らみはじめるデモ隊をまったく制御することはできなかった。デモ隊も機動隊に対抗しているわ けではなくて、曲に反応しているだけだから、ひとりひとりの動きは無秩序そのもので、機動隊や公安が何をどう威嚇しても自分たちにさえどうす ることもできなかった。“なるべく大きなパーティ”は最終的には1500人に膨れ上がり、誰にもその全体像はわからないままに胡散霧消し、も に収められて、 サウンドデモと同じ場所で見かける風景は“ひとりで聴く”音楽だけになっ ipod ているとしかいいようがない。“みんなで聴く”音楽は“君が代”だけだと政府は主張し、それこそ音楽データを無制限に共有しようとしたナップ
はや跡形も残ってはいない。“みんなで聴く”音楽は
スターでさえ、とっくにそのシステムは姿も形も変えている。“みんなで聴く”はそれほど恐ろしく反政府的な行為のようである。 サウンドデモ以来、久々にチン↑ポムの〈ピカッ展〉で石黒景太に会い、音楽の話をした。いまのところ今年のベスト・シングルはアキラ・キテ シだよねそうだよねあれはいいよ……と、久しぶりにもかかわらず彼と僕は同じ音楽を聴いていた。反政府運動の芽生えだろうか。それとも単なる 趣味の 一 致 ?
features the Second Summer of Love
なるべく 大きなパーティに行きたい。 大きければ大きいほどいい PVも流れた。暗闇のなかを蛍光色に光る人体が瞬間移動する映像がまた新鮮だった。あれはなんだろうと思い、そのときは蛍光色のスニーカーだ
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「サマー・オブ・ラヴから 年」という小特集が組まれ、現在の音楽シーンは実につまらないけれど、いまから 年前にはこんなに面白いことがあっ 20
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aCID hOUSE & TRAckS fOR tHe SECoND sUMmER OF loVe
あの時代、鳴っていた音楽には実にいろいろな表情があった。UK や日本に流れ込んだのは 必ずしもハウスだけでもなかった。アシッド・ハウスとサマー・オブ・ラヴの時代の決定打 —三田格が 20 枚のシングル を選び、紹介する。
選・文:三田 格 selection & text : Itaru W. Mita
S'EXPRESS Theme From S'xpress
WORLD DOMINATION ENTERPRISES I Can't Live Without NY Radio
PUBLIC ENEMY Bring The Noise
ERIC B & RAKIM Paid In Full [Coldcut Remix]
RHYTHM KING(88)
PRODUCT INC,(88)
DEF JAM(87)
4TH & BROADWAY(87)
89 年のラテン・イヤーに先駆けてハイ・エナジーとハ ウスを結びつけたユーロ調の決定打。マーク・ムーアは マルカム・マクラーレンの子飼いでエミリオ・パスケス はボム・ザ・ベースから(カール・クレイグも人脈図に は含まれる) 。オランダのハードコアへと回路を開くこ とになるイタリアン・ハウスへの評価は当時は散々なも ので、コズミック再評価でようやく議論の対象に。
アルビニ系ハードコアによる L・L・ クール ・J のカヴァー。 よくぞこんなことまで起きたというか、ジーザス&メ リー・チェイン“サイドウォーキング”にしてもそうだけ ど、どう考えてもダンス・ミュージックとは無縁だった 領域にも浸透してしまったところが“セカンド・サマー・ オブ・ラヴ”の威力を物語っている。そして、この曲の なんたる迫力だろうか。カッコいい。
最初にあったのは怒りだった。デフ・ジャムがファイティ ング・ポーズを取り、ロックに取って代わろうとしなけ れば音楽的には何もはじまらなかった……かもしれな い。 「ベース!」という掛け声は時代を招きよせ、フレ イヴァー・フレイヴの時計は「時間が来た」ことを告げ 知らせていた。 PEを聴いてカラードに対する自覚がティ ム・シムノンにもボム・ザ・ベースをはじめさせたそうだし。
イギリスの DJ たちが次々とアメリカのラップ・ミュー ジックをリミックスしていった。現在のように細分化さ れているどころか、どこで線を引けばいいのかわからな いほど、すべてがごちゃ混ぜだった。マット・ブラック &ザ・コールドカット・クルーはあらゆるダンス・ミュー ジックを組織している人たちに見えたし、このリミック スには当時の混乱が真空パックされている。
DE LA SOUL Say No Go
808 STATE Pacific
BOMB THE BASS Beat Dis
M/A/R/R/S Pump Up The Vollume
TOMMY BOY(89)
ZTT(89)
RHYTHM KING(87)
4AD(87)
ターンテーブル・オーケストラ(= TO)をスピード・アッ プさせた E 世代のアンセム。いわく 「未来を感じた」と。 本当にその通りの曲だった。ア・ガイ・コールド・ジェ ラルドのサンプリングを彼の脱退後にグレアム・マッセ イが仕上げたらしく、同じサンプルからアンサーが出た り、TO のリミックスをジェラルドが手掛けるなどやや こしい展開に。でも、マッセイの勝利だ。
ティム・シムノンとエミリオ・パスケスの出会いは「爆撃」 を意味した。まったくもってラヴ&ピースではない( 「怒 り」をハッピーな衝動へと作り替えたのは誰だったのだ ろう?) 。この曲は、いま聴いてもヒップホップやハウ スのどれでもあり、どれでもなく聴こえる。これがバリ アリック・ビートである。デビュー・アルバムはシーン を支えた海賊ラジオの DJ 方式で構成。
表向きはカラーボックスと A・R・ケインのコラボレイショ ンで、これがイギリスの 80's ニューウェイヴを総決算 するものだとしたら、裏側では C・J・マッキントッシュ とデイヴ・ドレルがそれを DJ サウンドとして構成し直 した傑作(コールドカット「セイ・キッズ・ワット・タイム・ イズ・イット」に付録で収録されていたブレイクの断片 を使い倒してつくられている) 。
THE ORB Little Fluffy Clouds
SUENO LATINO Sueno Latino
AGE OF CHANCE Who's Afraid Of The Big Bad Noise!
PHUTURE Acid traks
BIG LIFE(89)
DFC(89)
VIRGIN(87)
TRAX(87)
スクウォットした家で毎晩のようにユースとアンビエン トのレコードを聴いていたというアレックス・パタース ンがパット・メセニーのギターにヒップホップのリズム を組み合わせたセカンド・シングル。元々はジミー・コー ティ(ザ・KLF)のプロジェクトだったようで、彼は「あ いつがあそこまでやれるとは思わなかった」と後に述 懐。イギリスにおけるダブの強さを思い知る。
チル・ロブ・Gのサード・シングルを翌年になってスフェン・ フェイトのバンド仲間がほぼフル・コピー。ドイツ風に 輪郭をはっきりさせたからか、 『フィッシャー・キング』 に使われたからか、世界的にヒットし、カルチャー・ビー トと共にフランクフルトのダンス・シーンを広く認知さ せた。元 SOS バンドのペニー・フォード (Vo.) はこの後、 ソウル2ソウルに加入。
ELECTRONIC Getting Away With Mike Pickering & Graeme Park Remix FACTORY(89)
SNAP The Power
ペット・ショップ・ボーイズのプロデュースによるザ・ス ミスとニュー・オーダーの合体。マッドチェスターから はハッピー・マンデイズを挙げたいところだけど、北部 のシーンを牽引し続けたマイク・ピカリングとグレアム・ パークによるリミックス盤はシカゴではじまった(アシッ ドに対抗する)ディープ・ハウス・リヴァイヴァルに歩 を合わせたという意味でもよくできている。
この曲は日本の深夜テレビでもよく流れていた(僕もそ れでメロディが忘れられなくなって買いに行った) 。そ れはそのまま DJ サウンドがフロアを飛び出して広い マーケットにも浸透しはじめたことを意味する(まさに デリック・メイがイノヴェイターなら、ケヴィン・サンダー スンはエレヴェーター) 。そういえば当時のレコードは 歌入りの方が多く、インスト主体は 90 年以降。
MASSIVE ATTACK Daydreaming
PRIMAL SCREAM Loaded
BAM BAM Give It To MeI
THE TODD TERRY PROJECT Bango
CIRCA(90)
CREATION(90)
SERIOUS(88)
FRESH(88)
ラバーズ・ヒップ・ホップからソウル2ソウルに続いた 3 人組。囁くようなラップにウォリー・バダルーのサン プリングが話題を呼んだが、やはりミックスのセンスが すべてを凌駕している。 『リバース・オブ・クール』を謳っ たアシッド・ジャズとも呼応するハイブリッド・サウンド で、レフトフィールドやこの人たちが暗く感じられたん だから、本当にバカ明るい時代だった。
ギター・ポップのセカンド・アルバムから“アイム・ルー ジング・モア・ザン・アイル・エヴァー・ハヴ”の最後 の部分をループさせただけの(実質的には)ウェザオー ル・オリジナル。ハウスやヒップ・ホップにリミックスし なくてもロックでここまで踊れるという認識は一気にダ ンス人口を増やしたことだろう。以後、ウェザオールは 何度でもシーンに逆行しようとする。
こんなファンキーなアシッド・ハウスはなかった。フュー チャーやミスター・フィンガーズではブラック・ミュージッ クのファンは振り返らなかったと思うけれど、これには 逆らえなかったはず。ヒットが出たと思ったら、プリン ス気取りでライセンス盤のジャケットに映り、この当時 はまだそのままアンダーグラウンドに留まるという価値 観が一般的ではなかったことを思い出させる。
ここまで「神様」と持ち上げられ続けたプロデューサー も珍しい。実際にはスネアを中心としたサウンドづくり で、ひとつ前の世代に属し、彼を最後に消え去ったス ネア・サウンドが再びメイン・ストリームに戻ってくるの はミス・キティン辺りを待たなければならない。キーボー ドのリフでもコーラスのカット・アップでも、アシッド・ ハウスのクリシェは彼がほとんどつくった。
“デイジー・エイジ”を標榜したことでアシッド・リヴァ イヴァルの顔にされたり、それを否定したりと大忙し だったニュー・スクール・ヒップホップの代表格。C・J・ マッキントッシュとデイヴ・ドレルによるリミックスが一 般的で、しかし、このミックスに関しては音の位相が飛 び回り、背景にやたらと音が忍ばせてあったりと、LSD 体験そのままであることはたしか。
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ポップ・ウイル・イート・イットセルフを筆頭にダンス・ カルチャーに飛び込んでいったロック・バンドは数多く いるけれど、その中でも彼らのビート・フリークぶりは 常軌を逸していた。PE ともコラボレイトし、プリンス “キッス”のカヴァーも出して、そして、一瞬で消えた。 デザイナーズ・リパブリックの弾けるようなデザインは ワシントン・ゴー - ゴーのパクり。
RHYTHIM IS RHYTHIM NUDE PHOTO/TRANSMAT(87)
LOGIC(90)
壊れた 303。タイトルはクラウドが付けた。DJ ピエー ルたちは 1 円も稼いでいない……アシッド・ハウスのは じまりはもう語り尽くされただろう。まったく音楽的で はないし、リミックスもつくられない(すべてのアシッド・ ハウスがそうともいえる) 。この曲はそれよりも 92 年に アシッド・ハウス・リヴァイヴァルとしてシーンに再スター トを促したことがむしろ重要だったのでは。
INNER CITY GOOD LIFE 10(88)
『NME』は 88 年 2 月に「ニュー・アシッド・デイズ」 と題して初めてアシッド・ハウスの記事を掲載し、その チャートで1位に挙げられていたのがコレ。コールドカッ トやマントロニクスよりも変わった音を……! まさに 当時の気運が運ばれていた。高評価を受けてか、 「ヌー ド・フォト'88」もメイデイ名義に変えてリリースされて いる。初回コミック・ブック付き。
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the Second Summer of Love
この曲は日本の深夜テレビでもよく流れていた(僕もそ れでメロディが忘れられなくなって買いに行った) 。そ れはそのまま DJ サウンドがフロアを飛び出して広い マーケットにも浸透しはじめたことを意味する(まさに デリック・メイがイノヴェイターなら、ケヴィン・サンダー スンはエレヴェーター) 。そういえば当時のレコードは 歌入りの方が多く、インスト主体は 90 年以降。
features
ユアン・マクレガーがバッドに沈み便器の底を泳いでから 12 年後、『スラムドッグ$ミリオネア』でダニー・ボイルは A.R. ラフマーンだけでなく M.I.A. を起 用し (ついでに言うと、しれっと DFA のリミックスも入っている)単なるボリウッドの模倣にとどまらない意地を見せた。時代の変化の象徴としてアンダーワールドの “ボーン・ スリッピー”が鳴り響き、それが『トレインスポッティング』という映画もバンドの代表曲という域も超えて、ダンスフロアやレイヴのアイコン的な存在になったように、 『ス ラムドッグ……』も音楽の力によって大きな恍惚をもたらして、ついにはオスカーまでかっさらった。そう、あの時代に「生」を謳歌した連中はしぶといのだ。それはぜ ひ忘れないでほしい。 セカンド・サマー・オブ・ラヴ(もっと下世話に言えばレイヴ革命、E革命的なこと)が残した現在まで続くいい影響を検証せよとのお題。10 年くらい前までは、 それこそ喜々としてそういうポジティヴ・エフェクトを話題にしたし、現実にそういうポジティヴの連鎖のなかでいろんなことがおっぱじまったと心から信じていた。— が、そのあと急激にそういうことを明言するのがこっぱずかしくなった気がするのはなぜだろう。アシッド・ハウスやレイヴが見せてくれた、それまでとなにからなにま で 180 度違うように思えた“新しい”価値観が 10 年かそこらしかもたない強度のものだったということか? しかし、よく考えてみると時とともに風化してしまったのは ある種の方法論であって、音楽そのものやパーティで踊ることではない。 ライトなリスナーのみならずトップ DJ たちがみんな配信で曲を手に入れるようになりプレイは CD-R か PC が大多数なんてことや、世界のどこかで誰かがケー タイで撮影したパーティのビデオが即 YouTube にアップされてこの曲はなんだとかこの DJ はすごいとかの議論が多彩な言語でやりとりされるなんて状況は、ちょっと 前には予想もしなかった。いっぽうで 12 インチ文化は風前の灯火、DIY のあぶないアンダーグラウンド・パーティではなく管理の行き届いた清潔で安全なフェスがこの 世の春を謳歌する—だとしても、そこに笑顔と音がまだ息づいていることはたしかなのだ。 ゴア・ギルというトランスの始祖みたいな DJ がいて、彼は「イビサもそこに影響されたイギリスのアシッド・ハウス・パーティも元はゴアでのパーティや DJ スタイルを 持ち帰ったもの」だと言っていた。その説の真偽はともかくとして、人類の始祖を辿るとアフリカの女性に行きつくみたいな話でおもしろい。流行とかムーヴメントみた いな捉え方だとそのときどきで現れて消えてとしか見えないかもしれないが、ミックスのワザも音楽のスタイルもパーティの姿も、グシャグシャの相互作用の結果つづく 進化のなかで発展・継承されてきたんじゃないと。つまり、ブラック・ボックスとフューチャーと KLF とデリック・メイが一緒に鳴っていた初期レイヴの狂騒がなければ、 エイフェックス・ツインもプロディジーもファットボーイ・スリムもいなかっただろうし、ドラムンベースもダブステップも生まれなかったんじゃないか。 イビサがトランスやちゃらいハウスばっかりの観光地になってシリアスなメディアも DJ も相手にしなくなったころに、ダークなテクノやエレクトロをかけるよ うになっていたスヴェン・フェイトが周りの仲間に声をかけて地道にパーティをはじめた。初期には、タクシーに乗っても「あんなハコなにかやってるのか?」と言われ TOMATO によるレーベル 〈Arthrob〉のデザイン。 OUR11005_7980 円(税込)
テクノやドラムンベースを愛し、風刺漫画を 描いた Darragh Greally によるアート作品。 VOUR11006_9240 円(税込)
Dave Dorrell と Rod Marash によって、1988 年 に 〈WAG〉でスタートした伝説的パーティ 〈LOVE〉 のフライヤー。VOUR11001_9240 円(税込)
るレヴェルだったそうだ。そんな〈コクーン〉が地元だけでなくイビサでも一大勢力に育つころには、学者然としていたリッチー・ホゥティンがメガネを外しガンガンに踊 るようになり、リカルド・ヴィラロボスもそのラテン魂炸裂の快楽的なプレイによってトップ DJ の仲間入りを果たす。彼らが直接的にセカンド・サマー・オブ・ラヴの後 継者だというわけではないけれど、そのスピリットを継承するというのは、そういうことなのじゃないか。数年前の〈メタモルフォーゼ〉で出番を終えたリッチーが、ま だたりない! と通路にあった 10 数人の客の前の極小ブースにやってきて延々と笑顔でプレイし続けたという伝説は、まさにその証明とも言える。もういちど言おう。やっ ぱりあの頃をカラダで知ってるやつらは、しぶといんだ。
COLUMN: 2
つまり、そのスピリットを 継承するというのはさ…… 文:渡辺健吾 text : Kengo Watanabe
こちらはなんと、 〈Arthrob〉がリリースする現 代音楽家にしてミニマルの父、スティーヴ・ラ イヒのリミックス盤のデザインをフィーチャー。 OUR11004_7980 円(税込)
有名な TOMATO のデザイン。アンダーワールド のジャケで使われたロゴがいっさい除かれている ところに注目。OUR11003_7980 円(税込)
商品問い合わせ先は 4Nation:03-5464-9321 また、以下のウェブサイトも ご覧ください。 museum neu official website http://museum-neu.jp museum neu official store http://store.museum-neu.jp
OUR HISTORY WEARS 今回紹介した〈OUR HISTORY〉が T シャツやパーカーなどになって販売される。アンダーワールドで有名になっ た TOMATO のデザイン、そしてプロジェクトの主宰者であるアネストによるレーベル〈Arthrob〉 、そしてミニマ ルの父、スティーヴ・ライヒをモチーフにしたデザイン等々、レアで格好いい T シャツを紹介しよう。
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the Second Summer of Love
features
Mayuri's archive
What wAs the SUMmEr Of love? それはボクにとって人生のターニング・ポイントとなった出来事。彼の地から遠く離れたこの島 国でも、 その熱気は輸入盤店に並ぶ新譜からヒシヒシと伝わってきたし、 どこよりも積極的にシー ンの情報を提供していた remix の存在は偉大だった。ボクにとってのヒーローはアンドリュー・ ウェザオール。彼に影響を受けてボクは真剣に DJ を志した。はじめて会ったときそれを伝えると、 彼は「Sorry, It's my fault」(オレが悪かった)と痺れるジョークで笑ってくれた。こうしていま 見回してみると、一線で活躍してるクラブ DJ にはあれを通過した世代が多い。ボクらには見本 となる上の世代がいないから、常に自分たちで道を拓いてきたし、これからもずっとそうしていく んだろう。自分たちの音楽を愛し続けていく限り。
Q'HEY YELLO "Jungle Bill-The Andrew Weatherall Mixes-”(MERCURY) 60 年代のサイケデリック、 70 年代のパンク、 そして 80 年代の Aciiiiid!!! な、 セカンド・サマー・オブ・ ラヴ。これらに共通するのは、単なる音楽の流行ではなく、それらを通過したあとでは、もはや それまで自分ではいられないような音楽とアティテュードが一体となったムーヴメントであったこ とだ。そしてセカンド・サマー・オブ・ラヴから僕らがなにを得たかと言うと、それは開放的で肯 定的な態度、垂直ではなく水平な関係、I、私ではなく、We、我等という感覚じゃなかっただろうか。 セカンド・サマー・オブ・ラヴって 1988 の夏の出来事だとされてるけど、そういった経験の話で 言えば、それぞれにそれぞれの時、場所、空間で、それぞれのセカンド・サマー・オブ・ラヴがあっ ただろうし、これからもそれは確実に誰かに訪れ、このゆるやかな共同体を豊かにしていくだろう。 NAOKI KIHIRA
A GUY CALLED GERALD "Voodoo Ray"(RHAM!)
サマー・オブ・ラヴは、ファースト、セカンドと回数が増えるにつれ、ひ とびとの横の繋がりが広範囲になってきました。サードでは、多分地球 外的レベルの範囲まで到達するのでしょうか。いつの時代も暗黒の時代 の後、必ずサマー・オブ・ラヴがやって来て我々を癒し救ってくれるでしょう。 TOBY
JOE SMOOTH INC "Promised land"(DJ INTERNATIONAL) 僕の場合、79 年ごろにジョイ・ディヴィジョンなどのポスト・パンクに影響 を受け、それがいまでも僕の音楽やアートのルーツになっています。しかし その後にはそのシーンも衰退して、ニュー・オーダーや〈ON-U〉とかしか聞 く音楽がなく、音楽よりアートに対する興味が増していました。そんな時に サンプリング・アートから繋がった「サンプリングする音楽」のハウス・ミュー ジックに出会いました。そして〈第三倉庫〉や〈ゴールド〉のオープンによっ てさらにハウスに刺激されてアシッド・ハウスに至り、これがぼくのセカンド・ サマー・オブ・ラヴのはじまりです。それはすべてが新鮮で強烈な数々の体 験をして、自分でも曲を作るようになり、今思えば夢のような毎日でした。
いま思えばパンク、ニュー・ウェイヴ以降、自分 のなかで最も大きな音楽的転換期となったのがセ カンド・サマー・オブ・ラブだった。アシッド・ハ ウスという未知な音楽はもとより、DJ、VJ、フラ イヤー、サウンドシステムなど、すべて手作りでイ ベントを興すというスピリッツは鮮烈で、それはい まのシーンへも脈々と継承されている。そして現在 のネットを含めたアンダーグラウンド・ミュージッ ク・シーンは、もう一度のその起点に立ち返ろうと しているかのようにも感じる。果たしてサード・サ マー・オブ・ラヴは起こるのか? 佐久間英夫
HUMANOID "Stakker Humanoid"(WESTSIDE) セカンド・サマー・オブ・ラヴのど真んなかを自らが体 験出来ていたかというとじつはそうではないということ に気がつきました。が、なぜこんなに思い入れがある のかなぁと考えてみたら、友人たちが体験をしそこで 感じたことを原動力になにかをはじめた人が周りに多 かったからだとわかりました。その友人たちは相も変わ らず夜な夜な飛び回り、相変わらずワタシを楽しませて くれています。若いとき? にガツ〜んと楽しいことを 経験できた人は強い! のではないでしょうか。とに かく遊んで楽しんで、いっぱい考えて、なにかを始める、 という流れは今でもこの音楽シーンには存在している ので次のムーヴメント爆発はそう遠くないかも、 ですね。 星川慶子
RHYTHIM IS RHYTHIM "Strings Of Life"
(TRANSMAT)
SUSUMU YOKOTA それはボクにとって人生のターニン グ・ポイントとなった出来事。彼の地 から遠く離れたこの島国でも、その 熱気は輸入盤店に並ぶ新譜からヒシ ヒシと伝わってきたし、どこよりも積 極的にシーンの情報を提供していた remix の存在は偉大だった。ボクに とってのヒーローはアンドリュー・ウェ ザオール。彼に影響を受けてボクは 真剣に DJ を志した。はじめて会っ たときそれを伝えると、彼は「Sorry, It's my fault」(オレが悪かった)と 痺れるジョークで笑ってくれた。こう していま見回してみると、一線で活 躍してるクラブ DJ にはあれを通過し た世代が多い。ボクらには見本とな る上の世代がいないから、常に自分 たちで道を拓いてきたし、これからも ずっとそうしていくんだろう。自分た ちの音楽を愛し続けていく限り。 DJ MIKU
OCTAVE ONE "I Belive"
(TRANSMAT)
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LIL LOUIS & THE WORLD "BLACKOUT"(DIAMOND)
89 年 6 月。南回りでロンドンに行った。途中 10 回は着 陸し、一泊したカラチ空港ではマシンガンを担いだ軍人 が身体検査していた。慣れないハーブの効いた機内食に もホテルの水に口をつけず、溢れたトイレにも極力近づ かずロンドンに着いた。バレアリックビートの意味も知ら ず、いまから思えばゴミみたいな、誰のラックにも記憶に も残らないようなレコードがたくさん出た。数年たち、私 はエスニック料理が好きになり、どこでも寝られるよう になった。80 年代の価値観が一変していたのだった。 水越真紀 JESUS LOVES YOU
"Generation Of Love"(MORE PROTEIN)
the Second Summer of Love
セカンド・サマー・オブ・ラヴ全盛の ときはまだ DJ はしてなくて、テクノっ ぽい感じの音楽を作っていたときでし た。その頃と比べるといまは居場所も 選択肢も比べ物にならないくらい増え ていてほんとスゴイと思います。市民 権を勝ち得た分、逆に衝撃の度合い は薄まってしまったところもあるけれ ど。昔は人口も少なくひとつに集まら ざるを得なかった。いまは物凄く細か く分かれてる。でも結局のところみん な同じ地点に向かって進んでいます。 すべては繋がっていますよ。今後どう なるかは気持ち次第。つまんないこと になるよりも単純に幸せになりたいよ ね。これからもひとつのひとつのパー ティ、シーン全体を大切にして歩んで いきたいです。 REE.K
KLF "What Time Is Love?"(KLF)
features
1995 年 11 月、 ロンドン市内の反 CJB デモの様子。 photo : Nick Waplington
RAW LIFE -GOODBYE AND HELLO- 2006.5.21 新木場空き地 photo: Yasuhiro Ohara
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the Second Summer of Love
features
A Chronicle Of A Crazy Season
ズ作画によるコミック『ウォッチメン』が
ンは熱狂的となり、人種や階級を超えて
A Nation Of Millions To Hold Us
的とした DJ ミックスやその心地よい空
オーブが務める。
J 総選挙で労働党のトニー・ブレアが
月刊誌のシリーズとして出版。物語は血
人びとが集まる。 「物事を変化させるの
Back』を発表。
気感を“チルアウト”と呼んだ。
J この夏、アンダーワールド「Rez」 、
首相に。
塗られたスマイリーからはじまる。
にエクスタシーが必要だったことは間違
J 5 月、ストーン・ローゼズがスパイク
大ヒットする。
J アシッド・ハウス生誕 10 周年を記念
J ロンドンの海賊放送、KISS・FM が
いないよ。みんな生まれ変わったんだ。
1989 J レイヴ〈バイオロジー〉や飛行機の格
アイランドのコンサートで 3 万人を集め
J また、この夏はヨーロッパでアンビエ
して、サラ・チャンピオンが編集したレ
誕生(90 年に晴れて合法化) 。アンダー
僕たちは宇宙を変える。戦争を止められ
納庫で開いた〈サンライズ・ミッドサマー・
る。サマー・オブ・ラヴの雰囲気が充満
ントが流行、通称“アンビエント・サマー”
イヴ・カルチャーによるアンソロジー 『ディ
グラウンドなダンス・ミュージック・シー
る。他国への抑圧も食い止められる。こ
ナイツ・ドリーム〉が 1 万 2000 人もの
した伝説のライヴとなる。
と呼ばれる。
スコ・ビスケッツ』刊行(翌年、渡辺健
ンのなかで海賊放送のサポートが大きな
うした劇的な意識の変容が最初にあっ
人びとを集める。週を追うごと人数は増
J 8 月、湾岸戦争勃発。
J 12 月、電気グルーヴがアシッド・ハ
吾による日本語訳刊行) 。
役割を果たすようになる。
たんだ」マーク・ムーア
え、数万人規模へ。
J 9 月、ザ・プロディジー「Charly」で
ウス・リヴァイヴァルに呼応した作品
J ミスター・フィンガースがシカゴ・ハ
J「1988 年ドレス・コードはトイレ行き」
J〈スペクトラム〉は〈ファンタジア〉 、
デビュー。
ウスの決定盤「Mystery Of Love」と
と揶揄されるほどクラブへ行くためのド
そして〈ランド・オブ・オズ〉へと名称
レスアップは必要ではなくなった。踊る
を変更。サブルームでアレックス・パター
J スリージー・D、もっとも初期のアシッ
ことを主眼にTシャツやジーンズといっ
ソンがチルアウト DJ を展開。
ぽう、アンダーグラウンドではジャング
ド・ハウス「I've Lost Control」発表。
た楽な服装でクラブへ出かけるようにな
J ニュー・エイジ・トラヴェラ−ズと呼
ルとテクノが躍動。
J ベルリンのトーマス・フェルマンが
る。
ばれる新たなヒッピー・チルドレンがレ
J ベルリンでウェストバムによる屋内型
Readymade 名義でサンプリングだけ
J クラブ〈シューム(Shoom) 〉の“O”
イヴ・カルチャーと結びつきはじめる。
巨大レイヴ〈メイデイ〉がはじまる。
にて、反レイヴ法と言われるクリミナル・
によるダンス・ミュージック「Ready
にスマイリーが描かれ、このクラブを発
この動きは 1993 年にピークを迎える。
J ジャングルのオリジネイター、シャ
ジャスティス・ビル(CJB)を立案。
Made」を発表。
火点としてスマイリーTシャツが流行る。
J ベルリンでドクター・モテによる〈ラヴ・
ラップ・アンド・ダンスがファースト・
J オウテカが CJB 反対を唱えた『Anti
J マーガレット・サッチャー、3 度目の
J 3 月、ニッキー・ハロウェイのパーティ
パレード〉が愛を訴えるデモとしてスター
アルバム『Dance Before The Police
EP』を発表。ループするサウンドを規
ト。最初の参加者は 120 人。
Come!』リリース。
制の対象とした法 律に対して「注意:
「Can You Feel It」を発表。
セカンド・サマー・オブ・ラヴ年表
首相再選(〜 1990 年) 。
作成:河村祐介+野田努
〈トリップ〉スタート。終了後、入りきら
1991 J レイヴ・カルチャーが商業化するいっ
J 夏、ニッキー・ハロウェイ、ダニー・
なかった人びとともに近くの駐車場や路
J デリック・メイの「Strings Of Life」
J 5 月、東京の芝浦に〈ジュリアナ東京〉
ランプリング、ジョニー・ウォーカー、ポー
上でカー・ステレオを PA 代わりに踊り
が「Strings Of Life '89」として UK の
ル・オークンフォルドの 4 人の DJ がイ
続ける。これはセカンド・サマー・オブ・
ビザに訪れる。イビザの屋外クラブ〈ア
ラヴを象徴する逸話のひとつとなった。
『Vitamin』発表。
1998 J 石野卓球がベルリン〈ラヴ・パレード〉
J 年末、 〈フロッグマン〉が最初のパー
におけるファイナル・ギャザリングにて、
ティ。当時まだ無名だった田中フミヤや
100 万人の前でプレイ。
ケンイシイらの DJ に 600 人集まる。
1999 J 日本で屋内型レイヴ〈WIRE〉がはじ 1994 J ジョン・メージャー首相の保守党政権
まる。
2000 J〈メタモルフォーゼ〉の第 1 回目が開 催。
“Lost”と“Djarum”は繰り返しのビー
J UKガラージのシーンからソー・ソリッ
オープン。
トが入っている:CJB Bが施行された場
ド・クルーが『They Don't Know』で
〈Kool Kat〉からライセンス・リリース。
J デトロイトのアンダーグラウンド・レ
合はプレイしないほうが良い……」との
メジャー・デビュー。
J ア・ガイ・コールド・ジェラルド 「Voodoo
ジスタンスがレイヴ・カルチャーに政治
注意書きが。また、Dノートやオービタ
ムネシア〉での DJ アルフレッドのハウ
「 〈トリップ〉のパーティが終わったあと
Ray」 。UK のナショナル・チャートで
性を込めて「Riot EP」発表。
ルをはじめ多くのアーティストが反 CJB
スからロックまで、さまざまなジャンルを
に、ニック・ハロウェイがマイクで言っ
12 位を記録。この年のインディー・レー
J ザ・KLF「3AMイターナル」が UK
をテーマに楽曲を発表。
領に就任。
またいだ自由な DJ プレイに感銘を受け
たの『とりあえずこのパーティは終わっ
ベルからのリリースとしてはもっとも売
チャートの1位に。
J ベルリンの〈ラヴ・パレード〉 、参加
J 千葉で DJ ノブの〈フューチャー・テ
る。 「ロンドンでは見たことのない出来
たけど、いますぐ YMCA 駐車場に行け、
れた。
J 10 月、プライマル・スクリームがサ
者が 10 万人を超える。
ラー〉スタート。
事ばっかりだったよ。さまざまな人びと
そしてあんたのステレオの音量をアップ
J セクシャルなイタロ・ハウスの決定盤、
マー・オブ・ラヴの空気のたっぷり詰まっ
J ゴールディー「Inner City Life」発表。
J クロイドンのレコード・ショップ〈ビッ
がミックスされていて、自由がみなぎって
しろ』ってね」
スエノ・ラティーノ「Sueno Latino」リ
た『Screamadelica』を発表。
いよいよドラムンベースの時代へと突き
グ・アップル〉やパーティ〈FWD〉の周
2001 J 1 月、ジョージ・W・ブッシュが大統
1877 J 12 月 6 日、エジソンが再生可能なレ
J セカンド・サマー・オブ・ラヴ以前の
いた。音楽もさまざまなものがミックス
J 夏頃から、このシーンの顔役プロモー
リース。
J この年、ベルギーの〈R & S〉がジョ
進む。
辺で、EL-B などがダブステップのプロト
コード、フォノグラフ」を発明。
ロンドンのクラブはドレスアップが常識
されていて。アルフレッドの音楽は僕た
ター、トニー・コルストン・ヘイターが●
J 7 月、ザ・ストーン・ローゼスが“She
イ・ベルトラムの「Energy Flash」をリ
J 7 月、新宿にリキッドルームがオープ
タイプを作り、シーンが始動。
で、入口では公然と人種差別があった。
ちの考えを変えてしまったんだ。これだ!
〈サンライズ〉や〈バイオロジー〉 、 〈バッ
BangsThe Drum” 。 「君は古くて僕は新
リース。ヨーロッパで大ヒットする。
ン。以後、大型ダンス系イヴェントの拠
J 9 月 11 日、NYで同時多発テロ。
入れてもらえない黒人を中心にクラブで
って思ったよ。僕らもなにかをやろうと
ク・トゥ・ザ・フューチャー〉といったウェ
しい」 、11 月には永遠のクラシック、ア
点になる。
はない他の場所でパーティを開くという
思ったよ」ポール・オクンフィールド
アハウス・パーティ/レイヴをはじめる。
ルバム『The Stone Roses』発表。
1912 J ドイツの化学メーカー、メルク社のア
発想の元、ウェアハウス・パーティが開
J 秋、 〈ハシエンダ〉でシカゴの〈トラッ
飛行機の格納庫や牧場などで開催され
J
ジ・ オ ー ブ が「A Huge Ever
DIY サウンドシステムがキャッスルモー
のデモ。終了間際にハイドパークで大暴
公開。
ントン・ケリッシュ(Anton Kollish) 、食
かれるようになる。レアグルーヴやヒッ
クス〉のパーティ。シカゴからアドニス、
た。すでに取締をはじめていた警察の
G r owi n g P u l s a t i n g B r a i n T h a t
トンで 100 時間にわたるフリー・レイヴ
動になり、翌朝の新聞一面を飾る。
J ザ・ ラ プ チ ャ ー「The House Of
欲抑制剤としてMDMAを合成。
プホップが中心で、のちのウェアハウス・
マーシャル・ジェファーソン、ロバート・
監視から逃れるべく、開催場所は電話
Rules From The Centre Of The
を開催、のべ 4 万人が集まる。この頃
J 11 月、イギリスで CJB 可決。正式
Jealous Lovers」発表。ディスコ・パ
パーティやレイヴの下地となる。
オーウェンス、リズ・トレスが初めての
や口コミなどで伝えられた。また海賊ラ
Ultraworld」を発 表。アンビエント・
から、保守党政権はレイヴの取り締まり
名 は“Criminal Justice and Public
ンクの時代へ。
パフォーマンス。
ジオも情報伝達の手段としてよく活用さ
ハウスを定義する。
をさらに強化、DIY と同じくフリー・レ
Order Act”=刑事司法及び公共秩序
1984 J DJ /プロモーターであったニッキー・
J 11 月、イビザ体験(ハウスとエクスタ
れた。
J デ・ラ・ソウルが『3 Feet High And
イヴ集団の〈スパライル・トライブ〉の
法。これによって、無届けの野外レイヴ
ハロウェイがイギリスの若者向けに “パー
シーによるパーティの熱狂)をロンドン
J こうした動きに『ザ・サン』や『イヴ
Rising』を発表。
メンバー逮捕される。
はほとんどつぶされ、サマー・オブ・ラ
J イラク戦争反対運動を契機に渋谷な
ティ・アイランド”としてイビサ島を楽し
で再現すべく、パーティ〈スペクトラム〉
ニング・スタンダード』といったタブロ
J この年、東欧諸国が相次いで民主化、
J レイヴ・カルチャーに影響を受けたト
ヴを決定的なダメージを受ける。多くの
どで通称サウンド・デモが開催。
むツアーをオーガナイズ。
をスタート。 「ポール・オークンフォルド
イド紙がネガティヴ・キャンペーンを展
11 月 9 日にはベルリンの壁が崩れ、東
ラヴェラーたちがバックパッカーのメッ
人はレイヴに背を向け、クラブに行くか、
J 7 月、チェコで4万人規模のレイヴ開
が〈スペクトラム〉を月曜日にはじめた
開。その誇張した表現は多くの子供たち
西ドイツの融合を加速する。
カ、ゴアに到着、独自のサイケデリック・
あるいはブリット・ポップを聴くようにな
催。
1985 J シカゴのラリー・シャーマンとヴィン
ときは誰もがうまくいきっこないと思って
の注目の的となり、皮肉なことにイギリ
J この年、 〈ハシェンダ〉で初めてエク
トランスを発展させ、ゴア・トランスが
る。
ス・ローレンスによって、世界でもっと
いたよ。しかし、いざやってみたら初日
ス全土にパーティ・カルチャーを知らし
スタシーによる死者が記録される。
誕生。イギリを中心にゴア・トランス系
J 12 月、のちにレイヴ・アンセムとさ
も最初のハウス専門のレーベル〈Trax
に 200 人、そして同じ週にはヴェニュー
めてしまう。
のパーティやレイヴが始動する(翌年に
えなった“虹”を収録した電気グルーヴ
Records〉始動。同時期に、もうひと
の周りをぐるりと行列が囲んでいたよ」
J『i-D』はスマイリーを表紙にシーンの
1990 J 2 月、プライマル・スクリーム“I'm
つのオリジナル・シカゴ・ハウス・レー
マーク・ムーア
熱気を伝え、 『FACE』はデトロイト・
Losing More than I'll Ever Have”の
J この年の初頭、新橋で〈トワイライト
ベル〈D.J. International Records〉も
J ダニー・ランプリングが〈シューム〉
テクノを特集。
アンドリュー・ウェザオールによるリミッ
ゾーン〉スタート。
始動。
を立ち上げ、 〈スペクトラム〉と並んでバ
J 9 月、 〈スペクトラム〉が『ザ・サン』
クス「Loaded」発表。
J エイフェックス・ツインが『Ambient
1948 J コロムビア社が世界で最初の直径 12 インチ(30 cm)のレコードを発売。
1963 J スマイリー・マークがアメリカ・マサ チューセッツ州にある生命保険会社の関 連企業のキャンペーンにおいて世界初登 場。
1967 J サンフランシスコのヘイト/アシュベ リーで最初のサマー・オブ・ラヴ。
1969 J NYのゲイ・バー〈ストーンウォール・ イン〉を拠点にゲイ連中が暴動を起こす。 この頃、付近のゲイ・クラブではフラン
1992 J 5 月、バーミンガムのパーティ集団、
ブレイク) 。
J 秋、ロンドン市内で大規模な反 CJB
2002 J 映画『24 アワー・パーティ・ピープル』
2003 J 3 月、イラク戦争勃発。
2004 J 9 月、新木場で第1回目〈Raw Life〉 開催。
『Dragon』発表。
2005 J LCD サスンドシステムがデビュー・ア 1995 J ケンイシイ「Extra」が大ヒット。日
ルバムを発表。
本でテクノ・ブーム。
レアリックの中心地となる。
紙の攻撃によって余儀なく休止。
J エンターテインメンツ法制定(通称ブ
Works 85-92』発表。
シス・グロッソなる DJ が2台のターン
1986 J アンドリュー・ウェザオール、テリー・
J のちにレイヴ・アンセムとなるリズム・
J ハッピー・マンデーズがマンチェスター
ライト法) 。許可なくパーティを開いた者
J この年、ベルリンで〈ベーシック・チャ
テーブルを駆使してミックスに成功。後
ファーリーらがフットーボールとレコード
イズ・リズムの「Strings Of Life」発売。
の 狂 騒 を 込 め て「Madchester Rave
には最高 2 万ポンドの罰金および 6 ヶ
ンネル〉始動。
J ロンドンのイズリントンで、路上解放
ジー・フォー・レイヴ・カルチャー”と
に、来るべき DJ カルチャーの元祖とな
のファンジン、 『Boy's Own』を創刊。
J アシッド・ハウスの決定盤、フュー
On」発表。
月の禁固刑が科せられる法律。無許可
J ジ ェ フ・ ミ ル ズ が『Waveform
運動〈リクレイム・ザ・ストリート〉 。サ
評する。
る。
ちなみのこの名前は 19 世紀イギリスで
チ ャ ー の「Acid Trax/Your Only
J ベイビー・フォードがイギリス初の
のレイヴやウェアハウス・パーティを取
Transmission』をリリース、テクノは
ウンドシステムを鳴らし、1000 人が集
J 5 月、コーンウォールなどの田舎で
刊行されていた 10 代を対象にした少年
Friend」発売。
アシッド・ハウス・レコード「Oochy
り締まるために制定。イギリス史上最多
ハード・ミニマルの時代へ。
結。
10 代から 20 代による非合法のレイヴ
小説集から来ている。
J ボム・ザ・ベース「Beat Dis」 。ジャ
Koochy」発表。
の逮捕者を出す。施行から一週間後に
J 年末、赤間マユリが〈オデッセイ〉を
J この年、コソボでジョシュ・ウィンク
が確認される。 『ガーディアン』は興奮
J マンチェスターでは〈ハシエンダ〉を
ケットのスマイル・マークはコミッ 『ウォッ
J D・モブ 「We Call It Acieed」 。チャー
リーズで開かれた無許可のウェアハウス・
スタート。
が人気に。電力の乏しいこの血にテクノ
気 味 に“Rave Are back” や“Police
中心にハウス・ミュージックが浸透。 〈ハ
チメン』からの引用。72 個のサンプリ
トの 3 位になると BBC は“アシッド”
パーティでは 836 人が逮捕(検挙された
の種が蒔かれる。
hunt for 'mega' outdoor party”など
1977 J シカゴにオープンしたゲイ・クラブ
シエンダ〉 でマイク・ピカリングのパーティ
ングによって 500 ポンド(10 万ちょい)
という言葉を含む歌をすべて放送禁止
のは17人) 。DJ ロブ・ティサラはダンサー
1993 J 日本ではじめての 12 インチ主体のイ
〈ウェアハウス〉でフランキー・ナックル
〈ヌード・ナイト〉がアシッド・ハウスを
で作ったこの曲はチャートの 1 位に。
に。
にバリケードを築かせたかどで 3 ヶ月刑
ンディー・テクノ・レーベルとして〈とれ
ズがレジデント D J となる。そして来た
プレイ。 「ロンドンよりマンチェスターの
J ニュー・オーダーが「True Faith」発
J ベルリンのウェストバムがアシッド・
務所に入ることに。レイヴは存続のため
ま〉が発足される。
ティング』公開。
るべくハウスの時代を準備する。
ほうが早かったよ。よく憶えているけど、
表。世界で初めてエクスタシーについて
ハウスへのリアクションとして「Monkey
に合法化の道を歩んでいくことになる。
J 東京でウエアハウス・パーティー〈キ
J 8 月、日本ランド HOW ゆうえんちで
1988 年 1 月に初めてロンドンで“スト
歌った曲だと言われている。
Say, Monkey Do」を発表。
J グルーヴライダー&ファビオがロンド
イエナジー〉が DJ ミクらやタカヒロら
野外レイヴ〈レイボー 2000〉開催。
1972 J 松下が初代テクニクス SL1200 を発 売( 79 年に MK 2が登場) 。
1982 J 5月、 〈ファクトリー〉のトニー・ウィ
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J 8 月、富士急ハイランドで野外レイヴ 〈ナチュラル・ハイ〉開催。
といった記事を書く。
リングス・オブ・ライフ”をまわしたら、
J M/A/A/R/S が「Pump Up The
J 808 ステイトが UKで最初のアシッド・
ンのクラブ 〈ヘヴン〉で、 〈レイジ〉をスター
によってはじまる。
J この頃から日本ではゴア・トランス系
誰もが腕組みして踊らない。男が僕のと
Volume」をリリース。
ハウスのアルバム『Newbuild』を発表。
ト。このパーティでのサウンドはのちの
J 4 月、イギリスで最初の〈トライバル・
の野外パーティがアンダーグラウンドで
ンチェスターにオープン。のちの“マッ
ころにメモを渡してきて、読んだら『何
J マンチェスターのハウス・シーンをパッ
ブレイクビーツ・テクノ〜ジャングル〜ド
ギャザリング〉 。以後、良質な合法のレ
ドチェスター”の起爆剤に。
故ホモの音楽ばかりかけるんだ?』 とあっ
ケージしたコンピレーション『North』
ラムンベースへと発展していく。
イヴとして定着する。
J ローランドからベースライン用のアナ
た」マイク・ピカリング
格的にダンス・カルチャーに流入、アシッ
がリリースされる。
J ザ・KLFが『Chill Out』発表。踊
J 5 月、 グラストンベリー・フェスティヴァ
ログ・シンセとして TB303 が発売。
J アラン・ムーア原作、デイブ・ギボン
ド・ハウスと結びつき爆発的に拡大。 シー
J パブリック・エネミーが『It Takes
り疲れたダンサーたちのリラックスを目
ルのNMEステージの土曜日のトリをジ・
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the Second Summer of Love
『Burial』 。イギリスのメディアは“エレ
『トレイン・スポッ 1996 J 2 月、イギリスで映画
ルソンによるクラブ〈ハシェンダ〉がマ
1988 J この年のはじめ、エクスタシーが本
2006 J ブリアル のファ— スト・アルバ ム
1997 拡大していく。
2007 J 8 月、癌治療を受けていたトニー・ウィ ルソンが闘病のすえに他界。享年 57 才。 J 4 月、DJ バクによる〈KAIKOO〉が
2008 横浜で開催。2 日間で 6000 人動員。 J アシッド・ハウス/セカンド・サマー・ オブ・ラヴから 20 周年ということで 『ガー
1997 J ベルリンの〈ラヴ・パレード〉、参加
ディアン』が特集を組む。
者がついに 100 万人を超える。
features
remixが提言する、野外フェス&レイヴの必需品
セカンド・サマー・オブ・ラヴについて書いてくれと言われたとき、思ったのはサード・サマー・オブ・ラブは来なかったんだろうか、という“?”マークなのだが、
いよいよ夏、野外フェスやレイヴのシーズンだ。そしてその必需品といえば、な によりも防寒具に雨具、そしてテント。なにせ野外、それも山や海とくれば天候 は変わりやすい。Tシャツ1枚で出掛けて朝方つらい思いを経験した方も多いは ず。さて、そんなわけで今週末は初めての野外フェスというかほと DJ マリアも THE NORTH FACE でいろいろ買い込んで、さっそく公園で予行練習です!
さまざまなジャンルテイストトライブ島宇宙が点在して深度だけはあるのだが、結果的に同じところにたどり着くというか目指すと言うか界度というか夢というか幻想とい うか希望のようなものをムーヴメントという言葉に仮託して奇跡的な日々が続くことを信じて毎日が過ぎていく、という共同幻想を現実の音楽の世界に求めるのはもう難し いんじゃないかと皆が俯いているように見える今日この頃、60 年代終わりのサマー・オブ・ラブに対してヒッピー・カルチャー的な文脈でセカンド・サマー・オブ・ラヴが 存在したということは、いま聴いても胸に来るミラクルなフォーク・ソングである 89 年リリースのダニー・ウィルソンの“Second Summer of Love”の歌詞の通りなのだが、 そこから 20 年経っていることに正直戸惑いを隠せない自分としては、セカンド・サマー・オブ・ラヴ当時にジミヘンやジェファーソンはやっぱ凄かったんだよと言ってるおっ さんと同じにならないようにしなければならないのだが、クラブ・ミュージック自体とその成り立ちに得体の知れない不確実性が確実に存在した当時は、ストーン・ロー ゼスやマイ・ブラッディー・ヴァレンタイン、KLF、マッシヴ(湾岸戦争中はこの名義だった)、オーブ、プライマル・スクリーム、アンディー・ウェザオールやテリー・ファー リーによるリミックスの 12 インチは、ポスト・モダンの焼け野原に極彩色の奔流と大木が堰を切ったようになだれ込んできたかのようで、その勢いとわけのわからなさに わけのわからないまま必死で同化理解しようとしたことをよく覚えているが、重要なのは理解することではなかったと理解するのは数年経ってからだった。 ださいインディー・バンドがみな2、4か3、4の裏にスネアが入った同じリズム・パターンになり、DJ による原曲の素材をほとんど使ってないまったく音楽的 セオリーを無視したリミックスがカップリングされ“RAVE ON”というのを 12 インチのレコードからのみ勝手に受け取っていたことが情報格差と快楽の追求のアナロジー になって、さながら元自閉症の渋カジがサイケデリックに目覚めてゆらゆら合流していくような絵を何回も見かけたような気がするのだが、やみくもな音楽的な反復と混ざ り具合の混沌のレベルと、やはり全体的には時代的な後押しがハッピーな躁状態の波状だった事は間違いなく、それは当時のピアノ・ハウスのブレイクや安いシンセの白 玉のレイヤーが象徴しているのでないかという思いは最近の音楽的リヴァイバル状況を見ても明らかなのだが、それは不況時に無理矢理気持ちだけでも躁状態にもってい きたいような希望的願望のみえざる手が入っているのかもしれない。
かほ 「冷え込むレイヴの夜にもってこ いなのがこのジャケットよ。風をシャッ トアウトできるし、重さもわずか 180g、 着ないときは内袋に収納すればコンパ クトになり持ち運びも楽々だわ。重ね 着しやすいシルエットで作られているの もポイント高いわね。私が着てるのが TNF レッド×ロイヤルブルー、その他 にも全9色展開だから、カラフルに着 て目立つもよし、ダークにキめて夜の 闇にまぎれこんでもいいわね。Swallow Tail Jacket_16,800 円(税込)
クラブではない場所で勝手にサウンドシステムを組んでパーティをやって、そこにフライヤーも情報もないのに何千人も来て昼まで踊っているというという話が
DJ マリア THE NORTH FACEといえ ばこれ、というぐらいの定番がこのレイ ンウェアですわよね。定番といいつつ、 GORE-TEXR ProshellR という最新の 素材を使っているそうですわ。で、写真 をよーく見てみてもらえれば分かります が、この日はにわか雨に降られましたわ。 でもこの通り、私全然余裕でしたわ! もし当日突然の雨にみまわれたら、上下 で着込んで踊り続けてやるつもりです わ。Mountain RAINTEX_40,950 円 (上 下セット、税込)
ファンタジーではないと知ったのはジェームスのウェザオール・リミックス( “Come Home”のほう)やブライドウェル・タキシスの LFO リミックスが出た頃だったか、ここ ら辺以降の音のピーク・ポイントの移行がクラブ・ミュージックを後のビッグ・ステージに導く土台になっているのだが、音楽的フォーマットの確立と共同幻想的な開放感 の連帯もこの辺りに転回点があったような。日本では、相変わらず訳のわからないまま常識と安定に背を向けるふりをしながら汗だくで踊っていた若者たち多数、だった。 その後、自分が肉体的にセカンド・サマー・ラヴを体感したときにはセカンド・サマー・ラヴは既に終わっていて次のフェーズへ移行中、ガット・デカールの“Passion” やワン・ダヴがスラムやアンダーワールドのリミックスを出したあたりだったか、ピルの種類は変わり、熱狂は全体の物語というよりは、もっと個別のものが全体的に沢山 あるようなものになっていった。そして日本ではエクスタシーのないセカンド・サマー・ラヴ、渋谷系が勃興するのだった。 それから約 18 年、フェスはレジャーになり、ハウスはポピュラーというか歌謡化し、大沢君が日本のファットボーイ・スリムになって、卓球は相変わらず凄くて、 マイケル・ジャクソンが死に、もはや神話やファンタジーは過去にしかなく、90 年代が本当の意味で終わったような気がする現在、それを引きずって生きるのか否かが問 われている。ロックやレゲエと同じようにアーカイヴ化されつつあるクラブ・ミュージックをそういうものとして愛するのか、大きな旅を夢見るのか、小さな日常の奇跡を 愛するのか、どうしたらいいですかね、みなさん。 「わかってしまえばおしまいですよ」 「そうだね」
COLUMN: 3
サード・サマー・オブ・ラブ は来なかった? 文:瀧見憲司 text:Kenji Takimi
photo: Yasuhiro Ohara / model: Kaho & DJ Maria 商品問合せ先は全て THE NORTH FACE 原宿店:tel 03-5466-9278
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the Second Summer of Love
features
THE MUSIC MAKEs MY LIFE CRAZY
00年代最高峰のサイケデリック・ロック・バンド、ディアハンター。 昨年リリースされた『マイクロキャッスル』は 新世代 サイケのマスター・ピースである。 さて、そのトリッピーなサウンドの滋養となったのは、どんな音楽なのか !? フロントマンのブラッドフォード・コックスに訊いた。
THE B-52'S 『The B-52's』
THE FALL 『Hex Enduction Hour』
(WARNER / 1979)
(KAMERA / 1982)
この 10 枚のなかで、いちばん長く付き合っているアルバムだ よ。子どもの頃に最初に出会った音楽だと言っても、過言で はないね。僕はジョージア州のアセンスってところで生まれ 育ったんだけど、そこでは R.E.M. みたいな大きな存在だっ たよ(註:THE B-52'S もアセンズで結成された) 。はじめて 聴いたときは、ハッピーでダンスできる、良い音楽だなと思っ た。でも時間がたって聴き直してみたら、曲の構成や、ギター もすごくしっかりしているという印象を受けたよ。無機質なと ころが気に入っているんだ。
BRAIN ENO 『Here Come The Warm Jets』 (ISLAND / 1974)
ザ・フォールとワイアーは同じ時代に活躍して、僕は両方とも すごく好きになった。で、さっきも言ったように、スピードと かをやりまくってた時期に聴いていてね。刺々しくて、鋭くて、 尖ってて……その後、ブライアン・イーノが好きになったんだ。 イーノの音楽も、とても奇妙な感じがある。メロディがすごく 可愛らしかったり。強いものとキュートなものが合わさってい る感じがする。
STORM AND STRESS 『Under Thunder And Fluorescent Lights』 (TOUCH AND GO / 2000)
これはとっても不思議なレコードだね。アメリカのアンダーグ ラウンド・シーンで活躍している、即興が得意なギタリストが 参加している(註:バトルズのギタリスト&キーボーディスト、 イアン・ウィリアムスのこと) 。ジャケットがなくて、透明なプ ラスティックのケースに入っているんだ。そのグラフィック・アー トが素敵だったから買って、家に帰った。その頃もドラッグに ハマっていた時期で、部屋でエクスタシーをキメて、このレコー ドをかけたんだ。窓を全開にしてね。風が入ってきて、すごく 気持ちよかったな。天国の音楽みたいに感じた。まあ、実際 はノイズなんだけどね! でもその素敵な思い出があるから、 僕は良いレコードだと思っているんだ。他の友だちに聴かせ ても、 「これのどこが良いの?」って感じなんだけどね…… (笑) 。
PATTI SMITH GROUP 『Radio Ethiopia』 (ARISTA / 1976)
このアルバムじゃなくてもよかったんだけど、とにかくパティ・ スミスのレコードを入れたかったんだ。僕は彼女のことをとて も尊敬している。このレコードを聴いたときも、 ほんとうにびっ くりしたよ。当時はすごく売れたレコードなんだ。大量に出回っ ていたから、中古レコード店で買った。図書館にも置いてあ るレコードだからね。ジャケットも印象的だし。高校生の頃 には、まだこの音楽は、自分には大人過ぎるなと感じていた。 あまり歌詞を気にしていなかったしね。これを聴いて、歌詞 の重要さに気がついたんだ。怖いくらいの雰囲気で、どこか 別世界という感じがした……ギターのフィードバックやノイズ、 ヴァイオレンスを感じさせる、とても勢いがある作品だね。
人生を狂わせた10 枚 取材 : 桑田晋吾 interview : Shingo Kuwata
19 才の頃、すごくドラッグにはまっていた時に聴いて、かっこ いいなと思った。なにかとても際立ったものがあると感じたん だ。怒り……セックス・ピストルズやパンク・ロックも怒りを感 じる音楽だけど、すごくよく考えられてもいるよね。ザ・フォー ルはもっと、なんというか、自然発生的な感じがしたんだ。
ECHO AND THE BUNNYMEN 『Crocodiles』 (KOROVA / 1980)
これは、最初に買ったアナログ・レコードなんだ。母親に買っ てもらった。彼女はこれがなんなのか、よくわかってなかっ たと思うけど。自分にしても、これがどんなサウンドなのか、 よくわかっていなかったよ(笑) 。レコードを買うときには、 そういうことがよくある。ティーンエイジャーの頃、僕が音楽 に夢中だった時期に買ったものだ。
第1回目:
ディアハンター
STEREOLAB 『Cobra And Phases Play Voltage In The Milky Night』 (ELEKTRA / 1999)
いまでも忘れない、高校生に買ったレコードだ。この 10 枚 のなかで、いや僕の人生のなかで、もっとも好きなレコード だよ。通算 1000 回以上は聴いているんじゃないかなあ。1 日で 10 回以上聴くこともある。このレコードに関しては、何 回聴いても飽きない。ほんとうに最高のアルバムさ。これ以 上の言葉はないね。
NEIL YOUNG 『Everybody Knows This Is Nowhere』 (REPRISE / 1969)
ニール・ヤングは最近ハマっているんだ。ギターが良いよ。男っ てものを感じさせる。ニール・ヤングは本物の男だよ。
WIRE 『Chairs Missing』 (HARVEST / 1978)
コンセプトとか、いろんなものがごちゃまぜになっている。 とてもワイルドな感覚を生み出しているよね。
QUICKSPACE 『Quickspace』 (KITTY KITTY / 1996)
90 年代後半のレコードで、ポップ・ミュージックのオン・パレー ドって感じだね。学生時代に、 飲みながら聴いていたりしたな。 この時代のものは、僕にとってとても影響があるものだよ。
THE MUSIC MAKEs MY LIFE CRAZY
ディアハンター 現在のメンバーはブラッドフォード・コックス(ヴォー カル、ギターほか) 、ジュシュア・フォウヴァー(ベース) 、ロケット・ パント(ギターほか) 、モーゼズ・アーチュレタ(ドラムスほか) 。 2001 年に結 成。2004 年にファースト・アルバム『Deerhunter / Turn It Up Faggot』をリリース。2007 年に〈クランキー〉からリリースされ た『Cryptogram』が高い評価を得る。ブラッドフォードはアトラス・ サウンドやロータス・プラザ名義でも作品を発表している。
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ディアハンター 『マイクロキャッスル』 (ベガーズ・ジャパン) 烈しい光のようなフィードバック・ノイズ、夢 のなかを漂うギター・アルペジオ、モータリッ ク・ビート、トリッピーなエフェクト……。ノ イジーなポップ・ソングから美しいフリー・ フォークまで、 素晴らしいサイケデリック・ロッ クが輝いている。絶賛発売中です!
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